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2017年6月

2017年6月26日 (月)

信州 おもいで 安曇野 碌山美術館 2013年 5月

2013年5月に、信州の安曇野を訪問、大王わさび農場に行った事は、

前回発表の記事

の中に記しましたが、その後、大王わさび農場からタクシーに乗り、碌山美術館に行きました。

萩原碌山(守衛)氏のすばらしい作品を鑑賞することができました。

碌山美術館

荻原守衛(碌山)略年譜(碌山美術館)

上記中に、

「明治34年(1901) 22才 渡米を決意して洗礼を受け、3月横浜を出帆しニューヨークへ直行する。9月、フェアチャイルド家の学僕となる。」

とあります。すごいなぁと、思います。

碌山の彫刻作品(碌山美術館)

下記の画像は、この美術館の敷地内で撮影しました。

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美術館からJR大糸線・穂高駅までは徒歩で移動、とてもふんいきの良い道でした。

2017年6月25日 (日)

信州 おもいで 大王わさび農場 2013年 5月

2013年5月に、信州の大王わさび農場(安曇野市)に行きました。

JR京都駅から、東海道新幹線で、JR名古屋駅へ、
JR名古屋駅から、中央線で、JR松本駅へ、
JR松本駅から、大糸線で、JR穂高駅へ、
JR穂高駅から、タクシーで、大王わさび農場へ、行きました。

このページ中にある画像は、その際に撮影したものです。

この農場の敷地内に、水車小屋があります。「夢」(黒澤明監督)のロケ地になった場所なのだそうです。

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この水車小屋は、[万水川]と[蓼川]とが合流する場所にあります。

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上記の画像でも分かると思いますが、[万水川]と[蓼川]の透明度は、異なっているようです。もしかしたら、この場所と、それぞれの川の水源との距離が異なっているので、このような違いが生じるのかもしれません。

P7 栽培されているワサビ
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農場の中に遊歩道があり、散策できるようになっています。

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この農場で食べたいと思っていたものが二つありました。

[わさびソフトクリーム]と[わさび丼]。

[わさびソフトクリーム]を食べることはできましたが、[わさび丼]の方は食べれませんでした。(農場への訪問時刻の関係で)。

[ワサビ]と日本人との関りは、相当古くからのものであるようです。飛鳥時代の遺跡から出土した木簡に、ワサビに関する記述があるのだそうです。

ワサビに関して、

[飛鳥京跡苑池遺構 ワサビ]
[ワサビ 徳川家康]
[ワサビ 伊豆]

でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

安曇野でのワサビ栽培は、明治時代に始まったようです。

[安曇野市 わさび畑]
[安曇野 複合扇状地]
[安曇野 湧水]

でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

2017年6月22日 (木)

新作音楽作品の発表 言葉にならない想い・第3番

[クレオフーガ](音楽投稿サイト)に、自らが作曲した曲(ピアノ独奏曲)をアップロードしました。曲の題名は、

 I can't put the thought into words well No.3, Op.43
   (言葉にならない想い・第3番, Op.43)

です。

この曲をお聴きになりたい方は、下記で聴いていただけます。波形図の上の場所を、マウスや指で操作することにより、聴きたいと思う場所から聴きはじめる、というような事も、(コンテンツ格納先のサイト運営・クレオフーガが)可能としてくれているようです。

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下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲たち(クレオフーガ・サイト中にあり)

2017年6月21日 (水)

太平記 現代語訳 6-6 上赤阪城・攻防戦

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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幕府軍サイド・赤坂城方面軍(注1)の大将・阿曽治時(あそはるとき)は、後続部隊の到着を待ちながら天王寺に2日間逗留。

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(訳者注1)[3巻 5章] 中にも[赤坂城]が登場するが、その城と、この章に登場する[赤坂城]とは、別の城である。千早赤阪村(大阪府・南河内郡)に、[下赤坂城跡]、[上赤坂城跡]があるが、前者が[3巻 5章]に登場する城があった地であり、後者が、この章に登場する城があった地である。[千早赤阪村 公式サイト]中の、[観光案内]のコーナーに、これらの城跡についての詳細な説明がある。
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「2月2日正午に戦闘開始予定。抜け駆けする者は罰に処す!」とのメッセージが、全軍に伝達された。

ここに、武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都)の住人で人見恩阿(ひとみおんあ)という者あり。本間資貞(ほんますけさだ)に対していわく、

人見恩阿 こっちサイドは、それこそ雲霞(うんか)のごとき大軍だからよぉ、敵の城を落とせる事は、まず間違いなしだろうぜ。ただし、だなぁ。

本間資貞 ・・・。

人見恩阿 昨今の世の中の情勢ってぇもんを、よくよく見てみるにだぁ、鎌倉幕府の執権職に北条家が就任し、我が国の政権を握りはじめてから、もうすでに7代を越えてる。

人見恩阿 「満ちたら必ず欠けていく」ってぇのが、天の道理ってもんさぁね。北条家だって、その鉄則から逃れられるわきゃぁねぇんだよ。それにな、臣下の分際でありながら、先帝を流し奉るってなぁ、トンデモネェ悪行までやらかしちまってんだよぉ。そのうちきっと、あの家は滅びていくにちげぇねぇや。

人見恩阿 このオレは、不肖の身だけんどよぉ、北条家から恩を受けて、すでに齢(よわい)70越えちまったわさぁ。この先、人生にテェ(大)した望みもねぇ、オレみてぇなモンがやたらと長生きしてだなぁ、北条家の武運が傾いていく一部始終を、いやでも見せつけられなきゃぁなんねぇ、なんっつう事になっちゃったらぁ、そりゃぁツレェ(辛い)もんだわさぁ。

人見恩阿 そんな事になっちまったんじゃぁ、オレも穏やかな老後を送れねぇだろう。いまわの際になっても余計な妄念に駆られちまって、キレイに成仏もできやしねぇ。

本間資貞 ・・・。

人見恩阿 ってワケでな、オレは明日の合戦で、皆の先を駆けて敵陣に突入して、イのイチバンに討死にしてやろうって思ってんだよぉ。そうなりゃぁ、わが人見家の名だってぇ、末代まで輝やくってもんだろうが、エェ?。

本間資貞 (内心)そうだ、そうだぁ!

本間資貞 人見のオヤッサぁん、あんたナニ、つまんねぇ事、言ってなさるでやんすかぁ。ちょっと周囲(まわり)、見てごらんさないな、周囲を!

人見恩阿 ?・・・。

本間資貞 わしらの周囲にはねぇ、こんな大軍がいるじゃぁねぇですかぁ! こんな大軍団の先頭切って先駆けして、討ち死にしてみたところでねぇ、そりゃぁ、無意味ってもんだぁ。

人見恩阿 ?・・・。

本間資貞 そんなことしてみたって、ナーンの功名にもなりゃしねぇよぉ。

人見恩阿 ・・・。

本間資貞 明日の戦ではね、わしは右左よっく見まわしてね、他人(ひと)サマのなされるように、横並びでいきますよぉ、ワハハハ・・・。

それを聞き、人見恩阿は興ざめしたような面もちで、天王寺の本堂の方へ去っていく。本間資貞は、部下に命じて彼を尾行させた。

石の鳥居の前で恩阿は立ち止まった。そして携帯硯を取り出し、鳥居の柱の上に何やら一筆書いてから、自分の宿所へ帰っていった。

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本間資貞 (内心)あのチョウシじゃぁ、人見のオヤッサン、明日はゼッタイ抜け駆けするよねぇ。他人に先を越されたとあっちゃぁ、わしも面白くねぇやなぁ。

資貞は、注意怠りなくその夜を過ごし、夜明け前、ただ一騎で宿所を出て、東條(とうじょう:大阪府・富田林市)へ向かった。

石川(いしかわ)の河原で夜を明かし、ふと南方を見ると、朝霞の彼方に一人の武士の姿が。紺色の唐綾おどしの鎧に白い母衣(ほろ:注2)を背中に架け、鹿毛の馬に乗って、赤坂城の方へ向かっていく。

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(訳者注2)矢を防ぐために背中に背負う袋状のもの。
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本間資貞 ウゥ? ありゃぁ、イッテェ誰でぇ? もしかして・・・。

馬を寄せてみれば、そこには恩阿の姿が。

人見恩阿 ウワァーオ! 誰かと思えば、ヌシだったかぁ、ワハハハ・・・。

本間資貞 やっぱし、オヤッサンだったかぁ、ブハハハ・・・。

人見恩阿 (笑顔)おいおい、ヌシもよく言うよなぁ・・・「明日の合戦では他人サマの横並びで行く」ってかぁ? フザケンなよぉ!

本間資貞 ダハハハ・・・。

人見恩阿 (馬を急がせながら)昨日のヌシの言う事を真に受けちゃってたら、孫ほどの年のヤツにマンマと出し抜かれってな事に、なってしまってたなぁ。

資貞は恩阿の後につきながら、

本間資貞 なぁなぁ、人見のオヤッサンよぉ、こうなったらもう互いに、先を争う事なんか、やめときましょうや。二人でいっしょに敵陣に、屍さらしちゃってさぁ、あの世までごいっしょしましょうや!

人見恩阿 よかろう!

二人は後になり先になり、よもやま話をしながら、進んでいった。

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赤坂城が見えてきた。

二人は、馬の鼻並べて坂を駆け上がり、堀の際まで寄せ、鐙(あぶみ)を踏ん張り、弓を杖がわりについて大声で叫ぶ。

人見恩阿 オレは、武蔵の国の住人、人見四郎恩阿、年つもって73歳だぁ!

本間資貞 オレは、相模(さがみ:神奈川県)の国の住人、本間九郎資貞、37歳!

人見恩阿 鎌倉を出たその時から、思う事はただ一つ、軍のまっさき駆けて、屍を戦場にさらすのみぃ!

本間資貞 我こそはと思うヤツは、ここまで出てきやがれい! さぁ、勝負だぁ!

二人は、キッと城を睨む。

赤坂城内・楠軍メンバーA なぁなぁ、見てみいなぁ、あの二人!

楠軍メンバーB モロ、関東の武士ですー! っちゅうカンジやなぁ。

楠軍メンバーC いったい、ナニ考えとんねん、あいつら。

楠軍メンバーD きっとなぁ、源平合戦時代の熊谷(くまがい)と平山(ひらやま)の一ノ谷(いちのたに)先駆けの話を伝え聞いてな、あの二人にあこがれとるんやで。

楠軍メンバーA 後に続くもん、一人もおらんようやからなぁ、さほどの重要人物でも、ないやろて。

楠軍メンバーC あんな八方破れの命知らずに、ヘタにかかわりおうて、命落としたらあほらしいわい。ほっとけ、ほっとけぇ。

城内からは返事もない。

人見恩阿 (腹を立てて)オイオイ、朝早くからこうやって名乗りを上げてんのによぉ、そっちから矢の一本のアイサツもねぇのかよぉ! テメェラは臆病者の集団かぁ、それとも、オレタチをバカにしようってのかぁ! そっちがそういうつもりだったらなぁ、こっちだって考えがあるぞ、目にもの見せてやっからなぁ!

恩阿と資貞は馬から飛び降り、堀の上の細橋をサラサラと走り渡って、出塀(だしべい:注3)の側まで肉薄し、木戸を切って落とそうとした。それを見て、城内はにわかに騒がしくなった。障壁の矢窓や櫓の上から雨のように矢が浴びせられ、二人の鎧に簑毛のように突き刺さっていく。

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(訳者注3)矢、石を発射するため、あるいは、物見をするために、外に突き出して造った塀。
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資貞も恩阿も、もとより討ち死に覚悟、一歩も退くはずがない。命を限りに二人して共に戦い、ついに討ち死にしてしまった。

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幕府軍付・従軍僧が、二人の首を乞い受けて天王寺に持ち帰り、資貞の子息・資忠(すけただ)に、事の顛末(てんまつ)を説明した。

本間資忠は、父の首を一目見るなり一言も発せず、ただ涙にむせぶばかり・・・。そのうち、いったい何を思い立ったのであろうか、鎧を肩に投げかけ、馬に鞍を置き、たった一人で陣を立とうとした。

僧はあわてて、その鎧の袖をつかみ、

従軍僧 これこれ、いったいどこへ行かれるのかな?

本間資忠 ・・・(涙)。

従軍僧 お父上はな、この合戦に先駆けして、その名を天下に知らしめようとの、お心だったのですよ。父子共にそろって討ち入りすべきところをな、自分の一命のみを北条殿に献上し、そのかわりに、恩賞を子孫にもたらそうと思われたからこそな、他の人の真っ先切って、討ち死にしていかれたんじゃないですか!

本間資忠 ・・・(涙)。

従軍僧 なのに、せっかくのお父上のそのお心を、深く受け止めることもなく、あなたまでも、敵陣に突入して父子共に戦死してしまったのではな、いったい誰が、お父上の後を継いでいくのかね? いったい誰が、お父上のお残し下された恩賞を、受け取れますか?

本間資忠 ・・・(涙)。

従軍僧 子孫が永遠に栄えるをもってこそ、先祖に対する孝行を表わす道というもの。悲しみのあまり、お父上といっしょに死のうと、無性に思われるそのお気持ち、分からんではないが、とにかく、思いとどまりなされ。

このように、堅く制止する僧の言葉に、資忠は涙を押さえて仕方なく鎧を脱いだ。

従軍僧 (内心)やれやれ、なんとか、わしの言葉を聞き入れてくれたようだ。

僧は安堵し、本間資貞の首を小袖に包み、葬礼を執行するために、近くの野原へ出かけていった。

今は誰も、資忠を制止する者はいない。彼はすぐに陣を出て、聖徳太子の廟の前に走った。

本間資忠 (内心)オレの命も、もう今日限り、だから、今生の名誉栄達なんか願いません。聖徳太子様、どうかお願いです、なにとぞ、大悲を垂れ給ぉて、父が討ち死にした場所の同じ苔の下に埋もれ、極楽浄土に生えてる同じ蓮の葉の上に、父といっしょに、生まれ変わらせて下さい!

泣く泣く祈念を込め、涙ながらに、本間資忠は陣を出た。

石の鳥居を通り過ぎる時にふと見ると、父とともに討死にした人見恩阿が書き付けた歌があった。

本間資忠 (内心)オレたちの事、後の世までも、みんなに覚えておいてほしい!

彼は、右の小指を食い切り、その血でもって、人見の歌の側に自ら一首書き添えた後、赤坂城へ向かった。

城近くなったあたりで、馬から下りて弓を脇に挟み、木戸を叩いていわく、

本間資忠 おーい! おーい! 誰かぁ! あんたらに一つ、頼みたい事があってなぁ、ここまでやって来たぁ!

しばらくして、楠軍のメンバー二人が、櫓の狭間(さま)から顔をのぞかせた。

楠軍メンバーE オマエ、いったい、どこの誰じゃい?

本間資忠 オレはなぁ、今朝、この城で討死にした本間九郎資貞の息子、源内兵衛資忠(げんないひょうえすけただ)ってぇモンだ!

楠軍メンバーF ・・・。

本間資忠 「人の親の、子を思う哀れみ、心の闇に、迷う習い」ってことでなぁ、父子モロトモ討死、なんてぇ悲しい事にならねぇようにと、オレには何も言わねぇで、オレのオヤジはたった一人で、あの世へ行っちまったのさぁ。今頃きっと、冥土の旅路の伴も無しに、この世とあの世の境目あたりで、道に迷ってることだろうぜ。

楠軍メンバーE ・・・。

本間資忠 そんなオヤジの事を思うと、いてもたってもいられなくなってなぁ、オレもいっしょに討死にして、死んだ後までも、オヤジに孝行しようと思ってなぁ、たった一騎でここへやってきたのヨォ。(涙)

楠軍メンバーF ウーン・・・。

本間資忠 なぁ、頼む、頼むからよぉ、この城の大将にさ、オレがここへやってきたワケ、伝えてくんねぇかなぁ。頼むから、この木戸、開いてくれよ! オヤジが討死にしたその場所で、オレも死にてぇんだ。そうなりゃあ、親孝行してぇオレの願いも、ミゴトかなうってもんじゃねぇかぁ。(涙)

涙にむせびながら慇懃に願う資忠に、一の木戸を固めている武士50余人は、彼の孝行の心と志の優しさに哀れみをおぼえ、すぐに木戸を開き、逆茂木(さかもぎ)を取り除いた。

本間資忠 礼を言うぜ! よぉし、行くぞぉ!

資忠は馬にうち乗り、城中へ駆け入り、楠側の50余人と火花を散らしながら切りあった。そしてついに、父が討たれたその場所で、太刀を口にくわえてうつぶせに倒れ、刀に身を貫かれて絶命した。

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世間の声G あぁ、なんとまぁ、おしい人の命が、次々と失われてしまったことだろう。

世間の声H 同感だねぇ。まずは、本間資貞。他に並ぶ者の無い、立派な武士だったと思うよ。まさにこのような人をこそ、「国家の為になくてはならぬ人」と言うんだろうなぁ。

世間の声I その子息の資忠も、とても立派だったと思うよ。比類なき忠孝の勇士とも言うべきかなぁ。こんな立派な息子がいたおかげで、本間の家名も大いに上がったってもんだ。

世間の声J いやいや、人見恩阿だって、立派なもんさ。年老いて齢重ねてもなお、義の心を忘れなかった。しかも、その時々に応じて、自らの運命をよく見極めたんだもんなぁ。

世間の声K こんな立派な人間が、3人もろともに討死にしてしまっただなんて、実に悲しいことだなぁ。

世間の声多数 同感、同感。

彼らと面識ある者もない者も、一人として彼らの死を歎かぬ者はなかった。

「3人が秘かに先駆けして赤坂城へ向かい、共に討死」との情報に、大将・阿曽治時は、すぐに天王寺を出て赤坂城へ向かった。

途中、聖徳太子廟の前で馬から下り、石の鳥居を見ると、左の柱に歌が一種。

 花も咲かぬ 桜の老木(おいき) 朽ちるとも その名残すぞ いついつまでもな

 (原文)花さかぬ 老木(おいき)の櫻(さくら) 朽(くち)ぬとも 其(そ)の名は苔(こけ)の 下に隠れじ(注4)

 武蔵国住人 人見四郎恩阿 生年七十三 正慶二年二月二日
 赤坂城へ向かいて 武恩を報ぜん為に 討死に仕り 畢(おわ)んぬ

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(訳者注4)もはや一花も咲かせる事もできなくなった桜の老木に自らをなぞらえた歌。
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また右の柱を見れば、次のような歌が。

 待てしばし 子を思う闇に お迷いか 案内(あない)しましょう 六道分岐(ろくどうぶんき)

 (原文)まてしばし 子を思う闇に 迷(まよう)らん 六(むつ)の街(ちまた:注5)の 道しるべせん

 相模国住人 本間九郎資貞が嫡子、源内兵衛資忠 生年十八歳 正慶二年仲春二日
 父の死骸を枕にして 同じ戦場に命を止(とど)め 畢(おわ)んぬ

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(訳者注5)地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、以上6個の世界を「六道(ろくどう)」と言う。ちまた(道股)」とはそこへ至る「複数の道の分かれる所」という意味である。子(資忠)を残して死んで行った父(資貞)が、中有(ちゅうう=現生界と霊界とのミッドフィールドエリア)まで行きついたものの、子供への思いに後ろ髪引かれ(「子を思う闇」)、そこで進退窮まっているのではなかろうか、ならば自分もそこに赴いて父と共に霊界へ、という思いを込めて、資忠はこの歌を詠んだのである。
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かたや父子の恩義、はたまた君臣の忠貞、余す所なく表現した歌が2首。詠み手の遺骨ははや風化して、黄色の土一盛りの下に朽ちはててしまったが、彼らの高名はいまもなお世界に留まり、青雲九天(せいうんきゅうてん)の上にいや高し。故に、現在に至るまでも、その石の鳥居の上に消え残った三十一字(みそひともじ:注6)を見る人は皆、感涙を流さずにはおられない。

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(訳者注6)和歌の事である。(標準形では31文字から構成されているので)。
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赤坂城方面軍大将・阿曽治時(あそはるとき)は、8万余の軍勢を率いて、赤坂城へ押し寄せた。

城の周囲20余町に展開して、雲霞(うんか)のごとき包囲網を形成の後、幕府軍は一斉にトキの声を上げた。

阿曽治時 エーイ! エーイ!

幕府軍一同 オーーウ!

その声は山を動かし地を震わせ、大空の果てまでもたちまちに、裂いてしまうかと思われるほど。

赤坂城の三方は屏風を立てたような高い崖で守られており、ただ南方だけが平地に続いていた。しかしそこには広く深い掘があった。掘のすぐ向うには塀が立てられ、その上に櫓が構えられている。このような極めて強固な防衛配置ゆえ、いかなる大力早業の者といえども、そうそうたやすく、攻めれるような城では決してない。

しかし、幕府軍サイドは、自らの大勢を頼み、楠軍サイドの防備を、完全に侮(あなど)っていた。

盾に身を隠す事もせずに、矢の射程距離圏に進み出て、堀の中へ走り下り、切岸(きりぎし)を這い上がろうとする。それを狙いすました楠軍サイドは、塀の内から屈強の射手たちが号令一下、思う存分に矢を射まくる。

このようなわけで、突撃を行うたびに、幕府軍サイドには、負傷者・戦死者500人、600人という状態に。

これをも意に介さず、新手を次々に前線に投入し、2月13日まで攻め続けてみたが、楠軍サイドの防衛体制には、いささかの揺るぎも見えない。

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播磨国(はりまこく)住人・吉川八郎(きっかわはちろう)が、阿曽治時の前に進み出ていわく、

吉川八郎 この城の防備を見る限り、力攻めでは、とても落とせませんわ。かといぅて、兵糧攻めにしてみたところで、ラチあきませんで。楠はここ一両年、和泉・河内両国を占領してからに、そこから徴発した食料をよぉけ、城の中に運び込んどぉからなぁ。食料かてそうそう急には、無くなりませんやろて。

阿曽治時 ・・・。

吉川八郎 んでな、ナンか城攻めのえぇ方法ないやろかなぁと、わし、イロイロと考えてみよったんですわ。で、ある事に思い当たったんです。

阿曽治時 いったいどんな?

吉川八郎 あの城、三方は切り立ってて、崖になってますやろ。残りの一方は平地で、山からも遠ぉ隔たってますやんかぁ。そないな地形やのに、城の中の連中は、いったいどこから水を手に入れとぉんや? どこからも水が採れるはずないやんか、そうですやろ?

阿曽治時 うーん、言われてみれば、なるほど。

吉川八郎 こっちから射こんだ火矢でも、ポンプ使ぉてじきに、消火されてしまいますやろ? いったいなんで、あの城の中、そないに水が豊富にあるねん? 最近とんと、雨も降っとらんのにや。

阿曽治時 フーン!

吉川八郎 おそらく、地底に設置されとぉ樋(とい)でもって、南方の山奥の方から城の中まで、水、引ぃとぉんやぁ!

阿曽治時 ウーン!

吉川八郎 はよ、人夫かき集めはってな、山麓近くの土の中、掘らしてみはったら、どないですかいな?

阿曽治時 よーし!

阿曽治時はさっそく人夫を集め、山の尾根と城との接点に狙いをつけ、そこを横一文字に掘らせてみた。

吉川八郎の推測は見事に的中した。地表から2丈ほどの深さのところに樋を発見。側面には石を敷き並べ、上側には桧の板をかぶせ、10町ほどかなたから城中までエンエンと、その樋を使って水を引いていたのである。

この水路を止められてから、城中では水が欠乏し、楠軍サイドでは、ノドの渇きを忍びがたくなっていった。それから4、5日ほどは、草葉に結ぶ朝露を舐め、夜は湿気に潤う地面に伏しながら、雨の降るのをひたすら待ち続けた。しかし、一向に雨は降ってくれない。

これに利を得た幕府軍サイドは、火矢を連続射撃し、城の大手の櫓2つを焼き落とすことに成功した。

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城中に一滴の水も無くなってから、すでに12日が経過しようとしている。

楠軍メンバーL あーぁ・・・(ハァハァ)。もう、どうしようもなくなってきたなぁ・・・。(ハァハァ)

楠軍メンバーM 水飲めへんとなぁ・・・(ハァハァ)、力もナァも出てきぃひんやんけ・・・。(ハァハァ)

楠軍メンバーN もうあかんなぁ・・・(ハァー)。いよいよ、最期の覚悟、かためる時がきてしもたんかなぁ・・・(ハァハァ)。

楠軍メンバーL 人間、いったん死んだら、二度とこの世へは帰って来れへんのや・・・(ハァー)。なぁ、みんな、どうせ死なんならんのやったら、力がまだ少しでも残っとる、今のうちにやで・・・(ハァー)、城から打って出て、敵とさしちがえて・・・(ハァー)思い思いに、討死にしてしまおうなぁ・・・(ハァハァ)。

楠軍メンバーM そうやなぁ・・・(ハァー)。もう、こないなったら、それしかないわなぁ・・・(ハァハァ)。

楠軍メンバーN 城の木戸開いて、みんな一斉にうって出よ・・・(ハァハァ)。

楠軍メンバーO そうや、そうやぁー・・・(ハァハァ)。

これを聞いた赤坂城防衛軍・総大将・平野将監入道(ひらのしょうげんにゅうどう)は、櫓から走り降り、袖をひかえていわく、

平野将監 こらこら、おまえら、ちょい待ったらんかい! 一斉にうって出るやとぉ、そないな軽はずみな事して、どないすんねん!

楠軍メンバー一同・・・。

平野将監 水も飲めんとからに、みんなもう、力つきてしもてるやんけ。こないなザマで、城からうって出たかて、相手にとって不足ないような敵と、ワタリあえるはず、ないやん。名もない連中らの中間(ちゅうげん)や下部(しもべ)らに生け捕りにされてしもて、恥さらすが落ちやぞぉ。

楠軍メンバー一同・・・。

平野将監 よぉよぉ考えてみるにやな、吉野と金剛山の城はいまだにもちこたえとるし、中国地方で蜂起した連中らも、まだがんばっとる。そやから、ここの城のメンバーが降参して出ていったかて、むやみに殺されるような事にもならんやろ。ワイらを殺してしもたら、他の連中らはもうイジになってしもて、絶対に降参せぇへんようになってまうからな。幕府側かて、そないなアホな事はせんやろて。

楠軍メンバー一同・・・。

平野将監 もうとにかく、どうにもしょうのないワイらやねんからなぁ、ここは敵を欺いて、いったん降伏しといてや、命を全うしながら、好機がまた到来するのを待つ、いう事にしよぉや!

楠軍メンバー一同 (うなずく)・・・(ハァハァ)。

というわけで、その日の楠軍玉砕(ぎょくさい)は中止となった。

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翌日の戦闘のさ中、平野将監は高櫓に登り、大声で幕府軍側に呼びかけた。

平野将監 おぉい! 幕府軍側の大将に申し上げたい事があるんや。しばらく戦闘中止して、わしの言う事、聞いてくれへんかなぁ!

阿曽治時 城の方で何か叫んでるぞ。おい、渋谷(しぶや)、敵の言い分を聞いてこい!

渋谷十郎 はい、分かりました。

城の木戸の前で、

渋谷十郎 そちらの言い分、聞こうではないか!

平野将監 楠が和泉と河内の両国を平らげて威勢を振るっとったもんやから、ワイらはひとまずその難を逃れるためにな、心ならずも楠の配下に入って、幕府の敵側に回ってしもぉたんやわ。そのへんの細かい事情を、はよ京都に行って、六波羅庁のおえら方に、ちゃんとお伝えせんとあかんなぁ、と思ぉてたとこにやな、いきなりそっちが、こないな大軍で押しかけて来た、というわけやがな。こないなったらしゃぁない、こっちも弓矢取る武士のはしくれっちゅうことでやな、一戦交えることになってしもぉたんやわなぁ。

渋谷十郎 ・・・。

平野将監 こういう事情があって、幕府に逆ろぉてしもぉたワイらの罪を許したる、言うてくれはんのやったらな、ワイら、今すぐにでも首を伸ばして、降参してもよろしいんやでぇ。そやけどな、「あかん! 許さんぞ!」言ぅんやったら、そらもぉしゃぁない、最後まで抵抗して、陣中に屍をさらすまでや。城側の大将がこういう風に言ぅてると、そっちの総大将に伝えてぇなぁ。

これを聞いた阿曽治時は大いに喜び、「将軍発行・領地現状維持保証書(注7)」を作成し、「赤坂城防衛軍側のメンバー中、殊に功績あった者については、恩賞付与を建議する」と返答して、休戦とした。

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(訳者注7)原文では「本領安堵の御教書」。
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城内にこもっていた楠軍メンバー282人は、明日にも無くなる我が命ともつゆ知らず、水に渇く苦しさに耐えきれずに、ついに全員降伏して城を出た。彼らは、長崎高貞(ながさきたかさだ)に引き渡された。

長崎高貞 降伏してきた者に対しては、まずはこのようにするのが、古来からのならわしだ。

楠軍メンバー全員の甲冑、大刀、小刀を没収し、後ろ手に厳しく縛り上げ、六波羅庁送りとした。

楠軍メンバーL あぁ、こないな事になるんやったら、あの時、玉砕してた方がよっぽどよかったわぁ。(涙)。

楠軍メンバー一同 ほんまや!(涙、涙)。

後悔すれども、どうしようもなし。数日後、彼らは京都に到着、縛り上げられたまま、六波羅庁に留置された。

やがて、「やつらを、戦初めの軍神への贄(にえ)にしよう、ヤツラの首を見りゃぁ、みんな懲りるだろうよ」ということになり、六条河原へ引き出されて一人残らず首を刎ねられ、獄門にされされてしまった。

これを聞いて、吉野(よしの)や金剛山(こうごうさん)にたてこもる倒幕勢力の者らは、ライオンのごとくに怒って歯噛みする。以降、幕府側への降伏を考える者など皆無となってしまった。

世間の声W それにしても、今回の六波羅庁のこの処置、いったいなんですねん!

世間の声X ほんまに、ムチャなこと、しよりますなぁ。

世間の声Y 「処罰を緩くするは将の謀(はかりごと)」っちゅう言葉を知らんのんかいなぁ、六波羅庁の連中らは。

世間の声Z ほんまにもう、最低の処置ですわ。

それから程無くして、このような酷い処置を下した六波羅庁の面々がことごとく滅亡してしまったというのだから、人間の運命というものは、まことに不可思議という他はない。

情けは人の為ならず(注8)。

あまりにもおごりを極め、我がまま放題に振るまっているものだから、武運も早々と尽きてしまったのである。因果の道理というものをわきまえるならば、こういった事がらに関しては、よくよく心して当たるべきである。

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(訳者注8)「他に対して情けを施こす」という行為は善因となり、それが善果を産む故に、やがては自分にとってうれしい報いとして帰ってくる。
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太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年6月20日 (火)

太平記 現代語訳 6-5 反乱軍鎮圧のため、鎌倉から大軍団出動

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「近畿地方および中国地方に反乱軍、続々と決起!」 

六波羅庁から早馬が鎌倉へ飛ぶ。 

北条高時(ほうじょうたかとき) なにぃーっ!(大驚) さっさと、討伐軍を送りやがれぇぃー! 

というわけで、北条一族他、関東8か国の有力御家人たちに動員令が下され、討伐軍が編成された。その構成、以下の通り。 

北条一族:阿曽治時(あそはるとき)、名越元心(なごやげんしん)、大佛高直(おさらぎたかなお:注1)、大佛宣政(おさらぎのりまさ)、伊具有政(いぐありまさ)、陸奥家時(むついえとき) 

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(訳者注1)原文では、「大佛貞直」になっているのだが、[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]と[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注において、ここは「大佛高直」とするべきを、太平記作者がミスしたのであろうとしているので、このようにしておいた。
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外様(とざま:注2):千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮三河守(うつのみやみかわのかみ)、小山秀朝(おやまひでとも)、武田三郎(たけたさぶろう)、小笠原彦五郎(おがさわらひこごろう)、土岐頼貞(ときよりさだ)、葦名(あしな)判官、三浦氏明(みうらうじあき)、千田太郎(せんだたろう)、城太宰大弐入道(じょうのだざいのだいににゅうどう)、佐々木清高(ささききよたか)(注3)、佐々木備中守(ささきびっちゅうのかみ)、結城親光(ゆうきちかみつ)、小田時知(おだときとも)、長崎高貞(ながさきたかさだ)、長崎師宗(ながさきもろむね)、長江弥六左衛門尉(ながえやろくさえもんのじょう)、長沼駿河守(ながぬまするがのかみ)、渋谷遠江守(しぶやとおとおみのかみ)、川越円重(かわごええんじゅう)、工藤高景(くどうたかかげ)、狩野七郎左衛門尉(かのしちろうさえもんのじょう)、伊東常陸前司(いとうひたちのぜんじ)、伊東大和入道(いとうやまとゆうどう)、安藤藤内左衛門尉(あんどうとうないさえもんのじょう)、宇佐美摂津前司(いさみせっつのぜんじ)、二階堂道蘊(にかいどうどううん)、二階堂時元(にかいどうときもと)、二階堂宗元(にかいどうむねもと)、安保左衛門入道(あぶさえもんにゅうどう)、南部次郎(なんぶじろう)、山城四郎左衛門尉(やましろしろうさえもんのじょう) 

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(訳者注2)北条一族以外。

(訳者注3)佐々木清高は隠岐にいるはずなので、ここは、太平記作者の誤りであろう。
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これらの人々をはじめとして、主な御家人132人、兵力総計30万7500余騎! 

9月20日に鎌倉を出発、10月8日に、先陣は京都に到着するも、後陣はいまだに、足柄・箱根(神奈川県)のあたりを進軍、というほどの大軍団であった。 

これに加え、四国からは、河野通治(こうのみちはる)が大船300余隻で瀬戸内海を渡海、尼崎(あまがさき:兵庫県尼崎市)より上陸し、下京(しもぎょう:京都市・下京区一帯)に到着。 

厚東入道(こうとうにゅうどう)、大内介(おおうちのすけ)、安芸(あき:広島県西部)の熊谷(くまがい)らは、周防(すおう:山口県南部)、長門(ながと:山口県北部)の軍勢を率い、軍船200余隻にて瀬戸内海を東上、兵庫(ひょうご:神戸市・兵庫区)から上陸して西の京(京都市・中京区・西の京付近)に到着。 

甲斐(かい:山梨県)・信濃(しなの:長野県)両国の源氏7,000余は、中山道(なかせんどう)経由で上洛し、東山(京都市・東山区一帯)に到着。 

江馬越前守(えまえちぜんのかみ)と淡河右京亮(あいかわうきょうのすけ)は、北陸道7か国の軍3万余を率いて、東坂本(ひがしさかもと:滋賀県・大津市)を経由し、上京(かみぎょう:京都市・上京区一帯)に到着。

このように、諸国七道から軍勢が我も我もと馳せ上ってくるものだから、洛中、白川あたりの家だけではとても彼らの宿所に当てるには足りない。醍醐(だいご:山科区)、小栗栖(おぐりす:山科区)、日野(ひの:山科区)、勧修寺(かんしゅうじ:同左)、嵯峨(さが:右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)、太秦(うずまさ:右京区)のあたり、さらには、西山(にしやま:西京区)、北山(きたやま:北区)、賀茂(かも:北区)、北野(きたの:上京区)、革堂(こうどう:上京区)、河崎堂(かわさきどう::上京区)、清水寺(きよみずでら:東山区)、六角堂(ろっかくどう:中京区)の門の下、鐘楼の中までも、余す所なく幕府軍の宿所となってしまった。 

今まで日本は小さい国だと思っていたのに、これほど多くの人間がいたのであったか・・・いまはじめて思い知った次第である。 

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元弘3年(1333)1月末日、諸国からの軍勢80万を3手に分け、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)、赤坂(あかさか:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)、金剛山(こうごうさん:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)の3つの城に向かわせた。 

吉野方面軍の大将は、二階堂道蘊(にかいどうどううん)。あえて他家の軍勢を交えず、2万7000余騎にて、上ツ道(かみつみち)・下ツ道(しもつみち)・中ツ道(なかつみち)経由の(注4)、3手に分かれて進軍。

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(訳者注4)奈良時代に、奈良盆地の中に設営された、街道である。 
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赤坂方面軍の大将は、阿曽治時(あそはるとき)。8万余を率いて赤坂城へ向けて進発、まず、天王寺と住吉に陣を張った。 

搦め手・金剛山方面軍の大将は、陸奥家時(むついえとき)。10万余を率いて、奈良路から進軍を開始した。

幕府軍・侍大将を勤めるは長崎高貞(注5)。彼は自分の威勢をひけらかそうとしてであろうか、皆から一日遅れで進発した。その軍のいでたちは、まことに人目を驚かすものであった。

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(訳者注5)高資の弟。 
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先頭を旗差兵(はたさしへい:注6)が進み、それに続いて、鮮やかな房で飾り立てたたくましい馬にまたがる武士たち800余人、揃いの鎧を着て、軍団本体から2町ほど先を、粛々と馬を歩ませていく。 

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(訳者注6)大将旗を持つ旗手
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そしてその後を、長崎高貞が行く・・・絞り染めの直垂(ひたたれ)、絹の大口袴、濃紫色の鎧、銀星のついた5枚しころに8匹の金の龍形の飾り付きの兜を深くかぶっている。

磨きぬかれた銀めっきのすね当て、黄金づくりの太刀2本、乗馬は、「一部黒(いちのへぐろ)」という5尺3寸の関東一の名馬。潮の干いた干潟に残された小舟の図柄の蒔絵を施した鞍を置き、馬体には山吹色の房を付けている。

エビラの中には、銀製の磨き上がったハズに大中黒(おおなかぐろ)の羽がついた矢が36本。本滋藤(ほんしげとう)の弓の真ん中を握り、都の道路を所狭しと、馬を歩ませていく。 

左手に小手(こて)を付け、腹当てを着して武器を持つ雑兵500余人が、高貞の馬の前後に2列で従い、しずしずと路地を歩んでいく。その後方4、5町ほど遅れ、思い思いに鎧を着た武士たち10万余、兜の星を輝かし、鎧の袖を重ね、靴の底に打った釘の列のごとくに、周囲5、6里に展開して進軍していく。 

決然たるその威勢、まさに天地を響かせ山河をも動かすほど。 

その他、外様の御家人衆の軍団が、5,000、3,000と互いに間隔を保ちながら、13昼夜もの間、ひっきりなしに通過していった。 

わが国は言うにおよばず、中国、インド、モンゴル、東南アジアに至るまで、いまだかつて、これほどの大軍を組織することは出来なかったであろう、と思われるほどの幕府軍の威容である。 

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2017年6月19日 (月)

太平記 現代語訳 6-4 赤松円心、蜂起す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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そのころ、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)の住人で、村上天皇(むらかみてんのう)第7皇子・具平(ぐへい)親王の6代の末裔、従三位(じゅさんみ)・源季房(みなもとのすえふさ)の末孫、赤松次郎入道円心(あかまつじろうにゅうどうえんしん)と言う、弓矢取っては無双の勇士がいた。

この人は小事に関わることを好まず、また、他人の下につく事をよしとしない性格であった。衰微してしまった我が家を再び盛り返し、赤松家の名を大いに上げ、他に抜きんでた忠功を発揚したいと思っていた。

そのような所に、突然、息子が帰ってきた。この2、3年の間、護良親王(もりよししんのう)につき従い、吉野・十津川の艱難(かんなん)を共にくぐり抜けてきた、則祐(のりすけ)が。

赤松則祐 父上、護良親王殿下よりのメッセージ、持ってきましたで!

赤松円心 おぉ!

赤松円心 (パサパサパサ:手紙を開く音)・・・(内心)ふーん・・・。「早急に義兵を挙げて軍勢を率い、朝敵を討伐せよ! 功績あった者には、恩賞は望みのまま取らせるぞ。」てかいな。ふーん・・・。

赤松円心 (内心)その恩賞の詳細まで、きちんと17か条にまとめて、事細こぉに書いたるやないかい・・・どの条項を読んで見ても、赤松家を盛り立て、わしの野心を満たすには十分の内容やなぁ。

円心の心は弾んできた。

赤松円心 よーし、いっちょう、やってみたろかぁ!

彼はまず、播磨国・佐用庄(さようしょう)の苔縄山(こけなわやま:兵庫県・赤穂郡・上郡町)に城砦を構え、同志を募った。

円心の勢威は徐々に近隣に及び、播磨国中から武士達が参集、間もなくその兵力は、1,000余騎にまで達した。まさに、秦(しん)王朝の天下既に傾かんという時、その好機を捕らえて楚(そ)の陳勝(ちんしょう)が、身分低い身でありながらも、大澤(だいたく)にて決起した事を思わせるかのようである。

やがて、赤松軍は、杉坂(すぎさか:兵庫県・作用郡・作用町-岡山県・美作市)と山の里(やまのさと:兵庫県・赤穂郡・上郡町)の2か所に関所を置き、山陽・山陰両道の交通を遮断。これ以降、中国地方の道は塞がってしまい、西方諸国の幕府側勢力は京都へ上洛できなくなってしまった。

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(訳者注1)兵庫県・赤穂郡・上郡町に、[赤松]というエリアがあるようだ。上郡町の公式サイト中に、円心がそこに住んでいた、という趣旨の事が書かれている。
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2017年6月18日 (日)

太平記 現代語訳 6-3 楠正成、四天王寺にて、『大予言・日本の未来はこうなる』を読む

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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元弘(げんこう)2年(1332)8月3日、楠正成(くすのきまさしげ)は、住吉大社(すみよしたいしゃ:大阪市・住吉区)に参拝し、馬3頭を献じた。

その翌日には、四天王寺(してんのうじ:大阪市・天王寺区)へ参拝し、大般若経(だいはんにゃきょう)転読(てんどく)(注1)を依頼し、それへの謝礼の布施として、銀張りの鞍を置いた馬1頭に、銀細工を施した太刀1本と鎧1両を添えて献じた。

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(訳者注1)『大般若経』(『大般若波羅蜜多経』)は、600巻から成る膨大なものなので、法要の中で、その全てを通常の方法で読経することは不可能。ゆえに、[転読]という方法が用いられる。すなわち、複数の僧侶が自分の担当部分の経典を手に持ち、それを右または左に傾けながら、経が書かれている紙をパラパラと、一方へ落としながら、速読していく。
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転読が完了し、寺の老僧が、読経完遂証明レポート(注2)を持って、正成の前にやってきた。

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(訳者注2)原文では、「巻数(かんじゅ)」。
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楠正成 この正成、不肖のわが身をも顧みずに、倒幕の一大事を思い立ちましたこと、まさに、身の程知らずもえぇとこ、てな事になるんかもしれませんがなぁ、陛下から頂きました勅命の重さっちゅうもんを、よぉよぉ熟慮した結果、えぇい、もう自分の命なんか、どうでもえぇわい、てなことに、なりましてなぁ。

老僧 なるほどぉ。

楠正成 このたびは、あの鎌倉幕府相手に、たて続けに2連勝できてしまいよりましたわいな。おかげさんで、世間の注目もガゼン、こっちサイドに集まるようになってきよりましてなぁ、ハハハ。こっちが招きもせんのに、日本中から武士どもが、次から次へとわが陣営に加わってきとります。これはまさに、天がわしに時を与え、神仏も擁護のまなざしをそそいでくれてはるんやろうと、思ぉとりますぅ。

老僧 うーん。

楠正成 ところでですねぇ、お坊様、これはうわさで聞いたんやけどなぁ、ここのお寺には、ドエライもんがあるらしいですやん。

老僧 うん? いったいなんのこっちゃ?

楠正成 ここのお寺を建てはった、あの聖徳太子(しょうとくたいし)様がやねぇ、未来の百代の帝王の治世の様を透視しゃはってやねぇ、『大予言・日本の未来はこうなる』っちゅう題名の本を書かはった、それがここのお寺に残ったるんや、て、わし、聞きましたんやぁ。それ、ホンマでっかぁ?

老僧 ・・・。

楠正成 もしも、さしつかえないようやったら、その本の一部、そう、現代や、現代の世の中について書いたる部分だけでもえぇからやね、ちょっとだけ、そうや、ほんのちょっとだけ、わしに見さしてもらえしませんやろかなぁ?

老僧 うーん・・・たしかにぃ・・・・。聖徳太子様は、逆臣・物部守屋(もののべのもりや)を討たれた後、
ここのお寺を創建されて、仏法をわが国に広めはったんや。その後、神代(かみよ)からはじまって持統天皇(じとうてんのう)の御代に至るまでの日本の歴史を、ここのお寺の中で書かはった。それは全部で30巻あってな、『前代旧事本記』いうてなぁ(注3)、卜部宿祢(うらべのすくね)が、これを代々伝える役目を、朝廷からおぉせつこぉとるんやわな。

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(訳者注3)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]、[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注において、『先代旧事本記』の事を言っているのだろう、と記述されている。更に、『先代旧事本記』は平安時代に書かれたものであり、その著者は、聖徳太子ではない、と記述されている。
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老僧 (ヒソヒソ声で)ところがや、ジツはなぁ! その30巻の他にもう1巻、『秘密の巻』があるんやがな!

楠正成 (ヒソヒソ声で)ほうほう。

老僧 (ヒソヒソ声で)この一巻はな、ほんまに極秘の書物だっせ。いったいそこに何が書かれたるんかというとやな、持統女帝以降、末世に至るまでの代々の天皇の業績と天下の争乱の予言集なんやがな、これが!

楠正成 うわぁっ、すごいやんけ!

老僧 (ヒソヒソ声で)これっ! 声が大きい!

楠正成 (ヒソヒソ声で)すごいやんけぇー。

老僧 (ヒソヒソ声で)こないなタイソウなもん、そうそう簡単に人に見せるわけにはいかんのや。そやけどな、あんたにだけは特別に、こっそり見せたげましょかいな。

老僧はすぐに銀製のキーを持ってきて書庫を開け、そこから金色軸の巻き物1巻を出してきた。

正成は、胸を躍らせながら、それを読んで行った。

楠正成 あれぇ、ここになんや、ミョーな事書いたるぞぉ。

 「人王(にんおう) 95代に当たって 天下一たび乱れて 主(しゅ)安からず」
 「此の時 東魚(とうぎょ)来たって 四海(しかい)を呑む」
 「日 西天(せいてん)に没すること 370余日」
 「西鳥(せいちょう) 来たって 東魚を食らう」
 「その後 海内(かいだい)一(いつ)に帰すること 3年」
 「獼猴(みこう:注4)の如(ごと)くなる者 天下を掠(かす)むること 30余年」
 「大凶(だいきょう) 変じて一元(いちげん)に帰す うんぬん」

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(訳者注4)「猿」の別称。
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楠正成 (内心)うーん・・・これはおもろいなぁ(じっと考え込む)。

楠正成 (内心)まず、「人王 95代に当たって」のくだりやけど、先帝陛下はまさしく、神武帝(じんむてい)から数えて95代目や。

楠正成 (内心)「天下一たび乱れて 主安からず」は、まさに今の日本の現状そのものやなぁ。

楠正成 (内心)「此の時 東魚来たって 四海を呑む」、これは逆臣・北条高時(ほうじょうたかとき)とその一族の事や。となると、「西鳥 来たって 東魚を食らう」とあるから、鎌倉幕府を滅ぼす人物がそのうち現れる、ということか・・・。

楠正成 (内心)うーん・・・「日 西天に没すること」は、先帝陛下が隠岐島へ流されはった事とぴったし合(お)うとるわい。「370余日」とあるから、来年の春頃には、陛下が隠岐から京都へお帰りにならはって、再び天皇位につかれるっちゅう事やなぁ。

楠正成 (内心)なるほど、この予言書に込められた意味をよぉよぉ考えて見るにやなぁ、そのうち天下の形勢がひっくり返る事、間違いなしっちゅうこっちゃぁ。よーし、わしゃ、やるでェィ!

正成は、お礼に、金作りの太刀一振りを老僧に献じ、予言書を、もとの秘庫に収めさせた。

後になってから思い合わせてみるに、楠正成のその「予言書解釈」はことごとく当を得ていたのである。仏・菩薩にもたぐうべき大聖者・聖徳太子様が、この世の行く末を深く鑑みて書き残されたこの書物、その内容に寸分違わず、その後の情勢は推移していったのであった。まことに不可思議な予言の書、としか言う他は無い。

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(訳者注5)[第5巻 第4章] 中の、藤原仲範による考察のくだりが、この章の内容と対応している。(そのように、太平記作者は構想して書いたのであろう。)
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太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年6月17日 (土)

太平記 現代語訳 6-2 楠正成、再起す

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘(げんこう)2年(注1)3月5日、北条時益(ほうじょうときます)と北条仲時(ほうじょうなかとき)が六波羅庁(ろくはらちょう)の南庁と北庁の長官に任命されて、鎌倉からやってきた。ここ3、4年は、常葉範貞(とこはのりさだ)が一人で南北双方を兼務していたのだが、常葉が強く辞意を表明したので、というような事情であったようだ。

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(訳者注1)[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注によれば、この二人が六波羅庁の長官に就任したのは、実際には、元徳2年(1320)であり、元弘2年(1332)ではない。
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楠正成(くすのきまさしげ)は昨年、赤坂城で自害し焼死したように見せかけ、その後、潜伏し続けていた。そのカモフラージュにすっかりだまされた鎌倉幕府は、彼の本拠地一帯の土地を、湯浅定佛(ゆあさじょうぶつ)を地頭に任命して守らせていた。

河内国ではもう騒動など起きないであろうと、タカをくくっていた幕府をあざ笑うかのように、同年4月3日、楠正成は、500余の軍勢を率いて、にわかに湯浅の居城へ押し寄せ、息もつがせず攻めまくった。

城中の兵糧準備量が乏しかったからであろうか、湯浅定佛は、自分の領地、紀伊国・阿瀬河(あぜがわ:和歌山県・有田郡・有田川町)から、人夫5、600人ほどを使って兵糧を運搬させ、夜の間に城へ運び入れさせようとした。

この情報をどこからともなくキャッチした正成は、さっそく部下を兵糧運搬ルート中の要害ポイントへ送り込み、その兵糧を全部ぶんどってしまった。

楠正成 よぉし、オマエラな、まずはその俵から米、完全に出してしまえ。米出したらなぁ、かわりにそこに武器入れるんじゃ。

楠部隊一同 ほいほいー!

楠正成 どうやぁ、入れ終わったかぁ。よぉしよし、ほいでやな、その俵を馬に背負わせてやな、人夫らにひかせて湯浅の城へ向かわせい!

楠部隊リーダーA おかしら、わてらは、どないしたらえぇんや?

楠正成 兵糧運搬の護衛隊になりすまして、ついて行けぇ!

楠部隊一同 よっしゃぁ!

彼らは湯浅軍メンバーになりすまして、城中へ入ろうとする。城を取り巻く楠軍メンバーたちは、彼らを追い散らそうとするフリをして、追いつ返しつの戦いを展開。

脚本and演出・楠正成のこのヤラセの戦闘ドラマに、湯浅側はまんまとひっかかってしまった。

湯浅定佛 兵糧を運搬してきた我が軍のもんらが、敵に襲われとるやん、はよ、あいつらを応援したれぇ!

かくして、湯浅側は城中からうって出て兵糧運搬隊を護った結果、「招かれざる人々」を城の中へ引き入れてしまった。

何の苦もなく城の中に入った楠軍メンバーは、俵の中から武器を取りだし、厳重に武装した後、トキの声を上げた。それと同時に、城の外の楠軍も、木戸を破り塀を越えて攻め入った。

城の内外から楠軍に囲まれてしまった湯浅定佛は、もはやなすすべなく、すぐに首を延べて楠側に降伏した。

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降伏した湯浅軍団をあわせて、楠軍は700余騎の勢力に膨張。その後、和泉(いずみ:大阪府南部)と河内(かわち:大阪府東部)の両国を制圧、大勢力に発展。

5月17日には、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)付近にまで進出、渡部橋(わたなべばし:場所不詳)の南方に陣取った。

和泉・河内からはひっきりなしに早馬が京都へ飛ぶ。

「楠軍、渡部橋付近を拠点とし、京都へ攻め上らんとす!」

との報に京都中騒然、武士は東西に馳せ散り、貴賤上下、周章狼狽、この上なし。

さっそく、南北両六波羅庁に、首都圏近国の軍勢が雲霞(うんか)のごとく馳せ集まってきた。しかし、「楠軍、今にも京都へ攻め込んでくるか!」と待ちかまえてみたものの、一向にその気配もない。

六波羅庁では、ミーティングが行われた。

北条仲時 楠軍が今日、明日にでも、京都へ攻め上ってくるってな情報、飛び交ってたけど。

北条時益 どうもあれは、デマだったようだなぁ。

六波羅庁メンバーB あいつら、京都攻めできるほどの、大兵力でも、ねぇんでは?

六波羅庁メンバーC あっちが攻めて来ないってんなら、こっちから押しかけてくってのはどうです? バァット攻めて、イッキに、うっ散らかしちゃいましょうやぁ。

六波羅庁メンバーD それ、えぇですぅ。

北条時益 大将には誰を?

六波羅庁メンバーE そうでんなぁ・・・ここはひとつ、隅田(すだ)と高橋(たかはし)に、まかせてみてはぁ?

六波羅庁メンバー一同 まっ、そんなとこかなぁ。

ということで、隅田と高橋の両人を六波羅庁軍の大将に任命、京都市内48か所の警護所詰めの連中や在京の武士、さらに首都圏内諸国の兵たちをあわせた混成部隊を率いて、天王寺へ向かわせた。

5月20日、六波羅庁サイド5000余は、京都を出発。尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)、神崎(かんざき:尼崎市)、柱本(はしらもと:大阪府・高槻市)のあたりに陣取り、篝火(かがりび)を焚いて夜明けを待った。

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六波羅庁サイドのこの動きをキャッチした楠正成は、自軍の2000余騎を3つに分けた。

本隊を住吉・天王寺のあたりに伏せて配置の後、わずか300騎のみを渡部橋の南方に展開し、大きな篝火を2、3か所焚いて、六波羅庁軍に対峙させた。

楠正成 「なんじぇーぃ、楠軍いうても兵力、たった2、300しかおらんやんけ!」てなわけでな、六波羅庁軍はきっと油断して、渡部橋を渡って、川のこっち側に進出してきよるやろう。そこを狙ぉて、全軍繰り出し、イッキに総攻撃しかけたんねん。まぁ見とれぇ、あいつら残らず、川ん中へ、追い落としてしもたるわい!

翌5月21日、六波羅庁軍5000余は、全部隊を集中した後、渡部橋まで進んだ。

対岸にひかえる楠陣を見わたしてみれば、その数、わずかに2、300足らず。それも、やせ馬に綱かけたような武者どもばかり。

隅田 なんや、なんやぁ、「和泉・河内の大軍」と聞いてたのに、この程度かいなぁ。

高橋 よぉよぉ見たら、まともに戦えそうなやつなんか、一人もいぃひんやんかぁ。

隅田 あいつら、みんなまとめて生け捕りにして、六条河原に引きずり出して処刑してなぁ、六波羅庁から恩賞ガッポリ頂こうや、なぁ、高橋殿。

高橋 よぉし、隅田殿、行くぞ!

隅田 心得た!

二人は先頭切って橋を一気に渡った。これを見た全軍、我先にと、馬を進める。橋の上を渡る者あり、川の中を進む者あり、続々と対岸にかけ上がっていく。

これに対して楠軍は、遠矢を少しばかり射かけた後、一戦もせずに天王寺の方へ退却。これを見た六波羅庁軍、勝ちに乗じ人馬の息もつがせずに、天王寺北辺のあたりまで入り乱れながら進撃。

戦況の成り行きをじっと見つめていた正成、

楠正成 よぉし、そろそろ敵さん、人も馬も大分疲れてきよった頃やろて。ここらでイッキに、イテもたろかい。

楠正成 みな、よぉ聞けよぉ! これから、わが軍勢を3手に分けて、3方向から敵を攻撃やぞぉ!

楠軍団一同 おーぅ!

楠正成 まずは、第1軍団!

第1軍団一同 ホイホイ!

楠正成 オマエらはな、四天王寺、そうや、四天王寺の東側からな、敵を左手に見ながら襲いかかっていけ! 分かったか!

第1軍団一同 了解ーっ!

楠正成 次、第2軍団!

第2軍団一同 はいなぁー!

楠正成 オマエらはな、四天王寺の西や、西門の石の鳥居から出て、魚鱗陣形(ぎょりんじんけい:注2)で敵にかかっていけ! 魚鱗やぞ、分かったなぁ!

第2軍団一同 あいあいさー!

楠正成 第3軍団ーん!

第3軍団一同 イヨッ、待ってましたぁ!

楠正成 オマエらは、住吉大社の松林の陰からな、鶴翼、そうや、鶴翼陣形(かくよくじんけい:注3)に展開してな、敵を迎え撃て! 鶴翼やぞ、分かったかぁ!

第3軍団一同 よっしゃぁ!

(訳者注2)魚の鱗のように互いの間隔を密にして、集中して組む陣形。

(訳者注3)羽を大きく広げた鶴のような形態で、左右に広く展開する陣形。

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整然たる布陣で前進して行く楠軍。かたや、六波羅庁軍はといえば、兵力だけは圧倒的に多いものの、陣形も何もあったものではない。何の秩序も無く入り乱れており、兵力において劣る楠軍に逆に包囲されてしまっているような感さえある。

隅田 なんかマズそうなフンイキやなぁ、高橋殿!

高橋 うーん、もしかして楠、あの背後にさらに大軍を伏せとるん?

隅田 とにかくこのままでは、アカンわ。このあたりは足場が悪ぅて、馬の足も立たんやんか。もっと広い所へ敵を誘い出して・・・ほいでもって、敵軍の人数をよぉよぉ確かめてから・・・それに応じて、わが軍を適当に振り分けてから・・・それから勝負するということで・・・なぁ。

高橋 それがえぇみたいやねぇ。おーい、みんなぁ、退けぇ!

六波羅庁軍メンバーF なにぃ! 「退け」やて!

六波羅庁軍メンバーG さ、早いこと退却や。

六波羅庁軍メンバーH 敵に退路を断たれんうちにな。

彼らは一斉に渡部橋めざして退却を開始。これにつけこんだ楠軍、三方からトキの声を上げて殺到して行く。

ひたすら退く六波羅庁サイドのメンバーの視野に、やがて渡部橋が見えてきた。

隅田 おいおい、ちょっと待てやぁ・・・このままズルズル退却していったんでは・・・これ、メッチャ、マズイんちゃう? 川を背にして戦うことになってしまわへんかぁ?

高橋 ムムム・・・おぉい、みんな、ストップぅ、ここでストップやぁ! 踏みとどまれぇ、ここで踏みとどまって、敵を迎え撃てぇ!

隅田 敵は小勢やぞぉ! とにかく、とにかく、ここで踏みとどまれぇ!

高橋 えぇい、もぉ! 踏みとどまれと、言ぅてるやろがぁ!

六波羅庁軍メンバーF そないなこと言わはったかてな、前の方行っとった連中らが、次から次へとこっちへ退いて来よんねんもん、どんならんわ。

六波羅庁軍メンバーG わたいら、ただ、人の波に押し流されてるだけだっせぇ。

六波羅庁軍メンバーH コラァッ、そないに押すなっちゅうに! 前がつかえとんのじゃぁ、先へよぉいかんのじゃぁ! アイタァ!

六波羅庁軍メンバーI アグアグ・・・橋や、とにかく橋や、あこの橋にたどりついて、さっさと向こう岸に渡ってしまうんじゃ! アグアグ・・・。

六波羅庁軍メンバーJ こらぁっ! おマエらナニ考えとんねん! そないにイッペンに橋に押し寄せてきたらあかんやないか、わし、橋から落ちてしまうやないか、こらっこらっあーあああ!

このように、橋から人馬もろともに墜落して水に溺れてしまう者、多数。川を渡る途中に深みに入ってしまって命を落とす者もあり、川岸から馬を駆って倒し、その場で討たれてしまう者もあり。馬や鎧を捨ててひたすら逃走する者はあれども、返し合わせて楠軍と闘おうとする者など、一人もいない。

このようにして、5000余の大軍で京都を出ていった六波羅庁軍は、残り少ない人数になってしまい、ほうほうのていで京都へ逃げ帰ってきた。

その翌日、いったい何者のしわざであろうか、六条河原に落書きの札が。

 渡部の 水いか許(ばかり) 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらん

 (原文のまま)

これを見た京都の若衆ら、例のごとくにこの落書にメロディーをつけて歌ったり、人に語り伝えして大笑い。隅田と高橋は、面目丸つぶれ、しばらくは仮病を使って六波羅庁へ出仕しなかった。

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(訳者注4)[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、ここ以降の話(宇都宮公綱が登場の)は、「作者による虚構。」としている。『楠木合戦注文』という史料をもとに考察を行うと、その結論に至るのだそうだ。
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この事態を受けて、六波羅の両長官はさっそく、ミーティング。

北条時益 まったくもう! マイッタよなぁ。

北条仲時 ほんと、まずい事になっちまったよねぇ。

北条時益 このまま、楠をのさばらせとくわけにもいかんだろう。またすぐにでも、討伐軍向かわせなきゃな。

北条仲時 問題はね、今度はいったい誰を大将にするかだよ。

北条時益 誰か適当な人物、心当たりあるの?

北条仲時 彼だよ、彼にしか今度の討伐軍の大将はつとまんないだろうね。

北条時益 彼って、いったいだれよ?

北条仲時 宇都宮公綱(うつのみやきんつな)。

北条時益 あぁ、彼かぁ!

北条仲時 そう!

北条時益 そういやぁ、ついこの間、京都の方があまりに手薄だからってんでぇ、関東からわざわざ来てもらってたんだっけ。いいねぇ! 彼なら大丈夫でしょう。

北条仲時 おおい、誰か! 宇都宮公綱殿をここへ!

やがて、宇都宮公綱が六波羅庁へやってきた。

北条時益 宇都宮殿、本日ご来庁いただいたのは、他でもない、先日の例の楠討伐の関係の話でねぇ・・・。

宇都宮公綱 ・・・。

北条時益 いやぁ、こないだのあの合戦・・・。そりゃぁね、合戦の勝敗は運次第、絶対勝てると思う勝負でも、ひっくりかえっちゃうってなぁ事は、古から無きにしもあらずでしょうよ。でもねぇ、こないだのあの天王寺での敗戦となれば、話は別でしてねぇ、もうそりゃぁ、敗因ははっきりしてますよ。軍を率いていたリーダーの作戦のまずさ、そして、それに率いられていた士卒たちのあまりのフガイナさ、この2点に尽きますでしょうよ・・・まったくもぉっ、あの連中らのおかげでねぇ、六波羅庁を嘲る天下の人々の口を、塞ぎようも無しってな状態に、なってしまいましたよぉ。

北条仲時 我々が六波羅庁に赴任した後に、あなたにお願いして、はるばる関東から京都まで来ていただいたのは、いったい何のためだったか? 反乱軍の蜂起があった時に、それを鎮圧していただく為ですよねぇ。

北条時益 現在のこの状態を見れば、いったん敗軍の兵となってしまった者らを再度かり集めて、天王寺へ何度向かわせてみたってね、はかばかしい戦の一つもできゃしない、我々にはそう思えて、しかたがないんですぅ。そこで、宇都宮殿に楠討伐をお願いしようか、という事になったんですよ。

北条仲時 今まさに、国家危急の時、なにとぞ、楠討伐をお引き受けいただけないでしょうか。

宇都宮公綱 分かった! 楠討伐の仕事、喜んでお引き受けいたしましょう。

北条仲時 おぉ、やっていただけますか!

宇都宮公綱 あれほどの大軍が敗北して、戦の利を失ってしまった後に、私の手の者だけの小勢で討伐に向かうのだから、勝敗の行くえは、まことにもって見定めがたいものがあります。

北条仲時 ・・・。

北条時益 ・・・。

宇都宮公綱 でもね、行きますよ。この宇都宮公綱、関東を出発したその時から、このような大事にあたっては、自らの命を惜しむべからずとね、覚悟を固めてやってきたんだから。

北条仲時 うーん!

北条時益 ・・・(深くうなづく)。

宇都宮公綱 今回の戦、勝敗の見通しがつけがたい。まずは、自分一人だけでかの地へ行って、楠と一度合戦してみるとしましょう。そうした後に、苦戦に陥ってしまった時には、あらためて六波羅庁に援軍をお願いすることになりましょう。

このように言い置いて、宇都宮公綱は六波羅庁を退出していった。

北条仲時 おいおい、見たかい、あの態度! なんだかとっても、頼もしくなってきちゃうじゃなぁい?

北条時益 いやぁ、まったくすごいもんだ。もう完全に、腹すわっちゃってるってカンジ。

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宇都宮公綱 (内心)鎌倉幕府の命により、大敵に相対することとなった以上、我が命、惜しむべからず!

公綱はわざと宿所にも戻らず、7月19日正午、単身で六波羅庁を出発、京都を出て天王寺へと向かった。

東寺(とうじ:京都市南区、東寺(教王護国寺)周辺)のあたりまでは主従わずかに14、5騎ばかりであったが、その後、京都中に滞在する家臣全員が馳せ集まってきて、四塚(よつつか:京都市南区)、作道(つくりみち:京都市南区)と進んでいくころには、宇都宮軍団は総勢500余騎に膨張。

道中に行き会う者があれば、それがたとえ有力者に所属する者であろうと一切おかまいなし、その乗馬を奪い、お供の人夫を、馬を駆けて追い散らす。あまりの恐ろしさに、道行く者は、宇都宮軍団を避けて遠回りし、周辺の民家は戸を固く閉ざした。

その夜、宇都宮軍団は、柱本に陣を張って夜明けを待った。全員残らず決死の覚悟、「生きて京都へ帰ろう」などと思っている者は、ただの一人もいない。

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「宇都宮軍、進撃」との情報をキャッチした河内国住人・和田孫三郎(わだまごさぶろう)は、楠正成のもとへやって来てそれを報告。

和田孫三郎 なぁ、なぁ、こないだの合戦で負けた腹いせにな、六波羅庁は今度は、宇都宮公綱、送り込んで来よったみたいやで。今夜、もうすでに柱本のへんまで来とるらしいわ。せやけどなぁ、兵力は言うほどのもんでもないようやでぇ。せいぜい600ないしは700、いうとこやなぁ。

楠正成 ・・・。

和田孫三郎 こないだの戦、こっち側は兵力少かったけど、隅田と高橋の5000余人相手に、みごとに追い散らしてしもたやんけ。今度は、話が逆やぞ。こっちは勝利の波に乗ってて大勢、敵は利を失ぉて小勢やんか。

楠正成 ・・・。

和田孫三郎 なんぼ、宇都宮がすごい武勇の人間やいうたかてや、ナニほどの事ができようかいな。なぁなぁ、今夜にでも戦、仕掛けてやな、宇都宮軍、蹴散らしてしまおぉなぁ。

楠正成 ・・・(しばし熟考の後に)あんなぁ・・・合戦の勝敗、そう、勝敗いうもんはなぁ、兵の数の大小によって決まるんやない。勝敗いうもんはな、士卒の心が一つになってるかどうかによって決まるもんなんや。そやから、昔から言われてるようにやな、「大敵を見ては欺(あざむ)き、小勢を見ては畏(おそ)れよ」とは、まさにこの事やがな。

楠正成 よぉよぉ考えてみるにや、こないだの戦で、あちゃらさんの大軍が負けて逃げていきよった後に、宇都宮がたった一人で、そないに少ない軍勢を率いてやってきよるからにはや、宇都宮軍の連中は全員、「もう一人も生きて帰らへんぞ!」てな覚悟、かためとるに違いない。

楠正成 おまえ、知ってるかぁ、宇都宮、そう、宇都宮公綱いうたらな、関東一の武士やねんどぉ。あいつの家臣団の紀・清(き・せい)両党いうたらな、「戦場に臨んでは命を捨てること、塵芥よりもなお軽し」いうような連中やんけ。そないなヤツらがや、700余騎も集まって心一つになって、襲いかかってきよるねんどぉ。「一歩も退かんわい!」いうて、こっちがなんぼ、きばってみたところでやな、我が軍の大半は戦死っちゅうことに、なってしまうやんけ!

楠正成 倒幕の道、まだまだ先は長いんや。今度の一戦だけで決まる、いうもんでもないやろ。これからよぉけ(多く)、戦していかんならんのや。そやのにやでぇ、ただでさえ少ない味方の兵を、最初の合戦で討たれてもたら、これから先いったいどないなる? わしらの力、いっぺんに無(の)おなってしまうやんけ。そないなったらな、次からの戦に味方してくれよるヤツなんか、一人もおらんようになるぞ。

和田孫三郎 うーん・・・そぉかぁ。

楠正成 「良い将軍は戦わずして勝つ」っちゅう言葉があるんや。

楠正成 明日はわざとこの陣を退いてしもてな、「やったぁ!」と敵に思わせるんや。それから4、5日してからな、四方の峰々に篝火(かがりび)ボンボン焚いて、あいつらに煙吹っかけたるんや。

楠正成 さぁそないなったら、関東、そうや、関東の連中の事や、例によって、ダラァンとしてきてもてやな、「アラアラ、ここにそうそう長居してたんじゃ、まずいんじゃないかしらぁ。せっかく敵を退けて一面目立ったんですもの、ここらで退却しちゃいましょうよぉ、ねぇえー」てなこと、皆で言いださはんのんと、ちゃいますやろかいなぁ、ガハハハ・・・。

和田孫三郎 ワハハハ・・・。

楠正成 「進むも退くも、ケースバイケース」とはまさに、こういうのを言うんや!

和田孫三郎 なるほどなぁ。

楠正成 夜明けも近いわ、敵はそろそろ動き出しよるぞ! さぁ、みんな、撤退開始や!

このようなわけで、楠は天王寺から退却し、和田、湯浅もそれに続いた。

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夜明けとともに、宇都宮軍700余は天王寺へ押し寄せ、高津(こうづ:大阪市・天王寺区)のあたりの家々に火をかけてトキの声を上げた。しかし、そこには楠軍メンバーは一人もいない。

宇都宮公綱 これはきっと、敵の作戦だろうよ。このあたりは、馬の足場が悪くて道も狭いなぁ。敵に不意を突かれて、中央突破されんように気をつけろよ。背後から攻撃されちゃまずいからな!

紀清両党一同 おぅ!

宇都宮軍は、馬をそろえて四天王寺の東西の口から一斉に駆け入り、二度三度とあたりを廻ってみたが、楠軍は一人もおらず、焼き捨てた篝火だけが残ったまま、夜はほのぼのと明けていく。

宇都宮公綱 (内心)あぁ、なんだか一戦もしないうちに勝ってしまったような、とってもいい気分!

公綱は、本堂の前で馬から降りて聖徳太子を伏し拝み、一心に感謝して勝利の喜びをかみしめた。

宇都宮公綱 今回のこの勝利、ひとえに我らの武力の致すところにあらず、ただただ、神仏の御擁護のおかげです。

宇都宮公綱 おぉい、誰か! 六波羅庁へ早馬を送れ!「我ら宇都宮軍一同、天王寺に到着、即、敵を追い落とした」との、メッセージをな!

宇都宮公綱からのこの報に、六波羅両長官はじめ、北条一門、譜代(ふだい)、外様(とざま)はわきたった。彼らはこぞって、「宇都宮の今回の功績抜群!」と、褒め称えた。

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ところが・・・。

宇都宮公綱 (内心)うーん・・・まいったなぁ。

宇都宮公綱 (内心)先日は、天王寺に陣取っていた楠軍をあっけなく追い散らせたので、一応の面目は立った。しかし、次の手が続かない・・・うーん・・・。

宇都宮公綱 (内心)こんな少ない兵力でもって、すぐに、楠の陣へ攻め入れるわけがなし・・・かといってだなぁ、まともな戦を一度もせずに、京都へ帰るわけにもいかんし・・・うーん、まいった・・・まさに、進退窮まってしまったぞ。

それから4、5日後、和田と楠は、和泉(いずみ:大阪府南西部)・河内(かわち:大阪府東部)両国の野伏(のぶせり:注5)4、5000人ほどを駆り集め、信頼おける部下2、300人に彼らを指揮させて、宇都宮軍を遠巻きにして配置し、天王寺周辺一帯に、篝火を燃やさせた。

(訳者注5)ひとたび戦が起こるやいなや、武装して戦場周辺に参集して、利得を狙う人々。

紀・清両党メンバーK ヤヤ、楠軍の来襲だ!

紀・清両党メンバーL なにぃ! 敵はどこだぁ!

篝火を見て、宇都宮陣は大騒ぎである。更けゆく夜のしじまの中に、じっと陣の周囲を見渡せば、

紀・清両党メンバーM 秋篠(あきしの:奈良市)、外山(とやま:大阪・奈良県境)、生駒(いこま:同左)の峰々に輝く火は、晴れた夜空の星の数よりも多く、

紀・清両党メンバーN 大阪湾沿岸の志城津浦(しづつうら:大阪市・住吉区)から住吉(すみよし)、難波(なんば:大阪市・浪速区)の里に燃える火は、漁船にともす漁火(いさりび)が波を焼くか、と思うほど。

紀・清両党メンバーO 大和(やまと:奈良県)、河内、紀伊(きい:和歌山県)方面の、ありとあらゆる所の山と浜に、篝火が燃えている。

紀・清両党メンバーP 我々はいったい、何万の兵力に包囲されてるんだろう・・・もう想像もできない。

このような状態が3夜連続し、篝火の包囲の輪も徐々に縮まってくる。四方八方上下に充満して、闇夜の中に昼を見る感あり。

宇都宮公綱は、楠軍が寄せてきたら一戦にて勝負を決しようと思い、馬から鞍を下ろさず、鎧の革帯も解かずにじっと待ち続けた。しかし、戦闘は一向に始まらず、楠側の展開する、「ひたすらジワリジワリと包囲する神経戦」のプレッシャーに、勇気もたゆみ、闘志も弛(ゆる)んできた。

宇都宮公綱 (内心)あぁ、もう京都へ退却してしまいたいなぁ。

そのような中、彼の部下、紀・清両党からも同様の声が上がりはじめた。

紀・清両党メンバーK 殿、我らみたいなわずかの兵力でもって、あんな大軍に立ち向かっていっても、結局のところ、どうなるもんでもないんじゃぁ?

紀・清両党メンバーL 先日のあの戦で、敵を首尾よく追い散らしましたもんねぇ、面目はもう立派に立っているじゃぁないですかぁ。

紀・清両党メンバーM ここはひとまず、京都へ退却・・・じゃなかった、凱旋ってなセンで、いかがなもんでしょう?

紀・清両党メンバー一同 そうしましょうよ、殿!

宇都宮公綱 うーん・・・やむをえんな!

7月27日夜、宇都宮軍は天王寺から撤退。翌早朝、楠軍がそれに入れ替わって、再び天王寺を占拠してしまった。

世間の声X 宇都宮公綱と楠正成、かりに真っ正面からぶつかって勝負を決してたら、いったいどないなってたやろうかなぁ?

世間の声Y そら、あんたなぁ、あの二人が対決するんやもん、それこそ、両虎二龍の戦いが展開されてたやろぉて。

世間の声Z おそらく、二人相打ちやったやろな、二人とも死んでしもてたやろぉなぁ。

世間の声X で、互いにその危険を察知して、いったんは楠が退いて、謀を千里の外にめぐらし、

世間の声Y 次には、宇都宮が退いて、その高名を一戦の後に失わずに終わった。

世間の声Z まことにもって、智謀すぐれ、思慮深い、両雄の軍略やった。

世間の声一同 いやぁ、ほんまになぁ。

その後、楠正成は、天王寺を本拠として勢威をふるいながらも、周辺の民に災いをもたらす事もなく、士卒に礼を厚くした。これを伝え聞いて、近隣は言うに及ばず、はるかに遠い地の武士までも、我も我もと楠軍に参加してくる。その勢いは次第に強大になって行き、京都からたやすく、討伐軍を差し向ける事もできないような情勢になってきた。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年6月16日 (金)

太平記 現代語訳 6-1 護良親王の母、不思議な夢を見る

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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時の歩みの止まらざるは、飛矢流水の行くがごとくして、哀楽互いに入れ替わる事、春に開花、秋に落葉あるがごとし。この世の中の有様、ただの夢と言うべきや、幻と言うべきや・・・。

人生というものは常に悲喜こもごも、憂いもあれば喜びもあり。たもとに涙の露を宿すのも今に始まったことではないのだが・・・。

昨年の9月、笠置寺(かさぎでら)が陥落し、後醍醐先帝の隠岐(おき)への島流しの後、先帝の旧臣たちは悲哀のうちに諸所(しょしょ)に蟄居(ちっきょ)、後宮(こうきゅう)の美女三千人は涙のうちに伏し沈む。それもこれも、まことに憂き世の習いとは言いながら、中でもことさら哀れであったのが、先帝の后・親子殿(注1)であった。

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(訳者注1)源親子。源師親の娘。
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彼女に対する先帝の寵愛は浅からず、しかもその上、他ならぬ護良親王を産んだその人である。他の女御や后は彼女に比べてみるならば、美しき花の側に生える深山木(みやまぎ)のようなもの、色も香も無きがごとし。

しかし、政変の終結と共に、すっかり様変わりしてしまった宮中においては、もはや、自らの住む場所さえも確保できない。

親子 (内心)最近のウチ(私)の状態、もうまるで、波のうねりが高まる一方の海上に、舟をこぎ出した漁師のようなもんや。頼りに出来るようなもんなんか、なんもあらへんわ。

親子 (内心)それになぁ、聞くところによれば、陛下のご日常は、「西国の海上の帰らぬ波に浮き沈み、袖に涙の落ちぬ日は無し」というやないか。(涙)

親子 隠岐島(おきのしま)・・・京都からは、万里の彼方に隔たったとこなんやろぉなぁ。陛下も、この月、見てはるんやろぉかぁ。

暁の空にある月を空しく見上げながら、はるか彼方におられる先帝をしのぶしかない親子である。

親子 (内心)親王殿下(注2)も、南方の道無き雲中を踏み迷い、流浪の毎日というやないか。春の夕暮れの空を飛び行く雁に、あの子への手紙を託すこともできひんしなぁ・・・。

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(訳者注2)護良親王。
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親子 (内心)あーあ、あちらを見てもこちらを見ても、嘆きたくなるようなコトばっかしやぁ。

美しい青糸のようだった髪も抜け落ち、あっという間に老けてしまったか、と思われるほど。紅玉のごとき彼女の肌の艶ももはや消え失せてしまっている。

親子 (内心)いっそのこと、今日を限りの命であれば、えぇのに・・・。

親子 (内心)あぁ、やるせな・・・あぁ、もうこのままではたまらん、気ぃ狂いそうやわ。なんとかせな・・・。

親子 (内心)もう、神様におすがりするしかないわ。あの人に頼んでみよ。

「あの人」とは、北野天満宮・付属寺院に所属し、親子づきの祈祷担当として、宮中へもしばしば参内していた僧侶である。

親子は、彼の住居を訪ね、北野天満宮に7日間参籠したい、と依頼した。

僧侶 (内心)うわぁ、とんでもない事、依頼してきはったなぁ・・・。

僧侶 (内心)どないしよ・・・こういうご時勢やからなぁ、幕府にこんな事知れたら、何かまずい事になるかもなぁ・・・うーん、困ったなぁ、どないしたもんやろか・・・そやけどなぁ、親子様には、日ごろのご恩も、すごいあるしなぁ。最近のご様子見てると、ほんまにイタイタしぃて、お気の毒やしなぁ。

僧侶 (内心)親子様からの、たってのご依頼、お断りするのはあまりに無情やし・・・。よし、こないしょう! 拝殿の傍らに狭い一室をしつらえて、そこに参籠してもらうことに、しょやないか。身分の低い女房が参篭している風に装おうんや。

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あわれ、親子よ、これが昔であれば、錦の垂れ幕の奥にきらびやかに装い、薄絹を張った窓の奥に美しい面を隠し、左右に侍る女房たちその数を知らず、あたりも輝かんばかりに、親子にお仕えしていたであろうに。

今は、華やかなりし頃とはうって変わっての、人目を忍んでの北野天満宮への参篭。都に近い所なのに、話相手になる人もない。一夜松(注3)の嵐に夢を覚まされ、主を忘れぬ梅の香りに(注4)、かつての春の日々を回想する親子。

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(訳者注3)「北野天満宮の右近の馬場に一夜のうちに松千本生えるべし」と、天神からの宣託が降り、実際にその通りになった、という。

(訳者注4)菅原道真(すがわらのみちざね)は、藤原時平(ふじわらときひら)の讒言によって九州太宰府に左遷され、そこで失意のうちに亡くなった。その後、京都では時平や天皇の急死、御所への落雷等、不祥事相次ぐ。これはいかん、道真の怨念を鎮めねば、ということで朝廷は北野天満宮を建立、そこに道真を「北野天神」として祭った。道真が左遷の旅にいよいよ出るその時、自宅の庭先の梅の花を見て、詠んだ有名な歌あり。

 東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ
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醍醐天皇(だいごてんのう)の御代に荒人神(あらひとがみ)となった菅原道真公の、あの九州への左遷の旅の悲愁を、流刑となった後醍醐先帝の悲哀に重ね合わせ、あるいは自らの苦悩に重ね合わせるにつけても、嘆きは止まる事を知らない。心中に迫り出ずる悲しみの念に圧倒され、読経をしばし止め、涙の中に親子は一首詠んだ。

 哀れやと 思ぉて下さい 天神(てんじん)様 かつてのご苦悩 お忘れなくば

 (原文)忘(わすれ)ずは 神も哀れと 思ひしれ 心づくしの 古(いにし)への旅(注5)

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(訳者注5)かつて道真公が苦しまれたのと同じ苦しみ(流刑に遭って都から遠ざけられる)を今、後醍醐先帝もまた受けておられます。ならば、神となられた今、どうか先帝をあわれみ、お助け下さいませ、という思いを込めている。
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その少し後に、不思議な出来事が起こった。

衣冠を正しくした年齢80歳くらいの老人が一人、親子の伏している枕の側までやってきた。彼は左手に梅の花を一枝持ち、右手には鳩の頭の形がついた杖をつき、とても苦しそうな面持ちをしている。

親子 (内心)いや、このおじいさん、いったいどこの誰なんやろ? 誰も訪ねてきいひん都の郊外のこんな草深いとこに、いったいなんで、こないな人が?

親子 もしもし、おじいさん、あんた、どこのどなたはんどすかぁ? もしかして、道に迷うてからに、こないなとこまで来はったんどすかぁ?

老人 ・・・。(とても苦しそうな様子。無言のまま、左手に持った梅の花を親子の枕元に置いて去っていく)

親子 あ、おじいさん、おじいさん、どこ行かはんのん・・・。

老人 ・・・。(消失)

親子 ・・・なんとまぁ、ミョーなおじいさんやったなぁ。

親子 あれ、短冊、落として行かはったやん。なんか書いたるよ・・・どれどれ・・・えー!

 時(とき)経(た)てば やがては輝く 月光が 陰ったくらいで めそめそするな

 (原文)廻(めぐ)りきて 遂(つひ)にすむべき 月影(つきかげ)の しばし陰(くもる)を 何(なに)歎(なげ)くらん

親子 (ガバッ・・・夢から覚める)・・・あぁ、夢やったんかぁ。

親子 (内心)それにしてもやでぇ、さっきの夢に見たあの和歌、ジツに意味シン(深)やった。

親子 (内心)あの和歌の意味を、よぉよぉ考えてみるにやネェ、陛下、そのうちいつかは京都にご帰還あそばされ、宮中の主の座に復帰されるやろ、という事やろかねぇ。

親子 (内心)うん、うち、なんか希望わいてきたわぁ!

まことに、かの北野天満宮(きたのてんまんぐう)・菅公(かんこう)の廟(びょう)と呼ばれている地こそは、大慈大悲(だいじだいひ)の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が、天満天神(てんまんてんじん)に化身して鎮座まします所。一度(ひとたび)そこに歩みを運ぶ者は二世(注6)に渡って望みが成就され、わずかに天神の御名をお唱えするだけでも、その者の所願はすべて聞き届けられるのである。

--------
(訳者注6)現世と来世。
--------

ましてや、千筋万筋もの血涙をしたたらせて7日7夜参籠し、天神への誠を込めた親子である。彼女の願いはまさしく、人間の目には見えぬルートを経由して天神のもとに伝わり、その感応ありて、そのような夢のお告げとなったのであろう。

親子 いやぁ、世も末やというけどやねぇ、まこと込めての信心していった時には、神様も仏様も、ちゃあんと不思議なお力を示してくれはる、いう事なんやねぇ・・・よぉーし!

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 インデックス2

太平記 現代語訳 総インデックス

主要人物・登場箇所リスト

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第6巻

6-1 護良親王の母、不思議な夢を見る

6-2 楠正成、再起す

6-3 楠正成、四天王寺にて、『大予言・日本の未来はこうなる』を読む

6-4 赤松円心、蜂起す

6-5 反乱軍鎮圧のために鎌倉から大軍団出動

6-6 上赤阪城・攻防戦

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第7巻

7-1 護良親王、再び危機に直面

7-2 楠正成、千剣破城において、幕府軍100万を翻弄

7-3 新田義貞、倒幕の志を固める

7-4 赤松円心、摩耶山に軍事拠点を設定

7-5 四国においても、反幕府勢力が決起

7-6 後醍醐先帝、隠岐島脱出に成功

7-7 船上山にて名和軍団、幕府側勢力と戦う

2017年6月15日 (木)

真如堂 ボダイジュの花 アジサイ 京都市 2017年6月15日

2017年6月15日に、真如堂(しんにょどう:京都市)に行きました。

ボダイジュが開花していました。

ボダイジュの木の下で、釈尊が悟りを開かれたとされていますが、その、インドのボダイジュと、日本の寺院にあるボダイジュとは、種類が異なります。

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アジサイがある場所で撮影しました。

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P22 ナツツバキが開花していました。
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P23 サンシュユに実がなっていました。
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2017年6月10日 (土)

マキノ 野生サル 琵琶湖 滋賀県 高島市 2017年6月

2017年6月に、マキノ(滋賀県・高島市)に行きました。

野生のサルの群れに出会い、動画を撮影することができました。それを、ユーチューブ上にアップロードしました。下記でご覧になることができます。

当日は、JR山科駅から、JR湖西線に乗り、マキノ駅で下車。

駅から湖岸に移動する途中、ファミリーマートで昼食を購入。

そして、[マキノ・サニービーチ]へ。

そこから湖岸を、[海津]の方へ歩いて行きました。

このあたり、[西浜]という地区であるようです。

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[海津浜]へやってきました。

P5 海津浜の石積み

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1703年に、防波のために、このあたり一帯の湖岸に、石垣が築かれたのだそうです。

P7 旧・海津港跡の付近で撮影

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その付近にあった表示には、下記のような趣旨の事が記されていました。

 平安時代末頃より、海津港が発展し始め、豊臣政権の時代に、大谷吉隆によって土木工事が行われてからは、大津に次ぐ大きな港として発展。

 1867年に、磯野源兵衛氏と井花伊兵衛氏らが共同して蒸気船を購入し、大津と海津との間に航路を開いた、その桟橋は杭のみを今に残している

下記のP8, P9を撮影した場所には、[淡海の巨木・名木次世代継承事業 認定第37号 吉田ケヤキ]との表示がありました。

P8

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P10 [マキノ東小学校]の付近で撮影

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そこから更に、海津大崎への道をひたすら歩きました。

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P14 このあたりの湖岸は、サクラ並木になっています。

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地図に、[義経の隠れ岩]というのが記されているので、どれかなぁと、湖岸を見つめながら歩いて行きました。すると、湖中にこの岩が。この岩が、[義経の隠れ岩]なのかどうかは、分かりません。

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P20 このトンネルが通行止めになっていたので、ここから引き返すことにしました。

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地図によれば、このトンネルを通過した向こうに、[海津大崎の岩礁]があるのだそうです。

バスの発車時刻までだいぶあるので、徒歩で引き返すことにしました。

途中、湖岸に、ツクダニの販売をしている店があったので、中に入ってみました。

今まで食べたことがないようなものがいろいろとあったので、2袋買いました、ゴリとイサザ。(「イサザ」は名前を聞いた事が無かったので、興味が湧き、購入)

再び、西浜の湖岸へ戻ってきました。

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路上で出会う学生のみなさんが、初めてここにやってきた私に、「こんにちわ」と声をかけてくださるのです。なにかとても、嬉しい思いの中に、こちらもあいさつさせていただきました。

サニービーチに到着。ある店で、ソフトクリームを買って、店先のベンチで食べました。

そして、JRマキノ駅へ。

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道中で撮影した動画を、ユーチューブ上にアップロードしました。下記でご覧になることができます。

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上記の動画を、ユーチューブのサイトで見たい方は、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。

私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

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この地域はもと、「マキノ町」。カタカナの自治体名は珍しいなと思います。

2005年に、付近の自治体と合併して高島市ができ、以来、この地域内の場所は、「高島市マキノ町XX」という地名になっているようです。

数台の福井ナンバーの車に、道中、出会いました。このあたり、福井県との県境にも近いようです。

2017年6月 9日 (金)

新作動画の発表 [マキノ サル, 高島市, 滋賀県]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、

 [Makino Monkeys, Takashima, Shiga, Japan]

滋賀県・高島市・マキノ で撮影したものです。

自作の曲:

 [律動曲・第1番, Op.12] ( "Rhythmical music No.1, Op.12")

を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

  ("runningWater" は、私のペンネームです。)
撮影地:滋賀県 高島市 マキノ
撮影時:2017年6月
映像撮影・制作:runningWater
バックグラウンド音楽
 作品名:律動曲・第1番, Op.12
 作曲・制作者:runningWater
  (コンピューターを使用して制作しました)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/Zcd6Nk7ul5U
です。

私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

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私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

2017年6月 8日 (木)

新作動画の発表 [マキノ 琵琶湖, 高島市, 滋賀県 (B)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、

 [Makino, Lake Biwa, Takashima, Shiga, Japan (B)]

滋賀県・高島市・マキノ 西浜 海津 で撮影したものです。

自作の曲:

 [気分よくやっています・第1番, Op.37] ( "I’m feeling good No.1, Op.37")

を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

  ("runningWater" は、私のペンネームです。)
撮影地:滋賀県 高島市 マキノ 西浜 海津
撮影時:2017年6月
映像撮影・制作:runningWater
バックグラウンド音楽
 作品名:気分よくやっています・第1番, Op.37
 作曲・制作者:runningWater
  (コンピューターを使用して制作しました)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/xp3SNHapxKQ
です。

私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

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新作動画の発表 [マキノ 琵琶湖, 高島市, 滋賀県 (A)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。

動画の題名は、

 [Makino, Lake Biwa, Takashima, Shiga, Japan (A)]

滋賀県・高島市・マキノ 西浜 で撮影したものです。

自作の曲:

 [湖畔の道, Op.32] ( "The road along a lake, Op.32")

を、バックグラウンド音楽に使用してます。

下記でご覧になることができます。

この動画についての説明は、以下の通りです。

("runningWater" は、私のペンネームです。)
撮影地:滋賀県 高島市 マキノ 西浜
撮影時:2017年6月
映像撮影・制作:runningWater
バックグラウンド音楽
 作品名:湖畔の道, Op.32
 作曲・制作者:runningWater
  (コンピューターを使用して制作しました)

上記の動画の格納先のURLは、
https://youtu.be/hJKpbDhl0sI
です。

私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

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2017年6月 7日 (水)

今津 滋賀県 高島市 2017年6月

2017年6月に、マキノ(滋賀県・高島市)に行ったのですが、その帰りに、今津(滋賀県・高島市)に行きました。時間の余裕が無かったので、広い範囲をめぐることはできませんでした。

P1 今津港で撮影。停泊中の船は、竹生島へ行く船なのかも。
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P2 今津港の付近で撮影。
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P3 今津港の付近で撮影。
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P4 今津港の付近で撮影。
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P5 今津港の付近で撮影。
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[歴史地名 今津]でネット検索してみて分かったのですが、[今津]の地名は日本全国にあるようです。

「今」の字の意味には、「新」の意味もあるようだから、

 [今津] = [New Harbor]

という解釈により、もしかすると、[今津]の地名は、[新津]、[新港]、[新湊]等の地名にも関係あり、ということになるのかも。

[今津 古津 近江]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

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JR・近江今津・駅の近くに、[琵琶湖周航の歌資料館]という施設があり、その前に、鉢がいくつもありました。鉢の中に、[ヒツジグサ]という植物がありました。

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JR・近江今津・駅の駅前にも、[ヒツジグサ]がありました。

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なぜ、今津でヒツジグサ?

なぜ、今津において、[ヒツジグサ]がこのように大々的に生育しているのか、それは、今から100年前に誕生した、この地に深い関係を持つある歌に、理由があるようです。

その歌とは、『琵琶湖周航の歌』。

もともとは、[第三高等学校]の生徒たちの歌、という性質のものであったのが、1960年代以降、多くの歌手が歌うところとなり、中でも、加藤登紀子さんが歌ったそれは、大ヒットになったのそうです。

『琵琶湖周航の歌』の誕生から、今年(2017)がちょうど、100年、ということで、[琵琶湖周航の歌誕生100周年記念交流会]、[琵琶湖周航の歌誕生100周年記念誕生の地まち歩きツアー]が、高島市により計画されているようです。

ネットで調べてみて、知ったのですが、この歌ができた経緯は、とても興味深いです。

([高島市 今津 小口太郎 吉田千秋]等でネット検索すると、関連する情報が得られると思います。)

(1)『ひつじぐさ』

 1915年、『ひつじぐさ』という歌曲が、「音楽界」(雑誌)において、発表された。
 作詞:だれの作詞かは不明(イギリスの童謡 『WATER―LILIES』)。
 訳詩および作曲:様々な人々の調査・研究により、[吉田千秋]氏による訳詩および作曲、と判明。

 1919年、[吉田千秋]氏、逝去。

[吉田千秋]氏による訳詩を、ネットで読むことができました。いい訳詩だなと、思います。

 風吹かば吹け 空曇れ
 雨降れ波立て さりながら

の部分からは、一休宗純の、公案課題への下記の解答、

 有漏路(うろぢ)より 無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み
   雨ふらば降れ 風ふかば吹け

を連想します。

([吉田千秋 ひつじぐさ 歌詞]、[吉田千秋 ひつじぐさ 楽譜]、[一休 公案 洞山三頓]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

(2)『琵琶湖周航の歌』

 1917年に成立。
 作詞:小口太郎(長野県・岡谷市 生)
 作曲:様々な人々の調査・研究により、[吉田千秋]氏作の『ひつじぐさ』(上記)のメロディが原形になったものと、判明。

[小口太郎]氏は、当時、第三高等学校の学生で、ボート部の部員。ボート部の仲間と共に、琵琶湖一周の漕艇を行う途中、今津に宿泊した際に、この歌を作り、その後、第三高等学校の寮歌・学生歌として歌い継がれていったのだそうです。

1924年、[小口太郎]氏、逝去。

([高島市 今津 琵琶湖周航の歌 小口太郎]、[京都大学 ボート部 小口太郎]、[小口太郎 琵琶湖周航の歌]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

(3)『琵琶湖周航の歌』は、いわゆる、「替え歌」であるようです

 1915年:『ひつじぐさ』成立
 1917年:『琵琶湖周航の歌』成立
 1919年:[吉田千秋]氏、逝去。
 1924年:[小口太郎]氏、逝去。

上記のような時系列になっています。

これに似たような行為(いわゆる、「替え歌」の作成)が現代において行われた場合には、その後の成り行きによっては、著作権に抵触するような事になってしまう可能性も、ありかと思われます。成立当時は、現代とは状況が異なるので、トラブルになるような事も、無かったのかも。

現在の世は、[ネット後・世]、当時の世は、[ネット前・世]。

ある人の作品を、別の人が改変し、その改変後のものが、様々な人によって歌われている、というようなことが、それほど容易に分かるものでもなかった、ということなのかもしれません。

歌の成立時点においては、

 部活の最中に、替え歌を作ってみたら、部員仲間にけっこううけて、そのうち、多くの学生諸君の好んで歌うところとなり・・・。

というような事だったでしょうから、著作権うんぬん、というような問題が生じる可能性は極めて低いような状況ではなかったかと、思われます。

([JASRAC 替え歌 著作権]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

(4)琵琶湖一周

船で琵琶湖を一周するので、「琵琶湖周航」と言うのでしょう。

その船の動力が人力のみ、というケースもありうるわけで、小口太郎氏が参加していた旅も、おそらく、そのケースに該当。となると、船のサイズは比較的小のタイプのもの。リスクの大きい旅、と言えるのではないでしょうか。

([琵琶湖 遭難]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

陸の上を行く、琵琶湖一周もあるようです。

(4-1)ビワイチ

自転車で行く、琵琶湖一周。

(4-2)鉄道・琵琶湖一周(「ビワテツ」という言葉は無いようです)

鉄道で行く、琵琶湖一周。

JRの琵琶湖線、北陸線、湖西線を乗り繋いで、琵琶湖のまわりを一回り、という旅です。高架になっている区間においては、車窓から沿線の景観(琵琶湖の湖水等)を見やすいかもしれません。

2017年6月 6日 (火)

太平記 現代語訳 総インデックス

主要人物・登場箇所リスト

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第1巻 ~ 第5巻

第6巻 ~ 第10巻

太平記 現代語訳 主要人物・登場箇所リスト

順序はアイウエオ順。
記述内容は、名前, よみ, 所属サイド, 初出の巻章, (顕著に登場する巻章), 再現巻章, (追加・修正・年月日)

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あ行

赤松円心, あかまつえんしん, 赤松側, 6-4, (7-4, 8-1, 8-2, 8-4, 8-6, 9-2, 9-6), , (2017.8.3)

赤松貞範, あかまつさだのり, 赤松側, 7-4, (8-1, 8-2, 8-3, 9-6), , (2017.8.3)

赤松範資, あかまつのりすけ, 赤松側,  8-1, (8-2, 9-6), , (2017.8.3)

赤松則祐, あかまつのりすけ, 赤松側, 5-6, (6-4, 8-1, 8-2, 8-3, 9-6), , (2017.8.3)

飽間光泰, あくまみつやす, 赤松側,  8-1, (8-2,  ), , (2017.7.25)

足利高氏, あしかがたかうじ, 足利側, 3-3, (9-1, 9-2, 9-3, 9-4, 9-5, ), , (2017.8.3)

足利直義, ただよし, 足利側, 9-1, (9-5, ), , (2017.8.3)

足助重範, あすけしげのり, 後醍醐天皇側, 1-6, (1-7, 3-2, 3-4, 4-1), , (2017.5.20)

阿曽治時, あそはるとき, 北条側, 3-3, (6-5, 6-6, 7-2,  ), , (2017.7.11)

足立三郎, あだちさぶろう, 後醍醐天皇側, 8-7, (9-4 ), , (2017.8.3)

綾小路重資, あやのこうじしげすけ, 持明院統側, 9-7, ( ), , (2017.8.3)

足立三郎, あだちさぶろう, 後醍醐天皇側, 8-7, ( ), , (2017.7.25)

一条行房, いちじょうゆきふさ, 後醍醐天皇側, 4-6, (4-7 ), , (2017.5.20)

伊東大輔, いとうのたいふ, 赤松側,  8-2, ( ), , (2017.7.25)

伊東惟群, いとうただむら, 赤松側, 7-4, ( ), , (2017.7.25)

宇都宮公綱, うつのみやきんつな, 北条側, 6-2, (7-3, ), , (2017.7.11)

宇野国頼, うのくにより, 赤松側,  8-1, (8-2, ), , (2017.7.25)

円観, えんかん, 後醍醐天皇側, 1-6, (2-2, 2-3, ), , (2017.4.24)

塩冶高貞, えんやたかさだ, 北条側-->後醍醐天皇側, 7-6, (7-7, ), , (2017.7.11)

荻野彦六, おぎのひころく, 後醍醐天皇側, 8-7, (9-4 ), , (2017.8.3)

大佛貞直, おさらぎさだなお, 北条側, 3-3, (3-4,  ), , (2017.5.3)

大佛高直, おさらぎたかなお, 北条側, 6-5, (7-2, ), , (2017.7.11)

小田時知, おだときとも, 北条側, 2-8, (8-1, ), , (2017.7.25)

小山秀朝, おやまひでとも, 北条側, 6-5, (), , (2017.7.11)

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か行

花山院師賢, かざんいんもろかた, 後醍醐天皇側, 1-6, (1-7, 2-7, 2-8, 2-10, 3-4, 4-1), , (2017.5.20)

糟谷宗秋, かすやむねあき, 北条側, 3-2, (3-4, 9-7, 9-8), , (2017.8.3)

金澤貞将, かなざわさだまさ, 北条側, 3-3, (3-4,  ), , (2017.5.3)

川原林二郎, かわはらばやしのじろう, 赤松側,  8-2, ( ), , (2017.7.25)

観修寺経顕, かんしゅじつねあき, 持明院統側, 2-9, (9-7, ), , (2017.8.3)

菊亭兼季, きくていかねすえ, 持明院統側, 2-9, (  ), , (2017.4.24)

久下時重, くげときしげ, 後醍醐天皇側, 9-4, ( ), , (2017.8.3)

楠正成, くすのきまさしげ, 後醍醐天皇側, 3-1, (3-3, 3-5, 6-2, 6-3, 7-2, ), , (2017.7.11)

楠正季, くすのきまさすえ, 後醍醐天皇側, 3-5, ( ), , (2017.5.3)

玄恵, げんえ, 無所属, 1-7, (), , ()

光厳天皇(上皇、法皇), こうごんてんのう(じょうこう、ほうおう), 持明院統側, 1-5, (2-9, 3-4, 5-1, 8-3, 9-4, 9-7, 9-8, 9-9 ), , (2017.8.3)

河野通治, こうのみちはる, 北条側, 6-5, (8-3, 8-6, 8-7?, 9-6 ), , (2017.8.3)

高師直, こうのもろなお, 足利側, 9-4, (, ), , (2017.8.3)

光林房・源存, こうりんぼうげんそん, 後醍醐天皇側, 2-10, (), , (2017.4.24)

光林房・玄尊, こうりんぼうげんそん, 後醍醐天皇側, 5-6, (), , (2017.6.1)

後醍醐天皇, ごだいごてんのう, 後醍醐天皇側, 1-2, (1-6, 1-9, 2-1, 2-2, 2-7, 3-1, 3-4, 4-3, 4-4, 4-5, 4-6, 4-7, 5-3, 7-6, 8-7, ), , (2017.7.25)

小寺相模, こでらさがみ, 赤松側, 5-6, (7-1, 8-2, ) , , (2017.7.25)

児島高徳, こじまたかのり, 後醍醐天皇側, 4-7, (8-7, 9-4 ), , (2017.8.3)

後伏見上皇, ごふしみじょうこう, 持明院統側, 2-9, (5-1, 8-3, 9-7, 9-8, 9-9 ), , (2017.8.3)

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さ行

西園寺公衡, さいおんじきんひら, 持明院統側, 5-1, (  ), , (2017.6.1)

西園寺公宗, さいおいんじきんむね, 持明院統側, 2-9, (  ), , (2017.4.24)

櫻山四郎, さくらやましろう, 後醍醐天皇側, 3-3, (3-6), , (2017.5.3)

佐々木清高, ささききよたか, 北条側, 3-4, (4-7, 6-5, 7-6, 7-7, 9-8), , (2017.8.3)

佐々木道誉, ささきどうよ, 北条側, 4-1, (4-6,  ), , (2017.5.20)

佐々木時信, ささきときのぶ, 北条側, 1-8, (2-8, 3-2, 4-3, 8-1, 8-7, 9-8), , (2017.8.3)

佐々木善綱, ささきよしつな, 北条側-->後醍醐天皇側, 7-6, (7-7, ), , (2017.7.11)

佐用範家, さよのりいえ, 赤松側,  8-1, (9-2,  ), , (2017.8.3)

四条隆資, しじょうたかすけ, 後醍醐天皇側, 1-6, (1-7, 2-8, 2-10, ), , (2017.4.24)

寿子内親王, すずこないしんのう, 持明院統側, 8-3, ( ), , (2017.7.25)

隅田次郎左衛門, すだじろうさえもん, 北条側, 3-2, ( ), , (2017.5.3)

陶山二郎, 北条側, 8-3, (8-6, 8-7?, 9-7, 9-8), , (2017.8.3)

陶山義高, すやまよしたか, 北条側, 3-3, ( ), , (2017.5.3)

禅林寺有光, ぜんじんじありみつ, 持明院統側, 9-7, ( ), , (2017.8.3)

尊胤法親王, そんいんほっしんのう, 持明院統側, 5-1, (8-3, 8-4, 9-4 ,9-7 ), , (2017.8.3)

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た行

大高重成, だいこうしげなり, 足利側, 9-6, (, ), , (2017.8.3)

高倉左衛門佐, たかくらさえもんのすけ, 赤松側, 8-2, (8-3, ) , , (2017.7.25)

鷹司冬教, たかつかさふゆのり, 持明院統側, 5-1, (  ), , (2017.6.1)

尊良親王, たかよししんのう, 後醍醐天皇側, 1-5, (3-4, 4-3 ), , (2017.5.20)

武部七郎, たけべしちろう, 赤松側, 9-6, ( ), , (2017.8.3)

千種忠顕, ちぐさただあき, 後醍醐天皇側, 2-7, (3-4, 4-6, 4-7, 7-6, 8-7, 9-2, 9-6), , (2017.8.3)

千葉貞胤, ちばさだたね, 北条側, 4-6, (6-5 ), , (2017.7.11)

忠円, ちゅうえん, 無所属,  2-2, (2-3), , (2017.4.24)

恒良親王, つねよししんのう, 後醍醐天皇側, 4-2, ( ), , (2017.5.20)

土居二郎, どいのじろう, 後醍醐天皇側, 7-5, ( ), , (2017.7.11)

洞院公敏, とういんきんとし, 後醍醐天皇側, 2-7, (3-4, 4-1, ), , (2017.5.20)

洞院実世, とういんさねよ, 後醍醐天皇側, 1-7, (3-4, 4-1, 4-4, ), , (2017.5.20)

土岐頼貞, ときよりさだ, 北条側, 6-5, (), , (2017.7.11)

得能弥三郎, とくのうのやさぶろう, 後醍醐天皇側, 7-5, ( ), , (2017.7.11)

殿法印良忠, とののほういんりょうちゅう, 後醍醐天皇側, 4-1, (8-6, ), , (2017.7.25)

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な行

長崎円喜, ながさきえんき, 北条側, 9-1, ( ), , (2017.8.3)

長崎高貞, ながさきたかさだ, 北条側, 3-3, (6-5, 6-6, 7-2, ), , (2017.7.11)

長崎高資, ながさきたかすけ, 北条側, 2-5, (), , (2017.4.24)

長崎師宗, ながさきもろむね, 北条側, 7-2, ( ), , (2017.7.11)

中院貞平, なかのいんさだひら, 後醍醐天皇側, 2-8, (), , (2017.4.24)

中院定平, なかのいんさだひら, 後醍醐天皇側,  8-6, ( ), , (2017.7.25)

中院通顕, なかのいんみちあき, 持明院統側, 2-9, (  ), , (2017.4.24)

中山光能, なかやまみつよし, 赤松側,  8-1, ( ), , (2017.7.25)

名和長重, なわながしげ, 後醍醐天皇側, 7-6, (), , (2017.7.11)

名和長生, なわながたか, 後醍醐天皇側, 7-7, (8-7, ), , (2017.7.25)

名和長年, なわながとし, 後醍醐天皇側, 7-6, (), , (2017.7.11)

二階堂道蘊, にかいどうどううん, 北条側, 1-9, (2-5, 6-5,7-1,  ), , (2017.7.11)

錦織判官代, にしこりのほうがんだい, 後醍醐天皇側, 1-6, (3-3), , (2017.5.3)

二条為明, にじょうためあきら, 後醍醐天皇側, 2-2, (2-8, 2-10, 3-4,  ), , (2017.5.3)

新田義貞, にったよしさだ, 新田側, 7-3, ( ), , (2017.7.25)

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は行

花園法皇, はなぞのほうおう, 持明院統側, 8-3, (9-9), , (2017.8.3)

日野資明, ひのすけあきら, 持明院統側, 2-9, (8-3, ), , (2017.7.25)

日野資朝, ひのすけとも, 後醍醐天皇側, 1-6, (1-7, 1-9, 2-5), , (2017.4.24)

日野資名, ひのすけな, 持明院統側, 2-9, (3-4, 5-1, 5-2, 8-3, 9-7, 9-9 ), , (2017.8.3)

日野俊基, ひのとしもと, 後醍醐天皇側, 1-6, (1-7, 1-9, 2-4, 2-6), , (2017.4.24)

藤原公明, ふじわらのきんあきら, 後醍醐天皇側, 3-4, (4-1), , (2017.5.20)

舟田義昌, ふなだよしまさ, 新田側, 7-3, ( ), , (2017.7.25)

北条高時, ほうじょうたかとき, 北条側, 1-2, (1-9, 2-2, 2-3, 2-5, 3-3, 5-4, 5-5, 6-5, 9-1, ), , (2017.8.3)

北条時直, ほうじょうときなお, 北条側, 7-5, ( ), , (2017.7.11)

北条時益, ほうじょうときます, 北条側, 6-2, (8-3, 8-5, 8-6, 8-7, 9-2, 9-3, 9-4, 9-6, 9-7), , (2017.8.3)

北条仲時, ほうじょうなかとき, 北条側, 4-1, (6-2, 8-2, 8-3, 8-5, 8-6, 8-7, 9-2, 9-3, 9-4, 9-6, 9-7, 9-8), , (2017.8.3)

坊門雅忠, ぼうもんまさただ, 後醍醐天皇側, 9-2, ( ), ,(2017.8.3)

堀川具親, ほりかわともちか, 持明院統側, 8-3, ( ), , (2017.7.25)

三条実忠, さんじょうさねただ, 持明院統側, 8-3, ( ), , (2017.7.25)

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ま行

万里小路季房, までのこうじすえふさ, 後醍醐天皇側, 2-7, (3-4, 4-1, ), , (2017.5.20)

万里小路藤房, までのこうじふじふさ, 後醍醐天皇側, 2-1, (2-7, 3-1, 3-4, 4-1, ), , (2017.5.20)

万里小路宣房, までのこうじのぶふさ, 後醍醐天皇側, 3-4, (4-1, 5-2, ), , (2017.6.1)

源具親, みなもとのともちか, 持明院統側, 3-4, ( ), , (2017.5.3)

源具行, みなもとのともゆき, 後醍醐天皇側, 2-7, (3-4, 4-1), , (2017.5.20)

峰僧正・春雅, みねのそうじょうしゅんが, 後醍醐天皇側, 3-4, (4-1,  ), , (2017.5.20)

妙光房・小相模, みょうこうぼうこさがみ, 後醍醐天皇側, 2-10, (), , (2017.4.24)

陸奥家時, むついえとき, 北条側, 6-5, (7-2, ), , (2017.7.11)

宗良親王, むねよししんのう, 後醍醐天皇側, 1-5, (2-1, 2-8, 2-10, 3-4, 4-3 ), , (2017.5.20)

村上義光, むらかみよしてる, 5-6, (7-1), , (2017.7.11)

妻鹿長宗, めがながむね, 赤松側, 8-6, (9-6), , (2017.8.3)

護良親王, もりよししんのう, 後醍醐天皇側, 1-5, (2-1, 2-7, 2-8, 2-10, 5-6, 7-1, 7-2, 8-5, ), , (2017.7.25)

文観, もんかん, 後醍醐天皇側, 1-6, (2-2, 2-3, ), , (2017.4.24)

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や行

康人皇太子, やすひとこうたいし, 持明院統側, 8-3, (9-9 ), , (2017.8.3)

湯浅定佛, ゆあさじょうぶつ, 北条側, 6-2, (), , (2017.7.11)

結城親光, ゆうきちかみつ, 北条側, 6-5, (9-2, ), , (2017.8.3)

結城宗広, ゆうきむねひろ, 北条側, 2-3, (), , (2017.4.24) 

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ら行

廉子(安野廉子), れんし(あののれんし), 後醍醐天皇側, 1-4, (4-6, 4-7, ), , (2017.5.20)

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わ行

和田孫三郎, わだまごさぶろう, 後醍醐天皇側, 3-5, ( ), , (2017.7.11)

和田正遠, わだまさとお, 後醍醐天皇側, 3-5, ( ), , (2017.5.3)

太平記 現代語訳 5-6 護良親王、危機一髪

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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大塔宮・護良親王(おおとうのみや・もりよししんのう)は、奈良の般若寺(はんにゃじ:奈良市)に潜伏しながら、笠置寺攻防戦の情勢をうかがっていたが、

護良親王 ナニッ! 笠置はすでに陥落、陛下は、囚われの身になられたと・・・うーん・・・。

虎の尾を踏むがごとき危機、親王の身に迫り、天地広しといえども、我が身を隠す一寸の場所も無し。明らかに輝く日月の下にありながら、冥土の闇の中にさ迷うかのごとき心地。昼は野の草むらの中に隠れ、露おく緑の床に涙を落とし、夜は人里離れた村に佇んでは、人を見て吠える里の犬に悩まされる。安心して身を落ち着ける場所は、どこにも無い。

護良親王 (内心)しばらくの間だけでもえぇから、どっか、身ぃ隠せれるようなとこ(所)、ないかいなぁ。

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どこからどうやって探り当てたのであろうか、ある日の未明に突然、興福寺の一乗院(いちじょういん)の按察法眼・好専(あぜちほうげんこうせん)が、500余騎を率いて般若寺へ押し寄せてきた。

おり悪しく、親王に付き従っている人々が全員出はらっているので、ひとまず防戦し、それから逃走、というわけにもいかない。寺内くま無く、捜索隊の者らが押し入ってきているから、何かに紛れて脱出することも不可能。

護良親王 (内心)こないなったら、自害あるのみや!(モロ肌を脱ぐ)

護良親王 (内心)いや、待て、待て! 腹を切るのなんか、簡単な事やんか。もう、どないしょうもないっちゅうトコまで、行ってしもてからでも、切れるやんか。万に一つの希望に賭けて、どこまで隠れ通せるもんか、とことん、やってみよ!

そこで親王は、仏殿にかけ込んだ。

殿内を見回してみると、唐櫃(からびつ)が3つある。そのうち2個は、蓋がしてあるが、残りの1個は、蓋が開いたままになっている。その唐櫃の脇に、書物が積まれている。

護良親王 (内心)これ、大般若経(だいはんにゃきょう)やんか。

唐櫃の中には、外にあるのと同程度の分量の、大般若経(注1)の経典がある。

護良親王 (内心)ここの寺のもんが、この経典を読みかけたままにして、放置してるんやなぁ。

護良親王 (内心)そうや、この中に、隠れたろ!

その櫃の中に、親王は身を縮めて伏せ、体の上に経典をひっかぶった。

隠形の呪(おんぎょうのじゅ:注2)を心中に唱えながら、身を潜める護良親王。

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(訳者注1)『大般若波羅蜜多経』(だいはんにゃはらみったきょう)の略称。インド等にあった般若経典群を、玄奘が中国へ持ち帰り、それが漢訳されてできた。600巻から成る膨大なものなので、法要の中で、その全てを通常の方法で読経することは不可能。ゆえに、[転読]という方法が用いられる。すなわち、複数の僧侶が自分の担当部分の経典を手に持ち、それを右または左に傾けながら、経が書かれている紙をパラパラと、一方へ落としながら、速読していく。

(訳者注2)わが身を人の目から隠すのに効果がある、とされている真言。
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護良親王 (内心)見つかってしもぉたら、ソク、この刀を我が体に突き立て・・・。

氷のように冷たい刃を脇腹におし当て、捜索隊の、「ここにいたぞ!」との叫びの一声を、今か今かと待ち構える親王の心中、我々には到底、想像のしようもない。

ついに、捜索隊が仏殿の中にまで乱入してきた。

彼らは仏壇の下、天井の上まで、余す所無く探しまわる。

捜索隊・隊員A いいひんなぁ、親王・・・。

捜索隊・隊員B そら、こんなとこにおるかいなぁ。隠れれるようなとこ(場所)、どこにもないやんかぁ。

捜索隊・隊長 おい、あれがどうも怪しいな。ほれ、あこにある唐櫃。あれ開けてミィ!

隊員A はいはい・・・どれどれ、よっこらしょっと。(閉じている方の櫃の蓋を開き)うわぁ、メッチャ、お経典入ったるがなぁ。

隊長 それな、全部、外へ出してな、櫃の中、調べてみんかいや。

隊員A えぇー、これを全部ですかいなぁ。

隊員B ものすごい数やでぇ。

隊長 エェから、やれぇ!

隊員A はいはぃー。

隊員B よっこらしょ。

隊員C んもぁー、まいったなぁ。

隊員D ・・・。

隊長 大事なもんやからな、ていねいに出せよぉ!

隊員A はいはぃー。

隊員B ・・・。

隊員C ・・・。

隊員D ・・・。

経典 ホソン・・・ホソン・・・。

護良親王 ドキドキドキドキ・・・(心臓の鼓動、音高く)

隊員A ほれ、これで、お経典、全部、外へお出し申し上げたわいな。(櫃の一方を持ち)おい、そっち側持ってくれるかぁ。

隊員B オッケー、オッケー。(櫃のもう片方を持つ)。

隊員A ほいでな、これひっくり返すんや。

隊員B ホイホイ。

隊員A イッセェノォ。

隊員B ホイ!

隊員C イッセェノォ。

隊員D ホイ!

隊員A ほれ、なぁも、出てこんわなぁ。

隊員B ホイホイ。

隊員A そっちの櫃は、どうやぁ?

隊員C こっちも、なぁもなし。

隊員D ホイホイ。

隊員B 隊長、こっちの櫃も、あっちの櫃もな、経典以外に、中にはなぁも無しやったでぇ。

隊員D あっちの、あの、フタの開いたる方はどないします?

護良親王 (内心)ドキッ!

隊長 そうやなぁ・・・。

隊員A 隊長! もうやめときましょうよぉ。あんな、フタが開いたるような櫃の中になんか、隠れよりますかいなぁ!

隊員B そうやで、時間のムダ言うもんや。こんなとこ、探してる間に、親王はもう、この寺から一目散に逃げていってしもぉとるでぇ。他を当たりましょうや。

隊長 うーん・・・よし、ま、他を探してみるとしよか。その前に、お出し申し上げたお経典をやな、櫃の中にまたちゃんと、お戻しせんとあかんわなぁ。

隊員C うわぁ、またまた、タイヘンな作業・・・。

やがて、捜索隊は寺を出ていった。

護良親王 (内心)フーッ・・・いやぁ、危ないとこやったぁ。もうアカン、思ぁたけど、きわどいとこで助かったなぁ! なんか、夢見てるみたいや・・・。

護良親王 (内心)いやいや、安心するのはまだ早いで。ひょっとしてあいつら、また帰ってきよってからに、前よりももっと念入りに、捜索しよるかもしれへんやんか・・・。

護良親王 (内心)よし、さっきあいつらが調べとった、あっちの櫃に移ったろ。

親王はそれまで身を潜めていた櫃から出て、別の櫃へ移り、その蓋を閉じた。

案の定、捜索隊が戻ってきた。

隊長 それそれ、そっちの方の櫃、フタの開いたる方のんや。さっきは、その櫃だけは、中をあらためてないわなぁ。それがどうも気になる。もういっぺん、その櫃、よぉ調べて見ぃ。

隊員A そんなとこに、いぃひんてぇ!

隊員B んもぉーっ、隊長、考えすぎぃー。

隊長 エェーから、調べてみぃ!

隊員A はいはぃー。

隊員B ・・・。

隊員C ・・・。

隊員D ・・・。

経典 ホソン・・・ホソン・・・。

護良親王 ドキドキドキドキ・・・(心臓の鼓動、音高く)

隊員A ほれぇ、この通りやぁ。お経典、みぃんな、外にお出ししましたでぇ。見てぇなぁ、櫃の中には、ネズミ一匹もいいひんやんかい!

隊長 ムムム・・・大般若経の櫃の中、よくよく探してみれば、護良親王にあらずして、玄奘(げんじょう)三蔵法師を我、発見せりか。(注3)

隊員B いやぁ、よぉいわんわぁ、隊長、うまいこと言ぅて、ごまかさはりますやん。

捜索隊一同 ワハハハ・・・。

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(訳者注3)玄奘三蔵は西遊記の三蔵法師のモデルとなった人であり、『大唐西域記』の著者でもある。中国から中央アジアを経由してインドまで赴き、再び中国に帰国、大般若経典他を持ち帰った。
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捜索隊は、寺の門から出ていった。

護良親王 (内心)いやぁ、今度こそ、確実に助かった。これもひとえに、摩利支天(まりしてん)のご守護、十六夜叉(やしゃ)のご擁護のおかげで、助かったわが命。

信心肝に銘じ、感涙は親王の袖を潤す。

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護良親王 こないなっては、もう、奈良も危ない、このへんに身を隠す事なんか、もう不可能や。はよ、この寺から逃げださなあかん。よし、熊野(くまの:和歌山県)方面へ、逃げるとしよ。

親王は、直ちに般若寺を出た。

彼に付き従うは、光林房玄尊(こうりんぼうげんそん:注4)、赤松則祐(あかまつのりすけ)、小寺相模(こでらさがみ)、岡本三河房(おかもとみかわぼう)、武蔵房豪雲(むさしぼうごううん)、村上義光(むらかみよしてる)、片岡八郎(かたおかはちろう)、矢田彦七(やたひこしち)、平賀三郎(ひらがさぶろう)等、9人ほど。

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(訳者注4)2-10 に、[光林房・源存]という人が登場しているが、これが、この巻に登場する[光林房玄尊]と同一の人であるのかどうかは、分からない。
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親王はじめ全員、柿色の山伏の服を着て笈(おい)を掛け、山伏頭巾を眉が半ば隠れるくらいに深くかぶり、最年長の者を先達(せんだつ)に見せかけ、田舎山伏の一行が熊野の三神社に参詣する体に見せかけた。

親王側近E (内心)殿下は皇居の中で成長され、外出の時はいつも美しい車に乗って、という感じやったから。

親王側近F (内心)熊野までの長い道のり、歩行は無理とちゃうやろか?

親王側近G (内心)心配やなぁ。

ところが、いざ出発してみれば、親王の足は全く疲れを知らない。

いったいいつ、このような事にもお慣れになったのであろうか、粗末な革製の足袋と脚絆を身に着け、草鞋をはいて道を行かれる。

道中、社がある度に、そこに幣を捧げ、宿に泊まる毎、勤行怠りなく行われたので、道中に出会う修行者にも、行いすました先達山伏らにも見とがめられる事もなく、一行は歩を進める事ができた。

 由良の湊(ゆらのみなと:和歌山県日高郡)を見渡せば
 沖漕ぐ舟の楫緒(かじお)絶え
 浦の浜木綿(はまゆう)幾重(いくえ)とも
 知らぬ浪路(なみじ)に鳴く千鳥
 紀伊の路の遠山はるばると
 藤代(ふじしろ:和歌山県海南市)の松に掛かれる磯の浪
 和歌・吹上(ふきあげ:和歌山市)を外に見て
 月にみがける玉津島(たまつしま:和歌山市)
 光も今はさらでだに
 長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の路(みち)
 心を砕く習いなるに
 雨を含める孤村(こそん)の樹
 夕べを送り遠寺の鐘
 哀れを催す時しもあれ
 切目の王子(きりめのおうじ:和歌山県日高郡)に着き給う

その夜、街道脇にある祠(ほこら)の露の中に、親王は一人籠もり、夜を徹して祈り続けた。

護良親王 南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)熊野の三所権現(さんしょごんげん)、満山(まんざん)の護法(ごほう)、十万の眷族(けんぞく:注5)、八万の金剛童子(こんごうどうじ)、一切衆生(いっさいしゅじょう:注6)への憐憫(れんびん)をもって世に示現(じげん)したまい、分け隔てなく闇の隅々まで照らしたもうのであれば、なにとぞ陛下にたてつく逆臣ども滅び、朝廷の威光再び輝くべく、ご冥護(みょうご)たれたまわんことを。

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(訳者注5)家来。

(訳者注6)一切の人間。
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護良親王 伝え承るに、熊野の本宮(ほんぐう)・新宮(しんぐう)両所権現(りょうしょごんげん)はこれ、イザナギノミコト・イザナミノミコトの化身(けしん)なり。わが陛下は、その末裔(まつえい)でありますのに、朝日は浮雲によって隠され(注7)、世は暗闇に沈んでおります。何と悲しいことではありませんか! 神仏は、この世の惨状をご照覧下さらないのでありましょうか! 神が神としての御威光をお失ないなくば、天皇とて天皇の威光を回復できない事など、ありえましょうや!

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(訳者注7)朝廷を朝日に、幕府を、それを覆う雲にたとえている。
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親王は、五体投置(ごたいとうち:注8)を繰り返し、一心に誠こめて祈り続けた。

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(訳者注8)頭、両手、両肘を大地に接して礼拝する、仏教との作法。
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かくも赤誠込めた祈りが、神に通じないはずがない、終夜の礼拝に疲れ、肘を枕に、しばしまどろむ中に、親王は夢を見た。

髪を結った童子が一人、出てきていわく、

童子 熊野のあたりは、人心が乱れておりますからね、あなたの願いの達成は困難です。ここから、十津川(とつがわ:奈良県・十津川村)へ逃れ、そこで、時の来るのを待ちなさい。

護良親王 あなたはいったい・・・。

童子 熊野の両所権現(りょうしょごんげん)から、あなたの道案内をせよ、とおおせつかりましてね、それで、ここまでお教えしにやってきたのですよ。では、ガンバッテ!

護良親王 あっ、ちょっと待ってください、待って・・・(ガバッ)

護良親王 (内心)あぁ、夢やったんかぁ。いやいや、あれぞまさしく、権現よりのお告げや。頼もしいなあ!

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その未明に、親王は社にお礼の幣を捧げた。

そして、一行は、十津川の方角めざして山に分け入った。

道中30余里ほど、人里も絶えて無い。

ある時は、高峯の雲に枕をそばだて、苔のむしろに袖を敷き、ある時は、岩漏る水に渇きを癒し、朽ちかけた橋を肝を冷やしながら渡る。

雨の降らない山路を行くにもかかわらず、山の湿気はいつしか衣を湿らせている。見上げれば、万仞(ばんじん)の高さに山は剣のようにそびえ、見下ろせば、千丈の谷間は藍色に染まる。

このような、険阻な難所を行く旅が数日続いた。

親王の疲労は限界に達し、流れる汗は水のごとく、足が負傷して、草鞋は血に染まっている。

伴の人々も、鉄石の身体を持っているわけではないから、みな、飢え疲れ、しっかりとした歩行もできないようになってしまっている。

このような苦難の旅の道中、彼らは護良親王の腰を押し手を引き、13日の行程の後、ようやく十津川郷へたどりついた。

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ある堂の中に護良親王(もりよししんのう)を匿(かくま)った後、伴の人々は、近在の家々を尋ね、「我々は熊野もうでの山伏の一行であるが、道に迷ってしまい、この郷にようやくたどりついた」と、訴えた。

それを聞いた十津川(とつがわ)郷の人々は、彼らを哀れに思い、粟(あわ)の飯やトチの実粥などを作って、ふるまってくれた。

伴の人々は親王にもこれを差し上げ、二、三日はそうやって過ごしたが、

光林房玄尊 このままではどうしようもないわ。いっちょ、ここの郷の有力者に、あたってみる。

さっそく彼は、十津川郷を歩き回ってみた。

光林房玄尊 (内心)ほほぉ・・・この家はなかなか立派やなぁ。おそらく、この地の有力者の家やろう。よぉし!

光林房玄尊 おぉい、ここの家の方、どなたか! お頼み申すぅー!

一人の少年が出てきた。

少年 はいはい、なんですかぁ?

光林房玄尊 あんなぁ、ここのお宅の主はんは、なんちゅうお名前やろかいな?

少年 ここはなぁ、武原八郎(たけはらはちろう)入道はんのおいごはんの、戸野兵衛(とのひょうえ)いう人のお屋敷や。

光林房玄尊 (内心)あぁ、さてはこの家が、弓矢取ってはなかなかの者とのうわさの、あの人の家やったんか。なんとかして、ここの家の主、味方に引き入れたいもんやなぁ。

門から入り、中の様子をうかがってみたところ、家中にはどうやら病人がいるらしい。

家中の人 あーぁ、行力あらたかな、どこぞの山伏はん、ここへ来てくれへんやろぉかぁ。病気平癒のご祈祷、お願いしたいなぁ。

光林房玄尊 (内心)ナニ、病気平癒の祈祷を、てかぁ。ヤッタァ。

光林房玄尊 (大声で)アー、エヘン、エヘン! わしらはなぁ、那智(なち)の三重の瀧に7日間打たれ、那智山に1000日こもった後、西国33か所巡礼の旅に出た山伏(やまぶし)の一行や! 今はその旅の途中やねんけどなぁ、道に迷ぉて、この里に来たんや。一宿一飯、ふるもぉて下さらんかのぉ。

中から下女が出てきた。

下女 イヤァ、ほんにマァ、そないに立派な山伏さんがここへ来てくれはったやなんて、これはきっと、神仏のご加護やなぁ。山伏のセンセ(先生)、じつはなあ、ここの家の奥さんなぁ、物の怪(もののけ)にとりつかれてもぉて、病気になってはるんやんかぁ、センセ、お願いやから、奥さんの為に祈祷したげてぇなぁ!

光林房玄尊 ナニィ、物の怪やとぉ? うーん、困ったのぉ。わしはまだ修行が至ってへんから、物の怪退散の祈祷となると、ちょぉっと、つらいもんがあるわなぁ。

下女 あー、そうかいなぁ。

光林房玄尊 そやけどな、あこのな、あの辻堂の中に休んだはる、わしらの先達(せんだつ)師匠はんやったら、行力絶大やからな、あの人やったら、祈祷でけると思うでぇ。わしから、祈祷お願いしてみる分には、なぁの問題もないわなぁ。

下女 うわ、おおきに! ほならな、ほれ、その先達のセンセさまに、こっちへ入ってもろぉてぇな! はよ(早)はよ! まぁ、ほんまに良かったわぁ!

光林房玄尊は走って帰り、この由を親王に告げた。

一行はさっそく、その館の中へ入った。

護良親王は、病人が寝ている室に入り、加持祈祷を修した。

千手観音(せんじゅかんのん)陀羅尼(だらに)を2、3回、声高らかに読呪(どくじゅ)し、念珠(ねんじゅ)を押し揉んだ。

すると、病人は様々の事を口走り始めた。不動明王の索に縛られたかのように、手足を縮めておののき、五体に汗を流し・・・。

やがて、物の怪は退散し、病人はたちまち元気になった。

病人の夫・戸野兵衛は、大いに喜んでいわく、

戸野兵衛 うちには、貯えもあんまし無いもんで、格別のお礼もできません。どうか、そこらへんの事情をお察し下さった上で、ここに10日くらいは、ご逗留下さい、どうぞ、足をお休め下さいませ。

光林房玄尊 それは、ありがたいことで・・・。

戸野兵衛 先達殿が、こちらの待遇を不満に思われて、逃げていってしまわはったら困りますからなぁ・・・おそれながら、ここにある皆様の荷物、ぜんぶ、質に預からせてもらいますでぇ。

親王一行、顔には表わさないものの、心中には喜び限りなしである。

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それから10日ほどが過ぎた。戸野兵衛は客間に出て炉に火を燃やし、親王らとよもやま話をしていたが、

戸野兵衛 みなさん、おそらくもう、お聞きになっておられる事やろけど、これホンマですやろか、護良親王殿下が京都を脱出され、熊野方面へ向こぉてはるとの、うわさ。

親王たち ・・・。

戸野兵衛 あっち方面に逃げはるのん、あきませんわ。熊野三山・トップの定遍僧都(じょうべんそうず)いうたら、モロ、幕府派の人間ですやん。そやから、あそこらへんに隠れるいうのんは、チト無理とちゃいますかいなぁ?

戸野兵衛 親王殿下、熊野なんか行かはらんと、ここの里へ来はったらよろしいのになぁ。

戸野兵衛 ここやったら、安心ですよ。土地は狭いけど、周囲は険阻な山々ですやろ、十里二十里ほどの間は鳥もよぁ飛ばんくらいですからな。住民もみな、正直やし・・・それになぁ、わしら、弓矢の道も達者なんやでぇ。

戸野兵衛 そやからな、平清盛(たいらのきよもり)の嫡孫(ちゃくそん)の平維盛(たいらのこれもり)いうお人もな、わしらの先祖を頼ってな、ここ、十津川に潜伏されてな、源氏が天下を取った世に、身を全うしゃはったんやと、聞いとりますんやぁ。

護良親王 (喜色満面)なぁなぁ、もしも、もしもやで、護良親王はんご一行がやで、ここを頼って来はったとしたらやで・・・力になったげる?

戸野兵衛 当然ですやん! わし、こないな不肖の身ですけどなぁ、「今日から親王殿下を、我が家で匿うぞ」と、わしが言うたら最後、鹿瀬(ししがせ)、蕪坂(かぶらさか)、湯浅(ゆあさ)、阿瀬川(あぜがわ)、小原(おばら)、芋瀬(いもせ)、中津川(なかつがわ)、吉野18郷に至るまで、ここいら一帯のもんら、殿下には指一本、手出ししよりませんがな。

親王は、木寺相模(こでらのさがみ)に目配せした。木寺は戸野の側に寄っていわく、

木寺相模 こないなったらもう、なにも隠す必要ないわな。じつはなぁ、あんたの目の前にいはる先達山伏さんこそが、あんたが今言うた、護良親王その人なんやでぇ!

戸野兵衛 エェッ!

突然の言葉に、信じられないような面もちのまま、戸野は彼らの顔をしげしげと見つめた。

片岡八郎 あぁ、暑いなぁ!

矢田彦七 そうやなぁ!

二人は、山伏頭巾を脱いで側に置いた。ニセ山伏ゆえ、彼らの頭髪には、サカヤキの跡がくっきりと現れている。

戸野は、これを見ていわく、

戸野兵衛 なるほど・・・あんたはんらは、山伏ではないようですなぁ。

戸野兵衛 それにしてもまぁ、そないな大事な事、よぉ、うち明けてくれはりましたなぁ・・・。いやいや、知らぬ故の事とはいえ、これは失礼いたしました。これまでの私の振る舞い、さぞかし、「こいつは無礼なやっちゃなぁ」と、お思いでしたやろうなぁ。えらいすんまへん。

戸野は、あわてて首を床につけ、手を揃えて畳の下座の方にかしこまった。

戸野は、すぐに丸木作りの御所を建て、そこに宮を匿うことにした。そして、四方の山々に関所を設けて路を塞ぎ、厳重に警戒した。

戸野兵衛 (内心)いやいや、これくらいでは不十分。親王殿下をお護りし通す事は難しい・・・いったいどないしたもんやろうか・・・よし、思い切って、叔父上に相談してみよ。

戸野の叔父・武原八郎は、直ちに戸野の依頼を受け入れ、自分の館に親王を迎え入れ、忠節の心を表した。

護良親王もようやく一息つけるようになり、その後半年ほどは、そこに腰を落ち着けることが出来た。人に見咎められないように、還俗(げんぞく)して一般人に姿を変え、武原の娘とイイ仲にまでなってしまった。

こうなると、武原もいよいよ親王に志を傾けるし、近辺の郷民たちも次第に親王を尊び、鎌倉幕府を意に介しないようになっていった。

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熊野三山・トップ・定遍 ナニナニ、護良親王が十津川に潜入したとぉ!

定遍 (内心)親王を討ち取りに、十津川郷まで押し寄せていくっちゅうセンは、チト無理スジやなぁ。たとえ10万騎の軍勢ありとしても、不可能やで。いったい、どないしたもんか・・・。

定遍 (内心)そうや、あのへん一帯の連中らの欲望を刺激してやな、親王が十津川郷におれへんようにしてしもたら、えぇやんか。

そこで、定遍は、道路の辻に次のような高札を立てた。

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重大布告:

よくよく聞くべし!

幕府からは、「護良親王を討ちとった者には、その身分にかかわらず、伊勢国(いせこく:三重県中部)の車間荘(くるましょう:三重県津市)を、褒章として与うるものなり」との、触書が来ておる。

これに加え、我・定遍からも、褒賞の上積みを行うものなり。

親王を討ち取ったら、3日のうちに賞金を6万貫与える。6万貫、6万貫である!

親王の側近や部下を討った者には、500貫。親王側からこちらに降伏してきた者には、300貫。即日、間違いなく、我よりの命により、褒賞を取らせるものなり。

我のこの約束、嘘偽りのみじんも無きこと、天地神明に誓うものなり。

布告、以上!

 熊野三山別当
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「移木の信(注9)は約を堅うせんがため、ささやかな贈り物は志を奪わんがため」とは、よくぞ言ったものである。

この高札を見て、欲の皮がツッパリはじめた熊野の8個の荘園の荘司(しょうじ:注10)たちは、次第に心変わりしはじめ、態度も変わり、怪しげな振る舞いをするようになってきた。

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(訳者注9)中国戦国時代、秦の宰相・商鞅(いわゆる「法家」の思想家)は、「法治国家建設のためには、政府は約束を厳守する、という事を民衆に周知徹底せしめる必要がある」と考え、そのために一策を練った。すなわち、街の南門に1本の木を立てて、「これを北門に移した者には50金を与える」と触れを出し、それを実行した者に、約束通りに褒賞を与えたのである。

(訳者注10)荘園現地に居住して荘園を管理する役職。
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護良親王 ここにこのまま居続けてたら、結局は、悪い結果を招いてしまうんでは、てな気がしてきたんやわ。吉野の方へでも移動した方が、ええんかもなぁ。

武原八郎 なんの、なんのぉ。大丈夫ですてぇ。何も変わったことなんか、起こりませんて、そないに心配なさらずに、ここにずっとおられませ。

護良親王 ・・・。

このような武原の強い引き留めにあい、強いてそれに逆らえば、武原が落胆するのでは、と思うと、どうにも身動きが取れず、親王は、恐怖の中に月日を送るばかり。

しかしついに、

護良親王 なにっ、武原八郎の息子らまでもが、父の命に背いて、私を討つ企てをしとるてかいな! いかん、すぐに、ここを脱出や!

親王たちは、密かに十津川郷を出て、高野山(こうやさん:和歌山県・伊都郡・高野町)の方へ向かった。

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その道中は、小原(おばら)、芋瀬(いもせ)、中津河(なかつがわ)と、敵勢力が支配するエリア中の難所を次々と通過していかなければならない事になる。

こうなったら思い切って、敵側の人間を懐柔してみてはどうだろう、ということで、まず芋瀬の庄司のもとを訪ねてみた。

芋瀬の庄司は、一行を館の中へは入れずに、傍らの堂内に招き入れた後、親王のもとへ使者をよこした。

使者 主よりのメッセージを、申し伝えさせていただきます。

 「熊野別当・定遍様からは、「幕府からの命令やからな、倒幕陰謀の一味を見つけたら、すぐに鎌倉へ知らせるんやぞ!」と、言うてきたはります。」

 「せやから、私といたしましても、ここを簡単に通してさしあげる事は、できません。そないな事してしもたら、後日、責任問われた際に、申し開きのしようがありませんから。」

 「かと言うて、ほかならぬ親王殿下を、ここに強制的にお留めする、いうのんもねぇ・・・まぁそれも、おそれ多い話です。」

 「そこでですな、モノは相談や、そちらのご一行の中から、世間に名前がよぉ知れわたったるお人を、2人くらい、こちらに差し出してもろぉてや、それを幕府へ引き渡す、いうのんは、どないだ?」

 「あるいは、親王殿下の御紋入りの旗を頂いてですよ、「親王の一行と確かに一戦まじえましたで、この旗が、その何よりの証拠ですわ」いうて、幕府へ送り届けるか。」

 「どっちもいややと、言わはんねんやったら、もうしゃぁないわな、親王殿下に矢向けさせていただくしか、ないですわ。」

このように、いかにも申し訳なさそうに、言う。

護良親王 (内心)そんなムチャな・・・えらい無理難題ふっかけてきよったなぁ。私の可愛い家臣を幕府に差し出すなんてこと、できるはずないやないか!

護良親王 (内心)旗を渡すことにしようか・・・しかしなぁ、大事なこの錦のみ旗を渡す、いうのんも、なんかなぁ・・・。

沈黙の中に熟考する護良親王である。

親王の臣下・赤松則祐いわく、

赤松則祐 殿下、私の提案、聞いていただけませんでしょうか。

護良親王 うん、言うてみ。

赤松則祐 主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。古代中国においても、紀信(きしん)いつわって敵に降伏し(注11)、魏豹(ぎひょう)は留まって城を守りました。二人とも主君の命にかえて自分の命をなげうって、歴史に名を留めたん、ちゃいます?

(訳者注11)この故事の詳細については、2.10を参照。

護良親王 ・・・。

赤松則祐 とにもかくにも、芋瀬(いもせ)の庄司が心がわりして、殿下がここを通過するのを許す、いうんやったら、この則祐、殿下の身代わりになって敵の手に渡ったかてかまいません、何のためらいもありませんわ!

平賀三郎(ひらがさぶろう)いわく、

平賀三郎 私のような末席のモンがこんな事言うたら、なんかナマイキに聞こえるかもしれませんけど・・・。ここにいる人間はみんな、このような艱難辛苦の中にも殿下につき従ぉてきたんですよねぇ。そやから、一人一人が殿下にとってはかけがいのない極めて貴重な存在ですやんかぁ。

護良親王 うん。

平賀三郎 ですからねぇ、殿下、ここにいる全員をですね、ご自分の耳や目よりも大事なものと思われてですねぇ、「おまえらを絶対に捨てへんぞ」っちゅうくらいに思っていかれた方が、よろしいのんとちゃいますやろか。

護良親王 ・・・。

平賀三郎 かというてやねぇ、あちらが出してきた要求には何とかして応えんなりませんからね、応じ易い方の条件、「旗だけ渡す」いう事にしはったら、どないですやろ?

護良親王 ・・・。

平賀三郎 殿下、旗の一本や二本渡したところで、それいったいナンボのもんやねん、いう事ですわ。戦場において、馬や鎧を棄て、太刀や刀を落とし、それが敵の手に渡ってしもぉた、なんちゅう事になったとしても、それほどタイソウな恥にはならしませんやんかぁ。ここはとにかく、あいつらの言うてる通りになさって、旗を渡してしまわれたら、どないですか?

護良親王 そうやなぁ・・・。よし、ここは、三郎の言う通りにしてみよか。

日月を金銀で打った錦の御旗を芋瀬の庄司に渡し、親王一行はそこを通過して、先を急いだ。

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しばらくしてから、親王一行から遅れていた村上義光(むらかみよしてる)がそこにやってきた。

村上義光 こらぁいかんわい、殿下から相当遅れてしもぉたぞ。先を急がんとなぁ・・・。あれっ、あれはいったい・・・あこのあいつらが持っとんのん、あれ、殿下のみ旗やないかい。これは一大事やぞ!

村上に出くわしてしまった芋瀬庄司、まったく運の悪い男としか言いようがない。

村上義光 こらこらぁ! それは護良親王殿下のみ旗やないかい! いったいなんで、おまえらみたいなもんが、そないなタイソウなもん、持っとんねん!

芋瀬荘司 いや、なに、あのぁ、そのぁ・・・これはな、こうこう、こういうわけでな・・・。

村上義光 なんやとぉっ! 殿下をお通しした代わりに、旗を貰い受けたぁ! バッキャロウ! なんちゅうフトドキもんなんや、おまえらはぁ! もったいなくも一天の主にておわします天皇陛下の御子が、朝敵を征伐されるための門出の道中にやなぁ、オマエラみたいなチンケな人間がそないな大それた事、してえぇとでも、思ぉとるんかい、あほかぁ!

村上はその旗を奪い取るやいなや、旗を持っていた芋瀬庄司の下人をひっつかみ、4、5丈ほどかなたに投げつけた。

村上の類いまれなる怪力に怖れをなしてか、庄司の口からは何も言葉が出てこない。村上はその旗を肩にかついで先を急ぎ、ついに親王に追いついた。

村上義光 殿下!(護良親王の前にひざまずく)錦の御旗、取り返してきましたでぇ!

護良親王 おお、義光、よぉやった! でかしたぞ! わっはっはっはっ・・・。

村上義光 まったくもう、殿下を脅して錦の御旗を横取りするとは、フトドキセンバンなやつらや!

護良親王 則祐の忠は孟施舎(もうししゃ:注12)の義のごとく、三郎の智は陳平(ちんぺい:注13)の謀略のごとし、そして、義光の勇は北宮黝(ほくきゅういう:注14)の勢いをもしのぐ、か。この三人の英傑が私のもとにいてくれるんやから、打倒鎌倉幕府・天下平定も夢ではないな。

(訳者注12)古代中国の勇者。

(訳者注13)漢王朝の功臣。

(訳者注14)古代中国の勇者。

赤松則祐 (内心)まぁ、なんというもったいないお言葉・・・。

平賀三郎 (内心)あこまで言うてもろては、なんか畏れ多いなぁ。

村上義光 (内心)ありがたいお言葉や・・・この義光、殿下の為やったらどんな事でもやりますでぇ!

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一行はその夜、みすぼらしい椎の木作りの垣根しかない樵(きこり)の住処(すみか)の中に眠れぬ一夜を過ごし、夜明けとともに、小原(おばら:十津川村)を目指して旅立った。

途中、薪を背負う樵に出会ったので、これから行く先の様子を尋ねてみた。世間の事にうといような感じの樵であったが、さすがに護良親王の事は知っているようである。彼は薪を地上に置き、跪いていわく、

樵 ここから小原への道中一帯はな、玉置庄司(たまぎのしょうじ)っちゅう、バリバリの幕府派の人がニラミきかしてますんやわ。この人を味方につけんことには、どないに大勢でいかはってもこれからの道中、無事にはすみませんでぇ。

護良親王 ・・・。

樵 こないな事をワシみたいなもんが申し上げるのも、なんやおそれ多い事ですけどなぁ、まずは、殿下のお伴の中から一人か二人、玉置庄司のとこに送ってみはってね、ほいで、まずはあちらの思惑探ってみはったら、どないでっしゃろ。

護良親王 (じっと耳を傾けながら)「草を刈り薪採る貧しき人の言葉をも聞き捨てず」とは、まさにこの事やなぁ。おまえが言うてる事、じつになるほど、と思うわ。

樵 ハハーッ!(礼)

護良親王 おい、八郎と彦七、おまえらなぁ、玉置荘司のとこまで行ってきとくれ。玉置にな、次のように伝えるんや。「これから護良親王がこの道を通過するから警護を固め、木戸を開いて逆茂木(さかもぎ)を取り除け」と、な。

片岡八郎と矢田彦七 ハハッ!

二人はさっそく、玉置庄(:十津川村)へ向かった。

親王に命じられたままに玉置庄司に伝えたところ、庄司は何も答えずに屋敷の中へ入っていってしまった。

片岡八郎 おかしいなぁ、あいついったい、どういうつもりなんやろ?

矢田彦七 うーん・・・。

屋敷の中では、若党、中間たちが、鎧を着け、馬に鞍を置きはじめた。

矢田彦七 おいおい、なんか、屋敷の中、騒がしぃなってきたやないか!

片岡八郎 いかん! あいつら、おれらと一戦構える気や! このままでは殿下が危ない!

矢田彦七 すぐに引き返して、殿下に急を告げんと!

足早に引き返す二人の後を玉置の一党総勢5、60人が鎧を着ないまま、太刀を持って追いかけてくる。二人は2、3本生えている小松の陰で待ちかまえ、気を見て躍り出るやいなや、

片岡八郎 エェイ!

矢田彦七 ヤァッ!

先頭をやってきた者の乗馬の前足を二人は刀で横に払い、返す刀で落馬したその者の首を落とした。そして、曲がった太刀を足で踏んで直し、そこに仁王立ちになった。

これを見た後続の者たちは、あえて接近しようとはせずに、二人めがけて遠矢を飛ばしてくる。

片岡八郎 うっ!

矢田彦七 あっ、八郎!

片岡八郎 やられた・・・矢を2本も突き立てられて・・・もはやこれまでや・・・。

矢田彦七 八郎、しっかりせぇ!

片岡八郎 なぁ、彦七、わしはここで討死にするしかないわ。おまえはな、はよ、みなの元へ帰って、殿下に急を告げてくれ! とにかくなんとしてでも、殿下をお逃がしするんやぞ、わかったな!

矢田彦七 八郎、なに言うてんねん!(涙、涙)おまえを見捨てて行けるはず、ないやないか、わしもいっしょに死ぬぞ!

片岡八郎 あほか! 殿下に危機が迫ってるんやぞ、今ここで殿下をお救いせいでどないする! はよ行け、はよ行って、殿下に急を告げるんや!

矢田彦七 (内心)いいや、わしはここで八郎とともに討死するぞ!・・・ちょっと待て、ほんまにそれでえぇんか?・・・今ここで殿下に急を告げへんかったら、殿下が危ない。それではかえって不忠というもんや・・・

片岡八郎 はよ行け・・・はよ行って・・・殿下に急を告げるんや!

矢田彦七 よし、わしは行くぞ、八郎、許してくれよ!(涙、涙)

片岡八郎 殿下を・・・たのむぞ・・・。

今まさに死にゆく同志を見捨てて去っていかなければならない矢田彦七の心中、まさに哀れ・・・。

はるか彼方まで走って後、後ろを振り返ってみると、

矢田彦七 あぁ、八郎、討たれてしもぉたか・・・敵の者がかざすあの太刀の切っ先に首が・・・あぁ、八郎・・・。(号泣)

矢田は急ぎ帰って、親王に顛末を報告した。

親王側近E あぁ、ついに我々の前途も閉塞せりか・・・。

親王側近F 運の開けるも開けずも天命なり・・・。

親王、伴の人々、かえって落ち着き払った境地に。

親王側近G よし、いさぎよくここで死ぬとしょう。

親王側近H いやいや、それでは犬死やないか。ここでじっと死を待つというのでは、あまりにふがいない。

親王側近I なぁ、みんな、逃げれるところまでは、とことん逃げてみようや!

親王側近一同 よし!

彼らは親王を先頭に、道を尋ねながら、山中の間道を辿っていった。

中津川(奈良県・吉野郡・野迫川村)の峠越えにさしかかった時、

親王側近E あぁ、もうあかん・・・あれ見てみぃ・・・向かいの山。

向いの山の両の峯に、玉置勢とおぼしき武者5、600人、全員完全武装に身を固め、盾を前に並べ、射手を左右に展開してトキの声を上げている。

これを見た護良親王は、厳かに微笑んでいわく、

護良親王 よし、ここまでやな・・・こないなったら、あらん限りの矢を全て射た後に、全員心静かに自害して、我らの名を歴史に留めようやないか、なぁ、みんな!

親王側近一同 はい!

護良親王 ただしな、これだけは言うとくけどな、みんな絶対に、私より先に腹切らんといてな。私が自害し終えたら、顔の皮を剥いで耳と鼻を切り落としてな、誰の首か分からんようにしてから捨てるんやぞ。「護良親王の首、獄門に掛けられ」なんちゅう情報が広まってしもたらな、国中のあちらこちらで、陛下にお味方しようとの志を持ってくれてる連中らがみんな、ガックリ来てしまうやろ?

護良親王 そないなってしもぉたら、幕府はいよいよ安泰になってしまうやろ。「死せる孔明(こうめい)、生ける仲達(ちゅうだつ)を走らしむ(注15)」という故事もあるからな、死んだ後までも、威を天下に残してこそ、良き将というもんや。

(訳者注15)三国志演義の有名なシーン。五丈原の決戦場にて自らの死期を覚った諸葛孔明は部下に策を託す。部下はその策の通りに孔明の死後、彼の人形を車に載せて戦線に押し出す。それを見た対戦相手の将軍・司馬仲達は「死んだはずの孔明、生きておるではないか!」と驚きあわて、一目散に退却。

護良親王 ここまで皆、まぁほんまに、よぉがんばってくれたなぁ・・・。今となっては、どこにも逃れるすべもなし、もはやこれまでやな! みんな、見苦しいマネだけはしてくれるなよ! 敵に笑われるような事のないようにな!

親王側近一同 わかってますがな! 見苦しいマネなんか、するはずありません!

一同は親王の前に立ち並び、坂の中ほどまで下り、攻め上がってくる大勢の敵に相対した。その人数わずか32人、みな一騎当千のツワモノぞろいとはいえ、対する敵は500余騎、これではまともに戦いようもない。

玉置庄司サイドは、盾を鶏の羽が重なるごとくにつき並べて攻めかかり、親王側も武器の鞘を外し、双方まさに接触せんとした。

その時、北方の峯より赤旗三本、松風にひるがえしながらこちらに押し寄せ来る600ないし700騎の軍団。

接近の後、三手に分かれ、トキの声をあげて玉置軍めがけて進んでくる。先頭を駆ける武士は馬上にて叫ぶ。

野長瀬(のながせ)六郎 紀伊国(きいこく:和歌山県)の住人、野長瀬六郎、同じく七郎、3000余の軍勢にて、護良親王殿下をお迎えに上がろうとやってきたぞ。そこのおまえら、おそれ多くも殿下に逆らぉて弓を引き盾を連ねるとは、いったいどこのナニモン(何者)や! 

野長瀬七郎 おそらくは、玉置庄司の手の者と見るは、わしの見間違いかな?

野長瀬六郎 もうすぐ滅んでしまう鎌倉幕府からのけしからん命令に従ぉて、そのうち聖運開けゆく護良親王殿下に刃向かうとは、なんちゅうバカなやつらや。そのうち、おまえらの居場所、この日本国中のどこにも無(の)うなってしまうぞ。ほんまに天罰テキメンやねんからなぁ!

野長瀬七郎 さぁて、これからおまえらを、コテンパンにイてもたるからなぁ。この戦、イッパツで決めてみせるでい! それ、ものどもかかれぇ! あいつら、みな殺しにしたらんかい!

野長瀬軍 ウオーッ!(一斉に玉置軍に襲いかかる)

玉置サイドは、「これはかなわぬ」とあわてふためき、盾を捨て旗を巻き、あっという間に四方八方へ退散。

やがて、野長瀬兄弟は兜を脱ぎ弓を小脇に挿んで、親王のはるか彼方にかしこまった。

護良親王 おぉい、そないに遠くにいんとからに・・・もっとこっちへ来んかいな。

野長瀬兄弟 ははーっ!

護良親王 十津川の山中にこもっとったんでは、倒幕の大事業もできひんと思うたんでな、大和(やまと:奈良県)か河内(かわち:大阪府東部)の方面へ移動して、そこらへんで味方を増やそう思ぉてな、ここまで出てきたとこやったんや。

護良親王 ところが、あの玉置めに、あないに刃向かわれてしもぉてな、私も部下も、「もう、ここで死ぬしかない」と覚悟を決めたんや。そないな所に、思いがけずも、おまえたちが援軍にきてくれた。どうやら、天は未だに、この護良をお見捨てではないようやなぁ。

野長瀬兄弟 そうですともぉ!

護良親王 それにしても不思議や。我々がこんなとこにいるのんを、いったいどないして知って、ここまで出向いて、あの大軍を退けてくれたんや?

野長瀬六郎 (かしこまって)はい・・・。じつは、昨日の昼ごろに、年14、5ほどの、「老松(おいまつ)」と名乗る少年に出会ぉたんですわ。その子が言うにはですね、「護良親王殿下は明日、十津川を出られて、小原へ向かわれるであろう。しかし必ずや、その道中にて危機に陥られる。ゆえに、親王殿下の志に続かんと思う者は、急ぎ援護に向かうべし」。そないに言うてね、その子はふれまわっとったんですよ。

野長瀬七郎 で、わしらは、「ははぁん、この子はきっと親王殿下の使者なんやな」と思いましてね、それでここへ来たというわけですわ。

護良親王 ほぉ・・・そないな事があったんかいなぁ。しかしおかしいなぁ、「老松」なんてモンは、私の下には、いいひんぞぉ・・・うーん、これはタダゴトではない。もしかすると・・・。

親王は、肌身放さず身に着けているお守りを取り出して見た。その口が少し開いていたので、ますますいぶかしく思い、中を開いて見た。

中には、金銅で鋳た御神体が一体、その名も「老松明神(おいまつみょうじん)」と書いてあるではないか!

この神は、北野の天神の眷族(けんぞく)なのだが、御神体の全身からは汗が吹き出したように水滴がついており、足には土がついている。

護良親王 あぁ、不思議なこともあるもんや。老松明神様が、我々を御加護してくださってたんやなぁ。なぁ、みんな、我々は神々のご守護を頂いてるんやでぇ!

親王側近一同 はい!

護良親王 よぉし、こうなったら、陛下に逆らうやつらを退治するのも、時間の問題やぞぉ!

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その後、護良親王は、槙野上野房聖賢(まきのこうずけぼうしょうげん)が築いた槙野城(まきのじょう:奈良県・五条市)に入った。しかし、「ここもやはり平地が狭く不便である」ということで、吉野の金峰山蔵王堂(きんぷさんざおうどう:奈良県・吉野郡・吉野町)の衆徒を味方につけ、そこに移った。

かくして、愛染明王(あいぜんみょうおう)を祭った宝塔を蔵王堂の寺域内に立てて、岩を切り通して激しく流れる吉野川(よしのがわ)沿岸に、親王は3000余騎を従えてたてこもる事となった。

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年6月 5日 (月)

太平記 現代語訳 5-5 北条時政の江ノ島への参籠

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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末世の時を迎えてよりこの方、武士階級が権力の頂点に登りつめ、天下の覇権(はけん)は、源氏と平氏の両家の間に落ちて久しい。

「満つれば必ず欠けていく」のが天のさだめ。いったん握った覇権も、平清盛(たいらのきよもり)の例のようにたった一代、あるいは源頼朝(みなもとのよりとも)とその子供らの例のごとく、三代にも満たずして、その手中から逃げ去っていく。

しかしながら、この高時が所属する北条家は、政権を握ってから現在に至るまで、すでに9代にまでも及んでいる。この長期政権の持続、それにはそれなりの理由(わけ)がある。

昔、鎌倉幕府創設の頃、北条時政(ときまさ)は、江ノ島(えのしま:神奈川県・藤沢市)の弁才天堂(べざいてんどう)に参篭(さんろう)し、子孫の繁栄を祈願した。

参篭開始から21日目の夜、赤い袴と、表は白色、裏が青色の衣を着た、荘厳端正なる女官が一人、時政の前に忽然と姿を現わしていわく、

女官 あなたの前世は、箱根権現(はこねごんげん)に仕える僧侶だったのですよ。法華経(ほけきょう)を66部、写経し、それを、日本全国66か国の霊地に奉納した、その善き功徳(くどく)によって、再びこの世界に、人間としての生を受ける事ができたのです。

北条時政 ・・・。

女官 そのようなわけだから、あなたの子孫は末永く、この日本国の主となって栄華を誇ることになるでしょう。ただし、その行いが道に外れるような事があったならばね、7代限り、いいですか、7代限りで終わってしまいますからね、よくよく心していくように。

北条時政 ・・・。

女官 私の言う事、疑わしいと思うんだったら、写経が納められてる諸国の霊地を、調査してみるといいわ。

このように言い放つやいなや、彼女は変身、荘厳なまでに美しい女官の姿からたちまちにして、全長20丈ほどの大蛇となり、海中に没しゆく。

彼女が去った後には、巨大な鱗が3枚残っていた。

北条時政 まさしく、ここ、江ノ島の弁才天様が、あの女官の姿をもって、現われたもぉたんだな! わしの子孫繁栄の願い、どうやら聞き届けて頂けたようだ。よし、この記念に、あの鱗を、わが家の紋どころにさせていただくとしよう。

時政は、その3枚の鱗をデザインしたものを、自分の家の旗印にすることにした。これが、現在にまで伝わる北条家の「三ツ鱗(みつうろこ)」の家紋のいわれなのである。

その後、時政は、弁才天よりの示現(じげん)に従って諸国の霊地へ人を遣(つかわ)し、奉納された法華経を調べさせた。

なんと、奉納筒の上には奉納者の名前として、「大法師時政(じせい)」と書いてあるではないか。俗名の「時政(ときまさ)」と、法名の「時政(じせい)」、何という不思議な一致!(注1)

というわけで、いま、北条高時が7代を過ぎてなお、政権を保っておれるのも、ひとえに、江ノ島の弁才天の御利益(ごりやく)、あるいは、先祖が積んだ過去の善徳(ぜんとく)によるものなのである。

しかしながら、高時は時政から数えて7代を過ぎ、すでに9代目。北条家の滅亡の時はいよいよ到来、このようなけしからん振る舞いに及ぶのも、天命の至らしむるところと、言うべきであろうか。

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(訳者注1)上記の逸話に関しては、どの部分が史実であり、どの部分が史実でないのか、全く不明である。もしかしたら、そこに書かれてある事の全てが、非史実であるのかもしれない。北条家の政治権力を正当化する為に編み出された作り話なのかもしれない。上記逸話中にある、「北条家の家紋の由来」に関しても、同様である。
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太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年6月 4日 (日)

太平記 現代語訳 5-4 北条高時、田楽と闘犬にのめりこむ

太平記 現代語訳 インデックス1 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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この頃、京都では、田楽(でんがく:注1)を楽しむ人が多くなり、身分の上下を問わず、こぞって熱中していた。

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(訳者注1)食物の「デンガク」ではない、芸能の田楽である。
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これを聞いた北条高時(ほうじょうたかとき)は、新座と本座の田楽チーム(注2)を、鎌倉まで呼び寄せた。

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(訳者注2)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注には、「田楽の家元の名。京の白川田楽を本座、その他の流派を新座という。」と、記述されている。

[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注には、「早く結成された宇治白川田楽が本座で、奈良田楽が新座(能勢朝治『能楽源流考』)と、記述されている。
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それからというもの、彼は、日夜朝暮もっぱら田楽三昧(ざんまい)、という状態に。

ついには、有力武家の者たちに田楽ダンサーを一人ずつ預け、いときらびやかに装わせるまでに。

北条家の人々 このダンサーは、XX殿づき、キャッキャッキャァ・・・。

北条家の人々 あのダンサーは、YY殿づき、ワァワァワァ・・・。

北条家の人々 ダンサーみんな、金銀珠玉(きんぎんしゅぎょく)を、ワンサと身に着け。

北条家の人々 ダンサー諸君、きれいな着物をイッパイ着込み。

北条家の人々 ダンサー、ダンサー、ヤァヤァヤァ。

北条家の人々 宴会で一曲舞うたんび。

北条家の人々 キレイな着物、パッパッパァ!

高時はじめ、北条一門の有力メンバーらは我先にと、自らの直垂(ひたたれ)、大口袴(おおぐちばかま)を脱ぎ、田楽ダンサーたちに褒賞(ほうしょう)として投げ与える。全部集めてみたら着物の山が出来てしまうほど、その費用はいったい幾千万、まったくもって、想像の限界を超えてしまっている。

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ある夜の宴会の場において、高時は、酔っ払ってすっかりいい気分になってしまい、自ら立ち上がって、田楽ダンスに興ずること長時間に及ぶ。

座興を進めるための若者のダンスでもなし、狂言師が言葉巧みに演ずる一幕でもなし、四十路を越えた古入道(注3)が、酔狂(すいきょう)の果てに舞うダンス、風情(ふぜい)も何もあったものではない。

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(訳者注3)出家した人の事を「入道」という(仏の道に入ったから)。
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その時、いったいどこからやって来たのであろうか、新座・本座の田楽チーム10余人、忽然(こつぜん)とその座に入りきて、舞い歌い始めた。

彼らのダンスの面白さ、尋常(じんじょう)ではない。

一舞いの後、曲が変わり、一座は別の唄を歌い始めた。その歌詞は、

田楽歌唱メンバー全員 ヤッ

田楽ダンサーA て ん の う じ の

田楽歌唱メンバー全員 ヤッ

田楽ダンサーB  よ お れ ぼ し を

田楽歌唱メンバー全員 ヤッ み た い も の よ ヤッ

田楽楽器奏者C ヨォーッ

田楽楽器D ポン!

田楽楽器奏者E ハァーッ

田楽楽器F カーン!

田楽楽器奏者CとE ヨォーッ

田楽楽器D ポン!

田楽楽器D ポン!

田楽楽器F カン!

田楽楽器D ポン!

田楽楽器F カン!

一人の侍女がこれを耳にして、そのあまりの面白さに、障子の隙間から室内を覗き見してみた。

侍女 (内心)うわ! この室の中には、田楽ダンサーらしき者なんか、一人もいやしないわ!

侍女 (内心)アレ、ナニよぉ! あの嘴(くちばし)がトンガッテ、トビみたいなの・・・うわっうわっ、あっちの、あの山伏みたいな格好してるの、あれいったいナニよぉ、体に翼が生えちゃってるじゃないのさぁ!

まさに、異類異形(いるいいぎょう)の化け物どもが人間になりすまして、その座に連なっていたのであった。

彼女はビックリ仰天、すぐに、高時の舅・安達時顕(あだちときあき)のもとへ、急を告げさせた。

時顕は、取るものも取りあえず、太刀をひっつかんで駆けつけてきた。

中門を駆け入ってくる彼の荒々しい足音を聞くやいなや、化け物たちは、かき消すように失せてしまった。

その場には、前後不覚のまま、酔い伏している高時がいるばかり。

灯りをつけて遊宴の席をあらためてみると、畳の上には、禽獣(きんじゅう)がつけたような足跡が多数、残っていた。やはり、天狗(てんぐ)たちが、そこに集り来たっていたようである。

しばし、虚空をにらんで立ち尽くす時顕であったが、その眼にとまるような者は何も存在しない。

ようやく、眼を覚まして起き上がった高時は、ただただ呆然とするばかり、記憶は一切無し。

後日、この事件を伝え聞いた藤原南家(ふじわらなんけ:注4)の儒学者・藤原仲範(なかのり)(注5)いわく、

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(訳者注4)藤原武智麻呂の子孫。

(訳者注5)[太平記 鎮魂と救済の史書 松尾剛次 中公新書 1608 中央公論新社]の138Pに、次のようにある。

 「この仲範は、丹後守保範の子で鎌倉佐介ヶ谷に住んでいた人物で・・・」
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藤原仲範 えぇ? その者たち、「よおれぼし」と、謡(うた)っていたというのか。ふーん・・・。

藤原仲範 天下まさに乱れんとする時には、「妖霊星(ようれいぼし)」なる悪星が地上に降りてきて、世の中に災いをもたらすと、言われているからな。

藤原仲範 「てんのうじ」と謡っていた? ウーン・・・天王寺(てんのうじ:注6)というところはだな、日本に最初に仏法が根づいた霊地だ。そのお寺を建てられた聖徳太子(しょうとくたいし)様が、「大予言・日本の未来はこうなる」という題名の本を、この天王寺でお書きになっておられるのだよ。

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(訳者注6)「四天王寺」(大阪市に現在もあり)。
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藤原仲範 その化け物どもは、「天王寺の妖霊星」と、謡っていたという、これは、極めて不気味な事といえるなぁ。天王寺のあたりから天下大乱が始まり、やがて、わが国が滅んでしまう、という事を暗示しているのでは、ないだろうか。

藤原仲範 とにかく、朝廷は徳を治め、幕府は仁を施して、妖しい勢力の力をウチ消してしまうような事を、速やかに真剣に考えていってもらわねば・・・。

その後の歴史はまさに、彼の危惧(きぐ)の通りに展開していったのである・・・事前に凶を察知した藤原仲範の博学、まことにもっておそるべし。

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この化け物騒ぎをも意に介さず、高時はその後も、奇妙な事物を珍重する生活へ、際限なくのめりこんでいった。

ある日、庭先に犬たちが集まり、互いに噛み合っている姿を見て、

北条高時 おぉ! こりゃぁ、オモシレェ!

というわけで、今度は闘犬(とうけん)に、骨の髄まで入れ込むようになってしまった。

北条高時 ヤイヤイ、今すぐ全国に命令を出して、強い犬をかき集めろぃ!

というわけで、「犬を献ずることは、納税の一環である」、「国有の財産として、犬を集めることとなった」等々、あれやこれやと名目を付けて、あるいは、有力者たちに要請して、犬をかき集めにかかった。

さぁこうなると、国々の守護や国司、諸処の北条一族、有力御家人たちが、10匹、20匹と犬を集めて飾り立ては、続々と鎌倉へ送ってくる。

集められた犬たちには、魚肉や鳥肉を餌に与え、金銀をちりばめた綱で繋ぐ。その飼育費用たるや、莫大な額に。

鎌倉への道中、なんと、犬は輿(こし)に乗せられて行くのだ。運悪く道すがら、それに出会ってしまった旅人は、たとえ先を急いでいようとも馬から降りて、これに跪(ひざま)づかなければならない。農作業に忙しい民たちにも、「お犬様の輿かつぎのおしごと」の割り当てが、回ってきてしまう。

かくのごとく激しき、高時の犬への入れ込みの結果、肉に飽き、錦を着た名犬が鎌倉中に充満、その数は4、5千匹に及ぶまでに。

月のうち12日間が、[デイ・オブ・ドッグ・バトル]に定められ、一族御家人(いちぞくごけにん)、外様(とざま)の人々が、あるいは殿上に席を連ね、あるいは庭前に膝を屈して、[ドッグ・バトル]を見物する。

ドッグ・バトル・ショウ・進行役 ルレイディーズ、アーンド、ジェントルメーン! 長らくお待たせいたしましたぁー! いよいよ、ドッグ・バトル開演の時刻と、あいなりましたぁー!

見物人一同 イェーイ! ピィー、ピィー、ピィー!

ドッグ・バトル・ショウ・進行役 どうかぁ、最後までごゆるりぃーと、お楽しみ下さいませぇー! さぁ、それでは、犬たちを、放ちますぞぉー、ゴゥー!

100、200匹ずつ、まとめて犬を一斉にパァッと放す。

犬どもは入り乱れ、とっくみ合い、上になり、下になり・・・互いに噛み合うその声は、天に響き地を揺らす。

犬たち ウギャギャギャギャギャ・・・ガキッガキッ・・・ウワォウワォウワォ・・・。

バトルを見物する心ない人X ウヒョヒョヒョ・・・こりゃぁオモシレェや、人間が戦場で勝負を競うのにそっくりじゃねぇかよぉ、ワハハハ・・・。

バトルを見物する智ある人Y (内心)あーぁ、こんなヤなモノ、見たくないなぁ。野原で人間がバタバタ倒れ、屍(しかばね)の山を築いていく様を想像してしまうじゃないか。悲しい・・・ジツにカナシイ・・・。

これは、犬と犬との闘いに過ぎない、とは言いながらも、なにか、人間世界の闘諍(とうじょう)と死の前兆のごときものと、感じられてならない。まったくもって、あさましい高時の行状である。

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2017年6月 3日 (土)

太平記 現代語訳 5-3 根本中堂の新常灯、消える

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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そのころ、京都とその周辺には、世にも奇怪な事件が頻発(ひんぱつ)していた。

延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県大津市)・根本中堂(こんぽんちゅうどう)の内陣(ないじん)の中に、一つがいの山鳩が飛び来たり、仏前の「新常灯(しんじょうとう)」の油皿の中に入ってしまった。

あわてふためき、バタバタとやるものだから、たちまち、灯明が消えてしまった。

その後、暗い堂中ゆえに方向を見失い、山鳩は、仏壇の上に翼をたたんで止っていた。

するとそこに、長押(なげし)の方から、朱色のイタチが躍り出てきた。

イタチは、鳩を二匹とも食い殺し、逃げ去った。

そもそも、この「常灯」が点じられたのは、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)が延暦寺へ行幸された時に遡(さかのぼ)るものである。

その昔、桓武天皇(かんむてんのう:注1)が自らの手にて燈を献ぜられた事跡にならって、後醍醐天皇もおん自ら、120筋の灯芯を束ねられ、油を満たした銀製の皿にひたした後、それに火を灯されたのである。

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(訳者注1)平安時代の最初の天皇。平城京(奈良)から平安京(京都)への遷都を行った。桓武天皇が最澄(さいちょう)を強力にバックアップした結果、彼が開いた延暦寺は、有力寺院となった。
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後醍醐天皇 どうか、この燈の火とともに、皇統(こうとう)が、永遠の未来まで輝きわたりますように。

後醍醐天皇 あわせて、六道(ろくどう)に苦しむ者たちの暗闇を照らし出す、明らかなる慧光(えこう)の法燈(ほうとう)と、なりますように。

世間の声A このようになぁ、陛下が祈願込められてともしはった常灯なんやからな、それが消えてしまうっちゅうような事は、未来永劫、起こってはならんのや。

世間の声B そやのになぁ、山鳩が飛んできて、それを消してしまいよったんや。

世間の声C まことに、キッカイ(奇怪)な事としか、言いようがないわなぁ。

世間の声D しかもやでぇ、それをまた、イタチが出てきて食い殺してしまいよったと、いうんやから。

世間の声E これいったい、どぉいう事なぁん?

世間の声F まことにもって不可思議。いくら考えても、ワケわかりまへーん!

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2017年6月 2日 (金)

太平記 現代語訳 5-2 万里小路宣房、内閣の一員に

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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鎌倉幕府首脳A さて、問題はだね、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)の処遇だよ。

鎌倉幕府首脳B 彼は、ずっと前から、先帝の、功績高き寵臣(ちょうしん)だったよな。

鎌倉幕府首脳C それにほら、彼の二人の息子、藤房(ふじふさ)と、季房(すえふさ)、その二人も、笠置寺攻防戦で生け捕りになって、流罪にしたんだっけねぇ?。

鎌倉幕府首脳A こうやって考えてみると、万里小路宣房の罪責、極めて深いよなぁ。

鎌倉幕府首脳B でもなぁ、彼は、とっても賢明で才能ある人って、世間のもっぱらの評判だよぉ。

鎌倉幕府首脳C やっぱしここはだなぁ、特別の配慮をもって罪一等を減じ、彼にも、新政権のポストを与えるってぇセンでいった方が、いいんじゃぁなぁい?

鎌倉幕府首脳全員 賛成。

鎌倉幕府首脳A じゃ、そのような趣旨でもって、朝廷に奏上することにしよう。

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というわけで、新朝廷から日野資名を勅使に立て、万里小路宣房の所に派遣した。

日野資名 ・・・と、まぁ、こないなわけですわ。新政権に、入閣していただけますわなぁ?

万里小路宣房 ・・・。

日野資名 万里小路殿!

万里小路宣房 不肖(ふしょう)、宣房、長いこと、先帝陛下に奉公させて頂きまして、ごっつうかわいがっていただきましたわ。官位も給与もぐんぐんアップしてもろぉて、ついには、先帝陛下の統治を補佐する役目まで、与えていただきました。

日野資名 ・・・。

万里小路宣房 昔の人の言葉にもありますやろ、「君主に仕える正しい道とは、彼が罪悪を行うならば、たとえ相手にどのように思われようとも、あえて道理をつくして、これを諌める所にある。三度諌めても聞き入れられない時には、身を慎んで職から退くべし。匡正(きょうせい:注1)の忠あって、阿順(あじゅん:注2)の従は無し、これこそが良臣の節である」。

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(訳者注1)非を正す。

(訳者注2)おもねる。
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万里小路宣房 「諌めるべきを見て諌めない臣であるならば、これを、「いてもいなくてもどうでもよい臣」と言うべし。退くべき時に退きぎわの悪い者であるならば、これを、「地位に恋々(れんれん)の輩」と言う。双方ともに、「国家の大悪人」なり。」

万里小路宣房 今や先帝陛下は、不義の行いの結果、武臣からの辱(はずかし)めを受けられる身になってしまわはりました。なにもかも、わたい(私)が預かり知らん所で起こしてしまわはった事やから、お諌めのしようも無かった。けど、そうか言うて、世間の人は、「宣房には責任ないわ」なんちゅうふうには、とても言うてはくれませんやろて。それにな、我が二人の息子も、遠流の罪に処せられてしもとります。

万里小路宣房 わたいもすでに、齢(よわい)70歳。今さら誰の為に、わが身の栄華を求めましょうかいな・・・。

万里小路宣房 過去に犯した罪を忘れ、いけしゃぁしゃぁと知らん顔して、新帝陛下にお仕え、てな事、わたいには、到底できませんわいな。二人の主君にお仕えして、老残の身に恥の上塗りするよりか、古代中国の伯夷(はくい:注3)の先例になろうて、都のどっか片隅で、飢えを忍びながら暮して行く方が、よっぽどましですわ。

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(訳者注3)殷(いん)王朝が周によって倒された時、伯夷と叔斉(しゅくせい)兄弟は、周の録を食むのを恥じて山中に隠遁し、やがて餓死した。
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日野資名 ・・・(涙)。

万里小路宣房 ・・・(涙)。

日野資名 万里小路殿、「忠臣は必ずしも主を選ばず。自らが仕えるべき主君を見出し、その下で政治に励むのみ。」と、言いますやんか。そうですやん、古代中国において、百里奚(ひゃくりけい)は二人目の主君、秦(しん)の穆公(ぼくこう)に仕えて、それから長いこと、穆公の覇業を助けましたやろ。あの管仲(かんちゅう)かて同様ですわ、二人目の主君の斉(せい)の桓公(かんこう)を補佐してですよ、諸侯を9回も朝貢せしめるくらいの勢力を、桓公に持たせるに至ったんですやん。

万里小路宣房 ・・・。

日野資名 桓公の臣下になる前に、管仲は、桓公に向けて矢を射て、帯の金具に当ててます。そやけど、管仲が自分の臣下になってからは、桓公は、過去のその件については一切、とやかく言いませんでしたで。

日野資名 百里奚かて、そないでしたやん。穆公に羊の皮5枚で買い取られて、その臣下になったわけやけど、後日、世間の人はそんな事、ナァ(何)も、気にせぇへんかったやないですか。

日野資名 万里小路殿、他ならぬ、鎌倉幕府の方からやね、「罪許したるから」言うてきてくれてるんですよぉ。貴方の賢明なるご子息お二人も、うまいこといったら、流罪の身から許されるかもしれませんやんか。

日野資名 「伯夷の先例にならって」とおっしゃいますけどなぁ、伯夷と叔斉が忠節を全うするために、飢えを選んだ、それでもって、なにがどうなったというのでしょう? その行為にいったい、なんの意味があったというのでしょう?

日野資名 許由(きょゆう)や巣父(そうふ)のような賢人かて、ただ単に世間から身を隠してたんでは、ナァもできんかった、そうでっしゃろ?

万里小路宣房 ・・・。

日野資名 ここで、世間から引きこもってしまわれて、子孫の出世の道を、永久に閉ざしてしまうのがえぇのんか、はたまた、朝廷にご出仕されて、ご先祖の遺徳を輝かすんがえぇのんか・・・どっちが正解で、どっちが不正解なんか、どっちが得で、どっちが損なんか、よぉー、お考えになっとくれやっしゃ! 山にこもって鳥獣と同じとこに暮す、いうんではなぁ、孔子さまの教えからは、大分それてしまう事になるん、ちゃいますかいなぁ?

このように、理を尽くして説得する日野資名の前に、万里小路宣房も、ついに屈したようである。

万里小路宣房 (ハァー:溜息)・・・。「罪を持つ身ゆえに生を棄てよう」とすれば、「朝に誤りあらば夕べにそれを改めよ」との、古賢の教えに違背(いはい)することになる。かというて、「恥を忍んで生き長らえていこう」と思えば、今度は、「何の顔(かんばせ)あって生きていけようか」という、詩人・曹植(そうしょく)の上表文の言葉が思い起こされる・・・。

ついに、万里小路宣房は、朝廷への出仕要請を承諾し、内閣に加わる事になった。

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2017年6月 1日 (木)

太平記 現代語訳 5-1 光厳天皇の政権、着々と地盤固め

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘2年(1332)3月22日、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)の第1御子が、19歳で天皇に即位された(注1)。

新帝の母君は、西園寺公衡(さいおんじきんひら)の娘・寧子、後に、廣義門院(こうぎもんいん)と呼ばれることになる方である。

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(訳者注1)光厳(こうごん)天皇。持明院統に所属。
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新帝のもと、同年10月28日に、鴨(かも)の河原で禊(みそ)ぎの行が、11月13日に、初の新嘗祭(にいなめさい:注2)が執行された。

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(訳者注2)天皇が行う収穫祭。
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新政権の関白(かんぱく)には、鷹司冬教(たかつかさふゆのり)が、首都圏知事(注3)には、日野資名(ひのすけな)が就任した。

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(訳者注3)原文では「別当」。検非違使長(けびいしのちょう)を指す。[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注では、この時の別当は源通冬であり、日野資名とするのは誤りである、としている。
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光厳天皇に仕えてきた人々は、あっという間に出世の望みが達せられ、彼らの邸宅の門前市を成し、堂上花のごとき様である。

天皇の弟君・尊胤法親王(そんいんほっしんのう)は、天台座主(てんだいざす:注4)に就任、大塔(おおとう)・梨本(なしもと)双方の門跡(もんぜき)位をも兼任、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を統括されることになった。延暦寺の衆徒は、一山(いっさん)こぞって尊胤法親王の根元中堂へのお参りに参加、礼拝の儀式は荘重な中に執行された。

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(訳者注4)延暦寺のトップ。
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さらには、御室(おむろ:注5)におられる法親王は、仁和寺(にんなじ)の門跡に就任され、真言宗・東寺(とうじ:京都市南区)に連綿と伝えられる法流を受け継ぎ(注6)、天皇の聖運を日々祈るお立場に就かれた。

これらの方々は全て、後伏見上皇のお子様方、すなわち、光厳天皇のご兄弟である。

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(訳者注5)京都市右京区御室にある仁和寺(にんなじ)のことである。宇多天皇によって建立

(訳者注6)釈尊以来の伝統仏教の脈流につながることを、「法流を受け継ぐ」と言う。「法」とは「仏法」を指す。
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