2017年4月30日 (日)

新作動画の発表 [清滝から高雄へ, 清滝川, 京都市 (B)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、

 清滝から高雄へ, 清滝川, 京都市 (B)

です。自作の曲(『気分よくやっています・第2番 Op.40』)を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

  ("runningWater" は、私のペンネームです。)
撮影地:京都市内 清滝の付近、高雄の付近
撮影時:2017年4月
映像撮影・制作:runningWater
バックグラウンド音楽
 作品名:気分よくやっています・第2番 Op.40
 作曲・制作者:runningWater
  (コンピューターを使用して制作しました)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/PngLdtufXmQ
です。

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2017年4月26日 (水)

新作動画の発表 [清滝から高雄へ, 清滝川, 京都市 (A)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、

 清滝から高雄へ, 清滝川, 京都市 (A)

です。自作の曲(『さまざまな所を通っていく道, Op.18』)を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

  ("runningWater" は、私のペンネームです。)
撮影地:京都市内 清滝の付近、高雄の付近
撮影時:2017年4月
映像撮影・制作:runningWater
バックグラウンド音楽
 作品名:さまざまな所を通っていく道, Op.18
 作曲・制作者:runningWater
  (コンピューターを使用して制作しました)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/qTfOG3qpWy0
です。

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2017年4月24日 (月)

太平記 現代語訳 主要人物・登場箇所リスト

順序はアイウエオ順。
記述内容は、名前, よみ, 所属サイド, 初出の巻章, (顕著に登場する巻章), 再現巻章, (追加・修正・年月日)

-----------------------------
あ行

足助重範, あすけしげのり, 後醍醐天皇側, 1-6, (1-7, ), , ()

円観, えんかん, 後醍醐天皇側, 1-6, (2-2, 2-3, ), , (2017.4.24)

-----------------------------
か行

花山院師賢, かざんいんもろかた, 後醍醐天皇側, 1-6, (1-7, 2-7, 2-8, 2-10, ), , (2017.4.24)

勧修寺経顕, かじゅうじつねあき, 持明院統側, 2-9, (  ), , (2017.4.24)

菊亭兼季, きくていかねすえ, 持明院統側, 2-9, (  ), , (2017.4.24)

光厳天皇(上皇、法皇), こうごんてんのう(じょうこう、ほうおう), 持明院統側, 1-5, (2-9, ), , (2017.4.24)

光林房・源存, こうりんぼうげんそん, 後醍醐天皇側, 2-10, (), , (2017.4.24)

後醍醐天皇, ごだいごてんのう, 後醍醐天皇側, 1-2, (1-6, 1-9, 2-1, 2-2, 2-7,  ), , (2017.4.24)

玄恵, げんえ, 無所属, 1-7, (), , ()

後伏見上皇, ごふしみじょうこう, 持明院統側, 2-9, (  ), , (2017.4.24)

-----------------------------
さ行

西園寺公宗, さいおいんじきんむね, 持明院統側, 2-9, (  ), , (2017.4.24)

佐々木時信, ささきときのぶ, 北条側, 1-8, (2-8, ), , (2017.4.24)

四条隆資, しじょうたかすけ, 後醍醐天皇側, 1-6, (1-7, 2-8, 2-10, ), , (2017.4.24)

-----------------------------
た行

尊良親王, たかよししんのう, 後醍醐天皇側, 1-5, (), , ()

千種忠節, ちぐさただあき, 後醍醐天皇側, 2-7, ( ), , (2017.4.24)

忠円, ちゅうえん, 無所属,  2-2, (2-3), , (2017.4.24)

洞院公敏, とういんきんとし, 後醍醐天皇側, 2-7, ( ), , (2017.4.24)

洞院実世, とういんさねよ, 後醍醐天皇側, 1-7, (), , ()

-----------------------------
な行

長崎高資, ながさきたかすけ, 北条側, 2-5, (), , (2017.4.24)

中院貞平, なかのいんさだひら 後醍醐天皇側, 2-8, (), , (2017.4.24)

中院通顕, なかのいんみちあき, 持明院統側, 2-9, (  ), , (2017.4.24)

二階堂道蘊, にかいどうどううん, 北条側, 1-9, (2-5, ), , (2017.4.24)

錦織判官代, にしこりのほうがんだい, 後醍醐天皇側, 1-6, (), , ()

二条為明, にじょうためあきら, 後醍醐天皇側, 2-2, (2-8, 2-10,  ), , (2017.4.24)

-----------------------------
は行

日野資明, ひのすけあきら, 持明院統側, 2-9, (  ), , (2017.4.24)

日野資朝, ひのすけとも, 後醍醐天皇側, 1-6, (1-7, 1-9, 2-5), , (2017.4.24)

日野資名, ひのすけな, 持明院統側, 2-9, (  ), , (2017.4.24)

日野俊基, ひのとしもと, 後醍醐天皇側, 1-6, (1-7, 1-9, 2-4, 2-6), , (2017.4.24)

北条高時, ほうじょうたかとき, 北条側, 1-2, (1-9, 2-2, 2-3, 2-5, ), , (2017.4.24)

-----------------------------
ま行

万里小路季房, までのこうじすえふさ, 後醍醐天皇側, 2-7, ( ), , (2017.4.24)

万里小路藤房, までのこうじふじふさ, 後醍醐天皇側, 2-1, (2-7, ), , (2017.4.24)

源具行, みなもとのともゆき, 後醍醐天皇側, 2-7, ( ), , (2017.4.24)

妙光房・小相模, みょうこうぼうこさがみ, 後醍醐天皇側, 2-10, (), , (2017.4.24)

宗良親王, むねよししんのう, 後醍醐天皇側, 1-5, (2-1, 2-8, 2-10 ), , (2017.4.24)

護良親王, もりよししんのう, 後醍醐天皇側, 1-5, (2-1, 2-7, 2-8, 2-10 ), , (2017.4.24)

文観, もんかん, 後醍醐天皇側, 1-6, (2-2, 2-3, ), , (2017.4.24)

-----------------------------
や行

結城宗広, ゆうきむねひろ, 北条側, 2-3, (), , (2017.4.24) 

-----------------------------
ら行

廉子(安野廉子), れんし(あののれんし), 後醍醐天皇側, 1-4, (), , ()

-----------------------------
わ行

太平記 現代語訳 2-10 ひょんな事から、ニセ天皇・師賢の化けの皮はがれ、さあ大変

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

延暦寺の衆徒たちは、唐崎の合戦に勝利をおさめ、幸先よしと大いに意気上がること、この上なし。

ところが、ここに一つ、やっかいな事がもちあがった。

延暦寺・東塔(とうとう)エリア・メンバーA 尊くも、陛下がわが比叡山に登山して来はってからいうもん、そのおられる場所は、延暦寺・西塔(さいとう)エリアから、一向に動かんやないかい!

東塔エリア・メンバーB そうやそうや、こんな事では、わが延暦寺・東塔(とうとう)エリアの面目、丸つぶれや!

東塔エリア・メンバーC いにしえの源平争乱の時、後白河法皇(ごしらかわほうおう)様が、わが延暦寺を頼ってこられた時も、まずは横川(よかわ)エリアに来られたんやけど、すぐに、東塔エリア・南谷(みなみだに)の、円融坊(えんゆうぼう)へ移らはったんやぞ。

東塔エリア・メンバーD このような吉なる歴史的先例もあることやねんから、「早ぉ、東塔エリアの方へ、陛下をお遷しせぇ」とな、こっちから西塔エリアの方に、申し送ろうやないか。

東塔エリア・メンバー一同 賛成!

西塔エリアの衆徒たちは、この要求を、「まことに、ごもっとも」と承服し、「陛下」をご遷居あそばし申し上げるべく、「皇居」に参集した。

その時、山の上から吹き降ろしてきた強風にあおられて、「陛下」の前の御簾がまい上がってしまった。「陛下」になりすまし、天皇の礼服を着て座していた、花山院師賢(かざんいんもろかた)は、

花山院師賢 (内心)しもぉたぁ!

西塔エリア・メンバーE なんや、あれはぁ!

西塔エリア・メンバーF あこに座っとんのん、陛下やないぞ。

西塔エリア・メンバーG あれは別人や、別人が天皇の衣服を着とんのや!

西塔エリア・メンバーH これはいったい、どこの天狗(てんぐ)の仕業や。

西塔エリア・メンバー一同 もうあきれて、よぉいわんわぁ。

--------

この一件があってからというもの、「皇居」にやって来る衆徒は皆無となってしまった。

天皇側近メンバーI あーあ、ばれてもたなぁ。

天皇側近メンバーJ こないなったら、この山の連中、いったいどないな動きに出よることやら、わからへんで。

天皇側近メンバーK 早ぉ山、下りて、陛下に合流しような。

その夜半、花山院師賢(かざんいんもろかた)、四条隆資(しじょうたかすけ)、二条為明(にじょうためあきら)はこっそり延暦寺を抜け出し、笠置山にころがりこんだ。

そうこうするうち、もとから幕府側に心寄せていた上林坊・豪誉(じょうりんぼうごうよ)は、護良親王(もりよししんのう)側近の安居院・澄俊(あぐいちょうしゅん)を捕えて、六波羅庁へ突き出した。

衆徒中の有力者である護正院・猷全(ごしょういんゆうぜん)は、八王子社(はちおうじしゃ)の一の木戸を守っていたのであったが、こうなってはとても戦えないと思ったのであろうか、同僚・部下の者たちをひきつれて、六波羅庁へ投降してしまった。

それをかわぎりに、一人落ち、二人抜け、延暦寺サイドからは脱落者が続出、ついには、光林房・源存(こうりんぼうげんそん)、妙光房・小相模(みょうこうぼうこさがみ)、中坊の者ら、3、4人の他には、天皇に味方する者はなし、というように、状況が一変してしまった。

宗良親王(むねよししんのう)と護良親王(もりよししんのう)は、その夜はなおも、八王子社に踏みとどまっていたが、

護良親王 もう、こうなっては、どうしようもありません。まずはここを脱出して、陛下の行く末を見守るとしましょうよ。

宗良親王 そうやねぇ。

29日夜半、二人の親王は、八王子社一帯にかがり火を多く燃やして、いまだ大勢がたてこもっているかのように偽装した後に、 戸津浜(とづのはま)から小舟に乗り、逃亡せずに留まっていた衆徒らを引き連れて、石山(いしやま:滋賀県大津市)へ逃れた。

護良親王 ここから後、更に、我々二人が行動を共にする、というのは、下の策やと思います。それに、兄上は、足もあんまり達者ではないから、あまり遠くまで逃げなさるのはムリでしょうし・・・。

ということで、石山から以降、二人は別ルートをとることに。

かくして、宗良親王は、山ごえルートで笠置寺へ、護良親王は、熊野川・上流方面を目指し、奈良へ向かった。

かくも尊い一山の座主(ざす)の位を捨てて、慣れぬ万里漂白のあてもない旅に、流れゆく二人。

薬師如来(やくしにょらい)、山王権現(さんのうごんげん)との結縁(けちえん)(注1)も、もはやこれを限りかと思うと名残りおしく、ともに皇族の兄弟として生れた二人の再会もまたいつの事になろうかと思うと、まことに心細い。

互いに遠ざかりゆく相手の姿が見えなくなるまで、後ろを何度も振り返りつつ、涙の中に東西に分かれていく、その心中はまさに悲しきものである。

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(訳者注1)延暦寺・根本中堂の本尊・薬師如来と、日吉神社の延暦寺の守り神・山王権現を指している。
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そもそも今回の、「天皇になりすましての延暦寺避難」と「その発覚ゆえの衆徒たちの心変わり」の件、その策謀の成功こそは見なかったものの、よくよく考えてみるに、深謀遠慮(しんぼうえんりょ)から出たアイデアと、評価できなくはない。

古代中国において、秦(しん)帝国滅びて後、楚(そ)の項羽(こうう)と、漢(かん)の高祖(こうそ)の二人が互いに政権を争うこと8か年、両者の間に戦闘が行われる事70余回。その間、項羽は連戦連勝、高祖の苦しみ、はなはだ深し。

高祖、滎陽(けいよう)城にたてこもりし時、項羽の軍、城を囲むこと数百重。日が過ぎるとともに、城中の兵糧次第に尽き、高祖の兵らの士気は衰え、高祖、戦わんとするに力無く、遁(のが)れんとするに道無し。

ここに、高祖の部下に紀信(きしん)という者あり、覚悟を決して高祖に向かいて提言す。

紀信 項羽は今や、この城を数百重にも囲んでおりまする。わが方はすでに糧食つき、兵たちは疲労こんばい。今もし城を出て戦わば、敗北して敵の捕虜になることは必定。殿、ここは敵を欺いて、秘かに城を脱出するのが得策かと、心得まする!

高祖 そちに、それを可ならしむる策はあるのか?

紀信 ありまする。

高祖 ・・・。

紀信 願わくばわが殿、私めに、殿になりすまして、項羽の陣に投降する事を許したまえ。

高祖 ・・・。

紀信 項羽が私めを捕え、囲みを解き放ったその瞬間に、殿は速やかにこの城を脱出なされませ。しかる後、再び大軍を催して、項羽に対する反撃の戦を起こされ、敵を亡ぼしたまわんことを!

高祖 何を言うか! その策を用うれば、そちは、項羽の陣内において殺されてしまうではないか! さような悲しきこと、我は到底耐えがたいぞ。

紀信 殿ォ!

高祖 ・・・。

紀信 殿、国家のためを思わば、ご自身を軽々しく死に至らしめることなど、断じてなりませぬ! なにとぞ、なにとぞーっ!

高祖 ・・・。(涙)

かくして高祖、いたしかたなく、涙をおさえ、別れをおしみつつ、 紀信の謀略を採用することを決断せり。

紀信、大いに喜び、自ら高祖の衣を着し、王車に乗りて王旗をかざしながら、

紀信 ただいまから我、これまでの罪をわび、楚の大王のもとに投降す!

叫びながら、城の東門より出づる紀信。これを見た楚の兵士ら、四方の囲みを解き、残らず東門へ集まりて、一斉に万歳を唱うる。この間に高祖、30余騎を従え、城の西門から成皐(せいこう)の地へと脱出。

夜が明けて後、項羽、楚に投降してきた「高祖」を謁見。

項羽 やや、なんと! なんじは彼にあらず!

紀信 紀信なり!

項羽 うーぬ、おのれ、たばかりおったな!

項羽、大いに怒りて、ついに紀信を殺したり。

後日、高祖、成皐の兵を率いて項羽に反撃を開始。

項羽ついに勢い尽き、烏江(おうこう)にて討たれ、高祖は漢王朝を創立、その後長く、天下の主となりにけり。

後醍醐天皇もこのような歴史的先例を考え、花山院師賢もこのような忠節の道をよく心得ていたのであろうか。 かたや、包囲を解かせるために敵を欺いた紀信、かたや、敵の軍勢を遮るために謀った師賢。日本と中国、時と所は異なるといえども、君臣心あわせての千載一遇(せんざいいちぐう)の忠貞(ちゅうてい)、臨機応変の智謀と言えよう。

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(訳者注)

(以下に掲載の画像は、訳者が撮影したものである。撮影時期は、2006年8月、2007年8月。)

[修学院離宮](京都市・左京区)の付近から、 [叡山ケーブル・ロープウェイ]の[比叡山頂・駅]付近へ登る山道がある。これが、[雲母坂(きららざか)]である。

[寺社勢力の中世 伊藤正敏 ちくま新書 734 筑摩書房]の71Pによれば、延暦寺の人々が京都に来る時、あるいは、朝廷から延暦寺への勅使が、通常使用するルートがこれであったという。

延暦寺の[西塔]エリアには様々な建造物があるのだが、その中心的存在が、[転法輪堂(釈迦堂)]である。

その南方に、おもしろい建造物がある。2つの堂が廊下でつながれているのだ。

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正面向かって左側のが[常行堂]、右側のが[法華堂]。かの、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、[にない堂]とも呼ばれている、という。

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[椿堂]という名前の堂もある。

[西塔]エリアから[東塔]エリアへの途中に、延暦寺中の聖地・[浄土院]がある。ここは、伝教大師の御廟所だ。[十二年籠山行の修業僧]がここを守っている、という。

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P06

[西塔]エリアと[東塔]エリア間に、このような所がある。

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P07

[弁慶水]。これも、弁慶伝説に関係あり。

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P08

[山王院堂]。ここまで来ると、[東塔]まであと少しの距離となる。

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P09

[戒壇院]。[東塔]エリア中の、建造物である。

延暦寺の[東塔]エリアの中心的存在が、[根本中堂]である。

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太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月23日 (日)

太平記 現代語訳 2-9 持明院統の人々、六波羅へ避難

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このような、まことに騒然たる世情ゆえ、尊い方々を捕縛しようなどと企てる、逆心を持つ者も出てくるかも、ということで、27日午前10時ころ、[持明院統]の方々、すなわち、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)、量仁皇太子のお二方は、持明院(じみょういん)を出て、まず六条殿(ろくじょうでん:注1)へ避難、さらにそこから、六波羅庁北館へ避難された。

それにつき従うメンバーは、菊亭兼季(きくていかねすえ)、中院通顕(なかのいんみちあき)、西園寺公宗(さいおいんじきんむね)、日野資名(ひのすけな:注2)、勧修寺経顕(かじゅうじつねあき)、日野資明(ひのすけあきら:注3)といった人々。全員、衣冠をただし、御車の前後にあい従った。

その他、院の北面(ほくめん)守護担当の武士をはじめ、朝廷の百官、諸警護の者たちも、 多くは、狩衣(かりぎぬ)の下に腹巻き鎧を着用して、一行に従った。

京都中、わずかの間にすっかり様変わり、これらの軍勢、天子のみ旗を守ってギンギン、といった有様。それを見聞きする人々は、ただただ驚くばかりである。

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(訳者注1)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注によれば、六条の北、西洞院の西にあったという。

(訳者注2)この人は、日野資朝の兄である。

(訳者注3)この人は、日野資朝の弟である。
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太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月22日 (土)

太平記 現代語訳 2-8 花山院師賢、天皇になりすまして延暦寺へ

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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御所を脱出の後、三条河原あたりにさしかかった時、後醍醐天皇は一つの手をうっていた。

後醍醐天皇 師賢(もろかた)!

花山院師賢(かざんいんもろかた) ははっ!

後醍醐天皇 護良(もりよし)が、あないなふうに、色々と作戦立ててくれたよったしな、いっちょあの通りにして見よ、思うんやわ。

花山院師賢 はい。

後醍醐天皇 お前な、わしになりすまして、比叡山(ひえいざん)に登ってな、延暦寺(えんりゃくじ)の衆徒連中らの心、探ってみ。ほいでな、うまぁいことやって、こっちの味方に引き入れい。他からも、兵力動員して、合戦せい。

花山院師賢 ははっ!

師賢は、法勝寺(ほっしょうじ:京都市左京区)の前で天皇の礼服に着替え、天皇用の輿(こし)に乗って延暦寺・西塔(さいとう)エリアへ登山していった。

四条隆資(しじょうたかすけ)、二条為明(にじょうためあきら)、中院貞平(なかのいんさだひら)らも衣冠をただし、天皇のお供に扮して付き従った。

一行の姿は、いかにも、天皇の行幸のように見えた。

延暦寺に到着の後、西塔(さいとう)エリアの釈迦堂(しゃかどう)を「皇居」と定め、「陛下が、延暦寺を頼って行幸あそばされたぞ!」と発表した。

この情報が伝わるやいなや、比叡山上、坂本(さかもと:滋賀県大津市)は言うに及ばず、大津(おおつ)、松本(まつもと)、戸津(とづ)、比叡辻(ひえつじ)、仰木(おおぎ)、絹河(きぬがわ)、和仁(わに)、堅田(かたた)(以上いずれも、滋賀県大津市内の比叡山東山麓・琵琶湖南岸に位置する)の者までも、我先にとはせ参じてきて、その軍勢は東塔(とうとう)・西塔両エリアに雲霞(うんか)のごとく充満した。

--------

このような情勢の変化を、六波羅庁は全くキャッチしていなかった。

鎌倉よりの二人の使者が、夜明けとともに御所へ押し入り、天皇を六波羅庁へ移そうということで、今や出動というところに、延暦寺・浄林房(じょうりんぼう)の豪誉阿闍梨(ごうよあじゃり)のもとから、使者がやってきた。

使者 豪誉様よりのお言葉を、申し上げます。

 「今夜の午前4時ごろに、延暦寺を頼って、天皇がこちらにやってこられました。延暦寺の衆徒3,000人ことごとく、その下にはせ参じてます。」

 「「近江(おうみ:滋賀県)、越前(えちぜん:福井県東部)からの援軍が到着しだい、明日にでも、六波羅庁へ攻め寄せよ」と、こっちの作戦会議で決まりました。」

 「事が大きぃならんうちに、六波羅庁から速やかに、坂本へ軍を向けられませ。私の方は、天皇軍を背後から襲い、陛下を捕えるようにしますから。」

大いに驚いた六波羅庁・両長官は、ただちに御所へ急行。そこにはすでに天皇の姿はなく、そこかしこの部屋の中に女たちが集まって泣いている声が聞こえてくるばかりである。

六波羅庁・メンバーA うん、間違いねぇですね、豪誉の言う通りだ。

六波羅庁・リーダーB 天皇は、延暦寺へ逃亡したと思われます。

六波羅庁・リーダーC あちらの勢いが大きくならないうちに、延暦寺、攻めるべきだよな!

そこで、六波羅庁では、[京都市中48か所・警護番所]づめの武士たちと、近畿圏5か国の軍勢あわせて5,000余騎を、正面方向・攻略軍として編成し、赤山禅院(せきさんぜんいん:京都市左京区)のふもと、一乗寺下松(いちじょうじさがりまつ:京都市左京区)のあたりに向かわせた。

一方、背面方向・攻略軍として、佐々木時信(ささきときのぶ)、海東将監(かいとうしょうげん)、長井宗衡(ながいむねひら)、小田貞知(おださだとも)、波多野宣道(はだののぶみち)、小田時知(おだときとも)に、美濃(みの:岐阜県南部)、尾張(おわり:愛知県西部)、丹波(たんば:京都府北西部+兵庫県中東部)、但馬(たじま:兵庫県北部)の勢をそえて7,000余騎の軍を編成し、大津、松本を経て唐崎一つ松(からさきひとつまつ:滋賀県大津市)のあたりまで進軍させた。

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延暦寺サイドは、かねてよりの作戦どおりに、宗良親王(むねよししんのう)と護良親王(もりよししんのう)が、宵の内より八王子社(はちおうじしゃ)に移動し、そこで軍旗を掲げた。護正院(ごしょういん)の祐全・僧都(ゆうぜんそうづ)、妙光坊(みょうこうぼう)の玄尊・阿闍梨(げんそんあじゃり)をはじめ、こちらから300騎、あちらから500騎と、八王子社にはせ参じてきて、一夜のうちに6,000余騎の大軍にまで膨張した。

かくして、天台座主(てんだいざす)・護良親王をはじめ、延暦寺の人々は、解脱(げだつ)の衣たる袈裟(けさ)を脱ぎ捨て、堅固な鎧と鋭利な武器を身に帯す体になった。仏が神に化身されて護りの力を垂れたまう場もたちまちにして、勇士が守護する戦場に変じてしまった・・・神のみこころはいったいどこに・・・いやはや、もうまったく、わけが分からなくなってきてしまった。

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そうこうするうちに、

 「六波羅庁の軍勢はもう、戸津宿(とつじゅく)のへんまで押し寄せてきたぞ!」

ということで、坂本は騒然としてきた。

南岸の円宗院(えんしゅういん)、中坊(なかのぼう)、勝行房(しょうぎょうぼう)の、ハヤリたつ同輩の僧たちは、取る物もとりあえず、唐崎浜(からさきはま)へ押し出し、六波羅軍に対峙(たいじ)。全員、馬に乗らず歩兵の体、人数300人足らず、といったところか。

これを見た六波羅庁派遣軍リーダー・海東将監(かいとうしょうげん)は、

海東将監 敵は小勢だぞ。後づめの連中が加勢に加わって来ないうちに、掛け散らしちまわねば! みんな、おれに続け、イェーィ!

叫ぶやいなや、3尺4寸の太刀を抜き、鎧で護られた左腕をかざし、敵のひしめくまっただ中に掛け入って、3人を斬り伏せ、波打ちぎわに馬を留めて、自分に続く味方軍勢を待つ。

はるかかなたからこの様を見ていた岡本房・快実(おかもとぼうかいじつ)は、前につき並べた盾の1枚をカッパと踏み倒し、2尺8寸の小長刀を水車のように振り回し、海東めがけて襲いかかっていった。

海東は、快実の攻撃を左サイドに受けながら、相手の兜(かぶと)の鉢をまっ二つに打ち破らんと、右手だけで太刀を振り下ろした。

海東将監 えぇい、くらえーぃ!

海東の太刀 サパッ!

狙いの外れてしまった太刀は、快実の鎧の袖だけを、肩から最下部まで切って落としただけであった。

海東将監 くそっぉ! ではもう一回!

二回目の太刀を振り下ろしたときに、海東は力が入りすぎて、左足の鐙(あぶみ)を踏み折ってしまった。

あわや落馬かという体勢を海東が立て直したタイミングを狙いすまし、快実は長刀を伸ばし、刃先を上に向け、海東の兜の内側の方へ2回、3回と連続突きを入れた。

快実 ヘイヘイヘイ!

その狙いは過たず、刃先は海東の喉笛を貫き、彼は馬からまっさかさまに落ちた。

すかさず駆け寄った快実は海東の鎧の背部の上に乗りかかり、耳の側の髪をひっ掴むやいなや、海東の首をサアッと掻き切り、長刀の先にそれを突き刺し、大喜びで声高らかに、

快実 六波羅軍の大将、一人討ち取ったでぇ! なかなか幸先(さいさき)、ええやないかぁい!

その時、戦闘見物の群衆の中から、どこの誰とも分からぬ15、6歳くらいの少年が一人、飛び出してきた。童形ヘアスタイル、淡黄がかった青の胴丸鎧を着用、大口袴の股立(ももだち)を高くしている。

少年は、金装飾の小太刀を抜き、快実の側近くまで走りかかり、兜の鉢を3,4回、激しく打った。

快実はキッと振りかえり、自分に襲いかかってきた相手を見つめた。相手は、眉を太く描き、お歯黒で歯をそめた年の頃16歳くらいの少年である。

快実 (内心)こんな子供を討ち取るのは、法師の我が身としてはあまりに無情な話や、なんとかして、こいつの命を奪わずにすませよう。

しかし、少年はなおも、執拗に走りかかり、切りつけてくる。

快実 (内心)長刀の柄の方を使ぉて、あの太刀を打ち落とし、組み伏せてしまおか。

その時、戦線に加わっていた比叡辻の者たちが、田の畦に立ち並んで側面から一斉に射撃した矢に、この少年は胸板をツッと射抜かれ、直ちに倒れて絶命してしまった。

後日、少年の身元を調べたところ、海東将監の嫡子・幸若丸(こうわかまる)と、判明。家に留めおかれ、戦場への父の供ができなかったが、どうしても気がかりであったのであろうか、見物の群衆にまじって、軍の後をついてきていたのである。

年少といえども武士の家に生まれた幸若丸、戦場に死した父の後を追って同じく討ち死に、名を歴史の上に止めたのである・・・ああ、哀れなことよ。

これを見た海東家の郎等(ろうとう)たち、

海東家・郎等D 我らの主を二人までも、目の前で討たれた上に、

海東家・郎等E 殿の首を敵に取られて、

海東家・郎等F 生きて帰れるものか!

海東家・郎等一同 ウォーッ!

郎等36騎、馬の首を並べて一斉に駆け入り、主の死骸を枕に討死にせんと、競い合う。

これを見た快実、

快実 ワッハッハッハァ! けったいなやっちゃらやなぁ。敵の首を取るのが大事やろうに、味方の首を欲しがるとは。これはさしづめ、鎌倉幕府自滅のめでたい前兆やろぉて。そないにこの首、欲しかったらな、くれたるわい、ほれ!

手に持った海東の首を郎等たちの中にガバッと投げ入れ、快実は真っ向から太刀を振りかざし、八方を払って火花を散らす。郎等36騎、快実たった一人に切りまくられ、馬の足も立ちかねる状態に。

後方からこれを見た、佐々木時信、

佐々木時信 海東家のもん(者)ら、死なせてはあかんぞ、みんな、彼らに続け!

その命令一下、伊庭(いば)、目賀田(めかだ)、木村(きむら)、馬渕(まぶち)ら300余騎、一斉におめいて、快実めがけ襲いかかる、快実の命は風前の灯!

桂林房・悪讃岐(けいりんぼうあくさぬき) 快実、応援に行くぞぉ!

桂林房・悪讃岐、中房・小相模(なかのぼうこさがみ)、勝行房・定快(しょうぎょうぼうじょうかい)、金蓮房・直源(こんれんぼうじきげん)の4人が、左右から快実の応援にかけつけて、六波羅庁側を切りまくる。

悪讃岐と直源が同所に倒れるのを見て、後づめの延暦寺宗徒50余人、一斉攻撃をしかける。

この合戦が展開されている唐崎浜(からさきはま)という場所は、東側は湖に面して崩落しており、西側は泥深い田で馬の足も立たず、平らな砂原の中に狭い道が延び、という地形である。従って、敵の背後に回り込んで包囲するのも不可能、左右に広く展開して敵を包み込むのも不可能。延暦寺サイドも六波羅庁サイドも、正面に位置する者たちだけが戦闘し、後方の者はそれをただじっと眺めているしかない。

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「唐崎浜で戦闘開始!」との情報をキャッチし、延暦寺サイド3,000余騎が、白井(しらい)経由の今路越(いまみちごえ)ルートへ向かう。一方、東塔エリア所属の宗徒7,000余人、三宮(さんのみや)の林から下山。さらに、和仁(わに)、堅田(かたた)の勢力が小舟300余隻にうち乗り、六波羅庁軍の背後を遮断すべく、大津めざして漕ぎ出だす。

これらの延暦寺サイドの動きを見た六波羅庁サイドは、「このままでは敗北必至」と判断、志賀の炎魔堂(しがのえんまどう)前から今路越ルート経由にて京都への退却を開始。

周辺の地理に詳しい延暦寺サイドは、ここかしこの要所に移動して、六波羅庁サイドに、散々に矢を浴びせかける。地理に不案内な六波羅庁サイドは、周辺の掘や崖に進行を妨げられ、あちらこちらと馬を乗り回すばかりで、なかな退却が捗(はかど)らない。

しんがりの、海東軍団の若党8騎、波多野軍団の郎等13騎、真野(まの)父子2騎、平井九郎(ひらいくろう)主従2騎が、谷底に追い落とされ、討ち死にした。

佐々木時信も、馬を射られ、乗り換え用の馬を待っている間に、左右から敵の大軍が押し寄せてきた。

佐々木家・若党たち 殿が危ない!

名を惜しみ命軽んじる佐々木家の若党たちは、必死の反撃に反撃を重ね、わが身は次々と倒されながらも、主君の為に一条の血路を切り開いていく・・・かくして、佐々木時信は、万死(ばんし)を出(い)でて一生(いつしょう)に合い、白昼、京都へ逃げ帰った。

最近までは、天下静穏無事が続き、「軍(いくさ)」の言葉が人の耳に触れるような事は絶えて無かったというのに、にわかに起こったこの異変に、京都中、総パニック状態、天地が今にもひっくりかえるかのように、情報は都中をかけめぐる。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年4月21日 (金)

太平記 現代語訳 2-7 幕府側大軍の上洛を見て後醍醐天皇、御所を脱出

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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嘉歴(かりゃく)2年(1327)の春の頃、奈良の興福寺の内部で争いがあった。大乗院(だいじょういん)所属の禅師房(ぜんじぼう)と六方の衆徒(注1)の間に紛争が勃発、それはついに合戦にまで発展してしまった。そして、興福寺の金堂(こんどう)、講堂(こうどう)、南円堂(なんえんどう)、西金堂(さいこんどう)がたちまち兵火に包まれ、焼失してしまった。

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(訳者注1)[大乗院]は、[興福寺]に所属する寺院であった。現在、その庭園のみが復元されている。[禅師房]は、[大乗院]に所属する寺院である。[六方]とは、興福寺に所属する寺院中の6つのグループであり、[戌亥方]、[丑寅方]、[辰巳方]、[未申方]、[竜花院方]、[菩提院方]と称された。
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また、元弘(げんこう)元年には、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県大津市)・東塔(とうとう)エリアの北谷(きただに)から兵火が起こり、四王院(しおういん)、延命院(えんめいいん)、大講堂(だいこうどう)、法華堂(ほっけどう)、常行堂(じょうぎょうどう)が、同時に灰燼(かいじん)になってしまった。

このように次々と起こる大事件に、人々は怯えている。

街の声A 最近のうち続く凶事、これはもしかしたら、わが国に国家的規模の大きな災が起こる、何かの前触れやないやろか。

これに追い打ちを掛けるかのように、同年7月3日に大地震が発生、紀伊国(きいこく:和歌山県)千里浜(せんりはま:和歌山県・日高郡・南部町)の、干潟が隆起してにわかに陸地に変ずること20町余り。

さらには同月7日午後6時ころ、またもや地震が発生し、富士山の頂が崩落すること数百丈。

卜部宿祢(うらべのすくね)が、亀の甲を焼いて占いを行い、陰陽博士(おんみょうはくし)が占書を調べてみるに、

 「国王 位(くらい)を易(か)え 大臣 遭災(わざわいにあう)の卦」

と出た。そこで、陰陽博士は内密に、後醍醐天皇に奏上した。

陰陽博士 占いの結果、どうもタダゴトではありませんよ。とにかく陛下におかれましては、御慎みあそばされるのが何よりです。

後醍醐天皇 ・・・。

街の声B 最近、エゲツナイ事ばっかし起こりよるやないかい。

街の声C ほんまやなぁ。あちらこちらの寺院の火災といい、方々で起こる地震といい。

街の声D こら、タダゴトやおまへんでぇ!

街の声E そのうち、ドエライ事起こるんちゃいますう? おぉこわ(怖)。

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はたせるかな、元弘(げんこう)元年(1331)8月22日、

 「鎌倉幕府よりの使者2名、3,000余騎の大軍を率いて上洛!」

とのニュースが、京都にとびこんできた。

何だかよくは分からないけれども、都にまた何事か起こるのであろうかと、京都周辺から武士たちが、我も我もと市内に馳せ集まってきて、どこもかしこもなんとなく、異常に騒がしい毎日である。

その使者が京都に到着するやいなや、鎌倉幕府からの書簡をまだ誰も開いてもいないというのに、いったいどこからどうやってリークしたのであろうか、

 「今回の幕使の上洛の趣旨は、天皇を遠国に流し、護良親王(もりよししんのう)を死罪に処する事」

と、延暦寺に伝わってしまった。

その情報をキャッチした、延暦寺・天台座主・護良親王は、8月24日の夜、後醍醐天皇に密使を送った。

密使 陛下、謹んで、親王殿下よりのメッセージ、お伝えいたします。

後醍醐天皇 うん。

密使 殿下は以下のごとく、おおせです、

 「今回の鎌倉からの使者の上洛の趣旨、首尾よくこちらで内々に把握できました。陛下を遠国に遷したてまつり、私を死刑にするための上洛、とのことです。」

 「このように、極めて危機的な情勢になっておりますから、今夜にでも急ぎ、奈良の方へお逃げ下さいませ。防衛体制も何も整わない所に、朝廷側の勢力も馳せ参じて来ない前に、あちらサイドが御所に押し寄せて来たら、こちらサイドの防戦は、極めて不利になります。」

 「京都に入ってきた敵を遮(さえぎ)り止めんが為にも、また、延暦寺の衆徒(しゅうと)たちの帰趨(きすう)を見極めんが為にも、近臣中の一人に対して、天皇を名乗らせる許可を与えた上で、彼を延暦寺に送りこみ、「天皇陛下、比叡山にご避難」との公表を行うのが、よろしいかと存じます。」

 「そうなれば、必ずや敵軍は、比叡山(ひえいざん)延暦寺に向かうでしょうから、延暦寺の衆徒らと激突することになります。衆徒らは、「我らの大事なみ寺のために!」と、身命(しんみょう)惜しまず、必死になって防戦に努めることでしょう。」

 「そのようにして、数日間、戦い続けるのです。そして、幕府軍サイドが戦い疲れてきた頃合いを見計い、伊賀(いが:三重県北西部)、伊勢(いせ:三重県中央部)、大和(やまと:奈良県)、河内(かわち:大阪府東部)の朝廷サイド勢力を動員して、逆に京都を攻めるのです。そうすれば、あっという間に、関東からの軍勢を撃退することが可能でしょう。」

 「国家の安危、ただこの一挙にありです!」

後醍醐天皇 ・・・。(ただただ、茫然自失、何の決断も指示も下せない)

花山院師賢(かざんいんもろかた)、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、万里小路季房(までのこうじすえふさ)ら、当日宿直の番に当たっていた近臣数名を御前に呼び、天皇は問うた。

後醍醐天皇 こうこう、こないなわけや。いったいどないしたもんやろ?

万里小路藤房 これは、えらいことになりましたなぁ・・・うーん・・・。

一同 うーん・・・。

万里小路藤房 そうですねぇ・・・やっぱし、「逆翟翟臣が君主を犯そうとする時には、君主はしばらくその難を避けるべし、それにより、国家も保たれる」というのが、歴史的に見ても正しい方策ですやろ。

後醍醐天皇 ・・・。

万里小路藤房 古代中国・晋(しん)国の公子・重耳(ちょうじ)は翟(てき)国に逃げ、周(しゅう)国の古公(ここう)は豳(ひん)の地へ移住しましたやろ。その難を乗り越えてから後、彼らは共に王業をなし、その子孫は不朽の栄誉に光輝いたというわけですよ。

後醍醐天皇 ・・・。

万里小路藤房 とにかく、ここは急がな、あきまへん、陛下! このまま、ここで思案してたんでは、夜も更けてしまいますやんか、一刻も早ぉ、ここを脱出下さいませ!

というわけで、藤房は車を手配してそれに三種の神器を積み込んだ。そして、車の下簾(すだれ)の下から女ものの衣服の裾を車の外へはみださせて、宮中の女性が乗っているかのように擬装した後に、天皇をその車にたすけ乗せ、御所の陽明門(ようめいもん)から外に出ようとした。

門の警護担当の者らが、車の前にたちはだかる。

警護担当X いったい、どなたの外出ですかいな?

万里小路藤房 シィッ、声が高いぞ! おそれ多くも、この車の中には、中宮妃殿下がおわすのや!

警護担当X エッ!

万里小路季房 夜陰にまぎれて、おしのびでな、西園寺(さいおんじ)の実家に行かはるんやがな。はよ、そこ通し!

警護担当X そういうことならば、さぁどうぞ。

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予め、メンバー間で打ち合わせていたのであろう、源具行(みなもとのともゆき)、洞院公敏(とういんきんとし)、千種忠節(ちぐさただあき)らも、三条河原で一行に合流してきた。

天皇側近メンバーA さぁ、ここで、陛下に車から降りていただいてやな、輿にお乗せして、ほいで、奈良を目指そ。

天皇側近メンバーB 輿? 輿はどこにある? えぇ、これかいなぁ。

天皇側近メンバーC なんともまぁ、お粗末な輿やなぁ。

天皇側近メンバーA しゃぁないやろがぁ、急な事やしぃ。

天皇側近メンバーC 輿をかつぐ人夫、おらんがな。

天皇側近メンバーA えぇい、しゃぁない、こないなったら、おまえら、かつげぇ!

というわけで、宮内省料理部長官の重康(しげやす)、同雅楽部(ががくぶ)所属楽人の豊原兼秋(とよはらのかねあき)、近衛府(このえふ)所属の秦久武(はだのひさたけ)らが、輿をかついで進むことになった。

公卿たちはみな、フォーマルウェアを脱ぎ捨て、折烏帽子(おりえぼし)と直垂(ひたたれ)のカジュアルウェアに着替えた。公家に仕える身分低き侍が、女づれで奈良の七大寺もうでに出かけるような体に見せかけ、彼らは輿の前後を進んだ。

木津(きづ:京都府・木津川市)の泉橋寺(せんきょうじ)を過ぎたあたりで、夜が明けた。そこで、天皇に朝食をおとりいただいた。

さらに進んで、奈良の東大寺・東南院(とうだいじ・とうなんいん)へ入った。

その寺を預かる僧正は朝廷への忠誠心を持っていたので、天皇が奈良へ来た事を秘したまま、東大寺の人々の意向を探ってみた。その結果はと言えば、

天皇側近メンバーC いかんなぁ・・・東大寺の西室(にしむろ)には、顕実僧正(けんじつそうじょう)いう、関東の一族のモンがおるんやて。寺の中で絶大な権力を持っとってな、みんなそいつに恐れをなして、陛下に味方しよう、いうもんなんか一人もおらんそうや。

天皇側近メンバーB そんな状態やったら、陛下が奈良にとどまられるのは、危険やなぁ。

ということで、翌26日、和束(わつか:京都府・相楽郡・和束町)の鷲峰山・金胎寺(じゅぶせんこんたいじ)へ移動。

天皇側近メンバーA ここもなんかなぁ・・・山の奥すぎるわ。こないに里から離れてたら、打つ手あらへん。

天皇側近メンバーB もっと他の要害に、陣を構える事にしよか。

同月27日、一行はお忍び行幸の態勢を整え、奈良の衆徒少数を引き連れて、笠置寺(かさぎでら)(京都府・相楽郡・笠置町)に移動した。

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2017年4月20日 (木)

太平記 現代語訳 2-6 日野俊基の最期~その時、忠臣・後藤助光は

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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 「日野俊基(ひのとしもと)こそは、今回の倒幕計画の張本人である。よって、遠国流刑などというような緩い処置などもってのほか、近日中に鎌倉にて、斬首刑に処すべし!」

との決定が、幕府においてなされた。

それを聞き、俊基は懇願を繰り返した。

日野俊基 私は、法華経(ほけきょう)600部・読経(どきょう)の願(がん)を立てた。残すところ、あと200部というとこまで、来てる。せめて、この願を達成できるまで、刑の執行を延期してもらえへんやろか。その後やったら、もう、どうにでもしてくれてえぇから。

なるほど、それほどの大願を果たさせないままに、命を奪ってしまうのも罪なことだ、ということで、彼の願いは聞き届けられた。

1日、また1日・・・200部の読経が完了するまでのわずかの日数も、どんどん残り少なくなってきて、命終わる日がじわじわと迫ってくる・・・あぁ、哀れなるかな、日野俊基。

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ここに、後藤助光(ごとうすけみつ)という、俊基に長年仕えてきた身分低き侍がいた。

主君が囚われの身となってからは、俊基の妻に仕えながら嵯峨野(さがの:京都市右京区)の奧に潜んでいたのだが、「俊基、鎌倉へ護送!」との知らせを聞いて、悲しみにうちひしがれる夫人の姿を見ていると、彼もまた、たまらなく悲しくなってくる。

そこで、彼は夫人に願い出て、俊基への手紙をしたためてもらい、それを持って鎌倉へと旅立った。

後藤助光 (内心)今日、明日にでも、てなうわさもあったからなぁ。すでに、処刑の憂き目に遭うてしまわはったかもしれん・・・もう、気が気やないで。

道中に出逢う人々に俊基の消息を尋ねつつ、やがて鎌倉へ到着した。

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俊基が留置されている場所の近くに宿を借り、なんとかして自分の来た事を伝えようと、あれやこれやと奔走してはみた。しかし、その手だても全く付けられないままに日は過ぎていく。そんな時、

鎌倉の街の声X 京都から来た例の囚人、今日、処刑されるらしいぞ。

鎌倉の街の声Y そっかぁ、ついになぁ。

鎌倉の街の声Z あぁ、哀れだなぁ。

後藤助光 (内心)うっ!

肝も消えなんとする思いのうちに鎌倉中をかけずり回り、あちらこちらで情報を集め、ようやく彼は、その処刑の現場にたどり着いた。

俊基は輿に乗せられ、化粧坂(けはいざか:鎌倉市)まで連行され、その身柄を、工藤二郎(くどうじろう)に引き渡されていた。

坂のたもとの葛原岡(くずはらがおか)には、大きな幕で囲った刑場が設営され、その中に敷かれた皮の上に俊基は座して、刑の執行を待っていた。

その光景を目にした後藤助光の心中は、もはや言葉では言い表しようもない・・・目もくらみ、足もすくみ、今にも絶え入らんばかり。

助光は泣きながら、工藤の前へ進み出た。

後藤助光 わたいは、日野俊基様のお側近く、お仕えしてるもんだす! 殿の最後を見届けよぉ思ぉてな、京都からはるばるやって来ました。お願いです、お願いですから、殿の御前に行かせて下さい。奥方様からも、お手紙をお預かりしてきてます、殿にご覧いただきたいんですわ!(涙)

涙をはらはらと流しながら懇願する助光の姿に、工藤も哀れを催し、思わず涙を流す。

工藤二郎 よかろう、早いとこ、幕の中へ入ってお目通りしろ。

助光は中に入り、俊基の前にひざまづいた。

後藤助光 (涙)殿!

日野俊基 おぉ・・・助光やないかぁ・・・よぉ来てくれたなぁ・・・みんなは、どないしてる?(涙)

後藤助光 これ・・・奥方様からのお手紙だす!

預かってきた手紙を俊基の前に置き、助光は涙にむせびながら、うなだれた。

しばしの後、俊基は涙を拭い、手紙を開いた。

 俊基・夫人からの手紙:
 今にも消えてしまいそうな露になってしもたような気持ちの中に、毎日生きてます、うち。どこにも身の置き場があらしまへん。いつの黄昏(たそがれ)の中に、あなたさまのご最期をお聞きすることになるやろか、思うと、もう泣けてきてしもぉて・・・悲しぃて・・・このうちの苦しさ、ご想像もできひんでしょうねぇ。

一字一字に込められた、言葉にも言い表しがたい彼女の思いの深さは、墨の異常な黒さに、はっきりと表れている。

むせぶ涙に目も曇り、手紙を読みかねている俊基の姿を、周囲の者も皆、涙を浮かべながら見守っている。

やがて俊基は、

日野俊基 硯を。

渡された携帯用の硯の中から小刀を取り出し、自分の鬢(びん)の頭髪を少し切り取り、彼女からの手紙の中に巻き入れた。そして、一筆したためて、それらを助光に渡した。

後藤助光 (涙)ウ、ウ、ウ、ウ・・・。

手紙を懐に入れ、泣き沈む助光も、まことに哀れである。

そうこうするうち、工藤が幕の内に入ってきた。

工藤二郎 えぇっと・・・もう、予定の時刻も、だいぶ過ぎちゃってるし・・・。

俊基は、懐中から紙を取り出して首の回りを押し拭った後、その紙を開き、盡盡そこに辞世の詩を書いた。

 古人いわく
 死も無し 生も無し
 わが魂の 永遠なること
 はるか万里の彼方に 雲尽きるまで
 清く澄み渡る 長江の流れのごとし

 (原文:古来一句 無死無生 萬里雲盡 長江水清)

俊基は筆を置き、鬢(びん)の髪をなでつけた。

太刀が背後にキラリと光るやいなや、首は前に落ち、体はその首を抱えて地に伏した。

これを見る助光の、心中の悲しみはいかばかり。

泣く泣く葬礼を済ませ、遺骨を空しく首にかけ、形見の手紙を持ち、助光は、京都への悲愁の帰路についた。

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俊基・夫人 えっ、助光が帰ってきたて、ほんまか!

夫の消息を聞けるかと思うと嬉しくてたまらず、俊基夫人は人目も憚らず、簾の外に躍り出てきた。

俊基・夫人 な、な、どないやった? だんなさまは、いつごろ京都に帰ってきはるて、言うてはった?

後藤助光 (はらはらと涙をこぼしながら)・・・もう・・・斬られてしまわはりました!

俊基・夫人 !!!

後藤助光 これ、いまわの際の、殿のお返事だす・・・あ、あ、あ・・・。(俊基から託された髪と手紙を差し上げ、声の限りに泣く)

助光が差し出す形見の手紙と白骨を一目みるなり、夫人は、簾の内へ帰る事も出来ずに、縁に倒れ伏してしまった。そのまま息絶えてしまうのではと、思われるほどである。

当然の事である、一本の樹陰に共に宿り、同じ河の流れの水を汲んだ後は、互いに知らない者どうしであっても、いざ別れるとなると名残惜しいもの。ましてや、一本の木から生え出た二本の枝のように、夫婦の深い契りを結んではや10年余り・・・なのに今は、この世とあの世とに、住む世界が分かれてしまったではないか。

俊基・夫人 あぁ、だんなさまとはもはや、夢の中でしかお会いできひんように、なってしもぉたのか・・・。もう死んでしまいそうなくらい、悲しい・・・。

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四十九日に形のごとく仏事を営んで後、俊基・夫人は髪を落とした。墨染めの衣に身をやつして柴の扉を閉ざしてこもり、ひたすら亡夫の菩提の弔いに送る日々。

後藤助光もまた、髪を切って出家し、その後ながく高野山にこもり、ひたすら、亡き主君の成仏を祈り続けた。

このように、俊基なき後までも堅固に示された、夫婦の契(ちぎり)、主従の儀(ぎ)、まさに哀れとしか言いようがないではないか。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月19日 (水)

太平記 現代語訳 2-5 日野資朝の最期~その時、彼の息子・阿新は

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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後醍醐天皇の倒幕計画が露見して大喜びと、いう人々も、京都にはいたのである。それは、[持明院統](じみょういんとう:注1)勢力に属する人々であった。

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(訳者注1)[持明院統]については、[太平記 現代語訳 1-5]中の訳者注をご参照いただきたい。
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持明院統・勢力の人A いやぁ、これはうまい事になりましたなぁ。

持明院統・勢力の人B ほんに。これで、今上陛下は、ご退位と・・・。

持明院統・勢力の人C そして、次の天皇位は、こっちサイドへくる事まちがいなし。

持明院統・勢力の人一同 ウキャキャキャキャキャ・・・・。

このように、身分の上下を問わず大はしゃぎである。

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しかしながら、六波羅庁によって土岐頼貞が討たれた後も、天皇位交替について、鎌倉からは何の話もなかった。

今また、日野俊基(ひのとしもと)が捕縛連行されたというのに、依然として、何らかの決定が幕府においてなされる、というような情報も伝わってはこない。持明院統・勢力サイドは、全くのアテハズレ、溜息をつくばかりである。

そういう状況ゆえに、いろいろと進言する者がいたのであろうか、持明院統・勢力より、鎌倉の北条高時のもとへ、密使が送られた。

北条高時 さてさて、いったいどんなご用件で?

密使 さるスジから、「北条高時殿に、次のように申し伝えるように」と、おおせつかって参りましたわ。

北条高時 テヘェー、いったいどんな事を?

密使 「今上天皇の倒幕計画はすでに、「今そこにある危機」の段階にまで達しておる。幕府は速やかに、それに対する糾明措置を行うべきである。さもなくば、近い日に、天下大乱になってしまうこと、必定(ひつじょう)!」

北条高時 (内心)ムムム、こりゃぁイカン!

彼はすぐに、北条家・重臣・合同幹部会議を開いた。

北条高時 持明院サイドからな、こんな事言ってきやがったぜ。いったいどうすべぇかなぁ?

会議メンバー一同 ・・・。(シーーーン)

会議メンバーA (内心)こんなこと、まっさきに口開いて言えるかい。誰か、他の人、意見言ってくんないかなぁ。

会議メンバーB (内心)自分の立場ってぇもん、考えると、うかつな事は言えないよなぁ・・・。

誰も口を開こうとしないのを見て、北条家執事(しつじ)・長崎円喜(ながさきえんき)の息子・長崎高資(ながさきたかすけ)が、ツツッとひざを乗り出し、討論の口火を切った。

長崎高資 土岐頼貞を討伐した際に、天皇も交代させてしまえばよかったんですよぉ。なのに、朝廷に遠慮して、うやむやな処置で、お茶をにごしてしまったわけじゃぁないですかぁ。

会議メンバー一同 ・・・。

長崎高資 ようはですね、天皇の倒幕プロジェクト計画という一大問題に対しての、抜本的な処置ってぇもんが全然出来てないままに、今日までずるずると、来てしまってるわけです、問題先送りのまんまねぇ。

会議メンバー一同 ・・・。

長崎高資 乱を抑え、国を治める事にこそ、武力行使の意義があるというもの! 速やかに、今上天皇は遠国流刑、護良親王(もりよししんのう)は片道切符の島流し、日野俊基、日野資朝(ひのすけとも)以下の、国を乱す近臣どもは残らず死刑、これに限りますってぇ!

会議メンバー一同 ・・・。

憚(はばか)る所なく、まくしたてる長崎高資の言葉を聞いていた二階堂道蘊(にかいどうどううん)は、しばしの思案の後、口を開いた。

二階堂道蘊 たしかに長崎殿のご意見、もっともではありますが、私が思うところを少し、述べてみてもよろしいでしょうか。

北条高時 よし、言ってみろ。

二階堂道蘊 はい・・・。武家が政権を獲得してからすでに160余年が経過、勢威は四方に及び、武運は代々輝きを増すばかりであることは、言うまでもありませんが・・・それはひとえに、武家政権が、上には、天皇陛下を仰ぎ奉って、私心なく忠節を尽くし、下には、人民をいつくしみ、仁政を施してきたからであります。

会議メンバー一同 ・・・

二階堂道蘊 なのに今、天皇陛下の寵臣の両・日野を拘留し、陛下が帰依しておられる高僧3人を流罪に処せられた、これまさに、「武臣、悪行を専らとす」と、いうべきものではないでしょうか?

二階堂道蘊 その上さらに、今上天皇陛下を遠国に遷し申し上げ、天台座主(てんだいざす)・護良親王を流罪に処す、という事になれば・・・うーん・・・天が武家政権の奢りを憎まれること、必定でありましょう。のみならず、護良親王を擁護する延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県大津市)の面々も必ずや、憤りの炎を燃やしましょう。

二階堂道蘊 神の怒りに触れ、人間にもそむかれたならば、武家政権の武運は危機に瀕(ひん)することとなるでしょう。

二階堂道蘊 古(いにしえ)の世の人の言葉にも、「君主にその資格無しといえども、臣下は臣下としての分をわきまえ、その務めを果たすべし」と、あるではないですか。

二階堂道蘊 それにですよ、たとえ陛下が倒幕を計画されているとしても、それがいったい、何程の脅威と言えましょうや? 幕府に対抗しうる武力など、あちらには無いのですからね、その計画に加担しようなどという者がいるとは、到底思えませんね。

二階堂道蘊 ここはとにかく、我々の方がひたすら慎んで勅命に従っておきさえすれば、陛下のお考えも、必ず、変化をきたすことでしょう。かくして、国家は泰平、武家政権は武運長久・・・と、私は考えるのですがねぇ、皆様のご意見は?

長崎高資 (チョゥムカッ)アノネェッ! 政治ってぇのはねぇ! アメ(飴)とムチ(鞭)とのメリハリを効かせる事が大事だと思いますよ! あいまいな処置ってのが、イッチバンいかんのですワ!

長崎高資 世の中が治まってる時には、アメをしゃぶらせてゆるやかに統治し、乱れてる時には、ムチでバッシバシ、しばいて速やかに押え込む! これですよ、これ!

長崎高資 昔の中国だってそうだったでしょ? 戦国時代には、孔子や孟子の政治学なんか、とても適用できるような状態じゃぁなかった。武力が必要でなくなったのは、戦国時代が終わって太平の世になってからだ。

長崎高資 とにかく、事は急を要します、今は、武力を用いるべき局面ですってぇ!

長崎高資 「君主にその資格無し」の場合、臣下はどうやってきたか? 中国では、周(しゅう)王朝の文王(ぶんおう)・武王(ぶおう)が、無道の君主(注2)を打倒してますよ。我が国にだって、北条義時(よしとき)様・泰時(やすとき)様の時に、善ならぬ上皇(注3)たちを流罪にした前例が、あるじゃぁないですか!

長崎高資 あの時だってぇ、幕府は朝廷から見れば、臣下の立場でしたよねぇ。でも当時の世論は、「臣下の分際で主君を島流しにするとは何事か」なんて事を言って、幕府を非難したりはしませんでしたよ。

長崎高資 古典の中にだって、「君主が臣下を土やゴミのように扱う時には、臣下も君主を仇敵のごとくに見るであろう」って、あるじゃぁないですか。

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(訳者注2)殷王朝の紂王。

(訳者注3)後鳥羽上皇の事である。長崎高資は、承久の乱の時の事跡を用いて、自説を正当化しているのである。
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長崎高資 モタモタしてる場合じゃぁない! 天皇に先手を打たれて、「幕府追討命令」でも出されちゃったら、どうする?! そうなってから後悔しても、もう遅いんだからぁ! 速やかに、天皇を遠国に遷しィ、護良親王を硫黄島(鹿児島県)へ送りィ、倒幕計画の首謀者で逆臣の日野資朝と日野俊基の両名を死刑に処するゥ、これっしかなァイ! このような処置あってこそ、武家の安泰は万世に及ぶ、というものでしょうがァ!

高資は、居丈高(いたけだか)に、自らの意見を滔々(とうとう)とマクシたてる。会議メンバー多数は、長崎父子の権勢におもねたのか、あるいは愚かな考えに引きずり込まれてしまったのか、皆それに賛同してしまった。

二階堂道蘊 (内心)これ以上、何を言ってもしかたがないか・・・。

彼は、眉をひそめて、その場を退出して行った。

かくして、

 「天皇に対して倒幕をそそのかしたのは、源具行(みなもとのともゆき)、日野俊基、日野資朝である。彼らを死刑に処すべし!」

との決定が下った。

 「まずは、昨年より佐渡国(さどこく:新潟県佐渡島)に流刑中の、日野資朝から」

という事で、日野資朝・処刑の命令が、幕府から佐渡国守護・本間山城入道(ほんまやましろにゅうどう)に下された。

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この決定は、京都の人々の知る所となった。

日野資朝には、「阿新(くまわか)」という名の、十三歳の息子があった。この人は後に、中納言・日野國光となる。

資朝が逮捕された直後から、仁和寺(にんなじ:京都市右京区)のあたりに身を隠していたのだが、父が処刑される、とのうわさを聞いて、阿新は、小さな胸の内にある決意を固め、母の前に座した。

阿新 もう自分の命なんか、惜しぃありません。父上と共に斬られて、冥土の旅のお供をしたい・・・父上の最期のご様子も、見ておきたいと思います。母上、お願いですからどうか、父上のもとに行かせて下さい!

阿新の母(資朝の妻) あんたは・・・もう何を言わはりますのや・・・。佐渡いうとこはなぁ、人も通わん怖ろしい島や言うやおへんか。そないなとこまで、いったい何日かかって行けるもんやら・・・。そないな遠いとこまで、いったいどないして、行かはるつもりどす?

阿新 ・・・。

母 だんなさまが、あないな事になってしまわはってからいうもん、うち、ほんまにつらい日々どす・・・その上、あんたまで、うちから離れて行ってしまうやなんて・・・。(涙)

阿新 ・・・。

母 そないな事になってしもぉたら・・・一日も、いや、一時間も、よぉ生きていけへんわ、うち・・・。うっうっうっ・・・。(涙)

阿新 父上のとこに連れてってくれる人、誰もいいひん、いうんやったら・・・もういっそのこと、ボク、どっかの川の深いとこにでも、身ぃ投げて、死んでしまいますわ!(涙)

母 なにを言うねん、あんたは!(涙)

阿新 ・・・。(涙)

母 (内心)これ以上、ムリにひき止めたら、かわいいこの子の命までも、失われてしまうかもなぁ・・・。

阿新 ・・・。(涙)

母 (内心)しゃぁないなぁ。

母は仕方なく、今日まで自分につき従って来てくれた、たった一人の中間(ちゅうげん)をお伴につけ、息子を、遙かなる佐渡への旅路に送り出した。

遠い道を行くというのに乗る馬も無く、慣れない草鞋を履き、菅の小笠をかぶり、露を分けながら歩み行く阿新少年の北陸の旅路・・・ああ、思いやるも哀れなるかな。

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京都を出てから13日目、越前国(えちぜんこく:福井県東部)の敦賀(つるが:福井県敦賀市)の港に着いた。

ここから、阿新と中間は、商船に乗り、やがて佐渡に到着。

自分がやってきた事を、人を介して伝えるすべもなく、阿新は本間の館に自ら赴き、中門の前に立った。

たまたま、門の内にいあわせた一人の僧侶が、彼の姿を見て、門の外へ出てきた。

僧 ねぇ、キミ(君)、キミ、ここの館の内に何か用があって、そこに立ってるのかなぁ? どんな用事?

阿新 ボク、日野資朝の息子ですねん。父がもうすぐ処刑される、いぅて聞いたもんですから、その最期、見届よ思ぉて、都からはるばる来たんです。(涙、涙・・・)

僧侶は心優しい人であったので、すぐに、阿新がやって来た事を本間に告げた。

それを聞いた本間も、岩や木ならぬ人間の身、さすがに哀れに思ったのであろう、すぐにこの僧に命じて、阿新を持仏堂に迎え入れさせ、足袋・きゃはんを脱がせて足を洗わせ、丁重にもてなした。

阿新は、本間のこの応対をうれしく思いながらも、

阿新 お願いします、わが父に、早ぉ会わせてください!

本間山城入道 ・・・。

本間山城入道 (内心)今日、明日にも処刑される運命にある人にだよ、息子を会わせたりなんかしたら、かえって、冥土の旅出への障害になってしまうだろう。親子の対面を許した、なんて事が鎌倉へ聞こえでもしたら、後々、まずい事になるかもなぁ。

というわけで、本間は父子の対面を許さず、4、5町ほど間を隔てて、資朝と阿新を留め置いた。

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息子が佐渡までやって来たことを聞いた父・資朝は、

日野資朝 (内心)あぁ、あの子がここまで来てくれたんか・・・。先行き不安の京都の中で、いったいどないしてるんやろかなぁと、気ぃもんでたんや。

日野資朝 (内心)そやけど、こうやって近くにいると思うと、かえって悲しみが増すもんなんやなぁ。

阿新の方も同様である。

阿新 (内心)京都と佐渡との間、波路はるかに隔てて、父上の事を思ぉて涙流してた時の方が、まだましやったわ。

「父はあちらの方にいる」と聞いてからというもの、そちらの方を眺めているだけでも涙があふれてきて、たもとの乾くひまがない。

阿新 (内心)はるか彼方のあそこに、堀と塀で囲まれて、一群の竹がこんもりと茂ってる一角がある。あのへん、行き交う人もあまりいいひん。あこがまさしく、父上が囚われの身になってはる場所なんとちゃうやろか。

声A 情け無しかな 本間の心

声B 父は 囚われの身

声C 子は 未だ幼い

声A たとえ 二人を 一緒にしておいたとしても

声B なにほどのトラブル発生の おそれがあろうか

声C なのに 父子の対面さえ許さぬとは

声A 現世に共に 生きながら

声B すでに住む世界 異なるがごとき この境遇

声C 亡(な)からん後(のち)の 苔の下

声A 思い寝に見ん 夢ならでは

声B 相(あい)看(み)ん事も 有(あ)りがたしと

声C 互いに悲しむ 恩愛(おんあい)の

声A and 声B and 声C 父子(ふし)の道こそ 哀れなれ

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5月29日の暮れ方、ついに日野資朝が牢から外に出される事になった。

本間の家臣 長い間、風呂もお入りになれませんでしたでな、どうぞ、体をお流し下さいよ。

資朝 (内心)さては・・・ついに最期の日がきたな。

資朝 それにしても、なんちゅう酷(むご)い仕打ちやろ。私の最期を見届けようと、都からはるばるやってきた幼い人の姿を、一目見る事もかなわずに、このまま命終えるとは。

本間の家臣 ・・・

これが、資朝の口から発せられた最後の言葉であった。

以後、何をするにしても無言。

今朝まではただ、うちひしがれて涙を流すばかりであったのが、今や煩悩(ぼんのう)残らずきれいさっぱり、拭い去られたようである。あの世に旅立つ為の心の準備の他、一切余念無しという感じである。

その夜、資朝は輿に載せられ、牢屋から10町ほど離れた川原へ連れて行かれた。

資朝 (内心)いよいよやな。

輿から降り假た資朝は、臆した気配みじんも無く、敷皮の上に居住まいを正した後、辞世の詩をしたためた。

 心身五要素が 集合して 仮の人間存在を 形成してきたが
 四大元素は 今再び離散して この私という実存も 空に帰する時が来た
 いままさに 我が首は 白刃(はくじん)に 当てられようとしている
 一陣の風よ さぁ吹くがよい 吹いて私の首を 速やかに切断するがよい

  (原文:五蘊假成形 四大今帰空 将首當白刃 截断一陣風)(注4)

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(訳者注4)五蘊(ごうん)とは、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)。 四大(しだい)とは、地(ち)、水(すい)、火(か)、風(ふう)。
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詩の末尾に年号月日、さらに名字を書き添えた後、資朝は筆をおいた。

刑執行担当の者が背後へ回るやいなや、首は敷皮の上に落ち、体だけは、なおも座し続けた。

しばしば、資朝を訪問して仏法の談話をしていた僧侶が来て、葬礼を形のごとく執り行い、資朝のお骨を拾って帰り、阿新に渡した。

それを一目見るやいなや、彼はくずれ落ち、地に倒れ伏してしまった。

阿新 今生での対面もついにかなわんと、白骨になってしまわはってから、父上とやっとお会いできるやなんて・・・あぁ、なんという・・・。(涙、涙)

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阿新は未だ幼いながらも、けなげな心の持ち主であった。

父の遺骨を、京都からつき従って来た中間に持たせて言わく、

阿新 おまえは、ボクより先に京都へ帰り。帰ってから、高野山(こうやさん)にお参りしてな、このお骨を、高野山の奥の院とかいう所に埋葬してな。

このようにして、彼を先に京都へ帰らせた後、阿新は仮病を使って、本間の館になおも留まった。

阿新 (内心)今生での父上との対面も許してくれへんかった、あの本間というヤツ・・・あまりに非情な仕打ちやないか! 何としてでも、この恨み、晴らさいでか!

4、5日滞在する間、昼は病のふりをして終日、床に臥し、夜になるとこっそりと部屋を抜け出して、本間の寝所などを、細々と窺(うかが)い続けた。

阿新 (内心)隙(すき)あらば、本間父子のうち、どちらか一方だけでも刺し殺す。それから、我が腹、切って果てよう。

このように、思い定めていたのである。

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風雨激しいある夜、宿直の者らは皆、母屋から離れた警護詰所で寝ている。

阿新 (内心)チャンス到来!

阿新は、本間の寝所の方に忍んで行ってみたが・・・。

阿新 (内心)あぁ、悪運、強いやっちゃなぁ! 今夜だけは、寝る場所を変えたようやぞ、どこにも、いよらへん!

その時、別の二間の部屋に、灯火の光が見えた。

阿新 (内心)うん? あれは・・・。もしかしたらあっちの部屋で、本間の息子が寝とるんやろか。よぉし、息子の方だけでも討ち取って、恨み晴らしたろ!

そこで、その部屋に忍んで入ってみた。男が一人寝入っていた。

阿新 (内心)なんやぁ、本間の息子と、ちゃ(違)うわぁ。こいつは、父上の首を切ったという、本間三郎(ほんまさぶろう)とかいうヤツやんかぁ。ガッカリやなぁ・・・。

阿新 (内心)そやけど、こいつかて、本間に負けず劣らずの親の仇やしな、よぉし、こいつを!

阿新 (内心)さてと・・・ボクには、太刀も短刀も、無いから、あいつのんを、使うしかない。なんとかして、あいつの太刀を手にいれて・・・。

阿新 (内心)燈の光、明るすぎやなぁ・・・こっちが入っていったとたん、あいつ、目ぇさましてしまいよるかも・・・。

このように考えだすと、なかなか行動に出れない、いったいどうしたものか、と思案しながら立ちつくしていたのだが・・・。

季節は夏の頃合い、燈火の光に惹かれて、蛾がたくさん障子にとりついている。

阿新 (内心)うん、ヒラメイタ、グッドアイディア! あの蛾を使ぉたろ、きっと、うまいこといくぞ!

阿新は、障子を少しだけ開いた。その瞬間、室内の光めがけて、蛾がどっと入って来た。蛾の羽ばたきに灯火は消されてしまい、室内は真っ暗になった。

阿新 (内心)ヤッタァ!

彼は室内に忍び入り、本間三郎が寝ている枕辺近くへ、にじり寄っていった。

本間三郎は、太刀も小刀も枕辺に置いたまま、ぐっすりと寝入っている。

阿新は、まず、本間の小刀を取って自分の腰に指した。そして、枕辺にあった太刀を抜き、その切っ先を、本間三郎の胸のあたりに狙い定めた。

阿新 (内心)寝入ってる相手を殺す、というのでは、どうもなぁ・・・死人を殺すのと同じようなもんやから・・・。まずは、こいつの目を醒ましてから。

阿新は、枕をポーンと蹴った。本間三郎は驚いて目をさます、その瞬間、

阿新 エェィッ!

本間の臍(へそ)の上のあたりに突き立てられた太刀は、切っ先が畳に届かんばかりに、彼の体を深ぶかと刺し貫いた。そして阿新は、返す刀で本間の喉笛を、

阿新 ヤァッ!

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阿新は、心静かに、館の奥の方にある竹林の中に駆け込み、そこに身を潜めた。

身体に太刀が刺さった時の本間三郎の叫び声に驚き、宿直の者らが火を点し、現場にかけつけてきた。

本間家の者D アァッ、三郎がやられてるぞ!

本間家の者E どこのどいつの仕業だ!

本間家の者F おい、見ろ! 真っ赤な足跡が!

本間家の者D 血だな。

本間家の者E 大人の足跡ではないな、小さい。

本間家の者F さてはあいつか! 下手人は、あのコゾウだな!

本間家の者D えぇい、こしゃくな!

本間家の者E 堀の水は深いからな、木戸から外へは出れてないだろう。

本間家の者F とっとと探し出して、打ち殺してしまおう!

彼らは手に手に松明をともし、木の下、草の陰と、残す所無く、捜索しはじめた。

阿新 (竹林の中に隠れながら)(内心)あぁ、いったいどこへ逃げたらえぇんやろか・・・。

阿新 (内心)あいつらの手にかかって殺されるくらいやったら・・・いっそのこと、自から命を絶ってしまおか・・・いやいや、にっくき親の仇を討ちとれてんから、今はなんとしてでもこの命を全うして、後々、天皇陛下のお役にも立たせていただくべきや。それでこそ、父上の志も継げるというもの、これこそが、忠臣孝子の道というもの。ここは、万に一つの可能性にかけてみよ、とにかく、頑張れるだけ頑張って、逃げてみたろ!

阿新は、竹林の中を脇目も振らずに、一気に走った。

やがて、彼の眼前に館の堀が立ちはだかった。

阿新 (内心)この堀、どないして渡ろか。いっちょう思い切って、飛び越えてみよか。

しかし堀は幅2丈、深さ1丈余り。

阿新 (内心)あぁ、ムリやなぁ。

その時ふと、目に止まったのが、掘の側に生えている一本の呉竹であった。

阿新 (内心)よし、あれを橋の代わりに。

阿新は、その竹にスルスルと登っていった。すると彼の体重によって、竹は掘の向う側へと、しなった。

阿新 ヤッタァ!

彼は、しなった竹の先から地上へ飛び降りた。このようにして、阿新は難なく、堀を越えることができたのであった。

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阿新 (内心)夜が明けるまでには、まだまだたっぷり時間ある。港の方へ行ってそこにある船に乗り、越後へ向かうとしよ!

彼は、そこらの地理も分からぬ中を、なんとかかんとか、海岸の方向を目指して進んだ。

夜は次第に明けてきた。人目につかずに通れそうな道もない。仕方なく、阿新は、麻や蓬の生い茂る中に身を隠した。

阿新 (内心)あっ、来よった、追手や!

140ないし150騎ほどが、バラバラと駆けくるのが見えた。

本間家の者G おい、そこの男! もしかして、年の頃12、3ばかりの子供が、このへんを通って行かなかったか?

通行人X いいや、見ませんでしたなぁ。

本間家の者H おいおい、そこのオネエさん、年の頃12、3ばかりの子供、見なかったぁ?

通行人Y いいえぇ。

本間家の者G いないなぁ・・・もう少し先の方を当たってみようか。

本間家の者H そうだなぁ。

このように、道に行き会う人ごとに問いながら、追手の一団は阿新の目の前を通り過ぎていった。

阿新は、日中はその茂みの中にじっと身をひそめ、夜になってから再び、港を目指して進んだ。

彼の孝行の志を神仏が良しとされて、御擁護(ごようご)を垂れたもうたのであろうか、方角も分からず進んでいるうちに、一人の年老いた山伏(やまぶし:注5)に出会った。

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(訳者注5)「山臥とも書く。修験道(しゅげんどう)の行者(ぎょうじゃ)のこと。山野を経歴して苦修練行(くしゅうれんぎょう)し、山野に起臥(きが)するので山伏という。」 仏教辞典(大文館書店)より。
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彼の様子を見て、哀れに思ったのであろう、山伏は、

山伏 キミ(君)、キミ、いったいどこから来たの? どこへ行こうとしてる?

阿新は、ありのままに、事情をうち明けた。

山伏 (内心)あぁ、なんて、かわいそうな。いま、私がこの少年を助けてやらないと、彼はきっとムザンな目にあう事になるだろうなぁ。よし、ここは何としてでも、彼の力になってやろう!

山伏 キミ、もう心配いらないからね! 港には商船がたくさん集まってるからさぁ、それに乗っけて、越後、越中の方まで、私がキミを送り届けてあげるよ。

阿新 ありがとうございます!

山伏 長い道のり、歩いてきたんだろう? 足、疲れてるよなぁ。さ、私の背中に乗りたまえ!

山伏は、阿新をおぶって歩き出した。ほどなく、二人は港にたどりついた。

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夜が明けた後、港で船を探してみたが、運悪く、港内には船が一隻も停泊していない。

山伏 (内心)さてさて困ったな。いったいどうしたものか・・・。

その時、山伏は、はるか沖合いに大きな船を見つけた。順風になってきたと見え、帆柱を立て、トマを巻いている。

山伏は、その船に向かって手をあげ、大声で、

山伏 おぉい、そこの船ぇー! ここに着けてくれよぉー! 船に乗りたいんだぁー!

しかし、船乗りたちは彼の要請に一向に応える様子もなく、声を張り上げながら、港の外に漕ぎ出ようとする。

山伏 私の願いを無視するつもりか! そうはいかんぞぉ!(大いに腹を立て)

柿色の衣の袖の紐を結んで肩に掛け、沖を行くその船の方を睨みつつ、イラタカ数珠をサラサラと押しもみながら、

山伏 えーい!

山伏
 秘密呪(ひみつのじゅ) ひとたび持(じ)すれば
 生(しょう)が変わるといえども 加護(かご)の力 持続す
 仏に奉仕し 修行する者
 即 仏の如き 存在となれり
 ましてや 多年の修行を積みし 我においてをや!

 不動明王(ふどうみょうおう)の 本誓(ほんぜい)に誤りなくば
 権現金剛童子(ごんげんこんごうどうじ) 天龍夜叉(てんりゅうやしゃ)、八大龍王(はちだいりゅうおう)
 かの船をこなたへ 漕ぎ戻させ給わんことをーっ!

躍り上がり、踊り上がり、一心不乱に祈り込める。

彼の祈りが神に通じ、不動明王の擁護があったのであろうか、沖の方からにわかに強風が吹き始め、船は今にも転覆しそうな状態となった。

船上の人々は慌てふためき、

船上の人々 山伏の御房、どうか我らをお助け下さいまし!

彼らは、手を合わせ跪(ひざまづ)き、必死になって船を港へ漕ぎ戻してきた。

水際近くに船が接近すると同時に、船頭が船から飛び降りて来た。

船頭 さ、どうぞ、船へ!

彼は、阿新を肩にのせ、山伏の手を引いて、船室へ招き入れた。そのとたん、強風はぴたりとやんで再び元の順風の状態へと戻り、船は出港した。

やがて、追手の面々が港までたどり着いた。彼らは、遠浅の海岸に馬をとどめ、叫んだ。

本間家の者G おぁい、その船、止まれぇ!

本間家の者H 止まらんかぁ、このヤロゥ!

船乗りたちは見て見ぬふりをして、順風に帆を広げ、船を進めていった。

その日の暮れごろに、船は越後の国府(新潟県・上越市)に到着した。

阿新が山伏に助けられて、虎口(ここう)を脱しえたというこの事は、不動明王のご加護の御誓(おんちかい)が、明らかなることの証拠であると、言えよう。

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(訳者注)謡曲の[壇風]は、この話を題材にしたものである。
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太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月18日 (火)

太平記 現代語訳 2-4 日野俊基、再び鎌倉へ連行される

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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先年、土岐頼貞(ときよりさだ)が討たれた際に、日野俊基(ひのとしもと)は逮捕され、鎌倉まで連行されたが、幕府高官たちの前で様々に巧みに申し開きをし、彼らの納得を得て、なんとか赦免されたのであった。

ところが、今回取り調べを受けた僧侶たちの白状の中に、「倒幕運動の首謀者は俊基」の一文があった。

7月11日(注1)、彼は再び六波羅庁の囚われの身となり、鎌倉へ連行されることになった。

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(訳者注1)ここを、太平記の原文の文脈のままに読むと、元徳2年の7月、となるが、史実においては、その翌年(1331)となる。
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「再犯不赦(注2)」と、法令に定められているから、今度ばかりはどのように申し開きをしてみても、決して許される事はありえない。鎌倉への道中にて命奪われるか、鎌倉に到着してから斬られるか、二つに一つと覚悟して、俊基は京都を出発した。

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(訳者注2)同じ犯罪を2度犯した者は、絶対に許さずに罰する、という意味。

(訳者注3)以下の「道行き文」中に、京都より鎌倉へ至る道筋に点在する地名が次々と現れる。
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 落花の雪に 踏み迷う 片野(かたの)の春の 桜狩(さくらがり)
 紅葉(もみじ)の錦を 衣(き)て帰る 嵐の山(嵐山)の 秋の暮れ
 一夜(ひとよ)を明かす 程(ほど)だにも 旅宿(たびね)となれば 懶(ものう)きに
 恩愛(おんあい)の契り 浅からぬ 我(わ)が故郷(ふるさと)の 妻子をば
 行末(いくえ)も知らず 思い置(お)き 年久(としひさ)しくも 住(す)み馴(な)れし
 九重(ここのえ)の 帝都(ていと)をば 今を限りと 顧(かえり)みて
 思わぬ旅に 出で玉(たも)う 心の中ぞ 哀れなる

 憂(う)きをば留(と)めぬ 相坂(おおさか 逢坂)の 関の清水に 袖濡れて
 末は山路(やまじ)を 打出(うちで)の浜 沖を遥かに 見渡せば
 塩ならぬ海に(注4) こがれ行く 身を浮舟(うきふね)の 浮き沈み
 駒(こま)も轟(とどろ)と 踏み鳴らす 勢多(せた 瀬田)の長橋(ながはし) 打(う)ち渡(わた)り
 行向(いきこう)人に 近江路(おうみじ)や(注5)

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(訳者注4)琵琶湖は淡水の湖なので、このように表現した。

(訳者注5)行き向う人に「会う」の「あう」と、「近江路(おうみじ)」の「おう」を、かけている。
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 世のうねの野に(注6) 鳴く鶴も 子を思うかと 哀(あわ)れなり
 時雨(しぐれ)もいたく 森山(もりやま:注7)の 木下露(このしたつゆ)に 袖ぬれて
 風に露散(つゆち)る 篠原(しのはら:滋賀県・野洲市)や 篠(しの)分(わ)くる道を 過ぎ行けば
 鏡の山(かがみのやま:注8)は 有りとても 泪(なみだ)に曇りて 見え分(わ)かず
 物を思えば 夜間(よのま)にも 老蘇森(おいそのもり:滋賀県・近江八幡市安土町)の 下草に
 駒を止どめて 顧(かえ)りみる 古郷(ふるさと)を雲や 隔(へだ)つらん

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(訳者注6)「世の憂(うれ)い」の「う」と、地名の「うねの野」の「う」を、かけている。

(訳者注7)「時雨が漏(も)る」の「もる」と、地名の「守山(もりやま)」(滋賀県・守山市)の「もり」を、かけている。

(訳者注8)鏡山。
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 番馬(ばんば) 醒井(さめがい) 柏原(かしわばら) 不破(ふわ)の関屋(せきや)は 荒れ果てて(注9)
 猶(なお)もる物(もの)は 秋の雨の いつか我が身の 尾張(おわり:注10)なる
 熱田(あつた)の八剣(やつるぎ)(注11) 伏し拝み 塩干(しおひ)に今や 鳴海潟(なるみがた:注12)
 傾(かたぶ)く月に 道見えて 明けぬ暮れぬと 行く道の

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(訳者注9)[番馬]、[醒井]、[柏原]は、滋賀県・米原市にあり。[不破関]は、岐阜県・不破郡・関ケ原町にあった。

(訳者注10)国名の「尾張」の「おわり」と、「わが身の終わり」の「おわり」を、かけている。

(訳者注11)名古屋市・熱田の八剣社。

(訳者注12)「塩干に今やなる」の「なる」と、「鳴海潟」の「なる」を、かけている。[鳴海潟]は、名古屋市・緑区・鳴海エリアの付近の海岸であり、この時代には、干潟が広がる遠浅の海岸であったようだ。
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 末はいずくと 遠江(とおとうみ:注13) 浜名(はまな)の橋の(注14) 夕塩(ゆうしお)に
 引く人も無き 捨て小船(おぶね) 沈むはてぬる 身にしあれば
 誰か哀れと 夕暮れ(ゆうぐれ)の 入逢(いりあい:注15)鳴(な)れば 今はとて(注16)
 池田(いけだ)の宿(静岡県・磐田市)に 着き給う

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(訳者注13)「末はいずくと、問う(とう)」の「とう」と、国名の「遠江(とおとうみ)」の「とお」を、かけている。

(訳者注14)[浜名の橋]に関しては、後述した。

(訳者注15)夕暮れ時に寺でつく鐘。

(訳者注16)「哀れと言う」の「いう」と、夕暮れの「ゆう」をかけ、「入逢(時刻)なれば」の「なれ」と、「入逢(の鐘)鳴(な)れば」」の「なれ」とをかけている。
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元暦(げんりゃく)元年の頃であったろうか、平重衡(たいらのしげひら:注17)が、源氏の武士達の囚われの身となり、関東へ連行される途中、この宿についた時に、

 東路(あぢまじ)の いやしい小屋の おそまつさ ふるさとさぞや 恋しかろうに

 (原文)東路の 丹生(はにゅう)の小屋の いぶせきに 古郷いかに 恋しかるらん

と、宿場の長の娘が詠んだという。その古の哀れさが思い出され、俊基の胸に迫りくる。

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(訳者注17)平清盛の息子。
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旅館の燈火が幽(かすか)となり、一番鶏が鳴いて夜が明け、一頭の馬は風にいななく・・・。

天竜川(てんりゅうがわ)を渡り、小夜の中山(さよのなかやま:注18)を越え行けば、白雲は路を埋み来たり、そことも知らぬ夕暮れに、故郷の方の空を望み見る・・・。

その昔、かの西行法師(さいぎょうほうし)が、

 年とって 再び越えると 思わなんだ 命ありてか 小夜の中山

と、詠じつつ(注19)、二度目の山越えをした事跡までもが、うらやましく思えてくる。

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(訳者注18)静岡県の掛川市と島田市の境にある峠。

(訳者注19)西行は歌人として当時から有名な人であり、新古今和歌集には、彼の詠んだ歌が多く選ばれている。ここの箇所は、原文では、「昔西行法師が、「命也けり」と詠じつつ、二度越えし跡までも、浦山敷(うらやまし)くぞ思はれける」となっている。「命也けり」は、「年たけて 又越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」の歌の事を意味している。
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時は駆け足で過ぎ去っていく・・・もう正午。

俊基を護送する輿(こし)は、昼食休憩のために、ある家の庭先にとめられた。彼は、車の轅(ながえ)を叩いて、護送担当の武士を呼びよせた。

日野俊基 ここの宿場の名前は?

護送担当の武士 「菊川(きくがわ)」といいます。

日野俊基 あぁ、ここがあの、「菊川宿」(静岡県島田市)なんか・・・。

葉室光親(注20)は、承久の乱(じょうきゅうのらん)の際に、討幕の上皇命令書を起草した罪に問われ、鎌倉へ連行された。途中、彼はこの宿で殺害されてしまったのである。その時、彼が残した詩、

 その昔 中国南陽の菊水の水 下流にて飲み 長寿を得る
 今この時 東海道の菊川 西岸に宿って 命終わる

 (原文)昔南陽県菊水 汲下流若而延齢 今東海道菊河 宿西岸而終命

日野俊基 (内心)あぁ、その遠い昔の筆の跡、今は我が身の上の事に、なってしもぉたんやなぁ・・・。

哀感、胸に迫り来たり、俊基は、一首の歌を詠んで、宿の柱に書きつけた。

 古(いにしえ)も かかる例(ためし)を 菊川の 同じ流れに 身を沈めるか(注21)

 (原文)古も かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をや沈めん

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(訳者注20)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]と、[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注によれば、菊川でこの詩を書いたのは、別の人であるとのことである。

(訳者注21)「ためしを聞く」の「きく」と、地名の「菊川(きくがわ)」の「きく」を、かけている。自分(俊基)も、この詩を書いた人と同じことになってしまうのだろうか、との悲しみを詠んでいる。
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大井川(おおいがわ:注22)を渡る時、京都の嵐山を流れる大堰川(おおいがわ)と同じ名前を聞き、

日野俊基 (内心)大堰川かぁ・・・思い出すなぁ・・・あこの亀山殿(かめやまでん)に陛下が行幸されたあの時・・・嵐山の桜は満開やった。大堰川に、龍頭・鳥頭セットになったる遊覧船を浮かべの、詩歌管弦の宴に侍ったんやった・・・もう、あぁいう事も、二度と見れへん夜の夢に、なってしもぉたなぁ・・・。

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(訳者注22)静岡県西部を流れる大河。遠江国と駿河国の境である。
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島田(しまだ:静岡県島田市)、藤枝(ふじえだ:静岡県藤枝市)を過ぎて・・・

 岡辺(おかべ:注23)の真葛(まくず) 裡枯(うらが)れて 物かなしき 夕暮れに
 宇都(うつ)の山辺(やまべ)を 越え行けば 蔦(つた)楓(かえで)いと茂りて 道もなし

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(訳者注23)「岡辺(岡のほとり)」と、地名の「岡部」(静岡県藤枝市)を、かけている。
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昔、在原業平(ありわらのなりひら:注24)が、安住の地を求めて関東に下る途中に、ここで詠んだという、

 「夢にも人に 逢(あ)わぬなりけり」(注25)

の歌は、なるほど、こういう雰囲気の中で詠まれたのであったかと、思い知られた。

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(訳者注24)平安時代の高名な歌人。

(訳者注25)駿河(するが)なる うつの山べの うつつ(現実)にも 夢にも人に 逢わぬなりけり
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そうこうするうちに、清見潟(きよみがた:静岡県・静岡市)をも、はや過ぎてしまった。

 都に帰る 夢をさえ 通さぬ波の 関守(せきもり)に
 いとど涙を 催(もよう)され 向かいはいづこ 三穂(みほ:三保)が崎(静岡市)
 奥津(おきつ:興津 静岡市) 神原(かんばら:蒲原 静岡市) 打(う)ち過ぎて 富士の高峯(たかね)を 見給えば
 雪の中より 立つ煙(けぶり) 上(うえ)なき思いに 比べつつ

 明くる霞に 松見えて 浮嶋が原(うきしまがはら:静岡県・沼津市と富士市)を 過ぎ行けば
 塩干(しおひ)や浅き 船浮きて おり立つ田子(たご)の(注26) 自らも
 浮世をめぐる 車返(くるまがえ)し 竹の下(たけのした)道(注27) 行きなやむ

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(訳者注26)「田子(農夫)」と、地名の「田子の浦」を、かけている。[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注によれば、当時、「田子の浦」と呼ばれていたのは、蒲原町の吹上浜の付近なのだそうである。

(訳者注27)「竹の下の道」と、地名の「竹下」(静岡県駿東郡小山町と御殿場市)を、かけている。
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 足柄山(あしがらやま)の 峠より 大磯(おおいそ)小磯(こいそ)を(神奈川県中郡大磯町) 直下(みお)ろして
 袖にも波は こゆるぎの 急ぐとしもは なけれども(注28)

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(訳者注28)「波が越ゆる(こゆる)」と、「急ぐ(いそぐ)」を、「小余綾の磯(こゆるぎのいそ)」に、かけている。
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 日数(ひかず)つもれば 七月廾六日の暮れ程(ほど)に 鎌倉にこそ 着き玉(たま)ひけれ

到着した日にすぐ、俊基は、南条高直(なんじょうたかなお)に身柄を受け取られ、諏訪左衛門(すわさえもん)に預けられた。そして、材木を蜘蛛手にはりめぐらした一間の室内に、押し込められてしまった。

地獄に行った罪人が、十王(じゅうおう)の庁に引出され、首枷(くびかせ)手紐(てかせ)をかけられながら罪の軽重を糾問(きゅうもん)される光景もかくありなん、まことに哀れな様である。

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(訳者注29)京都から名古屋までのルートに関して:

上記の記述内容中に設定されている、京都から鎌倉へのルートのうち、守山(滋賀県)から名古屋(熱田)までの部分は、江戸時代の[東海道]のそれとは異なり、現在の[JR東海道線]のルートとほぼ同じである。

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(訳者注30)[浜名の橋]に関して:

浜名湖に関して、極めて興味深い事が書かれている本がある。

[中世の東海道をゆく 榎原雅治 中公新書]

これの、

 [第三章 湖畔にて-橋本 浜名湖は沈降したか]

において、著者は、浜名湖に関するある説に対して、否定的見解を述べている。

その説とは、

 1498年の地震(明応地震)が起こるまでは、浜名湖は太平洋とは直接にはつながっておらず、淡水湖であった。この地震によって、浜名湖は1メートルほど沈降し、満潮時には海水が遡上する汽水湖となった。

と、いうような内容のものなのだそうである。

著者は、中世に記された紀行文等の内容をもとに、以下のような趣旨の事を述べている。

 中世には、浜名湖と太平洋との間に、幅の細い入り江が存在しており、[浜名の橋]はその入り江の上に架けられた橋であった。満潮時には、その入り江の中を海水が遡上していた。すなわち、この時代にすでに、浜名湖は汽水湖であった。

当時の潮位の変化までをも、著者は推計して、この本の中にグラフ表示している。

著者によれば、潮位の予測値は、複数の機関から公開されており、インターネットによって容易に得ることができるのだそうだ。例えば、海上保安庁作成のソフトウェア「潮汐推算」を使えば、このようなデータを得ることができるのだそうだ。

1985・86年に行われた湖底のボーリング調査による堆積層の分析結果からの、池谷仙之氏の考察も、著者のこの主張を裏付ける内容になっているのだそうだ。

この本の中に書かれている内容は、大きな説得力を持っている、というのが私の感想だ。

この問題に関しては、歴史学、古典文学、地質学、海洋学、地震学などの広範囲の知を結集しての本格的な調査・研究が必要であろうと思う。

[浜名湖 明応地震 浜名川]、[浜名湖 湖底 堆積物]、[浜名湖 ボーリング調査]、[浜名湖 湖底 ボーリング]等でネット検索して、様々な情報を得ることができた。

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太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

«太平記 現代語訳 2-3 三人の僧侶、鎌倉へ護送される

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