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2017年8月

2017年8月21日 (月)

太平記 現代語訳 10-7 長崎思元・為基父子の奮闘

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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やがて、由比ヶ浜(ゆいがはま:鎌倉市)一帯や稲瀬川(いなせがわ:鎌倉市)東西の家々から、火の手が上がり始めた。

おりからの激しい浜風にあおられて、炎と黒煙は車輪が転り行くがごとく四方八方へ飛散(ひさん)、10町ないし20町ほども隔たった所にまで燃え移り、同時に20余箇所から火柱が立ち上り始めた。

猛炎の下から、倒幕軍の武士たちが続々と攻め入ってくる。途方に暮れる幕府軍の人々をここかしこで、射伏せ切り伏せ、引き組み刺し違え、生け捕り分捕り。

煙にまかれる女や子供たちが、追い立てられて、火の中、堀の底へと逃げ倒れていく。

帝釈宮(たいしゃくきゅう)中の戦闘において、阿修羅王(あしゅらおう)の部下たちが帝釈天(たいしゃくてん)になぎ倒され、剣戟(けんげき:注1)の上に倒れ伏していく様もかくのごとしか、あるいは、阿鼻叫喚地獄(あびきょうかんじごく)に苦しむ罪人たちが、地獄の獄卒(ごくそつ)たちの槍の穂先に追い立てられて、熱鉄湯池(ねってつとうち)の底深く落ち込んでいく姿もかくのごとしや・・・あぁもはや、語るに言葉なく、聞くに哀れを催し、ただただ涙にむせぶばかり。

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(訳者注1)剣(つるぎ)や戟(中国の武器、棒状)。
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煙が四方から迫り来て、ついに、北条高時(ほうじょうたかとき)の館付近にまでも、火がかかり始めた。

高時は、1,000余騎を連れて葛西が谷(かさいがやつ:鎌倉市)の東勝寺(とうしょうじ)にたてこもり、諸大将率いる武士たちは寺内に充満。この寺は北条氏父祖代々の墳墓(ふんぼ)の地、武士たちに防ぎ矢を射させ、この寺内にて心静かに自害しようというのである。

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長崎思元(ながさきしげん)・為基(ためもと)父子は、極楽寺坂(ごくらくじざか)切り通し方面へ向かい、攻め入ってくる倒幕軍に相対して必死の防戦を行っていた。しかしながら、倒幕軍側のトキの声は既に小町通り(こまちどおり)付近にまで達しており、高時の館にもはや、火がかかったようである。

長崎父子は、指揮下の武士7,000余騎をそこに残し、手勢600余騎のみを率いて、小町通りへ急行。これを迎えうつ倒幕軍の武士たちは、彼らを殲滅(せんめつ)せんものと、包囲の輪をグイグイと縮めてくる。

長崎父子とその部下たちは、一所に打ち寄せては魚鱗(ぎょりん)陣形に連なって懸け破り、虎韜(ことう:注2)陣形に分散しては相手を追い靡(なび)け、七度八度と攻めかかっていく。倒幕軍側は、蜘蛛手(くもで)、十文字(じゅうもんじ)に懸け散らされ、若宮小路(わかみやこうじ)へさっと退却、人馬にしばしの休息を取らせる。

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(訳者注2)中国春秋時代の[六韜]という兵法書にある中の戦法。
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そうこうするうち、今度は天狗堂(てんぐどう)方面、扇が谷(おうぎがやつ)方面にも倒幕軍が回ったと見え、そちらの方角からもおびただしい黒煙が立ち上りはじめた。

長崎為基 (内心)もうこうなったら、父子左右にあい分かれ、

長崎思元 (内心)それぞれの場所の防衛に、馳せ向かうしかない。

長崎為基 (内心)あぁ、父上の姿を見るのも、これが最後か!(涙)

為基は馬を止め、遙か彼方にいる父を名残(なごり)惜しげにじっと見つめた。それを見た思元は、為基をキッと睨み付け、馬をひかえて大声でしかりつけた。

長崎思元 おい! メメしいぞ! なにをそんなに、名残を惜しんでる!

長崎為基 ・・・(涙)。

長崎思元 片方が死んで行き、もう片方が生き残るってんだったらな、そりゃぁ、名残を惜しみたくなるのも、もっともな話さ。いつとも期しがたい再会なんだから。

長崎思元 だけどな、考えてもみろよ、おれもおまえも、今日の日暮れ時までに、共に討死にする身じゃぁないか。明日になればまた、冥土(めいど)のどこかで落ち合う事になるってわけだ、別れてるのもたった一夜の間だけだろ、なのに、いったいナニをそんなに悲しんでる!

為基は、涙をおし拭っていわく、

長崎為基 分かりました、もう悲しみません!

長崎思元 よぉし!

長崎為基 では父上、冥土の旅にお急ぎください。死後に越えるとかいう、あの山道で待ってますからね!

このように言い捨てた後、倒幕軍の大軍中に懸け入っていく為基の心中、まことに哀れ。

戦い続けるうちに、為基に従う者は次々と戦死、たった20余騎だけになってしまった。倒幕軍3,000余騎は、彼らを包囲し、速やかに勝負をつけてしまおうと、ギリギリと肉薄してくる。

為基が持つ太刀は、「面影(おもかげ)」という名の名刀である。刀匠(とうしょう)・来太郎国行(らいたろうくにゆき)が、百か日の精進潔斎(しょうじんけっさい)を行った後に、100貫の鉄を使って3尺3寸に打ち鍛えた太刀。この切っ先にいったん回ったが最後、あるいは兜の鉢をまっぷたつに割られ、あるいは鎧の胸板を袈裟(けさ)がけに切って落とされ・・・倒幕軍側メンバーらはことごとく、為基に追い立てられ、あえて彼に近づこうとする者は皆無になってしまった。ただただ遠巻きにし、射手の密集集団で遠矢を放って、彼を射殺そうとする。

矢 ビュンビュンビュンビュンビュンビュン・・・。

為基の乗馬 ヒヒーン!

為基の乗馬に、矢が7本突き立った。

長崎為基 (内心)エェイ、馬をやられてしまったぁ! こうなっては、敵軍のオオモノに接近して引き組む事もできないなぁ・・・よぉし!

為基は、由比ヶ浜の大鳥居の前で馬からユラリと飛び下り、ただ一人、太刀を逆さまに地について、その場に仁王立(におうだ)ち。

倒幕軍メンバーらはこれを見て、なおもただ十方から遠矢を射るばかり、彼に立ち向かっていこうとする者は誰もいない。

長崎為基 (内心)エェイ! 矢ばかり打ってきやがる! これじゃぁ、ラチがあかん、なんとかして接近戦に持ち込まないと・・・よぉし・・・。

為基は、負傷したかのように装い、膝を折って地上に伏した。

それに欺(あざむ)かれて、どこの家中の者であろうか、輪子引両(りゅうごひきりょう)の笠標(かさじるし)を着けた武士50余人が、為基の首を取らんとして、互いに競いあいながらヒシヒシと、彼に接近してきた。

頃合いを見計らい、為基は、ガバと身を起して太刀を取り直し、

長崎為基 こらぁ! どこのドイツだぁ! 戦にくたびれて気持ち良く昼寝してるの、起こしやがって! よぉし、オマエらがそんなに欲しがってるこの首、くれてやるぜぃ! 欲しけりゃぁ、取って見ろぃ!

鐔元(つばもと)まで血にまみれた太刀をうち振い、落ちかかる雷鳴のごとき勢いをもって、為基は、両手を左右に張り広げ、相手に襲いかかっていく。これにおそれをなして、接近してきた50余人はアタフタと、その場から逃げていく。

長崎為基 こらこら! いったいどこまで逃げる気だぁ! ヒキョウ者、逃げるな、返せ、返せー!

逃げる武士A (内心)アイツのノノシリ声、オレの耳のすぐ側から聞こえてくるようなカンジがする。

逃げる武士B (内心)この馬の足、もっと速いはずだったのに。

逃げる武士C (内心)一向に前へ進んでねぇじゃねえか、もっと速く、速くぅ!

逃げる武士D (内心)もう、恐ろしいなんて、そんなナマヤサシイもんじゃぁねぇぜ。

逃げる武士E (内心)まったくもう、トンデモねぇヤロウだ!

その後なおも、為基はたった一人で戦い続けた。敵中へ懸け入ってはその裏へ抜け、とって返しては懸け乱し、今日を限りと闘い続けた。

このように、5月21日の合戦において、由比ヶ浜にひしめく倒幕側の大軍を東西南北に懸け散らし、両軍双方の目を驚かした長崎為基であったが、その後の彼は生死も定かではなく、その消息を知る者は誰一人としていない。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月20日 (日)

太平記 現代語訳 10-6 討幕軍、稲村ヶ崎を経由、鎌倉へ

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田軍伝令A 極楽寺坂切り通し(ごくらくじざかきりどおし:鎌倉市)へ向かわれた大館宗氏(おおたちむねうじ)殿、本間山城左衛門(ほんまやましろざえもん)という者に討たれて戦死。大館殿率いる軍は、片瀬(かたせ:神奈川県・藤沢市)、腰越(こしごえ:鎌倉市)まで退却!

新田義貞(にったよしさだ) ナニッ! 宗氏が! ううう・・・(涙)。

義貞は、再度その方面からの攻撃を期して21日夜半、勇猛の2万余騎を率いて、片瀬、腰越を経由、極楽寺坂へと進んだ。

やがて、高天に輝く月の光の下、義貞の眼前に、幕府軍の防衛陣が見えてきた。

新田義貞 (内心)敵陣のどっかに、弱点ねぇもんかなぁ・・・(じっと目をこらす)。

北方の切り通しに至るまで、山は高く路は険しく、幕府側の守備陣営は木戸を構え盾を並べ、その兵力はざっと数万、守りは極めて堅い。

南方は、稲村ヶ崎(いなむらがさき)の海浜(かいひん)。砂浜の中を通る路は極めて狭く、そこには波打ち際まで逆茂木(さかもぎ)がびっしりと設置されていて、倒幕軍の進入を食い止める強固な障害物となっている。しかも、その沖合い4、5町ほど隔たったあたりには幕府軍の大船多数が浮かび、その船上には櫓(やぐら)が築かれている。

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(訳者注1)
鎌倉は、西方、北方、東方の三方向に山、南方に海、という、攻めにくい地形になっている。

討幕軍は、関東地方の様々な場所からやってきた武士で構成されていたであろうから、海上の戦には不慣れである。よって、鎌倉の南方の海からの、[由比ヶ浜上陸作戦]は遂行不可能であり、極楽寺坂切通、巨福呂坂等の、陸上の[進入可能ポイント]を経由して、鎌倉へ軍を進めるしかない。

[稲村ヶ崎]は、そのような[進入可能ポイント]のうちの一つであったろう。

[地理院地図]を使用して、[稲村ヶ崎]の付近を見ていただくと、状況を良く理解していただくことが可能であろうと思われる。

[地理院地図]にアクセスし、[稲村ヶ崎駅]で検索すると、[江ノ電(江の島電鉄)]の[稲村ヶ崎駅]の付近が表示されると思う。

[稲村ヶ崎駅]の南東方向に、少し海に突き出た陸地がある場所、そこが、[稲村ヶ崎]である。

[稲村ヶ崎]より西側にある海浜が、[七里ヶ浜]である。

鎌倉は、[稲村ヶ崎]より東方にある。

[稲村ヶ崎]のあたりの等高線を見ると、そこが、海岸よりも高くなっている場所であることが分かると思う。

[七里ヶ浜]に立ち、[稲村ヶ崎]の方向にレンズを向けて、訳者がかつて撮影した画像が、下記である。

P1

P1

このような地形なので、[七里ヶ浜]から[稲村ヶ崎]を経由して鎌倉へ軍を進めることは、容易な事ではないと思われる。
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新田義貞 (内心)うーん・・・ここを強行突破して鎌倉へ進むのは、相当難しいぞ。あんな逆茂木だらけの狭い道だ、あそこを通過するには相当手間どるだろうよ。そんなこんなでゴチャゴチャしている所を、海上の船から、矢の雨ビュンビュンか。

新田義貞 (内心)ドウリで、こっち方面に向かった連中らが、敵陣突破できずに退却したの、ムリもねぇやなぁ。

新田義貞 (内心)ウーン・・・いったいどうしたもんだべ・・・。

新田義貞 (内心)よぉーし!

義貞は、馬から下りて兜(かぶと)を脱ぎ、稲村ヶ崎の砂浜の上に伏した。そして、はるか彼方の沖合に目を注ぎ、一心に祈り始めた。

新田義貞 伝え聞くところによりますれば、伊勢神宮(いせじんぐう)に鎮座(ちんざ)まします日本開闢(かいびゃく)の主・アマテラスオオミカミノミコト様は、その本体は大日如来(だいにちにょらい)、しかして、時には龍神(りゅうじん)に化身(けしん)して、我ら人間界に降臨(こうりん)したまい、その威神力(いじんりき)を示現(じげん)したもうと。

新田義貞 わが日本国の主君なる先帝陛下は、ミコト様のご子孫であらせられます。しかるに陛下は、今や逆臣(ぎゃくしん)のために、西海(さいかい)の波間に漂泊(ひょうはく)のおん身の上でございます。

新田義貞 この義貞、陛下の臣としての道を全うせんがため、陛下よりのお許しを得て、大敵・北条(ほうじょう)氏に対して、まさに今、立ち向かわんとしております。その目的はといえば、ひとえに朝廷の統治を助け奉り、わが国家全土の人民の生活を安泰(あんたい)ならしめんがためであります。

新田義貞 仰ぎ願わくは、内海(ないかい)、外海(げかい)の龍神八部衆(りゅうじんはちぶしゅう)、私のこの忠義の志を、なにとぞお汲み取りいただき、わが眼前に満つるこの潮(うしお)を、万里のかなたへと遠ざけ、わが軍の前に、一筋(ひとすじ)の進路を開かしめたまえーーっ!

義貞は、至心に祈念込め、腰に佩(は)いている黄金作りの太刀を手に取った。

新田義貞 エェーーイ!

彼は、その太刀を海中へ投じた。(注2)

太刀 ヒューーーー、ザバン!

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(訳者注2)大事な太刀を、龍神にささげたのである。古来から龍神は、「水」に関係する様々の現象をコントロールすると、信じられてきた。
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義貞の志が、龍神に納受(のうじゅ)されたのであろうか、その夜、月が没する頃、

討幕軍メンバーB おい、見ろ見ろ、あれ!

討幕軍メンバーC オオオ・・・。

討幕軍メンバーD 潮が・・・。

討幕軍メンバーE グイグイと・・・。

討幕軍メンバーF 引いていくぅ・・・。

討幕軍メンバー一同 ウオオオ・・・。

それまで干上がる事が全く無かった稲村ヶ崎の海浜底が、20余町にわたって、にわかに海中より現われた。まさに、たぐいまれなる不可思議現象としか、いう他は無い。

義貞の眼前に延々と続く、広い砂浜・・・海上から矢を射かけんと待機していた幕府側の数千の船は、引き潮に押し流されて、沖合いはるか彼方に隔たってしまった。もう、矢は届かない。

義貞は叫んだ、

新田義貞 オオオ・・・海が動いたぁ!

新田義貞 こんな話を聞いたことがあるぞ、「古代中国・後漢(こうかん)王朝の貳師(じし)将軍、城中に水尽き、兵が渇に悩まされるに至り、刀を抜いて岩石に突き差すやいなや、そこから水がにわかに吹き出し」・・・。中国だけじゃぁない、わが国だって・・・神宮皇后(じんぐうこうごう)が新羅(しらぎ)を攻められた時に、自ら珠を取って海上に投げられたとたん、潮が遠く退き、その結果、ついに勝利を納めることができたという。

新田義貞 なぁ、みんな! 今、おれたちの目の前に現れてるこの超常現象(ちょうじょうげんしょう)、和漢の佳例(かれい)、古今の奇瑞(きずい)に、実にまぁよく似てるじゃねぇかよぉ! こうなったらこっちの勝利、もう間違い無しでぃ!

討幕軍メンバー一同 そうだそうだ、勝利、間違い無ぁし!

新田義貞 ついに今、おれたちの前に、道が開けたんだぁ! 鎌倉(かまくら)への道がなぁー!

討幕軍メンバー一同 ウオオーーー!

新田義貞 さぁ、みんな、行けー! 進めぇー、進めぇー、進めぇー!

討幕軍メンバー一同 ウオオオーーー! ウオオオーーー! ウオオオーーー!

新田義貞 鎌倉だぁー!

討幕軍メンバー一同 ウオオオオーーーーー!

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江田(えだ)、大館(おおたち)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、田中(たなか)、羽川(はねかわ)、山名(やまな)、桃井(もものい)家の人々をはじめ、越後(えちご:新潟県)、上野(こうづけ:群馬県)、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、相模(さがみ:神奈川県)の軍勢ら6万余騎は、一団となって稲村ヶ崎の遠干潟を真一文字に駆け抜け、鎌倉の中に突入、幕府側防衛陣の背後に回り込んだ。

敵軍に稲村ヶ崎を突破されて、背後に回り込まれる、というような事態など、想像だにもしていなかった幕府側の大軍勢は、パニック状態に陥った。

彼らは、背後から攻めこんできたこの軍勢に立ち向かおうと、全軍一斉に向きを変えた。そこをすかさず、つい先ほどまで幕府軍の前面に位置していた倒幕軍側の別の勢力が、攻撃をしかけていく。

背後の敵を攻めんとすれば、前方の敵が襲いかかってくる。前方の敵を防がんとすれば、背後の大軍が道を塞いで幕府軍を殲滅(せんめつ)せんと迫ってくる。挟み撃ちになってしまった幕府軍側は進退窮まって東西に迷走し、とてもまともに、防衛戦を展開できないような状態になってしまった。

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幕府軍サイドに、嶋津四郎(しまづしろう)という武士がいた。大力の持ち主にして才能、体格ともに優れた人物。「これは、イザという時に頼りになる男だ」ということで、北条家執事(しつじ)・長崎円喜(ながさきえんき)が烏帽子親(えぼしおや:注3)となり、「嶋津四郎こそは、一騎当千の勇士なり」と、北条家からの信頼が厚かった。

このような人であるがゆえに、「ここが戦の分かれ目という大事な局面になった時に、出陣させよう」というわけで、未だに鎌倉の周囲の口々の守備陣へは派遣されず、北条高時(ほうじょうたかとき)の館の周辺に、待機させられていた。

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(訳者注3)若者が元服(成人式)をする時に、烏帽子親となる者は、若者に烏帽子をかぶらせ、烏帽子名(自分の名の一字)を与えた。
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やがて、「海岸方面の防衛線を敵は突破、すでに若宮小路(わかみやこうじ)にまで、侵入!」との情報が飛び交いはじめ、北条高時(ほうじょうたかとき)の周辺もいよいよ、騒然となってきた。

高時は、嶋津四郎を呼び寄せ、自ら手酌をして彼に酒を勧めた。そして、嶋津が盃を三杯傾けた後、三間四方の厩(うまや)に飼っていた白浪(しらなみ)という名の関東一の名馬に白鞍を置いて、彼に与えた。これを見た者は皆、嶋津をうらやんだ。

北条高時 頼むぜ!

嶋津四郎 ハハッ!

嶋津は、高時邸の門前でこの名馬にひらりとまたがった。

嶋津四郎 ヘヤーッ!

白浪 ヒヒーン!

嶋津四郎は、由比ヶ浜(ゆいがはま:鎌倉市)の浦風に真紅の笠印を吹き翻(ひるが)えし、鎧を着し、七つ武器をきらめかせて当たるを払い、敵陣の真っ只中へと突き進んでいく。これを見る幕府軍の大勢のメンバーたちは、口々に彼を褒め称える。

幕府軍メンバーK あぁ、一騎当千のツワモノとは、まさにアイツのことだなぁ!

幕府軍メンバーL 長崎殿が彼に大いに目をかけてたのも、ムリもない。

幕府軍メンバーM それをカサに着て、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の振る舞いが目についた嶋津だったけど・・・。

幕府軍メンバーN イザって時にゃぁ、これだけの働きすんだもんなぁ、さすがだよ。

倒幕軍メンバーたちも、これを見て、

倒幕軍メンバー一同 ウオオ、すげぇヤツが、出てきやがったなぁ!

栗生(くりふ)、篠塚(しのづか)、畑(はた)、矢部(やべ)、堀口(ほりぐち)、由良(ゆら)、長浜(ながはま)をはじめ、新田一族中の大力の評判高い猛者(もさ)たちが、嶋津と組んで勝負を決しようと、われ先に馬を進めて前線へ出てきた。

「あれを見よ、大力の誉れ高い者どうしの、他人を交えずの一騎打ち」と、両軍もろとも、かたずを呑み、手に汗握り、じっと彼らを凝視する。

ところが何としたことか、嶋津四郎は、馬から飛び下りて兜を脱ぎ、静々と身づくろいを始めた。

幕府軍メンバー一同 なんだ、なんだ?

倒幕軍メンバー一同 いったい、どうしたんだい?

全員いぶかしげに見守る中に、彼は、恥ずかしげもなく降服し、倒幕軍側に加わってしまった。

幕府軍メンバーK なんだ、なんだぁ!

幕府軍メンバーL テヘッ!

幕府軍メンバーM ふざけやがって。

幕府軍メンバーN アイツってヤツぁ、モォ!

その場に居合わせた者は一人残らず、先ほどまでの賞賛の言葉を翻(ひるがえ)し、思う存分、島津の悪口を言いあった。

この嶋津四郎の降服を皮切りに、次々と倒幕軍側への投降者が続出。長年恩顧(おんこ)の郎従、先祖代々奉公の家人たちが、主を棄てて降人(こうにん)となり、親を捨てて敵に付く、いやはや、まことに目も当てられない有様。

およそ源平(げんぺい)威を振るい、互いに天下を争う事も、今日を限りで終結と思われる、今日(こんにち)この場の状況である。(注4)

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(訳者注4)新田氏は清和源氏の流れに連なり、北条氏は桓武平氏の流れに連なる。ゆえに太平記作者は、両者の闘争を「源平の闘争」と表現しているのである。
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付記 稲村ヶ崎について

(1)参考文献

まず、以下の記述内容を考案する際に、参考にした文献を紹介する。

 [文献1]:[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]
 [文献2]:[中世の村を歩く 石井進 朝日新聞社(朝日選書 648)]

(2)史実なのか、フィクションなのか

新田義貞が太刀を海に投じた後、稲村ヶ崎の海岸に大きな干潮が起こった、という、この超常現象的なできごと、これは、いったい史実なのであろうか、それとも、太平記作者の手になるフィクションなのであろうか?

「干潮の時にタイミングを合わせれば、稲村ヶ崎近くの海中を徒歩で通過して鎌倉へ向かうことは、もしかしたら可能なのでは? 新田義貞率いる討幕軍もそのようにして,
稲村ヶ崎を突破したのでは?」、と考える人もいるだろう。

[文献2] に、明治時代に、坪井九馬氏、大森金五郎氏が、そのような考えに立っての実地検証を行った、とある( 140ページ )。

[文献1]の補注(「巻十」の分)にも、以下のように記述されている。

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 「稲村崎の潮流の実況とこの時の戦闘との関係については、早く坪井九馬博士の考察があり、藤田精一博士は「新田軍の進撃は、闇夜中に成功せしに相違なし。・・・二十二日午前三時、四時頃の干潮を利用せしものならんか」といわれた(藤田博士著「新田氏研究」)。また大森金五郎氏がこの稲村崎を実地踏査して、義貞が潮を退けたという太平記の記事の真実性を証明されたことは有名である。」
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また、[文献2] には、最近の研究事例として、磯貝富士夫氏(東京学芸大学付属高校)の、海に足を踏み入れての(4度もの)フィールドワーク調査研究が紹介されている( 148ページ ~ 149ページ)。

(3)石井進氏の考察

では、太平記に記されている[元弘3年(1333)5月21日(旧暦)夜半]の海の潮位は、実際にはどうだったのか?

石井進氏によれば([文献2])、この問題に取り組んだ一人の天文学者がいたのだそうである。小川清彦氏は、相模湾沿岸東部(稲村ヶ崎はこの域内に位置している)の当時の潮位の変動を科学的に算出した。(その研究が行われたのは、「大正の初め」なのだそうである)。[文献2]の145ページに、小川氏の算出による、5月15日 ~ 25日 の潮位変動がグラフ表示されている。

ここで、石井進氏は([文献2])、5月21日の3日前、5月18日(旧暦)の潮位差に注目する。なぜならば、当時の歴史を記した「梅松論(ばいしょうろん)」には、5月18日午後に、新田軍が稲村ヶ崎を突破し、鎌倉の浜に到達した、との記述があるので。

以下、[文献2] 141ページ ~ 144ページ よりの引用である。

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 「十八日と二十一日、大した違いはないと思ってはいけない。理科の授業などで習っていると思うが、満月の日の一、二日あとが大潮になる。当時の暦はいわゆる陰暦だから、毎月十五日が満月の日、十八日はまだ大潮に近いのである。天文学者小川氏の計算の図表を見よう。十八日の昼過ぎには平均水位より約七五センチも潮が引くことになっている。だから『梅松論』のいう十八日午後、新田義貞勢が稲村ヶ崎にできた干潟を通過して鎌倉の浜に火をかけた、というのと実にピッタリ一致するのだ。」
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([海上保安庁 潮汐予測] でネット検索することにより、[海上保安庁]のサイトの中にある[潮汐予測]というページにアクセスすることができると思う。1333年の旧暦5月の頃の様々な日付をインプットすると、その日の潮位の変化のシミュレーション値を見ることができる。日付に関しては、旧暦の日付から、ユリウス暦の日付に変換した値を、インプットする必要がある。)

石井進氏は更に、当時の第1級の史料をもとにして、「5月18日」にスポットライトを当てていく。その史料とは、「軍忠状(ぐんちゅうじょう)」である。

(当時、戦の後に武士たちは、「自分はいついつ、これこれのごとくに奮闘いたしました。」という自己申告書、すなわち、軍忠状を、司令官に提出し、恩賞を期待した。)

石井氏によれば、現存するそれら7通のうち、実に5通までもが、「自分は、5月18日に、稲村ヶ崎から鎌倉の前浜で戦った」との申告内容になっているのだそうである。[文献2]の145ページには、それらのうちの1通(新田義貞のサイン入り)の、ナマナマシイ実物写真が掲載されている。

しかし・・・「21世紀の今、歩いて渡れるとしても、当時は不可能だったかも」との疑問を持たれる方もおられると思う。海面の高度は、時代によって変化するから。

全地球規模での温度の長期的な変化とそれに伴う海水面の高さの変動、関東大震災による海底の隆起、等、様々な事を考察しながら、石井氏はこの問題に対しても、真正面からの回答を与えているのであるが、ここではそれを紹介する余裕がない。関心がある方は、[文献2]をご参照いただきたい。

かくして、

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 「新田義貞の鎌倉攻め、稲村ヶ崎沖合の干潟からの進撃の物語について、何人かの歴史家や科学者の積み重ねてきた調査研究の跡を私なりにたどり直してみた。その結果、現代人にとっては信じがたい物語だが、意外にもかなりの程度まで事実を伝えた話であることがわかってきた。」
([文献2] 150ページ よりの引用)
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との結論に、石井氏は到達されたのである。

(4)幕府軍側の防御

[文献2]に記されているこれらの内容を読み、積年の疑問が解決された思いがして、私としては実にスッキリした。

しかし、よくよく考えているうちに、これで問題が全て片付いたとは、思えなくなってきた。

その時、鎌倉幕府軍側は、いったい何をしていたのであろうか?

幕府軍側が稲村ヶ崎を完全無防備の状態で放置していた、などとは、いくらなんでも考えがたい。一定量の軍勢を配置していたのでは、と思われる。

配置場所として考えられるのは、稲村ヶ崎近くの海上、そして、稲村ヶ崎の鎌倉側・根元部分(陸上)である。

(4-1)海上の防備

海上の防備については、太平記には([文献1])、

 「沙頭(しゃとう)路(みち)狭(せば)きに、浪打涯(なみうちぎわ)まで逆木(さかもぎ)を繁(しげ)く引懸(ひきかけ)て、澳(おき)四五町が程(ほど)に大船(たいせん)共(ども)を並べて、矢倉(やぐら)をかきて横矢(よこや)に射させんと構(かまえ)たり。」

と書かれている。

その後、海に異変が起こり、その防御体勢が無効になってしまった、と書いている。

 「其(その)夜の月の入方(いりがた)に、前々(さきざき)更に干(ひ)る事も無(なか)りける稲村崎、俄(にわか)に二十余町干上(ひあがっ)て、平沙(へいしゃ)びょうびょうたり。横矢(よこや)射んと構(かまえ)ぬる数千(すせん)の兵船も、落行(おちゆく)塩(しお)に被誘(さそわれ)て、遥(はるか)の澳(おき)に漂(ただよ)えり。」

元弘3年5月18日(石井氏の説のごとく、21日ではなく18日としてよいと思う)の引き潮は上記に書かれているように、「大船」をも沖に移動させてしまうほどの力を持っていたのであろうか?

「激しい潮流」といえば、鳴門海峡、関門海峡、あるいは、来島(くるしま)海峡を思い起こす。あのような激しい流れであれば、「大船(当時の)」も流されてしまうのかもしれない。しかし、稲村ヶ崎のある場所は海峡ではない、あそこは相模湾である。だから、引き潮の潮流は、とてもゆったりとしたスピードになるのではないだろうか? (長時間かけて、潮がジワジワァ、ジワジワァと引いていく、というイメージ)。

となると、幕府軍側の「大船」は、引き潮の流れに逆らって(人力で船を漕いで)、稲村ヶ崎の海浜近くに依然として陣取り、稲村ヶ崎の海中を徒歩で、あるいは騎馬のまま渡っていく討幕軍側軍勢に対して、激しく矢を浴びせかけることが可能だったのでは?

稲村ヶ崎突破が行われたのが、太平記の言うように夜であったならば、討幕軍側の個々のメンバーの動きを海上からは把握しにくく、揺れる船上から放つ矢は、その多くが無効となり(当たらない)、という状況であったかもしれない。しかし、石井氏の説に従うならば、稲村ヶ崎突破が実際に行われたのは、夜ではなく、午後である。霧がかかっていない限り、幕府軍側からの視界は良好であろう。

討幕軍側は、幕府軍側から射られる矢を、どのようにして防ぎながら、海を渡っていったのだろうか? 盾をずらりと敷きつめて防御壁を造り、その内側を進んでいったのだろうか? 徒歩のメンバーはそのまま歩いて(走って)いくとして、騎馬メンバーは、馬に乗ったままそこを行ったのだろうか、それとも、馬から下り、馬と共に徒歩で行ったのであろうか?

討幕軍側・後方部隊から幕府軍側への、すなわち、陸上から海上へ向けての、(討幕軍側・先鋒部隊を援護するための)援護射撃もあったのかもしれない。ビュンビュン矢が飛んでくる状況下では、幕府軍側も船を陸に接近させることも難しくなり、討幕軍に対しては遠方からの射撃しかできないから、命中率は低くなるだろう。

(4-2)陸上の防備

稲村ヶ崎の鎌倉側・根元部分(陸上)に、幕府軍側の軍勢が配備されていたのだろうか?

もしも配備されていたのであれば、これは相当な防御力があったのでは、と思われる。隘路(狭くなっている場所)を塞ぐような形で陣取れば、大軍の進撃を食い止めることも可能だろうから。(テルモピュライに陣取って、アケメネス朝ペルシア軍に対抗したギリシア軍のように。)

稲村ヶ崎の鎌倉側・根元部分(陸上)が、「隘路」というにはふさわしくないような、防御しにくい地形であるのかどうか、私にはよく分からない。

(5)稲村ヶ崎を突破したのは、何人か?

倒幕軍が稲村ヶ崎を突破して鎌倉に攻め込んだ、というのは、おそらく史実としてよいのだろう。しかし問題は、そこを突破した人数である。下記の2ケースが考えられる。

大軍団編成 : 稲村ヶ崎に集結した倒幕軍の全員が、海を渡った。

コマンド部隊編成 : 稲村ヶ崎に集結した倒幕軍の中から選ばれた少数精鋭のコマンド部隊のみが海を渡り、その他のメンバーたちはそのままそこに待機、あるいは、極楽寺坂切り通しの方面に移動。コマンド部隊は、極楽寺坂切り通しに陣取る幕府軍側の背後に回りこみ、幕府軍を急襲。それに合わせて、倒幕軍は極楽寺坂切り通しを西方から攻撃し、そこを突破し、鎌倉へ。

太平記の記述では([文献1])、[大軍団編成]となっている。

 「越後・上野・武蔵・相模の軍勢共、六萬余騎を一手に成(なし)て、稲村が崎の遠干潟(とおひかた)を真一文字に懸通(かけとおり)て、鎌倉中(じゅう)へ乱入(みだれい)る。」

稲村ヶ崎の狭い進軍路を、6万人もの大軍が行ったのでは、全員が通過するにはいったい何時間かかったろうか?

(6)義貞は刀を投げたのか?

太平記にあるような、刀を海に投じて祈願する、というような事を、新田義貞は実際に行ったのだろうか?

これについては、石井氏は、太平記の創作(フィクション)であり、実際にはそのような事は行われていない、としている。([文献2] 150ページ)

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 「また海神に剣を捧げて祈ったところ、間もなく海が干上ったというのも、やはり創作に違いない。大潮の干潮時には、稲村ヶ崎沖合に広く岩盤が現れて通行可能になることを、義貞か、あるいは攻撃軍の誰かが知っていて、その時間を見はからって総攻撃をかけ、見事に成功したというのが本当のところであろう。」
([文献2] 150ページより引用)
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しかし、義貞は、パーフォーマンスを行ったのでは、という考え方も、ありうるだろう。例えば、下記のような。

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 義貞は実際に、刀を海に投じたのであろう。ただし、それは実のところ[祈願]ではなくて、[演出]、[パーフォーマンス]だったのだ。数時間後に潮が引いて稲村ヶ崎一帯が干上がることを事前に知っており、その自然現象を、全軍の士気を高めるためにうまく利用したのである。「祈願込めて刀投ぜしこの義貞の誠心、みごと海神に通じ、稲村ヶ崎に奇跡起これり! 我々は人間を越える存在、すなわち神の援護をいただいている。かくなるうえは、この戦に我々が勝利すること間違い無し!」とのストーリーを演出したのであろう。
------

上記の説が成り立つかどうかには、ある[人数]が大いに関係してくると思う。その[人数]とは、討幕軍中の、[大潮の干潮時には、稲村ヶ崎沖合に広く岩盤が現れて通行可能になる]、ということを知っている人の数である。

もしもその人数が多かったならば、かりに義貞がそのようなパーフォーマンスをやったならば、逆効果になってしまうだろう。

 オイオイ、義貞さんのあの刀投げてんの、みえすいたパーフォーマンスやってるだけのことだよぉ! 大潮の干潮の時に、稲村ヶ崎が干上がること、おれたちが知らねぇとでも、思ってんのかねぇ?

こうなると、「あれは、祈願込めてるようで、ジツは単なるパーフォーマンス」という情報は、あっという間に全軍に伝わってしまい、みんな、シラケきってしまい、士気はガタ落ちになってしまうであろう。

しかし、そのような後先の事を一切考えずに、パーフォーマンスをやってしまう、義貞とはまさにそういう人なんだ、との見方も一応はありうる、ありうるのだけど・・・。

ここまで来ると、[新田義貞・性格論]の議論となってしまい、もうこれは収拾がつかなくなってしまうだろう。義貞は、パーフォーマンスなんてやるような人ではない、という考えだって、ありうるだろうし。

磯貝富士夫氏の実地調査によれば、稲村ヶ崎の海底には、中世に通行されていた古道の跡があるという。([文献2]の149ページの地図中に、それが示されている)。

だから、鎌倉やその近辺に住んでいる人々の間では、「大潮の干潮時には、稲村ヶ崎が通行可能となる」という事は、周知の事実であったと考えられる。

そのような人々が、討幕軍側にいったいどれほど参加していたのだろうか?

さきほど紹介した太平記の記述では([文献1])、

 「越後・上野・武蔵・相模の軍勢共、六萬余騎を一手に成(なし)て、稲村が崎の遠干潟(とおひかた)を真一文字に懸通(かけとおり)て・・・」

とある。

「相模の」とあるので、もしかしたら、鎌倉の近辺に住んでいる人々も多数、討幕軍側に参加していたのかもしれない。しかし、太平記に書かれている事だから、これも史実としてよいのかどうか、よく分からない。

 義貞は実際に海神(龍神)に対して祈願をこめ、刀を投げた、ただし、それは、海神に対して、「どうか、目の前の海を干上がらしてください」との、具体的な願いを込めてではなく、「我々討幕軍がなんとか、目の前にある稲村ヶ崎を突破し、鎌倉へ突入できるよう、どうかよろしくお願いします」、と、(抽象的に、漠然と)祈ったのである

とするセンも、ありうるだろう。

干潮で海水面の水位が低下しても、海が荒れていたのでは、そこを渡ってはいけない。そのような、自軍の進撃の障害となるモロモロの事を全て取り除きたまえ、と海神へ祈りこめたのでは、とも考えられる。

とにかく、この問題を考えれば考えるほど、解決のゴールから遠のいていってしまう感が濃厚である。

現地の海底を、くまなく探査してみる、というのもアリかもしれない。(どこの誰が、どこからどれほどの予算をゲットしてきてやるのか、という問題はさておき)。上等な刀の残骸でも見つかったら、大ニュースになるだろう。でも、その発見は、極めて見込み薄だ。台風が来た時なんかに、どこか他の場所に移動してしまっているかもしれない、あるいは、過去のいつか(例えば戦国時代)に、誰かに拾われてしまっているかもしれない。

(7)更に謎は深まってしまった

以上のように、いろいろと考えてみたが、出口は全く見えてこない。[文献2]を読んで、スッキリしたと思ったが、それはツカノマのことであった。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月19日 (土)

太平記 現代語訳 10-5 赤橋守時と本間山城左衛門の最期

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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洲崎(すさき:鎌倉市)方面へ向かった赤橋守時(あかはしもりとき)は、5月18日の朝から、倒幕軍と戦い続けていた。

この方面の戦闘は極めて激しく、一日一夜の間に65回もの衝突が展開されたほどであった。当初数万騎いた郎従は次々と戦死、あるいは逃亡し、残りわずか300余騎になった。

侍大将(さむらいだいしょう)としてその陣に加わっていた南条高直(なんじょうたかなお)に対して、守時はいわく、

赤橋守時 古代中国の、漢(かん)と楚(そ)の8年間に渡る戦いにおいて、漢の高祖(こうそ)は戦う度に敗退するばかりだった。しかし、ひとたび烏江(うごう)の戦に勝利を得た後は、一気に形成逆転、楚の項羽(こうう)はついに滅び去ったよな。

南条高直 ・・・。

赤橋守時 古代中国・春秋時代(しゅんじゅうじだい)、斉(せい)と晋(しん)は70回も戦火を交えた。晋の重耳(ちょうじ:注1)は一向に勝つことができずにいたが、最終的には国境での戦いに打ち勝って、晋国を保つことができたんだ。

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(訳者注1)後の晋の君主、文公の事。君主になる以前の名前。
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南条高直 はい。

赤橋守時 万死を出でて一生を得る、百回負けた後に最後の一戦にて形成逆転、戦(いくさ)ってぇのは、いつの時代にあっても、そういうもんなのさ。今回の戦だって、敵方は相当勝ちに乗ってはいるようだけどな、かといって、わが北条(ほうじょう)家の命運が今日ここに尽きてしまった、なんてフウには、おれには到底思えねぇな。(注2)

南条高直 そうですとも!

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(訳者注2)赤橋守時は、北条一族に属する人である。
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赤橋守時 でもなぁ、この守時、我が北条一族の安否を見届ける前にな、ここの陣頭で腹を切ってしまおうって思うんだ。

南条高直 えっ・・・いったいなぜですか? なぜ?

赤橋守時 うん・・・なぜかって・・・それはだな・・・おれの妹(注3)、あの足利殿の所に嫁いでるんだもんな。

南条高直 (唇をかみしめる)・・・。

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(訳者注3)守時の妹・登子は、足利高氏の妻である。
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赤橋守時 高時殿はじめ、一族の人々はおそらく、おれの事、あまり信用してくれてないだろうよ。

南条高直 ・・・。

赤橋守時 こんな疑惑を身内から抱かれるなんて、まさに、勇士の恥ずる所じゃないか!

南条高直 (じっとうつむく)・・・。

赤橋守時 古代中国・戦国時代末期、かの田光先生(でんこうせんせい)はある日、燕(えん)国の太子・丹(たん)から、秦・始皇帝(しんのしこうてい)暗殺計画を打ち明けられ、助力を求められた。その後、太子・丹は田光先生に、「この事を絶対に口外してはならぬぞ、よいな」と言った。そこで、田光先生は太子・丹に余計な疑念を抱かせまいと、彼の目の前で自らの命を絶ったという。

赤橋守時 おれが率いてるこの軍、激戦に次ぐ激戦で、みんな疲れきっちゃってる。もうこれ以上、とても戦えやしない。かといって、守りをかためているこの場から退いたとあっては、おれには、なんの面目もねぇよ。一族の疑惑の中に、しばらく命ながらえたって、それでいったい、なんになるってんだぁ!

このように言い放つやいなや、戦い未だ半ばに達せずというさ中であるにもかかわらず、守時は、帷幕(いばく:注4)の中に鎧を脱ぎ捨て、腹を十文字に切って、北を枕に倒れ伏した。

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(訳者注4)陣屋。
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南条高直 赤橋殿! 赤橋殿!(涙)。

赤橋守時の郎等ら一同 ううう・・・(涙)。

南条高直 あぁ、逝(い)ってしまわれた・・・(涙)。

赤橋守時の郎等ら一同 ううう・・・(涙)。

南条高直 えぇい! 大将がすでに御自害されたとあっちゃぁ、もう誰のためにも惜しむものかぁ、この命! 赤橋殿、おれも、お供しますよ!

守時に続いて腹を切る高直を見て、志を同じくする武士90余人、上に上にと重なって、腹を続々と切っていく。

かくして、5月18日夜半、洲崎の守備陣がまず破れ、新田義貞率いる倒幕軍は、山内(やまのうち:鎌倉市)まで進んだ。

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ここに、本間山城左衛門(ほんまやましろざえもん)という武士がいた。

彼は長年、大仏貞直(おさらぎさだなお)に目をかけてもらい、お気に入りの近習の一員として仕えていた。ところが、ふとした事から、貞直の勘気(かんき)を食(くら)ってしまい、「以後、出仕に及ばず」の状態となり、蟄居謹慎(ちっきょきんしん)の身となっていた。

5月19日の早朝、

鎌倉の人A 大変だ、大仏殿が守ってる極楽寺坂の陣、破れちゃったぞ!

鎌倉の人B エェッ!

鎌倉の人C 敵がドンドン、攻め込んできてるってよぉ!

本間山城左衛門 ナニィ! 大仏様が!

本間山城左衛門 (内心)こうしちゃおれねぇ、とにかく、行かなきゃ!

本間は、自らの若党(わかとう)・中間(ちゅうげん)100余人を率いて、極楽寺坂へ向かった。

本間山城左衛門 (内心)殿へのご奉公も、今日で最後か・・・。

本間らは、倒幕軍大将・大館宗氏(おおたちむねうじ)率いる3万余騎の陣の真っただ中へ掛け入り、勇み誇る大勢を八方へ追い散らし、宗氏に引き組まんと、突撃をくり返す。そのあまりの勢いの激しさに、3万余騎の倒幕軍は瞬時の間に分かれなびいて、腰越(こしごえ:鎌倉市)まで退却。

なおも激しく迫る本間を見て、とって返して思う存分戦った大館宗氏は、ついに本間の郎等に引き組まれ、互いに刺し違えて果てた。

本間山城左衛門は、大いに喜んで馬から飛び降り、大館宗氏の首を取って太刀の切っ先に貫き、大仏貞直のもとに馳せ参じ、幕の前にかしこまっていわく、

本間山城左衛門 長い間ご奉公させていただき、殿からは数々の御恩を頂いてきましたが、その御恩にやっと報じ奉ることができました・・・今日のこの一戦で。

大仏貞直 ・・・。

本間山城左衛門 私への殿のお疑い、晴らせないままに死んでしまってちゃ、あの世へ行ってからも私の気持ち、スッキリしませんでしたでしょうね・・・きっと妄念になっちまってね、わが魂の救いの妨げになってたことでしょうよ。

大仏貞直 本間・・・。

本間山城左衛門 これでやっと、心安らかに冥土へ行けるってもんでさぁ。

大仏貞直 本間・・・お前ってヤツは・・・。

本間山城左衛門 殿、ありがとうございました・・・じゃぁ、お先に失礼します!

言うが早いか、流れる涙を押さえつつ、本間山城左衛門は、腹をかき切った。

大仏貞直 ううう・・・本間! 本間ぁ!・・・・(涙、涙)

大仏貞直 「たとえ敵が大軍なろうとも、その上下の心和さざれば、その将帥をも奪う事も可能」・・・よくぞ言ったもんだ・・・。「徳を以って恨(うらみ)を報ず」とはまさに、本間のこの心そのものだ。あぁ、なんて立派な男・・・こっちが恥かしくなるくらいだ。

落ちる涙を鎧の袖にかけながら、大仏貞直は奮い立った。

大仏貞直 よぉし! 本間、オマエの志に今からミゴト、応(こた)えてみせるからなぁ! 行くぞぉ!

大仏軍メンバー一同 オーウ!

自ら先頭切って出陣する貞直の後に、幕府軍の武士たちは、涙を流しながら続いていく。

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2017年8月18日 (金)

太平記 現代語訳 10-4 幕府軍、必死の鎌倉防衛

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「新田義貞(にったよしさだ)、数度の対幕府軍合戦に、勝利す!」との情報が関東一円に流れ、それを聞いた武士たちが続々と義貞の旗下に参集、倒幕勢力側の兵力は急膨張して、雲霞(うんか)のごとき大軍となった。

関戸(せきと:東京都・多摩市)に1日逗留して、諸国からの軍勢の到着を記録したところ、

新田義貞 ナニィー! 総勢60万7千余騎だとぉー?! ドッヒャァー!

脇屋義助(わきやよしすけ) やぁったねぇ、アニキィ!

討幕軍リーダー一同 やったぁ! やったぜぇ! イェーィ! ピィーピィー!

新田義貞 うーっ!

脇屋義助 さぁ、鎌倉(かまくら)、鎌倉ぁ!

新田義貞 よーし! じゃぁこれから、全軍の配置を言うからな、みんなよっく聞いといてくれよ!

討幕軍リーダー一同 おぅーい!

新田義貞 全軍を三つに分けてな、各軍には二人ずつ大将を任命して、指揮してもらうようにすっからな。

討幕軍リーダー一同 ・・・。

新田義貞 まずは、第1方面軍、大将、大館宗氏(おおたちむねうじ)、副将、江田行義(えだゆきよし)、総勢10万余騎。極楽寺坂切り通し(ごくらくじざかきりどおし:鎌倉市)へ向かえ!

第1方面軍のリーダー一同 オケーイ(OK)!

新田義貞 次、第2方面軍、大将は、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、副将は、大嶋守之(おおしまもりゆき)、総勢10万余騎。巨福呂坂(こぶろざか:鎌倉市)へ向かえ!

第2方面軍団のリーダー一同 まぁっかしときなってぇ!

新田義貞 最後は第3方面軍、こっちはおれと義助が指揮を執(と)る。堀口(ほりぐち)、山名(やまな)、岩松(いわまつ)、大井田(おおいだ)、桃井(もものい)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、額田(ぬかだ)、一井(いちのい)、羽川(はねかわ)以下、新田一族メンバーはおれたち二人の前後左右に布陣、総勢50万7千余騎、化粧坂(けはいざか:鎌倉市)めがけて押し寄せる!

討幕軍リーダー一同 イェーィ! ピィーピィー! ゴォウ(go)、ゴォゥ、ゴォーウ!

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鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)の人々は皆、「一昨日、昨日と、分陪河原(ぶばいがわら:東京都・府中市)と関戸で合戦があり、幕府側が敗北」と、聞いてはいたものの、「まぁ、大した敵ではないだろうさ、敵の人数だってしれてるんだろう」くらいにタカをくくって、のんびりと構えていたのであった。ところが、あにはからんや、

鎌倉の人A おいおい、大変な事になったよ! 反乱軍の討伐に向かってた大手方面軍の大将、北条泰家(ほうじょうやすいえ)殿が完敗しちゃったんだって! わずかの敗残兵とともにきのうの夜半、山内(やまのうち:鎌倉市)へ逃げ帰ってきたっていうよぉ!

鎌倉の人B からめての方も、メチャクチャになってるらしいぞぉ。利根川(とねがわ)方面に向かった金澤貞将(かなざわさだまさ)殿が、小山秀朝(おやまひでとも)と千葉貞胤(ちばさだたね)にボロ負けしちゃって、下道(しもみち)街道ぞいに、鎌倉へ退却中だってさ!

鎌倉の人C おいおい、ほんとうかい、それ!

鎌倉の人D こりゃぁ、思ってもみない展開になってきたなぁ。

鎌倉の人E まずいわよぉ、これって・・・。

そしてついに、5月18日午前6時、村岡(むらおか:神奈川県・藤沢市)、藤澤(ふじさわ:藤沢市)、片瀬(かたせ:藤沢市)、腰越(こしごえ:鎌倉市)、十間坂(じっけざか:神奈川県・茅ヶ崎市)等、50余か所に火の手が上がりはじめた。

いよいよ、倒幕軍側の鎌倉総攻撃が、三方面から一斉に開始されたのである。

武士は東西に馳せ違い、住民は貴賎を問わず山野に逃げ迷う。

鎌倉の人F 霓裳(げいしょう)一曲の歌声響きわたる中、

鎌倉の人G 唐(とう)の都・長安(ちょうあん)の城壁に、安禄山(あんろくざん)率いる反乱軍の進軍太鼓の音迫り、時の皇帝・玄宗(げんそう)の権力失墜(けんりょくしっつい)を見た、まさにあの時も、

鎌倉の人H あるいは、偽りの烽火(のろし)の末の異民族侵入の結果、周(しゅう)の幽王(ゆうおう)が滅亡した、まさにかの時も、

鎌倉の人F 今、我々の眼前に展開されているこの憂うべき状況と、まったく同様であったのかも・・・。(涙)

鎌倉の人G ただただ、涙が流れるばかり、涙を止めようがない・・・。(涙、涙)

鎌倉の人H あぁ、まったく、なんという事だ!

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「新田義貞の軍勢、三方から鎌倉に迫る!」との情報に、幕府側もそれに対抗して、相模高成(さがみたかなり)、城景氏(じょうかげうじ)、丹波時守(たんばときもり)を大将に任命し、軍勢を三方面に分けて守備を固めた。

そして、第1方面軍には、金澤越後左近将監(かなざわえちごさこんしょうげん)を副え、安房(あわ:千葉県南部)、上総(かずさ:千葉県中部)、下野(しもつけ:栃木県)の軍勢3万余騎で、化粧坂を堅めさせた。

第2方面軍には、大仏貞直(おさらぎさだなお)を副え、甲斐(かい:山梨県)、信濃(しなの:長野県)、伊豆(いず:静岡県東部)、駿河(するが:静岡県中部)の軍勢5万余騎で、極楽寺坂切り通しを堅めさせた。

第3方面軍には、赤橋守時(あかはしもりとき)を副え、武蔵(むさし)、相模(さがみ)、出羽(でわ:東北地方西部)、陸奥(むつ:東北地方東部)の軍勢6万余騎で、洲崎(すさき:鎌倉市)方面の敵に当たらせた。

その他にも、北条家の支族80余人、諸国の武士10万余騎を予備軍、すなわち、危うくなってきた方面へ向かわせようということで、鎌倉内に留めた。

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5月18日午前10時、戦闘開始。その後、終日終夜の激しい攻防を展開。

倒幕軍サイドは、大兵力にものをいわせ、部隊を入れ替え取り替えしては攻撃をしかける。幕府軍サイドは、守備に絶好の難所を防衛拠点としてかため、そこからうって出てうって出て、相手側の鎌倉侵入を防ぎ止める。

鎌倉の三方に続々とあがるトキの声、自分の放った矢が相手に命中した時の歓声が、天を響かせ地を揺るがす。魚鱗陣形(ぎょりんじんけい)に攻めかかり、鶴翼陣形(かくよくじんけい)に開き受け、前後に当たり、左右を支える。

義を重んじては命を軽んじ、自らの安否をこの戦闘の一時に決する・・・まさにこの合戦こそは、わが勇気の有無を末代にまで示す時。

たとえ我が子が討たれようとも、親はそれを助けずに、子供の屍(しかばね)を乗り越えて、前なる敵に当たらんとする。たとえ我が主が射落とされようとも、郎等(ろうどう)は彼を引き起こそうともせずに、主の馬にヒラリとまたがり、ただただひたすら前へ前へ、あるいは敵と引き組んで、勝負を決せんとする者もあり、あるいは敵との相打ちの中に、共に死にゆく者もあり。この猛卒(もうそつ)たちの気力を見るに、万人死して一人が残り、百陣破れて一陣になるとも、いったいいつになったら戦が終わるのか、全くもって想像することすら不可能である。

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2017年8月17日 (木)

太平記 現代語訳 10-3 新田義貞、反撃に転ず・第2次分陪河原合戦

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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分陪河原(ぶばいがわら:東京都・府中市)で敗戦してしまい、新田義貞(にったよしさだ)は、ガックリきていた。

ところが5月15日の夜、かねてから新田陣営に参加しようと思っていた三浦義勝(みうらよしかつ)が、相模国(さがみ:神奈川県)の武士たち、すなわち松田(まつだ)、河村(かわむら)、土肥(とひ)、土屋(つちや)、本間(ほんま)、渋谷(しぶや)らから構成の6,000余騎の軍団をひきつれて、参陣してきた。

義貞は大いに喜び、ソク、三浦義勝に対面。礼厚くして席を近づけ、今後の作戦について、彼に意見を求めた。

新田義貞 見ての通りの状態さね・・・これからいったい、どうやって戦っていったらいいと思う?

三浦義勝 ・・・うん・・・そうですねぇ・・・。

新田義貞 ・・・。

義勝は、かしこまっていわく、

三浦義勝 今や天下はまっ二つに割れ、自らのサバイバルを、ひたすら合戦の勝敗に賭している状態。これからなおも10度、20度と、わが方と幕府方、あちらとこちらの優劣が入れ替わることは、十分ありうるでしょう。

新田義貞 うん。

三浦義勝 しかし、しかしですよ、遅かれ早かれ、最終的な決着は、天命の帰する所に落ち着くわけ。だからね、いつかは、新田殿が、天下に太平をもたらすことになる事、まちがいなし!

新田義貞 ・・・。

三浦義勝 新田殿の陣営に、この義勝が加わって戦うってんだからね、こちらの軍勢は10万余騎だ。これでもまだ、幕府軍の数には及ばねぇけんどね、今度の合戦こそは、一勝負(ひとしょうぶ)やりましょうぜぃ!

新田義貞 でもなぁ・・・わが方の連中、みぃんな疲れきっちゃってるぜ。こんな状態でよぉ、あの勇み誇る幕府の大軍に、はたして、立ち向かっていけるもんかなぁ。

三浦義勝 次の戦は、絶対に勝てます、勝てますって! そのわけはね・・・。

新田義貞 うん・・・。

三浦義勝 古代の中国において、秦(しん)国と楚(そ)国とが戦いを交えた時(注1)、楚の将軍・ 武信君(ぶしんくん)、すなわち項梁(こうりょう)は、わずかに8万余の軍勢でもって、秦の将軍・李由(りゆう)の軍80万に勝利し、秦軍の首を切る事40万余、という結果に。

三浦義勝 これより、項梁は心おごり、気がゆるんでしまって、「秦軍恐れるに足りず」というような、うわついた気分になってしまった。これを見た楚の副将軍・宋義(そうぎ)いわく、「「戦に勝って将軍がおごり、兵卒がだらけてしまったら、その軍は必ず破れる」と言うではないか。武信君は今まさにこのような状態、彼の最期は近いぞ。」。その言葉のごとく、後日の戦に、項梁は、秦の左将軍・章邯(しょうかん)とのたった一戦に敗れ、命を失ってしまったんですよ。

三浦義勝 オレね、昨日ひそかに部下を送ってね、幕府軍サイドのようすをさぐらせてみたんです・・・あちら側の大将たちの、いやぁ、そりゃぁもう、おごりたかぶってることといったら、もう・・・まさにこの、「武信君状態」ですよ。宋義が懸念したのと同じような状態になってまさぁ。

新田義貞 ふーん・・・。

三浦義勝 明日の合戦では、元気イッパイの新手のオレの軍団、一方面の先陣を承って、敵とイッチョウ、バシバシーンと、刃を交えてみたいもんだなぁ!

新田義貞 うーん!

義貞は、義勝に深い信頼感をおぼえ、次回の戦の作戦立案を義勝に委ねた。

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(訳者注1)三浦義勝がここで言っている「楚」とは、秦の始皇帝が中国全土を統一する前に存在した、戦国時代の[楚]ではなくて、秦帝国打倒に決起した項氏一族とその旗下に参集した集団の事である。
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明くる5月16日午前4時、三浦義勝率いる4万余騎は、倒幕軍の先頭を進み、分陪河原へ押し寄せた。

敵陣近くなるまでわざと、旗の上部を下ろさず、トキの声も上げない。幕府軍を油断させて接近した後、一気に攻撃をしかけよう、という作戦である。

義勝のヨミの通りであった。

幕府軍サイドは、前日数度もの合戦に人馬みな疲れきっていた上に、倒幕軍サイドが再び、攻撃をしかけてくるなどとは思いもよらずに、馬に鞍も置かず、武具の配備もいいかげんにしていた。遊女と枕を並べ、帯紐(おびひも)を解いて臥(ふせ)せっている者もおれば、酒宴に酔いつぶれて前後不覚に寝入っている者もいる。これぞまさしく、前世になした業の報い、今まさに目前に迫る自滅寸前の姿と言うべきか。

河原に面した所に陣を張っていた者たちが、接近してくる三浦軍を見つけて、警告を発した。

幕府軍メンバーA たった今、正面方向に、旗を巻いて静かに馬を進ませてくる大軍が出現! もしかして敵かも、各々方、ご用心!

幕府軍メンバーB あぁ、そりゃぁきっと、例のアレだろう、アレ。なんでもなぁ、三浦義勝が相模の勢力を引き連れて、こっちに援軍に向かってるってな事、聞いてるから。

幕府軍メンバーC あ、そりゃきっと、三浦の援軍だい。

幕府軍メンバーD 援軍かぁ、そりゃぁ、メッチャいいニュースだぁ!

三浦軍に対して、警戒の目を向ける者など一人もいない。とことん運命の尽きている幕府軍、まことにあきれたものである。

新田義貞は、先駆けする三浦義勝に追いつき、10万余騎を3手に分けて、攻撃命令を発した。

新田義貞 全軍、三浦の後に続けーーっ! エェイ! エェイ!

倒幕軍メンバー一同 ウオーーーー!

倒幕軍は、一斉にトキの声を上げ、三方向から幕府軍めがけて押し寄せていく。

幕府軍総大将・北条泰家(ほうじょうやすいえ)は、びっくりぎょうてん、

北条泰家 馬引けぇ! 鎧はどこだぁ!

このようにあわて騒ぐ中、新田義貞と脇屋義助(わきやよしすけ)率いる軍は縦横無尽に、幕府側陣営を蹂躙(じゅうりん)して廻る。

三浦義勝はこれに力を得て、江戸(えど)、豊島(としま)、葛西(かさい)、川越(かわごえ)、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)武士団、武蔵七党(むさししちとう)武士団らのメンバーを7手に分け、蜘蛛手(くもで)、輪違い(わたがい)、十文字(じゅうもんじ)、「一人残らず敵殲滅(せんめつ)!」とばかりに、幕府軍を攻撃する。

かくして、幕府軍側は三浦義勝の謀略にはまり、その大兵力をもってしても、もはやなすすべもなく、散りじりになりながら、鎌倉めざして引き退いていく。その戦死者は、数え切れないほどである。

幕府軍総大将・北条泰家でさえも、あわや関戸(せきと:東京都・多摩市)付近で討ち死にか、と思われるようなキワドイ局面もあったが、幕府軍・横溝八郎(よこみぞはちろう)がその場に踏みとどまり、迫り来る倒幕軍メンバー23人をしばしの間に射落としながら、主従3人、討死。

安保道堪(あぶどうかん)父子3人とそれに従う100余人も枕を並べて討死。

その他の北条家譜代(ふだい)の郎従(ろうじゅう)たちや、北条家恩顧(おんこ)の家の者ら300余人が、とって返して倒幕軍と戦い、次々と倒れていく中、北条泰家はかろうじて、鎌倉・山内(やまのうち:神奈川県・鎌倉市)に無事、帰りついた。

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長崎高重(ながさきたかしげ)は、久米川(くめがわ:東京都・東村山市)の合戦の際に組み伏せて切った首2個、切って落とした首13個を中元(ちゅうげん)と下部(しもべ)に持たせ、鎧に突き立った矢を抜く余裕も無い中に、かろうじて鎌倉へたどりついた。

傷口から流れ落ちる血で、白糸の鎧を真っ赤に染めながら、高重はしずしずと、北条高時の館へ参じ、中門の前にかしこまった。

彼の祖父・長崎円喜(ながさきえんき)は、嬉々として彼を出迎え、自らその傷口を吸い、血を口中に含みながら、涙を流していわく、

長崎円喜 (ズズゥィーー・・・(血を吸う音)ズズゥィーー・・・)なぁ、高重・・・昔のことわざになぁ、「子供のデキ・フデキを見抜く事にかけては、その父を越える者はいない」って言ってなぁ・・・。

長崎高重 ・・・。

長崎円喜 (涙)わしはなぁ、高重・・・オマエの事をなぁ、「あれじゃとても、高時さまのお役に立てるような人間じゃぁないよなぁ」って思ってたんだ。だから、いつもお前の事をなぁ、「かわいくないヤツだぜ」って思ってた・・・でも、それは、大間違いだったなぁ。

長崎高重 ・・・。

長崎円喜 オマエはたった今、「万死を出でて一生に逢った」ってわけだ。

長崎高重 ・・・。

長崎円喜 あの、新田の堅い陣を、みごとに打ち破ったってぇ、いうじゃぁないか! すばらしい、ジツに、すばらしいぞぉ! あの陳平(ちんぺい)や張良(ちょうりょう)(注2)だって、そこまでうまくやれるかどうか・・・オマエはみごと、軍事の最高のレベルを究(きわ)めたんだ、大いに自慢していいんだぞぉ!(涙)

長崎高重 ・・・。(涙)

長崎円喜 いいか、これからもよくよく心してな、戦場に臨んでは常に、「合戦こそは我が一大事」と思ってな、父祖の名を天下に顕わし、高時殿にもしっかりと、ご恩奉じをしていくんだぞ、いいな、わかったな、高重!(涙、涙)

長崎高重 (何度もうなづく)ううう・・・。(涙、涙)

高重の顔を見る毎に、小言ばかり言っていた円喜であったが、今日はいつもとは全く違い、今回の戦で示した彼の武勇を、深く感じ入ってくれている・・・高重は頭を地に付けて、祖父の言葉を心の中でじっとかみしめた。

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(訳者注2)陳平、張良ともに、漢の高祖の名参謀。
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関東での倒幕軍相手の思わぬ大敗北に、鎌倉幕府全体が色めきたっている中に、西の方から、驚天動地(きょうてんどうち)の情報がとびこんできた。

急使 一大事、一大事! 京都の六波羅庁(ろくはらちょう)、反乱軍の攻撃により陥落! ハァ、ハァ・・・(荒い息)。

幕府リーダー一同 ナニィーー!

急使 六波羅庁メンバー、京都を脱出するも、近江(おうみ:滋賀県)の番場(ばんば:滋賀県・米原市)にて全員自害! ハァ、ハァ・・・(荒い息)。

幕府リーダー一同 ナァァニィーーーー!

幕府リーダーK (内心)まさに今、関東の大敵と、

幕府リーダーL (内心)死闘を展開している、さ中だというのに、

幕府リーダーM (内心)またまた、このような事を聞くだなんて・・・。

幕府リーダーN (内心)なんということだ・・・。

幕府リーダーO (内心)いったい、これから先、いったい、どうしたらいいんだ・・・。

全員途方に暮れ、呆然と立ちすくむばかりである。

やがて、この情報は、六波羅庁に派遣されていた者たちの家来や親族たちにも伝わっていった。彼らの嘆き悲しむその様は、もはや言葉にはつくしがたい。

いつもは猛く勇ましい人々も、さすがにこの事態には、手足もなえるような心地がして、平常心を完全に失ってしまっている。

幕府リーダーK 今はまさに、非常事態。でも、ただ手をこまねいて、あわてふためいているだけでは、どうしようもないだろう。

幕府リーダーL そうだ、まったくその通りだ。

幕府リーダーM 最優先課題は、今、目前に迫ってる大敵の方でしょう。

幕府リーダーN そりゃそうです、当然そっちが先ですよ。

幕府リーダーO 新田軍を退けてこそ、京都へも、軍を送ることができるってもんでしょ。

幕府リーダーP まずは、鎌倉防衛の作戦会議、しなきゃぁね。

幕府リーダー一同 賛成!

幕府リーダーM もう一つ重要な事、それは情報管制。六波羅庁陥落のことを、新田のレンチュウらに知られちゃまずいや。

幕府リーダー一同 同感だ。

幕府リーダーP なんとか、手をうたなきゃなぁ。

しかし、それはもはや、隠しようもない事実、「六波羅庁陥落のニュース」はあっという間に、関東一円に広まった。

倒幕軍メンバーW おいおい、聞いたかよぉ! 六波羅庁陥落だってよぉ!

倒幕軍メンバーX いやぁ、おれたちにフォワードの風、ビュンビュン吹き出したじゃぁん。

倒幕軍メンバーY こないだの分陪河原での大勝利だけでも、うわぁこりゃスゲェやぁと思ってたのにぃ。

倒幕軍メンバーZ それに輪ぁかけてねぇ、メデッタ(目出度)、メェデッタァーのぉ・・・。

倒幕軍メンバー一同 ウワハハハ・・・。(パチパチ・・・拍手)。

倒幕軍メンバーW さぁ、やぁるぞぉーーー!

倒幕軍メンバー一同 イィケイケイケェーー!(パチパチ・・・拍手)。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月16日 (水)

太平記 現代語訳 10-2 新田義貞、挙兵す

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘(げんこう)3年(1333)3月11日に、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)から倒幕命令書(注1)を頂いた新田義貞(にったよしさだ)は、仮病を使って千剣破城(ちはやじょう)攻囲陣を離れ、自らの本拠地(注2)へ戻った。その後、彼は信頼のおける一族の者らを密かに集めて、打倒・鎌倉幕府のプランを練り続けていた。

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(訳者注1)原文では「綸旨(りんじ)」。

(訳者注2)新田義貞の本拠地は、群馬県の新田の地(大田市)である。
新田家のルーツは、新田義重である。新田義重は、源義国の子であり、源義家の孫である。
足利家のルーツは、足利義康である。足利義康は、源義国の子であり、源義家の孫である。
よって、新田氏と足利氏は共に、清和源氏の流れに属する。
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義貞がこのような事を企てているとは夢にも知らない北条高時(ほうじょうたかとき)は、「北条泰家(やすいえ)(注3)を大将とし、彼に10万余騎を率いさせて京都へ進軍、近畿地方と中国地方の反乱を鎮圧」との決を下した。

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(訳者注3)泰家は高時の弟である。
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かくして、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、上野(こうずけ:群馬県)、安房(あわ:千葉県南部)、上総(かずさ:千葉県中部)、常陸(ひたち:茨城県)、下野(しもつけ:栃木県)の6か国に動員令が発せられた。そして、その兵糧確保のために、関東一円の荘園に、臨時の課税がかけられた。

「新田荘(にったしょう)の世良田(せらだ)は、経済力豊かな者が多いから」ということで、出雲介親連(いずものすけちかつら)と黒沼彦四郎(くろぬまひこしろう)が新田荘担当の徴税役に任命された。

「5日間のうちに6万貫、取りたててくるべし!」との厳命を受けて、彼らは現地に乗り込んできた。

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新田荘に足を踏み入れるやいなや、出雲介親連と黒沼彦四郎は、大ぜいの部下たちを荘家(しょうけ:注4)に押し入らせ、メチャクチャな取りたてを、次々と行っていった。

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(訳者注4)荘園の事務を司る者の家。
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これを聞いた義貞は、

新田義貞 んもぉぅ! おれっち(我が館)の周りを、あやしげなやつらが馬走らせて、好き放題やりがってよぉ・・・ったくもう、ムシャクシャしてくらぁ! あぁ、もぉ、ガマンなんねぇ!

義貞は、部下を大勢出動させて両人をたちまち捕縛、出雲介親連を縛りあげて留置、同日暮れ頃にはとうとう黒沼彦四郎の首を斬って、世良田の里の中にさらしてしまった!

これを聞いて、烈火のごとく怒る北条高時、

北条高時 ヤイヤイ、わが北条家を、いってぇ何だと思ってやがんでぃ!

幕府リーダー一同 ・・・。

北条高時 おれんちが政権の座についてから、もう既に9代目、日本国中みぃんな、北条家の命令に従ってきたぞぉ。なのによぉ、最近の日本はいったいどうなってんだぁ! 遠国の連中は何かってぇと、幕府に逆らいやがる、近くの連中らも、幕府の命令をいいかげんに聞いてやがる。ふざけんなよぉ!

北条高時 よりにもよってだなぁ、この幕府おひざもとのぉ、このぉ、このぉ、関東でだぞぉ、こっちが送った使いの者を殺すたぁ、いってぇ、ナニゴトだぁ! まったくもう、トンデモネェ悪人連中、重罪ヤロウドモだぁ! ここで甘い顔してたんじゃぁ、ますます、つけあがりやがるに決まってらぁ!

幕府リーダー一同 ・・・。

北条高時 おぉい、おまえら、すぐになぁ、武蔵と上野の連中ら集めてなぁ、新田義貞とその弟の脇屋義助(わきやよしすけ)、とっととヤッチめぇぃ!

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「幕府からの討伐軍、新田荘へ向かう」との情報をキャッチした義貞は、さっそく一族の主要メンバーを集めて、会議を開いた。

新田義貞 ・・・ってなわけだ・・・さぁて、これからいったい、どうするべい?

新田一族A うーん・・・。

新田一族B 沼田荘(ぬまたしょう:群馬県・沼田市)に城を築いてな、利根川(とねがわ)を前にして、幕府軍を迎えうつってのは、どうかねぇ?

新田一族C いやいや、越後(えちご:新潟県)へ避難する方が、いいんじゃぁねぇのぉ?

新田一族D そうだよ、そうだよ、越後には我が一族いっぱいいるもんなぁ。ここから山越えして、津張郡(つばりのこおり:新潟県・十日町市および新潟県・中魚沼郡・津南町)へ移動してさぁ、まず、上田山(うえだやま:新潟県南魚沼郡)にたてこもる。で、そこを本拠地にして軍勢集めて、幕府軍に備えるのがいいと思うよ。

このように、メンバーの意見はあい異なり、なかなか意思統一を見る事ができない。

じっと思案していた脇屋義助(わきやよしすけ)(注5)が、前に進み出て、

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(訳者注5)脇屋義助は、新田義貞の弟である。
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脇屋義助 あのなぁ。

新田一族メンバー一同 ・・・。

脇屋義助 「武士の道は、死を軽んじ、名を重んじるをもって義とする」って、いうじゃんかよぉ。

新田一族一同 ・・・。

脇屋義助 北条家が天下を取ってから、もうすでに160余年にもなるんだよなぁ。でも、未だに、あの家の武威は衰えちゃいねぇやなぁ・・・日本国中、誰もかも、その命令のまま、動いてんだもん。

脇屋義助 だからな、利根川を前にして防戦するってぇのは、ムリだと思うよぉ。こっちの運が尽きたら最後、とてもかないっこねぇやな。

脇屋義助 越後にいるわが同族を頼んでみるってぇのも、なんだかなぁ・・・。一族全員、心一つになってねぇとな、どんな謀事(はかりごと)立てたって、あっという間に、破綻(はたん)しちゃうんだわさぁ。

脇屋義助 テェ(大)した事もしでかせねぇまんま、あっちゃこっちゃ、ただただ、逃げ回ってたってなぁ・・・。「おいおい、あれ見ろや、新田の何とかやらが、高時殿の使者を切った罪によって他国に逃亡、そいでもって、とうとう討たれちまったぞぉ」てなフゥに、世間のうわさになるってぇのも、どうにもイヤなもんだわさぁ、そうじゃねぇかい、えぇ?

新田一族一同 ・・・。

脇屋義助 どう転んだって、討死にしなきゃぁなんねぇこの命、だったら、謀反人だの、なんだのかんだの、人になんと言われようが、先帝陛下の為にこの命棄ててこそ、武士の本望ってもんじゃぁねぇかい? それでこそ、おれたちの死後までも、武勇の誉れは子孫の面目、わが新田家の武名は、歴史に名を残しってもんじゃんかよぉ。

脇屋義助 考えてもみろい、こないだアニキが、陛下から倒幕命令書頂いたの、あれっていってぇ、何のためだったんだぁ?

脇屋義助 あの倒幕命令書をだなぁ、各々自分の額に押し当ててぇ、運を天に任せてだぁ、たった一騎なりとも関東のそこら中に打って出てぇ、いっちょう倒幕の義兵、募ってみようじゃん! 仲間になってくれる者が多けりゃぁ、もしかしたら鎌倉だって、落とせるかもしんねぇぞぉ!

脇屋義助 とにかく、もうこうなったら、ダメモトよぉ! サイの目がダメと出た時にゃぁ、鎌倉を枕に、討死にするだけのことだぁ!

新田一族一同 そうだなぁ!

義を重んじ、勇を宗とするその意見に、座に連なっていた一族30余人は全員、賛同した。

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「情報が漏洩(ろうえい)せぬうちに、いざ出陣!」と作戦会議は決し、元弘3年5月8日午前6時、生品明神(いくしなみょうじん:群馬県・太田市)の社前にて、新田一族は旗揚げした。

後醍醐先帝より頂いた倒幕命令書を開いてそれを三度拝した後、笠懸野(かさかけの:群馬県・みどり市と太田市)目指して出発。

義貞に従う新田一族リーダーたちは以下の通り、

 大館宗氏(おおたちむねうじ)と、その子息、大館幸氏(なりうじ)、大館氏明(うじあきら)、大館氏兼(うじかね)、
 堀口貞満(ほりぐちさだみつ)と、その弟・堀口行義(ゆきよし)、
 岩松経家(いわまつつねいえ)、
 里見義胤(さとみよしたね)、
 脇屋義助、
 江田行義(えだゆきよし)、
 桃井尚義(もものいなおよし)、
これら主要メンバー他、総勢150騎たらずの軍勢であった。

旗揚げはしたものの、

新田軍一同 (内心)こんな少い人数では、この先いったいどうなるんだか・・・。

その日の夕刻、利根川(とねがわ)の方向から、馬・甲冑さわやかな武士団2,000騎ほどが、馬の土煙を上げながら馳せ来たった。

新田軍一同 (内心)いよいよきたか、幕府軍め!(前方をキッと見つめる)

ところがそれは幕府軍ではなくて、越後国に居住の新田一族すなわち、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、田中(たなか)、大井田(おおいだ)、羽川(はねかわ)家の人々であった。

新田義貞 (大喜)やったぜぇ!

義貞は、馬を控えていわく、

新田義貞 いやぁ、よく来てくれたなぁ! 倒幕の計画、だいぶ前からプラン練ってたんだけどよぉ、そんなにすぐの事たぁ思ってなかったもんでなぁ、オメェらには打ち明けてなかったんだよなぁ。ところが今になって急に、決断迫られちゃってよぉ。

新田義貞 それにしても不思議だな、越後の方には何も言って送るヒマなかったのに、いってぇどうして、こっちの倒幕決起の事、分かったんだぁ?

大井田遠江守(おおいだとおとうみのかみ)は、鞍の上にかしこまっていわく、

大井田遠江守 いやいや、「先帝の御命令に従い、殿が倒幕を思い立たれた」って聞いたもんだからね、そいで、急いでやってきたんですよ。でなきゃあ、こんなに国元から、息せききってとんで来るもんですかね。

新田義貞 えぇ?

大井田遠江守 いやねぇ、5日ほど前だったかなぁ、越後一帯を、「わしは先帝陛下の使者じゃ」って触れて廻るヤツが現われましてねぇ・・・ありゃぁきっと、山伏姿に化けた天狗のたぐいでしょうな・・・そいつがたった1日の間に越後国中に、殿の倒幕旗上げの事、触れて回ったんですよ。それ聞いてオレたち、夜を日についで、馳せ参じてきたってわけ。

新田義貞 ふーん・・・。

大井田遠江守 あっちからね、これからまだまだイッパイやってきますよ。なんせ、越後の中でも遠方に住んでる連中だもんで、どうしても後に遅れちゃってねぇ。明日中には、全員到着すると思います。ここから他国へ打って出るってんなら、もうしばらく、連中の到着待ってからにしたら?

新田義貞 うん、そうだな、そうしよう。

越後からやってきた援軍のリーダーたちは、全員馬から下り、一人づつ義貞に目通りした後、人も馬も一息ついた。

越後からの最終到着グループに加え、甲斐国(かいこく:山梨県)と信濃国(しなのこく:長野県)の源氏の血筋に連なるグループもまた、家々の旗をさし連ねて、そこに駆けつけてきた。それらの合計、およそ5,000余騎ほど。

参集してきたこの大軍勢に、義貞・義助兄弟は大喜びである。

新田義貞 いやぁ・・・これぞまさしく、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)さまのご加護だよなぁ。よぉし、こうなったらソク、行動開始だぁ!

脇屋義助 イィクゼェィ!

新田軍一同 オーウ!

5月9日、新田軍は武蔵国へ進軍。その時、紀五左衛門(きのござえもん)が足利高氏(あしかがたかうじ)の子息・千壽王(せんじゅおう)を守りながら、200余騎を率いて参軍してきた。

その後、上野、下野、上総、常陸、武蔵の武士たちが、予期もしていなかったのにどんどん集まってきて、その日の暮れ頃には、実に20万7千余騎が兜を並べてひかえ、という状態になった。

四方800余里にも及ぶ武蔵野に、人と馬が充満、立つ隙間もないほどにびっしりと軍団は展開、天に飛ぶ鳥は、ゆったりと羽を伸ばせる場所もなく、地を走る獣も、我が身を隠す隙間さえない。草原より出ずる月は、馬の鞍の上にほのめき、鎧の袖に光を落とす。すすきの穂をなびかす風は、旗の影をひらめかし、母衣(ほろ:注6)の裾は一瞬たりとも静止する事も無し。

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(訳者注6)矢を防ぐために背負う布袋
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櫛の歯を引くがごとく、諸国からの早馬が次々と鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ到着しては、急を告げる。これを聞いて、時勢の変化を洞察できぬ者たちは、嘲り笑っていわく、

A あぁ、まったくもう、なんて騒々しいんだろうねぇ。

B これくらいの事で、いったいどうして、そんなに大騒ぎするんだぁ?

C 中国やインドから攻めてきたってわけじゃぁ、ねぇんでやんしょ? そんな事になったら、そりゃぁ大変だろけどさぁ。

D しょせん、日本国内での反乱ですもん、どうってこたぁないですよ。北条家にタテつこうだなんて、まぁ言ってみりゃぁ、カマキリがハサミかざして戦車に立ち向かうようなもんじゃぁないですかぁ、ハハハ・・・。

E あるいは、かの精衛鳥(せいえいちょう)が、山の木や石をくわえて運んでって、海を埋めようとしてるようなもの?

一同 ワハハハ・・・。

かたや、物事をよく見極る眼力を持った人々の間では、危機感がいや増しに高まっている。

H これは大変な事になったわよぉ!

I ほんとに・・・中国地方や首都圏方面の騒動が未だに静まらないっていうのにねぇ、またまた大敵が・・・。

J それも、関東の中から・・・幕府のお膝元じゃないのよぉ!

K その昔、中国の名臣・伍子胥(ごししょ)がね、呉王(ごおう)・夫差(ふさ)を諌めたって言うわよね、「晋(しん)国は、傷痕(きずあと)のようなもの、越(えつ)国は、腹中あるいは心臓中の病ともいうべきもの、越国こそは、わが呉国の最大の脅威」ってね。「今まさに身近に潜む危機」というのが、一番コワイのよ。

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「京都への討伐軍派遣は、ここではひとまずおいといて、まずは、新田退治を先行」と、鎌倉幕府は決定。

同月9日の作戦会議の決定を受けて、翌10日午前10時、金澤貞将(かなざわさだまさ)が、5万余騎を率いて利根川流域方面に出動。これは、上総および下総の軍勢を配下に組み入れ、倒幕軍の背後をつこうとのねらいである。

一方、櫻田貞国(さくらださだくに)を大将とし、長崎高重(ながさきたかしげ)、長崎孫四郎左衛門(まごしろうざえもん)、加治二郎左衛門(かじじろうざえもん)を副将にそえて、武蔵・上野両国の6万余騎を率いさせて、鎌倉街道経由で入間川(いるまがわ:埼玉県)方面へ進軍。こちらの軍団には、入間川辺に軍を展開した後、倒幕軍の渡河の瞬間を突かせよう、との作戦である。

承久の乱(じょうきゅうのらん)よりこの方、関東地方には平和の日々が続き、みんな弓矢の事も忘れたかのごとくであったのに、久しぶりに兵を動かす事とあいなった。武士たちはみな、「まさに今この時こそは、我が晴舞台!」とばかりに、仰々しく装って出陣していく・・・馬、鎧、太刀、刀・・・武具はみなキラキラと照り輝いている・・・一世一代の見物というべきか。

進軍途中、2夜の逗留(とうりゅう)の後、5月11日午前8時、幕府軍は、小手差原(こてさしばら:埼玉県・所沢市)に到着。

遥かかなたに展開する倒幕軍側の陣営を見渡すに、その軍勢は雲霞(うんか)のごとく、兵力はいったい幾千万あるものやら、さっぱり見当もつかない。櫻田・長崎両人はこれを見て、当初の予測が大きく外れてしまったゆえか、進軍をストップしてしまった。

新田義貞の指揮の下、倒幕軍サイドはたちまち、入間川の渡河を完了、トキの声を上げて前進、矢合わせの鏑矢(かぶらや)が、両軍の頭上を飛び交いはじめた。幕府軍サイドもトキの声を合わせ、軍旗を戦場へ進める。

最初のうちは、双方射手を前面に押し出し、激しい矢戦を展開。しかし、戦場は馬を掛けるには絶好の足場、両軍とも関東育ちの武士ぞろい、そのままじっとしているわけがない。太刀(たち)、長刀(なぎなた)の切っ先揃え、馬の口縄(くちなわ)を並べて次々と突撃開始。200騎、300騎、1,000騎、2,000騎・・・騎馬軍団どうしの激突が、戦場のそこかしこに展開されていく。

このようにして戦いを交えること30余回、戦死者、倒幕軍側300余人、幕府軍側500余人。日は既に暮れ、人馬共に、疲労の極限に。

「この戦の続きは、また明日に」と約して双方分かれ、義貞は3里退却して入間川辺に陣を取り、幕府軍も3里退却して久米川(くめがわ:東京都・東村山市)に布陣。両軍の間隔はおよそ30余町たらずである。

双方ともに陣営内にて、今日の合戦について話しあい、人馬ともに休息を取り、かがり火を焚きながら、夜明けの到来をひたすら待つ。

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夜明けとともに、倒幕軍は幕府軍の機先を制さんと、久米川へ向かった。幕府軍サイドはこれを予期、「防御を固めながら待機の後、敵軍襲来と共に、戦闘開始に移行するのが得策であろう」と、馬の腹帯を固め、兜の緒を締め、じりじりと倒幕軍の到着を待ち構えていたのであった。

両軍互いに間隔を縮め、幕府軍側は6万余騎を、倒幕軍側の一点めがけて集中攻撃し、相手を分断しようとする、これを見た倒幕軍側は密集体型を取り、相手側の軍陣中央突破を防ごうとする。これぞまさしく、黄石公(こうせきこう)の「虎を縛(ばく)する手」、張良(ちょうりょう)の「鬼をとりひしぐ術」、いずれも周知の兵法なれば、両軍互いに入り乱れ、破られず囲まれず、ひたすら百戦に命をかけ、一挙に死を争う。

「1000騎がたった1騎になるまでも、敵に後ろを見せない!」と、互いに決死の戦闘を展開したが、やはり時の運というのであろうか、倒幕軍側の損害些少(さしょう)、幕府軍側の戦死者多数という結果となり、加治二郎左衛門と長崎高重の両将は、2度の合戦に完敗を喫した気分の中、分陪河原(ぶばいがわら:注7)めざして退却を開始した。

これに引き続き追い討ちをかけようとした倒幕軍であったが、連日数度の戦闘に人馬ともに疲労激しく、久米川に一夜野営して馬の足を休めた後に、明日を期すこととした。

(訳者注7)東京都府中市、多摩川ぞい。

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「櫻田、加治、長崎ら、12日の戦に敗北して退却」との情報が、鎌倉へ届いた。

北条高時は、弟・泰家を大将に任命、塩田陸奥(しおだむつ)、安保左衛門(あぶさえもん)、城越後守(じょうえちごのかみ)、長崎時光(ながさきときみつ)、左藤左衛門(さとうさえもん)、安東高貞(あんどうたかさだ)、横溝五郎(よこみぞごろう)、南部孫二郎(なんぶまごじろう)、新開左衛門(しんかいさえもん)、三浦氏明(みうらうじあきら)らをそえて、総勢10万余騎の援軍を編成した。

援軍は、5月15日夜半(注8)、分陪河原に到着、それに力を得た幕府軍の士気は大いに回復した。

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(訳者注8)ここは太平記作者の誤りで、正しくは5月14日夜半。
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「幕府側大援軍の到来」という情勢の激変をキャッチできていなかった新田義貞は、15日の夜明け前、全軍に命令を発した。

新田義貞 総攻撃だぁーッ、イケーー!

倒幕軍一同 ウオオオオーーー!

倒幕軍は、分陪河原に押し寄せてトキの声を上げた。

幕府軍はまず、弓の名手3000人を前面に配置、雨の降るごとく矢を放たせる・・・倒幕軍の動きが止った。

幕府軍リーダーX チャンス到来!

幕府軍リーダY 反乱軍を包囲しぃー、殲滅(せんめつ)せよぉーー!

幕府軍一同 ウオオオオーーー!

幕府軍サイドの一斉攻撃が始まった。

義貞率いる勇猛果敢な倒幕軍側武士らは、幕府側の大軍を懸け破っては相手陣の裏へ回りこみ、とって返してはおめいて懸け入り、激しくきらめく雷光のごとく、蜘蛛手(くもで)、輪違い(わたがい)、7度、8度と、幕府軍に襲いかかっていく。しかし、新たに援軍の加わった幕府軍は以前にも増しての大兵力、前日の敗戦の恥をここでイッキにそそがんと、義を専らにして必死に立ち向かってくる。

かくして、義貞はついに敗北し、堀兼(ほりかね:埼玉県狭山市)目指して退却。倒幕軍側は戦死者多数、負傷者に至っては数え切れず、というサンタンたる状態になってしまった。

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幕府軍がその日のうちに追い討ちをかけていたら、義貞の命はここで終わっていたであろう。ところがところが・・・。

幕府軍リーダーX やったやったぁ! 大勝利だぁー!

幕府軍リーダーY 新田を、コテンパンにやっつけてやったぞぉ。

幕府軍リーダーZ もうこうなったら、新田軍、ナニするものぞって感じだよねぇ。

幕府軍リーダーY そのうちきっと、武蔵か上野の誰かが、新田の首もって、やってくるだろうよ。

幕府軍リーダーX じゃぁ、しばらくそれを待つとしようかぁ。

いやはや、なんとのんきな事を・・・かくして、幕府軍の掌中(しょうちゅう)から貴重な時がこぼれ落ちてしまったのであった。

やはり、北条家の命運は尽きる定めと、なっていたようである。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月15日 (火)

太平記 現代語訳 10-1 千壽王、鎌倉から逃亡

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都から遠い鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)ゆえ、「足利高氏(あしかがたかうじ)、倒幕側勢力に転ず」との情報をもたらす急使も未だに来らず、そのうわささえも、関東に伝わって来てはいなかった。

このような中に、元弘(げんこう)3年(1333)5月2日の夜半、足利高氏の次男・千壽王(せんじゅおう)が、鎌倉・大蔵谷(おおくらだに)エリアから突然姿を消し、行方不明になってしまった。このニュースを聞き、「大事件発生!」と、鎌倉中、大騒ぎになってしまった。

鎌倉幕府リーダーA エレェ事になっちまったなぁ。

鎌倉幕府リーダーB 足利殿のぼっちゃんがねぇ。

鎌倉幕府リーダーC 京都の方で、何かあったんだろうか?

鎌倉幕府リーダーD ほんと、京都はいったい、どうなってんだぁ?

鎌倉幕府リーダーE こっから京都まで、遠いからなぁ・・・あちらがいったいどんな情勢になってんだか、さっぱり分かりゃぁしねぇ。

鎌倉幕府リーダーA とにもかくにも、京都の情勢、気がかりだよ。

というわけで、鎌倉幕府は、長崎勘解由左衛門(ながさきかげゆざえもん)と諏訪木工左衛門(すわもくざえもん)の両名を使者に立て、京都へ向かわせた。

長崎と諏訪は、駿河国(するがこく:静岡県中部)の高橋(たかはし:静岡県・静岡市・清水区)で、京都の六波羅庁(ろくはらちょう)から鎌倉へ向かう急使に出会った。

六波羅庁よりの使者 大変ですよ! 名越(なごや)殿は戦死、足利殿は敵側になってしまいました!

長崎勘解由左衛門 なにぃ!

諏訪木工左衛門 こりゃいかん! こうなったらむしろ、鎌倉の方が心配だよ。

長崎勘解由左衛門 すぐに引き返そう!

長崎と諏訪は、鎌倉へ取って返した。

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足利高氏の長男・竹若(たけわか)は、伊豆国(いずこく:静岡県東部)の伊豆山(いずやま:静岡県・熱海市)に居住していたが、伯父の良遍法印(りょうべんほういん)と、身の回りの世話をする少年、同宿の僧侶ら13人と共に山伏姿に変装し、ひそかに京都へ向かった。

しかし彼らは、浮島原(うきしまがはら:静岡県・沼津市・富士市)で、長崎と諏訪に、バッタリ遭遇してしまった。

長崎と諏訪は、彼らを全員生け捕りにしてしまおうと思ったが、良遍は、彼らと一言も言葉を交えずにいきなり馬上で腹を切り、路傍に倒れ伏した。

長崎勘解由左衛門 これはやっぱし、足利殿の心中に反逆の意志ありってことだな。だから、一言の弁明もできないってわけよ。

彼らは、竹若を密かに刺し殺した後、残る13人の首を刎ねて浮島原にさらし、鎌倉へと急いだ。

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2017年8月12日 (土)

[関ヶ原合戦]は、[山中合戦]に名称変更されるべきか?

最近、下記のような説があることを知りました。

 いわゆる「関ヶ原合戦」の戦場は、[関ヶ原]の地ではなく、[山中]の地であった。
  ([山中]は地名)
 実際に戦場となった[山中]は、これまで戦場になったと考えられてきた場所よりも、もっと西方の地である。

この説にとても興味を感じたので、下記の書物を読みました。

 [新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い  白峰 旬 (著) 宮帯出版社 2014年 発行](以下において、これを、[文献1]と略記することにします)

これまで、関ヶ原合戦については深い知識や関心もないままに、一応、これくらいは知っておきたいなぁ、というくらいのスタンスで、様々なコンテンツ(書物、テレビ番組等)に触れてきた私にとっては、上記の書物は、衝撃的な内容のものでした。

以下のような様々の、時代劇・名場面や解説図が、白峰氏([文献1]の著者)によって、

 それは、史実に基づくものではない、後世のフィクション、作り話だ

と、されているのです。

 [小山評定] 小山(栃木県)で、東軍側の武将たちが会議する、というシーン
 [問鉄砲] なかなか踏ん切りを付けれない小早川秀秋の陣めがけて、家康の命により、鉄砲が撃ちこまれる、というシーン
 [関ヶ原合戦の布陣図] ここに、石田三成の陣が、ここに小西行長の陣が、というような配置図

本題に入りましょう。

いわゆる「関ヶ原合戦」があったのは、旧暦・慶長5年9月15日、西暦1600年10月21日 です。

[文献1]の著者・白峰 旬・氏は、この日近くのタイミングで作成された一次史料に注目して、様々な考察を行っています。それに基づいて、白峰氏は、

[文献1] 39P - 41P において、

 「関ヶ原合戦」という名称は正しいのか

という問題提起を、行っています。

白峰氏が考察の手がかりとして用いた一次史料は、下記の書状、すなわち、手紙です。(各項の先頭にある史料の記号は、私が付与したものです)

 [史料・徳川] Date:慶長5年9月15日 From:徳川家康 To:伊達政宗
  [文献1] 39P - 40P で紹介・引用されています。家康から政宗への書状です。

 [史料・保科] Date:慶長5年9月19日 From:保科正光 To:松沢喜右衛門尉、他2名
  [文献1] 40P で紹介・引用されています。保科正光から松沢喜右衛門尉らへの書状です。

 [史料・吉川] Date:慶長5年9月17日 From:吉川広家 To:?
  [文献1] 40P で、「吉川広家自筆書状案(慶長五年九月十七日)」として紹介・引用されています。

 [史料・石川and彦坂] Date:慶長5年9月17日 From:石川康通、彦坂元正 To:松平家乗
  [文献1] 40P - 41P で紹介・引用されています。石川康通、彦坂元正から松平家乗への書状です。

 [史料・生駒] Date:? From:生駒利豊 To:坪内定次
  [文献1] 48P - 65P で紹介・引用されています。当日の戦闘に参加していた、[生駒利豊]という人が、後になってから、当時の事を回想して書いた書状なのだそうです。

白峰氏の調査結果は、以下のようになったのだそうです。

 [史料・徳川]、[史料・保科]の中には、
  「山中」という所において、戦闘が行われた、という趣旨の事が記されている。
  ([文献1] 39P - 40P)

 [史料・吉川] の中には、
  「関ヶ原」という地名は全く記されておらず、「山中」という地名が頻出し、「山中合戦」、「山中之合戦」と記されている。
  ([文献1] 40P)

 [史料・石川and彦坂] の中に、
  「関か原へ出陣して一戦に及んだ」との記述がある。
  ([文献1] 40P - 41P)

 [史料・生駒] の中に、
  「関ヶ原」という場所において、戦闘が開始された、と記されている。

[文献1] 51P - 55P には、下記のように[史料・生駒] からの引用が行われています。 (白峰氏により、現代語訳されています)

 「(前略)関ヶ原にて、大夫殿(福島正則)の先手の者が(宇喜多秀家隊と)鉄砲を撃ちあった。・・・」

[文献1] 52P - 53P に、その書状の現物を撮影した画像が掲載されており、その最初の方に、私には「原」という文字であろうかと思われるような、字があります。

[文献1] 78P - 79P に、[史料・吉川]中の、下記のような内容の部分が引用されています。(白峰氏により、現代語訳されています)

 「(前略)小早川秀秋は逆意が早くもはっきりする状況になったので、大垣衆(大垣城にいた諸将)は、山中の大谷吉継の陣は心元なくなったということで、(大垣城から)引き取った(移動した)。これは、佐和山への「二重引」をする覚悟と見える(後略)」

上記中には、「山中」の文字があります。しかし、大垣衆(石田三成や宇喜多秀家らが、その中に含まれているのだろう)が、「山中」へ移動した、というような事は、書かれていません。大谷吉継が「山中」にいたであろうことが、読み取れるだけです。

[文献1] 81P - 82P には、[史料・石川and彦坂]中の、下記のような内容の部分が記されています。(白峰氏により、現代語訳されています)

 「石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の四人は、(九月)十四日の夜五ツ(午後八時頃)時分に大垣(城)の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一緒に押し寄せた。この地の衆(尾張衆)・井伊直政・福島正則が先手となり、そのほか(の諸将が)すべて次々と続き、敵が切所(要害の地)を守っているところへ出陣して、戦いをまじえた時(開戦した時)・・・」

上記中には、[関ヶ原]とあります。

このように、白峰氏によって紹介・引用されている当時の一次史料の中においては、戦場となった場所に関しては、

 [関ヶ原]と記されているものもあり、
 [山中]と記されているものもあり、

という状態であるようです。

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[山中]とはいったい、どのあたりにあるのだろう?

ネット地図にアクセスし、[岐阜県 関ヶ原町 山中]で検索して、現在、[山中]と呼ばれているエリアが、岐阜県・関ヶ原町の中にあることが分かりました。

その位置は、これまで、「ここが石田三成陣跡である」とされてきた地点、「ここが小西行長陣跡である」とされてきた地点からは、南西方向に離れた地のようです。

(東海道新幹線、JR東海道本線が、このあたりを通っているようなので、車窓からその地を見ることができるかもしれません。)

しかしここにきて、疑問点が続々、湧き上がってきてしまいました。以下に、それを記します。

(1)当時の「山中」エリアは、現在の[山中]エリアと、同じなのか?

現在、[山中]とされているエリア、すなわち、[岐阜県 関ヶ原町 山中]と、1600年当時に、「山中」と呼ばれていたエリアが、同一なのかどうか?

1600年当時、現地の人々が「山中」と呼んでいたエリアは、もしかしたら、現在の[岐阜県 関ヶ原町 山中]よりも、もっと広い範囲のエリアであったかもしれません。

もしかしたら、その「山中」エリアの中には、「関ヶ原」も含まれていたのかもしれません。

もしもそうであるならば、戦闘が行われたと想定される場所を、[岐阜県 関ヶ原町 山中]に限定する必要はなくなるでしょう。「山中」に含まれる地・「関ヶ原」においても、戦闘が行われていたのかもしれないのだから。

(2)「山中」と「関ヶ原」が、きっちりと区分して把握されていたのかどうか?

1600年当時、現地の人々は、ここからここまでが「山中」であり、ここからここまでが「関ヶ原」である、「山中」と「関ヶ原」とは、異なるエリアである、というように、明確な地理的区分を持っていたのでしょうか? 仮にそうだとしてみても、次の疑問が生じます。

徳川家康、吉川広家は共に、当時、関ヶ原の地を支配していたわけではありません。もっと遠くの場所を支配していました。だから、現地の地理にそれほど詳しかったとは思えません。

彼らの頭の中において、「関ヶ原」と「山中」とが、異なるエリアを表す地名として、明確に区別できていたのかどうか、疑問です。

家臣たちから聞いた、「山中」という地名を、あまり深く考えずに、そのまま、手紙に書いたのかもしれません。

これまで、小早川秀秋が陣を置いたのは、[松尾山]であると、されてきました。

その[松尾山]の近くに、[岐阜県 関ヶ原町 山中]はあります。よって、[岐阜県 関ヶ原町 山中]が、複数あった戦場のうちの一つになった可能性はあるでしょう。

よって、その地で戦闘を行った人が、東軍の中にいたかもしれません。そのような人が、戦いが終わった後に、「おまえは、どこで戦っていたか?」と問われたならば、「はい、山中という所で戦っていました。」と答えるでしょう。その報告をもとに、家康が、「・・・濃州の山中において一戦に及んだ」と手紙に書いた、というような事も、考えられるかもしれません。

戦後数日経過の段階で、書いた手紙ですから、あまり細かい事(「山中」か「関ヶ原」か)にこだわって書くような余裕は無かったでしょう。

(3)[岐阜県 関ヶ原町 山中]は、大軍を展開するには適していない地であるように思えるのだが

[地理院地図]にアクセスし、[関ケ原町 山中]で検索して、[岐阜県 関ヶ原町 山中]の付近の等高線より、そこの地形を想像することができました。

そこはまさに、山の中の地、南北にある山の谷間というような地形の場所であるようです。

このような狭い場所で、東西双方の大軍がひしめきあい、激闘し、というような情景が、どうにも、私の頭には、浮かんでこないのです。

ここは、野戦の戦場というよりはむしろ、防備に適した地と言った方がよいのではないでしょうか。この谷に兵士を配置したら、敵の大軍の通過を効果的に妨げることができそうに思えます。

太平記 現代語訳 9-10 千剣破城の楠軍、ついにネバリ勝ち

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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ここで場は、楠(くすのき)軍がたてこもっている千剣破城(ちはやじょう:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)へと変わる。

六波羅庁(ろくはらちょう)陥落の翌日正午頃、

楠軍メンバーA おぉい、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!

楠軍メンバーB なんや、なんや!

楠軍メンバーC いったい、どないしたんや!

楠軍メンバーA ビィーッグニュースや、ビィーーッグニュースやどぉ!

楠軍メンバーB そやから、いったいなんやねん!

楠軍メンバーC ニュースの中身を、ハヨ(早)言わんかい!

楠軍メンバーA よぉ聞けよぉ! 六波羅庁(ろくはらちょう)、既に陥落、天皇・上皇陛下は、関東へ落ちられたぁ!

楠軍メンバーB ナァニィーー!

楠軍メンバーC エーッ ほんまかぁ、それ! ウソちゃうやろなぁ?!

楠軍メンバーA アホか! ウソでこないな事、言えるかいや!

楠軍メンバー一同 ウォー! ヤッタァー! ウォー! ウォー! ウォー!

千剣破城内は、大喜びの勇気百倍、閉じ込められていた鳥が籠から脱出し、林の中に遊ぶような気分。かたや、城を囲んでいる側はといえば、これから生贄(いけにえ)に供せられようとしている羊の、祭司の場に駆り立てられていくような気分。

幕府軍メンバーH おいおい、聞いたか! 六波羅庁(ろくはらちょう)がヤラレちまったらしいぞ!

幕府軍メンバーI おれもついさっき、聞いたとこだよ・・・。

幕府軍メンバーJ (内心)こりゃぁいかん! 一刻も早くここから、トンズラしなきゃ! 

幕府軍メンバーK (内心)ここを離れるのが一日でも遅れようもんなら、落ち武者狩りに出動の野伏(のぶし)の数、イッキに増えてしまわぁな。

幕府軍メンバーL (内心)野伏のビッシリひしめく中に、山中の路を退却? ブルブルッ、考えただけでも、ゾッとするぜ!

10日早朝、千剣破城・攻囲軍10万余騎は、一斉に奈良(なら:奈良県奈良市)へ向けて退却を開始。

しかし時既に遅し、彼らの行く先には野伏が充満していた。しかも背後からは、楠軍が急追してくる。

大軍の退却する時に常に見られる光景が、ここにもまた展開されていく。弓矢を投げ捨て、親子兄弟離れ離れとなり、我先にとあわてふためきながら逃走に次ぐ逃走・・・ある者は行き止まりの絶壁に行き詰まって切腹、ある者は数千丈の深みの谷底へ転落、骨をみじんに打ち砕かれてしまう者幾千万、まさに言葉に尽くせぬ大惨状。

陣中からの自軍メンバーの逃亡を食い止める為に、谷の随所に設置していた関所や逆茂木(さかもぎ)が、今や障害となって、彼らの行く手に立ちふさがる。心を落ち着けてそれを除去してから通過すれば別にどうという事にもならないのに、あわててそこを突っ走ろうとするものだからトラブル続出である・・・障害物に当たって落馬して馬から離れてしまう者もあり、その場に倒れたまま他人に踏み殺されてしまう者もあり・・・。

2、3里ほどの山道を、数万の楠軍や野伏たちに追い立てられながら、まったく何の抵抗をする事も無く、ただひたすら逃げていくのみ。つい今朝までは10万余騎いたはずの幕府軍は、戦死者多数、もはや生き残っている者はほんのわずか、彼らは、馬や甲冑など一切を投げ捨てて敗走していった。

このようなわけで、現在に至っても、金剛山(こんごうさん:大阪府南河内郡)麓の東条谷(とうじょうだに)の道路周辺には、矢の刺さった跡の孔が空いたり、刀傷の痕跡のある白骨が、弔う者も無いままに、苔むして累々と横たわっているのである。

しかしながら、幕府軍のリーダーたちは、道中一人も命を落とす事無く、生きた心地も無い逃走の末にその日の夜半、ようやく奈良にたどりついた。

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2017年8月11日 (金)

太平記 現代語訳 9-9 光厳天皇ら、京都に護送される

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の第5親王をリーダーと仰ぐ野伏(のぶし)らのグループは、光厳天皇(こうごんてんのう)と後伏見上皇(ごふしみじょうこう)を拘束し、とりあえず長光寺(ちょうこうじ:滋賀県・近江八幡市)へ遷した。

その寺の中で光厳天皇は、三種神器(さんしゅのじんき)をはじめ、玄象琵琶(げんじょうのびわ)、下濃琵琶(すそごのびわ)、清涼殿(せいりょうでん)に安置の本尊仏に至るまで、全ての皇室の重宝を、手ずから第5親王に引き渡された。

古代中国・秦(しん)王朝最後の皇帝・子嬰(しえい)は、漢の高祖(かんのこうそ)によって国を滅ぼされた。子嬰はその時、天子の御印と割符(わりふ)を首に掛け、白木の車に乗って軹道(しどう)の駅亭まで出向いたのであったが、その秦王朝滅亡の時とまったく同様の光景が今まさに、この長光寺の中で展開されていったのである。

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日野資名(ひのすけな)は、光厳天皇の近臣中、最大の寵臣(ちょうしん)であったので、

日野資名 (内心)あぁ、エライ事になってもたわ・・・これからわしいったい、どないなエグイ目にあわされるんやろ・・・。

彼はついに意を決し、付近の辻堂(つじどう)に滞在していた一人の遊行僧(ゆぎょうそう:注1)のもとへ行った。

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(訳者注1)全国を旅しながら修行する僧。
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日野資名 あんな、アンタに頼みがあるんやが!

遊行僧 エッ、いったいなんですかい? ワタシみてぇなもんに、いったい何をせぇとおおせで?

日野資名 あんな・・・出家してまいたいんやわ。戒師(かいし)になってくれや。

遊行僧 あぁ、そういう事ですかぁ。ハイハイ、そんなのお安いご用でさぁ。

戒師役をつとめるその遊行僧が、いよいよ資名の髪を剃り落とそうとした時、資名はいわく、

日野資名 出家の時には、戒師は何やら、「四句の偈(げ)」とかいうのんを、唱える事になってるそうやなぁ?

遊行僧 う?・・・あ、そうそう、そうですよ、そうですよ・・・四句の偈ね・・・うーん、えぇっとぉ・・・。

彼は、その偈を知らなかったものと見え、

遊行僧 うぅん・・・如是畜生(にょぜちくしょう) 発菩提心(ほつぼだいしん)!(注2)

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(訳者注2)汝は畜生(人間以外の動物)のごとき存在ではあるが、仏道を求める心(菩提心)を起せ、ならば汝は必ず救われるであろう、なぜならば、畜生にさえも仏の救済の手はさしのべられていくのであるから、という意味。
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資名と同様に、自分も出家しようと思い、ちょうど髪を洗い終わったばかりの三河守友俊(みかわのかみともとし)は、これを聞いていわく、

三河守友俊 ウハハハハ・・・こらマイッタなぁ・・・命おしさに出家しよう思ぉとったら、ビシーンと、言われてもたやないかいな、「汝は是れ畜生なり」てかいや・・・おっかしいわなぁ、笑えてくるわなぁ、ウハハハハ・・・。(注3)

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(訳者注3)「自分の命が惜しいという、ただそれだけの理由により、出家して仏門へ入るとは、何というあさましい貪欲な心、それでは畜生同然ではないか」という自嘲の念が、この笑いの背後にあるのであろう。
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馬場(ばんば:滋賀県・米原市)まで天皇に付き従ってきた公家たちも、ここかしこへと逃亡、出家遁世(しゅっけとんせい)して退散してしまい、今となっては、光厳天皇、皇太子・康仁親王(やすひとしんのう)、後伏見上皇、花園法皇の側に供奉する者は、経顕(つねあき)と有光(ありみつ)の両人のみ。その他の人々はみな、コワモテの連中らに前後をとり囲まれ、粗末な網代輿(あじろごし)に乗せられて、京都へ護送されていった。

京都へ帰ってきた一行を、街頭に立って見つめながら、人々は口々に、

見物人A いやぁ、それにしてもまぁ、不思議なもんやないかいな。先帝陛下を笠置(かさぎ)で生け捕りにして、隠岐島(おきのしま)へ島流しにしてしまわはった事の報いが、3年もたたんうちに、こないな形で現われるとはなぁ・・・ほんま、えらいこっちゃわ。

見物人B 「昨日は他人事やと聞き流してたことが、今日になってみたら、自分事になってもた」っちゅぅのん、まさにこないな事を言うんでっしゃろなぁ。

見物人C あこ行かはる天皇陛下も、これからどっかへ、島流しになってしまわはるんやろぉか。

見物人D この先きっと、いろいろと苦しい目に、おぉていかはんねんやろぉねぇ、ほんまに、お気の毒なことどすぅ。

心ある人も心無き人も皆、この歴然たる因果応報の理(ことわり)には、ただただ感じ入り、袖を涙で濡らすばかりである。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月10日 (木)

太平記 現代語訳 9-8 近江・番場において、六波羅庁メンバー、自害

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「六波羅庁(ろくはらちょう)両長官、京都での合戦に敗北し、関東方面へ逃走中!」との情報が、あっという間に近江(おうみ:滋賀県)全域に伝播し、そこかしこで様々な集団がうごめきだした。

安宅(あたか)、篠原(しのはら)、日夏(ひなつ)、老曽(おいそ)、愛知川(えちがわ)、小野(おの)、四十九院(しじゅうくいん)、摺針(すりはち)、番馬(ばんば)、醒井(さめがい)、柏原(かしわばら)他、伊吹(いぶき)山麓から鈴鹿(すずか)川一帯に巣食う山賊、強盗、無頼漢たち2~3,000人が、たった一夜の間に、集合。

彼らは、遁世(とんせい)の体で伊吹山麓に世を忍んで暮らしていた後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の第5親王を、自分たちの大将にまつりあげ、錦の御旗をかざし、東山道(とうさんどう)一の難所である番場宿(滋賀県・米原市)東方の小山の上に陣取った。

彼らは、細い街道を挟む崖の上の両側に待機し、六波羅庁メンバー一行の来るのを、虎視眈々(こしたんたん)と待ち構えた。

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夜明けと同時に、北条仲時(ほうじょうなかとき)ら六波羅庁メンバーらは、篠原宿を出発し、光厳天皇(こうごんてんのう)を守りながら、街道に沿って北東方向へ歩を進めた。

道は徐々に、深い山の中に入っていく。

京都を出た時は総勢2,000余騎はいたというのに、道中で逃亡者が続出したのであろう、六波羅庁メンバー一行の人数は今や、わずか700騎にも満たない状態に、なってしまっている。

北条仲時はここで、軍の体勢を、集中から分散へと切り替えた。後方から軍勢が迫ってきた場合に備え、佐々木時信(ささきときのぶ)とその軍を最後尾に配置し、糟谷宗秋(かすやむねあき)に、「我々の行く先を塞(ふさ)いでる賊がいたら、そいつらを打ち散らして道を開け」と命令し、先遣隊(せんけんたい)として進ませた。糟谷部隊から少し離れて本隊が進み、そのまた後方を佐々木軍が進み、というような体勢にしたのである。

番場峠を越える地点で、糟谷部隊は、例の無頼者集団に遭遇した。彼らは数千の軍勢をもって街道を間に挟み、盾を一面に並べ、鏃(やじり)を揃えて待ち構えている。

遥か彼方前方に彼らを見た、糟谷宗秋は、

糟谷宗秋 ありゃぁきっと、近江や近隣諸国の悪党めらが、落人(おちうど)の鎧兜(よろいかぶと)を剥いでやろうってんで、ウヨウヨと集まってきやがったんだぜ。

糟谷宗秋 なぁに、どうってこたぁ無(ね)ぇさ、ちょっとテキビシク攻撃してやりゃぁいいんだよ、あいつらイッパツでビビっちまわぁな。命捨ててまで、おれたちに立ち向かってくるなんてこたぁ、ねぇだろうよ。よぉし、イッキにかけ蹴らしてしまおうじゃねぇの、みんなぁ、おれに続けぇ!

宗秋は36騎を率い、馬の首を並べて突撃した。野伏集団の第1陣500余人はおそれをなして、はるかかたの峯の上へ逃げ登り、第2陣に合流してしまった。

糟谷宗秋 よぉし、これでやつらはシマツできたぜ。もう誰も、手だしして来るヤツぁいねえだろうよ。

しかし、朝霧が晴れゆくと共に、悪夢のような光景が宗秋の眼に入ってきた。

まさにこれから越え行こうとしている山道に沿って、遥か彼方まで、野伏の集団が充満している。峰の嵐にはためく錦の旗一流れの下、5~6,000人ほどの敵が要害に陣を取り、六波羅庁メンバー一行を待ち構えているではないか。

野伏集団・第2陣の大軍を見て、呆然と立ち尽くす宗秋・・・。

糟谷宗秋 (内心)あそこを騎馬で突破するのは、ムリだろう。こっちはもう、人も馬も疲れきっちゃってるんだよなぁ・・・しかも、敵側は、険阻この上なしのポジションに位地してやがる。

糟谷宗秋 (内心)接近して矢戦で戦うってのも、不可能だ、矢はもう全部射つくしちゃってるからな。だいいち、あんな膨大な人数相手に、いったいどうやって戦えってんだ?

糟谷宗秋 (内心)だめだわ、こりゃ・・・。オレたちだけじゃ、到底ムリだ。

山麓のとある辻堂の側で、宗秋たちは馬から降りて、後続の本隊が到着するのを待つ事にした。

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前方で戦闘あり、との報告を聞き、北条仲時は馬の足を速めて、宗秋たちが待機している所に駆けつけてきた。

北条仲時 おい、どうだ、どんなカンジだ、こっちは?

糟谷宗秋 はぁ・・・。

北条仲時 ・・・。

糟谷宗秋 まったくねぇ・・・「武士たるもの、死すべき所で死なずんば、後に恥辱を見る結果となるであろう」たぁ、よくぞ言ったもんですわぁ。

北条仲時 ・・・。

糟谷宗秋 おれたちゃ、京都で潔く討死にしときゃぁよかったもんを、たった一日の命を惜しんだばっかしに、はるばるここまで逃げてきちゃって・・・あげくの果てに、こんな所で、つまんねぇヤロウドモの手にかかって、屍(しかばね)を道端の露にさらすことになっちまうとはなぁ・・・あーあ、まったくもう、クヤシイ事じゃぁねぇですかい!

北条仲時 ・・・。

糟谷宗秋 ほら、あそこ見てくださいよ、(野伏集団たちを指差す)あそこ。甘いモノに群がる蟻みてぇに、ビッシリいやがる。

北条仲時 ウーン・・・。

糟谷宗秋 あそこにいやがる連中らだけで、もう敵はおしまいってんならね、おれたちみんなで命棄ててかかって、ヤツラをムリヤリ打ち払ってでも、あの谷を通っていけるかもしれませんよ。けどねぇ・・・。

糟谷宗秋 問題はその先ですよ。

糟谷宗秋 まずは、土岐(とき)一族。彼らは、謀反のショッパナから、その張本人ですからね(注1)。待ってましたぁとばかりに、おれたちが美濃国(みのこく:岐阜県南部)にさしかかった時に、当然、道を塞いでくるでしょうね。

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(訳者注1)土岐一族の動向については、1-7および1-8を参照。
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糟谷宗秋 さらにその先には、吉良(きら)一族(注2)。何度も軍勢招集かけてるのに、ウンともスンとも言ってきやがらねぇ。うわさによれば、遠江国(とおとおみこく:静岡県西部)内に城郭を構えてるらしい。やつらもきっと、コトを構えてきやがるでしょうねぇ。

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(訳者注2)足利氏に属する武士の集団。愛知県・西尾市の吉良を根拠としていた。
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糟谷宗秋 そういう連中らまで相手にして、闘うってぇことになるとねぇ・・・たとえこっちに一万の兵力があったとしてもですよ、とてもかなやしません。まして、今やおれたちは落人の身ですよ・・・人馬ともに疲れ果て、矢の一本ロクに射る事もできなくなっちゃってる・・・こんなんでこの先いったい、どこまで落ち延びれるもんですかってんだ。

糟谷宗秋 殿、もう先へ進むの、やめましょうよ。後からやって来る佐々木時信をここで待ってですね、あいつの軍勢と合流してから近江へ戻りましょうや。どこか適当な城を見つけて、しばらくそこにたてこもるってセンで、どうですか? そこにじっと身をおいて、関東からの援軍の到着を待ってみては?

北条仲時 うん・・・そうだなぁ・・・その作戦も一応考えてみてもいいとは思うよ・・・。でもなぁ、今となっては佐々木だって、腹の中じゃいったい何考えてんだか、分かったんもんじゃぁないぞ。そんなに頼りにしてもいいものかねぇ?

糟谷宗秋 ・・・。

北条仲時 あぁーっ! もう、進退(しんたい)窮(きわ)まってしまったなぁ!

北条仲時 いやいや、こんな事言っててもハジマラん。とにかく、みんなの意見をまず聞いて、それからだ。

北条仲時 全員、このお堂の中でしばらく休憩。佐々木が来たらソク、作戦会議開始としよう。

糟谷宗秋 はい。

500余騎の武士たちは全員、馬から下り、辻堂の庭に腰を下ろした。

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佐々木時信は、本隊から一里ばかり後方を、300余騎を率いて進んでいた。ところが、いったいいかなる天魔波旬(てんまはじゅん)のしわざであろうか、

人物A えらいこっちゃ! 北条仲時殿の軍がなぁ、番馬峠で野伏どもに包囲されてな、一人残らず討たれてしまいましたでぇ!

佐々木時信 なにぃ! なんやとぉ!

佐々木時信 (内心)・・・うーん・・・もうこないなっては、どうしようもないなぁ。

時信は、意を決して愛知川(えちがわ)のあたりから京都へ引き返し、倒幕軍側に投降してしまった。

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北条仲時 (内心)遅いなぁ、佐々木はぁ! いったいナニしてるんだ?(ジリジリジリジリ・・・)

待てど暮らせど、時信はやって来ない。

北条仲時 (内心)さては、あいつ、裏切って敵側に寝返ってしまったな・・・あぁ・・・(天を仰ぐ)。

北条仲時 (内心)こうなったら、いったいどこへ引き返せっていうんだ? いったいどこへ逃げろっていうんだ?

北条仲時 (内心)もはやこれまで・・・潔く腹を切るしかない・・・よぉし!

覚悟定まった仲時は、サバサバとした表情になっていわく、

北条仲時 みんな! みんなに言いたいことがあるんだ、よく聞いてくれ!

六波羅庁メンバー一同 (かたずをのんで)・・・。

北条仲時 北条家の武運もようやく傾き、その滅亡も遠からずと思いつつも、諸君は武士の名誉を重んじ、日頃の誼(よしみ)を忘れずに、ここまでよく、私についてきてくれた。

北条仲時 その諸君の志に、この仲時、いったいなんといって感謝の言葉を述べたらよいのか・・・。

六波羅庁メンバー一同 (じっとうつむく)・・・。

北条仲時 なんとかして、諸君のそのまごころに報いたいとは思う。でも、わが北条家の武運も既に尽きてしまった・・・何をもってしても、もはや諸君に報いることができなくなってしまった。

北条仲時 残された道はただ一つ、諸君の為に自害して、生前に諸君からいただいた恩に、死後の世界で報いるのみ。この仲時、不肖の身たりとはいえ、北条一族の流れに連なる者、敵方は私の首に、とてつもない巨額の恩賞をかけていることだろう。

北条仲時 さ、早く、この仲時の首を取って、京都にいる足利家の連中らの手に渡したまえ。そしたらきっと、私に味方してここまでついてきた罪も、許してもらえるだろう。

仲時は、鎧を脱いで肌脱ぎとなった。

腹をかき切って、仲時は倒れ伏した。

糟谷宗秋は、鎧の袖にふりかかる涙を抑えて叫ぶ、

糟谷宗秋 殿! 殿ぉ!(涙)

糟谷宗秋 宗秋こそ先に自害して、殿の冥土(めいど)の道案内、おつとめさせていただこうと思ってましたのに! どうして先に行っちゃうんですかぁ、殿、殿ぉ! うううう・・・(涙)。

六波羅庁メンバー一同 ううう・・・(涙)。

糟谷宗秋 よぉーし! 殿の今生(こんじょう)の立派なご最期、この宗秋、たしかに見届けやしたぜぃ! 冥土に行ってしまわれたからって、おれが殿から離れていくと思ったら大間違い! ちょっと待ってて下さいよ、死出(しで)の山の旅のお供、おつとめさせていただきやすからねぇ!(涙)

宗秋は、柄口まで仲時の体に突き立った刀を抜き取り、それを自分の腹に突き立てた。そして、仲時の膝に抱き付き、うつぶせに倒れ伏した。

これを見た一同は、一斉に自害を始めた。

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(訳者注3)これ以下に登場する人々の名前の読みは、訳者が推測して記述したものであるので、もしかしたら間違っているかもしれない。
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佐々木清高(ささききよたか)、その子息・佐々木次郎右衛門(じろうえもん)、佐々木三郎兵衛(さぶろうびょうえ)、佐々木永寿丸(えいじゅまる)、

高橋九郎左衛門(たかはしくろうざえもん)、高橋孫四郎(まごしろう)、高橋又四郎(またしろう)、高橋弥四郎左衛門(やしろうざえもん)、高橋五郎(ごろう)、

隅田源七左衛門尉(すだげんしちざえもんのじょう)、隅田孫五郎(まごごろう)、隅田藤内左衛門尉(とうないざえもんのじょう)、隅田興一(よいち)、隅田四郎(しろう)、隅田五郎(ごろう)、隅田孫八(まごはち)、隅田新左衛門尉(しんざえもんのじょう)、隅田又五郎(またごろう)、隅田藤六(とうろく)、隅田三郎(さぶろう)、

安藤太郎左衛門入道(あんどうたろうざえもんにゅうどう)、安藤孫三郎入道(まごさぶろうにゅうどう)、安藤左衛門太郎(さえもんたろう)、安藤左衛門三郎(さえもんさぶろう)、安藤十郎(じゅうろう)、安藤三郎(さぶろう)、安藤又二郎(またじろう)、安藤新左衛門(しんざえもん)、安藤七郎三郎(しちろうさぶろう)、安藤藤次郎(とうじろう)、

中布利五郎左衛門(なかぶりごろうざえもん)、石見彦三郎(いわみひこさぶろう)、武田下條十郎(たけだげじょうじゅうろう)、関屋八郎(せきやはちろう)、関屋十郎(じゅうろう)、

黒田新左衛門(くろだしんざえもん)、黒田次郎左衛門(くろだじろうざえもん)、竹井太郎(たけいたろう)、竹井掃部左衛門尉(かもんさえもんのじょう)、

寄藤十郎兵衛(よりふじじゅうろうびょうえ)、皆吉左京亮(みなぎりさきょうのすけ)、皆吉勘解由七郎兵衛(かげゆしちろうびょうえ)、小屋木七郎(こやきしちろう)、塩屋右馬允(しおやうまのじょう)、塩屋八郎(はちろう)、

岩切三郎左衛門(いわぎりさぶろうざえもん)、その子息・岩切新左衛門(しんざえもん)、岩切四郎(しろう)、

浦上八郎(うらかみはちろう)、岡田平六兵衛(おかだひょうろくびょうえ)、木工介入道(もくのすけにゅうどう)、その子息・木工介三郎(すけさぶろう)、

吉井彦三郎(よしいひこさぶろう)、吉井四郎(しろう)、壱岐孫四郎(いきまごしろう)、窪二郎(くぼのじろう)、

糟谷弥二郎入道(かすややじろうにゅうどう)、糟谷孫三郎入道(まごさぶろうにゅうどう)、糟谷六郎(ろくろう)、糟谷次郎(じろう)、糟谷伊賀三郎(いがさぶろう)、糟谷彦三郎入道(ひこさぶろうにゅうどう)、糟谷大炊次郎(おおいじろう)、糟谷次郎入道(じろうにゅうどう)、糟谷六郎(ろくろう)、

櫛橋次郎左衛門尉(くしはしじろうざえもんのじょう)、南和五郎(なわごろう)、南和又五郎(またごろう)、

原宗左近将監入道(はらむねさこんしょうげんにゅうどう)、その子息・原宗彦七(ひこしち)、原宗七郎(しちろう)、原宗七郎次郎(しちろうじろう)、原宗平右馬三郎(へいうまさぶろう)、

御器所七郎(ごきそしちろう)、怒借屋彦三郎(ぬかりやひこさぶろう)、西郡十郎(にしこりじゅうろう)、秋月二郎兵衛(あきづきじろうびょうえ)、半田彦三郎(はんだひこさぶろう)、

平塚孫四郎(ひらつかまごしろう)、毎田三郎(まいでんさぶろう)、花房六郎入道(はなぶさろくろうにゅうどう)、宮崎三郎(みやざきさぶろう)、宮崎太郎次郎(たろじろう)、

山本八郎入道(やまもとはちろうにゅうどう)、山本七郎入道(しちろうにゅうどう)、その子息・山本彦三郎(ひこさぶろう)、山本小五郎(こごろう)、その子息・山本彦五郎(ひこごろう)、山本孫四郎(まごしろう)、

足立源五(あだちげんご)、三河孫六(みかわまごろく)、廣田五郎左衛門(ひろたごろうざえもん)、伊佐治部丞(いさじぶのじょう)、伊佐孫八(まごはち)、伊佐三郎(さぶろう)、

息男孫四郎(そくなんまごしろう)、片山十郎入道(かたやまじゅうろうにゅうどう)、木村四郎(きむらしろう)、二階堂伊予入道(にかいどういよにゅうどう)、石井中務丞(いしいなかつかさのじょう)、その子息・石井弥三郎(やさぶろう)、石井四郎(しろう)、

海老名四郎(えびなしろう)、海老名興一(よいち)、弘田八郎(ひろたはちろう)、覚井三郎(さめがいさぶろう)、石川九郎(いしかわくろう)、その子息・石川又二郎(またじろう)、

進藤六郎(しんどうろくろう)、進藤彦四郎(ひこしろう)、備後民部太夫(ぶんごみんぶだゆう)、備後三郎入道(さぶろうにゅうどう)、

加賀彦太郎(かがひこたろう)、加賀弥太郎(やたろう)、三嶋新三郎(みしましんざぶろう)、三嶋新太郎(しんたろう)、武田興三(たけだこうぞう)、満王野藤左衛門(みつわのとうざえもん)、

池守藤内兵衛(いけもりとうないびょうえ)、池守左衛門五郎(さえもんごろう)、池守左衛門七郎(さえもんしちろう)、池守左衛門太郎(さえもんたろう)、池守新左衛門(しんざえもん)、

齊藤宮内丞(さいとうくないのじょう)、その子息・齊藤竹丸(たけまる)、齊藤宮内左衛門(くないざえもん)、その子息・齊藤七郎(しちろう)、齊藤三郎(さぶろう)、

筑前民部太夫(ちくぜんみんぶだゆう)、筑前七郎左衛門(しちろうざえもん)、田村中務入道(たむらなかつかさにゅうどう)、田村彦五郎(ひこごろう)、田村兵衛二郎(ひょうえじろう)、

信濃小外記(しなののしょうげき)、真上彦三郎(まかみひこさぶろう)、その子息・真上三郎(さぶろう)、

陶山二郎(すやまじろう)、陶山小五郎(こごろう)、小見山孫五郎(こみやままごごろう)、小見山五郎(ごろう)、小見山六郎次郎(ろくろうじろう)、

高境孫三郎(たかさかまごさぶろう)、塩谷弥次郎(しおのややじろう)、庄左衛門四郎(しょうのさえもんしろう)、藤田六郎(ふじたろくろう)、藤田七郎(しちろう)、

金子十郎左衛門(かねこじゅうろうざえもん)、真壁三郎(まかべさぶろう)、江馬彦次郎(えまひこじろう)、近部七郎(こんべしちろう)、能登彦二郎(のとひこじろう)、

新野四郎(にいのしろう)、佐海八郎三郎(さみはちろうさぶろう)、藤里八郎(ふじさとはちろう)、愛多義中務丞(あたぎなかつかさのじょう)、その子息・愛多義弥次郎(やじろう)

上記の主要メンバーの他、合計432人、全員一斉に腹を切った。

彼らの身を浸して、血潮は黄河のごとく流れる・・・死骸は庭に充満し、まるで屠場に来たかのようである。あの中国・唐王朝時代「つちのといの年」の反乱軍5000人の一斉の死、あるいは、潼関(どうかん)の戦いにおいて百万の兵が河水に溺れた時といえども、これに比べればまだましであったか、と言いたくなるようなこの惨状、まことに哀れにして目もあてられず、言葉で表現のしようもない。

光厳天皇(こうごんてんのう) あ、あ・・・。

後伏見上皇(ごふしみじょうこう) ・・・。

その場に居合わせる光厳天皇、後伏見上皇両陛下は、目の前に展開されていくこの光景に、もはや、肝も魂もどこかに飛び去ってしまわれ、ただただ呆然(ぼうぜん)、その場に座し続けられるのみである。

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(訳者注4)六波羅庁メンバー一同の最期が実際にこのようなものであったのかどうか、それとも、これもまた太平記作者のフィクションであるのかどうか、訳者には何とも言いようがない。北条仲時らが番場で自刃した事は、史実であるようだ。蓮華寺(れんげじ:滋賀県・米原市)に、彼らの氏名を記した過去帳が存在するようだ。
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太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年8月 9日 (水)

太平記 現代語訳 9-7 六波羅庁、陥落

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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北条仲時(ほうじょうなかとき)と北条時益(ときます)のもとへ、糟谷宗秋(かすやむねあき)が駆け込んできた。

糟谷宗秋 大変です! わが陣営内から逃亡者続出、残ってるのは1000騎たらず!

北条仲時&北条時益 ナニッ!

糟谷宗秋 こんな人数で、あんな大軍防ぐなんてムリ、ぜったいムリです!

北条仲時 ・・・。

北条時益 ・・・。

糟谷宗秋 東側だけはまだ、敵に塞がれてません。今すぐ、ここから脱出されませ! 天皇・上皇両陛下をお連れして。

北条仲時 ・・・。

北条時益 ・・・。

糟谷宗秋 関東へ落ち着かれたら、もう大丈夫。大軍を率いて再び上洛、京都を攻めればいいのです!

糟谷宗秋 佐々木時信(ささきときのぶ)が、瀬田(せた:滋賀県・大津市)の宇治川(うじがわ)の橋を守ってますからね、彼の軍勢といっしょに行けば、兵力は十分、道中無事に行けるでしょう。佐々木がお供するとなったら、近江(おうみ:滋賀県)の中で手出ししてくるヤツなんか、ゼッタイいやしませんから。

糟谷宗秋 近江さえ過ぎてしまえば、もうその先はOK。美濃(みの:岐阜県南部)、尾張(おわり:愛知県西部)、三河(みかわ:愛知県東部)、遠江(とおとおみ:静岡県西部)、あっち方面で、敵方に寝返った者がいるってな情報はありませんからね。鎌倉までの道中、きっと、平穏無事に行けますって。

糟谷宗秋 鎌倉へ到着されたらね、反逆軍討伐、そく、決行してくださいよ!

北条仲時 ・・・。

北条時益 ・・・。

糟谷宗秋 ほらほら、グズグズしてる場合じゃないでしょ! こんなチッポケな平城(ひらじろ)にですよ、天皇陛下と上皇陛下にこもっていただいた末に・・・わが方の名将たちがですよ、あんなつまんねえヤツラの手にかかって死ぬだなんて・・・そんな事、あってたまるかってんだ! さ、さ、一刻も早く、鎌倉へ! さ、早く! 早く!

北条仲時 宗秋の言うのも、もっともだよなぁ、時益殿。

北条時益 よし、わかった! 宗秋、お前の言う通りにするよ。

糟谷宗秋 ウン!(強くうなずく)

北条時益 そうと決まったら、急がなきゃ。まずは、女院(にょいん)、皇后、摂政関白ご夫人方はじめ、女こどもをこっそり逃がす。そいでもって、我々も、心を落ち着けて包囲陣の一角を打ち破り、関東へ向けて脱出だ!

北条仲時 OK!

二人は、小串秀信(おぐしひでのぶ)をつかわして、院と御所にこの旨を奏上した。

光厳天皇(こうごんてんのう) なんやて、ここを脱出する?!(顔面蒼白)

皇太后 なんとまぁ、えらいこっちゃがな!

天皇、皇太后はじめ、皇后、女院、摂政関白夫人、内侍(ないし)、上童(うえわらわ:注1)、上級女官たちに至るまで、敵に包囲された中に閉じこめられて、恐怖は既に頂点に達していた。そこへもってきて、六波羅庁(ろくはらちょう)両長官からのこの思いもよらぬ言葉に、全員パニック状態になってしまった。

一同 えらいこっちゃ、どないしょ、どないしょ! うああああ・・・(涙)

思いもよらぬ別離の悲しみ、この先いったい、自分の運命はどうなっていくのであろうか、そのような事など一切考える心の余裕もなく、全員はだしのまま、我先にと、六波羅庁から脱出していく。まさに、かの古代中国の逸話、「金谷園(きんこくえん)に咲きこぼれていた春の花が、朝の嵐に吹かれて四方に霞のように散っていってしまい」のごとしである。

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(訳者注1)朝廷に仕える童男・童女
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仲時は、別れの言葉を告げるために、妻の居室に入った。

北条仲時 ・・・。

仲時の妻 ・・・。

北条仲時 どんな突発事件が起こって、京都を去らざるをえなくなったとしても、キミとはゼッタイに離れるまい、どこまでもどこまでも、いっしょに連れてくぞ・・・オレはね、ずっとそう思ってきたよ。

仲時の妻 ・・・。

北条仲時 でもなぁ、東も西も敵だらけ、道はみんな塞がれちゃってる・・・これから関東への道中、どんな危険があるか分かりゃぁしない。キミをそんな危ない目に、あわすわけにはいかないよ。

仲時の妻 ・・・。

北条仲時 キミは女だからね、万一の場合にも命だけは助かるだろう。松壽(まつじゅ)もまだ幼いからな、たとえ敵に見つかったとしてもだ、いったい誰の子だか分からない、大丈夫だろう。

仲時の妻 ・・・。

北条仲時 今のうちに、な、な、夜の闇に紛れて、ここを脱出してくれ。どこか田舎に身を隠してな、世間が静かになるまで、しばらくじっと待ってりゃいいよ。

仲時の妻 あなたは?

北条仲時 オレは、陛下をお守りして鎌倉へ行く・・・大丈夫だよ、オレの事は心配すんなって。

仲時の妻 ・・・(涙)。

北条仲時 無事、鎌倉へ着いたらな、すぐに迎えの者よこすから・・・な、な?

仲時の妻 ・・・(涙)。

北条仲時 ・・・もしも、道中でオレが討たれたと聞いたら・・・誰かいい人と再婚してな、松壽を何とか成人させてやってくれ。ものごころつく程にまで育ったら・・・出家させてな、オレの菩提をとむらわせてやってくれよな・・・(涙)。

仲時は悲しそうにつぶやき、涙を流しながら立ち上がった。

仲時の妻 いや! いや! ううう・・(涙)(仲時の鎧の袖にすがりつく)

仲時の妻 (涙)どうして、そんなつれないこと言うのよ! 薄情よ、薄情だわ!

北条仲時 ・・・。(涙)

仲時の妻 (涙)こんな時に幼い子供を連れてうろつきまわってたら、落人(おちうど)の家族だって事、いっぺんに解ってしまう。

北条仲時 ・・・。(涙)

仲時の妻 (涙)知人のとこに身を寄せたって、敵に探し出されるに決まってる・・・あたし、はずかしめられて・・・松壽、殺されてしまう!

北条仲時 ・・・。(涙)

仲時の妻 (涙)お願い! いっしょに連れてって! 道中、もうどうしようもなくなったら、そこでいっしょに死にましょうよ!

北条仲時 ・・・。(涙)

仲時の妻 (涙)いったい、どこの誰に頼れというのよ、頼れるとこなんか、どこにもありゃしないわ! 吹きっさらしの木の下に、秋風吹きすさぶ露の中に捨てて行かれたんじゃ、あたし、あたし・・・とても生きていけない・・・ううう(涙)。

北条仲時、心は猛しといえども、さすがに岩木の身にはあらず、嘆き悲しむ妻を前に別れを惜しみ、なかなかそこを離れることができない。

古代中国において、漢(かん)の高祖(こうそ)と楚(そ)の項羽(こうう)、互いに闘いあうこと70余度。項羽はついに高祖の軍に包囲され、来(きた)る夜明けとともに到来する自らの死を覚悟。自軍を包囲する漢の兵が四面にみな項羽の郷里、楚の地の歌を歌っているのを聞き(注2)、項羽は幕の中に入って夫人の虞(ぐ)(注3)に相対し、別れを惜しみ悲みを含んで自ら詩を読んだ。いわく、

 わが力は山を抜き わが気概は広大な世界をも覆いつくす
 されども 時 我に利せず わが乗馬・騅(スイ)も 前進するのを止めてしまった
 騅よ 騅よ なぜ前へ進んではくれぬのか このわしにいったい どうせよというのじゃ
 虞よ 虞よ お前をどうすればよいのじゃ このわしは

(原文)
 力抜山兮気蓋世
 時不利兮騅不逝
 々々々可奈何
 虞氏兮々々々奈若何

悲しみ歌い、嘆き憤(いきどお)り、涙にむせぶ項羽・・・虞夫人は悲しみに耐え兼ねて、即座に自ら剣の上に伏し、項羽に先立って命を絶った。

翌朝、項羽は28騎を伴って戦場に臨み、漢軍40万騎をかけ破り、自らも剣を振るって漢の将軍3人の首を取った。生き残った自軍の兵に向かって項羽いわく、

 我ついに 漢の高祖がために亡されぬる事
 戦いの罪にあらず 天 我を亡せり

自らの運命を見極めた末に、ついに烏江(うこう)のほとりにて自害した項羽の心境、かくのごとしかと、仲時と妻との悲しい別離を見つめる周囲の人々も皆、涙を落とす。

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(訳者注2)項羽の郷里の歌を歌う者が敵軍中にいるということは、彼の本拠地にいた者たちまでもがすでに、敵軍に寝返って包囲網に加わっていることを意味している。ゆえに項羽は絶望してしまったのである。これが「四面楚歌」の語源である。

(訳者注3)この女性の名が「虞美人草(ぐびじんそう)」の語源である。
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北条時益 さぁー行くぞぉ! しゅっぱぁーつ(出発)!

時益は、光厳天皇ら一行の先頭に立ち、馬を走らせはじめた。

北条仲時邸の中門のすぐ前を通り過ぎながら、彼は叫んだ。

北条時益 おぉい、仲時殿、いったいナニぐずぐずしてんだぁー! 陛下はもう、馬に乗られてるぞぉー!

彼はこのように言い捨てて、六波羅庁を出ていった。

北条仲時 もう行かなきゃ・・・じゃ・・・元気でな!

仲時の妻 (涙)いや! いや! 連れてって! 連れてって!

北条仲時 すまん!(鎧の袖に取り付く妻と幼い子供を、ムリヤリ引き放す)

仲時は縁側から馬にまたがるやいなや、六波羅庁の北門を出て東方に馬を走らせる。後に残った人々は泣く泣く左右に別れ、行くあてもないままに、東門を通って六波羅庁から脱出していく。

北条仲時 ヘヤァ! ヘヤァ! ヘヤァ! ヘヤァ!・・・(馬に鞭を連打、鐙(あぶみ)を連打)

仲時の乗馬 ドドッ、ドドッ、ドドッ、ドドッ・・・。

仲時の耳の奥には、別離の際の家族の泣き叫ぶ声が渦を巻いている。

 いや! いや! 連れてって! 連れてって! 連れてって・・・

仲時は、未練の一切を断ち切ってしまわんと、さらに激しく馬を鞭打つ。

北条仲時 ヘヤァ! ヘヤァ! ヘヤァ! ヘヤァーッ!・・・(馬に鞭を強連打、鐙を強連打)

仲時の乗馬 ドドドッ、ドドドッ、ドドドッ、ドドドッ・・・。

日没とともに、心はますます暗く沈み、ただただ、馬にまかせて東方へ東方へ・・・進み行く道はまさに暗夜行路(あんやこうろ)、二つに分かれた二人の行く道、この先再び交わる事は無しと、夫も妻もまだ知る由もない・・・あぁ、何と哀れな事であろうか。

14、5町ほど馬を走らせた後、はじめて仲時は後ろをふりかえった。はや、既に火が放たれたのであろうか、六波羅庁の方角には一片の煙が立ち上っている。

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矢 ピィューン、ピィューン、ピィューン、ピィューン・・・。

時は五月の闇夜、一寸先も見えぬ暗黒のしじまの中に、苦集滅道(くずめじ:京都市・東山区・清水寺付近)一帯には早くも、落ち武者狩りに出動の野伏(のぶし)たちが充満。六波羅庁メンバー一行めがけて、十方から矢が飛んでくる。

矢 ピィューン、ピィューン、ピィューン、ズグッ!

北条時益 うっ!

一本の矢が時益の首に突き立ち、骨にまで達した。ドウと落馬する時益。

糟谷時広(かすやときひろ)殿! 大丈夫ですか!

糟谷時広は、馬から下りて時益のもとに駆け寄り、首に刺さった矢を抜いた。それと同時に、時益は息絶えた。

糟谷時広 殿ぉ! 殿ぉーー!・・・(涙)

糟谷時広 おのれぇ! よくも殿を!!!

矢を放った敵は、いったいどちらの方向に潜んでいるのであろうか、この闇夜では、馳せ合わせて敵を討つ事もできない。敵の目を忍んでの逃亡の道中であるから、仲間を呼んで反撃に打って出ることも不可能である。

糟谷時広 殿、殿の仇を討ちたいけど、どうにもしようがありません。これからお側で自害して、あの世までも主従の義を貫きます!(涙)

時広は泣く泣く、時益の首を取り、錦の直垂(ひたたれ)の袖に包んで、路傍の田中深く隠した。そして、自らの腹をかき切って時益の遺骸の上に重なり倒れた。彼は時益をしっかと抱きかかえながら、息絶えていった。

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四宮河原(しのみやがわら:京都市・山科区)のあたりにさしかかった時、六波羅庁メンバー一行の前後に。叫び声が上がった。

野伏たち おぉい、そこ行きよんのん、落人やぞぉー!

野伏たち さっさと捕まえて、身ぐるみ剥(は)いでまえー!

矢 ピィューン、ピィューン、ピィューン、ピィューン・・・。

四方から雨のように矢が射られてくる。

皇室メンバーA あぁ、もうあかん。

皇室メンバーB もう先へは進めへん。

公家たち あかん、あかん、もうあかん!

皇太子をはじめ、ここまでお供してきた公家たちも四方へ逃亡してしまい、光厳天皇の前後にはわずかに、日野資名(ひのすけな)、観修寺経顕(かじゅうじつねあき)、綾小路重資(あやこうじしげすけ)、禅林寺有光(ぜんじんじありみつ)がいるだけになってしまった。

一片の暁の雲をへだてて都を後にし、思いはひたすらに東方万里の彼方、鎌倉へ鎌倉へ・・・。しかし、この思いがけない災難に遭遇し、天皇も上皇も苦悩にうちのめされ、涙が止まらない。

後伏見上皇(ごふしみじょうこう) (内心)中国唐王朝の安禄山(あんろくざん)の乱の時、玄宗(げんそう)皇帝は長安の都を後にして、剣閣(けんかく)の険しい山道を逃げのびていったというが・・・(涙)。

光厳天皇 (内心)あの寿永(じゅえい)年間の、平家の人々に守られての安徳(あんとく)天皇の瀬戸内海逃避行も、こないな感じやったんやろぉなぁ・・・(涙)。

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五月の短い夜も、いまだ夜明けにはほど遠く、逢坂の関(おうさかのせき:滋賀県・大津市)よりこちらは一面闇の中。一行は、杉の木陰(こかげ)に馬を止めて小休止をとった。と、その時、

矢 ヒューン・・・ブシュッ!

光厳天皇 あぁっ!

陶山二郎(すやまじろう)は、急いで馬から飛び降り、天皇の側に駆け寄った。

陶山二郎 陛下、いかがなさいましたか!

光厳天皇 左の・・・肘(ひじ)・・・あぁ・・・。

陶山二郎 うっ・・・こりゃいかん、矢ぁささっとる! 陛下、御免おそばせ!

矢 グイッ!(腕から矢が抜かれた)

光厳天皇 うぁっ!

陶山二郎 矢ぁ抜けましたわ、早く傷口吸って毒出しとかんと・・・御免つかまつります!

陶山二郎の口 グジュゥー・・・ペッ! グジュゥー・・・ペッ!

陶山二郎は、天皇の矢傷に口を付けて血を吸った。玉体から流れ出る血潮は、雪のように白い肌を見る見る真っ赤に染めていく。なんともはや、おいたわしい事である、もったいなくも万乗の君が、いやしき匹夫の矢に傷つけられるとは・・・まるで、神龍が釣り人の網にかかるようなものではないか・・・まったくもって、あさましい世の中になってしまったものである。

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ようやく、夜が明けそめてきた。

わずかに朝霧が残る中に、北方の山の方を見渡せば、野伏とおぼしき連中ら5,600人ほどが、盾をつき弓を構えて、一行を待ちかまえているではないか。六波羅庁メンバーたちは、ただただ呆然と立ちつくすばかり。

先頭を進んでいた備前(びぜん)国の住人・中吉弥八(なかぎりのやはち)は、野伏たちの方に馬を進め寄り、叫んだ。

中吉弥八 もったいなくも、一天の君が、関東へ御旅行の道中だっちゅうに、このような狼藉(ろうぜき)働くやつぁ、いったいどこのドイツだ! 心あるモンならば、弓を置き、兜を脱いで、ここを通せ! そっちに礼儀をわきまえとるヤツが一人もおらんというんなら、オマエら全員召し取り、首切ってからここ通ったるでぇ!

野伏一同 うわはははははは・・・。

野伏A あんなぁ、あんた! いくら「一天の君」言うて、そないに大声でワメキ散らさはってもやなぁ、そこにいはんのん、もう運もナニも尽き果ててしまわはった「一天の君はん」やないかいなぁ。

野伏一同 うわはははははは・・・。

野伏B 「関東へ御旅行」やなんて、そないな優雅なもんとちゃうやろがぁ! 命カラガラの逃避行やんかぁ。

野伏一同 うわはははははは・・・。

野伏C そうそう簡単にはなぁ、「はぁそうですか、ほな、一天の君はん、どうぞ、お通りやしておくれやっしゃ」ってなわけには、まいりませんのやわ。

野伏一同 うわはははははは・・・。

野伏A わしら、ここを通さんとは、言わへんでぇ。無事通りたいんやったらなぁ、お供しとる武士らの馬に鎧、兜、みんなここへ置いてから、心安うお通りやす。

野伏一同 そうやそうや、置いてけ、置いてけ!

中吉弥八 にくったらしいヤツらじゃのぉ。よぉし、そんなに欲しけりゃぁ、取ってみぃや!

弥八とその若党6騎は、馬の鼻を並べ、野伏たちの群れめがけて突撃した。欲の皮のつっぱった野伏らは、蜘蛛の子を散らすように四方へ逃亡していく。弥八らは、六方へ分かれて数十町ほども彼らを追跡した。

弥八は、あまりにも深追いしすぎた。やがて彼は、返し合わせてきた野伏20余人に包囲されてしまった。

彼は少しもひるまず、野伏グループのリーダーとおぼしき人物に馬を馳せ並べ、ムズと組み付いた。

馬と馬の間に、二人はドウと落ちた。勢い余って、4、5丈ほどもの高い崖の上から、二人は転落した。上になり下になりして転げ落ちながらも、二人とも共に組んだ手を放さないまま、深田の中へ転げ落ちた。

相手の下になってしまった弥八は、

中吉弥八 (内心)下から突き上げて、コイツを一刺し。

彼は、腰に手をやった。

中吉弥八 (内心)あっ! 無い! 刀が無い!

転落する最中に、刀が抜け落ちてしまったのであろう、そこには鞘しか無かった。

野伏は、弥八の胸板の上に馬乗りになった。鬢(びん)の髪をひっつかみ、今にも弥八の首をかかんとする。

弥八は、刀もろとも、相手の腕をぐっと強く握りしめ、

中吉弥八 ちぃと待て! おれの話、聞け!

野伏X (ハァハァハァ・・・息荒く呼吸)

中吉弥八 もうおれを恐れる事はねぇで、おれ、刀持っとらんもんな。

野伏X (ハアハアハア・・・息荒く呼吸)

中吉弥八 刀さえありゃ、オマエをハネ返して勝負できるじゃろうにのぉ・・・。後に続いとる味方もいよらんけん、ここまで降りてきて、助けてくれるモンもおらんわのぉ。

野伏X ・・・。

中吉弥八 あのなぁ、おまえ、よぉ考えてみいやぁ、おれを殺して首取って差し出してみてもやで、首実検の場にはゼッタイに行かんよ、おれの首。だから、ゼーンゼンおまえの手柄にゃならんっちゅぅの!

野伏X なんでや?!

中吉弥八 おれはなぁ、六波羅庁のシガナイ雑役夫(ざつえきふ)、六郎太郎(ろくろうたろう)ってもんじゃけぇ、おれの事なんか知っとるヤツ、誰もいやせんのよ。

野伏X ・・・。

中吉弥八 何の役にも立たん下っ端の首取るなんちゅうような、罪作りな事するよりな、もっとエェ事、世の中にあるでぇ。な、おれの命、助けてくりゃぁ! お礼に、エェこと教えちゃるから。

野伏X なんやねん? そのエェ事とは?

中吉弥八 フフフ・・・聞いて驚くなよぉ。六波羅庁の中に、6000貫の銭、埋めたるとこ、 おれ知っとるんよ。

野伏X ナニ! ナンヤテ! 6000貫!

中吉弥八 そこまで、おまえ連れてってやるよ。そしたらその銭、一人占めできるじゃろ?

野伏X ふーん・・・こらなかなかエェ話やないかい・・・よし、その話、乗ったで!(抜いた刀を鞘(さや)に差し、下になっていた弥八を引き起こす)

野伏は、弥八の命を助けたのみならず、様々な贈り物までし、酒のもてなしまでした。そして、弥八を京都に連れていった。

二人は、六波羅庁の焼け跡へやってきた。

中吉弥八 (首をしきりに傾げながら)おかしいのぉ・・・たしかに、ここに埋められとったのに。

野伏X ・・・。

中吉弥八 こりゃきっと、誰か先に掘って取ってしもぉたんで。いやぁ、すまんのぉ、あんたに大儲けさせたげようて、思ぉとったんじゃが。

野伏X (ガックリ)・・・。

中吉弥八 あんたの耳たぶ、薄いのぉ。運のめぐりが悪い人相じゃ。ドウリでのぉ・・・あははははは・・・。

まんまと野伏を欺いた弥八は、作り笑いをして、六波羅庁一行のもとまで引き返した。

中吉弥八の一計により、ようやく活路が開けた。

六波羅庁一行はその日、篠原(しのはら:滋賀県・野洲市)宿にたどり着いた。

彼らは、粗末な網代輿(あじろかご)を探し出して、天皇をそれにお乗せした。徒歩の武士たちが、俄か仕込み(にわかじこみ)のかごかき人夫となって、輿の前後に連なった。

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光厳天皇にここまでなんとか、つき従ってきた延暦寺(えんりゃくじ)座主・尊胤法親王(そんいんほっしんのう)であったが、その内心たるや、先行き悲観に傾いていく一方である。

尊胤法親王 (内心)こないな調子ではなぁ、この先いったいどないなることやら。到底無事には、鎌倉にはたどりつけへんやろ。

尊胤法親王 (内心)しゃぁないな、しばらくどこかに、身を隠すとしよか。

尊胤法親王 あー、これこれ、うちのお寺の門徒、誰かこの中にいいひんか?

武士Y うーん・・・みんな、昨夜の道中での合戦で負傷してしまって、そのまま、あそこに倒れてるのか・・・あるいは、心変わりして逃げてしまったか・・・。経超(きょうちょう)様と浄勝(じょうしょう)様の他には、誰もおりませんよ。

尊胤法親王 そうか・・・これでは、とても長旅はムリやわなぁ。

というわけで、尊胤法親王は一行と袂を分かち、伊勢(いせ:三重県中部)へ向かった。

「山賊の出没が日常茶飯事の鈴鹿(すずか)山中(注4)、皇室飼育馬に白鞍などおいて行ったのでは目立ちすぎ、道中の災いを招きかねない」というわけで、馬をすべて宿場の長に賜り、尊胤法親王は徒歩で行程を進む事になった。

法親王は、長い絹の衣にシュロの葉であんだ草履を履き、経超は、アコメの上に黒衣をはおり、水晶の数珠を手に持ち、法親王と共にとぼとぼと歩んでいく。

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(訳者注4)近江から伊勢へ行くには、鈴鹿山脈を越えることになる。
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この一行を見れば誰しも、「あぁ、あれは落人だな」と、気がつくはず。なのに、これもまた、延暦寺守護の山王権現(さんのうごんげん)の御加護の賜物(たまもの)であろうか、道中に出会った山の木こり、野の草刈り人らが法親王の御手を引き、御腰を押して、鈴鹿山越えを助けた。

ようやく伊勢へたどりついた尊胤法親王は、伊勢神宮のある神官に対して援護を懇願。神官は心ある人物で、自分の身の上に危険が及ぶのも顧みずに、法親王をかくまった。かくして、尊胤法親王は、そこに30余日間滞在した。

京都方面の戦火が静まった後、法親王は京都へ戻り、白毫院(びゃくごういん:当時は北区、後、上京区に移動)という寺院に入った。その後3、4年間、法親王は遁世の形を取って、そこに住み続けた。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月 8日 (火)

太平記 現代語訳 9-6 倒幕軍、六波羅庁側防衛ラインを突破

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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六波羅庁(ろくはらちょう)サイドは、6万余騎の兵力を3手に分けて、守備を堅めた。

第一方面軍は、神社総庁跡前にて、足利軍を迎撃。

第二方面軍は、東寺(とうじ:京都市・南区)付近に布陣して、赤松軍団に対して備える。

第三方面軍は、伏見(ふしみ:京都市・伏見区)方面へ向かい、千種(ちぐさ)軍団を竹田(たけだ:伏見区)・伏見にて迎撃。

午前10時、各方面一斉に戦闘開始。馬の蹄がかき立てる土煙は南北になびき、戦う人々のトキの声が天地に響き渡る。

六波羅庁・第一方面軍は、陶山次郎(すやまじろう)と河野通治(こうのみちはる)が、精鋭部隊2万余騎をもって堅めている。足利軍は、そうそうたやすくは、攻めかかれない。六波羅庁軍も、自陣から遠く出るわけにもいかず、両軍睨(にら)みあいの中に、矢戦が展開されていくばかりである。

足利軍中から一人の武者が、最前線に出てきた。ハゼの紅葉色の鎧の上に薄紫色の母衣(ほろ:注1)をかけたその武者は、馬を駆って六波羅庁軍の眼前に進み、声高らかに名乗りを上げた。

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(訳者注1)矢を防ぐために背負う袋。
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設楽五郎(しだらごろう) 言うほどのモンじゃぁねぇからよぉー、オレの名を知っているヤツなんか、そっち側には一人もいねぇだろうなぁー。オレはよぉ、足利殿の家臣、設楽五郎左衛門尉(しだらごろうざえもんのじょう)って言うんだい。六波羅軍の皆さんよぉ、我こそはって思う人がおられたらぁ、オレとひとつ、騎馬戦の一騎打ちやってみねぇかい? お手並みのほど、この場で皆さんにご披露してみなってぇー!

言うが早いか、設楽五郎は、3尺5寸の太刀を抜いて兜の真っ向に振りかぶって構えをかため、馬を六波羅庁軍の真正面に控えた。その構えはなかなか巧みで、矢でもって狙える範囲が極めて少ない。まさに一騎当千と思わせる彼のその勢いに、両軍共に戦闘をストップ、全軍の視線が、設楽五郎ただ一人に集まった。

すると、六波羅庁・第一方面軍中から、一人の武者が馬をしずしずと歩ませて、最前線に出てきた。年のほどは50歳ほど、黒糸威(くろいとおどし)の鎧に五枚兜の緒を締め、白栗毛(しろくりげ)の馬に青色の総をかけて乗っている。彼は、大音声で名乗りを上げた。

斉藤玄基(さいとうげんき) ワシはなぁ、愚蒙(ぐもう)の身とは申せ、長年、六波羅庁局長メンバー(注2)の一員に加えられ、幹部の末席を汚してきた家のモンや。世間の口さがない連中らは、きっとワシのことを、「あれは文官(注3)やから、あんなヤツと戦ぉても、しょうもないわなぁ」とかなんとか、嘲っとることやろぉてぇ。

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(訳者注2)原文では「奉行」。評定衆・引付衆の一員。

(訳者注3)原文では「筆とり」。
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斉藤玄基 そやけどこの際、言わせてもらうでぇ! うちのご先祖はといえば、あの鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)・藤原利仁(ふじわらのとしひと)様に他ならず! 以来、代々、「武」の道をもって生きてきた家柄なんじゃい、ウチの家はなぁ!

斉藤玄基 わしは、その17代目の子孫、斉藤伊予房玄基(さいとういよのぼうげんき)っちゅうモンやねん! 今日の合戦こそはまさに、天下分け目の戦、なんでこの命を惜しむもんかい! 合戦に生き残った人がおったら、わしの忠義の戦の様をよぉ目に焼き付けてな、子々孫々まで語り伝えてくれよぉ!

設楽五郎 よぉし、行くぞぉ!

斉藤玄基 おう!

二人は双方から馬を掛け合わせて接近、鎧の袖と袖とをムズと組んで、ドウと馬から落ちた。

設楽五郎 エェイ!

斉藤玄基 ヤッ、ヤッ、トォ!

力に優る設楽は上になって斉藤の首を掻き、敏捷な斉藤は下から設楽を三回刀で差す。

両者ともに剛の者、死して後までも互いに引き組んだ手を放さず、共に刀を突き立てて、二人そろって倒れている。

これを見て、足利軍からさらにもう一人、武者が出てきた。紺色の唐綾威(からあやおどし)の鎧にクワガタ打った兜の緒を締め、5尺余の太刀を抜いて肩にかついでいる。彼は、六波羅庁軍の前方半町ほどの場所に馬を掛け寄せ、声高々に名乗りを上げた。

大高重成(だいこうしげなり) わしはな、八幡太郎・源義家(はちまんたろう・みなもとのよしいえ)様ご在世の頃から、源家に代々お仕えしてきた家のモンだ。我が家の名もかつては、世間に轟きわたっていたもんだがなぁ、いやぁ、さすがに最近、その知名度も多少落ちギミ・・・ってなわけで、最近はとんと、これはって思えるような好敵手にもなかなか出逢えんでなぁ・・・いやはや。

大高重成 わしは、足利殿の家臣、大高二郎重成(だいこうじろうしげなり)。先日からの度々の合戦で大いに手柄を立てたとかいう、陶山殿に、河野殿、そこにおられるんかいな? もしおられたら、いざ、出会い給え。わしと刀で勝負、二人して、一大スペクタルを演じてみようじゃねぇか!

大高重成は、タズナをかいくり、馬の口に白い泡をかませながら控えている。

彼からの挑戦を受けた二人のうち、陶山次郎の方は、「東寺方面の敵軍優勢」との知らせを聞いて、急ぎ八条方面へ援軍に向かったのでこの陣にはおらず、河野通治だけが、防衛ラインの最前線に陣取っていた。

通治は、元来はやりたったらもう止まらない性格の勇敢な武者、このような挑戦を受けたからには、些かもためらうはずがあろうか。

河野通治 河野通治なら、ここにおるぞよ。よし、その挑戦、受けて立つでぇ!

通治は、重成に組まんと、接近していく。

これを見た通治の養子・通遠(みちとお)当年16歳の若武者が、「父を討たせじ」と、通治の前を遮り、いきなり重成に組み付いていった。

河野通遠 エェイ、覚悟ォ!

大高重成 おっとどっこいー。

重成は、通遠のあげまきをつかんで、宙づりにしてしまった。

河野通遠 放せ、放せ! エェィ!

大高重成 まったくもう・・・おまえみたいなボウヤと組んで勝負してもなぁ・・・オッ・・・。

捕えた相手が着ている鎧の、笠符をよく見てみると、

大高重成 (内心)正方形2つを組み合わせた中に、「三」の字か・・・ふふん、さては、コイツ、河野の子供か甥だなぁ。

重成は、片手で太刀を使って通遠の両の膝を切って落とし、20尺ほど遠方へ、彼の身体を放り投げた。

河野通治 ウゥッ よくもやりおったな!

最愛の子を目の前で討たれてしまったとあっては、もはや、命を惜しむはずもない、大高重成に引き組まんと、河野通治は、鐙(あぶみ)を踏んで馬を馳せる。これを見た河野の郎等300余騎も、

河野家・郎等一同 殿を討たせてたまるかぁ!

一斉にオメイて、重成めがけて殺到。

足利軍側も、重成を討たせまいと、1,000余騎にてオメイてかかる。

両軍互いに入り乱れ、黒煙を立てて死闘を展開。足利軍サイド不利となり、内野の方向へハット退くやいなや、すかさず足利軍サイドは、新手を投入して戦闘を続行。六波羅庁軍サイド退勢となり、鴨(かも)河原へ後退するや、こちらも新手を繰り出し、ここを先途と必死に闘う。一条大路から二条大路にかけて、東へ西へ7度、8度、追いつ返しつの激戦が展開されていく。

両軍互いに命を惜しまず闘い、いずれが豪胆、いずれが臆病という事も無い。しかし次第に、兵力面において勝る足利軍サイドが優勢となり、ついに、六波羅庁第一方面軍サイドの敗勢となり、六波羅庁目指して退却。

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東寺方面においては、赤松円心(あかまつえんしん)率いる赤松軍3,000余騎が進出。東寺の櫓(やぐら)のある門の近くまで、押し寄せていく。

鐙(あぶみ)を踏ん張り、左右を顧(かえり)みながら、赤松範資(あかまつのりすけ)が叫ぶ。

赤松範資 おぉい、誰かぁ! あこの木戸(きど)と逆茂木(さかもぎ)、引き破って取っパラってまえー!

それを聞いた宇野(うの)、柏原(かしわばら)、佐用(さよ)、真島(まじま)各家の血気盛んな若武者300余騎が、

赤松軍・若武者一同 うぉーい!

彼らは一斉に馬を乗り捨て、六波羅庁・第二方面軍の防衛線に接近していく。

防衛線の構えを見渡せば、西は羅城門(らじょうもん:南区)の辺から東は八条河原(はちじょうがわら)のあたりまで、5、6寸~8、9寸の琵琶の腹に使う木材や、野洲郡(やすぐん:滋賀県・野洲市)産の木材を組み立てて頑丈な塀を造り、その前にラングイや逆茂木を設置している。さらに、その前面には、広さ3丈余りの堀があり、川から水をそこに引入れている。その水中に飛び込もうにも、深さがいったいどれくらいなのか見当もつかない。橋を渡ろうにも、板は全て外されてしまっている。

赤松軍・若武者一同 (内心)うーん、いったいどないしたもんやろか・・・。

全員立ち尽くす中、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)の住人・妻鹿長宗(めがながむね)が馬から飛び下り、弓の先端を握りしめ、水中にその弓を挿し入れた。

妻鹿長宗 (内心)弓の上端がわずかに、水面の上に出とるわ。これくらいの深さやったら、わしの背は立つな、よぉし!

長宗は、5尺3寸の太刀を抜いて肩に掛け、靴を脱ぎ捨て、堀の中に飛び込んだ。

妻鹿長宗の身体 ザッブーン!

案の定、水は長宗の胸板の上までも来ない。これを見た後続の武部七郎(たけべのしちろう)は、

武部七郎 みんな、水は浅いでぇ、おれに続けぇ!

武部七郎 ザブン!

武部七郎 おっおっ・・・。(ブクブクブク)

武部七郎の身長は5尺ほどしかない。兜の先まで水面下に没してしまった。妻鹿長宗は後ろをキッと振り返り、

妻鹿長宗 ハァー、ほんまに世話の焼けるやっちゃのぉ・・・ほれ、わしのあげまきに取り付いて、早(は)よ、向う岸に上がらんかい!

武部七郎 よいしょっと・・・ほいっ!

七郎は長宗の鎧の上帯を踏んで彼の肩に乗り上がるやいなや、一回ぴょんと跳躍しただけで、向う岸に上がってしまった。

妻鹿長宗 なんちゅやっちゃ、おまえはぁ! このわしを、橋がわりに使いよって! わはははは・・・。

妻鹿長宗 さぁてと、そこの塀、引き破ってしもたろかい。

長宗は、岸の上へズンと跳ね上がり、太さ4、5寸余りほどもある六波羅側防衛線の塀柱に手をかけた。

妻鹿長宗 エーイ! エーイ! エーイ!

塀 ドドドドドド-ッ!

長宗の大力の前に、塀のうち1丈~2丈程の部分が崩れ去った。そして、その上に積み上げられていた大量の土が堀を埋め、格好の進入路が出来た。

六波羅庁軍・第二方面軍リーダー それ! あの二人を一斉射撃!

矢 ピーン、ピーン、ピーン、ピンピーン・・・。

六波羅庁軍側の櫓300余箇所から、妻鹿長宗と武部七郎めがけて、さしつめひっつめ、雨のような矢の一斉射撃!

長宗は、鎧や兜に突き立った矢を抜かずに、そのままビシビシビシッと折り曲げ、櫓の下へ、ツツツッと走り入る。

東寺の門の左右に並ぶ金剛力士像の前に、太刀を逆さに突き、歯をくいしばって立っている長宗のその威容、いったいどちらが金剛力士でどちらが人間なのか、見分けがつかぬほどである。

東寺、西八条(にしはちじょう:南区)、針小路(はりこうじ:南区)、唐橋(からはし:南区)に布陣していた六波羅庁・第2方面軍1万余騎は、「東寺方面の木戸口危うし」と聞いて驚き、一丸となって、東寺の東門脇から、雨雲が夕暮れの山から湧き出づるがごとく、勢い激しくうって出てきた。

六波羅庁・第2方面軍一同 ウオーッ!

赤松軍一同 (内心)危うし、妻鹿! 危うし、武部!

赤松軍サイドの作用範家(さよのりいえ)、得平源太(とくひらげんた)、別所六郎左衛門(べっしょろくろうざえもん)、別所五郎左衛門(べっしょごろうざえもん)らは、

作用たち一同 あの二人を見殺しにしてたまるかぁ! 行くぞーっ!

彼らは一斉に門の側に突進、妻鹿長宗と武部七郎を助け、不退転決死の覚悟をもって闘い続ける。

赤松円心 あいつら、死なしたらあかんやん! みんな、突撃や! 行くぞぉー!

赤松軍一同 おーーーう!

円心、範資、貞範(さだのり)、則祐(のりすけ)の赤松父子をはじめ、真島(まじま)、上月(こうづき)、菅家(かんけ)、衣笠(きぬがさ)各家の武者3,000余騎が、六波羅庁側防衛ラインに向かって突撃していく。赤松軍、怒濤(どとう)の総攻撃!

かくして、六波羅庁・第2方面軍1万余騎は、縦横無尽に分断されてしまい、七条河原へ追いやられてしまった。

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一方面の防衛ラインが破られてしまうと、それはたちまち、全軍の崩壊へと波及していく。六波羅庁・第三方面軍もまた、竹田方面での合戦に破れ、木幡(こわた:京都府・宇治市)、伏見においても敗北。

六波羅庁サイド全軍は、散りじりになりながら六波羅庁を目指して退却、庁内にたてこもった。

勝ちに乗じて、四方の倒幕軍5万余騎は、逃げる相手を追撃する。いまは全軍一つに合し、五条橋(ごじょうばし)詰(づめ)から七条河原まで戦線を展開、六波羅庁側の陣地を重囲する、しかも、東側だけをわざと開けて・・・言うまでもなく、防御側の人心が一つになることを妨げ、六波羅庁をたやすく攻め落とせるようにするための計略である。(注4)

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(訳者注4)ここで倒幕軍側が六波羅庁を完全に包囲してしまうと、「もはや逃れる道はないのか、よし、こうなったら」と六波羅軍は決死の覚悟で反撃をしてくるであろう、となると、倒幕軍側も損害多数、故に、わざと一方だけを開いておいた、というストーリーになっている。
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千種忠顕 通常戦の時みたいに、六波羅庁をゆるゆると攻めとってはあかん! ぼやぼやしてたら、千剣破城(ちはやじょう)を囲んどる幕府軍が、あっちの囲みを解いて、後(ご)づめ(注5)に回ってきよるからな。みんな心を一つにして、イッキに攻め落としてしまえよぉ!

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(訳者注5)包囲されている側が何よりも心待ちにするのが、援軍の到来である。援軍は、包囲している敵陣の背後から敵を攻撃(これを「後づめ」という)、それにあわせて、包囲されている側も外にうって出る。かくして、敵を挟み撃ちにする事が可能となる。
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さっそく、出雲(いずも:島根県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)の武士たちは、車2、300台を集めてナガエどうしを結び合わせた。そしてその上に、民家を破壊して得た材木を山のように積み上げ、六波羅庁側の設営した櫓の下に押し出した。

出雲・伯耆の武士たちのリーダーA 点火ーっ!

出雲・伯耆の武士たち一同 うぉーい。

彼らは一斉に、材木に火をつけた。車もろとも、櫓は次々と焼け落ちていく。

その時、尊胤法親王(そんいんほっしんのう)の管轄寺院である延暦寺の上林房(じょうりんぼう)と勝行房(しょうぎょうぼう)に所属の宗徒300余人が、甲冑を帯し、地蔵堂(じぞうどう)の北門から五条橋詰め方面にうって出てきた。

坊門正忠(ぼうもんまさただ)と殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)の兵3000余騎は、この少人数の軍に追い払われ、鴨河原(かもがわら)の中を3町ほど退いた。しかし宗徒たちは、自らの兵力の少なさ故に、「あまり深追いしてはまずい」と思ったのであろう、再び、六波羅庁の中へ引き揚げ、中にこもってしまった。

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六波羅庁の中にたてこもっている軍勢は、数は少ないとは言いながらも、その数は5万余騎、この時、心を一つにして全員一斉にうって出ていたならば、倒幕軍側は、その包囲網を到底もちこたえることができなかったであろう。

しかし、やはりここは、「北条氏滅亡」と運命が定まっていたのであろうか、日頃は武勇で名高い剛の者も、勇気を喪失してしまい、無双の強弓を引く精鋭も、弓を引かずにただただ呆然(ぼうぜん)と立ちつくすばかり。全員そこかしこへと寄り集まり、逃げ仕度を整える他は余念無し、もはや、見せかけの勇気のカケラすらも見えない状態になってしまっている。

武名を惜しみ家名を重んじる武士たちでさえ、このような有様である。ましてや、光厳天皇(こうごんてんのう)、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)、花園上皇(はなぞのじょうこう)をはじめ、女院(にょいん)、皇后(こうごう)、摂政関白(せっしょうかんぱく)の夫人方、公卿、殿上人、童子、女童(めのわらわ)、女房たちに至るまで、戦など未だ一度も目にしたことも無い人々ばかり、トキの声や矢が飛び交う音を聞くたびに、おそれおののくばかりである。

庁内にこもる人K えらいこっちゃ、どないしょう、どないしょう!

庁内にこもる人L うわぁ、こわいがな!

庁内にこもる人M うち、どないしたらええのん!

庁内にこもる人N どないしょう、どないしょう!

その様を見ているうちに、六波羅両長官もますます元気を無くしてしまい、今や呆然自失状態である。

北条仲時(ほうじょうなかとき) 無理もないよな、戦の現場なんか、まだ一度も見た事の無い人ばっかしなんだもん。

北条時益(ほうじょうときます) なんともはや、痛ましい。

陣営内のこのような浮き足立った状態を見続ける中に、「このままでは敗北必至」と判断したのであろうか、よもや幕府を裏切るとは思えなかったような人々までも、夜になるやいなや、木戸を開き、逆茂木を乗り越え、我先にと逃亡しはじめた。

かくして、義を重んじ我が命を軽んじて六波羅庁陣内に踏みとどまった者は、その数わずか1,000騎にも足らず、という状態になってしまった。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月 7日 (月)

太平記 現代語訳 9-5 篠村八幡宮にて戦勝祈願の後、足利軍、京都へ

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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5月7日午前4時、足利高氏(あしかがたかうじ)は、2万5千余騎の軍勢を率いて、篠村宿(しのむらじゅく:京都府・亀岡市)を出発した。

闇の中、足利軍は、粛々(しゅくしゅく)と馬を進めて行く。

途中、篠村宿の南方の当たりに、葉の生い茂った一本の楊(やなぎ)の古木が見えた。その近くには社殿であろうか、何やら建物が建っている。燃え残りの篝火(かがりび)が、ほのかに見える。

足利高氏 (内心)うん、あのかすかな音は?・・・鈴の音かな・・・あそこの神官が鈴を振ってるんだろうか・・・実に神々しいなぁ。あの神社はいったい、どちらの神様をお祭りしてるんだろう?

足利高氏 (内心)これから戦場に赴く門出でもあることだしな、どんな神様でもいいや、とにかく戦勝祈願を捧げて行くとしよう。

高氏は、馬から降りて兜(かぶと)を脱ぎ、祠の前にひざまづいて、祈りを込めた。

足利高氏 (内心)願わくば、この神社にお祭りされている神様、今日の合戦が我らの勝利に終わり、朝敵・北条氏を退治できますように・・・なにとぞ、なにとぞ、我らに、ご擁護(ようご)のお力を、お加え下さいませ。

このように祈り込めながら社前に座しつつ、そこに来合わせた神官に問うた。

足利高氏 こちらのお社にお祭りされている神さまは、いったいどちらの神さまでしょうか?

神官 あぁ、こちらにお祭りしとります神様はなぁ、八幡様(はちまんさま)でございますよ。

足利高氏 (内心)!!!

神官 その昔、八幡(やわた:京都府・八幡市)の本宮からこちらのお社に、勧請(かんじょう)たてまつりましてなぁ、ほいでもって、ここにお祭り申しあげとるんですわ。以来、「篠村の新八幡(しのむらのしんはちまん)」て、呼ばれてますねん。

足利高氏 なんと! 八幡さまと言えば、我が源家が先祖代々崇めたてまつってきた、いと霊妙なる氏神様ではないか! このような時にまさにこの場で、八幡さまの社に出あうとは・・・うーん・・・。

足利高氏 私のような者の志でも、神さまにちゃんと通じている、という験(しるし)以外のナニモノでもないですね! これはまたとないよい機会、よし、願文(がんもん)を一通、こちらのお社に奉献させていただきましょう。おい、妙玄!

疋壇妙玄(ひきだみょうげん) ははっ!

高氏の命を受けて、疋壇妙玄は、さっそく鎧の中から携帯硯(けいたいすずり)を取り出し、筆を構えて、すらすらと願文をしたためた。そして、声高らかに、社前にて読み上げた。

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祈願の事、ここにつつしんで申し上げます。

思えば、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)さまは、わが祖先の霊廟(れいびょう)、さらには、源家中興(ちゅうこう)の守護神であらせられます。

八幡さまの本地(ほんじ:注1)のみ心は、極楽浄土(ごくらくじょうど)の天上(てんじょう)に輝きわたる月光のごとく、その垂迹(すいじゃく:注2)のお姿は、七千余の神々の座の中に光を放っておられます。仏縁(ぶつえん)をもってして、世の人々を教化(きょうげ)せしむるも、非礼(ひれい)の祭りごとをよしとされず、哀れみをもって衆生(しゅじょう)を利し、正直に生きて行こうとする者を、ご守護下さいます。ああ、大いなるかなそのおん徳、人々がこぞって己が誠(まこと)を、八幡大菩薩さまにお捧げしていくのも、当然のことと申せましょう。

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(訳者注1)本体。

(訳者注2)分身。
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さてさて、承久(しょうきゅう)年間の頃よりこの方、我が源家の家臣にして、平氏末裔(まつえい)の末端にすぎぬ北条氏の輩(やから)どもめ、ほしいままに天下を牛耳(ぎゅうじ)り、九代にもわたって、その邪(よこしま)なる猛威をふるっております。

その上更に、日本国の帝王たる先帝陛下は、彼らによって西海(さいかい)の波の彼方に追いやられ、天台座主(てんだいざす)・護良親王(もりよししんのう)殿下も又、南方の山の雲中に苦しんでおられます。

北条氏のその悪逆のはなはだしきこと、まことにもって前代未聞であります。きゃつらこそは、朝敵の最たる者。臣下としての道を踏み外し、神々に敵対する彼らに対して、天は必ずや、誅罰(ちゅうばつ)を下される事でありましょう!

いやしくもこの高氏、彼らのそのような積悪(せきあく)を見て、魚の薄い肉をもってまな板の上で鋭利(えいり)な刃物に当てるを決意、自らの貧弱な力をも顧(かえ)りみず、大敵北条氏に対して、今ここに決起いたしました! その動機、自らの遺恨(いこん)を晴らさんがため、といったような、矮小(わいしょう)なものでは、決してありません。

いまや、義に生きるすべての勢力は、力を合わせて打倒北条に立ち上がり、首都の西南に結集いたしました。かの総大将(注3)殿は八幡に、そしてこの私は、ここ篠村に。双方共に、八幡さまの神域の中、ご擁護の懐(ふところ)にいだかれながら、決起いたしたのであります。なんたる不思議な一致を、見た事でありましょうや! かくなる上は、朝敵討伐の成就(じょうじゅ)、疑い無しでございます。

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(訳者注3)千草忠顕が大将と仰いでいる、後醍醐先帝の皇子の事を指しているのであろう。
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我らが頼りとするは、「我、百代の帝王を鎮護(ちんご)せん」との、天皇家グランドマザー・天照大神(あまてらすおおみかみ)さまの、固いご誓約(せいやく)であります。我ら一同、この社前の狛犬(こまいぬ)を見て、勇気を煮えたぎらせております! わが源家の先祖代々の帰依(きえ)の心に応(こた)え、必ずや、大偉神力(だいいじんりき)を、現わし頂けることと信じております。

かの中国唐の時代、敵陣中に金色の鼠(ねずみ)が現れて敵を撃破(げきは)いたしたごとくに、なにとぞ、なにとぞ、この「義の戦」に、霊威(れいい)を輝かせたまえ。徳の風を草に加えて、敵を千里の外になびかせ、神の光をわが剣に得せしめて、ただ一戦の中に、勝利をおさめることができますように。

わが誠の心、かくのごとし、なにとぞ、ご照覧(しょうらん)下さいませ!

うやまって申す。

元弘(げんこう)3年5月7日  源朝臣高氏(みなもとのあそんかたうじ)敬白(けいはく)(注4)
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(訳者注4)足利氏のルーツ・足利義康は、源義国の子であり、源義家の孫である。なので、高氏も、源氏の流れに所属している。
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平安時代に河内源氏の棟梁、源義家(八幡太郎義家)の四男・源義国(足利式部大夫)は下野国足利荘(栃木県足利市)を領して本貫とし、次男・源義康以降の子孫が足利氏を称する。新田氏とは同祖の関係である。
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文章は玉を綴(つづ)るがごとく、詞(ことば)は明らかにして理(り)は濃(こ)まやか、八幡さまもきっと、この願文をお聞き届け下さったことであろうと、社前に集う人々はことごとく、八幡さまへの信を固め願をかけた。

高氏は、自ら筆をとってその願文にサインし、鏑矢(かぶらや)を一本それに添えて、社殿にお備えした。足利直義(ただよし)をはじめ、吉良(きら)、石塔(いしどう)、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、今川(いまがわ)、荒川(あらかわ)、高(こう)、上杉(うえすぎ)以下、高氏に従うメンバーもみな、我も我もと矢を一本づつ献上した。かくして、社殿に矢はうずたかく、塚のように積み上がった。

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夜はすでに明けた。前衛部隊は進軍を開始、後衛がそれに続く。

大枝山(おおえやま)の峠を越えようとしたちょうどその時、山鳩ひとつがいが飛び来って、旗持ちがささげ持つ白い大将旗の上を、ひらひらと舞った。高氏はとっさに叫んだ。

足利高氏 みんな、あの鳩を見たまえ! あれこそは、八幡大菩薩さまが我らをお護り下さっていることの、何よりの験(しるし)ではないか!

足利軍一同 おー!!

足利高氏 みんな、あの鳩について行け! 鳩の進む方向に進軍!

足利軍一同 ウォー!!

足利軍は、大将旗を持つ者を先頭に、鳩の後を追って進軍していった。

鳩は静かに飛び行き、やがて、かつての内裏があった場所、神社総庁跡前(注5)の栴檀(せんだん)の木に留まった。

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(訳者注5)原文では「神祇官」。
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足利軍は全員、この奇瑞(きずい)に勇み立ち、京都・上京(かみぎょう)方面を目指して、さらに軍を進めていった。

途中、六波羅庁軍サイドの者たちが、5騎、10騎と旗を巻き、兜を脱いで続々と、足利軍に投降してくる。

かくして、篠村を出発した時にはわずかに2万余であった足利軍は、右近馬場(うこんのばば:注6)を過ぎる頃には、5万余にまで膨張した。

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(訳者注6)現在の北野天満宮のあたり。
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2017年8月 6日 (日)

太平記 現代語訳 9-4 足利高氏、篠村において、近隣の武士たちを招集

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都を出た足利高氏(あしかがたかうじ)は、篠村(しのむら:京都府・亀岡市・篠町)に陣を敷き、近隣の武士たちに招集をかけた。

丹波国(たんばこく)住人・久下時重(くげときしげ)が、250騎を率いて真っ先に馳せ参じてきた。見れば、全員の旗と笠標(かさじるし)に、「一番」という文字が書かれている。高氏はこれに興味を覚え、足利家執事・高師直(こうのもろなお)を呼び寄せた。

足利高氏 なぁ師直、あれ見ろよ。久下家の連中、みんな笠標に、「一番」って文字書いてるじゃないか。あれは、あそこの家の紋所なんだろうか、それとも、「今日ここへ一番にやってきたぞ」という意味なのかな?

高師直 ハァーイ、ハイハイ、お答えいたしやぁす。あの「一番」ってぇ文字はね、あそこの家の由緒正しい紋所ですぞい。

高師直 あいつの先祖、武蔵国住人・久下重光(くげしげみつ)はね、かの源頼朝(みなもとのよりとも)公が、土肥庄(とひしょう:神奈川県・足柄下郡・湯河原町)の杉山で挙兵された時に、真っ先に馳せ参じてきたんでさぁね。そいでもって、頼朝公大いに喜ばれていわく、「わしがもし天下取ったらな、イの一番に、お前に恩賞やっから」。そいでもってね、おん手ずから筆を取り、「一番」って文字を書いて、久下に与えられたんですぞい。それがそのまんま、アイツン家(ち)の紋所となったってわけですよぉ。

足利高氏 ふーん、そんなすごい由緒ある家の者が、最初に馳せ参じてきてくれるとはなぁ。こりゃまた、エンギがいいじゃないか。歴史は繰り返すって言うけど、ほんとうだなぁ。

高氏は大いに、久下を褒め称えた。(注1)

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(訳者注1)原文では、「さては是が最初に参りたるこそ、当家の吉例なれ」とて、御賞玩殊に甚しかりけり」。
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「足利高氏、倒幕側へ!」との情報は、近隣に次々と大きな波紋をまき起こしていった。

例の高山寺(こうさんじ:兵庫県・丹波市)にたてこもっていた、足立(あだち)、荻野(おぎの)、小島(こじま)(注2)、和田(わだ)、位田(いんでん)、本庄(ほんじょう)、平庄(ひらじょう)らは、今さら他人の下につくのもおもしろくないというわけで、丹波から若狭(わかさ:福井県西南部)へ越え、北陸道(ほくりくどう)経由で京都へ攻め上ろうと企てた。

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(訳者注2)8-7 に登場の、荻野彦六(おぎのひころく)、足立三郎(あだちさぶろう)、児島高徳(こじまたかのり)のことを指しているのであろうと思われる。
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その他の者たち、すなわち、久下(くげ)、長澤(ながさわ)、志宇知(しうち)、山内(やまのうち)、葦田(あしだ)、余田(よだ)、酒井(さかい)、波賀野(はがの)、小山(おやま)、波々伯部(ははかべ)等、近隣の武士らは一人残らず、高氏の旗の下に馳せ参じてきたので、篠村に布陣の足利軍の兵力は一気に、2万3千余騎にまで膨張した。

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この情報をキャッチした六波羅庁(ろくはらちょう)では、南北両長官を囲んでまたまた作戦会議。

北条時益(ほうじょうときます) 今度という今度こそは、一大決戦だぞぉ。

北条仲時(ほうじょうなかとき) 天下分け目の戦いだ。この戦の勝敗いかんによって、この先、天下が鎮まるか乱れるかが、決まってしまうんだよ。

六波羅庁メンバーA あのぉ・・・戦う前からこんな事言うのもナンですけどぉ・・・万一、あくまでも、万が一ですよ、こっちサイドが敗北しちゃった場合にはね、天皇陛下と上皇陛下をお守りして、関東へお遷し申しあげては?

北条仲時 でもって、鎌倉遷都か・・・ま、それもいいかぁ。

北条時益 鎌倉へ落ちついてから、あらためて大軍をもってして上洛、反乱軍討伐に取り掛かりゃぁ、いいんだよなぁ。

後伏見上皇(ごふしみじょうこう)と光厳天皇(こうごんてんのう)は、3月から、御所にしつらえられた六波羅北方庁におられる。

尊胤法親王(そんいんほっしんのう)は、延暦寺(えんりゃくじ)のトップ、天台座主(てんだいざす)の地位にあるので、世の中どうひっくり返ったとしても、身の上に変事が降りかかる恐れは無い。しかし、法親王は天皇の弟である。しばらくは、陛下のお側近くにいて、皇位の長久を祈ろうと思われたのであろうか、尊胤法親王もまた、六波羅北方庁へお移りになられた。

さらに、皇太后、皇后、内親王、摂政関白の奥方、太政・左右の三大臣、公卿、院の近臣、文武百官、皇室に関係深い寺院の衆徒、院を警備する武士たち以下、諸家の侍、童子、女房らに至るまで、我も我もと、六波羅庁に避難してしまった。彼らが去った後の京都中心部は、人影も見えず、ひっそりと静まりかえっている。

まさに、嵐の後の木の葉のごとく、住民は東へ西へと逃亡、六波羅庁が存在する鴨川(かもがわ)以東の一帯だけが、桜の開花のようなにぎわいを見せている。しかしこれとて、いったいいつまで続く夢であろう・・・まったくもって、転変止む事のない世の中の有様には、いまさらのように驚かされる。

「天皇は、天下あまねくをもって、家となす」と言う。ゆえに、鴨川の向こう側の洛東(らくとう)、「六波羅庁改め行宮(あんぐう)」にお移りになられたとて、光厳天皇(こうごんてんのう)もさほど、お心を痛められる必要もないであろうに・・・六波羅庁と御所との距離だって、さほど遠くはないのに・・・。

光厳天皇 (内心)あーぁ、ほんまになんちゅうこっちゃ! 私が即位してからというもん、天下は一向に鎮まらへんなぁ・・・。

光厳天皇 (内心)とうとう、こないな事になってしもぉた・・・朝廷の全メンバーが、首都郊外の塵に交わらざるをえんようになってしもぉたがな・・・こないな事になってしもぉた原因、やっぱし、私にあるんやろぉかなぁ・・・私の行いに、何か天に背くような点があるからやろぉか・・・。

深い嘆きの中に、自責の念に責めさいなまれる、光厳天皇。ゆえに、毎日午前4時ごろまで寝床に入らずに、元老賢臣らを召され、中国古代の賢帝たちの政治の事跡をひたすら学ばれ、怪力乱神(かいりきらんしん:注3)方面の話には一切耳を傾けられない。

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(訳者注3)怪異、勇力、動乱、鬼神などの話題。
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4月16日は、月の二番目の申(さる)の日にあたっているのだが、日吉神社(ひえじんじゃ:滋賀県・大津市)の祭礼を、行えないままである。その地に鎮座まします神も、きっと心寂しく思われている事であろう。琵琶湖(びわこ)の中では、神前の贄(にえ)に供されるはずだった錦の鱗の魚が、ただ徒(いたず)らに波の中を泳ぎ回っているだけである。

4月17日は、月の二番目の酉(とり)の日なのに、恒例の賀茂(かも)神社の祭も行われない。一条大路(いちじょうおおじ)は人通りもまばら、祭り見物の場所取りを争う牛車の姿も全く見えない。祭礼に使用される馬の銀装飾には塵が積もり、宝珠(ほうじゅ)形の装飾も、光を失ってしまっている。

「祭礼というものは、今年は豊作だったからといって、贅沢になってはいけない。また、凶作だったからといって、粗末になってもいけないのだ」と言われている。なのに、神社の開闢(かいびゃく)以来この方、毎年欠かすことなく行われてきた上賀茂(かみがも)・下鴨(しもがも)両神社のこの祭礼、この年、初めてついに、執行を見る事が無かった。

これは実に重大な事である。このような不届きな人間の行為に対して、神は今後、どのような処置を下してこられるであろうか、もはや想像もしがたい・・・まことに畏れ多い事としか、言う他はない。

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「首都決戦は5月7日! 全軍、京都に押し寄せ、六波羅庁軍と合戦を行うべし!」

倒幕勢力側の軍議ついに決し、篠村、八幡(やわた:京都府・八幡市)、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)各陣営の先鋒の者らは、宵のうちに前進を開始、京都の西方の梅津(うめづ:右京区)、桂里(かつらざと:西京区)、南方の竹田(たけだ:伏見区)、伏見一帯にかがり火を焚く。山陽・山陰両道からの京都への入り口付近においては、緊迫の度が増大して行く。

北条時益 (内心)マイッタなぁ・・・「高山寺(こうさんじ)にたてこもっていた連中らが、若狭路(わかさじ:注4)経由で、鞍馬(くらま:左京区)、高雄(たかお:右京区)方面から、攻め寄せてくる」なんて情報も、入ってきてるんだよなぁ。

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(訳者注4)福井県から京都へ至るルート。
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北条仲時 (内心)今となっては、脱出口は東の方のみ、近江(おうみ:滋賀県)、美濃(みの:岐阜県南部)方面ルートだけか。

六波羅庁メンバーA (内心)延暦寺の連中らだって、いざとなったら、どう動くかわかりゃぁしねぇぞ・・・あいつら依然として、こっちに敵対心秘めてやがるもんなぁ。

六波羅庁メンバーB (内心)もしかしたら延暦寺の連中、瀬田(せた:滋賀県・大津市)を塞いでしまうかも、そうなったら、近江・美濃方面への脱出も、むずかしくなってしまうかも・・・うぅん、まずいなぁ。

まさに、籠の中の鳥、網代(あじろ)にかかった魚のような状態、京都からの脱出は、はたして可能なのだろうか? 六波羅庁を守る武士たちは、表面上は血気盛んに装ってはいるが、その内心は怯えに満ち満ちている。

中国・雲南郡においては、「家に3人の男子がおれば、そのうち一人を兵にする」のだそうだ。

まさにこの言葉のごとく、方々から武士を根こそぎかき集めて、河内(かわち:大阪府南東部)へ向かわせたのであった。かの、楠正成(くすのきまさしげ)がたてもこる千剣破(ちはや)城、実にちっぽけな、あの城一つを攻める為に。

ところが、その小城、未だ落ちずというのに、思いもよらぬ禍が、自らの足許からまき起こってしまったのである。あぁ、今まさに、義兵の旗は長安(ちょうあん:注5)の西方に接近す。防がんとするに兵は少なく、救わんとするに道は閉塞(へいそく)せり。

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(訳者注5)京都を、中国・唐代の首都・長安(ちょうあん)になぞらえている。
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北条時益(ほうじょうときます) (内心)あーぁ、こんな事になるって前もって予想できてたら、もっと手元に、兵力を残しといたんだがなぁ。

北条仲時(ほうじょうなかとき) (内心)京都防衛に充てるべきトラノコの兵力を、みんな外に出してしまったのは、重大なミスだった。ほんと、悔やまれる。

六波羅両長官をはじめ、全員後悔すれども、もはや、どうにもなるものではない。

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首都防衛の方策については、以前から六波羅庁は、次のような作戦を立てていた。

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今度の戦、各方面の敵軍がしめしあわせて一斉に押し寄せてきた場合、障害物の全くない平地で合戦をしていたのでは、こちらには到底、勝ち目はない。故に、事前に我らの拠点を要塞化しておこう。堅固な拠点さえあれば、時にはそこで馬の足を休め、兵の気力を蓄える事も可能となる。敵が接近してきたら、そこから兵を繰り出して、迎撃すればよい。
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というわけで、彼らは、六波羅庁館の中にたてこもった。鴨川(かもがわ)に面している側に、長さ7、8町ほどの深い堀を築き、その中に、鴨川の水を流し込んだ。まさに、「中国・昆明池(こんめいち)の春の水、西日を鎮め、広く波立つ」といった様。

六波羅庁館の残り三方の周囲には、芝を植えた土塀を高く築き、その上に櫓を並べ、塀の前面に、逆茂木(さかもぎ)を何重にも設置した。まさに、中国の城塩州(じょうえんしゅう)・受降城(じゅこうじょう:注6)の守備もかくや、と思わせるほどの、堅固なること極まりない備えである。

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(訳者注6)唐の時代、北西の辺境に「受降城」という城を築いて、突厥族の侵入を防いだ。
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このように、防御に工夫をこらしてみたのであったが・・・たしかに、城の構えは良く考えられている。しかし悲しいかな、智というものが、そこには欠如しているのだ。

中国の古人いわく、

 剣閣(けんかく:注7)は たしかに険阻の難所である
 しかし これに頼る者は 失敗する
 自らの根元を堅める事を 忘れてしまうからだ

 洞庭湖(どうていこ:注8)は 極めて深い
 しかし これを頼むものは 敗北する
 人民を愛し 国を治める努力 それを忘れてしまうからだ

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(注7)四川省東方の難所。三国時代に、蜀国の防衛拠点となった。

(注8)長江流域の大湖。
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「天下の勢力は真っ二つに分かれ、安危はただこの一戦の結果で決まる」という、今まさにこの時、兵糧を捨て、船を沈め、自らの退路を自ら絶ち切り、決死の戦闘を行ってこそ、危機打開の可能性も見えてこよう、というもの。

なのに、「いざとなったら京都の東口から逃げ出せばいいや」などというような、安易な思惑を心中に秘めながら、ちっぽけな根拠地にたてこもるとは・・・そのような情けない発想しか浮かんでこないのか、六波羅庁サイドには・・・その武略の矮小なること、まことに悲しいものがあるではないか。

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2017年8月 5日 (土)

太平記 現代語訳 9-3 足利軍、戦線離脱

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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大手方面の戦場においては、朝の8時から戦闘に突入している。馬の蹄がかきたてる土煙は東西にたなびき、トキの声を天地に響かせながら、両軍激突を繰り返している。

なのに、からめ手方面軍大将・足利高氏(あしかがたかうじ)はといえば、桂川(かつらがわ:西京区)西岸にどっかと腰を落ち着けてしまい、悠々と酒盛りをしているではないか。

数時間の後、「大手方面の幕府軍、大敗北、大将・名越高家(なごやたかいえ)殿、すでに討死!」との報が、高氏のもとへもたらされた。

足利高氏 フーン・・・。

足利軍リーダー一同 ・・・。

足利高氏 さてと・・・じゃぁ・・・山を越えるとしようか。

足利軍リーダー一同 オゥッ!

からめ手方面軍は、当初の目的地・山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)とはまったく別の方角、丹波路を西に、篠村(しのむら:京都府・亀岡市)を指して馬を進め始めた。

備前国(びぜんこく:岡山県東部)の住人・中吉十郎(なかぎりじゅうろう)と、摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)の住人・奴可四郎(ぬかのしろう)は、大手とからめ手の両軍の打ち合わせの結果、からめ手方面軍に配属となっていた。

二人は、この予想外の展開に驚いてしまった。

大枝山(おおえやま:京都市・西京区と京都府・亀岡市)の麓に軍がさしかかった時、中吉十郎は、街道から少し離れた所に馬を走らせ、奴可四郎に声をかけた。

中吉十郎 奴可殿、ちょっとちょっと!

隊列を離れてやってきた奴可四郎に対して、中吉十郎はヒソヒソ声でいわく、

中吉十郎 (ヒソヒソ声で)なぁ、どうもおかしいと思わんか? 大手方面では今朝の8時から合戦始めて、火花散らして闘ぉとったっちゅうに・・・こっちでは、芝の上に腰を下ろして、長々と酒盛りじゃ。

奴可四郎 ・・・。

中吉十郎 ほいでもって、「名越殿、討たれてしもぉた」と聞いたとたんに、今度は丹波路めざして馬を進める・・・。どうもなぁ、この足利殿っちゅうお人、ナンか分からんけんど、幕府に対してよからぬ事、企てとるような気がするわいの。

奴可四郎 ・・・。

中吉十郎 げに(本当に)そがぁな事じゃったら(そのような事であったとしたら)、わしらぁ足利殿にゃぁついちゃぁいけんよ。どうじゃ、ここから引き返して、六波羅庁(ろくはらちょう)にお知らせしようや。

奴可四郎 よぉ言うたわ。実はわいもなあ、足利殿、なんやおかしな行動取らはるなぁて、思ぉとったんや。けど、これもナン(何)かの作戦なんかいなぁ、とか、色々と考えとる間にな、ついに合戦に参加できんとからに、こないな事になってしもうたわ。ほんま、オモロないでぇ。

中吉十郎 うん。

奴可四郎 あんなぁ、足利が敵に寝返りうちよるん、目(ま)の当たりに見ながら、ナァ(何)もせんと逃げ出すっちゅうのんも、あまりにダラシナイ事やんか。せめて矢の一本でも、あいつらに射てコマシテから、逃げ出そうなぁ。

言うやいなや、奴可四郎は、矢を一本取り出して弓につがえ、馬をスタートさせようとする。中吉十郎は、あわてて制止した。

中吉十郎 こらこら、どこ行くんじゃ?

奴可四郎 隊列の前の方へ先回りしてな、足利を待ち伏せしたるんじゃい。

中吉十郎 おい、待て! いったい何考えてるんじゃ! あんた、気でも狂ったかの。わしらの手勢、わずか2、30騎じゃぞぉ。あんな大軍に立ち向かって、犬死にしたところで、いったい何になるっちゅうんじゃね?

奴可四郎 ・・・。

中吉十郎 空しい功名狙いなんか、やめとくに限るでぇ。ここはナァ(何)もせんとな、そぉっと、この軍から抜け出しとくんじゃ。そいでもって、後日の合戦に備えて命を全うしてこそ、「忠義の心を持った立派な者よ」と、後世までもほめたたえられるっちゅうもんじゃぁないか。

再三にわたる中吉の制止に、奴可も納得、二人は大枝山から馬を引き返し、六波羅庁へ帰還。直ちに、六波羅庁長官の下へ馳せ参じ、事の次第を報告した。

--------

彼こそは、六波羅庁の盾(たて)であり、鉾(ほこ)でありと、頼りにしていた名越高家は、はや討ち取られてしまった。もう一方の大将、「北条家とは骨肉の間柄、よもや、二心抱くことなど決してあるまい」と、絶対の信頼を置いていた足利高氏までもが、敵側にまわってしまった。六波羅庁南北両長官の心中おして知るべし・・・雨宿りに入った木の下にも、雨がじゃぁじゃぁ降ってくる、とでも例えるべきか・・・とにかく心細い限りである。

北条仲時(ほうじょうなかとき) まったくもう・・・いったい、誰を信じていいのか・・・サッパリ分からなくなってきた。

北条時益(ほうじょうときます) 今まで着き従ってきた連中らだって、アブナイもんだなぁ。どんな拍子にころっと、心変りしてしまうか、分かったもんじゃない。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月 4日 (金)

太平記 現代語訳 9-2 幕府軍、八幡と山崎へ向けて進軍

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都防衛戦での度重なる勝利に、六波羅庁(ろくはらちょう)両長官もいよいよ相手を侮り始めた。

北条仲時(ほうじょうなかとき) 中国地方から攻めてくる連中なんて、どうってこたぁないよなぁ。

北条時益(ほうじょうときます) どこから誰が攻めて来ようが、こっちはデェーンと構えてりゃ、いいのさ!

しかし、頼りにしていた豪勇の武将・結城親光(ゆうきちかみつ)が敵側に寝返り、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)の赤松陣営に加わってしまった。さらに、諸国から応援にやってきた武士たちも食料の確保に苦しくなってきて、昨日5人、今日10人と、まるで髪の毛が抜け落ちていくかのように、自らの領地に帰還、あるいは時勢の先行きを見極めて、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)側に寝返って行く。

このようなわけで、後醍醐先帝サイドは、敗北を重ねるばかりなのにその勢力はますます増大し、六波羅庁サイドは、勝利を重ねながら日々、兵力が減衰していくのである。

北条仲時 (内心)いったいなぜ?! なぜ、こうなってしまうんだ!

北条時益 (内心)こんな事じゃぁ、これから先、どうなっていくんだか・・・。

六波羅庁サイドは、危機感がつのる一方。しかし、彼らの懸念を吹き飛ばしてしまうような朗報が、関東からもたらされた。

北条仲時 なに! 「足利殿と名越殿、雲霞(うんか)のごとき大援軍を率いて、京都へ向かう」ってか!

北条時益 (内心)やれやれ、これで大丈夫だな。

六波羅庁リーダー一同 (内心)これで、六波羅庁も安泰!

彼らの士気は、たちどころに回復した。

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このような情勢下に京都に入った足利高氏(あしかがたかうじ)は、到着の翌日さっそく、伯耆国(ほうきこく:鳥取県西部)船上山(せんじょうさん)にいる後醍醐先帝のもとへ密使を送った。

「自分は、陛下の方へ帰順たてまつります」と書いてきた高氏よりの手紙を見て、後醍醐先帝は大喜び。さっそく高氏に、「諸国の軍勢を糾合(きゅうごう)して、朝敵・北条一族を討伐すべし!」との天皇命令書(注1)を送った。

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(訳者注1)原文では「綸旨(りんじ)」。
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高氏がこのような事を企てている事を、北条仲時、北条時益、名越高家(なごやたかいえ)、誰一人として思いも寄らない。

八幡(やわた:京都府・八幡市)と山崎にたむろする倒幕勢力を討伐するための作戦会議が、毎日のように行われるのだが、高氏も加わっているその会議の場で、何もかもつつみかくさず話してしまうので、彼らの考えていることは、高氏に完全に把握されてしまっているのである・・・まったくもって、空しい限りとしか、言いようがない。

 中国の大行山の険阻な道は 車をも砕くというが
 これとて 「人心」という起伏著しい道に比べれば まだまだ平らであるといえよう
 中国の巫峡(ぶきょう)の急流は 船をも覆すというが
 「人心」に比べれば まだまだ緩やかな流れと言うべきである
 人の心というものは 好悪の反転極まりなし

(原文)
 大行之路能摧車
 若比人心夷途
 巫峡之水能覆舟
 若比人心是安流也
 人心好悪苦不常

とは言うものの、北条高時(ほうじょうたかとき)が足利高氏を完全に信じきったのも、無理からぬ事ではある。

足利家は代々、北条家の恩顧を受け、そのおかげで、他に肩を並べる者がないほどの一家の繁栄を持続してこれたのだ。ましてや、高氏の妻は北条一族・赤橋守時(あかはしもりとき)の妹、二人の間には息子も多く生れている。「まさか、この人に二心(ふたごころ)はあるまい」と高時が思ったのも、しごくもっともな事といえよう。

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「4月27日に、八幡と山崎で戦闘開始」と、かねてより決定されていたので、鎌倉からやってきた幕府軍は京都を発った。

大手方面軍 大将:名越高家 総勢7,600余騎 鳥羽・作道(とば・つくりみち:京都市・伏見区)経由で進軍。

からめ手方面軍 大将:足利高氏 総勢5,000余騎 西岡(にしおか:京都府・向日市)へ進軍。

この情報をキャッチした八幡と山崎の倒幕勢力は、険阻な場所で待ち構え、相手を急襲して戦いを一気に決しよう、ということで、

千種忠顕(ちぐさただあき)は、500余騎を率いて、大渡(おおわたり:位地不明)の橋を渡り、赤井河原(あかいがわら:京都市・伏見区)に布陣。

結城親光は、300余騎を率いて、狐河(きつねがわ:位地不明)付近に進軍。

赤松円心(あかまつえんしん)は、3,000余騎を率いて、淀(よど:京都市・伏見区)、古河(ふるかわ:伏見区)、久我畷(くがなわて:伏見区)の南北3か所に布陣。

強敵を一気に撃破せんとの彼らの気力は、天をも廻し地をも傾けるほどの勢い。しかしながら、兵力面、軍備面等から勘案しての戦闘総合力において、幕府軍サイドより数段劣っている事はどうにも否みがたい事実である。上洛してきた新手の幕府軍1万余の軍勢を相手にして、まともに戦えるとはとても思えない。

「足利高氏からは内通の意志が伝えられてきてはいるが、これも、あるいは謀略かもしれない」、ということで、坊門雅忠(ぼうもんまさただ)は、寺戸(てらど:京都府・向日市)と西岡のあたりの野伏(のぶし)5、600人ほどを駆り集めて、岩倉(いわくら:向日市)方面へ向かった。

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伝令A 報告! からめ手方面軍・足利殿、本日未明、京都を出発されましたぁ!

名越高家 いかぁん! 先を超されちまったぁ! 行くぞぉぅ!

おくれを取った事を残念に思い、大手方面軍大将・名越高家は、久我畷の足も立たない泥土の中に馬を進ませ、我先にと先頭に立って軍を進めた。

高家は血気盛んな若武者、今度の合戦で世間をアッと言わせ、自らの名声をガーンと高めてやろうと、事前に色々と考えていたようだ。当日の彼のいでたちはといえば、それはもう立派なもので、馬具から笠標(かさじるし)に至るまで、キンキラキン。

花型紋の真紅に染めた鎧直垂(よろいひたたれ)の上に、紫の糸で縫い、金物をびっしり装甲した鎧をピッタシ装着。仰向けにかぶった白星の5枚しとろの兜の左右端には、日光天子(にっこうてんし)と月光天子(がっこうてんし)の金と銀の透かし彫り。さらに、鬼丸(おにまる)という名前の名越家累代の重宝である黄金装飾の円鞘の太刀に、3尺6寸の太刀をもう一本あわせて帯している。

鷲の羽付きの矢36本を頭上高々と背負い、黄色まじりでたてがみ黒く太くたくましい白馬の上には三本唐傘(注2)の蒔絵細工を施した鞍。馬に懸けた緋色の房が朝日に輝いてまぶしく映える。

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(訳者注2)名越家の紋であろう。
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しかしながら、このようなカッコヨサも、今日の戦場においては完全に逆効果となってしまった。ともすると全軍の前に前にと出たがり、周囲を払わんばかりの勢いで馬を進めて行くものだから、相手側には非常に分かりやすい。

倒幕軍側メンバーK 見てみいや、あの馬!

倒幕軍側メンバーL きらびやかな装備やなぁ!

倒幕軍側メンバーM 先頭に立って、威風を払って、全軍に号令下しとるわい。

倒幕軍側メンバーN 全軍の総大将はアイツやな! よぉし!

倒幕軍側は他の武者たちには目もくれず、こちらに開き合わせ、あちらに攻め合わせ、名越高家ただ独りだけを狙って、寄ってくる。

倒幕軍側メンバーK えぇい! くらえい!

名越高家 オォゥ!

高家の太刀 チャイーン!

倒幕軍側メンバーL えぇい!

名越高家 ウーイ!

高家の槍 ヒュッヒュッ!

高家の鎧は装甲厚く、それを貫通する矢は皆無、彼の卓越した剣術と槍術の前に、接近してくる者は次々と倒されていく。そのあまりの勢いに、倒幕軍側数万もこのままではやがて敗走か、と思われるような形勢になってきた。

ここに登場したのが、赤松一族中の一人の男。強弓連続速射の技にたけ、ゲリラ戦の大ベテラン(注3)、卓宣公(たくせんこう)のマル秘戦術(注4)を会得、その名は作用範家(さよのりいえ)。

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(訳者注3)原文では、「強弓の矢継早、野伏戦に心ききて」。

(訳者注4)詳細不明。
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範家は、鎧と兜を脱ぎ捨て、徒歩で前進を開始。あぜ道を伝い、薮をかいくぐり、匍匐前進(ほふくぜんしん)しながら名越高家にじわりじわりと接近、一矢放つチャンスをじっとうかがう。

三方から攻め寄せてくる倒幕軍を追いまくっていた名越高家はやがて、馬を止めた。彼は、鬼丸についた血を笠標でおしぬぐい、扇を開いて一息ついた。

作用範家 (内心)チャンス・・・。

高家に向かって、ヒタリヒタリと接近していく範家・・・。

作用範家の弓 ギリギリギリ・・・ビュゥッ!

名越高家 ウゥッ!

作用範家 やったぁ!

狙いたがわず、範家の放った矢は、高家の兜の真正面の下、眉間のど真ん中に命中。脳を砕き骨を破り、反対側の首の骨の端から白い矢尻が頭を覗かせた。さしもの猛将、名越高家もこの矢一本に力を失い、馬からまっさかさまにドウと落ちる。

エビラを叩いて高らかに叫ぶ、範家。

作用範家のエビラ パンパンパンパン・・・。

作用範家 おぉい、見たかぁ! 敵の大将、名越尾張守高家をなぁ、この作用範家が、矢ぁたった一本でしとめたったでぇ! みんなぁ、攻めるんなら今がチャンスやどぉ、おれに続けぇ!

赤松軍団一同 ウオーーーー・・・。

押され気味になっていた倒幕軍側は、これを見て一挙に勢いを回復、三方から勝鬨(かちどき)を上げて攻め込む。大将を失ってしまった名越軍7,000余騎は、大混乱の中に壊走。

大将を討たせてしまっていったいどこへ帰れようかと、反撃にうって出て討死にするもあり、泥田に馬の足を取られ、抵抗をあきらめてその場で自害するもあり。

かくして、狐河の端から鳥羽の今在家(いまざいけ:伏見区)付近までの50余町の間、名越軍の戦死者の遺体が大地を埋め尽くし、といった状態になってしまった。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月 3日 (木)

太平記 現代語訳 9-1 足利軍、京都へ

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「船上山(せんじょうざん)に本拠を構える先帝(せんてい)、大軍を送り、京都を攻撃! 先帝のこの動き、我々にとっては大いなる脅威、京都は今や、危機的状況に!」

六波羅庁(ろくはらちょう)よりの急報がしきりに、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ飛んでくる。

これを聞いて大いに驚いた北条高時(ほうじょうたかとき)は、鎌倉幕府・リーダー会議を招集。

北条高時 いってぇ、どうしたもんかなぁ。

幕府リーダーA ここはもう、再度、大軍を西に送るしかないでしょう。

幕府リーダーB 西っていってもねぇ・・・いったいどこへ?

幕府リーダーC そりゃぁ、まずは京都でしょう。

幕府リーダーD いやいや、船上山もなんとかしなきゃぁ。

幕府リーダーE 京都と船上山、同時平行ってぇのは、どうでしょう? 送った兵力の半分を京都の防衛に充(あ)て、残りの半分でもって、船上山へ遠征ってなセンで。

幕府リーダーB 大丈夫かぁ? 船上山の勢力、あなどれんぞぉ。

幕府リーダーA 船上山へ送る軍団の方に、遠征軍中の主力勢力を配置する、というようにしときゃ、いいだろ。

北条高時 よぉし、そのセンで行けぃ!

というわけで、さっそく遠征軍の編成を開始。総大将には、名越高家(なごやたかいえ)を任命し、外様(とざま:注1)の有力武士20人ほどに、招集が出された。

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(訳者注1)北条一門以外の人々の事。
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足利高氏(あしかがたかうじ)の名も、その遠征軍メンバー・リスト中に連ねられていた。

ちょうどその時、高氏は病からの回復途上にあり、未だに全快という状態にはなかった。なのに、またもや京都遠征軍のメンバーに加えられてしまったのである。幕府からは何度も何度も執拗に、出兵の催促をしてくる。

高氏の心中に、怒りの念が噴出してきた。

足利高氏 (内心)あぁ・・・父上が亡くなられてから、まだ3か月にも満たない・・・その悲しみの涙が未だに乾かないというのに、今度は病気ときたもんだ・・・朝から晩まで、薪(たきぎ)を背負わせれているような苦しさだ・・・なのに・・・こんな状態なのに・・・反乱軍討伐の遠征に、駆り出されてしまうなんて・・・あぁ、恨めしいなぁ!

足利高氏 (内心)・・・「時は移り事は変じて、貴賎が位を入れ替わり」とは言うけどな・・・あの高時は、北条時政(ほうじょうときまさ)の子孫、皇室から下野して(注2)、久しい年月が経っているじゃぁないか・・・それにひきかえ、私は、清和源氏(せいわげんじ)の本流に連なってる人間なんだぞ・・・下野してからそれほどの時は、経っちゃいないんだよ・・・こっちはな!

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(訳者注2)北条家は平氏の流れであるから、ルーツをたどれば天皇家(恒武天皇)ということになる。一方の足利家は清和源氏の流れ、こちらもルーツは天皇家(清和天皇)である。
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足利高氏 (内心)そのへんの道理というものを、少しはわきまえてだなぁ、「目上の人に接する時のマナー」というものを、よぉく考えて見ろってんだ! なのに、こんなにしつこく催促をしてくるなんて・・・。

足利高氏 (内心)いやいや、こんな事になってしまうのも、ひとえに、自分のふがいなさに原因が・・・北条家の風下にいる事に、ズルズルと甘んじきてしまったからだ。

足利高氏 (内心)どうしても京都へ行けってんなら・・・いっそのこと、一家中みんな引き連れて上洛してしまってだな・・・先帝陛下の方に我が身を投じ、六波羅庁を攻め落として見ようか・・・そうなれば、わが足利家のサバイバルが成就・・・フーン・・・。

このような彼の心中、いったい誰が知るであろうか。北条高時はこのような事になっているとは思いも寄らず、工藤左衛門尉(くどうさえもんのじょう)を使者に立て、「いったいなぜさっさと京都へ出発せんのか、解せんなぁ!」と、一日に二回も、高氏に対して詰問した。

足利高氏 (内心)よぉし、打倒北条! 決めたぞ!

彼は、もはやあえて抗弁もせずに、

足利高氏 分かりました。「近日中に、京都へ向けて出立しますから」と、高時様に申し伝えていただきたい。

工藤左衛門尉 OK!

それからは、高氏は夜を日に継いで、京都遠征の準備を整えた。

ところが、「足利殿は、一族郎等のみならず、奥方や幼い子供たちまでも、みな残らず、京都へ連れて行くんだそうだ。」とのうわさが、北条家の方へ伝わってしまった。

長崎円喜(ながさきえんき:注3)はこれを聞いて大いに怪しみ、急いで高時に注進した。

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(訳者注3)長年、北条家執事職にあり、鎌倉幕府内の実力者であった。
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長崎円喜 殿、殿! これはよぉくよく、気をつけておいた方がいいですよ、殿!

北条高時 うるっせぇなぁ、いってぇなんだよぉ!

長崎円喜 いやいや、それがね、あの足利殿がですね、奥方や子供までも引き連れて上洛されるとの、もっぱらのうわさ! うーん、こりゃぁどうも怪しいぞぉ。

北条高時 へぇ、そんなうわさがねぇ。

長崎円喜 こういう危急の時にはですねぇ、たとえ北条家ご一門の近親の方々といえども、警戒してかからなきゃぁ。ましてや、足利殿といえば、清和源氏の貴種の流れに連なるお方。清和源氏が天下の最高権力の座を失ってから、もう相当長い年月が経っておりますよねぇ・・・ムムム・・・もしかしたら足利殿、とぉんでもない野心をお持ちかも。

北条高時 ・・・。

長崎円喜 いやね、殿、外国においてもわが国においてもですよ、世の中が乱れた時には、覇王(はおう)は諸侯を集めて生け贄をささげてね、諸侯はその血をすすって二心なきことを誓ったものですよ。現代でいえば、起請文(きしょうもん:注4)を書く事に相当しましょうかな。

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(訳者注4)「絶対に貴方をうらぎりません」、という旨を記した誓約書のこと。
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長崎円喜 あるいはね、殿、自分の子供を人質に出して野心の嫌疑を晴らす、という方法もありますな。あの源義仲(みなもとのよしなか)も、その息子、清水冠者(しみずのかんじゃ)をね、将軍・頼朝(よりとも)様のもとへ人質として送ってます。

北条高時 ・・・。

長崎円喜 まぁねぇ、こういった先例もあることですからね、ここはひとつ、足利殿にはですな、ご子息と奥方を鎌倉に留め置かれるようにご命令されてですよ、さらにダメ押しに、起請文を一通書かせるというのが、よろしいのではないでしょうかな? 殿!

北条高時 ウーン・・・それもそうだなぁ。

--------

足利家にやって来た使者いわく、

使者 北条高時様よりのお言葉を、お伝えしに参りました。以下のごとく、おおせであります。

 「関東はいまだに平穏であるからして、ご心配されるにはおよばぬ、幼いご子息は全員、鎌倉に留め置かれよ。」

 「北条家とご当家とは、古の世より運命共同体、水魚の間柄とも言うべきもの。それに加え、われらの一族、赤橋守時(あかはしもりとき)は貴方の義兄である(注5)。というわけだから、私としては、ご当家に対して何ら疑惑の念を抱くものではないのだが、一方にはあれやこれやと疑い深い者らがいて、なかなかやっかいだ。なので、その疑いを打ち消すためにも、起請文を一通、ご提出いただきたい。公的にも私的にも、それが最も適切な行為であろうと思われる。」

--------
(訳者注5)高氏の奥方・登子は、赤橋守時の妹である。
--------

これを聞いて、高氏の胸中は、さらに鬱々となってしまった。

足利高氏 (内心)ナニ! 起請文だと?! ふざけるなよ!

しかし、内心の憤りを押さえて顔色一つ変えず、彼は返答した。

足利高氏 分かった。後ほど、こちらから返答の使者を送るから、まずは、お引き取り願いたい。

使者が去った後、高氏は、弟・直義(ただよし)を呼んだ。そして、心中の全てを、直義に打ち明けた。

足利高氏 ・・・と、まぁ、そういったわけでなぁ、高時からそのように言ってきたってわけさ。なぁ、いったいどうしたらいいだろうなぁ? おまえ、どう思う?

足利直義 ・・・。

足利高氏 ・・・。

足利直義 ・・・(熟考)。

足利高氏 ・・・。

足利直義 (パン! 膝を叩く)兄上が今、打倒北条という一大事を思い立たれたの、これは決して、自分のためではない、天に代わって無道の輩を誅し、先帝陛下のおんために、不義なる勢力を退けようとしてのこと。だから、兄上には、大義名分があるのです。

足利高氏 ・・・。

足利直義 ここはまずね、高時に言われた通りに、起請文を出しておけばいいと思いますよ。なぁに、いいんですよ、ウソ偽りの起請文だってね。「誓言は神も受けず」っていいますでしょ? 自らの心中を偽って、起請の言葉を書き連ねたのであっても、きっと神仏は、兄上をご守護してくださいます、陛下への兄上の忠節の心に免じてね。

足利高氏 なぁるほど。

足利直義 ・・・最大の問題は、お子方や奥方様を、鎌倉に留めおくべきかどうか・・・でもね、そんな事はいわば、大事の前の小事、それほどまでに、あれこれと、心を悩ますような事ではありませんよ。

足利直義 お子方はまだ幼いですからね、いざって時には、こちらに残ってる家臣たちが、どこへなりとも、抱きかかえてお隠しすることでしょうよ。奥方様も大丈夫、あの赤橋殿がバックについておられるんですから、絶対大丈夫、ひどい目にあわれるような事は絶対にありませんって。

足利高氏 ・・・。

直義 「大事をなしとげようと思うならば、細かい事を気にしていてはいかんぞ」と言う言葉があるじゃないですかぁ! 小さな事にかかずらってる暇なんてありませんよ! とにかくまずは、高時の言うがままに従ってですね、彼の疑いを完全に払拭(ふっしょく)した後、ただちに上洛。京都に着いてから、あらためて、打倒北条の大義の計略をめぐらされては?

足利高氏 ・・・うん・・・分かった!

というわけで、高氏は、子息・千壽王(せんじゅおう:注6)と奥方を鎌倉に留めおく事にし、起請文を一通書いて、高時のもとへ送った。

--------
(訳者注6)千壽王は後に、足利義詮(よしあきら)と名前が変る。
--------

高氏への疑いが完全に解け、高時は大喜び。高氏を館に招き、様々に彼をはやしたてる。

北条高時 ウハ、ウハ・・・いやぁ、高氏殿よぉ! オタクの源(みなもと)家になぁ、先祖代々、伝えられてきた白旗があんだけどよぉ・・・。これって、八幡太郎源義家(はちまんたろう・みなもとのよしいえ)殿から、代々の源家の家長に大事に伝えられてきた重宝なんだよねぇ、ワハハハ・・・。

足利高氏 ・・・。

北条高時 その旗さぁ、頼朝様の奥方の政子(まさこ:注7)様が、それを受け継がれてからってもんは、うちの北条家でずっと、預かってきちゃってるんだけどさぁ・・・。希代の重宝たってよぉ、源家以外の家で預かってても、しようがねぇやなぁ! なぁ、そうだろ? ウワハハハハハ・・・。

--------
(訳者注7)政子は、北条氏に属する。
--------

足利高氏 ・・・。

北条高時 それ、今回の出陣のハナムケに、あんたに贈っちゃおうよぉ。白旗ビシット掲げちゃってさぁ、早いとこ、逆賊どもをバシバシってやっつけちまいなって! ウハ、ウハ、ウハハハハ・・・。

高時は、その旗を錦の袋に入れ、自ら高氏に手渡した。その他に、乗り替え用の馬として、白い鞍をつけた飼育馬10匹、銀縁の鎧10領、黄金装飾の太刀一本を、引き出物として贈った。

かくして、大手方面軍大将の任命を受けた足利高氏は、元弘(げんこう)3年(1333)3月27日、鎌倉を発った。

その軍を構成する主要メンバーは、足利高氏・直義兄弟、吉良(きら)、上杉(うえすぎ)、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、今川(いまがわ)、荒川(あらかわ)以下、足利一族32人、譜代家臣43人。総兵力3000余騎。

彼らは、名越高家が率いる軍団よりも3日早く、4月16日、京都に到着した。

太平記 現代語訳 インデックス2 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年8月 1日 (火)

新作動画の発表 [円山公園(京都市)のネコ]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画2個をアップロードしました。バックグラウンド音楽に、自作曲を使用しました。

下記でご覧になることができます。

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撮影地:円山公園(京都市)
撮影時:2016年9月
バックグラウンド音楽 言葉にならない想い, Op.29

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/DqHF1CnxgVk

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撮影地:円山公園(京都市)
撮影時:2016年9月
バックグラウンド音楽 よぉし、このセンでいってみよう・第2番, Op.35

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/XFcfXMlDbFU

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私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

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