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2017年5月

2017年5月31日 (水)

新作動画の発表 [妻籠 中山道]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、 

  [Tsumago Nakasendou Japan]

  信州の中山道のかつての宿場町・妻籠で撮影したものです。

自作の曲:

 [過去にあったことを想い出している 作品10] ( "I remember that it happened for a past, Op.10")

を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

  ("runningWaterX" は、私のペンネームです。)
撮影地:長野県 妻籠
撮影時:2016年6月
映像撮影・制作:runningWaterX
バックグラウンド音楽
 作品名:過去にあったことを想い出している, Op.10
 作曲・制作者:runningWaterX
  (コンピューターを使用して制作しました)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/xfxcPvmbqZ4
です。

私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

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新作動画の発表 [馬籠 中山道]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、 

  [Magome Nakasendou Japan]

 中山道のかつての宿場町・馬籠で撮影したものです。

自作の曲:

 [過去にあったことを想い出している 作品10] ( "I remember that it happened for a past, Op.10")(エレクトリック・ピアノ・バージョン)

を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

  ("runningWaterX" は、私のペンネームです。)
撮影地:岐阜県 馬籠
撮影時:2016年6月
映像撮影・制作:runningWaterX
バックグラウンド音楽
 作品名:過去にあったことを想い出している, Op.10
 作曲・制作者:runningWaterX
  (コンピューターを使用して制作しました)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/LFzoYHt8P8U
です。

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2017年5月30日 (火)

信州 おもいで 馬籠 2016年 6月

先日アップした下記コンテンツにおいて

信州 おもいで 妻籠  2016年 6月

信州の妻籠に行ったことを述べましたが、その日、妻籠からバスに乗り、峠を越えて、馬籠へ行きました。

2005年2月に、馬籠は、長野県内の地域ではなくなりました。県境を越えて、岐阜県・中津川市に編入されたのです。

私は、青年時代のある時期、信州の中の地に住んでいました。その頃は、島崎藤村が生まれた馬籠は、信州の中の地域であり、藤村は信州の人でした。なので、このコンテンツの題名に、[信州 おもいで」の文字を入れました。

妻籠からバスに乗り、馬籠へ。

馬籠宿付近においては、旧・中山道は山の尾根を行く坂道となっていて、その道の両側に宿場町ができたのだそうです。

馬籠宿下入り口から「車屋坂」を上っていくと、[桝型]と呼ばれる場所があり、そこに、水力発電を行っている施設がありました。

P1
P01

P2 水力発電を行っている施設から、坂を少し上がった場所で、坂下の方を撮影。
P02

P3 藤村記念館の前で撮影。藤村記念館は、島崎藤村の生家の跡で、馬籠宿本陣の跡でもあります。
P03

P4 藤村記念館付近で撮影。
P04

P5
P05

P6 坂の上の方にある高札場の付近で撮影。
P06

P7 更に坂を登ると、この場所に至ります。
P07

P8 この場所と、妻籠、馬籠の位置関係が表示されています。
P08

P9 旧・中山道はこの場所から更に先へ続いています。徒歩で妻籠へ行く人は、この道を更に先へ進んでいくのでしょうか。
P09

P10 P7にある場所の近くに、展望広場がありました。
P10

P11 展望広場で撮影
P11

下記の動画には、展望広場で撮影した山の景観シーンや、宿場内の坂道の途中で撮影したシーン、回っている水車のシーン、ツバメの子育てシーン等も、含まれています。よろしければ、ご覧ください。

上記の動画のバックグラウンド・ミュージックに使用した曲(自作)は、

 [過去にあったことを想い出している 作品10] ( "I remember that it happened for a past, Op.10")(エレクトリック・ピアノ・バージョン)

です。

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上記の[展望広場」とは別に、[新茶屋展望台]という場所もあるようです。正岡子規の句碑がある所だとのことです。「信州サンセットポイント100選」に選ばれている場所なのだそうです。

残念ながら、帰路の列車の関係で、サンセットを見れる時刻まで馬籠にいることができませんでした。

馬籠からはバスで、JR中津川駅へ。

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現在の馬籠の景観がかたちづくられてきた経緯については、[馬籠観光協会]のホームページ中の、[馬籠の歴史と観光開発の概要]に、詳細に述べられています。

そこに書かれている事をもとに、以下のように考えました。

馬籠の3時代:[先・藤村期]、[藤村・前期]、[藤村・後期]

(1)先・藤村期

江戸時代の中山道の宿場町・馬籠は、明治時代以降の国道と鉄道の敷設により、宿場町として機能しえなくなってしまい、経済的苦境に陥りました。

馬籠と、峠の向こうにある妻籠、共に、このような状態の中からの再生を遂げたのでしたが、両者の間には決定的な違いがありました。建物です。

1895年と1915年の火災により、馬籠の古い町並みの建物のすべてが、焼失してしまっていたのです。

だから、馬籠は、妻籠と同じような再生の方向(宿場町としての町並みを観光に活用)へ進むことができませんでした。

(2)藤村・前期

しかし、馬籠には、人々を引きつける強力な要素がありました。[島崎藤村が生まれた地]、という要素が。

[藤村記念館]のホームページ中の、[藤村記念館の概要]の記述によれば、

 島崎藤村の生家(馬籠宿の本陣であった)は1895年の火災で、そのほとんどが焼失。(藤村の祖父母の隠居所だけが焼失をまぬがれ、藤村記念館の敷地内に現存)。
 1947年に、地元住民の意志により、谷口吉郎氏の設計になる、藤村記念堂が建てられ、その後、様々な拡充を経て、現在に至る。

[馬籠観光協会]のホームページ中の、[馬籠の歴史と観光開発の概要]に、この[藤村記念館]の入館者数の推移データがあるのですが、1965年から1975年の間の、入館者数の増加が、すごいのです。上記ページから下記に引用させていただきます。

 1965年(昭和40年) 49825人
 1970年(昭和45年)145072人
 1975年(昭和50年)401081人

まさに、[驚異的増の10年]。

この入館者数の急増に関係するものとして、2つの要素が考えられます。

(2-1)文学全集

[文学全集の黄金時代]ともいうべき時期があったのだそうです。様々な出版社から、[XX日本文学全集]、[YY世界文学全集]が出版された時代、それが、1960年代です。上記の[驚異的増の10年]の前半部に重なっています。

これは、日本の高度経済成長が始ってから10年くらい経過し、経済的余裕を得た人の数が増えてきた時期に当たります。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があるようですが、「衣食足りて芸術を知る」とも言っていいでしょう。

様々な文芸方面の知見を短期間で獲得したい(文学青年というようなレベルまでは行かなくとも)、と思う人の数が増えていた、そのような時代であったのでしょう。そのようなニーズに応えたのが、文学全集だったのでしょう。

文学全集や文庫本で島崎藤村の作品を読み、感動した人々が、彼の生誕の地を訪問したい、と思うようになるのは、自然な流れであったろうと思います。

(2-2)アンノン族

[アンノン族]の語源は、[an・an(アンアン)] と [non-no(ノンノ)]。いずれも、若い(当時の)女性を主ターゲットとした雑誌です。

これらの雑誌の旅行特集を見た多くの読者が、国内の様々な場所へ旅するようになり、馬籠と妻籠もその訪問先になりました。

[an・an(アンアン)]の創刊が、1970年、[non-no(ノンノ)]の創刊が1971年、[驚異的増の10年]の中間時期に位置しています。

(3)[藤村・後期]

[馬籠観光協会]のホームページ中の、[馬籠の歴史と観光開発の概要]に、下記のように書かれています。

 「馬籠という「良好な自然環境」を観光資源としている観光地にとって、環境破壊や俗化は命取りだった。しかし受け入れ態勢を急いだ結果、1970年(昭和45年)頃から馬籠は俗化が急速に進行しはじめた。」

 「環境破壊の元凶が破壊を最も恐れているはずの業者であったことは皮肉であった。この頃さらに悪いことが重なった。「馬籠」という著名な観光地の人気に魅せられて、郡内や県内から進出を窺う業者が次々に現れたことである。土地ブローカーが土地の買収に乗り込んできた。農地が売り渡され、外部からの企業の進出が表面化してきた。」

 人が集まる所には、お金が落ちる、お金が落ちる所には、人が集まる(落ちるお金を獲得しようとする人々が)。

経済の基本的原理、ともいうべきでしょうか。

その地に、それまで集まってきていた人々とは異質の人々が、異質の感覚・論理・倫理・コンセプトを持って、新たに集まってくるようになる、そこから様々な問題が生じてしまうのでありましょう。

この問題に対処する手段としては、(妻籠と同様に)、[住民の結束]しかなかったようです。

その詳細について関心をお持ちの方は、[馬籠観光協会]のホームページ中の、[馬籠の歴史と観光開発の概要]をご参照ください。

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 「木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた。」

島崎藤村の『夜明け前』の冒頭部分です。

このイメージを持って、初めて馬籠を訪れた私は、それと現実の馬籠の景観との間に、違和感を覚えました。

馬籠は山の中である、というような感じがしないのです。むしろ、何か開けている、開放感があるような景観、というように感じました。

この日、妻籠と馬籠を訪れたのでしたが、妻籠の方では、[山の中である]感を持ちました。

妻籠と馬籠の景観イメージのこの違いは、[地形]で説明がつくと思います。

[地理院地図]を使って、妻籠と馬籠の地形を調べてみれば、妻籠を通る旧中山道は谷間を行く道であり、馬籠を通る旧中山道は尾根の上を行く道であることが分かります。尾根の上から眺める景観は、[開けている感]があります。

馬籠の景観の魅力の源泉は、坂道(この尾根を行く旧中山道の)であろうと思います。

坂道というものは、多くの人を魅了するものを持っているようでして、様々な坂道がその地の有名な観光スポットになっています。例えば、

 オランダ坂(長崎市)
 トアロード、北野坂、ハンター坂(神戸市)
 二年坂、三年坂(京都市)

[坂]に加えて更に、[峠]という魅力的な要素が、馬籠にはあります。

馬籠---馬籠峠---妻籠(旧中山道経由)のルートは、外国人の方々にも人気があるハイキングコースなのだそうです。

[峠越え]は、一つの世界から異世界へ至る行為です。このような行為に、多くの人の心がひかれるのであろうと思います。江戸時代の中山道の旅を追体験できる、という魅力もあるでしょう。

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 まだあげ初(そ)めし前髪(まへがみ)の
 林檎(りんご)のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛(はなぐし)の
 花ある君と思ひけり

島崎藤村の『初恋』という詩の冒頭部分です。

 小諸なる古城のほとり 
 雲白く遊子(いうし)悲しむ

これも藤村の詩の冒頭部分です。(千曲川旅情の歌)

 名も知らぬ遠き島より
 流れ寄る椰子の實一つ
 故郷(ふるさと)の岸を離れて
 汝(なれ)はそも波に幾月

これも藤村の詩の冒頭部分です。(椰子の實)

その後、彼の創作対象は詩から小説へ転じ、『破戒』、『春』、『夜明け前』等の小説が産み出されました。

2005年2月に、[信州の人・藤村]は[岐阜県の人・藤村]に、チェンジしました。

それまでは、馬籠は、長野県・山口村の中の地域であったのですが、2005年2月に、山口村が県境を越えて、岐阜県・中津川市に編入されたのです。

(旧)山口村の地域は、過去には美濃国に所属していた時期もあったようです。

[馬籠観光協会]
[馬籠観光協会 馬籠の歴史と観光開発の概要]
[藤村記念館 馬籠]
[馬籠 皇女和宮降嫁行列]
[地理院地図]
[アンノン族 馬籠]
[妻籠 脇本陣 島崎藤村 初恋]
[青空文庫 島崎藤村]

でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

2017年5月28日 (日)

信州 おもいで 妻籠 2016年 6月

5月の末から6月に移り変わる季節になると、昨年の信州での事が思いおこされます。

2016年6月に、妻籠(つまご:長野県・木曽郡・南木曽町)に行きました。

妻籠には、かつての中山道の宿場町の景観が奇跡的に保存されています。私が撮影した画像を交えながら、その時のことを書かせていただきます。

当日は、京都から新幹線で名古屋へ、そこから、JR中央線で、南木曽駅へ。そこから、タクシーで、妻籠へ。

P1 タクシーから下車し、そこから徒歩で、この道を中山道のある方向へ。
P01

P2 宿場町の景観が、前方に見えてきました。
P02

P3 宿場町の街道を歩くと、[高札場]がありました。
P03

P4 水車が回っていました。
P04

水車の種類を表す用語としては、[上掛水車]、[胸掛水車]、[中掛水車]、[腰掛水車]、[下掛水車]等があるようです。この水車は、車に水が注がれる位置から見て、おそらく、[中掛水車]に分類されるものと思われます。

[水車 上掛け]等でネット検索すれば、関連する情報を得られるかもしれません。

P5 鯉岩
P05

P6
P06

P7 かつて[脇本陣]であった所。
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P8 [脇本陣奥谷]の庭です。
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[脇本陣奥谷]の中で、ガイドの方から興味深い様々なお話を聞くことができました。

ここの建物は明治10年(1877)に建てられたものなのだそうです。島崎藤村の初恋の人・ゆふさんは、ここへ嫁がれたのだそうです。

P9 昼食を、この店(吉村屋)で食べました。画像P9, P10, P11, P12, P13 は、吉村屋さんよりの承諾を得て、撮影・掲載しています。
P09

P10
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P11 店内から外を撮影
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P12 左上にあるのが、[朴葉寿司]というものであったかと記憶しています。私の記憶が間違っていたらすみません。
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P13 開田高原(長野県・木曽郡・木曽町)で栽培されているソバが使用されているのだそうです。
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昼食の後、再び、中山道へ

P14
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P15 ギンモクセイの木がありました。
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P17
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P18
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P19 この店(澤田屋 妻籠店)で菓子を買い、店の前のベンチに座って食べました
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妻籠宿の中を通る中山道の路面はほぼ、舗装されているようでしたが、[桝形の跡]の所は、土のままだったので、そこでしばし、江戸時代の街道と宿場町の風景を想像してみました。

下記の動画には、その舗装されていない場所、すなわち、[桝形の跡]で撮影したシーンも含まれています。[脇本陣奥谷]の屋内の[囲炉]を撮影したシーンもあります。よろしければ、ご覧ください。

上記の動画のバックグラウンド・ミュージックに使用した曲(自作)は、

[過去にあったことを想い出している 作品10] ( "I remember that it happened for a past, Op.10")

です。

私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

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江戸時代の宿場町の景観が今もそこにあるとは、驚くべき事ではないでしょうか。

このような事がいかにして可能となったのか? ネット上の様々な情報を調べてみました。

その時々の流れの行くがままにまかせていたら、このような景観になった、というような事ではないようです。様々な内的要因、外的要因が組み合わさった結果、現在の妻籠の景観が存在しているようです。

(1)内的要因:念

妻籠の現状からは想像もできないことなのですが、高度経済成長の時代、妻籠は、今でいう[限界集落]になりかかっていたのだそうです。

明治時代に、木曽地方に国道と鉄道が敷設された結果、妻籠は宿場町として機能しえなくなってしまいました。

[公益財団法人妻籠を愛する会]のホームページ中の、[発起人インタビュー「限界集落からの再生。 妻籠宿、半世紀の歴史」]には、以下のような記述があります。

 「未来の希望が見えない集落に見切りをつけ、東京や名古屋へと旅立つ若者たち。ふるさとに未練を残しながらも妻籠をあとにする家族たち。砂山が崩れていくように、急激に進む高齢化と過疎。」

そのような中、この地の人々の心中には「なんとかして、妻籠を再生させたい」との強い念(おも)いがありました。

その[念]が、妻籠の外に存在する様々なパワーを呼び寄せたのでした。

(2)外的要因:バワー

(2-1)長野県庁・パワー

長野県の[明治百年記念事業]により、1968年に妻籠宿保存事業が実施され、宿場町の街並みが整備されました。

(2-2)アンノン族・パワー

[アンノン族](最近、あまり耳にしなくなった言葉ですが。)、その語源は、[an・an(アンアン)] と [non-no(ノンノ)]。いずれも、若い(当時の)女性を主ターゲットとした雑誌です。

これらの雑誌の旅行特集を見た多くの読者が、国内の様々な場所へ旅するようになり、妻籠もその訪問先になりました。

[an・an(アンアン)]と[non-no(ノンノ)]が世に出されたタイミングが、上記の妻籠宿保存事業が実施された時期と、うまいぐあいに重なったのでした。

(2-3)地球規模・パワー

いまや、妻籠は、国際的観光地になっているようです。

[公益財団法人妻籠を愛する会]のホームページ中の、[妻籠を愛する会について]に、以下のような記述があります。

 「また昨今は、海外からの旅行客が非常に多くなり、妻籠宿は国際観光地となりました。」

 「馬籠峠を越える外国人は6千人超。妻籠宿を訪れる外国人の国籍は北米、オセアニア、ヨーロッパを中心に約52ヶ国から訪れます。」

 「彼らからの評価は、Wonderful・Beautiful・Good です。」

 「そして、馬籠峠手前にある一石栃立場茶屋の無料休憩所は、おもてなしで出されたお茶を飲みながらの国際交流の場となっています。」

 「この雰囲気が、地球上の何処でも行われ、平和な地球であり続けばと思います。」

(3)内部の結束

[妻籠宿を守る住民憲章]というものが制定されています。

 「売らない」「貸さない」「こわさない」の三原則

上記の他にも、広告、看板、ポスターに関する事、建物の色彩に関する事、旅館、民宿、土産店等の閉店時刻など、様々な事柄がきめ細かく決められています。

すごいなぁ、と思います。ここまで徹底していかないと、妻籠の美しい景観と雰囲気を守っていくことはできないのでしょうね。

江戸時代、中山道を旅する人々は、ここ、妻籠宿で、身体を休めました。

そして現代、妻籠は、そこを訪れる人々の、心を休める場所になっていると、私には思われます。

[公益財団法人妻籠を愛する会]
[明治百年記念事業 妻籠]
[妻籠宿を守る住民憲章]
[妻籠 文化文政風俗絵巻之行列]
[アンノン族 妻籠]
[妻籠 脇本陣 島崎藤村 初恋]
[妻籠 歴史資料館]

でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

2017年5月26日 (金)

太平記 現代語訳 4-7 児島高徳、謎のメッセージを後醍醐先帝に送る

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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その頃、備前国(岡山県東部)に、児島高徳(こじまたかのり)という人がいた。

先帝が笠置(かさぎ)にたてこもられた時に、彼は先帝側について挙兵した。しかし、「事ならずして、笠置は陥落、楠正成(くすのきまさしげ)も自害」と聞き、力を失って黙然としていた。

「先帝が隠岐へ流される」との情報に、彼は信頼できる一族の者たちを集めて、アジテーションを行った。

児島高徳 「仁の道に志す人間」というもんは、自分の命を助ける為に仁の道を曲げる、なんてことはせん、むしろ、仁の為やったら自分の命捧げていくものである、と、言われてるわなぁ。

児島高徳 じゃけん、昔の中国、衛(えい)国の懿公(いこう)いう君主が北方民族に殺害された時にな、その臣下の弘演(こうえん)いう人物は、主君の屈辱を見るに忍びず、自分の腹をかっさばいて、懿公の肝をその中に収め、主君の恩に報いて命終わった、いうで。

児島高徳 「義を見て為さざるは勇無し」言うんやで。なぁ、みんな! 隠岐島行きの護送軍団の道中を襲って、先帝陛下を奪還し、天皇軍を旗揚げしようや! たとえ我らの屍を戦場に曝(さら)す事になろうとも、名を子孫に残そうや!

児島グループ一同 よぉし!

児島高徳 では、道中の難所で待ち構えて、護送軍団のすきを、うかがうとするか。

そこで、備前国(びぜんこく:岡山県東部)と播磨国(はりまこく:兵庫県西部)との境の舟坂山(ふなさかやま)に潜伏し、軍団の到着を、今か今かと待った。

しかし・・・。

児島高徳 おかしいのぉ・・・いつまで待っても、護送の軍団は来(こ)んがの。

斥候(せっこう)を送って調査させたところ、護送軍団は、山陽道(さんようどう)ではなく、播磨の今宿(いまじゅく:兵庫県・姫路市)から山陰道(さんいんどう)へと転じて、進んでいた。

児島高徳 あぁ、計画通りには行かんもんじゃのぉ・・・。

児島高徳 よし、ならば、美作国の杉坂(すぎさか)で待ちかまえるとしよ。あこならば山深い所じゃけん、好都合じゃ!

ということで、三石山(みついしやま:岡山県・備前市)から斜め方向に、道もない山中を雲を踏み分けて強行軍で越え、杉坂に到着。

ところが・・・。

児島高徳 ナニィ! 護送軍団はすでにここを通過してもぉて、院庄(いんのしょう:岡山県津山市)まで、行ってしもとるってか!

ついにみな、気力喪失してしまい、児島グループは散りじりになってしまった。

児島高徳 こうなったら、せめて、わしの陛下奪還の志だけでも、先帝陛下にお伝えしたい!

彼は変装して単身、護送軍団の行く先々に潜行し、機会をうかがった。

しかし、護送軍団側には一分のすきもない。

仕方なく彼は、先帝が宿泊しておられる宿の庭先にあった桜の大木の幹を削り、そこに、大きな文字で一句の漢詩を書いた。

 天よ なにとぞ 勾踐(こうせん)を お見捨てなく
 そのうち 范蠡(はんれい)が 現れないとも 限りませんぞ

  (原文)天 勾踐を 空しうすること 莫(なか)れ 時に 范蠡 無きにしも 非(あら)ず

翌朝、これを見つけた警護の武士たちは、

武士A いったい、なんだい、こりゃ?

武士B どこの誰だ? こんなの書いたの。

武士C この漢詩、いったいどういう意味だい? 分かんねぇなぁ。

武士たちは、その状況をありのままに先帝に申し上げた。

先帝は、児島高徳のその漢詩に込めた思いを即座に理解され、

先帝 ・・・。(ニッコリ)

武士たち一同 ・・・??(互いに顔を見合わせる)

結局その一件、彼らには何がなんだかさっぱり分からないままに、終わってしまった。

--------

児島高徳のこのメッセージに込められた意味を、ここで少し解説してみたいと思う。

古代中国・春秋時代、[呉(ご)]と[越(えつ)]、二つの国があった(注1)。

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(訳者注1)「呉越同舟」の語源。
--------

両国ともに、その君主は王道(おうどう)を指向せず、もっぱら覇道(はどう)を追求していた。

呉は越を討って取らんとし、越もまた呉を滅ぼして併合せんとしていた。互いに相い争うこと累年におよび、こちらが勝ったりあちらが勝ったり、互いに親の敵(かたき)となり、子の仇(あだ)となって、ついに両国は不倶戴天(ふぐたいてん)の関係になってしまった。

時は周王朝の末期、両国の君主は、[呉王・夫差(ふさ)]と、[越王・勾踐(こうせん)]。

ある時、勾踐は、大臣・范蠡を呼んでいわく、

勾踐 范蠡よ、わが国にとっては、かの呉国は、父祖代々の敵なるぞ。わしが、かの国を討たずして徒らに年を送っているのを見て、天下の人士はわしの事を、あざ笑ぉておるであろうのぉ。いや、それのみならず、わがご先祖様も、草場の蔭で泣いておられることであろうて。

勾踐 よって、今ここに、大々的なる兵力動員を行い、大軍を編成、わし自ら、軍を率いて呉国へ進軍し、呉王を滅ぼして父祖の恨みを晴らさんと、決意した。なんじは暫くこのまま、越国にとどまり、わしの留守を守れぃ!

范蠡 殿ォ! なりませぬ、それはなりませぬぞ!

勾踐 ナニィッ!

范蠡 私めが考えまするに、現在のわが国の国力をもってしては、呉国を打倒することは、極めて困難でありまする。その理由を、順を追ってこれよりご説明いたしまする。

勾踐 ・・・。

范蠡 理由その1:彼我の兵力比較。呉は、20万騎超、かたやわが国は、10万騎。小勢をもって大勢を滅ぼすは不可能なり。

勾踐 ・・・。(苦虫)

范蠡 理由その2:時節の良否。春と夏は「陽の時」にて、「賞」を行うべき時、秋と冬は「陰の時」にて、「罰」を行うべき時。今は春の初めでありますれば、功労ありし者に賞を与えるべき時にして、遠征に動員すべき時節にはあらず。

勾踐 ・・・。(イライラ)

范蠡 理由その3:賢者の存在。賢人が要職にある時、その国は強ぉござりまする。聞くところによりますれば、呉王・夫差の下には、[伍子胥(ごししょ)]なる者がおるとか。その智は深くして、人々からの信頼もあつく、深く思慮して主君に対して諫言をなすとか。伍子胥が呉国におる間は、かの国を滅ぼす事は困難でありましょうぞ。

勾踐 ・・・。(怒気ムラムラ)

范蠡 「麒麟(きりん)は角に肉有りて猛(たけ)き形を顕(あら)わさず」、「潜龍(せんりゅう)は三冬(さんとう)に蟄(ちつ)して一陽来復(いちようらいふく)の天を待つ」との言葉もござりまする。殿が、呉と越を合わせて支配し、ゆくゆくは中原の覇者たらんとのお思いあらば、ここはしばらくじっと我慢なされ、兵を伏せて武力を隠し、好機の到来をお待ちになられるのがよろしぅござりまする!

勾踐 えぇい、ふざけるなァ!

范蠡 ・・・。

勾踐 『礼記(らいき)』という書物にはの、「父の敵とは共に天を戴(いただ)かず」とあるぞ! わしももうすでに壮年、しかるに、未だに呉国を滅ぼすこともかなわず、にっくき夫差と共に、日月の光を戴いておるとは・・・まったくもって、恥の極みじゃ!

勾踐 かかるが故に、遠征を決意したというに、なんじは、「3つの理由」とかなんとか、たわけた事を申しおって、わしの心をくじかんとしおる。なんじのその「理由」とやら、ことごとく理にかなってはおらぬぞ!

范蠡 ・・・。

勾踐 よいか! まずは、「理由その1」。たしかにな、彼我の兵力比較で言えば、わが国は呉にはとてもかなわぬ。しかしな、戦の勝敗というものは必ずしも、その兵力の多寡によって決するものではないわ! それは、時の運と、将軍の作戦の優劣に依存するのじゃ。であるからこそ、これまでも呉越両国は何度も戦い、勝敗互いに相替わるところとなってきたのではないか。このような事、なんじも、すべて重々承知の事実ではないか、しかるになにゆえ、「越の少勢をもって、呉の大勢と戦う事は不可能」などと、ぬかしおるのか! これが、「なんじの武略の足らざる点・その1」じゃわい!

勾踐 次に「理由その2」、「戦うには時節が悪い」だと? いったいぜんたい、戦を始める時期は、すべて季節に応じて、などという事がありえようか? かりにも、さような事でもって、戦の開始時期を決しておったのでは、わが方の軍事計画が、どこの誰にでも、たやすく読めてしまうではないか! さような事では、勝利をおさめる事など、できようはずもないわ!

勾踐 「春と夏は陽の時ゆえ、戦を行うべからず」だと? フン! 殷(いん)の湯王(とうおう)が、夏の桀王(けつおう)を討った季節は、いったいいつであったかのぉ? まさに春であろうが! 周の武王(ぶおう)が、殷の紂王(ちゅうおう)を討ったのも春じゃわい。「天の時よりも地の利、地の利よりも人の和」というではないか。しかるになんじは、「今は征伐を行うべき時ではない」と強弁して、わしを止めようとする。これが、「なんじの智恵の浅き点・その2」じゃ!

勾踐 「理由その3」、「伍子胥が呉国におる間は、かの国を滅ぼす事は困難でありましょうぞ」だとぉ! さようなことを言っておったのではのぉ、わしはいつまでたっても父祖の敵を討って、草葉の陰のご先祖さまの恨みを晴らす事が出来ぬではないか! 「じっと、伍子胥とやらの死を待つ」などというのは、下の下じゃわい、わしと、そやつと、どっちが先になるか、分からんではないか! 人間の寿命は天が定めるものじゃからのぉ。老いた方が先に行くとは限らん。かようなものの道理というものをよく考えもせずに、わしをいさめおる、これが、「なんじの愚かなる点・その3」じゃ!

勾踐 だいたい、わしが長期にわたって、軍を動員・編成している事は、すでに先方にも知れわたっておろう。こちらの仕掛けが遅れ、かえってあちらから攻め寄せられ、などということになったならば、いくら悔いてみても、どうにもならぬわい。「先んずる時はすなわち人を制し、後れる時はすなわち人に制せられる」というではないか!

范蠡 殿!

勾踐 エェイ、言うな! 事は既に決したのじゃぁ!

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かくして、越王勾踐・治世11年目の2月上旬、勾踐は自ら10万余の軍を率いて呉国の領土へ攻め入った。

これを聞いた呉王・夫差は、

夫差 へぇ、来やがったかい・・・ハハハ、あんな少ない軍勢でもって、いったい何をするつもりなのかねぇ。まぁ、でも、相手が小勢だからって、敵をあなどっちゃぁいかんよねぇ。

夫差は、自ら20万の軍を従え、呉越国境の夫椒(ふそう)県という所に進軍し、会稽山(かいけいざん)を背後にし、大河を前に陣取った。そして、越側を欺くために、わざと3万騎だけを前線に展開し、残り17万騎を陣の後方の山陰深く潜ませて、越軍の来襲を待ちかまえた。

夫椒県まで進んだ越王・勾踐(こうせん)は呉軍と対峙した。

見れば相手はわずかに2、3万の軍勢、まばらに散開して馬を控えている。これを見て勾踐は、思いの外の小勢なりと、相手をあなどり、自軍10万に命令を下した。

勾踐 ものども、一気に目前の河水に駆け入り、馬筏を組んで渡河してしまえぃ!

越軍全員 ウォーッ!

頃は2月上旬、未だ寒さは厳しく、河水は氷のごとく冷々。兵士らはみな手がかじかんでしまい、弓も引けなくなってしまった。

対岸に上陸の後、馬が雪に足を取られて進退ままならない。しかし勾踐は、突撃指示の太鼓を鳴らし続けさせる。

越軍の太鼓 ボーン! ボーン! ボーン! ボーン!・・・。

越軍全員、我先にと、呉軍の陣へと突入して行く。

「越軍を難所に誘い込んだ後に、包囲殲滅」というのが呉軍サイドの作戦であった。その手はずどおりに、彼らはわざと一戦もせずに前線の兵を退却させ、会稽山(かいけいざん)に引きこもってしまった。

勢いに乗った越軍は、逃げる呉軍を追撃すること30余里、四軍の陣を一つに合わせて左右も顧みず、馬の息も切れんばかりに、思い思いに進み行く。

日が没する頃、呉軍側の思わくどおりに、越軍は難所に誘い込まれてしまった。

夫差 よぉし、行けぇ!

呉軍20万は、四方の山々から一斉に越軍に襲い掛かった。

勾踐を包囲網の中にとり込め、一兵たりとも漏ららさじとばかりに猛攻。

越軍サイドは、今朝の戦で遠駆けして人馬共に疲れはてている上に、兵力面においても劣っているのだから、一たまりも無い。呉の大軍に囲まれ、一所に追いつめられて防戦一方。前面の敵に当たろうと進めば、呉軍は険阻な地形をうまく活用し、弓を引き絞って待ち構えている。退却して後方の敵と闘おうとすれども呉軍は大兵力、越軍は疲労こんばいの極。進退ここに窮まりて、敗北は目前に迫る。

しかし、越王・勾踐は、堅固を破り鋭利を砕くこと、項羽(こうう:注2)の勢いをも越え、樊噲(はんかい:注3)の勇にも優るという人、呉の大軍中に駆け入っては十文字にかけ破り、巴(ともえ)のごとくに追い巡(めぐ)らす。一所に集中したかと思うと三方に散開し、四方を払って八面に当たる。

しかしながら、かくのごとき、臨機応変、陣形変化の百戦も空しく、越軍サイドは、戦死者7万余騎、勾踐はついに、戦いに敗れてしまった。

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(訳者注2)秦の滅亡後、漢の高祖と天下を争って戦い、滅亡した人。

(訳者注3)漢の高祖のもとにあった、武勇に優れた忠臣。「鴻門の会」では自らの一身を挺して、高祖を守った。
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力尽きた勾踐は、会稽山に駆け上がり、自軍の残存兵力を数えてみた。

勾踐 うーん・・・わが方の残存兵力はわずか3万、それも半ばは負傷しておるとか。まさに我が方、矢は尽き、矛も折れて、という有様か!

両軍の勝敗の行方をうかがって日和見(ひよりみ)していた周辺の諸侯たちも、その多くが呉サイドに加わって参戦してきた。かくして、呉軍の兵力は一気に膨張して30万、会稽山の周囲を囲む事、稲麻竹葦(とうまちくとう)のごとし。

勾踐は、陣の内に入り、臣下一同を集めていわく、

勾踐 わしの命運もすでに尽き、今まさにこのような包囲を受けておる。これは、戦の失敗によるものではない、天がわしを亡ぼすのじゃ。

越軍リーダー一同 ・・・。

勾踐 わしは明日、なんじらと共に敵の囲みを破り、呉王・夫差の陣に駆け入りて、屍(しかばね)を敵の軍門の前にさらそうぞ! しかして死して後、来世に再び生を受けて、その時にこそ、この恨みを晴らすのじゃ!

勾踐 かくなるうえは、わが国宝のすべてを焼却すべし。さらに・・・。

勾踐は、従軍していた今年8歳になる最愛の太子・王セキヨを呼び寄せた。

勾踐 太子よ、おまえは、いまだ幼い・・・父に死に遅れて敵の虜囚(りょしゅう)となり、どのような酷(むご)い目に、おまえが遭うかもしれぬと思うと、わしは気が狂いそうじゃ。

勾踐 また、かりに父が敵の虜となり、おまえより先に死したならば、おまえの苦しみは、いかばかりか・・・。

勾踐 今、おまえをここで殺してしまえば、わしも心安く覚悟を定められようぞ。明日の戦いにて、わしが討死して後、墓の下にての再会も叶うであろうて・・・三途の河の彼方までも、父子の恩愛を全うして、共に歩み行こうぞ。

左の袖にて涙を拭い、右の手に剣を引っさげて、最愛の太子をわが手にかけんとする勾踐。

その時、越軍・左将軍の大夫(たいふ)・種(しょう)が、勾踐の前に進み出ていわく、

大夫・種 殿、しばらく! しばらくお待ち下されませ!

勾踐 ・・・。

大夫・種 生を保って天寿を全うする事こそは、一大難事、死を軽んじて節に従う事の方がむしろ、安易な道。

勾踐 ・・・。

大夫・種 わが殿、なにとぞ、越の国宝を焼き捨てたり、太子様を死に至らしめるような事は、どうか、お止め下さりませ。この不肖・種、呉王を欺いて、殿をこの死地からお救いして見せましょうぞ。殿は、国へ帰られた後、再び大軍を起こされ、今日のこの恥辱をそそがれますように。

勾踐 そちに何か、良策があると申すか?

大夫・種 はい。

勾踐 ・・・。

大夫・種 今、この山を包囲して陣を敷きおるは、呉の上将軍にして太宰(たいさい)職にある嚭(ひ)という人物、実は、私の旧友にてござりまする。長い間、彼に接してきたゆえに、私めは嚭の性根、隅から隅まで知り抜いてござりまする。

勾踐 ・・・。

大夫・種 彼は、まことに血気盛んな勇者ではありまするが、その性は貪欲にして、とかく欲望につき動かされて行動し、後の禍というものを一切顧みず。

大夫・種 また、かの呉王・夫差のことを、世間では、「智は浅く、短慮、女性にだらしなく、道理に暗し」と、評しておりまするぞ。

大夫・種 これすなわち、君臣ともに典型的な、「だましやすい人間」ということでござりまする。

大夫・種 そもそもが、今日、越側に戦い利あらずして呉に包囲されるに至った事、もとはといえば、殿が范蠡殿のいさめを、お聞き入れにならなかったからでは、ござりますまいか?

大夫・種 願わくば殿、私のささやかな策をご採用あそばされ、敗軍数万の命をお救い下さいますように!

勾踐 ・・・。

大夫・種 殿! 殿! なにとぞ!

勾踐 ・・・「敗軍の将は再び謀(はか)らず」と言うな・・・今後一切の事は、種よ、お前にまかせた!

かくして勾踐は、宝物の焼却と、太子を死に至らしめることを止めた。

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大夫・種はただちに、主君の命の下、兜を脱ぎ、旗を巻いて会稽山からはせ下り、呉軍陣営の前まで進んで叫んだ。

大夫・種 越王、勢い尽きて、呉の軍門に降るなぁりぃ!

これをきいた呉軍30万は

呉軍全員 万歳! 万歳!

種は、呉の軍門から入って膝ではって歩き、頭を地につけて、呉の上将軍・太宰・嚭の前に平伏した。(注4)

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(訳者注4)恭順の意を現わす作法。
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大夫・種 君王の陪臣にして越王・勾踐の使者、小臣・種、つつしんで、呉の上将軍に、申しあげたき議、ここにありぃ!

太宰・嚭は、床几(しょうぎ)に座し、幕を上げさせて大夫・種に対面した。

種は、ただじっと頭を下げ、涙ながらに語った。

大夫・種 わが主、勾踐は、命運窮まり、勢いつきて、貴国の軍に包囲されるところとなった。よって今、我をして、「勾踐、今後長く呉王の臣下となり、わずかばかりの領土の主となる事を、なにとぞお許し願いたく」と、呉王陛下に、請わしめるものでありまする。願わくば、先日の罪を許され、今日の死を助けたまえ。

大夫・種 もしも将軍が、わが主・勾踐の命をお救い下さるというのであれば、越国を呉王に献じてその領地となし、国家の重宝はことごとく、将軍にさしあげ・・・さらに、わが国一の美人・西施(せいし)を、呉王の宴席に侍らせることと、致しましょうぞ。

太宰・嚭 ・・・。

大夫・種 我がこの願いをお聞き届けいただけず、あくまで勾踐を許さず、とならば、越の宝は全て焼き捨て、全軍心を一つにして呉王の堅陣に突入し、軍門の前に屍をさらすのみ!

太宰・嚭 ・・・。

大夫・種 以前より、我と貴殿とは、膠(にかわ)や漆(うるし)よりも固い交友を結んできましたな・・・貴殿がそれにお応えいただけるのは、今まさにこの時ですぞ! 将軍よ、一刻も早く、この事を、呉王に伝達して下されぃ。そして、わが心中のこの懸念、「わが主の命、助かるや否や」を、わが命のある間に、我に知らしめて下されぃ!

時には怒気を込め、時には嘆きを込め、言葉を尽くして説く大夫・種。太宰・嚭の顔も、徐々にほころんできた。

太宰・嚭 わかった、わかったよ! あっしが何とかしてみせましょうぜ。呉王に説いて、越王の命が助かるように、ひとはだぬぎやしょう。

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太宰・嚭は、呉王の陣へ赴き、夫差の側近くに寄って事の子細を述べた。

夫差 (大怒)なにぃ、越王の命を助けろだってぇ? なんてぇ事を!

太宰・嚭 ・・・。

夫差 そもそもだぁ、呉と越との対立、闘争、昨日、今日の事じゃぁ、ねぇでやんしょう? ここにきてようやく、勾踐の運も尽きはてて、こっちの虜になったんじゃぁないか。これまさに、天からあたしに与えられた好機ってもんだわね。

太宰・嚭 ・・・。

夫差 オヌシなぁ、こういう事ぁちゃぁんと分かってて、勾踐の命を助けろってのかい? ったく、あきれたもんだねぇ。とても、忠烈の臣下の言葉とは思えんぞい!

太宰・嚭 イヤイヤァ、殿ぉ、あっしは不肖の身ではありんすがねえ、いやしくも将軍の号を許され、越軍との戦場にて、謀をめぐらして大敵を破り、わが命を軽んじて、我らの側に、快勝をもたらしたんでやんすぜぃ! これひとえに、あっしの「赤心の功」ってやつでさぁねぇ。これまでに、殿のために、天下太平を図る上において、あっしが一日たりとも、思いを尽くして心傾けてねぇ時があったとでも、おっしゃるんでやんすかぁい?!

夫差 いやいや、そんなこたぁ思ってないよ、あたしゃぁ・・・まぁまぁ・・・。

太宰・嚭 事の是非っつうもんを、つらつらぁと考えてみやすとですねぇ、勾踐、戦に負けて勢い尽きたとはいえ、なおも、3万余の兵力を擁してやがんですぜぃ。完全武装の勇士ぞろいの3万ですぜぃ。

夫差 ・・・。

太宰・嚭 かたや、わが軍ときたひにゃぁ、どうですかい。そりゃぁね、人数だけは、めっぽう多いわさ。しかし、ヤロウドモ、昨日の戦で手柄を立てたばっかしでやんすからねぇ、「さぁ、今日からは、危ねぇとこは避けて通って、自分の身を全うして、戦後の恩賞にガッポリありつこうぜぃ」てな方向に、シャカリキになってまさぁねぇ。

夫差 ・・・。

太宰・嚭 あっちはってぇと、兵力は少ねぇけんど、志一つに固まってやがる。しかも、「もはや逃れる道はねぇ」ってんで、みな、覚悟固めてまさぁね。「窮鼠(きゅうそ)かえって猫を噛み、闘雀(とうじゃく)人を恐れず」ってぇ言いますからね、両軍再び戦えば、こんどはこっちが危ねぇわ。

夫差 ・・・。

太宰・嚭 だからァ、ここはァ、勾踐の命を助けてですねェ、わずかばかりの領地を与えて、臣下にしといた方が、ゼッタイよろしいに決まってまさぁねぇ。そうなったら殿は、「呉越両国の主」どころのさわぎじゃぁすみませんぜぃ、斉(せい)、楚(そ)、秦(しん)、趙(ちょう)の国々からもみな、殿に朝貢してくるようになるこたぁ、間違いなし! これこそがいわゆる、「根っこを深く張って、ほぞを固くする道」ってもんでさぁねぇ。

このように理をつくしの嚭の説得に、元来、欲にふける心がたくましい夫差は、

夫差 よし、わかったよ。おまえの言う通りに、しようじゃぁないか。さっそく会稽山の包囲を解いて、勾踐の命、助けてやるとすっか。

太宰・嚭は、急ぎ帰って大夫・種にこの顛末を伝えた。大夫・種は、大いに喜んで会稽山にはせ帰り、勾踐にこれを報告した。越軍の士卒全員の顔には一様に安堵の相が浮かび、みなみな大喜びである。

越軍一同 我らが万死を出でて一命を保てたのも、ひとえに、大夫・種殿の智謀のおかげ!

勾踐は降伏サインの旗を掲げ、会稽山の包囲は解かれ、呉の兵は呉国に、越の兵は越国へと帰っていった。

勾踐は直ちに、太子・王セキヨを大夫・種と共に帰国させ、自身は白馬に引かせた装飾の全くない馬車に乗り、越国君主の印を首にかけ、自ら「呉の下臣」と称して、呉の軍門に降った。

しかしなおも、夫差は勾踐に心を許さずに、

夫差 「君子は刑を受ける人に近寄らず」って、言うじゃぁないか。恨みを持ってる者に、何されるか分かったもんじゃぁないからねぇ。

夫差は、面会もせずに勾踐を獄吏に引き渡し、1日1駅のペースで、呉の姑蘇(こそ)城へ護送させた。勾踐のその哀れな姿を見て、沿道の者は残らず涙を流した。

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姑蘇城に着くとすぐに、勾踐は、手かせ足かせをはめられて、土牢に放りこまれてしまった。

夜が明けようとも、日が暮れようとも、月日の光も見えない、常にうす暗い中に過ごす毎日。歳月の移り変わりも全く分からないままに、時が過ぎていく・・・床の上に流す涙ゆえに、露のみ深し。

越国の大臣・范蠡はこれを聞いて、

范蠡 (内心)あぁ、おいたわしや、殿・・・この恨み、骨髄に徹して忍びがたいぞよ。よし、なんとしてでも、殿の命をお救い申し上げ、帰国を実現せしめよう。

彼は、謀をめぐらして会稽山の恥をそそごうと、肺肝を砕いて策を練った。

彼は、身分の低い人間に変装した。魚を入れたすのこを自ら背負い、魚商人のふりをして、呉に入った。

姑蘇城の近所に宿を取り、勾踐の居場所をきいてまわったところ、ある人が詳しく教えてくれた。

勇気百倍の范蠡は、その獄近くに行ってみた。しかし、警備には一寸の隙も無い。そこで、一筆したためて、それを魚の腹中に収め、魚を牢獄の中に投げ入れた。

勾踐は驚いて、その魚の腹を開いてみた。中から、次のように書かれた手紙が出てきた。

 西伯(せいはく:注5)は 羑里(ゆうり)の地にとらわれの身となり
 重耳(ちょうじ:注6)は 翟(てき)国へ逃げざるをえませんでした
 しかし 二人ともやがて その逆境から立ち上がり
 王位について 中国の覇者となりました
 絶望されてはなりませぬぞ
 敵に 殿の命を奪うような機会を与えるような事 決してなさってはなりませぬぞ

 原文:西伯囚羑里 重耳走翟 皆以為王覇 莫死許敵

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(訳者注5)西伯(周の文王)は殷の紂王によって囚われの身となったが、後に釈放された。

(訳者注6)重耳(晋の文公)は継母の讒言の災いを避けて翟国に逃亡し、後に帰国することができた。
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勾踐 (内心)これは、筆跡といい文体といい、范蠡からのものに違いない。あやつ、いまも、世にあって、わしの為に肺肝を尽くし、謀事をめぐらしてくれておるのじゃな。

勾踐には、范蠡の志のほどが哀れにも、あるいは、頼もしくも思えてきた。

勾踐 (内心)今日までは、たった一日でも、いや、しばしの間も、この牢獄の中で生きているのがつらかった。もう死にたいと思っておった。しかし、この文を見た今、わしの心中には、生への執着がムクムクとわいてきたわい!

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ちょうどその頃、呉王・夫差は、体内にできた結石が原因で病に臥し、長期にわたって心身衰弱という状態になってしまった。

シャーマンがいくら祈祷を行ってみても効験はなく、医師がいくら処置しても病は一向に癒えない。ついに、「もういよいよか」という所まで、来てしまった。

ところがここに、他国から来た一人の名医あり、いわく、

医師 呉王さまのご病状、まことに重篤(じゅうとく)ではありまするが、医学的に見てもう絶望、という所までは、来てはおりませぬ。呉王さまの体から出でたる結石破片をば、口に含みて、その五味、すなわち、[辛]、[酸]、[塩]、[苦]、[甘]の様相を、私に報告してくださる人がおられれば、その病、たやすく療治してみせましょうぞ。

夫差 じゃ、だれか・・・(ヒィヒィ)その結石を・・・(ヒィヒィ)舐めてみてだな・・・(ハァハァ)その味を・・・(ヒイヒイ)医師に報告しろ(ハァハァ)・・・。

左右の近臣たちは互いに周囲を見回すばかり、誰一人として、それを口に含んで五味を調べてみようとするものが無い。

これを伝え聞いた勾踐は、泪(なみだ)を抑えていわく、

勾踐 わしはかつて、会稽山の包囲下にあった時に、罰せられるべき命を助けられた。かくなるごとく、ご赦免が下る日を待っておれるのも、ひとえに呉王殿の慈恵の厚恩のおかげ。今この時にこそ、このご恩をお返しせねば、いずれの日にかお返しできようか。

彼は、ひそかに、その結石を取りよせて舐め、その味を医師に告げた。その内容をもとに、医師は治療を行った。

夫差の病は、たちまち平癒した。

夫差は大いに喜び、

夫差 (内心)勾踐は、誠意をもって、あたしの命を救ってくれたんだわなぁ・・・。じゃ、今度はこっちが、誠意のお返し、しなきゃぁ。

かくして、勾踐は牢から出された。さらに、夫差は、「越国を勾踐に返却の後、彼を越へ帰還させよ」との命令を出した。

呉王の臣・伍子胥(ごししょ)は、夫差をいさめていわく、

伍子胥 「天の与えたるを取らざるは、かえってその咎を得る」って言いますぜ。越の地を返すぅ? 勾踐を帰国させるぅ? 冗談じゃぁねぇ! 千里の野に、虎を放つようなもんじゃぁ、ござんせんか。そのうちきっと禍となって、こっちにはね返ってくるにきまってまさぁね。やめときなさいってばぁ、殿ぉ!

しかし夫差はこれを聞き入れず、ついに、勾踐を越に帰らせてしまった。

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勾踐が車の轅(ながえ)をめぐらして越に入った時、車の前に、無数の蛙が飛び跳ねた。

勾踐 (内心)これはきっと、勇士を得て本懐をとげることができる、との瑞相じゃわい。

彼は、車から下りて蛙たちを礼拝した。

勾踐は越国の都に入り、かつての住まいに帰還した。

3年もの歳月の経過の中に、宮殿は荒れ放題になっていた。梟が、松や桂の枝に鳴き、狐が、蘭や菊の草むらに隠れ、清掃する人も無いままに、庭には落ち葉が静かに堆積。まことに寒々とした光景である。

勾踐、死を免れ帰国、との報を聞き、范蠡と太子は宮中へ馳せ参じた。そして、勾踐の妃・西施(せいし)もまた。

この西施という女人、その容色は世に並ぶ者なく、絶世の美人。勾踐の寵愛はなはだしく、ほんの一時も彼女を自分の側から放そうとしなかった。

勾踐が呉に捕えられた時から、難を逃れるために世間から身を隠してひっそりと暮していた。今、彼の帰国の報を聞き、後宮へ急ぎ帰ってきたのである。

3年もの間、勾踐の帰国を待ちわびつつ、耐ええぬ愁いに嘆き沈んでいたのであろう、髪もとかず、肌の艶さえも消え失せたその姿は、限りなく気品に満ち、梨花一枝春雨にほころび、といった風情。いやいやとにかく、たとえようもないその美しさ・・・。

公卿、大夫、文武百司、ここかしこより、王宮にはせ集まり来たりて、車は都の道路を疾走し、宮中の庭には装飾品の音がさざめき、堂上堂下、再び花が開いたかのごとく。

このような中に、呉国から使者がやってきた。

勾踐は驚き、范蠡をつかわして相手の用向きを問うた。

使者は、とんでもない事を言い放った。

呉よりの使者 ウチらの王様の夫差様は、めっぽう女好きでさぁ、ウノメタカノメで、世界中から美人を集めてござるわ。ところがよぉ、いまだに、西施のような美しい女人には、出会わずってわけさぁね。でだな、たしか越王は、会稽山の例の包囲を解かれた時に、バッチシ約束しちゃってるよなぁ、西施をこちらに渡すって。

范蠡 ・・・。

呉よりの使者 さ、トットと、その西施とやらを、こちらに渡してもらおうかい。呉の後宮へお迎えして妃の位につけ、殿に、トッテモ大事にしてもらっちゃうんだからさぁ。

呉の使者よりのメッセージ内容を范蠡から聞き、呆然と立ち尽くす勾踐。

勾踐 なに! 西施をよこせじゃと・・・。

勾踐 わしは、夫差(ふさ)に降伏を余儀なくされた恥をも堪え忍び、彼の体内から出でし結石を舐め、命ながらえた。それはなにも、国を保ってわが身の栄えを得ようなどと、してのことではないわ、ただただ、西施と共に、末永く過ごさんとしてのことじゃ。

勾踐 彼女といま生き別れになってしまい、死後にしか再会を期する事ができぬというのであれば、国家の君主の地位を保てたとて、それがいったい何になろうか。

勾踐 えぇぃ! たとえ越呉の和約破れ、再度わしが呉の虜になったとしても、西施を呉に送るなど、もっての他!

范蠡 (涙)殿・・・「主君が困惑の中にある時、悲しまざる臣は無し」。しかしながら、殿がいま、西施様に心ひかれ、彼女をどうしても呉に送らぬ、となりますれば、呉は再び、我が国に対して戦端を開き、呉王は兵を興すこととなりましょう。さような事態に至れば、今度は、越が呉に併合されるどころの事ではすみませぬぞ。西施様は永久にあちらに奪い取られ、殿のお家は断絶!

勾踐 えぇい、しかし。

范蠡 (涙)殿、私めがつらつら考えまするに、夫差は大の女好き、色に迷う事、はなはだしきものがありまする。

范蠡 西施様があちらの後宮にお入りになられるやいなや、夫差が西施様の色香に溺れてしまい、政治に行き詰まることは必定。

范蠡 かくして、呉の国力が弱り果て、民がみな夫差に背を向けるようになったその時を狙って、兵を起し、呉を攻める。さすればたちどころに、勝利はわが方のものとなりましょうぞ。

范蠡 これこそが、殿の子孫に幸いをもたらし、西施様と末永く、夫婦の契りを全うできる策でありまする。

涙を流しながら、道理を尽くしていさめる范蠡の説得に勾踐もついに折れ、西施を呉へ送ることに同意した。

つかの間も夫と離れていたくない仲をムリヤリ引き裂かれ、いまだ幼き太子をも越に置いたまま。なれぬ長旅へと、まさに宮殿を出んとする西施や、哀れなるかな。

愛する家族との離別を悲しんで、涙はしばしも止らず、たもとの乾く暇も無し。

勾踐もまた、これを限りの別れとなるのであろうかと思うと、耐えられない思いに伏し沈む。

西施が行ってしまった彼方の空をはるばると眺め、夕暮れの山をゆるやかに流れ行く雲を見つめる勾踐の頬を、涙は雨のようにしたたり落ちていく。

一人空しく床に臥し、せめて、夢の中でだけでも彼女と逢えはしまいか、と思うと、落ち着いて眠れもしない。まぶたの裏にはただただ、彼女の面影が、はかなくただようばかり・・・いかんともしがたい嘆きの中に、苦悩に沈む勾踐。

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西施という女人は、まさに当代天下第一の美人。

メイキャップを整えて一度笑顔を浮かべれば、その百の媚びは男の眼を迷わせ、宮中の池上の花もみな色あせて見えてくる。物陰に隠れたその妖艶な姿をかいま見るだけで、千の姿は人心をとろけさせ、雲間の月光も光を失わんばかり。

ひとたび呉の後宮に入り、夫差の傍らに侍ったその瞬間から、夫差は完全に彼女に心奪われてしまった。

夜を徹して歓楽にふけり、政治は完全に放棄。昼は昼で彼女と共に宴会ばかり。国の危うきをも全く顧みなくなってしまった。

彼女と共にある宴の場所を、もっと趣向のあるようにしようとの思いから、雲の上にそびえ立つ宮殿を建造し、その上から、四方300里に拡がる山河を枕の下に見下ろす。

あるいは、まだ花も開かぬ早春の季節には、自分の車の通る路に麝香(じゃこう)を発する物体を埋め、芳香ただよう中を行く。あるいは、月が出ぬ夏の夜、離宮に蛍を集めて灯となし・・・。

このように、夫差は、西施に溺れる日々をひたすら送っていくばかり。呉の国中、上は荒(すさ)み、下は廃(すたれ)るといえども、ずるい臣下は夫差におもねて、これをいさめようともしない。呉の国王は、恒常的・酔生夢死状態、何もかも忘却してしまったかのような日々を送っていく。

見るに見かねた伍子胥(ごししょ)は、夫差に面会していわく、

伍子胥 殿ぉ・・・殷(いん)の紂王(ちゅうおう)は妲己(だっき)に迷って、世を乱し、周(しゅう)の幽王(ゆうおう)は褒姒(ほうじ)を愛するあまり、国を傾けちまいやがったんですよぉ。そういう歴史の前例、よもや、お忘れじゃぁござんせんでしょうねぇ?

夫差 ・・・。

伍子胥 殿の西施グルイは、紂王や幽王の域を、はるかに越えちまってますぜぃ。このまま行ったんじゃぁ、わが国が傾くのも、そぉ遠い事じゃぁねぇんでは? 殿ぉ、お願いですから、こんなばかな事は、今すぐ止めにしておくんなさいましぃ。

夫差 (不機嫌)・・・。

伍子胥 (内心)こりゃぁダメだぁ。ナニ言ったって、聞きいれてくんねぇや。

--------

ある日、例によって、夫差は西施の為に宴を催し、群臣を招集して宮庭の花を見物しながら、気持ちよく酔っぱらっていた。そこへ伍子胥が、威儀を正してやってきた。

玉を敷き、金をちりばめた階段を、彼は着物のすそを高く掲げ、まるで水たまりの上を歩くかのような格好で上がってきた。

夫差 おいおい、子胥や、いったいぜんたい、どういうわけで、そんな妙な歩き方するのかい?

伍子胥 いやねぇ・・・思うにぃ、ここ、宴が今開かれているこの姑蘇の台も、そのうちきっと、越王勾踐に滅ぼされちまうんでしょうねぇ。このあたり一帯、草深ぁい露の宿る地になっちまうのも、そう遠い事じゃぁねぇでやんしょう。

伍子胥 あっしの命がそれまでもってたならばねぇ、昔、住んでたここの跡をたずねてくる時にゃあ、袖からしたたり落ちる悲痛の涙、さぞかし、ここいら一面に、深ぁく溜まることでやんしょう・・・てなグアイにね、行く末の秋を思いめぐらしやしてですねぇ、じゃ、今のうちから、「深ぁい涙の溜まり」の上を歩く練習でも、しとこかなってね。だから、こういう歩き方、してるんでやんすよ。

夫差 ・・・。

このように、忠臣・伍子胥は夫差を再三再四いさめるのであるが、彼は一向にその言葉を聞き入れようとしない。

伍子胥 (内心)もうこうなったら、自分の命をうっちゃってでも、国家の危機を打開せんとなぁ!

彼はついに、砥ぎたての青蛇剣をひっさげて宮中に参内した。

剣を抜いて握りしめ、歯噛みしながら、夫差の前に突っ立って、叫ぶ。

伍子胥 殿! あっしが今、この砥ぎすまされた剣を持って、ここへやって来たのは、いったい何のためか、お分かりでやんすかい?

夫差 !!!

伍子胥 邪を退治し、国の敵を払う為でやんすよ。

伍子胥 わが国が傾いていくその原因をつらつら考えてみるに、全ては、あの女、西施に、行きつきまさぁね!

夫差 !!!

伍子胥 アヤツこそは、極めつきの国家の敵というしか、ねぇでやんしょう。殿、お願いですから、あの女の首を、この剣ではねちまって、わが呉国をお救いくださいまし!

忠言も耳に逆らう時には、君主もまた非を犯す、という。夫差は、烈火のごとく怒り、

夫差 こいつぅ! 言わしときゃイイ気になりやがってぇ! 伍子胥、死刑ーィっ!

伍子胥は動じない。

伍子胥 そうですかい、死刑? いいでしょう! どうぞ、死刑にしておくんなさいまし。君主に逆らって諫言して、節を守って死んでくんだからね、まさに、我、臣下のカガミなりってとこでさぁね。

伍子胥 越の兵の手にかって死ぬよりゃ、主君の手にかかって命果てた方が、よっぽどましって、もんでさぁね。恨みの中にも、悦びありってとこだわさ。

伍子胥 ただしねぇ、この際、言っときますよぉ! あんたが、諫言を聞き入れずに、あっしに死刑を賜るってこたぁ、これは既に、天があんたを見捨ててしまってるって事の、何よりの証拠だわさ。今から3年以内に、きっとあんたは、勾踐に滅ぼされ、哀れにも刑罰に伏す身になりやしょうぜ。

伍子胥 夫差さま、お願いですから、あっしの両眼をえぐり取ってね、呉の都城の東門の上に、架けて下さいやし。そうやってから、この首をはねて下さいよ。あっしのその一対の眼、崩れて形が無くなってしまう前に、あんたが勾踐の捕虜になって死刑台に向かって歩いていくの、トップリと拝ませていただきやして、門の上から大笑いしてあげやすぜ。

夫差 えぇい、黙れ、黙れぇ! こいつをさっさと、殺せぇ!

かくして伍子胥は死刑となり、その両眼は彼の希望通りに、呉の東門の旗鉾の上に架けられた。

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============ ここまで校了======
この事件の後は、夫差がどのような悪徳を積もうとも、あえていさめようとする者は一人もいなくなってしまった。群臣は口をつぐみ、万人は目配せしては、夫差を批判するのであった。

これを聞いた范蠡は、

范蠡 よぉし、ついに時、至る!

彼は喜び勇み、自ら20万の大軍を率いて、呉へ押し寄せた。

夫差はその時、呉に背いた晋(しん)国を攻めるための進軍の途上にあり、呉の防衛に割ける兵は一人も残っていなかった。

范蠡は、まず西施を取り返して越へ送り、その後、姑蘇台を焼き払った。

斉と楚の両国も越王に志を通じていたので、30万の兵を出して、范蠡に力をあわせた。

これを聞いた夫差は急遽、晋との戦を中断して呉へとって返し、越軍に戦いを挑もうとした。しかし、前には呉・越・斉・楚の雲霞(うんか)のごとき大軍が待ちかまえており、後からは晋の強兵がここぞとばかりに追撃してくる。

大軍に前後を囲まれて逃れるすべもなく、夫差は、捨て身の戦を3日3夜にわたって展開。范蠡は兵を次々と交替させ、息もつがせず攻め続けた。呉軍は3万余が討たれてしまい、わずか100騎ばかりになってしまった。

夫差は、自ら敵に相対すること32回、夜半に包囲網を突破し、67騎を従えて姑蘇山に登り、越王・勾踐のもとへ、使者を送った。

呉の使者 かつて、会稽山にて窮地に陥いられた越王様を、呉の夫差は、お救け申しあげやした。これより後、呉王・夫差は越の臣下となって、越王のおみ足を、掌の上に頂戴いたしやしょう。もしも、昔の会稽でのこちらの貸しをお忘れでねぇならば、夫差を、今の死地からお救い下さいやしておくんなさいまし。

このように、言葉を尽くし礼を尽くして許しを請う使者の言葉を聞きながら、勾踐は、かつての我が無念の思いを回顧した。

勾踐 あの時のわしは、今の夫差にそっくりであったのぉ・・・彼の身に迫る悲哀、わしにはとても、他人事とは思えん・・・殺してしまうには、あまりに忍びない・・・夫差の命、助けてやろうかのぉ・・・。

これを聞いた范蠡は、勾踐の前に参上し、彼を直視して言い放つ。

范蠡 殿! ついこのあいだの事なのに、はや、お忘れか!(注7)

(訳者注7)原文では、「柯(カラ=斧の柄)を伐(き)るに其(そ)の則(のり)遠からず」

范蠡 会稽で、殿が呉軍の包囲を受けし時、天は、越を呉に与えた。しかるに、夫差はそれを受け取らなかった。よって、今日のこの禍に遭ぉてしもぉたのでありまする。

范蠡 今度は、天はかつてとは反対に、越に呉を与えました。ならば、これを受け取ってしまわねば、わが越は再び、呉と同様の災厄に、直面することとなりましょうぞ。

范蠡 君臣ともに肺肝砕きて、呉に対して策をめぐらすこと21年、その成果を一朝の中に棄てん事、これを悲しまずにはおれましょうや。「君主が非を行う時には、君主の命に従わず」、これすなわち、臣下の忠節というもの。

呉王よりの使者が呉の陣営に帰還する前に、范蠡は、自ら攻撃の太鼓を打ち鳴らして兵を進め、ついに、夫差を生け捕りにして、軍門の前に引きずり出した。

後ろ手にしばられて、呉の都城の東門を出て行く夫差を見下ろす一対の眼、それこそは、決死の諌言空しく首をはねられ、門の上にかけられた伍子胥の両眼であった。

あれから3年間、朽ちる事も無く、そのまなじりはキッと見開き、今また夫差と再会して、彼をあざ笑っているかのようである。

夫差は、これに面を合わせるのが、さすがに恥ずかしく思えたのであろう、袖を顔に押し当て、首を低く垂れて、そこを通り過ぎていった。これを見送る数万の兵の顔には、涙が・・・。

その後すぐに、夫差は、獄吏に身柄を引き渡され、会稽山の山麓で、ついに首をはねられてしまった。

古より俗に言う、「会稽(かいけい)の恥(はじ)をきよむる」とは、まさにこの故事の事を言うのである。

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この後、越王・勾踐は呉を併合したのみならず、晋、楚、斉、秦を圧倒し、会盟の主として、中国の覇権を握ったのであった。

勾踐 范蠡、そちは、実によくわしに尽くしてくれた。その功績、偉大なるものである。よって、そちを、万戸侯(注8)に封じようと思う。

(訳者注8)人民1万戸を統べる領主。

范蠡 殿、ありがたきお言葉ではありまするが、私めはそれを、辞退申し上げたく存じまする。「大名(たいめい)の下には久しく居るべからず、功成り名遂げて身退くは天の道なり」と申しますからな。

その後、范蠡は姓名を替え、人々から「陶朱公(とうしゅこう)」と呼ばれるようになり、五湖(ごこ)という所に隠居して、世間から身を隠した。

 釣糸を垂れ 芦が花さく岸に宿すれば
 その花は 蓑の半ばを覆ってしまった まるで雪が降ったかのように
 歌いながら 紅葉の樹陰を漕ぎ行く
 孤舟(こしゅう)に 秋を載せながら
 広大な天空の中に 月を見る

このようにして、俗世間を離れて悠々自適の生活を送り、白頭の翁となっていった。

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児島高徳は、以上に述べたような中国の故事を思い起こし、一句の詩に万感の思いを込めて、自らの志を先帝に密かに伝えたのであった。

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さて、後醍醐先帝の方に、話を戻そう。

先帝は、出雲の三尾湊に、10余日間、逗留された。

やがて順風となり、船乗りたちは一斉にとも綱を解いて、出帆の準備を整えた。

軍船300余隻、前後左右に並べ漕ぎ、万里のかなたに連なる雲に沿って、つき進んでいく。

青い海原は静かに暮れゆき、西北の波間に日は没す。はるかかなたに見える雲と山、東南の天に出づる月・・・漁船が帰りゆく方向を見やれば、岸にかすかに煌(きら)めく、ともし火の列。

日没とともに、夕靄たちこめる芦茂る岸辺に船を停留し、夜明けとともに、松生える入り江の風に帆を揚げ、海路に日数を重ねること、都を出てから26日目、ついに、船は隠岐島(おきとう)に到着。

隠岐の守護・佐々木清高(ささききよたか)は、府の嶋(こふのしま)というところに黒木の御所(くろきのごしょ:注9)を建て、そこを先帝の御座所と定めた。

(訳者注9)削らないままの丸太で立てた建物。

先帝の側近く仕える人といえば、千種忠顕(ちぐさただあき)、一条行房(いちじょうゆきふさ)、そして、后・廉子(れんし)のみ。かつての京都の御所でのきらびやかな住いとはうってかわり、憂き節多い竹の垂木(たるき)、涙の渇くひまも無き松の垣。

後醍醐先帝 (内心)あーぁ、こないなとこ(所)で、これから生きていくんかいなぁ。一晩も、がまんできひん。

担当の者が夜明けを告げる声、警護の武士が定刻に氏名奏上する声だけが、先帝の枕辺近くに響き、寝所へ入っても、少しもまどろむ事ができない。

京都御所・清涼殿(せいりょうでん)の寝所の「萩の戸」を開いて始まっていた朝の政務も、もはや、ここでは行うすべもない。それでもなお、暁の定刻のお勤め、神々への礼拝を怠られない先帝陛下であった。

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世間の声A ほんまにまぁ、今年は、なんちゅうタイヘンな年やったことか。

世間の声B いったいぜんたい、どないな年のメグリアワセでもって、こないな事になりやしたんかいなぁ。

世間の声C 百官、罪無くして、流刑先の月に、憂いの涙を落とし、

世間の声D 日本の最高位にあられるお方が、位から離れはってからに、都を遠く離れた異郷の地に、心悩まさはる事になるやなんて。

世間の声E 天地が開けてよりこの方、こないにトンデモない事、聞いた事もおへん。

世間の声F 天に昇る太陽も月も、自分はいったい誰の為に輝いてるんやろかと、恥じ入る思いどすやろなぁ。

世間の声G 心無き草木も、悲しみのあまり、花を開かす事すら、忘れてまうんちゃうやろか・・・。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年5月25日 (木)

太平記 現代語訳 4-6 後醍醐先帝、隠岐へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘2年(1332)3月7日、千葉貞胤(ちばさだたね)、小山(おやま)五郎左衛門、佐々木道誉(ささきどうよ)ら500余騎の警護のもと、後醍醐先帝の隠岐への旅がいよいよ始まった。

先帝に随行する者は、一条行房(いちじょうゆきふさ)、千種忠顕(ちぐさただあき)、そして、妃の廉子(れんし)のみ。他はすべて、甲冑を着用し、弓矢を帯びた武士ばかり、先帝の前後左右をビッシリと固めている。

七条通りを西へ、さらに、東洞院(ひがしのとういん)通りを南へと、車輪をきしりらせながら御車は進む。都中の貴賎男女は道路に並び、護送の列を見送る。

見物人A 幕府の連中ら、臣下の分際でありながら、一国の主を流罪にしよるんやなぁ!(涙)

見物人B ほんにまぁ、なんちゅうあさましい事やろか。(涙)

見物人C あぁ、おいたわしや。(涙)

見物人D こないにムチャクチャなことしてたら、幕府の命運、そのうち尽きてしまうでぇ!(涙)

あたり憚らず叫ぶ声は街路に満ち溢れ、みな、赤子が母を慕うがごとくに、嘆き悲しむ。それを耳にする警護の武士たちも、思わず哀れをおぼえ、もろともに、鎧の袖を涙で濡らしている。

桜井宿(さくらいじゅく:大阪府・三島郡・島本町)を通過する際に、

後醍醐先帝 おい、輿、止めぇ!

先帝はその場所で、川の対岸にある石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府・八幡市)を伏し拝み、祈念を込められた。

後醍醐先帝 (内心)南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、どうか、京都へ帰還出来ますように!

石清水八幡宮に祭られている神様は、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と言う。これは、大和時代の応神天皇(おうじんてんのう)が、衆生救済の為に神の姿に化身されたものなのである。

後醍醐先帝 (内心)八幡大菩薩様は、「我、皇室の護(まもり)となり、代々の天皇を永遠に守護せん」との誓いを立てられたんやから、この自分をも、きっと、お護り下さるやろう。これから赴く先、都はるかかなたの隠岐島までも、きっと、擁護の眼差しを向けて下さることやろう。

このように、先帝は心強く思われたのであった。

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湊川(みなとがわ:兵庫県・神戸市)を通過する際には、福原(ふくはら)の旧都の跡(注1)を見物された。

後醍醐先帝 (内心)あの平清盛(たいらのきよもり)が政権を握った後、京都からこの湿り気の多い低地に、遷都を強行しよったんや。時の天皇陛下にまで、ムリヤリここへ引越しさせよってからに。ほんまにもぉ、なんちゅうやっちゃ! そやけどな、それから間もなく平家は滅んだんや。見てみぃ、天皇をないがしろにした奢りの結果、天罰テキメンやろがぁ!

このように思うと、心も少しはなぐさまれる先帝である。

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(訳者注1)平清盛は意図する所あって京都から福原への遷都を強行したが、なかなかうまくいかず、結局、京都に都を戻さざるをえなかった。
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印南野(いなみの:兵庫県南部)を前方に望みながら、須磨浦(すまのうら:兵庫県・神戸市)を通過。

後醍醐先帝 (内心)あぁ、ここがあの、源氏物語で名高い須磨かいなぁ・・・光源氏(ひかるげんじ)が朧月(おぼろづきよ)にちょっかい出したばっかしに、ややこしい事になってしもぉて、それが原因でここへ流されて、その後、秋を3回送った、というクダリの、舞台になったとこやなぁ。

後醍醐先帝 (内心)「海の波が自分の寝床まで押し寄せてくるような心地がして、涙を落としているわけでもないのに、枕が浮くような・・・」という、旅寝の秋を光源氏が悲しむっちゅうシーンがあったなぁ。なるほど、こないな感じやったんやぁ、ナットク(納得)。

 明石(あかし)の浦の 朝霧に
 遠く成(な)り行く 淡路嶋(あわじしま)
 寄せ来る浪(なみ)も 高砂(たかさご:兵庫県・高砂市)の
 尾上(おのえ)の松に 吹く嵐
 迹(あと)に幾重(いくえ)の 山川を
 杉坂(すぎさか)越えて 美作(みまさか:岡山県北部)や
 久米(くめ:岡山県津山市)の佐羅山(さらやま) さらさらに
 今は有るべき 時ならぬに
 雲間の山に 雪見えて
 遥かに遠き峯あり

先帝は、護送担当の武士に問われた。

後醍醐先帝 むこうに見えたる、あれ、なんちゅう名前の山やねん?

武士 ははっ、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)という山でございます。

後醍醐先帝 よし、ここでしばらく輿、止めぇ!

先帝は、大山に向かって深く祈りを込めながら、心中で経文を読まれた。

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ある時は、鶏の声に目覚め、月光の下に田舎の茶店の前を過ぎ行き、ある時は、橋板に降りた霜を、馬の蹄に踏み破り・・・このようにして進行を急いだので、都を出てから13日目にして、出雲国(いずもこく:島根県東部)の見尾湊(みおみなと:島根県・松江市)に到着。

ここで船を手配し、隠岐島への渡海に都合のよい風向きに変わるのを待つこととなった。

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2017年5月24日 (水)

太平記 現代語訳 4-5 後醍醐先帝と中宮妃の別れ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘2年(1332)3月7日、「いよいよ、先帝、隠岐へ護送」と聞き、中宮(ちゅうぐう)妃・禧子(きし)は、夜にまぎれて、六波羅に抑留されている先帝のもとを訪問、中門に車を寄せた。

先帝は、自ら車の簾を持ち上げ、妃殿下を出迎えられた。

後醍醐先帝 (内心)この人を都に残したまま、波に揺られる船旅、月に照らされながらたどる汀の旅・・・あぁ、この先、いったい、どないなっていくんやろうかなぁ・・・。

中宮 (内心)明日から、陛下は、はるか遠くに行ってしまわはる・・・後には、何の頼みとなるものもない・・・永遠に夜明けの来ない闇夜の中を、さまようような気持・・・いかにしても、断ち切ることができないこの心情・・・。

いくら言葉を連ねてみても、足りないような気持ちの中に、共に語り続ける二人。

長い秋の千夜を一夜に濃縮して語りあったとしても、なおも言い尽くせないで、夜が明けてしまうであろうと思うと、心中の憂いは言葉にも言い表わしがたく、かえって何も言えずに、時間が過ぎていってしまう。

ただただ、涙にくれながら、つれない有明の月が傾く時刻となってしまった。

まさに、夜は明けなんとしている。中宮は車に乗り、帰宅の途上、涙の中に一首詠んだ、

 これ以上 つらい思いって あるかしら 苦しい人生 エンドはあるの?

 (原文)此の上の 思いはあらじ つれなさの 命よされば いつを限りぞ

臥(ふ)し沈ませ給(たま)いながら
帰る車の 別れ路(わかれじ)に
廻(めぐ)り逢う世の 憑(たのみ)な(無)き
御(おん)心の中(うち)こそ 悲しけれ
(原文のまま)

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2017年5月23日 (火)

太平記 現代語訳 4-4 俊明極が言った事

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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さる元享(げんきょう)元年(注1)の春、中国・元(げん)から、俊明極(しゅんみんき)という智徳高い禅師が、日本にやってきた。

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(訳者注1)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の補注では、俊明極の来日は、元徳元年である、としている。[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、「元徳元年の冬ごろ入京、二年の春に後醍醐天皇と相看したと思われる。」としている。
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天皇が直接、外国の僧に面会されることは、過去には無かった。しかし、後醍醐天皇は禅宗に傾倒しておられ、多くの僧侶に接してその話を聞くのにとても熱心であったので、今回も、この禅師の講義を受けるために、さっそく、御所への招聘(しょうへい)が行われた。

中国からの禅師を迎えるというからには、その儀式があまりに簡素に過ぎては、国家の恥にもなるであろう、ということで、大臣、公卿そろって衣服を整え、弁官・学士もそろって、俊明極の到着を待った。

その日の夜半、燈をかざしながら、俊明極は御所へやってきた。

天皇が紫宸殿(ししんでん)にお出ましになり、玉座に着座。

俊明極は、三拝礼を行い、香を薫じた後、天皇のご健勝を祝した。

その後、いよいよ問答が始まった。

後醍醐天皇 貴僧は、山に橋をかけ、海を渡り、意気揚々とわが国にやって来られた。さてさて、貴僧は、いったいどないな方法でもって、人々を救済されるおつもりかな?

俊明極 仏の法の中、最も重要なるところをもってして、人々を救済せんと・・・。

(原文)佛法緊要の處を以て度生せん。

後醍醐天皇 まさに、それは如何(いかん)?

(原文)正當恁麼時奈何。

俊明極 天の上には星あり、すべて北極星に向かって礼拝す。地上には川あり、東海に向かいて、流れぬ水は無し。

(原文)天上に星有り、皆北に拱(きょう)す。人間水として東に朝(ちょう)せ不(ずということ)無し。

後醍醐天皇 ウーン、なるほど!

というような具合で講義は進み(注2)、やがて終了、禅師は礼をして退出。

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(訳者注2)この問答の真意は、禅宗を深く修した人にしか理解できないものなのかもしれない。訳者には理解不可能だ。
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天皇は翌日、洞院実世(とういんさねよ)を俊明極のもとにつかわされ、「国家禅師の号」を彼に与えられた。

その際に、俊明極は、実世にこう語ったのである。

俊明極 陛下には、「頂点まで登りつめたる後、下降する龍」の気運あり。されど、「帝の位に二度つく」の御相あり。

今や、後醍醐先帝は幕府によって拘束される身となられ、まさに俊明極の予言のごとく、「降龍」の体になっておられる・・・がしかし、

後醍醐先帝 (内心)あの俊明極が予言したんやからな、わしは、「帝の位に二度つく」んや、再び天皇位に復帰すること、絶対に間違いなし!

なので、「しばらくは、出家せず!」と、幕府よりの要請を断固、拒絶されたのである。

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2017年5月22日 (月)

太平記 現代語訳 4-3 尊良親王と宗良親王、配所へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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3月8日、後醍醐先帝の第1親王・尊良親王(たかよししんのう)が、土佐国(とさこく:高知県)の幡多(はた)郡に流されるその日が、ついにやってきた。

親王の護送を担当するのは、佐々木時信(ささきときのぶ)である。

警護の武士A おいおい、聞いたかぁ、先帝への処置の事。

警護の武士B うん、聞いたでぇ。隠岐島に流されはる事に、なったんやてなぁ。

これを聞いた親王は、

尊良親王 (内心)どのような厳刑に処されようとも、ゆく末、墓の苔の下に、身を埋めることになろうとも、せめて、京都の近所に配流になればと、天を仰ぎ、地に伏して、祈念こめてきたんやったが・・・。

尊良親王 (内心)陛下でさえも隠岐、という事は、この自分も、どっか遠い所へ・・・祈ったかいも無かったか・・・。(ガックリ)

やがて、護送担当の武士たちが大勢やってきて、配所へ親王を運んでいく輿を中門につけた。

親王は、あふれる涙を押さえかね、

 せき留(と)むる 柵(しがらみ)ぞな(無)き 泪河(なみだがわ) いかに流るる 浮身(うきみ)なるらん

(原文のまま)

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同日、第2親王・宗良親王(むねよししんのう)を、長井高廣(ながいたかひろ)の警護にて、讃岐国(さぬきこく:香川県)へ配流。

宗良親王 (内心)昨日、陛下が隠岐へとの話を聞いたばかりというのに、今日は兄上が、配流先へ・・・あぁ・・・。

悲哀の四国への路を、兄弟同じくして、しかも、流刑地は別々とは・・・思えばやるせない、そのご心中。

はじめのうちは、二人離れての旅であったが、11日の暮れに、兄弟ともに、兵庫港(ひょうごこう:神戸市)に到着。

宗良親王 (内心)ここから兄上は、土佐の幡多へ、海路を行かれるという。いよいよ、永遠の別れがやってきたか。

宗良親王は、兄・尊良親王に手紙を送った。

 今までは 同じ宿りを 尋(たず)ね来て 跡(あと)無き波と 聞くぞ悲しき

 (原文のまま)

それに対する尊良親王よりの返歌、

 明日よりは 迹(あと)無き波に 迷うとも 通ふ心よ しるべともなれ

 (原文のまま)迹迹

尊良親王 (内心)兄弟ともに、流刑先は四国と聞いて、それやったら、せめて、同じ国にしてくれたらえぇのになぁ、風の便りにでも何かしら、お互いの事を伝え聞く事もできて、憂いも少しはなぐさまるのになぁ、と願ぉてきたけど・・・弟は讃岐へ、私は土佐へか。

尊良親王は、漂う波の上を行く舟に自らの運命を託し、やがて、土佐の幡多へ到着。有井三郎(ありいさぶろう)の館の傍らに一室が設けられ、そこに禁固の身となった。

その周辺はといえば、南には高い山が迫っており、北は海辺まで斜面になっている。松の下露が扉にかかり、涙いやます気分である。磯に打つ波の音が枕の下に聞こえ、故郷へ通じる唯一の路である夢路さえも、それによって妨げられる。

一方、宗良親王は、兵庫港で兄と別れ、備前国(びぜんこく:岡山県東部)まで陸路を進んだ後、児島(こじま:岡山県玉野市)の吹上(ふきあげ:岡山県・倉敷市)という所から舟に乗り、讃岐の詫間(たくま:香川県・三豊市)に到着した。

配所は海浜に近く、毒気を含んだ湿気が身を犯し、熱病をもたらす海の気候はすさまじい。夕べに響く漁夫の歌、牛飼いの笛、秋の峯にかかる雲、海にあがる月、耳にするもの目にするもの全てが悲哀を催し、涙の元となる。

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「承久の乱の際の、戦後処置の前例にならい、先帝を、隠岐国(おきとう:島根県)に流したてまつるべし」と、幕府サイドでは決したものの、臣下の身分でありながら、君主をないがしろにするのはおそれ多しと、さすがの幕府も考えたのであろう、後伏見上皇の第1親王(注1)が天皇位に即位した後に、「先帝を、隠岐へ配流せよ」との勅命を、新天皇から出す、という運びで行こう、という事になった。

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(訳者注1)光厳天皇(こうごんてんのう)(持明院統)。
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先帝が再び天皇位に復帰、などということは、現在の情勢から見てありえないので、隠岐に行かれる前に、出家して頂くことにしよう、というわけで、褐色の法衣を、幕府から先帝に進呈したが、

後醍醐先帝 今のところは、出家するつもりはないなぁ。

先帝は、天皇の衣服を、お脱ぎになろうとされない。朝には必ず、水ごりを取られ、自分の今おられる所を「仮皇居」と見立てて浄められた後、清涼殿の石灰壇にみたてた場所に赴き、伊勢大神宮の方角に向かって、朝の礼拝をされる。(注2)

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(訳者注2)これらは全て、天皇の毎朝の行事である。
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幕府高官A 天に太陽は二つとは無いというのに、わが国土の上には、二人の君主ありかぁ。

幕府高官B やれやれ・・・。

幕府高官C 困ったもんだなぁ。

先帝がこのように振る舞われたのも、心中密かに、捲土重来(けんどじゅうらい)を期するところがおありになったからに他ならない。その詳細は、次の章で述べる。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年5月21日 (日)

太平記 現代語訳 4-2 8歳の親王、歌を詠む

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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後醍醐先帝の第9親王(恒良親王:注1)は、未だ幼い身であらせられるから、ということで、京都の藤原宣明(ふじわらのぶあきら)邸に預けられていた。

親王は、今年8歳という年齢でありながら、早くも、多大な知性の冴えを、顕わしていた。

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(訳者注1)原文には「第九宮」としか書かれていないのだが、[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]、[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]共に、「恒良親王か」と注記しているので、このようにした。
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恒良親王 陛下は、人も通わん、隠岐(おき)とかいうとこに、流されはるんやろ?

藤原宣明 はい。

恒良親王 そやのに、ボク一人だけ、都の内にノホホンとしてて、どないすんねん!

藤原宣明 ・・・。

恒良親王 なあ宣明、頼むから、ボクも陛下といっしょに、そこに流罪になって行けるようになぁ、幕府に頼んでぇなぁ!

藤原宣明 ・・・。

恒良親王 隠岐の中で二人、近所においとくのはあかん、言うねんやったらな、離れた場所やったかて、えぇんやから・・・そこからボク、陛下を見守らせていただくんや・・・。(涙を流しうちしおれて)

藤原宣明 ・・・。

恒良親王 陛下が今、おしこめられてはる、白川(しらかわ:京都市左京区)いうたら、都心からも近いとこや、いうやんか。宣明、なんでボクを、そこへ連れてってくれへんねん?

藤原宣明 (涙を押さえながら)陛下が今おわしますとこがなぁ、ここの近所やったら、そら、いくらでもお供して、お連れ申しあげますでぇ。そやけどなぁ、白河(しらかわ)いうたら、京都から数百里の彼方にありますんやで。かの、能因法師(のういんほうし)も、歌に詠んどりますやろ、

 春霞の たつころ都を 発ったけど 秋風吹いたる 白河の関

 (原文)都をば 霞と共に 出でしかど 秋風ぞ吹く 白川の関

それほど遠いとこにな、人も通さん白河の関所の向こうにな、陛下はおわしますのやで。

恒良親王 ・・・(涙)。

親王は、しばらく涙を押さえ、黙っていたが、

恒良親王 宣明は、ボクを陛下のとこへ連れてくのがいややから、そないなウソ、ついてんねんな。

藤原宣明 !!!

恒良親王 おまえが言うてる、「しらかわ(白河)」いうのんは、京都を流れてるあの、「しらかわ(白川)」とはちゃうやろぉ! おまえは、奥州(おうしゅう)の有名な関所のある、あの「白河」の事、言うてんねんやんか!

藤原宣明 ・・・。

恒良親王 最近、津守国夏(つもりのくになつ)がな、おまえが言うたその歌の本歌取りした歌、作っとるぞ。

 東国の 関まで行かいでも (京都の)白川も 日がたったらば 秋風も吹く

 (原文)東路(あずまじ)の 関迄(まで)ゆかぬ 白川も 日数(ひかず経(へ)ぬれば 秋風ぞ吹く

藤原宣明 !!!

恒良親王 飛鳥井雅経(あすかいまさつね:注2)も、こんなん詠んどるやないか、「最勝寺(さいしょうじ:注3)の蹴鞠コートの桜が枯れたから、植え替える」いう時に。

 見慣れた木 これが最後の 春になると なんで知ら(白)んかったん 桜の下陰(したかげ)

 (原文)馴々(なれなれ)て 見しは名残(なごり)の 春ぞとも など白川の 花の下陰

藤原宣明 !!!

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(訳者注2)この人は、蹴鞠の名人であったという。

(訳者注3)当時、[最勝寺]をはじめ「X勝寺」という名前の寺院が6つ、現在の京都市左京区岡崎公園一帯(白川流域に位置する)にあった。これらをまとめて「六勝寺(りくしょうじ)」と呼んでいた。
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恒良親王 名前は同じやねんけど、場所が全然ちがう、「白川」と「白河」、証拠の歌2首、以上! よぉし、もぉえぇわい、もう、おまえには、頼まん!

このように、宣明に恨み言を浴びせた後は、親王の口からは、「父が恋しい」というような言葉は一切出なくなった。

親王は、飛鳥井邸の中門の側にたたずみ、もの思いにふける。

恒良親王 (内心)あーぁ、心が一向に晴れへんなぁ・・・。

その時、遠い寺で鳴っている晩鐘の音が、かすかに聞こえてきた。そこで親王は一首、

 つくづくと 思い暮らして 入逢(いりあい)の 鐘を聞くにも 君ぞ恋しき

 (原文のまま)(注4)

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(訳者注4)「入逢の鐘」とは晩鐘、夕方に寺でつかれる鐘のことである。
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心中の揺れ動く思いが、言葉となって現れ出た、その歌の大人びた内容に、人々は痛切な悲哀を感じた。京都中の僧俗男女はこぞって、この歌を、懐紙や扇に書きつけて詠む。

街の声A つくづくと おもいくらして いりあいの かねをきくにも きみぞこいしき・・・あぁ、えぇ歌やなぁ、ウチ、たまらんどすえぇ。

街の声B その歌の作者、たった8歳の親王はんや言うや、おへんか!

街の声C ほんにまぁ、大したもんやなぁ!

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年5月20日 (土)

太平記 現代語訳 4-1 後醍醐帝派の人々、苦境に

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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笠置寺の陥落の際に囚われの身となった人々への処置は、これから年末にかけては色々と事が多いから、ということで、翌年に持ち越しとなった。

年が改まって元弘2年(1332)となり、朝廷と幕府の仕事始めの儀式の終わった後、鎌倉から使者として、工藤高景(くどうたかかげ)、二階堂行朝(にかいどうゆきとも)の両名が上洛してきた。

彼らは、幕府の決定内容として、「死罪に処すべき人、流刑に処すべき人とその配流先」のリストを、六波羅庁にて発表した。

延暦寺や奈良の寺院の門跡、公卿、諸官庁の長官に至るまで、その罪の軽重に応じて、禁獄流罪(きんごくるざい)に処された。

中でも処罰の重かったのが、足助重範(あすけしげのり)である。彼に対しての判決は、「六条河原に引き出し、首をはねるべし」。

万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)は、二人の子息、藤房(ふじふさ)・季房(すえふさ)に連座して捕縛され、囚人としての扱いを受けていた。

万里小路宣房 (内心)齢(よわい)すでに70歳近ぉなったというこの時になぁ・・・先帝陛下は、京都から遠く離れた所に、流されはるというやないか。うちの二人の立派な息子も、死刑になってまうかもしれん・・・この自分自身も、囚われの身や。

万里小路宣房 (内心)今まで命ながらえてきた末に、こないなつらい事ばっかし、見たり聞いたりせなならんとは・・・あぁ、やるせないのぉ・・・。

彼は、絶望の中に一首詠んだ。

 長生きなんか なんでしたいと 思たんやろか? この年になって このざまやがな

 (原文)長かれと 何思ひけん 世の中の 憂きを見するは 命なりけり

後醍醐先帝に仕えていた公卿は片っ端から、罪の有無にかかわらず、「もはや、朝廷に出仕の要に及ばず」とされて隠遁(いんとん)を余儀なくされ、あるいは、「本日をもって、これこれの役職を解任!」となり、その日の食にも事欠くありさま。

人の運勢のアップ・ダウン、人生と世の時勢とのマッチ・ミスマッチ・・・すべて、夢か幻か・・・。時は移り、事は去って、哀楽互いに相替わる、憂きがならいのこの世の中において、何かを楽しんでみても、それがいったい、いかほどの意味を持つといえるであろうか、何かを嘆いてみても、それにいったい、いかほどの意味があるというのか。

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源具行(みなもとのともゆき)は、佐々木道誉(ささきどうよ)の警護の下、鎌倉へ連行されることになった。

その道中で、処刑されてしまうであろうと、京都を出発する前に彼に知らせた者があったのだろうか、逢坂(おおさか)の関(滋賀県大津市)にて一首。

 もう帰る こともないやろ ここがあの 片道切符の 逢坂の関

 (原文)帰るべき 時しなければ 是(これ)や此(こ)の 行くを限りの 逢坂の関(注1)

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(訳者注1)百人一首の中の蝉丸(せみまる)の歌、「これやこの 行くも帰るも 分かれては 逢ふも逢はぬも あふさかの関」を意識しての歌であろう。
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また、瀬田唐橋(せたのからはし:滋賀県・大津市)を渡る時に一首。

 今日限りと 思う人生 夢みたい 二度と渡れん 瀬田の長橋

 (原文)きょうのみと 思う我が身の 夢の世を 渡る物(もの)かは せたの長橋

実際に、「道中にて、源具行を殺してしまえ」との命令が事前に下されていた。さらに、鎌倉から使者がやってきて、「近江国の柏原(かしわばら:滋賀県・坂田郡・山東町)のあたりで、処置してしまえ」と、催促する。

護送の任に当たっていた佐々木道誉は、具行の前に来て言った。

佐々木道誉 いったいどのような前世の因縁があってかは知りませんけど、よぉけ人間がいる中に、この私が、あなたの護送を担当する事になったんですよねぇ・・・。

源具行 ・・・。

佐々木道誉 このような事を申し上げるのは、情け知らずな事のようにも思えますが・・・こうなったらもう、はっきりと申し上げるしかありません。

佐々木道誉 自分は下っ端の人間やからね、あなたの命をお助けしてあげれるだけの力もありません・・・今日まではね、「源具行卿を赦免す!」てな、幕府の裁決、あぁ、早いとこ、出てくれねぇもんかいなぁと思いながら・・・ここまでの道中、やって来たんですけどねぇ。

佐々木道誉 でも、ついに、鎌倉からの使者がやって来よりましてねぇ・・・「源具行卿を失い奉れ!」との、キツーイ命令ですわ。

佐々木道誉 というわけでしてなぁ・・・何事も前世の因縁とおぼしめされて、ごなっとく頂きたく・・・(泣きながら、袖を顔に押し当て)

源具行 ・・・(思わず涙を流し、それを押し拭い)。

佐々木道誉 ・・・(涙)。

源具行 囚人の身となってから今日まで、あんたにはほんまに、良ぉしてもろぉたなぁ。このご恩、死んだ後までも忘れへんでぇ。

佐々木道誉 ・・・(涙)。

源具行 先帝陛下でさえも、遠島流刑(えんとうるけい)や、いうねんから、その下のもんが処刑されるん、しかたないわなぁ。

源具行 とにかく、あんたが私に運んでくれた深い人情、たとえ、命ながらえれたとしても、感謝のしようもないくらい、ありがたい。

具行は、硯と紙とを取り寄せ、無言のまま手紙を細々と書いた。

源具行 この手紙、なんかのついででもあったら、例の方に届けてぇな。

日没と同時に、道誉は、輿を用意して具行をそれに乗せ、街道から西に入った山ぎわの、松が一群生えている所まで運んだ。

輿から降りた具行は、敷皮の上にいずまいをただし、再び硯をとり寄せて、しずしずと辞世の文をしたためた。

 誕生から死への道程に 遊歩すること42年
 今 山河は かつて見たこともないような姿を
 わが眼前に 見せている
 これこそが 天と地との無限なる姿

 (原文:逍遙生死 四十二年 山河一革 天地洞然)

最後に「6月19日 某」と書いた後、彼は筆をおき、手指を組み合わせて座した。

田児六郎(だごろくろう)が背後へ回ったと見るやいなや、源具行の首は前に・・・あぁ、哀れという言葉ではとても言い尽くせないこの思い。

道誉は泣く泣く、遺体を荼毘(だび)に付し、様々の供養を行って、具行の極楽往生を祈った。

哀れなるかな、源具行。

後醍醐先帝が即位前に「師宮(そちのみや)」と呼ばれておられた頃から、彼は、そのお側近くに仕え、朝夕に拝礼を怠らず、昼夜に忠勤すること、他に抜きんでるものがあった。ゆえに、先帝の御即位の後は、昇進も滞り無く、その御寵愛(ごちょうあい)も深まっていったのであった。「源具行、たった今、命終えたり」と、先帝が聞かれたならば、どんなに哀れに思われることであろうか。

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同月21日、殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)を、御所・大炊門(おおいもん)および油小路(あぶらこうじ)周辺警備担当・小串秀信(おぐしひでのぶ)が捕縛し、六波羅庁へ連行してきた。

六波羅庁長官・北条仲時(ほうじょうなかとき)は、斉藤十郎(さいとうじゅうろう)に、彼の取り調べを担当させた。

斉藤十郎 仲時殿は、次のように言っておられるぞよ。

 「先帝でさえもが不可能であった倒幕などという、とんでもない事を、あなたのごとき人が思い立つとは、なんとまぁおそれ多く、また、軽率この上ない事か。先帝を我らの手から奪取するために、六波羅庁内の位置関係を示す絵図なんかまでをも懐に入れて、この周辺をうろうろしておったというではないか! まさに武家の敵(かたき)、重罪の極み、その陰謀の企ては罪責余りある! 計画の全容を、ここに残らず白状せよ、詳細に鎌倉の方へ報告するから。」

殿法印良忠 なんやてぇ! いったいナニ言うとんねん、えぇかげんにしぃや!

斉藤十郎 ・・・。

殿法印良忠 考えてみぃ、日本の国土は全て陛下のもの、地上の人間もことごとく、陛下のもんやないかい! 陛下のご苦悩を見て嘆かん日本の民が、いったいどこにおるか! 一人の人間として、この国家の現状を、安閑として見とれるはずがないやろが!

殿法印良忠 「おそれ多い」やとぉ! 「軽率」やとぉ! ナニを言うか! 陛下のお心を思いはかり、その御身を、そちらの手の内から奪い奉らんとの企てが、いったいなんで、おそれ多いんや! 邪なる権力に天誅を加えるために、企てたわが計画を、「軽率」などとは、言うてほしぃないなぁ!

殿法印良忠 あぁ、そぉや、その通りや! 陛下が倒幕を企ててはるっちゅうことは、とぉの昔から知っとったわいな。そやから、私も、陛下について、笠置の皇居へ行って倒幕軍に加わったんや、それにまちがいない!

殿法印良忠 そやけどな、急に京都を脱出してのことやったから、防衛もかためることができへんままに、陛下の軍は敗北、逃走、やむなく目的を達成できず、いうわけや。

殿法印良忠 そやけどな、その間に、私と源具行殿と相談の上で、「倒幕命令勅書」、山ほど書いて、諸国の武士に、バンバン、送ったったわい!

斉藤十郎 ・・・。

殿法印良忠 私の言いたい事は、これで全部や!

これを受けて、六波羅庁では会議を開いた。様々の意見が出たが、

二階堂信濃入道 彼の罪責はもう紛れもなしだからねぇ、死罪に処すことについては、誰も異論は無いでしょうよ。ただね、なにも急いで、刑を執行する必要もないのでは? 彼の仲間たちの捜索を更に行ったうえで、再度、鎌倉に詳細を報告して処断を仰ぐ、という方向でどうでしょうねぇ?

長井高冬 もっともなご意見だと思います。これほどの大事は、鎌倉でご判断いただいてからでないとねぇ。

会議メンバー一同 賛成、賛成。

というわけで、殿法印良忠を、五条京極(ごじょうきょうごく)警備担当・加賀前司(かがのぜんじ)に預けおいて牢屋に閉じこめた後、再度、鎌倉へ使者を送った。

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平成輔(たいらのなりすけ)は、川越円重(かわごええんじゅう)により、鎌倉へ連行されていったが、途中、相模国(さがみこく)の早川(はやかわ)の河口付近(神奈川県・小田原市)で、殺されてしまった。

藤原公明(ふじわらのきんあきら)と洞院実世(とういんさねよ)に対しては、「彼らは、赦免してもよいだろう」という事にいったんはなったのだが、「いや、やっぱりだめだ、心の中では、何を考えているかわからんから」との疑惑を持たれたのであろうか、波多野宣道(はたののぶみち)、佐々木三郎(ささきさぶろう)が預かる事となり、一向に帰宅が許されない。

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花山院師賢(かざんいんもろかた)は、下総国(しもうさこく:千葉県中部)へ流罪となり、千葉貞胤(ちばさだたね)の預かりとなった。

師賢は、志学の年齢、すなわち15歳になった頃より、和漢の学問を極める事を志し、位階の昇進などにはあまり関心が無かった。そのような人であったから、今や流刑の身となっても、まったく動揺することも無い。

中国・唐朝最盛期の詩人・杜甫(とほ)は、安録山(あんろくざん)の乱の巻き添えをくらい、都から遠い地へ行かざるをえなかったが、その際に、

 左右の鬢(びん)の 頭髪をもつらせた情けない姿で
 灩澦(えんよう)川の道を経て
 一隻の釣舟(つりぶね)に乗り
 滄浪(そうろう)川の天に 今まさに入る

 (原文)路経灩澦双蓬鬢 天落滄浪一釣舟

と、天の果てにいる自らの恨みを、詠み尽くした。

また、わが国の大歌人・小野篁(おののたかむら)は、隠岐国に流されるときに、

 海原(わたのはら) 八十嶋(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬ

と、漁労の海人にことづけて、旅泊の思いを詠んだ。

花山院師賢 (内心)人間の一生というものは、しょせん、うまくいく時もあれば、そうはいかない時もあるもの。それをよくよく認識した上で、嘆かわしい局面に遭遇しても、嘆かない、運の開ける時もあれば、開けない時もある、という事実をきっちりと見つめ、悲しい時にあっても、悲しまない、このように、あるべきなんやろう。

花山院師賢 (内心)まして、「主憂うる時はすなわち臣辱めを受く、主辱められる時は臣死す」と言う言葉もあるやないか。たとえ、自らのこの骨を塩辛(しおから)にされようとも、肉体を車裂きにされようとも、嘆くべき事やないわ。

このように、いささかも悲しみを見せない師賢であった。

折に触れ、興がわくままに毎日、詩文を朗詠する日々。

現世での望みも絶えた今は、「もう出家してしまいたい」と、しきりに申し出たところ、鎌倉幕府最高権力者・北条高時(ほうじょうたかとき)より、「出家、OK」の許可が出たので、40際にも満たない年齢で、髪を剃り落とし、仏門に入った。

それから間もなく、元弘の乱が勃発した頃に、にわかに病に犯されて亡くなってしまった。

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万里小路季房(までのこうじすえふさ)は、常陸国(ひたちこく:茨城県)へ流刑、長沼駿河守(ながぬまするがのかみ)の預かりとなった。

兄の万里小路藤房(ふじふさ)もまた、常陸国へ流刑、小田兼秋(おだかねあき)の預かりとなった。

左遷遠流の悲しみ、いずれも劣らぬ涙ではあるが、藤房の心中を察するに、哀れさがいや増す。

当時、中宮妃につかえる女官で左衛門佐局(さえもんのすけのつぼね)という、容色まことにすぐれた女人がいた。

あれはたしか、さる元享(げんきょう)年間の秋の頃であったか、後醍醐天皇は、中宮の実家の北山・西園寺(きたやまさいおんじ)邸に行幸された。

邸内で、祝いの舞踊が催された。

堂下の庭の中、ダンサーたちが袖を翻して舞い、楽人たちが音楽を奏でる。管弦のアップテンポの演奏にのって、玉のごとき美声は玲瓏(れいろう)と響く。

その時、左衛門佐局は琵琶のパートをおおせつかり、「青海波(せいかいは)」という曲を奏でたのであった。その演奏は、

 うぐいすの美しいさえずりが 花の下を滑りぬけるように
 人知れず湧き出ずる泉水が 氷の底に淀むように
 恨みのメロディ 和合のハーモニー 現れては消え 消えては現われ
 四本の弦は 帛(きぬ)を裂くがごとくに歌う
 撥(ばち)をふるっては バララン 撥をふるっては ジャララン
 楽の音にさそわれて 梁の上に燕が飛び 水中に魚は躍る

 (原文)
  間関(かんかん)たる鶯の語りは花下に滑(なめらか)
  幽咽(ゆうえつ)せる泉の流れは氷の底に難(なや)めり
  適怨(てきえん)清和(せいか)節に随(したがって)移(うつ)る
  四弦(しげん)一声(いっせい)帛(はく)を裂くがごとし
  撥(はら)っては復(ま)た挑(かか)ぐ
  一曲の清音梁上(りょうじょう)に燕飛び
  水中に魚躍るばかりなり

万里小路藤房 (内心)あぁ、なんとスバラシイ女人なんやろう・・・この世の中に、こんな人がいたんかぁ・・・。

その姿をちらりと見た瞬間から、藤房は、左衛門佐局のとりこになってしまった。

人知れず、彼の胸の中に発生したその思いは、日を経るに従い、ますます深まっていく。

万里小路藤房 (内心)この胸の中の思い、なんとかして彼女に伝えたい・・・けど、その手だてがない。あぁ・・・あぁ・・・。

その時から、嘆きあかし思いくらして3年、口さがない人の目をかいくぐり、いったいいかなる手立てをもって実現したのであろうか、ついに藤房は、左衛門佐局との逢瀬を渡る事に成功。たった一夜の夢幻(ゆめ)か現実(うつつ)かもさだかならぬような思いの中に、二人は愛を交わしたのであった。

その翌日の夜だったのだ、後醍醐帝天皇が御所を脱出し、笠置に向かわれたのが。

藤房も、急ぎ正装を脱ぎ、軍服に着替えて天皇におともすることになった。

万里小路藤房 (内心)彼女にまた会えるかどうかも分からへん・・・たった一夜の夢に見たあの面影、ああ名残惜しいなぁ・・・。もう一度だけ、もう一度だけ、会えるもんやったら会ってみよう。

藤房は、左衛門佐局が居住している御所の西の棟に行ってみたが、

中宮局の女官 左衛門佐局はん、いはらしまへんでぇ。中宮様のおともして、今朝から、西園寺邸へ行ってしまわはりましたえ。

藤房 (内心)あーぁ・・・。

藤房は、鬢(びん)の髪を少し切りとって紙に包み、そこに歌を書き添えて、そこへ置いて帰った。

 黒髪の 乱れん世まで 存(ながら)えば 是(これ)を今はの 形見(かたみ)とも見よ

 (原文のまま)(注2)

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(訳者注2)近いうちに到来するであろう乱世になるまで、あなたが生きながらえていたら、どうか、死に行く私の形見と思って、この黒髪を見てね、という意味。
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後日、住居へ帰ってきた左衛門佐局は、この髪と手紙を見て、

左衛門佐局 黒髪の 乱れん世まで 存へば 是を今はの 形見とも見よ・・・

左衛門佐局 黒髪の・・・乱れん世まで・・・存へば・・・(涙)

左衛門佐局 是を今はの・・・(涙)形見とも・・・(涙、涙)見よ・・・ううう(涙)

藤房が書き残していったその歌を、読んでは泣き、泣いては読み、その紙を、何度も何度も巻いては開き、開いては巻き・・・心は乱れて、もうどうしようもない。涙が紙に落ちて文字は消え、彼に対する思いが、ますますこみあげてくる。

左衛門佐局 せめて、せめて・・・あのお方のおられる場所でも分かったら・・・たとえ虎が伏してる野原であろうと、鯨がたむろしてる浦辺であろうと、ついていくのに・・・(涙)

しかし、彼の行き先はどことも知れず、再会がかなうか否かも定かではない。あまりの悲しみに耐えかねて、左衛門佐局は詠んだ、

 残された あなたの手紙 離さへん いついつまでも 形見にするわ

 (原文)書き置きし 君が玉章(たまずさ) 身に副(そ)えて 後の世までの 形見とやせん

彼女は、この歌を、藤房から送られた歌の横に書き添え、形見の髪といっしょに袖に入れて、御所を出奔、京都の嵐山(あらしやま)を流れる大堰川(おおいがわ)に身を投げてしまった。なんと哀れな事であろうか。

「あなたがくれた一日の愛のために 百年の一生を誤ったあたくし」とは、まさに、このような事を言うのであろうか。

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洞院公敏(とういんきんとし)は、上総国(かずさこく:千葉県北部)へ、東南院僧正聖尋(とうなんいんそうじょう・じんそん)は、下総国(しもうさこく:千葉県中部)へ流罪。

峯僧正俊雅(みねのそうじょう・しゅんが)は、対馬国(つしまこく:対馬島)へ流罪とのはずであったが、
急に長門国(ながとこく:山口県北部)に変更された。

後醍醐先帝の第4親王(静尊法親王)は、但馬国(たじまこく:兵庫県北部)へ流罪となり、その国の守護の大田守延(おおたもりのぶ)が、その身柄を預かることになった。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

滋賀県 高島市 針江 バイカモかも かばた

先日アップした下記コンテンツにおいて

京都 八瀬 バイカモではないような

この植物は、バイカモ(梅花藻)に似てはいるけど、バイカモではないのであろう、との趣旨の事を記しましたが、では、あの植物は?との思いが、心の片隅に湧き上がりました。

そこで、過去に撮影した画像集の中からその画像を引っ張り出し、調べてみました。

その画像を撮影した場所は、滋賀県・高島市の針江(はりえ)。撮影日を見ると、2013年9月某日となっています。この日、私は友人たちにこの地に連れていってもらいました、かばたと針江の風景を見るために。

JR湖西線の[新旭駅]で下車。そこから徒歩で、[針江]へ。

P1 浄栄寺の前を通り
P01_2

[針江公民館]に到着。そこからは、[針江生水の郷委員会]メンバーの方にガイドしていただき、地区内を歩きました。

P2 M家のかばた
P02_2

水の中に、魚が泳いでいました。

[かばた]に関しては、[針江生水の郷 かばた]等でネット検索すると、情報を得ることができると思います。

琵琶湖の西にある比良山系に降った雪や雨が地中にしみ込み、伏流水となって針江地区の地下を流れているので、この地区内で、場所によっては、パイプを地中に打ち込むと、そのパイプの先端から水が自噴してくるのだそうです。[針江 伏流水 管 自噴]等でネット検索すると、これに関する情報を得ることができると思います。

残飯や人間の食べカスを、この[かばた]の中にいる魚が食べるのだそうですが、脂肪分の多いもの(例えば、カレーのついた鍋)をこの中に入れて、などというような事は、おそらく、されないのではないでしょうか。水質がだめになってしまうでしょうから。

地区内の小川の水は、下記のように、とてもきれいな水であるように見えました。

P3 魚がいました
P03_2

P4 カメがいました
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P5 もしかしたら、これは、[かばた]の跡なのでしょうか?
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下記のように、水路から水が屋内に入り、また水路に出てくる、というような構造になっている場所がありました。もしかしたら、取水口の奥に[かばた]があるのかも?

P6
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P7
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P8 パイプから水が噴きでてました。
P08_2

下記のP9, 10, P11 は、正伝寺の中にある[かばた]です。

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P10
P10

P11
P11

P12 正伝寺の境内
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P13 正伝寺の境内
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下記2個の画像が、針江地区の川の中にあった植物です。水面上に小さい白い花を開いています。

P14
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P15 P14の一部分をトリミングしたものです。花は5弁、梅の花に似たような形をしています。もしかしたら、これは、バイカモ(梅花藻)かも。
P15

下記のP16, P17, P18 は、針江地区内の川の流れを撮影したものです。

P16
P16

P17
P17

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P18

針江公民館の付近に戻ってきました。

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P19

P20
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これで、針江地区内の見学は終了。

昼食は、ここで食べました。

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昼食後、針江大川ぞいに歩いて、琵琶湖岸まで行ってみました。

P23
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P24
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P25 新旭駅へ戻る途中、川島酒造の前で休憩。「松の花」という銘柄の酒を造っておられるようです。
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ここの庭にある湧水の水を飲ましてもらえました。

2017年5月19日 (金)

京都 八瀬 バイカモではないような

先日アップした下記コンテンツにおいて

京都 府立植物園 バイカモ ナンジャモンジャ バラ 等 2017年5月16日

バイカモ(梅花藻)は、京都府内では絶滅種に指定されている、との情報もある、との趣旨の事を記しましたが、その際に、過去に京都市内のある場所で撮影した画像のことが、心の片隅にありました。

水面上に白い小さい花を開いている植物があったので、撮影していたのです。

あの日、あそこで撮影したあの植物は、バイカモではなかったのか、ではいったい、何だろうか、と思い、過去に撮影した画像集の中からその画像を引っ張り出し、調べてみました。

その画像を撮影した場所は、京都市の八瀬、[叡山電車]の[八瀬比叡山口駅]の付近の池のほとり、撮影日を見ると、2008年7月某日となっています。

P1
P01

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P02

P3
P03

P4
P04

このように、流れる水の中ではなく、池の水の中にあるのですから、この植物は、バイカモではないのでしょう。(ネットには、「バイカモは、冷たい清流の中に生える」との趣旨の情報がありました。)

[バイカモに似ている]、[バイカモに似た]でネット検索して調べてみたら、いろいろな植物の名前が出てきました。例えば、[アナカリス(オオカナダモ)]、[ミシマバイカモ]、[イチョウバイカモ]。

下記P6は、P5の一部分をトリミングしたものです。この植物の花の形は、どうも、バイカモのそれ(5弁で梅の花に似ている)とは異なっているようです。

P5
P05

P6
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上記の画像を撮影した日に、それと同じ場所であったか、それとも、別の場所であったかは記憶にありませんが、(八瀬であることは確か)水面に水滴が落ち続けているのを見て、シャッターを押し続けました。

P7
P07

P8
P08

P9
P09

落ち続ける水滴と、それが生む波紋に魅了されました。

その時の感動がそれからもずっと心の底に残っていて、数年後に、自作曲 [水面上に水滴が落ち続ける, 作品3]として、開花したのでした。

下記で、その曲を聴いていただくことができます。よろしければ、どうぞ。



下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲(クレオフーガ・サイト中にあり)

2017年5月18日 (木)

京都 府立植物園 ヒマラヤの青いケシ 等 2017年5月16日

2017年5月16日に、京都府立植物園(京都市内)に行きました。

ひさしぶりに、観覧温室に入ってみました。「ヒマラヤの青いケシ」が開花中との情報を得たので。

以下、当日、私が撮影した画像です。室内にあった説明板の内容を参考にしながら、できるだけ植物の名前を付記しましたが、間違っているかもしれません、間違っていたらすみません。

P1 ツンベルギア マイソレンシス
P01

P2 ストロビランテス マクラタ
P02

P3 エクボリウム リグストリヌム
P03

P4 フィランツス エピフィランツス
P04

P5 ヒギリ
P05

P6 ルリゴクラクチョウカ
P06

P7 植物名不明
P07

P8 植物名不明 想像もできないほどの時間を経て、葉の先がこのような形に変形したのでしょうか。進化の不可思議を感じました。
P08

P9 ニンファエア ウィオラケア
P09

P10 ベニウチワ(アンスリウム属の一種)
P10

P11 ウツボカズラ
P11

P12 植物名不明
P12

P13 ホウガンノキ
P13

P14 ジェイド バイン
P14

P15 カカオ
P15

P16 シークワーサー 沖縄方言で、「シー」は「酸」あるいは「酢」、「クワーサー」は、「食わせるもの」あるいは「加える」を表す、という趣旨の表示がされていました。
P16

P17 コーヒー(斑入り)
P17

P18 アリストロキア アルボレア
P18

P19 インパティエンス オンキディオイデス
P19

P20 メコノプシス ベトニキフォリア(「ヒマラヤの青いケシ」)
温室内の1区画が、エアコンから冷気吹き出す[冷室]になっていて、高山植物が育てられています。この植物はその区画の中にありました。
P20

P21 メコノプシス ベトニキフォリア(「ヒマラヤの青いケシ」)
P21

P22 メコノプシス ベトニキフォリア(「ヒマラヤの青いケシ」)
P22

P23 植物名不明
P23

P24 植物名不明
P24

P25 サイコトリア ペピギアナ(「ホット・リップス(熱い唇)」)
P25

P26 植物名不明
P26

P27 植物名不明
P27

2017年5月17日 (水)

京都 府立植物園 バイカモ ナンジャモンジャ バラ 等 2017年5月16日

2017年5月16日に、京都府立植物園(京都市内)に行きました。

滋賀県の米原市・醒井(さめがい)という所の、地蔵川が、バイカモがある清流として有名なようですが、京都市内にバイカモが生えている、という情報を、私はこれまで聞いたことがありません。京都府内では絶滅種に指定されている、との情報もありました。

ここ(京都府立植物園)で、バイカモ(梅花藻)の栽培に成功した、開花している、との情報を最近得たので、見てみたくなったのです。

開花してました。小さいサイズの花弁です。下記が、当日、私が撮影した画像です。

P1
P01

P2
P02

他にも、いろいろな植物が開花していました。まさに花ざかりの季節。以下、当日、私が撮影した画像です。園内にあった説明板の内容を参考にしながら、できるだけ植物の名前を付記しましたが、間違っているかもしれません、間違っていたらすみません。

P3 チュウキンレン
P03

P4 植物名不明
P04

下記の、P5,P6,P7は、園内の[森のカフェ]の近くにあった、[ヒトツバタゴ] 、またの名、[ナンジャモンジャ]という樹木の花であるようです。

P5
P05

P6
P06

P7
P07

下記の、P8 ~ P13 は、園内の[ばら園]で撮影した画像です。様々な種類のものが開花していて、ちょうどよい頃合いに行けたように思われます。

P8 ピエール ドゥ ロンサール
P08

P9 ムーン スプライト
P09

P10 モナ リザ
P10

P11 オクラホマ アメリカ合衆国の州の名前がつけられています
P11

P12 ケアフリー ワンダー
P12

P13 つるアイスバーグ
P13

P14 アリウム ギガンテウム
P14

P15 クレマチス 天塩
P15

P16 植物名不明
P16

P17 P16にある植物に接近して撮影しました。
P17

2017年5月13日 (土)

音楽制作のおもいで 水面上に水滴が落ち続ける, 作品3

1.この作品の発想と完成

[音楽制作のおもいで 車輪がまわる, 作品2]の中に、できあがった[音楽作品2]を、いかにして世に送り出すか、ということについて、思案を重ねている中に、またまた、新たな作品ができた、という趣旨の事を書いたが、その「新たな作品」が、この、『水面上に水滴が落ち続ける, 作品3』である。

当時の制作メモを見ると、最初の部分を発想したのは、「2014年2月19日 6:0」となっているので、おそらく、[作品2]の時と同様、これも寝床の中で発想したのであろう。

『車輪がまわる, 作品2』の方の制作メモには、「2014年2月17日に、序奏部の直後の部分を発想」となっているから、2014年2月17日から2月19日の間に、作品2つ分([作品2]と[作品3])の重要な柱となる要素、すなわち、主題的なものを、いっぺんに発想できていたことになる。この間の自分の頭脳が、いつもとは異なるような、異常な状態になっていたことが、想像される。

しかし、この[作品3]の完成までには、それから4か月もの月日を要した。[MIDIデータ・第1版]の完成は、「2014年6月21日」と、制作メモには記されている。

[作品2]までは、勢いにまかせて、作曲できるものなら作曲、やってみよう、というノリでやってきた。しかし、[作品3]ともなると、話が変わってくる。これ以降、[作品4]、[作品5]、[作品6]・・・と、継続して作曲という行為を行っていくのかどうか、それが、今問われている、と思った。

思案の末に出した答えは、継続してやっていこう、という方向であった。

となると、自分の限られた知識(音楽に関する)だけでは、すぐに限界がくるだろう。

だから、これからは、過去に多くの人に聴かれてきた音楽作品の中から、様々な事を学びながら、作曲していこうと、思った。

そのような、学びながらの歩みだったので、4か月もかかってしまったのであろう。(おそらく、長くかかった理由はそれだけではなかったのだろうが)。

後にも述べるように、先人の作品から学ぶことに費やしたこの時間は、今振り返ってみると、とても有意義なものであったように思える。

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2.MIDIデータについて

ここで、[MIDIデータ]について、簡単に述べておこう。

コンピューターを使用しての音楽制作の根幹となるのが、[MIDIデータ]だ。これを簡単に言えば、[楽譜 + 音の強弱表現]だと思っていただいたらよいだろう。

紙の上に書かれた楽譜には、音符(4分音符、8分音符、4分休符など)が書かれている。その作品を演奏しようとする人は、これを読むことにより、楽譜上に書かれている全ての音に関して、各音を、どの高さで(音の周波数)、どのタイミングで(音の開始時刻)、どれくらいの持続時間をもって、弾いたらよいのか、ということを知ることができる。

しかし、各音を、どれくらいの強さ(音の振幅)でもって弾けばよいのか、ということまでは、知ることができない。

楽譜の上には、「フォルテ」、「ピアニッシモ」、「クレッシェンド」等の、音の強弱を表す記号があるにはある。しかし、それをもって、作曲者が意図している各音の強さを正確に把握することは不可能だ。

だから、同じ曲を2人のピアニストが弾くと、同じ部分でも、弾かれて出てくるその音の強さが異なってくる。だからこそ、「XXXの弾くベートーベンは・・・」、「YYYによって奏でられるモーツアルトは」というような、演奏に関する批評が成立することとなる。

演奏者は、楽譜上に書かれている各音の演奏時の強度(音の大きさ)を熟慮し、決定することにより、演奏者としての自らの個性を、出すことができるのだ。(個性を表現するのは、音の強さだけをもってして、ということではないが)。

しかし、MIDIデータとなると、そこが根本的に異なってくる。

MIDIデータにおいては、演奏される音符の全てに対して、演奏時の音の強さを、数字でもって指定せよ、ということになっている。

MIDIデータを制作する、ということは、単に、コンピューターに解読可能となるような楽譜を書く、ということではない。すべての音に対して、その音は演奏時、どれほどの強さでもって演奏されるべきか、ということまで指定しまうのだ。

それはすなわち、従来の音楽の世界での「演奏者の作品解釈」までをも、作曲者が行ってしまえる(しまう)という事なのだ。

そして、そのMIDIデータを「演奏」するのは、人間ではない、コンピューターだ。

最近、テレビから出てくる音楽のうち、相当多数のもの(特に、コマーシャルの)が、この方法、すなわち、作曲者がなにもかもやってしまう、曲を演奏しているのは人間ではなく、コンピューター、というものなのではないかなぁ、という感じがしている。

その方法の方が、(人間に演奏してもらうよりも)曲の制作にかかる予算を少なくすることが可能なのだろうと、想像する。

自分のこの作品においても、それと同様の事情があった。

これを生演奏で制作するとなると、まず、問題となるのは、誰に演奏してもらう(もらえる)か、だ。

音楽関係のプロの方々と会ってみての総体的な印象は、「みなさん、ご多忙」だった。

自作のものの演奏を、とてもおいそれとお願いできるような状況ではない。ならば、自分で演奏するか?

となると、別の問題が発生する。楽器と器材。

まず、ピアノはどうするの? 電子ピアノでいくのか、それとも、アコースティック・ピアノ(昔からある、弦とハンマーが中に並んでいる)? アコースティック・ピアノでいくとなると、どこか、スタジオを借りての録音、ということにならざるをえないが・・・。

録音用の器材は? マイク等を購入するのか? どの程度のレベルのものを? その費用対効果は?

考えていくうちに、なにか、こちらの方向で行く先には、泥沼が限りなく広がっているのでは、という思いがしてきた。

決定的だったのが、あるプロの方から聞いた話だった。(この方は、録音技術者。)

こと、商用の音楽作品の制作となると、ライブ演奏以外においては、ミスタッチ・ゼロの演奏(ノーミス演奏)が求められる、というのだ。

これを聴いて、なにか当然のことと思えた。

昨今、テレビから聴こえてくる音楽は、(特にコマーシャル目的のものは)、ミスタッチなしで演奏されているように、私には聴こえる。

このような状況下では、かりに、ミスタッチがある演奏を聴いたりなんかすると、「ナニコレ?」となってしまうのだろう。

(もしかしたら、コンピューターで制作されているので、ミスタッチゼロになっているのかも、あるいは、もしかしたら、生演奏の録音でも、かりにミスタッチがあった場合には、録音の後日、録音エンジニアによる修正(ミスタッチ状態からミスタッチ無し状態への)が行われているのかも。音程の外れに対してさえも、修正が可能なようである、[音程 外れ 修正]でネット検索してみたら、いろいろな情報があった。)

よって、自作自演など論外、という結論に達した。自分が作った曲を、ミスタッチ・ゼロで演奏するのは、私には不可能だから。

このようにして、あれやこれやと考えていくうちに、

 これはもう、コンピューター(現在所有している、ノートパソコン)を使用しての音楽制作しかないな、という事になった。すなわち、

 コンピュータで、MIDIデータを制作し、
 それを、コンピューターに演奏させて、音楽データを得る(MP3等の形式での)

という方法である。

様々にある音楽制作の方法の中で、好き好んで、この方法を選んだというのではない。いろいろな方法を考えてはみたが、これはダメ、あれもダメと、消去法によって様々な方法が消されてしまい、残った唯一の方法がこれだったのだ。

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3.曲全体の構成

さまざまに考案の末に、[3部形式]で、てがたく行くことに決めた。

[3部形式]は、多くの作曲家が採用してきた形式で、その構成については、[A-B-A]、あるいは、[A-B-A']と説明されているケースが多い。

すなわち、曲の最初の部分に[A]と記号をつけるならば、それに続く部分としては、[A]とは異なる曲想のもの[B]を配置し、その次に、再び、[A]と同じものを、あるいは、[A]を少し変形した[A']を配置して、曲を終わらせる、というスタイルだ。

『水面上に水滴が落ち続ける, 作品3』では、[A-B-A']の構成とすることとした。それぞれの部分の開始・終了時刻は、下記の通りである。(記述されている時刻は、おおよその値であり、あまり厳密なものではない)。

第1部 (A) :開始直後 ~ 開始後 約1分48秒 経過時点
第2部 (B) :開始後 約1分48秒 経過時点 ~ 開始後 2分39秒 経過時点
第3部 (A') :開始後 2分39秒 経過時点 ~ 終了

この作品の3部形式での構成の実際の姿にご関心がある方は、下記でご確認いただけると思う。波形図の上の場所を、マウスや指で操作することにより、聴きたいと思う場所から聴きはじめる、というような事も、(コンテンツ格納先のサイト運営・クレオフーガが)可能としてくれているようだ。

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4.和声進行

曲を作っていくにおいては、どのような和音を連ねていくか([和声進行]、[コード進行]とも呼ばれる)、ということが重要になってくるであろうと考え、その方法を探るために、様々な知名度高と思われる音楽作品に関する学習を行った。その結果、以下のような、各作品からの影響を受けて曲が構成されていった。

4-1.第1部(A)の和声進行

第1部のイメージとしては、

 [水面上に1個の水滴が落ち、波紋が広がる]

というシーンを一つの単位とし、それが繰り返されていく、というような構成を考えた。

 [水面上に1個の水滴が落ち、波紋が広がる]

の表現としては、

 右手で2個の音符を弾き(レ ソ)(D G)
 その直後に、左手で分散和音を奏でる

という構成とした。左手で奏でる分散和音の形については、時間をかけて様々に考案した結果、現在の形に落ち着いた。

次に問題となったのが、上記の1単位を、どのような和声進行でもって繰り返していくか、であるが、これに関しては、下記の作品がとても参考になった。

 『エチュード 作品25 第1番』 (フレデリック・ショパン 作)

「エオリアン・ハープ」、「牧童」などと呼ばれてきた曲である。

4-2.第2部(B)の和声進行

この部分の和声進行に関して、大いに参考になったのが、下記であった。

 『タンホイザー』(Tannhäuser)(リヒャルト・ワーグナー(ヴァーグナー) 作)の中の、「巡礼の合唱」

4-3.第3部(A')の和声進行

三部形式においては、[第3部]は、[第1部]の繰り返し、あるいは、[第1部]に少し変形を加えたもの、というのが一般的なスタイルなので、ここではそれにならった。

ただ、[第1部]と全く同じ、というのではおもしろくないので、和音のパターンを変えた。

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5.聴く人の心中

この曲を聴いていただいた方の心中には、もしかしたら、様々なものが連想されるのかもしれない。

 山奥にある小さな池の水面の上に、岸に生えている樹木の葉から、水滴が落ち続けている

というようなもの、あるいは、

 自宅のシンクに置いた器の水面上に、水道の蛇口から、水滴が落ち続けている

どのようなイメージを連想していただけるか、それは、聴く人の自由だ。

連想していただくイメージが多種多様であればあるほど、私には喜ばしい。

かりに、下記のようなイメージを連想した、という方がおられるならば、私には喜ばしい。

 熱されて液体状になっている鉄の上に、さらに高温の鉄の滴が、落ち続けている

 コンクリートの床の上に、鉄製の球体が、落ち続けている

イメージの連想は無かったが、なにかある種の、言葉にならないようなものが心中に沸き起こるのを感じた、という事でも、私には喜ばしい。

「聴いてみたけど、ナニも感じなかったよ」というような感想もあるだろう。もうこれは、仕方がない。

100人の人間がいるならば、100通りの個性があり、100通りの感じ方、感受性があるのだろうから。

私は、音楽作品そのものに何らかの[価値]がある、とは考えない。

音楽作品を聴く人が、自らの心中に何らかの動きを感じた時にはじめて、その音楽作品の[価値]が、その場に発生するのだ、と考える。

[価値]は、その音楽作品を聴いた人の心中に、その時、はじめて発生するのだ、と考える。

「音楽作品そのものに[価値]がある」と考えるのは、不合理だろうと思う。

以下、まったくのフィクション(架空話)だが:

遠い未来、地球上に人間がいなくなり、ネコが、それまでの人類が占めていたような地位にある、というようなストーリーを想像してみようではないか。(『猿の惑星』ならぬ、『ネコの惑星』)。

タイムマシンに乗って、この世界にやってきた一人の人間が、1個のカセットテープをバッグから取り出し、ラジカセでもってそれを再生した。

(用語が古いが、それでよいと思う。その人がタイムマシンに乗り込んだのは、20世紀末のいつかであったと考えれば。)

その「カセットテープなるモノ」の中に収められている曲の作者と題名は、ここで何かに特定すると、様々な不都合が生じる可能性があるので、読者の方々の想像におまかせする。多くの人に知られている、と思われるような音楽作品をなにか一つ、想定していただいたらよいだろう。

さて、そのように、ラジカセを大音響で響かせてみたが、それにいささかなりとも関心を持つネコは、地球上に一匹もいなかった、としよう。

それでもなお、その音楽作品に何らかの[価値]がある、といえるだろうか?

音楽作品の[価値]は、それを聴いた人の心中に、何らかの動きが発生した時に、その人の心中に、個々に発生するのだ、と私は考える。

よって、1個の音楽作品を100人の人が聴き、それぞれの心中に何らかの動きが発生した時、100個の価値が発生する、100人のそれぞれの心の中に・・・と、私は考える。

Aの心中に発生した動きが、Bの心中に発生した動きにイコール(同じ、同一、同様)なのかどうか、それは、誰にも、客観的に確かめようがないだろう。

Aの心中に発生した動きが、Bの心中に発生した動きよりも、より高品格、あるいは、より高貴なのかどうか、というような事も、誰にも、客観的に確かめようがないだろう。

(そもそも、「高貴な心の動き」とはどのようなものなのか、その定義すら確立できていないのでは、と思うのだが。)

これと同様に、

 A が 音楽作品X を聴き、Aの心中に、動きα が発生した
 B が 音楽作品Y を聴き、Bの心中に、動きβ が発生した

とした場合、

Aの心中に発生した[動きα]が、Bの心中に発生した[動きβ]よりも、より高品格、あるいは、より高貴、なのかどうか、というような事も、誰にも、客観的に確かめようがないだろう。

(上記の[A]、[B]、[音楽作品X]、[音楽作品Y] に、知っている人名や、知っている作品名をあてはめていただいてもOK)。

 水面の上に水滴が落ち続けている、というイメージ

それを(それだけを)、音楽でもってどのように表現したらよいのか、という事だけを考えて、私はこの作品を制作した。

その制作においては、自分の人生観、信じるところ、好き嫌い、といったようなモノ・コトは、全く、心には浮上してはこなかった。

よって、かりに、人生観、信じるところ、好き嫌い、等々のモノ・コトが、この音楽作品を聴く人の心中に発生したならば、それは、その人(聴く人)が創造したモノ・コトであり、私が創造したモノ・コトではない。だから、その創造のオリジナリティは、聴く人の側にある、ということになるだろう。

(人生観のようなものが生じた、というのであれば、それがどのようなモノ・コトなのか、その内容を聞いてみたいな、と思う気持ちはある。)

音楽を聴いて、何か、心の中に感じること、何か、心の中に動くものがあったならば、その時、その音楽を聴く人は、自らの心中において、すばらしい創造(価値を創造)を行っているのだ、と思う。音楽作品は、その創造の化学反応をスタートさせるための、単なる触媒に過ぎないだろう。

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下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲(クレオフーガ・サイト中にあり)

2017年5月10日 (水)

音楽制作のおもいで 車輪がまわる, 作品2

『車輪がまわる, 作品2』  この自作の曲については、とりわけ、おもいでが深い。

当時、私が書いた制作メモには、下記のような趣旨の事が書かれている。

 2014年2月のある日に、この作品の最初の部分(序奏部の直後にある部分)の音楽的イメージを発想した。
 それ以降、そのイメージをもとに作曲作業を行い、
 2014年3月のある日に、作曲作業が完了した。

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私が、音楽制作をやりはじめたのは、その前年、2013年10月のある日。

深夜、寝床の上で突然、あるメロディーが、私の心中に鳴り響いたのである。初めての体験であった。

そのメロディーを忘れてしまってはいけないと思い、A4コピー用紙を取り出し、その上にフリーハンドで5本の直線を描き、その上に、音符を書いて、そのメロディーを書きとめた。

幼少時からピアノを習っていたので、五線の上に音符を書いていく方法は知っていた。

書かれた音符をながめながら、まさか、この自分が作曲?と思ったが、ま、いいか、せっかくメロディーが生まれたのだから、行けるとこまでいってみようじゃぁないの、と思い、そのまま制作を続けていったら、主題と5つの変奏曲からなる一つの作品になってしまったので、それに、作品番号[1]をつけた。

問題はそこからだった。これに続けて、次なる作品、すなわち、作品番号[2]のものが、自分の心中からはたして、出てくるのかどうか。作品番号[1]ね、いや、あれは、ほんの気まぐれで、それこそ、マグレで作ってしまったのであった、音楽制作と自分とはしょせん、縁が無かった、ということに、結局は、なってしまうのかどうか・・・。

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結局は、作品番号[2]の楽曲が、自分の心中から出てきた、『車輪がまわる, 作品2』として。

上記に、「2014年2月のある日に、この作品の最初の部分の音楽的イメージを発想した。」とあるが、その「発想」の現場は、某診療所の待合室である。診療の順番待ちの時に、ヒラメイてしまったのだ。その時の情景はもう記憶から消失してしまっているが、おそらく、てもとにあった何かの紙の上にでも、フリーハンドで5本の線を引き、そこに音符を書きつけたのであろう。(作品番号[1]のあの時と同様に)。

その頃すでに、パソコンを使用しての楽曲制作の作業をできるようにはなっていた。(ネット上の様々な情報を学習することにより)。

しかし、できあがった音楽作品を、いかにして世に送り出すか、ということについては、右も左も分かってない状態だった。

せっかく、音楽作品が生まれ出てきた、というのに、それが誰にも聴いてもらえないまま、というのでは、少なからず残念。というわけで、様々な音楽界のプロの方々のもとをたずね、相談してみたが、その問題(いかにして世に送り出すか)の解決の糸口がつかめないような状態が続いていた。

その当時、ピアニストにこれを演奏してもらって世に公表していく、という方向で、考えていた。(ネットを活用しての公表、という方向も、頭の片隅にはあったが。)

そのような、停滞状態が続いていく中に、更に次の作品が生まれた(作品番号[3])。

この傾向が続いていけば、作品は次々と生じていくであろう、という予感がしてきた。もうとても、作品ができるたびに、ピアニストにお願い、という事ではムリ、ということで、パソコンとネットを活用しての制作および作品公表の方向へと、決した。

(すなわち、自らの心中に生じた音楽を、パソコンを使用してMIDIデータの形で表し、そのMIDIデータから、ソフトウェアを使用して、楽曲データを生成し、その楽曲データをネット上に公表、という方法に。)

当時、「ネットを活用する」ために、使用可能なサイト(いわゆる、「音楽投稿サイト」)はさまざまあった。複数のサイトを使用して試行錯誤した末に、今月から、[クレオフーガ]使用となった。

[クレオフーガ]に投稿した楽曲作品を、自分のブログから聴いていただくようにすることが可能だ、下記のように。よろしければ、私が作曲した作品・『車輪がまわる, 作品2』を、下記よりご試聴ください。

下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲

2017年5月 8日 (月)

太平記 現代語訳 3-6 櫻山四郎入道とその一族若党、備後国・一宮にて自害

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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備後国(びんごこく:広島県東部)で倒幕に決起した櫻山四郎入道(さくらやましろうにゅうどう)は、備後半国を平らげた後、東の方は備中(びっちゅう:岡山県西部)まで進軍し、西の方も安芸(あき:広島県西部)までも制圧せんと、もくろんでいた。

そのように意気込んでいるところに、「笠置寺は陥落、楠、自害」との情報が飛び込んできたので、いったんは彼のもとにはせ参じた者たちも、みるみる陣から去っていく。

ついに、櫻山の側に残るは、運命を共にする親族たちと長年つかえてきた若党たち、合計20余名のみ、という状態になってしまった。

櫻山四郎入道 うーん、これまでかのぉ・・・鎌倉幕府の力は盤石、日本全国寸分の地も余すところ無く、支配しとるけんのぉ。

櫻山軍団一同 ・・・。

櫻山四郎入道 こないなってしもぉては、わしらの親しい者らでさえも、とてもわしらを匿(かく)うことなんて、できんでのぉ。

櫻山四郎入道 ましてや、親しくない者らなんどは、なぁも頼みにはならんで。

櫻山四郎入道 他人の手にかかって屍を野にさらすよりは、自決した方が・・・のぉ、みんな!

櫻山軍団一同 はい!

彼らは意を決し、備後国の一宮(いちのみや)へ参った。

社の前で櫻山四郎は、まず、今年8歳になった最愛の息子と、長年つれそった27歳の妻を、刺し殺した。さらに、社壇に火をかけ、自らも腹かっ切り、一族若党23人、みな灰燼となって果てた。

他に死に場所はいくらでもあったろうに、なぜ櫻山は、備後国・一宮の社壇に火をかけて、焼死したのか?

かねてより櫻山は、この一宮への信仰あつく、社の建物の破損著しいのを嘆き、なんとかしてそれを再建しよう、との大願を持っていた。

しかし、そのような大事業を行うには、志のみあれど力不足。今回の倒幕計画に参加したのも、朝廷からの恩賞に預かって、この大願を成就しようとしてのことであった。

「神は非礼を享(う)け給わざり」ということであったのか、所願空しく、死んでいったのであるが、

櫻山四郎入道 (内心)この社を焼き払ってしまえば、朝廷も幕府もやむを得ず、「何とか社を再建せよ」という事になるじゃろぉて。我が身はたとえ、地獄の底に落ちることになろうとも、この社殿再建の願が成就するのであれば、何も悲しむ事はないぞ。

かくなる勇猛心を奮い起こし、社に火をつけ、その中で絶命していったのである。

衆生救済のためには、神にでも人間にでも変身して世に現れようとの、み仏の慈悲の誓願を思えば、順縁(じゅんえん)、逆縁(ぎゃくえん)(注1)、いずれも、済度利生の方便(さいどりしょうのほうべん:注2)といえる。

社殿への放火という、今生(こんじょう)での逆罪も、まわりまわって、来世の良き仏縁になるであろうと、よくよく深く思い定めた上での、櫻山四郎入道のこの行為であったのだ。

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(訳者注1)仏にそむく行いをする者にさえ、仏は救済の縁を繋ぐ、という意味。

(訳者注2)人々を救済するための手段。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年5月 7日 (日)

太平記 現代語訳 3-5 変幻自在・楠正成流戦術・赤坂城攻防戦

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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笠置寺を攻めあぐねている六波羅庁軍の援軍として、関東からはるばるやってきた幕府軍であったが、まだ近江国(おうみこく:滋賀県)にも入ってないというのに、「笠置寺落城せり!」と聞いてガックリ。

幕府軍リーダーA なんだ、こりゃぁ。

幕府軍リーダーB 残念だなぁ。

幕府軍リーダーC こうなったらさぁ、楠(くすのき)とやらがたてこもってる、赤坂城を攻め落とすっての、どう?

幕府軍リーダー一同 いいねぇ! 

そこで彼らは京都へは向かわずに、伊賀(いが:三重県西部)、伊勢(いせ:三重県西部)の山越えルートをたどり、宇治(うじ:京都府・宇治市)、醍醐(だいご:京都市・山科区)を経由、楠正成(くすのきまさしげ)がたてこもっている、赤坂城(あかさかじょう:大阪府・南河内郡・千早赤坂村)へ向かった。

石川(いしかわ)の川原を過ぎたあたりから、赤坂城が見えだした。

いかにもにわかづくり、という感じの城である。堀をしっかり構えているでもなく、板塀をたった一重、張り巡らしだけ。城の敷地と言っても、せいぜい2、3町四方だろうか。その中に、櫓(やぐら)を2、30個ほど並べ建てているだけ。

幕府軍リーダーA オイオイ、あれでも「城」かぁ? ヒデエもんだなぁ、ったくう!

幕府軍リーダーB なんてぇブザマな構えなんだよぉ!

幕府軍リーダーC あんなチッポケな城なんざぁ、おいらの片手に乗せて一投げだぁ!

幕府軍リーダーD あの中にいる楠正成とやらも、あわれなもんだねぇ。

幕府軍リーダーE おおい楠よ、せめて一日くらいはなぁ、奇跡でも起こって、もちこたえてくれよなぁ、おいらが城攻めの手柄を見事に立てて、恩賞に預かれるようになるまでな。

幕府軍一同 ワッハッハー!

幕府軍30万は、城にうち寄せると同時に、馬を乗り棄てて掘の中に飛び降り、われ先に城に攻め入らんものと、櫓の下まで突進していった。

楠正成 フフフ・・・来よったなぁ。

楠正成という男、陣屋の内にて練った謀略を、千里のかなたの戦場に適用して、勝利を手中におさめてしまう、というような戦の天才、まさに、古代中国・漢王朝創立時の名参謀・陳平(ちんぺい)と張良(ちょうりょう)(注1)の、肺と肝の間から生まれ出できたような人間である。

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(訳者注1)二人とも漢の高祖の参謀として歴史上に名高い。
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彼は、弓の達者な者ら200余人ほどを城中に配備する一方、弟・楠正季(くすのきまさすえ)、和田正遠(わだまさとお)の二人に300余騎を与え、付近の山中に伏兵として潜ませていた。

そんな事ともつゆ知らず、幕府軍は目の前の城にばかり気を取られ、一気に落城させんとばかりに、四方から一斉に、切り立った崖の下に押し寄せた。

その瞬間、城の櫓の上の狭間(はざま)の陰から、矢の雨が!

楠軍の射手らは、弓にしっかと矢をつがえ、弦をギリギリギリと引き絞り、鏃を押さえて狙いすませながら、さんざんに矢の雨を浴びせかけてくる。たちまちのうちに、幕府軍側、死傷者1000余人、という事態に。

幕府軍リーダーA えーっ、思ったよりも、てごわいじゃん。

幕府軍リーダーB この分じゃぁ、一日二日くらいでは、とても落とせねぇよなぁ。

幕府軍リーダーC マズイよ、このままじゃ!

幕府軍リーダーD ここはとにかくだなぁ、まずは、各々きちんと陣を取ってぇ、陣屋もちゃんと設営してぇ、それからみんなで手分けして、じっくり攻めるって事にしねぇかい?

幕府軍リーダー一同 どうもその方が、いいみてぇだね。

ということで、幕府軍は攻め口を少し後退させた。

幕府軍リーダーA とにかく、ひとまず休憩だ。

幕府軍は全員、馬から下りて鞍を外し、鎧を脱ぎ、陣屋の中で休憩を取り始めた。

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伏兵部隊を率いる楠正季と和田正遠は、戦場の状況を、山上からじっと見下ろしていた。

和田正遠 よぉーし、あいつら、武装解除して、休憩取りはじめよったでぇ。

楠正季 今が絶好のタイミングやろな。よし、行くぞ!

和田正遠 よっしゃぁ!

二人は300余騎を二手に分け、東西の山の木陰から一気に出た。

菊水(きくすい)の紋(注2)の旗二本を松の嵐になびかせ、山にただよう靄を巻き上がらせながら、粛々と馬の歩を進め、幕府軍に接近していく。

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(訳者注2)楠家の紋印である。
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幕府軍リーダーA おいおい、あれはどこの家のヤツラだ?

幕府軍リーダーB いってぇ、敵か味方か、どっちなんだ?

楠正季と和田正遠 エェイ! エェイ!

二人が率いる楠側軍団一同 オォーウ!

楠軍300余騎はトキの声をどっと上げ、雲霞のごとく並ぶ幕府軍30万騎の両サイドから、魚鱗(ぎょりん:注3)陣形をもって突撃、幕府軍陣営を東西南北へ破(わ)り通り、四方八面に切り回る。幕府軍サイドは、ただあわてふためくばかり、まともに陣形を組む事もできずにいる。

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(訳者注3)魚の鱗のように密集する陣形。自軍より兵力の多い相手に対する時に取る陣形である。
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それに呼応して、赤坂城の三つの木戸が同時にサッと開かれ、200余騎が、太刀の切っ先を並べて猛然とうって出てきた。彼らは矢を連続速射しながら、幕府軍に迫ってくる。

大兵力を擁する幕府軍であるにもかかわらず、たったこれだけの人数の楠軍の攻撃に驚きあわて、逃げまどうばかり。

幕府軍メンバーF それ行け、進め! あれっ・・・いったぇなぜ、前に進まんのだ?

馬を綱につないだまま、いくら鞭を当てても、それはムリというものであろう。

幕府軍メンバーG おのれ、この矢を受けてみよ! あれっ・・・。

弦を張りもしないで、いくら弓に矢をつがえてみても、飛ぶはずがない。

幕府軍メンバーH この鎧はオレのだぁ!

幕府軍メンバーI ナニ言ってやんでぃ、これはオレの鎧じゃぁねぇか!

幕府軍メンバーJ こらっ、それはオレの鎧だぞ! そのキタネェ手を離しやがれぃ!

こんな争いをしているものだから、主君が討たれても従者はそれに気づかず、親が討たれても子はそれを助けず。蜘蛛の子を散らすように、みな、石川の川原へ退いていく。

その道筋50町ほどには、遺棄(いき)された馬や鎧が、足の踏み場もないほど散乱している。それらをせしめた戦場周辺、東条郡(とうじょうぐん)の者たちは、その日以来、急に金まわりが良くなったとか。

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さすがの幕府軍も、思いの外の失敗続きで緒戦に敗退、「楠正成の武略あなどりがたし」と思ったのであろう、吐田(はんだ:奈良県御所市)、楢原(ならばら:奈良県御所市)のあたりに押し寄せたが、すぐに、動き出そうとはしない。

幕府軍リーダーA しばらくは、ここいらにじっくりと腰を落ち着けてさぁ、このへんの地理がよく分かってるやつに案内させて、まず、山の木をみんな刈り払ってしまおうじゃん。そしたら、昨日みてぇに、背後を襲われる恐れも無くなるわさ。

幕府軍リーダーB ここいらの家も、みんな焼き払っちまおうぜ。

幕府軍リーダーC そうそう、そうやって、後顧の憂いを無くしてから、あの城をじっくりと攻めるとしようぜ。

これを聞いて、本間(ほんま:神奈川県厚木市)、渋谷(しぶや:神奈川県藤沢市)の武士たちから、一斉に憤りの声が上がった。楠軍に親や子を討たれた者が、彼らの中にはことのほか多かったのである。

本間・渋谷軍団K あのなぁ、おいらたちはさぁ、今さら生きながらえたところで、もうどうにもならねぇんだっつうの!

本間・渋谷軍団L おまえらが攻めたくねぇってんなら、もういいよ! おいらたちだけで、城攻めすっからさぁ。

本間・渋谷軍団M そうだそうだ、おいらたちだけで攻めて、おいらたちだけがみんな討死にすりゃぁ、それでいいんだぁ!

幕府軍リーダーA マァマァ、そう怒るなってぇ。

幕府軍リーダーB ウモォー、どうしようもねぇヤロウどもだなぁ・・・。なにも、おまえたちだけで攻めろ、なんて、言ってやしねぇだろぉ!

幕府軍リーダーC じゃ、そろそろ城攻め、再開すっかぁ。

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赤坂城は、誰の目から見ても、「極めて攻めやすい城」の典型。

城の東側だけは山田の畔が高く重なる急斜面で少々の難所と言えようが、残り3方は全て平地に向かって開けており、境界には掘が一重、塀が一重あるだけ。

「いかなる鬼神が城内にたてこもろうとも、何程の事があろうか」と、幕府軍はみな、これをあなどっている。攻撃再開後、彼らは一斉に掘の中へ飛び込み、城の切岸(きりぎし)の下まで詰め寄り、逆茂木(さかもぎ:注4)を取り除いて、赤坂城の中になだれこもうとした。

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(訳者注4)敵の前進を食い止めるために、イバラの枝を敵が来る方向に立てて地面に設置したもの。
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幕府軍リーダーA おい、なんか、おかしくねぇか?

幕府軍リーダーB いったいナニがぁ?

幕府軍リーダーA 我々がここまで迫ってきてるってぇのにさぁ、城の中はひっそりと、静まり返ってるじゃぁねえかよ。

幕府軍リーダーC ハハァン、オレにはヨめたぞ、敵の魂胆が。きっと昨日みてぇに、矢を一斉射撃してきて、こちら側の損害が多数出たとこ狙って、我々の背後から軍をしかけて、乱戦に持ち込もぉってんだよ。

幕府軍リーダーA だったら、こちらにも打つ手はあるぞい。我が方の兵力から10万余を割いて、背後の山に差し向けて後顧の憂いを無くした上で、残り20万でもって、城を攻めるとしようじゃねぇか。

かくして、幕府軍20万余は稲麻竹葦が群生するごとく、赤坂城をびっしりと包囲して攻め懸けた。

しかしなおも、城の中からは矢の一本も射るでもなく、人の気配も全くない。幕府軍は勢いづいて、四方の塀に手をかけ、一斉にそれを登り越えようとした。

と、その時、

楠正成 それっ、綱切れぇ!

楠軍メンバー一同 あいよっ!

綱 プツン! プツン! プツン!

塀 バタン! バタン! バタン!

幕府軍メンバー一同 ウアアア!

なんと、塀は二重構造になっていて、いざという時には、外側の塀を切って落とせるような仕掛けになっていたのであった!

城中から、四方の塀の釣り縄を一気に切って落としたので、塀に取り付いていた幕府軍千余人もろとも、塀は倒れていく。彼らは、倒れた塀に押さえつけられて身動きもできず、目ばかりキョロキョロさせている。

するとそこへ、

楠軍メンバー一同 ワレ、これでも食らわんかいや!(注5)

木・岩 バーン バーン ゴロゴロ

城の上から楠軍は、大木や巨石をメチャクチャ投げつけ、転がしてくる。

かくして、幕府軍はまたしても、700余人もの死者を出してしまった。

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(訳者注5)河内弁においては、「われ」は2人称として使用され、「あなた」の意味となる。「食らわんか」は「召し上がれ」の意味。ちなみに、大阪府枚方(ひらかた)市には「名物・くらわんか餅」がある。その昔、淀川を船で行き来する旅人目当てに、近在の人々が「うまい餅くらわんか」と言いながら、餅を販売したのがその始まりとか。
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幕府軍サイドは、もうすっかり懲りてしまい、城を攻めようと言う者など、もはや皆無になってしまった。

彼らは城の周囲に陣を取り、城を遠巻きにしながら、形勢を窺うだけの毎日になってしまった。

4、5日ほど、このような状態が続いた後、

幕府軍リーダーA オイオイ、こうやってオチコンダ気分のまんまでさぁ、毎日じいっと陣を守っているしか、ねぇのかよぉ!

幕府軍リーダーB これじゃぁ、あまりにもフガイネェってもんだよなぁ。

幕府軍リーダーC おいらたちが攻めあぐねてるあの城ってさぁ、たった四町四方の、それも平地に立ってる城なんだよねー。

幕府軍リーダーD その中にたてこもってやがる敵といやぁ、たったの4、500。

幕府軍リーダーE それをだなぁ、関東8か国から集まってきた、わが軍勢が攻め落とすこともできずによぉ。

幕府軍リーダーA ただただ遠巻きにして、じっと指をくわえて見ているしかねぇとはなぁ・・・あーあ、もうヤンなっちゃったよ、おいら。

幕府軍リーダーB いつまでもこんな事してたんじゃぁ、「あいつら、いってぇ、ナニ、ブザマな事、やってやがんでぃ!」とかなんとか、後々までモノワライのタネにされちまうじゃん。ヤダなぁー。

幕府軍リーダーC いやいやぁ、こないだのあれはさぁ、戦術ミスってもんだよ。盾も使わねぇで、十分な装備も用意しねぇままに、いきなりエエーイって攻めちまったから。で、あんなにたくさんの死傷者を出しちまったんだ。だからさぁ、今度は別のやり方で攻めて見ようよ。

幕府軍リーダーD いってぇ、どんなやり方ぁ?

幕府軍リーダーC しっかり叩いて強化した皮をさぁ、盾の表に張っつけんだよ。そしたら、その盾、ちっとやそっとじゃ破れねぇようになるだろ? そうやって作った盾を、皆に持たしてだな、そいつを頭上にかざしながら、兵を前進させんだ、どうだい?

幕府軍リーダー一同 おォ、それってなかなかいいじゃん、やってみようぜ!

幕府軍、さっそく攻撃再開。

切岸もそれほど高くない、堀もさほど深くない、城に走り寄って塀に取り付くのは、さほど困難な事とは思われないのだが・・・。

幕府軍メンバーN (内心)この塀も、もしかしたら・・・。

幕府軍メンバーO (内心)こないだみてぇに、切って落とす仕掛けでも仕込んであるんじゃぁ?

幕府軍リーダーC とにかく、油断は禁物だぞ。いきなり塀に近づいたりしねぇで、まず、掘の底に入れ。

幕府軍メンバー一同 よぉし!

幕府軍リーダーC みんな、堀の底に入ったなぁ。よし、そこから熊手を伸ばしてな、塀に絡ませろ。そしてな、みんなで一斉に熊手を引いて、塀を倒すんだ!

幕府軍メンバー一同 よおし・・・いくぞ! セェノォ! セェノォ! セェノォ!

もう少しのところで塀を崩せるか、というまさにその時、城の中から1、2丈ほどの長さの柄がついたヒシャク多数が、サッと伸びて出てきた。

楠軍メンバーP あらぁ・・・関東から遠路はるばるお越しの幕府軍の皆様、お疲れ様どすなぁー。お風呂もわきましたし、ゆっくりおつかりやすう。

ヒシャクの中に入ったグラグラ沸きたった熱湯が、一斉に幕府軍の頭上に浴びせかけられた。

兜の頂の穴や鎧の肩の端の隙間から、熱湯が流れ込んできて、身体を焼けただらせる・・・幕府軍もこれにはたまらず、盾も熊手も全てうち棄て、ハァッと退却していく・・・あぁ、なんと見苦しいことよ。

その場で即死こそはせずに済んだものの、手足に火傷を負って立ち上がれなくなってしまった者、あるいは全身に大火傷を負って病み伏してしまう者、その数は2、300人ほどにも及んだ。

このような、「あぁ攻めればこう守る、こう攻めればあぁ守る」という展開に、「もうこうなったら、兵糧攻めあるのみ」と、幕府軍の作戦会議は決した。

この後、幕府軍サイドは戦闘を完全にストップし、各々の陣営に櫓を築いて逆茂木を構え、城を遠巻きに包囲し続けた。

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こうなると、城中の楠軍サイドは、かえって心慰む事も無くなってしまい、士気も徐々に緩んでいく。

実のところは、楠正成はこの赤坂城を、急ごしらえで築城していたのである。だから、兵糧の備蓄も十分にはできていなかった。合戦が始まってわずか20日余り経過というのに、城中の兵糧は早くも底を尽き、あと4、5日分のみを残す状態に、なってしまっていた。

正成は、楠軍団全員を招集した。

楠正成 おぁい、こないだまでの合戦なぁ、わいらのボロ勝ちやんけ! 敵さん、めっちゃ、イテこましたって、ごっついオモロかったなぁ。

楠軍団一同 はいな、はいなぁ!

楠正成 そやけどなぁ、敵サン、あれだけの大軍やろ? 残念ながら、実際のとこは、あんまりコタエとらんわなぁ。

楠軍団一同 ・・・。

楠正成 あんなぁ、問題は食糧やねん。

楠軍団一同 ・・・。

楠正成 そや、食糧、問題はこの城の中の食糧じゃぃ! おまえら、よぉ聞けよぉ、実はな、城の中の食糧、もう無ぉなりかけてきとんじゃい!

楠軍団一同 ・・・。

楠正成 かというてやな、援軍の来るあてもないしなぁ。

楠軍団一同 (唇を噛む)・・・。

楠正成 日本国中の先頭切って、陛下の天下平定をお助けしようと志した、このわしや、節を全うするために、義を重んずるためには、わが命、そうや、わが命、投げ捨てたかて、惜しぃないわい!

楠正成 そやけどやな、「大事に臨んでは、心落ち着け、謀略を練る」っちゅうのんが、「真の勇士」、いうもんやんけ、ちゃうかぁ?

楠軍団一同 その通りやぁ!

楠正成 と、いうわけでやな、ここはひとまず全員、この城を脱出しもってからに、わしが自害したようにカムフラージュしたろ、思ぉとるんやわ。

楠正成 「楠正成、自害せり!」となってみぃ、あいつら、大喜びで関東へ帰って行きよるやんけ。

楠軍団一同 ・・・。

楠正成 さぁ、そないなったとこでや、そこでまたわしが、甦るっちゅうわけやなぁ、「コラコラァ、おんどりゃぁ、チョイ待ったらんかい! 楠はまだ生えとるでぇ! わしの顔、よぉ見さらせぇ! カムバック、そうや、奇跡のカムバァックやねんどぉ!」とかナントカ言うてな、また、顔出したろかい。

楠軍団一同 ウヒャヒャヒャ・・・。

楠正成 でぇ、また幕府軍が押し寄せて来よったら、今度はな、もっと山奥へ引きこもるんや。そこに立て籠もってなぁ、4、5回ほど、あいつらカワイがったろやんけぇ。

楠正成 どぉや、みんなぁ、そないなってきたら、ヒッジョーニ、オモロイ日々の連続になっていく、思わへんか!

楠軍団一同 思うー!

楠正成 以上、わしら全員の命を完うしながら、敵を亡ぼすわしの計略や。おまえら、どない思う? どうや、わしのこの戦略は?

楠軍団メンバーQ えぇわぁ、サイコー(最高)!

楠軍団メンバーT さすがはオカシラや、わいらとは、頭の構造が、ちゃ(違)いまんなぁ。

楠軍団一同 よぉし、それでイ(行)ったルロやんけェー!

というわけで、城中に大きな穴を2丈ほどの深さに掘り、先日の合戦で戦死して、堀の中に倒れたままになっている者の死骸2、30ほどを、その穴の中に入れた。そして、その上に炭と薪を積み、風雨の激しい夜の到来を待った。

楠正成という男、よくよく天の意にかなう存在であったと見える。地球大気の運行までもが彼を助ける・・・にわかに、強風が砂を巻き上げて吹き始め、しのつくような大雨が降り始めた。

暗黒の闇の中、幕府軍全陣営は幕を引き下ろし、静まりかえっている。

チャンス到来! 城中には一人だけを残すこととし、楠正成は彼に指示を下す。

楠正成 わいらが城から4、5町ほどの距離まで、逃げたころあい見計ろぉてな、城に火ぃかけるんやぞ、えぇな!

楠軍団メンバーU よっしゃ!

楠軍団メンバーは全員、鎧を脱いで城を脱出、包囲している幕府軍の中に紛れ込み、5人あるいは3人のグループに分散し、陣屋の前、軍勢の枕の上を越えて、しずしずと落ち延びていく。

ところがここに、一大事発生!

幕府軍・侍大将(さむらいだいしょう)の長崎高貞(ながさきたかさだ)の厩(うまや)の前を通過する時、正成は、一人の武士に見とがめられてしまった!

幕府軍メンバーV おい、そこのっ、いったい何者だ! この陣屋の前を名乗りもせずに、こっそり通り過ぎていくとは、怪しいヤツ!

楠正成 いやいや、あっしは、こちらの大将の身内の者でごぜぇやすよ。ちと、道を間違えてしもぉたようで・・・。

このように答え、足早にそこを通過しようとしたが、

幕府軍メンバーV うーん、怪しい! おそらく、馬盗人だな、射殺してやる!(正成の方に走りより、彼の体のど真ん中をねらって矢を放つ)

矢 ヒュッ・・・コーン!

放たれた矢は、正成の肘の関節に音を立てて命中、そこに深々と突きささるかに見えた。が、しかし・・・鎧も着けてない身体に命中したにもかかわらず、不思議にも、矢は少しも突き立つことなく、逆向きに跳ね返ってしまった。

正成たちは、そこから一目散・・・。

楠正成 (ハァハァ・・・)あぁ、(ハァハァ・・・)危ないとこやったぁ、(ハァハァ・・・)。

楠軍団メンバーW (ハァハァ・・・)それにしても、(ハァハァ・・・)不思議やなぁ、あの矢、(ハァハァ・・・)たしかに、オカシラの肘に、(ハァハァ・・・)突きささったと思ぉたんやが(ハァハァ・・・)。

楠正成 (ハァハァ・・・)観音様に、命助けてもろたんやがな、(ハァハァ・・・)これ、見てみぃ(ハァハァ・・・)。

矢が当たったまさにその箇所には、正成が肌身離さず身につけていたお護(まも)りがあり、それが矢をはね返したのであった。その中には、彼が常に信仰し、朝夕に読経し続けてきた観音経(かんのんきょう:注6)が入っていた。

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(訳者注6)法華経普門品(ほっけきょうふもんぼん)の章中に含まれる経である。そこでは、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)信仰によってもたらされる利益(りやく)が、詳細に解説されている。
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しかも、その経文中の「一心称名(いっしんしょうみょう)」という二句のちょうど上に(注7)、鏃の先端が折れて刺さっていたというのだから、まことに不思議な事であるとしか、言う他はない。

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(訳者注7)「一心に観世音菩薩の御名をお称えすれば、~」という意味が書いてある箇所。
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正成たちはこのようにして、「必死の鏃(ひっしのやじり)」の襲い来る死地から逃れ、戦場から20余町ほど隔たった地点に到達した。

背後を振り返って見れば、赤坂城は火の海に包まれている。

楠正成 よしよし、あいつ、わしの命令通りにちゃぁんと、城の方々に火ぃかけよったなぁ。

突然の出火に、幕府軍サイドはビックリ。

幕府軍リーダーA やったぁ! 城が落ちたぜ!

幕府軍リーダーB それぇ、勝ちドキを上げろぉ!

幕府軍リーダー全員 エイ! エイ!

幕府軍一同 オーーウ!

幕府軍リーダーC 城から、一人も逃がすなよ!

幕府軍リーダーD それ行けぇ!

幕府軍一同 うぉぉぉ!(ドドドド・・・)

赤坂城が完全に焼け落ち、戦場も静かになった後、城中を検分したみたところ、大きな穴の中に炭を積んだ下に、焼死体多数を発見。

幕府軍リーダーA おぉ、あわれなるかな、楠よぉ。すでに自害してたのか。

幕府軍リーダーB 敵ながら、弓矢取っての、あっぱれの最期だったねぇ。

幕府軍メンバーは口々に、正成を褒めたたえた。

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2017年5月 6日 (土)

太平記 現代語訳 3-4 後醍醐天皇、笠置寺を脱出

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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笠置寺においては、風によって東西から延焼の炎が上がり、ついに、御座所にも、火の粉を含んだ煙がかかりはじめ、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)にとって、危機的な状況となってきた。

やむなく、天皇はじめ、皇族、公卿ら、はだしのまま徒歩で、笠置寺を脱出。

寺からはなんとか脱出できたものの、行く先のあても無いまま、足に任せて逃げていく。

はじめ1、2町ほどは、皆で天皇をお助けしながら、前後にお供して行ったのではあったが、風雨は激しく道も暗く、そこかしこに湧き起こる六波羅軍のトキの声に惑わされ、一行は次第に、離ればなれになっていってしまった。

後醍醐天皇 みんないったい、どこへ行ってしもぉたんや、藤房と季房しか、おらんようになってしもたやないか。

まさに、天皇のお側ちかく、陛下の手を引いて進む者は、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)・季房(すえふさ)兄弟の他には皆無、という状態。

おそれ多くも、十善(じゅうぜん)の天子の地位にあらせられる天皇陛下が、田夫野人(でんぷやじん)の姿に身をやつされ、行く先のあても無く、さまよい歩かれるとは・・・あぁ、なんともはや、おいたわしい事である。

後醍醐天皇 (内心)ここはとにかく、なんとしてでも、夜が明けへんうちに、楠正成がたてこもっとる赤坂城(あかさかじょう)へ!

このように、気ばかりあせるのだが、陛下は生まれてこの方、長い距離を歩かれた事など一度もない。夢路をたどるような心地にて、一歩進んでは休み、二歩進んでは立ち止まり、といった状態である。

昼は、路傍の青草茂る墓地の陰に身を隠し、枯れ草を集めてしつらえた粗末なしとねに横たわる。夜は人も通らぬ野原の、露分け行く道にさ迷い歩く・・・薄絹のお衣の袖は、露と涙で乾くひまもなし。

3昼夜かかってようやく、山城国(やましろこく:京都府南部)・多賀郡(たがぐん:京都府・綴喜郡・井手町)の有王山(ありおうやま)の麓まで、たどりついた。

藤房も季房もこの3日間、何も食べていない。足は疲れ、疲労は極限に達している。

万里小路藤房 (内心)もぉあかん・・・体、動かへん。

万里小路季房 (内心)もぉどないなってもえぇわ、敵の手から逃れようという気力もナンも、尽き果ててもぉたわ。

山深い谷間の岩を枕に、夢か現(うつつ)か分からないような心地の中に、グッタリと横たわっているしかない3人であった。

松の梢を鳴らす風の音を、雨が降る音と聞き誤り、藤房は、

万里小路藤房 陛下、雨に濡れますから、さ、あちらの木陰に移りましょう。

木の下露がはらはらと袖にかかるのを、天皇はご覧になって、一首。

 さ(差=指)して行く 笠(=傘)置(ぎ)の山を 出(いで)しより あめ(雨=天)が下には  隠家(かくれが)もなし(原文のまま)

藤房は、涙をおさえながら返歌を詠む。

 いかにせん 憑(たの)む陰(かげ)とて 立ちよれば 猶(なお)袖濡らす 松の下露(したつゆ)(原文のまま)

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さてここに、山城国の住人・深須(みす)入道と松井蔵人(まついくろんど)という二人の者がいた。

彼らはそのあたりの地理をよく心得ていたので、山々峯々を残すところなく捜索、ついに天皇を見つけだしてしまった。

歩み寄ってくる彼らに対して、恐怖に圧倒されながら天皇は、

後醍醐天皇 あ、あんな、おまえらな、あんな、心あるモンやったらな、天皇のご恩を頂いてな、おまえら一家の繁栄を手にいれてみんかい? わしの側についてな、わしを助けぇ!

深須入道 (内心)うーん、そうかぁ・・・もしかしたら、これは、わしの家にとってはドえらいチャンスかもなぁ・・・。陛下を隠し奉って兵を起こしたら、わし、ソク、朝廷軍の大将やん!

深須入道 (内心)いやいや、そんなん、あかんあかん! わしの後ろにおる松井が、わしに同心してくれるかどうか、わからんし・・・こういう、「事漏れやすく道成り難し」な事を考えたら、身の破滅やな。

深須入道は、ただただ黙すばかり、まぁなんと、ふがいない事であろうか。

急な事ゆえ、陛下に乗って頂けるようなそれなりの輿も無い。仕方なく粗末な張輿(はりごし)にお乗せして、まず奈良の内山(うちやま)という所にお移し申し上げた。

市井の声A (涙)まあジツに、おいたわしいことですわ。

市井の声B (涙)古代中国、殷の湯(とう)王が夏台(かだい)に幽閉された時とか、越(えつ)王が会稽(かいけい)で敵の軍門に下った時の惨めな有様と、同じですわなぁ。

市井の声多数 (涙)ほんに、おいたわしいことどすなぁ。

この時、方々の地で、六波羅庁の囚われの身となった人々は以下の通りである。

 尊良親王(たかよししんのう)、宗良親王(むねよししんのう)、峰僧正・春雅(みねのそうじょうしゅんが)、東南院僧正・聖尋(とうなんいんのそうじょう・しょうじん)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ:藤房の父)、花山院師賢(かざんいんもろかた)、洞院公敏(とういんきんとし)、源具行(みなもとのともゆき)、藤原公明(ふじわらのきんあきら)、洞院実世(とういんさねよ)、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、万里小路季房(までのこうじすえふさ)、平成輔(たいらのなりすけ)、二条為明(にじょうためあきら)、藤原行房(ふじわらのゆきふさ)、千種忠顕(ちぐさただあき)、源能定(みなもとのよしさだ)、藤原隆兼(ふじわらのたかかね)、妙法院執事・澄俊法印(みょうほういんのしつじ・ちょうしゅんほういん)。

上皇御所警備担当および諸家の侍の囚人、以下の通り。

 左衛門大夫・氏信(さえもんのたいふ・うじのぶ)、右兵衛大夫・有清(うひょうえのたいふ・ありきよ)、対馬兵衛・重定(つしまのひょうえ・しげさだ)、大夫将監・兼秋(たいふしょうげん・かねあき)、左近将監・宗秋(さこんしょうげん・むねあき)、雅楽兵衛尉・則秋(うたひょうえのじょう・のりあき)、大学助・長明(だいがくのすけ・ながあきら)、足助重範(あすけしげのり)、宮内丞・能行(くないのじょう・よしゆき)、大河原有重(おおかわらありしげ)。

奈良の寺院の衆徒で囚人となった者、以下の通り。

 俊増(しゅんぞう)、教密(きょうみつ)、行海(ぎょうかい)、円実(えんじつ)、宗光(みねみつ)、
定法(じょうほう)、慈願(じがん)、如円(じょえん)、浄円(じょうえん)。

延暦寺(えんりゃくじ)の衆徒で囚人となった者、以下の通り。

 定快(じょうかい)、浄運(じょううん)、実尊(じつそん)。

以上、合計61人。その家来や親族に至っては、とてもいちいち名前をあげることはできない。

あるいは籠輿(ろうよ)に乗せられ、あるいは伝馬(てんま)に乗せられ、白昼、京都へ護送されてくる。

囚人たちの縁者であろうか、街路には男女が立ち並び、彼らを見送りながら、あたりをはばかることもなく泣き悲しんでいる・・・まことに哀れとしかいう他はない。

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10月2日、六波羅北方長官・常葉範貞(とこはのりさだ)(注1)は、3,000余騎にて警護を固め、陛下を宇治・平等院(うじ・びょうどういん)へ、お移しした。

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(訳者注1)3-3中に記した、[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店] および [新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館] の注によれば、この時の六波羅庁北方長官は、[北条仲時]であり、[常葉範貞]ではない。
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その日、関東からの援軍の総大将・大仏貞直(おさらぎさだなお)と金澤貞将(かなざわさだまさ)は、京都へは入らずにそのまま宇治に直行、天皇にお目通りして次のように申し出た。

大仏貞直 まずは、三種神器(さんしゅのじんき:注2)を、こちらにお渡しいただけませんでしょうか。新帝陛下に(注3)に、お渡し申し上げたいので。

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(訳者注2)代々の天皇が継承してきた天皇家の3つの宝物。「内侍所(ないしどころ)(銅鏡)」「八坂勾玉(やさかのまがたま)」、、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」だと言われているのだが、確たるコメントは私にはできない。

(訳者注3)持明院統の光厳(こうごん)天皇。
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後醍醐天皇は、万里小路藤房を介して、次のように言わせられた。

万里小路藤房 陛下は以下のごとく、おおせや、

 「三種神器というものは、古来より、次の天皇が位を天から授かるまさにその時に、前の天皇から直接渡す、いうことになっておる。」

 「国中に威を振るう逆臣が現れ、しばらく天下を自らの手中に握る、という時でさえも、そやつが自分勝手に、次の天皇に三種神器を渡した、というようなことは、いまだかつて、聞いたことがない!」

 「内侍所、あれは笠置寺の本堂に置いてきた。今ごろは戦場の灰になっておるであろう。」

 「八坂勾玉(やさかのまがたま)は、山中で道に迷った際に、木の枝にひっかけて来た。ゆえに、あの地に鎮座しながら、今もなお、わが日本をお守りくださっていることであろう。」

 「草薙剣(くさなぎのつるぎ)だけは、わが手元にある。武家の輩(やから)が天罰をも顧みず、わが玉体(ぎょくたい)に近づこうものなら、そく、自らその刃の上に伏さんと思い、肌身離さず持っておる。断じて、渡さぬ!」

大仏貞直 ・・・。

金澤貞将 ・・・。

六波羅北方長官 ・・・。

幕府側全員、退出。

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翌日、陛下が乗られる車を用意して、宇治から六波羅庁へお移ししようとしたが、

後醍醐天皇 先例に則っての、天皇行幸のスタイルでないと、あかん! そうでないんやったら、ゼッタイに京都へは帰らん!

いたしかたなく、幕府側メンバーらは、屋根の上に鳳凰(ほうおう)を飾った輿を用意し、竜の柄の着物をしつらえる事となった。その間、10月3日まで天皇は平等院に逗留され、その後ようやく、六波羅庁へ移られた。

いつもの行幸の様子とはあい変わり、輿は数万の武士に囲まれ、公卿たちは粗末な駕籠、輿、伝馬で護送され、七条通りを東へ行き、鴨川の河原を北上して、六波羅庁へと向かう。

その行列を見て、人々みな涙を流し、それを聞く者、傷心の至り。

あぁ悲しきかな、昨日までは北極星のように、高貴なる紫宸殿(ししんでん)の玉座に座し、百官礼を尽くして、陛下にお仕えしていたというのに、今は茅ぶき屋根の下、関東の武士たちの捕虜。その束縛のあまりの厳しさに、心を悩ませたもう。

時は移り、事は去り、楽(たのしみ)尽きて、悲(かなしみ)来(きた)る。天人の五衰(てんじんのごすい:注4)、人間の一炊(いっすい:注5)、あぁ、この世は夢か幻か・・・。

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(訳者注4)天人(天上界の住人)の寿命の終わりにあたって現れる五つの兆候。

(訳者注5)穀物を炊いている短い間うたた寝していて、自分の一生の栄枯盛衰の夢を見たという中国の故事。
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六波羅庁に囚われの身となられた後醍醐天皇は、

後醍醐天皇 (内心)ここは六波羅、御所からそれほど遠い所ではない・・・。かつての御所での色々な出来事が、次から次へと思いだされるなぁ・・・。

軒から見上げる月の下を、時雨がザァッと通りすぎていくのを聞き、天皇は一首、

 住み慣れた 板屋(いたや)の軒(のき)に 時雨(しぐれ)降る 音を聞いても 泣けてくるなぁ

(原文)住み狎(な)れぬ 板屋の軒の 村時雨(むらしぐれ) 音を聞くにも 袖は濡れけり

4、5日後、中宮妃から天皇のもとへ、琵琶を送ってこられた。見ると、歌が添えられている。

 主(あるじ)無く 塵(ちり)のみ積もる 四本絃 払う間もなく 涙は落ちる

 (原文)思ひやれ 塵のみつもる 四(よつ)の絃(お)に(注6) 拂(はら)いもあへず かかる泪(なみだ)を

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(訳者注6)琵琶の絃は四本。
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陛下はすぐに返歌を。

 涙ゆえに 半ばの月は 隠れても キミと見た夜の 月忘れへんよ

 (原文)涙ゆえ 半ばの月は(注7) 陰(かく)るとも 共に見し夜の 影(かげ)は忘れじ

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(訳者注7)琵琶の腹には三日月形の模様がある。
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同月8日、六波羅庁・局長の高橋刑部左衛門(たかはしぎょうぶさえもん)と糟谷三郎宗秋(かすやさぶろうむねあき)が六波羅庁に赴き、笠置寺の戦で生け捕りとなった人々に対して、一人ずつ、その処分を決めていき、彼らは、有力御家人たちに預けられることとなった。

 尊良親王(たかよししんのう)は、佐々木時信(ささきときのぶ)に
 宗良親王(むねよししんのう)は、長井高廣(ながいたかひろ)に
 源具行(みなもとのともゆき)は、筑後前司貞知(ちくぜんのぜんじさだとも)に
 東南院僧正・聖尋(とうなんいんのそうじょう・しょうじん)は、常陸前司時朝(ひたちのぜんじときとも)に
 万里小路藤房(までのこうじふじふさ)と千種忠顕(ちぐさただあき)の二人だけは、陛下のお側近くにおるべし、ということで、禁固刑の体(てい)にて六波羅庁に留め置かれた。

同月9日、三種神器を、持明院統サイドの、光厳(こうごん)新天皇にお渡しすることとなった。

源具親(みなもとのともちか)、日野資名(ひのすけな)が、三種神器を受け取り、六条殿・長講堂(ろくじょうでん・ちょうこうどう)へ移送した。その警護は、長井蔵人(ながいくろうど)、水谷蔵人(みずたにくろうど)、但馬民部大夫(たじまのみんぶのたいふ)、佐々木清高(ささききよたか)が担当した。

同月13日、新天皇即位、光厳帝は、長講堂から御所へお移りになった。お供する諸公らは、花のように美しい行列を整え、随行の武士たちは甲冑を帯びて警護に当たった。

後醍醐先帝(せんてい)に仕えていた人々は、咎(とが)ある人も、無き人も、

後醍醐派の人C (内心)わしもそのうち、どないな目に逢う事やろか・・・。

後醍醐派の人D (内心)何を見ても何を聞いても、こわい・・・。自分の身が危ぶまれて。

一方、光厳新帝に仕える側の人々は、忠ある人も無き人も、

光厳派の人E イヤァー、我が身の栄華、今ここに開花ーっ!

光厳派の人F 何を見ても、楽しいやおへんか、何を聞いても心地よいやおへんか。

樹木が実をならせ、葉が陰をなすほど茂る一方で、花は枝から離れ、地上に落ちていく。

困窮(こんきゅう)と栄達(えいだつ)は、時を替え、栄誉(えいよ)と恥辱(ちじょく)は、道を分かつ。

まさにこの世は「はかなき憂(う)き世」とは、今にはじまった事ではないけれども、実にこの時ばかりは、いったい夢を見ているのやら醒めているのやら、さっぱり見極めがたいような、世のありさまである。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年5月 5日 (金)

太平記 現代語訳 3-3 陶山・小見山グループ、笠置寺に潜入して夜襲を敢行

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このように、膠着状態(こうちゃくじょうたい)で日が過ぎていく中に、9月11日、河内(かわち:大阪府東部)から六波羅庁に早馬が!

使者 エライこってすがな。楠正成(くすのきまさしげ)っちゅうヤツが、「わいは天皇陛下の側についたでぇ!」と、旗上げしよりましたわいな。近在の連中ら、野心持っとるもんは、楠の旗の下に集まり、野心ないもんは、そこら中に逃げ出しとりますで。

六波羅庁・リーダーA なにぃっ!

使者 楠グループの連中ら、河内の国中の家に押し入っては、「兵糧(ひょうろう)にもろとくでぇ」いうて、食料、みぃんな、かっさらっていきよりましたがな。してから、自分の館の上の方にある赤坂山(あかさかやま)っちゅうとこに、城構えて(注1)、500騎くらいでたてこもっとりますで。

六波羅庁・リーダーB ウヌヌ・・・。

使者 さっさと楠をシマツせんことには、いろいろとワヤなことも出てきよりますやろ、はよ、軍勢派遣して、鎮圧してぇなぁ。

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(訳者注1)大阪府・南河内郡・千早赤阪村・水分(みまくり)の[下赤阪城]である。
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「これは一大事!」と、大騒ぎしているところに、同月13日の夜、今度は備後国(びんごこく:広島県東部)から早馬が。

使者 櫻山四郎(さくらやましろう)とその一族が天皇方についてな、備後国一宮・吉備津神宮(びんごこくいちのみや・きびつじんぐう:広島県・福山市・新市町)にたてこもり、近辺の連中もそれに加わって、700騎くらいで気勢を上げとりますでぇ。

六波羅庁リーダーA ・・・。

六波羅庁リーダーB ・・・。

使者 備後一国を支配下に収め、更に隣国まで侵入、なんちゅうことまで、企てとるような情勢じゃけぇ、とにかく早いとこ、討伐軍を送りこんでもらわんことにゃぁ、とんでもないことになるじゃろう。ご油断ありませんようにな!

前方においては、笠置の守り堅く、国々から召集した大軍をもってしても未だ落とせず。しかるに今また、背後において、楠、櫻山の逆徒大いに起こり、使者は日々、緊急事態を告げてくる。南蛮(なんばん)、西戎(せいじゅう)、すでに乱を起こし、東夷(とうい)、北狄(ほくてき)もまた、いかがあらん?(注2)

六波羅庁北方長官・常葉範貞(とこはのりさだ:注3)は心休まるひまもなく、毎日早馬を鎌倉へ送っては、ひたすら援軍を請うばかり。

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(訳者注2)昔の中国では、四方の異民族をこのように呼んだ。

(訳者注3)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店] および [新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館] の注によれば、この時の六波羅庁北方長官は、[北条仲時]であり、[常葉範貞]ではない。
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六波羅庁からの急報に、北条高時(ほうじょうたかとき)は大いに驚き、

北条高時 よぉし、早いとこ、大軍団をあっちへ送れい!

かくして、北条家一門と他家より、主要メンバー63人が召集され、軍団を編成することとなった。

大将:大佛貞直(おさらぎさだなお)、大佛遠江守、普恩寺(ふおんじ)相模守、塩田越前守、櫻田三河守、赤橋(あかはし)尾張守、江馬(えま)越前守、糸田左馬頭(さまのかみ)、印具兵庫助(いぐひょうごのすけ)、佐介上総介(さかいかずさのすけ)、名越右馬助(なごやうまのすけ)、金澤貞将(かなざわさだまさ)、阿曽治時(あそはるとき)、足利高氏(あしかがたかうじ:注4)。

侍大将:長崎高貞(ながさきたかさだ:注5)

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(訳者注4)この人はこれから後、太平記中の主要人物となっていく。

(訳者注5)高資の弟。
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それに従う主な武将:三浦介入道(みうらのすけにゅうどう)、武田甲斐次郎左衛門尉(たけだかいじろうさえもんのじょう)、椎名(しいな)孫八郎入道、結城上野(ゆうきこうずけ)入道、小山出羽(おやまでわ)入道、氏家美作守(うじいえみまさかのかみ)、佐竹上総(さたけかずさ)入道、長沼四郎左衛門入道、土屋安芸権守(あきごんのかみ)、那須加賀権守(なすかがごんのかみ)、梶原上野(かじわらこうずけ)太郎左衛門尉、岩城(いわき)次郎入道、佐野安房弥太郎(さののあわのやたろう)、木村次郎左衛門尉、相馬(そうま)右衛門次郎、南部(なんぶ)三郎次郎、毛利丹後前司(もうりたんごのぜんじ)、那波左近大夫将監(なばさこんのたいふしょうげん)、一宮善民部大夫(いぐせみんぶのたいふ)、土肥佐渡(とひさど)前司、宇都宮安芸前司、宇都宮肥後(ひご)権守、葛西三郎兵衛尉(かさいさぶろうひょうえのじょう)、寒河(さんごう)弥四郎、上野七郎三郎、大内山城(おおうちやましろ)前司、長井治部少輔(ながいじぶしょうゆ)、長井備前(ながいびぜん)太郎、長井因幡民部大輔(ながいいなばみんぶたいふ)入道、筑後(ちくご)前司、下総(しもふさ)前司、山城左衛門大夫、宇都宮美濃(みの)入道、岩崎弾正(いささきだんじょう)左衛門尉、高久(こうく)弾正三郎、高久彦三郎、伊達(だて)入道、田村刑部(たむらぎょうぶ)大輔入道、入江蒲原(いりえかんばら)の一族、横山、猪俣(いのまた)の両党。

この他に、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県北東部)、相模(さがみ:神奈川県ほぼ全域)、伊豆(いず:静岡県東部)、駿河(するが:静岡県中部)、上野(こうずけ:群馬県)の5か国の軍勢、合計207,600余騎。

9月20日に鎌倉を発ち、同月末日、前陣は美濃(みの:岐阜県南部)・尾張(おわり:愛知県西部)に到達、後陣はいまだ、高志(たかし:愛知県豊橋市)、二村(ふたむら:愛知県額田郡)の峠付近を行軍。

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さてここに、備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)の住人、陶山義高(すやまよしたか)、小見山次郎(こみやまじろう)という2人の武士がいた。(注6)

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(訳者注6)陶山義高は、岡山県・笠岡市内の地を拠点としていた人のようである。小見山次郎は、岡山県・井原市内の地を拠点としていた人のようである。。
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彼らは、六波羅庁よりの召集に従って笠置寺攻めの軍に加わり、木津川(きづがわ)の対岸に陣取っていたのであるが、「関東よりの大軍、すでに近江国(おうみこく:滋賀県)に到着」との情報をキャッチ、一族若党たちを集めていわく、

陶山義高 なぁ、おめぇら、どがぁに思う?(みんなどう思う?) ここ数日の合戦で、石に撃たれ、遠矢に当たって死んでしもぉた者はいってぇ何千万人か、カウントするのも不可能、いうざまぁねぇで?(ざまじゃないか?)

陶山グループ一同 ・・・。

陶山義高 こぉゆう死に方って、ものすげぇミジメだと、思わねぇか? そがぁな(それほど)大した手柄を立てるでものぉて、あっちゅう間に死んでしもぉて、ゲェコツ(骸骨)いまだ乾かざるに、その名はすぐに消えてしもぉて、というわけじゃ。

陶山グループ一同 ・・・。

陶山義高 じゃけぇ(だから)、どうせ死ぬんじゃったら、みんなの注目がボッケェ(大いに)集るほどの戦、一回でもしてから、死にてぇもんじゃ。そしたらのぉ、我ら陶山グループの名は未来千年にわたって不滅、子々孫々あつい恩賞に預かりっちゅうことになるやろ?

小見山次郎 源平の争乱からこんかた、「大いなる剛(ごう)の者」ゆう名を古今に残しとる人らのこと、よぉ考えてみねぇ(みろ)。いずれもさしたる手柄たぁ思えんよ。

陶山グループ一同 ・・・。

小見山次郎 まずは、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)と平山季重(ひらやますえしげ)の、一ノ谷(いちのたに)の先陣争い、これらぁ、後ろに大軍がおったけぇ、できた事じゃろう?

陶山グループ一同 (うなずく)・・・。

小見山次郎 梶原景時(かじわらかげとき)の2度もん敵陣突撃、これも、息子の源太を助けるためじゃ。

小見山次郎 佐々木盛綱(ささきもりつな)の藤戸渡海(ふじととかい)も、そのへんの地理に詳しい者が道案内してくれたけぇ、できたことだし、佐々木高綱(ささきたかつな)の宇治川(うじがわ)先陣争いも、ようは、イケズキっちゅう馬一頭欲しいがためだけじゃった。

小見山次郎 これっぱかしの事やらかしただけでも、今の世まで語り伝えられて、天下の人々が賞賛するようになるってゆうことじゃぁ。

陶山義高 一方、我らが直面しとる現在の状況はっちゅうにじゃのぉ、日本国中の武士が集まって数日攻めてみても、目の前の寺を落とせんっちゅうわけじゃろ?

陶山義高 その寺をじゃのぉ、わしらのグループだけで攻め落としたとしてみぃ、わしらの名前は古今に並び無く、忠義は万人の上に立つ、ゆうことになるじゃろぉがぁ?

小見山次郎 さぁ、おめぇら! 今夜のこの激しい風雨に紛れて、あの笠置寺の中に忍びこんでじゃのぉ、敵に夜襲をかけて、天下の人々をアァッと言わせて見ようじゃぁねぇか!

陶山グループ一同(50余人) よぉし、やるでぇ!

千に一つも生きて帰れる見込み無し、と全員覚悟を固め、冥土への旅立ちの準備にと、各自、マンダラを描いて身に着けた。

馬の口につける縄を使って10丈ほどのロープを2本作り、それに1尺間隔に結び目を入れ、先端には熊手(くまで:注7)を結び着けた。これは切り立った岩壁を登る際に、木の枝や岩の角にうちかけて使う為である。

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(訳者注7)現在の我々が目にするような竹製のものではもちろんなく、鉄製の爪が出ている道具。
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9月末日の夜、漆黒の暗闇の中、目指す方向さえ不分明、風雨は荒れ狂い、顔を正面向けてはおれないほど。

陶山グループ50余人は、太刀を背に背負い、小刀を腰の後ろに差し、笠置寺北方の断崖、鳥も駆け上がれまいと思われるような高さ数百丈の岩壁にとりつき、登山を開始。

二町ほどは、なんとかかんとかして登ってはみたものの、その上には、さらに険しい断崖がそびえたっているではないか・・・屏風を立てたかのごとく岩石は重なり、古松は枝を垂れ、青苔に覆われた滑りやすい表面。

陶山グループ一同 あぁ・・・。

いかんともしがたく、はるか上方を見あげながら立ちつくす陶山グループの面々・・・。

陶山義高 よし、おれが登ってみるけぇのぉ。

彼は、岩の上をサラサラと走り登り、用意した例の縄を上方の木の枝にかけて、下の方におろした。

陶山グループ一同 おぁ、やったじゃねぇかぁ!

彼らは、陶山義高が垂らしたロープを握り、その一番の難所を易々と登り切ってしまった。

そこから上にはさほど険阻な所もなく、葛の根に取り付き、苔の上をつまさき立ちし、4時間ほどがんばり抜いて、笠置寺の塀際までようやくたどり着いた。

そこで一休みした後、全員その塀を登り越え、寺内に続々と侵入開始。

天皇軍の夜間巡回の兵の後にぴったりとつきながら、寺境内の状態の把握に取りかかった。

正面木戸と西側の坂は、伊賀国(いがこく:三重県北西部)、伊勢国(いせこく:三重県中央部)からやってきた武士1,000余騎が守っている。

からめ手側の出塀(だんべい)(注8)の口は、大和国(やまとこく:奈良県)、河内国の武士らが守っている。

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(訳者注8)崖の上に張り出して造られた砦。下からは非常に攻めにくい。
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南側の坂、仁王堂の前は、和泉(いずみ)国(大阪府南西部)、紀伊(きい)国(和歌山県)の700余騎が守っている。

北方のみ、険しい崖を頼りにしてか、警護の兵を一人もおかず、戦闘能力の無さそうな下部(しもべ)2、3人が、櫓(やぐら)の下に薦(こも)を張り、篝火(かがりび)を燃やして、眠っている。

陶山グループは寺のあちらこちらを巡り、寺内の全貌をあっという間に把握してしまった。

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(訳者注9)

以下、笠置寺で、訳者が撮影した画像である。(2009年11月 撮影)

P1
P01_2
ゆるぎ石 寺の境内に、[ゆるぎ石]という岩があった。説明板によれば、「この石は奇襲に備えるため武器としてここに運ばれたが、使用されなかった。重心が中央にあり人の力で動くため「ゆるぎ石」といわれている」とのこと。

P2
P02_2
貝吹き岩 寺の境内に、[貝吹き岩]という岩があった。説明板によれば、御醍醐天皇軍メンバーの士気を高めるために、この岩の上で法螺貝をさかんに吹いたのだそうだ。また、修験者も、この岩の上で法螺貝を吹いたといわれているのだそうだ。

P3
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寺の境内からの展望 眼下に見える川は木津川。

P4
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寺の境内からの展望 眼下に見える川は木津川。

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陶山義高 問題は、天皇の御座所じゃ、いったいどこかのぉ・・・あっちの本堂の中かいのぉ? ちょっと行って調べてみるとするかのぉ。

その時、天皇軍中の一人が彼らに気づいてしまった!

天皇軍メンバーC こらこらぁ! こんな夜中に大勢で足音たてて、こっそりうろついてるやなんて、怪しいやっちゃ! おまえら、いったいどこのナニモン(何者)や!

陶山吉次(すやまよしはる) (間髪を入れずに応答)いや、わいら、怪しいもんやないで、大和国(やまとこく:奈良県)から来た一団や。今夜は、風雨メッチャ激しぃて、ブッソウやんかぁ。敵が夜襲でもしかけに忍びこんできてないやろかな、思ぉてな、それで、こないして、夜回りしてるんやがな。

天皇軍メンバーC なるほど、そらぁご苦労なこっちゃ。

これで何事もなくおさまってしまったので、それからはあたりを忍ぶこともなく

陶山グループ一同 おのおのがた、陣中ご用心!

と、声高らかに各陣に声をかけながら、粛々と本堂へ。

陶山義高 あっ、あそこじゃ・・・あそこが、天皇の御座所じゃなぁ。

本堂の中に、ロウソク多く灯し、鈴を振る音がかすかに聞こえてくる一角があった。衣冠正した3、4人が、本堂の広縁に着座し、警護担当の武士たちを問いただしている。

天皇側近の公家 誰か、いるか?

警護担当の武士 はい、X国からきましたYでございます!

武士たちは廊下にぎっしりと並んでいる。

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(訳者注10)

以下、笠置山で、訳者が撮影した画像である。(2009年11月 撮影)

P5
P05_2
後醍醐天皇・行在所跡

ここに御座所があったようだ。

P6
P06_2
後醍醐天皇・行在所跡
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陶山義高 天皇の御座所の状況も、これで完全に把握できたし、さぁ、そろそろいくかぁ!

陶山グループ一同 よぉし!

彼らは、笠置寺境内の鎮守の社の前で一礼した後、本堂の上方の峰に登り、そこにあった無人の建物に火をかけ、一同そろってトキの声をあげた。

陶山義高 エイ! エイ!

陶山グループ一同 オーーウ!

陶山グループ一同 この寺、もらったでぇ!

寺を包囲している六波羅軍は、このトキの声を聞いてビックリ、

六波羅軍リーダーD やや! あっちサイドに裏切り者が出て、寺に火をかけたようだぞ! よぉし、こっちも彼らにあわせて、トキの声を上げろ!

六波羅軍リーダーD エイ! エイ!

六波羅軍7万余人 オーウ!

その声は天地に響きわたり、8万由旬(ゆじゅん)の高さがあるという須弥山(しゅみせん)も崩れるかと思われるほど。

陶山グループ50余人の頭の中には、寺内のレイアウトは、もう完全に入ってしまっている。

こちらの陣所に火をかけては、あちらに移ってトキの声を上げ、あちらにトキの声を上げれば、こちらの櫓に火を放ち、四方八方に走り回り、寺中に大軍が充満しているかのように見せかける。

各所を堅めていた天皇軍側の武士らは、寺内に敵の大軍が突入してきたものと勘違いし、鎧を脱ぎ捨て、弓矢をかなぐり捨て、崖も掘も乗り越え、倒れ転びながら、逃走していく。

自軍のこの、ブザマな様を見た錦織判官代(にしこりのほうがんだい)は、

錦織 あぁ、どいつもこいつも、なんちゅう情けないやっちゃ! 陛下に頼りにしていただいて、鎌倉幕府を敵に回したほどのもんらが、敵が大勢やからいうて、いっこも戦わんと逃げるんかぁ! ここで命捨てな、どないすんねん!

彼は、向かってくる六波羅軍の面々に走りかかり、上半身もろ肌脱ぎになって戦い続けたが、刀折れ矢尽き、ついに、父子2人とその郎党13人、おのおの腹かっ切り、枕を並べて討死。

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(訳者注11)

以下、笠置山で、訳者が撮影した画像である。(2009年11月 撮影)

P7
P07_2
宝蔵坊跡

[宝蔵坊跡]が「もみじ公園」になっていた。説明板によれば、ここに宝物庫があったが、元弘元年(1331)9月28日夜半、鎌倉幕府方の奇襲攻撃により炎上、とのこと。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年5月 4日 (木)

太平記 現代語訳 3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「帝(みかど)は笠置寺(かさぎでら)にあり、近隣から軍勢が続々結集!」との情報が、京都へもたらされた。

六波羅庁・リーダーA こりゃぁいかんなぁ・・・こういう情勢になってくると、またまた、延暦寺(えんりゃくじ)の連中らが力を盛り返し、ここへ押し寄せてくる、てなこともありうるぞ。

六波羅庁・リーダーB ここはとにかく、延暦寺の方を最優先にしてだな、速やかに、大津(おおつ:滋賀県大津市)へ軍勢を派遣するってえのが、いいんじゃぁない?

六波羅庁・リーダーA そのメンバーには誰を?

六波羅庁・リーダーC 佐々木時信(ささきときのぶ)をリーダーに、近江国(おうみこく:滋賀県)の軍勢をつけて、ということでどうでしょう?

六波羅庁・リーダー一同 賛成。

さっそく大津へ佐々木時信が派遣されたが、

六波羅庁・リーダーD あれじゃぁ、ちょっと兵力、少なすぎません?

六波羅庁・リーダーC 延暦寺に対抗するのは、ムリがありますよぉ。

そこで、丹波国(たんばこく:京都府中部+兵庫県東部)から、久下(くげ)、長澤(ながさわ)の一族ら800余騎を援軍として送り出し、大津の東西の宿に陣取らせた。

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延暦寺に対しての備えをかためた次は、問題の笠置寺。

9月1日、六波羅庁の局長、糟谷宗秋(かすやのむねあき)と隅田次郎左衛門(すだじろうさえもん)は、500余騎を率いて、宇治(うじ)の平等院(びょうどういん:京都府宇治市)まで出向き、笠置攻めのための兵の到着を記録。その催促も待たずに、諸国から昼夜をとわずひっきりなしに集まってきて、たちまち10万余の兵力となった。

 「明日2日午前10時、笠置へ押し寄せて開戦」

と定まった。

六波羅庁軍の中に、高橋又四郎(たかはしのまたしろう)という者がいた。

高橋又四郎 (内心)よぉし、抜け駆けして、手柄を一人占めにしてやろう!

彼は、一族わずか300余騎をひきつれて、笠置寺へ寄せていった。

笠置寺にたてこもる天皇軍、大軍とは言えずとも、勇気ビンビン、天下の機をうかがってはイッキに体制挽回、との心構え。高橋率いるわずかの小勢を目の前にして、打ってかからぬというテはない。

たちどころに3,000余騎が下山して、木津川(きづがわ:京都府)のほとりに部隊を展開、高橋の軍勢を包囲して一人も残さじ、とばかりに襲いかかってくる。

襲いかかってくる大軍を目にした高橋軍、始めの勢いはどこへやら、ただの一度も戦闘無し、ただただ馬に鞭打って退却するのみ、木津川の逆巻く流れに追い落とされ、死傷者多数。

かろうじて命ばかりは助かった者は、馬も鎧兜もうちすてて、すっぱだかの状態で白昼京都へ逃げ帰ってくる・・・マァ、なんという見苦しいありさま。

これをよしと思わなかった、どこの誰が書きつけたのであろうか、平等院の橋づめに掲げられた歌一首、

 木津川(きづがわ)の 瀬々(せぜ)の岩浪(いわなみ) 早ければ 懸(か)けて程(ほど)なく 落つる高橋(原文のまま)

この高橋軍団の後を追尾していた一軍があった。小早河(こばやかわ)の軍団である。

彼らは、高橋又四郎が抜け駆けしようとしているのを察知し、高橋軍が退却する事があれば、それに入れ替わって、抜け駆けの手柄をかっさらおうと、もくろんでいた。しかし、その小早河軍団も天皇軍に一気に追いたてられ、一回の反撃もならないまま、宇治まで退却せざるをえなかった。

さっそく、札がもう一本立って一首、

 懸(か)けも得(え)ぬ 高橋落ちて 行く水に 憂名(うきな)を流す 小早河かな(原文のまま)

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「昨日の合戦、天皇側勝利」との情報に、六波羅庁軍サイドでは、

六波羅庁軍・リーダーE まずいなぁ、ジツニまずいよ。

六波羅庁軍・リーダーF このまま放置しといたんでは、ますます諸国から天皇側にはせ参じていくモン(者)、増えてしまうわなぁ。

六波羅庁軍・リーダーE そのうち、始末におえなくなってきちゃうよなぁ。

六波羅庁軍・リーダーF 今はとにかく、いたずらに時を過ごしている場合では、ないわいな!

かくして、宇治において、六波羅庁の両局長・糟谷と隅田により全軍の配置が定めれらた後、9月2日、いよいよ笠置寺に向かって進軍開始。その配置、以下の通り。

 笠置寺の南方からは:畿内(きない)5か国の兵にて編成の軍団、7,600余騎。光明山(こうみょうさん:京都府・木津川市)の背後から、からめ手へ回る。

 東方からは:東海道15か国中の伊賀(いが:三重県北西部)・伊勢(いせ:三重県中部)・尾張(おわり:愛知県西部)・三河(みかわ:愛知県東部)・遠江(とおとおみ:静岡県西部)の軍団、25,000余騎。伊賀路(いがじ)を経て、金山越ルートを進む。

 北方からは:山陰道8か国よりの軍団、12,000余騎。梨間(なしま:京都府城陽市)宿の外れから市野辺(いちのべ:京都府城陽市)山麓を回って、笠置寺正面へ。

 西方からは:山陽道8か国よりの軍団、32,000余騎。木津川を上り、岸の上の険阻(けんそ)なる山道を二手に分かれて進軍。

やがて、正面、からめ手、合計75,000余騎が笠置寺を包囲、四方2、3里の山野に寸分の隙(すき)も無く、六波羅庁軍が充満。

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明くる9月3日午前6時、東西南北より六波羅庁軍は、笠置寺に接近してトキの声を上げる。その声は百千の落雷のごとく、天地をも揺さぶらんばかり。

六波羅庁軍・リーダーE エェイエェイ!

六波羅庁軍・メンバー全員 オーゥ!

六波羅庁軍・リーダーE エェイエェイ!

六波羅庁軍・メンバー全員 オーゥ!

六波羅庁軍・リーダーE エェーイエェーイ!

六波羅庁軍・メンバー全員 ウォーーーゥ!

トキの声を3度上げた後、開戦の鏑矢(かぶらや)を寺に向かって射こんでみたが、寺内はシーンと静まりかえっており、トキの声の応対もなし、返答の矢を射返してくる様子もなし。

かの笠置寺のある場所は、山高くして一片の白雲、峯を埋(うず)み、谷深くして、萬仞(ばんじん)の青岩(せいがん)、路を遮(さえぎ)る、という地形である。ツヅラ折りに折れ曲がる道を、めぐり登ること18町、寺の前面には岩を切って堀を築き、石を重ねて塀を積んでいる。たとえ、防ぎ戦う者が皆無の状態でさえ、たやすく登って行けるような所ではない。

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(訳者注1)

以下、笠置寺で、訳者が撮影した画像である。(2009年11月 撮影)

JR西日本の奈良線、関西本線を乗り継ぎ、笠置(かさぎ)駅で下車。駅からしばらく歩いて、笠置寺の登り口に到着。

P1
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笠置寺への登り口

上記の画像にある地点から、左へ行くと新道経由(自動車通行可)、右の階段を行くと旧道経由(徒歩のみ可能)で、山の上にある笠置寺に至る、ということであった。私は旧道の方を行った。

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旧道は、森の中を行く道。

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急な坂道を、一歩、一歩。

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一の木戸跡 ここに、[仁王門]と[一の木戸]があったようだ。

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[一の木戸跡]から下方を眺めて

眼下に、木津川が流れている谷が見えた。(木の陰になり、あまり分かりやすくは写ってはいないが)。六波羅丁軍メンバーは、これだけの高度差をものともせず、攻めあがって行ったのであろう、それも鎧着用、刀や弓を身に帯びながら。すごい体力だ。
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六波羅庁軍・リーダーG なんかヘンやねぇ、上の方、コトリとも音しよらんがな。

六波羅庁軍・リーダーH 人の気配もせんでねぇ、みんなきっと、寺から、逃げ出してしまいよったんやわ。

六波羅庁軍・リーダーI よぉし、とにかく、シャニムニ攻めてみるだわ!

笠置寺の四方を囲む六波羅庁軍・7万5千余騎、掘も崖もかまわず、葛のかずらに取り付き、岩の上をつたい、一の木戸がある付近、仁王堂の前まで押し寄せた。

ここでしばし、息を休め、きっと見上げるとなんと、

そこには錦の旗あり、旗印の金銀の日・月、白日に輝く。

旗の下には、全身隙間無く鎧で身を固めた武者3,000余人、兜の星を輝かし、鎧の袖を連ねて雲霞(うんか)のごとく並び居る。

さらに、櫓(やぐら)の上の狭間(はざま)の向うでは、射手とおぼしき武士たちが、弓の弦を口に含んで湿し、矢束(やたばね)を解いて押し広げ、矢に鼻油を塗り、虎視眈々と、六波羅庁軍を頭上から狙っている。

その決然たる勢いにのまれ、いったいどこから攻めかかっていっていいものやら、攻める側も怖れおののくような雰囲気の中、六波羅庁軍・メンバーは、前進もならず後退もならず、不本意のうちにただただ、立ち尽くすばかり。

そのまましばらく、時間が経過した後、木戸の上の、櫓の矢間の板を開いて、一人の男が声を上げた。

足助重範(あすけしげのり) わしはなぁ、三河の国の住人、足助重範いうもんだで。もったいねぇ事だけんども、天子様に頼まれ申してな、この一の木戸をかためとるんやぁ。

六波羅庁軍・メンバー一同 ・・・。

足助重範 そっちサイドの、そのぉ、前の方に立っとる旗ぁ、美濃(みの:岐阜県南部)、尾張の人らの旗と見たが、もしかしたらわしの見間違いかのぉ?

六波羅庁軍・メンバー一同 ・・・。

足助重範 ここはなぁ、十善(じゅうぜん)の徳を備えとられる天子様のおわすトコだでね、六波羅庁のみなさま、そのうち、来てみえるやろ、思ぉてなぁ、おもてなしのため、大和(やまと)の鍛冶職人の連中らに鍛えて打たせた鏃(やじり)少々、用意して待っとったでね。一本受けてみてちょぉ!

重範は、三人張りの弓に13束3伏の矢をつがえ、ぎりぎりと引き絞ってチョウッと放つ。

その矢は、はるか谷を越え、木戸から2町余り隔たった六波羅庁軍・陣中の荒尾九郎(あらおくろう)に命中、その鎧の千檀の板から右の小脇に至るまで、深々と射抜いた。

急所を突いた、たった1本のこの矢に、荒尾九郎は馬から転落、即死。

荒尾九郎の弟・弥五郎(やごろう)は、この様を天皇軍側の人々に見せまいと、自陣の盾の間から進み出て、矢のふりそそぐ最前線に立ちはだかって叫ぶ。

荒尾弥五郎 足助殿の弓の威力、以前からウワサに聞いとるほどでは、ねぇだが!

足助重範 ナニ言うかぁ、コシャクなぁ!

荒尾弥五郎 よぉし、今度はな、このわしを射てみろや。あんたの矢一本受けてみて、この鎧の品質チェックでも、してみようかいの。

鎧の腹部を叩いて相手をあざけりながら、弥五郎は立っている。

足助重範 (内心)あいつめ、あぁまで、イケシャァシャァと言うからには、鎧の下に、腹巻きか鎖かたびらでも着込んどるんやろな。だもんで、さっきのおれの矢の威力を見ながら、なおも、「今度はオレを射てみろ」なんてぇ、鎧とデカイくち、たたいとるんやわ。

足助重範 (内心)ウーン・・・あいつの鎧めがけて、まともに射たんでは、鏃が砕けてもて、射とおすことできんかもな。よし、鎧ではのぉて、兜の真っ正面を射てみるとしよか。あこなら、絶対に貫通するやろからな。

エビラから金磁頭(かなじんどう)矢を一本引き取り、鼻油をつけて

足助重範 ならば一矢いくでな、受けてみ!

鎧の高紐を外し、13束3伏の矢を、さきほどよりもさらに引き絞り、気合を込めてハアッと射放つ。

狙い違わずその矢は、荒尾弥五郎の兜の真正面、正面金具の上2寸ばかりのところを貫通、眉間(みけん)の中央に、矢尻巻まで深く突き刺さった。

二言目を言うひまもなく、荒尾弥五郎は兄と一所に枕を並べて討死。

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いよいよ、戦いの火蓋が切って落とされた。

六波羅庁軍サイド・正面軍およびカラメテ軍、それを迎え撃つ天皇軍サイド、双方共におめき叫んで戦闘に突入。矢を射る武者の叫び声、戦闘のトキの声はひっきりなしに響き、大山も崩壊して海に沈み、地軸も折れてたちまち地に沈むかと思われるほど。

その日の夕刻、六波羅庁軍・サイドは兵力を続々投入、盾を持って矢を防ぎながら、じりじりと寺に接近、木戸口のあたりまで前線を進めることに成功。

奈良の般若寺(はんにゃじ)より経典目録を持参してきた使者、本性房(ほんじょうぼう)という大力の律宗僧が、天皇軍サイドにいた。

本性房 おまえら、わしのこのボール、受けてミィ!

僧衣の袖を背後に結びあわせ、常人が100人寄っても動かせないような巨大な岩石を軽々と小脇にかかえ、まるでボールでも扱うかのように、六波羅庁軍に対して20個、30個と連続投石。

岩石 ボーン! ボーン! ボーン! ボーン!

六波羅庁軍サイドの楯 バリッ! バリッ! バリッ! バリッ!

六波羅庁軍・メンバーJ うぎゃあ!

六波羅庁軍・メンバーK こりゃ、たまらん!

六波羅庁軍・メンバーL 逃げろ逃げろ、あんな石に当たったんじゃ、命いくらあっても足らんがね!

数万の六波羅庁軍は、本性房が投げつける岩に、盾をコッパミジンに砕かれ、岩に少しでも接触した者はみな押し倒され、寺の東西の斜面に密集した武士たちは、雪崩をうって人馬乱れ、重なり倒れていく。

かくして、さしも深き笠置寺周辺の二つの谷も、死者で埋まり、という状態に。

戦の後、木津川の流れは血に染まり、紅葉の樹陰を行く水が深い紅色に染まるかのようであった。

これ以降、六波羅庁軍・サイドは、雲霞のごとき大軍でありながら、寺に攻めかかろうとする者は皆無、ただただ、寺の四方を遠巻きに包囲するばかり、となってしまった。

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(訳者注2)

以下、笠置寺で、訳者が撮影した画像である。(2009年11月 撮影)

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「一の木戸跡」から更に先へ

坂道が続く。

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ようやく、笠置寺の入り口に到着。

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弥勒大磨崖仏

笠置寺の中には、磨崖仏や巨岩が多数あった。この磨崖仏は説明板によれば、「高さ20メートル中15メートルの石面に弥勒如来が彫られていたが、その前に建てられていた礼堂の火災により、仏像も摩滅してしまった」とのこと。

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虚空蔵磨崖仏 この磨崖仏は、線が明瞭に残っている。

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巨岩のトンネル 次々と現れる巨岩を見ながら行く、楽しい遊歩道。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年5月 3日 (水)

太平記 現代語訳 3-1 楠正成、参上!

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘元年(1331)8月27日、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は笠置寺(かさぎでら:京都府・相楽郡・笠置町)へ入り、寺の本堂を皇居と定められた。

それから2日間ほどは幕府側の勢威を恐れ、天皇の下に馳せ参じて来る者は一人も無かったが、比叡山・坂本の合戦での六波羅庁側・敗北のニュースが伝わるやいなや、この寺の衆徒をはじめ、近在の武士たちが、あちらこちらから集まってきた。

しかし、その中には、百騎ないし二百騎の兵力を保持するような、有名な武士リーダーは、一人もいない。

後醍醐天皇 (内心)こないな連中ばっかしで、大丈夫やろか・・・ここを守りきれるんやろぉか・・・。

苦慮の渦中に沈む陛下を、やがて、しばしのまどろみが、包みこんだ。

後醍醐天皇 うん?・・・ここはいったいどこやねん? 御所の紫宸殿(ししんでん)の庭先やろか・・・。あこに、大きな常緑樹が一本生えとるなぁ。

後醍醐天皇 葉が青々と茂ってるわ。とりわけ、あの南の方に伸びている枝の、葉の茂り方がすごいなぁ。

後醍醐天皇 樹の下に、大臣や公卿らが、位の順に列になって着席してる・・・南方を向いた上座には、畳が高ぉ敷かれたる・・・そやけど、その上には誰も座ってへんなぁ。あれはいったい、誰のためにしつらえた席なんやろ?

後醍醐天皇 ちょっと、あこへ行ってみたろ。(立つ)

するとそこに、左右みずら結のヘアスタイルの少年が二人、忽然と姿を現した。

二人は天皇の前にひざまずき、目に涙をいっぱいたたえながら、

少年X この広い日本の国土の中に、陛下におかれましては、ほんの一瞬も、おん身を隠せる所もありませんね。

少年Y でもね、ほら、あそこをご覧下さい! あの木の樹陰に南に向かってしつらえた座席、あれこそは、陛下の為に設けた玉座であります。しばらくは、あそこにお休み下さいませ。

言い終わるやいなや、少年たちは、はるか天のかなたへと去っていく。

後醍醐天皇 お、おい、ちょっと待て、ちょっと・・・(ガバッ)。

後醍醐天皇 あぁ、夢やったんかいなぁ・・・。

後醍醐天皇 (内心)それにしても、不思議な夢やったなぁ・・・天からわしに、何かお告げになられんとの、夢やったんやろぉか。

後醍醐天皇 (内心)いったい何やろ、いったい何をおっしゃりたいんやろか、天はわしに。

後醍醐天皇 (内心)うーん・・・。

後醍醐天皇 (内心)そうか、文字か! 文字が、この夢のキーワードやな!

後醍醐天皇 (内心)木の陰に、南向きにしつらえたる席・・・「木」に「南」をあわせると、「楠」の字になるな・・・。

後醍醐天皇 (内心)あの木の下の席に座れと、少年は言うてた・・・南に向いた席に・・・ということはやで、わしに再び、「天子南面して徳を治め、天下の士をもって仕えさせしめよ」という事かいな?

後醍醐天皇 (内心)あの二人の少年、一人は日光菩薩(にっこうぼさつ)、もう片方は月光菩薩(がっこうぼさつ)の化身か・・・(注1)。

後醍醐天皇 (内心)うーん、こないして夢判断していくと、何やら希望が湧き上がってくるやないかい!

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(訳者注1)薬師如来の左右に安置される菩薩。左側が日光菩薩、右側が月光菩薩。(仏教辞典:大文館書店刊より)
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夜が明けるやいなや、天皇は、笠置寺の衆徒・成就房律師(じょうじゅうぼうりっし)を呼び寄せて問われた。

後醍醐天皇 あんなぁ、もしかしてこのへんに、「くすのき」っちゅう名字の武士、おらんかなぁ?

成就房律師 「くすのき」? 「くすのき」でっか? はぁー・・・そないな名字のもんはぁ、聞いたことが・・・いや、待てよ!

後醍醐天皇 なんか、心当たりあるんか!

成就房律師 はい、こっから(ここから)は大分遠いんですけどな、河内国(かわちこく:大阪府東部)の金剛山(こんごうさん)の西山麓に、楠多聞兵衛正成(くすのきたもんひょうえまさしげ:注2)いうて、戦の方面では相当有名なんがおりますよ。

後醍醐天皇 !!!

成就房律師 この人は、敏達(びだつ)天皇の四代目子孫の橘諸兄(たちばなのもろえ)公の、そのまた子孫や、いう事らしいですけどなぁ、臣籍に下ってから、もうだいぶになるんやそうですわ。

後醍醐天皇 うーん、やっぱしおったんや!

成就房律師 彼の母は若い時、信貴山寺(しぎさんじ)の毘沙門天(びしゃもんてん:注3)に、百日詣でしましてな、そいで夢見て、彼を産んだとか。それで、幼名を、「多聞」いうんやそうで。

後醍醐天皇 よぉーし、まちがいない、ゆうべ(昨夜)の夢は、この男の事やったんや!

後醍醐天皇 藤房ぁっ、この楠っちゅう男、ここに呼びよせぇ! 今すぐやぞ!

万里小路藤房 ははっ!

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(訳者注2)日本中世史関連の書物の中に、「楠木正成」と表記しているものがあるが、これ以降、太平記・原文通りに、「楠正成」の表記で行くこととする。

(訳者注3)四天王の一。別名、多聞天。
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万里小路藤房(までのこうじふじふさ)は、ただちに勅使を楠の居館へ急行させ、事の子細を伝えさせた。

それを聞くやいなや、楠正成は、

 「陛下からの直々のお召、弓矢取る身にとってはこの上ない面目」

と、天皇側陣営につくことを即断即決、ただちに人目を忍んで笠置山へ駆けつけてきた。

天皇は藤房を介して正成に言わく、

万里小路藤房 正成、陛下は以下のようにおおせや、

 「鎌倉幕府の連中らを討伐する件につき、わけあって正成を頼りにしたいと思い、勅使を送ったところ、すぐに馳せ参じてきた事、うれしく思う。」

 「さてさて、幕府からの政権奪回、いかなる戦略をめぐらして短期間に成就し、天下に平穏をもたらすか、思うところを、残らず述べてみよ。」

楠正成 (かしこまって威儀を正した後)・・・。

後醍醐天皇 ・・・。

天皇側近一同 ・・・。

楠正成 最近の、幕府の連中らの、陛下に対するしうち・・・

後醍醐天皇 ・・・。

天皇側近一同 ・・・。

楠正成 あれ、ナンデスか! ムチャクチャやんけ!

後醍醐天皇 !!!

天皇側近一同 !!!

楠正成 あんな事してたらな、きっとそのうち天罰、そうや、天罰が下ること、間違いなしですわいな!

後醍醐天皇 うん!

天皇側近一同 (うなずく)。

楠正成 天のさだめによって、この先必ず、幕府は弱っていきますわ。

楠正成 あいつらが弱ってきたとこにつけこんでったら、天誅下すんなんか、楽勝でっせ。

楠正成 ただし、ただし、ですわ!

楠正成 天下平定しよ思ぉたら、武力と謀略、両方必要です。

楠正成 謀略、そぉや、謀略、これですがな!

楠正成 真っ正面から幕府軍にぶつかっていったんでは、たとえ日本全国60余か国の軍勢あわせてみても、幕府側本拠地の武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県北東部)と相模(さがみ:神奈川県)たった2国の武力に、到底かないませんわな。ここはやっぱし謀略、謀略です。

後醍醐天皇 うーん!

楠正成 関東の連中らの強みいうのはですな、ただただ合戦に強い、これだけのことですわいな。そやから、こっちサイドが謀略を駆使して立ち向おうて行ったら、あいつらをダマクラカスんなんか、チョロイもんでっせ。なぁも怖い事ないわいな。

後醍醐天皇 (深くうなづく)

楠正成 陛下、合戦ちゅうもんには、勝ち負けはつきもんですわ。一つ一つの勝敗、いちいち気にしとったらあきまへんで! とにかく、「正成、まだ、しぶとぉ生きとるらしいで」いう情報、聞かはったらな、「そうか、あいつ、まだ生きとるんけ、っちゅうことはやな、わしの運もそのうち開ける、言う事やんけ!」とな、そないな感じで、心強ぉに持っていって下さいや!

後醍醐天皇 (笑みを浮かべながら)うーん・・・。

このように、たのもしげに言い放った後、楠正成は河内に帰っていった。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年5月 1日 (月)

新作動画の発表 [清滝から高雄へ, 清滝川, 京都市 (C)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、

 清滝から高雄へ, 清滝川, 京都市 (C)

です。自作の曲(『分散和音曲・第3番 Op.22』)を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

  ("runningWater" は、私のペンネームです。)
撮影地:京都市内 清滝の付近、高雄の付近
撮影時:2017年4月
映像撮影・制作:runningWater
バックグラウンド音楽
 作品名:分散和音曲・第3番 Op.22
 作曲・制作者:runningWater
  (コンピューターを使用して制作しました)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/hpLXsXF00fU
です。

私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した音楽作品を聴きたい時は、

ここをクリックしてください。

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