2017年6月26日 (月)

信州 おもいで 安曇野 碌山美術館 2013年 5月

2013年5月に、信州の安曇野を訪問、大王わさび農場に行った事は、

前回発表の記事

の中に記しましたが、その後、大王わさび農場からタクシーに乗り、碌山美術館に行きました。

萩原碌山(守衛)氏のすばらしい作品を鑑賞することができました。

碌山美術館

荻原守衛(碌山)略年譜(碌山美術館)

上記中に、

「明治34年(1901) 22才 渡米を決意して洗礼を受け、3月横浜を出帆しニューヨークへ直行する。9月、フェアチャイルド家の学僕となる。」

とあります。すごいなぁと、思います。

碌山の彫刻作品(碌山美術館)

下記の画像は、この美術館の敷地内で撮影しました。

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美術館からJR大糸線・穂高駅までは徒歩で移動、とてもふんいきの良い道でした。

2017年6月25日 (日)

信州 おもいで 大王わさび農場 2013年 5月

2013年5月に、信州の大王わさび農場(安曇野市)に行きました。

JR京都駅から、東海道新幹線で、JR名古屋駅へ、
JR名古屋駅から、中央線で、JR松本駅へ、
JR松本駅から、大糸線で、JR穂高駅へ、
JR穂高駅から、タクシーで、大王わさび農場へ、行きました。

このページ中にある画像は、その際に撮影したものです。

この農場の敷地内に、水車小屋があります。「夢」(黒澤明監督)のロケ地になった場所なのだそうです。

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この水車小屋は、[万水川]と[蓼川]とが合流する場所にあります。

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上記の画像でも分かると思いますが、[万水川]と[蓼川]の透明度は、異なっているようです。もしかしたら、この場所と、それぞれの川の水源との距離が異なっているので、このような違いが生じるのかもしれません。

P7 栽培されているワサビ
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農場の中に遊歩道があり、散策できるようになっています。

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この農場で食べたいと思っていたものが二つありました。

[わさびソフトクリーム]と[わさび丼]。

[わさびソフトクリーム]を食べることはできましたが、[わさび丼]の方は食べれませんでした。(農場への訪問時刻の関係で)。

[ワサビ]と日本人との関りは、相当古くからのものであるようです。飛鳥時代の遺跡から出土した木簡に、ワサビに関する記述があるのだそうです。

ワサビに関して、

[飛鳥京跡苑池遺構 ワサビ]
[ワサビ 徳川家康]
[ワサビ 伊豆]

でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

安曇野でのワサビ栽培は、明治時代に始まったようです。

[安曇野市 わさび畑]
[安曇野 複合扇状地]
[安曇野 湧水]

でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

2017年6月22日 (木)

新作音楽作品の発表 言葉にならない想い・第3番

[クレオフーガ](音楽投稿サイト)に、自らが作曲した曲(ピアノ独奏曲)をアップロードしました。曲の題名は、

 I can't put the thought into words well No.3, Op.43
   (言葉にならない想い・第3番, Op.43)

です。

この曲をお聴きになりたい方は、下記で聴いていただけます。波形図の上の場所を、マウスや指で操作することにより、聴きたいと思う場所から聴きはじめる、というような事も、(コンテンツ格納先のサイト運営・クレオフーガが)可能としてくれているようです。

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下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲たち(クレオフーガ・サイト中にあり)

2017年6月21日 (水)

太平記 現代語訳 6-6 上赤阪城・攻防戦

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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幕府軍サイド・赤坂城方面軍(注1)の大将・阿曽治時(あそはるとき)は、後続部隊の到着を待ちながら天王寺に2日間逗留。

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(訳者注1)[3巻 5章] 中にも[赤坂城]が登場するが、その城と、この章に登場する[赤坂城]とは、別の城である。千早赤阪村(大阪府・南河内郡)に、[下赤坂城跡]、[上赤坂城跡]があるが、前者が[3巻 5章]に登場する城があった地であり、後者が、この章に登場する城があった地である。[千早赤阪村 公式サイト]中の、[観光案内]のコーナーに、これらの城跡についての詳細な説明がある。
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「2月2日正午に戦闘開始予定。抜け駆けする者は罰に処す!」とのメッセージが、全軍に伝達された。

ここに、武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都)の住人で人見恩阿(ひとみおんあ)という者あり。本間資貞(ほんますけさだ)に対していわく、

人見恩阿 こっちサイドは、それこそ雲霞(うんか)のごとき大軍だからよぉ、敵の城を落とせる事は、まず間違いなしだろうぜ。ただし、だなぁ。

本間資貞 ・・・。

人見恩阿 昨今の世の中の情勢ってぇもんを、よくよく見てみるにだぁ、鎌倉幕府の執権職に北条家が就任し、我が国の政権を握りはじめてから、もうすでに7代を越えてる。

人見恩阿 「満ちたら必ず欠けていく」ってぇのが、天の道理ってもんさぁね。北条家だって、その鉄則から逃れられるわきゃぁねぇんだよ。それにな、臣下の分際でありながら、先帝を流し奉るってなぁ、トンデモネェ悪行までやらかしちまってんだよぉ。そのうちきっと、あの家は滅びていくにちげぇねぇや。

人見恩阿 このオレは、不肖の身だけんどよぉ、北条家から恩を受けて、すでに齢(よわい)70越えちまったわさぁ。この先、人生にテェ(大)した望みもねぇ、オレみてぇなモンがやたらと長生きしてだなぁ、北条家の武運が傾いていく一部始終を、いやでも見せつけられなきゃぁなんねぇ、なんっつう事になっちゃったらぁ、そりゃぁツレェ(辛い)もんだわさぁ。

人見恩阿 そんな事になっちまったんじゃぁ、オレも穏やかな老後を送れねぇだろう。いまわの際になっても余計な妄念に駆られちまって、キレイに成仏もできやしねぇ。

本間資貞 ・・・。

人見恩阿 ってワケでな、オレは明日の合戦で、皆の先を駆けて敵陣に突入して、イのイチバンに討死にしてやろうって思ってんだよぉ。そうなりゃぁ、わが人見家の名だってぇ、末代まで輝やくってもんだろうが、エェ?。

本間資貞 (内心)そうだ、そうだぁ!

本間資貞 人見のオヤッサぁん、あんたナニ、つまんねぇ事、言ってなさるでやんすかぁ。ちょっと周囲(まわり)、見てごらんさないな、周囲を!

人見恩阿 ?・・・。

本間資貞 わしらの周囲にはねぇ、こんな大軍がいるじゃぁねぇですかぁ! こんな大軍団の先頭切って先駆けして、討ち死にしてみたところでねぇ、そりゃぁ、無意味ってもんだぁ。

人見恩阿 ?・・・。

本間資貞 そんなことしてみたって、ナーンの功名にもなりゃしねぇよぉ。

人見恩阿 ・・・。

本間資貞 明日の戦ではね、わしは右左よっく見まわしてね、他人(ひと)サマのなされるように、横並びでいきますよぉ、ワハハハ・・・。

それを聞き、人見恩阿は興ざめしたような面もちで、天王寺の本堂の方へ去っていく。本間資貞は、部下に命じて彼を尾行させた。

石の鳥居の前で恩阿は立ち止まった。そして携帯硯を取り出し、鳥居の柱の上に何やら一筆書いてから、自分の宿所へ帰っていった。

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本間資貞 (内心)あのチョウシじゃぁ、人見のオヤッサン、明日はゼッタイ抜け駆けするよねぇ。他人に先を越されたとあっちゃぁ、わしも面白くねぇやなぁ。

資貞は、注意怠りなくその夜を過ごし、夜明け前、ただ一騎で宿所を出て、東條(とうじょう:大阪府・富田林市)へ向かった。

石川(いしかわ)の河原で夜を明かし、ふと南方を見ると、朝霞の彼方に一人の武士の姿が。紺色の唐綾おどしの鎧に白い母衣(ほろ:注2)を背中に架け、鹿毛の馬に乗って、赤坂城の方へ向かっていく。

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(訳者注2)矢を防ぐために背中に背負う袋状のもの。
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本間資貞 ウゥ? ありゃぁ、イッテェ誰でぇ? もしかして・・・。

馬を寄せてみれば、そこには恩阿の姿が。

人見恩阿 ウワァーオ! 誰かと思えば、ヌシだったかぁ、ワハハハ・・・。

本間資貞 やっぱし、オヤッサンだったかぁ、ブハハハ・・・。

人見恩阿 (笑顔)おいおい、ヌシもよく言うよなぁ・・・「明日の合戦では他人サマの横並びで行く」ってかぁ? フザケンなよぉ!

本間資貞 ダハハハ・・・。

人見恩阿 (馬を急がせながら)昨日のヌシの言う事を真に受けちゃってたら、孫ほどの年のヤツにマンマと出し抜かれってな事に、なってしまってたなぁ。

資貞は恩阿の後につきながら、

本間資貞 なぁなぁ、人見のオヤッサンよぉ、こうなったらもう互いに、先を争う事なんか、やめときましょうや。二人でいっしょに敵陣に、屍さらしちゃってさぁ、あの世までごいっしょしましょうや!

人見恩阿 よかろう!

二人は後になり先になり、よもやま話をしながら、進んでいった。

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赤坂城が見えてきた。

二人は、馬の鼻並べて坂を駆け上がり、堀の際まで寄せ、鐙(あぶみ)を踏ん張り、弓を杖がわりについて大声で叫ぶ。

人見恩阿 オレは、武蔵の国の住人、人見四郎恩阿、年つもって73歳だぁ!

本間資貞 オレは、相模(さがみ:神奈川県)の国の住人、本間九郎資貞、37歳!

人見恩阿 鎌倉を出たその時から、思う事はただ一つ、軍のまっさき駆けて、屍を戦場にさらすのみぃ!

本間資貞 我こそはと思うヤツは、ここまで出てきやがれい! さぁ、勝負だぁ!

二人は、キッと城を睨む。

赤坂城内・楠軍メンバーA なぁなぁ、見てみいなぁ、あの二人!

楠軍メンバーB モロ、関東の武士ですー! っちゅうカンジやなぁ。

楠軍メンバーC いったい、ナニ考えとんねん、あいつら。

楠軍メンバーD きっとなぁ、源平合戦時代の熊谷(くまがい)と平山(ひらやま)の一ノ谷(いちのたに)先駆けの話を伝え聞いてな、あの二人にあこがれとるんやで。

楠軍メンバーA 後に続くもん、一人もおらんようやからなぁ、さほどの重要人物でも、ないやろて。

楠軍メンバーC あんな八方破れの命知らずに、ヘタにかかわりおうて、命落としたらあほらしいわい。ほっとけ、ほっとけぇ。

城内からは返事もない。

人見恩阿 (腹を立てて)オイオイ、朝早くからこうやって名乗りを上げてんのによぉ、そっちから矢の一本のアイサツもねぇのかよぉ! テメェラは臆病者の集団かぁ、それとも、オレタチをバカにしようってのかぁ! そっちがそういうつもりだったらなぁ、こっちだって考えがあるぞ、目にもの見せてやっからなぁ!

恩阿と資貞は馬から飛び降り、堀の上の細橋をサラサラと走り渡って、出塀(だしべい:注3)の側まで肉薄し、木戸を切って落とそうとした。それを見て、城内はにわかに騒がしくなった。障壁の矢窓や櫓の上から雨のように矢が浴びせられ、二人の鎧に簑毛のように突き刺さっていく。

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(訳者注3)矢、石を発射するため、あるいは、物見をするために、外に突き出して造った塀。
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資貞も恩阿も、もとより討ち死に覚悟、一歩も退くはずがない。命を限りに二人して共に戦い、ついに討ち死にしてしまった。

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幕府軍付・従軍僧が、二人の首を乞い受けて天王寺に持ち帰り、資貞の子息・資忠(すけただ)に、事の顛末(てんまつ)を説明した。

本間資忠は、父の首を一目見るなり一言も発せず、ただ涙にむせぶばかり・・・。そのうち、いったい何を思い立ったのであろうか、鎧を肩に投げかけ、馬に鞍を置き、たった一人で陣を立とうとした。

僧はあわてて、その鎧の袖をつかみ、

従軍僧 これこれ、いったいどこへ行かれるのかな?

本間資忠 ・・・(涙)。

従軍僧 お父上はな、この合戦に先駆けして、その名を天下に知らしめようとの、お心だったのですよ。父子共にそろって討ち入りすべきところをな、自分の一命のみを北条殿に献上し、そのかわりに、恩賞を子孫にもたらそうと思われたからこそな、他の人の真っ先切って、討ち死にしていかれたんじゃないですか!

本間資忠 ・・・(涙)。

従軍僧 なのに、せっかくのお父上のそのお心を、深く受け止めることもなく、あなたまでも、敵陣に突入して父子共に戦死してしまったのではな、いったい誰が、お父上の後を継いでいくのかね? いったい誰が、お父上のお残し下された恩賞を、受け取れますか?

本間資忠 ・・・(涙)。

従軍僧 子孫が永遠に栄えるをもってこそ、先祖に対する孝行を表わす道というもの。悲しみのあまり、お父上といっしょに死のうと、無性に思われるそのお気持ち、分からんではないが、とにかく、思いとどまりなされ。

このように、堅く制止する僧の言葉に、資忠は涙を押さえて仕方なく鎧を脱いだ。

従軍僧 (内心)やれやれ、なんとか、わしの言葉を聞き入れてくれたようだ。

僧は安堵し、本間資貞の首を小袖に包み、葬礼を執行するために、近くの野原へ出かけていった。

今は誰も、資忠を制止する者はいない。彼はすぐに陣を出て、聖徳太子の廟の前に走った。

本間資忠 (内心)オレの命も、もう今日限り、だから、今生の名誉栄達なんか願いません。聖徳太子様、どうかお願いです、なにとぞ、大悲を垂れ給ぉて、父が討ち死にした場所の同じ苔の下に埋もれ、極楽浄土に生えてる同じ蓮の葉の上に、父といっしょに、生まれ変わらせて下さい!

泣く泣く祈念を込め、涙ながらに、本間資忠は陣を出た。

石の鳥居を通り過ぎる時にふと見ると、父とともに討死にした人見恩阿が書き付けた歌があった。

本間資忠 (内心)オレたちの事、後の世までも、みんなに覚えておいてほしい!

彼は、右の小指を食い切り、その血でもって、人見の歌の側に自ら一首書き添えた後、赤坂城へ向かった。

城近くなったあたりで、馬から下りて弓を脇に挟み、木戸を叩いていわく、

本間資忠 おーい! おーい! 誰かぁ! あんたらに一つ、頼みたい事があってなぁ、ここまでやって来たぁ!

しばらくして、楠軍のメンバー二人が、櫓の狭間(さま)から顔をのぞかせた。

楠軍メンバーE オマエ、いったい、どこの誰じゃい?

本間資忠 オレはなぁ、今朝、この城で討死にした本間九郎資貞の息子、源内兵衛資忠(げんないひょうえすけただ)ってぇモンだ!

楠軍メンバーF ・・・。

本間資忠 「人の親の、子を思う哀れみ、心の闇に、迷う習い」ってことでなぁ、父子モロトモ討死、なんてぇ悲しい事にならねぇようにと、オレには何も言わねぇで、オレのオヤジはたった一人で、あの世へ行っちまったのさぁ。今頃きっと、冥土の旅路の伴も無しに、この世とあの世の境目あたりで、道に迷ってることだろうぜ。

楠軍メンバーE ・・・。

本間資忠 そんなオヤジの事を思うと、いてもたってもいられなくなってなぁ、オレもいっしょに討死にして、死んだ後までも、オヤジに孝行しようと思ってなぁ、たった一騎でここへやってきたのヨォ。(涙)

楠軍メンバーF ウーン・・・。

本間資忠 なぁ、頼む、頼むからよぉ、この城の大将にさ、オレがここへやってきたワケ、伝えてくんねぇかなぁ。頼むから、この木戸、開いてくれよ! オヤジが討死にしたその場所で、オレも死にてぇんだ。そうなりゃあ、親孝行してぇオレの願いも、ミゴトかなうってもんじゃねぇかぁ。(涙)

涙にむせびながら慇懃に願う資忠に、一の木戸を固めている武士50余人は、彼の孝行の心と志の優しさに哀れみをおぼえ、すぐに木戸を開き、逆茂木(さかもぎ)を取り除いた。

本間資忠 礼を言うぜ! よぉし、行くぞぉ!

資忠は馬にうち乗り、城中へ駆け入り、楠側の50余人と火花を散らしながら切りあった。そしてついに、父が討たれたその場所で、太刀を口にくわえてうつぶせに倒れ、刀に身を貫かれて絶命した。

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世間の声G あぁ、なんとまぁ、おしい人の命が、次々と失われてしまったことだろう。

世間の声H 同感だねぇ。まずは、本間資貞。他に並ぶ者の無い、立派な武士だったと思うよ。まさにこのような人をこそ、「国家の為になくてはならぬ人」と言うんだろうなぁ。

世間の声I その子息の資忠も、とても立派だったと思うよ。比類なき忠孝の勇士とも言うべきかなぁ。こんな立派な息子がいたおかげで、本間の家名も大いに上がったってもんだ。

世間の声J いやいや、人見恩阿だって、立派なもんさ。年老いて齢重ねてもなお、義の心を忘れなかった。しかも、その時々に応じて、自らの運命をよく見極めたんだもんなぁ。

世間の声K こんな立派な人間が、3人もろともに討死にしてしまっただなんて、実に悲しいことだなぁ。

世間の声多数 同感、同感。

彼らと面識ある者もない者も、一人として彼らの死を歎かぬ者はなかった。

「3人が秘かに先駆けして赤坂城へ向かい、共に討死」との情報に、大将・阿曽治時は、すぐに天王寺を出て赤坂城へ向かった。

途中、聖徳太子廟の前で馬から下り、石の鳥居を見ると、左の柱に歌が一種。

 花も咲かぬ 桜の老木(おいき) 朽ちるとも その名残すぞ いついつまでもな

 (原文)花さかぬ 老木(おいき)の櫻(さくら) 朽(くち)ぬとも 其(そ)の名は苔(こけ)の 下に隠れじ(注4)

 武蔵国住人 人見四郎恩阿 生年七十三 正慶二年二月二日
 赤坂城へ向かいて 武恩を報ぜん為に 討死に仕り 畢(おわ)んぬ

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(訳者注4)もはや一花も咲かせる事もできなくなった桜の老木に自らをなぞらえた歌。
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また右の柱を見れば、次のような歌が。

 待てしばし 子を思う闇に お迷いか 案内(あない)しましょう 六道分岐(ろくどうぶんき)

 (原文)まてしばし 子を思う闇に 迷(まよう)らん 六(むつ)の街(ちまた:注5)の 道しるべせん

 相模国住人 本間九郎資貞が嫡子、源内兵衛資忠 生年十八歳 正慶二年仲春二日
 父の死骸を枕にして 同じ戦場に命を止(とど)め 畢(おわ)んぬ

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(訳者注5)地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、以上6個の世界を「六道(ろくどう)」と言う。ちまた(道股)」とはそこへ至る「複数の道の分かれる所」という意味である。子(資忠)を残して死んで行った父(資貞)が、中有(ちゅうう=現生界と霊界とのミッドフィールドエリア)まで行きついたものの、子供への思いに後ろ髪引かれ(「子を思う闇」)、そこで進退窮まっているのではなかろうか、ならば自分もそこに赴いて父と共に霊界へ、という思いを込めて、資忠はこの歌を詠んだのである。
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かたや父子の恩義、はたまた君臣の忠貞、余す所なく表現した歌が2首。詠み手の遺骨ははや風化して、黄色の土一盛りの下に朽ちはててしまったが、彼らの高名はいまもなお世界に留まり、青雲九天(せいうんきゅうてん)の上にいや高し。故に、現在に至るまでも、その石の鳥居の上に消え残った三十一字(みそひともじ:注6)を見る人は皆、感涙を流さずにはおられない。

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(訳者注6)和歌の事である。(標準形では31文字から構成されているので)。
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赤坂城方面軍大将・阿曽治時(あそはるとき)は、8万余の軍勢を率いて、赤坂城へ押し寄せた。

城の周囲20余町に展開して、雲霞(うんか)のごとき包囲網を形成の後、幕府軍は一斉にトキの声を上げた。

阿曽治時 エーイ! エーイ!

幕府軍一同 オーーウ!

その声は山を動かし地を震わせ、大空の果てまでもたちまちに、裂いてしまうかと思われるほど。

赤坂城の三方は屏風を立てたような高い崖で守られており、ただ南方だけが平地に続いていた。しかしそこには広く深い掘があった。掘のすぐ向うには塀が立てられ、その上に櫓が構えられている。このような極めて強固な防衛配置ゆえ、いかなる大力早業の者といえども、そうそうたやすく、攻めれるような城では決してない。

しかし、幕府軍サイドは、自らの大勢を頼み、楠軍サイドの防備を、完全に侮(あなど)っていた。

盾に身を隠す事もせずに、矢の射程距離圏に進み出て、堀の中へ走り下り、切岸(きりぎし)を這い上がろうとする。それを狙いすました楠軍サイドは、塀の内から屈強の射手たちが号令一下、思う存分に矢を射まくる。

このようなわけで、突撃を行うたびに、幕府軍サイドには、負傷者・戦死者500人、600人という状態に。

これをも意に介さず、新手を次々に前線に投入し、2月13日まで攻め続けてみたが、楠軍サイドの防衛体制には、いささかの揺るぎも見えない。

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播磨国(はりまこく)住人・吉川八郎(きっかわはちろう)が、阿曽治時の前に進み出ていわく、

吉川八郎 この城の防備を見る限り、力攻めでは、とても落とせませんわ。かといぅて、兵糧攻めにしてみたところで、ラチあきませんで。楠はここ一両年、和泉・河内両国を占領してからに、そこから徴発した食料をよぉけ、城の中に運び込んどぉからなぁ。食料かてそうそう急には、無くなりませんやろて。

阿曽治時 ・・・。

吉川八郎 んでな、ナンか城攻めのえぇ方法ないやろかなぁと、わし、イロイロと考えてみよったんですわ。で、ある事に思い当たったんです。

阿曽治時 いったいどんな?

吉川八郎 あの城、三方は切り立ってて、崖になってますやろ。残りの一方は平地で、山からも遠ぉ隔たってますやんかぁ。そないな地形やのに、城の中の連中は、いったいどこから水を手に入れとぉんや? どこからも水が採れるはずないやんか、そうですやろ?

阿曽治時 うーん、言われてみれば、なるほど。

吉川八郎 こっちから射こんだ火矢でも、ポンプ使ぉてじきに、消火されてしまいますやろ? いったいなんで、あの城の中、そないに水が豊富にあるねん? 最近とんと、雨も降っとらんのにや。

阿曽治時 フーン!

吉川八郎 おそらく、地底に設置されとぉ樋(とい)でもって、南方の山奥の方から城の中まで、水、引ぃとぉんやぁ!

阿曽治時 ウーン!

吉川八郎 はよ、人夫かき集めはってな、山麓近くの土の中、掘らしてみはったら、どないですかいな?

阿曽治時 よーし!

阿曽治時はさっそく人夫を集め、山の尾根と城との接点に狙いをつけ、そこを横一文字に掘らせてみた。

吉川八郎の推測は見事に的中した。地表から2丈ほどの深さのところに樋を発見。側面には石を敷き並べ、上側には桧の板をかぶせ、10町ほどかなたから城中までエンエンと、その樋を使って水を引いていたのである。

この水路を止められてから、城中では水が欠乏し、楠軍サイドでは、ノドの渇きを忍びがたくなっていった。それから4、5日ほどは、草葉に結ぶ朝露を舐め、夜は湿気に潤う地面に伏しながら、雨の降るのをひたすら待ち続けた。しかし、一向に雨は降ってくれない。

これに利を得た幕府軍サイドは、火矢を連続射撃し、城の大手の櫓2つを焼き落とすことに成功した。

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城中に一滴の水も無くなってから、すでに12日が経過しようとしている。

楠軍メンバーL あーぁ・・・(ハァハァ)。もう、どうしようもなくなってきたなぁ・・・。(ハァハァ)

楠軍メンバーM 水飲めへんとなぁ・・・(ハァハァ)、力もナァも出てきぃひんやんけ・・・。(ハァハァ)

楠軍メンバーN もうあかんなぁ・・・(ハァー)。いよいよ、最期の覚悟、かためる時がきてしもたんかなぁ・・・(ハァハァ)。

楠軍メンバーL 人間、いったん死んだら、二度とこの世へは帰って来れへんのや・・・(ハァー)。なぁ、みんな、どうせ死なんならんのやったら、力がまだ少しでも残っとる、今のうちにやで・・・(ハァー)、城から打って出て、敵とさしちがえて・・・(ハァー)思い思いに、討死にしてしまおうなぁ・・・(ハァハァ)。

楠軍メンバーM そうやなぁ・・・(ハァー)。もう、こないなったら、それしかないわなぁ・・・(ハァハァ)。

楠軍メンバーN 城の木戸開いて、みんな一斉にうって出よ・・・(ハァハァ)。

楠軍メンバーO そうや、そうやぁー・・・(ハァハァ)。

これを聞いた赤坂城防衛軍・総大将・平野将監入道(ひらのしょうげんにゅうどう)は、櫓から走り降り、袖をひかえていわく、

平野将監 こらこら、おまえら、ちょい待ったらんかい! 一斉にうって出るやとぉ、そないな軽はずみな事して、どないすんねん!

楠軍メンバー一同・・・。

平野将監 水も飲めんとからに、みんなもう、力つきてしもてるやんけ。こないなザマで、城からうって出たかて、相手にとって不足ないような敵と、ワタリあえるはず、ないやん。名もない連中らの中間(ちゅうげん)や下部(しもべ)らに生け捕りにされてしもて、恥さらすが落ちやぞぉ。

楠軍メンバー一同・・・。

平野将監 よぉよぉ考えてみるにやな、吉野と金剛山の城はいまだにもちこたえとるし、中国地方で蜂起した連中らも、まだがんばっとる。そやから、ここの城のメンバーが降参して出ていったかて、むやみに殺されるような事にもならんやろ。ワイらを殺してしもたら、他の連中らはもうイジになってしもて、絶対に降参せぇへんようになってまうからな。幕府側かて、そないなアホな事はせんやろて。

楠軍メンバー一同・・・。

平野将監 もうとにかく、どうにもしょうのないワイらやねんからなぁ、ここは敵を欺いて、いったん降伏しといてや、命を全うしながら、好機がまた到来するのを待つ、いう事にしよぉや!

楠軍メンバー一同 (うなずく)・・・(ハァハァ)。

というわけで、その日の楠軍玉砕(ぎょくさい)は中止となった。

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翌日の戦闘のさ中、平野将監は高櫓に登り、大声で幕府軍側に呼びかけた。

平野将監 おぉい! 幕府軍側の大将に申し上げたい事があるんや。しばらく戦闘中止して、わしの言う事、聞いてくれへんかなぁ!

阿曽治時 城の方で何か叫んでるぞ。おい、渋谷(しぶや)、敵の言い分を聞いてこい!

渋谷十郎 はい、分かりました。

城の木戸の前で、

渋谷十郎 そちらの言い分、聞こうではないか!

平野将監 楠が和泉と河内の両国を平らげて威勢を振るっとったもんやから、ワイらはひとまずその難を逃れるためにな、心ならずも楠の配下に入って、幕府の敵側に回ってしもぉたんやわ。そのへんの細かい事情を、はよ京都に行って、六波羅庁のおえら方に、ちゃんとお伝えせんとあかんなぁ、と思ぉてたとこにやな、いきなりそっちが、こないな大軍で押しかけて来た、というわけやがな。こないなったらしゃぁない、こっちも弓矢取る武士のはしくれっちゅうことでやな、一戦交えることになってしもぉたんやわなぁ。

渋谷十郎 ・・・。

平野将監 こういう事情があって、幕府に逆ろぉてしもぉたワイらの罪を許したる、言うてくれはんのやったらな、ワイら、今すぐにでも首を伸ばして、降参してもよろしいんやでぇ。そやけどな、「あかん! 許さんぞ!」言ぅんやったら、そらもぉしゃぁない、最後まで抵抗して、陣中に屍をさらすまでや。城側の大将がこういう風に言ぅてると、そっちの総大将に伝えてぇなぁ。

これを聞いた阿曽治時は大いに喜び、「将軍発行・領地現状維持保証書(注7)」を作成し、「赤坂城防衛軍側のメンバー中、殊に功績あった者については、恩賞付与を建議する」と返答して、休戦とした。

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(訳者注7)原文では「本領安堵の御教書」。
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城内にこもっていた楠軍メンバー282人は、明日にも無くなる我が命ともつゆ知らず、水に渇く苦しさに耐えきれずに、ついに全員降伏して城を出た。彼らは、長崎高貞(ながさきたかさだ)に引き渡された。

長崎高貞 降伏してきた者に対しては、まずはこのようにするのが、古来からのならわしだ。

楠軍メンバー全員の甲冑、大刀、小刀を没収し、後ろ手に厳しく縛り上げ、六波羅庁送りとした。

楠軍メンバーL あぁ、こないな事になるんやったら、あの時、玉砕してた方がよっぽどよかったわぁ。(涙)。

楠軍メンバー一同 ほんまや!(涙、涙)。

後悔すれども、どうしようもなし。数日後、彼らは京都に到着、縛り上げられたまま、六波羅庁に留置された。

やがて、「やつらを、戦初めの軍神への贄(にえ)にしよう、ヤツラの首を見りゃぁ、みんな懲りるだろうよ」ということになり、六条河原へ引き出されて一人残らず首を刎ねられ、獄門にされされてしまった。

これを聞いて、吉野(よしの)や金剛山(こうごうさん)にたてこもる倒幕勢力の者らは、ライオンのごとくに怒って歯噛みする。以降、幕府側への降伏を考える者など皆無となってしまった。

世間の声W それにしても、今回の六波羅庁のこの処置、いったいなんですねん!

世間の声X ほんまに、ムチャなこと、しよりますなぁ。

世間の声Y 「処罰を緩くするは将の謀(はかりごと)」っちゅう言葉を知らんのんかいなぁ、六波羅庁の連中らは。

世間の声Z ほんまにもう、最低の処置ですわ。

それから程無くして、このような酷い処置を下した六波羅庁の面々がことごとく滅亡してしまったというのだから、人間の運命というものは、まことに不可思議という他はない。

情けは人の為ならず(注8)。

あまりにもおごりを極め、我がまま放題に振るまっているものだから、武運も早々と尽きてしまったのである。因果の道理というものをわきまえるならば、こういった事がらに関しては、よくよく心して当たるべきである。

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(訳者注8)「他に対して情けを施こす」という行為は善因となり、それが善果を産む故に、やがては自分にとってうれしい報いとして帰ってくる。
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太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年6月20日 (火)

太平記 現代語訳 6-5 反乱軍鎮圧のため、鎌倉から大軍団出動

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「近畿地方および中国地方に反乱軍、続々と決起!」 

六波羅庁から早馬が鎌倉へ飛ぶ。 

北条高時(ほうじょうたかとき) なにぃーっ!(大驚) さっさと、討伐軍を送りやがれぇぃー! 

というわけで、北条一族他、関東8か国の有力御家人たちに動員令が下され、討伐軍が編成された。その構成、以下の通り。 

北条一族:阿曽治時(あそはるとき)、名越元心(なごやげんしん)、大佛貞直(おさらぎさだなお)、
大佛宣政(おさらぎのりまさ)、伊具有政(いぐありまさ)、陸奥家時(むついえとき) 

外様(とざま:注1):千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮三河守(うつのみやみかわのかみ)、小山秀朝(おやまひでとも)、武田三郎(たけたさぶろう)、小笠原彦五郎(おがさわらひこごろう)、土岐頼貞(ときよりさだ)、葦名(あしな)判官、三浦氏明(みうらうじあき)、千田太郎(せんだたろう)、城太宰大弐入道(じょうのだざいのだいににゅうどう)、佐々木清高(ささききよたか)(注2)、佐々木備中守(ささきびっちゅうのかみ)、結城親光(ゆうきちかみつ)、小田時知(おだときとも)、長崎高貞(ながさきたかさだ)、長崎師宗(ながさきもろむね)、長江弥六左衛門尉(ながえやろくさえもんのじょう)、長沼駿河守(ながぬまするがのかみ)、渋谷遠江守(しぶやとおとおみのかみ)、川越円重(かわごええんじゅう)、工藤高景(くどうたかかげ)、狩野七郎左衛門尉(かのしちろうさえもんのじょう)、伊東常陸前司(いとうひたちのぜんじ)、伊東大和入道(いとうやまとゆうどう)、安藤藤内左衛門尉(あんどうとうないさえもんのじょう)、宇佐美摂津前司(いさみせっつのぜんじ)、二階堂道蘊(にかいどうどううん)、二階堂時元(にかいどうときもと)、二階堂宗元(にかいどうむねもと)、安保左衛門入道(あぶさえもんにゅうどう)、南部次郎(なんぶじろう)、山城四郎左衛門尉(やましろしろうさえもんのじょう) 

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(訳者注1)北条一族以外。

(訳者注2)佐々木清高は隠岐にいるはずなので、ここは、太平記作者の誤りであろう。
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これらの人々をはじめとして、主な御家人132人、兵力総計30万7500余騎! 

9月20日に鎌倉を出発、10月8日に、先陣は京都に到着するも、後陣はいまだに、足柄・箱根(神奈川県)のあたりを進軍、というほどの大軍団であった。 

これに加え、四国からは、河野通治(こうのみちはる)が大船300余隻で瀬戸内海を渡海、尼崎(あまがさき:兵庫県尼崎市)より上陸し、下京(しもぎょう:京都市・下京区一帯)に到着。 

厚東入道(こうとうにゅうどう)、大内介(おおうちのすけ)、安芸(あき:広島県西部)の熊谷(くまがい)らは、周防(すおう:山口県南部)、長門(ながと:山口県北部)の軍勢を率い、軍船200余隻にて瀬戸内海を東上、兵庫(ひょうご:神戸市・兵庫区)から上陸して西の京(京都市・中京区・西の京付近)に到着。 

甲斐(かい:山梨県)・信濃(しなの:長野県)両国の源氏7,000余は、中山道(なかせんどう)経由で上洛し、東山(京都市・東山区一帯)に到着。 

江馬越前守(えまえちぜんのかみ)と淡河右京亮(あいかわうきょうのすけ)は、北陸道7か国の軍3万余を率いて、東坂本(ひがしさかもと:滋賀県・大津市)を経由し、上京(かみぎょう:京都市・上京区一帯)に到着。

このように、諸国七道から軍勢が我も我もと馳せ上ってくるものだから、洛中、白川あたりの家だけではとても彼らの宿所に当てるには足りない。醍醐(だいご:山科区)、小栗栖(おぐりす:山科区)、日野(ひの:山科区)、勧修寺(かんしゅうじ:同左)、嵯峨(さが:右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)、太秦(うずまさ:右京区)のあたり、さらには、西山(にしやま:西京区)、北山(きたやま:北区)、賀茂(かも:北区)、北野(きたの:上京区)、革堂(こうどう:上京区)、河崎堂(かわさきどう::上京区)、清水寺(きよみずでら:東山区)、六角堂(ろっかくどう:中京区)の門の下、鐘楼の中までも、余す所なく幕府軍の宿所となってしまった。 

今まで日本は小さい国だと思っていたのに、これほど多くの人間がいたのであったか・・・いまはじめて思い知った次第である。 

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元弘3年(1333)1月末日、諸国からの軍勢80万を3手に分け、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)、赤坂(あかさか:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)、金剛山(こうごうさん:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)の3つの城に向かわせた。 

吉野方面軍の大将は、二階堂道蘊(にかいどうどううん)。あえて他家の軍勢を交えず、2万7000余騎にて、上ツ道(かみつみち)・下ツ道(しもつみち)・中ツ道(なかつみち)経由の(注3)、3手に分かれて進軍。

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(訳者注3)奈良時代に、奈良盆地の中に設営された、街道である。 
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赤坂方面軍の大将は、阿曽治時(あそはるとき)。8万余を率いて赤坂城へ向けて進発、まず、天王寺と住吉に陣を張った。 

搦め手・金剛山方面軍の大将は、陸奥家時(むついえとき)。10万余を率いて、奈良路から進軍を開始した。

幕府軍・侍大将を勤めるは長崎高貞(注4)。彼は自分の威勢をひけらかそうとしてであろうか、皆から一日遅れで進発した。その軍のいでたちは、まことに人目を驚かすものであった。

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(訳者注5)高資の弟。 
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先頭を旗差兵(はたさしへい:注5)が進み、それに続いて、鮮やかな房で飾り立てたたくましい馬にまたがる武士たち800余人、揃いの鎧を着て、軍団本体から2町ほど先を、粛々と馬を歩ませていく。 

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(訳者注5)大将旗を持つ旗手
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そしてその後を、長崎高貞が行く・・・絞り染めの直垂(ひたたれ)、絹の大口袴、濃紫色の鎧、銀星のついた5枚しころに8匹の金の龍形の飾り付きの兜を深くかぶっている。

磨きぬかれた銀めっきのすね当て、黄金づくりの太刀2本、乗馬は、「一部黒(いちのへぐろ)」という5尺3寸の関東一の名馬。潮の干いた干潟に残された小舟の図柄の蒔絵を施した鞍を置き、馬体には山吹色の房を付けている。

エビラの中には、銀製の磨き上がったハズに大中黒(おおなかぐろ)の羽がついた矢が36本。本滋藤(ほんしげとう)の弓の真ん中を握り、都の道路を所狭しと、馬を歩ませていく。 

左手に小手(こて)を付け、腹当てを着して武器を持つ雑兵500余人が、高貞の馬の前後に2列で従い、しずしずと路地を歩んでいく。その後方4、5町ほど遅れ、思い思いに鎧を着た武士たち10万余、兜の星を輝かし、鎧の袖を重ね、靴の底に打った釘の列のごとくに、周囲5、6里に展開して進軍していく。 

決然たるその威勢、まさに天地を響かせ山河をも動かすほど。 

その他、外様の御家人衆の軍団が、5,000、3,000と互いに間隔を保ちながら、13昼夜もの間、ひっきりなしに通過していった。 

わが国は言うにおよばず、中国、インド、モンゴル、東南アジアに至るまで、いまだかつて、これほどの大軍を組織することは出来なかったであろう、と思われるほどの幕府軍の威容である。 

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年6月19日 (月)

太平記 現代語訳 6-4 赤松円心、蜂起す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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そのころ、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)の住人で、村上天皇(むらかみてんのう)第7皇子・具平(ぐへい)親王の6代の末裔、従三位(じゅさんみ)・源季房(みなもとのすえふさ)の末孫、赤松次郎入道円心(あかまつじろうにゅうどうえんしん)と言う、弓矢取っては無双の勇士がいた。

この人は小事に関わることを好まず、また、他人の下につく事をよしとしない性格であった。衰微してしまった我が家を再び盛り返し、赤松家の名を大いに上げ、他に抜きんでた忠功を発揚したいと思っていた。

そのような所に、突然、息子が帰ってきた。この2、3年の間、護良親王(もりよししんのう)につき従い、吉野・十津川の艱難(かんなん)を共にくぐり抜けてきた、則祐(のりすけ)が。

赤松則祐 父上、護良親王殿下よりのメッセージ、持ってきましたで!

赤松円心 おぉ!

赤松円心 (パサパサパサ:手紙を開く音)・・・(内心)ふーん・・・。「早急に義兵を挙げて軍勢を率い、朝敵を討伐せよ! 功績あった者には、恩賞は望みのまま取らせるぞ。」てかいな。ふーん・・・。

赤松円心 (内心)その恩賞の詳細まで、きちんと17か条にまとめて、事細こぉに書いたるやないかい・・・どの条項を読んで見ても、赤松家を盛り立て、わしの野心を満たすには十分の内容やなぁ。

円心の心は弾んできた。

赤松円心 よーし、いっちょう、やってみたろかぁ!

彼はまず、播磨国・佐用庄(さようしょう)の苔縄山(こけなわやま:兵庫県・赤穂郡・上郡町)に城砦を構え、同志を募った。

円心の勢威は徐々に近隣に及び、播磨国中から武士達が参集、間もなくその兵力は、1,000余騎にまで達した。まさに、秦(しん)王朝の天下既に傾かんという時、その好機を捕らえて楚(そ)の陳勝(ちんしょう)が、身分低い身でありながらも、大澤(だいたく)にて決起した事を思わせるかのようである。

やがて、赤松軍は、杉坂(すぎさか:兵庫県・作用郡・作用町-岡山県・美作市)と山の里(やまのさと:兵庫県・赤穂郡・上郡町)の2か所に関所を置き、山陽・山陰両道の交通を遮断。これ以降、中国地方の道は塞がってしまい、西方諸国の幕府側勢力は京都へ上洛できなくなってしまった。

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(訳者注1)兵庫県・赤穂郡・上郡町に、[赤松]というエリアがあるようだ。上郡町の公式サイト中に、円心がそこに住んでいた、という趣旨の事が書かれている。
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2017年6月18日 (日)

太平記 現代語訳 6-3 楠正成、四天王寺にて、『大予言・日本の未来はこうなる』を読む

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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元弘(げんこう)2年(1332)8月3日、楠正成(くすのきまさしげ)は、住吉大社(すみよしたいしゃ:大阪市・住吉区)に参拝し、馬3頭を献じた。

その翌日には、四天王寺(してんのうじ:大阪市・天王寺区)へ参拝し、大般若経(だいはんにゃきょう)転読(てんどく)(注1)を依頼し、それへの謝礼の布施として、銀張りの鞍を置いた馬1頭に、銀細工を施した太刀1本と鎧1両を添えて献じた。

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(訳者注1)『大般若経』(『大般若波羅蜜多経』)は、600巻から成る膨大なものなので、法要の中で、その全てを通常の方法で読経することは不可能。ゆえに、[転読]という方法が用いられる。すなわち、複数の僧侶が自分の担当部分の経典を手に持ち、それを右または左に傾けながら、経が書かれている紙をパラパラと、一方へ落としながら、速読していく。
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転読が完了し、寺の老僧が、読経完遂証明レポート(注2)を持って、正成の前にやってきた。

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(訳者注2)原文では、「巻数(かんじゅ)」。
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楠正成 この正成、不肖のわが身をも顧みずに、倒幕の一大事を思い立ちましたこと、まさに、身の程知らずもえぇとこ、てな事になるんかもしれませんがなぁ、陛下から頂きました勅命の重さっちゅうもんを、よぉよぉ熟慮した結果、えぇい、もう自分の命なんか、どうでもえぇわい、てなことに、なりましてなぁ。

老僧 なるほどぉ。

楠正成 このたびは、あの鎌倉幕府相手に、たて続けに2連勝できてしまいよりましたわいな。おかげさんで、世間の注目もガゼン、こっちサイドに集まるようになってきよりましてなぁ、ハハハ。こっちが招きもせんのに、日本中から武士どもが、次から次へとわが陣営に加わってきとります。これはまさに、天がわしに時を与え、神仏も擁護のまなざしをそそいでくれてはるんやろうと、思ぉとりますぅ。

老僧 うーん。

楠正成 ところでですねぇ、お坊様、これはうわさで聞いたんやけどなぁ、ここのお寺には、ドエライもんがあるらしいですやん。

老僧 うん? いったいなんのこっちゃ?

楠正成 ここのお寺を建てはった、あの聖徳太子(しょうとくたいし)様がやねぇ、未来の百代の帝王の治世の様を透視しゃはってやねぇ、『大予言・日本の未来はこうなる』っちゅう題名の本を書かはった、それがここのお寺に残ったるんや、て、わし、聞きましたんやぁ。それ、ホンマでっかぁ?

老僧 ・・・。

楠正成 もしも、さしつかえないようやったら、その本の一部、そう、現代や、現代の世の中について書いたる部分だけでもえぇからやね、ちょっとだけ、そうや、ほんのちょっとだけ、わしに見さしてもらえしませんやろかなぁ?

老僧 うーん・・・たしかにぃ・・・・。聖徳太子様は、逆臣・物部守屋(もののべのもりや)を討たれた後、
ここのお寺を創建されて、仏法をわが国に広めはったんや。その後、神代(かみよ)からはじまって持統天皇(じとうてんのう)の御代に至るまでの日本の歴史を、ここのお寺の中で書かはった。それは全部で30巻あってな、『前代旧事本記』いうてなぁ(注3)、卜部宿祢(うらべのすくね)が、これを代々伝える役目を、朝廷からおぉせつこぉとるんやわな。

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(訳者注3)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]、[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注において、『先代旧事本記』の事を言っているのだろう、と記述されている。更に、『先代旧事本記』は平安時代に書かれたものであり、その著者は、聖徳太子ではない、と記述されている。
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老僧 (ヒソヒソ声で)ところがや、ジツはなぁ! その30巻の他にもう1巻、『秘密の巻』があるんやがな!

楠正成 (ヒソヒソ声で)ほうほう。

老僧 (ヒソヒソ声で)この一巻はな、ほんまに極秘の書物だっせ。いったいそこに何が書かれたるんかというとやな、持統女帝以降、末世に至るまでの代々の天皇の業績と天下の争乱の予言集なんやがな、これが!

楠正成 うわぁっ、すごいやんけ!

老僧 (ヒソヒソ声で)これっ! 声が大きい!

楠正成 (ヒソヒソ声で)すごいやんけぇー。

老僧 (ヒソヒソ声で)こないなタイソウなもん、そうそう簡単に人に見せるわけにはいかんのや。そやけどな、あんたにだけは特別に、こっそり見せたげましょかいな。

老僧はすぐに銀製のキーを持ってきて書庫を開け、そこから金色軸の巻き物1巻を出してきた。

正成は、胸を躍らせながら、それを読んで行った。

楠正成 あれぇ、ここになんや、ミョーな事書いたるぞぉ。

 「人王(にんおう) 95代に当たって 天下一たび乱れて 主(しゅ)安からず」
 「此の時 東魚(とうぎょ)来たって 四海(しかい)を呑む」
 「日 西天(せいてん)に没すること 370余日」
 「西鳥(せいちょう) 来たって 東魚を食らう」
 「その後 海内(かいだい)一(いつ)に帰すること 3年」
 「獼猴(みこう:注4)の如(ごと)くなる者 天下を掠(かす)むること 30余年」
 「大凶(だいきょう) 変じて一元(いちげん)に帰す うんぬん」

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(訳者注4)「猿」の別称。
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楠正成 (内心)うーん・・・これはおもろいなぁ(じっと考え込む)。

楠正成 (内心)まず、「人王 95代に当たって」のくだりやけど、先帝陛下はまさしく、神武帝(じんむてい)から数えて95代目や。

楠正成 (内心)「天下一たび乱れて 主安からず」は、まさに今の日本の現状そのものやなぁ。

楠正成 (内心)「此の時 東魚来たって 四海を呑む」、これは逆臣・北条高時(ほうじょうたかとき)とその一族の事や。となると、「西鳥 来たって 東魚を食らう」とあるから、鎌倉幕府を滅ぼす人物がそのうち現れる、ということか・・・。

楠正成 (内心)うーん・・・「日 西天に没すること」は、先帝陛下が隠岐島へ流されはった事とぴったし合(お)うとるわい。「370余日」とあるから、来年の春頃には、陛下が隠岐から京都へお帰りにならはって、再び天皇位につかれるっちゅう事やなぁ。

楠正成 (内心)なるほど、この予言書に込められた意味をよぉよぉ考えて見るにやなぁ、そのうち天下の形勢がひっくり返る事、間違いなしっちゅうこっちゃぁ。よーし、わしゃ、やるでェィ!

正成は、お礼に、金作りの太刀一振りを老僧に献じ、予言書を、もとの秘庫に収めさせた。

後になってから思い合わせてみるに、楠正成のその「予言書解釈」はことごとく当を得ていたのである。仏・菩薩にもたぐうべき大聖者・聖徳太子様が、この世の行く末を深く鑑みて書き残されたこの書物、その内容に寸分違わず、その後の情勢は推移していったのであった。まことに不可思議な予言の書、としか言う他は無い。

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(訳者注5)[第5巻 第4章] 中の、藤原仲範による考察のくだりが、この章の内容と対応している。(そのように、太平記作者は構想して書いたのであろう。)
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太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年6月17日 (土)

太平記 現代語訳 6-2 楠正成、再起す

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘(げんこう)2年(注1)3月5日、北条時益(ほうじょうときます)と北条仲時(ほうじょうなかとき)が六波羅庁(ろくはらちょう)の南庁と北庁の長官に任命されて、鎌倉からやってきた。ここ3、4年は、常葉範貞(とこはのりさだ)が一人で南北双方を兼務していたのだが、常葉が強く辞意を表明したので、というような事情であったようだ。

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(訳者注1)[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注によれば、この二人が六波羅庁の長官に就任したのは、実際には、元徳2年(1320)であり、元弘2年(1332)ではない。
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楠正成(くすのきまさしげ)は昨年、赤坂城で自害し焼死したように見せかけ、その後、潜伏し続けていた。そのカモフラージュにすっかりだまされた鎌倉幕府は、彼の本拠地一帯の土地を、湯浅定佛(ゆあさじょうぶつ)を地頭に任命して守らせていた。

河内国ではもう騒動など起きないであろうと、タカをくくっていた幕府をあざ笑うかのように、同年4月3日、楠正成は、500余の軍勢を率いて、にわかに湯浅の居城へ押し寄せ、息もつがせず攻めまくった。

城中の兵糧準備量が乏しかったからであろうか、湯浅定佛は、自分の領地、紀伊国・阿瀬河(あぜがわ:和歌山県・有田郡・有田川町)から、人夫5、600人ほどを使って兵糧を運搬させ、夜の間に城へ運び入れさせようとした。

この情報をどこからともなくキャッチした正成は、さっそく部下を兵糧運搬ルート中の要害ポイントへ送り込み、その兵糧を全部ぶんどってしまった。

楠正成 よぉし、オマエラな、まずはその俵から米、完全に出してしまえ。米出したらなぁ、かわりにそこに武器入れるんじゃ。

楠部隊一同 ほいほいー!

楠正成 どうやぁ、入れ終わったかぁ。よぉしよし、ほいでやな、その俵を馬に背負わせてやな、人夫らにひかせて湯浅の城へ向かわせい!

楠部隊リーダーA おかしら、わてらは、どないしたらえぇんや?

楠正成 兵糧運搬の護衛隊になりすまして、ついて行けぇ!

楠部隊一同 よっしゃぁ!

彼らは湯浅軍メンバーになりすまして、城中へ入ろうとする。城を取り巻く楠軍メンバーたちは、彼らを追い散らそうとするフリをして、追いつ返しつの戦いを展開。

脚本and演出・楠正成のこのヤラセの戦闘ドラマに、湯浅側はまんまとひっかかってしまった。

湯浅定佛 兵糧を運搬してきた我が軍のもんらが、敵に襲われとるやん、はよ、あいつらを応援したれぇ!

かくして、湯浅側は城中からうって出て兵糧運搬隊を護った結果、「招かれざる人々」を城の中へ引き入れてしまった。

何の苦もなく城の中に入った楠軍メンバーは、俵の中から武器を取りだし、厳重に武装した後、トキの声を上げた。それと同時に、城の外の楠軍も、木戸を破り塀を越えて攻め入った。

城の内外から楠軍に囲まれてしまった湯浅定佛は、もはやなすすべなく、すぐに首を延べて楠側に降伏した。

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降伏した湯浅軍団をあわせて、楠軍は700余騎の勢力に膨張。その後、和泉(いずみ:大阪府南部)と河内(かわち:大阪府東部)の両国を制圧、大勢力に発展。

5月17日には、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)付近にまで進出、渡部橋(わたなべばし:場所不詳)の南方に陣取った。

和泉・河内からはひっきりなしに早馬が京都へ飛ぶ。

「楠軍、渡部橋付近を拠点とし、京都へ攻め上らんとす!」

との報に京都中騒然、武士は東西に馳せ散り、貴賤上下、周章狼狽、この上なし。

さっそく、南北両六波羅庁に、首都圏近国の軍勢が雲霞(うんか)のごとく馳せ集まってきた。しかし、「楠軍、今にも京都へ攻め込んでくるか!」と待ちかまえてみたものの、一向にその気配もない。

六波羅庁では、ミーティングが行われた。

北条仲時 楠軍が今日、明日にでも、京都へ攻め上ってくるってな情報、飛び交ってたけど。

北条時益 どうもあれは、デマだったようだなぁ。

六波羅庁メンバーB あいつら、京都攻めできるほどの、大兵力でも、ねぇんでは?

六波羅庁メンバーC あっちが攻めて来ないってんなら、こっちから押しかけてくってのはどうです? バァット攻めて、イッキに、うっ散らかしちゃいましょうやぁ。

六波羅庁メンバーD それ、えぇですぅ。

北条時益 大将には誰を?

六波羅庁メンバーE そうでんなぁ・・・ここはひとつ、隅田(すだ)と高橋(たかはし)に、まかせてみてはぁ?

六波羅庁メンバー一同 まっ、そんなとこかなぁ。

ということで、隅田と高橋の両人を六波羅庁軍の大将に任命、京都市内48か所の警護所詰めの連中や在京の武士、さらに首都圏内諸国の兵たちをあわせた混成部隊を率いて、天王寺へ向かわせた。

5月20日、六波羅庁サイド5000余は、京都を出発。尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)、神崎(かんざき:尼崎市)、柱本(はしらもと:大阪府・高槻市)のあたりに陣取り、篝火(かがりび)を焚いて夜明けを待った。

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六波羅庁サイドのこの動きをキャッチした楠正成は、自軍の2000余騎を3つに分けた。

本隊を住吉・天王寺のあたりに伏せて配置の後、わずか300騎のみを渡部橋の南方に展開し、大きな篝火を2、3か所焚いて、六波羅庁軍に対峙させた。

楠正成 「なんじぇーぃ、楠軍いうても兵力、たった2、300しかおらんやんけ!」てなわけでな、六波羅庁軍はきっと油断して、渡部橋を渡って、川のこっち側に進出してきよるやろう。そこを狙ぉて、全軍繰り出し、イッキに総攻撃しかけたんねん。まぁ見とれぇ、あいつら残らず、川ん中へ、追い落としてしもたるわい!

翌5月21日、六波羅庁軍5000余は、全部隊を集中した後、渡部橋まで進んだ。

対岸にひかえる楠陣を見わたしてみれば、その数、わずかに2、300足らず。それも、やせ馬に綱かけたような武者どもばかり。

隅田 なんや、なんやぁ、「和泉・河内の大軍」と聞いてたのに、この程度かいなぁ。

高橋 よぉよぉ見たら、まともに戦えそうなやつなんか、一人もいぃひんやんかぁ。

隅田 あいつら、みんなまとめて生け捕りにして、六条河原に引きずり出して処刑してなぁ、六波羅庁から恩賞ガッポリ頂こうや、なぁ、高橋殿。

高橋 よぉし、隅田殿、行くぞ!

隅田 心得た!

二人は先頭切って橋を一気に渡った。これを見た全軍、我先にと、馬を進める。橋の上を渡る者あり、川の中を進む者あり、続々と対岸にかけ上がっていく。

これに対して楠軍は、遠矢を少しばかり射かけた後、一戦もせずに天王寺の方へ退却。これを見た六波羅庁軍、勝ちに乗じ人馬の息もつがせずに、天王寺北辺のあたりまで入り乱れながら進撃。

戦況の成り行きをじっと見つめていた正成、

楠正成 よぉし、そろそろ敵さん、人も馬も大分疲れてきよった頃やろて。ここらでイッキに、イテもたろかい。

楠正成 みな、よぉ聞けよぉ! これから、わが軍勢を3手に分けて、3方向から敵を攻撃やぞぉ!

楠軍団一同 おーぅ!

楠正成 まずは、第1軍団!

第1軍団一同 ホイホイ!

楠正成 オマエらはな、四天王寺、そうや、四天王寺の東側からな、敵を左手に見ながら襲いかかっていけ! 分かったか!

第1軍団一同 了解ーっ!

楠正成 次、第2軍団!

第2軍団一同 はいなぁー!

楠正成 オマエらはな、四天王寺の西や、西門の石の鳥居から出て、魚鱗陣形(ぎょりんじんけい:注2)で敵にかかっていけ! 魚鱗やぞ、分かったなぁ!

第2軍団一同 あいあいさー!

楠正成 第3軍団ーん!

第3軍団一同 イヨッ、待ってましたぁ!

楠正成 オマエらは、住吉大社の松林の陰からな、鶴翼、そうや、鶴翼陣形(かくよくじんけい:注3)に展開してな、敵を迎え撃て! 鶴翼やぞ、分かったかぁ!

第3軍団一同 よっしゃぁ!

(訳者注2)魚の鱗のように互いの間隔を密にして、集中して組む陣形。

(訳者注3)羽を大きく広げた鶴のような形態で、左右に広く展開する陣形。

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整然たる布陣で前進して行く楠軍。かたや、六波羅庁軍はといえば、兵力だけは圧倒的に多いものの、陣形も何もあったものではない。何の秩序も無く入り乱れており、兵力において劣る楠軍に逆に包囲されてしまっているような感さえある。

隅田 なんかマズそうなフンイキやなぁ、高橋殿!

高橋 うーん、もしかして楠、あの背後にさらに大軍を伏せとるん?

隅田 とにかくこのままでは、アカンわ。このあたりは足場が悪ぅて、馬の足も立たんやんか。もっと広い所へ敵を誘い出して・・・ほいでもって、敵軍の人数をよぉよぉ確かめてから・・・それに応じて、わが軍を適当に振り分けてから・・・それから勝負するということで・・・なぁ。

高橋 それがえぇみたいやねぇ。おーい、みんなぁ、退けぇ!

六波羅庁軍メンバーF なにぃ! 「退け」やて!

六波羅庁軍メンバーG さ、早いこと退却や。

六波羅庁軍メンバーH 敵に退路を断たれんうちにな。

彼らは一斉に渡部橋めざして退却を開始。これにつけこんだ楠軍、三方からトキの声を上げて殺到して行く。

ひたすら退く六波羅庁サイドのメンバーの視野に、やがて渡部橋が見えてきた。

隅田 おいおい、ちょっと待てやぁ・・・このままズルズル退却していったんでは・・・これ、メッチャ、マズイんちゃう? 川を背にして戦うことになってしまわへんかぁ?

高橋 ムムム・・・おぉい、みんな、ストップぅ、ここでストップやぁ! 踏みとどまれぇ、ここで踏みとどまって、敵を迎え撃てぇ!

隅田 敵は小勢やぞぉ! とにかく、とにかく、ここで踏みとどまれぇ!

高橋 えぇい、もぉ! 踏みとどまれと、言ぅてるやろがぁ!

六波羅庁軍メンバーF そないなこと言わはったかてな、前の方行っとった連中らが、次から次へとこっちへ退いて来よんねんもん、どんならんわ。

六波羅庁軍メンバーG わたいら、ただ、人の波に押し流されてるだけだっせぇ。

六波羅庁軍メンバーH コラァッ、そないに押すなっちゅうに! 前がつかえとんのじゃぁ、先へよぉいかんのじゃぁ! アイタァ!

六波羅庁軍メンバーI アグアグ・・・橋や、とにかく橋や、あこの橋にたどりついて、さっさと向こう岸に渡ってしまうんじゃ! アグアグ・・・。

六波羅庁軍メンバーJ こらぁっ! おマエらナニ考えとんねん! そないにイッペンに橋に押し寄せてきたらあかんやないか、わし、橋から落ちてしまうやないか、こらっこらっあーあああ!

このように、橋から人馬もろともに墜落して水に溺れてしまう者、多数。川を渡る途中に深みに入ってしまって命を落とす者もあり、川岸から馬を駆って倒し、その場で討たれてしまう者もあり。馬や鎧を捨ててひたすら逃走する者はあれども、返し合わせて楠軍と闘おうとする者など、一人もいない。

このようにして、5000余の大軍で京都を出ていった六波羅庁軍は、残り少ない人数になってしまい、ほうほうのていで京都へ逃げ帰ってきた。

その翌日、いったい何者のしわざであろうか、六条河原に落書きの札が。

 渡部の 水いか許(ばかり) 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらん

 (原文のまま)

これを見た京都の若衆ら、例のごとくにこの落書にメロディーをつけて歌ったり、人に語り伝えして大笑い。隅田と高橋は、面目丸つぶれ、しばらくは仮病を使って六波羅庁へ出仕しなかった。

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(訳者注4)[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、ここ以降の話(宇都宮公綱が登場の)は、「作者による虚構。」としている。『楠木合戦注文』という史料をもとに考察を行うと、その結論に至るのだそうだ。
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この事態を受けて、六波羅の両長官はさっそく、ミーティング。

北条時益 まったくもう! マイッタよなぁ。

北条仲時 ほんと、まずい事になっちまったよねぇ。

北条時益 このまま、楠をのさばらせとくわけにもいかんだろう。またすぐにでも、討伐軍向かわせなきゃな。

北条仲時 問題はね、今度はいったい誰を大将にするかだよ。

北条時益 誰か適当な人物、心当たりあるの?

北条仲時 彼だよ、彼にしか今度の討伐軍の大将はつとまんないだろうね。

北条時益 彼って、いったいだれよ?

北条仲時 宇都宮公綱(うつのみやきんつな)。

北条時益 あぁ、彼かぁ!

北条仲時 そう!

北条時益 そういやぁ、ついこの間、京都の方があまりに手薄だからってんでぇ、関東からわざわざ来てもらってたんだっけ。いいねぇ! 彼なら大丈夫でしょう。

北条仲時 おおい、誰か! 宇都宮公綱殿をここへ!

やがて、宇都宮公綱が六波羅庁へやってきた。

北条時益 宇都宮殿、本日ご来庁いただいたのは、他でもない、先日の例の楠討伐の関係の話でねぇ・・・。

宇都宮公綱 ・・・。

北条時益 いやぁ、こないだのあの合戦・・・。そりゃぁね、合戦の勝敗は運次第、絶対勝てると思う勝負でも、ひっくりかえっちゃうってなぁ事は、古から無きにしもあらずでしょうよ。でもねぇ、こないだのあの天王寺での敗戦となれば、話は別でしてねぇ、もうそりゃぁ、敗因ははっきりしてますよ。軍を率いていたリーダーの作戦のまずさ、そして、それに率いられていた士卒たちのあまりのフガイナさ、この2点に尽きますでしょうよ・・・まったくもぉっ、あの連中らのおかげでねぇ、六波羅庁を嘲る天下の人々の口を、塞ぎようも無しってな状態に、なってしまいましたよぉ。

北条仲時 我々が六波羅庁に赴任した後に、あなたにお願いして、はるばる関東から京都まで来ていただいたのは、いったい何のためだったか? 反乱軍の蜂起があった時に、それを鎮圧していただく為ですよねぇ。

北条時益 現在のこの状態を見れば、いったん敗軍の兵となってしまった者らを再度かり集めて、天王寺へ何度向かわせてみたってね、はかばかしい戦の一つもできゃしない、我々にはそう思えて、しかたがないんですぅ。そこで、宇都宮殿に楠討伐をお願いしようか、という事になったんですよ。

北条仲時 今まさに、国家危急の時、なにとぞ、楠討伐をお引き受けいただけないでしょうか。

宇都宮公綱 分かった! 楠討伐の仕事、喜んでお引き受けいたしましょう。

北条仲時 おぉ、やっていただけますか!

宇都宮公綱 あれほどの大軍が敗北して、戦の利を失ってしまった後に、私の手の者だけの小勢で討伐に向かうのだから、勝敗の行くえは、まことにもって見定めがたいものがあります。

北条仲時 ・・・。

北条時益 ・・・。

宇都宮公綱 でもね、行きますよ。この宇都宮公綱、関東を出発したその時から、このような大事にあたっては、自らの命を惜しむべからずとね、覚悟を固めてやってきたんだから。

北条仲時 うーん!

北条時益 ・・・(深くうなづく)。

宇都宮公綱 今回の戦、勝敗の見通しがつけがたい。まずは、自分一人だけでかの地へ行って、楠と一度合戦してみるとしましょう。そうした後に、苦戦に陥ってしまった時には、あらためて六波羅庁に援軍をお願いすることになりましょう。

このように言い置いて、宇都宮公綱は六波羅庁を退出していった。

北条仲時 おいおい、見たかい、あの態度! なんだかとっても、頼もしくなってきちゃうじゃなぁい?

北条時益 いやぁ、まったくすごいもんだ。もう完全に、腹すわっちゃってるってカンジ。

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宇都宮公綱 (内心)鎌倉幕府の命により、大敵に相対することとなった以上、我が命、惜しむべからず!

公綱はわざと宿所にも戻らず、7月19日正午、単身で六波羅庁を出発、京都を出て天王寺へと向かった。

東寺(とうじ:京都市南区、東寺(教王護国寺)周辺)のあたりまでは主従わずかに14、5騎ばかりであったが、その後、京都中に滞在する家臣全員が馳せ集まってきて、四塚(よつつか:京都市南区)、作道(つくりみち:京都市南区)と進んでいくころには、宇都宮軍団は総勢500余騎に膨張。

道中に行き会う者があれば、それがたとえ有力者に所属する者であろうと一切おかまいなし、その乗馬を奪い、お供の人夫を、馬を駆けて追い散らす。あまりの恐ろしさに、道行く者は、宇都宮軍団を避けて遠回りし、周辺の民家は戸を固く閉ざした。

その夜、宇都宮軍団は、柱本に陣を張って夜明けを待った。全員残らず決死の覚悟、「生きて京都へ帰ろう」などと思っている者は、ただの一人もいない。

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「宇都宮軍、進撃」との情報をキャッチした河内国住人・和田孫三郎(わだまごさぶろう)は、楠正成のもとへやって来てそれを報告。

和田孫三郎 なぁ、なぁ、こないだの合戦で負けた腹いせにな、六波羅庁は今度は、宇都宮公綱、送り込んで来よったみたいやで。今夜、もうすでに柱本のへんまで来とるらしいわ。せやけどなぁ、兵力は言うほどのもんでもないようやでぇ。せいぜい600ないしは700、いうとこやなぁ。

楠正成 ・・・。

和田孫三郎 こないだの戦、こっち側は兵力少かったけど、隅田と高橋の5000余人相手に、みごとに追い散らしてしもたやんけ。今度は、話が逆やぞ。こっちは勝利の波に乗ってて大勢、敵は利を失ぉて小勢やんか。

楠正成 ・・・。

和田孫三郎 なんぼ、宇都宮がすごい武勇の人間やいうたかてや、ナニほどの事ができようかいな。なぁなぁ、今夜にでも戦、仕掛けてやな、宇都宮軍、蹴散らしてしまおぉなぁ。

楠正成 ・・・(しばし熟考の後に)あんなぁ・・・合戦の勝敗、そう、勝敗いうもんはなぁ、兵の数の大小によって決まるんやない。勝敗いうもんはな、士卒の心が一つになってるかどうかによって決まるもんなんや。そやから、昔から言われてるようにやな、「大敵を見ては欺(あざむ)き、小勢を見ては畏(おそ)れよ」とは、まさにこの事やがな。

楠正成 よぉよぉ考えてみるにや、こないだの戦で、あちゃらさんの大軍が負けて逃げていきよった後に、宇都宮がたった一人で、そないに少ない軍勢を率いてやってきよるからにはや、宇都宮軍の連中は全員、「もう一人も生きて帰らへんぞ!」てな覚悟、かためとるに違いない。

楠正成 おまえ、知ってるかぁ、宇都宮、そう、宇都宮公綱いうたらな、関東一の武士やねんどぉ。あいつの家臣団の紀・清(き・せい)両党いうたらな、「戦場に臨んでは命を捨てること、塵芥よりもなお軽し」いうような連中やんけ。そないなヤツらがや、700余騎も集まって心一つになって、襲いかかってきよるねんどぉ。「一歩も退かんわい!」いうて、こっちがなんぼ、きばってみたところでやな、我が軍の大半は戦死っちゅうことに、なってしまうやんけ!

楠正成 倒幕の道、まだまだ先は長いんや。今度の一戦だけで決まる、いうもんでもないやろ。これからよぉけ(多く)、戦していかんならんのや。そやのにやでぇ、ただでさえ少ない味方の兵を、最初の合戦で討たれてもたら、これから先いったいどないなる? わしらの力、いっぺんに無(の)おなってしまうやんけ。そないなったらな、次からの戦に味方してくれよるヤツなんか、一人もおらんようになるぞ。

和田孫三郎 うーん・・・そぉかぁ。

楠正成 「良い将軍は戦わずして勝つ」っちゅう言葉があるんや。

楠正成 明日はわざとこの陣を退いてしもてな、「やったぁ!」と敵に思わせるんや。それから4、5日してからな、四方の峰々に篝火(かがりび)ボンボン焚いて、あいつらに煙吹っかけたるんや。

楠正成 さぁそないなったら、関東、そうや、関東の連中の事や、例によって、ダラァンとしてきてもてやな、「アラアラ、ここにそうそう長居してたんじゃ、まずいんじゃないかしらぁ。せっかく敵を退けて一面目立ったんですもの、ここらで退却しちゃいましょうよぉ、ねぇえー」てなこと、皆で言いださはんのんと、ちゃいますやろかいなぁ、ガハハハ・・・。

和田孫三郎 ワハハハ・・・。

楠正成 「進むも退くも、ケースバイケース」とはまさに、こういうのを言うんや!

和田孫三郎 なるほどなぁ。

楠正成 夜明けも近いわ、敵はそろそろ動き出しよるぞ! さぁ、みんな、撤退開始や!

このようなわけで、楠は天王寺から退却し、和田、湯浅もそれに続いた。

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夜明けとともに、宇都宮軍700余は天王寺へ押し寄せ、高津(こうづ:大阪市・天王寺区)のあたりの家々に火をかけてトキの声を上げた。しかし、そこには楠軍メンバーは一人もいない。

宇都宮公綱 これはきっと、敵の作戦だろうよ。このあたりは、馬の足場が悪くて道も狭いなぁ。敵に不意を突かれて、中央突破されんように気をつけろよ。背後から攻撃されちゃまずいからな!

紀清両党一同 おぅ!

宇都宮軍は、馬をそろえて四天王寺の東西の口から一斉に駆け入り、二度三度とあたりを廻ってみたが、楠軍は一人もおらず、焼き捨てた篝火だけが残ったまま、夜はほのぼのと明けていく。

宇都宮公綱 (内心)あぁ、なんだか一戦もしないうちに勝ってしまったような、とってもいい気分!

公綱は、本堂の前で馬から降りて聖徳太子を伏し拝み、一心に感謝して勝利の喜びをかみしめた。

宇都宮公綱 今回のこの勝利、ひとえに我らの武力の致すところにあらず、ただただ、神仏の御擁護のおかげです。

宇都宮公綱 おぉい、誰か! 六波羅庁へ早馬を送れ!「我ら宇都宮軍一同、天王寺に到着、即、敵を追い落とした」との、メッセージをな!

宇都宮公綱からのこの報に、六波羅両長官はじめ、北条一門、譜代(ふだい)、外様(とざま)はわきたった。彼らはこぞって、「宇都宮の今回の功績抜群!」と、褒め称えた。

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ところが・・・。

宇都宮公綱 (内心)うーん・・・まいったなぁ。

宇都宮公綱 (内心)先日は、天王寺に陣取っていた楠軍をあっけなく追い散らせたので、一応の面目は立った。しかし、次の手が続かない・・・うーん・・・。

宇都宮公綱 (内心)こんな少ない兵力でもって、すぐに、楠の陣へ攻め入れるわけがなし・・・かといってだなぁ、まともな戦を一度もせずに、京都へ帰るわけにもいかんし・・・うーん、まいった・・・まさに、進退窮まってしまったぞ。

それから4、5日後、和田と楠は、和泉(いずみ:大阪府南西部)・河内(かわち:大阪府東部)両国の野伏(のぶせり:注5)4、5000人ほどを駆り集め、信頼おける部下2、300人に彼らを指揮させて、宇都宮軍を遠巻きにして配置し、天王寺周辺一帯に、篝火を燃やさせた。

(訳者注5)ひとたび戦が起こるやいなや、武装して戦場周辺に参集して、利得を狙う人々。

紀・清両党メンバーK ヤヤ、楠軍の来襲だ!

紀・清両党メンバーL なにぃ! 敵はどこだぁ!

篝火を見て、宇都宮陣は大騒ぎである。更けゆく夜のしじまの中に、じっと陣の周囲を見渡せば、

紀・清両党メンバーM 秋篠(あきしの:奈良市)、外山(とやま:大阪・奈良県境)、生駒(いこま:同左)の峰々に輝く火は、晴れた夜空の星の数よりも多く、

紀・清両党メンバーN 大阪湾沿岸の志城津浦(しづつうら:大阪市・住吉区)から住吉(すみよし)、難波(なんば:大阪市・浪速区)の里に燃える火は、漁船にともす漁火(いさりび)が波を焼くか、と思うほど。

紀・清両党メンバーO 大和(やまと:奈良県)、河内、紀伊(きい:和歌山県)方面の、ありとあらゆる所の山と浜に、篝火が燃えている。

紀・清両党メンバーP 我々はいったい、何万の兵力に包囲されてるんだろう・・・もう想像もできない。

このような状態が3夜連続し、篝火の包囲の輪も徐々に縮まってくる。四方八方上下に充満して、闇夜の中に昼を見る感あり。

宇都宮公綱は、楠軍が寄せてきたら一戦にて勝負を決しようと思い、馬から鞍を下ろさず、鎧の革帯も解かずにじっと待ち続けた。しかし、戦闘は一向に始まらず、楠側の展開する、「ひたすらジワリジワリと包囲する神経戦」のプレッシャーに、勇気もたゆみ、闘志も弛(ゆる)んできた。

宇都宮公綱 (内心)あぁ、もう京都へ退却してしまいたいなぁ。

そのような中、彼の部下、紀・清両党からも同様の声が上がりはじめた。

紀・清両党メンバーK 殿、我らみたいなわずかの兵力でもって、あんな大軍に立ち向かっていっても、結局のところ、どうなるもんでもないんじゃぁ?

紀・清両党メンバーL 先日のあの戦で、敵を首尾よく追い散らしましたもんねぇ、面目はもう立派に立っているじゃぁないですかぁ。

紀・清両党メンバーM ここはひとまず、京都へ退却・・・じゃなかった、凱旋ってなセンで、いかがなもんでしょう?

紀・清両党メンバー一同 そうしましょうよ、殿!

宇都宮公綱 うーん・・・やむをえんな!

7月27日夜、宇都宮軍は天王寺から撤退。翌早朝、楠軍がそれに入れ替わって、再び天王寺を占拠してしまった。

世間の声X 宇都宮公綱と楠正成、かりに真っ正面からぶつかって勝負を決してたら、いったいどないなってたやろうかなぁ?

世間の声Y そら、あんたなぁ、あの二人が対決するんやもん、それこそ、両虎二龍の戦いが展開されてたやろぉて。

世間の声Z おそらく、二人相打ちやったやろな、二人とも死んでしもてたやろぉなぁ。

世間の声X で、互いにその危険を察知して、いったんは楠が退いて、謀を千里の外にめぐらし、

世間の声Y 次には、宇都宮が退いて、その高名を一戦の後に失わずに終わった。

世間の声Z まことにもって、智謀すぐれ、思慮深い、両雄の軍略やった。

世間の声一同 いやぁ、ほんまになぁ。

その後、楠正成は、天王寺を本拠として勢威をふるいながらも、周辺の民に災いをもたらす事もなく、士卒に礼を厚くした。これを伝え聞いて、近隣は言うに及ばず、はるかに遠い地の武士までも、我も我もと楠軍に参加してくる。その勢いは次第に強大になって行き、京都からたやすく、討伐軍を差し向ける事もできないような情勢になってきた。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年6月16日 (金)

太平記 現代語訳 6-1 護良親王の母、不思議な夢を見る

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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時の歩みの止まらざるは、飛矢流水の行くがごとくして、哀楽互いに入れ替わる事、春に開花、秋に落葉あるがごとし。この世の中の有様、ただの夢と言うべきや、幻と言うべきや・・・。

人生というものは常に悲喜こもごも、憂いもあれば喜びもあり。たもとに涙の露を宿すのも今に始まったことではないのだが・・・。

昨年の9月、笠置寺(かさぎでら)が陥落し、後醍醐先帝の隠岐(おき)への島流しの後、先帝の旧臣たちは悲哀のうちに諸所(しょしょ)に蟄居(ちっきょ)、後宮(こうきゅう)の美女三千人は涙のうちに伏し沈む。それもこれも、まことに憂き世の習いとは言いながら、中でもことさら哀れであったのが、先帝の后・親子殿(注1)であった。

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(訳者注1)源親子。源師親の娘。
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彼女に対する先帝の寵愛は浅からず、しかもその上、他ならぬ護良親王を産んだその人である。他の女御や后は彼女に比べてみるならば、美しき花の側に生える深山木(みやまぎ)のようなもの、色も香も無きがごとし。

しかし、政変の終結と共に、すっかり様変わりしてしまった宮中においては、もはや、自らの住む場所さえも確保できない。

親子 (内心)最近のウチ(私)の状態、もうまるで、波のうねりが高まる一方の海上に、舟をこぎ出した漁師のようなもんや。頼りに出来るようなもんなんか、なんもあらへんわ。

親子 (内心)それになぁ、聞くところによれば、陛下のご日常は、「西国の海上の帰らぬ波に浮き沈み、袖に涙の落ちぬ日は無し」というやないか。(涙)

親子 隠岐島(おきのしま)・・・京都からは、万里の彼方に隔たったとこなんやろぉなぁ。陛下も、この月、見てはるんやろぉかぁ。

暁の空にある月を空しく見上げながら、はるか彼方におられる先帝をしのぶしかない親子である。

親子 (内心)親王殿下(注2)も、南方の道無き雲中を踏み迷い、流浪の毎日というやないか。春の夕暮れの空を飛び行く雁に、あの子への手紙を託すこともできひんしなぁ・・・。

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(訳者注2)護良親王。
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親子 (内心)あーあ、あちらを見てもこちらを見ても、嘆きたくなるようなコトばっかしやぁ。

美しい青糸のようだった髪も抜け落ち、あっという間に老けてしまったか、と思われるほど。紅玉のごとき彼女の肌の艶ももはや消え失せてしまっている。

親子 (内心)いっそのこと、今日を限りの命であれば、えぇのに・・・。

親子 (内心)あぁ、やるせな・・・あぁ、もうこのままではたまらん、気ぃ狂いそうやわ。なんとかせな・・・。

親子 (内心)もう、神様におすがりするしかないわ。あの人に頼んでみよ。

「あの人」とは、北野天満宮・付属寺院に所属し、親子づきの祈祷担当として、宮中へもしばしば参内していた僧侶である。

親子は、彼の住居を訪ね、北野天満宮に7日間参籠したい、と依頼した。

僧侶 (内心)うわぁ、とんでもない事、依頼してきはったなぁ・・・。

僧侶 (内心)どないしよ・・・こういうご時勢やからなぁ、幕府にこんな事知れたら、何かまずい事になるかもなぁ・・・うーん、困ったなぁ、どないしたもんやろか・・・そやけどなぁ、親子様には、日ごろのご恩も、すごいあるしなぁ。最近のご様子見てると、ほんまにイタイタしぃて、お気の毒やしなぁ。

僧侶 (内心)親子様からの、たってのご依頼、お断りするのはあまりに無情やし・・・。よし、こないしょう! 拝殿の傍らに狭い一室をしつらえて、そこに参籠してもらうことに、しょやないか。身分の低い女房が参篭している風に装おうんや。

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あわれ、親子よ、これが昔であれば、錦の垂れ幕の奥にきらびやかに装い、薄絹を張った窓の奥に美しい面を隠し、左右に侍る女房たちその数を知らず、あたりも輝かんばかりに、親子にお仕えしていたであろうに。

今は、華やかなりし頃とはうって変わっての、人目を忍んでの北野天満宮への参篭。都に近い所なのに、話相手になる人もない。一夜松(注3)の嵐に夢を覚まされ、主を忘れぬ梅の香りに(注4)、かつての春の日々を回想する親子。

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(訳者注3)「北野天満宮の右近の馬場に一夜のうちに松千本生えるべし」と、天神からの宣託が降り、実際にその通りになった、という。

(訳者注4)菅原道真(すがわらのみちざね)は、藤原時平(ふじわらときひら)の讒言によって九州太宰府に左遷され、そこで失意のうちに亡くなった。その後、京都では時平や天皇の急死、御所への落雷等、不祥事相次ぐ。これはいかん、道真の怨念を鎮めねば、ということで朝廷は北野天満宮を建立、そこに道真を「北野天神」として祭った。道真が左遷の旅にいよいよ出るその時、自宅の庭先の梅の花を見て、詠んだ有名な歌あり。

 東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ
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醍醐天皇(だいごてんのう)の御代に荒人神(あらひとがみ)となった菅原道真公の、あの九州への左遷の旅の悲愁を、流刑となった後醍醐先帝の悲哀に重ね合わせ、あるいは自らの苦悩に重ね合わせるにつけても、嘆きは止まる事を知らない。心中に迫り出ずる悲しみの念に圧倒され、読経をしばし止め、涙の中に親子は一首詠んだ。

 哀れやと 思ぉて下さい 天神(てんじん)様 かつてのご苦悩 お忘れなくば

 (原文)忘(わすれ)ずは 神も哀れと 思ひしれ 心づくしの 古(いにし)への旅(注5)

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(訳者注5)かつて道真公が苦しまれたのと同じ苦しみ(流刑に遭って都から遠ざけられる)を今、後醍醐先帝もまた受けておられます。ならば、神となられた今、どうか先帝をあわれみ、お助け下さいませ、という思いを込めている。
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その少し後に、不思議な出来事が起こった。

衣冠を正しくした年齢80歳くらいの老人が一人、親子の伏している枕の側までやってきた。彼は左手に梅の花を一枝持ち、右手には鳩の頭の形がついた杖をつき、とても苦しそうな面持ちをしている。

親子 (内心)いや、このおじいさん、いったいどこの誰なんやろ? 誰も訪ねてきいひん都の郊外のこんな草深いとこに、いったいなんで、こないな人が?

親子 もしもし、おじいさん、あんた、どこのどなたはんどすかぁ? もしかして、道に迷うてからに、こないなとこまで来はったんどすかぁ?

老人 ・・・。(とても苦しそうな様子。無言のまま、左手に持った梅の花を親子の枕元に置いて去っていく)

親子 あ、おじいさん、おじいさん、どこ行かはんのん・・・。

老人 ・・・。(消失)

親子 ・・・なんとまぁ、ミョーなおじいさんやったなぁ。

親子 あれ、短冊、落として行かはったやん。なんか書いたるよ・・・どれどれ・・・えー!

 時(とき)経(た)てば やがては輝く 月光が 陰ったくらいで めそめそするな

 (原文)廻(めぐ)りきて 遂(つひ)にすむべき 月影(つきかげ)の しばし陰(くもる)を 何(なに)歎(なげ)くらん

親子 (ガバッ・・・夢から覚める)・・・あぁ、夢やったんかぁ。

親子 (内心)それにしてもやでぇ、さっきの夢に見たあの和歌、ジツに意味シン(深)やった。

親子 (内心)あの和歌の意味を、よぉよぉ考えてみるにやネェ、陛下、そのうちいつかは京都にご帰還あそばされ、宮中の主の座に復帰されるやろ、という事やろかねぇ。

親子 (内心)うん、うち、なんか希望わいてきたわぁ!

まことに、かの北野天満宮(きたのてんまんぐう)・菅公(かんこう)の廟(びょう)と呼ばれている地こそは、大慈大悲(だいじだいひ)の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が、天満天神(てんまんてんじん)に化身して鎮座まします所。一度(ひとたび)そこに歩みを運ぶ者は二世(注6)に渡って望みが成就され、わずかに天神の御名をお唱えするだけでも、その者の所願はすべて聞き届けられるのである。

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(訳者注6)現世と来世。
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ましてや、千筋万筋もの血涙をしたたらせて7日7夜参籠し、天神への誠を込めた親子である。彼女の願いはまさしく、人間の目には見えぬルートを経由して天神のもとに伝わり、その感応ありて、そのような夢のお告げとなったのであろう。

親子 いやぁ、世も末やというけどやねぇ、まこと込めての信心していった時には、神様も仏様も、ちゃあんと不思議なお力を示してくれはる、いう事なんやねぇ・・・よぉーし!

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太平記 現代語訳 インデックス2

太平記 現代語訳 総インデックス

主要人物・登場箇所リスト

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第2巻

6-1 護良親王の母、不思議な夢を見る

6-2 楠正成、再起す

6-3 楠正成、四天王寺にて、『大予言・日本の未来はこうなる』を読む

6-4 赤松円心、蜂起す

6-5 反乱軍鎮圧のために鎌倉から大軍団出動

6-6 上赤阪城・攻防戦

«真如堂 ボダイジュの花 アジサイ 京都市 2017年6月15日

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