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2017年9月10日 (日)

太平記 現代語訳 12-3 討幕勢力・主要メンバーへの恩賞

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元弘(げんこう)4年春、筑紫(つくし:福岡県)において、北条一族に属する規矩高政(きくたかまさ)と糸田貞義(いとださだよし)が、北条残党と近隣の不満分子らを集めて反乱を起こした。

また、河内国(かわちこく:大阪府東部)でも、賊徒らが佐々目憲法僧正(ささめけんぽうそうじょう)なる者を頭にかつぎ、飯盛山(いいもりやま:和歌山県・紀の川市)に城郭を構えて、決起。

伊予国(いよこく:愛媛県)でも、赤橋宗時(あかはしむねとき)の子息・重時(しげとき)が、立烏帽子峯(たてえぼしがみね:愛媛県北条市)に城を構え、周囲の荘園を占領。

武力だけでは不十分、仏法の力をも頂いて、これらの反乱者らを退治し、その地方を鎮めよう、ということになった。そこでにわかに、御所の中の紫晨殿(ししんでん)に壇をしつらえ、 曼殊院(まんしゅいん:京都市・左京区)の慈厳僧正(じごんそうじょう)が招聘されて、天下安鎮(てんかあんちん)の法が修されることになった。

この法を修するときには、甲冑を帯した武士が御所の四方の門を堅め、上級・下級の大臣たちや近衛府の役人らは階下に陣取る。そして、楽人が音楽を奏ではじめると共に、武士らが紫晨殿の正面庭の左右に列をなして並び立ち、抜刀して四方を鎮め、という風に進行していくのである。

今回の修法においては、その四方の門の警護は、結城親光(ゆうきちかみつ)、楠正成(くすのきまさしげ)、塩治高貞(えんやたかさだ)、名和長年(なわながとし)が担当することになった。

宮殿の正面庭の陣の担当として、右陣は三浦高継(みうらたかつぐ)が、左陣は千葉貞胤(ちばさだたね)が任命されていた。ところがこの両人、いったんはその任に就くことを承知しておきながら、いよいよ実施という段になって、「三浦なんかといっしょに、その任務につくの、やだよ。」と、貞胤は言いだし、高継もまた、「千葉が左の上座で、自分が右の下座なんて、とんでもねぇや!」と怒り出してしまい、両人ともにサボタージュ決行。

このような天魔からの障害により、天下安鎮の法の執行に、手違いが生じてしまった。

後になってから、この事件を振り返ってみるならば、まさにこれこそ、天下に平和が長続きしない事の前兆であったと、言えよう。

とはいいながらも、この修法の効験が現われたのであろうか、飯盛山の城は楠正成によって攻め落とされ、立烏帽子の城は土居(どい)と得能(とくのう)に攻め破られ、筑紫は大友(おおとも)と小弐(しょうに)によって制圧された。反逆者らの首は京都に送られ、市中引き回しの上、獄門にかけられた。

このようにして、関東にも西国(注1)にもようやく平和がもたらされたので、筑紫から、小弐、大友、菊池(きくち)、松浦(まつら)の者らが大船700余隻にて上洛。新田義貞(にったよしさだ)・義助(よしすけ)兄弟も、7,000余騎を率いて上洛。その他の国々の武士らも一人残らずやってきて、京都や白河(しらかわ:京都市・左京区)には人間が充満、都は普段の百倍ほども、にぎわっている。

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(訳者注1)中国地方、四国地方、九州地方。
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諸々の軍勢への恩賞の事は、しばらくさし置くとしても、まずは大きな功績のあった者たちを賞しなければ、ということで、

足利高氏(あしかがたかうじ)に、武蔵(むさし:東京都+埼玉県)、常陸(ひたち:茨城県)、下総(しもふさ:千葉県北部)の3か国が、

高氏の弟・足利直義(あしかがただよし)に、遠江(とうとうみ:静岡県西部)が、

新田義貞に、上野(こうずけ:群馬県)、播磨(はりま:兵庫県南西部)が、

義貞の子・義顕(よしあき)に、越後(えちご:新潟県)が、

義貞の弟・義助に、駿河(するが:静岡県中部)が、

楠正成に、摂津(せっつ:大阪府北部+兵庫県南東部)、河内が、

名和長年に、因幡(いなば:鳥取県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)が、与えられた。

その他、公家や武家の者らに、それぞれ2か国、3か国と与えられたのに、あれほどの功績あった赤松円心(あかまつえんしん)に与えられたのは、佐用荘(さよのしょう)のみ。当初、播磨国守護職が与えられたのだが、程なく、召し上げられてしまったのである。後の建武の乱の時に、円心がにわかに心変わりして、反後醍醐天皇サイドに行ってしまったのは、この恩賞の怨みがあっての事だとか。

その他、50余国の守護職や国司職、国々の北条家旧領、大荘園はことごとく、公家や朝廷の役人たちが拝領することとなり、彼らは、富貴に誇り、衣食に飽く日々を送ることになった。

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