2017年11月19日 (日)

太平記 現代語訳 16-8 福山城攻防戦

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)l

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田(にった)軍の福山城(ふくやまじょう:岡山県・総社市)防衛担当のメンバーたちは、「足利(あしかが)軍、京都へ進軍開始!」との情報をキャッチして、

新田軍メンバーA エェーッ・・・この城、まだ、かためれてないのにぃ。

新田軍メンバーB もう、足利軍、進軍開始かぁ。

新田軍メンバーC あっちサイドの兵力、すごいって言うじゃん! それにひきかえ、こっちサイドは・・・これじゃ到底、勝ち目ありませんよぉ。

大江田氏経(おおえだうじつね)は、じっと思案していたが、いわく、

大江田氏経 合戦の常として、勝敗は時の運による・・・とは言うもんのなぁ、おれたちのこの小勢でもって、敵の大軍と戦って勝てる可能性、千に一つもねぇだろう。

大江田氏経 だけんどよぉ、足利尊氏の京都進軍を食い止める為に、わざわざ国境を超えて備中までやってきた、おれたちなんだぞぉ。大軍が寄せて来たからって、アタフタ逃げ出すような事、できゃしねぇやなぁ。

一同 ・・・。

大江田氏経 ようはだなぁ、同じ業(ごう)を背負い、同じ果(か)を受けるべき運命を持った人間たちが、今ここに集まったってぇ事なんだろうよ。

大江田氏経 いってぇどんな前世の因果なのか、そこまでは分かんねぇけんど、とにかくここで死ぬ、という運命の星の下に生まれてきた者どうしってわけよぉ、おれたちはぁ。

一同 ・・・

大江田氏経 死を軽んじ、名誉を重んずる、それが人間の生きていく道ってぇもんじゃぁねぇかい! なぁみんな、全員ここで討死にして、名を子孫に残す覚悟、かためようじゃねぇの!

紀伊常陸(きのひたち) 分かりました、おれもキッパリ覚悟、決めました。ここで討死にしましょう!

合田(あいだ) これでかえって、心の中もスッキリしましたぜ、ハッハッハッ・・・。

新田軍・福山城・防衛担当メンバー一同 (うなずく)

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翌5月15日の宵方、足利直義(あしかがただよし)は、30万騎の軍勢を率いて勢山(せやま:岡山県・倉敷市)を越え、福山城の山麓の周囲4、5里ほどのエリア内数100か所に、かがり火を焚いて布陣した。

この大軍勢の包囲を見れば、いかなる鬼神さえも怖れをなして、今夜のうちに城から逃げ出してしまうのでは、と思われた。しかし、城を守る側も、かがり火を焚き続け、なおも持ちこたえている。

夜明けとともに、まず、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)の足利サイド3,000余騎が、浅原峠(あさはらとうげ:岡山県・倉敷市)越えのルートで、城に攻めかかっていった。しかし、城内はなりを潜め、コトリとも音がしない。

足利軍リーダーD さては、城の連中、逃げ出しよったなぁ。よし、いっちょうトキの声あげて、城に敵が残ってるかどうか、確かめるんじゃ!

彼らは一斉に盾の板を叩き、トキの声を3度上げ、城に迫り登った。すると、城内からも東西の木戸口で太鼓を打ち、トキの声を合わせてきた。

城の外に迫っていた足利軍サイドは、これを聞いて、

足利軍リーダーD あれぇ、まだいよったかぁ。

足利軍リーダーE そりゃそうじゃろぉ、新田軍の大将が守っとるんじゃけん、たとえ兵力が少なくても、ビビッテ逃げ出すなんてこたぁありえんと、思ぉとったでぇ、わしはぁ。

足利軍リーダーF 相手をあなどって、最初の戦に、失敗してはいかんのぉ。

足利軍リーダーG おれたちだけでのぉて、全軍で城の四方をきっちり包囲してから、一斉に攻めかかるのが、えぇじゃろう。

というわけで、足利側は各軍毎にエリアを分担して城の周囲に展開した後、四方の谷々峯々から攻め登って行った。

守備側はすでに心の準備は出来ている。

雲霞のごとき大軍に包囲されても、少しもあわて騒ぐこともなく、ここかしこの木陰に隠れながら、矢を惜しまず、さんざんに射る。放った矢は一本も無駄になることなく、稲や麻のようにびっしりと密集した攻城側の武士たちを倒して行く。

新田サイドの矢が尽きてしまうのを待とうということで、足利サイドは、わざと矢を放たない。ゆえに、新田サイドには未だ一人の負傷者も出てはいないのだが・・・情勢を見て取った大江田氏経は、

大江田氏経 力尽きてしまわねぇうちに、城からうって出て、足利直義の陣を蹴散らしてやろうかい!

氏経は、城内に歩兵500余人を配備した後、乗馬の巧みな兵1,000余騎を率い、城の木戸を開かせ、逆茂木(さかもぎ)を取り除かせ、北側の尾根上の最も険しい所から、おめきながら馬を走らせた。

その方面を担当していた足利軍2万騎は、これに圧倒されて谷底に追い落とされ、幾重にも重なり合って、倒れ伏した。

氏経は、彼らを追いかけずに、

大江田氏経 東の方の、尾根裾はるか伸びたあたりに、二引両(ふたつびきりょう)の旗がある。きっと、あそこが、直義の本陣なんだろう。よぉし、行くぜぃ!

氏経率いる新田軍は、足利軍2万余騎が控えるその陣中に破(わ)って入り、それから2時間ほど戦い続けたが、

大江田氏経 ウーン、残念! 直義の陣じゃなかったかぁ!

足利サイドの大軍の中をサァッと駆け抜けてから、氏経は後ろを振りかえってみた。自軍は、500余騎ほど討たれてしまい、わずか400騎になってしまっている。

大江田氏経 城の方はどうかな・・・。

はるか城の方を見やれば、自分の出陣と入れ替わりに、足利軍が城に入ってしまったものと見え、櫓や防壁から、火の手が上がっている。

氏経は、兵を一個所に集めて、

大江田氏経 今日の戦は、もうこれまで。さぁ、敵陣の一角を打ち破ってなぁ、備前へ帰り、播磨と三石の友軍に合流しよう。

大江田軍は、板倉川(いたくらがわ)の橋を渡り、東方へ撤退を開始。

これに対して、足利サイドは、2,000騎、3,000騎と、ここかしこに道を塞ぎ、襲いかかっていく。

もはや逃れようも無しと、覚悟かためた大江田軍400騎は、接近してくる相手の中へ、破(わ)って入り、懸け散らし、破(わ)って入り、懸け散らし・・・このようにして、板倉川のあたりから唐皮(からかわ:岡山県・岡山市・北区)まで、10余度もの戦闘が繰り返されていった。

しかし、大量の戦死者も出さず、大江田氏経も無傷のままに虎口の難を逃れ、5月18日早朝、彼らは三石宿(みついしじゅく:岡山県・備前市)にたどりついた。

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足利直義 よぉし、緒戦はこれでモノにしたな! 幸先いいじゃないのぉ!

新田軍の福山城防衛担当の追い落としに成功し、直義は上機嫌である。その日は、唐皮宿に逗留して首実験を行ったところ、「生け捕り・討死1353人」と記録することになった。

足利直義 備中(びっちゅう)国一宮の吉備津神社(きびつじんじゃ)に、参拝しときたいんだけどなぁ・・・合戦の最中だから、穢(けが)れになってはいかんし・・・願書だけ奉納するとしよう。

翌日、足利直義は、軍を率いて唐皮を出発した。

足利尊氏率いる足利第2軍も出帆し、順風に帆を上げた。

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5月18日夜、脇屋義助(わきやよしすけ)は、三石から使者を新田義貞(にったよしさだ)のもとに送り、福山の合戦の経緯を詳細に報告させた。

やがて、使者は戻ってきて、いわく、

使者 義貞様よりの伝達、申し上げます!

 「白旗(しらはた)、三石(みついし)、菩提寺(ぼだいじ)の城を未だに攻め落とせてないのに、尊氏と直義の大軍が、海路と陸路で進んで来てる。陸路をやってくる足利軍を防ぐために、ここ備前で待ち構えていたのでは、海路を来る敵軍はイッキに、京都に達してしまうだろう。だから、今すぐに中国地方を放棄し、摂津国(せっつこく)まで撤退して、水陸両路の敵を一個所にて待ち受け、京都を背後に合戦をすることにしよう。そちらの軍も急ぎ、山野里(やまのさと:兵庫県・赤穂郡・上郡町)まで撤退して、我々に合流してくれ。美作(みまさか)方面のわが軍にも、この旨を伝えておいたから。」

かくして、5月18日の夜半、三石の守備担当の新田軍はそこを撤退し、船坂(ふなさか)からも退却。城内の足利側はにわかに活気づき、船坂山まで進出し、新田軍の行く手を塞いで散々に矢を射掛ける。

宵の間の月は山に隠れ、前後も定かに見えない中に、親が討たれ子が討たれようとも、とにかく一足でも前へ逃げのびようとする新田軍メンバーたち。

そのような中、新田の友軍・菊池(きくち)軍・若党の原源五(はらのげんご)、原源六(はらのげんろく)という有名な剛の者が、味方の撤退を助けようと、退き行く軍の最後尾に下がり、防ぎ矢を射続けた。

矢をすべて射つくしてしまった後、刀を鞘から抜き、二人は叫ぶ、

原源五 おぉい、みんなぁ!

原源六 どこかにいるんなら、ここまで帰って来てくれぇ!

これを聞いた菊池軍の若党たちは、はるか先まで行っていた者たちも、「おぉ、ここにおるぞ! 今行くぞぉ!」と、口々に叫び、原兄弟のいる所に戻ってきた。

城から出てきた足利サイドメンバーらは、この勢いを見て、さすがに近寄る事もできず、離れた峯を進みながら、トキの声を上げるばかり。その間に、数万の新田軍は一人も討たれる事なく撤退、大江田氏経も、夜明け頃に山の里に到着した。

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児島範長(こじまのりなが)とその子・高徳(たかのり)は、「足利側の佐々木の一党が上陸した」との情報をキャッチし、これを防ぐために、旭川(あさひがわ:岡山県・岡山市)付近に陣を敷いていた。しかし、福山落城の知らせを受け、

児島範長 いかぁん、このままでは、わしら、孤立してまうのぉ。三石にいる新田軍に合流するかぁ。

9日の夜、彼らは三石に到着した。しかし、

児島範長 いったいどうなっとるんじゃぁ? ここには、誰もおらんがのぉ。

児島範長 おいおい、脇屋義助殿は、どこへ行ってしもぉたぁ?

三石の住民H 脇屋殿かぁ? 今日の宵頃に、播磨へ撤退してもぉたぞぉ。

児島範長 うーん・・・となると、船坂も、もう通れんじゃろなぁ。

そこで児島軍は、先日、新田軍第3軍団が通った例の三石の南の山道を徹夜で越え、ようやく、坂越(さごし:兵庫県・赤穂市)の浦へ出た。

夜明けまでは、まだ相当時間があったから、坂越で止まらずに先へ進んでおれば、児島たちは新田義貞の軍に楽々、追いつく事ができたであろう。

しかし、児島高徳は、先日の戦闘で負った傷が未だ癒えない状態のまま、馬に長時間揺られていたので、目がくらみ、意識が薄れてきていた。

児島範長 こりゃぁ、とても、馬に乗っていける状態ではないわ。このへんに、わしのよぉ知っとる僧侶がおるけん、しばらく、高徳を預かってもらおう。

ということで、その僧侶に高徳を託すために、している間

5月の夜は短い・・・範長がその僧侶に高徳を託している間に、「時」はあっという間に過ぎ去って行き、児島範長の運命を決してしまった。

「落人(おちうど)がこのルートを通って逃げていくぞ!」との情報を得て、赤松円心(あかまつえんしん)は、300余騎を差し向け、名和(なわ:兵庫県・相生市)のあたりで、児島たちを待ち伏せさせた。

児島範長が率いるは、わずかに83騎、ひたすら、山陽道めざして進んで行く。

とある山陰にさしかかった時、赤松軍が眼前に現われた。

赤松軍リーダー そこを行くやつ、落人と見たでぇ! いったいどこの誰や! 命惜しかったらなぁ、弓の弦を外し、鎧を脱いで、降参せぇ!

児島軍に追いすがってくる赤松軍を見て、

児島範長 なにをコシャクな事、言うとるんじゃ、ハハハハハ・・・。

児島範長 それにしても、ミョーな事、言いよるのぉ、「降参せぇ」じゃとぉ? そんなことする気があるんじゃったらのぉ、筑紫(つくし)から足利が、あれやこれやと誘いの手紙を送ってきよった時に、さっさと足利に寝返っとるわい!

児島範長 そんな手紙、みぃんな引き裂いて、火にくべてやったわい。そんなわしじゃけん、お前らごときに対して、「はい、降参いたしますぅ」なんちゅうこと、言うはずないじゃろが! 鎧欲しけりゃ、力づくで取ってみろ!

言い放つやいなや、児島軍83騎は赤松軍300余騎の中におめいて駆け入り、12騎を切って落とし、23騎に手傷を負わせ、大勢の囲みを破って、浜沿いに東に向かって馬を走らせた。

赤松軍メンバーたちは、そのあたりの地理をよく知っているので、懸け散らされながらも、児島軍の行く先の方々へ先回りし、近隣の村々に、「そのうちな、このあたりを、落人が通るでぇ。通せんぼして、鎧剥ぎとってまえ!」と、触れてまわった。

それを聞いた周辺2、3里ほどのエリアの野伏(のぶし)2、3,000人が、ここの山陰、かしこの田の畦にと出動してきて、児島軍に対して、矢の雨を降らせた。

児島軍の若党たちは、主を逃すために、進んではかけ破り、引き下がっては討死しながら、那波野(なわの:兵庫県・相生市)から阿弥陀宿(あみだじゅく:兵庫県・高砂市)のあたりに至る間、18回も戦い続けた。

このようにして、児島軍は、主従わずか6騎となってしまった。

ある辻堂の前で、範長は馬を止め、若党たちにいわく、

児島範長 あぁ・・・児島一族の連中らさえ、いっしょに来てくれてたらなぁ・・・そしたら、播磨国のどまん中を、難なく突っ切っていけるじゃろうに。みんな、方々の戦場に分かれていってしもぉて、一個所に固まっとらんけんのぉ。

若党たち一同 ・・・。

児島範長 もう、どうしようもないのぉ。ついに、わしも討たれる時が来たようじゃ。

児島範長 今となっては、逃れようもない、最後の念仏を心閑(こころしず)かに唱えながら、腹切るとするか。お前ら、事が終わるまで敵が近づかんように、守ってくれよ!

範長は、馬から飛び降り、辻堂の中へ走り入った。

本尊の前にどっかと座り、合掌して、

児島範長 範長、いよいよこれで、最期となりました。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。

声高らかに、念仏を2、300回ほど唱えた後、範長は、腹を真一文字にかっ切り、その刀を口にくわえて、うつぶせに伏した。

それに続いて、若党4人が自害した。

児島範長の従兄弟の和田範家(わだのりいえ)は、しばし、思案した。

和田範家 (内心)敵の一人くらいやっつけてこそ、後々まで語り継がれる忠節というもんじゃろう。わしらを追って、赤松一族の誰かがやってきたら、そいつに襲いかかって刺し違えてやるけん。

範家は、刀を抜いて逆手に握り、兜を枕にして自害した風を装いつつ、うつ伏せになり、赤松軍メンバーがやってくるのをじっと待った。

やがて赤松軍の一隊がやってきた。隊長は宇弥重氏(うのしげうじ)、彼は、範家の親類である。

自害した敵の首を取ろうと、辻堂の庭に入ってきた重氏は、そこに横たわっている遺骸の袖を見るやいなや、抜いた太刀を投げ捨てていわく、

宇弥重氏 あぁ、なんという事や・・・みんな、下黒紋(したぐろもん)の笠標(かさじるし)着けとるやないか。ここに死んどるのは、児島、和田(わだ)、今木(いまき)の家のもんらやなぁ。

宇弥重氏 自分の追いかけてる相手がこの人らやと分かっとったら、我が命に替えてでも、助けてあげたやろうになぁ・・・。(涙を流して、たたずむ)

これを聞いた範家は、ガバと起き上がって叫ぶ。

和田範家 ほれ、この通り、範家は生きとるぞ!

重氏は、驚いてかけ寄り、

宇弥重氏 おぉ、なんと、なんと・・・(大喜び)

重氏は、範家をそこから連れ出して助け置き、児島範長の葬儀をねんごろに営み、その遺骨を、彼の故郷へ送り届けた。

このようにして、児島範長たち83騎は討たれ、和田範家たった一人だけが、命を取りとめた。人間の運命というものは、実に不思議なものである。

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2017年11月18日 (土)

太平記 現代語訳 16-7 足利軍、九州から京都へ向かう

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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多々良浜(たたらはま)での戦の後、筑紫(つくし)をはじめ、九州全域の武士たちは一人残らず、足利尊氏(あしかがたかうじ)に従い靡(なび)くようになった。しかし、中国地方には朝廷方の勢力が充満して道を塞ぎ、関東にも朝廷の勢威が及んでいて、味方についてくれるような者は少ない。

足利サイド内の声 こんな情勢だもんなぁ、すぐに京都へ攻め上るってぇのも、いかがなものかと・・・。

今年の春に喫した敗北がよほど骨身にこたえているのか、足利サイドには、威勢の良い掛け声の一つすらも、上がってはこない。

そのような所に、赤松円心(あかまつえんしん)の三男・則祐(のりすけ)と得平秀光(とくひらひでみつ)が、播磨(はりま)から筑紫へやってきた。

赤松則祐 たしかにね、京都から派兵された敵軍が、備中(びっちゅう)、備前(びぜん)、播磨、美作(みまさか)に充満しているのは、事実ですよ。そやけどな、彼らは、方々の城を攻めあぐねててな、気力も衰え、食料も最近、底をついてきとぉ。今、足利将軍様が大軍を率いて京都へ向かわはるとなったら、その情報が伝わっていっただけで、あいつら、ヘナヘナになってしまうでしょうなぁ。

足利尊氏 ・・・。

赤松則祐 京都進軍のこの好機を逃してね、白旗(しらはた)の城が攻め落とされてしもたら、残りの城かてもう、1日も持ちこたえることできひん。中国地方の4か国の要害がすべて敵側の城になってしもたら、たとえ何100万の軍勢があったとて、京都進軍は、もはや不可能になってしまいますでしょう。

足利尊氏 ・・・。

赤松則祐 古代中国・秦(しん)帝国の末期、趙(ちょう)王が秦国の兵に包囲された時、楚(そ)の項羽は、舟や筏(いかだ)を沈め、釜や炊飯器を焼き払い、「戦いに負けたら士卒一人も生きて帰らじ!」との覚悟を示して、戦に臨んだというではありませんか! 将軍殿が天下を取れるかどうかは、今この時に京都へ進軍を開始するか否か、この一点にかかっておりますよ!

単刀直入に言い放つ則祐。

足利尊氏 なるほど・・・。君の提案は、実に的を射ているな・・・。

赤松則祐 将軍、さ、ご決断を!

足利尊氏 よし・・・ならば、夜を日に継いで、京都進軍を急ぐとしよう。ただ・・・九州を放置したままで、軍を東に進める、というわけにもいかんだろうなぁ・・・。

そこで、尊氏は、九州残留軍のリーダーに仁木義長(にっきよしなが)を任命し、その下に大友(おおとも)、小弐(しょうに)の両名を留め置く事にした。

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4月26日、足利軍は太宰府(だざいふ:福岡県・太宰府市)を出発、同月28日、順風の中に艫綱(ともづな)を解いて、瀬戸内海へ出帆。

5月1日、安芸(あき:広島県西部)の厳島(いつくしま:広島県・廿日市市)に船を寄せ、尊氏は、厳島神社に3日間の参篭(さんろう)を行った。

結願(けちがん)の3日目、醍醐寺・三宝院(だいごじ・さんぼういん:京都市。山科区)の僧正・賢俊(けんしゅん)が京都からやってきた。

賢俊 お待たせいたしました。持明院統(じみょういんとう)側からの院宣(いんぜん:注1)、確かにここに。どうぞ、お受け下さいませ。

足利尊氏 ・・・(院宣を伏し頂いて、開く)

院宣 パサパサパサ。

足利尊氏 ・・・(院宣を読む)

足利尊氏 あぁ、やっと・・・なんだか、箱と蓋とがピシッと合わさったって感じだなぁ・・・我が心中の願い、ついにかなえられたかぁ。

賢俊 お喜び申し上げます。

足利尊氏 (大喜び)こうなったらな、今までとは話が違ってくるのだよ。これからの戦、もう、すべて勝利だぞ!

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(訳者注1)院から発行された公式文書。この院宣の内容について、原文には一切触れられていないのだが、おそらくは、「新田義貞を追討せよ。」といった内容であろう。
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去る4月6日に、胤仁(たねひと)法皇は持明院殿にて崩御され、後伏見院(ごふしみのいん)と謚(おくりな)されていた。院宣はその前に、発行されていたのである。

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厳島神社への参拝を済ませた後、5月5日、進軍を再開。

伊予(いよ:愛媛県)、讃岐(さぬき:香川県)、安芸、周防(すおう:山口県南部)、長門(ながと:山口県北部)の勢力500余隻が、合流してきた。

同月7日、備後、備中、出雲(いずも:島根県東部)、石見(いわみ:島根県西部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)の勢力6000余騎、合流。その他の地方からも武士たちが続々馳せ参じてくる。招かざるに集まり、責めざるに順(したが)い、吹く風が草木を靡かせるがごとくである。

新田義貞(にったよしさだ)の軍勢が備中、備前、播磨、美作に充満し、方々の城を攻めているとの事ゆえ、足利軍は、備後(びんご)・鞆の浦(とものうら:広島県・福山市)から、二手に分かれて進む事にした。

第1軍は、足利直義(あしかがただよし)が大将、20万騎の編成で、陸路を進む。

第2軍は、足利尊氏と一族40余人、高(こう)家の一党50余人、上杉(うえすぎ)家の一類30余人、外様(とざま:注2)の有力武士たち160人、軍船7,500余隻を並べて、海上を行く。

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(訳者注2)足利家の親族以外の武士。
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鞆の浦での停泊中に、一つの不思議が示された。

船室の中で、

足利尊氏 うん? あれはいったいなに? 南の方から、光輝く物体が接近してくる・・・。

足利尊氏 船の舳先(へさき)に、降り立ったぞ・・・。

足利尊氏 あぁ、なんと! 観世音菩薩(かんぜおんぼさつ:注3)さまではないか・・・まばゆいばかりに、輝いておられる・・・。

足利尊氏 おぉ、御家来の二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)の方々も、いっしょに来ておられる・・・それぞれ武装して、観世音菩薩様を護っておられるな・・・。

足利尊氏 (ハッ)(夢から醒める)・・・あぁ、夢だったのか・・・。

ふと見ると、山鳩が1羽、船室の屋根の上にとまっている。

足利尊氏 (内心)うぅん! 次の戦、勝てるな・・・今の夢は、必ず勝利を得る事が出来るぞ、というお告げなんだ。円通大士(えんつうだいし:注4)が、私を擁護して下さるのだ!

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(訳者注3)Avalokiteśvara。「観自在菩薩」とも呼ばれる。

(訳者注4)「観世音菩薩」の別称。「円通」=「円満融通」。
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尊氏は、杉原紙(すいばらがみ)を短冊のサイズに切らせ、そこに自筆で、観世音菩薩の絵を描き、各船の帆柱に貼り付けさせた。

やがて、海路を行く第2軍は、備前の吹上(ふきあげ:、岡山県・倉敷市)に到着。陸路を行く第1軍は、備中の草壁庄(くさかべしょう:岡山県・小田郡・矢掛町)に到達した。

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(訳者注5)

以降の記述においては、下記の略称を用いる。

[書A]:[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]
[書B]:[新編 日本古典文学全集55 太平記2 長谷川端 校注・訳 小学館]

院宣に関して、これまでの出来事を時系列で見ると、以下のようになる。

1331年 鎌倉幕府が後醍醐天皇を廃位、光厳天皇が即位。
 (後醍醐天皇は大覚寺統、光厳天皇は持明院統)。

1332年 後醍醐天皇、隠岐へ。

1333年 後醍醐天皇、京都へ帰還、天皇位に復帰。
 光厳天皇は廃位されるが、その父・後伏見上皇は上皇のまま(上皇には退位・廃位が無いので)。

1335年 朝廷・対・足利氏の権力闘争が始まる。この時、足利氏は、朝敵・賊軍(朝廷の敵)と位置づけられている。

1336年 足利兄弟、九州へ。
 太平記作者は、[太平記 15巻6章]において、足利尊氏が薬師丸を京都へ送り、院宣獲得の工作を行わせようとした、との趣旨の事を記述している。

1336年 足利兄弟、九州を出発。
 太平記作者は、[太平記 16巻7章(本章)]において、院宣は、後伏見上皇(光厳上皇の父、持明院統)の薨去よりも前の段階で発行された、との趣旨の事を記している。この記述の意図が不明なのだが、もしかしたら、院宣は後伏見上皇によって発行されたのである、という事を言いたかったのかもしれない。
 しかし、[書A]の141Pの注には、「光厳上皇が院宣を尊氏に賜い、復位を図ったことは保暦間記に載る。」とあるので、院宣は実際には、光厳上皇によって発行されたのであろう。

1336年 太平記作者は、[太平記 16巻7章(本章)]において、足利尊氏が厳島神社に参拝していた時に、持明院統サイドより発行された院宣が、尊氏に届けられた、との趣旨の事を記述している。

この院宣が発行された後、権力闘争の構図は激変する。すなわち、

 朝廷(天皇-新田氏) 対 朝敵・足利氏 の構図から、
 朝廷(天皇-新田氏) 対 院(上皇(元天皇)-足利氏) の構図に。

尊氏は、この院宣を獲得することにより、権力闘争面において、朝廷と対等の関係に立つことができるようになった(院宣を発行した上皇を自分の上にいただくことにより)と、太平記作者は、解釈・記述しているのであろう。

朝廷(天皇)・対・院(上皇)の構図での権力闘争は過去にもあった

 保元の乱 : 後白河天皇 対 崇徳上皇
 一の谷の戦いから壇ノ浦の戦いまでの、源平争乱 : 安徳天皇 対 後白河法皇(上皇)

過去にもあったこのような権力闘争の構図に、尊氏は持ち込むことに成功した、これにより、権力闘争の潮の流れが大きく変わったと、太平記作者は、解釈・記述しているのであろう。

太平記では、尊氏が院宣を獲得したのは、宮島(厳島神社のある)である、とされているのだが、

[書A]の141Pの注には、

 「保暦間記には持明院の院宣が筑紫に到来といい、梅松論では尊氏が筑紫へ逃れる際備後の鞆に泊まった時、院宣到来という。」

とあり、

[書A]の113Pの注には、

 「梅松論では豊島河原合戦の後に、二月十一日、赤松円心の忠告で持明院の院宣を頂くよう願い出たが、尊氏は西走して鞆津でこれを請けたとある。」

とあり、

[書B]の295Pの注には、

 「『梅松論』下では、院宣は尊氏が九州へ逃れる際、備後の鞆で拝受したとする。」

とある。

このように、尊氏が院宣を獲得した場所については、[筑紫](保暦間記)、[鞆の浦](梅松論)、[宮島](太平記)と、「諸説あり状態」のようだ。

訳者としては、その場所が[鞆の浦]であったとしたら、おもしろいストーリー展開になるのでは、と思う。

訳者は、2017年10月に、[鞆の浦]へ行った。その地に関する様々な事を知った。

[鞆の浦]は、昔は、[潮待ち]をする所であったようだ。

瀬戸内海は、四国の西側と東側で、太平洋につながっているので、満潮の時には、四国の西側と東側で、太平洋から瀬戸内海へ海水が流入してくる。そして、広島県と岡山県の四国に面している沿岸部においては、

 西の方では、潮流は西方から東方へ
 東の方では、潮流は東方から西方へ

となる。その、流れる方向が逆の関係になっている潮流がぶつかる所が、鞆の浦付近であるのだそうだ。

よって、鞆の浦の西方から東方へ行こうとする船は、満潮時には、西方から東方へ流れる潮流に乗っていけるので、鞆の浦までは楽にいけるが、そのまま進んでいってしまうと、鞆の浦から東では、潮流に逆らって航行していかねばならない、ということになる。

そこで、干潮の時まで、鞆の浦に停泊する、すなわち、[潮待ち]をするのである。

干潮になると、鞆の浦より東方においては、潮の流れは、[東-->西]から[西-->東]へと変わるので、その時、鞆の浦から出航すれば、潮の流れに乗って、東方へ航行していける。

鞆の浦の東方から西方へ行こうとする船についても、同様である。

([潮待ち]については、[鞆の浦 潮流 潮待ち]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。)

そのような、物理的な潮の流れが変わるのを待つ地である[鞆の浦]に足利尊氏が滞在していた時に、権力闘争の潮の流れを変えるようなもの(院宣)が、尊氏のもとへやってきた、という事になると、なにかとてもおもしろいストーリー展開になるのでは、と思うのだ。

しかしながら、「おもしろい」かどうかということと、それが史実であるかどうか、ということとは、全く別物である。

それから数百年後、織田信長によって京都を追われた室町幕府最後の将軍・足利義昭は、ここ、鞆の浦にやってきて、数年を過ごしたのだそうだ。

もしかしたら、足利義昭は、鞆の浦で、潮の流れ(権力闘争の)が変わるのを、待ち続けていたのかもしれない。

本能寺の変が起こった時、義昭は鞆の浦にいたのだそうだ。

毛利氏が、天下取りの強い意欲を持っていたら、足利義昭のその後も変わっていたかもしれないが、これもしょせん、歴史の「たら・れば」に過ぎない、このような事をいくら考えていっても、意味がないだろう。

([鞆の浦 足利義昭]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。)

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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年11月17日 (金)

太平記 現代語訳 16-6 児島高徳、新田義貞に呼応して挙兵す

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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備前(びぜん)国の住人・児島高徳(こじまたかのり)は、昨年の冬、四国から攻め上ってきた細川定禅(ほそかわじょうぜん)と、備前、備中で数回戦ったが、毎回敗退した。

その後、高徳は、山林の中に潜伏しながら、なんとかしてその雪辱をと、新田義貞(にったよしさだ)の中国地方への進軍を待っていた。

「新田軍が船坂山(ふなさかやま:兵庫県・赤穂郡・上郡町-岡山県・備前市)を越えられないでいる」、との情報を得た高徳は、義貞のもとへ密使を送ってきた。

(児島高徳よりの)使者 わが主、児島高徳より、新田義貞殿に、以下のように伝えよ、との、ことですわ、

 「船坂山越えのルートを通って、進軍されると聞いたんじゃが、それは、ホンマですけぇの? あそこは要害じゃけん、それほどたやすぅには、攻め破れんよ。」

 「わし、一計を考えついたんじゃ、こないな作戦、どうじゃろう?」

 「来る18日、わしが、備前の熊山(くまやま:岡山県・赤磐市)で兵を上げる。すると、船坂山をかためとる敵軍の連中らはきっと、熊山の方へ押し寄せて来よるじゃろうから、船坂の方の守備が手薄になる。そこをすかさず、新田殿が突くんじゃ。」

 「新田殿の軍勢を二手に分けて、一方を、船坂山へさし向けてな、ここを攻めるぞっちゅう、勢いを示す。そいでもって、もう一方を、三石山(みついしやま:岡山県・備前市)の南方、そこに、木樵(きこり)が通る道があるんでな、そこを密かに進ませて、三石宿(岡山県・備前市)の西へ出す。そうなりゃ、船坂山におる足利側勢力は、前後を挟まれたような形になってしまうけん、逃げ場が無くなってしまうわ。」

 「そういうグアイに、この高徳が備前国中を巻き込んで挙兵して、船坂山の敵陣を破ってしもぉたらの、中国地方の連中は残らず、朝廷側に帰参してきよるじゃろう。」

 「この作戦で、やってみんかの?」

新田義貞 いやぁ、これは嬉しい事、言ってくれるじゃぁねぇのぉ。

新田義貞 播磨から西の方、長門に至るまで、みぃんな、足利サイドについてしまっててさぁ、頼りになるような事言ってくれるの、誰もいなかったんだよなぁ。児島殿のこの提案、じつに嬉しいよ。

使者 はい!

新田義貞 児島殿のこの作戦プラン、たしかに了解した。帰ったら、よろしく言っといてくれ。

使者 分かりました!

このように、攻勢に打って出る日取りを決めて、密使を高徳のもとに返した。密使は備前に帰り、義貞よりの伝達事項を、高徳に伝えた。

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4月17日夜半、児島高徳は、自分の館に火を放ち、わずか25騎だけで出陣した。

急な事ゆえ、国境の外にいる一族たちを召集することも出来ず、近隣の親族たちだけに事の次第を告げたところ、今木(いまき)、大富(おおどみ)、和田(わだ)、射越(いのこし)、原(はら)、松崎(まつざき)の者たちが、取るものも取りあえず馳せ参じてきて、間もなく、児島軍の兵力は200余騎にまでなった。

「夜中のうちに熊山へ登り、四方にカガリ火を焚いて、大軍がたてこもっているかのようにカモフラージュしよう」との作戦をたてていたのだが、「馬は! 鎧は!」と準備している間に、短い夏の夜は程なく明けてしまった。「約束の時刻を違えてはなるまい」という事で、児島軍はそのまま熊山へ登った。

高徳の予想通り、三石と船坂に居る足利側勢力は、児島軍決起の報を聞き、「備前国中に敵が増殖していったら、ゆゆしき事になる、他の事はさしおいても、まずは熊山を落とせ」という事になった。さっそく、船坂と三石を守る兵の中から3,000余騎が、熊山へ向かった。

熊山は、高さは比叡山(ひえいざん)と同じくらいで、山の周囲に7本の道がある。いずれの登山ルートも、山麓近辺では少し険しく、頂上付近でなだらかになる。高徳は、わずかの兵力を7方へ分けて、四方から迫り来る足利側勢力を防いだ。

追い落とせば攻め上がり、攻め上がれば追い落とし、終日戦い続けて時間をかせいだ。

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その夜、足利側の石戸彦三郎(いしどひこさぶろう)という、付近の地理に詳しい者が、思いもよらないルートから児島側の守備をかいくぐって熊山に侵入し、山頂の本堂後方の峰で、トキの声を上げた。

児島側は四方の山麓に兵力を分散してしまっていたので、本堂の庭に残るはわずか14、5名だけであった。彼らは、石戸軍200騎の中におめいてかけ入り、火花を散らして戦った。

深山の木々に月光も遮られ、相手が打ちかけてくる太刀スジをも、さだかに見分ける事ができない。

児島高徳 ウッ!

いきなり高徳は、兜の内側を突かれ、馬から逆さまに転落。しめたとばかりに、石戸軍の2人がいっしょになって、首を取らんと迫ってくる。

高徳の甥の松崎範家(まつざきのりいえ)と和田四郎(わだしろう)が、彼らに馳せ合って追い払い、高徳を馬に乗せて、本堂の縁まで運んだ。

高徳は、兜の内側を突かれて重傷を負ってしまった上に、落馬した時に胸を強く踏まれ、目がくらんで意識を失ってしまっていた。本堂に運ばれてからも、彼はただ横たわったままである。

高徳の父・児島範長(こじまのりなが)は、高徳の側に寄りそい、大声で叱咤激励した。

児島範長 おい、高徳、よく聞けよ! 昔、源平合戦時代になぁ、平景政(たいらのかげまさ)は戦っとって、左の目を射抜かれてしもぉたが、それから3日3晩、目から矢も抜かんと、敵に矢を射続けたというでぇ。それに比べて、お前はなんじゃぁ! たったこれしきの傷一つ負っただけで、弱って死んでいくとは、なんとまぁ情けなや。

児島範長 こないな意気地無しのくせして、よぉもまぁ、これほどの一大事、思いついたもんじゃのぉ!

するとなんと、高徳は、たちまち息を吹き返して、ガバと起きあがり、

児島高徳 おい、わしを早ぉ馬に乗せんか! もう一戦して、敵を追い払うんじゃけん。

範長は、大喜び。

児島範長 よぉしよし、これでこいつも死なんじゃろ。さぁみんな、そこらにタムロしとる敵を、追い散らしにかかるとしようや! わしについて来い!

範長はじめ、今木範秀(いまぎのりひで)、その弟・今木範仲(いまぎのりなか)、中西範顕(なかにしのりあき)、和田範氏(わだのりうじ)、松崎範家(まつざきのりいえ)ら主従17人は、石戸軍200騎の中へまっしぐらに突っ込んでいった。

石戸軍は、相手がそれほどの小勢とは気づかなかったのであろう、一戦も交えることなくして、熊山の南側の長い坂を、福岡(ふくおか:岡山県・瀬戸内市)まで退いていった。

かくして、熊山においては、攻める側、守る側、戦を交えず、にらみあいの状態となった。

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例の約束の日となった。

新田軍は、脇屋義助(わきやよしすけ)を大将に、梨原(なしがはら:兵庫県・赤穂郡・上郡町)まで進軍し、そこで2万騎の軍勢を3手に分けた。

第1軍は、江田行義(えだゆきよし)が率いる2,000余騎。杉坂(すぎさか:兵庫県・佐用郡・佐用町-岡山県・美作市)へ進み、菅家(かんけ)、南三郷(みなみさんごう)の者らが守っている所を攻め破り、美作国(みまさかこく:岡山県北東部)へ進まんとする。

第2軍は、大江田氏経(おおえだうじつね)を大将とする菊池と宇都宮の軍勢5,000余騎。船坂山へ向かい、敵勢力をそこで遮り留め、カラメ手方面軍が密かに背後へ回り込むのを助けんとする。

第3軍は、伊東大和守(いとうやまとのかみ)がナビゲイター役(注1)をつとめ、頓宮六郎(とんぐうろくろう)、畑時能(はたときよし)、当国・国司代官・範猷(のりみち)、由良新左衛門(ゆらしんざえもん)、小寺六郎(こでらろくろう)、三津澤山城権守(みつざわやましろごんのかみ)以下、300余騎の、わざと少ない人数で編成されている。

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(訳者注1)原文では「案内者」。
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第3軍メンバーは、轡(くつわ)に紙を巻いて馬の舌根を結わえた後、杉坂方面へ向かった。

杉坂越(すぎさかごえ)の北、三石の南の方に、鹿の通る道が一本あり、彼らはその道へ入っていった。足利側はこの道があることを知らないのであろう、堀も切られず、逆茂木(さかもぎ)も設置されていない。

木が生い茂り、枝が密集している所では、馬から降りて徒歩で行き、極めて険しくて足も止まらぬような急斜面は、馬に乗って駆け下ろす。このようにして、6時間ほどかけて、険しい道をようやく通過し、彼らは三石宿の西へ出た。

はるかかなたに突如出現したこの新田サイド第3軍団を見た足利サイドは、城にこもる勢力も船坂山を守備する者たちも、それがまさか敵軍だとは思いもよらなかった。あまりにも思いがけない方角に出現したからである。「あれはきっと、熊山を攻めていた者らが、帰ってきたのだろう」と考え、驚きもしなかった。

新田サイド第3軍団300余は宿の東方の夷神社(えびすじんじゃ)の前へ押し寄せ、中黒紋の旗を掲げ、東西の民家に放火してトキの声を上げた。

城中の兵力はその殆どを船坂山の守備に割いてしまっている。三石に配置の兵力もみな熊山へ向かってしまっている。足利側には応戦できるだけの兵力はもはや残っておらず、新田側の進出を防ぐ事は不可能であった。

一方、船坂山に配備された軍勢は前後を新田軍に挟まれ、もはや、なすすべも無く、馬や鎧を捨て、城に連なる山の上へ何とかして逃げ登ろうと、大慌てである。

これを見た新田軍は、大手、カラメ手一斉に、「残らずやっつけてしまえ!」と、攻撃にかかった。逃げ場を失った足利サイドメンバーは、ここにかしこに行き詰まってしまい、自害する者100余人、生け捕られる者50余人、という状態になった。

備前(びぜん)国の一の宮・吉備津神社(きびつじんじゃ)の在庁官人(ざいちょうかんじん:注2)、美濃権介助重(みののごんのすけ・すけしげ)は、逃げ場を失って、今まさに腹を切ろうとしていたが、

美濃権介助重 うん、そうじゃ!

助重は、脱いだ鎧をもう一度身に着け、捨てた馬にうち乗って、向かってくる相手軍メンバーの中を推し分けて、播磨国(はりまこく)の方を目指して進んだ。

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(訳者注2)国司庁に在勤して事務を行う在地の役人。
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助重の行く手を、船坂方面より進んできた新田軍の武士らが遮った。

新田軍メンバーA おい、そこのぉ、いってぇ何者だぁ!

美濃権介助重 わしは、新田軍・カラメテ方面軍のナビゲイター役をおおせつかった者じゃ。戦況を詳しく、新田殿へ報告しようと思ぉてのぉ。

新田軍メンバーB おぉ、そっちの方も大勝利だそうじゃないか。

新田軍メンバーC まことに、めでたい事だなぁ。

新田軍メンバーA さ、早く、新田殿のとこへ行け!

新田軍メンバーらは、道を開いて、助重を通してやった。

やがて助重は、新田義貞の参謀・長浜の前に行き、彼の前にひざまずいて、

美濃権介助重 備前国の住人、美濃権介助重、三石城より降参して参りました。

これを聞いた新田義貞は、

新田義貞 それは殊勝な。

ということで、すぐに、着到(ちゃくとう:注3)に、助重の名が書き加えられた。

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(訳者注3)将軍の出征に従軍するメンバーの名字を記録する事を「着到」と言う。
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このようにして、助重は多くの人を出し抜いて、命拾いした。これも、とっさの智謀と言うべきであろう。

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船坂山の足利サイド守備陣が破れた後、江田行義(えだゆきよし)は、3,000余騎を率いて美作(みまさか)国へ進み、奈義能山(なぎのせ)、菩提寺(ぼだいじ)の2か所の城を包囲した。守備していた者たちはなすすべも無く、馬や鎧を捨てて、城に連なる上方の山へ逃げ登って行った。

一方、脇屋義助(わきやよしすけ)は、5,000余騎を率いて三石城を攻め、大江田氏経(おおえだうじつね)は2000余騎を率いて備中(びっちゅう)国へ進軍し、福山(ふくやま:岡山県・総社市)の城に陣を取った。

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2017年11月16日 (木)

太平記 現代語訳 16-5 新田軍、中国地方へ進軍

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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やがて、新田義貞(にったよしさだ)は病癒え、5万余騎を率いて中国地方へ出発した。

後続部隊の到着を待って、播磨(はりま)の加古川(かこがわ:兵庫県・加古川市)に4、5日逗留しているうちに、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)、城井冬綱(きいふゆつな)、菊池武季(きくちたけすえ)が率いる3,000余騎が到着。その他、摂津(せっつ)、播磨、丹波(たんば)、丹後(たんご)の勢力も思い思いに馳せ参じてきて、新田軍の兵力は6万余騎になった。

その後、赤松円心(あかまつえんしん)がこもっている城を攻めようということで、新田軍は、斑鳩宿(いかるがしゅく:兵庫県・揖保郡・太子町)まで進んでいくと、円心が小寺藤兵衛(こでらとうべえ)を使者として送ってきた。

小寺藤兵衛 わが主、赤松円心より、新田殿に次のように申し伝えよ、とのことですわ。

 「赤松円心、不肖の身とはいいながら、元弘(げんこう)年間の初め、大敵なる鎌倉幕府に抗して立ち上がり、逆徒・北条氏を攻め退けた。ゆえに、自分こそは忠節第一の人間やと、自負しとった。ところが、いただいた恩賞はと言えば、幕府側から降参してきた不義の輩のそれよりも少いやないか! それがどうしても納得いかんかったんで、一時の恨みにかられて足利の味方をしてしまい、それまで積んできた大いなる功績を、帳消しにしてしもぉた。」

 「しかしながら、故・護良親王(もりよししんのう)殿下よりいただいた御恩は、末々までも忘れることはできひん・・・朝廷の敵に与したのも、心底からの恨みがあってのもんやない。」

 「そこで、いっちょ相談したいんやが・・・播磨・・・播磨国の守護職にだけでもえぇから、綸旨(りんし)に任命書を添えて、朝廷から任命してもろぉたら、以前のように朝廷側に帰参して、忠節を尽くそうと、思とぉんやがなぁ・・・どうやろ?」

新田義貞 そっかぁ、そんな事、言ってんのか、赤松は。

新田義貞 播磨の守護職ねぇ・・・うん、まぁ、問題ねっかぁ。

義貞は、すぐに京都へ急使を送り、守護職補任の申請を行い、綸旨を得た。

ところが、その使者が播磨と京都間を往復している10余日の間に、円心は、城の防備をかためてしまった。

義貞から送られてきた綸旨を見て、円心は、

赤松円心 播磨の守護職に任命したるやとぉ・・・ナニ言うとぉ、守護職はおろか、国司職までもなぁ、足利将軍殿から、とっくの昔に任命してもろてるわい。いつひっくりかえるか分からんような、あてにならん綸旨なんか、いらん、いらん! はよ、持って帰れ! ワハハハ・・・。

これを聞いた義貞は、

新田義貞 いってぇなんだと思ってやがる、おそれおおくも陛下からいただいた綸旨だぞぉ! 臣下の分際で、陛下をないがしろにするとは、けしからん!

新田義貞 恨みを抱いて朝敵の身になったってなぁ、天の下に生きながら、天命に逆らえるとでも、思ってんのかぁ!

新田義貞 よぉし、そっちがそのつもりだったら、おれだってなぁ。

新田義貞 赤松の城、落としてやる! 何か月かかったっていい、絶対に落としてやる。あの城、落としてからでないと、おれは先に進まぁん!

義貞は、6万余騎の軍勢をもって、白旗(しらはた)城を百重千重に包囲し、昼夜分かたず50余日、息もつがずに攻め続けた。

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白旗城がある地は、四方すべて険阻な地形で、人間が登っていけそうな所ではない。城中には、水も食料もたっぷりと備蓄がある。そのような所に、播磨、美作(みまさか)の弓の巧者が、800余人もたてこもっているのである。

攻めても攻めても、新田サイドは、徒らに死傷者を出していくばかり、赤松サイドはびくともしない。

脇屋義助(わきやよしすけ)は、義貞に、

脇屋義助 なぁ、アニキィ・・・このままじゃぁ、ちょっと、まずいんじゃぁなぁいぃ?

新田義助 ・・・。

脇屋義助 おれ、なんだかさぁ、数年前のあれが思い出されて、しょうがないんだよなぁ。

新田義助 あれって、なんだい?

脇屋義助 ほら、鎌倉幕府の滅亡寸前の、あの頃の事さ。

新田義助 ・・・。

脇屋義助 楠正成(くすのきまさしげ)が、金剛山(こんごうさん)の千剣破城(ちはやじょう)に、たてこもってたろ? あの城に、日本国中のもんらが総がかりで攻めかかってったけどさ、どうにもならなかったよな。そこからやがて、天下が覆っていったってわけさぁね。

脇屋義助 あの城一つにこだわっちゃったこと、北条サイドの連中らにしてみりゃ、いくら悔やんでも悔やみ切れなかったんじゃぁ、ないかなぁ。

新田義助 うーん・・・。

脇屋義助 おれたちも今、同じような状況なんじゃないかなぁ。わずか小城一つにかかずらって、いたずらに日を送ってたんじゃぁ、そのうち、こっちの食料は乏しくなっていく、赤松サイドは、ますます勢いづいてきやがるよ。

脇屋義助 それにさぁ、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、もうすでに、筑紫はじめ九州全域を支配下に収め、やがて京都へ向かって進軍するってな情報もあるじゃん? だとしたらだよ、あいつがやって来ねぇ先に、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)の足利側勢力をやっつけて、安芸(あき)、周防(すおう)、長門(ながと)の勢力をこっちサイドに引き込んでしまわないと・・・そうでないと、非常に、まずい事になっちまうよ。

新田義助 だよなぁ・・・だけどなぁ・・・。

脇屋義助 うん、だけどなぁ、なんだよね。せっかくここまで攻めた城なのに、落とさないままで引き下がっちゃったんでは、天下の人々の物笑いの種になっちまうよねぇ。

新田義助 ・・・。

脇屋義助 こういうの、どうかな? 軍勢を少しだけここに残した上で、残りの全軍を、船坂山(ふなさかやま:兵庫県・赤穂郡・上郡町-岡山県・備前市)へ進め、まずは山陽道を制圧して、中国地方の勢力を味方につける。その後、筑紫へ軍を進める。

新田義助 いいね、それ!

というわけで、新田義貞は、宇都宮と菊池の軍と共に、伊東大和守(いとうやまとのかみ)、頓宮六郎(とんぐうろくろう)に道案内をさせながら、2万余騎を率いて船坂山へ向かった。

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船坂山は、山陽道第一の難所である。峯が峨々(がが)と聳(そびえ)立つ中に、一本の細い道が通っているだけ。谷は深く、石は滑らか、雲霧が立ち込めて薄暗い中に、羊の腸のごとく曲がりくねった道を上ること20余町。「一夫、怒って道を塞がば、万人、そこを通過すること難し(注1)」と言うべきか。

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(訳者注1)原文:「若(もし)一夫(いっぷ)怒(いかって)臨関(かんにのぞめば)、萬侶(ばんりょ)難得透(とおることをえがたし)」
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このように険しい地形の所に、さらに、岩石を穿(うが)って細橋を渡し、大木を倒して障害物にしている。これでは、たとえ百万騎の軍勢でかかってみても、そこを攻め破れようとは、到底思えない。

さすがの勇猛果敢な菊池、宇都宮の軍勢も、山麓に控えるばかりで前進できず、案内の任に当る伊東、頓宮の者たちも、ただ山を見上げるばかりで、徒に日は過ぎていく。

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2017年11月15日 (水)

太平記 現代語訳 16-4 各地で、足利サイド勢力、決起

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利尊氏(あしかがたかうじ)が九州へ逃走した後、四国や中国の足利サイドの人々は呆然自失(ぼうぜんじしつ)状態になってしまい、進退窮してしまった。あるいは山林の奥深く身を隠し、あるいは縁故を頼って新田義貞(にったよしさだ)に所領安堵をしてもらい、というような状態であったから、その時すぐに、義貞が中国地方へ軍を進めておれば、一人残らず降参していただろう。

しかし・・・。

ここに、ある女人がいた。

彼女は、御所に勤務する勾当内侍(こうとうのないし:注1)職にあり、「当世天下第一の美女」との誉れ高き人。義貞はなんと、彼女を後醍醐天皇から賜ってしまったのである。

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(訳者注1)内侍職の筆頭。
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新田義貞 (内心)あぁ、この女人(ひと)は、なんて素晴らしいんだろう・・・1分も、いや、1秒たりとも、離れていたくない、24時間365日、ずっといっしょにいたい・・・この女人を残して遠征に出るだなんて、そんな悲しい事、出来るわけないだろう。

このようなわけで、朝廷側の中国地方への派兵は、3月末までずるずると遅延してしまったのであった。あぁ、またしても、例の「美女起因性・国家危機」が・・・。(注2)

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(訳者注2)原文:「誠(まこと)に傾城(けいせい)傾国(けいこく)の験(しるし)なれ」
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そうこうしているうちに、丹波国(たんばこく:兵庫県東部+京都府中部)では、久下(くげ)、長澤(ながさわ)、荻野(おぎの)、波々伯部(ははかべ)たちが、仁木頼章(にっきよりあきら)を大将に仰いで高山寺城(こうさんじじょう:兵庫県・丹波市)にたてこもり、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)では、赤松円心(あかまつえんしん)が、白旗峯(しらはたみね:兵庫県・赤穂郡・上郡町)に城郭を構え、朝廷側の中国地方への進軍を阻止する動きを見せ始めた。

美作国(みまさかこく:岡山県北部)では、菅家(かんけ)、江見(えみ)、弘戸(ひろと)の者らが、奈義能山(なぎのせやま:岡山県・勝田郡・奈義町)と菩提寺(ぼだいじ:岡山県・勝田郡・奈義町)に城を構えて国中を制圧。

備前国(びぜんこく:岡山県東部)では、田井(たい)、飽浦(あくら)、内藤(ないとう)、頓宮(とんぐう)、松田(まつだ)、福林寺(ふくりんじ)の者らが、石橋和義(いしばしかずよし)を大将に仰いで、甲斐河(かいかわ:場所不明)、三石(みついし:岡山県・備前市)の2か所に城を構えて、海路と陸路の双方を抑えにかかった。

さらに備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)では、庄(しょう)、真壁(まかべ)、陶山(すやま)、成合(なりあい)、新見(にいみ)、多地部(たちへ)の者らが、勢山(せやま:岡山県・倉敷市)を塞ぎ、鳥も飛べないような防衛ラインを構えた。

これより以西、備後(びんご:広島県東部)、安芸(あき:広島県西部)、周防(すおう:山口県南部)、長門(ながと:山口県北部)は言うに及ばず、四国、九州全域において、「もうこうなったら、足利サイドに参加するしかないだろう」ということで、足利尊氏に気脈を通じていなかった者たちまでもがこぞって、足利陣営に、という情勢になってきた。

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方々の城郭や国々における足利サイド勢力の決起の知らせが、続々と京都へ伝えられてくる。

「東の方面までも、敵の支配下になってはまずい」ということで、朝廷はまず、北畠顕家(きたばたけあきいえ)を鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に任命して東北地方へ下向させた。次に、新田義貞に、16か国(注3)の軍事権を与え、足利尊氏追討の命令を下した。

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(訳者注3)山陽道8か国と山陰道8か国。
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朝廷からの命令を受けて、まさに中国地方へ出発しようとした義貞であったが、折り悪しく、[おこり病]を患ってしまったので、江田行義(えだゆきよし)と大館氏明(おおたちうじあきら)を、播磨へ先行させた。

彼らが率いる2,000余騎は、3月4日に京都を発ち、同月6日、書写山(しょしゃざん:兵庫県・姫路市)および坂本(さかもと:姫路市)に到着した。

この情報をキャッチした赤松円心は、そこに、新田軍を留まらせてはいかん、と思い、備前・播磨両国の武士たちを率いて、書写山、坂本めがけて進発。

江田行義と大館氏明は、室山(むろやま:兵庫県・たつの市)まで出向いて、それを迎え撃った。

その戦いにおいて、赤松軍は敗北。新田サイド先発軍は勢いづき、「中国地方の敵勢力、恐れるに足らず、一刻も早く、本隊の進軍を!」とのゲキ(檄)を、京都へ送った。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年11月14日 (火)

太平記 現代語訳 16-3 多々良浜の戦い

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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小弐妙慧(しょうにみょうえ)の居城が落城して、一族若党165人は全員一所で討たれてしまい、兵力が増大した菊池(きくち)軍は、多々良浜(たたらはま:福岡市・東区)に押し寄せていった。

足利尊氏(あしかがたかうじ)は、香椎宮(かしいぐう:福岡市・東区)の丘に登り、はるかかなたの菊池軍を遠望した。

足利尊氏 (内心)見たところ、菊池軍の兵力は4万騎から5万騎。それに対して、こちらは300騎ほど、そのうち半数程は、馬も無し、鎧も着けず、か・・・。

足利尊氏 こんなわずかな兵力でもって、あんな大軍に立ち向かうのは、いわば、大きな蟻が大木を揺り動かそうとするようなもの、カマキリが流れてくる車を止めようとするようなもの・・・。なまじっか戦なんかして、つまらない敵の手にかかって死ぬより、今ここで、腹を切ってしまった方がよっぽどましだなぁ。

それを聞いて、足利直義(あしかがただよし)は、兄を強く諌めていわく、

足利直義 兄上、何てぇ事を! 戦の勝負は必ずしも、兵力の多い少ないによって決まるもんじゃないでしょう!

足利尊氏 ・・・。

足利直義 過去の歴史の事例を振り返ってみてくださいよ。古代中国において、漢の高祖(こうそ)が、栄陽(えいよう)の包囲を破って脱出したときに、彼のもとにいたのは、たったの28騎。でもその後ついに、項羽(こうう)の百万の軍勢を倒して、天下を取った!

足利直義 わが国の最近の歴史にだって、同じような事例があるじゃないですか、ほら、あの、源頼朝(みなもとのよりとも)公。土肥(とひ)の杉山(神奈川県・足柄下郡・湯河原町)で戦に負けて、倒木の洞(うろ)の中に隠れた時、いっしょにいたのは、わずか7人。でも、頼朝公は平氏一門を滅ぼし、公の子孫は、将軍の位を継いでいった。

足利直義 28騎でもって百万騎の包囲から逃れたのも、7騎でもって倒木の下に隠れたのも、臆病ゆえに命を捨てれなかった、というのではない、天運が良き方向に転じる時を期待しての事だった。

足利直義 敵の兵力は膨大だけど、我々サイドの300余人は、皆ここまで、我々兄弟についてきてくれた者たちなんだ。これから先の我々の運命を、とことん見届ようと、覚悟かためた一騎当千の勇士たちだ。敵に背中を見せる者なんか、ただの一人もいやしない! この300騎が心を一つにすれば、必ず、敵を追い払える!

足利直義 兄上、早まって、自害なんかしないでくださいよ! まずは私が、敵に馳せ向かって、一戦してみますからね。

このように言って、直義は、香椎宮を出発した。

彼に従うは、仁木義長(にっきよしなが)、細川顕氏(ほそかわあきうじ)、高師重(こうのもろしげ)、大高重成(だいこうしげなり)、南宗継(みなみむねつぐ)、上杉重能(うえすぎしげよし)、畠山国清(はたけやまくにきよ)をはじめ、大友(おおとも)、嶋津(しまづ)、曽我(そが)、白石(しろいし)、八木岡(やぎおか)、饗場(あいば)ら、合計250騎。

3万余騎の相手に懸け合わさんと意気高く、自らの命を塵芥(じんかい)のごとく思うその心、まことにあっぱれである。

直義が旗を立てる準備をしながら社壇の前を通り過ぎていく時に、一つがいのカラスが、杉の葉を一枝くわえて飛んで来て、彼の兜の上へ、それを落とした。

直義は、馬から降りてその杉の葉を手にとり、

足利直義 おいおい、みんな見ろよ、これ! サイン(合図)だよ、サイン、香椎宮の神様からの・・・おまえら、助けてやっぞって、神様は、言ってくださってんだ。

直義は、社に向かって礼拝し、その杉の葉を鎧の左の袖に指して、戦場へ向かった。

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いよいよ両軍が接近し、まさにトキの声を上げようというその時、

大高重成 尊氏様の陣があまりに手薄なんで、心配になってきました。わし、ここから引き返して、尊氏様のお側をかためます。

重成は、このように言って、引き返していった。その後ろ姿を見ながら、直義は、

足利直義 まったくもう、あいつはぁ! 兄上の陣が手薄なんで、そちらをかためるだとぉ、よく言うよなぁ! そんならそうで、始めっから、兄上の側にとどまってりゃぁいいのに。敵の姿を見てから引き返しやがってぇ、まったくもう、なんて臆病なヤツなんだぁ!

足利直義 おぉい、大高、お前のその5尺6寸の太刀なぁ、5尺ほど切って捨てて、残りを、剃刀にでもしたらどうだぁ!

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菊池武敏(きくちたけとし)は、5,000余騎を率いて浜の西方から接近し、開戦の合図の鏑矢を放った。しかし、足利サイドは、矢の一本も射ずになりをひそめ、隙あらば切りかからんと機を窺っている。

その時、誰が射たのか分からない白羽の鏑矢が一本、菊池軍の頭上を超えていった。

鏑矢 シャキーーーーン・・・ヒュルヒュルヒュルヒュル・・・。

その矢はどこにも落ちずにそのまま飛び続けて、人々の視野から去っていった。

足利軍メンバーA おいおい、あれ見たかよ!

足利軍メンバーB 見ぃたともぉ!

足利軍メンバーC ありゃぁ、タダゴトじゃぁねぇよぉ、不思議な事もあるもんだなぁ。

足利軍メンバーD こっちサイドから敵サイドの方へ、飛んでったんだよなぁ、あの矢。

足利軍メンバーE これも、神様のご加護の徴(しるし)だぁ、たのもしいよなぁ!

足利軍メンバー全員 よぉし、やるぜぃ!

両軍対峙し、未だに戦端を開かずというまさにその時、菊池軍の中から一人の武士が、弾かれたように馬を駆ってとび出してきた。黄色がかった鬣(たてがみ)黒き白馬にまたがり、緋色の鎧を着ている。彼は、菊池軍の最前線より3町ほど隔たった地点まで、抜け駆けしてきた。

曽我左衛門(そがさえもん)、白石彦太郎(しろいしひこたろう)、八木岡五郎(やぎおかごろう)の三人は、馬も鎧も無い状態で足利軍最前線にいたが、その武士を見て奮い立った。

白石彦太郎 (内心)よぉし、あいつを馬から引きずり落としてやる!

彦太郎は、武士めがけて接近し、至近距離の位置に飛び込んだ。

武士は、太刀を捨て、脇差しを抜こうと体を反らせたが、バランスを崩して落馬してしまった。

彦太郎はすかさず、武士を押え込み、首を掻いた。そこに走り寄ってきた曽我左衛門は、武士が乗っていた馬に飛び乗り、八木岡五郎は、武士の身体から鎧を剥ぎ取り、自分の身体に装着した。

白石彦太郎の手柄によって、二人も、このように利を得ることができた。

その後すぐに、この三人は、菊池軍サイドへ突入。これを見た、仁木、細川他のメンバーらは、

足利軍リーダーF あの三人を、討たせてはいかぁん!

足利軍リーダーG みんな、ヤツラに続けぇ!

足利軍全員 オォォーッ!

足利軍は全員一斉に、菊池の大軍中に突撃を敢行、ここかしこに、乱戦が展開していく。

仁木義長は、接近してきた菊池サイドの武士5騎を切って落とし、6騎に負傷を負わせ、なおも敵中に踏みとどまり、反り返ってしまった太刀を足で踏んで伸ばして、また敵と切りあい、命ある限りと、戦い続ける。

かくのごとく、足利軍150騎は勇猛果敢、次々と菊池サイドの堅陣を破っていく。相手に百倍するほどの兵力を擁する菊池軍であったが、小勢の足利軍にこのように懸け立てられて、前線の3,000余騎は、多々良浜の干潟上を20余町までも退却した。

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カラメ手方面に回った菊池サイドの松浦(まつら)・神田(こうだ)勢は、わずか300騎にも満たない尊氏の近くにいる足利軍を見て、それを大軍であると、錯覚してしまった。

松浦・神田勢リーダーH (内心)こりゃぁ、いかんばい。足利サイドの兵力、2万、いや、3万は、あるとね。

松浦・神田勢リーダーI (磯を打つ波の音を耳にして)(内心)あれはきっと、足利軍のトキの声ぞね。あの声のスゴサから察するに、あちらはえらい大軍だわね。

彼らは急におじけづいてしまい、一戦もせずに、旗を巻き兜を脱いで、足利側に降伏してしまった。

これを見た菊池は、

菊池武敏 (内心)うーん、こりゃぁ、非常にまずかぁ状態になってしもぉたばい。足利側の兵力が大きいならんうちに、退却した方がよか。

ということで、菊池軍は急遽、本拠地の肥後(ひご:熊本県)に退却した。

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尊氏はすぐに、一色道献(いっしきどうけん)と仁木義長を肥後に送り込み、菊池側の城を攻めさせた。城は一日も持ちこたえず、菊池軍は、深山の奥に逃げこもった。

次に、肥後の八代城(やつしろじょう:熊本県・八代市)を攻め、そこを守っていた内河彦三郎(うちかわひこさぶろう)を追い落とした。

さらに、多々良浜合戦で重傷を負った阿蘇大宮司・惟直(あそのだいぐうじこれなお)は、肥前国(ひぜんこく:佐賀県+長崎県)小杵山(おつきやま:佐賀県・唐津市)で自害し、その弟・九郎は、不案内な里で道に迷い、在所の農夫に生け捕りにされてしまった。

秋月備前守(あきづきびぜんのかみ)は、太宰府(だざいふ: 福岡県・太宰府市)まで落ちのびたが、一族20余人皆、そこで討たれてしまった。

これらはみな、一軍を率いる大将の地位にあった人々であり、九州地方における足利軍の強敵と成りうる存在であった。しかし、天運はついに彼らには味方せず、このように皆、滅んでしまい、これより後、九国二島(注1)の武士たちは悉く、足利尊氏の命に服するようになった。

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(訳者注1)当時の行政区分によるならば、九州地方には11か国があった事になる。すなわち、[九国:筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、日向(ひゅうが)、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)、肥後(ひご)、肥前(ひぜん)]と[二島:壱岐(いき)、対馬(つしま)]。
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この足利サイドの、奇跡的なリカバリーの原因はいったい何か?

それは、菊池武敏が不覚を取ったからではない、足利直義の作戦のよろしきにあったのでもない。ようは、足利尊氏の前世において、後に彼を天下の主の地位に押し上げるような善因(ぜんいん)が、蓄積されていたからである。

その良き因の果が現れる時がついに到来し、霊神が擁護の威力を彼に加え給うたがゆえに、思いがけない勝利を手中にし、一時のうちに九州全域が、尊氏に靡くこととなったのである。

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大敵と目されていた松浦・神田の者たちが小勢の足利軍を大軍と錯覚し、降伏してきたとの知らせを聞いて、尊氏は、高、上杉家の人々に向かっていわく、

足利尊氏 うまい事を言って、その裏では、相手の破滅を願い、笑顔の奥に、刀を研ぎ澄ます・・・最近の人間の心って、そんなもんだろぉ。

足利軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 それが証拠に、見てみろよ、小弐のあの最期を・・・。あそこの一族は長年、小弐妙慧(しょうにみょうえ)の恩顧を受けてきた人たちなんだよ、でもあのように、妙慧を裏切って、討ってしまったじゃないか・・・。

足利尊氏 松浦・神田の連中らだって、どんな野心を含んで、一戦もせずに降伏してきたのか・・・。

足利尊氏 誠をこめて信心を捧げたので、神仏が不思議な力を現して下さって、このような事になった、とも、考えられるんだけど・・・いやいや、どうにも、あの連中らの、「小勢を大軍に錯覚した」との言い分・・・やっぱり、怪しいよなぁ・・・。

足利尊氏 いいか、お前たち、あいつらには用心しろよ。心を許しちゃいかんぞ。

足利軍リーダー一同 ・・・。

遥か末座に座していた高師茂(こうのもろしげ)が、進み出ていわく、

高師茂 まことに、殿のお言葉の通り、人の心の測り難きは、天よりも高く、地よりも厚し・・・とは言いながらも、現在のような、重大な局面においては、あまりに人の心を疑かってばかりでは、速やかな成功を得るのは、難しいのではないかと、思うのですが・・・。

足利尊氏 ・・・。

高師茂 彼らが我が軍を大軍と錯覚したのも、それほど不審な事ではありません。歴史上にも、そのような例がございますよ。

高師茂 昔、中国・唐王朝の時代のことです。玄宗皇帝(げんそうこうてい)の左将軍・哥舒翰(かじょかん)は、逆臣・安禄山(あんろくざん)の部下の崔乾祐(さいけんゆう)と、潼関(とうかん)で、戦いました。その時、黄色の旗を差した兵10万余騎が皇帝軍中に忽然と現われ、これを見た崔乾祐は、「敵は大勢なり」と思って、兵を引いて四方に逃散しました。

高師茂 後日、戦勝のお礼を申し上げるために、皇帝勅使が宗廟(注2)に参りましたところ、石人、これは廟に並べてある石製の人形なんですけどね、その両足が泥に汚れ、体中に矢が突き刺さってたんです。そこで、「さては、あの黄色の旗を掲げた兵10万余は、宗廟の神が皇帝軍の兵士と化して、逆徒を退け給うたのであったのか」と、みんな、納得したって言うんです。

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(訳者注2)祖先の御霊を祭る場所。
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高師茂 我が国にだって、同じような例がありますよ。天武天皇(てんむてんのう)と大友皇子(おおとものみこ)とが天下を争われた時(注3)の事。備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)の二萬郷(にまのさと:岡山県・倉敷市)という所で、戦が行われました。その時、天武天皇側はわずか300余騎、大友皇子側は1万余騎。このような兵力差では、戦ってみても勝敗は始めから決しているようなもの。ところがところが、いったいどこからやってきたのか、爽やかなる兵2万余騎が出現、天武天皇側について戦いまして、大友皇子の軍勢を十方へ懸け散らしました。それ以来、その地を、「二萬里(にまのさと)」と呼ぶようになったんです。

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(訳者注3)いわゆる「壬申の乱」。
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高師茂 周防の内侍(すおうのないし:注4)の歌、

 君が代(きみがよ)は 二萬(にま)の里人(さとびと) 二万人 貢(みつぎ)の献上(けんじょう) 絶やす事なく

 (原文)君が代は 二萬の里人 数副(かずそ)えて 絶えず備(そなう)る 御貢物哉(みつきものかな)

は、このような、その土地の歴史を意識してのものなんですよ。

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(訳者注4)平安時代の歌人。
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このように、高師茂は、中国と日本の過去の事例を引いて、尊氏の武運が天の意に叶っているからこそ、松浦・神田の者らの錯覚が起ったのである、と説明したので、尊氏はじめ、そこにいた人々は皆、歓喜の笑みを浮かべた。

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2017年11月13日 (月)

太平記 現代語訳 16-2 菊池武敏、参戦す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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肥後国(ひごこく:熊本県)の菊池武敏(きくちたけとし)は、ネッカラの朝廷派であったので、「小弐妙慧(しょうにみょうえ)が足利サイドに援軍を送った」との情報をキャッチして、奮い立った。

菊池武敏 よぉし、小弐のヤツラめ、見とれよぉ。足利のとこに向かう途中ばぁ襲ぉて、討って散らしてやるとよ!

武敏は、3,000余騎を率いて、水木渡(みずきのわたし:福岡県・太宰府市)へ向かった。

そんな事とは夢にも知らない小弐頼尚(しょうによりひさ)は、小舟7隻にめいっぱい配下のメンバーらを同乗させて、まっ先に水木渡を渡り、対岸へ上がった。

小弐の家臣・畔籠(あぜくら)たちは、対岸から舟が戻ってくるのをこちら岸でじっと待っていった。まさにその時、菊池軍が三方から、彼らに襲いかかり、川の中へ追い落そうとした。

畔籠ら150騎は、「もはや逃れがたし」と覚悟を定め、菊池の大軍中に突入して、一人、また一人と、死んでいく。

頼尚は、向う岸からそれを見て、なんとかして彼らを助けたいと思うのだが、目の前の大河は、舟無くしては渡れない。

小弐頼尚 (内心)どっかに、舟ないか、舟、舟!

小弐頼尚 (内心)心から頼りにしとるあいつらが、敵の中で死んでいくのを、ただじっと見てるしかないとは・・・あぁ、無念、無念!

頼尚の願い空しく、ついに近辺に舟は見つからず、畔籠たちは全て、死んでしまった。

頼尚は怒りを忍びながら、尊氏のもとへ向かった。

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菊池武敏 やったやったぁ! まずは最初の一戦ばぁ、モノにしたとね。さい先のよかスタート、きれたばい。

菊池武敏 次は、小弐のオンタイの方を、やっつけちゃるとね!

菊池軍は、小弐妙慧がたてこもる内山城(うちやまじょう:福岡県・太宰府市)に押し寄せた。

小弐サイドは、精鋭メンバーをすべて頼尚につけて送り出しており、その過半数が、水木渡で討たれてしまっている。城に残っているのは、わずか300人足らず。これではとても、菊池の大軍を防ぎようがないのでは、と思われた。

しかし、城の守りは意外にかたく、絶壁の下に菊池軍を見下ろして防戦すること数日、菊池サイドは、軍を入れ替え入れ替え、昼夜分かたず十方より城を攻撃するも、小弐サイドの者は一人も討たれず、城中の矢の備蓄もまだ尽きない。このままでは、菊池サイドがいかように攻めようとも、城は持ちこたえるのでは、と思われた。

ところが、小弐一族中のあるグループのメンバーらが、急に心変わりをしてしまった。彼らは本丸を占拠し、そこに中黒紋の旗を掲げ、小弐妙慧のもとに使者を送った。

グループの使者 うちら(我ら)は、少し考える所ばぁあって、朝廷方へ帰参することにしたとね。妙慧殿も、うちらに合流なされますかいのぉ?

妙慧は、使者に対して一言も返答せずに、

小弐妙慧 義の道ばぁ踏み外して、生きながらえるよりも、死んで後生に名誉ばぁ残す、そっちの方が、よっぽど良か。

妙慧は、仏を安置してある堂に走り入り、腹を切って死んでいった。彼の郎等100余人も、堂の縁側に居並び、声を掛け合いながら一斉に腹を切った。彼らのその声は天まで響き、有頂天(うちょうてん:注1)までも届いたのでは、と思われたほどであった。

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(訳者注1)原文では「非想非々想天(ひそうひひそうてん)」となっているが、これは「有頂天(うちょうてん)」の別称である。

[仏教辞典 大文館書店]の[有頂天]の項には、以下のような解説がある。

「非想非非想処の異名。三界(欲・色・無色)を九地に分ち、此の天は無色界(むしきかい)の最上天であるから、有(三有・二十五有)の頂なる意味でいう」。
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小弐妙慧の末子で僧侶の宗応蔵主(そうおうぞうす)は、雨戸を踏み破って薪に積み、その上に父の遺体を安置した後、荼毘(だび)の辞を朗唱した。

宗応
 広々とした青空に 風すがすがしく吹き渡り 月の光は 明らかに輝いている
 ここに わが父妙慧が み仏の世界を求めて 旅に発(た)つ事を 思う
 白刃(はくじん)を踏んで 身を転じ行く
 荼毘の儀においては 燃え盛る火も 一段と涼しい

 (原文)
 萬里(ばんりの)碧天(へきてん)風高(かぜたかく)月明(つきあきらけし)
 為問(ためにとう)慧公(えこう)行脚事(あんぎゃのこと)
 踏翻白刃(はくじんをとうほんして)転身行(みをてんじてゆく)
 下火云(あこいわく)猛火重焼(もうかかさなりもゆ)一段清(いちだんきよし)

宗応によって点ぜられた火は燃え上がって、妙慧の遺体を包んでいった。そして宗応もまた、その炎の中に飛び込んで、父と共に死んでいった。

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2017年11月12日 (日)

太平記 現代語訳 16-1 足利兄弟、九州・多々良浜に上陸

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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建武(けんむ)3年(1336)2月8日に、足利尊氏(あしかがたかうじ)は兵庫(ひょうご:兵庫県・神戸市・兵庫区)から九州へ向けて転進、その時、彼に従った兵はわずかに7千余騎であった。

備前(びぜん:岡山県東部)の児島(こじま:岡山県・倉敷市)に到着の後、「京都から追討軍がやってきたら、三石(みついし:岡山県・備前市)のあたりで、対抗せよ。」との命を下し、斯波氏頼(しばうじより)に、田井(たい)、飽浦(あくら)、松田(まつだ)、内藤(ないとう)の勢力をつけてそこに止めた。

さらに、「関東方面の守りが気がかりだから」ということで、細川定禅(ほそかわじょうぜん)と細川義敦(ほそかわよしあつ)を、関東へ派遣した。

多くの軍勢リーダーが、各々いとまを申し出て各自の領地に帰ってしまったので、今や尊氏のもとにいるのは、高(こう)、上杉(うえすぎ)、仁木(にっき)、畠山(はたけやま)、吉良(きら)、石塔(いしどう)のメンバーたちと、武蔵(むさし)相模(さがみ)からやってきた武士たちだけになってしまった。

やがて一行は、筑前国(ちくぜんこく:福岡県北部)の多々良浜(たたらばま:福岡県・福岡市)の湊に到着した。

総勢わずかに500人足らず、打出(うちで)と瀬川(せがわ)の戦で矢を使い果たしてしまい、馬や鎧はすべて、兵庫(ひょうご)・西宮(にしのみや:兵庫県・西宮市)から船に乗った時に、遺棄(いき)してしまっている。

足利軍メンバーA (内心)あーぁ、もう、精も魂も尽き果てちまったよぉ。

足利軍メンバーB (内心)おれたち、言ってみりゃぁ、車の轍(わだち)の跡に溜まった泥水の中にあえいでる魚みてぇなもんだなぁ。

足利軍メンバーC (内心)逃げ場を失った末に、猟師の懐に入らんとする鳥ってとこかぁ。

足利軍メンバーD (内心)見知らぬ地で宿を探し、気心も知れねぇやつのもとに身を寄せ。

足利軍メンバーE (内心)朝の食事にことかいて、飢渇(きかつ)に苦しみ。

足利軍メンバーF (内心)夜は不安で、眠れやしねえ。

足利軍メンバーA (内心)そのうちおいらも、敵側の誰かの手にかかって、死んでいくんだろうなぁ。

足利軍メンバーB (内心)死んだ後も、魂は浮かばれず。

足利軍メンバーC (内心)骨は、野ざらしのまま。

足利軍メンバーD (内心)故郷をはるか遠く離れたこの地にて、望郷の鬼となりはてるのか・・・。

足利軍メンバーE (内心)明日の命もおぼつかない。

足利軍メンバーF (内心)あーぁ、なさけない、やだやだぁ・・・。

このように皆、落ち込んでいる所に、宗像(むなかた)神社(福岡県・宗像市)の大宮司(だいぐうじ)・氏範(うじのり)の使者がやってきていわく、

使者 わが主が、こんように申しとります。

 今、足利様がおられるあたりは、あまりにも土地が狭く、軍勢が逗留(とうりゅう)するに適当な宿所も無か。おそれながら、わが陋屋(ろうおく)へお移りになられませんか? こちらでしばらく、先日からお疲れのおからだ(身体)を休めてリフレッシュされ、そん後、諸方面へ将軍召集令状ばぁ送り、軍勢ばぁ編成されては、いかがでしょう?

足利尊氏 よし、分かった。

尊氏らはすぐに、宗像の館へ移動した。

翌日、尊氏は、南宗継(みなみむねつぐ)と豊田光顕(とよたみつあき)を、小弐妙慧(しょうにみょうえ)のもとへ送り、援軍を要請した。

妙慧は、即断即決し、ただちに、嫡子・頼尚(よりひさ)に若武者300騎を添えて、尊氏のもとへ向かわせた。

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太平記 現代語訳 インデックス4

太平記 現代語訳 総インデックス

主要人物・登場箇所リスト

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第16巻

16-1 足利兄弟、九州・多々良浜に上陸

16-2 菊池武敏、参戦す

16-3 多々良浜の戦い

16-4 各地で、足利サイド勢力、決起

16-5 新田軍、中国地方へ進軍

16-6 児島高徳、新田義貞に呼応して挙兵す

16-7 足利軍、九州から京都へ向かう

16-8 福山城攻防戦

16-9 新田軍、兵庫へ退却

16-10 楠正成、兵庫へ向かう

16-11 足利軍、海陸双方より兵庫へ迫る

16-12 本間孫四郎、遠矢を射る

16-13 経島の合戦

16-14 湊川の戦 楠正成と楠正季、自害す

16-15 新田軍、生田森で、足利軍を迎撃

16-16 小山田高家、青麦を刈る

16-17 御醍醐天皇、延暦寺へ避難

16-18 光厳上皇、東寺へ

16-19 日本の朝敵について

16-20 楠夫人、樟正行を諭す

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第17巻

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第18巻

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第19巻

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第20巻

2017年11月10日 (金)

旧古河庭園 東京都 2017年11月

2017年11月に、旧古河庭園 に行きました。

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JR[駒込駅] から、徒歩で行きました。

入り口から入ると、西洋風の建物がありました。

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入り口でもらったパンフレットには、「天然スレートぶきレンガ造り。外壁は真鶴産の赤味をおびた新小松石(安山岩)で仕上げられており、雨にぬれると落ち着いた色調をかもしだします。」とあります。

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洋館の周囲にある庭園には、様々な種類のバラがありました。

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入り口でもらったパンフレットによれば、この洋館と洋風庭園を設計したのは、[ジョサイア・コンドル]なのだそうです。

ジョサイア・コンドルは、イギリス人、ロンドン生まれ(1852年)。

1877年に、明治政府より招かれ、日本へ。工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教師、工部省営繕局の顧問に。

彼が設計した建造物は、現在も残っているようです。ネットで調べて、下記の建造物がコンドルの設計によるものであることが、分かりました。

[旧岩崎邸庭園洋館]、[三菱開東閣]、[綱町三井倶楽部]、[桑名市六華苑]、[旧島津公爵邸(清泉女子大学内)]

日本史の授業で出てきた [鹿鳴館]も、コンドルの設計によるものなのだそうです。

彼は、河鍋暁斎に師事して日本画を学んだのだそうです。

[河鍋暁斎 ジョサイア コンドル]、[丸の内 ジョサイア コンドル]等でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

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旧古河庭園の中には、日本庭園もありました。

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この日本庭園を作庭したのは、[小川治兵衛](七代目・植治)。

京都には、小川治兵衛が作庭した庭が、多くあります。知名度の高いと思われるものでは、

 [円山公園]、[平安神宮]の庭園、[無鄰菴](山縣有朋の別邸)の庭園、といったところでしょうか。

「第二無鄰菴」、あるいは、「高瀬川源流庭苑」と称される庭園も、あります。

[京都 白河院](旅館)の庭も、彼による作庭です。

[野村別邸 碧雲荘]等の、南禅寺の付近にある別荘の庭の中にも、彼によって作庭されたものがあります。

東京にあるこの庭園の作庭までも、依頼されたというのだから、当時の彼の名声は、絶大だったのでしょう。

小川治兵衛が作庭したものの中には、[枯山水](禅宗寺院に多くあるような)ではないものが、多数あります。庭の中には、仮想の流れ(枯山水の庭にあるような)ではなく、実際に水が流れている、という庭が多数あります。

実際に水を流すとなると、水源をどうやって確保するか、ということが重大な問題となってきます。

庭園の為の水源の確保という事について、おもしろい話が、[徒然草]の中にあります。(徒然草 第51段)

京都の嵐山の大堰川(桂川)の側に、亀山殿という御殿を造ることになった。そこで、庭と池を作ろうということになった。その水源を確保するために、大堰川から水を取水しようということになった。そこで、その周辺地域の住民たちに、水車を作らせようとした、というのです。

この「水車」は、穀物を脱穀したりするための水車ではなく、[揚水水車]の類のものだったのでしょう。自動的に、川や水路から水をくみ上げて田に水を流し入れることができるような水車です。

([兵庫県 神河町 新野 揚水水車]等でネット検索していただくと、その具体的イメージが分かるような情報を得ることができるかもしれません。)

ところが、周辺住民たちは、水車をなかなか作ることができない。なので、宇治の人々を嵐山へ来させて作らせたら、難なく作ってしまった、というのです。

おそらく、亀山殿が建設された当時、宇治の地では、揚水水車を用いて、灌漑を行っていたと思われます。

南禅寺付近の庭園づくりにおいて、水源確保の問題を一挙に解決したのが、琵琶湖疏水でした。塚本与三次と小川治兵衛は、疏水の水利権を得て、庭園を造っていきました。

[塚本与三次 小川治兵衛 琵琶湖疏水 水利権]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

旧古河庭園においては、造られた当初は、井戸を水源としていたようです。

[旧古河庭園 小川治兵衛 水源]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

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この庭園を、東京都が所有しているのだと思っていましたが、実は、国有財産であり、東京都が国から借りているものなのだそうです。

古河家のものであったのだが(「旧古河」の名称は、それに由来)、第二次大戦中、陸軍に接収され、戦後は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、その後、国のものになって、現在に至るのだそうです。

ネットで調べて分かったのですが、この、[旧古河庭園]の中にある、洋風庭園、日本庭園、洋館、これらは全て、[古河虎之助]という人が所有していたのだそうです。

(渡されたパンフレットには、「開園面積 30,780.86平方メートル」とあります。)

この地には、陸奥宗光の別宅があったのだが、宗光の次男・潤吉が古河市兵衛(古河家・第1代目当主)の養子になって古河家・第2代目当主となり、それに伴って、この土地が、古河家が所有するところとなったのだそうです。

陸奥宗光がこの地を手にいれる前には、ここはどのような場所であったのか? ネットで調べてみたが、分かりませんでした。

ネットで調べて、以下のような事が分かりました。

陸奥宗光は、坂本龍馬が組織した海援隊(亀山社中)のメンバーであった。

陸奥宗光は、伊藤博文の内閣において外務大臣に就任し、
  幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功
  日清戦争においては、下関条約の調印において外務大臣としての役割を果たしたが、その後、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉に直面することとなった

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以下、古河家について、ネットで調べて知ったことをもとに、記述します。

[古河虎之助]は、古河家・第3代目当主で、[古河市兵衛]の子。

[古河市兵衛]は、京都市内の岡崎の生まれ。幼少の頃から貧乏暮らしで苦労を重ねた。ビジネスの才に恵まれ、生糸貿易で大儲け。その後、鉱山経営へ転じて、足尾銅山を経営。

江戸時代から銅の採掘が行われていた足尾銅山は、当時、生産性が極めて低い状態であったが、大鉱脈が発見されて銅の生産高が急上昇、市兵衛は大成功を収めることとなった。

([古河市兵衛 足尾銅山]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

しかし、足尾銅山は、大きな問題(公害)を引き起こした。([足尾銅山鉱毒事件])

この公害の主要な原因は、下記の2つと思われる:(他にも、原因があるのかもしれない)

(1)鉱毒ガスの放出

銅の精錬に伴って発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)を、大気中に放出してしまったことにより、周辺の植物にダメージを与えてしまった。その結果、周辺の山々の樹木が枯れてしまい、山々の保水力の低下、斜面の地盤崩壊等の問題を引き起こしてしまった。

銅を得るための原材料は、地中から掘り出された各種の銅の鉱石である。イオウ元素を含む種類の鉱石が多いので、それらの鉱石から銅を得る過程において、イオウ元素を除去する何らかの工程が必須となるが、その結果、イオウ(鉱石から除去された)の化合物が排出されることになる。イオウの化合物が、亜硫酸ガス(二酸化硫黄)の形で排出されると、大問題となる。二酸化硫黄は、人間にとっても有害な物質だが、植物に対しても有害である。

([銅 鉱石 黄銅鉱 亜硫酸ガス]、[温泉 要注意 火山性ガス中毒 二酸化硫黄]、
[二酸化硫黄 禿山]、[四阪島 亜硫酸ガス]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

(2)金属イオンの流出

鉱石の採掘、銅の精錬等の作業において、銅イオンなどの金属イオンを、周辺の河川中に流出させてしまった。それらの金属イオンは、渡良瀬川に流れ込み、その流域の農業に被害を与えた。

([銅イオン 渡良瀬川 農業 被害]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

足尾銅山が引き起こしたこれらの問題は、21世紀の現在も未だに、完全な解決に至っていないようです。

([田中正造 足尾銅山鉱毒事件]、[日本 初 公害 足尾銅山]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

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