2017年9月24日 (日)

太平記 現代語訳 13-3 クーデター計画

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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故・北条高時(ほうじょうたかとき)の弟、北条泰家(やすいえ)は、元弘(げんこう)年間の鎌倉攻防戦の時、自害したように見せかけて密かに鎌倉を脱出し、その後しばらく、奥州(おうしゅう:東北地方東部)に潜伏していたが、世間の目を避けるために、還俗して京都へやってきた。そして、西園寺公宗(さいおんじきんむね)のもとに身を寄せ、公家の家に奉公したての地方出身の侍のように装っていた。

いったいなぜ、西園寺公宗がこのような事を許したのか、それは、この家の過去の歴史を振り返って見ればよく分かる。

承久の乱の時、太政大臣・西園寺公経(さいおんじきんつね)は、鎌倉幕府に内通していた。そのおかげで合戦を有利に進めることが出来た幕府側のリーダー・北条義時(ほうじょうよしとき)は、「自分の後、子孫7代に至るまで、西園寺家と固く協力関係を結んでいくように」と言い置いた。

以来、鎌倉幕府は、西園寺家を格別に大事に扱ってきた。そのおかげで、代々の皇后もこの家から多く出て、諸国の官職もその半ばまでが、西園寺家の者に与えられてきた。

かくして、この家の主は太政大臣にまでなり、人臣位階を極めた。

西園寺公宗 (内心)鎌倉幕府が滅びるまでの、わが西園寺家の繁栄、これはひとえに、幕府があのように、我が家をひきたててくれたからやった。

西園寺公宗 (内心)そやからな、この際、何とかして、高時殿の一族を盛り立ててやって、彼らに政権を奪回させたいもんやわ。そないなったら、わが家は朝廷の中の第一人者となって、天下をわが掌中に握れるやん。

このような思いがあった故に、公宗は、泰家を還俗させて、刑部少輔時興(ぎょうぶしょうゆうときおき)という偽名を使わせながら、明けても暮れても、クーデター計画を二人で練っていた。

ある夜、西園寺家の家司の三善文衡(みよしあやひら)が、公宗の前に来ていわく、

三善文衡 国家の将来の興亡を判断するには、政治の善し悪しを見るのが一番ですわ。政治の善し悪しを見きわめるためには、賢明なる臣下を君主がどのように処するか、という点に注目していけば、えぇでしょう。微子(びし)が去って後、殷(いん)王朝は傾き、范増(はんぞう)が罪せられて後、項羽(こうう)は滅びました。賢明なる臣下を大切にしないような国家というものは、必ず傾いていくわけですよ。

西園寺公宗 うん、なるほど。

三善文衡 今の朝廷を見わたしてみるに、まともな臣下と言えそうなのは、あの万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、ただ一人だけやったです。そやけど彼も、今の政権の先行きが決してよろしくないっちゅうことを、もう察知したのでしょうな、こないだついに、隠遁の身になってしまいましたよね。

西園寺公宗 ・・・。

三善文衡 これは、朝廷にとっては大いなる凶事ですけどな、御当家にとっては、これから運が開けていく前兆やと、私は思います。

西園寺公宗 ・・・。

三善文衡 今が、チャンスですわ。

西園寺公宗 ・・・。

三善文衡 どうか、クーデター決行のご決意を! 北条家の息のかかってたもん(者)らが、十方から馳せ参じてきますでぇ。天下ひっくり返すんなんか、たった1日もあれば十分!

西園寺公宗 ・・・よぉし、いっちょ、やってみよか!

三善文衡 やってくださいよぉ!

西園寺公宗 となると、兵力が必要やな。まずは、泰家殿を京都方面軍の大将に任命して、近畿地方から兵を集めるとして・・・。

三善文衡 関東は?

西園寺公宗 生き残った子供おったやろ、高時殿の。

三善文衡 時行(ときゆき)殿ですな?

西園寺公宗 そやそや、その時行(ときゆき)を大将にしてやな、甲斐(かい)、信濃(しなの)、武蔵(むさし)、相模(さがみ)の勢力を集めて、率いさせるとしよ。

西園寺公宗 北陸方面は、名越時兼(なごやときかね)を大将にして、越中(えっちゅう:富山県)、能登(のと:石川県北部)、加賀(かが:石川県南部)から兵を募ると・・・このセンで、行こか!

三善文衡 了解!

このように、諸方面の準備を同時進行で整えた後、西の京(京都市・中京区)から大工多数を招集し、西園寺邸内に、湯殿を急ピッチで建てた。

その脱衣室の床に落とし板を仕掛け、その下の地面に刀を植え込んだ。

遊興を催して、後醍醐天皇を西園寺邸に招き、「陛下、華清宮(かせいきゅう:注1)の温泉になぞらえて、「浴室の宴」なぞ、いかがでしょうか」と勧め、天皇をこの湯殿に導き入れた後、落とし板から刀の上へ落として殺害してしまおう、との計画である。

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(訳者注1)中国・唐の玄宗皇帝が楊貴妃とともに遊んだ所。
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このように、様々に謀略をめぐらし、クーデター決起のための兵力を確保した後、公宗は、「西園寺邸へ御行幸いただき、北山の紅葉をお楽しみくださいませ。」と、天皇に奏上した。

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行幸の日程はすぐに決まり、その際の儀式等の準備が着々と進められていった。

そしていよいよ、「明日の正午に、西園寺邸へ」との発表がなされた日の夜、

後醍醐天皇 あれ、あの女、いったい? 見かけん顔やなぁ。赤い袴の上に、薄墨色のあこめを、二枚重ねで着てるわ。

後醍醐天皇 おいおい、おまえ・・・こないなとこで、何しとるんや。

女 前方には、怒れる虎と狼、後方には獰猛(どうもう)なる熊とヒグマ。明日の行幸、なにとぞ、思い止まりください。

後醍醐天皇 エェ? おまえ、いったい、どこの誰や? どっから、来たん?

女 神泉苑(しんせんえん)のあたりに、長年住む者。(去っていく)

後醍醐天皇 あ、待て、待て、待てーーっ!

後醍醐天皇 (ガバッ)・・・あぁ、夢やったんかぁ。

後醍醐天皇 (内心)なんとも怪しき、夢のお告げやったなぁ・・・。

後醍醐天皇 (内心)「明日の行幸、思い止まれ」てかいな・・・そないな事、言われてもなぁ・・・もうここまで、色々と決めてしもてるんや、この期(ご)におよんで、中止になんか、できひんやん。

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翌朝、天皇は、行幸をスタートさせた。

後醍醐天皇 (輿の中で)(内心)それにしても、昨夜のあの夢のお告げ、気になる・・・気になる・・・気になるぅ・・・よし!

後醍醐天皇 おぉい、まず、神泉苑へ向かえ!

近臣たち ハハッ!

神泉苑に到着した天皇は、そこに祭られている龍神に、幣を手向けられた。

その時突如、苑中の池の水面に異変が起った。白波がしきりに岸を打ちはじめた、風も吹いていないのに。

後醍醐天皇 (内心)なんや、この池の状態は! うーん、ますます、昨夜の夢の事が気になってきた、うーん・・・。

輿をそこに止めさせたまま、じっと思案する後醍醐天皇。

そこへ、西園寺公重(さいおんじきんしげ:注2)が、あわてふためき、やってきた。

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(訳者注2)公宗の弟。
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西園寺公重 えらいこってすわ! 「西園寺公宗に、陰謀の企てあり、それゆえに、陛下に行幸を勧めた」と、さる方面からたった今、知らせがありました。

後醍醐天皇 ナニ!

西園寺公重 陛下、行幸をまずは中止され、急ぎ、御所にお戻り下さいませ。その後、橋本俊季(はしもととしすえ)、三善春衡(みよしはるひら)、三善文衡(みよしぶんひら)ら、公宗の腹心、呼び寄せられて、詳細をお調べ下さいませ。

後醍醐天皇 (内心)公宗が陰謀やとぉ! 昨夜の夢のお告げといい、今日のこの池の異変といい、これはどうも何かあるな。

後醍醐天皇 今日の行幸は取りやめや! 御所に戻るぞ!

近臣たち ハハァッ!

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御所へ帰還の後、後醍醐天皇は、すぐに、中院定平(なかのいんさだひら)を呼び寄せた。

後醍醐天皇 あんな、定平、結城親光(ゆうきちかみつ)と名和長年(なわながとし)引き連れてな、今すぐ、西園寺邸に急行せい。西園寺公宗と橋本俊季、三善文衡、ひっとらえてこい!

中院定平 ははっ

天皇の命に従い、2,000余騎が、西園寺邸の表門と裏門の前に寄せ、邸宅を厳重に包囲した。

これを見た西園寺公宗は、

西園寺公宗 (内心)あぁ、クーデター計画、露見してもぉたかぁ。

事ここに至っては、致し方なしと、公宗は落ち着き払っている。

しかし、事情を何も知らない奥方、女房、侍たちは、いったい何事が起こったのかと、あわてふためきながら、ただ逃げ回るばかり。

公宗の弟の橋本俊季は、頭の回転の速い人であったので、御所から軍が向かってくるのを見るやいなや、単独で邸内から脱出し、背後の山づたいに、どこへともなく逃亡してしまった。

中院定平は西園寺公宗に対面し、おだやかに事の次第を告げた。これを聞いた公宗は、

西園寺公宗 (涙を押さえながら)不肖、この公宗、故・中宮様との親族の縁のおかげで、位も給与も人の上を行っとります。これもひとえに、陛下が慈しみ深く、私どもの家をごひいきにして下さるおかげ。ですから、「陰に居て枝を折り、流れを汲んでは源を濁す」とでも言うべき、恩を仇で返すような事をしでかそうなどと、私が考えるはず、ありませんやんか!

中院定平 ・・・。

西園寺公宗 これはですな・・・色々と考えてみまするに・・・わが西園寺家は数代にわたって、官位は人を超え、いただく給与は身に余る、というような状態です。そやから、これはきっと、よその高家名門の連中らが私らのことをねたんで、あれやこれやと当家の事を讒言しとるんですわ。あることないこと言い触らして、わが西園寺家を没落に追い込もうと、しとるんですよ。

西園寺公宗 まぁ、遅かれ早かれ、天の鏡が真実を映し出すことでしょう。わが家のこの汚名、すべて虚偽によるものやったんや、ということが、陛下にもお分かり頂けますやろて。

西園寺公宗 ここはひとまず、お召しに従ぉて、宮中の衛士詰め所に参りましょう。その上で、私が有罪か無罪かの糾明を、していただく事にしましょう。ただな、俊季は今朝ほど、どこかへ行ってしまいましたんで、彼を連行するのは不可能ですよ。

(中院定平と共に来ていた)武士のリーダーA さては、橋本俊季を、舘のどこかに匿ってるな!

リーダーB よぉし、邸内くまなく捜索だぁ!

数千人の兵が邸内に乱入、天井も納戸も打ち破り、簾も几帳も引き倒し、くまなく捜索。

紅葉の賀の管弦楽の準備のため、楽器の音合わせをしていた楽人たちは、装束を着たまま東西に逃げ迷い、群れをなして行幸の見物にきていた僧俗男女も、「こいつら、怪しいぞ」ということで、多数が逮捕され、思いもかけない刑に逢うことになってしまった。

武士たちは周辺の山奥、岩の間までも、橋本俊季はここに潜んでいるか、あそこに潜んでいるか、と草の根分けて探し回ったが、ついに、彼を見つけることはできなかった。

仕方なく、彼らは、西園寺公宗と三善文衡とを逮捕・連行して、その夜、帰還した。

定平の邸宅の一間が狭い牢獄にしつらえられ、公宗は、そこに押し込められた。

三善文衡の方は、その身柄を結城親光が拘束、昼夜3日間、厳しく拷問を加えた。ついに、文衡は何もかも白状してしまい、その後すぐに、六条河原へ引き出され首を刎ねられてしまった。

やがて朝廷より決定が下り、「西園寺公宗の身柄は、名和長年の預かりとし、出雲国へ流刑」と定まった。

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「明日、流刑地の出雲へ出発」との決定が下った夜、中院定平はそれを、西園寺公宗の奥方に知らせてやった。奥方は人目を忍びながら、泣く泣く、囚われの身となっている公宗のもとにやってきた。

しばしの間、警護の武士を遠ざけてもらった後、奥方は、公宗が幽閉されている部屋の方へと進んだ。見ると、邸内のある一室、蜘蛛手に材木を厳重に組まれたその奥に、公宗は身を縮め、起きあがりもせずにただじっと、泣き沈んでいる。流れる涙は袖に余り、身も浮かんばかりである。

奥方の姿を一目見るや、公宗はますます涙にむせび、言葉も出ない。

奥方 いったいこれは・・・何という事に・・・(涙、涙、顔を袖でおおって泣き伏す)

暫しの時の経過の後、

西園寺公宗 (涙を押さえながら)「引く人もなき、捨て去られた小舟」とでもいうべきかなぁ、自分のこの現状は・・・深い罪の中に沈んでしもぉたわ。

奥方 ・・・(涙)。

西園寺公宗 お前は妊娠中の身や・・・私の事を心配して、どないに悩んでるかと思うとなぁ・・・死んでも死にきれんわ。

奥方 ・・・(涙)。

西園寺公宗 お腹の中の子供が男の子やったらな、将来の希望を失わんと、大事に育ててな、成人させてやってくれよ。成人した時にな、これ、渡したって。

西園寺公宗 これはな、先祖代々、我が家に伝えられてきたもん(物)なんや・・・「顔見たこともないあんたのお父さんが、残していった忘れ形見やで」いうてな、渡したって。

公宗は、「上原(しょうげん)」、「石上(せきしょう)」、「流泉(りゅうせん)」、「啄木(たくぼく)」の琵琶の秘曲が書かれた楽譜を一冊、はだにつけていた護袋から取り出して、奥方に手渡した。そして、側の硯を引き寄せ、その上包みの紙の上に一首書き添えた。

 あわれにも 夜露の命は 日の出まで それでも気になる 愛児の運命

 (原文)哀(あわれ)なり 日影(ひかげ)待間(まつま)の 露の身に 思いおかかるる 石竹(なでしこ=撫でし子)の花

硯の水の中に、公宗の涙が落ちる。

西園寺公宗 (内心)あぁ、涙で、薄墨の文字もはっきり見えへん。今自分が書いてる歌を見てると、なんや、自分がどっかに消えていってしまいそうな気ぃするわ・・・これが今生の形見となるんやな・・・(涙)。

公宗から渡された形見をじっと見つめていると、奥方は更に悲しみが増してきて、もう言葉が出てこない。彼女はうなだれ、ただ泣き崩れるばかり。

やがて、護送担当の者がやってきた。

護送担当 さぁさぁ、出発のご準備を! 今夜まず、名和長年殿の所へ移っていただき、翌朝、流刑先へ出発となりますでなぁ。

周囲が騒然としてきたので、奥方はその場から離れ、室外へ出た。しかしなおも、彼女は、公宗の事が案じられてならず、間の透いた垣の奥に身を隠しながら、館の中の様をじっとうかがっていた。

そこへ、名和長年が、2、300人ほどの武装メンバーを率い、公宗の身柄を引き取りにやって来てた。彼らは、庭にずらりと並んだ。

名和長年 夜も更けてるから、急がんとなぁ!

公宗が、縄を引かれながら中門を出てきた。その有様をじっと見守る奥方の心中、何と表現してよいものか・・・。

庭に据えられた輿(こし)の簾(すだれ)をかかげて、公宗がそれに乗り込もうとした時、

中院定平 (名和長年に対して)さ、早ぉ・・・。

名和長年 (内心)なに、「早ぉ」? なるほど、早ぉ殺してしまえ、という事かい、よし!

長年は公宗に走りかかるやいなや、彼の鬢をひっつかんでうつ伏せに引き伏せ、腰に差した刀を抜き、公宗の首めがけて、

名和長年 エェイィ!

臣下でありながら、天皇陛下を殺し奉ろうなどという、大それた事を企てた男に対して下されたその罰、まことに恐ろしいものである。

これを見た奥方は思わず、「あっ」と叫び、垣の奥に倒れ伏してしまった。そのまま息絶えてしまうのでは、とさえ思われ、女房たちはあわてて、彼女を助けて車に乗らせ、泣く泣く、西園寺邸へ連れ帰っていった。

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館の中にも外にも、あれほどたくさんの侍や女房がいたのに、全員、どこかへ逃亡してしまったのであろう、西園寺邸は無人の状態、簾も几帳も、引き落とされてしまっている。

居間には、短冊がここかしこに、散り乱れている。

奥方 (内心)月の夜といい、雪の朝といい、あの人はいつも興が向いたら、歌を詠んではあの短冊に書いてはったなぁ・・・この短冊も今は、亡き人の形見となってしもぉた。(涙、涙)

寝所には、布団が。

奥方 (内心)布団だけは、あないして敷いてあるけど、枕を並べたあの人は、もうあそこには、居はらへん。あの人の面影、わが胸中にしっかりと焼き付いてはいるけど、もう互いに話をすることもできひんように、なってしもぉた。(涙、涙)

庭には紅葉が散り敷き、風の吹くのも寒々しく感じられる。古木の梢に鳴く梟の声を暁に聞くのも、ものさびしくて、やるせない。こんな所に住み続けることなど、とてもできはしない、と思っている所に、西園寺家の財産はすべて西園寺公重に与えられることになった、ということで、侍が多数やってきて色々と処置をする。

何もかもが、公宗との別離の悲しみに、追い討ちをかけるような気がする。ついに奥方は、仁和寺(にんなじ:京都市・右京区)のあたりに、ひっそりとした住居を見つけ、そこへ転居した。

故・公宗の百か日にあたるちょうどその日、彼女は無事にお産を済ました。男の子であった。

かつての華やかなりし時であったならば、安産祈祷を担当する貴僧、高僧が歓喜の声を上げ、男子出生のニュースは国中に伝わり、門前に車馬が群れをなして集まってきたであろう。しかし今は、出産の祝いの桑弓を引く人もなく、蓬の矢を居る所もないあばら屋に、彼女は身を置いている。吹き込んでくる冷たい隙間風を防いでくれる夫もすでに亡く、乳飲み子に乳母をつけてやる事もかなわず、奥方は自らの力で、赤子を抱き育てていくしかない。

奥方 (内心)あぁ、この子、だんだんあの人に似てきたわ・・・そういえば、昔の人が詠んだ歌に、こんなんがあったねぇ、

 形見こそ 今となっては つらい過去 これさえ無ければ 忘れれるのに

 (原文)形見(かたみ)こそ 今はあたなれ 是(これ)なくば 忘るる時も あらまし物(もの)を

奥方 (内心)あぁ、こないな事考えてたら、また悲しぃなってきてしまう・・・(涙)。

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悲嘆の思いは胸に満ち、子供が生まれて間も無いというのに、中院定平のもとから使いの者がやってきていわく、

使いの者 中院定平様から、次のように仰せつかって参りました、

 「こちら様のお産の事について、朝廷から私に、おたずねがありましたので、もしも、男の子が生まれてんのやったら、その子を乳母に抱かせて、私の方に送り届けて下さい」。

これを聞いた奥方は、泣き伏してしまった。

奥方 (内心)あぁ、なんという悲しい事なんやろ。

奥方 (内心)この子がまだ私のお腹の中にいた頃、「公宗の子供の姿を、母親の腹を開いてでも、ご覧あそばす」てな事、聞いた事ある。この子が生れたこと、どっかから朝廷に、リークしてしもぉたんやなぁ。

奥方 (内心)悲しい中にもなんとかして、この子を、あの人の忘れ形見やと思ぉて、大事に育てよう、成人したら僧侶にして、あの人の菩提を弔わせようと、思ぉてた。そやのに、いまだに乳離れもしてないこの幼子が、人の手にかかって死ぬ、なんてことになったら・・・うち(私)は、いったいどないしたらえぇのん・・・。

奥方 (内心)あの人とも別れ、この子とも別れ・・・消えかねる露のようなわが命、これからいったい、何を頼りに、耐え忍んでいったらえぇのん?

奥方 (内心)命終えるまで与えられたわが人生、ほんまに自分の思うようにならへん・・・なんでこないに、悲しい目にばっかし、逢わんならんのやろぉか・・・(涙、涙)

これを見た公宗の母・春日局(かすがのつぼね)は、泣く泣く奥から出て、使者に相対していわく、

春日局 (涙)故人の忘れ形見の男の子、たしかに、生まれたことは生まれたんどすけどなぁ・・・その子の母親、あないなつらい目に逢ぉてまっしゃろぉ・・・あれ以来、彼女は、物思いに沈みきって、という状態が続きましてなぁ・・・そのせいでっしゃろか、その子は生まれて間もなく、死んでしもたんどすぅ。

春日局 (涙)何といいましても、罪人の子を産み落としたっちゅう事になりますやろぉ・・・そやから、朝廷からはいったい、どないな御沙汰が出るもんやら・・・お咎めが怖いよってに、出産の事は伏せとこか、と、まぁ、こないに思いましてなぁ・・・いやいや、これは決して、うそ偽り言うてんのとはちゃ(違)いますえぇ。その証拠に、神仏に一筆、申し入れさせてもらいましょかいなぁ。

彼女は、涙を流しながら、前後のいきさつをしたためた後、その最後に一首書いた。

 偽りを 糺すの森に 置いた露 消えてしまって 涙の毎日

 (原文)偽(いつわり)を 糺(ただす)の森に 置く露の 消えしにつけて 濡るる袖哉(かな)(注3)

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(訳者注3)[糺の森]は、京都の下鴨神社(しもがもじんじゃ)の境内に現在もある森。生れた子供のことを、「置く露」と表現している。
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使いの者が持ち帰ったこの文を読んだ中院定平は、涙を拭いながら、それを後醍醐天皇のお目に入れた。

この最後の一句には、さすがに天皇も哀れを催されたのであろうか、その後、この件についての詮索は行われないようになった。

嬉しい思いの中にも、奥方の心は休まらない。

焼け跡の野原の中に住む母雉(きじ)は、焼け残った草叢(くさむら)を命の拠り所として、雛を育てるという。それから後の彼女の毎日はまさに、その母雉のごとくであったといえよう。泣き声を人に聞かれるような事がないようにと、赤子の口を押さえて乳を含ませ、その子と同じ枕に世を忍びながら、泣き明かし泣き暮れて過ごした3年の歳月・・・まことに悲哀に満ちた彼女の心中。

その後、建武の乱が勃発(ぼっぱつ)、天下が将軍のものになると共に、この子も朝廷に出仕することができるようになり、やがて西園寺家の跡を相続するに至った。この男子こそが、後の、西園寺実俊(さねとし)である。

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西園寺公宗の没落に関して、宮内省・営繕局長(注4)の藤原孝重(ふじわらたかしげ)がその前兆を察知していた、と言うのが、実にまた不思議な話である。

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(訳者注4)原文では、「木工頭」。
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クーデター計画を進めるに当たって、公宗はまず、クーデター成功の祈願の為に、1週間、北野天満宮に参篭し、毎晩、琵琶の秘曲を弾き続けた。

祈願満願の7日目の夜、聖なる神の社に、最高に妙なる音楽を捧げ祭ろうと思ったのであろうか、公宗は、冴えわたる月の下、風冷ややかな夜更け方、簾を高く巻き上げさせて、「玉樹(ぎょくじゅ)三女の序」という曲を奏ではじめた。

琵琶 ジャララァーーン・・・ジャララァーーン・・・ビビィーン・・・ビビビビィーン・・・

第1弦と第2弦は、消え入るような調べを奏で、秋風が松の梢を払うがごとくに、ものさびしく響く。第3弦と第4弦は、限りなく拡散していくような音調で、子を思う鶴が夜に籠の中で鳴くがごとくに、歌を奏でる。弦を弾き、弦を押さえ、曲はリズムに乗って進んでいく。

リピート6回の後、新たなメロディーが奏でられ始めた。まさに、嬰児さえも立ち上がって今にも舞いはじめようか、という風情。

その夜、北野天満宮に徹夜で参篭していた孝重は、心を澄ませ耳をそばだてて、公宗の琵琶の演奏にじっと聞き入っていた。

演奏終了の後、孝重は、そこに居合わせた人々に対して語った。

藤原孝重 今夜のあの演奏なぁ、西園寺殿、こちらのお社の神様へ何かお願いごとがあって、あれを演奏しはったんやったら、その願い事は、かなわんで。

その場にいた人A え? いったい、なんでですかいな?

藤原孝重 あの「玉樹」っちゅう曲はやな、その昔、中国の晋(しん)の平公(へいこう)が、濮水(ぼくすい)っちゅう川のほとりを通りすぎた時に、川に流れる水音の中に管弦の響きを聞き取ってやな、すぐに、師涓(しけん)っちゅう楽人に命じて、それを琴の曲に写し取らせたっちゅう、イワクつきの曲なんや。

その場にいた人B へぇー・・・。

藤原孝重 もうとにかく、陰にこもる気に満ち満ちた曲でなぁ、それを聞く人は残らず、涙を流すっちゅうようなもんやったんや。そやけどな、平公はこの曲を好み、しょっちゅう、管弦で演奏させてたんや。

その場にいた人C ふーん・・・。

藤原孝重 ある時な、師曠(しこう)っちゅう楽人がこの曲を聞いてやな、平公にこぉ言うたんや、

 「そのように面白がって、この曲を演奏させてたら、やがて国家が乱れ、殿のお家は危機に直面しますぞ。なぜかといえば、」

 「その昔、殷(いん)王朝の紂(ちゅう)王は、淫靡(いんび)な曲を作らせてそれを奏でさせていましたが、間もなく、周の武(ぶ)王に滅ぼされてしまいました。しかし、紂王の魂魄(こんぱく)は、なおも濮水の底に留まり、その曲を奏で続けてきました。殿が聞かれたこの音楽こそは、まさにその、紂王の魂魄が奏でていた楽曲ですぞ!」

 「よりにもよって、そのような危険きわまりないシロモノを、殿は譜面に写し取らせ、今もそれを弄んでおられる、というわけです。鄭(てい)国の淫靡な音楽が、上品な音楽の世界を汚したのと同様、この曲、トンデモナイ音楽ですぞ。」

藤原孝重 師曠が危惧した通りになり、平公は身を滅ぼしてしもぉた。しかしその後も、この曲は、陳(ちん)王朝の代に至るまで、演奏され続けたんや。陳王朝最後の王もこの曲を弄んで、隋(ずい)に滅ぼされた。隋の煬帝(ようだい)もまた、この音楽をさんざん弄んだあげく、唐(とう)の大宗に滅ぼされてしもぉた。

藤原孝重 唐王朝の末の頃に、わが国の楽人にして宮内省・清掃局長(注5)の藤原貞敏(ふじわらさだとし)が、遣唐使として中国に渡ってな、あちらの地で、琵琶博士・廉承夫(れんしょうふ)に会うてこの曲を習うて、日本に持ち帰ってきたんやわ。

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(訳者注5)原文では、「掃部頭」。
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藤原孝重 この曲には不吉の音調あり、ということで、一手略して演奏すんねん、通常はな。ところが、今夜のあの演奏、その一手を略さんと、モロ弾いてはったわな。おまけに、ばちさばきも、ごっつう荒々しぃ聞こえたしなぁ、こらぁなんか、相当問題ありなんちゃうかぁ、てな事、思ぉてしもたよ。

藤原孝重 音楽と政治には、あい通じるものがあるっちゅうやんかぁ。西園寺殿の身の上に、これからいったいどないなトラブルが起こってくるんか・・・こらぁ先が思いやられるでぇ。

このように孝重は歎いていたのだったが、それから程なく、公宗は死刑という運命に遭遇してしまったのである。まことに、不思議な前兆であったとしか、いう他はない。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年9月23日 (土)

太平記 現代語訳 13-2 万里小路藤房、政界から退き、出家

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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それから後も、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)は、たて続けに、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に対して諫言(かんげん)を行った。しかし、彼の言葉はついに天皇には受け容れられず、大内裏造営工事は中止されることもなく、詩歌管弦の宴も頻繁に行われていく。

藤房はついに、決意した。

万里小路藤房 (内心)あぁ、これほど申し上げても、陛下はお聞き入れ下さらない。

万里小路藤房 (内心)ここまで諫言申し上げたんやもんな、もう臣下としての務めもせいいっぱい果たしたと、いうもんやろ。よし、もう政界から、身を退いてしもたろ。

3月11日は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府・八幡市)への行幸、緒卿もみな華やかに装って、付き従っていく日である。藤房は、都庁長官(注1)の職についていることでもあるし、これが最後のおつとめになるだろうから、と思い、人目を驚かすほど多くの配下を召し連れて出立した。

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(訳者注1)原文では、「大理」。これは、[検非違使別当]の唐名である。
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まず先頭を進むのは、看督長(かどのおさ)16人。左右に飾りのついた冠、白い袖に薄紅色の上着、白袴、イチビ皮仕立てのわら靴を履いて、列をなす。

それに続くは、走り下部8人。細い烏帽子(えぼし)に、上下同色・各家の紋付きの水干(すいかん)を着して、二列縦隊で歩いていく。

その後方には、都庁長官・万里小路藤房が進む。巻き飾りのついた冠、表白裏紅の袴、儀式用の靴、蒔絵の平たい鞘の太刀をはき、黒斑羽根の矢を入れた矢入れを背負い、「甲斐の大黒(かいのおおぐろ)」という名前の5尺3寸ほどの、太くたくましい名馬に乗っている。漆に金粉蒔きの鞍を置き、厚く大きい房をつけた水色のしりがいを掛け、唐糸の手綱をゆるやかに結び、鞍の上にゆったりと腰を下ろして袴のまちを前に引き、左右の手に手綱を3重の輪にして持ちながら、小路せましと馬を歩ませていく。

馬の左右には、褐色の冠をかぶり、猪皮張り鞘の太刀をはいた馬副(うまぞえ)が4人。飼副(かいぞえ)の侍2人は、烏帽子に薄藍色の光沢のある絹の上着を重ねている。さらに、単袖の水干を着た牛飼い役の雑色(ざっしき)4人。そして、白い狩衣の上にオレンジ色の上着を着た少年1人、細烏帽子に単袖白色、暗緑色の水干の弓矢持ち役6人、細烏帽子に単袖オレンジ色の水干を着た舎人(とねり)8人。

行列の最後尾には、直垂を着た雑人(ぞうにん)らが100余人。

先払いの者が、声高らかに行く手を払い、天皇にお供していく万里小路藤房の行列であった。

やがて、一行は八幡宮に到着、神社の伏拝(ふしおがみ:注2)に馬を留めた後、男山(おとこやま:注3)の登りにかかった。

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(訳者注2)参拝者が平伏して拝むために木を横たえた場所。

(訳者注3)八幡宮はこの山の中にある。
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万里小路藤房 (内心)「男山」か・・・「あの人もなぁ、過去にはそれこそ、男盛りの、輝かしい時もあったんやけどねぇ」てな事言われるような境遇に、明日は自分もなってしまうんやなぁ・・・なにか、モノ悲しいなってくるわ。

石清水八幡宮の拝殿の前で、参拝する天皇の姿を見つめながら、藤房は祈る、

万里小路藤房 (内心)石清水(いわしみず)・・・その名のごとく、どうか、陛下の御治世も末長く、清水のように澄みきった状態で、続いでいきますように。

万里小路藤房 (内心)今日このように、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)様の前にお参りさせていただく事になったというのも、何かの縁というもんやろ。きっと、自らの心の中にたまった垢を清め、俗世間の人々の言葉を聞いているうちに汚れきってしまった自分のこの耳を、きれいに洗えよ、ということなんやろうなぁ。

八幡大菩薩の社前で、藤房は、心中に経を誦し、法文を唱えて祈り続けた。

万里小路藤房 (内心)願わくば、八幡大菩薩様、わが道心を堅固にせられ、速やかに、仏道を得られるように、ご擁護下さいませ。

和光同塵(わこうどうじん:注4)の月が、自らの心の闇を明るく照らし、神の意志も、彼の出家を強く促しているように、藤房には感じられた。

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(訳者注4)仏が衆生を救うために、身体から発する光を和らげ、塵にまみれた人間の世界に姿を現すこと。
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このようにして、神社参拝の一日が終わり、天皇一行は無事、京都へ帰還。

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万里小路藤房 (内心)さぁ、辞職願いのために、御所へ参内して、陛下にお目通り願うとしよか。今が絶好のタイミングや!

藤房は、天皇にお目通りを願い、夜を徹して、古代中国の竜逢(りゅうほう)と比干(ひかん)の諫言の結果の死の恨み、そして、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の潔い隠遁とを引き合いに出しながら、自らの思うところを存分に述べた上で、辞職を願い出た。

翌未明、藤房は御所を退出した。

万里小路藤房 (帰還の車中にて)(内心)あぁ、御所の上に照る月も、涙に曇っておぼろに見える。

近衛陣にさしかかったあたりで、藤房は牛車から降りて、それを館に返し、召し使い1人だけを伴って、北山の岩倉(いわくら:京都市・左京区)へ向かった。

岩倉に到着の後、彼は、不二房(ふじぼう)という僧侶を戒師に招いてついに出家、長年かぶって来た朝廷の文官の冠を脱ぎ、十戒持律の僧侶に姿を変じた。

貧しい人でさえも、年老いた人でさえも、恩愛の積もったわが住居を離れ難いものである。ましてや、官位も給与も高く、齢いまだ40に達していない人が、妻子を離れ、父母を捨てて、諸国行脚の僧侶になるとは・・・まことに、世に例を見ぬ発心(ほっしん)の姿である。

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「万里小路藤房、出家す」の情報は、後醍醐天皇のもとにも伝えられた。

後醍醐天皇 ナニィ! 藤房が出家したぁ?!(驚愕)・・・あかん、そんなん、絶対にあかんぞ、わしが許さん! これ、宣房(のぶふさ)、はよ、藤房を探し出してな、政治補佐の臣下に戻らせぃ!

万里小路宣房(までのこうじのぶふさ) はい・・・。(涙)

藤房の父・宣房は、泣きながら岩倉へ車を飛ばした。

ところが藤房は、今朝までは岩倉にいたのであったが、ここは都にあまりに近すぎて、俗世間の人が訪ねて来るのが厭わしく感じられ、どこというあてもなしに、足にまかせて、旅立っていってしまっていた。

不二房の庵を訪ねた宣房は、

万里小路宣房 うちの藤房、こちらにいいひんやろか?

不二房 あぁ、藤房殿やったら、今朝までここに、いはったんですけどな、「これから、諸国行脚するから」言うて、どこへ行くとも何とも言わんと、出ていかはりましたわ。

万里小路宣房 来るのが遅すぎたか・・・。(涙)

悲嘆の涙を覆いながら宣房は、藤房の居住スペースに入った。

破れた障子の上に、いったい誰にあてて書き残したのであろうか、一首の歌と漢文が書いてある。

 浮世より 訪ね来る人 迎えるは 庭の松葉に 吹く嵐だけ

 (原文)住み捨つる 山を浮世(うきよ)の 人と(訪)はば 嵐や庭の 松にこた(答)えん

 肉親との恩愛の絆(きずな)を 棄て去ってこそ
 因縁(いんねん)の縛(ばく)から 自らを解き放つことができよう
 そのような境地に 至ることこそ
 親の恩に 真に報いることではないか

 白髪を頭にいただくような 老人になってからでは
 万と重なる山々を乗り越えて 悟りを開くは絶望的

 ゆえに 長年いただきし親よりの恩愛の波も 今日を限り
 私の心底 あえて干上がらせてしまう覚悟

 しかしながら 我が胸中に
 親殺しの五逆罪を 蔵するにはあらず

 ああ 出家の後 速やかに
 親の恩に報いるのは まことにもって難事なるかな

(原文)
 棄恩入無為 真実報恩者
 白頭望断萬重山
 曠劫恩波尽底乾
 不是胸中蔵五逆
 出家端的報親難

これは、中国の黄檗禅師(おうばくぜんじ)が、息子の出家を止めようとする母を振り切って、「大義渡」を渡った時の事を、讃じた文章である。

万里小路宣房 (内心)あぁ、これでは、藤房がどこの山の中にいようとも、この世で再会することは、もはや不可能やろなぁ・・・あぁ、藤房、おまえはなんで、私をおいて行ってしもぉたんや・・・藤房ぁ、うううう(涙、涙)

涙にむせびながら、空しく帰還の途につく宣房であった。

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この万里小路宣房という人は、吉田資経(よしだすけつね)の孫、資通(すけみち)の子である。

閑職にあった時に宣房は、五部大乗経典(注5)を、一文字書くごとに三度礼拝しながら写経し、子孫の繁栄を祈るために、それを春日大社(かすがたいしゃ:奈良県・奈良市)へ奉納した。

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(訳者注5)[華厳経(けごんきょう)]、[大集経(だいじゅうきょう)]、[大品般若経(だいぼんはんにゃぎょう)]、[法華経(ほけきょう)]、[涅槃経(ねはんぎょう)]。
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その夜、宣房は霊夢を見た。

黄色い衣を着た神官が、榊(さかき)の枝に書状を添えて、彼の前に差し置いた。

万里小路宣房 (夢の中での認知と行動)いったいこれには、何が書いたるんや? なになに、上書きは、「万里小路一位殿」になってるでぇ。中味はというと・・・(カサカサ)なになに、おぉっ、「速やかに最上なる仏の悟りを得られるであろう」と、金字で書いたる!

夢から醒めて後、彼は、その内容について、思惟した、

万里小路宣房 (内心)あの夢はきっと、私が今後朝廷に仕えていって、ついには一位の官位まで出世できる事、まちがい無し、という事やろう。中に書いてあったあの金色の字の文は、私のこの写経の善なる功徳でもって、死後の極楽浄土往生の望みを達成できる、ということを意味してるんやろう。

万里小路宣房 (内心)うわぁ、うれしいなぁ。なんかもう、現世、来世の両方で、最高の妙果を得てしもたような気分やんかぁ。あぁ、行く末が楽しみや。

果たして、元弘年間の末、宣房は、父祖代々久しく遠ざかっていた従一位の位に昇進した。

夢中で見た書状に書かれていた金字の文は、子息・藤房が出家して仏道を得るという、善き因縁が存在することを、春日明神が告げたもうたのであろう。

世間の声A 百年の栄華といえども、風前の塵と同じ、空しいもんですやん。

世間の声B ですよねぇ。一念発起して仏の道に入ってこそ、死後の極楽往生の灯火を得たと、言えるでしょうね。

世間の声C 「一子出家すりゃぁ、七世の父母みな、仏道を成す」って、仏様もはっきりと、おっしゃってるけん、藤房卿お一人が発心して出家しはった事によって、卿の七世の父母もろともに、成仏得道できはったんやろなぁ。

世間の声D そのように考えるならば、今度のこの一件、嘆きの中の悦びとも、言えるんじゃぁないでしょうか。

世間の声E 万里小路藤房卿こそはまさに、仏様から最上の功徳を頂かはったお人と、言えましょうなぁ。

智慧ある人々は皆、この話を聞いて、このように感嘆の声を上げた。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年9月22日 (金)

太平記 現代語訳 13-1 万里小路藤房、天皇の面前で、政治批判

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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御所の西方の二条高倉(にじょうたかくら:注1)に、[馬場殿(ばばどの)]という離宮が、にわかに建立された。

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(訳者注1)二条通りと高倉通りの交差点。
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、そこにしょっちゅう行幸され、歌舞や蹴鞠(けまり)の会を催されたり、弓馬の達人を召し寄せられて、競馬や笠懸(かさがけ)射撃の技を競わせ、あるいは音楽会を催したりされていた。

その頃、塩治高貞(えんやたかさだ)から天皇に、「すごい馬が見つかりましたよ」と、一頭の馬が献上された。

赤毛で体長4尺3寸のその馬の形、並みのものとはまったく異なっており、筋骨たくましく、贅肉がまったくない。頭部は鶏のごとく、首から肩にかけて生える鬣(たてがみ)は膝下まで垂れ、背中は龍のごとく、渦のような巻毛が42筋も連なっている。両耳は竹をそいだようにまっすぐ天を指し、双の眼は鈴をかけたように見開いて、地に向かうがごとくである。

その馬に乗って京都までやって来た者の話によると、今朝の午前6時に、出雲国(いずもこく:島根県東部)の富田(とんだ:島根県・安来市)を出発し、18時に京都に到着したとのこと。その間の76里、鞍の上は微動だにせず、ただ静かに座っているだけのようであった、ただし、猛スピードで進むゆえの激しい空気抵抗に、顔が痛くてたまらなかったとか。

その名馬はすぐに、左馬寮(さまりょう)に預けられ、以来、朝は御所の池で水を飲ませ、夕には美しい厩の中で秣(まぐさ)を与えられ、といった毎日。

当時、「日本一の馬乗り」と評判の本間孫四郎(ほんままごしろう)を召して、その馬を御さしめたが、その名馬の跳梁(ちょうりょう)は、まさに尋常ならず。四つの蹄(ひづめ)を縮めるとスゴロク板の上にも立ち、一鞭当てると10丈の堀をも飛び越える。まことにこれこそは天馬、さもなくばこれほどの俊足を持つはずがないと、陛下のこの馬への惚れ込みよう、それはもう、すごいものである。

ある日、例のごとく、陛下は馬場殿に行幸され、左右に列する諸卿と共に再度、この馬をご覧になられた。

後醍醐天皇 なぁなぁ、公賢(きんかた)、古代中国の屈(くつ)の地で生れた、「乗(じょう)」という馬、知ってるやろ。それから、あの項羽(こうう)が乗ってたという、「騅(すい)」な。

後醍醐天皇 あぁいった馬は、一日に千里を走るというけど、わが国には、そないな天馬が生れたっちゅうような話、未だかつて聞いた事無いわなぁ。

後醍醐天皇 ところが、わしが国を治めてる今この時にやで、こういうすごい馬が現われたと、いうわけやんか。ことさら、それを求めたわけでもないのにな。この事象、いったい吉か凶か、どっちやと見る?

洞院公賢(とういんきんかた) そらもう、すべては、陛下にお徳があるゆえの事ですぅ。お徳があるよってに、天がこのような喜瑞(きずい)を現した、という事ですやろ。

後醍醐天皇 ・・・。

洞院公賢 古代中国・舜(しゅん)帝の治世の時には、鳳凰(ほうおう)が飛んできたといいますし、孔子が生きておられた時代には、麒麟(きりん)が現れた、といいますやん。

後醍醐天皇 うんうん。

洞院公賢 陛下の聖なるご治世の御代に、こないな天馬が出現したとは、こらもう最高に、めでたい事ですわいな。

洞院公賢 昔、中国・周王朝の穆王(ぼくおう)の時代に、キ、トウ、リ、カ、リュウ、ロク、ジ、シという8匹の天馬が現われました。穆王はこれらの馬に乗って、四方八方、天の果て、地の果てまで、探訪して回ってました。

洞院公賢 ある日、穆王の乗った天馬は、中国から西方にひとっ飛び、10万里の距離をイッキに飛び越えて、インド中央部のコーサラ国へ、着陸しました。

洞院公賢 ちょうどその時、かの国においては、釈尊(しゃくそん)が、ギッジャクータ(霊鷲山:りょうじゅさん)にて、妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)の講義をしておられました。そこで、穆王は馬から下りて、その講義の座に加わり、まず釈尊を礼拝し奉った後、その場に座られました。

釈尊は、穆王に問い掛けられました。

釈尊 あなたは、どこの国から、来られましたか?

穆王 はい、中国からです。私は、その地の王です。

釈尊 それはそれは・・・とても良い所に来られましたね。実は今、私の脳裏に、「国家治世の良き方策」がありましてね・・・よろしければ、お話しさせていただきましょうか?

穆王 おぉ、何と! 是非とも、私にそれを御伝授下さいませ、この通りお願い申し上げます。師のご指導を私、しっかりとお聞きして帰り、その通りに、我が国において実行し、理民安国の功徳を、民たちに施したいと思います。

釈尊 ならば、お伝えいたしましょう。

洞院公賢 その時、釈尊は中国語でもって、法華経中の最も重要な4つの章の内容を8つの偈(げ:注2)に要約して、穆王に教授されたんですわ。それこそが、まさに例のあれ、現在の法華経の中にあります、「経律の法門有りという神秘の文」そのものなんですわ。

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(訳者注2)経典や論書の中にある、韻文の部分。
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洞院公賢 ところがですねぇ、せっかく釈尊がお教えされたその内容、穆王は中国に帰還してから後、心中深く秘してしまいました。なので、それは、当時の世間には広く伝わらんかったんですなぁ。

洞院公賢 さて当時、中国に、慈童(じどう)という少年がおりました。この子は、穆王に非常に可愛がられ、いつも王のお側にいました。

洞院公賢 ある日、王が不在の時、慈童は誤って、王の枕の上を踏み超えてしまいました。

洞院公賢 さぁ、大変、さっそく群臣が集まって会議。その結果、「色々考えあわせますに、彼の罪は、決して見過してもよいようなレベルのものではありません。とはいいながらも、過失ゆえのことでありますから、死罪一等を減じて、遠流の刑に処せられるべきでありましょう。」と言う事になりました。

洞院公賢 王としても、そういう臣下の議決を無視するわけには、いきません。ついに慈童はテッ県という地の深山に、流刑に処せられることに、なってしまいました。

洞院公賢 かの地は、都から300里のかなた。山は深く、鳥さえ鳴かず、雲は低く垂れ込め、虎狼が充満、そこへいったん入ったが最後、絶対に生きては戻れへん、というような所です。

洞院公賢 慈童を哀れんだ穆王は、釈尊から伝授された8句中から、「普門品(ふもんぼん)の章」の分の偈2つを選び、それを密かに慈童に授けた後、「毎朝、十方(注3)に向かって一礼した後、この偈を唱えよ」と教えました。

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(訳者注3)四方八方と上下。これで「10方」となる。
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洞院公賢 慈童はついに、テッ県に護送され、深山幽谷の中に置き去りにされてしまいました。彼は、王からの恩愛こもる言葉に自分の運命を委ね、教えられた通りに、毎朝1回、その偈を唱え続けました。

洞院公賢 王に教えてもろぉたその偈を忘れたら大変、と思い、慈童は、あたりに生えてる菊の葉に、その偈を書き付けました。するとまぁ、何という不思議、その菊の葉に結んだわずかな露が流れ落ちて、谷の水に混じるやいなや、水はすべて、天の霊薬と化した! のどの渇きをおぼえて、慈童はその谷の水を飲んでみました、すると、その水の味、天の甘露のごとく、百の珍味よりも美味。

洞院公賢 不思議は、こればかりではありません。やがて、慈童のもとには、天人が花を捧げて来たり、鬼神が手をつかねて、彼に仕えるようになりました。虎狼悪獣を恐れる必要もなくなってしまい、やがて彼は、すごい仙人になりました。

洞院公賢 さらに、その谷を流れ下る水を、下流で汲んで飲んでいた300余戸においては、ただちに病が消滅、村人全員が、不老不死の長寿を全うするようになりました。

洞院公賢 その後、時は過ぎて800余年が経過しましたが、慈童は依然として、少年の姿のまま、まったく老いというものを知りません。後の、魏(ぎ)王朝の文帝(ぶんてい)の時に、彭祖(ほうそ)と名を替えて、この術を文帝に授け奉りました。これを受けて文帝は、菊花の盃でもって万年の長寿の祈り込める儀式を、創始しました。これが現在の、「重陽(ちょうよう)の宴」の始まりです。

洞院公賢 それより後、中国では、皇太子が帝王位を天から受ける時には、一番にまず、この偈を受持(じゅじ)することになりました。ゆえに、[法華経普門品]を「現代にも通用する最高の教え」と、いうわけです。

洞院公賢 この偈は、わが国にも伝来、代々の天皇陛下は御即位の日、必ずこれを受持されます。幼くして天皇位につかれる場合には、摂政がこれを代理で受持し、天皇が成長された後、いよいよ自力で治世を開始される、という時には、まずこれを、天皇に授け奉る、ということになってます。

洞院公賢 この8つの偈は、インド、中国、日本の3国に伝来して、理世安民、災を除き、楽を与える政治の要点となりました。これもひとえに、穆王の治世時に天馬が現われた徳のおかげです。ですから、今回のこの龍馬の出現もきっと、仏法と陛下の御治世の双方が末長く栄える、という事の奇瑞でっしゃろなぁ。

後醍醐天皇 いやいやぁ、めでたいことやなぁ!

公卿A 陛下、ほんまにめでたいことですわ。

公卿B 公賢殿から、あないに明快に解き明かして頂くと、「まったくナットクゥ!」っちゅう、感じですわぁ。

公卿C ほんま、そうですなぁ。

公卿D 陛下、おめでとうございます!

公卿一同 おめでとうございます!

後醍醐天皇 うん、うん。

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やがて、その場に、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)がやってきた。

藤房が着席した後、後醍醐天皇は、

後醍醐天皇 あんなぁ、あの天馬が遠方からやって来た事についてな、その吉凶を、みなに論じさせとったんやんかぁ。今ちょうど、みなの見解を聞き終わったとこや。藤房、おまえは、これについて、どない思う?

万里小路藤房 はい・・・。

後醍醐天皇 ・・・。

万里小路藤房 天馬が、わが国にやって来たという事・・・古今にも未だ、その例を聞いてはおりませんから、その善悪や吉凶を判断するのは、極めて困難な事ですが・・・ただ・・・私が考えますには、これはどうも、「吉事」とは言えへんのではないかと、思われます。

後醍醐天皇 えぇっ。

万里小路藤房 ・・・なんで、こないな事を申し上げるかと、いいますと・・・。

後醍醐天皇 ・・・。

万里小路藤房 古代中国・漢王朝の文帝(ぶんてい)の治世の時、「一日に千里を行く」という馬を、皇帝に献じた者がおりました。公卿や大臣らはこぞって、これを祝ったのですが、文帝は、ただ笑っていわく、

 「吉なる行事で30里行こうが、凶なる用件で50里行こうが、常に必ず、私が乗る輿を先頭に、その後方には、臣下らの車が続かねばならない。この「千里の道を行く駿馬」とやらに、私一人だけ乗って、いったいどこへ行けというのかね?」。

万里小路藤房 文帝は即座に、その馬の輸送費用を支払った後、その馬を返却してしまいました。

万里小路藤房 後漢王朝の光武帝(こうぶてい)の時、千里の馬と宝剣を献じた者がおりました。しかし、光武帝はこれを珍重せず、太鼓を載せる車をその馬に引かせ、宝剣を、騎馬の武士に与えてしまいました。

万里小路藤房 周王朝の力が衰えはじめた時、房星(ぼうせい)が地に降って、8匹の馬に姿を変じました。穆王はこれらの馬を愛し、造父(ぞうほ)という御者にこれらを御せしめて、四方八方に出かけては、ヨウ池に遊び、碧台(へきたい)に宴を催したので、王家の祭りは年々衰え、殿堂の礼も日に日に廃れていき、周王朝はついに傾いてしまいました。

万里小路藤房 文帝と光武帝のケースにおいては、天馬を捨てて王朝は栄え、周の穆王のケースにおいては、これを愛したがゆえに、王権は衰えを見せはじめた、というわけです。

万里小路藤房 このように、馬を珍重したかどうかによって、その後の運命の明暗がくっきりと分かれてしまった、という、歴史の教訓が存在するのです。

万里小路藤房 私、この事を、よくよく思案してみますに・・・。

万里小路藤房 「すぐれたる物は、必ずしも、大なる物にあらず、君主の心を蕩(とろ)かす物は、微小なりといえどえも、害をもたらす物なり(注4)」という言葉もあります。

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(訳者注4)原文では、「由来尤物是非大、只蕩君心則為害」
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万里小路藤房 ・・・今の御政道が正しくないがゆえに、房星の精が化けて、この馬に姿を変え、人心をたぶらかす為に、この世に現われたのでしょう。

万里小路藤房 いったいなんで、こないな事を、あえて申し上げるのか・・・。

万里小路藤房 戦乱は、今やっと収束したばかり。民は疲弊し、人は苦しんでおります。ならば、政務に当たる者は、自分の食事をさしおいてでも、人民の訴えに耳を傾け、諫臣は上申書を奉って、お上の政治の誤りを正すべきではないか。しかし、百官は歓楽にふけり、政治の良否も上の空、群臣はお上におもねって、国家の安危を陛下に申し上げず。

万里小路藤房 このような状況を見て、荘園管理局(注5)や雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)に集まって、訴訟を申し立ていた者たちも、日に日にその数が減り、訴状はいたずらに埃をかぶるばかり。諸卿はこれを見て、「やれやれ、全国の領土問題もカタがついた、刑罰に服する者も皆無となった。[無為の政治]の手法が見事に功を奏して、天下に治世の徳が及び、民衆に対する教化の実も上がってきておるわい」てなフウに、思いこんどる! まったくもう、ノーテンキというか、なんというか・・・情けない!

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(訳者注5)原文では「記録所」。
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万里小路藤房 倒幕運動が始まった元弘年間のあの大乱の時、日本国中の者らがこぞって、朝廷の下に馳せ参じてきたその理由、それはいったい何か? たった一回の戦に参加して、うまいことやって、勝ち組みの方に入り、勲功の分け前に預かろうとしてのこと、ただそれだけの事ですよ! そやからこそ、戦が終わった後、自らの忠功を申し立てて賞を望む輩(ともがら)、幾千万ともその数を知らず、というような状態に、なってしもてるわけです。

万里小路藤房 それやのに、公家や朝廷に仕えていた者以外にはまだ恩賞が与えられてない現状にもかかわらず、訴状が捨て置かれ、訴える者がいなくなってしまった、それはいったいなんでやと、お思いですか? それはね、自分の忠功を取り上げてもらえへん事への恨み、あるいは、現状の政治腐敗への不満、そういったものが積もり積もって、みんなイヤケがさしてもて、自分の領地へ帰っていってしもぉたからなんですよ。

万里小路藤房 心ある臣下であれば、この現状に危機感を抱いて当然。「雍歯(ようし)が功を先にして」、みんなの不満を解消するようにと(注6)、陛下に進言すべきでしょう。

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(訳者注6)漢の高祖は、張良の勧めに従って、自らが最も嫌悪する雍歯を、真っ先に賞した。
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万里小路藤房 ところが、打ち出された政策はといえば、「まずは、大内裏の造営をすべきです」・・・ハァ(溜息)。

万里小路藤房 その造営費用を捻出するために、「諸国の地頭の収入の20分の1を、上納せよ」てな事を言うから、「戦争で出費強いられた上に、今度は朝廷の土木事業に、またまた出さんならんのかぁ」ちゅうて、みな、不満タラタラ。

万里小路藤房 さらに、諸国において、守護はその威を失い、国司の方に権力の比重が傾いております。これにより、官職無しの身分低い国司代官らが、貞応年間以降に新しく開拓された荘園を横領し、国府勤務の地方官僚、警察関係の者、守衛担当の者らが、今や度の過ぎた権力を握ってしもてます。

万里小路藤房 さらには、諸国の御家人称号(ごけにんしょうごう:注7)も、問題になってます。これは、源頼朝卿の時から始まり、すでに長年通用してきた武家たちの名誉ある称号。にもかかわらず、陛下の御代に至って初めて、この称号を廃止、ということになりました。それゆえに、武家の大名や名家といえども、現在では庶民と同様のレベルにまで、なり下がってしまいました。これを憤っている者の数、いったい幾千万人おるものか・・・。

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(訳者注7)将軍直属の臣下の敬称。
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万里小路藤房 さらに、あえて申し上げます。運命のめぐりあわせが幸いして、朝廷に逆らう者たちは、次々と自滅していきました。とはいえ、今回の倒幕戦の中で、天下を平定し、陛下の心を安んじ奉った者たちとはいったい誰か? それは、足利高氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)、楠正成(くすのきまさしげ)、赤松円心(あかまつえんしん)、名和長年(なわながとし)でしょう。彼らの忠義、あの漢王朝建設の功臣たちにたとえるならば、韓信(かんしん)、彭越(ほうえつ)、張良(ちょうりょう)、蕭何(しょうが)、曹参(そうさん)、唐王朝の賢臣にたとえるならば、魏徴(ぎちょう)、玄齢(げんれい)、世南(せいなん)、如晦(じょかい)、李勣(りせき)。

万里小路藤房 その志、道義を重んじて忠義を尽したその功績、誰が上で誰が下というような事は、とても言えるもんではありません。ならば、彼らへの恩賞は、すべて均等にし、爵位もすべて同等に与えるべきでしょう。そやのに、赤松円心一人だけは、わずかに、彼の昔からの領地をそのまま与えただけ、いったん与えた守護職も、召し上げてしまい。いったい彼に、どないな罪があったというのでしょう。「功績に対してそれを賞するならば、忠節ある者は重んじられ、罪に対して罰を与えるならば、咎ある者は退けられる」と言う言葉もありますのに。あぁ、何と残念な、今の政治のあり方、それぞれの功績に応じて、恩賞が正しく与えられないとは。

万里小路藤房 いや、問題はそればかりではないのですよ。いったんうち出された陛下の御決定が、いとも簡単に、ころころと変わってしまうという、この現状!

万里小路藤房 今もし、武家のリーダーとなれるような器をもった人物が登場し、朝廷に逆らうような事を始めたとしたら、いったいどうなることでしょうか! 恨みを抱きながら、今の政治に不満を持つ国中の者らは、「自ら食糧袋を背負い、招かれざるに、そのリーダーの傘下に結集!」てな具合に、なってしまう事は必定(ひつじょう)!

万里小路藤房 さてと、この天馬とやら、いったいどういう方面に用いたらえぇもんでしょうかなぁ・・・そうですねぇ、「徳が伝わる速度は、早馬郵便よりも速いのだ」という言葉も、ありますからね、こないな馬、国家のためには不要というもんですわなぁ。

万里小路藤房 万一の反乱軍の決起に備え、それを遠国に急報する際には、いささかの役には立ちますかも・・・平穏の世において、あらかじめ、大乱への備えを設ける、てなとこですか・・・いやいやぁ、こないな風な事、考えて行きますとね、やっぱしこの天馬、「不吉の前兆」と言うべきですよ。こないなけったいなモンを弄ぶようなことは、さっさと止められ、仁の政治を行われるのが一番です!

後醍醐天皇 ・・・。

公卿A (内心)うわぁ、藤房卿、言うてしまいよったぁ。

公卿B (内心)いくらなんでも、あれは、まずかったんとちゃぅ? ほれ、陛下のあのお顔!

公卿C (内心)少々、ムカアッと来てはるようなカンジ。

公卿D (内心)藤房卿も、誠を尽くし、言うべき事は残らず言うた、ということなんやろうけどねぇ。

公卿E (内心)えらいこっちゃぁ・・・陛下、怒らしてもてからに・・・わしらかて、みな、ビビッテしまうがな。

公卿F (内心)なんや、いっぺんに酔い、醒めてもたぁ。

公卿G (内心)シラケたなぁー。

後醍醐天皇 サァ、サァ! そろそろ宴会もしまいにして、御所へ帰るとしよか!

公卿一同 ハハーーーッ(冷汗、平伏)

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年9月18日 (月)

琵琶湖 北船木 南船木 安曇川 河口 滋賀県 高島市 2017年9月

2017年9月に、琵琶湖岸の地、[北船木]と[南船木](滋賀県 高島市)に行きました。

自作の音楽にマッチするような動画映像を撮影するために、というのが第1の目的でした。

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JR[山科駅] から JR[湖西線] を利用して、JR[安曇川駅] へ行き、

そこから先は、コミュニティバスを利用して、という移動手段で、行きました。

コミュニティバスの[安曇川駅]バス停から乗車し、[こどもの国前]バス停 で下車しました。

そこから少し歩き、[滋賀県立 びわ湖こどもの国]に到着しました。

P1
P1

[滋賀県立 びわ湖こどもの国]は、安曇川の河口付近にあります。

安曇川の河口の付近を、動画撮影に適した風景を求めて歩きました。

[安曇川南流]という川と、[安曇川北流]という川がありました。

ネット地図で見ていただくとお分かりになると思いますが、[滋賀県立 びわ湖こどもの国]の北西方向にある場所で、安曇川は、2本の川に分流しています。北側へ分流した流れが、[安曇川北流]、南側へ分流した流れが、[安曇川南流]と名付けられていることを、現地の表示を見て知りました。

[安曇川南流] には、[船木大橋]という橋が架かっており、そこから南南西方向に、琵琶湖を展望できる場所がありました。

下記の画像は、そこで撮影した動画から制作した動画作品(後述)の中から切り出したものです。

P2
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P3
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[びわ湖こどもの国]の付近に、[高島市 安曇川多目的グラウンド]という施設があり、その付近でも、琵琶湖を展望することができました。

下記の画像は、そこで撮影した動画から制作した動画作品(後述)の中から切り出したものです。

P4
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上記の場所で撮影した動画を編集して、下記の動画作品を制作しました。
(バックグラウンド音楽に、自作音楽作品 [湖畔の道, Op.32]を使用しました。)

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/6v9ijRxH-v0

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[船木大橋]の付近に、[湖岸緑地 安曇川浜園地]という場所がありました。

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[高島市 安曇川多目的グラウンド]の北方に、[安曇川北流]に架かる橋がありました。

その橋の付近の、[安曇川北流]沿いの場所で撮影した動画を編集して、下記の動画作品を制作しました。
(バックグラウンド音楽に、自作音楽作品 [名前はまだ無い・第2番, Op.45]を使用しました。)

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/JvrH8HnLf5o

下記の画像は、上記動画の中から切り出したものです。

P6

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帰りは、下記のように、交通インフラを利用しました。

 コミュニティバス:[こどもの国前]バス停 --> [安曇川駅]バス停
 JR湖西線:[安曇川駅] --> [山科駅]

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[滋賀県立 びわ湖こどもの国]の中に、食堂がありました。昼食をそこで食べました。

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ネット地図で見ていただくとお分かりになると思いますが、安曇川の河口付近は、琵琶湖の中に突き出たような地形になっています。安曇川によって運ばれた土砂が堆積して形成された、いわゆる、[三角州(さんかくす)、Delta]であるようです。

ここの[三角州]は、[鳥跡状 三角州] に分類されているようです。

[安曇川 三角州 鳥跡状] でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

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ネット地図で見ていただくとお分かりになると思いますが、[安曇川]を、河口付近から上流へ遡って見ていくと、[朽木]の地へ至ります。

更に上流方向に遡って見ていくと、[葛川坊村町](大津市)に至ります。

そこから、[国道367]を南進すると、[大原](京都市 左京区)に至ります。

航空写真モードで見ることができるネット地図を使って見ていただくとお分かりになると思いますが、朽木から上流の地域には、山林が多いようです。

この地域で伐採した木でもって筏を作り、それを、安曇川の流れを利用して下流へ運搬する、という事が、かつて行われていたようです。すなわち、安曇川は、木材の運搬ルートとして利用されていたようです。

どれぐらいのスピードで、筏は流れていったのでしょう・・・人間の歩行速度よりは、速かったのでしょうね、おそらく。

[安曇川 木材 筏流し]、[安曇川 しこぶち]、[安曇川 シコブチ] でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

安曇川の中を流れていく筏を構成する木材は、その後、どのようなルートを経て、木材の消費地へ運ばれていったのか? 下記3つを、考えつきました。

(1)筏は、安曇川の流れに乗って、この日、私が訪れた河口の地、すなわち、[北船木]、[南船木]に至り、そこから先、琵琶湖の上を、筏の上に人が乗って筏を操作して、運ばれていった。

(2)筏は、安曇川の流れに乗って、[北船木]、[南船木]に至り、そこから先、琵琶湖の上を、船に引かれて運ばれていった。

(3)筏は、安曇川の流れに乗って、[北船木]、[南船木]、あるいは、そこよりも上流の場所で、陸に上げられ、そこから先は、陸路で運ばれていった。

上記のうち、どの方法によって運ばれていったのか、その解答を私は知ることができませんでした。

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[船木城]という城が、[北船木]にあったようです。その場所には、現在、[願船寺]があるようです。

[船木城 高島市] でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

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私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

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新作動画の発表 [安曇川・河口 付近 風景 滋賀県 高島市]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画2個をアップロードしました。バックグラウンド音楽に、自作曲を使用しました。

撮影地は、琵琶湖の湖岸、安曇川の河口の付近の場所です。(滋賀県 高島市 北船木、南船木)

下記でご覧になることができます。

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撮影地:びわ湖こどもの国 付近
撮影時:2017年9月
バックグラウンド音楽 湖畔の道, Op.32

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/6v9ijRxH-v0

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撮影地:安曇川北流の河口 付近
撮影時:2017年9月
バックグラウンド音楽 名前はまだ無い・第2番, Op.45

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/JvrH8HnLf5o

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2017年9月12日 (火)

太平記 現代語訳 12-7 護良親王、流刑に処せられる

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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先般の国中に戦乱の機運が満ち満ちていた時、護良親王(もりよししんのう)は、わが身に降りかかる難を逃れるためにやむなく、還俗(げんぞく)した。

しかし、今はすでに、天下は落ち着きを取り戻した。ならば、また前のように、天台座主(てんだいざす:注1)に復帰し、仏法と王法(おうぼう:注2)のさらなる発展を祈られる、という方向こそが、仏の意志にも叶い、後醍醐天皇の叡慮(えいりょ)にも違わない道である。

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(訳者注1)比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)のトップの位。延暦寺は日本の天台宗の総本山だから、天台宗のトップということになる。

(訳者注2)天皇が行う国家治世。
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しかし、殿下は、「征夷大将軍(せいたいしょうぐん)に就任し、武の道をもって、国家守護の任務にあたりたい」と陛下にお願いされた。陛下は、心中不愉快に思われたものの、殿下の望み通りに、征夷大将軍の任命を行われた。

世間の声A そないないきさつがあって、将軍に就任しはったわけやろ、殿下は。それやったらやねぇ、国家の柱石として、ちょっとは身を慎み、将軍にふさわしいような言動しはらんと、あかんわなぁ。あれ、いったいなんですねん! 親王はん、最近おかしなってしもてはるんちゃいますかぁ。わがまま放題で驕りまくり、世間の人々の謗りもなんのその。

世間の声B おまけにねぇ、色欲に溺れる毎日。

世間の声C 殿下のあんなお姿見てると、うち、なんやごっつう、危機感感じてしまうんどす。

世間の声A それは、あんただけとちゃうで。世間の人もみんな、あんたと同じような事、言うてるわいな。

世間の声D 「大乱の後は弓矢を包み、盾と鉾を袋に入れてしまう」と言う言葉が、あるんやけどなぁ。

世間の声C 「あれは強弓が引ける男や、大太刀の使い手や」と聞いたら、これまで何の忠義もない人間でも、手厚く取り立て、自分の家来衆に加えてしまわはりまっしゃろ。いったい何に使うおつもりなんやろ、そないなお人らを。

世間の声E あんなぁ、(声を潜めて)殿下の周辺の、そういった、刀をもてあそびよる連中らがな、毎晩、京都や白河のあたりをぶらついては、辻切りしとるんや!

世間の声一同 えぇっ、ほんまかいなぁ!

世間の声E (小声で)しぃっ、声が大きい! 道で連中らに出くわしてもた少年・少女が、方々で切り倒されて、毎日のように横死する者がおるんやでぇ。

世間の声一同 (小声で)えぇーーー!

世間の声E (小声で)いったいなんで、殿下があないに熱心に、ウデノタツもん集めてはるか、その理由、あんたら分かるか?

世間の声C (小声で)もしかして・・・アシカガ?

世間の声E (小声で)そうや! 何とかして、足利高氏(あしかがたかうじ)殿を討ったろ思うてはんねやんか、殿下は。

世間の声B あぁ、それで、殿下はあないに、人をぎょうさん集めては、毎日訓練してはるんかいなぁ。

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足利高氏は、これまで十分に朝廷に忠節を尽してきた人である。分不相応の振る舞いがあったとも聞かないのだが、いったいぜんたい、何故こうまでも、護良親王が高氏に対して、深い憤りを持たれるようになったのか。それには、以下のようなわけがある。

昨年の5月、倒幕軍が六波羅庁を攻め落とした時に、殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)の配下の者らが、京都中の資産家の家に押し入り、財宝等を掠奪した。その狼藉(ろうぜき)を鎮めるために、足利軍は彼らを捕縛し、20余人を六条河原にさらし首にした。その側に立てられた高札には、以下のように書かれていた。

 「護良親王殿下の侍者・殿法印良忠の配下のこれらの者ども、都の諸処において、白昼に強盗行為を行った。ゆえにここに、誅罰を下す。」

これを聞いた良忠は、頭に来てしまった。さっそく、あれやこれやと考えて、足利高氏に対する讒言(ざんげん)を、護良親王の耳に吹き込み始めた。

このような事が重なって、ついに殿下の耳に高氏非難の声が達し、殿下も、高氏に対して憤りの心を持たれるようになった。そこで、志貴山(しぎさん)に駐屯しておられた頃から、「何とかして高氏を討たねば」との思いがつのっていた。しかし、後醍醐天皇の許しが得られなかったので、仕方なく、殿下も沈黙を守っておられた。

しかしなおも、高氏に対する讒言が止まなかったのであろうか、ついに殿下は隠密裏に諸国へ、「高氏討伐命令」を出され、兵を募集しはじめた。

これを察知した高氏は極秘裏に、護良親王にとっては継母に当たる廉子(れんし)妃のもとを訪れた。

足利高氏 護良親王殿下は、陛下を廃位へ追い込み、自らが天皇に即位しようと計画、諸国から兵を招集しておられますよ。これが何よりの証拠です、ご覧下さい、この命令書を。

廉子 (「命令書」を見て)(内心)あらまぁ! なんちゅう恐ろしい事を考えてはるんやろ、殿下は! これは早々に、陛下のお目に入れとかんと。

これを見た後醍醐天皇の怒りは、頂点に達した。

後醍醐天皇 ほんまにもぉ、ナンチュウやっちゃ、あいつはぁ! よおし、護良、流罪!

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天皇は、清涼殿(せいりょうでん)での会合を開催することとし、そこへ護良親王を招待。そのような大変な事態に至っていることなど何も知らずに、殿下は、先駆けの者2人、随身の者10余人を引き連れて、お忍びで宮中に参内された。

鈴の間に迎え入れられた親王の前に、結城親光(ゆうきちかみつ)と名和長年(なわながとし)が現われた。

護良親王 おぉ、結城に名和やないか・・・こないなとこで、いったい何してんねん。

結城親光 殿下、御免!

名和長年 それっ、皆の者、殿下を召しとれ!

結城と名和の部下たち おおおおーっ(ドドドドド)

護良親王 こらっ、おまえら、いったい何すんねん! 無礼者め、ううう・・・こらっ、放せ! その手を放せ!

名和長年 よぉし、殿下をそのまま、馬場殿に押し込め奉れ!

護良親王 名和! 結城! いったい何すんねん! タダではすまんぞ!

このようにして殿下は、材木を蜘蛛手(くもで)に組み合わせて封鎖された室内に閉じ込められてしまった。身辺に近づく者は一人もおらず、ただ一人、涙の床に起き伏しの日々を送ることとなった。

護良親王 (内心)いったいぜんたい、これは何という事か・・・元弘年間の始めには、北条勢に追われて身を隠し、木の下、岩の間(はざま)に、露に濡れた袖を枕に眠った。やっと京都へ帰ってこれて、さぁこれからいよいよ、我が人生も開けるぞ、と思う間もなく、あっという間に、今度は、私を誹謗中傷する人間の為に罪に陥れられ、このような刑罰に苦しむ境遇に。いったい何の前世の因果でもって、自分の人生はこないな風になってしまうんやろ。

護良親王 (内心)そやけど、「偽りの名目は久しく立たず」という言葉もあるからな、そのうち陛下もきっと、私が無実の罪を着せられた事を、分かってくれはるやろう。

ところが、朝廷では既に、「護良親王、遠流」の決定をされたというではないか。殿下は悲しみに耐ええず、内々に心を寄せていた女官に、詳細な弁明を綴った書面を託し、急ぎ、伝奏(てんそう:注3)へ届させた。その書面の内容は以下の通り。

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(訳者注3)天皇への申請を、天皇に取り次ぐ役職。
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 「陛下よりお咎めを頂いたこの身を以って、わが無罪を弁明しようとは思うのですが、涙が落ちて心は暗く、心中には憂いが結び、言葉が滑らかには出てきません。一事を以って万事を察し、言葉の足らない部分を補って、私を哀れ悲しんで下さいましたなら、私のこの願いも達せられたというものでしょう」。

 「かえりみますれば、承久の乱よりこの方、武家が政権の座に就き、朝廷が政治の主導権を明け渡さざるをえなくなってから、既に久しい年月が経過しております。いやしくも私、護良はその現状を見るにしのびず、慈悲忍辱(じひにんにく)の僧衣を脱ぎ捨て、怨敵降伏(おんてきごうぶく)の堅き甲冑に、わが身を包んだのでありました」。

 「内においては破戒の罪を恐れ、外からは無慙(むざん)の謗(そし)りを受けながらも、ただひたすら陛下の為に、わが身の事を忘れ、敵と闘う為に死の危険をも顧みずに、粉骨砕身(ふんこつさいしん)して参りました。」

 「あの時、朝廷の中の数多い忠臣や孝子たちも、無力感に陥ったり、ひたすら運命の好転をただ待つ、といったようなフガイナイ状態の者ばかり。そのような中にあって、たった一人、この私だけが、寸鉄の軍備も持たないままに、義兵を募り、険隘(けんあい)なる山中に身を隠し、敵軍打倒の機会を窺(うかが)い続けたのでした。それ故に、朝廷の敵達は、専ら私を、倒幕運動の首謀者と見做(みな)し、全国に布令を発して、私の身柄に膨大な懸賞を懸けたのでした。」

 「それ以来、まことに、運命は天が定めるままとはいうものの、いかんせん、我が身の置き所も無くなってしまいました。昼は終日、深山幽谷(しんざんゆうこく)に臥(ふ)し、石や岩の苔の上に寝を取る。夜を徹して、荒村遠里(こうそんえんり)に出かけては、足の裏に霜を踏み。龍のひげを撫でるような危地に陥って、魂も消えんばかり、虎の尾を踏むような危険に直面しては、胸を冷やすといったようなこと、いったい幾千万回ありましたでしょうか」。

 「しかしついに、策を帷幕(いばく)の中にめぐらし、敵を斧鉞(ふえつ)の下に滅ぼすことが出来ました。かくして、天子の御車は都に帰還し、陛下はめでたく帝位に復帰されたのでした。それもこれもすべて、おそらくは、私めの忠功あってこその事、いったい他の誰の手柄でありましょうか! しかるに、功いまだ立たずというのに、罪責はたちまちに来(きた)る」。

 「風聞に聞きますところの私の罪状のうち、どれ一つとして、私には身に覚えがありません。このような虚偽が、いったい何処から発せられたものなのか、それをよくよく究明して下さってないのが、まことに残念の限りです。」

 「空を仰いで天に向かって、わが身の潔白を訴えようとしても、日月は不孝の者を照らしてはくれず、地につっぷしてわが身の不幸を、大地に対して慟哭(どうこく)しようにも、山も川も無礼の臣の居場所を提供してはくれません。父からは親子の縁を切られ、天と地からも棄てられ・・・これ以上の悲しみが、ありましょうか!」。

 「今後、いったい誰の為に、わが身を尽せばよいというのでしょうか。もうこうなったら、自分の栄誉などどうでもよい、陛下の御命によって、死罪一等を減じ、皇族の籍から名前を削って抹消していただき、私を、仏門に復帰させてくださいませ。」

 「陛下は、中国のあの歴史をご存じでしょう、申生(しんせい)が死して後、晋(しん)国は乱れ、扶蘇(ふそ)が刑罰を受けてからは、秦(しん)の治世は傾きました。水がじわじわと浸透していくように、あるいは、何度も膚にちょっと触れるような感じでもって、徐々に人を陥れていく讒言(ざんげん)、それは、まことに恐ろしきものであります。最初は小さな事のように見えても、やがては大きな禍になっていくのです。いったい何ゆえ、往古の例を鑑みて、現今にあてはめて考えてみようと、なさらないのでしょう。」

 「以上のように、どうしても嘆願せずにはおれません、伏してお願いいたします、どうかこの手紙を陛下にお伝え下さい。心より謹んで申し上げます。」

 3月5日 護良

 前左大臣殿
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もしも、この手紙が後醍醐天皇の元に届いていたならば、赦免の沙汰も出たのであろうに・・・伝奏は、様々な方面からの憤りを恐れ、天皇にこれを伝えずじまい。運命を司る天帝は、護良親王と後醍醐天皇の間を隔て、殿下の心よりの訴えはついに、陛下のお耳に達しないままに、終わってしまった。

この2、3年の間、殿下に付き従い、忠節を尽しながら賞を待っていた人々のうち30余人も、隠密裏に処刑されてしまった。ここまで事態が進行してしまうと、もう何を言ってもどうしようもない。ついに5月3日、殿下の身柄は、足利直義(あしかがただよし)に引き渡された。

護良親王は、数100騎によって関東へ護送され、鎌倉へ到着するやいなや、二階堂谷(にかいどうやつ)にある土牢の中に、幽閉されてしまった。

南の御方(みなみのおかた)という高位の女官一人以外、お側に仕える者もなく、月日の光も見えない闇室の中に、ただ座し続ける護良親王。

土牢の外を行く雨に袖を濡らし、岩の上をしたたる地下水に枕も乾かず、それから半年ばかりを、そこで過ごされた殿下の心中、まことに悲哀に満ちている。

天皇は一時的な怒りでもって、「護良を鎌倉へ」と言われたのであり、殿下に対してここまでひどい扱いをさせる事など、考えてもおられなかった。しかし、足利直義は、かねてからの恨みゆえに、このように、殿下を牢に閉じ込めたのである。まったくもって、ひどい話ではないか!

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孝行息子が父に誠を尽しても、継母がその子を讒(ざん)する時には、国家が傾き、家が滅びる、といった事例は、古から実に多い。

昔、中国に、晋(しん)の献公(けんこう)という人がいた。その后・齊姜(せいきょう )は、3人の子供を産んだ。長男の名は申生(しんせい)、次男は重耳(ちょうじ)、三男は夷吾(いご)。

この三人の成人の後、彼らの母は病に侵され、亡くなってしまった。献公は大いに歎いたが、后との別離から日数もようやく重なり、移れば替る心の花に昔の契りを忘れ、驪姫(りき)という美女を妻に迎えた。

驪姫は、美しい容貌で公の眼を迷わすのみならず、巧言令色をもって彼の心を喜ばしたので、献公の彼女への寵愛甚だしく、いつしか、齊姜の面影を夢にも見ないようになってしまった。

このようにして年月は過ぎ、やがて、驪姫に子供が生まれた。これを、奚齊(けいさい)と名づけた。

奚齊は未だ幼しとはいえ、その母・驪姫へ寄せる寵愛故に、献公は、3人の息子よりも奚齊の方を可愛く思うようになっていった。そして、献公は、前の后・齊姜との間に生れた3人の息子を捨て、驪姫の腹より生れた奚齊に、晋国の公位を譲ろうと思うようになった。

驪姫は、内心ではこれを嬉しく思いながらも、表面を取り繕って、しばしば公に対して諫言をした。

驪姫 奚齊はまだ幼いですから、善悪もわきまえてはおりませぬ。賢いのやら、愚かなのやら、それも未だに、しかと分かりませぬ。かような状態の中に、3人の兄をさしおいて公位を継承させるなど・・・さような御決定、国中の人が、黙って見てはおりませぬわよ。

これを聞いて、献公は、

献公 (内心)あっぱれなり、驪姫! 私心は皆無、民の謗りをわが恥とし、国家の安泰をひたすら願うとは!

献公は、驪姫をすっかり信頼し、万事を彼女に任せるようになった。いきおい、彼女の勢威は重きを増し、国中が彼女に従うようになってしまった。

ある時、申生は、亡くなった母の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために、牛・羊・豚3種の贄(にえ)を整え、亡くなった齊姜が埋葬されている曲沃(きょくよく)の墳墓(ふんぼ)を祭った。そして、その供え物の余りを、父の献公の方へも届けさせた。

献公のもとにそれが届けられた時、公は狩りに出ている最中であったので、とりあえず、その肉を包んで置いておこう、ということになった。

それに目をつけた驪姫は、なんとその肉の中に、鴆(ちん)という、おそろしい毒薬を仕込んだ。

狩り場から帰ってきた献公が、この肉を食べようとしたとき、驪姫は、

驪姫 かような外部からの贈り物は、先ずは他の者に食させてみて後に、君主の卓上に供するのが、順番というもの。

そこで、御前にひかえていた人間にそれを食させたところ、たちまち血を吐いて死んでしまった。

献公 ヤヤヤ、これはいったい・・・よし、そこなる鶏や犬に、その肉を食させてみよ!

鶏も犬も、共にバタバタと倒れて死んでしまった。

献公 恐るべし! 速やかにそれを、土の上に捨てよ!

捨てた所の土には穴が開き、周囲の草木が皆、枯れしぼんでしまった。

ここぞとばかりに、驪姫は、偽りの涙を流しながら訴える。

驪姫 わらわは、申生殿を、奚齊に劣らず大事なお方と、思い来たりてございまする。さればこそ、公の、「位を奚齊に」とのありがたきお言葉にも、「それはなりませぬ」と、お諌め申し上げてまいりました。なのに、このような毒を盛って、わらわと公を殺害し、速やかに晋国の公位を得んと、企てられたとは! あぁ、何と悲しき事!(涙、涙)

献公 ・・・。

驪姫 あぁ、もはやわが人生、行く先には暗闇しか見えませぬ。かくしては、万一、公がこの世を去られて後、申生殿は、わらわと奚齊を、1日、いえ、1時間たりとも、生かしておかれぬでありましょうぞ。公よ、願わくば、わらわを捨てて奚齊を殺し、申生殿のお心を、休んじせしめたまえ。(涙、涙)

献公は元来、智浅く、人の讒言を信じやすい性格の人、大いに怒り、

献公 えぇいっ 申生め! 刑務担当官、これへ!

刑務担当官 ハハァッ。

献公 速やかに、申生のもとへ行き、あやつの首をここに持ってこい!

刑務担当官 エェッ、何と!

現場に居合わせた群臣たちは、大いに慌て、集まってヒソヒソ。

臣下A これは一大事じゃ!

臣下B 申生殿は無実じゃ! 殿下が父に毒を盛るなど・・・さような事をされるはずが無い!

臣下C 何故、殿下のような素晴らしきお方が、かような事で命を失わなければならぬのじゃ! あぁ、わが心中に込み上ぐるこの悲しみを、いかんせん!

臣下D 拙者が殿下のもとに行き、急をお知らせ申し上げようぞ!

臣下はさっそく、申生のもとへと急いだ。

臣下D ・・・かくなる経緯でござりまする。殿下、急ぎ、他国へ逃げられませ!

一部始終を聞いた申生は、

申生 私は、少年の時に母を失って後、長い年月を経た今まさに、あの継母に出会った。どうやら我が人生、不幸の上にさらに妖しき運命が、陰を宿しておるように。思えてならぬわ・・・。

臣下D ・・・。

申生 「逃げよ」と申すか。いったいどこへ? 天と地との間(あわい)のいったいいずこに、「父と子の関係」の存在せぬ国家があるというのか。

申生 今、我が目前に迫りし死を逃れんがため、他国へ逃亡したとて、いったいどうなるというのじゃ・・・「彼こそは、父殺しの申生なり、鴆毒を父に盛りし、大逆不孝の人物なり」と、行き会う人は悉く、この私を、憎悪をもって見つめるであろう。かような情けない人生を生き長らえたとて、果たしていかなる面目ありや?

申生 天は、私の無実を知りたもう。虚構により仕組まれた罪状の下に死を賜り、我が父の怒りを休せしめる事こそ、最良の道であろう。

申生は、討手の到着する前に、自ら剣に貫かれて死んでいった。

その弟、重耳と夷吾はこれを聞き、驪姫の讒言が自分の身の上にも及んでくることを恐れ、二人とも、他国へ逃亡した。

かくして、奚齊に晋国の公位が譲られたのであったが、天命に背いた行為ゆえに、それから間もなく、献公と奚齊は父子共に、臣下の里剋(りこく)という者に討たれ、晋国はたちまちに滅びてしまった。(注4)

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(訳者注4)この後、重耳は、諸国放浪の苦労の末、晋国へ帰還して公位に就き、[晋の文公]となる。
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世間の声A そもそもやねぇ、こないだまでのあの戦乱が、あっという間に収まってしもぉて、先の帝が天皇位に復帰できはったんも、ひとえに、護良親王殿下の功績あってのもんやんかぁ。

世間の声B そうだよ、そうだよぉ。

世間の声A だとしたらやねぇ、たとえ殿下に小さな過失があったとしてもやでぇ、きっちりと戒告しはった上で、殿下をお許しになられるべきでは、なかったんかなぁ。

世間の声C うちも、そない思います。そやのにあんな風に、後先の事もなぁんも考えんとからに、殿下を、敵対してる足利家に渡してしまわはって、おまけに、流刑やなんてなぁ。

世間の声D 今回のこの一件、わしにはどうも、朝廷が再び傾いて、武家の力がまた盛んになってくる前兆と、思われてならんがね。

世間の声E そう言われてみたら、そうかもねぇ。

世間の声C ほんになぁ。

「前兆」との言葉は、当たっていたようだ。

護良親王が亡くなられてから後、たちまち、天下はすべて、「将軍」のものになってしまった。

古賢いわく、

 「夜明けに、雄鶏よりも雌鶏の方が先に鶏鳴を上げるようになったら、それは家運が尽きている相である」

その言葉は、大いに当たっているようだ。(注5)

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(訳者注5)原文では、「牝鶏晨するは家の盡る相なりと、古賢の云し言の末、げにもと思い知被(しられ)たり」。

これはおそらく、「妻が夫よりも主導権を持っているのは、良くない」というような意味であろう。太平記が書かれた時代には、そのように考える人が存在していたのかもしれないが、現代の日本において、そのように考える人が、全人口のどれくらいの割合を占めているのか、そのような事を知る手がかかりとなるようなデータの存在を訳者は知らないので、訳者としては、何とも言いようがない。
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太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 12-6 神泉苑の修復工事

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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戦乱がおさまった後も、依然として妖気は残り、何かしら、禍の相が示されてくる。それを消滅せしめるには、真言密教の秘法を用いるのがベスト、ということで、にわかに神泉苑(しんせんえん)の修復工事が、行われる事になった。

この神泉苑というのは、古代中国周王朝・文王が作ったという[霊園](注1)にならって、大内裏が初めて造営された時に築かれた、4方8町の広さの庭園である。

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(訳者注1)墓地ではない。庭園の名前である。
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その後、桓武天皇(かんむてんのう)の御代に、内裏南・朱雀門(すざくもん)(注2)の東西に、二つの寺院が建立された。左側(注3)を[東寺](注4)、右側を[西寺]と号した。

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(訳者注2)「朱雀門」とあるが、これは、太平記作者のミスであろう。

(訳者注3)南を向いて座す天皇から見て左側、ということになるので、東側、ということになる。

(訳者注4)教王護国寺。
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東寺においては、弘法大師・空海(こうぼうだいし・くうかい)が、胎蔵界(たいぞうかい)700余尊(注5)を安んじ、金輪世界(こんりんせかい)の帝王である天皇の位を守る。

西寺においては、奈良の守敏僧都(しゅびんそうず)が、金剛界(こんごうかい)500余尊(注5)を顕わして、天皇の身体の長久を祈る。

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(訳者注5)真言密教においては、仏の世界を、胎蔵界と金剛界の2世界で表現する。それぞれの世界をビジュアル的に表したものが、「両界曼荼羅(りょうかいまんだら)」であり、その中には、多くの仏・菩薩が描かれる。
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このような状況下において、桓武天皇の御代・延暦23年の夏、空海は、仏教を学ぶために、中国・唐へ渡海した。その間、守敏僧都一人、天皇のお側近くに仕え、朝夕の加持を行っていた。(注6)

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(訳者注6)ここに至るまでの記述中には、史実に反している内容がある。空海が遣唐使の一員として中国に渡ったのは、たしかに延暦23年(804)ではあるが、東寺の管理が空海に任されることになったのは、弘仁14年(823)である。
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ある時、陛下が手を洗おうとされたのだが、手水に氷が張っていてあまりに冷たそうなので、しばらく躊躇(ちゅうちょ)しておられた。

それを見た守敏は、その水に向かって火印を結んだ。すると、氷はたちまち解け、やがて水からは湯気が立ち上ってきた。これをご覧になった陛下は、しきりに不思議がられ、一計を案じられた。

天皇 おいおい、ここの部屋の火鉢にな、炭火をカンカンにおこしてな、周りに障子を立てめぐらせい!

お側づきの者 ハハーッ!

やがて、室内に暖気が充満してきた。

天皇 ふうー・・・外は冬やけど、この部屋の中だけは、ポカポカやなぁ。もう三月になったみたいやで。

天皇 (顔の汗を拭いながら)さて、守敏、お前の法力で、この炭火が消せるかな?

守敏 (黙って、火に向かって「水の印」を結ぶ)

天皇 オォォーッ、なんと! 炭火があっという間に消えてしまいよった! もう灰しか残っとらんぞ。(ブルブル)おぉ寒ぅ! なんか、全身に水ぶっかけられたような感じ、してきた。

これより後、守敏は、この様な奇特不思議をたびたび顕わした。まさに、彼の体内に、神通力が宿ったようである。天皇は、守敏に、のめりこまんばかりに帰依し、信を寄せるようになった。

このような状態の所に、空海が唐から帰ってきた。帰国後すぐに、彼は御所に参内した。

天皇は空海に、中国の様々な事情を尋ねられた後、先日からの守敏の見せた不思議な術の事を語られた。これを聞いた空海は、いわく、

空海 メミョウ(注7)が帷(とばり)をかかげれば、鬼神も口を閉ざしてそこを去り、センダンケイジッタ(注8)が塔を礼拝すると、それが崩れて、埋葬されていた屍が姿を現した、とか。この空海が居合わせている場所では、守敏も、そないな奇特を顕わすことは不可能でしょうよ。

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(訳者注7)古代インドの仏教僧。

(訳者注8)月支(げっし)の国王。
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天皇 (内心)えらい自信やなぁ。よし、そこまで言うんやったらな、いっちょ、実験してみてやろかい。いずれ適当な時期を見て、二人に術比べさせてみて、わしのこの目で、その威力の優劣を、きっちぃんと、見定めたんねん!

ある日のこと、空海が参内して来た。

天皇 あ、空海、あのな、おまえ、ちょっと、あっちの部屋に隠れとき。

次に、守敏が参内してきた。

その時、天皇は、湯薬(とうやく)を服用しようとしておられたのだが、薬が入っている器を前にして

天皇 この水、冷たすぎるわ。いつものように、術かけて、暖めてぇな。

守敏 はい、お安い御用です。(器に向かって火印を結ぶ)

守敏 (内心)あれっ?

水は湯にならない。

天皇 これはいったいどないした事や・・・不思議やなぁ。(左右のお側づきの者に向かって、目配せ)

内侍(ないし)次官がその器を取り、わざと、そこに熱く沸き立った湯をそそいで持ってきた。

天皇 おいおい、これでは熱すぎ。器、持てへん。

守敏は、先ほどの失敗にも懲りずに、

守敏 では、少し冷まして進ぜましょう。(器に向かって「水印」を結ぶ)

湯はあいかわらず、器の中で沸き返ったままである。連続の失敗に、守敏は顔色を変じ、当惑している。

すると、空海が、障子を開けてそこに現われた。

空海 なんとなんと、守敏どの、私が、あちらの部屋に居たともご存じなかったのですかいな。星の光は朝日の前に消え、蛍の火は暁の月に隠れ、といったとこかいなぁ、はっはっはっはっは・・・。

守敏 ・・・。

大いなる恥辱を受けて、守敏は心ふさぎ、怒りを内に隠しながら退出していった。

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それより守敏は、天皇に対して恨みを抱き、憤りの心は骨髄にまでしみわたり、

守敏 (内心)よし、日本国中を大旱魃に陥れ、全ての国民を、一人残らず飢餓に陥れてやろう!

守敏は、三千大世界中の龍神たちを残らず捕えて、小さな水瓶の中に押し込めてしまった。

かくして、夏の初めより3か月間、雨が全く降らず、農民は農作業を行うことができなくなってしまった。天皇の一行為が、国中の人民の愁いを招き寄せる事になってしまったのである。

陛下は、天災に苦しむ民の姿を愁い、空海を招いて雨ごいの祈祷を行わせよう、と考えられた。

勅命を受けた空海は、まず7日間の禅定に入り、三千世界を残らずサーベイ(観照)した。

空海 (禅定の中の思考)うーん・・・なるほど・・・どこを見てもかしこを見ても、龍神たちはことごとく、守敏の呪力でもって、水瓶の中に追い込められてるんやなぁ。どうりで、雨を降らす事のできる龍神が、全くおらんわけや。

空海 (禅定の中の思考)おっと待てよ・・・あそこに一体だけ、龍神が残ってるのが見える。ははーん、あれは、インド北辺境・ヒマラヤ山脈の北、無熱池(むねつち)に住んでる善女龍王(ぜんにょりゅうおう)やな。あの龍王は、守敏よりも上位の菩薩位にいるんで、彼の術も通じひんかったんや。よしよし・・・。

空海は禅定を終了し、自らがサーベイした内容を天皇に報告した。そこで天皇は、彼の提案を採用し、急いで内裏の前に池を掘らせ、清涼なる水をたたえさせた。

天皇 さ、空海、はよ、善女龍王に、この池へ来てもらうようにせぇ。

空海 はい、では・・・

空海は、[龍王勧請(かんじょう)の行]を開始。

そして、かの善女龍王が、金色の8寸大の龍の姿をなし、長さ9尺ほどの蛇の頭に乗って、この池に降り立つのを、空海は透視し、天皇にその由を報告した。

天皇は驚嘆し、和気真綱(わけのまつな)を勅使として送り、御幣や種々の供物を、龍王に供せられた。

やがて、湿雲がむくむくとわき上がってきて、日本全土を雨が潤し始めた。雨は3日間降り止まず、旱魃の憂いを消滅せしめた。

これより、天皇は、空海が説く真言密教をさらに熱心に崇められることとなった。

守敏の怒りは更に増した。

守敏 よぉし、ならば、空海を、調伏(ちょうぶく)してやろうやないの。

守敏は西寺に引きこもり、三角の壇を構え、本尊仏を北向けに立て、軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)の法を修し始めた。

これを聞いた空海はすぐに、東寺に護摩壇を構え、大威徳明王(だいいとくみょうおう)の法を修し始めた。

両人ともに徳行長けた僧侶、軍茶利明王と大威徳明王が次々と放つカブラ矢は、空中で衝突しては、二人の間に落ちていく・・・。

空海は、守敏を油断せしめんと、一計を案じた。

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公卿A なぁなぁ、聞かれましたか! 空海が、亡くなったそうですよ!

僧侶B えぇっ!

公卿C ほんまでっかいなぁ!

庶民D おいおい、聞いたか、空海様が亡くなられたんやて!

庶民E えっ、亡くなられた・・・うううう(涙)

庶民F あぁ、あのお方がもう、この世におられないとは・・・なんちゅう悲しい事なんや・・・。

庶民G もう、この世は闇やぁ(涙)。

これを聞いた守敏は大喜び。

守敏 やった! 私の仏法の威力が、空海の法力に勝ったんや。闘いは終わった。

そこで、守敏は壇をかたづけ始めた。そのとたん、

守敏 ウウウウッ 目がくらむぅ! アアアアーッ!

鼻から出血し、心身悩乱状態になった守敏は、仏壇の前に倒れ伏し、ついに命終わってしまった。

「呪詛(じゅそ)諸毒薬(しょどくやく)還着(げんじゃく)於本人(おほんにん)」(注9)と仏が説かれた金言のまったくその通りの結果となってしまった・・・まことに不可思議な仏法の効験である。

この事件があってからというもの、東寺は繁盛し、西寺は衰亡の一途をたどった。

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(訳者注9)「他人に対して呪詛(のろう)したり毒を盛ったりする、というような悪行の因は必ず悪果を生む。そしてその悪果は必ず、その悪行を行った本人のもとへ還ってくるよ」という、仏様よりの警告。[法華経 観世音菩薩普門品第二十五]中の一節から採ったものであろう。

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雨乞いの行を修する際に、空海は、茅(ちがや)という草を結んで龍の形を作り、それを壇の上に立てて、行った。行の了満の後、諸々の菩薩を極楽に送る際に、善女龍王をそのままその池に留め奉り、「弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に現れて、衆生を救済する時が来るまで、日本国を守護し、私の修した法を実効ならしめたまえ」との契約を交わしたので、今もなお、善女龍王はあの池に住んでいる。

かの茅製の龍については、大龍となって無熱池へ飛び帰った、という説もあるし、菩薩らと共に空に昇って東を指して飛び去り、尾張国・熱田神宮(おわりこく・あつたじんぐう)に留まっている、という説もある。これこそまさに、仏法東漸(ぶっぽうとうぜん:注10)の前兆、日本国家鎮護(ちんご)の奇瑞(きずい)と、言えよう。

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(訳者注10)仏教がインドから東方の世界に、伝播していくこと。
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空海 この池にとどまった龍王が、他の世界に移ってしまうやいなや、池は浅くなり水量は減少、ひいては、わが日本の国土は荒廃に帰し、国富も減少してしまうことやろう。そのような事態に至った時には、私に帰依する門徒たちよ、君らが、祈請を込めて再び龍王をここに招き奉り、日本の国家を救うべし!

現在、この池の水位はすっかり低下し、ほとんど水が無くなってしまっている。おそらく、龍王は他へ移ってしまわれたのであろう。

しかしながら、密教の雨乞いの祈祷を修するごとに、祈請に応じての霊験は、今もなおあらたかだから、いまだに、わが国を見捨ててはおられないのだろう。まさに、時に叶って風雨をもたらす、感応奇特の霊池と言えよう。代々の天皇もこれを崇め、家々の賢臣もこれを敬ってきた。旱魃が起った時には、まずこの池を浄めたものである。

しかし、後鳥羽天皇が退位されてから後、健保(けんほう)年間の頃より、この池は荒廃していった。棘(いばら)が道を閉ざすのみならず、蛇を害する猪や鹿が苑内に放たれ、カブラ矢の音が、池を守る仏教守護神の耳を驚かし、馬蹄の響きが、諸神の心を騒がす。このような様を見て、心ある人はみな、恐れ、嘆いていたのである。

承久の乱の後、北条泰時(ほうじょうやすとき)は、密かにこの池の荒廃を悲しみ、築垣を高く構え、門を固めて、様々の穢(けが)れの侵入を防がしめた。しかしその後、月日の経過と共に、門も垣も次第に崩壊。俗世間の男女の出入りを制止することも出来ず、牛馬が水や草を求めて、何はばかることなく往来するような状態になってしまった。

きっと、龍神はこれを不快に思っておられることであろう、速やかに修復して、尊く崇め奉るべきである。この池をきちんと祭ったならば、わが日本の国家はうまく治まっていくのだから。

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2017年9月11日 (月)

太平記 現代語訳 12-5 御所上空に怪鳥が出現、その鳴声は、「イツマデ、イツマデ」

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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元弘4年(1334)1月に、年号が、「建武(けんむ)」に改められた。中国・後漢王朝を開いた光武帝(こうぶてい)が王莽(おうもう)を打倒して漢王朝を再興した時に用いた年号である、という佳き例に則り、その年号をそのまま使用した、と聞いている。

この年、国中に伝染病が蔓延、病死者の数は膨大。

のみならず、その秋の頃より、御所・紫宸殿(ししんでん)の上空に怪鳥が出没。その鳴き声はといえば、「イツマデ、イツマデ」と聞こえるのだ。雲に響き、眠りを覚ますその声を聞いた人々は、ことごとく忌み恐れる。

さっそく、諸卿会議が開かれた。

公卿A 昔、中国では、堯帝(ぎょうてい)の御世に、太陽が9個も空に現れるという大異変があったんやとか。そこで、羿(げい)という者が帝の命を受けて、9個のうちの8個を射落としたんやそうですわ。

公卿B そないな前例やったら、わが国にかて、ありまっせ。堀川上皇がまだ天皇位におられた時にな、化け物が御所に出没して、陛下を悩ましよったんですよ。ほいでな、源義家(みなもとのよしいえ)が陛下の命を承ってな、清涼殿(せいりょうでん)の入り口で、弓の弦音(つるおと)を3回響かして、その化け物を鎮めよったんですわ。

公卿C 近衛上皇が天皇位に御在位の時にも、ヌエという鳥が、雲の中を翔けまわって鳴きよりましたなぁ。その時は、源頼政(みなもとのよりまさ)が、陛下の命を受けて、それを射落としたんでした。

公卿D そういう前例から考えますとですなぁ、今回もまた、源家に所属の者に命じてね、あれを射落とさせるべきでしょう。誰か適当な人間、おりませんかいなぁ。

しかし、射損じたら生涯の恥になると思ってか、「自分がやってみましょう」と名乗り出る者が全くいない。

公卿A もぉ、しゃぁないなぁ。ほなら、院とか公卿の家とかに仕えとるもんの中に、彼ならば、というようなん、いませんかいなぁ?

公卿E 藤原道平殿が召し使ぉておられるもんの中にな、隠岐廣有(おきのひろあり)いうのがおりますでぇ。あの男やったら、うまいことやりますやろ。

そこで、隠岐廣有に、後醍醐天皇からの命令が下された。

廣有はその命を承って、鈴の間に詰めた。

隠岐廣有 (内心)もしも、その怪鳥が、蚊の睫(まつげ)に巣を作るという、蟭螟(しょうめい)のようにサイズの小さいやつやったら、矢を何本放ってみても、大空遠く飛んでいってしもぉて、もうどうしようもないやろな。そやけど、肉眼で見えるくらいの大きさやったら、しめたもんや。矢の射程距離内に入ってくれさえすれば、ゼッタイ、射落としたるわいな。

このように考えた廣有は、一切異議申し立てをせず、かしこまって天皇の命に服したのである。

廣有は、召し使いに持たせてきた弓と矢を、自らの手に取り、庇(ひさし)の陰に立ち隠れしながら、怪鳥の出現をじっと待った。

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時は8月17日の夜、月空はすがすがしく晴れ渡り、虚空は清明。

ところが、にわかに、御所の上空に黒雲一群が懸かってきた。

雲の中から、けたたましい鳴き声が聞こえてきた。鳴くと同時に口から火炎を吐くかと見え、鳥の鳴き声とともにイナビカリが耀き、陛下の座しておられる御簾の中まで、明るく照らし出される。

鳥がいる位置をよくよく見定めた後、廣有は、弓を押し張り、弦をひきしぼり、カブラ矢をつがえて、キッと空中を睨んだ。

天皇は紫宸殿で、その様を凝視している。関白、左右大将、大中納言、参議、弁官、八省次官、諸家の使用人らも堂上堂下に居並び、文武百官はカタズを呑み、手を握り締めつつ、「結果はいかに」と、じっと廣有と怪鳥の双方を見つめる。

いままさに、怪鳥に向かって矢が放たれん、というその時、廣有は何か、考えるところがあってか、カブラ矢の先端からカリマタ鏃(注1)を抜いて捨てた。

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(訳者注1)物体に当たると二股に開くようになっている鏃(やじり)。
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そして再び、その矢を、2人張り12束2伏の弓につがえ、難なく矢を引き絞った。

弓 ギリギリギリギリ・・・。

廣有はそのまま、再び鳥が鳴き出すのを、じっと待ち構えた。

やがて鳥は、高度を下げて、舞い下りてきた。

紫宸殿の上空20丈ほどの所から、鳴き声が響くようになったその瞬間、

隠岐廣有 ヤァッ

弓 ビュン!

矢 ヒュルヒュルヒュルヒュルヒュル・・・。

カブラ矢は、紫宸殿の上を、鳴り響きながら飛んでいく。

矢 グァシッ!

鳥 ギャアッ!

雲の中で、矢が何かに当たったような手応えが、確かに感じられた。

その直後、大きな岩が空から落ちたかのような、大音響が響きわたった。

物体 ドーーーーーン!

怪鳥は、仁寿殿(じじゅでん)の軒上から二つに折れ曲がり、竹の台の前へ、落下してきた!

堂上で見ている人A やったぁ!

堂上で見ている人B 命中やぁ!

堂上で見ている人C 射落としよった!

堂下で見ている人D さすがぁ!

見ている人全員 射当てたわぁ、見事に、射当てたわぁ!

その後1時間ほども、人々は大声で叫び、賞賛の声は止まなかった。

後醍醐天皇 怪物、いったいどんなんや?!

公卿A おぉい、松明(たいまつ)や!

衛士 ハハッ!

衛士(えじ)の者に松明(たいまつ)を持たせて、落下してきた物体を見てみた。

後醍醐天皇 ウワッ! なんや、これ!

頭は人間のようで、身体は蛇の形をしている。嘴の先は曲がり、鋸状の歯が噛み合っている。両足には、剣のごとく鋭く長いケヅメが生えている。

後醍醐天皇 ウワウワウワーーー。

公卿たち ・・・。

羽先を伸ばしてみたら、さしわたし1丈6尺ほどもある。

後醍醐天皇 おいおい、一つだけフに落ちひん! 廣有、おまえさっきな、矢つがえた時な、急に、カリマタ鏃を抜いて捨てたやろ、あれ、いったいどういうわけやねん?!

隠岐廣有 ハハッ。この鳥、先ほどは、御殿の真上で鳴いておりました。ですので、万一、射た矢が落下してきて御殿の屋根の上に突き立ちでもしたら、これは忌むべき事、極めてまずい、と思いました。それで、鏃を抜いて、捨てたんですわ。

後醍醐天皇 うーん、すごいな! そこまでちゃんと、考えとったんか! すごい、すごい!

その夜、廣有は五位に昇進。翌日、彼は、因幡国(いなばこく:鳥取県東部)中の大荘園2か所を賜った。これぞまさしく、弓矢取りの面目、後代までの家の名誉と言えよう。

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2017年9月10日 (日)

太平記 現代語訳 12-4 千種忠顕と文観の奢侈(しゃし)

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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富貴の中に日々を送ることになった人々の中でも、千種忠顕(ちぐさただあき)は、とりわけ目立つ存在であった。

彼は、内大臣・故・源有房(みなもとのありふさ)の孫である。家業の学問の道にこそいそしむべきであるにもかかわらず、20歳になった頃から、専門外の笠懸(かさがけ)射撃や犬追物(いぬおうもの)射撃を好むようになり、それから後は、ギャンブルと色情の道へまっしぐら、ついに父・有忠から、父子絶縁を申し渡される親不孝者となってしまった。

しかし、この人には、一時の栄華を開くべき過去の因縁でもあったのであろうか、御醍醐天皇が隠岐国へ配流になられた時にお供を仕り、六波羅庁攻略軍を率いて京都へ攻め上った忠功により、大国3つと北条家旧領10か所を拝領した。

それから後、朝廷からの恩も身に余り、とでも言おうか、その驕り、甚だしきものがある。

家臣たちには手厚く報い、毎日いっしょに酒宴を重ねている。その場に集う者は、300人超、酒宴に費やされる酒肉やグルメの費用は膨大な額に。

数十間もあるような厩を建て並べ、よく肥えた馬を、5、60頭も飼育している。酒宴の後に興がおもむくと、数100騎を従えて、大内裏跡や北山に繰り出して、犬を追い、鷹狩に終日没頭。

その際のいでたちはと言えば、豹(ひょう)や虎の皮を足に装着、金襴(きんらん)刺繍や絞り染めの直垂を着用し、といったぐあいである。

「高貴の身分の人が着用する服を、身分の低い者が着る時、これを僭上(せんじょう)と言う。僭上と無礼は、国家の凶賊なり」との、孔安国(こうあんこく)の誡(いましめ)をも恥じない彼のこの振る舞いは、まことに浅はかなものである。

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しかしながら、出家の身ではない忠顕なのだから、このような振る舞いになってしまうのも、まぁ、無理もないこととも、思えるのだが・・・あれはいったい・・・伝え聞くところのあの、文観僧正(もんかんそうじょう)の日常は・・・「おいおい」と言いたくなってしまう。

名誉と利益を追求する凡夫の心境から脱し、ひとたびは、仏と一体の境地にまで達したというのに、そのかいもなく、今はただ、利欲と名誉欲の道をひた走り、心静かなる禅定の勤めも、彼の心中からは忘却されてしまったようである。

これといった使い道も無いのに、倉には財宝を蓄え、それを活用して貧窮の人々を救うでもなし、身辺には武器や人を集め、自らの勢力拡張に専念の日々。

媚びへつらいながら交わりを求めてやってくる者に、何の忠節もないのに褒賞を与える。その結果、「おれは、文観僧正の手の者だぞ」と、自称し徒党を組んでノサバリカエル者らが洛中に充満、その数は、5ないし600人にも。

さほどの遠距離でもない御所への参内の時にも、文観が乗る輿の前後を、数百騎が囲んで街路を横行していくので、その法衣はたちまちに馬蹄の塵に汚れ、戒律も空しく人の謗る所に落ちてしまう。

かの中国・廬山(ろざん)の慧遠(えおん)法師は、一度俗世間から離れるや、静寂なる一室にこもり、一時もこの山を出るまいと誓い、18人の賢人聖者の境地を踏襲しつつ、朝と夕の6時に仏を礼拝讃嘆する勤めを怠らなかったという。中国・唐の大梅山(だいばいさん)の常(じょう)和尚は、世間の人々に自分の住所を知られないように、かやぶきの家を深山の奥に移転し、山中の暮らしの中に、悟りの道を全うしたという。

このように、いったん出家した以上は、仏道に生き、心を清らかに保つことに一生を捧げるべきであるのに、文観の名誉利益に執(とら)われてしまったこの姿、どうにも尋常ではない。もしかすると、天魔か外道(げどう)が彼の心に入り込んでいて、あのような振る舞いをさせているのではないだろうか。

なぜ、このような事を言うかといえば・・・。

文治(ぶんじ)年間に、都に一人の僧侶がいた。その名を解脱上人(げだつしょうにん)と言う。

彼の母が17歳の時に鈴を呑む夢を見て出来た子であったので、これはただの人ではない、ということで、3歳になった時から仏門に入らせ、ついに尊い聖僧となった。

その人となりは、慈悲心極めて篤く、僧衣の破れをも悲しむことなく、仏道修行に怠りなし、托鉢の鉢が空っぽであっても、愁えることがない。

大聖者の中にも、俗世間の中に生きていく人はいる。解脱上人は、身は世間の塵に交わるとも、心は三毒(注1)の霧に決して犯されなかった。仏の教えのままに生きて年月を送り、人々を利益して山川(さんせん)を行脚(あんぎゃ)して回っていたのだが、ある時、彼は伊勢神宮に参拝した。

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(訳者注1)[貪(どん)]、[瞋(じん)]、[痴(ち)]を、仏教では「三毒」と言う。
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解脱上人は、内宮(ないくう)・外宮(げくう)を巡礼しながら、他人には聞こえないように、経を誦し、法文を唱えて礼拝して回った。

解脱上人 (内心)伊勢神宮、他の神社とは様子が違うなぁ。

解脱上人 (内心)千木(ちぎ)も曲がらず、片削ぎ(かたそぎ)も反らず・・・これは、真っ直ぐに仏に従っていく、との心を、象徴しているかのようや。

解脱上人 (内心)古い松が枝を垂れ、老樹の落ち葉が散り敷いている、これもまた、下化衆生(げけしゅじょう:注2)の相を表しているようやなぁ。

解脱上人 (内心)三宝(さんぼう:注3)とは異なる、神としての形態を取られる伊勢神宮も、そのご内証(注4)を深く鑑みれば、これもまた、衆生を仏教に導くための顕現のお姿か。

感涙の涙にむせぶ解脱上人であった。

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(訳者注2)仏が衆生を教化すること。

(訳者注3)[仏]、[法]、[僧]。

(訳者注4)「お心の中」という意味。
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このような心境であったので、彼は、日が暮れてもそのあたりの家に宿泊する気にもなれず、外宮の前に座し続けたまま、経文や諸々の如来の名前を唱え続けていた。

神路山(かみじやま)の松風に目も冴え渡り、五十鈴川(いすずがわ)に映る月に心を澄まして座っていたところ、にわかに空がかき曇り、激しい風雨になってきた。

やがて、雲の上に、車の走る音や馬を馳せる音が轟きだし、東西から、何やら妖しき者らがそこに集まってきた。

解脱上人 (内心)あぁ、恐ろしい、あれはいったい何者なんやろ。

肝を冷やしながら彼らを見つめる解脱上人の眼前の虚空に忽然と、玉を磨き金を鏤(ちりば)めた宮殿楼閣が出現した。庭上や門前には、幔幕が張り巡らされている。

十方より車馬でやってきた妖しき客たちは、総勢2、3,000人もいるであろうか、宮殿に入り、左右二列に着席した。

その上座には、最上位の者が座っているのだが、その姿、尋常ではない。身長は2、30丈もあり、その顔を見上げてみると、頭には夜叉(やしゃ)のごとく、12個もの顔がくっついている。腕は42本、日月を握る手あり、剣や戟(げき)を握る手もあり。その身体は、8匹の龍の上に乗っている。

それに従う眷属(けんぞく)たちもみな、異形(いぎょう)の者たち、手は8本、足は6本、鉄の盾を持ち、顔は3面、金の鎧を着用している。

全員着席の後、中央上座の怪異の者が、左右を見ていわく、

最上位者 過日よりの、帝釈天(たいしゃくてん)攻略戦において、我が軍は連戦連勝、我が手には太陽と月を握り、我が身体はシュミ山の頂に座し、広大な大海をも、我が足先に踏みしめるに至れり。

最上位者 しかるに近頃、わが方の兵力、毎日数万の割合にて、消耗の一途。その原因調査の結果、一大事実判明! なんと、人間たちの住む世界・エンブダイ中の、日本なる国の首都圏に、「ゲダツボウ」(解脱房)なる一人の聖者が出現、人類を教化(きょうげ)して利益(りやく)を与える間、仏法エネルギー出力増大、それに応じて、帝釈天パワーは著しく強化。かくして、わが軍より発せられる対仏法・障害波の伝搬、大いに阻害され、我軍のパワーは、減衰の一途。

最上位者 かのゲダツボウを放置せば、我らの対帝釈天戦のさらなる続行、もはや不可能。何としてでも、彼の道心を衰退せしめ、「解脱房」の心中に、驕慢懈怠(きょうまんけたい)の心を起こさせる事、必須の急務なり。

すると、「第六天魔王」(注5)と金字に銘討った兜をかぶった者が、座中の正面に進み出ていわく、

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(訳者注5)欲界中の、[他化自在天(たけじざいてん)]の支配者。仏教を求めようとする人に対して、様々な障害をし向ける。
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第六天魔王 ゲダツボウの道心を減衰せしめんは、いと、たやすき事なり。

第六天魔王 まずは、日本の国家元首なるジョウコウ(上皇)の心中に、「打倒・カマクラバクフ(鎌倉幕府)」の心を注入。ジョウコウが、ロクハラチョウ(六波羅庁)を攻めれば、ホウジョウ・ヨシトキ(北条義時)、チョウテイ(朝廷)に対して反撃に立ち上がるは必定。

第六天魔王 その時に、我ら、ヨシトキに力を与えて、チョウテイ・サイドを敗北に導き、ジョウコウを流刑へと誘導するは、奈何(いかん)?

第六天魔王 その後、ヨシトキ、日本国の成敗を司り、国家の統治を計らんがため、必ずや、現テンノウ(天皇)の子・モリサダ(守貞)の次男を、新しきテンノウに即位させることと、あいならん。

第六天魔王 さすれば、ゲダツボウは、かの次男の帰依する聖なれば、新しきテンノウのお側づき僧侶として取りたてられ、チョウテイに出仕する事とあいなる。これより、ゲダツボウは、仏道の修行を日々に怠り、驕慢の心を時々に増長すべし。

第六天魔王 これこそまさに、ゲダツボウを、破戒無慙(注6)の僧ならしめる、着実なるストラテジー(戦略)なり。

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(訳者注6)戒を破り、慚愧(ざんき:自らの言動を厳しく見省り、その非を仏に謝罪する)の心を持たない。
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メンバー全員 そのストラテジー、大いに良きかと!

やがて、彼らは東西に飛び去って行った。

解脱上人 (内心)うわぁ、すごい現場を、目撃してしもうたぁ! これぞまさしく、伊勢神宮の神々が、私にさらに仏道を求める心をおこさせようと思ぉて、見せて下さった、ありがたい不思議の出来事なんやなぁ。(歓喜の涙)

彼は、京都には帰らず、山城国(やましろこく:京都府南部)の笠置(かさぎ:京都府・相楽郡・笠置町)という深山に一つの岩屋を築き、そこを住居とするようになった。落ち葉を集めては身体の上に纏って衣とし、果実を拾っては食糧とし、厭離穢土(おんりえど)の心を固め、欣求浄土(ごんぐじょうど)の勤めを専らにした。(注7)

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(訳者注7)この世を、[穢土(けがれた所)]と見て、厭(いと)い離れ、[浄土]への往生を、欣(よろこ)んで求めていくこと。
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それから3、4年の経過の後、[承久の乱]が起こり、北条義時が政権を握った。後鳥羽上皇は島流しとなり、上述の親王が、天皇に即位した。

天皇は、解脱上人が笠置の岩屋にいることを聞き、「朝廷づきの僧侶になってくれ」と、何度も勅使を送られたのだが、上人は、「あぁ、これこそまさに、あの時、あこで、第六天魔王たちが言ぅておった事やんか。」と思い、ついに天皇の命令に従わず、ますます修行の道につき進んで行った。

かくして、智行重なって徳を開き、やがて、笠置寺の創立者となった解脱上人は、先人たちの仏教宣布の事業を、さらに拡大充実していった。

このような解脱上人の生涯と比較してみるに、なんとあきれ果てた、文観の行状であろう。このような事では、愚かな人々は、「なんだ、仏教なんて、しょせん、あんなもんか」というように、誤解してしまうではないか!

間もなく建武の乱が勃発し、文観のもとには、師の後を継ぐべき弟子が一人もいなくなってしまった。孤独衰窮の身におちぶれてしまった彼は、その後、吉野のあたりをさまよい歩きながら亡くなっていったと、聞いている。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 12-3 討幕勢力・主要メンバーへの恩賞

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘(げんこう)4年春、筑紫(つくし:福岡県)において、北条一族に属する規矩高政(きくたかまさ)と糸田貞義(いとださだよし)が、北条残党と近隣の不満分子らを集めて反乱を起こした。

また、河内国(かわちこく:大阪府東部)でも、賊徒らが佐々目憲法僧正(ささめけんぽうそうじょう)なる者を頭にかつぎ、飯盛山(いいもりやま:和歌山県・紀の川市)に城郭を構えて、決起。

伊予国(いよこく:愛媛県)でも、赤橋宗時(あかはしむねとき)の子息・重時(しげとき)が、立烏帽子峯(たてえぼしがみね:愛媛県北条市)に城を構え、周囲の荘園を占領。

武力だけでは不十分、仏法の力をも頂いて、これらの反乱者らを退治し、その地方を鎮めよう、ということになった。そこでにわかに、御所の中の紫晨殿(ししんでん)に壇をしつらえ、 曼殊院(まんしゅいん:京都市・左京区)の慈厳僧正(じごんそうじょう)が招聘されて、天下安鎮(てんかあんちん)の法が修されることになった。

この法を修するときには、甲冑を帯した武士が御所の四方の門を堅め、上級・下級の大臣たちや近衛府の役人らは階下に陣取る。そして、楽人が音楽を奏ではじめると共に、武士らが紫晨殿の正面庭の左右に列をなして並び立ち、抜刀して四方を鎮め、という風に進行していくのである。

今回の修法においては、その四方の門の警護は、結城親光(ゆうきちかみつ)、楠正成(くすのきまさしげ)、塩治高貞(えんやたかさだ)、名和長年(なわながとし)が担当することになった。

宮殿の正面庭の陣の担当として、右陣は三浦高継(みうらたかつぐ)が、左陣は千葉貞胤(ちばさだたね)が任命されていた。ところがこの両人、いったんはその任に就くことを承知しておきながら、いよいよ実施という段になって、「三浦なんかといっしょに、その任務につくの、やだよ。」と、貞胤は言いだし、高継もまた、「千葉が左の上座で、自分が右の下座なんて、とんでもねぇや!」と怒り出してしまい、両人ともにサボタージュ決行。

このような天魔からの障害により、天下安鎮の法の執行に、手違いが生じてしまった。

後になってから、この事件を振り返ってみるならば、まさにこれこそ、天下に平和が長続きしない事の前兆であったと、言えよう。

とはいいながらも、この修法の効験が現われたのであろうか、飯盛山の城は楠正成によって攻め落とされ、立烏帽子の城は土居(どい)と得能(とくのう)に攻め破られ、筑紫は大友(おおとも)と小弐(しょうに)によって制圧された。反逆者らの首は京都に送られ、市中引き回しの上、獄門にかけられた。

このようにして、関東にも西国(注1)にもようやく平和がもたらされたので、筑紫から、小弐、大友、菊池(きくち)、松浦(まつら)の者らが大船700余隻にて上洛。新田義貞(にったよしさだ)・義助(よしすけ)兄弟も、7,000余騎を率いて上洛。その他の国々の武士らも一人残らずやってきて、京都や白河(しらかわ:京都市・左京区)には人間が充満、都は普段の百倍ほども、にぎわっている。

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(訳者注1)中国地方、四国地方、九州地方。
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諸々の軍勢への恩賞の事は、しばらくさし置くとしても、まずは大きな功績のあった者たちを賞しなければ、ということで、

足利高氏(あしかがたかうじ)に、武蔵(むさし:東京都+埼玉県)、常陸(ひたち:茨城県)、下総(しもふさ:千葉県北部)の3か国が、

高氏の弟・足利直義(あしかがただよし)に、遠江(とうとうみ:静岡県西部)が、

新田義貞に、上野(こうずけ:群馬県)、播磨(はりま:兵庫県南西部)が、

義貞の子・義顕(よしあき)に、越後(えちご:新潟県)が、

義貞の弟・義助に、駿河(するが:静岡県中部)が、

楠正成に、摂津(せっつ:大阪府北部+兵庫県南東部)、河内が、

名和長年に、因幡(いなば:鳥取県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)が、与えられた。

その他、公家や武家の者らに、それぞれ2か国、3か国と与えられたのに、あれほどの功績あった赤松円心(あかまつえんしん)に与えられたのは、佐用荘(さよのしょう)のみ。当初、播磨国守護職が与えられたのだが、程なく、召し上げられてしまったのである。後の建武の乱の時に、円心がにわかに心変わりして、反後醍醐天皇サイドに行ってしまったのは、この恩賞の怨みがあっての事だとか。

その他、50余国の守護職や国司職、国々の北条家旧領、大荘園はことごとく、公家や朝廷の役人たちが拝領することとなり、彼らは、富貴に誇り、衣食に飽く日々を送ることになった。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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