« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年1月

2017年1月19日 (木)

認知言語学に見る、概念[高度]と他の概念とのつながり

[このコンテンツが属するカテゴリー([言語])]の インデックス] へのリンク

先日アップロードした、下記コンテンツ

なぜ、晴から雨へと移りゆく時に、「天気は上り坂に」と、言わないのだろうか?

において、

[高度]という概念と、他の概念とが複合されることにより、下記のような様々な言葉が生み出されていることを確認した。

 高位高官
 天気は下り坂に
 昇進 降格
 上司 部下
 献上 下賜
 仰ぎ見る存在
 他を見下す
 上目使い
 上から目線
 声高らかに 声を低めて
 落ち込む 舞い上がる
 上昇気流に乗っている
 落ち目
 没落
 都落ち
 上洛 上京
 下剋上
 高尚 低俗
 堕落
 高等遊民

そして、「天気は下り坂に」と「高位高官」という表現について、その成り立ちについて探ってみた。

言語学の中の一分野・認知言語学においては、このような表現を、[メタファー(隠喩 いんゆ)]であると認識しているようだ。

日本語の中には(あるいは、日本語以外の言語の中においても)一般に、「比喩表現」と呼ばれているような表現がある。例えば、

 あの人は、ネコのようにふるまう
 あの人は、ネコだ

前者のような表現を、直喩(simile)と言い、後者のような表現を、隠喩(metaphor:メタファー)と呼ぶのだそうだ。

[文献1]においては、上記に記した「高位高官」等の表現を、

 「方向性のメタファー」

として分類している。以下、[文献1]の20Pからの引用である:

 「方向性のメタファーとは、心理状態・感情・量・支配力・善悪の価値観など、本来は非空間的な経験を「上下」などの位置関係として概念化するものであり、一種の「空間化メタファー」(spatialization metaphor)である。」

文献1:[認知意味論の新展開 メタファーとメトニミー 谷口一美 研究社]

[このコンテンツが属するカテゴリー([言語])]の インデックス] へのリンク

2017年1月18日 (水)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (55) 日本橋

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 日本橋]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 日本橋 朝之景(知足美術館)

-----------------------------

橋の上を歩いている二人が持っている長い棒状の物体、木戸(絵の左と右に描かれている)の部分の中を[上下方向]に伸びている線、半鐘の櫓等、[上下方向]に伸びる線が目立つように、この絵は描かれていると、感じます。

(ここでは、[上下方向]という言葉を、絵の下端線に対して垂直の方向、という意味で使用しています。)

このような、[上下方向]の線に重きを置くことにより、大名行列の人々の心中にある下記のような緊張感を表現しようとしたのかもしれません。

 旅は始ったァ、さぁ、行くゾォ!

------------------

日本橋に関して、

[日本橋 いつできた]、[日本橋 首都高 景観]、[日本橋川 空を取り戻す]、[日本橋川 神田川 平川]、[大阪 日本橋]、[大阪 日本一 日本橋一丁目]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 日本橋]、[行書東海道  日本橋] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の日本橋を描いた絵が、下記です。

日本橋(三重県立美術館)

『行書東海道』の日本橋を描いた絵が、下記です。

日本橋(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

56.東京(とうきょう) 日本橋(にほんばし)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (54) 品川

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 品川]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 品川 日之出(知足美術館)

------------------

船と雲の描写がすばらしいと思います。

------------------

この絵の現場を特定しようと思い、いろいろ調べてみたのですが、ギブアップしました。

[旧東海道 地図 品川] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て調べ、品川宿付近の旧東海道のルートを把握することができました。

しかし、絵が描かれた当時と現在とでは、現場付近の地形や景観が変化していると思われます。よって、現在の状況(地形等に関する)を示している情報だけを根拠にして、この絵の現場の特定を行うのは不可能であると、思われます。

------------------

品川に関して、

[品川区 品川宿]、[品川区 品川宿交流館]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 品川]、[行書東海道  品川] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の品川を描いた絵が、下記です。

品川・鮫洲の茶や(三重県立美術館)

『行書東海道』の品川を描いた絵が、下記です。

品川(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

55.品川(しながわ) 歩行新宿(かちしんじゅく)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (53) 川崎

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 川崎]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟(知足美術館)

-----------------------------

この絵はなぜか、私の心にはあまりヒビ(響)イテきません。絵の中に描かれているそれぞれの人の様子がおもしろい、とは思うのですが。

------------------

[旧東海道 地図 川崎] でネット検索して、当時の街道のルートが分かるような情報を得て調べ、この絵に描かれている場所を知るすることができました。

この絵の現場、すなわち、六郷川(多摩川)の渡河地点は、国道15号線の多摩川に架かる橋の付近にあったようです。

------------------

川崎に関して、

[川崎市 川崎宿]、[川崎市 六郷橋]、[川崎市 万年屋 奈良茶飯]、[川崎市 万年屋 和宮]、[川崎市 本陣跡]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 川崎]、[行書東海道 川崎] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の川崎を描いた絵が、下記です。

川崎・六郷のわたし(三重県立美術館)

『行書東海道』の川崎を描いた絵が、下記です。

川崎(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

54.川崎(かわさき) 多摩川(たまがわ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

2017年1月17日 (火)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (52) 神奈川

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 神奈川]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 神奈川 台之景(知足美術館)

-----------------------------

この絵の構図を構成する主な要素は、下記の2個の曲線であると思います。

[曲線A]:絵の中央部下端から始り、家々に沿って右上の方向へ伸びていき、絵の右上に描かれている樹木が伸びている方向に沿って左上に向きを変え、樹木の先端部で終わる曲線。

[曲線B]:絵の左側下部の船(乗っている人が描かれている小さい船)から始り、その左側に配置されている大きな船の方に伸び、そこから先は連続的に配置されている船群に沿って、右上の方向へ伸びていき、それらの船群中、最も遠くにある船で終わる曲線。

上記の2個の曲線により構成されているこの絵の構図は、すばらしいなぁと思います。

------------------

この絵の現場に関しては、[神奈川台 神奈川宿]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

この絵の現場は、京浜急行電鉄本線の神奈川駅の西方の、旧東海道に沿った地域、すなわち、[横浜市 神奈川区 台町]のあたりであろうと思われます。

------------------

横浜市神奈川区に関して、

[横浜市 神奈川区 神奈川宿]、[横浜市 神奈川区 神奈川宿 台町]、[横浜市 神奈川区 神奈川台場跡]、[横浜市 神奈川区 神奈川台 関門跡]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 加奈川]、[行書東海道  神奈川] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の神奈川を描いた絵が、下記です。

加奈川・台の茶や(三重県立美術館)

『行書東海道』の神奈川を描いた絵が、下記です。

加奈川 神奈川(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

53.神奈川(かながわ) 台町之景(だいまちのけい)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (51) 保土ヶ谷

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 保土ヶ谷]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 保土ヶ谷 新町橋(知足美術館)

-----------------------------

構図の設定がいいなぁと思います。

以降の記述を行いやすくするために、構図の設定に関して重要な役割を果たしていると思われる要素に対して、下記のように記号を付けることにしました。

 [曲線A]:水面と岸との境界線。
 [曲線B]:(背景に描かれている)山々と空との境界線。
 [領域C]:[曲線A]と[曲線B]との間の部分。
 [領域D]:橋板が描かれている部分。
 [領域E]:[領域C]と[領域D]とを合併した領域。

[領域E]の幅(上下方向の長さ)は、おおむね、(絵の)右側の方へいくにつれて増加、左側の方へいくにつれて減少、というようになっています。すなわち、[領域E]の形は、[右・太-左・細]になっています。

もしかしたら、この絵を見ると下記のように感じる、という人がおられるかもしれません。

 自分の目が(自分が注視する先の位置が)、絵の右側から左側の方へ移動していくように、[誘導]されているように感じる。

 あたかも、[領域E]の中に、右から左へ流れているような肉眼には見えない水流のようなものがあり、それによって、注視する先の位置が、右から左へ押し流されているかのように。

あるいは、下記のように感じる、という人がおられるかもしれません。

 自分の目が(自分が注視する先の位置が)、絵の左側から右側の方へ移動していくように、[誘導]されているように感じる。

 あたかも、[領域E]の中に、左から右へ流れているような肉眼には見えない水流のようなものがあり、それによって、注視する先の位置が、左から右へ押し流されているかのように。

人間の目が注目している位置(注視点)が、文書や画像を見た時に、どのように移動([視線移動])していくのか、という事に関して、様々な研究が行われているようです。

この絵(『保土ヶ谷 新町橋』)を題材として、様々な[視線移動]の実験・観測が行われていけば、上記に記述したような[誘導]に関しても、いろいろな事が分かってくるかもしれません。

(実験・観測してみた結果、そのような[誘導]は存在しない、という事が分かった、という事になるのかもしれませんが)。

[視線移動]、[視線 アイトラッキング]でネット検索して、この研究分野に関する情報を得ることができました。

------------------

この絵の現場の位置に関しては、ネット上に様々な情報がありました。([横浜市 保土ヶ谷区 新町橋]等でネット検索して情報を得ることができました。)

それらの情報を参考にしながらネット地図で調べ、この絵の現場が、相模鉄道の[天王町駅]の北東方向にあることが分かりました。

------------------

保土ヶ谷に関して、

[横浜市 保土ヶ谷区 保土ヶ谷宿]、[横浜市 保土ヶ谷区 御所台の井戸 北条政子]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 程か谷]、[行書東海道  程ヶ谷] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の保土ヶ谷を描いた絵が、下記です。

程か谷・かたびら橋かたびら川(三重県立美術館)

『行書東海道』の保土ヶ谷を描いた絵が、下記です。

程ヶ谷(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

52.程ヶ谷(ほどがや) 朧夜ノ景(おぼろよのけい)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (50) 戸塚

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 戸塚]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 戸塚 元町別道(知足美術館)

-----------------------------

絵の中に描かれているそれぞれの人の様子がおもしろい、と感じます。しかし、[?]を感じる点も様々にあります。

以降の記述を行いやすくするために、これらの人々に下記のように記号を付けることにしました。

 [人間A]:最も左側に描かれている人。女性。
 [人間B]:[人間A]の右側に描かれている人。おそらく、男性と思われる。
 [人間C]:馬の右側に描かれている人。おそらく、男性と思われる。
 [人間D]:[人間C]の右側に描かれている人。女性。
 [人間E]:最も右側に描かれている人。男性。

[人間A]は、絵の左側に描かれている店の関係者でしょう。「いらっしゃいませぇ」とでも、言っているのでしょうか。

[人間B]は、旅人でしょう。馬から降りた直後、地に足がつく直前の状態です。[人間B]の右足は、この瞬間、空中にあるのでしょう。(テーブルの上にあるのではないと思います。)。

[人間C]は、[人間B]が着地するまで、馬がじっとしているように、馬を制御しているのでしょう。

[人間D]は、おそらく旅人でしょう。

[人間E]も、おそらく旅人でしょう。今まさに、この絵の中の世界にやってきた、という状態です。

--------------

[?]を感じる点は、以下の通りです。

[人間A]に関して

今この瞬間、[人間A]は、誰を注視しているのでしょう? [人間B]を注視? [人間D]を注視? もしかしたら、[人間E]を注視してる?

[人間B]に関して

馬から降りる時には、このような降り方をするものなのでしょうか? 着地の際の衝撃が強すぎて、危険では、と思うのですが。

[人間D]に関して

この人は今、笠を自分の身体から外そうとしているのでしょうか? 笠を自分の身体に装着しようとしているのでしょうか? 笠のひもを結びなおそうとしているのでしょうか?

この人は、一人で旅をしているのでしょうか? この時代に、女性が一人で安全に旅をすることができたのでしょうか?

この人は、[人間B]といっしょに旅をしているのでしょうか? もしもそうであるのだとしたら、なぜ、この人が地上にいて、[人間B]はまだ空中にいるのでしょうか? 馬から降りる順番が逆なのでは、と思うのですが。まず、男性が馬から降り、次に、女性が馬から降りるのを彼が支援する、というように、事が進んでいくと思うのですが。江戸時代には、女性が先に馬から降りていたのでしょうか?

もしかしたら、[人間B]は馬に乗り、この人はその横を歩いて、いっしょにここまでやってきたのでしょうか?(このような状況は非常に考え難いのですが)。

--------------

私には、[人間E]が大きな存在感を発しているように感じられます。いったいなぜ、そのように感じるのか?

もしかしたら、 

(1)他の4人から離れた場所にいるから、そのように感じるのかも

(2)今まさに、この絵の中の世界にやってきた人だから、そのように感じるのかも

もしも(1)であるならば、(絵に描かれている)対象の空間的な(位置的な)配置が原因となって、私にはそのように感じられる、ということになるでしょう。

もしも(2)であるならば、対象の時間的な設定が原因となって、私にはそのように感じられる、ということになるでしょう。

これらの人々を、この絵の中の世界に登場した時点順に並べると、下記のようになるでしょう。

 [人間A] ----- [人間B]と[人間C](二人は同時に登場) ----- [人間E]

[人間A]は店の関係者だから、最も早い段階からこの世界の中にいる、ということになるでしょう。

[人間B]と[人間C]は、[人間E]よりも前に、この世界の中に到着していると思われます。

[人間D]に関しては、上記のように[?]が多くあるので、何ともいいようがありません。

------------------

ネット上の様々な情報を参照して、この絵の現場が、旧東海道が柏尾川と交わる地点の付近である事が分かりました。

[旧東海道 地図 戸塚] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て調べ、戸塚宿付近の旧東海道のルートを知ることができました。

次に、ネット地図を使用して、旧東海道が柏尾川と交わる地点について調べました。その場所は、JR戸塚駅の北北東方向、戸塚共立第2病院の付近であるようです。

------------------

戸塚に関して、

[横浜市 戸塚宿]、[横浜市 戸塚区 元町別道 道標]、[横浜市 戸塚区 上方見付跡]、[横浜市 戸塚区 益田家 モチノキ]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 戸塚]、[行書東海道  戸塚] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の戸塚を描いた絵が、下記です。

戸塚(三重県立美術館)

『行書東海道』の戸塚を描いた絵が、下記です。

戸塚(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

51.戸塚(とつか) こめや跡(こめやあと)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

2017年1月16日 (月)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (49) 藤沢

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 藤澤]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 藤澤 遊行寺(知足美術館)

-----------------------------

絵の上の方に描かれている寺院が、大きな存在感を発しているように感じます。下記のように描かれているので、そのように感じるのだと思います。

(1)高い丘の上に寺院の建物があるように描かれている。

(2)その建物の上に、高い樹木が描かれている。

(3)絵の中央に描かれている家々の屋根と寺院との間に、物体が描かれていない部分がある。

------------------

この絵の現場の位置については、ネット上に様々な情報があり、それらを参考にしながらネット地図を使って調べてみました。

(1)JR藤沢駅の北方に、[境川]に架かる[藤沢橋]があり、その少し北側に旧東海道の橋が架かっていたようです。その橋は、過去には[大鋸橋]と呼ばれ、現在は[遊行寺橋]と呼ばれているようです。

(2)[遊行寺橋]の付近に、[江の島一の鳥居]と呼ばれる鳥居があったのだそうです。(この鳥居の[袴石]が、[遊行寺]にあるようです。)

ネット地図で見てみると、[遊行寺]は[遊行寺橋]の北東方向にあります。

よって、この絵の現場は、[遊行寺橋]付近の、[境川]の西側の場所、ということになるでしょう。

------------------

藤沢に関して、

[藤沢市 藤沢宿]、[藤沢市 江の島道]、[藤沢市 大山道]、[藤沢市 遊行寺]、[遊行寺 一遍聖絵]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 藤沢]、[行書東海道  藤沢] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の藤沢を描いた絵が、下記です。

藤沢(三重県立美術館)

『行書東海道』の藤沢を描いた絵が、下記です。

藤沢(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

50.藤沢(ふじさわ) 残照(ざんしょう)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (48) 平塚

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 平塚]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 平塚 縄手道(知足美術館)

-----------------------------

背景に描かれている三つの山の対比が、とてもおもしろいと思います。形が異なる山が左側と右側に配され、その両者が生成する緊張感の中に、富士山が控えめに顔を出しています。

このような風景の中に、走る飛脚を描く、というのは、すばらしい着想だなぁと思います。

飛脚の激しい呼吸と鼓動が聞こえてくるような感じがします。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の平塚の地において特定することは不可能であると思われます。

この絵に描かれている道は、旧東海道と考えてよいでしょう。飛脚が走る道なのですから。

[旧東海道 地図 平塚] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て、平塚宿付近の旧東海道のルートを調べました。そして分かったことは、

 平塚宿付近においては、旧東海道がこの絵にあるような急角度で向きを変えているような場所は無い

という事です。

以下のように考えたらよいのだろうと思います。

(1)この絵の現場は、平塚宿付近ではなく、平塚の東方の茅ヶ崎市内の鳥井戸橋の付近であるのかもしれません。そのあたりでは、旧東海道のルートは直線状になってはいません。

 あるいは、

(2)この絵は、実際に現場を見ないで描かれているのかもしれません。

------------------

平塚と茅ヶ崎に関して、

[茅ヶ崎市 南湖 左富士]、[茅ヶ崎市 旧相模川橋脚]、[平塚市 平塚八幡宮]、[平塚市 平政子 平塚の塚]、[平塚市 京方見附]、[平塚市 脇本陣跡]、[平塚市 松田たつ]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 平塚]、[行書東海道  平塚] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の平塚を描いた絵が、下記です。

平塚(三重県立美術館)

『行書東海道』の平塚を描いた絵が、下記です。

平塚(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

49.平塚(ひらつか) 馬入川(ばにゅうがわ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (47) 大磯

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 大磯]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 大磯 虎ヶ雨(知足美術館)

-----------------------------

雨の風景を描いた絵ですが、私には、うっとおしさは感じられません。開放感を感じます。爽やか、という感じもします。水平線が絵の真ん中に設定され、空(を表す部分)に対して、広いスペースが割り当てられているからでしょうか。

絵の左側の方に、明度が大きい色で海が描かれており、その中に、小さいサイズで船が描かれています。絵の左側の方に、空間がグゥーンと広がっていくように感じます。

家のサイズ(絵の中の)には、[?]を感じます。人間の(絵の中の)サイズと比較すると、小さすぎるように感じます。

------------------

[本1]中の図版解説において、吉田漱氏は、この絵の現場の位置について以下のような趣旨の事を記しておられます。

 人と馬が宿場に入って行く。絵の右側の方に描かれているのは、高麗山の山麓である。

絵の中央に描かれている宿場は大磯宿であると、考えてよいでしょう、「大磯 虎ヶ雨」とあるのですから。

絵の中では海が左側に描かれているので、この絵の現場は大磯宿の東の方のどこかであり、そこから大磯宿の方を見ている、という状況になります。

[旧東海道 地図 大磯] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て、その付近の旧東海道について調べました。

JR平塚駅の付近から、大磯の方向へ、旧東海道のルートをたどってみました。

JR平塚駅の付近から、西南西に進み、国道1号線に入った後、南西へ。花水川を超えてすぐの場所の西方に、[高麗山]があるので、おそらく、この絵の現場はこのあたり(花水川を超えてすぐの場所)である、ということになるでしょう。

------------------

大磯に関して、

[大磯町 高麗山]、[大磯町 高来神社]、[大磯町 化粧井戸]、[大磯町 東海道松並木]、[大磯町 本陣跡]、[大磯町 大磯町郷土資料館]、[大磯町 六所神社]、[大磯町 鴫立庵 西行]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 大磯]、[行書東海道  大磯] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の大磯を描いた絵が、下記です。

大磯・鴫立沢西行庵(三重県立美術館)

『行書東海道』の大磯を描いた絵が、下記です。

大磯(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

48.大磯(おおいそ) 花水川(はなみずがわ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

2017年1月15日 (日)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (46) 小田原

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 小田原]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 小田原 酒匂川(知足美術館)

-----------------------------

日本最初の駅伝競争の区間は、京都-東京。スタートは、京都の三条大橋、ゴールは、東京の不忍池付近だったのだそうです。

京都からスタートして、箱根の山を越え、小田原へ・・・ついに関東へ、という感じがしますが、日本史においては、[関東地方]が意味する領域は、一定ではなかったようです。

-----------------------------

背景に描かれている山がすばらしいと思います。ゴツゴツガクガクとしていて、冷凍庫の中で凍結してできたような感じです。

山と川の間に、ゆったりと広くスペースが配されており、川の中にいる人々も小さいサイズで描かれているので、広大な空間の広がりを感じます。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の小田原の地において特定しようと思ったのですが、ギブアップしました。

[旧東海道 地図 小田原] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て調べ、この絵に描かれている場所を把握することができました。

JR小田原駅から東海道本線、あるいは東海道新幹線に乗って東京方向に向かう先に、[酒匂川]の橋梁があります。旧東海道の酒匂川渡河地点は、この橋梁の南東方向の、国道1号線の橋梁が架かっている場所の付近であったようです。

次に考えなければならないのが、

 この絵は、酒匂川の小田原の対岸(川の東側)から小田原の方向を見ている、という状況になっているのか、それとも、その逆(小田原側から酒匂川の対岸を見ている)なのか?

という事です。

これに関しては、[酒匂川の小田原の対岸(川の東側)から小田原の方向を見ている]と判断しました。その逆であるとすれば、絵の中のどこにも小田原の地が描かれていない、という事になってしまうからです。

次に考えなければならないのが、

 この絵が描かれて以降、現代に至るまでの間、酒匂川の流路に変化があったのかどうか? 変化があったのであれば、どのように変化したのか?

という事です。

これに関連するネット上の情報を調べ、江戸時代初期に、[酒匂川]に対して[瀬替え]が行われた、という事を把握できました。

(「瀬替え」とは、人工的に河川の流路を変える事なのだそうです)。

しかし、その後の、上記の渡河場所付近においての流路変化の状況に関しては、詳細を把握することができませんでした。

よって、ここから先に進むことができませんでした。

この絵が描かれた当時から現代までの間、渡河場所付近の酒匂川の流路は変わっていない、というのであれば、国土地理院の [地理院地図] を使用して、絵の背景に描かれている山について、調べることができるのですが・・・。

------------------

小田原に関して、

[小田原市 人車鉄道]、[小田原市 石垣山 一夜城]、[小田原市 北条氏]、[小田原市 稲葉氏 春日局]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 小田原]、[行書東海道  小田原] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の小田原を描いた絵が、下記です。

小田原・酒匂川(三重県立美術館)

『行書東海道』の小田原を描いた絵が、下記です。

小田原(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

47.小田原(おだわら) 城址(しろあと)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (45) 箱根

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 箱根]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 箱根 湖水図(知足美術館)

-----------------------------

絵の中央に山が、ガァーーンッとあります。すさまじい迫力、圧倒的な存在感。

美しい(美しく描かれている)山だと思います。山腹は様々な色を使って構成されています。その色の配置も緻密に計算されていると思います。

右側の斜面と左側のそれとを比べてみると、左側の方が傾斜が更に大であるように描かれています。この山、眼下はるかに湖を見下ろし、というような感じです。

この山と、周囲の山々、湖、空をまとめあげた構図も、すばらしいと思います。

------------------

この絵の現場の位置を特定することは不可能でしょう。 [本1]中の図版解説において、吉田漱氏は、旧東海道上には、このような角度で湖と富士山が見え、このような山がそびえているところがない、という趣旨の事を記しておられます。

------------------

箱根に関して、

[箱根町 早雲寺]、[箱根町 女転し坂]、[箱根町 畑宿 寄木細工]、[箱根町 石仏群]、[箱根町 箱根神社]、[箱根町 箱根関所]、[箱根町 箱根関所資料館]、[箱根 旧街道 杉並木]、[三島市 山中城]、[三島市 こわめし坂]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 箱根]、[行書東海道  箱根] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の箱根を描いた絵が、下記です。

箱根・夜中松明とり(三重県立美術館)

『行書東海道』の箱根を描いた絵が、下記です。

箱根(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

46.箱根(はこね) 芦ノ湖(あしのこ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (44) 三島

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 三島]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 三島 朝霧(知足美術館)

-----------------------------

[本日の旅のスタート]+[朝霧]という設定がすばらしいなぁと思います。

この絵の中に描かれている対象は、下記のように2つのグループに分類することができるでしょう。

(A)絵の中央部に描かれている人々、駕籠、馬
(B)上記以外の対象

(A)に属する対象は、細部まで描かれており、(B)に属する対象は、細部が描かれていません。それによって、霧がたちこめていることが巧みに表現されていると思います。遠近感も感じられます。

絵の左側には、遠くにいる人々が描かれていますが、この部分の描き方もすばらしいと思います。

馬上の人と駕籠に乗っている人は、いかにも、[あぁ眠いなぁ・状態]であるような感じです。背中と笠と腕を描くだけで、このような事が表現できるのですねぇ。すごいなぁ・・・。

------------------

この絵の現場の位置に関して、 [本1]中の図版解説において、吉田漱氏は、「三島神社の鳥居の前」と記しておられます。

[旧東海道 地図 三島] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て調べ、[三嶋大社]が旧東海道の北側の街道に面した場所にある事が分かりました。

------------------

三島に関して、

[三島市 言成地蔵]、[三嶋大社 源頼朝]、[三島市 伊豆国府]、
[三島市 愛染院跡 溶岩塚]、[三島市 初音ヶ原 松並木]、[三島市 円明寺 孝行犬]、[三島市 西坂]、[三島市 三島代官所]]、
[三島市 菰池公園]、[三島市 白滝公園]、[楽寿園 小浜池]、[千貫樋 小浜池]

でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 三島]、[行書東海道  三嶋] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の三島を描いた絵が、下記です。

三島(三重県立美術館)

『行書東海道』の三島を描いた絵が、下記です。

三嶋(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

45.三島(みしま) 相模湾(さがみわん)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

2017年1月11日 (水)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (43) 沼津

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 沼津]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 沼津 黄昏図(知足美術館)

-----------------------------

(1)3人の関係は?

これ以降の記述を行いやすくするために、この絵に描かれている主要な人に、以下のような記号を付けます。

 [男性A]:天狗の面を背負っている人(男性と思われる)
 [女性B]:その前を歩いている二人のうち、身長が高い方の人(女性と思われる)
 [女性C]:女性Bの横にいる人(女性と思われる)

(1.1)天狗の面

天狗の面がとても気になり、下記の本で調べてみました。

 『民衆宗教史叢書 第一九巻 金毘羅信仰』 守屋毅氏 編 雄山閣出版

この本の中の、[金毘羅信仰と金毘羅参詣をめぐる覚書](守屋毅氏著)の節の中の183P~184P、207P~208Pに、下記のような趣旨の事が記されています。

 江戸時代の中頃に、各地の村々に、[金毘羅講]という、信者の組織が作られていった。

 [金毘羅講]メンバーのうち何人かが、毎年順番に代参(講中を代表しての金毘羅参詣)を行っていた。

 この代参に出かける人々を、[金毘羅道者]、[金毘羅行人]などと呼ぶ。

 [金毘羅道者]は、白木綿の装束を着て、参拝の旅を行った。

 [金毘羅道者]は、たいていは、奉納の酒樽とともに天狗の面をたずさえていた。参詣者はこれらを、宝前に納め、ひきかえに丸金印の御礼を受けて、帰途についた。

[男性A]はおそらく、この[金毘羅道者]なのでしょう。

(1.2)[男性A]と[女性B]との関係は?

女性2人だけの旅行を見るにみかねて、[男性A]は同行支援を申し出たのかもしれません。あるいは、[男性A]と[女性B]は、たまたまこの瞬間、街道の上で距離が近くなっただけであるのかもしれません。

(1.3)[女性B]と[女性C]との関係は?

母と娘なのかもしれません、叔母と姪なのかもしれません。師と弟子なのかもしれません。[女性B]は旅の途中、何かの困難に一人で直面している[女性C]を助け、以後、行動を共にしているのかもしれません。

このように、この3者([男性A]、[女性B]、[女性C])間の関係は様々に解釈でき、それぞれの解釈をするごとに、そこから想像が膨らんでいきます。

この絵の(私にとっての)魅力は、そこにあるのかもしれません。絵を見る私に、様々な想像を湧きおこさせる力。「黄昏」と満月という状況設定が、その力(想像を喚起する力)を更に増大していると、考えます。

この3人の過去の人生はどのようなものであったのか、これから先、どのような人生になっていくのか・・・。

------------------

(2)この絵の現場の位置

この絵の現場の位置を特定しようと思ったのですが、調べれども調べれども[?]の続出で、ギブアップしました。

以下に一応、考えた事を記していきます。

(2.1) この絵は、現場を見て描かれているのかどうか?

この絵によくマッチしているような場所が沼津付近にあったとしても、この絵がその現場を見て描かれている、ということの証明にはならないと思います。

現場を見ないでも、このような絵を描くことは可能だろうと思います。例えば、地図だけを見て描く、あるいは、沼津に行ったことがある人から話を聞いて描く、等の方法により。

当時の地図としては、例えば、[東海道分間絵図]、[東海道分間延絵図]というものがあったのだそうです。ただし、そのような地図を幕府高官でないような人でも、見ることができたのかどうか、という事も考察されなければならないと思います。

(2.2) 方角

(2.2.1) 天狗の面

上記にも記したように、[男性A]は[金毘羅道者]であり、讃岐を目指しての参拝の旅の途中、ということなのだから、彼は、京都方面へ移動中である、ということになるでしょう。

(2.2.2) 満月

絵の中には満月が描かれています。低い位置にあるので、

(A)月が出てから短時間の後
   か、あるいは
(B)月が沈むよりも短時間の前
   と、いうことになるでしょう。

月は東から出て西へ入りますから、(A)ならば、月が描かれている方が東の空である、ということになり、(B)ならば、月が描かれている方が西の空である、ということになります。

[月の出入り 静岡]等でネット検索することにより、月が出る時刻、月が入る時刻を知ることができました。

(2.2.3) 「黄昏図」

上記の考察と、「沼津 黄昏図」とあることを合わせて考えると、この絵の中の月は、(A)の方、すなわち、出てから短時間の後の状態であり、東の空にあり、となります。よって、絵の奥の方が東である、すなわち、[男性A]、[女性B]、[女性C]は、東の方向へ歩いている、ということになります。

(2.3) 街道

[男性A]、[女性B]、[女性C]が歩いている道は、街道であろうと思われます。彼らの前方にも数人の旅人らしき人々が描かれていますから。

(2.4) 2つの川

絵の中央部に、注目すべき場所があります。そこでは、2本の川が合流している、あるいは、2本の川に分岐しています。

以降の説明をやりやすくする為に、絵の中央に描かれている川を[川A]とし、上記の場所で[川A]と合流、あるいは[川A]から分岐している川を、[川B]とします。[川B]には橋が架けられています。

(2.5) 街道と川の位置関係

絵の中では、[街道]は[川A]の右側にあります。

(2.6) 宿場?

絵の中央に、家が複数個、描かれています。そこに宿場があるのかもしれません。

(2.7) 川筋の変化は?

この絵の現場を特定するためには、川の形を手がかりにして考察していくのがよいのだろうと思われますが、その際には、現代の川筋(ネット地図で把握できる)と江戸時代のそれとの比較検証が必要となるでしょう。当時と現代との間に、川筋の変化はないのかどうか、もしあるとすれば、どのように変化しているのか、といったような事を確実に把握してからでないと、考察を先に進めることはできないでしょう。

(2.8)二つの説

この絵の現場に関して、私が調べて知りえた範囲内では、2つの説がありました。

黄瀬川説

 [川A]は[黄瀬川]である、とする説。

狩野川説

 [川A]は[狩野川]である、とする説。

この二つの説について調べてみたのですが、どちらにしても不可解な点があるのです。

[旧東海道 地図 沼津] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て、沼津宿付近を調べてみた結果、黄瀬川説にしても、狩野川説にしても、その現場は沼津宿の東方に位置する場所になる、ということが分かりました。

上記(2.2.1)に記したように、[男性A]は京都の方を目指して、歩いている、ということになります。

上記(2.2.3)に記したように、[男性A]、[女性B]、[女性C]は、東の方向へ歩いている、ということになります。

上記に記した事を合わせると、以下のようになります。

[男性A]は今、沼津宿の東方に位置する場所にいる。彼は、京都の方を目指し、東の方向へ歩いている。

これ、なにか[?]なのでは、と思うのですが・・・。京都市は、静岡県の西の方にあると思うのですが・・・。

更に[?]な点がもう一つ。

沼津宿の東方の場所で、東の方向へ歩いている、となると、彼らの目指しているのは、沼津宿ではない、ということになります。となると、絵の中に描かれている家は、たとえ宿場の中にあるそれであるとしても、そこは、沼津宿ではない、ということになります。

「沼津 黄昏図」の絵の中に、沼津宿が描かれていない、ということになるわけです。これはどうにも[?]です。

沼津の付近の場所において描いた絵なんだ、だから、「沼津 黄昏図」でいいんだ、という事なのでしょうか?

----------------------------

沼津に関しては、[沼津市 黒瀬橋]、[沼津市 玉砥石]、[沼津市 平作地蔵]、[沼津市 沼津城]、[沼津市 若山牧水記念館]、[沼津市 千本松原]、[沼津 吾妻鏡]、[狩野川 我入道 渡し船]、[沼津市 神明塚古墳]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 沼津]、[行書東海道 沼津] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の沼津を描いた絵が、下記です。

沼津(三重県立美術館)

『行書東海道』の沼津を描いた絵が、下記です。

沼津(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

44.沼津(ぬまづ) 御用邸(ごようてい)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (42) 原

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 原]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 原 朝之富士(知足美術館)

---------------------

この絵は、私の心にはヒビ(響)イテきません。

人のサイズ(絵の上での)が大きすぎて、富士山の雄大さを感じにくいと、思います。

------------------

この絵に描かれている現場を、現代の原の地において特定するのは不可能でしょう。手がかりになるような物体が絵の中に描かれていませんから。

------------------

原に関して、[沼津市 松蔭寺 白隠]、[沼津市 興国寺城]、[沼津市 要石神社]、[増田平四郎 スイホシ]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 原]、[行書東海道 原] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の原を描いた絵が、下記です。

原(三重県立美術館)

『行書東海道』の原を描いた絵が、下記です。

原(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

43.原(はら) 秋晴(あきばれ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (41) 吉原

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 吉原]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 吉原 左富士(知足美術館)

-----------------------------

すばらしい街道と並木の景観だなぁと、思います。進んでいくにつれて、道の方向の変化により、富士山が左に行ったり右に行ったり、するのでしょうね。この道、歩いてみたいなぁと思います。

馬上の3人の後ろ姿がいいなぁと思います。

よくよく見ると、馬上の左側の人と真ん中の人とでは、見ている対象が異なるようです。顔の向きが少し違うように描かれていますから。右側の人は・・・現在、思索中? それとも睡眠中?

------------------

この絵の現場の位置について、 [本1]中の図版解説において、吉田漱氏は、

 「この元吉原から吉原へ、うねうね田圃をゆくのがこの図である。」

と、記しておられます。

[旧東海道 地図 吉原] でネット検索して、当時の街道のルートが分かるような情報を得ることができたので、それを参照しながら、旧東海道の道をたどってみました。

JR東田子の浦駅の付近から旧東海道は西北西方向へ伸びているのですが、元吉原小学校付近を通過し、JR吉原駅の直前の地点から、北西方向に進路が変わります。

更に、東海道新幹線の北側へ進むと、[左富士神社]という神社があります。吉田氏が記しておられるのは、おそらくその付近なのであろうと思われます。

------------------

吉原に関しては、[富士市 平家越]、[富士市 横割八幡宮]、[富士市 鎧ヶ淵]、[元吉原 吉原湊 矢部氏]、[富士市 駿河半紙]、[富士市 山部赤人]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 吉原]、[行書東海道 吉原] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の吉原を描いた絵が、下記です。

吉原・名所左り不二(三重県立美術館)

『行書東海道』の吉原を描いた絵が、下記です。

吉原(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

42.吉原(よしわら) 左富士(ひだりふじ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (40) 蒲原

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 蒲原]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 蒲原 夜之雪(知足美術館)

-----------------------------

この絵は私の心にヒビ(響)イてはくるのですが、その音量は弱いです。

この絵と私との間には、[フィルター]が存在しているように感じられます。絵から発する響きの音量が、その[フィルター]によって、弱められてしまっていると思われます。

その[フィルター]とは、いったいナニモノ?

[過剰な演出]と言えばよいのでしょうか。演出が過剰に行われているので、音量が弱くなってしまうのだと思います。

この絵の中に人間が全く描かれていないで、家と山、道だけであったならば、この絵から発せられる響きは私の心の中にストレートに入ってきて、絵の中の世界に、私の心はスゥット入っていけるのに、と思います。

以降の説明をやりやすくするために、この絵に描かれている3人の人間に対して、以下のように記号をつけることにします。

 [人間A]:絵の中で最も左側に描かれている人
 [人間B]:[人間A]の右側に描かれている人
 [人間C]:[人間B]の右側に描かれている人

この絵に描かれている3人の人間に対しては、ある種の[バインド]が施されていると考えます。それは、[無縁]の[バインド]です。

[人間A]と[人間B]を結ぶ透明な糸(肉眼では見えない)があり、その糸には透明なラベル(肉眼では見えない)が張られており、そのラベルには透明な字(肉眼では見えない)で、[この二人は無縁の関係にある]と書かれている、とでも表現すればよいのでしょうか。

[人間B]と[人間C]、[人間A]と[人間C]に対しても同様です。

その中でも、[人間A]と[人間B]との[無縁度]が特に強いと感じます。

[人間A]と[人間B]は、向き合っているのではなく、互いに反対の方向に歩いています。二人の間の距離は増していっています。しかも、[人間A]の顔は物体(傘でしょうか?)に覆われてしまって全く見えません。

このように設定された人間と人間との[無縁のバインド]により、この絵に、[冷涼]、[寂寥]、[静寂]が加味されているのであろうと、考えます。

このような[無縁のバインド]による演出は、[過剰な演出]と、私には感じられます。

[人間A]の描かれ方には、[?]を感じます。こんなに上半身を隠さなければならないほどの、激しい雪が降っているとは思えないのですが・・・。このように視野を塞いでしまって、まともに歩いて行けるのかな、とも思います。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の蒲原の地において特定することは不可能であろうと思います。

この絵の中の、場所を特定するための手がかりになるようなものはといえば、[背景の山](背景として描かれている山)くらいしか見当たりません。

しかし、[背景の山]を手がかりにして現場を特定する、という方法は、大いに問題ありと思われます。なぜならば、これまで見てきた各地の描写において、[背景の山]が現場の実際のそれとは異なるような形に描かれている、というケースが多いからです。

この絵においても、[背景の山]が現場の実際のそれとは異なるような形に描かれている、という可能性は高いです。

位置の特定を更に困難にする問題があります。それは、

 「東海道五十三次之内 蒲原」とあるのだから、現場は蒲原宿の中のどこかなのだろう、というように断定することはできない

と、いう事です。

これまで見てきた各地の描写において、実際に現場を見ないで描いているのでは、と思えるような絵が、多くあります。(これに関する詳細については、これまで私が記述してきた内容を読んでいただくしかありません)。

よって、この絵の場合も、蒲原宿の現場を見ないで描かれている、という可能性があります。他のどこかの場所(例えば、江戸の近郊の)の景観が描写されている、という可能性もあります。想像のみによって描かれている、という可能性もあります。

------------------

[富士川 角倉了以]、[富士川 雁堤]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 蒲原]、[行書東海道 蒲原] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の蒲原を描いた絵が、下記です。

蒲原・富士川渡舟(三重県立美術館)

『行書東海道』の蒲原を描いた絵が、下記です。

蒲原(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

41.蒲原(かんばら) 富士川(ふじがわ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (39) 由比

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 由井]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思います。

------------------

富士山を見ている人々を、こちらから見ている、これは、おもしろい視点だと思います。(絵の左上の方に小さいサイズで人々が描かれています)。

人々が絵の左上の方に、富士山よりも上の位置に配置されている、というのもまた、おもしろいです。

絵の中央に描かれている樹木、船の帆と富士山等、この絵を構成している主要な要素の配置と形によって、私の目は絵の左上、富士山を見ている人がいる場所へと、誘導されていくように感じます。巧みな構図だと思います。

しかし、なにか窮屈という感じ、開放感が感じられません。

富士山のまわりに(富士山と近い位置に)様々な対象物が描かれているので、そのように感じるのかもしれません。

[?]を感じるのが、富士山を見ている人々の位置です。この位置で、はたして富士山が見えているのでしょうか? 彼らの右側にある崖にさえぎられて、富士山を見ることができないのでは、と思われるのですが・・・。

------------------

この絵に描かれている現場の位置は、さった峠付近ということになるのでしょうが、問題は、絵を描いている人の足は、どこにあるのか、という事です。

絵の左上に描かれている人々が立っている場所を、[地点A]とし、絵を描いている人が立っている場所を、[地点B]とします。

それらの場所は、以下の全ての条件を満たしていなければなりません。

 条件1:[地点A]に立つと、富士山を見ることができる
 条件2:[地点B]に立つと、富士山を見ることができる
 条件3:[地点B]に立つと、[地点A]を見ることができる
 条件4:[地点B]の標高は、[地点A]の標高よりも小さい

ネットで調べて分かったのですが、[さった峠展望台]という場所があり、そこから富士山が見えるようです。[地点A]は、その付近にあるのかもしれません。

国土地理院の [地理院地図] を使ってこのあたりの地形を見てみたのですが、[地点B]の位置を知るために参考となるような情報を得る事はできませんでした。

------------------

由比に関して、[由比本陣公園]、[由比 本陣 小堀遠州]、[由比 東海道広重美術館]、[正雪紺屋 由比正雪]、[由比 桜えび]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 由井]、[行書東海道 由井] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の由比を描いた絵が、下記です。

由井(三重県立美術館)

『行書東海道』の由比を描いた絵が、下記です。

由井(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

40.由井(ゆい) さった峠(さったとうげ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (38) 興津

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 奥津]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 奥津 興津川(知足美術館)

------------------

絵の左上に描かれている物体(岩と言うべきか、崖と言うべきか)と人々との対比がおもしろいなぁと思います。両者の配置場所もよく計算されて設定されていると思います。

両者(物体 対 人々)のバランス(絵の上での感覚的な)も釣り合っていると思います。物理的には、物体の方が人間全員の体重合計よりもはるかに重いのでしょうけど。

絵の中の中央から右側に配置されている松と、船の帆によって、遠近感が巧みに表現されていて、(描画の対象となっている)空間の広がりを感じます。

[?]を感じるのが、人々の進行方向です。川を渡ろうとするのであれば、川の流れの方向と直交する方向に進んで行く、と考えるのが常識的だと思うのですが、この絵の中の人々は、川の流れの方向と平行する方向に進んでいるように見えます。

------------------

この絵に描かれている現場の位置を特定してみました。

[旧東海道 地図 興津] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て、興津川の渡河地点があった場所を調べてみました。

東海道本線の興津川に架かる橋梁の少し南側に、渡河地点があったようです。よって、この絵の現場はその付近、ということになるのでしょう。興津川の河口から近い場所です。

絵の中の奥の方には海があるように描かれているので、渡河地点から南方を見たら、この絵のように海が見えるのでしょう。

川の流路に関しては[?]です。ネット地図で見るこの付近の興津川の流路から考えると、この地点から南方を見る時、興津川の流路はこの絵とは逆方向にカーブしているように見えるのではないかと、思われます。

この絵が描かれた時点から後、現代までのどこかの時期に、流路が変化したのかもしれませんが。

絵の中の左側の方には、急傾斜の斜面が描かれていますが、この場所の地形は実際にこのようになっているのでしょうか?

国土地理院の [地理院地図] を使ってこのあたりの地形を見てみると、渡河地点の北の方に、標高が高い場所があるようです。しかし、その場所は、この絵で表現されている場所とは少し位置が異なるのでは、と思われます。

------------------

興津に関して、[清見寺 清見関]、[興津 東本陣跡 西本陣跡]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 興津]、[行書東海道 興津] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の興津を描いた絵が、下記です。

興津・清見かせき清見寺(三重県立美術館)

『行書東海道』の興津を描いた絵が、下記です。

興津(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

39.興津(おきつ) 三保松原(みほのまつばら)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

2017年1月 9日 (月)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (37) 江尻

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 江尻]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 江尻 三保遠望(知足美術館)

------------------

整っているとは思うのですが、この絵、なぜか、私の心にはヒビ(響)イテきません。

美しい海の風景ですねぇ、で、私の心の中では終わってしまいます。

------------------

[本1]中の図版解説において、吉田漱氏は、以下のような趣旨の事を記しておられます。

 この絵は、[東海道名所図会]の中の[寛政丙辰秋八月在久能山上望三保崎、平安、原在正写]とある図をもとに描かれている。
 上記の絵を借りて、江尻(今の清水)の町並みと湾内の舟を加えたものである。
 原の絵のように箱根連山や伊豆半島の山々を描かず、遠方は切りすてて海にしている。

これを確認するために、国土地理院の [地理院地図] を使用して、久能山とその周辺の場所を見てみました。

久能山の北東の方に三保松原があるようです。

三保松原の東側には駿河湾があり、その東側には伊豆半島があります。しかし、(吉田氏のご指摘のごとく)この絵の右上には陸地が描かれていないようです。

------------------

江尻に関して、[静岡市 巴川 稚児橋]、[静岡市 魚町稲荷神社]、[静岡市 江尻宿]、[静岡市 三保松原]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 江尻]、[行書東海道 江尻] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の江尻を描いた絵が、下記です。

江尻(三重県立美術館)

『行書東海道』の江尻を描いた絵が、下記です。

江尻(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

38.江尻(えじり) 三保松原(みほのまつばら)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (36) 府中

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 府中]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 府中 安部川(知足美術館)

-----------------------------

この絵、なぜか、私の心にはヒビ(響)イテきません。

川越にも、いろいろなメニューがあったのだろうなぁ、駕籠に乗ったままとか、人足に背負われてとか・・・で、私の心の中では終わってしまいます。

------------------

この絵の現場の位置を特定してみようとしたのですが、不可解な事があったので、ギブアップしました。

[旧東海道 地図 府中] でネット検索して、当時の街道のルートが分かるような情報を得ることができました。そして、以下の事が分かりました。

(1)旧東海道の安倍川・渡河地点は、東海道本線の安倍川に架かる橋梁の少し北西の場所にあった。
(2)府中宿は、その渡河地点の北東方向にあった。

「府中」とあるのだから、この絵は、安倍川の西南側の渡河地点に立ち、府中宿がある方向を見た図、ということになるでしょう。

ネット地図で見てみると、この場所では、安倍川は北西方向から南東方向へ流れています。

よって、安倍川の西南側の渡河地点に立ち、そこから東北東方向を見れば、安倍川の流れはこの絵のような感じに見えるのでしょう。

問題は、対岸の山です。

[本1]中の図版解説において、吉田漱氏は、

 「遠方の山は賤機(しずはた)山であろうか。が、これも川との位置関係は自由に構成している。」

と記しておられます。

国土地理院の [地理院地図] と、ネット地図を使用して、[賤機山]が、[静岡市立中央図書館]の北北西方向にある事がわかりました。

たしかに、[賤機山]のある場所は、[安倍川の西南側の渡河地点から東北東方向]ではありません。

------------------

府中に関して、[宝台院 西郷の局]、[宝台院 古田織部]、[宝台院 徳川慶喜]、[静岡浅間神社]、[臨済寺 雪斎]、[臨済寺 雪斎 家康]、でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 府中]、[行書東海道 府中] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の府中を描いた絵が、下記です。

府中(三重県立美術館)

『行書東海道』の府中を描いた絵が、下記です。

府中(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

37.静岡(しずおか) 古柳(ふるやなぎ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (35) 丸子

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 鞠子]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 鞠子 名物茶店(知足美術館)

-----------------------------

私はこの絵の中に、何か(言葉では表現不可能なのですが)深ァイモノを感じます。

その要因は、絵の中に描かれている人々の構成と配置にあるのだろうと考えます。

以下の記述をやりやすくするために、この絵の中に描かれている人々に対して、下記のように記号をつけることにしました。

 [男性A]:絵の中で最も左側に描かれている人
 [男性B]:[男性A]の右側に描かれている人(食事をしている)
 [男性C]:[男性B]の右側に描かれている人(食事をしている)
 [女性D]:[男性C]の右側に描かれている人(食物を運んでいる)
 [子供E]:[女性D]の背中の上に描かれている人

この絵の主役は、[男性B]と[男性C]なのであろうと思います。

[男性A]、[女性D]、[子供E]は脇役的な存在なのであろうと思います。

脇役とは言いながらも、この[男性A]が絵の中に存在することにより、絵にとてもいいアジ(味)が出ているように思うのです。もしかしたら、[男性A]こそがカゲの主役なのかも、と思ってしまうくらい、この人の存在感が大きいように感じます。

[男性B]、[男性C]、[女性D]は、[食事]という概念で[バインド]されており、[子供E]は[女性D]と、[育児]という概念で[バインド]されています。このようにして、この4人から、1個の[人間群]が構成されていると考えます。

[男性A]は、その[人間群]とは無縁であるような感じで、描かれています。

[広重 東海道五十三次 細部に注目 (4) 水口] の中で、 [やがて、いなくなる人] と [これからも、い続けているであろう人] との関係について述べましたが、それと同様の事を、この絵においても考える事ができると思います。

[男性A]は笠や棒を持っているから、この人も旅人なのでしょう。まさに、この場から去り行く人 、[やがて、(この絵の中から)いなくなる人] なのでしょう。

[男性B]と[男性C]も、そのうちこの場から去っていくのでしょうが、今は、この場にとどまって食事をしています。彼らもまた、 [やがて、いなくなる人]です。[いなくなる]タイミングが、[男性A]のそれとは異なるのですが。

[女性D]と[子供E]は、[これからも、(この場に)い続けているであろう人] です。

[男性A]と[人間群]、 [やがて、いなくなる人] と [これからも、い続けているであろう人] 、このような対比に、私は心ひかれているのかもしれません。

-----------------------------

この絵の現場の位置を現代の丸子の地において特定しようと思ったのですが、ギブアップしました。

まず調べようと思ったのが、

 この絵が描かれた時代に、この絵にあるような[とろろ汁]を提供する店が、丸子には何軒あったのか?

ということです。これが分からない事には、先に進みようがないのです。

上記の事を示す史料があるのかどうか、ネットを使って調べてみましたが、それに関する情報を見つけることができませんでした。

-----------------------------

丸子に関しては、[手越家綱 麻利子 吾妻鑑]、[手越原 足利直義 北条時行]、[手越原 足利 新田]、[静岡市 吐月峰柴屋寺]でネット検索して、情報を得ることができました。

-----------------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 鞠子]、[行書東海道 鞠子] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の丸子を描いた絵が、下記です。

鞠子(三重県立美術館)

『行書東海道』の丸子を描いた絵が、下記です。

鞠子(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

36.鞠子(まりこ) 秋晴(あきばれ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (34) 岡部

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 岡部]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 岡部 宇津之山(知足美術館)

-----------------------------

山中の光量が多くない道を歩いてきた後に、この場所に出た、左上の方に空が見え、フゥッと開放感が湧き上がってくる・・・前方に、なにか赤いものがある(樹木の花なのか、葉なのかまでは分からないが)、周囲の緑色との対比により、とても鮮やかに見える・・・「お疲れサマぁ」とでも言ってくれているような・・・と、いうように、この絵を見て感じます。

道と流れが緩やかにカーブして、家がある方へ伸びていき、右側の斜面にさえぎられて見えなくなる・・・風景写真撮影の教材に使えそうな絵だと思います。

この道、歩いてみたいなぁと思います。(体力と時間があれば)。

絵の中央に描かれている、こちらの方へ向かって歩いている人のサイズ(絵の上での)は、ちょっと大きすぎ、の感あり。この人の身長は2メートル、と思えばいいのかも。

左右の樹木の形と色も、すばらしいと思います。

この絵の中で、旅人らしき人は一人だけ(絵の下部の方に描かれている)、他は全て地元の人、という感じです。

東海道は、旅行と物流のためだけの道ではなく、沿道の地域の人々が様々な用途で利用する道でもあったのかも。

------------------

この絵の現場の位置に関して、 [本1]中の図版解説において、吉田漱氏は、[宇津谷峠]から[岡部宿]へ下る道の途中であろう、という趣旨の事を記しておられます。

吉田氏のこの解釈によれば、絵の下の方に描かれている二人は、[宇津谷峠]から[岡部宿]の方へ、すなわち、標高が高い場所から低い場所の方へ、移動している、ということになります。川の水は、絵の下の方から上の方へ流れている、ということになります。

絵の下の方に描かれている場所よりも、上の方に描かれている場所の方が、標高が高い、すなわち、この二人は坂を登っている、というようにも、感じられるのですが・・・。

通常、家屋は標高が低い方の場所にある、だから、絵の下の方に描かれている場所よりも、上の方に描かれている場所の方が、標高が低いのだ、すなわち、この二人は坂を下っているのだ、と考える方が、妥当なのでしょうね。

------------------

岡部に関して、[藤枝市 大旅籠柏屋]、[藤枝市 鼻取地蔵]、[藤枝市 蘿径記]、[藤枝市 蔦の細道]、[藤枝市 十団子]、[宇津 伊勢物語]、[藤枝市 西行 西住]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 岡部]、[行書東海道 岡部] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の岡部を描いた絵が、下記です。

岡部・宇津の山(三重県立美術館)

『行書東海道』の岡部を描いた絵が、下記です。

岡部(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

35.岡部(おかべ) 暮雪(ぼせつ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (33) 藤枝

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 藤枝]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 藤枝 人馬継立(知足美術館)

-----------------------------

この絵の中には、旅している人は一人も描かれていないようです。人間の交通ではなく、物流業務を描いた作品といえるでしょう。

人間、馬、荷物が三角形の辺上に配置されており、整った構図だと思います。

人間と馬のそれぞれが、様々な体勢、表情、動作を与えられて巧みに描き分けられており、とてもおもしろいです。人々の声が聞こえてくるような感じがします。

絵の中央に描かれている二人は、たった今、エイヤッと荷物を持ち上げたのでしょうか、それとも、荷物を今まさに地上に下ろそうとしているのでしょうか。(私には、持ち上げているように見えるのですが・・・)。

-----------------------------

この絵の現場の位置を現代の藤枝の地において特定することは、容易であるように思えて、実はそうでもないようです。

[継立 宿場 問屋場]でネット検索し、[継立]が[問屋場]で行われていた、ということを確認することができました。よって、この絵の現場は、[問屋場]付近である、ということになるでしょう。

しかし、ネットで調べてみて、藤枝宿には問屋場が2か所あった、という事が分かりました。

そのうちのどちらの問屋場なのか、この絵からは分かりません。

問題はもう一つあります。この絵の中には、藤枝宿であることを示すものが何も描かれていません。

「東海道五十三次之内 藤枝」とあるのだから、現場は藤枝宿の中のどこかなのだろう、というように考えることはできません。なぜならば、これまで見てきた各宿場の描写において、実際に現場を見ないで描いているのでは、と思えるような絵が、多くあるからです。(これに関する詳細については、これまで私が記述してきた内容を読んでいただくしかありません)。

よって、この絵の場合も、藤枝宿の現場を見ないで描かれているのかもしれません。他の宿場での継立のようすが描写されたものなのかもしれません。あるいは、想像のみによって描かれているのかもしれません。

-----------------------------

藤枝に関しては、[藤枝市 田中城 円郭式]、[藤枝市 志太郡衙跡]、[藤枝市 瀬戸の染飯]、[藤枝市 本願の松]、[藤枝市 酒井忠利]、[藤枝市 小川孫三 眼科]でネット検索して情報を得ることができました。

-----------------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 藤枝]、[行書東海道 藤枝] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の藤枝を描いた絵が、下記です。

藤枝(三重県立美術館)

『行書東海道』の藤枝を描いた絵が、下記です。

藤枝(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

34.藤枝(ふじえだ) 秋晴(あきばれ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

2017年1月 7日 (土)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (32) 島田

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 嶋田]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 嶋田 大井川駿岸(知足美術館)

------------------

この絵、なぜか、私の心にはヒビ(響)イテきません。

小さいサイズで描かれている個々の人の姿はおもしろいとは思うのですが。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の大井川付近の地において特定することは一見、容易であるようにして、実は容易ではないだろうと思います。

「嶋田 大井川駿岸」とあるのだから、この絵に描かれているのは、大井川の駿河国側にある島田の地、と考えてよいでしょう。

問題は、この絵を描いた人の足は、島田のどの場所にあったのか(どこに足を置いて、大井川を見ていたのか)、という事です。

大井川に近くて高い場所に足を置き、そこから眼下に大井川を見下ろして、描いている、という感じです。そのような場所は、どこにあるのでしょうか?

島田側の大井川沿岸には、[島田宿大井川川越遺跡]があるようです。

ネット地図で見てみると、その位置は、JR東海道線の大井川に架けられている橋梁の北方です。そこが、島田側の大井川渡河地点ということになります。

そのあたりでは、大井川は北西から南東へと流れています。

この絵の中では、大井川の流路は、右上-左下の方向に描かれています。

よって、JR東海道線の大井川に架けられている橋梁の東の方にあるどこかから大井川を見れば、この絵のように見えるでしょう。

その方角に、[大井川に近くて高い場所]はあるのでしょうか?

国土地理院の [地理院地図] と、ネット地図を使って調べてみたのですが、そのような場所はありません。

よって、この絵は、実際に現場を見ないで描かれているのではないか、と私には思われます。

------------------

島田に関して、[島田市 島田宿大井川川越遺跡]、[島田市 大井神社]、[島田市 島田大祭]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 島田]、[行書東海道  嶋田] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の島田を描いた絵が、下記です。

島田・大井川(三重県立美術館)

『行書東海道』の島田を描いた絵が、下記です。

嶋田(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

33.島田(しまだ) 大井川畔並木(おおいがわはんなみき)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (31) 金谷

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 金谷]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 金谷 大井川遠岸(知足美術館)

----------------------------------------------

川越業務に従事している人々が描かれています。

「遠岸」は、[大井川の遠江国側の岸]を意味しているようです。よって、[金谷 大井川遠岸]が意味するところは、下記のうちのどちらか、ということになるでしょう。

(1)いま、この絵を描いている私の足は遠江国側(金谷)の土地の上にあり、私の目は駿河国側(島田)の地に注目しています。絵の上の方に描かれているのは、駿河国側の地です。

(2)いま、この絵を描いている私の足は駿河国側(島田)の土地の上にあり、私の目は遠江国側(金谷)の地に注目しています。絵の上の方に描かれているのは、遠江国側の地です。

もしも(1)であるとするならば、この絵の中に描かれているのは、[駿河国側(島田)の地]と[大井川の水面]だけ、ということになり、[大井川遠岸]はこの絵の中のどこにも描かれていない、ということになります。これではあまりにも不自然というしかないでしょう。

よって、(2)の方が妥当な解釈といえるでしょう。

-------------------

すばらしい構図だと思います。絵の上の方の約3分の1が遠景に割り当てられ、下の方の約3分の2が川と岸に割り当てられています。手前の流れを斜めに描き、その上に更にもう1本、細い流れが描かれているのですが、これにより、絵に微妙な味わいが出ていると思います。

人々は小さいサイズで描かれていますが、一人一人見ていくと、とてもおもしろいです。

-------------------

この絵の現場の位置を、現代の大井川付近の地において特定することは一見、容易であるようにして、実は容易ではないだろうと思います。

問題は、この絵を描いた人の足は、島田のどの場所にあったのか(どこに足を置いて、大井川を見ていたのか)、という事です。

島田側の大井川沿岸には、[島田宿大井川川越遺跡]があるようです。

ネット地図で見てみると、その位置は、JR東海道線の大井川に架けられている橋梁の北方です。そこが、島田側の大井川渡河地点ということになります。よって、金谷宿側の渡河地点はその南西方向の大井川対岸のあたりということに、なるのでしょう。

すなわち、JR東海道本線の橋梁よりも少し北西の位置に、この絵に描かれている江戸時代の渡河地点(川越えの)があった、ということになります。

よって、島田市内で、この絵のように大井川と渡河地点が見える場所は、JR東海道本線の橋梁の北方のどこか、ということになるでしょう。[島田樟誠高校]のあたりでしょうか?

国土地理院の [地理院地図] と、ネット地図を使って調べてみて、[島田樟誠高校]の東側に[伊太谷川]があり、その西側と東側に標高が高い場所があることが分かりました。もしかしたら、この場所から見下ろしたら、大井川はこの絵のように見えるのかもしれません。

しかし、問題は、対岸(金谷側)の山です。

[本1]中の図版解説において、吉田漱氏は以下のような趣旨の事を記しておられます。

 絵に描かれているような高い山は、この位置には現実には存在しない。この山は、図の構成上、高くそびえる山として、描かれたのである。

図の構成上・・・うーん・・・。そのように考えることも可能でしょう。でも、実際に現場を見ることなく、想像だけで描いたから、このようになったのでは、と考えることも可能でしょう。

------------------

金谷に関して、[島田市 東海道 金谷]、[牧之原台地 開発]、[牧之原台地 開拓 茶]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 金谷]、[行書東海道 金谷] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の金谷を描いた絵が、下記です。

金谷・金谷坂 かなや駅 大井川(三重県立美術館)

『行書東海道』の金谷を描いた絵が、下記です。

金谷(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

32.金谷(かなや) 大井川(おおいがわ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

富士山も描かれているようです。

広重 東海道五十三次 細部に注目 (30) 日坂

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 日坂]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 日坂 佐夜ノ中山(知足美術館)

------------------

この絵の構図は、とてもおもしろいと思います。

絵の構図を構成している重要な要素は、下記の3本の曲線だろうと思います。

(1)街道の右側の縁を表わす曲線
(2)街道の左側の縁を表わす曲線
(3)絵の上端から左下へ伸びる曲線(山と空の境界を表す曲線)

空に割り当てられているスペース(絵の左上)が広いので、山中の峠道の風景でありながらも、開放感を感じます。

人々が小さいサイズで描かれており、街道の形が強くデフォルメされているので、この坂道の傾斜が急であることを感じます。巧みな表現だと思います。

------------------

この絵の現場の位置をネットで調べてみました。

小夜の中山峠の付近の旧東海道の路傍に、[夜泣石跡]の碑というものがあるようです。おそらく、そこなのでしょう。

------------------

日坂に関しては、

[掛川市 日坂宿]、[掛川市 小夜の中山]、[日坂宿 本陣跡]、[日坂宿 旅籠]、[日坂宿 片岡清兵衛]、[日坂宿 涼み松]、[日坂 馬頭観音]、[日坂 鎧塚]、
[掛川市 久延寺]、[久延寺 山内一豊 茶亭]、
[西行 小夜の中山 奥州]、[菊川 中納言宗行 日野俊基]、

でネット検索して、様々な情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 日阪]、[行書東海道 日阪] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の日坂を描いた絵が、下記です。

日阪・夜啼石 無間山 小夜の中山(三重県立美術館)

『行書東海道』の日坂を描いた絵が、下記です。

日阪(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

31.日坂(にっさか) 月夜(つきよ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (29) 掛川

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 掛川]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 掛川 秋葉山遠望(知足美術館)

------------------

この絵は、私の心にはヒビ(響)イテきません。違和感と[?]が強すぎるからでしょう。

橋の上を行く笠をかぶっている男性と女性はなぜ、このような姿勢になっているのか? 以下の二つの説があるようです。

(1)向こうから来る僧侶に対して頭を下げている
(2)強風に耐えるため、このような姿勢になっている

そのいずれに対しても、私としては[?]です。

(1)男性の頭が向いている方向は、僧侶の方ではなく、橋の左側の方であるように思われます。女性の頭が向いている方向も、僧侶のいる位置から左側にずれていると思われます。

(2)強風に耐えるために、このような姿勢になっているのだとすれば、相当強い風が吹いているのだろうと思われます。しかし、僧侶の服は、風に吹かれているような感じではありません。男性と女性の姿勢、凧とその糸の位置関係から見て、風は、絵の中では左側から右側へと吹いているはずですが、絵の右側中央に描かれている植物は、その逆の方向になびいているようです。

最大の[?]は、橋の上にいる子供です。

2個の凧のうち、右側の凧は、つい先ほどまでこの子が操っていたのであるが、凧を操る糸を離してしまったのだ、とする説があります。

私にはとても、そのようには感じられません。この子は橋の上でダンスをしている、としか思えません。

このように、絵を構成する主要な要素が、互いにマッチしてないように感じます。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の掛川の地において特定してみようと思い、いろいろと調べてみたのですが、不可解な事が出てきて、ギブアップしました。

[秋葉山遠望]というのだから、この絵の中のどこかに、[秋葉山]が描かれているのでしょう。絵の右上に描かれている山が、おそらくそれでしょう。

[秋葉山]には、[秋葉山本宮秋葉神社]という神社があり、その場所は、[浜松市天竜区春野町領家]という所なのだそうです。

この地名を参考にしながら、国土地理院の [地理院地図] を使用して、[秋葉山]の位置を調べました。

その結果、

 [秋葉山] は [掛川市] の 北北西 の方向にある
 [掛川市] は [秋葉山] の 南南東 の方向にある

ということが分かりました。

次に問題となるのは、

 掛川市内の旧東海道ぞいのどこかの場所から、この[秋葉山]を「遠望」することができるのか?

 「遠望」することができるとしても、そこから見る山々は、この絵にあるような形で見えるのか?

ということになるでしょう。

[地理院地図] を使って調べてみました。

秋葉山の南南東方向(掛川市がある方向)には、複数の山があるようです。

JR掛川駅の北北西方向(秋葉山がある方向)にも、複数の山があるようです。(例えば、天竜浜名湖鉄道の原田駅付近に)

しかし、この絵の中にはそれらの山らしきものは描かれていません。

------------------

掛川に関して、[掛川市 掛川城]、[掛川市 山内一豊]、[掛川市 塩の道]、[掛川市 ヘンミー]、[掛川市 平将門]、[掛川市 遠江塚]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 懸川]、[行書東海道 かけ川] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の掛川を描いた絵が、下記です。

懸川・秋葉山別道(三重県立美術館)

『行書東海道』の掛川を描いた絵が、下記です。

かけ川(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

30.掛川(かけがわ) 晩春(ばんしゅん)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (28) 袋井

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 袋井]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 袋井 出茶屋ノ図(知足美術館)

------------------

のどかな感じで、いいなぁと思います。絵の右端に描かれている立札の上に鳥をとまらせたのは、すばらしい発想だなぁと思います。

遠くの方に小さいサイズで人と動物が描かれているので、空間の広がりを感じます。

絵の中に、おもしろい物体がいろいろと描かれていると思います。江戸時代の人々にとっては、ありふれた、別にどうという事もない物なのでしょうけど。左の方から順に挙げていくと、

 茶屋の中にいる男性が腰にさしている棒状の物体。 [本1]中の吉田漱氏による図版解説では、「道中差し」と記されています。
 茶屋の中にある、何だかよくわからない物体(男性の頭の左上に描かれている)。
 樹木に結ばれている大きなやかん。
 樹木に立てかけられている棒。これはおそらく、駕籠をかつぐための棒でしょう。
 駕籠。サイズが小さすぎるのでは、と思います。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の袋井の地において特定するのは、不可能だろうと思います。旧東海道ぞいのどこかではあるのだろうけど、手がかりになるような物体が絵の中には無いようですから。

[本1]中の吉田漱氏による図版解説には、「絵は街道によくあった出茶屋」とあります。

このような風景は、袋井だけではなく、旧東海道ぞいの様々な場所にあったのかもしれません。

------------------

袋井に関して、[袋井市 袋井宿]、[袋井市 久野城址]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 袋井]、[行書東海道 袋井] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の袋井を描いた絵が、下記です。

袋井・名物遠川だこ(三重県立美術館)

『行書東海道』の袋井を描いた絵が、下記です。

袋井(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

29.袋井(ふくろい) 風雨(ふうう)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

2017年1月 6日 (金)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (27) 見附

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 見附]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 見附 天竜川図(知足美術館)

------------------

「スッキリ」という言葉を連想するような絵だなと、思います。

絵の中央には、[砂だけがある場所]が描かれています。川の中洲なのでしょう。

この部分が、絵の中でとても広々としたスペースを割り当てられている、これが、[スッキリ感]を感じる第一の原因だろうと思います。

個々の船と人のサイズ(絵の中での)の大小がうまく調節されている、これが、[スッキリ感]を感じる第二の原因だろうと思います。

このサイズの調整が行われていることによって、強い遠近感も感じます。

中央に描かれている棒が画面を左右に分割しているのですが、真ん中でもなし、右寄りすぎでもなしの、とても良い位置に設定されていると思います。

中央に描かれている二人が、なにかとても、カッコイイ感じ。[プロフェッショナルの背中]とは、このようなものなのでしょうか。

------------------

この絵に描かれている現場の位置を特定してみました。

[旧東海道 地図 見附] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て、天竜川の渡しがあった場所を調べてみました。

国道1号線の天竜川にかかる橋梁の少し北側にあったようです。

------------------

見付に関して、[磐田市 池田の渡し歴史風景館]、[磐田市 旧東海道 松並木]、[磐田市 姫街道]、[磐田市 一言坂の戦跡]、[磐田市 旧見付学校]、[磐田市 遠江国分寺跡]、[磐田市 医王寺]、[磐田市 千手の前]、[磐田市 桶ケ谷沼]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 見附]、[行書東海道 見附] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の見附を描いた絵が、下記です。

見附・天竜川渡舟(三重県立美術館)

『行書東海道』の見附を描いた絵が、下記です。

見附(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

28.見附(みつけ) 三ヶ野坂(みかのさか)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (26) 浜松

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 濱松]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 濱松 冬枯ノ図(知足美術館)

------------------

聞こえてくるのは、たき火が燃える音だけ、という感じがします。

人々がいるその向こうに広がっているのは、まさに「冬枯れ」の風景、その彼方には城。

安定感が感じられる絵だと思います。全体が上半分と下半分に区分され、人間が全て、下半分の方に置かれているからでしょうか。

そして、上半分の世界と下半分の世界を、中央の樹木がズーンッと、煙がフワァァッと、縦方向に貫いている。すばらしい構図だと思います。

描かれている7人の人(注)の、それぞれの様がとてもおもしろく感じられます。

「冬枯ノ図」・・・でも、[荒涼]という言葉を、この絵からは連想しません。なにか、ほのかなぬくもり、温かみというようなものを感じます。人間が集まった場所には、、[なにか、あたたかいモノ](物理的な熱ではない、言語では表現不可能な)が発生するのかもしれません。

(注)樹木の向こうに1人います(顔と手だけが描かれています)。最も右側に描かれている女性は、子供を背負っています。

------------------

こんなに樹木に近い場所で、たき火なんかして、いいのかなぁ、と思います。樹木に火が燃え移ってしまうかも、なんてことは考えないのでしょうか?

------------------

この絵の現場の位置を、現代の浜松の地において特定しようと思い、いろいろと調べてみましたが、特定することができませんでした。

まず問題となるのは、この絵の中に旧東海道は描かれているのかどうか、という事です。

この絵の中で道らしきものといえば、絵の下部の方にある左右に伸びる曲線くらいしかないのでは、と思われます。

かりにこれが、旧東海道を示すものであるとすれば、その道はこの絵の中では、水平(左右の)方向に伸びている、ということになるでしょう。

絵の中央に描かれている城らしき建物は、[浜松城]のそれでしょう。よって、この街道を行く人が城の方を見ようと思えば、左側を向くか、右側を向くしかないはず(注)。進んでいく方向、あるいは、背後の方向には浜松城はありません。

(注)絵の左側から右側へ行く人は、顔を左に向けると、城が見えるでしょう。絵の右側から左側へ行く人は、顔を右に向けると、城が見えるでしょう。

[旧東海道 地図 浜松] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得ました。

そして、浜松城と旧東海道とがこのような位置関係になるような場所を探してみたのですが、[東若林町]付近(静岡銀行 可美支店の東のあたり)くらいしか見当たりませんでした。(その付近から城を見ても、旧街道と城は、この絵にあるような位置関係にはなってはくれないと思われます、城は絵に描かれているよりも更に右の方に見えると思われます。)

[本1]中の図版解説において、吉田漱氏は、絵の右側の方に描かれている数本の松に注目されています。松の側には立札も描かれています。

吉田氏は、これらの松は、[ざざんざまつ(颯々松)]であろうと記しておられます。

ネットを使って調べ、[ざざんざの松]が[野口町]にあったということが分かりました。

ネット地図で調べ、[野口町]の場所が分かりました。([野口町公会堂]があるようです。)

[野口町]の東方の[船越町]のあたりから浜松城があった方角を見れば、[ざざんざの松があった場所]と、[浜松城があった場所]が、この絵のような位置におさまってくれるのかもしれませんが、そこは旧東海道から離れた場所になってしまいます。

------------------

浜松に関して、[浜松市 天竜川 木橋跡]、[浜松市 浜松城]、[浜松市 三方ヶ原の合戦]、[浜松市 金原明善]、[浜松市 天浜線]、[浜松市 まるがた通路]、[浜松市 伊場遺跡]、[浜松市 蜆塚遺跡]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 はま松]、[行書東海道 浜松] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の浜松を描いた絵が、下記です。

はま松(三重県立美術館)

『行書東海道』の浜松を描いた絵が、下記です。

浜松(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

27.濱松(はままつ) 鎧掛松(よろいかけまつ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (25) 舞阪

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 舞坂]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 舞坂 今切真景(知足美術館)

------------------

棒状のもの(絵の下端左側)、植物(絵の下部右側)、船の帆と思われるもの(絵の右側)、山々など、様々な対象が絵の中に描きこまれているのですが、それらが互いに調整・調和される事無く、絵の中に投入されているような感じがします。その結果、まとまりのない感じの絵になってしまっていると思います。

それぞれの物体の(絵の中での)サイズに関しても、互いの調整がうまく行われていないように感じます。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の浜名湖沿岸の地において特定することは不可能であると思われます。このような景観がある場所は、存在しないと考えます。

絵の左中央に描かれているのは海、すなわち太平洋でしょう、水平線の向こうには空しかありませんから。これがもしも浜名湖の水面であるのだとしたら、絵の奥の方には山が描かれているはずです。

よって、この絵を見る我々の目は、太平洋がある方、すなわち、南の方を見ていることになります。

よって、絵の中央から右の方に連なって描かれている山々は、浜名湖の西岸にあることになります。その山々の一番右側の位置に、白い円錐形の山が描かれています。絵の中での位置関係から見て、この白い山も浜名湖の西側にあることになるでしょう。

で、この白い山の名前なんですが・・・[富士山]以外には考えられないでしょう。

でも、富士山は、浜名湖の東の方にあるのでは?

この絵は、実際に現場を見ないで描かれているのではないか、と私には思われます。

浜名湖の沿岸には富士山が見える場所があるのだそうです。[静岡県 浜名湖 富士山 見える]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

------------------

舞阪に関しては、[浜松市 舞阪郷土資料館]、[浜松市 舞阪 北雁木]、[浜松市 舞坂宿脇本陣]、[浜松市 舞阪 旧東海道松並木]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 舞坂]、[行書東海道 まひ坂] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の舞阪を描いた絵が、下記です。

舞坂(三重県立美術館)

『行書東海道』の舞阪を描いた絵が、下記です。

まひ坂(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

26.舞坂(まいさか) 辧天島(べんてんじま)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (24) 新居

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 荒井]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 荒井 渡舟ノ図(知足美術館)

絵の中には[荒井]とありますが、現在は[新居](湖西市)という地名になっているようです。

------------------

すばらしい構図だと思います。

左下に船を配置し、そこから右上方向へ船を連ねてラインを作り、対岸の山でこのラインを終結させる。そのラインに交差させる形で、水面の白い部分を配置させている。巧みな配置だと思います。

残念なのが、左下に描かれている船の上で棒を持っている二人の描き方。動きが感じられず、人形が立っているような感じがします。

この船(と、それに乗っている人々)と中央に描かれている船が更に小さいサイズで描かれていたならば、もっと私の心にヒビ(響)イテくるものがあったのでは、と思います。

------------------

この絵の中に、疑問を感じる事が2つあります。

(1)2個の船

左側の船を[船A]とし、中央の船を[船B]とします。

[船A]は風力ではなく人力だけで、棒だけを使って動かしていているようです。水底に棒の先が届かないと、この船を動かすことはできないでしょう。よって、[船A]がいまある地点の水深は、棒の先が水底に届く範囲内、ということになるでしょう。

[船B]は、私の目には、大型船であるように見えます。

[船A]の進路と[船B]の進路を(想像で)描いてみたら、それらは一本の直線になることはなく、平行線になるのでしょう。問題は、この2本の直線の間の距離です。絵で見る感じでは、その距離はさほど大きくないように感じられます。

上記に述べた事をまとめると、下記のようになります。

 棒を使って動かすタイプの船である[船A]の近くを、大型船と思える[船B]が航行している

このような事は、実際にありうる事なのでしょうか?

水底に棒が届く程度の水深である場所の近くを、大型船が航行できるのだろうか、ということです。大型船は、ある程度の水深がある場所でないと、航行できないでしょう。

当時の絵画では、対象物の遠近を絵の上に忠実に表現する事に関しては、あまり気にしてはいなかった、だから、[船B]は、この絵で見る感じよりも、もっと遠くの、水深の深い所を進んでいるのだ、ということなのかもしれませんが。

(2)関所の位置

『東海道を歩く』 本多隆成氏著 吉川弘文館

に、新居の関所の移転について書かれています。それによれば、関所は2度、下記のように移転したのだそうです。

 1度目の移転は、1699年 ([大元屋敷跡]から[中屋敷跡]へ移転)
 2度目の移転は、1707年 ([中屋敷跡]から現在地へ移転)

以降、関所があった場所を以下のように表現することにします。

 [関所所在地A]:江戸時代初期に関所があった場所
 [関所所在地B]:1度目の移転の後に関所があった場所
 [関所所在地C]:2度目の移転の後に関所があった場所

[本1]中の図版解説において、吉田漱氏は以下のように記されています。

 「いまも関所の建物(安政二年・一八五六)が鷲津へぬける道の傍にある。しかし最初はこの絵のように湖につき出た場所で、その後の地震や津波で次第に奥にさがった。」

(この文の)内容から見て、文中の「鷲津へぬける道の傍」が[関所所在地C]であり、「湖につき出た場所」が[関所所在地A]を意味しているのでしょう。

だとしたら・・・。

宝永堂版の東海道五十三次が出版されたのは、1833年~1834年です。この時代には、関所は[関所所在地C]にあるはずです。よって、この絵を描いた人が現場を実際に見て描いているのであれば、[関所所在地A]の場所に、関所を描くはずがありません。

しかし、この絵においては、「湖につき出た場所」([関所所在地A])に、関所が描かれているのです。

以上、(1)(2)の疑問点に関して考えてみました。その結果、私が思う事は、

 広重画伯は、実際に現場を見ないでこの絵を描いている可能性が高い

です。

------------------

浜名湖に関して、極めて興味深い事が書かれている本があります。

『中世の東海道をゆく』 榎原雅治氏著 中公新書

 第三章 湖畔にて-橋本 浜名湖は沈降したか

において、著者は、浜名湖に関するある説に対して、否定的見解を述べています。

その説とは、

 1498年の地震(明応地震)が起こるまでは、浜名湖は太平洋とは直接にはつながっておらず、淡水湖であった。この地震によって、浜名湖は1メートルほど沈降し、満潮時には海水が遡上する汽水湖となった。

と、いうような内容のものなのだそうです。

著者は、中世に記された紀行文等の内容をもとに、以下のような趣旨の事を述べておられます。

 中世には、浜名湖と太平洋との間に、幅の細い入り江が存在しており、[浜名の橋]はその入り江の上に架けられた橋であった。満潮時には、その入り江の中を海水が遡上していた。すなわち、この時代にすでに、浜名湖は汽水湖であった。

当時の潮位の変化までをも、著者は推計して、この本の中にグラフ表示しています。

著者によれば、潮位の予測値は、複数の機関から公開されており、インターネットによって容易に得ることができるのだそうです。例えば、海上保安庁作成のソフトウェア「潮汐推算」を使えば、このようなデータを得ることができるのだそうです。

1985・86年に行われた湖底のボーリング調査による堆積層の分析結果からの、池谷仙之氏の考察も、著者のこの主張を裏付ける内容になっているのだそうです。

この本の中に書かれている内容は、大きな説得力を持っている、というのが私の感想です。

この問題に関しては、歴史学、古典文学、地質学、海洋学、地震学などの広範囲の知を結集しての本格的な調査・研究が必要であろうと思います。

[浜名湖 明応地震 浜名川]、[浜名湖 湖底 堆積物]、[浜名湖 ボーリング調査]、[浜名湖 湖底 ボーリング]等でネット検索して、様々な情報を得ることができました。

------------------

湖西市には、[源頼朝関係遺品]、[諏訪神社ケヤキ]、[東福寺のマキ]、[堂頭の松]があるようです。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 新居]、[行書東海道 新居] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の新居を描いた絵が、下記です。

荒井(三重県立美術館)

『行書東海道』の新居を描いた絵が、下記です。

荒井(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

25.新井(あらい) 浜名湖(はまなこ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (23) 白須賀

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 白須賀]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 白須賀 汐見阪図(知足美術館)

------------------

この絵、なぜか、私の心にはヒビイテきません。

 U字形の地形があり、その彼方に海が見えている、ということなんだなぁ

で、私の心の中では終わってしまいます。

------------------

この絵に描かれている現場を、現代の白須賀の地において特定できるのどうか・・・調べてみました。

[旧東海道 地図 白須賀] でネット検索して、当時の街道のルートが分かるような情報を得ることができました。それと、ネット地図とを見比べながら、旧街道ぞいに、たどってみました。

(1)[湖西市 元町東町公民館]という施設があるようです。

 そこから西へ進み、

(2)蔵法寺の南側の場所に至りました。

 そこから、蔵法寺の南側の道を更に西へ進み、

(3)国道42号と交差する地点の東側にある場所に至りました。(ここを[地点A]とします)

 そこから北北西方向へ、進む方向を変更し、

(4)蔵法寺の前を通る道とこの道とが交差する地点に至りました。(ここを[地点B]とします)

 そこから、道に沿ってS字形にカーブしながら、北西方向へ進み、

(5)カーブの終端地点に至りました。(ここを[地点C]とします)

 そこから更に、北西方向に進み、

(6)[おんやど白須賀]に至りました。

 そこから更に北西方向にたどり、

(7)[湖西市立 白須賀中学校]付近に至りました。(ここを[地点D]とします)

この絵の中には、海が描かれています。よって、この絵が描かれた現場が現地に存在するとしたら、[坂の下の方のかなたに海がみえる場所]ということになるでしょう。よって、上記の[地点A]と[地点D]との間のどこか、ということになるのではないかと思われます。そこから海がある方向を見れば、この絵にあるようなU字形の地形が眼前に現れるのかもしれません。

絵の中に描かれている旧東海道にも注目してみました。(街道を行く人々の)笠の位置を順に見ていけばよいのです。

この絵の中での街道(旧東海道)は、

 絵の右端中央から左下方向へ、
 絵の下端に達した後は、左上方向へ
 その後、左側の斜面に隠れて見えなくなっている

と、いうような感じになっています。

斜面に隠れて見えなくなったその先は? 絵の奥の方、すなわち、海がある方向へ街道は続いていっているよ、という事を(この絵では)表現しているように思われます。

[地点B] と[地点C]の間の旧東海道の区間を[旧街道区間・BーC]と呼ぶことにしましょう。

この[旧街道区間・BーC]の周辺のどこかの場所から、[旧街道区間・BーC]の旧東海道を眺めたら、この絵のような感じに見えるのかもしれません。

この絵を描いている人の足が、旧街道の上にあるのか、それとも、旧街道とは離れたどこか別の場所にあるのか、これを判別するのは、この絵だけからでは難しいと思います。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 白須賀]、[行書東海道 白須賀] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の白須賀を描いた絵が、下記です。

白須賀・汐見坂(三重県立美術館)

『行書東海道』の白須賀を描いた絵が、下記です。

白須賀(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

24.白須賀(しらすか) 元白須賀ノ浜(もとしらすかのはま)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

雲をバックに、空を泳ぐ凧。おおらかな気持ちになる絵。凧を操っている子供たちの姿もいい感じ。もっと大きなサイズで見たいです。

2017年1月 5日 (木)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (22) 二川

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 二川]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 二川 猿ヶ馬場(知足美術館)

------------------

この絵の登場人物は4人。左から順に、A、B、C、Dとします。

この絵、なにか、映画の最初のシーンのように感じます。

 一人の旅人(A)が、街道ぞいの店の前にいる。
 右の方から、3人の瞽女(ごぜ)(B、C、D)がやってくる。
 そして、3人は、店の前へ行く。
 Aが彼女たちに声をかける。
 Aと彼女たちとの会話が進んでいき・・・やがて、Cが、自らの体験を語り始める・・・。

このように、ストーリー性に富んだ絵であるように感じます。

シンプルな背景なので、上と下の曲線がとても目立ち、全体の構図を明確に決定していると思います。2本の曲線が左側に向かって収束していくその先に、店が配置されています。

4本の樹木の配置場所(店の付近と、背後の原の中)も、優れていて、全体的にすばらしい構図だと思います。

広重画伯の、3人の女性に注がれる(包み込む)優しいまなざし(心)を感じます。背景と全体の色調から、そのように感じるのかもしれません。

絵の左端には店が描かれているのですが、店の一部しか描かれていません。店の主人の姿も描かれていません。

この絵の左端に、5人目の人(店の主人)を描き加えると、絵を見る人の注目が絵の左側(店)の方に集中してしまい、3人の瞽女への注目度が小さくなってしまう、それではだめだ、と、広重画伯は考えた、そこで、絵の中に店の一部だけと、客のAだけを入れるようにした、ということなのかもなぁ、と想像します。

店の一部だけを描き、残りの部分は描かない、店のオーナーの姿も描かない。この絵を見る人の大脳は、自動的に、それら、店の残りの部分と店のオーナーの姿を、想像でもって補なってくれるであろう・・・そのような事までをも、もしかしたら、広重画伯は考えていたのかもしれません。

このような構図設定の手法(被写体の一部だけを画の中に入れ、その残りの部分を、見る人の想像に委ねる)は、現代の写真撮影においても使われているのかもしれません。

------------------

[瞽女(ごぜ)]の中には、「手引き」と呼ばれる人もいたようです。[瞽女 手引き]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

------------------

[猿ヶ馬場]は、豊橋市二川地区ではなく、静岡県湖西市の域内にあるようです。

湖西市には、[境宿公会堂]という施設があるようで、猿ヶ馬場は、その付近にあるようです。ネット地図を使用して、[静岡県 湖西市 境宿公会堂]で検索すると、その位置が分かると思います。

[本1]中の図版解説において、吉田漱氏は以下のように記されています。

 「『新板東海道分間絵図』(宝暦二年・一七五二)で、このあたりをみると、白須賀と二川の宿場の間に、「ばけ物塚といふ、是より田原山みゆる」「此の間、両方ともに松並木見事也 ふた川迄家なし」と注を入れて、さびしい場所で、いまもこのあたりは平らな台地の一本道、人家もすくない。」

 「猿が馬場は境川に近く、「左右原山にして小松多し」と『東海道名所図会』にあるごとく、広重もここでは広々とした小松の原を描く。」

 「なおこの場所は境宿の入口であろう。」

国土地理院の [地理院地図] を使用して、、この付近の地形を調べてみましたが、この絵の背景に描かれているいるような地形が存在するのかどうかは、分かりませんでした。

絵の上方に描かれている曲線(山か丘の稜線を示すもの?)は、絵の構図を整えるために、現実にはないものを描きこんだ、という可能性もあります。

------------------

二川に関して、[豊橋市 二川宿]、[豊橋市 二川宿本陣資料館]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 二川]、[行書東海道 二川] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の二川を描いた絵が、下記です。

二川・猿が馬場(三重県立美術館)

『行書東海道』の二川を描いた絵が、下記です。

二川(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

23.二川(ふたがわ) 岩屋観音(いわやかんのん)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (21) 吉田

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 吉田]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 吉田 豊川橋(知足美術館)

------------------

[吉田]という地名を見て、「いったい、どこ?」と思われた方の中にも、[豊橋]という地名ならば聞いたことがある、という方もおられるのではないでしょうか。

[吉田 豊川橋]と絵の中にあるので、この絵に描かれている城は、吉田城ということになるでしょう。

江戸時代の豊川に架けられていた橋は、豊橋市・船町付近にあったようです。

-----------------------------

この絵の主役は、絵の右側に描かれている3人の職人であろうと思います。最も右側に描かれている人を[人物A]、その左側に描かれている人を[人物B]、その左側に描かれている(最も高い位置に描かれている)人を[人物C]とします。

[人物A]は、左官職人でしょう。右手に道具を持って、壁の修理を行っているようです。現代においても、この作業に従事している人は、こんな感じでやっておられるのかもしれません。

頭部を露出せずに、笠をかぶって作業をしているようです。もしかしたら、熱中症予防のためでしょうか。

[人物B]も何らかの作業をしているようですが、その作業内容はよく分かりません。

更に分からないのが、[人物C]。仕事をしないで(中断して?)、いったいナニをしている、この人は?

この人、3人のうちで、(この絵を見ている)私の位置に最も近い場所にいるはずです。([人物C]の足が置かれている場所から垂直方向に下へ見ていくと、3人の位置関係が分かると思います。)

なのに、この人、すなわち[人物C]は他の2人よりも小さいサイズで描かれていて、強い違和感ありです。

違和感といえば、城にも。とても貧弱そうに見えます。

[本1]中の図版解説において、吉田漱氏は以下のように記されています。

 「一般に浮世絵師が描くお城は不正確で、高さを強調しがちである。江戸の町家、邸ならかなり写生的にかいた広重も、城だけは概念的である。当時は城をこまかく描写することはもちろん、近寄ることもうるさかった事情も関係あるかもしれない。」

そうだとしても、この城はあまりにも貧弱。[人物A]、[人物B]と、その(描かれている)サイズを比べてみるに、この城の白壁の向こうにある部屋は、とても狭そうな感じがします。

川の中には船が。風力ではなく、人力で動いているようです。手前の方の船の最後尾にいる人は、櫓と舵の双方を一人で操作しているのでしょうか。橋の位置とよくマッチする位置に描かれていると思います。

川の描き方が興味深いです。中央部の明度は高く、その両側の部分の明度は低く設定されています。

対岸の空には、灰色の線(水平方向にのびる)が配置されていますが、これはいったい何を表現しているのでしょう? 雲でしょうか?

対岸にある家々の屋根は褐色で描かれており、その周囲の無彩色との対比で、とてもいい感じです。

このように、橋、船、川、対岸の家々、遠方の山は美しく描かれているだけに、絵の右側に配置された城と職人たちとをもう少し、違和感が無いように描いてくれていたならば、もっといい感じの絵になっていただろうなぁ、と思います。

この絵から[人物C]だけが消去されたようなイメージを想像してみると、その方がいいような気がします。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の豊橋の地において特定することは一見、容易であるようにして、実は容易ではないだろうと思います。

吉田城があったのは、今橋町の豊橋公園の中であり、「豊川橋」があったのは、上記にも記したように、豊橋市・船町付近です。よって、城跡の南方の地点から見ると、城と橋とがこの絵に描かれているような位置にくるかもしれません。

問題は、この絵を描いている人がいる位置です。

城とほぼ同程度の高度にある位置、なおかつ、その位置は、城の建物から近い、そのような地点から城を見ているような描き方がされています。

そのような場所が、城周辺にあるのでしょうか?

城の外にそのような場所がある事は、考えにくいでしょう。そのような場所に城を作る事は、軍事面から考えて、ありえないと思われるからです。かりに城の近くにそのような場所があるということになれば、城にとっては脅威となります。そこから鉄砲や矢を城に向かって放つ事が可能になるのですから。

念のため、国土地理院の [地理院地図] を使用して、城の周辺を調べてみました。城跡の南方に、[向山町]という地域があるようです。

この地域中の数か所の標高を、上記サイトを使って調べました。それらの中で最も高い標高値を示した地点の標高は、22.0m でした。

豊橋公園内の城跡の表示がある場所の標高値は、12.0m でした。

よって、(この絵が描かれた当時に)[向山町]の最高地点から吉田城を眺めれば、この絵のように見えたかもしれません。ただし、その際には望遠鏡の使用が必要となります。ここは[城の建物から近い]とはいえないような場所ですから。

ネット地図を使って、[向山町]と[豊橋公園内の城跡の表示がある場所]との間の距離を調べてみたら、約2km ありました。

上記と同様の理由により、城の敷地外の、城の近くの場所に、城の建物と同程度の高さを持つような建造物は存在しなかったでしょう。

となると、この絵を描いている人の位置としては、城の敷地の内部、としか考える他ないでしょう。

となると、広重画伯が城の敷地の内部に入れたか、ということが問題となってきます。

当時の城は今とは違い、[観光する場所]ではないですから、誰でも自由に出入りできるような場所ではなかったでしょう。城の内部に入り、スケッチなんかしていたら、不審者扱いされ、尋問・捕縛の対象となってしまうのではないでしょうか。

橋よりも相当高い場所に、この城全体の敷地があるように描かれている、これも問題です。

国土地理院の [地理院地図] を使用して、標高を調べてみたら、以下のようになりました。

豊橋市・船町付近([豊橋]のある所) 標高 7.6m

豊橋公園内の城跡の表示がある箇所 標高 12.0m

この程度の標高差だと、この絵のように、川をはるか下に見下ろす、という感じにはならないでしょう。

この絵の中に描かれている川の形状も問題です。

ネット地図で見ると、現代においては、豊川の流路はこの場所で、急角度の曲線になっているようです。

[吉田藩士屋敷図]という古地図の画像がネット上にありました。

この地図の中でも、豊川の流路は曲線状に描かれていますから、江戸時代から現代までの間に、この場所での豊川の流路の大きな変化は無かったと考えられます。

しかし、絵の中では、川は直線状に描かれています。

上記に述べた様々な事を考えてみると、この絵は、実際に現場を見ないで描かれているのではないか、と私には思われます。

------------------

豊橋に関して、[東海道 吉田宿]、[豊橋 姫街道]、[豊橋 嵩山浅間神社]、[豊橋 嵩山蛇穴]、[豊橋 東赤沢海岸]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 吉田]、[行書東海道 吉田] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の吉田を描いた絵が、下記です。

吉田・六月十五日 天王祭(三重県立美術館)

『行書東海道』の吉田を描いた絵が、下記です。

吉田(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

22.豊橋(とよはし) 豊橋(とよはし))(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

詩情あふれる橋の絵だと思います。

広重 東海道五十三次 細部に注目 (20) 御油

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 御油]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 御油 旅人留女(知足美術館)

------------------

この絵に描かれているような行為が、この御油の地において、過去に実際に行われていたのでしょうか?

広重画伯がこのように絵に描いているのだから、実際にそのような事が行われていたのであろう、というように考えることはできません。なぜならば、これまで見てきた各宿場の描写において、実際に現場を見ないで描いているのでは、とも思えるような絵が、多くあるからです。(これに関する詳細については、これまで私が記述してきた内容を読んでいただくしかありません)。

この絵を見て、京都市のある条例を連想しました。[京都市客引き行為等の禁止等に関する条例]というものです。

この時代においても、[客引き行為]に対しての、何らかの規制がかけられている可能性はありうると思われます。何の規制もされないままでは、その行為はエスカレートの一途をたどるでしょう。

幕府や(その宿場の)所轄藩からの規制、あるいは、宿場の人々による自主的な規制があったかもしれません。

その規制はもしかしたら、(これは単なる私の想像でしかありませんが)

 「通りを行く人(客になってくれるかもしれない)に対して、勧誘の言葉を投げかけることはOKである。」

 「通りを行く人の身体に対しては、その腕または手に触れるのはOKだが、それ以外の部位に触れてはならない。相手がそれ(客引き行為)に対して抵抗の意志を示したならば、そく、相手の身体から手を離さなければならない。」」

 「通りを行く人の衣服(例えば袖)を握り、それを自らのいる位置の方向へ引っ張る事はOK。相手がそれに対して抵抗の意志を示したならば、そく、衣服から手を離さなければならない。」

というような内容のものであったかもしれません。

以下、説明を分かりやすくするために、下記のように女性の登場人物に記号をつけました。(背景の中に小さいサイズで描かれている人々に対しては省略しました。)

 女性A:女性たちのうち、最も左側に描かれている人
 女性B:女性Aの右側に描かれている女性
 女性C:女性Bの右側に描かれている(道の上に立ち、道の方を見ている)女性
 女性D:女性Cの右側に描かれている(屋内にいる)女性
 女性E:女性たちのうち、最も右側に描かれている(桶を持っている)人

女性Aと女性Bが今いったい、何をしようとしているのかは一目瞭然、まさに[留め]ようとしているのでしょう。

女性Bのアクションがまさに、上記の[規制]の(想像)例としたそれです。彼女の左手は男性の腕に直接触れています。右手は男性の衣服に触れているか、あるいは、腕に直接触れているかのどちらかでしょう。

問題は、女性Aの現在実行中の行為です。彼女は、相手の身体にも衣服にも触れてはいないようです。(左手の位置が不明ですが、相手との位置関係から見て、このように考えてよいでしょう)。

でも、女性Aのアクションは、女性Bのそれと比較してみると、[迷惑度がより大]といえるのではないでしょうか、相手の男性は、苦しそうな顔をしていますから。

彼は身体的な苦痛を感じているようです。(もしかしたら、精神的な苦痛も)。

「そこまでやるかい(女性Aよ)」と、(私は)言いたくなります。

御油宿において、ここまで過激なアクションが実際に、常習的に(偶発的にではなく)行われていたのでしょうか?

かりに行われていたとしたならば、幕府や所轄藩に対して、「あれ、やめさせてくださいよ。あそこまでいくとヤリスギ!」との要請が多く寄せられ、幕府や所轄藩が規制を強化し、そのような行為を禁止する、というような事はなかったのでしょうか?

ここまでやられれば、激怒する男性もいるかもしれません。この絵の次のシーンでは、女性Aは男性に殴打されているかもしれません。そのようなリスクを冒してまでも、ここまで過激な[留め]アクションを行うものでしょうか?

もしかしたらこれは、この浮世絵を出版していた業者による過剰演出なのでは、といったような事まで考えてしまいます。

[本1]中の吉田漱氏による図版解説によれば、絵の中に挿入されている文字は、彫り師や摺り師、絵師(すなわち広重画伯)の名、版元の名などであるのだそうです。

吉田漱氏は下記のように記述しておられます。

 「その頃の彫り師・摺り師が名を記すことはほとんどなく、貴重な記録である。」

よって、以下のようなストーリーさえも、想像してしまうのです。

 センセーショナルな内容の絵なので、多くの人々の注目を期待できるだろう、と出版業者は考えた。そこで、ここぞとばかりに、(この絵の中に)、自らの広告宣伝になるようなこれらの情報を挿入させた。それと同時に、画伯に対して過剰な(現実には行われていないようなアクションの)演出を行う(描く)ように要請した。

以上、私の単なる想像でしかすぎません。御油宿の真相は不明です。

------------------

上記のごとくなので、以下は、[御油]という地名を忘却し、[御油]の地を離れ、どこか架空の世界の中の一シーン(ドラマや映画の中のような)を見ながらの感想だと思ってください。

女性Eが運んでいるのは、水が入った桶、その水は、旅人の男性の足を洗うためのものでしょう。

女性C(道の上に立っている)、この人はいったい、どういう人なんでしょうか?

女性Aと女性Bは、前掛けをしていますが、女性Cはしていません。A、Bより、Cの方が、着ている着物の方が、ちょっとゴージャスな感じがします。

もしかしたら、女性Cも[留め]る人、なのだけど、A、Bとこの人とでは、[留め]の方法に違いがあるのかもしれません。A、Bは[腕]を使って、Cは[顔]を使って、[留め]を実行しているのかも。この人、笑みを浮かべているようですし。

わからないのが、女性D(屋内でほおづえをつき、外を眺めている)です。この人は、いったいどういう人なんでしょう?

この人のこの姿勢は、これから積極的に何事かをしようとしている人の、それのようには見えません。

なぜこのように、悠然としておれるのでしょうか? もしかしたら、すでに[ノルマ]を達成できているからでしょうか?([ノルマ]はあったのかな?)

それとも、女性Dは新入りの人で、見習い期間中? 先輩たちの業務執行を見学中?(だとすると、ちょっと余裕ありすぎの態度?)

あるいは、この人はこの宿のおかみ(女将)?

女性Eの笑みの底には、どのような想念がうごめいている?

[?]が次々と湧出してきます。

------------------

再び、御油の地に戻ります。

[留め]に従事している女性たち、必死の労働という感じがします。もしかしたら、彼女たちにも[ノルマ]が課せられていたのかも?

ここの隣の赤坂宿を描いた絵には、[飯盛女]が描かれています。年貢が払えないので、娘を飯盛女に、というようなケースもあったようです。

もしかしたら、この御油宿の[留め]ている人々も、上記と同様の事情により、このような労働に従事することになったのかも?

もしもそうだとしたら、と考えると、胸が痛みます。

------------------

この絵が発表・発売された当時の、地元(御油宿)の人々の心中はどのようなものであったか・・・。今となっては想像してみるしかないのですが、

 留女なんて、他の宿場にもおるだろが なんで、うち(御油宿)だけが、こんな場面の絵に・・・

 御油には他にも、絵になるとこ、あるのになぁ

------------------

この絵の現場の位置を、現代の御油の地において特定することは、不可能でしょう。絵には、「旅人留女」としかありませんから。

当時の御油宿の宿泊施設の中で、どこか1軒だけが、[留め]行為を実行することを独占的に許されていた、というような事情であれば、そこがこの絵の現場である、ということになるのでしょうが、おそらく、そのような事は無かったでしょう。

絵の中に描かれている様々な文字は、この場所の特定という目的に対しては、無効です。上記にも記したように、これらは、彫り師や摺り師、絵師の名、出版業者の名なので。

------------------------

御油に関して、[豊川市 御油 松並木]、[豊川市 御油 松並木 保護]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------------

岡崎-豊橋間のJR(旧国鉄)の路線は、旧東海道とは異なるルート(蒲郡経由)になっており、御油の地を通ってはいません。このようなルートになった理由については、「宿場町の人々が、鉄道(が敷設されるの)を、いやがったからだ」とする説があったようです。しかし、この問題に関しては、全面的な見直しがされるべき時にきていると思います。

 『鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町』(青木栄一氏 著 吉川弘文館 発行)

において、著者は、その説を「伝説」であるとし、それに対する否定的見解を述べておられます。この本の[鉄道忌避伝説の検証 東海道線と宿場町]の節 53ページより、下記に引用させていただきます。

(更なる詳細については、この本をご参照ください。他の地の鉄道ルート設定の経緯(例えば、中央線の新宿-立川間)についても詳細に検討されています。このような「伝説」(「宿場町の人々が鉄道をいやがったので、このような鉄道ルートになった」とする説)が、(その説の根拠となる史料が無いにもかかわらず)、どのようにして生まれ、拡散されてきたのか、ということについてまでも、説明されています。説得力が大きい本だと思いました。)

-----------

 「近年の地方史研究においては、鉄道建設の過程にかかわる多くの文書が発見、公表されているが、『蒲郡市誌』資料編には、東海道線のルート決定を示唆する貴重な文書が収録されている。これは、当時、宝飯(ほい)郡役所書記の長島藤六郎に宛てた鉄道局技師松田周次の書簡である。(蒲郡市誌編纂委員会編『蒲郡市誌』資料編、一九七六年、六六七ページ)。」

 「陳者(のぶれば)東海道線路予測の筋は豊川の西、小坂井近傍に於て、現今の線路より分岐し国府・御油・赤坂等を経て藤川・岡崎迄略(ほぼ)決定に相成候へ共、如何にも赤坂・藤川間は其地勢狭隘且つ急勾配を付せざれば容易に線路布設難相成(あいなりがたく)、種々苦心の処幸ひ貴下と面談の栄を得て該地方の状況及地勢等相伺候処(あいうかがいそうろうところ)、小坂井(こざかい)より西方(にしかた)・蒲郡・深溝を経て岡崎に至り候時は殆んど平坦、急勾配を要せずして工事容易ならんと、茲(ここ)に於て直ちに予測に着手せしに、貴言ニ不迷(違の誤りか)現今の線路を得たり。」

-----------

国土地理院の [地理院地図] を使用すれば、上記に述べられている事を確かめることができると思います。名鉄名古屋本線(御油を通る)と、JR(蒲郡を通る)の双方の、各駅ごとの標高を調べれば、両ルートの勾配のアバウトな状態を知ることができるでしょう。

------------------------

エルウィン・フォン・ベルツ博士の妻・花さんの実家はここにあったようです。[花 ベルツ]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 御油]、[行書東海道 御油] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の御油を描いた絵が、下記です。

御油・古街道本野が原(三重県立美術館)

『行書東海道』の御油を描いた絵が、下記です。

御油(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

21.御油(ごゆ) 御油橋(ごゆばし)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (19) 赤坂

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 赤阪]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ図(知足美術館)

(絵の中には、「赤坂」ではなく、「赤阪」の字が記されています。)

------------------

この絵の現場の位置を、現代の赤坂の地において特定することは、不可能でしょう。絵には、「旅舎」としかありませんから。

絵の中に描かれている人々(宿泊する側、宿泊させる側)の姿から察するに、この宿泊施設は、本陣のような、高い社会的階層にあった人々が利用するそれではなく、[旅籠屋]でしょう。

これらの[旅籠屋]のうち、絵の中央に描かれているような植物が植えられていた所がある、ということになれば、そこが、この絵の現場の有力候補地ということになりますが・・・。

------------------

この絵の中には、現代の宿泊施設の中で見たような要素もありますし、こんなの見たことない、というような要素もあります。

例えば、左側の男性。おそらく、お風呂上りでしょう。右肩を露出し、手ぬぐいを肩にかけています。

室内でくつろいでいる男性、その部屋に食事を運んできている女性も、どこかの宿で見たような感じがします。男性の右側の床の上に置かれている何かの容器のような物体が興味深いです。

こんなの見たことない(現代の宿泊施設の中で)、というような要素が、絵の右側にいる、化粧している二人の女性でしょう。この二人が、絵の中に文字で記されている、「旅舎招婦」の方々なのでしょう。

当時、[飯盛女]と呼ばれていたようです。

ネットで調べてみたら、[年貢が払えないので、娘を飯盛女に・・・]というようなケースもあったようで、胸がふさがる、胸が痛む思いがします。

当時の社会においては、年貢を受け取る側にいる人々よりも、年貢を出す側にいる人々の方が、数は多かったであろうと想像します。

天災や気候不順などの、事前に想定しえない事柄により、(十分な収穫を得ることができず)年貢を納めることができなくなる、というような状況は、しばしば発生していたのではないでしょうか。

現代においてさえも、地震や集中豪雨、台風等の被害を受け、農作物の収穫ができなくなってしまった、というような事が、しばしばあるのですから。

------------------

この絵は、この「旅舎」の中の、いったいどの場所(位置)から見た景観なのでしょうか。

右側に屋根があるから、高い所から見た景観であることは確実です。

[本1]中の図版解説で、吉田漱氏は、

 「階段と足が見えるので、宿は二階建。」

と、指摘しておられます。

この旅館の2階にある室内に座り、そこから見ている図、ということなのでしょうか。

このように、高い所からの俯瞰の形式で描く、という手法は、古い時代に既に存在していました。[吹抜屋台]というものです。

これについては、[藤原隆能 源氏物語絵巻 吹抜屋台]、[藤原隆能 源氏物語絵巻 吹抜屋台 画像]でネット検索して、情報を得ることができました。

[吹抜屋台]の手法においては、屋根が描かれないようですが、広重画伯のこの絵では、屋根が描かれています。日本絵画の伝統的な世界から、ヨーロッパ絵画の写実主義の側へ、画伯は一歩スタンスを移した、ということになるのかもしれません。

------------------

赤坂に関しては、[豊川市 赤坂宿]、[豊川市 赤坂宿場資料室]、[豊川市 赤坂 朱印状]、[豊川市 関川神社]
でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

[赤坂]という地名を持つ場所を、私は複数個知っています。

千早赤阪村

ここには、[下赤坂城跡]、[上赤坂城跡]があります。楠木正成公に関係ある場所です。

東京都にも[赤坂]という地名を持つ場所があります。かつての政治関連の情報にしばしば、この地名が登場していたのを記憶しています。

岐阜県にも、[赤坂]という所があります。

[岐阜県 赤坂 大理石]、[岐阜県 赤坂 石灰岩]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

この[赤坂]の地に、[美濃赤坂駅]があります。[美濃赤坂線]の駅です。

[鉄道ファン 美濃赤坂線]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 赤阪]、[行書東海道 赤阪] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の赤坂を描いた絵が、下記です。

赤阪(三重県立美術館)

『行書東海道』の赤坂を描いた絵が、下記です。

赤坂(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

20.赤坂(あかさか) 村口(むらぐち)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

いいですねぇ、この絵! 松と道、すばらしいなぁ・・・。

広重 東海道五十三次 細部に注目 (18) 藤川

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 藤川]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 藤川 棒鼻ノ図(知足美術館)

------------------

この絵の現場の位置を、現代の藤川の地において特定しようとしたのですが、大きな問題に直面してしまい、ギブアップしました。

「棒鼻ノ図」とあるので、ネットを使用して、藤川宿の[棒鼻]について調べ、現代の藤川には、かつて[棒鼻]があった場所が2か所あることが分かりました。([西棒鼻跡]、[東棒鼻跡])。

よって、この絵の現場は、この2つの地点のうちのいずれか、ということになるでしょう。

[本1]中の図版解説(吉田漱氏による)によれば、毎年、幕府は朝廷に、陰暦八月朔日(一日)に馬を献上しており、絵の中に描かれているのは、その献上される馬なのだそうです。

この絵の右側の方に描かれている馬と人々は、江戸から京都へ向かう道中にあるのでしょう。京都から江戸へ帰る局面においては、馬は(朝廷に献上ずみゆえ)存在しないはずですから。

よって、これらの馬と人々は、東から西へ移動していると考えられます。

絵の中では、馬と人々は右側から左側へ移動しているので、右側が東、左側が西ということになります。

[本1]中の図版解説(吉田漱氏による)によれば、絵の左側の方に、宿場役人が描かれているのだそうです。

この現場が東棒鼻であるならば、彼らは(東からやってくる)馬と人々に対して、いままさに、[お出迎え]をしている、ということになります。

この現場が西棒鼻であるならば、彼らは馬と人々に対して、[お見送り]をしている、ということになります。

このシーンは、[お出迎え]のそれなのか、それとも、[お見送り]のそれなのか?

もしかしたら、当時のしきたりとしては、[お出迎え]は行うが[お見送り]は行わない、ということであったのか?

当時の宿場のしきたり(役人たちの)まで詳細に把握しない限り、この現場が東の棒鼻なのか、西の棒鼻なのかを判定することは不可能と思われます。

絵の中に褐色の雲が描かれているので、時刻は早朝(朝焼け)、あるいは夕方(夕焼け)と見ることも可能かもしれません。

朝焼けであれば、馬と人々はこれからこの宿場を去っていくのであろう、ということで、[お見送り]、夕焼けであれば、これからこの宿場に宿泊するのであろう、ということで、[お出迎え]、と見ることも可能かもしれませんが、そのどちらとも判別できません。人や物体の影まで絵の中に描きこんでくれていたら、太陽の位置が(そしておおよその時間帯が)分かるのですが・・・。

問題を更にややこしくしているのが、絵の中に描かれている[高札場]です。

[本1]中の図版解説(吉田漱氏による)によれば、絵の中に[木戸]と[高札場]が描かれているのだそうです。

絵の中央下端にある屋根つきの構造物が[高札場]でしょう。

ネットを使って、棒鼻と高札場との位置関係について調べました。その結果、高札場跡と西と東の2個の棒鼻跡とは、互いにある程度離れた地点にあることが分かりました。

ところが、この絵においては、棒鼻と高札場とがとても近い位置にあるように描かれています。

もしかしたら、広重画伯は、藤川の地を実際に見ることなく、この絵を描いたのかもしれません。

あるいは、記録ミス、記憶ミスがあったのかも。(この絵を描いた場所は、現地ではなく、江戸だったでしょう。)

------------------

宿場役人の体勢、手を置く位置と手首の曲り、馬に装着されている飾り等、興味深い点があるとは思いますが、この絵からは、自分の心に響いてくるものがありません。

この絵の中には、人、馬、犬、樹木、物体など、様々な対象物があるのですが、それらが互いに調整・調和される事無く、絵の中に投入されているような感じがします。その結果、まとまりのない感じの絵になってしまっていると思います。

 犬どもも 時と場所とを わきまえよ

 犬いわく なにゆえ馬に 土下座する

 つつしめよ 不謹慎なる ものいいを

 あれなるは 馬は馬でも 馬でなし

 わからぬか わからんだろうな おまえには

 わからぬか わからんおまえが うらやまし

川柳を鑑賞する時のスタンスでもって、この絵を見れば、深く味わうことができるのかもしれません。

心理学にくわしい人ならば、この絵の中から様々な事柄を抽出することができるのかもしれません。

------------------

松並木が現存しているようです。[藤川 東海道 松並木]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

脇本陣があった場所は現在、[藤川宿資料館]になっているようです。

------------------

藤川に関して、[明星院 不動 家康]、[東海道ルネッサンス 藤川]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 藤川]、[行書東海道 藤川] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の藤川を描いた絵が、下記です。

藤川(三重県立美術館)

『行書東海道』の藤川を描いた絵が、下記です。

藤川(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

19.藤川(ふじかわ) 街道沿家(かいどうぞいのいえ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

美しい絵だと思います。背景の山も雲も美しい。この絵の中に入り込んで、この道を歩いてみたいです。

2017年1月 4日 (水)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (17) 岡崎

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 岡崎]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋(知足美術館)

------------------

この絵を、

東海道五十三次之内 京師 三条大橋(知足美術館)

と見比べてみたら、とてもおもしろかったです。

三条大橋の方は、絵の右下から左中央へ、矢作橋の方は、絵の左下から右中央へ。一方を左右反転させたら、もう一方に重なりあうような感じです。

対岸にある家は、三条大橋の絵よりも矢作橋の絵の方が少し小さめに描かれているようです。

左下から湾曲した橋が画面中央を横切り、橋を渡った向こうに、城、城の左側の山、遠くの山(どちらの山もとても形が良い。)。遠近感が強く出ていて、美しい風景画だなと思います。

橋の上を歩いていく一団は、参勤交代の旅の途中の武士たちでしょうか。(いわゆる[大名行列])。

[大名行列 順番]でネット検索すると、様々な情報があるのですが、それらに記述されている行列の様と、この絵のそれとは、相当異なるように思われます。なぜかわかりませんが。

一口に[大名行列]といっても、領国の経済力(石高)に応じて、その規模は様々であったのかもしれません。

行列の先頭集団中の一メンバーが持っている物体(槍でしょうか?)の長さは、それを持つ人の身長と比較してみると、とても長大であるように見えます。

絵の右端付近に描かれている、橋の上にいる人々は、武士階級には所属していない人々であろうと思われます。

彼らは橋の上に立っているようです。土下座しているようには見えません。

かつて、[大名行列と土下座する人々]のシーンを時代劇等で見た記憶があるのですが、当時の実際とは異なる設定であったのかもしれません。

---------------

この絵の現場の位置を、現代の岡崎の地において特定できるかどうか、やってみました。

[旧東海道 地図 岡崎] でネット検索し、当時の街道のルートが分かるような情報を得て、岡崎宿付近のルートを調べてみました。ややこしいルート設定になっていたようで、おもしろいです。

(ネット上に[岡崎宿二十七曲り]に関する情報がありました。)

[岡崎城跡]付近からこの旧街道のルートにそって、西の方へ移動していくと、矢作川に出ます。

橋の西側からやってきて、橋を渡る、その先には、岡崎城が位置している。まさに、広重画伯が描かれた通りの位置関係になっているようですが・・・。

問題は、山です。

国土地理院の [地理院地図] を使用して調べてみました。

城跡の北東に、[64.7]という表記がある場所があります。([六供町]、[市民会館]の表記の西側、神社マークの北側。)

この神社マークのある場所にある神社を、ネット地図で調べてみたら、[甲山八幡宮]とありました。

[地理院地図] を使って、この[甲山八幡宮]付近のある地点の標高を調べてみたら、

 標高 55.4m

と表示されました。

同様にして、岡崎城跡付近のある地点の標高は、

 標高 25.6m

と表示されました。

両者の差は、およそ30m。

この[30m]という高度差を頭の中に置きながら、再度、絵の中に描かれている山(城の左側にある)を見てみると、違和感を覚えます。(この山、高すぎ、大きすぎ、という感じ)。

衛星画像モ-ドでも見れるネット地図でこの付近を見てみると、更に状況がよく分かると思います。ごく一部の緑地帯の他は、住宅地となっているようです。この現状と、絵の中の山とは、どうにもマッチしないのです。

絵の中には、更に遠方にある山(とても形が良い)も描かれています。

矢作橋付近からこのような山が見えるのかどうか、ネットで調べてみたけど、それが分かるような情報がありませんでした。

------------------

岡崎は、徳川家康公生誕の地であると共に、徳川家康公が戦国大名としてスタートをした時の拠点でもあります。(今川義元公の戦死の後、今川家への従属状態から脱し、独立。)

家康公が浜松へ拠点を移した後に、様々な人々がこの城を預ることとなったのですが、私にとって印象深いのは、下記の方々です。

松平信康氏:家康公の嫡男。20歳の若さでもって、自刃。その経緯と原因については諸説あり状態のようです。

石川数正氏:家康公の重臣であったが、突然、岡崎城から出奔し、羽柴秀吉公のもとへ。出奔の原因については諸説あり状態。後に、松本(信州)に封じられ、松本城の築城を開始。

------------------

矢作川の橋の上での、太閤殿下と蜂須賀小六氏との出会いは、単なる説話(太閤説話)であり、史実ではないようです。

[矢作 橋 子六 日吉丸]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

------------------

[本1]中の図版解説(吉田漱氏による)によれば、シーボルトがこの橋を見て驚嘆し、詳細な記録(写生図や、橋の部分図つき)を残しているのだそうです。その記録を見たいと思ってネット検索してみたのですが、その詳細が分かるような情報を見つけることができませんでした。

------------------

[味噌カツ]、[味噌煮込みうどん]等、[愛知県]という県名から、味噌を使った料理を私は連想するのですが、[岡崎市 八丁味噌]でネット検索して、これに関連する情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 岡崎]、[行書東海道 岡崎] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の岡崎を描いた絵が、下記です。

岡崎・矢はぎ川(三重県立美術館)

『行書東海道』の岡崎を描いた絵が、下記です。

岡崎(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

18.岡崎(おかざき) 伊賀川堤(いがかわつつみ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (16) 池鯉鮒

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 池鯉鮒]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市(知足美術館)

------------------

京都の三条大橋からスタートして、ここまでいくつもの宿場の絵を見てきたのですが、この池鯉鮒を描いた絵の中にはこれまでのものには見られなかった二つの要素があります。

その1:緑色が主
緑色(青色と緑色の中間にある系統の色と言うべきかも)で彩色されている部分が、絵全体の中で大きい面積を持っている。

その2:動物が主役
この絵の主役は、馬であるように見える(人間ではなく)

構図の巧みさを感じます。写真撮影の際の構図の設定の教材に使えそうな絵だと思います。

絵を上下に二分し、上方を空に、下方を大地に配分。

絵の中央部に大木を配し、その根元から左下方向へ明るい色で描かれた直線を伸ばし(草原の中の道でしょうか)、更にその途中から、右下方向へ伸びる明るい色で描かれた直線を分岐させています。

この直線によって仕切られた各ブロックの中に、馬を配置。馬の頭数も、左右の重量バランスが崩れないように、設定されているように感じます。

(「左右」とは、絵の中央を、上(大木がある位置)から下(絵の下端線上の中央)へ走る直線の左右、という意味です。絵の左側だけに馬がいるような配置になっていたならば、この直線の左側にある部分と右側にある部分の重量感に、大きさな差が生じると思われます。)

馬たちの彩色においても、明度の高い色と低い色とが組み合わされており、鮮やかなコントラストが生じています。全ての馬が無彩色で描かれており、草原の色ととてもよく調和しているように感じます。

深い清涼感を感じます。

大木の根元付近に、大勢の人がいます。彼らは何をするために、ここへ集まってきているのでしょう?

「首夏馬市」とあるのだから、馬を買いにやってきた人々なのでしょうか。

彼らはこれから、馬のいる場所へ歩いてきて、馬の品定めをするのでしょうか。それとも、彼らはその場所から動かずに、馬の方が彼らのもとへ移動(ひかれて)行くのでしょうか?

もしかしたら、後者の方なのかもしれません。絵の中の最も左側にいる人が、馬をひいて、大木のある方へ移動しているように見えますから。

(当時の馬市の作法がよく分かっていないので、確かな事は言えませんが。)

その右側にいる二人は、いったい何を運んでいるのでしょうか? もしかしたら、大木の根元付近にいる人々の昼食を運んでいるのでしょうか? これもしかとは分かりませんが。

この絵は、美しくもあり、おもしろくもあり(興味深い点が多々あり)、という感じです。

------------------

[本1]中の図版解説において、吉田漱氏は以下のように記されています。

 「国道を走っていて松並木が見えたため、国道からそれてはいり車をとめた。写真をとろうと思いドアを開けたら、向い側に「池鯉鮒宿・馬市之趾」という大きな石碑があるではないか。たちまち広重のこの図がうかんだのはいうまでもない。」

 「この図のように草原の果に鯨の背のような丘が描かれているのが初版とされている。後版はこれを欠く。こういう丘が実際にあるや無しやも、かねてからの関心であった。いまでこそ家が増えて展望しにくくなったが、元来はほとんど平らな場所である。私がもしやと思うような小山はどこにも見当たらなかった。」

ということは・・・もしかしたら、もしかしたら、広重画伯は、実際にこの地を見ることなく、この絵を描いた?

国土地理院の [地理院地図] を使用して、この付近の地形を調べてみましたが、確かに、吉田氏の言われるごとく、「ほとんど平らな場所」であるようです。

この絵の上半分と下半分との境界付近には、明度の大きい色で彩色された左右に伸びる直線が何本もあります。もしかしたらこれは、遠方にある海を描いたものなのかな、とも思うのですが、確かなことは分かりません。

------------------

知立に関して、[知立市 業平池跡]、[知立市 在原業平朝臣墳墓伝承地]、[知立市 八橋]でネット検索して、情報を得ることができました。

------------------

この地に縁の深い方で、戦国時代の超有名人2人を、父親に持つ人(もちろん、その一方は養父)がいます。

 結城秀康公

波瀾に富む人生を送った人です。(波乱の人生を送った人は、この時代にはとても多いのでしょうが)。

この方の母上が、知立にとても縁が深い方なのです。

[お万の方(長勝院)]です。ネットで調べてみたら、

 [知立城主 永見氏の娘]という情報がありました。

永見氏と水野氏(刈谷を拠点とした)との間には深い縁があり、水野氏と松平氏(家康公の代に[徳川]に改名)とも深い縁があります。(家康公の母・[於大の方]は水野氏の出身)。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 池鯉鮒]、[行書東海道 池鯉鮒] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の池鯉鮒を描いた絵が、下記です。

池鯉鮒(三重県立美術館)

『行書東海道』の池鯉鮒を描いた絵が、下記です。

池鯉鮒(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

17.知立(ちりゅう) 馬市場(うまいちば)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (15) 鳴海

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 鳴海]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 鳴海 名物有松絞(知足美術館)

------------------

この絵はどこの宿場を描いたものなのでしょうか?

(1)「鳴海」とあるのだから、鳴海なんでしょうか?
(2)「名物有松絞」とあるから、有松なんでしょうか?

[有松絞り]の発祥の地は有松であるようです。しかし、その発祥の時代(江戸時代初期)から広重画伯が活躍されていた時代までには、およそ200年の時間が経過しています。ゆえに、この絵が描かれた当時に鳴海宿の商店においても、有松絞りの商品が販売されていた可能性を、否定することができません。

絵の中に書き込まれている商店の屋号らしきものを、現場を特定するための手がかりに用いることは不可能であるようです。 [本1]中の吉田漱氏の図版解説には、以下のようにありますから。

 「紫紺色ののれんにある商標は菱形の内に、かたかなの「ヒ」、つまり広重の印だが、わきに「竹内」と版元名が入れてある。」

この絵の中に描かれている商店はたった2軒だけ。この絵だけで見る限りでは、有松絞りの商品が街道ぞいの店々で大々的に販売されており、というような雰囲気ではありません。

------------------

この絵の遠近感の表現には、少し違和感を覚えます。

この絵の中に描かれている人々に対しては、以下のようなグループ分けが可能でしょう。

(1)絵の左側に描かれているグループ。店の中にいる人々
(2)絵の中央下部に描かれているグループ。徒歩と駕籠により移動している人々。
(3)絵の右側に描かれているグループ。徒歩と馬により移動している人々。

それぞれのグループの人々は、それぞれの居場所の位置に応じて、異なるサイズで描かれており、その結果、この絵の中に遠近感を感ずるわけですが、グループ(2)とグループ(3)とのサイズの比率に、少し違和感を覚えます。

グループ(2)の人間の(描かれている)サイズに比して、グループ(3)のそれは、少し大きすぎるのではないでしょうか。

商店の前にある空間は、街道(東海道)の路面のようには、感じられません。広い原っぱの中を旅人が行っている様が描かれている、というように、私には感じられます。

商店の前に設置されている防火用水と思われる物体が興味深いです。

------------------------

名鉄名古屋本線の有松駅の南方に、戦国時代に今川軍と織田軍とが戦った場所があります。この戦闘において、今川義元公(今川軍側のトップ)は亡くなりました。

義元公の最期の地がこの地域内のどこであるのか、という事に関しては、下記の2説があるようです。

(1)名古屋市緑区のある地(現在、[桶狭間古戦場公園]となっている場所)を、その場所であるとする説

(2)愛知県豊明市のある地(現在、[桶狭間古戦場伝説地]となっている場所)を、その場所であるとする説

上記の(1)、(2)それぞれに関して、その説を最初に提唱した人が、どのような歴史学的根拠でもって、そこを今川義元公の最期の地であるとしたのか、ということに関しては、ネット上でそれに関する情報を見つけることができませんでした。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 鳴海]、[行書東海道 鳴海] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の鳴海を描いた絵が、下記です。

鳴海・名産絞り店(三重県立美術館)

『行書東海道』の鳴海を描いた絵が、下記です。

鳴海(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

16.鳴海(なるみ) 三王山(さんおうざん)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (14) 宮

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 宮]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 宮 熱田神事(知足美術館)

------------------

ネットで調べて得た情報によれば、この絵は、熱田神宮で行われていた[端午の走り馬]という行事を描いたものなのだそうです。神宮が主催して行うものではなかったようです。だから、「神事」とはいえないような行事でしょう。

この絵の現場の位置を、現代の熱田の地において特定することは、もしかしたら可能なのかもしれません。右端に描かれている鳥居が、そのてがかりにできるかもしれません。

ただし、絵に描かれている当時の鳥居があった場所と現在のその場所との関係についての、慎重な考察が必要となるでしょう。

熱田神宮がある地域は、太平洋戦争において大きな被害を受けたようです。[熱田神宮 空襲]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

------------------

古代から現代にかけて、この地の地形は激変しているようです。

『中世の東海道をゆく』榎原雅治著(中公新書)の「序章 干潟を行く」には、下記のような記述があります。

「現在の光景からはちょっと想像しにくいが、熱田はもともとは伊勢湾に面した湊町であった。古代には熱田宮は海に突き出した岬の上に鎮座していたという。伊勢湾は干満の差が大きく、中世のころ、干潮になると熱田の南東には広い干潟が現れていた。数々の歌にも歌われた鳴海潟である。」

------------------

この絵の構図設定は、[庄野]と同様の、三角形で構成されています。

遠方の煙までもが、構図づくりに参加しています。この煙が、煙らしくない描かれ方(細長い布みたい)をしているのが残念ですが。

右端に、鳥居の一部だけが切り取って入れられています。

写真撮影の際の構図設定の教材に使えそうな絵だと思います。

構図を形成している主要な線の先端は、左端の男性に集中しています。

この男性の頭部と胸部との位置関係、これは医学的に見て、ありえないだろうと思います。すさまじいデフォルメ。これがまた、この場のダイナミックさをよく表現しているのが、すごいと思います。

絵の下端の明度の低い灰色で描かれている部分から、上の方へ見ていくと、徐々に明度が高まっていくグラデーションのその上部に、人々の足が鮮やかに描かれています。このコントラストのつけ方がすばらしいと思います。

先頭から数えて3人目は、少年でしょうか。

じつにダイナミックな絵、すばらしいです。

[関]を描いた絵の中で、光の使い方について注目したのですが、この絵においても、独特な光の当て方がされていると思います。

[関]では舞台上の光の当て方が連想されましたが、ここでは、テレビドラマや映画の撮影での光の当て方が連想されます。

------------------

宮と桑名との旧東海道・海上ルートが「七里の渡し」ですが、宮側の船着場があった場所には、[宮の渡し公園]があるようです。

------------------------

熱田神宮には、[大楠]、[ならずの梅]、[二十五丁橋]、[信長塀]、[佐久間燈籠]があるようです。

熱田神宮と[尾張氏]との間には深い縁があるようです。

[尾張氏]と大和朝廷との間にも深い関係があるようです。[尾張氏 壬申の乱]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

[尾張氏]のDNAは、源頼朝公に継承されているようです。その系図は下記の通りです。

 尾張職子-藤原季範-由良御前-源頼朝

この神社に極めて深い関係を持つ刀が、[草薙剣]です。

以下、歴史上存在しない人々が登場する神話の内容になりますが、

ヤマタノオロチの体内から、スサノオノミコトがこの剣を見つけ、スサノオノミコトからアマテラスオオミカミに贈呈された

ヤマトタケルノミコトが、東国へ遠征する途上、伊勢神宮に行き、叔母のヤマトヒメノミコトに会った。その時、その剣を彼女から渡された。

尾張に入り、ミヤズヒメの家に入った。ヒメと結婚したいと思ったが、それは遠征の帰路にすることにした。

そこから更に当方に行った場所で、ヤマトタケルノミコトは火攻めにあった。その際に、その剣(ツルギ)で草を刈り、それに火をつけて迎え火とし、難を逃れた。そこで、その剣を、[クサナギノツルギ]と命名した。

(その場所として、静岡県・焼津市とする説と、静岡県・静岡市のJR草薙駅付近とする説とがあり。それぞれの地に、[焼津神社]、[草薙神社]があるようです。)

東国遠征の終了後、尾張に帰還し、ミヤズヒメと結婚。

伊吹山の神を征服するに際して、ミコトは、クサナギノツルギをヒメのもとに預けて出発。

この[クサナギノツルギ]が、(皇室に代々伝えられてきた)[三種の神器]のうちの一つ([アメノムラクモノツルギ])になった、というので、話がややこしくなります。

熱田神宮には現在も、この剣が存在する、という情報があるからです。

この件に関しては、話が混みいってて、よく分かりません。もっとも、歴史上実在しない人に関することなので、調べてみてもあまり意味がないとは思います。

三種の神器の中のツルギ([アメノムラクモノツルギ])は、現在、山口県・下関市付近の海底にあると思わます。(もしも形をとどめていたら、遠方に流されていなければ、ですが)

平家物語、吾妻鏡の壇ノ浦の戦いの記述によれば、この剣はその際に海底へ水没したと思われます。

将来、ロボット技術が進展し、海底探査ロボットが登場すれば、この剣も見つかるかもしれません。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 宮]、[行書東海道 宮] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の宮を描いた絵が、下記です。

宮・七里の渡し 熱田鳥居 寝覚の里(三重県立美術館)

『行書東海道』の宮を描いた絵が、下記です。

宮(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

15.熱田(あつた) 七里渡場跡(しちりわたしばあと)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (13) 桑名

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 桑名]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 桑名 七里渡口(知足美術館)

------------------

京都を出発してからここまでやってきて初めて、絵の中に船が本格的に登場しました。

「本格的に」としたのは、桑名の前の四日市を描いた絵の中にも、船の一部が描かれているからです。(絵の下端に、そして、絵の左端付近に、帆柱のみが)。

構図の巧みさを感じます。構図設定(絵画や写真撮影の)の教材に使えそうな絵だと思います。

帆柱により、左右がほぼ二等分されています。

右半分は、いわゆる[三分割法]の構図で構成されています。

左半分は、水平線から下の部分と、水平線から上の部分とに二分されます。

両者の縦方向のサイズ比は、

[画面下端から水平線まで] : [画面上端から水平線まで] = 1 : 1.5 = 2 : 3

 白銀比 = 1 : 約1.414

 黄金比 = 1 : 約1.618

との中間の値ということになります。

この絵から、手前に大きく描かれている船の部分を除去したと仮定してみましょう。

右半分(帆柱より右側)の領域に残るのは、絵の右下の部分(船着場でしょうか)、城を構成している重量の大きそうな物体、そして空です。

左半分(帆柱より右側)の領域に残るのは、遠景の山々と船、そして水面と空です。

絵の左右の重量バランスは著しく右側が重、ということになるはずなのですが、なぜか、それほどのアンバランスは感じません。

遠景の船が、中心線より相当左寄りに描かれているので、てこの原理でもって、左右のバランスがとれているのでしょうか。あるいは、左半分の水面に描かれている青色が、左半分の領域の重量感を増加させているのでしょうか。

帆柱の左と右とで、水平線が少しずれているのも、おもしろいです。

そのズレの原因の解説をするかのような、帆柱の左側に描かれている半島のようなものも、何か不自然な感じがします。

まさか、版画制作の過程のどこかで、水平線のズレというミスが生じてしまって、なんてことではないのでしょうけど。

水の描写が、美しいと思います。

近くの部分にある波は、緑色がかった色(RGB表現で言うならば、G成分が大きい値の色)でもって、詳細に描かれています。

中間の部分にある波は、白に近い青色でもって、おおまかな形のみ、描かれています。

そして、遠方の水面は、波の形が描かれず、深い青色で描かれています。

このようにして、水面の遠近感がかもしだされているように感じます。

水面が実際にこのような色調に変化するものなのかどうかは、分かりません。透明度の高い海浜に行って、自分の眼で確かめてみたいと思います。

爽快感と開放感がみなぎっている絵だと感じます。

------------------

この絵の現場の位置を現代の桑名の地において特定するために、いろいろと調べてみました。

まず、桑名市東船馬町に[七里の渡跡]があることが分かりました。

次に、[桑名城跡・九華公園]が桑名市内にあることが分かりました。

ネット地図を使用して、[七里の渡跡]と[桑名城跡]との位置関係を調べ、[七里渡し]の船着場が城のすぐ北西にあった事がわかりました。

よって、船着場に立って南東方向を見て描いたのが、この絵、ということになります。

この絵の中に描かれている水面は、海の水面なのか、川の水面なのか?

ネット地図で見ると、ここには海はなく、桑名と長島の間にある川(揖斐川)があるのですが、江戸時代にもそうであったのかどうか、という点についての検討が必要でしょう。海面水位の長期的な変化、河川や海による土砂の堆積や浸食、地盤沈下、干拓等により、海岸線の位置は変化してしまうからです。

これについて、ネットを使っていろいろと調べ、[勢州桑名城下図]というものがあることまでは分かりましたが、それ以上の事までは分かりませんでした。

------------------

この絵の中に描かれている帆は、いままさに、上げられようとしているのか、それとも、下げられようとしているのか、いったいどちらなのでしょう?

前者であれば、船はこれから出航するのであり、後者であれば、船はいままさに到着したばかり、ということになるのでしょう。

風向が分かれば、この問題に対する解答が得られると思います。

上記にも述べたように、この絵は桑名城の北西方向から見ている状況なのだから、桑名宿から宮宿へ向かう船は、絵の左側の方(長島がある)へ行くことになります。

 風が(絵の)右から左へ吹いているのであれば、船はその風に乗って、これから宮へ向かうのであろう

 風が(絵の)左から右へ吹いているのであれば、船はその風に乗って、いま、桑名に到着したのであろう

さて、(絵の中の)風向は?

絵の左側に描かれている船の帆の状態を見ると、風は絵の右から左へ吹いているように見えます。

その右側にある2堰の船の帆の状態が、正反対方向を向いているのが[?]です。こんな近距離で逆方向の風が吹くなんてことが、この付近ではありうるのでしょうか?

手前の波の形を見ると、風は左から右へ吹いているように、私には見えます。

(風と波形との関係についてくわしい方のご意見をおうかがいしたいところですが)

上記のように[?]、[?]の風向なのですが、一応、左側の船の帆の通りとしておきましょう、すなわち、風は右から左へ吹いていると。

だとしたら、この船は、その順風によって、これから桑名を出発し、宮へ航行していくのでありましょう。

この間、宮宿の方では、旅人全員が足止めを食っていることになるでしょう。上記の船の進行とは逆方向の、宮から桑名へ向かう船にとっては、風が逆風になっているからです。

これではまったく、風まかせの旅ではないですか。この[桑名-宮・間は、海上を行け]というのは、先を急ぐ人にとっては、じつに困ったルート設定です。

海上を行くルートには、遭難のリスクもあります。現に、このルートで海難事故が起こっています。[七里の渡し 難破 供養]、[七里の渡し 琉球使節]でネット検索すると、関連する情報を得ることができると思います。

『中世の東海道をゆく』 榎原雅治氏著 中公新書 の、[終章 中世東海道の終焉][近世東海道の成立]中の記述によれば、この、「桑名-宮・間は、海上ルート(七里の渡し)にせよ」というのは、1601年に徳川家康公によって決定されたのだそうです。

このままでは、やはり様々な不都合があったのでしょう。その後、[佐屋まわり]という、バイパスが作られたようです。こちらのルートは、海上を行かない、陸路と河とを組み合わせたルートのようです。

------------------------

この[七里の渡し]は、三重県と愛知県との間の海上ルートということになります。となると、[神君伊賀越え]を連想します。

本能寺の変の直後、徳川家康公は、当時滞在していた近畿地方から脱出し、三河へ向かった、これが[神君伊賀越え]なのですが、その最終段階は、三重県から愛知県への海上の旅となりました。そのルート(どこで船に乗り、どこで船から降りたか)については諸説あり状態のようです。

この時、服部半蔵正成氏が大いに功績あったようです。

[服部半蔵 伊賀衆]、[服部半蔵 半蔵門]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

いま見ている、広重画伯の東海道五十三次・保永堂版が出版されたのは、天保年間(1830年~1844年)。絵の中に描かれている船は、風力で動く船です。

ペリー提督が乗った黒船が浦賀沖にやってきたのは、1853年。

 泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たつた四杯で 夜も眠れず

[パクス・トクガワーナ(徳川の平和)]の泰平の終わりの始まりを告げることとなった(今にして思えば)、[上喜撰(じょうきせん)]と[蒸気船]とをかけた当時の狂歌ですが、作者不明、詠み人知らずのようです。

ただし、この[黒船]も、蒸気と風力とを併用していたようです。

------------------

[濃尾傾動運動]という用語があるのだそうです。これは、濃尾平野の西側が沈降し,東側の三河高原側が上昇する、その結果、平野部全体が西へ傾く、という動きを言う言葉なのだそうです。

[濃尾平野 濃尾傾動運動]、[濃尾地震 地盤 濃尾傾動運動]でネット検索して、これに関する情報を得ることができました。

桑名付近には3個の川があります。[揖斐川]、[長良川]、[木曽川]です。これらの川が接近して流れているいる地域は、水との戦いを続けてきた歴史を持っているようです。

[輪之内町 輪中]、[輪之内町 十連坊輪中堤]、[輪中 宝暦治水]、[宝暦治水 薩摩藩]でネット検索して、これに関連する情報を得ることができました。

国土地理院の [地理院地図] を使用して、この地域の標高を知ることができました。

伊勢湾の沿岸部には、標高がマイナス値(海面よりも低い)を示す地点があります。

これよりも北方の海津市においても、揖斐川と長良川の間の地域(例えば、海津町高須地内)で、標高がマイナス値を示す地点があります。

------------------

桑名市内の[長島]は、戦国時代の悲惨な歴史を持つ地域であるようです。[長島 一向一揆]ネット検索して、これに関連する情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 桑名]、[行書東海道 桑名] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の桑名を描いた絵が、下記です。
桑名・七里の渡舟(三重県立美術館)

『行書東海道』の桑名を描いた絵が、下記です。

桑名(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

14.桑名(くわな) 濠址(ほりあと)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

2017年1月 3日 (火)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (12) 四日市

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 四日市]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 四日市 三重川(知足美術館)

------------------

京都を出発してからここまでやってきて初めて、絵の中に海が登場しました。

[旧東海道 地図 四日市] でネット検索して関連する情報を得て、この付近の旧東海道のルートを把握することができました。JR関西本線・富田浜駅の付近で、旧街道ルートと海との距離がとても短かくなっているようです。

この絵の中に描かれている人間は、たった二人だけ。京都を出てから最少人数の絵です。

------------------

この絵に対して、私はいくつもの[?]を感じてしまいます。

[?]その1:笠は実際にこのように転がるものなのだろうか?

道に沿ってまっすぐに、とてもうまいこと、車輪のように転がっていってるように見えます。あまりにもできすぎの転がり感です。絵の左端の限界を超えて、その先まで転がっていくような感じです。

[?]その2:方向の微妙な違い

笠が転がっていってる方向と、背後の樹木の枝の形によって示されている風向との間に矛盾があるように感じられます。微妙にずれているような感じです。

[?]その3:背後の樹木の形

なにか異様な感じがします。強風になびいている樹木なのだから、異様な形になるのだ、と言ってしまえば、それだけの事なのかもしれないのですが・・・。なにか、この世のものとは思えない形であるように感じます。

[?]その4:右側の人の向こう

右側に描かれている人の上半身(背中と頭)の上の部分には、(背景となるものが)何も描かれていません。その部分が、ぽっかりと空虚にあいてしまっているような感じがします。

そこには海と空しかないのだから、何も描かれていなくて当然だと、言われれば、たしかにその通りなのかもしれないけれど・・・。

[?]その5:右側の人、あんたいったいここで何してるの?

街道を行ってる、ただそれだけなんだ、と言われればそれまでなのだけど・・・。

あんた、いったい、どうしてここにいるの?

(広重画伯はいったいどうして、この人をこの絵の中に登場させたのだろうか?)

左側の、転がる笠を追いかけている人を一人描くだけで、この絵は完結していたように、私には思われます。でも、広重画伯の心の中では、

 それだけでは、この絵は完結しねぇんだ

という事だったのでしょうね。

この二人は、たまたま東海道を行く途上、出会ったというだけの関係なのでしょう。いや、「出会った」とさえも言えない関係です。[互いに眼中に無し]・状態なのですから。

 [そでもふれあわずに終わってしまう二人]

このような二人の旅人、あるいは、移動する人が登場するようなシーンは、我々がよく見慣れているものでしょう。(通勤や通学の途上等で)。

だから、別に違和感を感じるような関係ではないのです、この二人は。

でも、私にとっては、なにか[?}を感じてしまう、二人なのです。

[異常な出会い方をしている二人]、と言っていいのかもしれません。

一方は、転がっていく自分の笠を必死に追いかけており、他方は、それには全く無関心に、風に向き合っている、二人の顔の向きも、互いに眼中になし、の状態、右側の人の顔は右を向いている、左側の人の顔は左を向いている。

上記の[?]に見たように、風も笠と異常な出会い方(方向の違い)をしており、樹木はこの絵の中に異常な形をとって登場しています。そして、[空虚]さえもが、この絵の中に参加してきてます。

(右側に描かれている人の上の部分)。

我々が見慣れている

 [そでもふれあわずに終わってしまう二人]のシーン

の中に、上記に記したような様々な[?]の要素が投入され、異常な出会い方をしている、それがこの絵です。

不可解な要素が多いこの絵に、私の心は惹かれます。

 ありきたりのシーンと状況の中への、不可解な様々な要素の投入

このような方向で、広重画伯のこの絵の画相が、誰か他の画家によって継承されていっておれば・・・

もしかしたら、もしかしたら、日本にも、ジョルジョ・デ・キリコ画伯によって切り開かれた、[メタ・フィジカ(形而上)絵画]の世界が、花開いていたかも。

[キリコ 通りの神秘と憂愁]、[キリコ ある秋の午後の謎]、[キリコ 時間の謎]でネット検索すると、これに関連する情報が得られると思います。

------------------

[本1]中の図版解説において、吉田漱氏は、北斎画伯の『冨嶽三十六景 駿州江尻』からヒントを得たものと思われる、という趣旨の事を記しておられます。

------------------------

亀山で、ヤマトタケルノミコトに関連する事を記しましたが、四日市市内にも、ヤマトタケルノミコトに縁のある地名があるようです。

 「甚(いと)疲れませるによりて、御杖(みつえ)を衝(つ)きて稍(やくやく)に歩みたまひき。かれ、其地(そこ)を号(なづ)けて杖突坂(つえつきざか)と謂う。」

([古事記(中)全訳注 次田真幸 講談社学術文庫 講談社 発刊]より引用)

この坂について、ネットを使って調べてみました。

[杖衝坂]は四日市市采女町にあるようです。

[旧東海道 地図 石薬師] でネット検索して、石薬師寺付近の当時の街道のルートが分かるような情報を得て、そこから四日市の方向へ旧街道ぞいにたどっていくと、街道の南側に[伊勢国分寺跡]という表記が現れました。

そこから更に進み、内部川に到達しました。

国土地理院の [地理院地図] を使ってこのあたりの状況を調べてみた結果、内部川の南側の地域の標高が、内部川の川原一帯の標高より大きいことが、等高線の形より分かりました。

[地理院地図] とネット地図とを見比べながら、内部橋から石薬師寺方面へ引き返しながら、下記地点の標高を調べてみました。(クリックで指定する場所の違いにより、示される標高が下記の値と異なるかもしれません)。

 内部橋 12.2 m
 采女八幡社 33.4 m
 小谷 48.6 m

旧街道はこのあたりでは、急な坂道になっていたのかもしれません。

俳人・芭蕉さんはこの坂で落馬し、一句詠んだのだそうです。

 徒歩(かち)ならば  杖つき坂を  落馬かな

現地に句碑があるようです。[杖衝坂 芭蕉 句碑]でネット検索して、関連する情報を得る事ができました。

芭蕉さんの上記の句に触発(?)されて、私も一句、作ってみました。

 サイボーグ 三年坂(さんねんざか)を 10秒で (注)

俳句指導教室に投稿したら、評者から真っ赤に添削され、ダメダメ出しされて返ってきそうですね。

「季語が無いから、ダメ」と言われるかも。でも、芭蕉さんの上記の句にも、季節を感じさせるような語が無いのでは、と思うのですが。

[エディプスとスフィンクスの物語]、[騎馬民族征服王朝説]、それにこの[杖突坂]をミックスしたら、なにか新しいストーリー(フィクションであることは言うまでもなく)を作れそうな感じも、しないことはないのですが・・・ムリかな。

[騎馬民族征服王朝説(江上波夫氏による)]、これは発表当時、多くの人々に影響を与えたように記憶しています。私も当時、この関連の書(新書版だったと記憶)を買って読みました。

最近、『火の鳥 黎明編』(手塚治虫氏著)をゲットしたのですが、その中で、「高天原族(たかまがはらぞく)」のリーダー・「ニニギ」が馬に乗って登場しています。手塚氏はこの作中で、[騎馬民族征服王朝説]を紹介しています。

注:京都の三年坂等、清水寺付近の道においては、多くの人が歩いている事が多いですから、周囲の人々のペースにあわせて、ゆっくりと移動するのが、安全(自他共に)であろうと思われます。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の四日市の地において特定することは容易であるように思われて、実はそうではありませんでした。ネット地図で探してみても、[三重川]が見つからないのです。

絵の中には、[三重川]の文字列が書きこまれているのですが・・・。

ネットを使って調べてみた結果、[三滝川]が、古くは[三重川]ともいわれていた、ということが分かりました。

この川と旧街道が交わる場所をネット地図で調べてみて、分かりました。[四日市橋 バス停]付近です。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 四日市]、[行書東海道 四日市] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の四日市を描いた絵が、下記です。

四日市・日永村追分 参宮道(三重県立美術館)

『行書東海道』の四日市を描いた絵が、下記です。

四日市(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

13.四日市(よっかいち) 開栄橋(かいえいばし)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

この絵、いいなぁ・・・。

広重 東海道五十三次 細部に注目 (11) 石薬師

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 石薬師]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 石薬師 石薬師寺(知足美術館)

------------------

田園と寺院。江戸時代には、このような景観が、日本全国の多くの場所にあったのだろう、と想像します。

イネの実を取った後の残りの部分が(この絵に描かれているように、)、田んぼの中に置かれているようです。おそらく、天日で乾燥させて、何らかの形で使用するのでしょう。いったい何に使うのか? 興味があったので、[江戸時代 稲わら 用途]でネット検索して、それに関する情報を得ることができました。

------------------

この絵に描かれている現場の位置を、現代のこの地域内において特定することは、一見、容易と思われます。

絵の中に、[石薬師]と明記されているのですから。

ネット地図で、[鈴鹿市 石薬師寺]で検索すれば、その付近が表示されると思います。

しかし、問題は、いったいどちらの方角から(石薬師寺付近の)見て描いたものなのか、ということです。

[旧東海道 地図 石薬師] でネット検索すると、当時の街道のルートが分かるような情報が得られると思います。

旧東海道は、石薬師寺の東側にあったようです。

絵の中に描かれている道はといえば、まず、手前から寺の方へ伸びている道が目につきます。でも、これは、旧東海道ではなさそうです。[東海道]というには、あまりにも細すぎますし、旅人らしき人も、通っていません。

旧東海道はおそらく、絵の中の寺の前に、水平方向にあるのでは、と思われます。(家々に沿って)

となると、これは、

 石薬師寺の東側から見た景観

ということになるのでしょうか。

(上記の想像は、江戸時代から現代に至る間、寺と旧街道との位置関係が変化していない、ということを前提に置いて行っています。この前提がくつがえると、想像はゼロからやりなおさなければなりません。)

遠景に、数個の山が描かれています。石薬師寺付近から、実際に、このような山が見えるのかどうか? 石薬師寺の東側から見て、このような形の山が見えるのかどうか?

ネット地図で調べてみたところ、石薬師寺は、JR関西本線の[加佐登駅]と[河曲駅]との中間のあたりにあることが分かりました。

次に、国土地理院の [地理院地図] を使って調べてみました。

念のため、寺の東側も調べてみましたが、平地と海岸があるだけで、この絵に描かれているような高い山は無さそうです。

寺の西側には、鈴鹿山系の山々があります。でも、はたして、このような形に見えるのかどうか、までは分かりません。

ここで私は、東海道五十三次シリーズの京都の三条大橋を描いた絵を思い出しました。

あの絵においては、橋の南東方向に、ありえない山が描かれていました。

で、その三条大橋の絵(下記)の中に描かれている、遠くの山々の形、なんとなく似ているような感じなんですよねぇ、この(石薬師寺の)絵のそれと。

東海道五十三次之内 京師 三条大橋(知足美術館)

もしかしたら、もしかしたら、

 広重画伯は、自らの発想の翼がはばたくままに、架空の山々を描いた

ということなのかもしれません。

(現地に行って実際に自分の眼で、山の見え方を確かめたいところです)。

でも、この絵の中にこの山がないと、なんだかサビシイなぁ、という感じはします。

この絵、なにかなつかしい風景だなぁ、と私は感じるのです。

田んぼ、道、寺の建物、その背後に山。この4点セットが、私にとっての[なつかしさを感じる風景・A]を構成する要素なのだろうと思います。

([風景・A」としたのは、これの他にも、[なつかしさを感じる風景]の[セット]があると考えられるからです。例えば、[小川、林、橋]の3点セットとか。この[セット]は、映画の世界でいうところの[セット]と相通ずる面があります。)

いったいなぜ、この[セット]がそろっているこの絵を見る時、私は[なつかしさ]を感じるのか? それは、私が生まれた地の景観と、この絵に描かれている景観との間に、ある種の共通点があるからでしょう。

私の生家の周辺には、田んぼが広がっていました。田んぼの彼方には低い山があり、生家の近くからその山へ至る道がありました。山のふもとに寺の建物はありませんでしたが、農業を営む人々の家々がありました。

おそらく、私の心の中においては、上記の4点セット[田、山、道、家]は、[なつかしさを感じる風景]のプロトタイプみたいなモノを構成しているのでしょう。

(ここでは、[プロトタイプ]という言葉を、認知科学の分野で用いられている意味で使っています。[ロッシュ プロトタイプ]でネット検索すると、関連する情報が得られると思います。)

[原風景]という言葉があるようです。

観光関連のコンテンツの中で「これぞ、日本の原風景!」というようなナレーションが行われているのを耳にするのですが、[原風景]という言葉(概念)の定義や、考察、検証等が一切行われないままに、なにかワケがわからないうちに、この言葉だけが拡散されていってしまう、という所に、現在の日本のマスメディアの危うさがあるのでは、と思います。

[原風景]という言葉の意味が、[懐かしさを感じる風景]、あるいは、[ノスタルジーを感じる風景]という事であれば、それは極めて私的なものになるのでは、と、まずは、考えられます。

上記の[4点セット]は、私にとっては[原風景]であるのかもしれないが、他の人にとってもそうであるのかどうかは、分かりません。

幼児時代の生活環境というものは、その人にとって絶大な影響力を持っていると思われます。

最近、[高所平気症]という言葉があることを知りました。高層ビルの中で育った幼児は、高い所への恐れがない(だからあぶない)、という事なのだそうです。

そのような環境の中に生まれ、育った人にとって、上記の[4点セット]は、はたして、[原風景]と言えるものなのかどうか、(懐かしさを感じる風景なのか?)という疑問が生じます。

生まれ育った場所の周囲の景観が多種多様である現代の日本において、広範囲の人々に共有されている[原風景]が、もしも存在するのであれば、それは、

 [教育]によってもたらされたもの

であるのか、あるいは、

 日本人の(あるいは人類の)DNAの中に刻印されたもの(遺伝的要素)

であるのか

ということになるのではないでしょうか。

(ここでの[教育]とは、学校において行われるものに限定されません。[育児]の現場において行われる行為も含みます。)

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 石薬師]、[行書東海道 石薬師] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の石薬師を描いた絵が、下記です。

石薬師(三重県立美術館)

『行書東海道』の石薬師を描いた絵が、下記です。

石薬師(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

12.石薬師(いしやくし) 西福寺(さいふくじ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

とても心ひかれる絵。門から中へ入ってみたくなります。

広重 東海道五十三次 細部に注目 (10) 庄野

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 庄野]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 庄野 白雨(知足美術館)

------------------

この絵においては、横長の三角形が絵のベース(基礎)の形になっているのでしょう。3個の頂点のうち、2個は絵の右上角と右下角に、1個は、絵の左端中央に設定されています。(その三角形の)辺は、地面のラインと竹のライン、そして、絵の右端線によって構成されています。とても分かりやすい構図だと思います。

(「分かりやすい」という言葉を、絵を見た直後、瞬間的に(極めて短時間の中に)、その図形の存在を鑑賞者が感じ取ることができる、という意味で使っています。)

植物が描かれている部分は、いくつかの部分に分けることができるようです。一番遠くにある植物群(もしかしたら竹でしょうか)と、その手前の植物群、双方ともに細部までは描かれていません。

そして、その更に手前に、ある程度細部まで描かれている植物群。更にその手前(家よりも手前)に、また植物群、そして、人々よりも手前に、またまた植物群。

(写真撮影の用語を用いるならば、絞り値を小さい値に設定した後、手前の植物にピントを合わせて、というカンジでしょうか。)

これらの植物群の配置が、遠近感を醸しだしていると思います。

2次元の絵の表面に、色を置いていくだけで、3次元の奥行(遠近感)を感じさせることができる・・・絵を描く人って、スゴイナァと思います。

植物を描いた部分と、人間を描いた部分との色の対比等、色の置き方もスゴイなぁと思います。

------------------

 「でもねぇ、この絵の中には、なにか、自分の心に響いてくるモノが、感じられないんだ」

と、このように感じる方もおられるかもしれません。

ターナー画伯が描いた風景画が好きだ、という人の中には、

 「この絵、もうちょっと微妙な空気感みたいなものを、出してほしかったなぁ」

と思われる方も、もしかしたらおられるかもしれません。

ムンク画伯が描いた『叫び』に、こころひかれる、ピカソ画伯が描いた『ゲルニカ』に、こころ揺さぶられる、という人の中には、

 「この絵、心に響いてこないなぁ」

と思われる方も、もしかしたらおられるかもしれません。

 白雨っていったいなに? にわか雨? 突然雨が降り始め、みんな走ってる? で、それがいったい、なんだというのか? にわか雨なんか、すぐに止んでしまうんだろう。止んでしまったら、みんなまた、いつもの生活に戻る、ただそれだけのことじゃないか。

てな感じですかねぇ。

 2014年の年末までは、この絵、全く自分の心に響いてはこなかったんだ。ところが、ある事件があって、それ以来・・・。

というようなケースも、あるかもしれません。

人間の心は生き物です、日々、変わっていきますよね。

(コロコロ変わるから、[ココロ]というのかな?)

私はといえば・・・この絵は、私の心には、(現在のところ)、ヒビイテきてます。

で、絵の中で人間がもっと小さいサイズで描かれていて、さらに広い範囲の風景が描かれていたならば、もっとヒビイテきたのでは、と想像します。

(庄野の)絵の中に人間が一人も描かれていなくて、植物と地面と雨だけが描かれていたならば、更にヒビイテきてたかもしれません。

これはもう、自分の好み、としか言いようがありません。

これとは逆なふうに感じる方もおられるかもしれませんね。

 人間をもっと大きく描いてほしかった。体表から流れ出る汗が、雨水に融合して流れていく様までをも、表現してほしかった

というように。

 私には 私の好みがあり あなたには あなたの好みがある
 私には 私の感じ方があり あなたには あなたの感じ方がある
 私には 私の感性があり あなたには あなたの感性がある

最近、ひさしぶりに、『世界に一つだけの花』(作詞・作曲・編曲 槇原敬之氏)を聴きました。

この歌の中で、一つの問いかけが、下記の歌誌によって提起されています。

 それなのに僕ら人間は
 どうしてこうも比べたがる?

この問に対する解答までをも、この歌は暗に提示しているように、私には思われます。

 困ったように笑いながら
 ずっと迷ってる人がいる
 頑張って咲いた花はどれも
 きれいだから仕方ないね
 やっと店から出てきた
 ・・・

莫大な富というモノを持っている人の数は、それほど多いとは思えません。多くの人は、限られた予算の中で、花を買うしかないでしょう。

限られた予算の中で花を買う、となると、「選択と集中」が必要になってきます。いったいどの花を買うべきか、という選択。その選択に入った花は、「その人が抱え」ることとなり、選択にもれた花は、店の中に存在し続けます。

ここで、「花」を「絵画」に、「店」を「画廊・美術館」に置き換えてみましょう。

莫大な富というモノを持っている人の数は、それほど多いとは思えません。だから、多くの人は、限られた予算の中で、絵画鑑賞を行うしかないでしょう。(美術館に入るに際しては、ほとんどの場合、入場料の支出が必要でしょう。)

美術館ではなく、画廊に入って絵画を鑑賞するのであれば、ほとんどの場合、入場料の支出は必要ないでしょう。

でも、それでも、[時間]が問題となってきます。

莫大な[時間]を持っている人の数は、ゼロでしょう。全ての人間は[時間]の前では平等です。1日の中に25時間を持っている人がいる、というような事は、いまだ聞いた事がありません。(言葉のアヤとしてでなく、正味の物理的な時間)。

すべての美術館と画廊を、新しい展示が始るごとにめぐり、世に発表される全ての絵画作品を鑑賞しつくす、というような事は、どこの誰にも、不可能な事でしょう。それだけの時間を持つ人は、存在しないと思うのです。

(京都市内に限定すれば、もしかしたら可能なのかもしれませんが、日本国中全土のすべての美術館と画廊、となると、それはムリというものでしょう。)

手持ちの限られた富と時間の中では、自らが鑑賞する(できる)絵画作品は、限られてしまいます。その結果、自らが鑑賞した絵画作品は、選択された範囲中のモノになってしまうでしょう。

 だから 僕ら人間は
 どうしても 比べたがる
 一作一作違う作品なのに その中で
 「ベター」のモノを 選びたがる

 そうやって選んだ作品たちに
 画廊や美術館に 会いに行く

このような現状なのではありますが、でも、店の中にある「世界に一つだけの花」に、光が当たる可能性を増やしていく方法は、あると思います。

絵画作品の良しあしという事に関して、他人がなんと言ってようと、世間がなんと言ってようと(注)、

 そんなこと、自分には関係ネ(無)ェ

 自分は自分の好みだけでもって、この絵画作品に、あの絵画作品にと、向きあっていくだけのことよ

このような考えを持つ人の人数が増えていけばいくほど、「世界に一つだけの花」に光が当たっていく確率は増大していくのでは、と思います。

「自分の好み」というものは、個々の人間それぞれ、とても多様でしょうから。

100人の人間がいれば、100通りの「自分の好み」が存在する。よって、100人の人間が、「自分の好み」だけでもって、絵画との出会いの場を選択していけば、「世界に一つだけの花」に光が当たる(その絵画作品が、それを鑑賞する人と出会う)確率が大きくなるでしょう。

1000人の人間がいれば、1000通りの「自分の好み」が存在する。従って、1000人の人間が、「自分の好み」だけでもって、絵画との出会いの場を選択していけば、「世界に一つだけの花」に光が当たる確率はさらに大きくなるでしょう。

注:[世間]という人格は存在しないでしょう。(そのような氏名を持つ人に、いまだかつて出あったことがありません)。

 「世間は、このように言っている」

という表現の意味するところは、

 「地球上に存在する(あるいは、存在していた)人間Xが、このように言っている(あるいは、このように言っていると、きいている)」

という事でしょう。

------------------

[広重 東海道五十三次 細部に注目 (6) 土山] の中で、私は以下のように書きました。

-------
絵の中に描かれている雨の強さを推量するための、もう一つの手がかりがあると思います。(絵の下部に描かれている)人々の首と背中(曲げられている程度)です。

霧雨よりも強く、夕立や、台風がもたらす強雨よりも弱い雨、そのような降雨の下を、傘を持たずに歩いていく人間の首と肩は、(無意識の中に)このような感じになるのではないでしょうか。

(この点については、ここから更に先に(名古屋方向へ)行ったある場所において、(その場所を描いた絵により)再び確認することになりましょう)。
-------

その「ある場所」が、すなわち、ここ、庄野です。

この絵と、土山を描いた絵とを比較してみたいと思います。

[土山]では、絵の中に描かれている雨の強さを推量するための、一つの手がかりとして、(絵の下部に描かれている)人々の首と背中(曲げられている程度)に注目したのでした。

 「霧雨よりも強く、夕立や、台風がもたらす強雨よりも弱い雨、そのような降雨の下を、傘を持たずに歩いていく人間の首と肩は、(無意識の中に)このような感じになるのではないでしょうか。」

それに比して、庄野では人々はどのような姿勢であるかといえば、2枚の絵を比較してみれば一目瞭然ではないでしょうか。庄野の人々の前傾の角度の大きさは、土山の人々のそれの比ではありません。首のみならず、背中までもが、湾曲しています。

人々の背中からは、

 うわっ マイッタなぁっ

というような感覚が噴出しているようです。

人々のこの様を比較してみると、庄野の雨は、土山の雨よりも、激しく降っているのであろう、ということが想像されます。

雨の強さを示唆するもう一つのポイントが、雨滴の線です。

土山の絵の中の雨滴の線に関して、私は、「これ、なんかヘンだと思う」と記述しました。

垂直線、右から左への斜線、そして、左から右への斜線の混合。

庄野の絵では、どうでしょう?

土山の絵でのような、異種(異角度)混合はないようです。でもよく見ると、微妙な混合があります。部分部分によって、雨滴の線と地面の線との交差角度が微妙に異なっているようです。

いったいなぜ、このように設定したのでしょう?

雨滴の線が全て同じ角度だと、絵が単調になってしまうので、ということなのかもしれません。

このようにした方が、雨の荒々しさがよりうまく表現できるから、ということなのかもしれません。

よくよく見てみると、雨滴の線の先端は、地面に突き刺さっているようです。雨滴の地面からの跳ね返りは一切描かれていません。このように描く方が、雨の激しさをよりうまく表現できるのかもしれません。

 この雨は、地面に突き刺さっていってるんですよね。

土山では、雨滴線の密度は一様。庄野では、密度は一様ではないようです。これも、雨の激しさを表出するための仕掛けであるのかもしれません。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の庄野の地において特定することは、不可能でしょう。めじるしとなりうるようなモノが描かれていないから。

竹が生えている所は、開発が進んで里山エリアが減少した現代においてさえも、方々にあります。ましてや、画伯が活躍しておられた時代、竹はそこら中にあったでしょう。もしかしたら、江戸近郊のどこかで、竹林のスケッチをして、それをこの絵に活用したのかも、というような事まで想像してしまいます。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 庄野]、[行書東海道 庄野] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の庄野を描いた絵が、下記です。

庄野(三重県立美術館)

『行書東海道』の庄野を描いた絵が、下記です。

庄野(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

11.庄野(しょうの) おこん茶屋跡(おこんちゃやあと)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (9) 亀山

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 亀山]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 亀山 雪晴(知足美術館)

まず気になるのが、城の下にある斜面の傾斜。この城、断崖絶壁の上にそそりたって、というような感じがします。(岐阜城や犬山城を連想しました。両城とも、高い所にあります。)

このあたりの標高を調べてみました。

[亀山城跡]は、亀山市本丸町にあるようなので、国土地理院の [地理院地図] を使用して、付近の標高を調べてみたら、アバウト次のような数値でした。(マウスクリックする場所により、細かい数値の違いがあることを、ご理解ください。)

 城跡:78m
 市役所:78m
 本丸町の池の周囲:69m
 JR亀山駅:53m

この高低差をどうみるか、ですが・・・。

[本1]中の吉田漱氏の図版解説には、

 「この風景はかねて関心があったが、実際に亀山駅を下り、城に向かうと、城は台地の先端にあって、よく地形を利用していることもわかる。下からゆけばかなりの坂を上り、本丸に達する。いまは多門櫓が残るのみだが、櫓の直下に立つと、こうした石垣の傾斜も実感できそうである。家老屋敷の門や長屋にも戻り道でゆき当たった。」

とあります。

機会があれば、現地に行って、城の周辺の地形を自分の眼で見てみたいと思います。

------------------

この絵の構図、とってもスゴイんだと思います。

右上から左下へと走る斜線が多用されている部分が大きな割合を占め、その部分と、絵の左下部分(家々が描かれている)との対比も鮮やかだし、雪の朝のシンとした静寂さも画面に込められていると感じます。

でも、この絵、なぜか、私の心には、ヒビ(響)イテこないんです。

絵の中央に描かれている背の高い樹木(松でしょうか)の形をじっと見ていると、なにか、盆栽の松のように見えてきてしまうんです。この樹木だけではありません、その左側の樹木、その右側の樹木、それら全てが・・・。

絵全体が、なにか、ツクリモノのような、箱庭の中の世界を描いたような感じのモノに、見えてしまうんです。

なにか、演出過剰な舞台を見ているような感じです。演劇がいままさに演じられている、その舞台の奥から、監督の音声が聞こえてきているような・・・俳優たちに演技指導を行っている監督の声が・・・。

この絵の中には、人間が小さいサイズで描きこまれています。

左下の方から順に見ていくと、駕籠をかついでいるような人がいて、歩行しているような人がいて、そして、その右上・・・?

馬ですかねぇ? どうもよく分かりません。

この箇所で、私の心の中の[鑑賞の車]は、急停止してしまいました。

この絵、無人状態で描かれていた方がよかったのでは、と思います。でもそれは、私の個人的な感性によるものでしょう。

私は風景写真を撮影するのが好きなのですが、撮影の際には、できるだけ人間が画像中に写しこまれないようにしています。

でも、風景写真であろうとなんであろうと、写真の中には人間がいる(写っている)方がいい、という人もおられるでしょう。

このような好みの違いは、人間それぞれの感性の違いゆえ、というより他はないでしょうね。

------------------

この絵の中の白い部分は、紙の地の色そのまま、すなわち、着色されていないのかもしれません。

2015年7月のNHK日曜美術館で、円山応挙画伯の作品について解説されていました。

ある絵(雪と松を描いた作品だったかと記憶していますが)の雪を描いた部分について、「色が塗られていない、紙の地の色のままで、雪が表現されている。」というように解説されていたと記憶しています。

------------------

亀山市には、ヤマトタケルノミコトに関連する場所があります。[能褒野王塚古墳]です。

[のぼの]で亡くなった後、ミコトの魂が白鳥に化して、西方に飛んでいった、その鳥が止まった場所に、人々は陵を築いた、というような記述が、古事記にも日本書紀にもありますが、古事記の記述の方が、私は好きです。

ミコトの妻子たちが、その白鳥を追っていくシーンは、下記のように記述されています。

 「ここにその后また御子等(みこたち)、その小竹(しの)の苅杙(かりくひ)に足き(足+非)に破れども、その痛きを忘れて哭(な)きて追ひたまひき。」

( [本3] より引用)

シューベルトの歌曲集に「白鳥の歌 (Schwanengesang)」というのがあります。彼が亡くなった後、未発表の曲を曲集とし、このような名前を付けて出版したのだそうです。

イソップ物語に「白鳥の歌」に関連する話があるようです。[白鳥の歌 イソップ]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

ヤマトタケルノミコトのこの[白鳥伝説]と、上記のイソップ寓話、そのルーツは共通の所(人類史上の早期段階)にあるやいなや? 考えスギでしょうね。

この[白鳥]、 [本3]には、「八尋白智鳥(やひろしろちどり)」とあります。スワンとは別種の鳥なのかも。

[本3] :古事記(中)全訳注 次田真幸 講談社学術文庫 講談社 発刊

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 亀山]、[行書東海道 亀山] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の亀山を描いた絵が、下記です。

亀山(三重県立美術館)

『行書東海道』の亀山を描いた絵が、下記です。

亀山(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

10.亀山(かめやま) 城跡(しろあと)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (8) 関

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 関]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 関 本陣早立(知足美術館)

この絵では、以下の箇所に注目しました。

(1)3本の棒状の物体(絵の左側と右側にある)

上記・[東海道五十三次之内 関 本陣早立(知足美術館)]には、「二本の槍と札棹」とあります。

[札棹]とはいったいナニモノなのかと思い、ネットで調べてみたけど、分かりませんでした。

(2)左側の2本の棒状の物体と交差して描かれている、水平方向に伸びる棒状の物体

[本1]中の吉田漱氏の図版解説には、

 「玄関にすでに駕籠が用意され、笠の緒をしめたり、一服つけたり駕籠かきがすでに待ち構えている。」

とあります。この物体は、駕籠の一部のようです。

駕籠は屋内にあります。屋内で駕籠にのりこみ、そのままかつがれて屋外へ、というのが当時のスタイル(大名が駕籠に乗る際の)だったのかも。

(3)幕に描かれている紋

[本1]中の吉田漱氏の図版解説には、

 「大名の定紋入りの幔幕がはりめぐらされ、道中姿の武士が門にみえる。」

とあります。このように、大名が本陣に宿泊する際には、そこに自家の紋入りの幔幕をはったのでしょう。大名の人々は、プライドが高かったのでしょうか。長い旅の道中に、定紋入りの幔幕という荷物を持参するのですから。

 [大名家の家紋]でネット検索してみたのですが、このような形のものを見つけることができませんでした。

------------------

3本の棒状の物体(絵の左側と右側にある)が描かれている位置は、この絵を3分割する(水平方向に)位置、すなわち、左端からアバウト1/3の位置と、右端からアバウト1/3の位置です。

右側の物体と地面との交差角はアバウト90度ですが、左側のそれはそのようにはなっていません。

これは単なる私の想像にしかすぎませんが、広重画伯は、この3本の物体をここに配置することにより、絵全体の構図を整えようとしたのでは、と思われます。

左側の物体を描く際には、[計算]が行われていたであろうと、想像します。

[計算]といっても、画伯が電卓を叩きながら絵を描いた、という意味ではありません。

絵の中に描きこむこの2本の物体と地面との交差角度を、様々な度数に設定して描いてみて、その結果を見て、最適の角度を決定し、その角度でもって最終的に描く、というような試行錯誤的な作業です。

このような作業を、一瞬のうちに脳内でやってしまったのかもしれません、あるいは、下絵を何枚か描きながらやっていったのかもしれません。

ただし、[最適の角度]といっても、それは、広重画伯の[最適]でしかない、ということになるのかも。この絵を見る人には、もっと別の角度が[最適]と感じられるかもしれません。この絵を見る人Aには、角度θ(シータ)が[最適]と感じられ、この絵を見る人Bには、別の角度η(イータ)が[最適]と感じられるかもしれません。

もしもそうであるならば、これには、[正解]なんかない、ということになるんでしょうね。[角度θが[最適]]と感じるのが正解であり、別の角度が[最適]と感じられたならば、それは不正解なのだ、なんてことではない、ということになるんでしょうね。

この絵を見る人Aには、角度θが[最適]と感じられてしまい、この絵を見る人Bには、別の角度ηが[最適]と感じられてしまう、もしもそうであるのならば、これはもうどうしようもない事でしょう、そのように感じられてしまうのですから。10人の人間がいれば、10通りの個性が存在するように、100人の人間がいれば、100通りの感性が存在する、とういうことになるのでしょう。

3本の物体が無い(絵の中に描かれていない)方がいい、と感じる人もいるかもしれません。これらが無い方が、開放感が感じられる、という人もいるかもしれません。

3本の物体はあった(絵の中に描かれている)方がいい、と感じる人もいるかもしれません。これらがある事により、ガッシリとした構成感を感じられる、という人もいるかもしれません。

もしもそうであるならば、1000人の人間がいれば、1000通りの感性が存在する、ということになるのでしょう。

私は・・・うーん、そうですねぇ・・・この3本の物体、無い(絵の中に描かれてない)方がいいように感じます。この物体が絵を分断してしまっている、絵全体の一体感を減じてしまっていると感じます。特に左側の2本。今まさに、緊密なコミュニケーションを行っていると思われる二人の間に、割って入ってしまっています。この二人の相互バインディングを減じてしまっているように、感じられます。

あなたはどのように感じられますか?

------------------

背景にある空、その手前の樹木、屋根、絵の右側にある樹木とその根元付近の地面、これらは、暗い灰色で描かれています。

まだ暗い時間帯での旅立ち、その情景が、みごとに表出されていると思います。

左側と中央部に人々を分散配置し、中央部の人々を遠くに、左側の人々を近くに配置したこの設定もすばらしいと思います。

(絵の中に描かれている)左から2番目の人と、それに相対している人との間に、どのような会話が交わされているのか、そこまでは分からないけれど、いかにもそれ(旅立前の準備を整えるためのコミュニケーション)らしい、という感じがします。2人の指が、その感じを更に増強していると思います。

遠くにいる人々の場所から、近くにいる人々の場所から、彼らの声が聴こえてきそうに感じます。

そして、私がこの絵に感ずる最大の[?}が、幕と中央部の地面が、高明度の色でもって描かれているという点です。

このような光景は、現実にはありえないでしょう。

街灯が存在してない時代です。空はまだ暗いのに、いったいなぜ、この部分だけが明るいのか?(いったいなぜ、この部分だけを明るい色にしたのか?)

ここで私は、ある種の光景を連想しました。それは、演劇の舞台上のそれです。全体が暗い中に、舞台上のある範囲だけが、ライトの光に照らされて明るい状態になっている、という光景です。

もしかしたら広重画伯は、あの舞台の照明にヒントを得て、このように描いたのでは、というような事を思いました。

舞台といえば、この時代だから、能、狂言、歌舞伎のそれでしょうか。当時の舞台の照明の設定は、どのようなものであったのでしょう? 照明を使用していたのでしょうか? 電光による照明は、絶対にありえないはず、となると、松明を使用していたのでしょうか。

光線を巧みに用いた画家といえば、レンブラント画伯、小林清親画伯を思い浮かべるのですが、彼らの光の用い方と、広重画伯のこの絵とでは、その方法が異なっていると思います。

([レンブラント 夜景]、[レンブラント 作品]、[小林清親 本町通夜雪]、[小林清親 作品]、[小林清親 光線画] でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

そして、私がこの絵に感ずるもう一つの[?}が、絵の下部。青系の色でもって描かれています。

ここに川があるはずがない、もしも川があるのであれば、絵の左側の方に描かれている、座っている人は、川水の中にいることになってしまうでしょう。

この部分がもしも、灰色で描かれていたら、どのような感じになっていたでしょうか?

ちょっと、うっとぉしいような感じの絵になってしまうかもしれません。青色がここに置かれていることにより、夜明け前の清澄感が醸成されているように感じます。

------------------

関に関して、[亀山市 関宿の歴史]、[亀山市 関宿本陣 川北家]でネット検索を行い、様々な情報を得ることができました。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 関]、[行書東海道 関] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の関を描いた絵が、下記です。

関(三重県立美術館)

『行書東海道』の関を描いた絵が、下記です。

関(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

9.関(せき) 國境連山(こっきょうれんざん)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

この絵、もっと大きなサイズで鑑賞したいなと思います。

2017年1月 2日 (月)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (7) 阪之下

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 阪之下]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 阪之下 筆捨嶺(知足美術館)

私の心に対して、この絵はあまり響いてはこないように感じます。なにか、山岳の風景がただ描かれているだけ、という感じがします。

そして、[?]な人が、この絵の中に一人います。

崖の上に二人。一人は立ち、一人は座っています。二人は遠方を見ているようです。

座している方の人は、絵の左の方に描かれている山(これがおそらく、筆捨嶺)を眺めているようです。でも、立っている方の人は、別の方角を見ているのです。

上記の画像では、画像サイズの関係で、それを確認することは容易ではないかもしれません。でも、[本1] で見れば明瞭に分かります。この人の眼は、山がある方向ではなく、絵の左上の方向に向けられているのです。その右手は、眼に入ってくる光量を減じるために、眼の上にあげられています。(陽光がまぶしい時に、我々もこのような動作をやっていると思います。)

この絵の主役は、あの山(筆捨嶺)と、この立っている人、この両者だろうと思うのですが、一方の主役(人間)が、もう片方の主役(山)に対して無関心であるような感じがして、主役どうしの関係性が希薄であるような感じがして、違和感をおぼえてしまいます。2個の主役の間のバインディングを全く感じ取ることができないのです。

この人が、あの山の方を眺めているように描かれていれば(そうなると、頭部は後頭部だけが描かれることになるのでしょうが)、これとは異なる印象を受けていただろうと思います。

------------------

この絵に描かれている場所を、[阪之下]という文字列をもとに調べてみました。鈴鹿峠の南側にあるようです。

[阪]と[坂]とは、同じ意味を表す漢字であるようです。([阪と坂]でネット検索して、その関連の情報を得ることができました。)

今は、[大阪]と書く[おおさか]は    昔は[大坂]と書かれていたようです。

以降、[阪之下]ではなく、[坂下]と書くことにします。

------------------

前回発表のコンテンツで述べた[土山]から、この[坂下]に至る間には、鈴鹿峠があるようなので、ネット地図を使用して、そのルートをたどってみました。

まず、[旧東海道 地図 土山] でネット検索して、当時の街道のルートに関連する情報を得ました。それによれば、土山・鈴鹿峠間ではおおむね、国道1号線のルート = 旧街道のルート と思っておいていいようです。

 はっこねっの やっまわぁ てんっかっの けんっ

ではじまる

『箱根八里』(作詞:鳥居忱 作曲:滝廉太郎)

の中に

 よぉぉちょぉの しょぉけいは こぉけぇ なぁめらかぁ

という節がありますが、これは、「羊腸の小徑は 苔滑か」ということなのだそうです。

(学生の頃、歌誌の意味もなにもわからないまま、歌ってました)

ようは、細い道が、腸のようにまがりくねっているのだぞ、ということ。なぜ、まがりくねっているのか。急勾配なので、まっすぐな道をつけれないからでしょう。

ネット情報で見る限り、土山から鈴鹿峠への間の国道1号線も旧街道も、[羊腸の大徑]にはなっていないようです。ということは、このルートはそれほどの急勾配ではないと想像されます。

峠を越えて三重県側に入ると、状況は激変するようです。

国道1号線は大きくカーブしています。しかし、旧街道の方は、このような曲線状になってはいないようです。

曲線状の自動車道が敷設されている場所に、ほぼ直線状につけられている道、というのですから、急勾配になっているだろうと想像できます。

鈴鹿峠越えの道は、滋賀県側はゆるやかな勾配、三重県側は急な勾配、といえそうです。京都から江戸へ向かう旅人には、この峠はそれほどシンドイ所とは感じられなかったのではないでしょうか。

国土地理院の [地理院地図] を使用して、鈴鹿峠の周辺地の標高を調べることが可能です。

これを使って、下記の場所の標高も調べてみました、なかなかおもしろいです。

下記、鉄道のスイッチバックのある場所です。

 箱根登山鉄道 太平台駅・宮ノ下駅・間(神奈川県)
 JR豊肥本線 立野駅・付近(熊本県)
 JR篠ノ井線 姥捨駅・付近(長野県)

下記、山のぼり関連情報でよく目にする場所です

 富士山五合目簡易郵便局(山梨県)・富士山頂・間
 明神池(長野県)・涸沢・奥穂高岳山頂・間

ある地点Aから、ある地点B(Aよりも高い所)をながめた時に、両地点の標高差が大きければ、「あそこまで登っていくのはタイヘンだろうなぁ」というような感覚が生じるのではないでしょうか。

これを[高所ゲンナリ感](注1)と呼ぶことにします。

地点Aと地点Bとの標高の差が大きければ大きいほど、[高所ゲンナリ感]は大きくなるでしょう。

地点Aと地点Bとの直線距離が大きければ大きいほど、[高所ゲンナリ感]は減少するでしょう。(遠くに見える山は、わりとラクに登れそうな感じがする)。

もしかしたらこの感じの強度は、以下のような数式で表現することができるのかも、なんてことを思いました。これは、単なる思いつきレベルのものに過ぎませんので、そのつもりでご覧ください。これを確立するためには、膨大な作業が必要となるでしょう。

 地点Aから、地点Bを見た時の、[高所ゲンナリ感]の強度
   = C × ( Hd × Hd ) ÷ D

ここで、
 Cは、何らかの値をとる定数
 Hd = Bの標高 - Aの標高
 D = AとBとの直線距離

大阪市に[天保山]という、標高4.53mの山があるのだそうです。

この山の山頂を地点Bとし、そこから100メートル離れた地点を地点Aとします。地点Aの標高はゼロであるとします。

すると、

 Hd = Bの標高 - Aの標高 = 4.53 - 0.0 = 4.53
 D = 100
 Cの値をとりあえず、1.0 としておきましょう

かくして、

地点Aから、地点Bを見た時の、[高所ゲンナリ感]の強度
 = C × ( Hd × Hd ) ÷ D
 = 1.0 × ( 4.53 × 4.53 ) ÷ 100
 = 約0.2

このような簡単な式ではダメなのかもしれません。もっといろいろな関数(三角関数、指数関数、対数関数、ロジスティック関数等)を駆使して表現しなければならないのかも。

鈴鹿山脈に関しては、[鈴鹿山脈 西側 東側]でネット検索して、情報を得ることができました。

鈴鹿峠の西方に、上野盆地(伊賀盆地)があります。古代の行政区分では、この地域は[伊賀国]に含まれていました。

(徳川家康公の「神君伊賀越え」でも知られている地です)。

むかしむかし、琵琶湖はこの伊賀の地にあった、という学説があるようです。[琵琶湖 伊賀盆地]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

伊賀といえば、忍者。忍者といえば、甲賀(滋賀県)も。

伊賀と甲賀とは、近い位置関係にあります(ネット地図で確認できます)。

忍者といえば、これら両地域の名前が出てくるようですが、他の地域にも忍者はいたようです。

[忍術 流派]、[忍術 伊賀]、[忍術 甲賀]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

注1:山登りを好まれる方は、これを[高所高揚感]と読み替えてください。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 坂之下]、[行書東海道 坂之下] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の坂の下を描いた絵が、下記です。

坂の下(三重県立美術館)

『行書東海道』の坂の下を描いた絵が、下記です。

坂の下(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

この地を、池田遙邨画伯はどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

昭和東海道五十三次 8.坂之下(さかのした) 鈴ヶ峠(すずかとうげ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

この絵は、私の心にググゥット響いてきます。赤色の葉が描かれているから、晩秋の風景でしょうか。この絵も、もっと拡大して鑑賞したいなと思います。

広重 東海道五十三次 細部に注目 (6) 土山

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行

[広重 東海道五十三次 土山]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 土山 春之雨(知足美術館)

------------------

この絵の中でまず「?」を感じたのが、絵の下の方に描かれている一行の服装です。

 傘も持たずに、蓑(みの)も着ずに、雨の中を?

私、江戸時代のレインコートといえば、蓑なんだろうと、今まで思いこんでいたので、このように思ってしまったのです。

この絵の中で人々が着用しているのは、[合羽]というものであるようです。[江戸時代 雨具 合羽] でネット検索したら、情報がありました。

------------------

これで、[?]の一つは解決したのですが、もう一つの[?]があるのです。こちらの方は難問です。

絵の中に描かれている、[雨滴の線]にご注目ください。私、これ、なんかヘンだと思うんですよ・・・。

(雨の滴は、線のような形はしていないと思うのですが、上から下へ動いているので、人間の目には(残像により)、線の形のように見える、それをそのまま、絵の上に[雨滴の線]として表現したのでしょう。)

垂直線が多数ある、これはわかります。無風状態の中であれば、雨滴は垂直に落下してくるでしょう。

でも、よくよく見ると、斜線で描かれている[雨滴の線]もあるじゃないですか。それも、右から左への斜線もあれば、その逆、左から右への斜線もありますよ。

このような、雨滴の落下の様は、物理的にありうるのでしょうか?

右から左へ風が吹いていれば、雨滴は右から左へ走る斜線状の経路を経て落下してくるでしょう。左から右へ風が吹いていれば、雨滴は左から右へ走る斜線状の経路を経て落下してくるでしょう。無風状態であれば、垂直線状の経路を経て落下してくるでしょう。

この絵の現場の風向、いったいぜんたい、どないなってんねん?(どうなってんだぁ?)

いったいなぜ、広重画伯は、このような物理的につじつまが合いそうにない雨の描き方を行ったのでしょう?

この時代の日本の浮世絵の世界に、写実主義なるモノは、存在してはいない、これはまず確かなことでしょう。画家は、雨が実際にどのように落下するのか、というような事は考慮せずに、自分の好きなように描いてよかったのでしょう。

広重画伯がどのような事を考えて、このような描き方をされたのか・・・以下のように、3通りの推理をしてみました。

(1)推理その1 時間差・イメージ合成

絵画よりも写真(撮影)の方で説明した方が分かりやすいと思います。以下のような、仮想の撮影現場を想定してみてください。

雨が降っているある日の9:50に、撮影者は、カメラをしっかりと装着した三脚を室内に置き、窓を開き、カメラを窓外に向けます。シャッタースピードは低い値に設定しておきます。

10:0に、窓の外で降っている雨を撮影します。この時、無風状態であったとしましょう。落下する雨滴の経路は、垂直線状に撮影されることでしょう。

その後、撮影者は、カメラを今ある状態のままにしておかなければなりません。カメラの高さや角度を変えてはなりません。

10:30に、窓の外で降っている雨を再び、撮影します。この時、ゆるやかな風が、右から左へ吹いていたとしましょう。落下する雨滴の経路は、右から左へ伸びる斜線状に撮影されることでしょう。

その後、撮影者は、カメラを今ある状態のままにしておかなければなりません。カメラの高さや角度を変えてはなりません。

11:0に、窓の外で降っている雨をまた、撮影します。この時、ゆるやかな風が、左から右へ吹いていたとしましょう。落下する雨滴の経路は、左から右へ伸びる斜線状に撮影されることでしょう。

上記のようにして、3回撮影して得られた3個の写真画像を、パソコンを使って合成すると、[垂直]、[右から左へ]、[左から右へ]の3種類の経路が混合した降雨の(合成)画像が得られるでしょう。

時間の経過と共に変化していく雨の様を表現するために、広重画伯は、このような画像合成に相当する作業を、頭の中で行いながら、この絵の中に雨を描いたのではないか、というのが、[推理その1]です。

ジャコモ・バッラが描いた、『鎖に繋がれた犬のダイナミズム』も、これに似たような事を考えながら描かれたのかもしれません。

([バッラ 鎖に繋がれた犬のダイナミズム]でネット検索したら、画像を含む情報を得ることができました。)

(2)推理その2 雨の強さ(弱さ)の程度を表現したかった

「霧雨のような」というには(雨の勢いが)強すぎるけれども、「バケツをひっくりかえしたような」というには弱すぎる、というような強さ(弱さ)の降雨を、広重画伯は表現したかった、そこで、このように、雨滴の落下経路を交錯させて描いた、ということなのかもしれません。

ここで問題となってくるのが、絵の題『土山 春之雨』です。

画伯が活躍しておられた時代には、旧暦が用いられていたと思われます。

ネットで[旧暦の春]で調べてみたところ、どうやら、江戸時代の「春」は、今のカレンダーで言うと、おおむね、2月、3月、4月に相当するようです。

まだ梅雨シーズンには入っていませんから、それほど強い雨が降る可能性は低いでしょう。

ずいぶんと前の事になりますが、下記のようなセリフをどこかで聞いた記憶があります。

 「月さま 雨が・・・」
 「はるさめじゃ ぬれていこう」

[春雨じゃ 濡れて行こう]でネット検索してみたのですが、これ、正確には、「春雨じゃ 濡れてまいろう」というセリフだったかもしれません。

春に降る雨なので、それほど強い雨ではないので、こういう発言になったのかもしれません。台風シーズンによくあるような激しい雨天の下では、さすがの月形半平太氏も、「濡れてまいろう」とは言い難かったのではないでしょうか。

(3)推理その3 物理的に実際に、雨滴はこのように落下してくるノダ

私、ありとあらゆる状態の雨を観察したわけではありません。なので、「物理的に実際に、雨滴はこのようには絶対に落下しない」と断言することは、私には不可能です。

------------------

絵の中に描かれている雨の強さを推量するための、もう一つの手がかりがあると思います。(絵の下部に描かれている)人々の首と背中(曲げられている程度)です。

霧雨よりも強く、夕立や、台風がもたらす強雨よりも弱い雨、そのような降雨の下を、傘を持たずに歩いていく人間の首と肩は、(無意識の中に)このような感じになるのではないでしょうか。

(この点については、ここから更に先に(名古屋方向へ)行ったある場所において、(その場所を描いた絵により)再び確認することになりましょう)。

静かに降る雨と、その中を行く人々。大名行列なのでしょう、おそらく。行列の先頭部分のみを描き、その位置を、絵の下端に置く。構図も、情景の表出も、共にすばらしいと思います。

たった一点、私には残念に思われるのが、川の描かれ方です。どう見ても、私には流れる水には見えません。細長い布のように見えてしまいます。

もしかしたら、当時の版画制作の工程上の技術的制約・限界があったがゆえなのでしょうか、その道の専門家ではないので、よくわかりませんが。

(当時の浮世絵の制作工程については、[浮世絵 制作工程 分業]でネット検索して、関連の情報を得ることができました。)

------------------

(これ以降は、単にそのように思う、感じる、という程度の記述です。哲学的に、心理学的にそれを証明しよう、というような、大それた意志は、私にはありません。)

この絵の中に描かれている[雨の日の風景]は、私の心の中の(注1)ある一線に、とても強く響いてくる(訴えかけてくる)ように思われます。

(「心の琴線に触れる」という、文学的表現があるようですね。)

誕生した日より以降、我々、日本列島に住む人間は、多くの雨の日に出会いながら、生きてきているでしょう。

大阪府の淀川の北の地域で降る雨の様は、どこでもだいたい似たり寄ったりでしょう。高槻市に降る雨と、茨木市に降る雨の間に、それほどの違いはないだろうと思われます。

(夕立の時には、違いがあるかもしれません。「馬の背を分ける」という言葉があるくらいですから。高槻市ではそれこそ、「バケツをひっくり返したような」雨、茨木市のま上の上空は青空だが、東方向(すなわち高槻市のある方角)には厚い雲が、というような感じで。)

成長の過程で多くの回数、雨天を(五感でもって)経験する中に、その地域(例えば、大阪府の淀川の北の地域)で暮らす人々の心の中に、なにか共通するような、雨に対する感受性、というか、雨に対する想いというか、想い入れというか、(うまく言葉で表せないのですが)そのようなもの(モノではなくコト)が形成されるのでは、と思われます。

以降、これを、[雨に関する想い入れ]と呼ぶことにします。

(より正確に表現するならば、[雨に関する・地域で共有されている・想い入れ]というべきでしょうが、これではあまりにも長すぎるので。)

現実の雨に対する接触の他にも、雨を題材にした様々なコンテンツ、例えば、『長崎は今日も雨だった』、『Rainy Days and Mondays(雨の日と月曜日は)』(カーペンターズ)、雨に濡れたオランダ坂や三年坂、といった様々なモノとコトに接触することにより、[雨に関する想い入れ]に対して、様々なコトが接着され、[雨に関する想い入れ]は、制作途上の雪だるまのように、どんどん拡大してきたでしょう。

(雪だるまのイメージより、アメーバのイメージの方が近いかも。)

大阪府の淀川の北の地域に降る雨も、淀川の南の地域に降る雨も、それほど違いはないでしょう
大阪平野に降る雨も、京都盆地に降る雨も、それほど違いはないでしょう
京都盆地に降る雨も、濃尾平野に降る雨も、それほど違いはないでしょう
濃尾平野に降る雨も、関東平野に降る雨も、それほど違いはないでしょう
・・・


そういえば、こんな歌がありましたね

 ふじっの たっかねぇに ふぅる ゆぅきもぉ
 きょぉと ぽんとちょぉに ふぅる ゆぅきもぉ
 ゆきぃに かわりわ ないじゃぁなしぃ
 とけって なっがれぇりゃ みぃな おぉなじぃ

1964年、松尾和子、和田弘とマヒナスターズですか(ネットで調べてみました)・・・私も年をとりました・・・。

上記より(三段論法を次々と重ねていくことにより)

大阪平野に 降る雨も
関東平野に 降る雨も
それほど 違いはないでしょう

従って、

大阪平野で、ものごころついた人間の心中の、[雨に関する想い入れ]も、
関東平野で、ものごころついた人間の心中の、[雨に関する想い入れ]も、
それほど違いはないでしょう

このちょうしで、どんどん範囲を広げていって、

大阪平野で、ものごころついた人間の心中の、[雨に関する想い入れ]も、
石狩平野で、ものごころついた人間の心中の、[雨に関する想い入れ]も、
それほど違いはないでしょう

と、いきたい所なのですが、そこまで行ってしまっていいのかどうか、わかりません。

聞くところによれば、北海道には梅雨シーズンがないのだそうですから。

このように、日本列島全域を視野に入れるレベルで考えてみよう、ということになると、雨の降り方には、ある程度の地域差があるでしょう。

だからおそらく、

先島諸島で、ものごころついた人間の心中の、[雨に関する想い入れ]と、
根室半島で、ものごころついた人間の心中の、[雨に関する想い入れ]とでは、
ある程度の違いがあるでしょう。

おそらく、

日本列島で、ものごころついた人間の心中の、[雨に関する想い入れ]と、
アラビア半島で、ものごころついた人間の心中の、[雨に関する想い入れ]とでは、
大きな違いがあるでしょう。

さて、広重画伯が描かれたこの絵を、二人の人(AとB)が鑑賞したとしましょう。

 Aの心中にある、[雨に関する想い入れ]に対する、この絵の作用
 Bの心中にある、[雨に関する想い入れ]に対する、この絵の作用

これら2個の作用の間には、どのような、どの程度の差異が生じるでしょうか?

A、B共に、京都盆地においてものごころついたのであれば、両者の間には、わずかな差異しか生じないと思われます。(両者とも、似たような、[雨に関する想い入れ]を心中に秘めているのだから)。

Aは京都盆地においてものごころついた、Bは石狩平野においてものごころついた、というのであれば、両者の間には、ある程度の差異が生じるのではないだろうか。

Aは先島諸島においてものごころついた、Bは根室半島においてものごころついた、というのであれば、両者の間には、相当な程度の差異が生じるのではないだろうか。

Aは京都盆地においてものごころついた、Bはアラビア半島においてものごころついた、というのであれば、両者の間には、大きな差異が生じるのではないだろうか。

上記に私は、次のように書きました、

 この絵の中に描かれている[雨の日の風景]は、私の心の中のある一線に、とても強く響いてくる(訴えかけてくる)ように思われます。

私は想像するというか、期待します、

 この絵の中に描かれている[雨の日の風景]は、私だけではなく、(私を含む)ある程度の範囲の人々の心の中のある一線に、とても強く響いてくる(訴えかけてくる)だろう

なぜならば、私も、それらの人々も、似たような、[雨に関する想い入れ]を心中に秘めているのだから。

よって、この絵は、それらの[雨に関する想い入れ]に対して、似たような様で作用するであろう。

では、その「ある程度の範囲」とは、具体的には、どこからどこまでの範囲を言うのか?

例えば、その範囲には、大阪府、京都府、滋賀県、岐阜県、愛知県は含まれているのだろうか?

現在の京都府には古代より、3つの地域があったと聞いています。丹後国、丹波国の東部、山城国です。

それぞれの地域の気候は、相当に異なっているのだそうです。丹後では冬、雪の日が多い、丹波では秋から初冬にかけて霧の日が多い、と聞いています。

だから、もしかしたら、

Aは南山城村においてものごころついた、Bは京丹後市においてものごころついた、というのであれば、両者の間には、大きな差異があるのかもしれません。

この事は、もしかしたら、もしかしたら、以下のような重大な問題に関係してくるのかもしれません。

 美術評論という行為は、まともに成立するものなのだろうか?

まず確認しておきたいのですが、美術評論という行為は、ある人Aが、ある人Bに対して行うコトでしょう。(無人島に行って、口頭での美術評論を行う、というような人はまず、いないと思います。)

雨の日の風景を描いた絵画(それを描いた人は、京都盆地においてものごころついた人である)について、京都盆地においてものごころついたある人Aが、火星人Bに対して、美術評論を行ったと仮定する。はたして、その評論の趣旨は、Bに対して、Bが理解しうるものとして、伝わっていくのだろうか?

Aの[雨に関する想い入れ]と、Bのそれとの間には、どれほどの共通点があるだろうか? AとBとはどの程度、[想い入れ]を共有できていのるだろうか? 共通点がほとんど無いのであれば、その評論の趣旨が、Bに対して、Bが理解しうるものとして、伝達されるということは、期待できないではないか。

雨の日の風景を描いた絵画(それを描いた人は、京都盆地においてものごころついた人である)について、京都盆地においてものごころついたある人Aが、石狩平野においてものごころついたある人Bに対して、美術評論を行ったと仮定する。はたして、その評論の趣旨は、Bに対して、Bが理解しうるものとして、伝わっていくのだろうか?

雨の日の風景を描いた絵画(それを描いた人は、京都市の上京区においてものごころついた人である)について、京都市の中京区においてものごころついたある人Aが、京丹後市においてものごころついたある人Bに対して、美術評論を行ったと仮定する。はたして、その評論の趣旨は、Bに対して、Bが理解しうるものとして、伝わっていくのだろうか?

雨の日の風景を描いた絵画(それを描いた人は、先島諸島においてものごころついた人である)について、東京都の新宿区においてものごころついたある人Aが、軽井沢(注2)においてものごころついたある人Bに対して、美術評論を行ったと仮定する。はたして、その評論の趣旨は、Bに対して、Bが理解しうるものとして、伝わっていくのだろうか?

(上記で様々な地名を使いましたが、これに関しては全く他意はありません。話を分かりやすくするために、具体的な地名を用いただけです。)

注1:「心の中の」と書きましたが、唯脳論に立っておられる方は、これを「大脳の中のある領域の」とでも、唯物論に立っておられる方は、これを「ニューロン間のある種の物質伝達作用の」とでも、読み替えていただければいいのではないでしょうか。

唯心論に立っておられる方は・・・うーん・・・。

いまこれをお読みになっている貴方が、唯心論に立っておられるのであれば、もしかしたら、いまお読みになっているこのコンテンツも、これの著者である私も全て、貴方の[心]の産物にすぎない、ということになるんじゃぁないでしょうか? かりに私がそのようなモノ・コトであるのであれば、貴方に対して、あぁしてください、こうしてください、と言える立場ではないと思います。

注2:軽井沢(長野県)と関東平野との間には、碓氷峠があるので、軽井沢と新宿区の気候にはある程度の違いがあるのでは、と想像します。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の土山の地において特定することは、困難であるように思われます。

その位置を特定するためのてがかりとなりうるような物体はといえば、川と橋くらいでしょう。

絵の中に描かれているこの川の川幅は、それほど広くありません、いわゆる「小川」のジャンルに属するような川でしょう。だから、この川の名前を特定する事は、候補となりうる河川がいろいろとあるでしょうから、相当困難であろうと思われます。

でも、一応、トライはしてみたんです。以下のようにやってみました。

ネットでいろいろと調べてみた結果、、[甲賀市土山町北土山] に、[土山宿本陣跡]があることが分かりました。

ネット地図で上記住所の位置を見つけました。

ネット地図を見て、その付近に川が2本あることが分かりました。これを、[河川候補A]、[河川候補B]としました。

[旧東海道 地図 土山] でネット検索して、当時の街道のルートに関連する情報を得ました。

旧街道に沿って、北西方向に(すなわち、水口宿に向かう方向に)行くと、やがて、[野洲川]を渡ることになるようです。[野洲川]を[河川候補C]としました。

次に、本陣跡から上記とは逆方向、すなわち、南東方向に(すなわち、鈴鹿峠に向かう方向に)行くと、やがて、[田村川]を渡ることになるようです。[田村川]を[河川候補D]としました。

このように、絵の中に描かれている川の候補として、4つがあがってきたわけですが、そこから先はもうどうしようもありませんでした、他の手がかりが絵の中に無いので。

この絵の中で、川幅がその実際のサイズに対して忠実に描かれている、ということだって、あまり期待できません。

このシリーズ(東海道五拾三次)の絵の中に描かれているモノが、実際のそれとは異なるケースが多い、ということに対しては、これまでに発表してきた各場所の記事を読んでいただけたら、同意していただけるのでは、と思います。

この絵の題名が、『東海道五十三次之内 土山 XX橋』というようなものであったならば、あるいは、絵の中のどこかに「XX橋」という文字列があれば、その場所を特定することは容易であったでしょうに。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 土山]、[行書東海道 土山] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の土山を描いた絵が、下記です。

土山(三重県立美術館)

『行書東海道』の土山を描いた絵が、下記です。

土山(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

池田遙邨画伯は、土山をどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

昭和東海道五十三次 7.土山(つちやま) 催雨(さいう)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

この絵は、もっと拡大して鑑賞したいなと思います。絵の中に描かれた空と、雨、中央の樹木に、特にこころひかれます。

広重 東海道五十三次 細部に注目 (5) 水口

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 水口]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 水口 名物干瓢(知足美術館)

------------------

この絵においては、[労働している女性]が主役として位置づけられていると思います。

上記に「水口 名物干瓢」とあるように、絵の左側にいる彼女たちは、カンピョウ製造の作業を行っているのです。

このような、手作業によるカンピョウ作りの現場なんか、これまで私は全く見たことがないのに、絵の中の4人の姿には、ものすごいリアリティを感じてしまいます。(中でも、赤ちゃんをおんぶしながら働いている女性の姿に)。

これまでに見てきた、大津、草津、石部の3枚の絵の中にも、[労働している女性]が描かれていました。でも、それらは全て、主役としてというよりは、背景の中にいる人、として描かれていました。この水口の地に至って初めて私は、[(絵の中に)主役として描かれている労働している女性]の姿を見たのです。

江戸時代以前の時期に、日本人によって描かれた絵画を、私はこれまで多数見てきましたが、このような、[主役として描かれている労働している女性]が描かれたものは、あまり見ていないように思います。日本の絵画の伝統の中に、このような人々を主役として描こう、というような指向が、存在していなかったのかもしれません。

その意味においても、広重画伯のこの絵は、一つの革新的な方向を指向するものとして、注目していい作品であるのかもしれません。農業に従事している人々を描いた、かのミレー画伯の指向にも、相通ずるものがあるようにも思えます。

絵の左側に描かれている4人(赤ちゃんも含めて)は、この土地に住んでいる人々でしょう。

座って刃物を握っている女性は、この土地(すなわち、水口)に、強くバインド(bind)されているように思われます。少なくとも今この瞬間、彼女がこの土地を離れて行くような気配は全く無さそうです。彼女は、目の前にある物体に対して、ある作業を行っています。いっしょうけんめい、その作業に取り組んでいるようです、彼女の背中と首にそれが表れているように感じます。

彼女は、水口の地にバインドされており、なおかつ、その眼前の物体にもバインドされている、ともいえましょう。

(彼女を含む)絵の左側にいる人々や、最も右の方にいる人は皆、この水口という場所にバインドされ、カンピョウ製作の作業に対して、バインドされています。

この絵の中で、ナニモノにも、ナニゴトにもバインドされていない人は、たった一人だけ(注)、それは絵の中央に描かれている男性です。彼は、この地に[やってきた人]であり、この地から[過ぎ去っていく人]でもあります。その位置も絶妙です。左側の彼女たちと、右側の彼女(すなわち、バインドされている人々)の中間にいるのです。

それに対して、カンピョウ製作を行っている彼女たちは、この地に[とどまり続ける人]です。

彼は、この地に [いま、やってきた人] であり、彼女たちは、この地に [いままで、い続けてきた人] です。

彼は、この地に [やがて、いなくなる人] であり、彼女たちは、この地に [これからも、い続けているであろう人] です。

[やがて、(この場に)いなくなる人] である彼が、たったいま、この場にいるからこそ、 [これからも、(この場に)い続けているであろう人] である彼女たちの姿が、私の目には生き生きと輝いて見えます。この両者の対比に、私は強く心ひかれます。

注:「ナニモノにも、ナニゴトにもバインドされていない」と言ってはならないのかもしれません。「ナニモノにも、ナニゴトにもバインドされていない」人間の状態、あるいは行動、そのようなコトは、論理的には存在しえないコトであるのかもしれません。

この問題をつきつめていくと、哲学や社会学の領域に入ってしまいそうなので、ここではとりあえず、次のように考えておいてもよいのかもしれません。

 彼は、[彼の旅の目的地]にのみ、バインドされている

女性の背中の上にいる赤ちゃんについては、ナニモノ、ナニゴトかにバインドされていると見るべきか、ナニモノにもナニゴトにもバインドされていない、とするべきか・・・これも、むずかしい問題であるように思われます。

------------------

[いま、やってきた人] と、 [いままで、い続けてきた人] 。これについて考えている中に、フト、能に関するある事を連想しました。それは、能の役についてのことです。

能には、[シテ]と[ワキ]が登場するようです。(寡聞にして、これら両者が登場しない、というような能を知りません)。

プロの人々による舞台の上での能の実演を、残念ながら私はまだ見たことが無く、テレビでの鑑賞にとどまっているのですが、これまで見た様々な演目の中でもとりわけ、あるパターンのものが心に焼き付いています。それは、以下のようなパターンのものです:

(1) まず、[ワキ]が舞台に登場し、自己紹介と、自らの現状(何の目的で、現在、どこへ来ているのか、というような事柄、自らのいわゆる「5W1H」に関連するような事柄)を、プレゼンテーションする。この中でも、「(Where)自分は今、どこにいるのか(どこに来ているのか)」という事に関する、[ワキ]の表明が、とても重要な事柄となる。以降、これを、[(能の)どこで](Where)と記述することとする。

能を鑑賞する人が、日本の歴史や、日本の宗教等に関しての、一定レベルの予備知識を持っていれば、[ワキ]によるそのプレゼンテーションによって、たったいま演じられている能の、[(能の)どこで]を知った鑑賞者にとっては、その後のストーリー展開がより多く、「ピンとくる」ものとなるであろう。

[ワキ]は人間の姿をしており、実際に人間である。

(2) 次に[シテ]が舞台に登場する。物理的には、能が演じられている舞台の上に登場する、ということなのだが、能の話的には、[(能の)どこで]のその場所へ登場する、というように、演じている人々と鑑賞する人々は想定する。

[シテ]は人間の姿をしているのだが、実際には人間ではなく、霊的な存在である。

(3) [シテ]と[ワキ]との間に、コミュニケーションが展開された後、[シテ]は退場する。(その後、舞台裏で、[シテ]は衣装を着替えているのであろう、おそらく。舞台裏までは見たことが無い。)

(4) [アイ]が舞台に登場し、演じられている能に関しての解説を行う。これにより、能の鑑賞者の、演じられている能に対する理解がさらに促進される。

(5) [シテ]が再び、舞台に登場する。この段階に至って[シテ]は、本来的な(霊的な存在としての)姿でもって、出現する。

(6) [シテ]と[ワキ]との間に、コミュニケーションが展開された後、[シテ]は退場し、能は終わる。

『敦盛』(という能の演目)を例に取れば、([能 敦盛 次第]でネット検索して、この関連の情報を得ることができました)

 [ワキ]:熊谷直実
 [シテ]:平敦盛(の霊)
 [(能の)どこで]:一ノ谷

ということになるでしょうか。

[(能の)どこで]を中心にして見るならば、[ワキ] は、([(能の)どこで]の)この地へ、 [いま、やってきた人]であり、[シテ] は、この地に、 [いままで、い続けてきた存在] です。

[ワキ]も[シテ]も、[(能の)どこで](の地)にバインドされています。ただし、そのバインドのされ方は、異なります。

[ワキ]がやってきた[(能の)どこで]のその地に、なぜ、[シテ]が出現するのか? [シテ]は、何らかの念(例えば、無念の思い)のゆえに、[(能の)どこで](の土地)に強くバインドされてしまっており、そこから離れていくこと(成仏)ができない、というように、暗黙の中に設定されているからでしょう。

一方、[ワキ]の、[(能の)どこで]へのバインドのされ方は、能の演目によって、様々に異なっているようです。上記の『敦盛』では、「ある人の菩提を弔う」事を目的として、そこへやってきた、というようなバインドのされ方が設定されているのですが、たまたま、そこへやってきた、というように設定される事もあるようです。

[いま、やってきた人]  [やがて、いなくなる人]  と  [いままで、い続けてきた人]  [これからも、い続けているであろう人] 。この組み合せは、芸術の様々な分野(特に、映画やドラマ)で数多く採用されてきたものであろうと思います。(例えば、『七人の侍』(黒澤明監督))。

------------------

この絵の現場の位置を、現代の水口の地において特定することは、困難であるように思われます。位置を特定するためのてがかりとなりうるような物体が、絵の中には無さそうなので。

-----------------

干瓢(かんぴょう)に関しては、[水口 かんぴょう] でネット検索したら、情報がいろいろとありました。

カンピョウって、ユウガオの実から作るモノだったんですねぇ・・・。過去に数えきれないくらい、巻きずしを食べたことがありますが、あの中に入っているカンピョウの原料がいったい何なのか、今回、この記事を書くためにいろいろと調べて、初めて知りました。

この絵の中で、座している彼女は、右手で刃物を握り、左手でユウガオの実を持っています。実にはすでに切れ込みが入っているようです。このようにして、実を細長く削りとって、カンピョウを作っていたのでしょうね。

彼女はいったいどのようにして、この作業を行っているのでしょうか?

A 刃物を握る右手を静止させたまま、左手でユウガオの実を回転させながら、自分の座り位置を変えることなく、作業を行っているのでしょうか?

B あるいは、左手でユウガオの実を固定しつつ、右手を巧みに実の周囲に移動させながら、自分の座り位置を変えることなく、作業を行っているのでしょうか?

C あるいは、左手でユウガオの実を固定しつつ、刃物を握る右手の位置(体勢)を変えないようにして、実の周囲を歩いて回りながら、作業を行っているのでしょうか?

Aならば「実動説」となり、Bならば「腕動説」、Cならば「人動説」となります。いったいどれが正しいのでしょうか?

私がやるのであれば、Cの方法が最も確実に作業を行えそうな気がします。でも、実際にやってみると、そうでもなかったりして・・・。

源氏物語に、「夕顔」という巻があるようですね。

ネットで調べてみて知ったのですが、[ヨルガオ]という植物もあるようです(驚きました)。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 水口]、[行書東海道 水口] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の水口を描いた絵が、下記です。

水口・平松山美松(三重県立美術館)

『行書東海道』の水口を描いた絵が、下記です。

水口(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

池田遙邨画伯は、水口をどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

昭和東海道五十三次 6.水口(みなくち) 堀跡(ほりあと)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

この絵は、もっと拡大して鑑賞したいなと思います。絵の中に描かれた空に、特にこころひかれます。

広重 東海道五十三次 細部に注目 (4) 石部

この絵に描かれているのは、石部宿と草津宿との間にある、「目川ノ里」です。

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 石部]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 石部 目川ノ里(知足美術館)

この絵の中でまず目についたのが、絵の左端にある旗がつけられている数本の棒です。棒は、塀の向こう側に立てられているようです。この旗と棒がいったいナニモノなのか、私には分かりません。

店の中で休息をとっていると思われる人々、食物らしきものを両手に持って、店の前を歩いている女性、街道を行く人々等、様々な人物が描かれています。

その中でも、私の目がひきつけられたのが、手前にいる数人の中の二人です。

左側の人は、右手で扇を持ち、左手を上にあげています。右側の人は、右手で扇を持ち、片足で立っています。どう見てもこの二人、ダンスをしているとしか、私には見えません。以降、この二人のことを、[踊る二人] と表現することにしましょう。

現代風の表現をするならば、この[踊る二人]は、[ストリート・パフォーマー]なのでしょうか。

[踊る二人]のうちの片足で立っている人の前に、右肩を露出している人が相対しています。この人は今いったい、どのような言葉を、その口から発しているのでしょうか。

 ええぃ、おれの行く手をふさぐなぁ、そこどけぇい!

とでも言っているのでしょうか。

その人とその左側にいる二人の人とは、旅の仲間であるようにも見えます。一番左にいる人が、[踊る二人]がいる位置と全く別の方向を向いているのも、なにかとてもおもしろく感じられます。顔の上部が、かぶっている笠に隠れてしまっているので、彼の現在の表情を読み取ることは不可能、というか、どのようにでも想像できるわけです。

 アーアァ・・・

なのか、

 アレ、あそこにあんなモノが・・・

それとも、

 アぁ! エライコト、思い出してしもたわ・・・。旅に出る前に、アレやっとかんと、あかんかったのになぁ・・・どないしょう?

等々・・・。

[踊る二人]の右側には、四人の人が立ち止って、[踊る二人]の方をじっと見つめています。この四人のいる空間だけは、今のこの一瞬、時間が止まってしまっているかのようです。

一番左にいる荷物をかついでいるのが、下男なのでしょうか。右から二人目の女性は、右手で口を覆っているようです。[踊る二人]を見て、思わず笑みを浮かべてしまい、それを手で隠そうとしているのか、あるいは、これは、ある種の驚きを表現するポーズなのでしょうか。

もしかしたら、彼女はこの瞬間、生まれて初めて、[ストリート・パフォーマー]に出会ったのかもしれません。この時代、東海道を行く旅というものは、日々刻々、「未知との遭遇」の連続であったのかも。

[踊る二人]に対して、ダイレクトに相対している人々、[踊る二人]に対して、強い関心を持って注目している人々、あるいは、それに全く関心を示していない、あるいは、気づいていない人々、これら、各グループ間の対比。

そして、それらの人々の向こうに、背景として描かれている木々と山々。

画の右側の方、彼らから少し距離をおいて描かれている二人。俵のような物体を背負って、右方向へ歩いていくこの二人の存在も、とても印象深いです。親子なのか、それとも夫婦なのか。体の大きさも、背負っている荷物の大きさも、二人それぞれ異なって描き分けられています。

この二人がこの位置に描かれていることにより、遠近感が感じられます。

街道ぞいの、限りない時の流れの中のまさにこの一瞬が、この絵の中に凝縮されているように感じます。これがもし、写真画像であるならば、

 その場の一瞬の空気を、切り取ったような画像

とでも、表現することができるかもしれません。

絵の右下には青色で描かれている部分があります。これはいったい何を描いているのだろうか、川でしょうか、それとも水田でしょうか。青色から白色へと変わり行くグラデーションも美しいと思います。上部の方は、光を反射する水面のようにも見えます。

樹木の向こう、山のこちら側には、水平方向の青線が描かれています。その線の太さもさまざま。

これは、かすみを表しているのでしょうか。

青色の線が白地の中に描かれている、というような部分があり、その逆、すなわち、白色の線が青地、あるいは、灰色地の中に描かれている、というような部分もあり、それら各部分の交錯が、すばらしいと思います。

店の前に立てかけられている板状の物体にも、目がひかれました。この店で提供している商品に直射日光が当たるのを、このようにして防いでいるのでしょう。

---------

この絵の現場の位置は、現在の栗東市の岡という所であるようです。

[目川]という地名が現在も残っているようでして、ネット地図で [滋賀県 栗東市 目川]  で検索したら、地図上にその位置が表示されました。

[旧東海道 地図 石部] でネット検索すると、当時の街道のルートが分かるような情報が得られると思います。

[目川ひょうたん]、[湖南市 うつくし松] 、[栗東市 旧和中散本舗]でネット検索して、様々な情報を得ることができました。

----------------

[目川]という地名の由来について、ネットで調べてみましたが、情報を見つけることができませんでした。

[石部]という地名の由来について、[石部 地名の由来] でネット検索して、様々な情報を得ることができました。

----------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 石部]、[行書東海道 石部] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道五十三次』の石部を描いた絵は、下記です。

石部(三重県立美術館)

『行書東海道五十三次』の石部を描いた絵は、下記です。

石部(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

池田遙邨画伯は、石部をどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

昭和東海道五十三次 5.石部(いしべ) 常楽寺(じょうらくじ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

広重 東海道五十三次 細部に注目 (3) 草津

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 草津]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 草津 名物立場(知足美術館)

[本1]中の吉田漱氏の図版解説には、以下のようにあります。

 「草津は東海道と中山道との追分でにぎわった。「うばがもち」はその道標より北だが、昔は道標より大津寄りの街道にあった。」

この絵に描かれている現場の位置には、現在、[株式会社瀬川元 瓢泉堂]があるようです。

----------

この絵の中で、私がまず注目したのが、絵の右側の方にある、細長い柱です。柱の右と左に、旅人らしき二人が描かれています。左側の人は右側の人の方を見ながら、右手で店の方を指しているようです。

 「ちょっとこの店で、休んでいこうや」

とでも、言っているのかもしれません。

もしかしたら、この柱が、旧東海道と旧中山道の分岐点を示す道標なのかなと思ったのですが、調べてみたら、旧東海道と旧中山道の分岐点(すなわち「追分」)は、こことは異なる位置にあった事がわかりました。

[旧東海道 地図 草津]、[旧中山道 地図 草津] でネット検索してみたら、それぞれの街道のルートに関連する情報がありました。

ネット地図で広域的に見て(縮尺を小さくして)分かったのですが、草津からの旧東海道のルートは、おおまかに言えば、現在の国道1号線と並行しているようです。

ややこしい話になりますが、ざっくりといえば、JR草津駅から栗東駅、守山駅へと伸びているJR東海道本線が、旧中山道と並行しており、草津駅から手原駅、石部駅へと伸びているJR草津線が、旧東海道と並行している、といえましょう。

(「並行」といっても、線路のすぐ側に旧街道がある、という事ではないのですが。)

----------

この絵の中には、またしても(大津に続き)、私にとっては[?]が感じられる人が3人います。

画面下の方に、物体や人間を運んでいる人々が描かれています。

右側に描かれている4人は、大きな荷物を運んでいます。全員、杖を持ちながら進んでいます。荷物の重さが4人の肩にズシッとかかっているような感じで、広重画伯の描写力はすごいなぁと思います。

その左側に、駕籠(かご)が描かれています。

駕籠の中に座っている人は、天井から垂れ下がっている物体を両手で握りしめています。時代劇の中でよく見たシーン、動揺が激しい駕籠の中で、身体の安定を保つためには、このような方法がベストだったのでしょう。

さて、この駕籠はいったい、何人の人によって、かつがれているのでしょうか?

5人でしょうか?

一番右にいる人の腕を見てください。この腕、駕籠をかついでいる腕なんでしょうか? 駕籠の上端にある棒の先端を、ただ持っている、としか、私には見えないですが・・・。駕籠をかつぐ、というよりは、駕籠を押している、としか、私には見えないですが。

一番左にいる人の両腕を見てください。この人が持っているモノ、それは、駕籠の上端にある棒ではなく、棒に連結されている綱のように見えます。この人は、駕籠をかついでいるのではなく、駕籠を引っ張っているのです。

まんなかにいる人を見てください。何も持ってません。ただ、声をかけているだけみたいです。

駕籠を移動する作業に従事している人が5人いる中で、駕籠をかつぐ作業に従事している人は、2人だけ
・・・なんという非効率的な作業形態なのでしょう。

と、思ったのですが、よくよく考えてみると、もしかしたら、もしかしたら、これは、当時としては極めて合理的な方法であったのかもしれません。

これら[?]の3人、[駕籠をかついでいない3人]の役割は、駕籠の運行速度を高める、という事であるのかもしれません。

(声をかけながら伴走する人の有無が、人間の移動速度、あるいは、移動の持続時間に対して、何らかの影響を及ぼすのかどうか、これは、スポーツ医学、スポーツ心理学における極めて興味深いテーマであるのかも。)

あるいは、この3人は、交代要員であるのかもしれません。5人が一定時間ごとに、駕籠をかつぐ作業を交代しながら、進み続けていくのでしょうか。

[本1]中の吉田漱氏の図版解説には、以下のようにあります。

 「街道には四人掛りで荷を運ぶ人夫を描く。今日のトレーラーというところか。その向こうに前曳き、後押しをつけ、特急なみの早駕籠。客は駕籠の垂れ綱をにぎり、鉢巻をし、よほどの急用とみえる。」

----------

広重画伯は、草津の地に来て現地を見て、この絵を描いたのであろうか、という問題を考えるにあたり、興味深い説がありました。

「広重は草津川を歩いて渡っていない。」

という説です。

[SABO 広重と天井川 池谷 浩]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

----------

『東海道名所図会』とこの絵との関係については、 [本1]中の吉田漱氏の図版解説には、以下のようにあります。

 「この図も大体『東海道名所図会』に基づいているようだが、店内のかまどや、餅をつくる女たち、腰かけて喰べる客など、『図会』よりは整理されて描かれている。」

----------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 草津]、[行書東海道 草津] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

草津・矢ばせの渡口 琵琶湖風景(三重県立美術館)

草津(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

----------

池田遙邨画伯は、草津をどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

昭和東海道五十三次 4.草津(くさつ) 立木神社(たちぎじんじゃ)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

上記によれば、遙邨画伯も、姥ヶ餅屋へ行かれているようです。

広重 東海道五十三次 細部に注目 (2) 大津

今回も、下記の本の中の浮世絵に注目してみました。

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

[広重 東海道五十三次 大津]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 大津 走井茶店(知足美術館)

------

この絵の中には、9人の人間が描かれています。

まず絵の右側の方を見てみると、

牛を御している男性が2人。(以降、この2人を、A、Bと表記)。

その左側には店らしきものがあり、その中に女性が2人。(以降、この2人を、C、Dと表記)。

店の中には、編笠を持っている2人の人(おそらく、両人ともに女性)が。(以降、この2人を、E、Fと表記)。

更に店の奥の方に、荷物を背負いながら座っている男性が1人。(以降、この人を、Gと表記)。

絵の左の方に、噴出している水が描かれています。これが、このあたりの名所であり、絵の題名の中にもある「走り井」なのでしょう。

その傍らに、桶に手をかけている男性が1人。(以降、この人を、Hと表記)。

そして、子供が1人。(以降、この子をIと表記)

これら9人を、「いまいったい、何をしているのか」という観点から見ていくと、

AとBは明瞭、この二人はいま、牛を制御しているのです。この二人は、運輸業に従事している人であろうと思われます。

C(女性2人のうち、右側にいる人)も明瞭。彼女はこの店で食品製造・販売業に従事している人なのでしょう。「走井」という文字入りののれんがこの店に下がっていますので、この店が「走井茶店」なのでしょう。

D(女性2人のうち、左側にいる人)に関しては、2通りの解釈(考え方)がありうると思われます。

解釈(1):Cと同様に、Dもこの店で食品製造・販売業に従事しているとする解釈です。CとDの差は頭部、Cは頭に布製と思われる物体をかぶっており、Dはかぶっていません。もしかしたら、CとDは、雇用者(D)-被雇用者(C)の関係にあるのかも。

解釈(2):Dはこの店で販売されている商品を買いにきた人であるとする解釈です。CとDとは、販売者(C)-消費者(D)の関係にあるのかも。

次に、EとF。旅人であろう、ということくらいは想像できますが、 [本1]中の吉田漱氏の図版解説には、

 「店内には西国巡礼の女の二人。」

とあります。「女の二人」とはおそらく、E、Fのことを言っているのでしょう。

人物Gについては、様々な解釈が可能かと思われます。一休みしようと思ってこの店に入ってきた旅人なのかもしれないし、食品製造の原材料の仕入れに行き、いま帰ってきたばかりのこの店の関係者なのかもしれない、あるいは、この店に原材料を納入しにやってきた業者なのかもしれません。

この絵の中の、私にとって最大のミステリーが、HとIです。

男性Hが、今何をしているのか、これから先、何をしようとしているのか、これは明瞭でしょう。彼はいま、桶に手をかけているのです。彼はこれから、その(水の入った)桶をどこかに運んでいくのでしょう。彼は、生活用水を得るために、ここ、走り井へやってきたのでしょう。

このような水満タンの桶を2つも持っていこうというのだから、彼は旅人ではないでしょう。この近くに住んでいる人なのでしょう。

問題は、児童I。

いまのこの瞬間、この子はいったい、何をしているのか?

児童Iはいま、男性Hのいる場所の方へ移動しようとしている、これだけは確かであるようです。両手をHのいる方へ挙げています。

しかし、Hの視線はIの方を見てはいません。彼の視線は桶の方に向いています。桶のみを注視しており、桶以外は眼中に無し、という状態であるように思われます。

いまこの瞬間、IはHに無視されているようです。(次の瞬間には、Hの視線がどこを向くのかまでは分かりませんが)。

HとIとの関係は、どのようなものなのでしょうか?

HはIの父親なのでしょうか? それとも、HはIの「近所の顔見知りの男性(Iのことをいつもかわいがってくれる)なのでしょうか?

あるいは、HとIはこの日、この瞬間に初めて出会った二人なのでしょうか? 見ずしらずの人Hのいる方へ、Iは衝動的に移動しようとしているのでしょうか?

そもそも、Iはいったい、誰の子供なのでしょうか? Hの子供なんでしょうか? それとも、この店の関係者の子供なんでしょうか?(もしかしたら、CがIの母親?)。それとも、親について、この店へやってきただけのことなのでしょうか? (だとしたら、DがIの母親?)

登場人物9人中、児童I以外の人間はすべて、[あるモノ]、あるいは、[あるコト]に密接に関係づけられて(バインド(bind)されて)いるようです。

A、Bは、牛が引く荷物(モノ)に
C、Dは、店で販売している商品(モノ)に、あるいは、この店で展開されている商行為(コト)に
E、F、Gは、店の中での休息あるいは着席(コト)に
Hは、水を満たした桶に(モノ)

児童Iだけが完全フリー、[なにモノ]にも、[なにゴト]にもバインドされていないか、といえば、そうでもないのです。Iもバインドされてはいます。でも、その対象は、[モノ]でも[コト]でもなくて、[ヒト]なのです。

IはHという[ヒト]にのみ、バインドされているのです。

しかも、そのバインドの意味するところは、上記にも見たように、曖昧模糊で正体不明です。親子関係なのか、親しい間柄関係なのか、初めて出会った関係なのか、どうもよくわかない・・・いや、「わからない」のではない、「わかりすぎて」困るのです。考えうる解釈がいろいろとありすぎて、どれが正解なのかが、わからない、だから困るのです。

どこまで考えていっても、この問題の正解を得ることは、不可能でしょう、おそらくは。でも、考えてみたくなるのです。(注1)

Iは、この絵の中の世界に[?]という名前を持つある種の[混乱]をもたらしている、そのような存在である、といえるのではないでしょうか。

(「トリックスター(trickster)」という概念とは、異なるものなのでは、と思われます)。

かりにこの絵の中に、Iが描かれていないならば、この絵は、「よく、おさまりがついている([?]が全く感じられないような)絵」になるのだろうと、私には思われます。街道の側にある、水源と店。そして、その場にいあわせた8人の人々。それぞれの人は、そのような場所であれば、当然そのような行為・動作をしているであろう、と思われるような行為・動作をしている、そのような絵であったことでしょう。

そのような世界に、Iが闖入し、[?]を持ち込んできた。

Iが描かれている絵の(世界の)方が好ましいか、Iが描かれていない絵の(世界の)方が好ましいか、それは見る人の感性により異なるのでしょう。どちらの方が、絵画として優れているのか、というような問いかけは、ナンセンスなんだろうと思います。

なお、登場人物全てに対して、その影が描かれていません。曇り空を想定したのか、人間の影なんか、絵画の中に描く必要はないと、広重画伯が判断されたのか、あるいは、影を描くべきかどうかなどという事が、画伯の心中に意識されることが全くなかったのかもしれません。

注1:いったいなぜ、私は、「考えてみたくなる」のでしょう? 正解の無い問題であると分かっているにもかかわらず。それは、そのように考えることが、自分の習い性になっているからなんだと思います。日常生活を送る中で、様々の人間の動作や、人間どうしの関係を見るのですが、そのたびに、「あの人は何を目的であの行為を行っているのだろうか」とか、「あの人とあの人はどのような関係にあるのだろうか」といったような事を、意識せずとも自動的に考えようとしてしまうようです。そのような事を常に考えていかないと、他の人と共に、まともに生活していくことができないでしょう。(もしかしたら、日々、このような事に心をめぐらしておられる方が、私の他にも、おられるのかもしれませんが)。

------

『東海道名所図会』とこの絵との関係については、 [本1]中の吉田漱氏の図版解説には、以下のようにあります。

 「広重はここでも『東海道名所図会』に基づいているが、米俵を背負った男衆を、牛車に変えている。店内には西国巡礼の女の二人。これは『図会』の通り。ただ広重は町家もふやし、松や竹藪の情緒をそえ、背後に薄青く逢坂山を描く。」

------

もうひとつ気になるのが、絵の左下に描かれている、[水の噴出]、すなわち、「走り井」です。

[本1]中の図版解説中に、吉田漱氏は以下のように、『東海道名所図会』から引用しておられます。

 「走り井は逢坂大谷町茶店の軒場にあり。後の山水ここに走り下って湧出づる事、瀝々とし寒暑に増減なく甘味なり。夏日往来の人渇を凌ぐの便とす。」(『東海道名所図会』)

下記の情報もありました。

20.走井 名所図会学とその周辺(西野由紀氏)

広重画伯の絵の中に描かれているこの「走り井」水源は、単なる泉ではないようです。水は勢いよく噴出しているように描かれています。

電力もポンプもないこの時代に、このような、水の自動的噴出は起こりうることなのでしょうか?

滋賀県・高島市に、針江という地区があります。

この地区の西側には、比良山系の山々があり、そこに降った雨水が伏流水となり、針江地区に湧出する(自噴水)のだそうです。

走り井と伏流水との関係は不明ですが、かりに、伏流水の噴出であるならば、渇水の時期にもそうでない時期と同様の量の湧出があったのでしょう。

 「後の山水ここに走り下って湧出づる事、瀝々とし寒暑に増減なく甘味なり。」

は、もしかしたらこれを物語っているのかもしれません。

このような、年間を通じて不変の量の水を供給することができる設備は、今のような上水道がない時代、現在の我々には想像もできないほどの、極めて貴重なインフラであったことでしょう。

走り井には、多くの様々な人々が、水を求めてやってきたことでしょう。

多くの人々がつどうこのような場所には、豊富なコミュニケーションも生じていたでしょう。(「井戸端会議」という言葉があるくらいですから)。しかも、この走り井のある場所は、江戸時代の大動脈ともいうべき東海道の路傍です。ここに集まる人々は、この地域社会の人々だけではない、日本の様々な地域の人々であります。

よって、この走り井のコミュニケーションにおいて、取り交わされた情報は、日本全国レベルの広がりを持つものであったでしょう。もしかしたら、

 「黒船なぁ、オレ、この目でハッキリ見てきたんだぜぃ!」
 「帆も黒いんでっか?」
 「うん? さぁて、帆はどうだったかなぁ。」

というような(遠方の時事的な)情報も伝達されていたかもしれません。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 大津]、[行書東海道 大津] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の大津を描いた絵が、下記です。

大津(三重県立美術館)

『行書東海道』の大津を描いた絵が、下記です。

大津(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

池田遙邨画伯は、大津をどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

昭和東海道五十三次 3.大津(おおつ) 粟津ノ景(あわつのけい)(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

上記中に、池田遙邨画伯が走り井をご覧になった時の事が書いてあり、とてもおもしろいです。

広重 東海道五十三次 細部に注目 (1) 京都

歌川広重画伯が描かれた『東海道五十三次』について、様々な事を述べていこうと思います。

参考にした画集は、

 浮世絵大系 14 東海道五拾三次 座右宝刊行会 編集制作 集英社発行 昭和50年 初版発行(以降、これを [本1] と略記)

です。

-------

私は現在、京都に住んでいますので、京都からスタートしてみていくことにしました。

絵の話に入る前に、まず下記の画像を見ていただきましょうか・・・。いずれも、平安神宮(京都市)の神苑で、私が撮影したものです。

P1 2012年9月に撮影
Ph1

P2 2006年6月に撮影
Ph2

P3 2005年6月に撮影
Ph3

上記の画像中にある、池の中に設置された円柱形の石は、天正年間に造営された三条大橋と五条大橋の橋脚を再利用したものなのだそうです。[平安神宮 臥龍橋 三条大橋]でネット検索すると、これに関連する情報が得られると思います。

さて、そこで、東海道五十三次の[京都]([京師・三条大橋])の絵を見ていただきましょう。

[広重 東海道五十三次 京]でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

東海道五十三次之内 京師 三条大橋(知足美術館)

この絵には、川と橋が描かれています。川は鴨川、橋は三条大橋です。

あれ、なにかおかしいな、と思われる事、ないでしょうか?

絵の中の、橋脚部分にご注目ください。どう眺めてみても、これが石でできているようには見えません。木で構築されているように見えます。

絵では木製、ところが、現実の遺物(平安神宮の)は石。

いったいどうなってるの? 天正年間の造営以降に、再び架橋が行われ、その時に橋脚は木製のものに変わったのか? 石よりも耐久性の劣る木に変えるとは、どうにも考えにくいです。

この絵の中にはもう一つ、おかしいなぁと思われる点があります。

橋の向こうの対岸にご注目ください。当時の京都の市街地らしき家々の屋根が描かれています。

現在、三条大橋の東のたもとに、高山彦九郎氏の銅像があります。地上に座り、手をついて、かなたをじっと見ておられます。あれは、御所の方向を向いて、拝礼しておられる姿なのだそうです。[三条 高山彦九郎 像]でネット検索すると、それに関する情報を得る事ができると思います。

彦九郎さんの眼前には、まさにこの画に描かれているような風景が広がっていたのかもしれません。

さて、その「御所」は、この絵の中のどこにある? あそこか? 絵の中央の少し右側に、なにやら建物が描かれています。いやいや、おかしいよ、その建物、山の中腹にある。御所のある所って、平地ではなかったか?

いったいあの建物は、どこの何?

で、 [本1] の中の、この絵に関する、吉田漱氏の「図版解説」を読んでビックリ、

 「遠方は東山三十六峰、その後ろは、方角がちがうが比叡山のつもりであろう。」

エェッ・・・ということはですねぇ、あの山の中腹に描かれているのは、もしかして、清水寺?

そう思って、その右下のあたりをよくよく見てみたら、八坂の塔らしきものも描かれています。となると、絵の中央から左の方に描かれている建物は、もしかして、知恩院、青蓮院のそれ?

ということは、この絵と同じような感じに、三条大橋を視野におさめようと思ったら、三条大橋の北西側から橋を見よ、ということになりますね。

長い間、私は、この絵は、三条大橋の南東側(上記とは逆方向)にある場所から見た風景を描いたものだと、思っていました。

(ネット地図を使用して、[京都 三条大橋] で検索していただくと、清水寺等との位置関係がよく分かると思います。三条大橋の北西方向に京都市役所が、北北西方向に御所があります。)

いったいなぜ、このような思い込みが生じてしまったのか? その原因としては、以下の事が考えられます。

(1)この方向(北西側)から、この橋を眺めたことが、過去にほとんど無い

三条大橋の北西側には、橋を展望することができるような道路や公園がないのです。この方向から見るためには、どこかのビルや店舗の窓から眺めるか、あるいは、鴨川の川原から眺めるしかない、でも、川原から見るのでは、橋を見上げることとなり、この絵のようには見えません。

これを確認するために、2015年5月21日に、三条大橋の北にある橋の上から眺めてみたけど、やはり位置的にちょっとムリがあるようで、この絵とは相当異なる感じでした。

(2)江戸から京都へ向かう旅人の視点

この絵の中には、「東海道五拾三次 大尾 京師」という文言があります。

「大尾」とは、最後、終局、終わり、を意味する言葉なのだそうです。

よって、版画集『東海道五拾三次』に対しては、京都から江戸へ向かう人ではなく、江戸から京都へ向かう人の視点でもって、(まずは、日本橋(江戸)、次に品川・・・そして、最後に京都、というように)、それぞれの絵に対して順番づけがされていた、と想定するのが自然でしょう。(実際にその順番に従って出版されていったのかどうか、までは分かりませんが)。

当時の江戸から京都への旅にどれくらいの日数が必要であったのかは、それこそ「個人差があります」状態だったのでしょうが、一泊二日の旅では無かった、ということだけは確実に言えるでしょう。

 江戸からのスタートの後、日に日に京都と自分との間の距離が縮まっていきつつあることを、自らの足に実感しながら、日中は歩き、夜は宿に泊まり、そして、あぁ、ついに、ついに、ゴールが見えてきた・・・あれが、三条大橋かぁ・・・。

この絵には、そのような旅人の感慨(鴨川の東岸に到着し、橋を眺めている)が、込められているのだろう、と思って(思い込んで)いたのです。

でも、これが三条大橋の北西から橋を見ている人の視点で描かれている、となると、状況は激変します。

「これから橋を渡って」の状況ではなく、「橋を渡ってしまってから」の状況。

三条大橋を東から西へ渡った後、三条大橋の北西あたりにある旅館の一室に落ち着いて・・・で、その室内から東山の方の景観を楽しんでいる、というような状況であるのかもしれません。

 さぁ、いよいよ明日から、都見物でぇい! どっから行ってみようかねぇぃ・・・やっぱし、朝一番に清水寺ってとこかぁ・・・。

(3)はるかかなたの高い山

 「遠方は東山三十六峰、その後ろは、方角がちがうが比叡山のつもりであろう。」

「比叡山」ねぇ・・・。三条大橋の北西側から橋のある方角をいくら見つめてみても、橋の彼方に比叡山は見えませんよぉ。

あの高い山、あれは愛宕山が描かれているんだろう、というような、無意識下の思い込みを、私はしていたのかもしれません。三条大橋の南東側から橋の方角を見たら、あれに近い場所に、愛宕山が見えるんだろう、というような思い込みです。

(ネット地図で調べてみました、愛宕山は三条大橋の西北西方向にあるようです。)

以上に見たように、

 石の橋脚を持つ橋が、木の橋脚を持つように描かれている
 ありえない方角に、高い山が描かれている

これらから推理される事は、といえば、

 この絵を描いた人は、この絵を描く前に、三条大橋を実際には見てはいないのでは

[本1] の中で、吉田漱氏は、大津、草津を描いた広重画伯の絵に関して、『東海道名所図会』をもとにして描いたのであろう、と記述しておられます。

三条大橋が描かれているこの絵も、現地を見ずに、『東海道名所図会』等をもとにして、描かれたのであるのかもしれません。もしかしたら、この絵がそれかも、というような画像を、[東海道名所図会 平安城 三條橋]でネット検索して、見つけることができました。

しかし、しかし、私は思うのです、

かりに、実際に三条大橋を見ることなく、この絵を描いていたと仮定して、そのような状況の下でも、このような美しい絵を描くことができた歌川広重という人は、やっぱりスゴイ画家だなぁ、と。

 京都へ行ってみたけどヨォ、実際の風景、この絵とエレェ(著しく)違ってたぜぃ!

というようなクレームを出版元が受けるおそれは、一切なかったのかも。

そんなクレームつけてたら、江戸のマチの人々から、「アイツは、モウホント、ヤボな人間だねぇ」と、評されてしまったのかも。

-------

この絵には、橋の上を行く様々な人が描かれています。

中でも私が注目したのが、右の方にいる二人の女性です。

 傘を差し掛けられながら歩いていく女の人と、その傘を持ちながら歩いていく女の人

(「おんばひがさ」という言葉があるようです。)

この二人の姿から、当時の女性が所属していた社会階層の違い、というものの一端を見てとれるような気がします。

現代の[雇用者-被雇用者]というような関係ではない、なにかもっとキビシイ、キツゥイ壁が存在しているような関係、[使用者-被使用者]の関係、といったらいいのでしょうか。(正確に表現するならば、[使用者の親族(傘を差し掛けられている女性)-被使用者(傘を持っている女性)]。)

広重画伯がこの絵を描かれた当時よりも、現代の日本の方が、この、社会階層間の差というものは、著しく減少しているように思います。これは、とても好ましい社会構造の変化であったと、私は思います。

(現代においても、傘を差し掛けられながら、三条大橋の上を行く女性の姿を見ることはあります。でも、その傘を持っているのは、だいたい、男性、あるいは、その女性(女児)の保護者と思われる人です。それとこれとでは話が違いますよね。)

この二人の女性の間には、そのような社会階層の違い、「キツゥイ壁」を乗り越えて流れる、[こころの関係]とでも言ったらよいのでしょうか、なにか、[アッタカァイ関係]があったのかも、というような事も想像します。どういったらいいのかなぁ・・・そうそう、[お嬢さま-ばあや・関係] とでも言えばよいのでしょうかね。

この二人の左には、なにかの物体(傘でしょうか)を持つ男性につきそわれて、橋を渡り行く二人の女性がいます。頭の上からかぶって全身を蔽うような着物を着ています。この三人のうちの先頭を行く人は、かぶっているものを手で持ち上げて、前方を見つめているようです。

このように、この橋の上に登場する人物それぞれ(まさに、「通行人A」、「通行人B」・・・)に、様々な行為が割り振りされて、描かれている、それもまた、この絵のおもしろいところなのかなぁ、と思います。

------------------

広重画伯が描かれた絵について、上記にいろいろと記しましたが、この絵は、『保永堂版・東海道五拾三次』の中の絵なのです。この他にも、広重画伯によって描かれた、『隷書東海道』、『行書東海道』というものがあるようです。

[隷書東海道 京]、[行書東海道 京] でネット検索すれば、画像を含んだコンテンツをご覧になれると思いますが、例えば、下記をご覧いただいてもよろしいでしょう。

『隷書東海道』の京都を描いた絵が、下記です。

京 三条大はし(三重県立美術館)

『行書東海道』の京都を描いた絵が、下記です。

京 三条大橋ノ図(慶應義塾図書館デジタルギャラリー)

------------------

池田遙邨画伯は、京都をどのように描いておられるのかと思い、調べてみました。

昭和東海道五十三次 京都 雪乃御所(倉敷市立美術館 池田遙邨の世界)

なぜ、江戸時代に、大井川に、橋が架けられなかったのか?

京都から新幹線に乗って東京へ向かう途中、様々な川を渡ります。

長良川、木曽川、矢作川、天竜川、大井川、富士川・・・等々。

それらの川の上を、現代の我々は容易に(時には車中で睡眠しながら)越えていけるわけですが、明治時代初め頃までは、それらの河川は、人々の通行・貨物の輸送上での大きな障害になっていたでしょう。

東海道が整備された江戸時代には、人々は様々な手段でもって、それらの川を渡っていたようです。

矢作川においては、人々は橋を渡っていったようです。

天竜川においては、渡し船に乗って、川を渡っていったようです。

そして、大井川においては・・・人は、人によって渡されていたようです。

島田市(静岡県)の大井川岸に、[島田宿大井川川越遺跡]というものがあるようです。

江戸時代、島田と金谷の間の大井川渡河においては、川越制度というものが制定されていました。河岸には、[川越人足]と呼ばれる人々がいて、旅人や荷物を背負って、大井川を徒歩で渡っていました。

大井川のこの川越制度について、様々に考えているうちに、2つの疑問が生じてきました。

疑問A なぜ、大井川には、橋が架けられなかったのか?

 矢作川には、橋が架けられていたのに。

疑問B なぜ、大井川には、渡し船制度が無かったのか?

 江戸幕府が東海道の宿駅制度を制定した際に、大井川において、[渡し船制度]を設定する、という事も可能だったろう。なのに、なぜ、そのようにしなかったのか?

 天竜川においては、[渡し船制度]を設定したのに。

--------

この問題を考えるにあたり、下記の本が参考になりました。

 『中世の東海道をゆく』 榎原雅治 氏 著 中公新書(以降、これを [本1] と略記)
 『鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町』 青木栄一 氏 著 吉川弘文館(以降、これを [本2] と略記)

[本1] では、中世の紀行文をもとに、当時(江戸時代よりも以前の時代)の大井川渡河の状況を考察しています。江戸時代の旧東海道の渡河地点よりも下流の方にある場所を、当時の人々は渡っていたのであろうと、著者は考察しています。そのあたりでは、大井川は幾筋もの細い川に分流しており、それらを次々と、徒歩で渡っていった(渡っていけた)のであろう、というのです。

すなわち、中世においては、大井川は、[歩いて渡れる川]だった、ということになります。

江戸時代になぜ、大井川には橋が架けられなかったのか、というこの問題に関しては、江戸幕府が江戸の防衛のために、そのようにしたのだ、とする説があるようです。しかし、 [本2]の著者はその説を否定し、技術的にも、経済的にも、大井川に橋を架けることが難しかったからである、としています。

--------

島田市のWebサイト中に、[国指定史跡 島田宿大井川川越遺跡保存管理計画]というコンテンツがありました。その中に、

 [12・川越遺跡保存管理計画_第3章⑤(PDF:4,482KB)]

があり、これも、参考になりました。以降、これを [文書3] と略記することにします。

--------

まず、基本的な事項を確認していきましょう。

(1)[川越人足]業務の発生の時期

[文書3] 中の

  [道中記 明暦3年(1657)]

に、「川越人足」という言葉が記されています。よって、これよりも前に、[川越人足]業務が発生していたと、考えてよいでしょう。

(2)中世においては、大井川は、一般の旅人でも、[歩いて渡れる川]だった

上記( [本1] に関しての記述)においても記したように、中世においては、一般の旅人は大井川を、歩いて渡っていました。

(3)江戸時代が始まる直前の時期に、大井川の状態が激変している可能性あり

1590年に、[天正の瀬替え]という土木工事が行われ、大井川の流路は大きく変化したようです。これにより、川の状態が大きく変化した可能性があります。

しかしながら、

(4)江戸時代においても、一般の旅人の中には、自ら歩いて大井川を渡る人がいた

川越人足たちは(当然の事ながら)大井川を歩いて渡っていたのですが、旅人の中にも、歩いて、あるいは、馬に乗ったまま、渡っていく人がいたようです。 [文書3] の中に、下記のような、それを示す情報があります。

[文書3] の中の

 [身延の記 寛文3年(1663)]
 [日本滞在記 1667年]
 [海陸世話日記 寛文8年(1668)]

江戸時代においても、大井川は、(勇気ある旅人にとっては)、[歩いて渡れる川]だったのです。

--------

いよいよ本題に入ります。

なぜ、大井川には、橋も、渡し船も、無かったのか?

 (なぜ、架橋されなかったのか、なぜ、渡し船制度が制定されなかったのか)

江戸の防衛のために、とはとても考えにくいです。上記にも見たように、江戸時代においても、大井川は、[歩いて渡れる川]だったのですから。

このような、[歩いて渡れる川]は、江戸の防衛ラインとしては、機能しないでしょう。

川の中に船橋を設置すれば、軍隊は容易に、大井川を渡っていけるでしょう。あるいは、馬に乗ったまま川の中へ進む、という事だって可能かもしれません。あるいは、下流の方の、中世に人々が渡っていた場所を渡る、という事だって可能かもしれません。

--------

なぜ、大井川には、橋も、渡し船も、無かったのか?

私は以下のように考えました。

江戸時代よりも少し前の頃には、大井川の状況は、上記に見た中世のそれとは、異なっていたのであろう。(「天正の瀬替え」の影響があったのかどうかまでは分からないが)。

すなわち、大井川は、[歩いて渡れる川](中世には)から、[歩いて渡れる川・ただし、プロと勇気ある旅人だけが]という状態に、変化していたのであろう。「プロ」とは、[川越人足]である。

川底の地形を知らない人が、歩いて渡るのは危険、というような状態になっていたのであろう。

大井川の水量が大量になり、流れが激しくなる都度、川底の状態も変化したであろう。このような変化し続ける川底の状態を、頻繁に観察し続けていく事ができる人はといえば、地元の人々以外には、考えられない。地元の人々は、大井川の川底の状態に関する豊富な知識と、渡河に関するノウハウを蓄積していったのであろう。

ノウハウを持っているとなると、それを活用してのビジネスを、と考える人も現れたであろう。かくして、江戸時代よりも前の時期に、私的な川越サービス業が発生していたのではないだろうか。

そのような状態であったので、江戸時代初期の東海道の宿駅制度の制定の際に、幕府は、大井川はとりあえずは現状のまま、すなわち、自力での渡河、あるいは、[川越サービス業に従事する人々]の支援による渡河で、という事にした。

とりあえずは、そのような状態でスタートさせて、様子を見ながら、架橋、あるいは、渡し船制度の導入を、ゆくゆくは検討、というような事も考えていたかもしれない。(街道・東海道の整備には他にもいっぱい、検討しなければならない場所がある、大井川の事ばかり、考えてられねえよ、という感じであったかも。)

しかし、大坂冬の陣、大坂夏の陣、徳川家康将軍の死去、秀忠将軍から家光将軍への将軍譲位等、重大な局面が続いていく中、そのような事を考慮する余裕がないままに、時は過ぎていった。

そして、1626年に、ある事件が起こってしまった。

[文書3] の中の

 [大猷院殿御実紀]

の項に、以下のような趣旨の事が記されている。

 大井川に船橋を設置した事が、家光将軍の怒りに触れた。

その理由として、上記には、「関東鎮護の要衝」とある。大井川は重要な江戸の防衛ラインであるのに、そこに船橋を架けるとは、けしからん、という事なのだろう。

しかし、上記にも記したように、大井川は重要な関東防衛ラインの機能を果たしているとは、考えられない。

大坂冬の陣、大坂夏の陣以降、パックス・トクガワーナ(徳川の平和)の世となっている。

家光将軍は、1604年に江戸城の中で生まれ、その後も城の中で育てられてきた人である。軍事的観点からの現地(大井川周辺)に関する知見・識見をどの程度持っていたか、極めて疑問である。

しかし、政権トップの座(将軍職)にある人が、このような事を一度でも言ってしまうと、その言葉は後々の世までも、政策を縛ってしまうものになるであろう。

その後の時代の幕府首脳(老中たち)にとっては、大井川の交通に関しての政策の変更([川越人足の助けを借りての渡河]から[渡し船による渡河]へ、あるいは[架橋]へ)が、とてもやりにくい、あるいは、不可能に近い、というような状態になってしまったのであろう。

東海道に関する諸々の制度が制定されて以降、家光将軍の時代までに、大井川に渡し船も橋も無い事により、様々な利益を得てきた人々も、いたであろう。そのような人々(いわゆる[既得権益]を持っている)にとっては、将軍のこの言葉は、その権益を確保し続けていくための格好の手段になったであろう。

上記に述べたような事情により、大井川には架橋がされなかった、渡し船制度が設定されなかったと、私は想像するのですが、いかがでしょう?

--------

[本2]の著者の、技術的にも、経済的にも、大井川に橋を架けることは難しかったからである、との主張に関しては、綿密・慎重な検討が必要であろうと思われます。

[経済的困難]に関しては、 [文書3] の中の

 [大井川架橋の建議『島田市史資料』第5巻 明治2年(1869)]

の項に、関連する記述があります。

ところが、それから10年後、明治12年(1879年)に、大井川には[蓬莱橋]という橋が架けられたのだそうです。

江戸幕府が[大政奉還]を行ったのが1867年、それから12年後には、大井川にこのような橋を架けることができているのです。

天竜川にはこれよりも早い時期(明治7年)に、木橋が架橋されているようです。

[蓬莱橋]や[天竜川の木橋]と同レベルの木造橋であれば、架橋できるほどの技術レベルにまで、江戸時代の後期の架橋技術は進んでいたのか、それとも、明治時代になってからの、欧米からの急速な科学技術の導入により、ようやく大井川や天竜川に、このような橋を架けることができるようになったのか、というような事をも、検討する必要があるでしょう。

江戸時代の渡河ルートとは別のルート(例えば [本1] で示されている中世の渡河ルート)での架橋さえも、技術的に、経済的に不可能であったのかどうか、という事をも、検討する必要があるでしょう。

現代の大井川の姿だけを見て、これらの事柄に関して考察する事は不可能でしょう。江戸時代には、大井川の上流にはダムが無かったのだから、川の姿は現代のそれとは相当異なっていたと、考えられます。

--------

[大井川 天正の瀬替え]
[島田市 島田宿大井川川越遺跡]
[島田市 川越遺跡保存管理計画_第3章]
[大井川 蓬莱橋 歴史]
[天竜川の橋 明治]

でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

フォト
無料ブログはココログ