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2017年4月

2017年4月30日 (日)

新作動画の発表 [清滝から高雄へ, 清滝川, 京都市 (B)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、

 清滝から高雄へ, 清滝川, 京都市 (B)

です。自作の曲(『気分よくやっています・第2番 Op.40』)を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

  ("runningWater" は、私のペンネームです。)
撮影地:京都市内 清滝の付近、高雄の付近
撮影時:2017年4月
映像撮影・制作:runningWater
バックグラウンド音楽
 作品名:気分よくやっています・第2番 Op.40
 作曲・制作者:runningWater
  (コンピューターを使用して制作しました)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/PngLdtufXmQ
です。

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2017年4月26日 (水)

新作動画の発表 [清滝から高雄へ, 清滝川, 京都市 (A)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、

 清滝から高雄へ, 清滝川, 京都市 (A)

です。自作の曲(『さまざまな所を通っていく道, Op.18』)を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

  ("runningWater" は、私のペンネームです。)
撮影地:京都市内 清滝の付近、高雄の付近
撮影時:2017年4月
映像撮影・制作:runningWater
バックグラウンド音楽
 作品名:さまざまな所を通っていく道, Op.18
 作曲・制作者:runningWater
  (コンピューターを使用して制作しました)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/qTfOG3qpWy0
です。

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2017年4月24日 (月)

太平記 現代語訳 2-10 ひょんな事から、ニセ天皇・師賢の化けの皮はがれ、さあ大変

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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延暦寺の衆徒たちは、唐崎の合戦に勝利をおさめ、幸先よしと大いに意気上がること、この上なし。

ところが、ここに一つ、やっかいな事がもちあがった。

延暦寺・東塔(とうとう)エリア・メンバーA 尊くも、陛下がわが比叡山に登山して来はってからいうもん、そのおられる場所は、延暦寺・西塔(さいとう)エリアから、一向に動かんやないかい!

東塔エリア・メンバーB そうやそうや、こんな事では、わが延暦寺・東塔(とうとう)エリアの面目、丸つぶれや!

東塔エリア・メンバーC いにしえの源平争乱の時、後白河法皇(ごしらかわほうおう)様が、わが延暦寺を頼ってこられた時も、まずは横川(よかわ)エリアに来られたんやけど、すぐに、東塔エリア・南谷(みなみだに)の、円融坊(えんゆうぼう)へ移らはったんやぞ。

東塔エリア・メンバーD このような吉なる歴史的先例もあることやねんから、「早ぉ、東塔エリアの方へ、陛下をお遷しせぇ」とな、こっちから西塔エリアの方に、申し送ろうやないか。

東塔エリア・メンバー一同 賛成!

西塔エリアの衆徒たちは、この要求を、「まことに、ごもっとも」と承服し、「陛下」をご遷居あそばし申し上げるべく、「皇居」に参集した。

その時、山の上から吹き降ろしてきた強風にあおられて、「陛下」の前の御簾がまい上がってしまった。「陛下」になりすまし、天皇の礼服を着て座していた、花山院師賢(かざんいんもろかた)は、

花山院師賢 (内心)しもぉたぁ!

西塔エリア・メンバーE なんや、あれはぁ!

西塔エリア・メンバーF あこに座っとんのん、陛下やないぞ。

西塔エリア・メンバーG あれは別人や、別人が天皇の衣服を着とんのや!

西塔エリア・メンバーH これはいったい、どこの天狗(てんぐ)の仕業や。

西塔エリア・メンバー一同 もうあきれて、よぉいわんわぁ。

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この一件があってからというもの、「皇居」にやって来る衆徒は皆無となってしまった。

天皇側近メンバーI あーあ、ばれてもたなぁ。

天皇側近メンバーJ こないなったら、この山の連中、いったいどないな動きに出よることやら、わからへんで。

天皇側近メンバーK 早ぉ山、下りて、陛下に合流しような。

その夜半、花山院師賢(かざんいんもろかた)、四条隆資(しじょうたかすけ)、二条為明(にじょうためあきら)はこっそり延暦寺を抜け出し、笠置山にころがりこんだ。

そうこうするうち、もとから幕府側に心寄せていた上林坊・豪誉(じょうりんぼうごうよ)は、護良親王(もりよししんのう)側近の安居院・澄俊(あぐいちょうしゅん)を捕えて、六波羅庁へ突き出した。

衆徒中の有力者である護正院・猷全(ごしょういんゆうぜん)は、八王子社(はちおうじしゃ)の一の木戸を守っていたのであったが、こうなってはとても戦えないと思ったのであろうか、同僚・部下の者たちをひきつれて、六波羅庁へ投降してしまった。

それをかわぎりに、一人落ち、二人抜け、延暦寺サイドからは脱落者が続出、ついには、光林房・源存(こうりんぼうげんそん)、妙光房・小相模(みょうこうぼうこさがみ)、中坊の者ら、3、4人の他には、天皇に味方する者はなし、というように、状況が一変してしまった。

宗良親王(むねよししんのう)と護良親王(もりよししんのう)は、その夜はなおも、八王子社に踏みとどまっていたが、

護良親王 もう、こうなっては、どうしようもありません。まずはここを脱出して、陛下の行く末を見守るとしましょうよ。

宗良親王 そうやねぇ。

29日夜半、二人の親王は、八王子社一帯にかがり火を多く燃やして、いまだ大勢がたてこもっているかのように偽装した後に、 戸津浜(とづのはま)から小舟に乗り、逃亡せずに留まっていた衆徒らを引き連れて、石山(いしやま:滋賀県大津市)へ逃れた。

護良親王 ここから後、更に、我々二人が行動を共にする、というのは、下の策やと思います。それに、兄上は、足もあんまり達者ではないから、あまり遠くまで逃げなさるのはムリでしょうし・・・。

ということで、石山から以降、二人は別ルートをとることに。

かくして、宗良親王は、山ごえルートで笠置寺へ、護良親王は、熊野川・上流方面を目指し、奈良へ向かった。

かくも尊い一山の座主(ざす)の位を捨てて、慣れぬ万里漂白のあてもない旅に、流れゆく二人。

薬師如来(やくしにょらい)、山王権現(さんのうごんげん)との結縁(けちえん)(注1)も、もはやこれを限りかと思うと名残りおしく、ともに皇族の兄弟として生れた二人の再会もまたいつの事になろうかと思うと、まことに心細い。

互いに遠ざかりゆく相手の姿が見えなくなるまで、後ろを何度も振り返りつつ、涙の中に東西に分かれていく、その心中はまさに悲しきものである。

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(訳者注1)延暦寺・根本中堂の本尊・薬師如来と、日吉神社の延暦寺の守り神・山王権現を指している。
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そもそも今回の、「天皇になりすましての延暦寺避難」と「その発覚ゆえの衆徒たちの心変わり」の件、その策謀の成功こそは見なかったものの、よくよく考えてみるに、深謀遠慮(しんぼうえんりょ)から出たアイデアと、評価できなくはない。

古代中国において、秦(しん)帝国滅びて後、楚(そ)の項羽(こうう)と、漢(かん)の高祖(こうそ)の二人が互いに政権を争うこと8か年、両者の間に戦闘が行われる事70余回。その間、項羽は連戦連勝、高祖の苦しみ、はなはだ深し。

高祖、滎陽(けいよう)城にたてこもりし時、項羽の軍、城を囲むこと数百重。日が過ぎるとともに、城中の兵糧次第に尽き、高祖の兵らの士気は衰え、高祖、戦わんとするに力無く、遁(のが)れんとするに道無し。

ここに、高祖の部下に紀信(きしん)という者あり、覚悟を決して高祖に向かいて提言す。

紀信 項羽は今や、この城を数百重にも囲んでおりまする。わが方はすでに糧食つき、兵たちは疲労こんばい。今もし城を出て戦わば、敗北して敵の捕虜になることは必定。殿、ここは敵を欺いて、秘かに城を脱出するのが得策かと、心得まする!

高祖 そちに、それを可ならしむる策はあるのか?

紀信 ありまする。

高祖 ・・・。

紀信 願わくばわが殿、私めに、殿になりすまして、項羽の陣に投降する事を許したまえ。

高祖 ・・・。

紀信 項羽が私めを捕え、囲みを解き放ったその瞬間に、殿は速やかにこの城を脱出なされませ。しかる後、再び大軍を催して、項羽に対する反撃の戦を起こされ、敵を亡ぼしたまわんことを!

高祖 何を言うか! その策を用うれば、そちは、項羽の陣内において殺されてしまうではないか! さような悲しきこと、我は到底耐えがたいぞ。

紀信 殿ォ!

高祖 ・・・。

紀信 殿、国家のためを思わば、ご自身を軽々しく死に至らしめることなど、断じてなりませぬ! なにとぞ、なにとぞーっ!

高祖 ・・・。(涙)

かくして高祖、いたしかたなく、涙をおさえ、別れをおしみつつ、 紀信の謀略を採用することを決断せり。

紀信、大いに喜び、自ら高祖の衣を着し、王車に乗りて王旗をかざしながら、

紀信 ただいまから我、これまでの罪をわび、楚の大王のもとに投降す!

叫びながら、城の東門より出づる紀信。これを見た楚の兵士ら、四方の囲みを解き、残らず東門へ集まりて、一斉に万歳を唱うる。この間に高祖、30余騎を従え、城の西門から成皐(せいこう)の地へと脱出。

夜が明けて後、項羽、楚に投降してきた「高祖」を謁見。

項羽 やや、なんと! なんじは彼にあらず!

紀信 紀信なり!

項羽 うーぬ、おのれ、たばかりおったな!

項羽、大いに怒りて、ついに紀信を殺したり。

後日、高祖、成皐の兵を率いて項羽に反撃を開始。

項羽ついに勢い尽き、烏江(おうこう)にて討たれ、高祖は漢王朝を創立、その後長く、天下の主となりにけり。

後醍醐天皇もこのような歴史的先例を考え、花山院師賢もこのような忠節の道をよく心得ていたのであろうか。 かたや、包囲を解かせるために敵を欺いた紀信、かたや、敵の軍勢を遮るために謀った師賢。日本と中国、時と所は異なるといえども、君臣心あわせての千載一遇(せんざいいちぐう)の忠貞(ちゅうてい)、臨機応変の智謀と言えよう。

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(訳者注)

(以下に掲載の画像は、訳者が撮影したものである。撮影時期は、2006年8月、2007年8月。)

[修学院離宮](京都市・左京区)の付近から、 [叡山ケーブル・ロープウェイ]の[比叡山頂・駅]付近へ登る山道がある。これが、[雲母坂(きららざか)]である。

[寺社勢力の中世 伊藤正敏 ちくま新書 734 筑摩書房]の71Pによれば、延暦寺の人々が京都に来る時、あるいは、朝廷から延暦寺への勅使が、通常使用するルートがこれであったという。

延暦寺の[西塔]エリアには様々な建造物があるのだが、その中心的存在が、[転法輪堂(釈迦堂)]である。

その南方に、おもしろい建造物がある。2つの堂が廊下でつながれているのだ。

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正面向かって左側のが[常行堂]、右側のが[法華堂]。かの、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、[にない堂]とも呼ばれている、という。

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[椿堂]という名前の堂もある。

[西塔]エリアから[東塔]エリアへの途中に、延暦寺中の聖地・[浄土院]がある。ここは、伝教大師の御廟所だ。[十二年籠山行の修業僧]がここを守っている、という。

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[西塔]エリアと[東塔]エリア間に、このような所がある。

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P07

[弁慶水]。これも、弁慶伝説に関係あり。

P8
P08

[山王院堂]。ここまで来ると、[東塔]まであと少しの距離となる。

P9
P09

[戒壇院]。[東塔]エリア中の、建造物である。

延暦寺の[東塔]エリアの中心的存在が、[根本中堂]である。

P10
P10

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太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月23日 (日)

太平記 現代語訳 2-9 持明院統の人々、六波羅へ避難

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このような、まことに騒然たる世情ゆえ、尊い方々を捕縛しようなどと企てる、逆心を持つ者も出てくるかも、ということで、27日午前10時ころ、[持明院統]の方々、すなわち、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)、量仁皇太子のお二方は、持明院(じみょういん)を出て、まず六条殿(ろくじょうでん:注1)へ避難、さらにそこから、六波羅庁北館へ避難された。

それにつき従うメンバーは、菊亭兼季(きくていかねすえ)、中院通顕(なかのいんみちあき)、西園寺公宗(さいおいんじきんむね)、日野資名(ひのすけな:注2)、勧修寺経顕(かじゅうじつねあき)、日野資明(ひのすけあきら:注3)といった人々。全員、衣冠をただし、御車の前後にあい従った。

その他、院の北面(ほくめん)守護担当の武士をはじめ、朝廷の百官、諸警護の者たちも、 多くは、狩衣(かりぎぬ)の下に腹巻き鎧を着用して、一行に従った。

京都中、わずかの間にすっかり様変わり、これらの軍勢、天子のみ旗を守ってギンギン、といった有様。それを見聞きする人々は、ただただ驚くばかりである。

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(訳者注1)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注によれば、六条の北、西洞院の西にあったという。

(訳者注2)この人は、日野資朝の兄である。

(訳者注3)この人は、日野資朝の弟である。
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太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月22日 (土)

太平記 現代語訳 2-8 花山院師賢、天皇になりすまして延暦寺へ

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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御所を脱出の後、三条河原あたりにさしかかった時、後醍醐天皇は一つの手をうっていた。

後醍醐天皇 師賢(もろかた)!

花山院師賢(かざんいんもろかた) ははっ!

後醍醐天皇 護良(もりよし)が、あないなふうに、色々と作戦立ててくれたよったしな、いっちょあの通りにして見よ、思うんやわ。

花山院師賢 はい。

後醍醐天皇 お前な、わしになりすまして、比叡山(ひえいざん)に登ってな、延暦寺(えんりゃくじ)の衆徒連中らの心、探ってみ。ほいでな、うまぁいことやって、こっちの味方に引き入れい。他からも、兵力動員して、合戦せい。

花山院師賢 ははっ!

師賢は、法勝寺(ほっしょうじ:京都市左京区)の前で天皇の礼服に着替え、天皇用の輿(こし)に乗って延暦寺・西塔(さいとう)エリアへ登山していった。

四条隆資(しじょうたかすけ)、二条為明(にじょうためあきら)、中院貞平(なかのいんさだひら)らも衣冠をただし、天皇のお供に扮して付き従った。

一行の姿は、いかにも、天皇の行幸のように見えた。

延暦寺に到着の後、西塔(さいとう)エリアの釈迦堂(しゃかどう)を「皇居」と定め、「陛下が、延暦寺を頼って行幸あそばされたぞ!」と発表した。

この情報が伝わるやいなや、比叡山上、坂本(さかもと:滋賀県大津市)は言うに及ばず、大津(おおつ)、松本(まつもと)、戸津(とづ)、比叡辻(ひえつじ)、仰木(おおぎ)、絹河(きぬがわ)、和仁(わに)、堅田(かたた)(以上いずれも、滋賀県大津市内の比叡山東山麓・琵琶湖南岸に位置する)の者までも、我先にとはせ参じてきて、その軍勢は東塔(とうとう)・西塔両エリアに雲霞(うんか)のごとく充満した。

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このような情勢の変化を、六波羅庁は全くキャッチしていなかった。

鎌倉よりの二人の使者が、夜明けとともに御所へ押し入り、天皇を六波羅庁へ移そうということで、今や出動というところに、延暦寺・浄林房(じょうりんぼう)の豪誉阿闍梨(ごうよあじゃり)のもとから、使者がやってきた。

使者 豪誉様よりのお言葉を、申し上げます。

 「今夜の午前4時ごろに、延暦寺を頼って、天皇がこちらにやってこられました。延暦寺の衆徒3,000人ことごとく、その下にはせ参じてます。」

 「「近江(おうみ:滋賀県)、越前(えちぜん:福井県東部)からの援軍が到着しだい、明日にでも、六波羅庁へ攻め寄せよ」と、こっちの作戦会議で決まりました。」

 「事が大きぃならんうちに、六波羅庁から速やかに、坂本へ軍を向けられませ。私の方は、天皇軍を背後から襲い、陛下を捕えるようにしますから。」

大いに驚いた六波羅庁・両長官は、ただちに御所へ急行。そこにはすでに天皇の姿はなく、そこかしこの部屋の中に女たちが集まって泣いている声が聞こえてくるばかりである。

六波羅庁・メンバーA うん、間違いねぇですね、豪誉の言う通りだ。

六波羅庁・リーダーB 天皇は、延暦寺へ逃亡したと思われます。

六波羅庁・リーダーC あちらの勢いが大きくならないうちに、延暦寺、攻めるべきだよな!

そこで、六波羅庁では、[京都市中48か所・警護番所]づめの武士たちと、近畿圏5か国の軍勢あわせて5,000余騎を、正面方向・攻略軍として編成し、赤山禅院(せきさんぜんいん:京都市左京区)のふもと、一乗寺下松(いちじょうじさがりまつ:京都市左京区)のあたりに向かわせた。

一方、背面方向・攻略軍として、佐々木時信(ささきときのぶ)、海東将監(かいとうしょうげん)、長井宗衡(ながいむねひら)、小田貞知(おださだとも)、波多野宣道(はだののぶみち)、小田時知(おだときとも)に、美濃(みの:岐阜県南部)、尾張(おわり:愛知県西部)、丹波(たんば:京都府北西部+兵庫県中東部)、但馬(たじま:兵庫県北部)の勢をそえて7,000余騎の軍を編成し、大津、松本を経て唐崎一つ松(からさきひとつまつ:滋賀県大津市)のあたりまで進軍させた。

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延暦寺サイドは、かねてよりの作戦どおりに、宗良親王(むねよししんのう)と護良親王(もりよししんのう)が、宵の内より八王子社(はちおうじしゃ)に移動し、そこで軍旗を掲げた。護正院(ごしょういん)の祐全・僧都(ゆうぜんそうづ)、妙光坊(みょうこうぼう)の玄尊・阿闍梨(げんそんあじゃり)をはじめ、こちらから300騎、あちらから500騎と、八王子社にはせ参じてきて、一夜のうちに6,000余騎の大軍にまで膨張した。

かくして、天台座主(てんだいざす)・護良親王をはじめ、延暦寺の人々は、解脱(げだつ)の衣たる袈裟(けさ)を脱ぎ捨て、堅固な鎧と鋭利な武器を身に帯す体になった。仏が神に化身されて護りの力を垂れたまう場もたちまちにして、勇士が守護する戦場に変じてしまった・・・神のみこころはいったいどこに・・・いやはや、もうまったく、わけが分からなくなってきてしまった。

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そうこうするうちに、

 「六波羅庁の軍勢はもう、戸津宿(とつじゅく)のへんまで押し寄せてきたぞ!」

ということで、坂本は騒然としてきた。

南岸の円宗院(えんしゅういん)、中坊(なかのぼう)、勝行房(しょうぎょうぼう)の、ハヤリたつ同輩の僧たちは、取る物もとりあえず、唐崎浜(からさきはま)へ押し出し、六波羅軍に対峙(たいじ)。全員、馬に乗らず歩兵の体、人数300人足らず、といったところか。

これを見た六波羅庁派遣軍リーダー・海東将監(かいとうしょうげん)は、

海東将監 敵は小勢だぞ。後づめの連中が加勢に加わって来ないうちに、掛け散らしちまわねば! みんな、おれに続け、イェーィ!

叫ぶやいなや、3尺4寸の太刀を抜き、鎧で護られた左腕をかざし、敵のひしめくまっただ中に掛け入って、3人を斬り伏せ、波打ちぎわに馬を留めて、自分に続く味方軍勢を待つ。

はるかかなたからこの様を見ていた岡本房・快実(おかもとぼうかいじつ)は、前につき並べた盾の1枚をカッパと踏み倒し、2尺8寸の小長刀を水車のように振り回し、海東めがけて襲いかかっていった。

海東は、快実の攻撃を左サイドに受けながら、相手の兜(かぶと)の鉢をまっ二つに打ち破らんと、右手だけで太刀を振り下ろした。

海東将監 えぇい、くらえーぃ!

海東の太刀 サパッ!

狙いの外れてしまった太刀は、快実の鎧の袖だけを、肩から最下部まで切って落としただけであった。

海東将監 くそっぉ! ではもう一回!

二回目の太刀を振り下ろしたときに、海東は力が入りすぎて、左足の鐙(あぶみ)を踏み折ってしまった。

あわや落馬かという体勢を海東が立て直したタイミングを狙いすまし、快実は長刀を伸ばし、刃先を上に向け、海東の兜の内側の方へ2回、3回と連続突きを入れた。

快実 ヘイヘイヘイ!

その狙いは過たず、刃先は海東の喉笛を貫き、彼は馬からまっさかさまに落ちた。

すかさず駆け寄った快実は海東の鎧の背部の上に乗りかかり、耳の側の髪をひっ掴むやいなや、海東の首をサアッと掻き切り、長刀の先にそれを突き刺し、大喜びで声高らかに、

快実 六波羅軍の大将、一人討ち取ったでぇ! なかなか幸先(さいさき)、ええやないかぁい!

その時、戦闘見物の群衆の中から、どこの誰とも分からぬ15、6歳くらいの少年が一人、飛び出してきた。童形ヘアスタイル、淡黄がかった青の胴丸鎧を着用、大口袴の股立(ももだち)を高くしている。

少年は、金装飾の小太刀を抜き、快実の側近くまで走りかかり、兜の鉢を3,4回、激しく打った。

快実はキッと振りかえり、自分に襲いかかってきた相手を見つめた。相手は、眉を太く描き、お歯黒で歯をそめた年の頃16歳くらいの少年である。

快実 (内心)こんな子供を討ち取るのは、法師の我が身としてはあまりに無情な話や、なんとかして、こいつの命を奪わずにすませよう。

しかし、少年はなおも、執拗に走りかかり、切りつけてくる。

快実 (内心)長刀の柄の方を使ぉて、あの太刀を打ち落とし、組み伏せてしまおか。

その時、戦線に加わっていた比叡辻の者たちが、田の畦に立ち並んで側面から一斉に射撃した矢に、この少年は胸板をツッと射抜かれ、直ちに倒れて絶命してしまった。

後日、少年の身元を調べたところ、海東将監の嫡子・幸若丸(こうわかまる)と、判明。家に留めおかれ、戦場への父の供ができなかったが、どうしても気がかりであったのであろうか、見物の群衆にまじって、軍の後をついてきていたのである。

年少といえども武士の家に生まれた幸若丸、戦場に死した父の後を追って同じく討ち死に、名を歴史の上に止めたのである・・・ああ、哀れなことよ。

これを見た海東家の郎等(ろうとう)たち、

海東家・郎等D 我らの主を二人までも、目の前で討たれた上に、

海東家・郎等E 殿の首を敵に取られて、

海東家・郎等F 生きて帰れるものか!

海東家・郎等一同 ウォーッ!

郎等36騎、馬の首を並べて一斉に駆け入り、主の死骸を枕に討死にせんと、競い合う。

これを見た快実、

快実 ワッハッハッハァ! けったいなやっちゃらやなぁ。敵の首を取るのが大事やろうに、味方の首を欲しがるとは。これはさしづめ、鎌倉幕府自滅のめでたい前兆やろぉて。そないにこの首、欲しかったらな、くれたるわい、ほれ!

手に持った海東の首を郎等たちの中にガバッと投げ入れ、快実は真っ向から太刀を振りかざし、八方を払って火花を散らす。郎等36騎、快実たった一人に切りまくられ、馬の足も立ちかねる状態に。

後方からこれを見た、佐々木時信、

佐々木時信 海東家のもん(者)ら、死なせてはあかんぞ、みんな、彼らに続け!

その命令一下、伊庭(いば)、目賀田(めかだ)、木村(きむら)、馬渕(まぶち)ら300余騎、一斉におめいて、快実めがけ襲いかかる、快実の命は風前の灯!

桂林房・悪讃岐(けいりんぼうあくさぬき) 快実、応援に行くぞぉ!

桂林房・悪讃岐、中房・小相模(なかのぼうこさがみ)、勝行房・定快(しょうぎょうぼうじょうかい)、金蓮房・直源(こんれんぼうじきげん)の4人が、左右から快実の応援にかけつけて、六波羅庁側を切りまくる。

悪讃岐と直源が同所に倒れるのを見て、後づめの延暦寺宗徒50余人、一斉攻撃をしかける。

この合戦が展開されている唐崎浜(からさきはま)という場所は、東側は湖に面して崩落しており、西側は泥深い田で馬の足も立たず、平らな砂原の中に狭い道が延び、という地形である。従って、敵の背後に回り込んで包囲するのも不可能、左右に広く展開して敵を包み込むのも不可能。延暦寺サイドも六波羅庁サイドも、正面に位置する者たちだけが戦闘し、後方の者はそれをただじっと眺めているしかない。

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「唐崎浜で戦闘開始!」との情報をキャッチし、延暦寺サイド3,000余騎が、白井(しらい)経由の今路越(いまみちごえ)ルートへ向かう。一方、東塔エリア所属の宗徒7,000余人、三宮(さんのみや)の林から下山。さらに、和仁(わに)、堅田(かたた)の勢力が小舟300余隻にうち乗り、六波羅庁軍の背後を遮断すべく、大津めざして漕ぎ出だす。

これらの延暦寺サイドの動きを見た六波羅庁サイドは、「このままでは敗北必至」と判断、志賀の炎魔堂(しがのえんまどう)前から今路越ルート経由にて京都への退却を開始。

周辺の地理に詳しい延暦寺サイドは、ここかしこの要所に移動して、六波羅庁サイドに、散々に矢を浴びせかける。地理に不案内な六波羅庁サイドは、周辺の掘や崖に進行を妨げられ、あちらこちらと馬を乗り回すばかりで、なかな退却が捗(はかど)らない。

しんがりの、海東軍団の若党8騎、波多野軍団の郎等13騎、真野(まの)父子2騎、平井九郎(ひらいくろう)主従2騎が、谷底に追い落とされ、討ち死にした。

佐々木時信も、馬を射られ、乗り換え用の馬を待っている間に、左右から敵の大軍が押し寄せてきた。

佐々木家・若党たち 殿が危ない!

名を惜しみ命軽んじる佐々木家の若党たちは、必死の反撃に反撃を重ね、わが身は次々と倒されながらも、主君の為に一条の血路を切り開いていく・・・かくして、佐々木時信は、万死(ばんし)を出(い)でて一生(いつしょう)に合い、白昼、京都へ逃げ帰った。

最近までは、天下静穏無事が続き、「軍(いくさ)」の言葉が人の耳に触れるような事は絶えて無かったというのに、にわかに起こったこの異変に、京都中、総パニック状態、天地が今にもひっくりかえるかのように、情報は都中をかけめぐる。

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2017年4月21日 (金)

太平記 現代語訳 2-7 幕府側大軍の上洛を見て後醍醐天皇、御所を脱出

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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嘉歴(かりゃく)2年(1327)の春の頃、奈良の興福寺の内部で争いがあった。大乗院(だいじょういん)所属の禅師房(ぜんじぼう)と六方の衆徒(注1)の間に紛争が勃発、それはついに合戦にまで発展してしまった。そして、興福寺の金堂(こんどう)、講堂(こうどう)、南円堂(なんえんどう)、西金堂(さいこんどう)がたちまち兵火に包まれ、焼失してしまった。

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(訳者注1)[大乗院]は、[興福寺]に所属する寺院であった。現在、その庭園のみが復元されている。[禅師房]は、[大乗院]に所属する寺院である。[六方]とは、興福寺に所属する寺院中の6つのグループであり、[戌亥方]、[丑寅方]、[辰巳方]、[未申方]、[竜花院方]、[菩提院方]と称された。
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また、元弘(げんこう)元年には、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県大津市)・東塔(とうとう)エリアの北谷(きただに)から兵火が起こり、四王院(しおういん)、延命院(えんめいいん)、大講堂(だいこうどう)、法華堂(ほっけどう)、常行堂(じょうぎょうどう)が、同時に灰燼(かいじん)になってしまった。

このように次々と起こる大事件に、人々は怯えている。

街の声A 最近のうち続く凶事、これはもしかしたら、わが国に国家的規模の大きな災が起こる、何かの前触れやないやろか。

これに追い打ちを掛けるかのように、同年7月3日に大地震が発生、紀伊国(きいこく:和歌山県)千里浜(せんりはま:和歌山県・日高郡・南部町)の、干潟が隆起してにわかに陸地に変ずること20町余り。

さらには同月7日午後6時ころ、またもや地震が発生し、富士山の頂が崩落すること数百丈。

卜部宿祢(うらべのすくね)が、亀の甲を焼いて占いを行い、陰陽博士(おんみょうはくし)が占書を調べてみるに、

 「国王 位(くらい)を易(か)え 大臣 遭災(わざわいにあう)の卦」

と出た。そこで、陰陽博士は内密に、後醍醐天皇に奏上した。

陰陽博士 占いの結果、どうもタダゴトではありませんよ。とにかく陛下におかれましては、御慎みあそばされるのが何よりです。

後醍醐天皇 ・・・。

街の声B 最近、エゲツナイ事ばっかし起こりよるやないかい。

街の声C ほんまやなぁ。あちらこちらの寺院の火災といい、方々で起こる地震といい。

街の声D こら、タダゴトやおまへんでぇ!

街の声E そのうち、ドエライ事起こるんちゃいますう? おぉこわ(怖)。

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はたせるかな、元弘(げんこう)元年(1331)8月22日、

 「鎌倉幕府よりの使者2名、3,000余騎の大軍を率いて上洛!」

とのニュースが、京都にとびこんできた。

何だかよくは分からないけれども、都にまた何事か起こるのであろうかと、京都周辺から武士たちが、我も我もと市内に馳せ集まってきて、どこもかしこもなんとなく、異常に騒がしい毎日である。

その使者が京都に到着するやいなや、鎌倉幕府からの書簡をまだ誰も開いてもいないというのに、いったいどこからどうやってリークしたのであろうか、

 「今回の幕使の上洛の趣旨は、天皇を遠国に流し、護良親王(もりよししんのう)を死罪に処する事」

と、延暦寺に伝わってしまった。

その情報をキャッチした、延暦寺・天台座主・護良親王は、8月24日の夜、後醍醐天皇に密使を送った。

密使 陛下、謹んで、親王殿下よりのメッセージ、お伝えいたします。

後醍醐天皇 うん。

密使 殿下は以下のごとく、おおせです、

 「今回の鎌倉からの使者の上洛の趣旨、首尾よくこちらで内々に把握できました。陛下を遠国に遷したてまつり、私を死刑にするための上洛、とのことです。」

 「このように、極めて危機的な情勢になっておりますから、今夜にでも急ぎ、奈良の方へお逃げ下さいませ。防衛体制も何も整わない所に、朝廷側の勢力も馳せ参じて来ない前に、あちらサイドが御所に押し寄せて来たら、こちらサイドの防戦は、極めて不利になります。」

 「京都に入ってきた敵を遮(さえぎ)り止めんが為にも、また、延暦寺の衆徒(しゅうと)たちの帰趨(きすう)を見極めんが為にも、近臣中の一人に対して、天皇を名乗らせる許可を与えた上で、彼を延暦寺に送りこみ、「天皇陛下、比叡山にご避難」との公表を行うのが、よろしいかと存じます。」

 「そうなれば、必ずや敵軍は、比叡山(ひえいざん)延暦寺に向かうでしょうから、延暦寺の衆徒らと激突することになります。衆徒らは、「我らの大事なみ寺のために!」と、身命(しんみょう)惜しまず、必死になって防戦に努めることでしょう。」

 「そのようにして、数日間、戦い続けるのです。そして、幕府軍サイドが戦い疲れてきた頃合いを見計い、伊賀(いが:三重県北西部)、伊勢(いせ:三重県中央部)、大和(やまと:奈良県)、河内(かわち:大阪府東部)の朝廷サイド勢力を動員して、逆に京都を攻めるのです。そうすれば、あっという間に、関東からの軍勢を撃退することが可能でしょう。」

 「国家の安危、ただこの一挙にありです!」

後醍醐天皇 ・・・。(ただただ、茫然自失、何の決断も指示も下せない)

花山院師賢(かざんいんもろかた)、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、万里小路季房(までのこうじすえふさ)ら、当日宿直の番に当たっていた近臣数名を御前に呼び、天皇は問うた。

後醍醐天皇 こうこう、こないなわけや。いったいどないしたもんやろ?

万里小路藤房 これは、えらいことになりましたなぁ・・・うーん・・・。

一同 うーん・・・。

万里小路藤房 そうですねぇ・・・やっぱし、「逆翟翟臣が君主を犯そうとする時には、君主はしばらくその難を避けるべし、それにより、国家も保たれる」というのが、歴史的に見ても正しい方策ですやろ。

後醍醐天皇 ・・・。

万里小路藤房 古代中国・晋(しん)国の公子・重耳(ちょうじ)は翟(てき)国に逃げ、周(しゅう)国の古公(ここう)は豳(ひん)の地へ移住しましたやろ。その難を乗り越えてから後、彼らは共に王業をなし、その子孫は不朽の栄誉に光輝いたというわけですよ。

後醍醐天皇 ・・・。

万里小路藤房 とにかく、ここは急がな、あきまへん、陛下! このまま、ここで思案してたんでは、夜も更けてしまいますやんか、一刻も早ぉ、ここを脱出下さいませ!

というわけで、藤房は車を手配してそれに三種の神器を積み込んだ。そして、車の下簾(すだれ)の下から女ものの衣服の裾を車の外へはみださせて、宮中の女性が乗っているかのように擬装した後に、天皇をその車にたすけ乗せ、御所の陽明門(ようめいもん)から外に出ようとした。

門の警護担当の者らが、車の前にたちはだかる。

警護担当X いったい、どなたの外出ですかいな?

万里小路藤房 シィッ、声が高いぞ! おそれ多くも、この車の中には、中宮妃殿下がおわすのや!

警護担当X エッ!

万里小路季房 夜陰にまぎれて、おしのびでな、西園寺(さいおんじ)の実家に行かはるんやがな。はよ、そこ通し!

警護担当X そういうことならば、さぁどうぞ。

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予め、メンバー間で打ち合わせていたのであろう、源具行(みなもとのともゆき)、洞院公敏(とういんきんとし)、千種忠節(ちぐさただあき)らも、三条河原で一行に合流してきた。

天皇側近メンバーA さぁ、ここで、陛下に車から降りていただいてやな、輿にお乗せして、ほいで、奈良を目指そ。

天皇側近メンバーB 輿? 輿はどこにある? えぇ、これかいなぁ。

天皇側近メンバーC なんともまぁ、お粗末な輿やなぁ。

天皇側近メンバーA しゃぁないやろがぁ、急な事やしぃ。

天皇側近メンバーC 輿をかつぐ人夫、おらんがな。

天皇側近メンバーA えぇい、しゃぁない、こないなったら、おまえら、かつげぇ!

というわけで、宮内省料理部長官の重康(しげやす)、同雅楽部(ががくぶ)所属楽人の豊原兼秋(とよはらのかねあき)、近衛府(このえふ)所属の秦久武(はだのひさたけ)らが、輿をかついで進むことになった。

公卿たちはみな、フォーマルウェアを脱ぎ捨て、折烏帽子(おりえぼし)と直垂(ひたたれ)のカジュアルウェアに着替えた。公家に仕える身分低き侍が、女づれで奈良の七大寺もうでに出かけるような体に見せかけ、彼らは輿の前後を進んだ。

木津(きづ:京都府・木津川市)の泉橋寺(せんきょうじ)を過ぎたあたりで、夜が明けた。そこで、天皇に朝食をおとりいただいた。

さらに進んで、奈良の東大寺・東南院(とうだいじ・とうなんいん)へ入った。

その寺を預かる僧正は朝廷への忠誠心を持っていたので、天皇が奈良へ来た事を秘したまま、東大寺の人々の意向を探ってみた。その結果はと言えば、

天皇側近メンバーC いかんなぁ・・・東大寺の西室(にしむろ)には、顕実僧正(けんじつそうじょう)いう、関東の一族のモンがおるんやて。寺の中で絶大な権力を持っとってな、みんなそいつに恐れをなして、陛下に味方しよう、いうもんなんか一人もおらんそうや。

天皇側近メンバーB そんな状態やったら、陛下が奈良にとどまられるのは、危険やなぁ。

ということで、翌26日、和束(わつか:京都府・相楽郡・和束町)の鷲峰山・金胎寺(じゅぶせんこんたいじ)へ移動。

天皇側近メンバーA ここもなんかなぁ・・・山の奥すぎるわ。こないに里から離れてたら、打つ手あらへん。

天皇側近メンバーB もっと他の要害に、陣を構える事にしよか。

同月27日、一行はお忍び行幸の態勢を整え、奈良の衆徒少数を引き連れて、笠置寺(かさぎでら)(京都府・相楽郡・笠置町)に移動した。

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2017年4月20日 (木)

太平記 現代語訳 2-6 日野俊基の最期~その時、忠臣・後藤助光は

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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 「日野俊基(ひのとしもと)こそは、今回の倒幕計画の張本人である。よって、遠国流刑などというような緩い処置などもってのほか、近日中に鎌倉にて、斬首刑に処すべし!」

との決定が、幕府においてなされた。

それを聞き、俊基は懇願を繰り返した。

日野俊基 私は、法華経(ほけきょう)600部・読経(どきょう)の願(がん)を立てた。残すところ、あと200部というとこまで、来てる。せめて、この願を達成できるまで、刑の執行を延期してもらえへんやろか。その後やったら、もう、どうにでもしてくれてえぇから。

なるほど、それほどの大願を果たさせないままに、命を奪ってしまうのも罪なことだ、ということで、彼の願いは聞き届けられた。

1日、また1日・・・200部の読経が完了するまでのわずかの日数も、どんどん残り少なくなってきて、命終わる日がじわじわと迫ってくる・・・あぁ、哀れなるかな、日野俊基。

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ここに、後藤助光(ごとうすけみつ)という、俊基に長年仕えてきた身分低き侍がいた。

主君が囚われの身となってからは、俊基の妻に仕えながら嵯峨野(さがの:京都市右京区)の奧に潜んでいたのだが、「俊基、鎌倉へ護送!」との知らせを聞いて、悲しみにうちひしがれる夫人の姿を見ていると、彼もまた、たまらなく悲しくなってくる。

そこで、彼は夫人に願い出て、俊基への手紙をしたためてもらい、それを持って鎌倉へと旅立った。

後藤助光 (内心)今日、明日にでも、てなうわさもあったからなぁ。すでに、処刑の憂き目に遭うてしまわはったかもしれん・・・もう、気が気やないで。

道中に出逢う人々に俊基の消息を尋ねつつ、やがて鎌倉へ到着した。

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俊基が留置されている場所の近くに宿を借り、なんとかして自分の来た事を伝えようと、あれやこれやと奔走してはみた。しかし、その手だても全く付けられないままに日は過ぎていく。そんな時、

鎌倉の街の声X 京都から来た例の囚人、今日、処刑されるらしいぞ。

鎌倉の街の声Y そっかぁ、ついになぁ。

鎌倉の街の声Z あぁ、哀れだなぁ。

後藤助光 (内心)うっ!

肝も消えなんとする思いのうちに鎌倉中をかけずり回り、あちらこちらで情報を集め、ようやく彼は、その処刑の現場にたどり着いた。

俊基は輿に乗せられ、化粧坂(けはいざか:鎌倉市)まで連行され、その身柄を、工藤二郎(くどうじろう)に引き渡されていた。

坂のたもとの葛原岡(くずはらがおか)には、大きな幕で囲った刑場が設営され、その中に敷かれた皮の上に俊基は座して、刑の執行を待っていた。

その光景を目にした後藤助光の心中は、もはや言葉では言い表しようもない・・・目もくらみ、足もすくみ、今にも絶え入らんばかり。

助光は泣きながら、工藤の前へ進み出た。

後藤助光 わたいは、日野俊基様のお側近く、お仕えしてるもんだす! 殿の最後を見届けよぉ思ぉてな、京都からはるばるやって来ました。お願いです、お願いですから、殿の御前に行かせて下さい。奥方様からも、お手紙をお預かりしてきてます、殿にご覧いただきたいんですわ!(涙)

涙をはらはらと流しながら懇願する助光の姿に、工藤も哀れを催し、思わず涙を流す。

工藤二郎 よかろう、早いとこ、幕の中へ入ってお目通りしろ。

助光は中に入り、俊基の前にひざまづいた。

後藤助光 (涙)殿!

日野俊基 おぉ・・・助光やないかぁ・・・よぉ来てくれたなぁ・・・みんなは、どないしてる?(涙)

後藤助光 これ・・・奥方様からのお手紙だす!

預かってきた手紙を俊基の前に置き、助光は涙にむせびながら、うなだれた。

しばしの後、俊基は涙を拭い、手紙を開いた。

 俊基・夫人からの手紙:
 今にも消えてしまいそうな露になってしもたような気持ちの中に、毎日生きてます、うち。どこにも身の置き場があらしまへん。いつの黄昏(たそがれ)の中に、あなたさまのご最期をお聞きすることになるやろか、思うと、もう泣けてきてしもぉて・・・悲しぃて・・・このうちの苦しさ、ご想像もできひんでしょうねぇ。

一字一字に込められた、言葉にも言い表しがたい彼女の思いの深さは、墨の異常な黒さに、はっきりと表れている。

むせぶ涙に目も曇り、手紙を読みかねている俊基の姿を、周囲の者も皆、涙を浮かべながら見守っている。

やがて俊基は、

日野俊基 硯を。

渡された携帯用の硯の中から小刀を取り出し、自分の鬢(びん)の頭髪を少し切り取り、彼女からの手紙の中に巻き入れた。そして、一筆したためて、それらを助光に渡した。

後藤助光 (涙)ウ、ウ、ウ、ウ・・・。

手紙を懐に入れ、泣き沈む助光も、まことに哀れである。

そうこうするうち、工藤が幕の内に入ってきた。

工藤二郎 えぇっと・・・もう、予定の時刻も、だいぶ過ぎちゃってるし・・・。

俊基は、懐中から紙を取り出して首の回りを押し拭った後、その紙を開き、盡盡そこに辞世の詩を書いた。

 古人いわく
 死も無し 生も無し
 わが魂の 永遠なること
 はるか万里の彼方に 雲尽きるまで
 清く澄み渡る 長江の流れのごとし

 (原文:古来一句 無死無生 萬里雲盡 長江水清)

俊基は筆を置き、鬢(びん)の髪をなでつけた。

太刀が背後にキラリと光るやいなや、首は前に落ち、体はその首を抱えて地に伏した。

これを見る助光の、心中の悲しみはいかばかり。

泣く泣く葬礼を済ませ、遺骨を空しく首にかけ、形見の手紙を持ち、助光は、京都への悲愁の帰路についた。

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俊基・夫人 えっ、助光が帰ってきたて、ほんまか!

夫の消息を聞けるかと思うと嬉しくてたまらず、俊基夫人は人目も憚らず、簾の外に躍り出てきた。

俊基・夫人 な、な、どないやった? だんなさまは、いつごろ京都に帰ってきはるて、言うてはった?

後藤助光 (はらはらと涙をこぼしながら)・・・もう・・・斬られてしまわはりました!

俊基・夫人 !!!

後藤助光 これ、いまわの際の、殿のお返事だす・・・あ、あ、あ・・・。(俊基から託された髪と手紙を差し上げ、声の限りに泣く)

助光が差し出す形見の手紙と白骨を一目みるなり、夫人は、簾の内へ帰る事も出来ずに、縁に倒れ伏してしまった。そのまま息絶えてしまうのではと、思われるほどである。

当然の事である、一本の樹陰に共に宿り、同じ河の流れの水を汲んだ後は、互いに知らない者どうしであっても、いざ別れるとなると名残惜しいもの。ましてや、一本の木から生え出た二本の枝のように、夫婦の深い契りを結んではや10年余り・・・なのに今は、この世とあの世とに、住む世界が分かれてしまったではないか。

俊基・夫人 あぁ、だんなさまとはもはや、夢の中でしかお会いできひんように、なってしもぉたのか・・・。もう死んでしまいそうなくらい、悲しい・・・。

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四十九日に形のごとく仏事を営んで後、俊基・夫人は髪を落とした。墨染めの衣に身をやつして柴の扉を閉ざしてこもり、ひたすら亡夫の菩提の弔いに送る日々。

後藤助光もまた、髪を切って出家し、その後ながく高野山にこもり、ひたすら、亡き主君の成仏を祈り続けた。

このように、俊基なき後までも堅固に示された、夫婦の契(ちぎり)、主従の儀(ぎ)、まさに哀れとしか言いようがないではないか。

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2017年4月19日 (水)

太平記 現代語訳 2-5 日野資朝の最期~その時、彼の息子・阿新は

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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後醍醐天皇の倒幕計画が露見して大喜びと、いう人々も、京都にはいたのである。それは、[持明院統](じみょういんとう:注1)勢力に属する人々であった。

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(訳者注1)[持明院統]については、[太平記 現代語訳 1-5]中の訳者注をご参照いただきたい。
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持明院統・勢力の人A いやぁ、これはうまい事になりましたなぁ。

持明院統・勢力の人B ほんに。これで、今上陛下は、ご退位と・・・。

持明院統・勢力の人C そして、次の天皇位は、こっちサイドへくる事まちがいなし。

持明院統・勢力の人一同 ウキャキャキャキャキャ・・・・。

このように、身分の上下を問わず大はしゃぎである。

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しかしながら、六波羅庁によって土岐頼貞が討たれた後も、天皇位交替について、鎌倉からは何の話もなかった。

今また、日野俊基(ひのとしもと)が捕縛連行されたというのに、依然として、何らかの決定が幕府においてなされる、というような情報も伝わってはこない。持明院統・勢力サイドは、全くのアテハズレ、溜息をつくばかりである。

そういう状況ゆえに、いろいろと進言する者がいたのであろうか、持明院統・勢力より、鎌倉の北条高時のもとへ、密使が送られた。

北条高時 さてさて、いったいどんなご用件で?

密使 さるスジから、「北条高時殿に、次のように申し伝えるように」と、おおせつかって参りましたわ。

北条高時 テヘェー、いったいどんな事を?

密使 「今上天皇の倒幕計画はすでに、「今そこにある危機」の段階にまで達しておる。幕府は速やかに、それに対する糾明措置を行うべきである。さもなくば、近い日に、天下大乱になってしまうこと、必定(ひつじょう)!」

北条高時 (内心)ムムム、こりゃぁイカン!

彼はすぐに、北条家・重臣・合同幹部会議を開いた。

北条高時 持明院サイドからな、こんな事言ってきやがったぜ。いったいどうすべぇかなぁ?

会議メンバー一同 ・・・。(シーーーン)

会議メンバーA (内心)こんなこと、まっさきに口開いて言えるかい。誰か、他の人、意見言ってくんないかなぁ。

会議メンバーB (内心)自分の立場ってぇもん、考えると、うかつな事は言えないよなぁ・・・。

誰も口を開こうとしないのを見て、北条家執事(しつじ)・長崎円喜(ながさきえんき)の息子・長崎高資(ながさきたかすけ)が、ツツッとひざを乗り出し、討論の口火を切った。

長崎高資 土岐頼貞を討伐した際に、天皇も交代させてしまえばよかったんですよぉ。なのに、朝廷に遠慮して、うやむやな処置で、お茶をにごしてしまったわけじゃぁないですかぁ。

会議メンバー一同 ・・・。

長崎高資 ようはですね、天皇の倒幕プロジェクト計画という一大問題に対しての、抜本的な処置ってぇもんが全然出来てないままに、今日までずるずると、来てしまってるわけです、問題先送りのまんまねぇ。

会議メンバー一同 ・・・。

長崎高資 乱を抑え、国を治める事にこそ、武力行使の意義があるというもの! 速やかに、今上天皇は遠国流刑、護良親王(もりよししんのう)は片道切符の島流し、日野俊基、日野資朝(ひのすけとも)以下の、国を乱す近臣どもは残らず死刑、これに限りますってぇ!

会議メンバー一同 ・・・。

憚(はばか)る所なく、まくしたてる長崎高資の言葉を聞いていた二階堂道蘊(にかいどうどううん)は、しばしの思案の後、口を開いた。

二階堂道蘊 たしかに長崎殿のご意見、もっともではありますが、私が思うところを少し、述べてみてもよろしいでしょうか。

北条高時 よし、言ってみろ。

二階堂道蘊 はい・・・。武家が政権を獲得してからすでに160余年が経過、勢威は四方に及び、武運は代々輝きを増すばかりであることは、言うまでもありませんが・・・それはひとえに、武家政権が、上には、天皇陛下を仰ぎ奉って、私心なく忠節を尽くし、下には、人民をいつくしみ、仁政を施してきたからであります。

会議メンバー一同 ・・・

二階堂道蘊 なのに今、天皇陛下の寵臣の両・日野を拘留し、陛下が帰依しておられる高僧3人を流罪に処せられた、これまさに、「武臣、悪行を専らとす」と、いうべきものではないでしょうか?

二階堂道蘊 その上さらに、今上天皇陛下を遠国に遷し申し上げ、天台座主(てんだいざす)・護良親王を流罪に処す、という事になれば・・・うーん・・・天が武家政権の奢りを憎まれること、必定でありましょう。のみならず、護良親王を擁護する延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県大津市)の面々も必ずや、憤りの炎を燃やしましょう。

二階堂道蘊 神の怒りに触れ、人間にもそむかれたならば、武家政権の武運は危機に瀕(ひん)することとなるでしょう。

二階堂道蘊 古(いにしえ)の世の人の言葉にも、「君主にその資格無しといえども、臣下は臣下としての分をわきまえ、その務めを果たすべし」と、あるではないですか。

二階堂道蘊 それにですよ、たとえ陛下が倒幕を計画されているとしても、それがいったい、何程の脅威と言えましょうや? 幕府に対抗しうる武力など、あちらには無いのですからね、その計画に加担しようなどという者がいるとは、到底思えませんね。

二階堂道蘊 ここはとにかく、我々の方がひたすら慎んで勅命に従っておきさえすれば、陛下のお考えも、必ず、変化をきたすことでしょう。かくして、国家は泰平、武家政権は武運長久・・・と、私は考えるのですがねぇ、皆様のご意見は?

長崎高資 (チョゥムカッ)アノネェッ! 政治ってぇのはねぇ! アメ(飴)とムチ(鞭)とのメリハリを効かせる事が大事だと思いますよ! あいまいな処置ってのが、イッチバンいかんのですワ!

長崎高資 世の中が治まってる時には、アメをしゃぶらせてゆるやかに統治し、乱れてる時には、ムチでバッシバシ、しばいて速やかに押え込む! これですよ、これ!

長崎高資 昔の中国だってそうだったでしょ? 戦国時代には、孔子や孟子の政治学なんか、とても適用できるような状態じゃぁなかった。武力が必要でなくなったのは、戦国時代が終わって太平の世になってからだ。

長崎高資 とにかく、事は急を要します、今は、武力を用いるべき局面ですってぇ!

長崎高資 「君主にその資格無し」の場合、臣下はどうやってきたか? 中国では、周(しゅう)王朝の文王(ぶんおう)・武王(ぶおう)が、無道の君主(注2)を打倒してますよ。我が国にだって、北条義時(よしとき)様・泰時(やすとき)様の時に、善ならぬ上皇(注3)たちを流罪にした前例が、あるじゃぁないですか!

長崎高資 あの時だってぇ、幕府は朝廷から見れば、臣下の立場でしたよねぇ。でも当時の世論は、「臣下の分際で主君を島流しにするとは何事か」なんて事を言って、幕府を非難したりはしませんでしたよ。

長崎高資 古典の中にだって、「君主が臣下を土やゴミのように扱う時には、臣下も君主を仇敵のごとくに見るであろう」って、あるじゃぁないですか。

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(訳者注2)殷王朝の紂王。

(訳者注3)後鳥羽上皇の事である。長崎高資は、承久の乱の時の事跡を用いて、自説を正当化しているのである。
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長崎高資 モタモタしてる場合じゃぁない! 天皇に先手を打たれて、「幕府追討命令」でも出されちゃったら、どうする?! そうなってから後悔しても、もう遅いんだからぁ! 速やかに、天皇を遠国に遷しィ、護良親王を硫黄島(鹿児島県)へ送りィ、倒幕計画の首謀者で逆臣の日野資朝と日野俊基の両名を死刑に処するゥ、これっしかなァイ! このような処置あってこそ、武家の安泰は万世に及ぶ、というものでしょうがァ!

高資は、居丈高(いたけだか)に、自らの意見を滔々(とうとう)とマクシたてる。会議メンバー多数は、長崎父子の権勢におもねたのか、あるいは愚かな考えに引きずり込まれてしまったのか、皆それに賛同してしまった。

二階堂道蘊 (内心)これ以上、何を言ってもしかたがないか・・・。

彼は、眉をひそめて、その場を退出して行った。

かくして、

 「天皇に対して倒幕をそそのかしたのは、源具行(みなもとのともゆき)、日野俊基、日野資朝である。彼らを死刑に処すべし!」

との決定が下った。

 「まずは、昨年より佐渡国(さどこく:新潟県佐渡島)に流刑中の、日野資朝から」

という事で、日野資朝・処刑の命令が、幕府から佐渡国守護・本間山城入道(ほんまやましろにゅうどう)に下された。

--------

この決定は、京都の人々の知る所となった。

日野資朝には、「阿新(くまわか)」という名の、十三歳の息子があった。この人は後に、中納言・日野國光となる。

資朝が逮捕された直後から、仁和寺(にんなじ:京都市右京区)のあたりに身を隠していたのだが、父が処刑される、とのうわさを聞いて、阿新は、小さな胸の内にある決意を固め、母の前に座した。

阿新 もう自分の命なんか、惜しぃありません。父上と共に斬られて、冥土の旅のお供をしたい・・・父上の最期のご様子も、見ておきたいと思います。母上、お願いですからどうか、父上のもとに行かせて下さい!

阿新の母(資朝の妻) あんたは・・・もう何を言わはりますのや・・・。佐渡いうとこはなぁ、人も通わん怖ろしい島や言うやおへんか。そないなとこまで、いったい何日かかって行けるもんやら・・・。そないな遠いとこまで、いったいどないして、行かはるつもりどす?

阿新 ・・・。

母 だんなさまが、あないな事になってしまわはってからいうもん、うち、ほんまにつらい日々どす・・・その上、あんたまで、うちから離れて行ってしまうやなんて・・・。(涙)

阿新 ・・・。

母 そないな事になってしもぉたら・・・一日も、いや、一時間も、よぉ生きていけへんわ、うち・・・。うっうっうっ・・・。(涙)

阿新 父上のとこに連れてってくれる人、誰もいいひん、いうんやったら・・・もういっそのこと、ボク、どっかの川の深いとこにでも、身ぃ投げて、死んでしまいますわ!(涙)

母 なにを言うねん、あんたは!(涙)

阿新 ・・・。(涙)

母 (内心)これ以上、ムリにひき止めたら、かわいいこの子の命までも、失われてしまうかもなぁ・・・。

阿新 ・・・。(涙)

母 (内心)しゃぁないなぁ。

母は仕方なく、今日まで自分につき従って来てくれた、たった一人の中間(ちゅうげん)をお伴につけ、息子を、遙かなる佐渡への旅路に送り出した。

遠い道を行くというのに乗る馬も無く、慣れない草鞋を履き、菅の小笠をかぶり、露を分けながら歩み行く阿新少年の北陸の旅路・・・ああ、思いやるも哀れなるかな。

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京都を出てから13日目、越前国(えちぜんこく:福井県東部)の敦賀(つるが:福井県敦賀市)の港に着いた。

ここから、阿新と中間は、商船に乗り、やがて佐渡に到着。

自分がやってきた事を、人を介して伝えるすべもなく、阿新は本間の館に自ら赴き、中門の前に立った。

たまたま、門の内にいあわせた一人の僧侶が、彼の姿を見て、門の外へ出てきた。

僧 ねぇ、キミ(君)、キミ、ここの館の内に何か用があって、そこに立ってるのかなぁ? どんな用事?

阿新 ボク、日野資朝の息子ですねん。父がもうすぐ処刑される、いぅて聞いたもんですから、その最期、見届よ思ぉて、都からはるばる来たんです。(涙、涙・・・)

僧侶は心優しい人であったので、すぐに、阿新がやって来た事を本間に告げた。

それを聞いた本間も、岩や木ならぬ人間の身、さすがに哀れに思ったのであろう、すぐにこの僧に命じて、阿新を持仏堂に迎え入れさせ、足袋・きゃはんを脱がせて足を洗わせ、丁重にもてなした。

阿新は、本間のこの応対をうれしく思いながらも、

阿新 お願いします、わが父に、早ぉ会わせてください!

本間山城入道 ・・・。

本間山城入道 (内心)今日、明日にも処刑される運命にある人にだよ、息子を会わせたりなんかしたら、かえって、冥土の旅出への障害になってしまうだろう。親子の対面を許した、なんて事が鎌倉へ聞こえでもしたら、後々、まずい事になるかもなぁ。

というわけで、本間は父子の対面を許さず、4、5町ほど間を隔てて、資朝と阿新を留め置いた。

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息子が佐渡までやって来たことを聞いた父・資朝は、

日野資朝 (内心)あぁ、あの子がここまで来てくれたんか・・・。先行き不安の京都の中で、いったいどないしてるんやろかなぁと、気ぃもんでたんや。

日野資朝 (内心)そやけど、こうやって近くにいると思うと、かえって悲しみが増すもんなんやなぁ。

阿新の方も同様である。

阿新 (内心)京都と佐渡との間、波路はるかに隔てて、父上の事を思ぉて涙流してた時の方が、まだましやったわ。

「父はあちらの方にいる」と聞いてからというもの、そちらの方を眺めているだけでも涙があふれてきて、たもとの乾くひまがない。

阿新 (内心)はるか彼方のあそこに、堀と塀で囲まれて、一群の竹がこんもりと茂ってる一角がある。あのへん、行き交う人もあまりいいひん。あこがまさしく、父上が囚われの身になってはる場所なんとちゃうやろか。

声A 情け無しかな 本間の心

声B 父は 囚われの身

声C 子は 未だ幼い

声A たとえ 二人を 一緒にしておいたとしても

声B なにほどのトラブル発生の おそれがあろうか

声C なのに 父子の対面さえ許さぬとは

声A 現世に共に 生きながら

声B すでに住む世界 異なるがごとき この境遇

声C 亡(な)からん後(のち)の 苔の下

声A 思い寝に見ん 夢ならでは

声B 相(あい)看(み)ん事も 有(あ)りがたしと

声C 互いに悲しむ 恩愛(おんあい)の

声A and 声B and 声C 父子(ふし)の道こそ 哀れなれ

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5月29日の暮れ方、ついに日野資朝が牢から外に出される事になった。

本間の家臣 長い間、風呂もお入りになれませんでしたでな、どうぞ、体をお流し下さいよ。

資朝 (内心)さては・・・ついに最期の日がきたな。

資朝 それにしても、なんちゅう酷(むご)い仕打ちやろ。私の最期を見届けようと、都からはるばるやってきた幼い人の姿を、一目見る事もかなわずに、このまま命終えるとは。

本間の家臣 ・・・

これが、資朝の口から発せられた最後の言葉であった。

以後、何をするにしても無言。

今朝まではただ、うちひしがれて涙を流すばかりであったのが、今や煩悩(ぼんのう)残らずきれいさっぱり、拭い去られたようである。あの世に旅立つ為の心の準備の他、一切余念無しという感じである。

その夜、資朝は輿に載せられ、牢屋から10町ほど離れた川原へ連れて行かれた。

資朝 (内心)いよいよやな。

輿から降り假た資朝は、臆した気配みじんも無く、敷皮の上に居住まいを正した後、辞世の詩をしたためた。

 心身五要素が 集合して 仮の人間存在を 形成してきたが
 四大元素は 今再び離散して この私という実存も 空に帰する時が来た
 いままさに 我が首は 白刃(はくじん)に 当てられようとしている
 一陣の風よ さぁ吹くがよい 吹いて私の首を 速やかに切断するがよい

  (原文:五蘊假成形 四大今帰空 将首當白刃 截断一陣風)(注4)

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(訳者注4)五蘊(ごうん)とは、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)。 四大(しだい)とは、地(ち)、水(すい)、火(か)、風(ふう)。
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詩の末尾に年号月日、さらに名字を書き添えた後、資朝は筆をおいた。

刑執行担当の者が背後へ回るやいなや、首は敷皮の上に落ち、体だけは、なおも座し続けた。

しばしば、資朝を訪問して仏法の談話をしていた僧侶が来て、葬礼を形のごとく執り行い、資朝のお骨を拾って帰り、阿新に渡した。

それを一目見るやいなや、彼はくずれ落ち、地に倒れ伏してしまった。

阿新 今生での対面もついにかなわんと、白骨になってしまわはってから、父上とやっとお会いできるやなんて・・・あぁ、なんという・・・。(涙、涙)

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阿新は未だ幼いながらも、けなげな心の持ち主であった。

父の遺骨を、京都からつき従って来た中間に持たせて言わく、

阿新 おまえは、ボクより先に京都へ帰り。帰ってから、高野山(こうやさん)にお参りしてな、このお骨を、高野山の奥の院とかいう所に埋葬してな。

このようにして、彼を先に京都へ帰らせた後、阿新は仮病を使って、本間の館になおも留まった。

阿新 (内心)今生での父上との対面も許してくれへんかった、あの本間というヤツ・・・あまりに非情な仕打ちやないか! 何としてでも、この恨み、晴らさいでか!

4、5日滞在する間、昼は病のふりをして終日、床に臥し、夜になるとこっそりと部屋を抜け出して、本間の寝所などを、細々と窺(うかが)い続けた。

阿新 (内心)隙(すき)あらば、本間父子のうち、どちらか一方だけでも刺し殺す。それから、我が腹、切って果てよう。

このように、思い定めていたのである。

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風雨激しいある夜、宿直の者らは皆、母屋から離れた警護詰所で寝ている。

阿新 (内心)チャンス到来!

阿新は、本間の寝所の方に忍んで行ってみたが・・・。

阿新 (内心)あぁ、悪運、強いやっちゃなぁ! 今夜だけは、寝る場所を変えたようやぞ、どこにも、いよらへん!

その時、別の二間の部屋に、灯火の光が見えた。

阿新 (内心)うん? あれは・・・。もしかしたらあっちの部屋で、本間の息子が寝とるんやろか。よぉし、息子の方だけでも討ち取って、恨み晴らしたろ!

そこで、その部屋に忍んで入ってみた。男が一人寝入っていた。

阿新 (内心)なんやぁ、本間の息子と、ちゃ(違)うわぁ。こいつは、父上の首を切ったという、本間三郎(ほんまさぶろう)とかいうヤツやんかぁ。ガッカリやなぁ・・・。

阿新 (内心)そやけど、こいつかて、本間に負けず劣らずの親の仇やしな、よぉし、こいつを!

阿新 (内心)さてと・・・ボクには、太刀も短刀も、無いから、あいつのんを、使うしかない。なんとかして、あいつの太刀を手にいれて・・・。

阿新 (内心)燈の光、明るすぎやなぁ・・・こっちが入っていったとたん、あいつ、目ぇさましてしまいよるかも・・・。

このように考えだすと、なかなか行動に出れない、いったいどうしたものか、と思案しながら立ちつくしていたのだが・・・。

季節は夏の頃合い、燈火の光に惹かれて、蛾がたくさん障子にとりついている。

阿新 (内心)うん、ヒラメイタ、グッドアイディア! あの蛾を使ぉたろ、きっと、うまいこといくぞ!

阿新は、障子を少しだけ開いた。その瞬間、室内の光めがけて、蛾がどっと入って来た。蛾の羽ばたきに灯火は消されてしまい、室内は真っ暗になった。

阿新 (内心)ヤッタァ!

彼は室内に忍び入り、本間三郎が寝ている枕辺近くへ、にじり寄っていった。

本間三郎は、太刀も小刀も枕辺に置いたまま、ぐっすりと寝入っている。

阿新は、まず、本間の小刀を取って自分の腰に指した。そして、枕辺にあった太刀を抜き、その切っ先を、本間三郎の胸のあたりに狙い定めた。

阿新 (内心)寝入ってる相手を殺す、というのでは、どうもなぁ・・・死人を殺すのと同じようなもんやから・・・。まずは、こいつの目を醒ましてから。

阿新は、枕をポーンと蹴った。本間三郎は驚いて目をさます、その瞬間、

阿新 エェィッ!

本間の臍(へそ)の上のあたりに突き立てられた太刀は、切っ先が畳に届かんばかりに、彼の体を深ぶかと刺し貫いた。そして阿新は、返す刀で本間の喉笛を、

阿新 ヤァッ!

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阿新は、心静かに、館の奥の方にある竹林の中に駆け込み、そこに身を潜めた。

身体に太刀が刺さった時の本間三郎の叫び声に驚き、宿直の者らが火を点し、現場にかけつけてきた。

本間家の者D アァッ、三郎がやられてるぞ!

本間家の者E どこのどいつの仕業だ!

本間家の者F おい、見ろ! 真っ赤な足跡が!

本間家の者D 血だな。

本間家の者E 大人の足跡ではないな、小さい。

本間家の者F さてはあいつか! 下手人は、あのコゾウだな!

本間家の者D えぇい、こしゃくな!

本間家の者E 堀の水は深いからな、木戸から外へは出れてないだろう。

本間家の者F とっとと探し出して、打ち殺してしまおう!

彼らは手に手に松明をともし、木の下、草の陰と、残す所無く、捜索しはじめた。

阿新 (竹林の中に隠れながら)(内心)あぁ、いったいどこへ逃げたらえぇんやろか・・・。

阿新 (内心)あいつらの手にかかって殺されるくらいやったら・・・いっそのこと、自から命を絶ってしまおか・・・いやいや、にっくき親の仇を討ちとれてんから、今はなんとしてでもこの命を全うして、後々、天皇陛下のお役にも立たせていただくべきや。それでこそ、父上の志も継げるというもの、これこそが、忠臣孝子の道というもの。ここは、万に一つの可能性にかけてみよ、とにかく、頑張れるだけ頑張って、逃げてみたろ!

阿新は、竹林の中を脇目も振らずに、一気に走った。

やがて、彼の眼前に館の堀が立ちはだかった。

阿新 (内心)この堀、どないして渡ろか。いっちょう思い切って、飛び越えてみよか。

しかし堀は幅2丈、深さ1丈余り。

阿新 (内心)あぁ、ムリやなぁ。

その時ふと、目に止まったのが、掘の側に生えている一本の呉竹であった。

阿新 (内心)よし、あれを橋の代わりに。

阿新は、その竹にスルスルと登っていった。すると彼の体重によって、竹は掘の向う側へと、しなった。

阿新 ヤッタァ!

彼は、しなった竹の先から地上へ飛び降りた。このようにして、阿新は難なく、堀を越えることができたのであった。

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阿新 (内心)夜が明けるまでには、まだまだたっぷり時間ある。港の方へ行ってそこにある船に乗り、越後へ向かうとしよ!

彼は、そこらの地理も分からぬ中を、なんとかかんとか、海岸の方向を目指して進んだ。

夜は次第に明けてきた。人目につかずに通れそうな道もない。仕方なく、阿新は、麻や蓬の生い茂る中に身を隠した。

阿新 (内心)あっ、来よった、追手や!

140ないし150騎ほどが、バラバラと駆けくるのが見えた。

本間家の者G おい、そこの男! もしかして、年の頃12、3ばかりの子供が、このへんを通って行かなかったか?

通行人X いいや、見ませんでしたなぁ。

本間家の者H おいおい、そこのオネエさん、年の頃12、3ばかりの子供、見なかったぁ?

通行人Y いいえぇ。

本間家の者G いないなぁ・・・もう少し先の方を当たってみようか。

本間家の者H そうだなぁ。

このように、道に行き会う人ごとに問いながら、追手の一団は阿新の目の前を通り過ぎていった。

阿新は、日中はその茂みの中にじっと身をひそめ、夜になってから再び、港を目指して進んだ。

彼の孝行の志を神仏が良しとされて、御擁護(ごようご)を垂れたもうたのであろうか、方角も分からず進んでいるうちに、一人の年老いた山伏(やまぶし:注5)に出会った。

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(訳者注5)「山臥とも書く。修験道(しゅげんどう)の行者(ぎょうじゃ)のこと。山野を経歴して苦修練行(くしゅうれんぎょう)し、山野に起臥(きが)するので山伏という。」 仏教辞典(大文館書店)より。
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彼の様子を見て、哀れに思ったのであろう、山伏は、

山伏 キミ(君)、キミ、いったいどこから来たの? どこへ行こうとしてる?

阿新は、ありのままに、事情をうち明けた。

山伏 (内心)あぁ、なんて、かわいそうな。いま、私がこの少年を助けてやらないと、彼はきっとムザンな目にあう事になるだろうなぁ。よし、ここは何としてでも、彼の力になってやろう!

山伏 キミ、もう心配いらないからね! 港には商船がたくさん集まってるからさぁ、それに乗っけて、越後、越中の方まで、私がキミを送り届けてあげるよ。

阿新 ありがとうございます!

山伏 長い道のり、歩いてきたんだろう? 足、疲れてるよなぁ。さ、私の背中に乗りたまえ!

山伏は、阿新をおぶって歩き出した。ほどなく、二人は港にたどりついた。

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夜が明けた後、港で船を探してみたが、運悪く、港内には船が一隻も停泊していない。

山伏 (内心)さてさて困ったな。いったいどうしたものか・・・。

その時、山伏は、はるか沖合いに大きな船を見つけた。順風になってきたと見え、帆柱を立て、トマを巻いている。

山伏は、その船に向かって手をあげ、大声で、

山伏 おぉい、そこの船ぇー! ここに着けてくれよぉー! 船に乗りたいんだぁー!

しかし、船乗りたちは彼の要請に一向に応える様子もなく、声を張り上げながら、港の外に漕ぎ出ようとする。

山伏 私の願いを無視するつもりか! そうはいかんぞぉ!(大いに腹を立て)

柿色の衣の袖の紐を結んで肩に掛け、沖を行くその船の方を睨みつつ、イラタカ数珠をサラサラと押しもみながら、

山伏 えーい!

山伏
 秘密呪(ひみつのじゅ) ひとたび持(じ)すれば
 生(しょう)が変わるといえども 加護(かご)の力 持続す
 仏に奉仕し 修行する者
 即 仏の如き 存在となれり
 ましてや 多年の修行を積みし 我においてをや!

 不動明王(ふどうみょうおう)の 本誓(ほんぜい)に誤りなくば
 権現金剛童子(ごんげんこんごうどうじ) 天龍夜叉(てんりゅうやしゃ)、八大龍王(はちだいりゅうおう)
 かの船をこなたへ 漕ぎ戻させ給わんことをーっ!

躍り上がり、踊り上がり、一心不乱に祈り込める。

彼の祈りが神に通じ、不動明王の擁護があったのであろうか、沖の方からにわかに強風が吹き始め、船は今にも転覆しそうな状態となった。

船上の人々は慌てふためき、

船上の人々 山伏の御房、どうか我らをお助け下さいまし!

彼らは、手を合わせ跪(ひざまづ)き、必死になって船を港へ漕ぎ戻してきた。

水際近くに船が接近すると同時に、船頭が船から飛び降りて来た。

船頭 さ、どうぞ、船へ!

彼は、阿新を肩にのせ、山伏の手を引いて、船室へ招き入れた。そのとたん、強風はぴたりとやんで再び元の順風の状態へと戻り、船は出港した。

やがて、追手の面々が港までたどり着いた。彼らは、遠浅の海岸に馬をとどめ、叫んだ。

本間家の者G おぁい、その船、止まれぇ!

本間家の者H 止まらんかぁ、このヤロゥ!

船乗りたちは見て見ぬふりをして、順風に帆を広げ、船を進めていった。

その日の暮れごろに、船は越後の国府(新潟県・上越市)に到着した。

阿新が山伏に助けられて、虎口(ここう)を脱しえたというこの事は、不動明王のご加護の御誓(おんちかい)が、明らかなることの証拠であると、言えよう。

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(訳者注)謡曲の[壇風]は、この話を題材にしたものである。
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太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月18日 (火)

太平記 現代語訳 2-4 日野俊基、再び鎌倉へ連行される

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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先年、土岐頼貞(ときよりさだ)が討たれた際に、日野俊基(ひのとしもと)は逮捕され、鎌倉まで連行されたが、幕府高官たちの前で様々に巧みに申し開きをし、彼らの納得を得て、なんとか赦免されたのであった。

ところが、今回取り調べを受けた僧侶たちの白状の中に、「倒幕運動の首謀者は俊基」の一文があった。

7月11日(注1)、彼は再び六波羅庁の囚われの身となり、鎌倉へ連行されることになった。

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(訳者注1)ここを、太平記の原文の文脈のままに読むと、元徳2年の7月、となるが、史実においては、その翌年(1331)となる。
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「再犯不赦(注2)」と、法令に定められているから、今度ばかりはどのように申し開きをしてみても、決して許される事はありえない。鎌倉への道中にて命奪われるか、鎌倉に到着してから斬られるか、二つに一つと覚悟して、俊基は京都を出発した。

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(訳者注2)同じ犯罪を2度犯した者は、絶対に許さずに罰する、という意味。

(訳者注3)以下の「道行き文」中に、京都より鎌倉へ至る道筋に点在する地名が次々と現れる。
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 落花の雪に 踏み迷う 片野(かたの)の春の 桜狩(さくらがり)
 紅葉(もみじ)の錦を 衣(き)て帰る 嵐の山(嵐山)の 秋の暮れ
 一夜(ひとよ)を明かす 程(ほど)だにも 旅宿(たびね)となれば 懶(ものう)きに
 恩愛(おんあい)の契り 浅からぬ 我(わ)が故郷(ふるさと)の 妻子をば
 行末(いくえ)も知らず 思い置(お)き 年久(としひさ)しくも 住(す)み馴(な)れし
 九重(ここのえ)の 帝都(ていと)をば 今を限りと 顧(かえり)みて
 思わぬ旅に 出で玉(たも)う 心の中ぞ 哀れなる

 憂(う)きをば留(と)めぬ 相坂(おおさか 逢坂)の 関の清水に 袖濡れて
 末は山路(やまじ)を 打出(うちで)の浜 沖を遥かに 見渡せば
 塩ならぬ海に(注4) こがれ行く 身を浮舟(うきふね)の 浮き沈み
 駒(こま)も轟(とどろ)と 踏み鳴らす 勢多(せた 瀬田)の長橋(ながはし) 打(う)ち渡(わた)り
 行向(いきこう)人に 近江路(おうみじ)や(注5)

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(訳者注4)琵琶湖は淡水の湖なので、このように表現した。

(訳者注5)行き向う人に「会う」の「あう」と、「近江路(おうみじ)」の「おう」を、かけている。
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 世のうねの野に(注6) 鳴く鶴も 子を思うかと 哀(あわ)れなり
 時雨(しぐれ)もいたく 森山(もりやま:注7)の 木下露(このしたつゆ)に 袖ぬれて
 風に露散(つゆち)る 篠原(しのはら:滋賀県・野洲市)や 篠(しの)分(わ)くる道を 過ぎ行けば
 鏡の山(かがみのやま:注8)は 有りとても 泪(なみだ)に曇りて 見え分(わ)かず
 物を思えば 夜間(よのま)にも 老蘇森(おいそのもり:滋賀県・近江八幡市安土町)の 下草に
 駒を止どめて 顧(かえ)りみる 古郷(ふるさと)を雲や 隔(へだ)つらん

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(訳者注6)「世の憂(うれ)い」の「う」と、地名の「うねの野」の「う」を、かけている。

(訳者注7)「時雨が漏(も)る」の「もる」と、地名の「守山(もりやま)」(滋賀県・守山市)の「もり」を、かけている。

(訳者注8)鏡山。
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 番馬(ばんば) 醒井(さめがい) 柏原(かしわばら) 不破(ふわ)の関屋(せきや)は 荒れ果てて(注9)
 猶(なお)もる物(もの)は 秋の雨の いつか我が身の 尾張(おわり:注10)なる
 熱田(あつた)の八剣(やつるぎ)(注11) 伏し拝み 塩干(しおひ)に今や 鳴海潟(なるみがた:注12)
 傾(かたぶ)く月に 道見えて 明けぬ暮れぬと 行く道の

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(訳者注9)[番馬]、[醒井]、[柏原]は、滋賀県・米原市にあり。[不破関]は、岐阜県・不破郡・関ケ原町にあった。

(訳者注10)国名の「尾張」の「おわり」と、「わが身の終わり」の「おわり」を、かけている。

(訳者注11)名古屋市・熱田の八剣社。

(訳者注12)「塩干に今やなる」の「なる」と、「鳴海潟」の「なる」を、かけている。[鳴海潟]は、名古屋市・緑区・鳴海エリアの付近の海岸であり、この時代には、干潟が広がる遠浅の海岸であったようだ。
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 末はいずくと 遠江(とおとうみ:注13) 浜名(はまな)の橋の(注14) 夕塩(ゆうしお)に
 引く人も無き 捨て小船(おぶね) 沈むはてぬる 身にしあれば
 誰か哀れと 夕暮れ(ゆうぐれ)の 入逢(いりあい:注15)鳴(な)れば 今はとて(注16)
 池田(いけだ)の宿(静岡県・磐田市)に 着き給う

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(訳者注13)「末はいずくと、問う(とう)」の「とう」と、国名の「遠江(とおとうみ)」の「とお」を、かけている。

(訳者注14)[浜名の橋]に関しては、後述した。

(訳者注15)夕暮れ時に寺でつく鐘。

(訳者注16)「哀れと言う」の「いう」と、夕暮れの「ゆう」をかけ、「入逢(時刻)なれば」の「なれ」と、「入逢(の鐘)鳴(な)れば」」の「なれ」とをかけている。
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元暦(げんりゃく)元年の頃であったろうか、平重衡(たいらのしげひら:注17)が、源氏の武士達の囚われの身となり、関東へ連行される途中、この宿についた時に、

 東路(あぢまじ)の いやしい小屋の おそまつさ ふるさとさぞや 恋しかろうに

 (原文)東路の 丹生(はにゅう)の小屋の いぶせきに 古郷いかに 恋しかるらん

と、宿場の長の娘が詠んだという。その古の哀れさが思い出され、俊基の胸に迫りくる。

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(訳者注17)平清盛の息子。
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旅館の燈火が幽(かすか)となり、一番鶏が鳴いて夜が明け、一頭の馬は風にいななく・・・。

天竜川(てんりゅうがわ)を渡り、小夜の中山(さよのなかやま:注18)を越え行けば、白雲は路を埋み来たり、そことも知らぬ夕暮れに、故郷の方の空を望み見る・・・。

その昔、かの西行法師(さいぎょうほうし)が、

 年とって 再び越えると 思わなんだ 命ありてか 小夜の中山

と、詠じつつ(注19)、二度目の山越えをした事跡までもが、うらやましく思えてくる。

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(訳者注18)静岡県の掛川市と島田市の境にある峠。

(訳者注19)西行は歌人として当時から有名な人であり、新古今和歌集には、彼の詠んだ歌が多く選ばれている。ここの箇所は、原文では、「昔西行法師が、「命也けり」と詠じつつ、二度越えし跡までも、浦山敷(うらやまし)くぞ思はれける」となっている。「命也けり」は、「年たけて 又越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」の歌の事を意味している。
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時は駆け足で過ぎ去っていく・・・もう正午。

俊基を護送する輿(こし)は、昼食休憩のために、ある家の庭先にとめられた。彼は、車の轅(ながえ)を叩いて、護送担当の武士を呼びよせた。

日野俊基 ここの宿場の名前は?

護送担当の武士 「菊川(きくがわ)」といいます。

日野俊基 あぁ、ここがあの、「菊川宿」(静岡県島田市)なんか・・・。

葉室光親(注20)は、承久の乱(じょうきゅうのらん)の際に、討幕の上皇命令書を起草した罪に問われ、鎌倉へ連行された。途中、彼はこの宿で殺害されてしまったのである。その時、彼が残した詩、

 その昔 中国南陽の菊水の水 下流にて飲み 長寿を得る
 今この時 東海道の菊川 西岸に宿って 命終わる

 (原文)昔南陽県菊水 汲下流若而延齢 今東海道菊河 宿西岸而終命

日野俊基 (内心)あぁ、その遠い昔の筆の跡、今は我が身の上の事に、なってしもぉたんやなぁ・・・。

哀感、胸に迫り来たり、俊基は、一首の歌を詠んで、宿の柱に書きつけた。

 古(いにしえ)も かかる例(ためし)を 菊川の 同じ流れに 身を沈めるか(注21)

 (原文)古も かかるためしを 菊川の 同じ流れに 身をや沈めん

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(訳者注20)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]と、[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注によれば、菊川でこの詩を書いたのは、別の人であるとのことである。

(訳者注21)「ためしを聞く」の「きく」と、地名の「菊川(きくがわ)」の「きく」を、かけている。自分(俊基)も、この詩を書いた人と同じことになってしまうのだろうか、との悲しみを詠んでいる。
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大井川(おおいがわ:注22)を渡る時、京都の嵐山を流れる大堰川(おおいがわ)と同じ名前を聞き、

日野俊基 (内心)大堰川かぁ・・・思い出すなぁ・・・あこの亀山殿(かめやまでん)に陛下が行幸されたあの時・・・嵐山の桜は満開やった。大堰川に、龍頭・鳥頭セットになったる遊覧船を浮かべの、詩歌管弦の宴に侍ったんやった・・・もう、あぁいう事も、二度と見れへん夜の夢に、なってしもぉたなぁ・・・。

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(訳者注22)静岡県西部を流れる大河。遠江国と駿河国の境である。
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島田(しまだ:静岡県島田市)、藤枝(ふじえだ:静岡県藤枝市)を過ぎて・・・

 岡辺(おかべ:注23)の真葛(まくず) 裡枯(うらが)れて 物かなしき 夕暮れに
 宇都(うつ)の山辺(やまべ)を 越え行けば 蔦(つた)楓(かえで)いと茂りて 道もなし

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(訳者注23)「岡辺(岡のほとり)」と、地名の「岡部」(静岡県藤枝市)を、かけている。
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昔、在原業平(ありわらのなりひら:注24)が、安住の地を求めて関東に下る途中に、ここで詠んだという、

 「夢にも人に 逢(あ)わぬなりけり」(注25)

の歌は、なるほど、こういう雰囲気の中で詠まれたのであったかと、思い知られた。

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(訳者注24)平安時代の高名な歌人。

(訳者注25)駿河(するが)なる うつの山べの うつつ(現実)にも 夢にも人に 逢わぬなりけり
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そうこうするうちに、清見潟(きよみがた:静岡県・静岡市)をも、はや過ぎてしまった。

 都に帰る 夢をさえ 通さぬ波の 関守(せきもり)に
 いとど涙を 催(もよう)され 向かいはいづこ 三穂(みほ:三保)が崎(静岡市)
 奥津(おきつ:興津 静岡市) 神原(かんばら:蒲原 静岡市) 打(う)ち過ぎて 富士の高峯(たかね)を 見給えば
 雪の中より 立つ煙(けぶり) 上(うえ)なき思いに 比べつつ

 明くる霞に 松見えて 浮嶋が原(うきしまがはら:静岡県・沼津市と富士市)を 過ぎ行けば
 塩干(しおひ)や浅き 船浮きて おり立つ田子(たご)の(注26) 自らも
 浮世をめぐる 車返(くるまがえ)し 竹の下(たけのした)道(注27) 行きなやむ

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(訳者注26)「田子(農夫)」と、地名の「田子の浦」を、かけている。[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注によれば、当時、「田子の浦」と呼ばれていたのは、蒲原町の吹上浜の付近なのだそうである。

(訳者注27)「竹の下の道」と、地名の「竹下」(静岡県駿東郡小山町と御殿場市)を、かけている。
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 足柄山(あしがらやま)の 峠より 大磯(おおいそ)小磯(こいそ)を(神奈川県中郡大磯町) 直下(みお)ろして
 袖にも波は こゆるぎの 急ぐとしもは なけれども(注28)

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(訳者注28)「波が越ゆる(こゆる)」と、「急ぐ(いそぐ)」を、「小余綾の磯(こゆるぎのいそ)」に、かけている。
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 日数(ひかず)つもれば 七月廾六日の暮れ程(ほど)に 鎌倉にこそ 着き玉(たま)ひけれ

到着した日にすぐ、俊基は、南条高直(なんじょうたかなお)に身柄を受け取られ、諏訪左衛門(すわさえもん)に預けられた。そして、材木を蜘蛛手にはりめぐらした一間の室内に、押し込められてしまった。

地獄に行った罪人が、十王(じゅうおう)の庁に引出され、首枷(くびかせ)手紐(てかせ)をかけられながら罪の軽重を糾問(きゅうもん)される光景もかくありなん、まことに哀れな様である。

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(訳者注29)京都から名古屋までのルートに関して:

上記の記述内容中に設定されている、京都から鎌倉へのルートのうち、守山(滋賀県)から名古屋(熱田)までの部分は、江戸時代の[東海道]のそれとは異なり、現在の[JR東海道線]のルートとほぼ同じである。

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(訳者注30)[浜名の橋]に関して:

浜名湖に関して、極めて興味深い事が書かれている本がある。

[中世の東海道をゆく 榎原雅治 中公新書]

これの、

 [第三章 湖畔にて-橋本 浜名湖は沈降したか]

において、著者は、浜名湖に関するある説に対して、否定的見解を述べている。

その説とは、

 1498年の地震(明応地震)が起こるまでは、浜名湖は太平洋とは直接にはつながっておらず、淡水湖であった。この地震によって、浜名湖は1メートルほど沈降し、満潮時には海水が遡上する汽水湖となった。

と、いうような内容のものなのだそうである。

著者は、中世に記された紀行文等の内容をもとに、以下のような趣旨の事を述べている。

 中世には、浜名湖と太平洋との間に、幅の細い入り江が存在しており、[浜名の橋]はその入り江の上に架けられた橋であった。満潮時には、その入り江の中を海水が遡上していた。すなわち、この時代にすでに、浜名湖は汽水湖であった。

当時の潮位の変化までをも、著者は推計して、この本の中にグラフ表示している。

著者によれば、潮位の予測値は、複数の機関から公開されており、インターネットによって容易に得ることができるのだそうだ。例えば、海上保安庁作成のソフトウェア「潮汐推算」を使えば、このようなデータを得ることができるのだそうだ。

1985・86年に行われた湖底のボーリング調査による堆積層の分析結果からの、池谷仙之氏の考察も、著者のこの主張を裏付ける内容になっているのだそうだ。

この本の中に書かれている内容は、大きな説得力を持っている、というのが私の感想だ。

この問題に関しては、歴史学、古典文学、地質学、海洋学、地震学などの広範囲の知を結集しての本格的な調査・研究が必要であろうと思う。

[浜名湖 明応地震 浜名川]、[浜名湖 湖底 堆積物]、[浜名湖 ボーリング調査]、[浜名湖 湖底 ボーリング]等でネット検索して、様々な情報を得ることができた。

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太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月17日 (月)

太平記 現代語訳 2-3 三人の僧侶、鎌倉へ護送される

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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鎌倉幕府より派遣されて京都へやってきた、二階堂時元(にかいどうときもと)、長井遠江守(ながいとおとうみのかみ)は、6月8日、三人の僧侶を伴い、関東へ向けて出発した。

ここでその僧侶たちについて、経歴等、簡単に紹介しておこう。

忠円僧正(ちゅうえんそうじょう):
 この人は、浄土寺(じょうどじ)(注1)の慈勝僧正(じしょうそうじょう)の門弟である。様々な宗教上の議論において、的確な論述を展開できる秀才であり、その学識の深さは、宗門中並ぶものがない。

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(訳者注1)銀閣寺は、浄土寺の跡地に建てられた。現在は[浄土寺]という地名にのみ、その名残をとどめている。
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文観僧正(もんかんそうじょう):
 元、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)の法華寺(ほっけじ:兵庫県加西市)の住職である。壮年に達した頃に、醍醐寺(だいごじ:京都市山科区:注2)に移った。やがて、真言宗(しんごんしゅう)の大阿闍梨(だいあじゃり:注3)となり、東寺(とうじ:注4)のトップ、醍醐寺のトップに任ぜられ、真言密教・最高指導者の地位にまで登りつめた。

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(訳者注2)弘法大師(こうぼうだいし)・空海(くうかい)の孫弟子に当たる聖宝理源大師(しょうぼうりげんだいし)により、創建された。

(訳者注3)阿闍梨(あじゃり)ācārya:弟子の行為を矯正し、その師範となり指導する高徳の僧をいう。(仏教辞典 大文館書店)。なお、左記の資料によると、阿闍梨の位はもともと仏教各教団の私的なものであったのが、西暦836年からは、朝廷がこれを任命するようになったようである。

(訳者注4)教王護国寺(きょうおうごこくじ)の別名。京都市南区に現存する、真言宗の大寺院。
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円観上人(えんかんしょうにん):
 元、延暦寺(えんりゃくじ)の僧である。顕教・密教の双方に精通したその才学は、比叡全山に光を放って輝き、智行兼備のほまれの高さは群を抜く。しかし彼は、「延暦寺の人々は軽薄な気風に流されること久しく、思い上がりの心、甚だしいものがある。やがては、天魔(てんま)の掌中(しょうちゅう)に落ちてしまうであろう。この際、自分は、宗教界の論客としての名声を捨て、開祖・伝教大師(最澄)の立教(りっきょう)の原点に還るべきである」と決意、名利(みょうり)追求の道より離脱し、心静かなる仏道修行(ぶつどうしゅぎょう)に没頭していった。

円観上人は、比叡山西塔エリアの黒谷(くろだに)というところに、房を定めて修行した。その姿はまさに、

 法衣を 蓮葉の上の 秋の霜に重ね
 托鉢の鉢を 松の花舞う 朝の風にさらし

といった状態。

しかしながら、

 「人徳というものは、あらゆる隔絶を超越し、周囲にその影響を確実に及ぼしていくものである。」(注5)

 と、論語にもあるように、太陽はその光を、隠しきれるものではない、いつしか円観上人は、五代にわたる天皇の戒師として、朝廷から招聘(しょうへい)を受ける身となり、三聚浄戒(さんじゅじょうかい:注6)の始祖となった。

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(訳者注5)原文では、「徳は孤なら不(ず)、必ず隣有り」。

(訳者注6)仏教の修行者が受持すべき三つの戒を授ける儀式。
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このような有智高行(うちこうぎょう)の聖僧であったにもかかわらず、今回の不慮の災難を免れることが、できえなかった、というのもまた、前世に犯した行いの因果応報(いんがおうほう)であるのかもしれない。幕府によって囚われの身とされ、つらい逆旅(げきりょ)にさすらう事となってしまうとは、全く、想像だにできえない事であった。

鎌倉への護送においては、円観上人のみは特別扱い、宗印(そういん)、円照(えんしょう)、道勝(どうしょう)の弟子三人の随行が認められた。彼らは、影が形にそうがごとく、上人の乗る輿(こし)の前後に付き従うこととなった。

文観僧正、忠円僧正の方は、あい従う者も無し。宿場常備のみすぼらしい馬に乗せられ、ふだんは身辺に寄せつけたこともないような武士たちに囲まれて、まだ夜も明けやらぬうちから、関東への旅に出発・・・彼らの心中、思いやるも哀れなるかな。

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 「あの僧侶たち、鎌倉まで連行されずに、道中で殺されてしまうかもヨ」

などというような風説も、耳に入ってくる。あそこの宿場に着けば今や限り、こちらの山で休憩をとればこれや限り・・・命ばかりは、か細く保たれているとはいえ、心の方が先に消え失せてしまいそうな道中が続く。

昨日という日は、はや過ぎ去り、今日という日も、また暮れた・・・。

急ぎたくもない道中も、日数積もって6月24日、一行は鎌倉に到着。

円観上人は、佐介越前守(さすけえちぜんのかみ)に、文観僧正は、佐介遠江守(さすけとおとおみのかみ)に、忠円僧正は、足利貞氏(あしかがさだうじ:注7)に、預け置かれることとなった。

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(訳者注7)足利尊氏の父。
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鎌倉に帰還の後、二階堂時元と長井遠江守は、幕府に対して、僧侶たちが京都で行っていた修法の際の、本尊(ほんぞん)の形状と檀のレイアウトを写し取った絵図を提出した。

俗人が見ても判断不可能な事ゆえ、幕府は、佐々目頼禅(ささめらいぜん)僧正にこの絵図を渡し、鑑識を依頼した。

その回答は、

 「まさにこれは、いわゆる「調伏の法(ちょうぶくのほう)」に、相違ありません。」

そこで、「よぉし、拷問(ごうもん)だ!」という事となり、侍所(さむらいどころ)に身柄を引き渡し、水火(すいか)の責めを加えた。

文観は、しばらくの間、いかなる責めを加えられようとも拷問には屈しなかった。しかしながら、水責めのあまりの厳しさに、身も疲れ、心も弱りはてたのであろう、ついに、

文観 あぁ、やった・・・(ハァハァ)・・・やった・・・(ハァハァ)・・・へいか(陛下)の・・・(ハァハァ)・・・ごめ・・・ごめいれい(御命令)・・・(ハァハァ)・・・ちょ・・・ちょうぶく(調伏)・・・(ハァハァ)・・・やった。(ガクッ)

次は、忠円の番。

この人は、天性臆病な人であった。何も責めを加えない前に、天皇が延暦寺(えんりゃくじ)を倒幕計画の仲間に引き入れようとしたこと、護良親王(もりよししんのう)の日常の様、日野俊基(ひのとしもと)の陰謀等々、事実も事実でないこともとりまぜて、余すところ無く白状、調書一巻が仕上がってしまった。

幕府高官A 天皇の倒幕計画、もうバレバレェ。疑いの余地無しだよなぁ。

幕府高官B もう拷問、いいんじゃねぇのぉ? 円観にまでやる必要、ねぇだろう。

幕府高官C いやいや、そうはいかんよ。あいつだって同罪なんだもん。

幕府高官D じゃ、円観に対しては明日、拷問を加えて尋問ってセンでいこう。

このように議決が行われたその夜、北条高時(ほうじょうたかとき)は、ミョーな夢を見た。

北条高時 おう・・・あそこに一人の僧侶が。ははぁん、あれが例の、円観ってヤツだなぁ。

北条高時 ・・・ヤイヤイ、あれいってぇなんだぁ? あの群れ・・・ははぁ? 猿・・・エライ数の猿どもだ・・・2,000、いや、3,000。

北条高時 おぉい、そこのぉ、てめぇらいってぇ、ナニモンだぁ? どこの猿だぁ?

猿のリーダー わしらはなぁ、比叡山の東山麓、坂本(さかもと:滋賀県大津市:注8)のモンやゾォ、キッキィキィッ!

北条高時 いってぇなんでまた、比叡山から鎌倉くんだりまで。

猿のリーダー うるさい、黙って見とれぇ、キッキィキィッ!

北条高時 ・・・。

猿のリーダー みんな、スタンバイ、ええか?

猿全員 スタンバイ、OK!

猿のリーダー よーし、いけぇ!

猿たちは一斉に、円観上人めがけて駆け寄っていった。そして、上人を守護するかのように、その前に列をなして並び立った。

北条高時 あぁぁ、テメェラァ!

北条高時 (ガバッ)・・・あぁ、夢かぁ・・・。

北条高時 (内心)うーん・・・ヤァナ夢見ちゃったなぁ・・・。

北条高時 (内心)・・・あの円観ってやつ、どうもタダモンじゃぁねぇみてぇだなぁ・・・こりゃぁちょっと、拷問、中止させた方がいいかもよ。

未明のうちに高時は、円観を預かっている佐介越前守のもとへ使者を送り、「円観に対する拷問を中止、しばらくそのままにしておくべし」との命を伝えさせた。

ところが、それと入れ違いに、当の佐介越前守が、高時のもとへやってきていわく、

佐介越前守 例の円観上人の事でごぜぇやすが・・・さぁいよいよ拷問だぁってんで、さきほどね、あのお方のところへ参ったんですが・・・そこでねぇ、とんでもねぇ不思議を見ちまいましてね!

北条高時 いったいどんな!

佐介越前守 私が参りましたその時にですね、あのお方はですね、燈をともしならが、定(じょう:注9)に入っておられるようでした。

佐介越前守 でぇ、後ろの障子にうつってる、あのお方の影・・・なんと、それがですよぉ、不動明王(ふどうみょうおう)の形、してるんですわぁ!

北条高時 ・・・。

佐介越前守 もう、ビックラこいちまってぇ、まずはこれ、殿にお知らせした方がいいんじゃぁねぇかなぁって、思いましてねぇ、それでぇ・・・。

北条高時 ・・・。

高時が見た夢といい、佐介越前守の目撃内容といい、「この円観という人、タダモノではないな」ということで、「拷問無しに」となった。

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(訳者注8)坂本には、[日吉大社]がある。ここは、比叡山に延暦寺が開かれてから後、延暦寺を守る護法神・[山王権現]が鎮座する所とされてきた。猿が、その神の使いである([神猿(まさる)])とされてきた。上記にもあるように、円観は、元、延暦寺の僧である。よって、延暦寺の守り神の使いである猿が、円観を守護するために出現した、というストーリー構成になっているのだろう。

(訳者注9)仏教の修行の一。精神を集中して仏を念じ、深い祈りに入る。
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7月13日、三人に対する処分が発表された。

 文観:硫黄島(鹿児島県)への流罪に処す
 忠円:越後国(新潟県)への流罪に処す
 円観:罪一等を減じ、結城宗広(ゆうきむねひろ)預かりとする。

かくして円観は、奧州(おうしゅう)への護送の長旅に出ることになった。

この処分、「左遷遠流(させんおんる)」の文字こそ無いが、遠い未開の地に遷されるのであるからして、そのつらさに変わりはない。古代中国の肇法師(じょうほうし)が苦刑に伏し、一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)が火羅国(からこく)に流された際の、水宿山行(すいしゅくさんぎょう)の悲しみも、かくのごとくであったか、と思い知られる。

名取川(なとりがわ:宮城県)を越える時、円観上人の詠んだ歌一首:

 陸奥(みちのく)の 憂(う)き名取川(なとりがわ) 流れ来て 沈みや果てん 瀬々(せぜ)の埋木(うもれぎ)

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仏の化身のような大聖者といえども、その時々の災を免れることは不可能のようである。

昔、インドのハラナイという国に、戒定智(かいじょうえ)・三学兼備の修行者(注10)がいた。国王の師にして国家の大黒柱、天下の皆が彼に帰依し、その指導を仰ぐさまは、あたかも大聖世尊(だいしょうせそん:注11)の出家・成道(じょうどう:注12)された時のごとくであった。

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(訳者注10)原文では、「沙門」。

(訳者注11)「おしゃかさま」(釈尊)の事である。

(訳者注12)「出家」とは教えを求めて生家から出られた時の事を言い、「成道」とは、菩提樹下にて衆生を救う道(仏教)を発見された時の事を言う。
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ある日、国王主催の法要の執行のため、王はその導師として、この修行者を招聘(しょうへい)した。

彼は、ただちにその命に従い、王宮にやってきた。

伝奏(てんそう)の者が、修行者の到着を国王に告げにやってきた、ちょうどその時、王は囲碁に熱中していた。

伝奏の者 申し上げ奉ります! 国師猊下(こくしげいか)がただ今、参内してこられました。いかが、とりはからいましょうや?

王 (囲碁に完全に没入)(内心)うーん・・・うーん・・・あぁ打てばこう打ってくるであろう、こう打てばあぁ打ってくるであろう・・・うーん・・・わからぬ・・・ヨメぬ、ヨメぬぞ、この局面。

伝奏の者 ・・・。

王 (内心)うーん・・・うーん・・・エェイ、あの一団の白石をば・・・。

伝奏の者 ・・・。

王 キ(切)レェ!(注13)(黒石を碁盤の上に置く)

黒石 パァシィ!(碁盤の上で)

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(訳者注13)囲碁においては、下図のように、相手の石の列を斜め方向に分断することを、「切る」と言う。
  ○○●
  ●●○○
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伝奏の者 ハハッ!

伝奏の者はそく、修行者を宮殿の外に連行し、刑務担当者に彼の首をはねさせてしまった!

その後、大分たってから、王の囲碁はようやく終わった。

王 ム、イカン、これは不覚! 囲碁に夢中になって、猊下の事をすっかり忘れておった! これ、ただちに猊下を、ここにお通ししろ。

王の側近たち !!!(王宮内、パニック状態)

やがて、

刑務担当者 (おそるおそる、王の御前へ歩み出て)おそれながら・・・猊下の首を、さきほどはねたところです・・・陛下の御命令と、お聞きしましたもので。

王 ナ、ナ、ナニィー! い、い、いったいいかなる輩が、かような命令を!

刑務担当者 先ほど伝奏担当の方から、「「猊下をいかがいたすべしや」とおうかがいせしに、「ただちに斬(き)れ」との陛下のおおせ。なんじ速やかに、陛下の命を実施すべし」と・・・。(ガタガタガタ・・・)

王 (激怒)う、う、ウツケモノめがーっ・・・ナンタルことを!

刑務担当者 !!!

王 いにしえより、「死罪の命が下りし後も、三度(みたび)国王に奏上し、「その刑を執行せよ」との命は確かなりや否や、念を押すべし」と言うではないか! しかるに、ただ一度、我の言葉を聞きしのみにて、かくも重大なる誤りをば、しでかしおるとは!

王 あぁ・・・我は、大いなる不徳を背負い込む事になってしもぉた。かかる罪、親殺しにも等しい極悪のものじゃ! エェィ、あのバカ者の伝奏者と、その三族(注14)、まとめて死刑に処せい!

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(訳者注14)父母、兄弟、妻子。
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その後、王は、

王 (内心)それにしても、国師猊下、いったい何ゆえに、かくなる「何の咎もなく死刑」というような事に、なってしまわれたのであろうか・・・。

王 (内心)これにはきっと、深いわけがあるのであろう、さだめし、前世での身の行いの因果ではあるまいか・・・。

ということで、王は、ある高僧(注15)に、サーベイを依頼した。

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(訳者注15)原文では、「阿羅漢」。
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高僧は、7日間の定に入り、宿命神通力(しゅくみょうじんつうりき:注16)を得て、かの修行者の過去と現在を透視した。

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(訳者注16)原文では、「宿命通」。他人の前世などの様子を透視する力。
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それによれば、修行者は、その前世においては、耕作を業(ぎょう)とする農夫であった。かたや、王は、その前世においては、水に棲む蛙であった。

ある日、春の山田をすき起こしていた、この農夫は、誤って、鋤(すき)の刃先で、この蛙の首を切断してしまった。

因果の車輪は廻(めぐ)り、農夫は修行者としての生を受け、蛙はハラナイ国王としての生を受けた。そして今度は、王が誤って、修行者の首を斬らせてしまったのである・・・まことに哀れなるかな。

円観上人もまた、いかなる前世の因果応報により、このような不慮の罪に沈む事になってしまったのであろうか・・・まことにもって、人の運命というものは、不可思議なものである。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年4月16日 (日)

太平記 現代語訳 2-2 天皇側近の僧侶たち、六波羅庁に身柄を拘束される

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「事の漏(も)れ安きは、禍(わざわい)を招く媒(なかだち)なり」。

大塔尊雲法親王(おおとうそんうんほっしんのう:護良親王)の日常の様、あるいは、御所の中で幕府調伏(ちょうぶく)の法が修されている事等々、なにもかもが、鎌倉にはツツヌケである。

幕府の最高権力者・北条高時(ほうじょうたかとき)は、激怒した。

北条高時 いやいや、あのお方が天皇位におられる限りはなぁ、世の中、ちっとも静かにゃならねえぜ!

北条高時 やっぱしここはだなぁ、承久の乱(じょうきゅうのらん:注1)の時みてぇに、天皇は遠方に島流し、大塔宮(おおとうのみや:護良親王)は死罪に処す! こうこなくっちゃなぁ! ハァハァハァ・・・(荒い息)。

北条高時 まずは手はじめに、あのレンチュウからだぁ! ほらほら、アイツラだ、アイツラ! 近ごろやたらと天皇のお側近くに侍っては、我ら北条家を調伏してやがるとかいう、アイツラ、アイツラ! えぇっと・・・ハァハァハァ・・・。

幕府高官A 法勝寺(ほっしょうじ)の円観上人(えんかんしょうにん)、小野(おの)の文観僧正(もんかんそうじょう)。

幕府高官B 奈良の興福寺(こうふくじ)の知教(ちきょう)に教円(きょうえん)。

幕府高官C 浄土寺(じょうどじ)の忠円僧正(ちゅうえんそうじょう)も。

北条高時 よぉし、全員逮捕して、尋問だぁ!。

というわけで、日をおかずして、二階堂時元(にかいどうときもと)、長井遠江守(ながいとおとうみのかみ)両名が、鎌倉を出発、京都へ向かった。

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(訳者注1)鎌倉時代の初期、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、打倒鎌倉幕府の挙兵を行うも敗退、上皇は隠岐島へ流された。
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「鎌倉からのアノ二人、既に京都に到着」とのニュースに、後醍醐天皇の心労は増すばかり・・・。

後醍醐天皇 またまたもういったい、どないなムチャな事、しでかしよるんやろかいて・・・もう、かなんなぁ・・・。

5月11日の暁、幕府代表・二階堂and長井は、雑賀隼人佐(さいがはやとのすけ)を遣わし、法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、浄土寺の忠円僧正ら三名を捕縛、六波羅庁(ろくはらちょう)へ連行した。

この三人のうち、忠円僧正は顕教(けんぎょう)分野の碩学(せきがく)であり、たとえ調伏の法が修されていたとしても、そのメンバーに加えられるはずはなかったのだが(注2)、

幕府高官A あの忠円っての、なんてったってぇ、天皇のお側に侍ってたメンバー中の一人だもんなぁ。

幕府高官B うん。先日の延暦寺(えんりゃくじ)の講堂供養の事なんかにも関わっててさ、あれやこれやと、直接、指示を出してたって言うじゃない。

幕府高官C 延暦寺の衆徒レンチュウの、天皇への荷担に関して、やつは、何か知ってるに違いない!

このようなわけで、彼もまた捕縛の対象に入ってしまったのである。

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(訳者注2)[調伏の法]は密教系のものであり、[顕教系]の忠円は、そのような法を修さないだろう、という事であろう。
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三人の他、知教(ちきょう)と教円(きょうえん)も、奈良の興福寺(こうふくじ)から引っ立てられ、六波羅庁へ連行されていった。

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和歌の達人・二条為明(にじょうためあきら)は、月の夜といい雪の朝といい、しょっちゅう宮中の歌会に召され、ひっきりなしに宴に参加していた。そのゆえに、さしたる嫌疑が無いにもかかわらず、

六波羅庁・長官K 天皇の本心を把握するために、二条為明に対しても、シビアな尋問を行うべし!

かくして、彼もまた捕縛され、斉藤某のもとに預け置かれる事となった。

六波羅庁・メンバーM 逮捕したあの僧侶5人、ウチで尋問するんですか?

六波羅庁・長官K いや、ヤツラに対しては何もするな。ただ、鎌倉へ送るだけ。

六波羅庁・長官L 「とにかく逮捕して、関東へ護送してくれ、後の処分は鎌倉側でやるから」って、もともと、そういう要請だったんだよな。

六波羅庁・メンバーN ほなら、ウチらの担当は、二条為明のみということに、なりますなぁ。

六波羅庁・長官K そういうこと。為明はウチが取り調べる。で、何か白状したら、その内容を鎌倉へ報告するんだ。

というわけで、彼は六波羅庁・検断局において、拷問を加えられる事になってしまった。

六波羅庁の北の中庭に、炭火が真っ赤におこされた・・・まさに地獄の釜ゆで、高熱炉もかくやあらん。担当者がその上に、青竹を割って敷き並べていく・・・竹と竹の間には少し間隙が開けてあり、そこから猛炎が烈々と吹き上げる。

担当者が左右に立ち並び、いよいよ拷問スタンバイ。これから為明の両手を引っ張り、その火の上をムリヤリ歩かせようというのである。

四重五逆(しじゅうごぎゃく:注3)を犯した大罪人が、焦熱・大焦熱(しょうねつ・だいしょうねつ)の地獄の炎に身を焦(こ)がしながら、牛頭馬頭(ごずめず:注4)の責めに苦しむ情景は、まさにこのようなものであろうか・・・見ているだけでも、気を失ってしまいそうである。

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(訳者注3)四重=殺生、盗み、邪淫、妄語(ウソをついたりいいかげんな事を言う)。

五逆=父殺し、母殺し、坊さん殺し、仏教教団の和合破壊、仏を傷つけ出血せしむ(以上は上座部仏教の五逆)。

五逆=寺院に物理的損害を与える、大乗の教えを誹謗する、僧侶を罵り苦役に使う、上座部仏教の五逆を犯す、因果の道理を信じず、悪口・邪淫などの十不善業を行う。(以上は大乗仏教の五逆)

(訳者注4)地獄の獄吏、頭は牛や馬、首から下は人間の姿。
--------

これを見て、為明いわく、

藤原為明 硯(すずり)、ないかいな。

六波羅庁・検断局メンバーX (内心)フフン、白状する気になりよったな。

検断局メンバーは硯に紙を添え、為明に渡した。すると、彼はそこに白状の文言の代りに、和歌を一首したためた。

 なんやこれ うちの家業の 和歌でなく 世間の事を 問われるやなんて

 (原文)思いきや 我(わが)敷島(しきしま)の 道ならで 浮世の事を 問わるべしとは

常葉範貞(ときはのりさだ)は、この歌を読んで深く感動し、涙を流して、その道理に伏した。鎌倉から派遣されてきた二階堂and長井両名もこれを読み、共に袖を涙に浸した。

かくして、為明は水火の拷問を免れ、無罪放免となった。

詩歌(しいか)は朝廷の人々がたしなむもの、武士は専ら、弓馬(きゅうば)の道にいそしむがゆえに、その慣わしとしては、必ずしも、詩歌・風流の道に携わるものではない。

しかしながら、物事はすべて感応しあうが自然の道理というもの、この歌一首に感動を覚えて、拷問を思い止まったとは、関東の連中らの心根もなかなか、優雅なものである。

「力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思わせ、男女の中をも和(やわら)げ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり」との、古今和歌集(こきんわかしゅう)の序文に書かれた紀貫之(きのつらゆき)のコメント、実に的確なり、という他はない。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月15日 (土)

太平記 現代語訳 2-1 有力寺院勢力への懐柔政策

本文:
太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元徳2年(1330)2月4日、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)(行幸担当弁官・兼・都庁長官の職にあり:注1)を召されていわく、

後醍醐天皇 あんなぁ、藤房、来月の8日になぁ、奈良の東大寺(とうだいじ)と興福寺(こうふくじ)にお参りに行くからなぁ、早ぉ、供奉(ぐぶ:注2)のもん(者)らに、ちゃんと言うとけよぉ。

万里小路藤房 ははっ!

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(訳者注1)原文では、「行事の弁の別当」。

(訳者注2)お伴する人々のこと。
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藤房はさっそく、過去の行幸(みゆき:注3)の先例を調査、それにならって、供奉の者たちの装いや道中の行列順序を定めた。

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(訳者注3)天皇の旅行。
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都庁・三等官(注4)に任命された佐々木備中守(ささきびっちゅうのかみ)が、道中に橋を渡し、京都市中48か所・警護番所づめの者たち(注5)が、甲冑(かっちゅう)を帯して辻々をかためた。

そしていよいよ、奈良へ向けて、陛下、ご出発!

三公九卿(さんこうきゅうけい:注6)あい従い、百司千官(ひゃくしせんかん:注7)列を引く、その厳粛なる事、なんとも言葉に言い表しようがない。

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(訳者注4)原文では、「廷尉」。日本風の役職名は、「判官(ほうがん)」。

(訳者注5)原文では、「四十八箇所の篝(かがり)」。

(訳者注6)「三公」とは、太政大臣、左大臣、右大臣。「九卿」とは、公卿たちのこと。

(訳者注7)官僚多数という意味。前後の数の対応(「3公,9卿-100司,1000官)を用いての表現である。
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かの東大寺とは、聖武天皇(しょうむてんのう)の御発願により建立、閻浮第一(えんぶだいいち:注8)の廬舎那仏(るしゃなぶつ)おわす、み寺。

かたや、興福寺は、淡海公(たんかいこう:注9)の発願により建立、藤氏尊崇(とうしそんすう:注10)の大伽藍(だいがらん)。

代々の天皇は皆、これらに結縁(けちえん:注11)せんとのお志を持たれてはいたのだが、「陛下、御参拝!」ともなると、なにかとオオゴトになってしまうので、長年の間、棚上げ状態になっていたのである。 

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(訳者注8)「閻浮提(えんぶだい)の中で第一の」の意。[閻浮提](Jambu-dvīpa)は、古代インドにおいて、人間が住むと考えられていたエリアのことであるが、ここでは、それを転用して、日本の事を意味しているので、「日本第一の」の意となる。

(訳者注9)[藤原不比等(ふじわらのふひと)]のこと。鎌足の子で、藤原家の2代目。

(訳者注10)「藤原氏の人々が尊んできた」の意。

(訳者注11)仏に縁を結ぶこと。
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しかしながら、この御醍醐天皇陛下の御代(みよ)になってようやく、「絶えたるを継ぎ、廃(すたれ)たるを興(おこ)し、天子(てんし)の車をいざ、奈良へ!」となったわけである。衆徒は、歓喜のうちに掌(たなごころ)をあわせ、み仏の威徳の光は、ただただいや増しの一途。 

衆徒A いやぁもう、なんとまぁ、ありがたいことやないかい。

衆徒B この奈良の春日山(かすがやま)に吹く嵐の音、今日から急に、万歳三唱の声に、聞こえるようになってしもたぞぉ。 

衆徒C 北の藤波(ふじなみ)千代(ちよ)かけて、花咲く春の陰深し。(注12)

衆徒D いや、まったく!

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(訳者注12)「北の藤」で[藤原北家]のことを表現している。不比等の4人の息子の流れを、[藤原南家](武智麻呂)、[藤原北家](房前)、[藤原式家](宇合)、[藤原京家](麻呂)と称する。このうち、[藤原北家]が後に、最大の権力を獲得した。
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同月27日、今度は、比叡山・延暦寺(ひえいざん・えんりゃくじ:滋賀県大津市))への行幸とあいなり、大講堂においての供養を行われた。

その大講堂(だいこうどう)とは、仁明天皇(にんみょうてんのう)の御発願(ほつがん)により建立されたもので、大日如来(だいにちにょらい)像を安置。

再建の後、供養法要も行えないままに幾星霜(いくせいそう)が経過、「甍(いらか)破れては霧、不断(ふだん)の香を焼き、扉(とぼそ)落ちては月、常住(じょうじゅう)の燈(ともしび)をかかぐ」といったありさま、延暦寺メンバー全員の嘆きのうちに、ただただ年を経ていくばかりであった。

ところが、このようにしてたちまち、堂宇(どうう)修造の大事はなし遂げられ、速やかに供養の儀式を調える事とあいなった。延暦寺メンバーたちは大いに歓喜し、ひたすら感謝の首(こうべ)を傾ける。

当日の法要の御導師(おんどうし)は、妙法院尊澄法親王(みょうほういんのそんちょうほっしんのう)、願文(がんもん)朗読を担当するは、時の延暦寺座主(ざす:注13)・大塔尊雲法親王(おおとおのそんうんほっしんのう)。(注14)

み仏(ほとけ)称揚(しょうよう)の讃仏(さんぶつ)儀式のかぐわしさは、霊鷲山(りょうじゅせん:注15)の花々もこれには及ぶまいと思われるほど、仏徳(ぶっとく)を称(たた)える歌唱の荘厳さは、あの中国・魚山(ぎょさん)の嵐さえもが、これに唱和するかと、思われるほど。

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(訳者注13)延暦寺のトップ僧侶を、「座主」という。

(訳者注14)妙法院尊澄法親王、大塔尊雲法親王は、後醍醐天皇の親王である。後に二人ともに還俗して、宗良親王(むねよししんのう)、護良親王(もりよししんのう)に名前が戻る。

(訳者注15)釈尊(お釈迦様)は色々な場所で仏教を説かれたが、霊鷲山もそのうちの一つ。
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奏者の演奏は行く雲をも止めるがごとく、舞う童子は雪のような純白の袖をひるがえす。百獣もみな、その場に来たりて舞踊に参加、鳳凰(ほうおう)もまた、天空より舞い降りてくるか、と思われるほどのすばらしさ。

住吉大社(すみよしたいしゃ:大阪市住吉区)の神主・津守国夏(つもりのくになつ)は、太鼓奏者として、比叡山に来ていたのだが、その彼が宿坊(しゅくぼう)の柱に書きつけた歌一首、

 縁あって ここに来れたのも あのくたら さんみゃくさんぼだいの 種植えたからか

(原文)契あれば 此の山も見つ あのくたら さんみゃくさんぼだいの 種や植けん(注16)

これはおそらく、

 「伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょう)が、この寺(延暦寺)を創設した際に、「我が立つ杣(そま:注17)に、ご加護あらせたまえ」と、さんみゃくさんぼだいの御仏(みほとけ)たちに祈願込められた」

との故事(こじ)を思い起こして、詠(よ)んだ歌なのであろう。

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(訳者注16)あのくたらさんみゃくさんぼだい:Anuttara-samyak-Sambodhi 迷界(めいかい)を離れ覚智円満完全(かくちえんまんかんぜん)し遍(あまね)く一切の真相を知る仏の無上の勝智(しょうち)をいう。(仏教辞典 大文館書店より)

(訳者注17)材木を収穫するために樹木を植える山のこと。
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元享(げんこう)以降、陛下にはとかく憂い事多く、臣下もまた屈辱を受ける事はなはだし、まったくもって、気の休まるひまも無い。

行幸するに適当な時期は他にいくらでもあるだろうに、いったいなにゆえ、よりにもよって、このような世情騒然たる時節に、奈良や比叡山へ陛下は赴かれたのであろうか・・・私・太平記作者の推測は以下の通りである。

近年、北条高時(ほうじょうたかとき)の振る舞いは、従来にも増して、ムチャさかげんがヒートアップしてきているとはいえ、関東の者たちは依然として、みな彼の命に服している。よって、倒幕挙兵の召集を陛下より彼らに対してかけられたとしても、それに応じてくる者などいるはずもない。

となると、頼りにできるのは、延暦寺と興福寺の衆徒たちのみ。ここは何としてでも、彼らを朝廷サイドに取り込んでおかねば・・・。

とまぁ、こういったような、鎌倉幕府打倒のための、一つの布石であったのではなかろうか。 

このような動きが出てきたのを見て、大塔尊雲法親王(護良親王)は、天台座主の地位にあるにもかかわらず、今はもう、仏道の修行・修学を一切放棄、朝から晩までひたすら、武芸の修練にうちこんでおられる。

それこそが、「好みの道」だったからであろうか・・・。

親王の身軽さは、江都王(こうとおう)のそれをも凌駕(りょうが)、七尺の高さの屏風(びょうぶ)でさえも、飛び越えてしまわれる。

かの張良(ちょうりょう)の兵法をことごとくマスターされ、戦術書「三略」に示されているテクニックのことごとくを、意のままに活用することがおできになる・・・いったん剣を取られたら、どれほどすごい存在となられることであろう・・・天台座主の僧位が定められてよりこのかた、初代・義真和尚(ぎしんおしょう)から百余代、これほどユニークな延暦寺トップが、いまだかつて存在したであろうか。

これは後になってからわかった事ではあるが、打倒鎌倉幕府・遂行の為にこそ、親王は自ら、武芸の修練にはげんでおられたのである。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


新作動画の発表 [大文字山 京都]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、

 大文字山 京都

です。自作の曲(『分散和音曲・第2番・森の中をいく道, Op.17』)を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。


この動画についての説明は、以下の通りです。

撮影地:京都市内 大文字山
撮影時:2016年10月
映像撮影・制作:runningWaterX
バックグラウンド音楽
 作品名:分散和音曲・第2番・森の中をいく道, 作品17
 作曲・制作者:runningWaterX
  (コンピューターを使用して制作しました)
("runningWaterX" は、私のペンネームです。)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/pIcyAgZDmpM
です。

私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した音楽作品を聴きたい時は、

ここをクリックしてください。

2017年4月14日 (金)

太平記 現代語訳 インデックス1

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太平記 現代語訳 総インデックス

主要人物・登場箇所リスト

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第1巻

1-1 はじめに

1-2 後醍醐天皇が即位された当時の時代背景

1-3 後醍醐天皇、意欲的に改革を指向

1-4 問題なこの女人(ひと)

1-5 後醍醐天皇の皇子たち

1-6 日野俊基、倒幕に向けて調査を開始

1-7 打倒・鎌倉幕府・プロジェクト

1-8 うらぎり

1-9 日野資朝と日野俊基、鎌倉へ連行される

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第2巻

2-1 有力寺院勢力への懐柔政策

2-2 天皇側近の僧侶たち、六波羅庁に身柄を拘束される

2-3 三人の僧侶、鎌倉へ護送される

2-4 日野俊基、再び鎌倉へ連行される

2-5 日野資朝の最期~その時、彼の息子・阿新は

2-6 日野俊基の最期~その時、忠臣・後藤助光は

2-7 幕府側大軍の上洛を見て後醍醐天皇、御所を脱出

2-8 花山院師賢、天皇になりすまして延暦寺へ

2-9 持明院統の人々、六波羅へ避難

2-10 ひょんな事から、ニセ天皇・師賢の化けの皮はがれ、さあ大変

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第3巻

3-1 楠正成、参上!

3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣

3-3 陶山・小見山グループ、笠置寺に潜入して夜襲を敢行

3-4 後醍醐天皇、笠置寺を脱出

3-5 変幻自在・楠正成流戦術・赤坂城攻防戦

3-6 櫻山四郎入道とその一族若党、備後国・一宮にて自害

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第4巻

4-1 後醍醐帝派の人々、苦境に

4-2 8歳の親王、歌を詠む

4-3 尊良親王と宗良親王、配所へ

4-4 俊明極が言った事

4-5 後醍醐先帝と中宮妃の別れ

4-6 後醍醐先帝、隠岐へ

4-7 児島高徳、謎のメッセージを後醍醐先帝に送る

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第5巻

5-1 光厳天皇の政権、着々と地盤固め

5-2 万里小路宣房、内閣の一員に

5-3 根本中堂の新常灯、消える

5-4 北条高時、田楽と闘犬にのめりこむ

5-5 北条時政の江ノ島への参籠

5-6 護良親王、危機一髪

太平記 現代語訳 1-9 日野資朝と日野俊基、鎌倉へ連行される

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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土岐頼貞(ときよりさだ)と多治見国長(たじみくになが)が討たれて後、天皇陛下ご企画・[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]の事が、次第に明らかになってきた。

ついに鎌倉幕府は、長崎泰光(ながさきやすみつ)と南条宗直(なんじょうむねなお)の両名を京都に派遣、5月10日(注1)、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(ひのとしもと)両人の身柄(みがら)を拘束(こうそく)した。

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(訳者注1)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の補注によれば、この日付に関しては太平記作者の誤りがあるようである。
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二人とも、油断があった。

日野資朝 (内心)土岐が討たれた時に、生け捕りになったもん(者)、一人もいいひんからな、白状したもんは、誰もいいひん。倒幕プロジェクトの事、ゼッタイどっからも漏れとらんやろ。

日野俊基 (内心)やれやれぇ、僕らがやってた事、なんとか露見(ろけん)せんとすんだわなぁ。

このような空しい安堵の中に、何の備えもしていなかったのである。

なのに、突然のこの出来事はいったい・・・彼らの妻子は、東西に逃げ迷って身を隠す場所もなく、家財は首都の大路(おおじ)に散乱、馬のひずめに踏みにじられていく。

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資朝は、日野家一門の出身、都庁長官(注2)の職を経て、中納言(ちゅうなごん)の官位にまで至っていた。御醍醐天皇の彼へのご寵愛は格別のものがあり、その家はまさに繁栄の上げ潮に乗っていた。

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(訳者注2)原文では、「職大理を経て」。
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一方、俊基は儒家の出身、実際の功績以上のレベルにまでも、栄進の望みが達成されている。同僚は、肥馬の塵を望み、先輩も飲み残しの冷たい酒を飲み、ひたすら彼に、ゴマをする。

「不義にして富み、かつ貴きは、我においては浮雲のごとし」とは、よくぞ言ったもの・・・これは、かの魯論語(ろろんご)に記されている孔子(こうし)の名言であるからして、誤りがあるはずもなし。

資朝と俊基の運命もまさに、その通りのものとなってしまった・・・夢の中の楽しみははや尽き果て、いままさに、悲哀に直面することとなった。

「盛者必衰の理(じょうしゃひっすいのことわり:注3)」をたとえ知らずといえども、両者の窮状を見聞きする者は誰もみな、涙あふれて、とどまるところを知らない。

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(訳者注3)盛んなる者も必ず衰える、という意味。
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幕府派遣の使者による連行のもと、5月27日、資朝と俊基は鎌倉へ到着した。

「倒幕計画の張本人である両人のことゆえ、すぐに、死刑に処せられるであろう」、というのが大方(おおかた)の観測であった。

しかしながら、彼らはともに天皇の側近であり、才学にも秀(ひい)でた人物、世論の反発と天皇の憤りをはばかった幕府側は、彼らに対して拷問を加えることもなく、通常の禁固刑囚人(きんこけいしゅうじん)のように取り扱い、侍所(さむらいどころ:注4)に預け置きとした。

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(訳者注4)御家人を対象とする、鎌倉幕府の警察・裁判機構。
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7月7日、今宵(こよい)はあの二星、アルタイル(牽牛)とヴェガ(織女)がキグナス(白鳥座)の橋を渡り、1年間別離恋愛の悲哀からしばしの間、解放される夜。

通常であれば、御所においては昔ながらの伝統に従い、竹棹に願かけの糸を掛け、庭先に瓜などを並べ、七夕祭りの乞功奠(きつこうでん)を修するところ。

しかしながら、このような危機的な情勢ゆえに、詩歌(しいか)を奉る風流の人の姿もなく、管弦を演奏する楽人の影もない。

当夜の御所・宿直担当の月卿雲客(げっけいうんかく:注5)たちも、何かと騒がしい昨今の世相を憂い、次は誰の身の上に、災難がふりかかってくるのであろうかと、魂も消え、肝も冷える今日このごろ、みな、眉をひそめ、うつむいたままである。

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(訳者注5)月卿とは公卿(くぎょう)のことであり、雲客とは殿上人(てんじょうびと)のことである。
--------

夜も大分更けてきたころ、天皇が声を上げられた。

後醍醐天皇 おぉい、誰かいいひんかぁ!

吉田冬房(よしだふゆふさ) はい、冬房がおりま。

天皇は、前方に座り直していわく、

後醍醐天皇 あんなぁ、冬房・・・資朝と俊基が捕えられてからっちゅうもん、鎌倉の連中、いまだになんやかやと騒ぎたてとるっちゅぅやないか・・・京都は常に、危機的状況にあるやないか。

吉田冬房 はい・・・。

後醍醐天皇 この上また、どないなムチャな事、鎌倉から言うてきよるか、思うとなぁ、ほんま、心穏やかやないでぇ。

吉田冬房 はい・・・。

後醍醐天皇 どないどして、幕府の連中らの心を静めるえぇ方策、ないもんかいな?

吉田冬房 おそれながら、陛下・・・。

後醍醐天皇 ・・・。

吉田冬房 資朝と俊基が、倒幕計画のこと白状してもたっちゅうような、そないな情報は、私の耳にも入ってきとりませんよってにな・・・鎌倉の方からこれ以上さらに、追加の処置を加えてきよるっちゅうような事は・・・おそらく、もう無いとは思いますわ・・・。

吉田冬房 そやけど・・・最近の幕府の連中らのやりよること、ムチャクチャな事、多いですよってにな、ご油断されては、あきまへん。

後醍醐天皇 うん。

吉田冬房 ここは一つ、陛下自ら、誓紙(せいし:注6)を一筆したためられましてや、北条高時(ほうじょうたかとき)のもとへ送られる・・・とまぁ、こないなフウにして、あちらの怒りを静めるように、持っていかはったらどないですやろ?

後醍醐天皇 うん、なるほどなぁ。

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(訳者注6)原文では、「告文一紙」。冬房の提案したこの誓紙の内容はおそらく、「今回の倒幕計画には、自分(天皇)は何の関係もない」といったような内容のものなのであろう。
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後醍醐天皇 よし、ほなら冬房、すぐにそれ書け。

吉田冬房 ははっ。

直ちに冬房は、御前にて文章の下書きを作成し、陛下にご覧いただいた。

後醍醐天皇 どれどれ・・・。(文面をじっと読む)

紙の上にはらはらと落ちかかる陛下の涙(注7)・・・着物の袖でそれを押しぬぐわれる姿を見て、その場に侍(はべ)っていた臣下たちも皆、目に涙した。

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(訳者注7)形の上から言えば、北条高時は、御醍醐天皇の臣下に当たる。そのような相手に対して、その主君である天皇が、自らの潔白を主張する誓紙を提出しなければならないのである、後醍醐天皇の心中の屈辱感はいかばかりか・・・もっとも、この「天皇が涙を流した」というシ-ンは、太平記作者の創作(フィクション)なのか、史実なのか、一切は不明である。
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勅使(ちょくし)に任命された万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)が、この誓紙を鎌倉へ持参してきた。

北条高時は、安達高景(あだちたかかげ)を介して、それを受け取り、すぐにそれを開こうとしたが、

二階堂道蘊 ちょっと待ってください!

北条高時 うぅ? なんだぁ?

二階堂道蘊 天皇陛下が武家の家臣に対して、直々に誓文を下されるなどということはですね、外国でも我が国でも、前代未聞の事なんですよ。なのに、そのような軽いノリでもってね、中味を拝読(はいどく)申し上げるのは、いかがなものかと・・・。

一同 ・・・。

二階堂道蘊 そのような振る舞いを、神仏はいったいどのようにご覧あそばすか、ジツにおそれ多い事でありますよ。

一同 ・・・。

二階堂道蘊 ここはともかく、その文箱を開かずに、そのまま、勅使にお返しされるのが、よろしいのでは?

このように、道蘊は、再三再四(さいさんさいし)諫(いさ)めたのであったが、

北条高時 ナァァニ、そんなの気にすんなってことヨォ! ナァモ問題ねぇ、ノォゥプロォブレム(no problem)、ノォゥプロォブレム! それ、斉藤、とっとと開いて読みやがれぃ!

斉藤利行(さいとうとしゆき) はいはい! ほならいっちょ、読んでみますよって。(誓紙を手に取る)(注8)

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(訳者注8)この人は、1-8に登場している。
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斉藤利行 (誓紙を開いて)・・・「わが心に偽り無きことを、天もご照覧あれ」・・・ウァッ!

斉藤利行の血液 ドヴァッ!

一同 おいおい、いったいどうした! 鼻血なんか、出しちゃって・・・。

斉藤利行 なんや急に、めまいしてきましたわ・・・もう読めまへん・・・これにて退出させていただきますぅ・・・(よろよろ)(退出)

北条高時 ヤイヤイ、いってぇぜんてぇ、ナニがどうなってやがんだぁ?!

その日から急に、利行の喉の下に悪性のデキモノができてしまい、7日もたたないうちに、血を吐きながら、息を引き取った。(注9)

世間の声A いやぁー、こいつぁ驚きましたねぇ。

世間の声B ほんにまぁ、えらいこっちゃがな。

世間の声C 人心泥にまみれたる、末世(まっせい)のこの世とはいいながらも、君臣上下(くんしんじょうげ)の礼を違(たが)えた時には、神仏の罰はさすがにテキメンってことじゃぁないかしらねぇ。

世間の声D もうほんに、コワ(怖)おすわなぁ。

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(訳者注9)[太平記 鎮魂と救済の史書 松尾剛次 中公新書 1608 中央公論新社]の80~81ページには次のようにある。

 「斉藤利行が死んだのは、『常楽記』(鎌倉・室町時代の一種の過去帳で、醍醐寺釈迦院の僧侶が書き継いだ)という信頼できる史料によれば正中三(一三ニ六)年であり、七日のうちではない。ここからも『太平記』の記事をそのまま鵜呑みにできないことがわかるが、重要なのは、事実を曲げてまでも、『太平記』作者が斉藤利行の死と告文読みを結びつけ、「君臣上下の礼違う時は、さすがに仏神の罰がある」と結論づけている点だ。そうした、作為的な部分こそ、逆説的な意味で、作者の主張が端的に現れている。すなわち、そこには儒教的道義論が読みとれるとともに、儒教的道義の遵守を保証するものは、仏神の下す罰であると考えていることがわかる。」
--------

--------

それ以前の時点で既に、幕府側においては評議一決し、意志決定がなされていた。

 「日野資朝と日野俊基が今回の陰謀の張本人といっても、もとはといえばそれは、天皇陛下のご意向から発した事。たとえ誓紙を下されようとも、そんな事は全く考慮に値せず。陛下を、遠国(おんごく)へ遷(うつ)したてまつるべし!」

幕府リーダーE (内心)しかしだなぁ・・・。

幕府リーダーF (内心)勅使の万里小路宣房の弁明の内容も、なるほどなぁと思えるし。

幕府リーダーG (内心)天皇からの誓紙を読み上げようとした斉藤利行が、あんなことになっちまったし・・・。

幕府要人たちは、みな舌を巻き、口を閉ざしてしまった。

さすがの北条高時も、天のおぼしめしにたてつくような行為だけは憚(はば)かられたのであろう、

 「国家の統治に関しては、朝廷側のご意向におまかせしているのですから、幕府の方からそれに対してあれやこれやと、干渉するような事があってはならないですよね。」

との内容の返答をそえ、誓紙をお返しした。

宣房はすぐさま帰京し、この由を奏上した。かくして、天皇も臣下たちもようやく、安堵の胸をなでおろした。

やがて、幕府側の裁決が以下のように下された。

 「日野俊基は、証拠不十分ゆえ、釈放(しゃくほう)。日野資朝は、死罪と処すべきところを、罪一等(つみいっとう)を減じ、佐渡国(さどこく:新潟県佐渡島)へ流罪(るざい)とする」。

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2017年4月13日 (木)

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太平記 現代語訳 1-8 うらぎり

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]のメンバー、土岐頼員(ときよりかず)は、六波羅庁(ろくはらちょう)の局長・斎藤利行(さいとうとしゆき)の娘と結婚し、彼女を深く愛していた。

しかしながら、世の中の情勢は刻々、緊迫の度を高めている。

土岐頼員 (内心)あーあ・・・合戦でも始まりゃぁ最後、わしが討死にしてまう確率、99.9%・・・あぁ、わがいとしの彼女といっしょにおれるんも、あと少しだけ・・・あーあ、なごりおしいわねぇ。

ある夜、夫は妻にいわく、

土岐頼員 なぁあ・・・「二人の人間が一本の樹の木陰で宿り、同じ川の流れの水を飲んだりするんも、全てそれは、お互いの間に前世からの因縁あるから」って言うわねぇ。

斎藤利行の娘 ハァ?

土岐頼員 おみゃあさんとわしとが夫婦になってから、もう3年以上にもなるでねぇ。

斎藤利行の娘 ・・・。

土岐頼員 おみゃあさんに、わしがゾッコンてこと、わしの態度とか、折に触れて、よぉ分かってくれとるだろうなぁ。。

斎藤利行の娘 ・・・。

土岐頼員 定め無きは、人生の常ってもんかぁ・・・「出会いは別れの始まり」・・・よぉもまぁ言うたもんだわ・・・。

斎藤利行の娘 ・・・。

土岐頼員 なぁ、わしになぁ、もしもの事があった時にはなぁ、わしの死んだ後も、他の男とくっついたりせんでな、わしの冥福、祈ってくれなさらんかのぉ。

斎藤利行の娘 ・・・。

土岐頼員 来世でまた、人間に生まれてくる事ができたら、わしとおみゃあさんとで、また夫婦になろうやなぁ。

斎藤利行の娘 ・・・。

土岐頼員 それともなんだ・・・もしも、極楽浄土(ごくらくじょうど)に行けたら・・・蓮の花の上のスペース半分あけて、おみゃあさんの来るの、わし、ジッと待っとるでなぁ。(涙)

このように、頼員は、それとなく、苦しい胸のうちを語り続けた。

斎藤利行の娘 あんたぁ、いったいどないしはったぁん? なんやおかしいわ。

土岐頼員 ・・・。

斎藤利行の娘 男と女の仲なんて、今日約束しても明日はどないなってしまうかわからへん・・・そやのに、死んでから後の事まで約束するやなんて・・・。

土岐頼員 ・・・。

斎藤利行の娘 そうや、きっとそうや! あんたはもう、うち(私)を捨ててしまおと、思ぉたはんねんわ。そやないと、そないな事言うはずおへんもん(ないもの)・・・そうや、きっとそうやわ。

土岐頼員 え、え、違う、そら違うで!

斎藤利行の娘 うち、ほんにまぁ、悲しおす、うっうっうっうっ・・・(涙)。

妻は泣き泣き、恨み言をかこちながら夫に迫る。で、とうとう夫は・・・あぁ、まったくもう、なんという、思慮の浅い男なのだろうか!

土岐頼員 いやいや、それが、それがな・・・えぇい、もうこうなったら白状するけどな、実はなぁ、わし、天皇陛下から思いもかけねぇドエリャァ事、おおせつかってしもぉてなぁ、断ることもできんのよぉ。

斎藤利行の娘 いったい何を、おおせつかったん?!

土岐頼員 なんと、わしなぁ、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]に、参加させられてまったんよぉ。

斎藤利行の娘 エエーッ!

土岐頼員 だもんでな、千に一つも命助かる可能性ゼロなんよ・・・あぁ、もうワシ、人生まっ暗になってしもとるでぇ。

斎藤利行の娘 そんなぁー!

土岐頼員 おみゃあさんと別れる日も、近ぉなってくるかと思うと、わし、悲しぅて、悲しぅて・・・前もって、言うといた方がいいかなぁ、思うてな。

斎藤利行の娘 ・・・。

土岐頼員 な、な、この事な、絶対に他の人に言うたらいかんよ、な、わかったな、な、な・・・。

妻に対してクドクドと、口止めをする夫であった。

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頼員の妻は心賢き女人であった。翌早朝、起床するや、彼女は沈思黙考(ちんしもっこう)。

斎藤利行の娘 (内心)陛下の企画してはる、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]とかいうのんが、もしも失敗に終わってしもぉたら、うちの大事なあのひとは、たちまち、殺されてしまうやろ・・・。

斎藤利行の娘 (内心)反対に、もしも、その計画が成功してもぉてやで、幕府の方が滅びてもた、なんちゅう事になってしもぉたら・・・そないなったら今度は、おとう(父)はんはじめ、ウチの親族、誰一人とて、生き残れへんようになってしまうやん・・・困ったなぁ・・・。

斎藤利行の娘 (内心)うーん・・・この陰謀の事、おとうはんの耳に入れてもぉた方が、えぇんちゃうやろか・・・そないしたら、「倒幕計画を内通したる功績ある者」という事になってやで、あのひとの命を救えるやん、ウチの親族一同かて、この危機から救えるやん・・・。

斎藤利行の娘 (内心)ヨォシ!

彼女は急ぎ、父(斎藤利行)のもとに赴き、密かに、夫から聞いた事をありのままに告げた。

斎藤利行 なんやて! 打倒・鎌倉幕府やとぉ!

彼はビックリ仰天、すぐに、土岐頼員を自宅に呼び寄せた。

斉藤利行 あんなぁ! 水面下で密かに、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]とかなんとかいう、トンデモないもんが動き出しとる、とかなんとか、信じがたいような話、耳にしたんやが・・・これ、ホンマかいな?!

土岐頼員 ・・・。(冷汗)

斉藤利行 あろう事にやでぇ、あんたがそれに一枚かんでる、とかなんとかいう情報も、伝わってきてんねやが・・・。

土岐頼員 ・・・。(冷汗)

斉藤利行 よぉ考えてやぁ! 今のこの世の中でやでぇ、鎌倉幕府打倒やなんて、よぉ、そないな大それた事を・・・それこそ、石抱いて、深い淵に飛び込むようなもんやないかいな!

土岐頼員 ・・・。

斉藤利行 こないな事が他人の口からリークでもしてみぃ、巻き添え食ぉて、わしらまで皆殺しやがな!

土岐頼員 ・・・。

斉藤利行 あんなぁ、ここは、こないしてはどないかいなぁ? 「婿(むこ)の頼員がな、こないなオッソロシイ陰謀計画を、わしに通報してくれよりましたんやがな」とな、六波羅庁長官に、わしの方から報告すると、そないなフゥにしてな、そっちとこっちと共に、その咎(とが)から逃れる・・・どないだ?

これほどの一大事を女性に知らせてしまうような男である、頼員はもうただ、おどおどするばかり。

土岐頼員 実はな、この件はな、一族の土岐頼貞(ときよりさだ)と、多治見国長(たじみくになが)に勧められて、同意してもたんよ。こないなったらもう、とにもかくにも、わが身が助かるように、取り計らって下さいな!

斉藤利行 よっしゃ! まかしとき!

夜明け前に、斎藤利行は六波羅庁へ急行、事の詳細をくわしく報告した。

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それを受けて、六波羅庁はただちに、鎌倉へ早馬を走らせて報告するとともに、京中(きょうじゅう)・洛外(らくがい)の武士たちに緊急招集をかけ、馳せ参じてきたメンバーの氏名を、リストに記した。

ちょうどそのころ、摂津国(せっつこく:大阪府北東部+兵庫県南東部)の葛葉(くずは:注1)という所で、土着の武士たちが代官に背き、合戦に及ぶ、という事件があった。そこで、六波羅庁は次のような指令を出した。

六波羅庁指令:
 かの荘園の、領主側・現地管理人を、荘園事務所に護送するために、京都市中48か所・警護番所づめの者、ならびに、京都常駐・治安維持担当メンバーを、緊急招集するものなり。

これすなわち、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]・メンバーを一網打尽(いちもうだじん)にするための偽装作戦である事は言うまでもない。

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(訳者注1)葛葉(くずは:大阪府枚方市)は、河内国内にある。太平記作者の誤記であろう。
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それが、わが身の上に関わってくる重大事であるとは思いもよらず、明日の葛葉への出向の準備を整え、土岐、多治見、共にそれぞれの邸宅にいた。

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明朝、元徳(げんとく)元年9月19日(注1)午前6時ころ、招集された武士たちはウンカ(雲霞)のごとく、六波羅庁へ集合してきた。

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(訳者注2)「元徳元年(1329)9月19日」は、太平記作者の誤。史実では、1324年9月19日。
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小串範行(おぐしのりゆき)、山本時綱(やまもとときつな)の両名が追討軍の大将に任命され、北条家・家紋入の旗を授かった。

彼らは、鴨川(かもがわ)の六条河原(ろくじょうがわら)へ打って出た後、3,000余騎を二手に分け、一方は、多治見国長の邸宅がある錦小路高倉(にしきこうじたかくら)へ、もう一方は、土岐頼貞の邸宅がある三条堀川(さんじょうほりかわ)へ向かった。(注3)

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(訳者注3)六波羅庁(六波羅探題)は、鴨川の東側、六波羅密寺(ろくはらみつじ)の近くにあった。一方、錦小路高倉、三条堀川はいずれも、鴨川よりも西方の場所である。ゆえに、「六条河原を経由して、鴨川の東から西への進軍」とのルート選択となるのは自然の成り行き、といえよう。
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土岐頼貞・討伐の方を担当したのは、山本時綱であった。

山本時綱 (内心)こんな大軍率いてワイワイ押し寄せてったんでは、土岐に感づかれてまうかも・・・ヘタすると、大物を取り逃がしてしまうことになるかも・・・。

山本時綱 よぉし、全軍しばらく、ここ、三条河原(さんじょうがわら)で待機せェー!

六波羅庁・三条堀川方面軍・メンバー一同 ドヤドヤドヤドヤ・・・。

時綱は、長刀(なぎなた)を持たせた中間(ちゅうげん)二人だけを伴い、土岐邸へ静かに馬を駆った。

門前に馬をサット乗り捨て、小門から内へツット入り、中門の方を窺(うかが)う。

宿直当番の者であろうか、甲冑(かっちゅう)、太刀(たち)、刀(かたな)を、枕辺に乱雑に置き、高いびをかいて寝入っている。

山本時綱 (内心)どっかに、抜け道あるやろか。

馬屋の後方に回り込み、調べてみたが、館の周囲はすべて築地壁(ついぢかべ)で囲まれており、門より他に、脱出口はない。

山本時綱 (内心)よぉしよし、こういう屋敷の構えやねんから、土岐を取り逃がすおそれは、ないわなぁ。

彼は、客殿に忍び入り、その奥にある二間の部屋の扉を、サッと引き開けた。

眼前には、頼貞が。ついさきほど、起床したようで、今まさに、髪をなで上げ、結わえようとしている。

時綱をキッと見るや、頼貞は、

土岐頼貞 ムム! さては!

叫ぶやいなや、頼貞は、刀架に立てかけてあった太刀をひっつかみ、

頼貞の太刀 カシャ!

障子 バリバシィ!

かたわらの障子を蹴破り、六間四方の客殿へ走り出た。

山本時綱 土岐頼貞、覚悟ォー!

土岐頼貞 えェィ!

時綱の太刀 チャイーン!

頼貞の太刀 グワシ!

時綱の太刀 キュイーン!

頼貞の太刀 ビュゥーン!

頼貞は、太刀を天井に打ちつけたりせぬように、横払いに太刀を使う。

時綱は、頼貞を広庭へおびき出し、すきあらば生け捕りにしてくれようと、太刀をうち払っては退き、相手の太刀を受け流しては飛びのき・・・。

一対一の死闘が続く・・・と、その時、

六波羅庁・三条堀川方面軍・メンバー一同 エェーイッ、エェーイッ、オーゥーッ!

山本時綱 !

土岐頼貞 ウゥ!

振り返る時綱の眼中に、中門からなだれ込み、一斉にトキの声を上げている後づめの大軍2,000余騎の姿が飛び込んできた。

このまま闘い続けていたのでは、生け捕りにされてしまう、と思ったのであろうか、頼貞は、先ほどまで寝ていた部屋に走って戻り、その場で腹十文字にかっ切り、北枕の中に果てた。

中の間で寝ていた頼貞の若党(わかとう)たちも、思い思いに戦って討死。土岐邸から逃れ得た者は、一人もいなかった。

土岐頼貞の首を取って太刀の切っ先に突き刺し、山本時綱は、六波羅庁へ帰っていった。

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錦小路高倉の多治見国長の邸宅へは、小串範行が率いる3,000余騎が押し寄せた。

六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバー一同 エェーイッ、エェーイッ、オーゥーッ!

終夜の酒に酔い、前後不覚で寝入っていた国長は、にわかに上がるトキの声に、ガバと飛びおきた。

多治見国長 ナニゴト(何事)やぁ!

遊女 アァ!

傍らに寝ていた遊女は、こういう局面によく慣れている人であった。

遊女 さ、さ、早いとこ、鎧(よろい)!

多治見国長 ウン!

彼女は、枕辺の鎧を取って国長に着せ、上帯を強く締めさせた。そして、まだ寝入っている国長の家臣たちを、起こして回った。

遊女 えらいこっちゃで、攻めてきよったがな! さ、さ、皆さん、早いとこ、起きとくれやっしゃぁ! 攻めてきよった、攻めてきよったでぇー!

彼女にたたき起こされ、小笠原孫六(おがさわらまごろく)は、太刀だけ取って中門まで走り出た。

目をすりすり、四方をキッと見わたせば、車輪マークの旗が一本、築地の上に見えた。

孫六は、中へ走り込んで叫んだ。

小笠原孫六 六波羅、六波羅! 六波羅の軍が押し寄せて来たがや!

多治見家・家臣一同 なにぃ!

小笠原孫六 こないだから殿が計画してた事、もう、バレてしもてるでぇ!

多治見家・家臣一同 ・・・。

小笠原孫六 もう、こうなったからにゃぁ、みんな、太刀がもちこたえる限りゃぁ、せいいっぱい敵と切り合ぅて・・・最後は腹切るだけだで!

孫六は、腹巻(はらまき:注4)を取って身に装着、2ダース矢入りエビラと、繁藤弓(しげどうゆみ)を引っさげ、門の上の櫓(やぐら)へ、かけ上がる。

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(訳者注4)鎧の一種。
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弓に中指(なかざし)矢をつがえ、狭間(はざま)の板戸を全開にし、追討軍に向かって彼は叫んだ。

小笠原孫六 ヨォヨォ、こりゃまたぁ。よくもまぁ、こんなに大勢で押しかけてきてみえたがねぇ・・・よっぽど、わしらが怖いんじゃろうな、あんたがたぁ。

六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバー一同 ・・・。

小笠原孫六 そっち側の大将は、どこの何てぇ名前のお人かねぇ? ちょっとこっちぃ来て、この矢ぁ一本、受けて見んかねぇ?

孫六は、12束3伏(じゅうにそくみつぶせ:注5)の矢を十分に引き絞り、パァッと放った。

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(訳者注5)矢の長さ。束は指幅4本分の長さ、伏は指幅1本分の長さ。
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追討軍の先頭きって進んでいた、狩野下野前司(かののしもつけのぜんじ)の若党・衣摺助房(きぬずりすけふさ)に、その矢は命中、冑(かぶと)の真っ正面から最内層まで貫通し、馬から真っさかさまに射落とした。

これを手はじめに、孫六は、追討軍メンバーたちの、鎧の袖、草摺(くさずり)、冑の鉢と、ところかまわず思うがままに、矢を連射、最前線の武士24人を馬から射落とした。

更に孫六は、エビラから残りの一本の矢を抜いた後、そのエビラを櫓の下へカラリと投げ落としていわく、

小笠原孫六 この矢ぁ一本、わしの冥土の旅の用心に、持ってくかぁ!

その矢を腰に差し、

小笠原孫六 さぁ、さぁ! 日本一の剛(ごう)の者が、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]に参加して自害するとこ、よぉ見といてな、他の人にも伝えてちょぉ!

高らかに叫んだ後、孫六は、太刀の先を口にくわえ、櫓から頭を下にして飛び降り、太刀にわが身を貫かれて死んだ。

この間に、多治見国長はじめ一族若党20余人、鎧兜(よろいかぶと)でしっかり身をかため、広庭に躍り出て、門にかんぬきをさし、追討軍を待ち構えた。

六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバー一同 ・・・。

多治見家・メンバー一同 ・・・。

六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーA (内心)こっちサイドは、ウンカ(雲霞)の如き大軍勢。

六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーB (内心)人数面で見れば、こっちサイドが、圧倒的多数・・・とはいいながら・・・。

六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーC (内心)あの館の中に引きこもっているのは、覚悟固めきった者ばかり。

六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーD (内心)やつらの思いはただ一つ、「トコトン、アバ(暴)レマワッテから、死んでやる!」

六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーE (内心)ジワジワァと、わが心中に沸き上がりくる、この恐怖感。

六波羅庁・錦小路高倉方面軍・メンバーF (内心)あぁ、だめだ、とてもあんな中へ、踏み込んでいけるもんじゃぁない。

そのまましばらく、時が流れ・・・そしてついに、

伊藤彦次郎(いとうひこじろう) よぉし!

伊藤・父子兄弟4人、意を決し、門扉の少し破れている所から、内へ這入っていく。

その志、勇猛果敢といえども、待ちかまえている相手側のまっただ中に、這入っていくのであるから、あまりにも態勢が悪すぎる。相手方と太刀を合わすまでもなく、全員、門の脇で討ち取られてしまった。

この様を見た追討軍側はますますおじけづき、門に近寄る者もいなくなってしまった。

それを見て、館の中の人々は門戸を押し開いて立ち、

多治見家・家臣K わしらを攻める役目ぇ、承(うけたまわ)ってみえたほどの人らだというのによぉ、まぁなんと卑怯(ひきょう)な事だがやぁ。

多治見家・家臣L こないして扉、開いてさしあげたがね、さ、ここから早(はよ)ぉ入って来なさいな。

多治見家・家臣M わしらの首、引き出物に差し上げるでね。

多治見家・メンバー一同 ワッハッハッハッハァ!

このように、彼らは追討軍サイドを、嘲けりはじめた。

さんざん嘲りを受けたあげく、ついに、追討軍サイド第1陣の500余人が下馬、

六波羅庁・錦小路高倉方面軍第1陣・メンバー一同 ウォオオオオ・・・!

おめきながら、徒歩で、庭へ突入。

多治見家・メンバー一同 ドェエエエエーーーィ!

「もはや逃れるすべはなし!」と、思いきり、中にたてこもる多治見家のツワモノたち、、どこへも一歩も退くはずもなし、メンバー20余人、大勢の追討軍のまっただ中に乱入乱入、わき目もふらず、真っ正面から切りかかっていく。

追討軍サイド第1陣の500余人は、散々に切り立てられ、門から外へサァッと退いた。

しかしながら、攻め入る側は大軍勢、第1陣が退けば、第2陣がおめいて突入する。突入すれば追い出し、追い出せば突入し、午前8時ころから正午ごろまで、攻める側、守る側双方、烈火のごとくあい戦った。

大手(おおて:注6)側の防御がこのように強固であるのを見て、佐々木時信(ささきときのぶ)の配下1,000余人は、多治見邸の裏手方向へ回り、錦小路の方向から民家を破壊しながら前進し、多治見邸内に突入した。

これを見た多治見国長、

多治見国長 もはや、これまでやね!

多治見サイド22人は、中門の前に並んだ後、互いに刺し違え刺し違えしながら、算木(さんぼく:注7)を散らしたごとくに倒れていった。

このようにして、大手側の追討軍が門を破る間に、搦手(からめて)(注8)側の追討軍が乱入して多治見サイド全員の首を取り、六波羅庁へ帰還していった。

この合戦での、負傷者・死者・カウント数は273人。4時間に渡ってくりひろげられた戦いであった。

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(訳者注6)正面方向の攻め口。

(訳者注7)易占に使用する道具。

(訳者注8)裏側方向の攻め口。
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太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月12日 (水)

新作動画の発表 [白川 京都 サクラ 2017]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、

 白川 京都 サクラ 2017

です。自作の曲(『京都・白川沿いの道 Op.28』)を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

撮影地:京都市内 白川べり
撮影時:2017年4月

映像撮影・制作:runningWater

バックグラウンド音楽
 作品名:京都・白川沿いの道 作品28
 作曲・制作者:runningWater
  (コンピューターを使用して制作しました)

("runningWater" は、私のペンネームです。)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/S6Lq9eB_5Zg
です。

私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した音楽作品を聴きたい時は、

ここをクリックしてください。

2017年4月11日 (火)

太平記 現代語訳 1-7 打倒・鎌倉幕府・プロジェクト

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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ここに、美濃国(みのこく:岐阜県南部)の住人、土岐頼貞(ときよりさだ)と、多治見国長(たじみくになが)の両名がいた。

「二人ともに、清和源氏(せいわげんじ)の家系に所属、武勇に秀でている」との評判を聞き、日野資朝(ひのすけとも)は、様々の縁故をたどって彼らに接近し、朋友(ほうゆう)の交わりを結んでいた。

日野資朝 (内心)あの二人とは、もう相当深い仲になれたしな、ここらで何とかして、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]のメンバーに引き入れたいんやが・・・。

日野資朝 (内心)そやけどなぁ、これほどスゴイ一大事(注1)、そうそう気軽に話すわけにもいかへんし・・・うーん、どないしたらえぇんやろ・・・。

日野資朝 (内心)そうやなぁ・・・ここはやっぱし、もうちょっとじっくり腰落ち着けて、彼らの本心、探ってみるしかないわなぁ。

そこで資朝は、「無礼講(ぶれいこう)」と称して、「身分や位の上下を忘れて互いに親しく接する」という趣旨のパーティーを開催し始めた。

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(訳者注1)[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]の事。
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そのパーティーの参加メンバーは、

 花山院師賢(かざんいんもろかた)、四条隆資(しじょうたかすけ)、洞院実世(とういんさねよ)、日野俊基(ひのとしもと)、伊達遊雅(だてのゆうが)、聖護院玄基(しょうごいんげんき)、足助重範(あすけしげのり)、多治見国長、等

であった。

パーティーの様は、まことに世間の耳目を驚かすようなものであった。

献盃(けんぱい)の順序は、身分の上下には全く無関係、男性は烏帽子(えぼし)を脱ぎ、頭髪の結びをはずして肩の上に垂れ流し、法師は法衣を着することなく、白色の下着いっちょう。

年のころは17、8歳、美形・美肌の女性20余人を宴席に侍らせ、着物1枚だけ着せて杓をさせる・・・雪の肌は透いてモロ見え、古代中国の宮殿の池の蓮、たったいま水中から花あらわれ、といった風情。

ありとあらゆる山海のグルメ、所狭しと並べられ、泉のごとく美酒は満々・・・ひたすら遊び戯れ、舞い歌う。

その陰に隠れて、メンバー一同、鎌倉幕府を亡ぼすプランの練りあげの他、余念なし。

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ところが・・・

メンバーA 「ただ何となく集まって、楽しぃやってますぅ」では、世間からの疑惑を集めることになってしまわへんかぁ?

メンバーB なるほど・・・ほならここはひとつ、「文芸セミナー」の仮面をかぶってみたら?

メンバーC そら、えぇ考えや。どや、講師に、玄恵法印(げんえほういん)を招くっちゅうのんは? あの人、「学識才能、現在ダントツ」と、世間の評判メッチャ高いやん。

メンバーD なんちゅうたかて、儒教方面に関しては、あの人の右に出る人はいいひんもんなぁ、それでえぇんちゃうかなぁ?

メンバーE 「玄恵法印を囲んでの昌黎(しょうれい)著作集・研究セミナー」っちゅうセンで行こうなぁ。

メンバー全員 それがえぇ、そうしょう、そうしょう!

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それが倒幕計画の隠れ蓑(みの)であるなどとは思いも寄らず、玄恵法印は、セミナー開催日ごとにやってきては、高尚な話をして帰る。

ところが、その使用テキスト中に、「昌黎、潮州(ちょうしゅう)に赴く」という長編があった。

講義が進んでそのテキストに至った時、参加メンバーから問題提起の声が上がった。

メンバーA このテキスト、なんかエンギ悪いんちゃうぅ?

メンバーB エンギ悪すぎぃ!

メンバーC やっぱしなぁ、[呉子(ごし)]とか[孫子(そんし)]、[六韜(りくとう)]、[三略(さんりゃく)]といったような、軍事アナリストが書いたもんを、研究対象にする方が、えぇんちゃうかなぁ?

メンバーD なるほど・・・我々の目的のためには、その方がより実用的かもしれんわなぁ。

ということで、そのセミナーは中止になってしまった。(注2)

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(訳者注2)これだけでは、いったい何の事だかさっぱり分からん読者もいるだろう、ということで、太平記の作者は以下のような説明を展開していくのである。
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この「問題のテキスト本」の著者・韓昌黎(かんしょうれい)とは、中国・唐(とう)王朝の衰退期に世に現れ、文芸の才能に恵まれていた人である。

詩作においては、杜甫(とほ)、李白(りはく)に肩を並べ、その文章の技は、漢(かん)、魏(ぎ)、晋(しん)、宋(そう)の全期間に渡るタイムスパン中で評価してみても傑出、と言ってよかろう。

彼の甥に、韓湘(かんしょう)という人がいた。

この甥の方は、文学・詩作の方面には一切ノータッチ、専ら、道教(どうきょう)・神仙の術を学び、無為(ぶい)を業(ぎょう)とし、無事(ぶじ)を事(こと)となす、といった人物。

ある時、韓昌黎は韓湘に対して、「お説教」を試みた。

韓昌黎 オマエはなぁ、天地の間に生を受け、成長させていただいたにもかかわらずだ、仁義(じんぎ)に外れた世界の中を、フラフラぁフラフラぁと、徘徊(はいかい)しておるではないか。

韓湘 ・・・。

韓昌黎 そのような生きざまはなぁ、君子の恥ずるところ、小人(しょうじん)が好き好む境涯であるぞよ。

韓昌黎 そんなオマエの姿を見るにつけ、もうわしは、ナサケナイやらセツナイやら・・・イヤハヤ、まったく!

韓湘 ワッハハ・・・。

韓昌黎 なんだぁ! その態度はぁ!

韓湘 叔父上、あのねぇ、「仁義」などというものはぁ、大道(だいどう)の廃(すた)れた所に現れた思想なんですよぉ。学問、教育なんてぇもんはぁ、大偽(たいぎ)の起こる時に盛んになるものなんですぅ。

韓昌黎 ・・・。

韓湘 ボクはァ、無為の境地に優遊(ゆうゆう)しておりましてねぇ、是非・善悪などという概念からは、完全フリーな状態になっておりますのでねぇ。

韓昌黎 ・・・。

韓湘 宇宙に介入して、その構造をも変形せしめ、壷の中に天地を閉じ込める・・・自然の力に干渉を及ぼして、橘(たちばな)の実の中に、山川を作り出す・・・そんな事だって、できるわけですよ、このボクにはねぇ。

韓昌黎 ・・・。

韓湘 カナシイのはぁ、叔父上、あなたの方ですぅ。ただただ古人の言い残したカスのような言説に寄生して、チマチマぁチマチマぁと、空しい一生を送っているだけじゃぁないですかぁ。

韓昌黎 ふん! そんな妄想チックなデタラメを言っても、誰が信じようか。よぉし、そこまで言うのであればな、その「自然力への干渉」とやらを、今この場で、実証実験してみせよ!

韓湘はそれには答えず、前に置いてあった瑠璃(るり)製の空の盆をうつぶせに置き、すぐにまた、それを表に返した。

なんと、その盆の中には、碧玉(へきぎょく)製の牡丹の枝に花が一輪、咲いているではないか!

韓昌黎 (大驚)ナ、ナニィ!

目をこらして見ると、その花の中には、金字で次のように書いてある。

 雲は秦嶺(しんれい)に横たわりて 家 何(いずく)にか在る
 雪は藍関(らんかん)を擁(よう)して 馬 前に進まず
 うんぬん・・・

韓昌黎 (内心)うーん・・・まことに不可思議としか、言う他は・・・。

その詩を読んで、一唱三嘆してみるに、つくせない優美さが備わった詩体ではあるのだが、

韓昌黎 (内心)「雲は秦嶺に横たわりて」・・・いったいこれはどういう事なのだ? いったい何を意味しているのだ?

手にとって、もっとじっくりと読んで見ようと思ったとたんに、その花は忽然(こつぜん)と消失してしまった。

この事件の結果、韓湘が仙術をマスターしていることが世間中に知れ渡った。

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その後、韓昌黎は、「仏教を廃して儒教を尊ぶべきである」との上奏(じょうそう)を皇帝に対してたてまつった咎(とが)により、潮州へ左遷されてしまった。

以下に述べるのは、その地へ赴く道中での出来事である。

日は暮れて馬は進まず、前途ほど遠し。はるか故郷の方をかえり見れば、秦嶺に雲横たわり、通ってきたあたりは何も見えない。

悲しみの中に、険しい山道を登らんとすれば、藍関の関に雪は積もり、行く先の道も不分明。

進退窮まって周囲を見回していると、いずこからやって来たのであろうか、いきなり韓湘が現れ、側に立っているではないか!

うれしさの余り、韓昌黎は馬から下り、韓湘の袖を手にとって言った。

韓昌黎 (涙)湘よ・・・あの日、あの碧玉の花の中に見えていた一連の句・・・今にしてようやく意味が分かったぞ。

韓湘 叔父上・・・。

韓昌黎 (涙) 
 雲は秦嶺に横たわりて 家 何にか在る
 雪は藍関を擁して 馬 前に進まず

あれは、オマエの予言の詩だったのだなぁ・・・今日のこの左遷の愁いを、あの日既に予告してくれていたのだな。

韓湘 (涙)・・・。

韓昌黎 (涙)今また、ここにやって来てくれた、そのわけも、分かっている。私が左遷先の地にて、失意のうちに最期(さいご)を迎え、故郷には二度と帰れない、そのように予知したからではないか? そうであろう?

韓湘 (涙)・・・。

韓昌黎 (涙)再会はもはや期する事もできず・・・今のこの瞬間が、オマエとの永遠の別れとなるのだな・・・あぁ、なんと・・・耐え難い悲しみ・・・。

韓湘 (涙)・・・。

韓昌黎は、例の句に続きをつけて八句一首に完成し、それを韓湘に与えた。

 九重(きゅうちょうの)の天に向けて 一封の文を 朝に 上奏し
 夕べに 位を貶(おとし)められて 八千里のかなた 潮陽(ちょうよう)への路へ
 もとより 皇帝のために 弊害事を 除かんとしてのこと
 朽(く)ち衰えた 老いたる我が余命 惜しむ気持ちは さらさらなし
 雲は秦嶺に横たわりて 家 何にか在る
 雪は藍関を擁して 馬 前に進まず
 遠路をおしての 汝(なんじ)の来訪のその真意 たしかに知った今は ただ
 願わくは 毒気充満の かの地の川のほとりに わが骨を拾いたまえ

(原文)
 一封朝奏九重天
 夕貶潮陽路八千
 欲為聖明除弊事
 豈将衰朽惜残年
 雲横秦嶺家何在
 雪擁藍関馬不前
 知汝遠来須有意
 好収吾骨瘴江邊

韓湘は、この詩を袖の中に入れ、二人は泣く泣く東西に分かれた。

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「おろかな人の前で、夢の話をしてはいけない」という格言があるが、まったくもって同感である。そういった人は、単なる夢にさえも、何らかの意味づけを行ってしまい、「エンギが悪い!」とか何とかいって、とかく、非合理的思考に陥ってしまうのだ。

例の「文芸セミナー」出席メンバーも、非合理的思考という点においては、上記と同様である。韓昌黎の文集をテキストに用いることを不吉(エンギ悪)としたのは、まさに噴飯(ふんぱん)モノとしかいいようがない。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月10日 (月)

太平記 現代語訳 1-6 日野俊基、倒幕に向けて調査を開始

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元亨(げんこう)2年の春ごろから(注1)、「中宮(ちゅうぐう:注2)めでたくご懐妊のための祈祷を」ということで、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)より、諸寺・諸山の貴僧、高僧に命が発せられ、様々の大法・秘法が修された。

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(訳者注1)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]および、[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注によれば、この祈祷が行われたのは、実際には、元亨2年(1322)ではなく、嘉暦元年(1326)なのだそうである。。[正中の変]よりも後のことになる。

(訳者注2)1-4に登場の「後西園寺実兼の御息女・禧子(きし)殿」のことである。
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中でも、法勝寺(ほっしょうじ:京都市・左京区にあった)の円観上人(えんかんしょうにん)と、随心院(ずいしんいん:京都市・山科区)の文観僧正(もんかんそうじょう)の二人に対しては、陛下から特命が下った。

円観と文観は、皇居の中に壇(だん)を構え、中宮のお側近くにおいて、肝胆(かんたん)を砕かんばかりの必死の祈祷を行った。その修したる法をリストアップしてみるに:

 仏眼(ぶつげん)
 金輪(こんりん)
 五壇(ごだん)の法
 一宿五反孔雀経(いっしゅくごへんくじゃくきょう)
 七仏薬師熾盛光(しちぶつやくししじょうこう)
 烏蒭沙摩(うすさま)
 変成男子(へんじょうなんし)の法
 五大虚空蔵(ごだいこくうぞう)
 六観音
 六字訶臨(ろくじかりん)
 訶利帝母(かりていも)
 八字文殊(はちじもんじゅ)
 普賢延命(ふげんえんみょう)
 金剛童子(こんごうどうじ)の法

 護摩の煙 皇居の庭に満ち
 導師が振る鈴の音 後宮(こうきゅう)に響き渡る
 いかなる悪魔怨霊(あくまおんりょう)なりとも
 障碍(しょうげ)をなすこと 難(かた)しと見ゆる

かくのごとく、努力を継続、日に日を重ねて熱祷の限りを尽くさせられたのであったが、祈祷開始より3年を経ても未だになお、「中宮様おめでた」の報が聞こえてこない。

これは後日になってから明るみに出た事なのだが、どうやら、「中宮の御産祈祷にかこつけて、鎌倉幕府調伏の秘法を修せしめていた」、というのが事の真相だったようである。

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かくも重大なる事(打倒・鎌倉幕府)を、思い立たれたのであるからして、

後醍醐天皇(内心) ここはやっぱし、重臣らの意見も聞いてみとくべきやろかなぁ。

後醍醐天皇(内心) いやいや、やっぱし、そらまずいで。倒幕計画が多くの人の知る所になってしもぉたら、幕府の方にも情報、リーク(leak)してまうことは、必至・・・やめとこ。

ということで、深慮・智恵ある老臣や近侍(きんじ)の人々に対しては、倒幕計画についての相談は一切行われなかった。

ごく少数の人々だけが、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]への参画(さんかく)を許された。

そのメンバーは、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(ひのとしもと)、四条隆資(しじょうたかすけ)、花山院師賢(かざんいんもろかた)、平成輔(たいらのなりすけ)である。

天皇は、彼らだけに秘かに、討幕の意志を伝え、頼りになりそうな武士たちを招集された。

その結果、錦織判官代(にしこりのほうがんだい)、足助重範(あすけしげのり)、南都北嶺(なんとほくれい)の衆徒(注3)少数が、その誘いに応じた。

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(訳者注3)「南都」とは平城京のあった奈良の事であるが、「南都北嶺の衆徒」という言葉となるともっぱら、「興福寺と延暦寺の人々」という意味になるようだ。
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さて、注目の人・日野俊基。

彼は、先祖代々の朝廷における儒教学担当職を継ぎ、才知学識に優れていたので要職に抜擢(ばってき)され、書記官の官位に任ぜられ、蔵人の職にあった。

日野俊基 (内心)アーァ、マイッタなぁ・・・朝廷の仕事、メッチャ忙しすぎるやん・・・こんな状態では、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]の企画立案に割ける時間なんて、全然出てきぃひん。

日野俊基 (内心)しばらくの間、世間から隠遁できひんもんやろか・・・そないなったら、毎日時間はたっぷりあるよってに、じっくり腰落ち着けて、企画練れるようになるんやが・・・なんか、えぇ方法、無いもんやろかなぁ。

そのような時に、延暦寺(えんりゃくじ)・横川(よかわ)エリアの衆徒たちが、嘆願状をもって朝廷に訴えてきた。

閣議の場において、その嘆願状を開いて口述する際に、

日野俊基 ・・・我ら横川エリア衆徒一同、以下の通り、朝廷に対して嘆願したてまつります・・・エェ・・・エェト・・・ま・・・まんごんいんの・・・。

その座に居合わせた諸卿たちはこれを聞き、目と目を合わせてヒソヒソ、

公卿A ハァ? まんごんいん? なんのこっちゃぁ?

公卿B クックック・・・まったくもって、笑えてきますなぁ・・・あれはですな、「まんごんいん」やのうて、「りょうごんいん」ですよ。

公卿C りょうごんいん、あぁ、横川のしゅりょうごんいん(首楞厳院)のことですかいな。それをまたなんで、「まんごんいん」などと?

公卿B 俊基め、首楞厳院の「りょう(楞)」という字の読み方、知らへんよってに、苦しまぎれに、当て推量で読みよったんですわいな。

公卿C はぁ? それいったい、どういう事ですかぁ?

公卿B 「りょう(楞)」の字は、ツクリに「万」の字が入ってますやろ、そやから、「まん」と読みよったんですなぁ。

公卿C あぁ、なぁるほど、そういう事ですかいなぁ。俊基め、考えよりましたなぁ、クックック・・・。

公卿D ほな、ナンですなぁ、「分不相応」の「ソウ(相)」という字もやねぇ、ヘンは「き(木)」やし、ツクリは「め(目)」やねんから、「ソウ」ではのぉて、「モク」と読まんと、あきませんわなぁ。

公卿C 言われてみれば、ごもっとも。

公卿全員 ウヒャヒャヒャヒャヒャ・・・パンパンパン(手を打ちながら)。

日野俊基 (大恥・赤面)・・・(退出)。

このように、わざと読み間違いをしでかして、「官僚・某、閣議の席上において大失態!」との状況を演出した後、俊基は、「ボク、公の席で大恥かいてしもぉたから、自宅にこもるわ」と、世間に触れ回った後、半年間ほど朝廷への出仕を止めた。

彼は、山伏姿(やまぶしすがた)に身を変え、大和国(やまとこく:奈良県)、河内国(かわちこく:大阪府東部)の各地を探訪し、倒幕旗揚げの際に城塞(じょうさい)とできうるような場所を、見定めた。

更に、東国、西国にまでも足を伸ばし、それぞれの国の風俗や、各地の有力者の権力構造を調査してまわった。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月 9日 (日)

太平記 現代語訳 1-5 後醍醐天皇の皇子たち

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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蝗(いなご)は群れて、多くの子を産むとか・・・皇后の他にも、天皇の寵愛を受けた官女の数はなはだ多く、皇子(みこ)は次々とご誕生、その数ついには16人。

中でも一番目の皇子・尊良親王(たかよししんのう)。この方は、大納言・御子左為世(みこひだりのためよ)の娘・為子(ためこ)殿よりお生まれの方。ご生誕の後、内大臣(ないだいじん)・吉田定房(よしださだふさ)が養い育てた。一般に学問に志し始める15歳にしてすでに、詩歌の道にすぐれた才能を見せ、富緒河(とみのおがわ)の清き流れを汲み、浅香山(あさかやま)の旧跡を踏み、風のそよぎに、月の輝きに、心感じて詩を詠み、といった感じである。

二番目の皇子・宗良親王(むねよししんのう)も、母親は同じく為子殿である。児童の時より妙法院(みょうほういん:東山区)に入り、釈尊(しゃくそん)の教えの道にいそしまれる事となった。この方もまた、仏道の修行の合間には、歌道や風流の道にいそしまれた。かくして、伝教大師(でんぎょうだいし:注1)の旧業にも恥じず、慈鎮和尚(じちんおしょう:注2)の風雅をも超えて、ともいうべきお方になられた。

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(訳者注1)天台宗の総本山・比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の開祖・最澄(さいちょう)のこと。

(訳者注2)天台座主・大僧正(てんだいざす・だいそうじょう)であった慈円(じえん)のおくり名(没後につける名前)。慈円は鎌倉時代の代表的歌人でもあった。百人一首にも、「おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつそまに 墨染の袖」の歌がある。
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三番目の皇子・護良親王(もりよししんのう)は、民部卿(みんぶきょう)三位殿(さんみどの)よりお生まれの方。幼い頃より利発聡明であったので、陛下は、「次の天皇位はこの子に」との思いを抱いておられた。

しかしここに、歴代続いてきた一つの約束事があった。後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)の時より、「天皇位には、[大覚寺統(だいかくじとう)]の家系と、[持明院統(じみょういんとう)]の家系とで、かわるがわる就任していく(注3)」と定められていた。それゆえに、次の天皇となる人、すなわち、皇太子には、[持明院統]サイドの人が立てられてしまったのである。(注4)

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(訳者注3)天皇家でも一般の家と同様、複数の子供が生まれる可能性があるゆえに、複数の「家系」がそこから生じていく。この2つの家系([大覚寺統]と[持明院統])から交互に天皇位に就任していく、という原則の事を歴史関係の書物では、[皇統(こうとう)の迭立(てつりつ)]とか、[両統(りょうとう)の迭立(てつりつ)]といった用語で表現しているようである。これについては、本章末の注にもう少し詳しく書いた(写真つき)ので、ご参照いただきたい。

(訳者注4)「[持明院統]サイドの人」とは、量仁親王、後の光厳天皇である。後醍醐天皇は、[大覚寺統]に所属していた。「皇太子」の位にある人が次の天皇になるのだから、誰がこれに選ばれるかは重大な事である。なお、この件に関しては、本章末の注をご参照いただきたい。
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国家の政治に関する事は、何事も関東(鎌倉幕府)が決定、天皇のご意向がそれを左右する可能性は一切無し、というのが当時の情勢であったからして、後醍醐天皇としてもいたしかたない。予定を変更し、この皇子に対する元服の義を行わずに、比叡山・延暦寺の梨本円融房(なしもとえんゆうぼう)にお入れになり、承鎮(じょうちん)親王の門弟とされた。

その寺におけるこの皇子の様子はといえば、

延暦寺僧A 一を聞いて十を悟られる、あのご器量は、世にも類(たぐい)まれなるものにして、

延暦寺僧B 真理を把握し、速やかに仏智を得られる、その功徳の花の匂いは、

延暦寺僧C わが比叡の全山に、風に乗って広がっていく

延暦寺僧D 仏の三つの教えが実は不可分にして 一体のものであることを、

延暦寺僧E 明らかに解き明かされる その明晰な理知の輝きは、

延暦寺僧E 冴え渡る月光のように わが延暦寺の上にふりそそぐ

延暦寺僧F いやぁもうほんまに、ありがたい事やないかいなぁ。

延暦寺僧G 消えなんとする法灯をかかげ、

延暦寺僧H 絶えなんとする仏法の命脈を続かしむるのは、

延暦寺僧全員 わがみ寺に、親王殿下をお迎えした、いままさにこの時。

延暦寺の僧全員 (掌をあわせて)あぁ、ありがたや、ありがたや。

このように、比叡山のすべての僧侶たちはこぞって、この親王を仰ぎ奉ったのであった。

四番目の皇子・静尊法親王(せいそんほっしんのう)も、三番目の皇子と母が同じ。こちらのお方は、聖護院(京都市左京区)の二品親王(しょうごいんにほんしんのう)に、弟子としてつけられた。法水(ほっすい)を三井(みい)(注5)の流れに汲み、弥勒菩薩(みろくぼさつ)出現の暁には、我もまた悟りを開いてブッダ(仏陀)とならんと、仏道修行に日夜励まれる。

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(訳者注5)三井寺、すなわち、園城寺(おんじょうじ:滋賀県大津市)。
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この他にも、多くの皇子や皇族に恵まれ、皇室、後宮も整った。

これはどうやら、朝廷が政権を取り戻し、それを末永く保持し、という方向に運がめぐってきたその前兆と、言ってよいのかも。

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訳者注:[持明院統]と[大覚寺統]

後嵯峨天皇の後、後深草天皇、亀山天皇(二人は兄弟)があいついで、天皇位についた。後深草天皇は譲位の後、持明院に、亀山天皇は譲位の後、大覚寺に入られた。これにより、それぞれの子孫を、[持明院統]、[大覚寺統]と呼ぶ。

京都市内の新町通りと上立売通りとの交差点の付近、[光照院]という寺院の前に、[持明院]がそこにあった事を示す石碑が立っている。

新町通りと上立売通りとの交差点から更に西に一筋、新町通りと平行に南北方向に走る道があり、そこを北上した所である。

I01s05g1
光照院の門:2007.2.3撮影 撮影者:訳者

[大覚寺]は、京都市・右京区の嵯峨野に現存しており、桜や紅葉の名所である。

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訳者注:皇太子の選出について

皇太子、すなわち、「後醍醐天皇の次に天皇になるであろう人」の選出については以下のような紆余曲折がある。[後醍醐天皇 森茂暁著 中公新書1521 中央公論社]によれば、以下のごとくである。

文保2年(1318) 後醍醐天皇、天皇位に就任、これと同時に、邦良親王が皇太子位に就任。後醍醐天皇も邦良親王も共に[大覚寺統]であるから、ここで[両統迭立]の原則が破られている。

嘉暦元年(1326) 邦良親王、死去。量仁親王が皇太子位に就任。量仁親王は[持明院統]に所属、後に天皇位に就任(光厳天皇)。ここで再び、[両統迭立]の原則が適用される形となった。

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2017年4月 8日 (土)

太平記 現代語訳 1-4 問題なこの女人(ひと)

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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文保(ぶんぼう)2年(1318)8月3日、太政大臣・後西園寺実兼(のちのさいおんじさねかね)公のご息女・禧子(きし)殿が妃の位につき、弘徽殿(こきでん)に住む身となられた。

この西園寺家は、実に5代にもわたり、女御(妃)を出してきた家である。

それというのも、承久の乱(じょうきゅうのらん)以後、鎌倉幕府・執権(しっけん)の北条氏代々が、西園寺家を、尊び敬まってきたからであり、ご一家の繁栄はいまや、天下の耳目(じもく)を驚かす所となっている。

おそらく陛下も、そのへんの事情(北条家へのウケ狙い)を考慮された上で、妃選びをされたのであろう。

この女人は、齢(よわい)すでに16歳、その様はといえば、

 金鶏(きんけい)の絵柄(えがら)の ついたての下にかしづかれ
 玉をちりばめた御殿の内に 入りたまわば
 春の中に 若桃の花が 悩むような容貌
 枝垂柳(しだれやなぎ)の 風にゆらぐ肢体

超有名美女であるところの、毛(もう)ショウ、西施(せいし)でさえも、この方の前に出たならば、劣等感の故に、恥じて面を伏せ、絳樹(ごうじゅ)、青琴(せいきん)でさえも、この方を一目見た後は、自分の顔を見るのもいやになり、鏡を覆ってしまうのではないだろうか・・・それほどに美しい女人なのである、このお方は。

だが、しかし・・・

「必ずや、陛下はこの方を、この上なく寵愛されるであろうよ」と、誰もが思ったにもかかわらず、意外や意外、この方への陛下の思いは、木の葉よりも薄いものであった。ついに陛下のお側にただの一度も召されることもなく、空しく一生を送られたのであった。

 深宮の中にこもり なかなか暮れてはくれない春の日を嘆き
 秋の夜の長い恨みに 心を沈める
 美麗の宮殿の中 人かげはなく
 燃え残りの灯が こうこうと壁面を照らす
 香炉の香も すでに消え
 しょうしょうと窓を打つ 暗夜の雨の音 
 何を見ても 何を聞いても
 妃殿下の涙を 誘わぬものは無し

 人 生まれて 婦人の身と なることなかれ
 百年の苦楽 他人に因(よ)る

とは、かの白楽天(はくらくてん)の記した言葉、まことにもっともな事と思われてならない。

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このころ、中将・安野公廉(あののきんかど)のご息女で、三位殿の局(さんみどののつぼね)と呼ばれている女官(注1)が、この妃のお側に勤務していたのであったが、陛下はこの女官に一目ぼれされてしまい、特別なご寵愛を受けることとなった。

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(訳者注1)この人が、安野廉子(あののれんし)である。
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 美女三千人分の寵愛 その一身に集まり
 六宮の女人ら 顔色無きがことくなり

三夫人(さんふじん)・九嬪(きゅうひん)・二十七世婦(にじゅうななのせいふ)・八十一女御(はちじゅういちのにょうご)をはじめとする後宮のすべての美女、さらには雅楽寮(ががくりょう)の歌姫・・・彼女らに対して、陛下のみ心が動く事は全く無し・・・ひたすら、廉子オンリーの日々。

この方(廉子)が、かくもすごい寵愛をゲットでき得たその秘密は、いったい何か?

それは、単にそのすばらしい容貌だけではない、陛下のお言葉が出る先に、その機先を制して絶妙のグッドタイミングに繰り出すウィットに富む弁舌、そのような、陛下の心を巧みにとらえる才知をも、この方は兼ね備えていたからである。

かくして、

 花の下の 春の遊び
 月の前の 秋の宴
 ドライブの時には 必ず二人で連れ添い
 旅行すればしたで 天皇を一人占め

この頃より、陛下は朝の政務を放棄してしまわれた。

更には、

後醍醐天皇(ごだいごてんのう) あんなぁ・・・廉子をやな・・・準后(じゅこう)に、してやれや。

閣僚メンバー一同 ハッ・・・ハハァーッ!

これを伝え聞いた世間の人々はいわく、

世間の声A あぁ、なぁるほど、そういう事ですかいなぁ。廉子はんこそが、「事実上の第一夫人」なんですなぁ。

世間の声B それにしても、エライ栄華やないですか、安野家はぁ。

世間の声C こんなんやったら、男の子なんか生まれても、しゃぁないですわなぁ。

世間の声D そうですわ、女の子せいだい作って、宮中に送り込むのが、出世の早道ですわいな。

世間の声A うまいこといって、それが天皇陛下に見そめられでもしたら・・・

世間の声B おジョウはんといっしょに、あんたも玉の輿に、ハイお乗りやすぅですかぁ。

世間の声一同 ワッハッハッ・・・。

かくして、御前の会議においても、細かい訴訟の席においても、「これは、廉子様のお口利きやでぇ」の「ササヤキ」がイッパツ入るだけで、政府高官たちは、何の忠功もない人物にも賞を与え、司法の面々も、非の無い側を非有りとしてしまい、といった状態になってしまった。

かの[論語(ろんご)]にも、キチッと書かれているではないか、

 ミサゴのつがいは
 楽しんでも 楽しみすぎることがない
 哀しんでも 哀しみすぎることがない

詩人は、帝王の后妃たるべき者が当然備えておかねばならない人徳の重要性を、説いたのであったが・・・。

しかしながら、いかんせん、人類の歴史の上に繰り返し繰り返し発生してしまうのが、「城を傾け国を傾ける、美女起因性・国家危機・症候群(注2)」・・・その危機が今にも表面化するのではないかと思われ、実になさけない昨今の世相である。

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(訳者注2)原文では、「傾城傾国の乱」。
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2017年4月 7日 (金)

太平記 現代語訳 1-3 後醍醐天皇、意欲的に改革を指向

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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当時、京都の四方の境界・七道(しちどう)に関所が設定されていた(注1)。その目的は、

(1) 国家の重要禁制を人々に知らしめる。

(2) 非常事態発生に備える。

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(訳者注1)原文では、「それ四境七道の関所は」。[七道]とは、[畿内(きない=首都圏)]の周囲に位置する、[東海道]、[東山道(とうさんどう)]、[北陸道]、[山陽道]、[山陰道]、[南海道]、[西海道]の7つの行政区域。
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう) うーん、そうは言うけどもやでぇ、今や、関所は完全に、形骸化してしもとるやないか。本来の目的はもうどっかへスットンでしもぉてて、やっとるこというたらや、ただただ通行人から独占的に利を貪っとるだけの事やないかぁ。

閣僚メンバー一同 ・・・。

後醍醐天皇 こないな事では、商業の為の人の移動とか、年貢の輸送とか、円滑に行くはずないわなぁ!

閣僚メンバー一同 ・・・。

後醍醐天皇 よぉし、決めたぁ! 大津(おおつ:滋賀県大津市)と葛葉(くずは:大阪府枚方市)だけを残し、新しぃできた他の関所、みんな廃止してまえ!

閣僚メンバー一同 ハハァーッ!

元享二年の夏、大干魃(かんばつ)が国土を襲った。地上の植物はみな枯れてしまい、京都の周囲百里にわたって、見渡す限りの赤土のみ、田圃(たんぼ)の青苗(せいびょう)は全滅、行き倒れた人が巷に満ち、餓死者は地に倒れる。

かくして、この年のモミ米の相場は、[米1斗 : 銭300]のレベルにまで、暴騰してしまった。

この大飢饉の惨状を聞こしめされた天皇は、のたまわく、

後醍醐天皇 あーぁ・・・このわし(私)に、なん(何)か不徳のとこがあるっちゅうんやったらやでぇ、わし一人を、天はわし一人だけを、罰しはったらえぇ(よい)やんか・・・そない思わんかぁ?

閣僚メンバー一同 ・・・。

後醍醐天皇 かわいそうなんは、民やがな。いったいなんで、こないな災害に遭(あ)わんならんねん! 彼らには何の罪もないわなぁ。

閣僚メンバー一同 ・・・。

後醍醐天皇 ようは、わしにはまだまだ帝徳(ていとく)が不足してるっちゅうことやわなぁ・・・ハァー・・・(溜息)。このわしの日常の行いが、天のご意向に背いてるよってに、こないな災害が起こるっちゅうことやろうなぁ・・・ハァー・・・(溜息)。

閣僚メンバー一同 ・・・。

後醍醐天皇 よぉし、わし、あした(明日)から、朝飯抜きや! その分、飢えて苦しんどるもん(者)らに、施してやれ、分かったなぁ!

閣僚メンバー一同 ハハァーッ!

陛下のこのご発意、まことにご立派なことではある。しかしながら、ご飯一人分をいくら施してみても、万民の飢えを助けることには、ならないではないか。

ということで、都庁長官(注2)に対して、

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(訳者注2)原文では、「検非違使の別当」。
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後醍醐天皇 あんなぁ、こんな情報、耳にしたんやが・・・京都の富裕層がな、この大飢饉でいっちょボロモウケしたろと企んでや、米や穀物をたんまりしまい込んどる、と。これ、ほんま(真実)か?

都庁長官 はい、お言葉の通りでおます。

後醍醐天皇 んもぉうー、なんちゅうヤッチャァ! よぉし、それ、ナニガナンデモ市場に流通させるんや! まずは、連中が蓄えとる米穀、即刻洗い出せ!

都庁長官 ハァッ!

後醍醐天皇 次にはと・・・そやなぁ、適当なとこ(所)に米の仮設市場、設置するんや。いったい、どこがええ?

都庁長官 そうですなぁ・・・やっぱし、二条町(にじょうまち:注3)あたりが、ナニカとよろしぃんちゃいますやろかぁ。

後醍醐天皇 よぉし! その仮設市場に連中らの米、残らず出させぃ! ほいでや、オマエがきちっと判断してやな、米の相場、決定してやな、正当な価格で売買させるようにせぇ、分かったなぁ!

都庁長官 ハハァッ!

かくして、米を売る側、買う側、双方ともに利益を得て、「人みな9年の貯えあるがごとき」状態となった。

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(訳者注3)「二条町」とは町名ではなく、(平安京の)[二条大路]と[町小路]の交差する地点付近、という意味である。
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後醍醐天皇 領地関連の訴訟に、一大問題ありやなぁ。

閣僚メンバー一同 ・・・。

後醍醐天皇 当事者間の利害の事実関係とかが、訴訟担当のもんらに、きちっと、伝わってるんやろうか? どうも心もとないぞぉ。

閣僚メンバー一同 ・・・。

後醍醐天皇 よぉし、明日から領地問題裁判所、わしも出席したろ!

閣僚メンバー一同 ・・・。(目を見合わせる)

このように、天皇自ら裁判所へ出御(しゅつぎょ)あそばされ(注4)、訴訟人の訴えを直接聞かれ、事情をよく把握された上で、その理非を明確に、自ら裁決するようになさった。

かくして、その方面の訴訟はたちまち無くなり、刑鞭(けいべん)も朽ち果て(注5)、諫言(かんげん)の合図の鼓(こ)を撃つ人も無し(注6)、という状態になった。

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(訳者注4)原文では、「記録所へ出御成つて」。

(訳者注5)「刑鞭」とは罪人を打つ鞭のこと。ようは、訴訟の件数が激減した、という事を言いたいのであろう。

(訳者注6)「諫言」とは、君主に対して臣下から、「そのような事をやるべきではありません」、「このようにすべきです」等と、(勇を振るって)言う事である。「後醍醐天皇の治世がとても良かったので、誰も諫言する必要が無かった」という事を、言わんとしているのであろう。
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後醍醐天皇のこの政治に関して、私・太平記作者から一言言わしてもらうならば:

まことにもって、治世安民の政治、統治の巧みさという観点からの評価としては、「準聖人レベル」と言ってもよいであろう。

しかしながら・・・おしむらくは、斉(せい)の恒公(かんこう)が用いた[覇道(はどう)]、あるいは、楚(そ)の恭王(きょうおう)の、自国の事しか眼中になかった狭量さ・・・陛下の政治路線にも、そのような傾向が幾分か、あったのではないだろうか。

後の陛下の運命は、天下を併呑(へいどん)して偉大な治世を開始されてはみたものの、闘争の末勝ち得た政権を、文治の力によって維持しえた期間は、たった3年にも満たず、というようなカタチに展開していく。

その運命の変転の真の原因はまさに、この両者、すなわち、覇道への傾斜と狭量さにあったのではと、私には思われてならないのである。

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(訳者注)[二条富小路(にじょうとみのこうじ)内裏]について

この時代、正式な御所(内裏)というものはなく、天皇は貴族の私邸に居住し、そこが朝廷が営まれている場所になった。これを[里内裏]という。後醍醐天皇の[里内裏]は、二条富小路にあった。

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(訳者注)[町小路]について

[町小路]は、現在の[新町通」に相当する。中世の京都においては、この通りが、極めて注目すべき道路であったようだ。

[寺社勢力の中世 伊藤正敏 ちくま新書734 筑摩書房]の39P~41Pに、この通りに関して、いろいろと書かれている。関心がある方は、そこをご参照いただくとよいと思う。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月 6日 (木)

太平記 現代語訳 1-2 後醍醐天皇が即位された当時の時代背景

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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さて・・・

我が国初代帝王・神武天皇(じんむてんのう)より数えること95代目、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)陛下のご治世の時代、武家方(ぶけがた)の家臣に、北条高時(ほうじょうたかとき)という人がいた。

まさにこの時代、一方は[君主]の徳から外れ、他方は[臣下]の礼を失し、と言う他はない。

この時以来、日本国中大いに乱れ、一日として平穏の時を過ごす事もできなくなってしまったのである。

狼煙(ろうえん:注1)天を覆い隠し、鯨波(げいは:注2)地を揺るがすこと、今に至るまで40余年、天寿(てんじゅ)を全うできる者は、地上に一人として存在せず、万民、手足をゆったりと伸ばす所もなし、シビアなることこの上なし、の状態が続いたのである。

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(訳者注1)異変を首都にある政府に告げるための、のろしの煙。

(訳者注2)戦いの際、最初に全員一斉に上げるトキの声。
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その争乱の発端をよくよく考察(こうさつ)してみるに、一朝一夕(いっちょういっせき)にしてこのような事になったわけでは、決してない。

元暦(げんりゃく)年間、鎌倉(かまくら:神奈川県鎌倉市)の右大将・源頼朝(みなもとのよりとも)卿は、平氏(へいし)一門を追討(ついとう)。

後白河上皇(ごしらかわじょうこう)は、その功績を高く評価され、頼朝卿に、日本全国六十六か国の総追補使(そうついぶし)(注3)の職を与えられた。

その時始めて、頼朝率いる鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、諸国に守護(しゅご)を設定、さらに、各荘園(しょうえん)に地頭(ぢとう)を置いた。

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(訳者注3)江戸時代以前の[国]とは、日本全体を一つの国家とみなした[国]ではない。当時の日本の国土と考えるエリアを66個に細分して設定された行政区分が、[国]である。この[国]の名前は、現在も、地名や駅名等に残っている。例えば、[大和郡山市(やまとこおりやま)]、[武蔵小金井駅(むさしこがねい:中央線)]。
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頼朝の後、その長男・源頼家(みなもとのよりいえ)、次男・源実朝(みなもとのさねとも)と、あいついで征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任、これを、[三代将軍]と言う。

しかしながら、頼家は実朝に討たれ、実朝は頼家の子・公暁(くぎょう)に討たれ(注4)、父子三代わずか42年にして、その家系は断絶してしまった。

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(訳者注4)鎌倉市の鶴岡八幡宮の石段の脇に「公暁の隠れイチョウ」という木があった。(2010年に倒壊してしまったようだ。)「公暁はこのイチョウの木の陰に隠れて、石段を下りてくる実朝を待ちかまえておりました」という事のようである。
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その後、頼朝の舅(しゅうと)・北条時政(ほうじょうときまさ)の息子の北条義時(ほうじょうよしとき)が(注5)、時流に乗って超越的(ちょうえつてき)な権力を握るに至り、その勢威は次第に、日本全国に波及(はきゅう)していった。

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(訳者注5)北条政子が頼朝の妻、時政は政子の父、義時は政子の弟である。
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当時の朝廷側の最高権力者は、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)であった。

鎌倉幕府の権威に日本中が圧倒され、朝廷の威信が日に日に崩壊していく事を上皇は悲嘆、ついに、「打倒・北条義時!」を思い立たれた。

かくして、[承久の乱(じょうきゅうのらん)]が勃発(ぼっぱつ)、天下は寸時も静まることなく、軍旗の数おびたたしく太陽をも覆わんばかり、ついに、朝廷側と幕府側は、宇治・瀬田(せた:滋賀県大津市)にて、相い見(まみ)える事となった。

しかしながら、たった一日で戦いの決着がついてしまい、朝廷側はあえなく敗北。

戦後処理の結果、後鳥羽上皇は、隠岐島(おきとう:島根県)に島流しとなり、北条義時の権力はますます増大、天下八方をわが掌(たなごころ)に握り、という状態となった。

それより後、泰時(やすとき)、時氏(ときうじ)、経時(つねとき)、時頼(ときより)、時宗(ときむね)、貞時(さだとき)と相次いで北条家7代に渡り、わが国の政権を武家が握り続けるところとなった。

彼らの良き治世(ちせい)の徳により、人民は困窮(こんきゅう)を免れることができた。

また、その権力は万人の上に及ぶとはいいながらも、自らの官位を四位より上に超えせしめることもなく、彼らは謙虚なスタンスの中に、民に仁恩(じんおん)を施し、己(おのれ)を厳しく見省りつつ、礼儀を正しくしていった。

まさに、「高しといえども危うからず、満てりといえども溢(あふ)れず」とも言うべき、実に立派な治世の連続であった。

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承久以降、鎌倉幕府は、天皇家あるいは藤原氏の五摂家(ごせっけ)(注6)の中から、政治のリーダーの任に足るべき器(うつわ)を持つ人物を選出して征夷大将軍に就任させ、それを鎌倉へ迎え、臣下の礼をとることとした。

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(訳者注6)摂政・関白を出すことができる血筋、すなわち、近衛、九条、一条、二条、鷹司の五家。
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承久3年に始めて、北条氏から選出の担当2人を京都に派遣、「両六波羅(りょうろくはら)」と称して(注7)、首都圏と中国地方の行政、および、京都の治安維持を行わせた。

また、永仁(えいにん)元年からは、九州地方に一人の行政長官を派遣して、その地方の政務全般と対外防衛を担当させるようにした。(注8)

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(訳者注7)[南]と[北]をあわせて「両六波羅」と称していた。以降の翻訳においてはこれを、「六波羅庁長官」と表現している。

(訳者注8)以降の翻訳においてはこれを、「九州庁長官」と表現している。
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このような諸々の政策の結果、日本全国ことごとく幕府の命に従い、その権威は、海外の人々までをも感服せしめるに至ったのである。

 「朝日輝けば、残星、光を奪わるる習い」

幕府側としてもあえて、朝廷をないがしろにしようという意図は無かったのだが・・・結果としては、局地的観点から言えば、「荘園においては、地頭強・荘園領主弱状態」、地方行政レベルの観点から見れば、「国においては、守護重・国司(こくし)軽」の状態となってしまった・・・まさに、朝廷は年々に衰え、幕府は日々に盛ん、という世の流れ。(注9)

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(訳者注9)守護と地頭は鎌倉幕府が任命する。一方、国司は朝廷が任命するし、荘園領主は一般には公家や社寺である。このように局地的に見ても地方レベルでみても、一つの地域の中に権力が2個存在するという状態なのだから、両者の利害対立は必至であろう。
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このような情勢であったがゆえに、歴代の英明なる天皇陛下は、

天皇A (内心)過去に思い馳せれば・・・

天皇B (内心)あの、承久の乱の後の、帝王方の、おん(御)恨みを・・・

天皇C (内心)なんとかして、晴らしてさしあげたいもんやなぁ・・・

天皇D (内心)現在の世の姿を見るにつけても・・・

天皇E (内心)朝廷の権威は、崩壊の一途をたどってるやないか

天皇F (内心)あぁ、なんとかせんと、いかん、なんとかせんと・・・

天皇G (内心)なんとかして、あの東方の蛮族どもめ(注10)を、やっつけてしまいたいもんやなぁ!

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(訳者注10)原文では、「東夷」。幕府の事をこのように表現しているのである。鎌倉は京都の東にあるので。
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この思い、歴代の天皇の心中に常にわだかまっていたのである。しかしながら、朝廷側は微力ゆえそれもかなわず、あるいは時節いまだ到来せずして、ただただ沈黙を守る他はなかった。

ところが・・・

北条時政から数えて9代目、北条高時(ほうじょうたかとき)入道の代に至って、「天地の命(めい)を革(あらた)むべき(=革命)」危ういきざしが顕れている。

過去の歴史上の人物のふるまいと、現在の北条高時の姿とを、じっくりと対照比較してみるに、その行状、はなはだ軽はずみな所あり。

人の嘲りをも顧みず、その政道は不正にして、人民の疲弊(ひへい)を思いやることもなし、日夜、放埓(ほうらつ)な遊興にただふけるのみ。このような事では、北条家の祖先たちの偉光(いこう)も、はなはだしく傷ついてしまうではないか。

朝な夕な、珍奇(ちんき)な物を弄(もてあそ)び、今にも国を傾け、世を廃(すた)れさせてしまわんばかりの状態・・・衛(えい)の懿公(いこう)、鶴を載せし楽しみもはや尽き、秦(しん)の李斯(りし)が犬を牽きし恨み、今や来たりなんとす・・・彼の行状を見る人は、眉をひそめて批判し、彼の言動を聴く人は、唇をひるがえしてそれを誹(そし)る。

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時の帝・後醍醐天皇(ごだいごてんのう)陛下は、後宇多上皇(ごうだじょうこう)陛下の第2皇子、その御母堂(ごぼどう)は、談天門院(だんてんもんいん)・藤原忠子殿。

北条高時の根回しにより、おん年31歳の時に、天皇に即位された。

天皇は、私生活においては、君臣・父子・夫婦の三道と、仁義礼智信(じんぎれいちしん)の五徳を正し、周公(しゅうこう)・孔子(こうし)の教えのままに生きられた。

公(おおやけ)においては、政務全般怠りなく務められた。延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)年間の醍醐(だいご)・村上(むらかみ)両帝の政治を理想に掲げ、その再現を自らの目標とされた。

日本国中がその政治姿勢を仰ぎ見て悦びをおぼえ、万民が陛下の徳の翼の下に楽を得た。廃れてしまった諸事を再興し、一つの善行に対しても、これを賞せられた。

かくして、伝統的な寺社、禅宗、律宗、大いに繁栄、顕密(けんみつ)・儒教(じゅきょう)の大学者たちもみな、望みを達成した。

世間の声L ほんまに、今の天皇陛下、立派な方どすわなぁ。

世間の声M 言えてるぅ・・・まさに、「天から徳を授けられた、聖なる王者」とでも言うべき、お方じゃぁん?

世間の声N まっこと、「地上の全てからあがめ奉られる名君」と言うても、よかとよねぇ。

世間の声O げに(実に)、高ぁい仁徳を持たれたお方じゃけぇのぉ。

世間の声N こないにすばらしい天皇陛下を、お上(かみ)にいただいてるやなんて・・・わしは日本人に生まれてきて、ほんまよかったと思ぉとりますぅ・・・ハイィー。

世間の声P 日本の誇りだわねぇー。

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(訳者注)

御醍醐帝は、1288年に誕生し、1318年に、天皇に即位した。

1318年の世界の情勢を概観すると、以下のようになる。

朝鮮半島:高麗王朝の宣宗の統治下にある。イ・ソンゲ(李成桂:後に李氏朝鮮を興す)は、まだこの世に生を受けていない。

中国:元王朝の大ハーン・アユルバルワダの統治下にある。

中央アジアには、チャガタイ・ハン国、西アジアには、イル・ハン国。

ヨ-ロッパには、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、神聖ローマ帝国あり。フランスには、カペー朝の国王あり。

イタリアには、ダンテ・アリギエーリ、フランチェスコ・ペトラルカあり。

ローマには、ローマ教皇がいない。教皇ヨハネス22世は、アヴイニョン(フランス)にあり。いわゆる「アヴイニョン捕囚」の期間中。

 アヴイニョンの橋の上で 踊るよ、踊るよ

の歌にある、あの「アヴイニョン」である。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年4月 5日 (水)

太平記 現代語訳 1-1 はじめに

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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我々が生きているこの社会というものは、常に、安定と混乱の間を行ったり来たりしている。そして、この変化は決して止まることがない。

いったいなぜこのように、社会は変化し続けるのであろうか?

私、すなわち、この[太平記]の作者は、その原因を突き止めてみようと思い、日本の歴史上に起こった古今(ここん)の様々な出来事をもとにして、深く考えをめぐらしてみた。

考察(こうさつ)の結果、社会変化の二つの重要な要素が浮上してきた。

その第一が[君主]である。

全ての民が仰ぎみる存在である[君主]が、いったいどのような政治姿勢でもって、その社会を治めているのか、これが極めて重要なポイントなのである。

地上のすべてを覆い尽くす[天]は、実に広大な徳を持っているといえよう。

 「自らもまた、あの天のようにありたいものである!」

名君というものは常にこのように、高い理想をいだいてやまない、その結果、社会に安定がもたらされていくのだ。

そして、第二に、[臣下]である。

[君主]の下にあってそれを支えていく[臣下]の姿、これもまた重要な要素なのである。

[天]を支える[大地]・・・[大地]は全ての存在を自らの上に載(の)せ、一物(いちぶつ)たりとも捨てる事がない。

その大地の姿に倣(なら)い、国家を万全に守りゆく、良き臣下・・・まさに、社会にとっては、「無くてはならない存在」であるといえよう。

[君主]の地位にあろうとも、徳に欠けているならば、その権力を保持していく事は不可能である。

古代中国・夏(か)王朝の暴君・桀(けつ)は、南巣(なんそう)の地に逃走して滅び、殷(いん)王朝の紂(ちゅう)王は、牧野(ぼくや)において敗北し滅んだではないか。

[臣下]の地位にあろうとも、道(みち)を違えているならば、いかなる威勢を持っていようとも、それは長続きするものではない。

古代中国・秦(しん)王朝の権臣・趙高(ちょうこう)は、咸陽(かんよう)において処刑され、唐(とう)王朝の安祿山(あんろくざん)は、鳳翔(ほうしょう)において、滅んだ。

このような数々の歴史的教訓を踏まえた上で、昔(いにしえ)の聖人たちはつつしんで、人が守るべき道を、将来の世代のために、説き残してくれたのである。後世に生きる我々は、彼らが残してくれたその戒めをよくよく思慮しつつ、過去の歴史の教訓を、この現代により良く生かしていくようにと、心すべきであろう。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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