2018年1月16日 (火)

太平記 現代語訳 20-8 義貞の乗馬、暴れる

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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うるう7月2日、「いよいよ足羽(あすは)城攻め、開始!」との伝達が回り、越前(えちぜん)国中の新田サイド勢力が、河合庄(かわいしょう:福井県・福井市)の新田義貞(にったよしさだ)の陣営に集まってきて、雲霞(うんか)のごとき大軍勢となった。

大将・新田左中将(さちゅうじょう)義貞は、赤地錦の直垂(ひたたれ)に、鎧の脇立てだけを装着して、中門脇の廊下に座り、その左の一番座には、紺地の錦の直垂に、小具足(こぐそく)だけを装着した、脇屋義助(わきやよしすけ)が座る。

その他、山名(やまな)、大館(おおたち)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、一井(いちのい)、細屋(ほそや)、中條(なかじょう)、大井田(おおいだ)、桃井(もものい)以下の、新田一族30余人が、思い思いの鎧兜、色とりどりの太刀、刀を帯び、美麗を尽くして、東西2列の座に連なる。

新田一族以外からは、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)をはじめ、禰津(ねづ)、風間(かざま)、敷地(しきぢ)、上木(うえき)、山岸(やまぎし)、瓜生(うりう)、河嶋(かわしま)、大田(おおた)、金子(かねこ)、伊自良(いじら)、江戸(えど)、紀清両党(きせいりょうとう)以下、陣営に参加の軍勢3万余人が、旗竿を傾け、膝を屈し、手をつかねて、屋内庭前に充満。

由良(ゆら)と舟田(ふなだ)に大幕を掲げさせ、大将・新田義貞が一同に目礼するや、全員一斉に座を立って、いざ出陣!

その、巍々(ぎぎ)たる装い、堂々たる様・・・「足利尊氏(あしかがたかうじ)から天下を奪う人、それはこの、新田義貞!」・・・その時その場に居合わせたすべての者の思いは、一致していた。

今回の戦の軍奉行(いくさぶぎょう)を勤める上木平九郎(うえきへいくろう)が、人夫6,000余人に、幕、垣盾(かいだて)、埋草(うめくさ)、塀柱(へいばしら)、櫓建設のための資材を持ち運ばせてやってきた。

さぁ、いよいよ大将の出陣。

義貞は、中門の前で、鎧の上帯を締めさせた。そして、「水練栗毛(すいれんくりげ)」という名前の体長5尺3寸もある大馬に、たずなを打掛け、門前でそれに乗ろうとした。

その時、急に馬が暴れだした。狂ったように躍り上がり、左右にいた馬の口取り2人がこれに踏まれて、半死半生状態になってしまった。

示された不思議は、これだけでは無かった。

戦場へ向かう途中、義貞のすぐ後に続いていた旗手が足羽川(あすはがわ)を渡る時、彼の乗馬が急に川の中に伏してしまい、旗手は水びたしになってしまった。

このような不可思議な事象が、事前に義貞の凶なる運命を暗示していたのであったが、

新田軍メンバーA (内心)うーん・・・まいったなぁ・・・。

新田軍メンバーB (内心)戦に臨む途上に、凶事が2件も・・・。

新田軍メンバーC (内心)でもなぁ、もうすでに、出陣してしまったことだし・・・。

新田軍メンバーD (内心)今さら引き返すわけにも、いかんだろうぉ。

新田軍メンバーE (内心)あぁ、誰か、「おい、この戦、エンギ悪いから引き返そうや」って言い出してくんねぇかなぁ。そしたら、おれも賛成するんだけどぉ。

新田軍メンバーF (内心)あぁ、みんな黙々と進んでいく・・・しようがねぇなぁ。

新田軍メンバーG (内心)それにしても・・・どうにもエンギが悪いんだ・・・いやぁな予感がして、しょうがねえや。

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2018年1月15日 (月)

太平記 現代語訳 20-7 新田義貞に示された不思議

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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その7日後、

新田義貞(にったよしさだ) うん?・・・おれが今居る所は、いったいどこだ?・・・ふーん、どうも、足羽城近くの川のほとりのようだなぁ。

新田義貞 こちらの岸には、我が軍のメンバーたち、あちら岸にいるのは、斯波高経(しばたかつね)・・・両軍対峙してからもう数日も、戦いを交えないままに経過している・・・。

新田義貞 ややっ、これはいったいどうしたことか! おれの体が変身していく! どんどん大きくなっていくぞ、おぉーっ!

新田義貞 こりゃぁ驚いた! おれは、長さ30丈ほどの大蛇に変身してしまったではないか!

新田義貞 フフフ・・・高経め、おれの姿に驚いて、逃げ出しやがったぞ。兵をまとめ、盾を捨てて、数10里ものかなたにまで逃げていっちまいやがった・・・ワッハハ、ザマァ見ろーー!

新田義貞 (ガバッ)・・・うん?・・・あぁ・・・夢だったのか・・・。

義貞は、朝早く起きて、この夢を周囲の者らに語った。

新田軍リーダーA ほっほぉ、殿が大蛇に変身とはねぇ。それっていってぇ、どういう意味がこめられた夢なんでしょうかねぇ?

新田軍リーダーB 大蛇も龍も、共に爬虫類、同類ですわなぁ。龍は、雲雨(うんむ)の気流に乗り、天地を動かす動物であると言われてますよ! とにかく、これは、めでたい夢ですわさ。

新田軍リーダーC 殿、夢の中で、斯波高経は、龍になった殿の姿を見て、こわがって逃げだしちゃったんでしたよねぇ?

新田義貞 うん。

新田軍リーダーC 古代中国の葉子高(ようしこう)は、龍が好きでよく絵に描いていたそうですけどね、ある日、本物の龍が天から舞い下りてきたのを見て、恐れおののいて逃げ出しちゃってね、とうとう、魂まで失っちまったって、いいますよ。斯波高経も、近いうちに、雷鳴のごとき殿の威力を恐れて、スタコラ逃げ出すってぇような・・・まぁ、なんと申しましょうか、これはいわゆる、「予知夢」の類(たぐい)じゃぁないでしょうかねぇ。

この会話を垣根ごしに聞いていた斉藤道献(さいとうどうけん)は、眉をひそめ、密かに周囲に語った。

斉藤道献 テヘ! ナニ言ってやがんでぇ、ったくもう! めでてぇ夢でもなんでもねぇよ、殿の見なすったあの夢はな。

新田軍メンバーD えぇ?

斉藤道献 「凶」を告げる天からの声だよ、あれは。

新田軍メンバーD いったいどうして?

斉藤道献 あのなぁ、昔、中国に、「三国時代(さんどくじだい)」という時代があってなぁ・・・。

新田軍メンバーD うんうん・・・。

斉藤道献が語った話は、以下の通りである。

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中国の三国時代、それは、呉の孫権(そんけん)、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の3人が、中国400州を三分して支配した時代であった。3人とも目指す所はみな同じ、他の2国を亡ぼして、自らが中国を統一しようとしていた。

曹操は、才智においてひときわ抜きんでており、謀略を陣幕の内に運(めぐ)らし、敵を国の外に防ぐ事ができた。

孫権は、優しさと厳格さを時宜に応じてよく使い分け、士を労(ねぎ)らい、衆を慰撫(いぶ)したので、国を賊し政治を掠める者たちは競って、彼の下に参集し、邪に帝都を侵し奪った。(注1)

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(訳者注1)孫権についてのこの記述、どうも解せない。三国志にも三国志演義にも、「帝都を侵し奪った」というような記述は一切無いのだが。
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劉備は、漢の皇族の血筋に連なる人で、その心は仁義を守り、利欲にとらわれることがなかった。ゆえに、忠臣や孝子が、四方から彼の下に集まってきた。彼らの力を活用して、劉備は大いに文教を図り、武徳を高めた。

この3人は、「智」、「仁」、「勇」の三徳をもって、中国全土を分割支配、呉魏蜀の三都は相並び、鼎(かなえ)の3本の足のごとくに対峙した。

その頃、諸葛孔明(しょかつこうめい:注2)という賢才の人が、世を避け身を捨てて、蜀の南陽山(なんようさん)(注3)に住んでいた。

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(訳者注2)姓は「諸葛」、名は「亮」、あざなは「孔明」。以下、[「諸葛孔明」 植村清二著 中央公論社 1985.11.10 ISBN4-12-201275-9 C1123]の「四 孔明の出身」より引用。

 「中国語は日本やヨーロッパの言語と違って、単綴語であるから、氏族の名称も楊(隋)・李(唐)・趙(宋)・朱(明)というような単姓が普通である。もっとも司馬・公孫・長孫・欧陽・夏侯というような複姓もいくらかあるが、それらは官職や住地に基づいた由緒が明らかである。諸葛というような姓はすこぶる珍しい。」

(訳者注3)諸葛孔明が住んでいた伏竜岡は、蜀の地(四川盆地)ではなく、長江中流域・荊州(けいしゅう)である。「孔明の草廬(住居)は襄陽の西北20里(8キロ)ばかり、隆中山の東麓にあった。」(上記同書より引用)。

当時、劉備は荊州を支配する劉表の配下にあり、そこで孔明に出会ったのである。その後、勢力を伸張した劉備は、蜀をも支配するようになり、蜀の成都に居を移した。劉備を「蜀の劉備」と呼ぶのは、そこから来ている。
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寂を釣り、閑を耕して歌う孔明の、次のような詩が残されている。

 斉(せい)国の城門を出(いで)て 歩み行き
 遥かに蕩陰の 里を望む
 里中に 三つの墳墓(ふんぼ)あり
 形同じく塁々(るいるい)と並ぶ その塚を見て
 私は問うた これは何家の墓なるや

 それは 田疆と古冶子の墓であった
 その才気 南山を圧倒し
 その智慧 世界に冠絶す
 しかしながら 一朝にして讒言せられ
 3人に送られた2個の桃を争って 彼らは共倒れとなってしまった
 いったい誰が かくなる謀略を練ったのであるか
 斉の大臣・晏子(あんし)こそ まさにその張本人

(原文)
 歩出斉東門
 往到蕩陰里
 里中有三墳
 塁々皆相似
 借問誰家塚
 田疆古冶子
 気能排南山
 智方絶地理
 一朝見讒言
 二桃殺三士
 誰能為此謀
 國将斉晏子

蜀の智臣(注4)がこれを読み、孔明が賢人であることを悟って、劉備にいわく、

臣下H 殿、諸葛亮こそは、天下の賢人にてござりまするぞ。彼をお招きになって高位高官を与え、国の政治を見させたもうてはいかが?

劉備 よし。

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(訳者注4)一説によれば、孔明を劉備に推薦したのは、徐庶(じょしょ)であった。
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劉備はすぐに、豪華な進物品を用意して、孔明のもとを訪れた。

劉備 諸葛殿、なにとぞ、わしのもとへ来て、国の政治を見てはくださらぬか。わしのたっての願いじゃ・・・これ、この通り・・・。

このように、礼を厚くして招いたが、孔明は、

諸葛孔明 劉備殿のたってのお招き、恐悦至極(きょうえつつしごく)に存じまする。しかしがら、私めといたしましては、お招きをお受けすること、あいなりませぬ。

劉備 なに故じゃ?!

諸葛孔明 谷の水を飲みて岩の上に暮らし、一切の野心を捨てて気楽なる生涯を送る・・・これに勝る楽しみなど、他にありましょうや。

劉備 ・・・。

しかし、劉備はあきらめず、孔明の草庵を三度訪れて、彼への説得を繰り返した。(注5)

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(訳者注5)ここから、「三顧の礼(さんこのれい)」の言葉が生まれた。
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劉備 かくなる不肖の身とはいえ、わしは、天下の太平を求めて止まぬ。自身を安ずるためとか、欲を縦(ほしいまま)にせんとか、さような心を持って生きておるのではない。見よ、今のこの世のありさまを! 人道は地に落ち、至る所で、民は苦しみに沈んでおるではないか! わしはのぉ、ただただ、彼らを、あの苦しみの中から救いたいと思う、それだけじゃ・・・。

諸葛孔明 ・・・。

劉備 いみじくも、かの孔子様は言われたそうな、「善人が国を治むること百年にして、民に悪をなさしめず、死刑の必要無からしむるに至る」と。しかしながら、貴殿がその溢れんばかりの才能を発揮して、わしを補佐してくれるなれば、百年もかけずとも、そのような社会を形成できるであろう。

諸葛孔明 ・・・。

劉備 石を枕にし、泉に口すすいで、隠棲(いんせい)を楽しむ、たしかにそれもまた、一つの人生。じゃがのぉ、そのような人生など、しょせん、「自分の為だけの人生」に過ぎぬではないか。国を治めて民を利し、大いなる善政をもって社会を改革していく、これこそがまさに、「万人の為の人生」というものであろうが!

このように、誠意を尽くし、理(ことわり)を究(きわ)めて説く劉備の前に、ついに孔明も辞する言葉に窮してしまった。

諸葛孔明 ・・・あい分かりました。殿の御意(ぎょい)のままに。

劉備 おぉ! わしのもとに来てくれるかぁ!

諸葛孔明 ははーっ!(平伏)

このようにして、諸葛孔明はついに、劉備の宰相となった。

劉備は、孔明に対して絶大なる信頼を寄せた。

劉備 孔明がおってこそ、わしは生きていけるのじゃよ。水があるから、魚が生きていけるようなものじゃな。(注6)

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(訳者注6)ここから、「水魚の交わり」の言葉が生まれた。
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劉備はついに、孔明に公侯の位を与え、「武公(ぶこう)」の号を与えた。

こうなると、劉備のライバルたちも、気が気ではない。

曹操 (内心)劉備に、臥竜(がりょう)孔明がくっついてしまいおったわ・・・いかん・・・このままでは、天下は劉備のものになってしまう!

そこで曹操は、司馬仲達(しばちゅうだつ)という将軍に70万騎の兵を率いさせて、劉備を攻めさせた。

これを聞いた劉備は、孔明に30万騎の軍勢を与え、魏・蜀の国境地帯の五丈原(ごじょうげん)という所へ差し向けた。(注7)

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(注7)この記述は、史実と大きく違っている。五丈原での対決は、曹操、劉備の死後の事である。しかも戦を仕掛けたのは孔明の方であり(魏国領域への侵攻を図った)、司馬仲達はこれを防ぐ側の立場にあった。
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魏と蜀の兵が川を隔てて対峙すること50余日、司馬仲達は一向に戦端を開こうとしない。魏軍サイドでは、次第に馬は疲れ、食料も日々に乏しくなってきた。

魏軍リーダーI 将軍、わが軍の食料、底をつきかけておりまするぞ。

魏軍リーダーJ このままでは、わが方はジリ貧。

魏軍リーダーK 直ちに、蜀と戦い始めた方が、よろしいのでは?

司馬仲達 いや、あいならぬ!

ある日、魏軍にとらわれた蜀側の芻蕘(すうじょう:注8)に、司馬仲達がたずねた。

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(訳者注8)草を刈ったり薪を確保する役目の者。
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司馬仲達 なんじらの将軍、諸葛孔明は、蜀の陣をどのように、取り仕切っておるのかの?

芻蕘L へぇ、そりゃぁもう! わしらの将軍・孔明さまはな、士卒をいたわり、まっこと礼儀をつくして、わしらに接してくださりますでよ。一椀の豆を食うにも、みんなに分けていっしょに食いなさるしな、酒一樽あけても、川に注いで大地と共に飲みなさるだよ。わしらがもの食わねぇうちは、孔明さまも、ご自分の食事に箸つけられねぇ。わしらが雨露に濡れてる時にゃぁ、油ぁ塗った天幕張らずに、わしらといっしょに、雨に濡れてなさるだ。楽しみはまず、みなに与え、自分を一番後まわしにされる。でも、愁いとなったら、万人に先んじてお受けになる。

司馬仲達 フーン・・・。

芻蕘M それだけじゃぁねえよ。夜明けまで一睡もなさらんとな、自ら陣中を回られて、緩みが見えてる所を引き締めなさるんだ。朝から夕まで、顔を和らげて、みなと親しく交わられるだよ。孔明さまが自分の為に何かされているとことか、身を休めておられるとか、そういった事なんか今まで、一瞬たりとも見たことねぇだよ。

司馬仲達 ホーォ・・・。

芻蕘N こんなお方が将軍やってなさるんだからよぉ、わしら蜀軍30万は心を一つにして、自分の命もおしまねぇ。太鼓を打って前進するにも、鐘を叩いて後退するにも、すべて、孔明さまの命令通りってわけさなぁ。

司馬仲達 ヘーェ・・・。

芻蕘たち ・・・。

司馬仲達 諸葛孔明について、他に言いたいことは?

芻蕘L わしが知ってる事はみんな言っちまっただ。それ以上の事までは、わしらシモジモのもんには分かんねえよ。

これを聞いた司馬仲達は、

司馬仲達 我が方の兵は70万騎、その心は、全員ばらばらじゃ。それにひきかえ、孔明の兵30万騎は、心が一つになっておる。ならば、戦ってみても、わが方が蜀に勝利することなど、到底、期しがたい。しかし、孔明が病に伏す時、それに乗じて戦わば、必ずや勝利を得るであろう。

魏軍リーダーM いったいなぜ、孔明が病に?

司馬仲達 見よ、この炎暑を。かくなる気候のさ中に、あのように孔明は、昼夜、心身を労しておるのじゃ。温気(うんき)が骨に侵み入り、病にならずにはおらりょうか。

かくして、司馬仲達は、自軍の士卒らの嘲りも気にせず、蜀からますます遠くに陣を引き、ただじっと数ヶ月を送っていった。

魏軍リーダーN 「そのうち孔明が病を得る」とな? はてさて、司馬仲達殿はいったいいつから、軍人から医師に商売替えされたのやら。

魏軍リーダーO いやいや、たとえ医師であろうとも、40里も彼方の人間の脈を取り、その健康状態を診断することなど、できようや?

魏軍リーダーP ふふん、見え透いた事よ。孔明の臥竜の威力を恐れて、あのような言い逃れをしておるのじゃわい、ハハハ。

魏軍メンバー一同 ワハハハハ・・・(手を打って大笑い)

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ある夜、両陣営の対峙する間の空に、奇怪な星が輝きはじめた。火のように赤々と輝くその光を見て、司馬仲達はいわく、

司馬仲達 今から7日のうちに、天下の人傑が死ぬ・・・あの星はその予兆じゃ・・・そうじゃ、諸葛孔明がいよいよ、この世を去る時が来たのじゃよ・・・。魏が蜀を併呑(へいどん)する日も、遠くはないぞ。フフフ・・・。

果たして、その翌朝より孔明は病に伏し、7日後に陣幕の中に没した。

蜀の副将軍らは、魏軍がこれにつけこんで攻撃をしかけてくるのを恐れ、孔明の死を秘して、「将軍の命であるぞ!」と触れ、兵を並べ旗を進めて、魏陣へ突撃した。

司馬仲達は、もとから戦いを交えて蜀に勝つことはできないと思っていたので、一戦もせずに、馬に鞭打って走ること50里、険阻な場所に到達して、ようやくそこで軍を止めた。

今に言う、「死せる孔明、生ける仲達を走らしむ」とは、この司馬仲達の行動を嘲った言葉なのである。

戦闘終了の後、孔明の死を聞いて、蜀の兵は全員、司馬仲達の軍門に降った。

この後、蜀がまず滅び、呉もそれに続いて滅び、魏の曹操はついに中国全土を統一した。(注9)

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(訳者注9)これも史実と違う。曹操はこれよりもずっと前に没している。魏は蜀を亡ぼしたものの、国の実権は完全に司馬仲達の子孫らに奪われ、司馬仲達の孫・司馬炎に滅ぼされた。司馬炎が建てた晋国が呉を併呑して、中国は統一され、三国時代は幕を閉じた。
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新田軍陣営の方に、話を戻そう。

斉藤道献 以上のような故事をもとに、殿の見られた夢を、「夢判断」してみるにだなぁ・・・。

斉藤道献 まず、今の国内情勢は、闘争が続いた中国・三国時代に共通する面が、大いにある。

斉藤道献 次に、「殿が龍に変身された」という点だが・・・龍は「陽気」に向かう時は威力を振るい、「陰」の時に至っては蟄居(ちっきょ)の扉を閉ざす、と言われてるんだなぁ。時は今7月、まさに初秋、「陰」が始まる時じゃないか。

斉藤道献 「龍の姿で水辺に臥せってた」って、殿は言われてたよな。これも、孔明が「臥龍」と呼ばれてた事にピッタシ合うじゃん!

斉藤道献 その孔明は、結局どうなった? 皆は、「目出度い夢だ」なんて言って、殿といっしょに、はしゃいでるようだけど、わしにはどうしても喜べんぞ。

このように、眉をひそめて言う斉藤道献の言葉に、そこに居合わせた人々も、

新田軍メンバーD (内心)なるほどなぁ。

新田軍メンバーE (内心)うーん、なるほど。

新田軍メンバーF (内心)でもなぁ・・・殿もあんなに喜んでおられることだし・・・「殿ぉ、殿の見られたその夢は、凶夢ですぜ!」なんて、おれにはとても言えねぇなぁ。

新田軍メンバーG (内心)あぁ、やだやだ! こういう忌み憚られるような事は、この際、何も聞かなかった事にしておこうっと。

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2018年1月14日 (日)

太平記 現代語訳 20-6 新田義貞、再び足羽城攻めを計画

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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脇屋義助(わきやよしすけ) ・・・と、いうわけでねぇ・・・。

新田義貞(にったよしさだ) そっかぁ、そんな事になっちまったのかぁ・・・。

脇屋義助 ・・・。

新田義貞 八幡の連中らを支援しつつ、スキあらば京都を攻略、ということで、進軍を急がせたんだけどなぁ・・・互いの手違いで好機をムザムザ逃しちまったか・・・うーん、残念!

脇屋義助 面目ない・・・アニキ・・・(がっくりと頭を垂れる)

新田義貞 ハハハ・・・まぁまぁ、そう落ち込むなって、義助! ものは考えようってもんさね。これで、じっくり腰を落ち着けてさぁ、越前の敵勢力を完全に退治できるようになったって、わけじゃぁねえの! 越前をしっかりかためてから、また、吉野としめし合わせて、京都を攻めりゃいいんだわさ。

脇屋義助 うん!

新田義貞 今度は、おれとお前といっしょに、一戦やらかそうやぁ! 河合庄(かわいしょう:福井県・福井市)へ打って出て、足羽(あすは)の城を落としちまうんだ!

脇屋義助 よーし!

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これを聞いた、足利・北陸方面軍大将・斯波高経(しばたかつね)は、

斯波高経 こっちはわずか300騎足らず、新田軍は3万余騎。城を囲まれてしまったら、千に一も勝ち目はないな。

斯波軍リーダー一同 ・・・。

斯波高経 方々の道路もすでに、新田軍に全て塞がれてしまった、と言う情報もあるからなぁ・・・たとえ城から脱出しても、どこまで逃げれるもんやら・・・。

斯波高経 こうなったらもう、「討死あるのみ!」って覚悟固めて、城の守りをかためる以外、どうしようもないだろうが、えぇ? なぁ、みんな!

斯波軍リーダー一同 その通りです!

斯波サイドは、本拠地の周囲一帯の深田に水を入れて馬の足を立たないようにし、道路の随所に堀を切り、落とし穴を仕掛け、橋を外し、溝を深くして、防御をかためた。自らの支配エリア内に7つの城砦(じょうさい)を建設し、敵が攻めてきたら互いに助けあいながら挟撃(きょうげき)できるようにしていた。

この足羽(あすは)の地は、藤島庄(ふじしましょう)に隣接しており、7つの城の半ばが、藤島庄(ふじしましょう)の内にあった。

やがて、平泉寺(へいせんじ:福井県・勝山市)の衆徒から、斯波高経のもとへ密使が送られてきた。

平泉寺密使 藤島庄は長年に渡って、わが平泉寺と延暦寺が、その所有権をめぐって係争を繰り広げてきた地です。藤島庄を平泉寺のものにしてくださるのであれば、わが寺の若手のめんめんを足羽の城の中へ援軍として送りこみ、戦わさせましょう。老僧らは室にこもり、斯波殿の為に戦勝祈願いたすとしましょうか。

高経は大いに喜び、下記のような将軍御教書(しょうぐんみぎょうしょ)を作成した。

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今回の合戦においては、ひたすら貴寺の衆徒方の応援を仰ぎ、神霊のご擁護を頼むものなり。ゆえに、まずは、藤島庄を貴寺にさしあげる事とする。もし勝利を得られたならば、さらなる恩賞を、将軍にお願いして、さしあげるといたそう。

以上、将軍様のご意向、たしかに申し伝えるものなり。

建武5年(注1)7月27日 尾張守・高経

平泉寺衆徒御中
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(訳者注1)20-1 以降、「延元」とか「建武」とか、年号が様々に錯綜していて、ややこしい。鎌倉幕府倒幕後、「建武」という年号を定めた後醍醐天皇であったが、足利軍を九州に追いやって後、「延元」と改元。しかし、尊氏に支持されて帝位に就任した持明院統は、「建武」の年号を復活した。ゆえに、後醍醐天皇側の新田義貞は「延元」を用い(20-4)、足利側の斯波は「建武」を用いているのである。

 参照:「日本の歴史・9・南北朝の動乱 佐藤進一著 中央公論社 1974 ISBN4-12-200077-7」中の「延元の改元論議」(126P)、「新帝擁立」(136P)、「年表」(巻末)。
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この将軍御教書の発行に、平泉寺の衆徒らは喜び勇んだ。

さっそく、若手500余人が山から藤島庄へ下って足羽城にたてこもり、老僧50人は護摩壇(ごまだん)の煙にくすぶりかえりながら、怨敵調伏(おんてきちょうぶく)の法を修し始めた。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月13日 (土)

太平記 現代語訳 20-5 高師直、八幡に焼き討ちをかける

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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「脇屋義助(わきやよしすけ)率いる新田軍、敦賀(つるが:福井県・敦賀市)へ到着!」との報に、

足利尊氏(あしかがたかうじ) (内心)なんだって! 八幡(やわた:京都府・八幡市)をまだ落とせず、我が方は苦戦しているというのに、こんどは北から、脇屋か・・・。しかも、あの延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)と連合して。エライ事になってしまった。

足利尊氏 (内心)この期(ご)に及んで京都から退却したりなどしたら、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)の連中らに、一気につけこまれてしまう。

足利尊氏 師直(もろなお)に伝えよ、「重大事態にならぬ前に、八幡の戦をさしおいて急ぎ京都へ帰り、北陸方面から寄せくる敵に備えよ」と。

尊氏側近メンバー一同 ハハッ!

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尊氏からのその指令を聞いて、高師直(こうのもろなお)は、

高師直 (内心)ふーん・・・。京都へ帰ってこいってかぁ。

高師直 (内心)けどなぁ、ここまで八幡を攻めながら、それを落とさないまま引き返すなんてぇ・・・吉野の連中らはきっと、手をたたいて大喜びするだろうぜ。

高師直 (内心)かといって、京都を放っちらかしといたんじゃぁ、北陸方面から来る敵につけ入られてしまうしなぁ・・・。

高師直 (内心)さてさて、師直よ、いったいどちらを取るべきか・・・八幡に留まるべきか、京都へ行くべきか、それが問題だ。

高師直 (内心)よぉし、こうなりゃ、手段を選ばずでい!

師直は、うでききの忍びの者を選んで(注1)、風雨に紛れて夜、八幡山へ潜入させ、八幡神社に放火させた。

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(訳者注1)原文では、「逸物の忍」。
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この社に祭られている八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は、もったいなくも王城鎮護(おうじょうちんご)の宗廟(そうびょう)にして、代々の源氏がことさら崇敬(すうけい)深くしてきた霊神である。いくらなんでも社殿に放火などというような悪行までは、足利サイドはしないだろうと、春日軍サイドは油断していた。

突如、社に上がった火の手を見て、みなパニック状態となり、煙の下に迷倒。

これを見て、足利軍10万余騎は、四方の谷々から一斉に攻め上り、一の木戸口を突破、さらに、二の木戸口へと侵攻していった。

この場所は、三方向は険阻な地形になっていて登りにくく、防衛は容易。ウィークポイントは山の西方、山麓の平地までなだらかな坂になっている。

そこに、わずかに乾堀(からほり:注2)一重のみを掘って守りの頼りとしていた。春日軍メンバー500余騎がそこを守っていたが、神殿を焼く炎や攻め上ってくる足利軍の激しい勢いに気を呑まれてしまい、全員、浮き足たちはじめた。

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(訳者注2)水を入れてない堀。
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八幡を守る軍の中に、多田入道(ただのにゅうどう)の手の者で、高木十郎(たかぎじゅうろう)、松山九郎(まつやまくろう)という二人の有名な武士がいた。

高木十郎は、心は剛なれども力が足らず、松山九郎は、力には優れるものの、その心は臆病であった。二人いっしょに同じ方面に配置されていたが、一の木戸を足利軍に攻め破られて二の木戸まで後退し、そこで防戦に努めていた。

今や、足利軍が逆茂木(さかもぎ)を引き破り、二の木戸までも打ち破ろうとしているというのに、松山九郎は例のごとく、恐怖に手足を震わせ、戦う気配も見せない。これを見た高木十郎は、眼をいからせ、腰の刀に手をかけて、

高木十郎 おまえ、いったいナニ考えとんねん!

松山九郎 ガチガチガチガチ・・・。(震えて歯が合わさる音)

高木十郎 敵はな、山の四方をビシッと囲んで、一人残らずい(殺)てまえと、一斉に攻め上ってきとんねんぞ。この木戸を破られてもたら、もう後が無いんや、後がぁ!

高木十郎 そないなったらもう、主な大将連中はもちろんのこと、わしらまでみな、命無くすんやないか。せやからな、この木戸は何としてでも死守せんとあかんのや! そやのに、おまえは、臆病風に吹かれて、ガタガタ震えとるだけやないかい! あぁほんまに、なんちゅう情けないやっちゃねん、おまえという男はぁ!

松山九郎 ガチガチガチガチ・・・。

高木十郎 「おれの力は百人力、二百人力」いうて、いつもおまえは自慢しとるけど、いったい何の為の百人力なんや、えぇ?

松山九郎 ガチガチガチガチ・・・。

高木十郎 えぇい、もうえぇ! ここで震えとるだけで、どうしても敵と戦わへんいうんやったらな、わしにも考えがあるぞ! 敵の手にかかって死ぬなんてオモロないわい、今ここでお前と刺し違ぉて、死んでもたる!

そのあまりの形相に、九郎は、足利軍よりも、すぐ側にいる十郎の方が恐ろしく思えたのであろうか、

松山九郎 ちょ、ちょっと待ってぇや・・・ガチガチガチガチ・・・わかった、わかったがな・・・ガチガチガチガチ・・・公私のケジメつけんならん大事な今のこの時や、わいも命は惜しまんがな・・・ガチガチガチガチ・・・ほなら一戦して、敵にわしの力を見せつけたる・・・ガチガチガチガチ・・・。

九郎は、震えながら前線に走り出て、傍らにあった五六人がかりでしか持ち上げられないような巨岩に手をかけた。彼はそれを軽々とひっつかみ、足利軍の密集しているど真ん中に投げ込んだ。

さらにもう一個、さらにもう一個・・・九郎は、14ないし15個の巨岩を投げつけた。崩れくる大山のごときこの巨岩に打たれて、足利軍数万は将棋倒しとなり、一斉に谷底へ転落していった。自らの太刀や長刀に貫かれて落命する者の数は幾千万人にも達した。

世間の声A いやぁ、八幡の陣、今夜中にでも落ちてしまうかいなぁと、思われましたが。

世間の声B よぉ持ちこたえたもんですわなぁ。

世間の声C 防衛側の一番の殊勲者は、なんちゅうても、あの松山九郎でっしゃろ。

世間の声D いやいや、松山のあの大力もなぁ、言うなれば、高木十郎の体から発したようなもんですわいな。

世間の声E ほんに、言われてみれば、なるほどなぁ。

世間の声一同 わはははは・・・。

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敦賀まで進出してきた脇屋軍にも「八幡山炎上」の情報は伝わり、「八幡はもうすでに、攻め落とされてしまったのではないだろうか」と言いだす者もいた。「確実な情報を把握できるまで、このまま敦賀で待機しよう」ということになり、彼らは、徒に日数を送ってしまった。

一方、八幡の守備サイドは、食料が底をついてしまった。食料を社頭に積んでいたので、全て燃えてしまったのである。よって、北陸からの援軍を待つ事も不可能となってしまった。

6月27日の夜半、彼らはひそかに八幡から退却し、河内(かわち:大阪府南東部)へ戻った。

もう4、5日、彼らががんばって八幡にとどまり、脇屋軍も敦賀に逗留することなく軍を先に進めていたならば、たった一戦の下に、京都を攻略できていたものを・・・。「後醍醐天皇の聖運、未だ時至らず」ということであろうか、敦賀と八幡、両軍の呼吸が合わずに共に退いて帰ってしまったとは・・・まったくもって、「後醍醐天皇側はツイテなかった」の一語に尽きる。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月12日 (金)

太平記 現代語訳 20-4 新田義貞、延暦寺に同盟勧誘文を送る

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「いざ、京都へ!」と勇みたつ新田義貞(にったよしさだ)に、児島高徳(こじまたかのり)いわく、

児島高徳 いや、ちょっと待った!

新田義貞 うん?

児島高道 前の京都での合戦の時もな、朝廷軍は比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)にたてこもったけど、結局はそこを維持できんかったでしょ? あの時の敗因はいったい何だったかのぉ? 戦闘に負けたからではない、北陸地方の敵に、我が方のロジスティックスライン、すなわち、食料輸送ルートを遮断されてしもぉたから、ただそれだけのことじゃ。

新田義貞 うん・・・そうだったよね。

児島高徳 今回も、それと似たような状況になりゃせんかのぉ? たとえ比叡山上に陣を置いたとしても、また同(おんな)じ事の繰り返しになってしまいよりますでぇ。

新田義貞 うーん・・・。

児島高徳 そうならん為にな、越前や加賀の主な城に我が方の軍勢を残して、ロジスティックスラインをきっちり確保しとくんじゃ。そいでもってな、新田義貞殿と脇屋義助(わきやよしすけ)殿とお二人で、6,000ないし7,000騎の軍勢を率いて、比叡山に陣を進め、京都を、毎日毎夜攻める。これこそまさに、根を深くしホゾを堅くする戦略。そうすりゃ、八幡の朝廷軍への援護にもなるじゃろうし、ついには、京都におる逆徒らを亡ぼす事もできよりますじゃろう。

新田義貞 なるほど!

児島高徳 ただ問題はな、延暦寺の連中らの思惑じゃ。少ない軍勢でもって比叡山に上って行ったら、衆徒連中ら、こっちの期待とは逆に、離反せんとも限らんですけぇのぉ。

新田義貞 うーん。

児島高徳 まずは、延暦寺へ同盟勧誘文を送ってみて、彼らの意向を探ってみなさるがえぇ。

新田義貞 なぁるほどぉ! いやいや、児島殿の言われる事、いちいちごもっとも。深謀遠慮(しんぼうえんりょ)とはまさに、こういうのを言うんだろうな。ならばいっちょう、同盟勧誘文、書いてみてくんない?

児島高徳 OK!

高徳の心中には、すでにその文面までもが出来上がっていたのであろう、すぐに筆を取って書き始めた。

その内容は以下の通り。

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正四位上(しょうよんいのじょう)・行(ぎょう:注1)・左近衛中将(さこのえちゅうじょう)・兼・播磨守(はりまのかみ)・源朝臣義貞(みなもとのあそんよしさだ)より、延暦寺宗務局へ寄する同盟勧誘

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(訳者注1)位に比して低い職にある時に、「行」と書いた。
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速やかに貴寺よりの御厚誼(こうぎ)を頂き、逆臣たる尊氏(たかうじ)・直義(ただよし)以下の党類を誅罰し、仏法(ぶっぽう)と王法(おうぼう)の光栄をもたらさんことを請い願うの義

ひそかに考察して深遠なる道を聞くに、桓武天皇(かんむてんのう)が、詔(みことのり)をもって延暦寺の基を築かれしは、大いなる天皇の徳化によって、顕密両宗(けんみつりょうしゅう)を未来永劫にわたって大いに興隆せんがため。伝教大師(でんぎょうだいし)が、朝廷に対して表を奉って王城を鎮めしは、仏法の威力をもって、国家の太平を無窮の未来にわたって護らんがため。

しかれば、延暦寺の衰微を聞いては、これを悼(いた)み、朝廷の傾廃を見ては、これを悲しむ。天皇の聖なる位とて、延暦寺の三千の衆徒の存在無くして、もちこたえることは不可能である。

さて、去る元弘年間(げんこうねんかん)の始め、我が国の政治権力構造が一変して、国中が朝廷になびくようになってより後(注2)、源家の末裔(まつえい)に、尊氏と直義という者あり。

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(訳者注2)原文:「一天革命、四海帰風之後」。
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両者いずれも、忠も無いくせに大禄を貪り、才能もないのに高官に登る。分際を超えた陛下からの恩顧を自ら誇り、万事すべて満ち欠けする自然の道理をもかえりみず、たちまち君臣の義を捨て、狼のごとき悪心を抱く。

その害、ついに万民に及び、尊氏・直義兄弟のもたらす禍は、日本全土を覆い尽す。朝廷も止むを得ず、これに天誅を下さんとした結果、戦乱はついに宮中にまで及び、天皇陛下は難を逃れて比叡山に遷座されるに至った。

その時、貴寺は、危機に瀕された陛下をよく助け、凡庸なる臣・新田義貞もまた(注3)、暴逆の輩を退けんと、共にあい謀ったのであった。

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(訳者注3)自らをへりくだって、このように書いているのである。
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しかしながら・・・。

あぁ、人間のまっとうなる道を守って死を選ぶ者の、なんと少いことか、利欲の門前に群がる者の、なんと多いことか・・・。

朝廷軍はあえなく敗れ、聖主は逆徒らの囚われの身になってしまわれた。さらに、辺境の城・金崎(かねがさき)において、皇子は戦場の刃(やいば)に自ら伏された。(注4)

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(訳者注4)尊良親王の自害の事を言っている。
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それ以降、逆徒らは、いよいよ意を恣(ほしいまま)にして、理非曲直をもわきまえぬ刑罰を、みだりに執行してきた。まさに、暴虐にして人道の破壊者、ありとあらゆる悪の道を、余す所無く極めんとするか。

あぁ、もはや、天をささえる綱も切れ、日月(にちげつ)の掛かる所も無し。地軸は傾き、山川を載せることもできなくなってしまった。見るがよい、昨今のこの異常なる世相を! 人はみな、耳をそばだて、ただただ目を奪われるばかり!

しかし、私・新田義貞は、なんとしてでも捲土重来(けんどじゅうらい)を果たさんと、炭を呑み刃(やいば)を含んで(注5)、逆賊・足利兄弟に迫って彼らをうち倒す機会を、じっと窺い続けてきた。

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(訳者注5)原文には、「呑炭含刃」とある。史記に、「炭を呑んで声を変え、変装して仇に接近して仇を討たん・・・」という話があるが、「刃」の方は「刃を懐に隠し持って・・・」となっている。
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果たせるかな、「天皇陛下、都の南山(なんざん)・吉野(よしの)に遷座され、衆星が北極星の周囲に集まるがごとく、廷身らもそこに続々と参集」との報が。よってここに、陛下よりのご厚恩を思い起こし、何としてでもそれにおこたえせんと、私は奮い立った。

見よ、わが全身に充満せるこの憤怒!

かくして、都より遠隔のこの地・越前において兵を起し、この地の一部の者らの支持を得るに、ようやく至った。その後、謀略を用いて、敵を自滅へと追い込み、敵の城を降した。その戦、未だ半ばにして、一挙に勝利を決し、敵を四方に退けた。(注6)

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(訳者注6)越前国府攻略の事を言っている。
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その昔、范蠡(はんれい)は黄池において、呉軍3万を破り、周瑜(しゅうゆ)は赤壁(せきへき)において、魏(ぎ)軍10万を捕虜にした。(注7)

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(訳者注7)赤壁の戦。三国志演義の山場である。
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私の今回のこの勝利は、彼らのそれに比べれば、取るに足るものではないが、いまや、国をあげて、朝敵・足利に、天誅が加えられようとしているのである。

天は、私・義貞に対して、陛下の爪牙(そうが)の任を与えたもうた。かくなる上は、もはや、これからの戦の行方について、あれやこれやと考えているひまなどあるものか、腕を振るい、京都に向けて、今まさに進撃を開始するまで!

私とのかつてのよしみを、基寺がお捨てにならなければ、必ずや、かの大敵・足利を、我がこの二本の手でとりひしぐ事ができよう。

伝え聞くところによれば、古から今に至るまで、基寺の他を護持する力は、天地の間に超絶す、というではないか。

承和年間に、大威徳明王法(だいいとくみょうおうぼう)を修して、兄をさしおいて弟の皇子を帝位につけたのも、その一例。また、承平年間に、四天王の像を安置し、平将門(たいらのまさかど)の鉄身をついに傷(やぶ)ったのも、その一例。

ゆえに、我が良運を基寺の七社の冥応に頼み、私の勝利に向けて、再び一山あげての懇祈を請い願うものである。

つらつら思うに、悪は尊氏の方にあり、義は私の方にある。天下の治乱と基寺の安危にとって、いったいどちらが大事なのか、よくよく思案していただきたい。

早急に、わが同盟勧誘に対する基寺の承諾の評決を頂いて、双方時を同じくして、大軍を京都へ進め、錦の御旗を都の中央にうち立てたいものである。

以上、私の言いたいことを文書で申し上げた。なにとぞよろしく!

延元3年7月日
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新田義貞からの勧誘を受けた比叡山延暦寺では、さっそく会議が招集された。

延暦寺衆徒リーダーA あぁ、思いだすなぁ、あの時のことを・・・春と夏と二回もなぁ、陛下は、この比叡山へ臨幸しはったんやった。

延暦寺衆徒リーダーB そうやったなぁ・・・あの時、わしらは粉骨砕身の忠功を、陛下に尽くしたんやった。

延暦寺衆徒リーダーC その功績あって、領地をよぉけ(たくさん)、頂いたんやけど。

延暦寺衆徒リーダーD ところが、情勢は急変、新田らは北陸に落ちていくわ、陛下は京都に還幸してしまはるわで・・・。

延暦寺衆徒リーダーE わしらの望みも、みんないっぺんに消えてしもぉた。

延暦寺衆徒リーダーF そやからな、「あぁ、何か思いがけへん事でも起こって、再び、陛下が政権を奪回されますようにーっ」とな。

延暦寺衆徒リーダーA 毎日毎日、祈念込めてきてましたんやわ。

延暦寺衆徒リーダーB そないな中に、新田義貞からのこの勧誘文やろ。

延暦寺衆徒リーダーC よぉ言うてきてくれたで、ほんま、嬉しいわぁ。

延暦寺衆徒リーダーD 新田義貞からの誘い、わし大歓迎や! みなは、どないだ?

延暦寺衆徒リーダー一同 大歓迎ぇーぃっ!

7月23日、軍務担当の衆徒らは、大講堂の庭で会議した後、返答を、義貞のもとに送った。その内容は以下の通り。

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延暦寺より新田左近衛中将家への同盟合意

先日頂いた朝敵追罰の件に関して

国内の擾乱を鎮め、国家に太平をもたらすことは、武将が自らの忠節に励むゆえに可能となる事である。

一方、百代の帝王の皇位を祈り、天地の禍を消すことにかけては、我が比叡山延暦寺の右に出るものは無い。

武将と寺院、それぞれ道は異なるが、その期する所は結局のところ、同じ。両者の間には、一本の境界線を引く事もできぬであろう。

さてさて、かの足利尊氏と直義の行状をつらつらと見るに、その暴悪のひどさは、我が国の開闢(かいびゃく)以来、類を見ないほどである。「仏法と王法の怨敵(おんてき)」などというレベルのものではない、まさに、「国を害し民を害する賊徒」そのものである!

いみじくも、かの孟子(もうし)も言わく、「己(おのれ)より出(いず)ることは己に帰る」と。今ますぐに、彼らが滅んでしまわねば、いったいいつまで待てばよいのやら。

とはいいながらも、逆臣がますます威を振るい、義士が困惑するのが世の常。いったいなぜ、このような事になってしまうのであろうか?

呉王・夫差(ごおう・ふさ)は、越(えつ)を併合して国力を増強したものの、勾踐(こうせん)に亡ぼされ、項羽(こうう)は、山を抜く力がありながらも、ついには漢の高祖によって捕えられた。

いったいなぜ、このような結果になったのか? 呉は、義無くしてただ猛く、漢は、仁ありて正しかったからである。

国家の安危は、結局の所、天命によって決定される。

ゆえに、我ら延暦寺衆徒一同は、内には、貴方の忠烈の心をよしとして、新田義貞殿の佳運を祈り、外には、聖主の尊崇をかたじけなく頂いて、天皇陛下の治国の道を祈り続けてきた。

「この熱願が天に通じて、速やかに、何かしらの良き動きが生じないものか」と念願していたところに、越前より使者が来たりて、貴方からの赤心あふれるメッセージを、もたらしてくれた。我ら一山(いっさん)、欣悦至極(きんえつしごく)この上なし。山王七社(さんのうななしゃ)の霊力、まさに今、顕現(けんげん)せり!

つらつら、往昔(おうじゃく)を回想して人の運命の吉凶を鑑みるに、「この人間には味方せず」と、ひとたび当山が決意したならば、たとえ、世の中こぞって彼を支持したとしても、事は成らない。それが証拠に、治承(じしょう)年間の源平争乱の時、我らの支持を得られなかった以仁親王(もちひとしんのう)は、ついに都の外で没したもうた。

それとは逆に、わが寺が真摯に支援した時には、敵がいくら軍勢を集めて防御をかためてみても、防ぎきれるものではない。元暦(げんりゃく)年間の初め、源義仲(みなもとのよしなか)は、我らの支持をとりつけて、速やかに、京都入りを果たしたではないか!

人間の心の動きは、すべて、神慮によって発生するものである。あちらの人間を捨て、こちらの人間を取る、これもすべて、神慮の赴く所。

かくなる次第で、満山の群議、今や決した。我ら比叡山延暦寺は、新田義貞殿に協力する! これで、凶徒を誅戮(ちゅうりく)できること、疑い無し。

時は至れり、一刻たりとも、京都への進軍を遅らせること、ありませぬように!

貴殿よりの同盟勧誘への我が方の返答、以上、文書にて申し上げた。

延元3年7月日
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延暦寺からのこの返答は、やがて越前に到着、これを見た義貞は大喜び。

新田義貞 (内心)よぉし、すぐに上洛だぁ!

新田義貞 (内心)いや、待てよ・・・越前を完全に放置して京都へ行っちまったら、斯波高経(しばたかつね)め、またまた兵を起こして、北陸道を塞いじまうんだろうなぁ・・・うーん。

新田義貞 (内心)しょうがねぇなぁ、軍を二手に分けて、越前を確保しながら、京都を攻めるべし、か。

というわけで、新田義貞は3,000余騎を率いて越前に残留、京都へは脇屋義助(わきやよしすけ)が進軍、という事になった。

7月某日、脇屋義助は2万余騎を率いて越前国府を出発し、翌日、敦賀湊(つるがみなと:福井県・敦賀市)に到着した。

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2018年1月11日 (木)

太平記 現代語訳 20-3 後醍醐天皇、新田義貞に上洛を促す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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そうこうするうち、新田家・越後勢力軍は、越前の河合(かわい:福井県・福井市)に到着。新田義貞(にったよしさだ)の勢いはますます強大になり、「足羽(あすは)城攻略も、もはや時間の問題!」と、全員勇みたつ。

斯波高経(しばたかつね)の足利尊氏(あしかがたかうじ)への義心にはいささかの動揺も無いものの、小さな平城にたてこもるのはたった300余人だけ、その四方を3万余騎の新田軍が包囲している。

斯波軍メンバーA 籠の中の鳥が、雲を恋いしたい、

斯波軍メンバーB 枯れかかった水たまりの魚が、水を求めるがごとく、

斯波軍メンバーC おれたちの現状は、まさにそういったカンジだなぁ。

斯波軍メンバーD あーあ、我が命、いったいいつまであるものやら。

新田側は斯波側を見下して勇みたち、斯波側は意気消沈して悲しみに沈む。

新田軍リーダーE さぁてと、いよいよ21日、黒丸(くろまる)城攻めにかかるぞぉ。

新田軍リーダーF 国中の人夫を動員してな、草の束3万ほど集めさせるんだ。城の堀をそれでもって埋めるんだよ。

新田軍リーダーG 盾も用意しとかなきゃ。3,000個ほど作らせようか。

このように、あれやこれやと城攻めの用意をしている新田陣中に、吉野(よしの)からの勅使がやってきた。

勅使 天皇陛下よりのお言葉を今、伝えますんでな・・・(後醍醐天皇からの手紙を開く)

手紙 パサパサパサ・・・(開かれる音)

勅使 「新田義興(にったよしおき)と春日(かすが)が、敗軍の兵を集めて、八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)にたてこもっておる。そこへ、京都の逆賊どもが大軍でもって押し寄せてきて、山を包囲してしまいよった。新田・春日サイドは、食料が乏しうなって、士気も低下しとる。しかし、「北陸の朝廷軍が、もうすぐ京都を攻めてくれるから、なんとかそれまでは」と、みな、ギリギリのとこでふんばっとる。」

勅使 「そちらの、京都進軍開始が遅れてしもぉたら、八幡はもう、もたへん。国が傾くかどうかは、今や、北陸の朝廷軍の動向いかんにかかっとる。そこいらへんでの戦はもう捨て置いて、京都攻めを急げ!」

勅使 陛下からのお言葉は以上の通り。このお手紙、おそれおおくも、陛下の直筆や。

新田義貞 ハハーッ!(平伏しながら、手紙を受け取る)

手紙に目を通した義貞は、

新田義貞 我が国の歴史上、大功ありといえども、源平両家の武臣に対して、天皇陛下より直々にご自筆のお手紙を下された事など、過去に一度も聞いたことがありません。わが新田家にとりまして、今回のこれは、分際を超えたあまりにももったいない名誉。なんというありがたい事でしょう! 今この時をおいて他に、わが命を軽んずるべき時はありません!

新田義貞 分かりました、陛下のおおせのごとく、足羽城攻めは即刻中止して、京都への進軍を急ぎます!

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2018年1月10日 (水)

太平記 現代語訳 20-2 越後の新田勢力、越前へ向かう

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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越後国(えちごこく:新潟県)は、新田一族の本拠がある上野国(こうずけこく:群馬県)の隣国ゆえ、もともと彼らが勢力を増殖していた地であった。元弘年間以降、倒幕の恩賞として、越後は新田貞義(にったよしさだ)に与えられ、数年が経過する中、国中の地頭、御家人は、義貞の統治に従ってきた。

「新田義貞、既に越前を掌握し、京都へ攻め上らんとす」との情報に、大井田氏経(おおいだうじつね)、中条入道(なかじょうにゅうどう)、鳥山家成(とりやまいえなり)、風間信濃守(かざましなののかみ)、禰津掃部助(ねづかもんのすけ)、大田瀧口(おおたたきぐち)をはじめ、合計2万余騎の新田家・越後勢力軍は、7月3日に越後の国府(新潟県・上越市)を発ち、越中国(えっちゅうこく:富山県)へ侵入した。

越中国守護・普門俊清(ふもんとしきよ)は、国境付近でそれを食い止めようとしたが、兵力数において劣る普門側はその大半が討たれてしまい、松倉城(まつくらじょう:富山県・魚津市)へ引きこもった。

新田家・越後勢力軍は、これを放置して、すぐに加賀国(かがこく:石川県南部)へ入った。

富樫介(とがしのすけ)がこれを聞いて、500余騎の軍勢を率いて、安宅(あたか:石川県・小松市)、篠原(しのはら:石川県・加賀市)付近でこれを迎撃するも多勢に無勢、富樫側は200余騎が討たれてしまい、那多城(なたじょう:小松市)へ引きこもった。

新田家・越後勢力軍リーダーA 越中、加賀の2回の戦に、連勝しちゃったぁ。

新田家・越後勢力軍リーダーB 北陸地方の敵勢力なんか、恐れるに足らず。

新田家・越後勢力軍リーダーC このまますぐ、越前まで行っちゃおう!

新田家・越後勢力軍リーダーD いやいや、我々の最終目標は、越前じゃないよ、京都だろ? ここから京都までの間の地域は、これまでずっと戦続きだったんだから、住民たち、みんなスカンピンになってしまってるだろう。食料の調達なんか、とても無理なんじゃないかなぁ。

新田家・越後勢力軍リーダーA そうだよなぁ。しばらくは加賀に滞在して、これから先の食料を確保するとしようか。

彼らは、今湊宿(いまみなとじゅく:石川県・白山市)に10余日間、逗留した。その間、剣(つるぎ)や白山(はくさん)他の方々の神社仏閣に押し入っては、仏物(ぶつもつ)や神物(しんもつ)を略奪し、民家に押し入っては資材を強奪した。

先を読める人E あぁ、なんというけしからんことを・・・。「霊神、怒りをなせば即(そく)、災害、ちまたに満つ」というぞ。

先を読める人F 集団の悪行の果はすべて、その集団のトップにいる人の所に行くのではなかろうか・・・。

先を読める人G となると・・・新田義貞の対足利闘争も、この先いったいどうなることか。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月 9日 (火)

太平記 現代語訳 20-1 新田軍、越前国の完全制圧を目指す

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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去る2月初、越前国府(福井県・越前市)の戦に勝利の後、国中の足利側の城70余箇所をあっという間に降伏させて、新田義貞(にったよしさだ)の勢力はまたまた盛り返していた。

この時、義貞が、比叡山・延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県・大津市)の衆徒らを旧交のよしみを通じて味方につけていたならば、すぐに比叡山(ひえいざん)に上り、吉野(よしの: 奈良県・吉野郡・吉野町)の勢力とも力を合わせて京都を攻めることなどたやすいことであったろう。

しかし、義貞は、「なおも越前の黒丸城(くろまるじょう)に踏みとどまっている斯波高経(しばたかつね)を攻め落とさないままにして、上洛するのは無念だ」と思い、そうはしなかった。このようなつまらない事にこだわって、大事な事を二の次にした義貞のこの態度は、まことに愚かといえよう。(注1)

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(訳者注1)これも例によって、太平記作者の一方的なキメツケであると、私は思う。

「あっという間に降伏した足利側の城70余箇所」というであるならば、それらは情勢のちょっとした変化で再び、「あっという間に」新田に敵対することであろう。越前の在地勢力をこのような中途半端な状態でしか掌握できてないのに、斯波高経の息がかかっている勢力をなおも越前に残存させたまま、新田軍がすぐに京都へ進撃できたかどうか、極めて疑問である。京都への途上において、背後から斯波軍に追撃をかけられたならば、いったいどうなるだろうか?
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5月2日、義貞は、自ら6,000余騎を率いて国府へ進み、波羅密(はらみ:福井市)、安居(はこ:福井市)、河合(かわい:福井市)、春近(はるちか:坂井市)、江守(えもり:福井市)の5つの城に対して5000余の兵を差し向け、足羽城(あすはじょう)群を攻めさせた。(注2)

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(訳者注2)「足羽七城」と呼ばれる城砦群があったようだ。
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まず一番に、義貞の義理の甥・(注3)一条行実(いちじょうゆきざね)が、500余騎を率いて江守から押し寄せ、黒龍明神(くずれみょうじん)の前で斯波軍に遭遇(そうぐう)、戦い利あらずして本陣へ退却した。

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(訳者注3)勾当内侍(こうとうのないし)の甥。
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二番手に、船田経政(ふなだつねまさ)が、700余騎を率いて安居の渡しから押し寄せた。川の中ほどまで進んだ時、細川出羽守(ほそかわでわのかみ)率いる200余騎が対岸に現れ、高岸の上から矢をどんどん射掛けてくる。漲(みなぎ)る波に溺れて馬も人も次々と死に、さしたる戦を交える事もなく退却を余儀無くされた。

三番手は、細屋秀国(ほそやひでくに)。1,000余騎を率いて河合庄から押し寄せ、勝虎城(しょうとらじょう:福井市)を包囲、一気に攻め落とそうと、塀に取り付き、堀に飛び入り、攻めはじめた。そこに、鹿草兵庫助(かぐさひょうごのすけ)が300余騎で背後から襲いかかり、細屋の大軍の中に懸け入って脇目も振らず攻め戦った。細屋軍メンバーらは、城中の敵と背後からの敵に追い立てられて、本陣へ退却した。

このようにして、新田サイドは、足羽の合戦に3連敗をくらってしまった。この3人の大将(一条、船田、細屋)はいずれも天下の人傑、武略の名将ではありながら、あまりにも敵をあなどって勝ちを急ぎすぎたがために、敗戦を重ねてしまったのである。

中国の後漢王朝建国の祖・光武帝(こうぶてい)が戦に臨むたびに口にしたという、「大敵を見ては侮り、小敵を見ては恐れよ」との言葉、まことに真理である。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月 8日 (月)

太平記 現代語訳 19-9 青野原の戦

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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関東から北畠(きたばたけ)軍を追尾してきた足利関東方面軍リーダーたちは、美濃国(みのこく:岐阜県南部)に到着後、今後の作戦について討議した。

足利関東方面軍・リーダーA 将軍様はおそらく、宇治橋と瀬田橋の防衛ポイントを死守しようと、橋の板を外して北畠軍の到着を待っておられるんだろう。北畠軍も、そうそう簡単には宇治川を渡れないだろうな。

足利関東方面軍・リーダーB おれもそう思うな。宇治川を前にして、北畠軍は進軍ストップしちゃうだろう。

足利関東方面軍・リーダーC だったら、我々、そのタイミングまで、待ってみてはどうだろう? やつらは遠路はるばる遠征してきてんだからさぁ、宇治川に到着する頃には、もう疲労も極限になっちゃってるだろう。その疲れに乗じてだね、将軍様は前面から、我々は背面から、北畠軍を攻撃。そうすりゃ、イッパツでこちらの勝ちだ!

土岐頼遠(ときよりとお)は、会議が始ってからずっと、黙って他のメンバーの発言に耳を傾けていたが、この時おもむろに口を開いて、

土岐頼遠 あのなぁ、いくら相手が大軍だからといってもな、すぐ目の前を行く敵に対して矢の一本も射ずに、ただ黙ぁって後をついていくだけっちゅうの、どうもわしゃぁ、面白くねぇだが。

リーダー一同 ・・・。

土岐頼遠 相手に疲れが出てくるその時をじっと待ち続けよう、なんちゅう事ではな、あの古代中国・楚(そ)の、宋義(そうぎ)の例の言葉と同じだが。

足利関東方面軍・リーダーA それっていったい?

土岐頼遠 「蚊を殺すには、その馬を撃たず」。(注1)

リーダー一同 ・・・。

土岐頼遠 今、天下の注目が、この一戦に集まっとるが。あんたらがどういう気持ちでおるんかは知らんけんど、この土岐頼遠はな、わが命をかけてガァーンと一戦、やらかしたいんよ。それでもって戦死したってえぇんよ。そうなりゃわしの墓の上には、「義に殉じて死んだ男一人、ここに眠る」って書いた墓標が立つってもんだが。

桃井直常(もものいなおつね) いやいや、土岐殿、おれだってあんたと同じ思いよ。おれも、北畠軍と正々堂々戦ってみたい! みんなはどうだ?

この二人の言葉に他のリーダーたちも動かされ、満場一致で、「いざ決戦!」となった。

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(訳者注1)史記の項羽本紀にある話。秦軍に対して攻撃を挑まずに停滞を続ける上将軍・宋義に対して、次将軍・項羽が、「すみやかに兵を率いて黄河を渡り、秦軍を攻撃しよう」と進言したところ、宋義は言う、「牛を手で打ってみても、牛の表面に止まっている虻(あぶ)は殺せようが、その体内に深く食い込んだシラミまでは殺すことができない。真の勝利を収めようと思えば、拙攻は禁物。先に他の軍に秦と戦わせ、秦に疲れが出てから攻撃するのがベストなのだ」と。
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その時、北畠軍は既に、垂井(たるい:岐阜県・不破郡・垂井町)、赤坂(あかさか:岐阜県・大垣市)まで進んでいたのであったが、「背後から足利軍が接近」との情報に、

北畠顕家(きたばたけあきいえ) まずは、そっちの敵軍から撃破かな。よし、全軍、3里ほど東へ後退!

かくして北畠軍は、美濃と尾張の国境地帯に、広く展開して布陣した。

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いよいよ戦端を開く時が来た。足利サイドは、総勢8万余騎を5グループに分けて、攻め順をクジ引きで決めた。

1番クジを引いたのは、小笠原貞宗(おがさわらさだむね)と芳賀禅可(はがぜんか)であった。二人は、2,000余騎を率いて印食渡(きじのわたし:岐阜県・羽島郡・岐南町)へ向かった。

これに応戦するは、北畠軍中の伊達(だて)・信夫(しのぶ)の勢力3,000余騎。彼らは、木曽川(きそがわ)を東へ渡り、小笠原軍と芳賀軍に襲いかかり、これをけ散らした。かくして、足利側一番手は崩壊。

足利側2番手の高重茂(こうのしげもち)は、3,000余騎を率いて墨俣川(すのまたがわ:注2)を渡ろうとして、北条時行(ほうじょうときゆき)軍5,000余騎と乱戦になった。互いに笠標を目印に、組んでは馬から落ち、落ち重なっては首を取り、というような戦いを1時間ほど展開。結局、高重茂が頼りとする武士300余人が討ち取られてしまい、高軍メンバーは東西に散りじりになりながら、付近の山中に逃げ込んだ。

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(訳者注2)現在の墨俣の付近を流れる長良川のことらしい。
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3番手の今川範国(いまがわのりくに)と三浦高継(みうらたかつぐ)率いる軍は、足近(あじか:岐阜県・羽島市)方面に進み、横合いから北畠軍を攻撃した。南部(なんぶ)、下山(しもやま)、結城宗広(ゆうきむねひろ)率いる1万余騎がこれを迎撃し、火の出るような激戦を展開。兵力面でもとから劣勢であった今川軍と三浦軍はあえなく敗退し、川の東へ撤退。

4番手の上杉憲顕(うえすぎのりあき)、上杉藤成(うえすぎふじなり)は、武蔵・相模の勢力1万余騎を率いて、青野原(あおのがはら:岐阜県・大垣市-岐阜県・不破郡・垂井町)に進んだ。これに対しては、新田義興(にったよしおき)の軍と宇都宮率いる紀清両党の軍が戦いを挑んだ。

両軍互いによく知った紋所の旗がひらめく戦場、後日の嘲りを恐れて、双方互いに一歩も後に引かず、命の限り戦う。その戦いの凄まじさ、まさに世界終末の時に吹く大風止みて、地球は無限地獄の底へ飲み込まれていかんとするか、はたまた、世界の周囲の水輪(すいりん)沸騰し、大地みなことごとく宇宙の頂まで舞い上がらんか。

新田軍と宇都宮軍は、やはり強かった。上杉軍はついに敗退し、右往左往しながら退却していった。

足利サイド5番手は、桃井直常と土岐頼遠。二人が率いるよりすぐりの精鋭1,000余騎は、目を遮る物とて何一つ無い青野原へ進み、北畠軍を西北に睨んで陣を整えた。

そしてついに、北畠軍・主力が戦場に姿を現した。軍団の総帥、これぞまさしく、奥州国司兼鎮守府将軍(おうしゅうこくしけんちんじゅふしょうぐん)・北畠顕家。副将は顕家卿の弟、春日少将・北畠顕信(かすがのしょうしょう・きたばたけあきのぶ)。二人が率いるは、出羽(でわ)・陸奥(むつ)の勢力、兵力総数6万余騎。

北畠軍と桃井・土岐軍、双方の兵力を比較すれば、桃井・土岐側1に対して、北畠側は1000超。しかるに、土岐頼遠も桃井直常も、いささかの気後れも無し。前方に展開する敵を全く恐れず、後ろに退こうとの心、微塵たりとも無し。トキの声を上げるやいなや、桃井・土岐軍1,000余騎は一体となって、北畠の大軍中にガァーンと突撃。1時間ほど戦って、ツット懸け抜けた。

桃井直常 300人ほどは、やられてしまったか・・・。

残る700余騎は、再び一団となり、今度は、副将軍・北畠顕信率いる2万余の陣へ突入、東へ追い靡き、南へ蹴散らし、馬の足は休まる時なく、太刀を打ち交わすツバ音が止む間も無く、「エイ! ヤァ!」の掛け声の下、必死の戦闘を展開。

桃井直常 1000騎が残り一騎になったって、絶対に退(ひ)くんじゃねぇぞ!

土岐頼遠 そうじゃ、ゼッタイに退(ひ)いたらいかんで! 命のある限り、戦うたるんじゃぁ!

しかし北畠の大軍を相手にしては、さすがの彼らも、どうしようも無かった。こちらに囲まれ、あちらに取りこめられ、力も尽き、気力も衰えてくる。700余騎もついに、残り23騎になってしまった。

土岐頼遠は、左目の下から右の口脇、鼻まで刀の切っ先で切り付けられてしまい、ついに長森城(ながもりじょう:岐阜県・岐阜市)に逃げ込んだ。

桃井直常が率いる軍も、30余度もの突撃の末、残り76騎になってしまった。自身の乗馬も、尻と首の側面に二個所切り付けられ、鎧の胴のあたりを3箇所も突かれ、ついに疲労の極限にまできてしまった。

桃井直常 よし、戦闘ストップ! 戦は今日だけじゃないからな、明日からも、まだまだ続くんだ。さぁ、みんな、馬の足を休めようぜ。

桃井軍メンバーは、墨俣川に馬を追い浸し、太刀や長刀の血を洗い、日没後もそのまま、青野原に滞陣し、川の西岸に踏みとどまった。

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一方、京都の足利尊氏(あしかがたかうじ)の下では、

足利尊氏 奥州からの北畠の大軍、京都を目指しているそうだが・・・。

足利サイド・リーダーD いや、なぁに、土岐頼遠が美濃におりますからねぇ、彼がいったんは食い止めてくれるでしょうよ。

足利サイド・リーダーE 土岐にまかせときゃ、大丈夫でしょう。

そこへ、伝令が息せききってやってきた。

足利軍伝令 大変です! 美濃国の青野原において、土岐頼遠殿、北畠軍に敗退!

足利サイド・リーダーD なにぃ!

足利サイド・リーダーE 頼遠が負けたってぇ?!

足利サイド・リーダーF で、彼は、頼遠は、どうしてんだ?

足利軍伝令 情報が錯綜しております。現在、行方不明との情報もあり、既に討死にされたとの情報もありで・・・。

これを聞いて、リーダーたちは全員、浮き足立ってしまった。

足利軍リーダーG これは一刻の猶予もなりません、早いとこ、宇治と瀬田の橋板を引っこ抜いて、北畠軍の進撃を食いとめなきゃ!

足利軍リーダーD いやいや、そんな事したって、もう手後れだろう。北畠軍は勢いづいちゃってるもんなぁ。

足利軍リーダーE ここはいったん、中国地方へ退却し、四国や九州からの援軍の到着を待って、それから反攻に・・・。

足利軍リーダーH いやいや、そういう逃げの態勢はいかんっすよぉ。逃げに入ってしまったんじゃ、ジリ貧の一本道だわ。

足利軍リーダーI そうですよ、とにかく一刻も早くですねぇ、瀬田と宇治の防衛ポイントを確保してですねぇ・・・

このように、様々な意見が飛び交って、なかなか結論が出ない。

じっと考えこんでいた高師泰(こうのもろやす)が、口を開いた。

高師泰 古から現代に至るまで、「京都へ敵が攻め寄せて来た、さぁ、宇治と瀬田の橋を守れ」ってなケース、よくありましたよねぇ。でもねぇ、その戦略ポイントを確保しきって敵の宇治側渡河を阻止し、京都を守れたってなぁ事、これまでただの一度も無いんですよねぇ。

一同 ・・・。

高師泰 その原因はいったい何か? 考えてみりゃぁ簡単な事です。京都へ寄せてくる側は、なにせ日本国中を味方につけてるわけでしょう、いやが応でも、意気が上がりますわね。かたや、京都を守る側はってぇと、掌握できてるのは、わずかに京都市中のみ。これじゃぁ、士気も一向に振るわんってわけだ。

高師泰 そぉいう事だからね、いくら、宇治川という天然の防衛ラインがあったって、相手の進撃を食い止める事なんて、到底できっこないんだなぁ。

一同 ・・・。

高師泰 だからね、この際、宇治川で防衛なんてぇような、不吉きわまりない戦略なんか、思い切って捨てた方がよくね? 大軍の到着を京都付近で待ちかまえてなんかいるよりか、近江(おうみ:滋賀県)、美濃のあたりまで急いで進撃して行く方が、よっぽどいいや。「戦いを王城の外に決する」って言うでしょ、これですよ、これぇ!

この、勇気にあふれ、合理的でもある師泰の案に、

高師直 いーんじゃぁないのぉ、この作戦ーん!

足利尊氏 ・・・よし・・・師泰案に決定だ。

一同 分かりました!

足利尊氏 ならば、時間を無駄にしてはいかん。速やかに、近江、美濃へ向けて出撃せよ!

一同 ハハーッ!

かくして、1万余騎の軍勢が、近江・美濃方面へ向かうこととなった。

軍勢を率いるリーダーは、高師泰、高師冬(こうのもろふゆ)、細川頼春(ほそかわよりはる)、佐々木氏頼(ささきうじより)、佐々木道誉(ささきどうよ)、その子・秀綱(ひでつな)他、諸国の有力武士53人。

2月4日に京都を発って、6日の早朝、近江と美濃の境にある黒地川(くろじがわ:岐阜県・不破郡・関ケ原町)に到着。

北畠軍、垂井、赤坂に到着、との情報に、「ここで北畠軍を待とう」ということになり、関の藤川(せきのふじかわ)を前に、黒地川を背後にし、両川の間に陣を取った。

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そもそも、古より今日に至るまで、勇士や猛将が陣を取って敵を待つに際しては、山を背後にし、水を前にして陣を取るのが通常。なのに、足利軍は、大河を後ろにして陣を敷いた(注3)。これもまた、一つの作戦なのであった。

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(訳者注3)関ヶ原一帯に「大河」と呼ぶにふさわしいような川は無い。おそらく、太平記作者は、この地域の地理をよく知らないまま、この節を書いたのであろう。
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古代中国において、漢の高祖(こうそ)と楚の項羽(こうう)は、天下を争って8年間戦い続けた。(注4)

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(訳者注4)以下の記述は、「史記・淮陰侯列伝」と、細部において異なっている。
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ある時、高祖は、戦いに負けて敗走すること30里。彼に従う生き残りの兵の数は、わずか3,000余騎にも足らず。これを追う項羽の軍勢は、40万騎。

項羽 残念、目が暮れてしもぉたか・・・よし、今宵はここに野営じゃ。黎明と共に、我が軍は出動、漢軍の陣へ押し寄せようぞ。にっくき高祖めを一気に滅ぼしてしまうのなど、我が片手だけで十分じゃ。

高祖は、韓信(かんしん)を大将に任命し、項羽に対して陣を敷かせた。

韓信は、わざと大河を後ろにして陣を敷き、橋を焼き落とし、舟を全て破壊して捨てた。「もうどこにも逃げ場はないぞ、士卒ら一歩も退く事なく、全員討死にせよ」とのメッセージを皆に徹底せしめるための謀であった。

夜明けと共に、項羽軍40万騎は、韓信軍めがけて殺到。

項羽 見よ、敵はあのような、取るに足らぬ小勢じゃ。ものども、一気に勝負を決めてしまえぃ!

項羽軍は、意気揚々と左右を顧みず、韓信軍に襲いかかって行く。韓信軍3,000余騎は一歩も引かず、命の限り戦う。かくして、項羽軍はたちまち敗れ、討たれし兵の数20万人。韓信軍は逃げる項羽軍を追うこと50余里。

かろうじて、安全地帯に逃げ込んだ項羽は、

項羽 ここまで逃げたら大丈夫。敵軍と我軍の間には沼沢地帯があるし、橋は全て破却した。まさかこんな所までは、敵軍はやってはこれまいて。

漢の兵は勝に乗じて、「いよいよ今夜、項羽の陣を攻撃」という事になった。

韓信は、兵を集めていわく、

韓信 わしに、よい作戦がある。全員、所持の兵糧を捨てよ。空になった兵糧袋に砂を入れ、それを背負って進軍すべし。

兵は皆、不安に思いながらも、大将・韓信の命に従い、所持していた食料を捨て、その袋に砂を入れて項羽陣目指して進軍した。

夜になって、韓信軍は項羽陣に接近。見れば、四方のすべての沼沢を天然の防衛バリアーとして活用し、渡れる所などどこもないように、うまく陣を敷いている。

韓信 よし、持参した砂包みを、あの沢に投げ入れよ!

砂包みが積まれて道ができ、その上を韓信軍は渡っていった。深い沼地も平地のごとし。(注5)

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(訳者注5)「史記・淮陰侯列伝」によれば、嚢砂を積んだ上を歩いて渡っていったのではなくて、嚢砂をダム状(今で言う「ロックフィル式ダム」のような状態か)に積んで川を塞き止めて水位を低め、川の中を渡ったのである。現代においても、水害の時には土嚢(どのう)を用いて水を防ぐ。
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項羽側の兵20万騎は、終日の戦いに疲れ果てていた。ここまでは敵も攻めてはこれぬと油断し、帯紐を解いてぐっすり寝入っていた所に、韓信軍7,000余騎は、どっとトキの声を上げて攻めこんだ。項羽軍側は何らなすすべなく、10万余騎が、川水に溺れて戦死した。(注6)

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(訳者注6)「史記・淮陰侯列伝」によれば、韓信は川を渡って敵陣を攻撃した後、負けたふりをして退却。敵軍が後を追ってきた頃合いを見計らって、流れを塞き止めていた嚢砂を決壊させたのである。
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これが、かの有名な、「韓信の嚢砂(のうしゃ)の謀・背水(はいすい)の陣」なのである。

今、高師泰、高師冬、細川頼春らが敵の兵力の大きさを鑑みて、わざと水沢を背後にして関の藤川を前に陣を取ったのも、士卒の心を一つにせんがために韓信の作戦を採用した結果であろう。

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北畠軍10万騎は、垂井、赤坂、青野原に充満し、東西6里南北3里に広がって陣を張った。夜のしじまの中にあたり一帯を見渡せば、篝火(かがりび)のおびただしいこと、天の星が残らず地上に落ちて輝いているかと思われるほどである。

この時、越前では、新田義貞(にったよしさだ)と脇屋義助(わきやよしすけ)が北陸道を制圧し、その勢いは天を掠め地を略するほど強盛であった。

ゆえに、目前に展開する足利軍を破ることが北畠軍にとって非常に困難、というのであれば、北近江から越前へ移動して新田軍に合流する、という手もあったろう。

新田・北畠連合軍が比叡山(ひえいざん)に上って京都を眼下に見下ろした後、吉野(よしの)方面の後醍醐天皇サイド勢力としめし合わせて、東西から都を攻めていたならば、どうなっていたであろうか。

おそらく、足利尊氏はただの一日も、京都に踏みとどまることはできなかったであろう。

しかし、顕家は、自分の功績が義貞のそれに隠れてしまうことを嫌い、北陸へ移動しなかった。(注7)

かといって、目前の足利軍と戦いを交えるでもなく、顕家は、全軍を率いて伊勢(いせ:志摩半島以外の三重県)へ転進し、そこから吉野を目指して進んだ。

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(訳者注7)原文には、「顕家卿、我大功義貞の忠に成んずる事を猜で、北國へも引合ず、黒地をも破りえず・・・」とある。

この部分は、「私はそのように推理した。(太平記作者談)」といったような「解説」の類にすぎないので、これを読んだだけで、「北畠顕家さん(歴史上実在の)って、なんて人なんだ!」というように思うとしたら、それは危険な行為であろう。

太平記作者がここで言う、「北畠軍が、越前(新田兄弟がいる)へ転進する」を実際に行うとすれば、どのようなルートが可能であろうか?

[地理院地図]を使って、見てみよう。

北畠軍が今いる場所は、[岐阜県・不破郡・関ケ原町]の付近である。

ここから、越前へ向かう最も容易なルートは、そこから西進して近江(滋賀県)に至り、そこから北方へ転じて、越前へ、というものである。(現在の鉄道で言えば、JR・東海道本線で米原まで行き、そこからJR・北陸本線に乗り換えて、福井県へ、というルート。)

しかし、そのルート上には、足利軍が既に布陣している。

足利軍が布陣している場所を迂回して越前へ向かう、となると、

(1)[岐阜県・大垣市]の付近まで引き返し、そこから[揖斐川(いびがわ)]沿いに北西に向かい(国道303)、伊吹(いぶき)山地を超えて[木之本(きのもと:滋賀県・長浜市)]へ至り、そこから北上(国道8、もしくは国道365)して、福井平野へ出る、というルート。

しかし、このルート上には、斯波高経(しばたかつね)が率いる勢力が支配しているエリアがあるだろう。

となると、

(2)[岐阜県・大垣市]の付近から、北上して、[根尾谷(ねおだに)]を進み(国道157)、[福井県・大野市]を経由して、福井平野へ、というルート。

あるいは、

(3)[岐阜県・岐阜市]の付近まで引き返し、そこから[長良川(ながらがわ)]沿いに進み(国道156、長良川鉄道)、[白鳥]から西進し、峠を越えて、[九頭竜湖]に至り、そこから[九頭竜川]に沿って(国道158)[福井県・大野市]に至り、そこから福井平野へ、というルート。

上記の(2),(3)共に、たやすく移動できるようなルートではない、という事は、[地理院地図]を見ればよく分かる。(地図上で右クリックすると、その地点の標高値が表示されるようだ)。

かつて、越前と美濃を結ぶ鉄道を、という事で、[越美線(えつみせん)]の敷設計画があったという。

[越美南線]と[越美北線]が敷かれたが、両者は現在に至るまで、接続されていないので、[越美線]は完成していない。[越美南線]は現在、[長良川鉄道](第三セクター)になっている。

このように、隣り合う国である[越前]と[美濃]との間の交通にとっては、山地が大きな障害となっているのである。

関東地方や東北地方から遠征してきた人々に、更にこのルートを行けというのは、非常に酷な事であろう。へたをすれば、越美国境において全滅(戦わずして)というリスクもありうる。
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--------

北畠軍、伊勢方面へ転進、との情報をキャッチした京都の足利サイドの人々は、一様に安堵の胸をなでおろした。

足利サイド・リーダーD いやぁ、北畠顕家率いる奥州勢、鬼神のごとき恐ろしいヤツラと思ってたんだけどぉ。

足利サイド・リーダーE なんだか、拍子抜けしちゃったよなぁ。

足利サイド・リーダーF 黒地川(くろぢがわ)に布陣してた我が軍は、敗れなかったんだ。

足利サイド・リーダーG 北畠軍を追尾してきた、わが関東方面軍も、京都に到着したってよぉ。

足利サイド・リーダーH こうなったら、北畠軍なんか、恐れるに足らずだぁ!

足利サイド・リーダーI あんなの、恐かない、恐かなぁーい!

足利サイド・リーダー一同 ワッハッハッハァー!

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顕家たちは、奈良(なら:奈良県・奈良市)に到着した。

そこでしばらく馬の足を休めながら、顕家は、主要メンバーを集めて、今後の作戦を議論させた。

白河(しらかわ:福島県・白河市)から従軍してきた結城宗広(ゆうきむねひろ)が、膝を進めていわく、

結城宗広 今回の遠征、道中、何度も戦っては勝ち、方々の強敵を追い散らし、京都へあと一歩という所までは、来ました。でも、青野原(あおのがはら)の合戦で少々利を失ってしまったんで、黒地川の橋を渡る事もできなかった・・・やむをえず、迂回して、奈良までやってきたんですよね。

北畠顕家 うん・・・。(唇をかみしめる)

結城宗広 こんな状態のまんまで、吉野の陛下の下へ参ずるってぇのは、私としてはどうもねぇ・・・あまりにもフガイないって言うか・・・どうでしょう、我々の軍勢だけでもって、ここからまっすぐ北上して京都を攻める、というのは。朝敵を一気に追い落とすか、さもなくば、自らの屍(しかばね)を王城(おうじょう:注8)の土に埋めるか、どっちに転んだって、それで本望ってもんじゃないですかねぇ!

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(訳者注8)「都」。
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宗広の実にきっぱりとした意見に、

北畠顕家 よぉ言うた! 私も同じ思いやで!

ということで、北畠軍は一転して、京都攻めの作戦を練り始めた。

--------

その情報は、すぐに京都にリークした。

足利尊氏はこれを聞いてびっくり、さっそく会議を招集。

足利尊氏 急ぎ、奈良へ大軍を差し向けなきゃいかん・・・誰かが・・・軍を率いて、北畠の進撃をインターセプトしなきゃ・・・。

足利サイド・リーダー一同 ・・・(シーン)。

足利尊氏 誰かが軍を率いて奈良へ向かいだな・・・北畠軍の京都進撃をだな・・・。

足利サイド・リーダー一同 ・・・(シーン)。

足利直義 おいおい、誰もいないのか、「北畠軍攻めの大将、私がやりましょう!」って言ってくれる者は!

足利サイド・リーダー一同 ・・・(シーン)。

足利直義 じゃ、仕方ない、こっちから指名だ。兄上、誰に任せたらいいでしょう?

足利尊氏 ・・・そうだなぁ・・・。

高師直(こうのもろなお) あの、あのぉ、今回のその大役に、ピッタシカンカンってぇお方が、おられやんすですよぉ!

足利直義 いったい、誰?

高師直 北畠顕家ほどの大敵に向かうとなったら、そりゃぁなんつぅたって、ハートのエースとスペードのエース、あの桃井(もものい)兄弟でしょうがぁ。

高師直 わが関東方面軍は、鎌倉撤退の後、そりゃぁいろんな所で、北畠軍と何度も戦ってきたでやんすが、そのたんびに、相手にキツゥいボディブロー打ち込んで、北畠軍をビビラセてきたのが、桃井軍ではありまへんか。

高師直 せやからね、やつらの臆病神が去ってしまわん今のうちに、またまた、桃井兄弟を北畠の眼の前に送り込んだるんですわいな。そないなったら、こちらの思いのままに、奈良なんてあっちゅう間に制圧できてしまいますじゃん。

足利尊氏 ・・・なるほど・・・よし、奈良攻めは、桃井兄弟で決まり。師直、桃井に命令を伝えよ。

高師直 あいあい。

尊氏の命を受けた桃井直常(もものいなおつね)・直信(なおのぶ)兄弟は、異議もなく、さっそくその日のうちに京都を発ち、奈良へ向かった。

--------

「桃井軍、奈良へ」との情報に、顕家は、般若坂(はんにゃざか:奈良市)に一陣を張り、桃井軍の到着を待った。

般若坂へ到着した桃井直常は、軍の先頭に進み出て、士卒に指令を下す。

桃井直常 今回のこの戦、足利サイドの錚々(そうそう)たるメンバー多数いる中、誰も引き受ける者が無かったんだとよ。そこでな、ここはもう、桃井に任せるしかないってことで、おれたち兄弟が選ばれたんだって。

桃井軍メンバー一同 イェーィ! ピィピィ・・・。

桃井直常 もうまさに、武門の名誉に尽きるってもんじゃん。この一戦に勝てなきゃ、これまでの数々の我が桃井家の高名も、みんな泥にまみれちまわぁ。さぁみんな、志一つに励ましあって、あの陣を破るんでぃ!

桃井軍メンバー一同 オーゥ!

曽我師助(そがもろすけ)を先頭に、桃井軍・精鋭メンバー700余騎が、身命を捨てて北畠陣中に切り込んでいった。

北畠軍も、ここを先途(せんど)と必死に防戦。

しかし、東北地方や関東地方からの長途の遠征に疲れきった武士たちが、桃井軍をささえきれるはずがない。第一陣、第二陣と順に破られていき、数万騎の武士らは方々に退散していく。そしてついに、顕家も行方不明になってしまった。

かくして、桃井直常・直信兄弟は、やすやすと大軍を追い散らし、傷一つ負う事もなく京都へ凱旋した。

桃井直常 (内心)やぁったぜ! こうなったらもう、おれの戦功、足利家ナンバーワンじゃねぇの。褒賞、一人占めしちゃえるなぁ、ムフフフフフ・・・。

ところが、直常の意に反して、その功績は尊氏には全く認められずに終わってしまい、褒賞に関しても、何の音沙汰(おとさた)もない。

桃井兄弟は、不満たらたら。

桃井直常 なんだー、この処遇はぁ! いってぇどうなってんだぁ!

桃井直信 ったくもう、命を捨てて北畠と戦いつづけてきたのによぉ! ざけんじゃねぇぞぉ!

桃井直常 えぇい、もう! こんなオモシロクねぇ世の中、さっさと、ひっくりかえっちまやがれい!

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そうこうするうち、今度は、北畠顕家の弟・春日少将(かすがのしょうしょう)・顕信(あきのぶ)(注9)が、奈良の敗軍の兵らを集め、和泉(いずみ:大阪府南西部)の堺(さかい:大阪府・堺市)に拠点を定めて近隣を侵食、ついには、大軍となって八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)に陣を構え、京都を睨む勢いになってきた。

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(訳者注9)[新編 日本古典文学全集55 太平記2 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、[春日少将・顕信]は、顕家の弟ではなく、[春日顕国」と考えのが正しいようだ、としている。([結城文書による史実の発見 松本周二 著]を参考文献として挙げている)。
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またまた、京都の足利サイドの中に驚きが広がり、尊氏から、「急ぎ大将を派遣して、北畠顕信を討つべし!」との厳命が出された。しかし、

足利サイド・リーダーD (内心)功績抜群のあの桃井兄弟でさえ、褒賞ゼロだったんだもん。

足利サイド・リーダーE (内心)ましてや、おれたちみたいなモンには、討伐に行ったって、何のお褒めも出ないだろうな。

足利サイド・リーダーF (内心)やめとこ、やめとこ。誰か、がんばって行ってきてねぇー。

このような状況に、

高師直 あんれまぁ・・・。誰も引き受けて、ねぇでやんすか。こうなっちゃぁ仕方がないじゃけん、わが高家が一家ぐるみで出馬するしか、しょうがおまへんじゃん。

「春日軍・討伐に、高家メンバー全員出動!」との報に、みな驚いて、我も我もと馳せ集まってきた。

雲霞(うんか)のごとき大軍勢となった高軍は、八幡へ押し寄せ、山麓の四方を一寸の余地もなく覆い尽くした。

しかし、守る側は堀を深くし、猛卒たちが志を一つにたてこもっている。攻め手側は、戦うたびに利を失っていった。

「八幡攻め苦戦」との情報を聞き、桃井兄弟は反省。

桃井直常 今回の動員催促には従わず、都に残留したよ。でもなぁ、高家が一家総動員で八幡を攻めても一向に戦果が上がらん、なんてぇ話聞いちゃうと、なんだかなぁ・・・他人事みたいに考えてちゃ、いかんかもねぇ。

桃井直信 我々の不満は私事(わたくしごと)、戦は公事(おおやけのこと)。ここはやっぱし、出陣すべきぃ?

桃井直常 だよねぇ。

桃井兄弟は、手勢だけを率いて密かに京都を出て、友軍にまったく知らせることなく、単独で八幡山麓に押し寄せ、一昼夜、攻めた。

この攻撃によって、春日軍サイドでは、死傷者多数。

桃井軍サイドも、多数の死傷者を出して残りわずかになってしまい、ついに退いて、高軍団に合流した。

最近、京都の人々が「桃井塚」と呼んでいるのが、彼ら兄弟が合戦を行ったこの場所なのである。

これをかわぎりに、厚東武村(こうとうたけむら)、大平孫太郎(おおひらまごたろう)、和田近江守(わだおうみのかみ)らが先頭に立って、春日軍と戦いはじめた。

彼らは、自らも負傷し、若党を多数討たれながらも、日夜朝暮、戦いを挑んだ。

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このような中に、高師直は、各陣のリーダーを集めていわく、

高師直 問題は、目の前の八幡山だけじゃぁないのさね。和泉の堺や河内だって、とっても気になるんざんしょ。だって、あそこら一帯は、ずっと敵が支配してきてるエリアだもんね。

高師直 八幡山攻めるだけでも、こんなにオタオタしてるっちゅうのに、あっちに強敵が現れちまったら、さぁタイヘン。和田(わだ)や楠(くすのき)も、それに力合わすだろうし。

高師直 敵勢力の力が弱い今のうちに、あっちら方面の敵をさっさと退治してしまうに、限るんだっちゅうの!

師直はまず、大軍をもって八幡山包囲網をかため、春日軍メンバーが外へ出られないようにした。その上で、自ら軍を率いて天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ向かい、北畠顕家の軍に攻撃をかけた。

北畠軍は疲弊の極にあり、その兵力はわずかになってしまっていた。

みな身命を投げ出して、高軍と戦ったが、戦に利無く、全員散りじりになってしまった。

北畠顕家 もうここは、持ちこたえられへん。吉野へ脱出や!

顕家に従うは、今はわずか20余騎のみ。なんとかして高軍の大包囲網を破らんと、顕家自身も剣を振るい、向かいくる相手の鎧を破り、大いに奮戦。

しかし、それも空しく、戦功徒(いたず)らにして、5月22日、和泉の阿倍野(あべの:大阪市・阿倍野区)にて、北畠顕家卿、討死。

顕家に従う者も、あるいは腹を切り、あるいは負傷し、一人残らず死んでしまった。

顕家を倒したのは、武蔵国の住人・越生四郎左衛門尉(こしふしろうさえもんのじょう)、その首を取ったのは、丹後国(たんごこく:京都府北部)の住人・武藤政清(むとうまさきよ)であった。

彼らは、顕家の兜、太刀、刀を高師直に提出。鑑識の結果、「北畠顕家卿のものに間違いなし」となり、尊氏名での抽賞・賞賛文書が両人に下された。

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世間の声J まぁ、なんと、あわれな・・・北畠顕家卿。

世間の声K ほんになぁ・・・生まれは武士のお家やおへんけど、あの武略、あの智謀。

世間の声L まっこと、天下無双の勇将でいらしたねぇ。

世間の声M まだお若いのにのぉ、鎮守府将軍に任命されなさってな、奥州からの大遠征軍を二度も起こされたんじゃった。あのお方やろ、将軍を、遠い九州まで追い下したの。

世間の声N 顕家卿の大活躍で、吉野の天皇陛下もどれほどか、お心が晴れたことか。

世間の声O なんてったってぇ、吉野の天皇派の中で、顕家卿、功績ナンバーワンだで。

世間の声P そやけどなぁ・・・しょせんは、天皇陛下の聖運、天のおぼしめしに叶(かな)わず、将軍はんの武徳が大きぃ輝きだす時が、ついに来たっちゅうことですやろかいなぁ。

世間の声一同 そういうことだろね。

「北畠顕家、死す」の報に、吉野の公卿や武士たちも一様に、肩を落とした。

公卿Q 顕家卿、あんたもついに、逝ってしまわはったか・・・。

武士R また一人、陛下の大切な臣が・・・。

武士S あえなく、戦場の露と消えてしもぉた、ううう・・・。

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(訳者注10)北畠顕家は、戦死の直前の段階で、後醍醐天皇に対して、[顕家諫奏]と呼ばれる奏上を行っているようだ。それまでの天皇の政治に対する批判が、その内容であるという。
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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月 7日 (日)

太平記 現代語訳 19-8 北畠軍、鎌倉を攻略の後、京都へ向かう

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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足利家関東方面の総帥(そうすい)・足利義詮(あしかがよしあきら)は、この時わずか11歳であった(注1)。未だ、思慮が備わるとは思えない年齢である。

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(訳者注1)史実の上では、この時点では8歳である。いくらなんでも、8歳の少年が、このような事を言えるはずがないだろう、との読者の疑問を回避するために、太平記作者が、年齢をこのように変えて記述したのであろう。
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義詮は、会議出席メンバーらの議論をじっと聞いていたが、にわかに口を開いた。

足利義詮 ちょっと待った! みんな、いったいなに考えてるんだ!

足利軍リーダー一同 !!!(驚愕)。

足利義詮 さっきから聞いてりゃぁ、撤退、撤退って・・・みんな、揃いも揃って、弱気一色じゃないか。

足利軍リーダー一同 ・・・。

足利義詮 みんな、いったいどうした? いつもの元気は、いったいどこへ行ってしまったのかなぁ。

足利軍リーダー一同 ・・・。

足利義詮 戦をすりゃ、どちらかが負けるに決まってるさ。そんなに、負けるの怖けりゃ、そもそも戦わなきゃいいんだ、そうじゃなぁい?

足利義詮 いやしくも、この義詮、父上から関東を任されて、ここ、鎌倉にいるんだぞ。敵が大兵力だからって、一戦もしないで逃げ出したんじゃ、後で世間から何と言われるか。そんなことでは、敵に何と嘲られても、反論のしようが無いじゃないか。

足利軍リーダー一同 (驚きの眼差し)・・・。

足利義詮 たとえこちらが小勢であっても、敵が寄せてきたら、それに馳せ向かって戦うだけのことさ! 戦ってもかなわなかったら、その時には、討死にするだけのことだろ!

足利軍リーダー一同 (目を輝かせながら)・・・。

足利義詮 あるいは・・・他所(よそ)へ撤退するにしてもだよ、敵軍の一角を破ってからね、安房か上総へ退くべきじゃぁなぁい?

足利義詮 鎌倉に入った後、敵軍は、京都を目指して東海道を西へ進むだろうよ。我々は、その後にピッタシついて、追いかけていきゃぁいいんだ。そしてね、宇治か瀬田のあたりで、京都から東に進む父上の軍と呼応して、東西から敵を挟み撃ちにする。そういったグアイに事を進めていったら、敵は確実に滅んじゃう!

このように、事細やかに理路整然たる義詮の言葉に、一同奮起した。

足利軍リーダーA わかりやした! やりますよ!

足利軍リーダーB こうなったら、討死にするまでのことよ!

足利軍リーダー一同 そうだそうだ!

全員、覚悟をかためて、鎌倉にたてこもった。その軍勢は、1万余騎足らずしかいない。

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足利サイドの情勢を見定めた後、北畠顕家(きたばたけあきいえ)、新田義興(にったよしおき)、北条時行(ほうじょうときゆき)、宇都宮(うつのみや)・紀清(きせい)両党、合計10万余騎は、12月28日、全軍しめしあわせて、鎌倉へ押し寄せた。

攻めくる側の兵力数を聞き、足利サイドは、「到底、勝ち目の無い戦」と一筋に覚悟を固め、城の守りをかため、塁を深くした。

謀略は一切用いない。1万余騎を4手に分けて、北畠軍の進路に向かい、相手と駆け合わせ駆け合わせて、全員身命を惜しまずに、まる一日戦い続けた。

やがて、一方の大将の斯波家長(しばいえなが)が、杉下(すぎもと:鎌倉市)で戦死。この方面から足利サイド防衛ラインは破れ、攻撃軍は、鎌倉の谷々へ乱入。

3方向からの包囲を受けて、足利軍は一所に集合、戦死者続出、戦力となる兵も少くなってきた。

このままでは到底無理、という事で、大将・足利義詮を守りながら、高(こう)、上杉(うえすぎ)、桃井(もものい)以下全員、思い思いに鎌倉を脱出した。

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これより後、関東の勢力もどんどん北畠軍に参加してきて、雲霞のような大軍になった。

北畠顕家 こないなったら、鎌倉に長居する必要もない。いざ、京都へ!

建武3年(1336)1月8日、北畠軍は鎌倉を出発、夜を日についで京都へ向かった。

その軍勢は合計50万騎、先頭から後尾まの進軍ラインは5日間の行程に伸び、左右4、5里に広がって、押し進んでいく。

善悪の見境もない人々ゆえ、それが進み行く道中一帯にはまことに惨澹(さんたん)たる光景が広がっていった。路傍の民家に押し入っては掠奪し、神社仏閣と見ればかたっぱしから放火。軍勢が通過していった後の東海道一帯は、塵を払うがごとく、家の一軒も、いや、草木の一本さえも残っていない。(注2)

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(訳者注2)戦争のトバッチリを受ける側の視点から考えてみることも、必要ではないだろうか。「中世民衆史の方法-反権力の構想 3 内乱と農民(208P~209P)」(佐藤和彦著 校倉書房1985)」より以下、引用。

 「南北朝内乱は、民衆生活にいかなる影響を与えただろうか。14世紀末の作品といわれる「秋夜長物語絵巻」には、わずかな資材を背負って戦火に追われて逃げまどう人びとの姿が描かれている。「太平記」にも「路次ノ民屋ヲ追捕シ、神社仏閣ヲ焼払フ、総ジテ、此勢の打過ケル跡、塵ヲ払テ、海道二三里ガ間ニハ、在家ノ一宇モ残ラズ、草木ノ一本モ無リケリ」と兵糧を現地調達しつつ進撃する武士団によって、民衆生活が悲惨な状況へと追い込まれてゆく様相が記されている。南北両軍の往来のはげしかった東海道筋にあたる東大寺領美濃国大井庄や茜部庄の農民たちが、内乱によっていかに生活を破壊されたかをのべた「百姓等連署起請文」などを読むかぎり、”絵巻”や”軍記物”の描写がけっして誇張ではないことを知りうる。南北両軍が村々を通過するとき、船便を待って村に駐留するとき、牛馬は徴発され、資材は略奪されつくしたのである。内乱が長期化すれば、兵員の不足を補うとの名目で、陣夫役・野伏役が課せられて、農民たちが戦場へかりだされることもあった。かかる惨状からみずからの生活を守るものは、相互の扶助と団結だけであった。鎌倉中末期に成立した惣(そう)結合は、その内部にさまざまな矛盾をはらみつつも、内乱期をつうじて次第に強化されていった。惣結合は、戦火のなかで農民の生活を守るための基盤であり、生活向上をめざして闘うための砦(とりで)であった。」
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このようにして、北畠軍の前陣は、熱田(あつた:名古屋市・熱田区)に到着。熱田大宮司・昌能(あつたのだいぐうじ・まさよし)が、500余を率いてこれに合流してきた。

同日、美濃国(みのこく:岐阜県南部)の根尾(ねお:岐阜県・本巣市)、徳山(岐阜県・揖斐郡・揖斐川町)から、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)が、1,000余騎を率いて馳せ加わった。

こうなってはもはや、ここから京都への道中において、この大軍を食い止めようとする者など誰もいないと、思われる。

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鎌倉の戦に負けて方々へ逃げていた、上杉憲顕(うえすぎのりあき)と上杉藤成(うえすぎふじなり)は相模より、桃井直常(もものいなおつね)は箱根より、高重茂(こうのしげもち)は安房・上総より鎌倉へ渡り、武蔵と相模の武士らを招集した。思う所あって北畠軍に靡(なび)かなかった、江戸(えど)氏、葛西(かさい)氏、三浦(みうら)氏、鎌倉氏、関東八平氏、武蔵七党らがこれに加わり、総勢3万余騎になった。

清(せい)党のリーダー・芳賀禅可(はがぜんか)は、もとより足利サイドに与(くみ)していたので、紀清(きせい)両党が北畠軍に参加して京都へ向かった際には、仮病を使って国元に止まっていたのだが、彼もまた、清党1,000余騎を率いて足利軍に加わってきた。

この軍勢5万騎は、北畠軍を追尾し、先鋒は遠江(とうとうみ:静岡県西部)に到着。その国の守護・今川範国(いまがわのりくに)が、2,000余騎を率いてこれに加わってきた。

中1日経過の後、三河国(みかわこく:愛知県東部)に到着。その国の守護・高尾張守(こうのおわりのかみ)が、6,000余騎を率いてこれに合流。

美濃の墨俣(すのまた:岐阜県・大垣市)に到着後、土岐頼遠(ときよりとお)が、700余騎を率いて合流。

北畠軍60万騎は、足利尊氏を討たんとして、京都への道を急ぐ。北畠顕家を討たんとして、高、上杉、桃井軍8万は、その後を追う。まさに、荘子の次なる言葉そのものである。

 じっと 蝉を狙うカマキリ
 そのカマキリを じっと狙う野鳥

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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