« 2017年1月 | トップページ | 2017年3月 »

2017年2月

2017年2月20日 (月)

二条城に見る[権力と高度]

[このコンテンツが属するカテゴリー([言語])]の インデックス] へのリンク

先日アップロードした、下記コンテンツ

古典に見る[権力と高度]

の中の、下記の節

 2. 古典の中に見る2つのリンク
  2.3 ヒミコの宮殿
  2.4 オオクニヌシの神殿

において、私は以下のような趣旨の仮説を記述した。

-------------

大きい権力を保持する者は、自分が保持する権力と、他の人々が保持する権力との違いを、目に見えるような形でもって、表現しようとした。

そのために、大きい権力を保持する者は、多くの人々の心中にある、リンク[概念・[高度]-概念・[権力]] を活用しようとした。

すこで、大きい権力を保持する者は、自分が生活する場所の標高を、他の人々のそれの標高よりも大となるように、設定した。(宮殿等を建造することにより)。

-------------

上記のような、権力の違いを示すための高低差(標高差)の設定を、21世紀の現代においても確認できる場所が、京都市内にある。[二条城]だ。

-------------

2017年2月18日に、ひさしぶりに二条城へ行ってきた、上記の[高低差](標高差)の存在を確認するために。

[二条城]が建造されたのは、17世紀初めである。

[二条城]の中に、[二の丸御殿]という建物がある。

この中に、[大広間]という場所がある。1867年に、この場所で、江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜が、大政奉還を発表したのだそうだ。

[大広間]の中に、[一の間]と[二の間]がある。そして、[一の間]と[二の間]との間には、目で見て分かるような、[高低差]が設定されている。

(その高低差は、私の見たところでは、約20センチメートルか。おおざっぱな目測なので、正確な数値は分からない。)

二の丸御殿内での写真撮影は不可能だったので、下記に、図示する。
Fig1
Fig 1

おそらく、将軍は、高い方のスペースに座し、大名たちは低い方のスペースに座したのであろう。

(過去に、日本史関連の書物の中で見たある絵においても、[大広間]の中での将軍と大名たちは、そのような位置関係に描かれていたように、記憶している。ネット上には、[大政奉還]、[邨田丹陵]、[聖徳記念絵画館(明治神宮外苑)]というような情報があった。)

[二の丸御殿]の中には、[黒書院]、[白書院」があるのだが、いずれの方にも、上記と同様の、[高低差]が設定されている事も、この日、確認できた。

(その高低差は、私の見たところでは、約20センチメートルか。おおざっぱな目測なので、正確な数値は分からない。)

[白書院」は、将軍のプライベート空間であったようなのだが、そのような場所にまでも、権力の大きさの違いを表現する(見せつける)ための[高低差]が設定されていることに、驚いた。そこまでするか、そこまでしなければならないのか、という感じである。

二条城・公式サイトの中の、年表の項によれば、

 1603 二条城完成(現在の二の丸部分)
 1611 徳川家康と豊臣秀頼が会見

という事になるようだ。

すなわち、二の丸御殿が完成した当時、豊臣家と大坂城はまだ地上に存在していた、ということになる。

戦国時代の終わりをどのタイミングに設定するのか、という問題に関しては、諸説あるようだが、戦国・日本への逆行の気運、未だ消滅せず、という状況下、徳川家・江戸幕府側には依然として、危機意識(苦労して築き上げてきた徳川家の権力が、一瞬にして減少、消滅してしまうかも)があり、そのような意識が、[白書院」の[高低差]に、反映しているのかもしれない。

[勅使の間]にも、[上段]と[下段]との間に、上記と同様の、[高低差]が設定されている事も、この日、確認できた。こちらの方の[高低差]は、上記の[高低差](権力のサイズの違いを表現する)とは、その目的・意味が異なっているのだろう。

勅使が上段に、将軍が下段に、座すのだろうから。

江戸幕府が保持する権力の方が、朝廷の保持するそれよりも、大きい、でも、だからといって、将軍が上段に、勅使が下段に、というわけには、いかなかっただろう。

よって、[勅使の間]の[高低差]は、権力の違いではなく、何か別の違いを表現するためのものなのであろう。

-------------

以下、上記の記述内容とは関係ないのだが、城の敷地内で撮影した画像である。

P1 唐門
P1

以下、全て、二の丸庭園

P2
P2

P3
P3

P4
P4

P5
P5

P6

P6

[このコンテンツが属するカテゴリー([言語])]の インデックス] へのリンク

2017年2月18日 (土)

京都 北野天満宮 梅 2017年2月18日

2017年2月18日に、北野天満宮(京都市内)に行きました。

P1 東門付近で撮影
P1

P2 東門付近で撮影
P2

P3 文子天満宮付近で撮影
P3

P4 三光門付近で撮影
P4

P5 三光門付近で撮影
P5

宝物殿では、刀の展示が行われているようです。[鬼切丸]という刀も展示されているようです。

2017年2月13日 (月)

日本書紀に見る[権力と高度]

[このコンテンツが属するカテゴリー([言語])]の インデックス] へのリンク

先日アップロードした、下記コンテンツ

古典に見る[権力と高度]

において、私は以下のようなことを記述した。

-------------

「高位高官」、「昇進」、「昇格」、「降格」といったような、[権力・高度・複合語]ともいうべき表現が生まれ、広く使用されるに至ったその根底には、多くの人々の心中に、下記の2個のリンクの存在があったと、私は考える。

 リンク[概念・[高度の変化]-概念・[権力の変化]]
 リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]

[上記の2個のリンクが、多くの人々の心中に形成されたのは、日本の過去のいつごろの事であったのだろうか?]の問題の解答を探るために、私は以下の古典を調べてみた。

 徒然草、続日本紀、古事記、魏志倭人伝

そして、以下のように想像した。

 ヤマタイコクの時代(ヒミコ女王がいた)に既に、多くの人々の心中に、上記の2個のリンクが存在していた。

 古事記の作者は、人々の心中に存在するそのリンクを活用して、[大王家(天皇家)に属する人々は、それ以外の人々とは、別格の存在である。]という事を主張しようとした。

-------------

このたび、古事記と同時代に成立した古典である、日本書紀を調べてみた。[権力・高度・複合語]が使用されている箇所に注目しながらの読書となったので、少々骨が折れたが、様々な事が分かったので、以下にその結果を述べたい。

1  [大] と[大なし]

1.1 [大] と[大なし]

日本書紀の中には、当時の貴族階級に所属する人々の名前や官職名が多く、書かれている。

大王家に所属していない人々は、下記の2つに区分されていたようである。

 貴族階級
 非貴族階級(いわゆる、人民、庶民)

貴族階級の人々の間にも、権力の差はあったようである。その差を表す語として、ある時期から、

 [大] と [大なし]

が用いられるようになったようだ。例えば、

[大]
 大臣、大連

[大なし]
 臣、連、直

[大] の具体例としては、[大連・物部守屋]、[大臣・蘇我馬子]などの人名が記述されているのだが、詳細をここに書くと長くなるので、後述の[備考1]の方に書いた。

[大なし]の方の具体例としては、

 [巻第二十一 崇峻天皇] の中に記述されている、東漢直駒

 [巻第二十三 舒明天皇] には、下記の人名が記述されている。(推古天皇の次の天皇を誰にするかで、群臣が様々に折衝するシーン)

 大伴鯨連、阿倍麻呂臣、采女臣摩禮志、高向臣宇摩、中臣連彌氣、難波吉士身刺、許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣鹽手、蘇我倉麻呂臣
 境部摩理勢臣
 身狹君勝牛、錦織首赤猪

1.2 [大] と[大なし]間の異動

[大]から[大なし]方向への権力の変化に相当するような記述箇所は見つからなかった。

[大なし]から[大]方向への権力の変化に相当するような記述箇所は、数か所見つかった。いずれも、世襲により変化が起こったものと、推測される

大伴金村は、武烈天皇が即位する前は、[大伴金村連]であったが、即位後、大連に任命されている。

[乙巳の変](飛鳥板蓋宮でのクーデター)当時、蘇我入鹿は大臣の位にはついていない。その時に大臣の位にあったのは、入鹿の父・蝦夷である。

ただし、[巻第二十四 皇極天皇] の、皇極天皇2年10月の項には、

 蝦夷が、ひそかに、入鹿を大臣の位になぞらえた

というような趣旨の記述がある。

乙巳のクーデターの発生を未然に防げていたら、あるいは、クーデターで致命傷を負うことなくすんでいれば、やがて、入鹿は父から、大臣位を公式に継承していったのであろうか、あるいは、大王家から最高権力を奪取し、蘇我王朝が成立していたのであろうか。

1.3 [大]の中、[大なし]の中では、対等?

[臣]、[連]、[直]等の、[大なし]の人々の権力は同等であったのだろうか、詳細は分からない。

[大臣]と[大連]とは、対等の位置にあったように思える。

[巻第十九 欽明天皇] 中の[仏像破棄事件]の際には、[大臣・蘇我稲目]と[大連・物部尾輿]は、対等に争っているようだし、

[巻第二十 敏達天皇] 中の[仏像破棄事件]の際においても、[大臣・蘇我馬子]と[大連・物部守屋]は、対等に争っているように感じられる。

2 冠位の変遷

2.1 最初の段階においては、[権力・高度・複合語]は用いられず

以上の調査より、下記の事が分かった。

 大和政権の最初の段階においては、権力の差を表現するために用いられたのは、[権力・高度・複合語]ではなかった。

2.2 冠位十二階

そのような経過の後に、初めての、権力差の細分化の試みが行われた。[冠位十二階]制度の制定である。

[巻第二十二 推古天皇] 中の記述によれば、その[十二階]は、下記の語で表現されていた。

 大德 小德 大仁 小仁 大禮 小禮 大信 小信 大義 小義 大智 小智

すなわち、[徳]、[仁]など6個の文字と、[大]と[小]の2個の文字の組み合わせにより構成される位階でもって、各人の保持する権力の差を表現しよう、という試みである。権力のスペクトラム(権力のものさし)とも言うべき、表現手段である。

 (6×2=12)

上記に見るように、この段階においても、権力の差を表現するための手段として、[権力・高度・複合語]は用いられていない。

2.3 冠位十三階

次に制定されたのが、[冠位十三階]である。

[巻第二十五 孝徳天皇] 中の記述によれば、それは、下記の語で表現されていた。

 大織 小織 大繍 小繍 大紫 小紫 大錦 小錦 大青 小青 大黒 小黒 建武

この[権力スペクトラム]においても、[権力・高度・複合語]は、権力の差を表現するために用いられていない。

2.4 冠位十九階

次に制定されたのが、[冠位十九階]である。

[巻第二十五 孝徳天皇] 中の記述によれば、それは、下記の語で表現されていた。

 大織 小織 大繍 小繍 大紫 小紫 大花上 大花下 小花上 小花下 大山上 大山下 小山上 小山下 大乙上 大乙下 小乙上 小乙下 立身

ここで注目したいのは、

 [上]と[下]の文字が使用されている。
 [上]の方が、[下]の方よりも、権力が大きい、という順序になっている。

[上下]の概念は、[高度]の概念に密に関わる言葉である。概念どうしのリンクのみならず、その構成要素どうしのリンクも存在する。
Fig1_3
Fig 1

よって、ついに、この段階において、[権力・高度・複合語]が、[権力スペクトラム](権力のものさし)の中に用いられるようになった、としてよいだろう。

2.5 冠位二十六階

次に制定されたのが、[冠位二十六階]である。

[巻第二十七 天智天皇] 中に、それに関して記述されているのだが、それをここに詳細に書いてしまうと、読者の側もタイヘンだろうから、下記に要点だけ述べることとする。([冠位二十六階]、[冠位 変遷]等で検索したら、詳細情報が得られるかも)

注目すべきは、

 [上]と[中]と[下]の文字が使用されている。
 [上]の方が、[中]の方よりも、権力が大きい、[中]の方が、[小]の方よりも、権力が大きい、という順序になっている。

上記 Fig 1 の概念間リンク中に、新たに[中]という要素が追加されたと思えばよいのであろう。
Fig2_2
Fig 2

よって、この時代においても、[権力・高度・複合語]が、[権力スペクトラム]の中に用いられている、としてよいだろう。

2.6 冠位四十八階

次に制定されたのが、[冠位四十八階]である。

[巻第二十九 天武天皇 下] 中の、天武天皇14年の項の記述によれば、これは、下記の3個の文字の組み合わせにより、構成されている。

 [文字1|文字2|数字]

 [文字1]は、右記のいずれか:{正|直|勤|務|追|進}
 [文字2]は、右記のいずれか:{大|広}
 [数字]は、右記のいずれか:{壱|弐|参|肆}

上記を組み合わせて、表現するので(例えば、[正大壱]、[直広参])、合計48個となる。

(6×2×4=48)

この段階において、再び、[権力・高度・複合語]が、[権力スペクトラム]の中に用いられなくなってしまう。

([数字]は、高度の他にも様々な概念と密に関連する概念だから、[権力・高度・複合語]とはいえないだろう。)

2.7 最終段階の位階制度

大宝令と、養老令によって、[位階制度]が定められ、これが江戸時代まで使用し続けられたようである。

この[権力スペクトラム]において、再び、[上]と[下]の文字が、[権力・高度・複合語]として、部分的に使用されるようになった。

([従五位上]、[従五位下]というように。)

(知名度の高い戦国大名たちも、朝廷からこれらのうちのどれかを与えられているようだ。)

3 各氏族の中においても、[権力・高度・複合語]等を活用

各氏族の中においても、[権力・高度・複合語]を活用しての、権力の差の表現が導入されたようである。

[氏上]という語が、下記に記述されている。

[巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇5年 6月
[巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇10年 9月
[巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇11年 12月
[巻第三十 持統天皇] 持統天皇8年 1月

4 外交官

外交官に対しては、[権力・高度・複合語]は使用されなかったようだ。

例えば、以下の箇所においては、[大使 小使]の表現が用いられている。

 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇8年 11月
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇13年 4月
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇13年 10月

5 仏教界

仏教界に対しては、[権力・高度・複合語]は使用されなかったようだ。下記のような語が使用されている。

[僧正]、[僧都]、[法頭]
 [巻第二十二 推古天皇] 推古天皇32年4月

[小僧都]、[佐官]
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇2年12月

[沙門]、[寺主]
 [巻第二十五 孝徳天皇] 大化1年8月

6 [権力・高度・複合語]の使用の定着

この章においては、

漢文部分は、[日本古典文学大系68 日本書紀 下 校注:坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 岩波書店]より引用した。

現代語訳部分は、[日本書紀(下) 全現代語訳 訳:宇治谷孟 講談社(講談社学術文庫834)]より引用した。

太字修飾は、私が行った。

6.1 [権力・高度・複合語]の使用

上記のようにして、日本書紀が記述された時代に至るまでの間に、[権力・高度・複合語]の使用が、当時の知識層の間に定着したようである。日本書紀の中には、[権力・高度・複合語]の使用箇所が多数見られる。以下にその例を示す。

「納、甚協王心而爲王佐。」
「上に伝え下に告げることは、よく王の心にかない、王の助けとなっている」
 [巻十九 欽明天皇] 欽明天皇11年2月

「臣連二造、二造者、國造伴造也。及百姓」
「臣・連・伴造・国造から下百姓に至るまで」
 [巻二十 敏達天皇] 敏達天皇12年10月

「對則好説過、逢下則誹謗上失」
「上に向っては好んで下の者の過ちを説き、下にあえば上の者の過失をそしる」
 [巻二十二 推古天皇] 推古天皇12年4月([十七条の憲法中の六]の文)

「易曰、損
「易経に、『上は損しても下の利を益するように努め」
 [巻第二十五 孝徳天皇] 孝徳天皇 大化1年9月

臣之墓者・・・臣之墓者」
「上臣(大臣か)の墓は・・・下臣の墓は」
 [巻第二十五 孝徳天皇] 孝徳天皇 大化2年3月

過、暴」
「上に立つ者は下の者の誤りを責め、下の者は上の者の粗暴な振舞いを諫めれば」
  [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇8年10月

上下通用綺帶白袴」
「綺の帯(組紐の帯)・白い袴は身分の上下を問わず使用してよい」
 [巻第三十 持統天皇] 持統天皇4年4月

6.2 階級間の比較を表現するための、[権力・高度・複合語]の使用

階級間の比較においても、[権力・高度・複合語]が多用されている。以下にその例を示す。

「唯今臣不賢、而遇當乏人之時、誤居群臣耳」
「ただ自分は不賢にもかかわらず、たまたま人が乏しかったので、間違って群臣の上にいるだけです」
 [巻二十三 舒明天皇] 舒明天皇の即位前のエピソード中の、蘇我蝦夷から山城大兄皇子へのメッセージ中。

「仍賜食封大夫以上、各有差。降以布帛、賜官人百姓、有差」
「そして食封(給与される戸口)を大夫(四位・五位)より以上にそれぞれに応じて賜わる。以下は布帛を官人・百姓にそれぞれに賜わることとする」
 [巻第二十五 孝徳天皇] 孝徳天皇 大化2年1月

「諸王以下、初位以上、毎人備兵」
「諸王以下初位以上の者は、各人で武器を備えよ」
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇4年10月

「唯雖以下庶人、其才能長亦聽之」
「これ以下の庶民でも、才能のすぐれている者は許せ」
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇5年4月

「因以看大山位以下之馬於長柄杜」
「大山位以下の者の馬を、長柄杜でご覧になり」
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇9年9月

6.3 階級間の移動を表現するための、[権力・高度・複合語]の使用

階級間の移動に関しては、権力と様々な概念とのリンクを活用しての表現が用いられるようになってきたようだ。[権力・高度・複合語]の使用も含まれている。以下にその例を示す。

「次官以上、其爵位」
「次官以上は冠位を降等し」 ([権力・高度・複合語]使用)
 [巻第二十五 孝徳天皇] 孝徳天皇 大化2年3月

「乃當郡々司等加增爵位」
「その郡の郡司らには爵位を加増された」
 (おそらく、爵位のクラスを+する、という意味だろう。1次元空間、すなわち、直線上での位置の変化。)
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇6年11月

「遣多禰嶋。仍一級
「多禰嶋(種子島)に遣わし爵位一級を賜わった」
 (おそらく、爵位のクラスを+1する、という意味だろう。1次元空間、すなわち、直線上での位置の変化。)
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇8年11月

「國司頭至目、一階
「国司の長官から主典に至るまで、位一階を進めさせる」
 (進め:2次元空間の中での移、位置の変化動)
 [巻第三十 持統天皇] 持統天皇8年3月

最後に、極めて興味深い記述を一つ。

「且專捕赤烏者、五級
「また赤烏を捕えた当人には、爵位五級を賜わった」
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇6年11月

クラス5の位を賜る、ということではなく、位のクラスが+5される、ということであろうか。だとすれば、数直線上でのプラス方向への変化。+5とは、すごい大盤振る舞い。で、赤い烏なんて、いたんだろうか。

----------------------

[備考1]

[大]のつく位になった人としては、下記のような人名が記述されている。記述箇所(ここばかりではない)も併記した。

武内宿禰(大臣)
 巻第七 成務天皇

平群真鳥(大臣)
 巻第十六 武烈天皇

大伴金村(大連)
 巻第十六 武烈天皇()
(この巻の中で、[連・大伴金村]と[大連・大伴金村]で記述されている。連から大連に変わったのである。)

物部麁鹿火(大連)
 巻第十六 武烈天皇

許勢男人(大臣)
 巻第十七 継体天皇

物部尾輿(大連)
 巻第十八 安閑天皇

蘇我稲目(大臣)
 巻第十八 宣化天皇

物部守屋(大連)
蘇我馬子(大臣)
 巻第二十 敏達天皇

[このコンテンツが属するカテゴリー([言語])]の インデックス] へのリンク

« 2017年1月 | トップページ | 2017年3月 »

フォト
無料ブログはココログ