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2017年9月 4日 (月)

太平記 現代語訳 11-9 幕府側勢力、壊滅す

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都は既に落ち着きを取り戻したとはいえ、

 「金剛山(こううごうさん)・千剣破城(ちはやじょう)の攻囲から退却の幕府軍残党、なおも奈良に留まり、京都攻略の機をうかがっており」

との情報に、中院定平(なかのいんさだひら)を大将に任命し、5万余騎を奈良方面へ向かわせた。更に、楠正成(くすのきまさしげ)にも近畿勢2万余騎を副え、河内国から、からめ手方面軍として向かわせた。

奈良にたてこもる幕府軍は、その相当数が十方に退散したとはいえ、なおも残留者数5万騎超、もう1回くらいは、激戦が展開されるのでは、と思われた。

しかし、彼らはいつの間にか、これまでの見せかけの気力もはや尽き果て、小さな水たまりの中に泡を吹いてあえぐ魚のような状態に、なってしまっていた。

徒らに日を送っている間に、奈良の最初の防衛拠点・般若寺(はんにゃじ)を守っていた宇都宮公綱(うつのみやきんつな)と、その家臣団・紀清(きせい)両党700余騎がまず一番に、御醍醐先帝よりの命令書に寝返って、京都へ去ってしまった。これが引き金となり、100騎、200騎、5騎、10騎と我先に、先帝側に降服する者が続出、ついに、北条一族とその譜代重恩の家臣たちだけが残る状態に、なってしまった。

今になって、いったい何の為に命を惜しむべきや、各々、潔く討死にしてこそ、名を後世に残せる、というものであろうに・・・。

なんとかして命助かりたい、との、人間のあさましき業、と言うべきであろうか、

阿曽治時(あそはるとき)、大佛高直(おさらぎたかなお:注1)、江馬遠江守(えまとおとおみのかみ)、佐介安芸守(さすけあきのかみ)をはじめ、北条家の主立った者13人、更に、長崎高貞(ながさきたかさだ)、二階堂道蘊(にかいどうどううん)以下、幕府の要職にあった武士たち50余人、般若寺にて各自出家し、律宗僧侶の姿に身を変えた後、三種の袈裟を肩に懸け、托鉢を手に捧げて、降人となって出てきた。

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(訳者注1)原文では、「大佛右馬助貞直」となっているのだが、[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注に、「高直の誤。」とあり、それに従った。
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大将の中院定平は、彼らを収容し、高手小手に縛り上げた後、宿場常備馬の鞍坪に縛り付けて、自軍数万の前を進ませ、白昼、京都へ連行した。

平治(へいじ)年間には、源義平(みなもとのよしひら)が、平氏によって生け捕りとなり、首を刎ねられ、元暦(げんりゃく)年間には、平宗盛(たいらのむねもり)が、源氏の囚われの身となって、京都の大路を引き回された。

それらはいずれも、戦場に臨んだ時に、あるいは敵にだまされ、あるいは自害のタイミングを失い、心ならずも、敵の手に落ちたのである。それらの事例をもってさえも、今日に至るまで、世の人の嘲る所となっており、両家の子孫がこの話を聞く時には、100年後の今となっても未だに、屈辱の思いを致すのである。

ましてや、彼らのこの振る舞いは、まったくもって・・・敵に欺かれたのでもなし、自害のタイミングを失したでもなし、勢いがまだ尽きてしまってもいないのに、自ら黒衣の身に変じ、遁れようもないわが命を捨てそこねて、縄目の恥を受けるこの有様、まことに、前代未聞の恥辱である。

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囚人たちは京都に到着の後、すぐに黒衣を脱がせられ、出家の後に付けた名前をすべて、元の名前に戻された。彼らの身柄は別々に、御醍醐先帝方の武士たちに預けられた。

刑の執行を待つ間、室内に閉じ込められて寝起きしながら、あれやこれやと思い連ねる浮世の中、涙が絶え間なく、彼らの頬を落ち続ける。

定かならぬ便りではあるが、鎌倉の情報が伝わってくる。

夫婦の固い契りを為した貞女も、むくつけき野卑な男どもに奪われて、王昭君の怨みを残し、富貴の台(うてな)の中に育てはぐくまれた賢息たちも、かつては身の回りに寄せ付けもしなかったような、身分低き者らの下僕になり下がり、黄頭郎の夢のごとくであるという。

それらの人々の運命の転変、たしかに憂わしい事であるとはいえ、まだ命があるだけまし、というもの。昨日道路のちまたを過ぎて、今日門の前に休息する旅人らが、語っているのが聞こえてくる。

旅人A Xさんのお母さんさぁ、道端で袖を広げて、「どうぞ、私に食物をおめぐみ下さい」なんてやってたらしいけどな、ついに亡くなっちまったって。気の毒になぁ。

旅人B Yさんのおやじさんも、捕虜の身になったあげくに、ついに死んじまったらしいぜ。短い綿入れ着こんで変装しながら、縁者をたずね歩いてたらしいけどよぉ。

このような話を遠耳にほのかに聞くにつけても、今まで生き延びてしまったわが命まで憂いのもととなり、彼らの嘆きは更に増すのであった。

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7月9日、阿曽、大仏、江馬、佐介、ならびに長崎らの15人が、京都・東山(ひがしやま)の阿弥陀峯(あみだみね)にて、処刑された。

後醍醐帝が再び天皇に即位された直後のことでもあり、まだ何も政事(まつりごと)が行われていない状態の中、「陛下は即位後、いの一番に、刑の執行を行われました」というような事では、これではとても仁政とは言えないであろう、ということで、彼らは、隠密裏に処刑された。首を市中引廻しにするまでの必要もあるまい、ということで、彼らの遺骸は適当な寺々に送られ、その菩提が弔われた。

二階堂道蘊は、「幕府補佐の朝敵・最たる者」という立場にあったが、その賢才の誉れはかねてより、後醍醐帝のお耳に達していた。そこで、彼の才能を新政府で活用すべし、ということになり、死罪一等を減じられ、領地を安堵された。しかし、なおも陰謀を企てている趣あり、とのことで、同年秋末、彼もついに死刑に処せられてしまった。

佐介貞俊(さすけさだとし)は、北条家の血筋に連なっている上に、武略才能共に兼備の人、「きっと、一方面の大将にでも、任命してもらえるであろう」と、彼は高い望みを持っていた。しかしながら一向に、北条高時が彼を評価してくれる気配も無かった。

その不遇に対する怨みを心中に含み、憤りを抱きながら、貞俊は千剣破城攻めに加わっていた。そういう所へ、千種忠顕(ちぐさただあき)から綸旨でもって、「こちら側に付かないか」との誘いがあったので、5月初めに、貞俊は、千剣破城攻囲陣から逃亡して、京都に来ていた。

ところが、北条一族が皆出家して囚人となった後、北条被官の者らはことごとく、領地を没収され住居から追放され、わずか身一つだに置く場所も無し、という状態になってきた。佐介貞俊もまた、阿波国(あわこく:徳島県)への流罪に処せられた。

今は身辺に召し使いの一人を置く事もままならず、昨日の楽しみは今日の悲しみと変じ、ますますわが身を責める風になり行く日々である。

佐介貞俊 (内心)まったくもって、盛者必衰の理(しょうじゃひっすいのことわり)だよなぁ。それにしても、世の中とはなんと、無情なものなんだろう・・・。

佐介貞俊 (内心)そのうち、時期を見て、出家して、どこかの山の奥にでも、身を隠してしまおう!

このように決意したものの、関東の方の情勢がやはり気になり、尋ね聞いてみると、高時はじめ北条一族以下、一人残らず皆討たれ、妻子従類ともに行方不明になっていると言う。

佐介貞俊 あぁ、こうなっては、誰を頼りにし、何を期待しろというのだ・・・。

見る物聞く物ことごとく悩みの種となり、魂も消えるばかりの思いに、心はふさぐ。

やがて、

 「幕府に奉公していた者は、いったんは命を助からんがため降人となって出てきたとしても、なおも野心を隠し持っているに違いない。ゆえに、ことごとく死刑に処すべし」

との方針が打ち出され、再び、貞俊は捕らわれの身になってしまった。

佐介貞俊 (内心)もはや心弾むような世の中でもないし、わが命を惜しいとも思わないよ。ただなぁ・・・故郷に置いてきた妻子たちの行方も何も分からないまま、死んで行くのが、非常に心残りだ。

貞俊は、長年肌身放さず腰に着けていた短刀を、自分を収容している家の主から乞い受け、刑執行直前称名・担当の僧侶に託した。

佐介貞俊 お坊様、この刀を、故郷の妻子の元へ送り届けて下さい。

僧侶 分かりました。あなたのご家族の行方を尋ねあてて、必ずお届けいたしましょう。

貞俊 あぁ、ありがたい。

貞俊は、敷皮の上に居ずまいを正し、一首の歌を詠んだ後、十称名を声高らかに唱え、静かに首を打たれた。

 同輩の 生存中は お呼び無し 刑の時だけ 私もお仲間

 原文:皆人の 世に有る時は 数ならで 憂きにはもれぬ 我が身也けり

僧侶は、その形見の刀と、最期の時に貞俊が身に着けていた小袖を持って、急ぎ鎌倉へ赴き、彼の奥方を尋ね出し、彼女にそれを渡した。

彼女は、この知らせを聞きながら、ただ涙の中に伏し沈み、悲しみに耐え兼ねる風であったが、側の硯を引き寄せ、形見の小袖の裾に、次のように書き付けた。

 誰に見よと 形見を残した あなたなの すぐに死んでく あたくしなのに

 原文:誰見よと 信(かたみ)を人の 留めけん 堪えて有るべき 命ならぬに

形見の小袖を頭から被るやいなや、彼女は、その刀を胸に突き立て、たちまち息絶えた。

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この他にも、夫婦の固い契り空しく、夫に死に別れた妻は、いやしくも二夫に嫁する事を否んで深い淵瀬に身を投げ、生計の資産無くして子に死に遅れた老母は、わずか1日の食糧を求めかねて自ら谷間に倒れ伏す。

承久の乱よりこの方、北条家が政権を握ってすでに9代、160余年の歳月が経過。その間に、北条一族は天下に広がり、勢威をふるった。

諸官庁の長官、諸国の守護職の位にあった者、全国の中からその名を数えあげれば、800人を越えるであろうか。ましてや、その家々に仕えていた郎従の数は、幾億万人にのぼろうか、とても数えきれないほどである。

それゆえ、六波羅庁はあっけなく陥落したものの、九州庁、さらには鎌倉までをも攻略するには、10年、いや20年もかかるであろうか、まさに、倒幕は至難の事と思われた。

ところが、日本国60余州ことごとく符丁を合わせたかのごとく、各地で一斉に反乱軍が決起、わずか43日の間に、北条家は全滅してしまったのである。まさに、前世の業の報いというべきであろうか、いやはや、まことに不可思議な事という他はない。

愚かなるかな、関東の勇士、久しく天下を保ち、威を遍(あまね)く海内(かいだい)に覆いながらも、国家統治の精神の欠如のゆえに、堅甲利兵(けんこうりへい)も徒(いたずら)に、杖(つえ)と鞭(むち)の為に粉砕され、まばたきする間に滅亡に至った。

驕(おご)れる者は滅び、質実なる者は生きのびる、これこそまさに、古より今の世に至るまで変わらざる、歴史の鉄則である。

この法則に注目する人々に対して、私、すなわち太平記作者は、次のように訴えたい、

「天道は満つるを排除する」という原理を知らずして、厭うべき人間の欲心の中に、溺れていってしまう、それはまさに、迷いの中を行く人生、というべきである。

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