« 2017年6月 | トップページ | 2017年8月 »

2017年7月

2017年7月27日 (木)

太平記 現代語訳 8-8 谷堂、炎上す

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

「千種忠顕(ちぐさただあき)、西山(にしやま)の本陣を引き払い、退却」との情報をキャッチするやいなや、

六波羅庁リーダーA よし、いけぇ!

六波羅庁リーダーB 敵の根拠地を、徹底的に掃討するんだ!

翌日4月9日、京都中の六波羅庁側勢力が、谷堂(たにどう)、峯堂(みねどう)をはじめ、浄住寺(じょうじゅうじ)、松尾(まつお)、萬石大路(まんごくおうじ)、葉室(はむろ)、衣笠(きぬがさ)一帯に押し寄せた。

彼らは、仏閣神殿を破壊し、僧坊民家を占領、財宝ことごとくを横領の後、付近の家々に放火。

おりからの激しい魔風にあおられた火の手は、浄住寺、最福寺(さいふくじ)、葉室、衣笠、二尊院(にそんいん:右京区)へと延焼。堂宇300余箇所、民家5,000軒余りが、あっという間に灰燼となり、仏像、神体、経論(きょうろん)、経文(きょうもん)はたちまちのうちに、寂滅(じゃくめつ)の煙と化して立ち上る。

この火災によって焼失してしまった「谷堂(たにどう)」という寺院は、八幡太郎・源義家(はちまんたろう・みなもとのよしいえ)公の嫡男・源義親(みなもとのよしちか)のそのまた嫡孫である、延朗(えんろう)上人が造立した霊地である。

延朗上人は未だ幼い頃に、「先祖代々伝統の武士の家(清和源氏)」を離れて、出家した。俗世間を離れて仏門に入った後は、戒定慧(かいじょうえ:注1)の三学を兼備して、六根清浄(ろっこんしょうじょう:注2)の功徳を獲得した。

--------
(訳者注1)戒律を守り(戒)、禅定(ぜんじょう)に励み(定)、智慧を会得する(慧)。

(訳者注2)「六根」とは、口、耳、鼻、舌、身、意識。それらが清浄(けがれがない)なのである。
--------

上人が法華経を読む窓の前には、松尾大社(まつおたいしゃ)の神々が列を作って座して耳を傾け、真言秘密(しんごんひみつ)の法を修する扉の中では、あげまき髪の仏法守護の童子が手を合わせて、そのお手伝いをする。

このような有智高行の上人が草創された場所であるがゆえに、500余年の星霜を経てもなお、人倫(じんりん)の廃(すた)れたる末世の現代に至るまでも、智慧の水は清く流れ、仏法の燈火は明るく燃える。三間四方の経典蔵(きょうてんぐら)には、衆生救済(しゅじょうきゅうさい)のために釈尊が転じられた法輪(ほうりん)とも言うべき、経典7,000余巻が収納されていた。

奇樹怪石を並べた池の辺に、「兜率天(とそつてん)内の院」を模して、49院の楼閣が並んでいた。12の欄干は珠玉を天に向かって持ち上げ、五重の塔は金銀のように、月光に輝く。あたかも極楽浄土の七宝荘厳(しちほうそうごん)の有様もかくありなん、と思えるほど。

また、「浄住寺」という寺は(これも焼失してしまったのだが)、戒律・法則(ほっそく:注3)の流布(るふ)の地、律宗(りっしゅう)の一大根拠地であった。

--------
(訳者注3)仏教界内部の規則。
--------

この寺には、以下のようないわれがある。

かの大聖釈尊(しゃくそん)がご入滅された時のこと。金の棺桶がいまだ閉じない前に、捷疾鬼(しょうしつき)という鬼神が、こっそりと紗羅双樹(しゃらそうじゅ:注4)の下に近づき、釈尊の犬歯を一本ひっかいて掠め取った。

--------
(訳者注4)釈尊(お釈迦さま)は、クシナーラー付近のニレンゼンガ河岸、二本のサーラ樹(紗羅双樹)の林中にて、その御生涯を終えられ、般涅槃(はつねはん)に入り給うた。
--------

驚いた弟子たちは、捷疾鬼を捕えようとしたが、彼は一瞬の間に4万由旬(ユジュン)(注5)を跳躍、須弥山(しゅみせん)の中腹、四天王界(してんのうかい)まで逃亡。

--------
(訳者注5)ユジュン(yojana)とは、古代インドの距離の単位であるが、実際の長さはとなると諸説あって、定かではないようだ。一説によれば「日本の里でいえば、2.5里」とある(仏教辞典:大文館書店)。となると、1ユジュン = 約8キロメートル?
--------

これを、韋駄天(いだてん:注6)が追跡し、みごと、犬歯を奪還、後に、中国の道宣律師(どうせんりっし)にこれを与えた。以来、この犬歯は、師から弟子に伝えられながら、やがて我が国に伝来し、嵯峨天皇(さがてんのう)の御代に、この寺に安置されるに至ったのである

--------
(訳者注6)「仏法守護神の一。四天王中の増長天(ぞうちょうてん)に仕える8将のうちの一神で、32天中の首位を占める。」(仏教辞典:大文館書店)
--------

偉大なるかな、大聖世尊(たいせいせそん:注7)、入滅後2300余年の後も、み仏の身体の一部なおもこの世に留まり、広き天下にあまねく、その救いが流布されているとは・・・。

--------
(訳者注7)釈尊の尊称である。「世尊(Bhagavat)とは仏の十号の一。あらゆる功徳を円満に具備してよく世間を利益(りやく)し、世に尊重されるから「世尊」といい、また、世において独り尊いから「世尊」という。(仏教辞典:大文館書店)
--------

世間の声K こないに尊い、異瑞奇特(いずいきどく)の大伽藍(だいがらん)を、滅してしまうとはなぁ・・・。

世間の声L もんまやでぇ。浄住寺はんの側には、何の咎(とが)もないのになぁ。

世間の声M これもやっぱしなぁ、そのうち、鎌倉幕府の命運が尽きてしまう前兆なんやろぉて。

はたせるかな、それよりいくほどもなく、六波羅庁の人々は番場(ばんば:滋賀県・米原市)にて滅び、北条一族はことごとく鎌倉にて滅亡してしまったことこそ、まことに不思議である。

世間の声N やっぱしなぁ!

世間の声O 「罪業積み重なる家には、必ず良ぉない事が起こる」とな、昔から、よぉ言われきたもんですが、まさにこの事ですわなぁ。

世間の声一同 同感、同感。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 8-7 千種忠顕、20万の大軍を率いて京都へ

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

「京都での数度の戦いに倒幕勢力側完敗、八幡(やわた:京都府・八幡市)と山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)に布陣の赤松(あかまつ)軍の勢力、すでに衰微(すいび)に向かう!」との報に、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)のストレスは、深まる一方である。

後醍醐先帝 あぁ、ほんまにもぉ! 天下の形勢、いったい、どないなっとんねん! なんとか、ならんのんかいなぁ! あぁーーっ!

後醍醐先帝 こないなったら、天に、祈りを捧げるしかないわなぁ!

というわけで、船上山(せんじょうざん)の御座所の中に壇をしつらえ、先帝自ら、「金輪法(こんりんぼう)」の行を修し始められた。

行の開始から7日目の夜、日天子、月天子、明星天子が壇上に現われ、そろって光を発した。

後醍醐先帝 (内心)よぉし、わしの願い、天は聞き届けて下さったぞ。これで、打倒鎌倉幕府の大願成就(たいがんじょうじゅ)間違いなし! やったぁ!

勢いづいた先帝は、

後醍醐先帝 直ちに、京都攻めに大将を一人派遣するぞ! 赤松円心(あかまつえんしん)と力を合わせて、六波羅庁(ろくはらちょう)を攻略させるんや!

先帝は、千種忠顕(ちぐさただあき)を頭中将(とうのちゅうじょう)に任命し、山陽・山陰両地方の武士たちを率いて、京都へ進軍させた。

この軍勢、伯耆国(ほうき:鳥取県西部)を出た時は、わずか1,000余騎であったが、因幡(いなば:鳥取県東部)、伯耆、出雲(いずも:島根県東部)、美作(みまさか:岡山県北東部)、但馬(たじま:兵庫県北部)、丹後(たんご:京都府北部)、丹波(たんぱ:兵庫県東部+京都府中部)、若狭(わかさ:福井県南西部)の勢力が次々と加わってきて、たちまち、20万7000余もの大軍勢に膨張した。

丹波国の篠村(しのむら:京都府・亀岡市)に到着した千種軍のもとへ、但馬国守護・大田三郎左衛門尉(おおたさぶろうざえもんのじょう)がやってきた。彼は、元弘の乱の時に鎌倉幕府に捕えられて但馬国へ流刑になっていた先帝の第六親王をトップにあおいで、倒幕の旗揚げを行い、近隣の武士らを仲間に引き入れて、千種軍に合流してきたのである。

千種忠顕は大いに喜び、ただちに錦の御旗を用意して、この親王を総司令官の地位に据え、親王の名でもって、諸国に兵力動員令を送った。

4月2日、親王を頭に頂いた千種軍は篠村を出発、西山(にしやま:注1)の峯堂(みねどう:京都市・西京区)に入り、そこを本陣とした。

--------
(訳者注1)京都盆地の西側にある山地をこのように呼ぶ。
--------

千種軍20万騎は、谷堂(たにどう:西京区)、葉室(はむろ:西京区)、衣笠(きぬがさ:西京区)、萬石大路(まんごくおうじ:西京区)、松尾(まつお:西京区)、桂(かつら:西京区)一帯に布陣。あまりの大軍勢ゆえに、その半数ほどは宿泊する家も無く、野宿するしかない。彼らの野営陣は、その周辺の地域を覆い尽くした。

かくして、倒幕勢力サイドは、3つのグループが京都周辺に布陣する形となった。

まずは、八幡(やわた)に陣取る、殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)率いる軍団。

次に、山崎に陣取る、赤松円心率いる軍団。

そして、京都西方に陣取った、千種忠顕が率いる大軍勢。

千種軍団の陣の位置と、八幡、山崎との間の距離はわずか50余町ほどである。互いに連絡を密にし、うまく連携しあって京都を攻めれば、戦いを有利に展開できたであろう。なのに、忠顕は、自軍の大兵力を頼んで、自信過剰に陥ってしまったのであろうか、あるいは、手柄を一人占めにしたかったのであろうか、

千種忠顕 我らだけで、京都攻めを決行や! 進軍は、4月8日午前6時!

これを聞いた世間の人々は口々に、

世間の声U えーっ なんやてぇ! 4月8日に、戦をやらはるんどすかぁ!

世間の声V 4月8日いうたら、お釈迦(しゃか)さまのお誕生日やないかいな。

世間の声W この日は終日、「仏に帰依する心の有る無しにかかわらず、誕生仏にそそぐ浄水に自らの心の汚れを流し落とし、仏前には花を捧げお香を薫じ、経典のページをめくりながら、捨悪修善(しゃあくしゅうぜん)に終日専念せよ」との、古来よりの習わしどすえぇ。

世間の声X その4月8日を、戦の開始日にするとはなぁ・・・。

世間の声Y 他にいくらでも、日があるやろぉにぃ。

世間の声Z よりにもよって、心を修め行いを慎むべき日に、合戦を始めるとは・・・。

世間の声U もしかしたら、千種はんは、天魔破旬(てんまはじゅん:注2)の道を学ばれたお人なんと、ちゃいますやろかいなぁ?

--------
(訳者注2)天魔破旬(てんまはじゅん)=欲界(よくかい)の頂上にある第六天(だいろくてん、別名、他化自在天:たけじざいてん)の主にして、名を破旬(Papiya)という。仏道を修めようとする人に対して、様々な妨害活動を行う。
--------
--------

「敵サイドもこっちサイドも共に、源氏、平氏が入り混じっている。全軍共通の笠標(かさじるし)でもつけておかないと、そこら中で同士討ちになってしまうかも」、ということで、千種軍団メンバーは全員、白い絹布を1尺ずつ切ってそこに「風」という文字を書き、鎧の袖につけることにした。

いったいなぜ、「風」の文字にしたのか? それはおそらく、かの孔子著・論語にある以下の一節を念頭に置いてのことであろう。

 君子の徳を 風にたとえるならば
 小人の徳は 草とすべきであろう
 草に風が 吹きつけたならば
 必ずや草は それに靡(なび)く

(原文)
 君子の徳は風也
 小人の徳は草也
 草に風を加ふる時は
 偃(のえふさ)不(ず)と云ふ事なし

--------

京都の西方から攻めてくる千種軍団に備えて、六波羅庁軍サイドは、三条大宮(さんじょうおおみや:中京区)から九条大宮(くじょうおおみや:南区)の間の大宮通りに塀を並べ築き、要所要所に櫓(やぐら)を建てて、射手をそこに常駐させ、小路ごとに1,000騎、2,000騎と、兵を配置した。

魚鱗(ぎょりん)陣形で進み、敵陣を鶴翼(かくよく)陣形で包囲せんと、六波羅庁では、例によっての作戦会議。

六波羅庁リーダーA 今度攻めてきた敵軍の司令官、いったい誰が?

六波羅庁リーダーC いや、それがねぇ、フハハハ・・・総司令官はなんと、先帝の六番目のぼっちゃん、で、副司令官が、頭中将・千種忠顕なんですってさぁ。

六波羅庁リーダーB ブッ、なぁんだぁ、そりゃ! そんな連中が、全軍の指揮とってんのかぁ!

六波羅庁リーダーA ハァー、まったくもう・・・あきれたもんだねぇ。

六波羅庁リーダーB これだったら、もう勝負、決まったようなもんだなぁ!

六波羅庁リーダーA 千種の家系はたしか、村上源氏(むらかみげんじ)の流れだろ、だから、先祖は村上天皇だよな。かたや、我ら北条(ほうじょう)一族は、もとはと言えば平氏(へいし)の出、先祖は恒武天皇(かんむてんのう)だ。家のルーツをずぅっと遡(さかのぼ)ってったら、あっちもこっちも、天皇家に行きつくってわけさね。

六波羅庁リーダーA ただしだなぁ、問題はその後の、子孫の生きザマなんだわさ。「中国の長江(ちょうこう)の南に生えてる橘(たちばな)の木を、長江の北に移植したら、枳(からたち)に変わってしまう」ってな話、知ってるかい?

六波羅庁リーダーC エェー! そんな事ってあるんだぁ!

六波羅庁リーダーA こっちは先祖代々、「弓」と「馬」に、命かけてきたわさ。ところが、ところが、あちゃらさんと来た日にはぁ。

六波羅庁リーダーE 明けても暮れても、「風」に「月」でしょ?(注3)

六波羅庁リーダーB えぇ?「風」に「月」?・・・あ、なぁるほど、ワハハハ・・・。

六波羅庁リーダー一同 ワハハハ・・・。

六波羅庁リーダーD あっちから「いざ、勝負」て、言うてきてんねんからな、相手になってやりましょうやぁ!

六波羅庁リーダーE おぉ公家さん相手の戦によぉ、おれたちが負けるはず、ねぇでしょうが、エェー!

六波羅庁リーダー一同 ウワッハッハハハ・・・。

六波羅庁軍サイドの人々は各々勇みたち、7,000余騎を大宮通り沿いに展開、千種軍団の到来を今や遅しと待ち構えた。

--------
(訳者注3)「花鳥風月」(=文化芸術)の事しか知らない公家階級に所属する千種家の事を皮肉っているのである。
--------
--------

千種忠顕は、神社総庁(注4)の前でいったん進軍を停止した。そして、北は宮殿宿直管理庁(注5)から、南は七条大路に至るまで、すべての小路毎に1,000余騎ずつ軍勢を分かって配分の後、一斉攻撃の開始を命じた。

--------
(訳者注4)原文では「神祇官」。

(訳者注5)原文では「大舎人」。
--------

六波羅庁軍サイドは、最前線に築いた拠点に射手隊を配置、その後方に騎馬隊を置いている。千種軍団陣営のどこかに弱点が生じたとみるやいなや、そこへ騎馬隊の集中攻撃を行う。

千種軍団サイドも二重、三重に、新手の軍勢を配備、第一陣が退けば第二陣がそれに入れ替わり、第二陣が敗退すれば第三陣がそれに入れ替わり、というように、人馬に息を継がせつつ、煙塵(えんじん)天を掠(かす)めんばかりの猛攻を繰り返す。

両軍ともに、義に依って命を軽んじ、名を惜しみ死を争う。戦場のどこを見ても、味方を助けんがため前につき進む者のみ、敵に相対して退いてしまう者は皆無である。

このままでは勝負がいつ、つくとも分からない形勢。

しかし、千種軍団サイドの秘策が効を奏した。但馬(たじま)・丹波(たんば)から参戦の軍勢中から、これぞというメンバーを選抜して特殊工作部隊を編成し、戦闘開始に先だって、京都市街地の奥深く、彼らを潜入させておいたのである。

特殊工作部隊メンバーらは、京都中のそこかしこに放火して回った。おりからの激しい辻風にあおられ、猛煙が六波羅庁軍の後方に立ち上りはじめた。

六波羅庁軍メンバーF おい、背後から火が!

六波羅庁軍メンバーG うわっ、こら、えらいこっちゃ!

六波羅庁軍の最前線の者たちはパニック状態に陥り、大宮通りから東側に退却し、京都市街中のさらに東方へ、陣を移動した。

この状況をキャッチした、六波羅庁両長官は、

北条仲時(ほうじょうなかとき) いかん、このままじゃ、総くずれになってしまう!

北条時益(ほうじょうときます) 予備軍を、投入するしかないな。

戦いが不利になった方面へ向かわせるために残留させていた、佐々木時信(ささきときのぶ)、隅田(すだ)、高橋(たかはし)、南部(なんぶ)、下山(しもやま)、河野(こうの)、陶山(すやま)、富樫(とがし)、小早川(こばやかわ)らに、5,000余騎を率いさせ、一条通りと二条通りへ向かわせた。

この新手の六波羅庁サイドの軍勢との戦いにおいて、但馬国守護・大田三郎左衛門尉(おおたさぶろうざえもんのじょう)は戦死。

丹波国住人の荻野彦六(おぎのひころく)と足立三郎(あだちさぶろう)は、500余騎を率いて四条油小路(しじょうあぶらこうじ:中京区)まで攻め入り、備前(びぜん)国住人の薬師寺八郎(やくしじはちろう)、中吉十郎(なかぎりじゅうろう)、丹(たん)、児玉(こだま)勢力700余騎と戦っていた。しかし、二条方面で千種軍が敗退したのを見て、荻野と足立も退却してしまった。

金持(かなじ)三郎は、700余騎を率いて七条東洞院(しちじょうひがしのとういん:下京区)まで攻め込んだが、そこで重傷を負ってしまった。進退窮まっている彼を、播磨(はりま)国住人・肥塚(こいづか)一族300余騎が中に包囲し、すきに乗じて生け捕りにした。

丹波国・神池寺(じんちじ:兵庫県・丹波市)の衆徒ら80余騎は、五条西洞院(ごじょうにしのとういん:下京区)まで攻め込んだ。味方の軍勢が退却してしまったのも知らずに、彼らは戦い続けていたが、備中国住人の庄三郎(しょうのさぶろう)と真壁四郎(まかべしろう)が率いる300余騎に包囲され、一人残らず戦死してしまった。

このように、各方面の千種軍団は、あるいは打たれ、あるいは破られ、みな、桂川(かつらがわ:西京区)のあたりまで退却してしまったが、名和長生(なわながたか)と児島高徳(こじまたかのり)率いる一条通りへ向かった軍団は、そこに踏みとどまって2時間ほど、戦線を維持した。

この戦場、守る側は、陶山(すやま)に河野(こうの)、攻める側は、名和に児島。児島と河野は、同族どうし、名和と陶山は、知人どうしの間がらであったがゆえに、

陶山 (内心)ここの戦場で、相手に後ろ見せるわけにはいかんでのぉ!

河野 (内心)そないな事したら、わしんとこの家のコケンにかかわるでな。

名和 (内心)後で世間のモノワライになってしまっちゃ、たまらんわなぁ。

児島 (内心)死して屍(かばね)をさらすとも、逃げて名をば失わじ!

互いに命惜しまず、おめき叫んで戦い続ける。

千種忠顕は大内裏址(上京区)のあたりまで退却したが、「一条通りに向かった軍勢が、なおも戦線を維持して戦闘続行中」との報を聞き、再び、神社総庁前まで引き返し、使者を送って、児島と名和に退却を命じた。

二人は、陶山と河野に対してあいさつ、

児島 今日の戦はこれまでじゃ、もう日も暮れてしもぉたけん。

名和 あしたまた、お目にかかるとしよう。

両陣営ともに東西に引き分かれて、各々の陣に戻った。

--------

日没とともに、全戦線にわたって戦闘中止となった。

峯堂に置いた本陣に戻った忠顕は、自軍の負傷者・戦死者を調査してみた。その結果、

千種忠顕 なんやてぇ! 負傷者・戦死者、7,000人超!

彼が最も頼りにしていた大田と金持も、一族以下数百人が戦死してしまっていた。

千種忠顕 (内心)こないなってしもたら、これからは、彼をリーダー役として頼りにしていくしかないなぁ。

忠顕は、児島高徳を本陣に呼び寄せた。

千種忠顕 なぁ高徳、こうまでむちゃくちゃにやられてしまうとはなぁ・・・。こないな事になるやなんて、まったく思いもよらなんだわ。

児島高徳 ・・・。

千種忠顕 もうみな、力尽きてしもてて、六波羅庁軍ともう一度戦うのんなんか、到底無理やろうなぁ。

児島高徳 ・・・。

千種忠顕 なぁ高徳、あのなぁ、こういう状況ではな、こんな京都に近いとこに陣を取ってるっちゅうのんも、どうかと思うんや。そやからな、京都からもうちょっと離れたあたりにな、陣をいったん移してやな・・・ほいでな、もう一回、そこらへんの勢力を集めてからな、再び京都を攻めるっちゅうのんは、どないやろか? なぁお前、どない思う?

児島高徳 いいや、それはいけん!

千種忠顕 ・・・。

児島高徳 戦の勝負というもんは、時の運ですけぇ、敗北そく恥辱という事には、必ずしもなりません。ただし、退却しちゃぁいけん局面で退却を命令し、攻撃をしかけるべき所で攻撃を命令せんかったとしたら、それはもう完全に、大将の不覚っちゅう事になりますわなぁ!

千種忠顕 ・・・。

児島高徳 赤松円心、見てごらんさんの。わずか千余騎の軍勢でもって、三度も京都へ攻め入りよりましたぞぉ。戦に破れはしたけど、それでも京都に至近距離の地点まで退却しただけじゃ。八幡と山崎の陣を、今もしっかりと確保しとりますじゃろうが。

千種忠顕 ・・・。

児島高徳 わしらの軍は、たとえその過半数を失ぉたとしても、それでもまだ六波羅庁軍よりも兵力が多いんじゃ。しかもな、ここの陣の地形がまた、えぇんじゃ。後ろは奥深い山になっとるし、目の前にゃぁ大河が流れとりますけぇのぉ。敵がもし寄せてきたとしても、防衛するにゃぁ絶好の場所ですわい。

千種忠顕 ・・・。

児島高徳 とにかく、撤退はいけん! 絶対に、撤退しちゃぁいけんですよ!

千種忠顕 ・・・。

児島高徳 一点だけ懸念される事、それはな、こっちが疲れとるスキをついての、敵の夜襲です。じゃけん、これからわしゃぁ、七条大橋の橋詰に陣取って、それに備えることにしますわ。千種様の方もな、信頼のおけるもんを4、500騎ほど選びなさっての、桂川の両岸に差し向けて・・・そうじゃのぉ・・・梅津(うめづ:右京区)と法輪寺(ほうりんじ:右京区嵐山)あたりがよろしいですかの、そいでもって、敵の夜襲に備えられませ。

千種忠顕 ・・・。

忠顕のもとを辞した高徳はすぐに、300余騎を率いて東に向かい、七条の橋(注6)の西方に陣を固めた。

--------
(訳者注6)原文に「七条の橋」と記されているこの橋は、おそらく、鴨川にかかっていた橋ではないだろう。鴨川の付近まで敵地深々と進出して夜襲に備える、というのはだいぶムリな設定となるし、それでは千種軍本陣とあまりに離れすぎていて、イザという時に、何の役にも立たないだろうから。
--------
--------

高徳に強い言葉を浴びせられ、忠顕はなんとか峯堂に踏み留まっていた。しかし、

千種忠顕 (内心)あぁ、どないしょ、どないしょ、いったいどないしたらえぇんやぁ!

千種忠顕 (内心)高徳が言うとったな、敵が夜襲をかけてくるかもと・・・あぁ、いったいどこから襲ぉてきよんねんやろか・・・いったいどこから・・・いったいどこから・・・。

千種忠顕 (内心)・・・怖・・・。

夜半過ぎ頃、ついに忠顕は撤退を決意した。千種軍団全軍は、親王を馬に乗せ、葉室(はむろ)を斜めに横ぎり、八幡を目指して退却を開始した。

--------

このような事になっているとは夢にも知らない児島高徳、夜更け頃に峯堂の方を見やって驚いた。

児島高徳 (内心)なんじゃ、あれは! いったい、どうなっとるんじゃ!

つい先ほどまでは、夜空の星のごとくおびただしい数のかがり火が燃えていたのに、

児島高徳 (内心)かがり火の数が激減してしもぉとるぞ! いや、全く消えてしもぉとる陣もある、あっちにも、こっちにも・・・いったい、どうなっとるんじゃ!

児島高徳 (内心)うっ・・・ひょっとして、千種殿は逃亡かぁ? とにかく様子を見に行こう!

高徳は、馬を走らせた。

葉室大路から峯堂へ登る途中、浄住寺(じょうじゅうじ:西京区)の前で、荻野彦六にばったり出会った。

児島高徳 おいおい、こっちはいったい、どないなっとるんじゃ!?

荻野彦六 どないもこないも、あるかいやぁ! ほんまにもう、千種はんも困ったお人やでぇ。ゆうべの午前零時ごろ、ここから逃げ出してしまいよってなぁ! あぁ、ほんまに、どうしょうもないでぇ!

児島高徳 やっぱしそうか!

荻野彦六 わしらだけここに残ってても、しゃぁないよってにな、つい先ほどから丹波方面へ撤退始めたとこや。あんたもどや、わしらといっしょに行かへんか!

児島高徳 (大怒)チャッ! まったくもう! あないに臆病な男を、司令官に頂いてたのが、そもそもの大マチガイじゃったのぉ!

荻野彦六 ・・・。

児島高徳 ほぃじゃがの、わしゃとにかく、自分のこの目で直接、本陣の状態、見ときたいんじゃ。そうしとかんと、後からいろいろとまずい事になるじゃろから。荻野どん、あんたはわしにかまわんと、早ぉ丹波に帰りんさい。わしゃとにかく、これから峯堂まで登ってみてな、親王様がどうなってなさるか、確かめてみるけぇ。それから、あんたに追いつくから。

高徳は、配下の者らを山麓に留めおき、たった一人、山から逃げだす人波に逆らって、峯堂へ登っていった。

ついさきほどまで、忠顕が本陣にしていた本堂へ、高徳は走り込んだ。

児島高徳 いよらんのぉ、人っこ一人、いよらん、モヌケのカラじゃ!

児島高徳 まぁそれにしてもどうじゃ、このザマは。よっぽど慌てふためいて、陣を引き払っていきよったんじゃのぉ。錦の御旗、鎧直垂(よろいひたたれ)、なぁもかも、うっちゅらかしたまんま、出ていきよったわぁ。

遺棄(いき)された錦の御旗を手にとりながら、彼の心中には怒りがこみあげてきた。

児島高徳 フン、なにが、頭中将・千種忠顕じゃ! 聞いてあきれるわ! 千種め、どこぞの堀か崖へでも落ち込んで、とっとと死にくされぃ!

一人でわめき散らしながら、なおも、峯堂の縁上に歯噛みをしながら立っていたが、

児島高徳 いけんいけん、こんな所で怒っとる場合かや! あいつら、わしの帰るの遅いけん、心配しとるやろぉなぁ。

--------

高徳は、錦の御旗だけを巻いて僕に持たせ(注7)、急いで浄住寺まで走り降りた。

--------
(訳者注7)太平記原文には記述の矛盾がある。児島高徳が峯堂へ登っていくシーンは、「手の者兵をば麓に留めて只一人、落行く勢の中を押し分け押し分け、峰の堂へと上りける」となっているのだが、このシーンでは、「錦の御旗許(ばかり)を巻いて下人に持たせ、急ぎ浄住寺の前へ走り下り」となっている。
--------

児島高徳 本陣は、モヌケのカラじゃったわ。わしらも撤退じゃ、行くぞ!

児島軍団メンバー一同 オウ!

高徳たちは、馬を急がせ、追分宿(おいわけじゅく:京都府・亀岡市)付近で、荻野彦六に追いついた。

荻野彦六は、篠村(しのむら:亀岡市)、稗田(ひえだ:亀岡市)付近にたむろしていた友軍3,000余騎を配下に組み入れた。彼らは、丹波国・丹後国・出雲国・伯耆国から来た武士たちで、各々の領地を目指して、逃亡の途上にあったのである。

彼らは、行く手に群がる野伏(のぶし)たちを追い払いながら、丹波国の高山寺(こうさんじ:兵庫県・丹波市)へたどり着き、そこを、当面の根拠地とした。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年7月26日 (水)

太平記 現代語訳 8-6 赤松軍、再び京都へ

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

先月12日の合戦において、赤松(あかまつ)軍サイドは利あらずして京都から撤退、六波羅(ろくはら)庁軍サイドはノリにノッテ、敵を討ち取ること数千人。

六波羅庁リーダーA とは言いながらもなぁ・・・天下の騒乱は、一向におさまりゃぁしないじゃないの。

六波羅庁リーダーB さらに悪い事には、あの延暦寺(えんりゃくじ)までもが、敵方に回っちゃってぇ。

六波羅庁リーダーC 比叡(ひえい)山頂にかがり火焚いて、衆徒たちは修学院(しゅがくいん:左京区)に集結、なおも六波羅庁を攻めようって、虎視耽々(こしたんたん)のようですぜぃ。

六波羅庁リーダーB やっぱし、あそこの寺を敵に回してはまずい! ゼッタイにまずいんだ。

というわけで、比叡山上の衆徒らを懐柔(かいじゅう)する為に、六波羅庁から延暦寺に対して、大荘園13か所の寄付が行われた。さらに、衆徒の主要メンバーたちに、一等地12か所を、「祈祷のお礼」との名目でもって、恩賞として与えた。

さぁこうなると、延暦寺の衆徒たちの結束もバラバラ、六波羅庁側に心を傾ける者も多く出てきた。

かたや、赤松軍はといえば・・・依然として、八幡(やわた:京都府・八幡市)・山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)の戦線を維持しながら、なんとか踏ん張ってはいる。しかし、先ごろの京都での合戦において多数の戦死者・負傷者を出した結果、その兵力の大半を失ってしまい、今はわずかに1万騎にも満たない状態である。

しかしなおも赤松軍は、「六波羅庁軍サイドの軍勢配置、京都の形勢、恐れるに足らず」と看破(かんぱ)し、7,000余騎を2手に分け、4月3日午前6時、再び京都へ押し寄せていった。

第1軍団は、殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)と中院定平(なかのいんさだひら)を両大将とし、伊東(いとう)、松田(まつだ)、頓宮(はやみ)、富田(とんだ)の一党、さらに、真木(まき:大阪府・枚方市)、葛葉(くずは:枚方市)あたりのアウトロー集団を加え、総勢3,000余騎、伏見(ふしみ:京都市・伏見区)、木幡(こわた:京都府・宇治市)あたりに放火した後、鳥羽(とば:伏見区)、竹田(たけだ:伏見区)から、京都中心部めがけて攻め寄せていく。

第2軍団は、赤松円心(あかまつえんしん)をはじめ、宇野(うの)、柏原(かしわばら)、佐用(さよ)、真嶋(ましま)、得平(とくひら)、衣笠(きぬがさ)、菅家(かんけ)の一党、合計3,500余騎、川島(かわしま:京都市・西京区)、桂(かつら:西京区)一帯に放火し、西七条(にししちじょう:京都市・下京区)から攻め寄せていく。

これを迎え撃つ六波羅庁軍サイドは、最近のあいつぐ勝利に全員の士気はますます高く、自軍の兵力を数えてみれば3万余騎という膨大な数。ゆえに、「赤松軍接近す!」との情報にも、六波羅庁の南北両長官は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)。六条河原(ろくじょうがわら)に勢揃いした全軍に対し、粛々(しゅくしゅく)と、その配分・配置を決定。

北条時益(ほうじょうときます) 問題はやっぱし、延暦寺だよ。今はこちらに志を通じるようになったとはいってもなぁ、いつなんどき、寝返りをうつかもしれん。

北条仲時(ほうじょうなかとき) 油断大敵、備えあれば憂い無し、さね。

というわけで、佐々木時信(ささきときのぶ)、小田時知(おだときとも)、長井秀正(ながいひでまさ)に3,000余騎をつけて糺河原(ただすのがわら:注1)に布陣させ、延暦寺からの奇襲に対して備えた。

--------
(訳者注1)左京区・下鴨神社近くの高野川と賀茂川の合流点付近。
--------

--------

北条仲時 なぁ、どうだろう? 先月の12日の合戦の時と同じ方角からの攻め口にしてみたら? あの時の作戦、ものすごくうまくいったじゃん?

北条時益 ハハハ、柳の下のドジョウ狙いの、エンギかつぎといくかい。

というわけで、河野通治(こうのみちはる)と陶山二郎(すやまじろう)に5,000騎をつけ、法性寺大路(ほっしょうじおおじ)方面へ向かわせた。

さらに、富樫(とがし)、林(はやし)一族、島津(しまづ)、小早川(こばやかわ)両家の勢力に、諸国の武士6,000余騎をそえて、八条の東寺(とうじ:京都市・南区)付近へ向かわせた。

一方、厚東加賀守(こうとうかがのかみ)、加冶源太左衛門尉(かじのげんたさえもんのじょう)、隅田(すみだ)、高橋(たかはし)、糟谷(かすや)、土屋(つちや)、小笠原(おがさわら)には7,000余騎をそえて、西七条口(にししちじょうぐち:京都市・下京区)へ向かわせた。

残りの兵力1,000余騎は、予備軍として六波羅庁に残留させた。

午前10時、3方面同時に戦闘開始。

戦い疲れた者たちを新手の者に入れ替えさし替えしながら、双方必死に戦う。

赤松軍サイドは、騎馬の者が少なく歩兵射手が多いので、小路(こうじ)小路を塞(ふさ)ぎ、鏃(やじり)をそろえて散々に射る。六波羅庁軍サイドは、歩兵は少なく騎馬兵が多いので、馬を駆け違い駆け違い、相手を包囲せんと試みる。

孫氏(そんし)の千反(せんぺん)の謀(はかりごと)、呉氏(ごし)の八陣(はちじん)の法、両軍サイド共に、知り尽くした道であれば、ともに破られず、ともに囲まれず、ただただ一命を賭しての死闘の連続・・・一向に勝敗のつく気配も見えない。

一日中戦い続け、すでに日も暮れようかというまさにその時、河野軍団、陶山軍団、一体に合し、馬の首を並べて300余騎での突撃敢行、木幡方面から進んできた赤松軍サイドの軍団は一気に潰(つい)え、宇治(うじ:京都府宇治市)の方角目指して敗走。

陶山と河野は敗走する敵を追わず、竹田河原(たけだがわら)を斜め方向につっきり、鳥羽離宮(とばりきゅう:京都市・伏見区)北門の前を回って作道(つくりみち)に出て、東寺前に展開している赤松軍の背後に回り込もうとした。作道の沿道18町に充満の赤松軍はこれを見て、「とてもかなわない」と思ったのであろう、羅城門(らじょうもん:南区)の西方から寺戸(てらど:京都府向日市)の方角目指して敗走。

東寺前に展開していたその赤松軍と相対していたのは、小早川と島津である。つい先ほどまで、互いに追いつ返しつの戦いを続けていたのだったが、

小早川 なんじゃ、なんじゃぁ! 河野と陶山が、敵を一気に追い払ってしまいよったがなぁ。

島津 んもぅ! またあいつらに、手柄かっさらわれちまった。

小早川 シカタねぇ、西七条へんに寄せてきよったヤツラでも、相手にするけぇのぉ。

島津 よぉし、華々しぅ一戦、やらかしちゃるでよぉ!

--------

島津と小早川の軍団は西八条を北上し、西朱雀(にしすざく:京都市・下京区)へ移動した。

そこには、赤松軍の総帥・赤松円心(あかまつえんしん)がいた。

選りすぐりの屈強の兵3,000余騎をもってかためており、そうそう簡単に破れるとは思えない。しかし、島津と小早川が横合いから攻めかかってくるのを見て、戦い疲れた六波羅庁軍は再び勢いを盛り返し、3方向から、赤松円心軍団に対して攻撃を展開した。赤松軍サイドはたちまち左右に開きなびき、分断されてしまった。

赤松軍の中から4人の武者が、最前線に進み出てきた。彼らは数千の六波羅庁軍の方へ向かって歩を進めていく。決然たるその様、かの古代中国の英雄・樊噲(はんかい)、項羽(こうう)がその憤怒の頂点に達したとて、これほどまでに凄くはないだろう。

彼らが六波羅庁軍に接近してくるにつれて、次第にその風貌が明瞭に見えてきた。

先頭に立つ男は身長7尺ほど、髭が左右に分かれ生えており、眦(まなじり)が逆さまに裂けている。鎖帷子(くさりかたびら)の上に鎧を重ね着し、鉄製のすね当てと膝鎧を装着、竜頭(りゅうず)の飾りのついた兜の前を高く上げて、面を露わにしている。腰には5尺余りの太刀を帯(は)き、手には8尺余りの鉄棒を軽々とひっさげている。棒の断面は八角形、手元2尺ほどは握り部分で丸くなっており、そこから先にはイボイボがついている。

数千の六波羅庁軍は4人の威容にたじたじとなり、戦わずして三方へ分かれ退いた。

4人は立ち止まり、六波羅庁軍に対して手招きしながら、大音声で名乗りを上げた。

頓宮又二郎 わしはなぁ、備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)の住人、頓宮又二郎(はやみまたじろう)や!

頓宮孫三郎 その子息、頓宮孫三郎(まごさぶろう)!

田中盛兼 わしは、田中盛兼(たなかもりかね)!

田中盛泰 その弟、田中盛泰(もりやす)!

頓宮又二郎 わしら、父子兄弟はなぁ、少年の頃に国からお咎めを受けて、アウトローになってからっちゅうもん、山賊稼業して、楽しい日々を送っとったんじゃ。ところが、ナンとラッキーな事に、きょうび(今日)のこの天下のおお(大)騒動、でもって、ありがたい事にゃぁ、天子様の軍勢に加えてもろぉたとな、まぁこういうわけじゃ。

頓宮又二郎 ところがところが、こないだの合戦、大した戦(いくさ)らしい戦もせんうちに、こっちの負けになってしもぉたけん、ほんにもう、悔しいやら、恥かしいやら。じゃけん、今日っちゅう今日こそはなぁ、たとえ味方のモンらが退却してまっても、わしらぁ絶対に退却せんでな! お前らがなんぼ強いゆぅたかて、絶対に後ろ見せんでぇ!

頓宮又二郎 今からな、そっちの陣のド真ん中ブチ破って、通っちゃるけん。そこ通って、六波羅庁の長官殿に直々の対面してみようかいのぉ、ワハハハ・・・。

頓宮又二郎はこのように広言を吐き、六波羅庁軍の眼前に仁王立ちになった。

島津は、二人の子息と家臣たちにいわく、

島津 ははぁん、前からうわさに聞いてた、「中国地方一のマッチョ(大力)」とは、さてはあいつの事だったかぁ。

島津の家臣 はいなぁー。

島津 あいつらをシトめるにゃ、大勢でかかってっても無理だろよ。お前らはしばらく、ここから少し離れてな、他の敵を相手に戦ってろって。

島津の家臣 で、殿はぁー?

島津 おれとセガレら3人でもって、あの4人の相手してみっから。進んだり退いたりしながら、適当にあしらってりゃぁ、きっとそのうち、討ち取ってしまえるだろうよぉ。

島津家家臣一同 分かりましたぁー。

島津 あの4人、いくら力が強いからって、やっぱしそこはナマミの人間、身体に矢が立たないってこともないだろうしな。いくら速く走れるからったってなぁ、こっちは馬なんだぞ、追いつけるわけねぇよ。

島津の家臣K ごもっともぉー。

島津 なぁがねん(長年)修練を積みし、馬上射撃の我がテクニックぅ、今この場に用いずして、いったいいつの日にぃー! よぉし、ではいよいよ、手に汗握る一大スペクタクルの、はぁじ(始)まり始まり、みなさま、よくよくご覧下さりませぇぃー! 行くぜーぃ!

島津家家臣一同 オーゥ・・・。

島津父子3騎は、馬を駆って陣の前に進み出た。これを見た田中盛兼は、嘲笑いつつ、例の鉄棒を振り回しながら、静かに歩み寄ってくる。

田中盛兼 そこの命知らず、どこの誰かは知らんけど、なんとも勇猛果敢なその心意気。どうせならばオマエを生け捕りにして、わしの味方にして戦わせたいもんじゃのぉ。

島津は、黙って静々と馬を進ませる。

田中の身体が射程距離内に入ったと見るや、島津はやにわに、3人張りの弓に12束3伏の矢をつがえ、ギリギリギリとひきしぼってから、パアッと放つ。その矢は狙い過たず、田中盛兼の兜に命中、矢の半分ほどが菱縫(ひしぬい)の板を貫いて、右頬から頭部に入った。

田中盛兼 ウウウ・・・。

急所の痛手に弱りはて、さすが大力の田中も目がくらみ、その場に立ちつくしてしまった。

田中盛泰 アニキ!

田中盛泰は、兄の側に走り寄り、頬からその矢を抜き捨てた。

田中盛泰 アニキ! アニキ! しっかりしろ!

田中盛兼 ・・・(ドタッ)

田中盛泰 ううう・・・エェィ、クソッ!

盛泰は、盛兼が落した鉄棒を拾い上げて手に持ち、島津に迫った。

田中盛泰 陛下の敵は六波羅庁、兄の仇はオマエじゃぁ! えぇい、みな殺しにしてくれるで!

頓宮父子も各々、5尺2寸の太刀に手をかけ、小躍りしてそれに続く。

島津はもとより、馬上の戦名人で、連射技術にたけた人、いささかも動じない。盛泰が切りかかってくれば、馬に鞭を入れて走り去り、ヒョイとふりかえりざまに、矢をヒュッと射る。盛泰が右手に回れば、左手に回り込みながら、矢をバシッと射る。

かたや、中国地方で名高い剣術の名人、対するは、北陸地方一の馬上戦闘の達人、追いつ返しつ懸け違い、余人を交えぬ見事な戦い、まさに前代未聞の、みものである。

ついに島津は矢を使い果たし、刀を使っての勝負に移らんとする。

小早川 ありゃ、とてもムリだ! 島津が危ない! 行け! 加勢しろ!

朱雀(すざく)の地蔵堂(じぞうどう)北方に控えていた小早川軍200騎が、おめいて突撃をし掛ける。この勢いに押され、田中たちの後方にいる軍勢は一斉に退いた。

後に残った田中兄弟、頓宮父子4人の、鎧の隙間や兜の内に矢の雨が降りそそぐ。突き立った矢は20本ないし30本、4人は太刀を杖がわりに地面に突きたて、立ち尽くしたまま、死んでいった。

4人のこの戦いぶりを見た人、聞いた人はみな、後世までも、彼らの武勇を褒め称えた。

--------

美作国(みまさかこく:岡山県北東部)の住人、菅家(かんけ)の一族は、300余騎にて、四条猪熊(しじょういのくま:注2)まで攻め入り、武田兵庫助(たけだひょうごのすけ)、糟谷(かすや)、高橋(たかはし)の1,000余騎と、2時間ほど騎馬戦を展開。しかし、いつの間にか、後方の赤松軍は退却してしまい、彼らは孤立してしまった。

--------
(訳者注2)四条通りと猪熊通りとの交差点。
--------

たとえどのような状況に陥ろうとも、絶対に退却するまいと、彼らはみな、戦場に臨む前に心に決していたのであろうか、あるいは、敵に背中を見せるのを恥としたのであろうか、有元菅佐弘(ありもとかんすけひろ)、有元菅佐光(すけみつ)、有元菅佐吉(すけよし)の3兄弟は、向かいくる六波羅庁軍の武者に馳せ並び、引き組んで、もろともに落馬。

佐弘は、今朝の戦闘で膝に切り傷を負ってしまったため、力が弱っていたのであろうか、武田七郎に押え込まれ、首をかっ切られてしまった。一方、佐光は、武田二郎の首を取った。佐吉は、武田の郎等と刺し違えて共に死んだ。

菅、武田、双方共に、兄弟のうち一方が死んでしまった今、

菅佐光 (内心)兄弟が死んでしもぉたのに、自分一人だけ生き残って、どないなるっちゅうんじゃ!

武田七郎 (内心)さぁ勝負、勝負!

有元菅佐光と武田七郎は、手に持った首を左右へ投げ捨て、互いに組み合って差し違える。これを見て、福光佐長(ふくみつすけなが)、殖月重佐(うえつきしげすけ)、原田佐秀(はらだすけひで)、鷹取種佐(たかとりたねすけ)も、共に馬を返して六波羅庁軍に立ち向かい、ムンズと組んではドオと落ち、引き組んでは刺し違え・・・27人の者たちはこのようにして、一所にて全員討たれていった。

かくして、その方面においても、赤松軍サイドの敗北となった。

--------

この戦いに参加していた播磨国(はりまこく:兵庫県西部)住人の妻鹿長宗(めがながむね)という人は、薩摩氏長(さつまうじなが:注3)の子孫であり、力は人に勝れ、器量は世を越えていた。

--------
(訳者注3)古代の相撲の名人。
--------

12歳になった年の春の頃から、好んで相撲を取り始め、ついには、日本60余国の誰を相手に、たとえ片手で相撲をとったとしても決して負けないようなレベルにまで、達してしまった。

人間は、似た者同士が自然と寄り集まるものである。彼といっしょにこの戦場にやってきた一族17人も全員、その力は、尋常の人間のレベルをはるかに越える者ばかりであった。ゆえに彼らは、他家の者たちを交えずに最前線を突進し、六条坊門大宮(ろくじょうぼうもんおおみや:注4)付近まで進出した。しかし、東寺(とうじ:京都市・南区)、竹田(たけだ:京都市・伏見区)付近から帰還途中の六波羅庁軍3,000余騎に包囲されてしまい、一族17人すべて討ち取られてしまった。

--------
(訳者注4)六条坊門通り(五条と六条の間)と大宮通りとの交差点。
--------

今や生き残っているのは、妻鹿長宗たった一人だけ。

妻鹿長宗 こないなってもぉたら、もう、生き残っててもシカタのない命や・・・いっそのこと・・・いやいや、いったいおれは、ナニ考えとぉねん・・・天下の大事な局面は、今日のこの時だけとちゃうやん。自分一人だけでも生き残って、この先、陛下のお役に立っていったら、それでえぇんやん!

このようにつぶやきながらたった一騎、西朱雀を目指して退却する彼の後を、印具駿河守(いぐするがのかみ)の軍勢50余騎が追っていく。

その集団の中から、年のころ20歳ほどの若武者がただ一騎、走り出た。彼は、敗走する妻鹿長宗に組みつかんと、ぐんぐん間合いを縮めていく。

若武者 えぇい、逃がさんぞ!

若武者は、妻鹿長宗の鎧の袖にヒシと取り付いた。

妻鹿長宗 フフン。

長宗は、これをものともせず、腕を伸ばして相手の鎧の背中に付いている紐をつかみ、若武者を軽々と宙づりにしてしまった。

若武者 えぇい、放せ、放せ! くそぉ、えぇい!

妻鹿長宗 なんのなんのぉ。

長宗は、若武者をつかんだまま、馬を3町ばかり走らせた。

この若武者は、身分の高い人の親族だったのであろうか、

印具軍団メンバーX わかーっ、わかーっ!

印具軍団メンバーY わかを死なせてはいかん!

印具軍団メンバー一同 待てぇー!

50余騎の武者が、長宗の後を必死に追う。長宗は、彼らを流し目に睨みつけながら叫んだ。

妻鹿長宗 オマエラなぁ、相手をよぉ選んでから、かかってこい! わしを、どこの誰やと思とぉねん! 一騎でもわしに近づいてみぃ、後悔さしたるぞぉ!

印具軍団メンバー一同 (タジタジ)・・・。

妻鹿長宗 そないに、このワカゾウが欲しいんやったら、くれたるわい、ほれ、ちゃぁんと、受け取れよぉ!

長宗は、左の手に引っさげた若武者を右の手に持ち替え、ポーンと放り投げた。

若武者の体は、印具軍団メンバー6人の頭上を越えて、深田の泥の中に落下し、全身ズボっと泥の中に入ってしまった。これを見て、妻鹿長宗の怪力に恐れをなした印具軍団メンバー一同は一斉に馬を返し、全速力で逃げ去っていった。

--------

赤松円心 あー、あかぁん・・・あっちゃもこっちゃも、ボロ負けやぁ。

頼りにしていた一族の武士たちは、方々の戦場で800余人も討たれてしまった。さすがの円心も、気(き)疲(つか)れ、力(ちから)落(お)ちはててしまった。

彼は、残存兵力をまとめ、八幡・山崎の陣へ引きあげていった。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 8-5 延暦寺の衆徒、倒幕に向けて決起

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

「京都での合戦開始以後、六波羅庁軍サイド、劣勢」との情報を聞き、護良親王(もりよししんのう)は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の衆徒たちに対して、「今こそ倒幕に立ち上がれ!」との書面を送った。

これを受けて、3月26日、比叡山全山の衆徒たちが、延暦寺の大講堂の庭に集合して討論会を行った。

衆徒リーダーA そもそも、この比叡山こそは、み仏がこの世を救済されんがために、神々に化身して姿を現わされ、皇室歴代を守護する防御バリアーの役目を果たしてきた聖地なのであぁる! 我らが開祖・伝教大師(でんぎょうだいし)様は、このみ寺を開基される時、精神の集中と事物の観察の中に、悟りの境地を極められた。さらに、このみ寺を、慈恵僧正(じえそうじょう)が受け継がれた時より以降、忍辱修行(にんにくしゅぎょう:注1)の僧衣の上に、魔障降伏(ましょうごうぶく)の秋霜(しゅうそう)の利剣を帯びる事になったぁ!

--------
(訳者注1)耐え難きを堪え忍ぶ仏道修行。
--------

衆徒リーダーB 以来、わがみ寺・延暦寺は、天に禍現われたる時、即座に仏法の威力をもってこれを攘(はら)い、暴逆の徒が国を乱す時、直ちに神の力を借りてこれを退けてきたぁ!

衆徒リーダーC ゆえに、わが寺の守護神を、「山王(さんのう)」と号す。「山」も「王」も、「三」の字と「一」の字とが組み合わさっとる、これぞまさしく、「三つでもなく一でもなく」という仏教の深い理(ことわり)が込められている徴(しるし)や! あぁ、なんという、微妙深遠なる理(ことわり)なるかな!

衆徒リーダーD 山号は「比叡」。これは、仏法と王法(おうぼう:注2)とが相「比」する場所であることを、意味してる!

--------
(訳者注2)国王の政治理念。
--------

衆徒リーダーA しかるに、今やまさに天下は乱れ、皇室は安泰ならず。武家の積悪に対して、天はまさに誅(ちゅう)を下そうとしておられる。その兆しは今や、賢愚を問わず万人の眼前に、明らかになってきているではないかぁ!

衆徒リーダーE 帝王の権威たるもの、盤石(ばんじゃく)揺るぎ無いもんでないとあかんやないか! そのためには、我ら出家して仏門に入りし者とて、手をこまねいていてはいかん! まさにこの国家存亡の時にこそ、報国の忠を尽くさずして、いったいどないするっちゅうねん!

衆徒リーダーD 早いとこ、幕府に味方した前非を改め、先帝陛下を必死になってお助けする方向へと、わが寺の方針をシフトすべきや!

衆徒一同 賛成、賛成!

かくして、「倒幕」に向けて衆議一致、3,000人の衆徒は各々の拠点寺院へ帰り、倒幕の企ての他に余念無し、という状態になった。

--------

「3月28日、六波羅庁攻撃!」と決まり、末寺や末社のメンバーはもちろんのこと、延暦寺にゆかりの近国の武士たちまでもが、雲霞(うんか)のごとく比叡山上に集結。

27日、大宮社(おおみやしゃ)の前で集合メンバーの受け付けを行い、リストを作成。軍勢総数10万6000余人。

しかしながら、衆徒たちの常として、むやみに勇みたつ事しか知らないから、そこには戦略というものが、かけらもない。

延暦寺衆徒F これだけの大軍で京都へ押し寄せたらな、六波羅庁なんか、ちょろいもんやで。

延暦寺衆徒G 比叡山からわしらが降りていくと聞いただけで、あいつら、京都から逃げ出してしまいよるんとちゃうかぁ?

延暦寺衆徒一同 ワハハハ・・・。

このように六波羅庁の力をみくびり、八幡(やわた)・山崎(やまざき)に布陣している赤松軍との共同作戦というようなことを、何も考えようとしない。

そして、「28日の午前6時、法勝寺(ほうしょうじ:注3)に陣ぞろい!」との触れが廻った。

彼らは、鎧も着用せず、兵糧を使って食事もしないまま、あるいは今路越(いまみちごえ:注4)経由で、あるいは西坂(にしさか:注5)経由で山を降り、京都へ向かった。

--------
(訳者注3)京都市左京区・岡崎付近にあった寺院。その後、火災などで廃寺となった。現在の京都市立動物園一帯がかつての寺域である。

(訳者注4)「志賀越道」と呼ばれているルート。

(訳者注5)雲母坂(きららざか)経由で、修学院(京都市・左京区)へ下山するルート。
--------

--------

さっそく六波羅庁では、南北両長官を中心に作戦会議。

北条時益(ほうじょうときます) さてさて・・・いったいどうやって迎撃したもんだろうかねぇ?

北条仲時(ほうじょうなかとき) うん・・・思うにだ、比叡山の連中、たしかに大軍勢ではあるけどね、騎馬の者は一人もいやしないだろう。そこが狙い目だな。選抜した騎馬射手隊でもって、迎え撃つってのはどうかなぁ?

北条時益 なるほど。で、迎撃地点はどのあたりにするのがいいかな?

六波羅庁リーダーK 三条河原がよろしいのでは? あの辺りで待ち伏せしてですね、騎馬隊を両側に広く展開したり中央に集中したりしながら、左右から狙いうちに矢を射る。連中、いくら戦意が高いたって、なにせ徒歩ですからね、重い鎧に肩を引っ張られて、あっという間に疲れが来ちゃうでしょうよ。

北条時益 なぁるほど、これぞまさしく、小をもって大を砕き、弱をもって剛をとりひしぐ、ともいうべき作戦だな。

六波羅庁サイドは、7,000余騎を7手に分け、三条河原の東西に陣どって、延暦寺軍を待ち構えた。

このような事とは思いもよらず、延暦寺軍のメンバーらは、我先に京都へ入り、裕福な場所に陣を構えて財宝を押さえてしまおうと、宿泊所の門口に貼る名札を各々2、30枚ほど持ち、法勝寺(ほうしょうじ:左京区)に集合し始めた。

その軍勢を見渡せば、今路(いまみち)、西坂(にしさか)、古塔下(ふるとうした)、八瀬(やせ)、薮里(やぶさと)、下松(さがりまつ)、赤山口(せきさんぐち)に広がり、先頭はすでに法勝寺、真如堂(しんにょどう)に到着というのに、後陣はいまだに比叡山上や修学院(しゅがくいん)のあたりに充満といった状態でおびただしい数である(注6)。稲妻の光るがごとく甲冑に朝日は輝き、龍蛇がうごめくかのように軍旗は山風になびく。

--------
(訳者注6)以上、いずれも左京区に存在する地名。
--------

かたや比叡山から下りてきた軍勢、かたや洛中でそれを迎え撃とうとしている軍勢、双方の兵力を比較してみれば、六波羅庁軍は延暦寺軍の10分の1にも満たない。

延暦寺軍一同 (心中)これだけの兵力差あるんやもん、もう、余裕やねぇ、楽勝、楽勝!

六波羅庁を眼下に見下ろしながらの比叡山延暦寺・法師たちの心中の計算、大雑把ではあるが、もっともなものと思われる。

--------

延暦寺軍の前陣が法勝寺に到着して後続を待っている所に、六波羅庁軍7,000余騎が三方から押し寄せて、トキの声をどっと上げた。

六波羅庁軍リーダーL エーイ、エーイ!

六波羅庁軍一同 オーウ!

延暦寺軍先鋒P なんやなんや! いったいどないしたんや!

延暦寺軍先鋒Q 六波羅庁軍が攻めてきよったぞ!

延暦寺軍先鋒R なにぃーっ!

延暦寺軍先鋒S こらあかん!

延暦寺軍先鋒P おれの鎧はどこや!

延暦寺軍先鋒Q おれの太刀、どこいってしもたんやぁ?

延暦寺軍先鋒R 長刀(なぎなた)、長刀ぁー!

押し合いへしあいしながら、取るものも取りあえず、あわてふためくばかりである。わずかに1,000人ばかりが、法勝寺の西門の前に出て抜刀し、接近する六波羅庁軍を迎え撃った。

六波羅庁軍サイドは、あらかじめ立てた作戦どうりに、延暦寺軍が立ち向かってくる時には馬を返してバァッと退却し、彼らが立ち止まったと見るや、左右に散開して敵の後方に回り込もうと試みる。このように6度、7度と馬を馳せめぐらせて、相手を悩ませる。延暦寺軍サイドは全員徒歩である上に、重い鎧に肩を圧迫され、次第に疲労の色が濃くなってきた。

勢いづいた六波羅庁軍サイドは、選抜射手隊を繰り出し、さんざんに矢を射る。延暦寺軍サイドは、ただただこれに射すくめられるのみである。

延暦寺軍一同 (心中)こらあかん、遮蔽物(しゃへいぶつ)が何もない平地で戦ぉてたんでは、とても勝ち目がないわい。

彼らは再び、法勝寺の中へ引きこもろうとした。

そこへ、丹波国(たんばこく:京都府北西部+兵庫県北東部)の住人・佐治孫五郎(さじまごごろう)という武士が現われ、法勝寺西門の前に馬を横たえた。当時としては例のないような5尺3寸もの長尺の太刀を振るい、延暦寺軍の3人を胴体切り。太刀の歪みを門の扉に押し当てて直し、なおも延暦寺軍を切り捨てんとばかりに、門の前で待ちかまえ、西向きに馬をひかえている。

延暦寺軍の者たちはこれを見て、その勢いにのまれてしまったのであろうか、あるいは法勝寺の中にもすでに敵が入ってしまった、と思ったのであろうか、寺に入ることができずに、西門の前を北に向かって敗走しはじめた。真如堂の前の神楽岡(かぐらおか)後方から二手に分かれ、比叡山めざしてひたすら退却していく。

--------

延暦寺軍中に、東塔(とうとう)エリア南谷(みなみだに)・善智房(ぜんちぼう)に居住の二人組、豪鑒(ごうかん)と豪仙(ごうせん)という、比叡山中に名前の知れ渡った荒くれの法師がいた。

敗走する大勢の中に巻き込まれ、不本意ながらも北白川(きたしらかわ:左京区、法勝寺の北方)を目指して退却する中に、豪鑒は豪仙を呼び止めていわく、

豪鑒 なぁなぁ、豪仙、ちょっと待ちぃや。

豪仙 うぅ?

豪鑒 あのな、豪仙。勝敗は戦の常、勝つ時もあれば負ける時もある。時の運によって勝敗は決まるんやから、戦に負けたかて恥ではない・・・と、言いたいとこやけどな、いったいなんやねん、今日のこのざまは! 比叡山の恥辱、天下の笑いもんやんか!

豪仙 うん・・・。

豪鑒 なぁ、どうや、俺といっしょに引き返して、六波羅庁軍と戦こぉてみいひんか? おれといっしょに、討死にしてくれへんか? 二人の命を棄ててでも、わが延暦寺の恥を、そそごうやないか! な、な・・・。

豪仙 もうそれ以上、なにも言わいでよろし、俺もそない思う!

二人は、踏みとどまって法勝寺北門の前に立ち並び、大音声を張り上げた。

豪鑒 こらこらぁ、そこらのモン、よぉ聞けよ!

豪仙 こないに腰砕けになってしまいよった大軍勢の中からなぁ、俺らたった二人だけ戻ってきたわいな、お前らと一戦まじえたろう思ぉてな! そやからな、俺らの事を、比叡山一の剛のもん(者)やと思うてくれたら、えぇでぇ!

豪鑒 俺らの名前、お前らきっと、聞いた事あるやろぉて。比叡山東塔エリアの南谷・善智房の同宿、「豪鑒&豪仙ペア」と、比叡全山にその名は、轟きわたっとるわいな。

豪仙 我こそはと思うやつ、おらんか! おったら早いとこ、かかってこんかい! 刀剣バトルやらかして、そこらのもんにおもろい見物、さしたろやないかい!

二人は、長さ4尺余りの大長刀を水車のように振りまわし、六波羅庁軍に躍り掛かり、火花を散らして切りまくった。二人を討ち取ろうと接近していった者は、片っ端から馬の足をなで切りにされ、兜の鉢を破られて討死にしていく。

およそ1時間ほど、二人はこのように戦い続けたが、これを応援する延暦寺の衆徒は一人もいない。雨が降るごとくに射掛けられる矢に当たり、二人とも10余か所の傷を負ってしまった。

豪仙 ・・・ハァハァ・・・よぉたたこ(戦)ぉたなぁ・・・ハァハァ・・・もはや、これまで・・・ハァハァ・・・。

豪鑒 ・・・ハァハァ・・・よぉし、豪仙・・・ハァハァ・・・冥土の道中も・・・ハァハァ・・・二人でいっしょに行こなぁ!

固い約を交わすやいなや、二人は鎧を脱ぎ捨てて肌を露わにし、腹を十文字にかっ切って、枕を並べて倒れ伏した。

六波羅庁軍メンバー一同 あぁ、なんて見事な最期・・・まさに、「日本一の剛の者たち」だ・・・。

前陣が戦に敗れて退却してしまったので、延暦寺軍後陣の大勢もまた、戦場を目にもしないままに、途中から比叡山に引き返した。

豪鑒と豪仙たった二人の奮戦により、延暦寺の武名は顕揚されたのであった。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年7月25日 (火)

太平記 現代語訳 8-4 赤松軍、京都西方に踏みとどまる

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

今や天下は乱れに乱れ、戦火が空を覆い尽くしてしまっている。玉座にある帝王には一日として心安らかなる日は無く、武臣、鉾(ほこ)をきらめかせ、錦のみ旗、閑(しず)かに動かず、という日も無くなってしまった。

公卿A こういう時にこそ、頼りになるのが、み仏の偉大なるお力ですわいな。

公卿B ほんま、そうですわなぁ。仏法の力をもってして、逆賊を鎮めてもらわんことには、天下の静謐(せいひつ)は期しがたいですわ。

ということで、朝廷より諸寺諸社に命が出て、朝敵調伏の大法秘法(たいほうひほう)が修されることになった。

陛下の兄弟・尊胤法親王(そんいんほっしんのう)は、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県大津市)の長・天台座主(てんだいざす:注1)の地位にあらせられたので、自らもまた宮中に壇を築き、仏眼法(ぶつがんほう)を修された。裏辻(うらつじ)の慈汁僧正(じじゅうそうじょう)は、仙洞御所(せんとうごしょ)において薬師如来法(やくしにょらいぼう)を修した。幕府もまた、延暦寺、興福寺(こうふくじ:奈良市)、園城寺(おんじょうじ:大津市)の衆徒の歓心を得て神仏のご加護を仰ごうと、方々の荘園をこれらの寺々に寄付し、種々の重宝を献上して、加持祈祷(かじきとう)を行わせた。

--------
(訳者注1)天台宗のトップ。
--------

しかしながら、朝廷の政道は正しからず、武家の積悪は災禍を招くばかり、いくら祈ろうとも、神仏はその非礼を享(う)けられない。味方に引き入れようといくら説いてみても、人々もまた幕府の発する甘言には、なびかない。日を追うにつれて、諸国からの急を告げる早馬の数は、ただただ増していくばかりであった。

--------

さる3月12日の合戦において、赤松(あかまつ)サイドは一敗地にまみれ、山崎(やまざき:京都府・大山崎町)を目指して退却していった。すぐにそれに追い討ちをかけておきさえすれば、赤松軍はもはや京都付近には、踏みとどまれなかったであろう。

しかし、「ここまでやっつけたのだから、もう大丈夫だろう」と、六波羅庁側には油断が生じてしまった。それを良い事に、赤松サイドの敗軍の武士たちはあちらこちらから再び集合してきて、あっという間にまたまた、大軍団に復活してしまった。

赤松円心(あかまつえんしん)は、中院貞能(なかのいんさだよし)を「聖護院(しょうごいん)の宮」と称してまつりあげ、彼をトップに頂きながら、山崎から八幡(やわた:京都府・八幡市)一帯に陣を取り、桂川(かつらがわ)-宇治川(うじがわ)-木津川(きづがわ)の三川合流地点(注2)の通行を阻害し、京都と中国地方間の運輸・交通を完全に遮断してしまった。

--------
(訳者注2)京都府・八幡市の付近にあり。
--------

その結果、京都内の物資流通は完全にストップ、幕府側勢力の兵糧運搬は極めて困難な状況になってしまった。これを聞いた六波羅庁両長官は、以下のような指令を発した。

===========
六波羅庁令、以下のごとし:

赤松円心たった一人のために京都中が悩まされ、士卒が苦しむとは、まったくもって、遺憾な事である。

さる12日の戦闘の状況から見ても、敵はさほどの大軍ではない。なのに、なんとも情けないことには、赤松軍、再び勢力増、と耳にしただけで震え上がり、彼らを山城(やましろ:京都府南部)・摂津(せっつ:大阪府北部+兵庫県南東部)の国境付近にのさばらせたままにしているとは! こんな事では、幕府の名折れ、後代までの恥辱である!

とにかく今度という今度こそは、我ら官軍の方から敵陣に押し寄せ、八幡、山崎の赤松側両陣を攻め落として、賊徒を川に追いつめ、その首取って六条河原にさらすべし!
===========

この命令に従って、京都市中48か所警護所ならびに在京の武士たち合計5,000余騎は、五条河原(ごじょうがわら)に勢揃いした後、3月15日午前6時、山崎へ向けて進軍を開始した。

始めは二手に分かれて進んでいったのだが、久我畷手(くがなわて)の道は路幅が狭くて周囲は泥田だから馬の進退もままならんだろう、ということで、八条のあたりから全軍合流した。

桂川を渡った後、川島(かわしま:京都市・西京区)の南方を経て、物集女(もずめ:京都府・向日市)、大原野(おおはらの:京都市・西京区)の前方から赤松陣めがけて、ひたひたと接近していく。

--------

「六波羅庁軍来襲」との報を受け、赤松サイドは、3,000余騎の兵力を3手に分けた。

第1軍団:足軽の射手選抜隊500余人を、小塩山(こしおやま:京都市・西京区)へ配置。

第2軍団:野伏(のぶし)に騎馬の武者を少々交えた1,000余人を、狐川(きつねがわ:位置不明)付近に展開。

第3軍団:刀と槍の武装軍団800余騎を編成し、向日明神(むこうみょうじん:京都府・向日市)後方の松原の陰に伏兵として配備。

赤松軍がこれほど近くまで進出してきているとは思いも寄らず、六波羅庁軍サイドは不用意に、相手が仕掛けた包囲網の奥深くに入ってしまった。

寺戸(てらど:京都府・向日市)付近の家々に放火しながら、最前線部隊が今まさに向日明神の前を通過しようとしていたその時、善峰山(よしみねやま:京都市・西京区)、岩蔵山(いわくらやま:京都市・西京区)の上から、赤松軍・足軽矢戦軍団が、一枚盾をてんでに引っさげながら山麓に殺到、六波羅庁軍に対して一斉射撃開始!

赤松軍・足軽矢戦軍団メンバー一同 それぇ!

矢 ビュンビュンビュンビュン・・・。

六波羅庁軍サイドは、馬の頭を揃えて突撃し彼らを撃破せんとするも、斜面は急峻でとても登っていくことができない。広い所におびきだして討ち取ってしまおうとしても、赤松軍サイドもそのへんの事はよくよく心得ており、攻めかかってこない。

六波羅庁軍リーダーK ええねん、あんなん、ほっとけ、ほっとけ!

六波羅庁軍リーダーM そうやでぇ。つまらん野伏(のぶし)ら連中を相手に、骨折ってみても、しゃあないがな。

六波羅庁軍リーダーN あいつらにはかまわわんと、このまま山崎へ進もうや。

六波羅庁軍リーダー一同 賛成。

このように合議の後、六波羅庁軍は馬を進めた。

--------

西岡(にしおか:京都府・向日市)付近を南へ通過した所で、思いもよらず、赤松サイドの坊城左衛門(ぼうじょうさえもん)率いる50余騎が、向日明神の小松原中から突如出現した。

坊城左衛門軍団メンバー一同 ウオーー!

彼らは六波羅庁軍サイドの大軍中に、突入してくる。

六波羅庁軍リーダーK なんや、なんや、たったあれだけの小勢やないかい、真ん中にとりこめて、残らず討ち取ってしまえぃ!

さらに、田中(たなか)、小寺(こでら)、八木(やぎ)、神澤(かんざわ)らの赤松サイドの軍団が、ここかしこから、100騎、200騎と思い思いに現われた。彼らは、魚鱗(ぎょりん)、鶴翼(かくよく)と様々な陣形を取って、六波羅庁軍を包囲殲滅しようと襲いかかってくる。

これを見て、狐川に配置されていた赤松軍500余も、六波羅庁軍の退路を断ってしまおうと、畷づたいに進み、道を横切って展開してきた。

六波羅庁軍リーダーK あ、あかん、退(ひ)け、退(ひ)けぇ!

六波羅庁軍側は馬に鞭打ち、一斉に退却していった。

短時間の戦であったゆえに、六波羅庁軍側の損害は、それほどひどくはなかったけれども、堀や溝、深田にはまりこみ、馬も鎧も上から下まですっかり泥まみれになってしまった。白昼、京都の市街を通って退却していく彼らを見て、見物の連中はみな、大笑いである。

見物人X あれ見てみぃなぁ、みんな、泥だらけになってしもとるやないかい。

見物人Y 陶山(すやま)、河野(こうの)二人を向かわせといたら、これほどの「泥沼の戦」には、ならんかったやろうになぁ。

見物人一同 わはははは・・・。

かくして、京都在住の勢力より構成の六波羅庁軍は、赤松軍掃討戦に敗北、これに参加せずに京都に残留していた河野通治(こうのみちはる)と陶山二郎(すやまじろう)の威信は、ますます高くなっていったのであった。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 8-3 赤松軍、敗退し退却

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

--------

日野資名(ひのすけな)と日野資明(ひのすけあきら)は、牛車に乗り合わせて御所へ急行した。見れば、御所の四方の門は開けっぱなしになっており、警護の武士が一人もいない!

光厳天皇(こうごんてんのう)は、紫宸殿(ししんでん)にお出ましになり、緊迫した面もちで、

光厳天皇 誰かいぃひんか、誰か!

御所警備を担当する六衛府(ろくえふ)の者ら、諸官庁の官吏、弁官、学士たちも、いったいどこへ行ってしまったのであろうか、一人もいない。陛下のお側近くには、勾當内司(こうとうのないし:注1)とお側つきの童男・童女2人だけ。

--------
(訳者注1)天皇への伝言を司る女官が「内司」で、「勾當」はその筆頭である。
--------

資名と資明は、天皇の御前に参じて、

日野資名 陛下、えらいこってすわ! こっちサイドの軍、ほんま弱体でしてな、反乱軍が、京都市街の中まで迫ってきとります。

光厳天皇 えぇっ、なんやてぇ!

日野資名 こないな事になってしまうとは、もう全く予想だに・・・とにかく、ここにこのままじっとしとられたんでは、危のおす。賊軍がな、六波羅庁の守備軍を追い散らしてな、ここまで乱入して来よるかもしれまへん。

日野資明 陛下、急いで三種の神器をお持ちになられましてな、六波羅庁(ろくはらちょう)へご避難あそばされませ!

すぐに天皇は御輿に乗られ、二条河原(にじょうがわら:注2)を経由して、六波羅庁へ避難された。

--------
(訳者注2)鴨川と二条通りが交わるあたり。
--------

やがて、堀川具親(ほりかわともちか)、三条実忠(さんじょうさねただ)、鷲尾中納言(わしのおちゅうなごん)、参議・坊城(さんぎぼうじょう)以下、公卿・殿上人たち20余人が、天皇の乗られた輿に追いついてきて、お伴申し上げた。

「天皇陛下、六波羅庁へ御避難!」との知らせに、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)、花園法皇(はなぞのほうおう)、康人皇太子(やすひとこうたいし)、寿子内親王(すずこないしんのう)、尊胤法親王(そんいんほっしんのう)たちも皆、六波羅庁へ避難されてきた。

彼らに従ってやってきた公卿・殿上人の車が京都防衛軍と入り交り、車の先払いの声が六波羅一帯に、声高に騒々しく響きわたる。

北条仲時 おいおい、なんだなんだ、いったいどうなってんだぁ?!

北条時益 どうなったもこうなったもないよ、皇族方が一斉にここへ避難さね。もう・・・どこへ、入っていただこう?

北条仲時 うーん・・・急な事だし、適当な所がなぁ・・・とりあえず、北方の方の建物に入っていただくとするか。あそこだったら、まぁそれほど失礼にも当たらんだろうよ。

というわけで、六波羅・北方庁を急の皇居とし、上皇と法皇にはそこに入っていただいた。

まさに事態は、急展開に次ぐ急展開である。

--------

南北両長官・北条仲時and北条時益が率いる六波羅庁・首都防衛軍はすぐに、七条河原(しちじょうがわら:注3)に陣を揃え、赤松軍の接近を、今か今かと待ち構えた。

--------
(訳者注3)鴨川と七条通りが交わるあたり。
--------

前に立ちはだかるこの大軍を見ては、さすがの赤松軍も、すぐには攻めかかっては行けない。ここかしこと走り回っては放火し、トキの声を上げながらも、軍を前に進めようとはしない。

北条仲時 ふふん、どうやら敵の兵力、それほど多くはないようだな。

北条時益 よぉし、蹴散らしてしまえぃ!

仲時と時益は、隅田と高橋に3,000余騎を与え、八条口へさし向けた。さらに、河野通治(こうのみちはる)と陶山二郎(すやまじろう)に2,000余騎をそえて、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう:京都市・東山区)付近へ向かわせた。

陶山二郎 なぁ、河野殿、おれ、思うんじゃけんど、ただの寄せ集めの連中を混ぜて戦ってみてもなぁ・・・。かえっておれらの足手まといになってまって、戦の駆け引きも思うようにならんやろ?

河野通治 お言葉、ごもっともじゃね。

陶山二郎 六波羅庁から応援につけてもらった連中らはなぁ、八条河原に控えさせてトキの声を上げさせといてや、ほいでもって、おれたちの手勢の中から、腕のタツやつを選抜して精鋭軍を編成する。でもって、三十三間堂の東のあたりから敵陣深く突入してのぉ、四方八方十文字に駆け破り、左右に敵を引き付けた後、犬追物(いぬおうもの)でもやらかすみたいに、敵にバンバン矢をあびせちゃる! どうや、この作戦?

河野通治 ヒッジョー(非常)に、えぇ!

というわけで、他家からの応援部隊2,000余騎は塩小路(しおこうじ)の七条道場(しちじょうどうじょう)のあたりへ向かわせ、河野の手の者300余騎と陶山の手の者150余騎は分かれて、三十三間堂の東へ廻りこんだ。

しめしあわせた時刻の到来とともに、八条河原に配置した軍からトキの声が上がった。これと一戦交えようと、赤松軍は馬の頭を西に向け直して、攻撃態勢を取った。

そこをすかさず、

陶山二郎 よし、今じゃ!

河野通治 行くぞー!

陶山・河野軍団一同 オーーーツ!

思いもよらぬ背後の方から、陶山・河野軍団400余騎が、トキの声をドットあげて、赤松軍中に突入してきた。

陶山・河野軍団は、東西南北に赤松陣を駆け破り、赤松サイドを一個所に集中させないように、追い立て追い立て、攻め戦う。一所に合しては二方向へ別れ、二方向へ別れては再び一所に合流し、7度、8度と赤松陣を蹂躙(じゅうりん)する。

長途の進軍に疲れている赤松軍の徒歩の武者たちは、陶山・河野軍団側の駿馬の騎馬武者たちに悩まされ、討たれる者はその数知れず、負傷者を捨て、道を横切り、ちりじりばらばらになって敗走していく。

陶山と河野は、逃げゆく敵には目もくれずに、

河野通治 ここはまぁ、これでよしと。で、西七条方面の戦況、いったいどうなっとる?

陶山二郎 あっち方面は、隅田と高橋が行っとるんじゃろ? こころもとないわなぁ。

彼らは再び、七条河原を斜めに西へ馬を走らせ、七条大宮(しちじょうおおみや:下京区)までやって来た。

朱雀大路(すざくおうじ)の方を見れば、案の定、隅田と高橋率いる3.000余騎が、赤松側の高倉左衛門佐(たたくらさえもんのすけ)、小寺(こでら)、衣笠(きぬがさ)勢2000余騎に追い立てられ、馬の足も立ちかねるような状態に陥ってしまっているではないか。

河野通治 おい、あのままじゃ、やつら、やられてまうで! 加勢して打ってかかろうや!

陶山二郎 いやいや、しばらく待とうや。(ニヤリ)

河野通治 えー? いったいなんでぇ?

陶山二郎 あのなぁ、この場の戦闘、勝敗が決する前に俺たちが応援してやってよ、それで仮に勝てたとしてみようや。そうなったらな、あの隅田と高橋の事じゃけん、また例によって言葉巧みにな、「この場の勝利の功績、我らにあり!」なーんちゃってね(ニヤニヤ)。

河野通治 フハハハ、ありうる、ありうる。

陶山二郎 じゃけん、このまましばらく、うっちゃらかしといて、様子見てみん? ここの局面で敵側が勝ってしもぉてな、それで調子づいてしもぉたとしても、別段、大勢に影響無いじゃろうがぁ。

ということで、二人は高みの見物を決め込んでしまった。

そうこうするうち、隅田と高橋率いる大軍は小寺と衣笠の小勢に追い立てられ、退却するに退却もかなわず、朱雀大路を北方に内野(うちの:京都市・上京区)目指して逃亡するもあり、七条通りを東方へ逃亡するもあり、馬から離れてしまった者は心ならずも戦場に踏みとどまって戦死するもあり。

陶山二郎 いかんねぇー、ボロボロじゃぁ・・・。あんまり手ぇこまねいてじっと見てるばかりじゃぁ、六波羅庁軍全体が、形勢不利になってしまいよるかもねぇ。しょうがねぇ、そろそろ出て行くかぁ?

河野通治 異議無ーし!

二人は、河野・陶山双方の軍勢を一つに合わせて赤松軍内に突入、それから2時間ばかり戦闘を継続した。

四方からのこの突撃に、さしもの赤松側の堅陣も崩れ去った。百戦の勇力を臨機応変に用いる河野と陶山の力の前に、赤松軍はこの方面の戦闘にも敗北、寺戸(てらど:京都府向日市)付近を西方面へ退却していった。

--------

赤松貞範(あかまつさだのり)・則祐(のりすけ)兄弟は、桂川(かつらがわ)を渡河の後、逃げる相手を追いかけながら、後続の味方の無い事にも気付かず、主従6騎だけで竹田(たけだ)より北上、法性寺(ほっしょうじ)大路を突っ走り、六条川原へ出て六波羅庁突入の機をうかがっていた。

しかし、東寺(とうじ:京都市・南区)方面へ押し出して行った味方も早々と打ち負かされて退却したものと見え、彼らの周囲、東西南北すべて六波羅庁軍サイドの者ばかりである。

赤松貞範 しょうがない、こいつらの中にしばらく紛れ込みながらな、味方の到着を待つとしようや。

赤松則祐 OK!

六人は皆、笠標(かさじるし)をかなぐり棄てて、一団となった。

そこへ隅田と高橋がやってきた。

隅田 おぉい、皆の者! 赤松側の敗残者どもが味方に紛れてな、我々の中に潜んでいるにちがいない!

高橋 あいつら、桂川を渡ってきとるから、馬も鎧もきっと濡れてるやろうて。それを目印にして、組んで討って取れ!

赤松貞範 うーん、敵陣中に紛れ込むのも、まずいなぁ。

赤松則祐 こうなったら、トコトン戦うのみやぁ!

赤松貞範 よぉし、行くぞ!

赤松軍メンバー一同 おう!

赤松貞範・則祐兄弟と郎等らは総勢たった6騎で、馬のくつばみを並べ、ワッとおめいて六波羅庁軍2000余騎の中へ駆け入った。こちらに名乗りを上げ、あちらに敵に紛れ、獅子奮迅(ししふんじん)の闘いを展開。相手にしているのがたった6騎とは、とても思いもよらない六波羅庁軍側は東西南北に入り乱れ、同士討ちしながら1時間が経過。

しかしながら、大勢の敵を相手にしての戦いゆえ、激しい勢いもそうそう持続できるものではない、郎等4人は諸所で討たれてしまい、貞範と則祐もいつしか互いに離ればなれになってしまった。

則祐はたった一騎で、戦場からの脱出を試みた。まず七条通りを西方へ、次に大宮通りを南方へ・・・落ち行く彼の後を、印具武慶(いぐたけよし)の郎等8騎が追いかけてきた。

印具方の者 敵ながら立派。いったいどこの誰だ、名を名乗られよ!

則祐は馬を静かに御し、歩みを進めながら返答する。

赤松則祐 おれは無名の者やからな、名乗ってみても、あんたらもご存じないやろうて。どうしてもおれの名前知りたいいうんやったら、この首取って人に見せてみ、そないしたら、どこの誰か分かるわ。

則祐は、印具方の者が接近して来ると応戦し、退けば馬を歩ませ、というようにしながら、そこから約20余町の間、8人につきまとわれながらも、心静かに落ちていった。

西八条(にしはちじょう)の寺の前を南へ過ぎたあたりで、目の前に一団の武士300余騎の姿が見えた。見れば、赤松貞範がその中にいる。羅城門(らじょうもん)の前を流れる小川の中で馬の足を冷やしながら、敗残の武士らを集める為に、赤松家の旗を立てて待機している。

赤松則祐 (内心)おぉ、よぉやっと、合流できたわ!

則祐はもっけの幸いと、左右の鐙(あぶみ)を同時に打ち、馬を走らせてその一団に合流してしまった。

印具方の者たち エェイ! 絶好の敵を見つけたと思ってたのにぃ。ついに取り逃がしちまったぜ!

彼らは、馬をユーターンさせて引き返していった。

そのうち、七条川原や西朱雀で六波羅庁軍に懸け散らされてしまった者らが方々から集まってきて、兵力は再び1,000余騎になった。

赤松貞範は彼らを率い、市街地を東西に走る小路を通って再び京都に侵入、七条のあたりで再びトキの声を上げた。六波羅庁軍7,000余騎は、六条院(ろくじょういん)を背後にしながら、追いつ返しつ、赤松軍と再び4時間ほど戦った。双方互角の形勢、勝負がいつつくとも分からない。

その時、河野と陶山が率いる500余騎が、大宮通りを南下してきて、赤松軍の背後から襲いかかった。

後方を破られた赤松軍は多数の死傷者を出してしまい、残存のわずかの勢力はやむなく山崎(やまざき:京都府・大山崎町)目ざして、退却を開始。

河野と陶山は勝ちに乗じて、作道(つくりみち)のあたりまで追跡をかけたが、ややもすると反撃に転じようとする赤松側の勢いを見て、

河野通治 あいつら、意外にしぶといわ。あんまし深追いせん方が、えぇんじゃなかろぉかのぉ?

陶山二郎 ごもっとも。今日の戦闘は、これまでじゃ。

彼らは、城南離宮(じょうなんりきゅう)の前あたりで追跡をストップし、引き返した。

--------

捕虜20余人と取った首73個を刀の切っ先に貫き、血まみれになった陶山二郎と河野通治が六波羅庁へ帰ってきた。

光厳天皇は御簾を巻き上げさせて彼らの勇姿をご覧になり、六波羅庁両長官は敷き皮に座しながら、首実検を行った。

光厳天皇 河野・陶山両人の活躍、例によって例のごとしとはいいながら、特に今夜の合戦は、殊勲賞もんやったなぁ! 彼らが自ら手を下し、命を投げ出して戦(たたこ)ぉてくれへんかったら、とても、勝てへんかったんとちゃうかぁ?

北条仲時 お言葉の通りで、ございます。

光厳天皇 いやぁ、とにかく河野と陶山、すごいなぁ! よぉやってくれた!

このように再三に渡って、天皇からのお褒めに預かった二人であった。

その夜、臨時の国司任命の辞令が発行された。河野通治は対馬国(つしまこく:対馬諸島)国司に任ぜられ、あわせて御剣を与えられ、陶山二郎は、備中国(びちゅうこく:岡山県西部)国司に任ぜられ、あわせて皇室所有馬を与えられた。

これを聞いた武士たちは、

武士A あ、いいなぁ、いいなぁ。

武士B これぞ武士の面目躍如(めんもくやくじょ)っちゅうもんやわなぁ!

武士C うらやましいなぁ。

このようにして、河野と陶山は世間からの羨望と嫉妬を一身に集める身となり、二人の名は天下に知れわたったのであった。

--------

翌日、隅田と高橋は、京都中を馳せ回り、あちらこちらの掘や溝に倒れている負傷者や死者の首を取り集め、それを六条河原に懸け並べた。その総数、873個。これを見れば、六波羅庁軍側の戦果は非常に大きいように思えるのだが、赤松軍側にはそれほど多くの戦死者は出てはいない。

そこには、大きなインチキが隠されていたのである。ろくに戦闘もしていない六波羅庁軍のメンバーらが、「今回の戦で、自分は大手柄をたてたんだぞ」と吹聴(ふいちょう)せんが為に、京都中や近郊の庶民たちを殺害し、その首に様々の名前を添え書きして、提出していたのであった。

その中には、「赤松円心」という札を付けられた首が5つもあった。円心(えんしん)の顔を知っている者が一人もいないので、5つともみんな掛けっぱなしになっている。

世間の声K こらぁ! 円心から首借りたヤツぅ! そのうち、利子たあんと付けて返さんと、あかんようになるぞぉ!

世間の声一同 ワハハハ・・・。

世間の声L それにしてもやな、「赤松円心の首」がこないによおけ(多数)あるやなんて、いったいどないなってしもてんねん?!

世間の声M どっかで赤松円心のクローン、うじゃうじゃ発生しとんのんとちゃいまっかぁ?

世間の声一同 ワハハハ・・・。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 8-2 赤松軍、京都へ

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

摩耶山(まやさん)攻めに送った軍勢が、赤松軍にこれほどてひどくやられていようとは、六波羅庁は夢にも知らない。

六波羅庁リーダーA あれほどの大軍、送っただもんなぁ。

六波羅庁リーダーB そうさね、赤松軍やっつけるにゃあ、1日もかからないんじゃぁないのぉ。連中、明日にでも帰ってくるだろうよ。

このように悠然と構えながらも、戦報の到着を今か今かと待っているのだが、

六波羅庁リーダーC ねぇ、ねぇ! 摩耶山攻撃軍が手痛い敗北を喫して、京都へ逃げ帰ってきてるってな情報がね、街中(まちじゅう)飛び交ってますぜぃ。

六波羅庁リーダーD まさか・・・そんなぁ。

六波羅庁リーダーA いやいや、真相はどうなんだ? えぇ、真相はどうなってんだ? 確かな情報が欲しい!

六波羅庁リーダーB うーん・・・。

何となく不審な事が多い中、3月12日の16時頃、淀(よど:京都市・伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、山崎(やまざき:京都府・大山崎町)、西岡(にしおか:京都府・向日市)のあたり30か所から、一斉に火の手が上がった。

京都の住人K こらいったい、何事や!

住人L 西国(さいこく)街道を進んできよった赤松軍がな、三方から京都に押し寄せとるらしいで!

住人M うわぁ、えらいこっちゃがな、どないしょう!

京都中、上を下への大騒ぎとなった。

六波羅庁両長官はびっくり仰天、急いで地蔵堂の鐘を鳴らして、京都中の武士たちに緊急召集をかけた。しかし、主だったメンバーはみな、摩耶山合戦の後、赤松軍から追い立てられ、右往左往して逃げ隠れしているゆえに、集まってきたのは、引付奉行たちとその頭人ばかり。

肥え太った体を馬に担ぎ上げられて、4、500騎ほどが、六波羅庁に馳せ参じてきたものの、全員ただただ、うろたえ迷うばかり、士気の片鱗すらもそこには見えず、なんともはや、情けない有様である。

北条仲時(六波羅庁・北方長官) まったくもう、これじゃ、どうしようもないなぁ・・・ハァー(溜息)。

北条仲時 このままじっと、京都で敵を待つというのは、戦略上どうもよろしくない。京都の郊外に軍を繰り出して、赤松軍を防ぐとしよう。

そこで、六波羅庁・軍事執行官の隅田(すだ)と高橋(たかはし)の下に、在京の武士2万余騎を動員して、六波羅庁・首都防衛軍を編成、今在家(いまざいけ:京都市・伏見区)、作道(つくりみち:伏見区)、西朱雀(にしすざく:京都市・下京区)、西八条(にしはちじょう:京都市・南区)へ向かわせた。

時はいま、冬から春への変わり目、吹きはじめた南風に雪が融け、川は増水して水が岸にあふれ、桂川(かつらがわ)は一大要害と化している。その川を隔てて赤松軍と一戦交える、これが、六波羅庁・首都防衛軍サイドの作戦であった。

--------

赤松円心(あかまつえんしん)は、自軍3000余騎を二手に分け、久我縄手(くがなわて:京都市・伏見区から山崎へ伸びる道)と西七条(にししちじょう:京都市・下京区)から、京都中心部めがけて押し寄せていった。

やがて、赤松・大手方面軍が、桂川西岸に到着。

対岸に展開する六波羅庁軍を見渡せば、鳥羽(とば:京都市・伏見区)一帯を吹きわたる風に、軍を構成する各家の旗がはためいている。城南離宮(せいなんりきゅう:注1)の西門から、作道、四塚(よつつか:京都市・南区)、羅城門(らじょうもん:南区:注2)の東西、西七条のあたりまで戦線を展開し、雲霞(うんか)のごとく充満しつつも、「桂川を前にして敵を防げ」との命令を守り、誰も川をあえて越えようとはしない。

--------
(訳者注1)「鳥羽離宮」とも呼ぶ。白河天皇により造営された。

(訳者注2)芥川龍之介の小説にも登場する門。平安京の中心を南北に貫くメインストリートが朱雀大路(すざくおうじ)で、その南端に位置した門である。
--------

赤松円心 思ぉてたより、敵の兵力多いやん。ここは、慎重に行かんとなぁ。

赤松軍サイドもむやみに攻撃をしかけようとはせず、両陣互いに桂川を隔て、矢戦するばかりで時は過ぎていった。

赤松則祐(あかまつのりすけ)は、馬から降り、矢束ねを解いてエビラを押し広げ、一枚板製の盾の陰からさしつめひっつめ散々に、敵陣に矢を浴びせ続けていたのだが、

赤松則祐 んもぉ! いったいナニやってんねんなぁ! 矢戦ばっかしやっとったんでは、勝負がつかんやろぉがぁ、勝負がぁ!

独りごちながら彼は、脱ぎ置いた鎧を肩にかけた。兜の緒を締め、馬の腹帯を堅めた後、ただ一騎で川岸を駆け下り、手綱をたぐりよせて、川に馬を入れようとする。遙か彼方よりこれを見た円心は、あわてて馬を馳せ、そこに駆けつけてきた。

則祐の行く手を塞ぎ、息子を制する円心、

赤松円心 こらこら、ちょい待ったらんかい! お前いったいナニ考えとぉねん! 何の準備もせんとからに川渡るやなんて、正気かぁ?!

赤松則祐 ・・・。

赤松円心 そらな、源平合戦の頃にはな、佐々木盛綱(ささきもりつな)は、藤戸(ふじと)を渡りよった、足利忠綱(あしかがただつな)かて、宇治川を渡りよったわいな。そやけどな、それはな、前もってちゃぁんと準備しといてから、渡りよったんやぞぉ。水の流れ筋を調べたり、道案内してくれる者を見つけたりな、敵の兵力配置の薄い所を見とどけといて、それから、先駆けしよったんやぞ!

赤松円心 おまえなぁ、目の前流れとぉ川、よぉ見てみいや。上流の雪融けで、増水してしもとぉやないかい!

赤松円心 淵と瀬の見分けもできんような大河をやな、前もってよぉ調べもせんとから、渡るやなんて・・・そんなん、ドダイ無理やがな!

赤松円心 仮(かり)にやで、馬の力が強ぉてな、首尾よく川を渡れおおせたとしようかい。そやけど見てみぃ、向こう岸は、あないな大軍やで。たった一騎で駆け入ってみいな、もう討ち死、間違い無しやんか!

円心は再三、則祐を制止、則祐は馬を立て直し、抜いた太刀を鞘に収めていわく、

赤松則祐 こっちとあっちと互角の兵力やったらな、わしがこないにバタバタせいでも、運を天にまかせての勝負もかけれますやろて。そやけど、見て下さいよ、この兵力差、こっちはわずかに3,000余、敵は軽く百倍や。

赤松円心 ・・・。

赤松則祐 こういう場合には、急戦するしかありませんて! 速やかに戦いを仕掛へんかったら、敵にこっちの兵力の薄いのん、見透かされてしまいますやんか。そないなったら、いざ戦う段になっても、有利な戦はできませんやろ?

赤松円心 ・・・。

赤松則祐 太公望の兵法にもありますやろ、

 兵勝之術(へいしょうのじゅつは) 密察敵人之機(ひそかにてきじんのきをさっし)
 而(しかして)
 速乗其利(すみやかにそのりにのりて) 疾撃其不意(とくそのふいをうて)

赤松則祐 是以我困兵(これをもってわがこんへい) 敗敵強陣(てきのごうじんをやぶる)!

言い捨てるやいなや、則祐は、自らの乗る駿馬に一鞭入れた。漲(みなぎ)る川面の波頭の中に逆波(さかなみ)を立てながら、馬は躍り入る。

これを見た飽間光泰(あくまみつやす)、伊東大輔(いとうのたいふ)、川原林二郎(かわはらばやしのじろう)、木寺相模(こでらのさがみ)、宇野國頼(うののくにより)ら5騎も、則祐に続いて、さっと川に入った。

宇野と伊東の乗馬はまことに強力、ま一文字にぐいぐい、川をつっきっていく。

木寺相模は、逆巻く波に巻き込まれて、馬から離れてしまい、彼の兜の頂だけが、水面からわずかに浮かんでいる。ところがなんと、彼が渡河の一番乗りを果たした。波の上を泳いで行ったのか、あるいは、水底を潜って行ったのか、対岸の砂州の上に彼の姿がぬっと現れた。鎧から大量の水を滴らせながら、突っ立っている。

六波羅庁軍メンバー一同 (内心)ヤヤヤ、この増水した川を渡ってしまいよったがな・・・敵側のあの5人、タダモノではないわ、オドドドド・・・。

六波羅庁軍2万余騎は、彼らを怖れて東西に分かれ、あえて襲いかかって行こうとする者もない。盾の列は秩序無く乱れ、全軍に動揺が走っている。

赤松範資(あかまつのりすけ) 先駆けしていきよったもんら、見殺しにしたらあかんぞぉ! みんなぁ、続けぇ!

赤松貞範(あかまつさだのり) よぉし!

赤松兄弟を先頭に、佐用(さよ)、上月(こうづき)の武士3,000余騎、一斉にザザザっと川に突入、筏を組むように馬を密集させながら、流れを渡りゆく。大量の人馬にせき止められて、水は岸に溢れ、川の流れは十方に分かれ、淵瀬を渡るもあたかも陸地を行くような容易さ。

桂川を押し渡った赤松軍3,000余は、対岸に駆け上がり、決死の覚悟、ただ一戦の中に勝負を決せんと勇み立ち、六波羅庁軍中に、ま一文字に突入。

赤松軍一同 ウオーーーー!

六波羅庁軍一同 アワワワ・・・。こらとてもかなん!

戦わずして盾を捨て、旗を引き、作道沿いに東寺方面に退却していく者あり、竹田川原(たけだがわら)沿いに法性寺大路(ほっしょうじおうじ)を目指して退く者あり。道中2、30町の間、遺棄(いき)された鎧は地上に満ちて、馬蹄の塵に埋没。

そうこうするうち、赤松・西七条方面軍の、高倉左衛門佐(たかくらさえもんのすけ)、小寺(こでら)、衣笠(きぬがさ)の軍勢もはや、京都へ攻め入ったようである。大宮(おおみや)、猪熊(いのくま)、堀川(ほりかわ)、油小路(あぶらのこうじ)の通り周辺50余か所から火の手が上がり始めた。

八条大路と九条大路の間のエリア一帯も、戦場と化したようである。汗馬(かんば)は東西に馳せ違い、トキの声は天地に響く。火・水・風の三大災難一時に起り、世界悉く、劫火(ごうか)の中に焼失せんかと思われるほど。

夜中の合戦ゆえ、どちらの方面でどのような戦いが展開されているのか、全く不分明の状態。闇夜の中に、トキの声が、ここかしこに響きわたる。

六波羅庁リーダーE 敵側の兵力、配置、これじゃ、さっぱり分からんぞ!

六波羅庁リーダーF いったいどちらの方面へ、どれくらいの兵力を繰り出したらいいのか? まいったなぁ!

六波羅庁・首都防衛軍は、鴨川(かもがわ)の六条川原(ろくじょうがわら)に集まり、呆然自失(ぼうぜんじしつ)のまま、ただただ立ちつくすばかりである。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 8-1 赤松軍、六波羅庁軍を撃破

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

元弘3年(1333)の、船上山(せんじょうざん)における名和(なわ)軍の大勝利の後、風雲、急を告げだした。出雲(いずも:島根県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)方面からの早馬がひっきりなしに京都へやってきて、六波羅庁(ろくはらちょう)へ急を告げる。

使者 先帝が船上山にたてこもり、それを攻めた隠岐島(おきとう)長官・佐々木清高(ささききよたか)殿が、合戦に敗北した後は、こっちら方面の武士どもはみいんな、先帝の下に続々、馳せ参じとりますわな!

これはエライ事になったと、六波羅庁の人々は、報告を聞くたびに青くなっている。

六波羅庁リーダーA 船上山も気にはなってるんだけどさぁ、とにもかくにも、京都からあんなに近い所に、敵サイドが拠点を持ってしまってるってのが、どうもねぇ・・・。

六波羅庁リーダーB 摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)の摩耶山(まやさん:神戸市)、あれ、なんとか始末してしまわなきゃぁ、まずいよなぁ。

六波羅庁リーダーC 遠方の出雲や伯耆のことは、おいといて、まずは、あそこにこもってる赤松(あかまつ)勢を、退治しちまいましょうよ。

六波羅庁リーダーA よし、佐々木時信(ささきときのぶ)殿と小田時知(おだときとも)殿に、京都市中48か所警護所の連中を添えて、摩耶山攻めを決行だ。

六波羅庁リーダーB 在京の武士どもも応援に加わらせようよ・・・それに、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市)の衆徒らも。

かくして、園城寺の衆徒300余人も加わっての六波羅庁軍5,000余騎が、摩耶山へ向かう事となった。

閏(うるう)2月5日に京都を出立、同月11日午前6時、南山麓の求塚(もとめづか:神戸市・灘区)、八幡林(やわたばやし:神戸市・灘区)のあたりから、摩耶山に攻め上り始めた。

これを迎え撃つ赤松軍の総帥(そうすい)・赤松円心(あかまつえんしん)は、幕府軍を難所におびき寄せるために、足軽の射手100ないし200人ほどを山麓へ下ろし、遠矢を少しばかり射させた後、山上に後退させた。

六波羅庁軍は、逃げいく相手を追いかけながら、急峻な摩耶山の南側斜面を、人馬に息をも継がせずに激しく攻め上っていく。

しかし、この登り道の途中には「七曲がり」という険しく細い難所があり、六波羅庁軍の進撃の足はそこで止まってしまった。そこをすかさず、赤松則祐(あかまつのりすけ)と飽間光泰(あくまみつやす)は、南方の尾根先まで下り、

赤松則祐 それぇっ、一斉射撃じゃー! バンバンやれぇ!

赤松則祐部隊は、六波羅庁軍の頭上に、雨あられと矢を浴びせかける。

この猛攻にたじたじとなった六波羅庁軍メンバーたちは、隣の者を盾がわりにせんものと、互いに相手の陰に隠れようとする。

大混乱に陥った六波羅庁軍の形勢を見てとった赤松円心(あかまつえんしん)の子息・赤松範資(あかまつのりすけ)は、

赤松範資 よぉし、攻めるんなら今や! 突撃ィー! あいつらを山から、追い落としてしもたれぇー!

赤松軍一同 ウオーー!

円心の二人の子息、赤松範資、赤松貞範(あかまつさだのり)に加え、作用(さよ)、上月(こうづき)、小寺(こでら)、頓宮(はやみ)の一党500余人が、太刀の切っ先を並べ、大山の崩れるがごとく、山腹から下方に向かって突撃を開始。

おそれをなした六波羅庁軍は、後陣の方から退却し始めた。

佐々木時信 こら! 退くな! 戦え! 踏みとどまれ!

将の言葉も全く耳に入らず、みんな我先に逃げはじめる。こちらでは深田に馬の膝まで没してしまい、あちらでは棘(いばら)が茂る細道に迷いこんでしまい、退却しようにも退却できず、敵を防ごうにも防げず、といった状態。

かくして、摩耶山麓から武庫川(むこがわ:兵庫県・西宮市と尼崎市の境界を流れる)西岸まで3里ほどの間には、六波羅庁軍側の死した人馬があい重なり、道を行くにもそれを避けてはとても通れないような惨状となってしまった。

「5,000余騎で出ていった六波羅庁軍、わずか1,000足らずになって退却!」との報に、京都中の人々は狼狽し、六波羅庁の面々も動揺している。

六波羅庁リーダーA まぁ、でもいいさ。赤松軍が反旗を翻して以降、それに馳せ参じた近畿地方の勢力、それほど多くはないんだもんな。

六波羅庁リーダーB 1回や2回、敵に勝利させたとて、それでどうなるってもんでもなし。

六波羅庁リーダーC 赤松軍の兵力なんて、知れたもんじゃぁないですかぁ。

六波羅庁リーダーD たとえ、やつらが京都まで押し寄せてきよったとしても、まぁ、どうっちゅうことも、ないでしょぉ。

六波羅庁リーダーE 京都まで来れるもんなら、来てみろってんだ!

六波羅庁リーダー一同 ワハハハ・・・。

このように、いったんは退却を余儀なくされながらも、六波羅庁側の士気は衰えを見せない。

--------

しかし、またまた、六波羅庁にとっては悪い情報が飛び込んできた。

使者 備前国(びぜんんこく:岡山県東部)の地頭と御家人の大半が、敵側に回ってしまいよりましたけん!

六波羅庁リーダーA ナァニィ!

六波羅庁リーダーB 備前までもぉ?!

六波羅庁リーダーA いかんなぁ。

六波羅庁リーダーC 備前といやぁ、赤松の根拠地、播磨国のすぐ西ですぜぃ。摩耶山の赤松軍に、加勢に回る連中が現れるかもねぇ。

六波羅庁リーダーD あっちの兵力が増大せんうちに、再度、攻撃をしかけた方がえぇんでは?

ということで、同月28日、再び、1万余騎の六波羅庁軍が摩耶山へ押し寄せた。

「六波羅庁軍、再度来襲!」との情報に、

赤松円心 勝ち戦をするにはな、まずは相手の虚をついて謀略をパシっと決めて、敵の気力をそぐ。その後、自軍の布陣を機敏に変化させ、常に先手、先手と攻めまくる、これが一番なんやて。

円心は、3,000余騎を率いて摩耶山を下り、久々智(くくち:兵庫県・尼崎市)、酒部(さかべ:尼崎市)に陣どって、六波羅庁軍を待ち構えた。

--------

3月10日、「六波羅庁軍、瀬川(せがわ:大阪府・箕面市)に到着」との情報に、

赤松円心 ふふぅん・・・このチョウシやったら、合戦は明日になるわなぁ。あいにくのにわか雨やしな、ちょっとばかし雨宿り、濡れた鎧でも乾かすとしょうかいのぉ。

円心の心中に、少しばかりの油断が生じてしまった。

その付近にわずかにある家々に入って、雨の止むのを待っている所へ、突如、大軍が襲いかかってきた。尼崎(あまがさき)湊から上陸してきた阿波国(あわこく:徳島県)の小笠原(おがさわら)率いる3000余騎の軍団である。

この時、円心の周囲にはわずか50余騎のみ。彼らは、小笠原の大軍団のまっただ中に突入し、面も振り向かずに戦い続けた。しかし、圧倒的な相手の兵力の前には如何(いかん)ともしがたく、47騎までもが討たれてしまい、残るは、赤松父子6人のみとなってしまった。

彼らは、兜につけた赤松家の笠標(かさじるし)をかなぐり棄てて小笠原軍中に紛れ込み、あちらこちらと敵の目をかわしながら駆け回る。

小笠原軍の人々が赤松家メンバーをしかと捕捉できないでいるうちに、まさに天の助け、小屋野(こやの:兵庫県・伊丹市)宿の西方に布陣していた赤松軍3,000余騎の中に、6人全員無事に逃げ込むことができた。かくして赤松一族は、からくも虎口を逃れえたのであった。

--------

先日の戦で相手の力を思い知り、「赤松軍、小勢といえどもあなどりがたし」ということで、六波羅庁軍は瀬川宿に停滞して、全く進軍してこない。赤松軍側も、再び敗軍の士卒に召集をかけ、次々とやってくる後続の者らの到着を待ちながら、布陣を続ける。双方、互いに陣を隔てて戦をしかけようとせず、決戦の火蓋はなかなか切られない。

赤松軍リ-ダーG 殿、わしらいったいいつまで、ここにじぃっとしとぉんやぁ?

赤松軍リ-ダーH このままここで、ナァ(何)もせんとおったんでは、みんなの士気、ゆるんでしまうでぇ。

赤松軍リ-ダーI そうやでぇ。ダラケきってしもぉとぉとこ、敵に突かれたら、ひとたまりもないやん。

赤松円心 うん・・・それもそうやなぁ。よぉし、ここらでいっちょ攻めに出て、相手の出方を見てみよか。

3月11日、赤松軍3000余騎は、進軍開始。瀬川宿付近にまで迫り、六波羅庁軍の様子をうかがってみた。宿場の東西には六波羅庁軍を構成する各家の旗2、300本ほどが立ち並び、梢を渡る風に翻っている。

赤松貞範 あのかんじやったら、敵側は2、3万騎はおるやろか。兵力数で見たら、あっちの100に対してこっちは1か2くらいの勘定ということになる。そやけどなぁ、戦わずして勝利は得られへん。よぉし、討死に覚悟で出撃やぁ!

赤松貞範、佐用範家(さよのりいえ)、宇野国頼(うのくにより)、中山光能(なかやまみつよし)、飽間光泰(あくまみつやす)、赤松家郎等(ろうどう)らは、たった7騎で、竹薮の陰から南方の山へ打って出た。

これを見て、六波羅庁軍側の盾の列の端が、少し揺らいだ。

佐用範家 おっ、きよるぞ!

宇野国頼 いや・・・攻撃をしかけてくるような風にも見えん・・・逆に、なにか、ビビットルみたいやで。

赤松貞範 よし、こっから矢を放て!

7人は馬から飛び降り、一叢(ひとむら)茂った竹林を盾がわりにして、差しつめ引きつめ散々に矢を射続けた。

瀬川宿の南北30余町の間に、沓(くつ)の子を打ったごとく、びっしりと密集展開している六波羅庁軍、矢が外れるはずがない。たちまち、最前列の25騎ほどがまっさかさまに落馬して即死。これを見て、最前列に位地する者たちは、他人を盾がわりにして飛び来る矢から馬を守ろうと大慌て。六波羅庁軍側は大混乱に陥ってしまった。

これを見た赤松軍側の平野(ひらの)、佐用(さよ)、上月(こうづき)、田中(たなか)、小寺(こでら)、八木(やぎ)、衣笠(きぬがさ)各家の若党たちは、

赤松サイドの若党たち 敵は浮き足だっとぉ! ここが攻め所や! 行くぞー!

エビラを叩き、勝ちドキをあげながら、700余騎は馬の轡(くつわ)を並べ、六波羅庁軍めがけて突撃を敢行。

赤松サイドの若党たち ウオオオーーー!

六波羅庁軍前衛一同 アワワワ・・・。

大軍団の退却時の例に違わず、六波羅庁軍側は前衛軍が退却を開始し、後づめ軍はその逆に前へ進もうとして、退却口がスムースに開けない。

六波羅庁軍リーダーK こらぁ、なにをグチャグチャしとる!

六波羅庁軍リーダーM おまえら、もっとマトモに退けぇ!

もはや、リーダーの命令も士卒の耳には少しも入っていかない。子は親を捨て、家来は主を忘れて我先にと逃走。六波羅庁軍はその大半を失って、京都へ帰ってきた。

--------

円心は、六波羅庁軍側の負傷者と捕虜の首300余を、宿川原(しゅくがわら:大阪府・茨木市)にさらした。

赤松円心 さぁ、摩耶山へ引き返すとしよか。

すると、則祐が膝を進めていわく、

赤松則祐 勝利を得るには、勝ちに乗じて、逃げる敵を追いかけるのがベスト。

赤松円心 うん・・・。

赤松則祐 今回の戦にやってきよった六波羅庁軍側のメンバーの名字を見てみたらな、京都中の武士のほとんどが参加しとぉ。連中、遠路はるばるやってきた末にこの敗北、きっと、落ち込んでしもとぉやろぉて。ここ4、5日ほどは、人も馬も、ものの用に立たへんのんちゃいます?

赤松円心 ・・・。

赤松則祐 あいつらに臆病神がとりついとぉ今のうちに、たて続けに攻めていくのが、えぇんでは? この調子で行ったら六波羅庁かて、ただの一戦で攻め落とせる!

赤松円心 うーん!

赤松則祐 大公望(たいこうぼう:注1)の兵法書、漢の張良(ちょうりょう:注2)の秘密の戦略集、そういったもんに照らし合わせてみても、「立ち直りの余裕を敵に与えず、追撃、また追撃」というこの作戦が、ベスト!

--------
(訳者注1)中国の周王朝の宰相。

(訳者注2)中国の漢王朝建国の功臣。すぐれた戦略を用いて高祖を助けた。
--------

赤松軍リーダー一同 その作戦に賛成!

赤松円心 よぉし!

かくして、赤松軍はその夜すぐに、宿川原を出立。

道中、家々に火を放ってその光を松明がわりにして、敗走する六波羅庁軍を追撃しながら、京都へ向かって進んでいく。(注3)

--------
(訳者注3)以上のように、太平記においては、赤松軍の進軍ルートを、[小屋野(昆陽野)(伊丹市)]、[瀬川(箕面市)]、[宿川原(茨木市)]を経由して京都へ、としている。これはいわゆる、[西国街道]、現在の国道171号線ぞいのルートである。
--------

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年7月15日 (土)

新作音楽作品の発表 名前はまだ無い・第1番

[クレオフーガ](音楽投稿サイト)に、自らが作曲した曲(ピアノ独奏曲)をアップロードしました。曲の題名は、

 This is not titled yet, No.1, Op.44
   (名前はまだ無い・第1番)

です。

この曲をお聴きになりたい方は、下記で聴いていただけます。

-----------

下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲たち(クレオフーガ・サイト中にあり)

2017年7月10日 (月)

醒井 バイカモ ハリヨ 居醒の清水 滋賀県 米原市 2017年7月7日

2017年7月7日に、醒井(さめがい:滋賀県・米原市)に行きました。

2016年6月に、『きれいな水が湧きでるところ, Op.33』という音楽作品を作ったのですが、その音楽にマッチするような動画を制作したいと思い、それに使用する動画を撮影するために、というのが第1の目的でした。

その他にも、バイカモ( Ranunculus nipponicus var. submersus )の花や、ハリヨ(魚)( Gasterosteus cf. microcephalus )を見るために、というのも目的でした。

JR山科駅からJRを利用して、JR米原駅へ、更に、JR醒ヶ井駅へ、というルートでの、鉄道を乗り継いでの旅でした。

JR醒ヶ井駅から徒歩で行ける場所に、バイカモがあり、開花していました。下記 P1, P2 を、[醒井 水の宿駅 みゆき]という施設の近くの場所で撮影しました。

P1
P01

P2
P02

P3 [醒井宿資料館]という施設がありました。
P03

この建物の創建は、1915年。[ウィリアム・メレル・ヴォーリズ]が、創建当時、設計に携わっていたのだそうです。1973年まで、[醒井郵便局]として使用されていたのだそうです。

醒井はかつて、宿場町であったようです。[江龍文書]という史料により、過去のさまざまな事を知ることができるのだそうです。

P4 地蔵川にかかる橋
P04

P5 十王水
P05

平安時代に、[浄蔵法師]によってひらかれた水源なのだそうです。

P6 了徳寺の[御葉附銀杏(おはつきいちょう)]
P06

このイチョウ、銀杏の一部が、葉面上に付いてできるのだそうです。

P7 地蔵堂
P07

ここに安置されているお地蔵さまは、昔は、地蔵川の中に座っていて、[尻冷やし地蔵さん]と呼ばれていたのだそうです。

P8 加茂神社
P08

P9 加茂神社の近くに、[居醒の清水]があります。
P09

下記のP10, P11 を、[居醒の清水]の付近で撮影しました。

P10
P10

P11
P11

P12 問屋場
P12

ここは、人足や馬の提供、荷物の積替えの引継ぎ事務を行なっていた場所なのだそうです。建物の内部で、曲がっている柱や梁を見ることができ、とても興味深かったです。

問屋場の前を流れる地蔵川の中に、バイカモが開花していました。下記 P13 ~ P17 を、問屋場の付近で撮影しました。

P13
P13

P14
P14

P15
P15

P16
P16

P17
P17

[醒井 水の宿駅 みゆき]の近くにある、[かなやkitchin]で、昼食を食べました。店の建物はもと、信用金庫のものだったのだそうです(店の方から聞きました)。窓枠は同時のまま、白い塗装が施され、[捻締り錠(ねじしまりじょう)]が付いています。下記 P18, P19, P20 は、[かなやkitchin]よりの許可を得て、撮影・公開しています。

P18 [かなやkitchin]の外観
P18

P19
P19_2

P20
P20

[くぼた]の水槽の中に、[ハリヨ]がいました。下記 P21, P22, P23 は、[くぼた]よりの許可を得て撮影・公開しています。

P21 [くぼた]の外観
P21

P22 ハリヨ
P22

P23 ハリヨ
P23

-------------

醒井の様々な場所を訪問して動画を撮影し、自作音楽作品『きれいな水が湧きでるところ, Op.33』と合わせ編集して、動画を制作し、ユーチューブ上にアップロードしました。下記で、それをご覧になれます。

ハリヨが泳いでいるシーン、バイカモの花が水流に揺らいでいるシーンも、この動画の中にあります。

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/JTpUhefVPUU

私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

-------------

当日は、水分を多く含むものをおいしく感じるような気候でした。

[くぼた]で、アイスコーヒーを飲みました。

[ヤマキしょうゆ](有限会社醤油屋喜代治商店)で、しょうゆソフトクリームを食べました。

[醒井 水の宿駅 みゆき]の中にある[喫茶梅花藻]で、ホットコーヒーを飲みました。

[醒井 水の宿駅 みゆき]の中では、野菜も販売されていました。

[醒井 水の宿駅 みゆき]の敷地内に、湧水を汲める場所がありました。蛇口無し、シンク無しの、[源泉かけながし]状態です。紫外線で処理しているので飲むこと可能、との趣旨の事が書かれていたので、ペットボトルに入れて持ち帰りました。当日の夜、自宅でその水を使って、コーヒーを入れて飲んでみました。

その感想は、普段、京都市の水道水を使って自宅で入れているコーヒーとの、

 「違いが分からない男の入れたコーヒー」状態。

京都市の上水道の水の質は、私の舌と喉にとっては、十分にハイレベルである、ということなのでしょうか。

-------------

下記でネット検索して、関係する情報を得ることができました。

[米原市 醒井宿資料館]
[醒井宿 江龍家]
[醒井 地蔵川]
[醒井 延命地蔵]
[醒井 居醒の清水]
[醒井 ヤマトタケル]
[醒井宿 問屋場]

新作動画の発表 [醒井, バイカモ, ハリヨ, 居醒の清水, 滋賀県]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画をアップロードしました。バックグラウンド音楽に、自作曲を使用しました。

下記でご覧になることができます。

------------------------------------------------------------
撮影地:醒井 (さめがい:滋賀県 米原市) 地蔵川ぞい
撮影時:2017年7月
映像撮影・制作:runningWater
バックグラウンド音楽 作品名:きれいな水が湧きでるところ, Op.33

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/JTpUhefVPUU

------------------------------------------------------------
私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

2017年7月 7日 (金)

太平記 現代語訳 7-7 船上山にて名和軍団、幕府側勢力と戦う

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

同月29日、隠岐島(おきとう)から、幕府方の軍勢がおしよせてきた。

佐々木清高(ささききよたか)と佐々木昌綱(ささきまさつな)に率いられた3,000余騎の軍勢が、南北両方向から船上山(せんじょうさん)に迫ってくる。

船上山は、北方は大山(だいせん)からの峰続きになっていて高く切り立ち、それ以外の三方は平地から高くそびえ、峰に掛かる白雲は山麓にたなびき、という険阻な地形である。

そこにたてこもる名和軍側の拠点はといえば、にわか作りの城塞ゆえ、未だに堀の一本も掘れず、塀の一重も建てれていない。城塞の周囲に大木を少々切り倒して逆茂木(さかもぎ)とし、僧侶の住む庵の瓦屋根を壊してそれを防壁にしただけ、というような、まことに不安要素の多い備えである。

佐々木軍3,000余騎は、坂の途中まで攻め上がり、城中をキッと見上げた。

佐々木軍リーダーA おいおい、あれ見ろよ。あの旗ぁ!

松や柏(かしわ)が生い茂る深い森のあちらこちらに、名和陣営に属する諸家の旗4、500本が、雲に翻り、陽光に輝いている。

佐々木軍リーダーB うわぁ、ものすごい数だなぁ。敵側の兵力はいったいどれくらい? うーん・・・。

佐々木軍リーダーC きっと、このあたり一帯の連中ら残らず、名和に加担して、あそこに集まってきてやがんだわなぁ。

佐々木軍リーダーD おれたちだけの兵力じゃぁ、こりゃぁちょっと、手が出せないわなぁ。

佐々木軍側は全員おじけがついてしまい、前進がハタと止まってしまった。一方の名和軍側は、自分たちの兵力の少なさを相手に見破られないようにと、あちらこちらの木陰に隠れ伏しながら三々五々、射手を繰り出して遠矢を射させる。

このようにして数日が過ぎた後、戦局が大きく動いた。

佐々木軍側のリーダー・佐々木昌綱は、前線からはるかに隔たった後方に控えていたのだが、どこからともなく飛んできた流れ矢に右の眼を射抜かれ、その場に倒れて死んでしまった。

佐々木昌綱軍団メンバー一同 殿がやられた! 殿がやられた! もうダメだぁーーー!

彼の配下500余騎はパニック状態となり、戦闘不能状態に陥ってしまった。これを見て、800余騎を率いてからめ手側に向かっていた佐々木佐渡前司(ささきさどのぜんじ)は、にわかに旗を巻き兜を脱いで、名和軍に投降してしまった。

からめて側がそのような状態になっているとはつゆ知らない、佐々木清高は、

佐々木清高 きっと今頃は、からめ手側も城に肉薄しているだろう。行けぇ行けぇ、攻めろぉ、攻めろぉ!

一の木戸口を突破せんと、彼は新手を次々と前線に投入しながら、2時間ばかり攻撃を続けた。

--------

日は既に、西の山に沈もうとしている。

その時、一天にわかにかき曇り、強風が吹きすさび、車軸のごとく太い雨足が、地面を真っ向から激打しはじめた。雷鳴の轟きは山を崩さんばかりである。

突然の天変に、佐々木軍は恐怖におののき、ここかしこの木陰へと集まる。

名和長年(なわながとし) よぉし、反撃のチャンスだ!

名和長重(なわながしげ) まずは、一斉射撃だわなぁ!

名和長生(なわながたか) 射撃隊! 左右に展開の後、一斉射撃!

名和軍射撃隊一同 おう!

名和軍両翼からの一斉射撃に、佐々木軍側の盾の防壁が揺らぎを見せた。

名和長年 それ、今だ! 木戸を開け!

名和長重 突撃ぃーーー!

名和軍一同 うぉぉぉーーー!

名和軍は抜刀し、佐々木軍団めがけて、一斉に突進していく。

佐々木軍団メンバー一同 うああああーーー・・・。

大手方面の佐々木軍1,000余騎は残らず谷底へ追い落とされ、自らの太刀や長刀に貫かれて落命する者は、その数知れず。

佐々木清高のみ、かろうじて一命をとりとめ、小舟1隻に乗って、隠岐島に逃げ帰った。

しかし、隠岐島の情勢は一変していた。

島の武士たちは清高に対して叛意を抱くようになっており、津々浦々の防備を固めて、彼の上陸を許さない。彼は仕方なく、波に任せ風に従って越前国(えちぜんこく:福井県東部)の敦賀(つるが:敦賀市)へ漂着。その後、六波羅庁(ろくはらちょう)の滅亡の折、近江国(おうみこく:滋賀県)番場(ばんば:滋賀県・米原市)の辻堂で切腹して果てた。

世も末になったとはいいながらも、天の理(ことわり)未だ存在す、後醍醐先帝を散々悩ませた隠岐の佐々木清高は30余日の間に滅び果て、その首を軍門の鉾(ほこ)に掛けられるに至ったのである。まことに人間の運命は不可思議としかいう他はない。

--------

「先帝、隠岐を脱出、船上山に御座あり!」とのニュースに、周辺の武士たちは引きもきらず、先帝の下に続々と馳せ参じてきた。

真っ先にやってきたのが、出雲国(いずもこく:島根県東部)守護・塩治高貞(えんやたかさだ)。彼は佐々木善綱(ささきよしつな:注1)と共に、1,000余騎を率いて馳せ参じてきた。

--------

(訳者注1)7-6に登場。

--------

その後、浅山二郎(あさやまじろう)800余騎、金持(かなもち)党300余騎、大山(だいせん)の衆徒700余騎・・・このように、出雲、伯耆(ほうき:鳥取県西部)、因幡(いなば:鳥取県東部)3か国内の弓矢の道にたずさわる武士という武士が残らず、先帝の下に参集。

のみならず、

石見国(いわみこく:島根県西部)からは、澤(さわ)、三角(みすみ)一族、

安芸国(あきこく:広島県西部)からは、熊谷(くまがい)、小早河(こばやかわ)、

美作国(みまさかこく:岡山県北部)からは、菅家(かんけ)一族、江見(えみ)、方賀(はが)、渋谷(しぶや)、南三郷(みなみさんごう)、

備後国(びんごこく:広島県東部)からは、江田(えだ)、廣澤(ひろさわ)、宮(みや)、三吉(みよし)、

備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)からは、新見(にいみ)、成合(なりあい)、那須(なす)、三村(みむら)、小坂(こさか)、河村(かわむら)、庄(しょう)、真壁(まかべ)、

備前国(びぜんこく:岡山県東部)からは、今木(いまぎ)、太富幸範(おおどみのよしのり)、和田範長(わだののりなが)、知間親経(ちまのちかつね)、藤井(ふじい)、射越範貞(いのこしのりさだ)、小嶋(こじま)、中吉(なかぎり)、美濃権介(みののごんのすけ)、和気季経(わけのすえつね)、石生彦三郎(おしこひこさぶろう)、

この他、四国・九州の武士たちまでもが、ニュースを聞き伝え聞き伝えして、我先にと馳せ参じてきた結果、後醍醐先帝軍の兵力は、船上山エリアの人員収容能力をはるかに突破、ついには、四方の山麓2、3里周囲までも、木の下、草の陰にまで、武士、武士、武士・・・という状態になった。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 7-6 後醍醐先帝、隠岐島脱出に成功

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

鎌倉幕府首脳A 近畿地方の騒乱は未だ収まらず。なのに、四国、中国地方までもが、日に日に騒然となっていくじゃぁないか。

鎌倉幕府首脳B まさに、人心薄氷を踏むがごとし、だなぁ。わが国は今、危機の深淵の水際にある状態。

鎌倉幕府首脳C 今の天下が乱れているのも、その原因は全て、先帝の野望に。

鎌倉幕府首脳D もしもだよ、反体制勢力が警備のすきをついてだね、隠岐島(おきとう:島根県)に侵入して、先帝を奪取するようなことになったとしたら?

鎌倉幕府首脳E そりゃぁもう、タイヘンな事になってしまうわさ・・・。

というわけで、「よくよく注意怠らずに、先帝を警固するように」と、幕府から隠岐島守護・佐々木清高(ささききよたか)に指示が出された。清高は、近隣の地頭や御家人を動員して日直夜警おこたりなく、宮門を閉ざして厳重な警備体制を敷いた。

--------

閏(うるう)2月下旬、佐々木善綱(ささきよしつな)に、その警護の番が当たっていた。

御座所の中門の警備を行っているうちに、どういう出来心(できごころ)からか、彼の心中にある野心が宿った。

佐々木善綱 (内心)ふーん・・・「重大ニュース! 佐々木善綱、先帝陛下を隠岐島から連れ出し、陛下の命を受け、倒幕軍を旗上げす!」か・・・ふーん、なかなかオモシロイ・・・いっちょやってみるかぁ? でもなぁ、陛下に接触する手だてがないわなぁ・・・うーん、いったいどうしたら・・・。

そのように思いわずらっているところに、ある夜、先帝から、お側づきの女官を介して佐々木善綱に盃を下された。

佐々木善綱 ややや、もったいなくも、先帝陛下からわしみたいなもんに盃とは・・・いやいやぁ・・・(盃をおし頂きながら頭を下げる)

佐々木善綱 (内心)もしかして、これは天から与えられた絶好のチャンスかも。

佐々木善綱 ねぇねぇ、ちょっとちょっとぉ。

女官 はい、はい?

佐々木善綱 (ヒソヒソ声で)あのな、これは、ここだけの話にしといてくれよぉ。

女官 (ヒソヒソ声で)はいー。

佐々木善綱 (ヒソヒソ声で)今、日本のあちこちで倒幕運動が起こってるの、陛下はまだご存じじゃないのかなぁ?

女官 (ヒソヒソ声で)エーッ、と、倒幕ぅ?

佐々木善綱 (ヒソヒソ声で)そうよ・・・まず河内(かわち:大阪府南東部)では、楠正成(くすのきまさしげ)が金剛山(こんごうさん)に城を構えてがんばってやがるわなぁ。関東から軍勢100万がやってきてな、2月の初めからその城を攻め続けてるんだけどなぁ、城の守りがものすごく固くて、攻め手側はヒイヒイ言うててな、幕府側陣営からはボロボロ脱落者が出てるって話だわな。

女官 (ヒソヒソ声で)ヘェー!、脱落者がなぁ・・・。

佐々木善綱 (ヒソヒソ声で)備前(びぜん:岡山県東部)ではな、伊東惟群(いとうこれむら)が三石(みついし)っちゅうとこに城を構えて、山陽道(さんようどう)をふさいでしまいよった。播磨(はりま:兵庫県南西部)では、赤松円心(あかまつえんしん)が護良親王(もりよししんのう)の倒幕命令書を錦の御旗にふりかざして、摂津(せっつ:兵庫県南東部+大阪府北部)まで攻め上ってな、兵庫(ひょうご)の摩耶(まや)っちゅうとこに陣取ってるわな。その兵力はすでに3000余騎にも達しててな、その勢いでもって、京都にプレッシャーをかけ、近隣を制圧して威を振るってるって話だぞ。

女官 (ヒソヒソ声で)いやぁ・・・ほんまですかいな!

佐々木善綱 (ヒソヒソ声で)それだけじゃぁないよぉ。四国では、河野(こうの)一族中の土居二郎(どいのじろう)と得能弥三郎(とくのうのやさぶろう)が、倒幕の旗上げをしたそうな。その討伐に向かった長門国(ながとこく:山口県北部)駐在・中国地方執務本部長の北条時直(ほうじょうときなお)は、大敗けしてしもぉて、行方不明になってるらしいわ。

女官 (ヒソヒソ声で)ふーん! 知らんかったわぁー・・・。

佐々木善綱 (ヒソヒソ声で)それからというもんは、四国中ことごとく、土居と得能になびいてしもぉてな、連中もうすぐ、大船を整えて、隠岐まで陛下をお迎えに来るんじゃなかろうか、いや、まずは京都へ攻め上るんだろうよとか、世間にはあれやこれやと、いろんな情報が飛び交うとるわな。

女官 (ヒソヒソ声で)そうでしたんかいなぁ・・・。それにしても、いったい、あんたはん、なんでこないな事を、ウチに教えてくれはりますのん?

佐々木善綱 (ヒソヒソ声で)先帝陛下の御聖運がついに開かれる時が来たのかなぁとか、そりゃぁ、わしだってイロイロと考えるわなぁ・・・どうだろうな、わしに当直の当番がきてる間にだな、陛下がこっそりここから脱出されて、千波湊(ちぶりみなと)へ向かわれるってな筋書きは?

女官 (ヒソヒソ声で)そっから先は?

佐々木善綱 (ヒソヒソ声で)千波湊から船に乗られてな、出雲(いずも:島根県東部)か伯耆(ほうき:鳥取県西部)のどこかの海岸へ、風にまかせてたどり着かれてだな、そのへんの力のある武士を味方につけた上で、しばらく天下の情勢をうかがってみるだわ。

女官 ・・・

佐々木善綱 (ヒソヒソ声で)その後からな、わしは、おそれながら先帝陛下を追跡するようなふりして島を脱出して、すぐに陛下のもとに馳せ参じるだわ。

女官は、佐々木善綱から聞いた事の一部始終を、後醍醐先帝にとりついだ。

後醍醐先帝 (内心)佐々木善綱がそないな事を・・・しかしなぁ、どうも信用できひんなぁ。うまいこと言うて、わしを陥れたろっちゅうコンタンとちゃうやろか。

先帝は、佐々木善綱の本心を確かめるために、かの女官を善綱に与えた。

佐々木善綱 えーっ・・・わしみたいなもんに、陛下のお側におられた女性を・・・こりゃぁ身に余る光栄だわなぁ。

彼女への愛はいやが応にも高まり、善綱はますます、先帝への忠烈の志を表した。

後醍醐先帝 (お側の者に)よし、善綱にな、こう伝えてこい。「そういう事やったら、お前がまず出雲国へ渡り、わしに味方するもんらを集めて、ここまで迎えに来い」とな。

--------

佐々木善綱はすぐに出雲へ渡り、塩冶高貞(えんやたかさだ)に全てをうちあけ、彼を仲間に引き入れようと試みた。しかし、高貞はいったい何を思ってか、善綱を一室に閉じ込めてしまい、隠岐へ帰そうとしない。

後醍醐先帝 (イライライライラ・・・)(内心)もぉ! 遅いやないか、善綱! いったい、いつまで待たすんや!

しばらくはじっとガマンして、善綱の帰りを待ってはみたものの、彼からの便りは完全に途絶えたまま、どんどん日が過ぎていく。

後醍醐先帝 エェィ、もぉ待っとれんわ! こないなったら運を天にまかせて、隠岐島脱出決行や! 忠顕、即刻準備にかかれ!

千種忠顕(ちぐさただあき) ハハッ!

--------

いよいよ、決行の夜となった。

出産が近づいてきたゆえに、廉子(れんし)后が御座所から他所へ移るのだ、という事にして、その輿(こし)に先帝は乗り込まれ、千種忠顕(ちぐさただあき)だけを伴い、夜闇に乗じて密かに御座所を脱出。

千種忠顕 (内心)うーん・・・このままではまずい。

千種忠顕 陛下。

後醍醐先帝 うん、なんや?

千種忠顕 このまま行ったんでは、人から怪しまれますわ。それに、陛下の輿をかつぎ申し上げる人間もおりませんし。陛下、まことにおそれ多い事ですけど、陛下自らのお御足(みあし)でもって、歩いて行かれました方が・・・。

後醍醐先帝 よっしゃ、わかった!

というわけで、途中輿を止め、先帝は地上に下りられた。

もったいなくも十善の天子が玉の御足を草鞋(わらじ)の塵に汚し、泥土の地をおん自ら踏みしめられながら行かれるとは・・・あぁ、なんとおいたわしいことであろうか。

時は閏2月23日、月の出前の闇夜。方角も分からぬままに、遠い野の道をさ迷いながら歩いてゆく。

後醍醐先帝 (ハァハァ・・・)もう相当・・・(ハァハァ・・・)来たんとちゃうかい?(ハァハァ・・・)。

千種忠顕 いえいえ、まだまだ。輿から下りられた時、すぐ近くに滝の音がしてました。その水音がまだ風に乗って、ほのかに聞こえてきておりますよ。

後醍醐先帝 もうそろそろ、追っ手がかかっとる時分やろぉなぁ・・・(ハァハァ・・・)はよ、先に行かんとあかんなぁ・・・(ハァハァ・・・)。

恐怖のあまり、一足でも前へと、心だけはあせられる先帝であるが、このような長距離の歩行にはお慣れになってはおられない。全く見知らぬ道をたどるその行程は、まさに夢路を行くかのような心地。ちょっと歩かれては休息、また少し歩かれては休息。一向に、先に進まない。忠顕は先帝の手を引き、その腰を押しながら、

千種忠顕 (内心)あぁ、今夜中に何としてでも、千波の湊まで、たどりつかんとあかん! あぁ!

しかし、彼のあせりも空しく、二人は心身共に疲れ果て、野道の露の中を徘徊(はいかい)するばかりである。

夜は更に深くふけてきた。と、その時、

鐘 ゴォォォォーーーン・・・。

月光に和して、寺の鐘が響いた。

千種忠顕 あのへんに寺があるということはですよ、その近くにきっと、民家も少しはあることでしょう。とにかくあっちの方へ行って、道を聞いてみましょう。

後醍醐先帝 (ハァハァ・・・)お前に任す・・・(ハァハァ・・・)。

ようやく、一軒の民家にたどり着いた。

千種忠顕 (家の門を叩く)

家の門 ドンドンドンドン!

千種忠顕 おぉい、この家の主はおらんかぁ!(家の門を叩く)

家の門 ドンドンドンドン!

千種忠顕 道に迷ぉてしもたんや、道教えてくれやぁ!(家の門を叩く)

家の門 ドンドンドンドン!

千種忠顕 千波の湊へは、どっちの方角に行ったらえぇんやぁ?!

男 あぁ、あぁ、ちょっと待って、待ってよぉ! 今、開けるから。

家の中から、身分の低そうな男が一人出てきた。

彼は、忠顕の後ろに今にも倒れそうに佇んでいる先帝の姿をちらと見て、道理をわきまえぬ野人といえども何となく不憫に思ったのであろうか、

男 千波湊までは、ここからわずか50町ほどだけどなぁ、ここから先は、道が南北にたくさん分かれているからな、あんたらきっと、迷子になってしまうわなぁ・・・よしよし、おいらが案内してあげますわ。

男 さ、そっちのお人、おいらの肩に乗りなさい、湊までおぶってったげるわな。

男は先帝を軽々とおぶり、程なく3人は千波湊へ到着。

時刻を知らせる太鼓の音を聞けば、まだ午前4時である。

千種忠顕 (内心)あぁ、間におぉたぁーーー(ホッ)。夜明けまでには、まだ時間があるわ。

千種忠顕 さてさて、次は船や、船、船はと・・・。

男 ちょっくら、ここで待っててください。おいらが、船見つけてきますから。

男は、かいがいしく湊の中を走り回り、これから伯耆国(ほうきこく:鳥取県西部)へ戻る予定の商船を見つけ、船長といろいろかけあって、話をつけてきた。

男は、先帝と忠顕をその船の屋形内に導いた後、いとまを告げて帰っていった。

先帝を助けたこの男は、まさに普通の人間ではなかったのだろうか、先帝が後に天下を平定された時に、「あの男こそは最高に殊勲ある者やから、厚く賞さんといかん、隠岐島中探して見つけてこい」と、仰せられたにもかかわらず、「あの時、陛下を背負い申しあげたのはこの自分です」と名乗り出る者は、ついに現れずじまいであったという。

--------

夜明けとともに船長は、とも綱を解いて順風を帆にはらませ、湊の外に漕ぎ出した。

船長 (内心)あの屋形の中にいる人、どう見ても、タダの人じゃぁないわなぁ。

船長は、屋形の前にかしこまっていわく、

船長 このような時に船のご用をおつとめするのは、わしらにとっては、生涯の面目とでもいうもんですわな。さて、船をどちらの方に向けましょう? どこの海岸へでも、おっしゃる通りに、船の楫(かじ)を向けますわ。

千種忠顕 (内心)まいったなぁ、感づかれてしもぉたか・・・。こっちの正体を隠し通したら、かえって悪い事になるやろな・・・。あのかんじやったら、こっちの味方になってくれそうや・・・。よぉし、思い切ってほんまの事うちあけてもたれ!

千種忠顕 あのな・・・もっとこっちい、寄れや。

船長 はいはい。

千種忠顕 ここまで感づかれてもたからには、もう隠してても、しゃぁないわな。実はな、あこの屋形の中にお座りあそばすは、誰あろう、日本国の主や。もったいなくも十善の君、天皇陛下やねんぞ。

船長 エーッ!

千種忠顕 お前らもうわさには聞いてたやろ、陛下は昨年からな、佐々木清高の館内に囚われの身になってはったんやわ。それをこの千種忠顕がお助け申し上げ、脱出してきたんやがな。

船長 うわぁ。

千種忠顕 出雲から伯耆の間のな、どこでもえぇから適当な湊に向け、船を最高速で走らせい! 陛下の御運が開けはった暁には、必ず、お前らの事を私から陛下に申し上げてな、お前らを武士の身分に取りたててもろたるから。そないなったら領地も、もらえるぞ。

船長 うっひょー!

船長は喜色満面、取舵面舵(とりかじおもかじ)取り合わせ、帆にいっぱいの風を含ませて一路、船を走らせた。

海上すでに2、30里も来たかと思われる時、同じく追い風に帆をはらませた船10隻ほどが、出雲・伯耆の方角を目指してやってきた。

船長 (内心)ムム・・・あの船団はいったい? 九州へ行く船か、それとも商船か・・・いやいや、違う! 武装した連中らで満載だわ。あれはきっと、佐々木清高が放った追っ手の船じゃなぁ。

船長 こりゃぁまずいですよ。このままじゃ、あんたら、すぐにやつらに見つけられてしまうわ。さ、こちらにお隠れなされ。

船長は、後醍醐先帝と千種忠顕を船底に移動させ、その上に塩乾魚を入れた俵を積んだ。そして、船長と漕手たちはその上に立ち並んで船を漕いだ。

間もなく、追っ手の船1隻がこの船に追いつき、武士たちが船に乗り移ってきた。

追っ手・リーダー 今からこの船を臨検する!

船長 はい・・・。

追っ手の者らは、船内をそこかしこと捜索したが、先帝を見つけることはできなかった。

追っ手・リーダー どうもこの船には、先帝はおられんようだわなぁ。おい、怪しいカンジの船が通るの、見かけんかったか?

船頭 アヤシイって、いったいどんな?

追っ手・リーダー 身分の高そうな人を乗せた船だわ。

船頭 あぁ、そういえば、今夜の0時ころにな、千波湊を出港した船で、そんなカンジのがありましたなぁ。

追っ手・リーダー なにっ!

船頭 都の相当身分の高い人じゃろぉかねぇ、冠を着けた人と、立烏帽子(たてえぼし)をかぶった人と、二人乗ってたわな。その船だったら、今ごろはもう5、6里も先に行ってるだろうよ。

追っ手・リーダー 間違いない、その船だわ。すぐにその船を追跡せにゃぁ。おぉい、みんな船へ戻って、全力で前進!

追っ手の船は帆を引き張り、楫(かじ)の向きを変えて遠ざかっていった。

船長 ふー・・・やれやれ・・・これでもう大丈夫・・・いやいや、まだまだ!

海上1里ほどの彼方に、またもや追っ手の船が100隻ほど出現。こちらをめがけて、鳥が飛ぶごとくに追跡してくる。

船長 いかん! 全速力で前進だ。帆をいっぱいに張れ! 力の限り漕げ、漕げぇ!

万里を一時に乗り切らんと、帆をめいっぱい張り、漕手は必死で船を漕ぐ。しかし運悪く、風は弱まり、潮の流も逆に変わり、船のスピードは目に見えて落ちていく。船長も漕手もパニック状態に陥り、あわて騒ぐばかりである。

その時、後醍醐先帝が、船底から甲板にお出ましになった。

後醍醐先帝 よーし!

先帝は、身に着けたお守りの中から仏舎利を1粒取り出し、それを懐紙に載せて波の上に浮かべられた。

するとたちまち、

船長 おぁ! 風が、風が!

先帝の祈りを龍神が納受したのであろうか、海上にわかに風が起こり、先帝の乗る船を東へ吹き送り、追手の船を西へ吹き戻した。

このようにして、先帝は虎口の難を逃れられた。

しばしの航海の後、船は伯耆国の名和湊(なわみなと:鳥取県・西伯郡・大山町)に到着した。

--------

千種忠顕は一人で船を下り、付近の道行く人に声をかけた。

千種忠顕 おいおい、このへんにな、誰か、名のある武士はおらんか?

道行く人 そうだなぁ・・・このあたりだったら、名和長年(なわながとし)って人がおるけどなぁ。

千種忠顕 名和長年?

道行く人 うん。そんなに有名な人じゃないけどね、金はふんだんに持ってるし、親戚もおおぜいいるよ。それにな、実に思慮深い人って評判だわな。

忠顕は、名和長年の事を詳細に尋ね聞いた上で、やがて勅使として、名和のもとを訪れた。

千種忠顕 おぉい、誰かおるか!

名和家の者F はぁい、どこのどなた様が何用で、いらっしゃいましたんですかいなぁ?

千種忠顕 私は、勅使(ちょくし)である!

名和家の者F えぇ? ちょくしぃ?

千種忠顕 この千種忠顕、天皇陛下からの使いで来た。えぇか、この家の主(あるじ)、名和長年に次のごとく伝えよ! 陛下は隠岐島の佐々木の館を脱出され、たった今ここの名和湊に到着された。都におられた頃から、その武勇の評判を聞き及んでおられたゆえに、「名和長年を我の頼りとしたい」とのおおせやが、どうや?! 速やかに、返答を聞きたい。

その時、長年は、一族を集めて酒宴を催していた。

名和家の者F これこれ、こういうわけで。

名和長年 なにぃ、陛下がわしを頼ってこられたぁ?・・・こりゃぁ・・・うーん・・・。

忠顕の申し入れを聞いて、彼は考えこんでしまい、言葉を失ってしまった。

名和長年 ・・・。

そこに居合わせた長年の弟・長重(ながしげ)が進み出ていわく、

名和長重 あのな・・・。

名和長年 うん・・・。

名和長重 古(いにしえ)から現代に至るまで、人間の望むものはといやぁ、名誉と利得、この二つだけだわなぁ。

名和長年 うん・・・。

名和長重 もったいなくも、我ら名和一族を、天皇様が頼りにしてくださるってんだぞぉ。

名和長年 うん・・・。

名和長重 陛下の為に戦った結果、たとえ屍(しかばね)を敵の軍門にさらす事になったとしてもだよ、我ら名和一族の名は、後世に残るだわな。まさに生前の思い出、死後の名誉。ここはもう、迷う事無く決断して、ひたむきに陛下にお尽くし申し上げるってのが、スジじゃないかなぁ。なぁ、みんな!

名和一族20余人 その通り!

名和長年 ・・・そうか・・・よし! そういう事なら、すぐに戦の準備を整えんとなぁ! やがては、佐々木方の追手も、ここへ攻めてくるだろうしな。

名和家メンバーG でぇ、わしらの拠点をどこに?

名和長年 船上山(せんじょうさん:鳥取県東伯郡琴浦町)だ! 長重、お前すぐにな、陛下をお迎えに上がってな、陛下を船上山にお遷し申しあげろ。

名和長重 OK!

名和長年 他の者らは、戦の準備を整えて船上山に集合!

名和一族20余人 了解!

このように指令を出すやいなや、長年は鎧を着て外に飛び出していった。一族5人も、腹巻(はらまき)を着し高帯を締め、連れ立って後醍醐先帝のもとに向かった。

急な事ゆえ、輿の準備もできていない。やむを得ず長重は、鎧の上に網目の粗い薦(こも)を巻き、そこに先帝を背負い申し上げて、鳥の飛ぶが如くに、船上山へお遷し申しあげた。

そして、長年は近辺の家々に人を使わして、次のように言わしめた。

使いの者 うちの殿がある事を思い立たれてな、急に船上山に、食糧を運び上げなきゃならんようになってしもぉたわ。名和家の倉の中にある米を1俵運んでくれたもんには、銭500出すが・・・どうじゃ、やってみんか?

このように触れまわったので、方々からアルバイターが集まってきた。その総数5ないし6000人。全員、我劣らじとばかりに米を運んだ結果、たった1日で兵糧5000余石を、船上山の上に運び終えてしまった。

その後、長年は、家中の財宝を残らず近隣の民らに与え、居館に火を放った。そして一族150余人こぞって船上山に馳せ参じ、先帝の御座所を護った。

名和一族中に、名和七郎という謀略にたけた者がいた。

名和七郎 あのね、殿。わし、こちらサイドの兵力を大きく見せれる、うまい作戦を思いついたんだわな。

名和長年 おぉ、どんな作戦だ? 言ってみろ。

名和七郎 白い布500反ほど使って旗を作ってな、それに、ここいらの武士らの家紋を描いてな、そいで、あっちこっちに立てとくんだわ。そうすりゃぁ、兵力を実際よりも多いように見せかけれるでしょう?

名和長年 それはどうかなぁ・・・。まっさらの布で旗作るんじゃぁ、「あ、あれはにわか作りの旗だなぁ」って、すぐに見破られてしまうだろうて。

名和七郎 いやいや、松葉を焼く煙に布をさらしてな、黒くすすけさせとけば大丈夫。そうすりゃぁ、ずいぶん昔から家に伝わってる旗のように見えるわな。

名和長年 なぁるほど! オマエほんと、アマタいいわなぁ。

名和七郎 いやぁ、まぁ・・・デヘヘヘ。

さっそくその作戦を実行し、こちらの木の下、かしこの峰の上にと旗を立てていった。峰から吹く風に吹かれて、あちらこちらに旗が翻る様を見れば、

名和長年 ははぁ、こりゃぁ、カモフラージュ大成功だわな。船上山には大軍が充満してて、名和軍団、極めて強大なりってなカンジだわ。

名和一族一同 (Vサインを作りながら)イェーイ!

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 7-5 四国においても、反幕府勢力が決起

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

六波羅庁ではまたもや会議を開催。

六波羅庁リーダーA 頼みの宇都宮(うつのみや)殿は、千剣破城攻めに行ってしまってる。中国地方からの援軍は伊東惟群(いとうただむら)にインターセプトされちまってる。あーぁ、いったいどうしたもんかなぁ。

六波羅庁リーダーB 四国方面の軍勢を動員して、摩耶山(まやさん)の赤松軍を攻めさせてみるってのは、どうだろう。

閏(うるう)2月4日、四国の伊予国(いよこく:愛媛県)から六波羅庁に早馬がとんできた。

四国よりの使者 一大事じゃ! 土居二郎(どいのじろう)と得能弥三郎(とくのうのやさぶろう)が、先帝方に回って旗揚げしよりましてな、伊予の勢力を従えて土佐(とさ:高知県)へ侵入しよったですわ。

六波羅庁リーダーA ナァニィー!

四国よりの使者 ほいでもって、先月の12日にな、長門国(ながとこく:山口県北部)駐在・中国地方執務本部長(注1)の北条時直(ほうじょうときなお)殿が、軍船300余艘を率いて伊予国へ渡り、星岡(ほしがおか:愛媛県・松山市)で彼らと一戦交えられましたんじゃ。ところがその戦で、北条時直殿の軍勢はボロボロに負けてしもうちょりまして、死傷者その数を知らず、時直殿御父子も行方不明っちゅう、もう最悪の事態になってしまいよりましたわ。

--------
(訳者注1)原文では「長門探題」。
--------

六波羅庁リーダーB ウーッ!

四国よりの使者 それからは、四国の連中らはみんな、土居と得能の下についてしまいよりましてな、その兵力は6000余騎まで膨れあがってしもぉちょりますわい。やつらは、宇多津(うたつ:香川県・綾歌郡・宇多津町)と今治(いまばり:愛媛県今治市)の港に軍船をそろえよりましてな、今にも京都へ攻め上ろうかっちゅう勢いですけぇ、なにとぞ、ご用心めされませよ。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 7-4 赤松円心、摩耶山に軍事拠点を設定

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

赤松家メンバーA あんなぁ殿ぉ、幕府の連中ら、楠正成(くすのきまさしげ)がたてこもっとぉ千剣破(ちはや)城攻めるんに、エライ手ぇ焼いとぉらしいでぇ。

赤松家メンバーB そのせいでな、京都の守りの方、完全に手薄になってしもとぉっちゅう情報キャッチしたわ!

赤松家メンバーC うわーい、京都攻めるんやったら、今がチャンスやしぃ。

赤松円心(あかまつえんしん) よっしゃぁ! いっちょう行ったろかぁ!

赤松円心は、播磨国(はりまこく:兵庫県西部)の苔縄城(こけなわじょう:兵庫県・赤穂郡・上郡町)からうって出て、山陽・山陰両道を塞ぎ、山里(やまのさと:上郡町)と梨原(なしがはら:上郡町)の中間地点に進出した。

ちょうどその時、備前(びぜん:岡山県東部)・備中(びっちゅう:岡山県西部)・備後(びんご:広島県東部)・安芸(あき:広島県西部)・周防(すおう:山口県南部)5か国よりの軍勢が、六波羅庁からの催促に従って京都へ向かっていた。軍勢は三石宿(みついしじゅく:岡山県・備前市)に集結の後、山里付近に布陣する赤松軍を追い払って、そこを通過しようとした。

円心の次男・赤松貞範(あかまつさだのり)は、その進行を船坂山(ふなさかやま:兵庫県赤穂郡と岡山県和気郡の境界)でくい止め、相手の主要メンバー20余名を生け捕りにした。

貞範は彼らの命を助け、情け深く遇したので、伊東惟群(いとうただむら)はその恩に感じて幕府への忠誠を捨て、赤松軍への合力を決意した。彼は、自らの館の上にある三石山(みついしやま)に城を構え、さらに熊山(くまやま:岡山県・赤磐市)に上がり、そこで旗揚げした。

備前国守護・加治源二郎(かじげんじろう)はこれを制圧せんとするも、ただの一戦にて敗退、児島(こじま:岡山県・倉敷市)方面へ逃走。

これより、西方の道はいよいよ塞がれ、中国地方の動乱ただならぬ情勢となってきた。

赤松円心 よっしゃ、よっしゃ! 西の方から京都目指してやってきよる幕府側の勢力は、伊東惟群が完全にインターセプトしてくれとぉからなぁ、これで後顧の憂いも無くなったわい。さぁ、いくでー、いくでーぇ!

赤松軍はすぐに、高田兵庫助(たかだひょうごのすけ)の城を攻め落とし、休む間もなくひたすら山陽道を、京都へ京都へと攻め上っていく。進軍していくにつれて、その兵力は見る見る膨張、まもなく7000余騎に達するに至った。

赤松家メンバーA こうなったら、もぉ勢いやで、このまま京都へ、突入してしまおやぁ!

赤松家メンバーB そうやそうや、イッキに六波羅庁を攻め落としたれ!

赤松家メンバーC オマエラ、ナニ言うとぉねん。そないに次から次へと、こっちの思う通りに、事が運び続けるもんやないやろが。

赤松家メンバーD そうやでぇ、戦(たたかい)利あらずして退却余儀なしっちゅうようなケースも、想定しとかんとあかんしぃ。

赤松円心 そうやなぁ・・・。あまり先をあせらんと、ここはいったん着実に、拠点確保をしといた方がえぇやろなぁ。いざ退却っちゅう時には、馬を休ませる場所かて要るしなぁ。

そこで彼らは、兵庫湊(ひょうごみなと:神戸市)の北方の摩耶山(まやさん:神戸市)にある寺を城郭とし、そこにひとまず落ち着いた。

赤松円心 こっから京都までは、20里か・・・いよいよやなぁ。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 7-3 新田義貞、倒幕の志を固める

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

--------

上野国(こうずけこく:群馬県)の住人、新田義貞(にったよしさだ)という人がいた。

新田家は、清和源氏(せいわげんじ:注1)本流に連なる名家であり、義貞は八幡太郎・源義家(やちまんたろう・みなもとのよしいえ)から数えて17代目(注2)の子孫にあたる。

--------
(訳者注1)清和天皇の皇子を祖とする武士の名門。「源氏」は「清和源氏」だけではない。例えば、嵯峨源氏(嵯峨天皇の子孫)、宇多源氏(宇多天皇の子孫)等がある。

(訳者注2)太平記作者のミスである。義家から10代目。
--------

しかしながら、今の世は平氏の流れに属する北条家が鎌倉幕府の政権を独占していて、日本国中みなその威に制圧されており、清和源氏の影は薄い。義貞も仕方なく、幕府からの催促に従い、金剛山(こんごうさん)千剣破(ちやは)城攻め・からめて方面軍の一員として、この戦場に来ていた。

ところが、いったいどのようなもののはずみでか、「重大なある決意」を抱くに至った義貞は、新田家の家宰(かさい:注3)・舟田義昌(ふなだよしまさ)を身近に呼び寄せた。

--------
(訳者注3)原文では「執事(しつじ)」。主君の家の事務を執行する。
--------

舟田義昌 (陣屋に入って)殿、いったい何用で?

新田義貞 うぉぉ、義昌、来たかぁ・・・もっと近くに寄れ。

舟田義昌 ははっ(義貞の近くに寄る)。

新田義貞 (小声で)なぁ、義昌、オレ思うんだけんどよぉ。

舟田義昌 (小声で)はい。

新田義貞 (小声で)ずいぶん昔からさぁ、源氏と平氏は朝廷に仕えてきたよなぁ。でもって、平氏が世を乱した時にゃぁ、源氏がこれを鎮圧し、源氏が朝廷に逆らったならば、平氏がこれを押さえってなカンジで、やってきてたよなぁ。

舟田義昌 (小声で)はい、おっしゃる通りで。

新田義貞 (小声で)この義貞、不肖の身とはいいながらもな、源氏本流の新田家の棟梁としてさぁ、代々弓矢取る家に名を連ねてきたわけだよなぁ。

舟田義昌 ・・・。

新田義貞 (小声で)でなぁ、最近、思うんだけんどよぉ・・・北条高時(ほうじょうたかとき)のあの振る舞い見てるとな、北条家も、そろそろ、限界かなぁって・・・。

舟田義昌 ・・・。

新田義貞 (小声で)あそこの家も、もうこの先、そうそう長かぁねえぜってな、おれにはどうにも、そう思えてきて、しょぉがねぇんだわぁ。

舟田義昌 ・・・。

新田義貞 (小声で)ってなわけでよぉ、おれはこれから、本拠地へ戻って、勤王倒幕軍を起こそうと思ってんだ。なんとかして倒幕を成功させて、先帝陛下をあのお苦しみの中からお救い申し上げようってなカンジの事、思ってたりするんだわさぁ・・・。

舟田義昌 ・・・。

新田義貞 (小声で)ところがだなぁ、ここに一つ大きな問題があってなぁ。

舟田義昌 (小声で)と、いいますとぉ?

新田義貞 (小声で)勅命(ちょくめい)だよ、勅命。朝廷からの倒幕命令書を頂けねぇことには、どうしようもねぇわさぁ。

舟田義昌 (小声で)なるほど。

新田義貞 (小声で)何とかして、護良親王(もりよししんのう)殿下から倒幕命令書を頂いてだなぁ、そのご威光でもって軍勢を集め、めでたく本懐達成(ほんかいたっせい)ってわけにゃぁ、いかねぇもんかなぁ。

舟田義昌 (小声で)そうですねぇ・・・。親王殿下はこのあたりの山中に潜伏中ということですからね、わし、何とかうまいことやって、倒幕命令書を頂けるように、お願いしてみますわ。

このように事もなげに承知して、舟田義昌は自陣へ戻っていった。

--------

翌日、舟田義昌は、自らに仕える若党30余人を集め、野伏(のぶし)姿に変装させた。そしてその夜、彼らと共に、葛城山(かつらぎさん:大阪府奈良県境)へ登った。

彼は、戦場を離脱した幕府軍の武士であるかのように装い、夜明け前の霞の中で若党らを相手に1時間ほど、追いつ返しつの「ヤラセの戦い」を演じた。

それを見た、宇多(うだ:奈良県宇陀郡)、内郡(うちごおり:奈良県・(旧)宇智郡)の野伏たちは、若党らを自分たちの仲間であると思いこみ、それに合力しようと、方々の峰々から降りてきた。

頃合いを見計らっていた義昌は、

舟田義昌 それ! あいつらをいけどりにしちまえ!

義昌たちは接近してきた野伏らを包囲し、11人ほどを生け捕りにした。

その後、義昌は彼らの縛を解いていわく、

舟田義昌 だまくらかしてからめ取ったのはなぁ、ナニもオメェらを殺すためじゃぁねぇんだぞ。ジツはなぁ、わが主、新田殿はな、これから本拠地へ戻って、打倒鎌倉幕府の軍を起こそうと、しておられんだよぉ。だけんどその前に、まず朝廷からの倒幕命令書を頂かねぇ事にゃぁ、どうにもしようがねぇやな。

舟田義昌 だからよぉ、オメェらに護良親王の所まで道案内させて、殿下から倒幕命令書をいただいちまおうと思ってな、こんな手の込んだ事をしてみたってわけさぁ。

舟田義昌 さぁ、命が惜しきゃぁ、おれの使いのモン、殿下のとこまでとっとと案内しろいってんだよぉ!

野伏A なぁんや、そういう事やったんかいなぁ。

野伏B ということはやでぇ、あんたらとわしらは、味方どうしっちゅう事やんか、ははは。

野伏C こら、嬉しいこっちゃ!

野伏D あんなぁ、殿下のとこへ道案内したってもえぇけどやな、もっと簡単な方法あるがな。どうや、わしらのうち、一人だけ、解放したってくれへんか? そいつが殿下のとこまで走って行ってやな、倒幕命令書もろてきてあんたに渡したら、それでえぇやろが!

舟田義昌 フフーン、なるほどぉ。

というわけで、野伏の中の一人が親王のもとへ走り、残りのメンバーはそこに留まった。

一同、彼の帰りを今か今かと待っていたところ、翌日、

野伏E おーい! もろてきたでぇ!

舟田義昌 おぅ!

開いてみると、「命令書」ではなく「天皇勅書」の形式で書かれていた。(注4)

--------
(訳者注4)原文では、「開いて是を見るに、令旨(りょうじ)にはあらで、綸旨(りんし)の文章に書かれたり。」
--------

その文面、以下の通り。

--------
 以下、陛下のみこころをお伝えする。

 民をよく教育し、万国を治めるは明君の徳
 乱を収め、四方を鎮めるは武臣の節
 しかるに昨今、北条高時(ほうじょうたかとき)とその一族、朝廷の意向をことごとくないがしろにし、逆威をほしいままにふるうものなり
 かかる積悪の結果は、天罰てきめん間違いなし!

 この時に至り、累年のわが苦悩を解決せんがために、義兵を起こさんとのなんじの意志、まことにあっぱれなり
 事成りし暁には、格別の恩賞をもって、なんじの志に応えるものなり
 速やかに、幕府打倒の策を巡らし、天下平定の功をうち立てよ!

 以上、陛下のみこころ、たしかに伝えるものなり。

 元弘3年2月11日 左少将記

 新田小太郎殿
--------

舟田義昌 ヨーシヨシ!

舟田義昌から手渡されたこの勅書を読み、新田義貞も大喜び。

新田義貞 (小声で)やったじゃねぇかぁ!

舟田義昌 (小声で)まさに、新田家の面目、今ここにありってなかんじの、文面ですよねぇ。

新田義貞 (小声で)よーし、これで前途が開けたぞぉ!

翌日さっそく、義貞は仮病を使って戦場を離脱、部下たちを率いて一路、上州への帰路についた。(注5)

--------
(訳者注5)「野伏の仲介で倒幕命令書を獲得」というこのエピソード、どうも訳者には太平記作者のフィクションのように思えてならない。舟田義昌がこのような重要な仕事を、見ず知らずの野伏に不用意に託すなどとは到底考えがたい。「新田義貞に倒幕の志有り」などというような情報が、野伏サイドから六波羅庁へでも漏れたら、主君・新田義貞は危機に瀕することになるだろう。
--------

--------

千剣破城攻めの戦況を憂慮して、京都の六波羅庁でも対策を練りはじめた。

六波羅庁首脳K まったくもって、困ったもんだなぁ、千剣破城攻めの戦はぁ。

六波羅庁首脳L いやはやまったく・・・先頭に立って戦うべき主要軍団のメンバーが、あれじゃぁねぇ。

六波羅庁首脳M 何のかのと口実を作っては、次々と本拠地へ、帰っていってしまやがるんでさぁ。

六波羅庁首脳N ロジスティックスラインも、至る所で分断されてしもてますわなぁ。

六波羅庁首脳K 現地の士気の低下、目を覆わんばかりというじゃぁないか・・・なんとかして、戦線を立て直さねば!

六波羅庁首脳M こういう時は、やっぱ、あの人に頼むしか、しょうがないんじゃぁ?

六波羅庁首脳N 頼みの「ツナ」でんなぁ。

というわけで、再びあの、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)の出馬とあいなった。

宇都宮家臣団の紀清両党(きせいりょうとう)1000余騎が戦線に加わるやいなや、千剣破城攻防の戦況はにわかに動き出した。

彼らは新規参入ゆえ元気いっぱい、すぐさま城の堀の際まで攻め込み、一歩も後に退かずに、10余日昼夜ぶっ通して攻め続けた。塀際の鹿垣(しかがき)や逆茂木(さかもぎ)のことごとくが彼らによって引き破られ、さすがの楠軍側も、これには少々手をやいている風である。

しかしながら、いかに勇猛の紀清両党の者といえども、斑足王(はんぞくおう:注6)の身体を有するわけではないから、天に駆け上がる事はできない。龍伯公(りゅうはくこう:注7)ほどの巨力を持っているわけではないから、山をつんざく事も不可能である。ついに、攻撃に行き詰まりを来してしまった。

--------
(訳者注6)インドの神話に出てくる王。自在に空を飛べたという。

(訳者注7)龍伯国の人々は身長が30丈あり、空を飛べたという。
--------

宇都宮公綱 ウーン・・・何かいい作戦は無いものかなぁ。

紀清両党メンバーX 殿、こうやってみてはどうでしょう? 正面にいる者たちには戦闘を継続させながらですね、後方の者らが、鋤(すき)や鍬(くわ)でもって、あの城の地盤、つまりあの山を、下の方から徐々に掘り崩して行くってのは?

宇都宮公綱 ・・・うーん、そうだなぁ・・・よし、やってみるか。さっそく、工事にかかれ!

何事も、やってはみるものである。山を掘り崩しはじめてから3昼夜目、ついに城の大手方面の櫓を1個、崩壊させる事に成功した。

幕府軍リーダーA なぁるほどなぁ、あんなウマイ手があったのか!

幕府軍リーダーB あわてて戦闘なんかおっ始めないで、最初からあぁやって攻めてきゃ、よかったんだなぁ。

幕府軍リーダーC 今日までおれたちのやってきた事、あれっていったい、何だったのぉ? 反省・・・。

というわけで、全員、我も我もと、山堀りに参加。

しかし、千剣破城の地盤は周囲1里余りの大山ゆえ、そうそうたやすくは、城の全域を堀り崩せそうにも思えない。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 7-2 楠正成、千剣破城において、幕府軍100万を翻弄

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

楠正成(くすのきまさしげ)がたてこもる金剛山(こんごうさん)の千剣破城(ちはやじょう:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)へ向かった幕府軍は当初80万騎であったが、赤坂方面軍と吉野方面軍もそれに加わってきたので、ついに総勢100万騎を超える大軍となった。

城の2、3里四方、寸土の隙間もなく幕府軍は充満、まるで大相撲会場のようである。風に翻ってなびく軍旗は秋野のススキの穂よりも繁く、剣戟(けんげき)陽光にきらめくさまは暁の霜が枯れ野に敷くがごとくである。その威勢は山をも動かさんばかり、軍勢ひとたびトキの声を上げれば、地軸もたちまち砕け散らんかと思われるほど。

このような大軍の包囲をものともせず、わずか1000人足らずの小勢にて、誰を頼み何を待つともなしに、重圧に耐えて城内にじっとこもり続ける楠正成の心魂、いやはやまことに、大胆不敵としか言う他はない。

城の立地条件は実に理想的である。東西方向側面は深く切り立つ谷で守られていて、とても人間には登れそうにない。南北方向は金剛山の細い尾根続き、その途中にある小高い峰の上に、城はあった。

--------

幕府軍リーダーA あんな城、大したことねぇよ。高さ2町ほどの山の上にあるチッポケな城じゃないか。

幕府軍リーダーB あのカンジじゃぁ、どう見たって、広さは周囲1里足らずってとこかなぁ。

幕府軍リーダーC イッキに攻め落とそうや!

幕府軍リーダー一同 よーし!

楠軍側の防備を侮り、幕府軍は最初の2日間は、対抗陣地の設営もせず、城攻めの用具の準備もしないままに、強攻を繰り返した。みな我先にと、盾をかざしながら、城の木戸口まで登っていく。

しかし、楠軍側にはいささかの動揺も見られず、その応戦は沈着冷静極まりない。高櫓(たかやぐら)の上から大石を連投しては、幕府軍側の盾をみじんに砕く。アワを食って右往左往している所へすかさず、矢の連射を浴びせかける。幕府軍メンバーは四方の坂から転落し、谷底には死傷者が折り重なっていく。

このようにして、幕府軍側、たった1日のうちに、5000ないし6000人が死傷、という惨憺たる結果に終わってしまった。侍大将・長崎高貞(ながさきたかさだ)が死傷者の調査を行ったところ、12人の書記が3昼夜ぶっとおしでリストアップ作業をせざるをえないような状況であった。

幕府軍リーダーA いかんいかん、こりゃぁタイヘンな事になっちまったぞぉ。

幕府軍リーダーB このまま攻め続けてたんじゃぁ、非常にまずい! 早いとこ、作戦練り直さなきゃ。

幕府軍リーダーC とにかく、全軍に、戦闘ストップの指令を!

というわけで、「この先、大将の指示無しに合戦を始めてはいかん! これに従わぬ者は厳罰に処す!」とのメッセージが全軍に発令、とりあえず戦闘はストップ、城の周囲に各々の陣をまずは構えて、ということになった。

--------

赤坂方面軍大将・金澤右馬助(かなざわうまのすけ:注1)は、大佛高直(おさらぎたかなお)と陸奥家時(むついえとき)に対していわく、

--------
(訳者注1)これは太平記作者のミス記述であろう。6-6では、赤坂城攻めの総大将は阿曽治時になっている。
--------

金澤右馬助 あのねぇ・・・こないだの赤坂城攻略戦での勝利だけどさぁ・・・あれまったく、わが軍のさ、士卒の手柄でもなんでも無かったんだよねぇ。あの城の水の確保の仕組みを、推理しただけのことなんだ。でもってさ、首尾よく水の供給ラインを止めれたんでね、敵はすぐに降参したってわけ。

大佛高直 ふーん、そうだったのかぁ。

金澤右馬助 でぇ、その時の経験をもってして、この城の配備を見てみるにだなぁ。

陸奥家時 ・・・。

金澤右馬助 (城の方向を指差して)ほら、見ろよぉ、あの城はさぁ、あんなに小さい山の頂に立ってんじゃん? ってことはだよ、城の中に水が採れる井戸なんか、あるわきゃぁねえよなぁ、そうだろぉ?

陸奥家時 うん・・・。

金澤右馬助 他の山から取水できるような設備も、無いようだ。なのに、なのにどうして、あの城の内には、あんなに水がふんだんにあるんだい?

大佛高直 なるほど。

金澤右馬助 あれ見て、あれ、ほら、山の東側の山麓、谷川が流れてるじゃん?(谷川を指さす)。

陸奥家時 あぁ、あの川ね。

金澤右馬助 連中、毎晩あの川のとこまで下りてきてな、あそこで水を汲んではな、城に持って帰ってるんだ・・・オレはそうニランだね。

陸奥家時 ウーン・・・。

金澤右馬助 ってコトはだよ、その水汲み作業を阻止してしまやぁ、こっちの勝ちって事になりゃしない? あっという間に城内には水が無くなるからさぁ。どうだろうね、わが軍の主要メンバー2人ほどをリーダーに任命してさ、あの谷川に、「水汲み阻止部隊」を配備してみるってのは?

陸奥家時 なるほど、いいね、それいいよ!

大佛高直 水汲み阻止部隊のリーダー、誰がいいかなぁ・・・名越(なごや)殿にやってもらおうか?

陸奥家時 それでいぃんじゃぁなぁい。

というわけで、名越越前守をリーダーに任命、その配下の名越グループ3000余人を適宜配置して問題の谷川の水辺に陣を取り、城からそこへの降り道の方々に逆茂木(さかもぎ)を設置、水を汲みに下りてくるのを今か今かと待ちかまえた。

しかし、城を守るは、勇気と智謀をあわせ持つ楠正成、水の事に手抜かりがあろうはずがない。

築城の当初、彼はまず水の便を調査し、峰を通って修行する山伏たちが水を汲む、「五所の秘水(ごしょのひすい)」と呼ばれる水源を見つけていた。一夜のうちにしたたり落ちる水量は約5石、日照りが何日続いでも、その水源は枯れることが決して無い。

楠正成 (内心)うーん・・・城にこもる人間の通常の飲料水を確保するだけやったら、これで十分やろ。そやけど、いざ合戦が始まったとなると、火矢を消すために水が必要になるし、体の動きも激しいから普段より喉も渇くやろう・・・となると、この水量だけでは、とても足らんわなぁ。

そこで正成は、大きな木の水槽を2、300個ほど作らせ、普段からそこに貯水しておくようにしておいた。さらに、城中数100か所ほど、建物の軒に樋を取り着け、降った雨水が一滴ももれなく、その水槽に流れ込むようにした。水槽の底には赤土を沈めて、水質を保つようにした。

楠正成 (内心)よーし、これでえぇわい。こないしといたらな、たとえ5、60日雨が降らいでも、この城は絶対に持ちこたえれるんじゃい。それ以上長い間、雨が降らんなんちゅうことは、まずあり得んわいな。

築城の当初からここまで考え抜いていたその智慮のほど、いやはやまことに深いものである。

というわけで、水を汲むために、わざわざ城から谷川のほとりまで降りてくるような者など一人もいない。

川べりに陣取った名越グループの面々は、最初のうちこそは緊張し、夜がくる度に心をはりつめ、楠軍の水汲み部隊の下りてくるのを、今か今かと待ちかまえていたのだが、日が過ぎるにつれて、だんだんと気が緩み、ダラケてきた。

名越グループ・メンバーD あーぁ、やんなっちゃうなぁ。待てど暮らせど、ヒトッコヒトリ現れやしねぇ。

名越グループ・メンバーE こんなとこまで水汲みに、ノコノコ下りて来るヤツなんて、本当にいるんかぁ?

警戒は、どんどんおろそかになっていく。

その様子を見すました正成は、

楠正成 フフフ・・・だいぶ、ダラケてきはりましたようでんなぁ。ほならここらで、イッパツ、イテこましたろかい。

彼は、屈強の者2、300人から成る奇襲部隊を編成し、夜陰に乗じて城から下らせた。

夜明け前の霞がかかって何も見えない中に、楠軍奇襲部隊は名越グループに襲いかかり、水辺の張り番をしていた者20余人を切り伏せ、勢い激しく斬りかかって行った。

名越グループは、ひとたまりもなく、ただただ退却あるのみ。これを見た数万の幕府軍は応援に駆けつけようとするのだが、谷を隔て尾根を隔てたその現場には、容易に接近することができない。

幕府軍側が、時を空しく費やしている間に、楠軍奇襲部隊は、遺棄された名越グループの旗や大幕などを取り、静かに城へ引きあげていった。

--------

翌日、城の大手に旗が立てられた。見れば三本唐傘の紋入り、同様の紋入りの幕も掲げられている。それを凝視する幕府軍の面前に、城内から二人の武士が現れた。

楠軍メンバーF あらあら、オクサマぁ。そこにあるその美しいお旗、いったいどないしはったんどすかぁ?

楠軍メンバーG あぁーら、このお旗ざぁますかぁ。これはですねえぇ、昨夜、テマエドモが、名越様から頂きました、オ旗なんざぁますのよぉーん、オホホホ・・・。

楠軍メンバーF いやぁ、そうでしたんかいなぁ、そらよろしぉましたなぁ、キョホホホ・・・。

楠軍メンバーG ですけどねえぇ、残念ながらこのお旗、名越家の御紋入りざぁましょぉ? ですからねえぇ、よそさまへ贈り物にお回しするってわけにも、いきませんのよねぇ、オホホホホ・・・。

楠軍メンバーF と、いうわけですよってになぁ、名越家のダンはん方、どうぞここまでお越しやして、この旗と幕、お持ち帰りになっとくれやしておくれやしておくれやすぅー、キョホホホホホホホ、ホーホケキョ!

楠軍一同 うわっはっはっは・・・きゃきゃきゃきゃ・・・うぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ・・・。

幕府軍メンバー一同 ウワッ、こりゃぁ名越殿、一大不覚を取っちゃったねぇ。

名越家メンバーK あ、あいつら!

名越家メンバーL クッソォォ!

名越家メンバーM 許せねぇ!

名越家メンバーN ただじゃぁおかねぇぞ!

名越越前守 えぇい、わが家のものども、一人残らず城の木戸を枕に、討死にィー!

この命令一下、名越軍5000余人は、決死の勢いで城に向かって突撃を開始! 討たれようと射られようと、ものともせず、身内の者の死骸を乗り越え乗り越え進み、城の防備の逆木(さかもぎ)を一線うち破り、切岸の下まで攻め上る。しかし、そこから先は険しく切り立っていて、気ばかりはやるが一寸先にも進めない。ただ徒(いたずら)に城を睨み、怒りを押さえながら息を継ぐしかない。

楠正成 よし、行けぇ!

楠軍一同 おう!

楠軍一同の刀 ピシーン、ピシーン!

綱 プスーン、プスーン!

大木約10本 グラ・・・グラ・・・グラ・・・ガラガラガラガラドシャドシャドシャ・・・。

楠軍が一斉に綱を切るや否や、切り岸の上に横たえられていた大木10本ほどが名越軍の頭上を襲った。ドミノ倒しのごとくに下敷きとなり、およそ4、500人ほどが圧死。転げ落ちてくる大木を避けようとあわてふためいているところに、今度は方々の櫓から、矢の狙い撃ち。名越軍は5000余の戦死者を出して、残りわずかになってしまった。

このようにして、その日の戦闘もあっけなく終わってしまった。

戦場周辺の住民X まことに意気だけは、勇猛果敢な名越家の面々では、あったんやけど、

戦場周辺の住民Y 大した戦果を上げる事もなく、徒(いたずら)に、大量の戦死者を出してしもぉた。

戦場周辺の住民Z 結局のところ、旗を奪われた恥辱の上に、さらに人的損害を重ねただけのことやないかいな、あぁ、アホラシ。

名越家に対する世間の評価はさんざんである。

--------

予想だにせぬ戦況の展開に、幕府軍側には、「楠、侮り難し」の気分が充満、開戦当初とはうって変わり、勇み進んで城を攻めようとする者は皆無となってしまった。

長崎高貞いわく、

長崎高貞 これ以上いくら力攻めにしたって、戦死者が増えるばっかし、とても成果は出ねぇでやんしょ。こうなったら、城を厳重に包囲して、兵糧攻めで行きやすかぁ。

ということで、全軍戦闘中止となった。

たちまちみんな、退屈に耐えられなくなってきた。やがて、連歌師などを京都から呼びよせて、「一万句連歌大会」が始まった。その初日の発句(ほっく)、

長崎師宗(ながさきもろむね) さき(先)懸(が)けて かつ(注2)色み(見)せよ 山桜 (原文のまま)

それに続けて、

工藤次郎右衛門尉 嵐や花の かたき(仇)なるらん (原文のまま)

--------
(訳者注2)「かつ(一方では)」と「勝つ」とをかけている。
--------

両句ともに、詞使(ことばづか)い巧みでその句体は優美である。しかし、味方を桜花になぞらえ、それを散らす嵐に敵をたとえるとは、なんとまぁ、エンギの悪い句を詠んだものであろうかとは、すべて後になって思い知られた事である。

高貞の命により全軍戦を止めてしまったので、陣中のつれづれを何とかしてなぐさめるしかない。こちらでは囲碁(いご)や双六(すごろく)を打って日を送り、あちらでは「抹茶ブレンド配合当て100回大会」、「紅白和歌合戦」などして興じながら、夜を明かす。

こうなっては城内の楠側も、かえって張り合いが無くなり、気も晴れなくなってくる。それから数日経過後、

楠正成 さぁてと、またそろそろ、あちゃらさんとイッチョウ遊んで、眠気ざましといきましょかいなぁ。

楠正成 おぁい、オマエラ、えぇか、今からなぁ、城の中のゴミ、そうや、ゴミ集めてこい!

楠軍メンバーF (小声で)おいおい、うちのタイショウ、またなんか、オモロイ事考えとるでぇ。

楠軍メンバーG (小声で)ウシシシ・・・。

集めてきたゴミでもって等身大の人形を2、30体ほど作り、甲冑を着せて武器を持たせた。そして、夜の間に城の麓にその人形を立て、その前に折り畳み式盾を並べた。さらにその後方には、ツワモノぞろいの500人を配置した。

夜明けと共に、朝霞の中から500人は一斉にトキの声を上げた!

楠軍一同 エェイ、エェイ、ウワァーーーイ! カンカンカンカン、ドンドンドンドン、パァプー、パァプー、パァプー!

幕府軍リーダーA おぉ、あのトキの声は!

幕府軍リーダーB 城から打って出てきたぞ!

幕府軍リーダーC よーし、これで、敵も運の尽き!

幕府軍リーダーA 死を覚悟しての、狂気の出撃ってとこかぁ!

幕府軍リーダーD ものども、かかれぇ!

幕府軍は我先にと、城に向かって突進した。

楠軍はかねてからの手はず通り、少しの間は矢を放って応戦するかのように見せかけて幕府軍を引きつけた後、人形だけを木の間隠れに残し、徐々に城に退却していった。

幕府軍は人形を本物の武者だと思いこみ、それを討ち取ろうと一斉に集中していく。楠正成の術中に完全にハマッテしまい、わなに吸い寄せられていく幕府軍・・・。

楠正成 よぉし、イケェー!

楠軍一同 おぉう!

巨岩 ゴロゴロゴロゴロドスドスドスドス!

楠軍は幕府軍の頭上めがけて、巨岩4、50個を一斉に落とした。幕府軍の頭上を襲う巨大な岩塊・・・一箇所に集中していた幕府軍はたちまち300余が即死、半死半生の者、500余人。

戦場周辺の住民X 後になって、よぉよぉ見てみたら、

戦場周辺の住民Y 「あいつら、ほんまにスゴイやっちゃらやなぁ、こちらの猛攻に対して、一歩も後に退かへんやないかい」と思ぉてた、当の相手の楠軍の武者たち、実は、実は、

戦場周辺の住民Z 人間やのぉて、ワラで作った人形やったとは。

戦場周辺の住民X そんなワラ人形フゼイを倒そうと、ドバドバ集まっていったあげくに、

戦場周辺の住民Y 岩に押しつぶされ、矢に当たって、死んでもたところでなぁ、

戦場周辺の住民Z なんの手柄にも、なりゃぁせんわいて。

戦場周辺の住民X かというてやで、その相手を怖がって、よぉかかって行かへんかった連中らかて、まぁ、ブザマなもんやないかいな。ダイの男が人形相手に、おびえて震えとったっちゅうわけやもんなぁ。

戦場周辺の住民Y 今回のこの一件で、そいつらの臆病心が、見事に露見してしもぉたというわけや。

戦場周辺の住民Z まぁなんともはや、ナサケナイ話やなぁ。

このように、人形に立ち向かっていった者、おびえて立ちすくんでしまった者、双方いずれも、万人の物笑いの酒の肴にされてしまったのであった。

--------

これより後は、更に戦闘を控えるようになった。諸国から集まってきた幕府軍の面々は、ただ徒らに城を見上げているだけで、何の作戦も展開できない。

このような状況に、いったい誰の仕業であろうか、一首の替え歌が書き付けられた札が、長崎高貞の陣の前に。

 ただじっと 指をくわえて 見てるしか しょうがないのか 峰の楠の木

 (原文)余所(よそ)にのみ 見てや々(止)みなん 葛城(かづらき)の たかま(高間)の山の 峯の楠(注3)

--------
(訳者注3)この替え歌の元歌は

 よそにのみ 見てややみなん 葛城や 高間の山の 峰の白雲

(新古今和歌集巻11 恋歌1 読人不知(よみびとしらず))

葛城山系・高間山の山頂にかかる白雲を、片思いの相手になぞらえて、「相手をただ遠くに見ているしかない、何の進展の可能性もありえないなぁ、我が恋は」との、嘆きの歌。
--------

--------

戦闘も無く、ただブラブラしているだけの毎日は、まことに退屈なものである。無聊(ぶりょう)をまぎらわすため、どこのリーダーの陣も、江口(えぐち:大阪市・淀川区)や神崎(かんざき:兵庫県・尼崎市)から遊女たちを呼び寄せて、様々に遊びはじめた。

名越遠江入道(なごやとおとおみにゅうどう)と名越兵庫助(なごやひょうごのすけ)は叔父・甥の間柄であり、共に一軍のリーダーとして、攻め口近くに陣を並べていた。ある日、二人は遊女と共に、双六(すごろく)遊びをしていたのだが、

名越兵庫助 あれっ、その駒運び、なんかヘンだよ。

名越遠江入道 おまえ、いったいナニ言ってんだ、どこがヘンなんだ!

名越兵庫助 だってさ、それじゃぁ、振って出たサイの目と違うじゃないかぁ!

名越遠江入道 おかしな事を言うヤツだ! このわしの双六プレイに、ケチをつけようってのか!

名越兵庫助 おぉかしいものは、おかしいんだよぉ! 武士のくせに、卑怯なマネするない! そんな、ゴマカシの手ぇやめて、正々堂々と勝負しろよなぁ!

名越遠江入道 なにぃ、正々堂々と勝負だとぉ! よぉし、おもしれぇじゃねぇか、相手になってやるぜい!(刀を抜く)

名越兵庫助 おぅ、やるってのかい!(刀を抜く)

遊女たち キャァーー!

激した二人は刀で戦い始め、互いに突き合って共倒れ。互いに何の恨みもないはずの双方の家臣たちも、刀を抜いて渡り合い、あっという間に200余人もの死者が出てしまった。

楠軍側F おいおい、あれ見たってぇなあ、同士討ちしとるやんけ!

楠軍側G 天皇陛下にたてついて、天罰受けてなぁ、自滅していきよるモンらのブザマな姿、みんな、よぉよぉ見とけよぉーっちゅうことじゃぁ!

楠木軍一同 わははは・・・。

まったく、ただ事ではない。欲界の頂に住する第六天魔・波旬(だいろくてんまはじゅん)のしわざとしか思えないほどの、まさに驚くべき事件であった。

--------

同年3月4日、鎌倉から急使が。

使者 こちらの方では、戦闘を完全にストップされているそうですね。で、それを聞いた幕府のお偉方、もう、メッチャ怒ってますよぉ。「いってぇ何してやがんでぇ、とっとと城攻めを再開しろい」ってねぇ。

さっそく作戦会議。

幕府軍リーダーA うーん・・・何かいい作戦、ねぇかなぁ!

幕府軍リーダーB こちらの陣と敵城との間にある、あの深い堀、あれをなんとかしなきゃぁな。

幕府軍リーダーC 堀の上に橋を渡して、そこから一気に突入ってのは、どうかなぁ?

幕府軍リーダー一同 それでいってみよう!

さっそく京都から、大工500余人が呼び寄せられた。

厚さ5、6寸ないし8、9寸の材木を集めて、幅1丈5尺、長さ20丈あまりの、かけ橋を作らせた。

完成したそのかけ橋に、太縄を2、3,000筋も巻き付け、滑車を使って、城の側の岸の上へ倒しかけることに成功した。古代中国・魯(ろ)の公輸般(こうしゅはん)が造ったという、「雲まで届く橋」も、かくありなん、という感じである。

はやりたった幕府軍の武者5、6,000人は、その橋の上を渡り、われ先にと、前進していく。あわや、千剣破城もついに落城か・・・。

しかしながら、幕府軍の作戦のことごとくを、正成は読みきっていたのである。

楠正成 よーし、火攻めじゃー! 松明ーぅ!

楠軍一同 うぉーーい!

楠軍メンバーらは、投げ松明(たいまつ)の先に火をつけ、橋めがけてポンポン投げつける。松明はみるみる、薪のように橋の上に堆積していく。

楠正成 よーし、油ぁー!

楠軍一同 うぉーーい!

ポンプを使って、橋の上に油を滝のように注ぐ。あっという間に、松明の火は橋げたに燃え移った。谷から吹き上げる強風にあおられて、巨大な炎が立ち昇る。

先頭切って橋の上を進んでいた者たちは、完全に身動きが取れなくなってしまった。前へ進めば、燃えさかる猛火にまかれて身を焦がすだけ、後退しようと思っても、後続の者たちが、前方で何が起こっているのかも分からないまま、どんどん押し寄せてくる。横へ飛び降りようと思っても、眼下には深い谷、そびえ立つ岩、肝も凍らんばかり。

「どうしよう、どうしよう」と、いらだちながら押し合っているうちに、燃えさかる橋げたはついに二つに折れ、谷底へ落下。数千人の幕府軍は、橋もろとも猛火の中へ落ち、一人残らず焼死。八大地獄(はちだいじごく)に落ちた罪人が、刀山剣樹(とうさんけんじゅ)に貫かれ、猛火鉄湯(もうかてっとう)に身を焦がす有様もかくや、というほどの惨状である。

--------

やがて、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)、十津川(とつがわ:奈良県・吉野郡・十津川村)、宇多(うだ:奈良県・宇陀郡)、内郡(うちごおり:奈良県・(旧)宇智郡)一帯の野伏(のぶし)7,000余人が、護良親王(もりよししんのう)の命を受けて集結、こちらの峰、あちらの谷へと出没しては、千剣破城攻め幕府軍のロジスティックスライン(注4)を、至る所で寸断しはじめた。

--------
(訳者注4)後方から戦場への食糧等の運搬を、[ロジスティックス(logistics)]と言い、その輸送ルートを、[ロジスティックスライン]と言う。長期の遠征においては、ロジスティックスの確保が極めて重要となる事は、言うまでもない。
--------

護良親王のこの後方攪乱(こうほうかくらん)工作はみるみる効を奏しはじめ、遠方諸国からの遠征軍主体で構成されている幕府軍の食糧は、たちまち底を尽いてしまった。人も馬も消耗しきって、もはや持久戦を維持する事は不可能となり、100騎、200騎と次々に戦線を離脱し、自らの領地へ引き上げはじめた。

周辺の地理に詳しい野伏らは、あちらこちらの場所で彼らを待ちかまえ、襲いかかってくる。

戦場周辺の住民X いやぁ、戦場を離脱してみたもののなぁ、その後がまたまたタイヘンみたいですよぉ。

戦場周辺の住民Y いや、ホンマに。野伏に襲われて、日々夜々に命を落とす人は、もう数えきれんほどや。

戦場周辺の住民Z 野伏らの襲撃をかろうじてかいくぐって、なんとか命をつないだ幸運な連中らでさえも、馬も鎧もなぁも無し状態や。何もかも道中に捨てていってしまいよったもんなあ。

戦場周辺の住民X 着物もはぎ取られ、丸裸になってしもぉてなぁ。

戦場周辺の住民Y 破れ簑(みの)を身にまとぉて、肌をかろうじて隠したり、

戦場周辺の住民Z それさえもよぉ手に入れんかったモン(者)は、しょうことなしに、草の葉を腰に巻いて・・・あぁ、カッコワルゥ。

戦場周辺の住民X 恥をかきかき、毎日毎日、次から次へと、四方八方へ逃亡していきよんねんわ。

まさに、前代未聞の恥辱としか、いう他はない。わが日本国の武士たちが先祖代々伝えてきた家伝の鎧、太刀、小刀はみなことごとく、この時に、行方知れずになってしまったのである。

戦場周辺の住民X 例の、名越遠江入道と名越兵庫助の二人は、つまらん口論がモトで、共に命を失ぉてしもぉたし、

戦場周辺の住民Y 幕府軍の他のメンバーらも、親が討たれたら、子は出家姿になって、姿をくらましてしまいよる、

戦場周辺の住民Z 主人が負傷してしもぉたら、家臣はそれを守って、領地へ退却していきよる。

かくして、当初「公称80万」であった幕府軍も、今はわずか、「実数10万余」にまで、減じてしまった。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 7-1 護良親王、再び危機に直面

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

元弘3年(1333)2月16日、幕府・吉野方面軍の大将・二階堂道蘊(にかいどうどううん)は、6万余騎を率いて、護良親王(もりよししんのう)がたてこもる吉野の金峯山寺(きんぷせんじ:奈良県吉野郡吉野町)へ押し寄せた。

菜摘川(なつみがわ)の流れの淀んだ所から寺の方角を見上げてみれば、峰上には白、赤、錦の旗が多数立ち並び、深山から吹き下ろす風にたなびく様は、雲か花かと見まがうほど。山麓には、数千の護良親王軍が、兜の星を輝かし鎧の袖を連ね、あたかも錦の刺繍の敷物を地面に敷いたかのごとくである。

峰は高く道は細く、山は険しく苔は滑らか。たとえ数10万の軍勢で攻めてみたとて、そうそうたやすく、攻め落とせそうにも見えない。

2月18日午前6時、両軍互いに矢合わせ開始、幕府軍サイドは、次々と兵を入れ替えながら攻め続けた。

一帯の地理を知り尽くしている親王軍サイドは、ここの隘路(あいろ)へ、かしこの難所へと走り回り、ダイナミックに集中・拡散を行いながら、矢をバンバン浴びせかけていく。

幕府軍サイドも、命知らずの関東武者ぞろい、親が討たれようが子が討たれようが、主が滅びようが従者が滅びようが、一切おかまいなし。自軍の死骸を乗り越え乗り越え攻め続け、じわじわと寺に肉薄していく。

7昼夜もの間、息をもつがせぬ死闘の連続。その結果、親王軍サイドの戦死者300余、幕府軍サイドの戦死者800余。矢に当たり石に打たれて、生死の境をさまよっている者に至っては、その数、幾千万。一帯の草と芥(あくた)は鮮血に染まり、死骸が小径を埋めつくす。

しかしながら、親王軍サイドには一向に戦い屈した風も見えずに、むしろ幕府軍サイドの多くに、疲労の色がにじみではじめた。

--------

一帯の地理に詳しいからというので、幕府軍に加わっていた金峯山寺の寺務総長(注1)・岩菊丸(いわぎくまる)は、部下を呼び集めていわく、

--------
(訳者注1)原文では「執行(しゅぎょう)」。
--------

岩菊丸 東條(とうじょう)方面軍の大将・金澤(かなざわ)殿(注2)は、もうすでに赤坂城(あかさかじょう)を攻め落とし、今は金剛山(こうごうさん)の方へ進軍してはる、とかいう話や。それにひきかえ、こっちの戦況はなぁ・・・あーあ、情けないこっちゃわ。

--------
(訳者注2)これは太平記作者のミス記述であろう。6-6では、赤坂城攻めの総大将は阿曽治時になっている。
--------

岩菊丸 このへんの地理に詳しいからっちゅうことでやな、軍の一角を任されてるわしらやのになぁ、まったくもう、なんの役にもたててへんわ。ほいでもって、敵陣は陥落しぃひんまま、日が過ぎていく・・・ほんまにナサケないこっちゃでぇ。

岩菊丸軍団メンバー一同 ・・・。

岩菊丸 よぉよぉ考えてみるにや、あの寺は大手側からいくら攻めてみても、ラチあかんわい。こっちサイドの損害が増えるばっかしで、とても寺は落とせへん。

岩菊丸 そこでやな、大手側からではのぉて、寺の背後の金峯山の方から攻め込んでみてはどないかいなぁ、思うんやぁ。あっちの方角は地形が険しいからな、敵側もそれをあてにして、防備を手薄にしとるんちゃうかいなぁ、思うんや。

岩菊丸 というわけでな、このへんの地理に詳しい足軽部隊から150人ほど選抜して、コマンド部隊を結成する。コマンド部隊は夜陰に紛れ、徒歩で金峯山方面から寺に忍び込む。愛染明王宝塔(あいぜんみょうおうほうとう)のへんまで忍び込んだ後、そこで夜明けを待つ。

岩菊丸 夜明けとともに、トキの声をワッと上げる。寺の内の連中らがそれに驚いてアワ食ぅとるトコへ、からめ手と大手からも一気に攻め込む。三方向からの一斉攻撃の結果、めでたく敵陣は落ち、親王を生け捕りにっちゅうのがな、わしの描いたスト-リーや。

さっそく、この地域の地理に詳しい者150人ほどを選んで、コマンド部隊が結成された。岩菊丸の作戦通り、部隊はその日の暮れ時から金峯山中に入り込み、岩を伝い谷を這って、寺に接近していった。

コマンド部隊長 しめた! こっち方面には、敵が一人も配置されとらんやないかい。

コマンド部隊メンバーA なぁんや、あっちこっちの松の枝に、旗結わえ付けとるだけやがな。こないして、虚勢、張っとったんやなぁ。

コマンド部隊メンバーB こないに険しい山やから、わしらが侵入してくるやなんて、あいつら夢にも思ぉとらへんかったんやろうなぁ。

コマンド部隊メンバーC 岩菊丸様のヨミ、見事、当たってたやん。

コマンド部隊100余人は、思うがままに寺の間近に忍び込み、木の下や岩の蔭に弓矢を伏せ、兜を枕にして夜明けを待った。

--------

一斉攻撃開始の時刻になった。

二階堂道蘊 よぉし、攻撃開始! 行けぇ!

幕府軍一同 オォーッ!

幕府軍サイド5万余は三方より押し寄せ、寺めがけて攻め上っていく。蔵王堂(ざおうどう)の衆徒500人余が、攻め口まで下ってそれを防ぎ止める。双方互いに命おしまず、追い登っては追い落とし、火を散らして戦う。

コマンド部隊長 よぉし、こっちも行くでぇ!

コマンド部隊一同 オォーッ!

金峯山の側から寺に侵入したコマンド部隊150人、愛染明王宝塔から攻め下り、寺の方々に火を放ってトキの声を上げる。

形勢は一変、前と後の双方から押し寄せてこられては、到底防ぎきれるものではない。吉野の衆徒らの陣は一気に崩壊した。こちらで腹をかっ切り、あちらに猛火の中へ走り入って死ぬ者あり、向かう敵に引き組んで、刺しちがえて共に死ぬもあり、みな、思い思いに討死にしていく。大手方面の堀はたちまち死者で埋まり、平地と化してしまった。

さらに、からめ手方面からも、親王軍サイドの虚をついて幕府軍が攻め込んできた。彼らは勝手明神(かってみょうじん)の社(やしろ)の前から、護良親王がたてこもる蔵王堂(ざおうどう)へと迫っていく。

護良親王 もうこうなっては、逃れるすべもないな。よし!

親王は、覚悟を定めて武装を整えた。赤地の錦の鎧直垂(よろいひたたれ:注3)の上に緋色おどしのま新しい鎧を寸分の隙もなく装着する。頭には龍頭(たつがしら)の飾りつきの兜をかぶって緒をしめ、足には白檀(びゃくだん)色に磨きぬいた脛当(すねあて)、脇には3尺5寸の短刀を挟む。

--------
(訳者注3)鎧の下に着る着物。
--------

親王に負けず劣らぬ武術手練(注4)のツワモノ20余人が、親王の前後左右を護る。幕府軍サイドの群がり待ち構える中に突入し、東西を払い、南北へ追い廻し、黒煙を立てて切り回る。幕府軍サイドは大兵力を擁しているにもかかわらず、このわずかの小勢に切り立てられ、木の葉が風に散るがごとくに、四方の谷にさぁっと退いていく。

--------
(訳者注4)大原(京都市・左京区)の三千院(さんぜんいん)に、「護良親王が所持していた長刀」とされているものがあるようだ。残念ながら、それを私はまだ見たことがない。
--------

幕府軍サイドを撃退した後、護良親王らは、蔵王堂内の広庭に大幕を引きめぐらした中に居並び、最後の酒宴を始めた。

見れば、親王の鎧には矢が7本も突き立っている。頬と二の腕の2か所に突き傷を負い、滝のように血が流れている。しかし、親王は突き立った矢も抜かず、流れる血潮も拭わないまま敷皮の上に立ち、大きな杯で酒3杯を飲み干した。

木寺相模(こでらさがみ)が、4尺3寸の太刀の切っ先に敵の首をさし貫き、親王の前で舞いはじめた。

小寺相模 刀剣を振り回すこと 電光を発するがごとく
     大石巨岩を飛ばすこと 春雨のごとし
     しかしながら 天帝の身にはついに近づけず
     修羅(しゅら)は破れたり

(原文)
戈鋋剣戟(かせんけんげき)をふらす事 電光の如く也
盤石(ばんじゃく)巌(いわお)を飛(とば)す事 春の雨に相(あい)同(おな)じ
然りとは云(い)え共(ども) 天帝(てんてい)の身には近づかで
修羅(しゅら) かれが為に破らる

声高くリズミカルに舞うその様は、漢(かん)と楚(そ)との「鴻門の会(こうもんのかい)」を彷彿とさせる。楚の項伯(こうはく)と項荘(こうそう)が剣を抜いて踊っていたその時、高祖(こうそ)の臣・樊噲(はんかい)が、庭に立ちながら幕を掲げて、楚王・項羽(こうう)を睨み付けたその気迫、まさにかくのごとくであったかと。

大手方面もいよいよ危うくなってきたと見え、両軍のトキの声が相混じって聞こえてくるようになった。

村上義光(むらかみよしてる)が、親王のもとへ走り来た。迫り来る幕府軍に対して、自ら最前線に立って死闘を展開していたと見え、鎧には16本もの矢が。枯れ野に残る冬草が風に伏すがごとくに、それらの矢は折り曲げれらて、鎧につき刺さったままである。

村上義光 殿下! こないなトコで、いったい、ナニしたはりますのん! 大手の方で、一の木戸がふがいなく攻め破られてしもぉたから、わしは二の木戸で敵を食い止めながら、何時間もガンバッテましたんやでぇ! そやのに、こっちの御座所の方角から、ナント、酒盛の歌声が聞こえてくるやないか! いったいぜんたいドナイなっとんねんと、肝冷やして飛んできましたんや!

護良親王 ハハハ、見ての通りや。もう死ぬしかないなぁと思ぉてな、この世の最後の宴をなぁ、ハハハ・・・。

村上義光 ナニ言うてはりまんねん、殿下! そないなコト、言うてる場合ですかぁ! 敵はもう、カサにかかって攻めてきよる、こっちはもう、気力もナンモカモ、失せてしもとる。殿下、もう、この寺はもちません。敵が包囲の網を広げんうちに、さ、早(はよ)ぉ、敵の一角を打ち破ってね、とにかくここから、脱出なされませ!

護良親王 ・・・。

村上義光 後に残って戦うもんが、一人もいいひんようになってしもぉたら、殿下がここを脱出しはった事、敵に感づかれてしまうわな。そないなったら、どこまで行っても、追跡の手が伸びてきますやろ。そやからね、殿下、まことにおそれ多い事ですけどな、殿下がいま着てはるその直垂と鎧をね、わしに下さい。わし、それ着て、殿下になりすましますわ。敵の目をあざむいて、殿下の身代わりに、わし、なりますわ。

護良親王 ナニ言うてんねん! お前も私も、死ぬ時はいっしょや!

村上義光 (声を荒げて)あぁ、ほんまに、あきれて、もぉよぉ言わんわぁ!

護良親王 ・・・。

村上義光 漢の高祖が滎陽(けいよう)で敵に包囲された時、紀信(きしん)は自ら、高祖になりすまして敵の目を欺きたい、と申し出て、高祖はそれを許したでしょうが! それにひきかえ、殿下ときたら・・・。臣下といっしょに死ぬやなんて、そないにチッポケな了見の持ち主が、いったいなんで天下平定なんちゅう、大それた事を思い立たはったんやろうかなぁ、あぁ、情けな!

村上義光 殿下、もうとにかく時間がないんですわ! はよ、その鎧、脱いで脱いで、はよ、はよ!

義光はこう言いながら、親王の上帯を解きにかかった。ついに親王も意を決し、鎧と直垂を脱いで義光に渡した。

護良親王 義光・・・(涙)もしも、生き延びる事ができたらな、お前の菩提は間違いなく私が弔ぉたるからな・・・もし、敵の手にかかるような事になったら、その時は二人いっしょに冥土へ行こな!

村上義光 殿下、さ、はよ、はよ、行ってください!

護良親王 うん!(涙)

護良親王は、涙を流しながら勝手明神の前を過ぎ、南の方へ落ち延びていった。村上義光は二の木戸の櫓に登り、逃げゆく親王の姿をはるかに見送り続けた。

村上義光 (内心)殿下、どうか、ご無事でなぁ・・・。

親王の後ろ姿は、義光の視野から消えていった。

村上義光 よし、これでよし・・・さぁて、いよいよわしの最期の時がきたわ、いぃくでえぇ!

彼は、櫓の矢窓の板を切って落とし、身を顕わにして大音声を張り上げた。

村上義光 おいおい、幕府軍のものどもら、よぉ聞けよぉ! 天照大神(あまてらすおおみかみ)の御子孫、神武天皇(じんむてんのう)より数えて95代目の帝(みかど)であらせられる天皇陛下の次男、我、護良親王、逆臣の為に滅ぼされ、あの世に行って恨み晴らさんがために、たった今自害する有様を、よぉ見ておけよぉ! おまえたちの武運がたちまち尽きて腹切らんならんようになった時にはな、これを手本にするがえぇ!

義光は、鎧を脱いで櫓から下へ投げ下ろし、錦の鎧直垂と袴姿となり、練り絹の二重袖をはだけた。

村上義光 エェーイ!

美しい白い肌に刀を突き立て、左の脇腹から右の脇腹まで一文字にかっ切った。そして自分の腸をつかみ出して櫓の板に投げつけ、太刀を口にくわえた後、うつぶせに伏して絶命した。

幕府軍メンバー一同 おぉ! 親王が自害したぞ! よし、あの首、オイラが頂き!

四方の囲みを解いて二の木戸めがけて集中してくる幕府側全軍、それと行き違いに寺を脱出する護良親王の一行。このようにして護良親王は、天の河(てんのかわ:奈良県・吉野郡・天川村)へからくも脱出した。

--------

しかし、なおも護良親王の危機は続く。

南方から回り込んできた岩菊丸軍団500余は、地元に長年住み慣れて地理がよく分かっている者ぞろい、親王の行くてを阻んで全員討ち取とってしまおうと、包囲の輪をグイグイと縮めてきた。

親王と行動を共にするグループの中に、村上義光の子・義隆(よしたか)がいた。その時、彼の脳裡をよぎったのは、つい先ほどの父との別離の際の記憶であった。

村上義光が今まさに自害という時、義隆は父と運命を共にしようと思い、二の木戸の櫓の下へ駆けつけたが、それを見た義光は、一喝。

村上義光 こらぁ! いったいなんでそないなトコ、ウロウロしとるんや!

村上義隆 オレも、いっしょに腹切ります!

村上義光 フザケンナァ!

村上義隆 ・・・。

村上義光 そらぁな、父子の義を全うするのんも、確かに大事な事や。そやけどな、オマエ、時と場合っちゅうもんを、よぉ考えよぉ。今、一番大事な事は、殿下の身をお守りする事やろが! 自分の命を全うして、殿下をきっちりお守りせんかい!

このようなわけで、村上義隆は仕方なく自らの命をしばらく延ばして、親王のお供をしていたのであった。迫り来る岩菊丸軍団を目の当たりにして、

村上義隆 (内心)もう絶体絶命の窮地や。今ここで自分が身ぃ投げ出して敵を防がへんかったら、殿下はとても、逃げおぉせへん。

彼はたった一人で、そこに踏み止まり、

村上義隆 エーイ!

馬 ヒヒヒーーン!

追跡してくる岩菊丸軍団サイドの馬の足をなで切りにしたり、

村上義隆 エヤー!

馬 ギュヒーン!(ドターン!)

馬の前頭部を切り付けて騎手を跳ね落としたりしながら、奮戦する。

このようにして、彼は曲がりくねった細道に立ちふさがり、迫り来る岩菊丸軍団500余の追撃を、1時間ほどそこで食い止めた。

義隆の忠節は石のごとく硬い。しかし、彼とて人間、金鉄で出来た体を持っているわけではない。ついに、岩菊丸軍団に周囲を取り囲まれ、一斉に矢を射掛けられ、10余か所もの傷を負ってしまった。

村上義隆 (内心)どうせ死ぬんやったら、敵の手にかかって死にとぉないわい!

彼は、小竹が一叢(むら)生えた薮の中に走り入り、自らの腹をかっ切って死んでいった。

このようにして、村上父子が自らの命をなげうって敵を防ぐ間に、護良親王は虎口を逃れ、ついに高野山(こうやさん:和歌山県・伊都郡・高野町)へ落ち延びることができたのであった。

--------

村上義光が親王になりすまして腹を切った事を、幕府軍の大将・二階堂道蘊はついに見破れなかった。その首をとって京都へ送り、六波羅庁に検分させたところ、親王のではない、全く別人のものと判明。その首は獄門に掛けられる事もなく、墓地の苔の下に埋もれてしまった。

二階堂道蘊 (内心)金峯山寺を首尾よく攻め落として、最高の殊勲を達成することはできたが・・・護良親王をとり逃してしまったのが、やっぱし、心残りだ。

彼は、軍を率いて高野山へ押し寄せ、根本大塔(こんぽんだいとう)に陣取って親王の行方を捜索した。

しかし、高野山衆徒らは心を一つにして、護良親王を匿ったので、捜索数日の努力も空しく、二階堂軍は、高野山を引き払い、楠正成(くすのきまさしげ)がたてこもる千剣破城(ちはやじょう)へ向かった。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年7月 3日 (月)

新作動画の発表 [白川 京都]

ユーチューブ上に、自らが制作した複数の動画をアップロードしました。バックグラウンド音楽に、自作曲を使用しました。

下記でご覧になることができます。

------------------------------------------------------------
撮影地:京都市内 白川べり
     行者橋(一本橋)の付近の場所
     東山駅(地下鉄)付近の場所
     石泉院橋の上
     石泉院橋の付近の場所
撮影時:2017年6月
バックグラウンド音楽 作品名:言葉にならない想い・第1番 Op.29

------------------------------------------------------------
撮影地:京都市内 白川べり
     なすあり地蔵の付近の場所
撮影時:2017年6月
バックグラウンド音楽 作品名:京都・白川沿いの道 Op.28

------------------------------------------------------------
撮影地:京都市内 白川べり
     巽橋の上、巽橋の付近の場所
撮影時:2017年6月
バックグラウンド音楽 作品名:京都・白川沿いの道 Op.28

------------------------------------------------------------
私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

2017年7月 1日 (土)

信州 おもいで 上高地 2013年 5月

2013年5月に、信州の安曇野を訪問、碌山美術館に行った事は、
前回発表の記事 
の通りですが、その後、JR穂高駅から大糸線に乗り、JR松本駅へ、その夜は、松本駅近くのホテルに宿泊しました。

翌朝、最小限の荷物だけ持ってホテルを出て(ホテルにはその日も宿泊予定)、上高地へ。

------

[松本電鉄 上高地線]に、[松本駅]で乗車、[新島々](しんしましま)駅で下車。

かつて、[島々駅]があり、新しく駅を造ったので、[新島々]としたのだそうです。[新島々駅]の付近に、かつての[島々駅]の建物が移設されて保存されているのだそうです。

「しましま」、おもしろい名前です。

[地理院地図]で見てみると、[新島々]駅の西方に、[島々]という地名の所があるようです。

------

[新島々]からバスに乗り、上高地へ。

だいぶ前に、社会科の授業の時に、[V字谷]というのを教わった記憶がありますが、バスの窓から見える景観を見て、「これが、そうなのかも!」と思いました。

浸食が進んでいくと、この地形もやがては、[準平原]へと変わるのか、というような事も思いました。

途中、特にスゴイと思ったのが、

 鵬雲崎(ほううんざき)

[水殿ダム]から[梓川]に沿って、上流に行った所にある、断崖絶壁の場所、壮絶な景観でした。(バスの窓ごしにでも、その景観を撮影しておくべきであったと、後悔)

そして、

 奈川渡ダム

なんと、アーチ型のダムの頂上部分が道路になっており、そこをバスが走っていくのです! こんな場所を行く体験は、初めてです。(バスの窓ごしにでも、その景観を撮影しておくべきであったと、後悔)

[釜トンネル]を通過して更に先に進むと、[大正池]が見えてきました。これまで、画像や映像でしか見れてなかった、この場所の景観を、今、自分の目で見ている!

そして、バスは、[上高地バスターミナル]へ到着。

事前に、上高地に関していろいろと調べている中に、一番気になったのが、現地の気温でした。

[地理院地図]で調べていただいたらわかると思いますが、松本駅付近と上高地との標高差は、とても大きいのです。

松本駅から上高地の河童橋へ行く途中のポイントの標高を[地理院地図]で調べてみたら、以下のようになりました。

 松本駅付近:約 580m
 新島々駅付近:約 690m
 奈川渡ダム付近:約 980m
 釜トンネル付近:約 1310m
 上高地・河童橋付近:約 1500m

なので、上高地と松本駅付近との標高差は、

 約 920m ( = 1500 - 580 )

標高の高い所へ行くにつれて、気温は下がっていくようでして、これを、[気温減率](temperature lapse rate)というのだそうです。

気象条件によって、[気温減率]は変化するのでしょうが、かりに、

 100m、標高が増えるごと、気温が、0.7℃、下降

 とすると、

松本駅と上高地との、同一日同一時刻の気温の差は、

 0.7 × ( 920 ÷ 100 ) = 6.44 ℃

松本の5月の平均・最高気温をネットで調べてみたら、

 22.9 ℃

 という値がありました。

 これに対して、上記の[気温減率]の値をあてはめてみると、

 上高地の5月の平均・最高気温 = ( 22.9 -  6.44 ) = 16.46 ℃

ところが、バスから降りてみたら、とても快適な気温なのです。

この日、上高地にいる間、快適な気温の中に、歩き回ることができました。

(ということは、松本は、季節外れの高温だったのかも?)

------

[上高地バスターミナル]から少し歩いて、梓川の川べりに着きました。

P1 画像の右の方に、[河童橋]が写っています。
P01

川べりを歩いて、[河童橋]へ。

下記P2~P4は、橋の上で、あるいは、橋の付近で撮影したものです。

眼前に、梓川の清流、その向こうに、残雪の穂高連峰が。

P2
P02

P3
P03

P4
P04

あぁ、日本にも、こんな所があったのかぁ、日本に上高地があって、ほんとに良かった、と思いました。

[河童橋]を渡って、梓川の北側の岸へ。そこから、[ウェストン碑]を目指して、歩きました。

P5
P05

P6
P06

P7 ウェストン碑
P07

[ウォルター・ウェストン]によって、[日本アルプス]の名が外国の人々の知るところとなったようです。

[上高地 歴史 上條嘉門次 ウォルター・ウェストン]
[槍ヶ岳 播隆]

でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

------

[ウェストン碑]のある場所から、[田代橋]を目指して、歩きました。

下記は、ウェストン碑 ~ 田代橋 間の場所で撮影した画像です。

P8
P08

下記は、田代橋の付近で撮影した画像です。

P9
P09

[田代橋]から、[田代池]を目指して、歩きました。

下記は、田代橋 ~ 田代池 間の場所、および、田代池 で撮影した画像です。

P10
P10

P11
P11

P12
P12

P13
P13

P14
P14

P15
P15

P16
P16

P17
P17

P18
P18

その後、[田代橋]へ戻り、更に、[河童橋]を目指して、歩きました。

下記は、田代橋 ~ 河童橋 間の場所で撮影した画像です。

P19
P19

P20
P20

P21
P21

P22
P22

P23
P23

梓川の奥には、あの、[奥穂高岳]が。

奥穂高岳、標高 3190m、日本第3位の高峰。

上高地・河童橋付近の標高は、約 1500m。
奥穂高岳の山頂と河童橋との標高差は、1690m ( = 3190 - 1500 )。

これだけの標高差をものともせずに、登山する人々は穂高や槍を目指して行くのです、スゴイですねぇ。

そしてそのあたりには、その名前を聞くだけでも、背筋がゾクゾクしてくるような場所が。(おそらく、この先、私が行くことは無い所でしょうが)。

[岳沢]
[涸沢]
[ザイテングラート]
[紀美子平]
[重太郎新道]
[ジャンダルム]
[馬の背]
[ロバの耳]
[天狗岩]
[吊尾根]
[前穂高岳]
[西穂高岳]
[西穂独標]
[ピラミッドピーク]
[大キレット]
[逆層スラブ]
・・・

動画サイトで、[奥穂高 馬の背]などで検索すると、様々な険しい所を行かれた記録映像を見ることができます。一歩踏み誤れば・・・というようなこのような場所で、映像を撮影されるなんて、ものすごい余裕というか、なんというか・・・スゴイですねぇ。

[河童橋から見える山 名前]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

-----
下記のキーワードでネット検索して、上高地に関連する情報を得ることができました。

[上高地 河童橋 芥川龍之介]
[上高地を美しくする会]
[上高地 ライブカメラ]
[上高地 穂高連峰]
[上高地 岳沢]
[上高地 涸沢カール]
[ジャンダルム 吊尾根 上高地]
[上高地 焼岳]

河童橋の近くのカフェで、アップルパイを食べた(とてもおいしかった)後、上高地バスターミナルからバスに乗り、松本へ。

« 2017年6月 | トップページ | 2017年8月 »

フォト
無料ブログはココログ