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2017年7月 7日 (金)

太平記 現代語訳 7-4 赤松円心、摩耶山に軍事拠点を設定

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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赤松家メンバーA あんなぁ殿ぉ、幕府の連中ら、楠正成(くすのきまさしげ)がたてこもっとぉ千剣破(ちはや)城攻めるんに、エライ手ぇ焼いとぉらしいでぇ。

赤松家メンバーB そのせいでな、京都の守りの方、完全に手薄になってしもとぉっちゅう情報キャッチしたわ!

赤松家メンバーC うわーい、京都攻めるんやったら、今がチャンスやしぃ。

赤松円心(あかまつえんしん) よっしゃぁ! いっちょう行ったろかぁ!

赤松円心は、播磨国(はりまこく:兵庫県西部)の苔縄城(こけなわじょう:兵庫県・赤穂郡・上郡町)からうって出て、山陽・山陰両道を塞ぎ、山里(やまのさと:上郡町)と梨原(なしがはら:上郡町)の中間地点に進出した。

ちょうどその時、備前(びぜん:岡山県東部)・備中(びっちゅう:岡山県西部)・備後(びんご:広島県東部)・安芸(あき:広島県西部)・周防(すおう:山口県南部)5か国よりの軍勢が、六波羅庁からの催促に従って京都へ向かっていた。軍勢は三石宿(みついしじゅく:岡山県・備前市)に集結の後、山里付近に布陣する赤松軍を追い払って、そこを通過しようとした。

円心の次男・赤松貞範(あかまつさだのり)は、その進行を船坂山(ふなさかやま:兵庫県赤穂郡と岡山県和気郡の境界)でくい止め、相手の主要メンバー20余名を生け捕りにした。

貞範は彼らの命を助け、情け深く遇したので、伊東惟群(いとうただむら)はその恩に感じて幕府への忠誠を捨て、赤松軍への合力を決意した。彼は、自らの館の上にある三石山(みついしやま)に城を構え、さらに熊山(くまやま:岡山県・赤磐市)に上がり、そこで旗揚げした。

備前国守護・加治源二郎(かじげんじろう)はこれを制圧せんとするも、ただの一戦にて敗退、児島(こじま:岡山県・倉敷市)方面へ逃走。

これより、西方の道はいよいよ塞がれ、中国地方の動乱ただならぬ情勢となってきた。

赤松円心 よっしゃ、よっしゃ! 西の方から京都目指してやってきよる幕府側の勢力は、伊東惟群が完全にインターセプトしてくれとぉからなぁ、これで後顧の憂いも無くなったわい。さぁ、いくでー、いくでーぇ!

赤松軍はすぐに、高田兵庫助(たかだひょうごのすけ)の城を攻め落とし、休む間もなくひたすら山陽道を、京都へ京都へと攻め上っていく。進軍していくにつれて、その兵力は見る見る膨張、まもなく7000余騎に達するに至った。

赤松家メンバーA こうなったら、もぉ勢いやで、このまま京都へ、突入してしまおやぁ!

赤松家メンバーB そうやそうや、イッキに六波羅庁を攻め落としたれ!

赤松家メンバーC オマエラ、ナニ言うとぉねん。そないに次から次へと、こっちの思う通りに、事が運び続けるもんやないやろが。

赤松家メンバーD そうやでぇ、戦(たたかい)利あらずして退却余儀なしっちゅうようなケースも、想定しとかんとあかんしぃ。

赤松円心 そうやなぁ・・・。あまり先をあせらんと、ここはいったん着実に、拠点確保をしといた方がえぇやろなぁ。いざ退却っちゅう時には、馬を休ませる場所かて要るしなぁ。

そこで彼らは、兵庫湊(ひょうごみなと:神戸市)の北方の摩耶山(まやさん:神戸市)にある寺を城郭とし、そこにひとまず落ち着いた。

赤松円心 こっから京都までは、20里か・・・いよいよやなぁ。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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