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2017年8月12日 (土)

[関ヶ原合戦]は、[山中合戦]に名称変更されるべきか?

[関ヶ原合戦]([関ヶ原の戦い])に関連して、[山中]という場所が注目されているようだ、との情報を得たので、下記の書物を読みました。

 [新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い  白峰 旬 (著) 宮帯出版社 2014年 発行](以下において、これを、[文献1]と略記することにします)

これまで、関ヶ原合戦については深い知識や関心もないままに、一応、これくらいは知っておきたいなぁ、というくらいのスタンスで、様々なコンテンツ(書物、テレビ番組等)に触れてきた私にとっては、上記の書物は、衝撃的な内容のものでした。

以下のような様々の、時代劇・名場面や解説図が、白峰氏([文献1]の著者)によって、

 それは、史実に基づくものではない、後世のフィクション、作り話だ

と、されているのです。

 [小山評定] 小山(栃木県)で、東軍側の武将たちが会議する、というシーン
 [問鉄砲] なかなか踏ん切りを付けれない小早川秀秋の陣めがけて、家康の命により、鉄砲が撃ちこまれる、というシーン
 [関ヶ原合戦の布陣図] ここに、石田三成の陣が、ここに小西行長の陣が、というような配置図

本題に入りましょう。

いわゆる「関ヶ原合戦」があったのは、旧暦・慶長5年9月15日、西暦1600年10月21日 です。

[文献1]の著者・白峰 旬・氏は、この日近くのタイミングで作成された一次史料に注目して、様々な考察を行っています。それに基づいて、白峰氏は、

[文献1] 39P - 41P において、

 「関ヶ原合戦」という名称は正しいのか

という問題提起を、行っています。

白峰氏が考察の手がかりとして用いた一次史料は、下記の書状、すなわち、手紙です。(各項の先頭にある史料の記号は、私が付与したものです)

 [史料・徳川] Date:慶長5年9月15日 From:徳川家康 To:伊達政宗
  [文献1] 39P - 40P で紹介・引用されています。家康から政宗への書状です。

 [史料・保科] Date:慶長5年9月19日 From:保科正光 To:松沢喜右衛門尉、他2名
  [文献1] 40P で紹介・引用されています。保科正光から松沢喜右衛門尉らへの書状です。

 [史料・吉川] Date:慶長5年9月17日 From:吉川広家 To:?
  [文献1] 40P で、「吉川広家自筆書状案(慶長五年九月十七日)」として紹介・引用されています。

 [史料・石川and彦坂] Date:慶長5年9月17日 From:石川康通、彦坂元正 To:松平家乗
  [文献1] 40P - 41P で紹介・引用されています。石川康通、彦坂元正から松平家乗への書状です。

 [史料・生駒] Date:? From:生駒利豊 To:坪内定次
  [文献1] 48P - 65P で紹介・引用されています。当日の戦闘に参加していた、[生駒利豊]という人が、後になってから、当時の事を回想して書いた書状なのだそうです。

白峰氏の調査結果は、以下のようになったのだそうです。

 [史料・徳川]、[史料・保科]の中には、
  「山中」という所において、戦闘が行われた、という趣旨の事が記されている。
  ([文献1] 39P - 40P)

 [史料・吉川] の中には、
  「関ヶ原」という地名は全く記されておらず、「山中」という地名が頻出し、「山中合戦」、「山中之合戦」と記されている。
  ([文献1] 40P)

 [史料・石川and彦坂] の中に、
  「関か原へ出陣して一戦に及んだ」との記述がある。
  ([文献1] 40P - 41P)

 [史料・生駒] の中に、
  「関ヶ原」という場所において、戦闘が開始された、と記されている。

[文献1] 51P - 55P には、下記のように[史料・生駒] からの引用が行われています。 (白峰氏により、現代語訳されています)

 「(前略)関ヶ原にて、大夫殿(福島正則)の先手の者が(宇喜多秀家隊と)鉄砲を撃ちあった。・・・」

[文献1] 52P - 53P に、その書状の現物を撮影した画像が掲載されており、その最初の方に、私には「原」という文字であろうかと思われるような、字があります。

[文献1] 78P - 79P に、[史料・吉川]中の、下記のような内容の部分が引用されています。(白峰氏により、現代語訳されています)

 「(前略)小早川秀秋は逆意が早くもはっきりする状況になったので、大垣衆(大垣城にいた諸将)は、山中の大谷吉継の陣は心元なくなったということで、(大垣城から)引き取った(移動した)。これは、佐和山への「二重引」をする覚悟と見える(後略)」

上記中には、「山中」の文字があります。しかし、大垣衆(石田三成や宇喜多秀家らが、その中に含まれているのだろう)が、「山中」へ移動した、というような事は、書かれていません。大谷吉継が「山中」にいたであろうことが、読み取れるだけです。

[文献1] 81P - 82P には、[史料・石川and彦坂]中の、下記のような内容の部分が記されています。(白峰氏により、現代語訳されています)

 「石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の四人は、(九月)十四日の夜五ツ(午後八時頃)時分に大垣(城)の外曲輪を焼き払い、関ヶ原へ一緒に押し寄せた。この地の衆(尾張衆)・井伊直政・福島正則が先手となり、そのほか(の諸将が)すべて次々と続き、敵が切所(要害の地)を守っているところへ出陣して、戦いをまじえた時(開戦した時)・・・」

上記中には、[関ヶ原]とあります。

このように、白峰氏によって紹介・引用されている当時の一次史料の中においては、戦場となった場所に関しては、

 [関ヶ原]と記されているものもあり、
 [山中]と記されているものもあり、

という状態であるようです。

--------

[山中]とはいったい、どのあたりにあるのだろう?

ネット地図にアクセスし、[岐阜県 関ヶ原町 山中]で検索して、現在、[山中]と呼ばれているエリアが、岐阜県・関ヶ原町の中にあることが分かりました。

その位置は、これまで、「ここが石田三成陣跡である」とされてきた地点、「ここが小西行長陣跡である」とされてきた地点からは、南西方向に離れた地のようです。

(東海道新幹線、JR東海道本線が、このあたりを通っているようなので、車窓からその地を見ることができるかもしれません。)

しかしここにきて、疑問点が続々、湧き上がってきてしまいました。以下に、それを記します。

(1)当時の「山中」エリアは、現在の[山中]エリアと、同じなのか?

現在、[山中]とされているエリア、すなわち、[岐阜県 関ヶ原町 山中]と、1600年当時に、「山中」と呼ばれていたエリアが、同一なのかどうか?

1600年当時、現地の人々が「山中」と呼んでいたエリアは、もしかしたら、現在の[岐阜県 関ヶ原町 山中]よりも、もっと広い範囲のエリアであったかもしれません。

もしかしたら、その「山中」エリアの中には、「関ヶ原」も含まれていたのかもしれません。

もしもそうであるならば、戦闘が行われたと想定される場所を、[岐阜県 関ヶ原町 山中]に限定する必要はなくなるでしょう。「山中」に含まれる地・「関ヶ原」においても、戦闘が行われていたのかもしれないのだから。

(2)「山中」と「関ヶ原」が、きっちりと区分して把握されていたのかどうか?

1600年当時、現地の人々は、ここからここまでが「山中」であり、ここからここまでが「関ヶ原」である、「山中」と「関ヶ原」とは、異なるエリアである、というように、明確な地理的区分を持っていたのでしょうか? 仮にそうだとしてみても、次の疑問が生じます。

徳川家康、吉川広家は共に、当時、関ヶ原の地を支配していたわけではありません。もっと遠くの場所を支配していました。だから、現地の地理にそれほど詳しかったとは思えません。

彼らの頭の中において、「関ヶ原」と「山中」とが、異なるエリアを表す地名として、明確に区別できていたのかどうか、疑問です。

家臣たちから聞いた、「山中」という地名を、あまり深く考えずに、そのまま、手紙に書いたのかもしれません。

これまで、小早川秀秋が陣を置いたのは、[松尾山]であると、されてきました。

その[松尾山]の近くに、[岐阜県 関ヶ原町 山中]はあります。よって、[岐阜県 関ヶ原町 山中]が、複数あった戦場のうちの一つになった可能性はあるでしょう。

よって、その地で戦闘を行った人が、東軍の中にいたかもしれません。そのような人が、戦いが終わった後に、「おまえは、どこで戦っていたか?」と問われたならば、「はい、山中という所で戦っていました。」と答えるでしょう。その報告をもとに、家康が、「・・・濃州の山中において一戦に及んだ」と手紙に書いた、というような事も、考えられるかもしれません。

戦後数日経過の段階で、書いた手紙ですから、あまり細かい事(「山中」か「関ヶ原」か)にこだわって書くような余裕は無かったでしょう。

(3)[岐阜県 関ヶ原町 山中]は、大軍を展開するには適していない地であるように思えるのだが

[地理院地図]にアクセスし、[関ケ原町 山中]で検索して、[岐阜県 関ヶ原町 山中]の付近の等高線より、そこの地形を想像することができました。

そこはまさに、山の中の地、南北にある山の谷間というような地形の場所であるようです。

このような狭い場所で、東西双方の大軍がひしめきあい、激闘し、というような情景が、どうにも、私の頭には、浮かんでこないのです。

ここは、野戦の戦場というよりはむしろ、防備に適した地と言った方がよいのではないでしょうか。この谷に兵士を配置したら、敵の大軍の通過を効果的に妨げることができそうに思えます。

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