2018年11月 8日 (木)

変形する 回転体 画像貼り付け コンピューター・グラフィックス 動画制作 Java と OpenCV3 を使って

[形が変わっていく回転体への画像貼り付け]という制作テーマによる、コンピューター・グラフィックスによる動画制作を行いました。

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1 できたもの

制作作業の結果、できたのが、下記のCG動画です。(ユーチューブ上にアップロードしてあります。)

([CG]は、[コンピューター・グラフィックス]の略)。

下記に記すように、[三角関数]、[対数関数]、[累乗関数]を使用して制作しました。

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仮想の器 No.5, 変形する

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/6QrSV0rnJjI

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2 使用したコンピューターとソフトウェア

上記の動画を制作するために使用したものは、下記の通りです。

コンピューター

 CPU : Core(TM) i7-7700HQ
 メモリー : 16 GB
 Operating System : Windows 10 Home, 64ビットオペレーティングシステム

OpenCV3

 opencv-3.4.3-vc14_vc15.exe

Java

 jdk-8u181-windows-x64.exe

[opencv3] と [Java] を組み合わせて使用する方法については、下記に発表ずみです。

開発費用ゼロ コンピューターグラフィックスによる動画制作 Java OpenCV3 Eclipse を使って

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3 回転体

上記のCG動画は、[仮想の器]の表面に、あたかも画像が貼り付けられているかのようなイメージとなるように、動画を制作した、というものです。

この[仮想の器]は、

 まず、[回転体]を形成し、
 その後、その[回転体]の上部を、部分的に切除する

と、いうようなイメージで、設定しました。

[回転体]とは、

 平面図形を、直線のまわりに、1回転させて、形成される立体

です。

[ろくろ]を使って、陶器の原型が作られていく様を想像すれば、[回転体]をイメージしやすいと思います。

Figure 1 回転体

F1

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4 回転体の表面を形成

3次元空間中に、器の表面を形成するためには、表面の各部分の座標値(3次元空間中での)を設定する必要があります。

今回の制作作業の対象とする器の基本部分は、[回転体]であるとしたので、下記のように、各z座標ごとに、[回転体]のそのz座標での断面での[半径]を設定すればよい、ということになります。

Figure 2 各z座標ごとに半径を設定

F2

この、各z座標ごとの[半径]を、[log関数(対数関数)]、[pow関数(累乗関数)]、[三角関数]を使用して、算出・設定するようにしました。

[経過時間]を[三角関数]の変数として用いることにより、[回転体]の形が、時間の経過につれて変化していくように、できました。

2018年11月 4日 (日)

伊豆半島に行きました

伊豆半島の中部と西海岸(静岡県)に、関心がありました。

 様々の旅行関係の書物や、パンフレットで、[伊豆半島・西海岸]の美しい海の風景の紹介を見た記憶がある。

 位置関係から見て、[伊豆半島・西海岸]において、[駿河湾]の向こうに[富士山]を見れる可能性があるのではないだろうか。(気象条件にもよるのだろうが)。

 [伊豆半島・西海岸]は、地図で見ると、[修善寺]の近くにあるようだ。[修善寺]は、温泉地として、有名なようだ。[夏目漱石]も、ここに滞在していたことがあるらしい。

 [韮山]には、[運慶]が作った仏像があるという。

 [韮山]には、[反射炉]というものがあり、ユネスコ世界遺産に認定されたと、聞いている。

このような様々な想いが交錯する中に、伊豆半島への家族旅行を思い立ち、計画を立案し始めました。

思案の結果、下記のようなコース概要が定まりました。

1日目:京都 --(東海道新幹線)--> 三島 --(伊豆箱根鉄道)--> 修善寺
    修善寺 --(東海バス)--> 土肥(伊豆半島・西海岸) --(東海バス)--> 修善寺
    修善寺温泉 で 温泉旅館に宿泊

2日目:修善寺 --(伊豆箱根鉄道)--> 韮山
    韮山 で、[反射炉]を見学、[運慶の仏像]を拝観
    韮山 --(伊豆箱根鉄道)-->  三島 --(東海道新幹線)--> 京都

更に、ネットを使って、いろいろと調べていくにつれて、様々な事が分かってきて、コース計画の修正が必要になりました。

 [伊豆箱根鉄道]の[修善寺駅]と、[修善寺]の温泉街との間の距離はけっこうあるので、バスを使って移動する方がよさそうだ。

 [運慶作の仏像]があるのは、[願成就院]という寺院である。

 [韮山反射炉循環バス]というものがあり、これを利用すると、[韮山反射炉]、[願成就院]のぞれぞれの近くまで、バスで行けるようだ。このバスは、運航日が限定されているようだ。[伊豆箱根鉄道]の[伊豆長岡駅]の駅前から、このバスに乗車できるようだ。

と、いうわけで、コース概要に対して、修正を行いました。修正後のものが、下記です。

1日目:京都 --(東海道新幹線)--> 三島 --(伊豆箱根鉄道)--> 修善寺
    修善寺 --(東海バス)--> 土肥(伊豆半島・西海岸) --(東海バス)--> 修善寺
    修善寺 --(東海バス)--> 修善寺の温泉街
    修善寺の温泉街にある、温泉旅館に宿泊

2日目:修善寺の温泉街 --(東海バス)--> 修善寺 --(伊豆箱根鉄道)--> 伊豆長岡
    伊豆長岡 --(韮山反射炉循環バス)--> 韮山反射炉 --(韮山反射炉循環バス)--> 北条の里
    北条の里 --(徒歩)--> 願成就院 --(徒歩)--> 北条の里
    北条の里 --(韮山反射炉循環バス)--> 伊豆長岡
    伊豆長岡 --(伊豆箱根鉄道)-->  三島 --(東海道新幹線)--> 京都

そして、 2018年10月、伊豆に行きました。上記の計画通りに、各地を移動しました。

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1.土肥へ

[伊豆箱根鉄道]の[修善寺駅]には、コインロッカーがあり、空いているコインロッカーがあったので、大きい荷物をそこに格納することができて、その後の行動が楽になりました。

そこから、[東海バス]に乗って、[土肥]へ移動。(「土肥」は「とい」と読むのだそうです。)

すごい山越えの道でした。

[地理院地図]を使って標高を調べてみると:

 [伊豆箱根鉄道]の[修善寺駅]:約50m

途中、長いトンネルをバスは通過していったのですが、ネット地図で調べてみたら、[船原峠]の下に掘られたトンネルであることが分かりました。

 トンネルの東側口付近の標高:約470m

そこからバスは、土肥の海岸(標高0m)めざして、下っていったのでした。

伊豆半島が、そして、伊豆半島のこのような険しい地形が、いったいどのようにしてできたのか、という点に関しては、下記のような説があるようです。

 [説A]:伊豆半島は、南方の海のかなたからやってきた地塊が、本州に衝突し、隆起してできた。その結果、現在見るような険しい地形ができた。

この件に関しては:

 [伊豆半島ジオパーク] というサイトがあり、その中の下記の部分
  伊豆半島ジオパークについて
   成り立ち

の中に、詳細な記述があります。

しかし、この[説A]に対しては、私としては納得が行かない点があります。

以下、現在の伊豆半島を形成している岩石の集合体の事を、[伊豆地塊]と呼ぶことにします。

[説A]によれば:

 むかしむかし、[伊豆地塊]は、[フィリピン海プレート]の上に「乗って」いた。[日本列島の本州]と離れた場所にあったのだが、徐々に、[本州]に接近していった。そして、ついに、現在のように、[本州]とくっついた。

 むかしむかしから今に至るまでの間、[日本列島の本州]は、[ユーラシアプレート]の上に「のって」いたし、(今も)「のって」いる。

 むかしむかしから今に至るまでの間、[フィリピン海プレート]は、[ユーラシアプレート]の下に、「沈み込んで」いったし、(今も)「沈み込んで」いる。

ということに、なるのでしょう。 

ならば、

 むかしむかし、[フィリピン海プレート]の上に乗りながら、[本州]の近くへやってきた[伊豆地塊]は、[フィリピン海プレート]と共に、[ユーラシアプレート]の下に、沈み込んでいった

ということに、なりはしないのだろうか? このように考えるのが、しごく自然な方向ではないかと、私には思われるのですが。

となると、[伊豆地塊]は、[ユーラシアプレート]の下に行ってしまう、よって、伊豆半島は形成されない、ということになるのでは?

しかし、[説A]によれば、分離的な地殻変動、すなわち、

 [フィリピン海プレート]は、[ユーラシアプレート]の下側に
 [伊豆地塊]は、海の上に

と、いうような事が起こった、ということになります。

私には、この点がどうしても納得いきません。いったいなぜ、このような分離的な地殻変動が起こったのか? この点を明快に説明してほしいなぁと、思います。

[伊豆地塊 フィリピン海プレート]でネット検索すると、これに関連する様々な情報を得られるかもしれません。

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2.土肥で

[土肥]で、昼食時に、キンメダイを食べました。

伊豆半島・西海岸の[土肥]で撮影した動画が、下記です。残念ながら、この日、富士山を見ることは、できませんでした。(翌日の夕方、京都へ帰る途中の、東海道新幹線の車窓からは、きれいに見えました。)

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/kd2Q-gDDuUM

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3.修善寺の温泉街

[土肥]から、[東海バス]を乗り継いで、[修善寺]の温泉街に移動しました。

[独鈷の湯]を見たり、川にかかる橋を渡ったり、[竹林の小径]を歩いたり、快適な散策をすることができました。

宿泊先にした温泉旅館に対して、[夕食無し、朝食あり、1泊]のコースを予約していたので、夕食を、宿泊先とは異なる場所でとりました。

計画立案の段階で、夕食をとる場所の選定に時間がかかりました。

[修善寺]の温泉街にある飲食店のことを、計画立案段階でいろいろと調べてみて、驚きました、閉店時間が早い店が多く、夜に食べに行けるような所が少ないのです。

[修善寺]の温泉街にある宿泊施設に泊まらない人は、夕方になったら別の場所へ移動してしまうし、[修善寺]の温泉街にある宿泊施設に泊まる人の大部分は、宿泊先で夕食をとる。だから、飲食店側は、夕方以降、店を開いていても、客は少ない、だから、夕方になったら閉店、という事情なのでしょうか。

今、[泊食分離]という言葉が、観光の世界で注目を集めているようです。

旅館の稼働率を上げるために、旅館側は、従来の[一泊二食つき]のコースの他にも、[宿泊のみ]、[夕食なし朝食あり]、[夕食あり朝食なし]など、様々な選択肢を宿泊客が選べるような方向にしていってはどうだろうか、という事のようです。

私にとっては、この、[泊食分離]の方向は、とても好ましいです。

[修善寺]の温泉街においても、この [泊食分離]の方向に変化していったら、温泉街の中で夕食をとることができる店が、増加していくかもしれません。

[観光庁 泊食分離]、[泊食分離とは]、[旅館 稼働率]でネット検索すると、これに関連する様々な情報を得られるかもしれません。

宿泊先の温泉旅館で、目がさめてしまったので、未明の時間帯に、露天ぶろに入浴しました。とても気持ちが良かったです。

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4.修禅寺

翌日、宿泊先から徒歩で、[修禅寺]へ行きました。

修[善]寺の温泉街の中に、修[禅]寺は、ありました。

PA1

Pa1

PA2

Pa2

[修禅寺]の公式サイト中の記述によれば、

 正式呼称は、[福地山修禅萬安禅寺](ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)。
 807年、空海によって開創。
 その後、真言宗から臨済宗に改宗。その後、臨済宗から曹洞宗に改宗。

[修禅寺]の公式サイト中の[動物たち]のコーナーに、[護摩](ゴマ)、[空](くう)の名前があります。この日、境内にいたのが、これらの動物なのでしょうか。

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PA5

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5.指月殿

かつて読んだ、[伊賀の影丸](横山 光輝・著)の中に、[夜叉王]という忍者が登場していたのを、今になっても記憶しています。

その後、[修禅寺物語](岡本 綺堂・著)という戯曲があることを知り、その中に、

面造り夜叉王

という人物が登場する、ということを、知りました。そこで、思ったのです、

 もしかしたら、横山光輝氏は、[修禅寺物語]の中のこの登場人物の名を、[伊賀の影丸]の中の忍者の名前に転用したのでは、ないだろうか、と。 

 [修禅寺物語]の[夜叉王]と、[伊賀の影丸]の[夜叉王]との間には、共通するキーワードがあります。それはすなわち、

 [顔]

です。

  [修禅寺物語]の初演は、1911年。
  [伊賀の影丸]の連載発表は、1961年から1966年。

だから、横山光輝氏が、[修禅寺物語]と、その中の登場人物・[夜叉王]について、何らかの知識を持たれていた、という可能性は大きいと思います。

[修禅寺物語 夜叉王]、 [伊賀の影丸 夜叉王]、[青空文庫 修禅寺物語]でネット検索すると、これに関連する様々な情報を得られるかもしれません。

[修禅寺物語]の中には、[源頼家]という人も登場します。

[源頼家]は、[源頼朝]と[北条政子]の子で、鎌倉幕府・第2代将軍に就任した、歴史上実在の人です。

そのような人の墓が、幕府のあった[鎌倉]ではなく、[修善寺]にあるのです、[指月殿]の傍らに。

[指月殿]へは、[修禅寺]から徒歩で行きました。

[伊豆市 観光情報サイト] 中の解説には、

「・・・頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれています。」

と、あります。

 いったいなぜ、[源頼家]の墓は、[鎌倉]ではなく、[修善寺]の地にあるのか?
 [源頼家]の最期は、どのような状態であったのか?

ネットで調べてみたのですが、調べれば調べるほど、分からなくなってしまいました。

例えば、

 [吾妻鑑 明月記 愚管抄 源頼家 北条時政 阿波局 比企氏]

という、複数の言葉から成るキーワードを使用して検索して、複数個の興味深いコンテンツを読むことができたのですが、それらのコンテンツを読んで感じたのが、[関連する史料の信憑性の低さ]ということでした。

[吾妻鑑]には、[源頼家]の最期の様については、何も書かれていないのだそうです。

[愚管抄]には、それが書かれているのだそうです。

でも、[愚管抄]は、京都にいた天台宗トップ(座主)・慈円が、京都で書いたものでしょう。京都からはるか遠く隔たっている関東の地で起こった事を、慈円がどこまで正確に把握できていたのか、極めて疑問に思えます。

今でいう、[情報ソース]の問題です。[源頼家]の最期の様に関して、慈円が得た情報のソースは、いったいいかなる性質のものであったのか? [源頼家]の側近くにいて、彼の最期の様を実際に見た人が、慈円に伝えたものであったのか、それとも、単なる「関東からのうわさ話」程度のものであったのか?

とにもかくにも、[源頼家]のお墓が、そこにありました、私は、墓前に合掌し、頼家公のために祈りました。

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6.韮山反射炉

ここへは、上記にも記したように、[韮山反射炉循環バス]を利用して、行きました。

PB1

Pb1

PB2

Pb2

PB3

Pb3

[伊豆の国市 のサイト]中の
 学び・文化
  文化財
   国指定史跡韮山反射炉
    韮山反射炉とは

に、解説があります。

江戸幕府の代官・[江川英龍]によって、築造が開始されたが、その完成を見ることなく、彼は世を去り、その跡を継いだ息子の[江川英敏]によって築造が継続され、1857年に完成したのだそうです。

その後、1864年までの間、鉄製や青銅製の西洋式大砲が、この炉を使って鋳造されたのだそうです。

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7.願成就院

[韮山反射炉]から、再び、[韮山反射炉循環バス]に乗り、[北条の里]バス停へ移動しました、[願成就院]へ行くために。

[北条の里]バス停にある案内図が分かりにくくて、[願成就院]へ行くのに、時間を費やしてしまいました。その結果、仏像鑑賞にあてることができる時間が、短くなってしまいました。

([願成就院]から[北条の里]バス停まで戻ってきて、また、[韮山反射炉循環バス]に乗らねばなりません。)

「こっちへ行くと、[願成就院]へ行けるよ」という事を示すような、分かりやすい標識が、[北条の里]バス停に、あればいいのになぁ、と、思いました。

[願成就院]にある[運慶]作の仏像は、すばらしいと思いました、とりわけ、[矜羯羅童子(こんがらどうじ)(Kiṃkara)]と[制吒迦童子(せいたかどうじ)(Ceṭaka)]が。

[願成就院のサイト]中の、[寺宝]の部に、それらの仏像の写真があります。

これらの仏像の内部に収められていた木札の記述から、仏像制作を注文したのは、[北条時政]([北条政子]の父)であり、仏像を制作したのは[運慶]である、ということが確かめられたのだそうです。

[北条時政]は、近畿地方に、[運慶]という新進気鋭の仏師がいる、ということを、どこで、どのようにして、知ったのでしょうか?

注文主・[北条時政]と、制作者・[運慶]は、実際に対面・面談した上で、発注が行われたのでしょうか?

(「こんな仏像、つくってほしいんだよねぇ」とかいうような事を、時政が言うのを、運慶が聞いて)。

対面・面談したのだとしたら、どこで、対面・面談したのでしょうか? 関東で? それとも、近畿地方で?

その場所が、京都である可能性も、あるようなのです。下記に、それについての記述があります。

連続講演会「東京で学ぶ京大の知」シリーズ14 美術研究最前線 第1回 運慶研究の最前線 京都大学大学院 文学研究科 根立 研介・教授

[願成就院]の中に、[北条時政]の墓所がありました。

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8.北条の里

「北条の里」と、バス停に名付けるだけあって、ここがまさに、鎌倉幕府の中で大きな権力を獲得した集団・北条氏のルーツの地であるようです。

付近には、[北条政子産湯の井戸]、[史跡北条氏邸跡(円成寺跡)] があるようですが、時間が足りなくて、行けませんでした。

もしも、[北条政子]が[源頼朝]と出会ってなかったら、[北条氏]の名前が日本史の教科書に記述されることは、なかったでしょうね。

人間の、あるいは、氏族の運命は、まことに不可思議、というしか、ないようです。

その付近に、もう一か所、行ってみたい場所があったのですが、そこも、時間が足りなくて、行けませんでした。それは、

 [堀越御所跡]

です。

[足利政知](第8代将軍・[足利義政]の兄弟)は、[鎌倉公方](足利幕府・鎌倉府のトップ)に任命されて関東にやってきたが、様々な事情により、鎌倉まで行くことができず、この地に館を構えた、という事なのだそうです。

[足利政知]には、[足利茶々丸]という息子がいたのだそうです。

[足利茶々丸 北条早雲]、[古河公方 堀越公方]、[結城合戦 春王 安王]、[南総里見八犬伝 里見義実 結城合戦]でネット検索すると、これに関連する様々な情報を得られるかもしれません。

2018年9月21日 (金)

新作動画の発表 [仮想の器 No.4 水 流れる 葉 動く(コンピューターグラフィックス)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

下記でご覧になることができます。

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仮想の器 No.4 水 流れる 葉 動く(コンピューターグラフィックス)
コンピューターグラフィックス 制作者:runningWater
      ( Javaを使用して制作 )

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私が制作した動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

https://creofuga.net/runw
ここをクリックしてください。

新作動画の発表 [仮想の器 No.3 水 流れる(コンピューターグラフィックス)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

下記でご覧になることができます。

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私が制作した動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

https://creofuga.net/runw
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2018年9月18日 (火)

仮想の器 コンピューター・グラフィックスによる動画制作 Java と OpenCV3 を使って

[仮想の器]という制作テーマによる、コンピューター・グラフィックスによる動画制作を行いました。

制作作業の結果、できたのが、下記の動画です。(ユーチューブ上にアップロードしてあります。)

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仮想の器 No1

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/zZxfCUd8DRM

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仮想の器 No2 鳥 動く

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/cEKNc1hPgcA

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仮想の器 No.3 水 流れる

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/sJ0lGW1iek8

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これらは、仮想の器の表面に、あたかも画像が貼り付けられているかのようなイメージとなるように、動画を制作した、というものです。

[仮想の器 No1]においては、貼り付けられる画像は、静止画像ですが、[仮想の器 No2]、[仮想の器 No3]においては、動画の画像が貼り付けられるようにしたので、器の表面の画像が時間と共に変化していくようになっています。

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これらの動画を制作するために使用したものは、下記の通りです。

コンピューター

 CPU : Core(TM) i7-7700HQ
 メモリー : 16 GB
 Operating System : Windows 10 Home, 64ビットオペレーティングシステム

OpenCV3

 opencv-3.4.3-vc14_vc15.exe

Java

 jdk-8u181-windows-x64.exe

なお、

opencv3 と Java を組み合わせて使用する方法については、下記に発表ずみです。

開発費用ゼロ コンピューターグラフィックスによる動画制作 Java OpenCV3 Eclipse を使って

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これらの動画を制作するために作ったコンピューター・プログラムについて、以下に記します。

下記の処理は、opencv3を使用して記述しました。

(1)動画が格納されるファイルへ、画像を書き込む
(2)動画が格納されているファイルから、画像を読み込む
(3)静止画像が格納されているファイルから、画像を読み込む
(4)読み込んだ画像の中の、指定位置のピクセルの色値を、取得する
(5)読み込んだ画像の中の、指定位置のピクセルの色値を、変える 

下記の処理は、Java言語だけを使用して記述しました。

(5)仮想の器の表面を形成する

 3次元空間中に、器の表面を形成するためには、表面の各部分の座標値(3次元空間中での)を算出する必要があります。
 [仮想の器 No1]においては、この算出を、[log関数(対数)]を用いて行うようにしました。
 [仮想の器 No2 鳥 動く]においては、この算出を、[log関数(対数)]と[pow関数(累乗)]を用いて行うようにしました。  

(6)仮想の器の表面の各位置にセットする色値を決定するための、座標値を算出する

 色値の決定は、貼り付けられる画像の中の所定の位置にあるピクセルの色値を取得して行うのですが、その「所定の位置」の座標値を算出する必要があります。

2018年9月15日 (土)

新作動画の発表 [仮想の器 No.2 鳥 動く(コンピューターグラフィックス)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

下記でご覧になることができます。

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仮想の器 No.2 鳥 動く(コンピューターグラフィックス)
コンピューターグラフィックス 制作者:runningWater
      ( Javaを使用して制作 )

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ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

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2018年9月11日 (火)

新作動画の発表 [仮想の器(コンピューターグラフィックス)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

下記でご覧になることができます。

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仮想の器(コンピューターグラフィックス)
コンピューターグラフィックス 制作者:runningWater

      ( Javaを使用して制作 )

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私が制作した動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

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2018年8月15日 (水)

新作音楽作品の発表 言葉にならない想い・第4番

[クレオフーガ](音楽投稿サイト)に、自らが作曲した曲(ピアノ独奏曲)をアップロードしました。曲の題名は、

 I can't put the thought into words well No.4, Op.47
   (言葉にならない想い・第4番)

です。

この曲をお聴きになりたい方は、下記で聴いていただけます。(コンテンツ格納先のサイト運営・クレオフーガのサイトにアクセスして)。

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下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲たち(クレオフーガ・サイト中にあり)

2018年8月11日 (土)

新作動画の発表 [鴨川,京都市]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。バックグラウンド音楽に、自作曲を使用しました。

下記でご覧になることができます。

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撮影地:[鴨川]の岸 京都市内
撮影時:2018年8月

バックグラウンド音楽:名前はまだ無い・第3番, Op.46

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私が制作した動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

https://creofuga.net/runw
ここをクリックしてください。

2018年7月13日 (金)

太平記ゆかりの地 4 笠置寺

太平記ゆかりの地 インデックス

1331年に、打倒・鎌倉幕府の計画を幕府は把握、幕府からの追求から逃れるために、[後醍醐天皇(ごだいごてんのう)]と近臣たちは、京都から脱出し、奈良へ向かった。

[太平記 第2巻 7 天下怪異事] には、その時の事が下記のように記されている。

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(1)京都を出た後、木津川の沿岸付近に達した時、夜が明けた。

[太平記]には、「古津石地蔵(こづのいしじぞう)」という語が記されている。

「古津石地蔵」とは、[泉橋寺](京都府・木津川市)のことである。

ネット上に、この寺に関する情報があった。鎌倉時代に作られた石造の地蔵菩薩坐像(高さ約4.58m)があるようだ。

ネット地図で、この寺の位置を調べてみた。[木津川]の北岸にあるようだ。[国道24]の付近にある。

[木津]の地は、[古津]とも呼ばれていたという。

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(2)奈良に到着した後、東大寺へ行った。

[太平記]には、「南都の東南院」という語が記されている。

「南都」とは、[奈良市]のことである。京都(平安京)に遷都される前、日本の首都は奈良市にあり(平城京)、平城京は平安京の南方にあるので、このように呼ばれるようになったのであろう。

[東南院]は、[東大寺]の中の寺院であったようだ。

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(3)奈良から和束へ移動した。

[太平記]には、「和束の鷲峰山」という語が記されている。

東大寺の多数メンバーが、鎌倉幕府の威を恐れて天皇サイドにつかなかったので、奈良からここへ移動した、という趣旨の事が記されている。

「鷲峰山」とは、[鷲峰山(じゅうぶさん)金胎寺(こんたいじ)(京都府・相楽郡・和束町)のことである。

[和束町]に行くと、広大な茶園がある景観を見ることができる。

下記の写真画像は、私が、2010年10月に、和束町で撮影したものである。

A1

A01

A2

A02

A3

A03

A4

A04

A5 [安積親王]の陵墓が、茶の丘の上にある

A05

[安積親王(あさかしんのう)]は、[聖武天皇(しょうむてんのう)]の次男である。

奈良時代の天皇、となると、多くの人がまず思い浮かべるのが、[聖武天皇]だろう。(大仏殿との連想等で)。

なぜ、この時代を、「奈良時代」と呼ぶのか? 奈良の地(現在の奈良市)が、政治権力の中心、すなわち、首都であったからだろう。

では、いったいなぜ、[聖武天皇]の次男の墓が、奈良から遠いこの和束の地に築かれることになったのだろうか?

[安積親王陵墓]の位置は、ネット地図を使って知ることができる。[恭仁宮大極殿跡]とインプットすると、そのあたりの地図が表示されるだろうから、[恭仁宮大極殿跡]の北東方向を見ればよい。[安積親王陵墓]のある場所、そして、その位置と[恭仁宮大極殿跡]との位置関係が分かるだろう。

[奈良時代]の期間中に、奈良が首都ではなかった期間がある。

[続日本紀(上) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫] 巻第十三 の中に、(406P)

 「十二月十五日 天皇は先発して恭仁宮に行幸し、はじめてここを都と定めて、京都の造営にかかった。太上天皇(元正上皇)と皇后はおくれて到着した。」

とある。

「天皇」とは、[聖武天皇]のことである。
「十二月十五日」は、740年(天平12年)の十二月十五日、である。

ところが、

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫] 巻第十五  の中に、(25P)

 「閏正月一日 天皇は詔(みことのり)して百官を朝堂によび集めた。そして次のように尋ねられた。
 「恭仁・難波の二京でどちらを都と定めるべきか、それぞれ自分の考えを述べよ」と。」

とある。

「閏正月一日」は、744年(天平16年)の閏正月である。

[聖武天皇]のこの問いかけは、「恭仁 平城(奈良) の どちらを都に」ではない、「恭仁 難波 の どちらを都に」である。

この期間、奈良は、[聖武天皇]の関心事の中には無かったのであろう。

天皇以外にも、奈良のことを、「旧都」あるいは、「古都」、「こないだまでは、都やったとこや、そやけど、今はもう・・・」という感覚で見ていた人も、多くいたのであろう。それをうかがわせる以下のような記述がある。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五  の中に、(25P)

 「正月四日 従三位の巨勢朝臣奈弖麻呂・従四位上の藤原朝臣仲麻呂を遣わして市(いち)に行かせ、京をどちらに定めるべきかを尋ねさせた。市人はみな恭仁京を都とされることを願った。ただし、難波京を望む者が一人、平城京を望む者が一人あった。」

とある。 

しかし、結局、[聖武天皇]は、難波宮への遷都を行った。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五  の中に、(25P ~ 26P)

 「正月十一日 天皇は難波宮に行幸された。」

 「この日、安積親王は脚の病(脚気か)のため、桜井の頓宮(河内郡桜井郷)から恭仁京に還った。」

 「正月一三日 安積親王が薨(こう)じた。時に年は十七歳であった。従四位下の大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして葬儀を監督・護衛させた。」

とある。

上記をまとめると、二人が居た場所は、下記のようになるだろう。

     744年・正月十一日  744年・正月一三日
聖武天皇  難波宮        難波宮
安積親王  恭仁京        恭仁京

なので、大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして(恭仁京へ出張させて)、ということになる。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五   の中に、(27P)

 「二月二十六日 左大臣が勅をのべて次のように言った。
  今から難波宮を皇都と定める。この事態をわきまえて、京戸の人々は意のままに両都の間を往来してかまわない。」

とある。 

「二月二十六日」は、744年(天平16年)の二月二十六日である。

「両都」とは、恭仁宮と難波宮を意味しているのだろう。ここにおいても、平城京・奈良は、関心の対象外となってしまっている。

[安積親王]は、このような、恭仁京から難波京への遷都の期間のまっただ中に亡くなった。なので、その墓は、恭仁京の近くに、ということになり、この[和束]の地に定められたのであろう。

740年の十二月から、744年の二月までの4年間、日本の政治権力の中心、すなわち、首都は、奈良ではなく、恭仁京にあったのだ。その間、[和束]は、首都の近郊、まさに、首都圏の中の地であった、ということになるだろう。

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[宇治茶]の原料となる茶葉は、京都府、奈良県、滋賀県、三重県で栽培されているのだそうだ。[和束]の地から出荷されて[宇治茶]になる茶葉もあるのだろう。

([宇治茶の定義]、[和束産 宇治茶]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。)

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(4)和束から笠置へ移動した。

[太平記]には、「南都の衆徒少々召具せられて、笠置の石室へ臨幸なる」と記されている。

「笠置の石室」とは、[笠置寺](京都府・相楽郡・笠置町)のことである。

[笠置寺]は、[笠置山]の上の方にある寺院である。

ネット地図を使用して、[笠置駅]とインプットすれば、この山の位置を知ることができるだろう。[JR西日本・関西本線 笠置駅]の南東方向にある。

2009年11月に、私は、[笠置寺]へ行った。下記にある写真画像は全て、その時、私が現地で撮影したものである。

B01 加茂駅から笠置駅まで、これに乗っていった

B01

B02 笠置駅から南東方向へ歩いていって、ここに着いた

B02

「史の道 ハイキングコース」という表示板がある方の道を、歩いて行くことにした。[笠置寺]にたてこもる天皇サイド軍勢を攻めるために、この地へやってきた鎌倉幕府サイドの人々は、この道を行ったのであろうと、想像したので。自分が幕府軍のメンバーになったつもりで、かつての彼らの進軍を追体験しようと思ったのである。

B03 先に進んでいったら、このような道に

B03

B04

B04

「追体験」のこの登り坂で、自らの体力の少なさを思い知った。幕府軍メンバーは、この道を、武器を持ちながら登っていったのであろう。すごい体力!

B05

B05

B06 ようやく、[一の木戸跡]へたどりついた

B06

ここが、[太平記 第3巻 2 笠置軍事 付 陶山小見山夜討事] の中で、[足助次郎重範(あすけじろうしげのり)]が矢を射た、とされている場所、[本性房(ほんじょうぼう)]が岩を投げた、とされている場所なのだろう。

(太平記に記されている事は、史実かどうか分からない。)

ここから先は、幕府軍サイドではなく、後醍醐天皇サイドに所属を変えて(天皇軍のメンバーになったつもりで)の追体験に、チェンジすることにした。そうしないと、ここから上へ行くことができないから。(太平記には、幕府軍メンバーたちの進軍が、ここでストップした、というように記述されている。)

B07 [一の木戸跡]に立って、下を見ると、このようなかんじ

B07

幕府軍を迎撃している天皇軍メンバーからの視点では、このようなかんじになる。

B08

B08

B09

B09

B10 更に歩を進めて、笠置寺へ

B10_2

B11 着いた

B11

B12 寺の門をくぐると、巨岩が

B12

B13 巨岩に彫られた弥勒菩薩(maitreya:マイトレーヤ)

B13

いわゆる、[摩崖仏]である。しかし、菩薩の姿が無い。

この時の幕府軍の攻撃により、焼失してしまったので、このような姿になっているのだ、と、されているようだ。

でも、岩に彫られた仏像でしょ、燃えたりなんかしないでしょ、と思うのだが・・・。

この事に関して、ネットで調べて、

[日本経済新聞]のサイト中の[コラム(地域)]コーナー中の

 [姿・由来、伝説につつまれ 笠置寺磨崖仏(もっと関西)]
 2017/11/15 17:00

というコンテンツを見つけた。その中に、

 仏が刻まれていた花こう岩は、炎にあぶられると表面が剥がれたり割れたりする。

との趣旨の、[日本石材産業協会]の見解が、記されている。

B14 巨岩に彫られた虚空蔵菩薩(Ākāśagarbha:アーカーシャガルバ)

B14

B15 巨岩の間をくぐりぬけていく道がある

B15

B16

B16

B17

B17

B18 見晴らしのいい場所に出た

B18

B19 ゆるぎ石

B19

説明板には、下記のようにあった。

 「・・・この石は奇襲に備えるため武器としてここに運ばれたが使用されなかった。重心が中央にあり人の力で動くため”ゆるぎ石”といわれている。」

B20

B20

B21

B21

B22 後醍醐天皇行在所跡

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B23 後醍醐天皇行在所跡

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B24 カエデが多数ある場所があった

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B25

B25

B26

B26

[笠置山]から下りて、笠置駅まで歩いた。

B27 笠置駅の構内に、このようなものがあった。弓を持っているのが[足助次郎重範]、岩を持ち上げているのが、[本性房]だろうか。

B27

B28 笠置駅の構内で撮影

B28

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[笠置寺公式サイト] 中の [笠置寺について] 中の記述によれば、

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弥生時代から、笠置山の巨石は信仰の対象となっていたという。それを示すのが、弥生時代の有樋式石剣である。

実際に建物が建てられ人が住み着いたのは1300年前であり、鎌倉時代に、藤原貞慶(後の解脱上人)がここを拠点とした。

江戸中期より荒廃し、明治時代初期に、住職不在の寺になってしまったが、その後、復興し、現在に至る。
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と、いうことなのだそうだ。

[太平記 第12巻 4 千種殿並文観僧正奢侈事 付 解脱上人事] にも、解脱上人が[笠置寺]に入った事が、記されている。

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[笠置寺]に行ってみて思うに、ここは、[後醍醐天皇]らがたてこもるには不適な場所だったのではないだろうか。

[地理院地図]を使って、[笠置駅]で検索すれば、このあたりの地形を把握することができると思う。おおよその地形は標高線から読み取れるだろうし、標高を知りたい地点があれば、そこをマウスでクリックすればよい。

私が調べた結果は、以下の通りである。

 笠置駅 標高 約 54m
 行在所跡 標高 約 262m

標高差200m、急襲するとなると、攻めにくい場所であろう。

しかし、この山の周囲を、鎌倉幕府軍がビッシリと隙間なく包囲してしまっての持久戦になったならば、笠置寺は、たてもこりメンバーたちの食料を確保することが不可能となってしまうだろう。

水の確保については、もしかしたら、山のどこかに湧水があるのでOK、ということに、なるのかもしれないが。

スペースの問題もある。笠置寺の境内を見た感じでは、大軍勢が駐屯できるような場所が無いように、思われた。

だから、幕府軍サイドが攻め急がず、兵糧攻めにしていたら、天皇サイドは降伏するしか他になし、という状態になっていた可能性が十分にあると思われる。

ところが、[太平記]では、思わぬ展開となり、天皇サイドは一気に崩れた、ということになっている。

その「思わぬ展開」は、[陶山(すやま) and 小見山(こみやま)グループ]により編成された[コマンド部隊]によって、引き起こされた、ということになっている。

[太平記 第3巻 2 笠置軍事 付 陶山小見山夜討事] に、[陶山 and 小見山グループ50余人]が登場する。

グループのリーダー2人の名は、「備中国の住人 陶山藤三義高(すやまとうぞうよしたか) 小見山次郎某(こみやまじろうなにがし)」と記されている。グループメンバーの「陶山吉次(よしつぐ)」の名も、登場する。

彼らは、幕府軍が集中的に攻めているのとは異なる笠置山の別の斜面を、夜間に登って、笠置寺に侵入しようと試みた。

彼らが行ったルートは、[笠置寺]の北側の斜面であると、太平記では、している。

 「城の北にあたりたる石壁の数百丈聳(そびえ)て、鳥も翔(かけ)り難き所よりぞ登りける」

[地理院地図]を使って、[笠置寺]の北側斜面を見てみるに、確かに、この方面においては、等高線の間隔が短く、急峻な斜面のようだ。しかし、「笠置北壁」とも称せられるほどの絶壁、という感じではない。

しかし、太平記の記述では、そのルート上には、彼らの前進を阻む大岩壁があった、としている。

この箇所を、私は、以下のように、現代語に翻訳した。

太平記 現代語訳 3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣

より:

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9月末日の夜、漆黒の暗闇の中、目指す方向さえ不分明、風雨は荒れ狂い、顔を正面向けてはおれないほど。

陶山グループ50余人は、太刀を背に背負い、小刀を腰の後ろに差し、笠置寺北方の断崖、鳥も駆け上がれまいと思われるような高さ数百丈の岩壁にとりつき、登山を開始。

二町ほどは、なんとかかんとかして登ってはみたものの、その上には、さらに険しい断崖がそびえたっているではないか・・・屏風を立てたかのごとく岩石は重なり、古松は枝を垂れ、青苔に覆われた滑りやすい表面。

陶山グループ一同 あぁ・・・。

いかんともしがたく、はるか上方を見あげながら立ちつくす陶山グループの面々・・・。

陶山義高 よし、おれが登ってみるけぇのぉ。

彼は、岩の上をサラサラと走り登り、用意した例の縄を上方の木の枝にかけて、下の方におろした。

陶山グループ一同 おぁ、やったじゃねぇかぁ!

彼らは、陶山義高が垂らしたロープを握り、その一番の難所を易々と登り切ってしまった。
========

[笠置山]の北側斜面には、上記にあるような断崖が、実際にあるのだろうか?

そのような箇所があるのだとしたら、そこは、鎌倉時代の武士たちが、縄を使ったロッククライミングでもって、登っていけたような場所なのだろうか?

現在に至るまでの700年間の、雨水による浸食により、山登りの困難さが軽減されている可能性はあるが。

これに関しては、山登りに熟達している方々の見解を、お聞きしたいところである。

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[陶山 and 小見山グループ]の人々は、現在の岡山県・[笠岡市]を本拠としていたようだ。[笠岡市 陶山氏]でネット検索したら、様々な情報へのエントリーが表示された。

私はかつて、Web上に開設したサイト(ブログではなかった)に、現代語に翻訳された太平記(私が翻訳した)をアップし続けていたのだが、その時に、そのコンテンツによる縁でもって、[陶山 and 小見山グループ]の事を調査しておられるある方と、面談する機会があった。

その際に、その方に、[陶山 and 小見山グループ]の人々の、現代語訳中でのせりふに関する方言指導を、お願いした。できる限り、彼らの地元の言葉(現代の)を使って、彼らに語らせたかったからである。

その方は、私のその願いを受諾され、その方の知人と共に、方言指導を行ってくださった。

[太平記 現代語訳 3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣] 中の、[陶山 and 小見山グループ]の人々のせりふは、そのようにして成立した。

[陶山 and 小見山グループ]が、笠置寺の境内で放火し、天皇サイドはパニック状態になり、それを見た幕府サイドは急襲をかけ、天皇サイドは敗退した。しかし、この幕府軍の猛攻をかいくぐり、後醍醐天皇と近臣らは、笠置寺から山麓の地へ脱出したと、太平記には記されている。

この山の、いったいどのルートを通って、脱出したのだろう? あまり人には知られていない、けもの道でも、あったのだろうか?

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[陶山 and 小見山グループ]の人々の、鎌倉幕府内での地位は、この笠置での戦の功績によって、急上昇したのかもしれない。

[太平記] 第8巻、第9巻に、[陶山次郎]という人が登場する。鎌倉幕府側の極めて重要・強力メンバー、という感じで、一軍を率いて戦っている。

しかし、その後、[陶山 and 小見山グループ]の人々の運命は、暗転してしまったようだ。

彼らは、鎌倉幕府・六波羅探題サイドの人々と共に、京都を脱出し、鎌倉へ逃げようと試みたが、滋賀県・米原市の付近で、先に進めなくなってしまい、そこで自害した。

[太平記 第9巻 8 越後守仲時已下自害事] の中にある、亡くなっていった、鎌倉幕府サイドの人々の氏名の中に、

 陶山次郎
 陶山小五郎
 小見山孫太郎
 小見山五郎
 小見山六郎次郎

の名がある。

米原市の公式サイト中に、[紙本墨書陸波羅南北過去帳]というコンテンツがあり、そこには、以下のように記されている。

 「・・・蓮華寺第三代の同阿良向が、元弘3年(1333年)5月9日に自害した仲時ら六波羅勢のうち姓名のわかる189人の交名を記した。」

この[紙本墨書陸波羅南北過去帳]の中には、[陶山]姓、[小見山]姓の人々の名があるという。([蓮華寺 過去帳 陶山]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。)

鎌倉幕府・六波羅探題の人々と最後まで行動を共にした結果、このような事になってしまった。

最後の最後まで、六波羅探題の人々についていく・・・幕府側のスターとなった彼らには、それより他に、行く道が無かったのかもしれない。

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