2018年9月21日 (金)

新作動画の発表 [仮想の器 No.4 水 流れる 葉 動く(コンピューターグラフィックス)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

下記でご覧になることができます。

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仮想の器 No.4 水 流れる 葉 動く(コンピューターグラフィックス)
コンピューターグラフィックス 制作者:runningWater
      ( Javaを使用して制作 )

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私が制作した動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

https://creofuga.net/runw
ここをクリックしてください。

新作動画の発表 [仮想の器 No.3 水 流れる(コンピューターグラフィックス)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

下記でご覧になることができます。

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2018年9月18日 (火)

仮想の器 コンピューター・グラフィックスによる動画制作 Java と OpenCV3 を使って

[仮想の器]という制作テーマによる、コンピューター・グラフィックスによる動画制作を行いました。

制作作業の結果、できたのが、下記の動画です。(ユーチューブ上にアップロードしてあります。)

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仮想の器 No1

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/zZxfCUd8DRM

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仮想の器 No2 鳥 動く

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/cEKNc1hPgcA

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仮想の器 No.3 水 流れる

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/sJ0lGW1iek8

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これらは、仮想の器の表面に、あたかも画像が貼り付けられているかのようなイメージとなるように、動画を制作した、というものです。

[仮想の器 No1]においては、貼り付けられる画像は、静止画像ですが、[仮想の器 No2]、[仮想の器 No3]においては、動画の画像が貼り付けられるようにしたので、器の表面の画像が時間と共に変化していくようになっています。

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これらの動画を制作するために使用したものは、下記の通りです。

コンピューター

 CPU : Core(TM) i7-7700HQ
 メモリー : 16 GB
 Operating System : Windows 10 Home, 64ビットオペレーティングシステム

OpenCV3

 opencv-3.4.3-vc14_vc15.exe

Java

 jdk-8u181-windows-x64.exe

なお、

opencv3 と Java を組み合わせて使用する方法については、下記に発表ずみです。

開発費用ゼロ コンピューターグラフィックスによる動画制作 Java OpenCV3 Eclipse を使って

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これらの動画を制作するために作ったコンピューター・プログラムについて、以下に記します。

下記の処理は、opencv3を使用して記述しました。

(1)動画が格納されるファイルへ、画像を書き込む
(2)動画が格納されているファイルから、画像を読み込む
(3)静止画像が格納されているファイルから、画像を読み込む
(4)読み込んだ画像の中の、指定位置のピクセルの色値を、取得する
(5)読み込んだ画像の中の、指定位置のピクセルの色値を、変える 

下記の処理は、Java言語だけを使用して記述しました。

(5)仮想の器の表面を形成する

 3次元空間中に、器の表面を形成するためには、表面の各部分の座標値(3次元空間中での)を算出する必要があります。
 [仮想の器 No1]においては、この算出を、[log関数(対数)]を用いて行うようにしました。
 [仮想の器 No2 鳥 動く]においては、この算出を、[log関数(対数)]と[pow関数(累乗)]を用いて行うようにしました。  

(6)仮想の器の表面の各位置にセットする色値を決定するための、座標値を算出する

 色値の決定は、貼り付けられる画像の中の所定の位置にあるピクセルの色値を取得して行うのですが、その「所定の位置」の座標値を算出する必要があります。

2018年9月15日 (土)

新作動画の発表 [仮想の器 No.2 鳥 動く(コンピューターグラフィックス)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

下記でご覧になることができます。

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仮想の器 No.2 鳥 動く(コンピューターグラフィックス)
コンピューターグラフィックス 制作者:runningWater
      ( Javaを使用して制作 )

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2018年9月11日 (火)

新作動画の発表 [仮想の器(コンピューターグラフィックス)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

下記でご覧になることができます。

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仮想の器(コンピューターグラフィックス)
コンピューターグラフィックス 制作者:runningWater

      ( Javaを使用して制作 )

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2018年8月15日 (水)

新作音楽作品の発表 言葉にならない想い・第4番

[クレオフーガ](音楽投稿サイト)に、自らが作曲した曲(ピアノ独奏曲)をアップロードしました。曲の題名は、

 I can't put the thought into words well No.4, Op.47
   (言葉にならない想い・第4番)

です。

この曲をお聴きになりたい方は、下記で聴いていただけます。(コンテンツ格納先のサイト運営・クレオフーガのサイトにアクセスして)。

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下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲たち(クレオフーガ・サイト中にあり)

2018年8月11日 (土)

新作動画の発表 [鴨川,京都市]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。バックグラウンド音楽に、自作曲を使用しました。

下記でご覧になることができます。

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撮影地:[鴨川]の岸 京都市内
撮影時:2018年8月

バックグラウンド音楽:名前はまだ無い・第3番, Op.46

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2018年7月13日 (金)

太平記ゆかりの地 4 笠置寺

太平記ゆかりの地 インデックス

1331年に、打倒・鎌倉幕府の計画を幕府は把握、幕府からの追求から逃れるために、[後醍醐天皇(ごだいごてんのう)]と近臣たちは、京都から脱出し、奈良へ向かった。

[太平記 第2巻 7 天下怪異事] には、その時の事が下記のように記されている。

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(1)京都を出た後、木津川の沿岸付近に達した時、夜が明けた。

[太平記]には、「古津石地蔵(こづのいしじぞう)」という語が記されている。

「古津石地蔵」とは、[泉橋寺](京都府・木津川市)のことである。

ネット上に、この寺に関する情報があった。鎌倉時代に作られた石造の地蔵菩薩坐像(高さ約4.58m)があるようだ。

ネット地図で、この寺の位置を調べてみた。[木津川]の北岸にあるようだ。[国道24]の付近にある。

[木津]の地は、[古津]とも呼ばれていたという。

--------
(2)奈良に到着した後、東大寺へ行った。

[太平記]には、「南都の東南院」という語が記されている。

「南都」とは、[奈良市]のことである。京都(平安京)に遷都される前、日本の首都は奈良市にあり(平城京)、平城京は平安京の南方にあるので、このように呼ばれるようになったのであろう。

[東南院]は、[東大寺]の中の寺院であったようだ。

--------
(3)奈良から和束へ移動した。

[太平記]には、「和束の鷲峰山」という語が記されている。

東大寺の多数メンバーが、鎌倉幕府の威を恐れて天皇サイドにつかなかったので、奈良からここへ移動した、という趣旨の事が記されている。

「鷲峰山」とは、[鷲峰山(じゅうぶさん)金胎寺(こんたいじ)(京都府・相楽郡・和束町)のことである。

[和束町]に行くと、広大な茶園がある景観を見ることができる。

下記の写真画像は、私が、2010年10月に、和束町で撮影したものである。

A1

A01

A2

A02

A3

A03

A4

A04

A5 [安積親王]の陵墓が、茶の丘の上にある

A05

[安積親王(あさかしんのう)]は、[聖武天皇(しょうむてんのう)]の次男である。

奈良時代の天皇、となると、多くの人がまず思い浮かべるのが、[聖武天皇]だろう。(大仏殿との連想等で)。

なぜ、この時代を、「奈良時代」と呼ぶのか? 奈良の地(現在の奈良市)が、政治権力の中心、すなわち、首都であったからだろう。

では、いったいなぜ、[聖武天皇]の次男の墓が、奈良から遠いこの和束の地に築かれることになったのだろうか?

[安積親王陵墓]の位置は、ネット地図を使って知ることができる。[恭仁宮大極殿跡]とインプットすると、そのあたりの地図が表示されるだろうから、[恭仁宮大極殿跡]の北東方向を見ればよい。[安積親王陵墓]のある場所、そして、その位置と[恭仁宮大極殿跡]との位置関係が分かるだろう。

[奈良時代]の期間中に、奈良が首都ではなかった期間がある。

[続日本紀(上) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫] 巻第十三 の中に、(406P)

 「十二月十五日 天皇は先発して恭仁宮に行幸し、はじめてここを都と定めて、京都の造営にかかった。太上天皇(元正上皇)と皇后はおくれて到着した。」

とある。

「天皇」とは、[聖武天皇]のことである。
「十二月十五日」は、740年(天平12年)の十二月十五日、である。

ところが、

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫] 巻第十五  の中に、(25P)

 「閏正月一日 天皇は詔(みことのり)して百官を朝堂によび集めた。そして次のように尋ねられた。
 「恭仁・難波の二京でどちらを都と定めるべきか、それぞれ自分の考えを述べよ」と。」

とある。

「閏正月一日」は、744年(天平16年)の閏正月である。

[聖武天皇]のこの問いかけは、「恭仁 平城(奈良) の どちらを都に」ではない、「恭仁 難波 の どちらを都に」である。

この期間、奈良は、[聖武天皇]の関心事の中には無かったのであろう。

天皇以外にも、奈良のことを、「旧都」あるいは、「古都」、「こないだまでは、都やったとこや、そやけど、今はもう・・・」という感覚で見ていた人も、多くいたのであろう。それをうかがわせる以下のような記述がある。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五  の中に、(25P)

 「正月四日 従三位の巨勢朝臣奈弖麻呂・従四位上の藤原朝臣仲麻呂を遣わして市(いち)に行かせ、京をどちらに定めるべきかを尋ねさせた。市人はみな恭仁京を都とされることを願った。ただし、難波京を望む者が一人、平城京を望む者が一人あった。」

とある。 

しかし、結局、[聖武天皇]は、難波宮への遷都を行った。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五  の中に、(25P ~ 26P)

 「正月十一日 天皇は難波宮に行幸された。」

 「この日、安積親王は脚の病(脚気か)のため、桜井の頓宮(河内郡桜井郷)から恭仁京に還った。」

 「正月一三日 安積親王が薨(こう)じた。時に年は十七歳であった。従四位下の大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして葬儀を監督・護衛させた。」

とある。

上記をまとめると、二人が居た場所は、下記のようになるだろう。

     744年・正月十一日  744年・正月一三日
聖武天皇  難波宮        難波宮
安積親王  恭仁京        恭仁京

なので、大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして(恭仁京へ出張させて)、ということになる。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五   の中に、(27P)

 「二月二十六日 左大臣が勅をのべて次のように言った。
  今から難波宮を皇都と定める。この事態をわきまえて、京戸の人々は意のままに両都の間を往来してかまわない。」

とある。 

「二月二十六日」は、744年(天平16年)の二月二十六日である。

「両都」とは、恭仁宮と難波宮を意味しているのだろう。ここにおいても、平城京・奈良は、関心の対象外となってしまっている。

[安積親王]は、このような、恭仁京から難波京への遷都の期間のまっただ中に亡くなった。なので、その墓は、恭仁京の近くに、ということになり、この[和束]の地に定められたのであろう。

740年の十二月から、744年の二月までの4年間、日本の政治権力の中心、すなわち、首都は、奈良ではなく、恭仁京にあったのだ。その間、[和束]は、首都の近郊、まさに、首都圏の中の地であった、ということになるだろう。

--------

[宇治茶]の原料となる茶葉は、京都府、奈良県、滋賀県、三重県で栽培されているのだそうだ。[和束]の地から出荷されて[宇治茶]になる茶葉もあるのだろう。

([宇治茶の定義]、[和束産 宇治茶]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。)

--------
(4)和束から笠置へ移動した。

[太平記]には、「南都の衆徒少々召具せられて、笠置の石室へ臨幸なる」と記されている。

「笠置の石室」とは、[笠置寺](京都府・相楽郡・笠置町)のことである。

[笠置寺]は、[笠置山]の上の方にある寺院である。

ネット地図を使用して、[笠置駅]とインプットすれば、この山の位置を知ることができるだろう。[JR西日本・関西本線 笠置駅]の南東方向にある。

2009年11月に、私は、[笠置寺]へ行った。下記にある写真画像は全て、その時、私が現地で撮影したものである。

B01 加茂駅から笠置駅まで、これに乗っていった

B01

B02 笠置駅から南東方向へ歩いていって、ここに着いた

B02

「史の道 ハイキングコース」という表示板がある方の道を、歩いて行くことにした。[笠置寺]にたてこもる天皇サイド軍勢を攻めるために、この地へやってきた鎌倉幕府サイドの人々は、この道を行ったのであろうと、想像したので。自分が幕府軍のメンバーになったつもりで、かつての彼らの進軍を追体験しようと思ったのである。

B03 先に進んでいったら、このような道に

B03

B04

B04

「追体験」のこの登り坂で、自らの体力の少なさを思い知った。幕府軍メンバーは、この道を、武器を持ちながら登っていったのであろう。すごい体力!

B05

B05

B06 ようやく、[一の木戸跡]へたどりついた

B06

ここが、[太平記 第3巻 2 笠置軍事 付 陶山小見山夜討事] の中で、[足助次郎重範(あすけじろうしげのり)]が矢を射た、とされている場所、[本性房(ほんじょうぼう)]が岩を投げた、とされている場所なのだろう。

(太平記に記されている事は、史実かどうか分からない。)

ここから先は、幕府軍サイドではなく、後醍醐天皇サイドに所属を変えて(天皇軍のメンバーになったつもりで)の追体験に、チェンジすることにした。そうしないと、ここから上へ行くことができないから。(太平記には、幕府軍メンバーたちの進軍が、ここでストップした、というように記述されている。)

B07 [一の木戸跡]に立って、下を見ると、このようなかんじ

B07

幕府軍を迎撃している天皇軍メンバーからの視点では、このようなかんじになる。

B08

B08

B09

B09

B10 更に歩を進めて、笠置寺へ

B10_2

B11 着いた

B11

B12 寺の門をくぐると、巨岩が

B12

B13 巨岩に彫られた弥勒菩薩(maitreya:マイトレーヤ)

B13

いわゆる、[摩崖仏]である。しかし、菩薩の姿が無い。

この時の幕府軍の攻撃により、焼失してしまったので、このような姿になっているのだ、と、されているようだ。

でも、岩に彫られた仏像でしょ、燃えたりなんかしないでしょ、と思うのだが・・・。

この事に関して、ネットで調べて、

[日本経済新聞]のサイト中の[コラム(地域)]コーナー中の

 [姿・由来、伝説につつまれ 笠置寺磨崖仏(もっと関西)]
 2017/11/15 17:00

というコンテンツを見つけた。その中に、

 仏が刻まれていた花こう岩は、炎にあぶられると表面が剥がれたり割れたりする。

との趣旨の、[日本石材産業協会]の見解が、記されている。

B14 巨岩に彫られた虚空蔵菩薩(Ākāśagarbha:アーカーシャガルバ)

B14

B15 巨岩の間をくぐりぬけていく道がある

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B18 見晴らしのいい場所に出た

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B19 ゆるぎ石

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説明板には、下記のようにあった。

 「・・・この石は奇襲に備えるため武器としてここに運ばれたが使用されなかった。重心が中央にあり人の力で動くため”ゆるぎ石”といわれている。」

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B21

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B22 後醍醐天皇行在所跡

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B23 後醍醐天皇行在所跡

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B24 カエデが多数ある場所があった

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B25

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B26

[笠置山]から下りて、笠置駅まで歩いた。

B27 笠置駅の構内に、このようなものがあった。弓を持っているのが[足助次郎重範]、岩を持ち上げているのが、[本性房]だろうか。

B27

B28 笠置駅の構内で撮影

B28

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[笠置寺公式サイト] 中の [笠置寺について] 中の記述によれば、

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弥生時代から、笠置山の巨石は信仰の対象となっていたという。それを示すのが、弥生時代の有樋式石剣である。

実際に建物が建てられ人が住み着いたのは1300年前であり、鎌倉時代に、藤原貞慶(後の解脱上人)がここを拠点とした。

江戸中期より荒廃し、明治時代初期に、住職不在の寺になってしまったが、その後、復興し、現在に至る。
========

と、いうことなのだそうだ。

[太平記 第12巻 4 千種殿並文観僧正奢侈事 付 解脱上人事] にも、解脱上人が[笠置寺]に入った事が、記されている。

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[笠置寺]に行ってみて思うに、ここは、[後醍醐天皇]らがたてこもるには不適な場所だったのではないだろうか。

[地理院地図]を使って、[笠置駅]で検索すれば、このあたりの地形を把握することができると思う。おおよその地形は標高線から読み取れるだろうし、標高を知りたい地点があれば、そこをマウスでクリックすればよい。

私が調べた結果は、以下の通りである。

 笠置駅 標高 約 54m
 行在所跡 標高 約 262m

標高差200m、急襲するとなると、攻めにくい場所であろう。

しかし、この山の周囲を、鎌倉幕府軍がビッシリと隙間なく包囲してしまっての持久戦になったならば、笠置寺は、たてもこりメンバーたちの食料を確保することが不可能となってしまうだろう。

水の確保については、もしかしたら、山のどこかに湧水があるのでOK、ということに、なるのかもしれないが。

スペースの問題もある。笠置寺の境内を見た感じでは、大軍勢が駐屯できるような場所が無いように、思われた。

だから、幕府軍サイドが攻め急がず、兵糧攻めにしていたら、天皇サイドは降伏するしか他になし、という状態になっていた可能性が十分にあると思われる。

ところが、[太平記]では、思わぬ展開となり、天皇サイドは一気に崩れた、ということになっている。

その「思わぬ展開」は、[陶山(すやま) and 小見山(こみやま)グループ]により編成された[コマンド部隊]によって、引き起こされた、ということになっている。

[太平記 第3巻 2 笠置軍事 付 陶山小見山夜討事] に、[陶山 and 小見山グループ50余人]が登場する。

グループのリーダー2人の名は、「備中国の住人 陶山藤三義高(すやまとうぞうよしたか) 小見山次郎某(こみやまじろうなにがし)」と記されている。グループメンバーの「陶山吉次(よしつぐ)」の名も、登場する。

彼らは、幕府軍が集中的に攻めているのとは異なる笠置山の別の斜面を、夜間に登って、笠置寺に侵入しようと試みた。

彼らが行ったルートは、[笠置寺]の北側の斜面であると、太平記では、している。

 「城の北にあたりたる石壁の数百丈聳(そびえ)て、鳥も翔(かけ)り難き所よりぞ登りける」

[地理院地図]を使って、[笠置寺]の北側斜面を見てみるに、確かに、この方面においては、等高線の間隔が短く、急峻な斜面のようだ。しかし、「笠置北壁」とも称せられるほどの絶壁、という感じではない。

しかし、太平記の記述では、そのルート上には、彼らの前進を阻む大岩壁があった、としている。

この箇所を、私は、以下のように、現代語に翻訳した。

太平記 現代語訳 3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣

より:

========
9月末日の夜、漆黒の暗闇の中、目指す方向さえ不分明、風雨は荒れ狂い、顔を正面向けてはおれないほど。

陶山グループ50余人は、太刀を背に背負い、小刀を腰の後ろに差し、笠置寺北方の断崖、鳥も駆け上がれまいと思われるような高さ数百丈の岩壁にとりつき、登山を開始。

二町ほどは、なんとかかんとかして登ってはみたものの、その上には、さらに険しい断崖がそびえたっているではないか・・・屏風を立てたかのごとく岩石は重なり、古松は枝を垂れ、青苔に覆われた滑りやすい表面。

陶山グループ一同 あぁ・・・。

いかんともしがたく、はるか上方を見あげながら立ちつくす陶山グループの面々・・・。

陶山義高 よし、おれが登ってみるけぇのぉ。

彼は、岩の上をサラサラと走り登り、用意した例の縄を上方の木の枝にかけて、下の方におろした。

陶山グループ一同 おぁ、やったじゃねぇかぁ!

彼らは、陶山義高が垂らしたロープを握り、その一番の難所を易々と登り切ってしまった。
========

[笠置山]の北側斜面には、上記にあるような断崖が、実際にあるのだろうか?

そのような箇所があるのだとしたら、そこは、鎌倉時代の武士たちが、縄を使ったロッククライミングでもって、登っていけたような場所なのだろうか?

現在に至るまでの700年間の、雨水による浸食により、山登りの困難さが軽減されている可能性はあるが。

これに関しては、山登りに熟達している方々の見解を、お聞きしたいところである。

--------

[陶山 and 小見山グループ]の人々は、現在の岡山県・[笠岡市]を本拠としていたようだ。[笠岡市 陶山氏]でネット検索したら、様々な情報へのエントリーが表示された。

私はかつて、Web上に開設したサイト(ブログではなかった)に、現代語に翻訳された太平記(私が翻訳した)をアップし続けていたのだが、その時に、そのコンテンツによる縁でもって、[陶山 and 小見山グループ]の事を調査しておられるある方と、面談する機会があった。

その際に、その方に、[陶山 and 小見山グループ]の人々の、現代語訳中でのせりふに関する方言指導を、お願いした。できる限り、彼らの地元の言葉(現代の)を使って、彼らに語らせたかったからである。

その方は、私のその願いを受諾され、その方の知人と共に、方言指導を行ってくださった。

[太平記 現代語訳 3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣] 中の、[陶山 and 小見山グループ]の人々のせりふは、そのようにして成立した。

[陶山 and 小見山グループ]が、笠置寺の境内で放火し、天皇サイドはパニック状態になり、それを見た幕府サイドは急襲をかけ、天皇サイドは敗退した。しかし、この幕府軍の猛攻をかいくぐり、後醍醐天皇と近臣らは、笠置寺から山麓の地へ脱出したと、太平記には記されている。

この山の、いったいどのルートを通って、脱出したのだろう? あまり人には知られていない、けもの道でも、あったのだろうか?

--------

[陶山 and 小見山グループ]の人々の、鎌倉幕府内での地位は、この笠置での戦の功績によって、急上昇したのかもしれない。

[太平記] 第8巻、第9巻に、[陶山次郎]という人が登場する。鎌倉幕府側の極めて重要・強力メンバー、という感じで、一軍を率いて戦っている。

しかし、その後、[陶山 and 小見山グループ]の人々の運命は、暗転してしまったようだ。

彼らは、鎌倉幕府・六波羅探題サイドの人々と共に、京都を脱出し、鎌倉へ逃げようと試みたが、滋賀県・米原市の付近で、先に進めなくなってしまい、そこで自害した。

[太平記 第9巻 8 越後守仲時已下自害事] の中にある、亡くなっていった、鎌倉幕府サイドの人々の氏名の中に、

 陶山次郎
 陶山小五郎
 小見山孫太郎
 小見山五郎
 小見山六郎次郎

の名がある。

米原市の公式サイト中に、[紙本墨書陸波羅南北過去帳]というコンテンツがあり、そこには、以下のように記されている。

 「・・・蓮華寺第三代の同阿良向が、元弘3年(1333年)5月9日に自害した仲時ら六波羅勢のうち姓名のわかる189人の交名を記した。」

この[紙本墨書陸波羅南北過去帳]の中には、[陶山]姓、[小見山]姓の人々の名があるという。([蓮華寺 過去帳 陶山]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。)

鎌倉幕府・六波羅探題の人々と最後まで行動を共にした結果、このような事になってしまった。

最後の最後まで、六波羅探題の人々についていく・・・幕府側のスターとなった彼らには、それより他に、行く道が無かったのかもしれない。

太平記ゆかりの地 インデックス

2018年7月 9日 (月)

太平記ゆかりの地 3 沙沙貴神社

太平記ゆかりの地 インデックス

太平記には、[佐々木 道誉]、[佐々木 清高]、[佐々木 時信]等、[佐々木]の姓を持つ人々が登場する。

これらの人々の家系を遡っていくと、近江の[佐々木氏]と[佐々木庄]にたどりつく。

[塩冶 高貞]も、彼らと同じく、そのルーツは、[佐々木氏]である。

平安時代に[佐々木庄]に土着した人々が、[佐々木]の姓で呼ばれるようになったのだそうだ。

[佐々木庄]がどこにあったのか、という事に関しては、ネット上に、下記のコンテンツがあった。

[平成 22 年(2010 年)11 月 23 日(祝・火) 清滝寺(きよたきでら)・能仁寺(のうにんじ)遺跡発掘調査現地説明会資料 調査主体:滋賀県教育委員会 調査機関:財団法人 滋賀県文化財保護協会]

その中に、以下のようにある。

 「解説3 近江源氏 京極氏(おうみげんじ きょうごくし)
 京極氏は宇多天皇の系譜を引く近江源氏の一族です。平安時代に近江国佐々木庄(現東近江市小脇周辺)に土着して佐々木氏と呼ばれるようになり、 源頼朝の挙兵に功績があったのを認められて佐々木定綱は鎌倉幕府から近江国惣追捕使(そうついぶし)(守護)に任じられます。しかし、承久の乱(じょうきゅうのらん)(承久3年(1221 年))ののち惣領家(そうりょうけ)は領地を分割され、大原氏(坂田郡大原庄)、高島氏(高島郡朽木庄)、六角氏(佐々木宗家)、京極氏(坂田郡柏原庄)の四家に分裂しました。
 氏信を始祖とする京極氏は、第五代高氏(道誉)が室町幕府成立に功績が あったことから、六角氏に代わって一時的に近江守護に任じられます。・・・」

[京極]の姓は、この家系のルーツとなった人が、京都の[京極高辻]にあった館を相続した事に由来しているのだそうだ。

[京極高辻]とは、現在の京都市内の、いったいどのあたりなのだろう?

まず、[高辻]は、[高辻小路]のことであろう。[五条大路]の北側にあった小路であり、現在の[高辻通](たかつじどおり)に相当する。

問題は、[京極]である。

[京極]という語から連想される平安京の道路は2本ある、すなわち、[西京極大路]と、[東京極大路]。

平安時代後期から中世にかけて、平安京の右京、すなわち、西半分は、荒廃が進んでいったという。となると、館があった、というからには、[京極]は、[東京極大路]を指しているのであろう。

と、いうことで、[京極高辻]は、現在の、[寺町通]と[高辻通]が交差する付近の地、ということになるのだろう。([東京極大路]は現在の[寺町通]に相当。)

戦国時代末期に、京極氏から二人の知名度高き人が現れている。[京極 竜子]と[京極 高次]である。

[京極 竜子]は、この名でよりも、[松の丸殿]という名前の方で、よく知られているだろう。彼女の母・[京極 マリア]は、[浅井 久政]の娘だから、彼女は、[浅井 長政]の姪であり、[浅井三姉妹](淀殿、初、江)の従妹、ということになる。

[浅井三姉妹]中の次女・[初]は、[京極 竜子]の兄弟・[京極 高次]の妻となった。このように、[京極氏]のこれらの人々は、戦国大名・[浅井氏]と密な関係にある。

[京極 高次]は、関ヶ原の戦の後、[若狭国]の大名になった。

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滋賀県・近江八幡市の旧・安土町エリアに、[京極氏]、[佐々木氏]に縁が深い神社がある。

[沙沙貴神社]である。ここは、[佐々木]氏の氏神であるという。下記の写真画像は、私が、2007年6月に、そこで撮影したものである。

P01

P01

P02

P02

P03

P03

P04

P04

P05

P05

P06 [佐々木氏]の家紋が、提灯に描かれていた。

P06

P07

P07

P08

P08

P09

P09

P10

P10

P11 [佐々木氏]の家紋が、いろいろな所にあった。

P11

境内には、様々な植物があった。

P12

P12

P13

P13

P14 二葉葵

P14

京都市の[上賀茂神社]・[下鴨神社]の祭礼・[葵祭]においては、祭儀に関わる全ての人たち、また社殿の御簾・牛車に至るまで、この[二葉葵]を桂の小枝に挿し飾ることになっている。

P15

P15

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[寺社Now]というサイト中の[スペシャル]のコーナー中に、

[【特集】経験豊かな宮司の奮闘で 蘇った近江源氏の氏神様]

というコンテンツがあり、そこには、荒廃してしまっていた[沙沙貴神社]が復興された経緯が記されているのだが、その中に、下記のような内容の事が記されている。

 江戸時代に再建されたという、楼門、東廻廊、西廻廊に関して、1989年に、滋賀県・文化財保護審議会による調査が行われ、再建に関係する棟札の中に、[京極 高朗]の名が見いだされた。その結果、本殿、権殿、拝殿、楼門、東西廻廊など8棟が、滋賀県有形文化財の指定を受けた。

(ネット上には、[沙沙貴神社]に関連して、[京極高明]という名を記しているコンテンツが多数ある。どうして、[京極高朗]ではなく、[京極高明]と記しているのだろう?)

[京極 高朗]は、[丸亀藩](香川県)の藩主であるというから、[京極氏]のルーツに縁深きこの神社の建物を再建するに十分な財力を、持っていたのであろう。

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[三井グループ]の祖・[三井 高利]にも、[六角氏]、すなわち、[佐々木氏]のDNAが流入しているというから、[佐々木]姓ではない人の中にも、[佐々木氏]のDNAは流入していると思われる。

このページを読んでおられる貴方にも、もしかしたら、[佐々木氏]のDNAが流入しているのかもしれない。

太平記ゆかりの地 インデックス

2018年7月 5日 (木)

太平記ゆかりの地 2 延暦寺

太平記ゆかりの地 インデックス

 みやこ(東京)の西北に 早稲田はあり
 みやこ(古都)の東北に 延暦寺はある

[太平記]の中に、[延暦寺](えんりゃくじ)、あるいは、[延暦寺]に所属する[衆徒]が、何回も登場する。

ネット地図を使って、[比叡山](ひえいざん)とインプットすれば、[延暦寺]がある位置を知ることができるだろう。

[延暦寺]は、[比叡山]の山上にある。京都府側から見れば、その位置は、京都盆地の北東方向、ということになるだろうし、滋賀県側から見れば、南部の琵琶湖の西方、ということになるだろう。

[比叡山]は、京都市内の様々な所から見える。

[正伝寺]からも、庭園と共に見ることができる。

A1 (2015年10月に撮影)

A1  

[京都府立植物園]からも、見ることができる。

A2 (2012年11月に撮影)

A2

京都の人々は、京都盆地の東側にある山々を、[東山三十六峰]と呼んできたが、その最北の山が、[比叡山]である。

[東山]については、専門家の間では、以下のような見解が一般的であるようだ。

 京都盆地は、陸地が沈みこんだ結果、できた。
 東山は、隆起してできたのではない、京都盆地が沈んでいった結果、残った地が東山になったのである。

これに関しては、例えば、

 [吉岡 敏和]氏による、[京都盆地周縁部における第四紀の断層活動]

が参考になるだろう。

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電気も石油も無かった時代、京都や大津から[延暦寺]へ行くには、徒歩で、あるいは、馬で、[比叡山]に登っていくしかなかった。

現在、我々は、かつてよりは楽に、様々なルートで[延暦寺]へ行くことができる。それらのうち、私が知っているものは、下記の通りである。

(1)坂本(滋賀県・大津市)から

[京阪電車・石山坂本線]で、[坂本比叡山口]駅へ
 あるいは、
[JR・湖西線]で、[比叡山坂本]駅へ

行き、次に、[坂本ケーブル]で、[比叡山]へ登る、というルート。

私はこのルートがとても好きで、過去に何度か、このルート経由で[延暦寺]へ行った。

[坂本ケーブル]公式サイト中の記述によれば、このケーブルカーは、1927年に敷設されたものであり、

 全長:2,025m(日本最長)
 高低差:484m
 最急勾配:333.3‰
 隧道:2ヵ所
 橋梁:7ヵ所

なのだそうである。

(2)京都バス 51 系統

京都市からのルートである。過去に一度、これに乗って、[延暦寺]へ行ったことがある。[銀閣寺]付近からは、[白川]ぞいに上流方向へバスが登っていったように、記憶している。

(3)叡山ケーブル

京都市からのルートである。[叡山電車]で、[八瀬比叡山口]駅まで行き、次に、[叡山ケーブル]、[叡山ロープウェイ]で[比叡山]へ登る、というルートである。

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歩いて[比叡山]へ、となると、上記に比べて、そうそう楽ではなさそうだ。

中世の時代、[延暦寺]の衆徒たちが強訴のために[京都]へやってくる時には、[きらら坂]を下ってきたという。

これは、[修学院離宮]の付近から[比叡山]へ通ずる山道だ。この道を上っていくと、[京都一周トレイル・東山コース]中の[水飲対陣跡]の碑がある場所に到達する。

[水飲対陣跡]は、[太平記 第17巻 1 山攻事 付 日吉神託事] に記述されている戦闘が行われた付近の地だという。[千種忠顕](ちぐさただあき)、[坊門正忠](ぼうもんまさただ)らは、この戦闘において戦死した、と記述されている。

2018年2月に、私は、[きらら坂]を初めて歩いた。

登ったのではなく、下ったのである。これが下りではなく、登りであったならば、もう、タイヘンだったろうと思う。途中、人間一人がやっと通れるか、というような箇所がある。

どんな道なのか、知りたい方は、よろしければ下記の2つの動画(私が撮影した)を参照いただければ、と思う。前の方が、[修学院離宮]に近い方の部分(きらら坂のうち、高度がより低い方の部分)であり、後の方が、[水飲対陣跡]に近い部分(きらら坂のうち、高度がより高い方の部分)である。

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1571年に、[延暦寺]は、織田軍によって攻撃された。

この攻撃は、[比叡山焼き討ち]と呼ばれているようだが、これは、大きな誤解を招く呼称であろうと思う。[比叡山焼き討ち]という用語よりも、[延暦寺攻撃]という用語の方が良いと、思う。

[比叡山]の上に[最澄](さいちょう)が[延暦寺]を開創した時と、この時とでは、[延暦寺]のエリアが、大きく異なっている。

[京を支配する山法師たち 中世延暦寺の富と力 下坂 守 吉川弘文館] 39P ~ 49P によれば、

[坂本衆徒]と呼ばれる人々が、中世には存在していたという。彼らは、[延暦寺]に所属する[衆徒]なのだが、[比叡山]の上ではなく、東側の山麓にある[坂本]に居住していた。中には、妻がいる人もいたという。

[太平記 第14巻 4 箱根竹下合戦事]に、[道場坊祐覚]という[延暦寺]の[衆徒]が登場するのだが、彼は、

 「坂本様(さかもとよう)の袈裟切(けさきり)に成仏(じょうぶつ)せよ」

と叫びながら闘っている。現代語に翻訳するならば、

 「坂本流の袈裟(けさ)がけで切ったるから、ちゃんと成仏せぇよぉ!」

と、いうことになろうか。

なんと、刀の使い方を示す語の中に、闘争とはおよそ縁遠いはずの仏教、その一本山・[延暦寺]の、門前町・[坂本]の地名が使われているのである。

[京を支配する山法師たち 中世延暦寺の富と力 下坂 守 吉川弘文館] 39P ~ 55P, 90P ~ 130P によれば、[坂本]の地には、大きな富と武力があった、という。

よって、[延暦寺攻撃]の戦において、[織田信長]が主ターゲットとしたのは、[比叡山]の上の方のエリアではなく、この、富と武力の集積の地・[坂本]エリアであった、という可能性もある。

よって、織田軍の攻撃によって命を失ったり捕虜となった人々の数は、[比叡山]の上の方に居住していた人々よりも、[坂本]に居住していた人々の方が、より多かった、という可能性もある。

これに関連して、ネット上には、[兼康 保明]氏による、比叡山中の考古学的調査の結果についての、いろいろな興味深い情報があった。

[兼康保明 比叡山]でネット検索すれば、関連する情報を得られるかもしれない。

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[延暦寺]には、[東塔]、[西塔]、[横川]の3エリアがあるが、[横川]へは未だ行ったことがない。

過去に訪れた際に撮影した写真画像を添えて、以下に紹介したい。画像記号の先頭がBのものは、2006年8月に撮影したものであり、画像記号の先頭がCのものは、2007年8月に撮影したものである。

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東塔エリア

B1 大講堂

B1

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、[大講堂]は、1956年に焼失してしまったという。現在の建物は、坂本にあった讃仏堂を移築したものであるという。

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B2 根本中堂

B2

[最澄]が788年に創建した[一乗止観院](いちじょうしかんいん)が、[根本中堂]の元であるのだそうだ。現在の建物は、1642年に竣工したものであるという。

[一乗止観院]を建立した際に、最澄は、下記の歌を詠んだ。

 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼじ)の仏たち
 我立杣(わがたつそま)に冥加(めか)あらせ給へ

この歌が、[太平記 第2巻 1 南都北嶺行幸事]の中で、伝教大師(でんぎょうだいし)(最澄)が詠んだ歌、として紹介されている歌である。

B3 根本中堂

B3

ここの本尊・薬師如来像は、参拝者の目と同じくらいの高さになるように、安置されているのだそうだ。それによって、「仏凡一如」という事を表現しているのだそうだ。「仏凡一如」は、

 「私(薬師如来) と あなた(参拝者) とは 一体なのよ だから 私を あなたから遠いものとは 思わないでね」

という意味であろうか。

[根本中堂]の中には、[不滅の法灯]というものがあり、1200年間、消えることなく灯し続けられてきた、という。

この、[消えることなく続いていく燃焼]という物理現象は、天台宗の教えの永遠性、すなわち、[天台宗の教えは永遠に存在し続け、救いの力を人々に対して、発進し続けていく]という理念を象徴するものなのであろう。

記号学的に表現するならば、

[消えることなく続いていく燃焼] が、シニフィアン(記号表現、能記)(signifiant)

[天台宗の教えは永遠に・・・] が、シニフィエ(記号内容、所記)(    signifié)

と、いうことになるのだろう。

しかし、考えてみると、この燃焼が永続していく、という事の保証は、どこにもない。

何らかのアクシデントによって、[不滅の法灯]の炎が消えてしまう、という事象の発生確率はゼロではない。あるいは、[不滅の法灯]の炎が燃え続けていくためには、継続的な燃料の供給が必要なのだが、何らかの原因により、この燃料供給がストップしてしまう(油断)事象の発生確率も、ゼロではない。

このように、[永続性の保証のない燃焼]という現象をもってして、[天台の教えの永遠性]という理念のシニフィアンとする、というのは、極めてリスクが高い方法である。

織田軍が[延暦寺]を攻めた時、[不滅の法灯]は、どうなったのだろう? 消えなかったのだろうか?

じつは、それよりも前に、[延暦寺]から[立石寺](山形県・山形市)に[不滅の法灯]が分灯されており、その灯から分灯して、[根本中堂]へ持ってきたのだそうだ。

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B4 戒壇院

B4

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、江戸時代に再建されたものである、という。

[延暦寺]が創建された当時、僧侶になるためには、全国に3か所設置された[戒壇]において、戒を授かることが必須であった。[最澄]は朝廷に対して、[延暦寺]にも戒壇の設置を認可し、[延暦寺]の裁量で、戒を授け、僧侶の資格を与えることができるようになることを願い出た。[最澄]の没後7日目に、朝廷はこの願いを聞き入れた。

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東塔エリア と 西塔エリア の間

B5 弁慶水

B5

[東塔エリア]から[西塔エリア]へ歩いていく途中に、[弁慶水]というのがあった。[武蔵坊弁慶]が、閼伽水を汲んだ場所であると、言い伝えられているようだ。

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B6 山王院堂

B6

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、「円珍の住房」であるというのだが、[円珍]が延暦寺第5代座主となったのは、868年だという。どう考えてみても、この建物は、その当時に建てられたものではないだろう。

[延暦寺]の教えの中には、[密教]が含まれているのだそうだ。[台密]と呼ばれている。

[山家の大師 最澄 大久保 良峻 編 吉川弘文館]
 中の
 [八 最澄の残したもの 大久保 良峻 著] 193P ~ 194Pによれば、

[円仁]、[円珍]、[安然]によって、[台密]は充実・大成されたのだそうだ。

[円珍]派の人々は、彼の死後、[延暦寺]から[園城寺]に移った。

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延暦寺の修行としては、[千日回峰行]が有名だが、[十二年籠山行]というのもあるようだ。それが行われるのが、[浄土院]である。

[浄土院]は、延暦寺境内中、最高に聖なる場所である。[最澄]の廟(墓)が、ここにある。

延暦寺公式サイト中の説明によれば、[籠山比丘]として選ばれた僧は、ここに12年間こもり、最澄に食事を献じたり、坐禅、勉学、清掃を行うのだそうだ。

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西塔エリア

B7 常行堂

B7

C1 常行堂

C1

C2 常行堂

C2

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、[常行三昧]という行を修する堂であり、1595年に建てられた、とあった。

B8 法華堂

B8

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、[法華三昧]という行を修する堂であり、1595年に建てられた、とあった。

B9 廊下

B9

常行堂と法華堂は、この廊下で結ばれている。

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C3 椿堂

C3

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[JR]がまだ「国鉄」(日本国有鉄道)(注1)と呼ばれていた時代、[伊吹]、あるいは、[比叡]と名づけられた列車があった。いずれも、[伊吹山]、[比叡山]から採られた名前なのだろう。

この「比叡山」という山の名の由来は、次のようなものであるらしい。

以下、下記の文献を参照しながら、記述する。

文献1  [山家の大師 最澄 大久保 良峻 編 吉川弘文館]
中の
 [二 比叡山 学山開創 佐藤 眞人 著]

文献2 [古事記(上) 次田 真幸 訳注 講談社学術文庫 講談社]

坂本(滋賀県・大津市)に、[日吉大社]という神社がある。そこの東本宮には、[大山咋神](おおやまくいのかみ)という神が祀られている。この神については、[文献1] 41P には、

 「また二宮(東本宮)には大山咋神が祀られている。二宮は地主権現(じしゅごんげん)とも称されるように、古くから比叡の土地を占めていた神である。」

とある。

[大山咋神]は、古事記の中の、オオクニヌシの国土開発の話に登場する。[文献2] 143P には、

 「次に大山咋神、亦の名は山末之大主神。この神は、近つ淡海国(あふみのくに)の日枝山(ひえのやま)に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。」

とある。

[文献1] 42P には

 「「日枝山」とは今日の比叡山のことであり、比叡(ひえい)の地名はこの日枝(ひえ)に由来する。日吉大社の「日吉」は、今日では「ひよし」と呼んでいるが、これは平安中期以後のことであり、古くは「ひえ」と称したのである。」

とある。

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(注1)私の祖母は、国鉄のことを、「省線(しょうせん)」と呼んでいたように記憶している。これは、[鐵道省]が鉄道を保有していた時代のなごりなのだろう。

かつて、日本政府は様々の事業を営んでおり、「三公社五現業(さんこうしゃごげんぎょう)」という言葉があった。

「三公社」については、私も明瞭に記憶しているのだが、「五現業」については、あまり知らない。

三公社
 日本国有鉄道:現在のJR各社の前身である。
 日本専売公社:発足当初、たばこ、塩、樟脳の専売業務を行っていた。現在の日本たばこ産業株式会社の前身である。
 日本電信電話公社:現在のNTTグループの前身である。

五現業
 郵政
 造幣
 印刷
 国有林野
 アルコール専売

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