2018年5月27日 (日)

約1万年前、富士山から溶岩が噴出、三島まで流れ下り

以前から、三島市(静岡県)に、関心がありました。

 三島には、きれいな水が流れている場所があると、聞いている
 源頼朝に関係がある所らしい
 江戸時代、東海道の宿場になった所である(広重の東海道五十三次の絵の中にも、三島のある場所を描いたものがある)

2018年5月、東京方面での所用が発生したので、そのついでに、三島に行ってみようと、思い立ちました。

京都駅から、東海道新幹線に乗車し、三島駅で下車。

(1) 菰池公園

まず、行ったのが、[菰池公園]([菰]は、[こも]と読むようです)です。三島駅から歩いて行きました。

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[菰池]から、南南西方向に流れ出ている川があったので、その川べりの道を、歩いていきました。

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(2) 白滝公園

川にそって歩いていった先に、この公園がありました。

美しい水辺の風景が、そこにありました。公園の中を歩き回りながら、動画を撮影しましたので、よろしければ、下記をご覧ください。

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/s831yM6ywEc

なぜ、このような澄んだ水があるのか? その理由に密な関係を持つ事柄が示されている、ある表示が、この公園の中にありました。下記です。

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ここ、三島は、溶岩と密なる関係を持つ地であるようです。

[土隆一] 氏 の説によれば:

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今から約1万年前に、富士山から溶岩が噴出して南東方向に流れ下り、愛鷹山と箱根山の間を通って、三島まで到達した。これが、[三島溶岩]と呼ばれているものである。

[三島溶岩]は、数層から成っており、水を通しやすい層と、水を通しにくい層が重なったような構造になっている。

[三島溶岩]の末端部に、三島市の湧水や、柿田川の水源がある。

富士山に降った水の一部が、三島溶岩の中の、水を通しやすい層の中を通って、それらの湧水場所に到達し、地表に噴出していると、考えられる。
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ここの水は、溶岩パイプラインを通って、富士山からやってきた水なんですねぇ。

[富士山 湧水 三島溶岩 土隆一] でネット検索していただければ、関連する様々な情報を得られると思います。

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(3) 三嶋大社

次に行ったのが、この神社です。(白滝公園から歩いて行きました。)

この社に深い関係を持つ、とされてきた絵があります。広重が描いた絵です。

[広重 東海道五十三次 三島]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 三島 朝霧(知足美術館)

この絵に描かれた現場の位置に関して、

 [浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行]

中の図版解説において、吉田漱氏は、「三島神社の鳥居の前」と記しておられます。

江戸時代、東海道は、この絵にあるように、[三嶋大社](上記の吉田漱氏の記述においては、「三島神社」となっている)の鳥居の前を通っていたのでしょうか?

ネット地図で、[三嶋大社]で検索してみると、この神社の南側に、広い道があることが分かります。下記の写真は、まさにその道の南側から、[三嶋大社]の現在の鳥居を撮影したものです。(江戸時代に鳥居があった位置と、現在のこの位置とが同じなのかどうかまでは、分かりません。)

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でも、ネット地図で調べてみると、この道は、[国道・1号](江戸時代の東海道にほぼ沿って作られた)ではないようです。

[旧東海道 地図 三島] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て調べ、[三嶋大社]が、江戸時代の東海道の北側の場所にある事が分かりました。すなわち、上記の「この道」は、江戸時代の東海道であったようなのです。

このあたりでは、[江戸時代の東海道]と、[国道・1号]は、別ルートになっているようです。

神社の境内には、大きい樹齢値を持つ樹木がありました。

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PC04 天然記念物に指定されている、キンモクセイなのだそうです

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PC06 本殿

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PC07 腰掛石

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この石については、下記のような言い伝えがあるようです:

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1180年(治承4年)に、[源頼朝]は、[三嶋大社]に百日間の日参を行い、源氏の再興を祈願した。その際に、この石に座って休息した。左側の石に頼朝が、右側の石に北条政子(頼朝の妻)が座した。
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1180年という年は、日本の中世史において、大きな意味を持つ年です。

この年、以仁王(後白河法皇の皇子)が、平氏追討を命ずる令旨を、様々な源氏の家系に連なる人々に対して送ったのですが、頼朝のもとにも、それが届けられました。

頼朝の父・源義朝は、清和源氏の大リーダーであり、平清盛に対抗しうる人と目されていました。しかし、平治の乱において、義朝は敗戦し、尾張で死亡。

頼朝は、源義朝の三男でしたが、兄の義平、朝長は、平治の乱の後、共に死去。

頼朝は、平氏によって捕えられ、京都へ送られたが、池禅尼(平清盛の継母)の助命嘆願などによって、死刑を免れ、伊豆国への流刑となりました。

そのような、流刑人の境遇にある時に、平氏追討を命ずる令旨が、頼朝のもとにやってきたのです。そして、頼朝は決起して、挙兵。

頼朝の妻・政子の実家は、[北条氏]。[北条氏]の根拠地は、[北条](静岡県・伊豆の国市)でした。

[北条]とは、いったいどのあたりにあるのか、ネット地図で、[伊豆の国市 北条]で検索して分かりました。伊豆箱根鉄道の[韮山駅]の付近であるようです。

頼朝と政子の最初の出会いは、どこで、どのような感じだったのか、興味深いのですが、それを明らかにするような確かな史料があるのかどうかまでは、分かりませんでした。

挙兵後、頼朝は、石橋山の戦いで大敗し、山中に潜入せざるをえなくなりました。

この時、もしも、頼朝が平氏側勢力によって捕縛されていたならば、おそらく、頼朝の生涯はここまで、ということになっていたでしょうから、三嶋大社の腰掛石は、頼朝と政子の悲しい運命の跡、となっていたでしょう。

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(4) 三島梅花藻の里

三嶋大社の近くで昼食を食べた後、[三島梅花藻の里]まで、歩いて行きました。

ここは、

[グラウンドワーク三島](NPO法人)

が、整備。運営されているようです。

上記サイト中の[三島梅花藻の里]の項に、この施設についての記述がありますが、その中には、

 「湧水の減少と水質悪化により市内の川から姿を消した水中花・ミシマバイカモを復元、育成するために」

とあります。

かつては、三島市内の様々な場所で、バイカモを見ることができたのでしょうね。

PD01 自動的に散水が行われているようです

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(5) 水の苑緑地

[三島梅花藻の里]から、歩いて行きました。

ここには、美しい水辺の風景がありました。緑地の中を歩き回りながら、動画を撮影しましたので、よろしければ、下記をご覧ください。

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/Hc-LSFOjFB8

この緑地の中に、[源兵衛川]があります。これは、灌漑のための人口水路であり、[寺尾源兵衛]によって開削されたのだそうです。

巨大なレンズを持っている方が、緑地の中におられました。もしかしたら、ここで、鳥(カワセミとか)を撮影することができるのかも。

[水の苑緑地]の付近の川の中に、美しい藻があり、白い花が開いていました。

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(6) 清住緑地

[水の苑緑地]から、歩いて行きました。

池や、野原、田など、多様性に富んだ場所でした。

[三島梅花藻の里]を運営しておられる、[グラウンドワーク三島](NPO法人)が、この場所の再生に、取り組まれたようです。

下記が、水辺を歩きながら撮影した画像です。

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(8) 柿田川公園

[清住緑地]から、歩いて行きました。

ここは、[静岡県・駿東郡・清水町]の公園であるようです。[国道・1号]沿いにあります。

園内の第1展望台と第2展望台に行って、[柿田川]の水がダイナミックに湧き出てくる様を、動画に撮影しましたので、よろしければ、下記をご覧ください。

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/Hx8VtcL3plc

[柿田川]の水源はこの湧水であり、[狩野川]に流れ込むまでの間は、約1.2km。このような短い川ですが、一級河川なのだそうです。ネット地図で、[柿田川公園]で検索していただいたら、その流路を見ることができると思います。

2018年5月10日 (木)

太平記 現代語訳 37-8 足利基氏、畠山討伐軍を伊豆へ派兵す(付 楊貴妃と楊国忠の話)

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「畠山国清(はたけやまくにきよ)、畠山義深(よしぶか)、畠山義熈(よしひろ)3兄弟、500余騎を率いて伊豆国(いずこく:静岡県東部)に逃亡、三津(みづ:静岡県・伊豆の国市)、金山(かなやま:伊豆の国市)、修善寺(しゅぜんじ:伊豆市)3箇所に城を構え、たてこもる!」との情報(注1)に、足利幕府・鎌倉府長官・足利基氏(あしかがもとうじ)は、さっそく、討伐軍を現地に派遣した。

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(訳者注1)この、畠山兄弟の行動については、36-7 を参照。
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まずは、一番手の平一揆(へいいっき)武士団300余騎が、伊豆国府(いずこくふ:静岡県・三島市)に到着。

彼らは、近辺の荘園に兵糧(ひょうろう)の供出を強制し、荘民たちを人夫仕事に駆り出し始めた。

その結果、葛山備中守(かつらやまびっちゅうのかみ)と平一揆武士団との間に、所領に関する紛争が勃発、双方まさに、一触即発の緊迫状態となった。

これを聞いた畠山家臣の遊佐(ゆさ)、神保(じんぼ)、杉原(すぎはら)は、「討伐軍をやっつける絶好のチャンス!」と、3月27日夜半、500余騎を3手に分け、伊豆国府へ先制攻撃を仕掛けた。

葛山軍メンバー一同 大変だぁ! 平一揆の連中らめ、畠山と野合して、夜襲しかけてきやがったぁ!

平一揆武士団メンバー一同 やられたぜ! 葛山め、畠山と組んで、おれたちを討ち取とろうってんだな!

このように、互いに反目しあいながらの事であるからして、矢の一本満足に放つ事もなく、畠山討伐軍30,000騎は、何ら成果を得ないまま、鎌倉へ引き上げていった。

足利基氏 まったくもう! なにやってんだぁ! 

鎌倉府・主要メンバー一同 ・・・。

足利基氏 鎌倉中で、ものわらいのネタにされちゃってるじゃないか! 女子供にまで、笑われてんだぞ!

鎌倉府・主要メンバー一同 (じっとうつむく)・・・。

足利基氏 えぇい、今度こそは!

基氏は新たに討伐軍を編成し、新田氏に属する田中(たなか)を大将に任命、その指揮の下、武蔵(むさし)、相模(さがみ)、伊豆(いず)、駿河(するが)、上野(こうづけ)、下野(しもつけ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)8か国の軍勢20万余騎を、再び、畠山討伐に向かわせた。

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畠山国清は、この10余年間というもの、基氏を妹婿に迎え、その栄耀、門戸から溢れんばかりの勢いであった。

さらに、関東執事(かんとうしつじ)の職にあり、鎌倉府の最高実力者の地位にあったから、関東8か国の武士たちはことごとく、「畠山様の為だったら、我が命だって差し出しますぜぃ!」と、彼に慕い寄ってきた。

それを国清は、「みんなが寄ってくるのは、この自分に人徳あるがゆえ」と、思い込んでいたから、

畠山国清 とにかく、旗揚げさえすりゃぁ、いいのさ・・・後はもう、自然の流れに、まかせときゃぁいいんだよぉ。まぁ、見てろってぇ、4、5,000騎くらい、あっという間に集まってくらぁな、グワッハッハッハァ・・・。

ところが、彼の思惑に全く反して、他家の者は一人として、馳せ参じてはこない。

あげくの果てに、「自軍の一角を守る大将に」と信頼していた狩野介(かののすけ)までもが、鎌倉府側に降参してしまった。

その他の譜代の家人たちや、厚い恩をかけてきた郎従たちも、日に日に、国清のもとから離れていってしまい、その兵力は、もはや、鎌倉府に対して到底対抗しようのないようなレベルにまで、激減してしまった。

畠山国清 なんだってぇ! またまた討伐軍来る? で、兵力は?

畠山軍メンバーA どう見ても、20万は下らぬかと。

畠山国清 ヤバイ!

畠山軍は、3つのうち2つの城に火を放ち、全軍、残る修善寺城へたてこもった。

あぁ、なんたることか・・・昨日までは、大海のごとき巨体をもって大空を飛翔していた大鵬(たいほう:注2)・国清、今日になってみれば、その姿、轍(わだち)にたまった水たまりの中に、三升の水を求めて横わる魚に、他ならず。

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(訳者注2)鳳(おおとり)、鳳凰(ほうおう)の別名。
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畠山国清 あーあ・・・こんな事になっちまうって、前もって、わかってりゃぁなぁ・・・あの時、新田義興(にったよしおき)を、あんなにまでして、殺すんじゃぁなかったよなぁ・・・あーあ。(注3)

「悪事の報いは、速やかに我が身の上にふりかかってくる」という、しごく当たり前の事を、今の今まで認識できていなかったとは、いやはや、まったくもって、愚かなものである。

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(訳者注3)畠山国清のこの後悔は、二通りに解釈できると思う。

 解釈1:上記の太平記作者の批評のごとく、「こうなったのも、新田義興殺害の報い(あるいは、義興のたたり)であろうか。彼を殺害させなければよかったなぁ」という内容の後悔。

 解釈2:「新田義興が今、存命していたならば、彼と連合を組んで、足利基氏に対抗することができたのに」という内容の後悔。

いずれにしても、彼がこのような後悔をしたというのが、史実なのか、あるいは、フィクション(太平記作者の)なのか、全く不明である。
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昨年、畠山国清は、関東中から兵を集めて上洛し、吉野朝廷に対する一大攻撃を行った(注4)。

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(訳者注4)34-2 参照。
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しかし、今になって、その時の彼の思惑をよくよく考察してみるならば、まさにあの、中国唐王朝の時代、楊国忠(ようこくちゅう)、あるいは安禄山(あんろくざん)が、皇帝の威を利用して最高権力の座を奪おうとしたあの謀略に、極めて似通っている点が、多々見受けられる。

中国・唐王朝の時代、かの玄宗(げんそう)が帝位についた頃、国の内外は共に泰平であった。ゆえに、玄宗は、楽しみに溺れ、驕りにふけって、慎みを忘れてしまった。

そうこうしているうちに、「例の心」がムクムクと、頭をもたげてきた。

玄宗 よぉし、いっちょ、後宮めぐりでもしてみるか。

玄宗は、皇帝乗用車に乗り、左右の世話係に手を引かれ、広大なる宮殿中の後宮36か所を、余す所なく廻った。

夜空を覆い尽くす星々のごとき、数多(あまた)の后たちのことごとくを見てまわった後、

世話係B 陛下、いかがでござりました?

世話係C 一番、おきに召されたのは、どなた様で?

玄宗 いやぁ、さすがじゃ・・・(ハァー:溜息)だれもかも美しい・・・じゃがのぉ、最高といえば・・・やっぱし、あの二人であるかのぉ。

世話係B えっ、「あの二人」?

世話係C いったいぜんたい、どなたと、どなたでござりますか?

玄宗 えぇっとぉ、名前は何じゃったかなぁ・・・なにせ、数が多いでのぉ、忘れてしもうた・・・(メモ帳を見ながら)あ、そうそう、玄献皇后(げんけんこうごう)に、武淑妃(ぶしゅくひ)・・・いやぁ・・・あの二人が最高じゃのぉ。

世話係B なるほど。

玄宗は、この二人を限り無く寵愛した。

玄宗 まさに、二人は、春の花と秋の月、優劣つけがたいわ。

しかしながら、肉体を持つ存在は必ず衰え、輝いている人の光もいつかは消えるのが、世のならい、この二人の妃、それからいくばくもなく、共に帰らぬ人となってしまった。

玄宗 ・・・あぁ・・・あぁ・・・(涙)。

玄宗は、嘆きにうちひしがれてしまい、健康状態も怪しくなってきた。

大臣C 陛下のあのお姿を見られい・・・あのままでは、万が一ということも・・・。

大臣D いかんのぉ、このままでは。

大臣E 「絶望、そは、死に至る病なり」か・・・。

大臣C そんな、のんきな事を言うておる場合か! なんとかせねばぁ、なんとかぁ!

大臣D なにか、よい知恵はござらぬか?!

大臣F 新しいお后を探す、これしか、ないでしょう。

大臣C ふーん。

大臣E なるほど、亡くなられたお二人をも、さらにしのぐような、美しき女人を探し出し、その人を、陛下の新しき妃とするのですな?

大臣F さようでござる。さすれば、陛下の「死に至る病」など、たった1日で、全快でござりまするわい!

大臣一同 よぉし! 草の根分けても・・・。

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弘農(こうのう)の地に、楊玄琰(ようげんえん)という人がいた。

彼の娘は、まさに絶世の美人であった。

ある日、楊玄琰の妻は、楊(やなぎ)の木陰で昼寝、その時、枝から垂れ落ちた露が体にかかり、それでもって、彼女は懐妊、そのようにして生まれたのが、その娘である、という。だとすれば、その娘は、人間の類(たぐい)ではない、天人が化身して、この世界に来ったものであろうと思われる。

まさに、天が生み落としたる究極の美顔、眉ずみ、白粉、口紅などといったメイクなど一切施さずとも、この上なく人を魅了して止まぬその容貌。漢の武帝(ぶてい)の后・李夫人(りふじん)の肖像画を描いた画家でさえも、この女人を前にしては、ついに、自らの筆の及ばざる事を嘆く事であろう。

巫山(ふざん)の神女を賞賛する詩を詠んだ、かの宋玉(そうぎょく)でさえも、いざ、彼女の事を讃するとなれば、その美しさをいったいどのように表現すればよいのか、全く途方に暮れてしまい、自らの文才の至らなさを、恥じずにはおれぬであろう。

その声を聞いただけでも、男は皆、のぼせあがってしまうのだ、ましてや、彼女の顔を見てしまった人の心中たるや、もはや何をかいわんや、である。

このような、すばらしい美貌の女人であったがゆえに、時の王侯、貴人、公卿、大夫らはこぞって、媒酌(ばいしゃく)を求め、礼を厚くして、彼女を妻に迎えんと、競いあった。

しかし、彼女の父母は、頑として、彼らからの申し入れを謝絶し続けてきた。

秘して深窓(しんそう)の中(うち)に、かしづかる・・・暁の露を含みし若く美しき桃の花一輪、垣の上に顔を覗かせ、霞の中に香しく匂う・・・。

ある人の仲立ちにより、ついに彼女は、玄宗皇帝の兄・寧王(ねいおう)のもとへ、輿入れすることになった。

ところが、これを聞きつけた玄宗は、自らの権勢を行使して無法な事を行った。

彼は、高(こう)将軍を遣わして、嫁入の道中において彼女を誘拐、自らの後宮へ入れてしまったのである。

玄宗の歓喜、寧王の悲哀・・・同じ枝の、一方に花は開き、一方は折れてしぼむ・・・されば、ある詩人、これを表現していわく、「月、前殿に来ること早く、春、後宮に入ること遅し」と。(注5)

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(訳者注5)「前殿」で、玄宗を、「後宮」で、寧王を表現している。
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ありふれた寒梅の花であっても、それを折って花瓶にいけたならば、その芳香は、人々を一段と感動せしむるものである。うらさびれた民家の庭に生えている、ぱっとしない柳でさえも、王宮の庭に移植すれば、見違えるように立派になり、長い緑の枝を春風にそよがせるようになるものである。

ましてや、この女人、ただでさえ優れた容色の上に、後宮に入った後は、金色、翡翠(ひすい)色の羽毛の首飾り、身体からは薫香(くんこう)を周囲に発し・・・まさに、帝釈天宮(たいしゃくてんきゅう)・歓喜苑(かんきえん)の花の陰、化粧をしたる舎脂夫人(しゃしふじん:注6)、春風の中にたたずむがごとし。

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(訳者注6)帝釈天の后。
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彼女を一目見るなり、玄宗は、もう完全にメロメロ状態・・・「袖(そで)の中の珊瑚(さんご)の玉よ、掌(たなごころ)の上の芙蓉(ふよう)の花よ」と、愛欲の迷路の奥へ奥へ・・・もはや、ほんの一時たりとも、彼女の側を離れようとはしない。昼は終日、一車に載って、宮庭の花に酔いを進め、夜は徹夜で席を同じくして、西宮(せいきゅう)の月に宴をなす。

玄宗は、もはや、完全にイカレきってしまった。

玄宗 (内心)美人はみな、化粧をし、きれいな服を着ている。しかし、あぁいったものは、真の美ではない、人間の目を、欺くものである。

玄宗 (内心)わしは、女性の真の美というものを、この目でしかと、鑑賞してみたい。何物にも覆われぬ、楊貴妃の膚(はだえ)を見たいものよ・・・。

というわけで、驪山宮(りさんきゅう)の温泉に瑠璃(るり)の砂を敷かせ、玉のごとき石畳を磨かせ、その中に、衣を脱いだ楊貴妃の姿を鑑賞した。

白く妙なる膚(はだえ)に、蘭の香をただよわせた湯を引くその姿、

玄宗 (内心)おぉ、まさに、かの詩のような・・・

 藍田山(らんでんざん)に 暖い陽光 今ふりそそぐ
 ついに来った 春を喜び
 玉はむせんで 涙を流す
 庾嶺の雪も ようやく融けて
 梅の花 芳香を周囲に放つ

(原文)
 藍田日暖玉低涙
 庾嶺雪融梅吐香

ついに、楊貴妃は、牛車に乗ったままで宮中に出入りする事を、許されるようになり、その輝かしき栄光は、彼女の親族中に満ち満ちた。衣服は、皇帝の叔母に等しいレベルのものとなり、彼女の富貴は著しく増強、もはや、天子王侯をも、しのぐようになった。

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ここに、一人の男が、歴史の表舞台に登場する。その名は楊国忠(ようこくちゅう)、楊貴妃(ようきひ)の兄である。(注7)

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(訳者注7)ここ以降、太平記に記述されている内容と、中国の歴史書に書かれている内容との間には、大きな隔たりがあるのだそうだ。
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もとはといえば、身分低い家の生れの野人育ち、才も無く芸も無く、文の道に通じているわけでもなし、武の道を極めたというわけでもなし、なのに、楊貴妃の兄であるという、ただそれだけのことで、あっという間に、大臣に任命されてしまった。

唐(とう)王朝の旧臣・安禄山(あんろくざん)は、爵位(しゃくい)、俸禄(ほうろく)共に、楊国忠に越えられてしまい、不満タラタラである。しかし、玄宗皇帝の意向とあらば、どうにもしようがない。

このような中に、国際情勢が、一大変化を見せはじめた。

吐蕃(とばん:注8)α国・国王 中国は今、ハチャメチャ状態に、なっているようですね。

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(訳者注8)チベット地方に居住していた人々のことを、漢民族は、このように呼称していた。
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吐蕃β国・国王 同感です。あの国は、もはや、メタメタです。

吐蕃γ国・国王 そうですよ。君主は愛欲に溺れ、政治を乱しておりますし、才能も何もない人間が、高い位に上り、国の疲弊を一切顧みないでは、ありませんか!

吐蕃Δ国・国王 あのような国家に対して、もはや、服従する必要は全くありません!

吐蕃諸国・国王一同 同感です!

かくして、吐蕃諸国は一斉に、唐に対して反旗を翻し始めた。

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唐王朝・大臣C さてさて、困ったものよのぉ。

唐王朝・大臣D まったくもって・・・ハァー(溜息)・・わが国もよくよく、みくびられたものじゃて。

唐王朝・大臣E とにもかくにも、速やかに反乱の火の手を、消してしまわねばなりませぬ。討伐軍を派遣せねば、なりませぬぞ。

唐王朝・大臣C その通りじゃ。で、問題は、誰を、その大将に任命するか、じゃなぁ。

楊国忠 (内心)イヨッ、チャンス到来! ここでうまく立ち回りゃぁ、朝廷の武威を、我が物にしてしまうことができるぜぃ・・・よぉし!

楊国忠 アァチキが、行きやしょう!

唐王朝・大臣C エッ?!

唐王朝・大臣一同 ・・・。

楊国忠 吐蕃討伐軍・大将の印璽(いんじ)、アチキに下せぇな。そしたら、そく、現地へ急行、イッパツで、吐蕃のヤツらぁ、たたきのめしてやりまさぁ。

唐王朝・大臣一同 ・・・。

楊国忠 とにかく、この仕事、アァチキに、まかしとくんなせぇ!

唐王朝・大臣一同 ・・・。

というわけで、楊国忠は、全軍の総大将に任命された。彼はただちに、50万騎の大軍を率いて出陣、大荒峰に陣を取った。

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全軍メンバーの心中に、運命共同体的・心情を醸成していく事、それが、大将の重要な役目である。

ゆえに、士卒が未だ食せざる間は、大将もまた食せず、士卒が野宿を余儀なくされる時には、大将もまた自らの陣屋にあえて蓋を張らない。わずか一豆の飯を得ても、これを士卒と共に食し、一樽の酒を注ぐ時にも、士卒と共にこれを飲む、というように、していくのである。

しかるに、楊国忠は、といえば・・・朝っぱらから飲酒にふけって、兵の飢えるを知らず、暮れたら暮れたで美女に纏(まと)われ、部下の訴えに聞く耳持たず。長時間、楽しみにふけり、軍事は、全て忘れ、一切顧みようとはしない。

このような状態であるから、兵は疲れ、将の気はゆるみ、もはや、進んで戦おうという者は、誰もいなくなってしまった。

これを見透かした吐蕃側は、20万騎の大軍をもって、逆に攻勢に転じてきた。

総大将・楊国忠は、元来臆病な人間、士卒の心も、もはやバラバラ、唐軍50万は、一戦もせずに我先にと川を渡り、5日間行程の距離にも及ぶ敗走を続けた。

かくして、大荒峰の周辺7,000余里のエリアが、吐蕃側の制圧する所となった。

吐蕃軍のそれ以上の追撃は無かったにもかかわらず、楊国忠は、退却地点に踏みとどまることができず、首都めざして、更に敗走を続けた。

楊国忠 (内心)あんな大口たたいて大将に任命されたのに、遠征のかいもなく、ただの一戦もしねぇで帰ってきたとなると、こりゃぁ、非常にヤバイぞい。皇帝のおぼしめしだって、ガタッと、悪くなるかもしれねぇ。

そこで、彼は、自軍中の、馬にも乗らず鎧も着てない疲れきった兵1万人の首を刎ね、それを剣の先に突き刺し、「これは、吐蕃軍兵士の首1万個である!」と称し、首都へ「凱旋」した。

罪無くして首を刎ねられた兵士たちの、親子兄弟幾千万人の、悲しみをこらえ、声を呑み込みながら慟哭(どうこく)する姿が、家々に見られた。

しかしながら、楊国忠に漏れ聞こえる事を怖れ、誰も、その非道を朝廷に上申する者もなかったので、あわれ唐軍の兵1万人は、「これぞ、敵の首なり」として獄門に懸けられ、大荒峰の周辺1000里が、「うち平らげたる所」と称して、楊国忠に与えられた。

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上、乱れて、下、背(そむか)ず、などというような事は、ありえない。

誰もかもが、「なんとかして、楊国忠を滅してしまおう」と、考え始めた。

当時、安禄山は、吐蕃の侵入を防ぐべく、大荒峰付近に駐留していたが、

安禄山 (内心)よぉし、機は熟したり!

彼は、諸々の有力者たちと密約を取り交わし、士卒に対して礼を深くして宣言、

安禄山 わしはこのたび、皇帝陛下から、「楊国忠を討つべし」との御命令をいただいた! 我こそ、と思わん者、我が旗下に参集せよ!

大荒峰において罪無くして首を打たれたあの1万人の兵士たちの親類兄弟は、安禄山のそのメッセージを聞いて、大いに喜び、我先にと、彼の軍門へ集まってきた。その他の人々も続々参集、ついに、安禄山は70万もの兵力を持つに至った。

彼はただちに、崔乾祐(さいけんゆう)を右将軍に、子思明(ししめい)を左将軍に任命し、首都への進軍を開始。

道中、民屋を犯さず、城郭を攻めなかったので、安禄山が皇帝に叛旗を翻して首都・長安へ攻め上る途上とは、誰も、夢にも思わない。人々は、飯を竹器に盛り、飲み物を壷に入れ、安禄山軍メンバーたちを、大歓迎した。

首都まであと70里、という所にある潼関山(とうかんざん)に登り、ここで初めて、安禄山軍は、朝廷軍の旗を下ろし、全員一斉に、トキの声を上げた。

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その時、玄宗皇帝は、驪山宮への行幸を計画、あれやこれやと考えにふけっていた。

玄宗皇帝 (内心)驪山宮のあの広間の中で、楊貴妃に、わしが作った霓裳羽衣(げいしょううい)の舞曲を、舞わせてみようかな・・・かの、「大梵天王(だいぼんてんのう)宮殿における高台(こうだい)の楽」といえども、これには勝るまい、ムフフフ・・・。

大臣C 陛下、陛下、一大事で、ござりまする!

玄宗皇帝 (驚愕)なんじゃ、いきなり! びっくりするではないか。

大臣D 潼関山に、馬の土煙おびただしく、漁陽(ぎょよう)よりの急を告ぐる太鼓の音、雷(いかづち)のごとく、連打しておりまする。

玄宗皇帝 なにっ!

大臣E 首都の直近エリアにおいて、何やら、重大な異変が!

急使G (ドドド・・・タ! 宮殿に走り入り、皇帝の前に平伏)申し上げます! 反乱軍が、首都に迫っておりまする!

玄宗皇帝 なにーっ!

大臣E して、その数は、いかほど?

急使G 詳細、不明!

大臣C なんとしたこと・・・。

急使H (ドドド・・・タ! 宮殿に走り入り、皇帝の前に平伏)申し上げます! 反乱軍、大兵力をもって、首都に接近!

大臣E その数は?

急使H およそ、100万!

玄宗皇帝 ・・・(青ざめる)

急使I (ドドド・・・タ! 宮殿に走り入り、皇帝の前に平伏)申し上げます! 安禄山ならびに崔乾祐、子思明率いる反乱軍、首都に迫る、その数およそ100万!

大臣一同 安禄山がぁ?!(呆然)

玄宗皇帝 とにかく、とにかく、誰か、様子を見て参れ、今すぐ!

というわけで、哥舒翰(かじょかん)に30万騎を与え、咸陽(かんよう)の南へ向かわせた。

潼関山上に陣取っていた安禄山は、哥舒翰の軍が山麓にさしかかった頃合いを見計らい、上からイッキに逆落としに攻めかかった。哥舒翰軍は大敗北を喫し、10万余が、河水に溺れて死んでしまった。

残り少ない敗残の兵を集めた哥舒翰は、なおもさらに一日、首都・長安(ちょうあん)を守り続けながら、皇帝の宮殿に使者を送り、「何度戦ってみたところで、もはや、勝利を得難い状況でありまする。かくなる上は、陛下におかれましては急ぎ、首都を脱出され、蜀山(しょくさん:注9)へ落ちのびられませ」と、上申した。

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(訳者注9)蜀地方の山中。「蜀」とは四川省、あの、三国時代、劉備が自らの拠点とした地方である。
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霓裳羽衣の舞の中に、この上なく甘美なる時を過ごしていた玄宗皇帝と楊貴妃であったが、舞がまだ終わらぬうちに、二人、車に同乗し、首都から脱出せざるをえない。

楊国忠をはじめ、諸王千官らもことごとく、徒歩にて泣く泣く、皇帝親衛隊の大軍の後に続き、首都・長安を後にした。

哥舒翰は、首都防衛戦についに敗北、鳳翔県(ほうしょうけん)へ落ちのびた。

安禄山軍は、そのまま、玄宗皇帝を追跡、その旗は50町ほどにも連なった。

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馬嵬(ばかい)の堤にさしかかった時、つき従ってきた皇帝軍6万余は突然、玄宗の前を遮(さえぎ)り、その前進を阻止した。

玄宗皇帝 これはいったい、なんとしたこと・・・なぜ止まる? なにゆえ、先へ進まぬ?!

近侍J 兵らが、御車(みくるま)の前に立ちふさがり、前進を妨げておりまする。

玄宗皇帝 きゃつら、いったいなにを考えておる! これ、車の天蓋を開(あ)けぃ!

近侍J ハハ!(天蓋を開く)

玄宗皇帝 なんじら、わが車の前を塞ぐとは、ふとどきな! いったい、いかなる所存あっての事じゃ!?

兵士たち一同 (武器を地上に置き、ひざまづく)・・・。

兵士K 此度(こたび)のこの乱、にわかに起こり、陛下が宮殿をお出にならねばならなくなった、その原因は、何もかも、かの男、楊国忠のせいにて、ござりまする!

兵士L さようにて、ござりまする。楊国忠めが、驕りを極め、罪なき人々の首を切ったからにて、ござりまする。

兵士M 陛下、直ちに、あやつの身柄を、我らにお引き渡し下さいませ。

兵士N あやつのそっ首、直ちに刎ねて、天下の人心を、安んじせしめましょうぞ!

兵士O この願い、お聞き届けになられぬ限り、我ら、たとえ、安禄山の矛先に死するとも、陛下の御車を、断固、通すわけにはいきませぬ!

玄宗皇帝 なんじゃとぉ! 楊国忠を?!

兵士K さよう! 天下の極悪人を、成敗いたすのでござる!

兵士L さぁさぁ、楊国忠をヤッてしまえぃ!

兵士一同 ヤッてしまえーーぃ!

玄宗皇帝 (内心)ウーン・・・反乱軍が迫りくる・・・早く、逃げねば・・・ウーン・・・楊国忠・・・ウーン・・・死なすのは、まことに惜しい・・・じゃが・・・えぇい、やむをえん!

玄宗皇帝 ・・・楊・・・国忠を・・・。

楊国忠 ・・・。

楊貴妃 ・・・。

兵士一同 ・・・。

玄宗皇帝 ・・・し・・・し・・・。

楊国忠 陛下! 陛下!

楊貴妃 陛下! 陛下!

玄宗皇帝 死罪に処すべぇし!

兵士一同 ウォーッ(大喜)

楊貴妃 キャァーーーー!

彼らは、楊国忠に襲い掛かり、馬から引き落とすやいなや、その首を刎ね、矛の先に差し貫いた。

兵士一同 やった、やったぁ、ウワハハハ・・・。

兵士一同の両手 パチパチパチパチ・・・(拍手の音)。

楊貴妃 兄上、兄上、ウッ、ウッ、ウッ、ウワーーン!(涙)

兄の死を目の当たりに見る楊貴妃の心中、その悲しみは、いかばかりか・・・。

楊国忠を殺してもなお、兵士らはあきたらぬようであり、依然として、道を開けない。

玄宗皇帝 これでもまだ、おさまらぬのか・・・そちらの願いは、いったいなんじゃ? 早く道を開けい!

兵士K 后妃(こうき)の徳、違(たが)わば、国家の安定は期しがたし、これぞまさしく、わが中国の歴史の教訓。

兵士L さよう、さよう。褒姒(ほうじ)は周(しゅう)の世を乱し、西施(せいし)は呉(ご)の国を傾けた、これは誰しもが心得ておりまする事、よもや、陛下がご存じでないはずが、ありましょうや?

玄宗皇帝 ・・・(顔面蒼白)

楊貴妃 ・・・(顔面蒼白)

兵士M 速やかに、楊貴妃に死を賜らんことを!

兵士一同 楊貴妃に死を!

兵士一同 (槍や矛の柄元を、全員一斉に同期して、地面に叩き付ける)

槍や矛 ドーン!

兵士一同 楊貴妃に死を!

兵士一同 (槍や矛の柄元を、全員一斉に同期して、地面に叩き付ける)

槍や矛 ドーン!

兵士一同 楊貴妃に死を!

兵士一同 (槍や矛の柄元を、全員一斉に同期して、地面に叩き付ける)

槍や矛 ドーン! ドーン! ドーン! ドーン! ドーン!

兵士N さもなくば、我ら、陛下への忠言の為に、我が胸を裂き、蒼天(そうてん)に血をそそぐべしぃー!

兵士一同 楊貴妃に死を!

兵士一同 (槍や矛の柄元を、全員一斉に同期して、地面に叩き付ける)

槍や矛 ドーン!

兵士一同 楊貴妃に死を!

兵士一同 (槍や矛の柄元を、全員一斉に同期して、地面に叩き付ける)

槍や矛 ドーン!

兵士一同 楊貴妃に死を!

兵士一同 (槍や矛の柄元を、全員一斉に同期して、地面に叩き付ける)

槍や矛 ドーン! ドーン! ドーン! ドーン! ドーン!

玄宗皇帝 (天を仰ぐ)(内心)あぁ、どうする事もできぬわ・・・。

もはや、言葉も出ない・・・胸もふさがり、あまりの絶望に気を失い、玄宗は車の中に倒れ伏した。

楊貴妃 陛下! 陛下! 陛下!

花は、たとえ春霞の中に身を隠そうとも、荒い風に否応無しに吹き散らされてしまうものである。なのに、楊貴妃は、何とかして、迫り来る破滅の運命から逃れようと、玄宗の衣の下に身を側めて隠れた。

我に帰った玄宗は、満面に悲しみをたたえ、兵士らに向かっていわく、

玄宗皇帝 妃の命をどうしても奪いたい、というのであれば、まず、このわしを、殺してからにせい! わしを殺してから、妃の命を奪うがよい!(涙、涙)

これを見て、あれほど怒り猛っていた兵士たちは、全員、矛を捨て、地上にひれ伏した。

ところが、この群中に、血も涙も無い一人の兵士がいた。

兵士P こんな事やってては、ダメダメダメ、やるべきことは、さっさと、やってしまうべぇし。

彼は、玄宗のもとへつかつかと歩み寄り、彼にしがみついている楊貴妃の手をつかんだ。

楊貴妃 アッ!

兵士P こっちへ来い!

玄宗皇帝 なにをする! その手を放せぃ!

楊貴妃 陛下、陛下ぁー!(涙)

兵士P 車から降りろぃ!(楊貴妃を、車前方の轅(ながえ)の下に引き落とす)

彼は、楊貴妃を、馬の蹄にかけて殺害した。

玉のかんざしは地上に乱れ、あまりの事に、誰しも、そこに立ちつくすばかり、雪のように白い膚は泥にまみれ、その現場を目撃した人は、涙で袖を濡らすしかない。

玄宗はグッタリ、もはや、顔を上げていることもできない・・・車の中にただただ、伏し沈むのみである。

楊貴妃の、今わの際を目の当たりにしてしまっただけに、彼女への思いは、永遠につきる事のない苦しみとなってしまった。

--------

ようやく、兵士らは前進を始めた。

後陣の者たちが防ぎ矢を放ちながら、前陣の車を進め、程なく、玄宗は、蜀(しょく)へたどり着いた。

すぐさま、玄宗のもとへ、ウイグル族の兵10万が、馳せ参じてきた。

厳武(げんぶ)、哥舒翰(かじょかん)もまた、国中から兵を集め、50万の軍を編成し、蜀の臨時帝宮にやってきた。

一方、安禄山(あんろくざん)側は、勢力が激減してしまった。

当初、「楊国忠(ようこくちゅう)を討つための挙兵」と聞いて、我も我もと集まってきたのであったが、結局のところ、安禄山は天下を奪おうとの野心を持っていただけのこと、と気付き、大多数メンバーが、彼のもとを去ってしまったのである。まさに、安禄山の栄華、ただ春一時の夢に過ぎず、という状態である。

このように、首都・長安(ちょうあん)を占拠している反乱軍側は、日々にその兵力を減じ、蜀の皇帝軍側は、中国全土から続々兵が参集してきて、その兵力は増すばかり。

しかし、玄宗は、明けても暮れてもただただ、楊貴妃への追想に、思い沈むのみ、政治・軍事全般に対して、全く心を向けようともしない。

玄宗 (内心)あぁ、さっさと死んでしまいたいものよのぉ・・・死して後、もう一度この世に生れ、また彼女と一緒になる、わしの願いは、ただそれだけ・・・これ以上生きていて、いったいなんになる・・・。

厳武、哥舒翰、ウイグル族リーダーらは、「このままでは、どうしようもない」と思い、鳳翔県(ほうしょうけん)に潜伏していた玄宗の第2皇子・粛宗(しゅくそう)を、君主に仰ぐことにした。

彼らは、中国全土に新皇帝即位の宣旨(せんじ)を発し、諸国から兵を集め、80万を首都・長安へ送った。

これを聞いて安禄山も、崔乾祐(さいけんゆう)と子思明(ししめい)を大将とし、80万の軍勢を長安へ向かわせた。

双方互いに戦いを挑みながらも、未だ戦端を開かざる時、唐(とう)王朝祖廟(そびょう)の神霊が100万人の兵と化し、黄色の旗を持って哥舒翰の軍に加勢し、崔乾祐の軍と戦った。

安禄山軍は、たちまち敗れ、一時の間に、全員亡んでしまった。

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安禄山の滅亡の後、唐軍は首都を奪回、粛宗は帝位を辞し、再び玄宗を復位なさしめんがため、唐軍はこぞって、蜀へ玄宗を迎えに行った。

政権が完全に回復した今も、玄宗の心中には、ただ楊貴妃への思慕の念ばかり、皇帝復位も不本意な事ではあったが、

玄宗 (内心)楊貴妃の最期の地、あの馬嵬(ばかい)の地を、一目でも見れるのであれば・・・。

彼は直ちに、首都帰還の命令を発した。

行列が馬嵬にさしかかった時、玄宗は、車を止めさせた。

玄宗 (内心)あぁ、ここじゃ・・・ここが、去年の秋、彼女が兵士に殺され、はかない身となってしもうた所じゃよ。

長い堤の上に風にしなう柳の枝を見ては、枕に懸かる楊貴妃の寝乱れ髪を思い起こし、暁の薄明の中に見た彼女の面影が、涙の中に浮かんでくる。

池の堤に生える草に結んだ露が陽光に光り輝くのを見ては、「あの時、地上に乱れ散った彼女の玉のかんざしも、かくのごとくであったろうか」と、ますます、心は悩むばかり。

玄宗 (内心)彼女の霊魂は浮かばれずに、今もこのあたりを、さ迷っておるのであろうか・・・だとしたら、ここはなんと、すばらしき場所! ここにおれば、彼女と共にあり、という事になる。

玄宗 (内心)毎日、日は暮れ、夜が明けようとも、ずっと、ここにいたい・・・この場に止まり、彼女への思いの中に、死んでいきたい。

しかしながら、帝位に復帰した身とあっては、そうも言ってはおれず、皇帝の車は東へ向かう。

玄宗 あぁ、この地まで来て、また、彼女と別れねばならぬのか・・・(涙)

涙の中に、来し方を遥かに眺め、

玄宗 (内心)蜀の河は深い緑、蜀の山は輝ける青、朝に夕に、この絶景を回想するにつけても、彼女の事を思い出してしまうのであろうなぁ。

玄宗の胸中の思い、たとえようもない。

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日を経て、玄宗は長安に帰還した。

かつて楊貴妃が住んでいた、あの驪山・華清宮(かせいきゅう)も、すっかり荒れ果ててしまっていた。

 眺めるもの全て ありし日のまま
 何も変ってはいない
 楼台(ろうだい)も 池苑(ちえん)も

 太液池(たいえきち)の蓮の花 未央宮(びようきゅう)の柳の樹(き)
 何もかも かつてのあの日のまま
 何も 変わったものはない
 ただ一点の 変化を除けば

 池の中に揺れる あの蓮の花
 まるで あの女性(ひと)の顔のよう

 風にそよぐ あの柳の枝
 まるで あの女性(ひと)の眉のよう

 あれを見ても これを見ても
 泣けて 泣けて しようがない
 この溢れ来る涙 止める事など できるはずがあろうか

 あぁしかし 私のこの思いなど おかまいなしに
 今年も変わることなく 季節は回(めぐ)る
 春風の中に 桃や李(すもも)の 花は開き
 秋露に濡れて 梧桐(ごよう)の葉は 音をたてて落ちる
 西の宮殿 南の宮庭
 秋草は深く 誰も掃く人も無いままに
 枯れ落ちた紅葉が 堆積している

 仮設皇居の中に座し 夜空に月を見上げては
 傷心の思いを じっと噛み締めるばかり
 夜の雨の中に かすかに鳴り響く鈴の音を聞いては
 断腸の絶望の念に ただただ身をよじるのみ

 夕べの宮殿に飛ぶ蛍を眺めては 悄然と肩を落し
 眠れぬ夜の長さをかこいつつ たった一本の灯火の灯芯を
 かきたてて かきたてて 時を過ごす

 これからますます 夜が長くなってこようかという 今は そのような季節
 あの 物憂げに響いているのは 時報を告げる鐘鼓(しょうこ)の音だろうか

 夜空を見上げてみれば 煌煌(こうこう)たる銀河は天空(てんくう)をよぎり
 星々の光降り注ぐ屋根の上には オシドリ(注10)形の冷たい瓦
 その上に重なる 花のように白い霜
 このカワセミの羽布団に たった一人で寝る寒さ
 互いに暖めあって共に寝た 彼女はもう この世にはいない

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(訳者注10)仲のよい夫婦を象徴する言葉。オシドリは、雌雄常にいっしょにいる。
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(原文)
 楼台池苑皆依旧
 太液芙蓉未央柳
 芙蓉如面柳如眉
 君王対此争無涙
 春風桃李花開日
 秋露梧桐葉落時
 西宮南苑多秋草
 宮葉満階紅不掃
 行宮見月傷心色
 夜雨聞鈴断腸声
 夕殿蛍飛思消然
 孤灯挑盡未成眠
 遅々鐘鼓初長夜
 耿々星河欲曙天
 鴛鴦瓦冷霜花重
 翡翠衾寒誰興共

何を見ても、何を聞いても、悲しみばかり深まっていく玄宗は、もはや、天下の安危にもおかまいなし、帝位を粛宗に譲り、朝から晩まで涙を流しながら、先帝宮殿内に隠棲の日々を送るようになった。

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ある日、臨卭(りんこう)という地から、一人の道士が玄宗のもとへやってきていわく、

楊通幽(ようつうゆう) 陛下、私めは、神仙の道を心得ておりまするでな、はるか彼方の臨卭にいながらにして、陛下の日々、展轉(てんでん:注11)のご苦悩を、察知いたしまして、ござりまする。

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(訳者注11)なかなか寝付けず、寝返りばかりうって夜を過ごす、の意。「輾転反側(てんてんはんそく)」とも言う。
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玄宗 いかにも・・・悲しみに胸塞がって、夜も眠れぬ。

楊通幽 私め、楊貴妃殿下のおられまする所へ行き、妃殿下よりのお言葉を持ち帰って参りましょう。さすれば、陛下もいささか、お心やわらぐ事もおできになろうかと。

玄宗 なに! さような事ができるのか!

楊通幽 できまする。

玄宗 よし、すぐに行って参れ! 今すぐ、そちに、高位大禄を与えるでな!

楊通幽 ハハッ、ありがたきお言葉(一礼)。

玄宗 行け! 早く、早く!

楊通幽 ハハッ!(一礼)

楊通幽は、術を使って、天に上り、地に入り、上は青空の頂上から下は黄泉(こうせん)の底まで、楊貴妃を尋ね求めた。しかし、彼女はどこにもいない。

楊通幽 フーン・・・かくなる上は、大海の彼方にまで、探索範囲を拡張せねばのぉ。

彼は、ユーラシア大陸を離れて遥か彼方、天海万里の波涛(はとう)を越え、楊貴妃を求めて飛行していった。

大陸から7万里の地点まできた時、前方に三つの島影が見えてきた。

楊通幽 フンフン、あれが音に聞く三つの島、蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)じゃな。

その3島は、一匹の巨大な亀の甲羅の上にあり、島の上には5個の城が屹立(きつりつ)し、12個の楼閣があった。

楊通幽 オッ・・・あそこに立っておる宮殿の門に、何やら額が懸かっておる・・・どれどれ・・・。

楊通幽は宮殿めがけて急降下、宮門の上空を旋回しながら、その金字の額に書かれた文字にじっと目をやった。

楊通幽 ほほぉ、「玉妃太真院(ぎょくきたいしんいん)」、さては、楊貴妃はこの中におるのだな。やったぞ!

直ちに彼は、門前に着陸。

楊通幽 (門を激しく叩く)。

門 ドンドンドンドン!

楊通幽 誰かある、誰かある!

門の中から、「はいはい」と、可愛らしい声が答えた。

門 ギィィィ・・・。

門の中から現われたのは、髪を二つマゲに結った童女であった。

童女 あなた様は、いったいどなた? どちらからみえられました? 誰を訪ねてこられました?

楊通幽は、おそれつつしみ、手を袖の中に引っ込めながらいわく、

楊通幽 はい、わたくしめは、中国全土を統治したもう帝王の使者にして、方士と申す者にて、ござりまする。こちらに、楊貴妃殿下が御座そうろうとお聞きし、殿下を訪ねてまいりましてござりまする。

童女 楊貴妃殿下は、まだ、御就寝中でございます。

楊通幽 会わせていただくわけには、まいりませぬか?

童女 あなたさまがおいでになった事を、殿下にお伝えしてまいります。

童女は、門の中へ戻り、中から門を、ピシャンと閉めてしまった。

楊通幽 ありゃぁ・・・しょうがない、待つしかないのぉ・・・。

楊通幽は、門の傍らに立ちつくし、童女が今出てくるか、今出てくるかと、じっと待ち続けた。

雲海は静まりかえり、神仙の居る洞天(とうてん)に、日はついに暮れてしまった。玉で飾られた宮門は重なり閉じ、内部からは全く何の音も聞こえない。

しかし、待ったかいがあった。

門 ギィィィ・・・。

楊通幽 オォッ!

童女 どうぞ、中へお入りくださいませ。

楊通幽 (内心)やったぞ!

宮殿の奥に招き入れられた楊通幽は、会釈し、壮麗な廊下の上にひざまづいた。

ちょうどその時、玉妃が夢からさめ、枕を押しのけて起き上がった所であった。

その美しい髪は、くしけずらずとも、薄絹、綾絹にも耐ええぬほど滑らかにして、言葉でたとえようもない。左右には侍童7、8人が立っている。全員、金製の蓮を冠に被り、鳳(おおとり)の形をした沓(くつ)をはいている。

やがて、五色の雲がたなびく中に、玉妃が堂から出てきた。

その美しい頭は艶々として、あたかも、暁の海から、月が上がってくるかのようである。

楊通幽は、涙を押さえ、自らの訪問の目的を、彼女に告げた。

彼の言葉をじっと聞いた後に、玉妃は、思いを込め、まなじりを凝らして、玄宗への感謝の意を述べた。

玉妃 あの時、かの地でお別れしてからというもの、陛下のお声もお姿も、遠き彼方の事になってしまいました。陛下と二人で過ごした、あの昭陽殿(しょうようでん)の中で受けた恩愛も、もはや絶え、わらわがここ、蓬莱宮(ほうらいきゅう)で過ごす身となってより、長い長い月日がたってしまいました・・・。(涙)

玉妃は、絶句してしまった。その美しい顔に、寂寞(せきばく)とした表情を浮かべ、さめざめと涙を流すばかり・・・まさに、梨花一枝、春の雨を浴びるがごとし。

いよいよ、帰途につかんとした時、楊通幽は、

楊通幽 願わくば、玉妃様、皇帝陛下のために、何か御(おん)かたみとなるようなものを、下さりませ。さすれば、私が玉妃様のもとを確かに訪ねていったのだ、という事の、何よりの証拠となりましょうから。

玉妃は手ずから、玉のかんざしを半分に折り、その片割れを楊通幽に与えた。

楊通幽 おそれながら・・・これでは、世間一般にあるかんざしと、何ら変わる所はありませぬ。これでは、証拠品とするには不十分。

玉妃 ・・・。

楊通幽 ならば、かく、いたしましょうぞ、玉妃様はおそらく、陛下の側に侍っておられし時、何か秘密の事を、陛下からお聞きになっておられましょう。陛下と玉妃様、お二人だけしか知らぬような、なにかを・・・それを、お教えくださいませ。それを、私の口から陛下にお伝えすれば、私が玉妃様のもとを訪ねていった事の、何よりの証拠となりましょう。

楊通幽 さもなくば、私はたちまちにして、あの新垣平(しんえんへい)のように、帝王をあざむきし罪を被(こうむ)って、重罰に処されてしまいましょうからな。

玉妃 よろしい・・・去る7月7日の夜半、長生殿(ちょうせいでん)にて、陛下とわらわはたった二人、天の川を眺めておりました。その時、かの牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の永久に絶える事なき愛をうらやみ、わらわは陛下に、このように誓いました、「天に在(あ)らば、願わくば、陛下とわらわは、翼をならべて飛ぶ二羽の鳥と、ならんことを。あるいは、地に在(あ)らば、願わくば、一つ枝に咲く二つの花と、ならんことを」。

玉妃 これは、陛下とわらわのみが、知る事。これをもって、ここへ確かにやってきた証拠と、するがよいでしょう。(涙)

玉妃は泣く泣く、玉のごとき台に登っていった。

彼女と共に、音楽も手に持つ団扇も、天に隠れ、夕陽(せきよう)の中に、徐々にその姿は消えていった。

楊通幽は、かんざしの半分と、彼女の語った「二人だけの秘め事」を胸に秘めて、皇宮に帰参、玄宗に対して、天上での状況を詳細に報告した。

楊通幽 ・・・妃様より、このかんざしを、いただいてまいりました。(かんざしを差し出す)

玄宗 (かんざしを手に取りながら愕然)・・・。

楊通幽 また、妃様は、7月7日、長生殿での、陛下との秘密の約束をも、お教えくださいました・・・いわく、「天に在らば、願わくば、陛下とわらわは、翼をならべて飛ぶ二羽の鳥と、ならんことを。あるいは、地に在らば、願わくば、一つ枝に咲く二つの花と、ならんことを」。

玄宗 ・・・天に在らば、願わくば、わしとそちとは、此翼(ひよく)の鳥とならんことを。地に在らば、願わくば、連理(れんり)の枝とならんことを・・・う、う、う(涙)。

その年の夏、玄宗はついに、未央宮の前殿にて崩御(ほうぎょ)した。

「一念五百生(いちねんごひゃくしょう) 繋念無量劫(けねんむりょうこう)」という。

ましてや、はるか未来の世までも誓いあった深い中、ここに死に、あそこに生れ変り、天上界、人間界、はたまた禽獣魚虫(きんじゅうぎょちゅう)に生を替えても、なおも、楊貴妃への愛着の迷いを離れる事はできないのであろうかと思うと、まことに罪深い契りである。

この、中国の天宝(てんぽう)年間末の世の乱れは、安禄山と楊国忠が、皇帝の威を借り、功に誇り、他人を嫉(ねた)んだ結果、引き起こされたものである。

かたや、現代の日本における関東地方のこの戦乱は、畠山国清の陰謀に端を発している。

国家の平安が傾き廃れていくその様はまさに、中国のあの時のそれに相似しているではないか。

天は、驕(おご)りを憎み、満つるを欠く。天の咎めからは、何人たりとも、逃れる事はできない。

畠山国清の運命、先が危うしと見える。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 37-7 サーリプッタの話、一角仙人の話、志賀寺の上人の話

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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煩悩(ぼんのう)を根本(こんぽん)から断ち切り、迷いの絆(きづな)から離脱する、これを実践できた人は、極めて稀である、仏教興隆の昔においても、末世の今においても。

以下に述べるのは、古代インドでのある話。

修行者・サーリプッタは、仏の境地に至って悟りを開こうと、日夜、六波羅蜜(ろくはらみつ)(注1)の行を修していた。

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(訳者注1)布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の6種類の行。
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真摯なる修行を積み重ねていった結果、6のうち、既にその5までを成就、残るは、布施波羅蜜だけ、という段階にまで到達した。

その時、隣国から一人のバラモンがやってきて、いわく、

バラモン サーリプッタ殿、私に、あなたの財宝を、少し、ほんの少しだけ、分けてくださらんか。

サーリプッタ あいわかりもうした、しばし待たれい。すぐに、とりそろえてきましょうぞ。(注2)

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(訳者注2)サーリプッタは現在、「残るは、布施波羅蜜だけ」の状態にある。ゆえに、バラモンからのこの要請をこばむと、布施波羅蜜が成就できない、ということになる。
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サーリプッタは、倉の内にある財、身につけている衣を、残らず、バラモンに与えた。

バラモン 財や衣だけではのぉ。

サーリプッタ 他に何か、ご不足のものがおありか?

バラモン さよう・・・身の回りの世話をしてくれる者とか、雨露をしのぐ住居とか・・・。

サーリプッタ おやすいごよう。私のをみな、さしあげましょう。

バラモン おぉ、これはこれは・・・されど。

サーリプッタ さらに欲しいものが?

バラモン 毛じゃよ、毛がほしい、そなたの。

サーリプッタ えぇ?!

バラモン そなたの体中に生えてる毛が、みな欲しいのじゃよ!

サーリプッタ ・・・よろしい。

サーリプッタは、身体から一本残らず毛を抜き、バラモンに施した。

バラモン ついでに、そなたの両眼も。眼をうがち、私にくれい。

サーリプッタ ・・・。

バラモン え? だめかのぉ?

サーリプッタ (内心)これは困った・・・両眼を失うてしもうたら、何も見えなくなってしまうではないか・・・24時間、暗夜に迷うも同然の状態になってしまう・・・なんとする・・・しかし、彼の要求を受けいれないと、六波羅蜜の行は完成せぬ・・・いかんせん(如何せん)?、いかんせん? うーん・・・。

サーリプッタ (内心)いやいや、せっかくここまで修行を貫いてきたのじゃ・・・最後の最後になって、出し惜しみしていたのでは、これまでの修行が空しくなってしまうではないか・・・よし!

サーリプッタは、自らの両眼を抜き、バラモンに与えた。

バラモンは、それを手にとり、しげしげと見つめていわく、

バラモン 抜かれた後の眼というものは、なんときたなきものか・・・かようなもの、何の役にも立ちはせぬなぁ。

バラモンはすぐに、その両眼を地上に投げ捨て、足で踏み潰した。

サーリプッタ (内心)なんたること! 人間の身体の中で、眼ほど大事なものはないのに! さほど役に立ちもせぬ私の眼を乞い取ったあげく、地上に投げ捨てるとは! あぁ、無念! 無念じゃぁ!

サーリプッタは、心中ムラムラと、怒りの念を燃やしてしまった。この瞬間、彼の仏道修行は、ご破算に帰してしまったのである。功徳を積み上げたそれまでの六波羅蜜の修行もいっぺんに破れてしまい、彼は、破戒の修行者になってしまった。(注3)

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(訳者注3)[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店] の注によれば、このサーリプッタの話は、大智度論(ナーガールジュナ 著 クマーラジーヴァ 訳)巻12にあるのだそうだ。
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さらにもう一話。

古代インドのヴァーラーナシー(波羅奈国)に、一人の仙人がいた。

排出行為をしているときに、仙人は、鹿のカップルが種の保存に間連する行為をしているのを偶然、目撃してしまい、大脳からのある種の想念の湧出の結果、不随意的に、体内から液体を地上に出してしまった。

その液体がかかった草の葉を、雌鹿が食べて、子供を生んだ。

その子供は、人間の形をしていながら、額に一本の角が生えていた。人々はこれを、「一角仙人」と呼んだ。

一角仙人は、様々な修行を積み、ハイレベルの超能力を持つに至った。

ある日、彼は、谷へ下ろうとして、山道を降りていた。

松のしずくや苔の露が湿り、岩の表面は摩擦ゼロ状態、仙人は、足を滑らせてしまい、地上に倒れてしまった。

一角仙人 エェイ、モウ!(怒)

一角仙人 わしは何ゆえ、ここで、滑って転んだか? 雨が降って湿っていたからじゃ。雨は、いったい誰が降らせたのか? 龍王が降らせたのであーる!

一角仙人 わしが滑ったのは、雨のせい。雨が降るのは龍王が存在するがゆえ。ゆえに、わしが滑ったのは、龍王が存在するがゆえに、となるのであーる。

一角仙人 よって、今回のこの件に関する全ての責任は、龍王にあるのであーる! ゆえに、「龍王をひっとらえて監禁すべし!」との結論に、我々は、必然的に導かれるのであーる!

仙人は、地球上の七つの海洋(注4)を隅から隅まで捜索し、大小全ての龍王を捕え、残らず、岩の中に監禁してしまった。

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(訳者注4)原文では、「内外八海」。
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龍王は降雨現象を司どる存在、それらが皆無の状態となってしまったのである。

その結果、春3月から夏の末に至るまで、世界中が、大旱魃(かんばつ)に襲われるに至った。山田の早苗さながらに、農作物はことごとく、立ち枯れ状態になってしまった。

民衆の嘆きの声をきいた王は、大臣たちを召集した。

王 聞くところによれば、この大旱魃の原因、かの一角仙人にありとか。

大臣A はい、さようにござりまする。かの仙人が世界中の龍王をことごとく、岩の中に押し込めてしもうたがゆえに、かくなる大旱魃となったのでござりまする。

王 なんとか、できんのか。

大臣B 一角仙人の超能力、すさまじきものにて、ござりまするでなぁ・・・。

王 その超能力を失わせ、龍神たちを岩の中より解放するてだて(方策)、何かないものか? 皆のもの、どうじゃ?

大臣C おそれながら、陛下!

王 うん!

大臣C かの仙人をして、龍神衆を監禁するという、かくのごとき行為に至らしめた、その原因を、つらつらと考察してみまするに・・・その因は、怒りの心にて、ござりまする。わたくし、思いまするに、ここに、重大なヒントが存在しておるのではなかろうかと・・・。

王 うん、して、「重大なヒント」とは?

大臣C ははっ・・・たとえ、かの仙人、霞(かすみ)を食らい、空気を飲んで、長生不老の道を得ていたとしても・・・道に滑りて転びしがゆえに、怒りの念にとらわれてしもうた・・・という事は・・・十二因縁(じゅうにいんねん)を観ずる修行の道において、かの仙人、未だに未完の域にありかと。

王 ・・・。

大臣C してみれば、その心、未だに、枯木死灰(こぼくしかい)のごとき状態にはあらず・・・ならば、異性の色香(いろか)に惹かれる愛念の心、いかで無からんや?

王 うーん、なるほど!

大臣C しからば、陛下、三千の宮女の中より、容色ことさらに勝れたるを一人選び、かの仙人の草庵の中へ、送り込んでみてはいかがでしょう? 草の枕を並べ、苔のむしろを共にして夜もすがら、蔦(つた)葛(かずら)生い茂る洞窟の夢中に、契りを結ばしむる・・・ならば、かの仙人の超能力、必ずや、失せてしまうでありましょうぞ。

大臣一同 うーん、これは妙案!

王 よし、やってみるかぁ。

王は直ちに、後宮三千人中より第一の后(その名をセンダという)を選んだ。そして、彼女に500人の美人を添わしめ、一角仙人の草庵中へ、送り込んだ。

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美麗を尽くした御殿を出たセンダは、見るも無惨な、みすぼらしい草庵の中に入っていった。

苔からしたたる滴、袖にかかる露、乾く間もない涙・・・しかし、王の命とあらば、いたしかたない。

センダ このたび、陛下の命により、あなたさまの身の回りのお世話をするために、やってまいりました。センダと申します、以後、どうぞよろしぅに。

一角仙人 ・・・(センダのあまりの美しさに、ボォー)

センダ (10筋の網目であんだ菅の布団を敷きながら)仙人さまのようなご立派な方のお側に侍れるとは、あぁ、なんたるこの身の幸せ。

一角仙人 ・・・。

センダ (菅の布団の上に座して)これから後、千年、いや万年、わらわは決して、仙人様のお側、離れませぬぞえ。

一角仙人 ・・・あ、あ、いや、はぁ、あのぉー・・・、はぁ・・・(ドッキンドッキン(心臓の音))

一角仙人といえども岩や木にはあらず・・・もうセンダに夢中、あっという間に陥落してしまった。自分を陥れんが為に、彼女が送り込まれてきたなどとは、夢にも知らない。

仙人道というものは、なかなかたいへんなものなのである。たとえ毎日、露盤(ろはん)の気を舐めていても、愛欲に一旦染まってしまえば、その超能力は完全に消失してしまう。

センダの出現によって、一角仙人は、「ただの人」になってしまった。もはや、気を集中する事ができず、超能力は失われた。彼の肉体は、仙人のそれから生身の人間のそれへと変化、たちまちにして病衰し、やがて、死んでしまった。

その後、センダは宮殿へ帰還、龍神たちは岩中から解放され、天へ飛び去った。その結果、風雨は再び順調となり、農民たちは春の耕作をすることができるようになった。

実は、この一角仙人こそは、釈尊の前世でのお姿なのである、そして、センダは、かのヤショダラ(注5)として、後生において再び、人間としての生を受けたのであった。

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(訳者注5)出家前の釈尊の妻。
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我が国においても、同様の話がある。

かつて、「志賀寺(滋賀県・大津市)の上人(しょうにん)」という、行法修行にすぐれた聖人がいた。

志賀寺上人 (内心)あぁ、なんとかして速やかに、三界(さんがい)の火宅(注6)から離れ、極楽浄土に行きたいわなぁ。

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(訳者注6)「三界」とは、欲界、色界、無色界。その三つの世界とも、燃える家(火宅)のようなものである、との喩。
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常に、このような思いを抱いていたから、富貴の人を見ても、

志賀寺上人 (内心)財産なぁ・・・夢の中の快楽みたいなもんや・・・ようは、この世におる間だけのもんやんか・・・財産いくらあったかて、あの世まで持っては行けませんわいな、ははは・・・。

美人を見ても、

志賀寺上人 (内心)哀れな事に、世の中の男はみんな、こういう美女に執着するんやわなぁ・・・あぁ、すべては迷い、迷い、迷いの色香やわ。

志賀寺上人 (内心)わが隣人は、雲だけで十分。極楽浄土からお迎えが来るまで、この柴の庵には、しばしの宿りや・・・ははは。

志賀寺上人 (内心)とかなんとかいうて、ここに住みはじめてから、もうかれこれ何年になるやろか・・・あの松、ここに庵立てた時に、自分の手で植えたんやったが・・大きぃなったなぁ・・・あの高い枝が、秋の風受けてるさま、見てみいなぁ。

ある日、上人は草庵を出て、琵琶湖岸へ向かった。手には一本の杖を持ち、眉は霜のごとく白い。

志賀寺上人 (内心)さて、と・・・。

上人は、静かな湖水をみつめ、水想観(すいそうかん:注7)を開始・・・ひたすら心を澄ませ、ただ一人、じっと湖岸に立ち尽くす。

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(訳者注7)「「観経」十六観の一。水想・水観ともいう。浄土の大地を観想する方便として行う観法。まず水の清きを観じ、漸次に想を勧めて、彼土の瑠璃の大地の広大寛平にして高下無く、またその光明の内外に映徹すせる有様を観ずるに至るをいう。」(仏教辞典・大文館書店刊より)
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たまたまそこに、宇多(うだ)天皇の后・京極御息所(きょうごくみやすどころ)・褒子(ほうし)が、通りあわせた。「志賀の花園(詳細不明)・春景色観光ツアー」よりの帰途であった。

じっと湖水をみつめ続ける上人・・・その視野を、褒子を乗せた牛車が横切った瞬間、上人の眼は、「見てはいけないもの」を見てしまった。たまたま牛車の窓を上げ、外を見ていた彼女の眼と、上人の眼とが、合ってしまったのである。

志賀寺上人 (内心)あ!(眼、褒子の眼を凝視)

褒子 ・・・。

志賀寺上人 (内心)・・・なんちゅう・・・きれいな人なんやろ・・・。

牛車は通りすぎていく。

志賀寺上人 (牛車の後をじっと見送りながら)・・・なんちゅう・・・きれいな人なんやろ・・・あの人はいったいどこの誰?・・・あぁ・・・。

志賀寺上人 (内心α)あ、あかん、あかん・・・わしは、なんちゅう、けしからん想いを・・・あかん、わしは、修行中の身やぞ!

志賀寺上人 (内心β)・・・あの人は、いったいどこの誰・・・あぁ、それにしてもきれい・・・きれいな人やなぁ・・・。

志賀寺上人 (内心α)おいおい、おまえ、いったい、なに考えてんねん! 今、水想観やってんのんと、ちゃうんかい! あかんやないか! 修行やで、修行やで!

志賀寺上人 (内心β)もう一回、あの人を見たい・・・見たい!

志賀寺上人 (内心α)こらこら、なに考えとんねん! しっかり修行せんかい! 雑念妄想、払うて、しっかり修行せんかい!

志賀寺上人 (内心β)・・・あぁ、きれいな人やったなぁ・・・もう一回、見てみたいなぁ・・・。

志賀寺上人 (内心α)あ、あ、あかん・・・完全に、心的コントロール、失ぉてもてる・・・制御不能、制御不能、あかん、あかん!

上人は、庵に飛んでかえり、心の平衡を取り戻そうと、本尊・阿弥陀如来の前に座し、一心に仏の観念を深めんとした。

志賀寺上人 (内心α)南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。

しかしながらその心中には、さっき見た彼女の顔が鮮明に固着してしまっている。

志賀寺上人 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。

志賀寺上人 (内心β)あぁ、彼女にもう一度、会いたいなぁ・・・なんとか、ならんもんかいなぁ・・・ハァーア。

志賀寺上人 ハァーア・・・(溜息)・・・。

志賀寺上人 (内心α)おいおい、なにやってんねん、念仏や! 念仏! しっかり、念仏せんかいやぁ! 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。

志賀寺上人 (内心β)ハァーア。

志賀寺上人 ハァーア・・・(溜息)・・・あかん・・・どうしても、思い切れへん。

志賀寺上人 (内心α)夕暮れの山の端の雲、見てたら、心も落ち着くかもしれへん。

志賀寺上人 (茜色に染まる雲を凝視)・・・。

志賀寺上人 (内心β)今ごろ、彼女は、あの西の空の、雲の下のどこかに・・・。

志賀寺上人 (内心α)あかんわ、よけい思いが募る・・・よし、月見ながら、詩でも詠んでみよ。

志賀寺上人 月・・・月・・・月の光は・・・。

志賀寺上人 (内心β)あの月の光は、あの人のもとへも、届いてるんやろぉなぁ。

志賀寺上人 (内心α)あかん、あかん! どうしても、彼女のこと、忘れられへん。

志賀寺上人 あかんなぁ・・・今生のこの妄念、どうしても、わが心から離れてくれへん・・・このままでは、来世の極楽往生の障害になってしまうやんか。

志賀寺上人 聞くところによれば、あの人は、天皇陛下の后やという・・・えぇい、この際、思い切って御所を訪ね、わしのこの思いの一端、彼女に告白して、心安く死ぬとしよう。

というわけで、上人は、狐皮の衣を着、鳩頭の杖をつき、泣く泣く、京都へ向かった。

京都へ着くやいなや、上人は御所へ。京極御息所の御殿へ赴き、蹴鞠(けまり)の庭の垣根の側に、一日一夜立ち尽くした。

上人のこのような姿が、皆の目をひかぬはずがない。

女房D なぁなぁ、あこに突っ立ってはるお坊さん、昨日も来てはったん、ちゃうん?

女房E 来てたもなにも・・・昨日の朝からあこに立ち初めてから、ずぅっとあないして、立ってはんのんえぇ。

女房F えぇっ?! 徹夜で、あこに立ってはるぅん?

女房E そうやがなぁ、徹夜やえぇ。

女房G あれ、きっと、なんぞ修行してはんねんわ。いったい、どこのお寺はんの修行僧なんやろかいなぁ。

女房H そんな、エェもんちゃうてぇ。あのカンジでは、どこぞの乞食やでぇ。

女房たちがうわさしているのを聞いた京極御息所は、遠く御簾の中から、うわさの主の方を見た。

京極御息所 (内心)あぁ! もしかして、あれ、あの時のお坊さん?

京極御息所 (内心)まちがいない・・・こないだ、志賀に花見行った時の帰り道、眼と眼、合わせてしもうたお坊さんや。それが、いったいなんでまた、こないなとこまで?・・・。

京極御息所 (内心)あぁ、そうかぁ・・・うちと、眼ぇあわせてもてからに、あのお坊さん、迷いの道に入ってしまわはったんや・・・きっと、そうに違いないわ。あーあ、うちも、罪な事してしもぉたなぁ。

京極御息所 (内心)あないして迷うたまま、今生(こんじょう)の生を終えてしまわはったら、来世にいっても、あのお坊さん、ものすごい苦しまんならんやん・・・いや、もしかして、その咎は、このトラブルの原因作ってしもうた、うちに来てしまうんかも。

京極御息所 (内心)ちょっとだけでも・・・言葉だけでも、かけたげよぉかいなぁ。ほなら、あのお坊さんも、心慰まはるかもねぇ。

京極御息所 ちょっとぉ。

女房D はい。

京極御息所 あのお坊さまをな、こちらへ、お招きしなさい。

女房D えーっ!

京極御息所 えぇから・・・はよ(早)。

女房D はぁ。

御息所からの言葉を聞いて、上人はもう、ヘナヘナ状態。ワナワナと震えながら、垣根の中に歩み入ってきた。

中門をくぐり、御息所の居る御簾の前にひざまづいた。

志賀寺上人 ・・・。

京極御息所 ・・・。

志賀寺上人 ・・・う、う、ううう(涙)・・・。

京極御息所 (内心)あぁ、やっぱりそうやった。この人はうちに・・・まぁ、なんとお気の毒な・・・なんや、恐ろしい気分やなぁ・・・。

御息所は、雪のような手を、御簾の中から少し外へ出した。

志賀寺上人 ああ!(御息所の手に取りつく)。

京極御息所 (ビクッ!)・・・。

志賀寺上人 初春(はつはる)の 初ね(子)の今日の 玉箒(たまははき) 手に取(とる)からに ゆらぐ玉の緒(たまのお)(原文のまま)(注8)

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(訳者注8)(万葉集 巻20 大伴家持作)正月の初めての子の日に、天皇から賜った玉箒を手に持つと、その箒の飾りの玉の緒が揺れてすがすがしい。

御息所の手を玉箒にたとえ、彼女を褒めたたえると共に、感謝の意を込めたのであろう。
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即座に、御息所は返歌を返した。

京極御息所 極楽(ごくらく)の 玉(たま)の臺(うてな)の 蓮葉(はちすば)に 我(われ)をいざな(誘)へ ゆらぐ玉の緒(原文のまま)(注9)

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(訳者注9)この歌に対しての訳者の解釈は、以下の通りである。

御息所は、「上人は今、愛欲の道にとらわれてしまっているから、このままでは、来世に極楽に行く事は不可能であろう」と考えた。それゆえ、上人に対して、「自分以外の人々をも極楽に至らしめる」という僧侶の使命を再度、思い起こさせる為に、この歌を返した。すなわち、

 [御息所に対して向けられた、上人の念](一人の男性が、一人の女性を求める念、愛欲)

に対して、

 [極楽の蓮葉] という、仏教世界の言葉を対置させ、

上記の両者が、アウフヘーベンされることにより、

 [宗教的救済の願い](一人の宗教家が、他の一切の人々に対してさし向ける、救済の願い)

を、上人の心中に生じさせようとした

と、訳者は解釈した。

[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注には、以下のようにあるので、この「返歌」も、太平記作者の創作なのかも。

 「極楽浄土の蓮台の上に、上人さまどうか私を導いて下さい(この歌は太平記以前の他の書には見えぬ)」
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このようにして、京極御息所は、志賀寺上人の心を慰めたのであった。

以上の逸話に見るがごとく、かくも道心堅固(どうしんけんご)なる聖人、久修練行の尊宿(くしゅうれんぎょうのそんしゅく:注10)でさえも、貫徹しがたいのが、発心修行(ほっしんしゅぎょう)の道。

なのに、名家に生れ、富にも恵まれた若き身空(みそら)でありながら、人間社会の浮世の絆(きづな)を離れ、終生隠遁(しゅうせいいんとん)をついになしとげた、斯波氏頼(しばうじより:注11)の心の様は、まことに立派なものであるといえよう。

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(訳者注10)久しく(長期間)、仏道を修した尊い僧侶。

(訳者注11)37-6 に登場。この章(37-7)は、37-6 を補足するような内容になっている。
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太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 37-6 新・幕府執事職、選出される

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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細川清氏(ほそかわきようじ)の離反の結果、足利幕府は、執事(しつじ)不在状態になってしまった。

このままではいけないのでは、ということで、会議が開かれた。

幕府・リーダーA 近年、執事職は細川殿がやってこられてました。でも、あのような事になってしまって・・・今や、敵対勢力の一員ですもんなぁ。

幕府・リーダーB とにかく、後任の人を早く選ばないとね。

幕府・リーダーC 執事不在じゃぁ、政治の全てが滞っちまいまさぁ。

足利義詮(あしかがよしあきら) 問題は、いったい誰に執事職を、そこなんだよなぁ・・・。

幕府・リーダーD あのぉ・・・私、思うにですねぇ・・・斯波高経(しばたかつね)殿のご子息・氏頼(うじより)殿が、適任なんじゃぁ?

幕府・リーダーE あ、斯波氏頼殿、いいですねぇ!

幕府・リーダーF あの人なら、もうそれこそ立派に、執事職が務まるでしょう。

幕府・リーダーG (内心)テヘッ! みんな、今をときめく幕府の実力者・佐々木道誉(ささきどうよ)にゴマすってやがんだよなぁ。だってさぁ、斯波氏頼、道誉の娘婿じゃぁん。

幕府・リーダーA 将軍様、いかがでしょう? 斯波氏頼殿で、よろしゅうございますか?

足利義詮 うーん・・・まっ、いぃんじゃぁないのぉ。

と、いうわけで、斯波氏頼が幕府執事職に内定した。

これを聞いた斯波高経は、

斯波高経 なんだってぇ! 氏頼を執事職?! だめだよ、そんなの。執事職は辞退だ!

高経は、現在の妻から生まれた三男・義将(よしまさ)を寵愛し、先妻から生れた長男と次男を世に出そうという心が無かったのである。

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斯波高経 おそれながら将軍様、せがれの氏頼を幕府執事職に、とのみこころ、私としては、まことにありがたいお話であります。

足利義詮 ・・・。

斯波高経 ですがぁ・・・。

足利義詮 ・・・。

斯波高経 この人選、いささか不適切かと・・・。

足利義詮 ・・・。

斯波高経 ご存じのごとく、執事職といえば、幕府中、最重要、最枢要(すうよう)の職責。ならば、それには、幕府中最高の人材を任命しなければなりません。政治力、統率力、事務遂行能力、意思決定力、人間力、もうそりゃぁ、最高レベルのものが求められるでしょうね・・・世間からの人望、人徳面においても、多くの人々を納得させるだけのものがないと・・・有事の際の幕府全軍を統率する軍事的な能力も、必要となってまいりましょう。

斯波高経 その点ですねぇ・・・私の口からこんな事、申しあげるのも、まことに遺憾な事ではありますがぁ・・・氏頼では、ダメです! 到底、執事職の任に耐えられるような、そんなうつわ(器)じゃぁありません!

斯波高経 ・・・まったくもう、アイツは・・・毎日フワフワ、いったい何考えて生きてんだか・・・フーッ(溜息)。

高経は、あれやこれやと、氏頼の非を列挙し、種々の咎(とが)を述べ立てた。

斯波高経 ・・・まったくもってねぇー、フーッ(溜息)・・・自分の身ぃ一つ、満足に処することができないような男にですよ、いったいなんで、執事がつとまるんです? つとまるもんですかぁ! 氏頼が執事職に就任したひにやぁ、わが日本国は、滅亡の淵に直面する事になりましょうよ。

足利義詮は、とかく、他人の意見に流されやすい人であった。

足利義詮 うーん・・・なるほどねぇ・・・昔の人の言葉にもあるよね、「子を見ること、父にしかず」って。子供の事は、父親が一番よく分かってんだぁ。

斯波高経 ハイ、そうです、そうですとも!

足利義詮 氏頼には、執事職はムリなんだろうなぁ。

斯波高経 ハイ、そうです、ムリです!

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幕府・リーダーA じゃぁ、どうしますぅ? 誰にしますぅ?

足利義詮 氏頼の兄弟は、どうなんだい? 誰かいい人、いないのぉ?

幕府・リーダーB 斯波高経殿は、三男の義将殿を、非常に高く評価しておられるようですねぇ。

足利義詮 じゃ、それでいいじゃない。義将を執事に任命すれば、いいじゃないの。

幕府・リーダーA えーっ、まだ幼い子供ですよぉ!

足利義詮 形としては、[執事イコール義将]ってことに、しといてさぁ、で、父の高経に、実務を仕切らせときゃ、それでいいじゃない。

幕府・リーダーA はぁ・・・。

幕府・リーダーB (内心)ってことはだなぁ、名目上の幕府執事は義将でぇ、その執事の補佐役は父親の高経殿・・・つまり、高経殿は、幕府の事実上の執事となってだなぁ、名目上の執事である義将を補佐する執事となる、すなわち、執事の執事ってわけぇ? あぁ、ややこし!

これを聞いた氏頼は、父を恨んでか、はたまた世をはかなんでか、密かに出家して、どこへともなく、家から去ってしまった。

彼に従う郎従270人も、みんな同時に頭を剃り、思い思いに、斯波家から離れていった。

この氏頼の、父の願望を妨げる事もせずに、わが身の得度を願っての出家遁世(しゅっけとんせい)、まことに類希(たぐいまれ)なる立派な発心(ほっしん)といえよう。

最近の人々は、昨日髪を剃って出家し、まことに尊いように見えても、今日はもう、丸めた頭を隠し、仏道とは完く相容れないような、恥じ知らずな行為をする事が、非常に多い。

氏頼の出家もこれまた、先の先まで道心貫く事ができないのでは、と思えたのであったが、彼は、その志冷める事なく、仏道修行の道を、生終える時まで貫徹した。まことに立派な事である。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 37-5 大将の選定に関する考察(付 高祖と項羽の議帝擁立の逸話)

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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全軍を率いる大将を選ぶに際しては、それなりの方策というものがある。それを無視して不適切な人物を選んでしまうと、戦には勝利できない。

天下が既に平定され、文治をもって世を治めるべき時節においては、智慧のある人材を求める事が最優先課題となる。更に、統治の根本イデオロギーとしては、「仁義」を前面に掲げるべきである。

それゆえ、今まで敵サイドにいた者をも許容し、その人に政治上の重要な任務を与え、統治の手腕を存分に揮(ふる)わせる、といったケースが多々見られる。

その例として、まずは、魏徴(ぎちょう)。彼は、楚(そ)の君主の旧臣であったが(注1)、唐(とう)王朝の太宗(たいそう)は、魏徴を重く用いた。

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(訳者注1)「楚の君主の旧臣」とあるのは、太平記作者の誤りである。
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次に、管仲(かんちゅう)。彼は、公子・糾(きゅう)の寵人(ちょうじん)であったけれども、斉(せい)の恒公(かんこう)は、彼を賞した。(注2)

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(訳者注2)[斉]の君主位の継承者という点において、[公子・糾]と[公子・小白(後の桓公)]は、ライバルの関係にあった。
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逆に、天下未だ混乱状態にして定まらず、というような時節においては、武力をもって世の中を制圧していくより他に道はない。そのような時においては、功績ある者を賞し、咎(とが)ある者を処罰する、といった事が、何よりも重要となってくる。ゆえに、いかなる威勢持つ者であったとしても、降伏してきた人物を大将にすべきではない。

伝え聞くところによれば、秦(しん)帝国の左将軍・章邯(しょうかん)は、自らが率いる40万の兵を引き連れて楚(そ)に降伏したが、項羽(こうう)は、章邯に大将の位を与えなかった。

かの項伯(こうはく)は、鴻門(こうもん)の会見の際、漢(かん)の高祖(こうそ)に心を通じ、彼を助けた。(注3)しかし、項伯が漢に降伏した後、高祖は、項伯に対して、諸侯としての位や領地を与えなかった。

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(訳者注3)28-7 参照。
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このような歴史上の教訓を、吉野朝側の諸卿の誰もが、知っていたであろう。なのに、彼らは、大将選任の失敗を、何度も何度もくりかえしてしまったのである。

まずは、足利直義(あしかがただよし)。彼に対して大将の称号を授け、その兄・尊氏(たかうじ)を討たせようとしたが、ついに実現しなかった。

次に、足利直冬(あしかがただふゆ)。大将の称号を許し、父・尊氏を討たせようとしたが、これも実現しなかった。

更には、仁木義長(にっきよしなが)をも大将に任命し、足利政権の転覆を試みたが、これも失敗に終わった。

今また、細川清氏を大将に任命し、細川家の先祖代々が主君と仰いできた足利家の当主・義詮(よしあきら)を亡さんとしたが、これもまた、失敗に終わった。

これら度重なる失敗の根本原因は、火を見るよりも明らか、大将の選定にある。

前述の理論に反するような大将選任を行い、父兄の道を違えるような行為、主従の義に背くような行為の後押しをしようとしたゆえに、天からの咎めを受けたのである。

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古の世においても、天下を取ろうと願う人は、大将の選定に心したのである。

古代中国・秦帝国の時代、陳渉(ちんしょう)(注4)という者が、「始皇帝(しこうてい)が築いた帝国を、くつがえしてしまえ!」と、自ら大将の印を帯び、大澤(たいたく)という所で旗上げしたが、ほどなく、秦の右将軍・白起(はくき)によって討たれた。

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(訳者注4)別名「陳勝」。[陳勝・呉広の乱]のリーダーである。「白起によって討たれた」とあるのは、太平記作者の誤りである。
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その後、項梁(こうりょう)という者が、自ら大将の印を帯び、楚において旗揚げしたが、秦の左将軍・章邯に討たれてしまった。

項梁の旗の下に集まっていた項羽、高祖らは色を失い、「こうなったら、いったい誰を大将にいただいて、秦を攻めたらよいのだろうか」と、相談しはじめた。

その時、范増(はんぞう:注5)という当年73歳の老臣が、座中に進み出ていわく、

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(訳者注5)28-7 に登場。
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范増 天と地との間における、様々の勢力の興亡、それらはすべからく、理法に依って推移していくのでござる。

対秦帝国・反乱軍リーダー一同 ・・・。

范増 楚は、人口少なき小国ではあるが、かの秦帝国を滅ぼす人は必ずや、楚王の子孫であろう。

対秦帝国・反乱軍リーダー一同 ・・・。

范増 それはいったい何故かといえば・・・秦の始皇帝、かの戦国六大国を亡ぼし、天下を併呑(へいどん)せし際、楚の懐王(かいおう)は、最後まで、秦に背く事は無かった。にもかかわらず、始皇帝は、これといった理由もないのに、懐王を殺し、楚の地を奪ったのである。ゆえに、この行為による罪は秦側に存在し、逆に、善は楚に残っている、といえようかのぉ。

范増 ゆえに、秦を討たんとするならば、なんとでもして、楚の懐王の子孫を一人、頭に仰ぎ、全員、彼の命に従えばよい。

項羽 なるほど!

高祖 (内心)なかなか、良き事をいうではないか、あの范増という男。

項羽 よぉし、では、楚の懐王の子孫を探し出すとしよう。

その結果、懐王の孫・孫心(そんしん)という人が見つかった。彼は、久しく民間に下り、羊を養いながら生きていた。

項羽、高祖らは、孫心を自分たちのリーダーにかつぎあげて、「義帝」と号し、全員等しく、彼の命につつしみ従った。(注6)

その後より、漢と楚の軍は、大いに勢いに乗り始め、秦側は連戦連敗、ついに、秦帝国は滅亡した。

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(訳者注6)ここでは、太平記作者が様々にミスっているようだ。

司馬遷著の「史記・項羽本紀」によれば、范増がこの提案を行ったのは、陳渉の死の直後のタイミングであり、その時、項梁はまだ生きている。しかも、提案を行った相手は、項梁その人なのである。(以下、[史記 上 司馬遷 著 野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦 訳 平凡社] 102P より引用)

 「・・・范増はときに歳七十、平素だれにも仕えず、奇計を好んだが、でかけていって項梁に説いた。「陳勝がやぶれたのは当然のことです。秦は六国を滅ぼしましたが、その六国のなかで、楚が最も罪がなかったのです・・・。」

 「項梁は、その言葉のとおりだと思って、楚の懐王の孫の心(しん)が民間にあって人に雇われて羊を牧しているのを見つけだして、立てて楚の懐王とした。」
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この故事をもってして、つくづくと考察してみるに・・・故・新田義貞(にったよしさだ)・脇屋義助(わきやよしすけ)兄弟は、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の股肱の臣(ここうのしん)として、その武功は天下に並びないものがある。

彼らの子息・新田義宗(よしむね)と脇屋義治(よしはる)は、越前(えちぜん:福井県東部)にいる。両人共に、武勇の道は父に劣らず、才智の面においてもまた、世に恥ずるものはない。

彼らを召して天皇のお側近くに仕えさせ、武将に任命して軍事面を委託していったならば、きっと、うまくいっていたであろうに・・・新田家を軽んじる者など、この世の中には誰一人としていないのだから・・・新田義宗と脇屋義治は必ずや、亡父の旧功の上に、更なる武功を積み重ねていったであろうに。

なのに、彼らをさしおいて、降参不義の人間を、大将に任命したのであった。

このような事をしていたのでは、吉野朝の天皇が天下を奪回する可能性は、0.1%すらも無い。

いったんは戦いに勝ったが、すぐさま、首都を足利幕府に奪い返されてしまったのも、当然の結果であろう。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 37-4 後光厳天皇、京都へ帰還

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝廷・後光厳(ごこうごん)天皇は、未だに近江の武佐寺(むさでら:滋賀県・近江八幡市)に滞在、しきりに気をもんでいた。

後光厳天皇 (内心)京都の方の戦況、いったい、どないなってるんやろかいなぁ・・・ただじっと待つより他ないっちゅうのんは、精神衛生上、ほんま、よぉないでぇ・・・うーん・・・。

京都朝年号・康安(こうあん)元年(1361)12月27日、待ちに待った足利義詮(あしかがよしあきら)からの早馬がやってきた。

転奏役・公卿A 陛下! 朗報ですわ!

後光厳天皇 うん!

転奏役・公卿A 将軍から、以下のメッセージが、

 「何の苦も無く、賊徒たちを京都から追い払う事に成功いたしました。つきましては、急ぎ、御所へご帰還下さいませ。」

京都朝廷・閣僚B 言うてきたかいな!

京都朝廷・閣僚C やったぁ!(パチパチパチ・・・拍手)

京都朝廷・閣僚メンバー一同 やったぁ!(パチパチパチ・・・拍手)

後光厳天皇 うん! うん! うん!(満面に笑み)

この情報に、天皇はじめ、お伴する公家、奴婢下僕に至るまで、喜びあう事、この上なしである。

翌朝さっそく、天皇は随行メンバーらと共に武佐寺を発ち、まずは、比叡山(ひえいざん)東山麓の坂本(さかもと:滋賀県。大津市)へ到着、そこで年を越した。

 さざなみ寄せる 志賀浦(しがのうら)
 荒れて久しい 跡といえども
 昔ながらの 花園は
 春の来るのを 待ちこがれ(注1)

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(訳者注1)原文は、「佐々波よする志賀の浦、荒て久しき跡なれど、昔ながらの花園は、今年を春と待顔なり」。

「さざ波」は、琵琶湖(びわこ)の波である。

これに類似する和歌がある、平家物語にもある平忠度の詠んだ歌、

 さざ浪や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
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京都朝廷・関係緒卿一同 (内心)もうここまで帰ってきたら、都へ帰ったも同然、ここは首都圏やわいな!

とは思いながらも、慣れぬ旅寝のつらさに、緒卿はみな口々に、

京都朝廷・関係緒卿一同 一日も早い、陛下の首都ご帰還を!

しかし、

京都朝廷・閣僚B そないに、簡単に行くかいなぁ。

京都朝廷・閣僚C そうやでぇ。御所は荒れ放題やもんなぁ。

京都朝廷・閣僚D そうですわなぁ・・・元からただでさえ、ろくに諸官庁もなにも整うてへん、里内裏(さとだいり:注2)でしたもんねぇ。

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(訳者注2)仮設御所。后の実家等に天皇が住み、そこを御所とした。
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京都朝廷・閣僚E あの、昨年12月8日の、京都脱出の大騒動で、垣根も格子戸も、破れ失せてもうてますわいな。

京都朝廷・閣僚B 御簾(みす)や畳まで、無(の)ぉなってしもてる、いうやん?

京都朝廷・閣僚E そうだす、そやから、まずは、修理せんと・・・ご帰還は、それからですわなぁ。

というわけで、そのまま、春の終わり頃まで、坂本に滞在することになった。

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昨今は、どのような細かい事であっても、朝廷の意向だけでもって、決めるわけにはいかない・・・万事、足利幕府におうかがいを立て、幕府から了承されてからでないと、事が運ばない。

朝廷はさっそく、里内裏修理の件を、足利幕府に打診してみた。

幕府からは、「オーライ(All Wright)、了解です」との返答が、もたらされた。

ところが、そこから先へ、一向に話が進んでいかない・・・ただ、時間ばかりが過ぎていく。

京都朝廷・閣僚B そうそう、いつまでも、京都の外でのお住い、陛下にしていただくわけには、いかんやろう。

京都朝廷・閣僚メンバー一同 そうですねぇ。

というわけで、3月13日、後光厳天皇は、西園寺実俊(さいおんじさねとし)の旧宅・北山殿(きたやまどの)へ、入った。

ここは、后妃らが遊宴を催したり、先の天皇たちが訪れた場所、かつては、楼閣(ろうかく)玉を鏤(ちりば)め、客殿は雲に聳(そびえ)る、まことに美麗な所であった。

しかし、昔の面影、今やいずこ、きらびやかに彩色された妙音堂も、瑠璃(るり)を展(の)べた法水院も、年々荒れ果てる一方で、以前とは全く、様変わりしてしまっている。

岩下(がんか)の松風は、まるで雨の音のよう、門前の柳は、乱雑に細枝を伸ばし放題、かの中国・東晋(とうしん)王朝時代の陶淵明(とうえんめい)の旧跡、あるいは、唐王朝時代の鄭薫(ていくん)の幽棲(ゆうせい)場所もかくやと思わせるほど、さびしい限りの状態である。

春の間ずっとここで住んでいるうちに、諸役所の修理も、なんとかかっこうだけはつき、4月19日に、もとの里内裏へ、天皇は帰還した。

随行の公家達の様子に、さしたる美麗さが見られなかったのにひきかえ、辻々を警護する護衛の武士たちは皆、周囲に輝きを発するかのように、感じられた。

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細川清氏(ほそかわきようじ)の吉野朝サイドへの転身は、吉野朝廷にとっては、まことに歓迎すべき出来事であったといえよう。

後村上天皇(ごむらかみてんのう) 細川清氏は、近年、幕府・執事(しつじ)職の地位にあった人間や。彼に従ぉてる武士は、それこそ幾千万人っちゅう、ものすごい数やと、聞いてるが。

吉野朝廷・閣僚F リーダーとしての統率力に優れてるっちゅうだけや、おまへんわなぁ。彼本人もまた、武芸の達人、無双の勇士やとの、もっぱらの評判ですわ。

吉野朝廷・閣僚G そのような人物が、わがサイドへ降参してきたっちゅう事はですな、これはひとえに、陛下の帝徳が天の意にかのぉ(叶)てるっちゅう事の、何よりの証拠ですやん。

吉野朝廷・閣僚H 細川清氏の武徳をもってするならば、天下平定、新たなる時代の展望が、確実に開けてこようというものですよ。

このように、天皇はじめ諸卿こぞって喜び、軍門に下ってきた清氏に対してそく、大将の位を与えたのであった。

しかし、その期待も空しく、清氏への厚遇は、全く何の実効をも、もたらさなかった。

去年の冬の、あの吉野朝勢こぞっての京都進出、足利義詮を首都から追い落とし、暫くの間、勢威をふるったあの時においてさえも、清氏のもとに新たに馳せ参じてくる勢力は、皆無であった。

それから程無く、吉野朝勢は京都から撤退。清氏は河内国(かわちこく:大阪府東部)に居を構えたが、旧交を慕ってたずねて来る者は、ほとんどいなかった。

まさにかの、古代中国・前漢(ぜんかん)時代の李(り)将軍(李広)の、失脚後の逸話そのものの状態である。(注3)

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(訳者注3)司馬遷著の「史記・李将軍列伝」に以下のような記述がある。([史記 下 司馬遷 著 野口定男 訳 平凡社]より引用。【】内の記述部分は、訳者が補ったものである。)

「【李広は】ある夜、一騎を従えて外出し、人々と野外で酒を飲み、帰途、覇陵(陝西省)の亭にさしかかると、覇陵の尉(盗賊係の役人)が酔っていて、広【(李広)】をどなりつけて止めた。広の従者が、「この方は、もとの李将軍だ」と言ったが、尉は、「現職の将軍でさえ、夜間の通行はできない。まして、もとの将軍などなおさらのことだ」と言って、広を亭に留置した。」
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細川清氏 (内心)あぁ、もう、どうしようもないなぁ・・・。

細川清氏 (内心)よぉし、四国へ渡ろう。あちらには長年、わが細川家に仕えてきた連中らが、おおぜいいるからな。おれのもとに、参集してきてくれるかも。

1月14日、清氏らは、小舟17隻に分乗して海を越え、阿波国(あわこく:徳島県)へ移動した。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 37-3 吉野朝軍、京都から撤退

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝側の思惑としては、

 今回の京都奪還に成功し、足利勢力を首都の外へ追いやってしまいさえすれば、自然に事は成っていくであろう。あの元弘(げんこう)年間の打倒・鎌倉幕府の時と同様、全国の武士たちが、幕府支持勢力からこぼれ落ちて、こちらサイドになびいてくるであろう。

と、いう事であった。

ところが、案に相違して、新たに帰参してくる武士は、誰もいない。

九州の菊池(きくち)、伊予(いよ:愛媛県)の土居(どい)、得能(とくのう)、周防(すおう:山口県南部)の大内(おおうち)、越中(えっちゅう:富山県)の桃井(もものい)、そして、新田義宗(にったよしむね)、脇屋義治(わきやよしはる)をリーダーと仰ぐ新田一族など、吉野朝サイドの武士は、全国に数多くいるのだが、ある者は京都までの途中の道を塞がれ、ある者は勢力未だ十分ならず、誰も、京都までやってはこれないのである。

さらに、伊勢(いせ:三重県中部)の仁木義長(にっきよしなが)は、土岐頼康(ときやすより)が築いた向かい城の攻略を試みるも敗北し、再び、城に引きこもらざるをえなかった。

山陰地方の山名時氏(やまなときうじ)は、しばらく兵の疲れを休めなければ、ということで、美作(みまさか:岡山県北部)から撤退し、伯耆(ほうき:鳥取県西部)へ帰還した。

赤松範実(あかまつのりざね)は、養父・赤松則祐(のりすけ)からの様々の勧誘と宥(なだ)めに応じて、再び、播磨(はりま:兵庫県西部)へ戻ってしまった。

これらの情報をキャッチした全国の足利サイド勢力は、またまた、元気がわいてきた。

足利側勢力メンバー一同 勢力挽回のチャンス、来たぁー!

「さぁ、京都へ攻め上れ!」と、越前(えちぜん:福井県東部)からは斯波高経(しばたかつね)の子息・斯波氏頼(うじより)が3,000余騎を率いて、近江(おうみ:滋賀県)の武佐寺(むさでら:滋賀県・近江八幡市)(注1)へかけつけてきた。

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(訳者注1)37-2 で、京都を離れた足利義詮は、ここに移動している。
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佐々木高秀(ささきたかひで)(注2)と小原備中守(こはらびっちゅうのかみ)は、白昼堂々、京都の中を通過して、佐々木道誉(ささきどうよ)の軍に合流。道誉は、その軍勢を合わせて700余騎の勢力を率い、野路(のじ:滋賀県・草津市)、篠原(しのはら:滋賀県・野洲市)で、友軍の到着を待った。

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(訳者注2)37-2 では、忍常寺(大阪府・茨木市)に布陣した、とある。ここから北東に進んで京都へ至り、京都の中心部を通って滋賀県へ移動した、という事であろう。
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土岐(とき)氏・桔梗一揆(ききょういっき)武士団は、伊勢に築かれた[対・仁木義長攻略・向かい城]から500余騎を割き、鈴鹿(すずか)越えルート経由で近江へ進軍し、篠原宿で佐々木軍に合流した。

この他にも、佐々木崇永(ささきそうえい)、今川了俊(いまがわりょうしゅん)、宇都宮三河入道(うつのみやみかわにゅうどう)率いる軍勢1万余騎が、12月24日、武佐寺を出発、同月26日、その先陣が、瀬田(せた:滋賀県・大津市)に到着した。

丹波(たんば:京都府中部+兵庫県東部)からは、仁木三郎(にっきさぶろう)が、山陰道方面の勢力700余騎を率い、京都めざして攻め上ってくる。

播磨からは赤松軍が、二方面進軍作戦を展開、赤松貞範(さだのり)と赤松則祐が率いる1,000余騎は、陸路で京都を目指し、兵庫(ひょうご:神戸市・兵庫区)に到達。赤松氏範(うじのり)率いる500余騎は、軍船を仕立てて大阪湾を横断、堺(さかい:大阪府・堺市)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ上陸して、吉野朝廷の後村上天皇を捕ら、楠(くすのき)らの退路を塞いでしまえと、ひたひたと、海路を進んでくる。

「とにかくがんばって、首都さえ掌握していれば、何とかなるだろう」と、最初のうちは言っていた吉野朝サイドのリーダーたちも、「四方から、敵軍、雲霞(うんか)のごとく、京都に迫りつつあり!」との情報に、

吉野朝軍リーダーA 京都占拠にこだわり続けんのんも、あんまし、得策とは言えんわなぁ。

吉野朝軍リーダーB このままでは、今回の作戦の成果を、いっぺんに帳消しにしてまう事に、なるかも。

吉野朝軍リーダーC 同感です。ここはいったん全軍、本拠地へ退いた上で、後日の再攻勢を期すべきでしょう。

吉野朝軍リーダーD 四国と九州に大将クラスの人間を派遣して、現地の我がサイド勢力と協力し、その地方を完全に制圧してしまう。さらには、越前、信濃(しなの:長野県)の勢力、山名や仁木ともしめしあわせた上で、再度、京都を制圧する、というのが、よろしいかと。

吉野朝軍リーダー一同 よし、それで行こ!

12月26日夜、吉野朝軍は京都を撤退、宇治(うじ:京都府・宇治市)を経由して、天王寺、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)へ帰還した。

同月29日、それと入れ替わりに、足利義詮は京都へ帰り、首都を奪還した。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 37-2 足利義詮、京都から逃走

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷サイドは軍編成を完結、いよいよ、京都奪回作戦がスタートした。

公家グループの大将は、二条殿(注1)、四条隆俊(しじょうたかとし)。

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(訳者注1)
[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注では、「二条師基か。・・・」とある。
[新編 日本古典文学全集57 太平記4 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、「・・・師基息、教基か。」とある。
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武家グループの大将は、石塔頼房(いしとうよりふさ)、細川清氏(ほそかわきようじ)と弟・細川頼和(よりかず)、和田正武(わだまさたけ)、楠正儀(くすのきまさのり)、湯浅(ゆあさ)、山本(やまもと)、恩地(おんぢ)、贄川(にえかわ)。

吉野朝年号・正平(しょうへい)16年(1361)12月3日、総勢2,000余騎の軍勢が、住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)と天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)に勢揃いした。

さらに、淡路国(あわじこく:兵庫県・淡路島)からは、細川氏春(ほそかわうじはる)率いる軍船80余隻が、瀬戸内界を渡り、堺の浜(さかいのはま:大阪府・堺市)に到着。

さらに、赤松範実(あかまつのりざね)からは、「摂津国(せっつこく)・兵庫(ひょうご:神戸市・兵庫区)から出陣し、速やかに、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)へ攻め寄せる!」とのメッセージが寄せられた。

「吉野朝軍、首都・総攻撃!」のニュースに、京都・白河(しらかわ:左京区)一帯は大パニック状態、身分の上下を問わず、皆、家財を鞍馬(くらま:左京区)や高雄(たかお:右京区)へ持ち運び、家の蔀(しとみ)や引戸(ひきど)を完全に取り外す。

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吉野朝軍の攻撃に備え、足利義詮(あしかがよしあきら)は、12月2日から東寺(とうじ:南区)に陣取っていた。

足利義詮 着到(ちゃくとう:注2)リスト、どんなぐあい? どれくらい、集まってるぅ?

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(訳者注2)兵力動員に応じて集まってきた武士の氏名を、記録したもの。
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義詮側近・メンバーA 譜代(ふだい)と外様(とざま)合わせて、4,000余騎といった所ですね。

足利義詮 敵兵力よりもこっち側の方、遥かに多いんじゃぁん。だったら、京都の外へ出てっても、十分防げるよなぁ。

というわけで、幕府有力メンバーらが、各方面軍の司令官に任命された。

佐々木高秀(ささきたかひで)は、現・侍所(さむらいどころ)長官だから、ということで、摂津国へ派遣された。摂津は、父・佐々木道誉(ささきどうよ)が守護職の任にある地ゆえ、国中の勢力を集めて500余騎、忍常寺(にんじょうじ:大阪府・茨木市)に陣を取り、吉野朝軍が眼下に寄せ来たるタイミングをじっと待った。

今川了俊(いまがわりょうしゅん)は、三河(みかわ:愛知県東部)と遠江(とおとうみ:静岡県西部)勢700余騎を与えられ、山崎へ向かった。

吉良満貞(きらみつさだ)、宇都宮貞宗(うつのみやさだむね)、佐々木黒田判官は、大渡(おおわたり:位置不明)へ向かった。

残りの兵1,000余騎は、淀(よど:伏見区)、鳥羽(とば:伏見区)、伏見(ふしみ:伏見区)、竹田(たけだ:伏見区)で待機した。

義詮は、親衛隊1,000余騎と共に、東寺(南区)の中にたてこもった。

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12月7日、吉野朝軍は、淀川を越えた地点で作戦会議を行った。

その場において、細川清氏は、前へ進み出ていわく、

細川清氏 京都に布陣している軍勢の各グループの兵力、兵員メンバーたちの気風、私は、何もかも知り尽くしてますよ。ですからね、皆さん、今回のこの戦、どうか私を信頼していただいて、私の言う通りにしてくださいませんでしょうか。

吉野朝軍リーダー一同 ・・・。

細川清氏 まず、私が、全軍のまっ先切って、山崎へ向かいましょう(注3)。進軍ルート途中の忍常寺に、佐々木高秀が布陣しているようですね・・・兵力何千という数のようですけど、あえて、矢の一本も射てはこないでしょうよ、彼は。

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(訳者注3)原文には、「先(まず)清氏後陣に引へて、山崎へ打通り候はんに」とあるのだが、「後陣」に下がってから山崎へ向かう、というのでは、これ以降のストーリー展開に矛盾するし、この前にある清氏の言葉とも不調和な感じである。ゆえに、ここは訳者の独断で、「全軍のまっ先切って」とした。
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細川清氏 山崎を守っているのは、今川貞世(いまがわさだよ)・・・ですか・・・ま、彼も、どうってこたぁないでしょう(注4)。

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(訳者注4)原文では、「山崎を今河伊予守が堅て候なる。是又一軍までも有まじき者にて候。」。

今川貞世は、出家後、「了俊」の法号を名乗ったが、下記によれば、この話の時点では未だ出家していないので、「貞世」としておいた。

 「ちなみに、貞世であるが、ふつうには、貞治六年十二月、二代将軍義詮の死をきっかけに剃髪出家したときの法号了俊の名の方が有名なので・・・」([駿河・遠江国守護 今川氏 小和田哲男 著)([歴史と旅1997/9/5増刊号 守護大名と戦国大名 秋田書店] 中の150P)
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細川清氏 と、いうわけで、我々はあっという間に、京都中心部に突入、という事になりましょうねぇ・・・さぁ、ここからが大事なポイント、よぉく、聞いといてくださいよ。

細川清氏 京都中心部での戦闘に入ったらね、大和(やまと:奈良県)、河内(かわち:大阪府東部)、和泉(いずみ:大阪府南部)、紀伊(きい:和歌山県)の諸君、全員、馬から下りて、徒歩で進むようにしてくださいな。

吉野朝軍リーダーB えっ、徒歩?

細川清氏 そうです、徒歩です、徒歩で進むんです。まずは、最前線に盾を一面に突き並べ、防御壁を形成する。防御壁の後ろには、槍(やり)と長刀(なぎなた)を持った兵員を、グループ編成して配置・・・そうですねぇ・・・1グループ当たり、500ないし600人くらいの編成でいいでしょう。

細川清氏 向うはきっと、騎馬で、つっかかってくる・・・で、かかってくる馬の、胸先と腹を狙うんだ、槍と長刀でね・・・この戦法、絶対にうまくいきますってぇ・・・馬は続々、倒れていく・・・全員、続々、馬上から跳ね落とされていく。

細川清氏 このようにして、鉄壁の盾の防御壁で守られた槍・長刀部隊を、グイグイ前進させていく。「一足前へ進むとも、一歩も後ろには退かんぞ!」ってな気色を見せ付けてやりゃぁ、向うは、もう二度と、かかってこれなくなってしまう。

細川清氏 向こうがたじろいだその瞬間を逃さず、石塔頼房殿、赤松範実殿、そして私の軍勢を一手に合わせて、イッキに突撃、敵軍の中央を突破。さぁ、そうなったらもう、こっちのマイペース、義詮様の姿を目にしたら最後、将軍もそうそう遠くまでは逃げられない!

細川清氏 どうです? こうやりゃぁ、天下の形成、あっという間に、カタがついてしまうじゃないですかぁ。

吉野朝リーダー一同 その作戦、えぇねぇ! よし、それでいこや!

と、いうわけで、吉野朝軍は、中之島(なかのしま:大阪市・北区)を越え、京都を目指して進軍した。

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その後の展開は、清氏の言葉通りに、推移(すいい)していった。

まず、忍常寺の麓を通過する際には、

吉野朝リーダーC (内心)「佐々木高秀は、矢の一本も射てきぃひん」てな事、細川、言うとったけどなぁ・・・ほんまやろかぁ?

吉野朝リーダーD (内心)佐々木は、侍所長官やでぇ、いくらなんでも、プライドっちゅうもんがあるやろがぁ。

吉野朝リーダーE (内心)こないだの戦では、甥二人、この摂津の地で、楠に討たれてしもてるしなぁ。(注5)

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(訳者注5)36-5 参照。
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吉野朝リーダーF (内心)「今日は、こないだの雪辱戦やぁ!」いうて、おれら待ちかまえとんのん、ちゃうやろか。ものすごい激戦になっていくんやろうなぁ。

しかし、佐々木高秀は細川清氏に圧倒されて臆したのであろうか、矢を一本も射る事なく、おめおめと、吉野朝軍が眼下を通過するのを許してしまった。

吉野朝リーダーC (内心)へぇ、意外な展開になってもた。

吉野朝リーダーD (内心)細川の予想通りに、なってしもたやんけ。

吉野朝リーダーE (内心)そやけど、問題は、この次の山崎や。山崎で、一戦やらかす事になんのんちゃうやろか。

吉野朝リーダーF (内心)今川は、そうそうすぐには、退いてはくれまへんでぇ。

ところが、今川了俊も、「これは、とてもかなわない」と思ったのであろうか、一戦もせずに、鳥羽(とば:伏見区)の秋山(あきやま)へ退いてしまった。

これを見て、あちらこちらに陣を取っている幕府側勢力メンバーは、未だに吉野朝軍が接近しない前から、逃げじたくの他余念無し、といった状態に。

足利義詮 (ガックリ)だめだぁ、こりゃぁ・・・。(天を仰ぐ)

足利義詮 こんなんじゃぁ、とても勝負にならない。よし、とにかく、京都を撤退、関東、北陸からの援軍を待とう。

12月8日早暁、足利義詮は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を護衛しつつ、苦集滅道(くずめじ:東山区の清水寺付近)経由で京都を脱出して、瀬田(せた:滋賀県・大津市)へ到着し、そこからさらに移動して、近江の武佐寺(むさでら:滋賀県・近江八幡市)へ入った。

君主と臣下の関係は、舟と水のそれのようなものである。

水は、舟を浮かべる。そして、時には、舟を覆してしまいもする。

一昨年の春、細川清氏は、幕府執事職に就任し、将軍・足利義詮を補佐する立場となった。しかし、今年の冬、清氏はたちまちに幕府の敵となって、将軍を傾け奉った。

この事象を通して、まさに我々は、かの古代中国・唐王朝の名臣・魏徴(ぎちょう)が太宗(たいそう)皇帝を諌(いさ)めたという、貞観政要(じょうがんせいよう)の一節の重さを、思い知らされるのである。(注6)

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(訳者注6)[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店] の[巻三十七 補注二]によれば、貞観政要の巻十、災祥篇に、君主は舟で臣下は水である、というような事が記されてはいるが、それと魏徴とは無関係である、とのことである。よって、ここは、太平記作者のミス記述であろう。
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同日夜、吉野朝軍は京都に進入し、足利義詮邸を焼き払った。

「首都中心部において、戦闘は全く無し、そこから去りゆく軍勢、そこへ進入してくる軍勢、双方共に、住民に危害を加えることも皆無」という、大方の予想に反した展開となり、京都と白川では、つい先日までの騒然とした状態から一変して、静かで落ち着いた状態になった。

京都からの脱出の際、佐々木道誉(ささきどうよ)は、

佐々木道誉 わしんち(我館)は、きっと、あっち側の重要メンバーが占領する事になるんだろうからね・・・。

道誉は、自邸を見苦しくないように清掃させた。そして、六間の客殿に、大きな紋つきの畳を敷き並べ、中央と両脇の掛け軸、花瓶、香炉、茶釜、盆に至るまで、全て準備した。

書院の間には、王義之(おうぎし)筆の草書の偈(げ)、韓愈(かんゆ)の漢文集の掛け軸を、寝所には、沈香(じんこう)製の枕、緞子(どんす)地の絹製の夜具を用意した。

さらに、十二間の夜警室には、鳥、兎(うさぎ)、雉(きじ)、白鳥の肉を3本の棹に懸け並べ、容積3石ほどの大筒に酒を満たし、遁世者二人を留め置いて、

佐々木道誉 誰でもいいから、ここへ来た人には、一献(いっこん)進めるんだぞ、わかったな。

遁世者G ハハッ!(平伏)

遁世者H ハハッ!(平伏)

このように、細々と言い置いた上で、道誉は京都から出ていった。

佐々木邸へ一番に乗り込んできたのは、楠正儀(くすのきまさのり)であった。二人の遁世者が、彼を出迎えた。

遁世者G これはこれは!

遁世者H ようこそ、おこし!

遁世者G まずは、一献、召し上がれ!

楠正儀 なんや? おまえらいったい、ナニモンや?

遁世者H 「きっと、拙宅へもどなたかおこしになるやろから、その方に一献進めよ」と、佐々木道誉様から、しかと申し置かれとりましてなぁ。

楠正儀 へぇー、そないな事言うて、出ていきよったんかいなぁ・・・。

遁世者H はいなぁ。

佐々木道誉は、細川清氏の不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であったから、「佐々木邸、断固、焼き払うべし!」と、清氏らは憤っていた。

しかし、道誉のこの粋なはからいに、正儀は感動し、館をそのままにしておいた。その後も、泉水の樹木一本も損なう事なく、客殿の畳一畳を傷つける事も無かった。

後日、京都を去る際に、正儀は、その礼に応える形で、道誉に邸宅を返却した。すなわち、道誉が用意したのよりもさらに盛大な酒肴を夜警室に取りそろえ、寝所には秘蔵の鎧と銀製の太刀一本を残し、郎等二人を留めおいた上で、佐々木邸を去っていったのである。

世間の声I いやぁ、それにしても、佐々木道誉さん、さすがだわねぇ。

世間の声J たとえ、敵であったとしてもだ、客人に対しては礼儀深く、手厚くもてなすべしってわけだなぁ。

世間の声K ほんと、風情(ふぜい)を解してるというか、なんというか。

世間の声L まさに、最高に、イキナオヒト(粋人)っちゅう、かんじどすなぁ。

世間の声多数・α(アルファ)グループ いやぁ、同感ですぅ。

世間の声M フフフフ・・・。

世間の声L あんさん、なにそないに、笑ぉといやすねん?

世間の声M ウフフフ・・・あのっさぁ、あんたたちってっさぁ、ほんと、アマ(甘)チャンなんだよねぇーぇ。

世間の声J なんでだよ?

世間の声I いったいぜんたい、あたくしのどこが、アマチャンだっていうんです、えぇ?!

世間の声M ウッフッフッフッ・・・。

世間の声J このぉ、ヒト(他人)をバカにしゃがって! ただじゃおかねえぇぞ!

世間の声I あたくたちしのどこが、アマチャンだってんですか、はっきりおっしゃってくださいな、はっきり!

世間の声M あのっさぁ、ようはっさぁ、楠正儀が、バクチに負けたって事なんだっよぉ!

世間の声N バクチ? いったいなんの事どす?

世間の声M 一世一大の大バクチヤロウ・佐々木道誉がうった手に、マンマとハマッちゃってっさぁ、太刀と鎧、取られちゃったんだよぉ、楠はねぇ。

世間の声O なぁるっほどぉ・・・それ、言えてるわなぁ、ウワハハハ・・・。

世間の声P うーん、相当、穿(うが)った見方だけど、なかなかおもしろい見解だね。

世間の声Q はぁ・・・バクチのカタに、鎧と太刀持っていかれてもたんかぁ・・・言われてみれば、そないなフウに、わたいにも思えてきましたわいな、ウワハハハ・・・。

世間の声多数・β(ベータ)グループ いやぁ、同感ですぅ、ウワハハハ・・・。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 37-1 吉野朝廷、京都攻略を検討

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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細川清氏(ほそかわきようじ)の意志を天皇に奏上するために、石塔頼房(いしとうよりふさ)は、吉野朝廷に参上した。

石塔頼房 細川清氏より、以下のごとくのメッセージを託されてまいりました。彼いわく、

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不肖(ふしょう)、細川清氏、お御方(みかた)に参上いたしました事により、四国、関東、山陰、東山(とうさん)の地において、義兵の旗が、続々と揚がっております。

京都は元々、防備の兵力が薄いのです。その上、細川頼之(ほそかわよりゆき)と赤松則祐(あかまつのりすけ)は、山名時氏(やまなときうじ)の進出を防ぐので、ていっぱい、自らの本拠地に釘付け、身動きが全く取れない状態にあります。

土岐(とき)、佐々木(ささき)たちもまた、仁木義長(にっきよしなが)との戦のさ中です。双方、互いにささえあって、やっと仁木に対峙(たいじ)できている状態ですから、彼らもまた、京都へ駆けつけてはこれません。

京都は今や、防ぐ兵も無く、援軍もやってはこない、足利幕府は、もうどうしようもない状態にあります。京都を攻略なされるに、絶好のチャンスです!

一刻も早く、和田(わだ)、楠(くすのき)以下の朝廷軍リーダーらに、清氏に合力するように、お申しつけくださいませ。清氏、朝廷軍のまっ先駆け、たった1日でもって、京都を攻め落としてご覧に入れましょう。陛下の京都へのご臨幸、年内にも可能となりましょう。」
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石塔頼房 陛下、なにとぞ!(平伏)

後村上天皇(ごむらかみてんのう) ウーン!(深くうなづく)

天皇はすぐに、楠正儀(くすのきまさのり)を呼んだ。

閣僚A ・・・と、いうような事をやな、あの、細川清氏が言うてきたんやわ。

楠正儀 ・・・(平伏)。

後村上天皇 正儀、どない思う?

楠正儀 ハハッ・・・(平伏、じっと思案)。

後村上天皇 ・・・。

楠正儀 ・・・(上体を起こし、威儀を正した後)延元(えんげん)元年(1336)1月16日、京都での戦いに敗れた故・足利尊氏(あしかがたかうじ)は、九州へ逃走しました。(注1)

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(訳者注1)15-6, 15-7 参照。
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楠正儀 以来、朝敵が京都から逃走する事、すでに5回。しかし、天下の士卒中、朝廷に忠節つくす者はなおも少数・・・ゆえに、朝廷軍は毎回、京都をしっかりと守りぬく事ができませなんだ。

楠正儀 「短い期間だけでもえぇから、京都を確保せい」という事でしたらね、細川清氏の力なんか借りる必要、全くありませんわいな。私一人の軍勢で、十分ですわ。

楠正儀 問題は、京都を確保しつづける事、守りぬく事なんですわ・・・いったん逃げ出した敵が、再び京都に攻め寄せてきよった時、いったいどこの国の誰らが、我々の援軍にきてくれるんか。

楠正儀 再び退く事を恥じ、あくまでも京都に踏みとどまって戦う、という事になったとしても・・・四国地方、中国地方の敵は、瀬戸内海を軍船で進み、大阪湾から上陸して、我々の背後を襲うでしょう。美濃(みの:岐阜県南部)、尾張(おわり:愛知県西部)、越前(えちぜん:福井県東部)、加賀(かが:石川県南部)の朝敵どもは、宇治(うじ:京都府・宇治市)、瀬田(せた:滋賀県・大津市)の両方向から押し寄せてくるでしょう。

楠正儀 寄せ来る大軍と決戦、そないなったら、再び、天下を朝敵に奪われてしまう事は、火を見るよりも明らか。

楠正儀 こうは申しましても、しょせん、愚案短才(ぐあんたんさい)のわが身、朝廷のご決議に対して、とやかく言えるような立場ではございません。とにもかくにも、陛下のご命令に従い申しあげるまでですわ。

後村上天皇 ウーン・・・。

閣僚メンバー一同 ・・・。

後村上天皇 (内心)あぁ・・・京都へ帰りたい!

閣僚メンバー一同 (内心)京都へ帰りたい、帰りたい、帰りたぁい!

天皇をはじめ、皇族、后妃(こうき)、文武の官僚、みな、「住み慣れた京都に、いま一度!」の切なる思い、どうにもこうにも断ち切り難い。

後村上天皇 そうやなぁ・・・。

閣僚メンバー一同 ・・・(天皇の方を注視)。

後村上天皇 たった一夜の旅寝でもえぇ・・・京都へ帰りたい・・・帰りたいんや、あこへ・・・京都の御所へ・・・。

閣僚メンバー一同 (内心)同感、同感! 自分の思いも、陛下と全く同じですわいな!

楠正儀 ・・・(平伏)。

後村上天皇 問題は、その後か・・・そうやなぁ・・・京都をまた離れんならんようになったとしたら・・・その夜、御所で見た夢を思いだしながら、生きていく事にするわ、なぁ、正儀・・・ハハハハハ・・・。

というわけで、閣議も一決、京都奪還作戦の開始となった。

閣僚A で、問題は、進軍開始のタイミングやなぁ・・・いつがえぇ?

閣僚B 早い方が、えぇでしょう。

閣僚C 来年になってからでは、ヤバイですよ。来年から3年間、北塞(きたふさ)がり(注2)になりますよって。

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(訳者注2)原文では、「諸卿の僉義一同して、明年よりは三年北塞りなり、」。「北塞り」とは、「大将軍が北方に位置する事になるので、北方へ向かって攻めるのはまずい」との意味であろう。
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閣僚D 年内に、京都の朝敵を攻め落とし、陛下、めでたく首都へご帰還っちゅうセンで、どないでっしゃろ?

閣僚メンバー一同 OK、OK!

閣僚C ほならさっそく、軍勢動員命令を発行、ということに・・・。

閣僚A よっしゃぁ!

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年5月 6日 (日)

田村洋子 さん の 木版画展に行きました 2018年 5月

2018年5月に、[ギャラリー モーニング] に行きました。京都市の、地下鉄東西線・東山駅 あるいは 蹴上駅から 徒歩圏内、三条通り ぞいにあるギャラリーです。

[田村洋子 木版画展](2018.5.1 ~ 5.6)という展覧会に行ってきたのです。

田村洋子さん と ギャラリー モーニングさん よりの許可をいただいて、展覧会場に展示されていた田村さんの作品の中から、数点を撮影し、ここに紹介させていただきます。

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下記は、ギャラリー モーニング の外観です。ギャラリー モーニングさん よりの許可をいただいて撮影しています。

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田村洋子さんは、奈良県・生駒市に生まれられたのだそうです。

田村洋子さんのウェブサイトは、下記です。

木版画作家 田村洋子 オフィシャルサイト

«太平記 現代語訳 36-7 反幕府勢力、東西に台頭

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