2017年8月21日 (月)

太平記 現代語訳 10-7 長崎思元・為基父子の奮闘

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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やがて、由比ヶ浜(ゆいがはま:鎌倉市)一帯や稲瀬川(いなせがわ:鎌倉市)東西の家々から、火の手が上がり始めた。

おりからの激しい浜風にあおられて、炎と黒煙は車輪が転り行くがごとく四方八方へ飛散(ひさん)、10町ないし20町ほども隔たった所にまで燃え移り、同時に20余箇所から火柱が立ち上り始めた。

猛炎の下から、倒幕軍の武士たちが続々と攻め入ってくる。途方に暮れる幕府軍の人々をここかしこで、射伏せ切り伏せ、引き組み刺し違え、生け捕り分捕り。

煙にまかれる女や子供たちが、追い立てられて、火の中、堀の底へと逃げ倒れていく。

帝釈宮(たいしゃくきゅう)中の戦闘において、阿修羅王(あしゅらおう)の部下たちが帝釈天(たいしゃくてん)になぎ倒され、剣戟(けんげき:注1)の上に倒れ伏していく様もかくのごとしか、あるいは、阿鼻叫喚地獄(あびきょうかんじごく)に苦しむ罪人たちが、地獄の獄卒(ごくそつ)たちの槍の穂先に追い立てられて、熱鉄湯池(ねってつとうち)の底深く落ち込んでいく姿もかくのごとしや・・・あぁもはや、語るに言葉なく、聞くに哀れを催し、ただただ涙にむせぶばかり。

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(訳者注1)剣(つるぎ)や戟(中国の武器、棒状)。
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煙が四方から迫り来て、ついに、北条高時(ほうじょうたかとき)の館付近にまでも、火がかかり始めた。

高時は、1,000余騎を連れて葛西が谷(かさいがやつ:鎌倉市)の東勝寺(とうしょうじ)にたてこもり、諸大将率いる武士たちは寺内に充満。この寺は北条氏父祖代々の墳墓(ふんぼ)の地、武士たちに防ぎ矢を射させ、この寺内にて心静かに自害しようというのである。

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長崎思元(ながさきしげん)・為基(ためもと)父子は、極楽寺坂(ごくらくじざか)切り通し方面へ向かい、攻め入ってくる倒幕軍に相対して必死の防戦を行っていた。しかしながら、倒幕軍側のトキの声は既に小町通り(こまちどおり)付近にまで達しており、高時の館にもはや、火がかかったようである。

長崎父子は、指揮下の武士7,000余騎をそこに残し、手勢600余騎のみを率いて、小町通りへ急行。これを迎えうつ倒幕軍の武士たちは、彼らを殲滅(せんめつ)せんものと、包囲の輪をグイグイと縮めてくる。

長崎父子とその部下たちは、一所に打ち寄せては魚鱗(ぎょりん)陣形に連なって懸け破り、虎韜(ことう:注2)陣形に分散しては相手を追い靡(なび)け、七度八度と攻めかかっていく。倒幕軍側は、蜘蛛手(くもで)、十文字(じゅうもんじ)に懸け散らされ、若宮小路(わかみやこうじ)へさっと退却、人馬にしばしの休息を取らせる。

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(訳者注2)中国春秋時代の[六韜]という兵法書にある中の戦法。
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そうこうするうち、今度は天狗堂(てんぐどう)方面、扇が谷(おうぎがやつ)方面にも倒幕軍が回ったと見え、そちらの方角からもおびただしい黒煙が立ち上りはじめた。

長崎為基 (内心)もうこうなったら、父子左右にあい分かれ、

長崎思元 (内心)それぞれの場所の防衛に、馳せ向かうしかない。

長崎為基 (内心)あぁ、父上の姿を見るのも、これが最後か!(涙)

為基は馬を止め、遙か彼方にいる父を名残(なごり)惜しげにじっと見つめた。それを見た思元は、為基をキッと睨み付け、馬をひかえて大声でしかりつけた。

長崎思元 おい! メメしいぞ! なにをそんなに、名残を惜しんでる!

長崎為基 ・・・(涙)。

長崎思元 片方が死んで行き、もう片方が生き残るってんだったらな、そりゃぁ、名残を惜しみたくなるのも、もっともな話さ。いつとも期しがたい再会なんだから。

長崎思元 だけどな、考えてもみろよ、おれもおまえも、今日の日暮れ時までに、共に討死にする身じゃぁないか。明日になればまた、冥土(めいど)のどこかで落ち合う事になるってわけだ、別れてるのもたった一夜の間だけだろ、なのに、いったいナニをそんなに悲しんでる!

為基は、涙をおし拭っていわく、

長崎為基 分かりました、もう悲しみません!

長崎思元 よぉし!

長崎為基 では父上、冥土の旅にお急ぎください。死後に越えるとかいう、あの山道で待ってますからね!

このように言い捨てた後、倒幕軍の大軍中に懸け入っていく為基の心中、まことに哀れ。

戦い続けるうちに、為基に従う者は次々と戦死、たった20余騎だけになってしまった。倒幕軍3,000余騎は、彼らを包囲し、速やかに勝負をつけてしまおうと、ギリギリと肉薄してくる。

為基が持つ太刀は、「面影(おもかげ)」という名の名刀である。刀匠(とうしょう)・来太郎国行(らいたろうくにゆき)が、百か日の精進潔斎(しょうじんけっさい)を行った後に、100貫の鉄を使って3尺3寸に打ち鍛えた太刀。この切っ先にいったん回ったが最後、あるいは兜の鉢をまっぷたつに割られ、あるいは鎧の胸板を袈裟(けさ)がけに切って落とされ・・・倒幕軍側メンバーらはことごとく、為基に追い立てられ、あえて彼に近づこうとする者は皆無になってしまった。ただただ遠巻きにし、射手の密集集団で遠矢を放って、彼を射殺そうとする。

矢 ビュンビュンビュンビュンビュンビュン・・・。

為基の乗馬 ヒヒーン!

為基の乗馬に、矢が7本突き立った。

長崎為基 (内心)エェイ、馬をやられてしまったぁ! こうなっては、敵軍のオオモノに接近して引き組む事もできないなぁ・・・よぉし!

為基は、由比ヶ浜の大鳥居の前で馬からユラリと飛び下り、ただ一人、太刀を逆さまに地について、その場に仁王立(におうだ)ち。

倒幕軍メンバーらはこれを見て、なおもただ十方から遠矢を射るばかり、彼に立ち向かっていこうとする者は誰もいない。

長崎為基 (内心)エェイ! 矢ばかり打ってきやがる! これじゃぁ、ラチがあかん、なんとかして接近戦に持ち込まないと・・・よぉし・・・。

為基は、負傷したかのように装い、膝を折って地上に伏した。

それに欺(あざむ)かれて、どこの家中の者であろうか、輪子引両(りゅうごひきりょう)の笠標(かさじるし)を着けた武士50余人が、為基の首を取らんとして、互いに競いあいながらヒシヒシと、彼に接近してきた。

頃合いを見計らい、為基は、ガバと身を起して太刀を取り直し、

長崎為基 こらぁ! どこのドイツだぁ! 戦にくたびれて気持ち良く昼寝してるの、起こしやがって! よぉし、オマエらがそんなに欲しがってるこの首、くれてやるぜぃ! 欲しけりゃぁ、取って見ろぃ!

鐔元(つばもと)まで血にまみれた太刀をうち振い、落ちかかる雷鳴のごとき勢いをもって、為基は、両手を左右に張り広げ、相手に襲いかかっていく。これにおそれをなして、接近してきた50余人はアタフタと、その場から逃げていく。

長崎為基 こらこら! いったいどこまで逃げる気だぁ! ヒキョウ者、逃げるな、返せ、返せー!

逃げる武士A (内心)アイツのノノシリ声、オレの耳のすぐ側から聞こえてくるようなカンジがする。

逃げる武士B (内心)この馬の足、もっと速いはずだったのに。

逃げる武士C (内心)一向に前へ進んでねぇじゃねえか、もっと速く、速くぅ!

逃げる武士D (内心)もう、恐ろしいなんて、そんなナマヤサシイもんじゃぁねぇぜ。

逃げる武士E (内心)まったくもう、トンデモねぇヤロウだ!

その後なおも、為基はたった一人で戦い続けた。敵中へ懸け入ってはその裏へ抜け、とって返しては懸け乱し、今日を限りと闘い続けた。

このように、5月21日の合戦において、由比ヶ浜にひしめく倒幕側の大軍を東西南北に懸け散らし、両軍双方の目を驚かした長崎為基であったが、その後の彼は生死も定かではなく、その消息を知る者は誰一人としていない。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月20日 (日)

太平記 現代語訳 10-6 討幕軍、稲村ヶ崎を経由、鎌倉へ

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田軍伝令A 極楽寺坂切り通し(ごくらくじざかきりどおし:鎌倉市)へ向かわれた大館宗氏(おおたちむねうじ)殿、本間山城左衛門(ほんまやましろざえもん)という者に討たれて戦死。大館殿率いる軍は、片瀬(かたせ:神奈川県・藤沢市)、腰越(こしごえ:鎌倉市)まで退却!

新田義貞(にったよしさだ) ナニッ! 宗氏が! ううう・・・(涙)。

義貞は、再度その方面からの攻撃を期して21日夜半、勇猛の2万余騎を率いて、片瀬、腰越を経由、極楽寺坂へと進んだ。

やがて、高天に輝く月の光の下、義貞の眼前に、幕府軍の防衛陣が見えてきた。

新田義貞 (内心)敵陣のどっかに、弱点ねぇもんかなぁ・・・(じっと目をこらす)。

北方の切り通しに至るまで、山は高く路は険しく、幕府側の守備陣営は木戸を構え盾を並べ、その兵力はざっと数万、守りは極めて堅い。

南方は、稲村ヶ崎(いなむらがさき)の海浜(かいひん)。砂浜の中を通る路は極めて狭く、そこには波打ち際まで逆茂木(さかもぎ)がびっしりと設置されていて、倒幕軍の進入を食い止める強固な障害物となっている。しかも、その沖合い4、5町ほど隔たったあたりには幕府軍の大船多数が浮かび、その船上には櫓(やぐら)が築かれている。

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(訳者注1)
鎌倉は、西方、北方、東方の三方向に山、南方に海、という、攻めにくい地形になっている。

討幕軍は、関東地方の様々な場所からやってきた武士で構成されていたであろうから、海上の戦には不慣れである。よって、鎌倉の南方の海からの、[由比ヶ浜上陸作戦]は遂行不可能であり、極楽寺坂切通、巨福呂坂等の、陸上の[進入可能ポイント]を経由して、鎌倉へ軍を進めるしかない。

[稲村ヶ崎]は、そのような[進入可能ポイント]のうちの一つであったろう。

[地理院地図]を使用して、[稲村ヶ崎]の付近を見ていただくと、状況を良く理解していただくことが可能であろうと思われる。

[地理院地図]にアクセスし、[稲村ヶ崎駅]で検索すると、[江ノ電(江の島電鉄)]の[稲村ヶ崎駅]の付近が表示されると思う。

[稲村ヶ崎駅]の南東方向に、少し海に突き出た陸地がある場所、そこが、[稲村ヶ崎]である。

[稲村ヶ崎]より西側にある海浜が、[七里ヶ浜]である。

鎌倉は、[稲村ヶ崎]より東方にある。

[稲村ヶ崎]のあたりの等高線を見ると、そこが、海岸よりも高くなっている場所であることが分かると思う。

[七里ヶ浜]に立ち、[稲村ヶ崎]の方向にレンズを向けて、訳者がかつて撮影した画像が、下記である。

P1

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このような地形なので、[七里ヶ浜]から[稲村ヶ崎]を経由して鎌倉へ軍を進めることは、容易な事ではないと思われる。
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新田義貞 (内心)うーん・・・ここを強行突破して鎌倉へ進むのは、相当難しいぞ。あんな逆茂木だらけの狭い道だ、あそこを通過するには相当手間どるだろうよ。そんなこんなでゴチャゴチャしている所を、海上の船から、矢の雨ビュンビュンか。

新田義貞 (内心)ドウリで、こっち方面に向かった連中らが、敵陣突破できずに退却したの、ムリもねぇやなぁ。

新田義貞 (内心)ウーン・・・いったいどうしたもんだべ・・・。

新田義貞 (内心)よぉーし!

義貞は、馬から下りて兜(かぶと)を脱ぎ、稲村ヶ崎の砂浜の上に伏した。そして、はるか彼方の沖合に目を注ぎ、一心に祈り始めた。

新田義貞 伝え聞くところによりますれば、伊勢神宮(いせじんぐう)に鎮座(ちんざ)まします日本開闢(かいびゃく)の主・アマテラスオオミカミノミコト様は、その本体は大日如来(だいにちにょらい)、しかして、時には龍神(りゅうじん)に化身(けしん)して、我ら人間界に降臨(こうりん)したまい、その威神力(いじんりき)を示現(じげん)したもうと。

新田義貞 わが日本国の主君なる先帝陛下は、ミコト様のご子孫であらせられます。しかるに陛下は、今や逆臣(ぎゃくしん)のために、西海(さいかい)の波間に漂泊(ひょうはく)のおん身の上でございます。

新田義貞 この義貞、陛下の臣としての道を全うせんがため、陛下よりのお許しを得て、大敵・北条(ほうじょう)氏に対して、まさに今、立ち向かわんとしております。その目的はといえば、ひとえに朝廷の統治を助け奉り、わが国家全土の人民の生活を安泰(あんたい)ならしめんがためであります。

新田義貞 仰ぎ願わくは、内海(ないかい)、外海(げかい)の龍神八部衆(りゅうじんはちぶしゅう)、私のこの忠義の志を、なにとぞお汲み取りいただき、わが眼前に満つるこの潮(うしお)を、万里のかなたへと遠ざけ、わが軍の前に、一筋(ひとすじ)の進路を開かしめたまえーーっ!

義貞は、至心に祈念込め、腰に佩(は)いている黄金作りの太刀を手に取った。

新田義貞 エェーーイ!

彼は、その太刀を海中へ投じた。(注2)

太刀 ヒューーーー、ザバン!

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(訳者注2)大事な太刀を、龍神にささげたのである。古来から龍神は、「水」に関係する様々の現象をコントロールすると、信じられてきた。
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義貞の志が、龍神に納受(のうじゅ)されたのであろうか、その夜、月が没する頃、

討幕軍メンバーB おい、見ろ見ろ、あれ!

討幕軍メンバーC オオオ・・・。

討幕軍メンバーD 潮が・・・。

討幕軍メンバーE グイグイと・・・。

討幕軍メンバーF 引いていくぅ・・・。

討幕軍メンバー一同 ウオオオ・・・。

それまで干上がる事が全く無かった稲村ヶ崎の海浜底が、20余町にわたって、にわかに海中より現われた。まさに、たぐいまれなる不可思議現象としか、いう他は無い。

義貞の眼前に延々と続く、広い砂浜・・・海上から矢を射かけんと待機していた幕府側の数千の船は、引き潮に押し流されて、沖合いはるか彼方に隔たってしまった。もう、矢は届かない。

義貞は叫んだ、

新田義貞 オオオ・・・海が動いたぁ!

新田義貞 こんな話を聞いたことがあるぞ、「古代中国・後漢(こうかん)王朝の貳師(じし)将軍、城中に水尽き、兵が渇に悩まされるに至り、刀を抜いて岩石に突き差すやいなや、そこから水がにわかに吹き出し」・・・。中国だけじゃぁない、わが国だって・・・神宮皇后(じんぐうこうごう)が新羅(しらぎ)を攻められた時に、自ら珠を取って海上に投げられたとたん、潮が遠く退き、その結果、ついに勝利を納めることができたという。

新田義貞 なぁ、みんな! 今、おれたちの目の前に現れてるこの超常現象(ちょうじょうげんしょう)、和漢の佳例(かれい)、古今の奇瑞(きずい)に、実にまぁよく似てるじゃねぇかよぉ! こうなったらこっちの勝利、もう間違い無しでぃ!

討幕軍メンバー一同 そうだそうだ、勝利、間違い無ぁし!

新田義貞 ついに今、おれたちの前に、道が開けたんだぁ! 鎌倉(かまくら)への道がなぁー!

討幕軍メンバー一同 ウオオーーー!

新田義貞 さぁ、みんな、行けー! 進めぇー、進めぇー、進めぇー!

討幕軍メンバー一同 ウオオオーーー! ウオオオーーー! ウオオオーーー!

新田義貞 鎌倉だぁー!

討幕軍メンバー一同 ウオオオオーーーーー!

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江田(えだ)、大館(おおたち)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、田中(たなか)、羽川(はねかわ)、山名(やまな)、桃井(もものい)家の人々をはじめ、越後(えちご:新潟県)、上野(こうづけ:群馬県)、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、相模(さがみ:神奈川県)の軍勢ら6万余騎は、一団となって稲村ヶ崎の遠干潟を真一文字に駆け抜け、鎌倉の中に突入、幕府側防衛陣の背後に回り込んだ。

敵軍に稲村ヶ崎を突破されて、背後に回り込まれる、というような事態など、想像だにもしていなかった幕府側の大軍勢は、パニック状態に陥った。

彼らは、背後から攻めこんできたこの軍勢に立ち向かおうと、全軍一斉に向きを変えた。そこをすかさず、つい先ほどまで幕府軍の前面に位置していた倒幕軍側の別の勢力が、攻撃をしかけていく。

背後の敵を攻めんとすれば、前方の敵が襲いかかってくる。前方の敵を防がんとすれば、背後の大軍が道を塞いで幕府軍を殲滅(せんめつ)せんと迫ってくる。挟み撃ちになってしまった幕府軍側は進退窮まって東西に迷走し、とてもまともに、防衛戦を展開できないような状態になってしまった。

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幕府軍サイドに、嶋津四郎(しまづしろう)という武士がいた。大力の持ち主にして才能、体格ともに優れた人物。「これは、イザという時に頼りになる男だ」ということで、北条家執事(しつじ)・長崎円喜(ながさきえんき)が烏帽子親(えぼしおや:注3)となり、「嶋津四郎こそは、一騎当千の勇士なり」と、北条家からの信頼が厚かった。

このような人であるがゆえに、「ここが戦の分かれ目という大事な局面になった時に、出陣させよう」というわけで、未だに鎌倉の周囲の口々の守備陣へは派遣されず、北条高時(ほうじょうたかとき)の館の周辺に、待機させられていた。

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(訳者注3)若者が元服(成人式)をする時に、烏帽子親となる者は、若者に烏帽子をかぶらせ、烏帽子名(自分の名の一字)を与えた。
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やがて、「海岸方面の防衛線を敵は突破、すでに若宮小路(わかみやこうじ)にまで、侵入!」との情報が飛び交いはじめ、北条高時(ほうじょうたかとき)の周辺もいよいよ、騒然となってきた。

高時は、嶋津四郎を呼び寄せ、自ら手酌をして彼に酒を勧めた。そして、嶋津が盃を三杯傾けた後、三間四方の厩(うまや)に飼っていた白浪(しらなみ)という名の関東一の名馬に白鞍を置いて、彼に与えた。これを見た者は皆、嶋津をうらやんだ。

北条高時 頼むぜ!

嶋津四郎 ハハッ!

嶋津は、高時邸の門前でこの名馬にひらりとまたがった。

嶋津四郎 ヘヤーッ!

白浪 ヒヒーン!

嶋津四郎は、由比ヶ浜(ゆいがはま:鎌倉市)の浦風に真紅の笠印を吹き翻(ひるが)えし、鎧を着し、七つ武器をきらめかせて当たるを払い、敵陣の真っ只中へと突き進んでいく。これを見る幕府軍の大勢のメンバーたちは、口々に彼を褒め称える。

幕府軍メンバーK あぁ、一騎当千のツワモノとは、まさにアイツのことだなぁ!

幕府軍メンバーL 長崎殿が彼に大いに目をかけてたのも、ムリもない。

幕府軍メンバーM それをカサに着て、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の振る舞いが目についた嶋津だったけど・・・。

幕府軍メンバーN イザって時にゃぁ、これだけの働きすんだもんなぁ、さすがだよ。

倒幕軍メンバーたちも、これを見て、

倒幕軍メンバー一同 ウオオ、すげぇヤツが、出てきやがったなぁ!

栗生(くりふ)、篠塚(しのづか)、畑(はた)、矢部(やべ)、堀口(ほりぐち)、由良(ゆら)、長浜(ながはま)をはじめ、新田一族中の大力の評判高い猛者(もさ)たちが、嶋津と組んで勝負を決しようと、われ先に馬を進めて前線へ出てきた。

「あれを見よ、大力の誉れ高い者どうしの、他人を交えずの一騎打ち」と、両軍もろとも、かたずを呑み、手に汗握り、じっと彼らを凝視する。

ところが何としたことか、嶋津四郎は、馬から飛び下りて兜を脱ぎ、静々と身づくろいを始めた。

幕府軍メンバー一同 なんだ、なんだ?

倒幕軍メンバー一同 いったい、どうしたんだい?

全員いぶかしげに見守る中に、彼は、恥ずかしげもなく降服し、倒幕軍側に加わってしまった。

幕府軍メンバーK なんだ、なんだぁ!

幕府軍メンバーL テヘッ!

幕府軍メンバーM ふざけやがって。

幕府軍メンバーN アイツってヤツぁ、モォ!

その場に居合わせた者は一人残らず、先ほどまでの賞賛の言葉を翻(ひるがえ)し、思う存分、島津の悪口を言いあった。

この嶋津四郎の降服を皮切りに、次々と倒幕軍側への投降者が続出。長年恩顧(おんこ)の郎従、先祖代々奉公の家人たちが、主を棄てて降人(こうにん)となり、親を捨てて敵に付く、いやはや、まことに目も当てられない有様。

およそ源平(げんぺい)威を振るい、互いに天下を争う事も、今日を限りで終結と思われる、今日(こんにち)この場の状況である。(注4)

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(訳者注4)新田氏は清和源氏の流れに連なり、北条氏は桓武平氏の流れに連なる。ゆえに太平記作者は、両者の闘争を「源平の闘争」と表現しているのである。
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付記 稲村ヶ崎について

(1)参考文献

まず、以下の記述内容を考案する際に、参考にした文献を紹介する。

 [文献1]:[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]
 [文献2]:[中世の村を歩く 石井進 朝日新聞社(朝日選書 648)]

(2)史実なのか、フィクションなのか

新田義貞が太刀を海に投じた後、稲村ヶ崎の海岸に大きな干潮が起こった、という、この超常現象的なできごと、これは、いったい史実なのであろうか、それとも、太平記作者の手になるフィクションなのであろうか?

「干潮の時にタイミングを合わせれば、稲村ヶ崎近くの海中を徒歩で通過して鎌倉へ向かうことは、もしかしたら可能なのでは? 新田義貞率いる討幕軍もそのようにして,
稲村ヶ崎を突破したのでは?」、と考える人もいるだろう。

[文献2] に、明治時代に、坪井九馬氏、大森金五郎氏が、そのような考えに立っての実地検証を行った、とある( 140ページ )。

[文献1]の補注(「巻十」の分)にも、以下のように記述されている。

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 「稲村崎の潮流の実況とこの時の戦闘との関係については、早く坪井九馬博士の考察があり、藤田精一博士は「新田軍の進撃は、闇夜中に成功せしに相違なし。・・・二十二日午前三時、四時頃の干潮を利用せしものならんか」といわれた(藤田博士著「新田氏研究」)。また大森金五郎氏がこの稲村崎を実地踏査して、義貞が潮を退けたという太平記の記事の真実性を証明されたことは有名である。」
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また、[文献2] には、最近の研究事例として、磯貝富士夫氏(東京学芸大学付属高校)の、海に足を踏み入れての(4度もの)フィールドワーク調査研究が紹介されている( 148ページ ~ 149ページ)。

(3)石井進氏の考察

では、太平記に記されている[元弘3年(1333)5月21日(旧暦)夜半]の海の潮位は、実際にはどうだったのか?

石井進氏によれば([文献2])、この問題に取り組んだ一人の天文学者がいたのだそうである。小川清彦氏は、相模湾沿岸東部(稲村ヶ崎はこの域内に位置している)の当時の潮位の変動を科学的に算出した。(その研究が行われたのは、「大正の初め」なのだそうである)。[文献2]の145ページに、小川氏の算出による、5月15日 ~ 25日 の潮位変動がグラフ表示されている。

ここで、石井進氏は([文献2])、5月21日の3日前、5月18日(旧暦)の潮位差に注目する。なぜならば、当時の歴史を記した「梅松論(ばいしょうろん)」には、5月18日午後に、新田軍が稲村ヶ崎を突破し、鎌倉の浜に到達した、との記述があるので。

以下、[文献2] 141ページ ~ 144ページ よりの引用である。

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 「十八日と二十一日、大した違いはないと思ってはいけない。理科の授業などで習っていると思うが、満月の日の一、二日あとが大潮になる。当時の暦はいわゆる陰暦だから、毎月十五日が満月の日、十八日はまだ大潮に近いのである。天文学者小川氏の計算の図表を見よう。十八日の昼過ぎには平均水位より約七五センチも潮が引くことになっている。だから『梅松論』のいう十八日午後、新田義貞勢が稲村ヶ崎にできた干潟を通過して鎌倉の浜に火をかけた、というのと実にピッタリ一致するのだ。」
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([海上保安庁 潮汐予測] でネット検索することにより、[海上保安庁]のサイトの中にある[潮汐予測]というページにアクセスすることができると思う。1333年の旧暦5月の頃の様々な日付をインプットすると、その日の潮位の変化のシミュレーション値を見ることができる。日付に関しては、旧暦の日付から、ユリウス暦の日付に変換した値を、インプットする必要がある。)

石井進氏は更に、当時の第1級の史料をもとにして、「5月18日」にスポットライトを当てていく。その史料とは、「軍忠状(ぐんちゅうじょう)」である。

(当時、戦の後に武士たちは、「自分はいついつ、これこれのごとくに奮闘いたしました。」という自己申告書、すなわち、軍忠状を、司令官に提出し、恩賞を期待した。)

石井氏によれば、現存するそれら7通のうち、実に5通までもが、「自分は、5月18日に、稲村ヶ崎から鎌倉の前浜で戦った」との申告内容になっているのだそうである。[文献2]の145ページには、それらのうちの1通(新田義貞のサイン入り)の、ナマナマシイ実物写真が掲載されている。

しかし・・・「21世紀の今、歩いて渡れるとしても、当時は不可能だったかも」との疑問を持たれる方もおられると思う。海面の高度は、時代によって変化するから。

全地球規模での温度の長期的な変化とそれに伴う海水面の高さの変動、関東大震災による海底の隆起、等、様々な事を考察しながら、石井氏はこの問題に対しても、真正面からの回答を与えているのであるが、ここではそれを紹介する余裕がない。関心がある方は、[文献2]をご参照いただきたい。

かくして、

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 「新田義貞の鎌倉攻め、稲村ヶ崎沖合の干潟からの進撃の物語について、何人かの歴史家や科学者の積み重ねてきた調査研究の跡を私なりにたどり直してみた。その結果、現代人にとっては信じがたい物語だが、意外にもかなりの程度まで事実を伝えた話であることがわかってきた。」
([文献2] 150ページ よりの引用)
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との結論に、石井氏は到達されたのである。

(4)幕府軍側の防御

[文献2]に記されているこれらの内容を読み、積年の疑問が解決された思いがして、私としては実にスッキリした。

しかし、よくよく考えているうちに、これで問題が全て片付いたとは、思えなくなってきた。

その時、鎌倉幕府軍側は、いったい何をしていたのであろうか?

幕府軍側が稲村ヶ崎を完全無防備の状態で放置していた、などとは、いくらなんでも考えがたい。一定量の軍勢を配置していたのでは、と思われる。

配置場所として考えられるのは、稲村ヶ崎近くの海上、そして、稲村ヶ崎の鎌倉側・根元部分(陸上)である。

(4-1)海上の防備

海上の防備については、太平記には([文献1])、

 「沙頭(しゃとう)路(みち)狭(せば)きに、浪打涯(なみうちぎわ)まで逆木(さかもぎ)を繁(しげ)く引懸(ひきかけ)て、澳(おき)四五町が程(ほど)に大船(たいせん)共(ども)を並べて、矢倉(やぐら)をかきて横矢(よこや)に射させんと構(かまえ)たり。」

と書かれている。

その後、海に異変が起こり、その防御体勢が無効になってしまった、と書いている。

 「其(その)夜の月の入方(いりがた)に、前々(さきざき)更に干(ひ)る事も無(なか)りける稲村崎、俄(にわか)に二十余町干上(ひあがっ)て、平沙(へいしゃ)びょうびょうたり。横矢(よこや)射んと構(かまえ)ぬる数千(すせん)の兵船も、落行(おちゆく)塩(しお)に被誘(さそわれ)て、遥(はるか)の澳(おき)に漂(ただよ)えり。」

元弘3年5月18日(石井氏の説のごとく、21日ではなく18日としてよいと思う)の引き潮は上記に書かれているように、「大船」をも沖に移動させてしまうほどの力を持っていたのであろうか?

「激しい潮流」といえば、鳴門海峡、関門海峡、あるいは、来島(くるしま)海峡を思い起こす。あのような激しい流れであれば、「大船(当時の)」も流されてしまうのかもしれない。しかし、稲村ヶ崎のある場所は海峡ではない、あそこは相模湾である。だから、引き潮の潮流は、とてもゆったりとしたスピードになるのではないだろうか? (長時間かけて、潮がジワジワァ、ジワジワァと引いていく、というイメージ)。

となると、幕府軍側の「大船」は、引き潮の流れに逆らって(人力で船を漕いで)、稲村ヶ崎の海浜近くに依然として陣取り、稲村ヶ崎の海中を徒歩で、あるいは騎馬のまま渡っていく討幕軍側軍勢に対して、激しく矢を浴びせかけることが可能だったのでは?

稲村ヶ崎突破が行われたのが、太平記の言うように夜であったならば、討幕軍側の個々のメンバーの動きを海上からは把握しにくく、揺れる船上から放つ矢は、その多くが無効となり(当たらない)、という状況であったかもしれない。しかし、石井氏の説に従うならば、稲村ヶ崎突破が実際に行われたのは、夜ではなく、午後である。霧がかかっていない限り、幕府軍側からの視界は良好であろう。

討幕軍側は、幕府軍側から射られる矢を、どのようにして防ぎながら、海を渡っていったのだろうか? 盾をずらりと敷きつめて防御壁を造り、その内側を進んでいったのだろうか? 徒歩のメンバーはそのまま歩いて(走って)いくとして、騎馬メンバーは、馬に乗ったままそこを行ったのだろうか、それとも、馬から下り、馬と共に徒歩で行ったのであろうか?

討幕軍側・後方部隊から幕府軍側への、すなわち、陸上から海上へ向けての、(討幕軍側・先鋒部隊を援護するための)援護射撃もあったのかもしれない。ビュンビュン矢が飛んでくる状況下では、幕府軍側も船を陸に接近させることも難しくなり、討幕軍に対しては遠方からの射撃しかできないから、命中率は低くなるだろう。

(4-2)陸上の防備

稲村ヶ崎の鎌倉側・根元部分(陸上)に、幕府軍側の軍勢が配備されていたのだろうか?

もしも配備されていたのであれば、これは相当な防御力があったのでは、と思われる。隘路(狭くなっている場所)を塞ぐような形で陣取れば、大軍の進撃を食い止めることも可能だろうから。(テルモピュライに陣取って、アケメネス朝ペルシア軍に対抗したギリシア軍のように。)

稲村ヶ崎の鎌倉側・根元部分(陸上)が、「隘路」というにはふさわしくないような、防御しにくい地形であるのかどうか、私にはよく分からない。

(5)稲村ヶ崎を突破したのは、何人か?

倒幕軍が稲村ヶ崎を突破して鎌倉に攻め込んだ、というのは、おそらく史実としてよいのだろう。しかし問題は、そこを突破した人数である。下記の2ケースが考えられる。

大軍団編成 : 稲村ヶ崎に集結した倒幕軍の全員が、海を渡った。

コマンド部隊編成 : 稲村ヶ崎に集結した倒幕軍の中から選ばれた少数精鋭のコマンド部隊のみが海を渡り、その他のメンバーたちはそのままそこに待機、あるいは、極楽寺坂切り通しの方面に移動。コマンド部隊は、極楽寺坂切り通しに陣取る幕府軍側の背後に回りこみ、幕府軍を急襲。それに合わせて、倒幕軍は極楽寺坂切り通しを西方から攻撃し、そこを突破し、鎌倉へ。

太平記の記述では([文献1])、[大軍団編成]となっている。

 「越後・上野・武蔵・相模の軍勢共、六萬余騎を一手に成(なし)て、稲村が崎の遠干潟(とおひかた)を真一文字に懸通(かけとおり)て、鎌倉中(じゅう)へ乱入(みだれい)る。」

稲村ヶ崎の狭い進軍路を、6万人もの大軍が行ったのでは、全員が通過するにはいったい何時間かかったろうか?

(6)義貞は刀を投げたのか?

太平記にあるような、刀を海に投じて祈願する、というような事を、新田義貞は実際に行ったのだろうか?

これについては、石井氏は、太平記の創作(フィクション)であり、実際にはそのような事は行われていない、としている。([文献2] 150ページ)

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 「また海神に剣を捧げて祈ったところ、間もなく海が干上ったというのも、やはり創作に違いない。大潮の干潮時には、稲村ヶ崎沖合に広く岩盤が現れて通行可能になることを、義貞か、あるいは攻撃軍の誰かが知っていて、その時間を見はからって総攻撃をかけ、見事に成功したというのが本当のところであろう。」
([文献2] 150ページより引用)
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しかし、義貞は、パーフォーマンスを行ったのでは、という考え方も、ありうるだろう。例えば、下記のような。

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 義貞は実際に、刀を海に投じたのであろう。ただし、それは実のところ[祈願]ではなくて、[演出]、[パーフォーマンス]だったのだ。数時間後に潮が引いて稲村ヶ崎一帯が干上がることを事前に知っており、その自然現象を、全軍の士気を高めるためにうまく利用したのである。「祈願込めて刀投ぜしこの義貞の誠心、みごと海神に通じ、稲村ヶ崎に奇跡起これり! 我々は人間を越える存在、すなわち神の援護をいただいている。かくなるうえは、この戦に我々が勝利すること間違い無し!」とのストーリーを演出したのであろう。
------

上記の説が成り立つかどうかには、ある[人数]が大いに関係してくると思う。その[人数]とは、討幕軍中の、[大潮の干潮時には、稲村ヶ崎沖合に広く岩盤が現れて通行可能になる]、ということを知っている人の数である。

もしもその人数が多かったならば、かりに義貞がそのようなパーフォーマンスをやったならば、逆効果になってしまうだろう。

 オイオイ、義貞さんのあの刀投げてんの、みえすいたパーフォーマンスやってるだけのことだよぉ! 大潮の干潮の時に、稲村ヶ崎が干上がること、おれたちが知らねぇとでも、思ってんのかねぇ?

こうなると、「あれは、祈願込めてるようで、ジツは単なるパーフォーマンス」という情報は、あっという間に全軍に伝わってしまい、みんな、シラケきってしまい、士気はガタ落ちになってしまうであろう。

しかし、そのような後先の事を一切考えずに、パーフォーマンスをやってしまう、義貞とはまさにそういう人なんだ、との見方も一応はありうる、ありうるのだけど・・・。

ここまで来ると、[新田義貞・性格論]の議論となってしまい、もうこれは収拾がつかなくなってしまうだろう。義貞は、パーフォーマンスなんてやるような人ではない、という考えだって、ありうるだろうし。

磯貝富士夫氏の実地調査によれば、稲村ヶ崎の海底には、中世に通行されていた古道の跡があるという。([文献2]の149ページの地図中に、それが示されている)。

だから、鎌倉やその近辺に住んでいる人々の間では、「大潮の干潮時には、稲村ヶ崎が通行可能となる」という事は、周知の事実であったと考えられる。

そのような人々が、討幕軍側にいったいどれほど参加していたのだろうか?

さきほど紹介した太平記の記述では([文献1])、

 「越後・上野・武蔵・相模の軍勢共、六萬余騎を一手に成(なし)て、稲村が崎の遠干潟(とおひかた)を真一文字に懸通(かけとおり)て・・・」

とある。

「相模の」とあるので、もしかしたら、鎌倉の近辺に住んでいる人々も多数、討幕軍側に参加していたのかもしれない。しかし、太平記に書かれている事だから、これも史実としてよいのかどうか、よく分からない。

 義貞は実際に海神(龍神)に対して祈願をこめ、刀を投げた、ただし、それは、海神に対して、「どうか、目の前の海を干上がらしてください」との、具体的な願いを込めてではなく、「我々討幕軍がなんとか、目の前にある稲村ヶ崎を突破し、鎌倉へ突入できるよう、どうかよろしくお願いします」、と、(抽象的に、漠然と)祈ったのである

とするセンも、ありうるだろう。

干潮で海水面の水位が低下しても、海が荒れていたのでは、そこを渡ってはいけない。そのような、自軍の進撃の障害となるモロモロの事を全て取り除きたまえ、と海神へ祈りこめたのでは、とも考えられる。

とにかく、この問題を考えれば考えるほど、解決のゴールから遠のいていってしまう感が濃厚である。

現地の海底を、くまなく探査してみる、というのもアリかもしれない。(どこの誰が、どこからどれほどの予算をゲットしてきてやるのか、という問題はさておき)。上等な刀の残骸でも見つかったら、大ニュースになるだろう。でも、その発見は、極めて見込み薄だ。台風が来た時なんかに、どこか他の場所に移動してしまっているかもしれない、あるいは、過去のいつか(例えば戦国時代)に、誰かに拾われてしまっているかもしれない。

(7)更に謎は深まってしまった

以上のように、いろいろと考えてみたが、出口は全く見えてこない。[文献2]を読んで、スッキリしたと思ったが、それはツカノマのことであった。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月19日 (土)

太平記 現代語訳 10-5 赤橋守時と本間山城左衛門の最期

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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洲崎(すさき:鎌倉市)方面へ向かった赤橋守時(あかはしもりとき)は、5月18日の朝から、倒幕軍と戦い続けていた。

この方面の戦闘は極めて激しく、一日一夜の間に65回もの衝突が展開されたほどであった。当初数万騎いた郎従は次々と戦死、あるいは逃亡し、残りわずか300余騎になった。

侍大将(さむらいだいしょう)としてその陣に加わっていた南条高直(なんじょうたかなお)に対して、守時はいわく、

赤橋守時 古代中国の、漢(かん)と楚(そ)の8年間に渡る戦いにおいて、漢の高祖(こうそ)は戦う度に敗退するばかりだった。しかし、ひとたび烏江(うごう)の戦に勝利を得た後は、一気に形成逆転、楚の項羽(こうう)はついに滅び去ったよな。

南条高直 ・・・。

赤橋守時 古代中国・春秋時代(しゅんじゅうじだい)、斉(せい)と晋(しん)は70回も戦火を交えた。晋の重耳(ちょうじ:注1)は一向に勝つことができずにいたが、最終的には国境での戦いに打ち勝って、晋国を保つことができたんだ。

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(訳者注1)後の晋の君主、文公の事。君主になる以前の名前。
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南条高直 はい。

赤橋守時 万死を出でて一生を得る、百回負けた後に最後の一戦にて形成逆転、戦(いくさ)ってぇのは、いつの時代にあっても、そういうもんなのさ。今回の戦だって、敵方は相当勝ちに乗ってはいるようだけどな、かといって、わが北条(ほうじょう)家の命運が今日ここに尽きてしまった、なんてフウには、おれには到底思えねぇな。(注2)

南条高直 そうですとも!

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(訳者注2)赤橋守時は、北条一族に属する人である。
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赤橋守時 でもなぁ、この守時、我が北条一族の安否を見届ける前にな、ここの陣頭で腹を切ってしまおうって思うんだ。

南条高直 えっ・・・いったいなぜですか? なぜ?

赤橋守時 うん・・・なぜかって・・・それはだな・・・おれの妹(注3)、あの足利殿の所に嫁いでるんだもんな。

南条高直 (唇をかみしめる)・・・。

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(訳者注3)守時の妹・登子は、足利高氏の妻である。
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赤橋守時 高時殿はじめ、一族の人々はおそらく、おれの事、あまり信用してくれてないだろうよ。

南条高直 ・・・。

赤橋守時 こんな疑惑を身内から抱かれるなんて、まさに、勇士の恥ずる所じゃないか!

南条高直 (じっとうつむく)・・・。

赤橋守時 古代中国・戦国時代末期、かの田光先生(でんこうせんせい)はある日、燕(えん)国の太子・丹(たん)から、秦・始皇帝(しんのしこうてい)暗殺計画を打ち明けられ、助力を求められた。その後、太子・丹は田光先生に、「この事を絶対に口外してはならぬぞ、よいな」と言った。そこで、田光先生は太子・丹に余計な疑念を抱かせまいと、彼の目の前で自らの命を絶ったという。

赤橋守時 おれが率いてるこの軍、激戦に次ぐ激戦で、みんな疲れきっちゃってる。もうこれ以上、とても戦えやしない。かといって、守りをかためているこの場から退いたとあっては、おれには、なんの面目もねぇよ。一族の疑惑の中に、しばらく命ながらえたって、それでいったい、なんになるってんだぁ!

このように言い放つやいなや、戦い未だ半ばに達せずというさ中であるにもかかわらず、守時は、帷幕(いばく:注4)の中に鎧を脱ぎ捨て、腹を十文字に切って、北を枕に倒れ伏した。

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(訳者注4)陣屋。
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南条高直 赤橋殿! 赤橋殿!(涙)。

赤橋守時の郎等ら一同 ううう・・・(涙)。

南条高直 あぁ、逝(い)ってしまわれた・・・(涙)。

赤橋守時の郎等ら一同 ううう・・・(涙)。

南条高直 えぇい! 大将がすでに御自害されたとあっちゃぁ、もう誰のためにも惜しむものかぁ、この命! 赤橋殿、おれも、お供しますよ!

守時に続いて腹を切る高直を見て、志を同じくする武士90余人、上に上にと重なって、腹を続々と切っていく。

かくして、5月18日夜半、洲崎の守備陣がまず破れ、新田義貞率いる倒幕軍は、山内(やまのうち:鎌倉市)まで進んだ。

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ここに、本間山城左衛門(ほんまやましろざえもん)という武士がいた。

彼は長年、大仏貞直(おさらぎさだなお)に目をかけてもらい、お気に入りの近習の一員として仕えていた。ところが、ふとした事から、貞直の勘気(かんき)を食(くら)ってしまい、「以後、出仕に及ばず」の状態となり、蟄居謹慎(ちっきょきんしん)の身となっていた。

5月19日の早朝、

鎌倉の人A 大変だ、大仏殿が守ってる極楽寺坂の陣、破れちゃったぞ!

鎌倉の人B エェッ!

鎌倉の人C 敵がドンドン、攻め込んできてるってよぉ!

本間山城左衛門 ナニィ! 大仏様が!

本間山城左衛門 (内心)こうしちゃおれねぇ、とにかく、行かなきゃ!

本間は、自らの若党(わかとう)・中間(ちゅうげん)100余人を率いて、極楽寺坂へ向かった。

本間山城左衛門 (内心)殿へのご奉公も、今日で最後か・・・。

本間らは、倒幕軍大将・大館宗氏(おおたちむねうじ)率いる3万余騎の陣の真っただ中へ掛け入り、勇み誇る大勢を八方へ追い散らし、宗氏に引き組まんと、突撃をくり返す。そのあまりの勢いの激しさに、3万余騎の倒幕軍は瞬時の間に分かれなびいて、腰越(こしごえ:鎌倉市)まで退却。

なおも激しく迫る本間を見て、とって返して思う存分戦った大館宗氏は、ついに本間の郎等に引き組まれ、互いに刺し違えて果てた。

本間山城左衛門は、大いに喜んで馬から飛び降り、大館宗氏の首を取って太刀の切っ先に貫き、大仏貞直のもとに馳せ参じ、幕の前にかしこまっていわく、

本間山城左衛門 長い間ご奉公させていただき、殿からは数々の御恩を頂いてきましたが、その御恩にやっと報じ奉ることができました・・・今日のこの一戦で。

大仏貞直 ・・・。

本間山城左衛門 私への殿のお疑い、晴らせないままに死んでしまってちゃ、あの世へ行ってからも私の気持ち、スッキリしませんでしたでしょうね・・・きっと妄念になっちまってね、わが魂の救いの妨げになってたことでしょうよ。

大仏貞直 本間・・・。

本間山城左衛門 これでやっと、心安らかに冥土へ行けるってもんでさぁ。

大仏貞直 本間・・・お前ってヤツは・・・。

本間山城左衛門 殿、ありがとうございました・・・じゃぁ、お先に失礼します!

言うが早いか、流れる涙を押さえつつ、本間山城左衛門は、腹をかき切った。

大仏貞直 ううう・・・本間! 本間ぁ!・・・・(涙、涙)

大仏貞直 「たとえ敵が大軍なろうとも、その上下の心和さざれば、その将帥をも奪う事も可能」・・・よくぞ言ったもんだ・・・。「徳を以って恨(うらみ)を報ず」とはまさに、本間のこの心そのものだ。あぁ、なんて立派な男・・・こっちが恥かしくなるくらいだ。

落ちる涙を鎧の袖にかけながら、大仏貞直は奮い立った。

大仏貞直 よぉし! 本間、オマエの志に今からミゴト、応(こた)えてみせるからなぁ! 行くぞぉ!

大仏軍メンバー一同 オーウ!

自ら先頭切って出陣する貞直の後に、幕府軍の武士たちは、涙を流しながら続いていく。

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2017年8月18日 (金)

太平記 現代語訳 10-4 幕府軍、必死の鎌倉防衛

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「新田義貞(にったよしさだ)、数度の対幕府軍合戦に、勝利す!」との情報が関東一円に流れ、それを聞いた武士たちが続々と義貞の旗下に参集、倒幕勢力側の兵力は急膨張して、雲霞(うんか)のごとき大軍となった。

関戸(せきと:東京都・多摩市)に1日逗留して、諸国からの軍勢の到着を記録したところ、

新田義貞 ナニィー! 総勢60万7千余騎だとぉー?! ドッヒャァー!

脇屋義助(わきやよしすけ) やぁったねぇ、アニキィ!

討幕軍リーダー一同 やったぁ! やったぜぇ! イェーィ! ピィーピィー!

新田義貞 うーっ!

脇屋義助 さぁ、鎌倉(かまくら)、鎌倉ぁ!

新田義貞 よーし! じゃぁこれから、全軍の配置を言うからな、みんなよっく聞いといてくれよ!

討幕軍リーダー一同 おぅーい!

新田義貞 全軍を三つに分けてな、各軍には二人ずつ大将を任命して、指揮してもらうようにすっからな。

討幕軍リーダー一同 ・・・。

新田義貞 まずは、第1方面軍、大将、大館宗氏(おおたちむねうじ)、副将、江田行義(えだゆきよし)、総勢10万余騎。極楽寺坂切り通し(ごくらくじざかきりどおし:鎌倉市)へ向かえ!

第1方面軍のリーダー一同 オケーイ(OK)!

新田義貞 次、第2方面軍、大将は、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、副将は、大嶋守之(おおしまもりゆき)、総勢10万余騎。巨福呂坂(こぶろざか:鎌倉市)へ向かえ!

第2方面軍団のリーダー一同 まぁっかしときなってぇ!

新田義貞 最後は第3方面軍、こっちはおれと義助が指揮を執(と)る。堀口(ほりぐち)、山名(やまな)、岩松(いわまつ)、大井田(おおいだ)、桃井(もものい)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、額田(ぬかだ)、一井(いちのい)、羽川(はねかわ)以下、新田一族メンバーはおれたち二人の前後左右に布陣、総勢50万7千余騎、化粧坂(けはいざか:鎌倉市)めがけて押し寄せる!

討幕軍リーダー一同 イェーィ! ピィーピィー! ゴォウ(go)、ゴォゥ、ゴォーウ!

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鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)の人々は皆、「一昨日、昨日と、分陪河原(ぶばいがわら:東京都・府中市)と関戸で合戦があり、幕府側が敗北」と、聞いてはいたものの、「まぁ、大した敵ではないだろうさ、敵の人数だってしれてるんだろう」くらいにタカをくくって、のんびりと構えていたのであった。ところが、あにはからんや、

鎌倉の人A おいおい、大変な事になったよ! 反乱軍の討伐に向かってた大手方面軍の大将、北条泰家(ほうじょうやすいえ)殿が完敗しちゃったんだって! わずかの敗残兵とともにきのうの夜半、山内(やまのうち:鎌倉市)へ逃げ帰ってきたっていうよぉ!

鎌倉の人B からめての方も、メチャクチャになってるらしいぞぉ。利根川(とねがわ)方面に向かった金澤貞将(かなざわさだまさ)殿が、小山秀朝(おやまひでとも)と千葉貞胤(ちばさだたね)にボロ負けしちゃって、下道(しもみち)街道ぞいに、鎌倉へ退却中だってさ!

鎌倉の人C おいおい、ほんとうかい、それ!

鎌倉の人D こりゃぁ、思ってもみない展開になってきたなぁ。

鎌倉の人E まずいわよぉ、これって・・・。

そしてついに、5月18日午前6時、村岡(むらおか:神奈川県・藤沢市)、藤澤(ふじさわ:藤沢市)、片瀬(かたせ:藤沢市)、腰越(こしごえ:鎌倉市)、十間坂(じっけざか:神奈川県・茅ヶ崎市)等、50余か所に火の手が上がりはじめた。

いよいよ、倒幕軍側の鎌倉総攻撃が、三方面から一斉に開始されたのである。

武士は東西に馳せ違い、住民は貴賎を問わず山野に逃げ迷う。

鎌倉の人F 霓裳(げいしょう)一曲の歌声響きわたる中、

鎌倉の人G 唐(とう)の都・長安(ちょうあん)の城壁に、安禄山(あんろくざん)率いる反乱軍の進軍太鼓の音迫り、時の皇帝・玄宗(げんそう)の権力失墜(けんりょくしっつい)を見た、まさにあの時も、

鎌倉の人H あるいは、偽りの烽火(のろし)の末の異民族侵入の結果、周(しゅう)の幽王(ゆうおう)が滅亡した、まさにかの時も、

鎌倉の人F 今、我々の眼前に展開されているこの憂うべき状況と、まったく同様であったのかも・・・。(涙)

鎌倉の人G ただただ、涙が流れるばかり、涙を止めようがない・・・。(涙、涙)

鎌倉の人H あぁ、まったく、なんという事だ!

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「新田義貞の軍勢、三方から鎌倉に迫る!」との情報に、幕府側もそれに対抗して、相模高成(さがみたかなり)、城景氏(じょうかげうじ)、丹波時守(たんばときもり)を大将に任命し、軍勢を三方面に分けて守備を固めた。

そして、第1方面軍には、金澤越後左近将監(かなざわえちごさこんしょうげん)を副え、安房(あわ:千葉県南部)、上総(かずさ:千葉県中部)、下野(しもつけ:栃木県)の軍勢3万余騎で、化粧坂を堅めさせた。

第2方面軍には、大仏貞直(おさらぎさだなお)を副え、甲斐(かい:山梨県)、信濃(しなの:長野県)、伊豆(いず:静岡県東部)、駿河(するが:静岡県中部)の軍勢5万余騎で、極楽寺坂切り通しを堅めさせた。

第3方面軍には、赤橋守時(あかはしもりとき)を副え、武蔵(むさし)、相模(さがみ)、出羽(でわ:東北地方西部)、陸奥(むつ:東北地方東部)の軍勢6万余騎で、洲崎(すさき:鎌倉市)方面の敵に当たらせた。

その他にも、北条家の支族80余人、諸国の武士10万余騎を予備軍、すなわち、危うくなってきた方面へ向かわせようということで、鎌倉内に留めた。

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5月18日午前10時、戦闘開始。その後、終日終夜の激しい攻防を展開。

倒幕軍サイドは、大兵力にものをいわせ、部隊を入れ替え取り替えしては攻撃をしかける。幕府軍サイドは、守備に絶好の難所を防衛拠点としてかため、そこからうって出てうって出て、相手側の鎌倉侵入を防ぎ止める。

鎌倉の三方に続々とあがるトキの声、自分の放った矢が相手に命中した時の歓声が、天を響かせ地を揺るがす。魚鱗陣形(ぎょりんじんけい)に攻めかかり、鶴翼陣形(かくよくじんけい)に開き受け、前後に当たり、左右を支える。

義を重んじては命を軽んじ、自らの安否をこの戦闘の一時に決する・・・まさにこの合戦こそは、わが勇気の有無を末代にまで示す時。

たとえ我が子が討たれようとも、親はそれを助けずに、子供の屍(しかばね)を乗り越えて、前なる敵に当たらんとする。たとえ我が主が射落とされようとも、郎等(ろうどう)は彼を引き起こそうともせずに、主の馬にヒラリとまたがり、ただただひたすら前へ前へ、あるいは敵と引き組んで、勝負を決せんとする者もあり、あるいは敵との相打ちの中に、共に死にゆく者もあり。この猛卒(もうそつ)たちの気力を見るに、万人死して一人が残り、百陣破れて一陣になるとも、いったいいつになったら戦が終わるのか、全くもって想像することすら不可能である。

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2017年8月17日 (木)

太平記 現代語訳 10-3 新田義貞、反撃に転ず・第2次分陪河原合戦

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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分陪河原(ぶばいがわら:東京都・府中市)で敗戦してしまい、新田義貞(にったよしさだ)は、ガックリきていた。

ところが5月15日の夜、かねてから新田陣営に参加しようと思っていた三浦義勝(みうらよしかつ)が、相模国(さがみ:神奈川県)の武士たち、すなわち松田(まつだ)、河村(かわむら)、土肥(とひ)、土屋(つちや)、本間(ほんま)、渋谷(しぶや)らから構成の6,000余騎の軍団をひきつれて、参陣してきた。

義貞は大いに喜び、ソク、三浦義勝に対面。礼厚くして席を近づけ、今後の作戦について、彼に意見を求めた。

新田義貞 見ての通りの状態さね・・・これからいったい、どうやって戦っていったらいいと思う?

三浦義勝 ・・・うん・・・そうですねぇ・・・。

新田義貞 ・・・。

義勝は、かしこまっていわく、

三浦義勝 今や天下はまっ二つに割れ、自らのサバイバルを、ひたすら合戦の勝敗に賭している状態。これからなおも10度、20度と、わが方と幕府方、あちらとこちらの優劣が入れ替わることは、十分ありうるでしょう。

新田義貞 うん。

三浦義勝 しかし、しかしですよ、遅かれ早かれ、最終的な決着は、天命の帰する所に落ち着くわけ。だからね、いつかは、新田殿が、天下に太平をもたらすことになる事、まちがいなし!

新田義貞 ・・・。

三浦義勝 新田殿の陣営に、この義勝が加わって戦うってんだからね、こちらの軍勢は10万余騎だ。これでもまだ、幕府軍の数には及ばねぇけんどね、今度の合戦こそは、一勝負(ひとしょうぶ)やりましょうぜぃ!

新田義貞 でもなぁ・・・わが方の連中、みぃんな疲れきっちゃってるぜ。こんな状態でよぉ、あの勇み誇る幕府の大軍に、はたして、立ち向かっていけるもんかなぁ。

三浦義勝 次の戦は、絶対に勝てます、勝てますって! そのわけはね・・・。

新田義貞 うん・・・。

三浦義勝 古代の中国において、秦(しん)国と楚(そ)国とが戦いを交えた時(注1)、楚の将軍・ 武信君(ぶしんくん)、すなわち項梁(こうりょう)は、わずかに8万余の軍勢でもって、秦の将軍・李由(りゆう)の軍80万に勝利し、秦軍の首を切る事40万余、という結果に。

三浦義勝 これより、項梁は心おごり、気がゆるんでしまって、「秦軍恐れるに足りず」というような、うわついた気分になってしまった。これを見た楚の副将軍・宋義(そうぎ)いわく、「「戦に勝って将軍がおごり、兵卒がだらけてしまったら、その軍は必ず破れる」と言うではないか。武信君は今まさにこのような状態、彼の最期は近いぞ。」。その言葉のごとく、後日の戦に、項梁は、秦の左将軍・章邯(しょうかん)とのたった一戦に敗れ、命を失ってしまったんですよ。

三浦義勝 オレね、昨日ひそかに部下を送ってね、幕府軍サイドのようすをさぐらせてみたんです・・・あちら側の大将たちの、いやぁ、そりゃぁもう、おごりたかぶってることといったら、もう・・・まさにこの、「武信君状態」ですよ。宋義が懸念したのと同じような状態になってまさぁ。

新田義貞 ふーん・・・。

三浦義勝 明日の合戦では、元気イッパイの新手のオレの軍団、一方面の先陣を承って、敵とイッチョウ、バシバシーンと、刃を交えてみたいもんだなぁ!

新田義貞 うーん!

義貞は、義勝に深い信頼感をおぼえ、次回の戦の作戦立案を義勝に委ねた。

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(訳者注1)三浦義勝がここで言っている「楚」とは、秦の始皇帝が中国全土を統一する前に存在した、戦国時代の[楚]ではなくて、秦帝国打倒に決起した項氏一族とその旗下に参集した集団の事である。
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明くる5月16日午前4時、三浦義勝率いる4万余騎は、倒幕軍の先頭を進み、分陪河原へ押し寄せた。

敵陣近くなるまでわざと、旗の上部を下ろさず、トキの声も上げない。幕府軍を油断させて接近した後、一気に攻撃をしかけよう、という作戦である。

義勝のヨミの通りであった。

幕府軍サイドは、前日数度もの合戦に人馬みな疲れきっていた上に、倒幕軍サイドが再び、攻撃をしかけてくるなどとは思いもよらずに、馬に鞍も置かず、武具の配備もいいかげんにしていた。遊女と枕を並べ、帯紐(おびひも)を解いて臥(ふせ)せっている者もおれば、酒宴に酔いつぶれて前後不覚に寝入っている者もいる。これぞまさしく、前世になした業の報い、今まさに目前に迫る自滅寸前の姿と言うべきか。

河原に面した所に陣を張っていた者たちが、接近してくる三浦軍を見つけて、警告を発した。

幕府軍メンバーA たった今、正面方向に、旗を巻いて静かに馬を進ませてくる大軍が出現! もしかして敵かも、各々方、ご用心!

幕府軍メンバーB あぁ、そりゃぁきっと、例のアレだろう、アレ。なんでもなぁ、三浦義勝が相模の勢力を引き連れて、こっちに援軍に向かってるってな事、聞いてるから。

幕府軍メンバーC あ、そりゃきっと、三浦の援軍だい。

幕府軍メンバーD 援軍かぁ、そりゃぁ、メッチャいいニュースだぁ!

三浦軍に対して、警戒の目を向ける者など一人もいない。とことん運命の尽きている幕府軍、まことにあきれたものである。

新田義貞は、先駆けする三浦義勝に追いつき、10万余騎を3手に分けて、攻撃命令を発した。

新田義貞 全軍、三浦の後に続けーーっ! エェイ! エェイ!

倒幕軍メンバー一同 ウオーーーー!

倒幕軍は、一斉にトキの声を上げ、三方向から幕府軍めがけて押し寄せていく。

幕府軍総大将・北条泰家(ほうじょうやすいえ)は、びっくりぎょうてん、

北条泰家 馬引けぇ! 鎧はどこだぁ!

このようにあわて騒ぐ中、新田義貞と脇屋義助(わきやよしすけ)率いる軍は縦横無尽に、幕府側陣営を蹂躙(じゅうりん)して廻る。

三浦義勝はこれに力を得て、江戸(えど)、豊島(としま)、葛西(かさい)、川越(かわごえ)、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)武士団、武蔵七党(むさししちとう)武士団らのメンバーを7手に分け、蜘蛛手(くもで)、輪違い(わたがい)、十文字(じゅうもんじ)、「一人残らず敵殲滅(せんめつ)!」とばかりに、幕府軍を攻撃する。

かくして、幕府軍側は三浦義勝の謀略にはまり、その大兵力をもってしても、もはやなすすべもなく、散りじりになりながら、鎌倉めざして引き退いていく。その戦死者は、数え切れないほどである。

幕府軍総大将・北条泰家でさえも、あわや関戸(せきと:東京都・多摩市)付近で討ち死にか、と思われるようなキワドイ局面もあったが、幕府軍・横溝八郎(よこみぞはちろう)がその場に踏みとどまり、迫り来る倒幕軍メンバー23人をしばしの間に射落としながら、主従3人、討死。

安保道堪(あぶどうかん)父子3人とそれに従う100余人も枕を並べて討死。

その他の北条家譜代(ふだい)の郎従(ろうじゅう)たちや、北条家恩顧(おんこ)の家の者ら300余人が、とって返して倒幕軍と戦い、次々と倒れていく中、北条泰家はかろうじて、鎌倉・山内(やまのうち:神奈川県・鎌倉市)に無事、帰りついた。

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長崎高重(ながさきたかしげ)は、久米川(くめがわ:東京都・東村山市)の合戦の際に組み伏せて切った首2個、切って落とした首13個を中元(ちゅうげん)と下部(しもべ)に持たせ、鎧に突き立った矢を抜く余裕も無い中に、かろうじて鎌倉へたどりついた。

傷口から流れ落ちる血で、白糸の鎧を真っ赤に染めながら、高重はしずしずと、北条高時の館へ参じ、中門の前にかしこまった。

彼の祖父・長崎円喜(ながさきえんき)は、嬉々として彼を出迎え、自らその傷口を吸い、血を口中に含みながら、涙を流していわく、

長崎円喜 (ズズゥィーー・・・(血を吸う音)ズズゥィーー・・・)なぁ、高重・・・昔のことわざになぁ、「子供のデキ・フデキを見抜く事にかけては、その父を越える者はいない」って言ってなぁ・・・。

長崎高重 ・・・。

長崎円喜 (涙)わしはなぁ、高重・・・オマエの事をなぁ、「あれじゃとても、高時さまのお役に立てるような人間じゃぁないよなぁ」って思ってたんだ。だから、いつもお前の事をなぁ、「かわいくないヤツだぜ」って思ってた・・・でも、それは、大間違いだったなぁ。

長崎高重 ・・・。

長崎円喜 オマエはたった今、「万死を出でて一生に逢った」ってわけだ。

長崎高重 ・・・。

長崎円喜 あの、新田の堅い陣を、みごとに打ち破ったってぇ、いうじゃぁないか! すばらしい、ジツに、すばらしいぞぉ! あの陳平(ちんぺい)や張良(ちょうりょう)(注2)だって、そこまでうまくやれるかどうか・・・オマエはみごと、軍事の最高のレベルを究(きわ)めたんだ、大いに自慢していいんだぞぉ!(涙)

長崎高重 ・・・。(涙)

長崎円喜 いいか、これからもよくよく心してな、戦場に臨んでは常に、「合戦こそは我が一大事」と思ってな、父祖の名を天下に顕わし、高時殿にもしっかりと、ご恩奉じをしていくんだぞ、いいな、わかったな、高重!(涙、涙)

長崎高重 (何度もうなづく)ううう・・・。(涙、涙)

高重の顔を見る毎に、小言ばかり言っていた円喜であったが、今日はいつもとは全く違い、今回の戦で示した彼の武勇を、深く感じ入ってくれている・・・高重は頭を地に付けて、祖父の言葉を心の中でじっとかみしめた。

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(訳者注2)陳平、張良ともに、漢の高祖の名参謀。
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関東での倒幕軍相手の思わぬ大敗北に、鎌倉幕府全体が色めきたっている中に、西の方から、驚天動地(きょうてんどうち)の情報がとびこんできた。

急使 一大事、一大事! 京都の六波羅庁(ろくはらちょう)、反乱軍の攻撃により陥落! ハァ、ハァ・・・(荒い息)。

幕府リーダー一同 ナニィーー!

急使 六波羅庁メンバー、京都を脱出するも、近江(おうみ:滋賀県)の番場(ばんば:滋賀県・米原市)にて全員自害! ハァ、ハァ・・・(荒い息)。

幕府リーダー一同 ナァァニィーーーー!

幕府リーダーK (内心)まさに今、関東の大敵と、

幕府リーダーL (内心)死闘を展開している、さ中だというのに、

幕府リーダーM (内心)またまた、このような事を聞くだなんて・・・。

幕府リーダーN (内心)なんということだ・・・。

幕府リーダーO (内心)いったい、これから先、いったい、どうしたらいいんだ・・・。

全員途方に暮れ、呆然と立ちすくむばかりである。

やがて、この情報は、六波羅庁に派遣されていた者たちの家来や親族たちにも伝わっていった。彼らの嘆き悲しむその様は、もはや言葉にはつくしがたい。

いつもは猛く勇ましい人々も、さすがにこの事態には、手足もなえるような心地がして、平常心を完全に失ってしまっている。

幕府リーダーK 今はまさに、非常事態。でも、ただ手をこまねいて、あわてふためいているだけでは、どうしようもないだろう。

幕府リーダーL そうだ、まったくその通りだ。

幕府リーダーM 最優先課題は、今、目前に迫ってる大敵の方でしょう。

幕府リーダーN そりゃそうです、当然そっちが先ですよ。

幕府リーダーO 新田軍を退けてこそ、京都へも、軍を送ることができるってもんでしょ。

幕府リーダーP まずは、鎌倉防衛の作戦会議、しなきゃぁね。

幕府リーダー一同 賛成!

幕府リーダーM もう一つ重要な事、それは情報管制。六波羅庁陥落のことを、新田のレンチュウらに知られちゃまずいや。

幕府リーダー一同 同感だ。

幕府リーダーP なんとか、手をうたなきゃなぁ。

しかし、それはもはや、隠しようもない事実、「六波羅庁陥落のニュース」はあっという間に、関東一円に広まった。

倒幕軍メンバーW おいおい、聞いたかよぉ! 六波羅庁陥落だってよぉ!

倒幕軍メンバーX いやぁ、おれたちにフォワードの風、ビュンビュン吹き出したじゃぁん。

倒幕軍メンバーY こないだの分陪河原での大勝利だけでも、うわぁこりゃスゲェやぁと思ってたのにぃ。

倒幕軍メンバーZ それに輪ぁかけてねぇ、メデッタ(目出度)、メェデッタァーのぉ・・・。

倒幕軍メンバー一同 ウワハハハ・・・。(パチパチ・・・拍手)。

倒幕軍メンバーW さぁ、やぁるぞぉーーー!

倒幕軍メンバー一同 イィケイケイケェーー!(パチパチ・・・拍手)。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月16日 (水)

太平記 現代語訳 10-2 新田義貞、挙兵す

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘(げんこう)3年(1333)3月11日に、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)から倒幕命令書(注1)を頂いた新田義貞(にったよしさだ)は、仮病を使って千剣破城(ちはやじょう)攻囲陣を離れ、自らの本拠地(注2)へ戻った。その後、彼は信頼のおける一族の者らを密かに集めて、打倒・鎌倉幕府のプランを練り続けていた。

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(訳者注1)原文では「綸旨(りんじ)」。

(訳者注2)新田義貞の本拠地は、群馬県の新田の地(大田市)である。
新田家のルーツは、新田義重である。新田義重は、源義国の子であり、源義家の孫である。
足利家のルーツは、足利義康である。足利義康は、源義国の子であり、源義家の孫である。
よって、新田氏と足利氏は共に、清和源氏の流れに属する。
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義貞がこのような事を企てているとは夢にも知らない北条高時(ほうじょうたかとき)は、「北条泰家(やすいえ)(注3)を大将とし、彼に10万余騎を率いさせて京都へ進軍、近畿地方と中国地方の反乱を鎮圧」との決を下した。

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(訳者注3)泰家は高時の弟である。
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かくして、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、上野(こうずけ:群馬県)、安房(あわ:千葉県南部)、上総(かずさ:千葉県中部)、常陸(ひたち:茨城県)、下野(しもつけ:栃木県)の6か国に動員令が発せられた。そして、その兵糧確保のために、関東一円の荘園に、臨時の課税がかけられた。

「新田荘(にったしょう)の世良田(せらだ)は、経済力豊かな者が多いから」ということで、出雲介親連(いずものすけちかつら)と黒沼彦四郎(くろぬまひこしろう)が新田荘担当の徴税役に任命された。

「5日間のうちに6万貫、取りたててくるべし!」との厳命を受けて、彼らは現地に乗り込んできた。

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新田荘に足を踏み入れるやいなや、出雲介親連と黒沼彦四郎は、大ぜいの部下たちを荘家(しょうけ:注4)に押し入らせ、メチャクチャな取りたてを、次々と行っていった。

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(訳者注4)荘園の事務を司る者の家。
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これを聞いた義貞は、

新田義貞 んもぉぅ! おれっち(我が館)の周りを、あやしげなやつらが馬走らせて、好き放題やりがってよぉ・・・ったくもう、ムシャクシャしてくらぁ! あぁ、もぉ、ガマンなんねぇ!

義貞は、部下を大勢出動させて両人をたちまち捕縛、出雲介親連を縛りあげて留置、同日暮れ頃にはとうとう黒沼彦四郎の首を斬って、世良田の里の中にさらしてしまった!

これを聞いて、烈火のごとく怒る北条高時、

北条高時 ヤイヤイ、わが北条家を、いってぇ何だと思ってやがんでぃ!

幕府リーダー一同 ・・・。

北条高時 おれんちが政権の座についてから、もう既に9代目、日本国中みぃんな、北条家の命令に従ってきたぞぉ。なのによぉ、最近の日本はいったいどうなってんだぁ! 遠国の連中は何かってぇと、幕府に逆らいやがる、近くの連中らも、幕府の命令をいいかげんに聞いてやがる。ふざけんなよぉ!

北条高時 よりにもよってだなぁ、この幕府おひざもとのぉ、このぉ、このぉ、関東でだぞぉ、こっちが送った使いの者を殺すたぁ、いってぇ、ナニゴトだぁ! まったくもう、トンデモネェ悪人連中、重罪ヤロウドモだぁ! ここで甘い顔してたんじゃぁ、ますます、つけあがりやがるに決まってらぁ!

幕府リーダー一同 ・・・。

北条高時 おぉい、おまえら、すぐになぁ、武蔵と上野の連中ら集めてなぁ、新田義貞とその弟の脇屋義助(わきやよしすけ)、とっととヤッチめぇぃ!

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「幕府からの討伐軍、新田荘へ向かう」との情報をキャッチした義貞は、さっそく一族の主要メンバーを集めて、会議を開いた。

新田義貞 ・・・ってなわけだ・・・さぁて、これからいったい、どうするべい?

新田一族A うーん・・・。

新田一族B 沼田荘(ぬまたしょう:群馬県・沼田市)に城を築いてな、利根川(とねがわ)を前にして、幕府軍を迎えうつってのは、どうかねぇ?

新田一族C いやいや、越後(えちご:新潟県)へ避難する方が、いいんじゃぁねぇのぉ?

新田一族D そうだよ、そうだよ、越後には我が一族いっぱいいるもんなぁ。ここから山越えして、津張郡(つばりのこおり:新潟県・十日町市および新潟県・中魚沼郡・津南町)へ移動してさぁ、まず、上田山(うえだやま:新潟県南魚沼郡)にたてこもる。で、そこを本拠地にして軍勢集めて、幕府軍に備えるのがいいと思うよ。

このように、メンバーの意見はあい異なり、なかなか意思統一を見る事ができない。

じっと思案していた脇屋義助(わきやよしすけ)(注5)が、前に進み出て、

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(訳者注5)脇屋義助は、新田義貞の弟である。
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脇屋義助 あのなぁ。

新田一族メンバー一同 ・・・。

脇屋義助 「武士の道は、死を軽んじ、名を重んじるをもって義とする」って、いうじゃんかよぉ。

新田一族一同 ・・・。

脇屋義助 北条家が天下を取ってから、もうすでに160余年にもなるんだよなぁ。でも、未だに、あの家の武威は衰えちゃいねぇやなぁ・・・日本国中、誰もかも、その命令のまま、動いてんだもん。

脇屋義助 だからな、利根川を前にして防戦するってぇのは、ムリだと思うよぉ。こっちの運が尽きたら最後、とてもかないっこねぇやな。

脇屋義助 越後にいるわが同族を頼んでみるってぇのも、なんだかなぁ・・・。一族全員、心一つになってねぇとな、どんな謀事(はかりごと)立てたって、あっという間に、破綻(はたん)しちゃうんだわさぁ。

脇屋義助 テェ(大)した事もしでかせねぇまんま、あっちゃこっちゃ、ただただ、逃げ回ってたってなぁ・・・。「おいおい、あれ見ろや、新田の何とかやらが、高時殿の使者を切った罪によって他国に逃亡、そいでもって、とうとう討たれちまったぞぉ」てなフゥに、世間のうわさになるってぇのも、どうにもイヤなもんだわさぁ、そうじゃねぇかい、えぇ?

新田一族一同 ・・・。

脇屋義助 どう転んだって、討死にしなきゃぁなんねぇこの命、だったら、謀反人だの、なんだのかんだの、人になんと言われようが、先帝陛下の為にこの命棄ててこそ、武士の本望ってもんじゃぁねぇかい? それでこそ、おれたちの死後までも、武勇の誉れは子孫の面目、わが新田家の武名は、歴史に名を残しってもんじゃんかよぉ。

脇屋義助 考えてもみろい、こないだアニキが、陛下から倒幕命令書頂いたの、あれっていってぇ、何のためだったんだぁ?

脇屋義助 あの倒幕命令書をだなぁ、各々自分の額に押し当ててぇ、運を天に任せてだぁ、たった一騎なりとも関東のそこら中に打って出てぇ、いっちょう倒幕の義兵、募ってみようじゃん! 仲間になってくれる者が多けりゃぁ、もしかしたら鎌倉だって、落とせるかもしんねぇぞぉ!

脇屋義助 とにかく、もうこうなったら、ダメモトよぉ! サイの目がダメと出た時にゃぁ、鎌倉を枕に、討死にするだけのことだぁ!

新田一族一同 そうだなぁ!

義を重んじ、勇を宗とするその意見に、座に連なっていた一族30余人は全員、賛同した。

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「情報が漏洩(ろうえい)せぬうちに、いざ出陣!」と作戦会議は決し、元弘3年5月8日午前6時、生品明神(いくしなみょうじん:群馬県・太田市)の社前にて、新田一族は旗揚げした。

後醍醐先帝より頂いた倒幕命令書を開いてそれを三度拝した後、笠懸野(かさかけの:群馬県・みどり市と太田市)目指して出発。

義貞に従う新田一族リーダーたちは以下の通り、

 大館宗氏(おおたちむねうじ)と、その子息、大館幸氏(なりうじ)、大館氏明(うじあきら)、大館氏兼(うじかね)、
 堀口貞満(ほりぐちさだみつ)と、その弟・堀口行義(ゆきよし)、
 岩松経家(いわまつつねいえ)、
 里見義胤(さとみよしたね)、
 脇屋義助、
 江田行義(えだゆきよし)、
 桃井尚義(もものいなおよし)、
これら主要メンバー他、総勢150騎たらずの軍勢であった。

旗揚げはしたものの、

新田軍一同 (内心)こんな少い人数では、この先いったいどうなるんだか・・・。

その日の夕刻、利根川(とねがわ)の方向から、馬・甲冑さわやかな武士団2,000騎ほどが、馬の土煙を上げながら馳せ来たった。

新田軍一同 (内心)いよいよきたか、幕府軍め!(前方をキッと見つめる)

ところがそれは幕府軍ではなくて、越後国に居住の新田一族すなわち、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、田中(たなか)、大井田(おおいだ)、羽川(はねかわ)家の人々であった。

新田義貞 (大喜)やったぜぇ!

義貞は、馬を控えていわく、

新田義貞 いやぁ、よく来てくれたなぁ! 倒幕の計画、だいぶ前からプラン練ってたんだけどよぉ、そんなにすぐの事たぁ思ってなかったもんでなぁ、オメェらには打ち明けてなかったんだよなぁ。ところが今になって急に、決断迫られちゃってよぉ。

新田義貞 それにしても不思議だな、越後の方には何も言って送るヒマなかったのに、いってぇどうして、こっちの倒幕決起の事、分かったんだぁ?

大井田遠江守(おおいだとおとうみのかみ)は、鞍の上にかしこまっていわく、

大井田遠江守 いやいや、「先帝の御命令に従い、殿が倒幕を思い立たれた」って聞いたもんだからね、そいで、急いでやってきたんですよ。でなきゃあ、こんなに国元から、息せききってとんで来るもんですかね。

新田義貞 えぇ?

大井田遠江守 いやねぇ、5日ほど前だったかなぁ、越後一帯を、「わしは先帝陛下の使者じゃ」って触れて廻るヤツが現われましてねぇ・・・ありゃぁきっと、山伏姿に化けた天狗のたぐいでしょうな・・・そいつがたった1日の間に越後国中に、殿の倒幕旗上げの事、触れて回ったんですよ。それ聞いてオレたち、夜を日についで、馳せ参じてきたってわけ。

新田義貞 ふーん・・・。

大井田遠江守 あっちからね、これからまだまだイッパイやってきますよ。なんせ、越後の中でも遠方に住んでる連中だもんで、どうしても後に遅れちゃってねぇ。明日中には、全員到着すると思います。ここから他国へ打って出るってんなら、もうしばらく、連中の到着待ってからにしたら?

新田義貞 うん、そうだな、そうしよう。

越後からやってきた援軍のリーダーたちは、全員馬から下り、一人づつ義貞に目通りした後、人も馬も一息ついた。

越後からの最終到着グループに加え、甲斐国(かいこく:山梨県)と信濃国(しなのこく:長野県)の源氏の血筋に連なるグループもまた、家々の旗をさし連ねて、そこに駆けつけてきた。それらの合計、およそ5,000余騎ほど。

参集してきたこの大軍勢に、義貞・義助兄弟は大喜びである。

新田義貞 いやぁ・・・これぞまさしく、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)さまのご加護だよなぁ。よぉし、こうなったらソク、行動開始だぁ!

脇屋義助 イィクゼェィ!

新田軍一同 オーウ!

5月9日、新田軍は武蔵国へ進軍。その時、紀五左衛門(きのござえもん)が足利高氏(あしかがたかうじ)の子息・千壽王(せんじゅおう)を守りながら、200余騎を率いて参軍してきた。

その後、上野、下野、上総、常陸、武蔵の武士たちが、予期もしていなかったのにどんどん集まってきて、その日の暮れ頃には、実に20万7千余騎が兜を並べてひかえ、という状態になった。

四方800余里にも及ぶ武蔵野に、人と馬が充満、立つ隙間もないほどにびっしりと軍団は展開、天に飛ぶ鳥は、ゆったりと羽を伸ばせる場所もなく、地を走る獣も、我が身を隠す隙間さえない。草原より出ずる月は、馬の鞍の上にほのめき、鎧の袖に光を落とす。すすきの穂をなびかす風は、旗の影をひらめかし、母衣(ほろ:注6)の裾は一瞬たりとも静止する事も無し。

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(訳者注6)矢を防ぐために背負う布袋
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櫛の歯を引くがごとく、諸国からの早馬が次々と鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ到着しては、急を告げる。これを聞いて、時勢の変化を洞察できぬ者たちは、嘲り笑っていわく、

A あぁ、まったくもう、なんて騒々しいんだろうねぇ。

B これくらいの事で、いったいどうして、そんなに大騒ぎするんだぁ?

C 中国やインドから攻めてきたってわけじゃぁ、ねぇんでやんしょ? そんな事になったら、そりゃぁ大変だろけどさぁ。

D しょせん、日本国内での反乱ですもん、どうってこたぁないですよ。北条家にタテつこうだなんて、まぁ言ってみりゃぁ、カマキリがハサミかざして戦車に立ち向かうようなもんじゃぁないですかぁ、ハハハ・・・。

E あるいは、かの精衛鳥(せいえいちょう)が、山の木や石をくわえて運んでって、海を埋めようとしてるようなもの?

一同 ワハハハ・・・。

かたや、物事をよく見極る眼力を持った人々の間では、危機感がいや増しに高まっている。

H これは大変な事になったわよぉ!

I ほんとに・・・中国地方や首都圏方面の騒動が未だに静まらないっていうのにねぇ、またまた大敵が・・・。

J それも、関東の中から・・・幕府のお膝元じゃないのよぉ!

K その昔、中国の名臣・伍子胥(ごししょ)がね、呉王(ごおう)・夫差(ふさ)を諌めたって言うわよね、「晋(しん)国は、傷痕(きずあと)のようなもの、越(えつ)国は、腹中あるいは心臓中の病ともいうべきもの、越国こそは、わが呉国の最大の脅威」ってね。「今まさに身近に潜む危機」というのが、一番コワイのよ。

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「京都への討伐軍派遣は、ここではひとまずおいといて、まずは、新田退治を先行」と、鎌倉幕府は決定。

同月9日の作戦会議の決定を受けて、翌10日午前10時、金澤貞将(かなざわさだまさ)が、5万余騎を率いて利根川流域方面に出動。これは、上総および下総の軍勢を配下に組み入れ、倒幕軍の背後をつこうとのねらいである。

一方、櫻田貞国(さくらださだくに)を大将とし、長崎高重(ながさきたかしげ)、長崎孫四郎左衛門(まごしろうざえもん)、加治二郎左衛門(かじじろうざえもん)を副将にそえて、武蔵・上野両国の6万余騎を率いさせて、鎌倉街道経由で入間川(いるまがわ:埼玉県)方面へ進軍。こちらの軍団には、入間川辺に軍を展開した後、倒幕軍の渡河の瞬間を突かせよう、との作戦である。

承久の乱(じょうきゅうのらん)よりこの方、関東地方には平和の日々が続き、みんな弓矢の事も忘れたかのごとくであったのに、久しぶりに兵を動かす事とあいなった。武士たちはみな、「まさに今この時こそは、我が晴舞台!」とばかりに、仰々しく装って出陣していく・・・馬、鎧、太刀、刀・・・武具はみなキラキラと照り輝いている・・・一世一代の見物というべきか。

進軍途中、2夜の逗留(とうりゅう)の後、5月11日午前8時、幕府軍は、小手差原(こてさしばら:埼玉県・所沢市)に到着。

遥かかなたに展開する倒幕軍側の陣営を見渡すに、その軍勢は雲霞(うんか)のごとく、兵力はいったい幾千万あるものやら、さっぱり見当もつかない。櫻田・長崎両人はこれを見て、当初の予測が大きく外れてしまったゆえか、進軍をストップしてしまった。

新田義貞の指揮の下、倒幕軍サイドはたちまち、入間川の渡河を完了、トキの声を上げて前進、矢合わせの鏑矢(かぶらや)が、両軍の頭上を飛び交いはじめた。幕府軍サイドもトキの声を合わせ、軍旗を戦場へ進める。

最初のうちは、双方射手を前面に押し出し、激しい矢戦を展開。しかし、戦場は馬を掛けるには絶好の足場、両軍とも関東育ちの武士ぞろい、そのままじっとしているわけがない。太刀(たち)、長刀(なぎなた)の切っ先揃え、馬の口縄(くちなわ)を並べて次々と突撃開始。200騎、300騎、1,000騎、2,000騎・・・騎馬軍団どうしの激突が、戦場のそこかしこに展開されていく。

このようにして戦いを交えること30余回、戦死者、倒幕軍側300余人、幕府軍側500余人。日は既に暮れ、人馬共に、疲労の極限に。

「この戦の続きは、また明日に」と約して双方分かれ、義貞は3里退却して入間川辺に陣を取り、幕府軍も3里退却して久米川(くめがわ:東京都・東村山市)に布陣。両軍の間隔はおよそ30余町たらずである。

双方ともに陣営内にて、今日の合戦について話しあい、人馬ともに休息を取り、かがり火を焚きながら、夜明けの到来をひたすら待つ。

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夜明けとともに、倒幕軍は幕府軍の機先を制さんと、久米川へ向かった。幕府軍サイドはこれを予期、「防御を固めながら待機の後、敵軍襲来と共に、戦闘開始に移行するのが得策であろう」と、馬の腹帯を固め、兜の緒を締め、じりじりと倒幕軍の到着を待ち構えていたのであった。

両軍互いに間隔を縮め、幕府軍側は6万余騎を、倒幕軍側の一点めがけて集中攻撃し、相手を分断しようとする、これを見た倒幕軍側は密集体型を取り、相手側の軍陣中央突破を防ごうとする。これぞまさしく、黄石公(こうせきこう)の「虎を縛(ばく)する手」、張良(ちょうりょう)の「鬼をとりひしぐ術」、いずれも周知の兵法なれば、両軍互いに入り乱れ、破られず囲まれず、ひたすら百戦に命をかけ、一挙に死を争う。

「1000騎がたった1騎になるまでも、敵に後ろを見せない!」と、互いに決死の戦闘を展開したが、やはり時の運というのであろうか、倒幕軍側の損害些少(さしょう)、幕府軍側の戦死者多数という結果となり、加治二郎左衛門と長崎高重の両将は、2度の合戦に完敗を喫した気分の中、分陪河原(ぶばいがわら:注7)めざして退却を開始した。

これに引き続き追い討ちをかけようとした倒幕軍であったが、連日数度の戦闘に人馬ともに疲労激しく、久米川に一夜野営して馬の足を休めた後に、明日を期すこととした。

(訳者注7)東京都府中市、多摩川ぞい。

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「櫻田、加治、長崎ら、12日の戦に敗北して退却」との情報が、鎌倉へ届いた。

北条高時は、弟・泰家を大将に任命、塩田陸奥(しおだむつ)、安保左衛門(あぶさえもん)、城越後守(じょうえちごのかみ)、長崎時光(ながさきときみつ)、左藤左衛門(さとうさえもん)、安東高貞(あんどうたかさだ)、横溝五郎(よこみぞごろう)、南部孫二郎(なんぶまごじろう)、新開左衛門(しんかいさえもん)、三浦氏明(みうらうじあきら)らをそえて、総勢10万余騎の援軍を編成した。

援軍は、5月15日夜半(注8)、分陪河原に到着、それに力を得た幕府軍の士気は大いに回復した。

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(訳者注8)ここは太平記作者の誤りで、正しくは5月14日夜半。
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「幕府側大援軍の到来」という情勢の激変をキャッチできていなかった新田義貞は、15日の夜明け前、全軍に命令を発した。

新田義貞 総攻撃だぁーッ、イケーー!

倒幕軍一同 ウオオオオーーー!

倒幕軍は、分陪河原に押し寄せてトキの声を上げた。

幕府軍はまず、弓の名手3000人を前面に配置、雨の降るごとく矢を放たせる・・・倒幕軍の動きが止った。

幕府軍リーダーX チャンス到来!

幕府軍リーダY 反乱軍を包囲しぃー、殲滅(せんめつ)せよぉーー!

幕府軍一同 ウオオオオーーー!

幕府軍サイドの一斉攻撃が始まった。

義貞率いる勇猛果敢な倒幕軍側武士らは、幕府側の大軍を懸け破っては相手陣の裏へ回りこみ、とって返してはおめいて懸け入り、激しくきらめく雷光のごとく、蜘蛛手(くもで)、輪違い(わたがい)、7度、8度と、幕府軍に襲いかかっていく。しかし、新たに援軍の加わった幕府軍は以前にも増しての大兵力、前日の敗戦の恥をここでイッキにそそがんと、義を専らにして必死に立ち向かってくる。

かくして、義貞はついに敗北し、堀兼(ほりかね:埼玉県狭山市)目指して退却。倒幕軍側は戦死者多数、負傷者に至っては数え切れず、というサンタンたる状態になってしまった。

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幕府軍がその日のうちに追い討ちをかけていたら、義貞の命はここで終わっていたであろう。ところがところが・・・。

幕府軍リーダーX やったやったぁ! 大勝利だぁー!

幕府軍リーダーY 新田を、コテンパンにやっつけてやったぞぉ。

幕府軍リーダーZ もうこうなったら、新田軍、ナニするものぞって感じだよねぇ。

幕府軍リーダーY そのうちきっと、武蔵か上野の誰かが、新田の首もって、やってくるだろうよ。

幕府軍リーダーX じゃぁ、しばらくそれを待つとしようかぁ。

いやはや、なんとのんきな事を・・・かくして、幕府軍の掌中(しょうちゅう)から貴重な時がこぼれ落ちてしまったのであった。

やはり、北条家の命運は尽きる定めと、なっていたようである。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月15日 (火)

太平記 現代語訳 10-1 千壽王、鎌倉から逃亡

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都から遠い鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)ゆえ、「足利高氏(あしかがたかうじ)、倒幕側勢力に転ず」との情報をもたらす急使も未だに来らず、そのうわささえも、関東に伝わって来てはいなかった。

このような中に、元弘(げんこう)3年(1333)5月2日の夜半、足利高氏の次男・千壽王(せんじゅおう)が、鎌倉・大蔵谷(おおくらだに)エリアから突然姿を消し、行方不明になってしまった。このニュースを聞き、「大事件発生!」と、鎌倉中、大騒ぎになってしまった。

鎌倉幕府リーダーA エレェ事になっちまったなぁ。

鎌倉幕府リーダーB 足利殿のぼっちゃんがねぇ。

鎌倉幕府リーダーC 京都の方で、何かあったんだろうか?

鎌倉幕府リーダーD ほんと、京都はいったい、どうなってんだぁ?

鎌倉幕府リーダーE こっから京都まで、遠いからなぁ・・・あちらがいったいどんな情勢になってんだか、さっぱり分かりゃぁしねぇ。

鎌倉幕府リーダーA とにもかくにも、京都の情勢、気がかりだよ。

というわけで、鎌倉幕府は、長崎勘解由左衛門(ながさきかげゆざえもん)と諏訪木工左衛門(すわもくざえもん)の両名を使者に立て、京都へ向かわせた。

長崎と諏訪は、駿河国(するがこく:静岡県中部)の高橋(たかはし:静岡県・静岡市・清水区)で、京都の六波羅庁(ろくはらちょう)から鎌倉へ向かう急使に出会った。

六波羅庁よりの使者 大変ですよ! 名越(なごや)殿は戦死、足利殿は敵側になってしまいました!

長崎勘解由左衛門 なにぃ!

諏訪木工左衛門 こりゃいかん! こうなったらむしろ、鎌倉の方が心配だよ。

長崎勘解由左衛門 すぐに引き返そう!

長崎と諏訪は、鎌倉へ取って返した。

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足利高氏の長男・竹若(たけわか)は、伊豆国(いずこく:静岡県東部)の伊豆山(いずやま:静岡県・熱海市)に居住していたが、伯父の良遍法印(りょうべんほういん)と、身の回りの世話をする少年、同宿の僧侶ら13人と共に山伏姿に変装し、ひそかに京都へ向かった。

しかし彼らは、浮島原(うきしまがはら:静岡県・沼津市・富士市)で、長崎と諏訪に、バッタリ遭遇してしまった。

長崎と諏訪は、彼らを全員生け捕りにしてしまおうと思ったが、良遍は、彼らと一言も言葉を交えずにいきなり馬上で腹を切り、路傍に倒れ伏した。

長崎勘解由左衛門 これはやっぱし、足利殿の心中に反逆の意志ありってことだな。だから、一言の弁明もできないってわけよ。

彼らは、竹若を密かに刺し殺した後、残る13人の首を刎ねて浮島原にさらし、鎌倉へと急いだ。

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2017年8月12日 (土)

[関ヶ原合戦]は、[山中合戦]に名称変更されるべきか?

最近、下記のような説があることを知りました。

 いわゆる「関ヶ原合戦」の戦場は、[関ヶ原]の地ではなく、[山中]の地であった。
  ([山中]は地名)
 実際に戦場となった[山中]は、これまで戦場になったと考えられてきた場所よりも、もっと西方の地である。

この説にとても興味を感じたので、下記の書物を読みました。

 [新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い  白峰 旬 (著) 宮帯出版社 2014年 発行](以下において、これを、[文献1]と略記することにします)

これまで、関ヶ原合戦については深い知識や関心もないままに、一応、これくらいは知っておきたいなぁ、というくらいのスタンスで、様々なコンテンツ(書物、テレビ番組等)に触れてきた私にとっては、上記の書物は、衝撃的な内容のものでした。

以下のような様々の、時代劇・名場面や解説図が、白峰氏([文献1]の著者)によって、

 それは、史実に基づくものではない、後世のフィクション、作り話だ

と、されているのです。

 [小山評定] 小山(栃木県)で、東軍側の武将たちが会議する、というシーン
 [問鉄砲] なかなか踏ん切りを付けれない小早川秀秋の陣めがけて、家康の命により、鉄砲が撃ちこまれる、というシーン
 [関ヶ原合戦の布陣図] ここに、石田三成の陣が、ここに小西行長の陣が、というような配置図

本題に入りましょう。

いわゆる「関ヶ原合戦」があったのは、旧暦・慶長5年9月15日、西暦1600年10月21日 です。

[文献1]の著者・白峰 旬・氏は、この日近くのタイミングで作成された一次史料に注目して、様々な考察を行っています。それに基づいて、白峰氏は、

[文献1] 39P - 41P において、

 「関ヶ原合戦」という名称は正しいのか

という問題提起を、行っています。

白峰氏が考察の手がかりとして用いた一次史料は、下記の書状、すなわち、手紙です。(各項の先頭にある史料の記号は、私が付与したものです)

 [史料・徳川] Date:慶長5年9月15日 From:徳川家康 To:伊達政宗
  [文献1] 39P - 40P で紹介・引用されています。家康から政宗への書状です。

 [史料・保科] Date:慶長5年9月19日 From:保科正光 To:松沢喜右衛門尉、他2名
  [文献1] 40P で紹介・引用されています。保科正光から松沢喜右衛門尉らへの書状です。

 [史料・吉川] Date:慶長5年9月17日 From:吉川広家 To:?
  [文献1] 40P で、「吉川広家自筆書状案(慶長五年九月十七日)」として紹介・引用されています。

 [史料・石川and彦坂] Date:慶長5年9月17日 From:石川康通、彦坂元正 To:松平家乗
  [文献1] 40P - 41P で紹介・引用されています。石川康通、彦坂元正から松平家乗への書状です。

 [史料・生駒] Date:? From:生駒利豊 To:坪内定次
  [文献1] 48P - 65P で紹介・引用されています。当日の戦闘に参加していた、[生駒利豊]という人が、後になってから、当時の事を回想して書いた書状なのだそうです。

白峰氏の調査結果は、以下のようになったのだそうです。

 [史料・徳川]、[史料・保科]の中には、
  「山中」という所において、戦闘が行われた、という趣旨の事が記されている。
  ([文献1] 39P - 40P)

 [史料・吉川] の中には、
  「関ヶ原」という地名は全く記されておらず、「山中」という地名が頻出し、「山中合戦」、「山中之合戦」と記されている。
  ([文献1] 40P)

 [史料・石川and彦坂] の中に、
  「関か原へ出陣して一戦に及んだ」との記述がある。
  ([文献1] 40P - 41P)

 [史料・生駒] の中に、
  「関ヶ原」という場所において、戦闘が開始された、と記されている。

[文献1] 51P - 55P には、下記のように[史料・生駒] からの引用が行われています。 (白峰氏により、現代語訳されています)

 「(前略)関ヶ原にて、大夫殿(福島正則)の先手の者が(宇喜多秀家隊と)鉄砲を撃ちあった。・・・」

[文献1] 52P - 53P に、その書状の現物を撮影した画像が掲載されており、その最初の方に、私には「原」という文字であろうかと思われるような、字があります。

[文献1] 78P - 79P に、[史料・吉川]中の、下記のような内容の部分が引用されています。(白峰氏により、現代語訳されています)

 「(前略)小早川秀秋は逆意が早くもはっきりする状況になったので、大垣衆(大垣城にいた諸将)は、山中の大谷吉継の陣は心元なくなったということで、(大垣城から)引き取った(移動した)。これは、佐和山への「二重引」をする覚悟と見える(後略)」

上記中には、「山中」の文字があります。しかし、大垣衆(石田三成や宇喜多秀家らが、その中に含まれているのだろう)が、「山中」へ移動した、というような事は、書かれていません。大谷吉継が「山中」にいたであろうことが、読み取れるだけです。

[文献1] 81P - 82P には、[史料・石川and彦坂]中の、下記のような内容の部分が記されています。(白峰氏により、現代語訳されています)

 「石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の四人は、(九月)十四日の夜五ツ(午後八時頃)時分に大垣(城)の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一緒に押し寄せた。この地の衆(尾張衆)・井伊直政・福島正則が先手となり、そのほか(の諸将が)すべて次々と続き、敵が切所(要害の地)を守っているところへ出陣して、戦いをまじえた時(開戦した時)・・・」

上記中には、[関ヶ原]とあります。

このように、白峰氏によって紹介・引用されている当時の一次史料の中においては、戦場となった場所に関しては、

 [関ヶ原]と記されているものもあり、
 [山中]と記されているものもあり、

という状態であるようです。

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[山中]とはいったい、どのあたりにあるのだろう?

ネット地図にアクセスし、[岐阜県 関ヶ原町 山中]で検索して、現在、[山中]と呼ばれているエリアが、岐阜県・関ヶ原町の中にあることが分かりました。

その位置は、これまで、「ここが石田三成陣跡である」とされてきた地点、「ここが小西行長陣跡である」とされてきた地点からは、南西方向に離れた地のようです。

(東海道新幹線、JR東海道本線が、このあたりを通っているようなので、車窓からその地を見ることができるかもしれません。)

しかしここにきて、疑問点が続々、湧き上がってきてしまいました。以下に、それを記します。

(1)当時の「山中」エリアは、現在の[山中]エリアと、同じなのか?

現在、[山中]とされているエリア、すなわち、[岐阜県 関ヶ原町 山中]と、1600年当時に、「山中」と呼ばれていたエリアが、同一なのかどうか?

1600年当時、現地の人々が「山中」と呼んでいたエリアは、もしかしたら、現在の[岐阜県 関ヶ原町 山中]よりも、もっと広い範囲のエリアであったかもしれません。

もしかしたら、その「山中」エリアの中には、「関ヶ原」も含まれていたのかもしれません。

もしもそうであるならば、戦闘が行われたと想定される場所を、[岐阜県 関ヶ原町 山中]に限定する必要はなくなるでしょう。「山中」に含まれる地・「関ヶ原」においても、戦闘が行われていたのかもしれないのだから。

(2)「山中」と「関ヶ原」が、きっちりと区分して把握されていたのかどうか?

1600年当時、現地の人々は、ここからここまでが「山中」であり、ここからここまでが「関ヶ原」である、「山中」と「関ヶ原」とは、異なるエリアである、というように、明確な地理的区分を持っていたのでしょうか? 仮にそうだとしてみても、次の疑問が生じます。

徳川家康、吉川広家は共に、当時、関ヶ原の地を支配していたわけではありません。もっと遠くの場所を支配していました。だから、現地の地理にそれほど詳しかったとは思えません。

彼らの頭の中において、「関ヶ原」と「山中」とが、異なるエリアを表す地名として、明確に区別できていたのかどうか、疑問です。

家臣たちから聞いた、「山中」という地名を、あまり深く考えずに、そのまま、手紙に書いたのかもしれません。

これまで、小早川秀秋が陣を置いたのは、[松尾山]であると、されてきました。

その[松尾山]の近くに、[岐阜県 関ヶ原町 山中]はあります。よって、[岐阜県 関ヶ原町 山中]が、複数あった戦場のうちの一つになった可能性はあるでしょう。

よって、その地で戦闘を行った人が、東軍の中にいたかもしれません。そのような人が、戦いが終わった後に、「おまえは、どこで戦っていたか?」と問われたならば、「はい、山中という所で戦っていました。」と答えるでしょう。その報告をもとに、家康が、「・・・濃州の山中において一戦に及んだ」と手紙に書いた、というような事も、考えられるかもしれません。

戦後数日経過の段階で、書いた手紙ですから、あまり細かい事(「山中」か「関ヶ原」か)にこだわって書くような余裕は無かったでしょう。

(3)[岐阜県 関ヶ原町 山中]は、大軍を展開するには適していない地であるように思えるのだが

[地理院地図]にアクセスし、[関ケ原町 山中]で検索して、[岐阜県 関ヶ原町 山中]の付近の等高線より、そこの地形を想像することができました。

そこはまさに、山の中の地、南北にある山の谷間というような地形の場所であるようです。

このような狭い場所で、東西双方の大軍がひしめきあい、激闘し、というような情景が、どうにも、私の頭には、浮かんでこないのです。

ここは、野戦の戦場というよりはむしろ、防備に適した地と言った方がよいのではないでしょうか。この谷に兵士を配置したら、敵の大軍の通過を効果的に妨げることができそうに思えます。

太平記 現代語訳 9-10 千剣破城の楠軍、ついにネバリ勝ち

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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ここで場は、楠(くすのき)軍がたてこもっている千剣破城(ちはやじょう:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)へと変わる。

六波羅庁(ろくはらちょう)陥落の翌日正午頃、

楠軍メンバーA おぉい、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!

楠軍メンバーB なんや、なんや!

楠軍メンバーC いったい、どないしたんや!

楠軍メンバーA ビィーッグニュースや、ビィーーッグニュースやどぉ!

楠軍メンバーB そやから、いったいなんやねん!

楠軍メンバーC ニュースの中身を、ハヨ(早)言わんかい!

楠軍メンバーA よぉ聞けよぉ! 六波羅庁(ろくはらちょう)、既に陥落、天皇・上皇陛下は、関東へ落ちられたぁ!

楠軍メンバーB ナァニィーー!

楠軍メンバーC エーッ ほんまかぁ、それ! ウソちゃうやろなぁ?!

楠軍メンバーA アホか! ウソでこないな事、言えるかいや!

楠軍メンバー一同 ウォー! ヤッタァー! ウォー! ウォー! ウォー!

千剣破城内は、大喜びの勇気百倍、閉じ込められていた鳥が籠から脱出し、林の中に遊ぶような気分。かたや、城を囲んでいる側はといえば、これから生贄(いけにえ)に供せられようとしている羊の、祭司の場に駆り立てられていくような気分。

幕府軍メンバーH おいおい、聞いたか! 六波羅庁(ろくはらちょう)がヤラレちまったらしいぞ!

幕府軍メンバーI おれもついさっき、聞いたとこだよ・・・。

幕府軍メンバーJ (内心)こりゃぁいかん! 一刻も早くここから、トンズラしなきゃ! 

幕府軍メンバーK (内心)ここを離れるのが一日でも遅れようもんなら、落ち武者狩りに出動の野伏(のぶし)の数、イッキに増えてしまわぁな。

幕府軍メンバーL (内心)野伏のビッシリひしめく中に、山中の路を退却? ブルブルッ、考えただけでも、ゾッとするぜ!

10日早朝、千剣破城・攻囲軍10万余騎は、一斉に奈良(なら:奈良県奈良市)へ向けて退却を開始。

しかし時既に遅し、彼らの行く先には野伏が充満していた。しかも背後からは、楠軍が急追してくる。

大軍の退却する時に常に見られる光景が、ここにもまた展開されていく。弓矢を投げ捨て、親子兄弟離れ離れとなり、我先にとあわてふためきながら逃走に次ぐ逃走・・・ある者は行き止まりの絶壁に行き詰まって切腹、ある者は数千丈の深みの谷底へ転落、骨をみじんに打ち砕かれてしまう者幾千万、まさに言葉に尽くせぬ大惨状。

陣中からの自軍メンバーの逃亡を食い止める為に、谷の随所に設置していた関所や逆茂木(さかもぎ)が、今や障害となって、彼らの行く手に立ちふさがる。心を落ち着けてそれを除去してから通過すれば別にどうという事にもならないのに、あわててそこを突っ走ろうとするものだからトラブル続出である・・・障害物に当たって落馬して馬から離れてしまう者もあり、その場に倒れたまま他人に踏み殺されてしまう者もあり・・・。

2、3里ほどの山道を、数万の楠軍や野伏たちに追い立てられながら、まったく何の抵抗をする事も無く、ただひたすら逃げていくのみ。つい今朝までは10万余騎いたはずの幕府軍は、戦死者多数、もはや生き残っている者はほんのわずか、彼らは、馬や甲冑など一切を投げ捨てて敗走していった。

このようなわけで、現在に至っても、金剛山(こんごうさん:大阪府南河内郡)麓の東条谷(とうじょうだに)の道路周辺には、矢の刺さった跡の孔が空いたり、刀傷の痕跡のある白骨が、弔う者も無いままに、苔むして累々と横たわっているのである。

しかしながら、幕府軍のリーダーたちは、道中一人も命を落とす事無く、生きた心地も無い逃走の末にその日の夜半、ようやく奈良にたどりついた。

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2017年8月11日 (金)

太平記 現代語訳 9-9 光厳天皇ら、京都に護送される

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の第5親王をリーダーと仰ぐ野伏(のぶし)らのグループは、光厳天皇(こうごんてんのう)と後伏見上皇(ごふしみじょうこう)を拘束し、とりあえず長光寺(ちょうこうじ:滋賀県・近江八幡市)へ遷した。

その寺の中で光厳天皇は、三種神器(さんしゅのじんき)をはじめ、玄象琵琶(げんじょうのびわ)、下濃琵琶(すそごのびわ)、清涼殿(せいりょうでん)に安置の本尊仏に至るまで、全ての皇室の重宝を、手ずから第5親王に引き渡された。

古代中国・秦(しん)王朝最後の皇帝・子嬰(しえい)は、漢の高祖(かんのこうそ)によって国を滅ぼされた。子嬰はその時、天子の御印と割符(わりふ)を首に掛け、白木の車に乗って軹道(しどう)の駅亭まで出向いたのであったが、その秦王朝滅亡の時とまったく同様の光景が今まさに、この長光寺の中で展開されていったのである。

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日野資名(ひのすけな)は、光厳天皇の近臣中、最大の寵臣(ちょうしん)であったので、

日野資名 (内心)あぁ、エライ事になってもたわ・・・これからわしいったい、どないなエグイ目にあわされるんやろ・・・。

彼はついに意を決し、付近の辻堂(つじどう)に滞在していた一人の遊行僧(ゆぎょうそう:注1)のもとへ行った。

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(訳者注1)全国を旅しながら修行する僧。
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日野資名 あんな、アンタに頼みがあるんやが!

遊行僧 エッ、いったいなんですかい? ワタシみてぇなもんに、いったい何をせぇとおおせで?

日野資名 あんな・・・出家してまいたいんやわ。戒師(かいし)になってくれや。

遊行僧 あぁ、そういう事ですかぁ。ハイハイ、そんなのお安いご用でさぁ。

戒師役をつとめるその遊行僧が、いよいよ資名の髪を剃り落とそうとした時、資名はいわく、

日野資名 出家の時には、戒師は何やら、「四句の偈(げ)」とかいうのんを、唱える事になってるそうやなぁ?

遊行僧 う?・・・あ、そうそう、そうですよ、そうですよ・・・四句の偈ね・・・うーん、えぇっとぉ・・・。

彼は、その偈を知らなかったものと見え、

遊行僧 うぅん・・・如是畜生(にょぜちくしょう) 発菩提心(ほつぼだいしん)!(注2)

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(訳者注2)汝は畜生(人間以外の動物)のごとき存在ではあるが、仏道を求める心(菩提心)を起せ、ならば汝は必ず救われるであろう、なぜならば、畜生にさえも仏の救済の手はさしのべられていくのであるから、という意味。
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資名と同様に、自分も出家しようと思い、ちょうど髪を洗い終わったばかりの三河守友俊(みかわのかみともとし)は、これを聞いていわく、

三河守友俊 ウハハハハ・・・こらマイッタなぁ・・・命おしさに出家しよう思ぉとったら、ビシーンと、言われてもたやないかいな、「汝は是れ畜生なり」てかいや・・・おっかしいわなぁ、笑えてくるわなぁ、ウハハハハ・・・。(注3)

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(訳者注3)「自分の命が惜しいという、ただそれだけの理由により、出家して仏門へ入るとは、何というあさましい貪欲な心、それでは畜生同然ではないか」という自嘲の念が、この笑いの背後にあるのであろう。
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--------

馬場(ばんば:滋賀県・米原市)まで天皇に付き従ってきた公家たちも、ここかしこへと逃亡、出家遁世(しゅっけとんせい)して退散してしまい、今となっては、光厳天皇、皇太子・康仁親王(やすひとしんのう)、後伏見上皇、花園法皇の側に供奉する者は、経顕(つねあき)と有光(ありみつ)の両人のみ。その他の人々はみな、コワモテの連中らに前後をとり囲まれ、粗末な網代輿(あじろごし)に乗せられて、京都へ護送されていった。

京都へ帰ってきた一行を、街頭に立って見つめながら、人々は口々に、

見物人A いやぁ、それにしてもまぁ、不思議なもんやないかいな。先帝陛下を笠置(かさぎ)で生け捕りにして、隠岐島(おきのしま)へ島流しにしてしまわはった事の報いが、3年もたたんうちに、こないな形で現われるとはなぁ・・・ほんま、えらいこっちゃわ。

見物人B 「昨日は他人事やと聞き流してたことが、今日になってみたら、自分事になってもた」っちゅぅのん、まさにこないな事を言うんでっしゃろなぁ。

見物人C あこ行かはる天皇陛下も、これからどっかへ、島流しになってしまわはるんやろぉか。

見物人D この先きっと、いろいろと苦しい目に、おぉていかはんねんやろぉねぇ、ほんまに、お気の毒なことどすぅ。

心ある人も心無き人も皆、この歴然たる因果応報の理(ことわり)には、ただただ感じ入り、袖を涙で濡らすばかりである。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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