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2017年12月

2017年12月31日 (日)

太平記 現代語訳 19-1 天皇位、持明院統の手中に

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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建武3年6月10日、光厳上皇(こうごんじょうこう)は再び天皇位に返り咲いた。(注1)

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(訳者注1)この記述は、史実に反している。建武3年8月15日、新帝に皇位が継承される儀式が行われたが、この時の新帝は、光明天皇である。
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光厳天皇のこの即位に関しては、「前回の天皇位ご就任の後、3年で天下はひっくり返り、その即位の後押しをした北条高時(ほうじょうたかとき)も滅んでしまっているではないか」ということで、天皇位就任に異論を唱える向きも多かったのである。

公卿A ・・・というわけですからな、やっぱしそれは、まずいんちゃいますかいなぁ。

公卿B わたいもそない思いますわ。やっぱし、まずいですよぉ。

公卿C あのなぁ・・・。

公卿D いやいや、それはこないですわ。

公卿E いやいや、そういう考え方もありましょうが、やはりここは、その、なんですな。

足利尊氏(あしかがたかうじ) ・・・。

公卿A そんなん、あきまへんて!

公卿B あきまへん、あきまへん!

公卿C いやいや、それはそのぉ・・・。

足利尊氏 エヘッ、エヘッ・・・えぇと・・・みなさん・・・。

公卿一同 ・・・。

足利尊氏 えぇっとですねぇ・・・私の考えを、ここで少し申し上げたいのですが・・・。

公卿一同 ・・・(シーン)。

足利尊氏 私が、筑紫(つくし:福岡県)から京都へ攻め上ってきた時・・・私に院宣(いんぜん)を下さったのは、上皇陛下でした。・・・そればかりではない・・・私が京都へ入ってすぐさま、陛下は、我らがたてこもる東寺(とうじ:京都市・南区)においで下さって・・・我らの武威に、大きな重みを加えて下さいました。

公卿一同 ・・・。

足利尊氏 私といたしましては・・・ここは何としてもですねぇ・・・そのご恩に、おこたえせずばなるまいとね・・・こう思うんですよ・・・。

公卿一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・ここはやはり、何をおいても・・・上皇陛下に再び帝位についていただきたいのですがねぇ、私としては・・・ぜひともねぇ。

公卿一同 (うつむいて)・・・(シーン)。

というわけで、様々の異論は完全に消滅してしまった。

これを聞いて、口さがない人々はさっそく、お茶会や酒宴の席でワイワイ言いだした。

人X いやさぁ、あの上皇様ほど運のいい人なんて、いねぇよなぁ。

人Y だよなぁ。権力闘争の一つもしねぇでよ、ただじっと座ったまんまでいたら、足利尊氏から天皇位もらえちゃったんだもんなぁ。(注2)

人Z いやはや、まったくう。ワハハハ・・・。

人々一同 ワハハハ・・・。

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(訳者注2)原文では、「軍(いくさ)の一度をもし給わずして、将軍より王位を給(たまわ)らせ給(たまい)たり」。
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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月30日 (土)

太平記 現代語訳 18-8 玄慧、熱弁をもって、延暦寺を廃絶の危機から救う

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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金崎城が攻め落とされ、諸国の後醍醐(ごだいご)派勢力は希望を失ってしまったのであろう、足利サイドに降参する者あり、本拠地から逃亡する者あり、という状態。かくして、吹く風が草木をなびかせるがごとく、日本国中が足利尊氏(あしかがたかうじ)の命に服することになった。

次なる問題は、延暦寺(えんりゃくじ)に対する処置である。足利尊氏、足利直義(ただよし)を中心に、高家(こうけ)メンバー、上杉家(うえすぎけ)メンバーらも加わっての会議が始まった。

会議参加メンバーA ついこないだまで、先帝派勢力が日本の方々に城を構えてうごめいていた間は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の動向を、とにかく気にする必要がありましたよ。あそこがいったいどのような態度に出てくるのか、いつもヒヤヒヤしながら見てなきゃなりませんでしたねぇ。

会議参加メンバーB あそこの山にいる連中らのご機嫌を損ねちゃぁいけねぇよと、まるで、腫れ物にでも触るような扱いで、その領地もずっと安堵してやってきました。でもね、情勢は一変したんだ! 今や日本国中、将軍さまの武威に服して静まりかえっておりますわ。こうなったらもう、延暦寺を恐れる必要など何もないわけでして・・・どうでしょう、ここらでガーンと方針を改めですねぇ、延暦寺を園城寺(おんじょうじ)の末寺にしちまうってのは?

会議参加メンバーC いやいや、そんなテヌルイことじゃ、とてもとてもぉ・・・。延暦寺が所有してるあの膨大な領地、あれっていったい何ですかねぇ! あんなにたくさんの領地、与えとく必要、ねぇでしょう。

会議参加メンバーD そうですよ! 延暦寺なんか、キレイサッパリ潰しちまやぁいいんだ。比叡山上の堂宇を全て破壊、衆徒は残らず追放、領地はすべて没収して、今回の軍功あった者らに分配、なんてぇの、どうですかねぇ?

このように議論している所へ、京都・北小路(きおこうじ)の玄慧法印(げんえほういん)がやってきた。

高師直(こうのもろなお) おやおや、こりゃぁイイ人がやってきたぞいね。あの人はチョウ(超)博学のメッチャ物知り先生でおられますけんのぉ、こういう事の処置に関しても、それなりの一家言がおありになるんじゃぁねえでしょうか。ちょっくら、ご意見をお聞きしてみたら、いかがざんしょ?

足利尊氏 なるほど・・・法印、どうぞこちらへ。

玄慧 はい。

玄慧は、いずまいを正し、尊氏に対して天下平定の祝賀を述べた。それから、様々の話題に及んだのであったが、

上杉重能(うえすぎしげよし) ところで、法印殿、ちょっとご意見をお聞かせ願えれば、と思う事があるのですが。

玄慧 いったいどないな事ですかいなぁ。

上杉重能 他でもない、あの延暦寺に対する処置の事なんですよ・・・。いやはやまったく、あそこの寺の連中ときたら、実に困ったもんでして・・・。過去に二度も先帝陛下の逃亡を受け入れ、将軍様に対して敵対の他余念なく、といったカンジでしてねぇ。でもまぁ、彼らの抵抗も空しく・・・ま、こう言っちゃなんだが、我等の運が天命に叶っていたという事でしょうかねぇ、朝廷の敵は一度に滅び、日本全国このように、太平の世となりました。

玄慧 ・・・。

上杉重能 そもそも延暦寺という寺、日本の国家にとっては、まことに大きな費(つい)えになっています。毎年の祭礼には京都中の人間が駆り出されるし、多くの衆徒を養うために日本国中に膨大な荘園を領有している。まさに、「日本国の金食い虫」。なのに、朝廷も鎌倉幕府も過去、これに全く手をつけようとしなかった。それはいったいなぜかといえば、ただひとえに、天下の静謐(せいひつ)を延暦寺に祈祷してもらうため。

玄慧 ・・・。

上杉重能 しかし、今や延暦寺は、ただ単に「金食い虫」と言うだけではとてもすまない存在になってしまった。彼らは将軍様に対して怨みを懐き、朝廷の敵らの為に祈りをささげているではないか! まさに足利家にとっては害虫、仏教にとっても弊害多き存在としか、言いようがない!

上杉重能 聞くところによれば、延暦寺の草創(そうそう)は延暦年間、恒武天皇(かんむてんのう)の御世(みよ)の時とか。さて、それより以前の時代、すなわち延暦寺が存在しない時、日本の状況はいったいどうであったかといえば、聖主(せいしゅ:注1)国を治めること相続して50代。その間、外国からの侵略を受けたことは一度も無く、妖怪に悩まされた事も一切無し。代々の天皇は多大なる徳を施し、人民はみなその徳化に浴してきた。このように考えてみるならば、延暦寺が創れらた結果、日本はみちがえるように良くなった、という事でもなさそうだ。延暦寺の存在とは全く無関係に、日本にはずっと良い時代が続いてきたのであります。

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(訳者注1)天皇のこと。
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上杉重能 ようはですね、私が言いたいのは、延暦寺なんてのは、社会にとっては全く何の役にも立たない存在であるってことです。延暦寺の衆徒なんか一人もいなくっなったって、日本にとっては何ら、さしつかえないって事なんですよ。

上杉重能 玄慧殿、あなたはどう思われます? 延暦寺が日本にとって無くてはならない存在であるって事の根拠、何か示すことできます? 白河上皇(しらかわじょうこう)は、「自分の意のままにできないもの、その一はスグロクの目、その二は鴨川の水、そして三つめが比叡山延暦寺の連中ら」とおっしゃったそうだが・・・いったいどうしてそんなに延暦寺に遠慮されたのかなぁ、私にはさっぱり分からない。

玄慧 ・・・。

上杉重能 さぁ、あなたのご意見をどうぞ。後学の為に、ここはじっくりとお聞きしておきたいですねぇ。

玄慧 (内心)なんやて! 延暦寺を潰してしまう? まったくもう、なんちゅう事を・・・言語道断! もう何も言わんと、耳ふさいで帰ってしもたろか・・・。いや、待てよ、ここで私が一言弁じることによって、この人らの誤りをただすことができるかもしれんな。

玄慧は、重能に直接反論するのではなく、遠回しに長物語を始めた。

玄慧 ちょっと長い話になりますが・・・。

上杉重能 どうぞどうぞ。

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玄慧 我が日本国の始まりについては、各家に伝わってる話がいろいろとありまして、諸説紛紛(しょせつふんぷん)状態ではありますが・・・その中の一説に、こうあります。

会議参加メンバー一同 ・・・。

玄慧 天と地とが二つに分かれた後、想像もできひんほどの年月の経過の後、迦葉(かしょう)如来という仏様が西天に出現されました。その時、かの大聖釈尊(だいしょうしゃくそん)は、「遠い未来の世に、あなたは必ず仏となるであろう」との保証をその迦葉如来から頂かれたのですが、未だ人間界には現われず、都率(トソツ)天に住んでおられました。

玄慧 その時、釈尊は考えられました。

 「この先、私は人間界に生まれ、やがては悟りを開き、そして、涅槃(ねはん)に入るであろう。その後に、私が人間界に遺した教えを流布(るふ)させるべき地、それはいったいどこがよいだろうか? その地はいったいどこにある?」

玄慧 そこで釈尊は、シュミ山(せん)の南方の世界をあまねく飛行して、その地を探索しようとされました。

玄慧 すると、浪々たる大海の上に、変わった波音を立てる場所がありました。その波の音はまさしく、

 一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう) 如来常住無有変易(にょらいじょうじゅうむうへんやく)(注2)

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(訳者注2) [大般涅槃経 獅子吼菩薩品]の中にある言葉。
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玄慧 これを聞いて、釈尊は考えられました、

 「この波が流れて行って最後に止まる所、やがてはそこに、一つの国家が誕生するであろう。その地こそは、私の教法(きょうぼう)が広く宣布(せんぷ)されるべき霊地である。」

玄慧 釈尊は、その波を追尾しながら、はるか10万里の大海原を飛行していかれました。

玄慧 やがて、波は、ある所で停滞しました。そこには、一葉の葦が海上に浮かんでおりました。

玄慧 長い長い年月の経過の後、はたせるかな、その葦の葉は、一つの島へと成長を遂げました。現在の比叡山の麓、大宮権現(おおみやごんげん)が鎮座まします波止土濃(はしどの)がそれなんですなぁ。そのようないわれがあるゆえに、そこの地名を、「波止土濃」、すなわち、「波止まって土濃(こまやか)」と書くんですわ。

玄慧 それからまたさらに、長い長い歳月が過ぎまして・・・ついに釈尊は、インド北部・カピラヴァストゥのŚuddhodana(シュッドーダナ)王の家中に、王子として誕生。そして、19才にして2月8日の夜半、王宮を出奔(しゅっぽん)。それからは、ヒマラヤ山中に身を投じて6年間の難行苦行(なんぎょうくぎょう)、さらには菩提樹(ぼだいじゅ)下に端座(たんざ)したまうこと6年間、12月8日の夜半、ついに悟りを開かれました。

玄慧 悟りを開かれてより後、 [華厳経](けごんきょう)を説かれること21日間、次に、[āgama](アーガマ)、すなわち、[阿含経](あごんきょう)を12年間、さらには方等経(ほうとうきょう)を30年、 Saddharma Puṇḍarīka Sūtra(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)、すなわち、[法華経](ほけきょう)を8年間。そしてついに、バッダイ河のほとり、シャラ双樹の下で、般涅槃(はつねはん)。

玄慧 しかしながら、仏とは、常住不変の存在にして、身体は滅したとて、その本体は依然として存在す。その昔、人間世界に遺した教えを流布せんとして定められた、あの葦の葉があった所に行ってみられました。

玄慧 その葦の葉はすでに、日本列島へと成長を遂げていた。その時に日本を治めていたのは、ウノハズノフキアワセノミコト、すなわち神武天皇のおん父君。その国の人々は、仏教の事など、一切何も聞いた事がない。しかし、この列島は大日如来(だいにちにょらい)の本国、仏教東伝の霊地。そのどこかに、衆生を教化救済(きょうげきゅうさい)する拠点を定めんとして、釈尊は、あちらこちらと遍歴なさいました。

玄慧 やがて釈尊は、比叡山の麓、志賀(しが)の浦(滋賀県・大津市)で、一人の釣りをする老人に出会われました。

玄慧 釈尊は老人に問われた、

 「ご老人よ、あなたはもしかして、この地の主か? もしそうであるならば、この山を私に、与えてはくださらぬか。ここを結界(けっかい:注3)して、仏法弘通(ぶっぽうこうつう)の根拠地としたいのだ」。

老人、それに答えていわく、

 「我は、遠い遠い過去の昔より、この地の主であった。この湖が一面の葦の原に変わるのを7度も見てきたのだよ。この地があなたによって結界されてしまったら、我はいったいどこで、釣りをすればよいのだ? 釈尊よ、速やかにここを立ち去られよ、どこか他所に、結界の場を求められよ。」

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(訳者注3)結界:Sīmābandha。諸魔の障難を払わんが為に、印明の法(一種の作法)によって制定する道場の界区をいう。これ密教において用いらるる法で、主として道場を護り浄むるをその趣意とする。(「仏教辞典」大文館書店刊より)
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玄慧 この老人の正体、実は、白髭明神(しらひげみょうじん)やったんですなぁ・・・。と、いうわけで仕方なく、釈尊は、寂光土(じゃっこうど)世界に帰ろうとされた。

玄慧 するとそこに、東方浄瑠璃世界(とうほうじょうるりせかい)の主・薬師如来(やくしにょらい)が忽然と現れてました。

釈尊は、大いに歓喜し、老人から言われた事を、薬師如来に告げた。すると、薬師如来は、

 「この地を、仏法弘通の根拠地に? それは良い。どうぞ、この地に、仏法を広めなさい。」

 「私は、あの老人よりもずっと前から、この地の主であった。あの老人が、私のことを知らないだけなのだ。私がこの山を惜しむはずがあろうか、喜んで、この地をあなたに進呈しましょう。」

 「やがて、仏教がインドから東方の世界に伝えられる時が来る。その時、釈尊、あなたは、仏教を世界に広める大師(だいし)となって、この山に寺を建てなさい。私はこの山の王となり、末法(まっぽう)の世の末までも、仏教を守るでありましょう。」

このように、薬師如来は釈尊に誓約され、その後、二仏は東西に帰っていかれました。

玄慧 はたしてそれから1800年の後、釈尊は、伝教大師・最澄(でんぎょうだいし・さいちょう)として、再びこの世に生を受けられました。

玄慧 延暦23年、伝教大師は仏法を求めるために、中国へ渡航、たちどころに、顕教・密教の全てを修め、ありとあらゆる律(りつ)、経(きょう)、論(ろん)を究めた後、延暦24年に帰国。そして、恒武天皇(かんむてんのう)の後援のもとに、比叡山延暦寺を開創されました。

玄慧 天皇の命を受けて、大師が根本中堂(こんぽんちゅうどう)を建てようと、敷地にナワを引いておられたところ、なんと、炎のように真っ赤な人間の舌が一つ、地中で法華経を読み続けているではないか。

玄慧 大師は、問われた、

 「おまえはいったい、何もの?」

すると、舌は答えた、

 「我は、過去にこの山に住し、法華経6万回読誦(どくじゅ)せり。寿命には限りがあるゆえに、身体はすでに滅びてしまったが、舌だけはなおも残って、法華経を読み続けておる。」

玄慧 根本中堂の建立を終え、そこにおまつりする本尊を大師が自ら彫っておられた際には、一度斧を下して、「像法転時 利益衆生 故号薬師 瑠璃光仏」と唱えて礼拝されると、木造の薬師如来像が大師に向かって深くうなづかれた、という話も伝わっております。

玄慧 その後、大師は、小比叡(こひえい)の峯に杉の庵を建て、しばらくそこに一人でこもられました。

玄慧 ある日、次のような歌を詠まれました。

 日の本の 小比叡(こひえ)の杉の 独居(ひとりい)は 嵐も寒し 問う人もなし

 (原文)波母山(はもやま)や 小比叡の杉の 独居は 嵐も寒し 問う人もなし

それから大師は、深い深い精神集中に入っていかれました・・・。

すると、光輝く3つの火の玉が、天からそこに降りてきた。それぞれの光の中に、釈迦、薬師、阿弥陀の三如来が並び立っておられる。やがて、その三尊は、あるいは僧形(そうぎょう)に変化(へんげ)し、あるいは俗人の姿に変化していった。そして、大師を礼してのたまわく、

 「十方世界の大菩薩である貴方は、衆生をあわれむがゆえに道を行じられる。我ら、恭しく貴方を敬いたてまつるものなり。貴方こそは我等の大師である」。

大師は、大いに礼敬(らいきょう)し、

 「どうか、諸尊方の御名を、お教えくださいませ。」

三尊、答えていわく

 「タテの3点にヨコの1点を加え、ヨコの3点にタテの1点を添える。内には天台宗の教法を護らんがため、外には衆生済度(しゅじょうさいど)の方便を助けんがため、我等はこの山に降り立った。」

その光が天まで照らすこと、あたかも磨き上げた鏡のごとくでありました。

玄慧 大師はさっそく、三尊から発せられたその言葉を、文字に書いてみられました。

 「タテの3点にヨコの1点を加え」・・・"|||" + "_" = "山"

 「ヨコの3点にタテの1点を添える」・・・"三" + "|" = "王"

「山」は、高大にして不動。「王」は、天と地と人との働きを縦横に繋ぎ合わせる徳を象徴。

ゆえに、大師は、その三尊を、「山王(さんのう)」と呼んで崇めたつまることにされました。

玄慧 この「山王」の他にも、比叡山延暦寺には、様々な神々がおまつりされてましてな、

まずは、大宮権現(おおみやごんげん)。これは、遠い過去に成仏された仏さまの化身であるところのアマテラスオオミカミのそのまた化身にして、天台宗を護り続けながら久しく比叡山に鎮座まします。ゆえに、「法宿大菩薩(ほっしゅくだいぼさつ)」とも申し上げる。ようは、釈迦如来の化身であらせられます。

次に、聖真子(しょうしんじ)。これは極楽浄土の主にして八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の化身。四明嶽(しめいだけ)の麓に武威の光やわらげ、大宮、二宮(にのみや)とともに三身を顕わしたもう。十悪を犯した極悪人さえをも、容易に仏法の中へ導かれること、あたかも疾風が雲霧(うんむ)を払うがごとし。衆生のたった一念に対しても感応されるその様は、まさに大海に露を入れるがごとし。人間に結縁して我等の世界に交わり、生死の苦しみより我等を離脱せしめて、菩提を得さしめたまいます。

二宮(にのみや)こそは、かの大聖釈尊と誓約をなしたる東方浄瑠璃世界の薬師如来の化身にして、わが日本列島・秋津島(あきつしま)の地主。いずこにあろうとも、人の願いをかなえてくださる。現世の安穏を望む人間の願い、死後の西方浄土へ至らんとの望み、ありとあらゆる願望をかなえて下さり、後生菩提(ごしょうぼだい)の指南(しなん)をしてくださる。

八王子(はちおうじ)は、千手観音(せんじゅかんのん)の分身。けがれなき精神集中の力をもって、地獄の業苦をも救いたもう。仏から教えを授けられ、仏弟子となった王子の生まれ変わった姿ゆえに、大八王子と呼ぶ。その本体は極楽浄土に住するも、その影のごとき分身は、比叡山麓の社に鎮座まします。その境内はまさしく、仏や菩薩の住する浄土を表徴、大海中の観音宮殿にもたとえられるべきか。

客人宮(きゃくじんのみや)は、十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)の化身。これはもともと、白山(はくさん:石川県と岐阜県の県境)に住まう霊神であったが、山王の働きを助けんがため、北陸の峯を出でて、日吉山王神社にやって来られたもの。ゆえに、客人と呼ぶ。現世においては十種類の利益を与え、臨終の際には、その人を極楽浄土へと導きたもう。

十禅宮(じゅうぜんのみや)は、仏無き世界の救主・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の化身。地蔵菩薩さまは、釈尊に後を託されて忉利天(とうりてん)におわします。釈尊入滅後、弥勒(みろく)仏誕生までの仏無き世界において、人々を救済へと導かれる。まさに、釈尊、弥勒仏、そして地蔵菩薩、三身協力のお働き。十禅宮のたまわく、「延暦寺の衆徒らを養って我が子となし、法華経を守って我が命となす」。たとえわずかな結縁であろうとも、その利益は莫大なり。

三宮(さんのみや)は、普賢延命菩薩(ふげんえんめいぼさつ)の化身にして、法華経の本質。法華経を読む者の窓辺に来たりて、彼を哀み受けいれたもう。まさに慙愧懺悔(ざんぎざんげ)の聖主。六根(ろっこん)の罪業を持つ我ら、これを仰ぎたてまつらずにはおらりょうか。

玄慧 さらには、中七社(なかのななしゃ)。ここに祭られる神々もまた、様々な仏や護法神の化身ですぞ。牛の御子(うしのみこ)は大威徳明王(だいいとくみょうおう)、大行事(だいぎょうじ)は毘沙門(びしゃもん)すなわち、多聞天(たもんてん)、早尾社(はやおしゃ)は不動明王(ふどうみょうおう)、気比社(けひしゃ)は聖観音(しょうかんのん)、下八王子社は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)、王子の宮は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、聖女(しょうにょ)社は如意輪観音(にょいりんかんのん)。

玄慧 次に下七社。小禅師(しょうぜんじ)は弥勒菩薩、悪王子(あくおうじ)は愛染明王(あいぜんみょうおう)、新行事(しんぎょうじ)は吉祥天(きっしょうてん)、岩瀧(いわたき)は弁才天(べざいてん)、山末(やまずえ)は摩利支天(まりしてん)、剣宮(つるぎのみや)は不動明王、大宮の竈(おおみやのへっつい)殿は大日如来(だいにちにょらい)、聖真子竈(しょうしんじのへっつい)殿は金剛界(こんごうかい)の大日如来、二宮竈(にもみやのへっつい)殿は、日光(にっこう)・月光(がっこう)の二菩薩が衆生の苦しみを救わんと、大悲(だいひ)の門を出で、衆生利益の道に赴きたもうたもの。

玄慧 このように、伝教大師の衆生救済の活動を助けるために、十方から菩薩がやってこられて、八王子、客人、十禅師、三宮の4か所に居を定められ、さらには霊神もやってこられて、日吉山王、上、中、下の合計21社がその周囲をかためておられるのです。それぞれの神々の救いを現されるその様、百千ゴウの長い時間をもって長広舌をもってしても、とても語り尽くせるものではありません。

玄慧 このような数多くの神仏の守護したもう世界の中に、戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学を象徴して三つの塔が立ち、多くの衆徒が修行に励んでおるのです。

玄慧 比叡山上からは、十二の願をかけられた薬師如来が、世界をじっと観察しておられます。わが日本の国家が治まるも乱れるも、この如来の感応次第。さらには、日吉山王七社に鎮座まします多くの神々、国家の吉兆はすべて、これらの神々のお心一つ。そやからこそ、朝廷に事ある時には、これを祈って災いを除き、福を招かんとする。そのような延暦寺を大事と思うからこそ、あちらから何か訴えてきた時には、朝廷は、無理な要求をも道理として、受け入れてこられたのです。

玄慧 たしかに過去2度にもわたって、延暦寺が先帝陛下を迎え入れた事、それは、衆徒たちの心得違いといえましょう。しかしながら、「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふところ)に入る時には、狩人(かりうど)もこれを哀れみて殺さず」。ましてや、他ならぬ天皇陛下が頼ってこられるとあっては、誰がそれを拒絶することがありましょうか。

玄慧 先帝陛下に志を同じくした者らが、未だに延暦寺に残っておって、依然として、ご当家に対して敵愾心を燃やしているとしても、ご当家におかれましては、恨みを捨てて彼らに厚く恩を施し、徳を施していかれたならば、やがては、衆徒たちの気持ちも変わってくるのではないでしょうか。

玄慧 ご当家の敵対勢力の盛運を祈る祈りは、やがては、ご当家の命運、どうか盛大となりますように、との祈りへと変わり、朝敵をひいきする心も、いつかは失せていくことでしょう。そしてご当家に対して、二心なき忠節を尽くすようになっていくことでしょう。

このように、仏教や仏教以外の諸説を根拠にして明快に論じる玄慧の熱弁に、足利尊氏、足利直義、高、上杉、頭人(とうにん:注4)、評定衆(ひょうじょうしゅう:注5)に至るまで、「やはり延暦寺なくしては、天下は治まるまい」と納得、すぐに領地安堵の決定を下した上に、さらに多くの領地を延暦寺に寄進した。

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(訳者注4)引付頭人(ひきつけとうにん)の略。引付衆主席。「引付」とは記録を指し、「引付衆」は訴訟の審理や記録を司った。

(訳者注5)幕府の様々な会議に参加し、議決に加わる役。
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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年12月29日 (金)

太平記 現代語訳 18-7 尊良親王と奥方の悲しい運命

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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夜明け頃、甲楽(かぶらき:福井県・南条郡・南越前町)の海岸から、「皇太子・恒良(つねよし)親王殿下が、こちらにおわします」との知らせが届いた。

さっそく、島津忠治(しまづただはる)が急行し、皇太子の身柄を拘束した。

その後、足利側は、金崎にて討死あるいは自害の新田軍メンバーらの首151個を並べて検分した。

足利軍リーダーA おっかしいなぁ・・・新田一族の首、いやに少ねぇじゃん。

足利軍リーダーB ほんとやなぁ。新田義顕(にったよしあき)と里見時義(さとみときよし)二人の首しかない。かんじんの新田義貞(にったよしさだ)と脇屋義助(わきやよしすけ)の首、ないがね。

足利軍リーダーC どっか、そのあたりの海底にでも、沈んどるんでは?

足利軍リーダーD 海士(あま)に潜らせて、捜索してみるかい。

しかし、新田一族の首は一向に見つからない。

斯波高経(しばたかつね)は、恒良親王の前に行き、問いただした。

斯波高経 新田義貞と脇屋義助の死骸、どこにも見当たりません。どうしてでしょうかねぇ?

恒良親王は、幼いながらも、

恒良親王 (内心)二人が今は杣山城にいることをこいつらに知られてもたら、すぐに、あっちへ押し寄せていくやろうな。

恒良親王 義貞と義助の二人はな、昨日の暮れ方に自害してしもぉたわ。部下の者らが、陣中で火葬にしたとかいううわさや。

斯波高経 なるほど、ドウリで死骸が見つからないわけだ。

このようなわけで、足利サイドは、二人の捜索をあきらめてしまった。

足利軍リーダーA 杣山城は、どうしましょうかねぇ?

斯波高経 大した敵がこもっているわけでもなし、そのうち、降伏して出てくるだろう。しばらく放っておこう。

我執(がしゅう)と欲念に支配されて、互いに敵対心を燃やす人間たちも、やがては「死」という名前の無常の鬼に出会い、ついには地獄の呵責に苦しむ事になるのである。あぁ、なんと哀れにも愚かなる事であろうか。

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新田義顕と新田一族3人の他、主要メンバーの首7つを携え、恒良親王を張輿に乗せて、足利軍一同、京都へ凱旋となった。足利軍のリーダーたち、意気揚々の晴れ姿である。

新田義顕の首は、京都の大路を引き回しの上、さらし首にされたが、この処置については、様々の反対意見があった。

意見を発する人E 天皇が即位されてから3年間は、国中どこでも刑を執行しない、というのが、従来からの慣例ですやんか。

意見を発する人F そうですわ、そうですわ。天皇陛下の鴨河原での禊(みそぎ)やご即位後初の新嘗祭(にいなめさい)もまだやという時に、市中に首を引き回すやなんてぇ・・・。

意見を発する人G ほんまにそうですよ。あの先帝陛下の時の、悪しき例をよぉ考えてみとくれやっしゃ! 鎌倉幕府を倒して天皇位に還り咲かはった後に、いの一番にしはった事はといえば、規矩高政(きくたかまさ)と糸田貞吉(いとださだよし)の首を市中引き回し。あんな事しはったから、政権の座から滑り落ちんならんようになってしもたんですわ。そやからねぇ、天皇のご即位後間もなく、首を引き回しにするなんちゅうのは、不吉極まる行為ですよ。

意見を発する人H あのねぇ! みなさんは、あれをいったい誰の首だとお思いなんでしょう?! 他ならぬ朝敵のトップリーダー、新田義貞の長男・義顕の首なんですよ! 市中引き回しの上、獄門、それが、当然の処置でしょう!

意見を発する人一同 ・・・。

というわけで、彼の首は、市中引き回しになったのである。

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恒良親王に対する足利側の処置は厳しかった。京都への帰還の後、牢屋同然の御座所が建てられ、親王はそこに幽閉されてしまった。

新田義顕と共に自害した尊良親王(たかよししんのう)の首は、禅林寺(ぜんりんじ:注1)の住職・夢窓国師(むそうこくし:注2)のもとへ送られ、夢窓が葬礼の儀式を執り行った。

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(訳者注1)永観堂(京都市・左京区)。

(訳者注2)足利兄弟の精神的な師としての役割を果たした高僧・夢窓疎石(むそうそせき)。
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尊良親王の奥方の嘆きに関しては、何とも表現のしようがない。この方とめでたくゴールインするまでの尊良親王の心労を思えば、哀れの思いひとしおである。

尊良親王は元服の後、その成長とともにどんどん才覚を現されるようになり、容貌の点においても人並み外れたものがあった。「尊良親王こそは次期皇太子!」と、みな期待に胸躍らせていた。しかし、鎌倉幕府の差しがねにより、後二条院の長子・邦良親王(くによししんのう)が皇太子に就任。尊良親王に仕えていた人々はみな望みを失い、親王自身も世の中真っ暗になってしまった。それからというものは、詩歌に明け暮れ、風流に心運ぶしか他にない毎日。

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(訳者注3)[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の巻十八の補注七、および、[新編 日本古典文学全集55 太平記2 長谷川端 校注・訳 小学館]の注によれば、これ以降にに記されている話は、明らかに史実ではない、とのことである。
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尊良親王側近の者I あぁ、殿下、お気の毒やなぁ。文学や音楽の会をいくら催してみても、あんまり喜んでくれはらへんなぁ。

側近の者J 皇族とか摂政関白家とかに、誰かえぇお嬢さん、いはらへんかいなぁ。その娘とネンゴロな仲にでもならはったら、お心も少しは慰まるやろうに。

側近の者K いやな、わしも殿下に、しつこぉ言うたげてんねんわ、「殿下、はよ、どっかのエエコと仲良うなんなはれぇ」てなぁ。

側近の者I で、どないやのん、殿下?

側近の者K あかん・・・殿下のお気にめすような娘は、この世のどこにもおらんみたいや。「これは!」っちゅうような浮いた事もなぁんも無し。未だに独りぼっちや。

ある日、左大臣・鷹司冬教(たかつかさふゆのり)の家で、若手の公卿や殿上人らが多数集まって絵合わせ(注4)をやっていた。

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(訳者注4)左右の組に別れ、順番に絵を出しあって優劣を競う、という遊び。
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洞院公賢(とういんきんかた) よし、この絵はどうや!

公卿L おぁ、これは、源氏物語の例のあのシーンの絵!

公卿M これにある宇治八宮(うじはちのみや)の令嬢、桧(ひのき)の柱の陰に隠れながら、琵琶を奏でし時。

公卿N その時まさに、月を覆いし雲、にわかに切れ、月光明々と夜空に輝く。

公卿O 月さん、どうぞこちらにいらっしゃい。

公卿P しかれど、招きたくとも、扇は無し。

公卿L ならば、この手に持つ琵琶の撥(ばち)もて、招いて見んか。

公卿M 撥を掲げて月を見上ぐる、その乙女の顔の美しさ。

公卿N 匂いこぼれんばかりの、花のようなその美貌。

公卿O その一瞬を、見事に描き切ったこの絵。

公卿一同 すばらしいー!

尊良親王 ・・・。

公卿M ・・・殿下、殿下・・・。

尊良親王 ・・・。

公卿N 殿下、いったいどないしはりましたんや、そないに真剣に絵を睨んで・・・。

尊良親王 ・・・洞院殿!

洞院公賢 ハァ!(ビックリ)

尊良親王 この絵をしばらくの間、私に貸して下さい!

洞院公賢 はぁ・・・まぁ、よろしですけどぉ・・・。

それからというもの、親王は毎日、その絵を巻いては開き、開いては巻き、じっとながめ続ける。

尊良親王 あぁ、この絵の中の女人、なんと美しい人なんやろう・・・。

尊良親王 こんな女性が、自分の側にいてくれたらなぁ。

尊良親王 あぁ、この娘といっしょになりたい。

尊良親王 とは言うてもな・・・絵の中に入っていくわけにもいかんし・・・。

尊良親王 あぁ・・・あぁ・・・この絵、見れば見るほど、つらくなってくるーッ!

側近の者I (ヒソヒソ声で)おいおい、えらい事になってしもぉたがな。

側近の者J (ヒソヒソ声で)殿下、絵の中の女人に恋をしてしまわはったんかいなぁ。

側近の者K (ヒソヒソ声で)まいったなぁ。

尊良親王 昔、中国の前漢王朝の時にな、孝武帝(こうぶてい)の最愛の李夫人(りふじん)は、甘泉殿(かんせんでん)にて病の床に伏し、ついに亡くなってしもぉた。孝武帝は、悲しみに絶えられず、死者の霊魂を呼び戻す力があるという返魂香(へんごんこう)というお香を焚いた。

側近の者K で、その結果は、どないでしたんや?

尊良親王 香から立ち上る煙の中に、まぎれもなく現れたるは、李夫人の面影。孝武帝は、すぐに絵師を呼んで、その面影を写生させた。

側近の者K ・・・。

尊良親王 しかし、孝武帝はいわく、「彼女の絵をいくら眺めていてもなぁ、ものも言わん、笑うてもくれん・・・眺めれば眺めるほど、わしの愁いは増すばかりや。」。孝武帝のその気持ち、今の私にはよぉ分かる。

側近の者一同 ・・・。

尊良親王 まったくもって、我ながら、どうしようもない迷いの心に取り付かれてしもうたもんやなぁ・・・生きている美女を見てさえも、「いやいや、世のすべては無常なんや、目の前の美女もまたしかり、夢の中で逢ったようなものと思え」と思惟して、それに執着したらあかんのや。そやのにな、よりにもよって、現実に存在せぇへん絵の中の美女に恋してしまうとは・・・ほんまにもう、なんちゅうこっちゃぁ!

側近の者I 殿下・・・。

尊良親王 古今集(こきんしゅう)の序文の中でな、紀貫之(きのつらゆき)が僧正遍照(そうじょうへんじょう)の和歌を、こない言うて批評してるやろ、「歌の形式という点では優れてはいるのやけど、歌の中に込められてる真実っちゅうもんが、イマイチ足りひんのんとちゃうやろか。たとえて言うならば、絵に描かれた女を見て徒に心を動かしているようなもん、とでも言ったらえぇんやろかねぇ」・・・(ハァー 溜息)まったくなぁ・・・「絵に描かれた女を見て徒に心を動かしている」・・・よぉ言うたぁ・・・まさに、今の私の姿そのものやんか。

側近の者一同 ・・・。

尊良親王 いつまでも、こないな事してられへんわ、この絵の中の女、さっさとあきらめよう!

とは言うものの、そうそう簡単にあきらめ切れるものではない。絵の中の彼女への恋ゆえの苦しみが胸中に満ち満ちて、親王は毎日、もの想いにふけるばかり。

側近の者I ほんまにもう、困ったもんやなぁ。キレイな女の子やったら、世間にいくらでもおるやないかい。

側近の者J いやな、そないなコら見はっても、殿下は、なぁ(何)も関心、示さはらへんねんやんかぁ。

側近の者K 今まで何かと親しいしてた女性らとは、いったい、どうなってんねん?

側近の者J 最近は、そないなコらとも、接触される事、完全にの(無)うなってしもぉたなぁ。

側近の者I この世のどこかに実際に生きてる美女のうわさを聞かはってやで、それに心惹かれてはる、いうんやったら、何とでもやりようがあんねんけどなぁ。簾から吹き込む風のように、その女性の室へ忍び入ることかて、できるやろうに。

側近の者J どこかでキレイな女性の姿をちらりと垣間見た、とでも言うんやったら、よかったんやけどなぁ。

側近の者K たとえ水の泡と消えてしまおうとも、寄る瀬の無きにしもあらず、てかいな。

側近の者K 実際に見た美女でもなし、うわさに聞いた美女でもなし、昔書かれたフィクションの物語、想像で描かれた筆の跡に、恋してしもぉたっちゅうねんからなぁ、もうこら、どうしようもないでぇ。

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尊良親王 (内心)あぁ、悩ましい・・・どっか、気晴らしに行ってみよかいなぁ。

親王は車に乗り、下鴨神社(しもがもじんじゃ:左京区)へ詣でた。

境内の御手洗川(みたらしがわ)で手を清めた後、川べりをぶらぶらと歩いてみた。

尊良親王 (内心)伊勢物語に、存原業平(ありわらのなりひら)のこんな歌があったなぁ、

 恋せじと 御手洗河に せしみそぎ 神はうけずも なりにけるかな

尊良親王 御手洗の 流れに深く 祈り込む しょせん神には 届きはしないが

(原文)祈る共(とも) 神やはうけん 影をのみ 御(み=見)手洗河(たらしがわ)の 深き思(おもい)を

尊良親王 あっ、にわか雨、降りだした。

お付きの者 殿下、こちらの木の下で、しばらく雨宿りを。

間もなく雨は上がった。

尊良親王 袖が、びしょびしょになってしもた。

お付きの者 もう日も暮れましたから、そろそろ帰りましょかいな。

尊良親王 そやなぁ・・・。

一条大路を西へ車を走らせていく途中、一軒の屋敷が親王の目に止まった。垣根には苔むし、瓦には松が生えていて、久しく荒れたままになっているようである。そのさびしげな館の中から、撥(ばち)の音も気高く、琵琶の音が響いている。

尊良親王 (内心)誰かが、青海波(せいかいは)を弾いてるわ・・・あれはいったい誰の館やろう? いったい誰が弾いてんねんやろう?

垣根の側に車を止めて、親王は中を覗いて見た。

尊良親王 あぁっ!

御簾を高く巻き上げた館の中には、年の頃16ほどの一人の女人が・・・外から覗き見している男がいる事にも気づかずに、暮れゆく空の時雨雲(しぐれぐも)の晴れ間に、ひっそりと姿を現した月を眺め、去りゆく秋を惜しみながら、琵琶を弾ずる絶世の美女一人。

一曲、また一曲、鉄で珊瑚(サンゴ)を砕くかのようなその音色。玉盤に氷をそそぐかのようなその歌声。琵琶の音と美女の声は、庭の落ち葉に沈潜し、親王の耳中に交錯する。

いつしか、親王は涙ぐんでいた。

尊良親王 (内心)あぁ、ついに見つけたぞ! 今、私の目の前にいるあの娘、長いこと恋焦れ、せめて夢の中でも会えたらと思い続けてきた、あの絵の中の美女にそっくり・・・いや・・・。

親王は、館の中の女性を凝視した。

尊良親王 (内心)いやいや、絵の中のあの美女よりも、あそこにいる彼女の方が、もっと美しい! あぁ、ついに出会えたんやぁ!

もはや心ここにあらず、自分がどこかへ飛んで行ってしまったような気分。車から下りて築山の松の木陰に寄ってみた。

尊良親王 (内心)しまった、気づかれてもたか。

覗き見を嫌ってか、彼女は、琵琶を几帳(きちょう)の傍らに置き、室内へ引きこもろうとしている。裳すそを引きながら中に入っていく姿を見て、親王は、

尊良親王 (内心)あぁ、もう一度、表に出てきてくれ、もう一度・・・。

ほのかな期待を懐きながら、なおも館の周囲をうろついてみたが、ついに、侍たちが格子戸を閉めはじたようである。

やがて、館はひっそりと静まりかえってしまった。

尊良親王 いつまでも、ここでウロウロしてても、しゃぁない、帰るとするか・・・心残りやけどなぁ・・・。

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絵の中の女性でさえも、あのように心悩ましたのである。ましてや、実在の女性に遭ってしまったとあっては、この先いったい、どうしていったらよいものか・・・悩みは更に深まった。尊良親王はもうすっかり思いつめてしまっている。しかしさすがに、その思いを言葉に出しては言えない。

ここに、親王の詩歌管弦仲間で親しく交際している二条為冬(にじょうためふゆ)という者あり。彼は親王にいわく、

二条為冬 殿下ぁ。(ニヤニヤ)

尊良親王 なんや?

二条為冬 あれはいつの事でしたかいなぁ、下鴨神社へ行ったんは。あの帰り道に見上げた宵の月、幽玄なる美しさに輝いておりましたですねぇ。

尊良親王 ・・・。

二条為冬 あのね、殿下・・・フフフ・・・もう一度、あの月をご覧になりたいんやったらね、それはいと、たやすい事ですよぉ。

尊良親王 為冬!

二条為冬 あの娘(こ)はいったい、どこの誰かなぁと思ぉてね、私、調べてみたんですわ。

尊良親王 ・・・(両手を握りしめる)

二条為冬 あの娘はねぇ・・・フフフ。

尊良親王 どこの誰や!

二条為冬 今出川公顕(いまでがわきんあき)殿のご令嬢ですわ。徳大寺公清(とくだいじきんきよ)と既に婚約を交わした仲らしいですが、天皇陛下の中宮オフィスで、女房として働いているとか。

尊良親王 ・・・。

二条為冬 そないに彼女の事が好きなんやったら、歌会にことよせて、今出川邸に行ってですよ、隙を見つけて殿下の思いのタケ、彼女にうちあけはったらよろしやん。

尊良親王 ・・・。(笑顔)

二条為冬 いやぁ、殿下のそないな笑顔、久しぶりに見ましたでぇ。

尊良親王 よし、誰か、今出川邸に使いに行ってくれ、「今夜、お宅で、和歌の批評会やりたい」てな!

親王からの要請を聞いた今出川は、「まことにかたじけない事」と、さっそく風流を好む人々を集め、親王に開催案内を伝えてきた。

尊良親王 よぉし、行くぞぉ!

親王は、二条為冬だけを供に連れて、今出川邸へ赴いた。

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尊良親王、もとより和歌の批評が今夜の目的ではない。なので、和歌を皆で詠み上げるだけで、批評は一切無し。主人側の今出川公顕は、さっそく酒宴の用意をさせた。

親王はめずらしく上機嫌である。謡いや歌曲のたびごとに、盃を公顕にすすめるので、公顕もついつい度を過ごして深酔いしてしまい、ついに横になって眠りはじめた。

親王も横になり、夜の更けるのを待った。

みんな寝静まった頃あいを見はからって、親王は起き上がり、二条為冬に合図した。為冬も、そこはちゃんと心得ていて、飲酒量を控えめにしていた。

為冬は親王を、かの女人のいる今出川邸の西棟へ導いた。

垣根の隙間から覗いてみると、はたして、彼女はそこにいた。灯火を幽かにともし、花や紅葉の散り乱れた絵柄の屏風を引き回し、起きるでもなし寝るでもなし、といった風である。さきほど皆が詠んだばかりの和歌の短冊を取り出して、顔を傾けて読んでいる。

こぼれかかる髪の端から、匂わんばかりの美しい顔。露を含める花の曙とでも言うべきか、はたまた、風になびく柳の夕の景色とでも言うべきか・・・絵に描くとも及び難し、語るに言葉も無し。

尊良親王 (内心)こないだ、家の外から幽かに見た時は、世にも類まれなる美貌と思ぉて、もうそれこそ、気も狂わんばかりに魅了されてしもぉた。そやけどなぁ、こうやってあらためて、ま近に見ると、もうとても、こないだの比ではない・・・もう信じられんほどの美しさや。

親王はもはや忘我の境地、魂も身も、どこかへけし飛んでいってしまったかのようである。

幸い、周囲には人もいない、灯火もそれほど明るくない。親王は、思い切って妻戸を開き、室内へ入っていった。

今出川息女 あっ・・・。

彼女はそれほど驚いた風でもなかった。穏やかに親王にあいさつをし、ゆっくりと頭から衣を覆った。その風情がまた何とも言えないほど、なよやかにして雅(みやび)やかである。

親王は、彼女の側ににじり寄った。

尊良親王 やっと、やっと・・・貴女の近くに来ることができた・・・こないだ、貴女を一目見たその時から、私は・・・私は・・・。

親王は、これまでの自分の思いの限りを訴えた。しかし、今出川息女は無言のまま沈んでいる。その可愛い姿がまたまた、親王の心をかきたてる。

花は薫り、月霞む夜のしじま、いったいこれは、見果てぬ夢なのか現実なのか、時間の経過をも忘れ果て、ただひたすらに、彼女に対してかき口説き続ける親王。しかしなおも、彼女の態度はつれない。

やがて、鶏の声が響いた。

尊良親王 あぁ、なんというにくたらしい鶏の声。自分は雌雄仲良く翼を並べながら、無情にも、我々を別れさせるのか。

涙の氷解けやらず、成果空しく、帰宅の途につく親王。

尊良親王 あぁ、あの女(ひと)は何とつれないのか・・・空にかかってるあの有明けの月のように、私の心など、意に介してくれへん・・・。

しかし、親王はギブアップしなかった。

その日から、彼女にせっせと、レター、レター、レター・・・その数、およそ一千通ほどにもなったであろうか。ついに、今出川息女の方も情にほだされ、親王に好意をいだくようになってきた。

しかしながら、やはり、人の目が気になる。二人の間にはなおも、障害が立ちふさがっていた。

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それから数ヶ月過ぎた頃、式部少輔英房(しきぶのしょううひでふさ)という儒学者が、親王のもとに文学講和にやってきて、貞観政要(じょうがんせいよう:注5)の講義を行った。

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(訳者注5)中国・唐王朝の太宗と臣下との政治議論の記録。
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英房いわく、

式部少輔英房 中国唐王朝の皇帝・太宗は、鄭仁基(ていじんき)の娘を后として、後宮に迎え入れようとしました。その時、魏徴(ぎちょう)が、これをいさめました、「陛下、それはなりませぬ、この娘は既に、陸氏と婚約しておりますゆえに」と。太宗はその諌めに従って、その娘を后に迎えるのをやめました。

尊良親王 (内心)そうかぁ、昔の名君はそのように、賢人のいさめを聞き入れて、恋愛を断ち切ったんやぁ。そやのに私は・・・すでに婚約者が決まっている女性に言い寄って、他人の心を傷つけようとしてるんや。こないな事では、いかんなぁ。

親王は、古の帝王の行為に比べて自らの様を恥じ、世間のそしりをも慮(おもんぱか)り、この悲恋の苦悩をただじっと心の中に秘めていようと、決意した。それからは、自分の恋愛の事を口には一切出さず、彼女に手紙を送ることもやめてしまった。

尊良親王 昔、女から、「私のとこへ百夜連続通ってきてくれたら、あなたになびく」と言われた男が、それからせっせと女のもとに通い続けては、車の轅(ながえ)に通った回数を書き足していったんやそうや。あと一夜で百回、というちょうどその時、男の親が死んでしもぉて、ついに男は、お百度を達成できずに終わったという。私の恋もこれと同様、あともう少しっちゅう所で、挫折してしもたなぁ。

海士(あま)の刈る藻草(もぐさ)のように、すっかりしおれてしまい、思い乱れる親王。

このようにして月日が過ぎていく間に、今出川息女の婚約相手の徳大寺公清(とくだいじきんきよ)が、二人の関係に気付いた。

徳大寺公清 (内心)殿下はそれほどまでに、彼女の事を思いつめてはんのか。それやったら、もう彼女は、殿下に譲ってしまおう。

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親王側近I 殿下、えぇ知らせですわ! 徳大寺公清殿は、今出川家のお嬢はんと別れて、別の女の方に通うようにならはったとか。

尊良親王 それ、ほんまか!

親王側近J これでもう、あの方とつきあわはるのに、何の障害も憚りも、なくなりましたなぁ。

親王側近K 殿下ァ、さぁさぁ、今出川家のお嬢さまのもとへ、お手紙を!

尊良親王 よぉし、書ぁくぞぉ!

つい力が入りすぎて、いつもよりもさらに黒い字で、

尊良親王よりのレター

 知ってます? 塩焼く浦の 煙さえ 思わぬ風に なびくのですよ

(原文)知(しら)せばや 塩やく浦の 煙だに 思はぬ風に なびく習(なら)ひを

今出川息女 (内心)あぁ、あたしはなんでこうまでも、殿下に対してつれない仕打ちをしてきてたんやろう・・・どうかお許しください、殿下。

今出川息女よりのリプライ

 浮き名立つ おそれが何も 無かったら 煙も風に なびいたですわよ

(原文)立(たち)ぬべき 浮名を兼(かね)て 思はずは 風に煙の なびかざらめや

かくして、あれやこれやの心配や気兼ねもすっかり解消し、二人はついに結ばれた。

尊良親王 ゆく川の 水の流れのように

親王奥方 あたしたちどこまでも 二人でいっしょに生きていくんよね

尊良親王 老いて後も、命尽き果てるその日まで

親王奥方 あなたとあたしは 決して離れない

尊良親王 死して後も

親王奥方 二人いっしょに 同じ墓の苔の下に

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しかし、二人の蜜月はそれから10か月しか続かなかった。天下に乱起こり、尊良親王は土佐国(とさこく:高知県)の幡多(はた)郡へ流罪となり、奥方は一人、都に残される事になってしまった。

夜の明けるのも知らずに、嘆き伏し続ける奥方である。

親王奥方 いっそのこと、二人とも死んでしもぉてたらよかったんや。それやったら、やがて再び、この世に生を受けて、また二人は再会できる。そやのに、今は、殿下とあたしは生き別れのままやん・・・(涙)遠い海山に間を割かれ、互いに風の便りの音信を交わす事すら、できひんやん。(涙)

今まで召し使っていた侍や女たちも、もう一人も屋敷にいない。すべてが昔と一変してしまった中に、荒れ果てた屋敷の庭には草の露しげく、奥方の袖は涙に濡れて乾くひまもない。

親王奥方 あぁ、これから先、あたしはいったいどないして生きていったらえぇのん!(涙、涙)

気も狂わんばかりの毎日。

尊良親王の方も、京都を離れてからは、父・後醍醐先帝の事や自分の事を思うと、悲しみは増すばかり。それに加えて、奥方の顔をもう二度と見ることはできないのかと思うと、食事ものどを通らず、道中の草葉の露と共に消えはててしまうか、と思われるほどである。

流刑地の土佐の幡多郡に着いてからは、とてもこの世とも思えぬような海岸のほとりに住いを定められて月日を送る中、嘆きが晴れる日は、一日とて無い。

尊良親王の落胆しきった姿のあまりの哀れさに、警護担当の有井荘司(ありいのしょうじ)もさすがに、見るに見かねて、

有井荘司 殿下、奥方様をこっそりここへ呼ばれたらどうですかい? わしゃぁ、見て見ぬフリしてさしあげますぜよ。

有井荘司は衣を一着仕立て、奥方の旅の道中の事まで細々と処置してくれたので、尊良親王は大喜び。たった一人だけ自分について土佐まで来ていた右衛門府の下官の秦武文(はだのたけふん)という供人を、奥方を迎えるために京都へ上らせた。

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親王からの手紙を携えた秦武文は、京都へ急いだ。

一条堀川(いちじょうほりかわ:上京区)の館へ行ってみたが、草は生い茂り、松葉が積もって道も無い。館を訪れてくる物は梢を鳴らせる夕嵐、軒からもれる月の光だけ、人が訪問してくる気配も無く、屋敷は荒れ果てている。

秦武文 奥様はきっと、どっか別の所に、隠れ住んだはるんやろうな。いったいどこへ行ってしまわはったんやろう。とにかく、何とかして探さな!

あちらこちらと、奥方の行くえを探し歩く中、嵯峨(さが:右京区)の奥の方の深草(ふかくさ・清涼寺付近)の里で、一軒の家が目についた。荒れ果ててまばらになった低い松の垣根には蔦がはい掛かり、池の姿も淋しい。池の水ぎわの松には、秋の嵐が冷たく吹き付けている。

秦武文 (内心)この家、誰か住んでる人、いるんやろうか。ものすごぉ、うっとおしい感じに荒れ果ててるやん・・・いや、待てよ・・・家の中から、琵琶の音、聞こえてくるぞ・・・。

思わず立ち止り、耳をすます武文。

秦武文 (内心)あぁ、あの琵琶の音は・・・間違いない、奥様の弾かれる琵琶の音色や! やったぁ、見つけたぞぉ!

武文はあいさつもせずに、築地の破れ目から邸内に入り、中門の縁の前にかしこまった。

破れた御簾の中から、奥方は彼の姿を認め、幽かな声を上げた。

親王奥方 あぁっ!

奥方は言葉も無い。女房たちは、さざめき合うばかり。やがて邸内から、すすり泣く声が聞こえてきた。

秦武文 武文、殿下からのおことづけを持って、土佐から京都に上ってまいりました。奥様の行くえを訪ねて、ようやくここまでたどりつきましたでぇ!(涙、涙)

武文は、縁に手をついてサメザメと泣く。

しばらくしてからようやく、奥方が口を開いた。

親王奥方 武文、ここへ。

奥方の召しに従って、武文は、御簾の前まで進んでひざまづいた。

秦武文 殿下より、「あなたと遠く離れている今の状態、到底絶え忍びがたい。何としてでも、京都を出て、こちらまでやっておいで」とのおことづけ、持って参りました。さ、これが殿下からのお手紙です。

奥方は急いで文を開き、読みはじめた。よほど切ない日々を送っていたのであろう、手紙の一文字を読むごとに、彼女の眼から涙がこぼれ落ちる。

奥方 わかりました、あたしはすぐに殿下のもとへ参ります。たとえどんな辺ぴな地でも、殿下といっしょやったら、あたし、耐えていけるわ。

彼女はすぐに、旅立ちの仕度に取り掛かった。武文もかいがいしく立ち働き、さっそく輿を手配した。

やがて一行は京都を出て、尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)に到着、そこで渡海の順風を待った。

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ちょうどその時、尼崎湊に、松浦五郎(まつらごろう)という筑紫国(つくしこく:福岡県)の武士が、やはり順風を待ちながら滞在していた。

この男がひょんな事で、尊良親王の奥方の姿を、垣の隙間ごしに見てしまった。

松浦五郎 (内心)ドヒャー! すごかぁ美人たい。天女が地上に舞い降りて来たんかいのぉ・・・。

彼の目は、奥方に釘付け。

松浦五郎 (内心)こないして、あの女を眺めちょるだけでは、つまらんばい。あの女、なんとしてでも、おい(我)のモンにしたかぁ。誰の人妻であろうが、どこかのお家のお姫さまであろうが、とにかく、おいのモンにしたかぁ。たとえ天皇のお后だって、かまうもんか。あんな女をモノにできるんじゃったら、それと引き替えに自分の寿命が100年縮まったって、よかと。よぉし、あの女を誘拐して、筑紫へ連れて行くばい!

五郎は、浜のあたりに出てきた秦武文の部下を呼び寄せ、酒を飲ませ、贈り物をした上で、

松浦五郎 それにしてもな、あんたのご主人のお連れさんな、ほれ、あの出帆を待ってるあのご婦人、あのお方はいったい、どこのどういう人なんかの?

身分の低い者は思慮分別というものがまるで無い。秦武文の部下は、酒や贈り物にすっかり喜んでしまい、一連の事情をペラペラと話してしまった。それを聞いた五郎は大喜び。

松浦五郎 (内心)こりゃよかと! あの女の夫は、親王は親王でも、謀反人だとねぇ。島流しになったその男の所へこっそり行こうとしちょる女を誘拐したって、大した罪にもならんばい。

五郎は自らの郎等たちに、秦たちが宿泊している宿のレイアウトをしっかり把握させ、日没を待った。

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夜も更け、みな寝静まった頃、松浦五郎の郎等30余人は、鎧に身をかため、松明を点した。

松浦部隊リーダー よぉし、行くぞ!

彼らは、宿の戸を蹴破って前後から踏み入った。

秦武文 うっ! 強盗やな!

秦武文は公家出身ではあるが、心剛(ごう)にして度々武勲を顕してきた男。枕辺に立てていた太刀を取って、中門まで走り出た。

秦武文 エェイ! ヤァ! エヤァ!

武文の太刀 ズブッ、ズバッ、ビュイ!

たちどころに、押し入ってきた3人を切り伏せ、縁に上がった松浦一味30余人を、庭へ追い落とす。

秦武文 おれは秦武文や、刀を取ったら天下一やぞ! モノ取りに入ってきたこの家の中で自分の命を失うとは、お前らヌスットども、ほんまに、運の悪いやっちゃのぉ。

武文は、あざ笑いながらそり返った太刀を押し直し、門の脇に仁王立ち。

松浦部隊メンバーらは、武文におそれをなして、門の外へ、さぁっと逃げ出した。

松浦部隊リーダー えぇい、情けねぇやつらよ。相手はたった一人たい、切って入らんかぁ!

松浦部隊メンバーらは、付近の家屋に火を放ち、再びおめいて攻め込んできた。秦武文、闘志は燃え盛るものの、浜風に吹きあおられた煙が目にしみて、防ぎようが無くなってきた。

武文は奥方を背負い、向かってくる敵をなぎ払いながら、海岸まで走った。

秦武文 (沖の船に)おぉい、どの船でもえぇ! この女の人、ちょっと、預かってくれへんかぁ!

停泊していた船は数多かったのに、一番にそこに漕ぎ着けてきたのは、よりにもよって、松浦五郎の乗っている船であった。

松浦五郎 (内心)うひゃひゃひゃ、しめしめ・・・。

船長 ほれ、この船に乗れ!

秦武文 あぁ、助かった! さ、奥様、こちらの船室の中へ、さ、さ。

奥方 あ、武文、どこ行くんや?

秦武文 もういっぺん、あの宿へ戻って、あこに置いてきてしもたモンやら、御伴の女性方を、ここに連れてきます。安心して待っててくださいや!(船を飛び出す)

奥方 武文! 武文!

宿の建物にもすでに火が燃え移っていた。

秦武文 遅かったか! 供の連中も一人もいいひん。どっかへ逃げていってしもたようやな。

一方、松浦五郎は、

松浦五郎 (内心)うひょひょひょ。あの女が偶然、この船に逃げ込んでくるとはなぁ・・・おいと彼女、不可思議なる運命の糸に結ばれたる二人でありました、それは誰も知らない前世からの約束事でありました・・・なーんちゃってな、ウハウハウハ・・・。

松浦五郎 おーい、もういいぞー! みんな、この船に乗れーぇ!

これを聞いて、松浦五郎の郎等・部下ら100余人は、みなあわてて、船に乗り込んできた。

船は沖合いはるかに漕ぎ出した。海岸へ帰ってきた秦武文は、それを見てびっくり。

秦武文 おぉい、そこの船、待たんかい! ここへ戻ってこい! さっき船室に預けたそのご婦人、陸にお上げするんや!

松浦五郎 ガハハハ・・・あの男、海岸につっ立って、いったい何言っとるん? 全く聞こえんとね、ガハハハ・・・さぁさぁ、順風に帆をあげて、筑紫へ、筑紫へ!

武文は、海岸にあった手繰網(たぐりあみ)漁師の小舟に乗り、自ら櫓を漕ぎ、船を追った。

秦武文 なんとしてでも、あの船に追いつかんと!

しかし、帆に順風をはらんで進み行く大船に、手漕ぎの小舟が追いつけるわけがない。

秦武文 (はるか沖を行く大船に対して、扇をかざして招きながら)おぉい、そこの船ぇ-っ、戻れーっ、戻れーっ!

松浦部隊メンバーQ なーんばしちょっとね、あの男は。

松浦部隊メンバーR あの扇でもって、この船をあおぎ戻そうってかいね。

松浦部隊メンバー一同 ギャハハハ・・・。

秦武文 う・う・う・・・無念、残念無念やぁ! よぉし、そっちがそのツモリやったら、おれにも考えがある。たった今からおれは、海底の龍神になったるぞ! 龍神になって、その船をゼッタイに先には進ませへんからなぁ!

秦武文は、激怒の中に腹を十文字にかっ切り、海に身を投げた。

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宿に松浦一味が押し入ってきた時から、奥方は心ここにあらず、淵の上に浮き沈みする夢の浮橋の上を渡るような心地ばかりして、何がどうなっているのか、さっぱり分からない。

船に乗り合わせている人S いやぁ、あの男、なかなか立派やん。

船に乗り合わせている人T 主の奥方を他人に奪われて、腹を切るとは・・・哀れな男やなぁ。

奥方 (内心)あれは! きっと武文の事や。武文、死んでしもぉたんか!

そう思いながらも、彼女はもう、目を開けてもおれない心境である。衣を頭からかぶって、船室の中に泣き崩れている。

突然、奥方のすぐ側で、男の声が。

松浦五郎 あんた、なんばぁ、そないに泣いちょるとね。

奥方 あっ!(目をつむり、身を縮める)

見るも恐ろしげな、むくつけき髭面(ひげづら)の男の、たくましく日焼けした顔から、次々と、言葉が・・・。

松浦五郎 あんたねぇ、これからの道中、面白いとこ、いっぱいあるとね。瀬戸内の名所、とっぷりと見物しながら旅してったら、心も慰むるとね。いかんいかん、そないに、泣き続けとったんじゃ、船酔いしてまうとねぇ。

このように、五郎は奥方をあれやこれやと慰めようとするのだが、奥方はもう恐怖に身をすくめて顔もあげることも出来ない。鬼といっしょの船に乗って中国・揚子江の三峡(さんきょう)の急流を行く恐怖さえも、これに比べたらまだまし、という心地。もう、息も絶え絶えである。

さすがの松浦五郎も、とまどってしまい、ただ舷側に寄りかかって、彼女の哀れな姿を見つめ続けるしかない。

その夜、船は、大物(だいもつ:尼崎市)海岸に停泊。

翌朝、再び順風となり、そこに停泊していた船は一斉に帆を上げ、舵を取り、思い思いの方角に漕ぎ出していく。

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船に乗り合わせている人S もうだいぶ、京都からは、離れてしもぉたなぁ。

船に乗り合わせている人T この船、九州には、いつごろ着くんやろ?

奥方 (内心)あぁ、この船、九州に向こぉてるんか。私の運命、これから先、いったいどないなっていくんやろう。

奥方 (内心)九州といえば、北野天神(きたのてんじん)にならはった菅原道真(すがわらのみちざね)公が流されていかはったとこや・・・天神様、昔の九州流罪のご自身のお悲しみ、おぼえておいででしたら、どうか、あたしの事もかわいそうやと、思ぉて下さいませ、あたしを京都へ帰してくださいませ、お願いです、あたしを京都へ帰してくださいませ、どうかお願いですから!

その夕方、船は、阿波(あわ:徳島県)の鳴門海峡(なるとかいきょう)へさしかかった。(注6)

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(訳者注6)尼崎から九州へ向かう船が鳴門海峡を通るとは地理的に見て、どうにも考えがたいのだが、まぁ、そこはその、「太平記感覚」(?)で、読み進めて行くとしよう。
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にわかに風向きが変わり、潮流も船の進行方向とは逆方向に変わってしまって、船は全く、先へ進めなくなってしまった。

船員が帆を下ろし、近くの磯へ船を寄せようとし始めたその時、

船員U おい、あれ見てみい、あれ! あこや、あこ(あそこ)!

船員V うわっ! えらいこっちゃぁ!

舵取りW あれいったい、なんやぁ・・・。(呆然)

船員U 渦や・・・渦や・・・大渦や・・・。(顔面蒼白)

船員V ここの海峡なんべんも通ったことあるけど、あんな大きい渦、見たことない・・・。(恐怖に顔をひきつらせる)

船長 おぉい、渦の底、見えたるかぁ?!

船員U ・・・見えへん・・・底無しの渦やぁ!

船員V あぁっ、船が渦に・・・渦に巻き込まれるぅ!

船長 帆、帆、渦に投げいれぇ!

舵取りW 薦(こも)! 帆、薦、なんでもえぇ、かさばるもん、渦に投げ込め! 渦の力弱めて、そのすきに逃げるんや!

船員U あかん! そんなんではとてもキカへん! ムリや! あーっ、巻き込まれるぞーっ!

ついに船は、渦に巻き込まれてしまった。茶臼を回すがごとく、船は高速に回転し始めた。

船長 ・・・こ、これはきっとな、鳴門の・・・鳴門の龍神がな、この船に積んだる財宝に目ぇつけよったんや。金目のもん、なんでもえぇ、海へ投げ入れぇ!

みんな一斉に、船中の弓矢、太刀、刀、鎧、腹巻鎧等を残らず海へ投げ込んだ。しかしなおも、渦は静まらない。

船長 もしかしたら、龍神、きれいな衣、欲しいんちゃうか!

そこで、奥方の衣と赤い袴を海に投げ入れてみた。白い波の上に紅葉を浸したかのように鮮やかに赤色が広がると共に、渦の勢いが少し弱まった。しかし船は依然として回転し続けている。

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それから3昼夜、船は渦に呑まれて回転し続けた。船中では、立っておれる者はもはや一人もいなくなってしまった。全員、船底に酔い伏して、うめき声が飛び交っている。

奥方は、ただでさえ生きた心地もしなかったのに、ましてやこの渦である。もう肝も消え去り、自分がどこかへ行ってしまったような気分である。

奥方 (内心)この先、つらい目にあうよりは、いっそのこと、今、この目の前の渦の中に身を投げて・・・。

奥方 (内心)そやけど、あの皆の泣き叫ぶ声を聞いてるとなぁ・・・底知れぬ海底の水屑(みくず)となってしもぉたんでは、墓も無いままになってしまうわ。深い罪に落ちてしもうた私の後世を弔ぉてくれる人も、いったいどこを訪ねてきたらえぇのか、見当つかんやろうなぁ。

あれやこれやと悩みながら、彼女はただ、床に臥すのみである。

さすがの松浦五郎の心中にも、後悔の念が込み上げてきた。

松浦五郎 (内心)きっと、こげな高貴な身分の人を誘拐したもんで、龍神を怒らせてしもうたとね。おいもまっこと、愚かな事してしもぉたなぁ。

そこへ、一人の舵取りが船底から這い出てきていわく、

舵取りW この鳴門というとこはなぁ、龍宮城(りゅうぐうじょう)の東のゲイト(門)に当たるポイントなんやわ。何でもえぇから、龍神様の欲しがらはるもんを海へ沈めんとな、いつも、こないな不思議な事が起こってしまうんや。

舵取りW なぁ、あんた。わしが思うにやな、どうも龍神様は、そこのご婦人に惚れ込みはったんとちゃうやろか。

松浦五郎 ・・・。

舵取りW こないな事言うたら、ほんまにムゴイ事やねんけどな、そのご婦人一人の為に、この船に乗ってるみんなが死なんならっちゅうのんも、あまりにもヒドイ話やないかい、なぁ、あんた!

松浦五郎 ・・・。

舵取りW そやからな、そのご婦人を海へ投げ込んでな、他の百人の命、助けてぇなぁ!

五郎はもとより、情け心のかけらもない男。「これで、我が命助かるかも」と思い、船室の中に入って奥方を荒々しく引き起こした。

松浦五郎 あんたのそのツレナイ顔ばっかり毎日見せられたんでは、わしも面白ぉなかとね。だからな、あんたを海に放り投げてしまう事に決めたばい。ダンナとの契りが深けりゃ、あんた、土佐の幡多とやらへ流れ着くかもね。そしたら、その宮とか堂とかいう人といっしょに(注7)、暮してったらえぇね。

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(訳者注7)原文では、「御契(おんちぎり)深くば土佐の畑へ流れよらせ給いて、其の宮とやらん堂とやらん、一つ浦に住ませ給え」。親王を、「宮」とも呼ぶ。
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五郎は、情け容赦もなく奥方を抱きかかえ、まさに海へ投げ入れようとした。

奥方 (内心)もはやこれまで。

彼女はもう言葉も無く、ただ夢を見ているような気持ちの中に、息をつめる。

奥方 (内心)南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。

そのままそこで、息絶えて行くかとさえ思われる奥方である。

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その船に、一人の僧侶が乗り合わせていた。

僧侶は、松浦五郎が今にも奥方を海に投げ込もうとしているのを見て、彼の袖を捕らえて、

僧侶 あんたはいったい、なんちゅう事をする!

松浦五郎 うるさいなぁ! みんなの命を助けるためには、この女を龍神に捧げるしか、しょうがなかとね。

僧侶 あんなぁ、龍神というのはなぁ、南方の世界で一切の煩悩を捨てきって悟りを開き、仏の教えを全て会得してはるんやでぇ。そないな存在が、こないな罪業(ざいごう)の深い捧げもの、受けとらはるはず無いやんか。人を生きながらに海に沈めなんかしてみい、龍神はますます、怒らはるぞ。そないなったらもう、この船に乗ってるもん、一人も命助からんぞ!

松浦五郎 ・・・。

僧侶 ここはやな、とにかくお経を読み、ダラニを唱えてやな、そうやって得られた功徳(くどく)を龍神にお捧げしていくっちゅうセンで、いった方がえぇで。

僧侶のこの強い制止に、五郎は、

松浦五郎 なるほどなぁ。

五郎は、奥方を船室の中に荒々しく投げ入れた。そして、

松浦五郎 ならばさっそく、このお坊さんの言う通りに、みんなで祈ってみるばい。

船中全員、異口同音に、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の御名(みな)を唱えはじめた。

すると、怪異な者たちが次々と、波の上に浮かび上がってきた。

まず最初に姿を現したのは、濃紅の服を着た雑役人ふうの人物。長持ちをかつぎながら、船の前を通りすぎて行ったと思ったら、すぐにその姿は消えてしまった。

次に現れたのは、白い鞍を置いた白葦毛(しろあしげ)の馬。8人の馬丁(ばてい)がそれを引いて通り過ぎていく。彼らも同様に、皆の眼前で、すぐに消失してしまった。

そしてついに現れた、あの男が・・・。

船員U あぁ! あれは!

船員V あの男やん! 尼崎沖で、この船を追いかけてきた男。

船長 小舟の上で、腹を切って果てた、あの男!

松浦五郎 ・・・(顔面蒼白)。

赤糸威(あかいとおどし)の鎧と赤い五枚兜をかぶり、黄赤色の馬に乗ったその男は、海の上に弓を杖つきながら、紅一色の扇を掲げて、船を招いている。

船長 (震えながら)なんか、「そこの船止まれぇ」ちゅうような、シグナルを送ってきてるように、見えるんやけど・・・。

舵取りW 波の荒いとこを船が通る時に、不思議なもんが見えるっちゅうんは、よぉある事や。そやけどな、あれは、そういうたぐいのもんとは、まるでちゃう(違)わ。あれはもうゼッタイに、あの男の怨霊(おんれい)や、間違いないて。

船上の人々全員 ・・・。

舵取りW 試しにな、小舟を一艘海に降ろしてな、あのご婦人をそこに乗せてな、波の上に押し流してみたらどうや。龍神がいったい何を考えてるんか、はっきりしてくると思うで。

松浦五郎 なるほど。

というわけで小舟を一艘引き下ろし、一人の船員と奥方をそこに乗せて、漲り渦巻く波の上に浮かべてみた。

それにしてもまぁ、何という酷い事をするのであろうか。これに比べたら、かの古代インドの「島に捨てられた早離(ソウリ)・速離(ソクリ)兄弟」、「飢寒(きかん)の愁い深くして、涙も尽きた」という話の方がまだましであろう。そこは無人島ではなかったのだから、頼って行く場所もあった。

それにひきかえ、奥方が今捨てられたこの場所は、浦でもなければ島でもない、鳴門海峡の波の上ではないか! 身を捨舟(すてぶね)の浮き沈み、潮に流され、消える泡のように死んでいくしかないとは、なんと哀れな・・・。

しかしそれもまた、哀れな奥方を松浦五郎の魔手の中から救わんとの、人智を絶した龍神のお計らいであったのだ。

急に風が吹き出し、松浦らが乗る船は西方へ流されはじめた。武庫(むこ)の山々(兵庫県・西宮市)から吹き下ろしてくる風にあおられて、船は一の谷(いちのたに:神戸市・須磨区)の沖合から、はるか彼方に消えていった。

しばらくして、渦は消え、波も風も静かになってきた。

奥方といっしょに小舟に乗せられた船員は、懸命に船を漕ぎ、淡路国(あわじこく:兵庫県・淡路島)の武島(むしま:場所不明)という所へ、たどり着いた。

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この武島という所、周囲は1里足らず、家屋といえば海士(あま)の住む家しかない。住民らはとりあえず、奥方を、葦で覆った粗末な家に入れた。

ここ4,5日の波風に、心身ともに衰弱しきっていた奥方は、その家の中に入るやいなや、気絶してしまった。島の住人たちはびっくり。何も分からない子供たちまでもが、「どないしたらえぇんや!」と泣き悲しみ、奥方の顔に水をかけたり、櫓床を洗った水を口にそそぎ込んだり。(注8)

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(訳者注8)「櫓床」とは船上の櫓を設置する箇所。そこを洗った水を口に注ぐ、というのが当時の救急法だったのかも。
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彼らの努力のかいあって、それから1時間後に、奥方の意識は戻った。

しかしながら、依然として、奥方の涙の乾く日は無い。悲しみの絶え間のない旅寝のつらさに、

奥方 いつまでも、ここにこないしてるわけにもいかへん・・・どうかお願いですから、土佐の幡多というとこまで、私を送り届けてくれませんか。もう毎日、つろぉてつろぉて・・・。(涙)

海士X あんたのその気持ち、わしらもよぉ分かっとぉ。そやけどな、あんたみたいな美しい人をわしらの舟に乗せて土佐まで行くなんちゅうの、どだいムリな話や。またどこかの港で、誰かに誘拐されてまうかもしれんやろ。

奥方 ・・・。

このようなわけで、奥方は武島から外に出ることもかなわずに、そのままそこで年を越した。なんと哀れな事であろうか。

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尊良親王 (内心)おかしいなぁ・・・武文を京都へやってから、もうだいぶ日も経つというのに、いまだに何の知らせも無い。もしかしたら、何かトンデモナイ事、起こってしもたんかいなぁ。

しきりに気を揉む親王である。京都からやってきた人に、確かめてみると、

京都からやってきた人Y それは、おかしぉまんなぁ・・・。去年の9月に、奥方様は、京都を出発し、土佐へ向かわれたと、確かにお聞きしましたんですけど。

尊良親王 (内心)「去年の9月に京都を出発」?・・・そやのに未だに、ここへ着いてない・・・さては、道中で誰かに誘拐されたか・・・あるいは、嵐に遭うて、千尋(ちひろ)の海底に沈んでしもぉたか・・・(ガックリ)。

ある夜、警護担当の武士たちが、中門に宿直しながら、よもやま話をしていた。

警護担当武士α あれはたしか、去年の9月頃の事やったかなぁ。船に乗ってここへ来る途中、阿波の鳴門海峡にさしかかった時にな、船の楫に衣がひっかかかりよったんよ。それがまた、ものすごい上等の衣でな、とても、フツーの人の着るようなもんやなかったでよ。

警護担当武士β へぇー、そりゃまた不思議な話やのぉ。

警護担当武士α おれの推理やと、あの衣の持ち主、院か御所に勤務しとった女房やろ。その女が、故郷へ帰る旅の途中に嵐に遭うて、海に沈んでしまいよった。女が着とった衣だけが海を漂っとってな、ほいで、船の楫にひっかっかったんやろ。

警護担当武士γ かわいそうな女やのぉ。

これを垣根ごしに聞いていた尊良親王は、

尊良親王 (内心)もしかしてその衣、武文に持たせたあの衣では?!・・・まさか!

尊良親王 おぉい、ちょっと、おまえ!

警護担当武士α ???

尊良親王 そうや、おまえや、ちょっとここへ!(手招き)

警護担当武士α はい・・・何かご用で?

尊良親王 今、おまえが話してた、船の楫にかかった衣、まだ、おまえの手元にあるか?

警護担当武士α あるでよ。そやけど色、相当落ちてしもてるで。

尊良親王 その衣、気になる事あるんやわ。ちょっと私に見せてくれへんか。

警護担当武士α はい、今すぐに持ってくるでよ。

武士が持ってきた衣をつらつらと見るに、

尊良親王 (内心)間違いない、これはたしかに、彼女を迎えに武文を京都へ行かした時に、有井荘司(ありいのしょうじ)が仕立てて贈ってくれた衣や。

不思議な事もあるものよと、裁断した残りの布切れを取り寄せて、その衣と合わせてみた。

尊良親王 (内心)綾模様まで寸分違わず、ピッタリと合う。やっぱしこの衣は・・・(涙)。

それを二目と見ることもできずに、親王は衣を顔に押し当て、涙を拭った。その側にいた有井荘司も、目に涙をいっぱいためながら、その場を立った。

尊良親王 (内心)あぁ、私が愛して止まぬ彼女は、もはやこの世にはおらんのや(涙)・・・。今は彼女の菩提を弔うてやるしかないのか・・・(涙)。

親王は、船の楫に衣が掛かった日を彼女の命日とし、自ら写経をし、念仏を唱え、彼女の冥福を祈った。

尊良親王 今はなき藤原氏の女(注9)、さらには、物故者となりし秦武文、共に三界(さんがい)の苦海を出(いで)て、速やかに極楽浄土に至りますように。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。

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(訳者注9)奥方を指している。
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親王の嘆く姿、まことに哀れである。

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その年の春頃から、日本国中に打倒・鎌倉幕府の軍が続々と決起、六波羅庁、鎌倉幕府、九州庁、北陸地方の幕府サイド勢力が一斉に滅び、後醍醐先帝は隠岐からめでたく京都に帰還、尊良親王も、土佐の幡多から都へ帰ってきた。

尊良親王 (内心)天下悉く朝廷と公家が治める事になり、それはそれで、めでたい事ではある。おかげで私も、このように京都へ帰ってこれた・・・そやけど、彼女はもう、この世にいいひん(涙)。彼女がいない私の人生に、いったい何の楽しみがあるというのか、あぁ・・・。(涙)

親王側近I 殿下! 殿下!

尊良親王 もう・・・なんや、うるさいなぁ。

親王側近I 奥様が、奥様が!

尊良親王 ・・・。

親王側近I 奥様、生きておいでですよ! 淡路の武島という所に、ご無事でおられるそうですわ!

尊良親王 エェーッ、そ、それ、ほんまかぁ!(激歓喜)

親王側近J 早いとこ、こちらにお迎えせんと、あきませんな!

尊良親王 すぐに、迎えのもんを送れぇ!

親王側近I ハハーッ!

親王側近J いやぁー、よかった、よかったぁ!

やがて、奥方が京都へ帰ってきた。

尊良親王 あぁ・・・あぁ・・・もう一度キミの顔を見れるやなんて・・・夢見てるんとちゃうやろか・・・。(涙)

奥方 あたし・・・あたし、こわい男にさらわれて・・・筑紫に向かう船に乗せられたんです。あの時の心細さいうたら・・・もう・・・(涙)。大きな大きな渦に巻き込まれて、もうダメというような事も・・・あぁ、自分の命、泡のように今消えていくんか、なんて思いましたわ。

尊良親王 キミもほんまに、つらい目に遭うてたんやねぇ。

奥方 もうとにかく、つらくてつらくて・・・とても分かってはもらえへんでしょうねぇ。(涙、涙)

尊良親王 私もな、つらい日々の連続やった。キミはもうてっきり死んでしもぉたんやろう思うてな、菩提を弔らうなんて事まで、したんやでぇ。

奥方 ・・・。

尊良親王 あのつらかった日々・・・いやいや、こんな事言うのん、もうやめにしとこうや、お互いにな。こうやってまた、二人いっしょになれたんやん、つらかった事や悲しかった事なんか、今さら思い出してみてもしゃぁない、やめとこ、やめとこ。

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つらかりし日々も今や過去の思い出、それからの二人はまさに、人間の栄華を極め、天上の娯楽を尽くし、という毎日。

鎌倉幕府滅亡の後、まさに天下は太平、後醍醐天皇の政権は盤石(ばんじゃく)ゆるぎなく、「輝かしき1000年の扉、今開く」といった雰囲気。

しかしながら、「楽(たのしみ)尽きて、悲しみ(かなしみ)来(きた)る」のが人生の常。

数年の後、建武2年の冬頃より再び天下は乱れ、政権は公家から武士の手に渡った。そして、尊良親王は越前の金崎(かねがさき)城にて自害、その首は京都へ送られ、禅林寺の夢窓国師(むそうこくし)が葬礼を執行。

奥方は、悲しみに打ちのめされ、車に助け乗せられて禅林寺の周辺をさまよう。

見ると、一本の細い煙が風にたなびき、心細げに夕べの雲に向けて立ち上っている。

奥方 (内心)殿下は、あの煙になってしまわはったんや・・・。

奥方 (内心)人間と生まれたからには、誰かて、愛する人との別れは避けられへん。みんなそれで涙を流さんならんのや。それは分かってる、分かってるけど、それにしても、殿下のご最期は、あまりにも酷(むご)い・・・。

奥方 (内心)尊いお体に自ら剣を突き立てて、命終えていくしかなかったやなんて・・・酷すぎる・・・悲しすぎる・・・。殿下、殿下は最期の瞬間、いったいどないなお心で、おられたんですか・・・。

奥方 (内心)あたしも今、殿下といっしょに死んでしまいたい・・・殿下といっしょに煙になって、いっしょのお墓に入ってしまいたい。

あぁ、哀れなるかな、くるくる回る車のように、苦悩のとどめようのない奥方の心中。

二人の思い出の場所を訪ねてみても、宮殿の上に輝く月にため息をつくばかり、住まいに帰り一人床に入っていると、孤独感がさらにこみ上げてくる。見ること聞くこと万事、悲嘆の元となり、嘆きは日を追うごとに深まっていく。

世間の声δ そしてついに、奥方は病の床に伏すようにならはりましてなぁ。尊良親王殿下の四十九日を迎えるよりも先に、奥方もお亡くなりになってしまわはったんどすえ。

世間の声ε いやぁ、ほんにまぁ、悲しいお二人の物語どすなぁ。(涙)

世間の声ζ こないな哀れな話、世間にそうそう、あるもんやないえ。(涙)

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月28日 (木)

太平記 現代語訳 18-6 金崎城、ついに落ちる

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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金崎城にこもっている新田軍メンバーたちは、杣山城からの援軍をひたすら待ち続けていたのであったが、

新田軍リーダーA なに! わが方、敗戦、多くの者が討死だとぉ!

新田軍リーダーB うーん・・・(内心)ついに、最後の頼みの綱も切れてしまったか。

新田軍リーダーC (内心)心細くなってきたなぁ。

食料は日々に乏しくなっていき、入り江に出て魚を釣って飢えをしのぎ、磯に生える海草を採取して食料に当てる、というような毎日になってしまった。

しばらくは、そのようにしてなんとかしのぎながら、戦闘も続けていたのだが、ついには、馬に手をつけざるをえない時がやってきた。親王の乗馬を始め、軍のリーダーたちの秘蔵の馬をも、毎日2匹づつ差し殺し、それを朝夕の食事に充てる。

新田軍リーダーA もう、どうしようもありません。どっかから援軍が来てくれねぇことには、この城、あと10日ももちませんよ。

新田軍リーダーB 殿、義助殿といっしょにこの城を密かに脱出され、杣山城にお入りになられては?

新田義貞(にったよしさだ) なんて事を言う! おまえらをここに残して、おれたちだけが。

新田軍リーダーC いや、それがいいですって。

新田軍リーダーD そうですよ。殿と義助殿のお二人で、まずはいったん杣山城に入られてね、そこで援軍を集められてから、再びこの城へ戻り、城を包囲してる連中を追っ払って下さいよ!

新田義貞 あのなぁ!

新田軍リーダーA ぜひともそうしてください!

新田軍リーダーB 殿、お願いです! 義助殿といっしょに、すぐにこの城を!

新田軍リーダー全員 そうしてください!

新田義貞 ・・・。

脇屋義助 ・・・。

というわけで、新田義貞、脇屋義助(わきやよしすけ)、洞院実世(とういんさねよ)ら7人は、河島惟頼(かわしまこれより)に道案内をさせて、2月5日の夜半、密かに金崎城を脱出して杣山城へ入った。

二人を迎え入れた瓜生や宇都宮らは大喜び、さっそく、「再度、金崎へ向かい、前回の敗戦の恥をそそぎ、城中の者らに蘇生の喜びを至らしめよう」と、様々に作戦を考えはじめた。

しかし、既に季節は春、温かく穏やかな風が吹き始め、山道の雪もまだら模様に消え始め、諸国から足利側の援軍が続々と到着、その兵力は約10万騎となった。

一方、新田義貞が動かせる兵力はといえば、たったの500余人しかない。心ばかりは猛るのだが、馬や鎧の支給さえ、ままならない。

あぁしようか、こうしようかと、杣山城側が身を揉みながら20日余りを過ごす中に、金崎城側はついに、

新田軍メンバーE (内心)あぁ・・・もう、馬、みんな食べちゃった・・・。

新田軍メンバーF (内心)この10日間ほど、何も食べてねえよなぁ。

新田軍メンバーG (内心)もう、手も動かねぇ、足も立たねぇよぉ。

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金崎城の大手方面の攻め口に配備されている武士らが、高師泰(こうのもろやす)の前にやってきていわく、

足利軍リーダーH あのね、城の中じゃ食料が底突いてしまっててね、ついに、馬もみんな食いつぶしちまったようですぜぃ。

高師泰 ほぉ。

足利軍リーダーI あの城に連中らがたてこもった当初は・・・そうですねぇ・・・馬、4、50匹くらいはいたんじゃないでしょうか。湯で馬の体を洗ったり、水辺を駆けさせたりしてるの、よく見かけたもんですよ。でも最近は、一匹も見かけねぇです。

足利軍リーダーJ どうでしょうね、ここらでイッパツ、城攻めをかけてみては?

足利軍リーダー一同 やりましょうや!

高師泰 よぉし!

3月6日午前10時、足利軍10万騎は、大手カラメ手、一斉に総攻撃を開始。あっという間に、城の切岸の下まで詰め寄り、塀に迫った。

城中の者らはこれを防ぐべく、木戸のあたりまでよろめきながら出ていった。しかし、もはや太刀を振る力も無く、弓を引く事もできない。ただただ、櫓の上に登り、塀の陰に集まって、苦しそうに息をつくばかり。

高師泰 さては、城内のヤツラ、完全に弱り切ってるな。よぉし、今日中に、城を落とすんだぁ!

足利軍は、乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)を取り除き、塀を打ち破っていく。三重に構えてある木戸であったが、まず一番外側の木戸が破られてしまった。

由良具滋(ゆらともしげ)と長浜顕覚(ながはまけんがく)が、新田義顕(にったよしあき)の前にきていわく、

由良具滋 若殿、もうだめ! 城の中の連中ら、戦う力ない! 矢の一本さえも、まともに射れねぇ。

長浜顕覚 一の木戸はもう破られちゃった。二の木戸も時間の問題。敵はどんどん迫ってる! もうだめ、もうだめ! 早く皇太子殿下を小舟に乗せてね、どこかの海岸へ!

由良具滋 他の人らは、みんな一個所に集まって自害だな!

長浜顕覚 みんなが自害してる間、おれたちは敵の攻め口へ走って、しばらくは侵入、食い止めるから。

由良具滋 敵に見られてハズカシイような物は、残らず海にほうり込むんだよ!

二人は立ち上がり、二の木戸へ向かった。

長浜顕覚 それにしてもなぁ、腹ぁヘッテ、足もまともに立たねぇや。

由良具滋 しようがねぇ、あれ食うか?

長浜顕覚 ・・・うん・・・。

彼らは、二の木戸の脇に射殺されて転がっている死者のまたの肉を切り取った。

由良具滋 おまえらも、食うかぁ?

その場にいた20余人はそれを分けて食べて、戦闘能力を回復した。

--------

河野(こうの)備後守は、カラメ手方面の足利軍を防いで1時間ほど戦い続けたが、もはや精も魂も尽き果て、重傷数箇所。32人はそこを一歩も退かず、一斉に腹を切って同じ枕に伏した。

新田義顕は、尊良親王(たかよししんのう)の御前にきて、

新田義顕 殿下、この城、もはやこれまで。おれたちには、もうなすすべがありません。

尊良親王 あぁ、ついに・・・。

新田義顕 おれは武家の家に生れた人間ですからね、家の名を汚さないように自害します。殿下は、ここにこのままいらしてください。たとえ敵につかまったとしても、足利は、殿下の命を奪いはしないでしょう。

尊良親王 (晴れ晴れとした顔で)義顕、なに言うてんねん。

新田義顕 ・・・。

尊良親王 なぁ、義顕、天皇陛下が比叡山を去られた時の事、おぼえてるやろ?(遠くを見るような面持ちで)

新田義顕 はい。

尊良親王 あの時、陛下はなぁ、京都へお還りになられる前に、この私をみんなのトップに、そして、おまえを、私の股肱の臣(ここうのしん)と、しはったんやないか。

新田義顕 はい。

尊良親王 股肱無くして、トップがつとまるもんかいな。おまえといっしょに行く。

新田義顕 ・・・。

尊良親王 刃(やいば)の上に我が命を絶って、私もあの世に行く・・・あの世に行ってからな、この恨みを晴らす!

新田義顕 殿下!(涙)

尊良親王 なぁ、自害っちゅうのん、いったいどないな風にしたら、えぇんや?

新田義顕 (感涙を押さえながら)・・・殿下、自害とはね、このようにするものなんです!

義顕は、刀を抜いて逆手に持ち、自らの左の脇腹に、

新田義顕 エイ!

右の小脇のアバラ骨2、3本をかき破った後、義顕は刀を抜いて親王の前に置き、そのまま倒れ伏した。

親王は、刀を手に取ってしげしげと見つめた。

尊良親王 つかに、血がべったりやなぁ。これでは、手が滑って失敗するかもしれん。

親王は、衣の袖で刀の柄(つか)をキリキリと巻き、雪のような白い膚をあらわにした。

尊良親王 義顕、今いくからな、冥土の辻でちょっと待っててくれよ・・・エイッ!

親王は、心臓のあたりに刀を突き立て、義顕に重なって倒れ伏した。

藤原行房(ふじわらゆきふさ)、里見時義(さとみときよし)、武田興一(たけだこういち)、気比氏治(けひうじはる)、大田賢覚(おおたけんがく)以下、御前にいた人々も、「では、我らも殿下のお伴を」と、口をそろえて念仏を唱え、一斉に腹を切った。これを見た周囲の武士ら300余も、互いに刺し違えながらその場に重なり伏していった。

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気比大宮司斉晴(けひのだいぐうじなりはる)は、皇太子・恒良親王(つねよししんのう)を城から連れ出し、小舟に乗せた。

気比斉晴 うーん・・・櫂が無い・・・よぉし。

斉晴は、人なみ外れた水泳の達人であった。舟と自分の腰を綱で結び、海上へ出ていった。

斉晴はそのまま舟を引きながら、30里余の海上を泳ぎ渡り、甲楽(かぶらき:福井県・南条郡・南越前町)の海岸にたどり着いた。

誰にも気づかれてなかったので、そのまま杣山城に入ることも容易であったが、

気比斉晴 (内心)尊良親王はじめ、城中の人は一人残らず自害した。なのに、自分一人だけが逃げて命を繋ぐなんてことでは、世間の物笑いになってまうわ。

斉晴は、恒良親王をみすぼらしい漁師の家に預け、漁師に対して、

気比斉晴 このお方はな、やがて、日本国の主になられるお方や。おまえ、何としてでも、このお方を、杣山城へお連れ申し上げるんやで!

そして斉晴は、甲楽浜から引き返し、再び海上を泳ぎ渡って金崎城へ帰ってきた。そして、気比弥三郎(けひのやさぶろう)の遺体を見つけた。

気比斉晴 わしも、ここでいっしょに自害するぞ。

斉晴は、自ら首をかき落として片手に引っ提げ、もろ膚脱ぎのまま、その場に倒れた。

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土岐頼勝(ときよりかつ)、栗生左衛門(くりふさえもん)、矢嶋安崇(やじまやすたか)は、「3人いっしょに腹を切ろう」と、岩の上に立ち並んでいた。そこへ、船田経政(ふなだつねまさ)がやってきた。

船田経政 新田家の運が完全に尽き果てたってんならな、おれたち、みな残らず自害するまでよ。でも、そうじゃねぇだろう? 殿と義助殿は、杣山城におられるじゃぁねぇか。公家の方々だって3、4人、あちらにおられるだろうが。一人でも多く生き残って新田ご兄弟の今後のお役に立ってこそ、真の忠節ってもんだろう。

3人 ・・・。

船田経政 なぁ(何)もせんと自害しちゃって、敵に利を与えて、いったいどうなるってんだ? さぁ、いっしょに来いよ。助かるかもしれん、どっかへ隠れてみようぜ!

3人は、経政の後について、遠浅の波を分けながら、磯のはるか彼方へ歩いて行った。

半町ほど行った所で、波に打たれて大きな穴があいた岩を見つけた。

船田経政 しめた、こりゃ絶好の隠れ場だ。

4人はその後、3日3夜、その穴の中に隠れ通した。彼らの心中、いかばかりであったろうか。

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由良具滋と長浜顕覚は、木戸を守って戦い続けていた。自分の傷口から流れ落ちる血を飲んで、のどの渇きをいやし、力が落ちてきたら、前に倒れている死者の肉を切って食う。

由良具滋 (内心)全員の自害が終わるまで、ここでなんとか食いとめなきゃ・・・。

そこへ、安間利勝(あまのとしかつ)が走り寄ってきていわく、

安間利勝 おまえら、いつまで戦うつもりだぁ? 義顕様は、もう自害なさったぞ。

由良具滋 そうか、じゃ、そろそろおれも。

長浜顕覚 待て待て、どうせ死ぬんだったらな、敵の大将を道連れにしてやろうや。

由良具滋 そうだなぁ、大将らしきヤツの近くに紛れ込んで、そいつと刺し違えてやるか。

50余人は、三の木戸から一斉にうって出て、足利軍3,000余人を追いまくり、その中に紛れ込んで、高師泰の陣に接近していった。

その心意気は猛々しいのだが、長い籠城ゆえに、彼らはみな、やせこけて憔悴しきっており、尋常の姿ではない。足利側の兵らは容易にそれを見分け、彼らと高師泰との間に立ちふさがった。良き敵と刃を交えることもできないまま、彼らは次々と倒されていった。

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戦いは終わった。

金崎城にこもっていた者の総数は160人。うち、降伏して命助かった者は12人、岩の中に隠れて遁れた者4人、残りの者はすべて自害し、戦場の土となった。

地元の人K 今なお、彼らの怨霊(おんりょう)は、あそこに留まっとるようやでぇ。

地元の人L そうやで。月が曇って雨降る暗い夜にはな、あのあたり一帯にはな、泣き叫ぶ声、飢えを訴えるもの悲しい声が、響きわたるんや。

地元の人M わしもその声、聞いた事あるわ。まったくなぁ、ゾォットして、鳥肌立ってきたよぉ。

 匈奴(きょうど)民族掃討のために 我が身を顧みず 郷里を出発してはるか何万里
 兵士ら五千人よ あなたたちは 辺土の土となってしまった
 あぁ憐れなるかな 無定河のほとりに転がる あなたたちの遺骨
 夫の死も知らずに 帰りをひたすら待ち続ける妻は
 春の閨の中に 愛する人の夢を今もなお見る

(原文)誓掃匈奴不顧身 五千貂錦喪胡塵 可憐無定河辺骨 猶是春閨夢裡人

中国唐時代の己亥(きがい)の年の乱に際して、陳陶(ちんとう)が作ったこの「隴西行(ろうせいこう)の詩」の心、ここに思い知られる。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年12月27日 (水)

太平記 現代語訳 18-5 瓜生兄弟の母、脇屋義治をなぐさめる

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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敗軍の兵たちが、杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)に帰ってきた。

里見時義(さとみときよし)、瓜生保(うりうたもつ)・義鑑房(ぎかんぼう)兄弟、保の甥の七郎等、戦死者53人、負傷者500余人と判明。子は父に別れ、弟は兄に死に遅れ、慟哭(どうこく)の声が家々に充満(みちみち)る。

しかし、瓜生兄弟の老母の尼公だけは、あえて涙を見せない。彼女は、脇屋義治(わきやよしはる)の前にきて、

尼公 今回の戦、敦賀へ向かいました者らの失敗のせいで、おん大将の里見殿を、むざむざと死なせてしまいました。義治さまのご心中、さぞかし残念無念であられるやろうなぁと、お察し申し上げます。

脇屋義治 ・・・。

尼公 でもまぁ、これが、かりにですよ、里見殿だけが戦死されてしもぉて、うちのせがれどもは全員無事に帰還、なんて事になってしもてたら、もう、なさけないやら、無念やらで、どうしようもなかったですやろうねぇ。

尼公 保ら3人が、里見殿のおともをしてあの世へ行き、弟3人は、義治さまのお役に立たせていただくために生き残りましたんですからねぇ、嘆きの中の喜びとでも言いますか・・・。

尼公 義治さまの為に、ということで、うちのセガレたちは立ち上がったのですからね、甥や子供が百人、千人討たれようが、わたしは一切、泣き言を言うつもりはございませんですよ! ねぇ、義治さま!(涙)

脇屋義治 うん・・・。(涙)

尼公 (酌をしながら)さぁ、義治さま、元気出して! 一杯いきましょう!

これを見て、意気消沈していた者も、愛する人との別れを歎き悲しんでいた者も、愁いを忘れて再び勇気を取り戻した。

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義鑑房がその最期に臨んで、応援に駆けつけてきた兄弟3人を堅く制した言葉は、「あれほど何度も言ってきたのに・・・」。

まさに彼は、合戦に臨む都度、「もしも敗け戦になったならば、我ら兄弟のうち2人は討死にし、残りは命を全うして、脇屋義治様をお助けするべし!」と、言っていたのである。

これは、古の世に義を全うした二人の人物の事跡に、自らもまた、ならわんとしてのことであった。

古代中国、晋王朝の世、趙盾(ちょうとん)と智伯(ちはく)は、長年にわたって、趙(ちょう)の地をめぐっての争奪戦を展開していた。(注1)

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(訳者注1)これ以降の記述、太平記作者は相当な間違いをしているようで、史記の記述と大幅な食い違いがある。
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その争いも終盤に入り、智伯はついに趙盾の重囲を受けるに至った。

彼は二人の臣下、程嬰(ていえい)と杵臼(しょきゅう)を呼び寄せて、

智伯 わしの運もついに尽きて、今、趙盾の包囲を受けるに至ったわい。夜が明くれば、わしは必ずや、趙盾に討たれるであろう。おまえら二人、わしに忠節の心深くあるならば、ぜひとも頼みたい事がある。

程嬰 殿、なんなりと、お申しつけ下さりませ!

杵臼 殿のお為とあらば、どんな事でも。

智伯 よぉ言うてくれた。頼みと言うは他でもない、今年3歳になったわしのあの息子を、お前らに託したいのじゃ。なんとかして、あの子を敵の目から隠し通し、立派な男に成長させてやってくれい。そして、あの子に趙盾を滅ぼさせ、わしの生前の恥を、そそがせてやってはくれぬか。

程嬰 殿!

杵臼 殿!

智伯 これが、わしの最後の願いじゃ。

程嬰 思うに、殿の御伴を仕って討死にする、これはいと容易なる事。

杵臼 かたや、殿のお子を敵の目から隠し通し、その命を全うさせん事、これは、難事中の難事なるかな。

程嬰 しかしながら、いやしくも臣下たるもの、困難なる道を捨て容易なる道を選ぶ、などということが、ありえましょうや!

杵臼 我ら二人、必ずや、殿の仰せに従いまするぞ。

かくして、程嬰と杵臼は、夜陰に乗じて城を脱出。夜明けとともに智伯は討死、智伯軍は全滅し、長年の争いの的であった趙の地はついに趙盾の所有するところとなった。

やがて趙盾は、程嬰と杵臼が智伯の子供を隠していることを察知し、その子の命を狙うこと、度々。

程嬰は憂慮して、杵臼にいわく、

程嬰 今はなき殿は、我ら二人にご子息を託された。その使命を全うするに、二つの道がある。一方の道は、「死して敵をあざむく道」、もう一つの道は、「しばらく命を長らえてご子息を守りぬき、立派にご成長せしめる道」。さてさて、双方のうちいずれがより困難な道と、貴殿はお考えか?

杵臼 義に向かって一心を傾くれば、死する事への覚悟も、自ずと固まるもの。かたや、生くるは困難極まる事である。ありとあらゆる方向に智をめぐらさねば、全うできぬからのぉ。ゆえに、わしには「死する道」よりも「生くる道」の方が、より困難な道と思えるが。

程嬰 ならば、わしは、難しい方の道を選び、「生の道」を採る。貴殿は、易しい方の道を選び、「死の道」を採られい!

杵臼 喜んで!

程嬰 よくぞ言うた!

杵臼 ならば速やかに、謀をめぐらすべし。

杵臼は、3歳になった我が子を抱きかかえ、「これは智伯の子なり」と世間に公表した。一方、程嬰は、智伯の子供を、「これはわが子なり」と偽って、朝夕にこれを養育した。

そして杵臼は、山の奥深くに隠れた。一方、程嬰は、趙盾のもとに行き、降伏を申し出た。

趙盾はなかなか、程嬰を信用して許そうとしない。程嬰は、重ねて訴えた。

程嬰 せっしゃ、智伯の側近くに長年仕えながら、彼の行状をつぶさに見つづけ、その先を危ぶんでいたのでありまするが、案の定、趙の領土を失う事になってしまいました。趙盾様の徳と力の偉大さは、智伯に比ぶるならばもう雲泥の差。それゆえに、私は今ここに、趙盾様にお仕えせんとして、やってまいりましたのですぞ。亡国の君主のために、賢人の貴方様をたばからんとする事など、ありえましょうや。

趙盾 ・・・。

程嬰 あなたが私めを、臣下の一員に加えてくださるならば、今は亡き智伯の子の居場所を、お教えいたしましょうぞ。杵臼がこっそり養育しているのでありまするが、その場所、私は知っておりまする。一刻も早くその子を殺して、貴方の政権を末長く安泰せしめられんことを。

趙盾 (内心)程嬰は真実、我が臣下にならんと欲しておるようじゃな。

趙盾は程嬰をすっかり信じ込み、程嬰に武官の位を与えて身辺近く召し使った。そして、杵臼が隠れ住んでいる所を程嬰から詳しく聞きだし、数千騎の兵を差し向けて彼を捕えようとした。

杵臼は、かねてから程嬰としめしあわせていた通りに、膝の上にいる我が子を刺し殺して、

杵臼 あぁ、智伯様のお家を再興せんとのわしの計画、ついに露見してしもうたか。今は亡き殿のご子息の運命も、これまでじゃ。

杵臼は、その場で腹をかっ切って死んでいった。

趙盾 よしよし、これで我が家も、子々孫々に至るまで安泰じゃな。わが子孫に害するような者は、おらんようになったわい。

趙盾はいよいよ、程嬰を信頼するようになっていき、大禄高官を授けて国の政治を司らせた。

程嬰の庇護の下、智伯の遺児はついに成人の日を迎えた。そして程嬰は兵を起し、その3年後に趙盾を滅ぼし、智伯の遺児を趙王の座につけた。

智伯の遺児・趙王 すべては程嬰、おまえの功績じゃ。大禄を取らせようぞ。

程嬰 いいえ、それはお受け出来ませぬ! もし私めが官位に登り、禄を得て生を貪るならば、杵臼と共に謀った道に背く事となりまする。

程嬰は、杵臼が埋葬された古塚の前で、自ら剣の上に伏した。かくして、程嬰と杵臼は、共に同じ墓の苔の下に眠る事となった。

以上が、古代中国の程嬰と杵臼の事跡である。今の世の瓜生保と義鑑房の討死もまた、それに劣らぬ立派な行為であると言えよう。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月26日 (火)

太平記 現代語訳 18-4 瓜生兄弟、奮戦するも・・・

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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斯波高経(しばたかつね) うーん、こりゃぁまずい情勢になっちまったなぁ。わが軍の背後に反旗を翻す者が現れでもしたら、もうアウトじゃないか! そいつらに北陸道を塞がれちまったら、金崎城攻めなんか、もうやってられなくなる。ここはとにかく何としてでも、杣山城(そまやまじょう)の連中らの影響力が越前国全域に拡大するのを、防がないといかん!

そこで斯波高経は、北陸地方4か国(注1)の勢力3,000余騎を率いて、11月28日(注2)、蕪木(かぶらき:福井県・敦賀市)から、越前国府(こくふ:注3)に帰還した。

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(訳者注1)原文には明記されてないが、おそらくは、能登、加賀、越中、越前の4か国であろう。前三か国の勢力が杣山城に派遣されているように、前章では設定されているし、斯波高経の本拠地は越前だから。

(訳者注2)前章からこの章にかけて、太平記の日付記述が相当混乱しているようである。前章では極力修正するように努力したが、この章では原文のままとした。

(訳者注3)「国府」とは、国司もしくはその代理が詰めている役所、あるいはその周辺地域の事である。越前国府は現在の福井県・越前市にあった。
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この情報をキャッチした瓜生保(うりうたもつ)は、

瓜生保 斯波に対して、わずかの余裕も与えちゃいかんよ。ここでイッキに攻めたてるんだ!

同月29日、保は、3,000余騎を率いて国府に押し寄せ、まる1昼夜攻め続けて、高経がこもっている新善光寺城(しんぜんこうじじょう:越前市)を攻め落とした。この時の斯波側の戦死者は300余人。捕虜になった者も首を刎ねられ、帆山(ほやま:越前市)の河原に、彼らの首がさらされた。

これ以降、瓜生兄弟に盛り立てられた脇屋義治(わきやよしはる)の勢威は次第に近隣に及んでいき、平泉寺(へいせんじ:福井県・勝山市)や豊原(といはら:福井県坂井市)の衆徒たち、さらには越前国やその他の諸国の地頭(じとう)・御家人(ごけにん)らも、義治のもとに続々と馳せ参じ、引き出物を捧げたり、酒や肴を持参してきたりするようになった。

しかしながら、脇屋義治の気分は一向に晴れないようである。

義鑑房(ぎかんぼう)は義治に、

義鑑房 毎日こんなにめでたい事続きだというのに、いったいどうしたんです? もう少し勇み立って頂いても・・・。

脇屋義治 (いずまいを正して)我が軍が連続勝利をおさめ、敵を多数討てたというのは、たしかにそりゃぁ喜ばしい事ではあります。でもねぇ、考えても見て下さいよ、皇太子殿下はじめ、わが新田家の人々は今もなお、金崎城の中に包囲されてるんだ。

義鑑房 ・・・。

脇屋義治 きっと、食料も乏しくなっていて、とっても苦しい戦を強いられてるんでしょう。城の中の人たち、一時も心の安まる事は無いんじゃぁ・・・そう思うとねぇ、酒宴の場でも、おれは少しも心が浮きたたないんだなぁ。

義鑑房 ・・・。

脇屋義治 ・・・。

義鑑房 金崎城の事は、どうか、ご心配なく。今は、激しい吹雪の天候やから、長距離の行軍は不可能ですけど、もうすぐ天候も回復するでしょう。雪が止んだらすぐに、金崎城の応援に・・・。

義鑑房は、感涙を押さえながらその場を退出した。

垣根ごしにこの会話を聞いていた、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)と小野寺(おのでら)は、

宇都宮泰藤 「好堅樹(こうけんじゅ)という木は、土の中にある時からしてすでに巨大。頻伽羅(びんぎゃら)という鳥は、卵の中にいる時にしてすでに、他の鳥よりもはるかに美しい声で鳴く」という。あの脇屋義治という少年、年に似合わず、なかなか立派なもんじゃないか。自分の親族にあのように思いをはせていくとはなぁ・・・いや、こりゃぁ、頼もしいぞ!

小野寺 あぁ、早いとこ、金崎城の応援に出動したいですねぇ!

彼らは兵を集めて盾を準備させ、「吹雪がおさまり次第、ソク出動!」とばかりに、そのタイミングをじっと待ち続けた。

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1月7日、杣山城内で、盛大なる新年祝賀会が開催された。

1月11日、雪は止み、風も止んで、少しのどかな天候。

脇屋義治は、里見時義(さともときよし)を大将として5,000余人を、金崎城救援の為に敦賀にさし向けた。

全員、吹雪への対策怠り無く、鎧の上に蓑を着て、藁靴(わらぐつ)にはカンジキを装着し、8里の山道を雪踏み分けて、その日のうちに桑原(くわばら:敦賀市)に到達した。

これを迎えうつ高師泰(こうのもろやす)側も準備怠り無く、敦賀湊から20余町ほど東の地点にある格好の防衛ポイントに、今川頼貞(いまがわよりさだ)を大将として2万余騎を差し向けた。彼らは、要所毎に垣盾(かいだて)を立てて、脇屋軍の到着を今や遅しと待ち構えた。

夜明けとともに、脇谷軍の一番手・宇都宮泰藤率いる紀清両党(きせいりょうとう)300余人が、攻撃開始。彼らはまず、坂の中ほどに布陣している足利サイド1,000余人を、はるかかなたの峯の上まで追い上げた。そしてさらに、足利サイド第2陣に襲いかかっていったが、両側の峯からの大量の矢に射すくめられ、やむなく北側の峯へ退却した。

脇屋軍の二番手は、瓜生、天野(あまの)、斉藤(さいとう)、小野寺らが率いる700余騎。太刀の切っ先をそろえて坂を駆け上り、今川頼貞の防衛陣3か所を打ち破った。

さぁっと退く今川軍に入れ替わって、高師泰率いる新手の3,000余騎がこれに相対。瓜生と小野寺の軍は高の軍に退けられ、宇都宮軍と合流せんとして、傍らの峯上へ退く。

これを見た脇屋軍大将・里見時義は、

里見時義 おまえら、きたねぇぞ! 逃げるな、戦え!

時義は、わずかの手勢を率いて横方向から、足利軍中に突入していった。

足利軍リーダーA あぁっ、今、攻撃に出てきたあいつが、敵の大将だぞ。

足利軍リーダーB おまえらな、他のつまんねぇヤツラには目もくれるなよ! あいつだ、あいつをやっちまうんだ!

足利軍リーダーC あいつを包んで、やっちまえ!

これを見た瓜生保と義鑑房は、

瓜生保 おれらが今ここで討死にしなきゃ、わが軍は全滅やろな。

義鑑房 そんな事、もとから覚悟の上よ!

彼らは、たった二人だけで敵陣に突入していった。はるか彼方に退いていた瓜生保の3人の弟・林源琳(はやしげんりん)、瓜生重(しげし)、瓜生照(てらす)は、二人と共に討死にしようと、再び前線に戻ってきた。

義鑑房は、彼らを尻目に睨んでいわく、

義鑑房 あれほど何度も言ってきたのに、もう忘れたのかい。「兄弟のうち、おれたち2人だけが死ぬのならばそれでもいい、でも兄弟全員死んでしまったら、瓜生家の未来は無い」ってな・・・まったくぅ・・・もうっちょっとよくよく、モノゴト考えてくれよなぁ!

義鑑房の激しい言葉に3人は足を止め、少しばかり躊躇した。その間に、足利サイドの大軍は、里見時義、瓜生保、義鑑房の3人を包囲、ついに彼らは討ち死にしてしまった。

桑原からの深い雪の道中、重い鎧を装着しながら踏み分けて来た脇屋軍であった。

脇屋軍メンバーD (内心)あぁ、もう何時間も戦い続けて・・・クタクタだぁ。

脇屋軍メンバーE (内心)おれたちと交替して戦ってくれるような新手のもんら、もうどこにもいやしねぇ。

脇屋軍メンバーF (内心)反撃に出ようにも、それだけの力ももう無いわ。

脇屋軍メンバーG (内心)退却しようにも、足に力が入らん。

あちらこちらに退却した後、その場で自害してしまう者は数え切れないほど。運良く戦場から逃げおおせた者も皆、弓矢や鎧を捨てての逃走であった。

足利軍リーダーA こないだの国府と鯖波の合戦では、こっち側はたくさん武具を捨てちゃったけどぉ、今日の戦で、またそっくり取り戻せたわさぁ。

足利軍メンバー一同 ワッハッハッハ・・・。

いつ死ぬとも分からぬ人間の身でありながら、はかないわが命を延ばさんが為に、人殺しの罪業を互いになす。そのあげくのはての因果応報、死後の世界において、永遠の苦しみを受ける・・・あぁ、人間はなんと、あさましき存在なのであろうか。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月25日 (月)

太平記 現代語訳 18-3 瓜生兄弟、新田陣営へ

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「先帝陛下、吉野に御座あり。近隣諸国より続々と兵が参集」との情報を聞き、京都の周章狼狽(しゅうしょうろうばい)は言うに及ばず、諸国の武士らも、またもや天下の雲行き穏やかならず、と顔を曇らせている。

しかし、それから2か月たった今も、ここ、金崎城(かねがさきじょう:福井県・敦賀市)においては、それを知る人もいない。城の外部との人間の出入りがと絶えているからである。

1月2日、朝凪の中に、櫛川(くしがわ:敦賀市)の河口洲のあたりから金崎めがけて進んでくる未確認遊泳物体を発見。ミルやワカメを採取するために海に潜る海士であろうか、あるいは、波に漂う水鳥であろうかと、城中からよくよく眼をこらして見れば、それは人間であった。亘理新左衛門(わたりしんざえもん)という者が、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)からの密書を髪に結わえ付けて、海を泳いで渡ってきたのであった。

城中は騒然となった。

亘理新左衛門 新田義貞(にったよしさだ)殿は?・・・(ハァハァ)。

新田義貞 おう、おれが新田義貞だよ。

亘理新左衛門 新田殿・・・(ハァハァ)これが・・・(ハァハァ)陛下よりの密書・・・(ハァハァ)。

新田義貞 ご苦労!

密書 パサパサパァ(開かれる音)

亘理新左衛門 ・・・(ハァハァ)・・・・・・(ハァハァ)。

新田義貞 (密書を読んで)エェーッ なんだってぇ!

新田軍メンバー一同 殿、なんて書いてあります?

新田義貞 いやぁー、こりゃ驚いたなぁ。陛下はな、密かに京都を脱出して、今は吉野(よしの)におられるんだとよぉ! 近隣諸国から武士らが続々と陛下のもとに参集、間もなく、京都攻めにとりかかられるんだとよぉ!

新田軍メンバー一同 ウォー! やったぜぇぃ!

天皇よりの密書が城中に届けられたことを察知した、城を包囲する足利側は、

足利側 天皇の京都脱出、なんとか今日まで隠し通してきたのに、ついに知られてしまったか・・・こりゃぁ、ヤバクなってきたなぁ。

一方、城にこもる新田側は、

新田側 そのうち味方の兵が国々で立ち上がって、この城を包囲してる連中らを追っぱらってくれるだろうよ! あぁ、うれしいなぁ!

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瓜生保(うりうたもつ)は、足利側について斯波高経(しばたかつね)の配下に属し、金崎城攻撃に布陣していた。

保の3人の弟たち、重(しげし)、照(てらす)、義鑑房(ぎかんぼう)は、未だ金崎へは向かわず、杣山城(そまやまじょう)にいた。彼らは、昨年10月の新田一族の北陸方面への逃亡の際に、義鑑房が預かって隠し置いていた脇屋義助(わきやよしすけ)の子息・義治(よしはる)を大将に立て、反足利の挙兵をしようと、日々夜々に計画を練っていた。

保は、この弟たちの動向を聞いて、

瓜生保 (内心)うちの弟連中らが、十分な準備もしないまま、謀反起こしてしもぉたら、やばいわなぁ。「謀反の企て、兄のおまえが知らんはずなかろう!」ってな事になって、おれも金崎で殺されてしまうわ。

瓜生保 (内心)となると、おれも弟らと心一つに合わせて、運を天に任せて足利に反旗を翻すしか、しょうがないのかなぁ・・・。でもなぁ、おれたちだけでは心もとないんだわ・・・誰か、この企てに加担してくれる人、いないもんか。

そこで保は、壁に耳を付け、心を人の腹の上に置いて、あれやこれやと、うかがい探ってみた。

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ある日、保は、隣どうしに陣屋を並べていた宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)と天野政貞(あまのまささだ)と3人で集まって、よもやまの雑談に花を咲かせていた。

話題が家々の旗の紋の事になったときに、誰とは知らぬが末座の者が、問うていわく、

末座の者A ところでねぇ、[二引両(ふたつびきりょう)]と[大中黒(おおなかぐろ)]とでは、どっちが勝れた紋といえるんでしょうかねぇ?(注1)

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(訳者注1)[二引両]は足利家の紋、[大中黒]は新田家の紋。
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宇都宮泰藤 そうだなぁ・・・紋の善悪はさしおいて、吉か凶かで論じるならば、大中黒ほどめでてぇ紋はねぇだろう。

末座の者A その理由(わけ)は?

宇都宮泰藤 そのわけはだなぁ、前に政権の座にあった北条家の紋は、三鱗形(みつうろこがた)だったろ? で、今は、二引両全盛の世の中。これを滅ぼすとなりゃ、そりゃぁ、一引両に決まってるわさ。三、二、一の順でね。(注2)

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(訳者注2)三鱗形は鱗が3個。二引両は丸の中に水平線2本。大中黒は丸の中に水平線1本。だから泰藤は、大中黒の事を「一引両」と表現したのである。
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天野政貞 そうだよ、そうだよ。周易(しゅうえき)という易学の書物ではね、「一」という文字を「かたきなし」って読むんだってさ。だからね、この大中黒の紋は、きっと天下を治め、日本全国にことごとく「敵無し状態」になるって事なんじゃないだろうかねぇ。

このように政貞は、文字に関する自らの教養を披瀝した。さらに傍らから別の者が、

同席の者B 天には口がないので、今ここで人の口を借りて、天命を伝えようということでしょうかねぇ、ワハハハ・・・。

憚る所なく笑い戯れている。

瓜生保 (内心)ははぁん、この人らも、足利に対する謀反の心を懐いているようだわね。よしよし。

それ以降、保は、宇都宮泰藤と天野政貞に対して、頻繁に酒を送ったり茶を勧めたりして、急速に二人に接近していった。そしてついに、「後醍醐天皇への忠誠を貫き、足利に謀反しよう」との自らの思いをうちあけた。

それを聞いて、泰藤も政貞も、「そういう事なら、自分もいっしょに」ということになった。

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瓜生保、宇都宮泰藤、天野政貞の作戦会議が開かれた。

瓜生保 こういう事になったんだから、私、すぐに杣山城へ帰って兵を挙げますよ。

宇都宮泰藤 いやね、やっかいな事が一つあるんですよ。諸国からの軍勢がいとまごいもせずに徐々に抜け出して自分の領地へ帰っていくのを食い止めるためにね、高師泰(こうのもろやす)が、四方の口々に関所を設けてるんだ。関を兵でがっちりとかためて、人を通さないようにしてるんだ。

天野政貞 いや、あれはね、絶対に誰も通さないって事でもないんですよ。何か用事がある時には、師泰から通行許可印をもらったら、関所を通れるって事になってるんだ。

瓜生保 じゃぁ、ここは一つうそをついて、関所を通り抜けるとしましょう。

保は、高師泰のもとへ行き、

瓜生保 高師泰殿の馬にやる大豆を、杣山城から取り寄せたいと思ぉとるんやわ。そのためには、人夫150人を城に送る必要があるんや。関所の通行許可印、ちょうだいね。

高師泰の執事の山口祐隼(やまぐちゆうと)は、杉板で札を作り、「この札を持つ人夫ら150人の通行を許可すべし」と書き、判をついて渡した。

保は、この札を受け取って、下の方の判がつかれた部分だけを残し、上の方の文字をみな削り取って、「この札を持つ上下300人(注3)の通行を許可すべし」と、書き直した。

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(訳者注3)「身分の上の者や下の者らから成る集団300人」の意味か。
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このようにして保は、泰藤、政貞と共に、三山寺(みやまてら:敦賀市)の関所を難なく通り抜けてしまった。

杣山城に帰還した保を迎えて、3人の弟は大いに喜び、さっそく脇屋義治を大将に仰いで1月8日、阿久和(あくわ:福井県・南条郡・南越前町)の社の前で、中黒紋の旗を掲げた。

去年の10月に坂本から逃げてきたまま、ここかしこに潜んでいた新田軍残党メンバーが、これを聞きつけて次第に馳せ参じてきたので、間もなくその兵力は1,000余騎までになった。そこで、その中から500騎を割いて、鯖波(さばなみ:福井県・南条郡・南越前町)宿と湯尾峠(ゆのおとうげ:福井県・南条郡・南越前町)に関を設置し、北国街道を塞いだ。

さらに、昔の燧ヶ城(ひうちがじょう:南越前町)跡の南東方向の山中の、水も木材も十分に確保できる険しく切り立った峯に根城を構え、食料7,000余石を運んでそこに蓄えた。これは、万一決戦に負けた際に、そこにたてこもる為である。

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瓜生らの動きをキャッチした高師泰は、

高師泰 あいつらをさっさと退治しとかねぇと、やばい事になる。剣山(つるぎさん)や白山(はくさん)の衆徒連中らがやつらに合流しやがったら、もう大変な事になっちまうじゃねぇか。一刻も早く、杣山城を落とし、金崎城を安心して攻めれるようにしなきゃ。

師泰は、能登(のと:石川県北部)、加賀(かが:石川県南部)、越中(えっちゅう:富山県)の軍勢6,000余騎を、杣山城へ差し向けた。

これを聞いた瓜生保は、要害に敵陣を取らせまいと、新道(しんどう:敦賀市)、今庄(いまじょう:敦賀市)、桑原(くわばら:敦賀市)、宅良(たくら:南越前町)、三尾(みつのお:場所不明)、河内(かわのうち:場所不明)あたり4、5里ほどにわたって、民家を一軒残らず焼き払い、杣山城の麓の湯尾宿(ゆのおじゅく)だけは、わざと焼かずにそのままにしておいた。

1月23日、足利側6,000余騎は、深い雪の中を、カンジキもはかずに出発。8里の山道を1日で踏破して、湯尾宿に到着。そこから杣山まではまだ50町の距離があり、その間には大河が流れている。(注4)

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(訳者注4)日野川。
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足利軍メンバーC あーあ、日も暮れてしもぉたし、今朝から雪の山道を歩きどおしやろ、もうくたびれてもうたなぁ。

足利軍メンバーD 城攻めは明日やねぇ。明日には城に接近して矢合わせをするとしてやねぇ、今日はもうオネンネよ。

足利軍メンバーE さぁて、そこらに家はないかいね。早く横になりたいよぉ。

足利軍メンバーF ここらには、家は少ないねぇ。

足利軍メンバーC やれやれ、どっこいしょっと。(付近の家の中に入って寝転がる)

足利軍メンバーD おれもどうぞ、仲間に入れてくださいまし。

足利軍メンバーE おれも。

足利軍メンバーF おれも。

足利軍メンバーC おいおい、いいかげんにしろやぁ。こんな狭い家の中にどんどん入ってきて。そんなスペース、どこにも無いやろ!

足利軍メンバーD そんな事言ったって、しょうがないやろ、ねぐらに使える家、少ないんやからぁ。みんなで仲良く譲り合わせて、オネンネ、オネンネ。

足利軍メンバーE あぁ、寒い、寒い! 早く火をたこうよ、体、冷えきっちゃったよぉ。

足利軍メンバー一同 ・・・。

足利軍メンバーD あぁ、火ぃついた・・・あぁ、あったかい!

足利軍メンバーE やれやれぇ、これでゆっくり寝れるわな。

間もなく、彼らはぐっすりと寝入ってしまった。

瓜生保 よしよし・・・こちらの作戦通りになった。敵を谷底にまんまと誘い込んでやったわい。

やがて、夜半過ぎ、

瓜生保 そろそろ行くかぁ!

保は、野伏(のぶし)3,000人を背後の山に上がらせ、足軽兵700余人を左右へ配備した後、全軍一斉にトキの声をあげさせた。

瓜生軍リーダー エーイ! エーイ!

瓜生軍メンバー一同 オーウ!

足利軍メンバーC (寝ぼけながら)・・・ふにゃふにゃ・・・遠くの方で、「えいえいおう」とか言ってるなぁ・・・あ・・・うわぁ! 敵襲だぁ!

足利軍メンバーD なにぃ、敵襲だって! おいおい、鎧、鎧、おれの鎧はどこだぁ!

足利軍メンバーE おれの太刀は・・・兜は・・・どこだぁ!

このように驚いてあわてふためいている中に、宇都宮泰藤と紀清両党(きせいりょうとう)の軍が乱入、家々に次々と火を放って行く。

足利側はもうパニック状態である。

鎧を着けた者は太刀を持たず、弓を持った者は矢を持たず、5尺余り積もった雪の上にカンジキもはかずに走り出ていくものだから、胸まで雪に埋まってしまい、足を抜こうとしても抜けない。まさに泥の中に落ち込んた魚も同然。

捕虜になった者は300余人、討たれた者は数えきれない。そこからようやく遁れることのできたわずかの者もみな、鎧を捨て、弓矢を失って、逃げ帰ってきた。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年12月24日 (日)

太平記 現代語訳 18-2 高野山と根来山の確執

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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(訳者注1)ここに出てくる地名は、最後の「如意が嶽」以外は、滋賀県・大津市内にある。「園城寺の焼け跡」については、15-3を参照。「如意が嶽」は山腹に、送り火行事の「大文字」がある山。
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声A おぉい! 大ニュースやぞぉ! 先帝陛下がなぁ、花山院(かざんいん)脱出に成功され、吉野(よしの)に潜行されたそうやでぇ!

声B エーッ ほんまかいなぁ!

声C よぉし!

かくして、近隣の軍勢はもちろんのこと、方々の寺や神社の衆徒や神官に至るまで、天皇のもとへ馳せ参じるもあり、あるいは軍資金や資材を送る者もあり、あるいは祈祷を始める所もあり。

そのような中、根来寺(ねごろじ:和歌山県・岩出市)からは、一人の衆徒も吉野へ来なかった。

これはなにも、根来寺が足利側に味方して天皇に敵意を含んでいたからではない。「後醍醐天皇は高野山・金剛峯寺(こうやさん・こんごうぶじ)をあつく敬われ、方々の領地を寄付され、あそこの寺に対して、様々に願を懸けておられる」と聞き、それを妬んで不愉快に思ったからである。

そもそも仏教徒たるや、柔和をもって宗(むね)とし、忍辱(にんにく)をもって衣(ころも)とするのが本来のあり方。なのに、いったい何故、根来と高野との間に、これほどまでの確執が生じてしまったのか、その詳細、以下に述べる通りである。

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かつて、高野山の伝法院(でんぽういん)に、覚鑁(かくばん:注2)という名の上人(しょうにん)がいた。

覚鑁は仏門に入って以来、一貫して修行に怠り無く、師の徳化を受けながら、心中深く真理を見極める日々を送り続けた。久しい年月を、このような修行の中に過ごしていったのであったが、

覚鑁 (内心)あぁ、あかんわ・・・「生きながらにして、人間は仏になることができるんや」なんてことを、他人には説きながら、この自分は、いったいなんやねん、未だに煩悩の塊やないかいな・・・あぁ、まだまだ修行が足らん。

そこで覚鑁は、求聞持法(くもんじほう:注3)を7回、修した。しかし、

覚鑁 (内心)あぁ、あかん・・・三品成就(さんぼんじょうじゅ:注4)のうちの、どの段階にも、まだ達せてない。

そこで覚鑁は、覚洞院(かくとういん)の勝賢僧正(しょうけんそうじょう)の門下に入り、僧正から印契(いんぎょう)一つ、真言(しんごん)一つを授けられ、百日間の修行に入った。

百日の後、修行は見事に成就。覚鑁は、自然智(じねんち:注5)を得て、浅・略・深の三段階の教義の全てにわたって、人から習わずして、その最深レベルまでを極め、人から聞かずして、悟りを開いた。

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(訳者注2)新義真言宗の開祖。肥前の人。平将門の後裔で正覚坊と号した。14歳の時、京に上りて仁和寺の寛助に従い、奈良に遊んでは唯識・三論を学び性相学を極め、永久元年(1113)高野山に上って明寂に師事し、大治5年(1130)高野山に伝法院を建て、その翌年、大伝法院を建立した。(仏教辞典(大文館書店刊)より)

(訳者注3)虚空蔵求聞持法ともいう。虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を念じて記憶力の強固ならんことを求むる御修法。(仏教辞典(大文館書店刊)より)

(訳者注4)三品悉地(さんぼんしつじ)に同じ。三品悉地=三密(身・口・意)の行業よく果たし得て、妙果を得る三類。上品(じょうぼん)悉地(密厳国に生る)・中品(ちゅうぼん)悉地(十方浄土に生る、西方極楽をも含む):下品(げぼん)悉地(諸天・修羅宮に生る)をいう。(仏教辞典(大文館書店刊)より)

(訳者注5)誰に教わるともなく、自然に悟りが開けた状態。
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これを見てさっそく、我慢(がまん:注6)や邪慢(じゃまん:注7)の天魔波旬(てんまはじゅん)らが蠢動(しゅんどう)しはじめた。

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(訳者注6)ātmamāna 我を恃(たの)んで自ら高ぶり驕るをいふ。(仏教辞典(大文館書店刊)より)

(訳者注7)七慢の中の一。
七慢(しちまん)とは:
 慢心の七種。
 1 慢。劣者に対して優越感を懐き、高ぶること。
 2 過慢。同格者に対して優越感を懐き、高ぶること。
 3 慢過慢。自己より勝れたる者に対し優越感を懐き、高ぶること。
 4 我慢。自己の能ある所を恃み他を凌ぐこと。
 5 増上慢。自己を価値以上に見ること。
 6 卑劣慢(卑下慢)。謙遜して居ながら其事を一の自慢とすること。
 7 邪慢。無徳者が有徳者の如く自己を思ひ誤り三宝を軽んじ高ぶること。
(仏教辞典(大文館書店刊)より)
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我慢天魔 ウーン・・・あの覚鑁めを、なんとかして、シマツせねばなるまいて。

邪慢天魔 あやつの心中に入り込み、かの不退転の修行と学問を妨害すべし。

しかし、覚鑁の信心力は極めて堅固、天魔たちのつけいる隙はどこにもなかった。

ある日、覚鑁は浴室に入って、オデキを湯気で蒸していた。

覚鑁 (内心)あぁ、気持ちえぇ・・・もうちょっと、ここにいよか。

我慢天魔 ・・・。

邪慢天魔 ・・・。

覚鑁 (内心)さ、そろそろ、こっから出て、修行に戻らんと・・・あぁ、それにしても気持ちえぇなぁ・・・もうちょっと、もうちょっとだけ、ここにいよ。

我慢天魔 ムムム、覚鑁の心のバリアーフィールドに、些少の乱流、生じおり。

邪慢天魔 よし、今じゃ、ものども、パワードリルの出力、全開!

邪慢天魔の部下ら一同 御意! ウィーン、ウィーン、ウィーン、ウィーン・・・。

覚鑁 (内心)さ、もう出るぞ、修行、修行!・・・あぁ、それにしても気持ちがえぇ・・・。もうちょっと、もうちょっと・・・。

我慢天魔 覚鑁! バリアーフィールド表層に、特異点生じたり!

邪慢天魔 そこじゃ、そこからあやつの心中に、[争源素(注8)]を注入!

邪慢天魔の部下ら一同 キョイ! シュバシュバシュバシュバ・・・。

バリアーフィールド キィーン!

争源素 ブシュ!

我慢天魔 やったぞ!

邪慢天魔 [争源素]、確かに、入りたり!

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(訳者注8)原文では、「造作魔(ぞうさま)の心」。
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その日以来、覚鑁の心中には、高野山に伝法院を建立し、自分の一派を盛大にしていこうという思いが、ムクムクと湧き起こっていった。

覚鑁は、鳥羽法皇(とばほうおう:注9)に「伝法院建立の儀」を願い出て許可を得た後、堂舎や僧坊を建てた。

伝法院が完成するやいなや、覚鑁はたちまちその中にこもって「永遠なる禅定」に入り、56億7千万年後の弥勒菩薩(みろくぼさつ)の出生の暁をひたすら待ち続けた。

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(訳者注9)1123年に崇徳天皇に譲位後、上皇となり、さらに出家して法皇となった。
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これを聞いた高野山の衆徒らは、

衆徒D あこの伝法院とか言うお堂のお坊さん、あれ、いったいなんやねん!

衆徒E あぁ、覚鑁かいな。ほんまになぁ、いったい自分を何さまやと思うとるんやろ。

衆徒F あれはな、きっと我慢の心に埋もれてしもぉとるんやで。なんせ、弘法大師(こうぼうだいし)様の御入定(ごにゅうじょう:注10)と同じような事をするっちゅうんやから。

衆徒G ほんまに、けしからん!

衆徒H あんな振舞、このまま放置しとけへん! 伝法院なんか、破壊してしまおうや!

衆徒一同 賛成!

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(訳者注10)空海(弘法大師)は高野山奥の院にこもり、禅定の中に遷化されたと、伝えられている。
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衆徒らは伝法院へ押し寄せ、堂舎を焼き払い、御廟(ごびょう:注11)の壁を破って中に入った。

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(訳者注11)ここは原文のままとした。おそらく、覚鑁がこもっている堂を指すのであろう。そこにこもったまま覚鑁が遷化すれば、そこがそく、霊廟となるから、「御廟」としたのであろう。
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衆徒D あれ、おかしいなぁ。覚鑁、どこにもいいひんやん。

衆徒E この室の中には、カルラ炎の光背の中に座すあの不動明王(ふどうみょうおう)像しか、ないなぁ。

ある若い衆徒が走りより、その像を引き倒そうとした。しかし、その身は盤石のごとく、仁王の大力をもってしても動かせそうになく、金剛杵(こんごうしょ)をもってしても砕きがたいように見えた。

衆徒らはこれにも恐れず、

衆徒F いやはや、もったいつけよってからに、覚鑁め! よりにもよって、お不動様に化けたかぁ。

衆徒G そこらの古ダヌキや古ギツネでも、これくらいには化けれるでぇ。

衆徒H よしよし、これがほんまもんの不動明王なんか、それとも、覚鑁が化けよった不動明王なんか、今から識別してみよやないかい。ためしに、石で打って見ようや。

衆徒全員 よっしゃぁ!

彼らは、大きな石を拾って、十方から不動明王像に向かって投げつけた。しかし、投げられた石からは大日如来の真言が発せられ、全く不動明王像に当たらず、途中で微塵に砕けて行くではないか。

この時、覚鑁の心中に、わずかな驕慢の心が起った。

覚鑁 (内心)ははは、君たちが投げる石など、私の体に当たるはずが無い。

と、その時、

石 ヒューーーーン、ビチッ!

覚鑁 (内心)アイタ!

衆徒H ほれ、見てみい、不動明王の額に、血が滲み出できよったぞ。

衆徒G ワーイワーイ、ざまぁ見ろ!

衆徒全員 ウワハハハハ・・・。

これで気がすんだ衆徒たちは、それぞれの房へ帰っていった。

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その後、覚鑁の門徒500坊は、無念やるかた無く、ついに、伝法院の御廟を根来へ移し、そこに真言密教の道場を建立した。

その時の恨みが残っているが故に、高野と根来の両寺の間には、ややもすると確執の心が生じるようになってしまったのである。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年12月23日 (土)

太平記 現代語訳 18-1 後醍醐天皇、京都を脱出し、吉野へ

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「京都へご帰還いただければ、間違いなく、天皇位へご復帰に。」と、足利尊氏(あしかがたかうじ)から様々に言ってくる偽りの言葉を真に受けて、自ら京都への帰還を決意した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)であった。

しかし、すべてはダマシの甘言。花山院の旧殿に幽閉されてしまい、秋風が淋しく吹く中に、心を悩ます日々である。

一面に霜おく朝、遠い寺から響いてくる鐘の音を聞いては、枕から頭をもたげて、我が身の悲哀をかみしめる。御簾(みす)を上げ、梢に雪が積もる京都北山(きたやま)の冬景色を眺めては、かつての御所での数々の遊楽を、涙の中に回顧する。

後宮3千人の花の美女らも一朝の嵐に吹き散らされてしまい、みんないったい、どこへ行ってしまったのやら。夜、寝床へ入っても、かつての栄華の日々は、ただ夢の中に再現するのみ。

御所の紫宸殿(ししんでん)に星辰(せいしん)を連ねるごとく列席していた老臣多数も、満天の雲に覆われて天皇の側に仕える者は一人もいないので、現在の日本の政情に関する情報を得る手段も無い。

後醍醐天皇 (内心)神仏には見捨てられ、逆臣からはこないな酷な仕打ちを受け・・・すべては、わしの不徳の致す所かいな、えぇ? わしがいったい、どないな悪い事をしたっちゅうねん。

後醍醐天皇 (内心)それとも、わしの前世に何か大きな問題があったっちゅう事なんやろかいなぁ? 今のこの苦しみは、前世に積んだ悪業(あくごう)の結果なんやろぉか・・・。

後醍醐天皇 (内心)あぁ、もうあかん、もう絶望や。わし、もう、この世の中がツクヅクいやになってきてしもぉた。

後醍醐天皇 (内心)いっそのこと、寛平(かんぺい)年間に宇多上皇(うだじょうこう)が出家しはったみたいに、わしも、出家してしもたろかいなぁ。花山天皇(かざんてんのう)かて、世をはかなんで出家しはったしなぁ。

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ここに、刑部大輔・景繁(ぎょうぶのたいう・かげしげ)という者がいた。足利側の許可の下、彼だけが、後醍醐天皇のもとへの出入りが可能であった。

ある日、勾当内侍(こうとうのないし)(注1)が、後醍醐天皇に奏上していわく、

勾当内侍 (小声)陛下、ご報告申し上げたい事が・・・。

後醍醐天皇 なんやぁ?

勾当内侍 (ヒソヒソ声)景繁殿より、密かにメッセージが・・・。陛下に、以下のようにお伝えするようにと・・・。

後醍醐天皇 (ヒソヒソ声)なになに?

勾当内侍 (ササヤキ声)「越前国(えちぜんこく:福井県北部)の金崎城(かねがさきじょう)攻防戦において、攻撃側の足利軍は、毎度のごとく敗退。その間に、加賀国(かがこく:石川県南部)の剣(つるぎ)、白山(はくさん)の衆徒らが、新田軍応援のため、富樫介(とがしのすけ)がこもっている那多城(なたじょう:石川県・小松市)を攻め落とし、金崎城の後づめをしようと計画中。この情報を得て、陛下の京都ご帰還の時にお供もうしあげた菊池武重(きくちたけしげ)、日吉加賀法眼(ひよしかがのほうげん)他のメンバーもみな、自らの本拠地へ逃げ帰り、義兵を挙げて一国中をなびかせておるとか。このような情勢ですので、「近いうちに、天下の形勢は再び逆転」との風説が、日本中に満ち満ちております。」

後醍醐天皇 ・・・。

勾当内侍 (ササヤキ声)「陛下、再びチャンスがめぐってまいりました! 急ぎ、京都を脱出なさいませ! 近日のうちに、夜陰に紛れて、大和(やまと:奈良県)方面に動座(どうざ)なさいまして、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)、あるいは、十津川(とつがわ:奈良県・吉野郡・十津川村)あたりに御座所を定められた後、諸国へ、逆賊・足利討伐命令書を送られて、忠臣・新田義貞(にったよしさだ)を助けられ、天子の徳を日本国中に輝き渡しくださいませ!」・・・以上が、景繁殿よりのメッセージでございました。

後醍醐天皇 (内心)そうか、そうか! なにも、絶望する必要なんか無かったんや。日本国中にはまだまだ、わしの帝徳を慕ぉとるもん(者)が多いんや!

後醍醐天皇 (内心)それにしても、ほんまに、なんちゅう嬉しいメッセージなんやろか。これはきっと、天照太神(アマテラスオオミカミ)が景繁の心の中に入り込んで、このようなお言葉をお示しくださったんやで。よーし、いっちょうやってみるかい!

後醍醐天皇 (ササヤキ声)あんな、景繁に、こない伝えよ、「明日の夜、必ず、皇室飼育馬(注2)を用意して、東の小門のへんで待っとれ」とな。

勾当内侍 (ササヤキ声)ハハッ!

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(訳者注1)ここに登場する「勾当内侍」は、おそらく、16-4で登場した「勾当内侍」とは別人である、という設定になっているのだろうと思う。新田義貞と深い関係にあった女性(16-4で登場)が、天皇の近くに行くことは、この状況では不可能であったろうから。(そのような事は、足利サイドに警戒されるので)。

(訳者注2)原文では、「寮の御馬」。
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いよいよ、約束の時刻となった。

後醍醐天皇は、女房姿に変装し、三種の神器(注3)を新任・勾当内侍(注4)に持たせて、近所の子供らによって踏み開けられた築地の崩れた箇所から、花山院を脱出した。

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(訳者注3)これが、本物の神器という事になるのであろう。17-10では、天皇は足利直義に、ニセの神器を渡した、ということになっている。

(訳者注4)原文では、「新勾当内侍」。この人は、この節に登場した「勾当内侍」(景繁よりのメッセージを天皇に伝えた)と、同一の人、という設定になっているのであろうと思う。
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景繁 陛下、お待ち申し上げておりました。

後醍醐天皇 おぉ!

景繁 陛下、さ、この馬にどうぞ。神器は、私が背負います。

後醍醐天皇 よし。

彼らは、夜が明けないうちに奈良街道へ入り、梨間宿(なしまじゅく:京都府・城陽市)まで進んだ。

景繁 さて、問題はここからですわ。白昼に奈良周辺をこないな姿で通っていったんでは、怪しまれますから。

そこで、天皇を粗末な張輿(はりごし)に御乗せし、お供する院警護担当らにそれを担がせた。三種神器を足つきの大型食器に入れて蓋をし、景繁は人夫姿に変装してそれを背負った。寺社参りをする人の弁当箱を付き添いの者が背負っているかのように、見せかけたのである。

景繁 (内心)まぁ、それにしても、慣れへん事ばっかしやなぁ。あせりにあせるんやけど、なかなか先に進めへん。

その日の暮れ頃、ようやく内山(うちやま:奈良県・天理市)までたどりついた。

景繁 いやいや、まだまだ安心できしまへん。足利側の追跡の手が、ここまで伸びてくるかもしれませんからな、今夜のうちに何としてでも、吉野のあたりまで進んどかんと、どんなりまへん。陛下、もうひとふんばり、お願いいたします!

後醍醐天皇 よっしゃ!

ここから再び、天皇は馬上の人となった。

時は12月21日の夜、道は暗く、いったいどちらに進んで行けばよいのか、さっぱり分からない。

その時、にわかに光明(こうみょう)が!

景繁 おぉ、あれ、いったいなんや!

春日山(かすがやま:奈良市)の上から金峯山(きんぷさん:吉野町)の方角めざして、光り輝く飛行物体が進んでいくではないか。

後醍醐天皇 まるで、空に松明がともったようやなぁ。

景繁 助かった・・・これで、我らの進路、はっきり見えますわ!

その不思議な光は夜通し、天を輝かし、地を照らし続けた。そのおかげで、明け方に、一行はようやく大和の賀名生(あのう:奈良県・五條市)という所にたどりつけた。

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この賀名生という所は、人里遠く離れて人家も少なく、山深い所で、鳥の声さえもほとんど聞こえない。住民は、柴のようなものを囲って住居としており、食料はといえば、野から掘り取った山芋のみである。

このような地域なので、御座所とすべき適当な場所もなく、陛下の食事にふさわしいような物を得る事ができない。

景繁 (内心)こないな状態では、どうしょうもないわ。ここはやっぱし、吉野らへんの衆徒どもを説いて、こちらの味方に引き入れて、陛下を吉野へお移し申し上げるべきやろぉなぁ。

景繁はすぐに吉野へ赴き、吉水院(よしみずいん)住職の宗信法印(しゅうしんほういん)に援助を依頼した。

さっそく、宗信の主宰の下、吉野中の衆徒らが、蔵王堂(ざおうどう)に集まって会議を開いた。

衆徒A 古(いにしえ)の時代、天武天皇(てんむてんのう)が大友皇子(おおとものみこ)に襲われはった時に、ここ、吉野に逃げてきはったんやわなぁ。(注5)

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(訳者注5)壬申乱(じんしんのらん)の初期に。
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衆徒B そうやそうや。天武天皇は、ここで勢力を盛り返さはってな、それから間もなく、天下を平定しはったんや。

衆徒C その先例にならうならば、今、先帝陛下がここに来られるっちゅう事に対して、我らとしても異議は一切唱えるべきではないやろ。

衆徒D それにほれ、昨夜(ゆうべ)のあの不思議な光! あの光が陛下の前に、奈良からここ吉野への道すじを、明々と照らし出したんやないかいな!

衆徒E あの光明こそはまさしく、この蔵王堂の鎮守であらせられる蔵王権現(ざおうごんげん)、さらには、子守(こもり)神社の神様、勝手大明神(かってのだいみょうじん)様らが、三種神器を擁護(ようご)し、万乗の聖主(ばんじょうのせいしゅ:注6)を守護されているっちゅ事の、何よりの証(あかし)やないかい!

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(訳者注6)天皇のこと。
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衆徒F もはや一刻の猶予も許されん、早いとこ、陛下を、吉野にお迎えしよう!

というわけで、若手の衆徒ら300余人が全員甲冑を着して、賀名生まで、後醍醐天皇をお迎えに来た。

さらに、楠正行(くすのきまさつら)、和田次郎(わだじろう)、真木定観(まきじょうかん)、三輪西阿(みわせいあ)も、そこに馳せ参じてきた。

紀伊国(きいこく:和歌山県)からも、恩地(おんぢ)、牲河(にえかわ)、貴志(きし)、湯浅(ゆあさ)らが、500騎、300騎と続々、馳せ参じてきた。

参集してきた武士多数に輿の前後を囲まれながら、後醍醐天皇は、吉野へ移った。

後醍醐天皇周辺の人G 春雷(しゅんらい)ひとたび、天に轟(とどろき)きわたる時、

後醍醐天皇周辺の人H 土中に篭(こ)もりし虫も、蘇生(そせい)して蠢(うごめ)き出す。

後醍醐天皇周辺の人I あぁ、まさに、そないな気分やぁ!

後醍醐天皇周辺の人J 陛下の聖運、たちまちにして開け、

後醍醐天皇周辺の人K 天皇を助ける良き臣も、ここに既に出現。

後醍醐天皇周辺の人L ああ、ついに我らに、歓喜の時ぞ来たれり!

後醍醐天皇周辺の人全員 さぁ、やるで、やるでぇ! これからイッキに、巻き返しやぁ!

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(訳者注7)
訳者はかつて、上記中の[吉水院]に行ったことがある。そこは現在、[吉水神社]になっていた。

明治時代の神仏分離により神社になったのだが、元は、(蔵王堂のある)金峯山寺の僧坊だったようだ。

[吉水神社]には、吉野朝廷に関連の文化財や資料が豊富に残されており、多くのものが一般公開されていた。後醍醐天皇の玉座があったという部屋も見る事ができた。

ここは、源義経にもゆかりが深いようで、[義経潜居の間]という部屋もあった。

境内には、[弁慶の力釘]というものもあった。

境内に、「一目千本」と名づけられた、見晴らしの良い場所があった。

吉野は桜の名所のようで、「下千本」、「中千本」、「上千本」、「奥千本」の4つのエリアがある。
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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年12月22日 (金)

太平記 現代語訳 17-15 足利軍、再び金崎城を攻める

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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敦賀方面よりの足利サイド使者 ・・・と、いうわけで、杣山城(そまやまじょう)から引き返してきた脇屋義助(わきやよしすけ)ら16騎にだまされ、金崎城(かねがさきじょう)を包囲していた軍勢は、四方に退散してしまいましてぇ・・・。

足利尊氏 ・・・まったく・・・ナニやってんだ・・・(右手を握りしめ、イライライラ)。

足利サイド使者 ・・・。(平伏)

足利サイド・リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・もっと大量の兵を、金崎城に差し向けよ!

足利サイド・リーダー一同 ハハッ!

さっそく、大軍が動員された。

越前国守護・斯波高経(しばたかつね)は、北陸地方の軍勢5,000余騎を率いて、甲楽(かぶらき:福井県・南条郡・南越前町)より金崎城へ向かう。

仁木頼章(にっきよりあきら)は、丹波(たんば)、美作(みまさか)の軍勢1,000余騎を率いて、塩津(しおづ:滋賀県・長浜市)から。

今川頼貞(いまがわよりさだ)は、但馬(たじま)、若狭(わかさ)の軍勢700余騎を率いて、小浜(おばま:福井県・小浜市)から。

荒川詮頼(あらかわあきより)は、丹後(たんご)の軍勢800余騎を率いて、疋壇(ひきた:敦賀市)から。

細川頼春(ほそかわよりはる)は、四国の軍勢2万余騎を率いて、東近江(ひがしおうみ)方面から。

高師泰(こうのもろやす)は、美濃(みの)、尾張(おわり)、遠江(とおとおみ)の軍勢6000余騎を率いて、愛発・中山(あらちなかやま:敦賀市)から。

小笠原貞宗(おがさわらさだむね)は、信濃(しなの)の軍勢5000余騎を率いて、新道(しんどう:福井県・南条郡・南越前町)より。

塩冶高貞(えんやたかさだ)は、出雲(いずも)、伯耆(ほうき)の軍勢3000余騎を率い、軍船500余隻にて、海上を金崎へ向かう。

これら足利軍合計6万余騎、山には陣地を構築し、海には船筏(ふないかだ)を組み、金崎城の四方をビッシリと包囲した。

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金崎城は、三方が海に面している(注1)。崖は高く、岩は滑らかで、登っていく足がかりもない。南東の方に、城と陸続きになった山が一つある。山頂の高度は城よりも少し高いから、そこに登れば、攻城側は城を見下ろせる態勢にはなる。しかし、そこと城との間は絶壁によって隔てられているから、そちらの方向から城に接近するのも非常に困難である。山から見わたせば、城は一片の雲の上に屹立(きつりつ)、遠距離射撃を試みても、放つ矢はことごとく、深い谷底へ落ちていく。

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(訳者注1)[地理院地図]にアクセスして、[敦賀市 金ヶ崎城跡]等のキーワードで検索すると、この地域の現在の地形を知ることができるかもしれない。地図上で右クリックしたら、クリックした地点の標高が表示された。
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足利軍リーダーA この地形ではなぁ・・・どんな作戦たててみたって、城の下へつめ寄れそうもねぇなぁ。

足利軍リーダーB でもさぁ、あそこの城にこもってる人数、多かねぇぜぇ。

足利軍リーダーC こっちサイドは、あっちの何10倍もの大軍じゃぁねぇの!

足利軍リーダーD あそこにこもるは、名将・新田義貞(にったよしさだ)とその一族全員。

足利軍リーダーE こっちは、将軍様の家来衆なんだぜ。威力をふるって、向かっていくだけのことよ!

足利軍リーダーF そうだよぉ。足利と新田の両家の争い、あの城を落とせるかどうかで、決まるんだ。

足利軍リーダー一同 よぉし、やるぜぃ!

足利サイドは一心に、一時もたゆむことなく、城を攻め続けた。

矢に当たって傷を負い、石に打たれて骨を砕かれる者は、毎日千人、二千人。しかし、金崎城の逆茂木(さかもぎ)の1本さえをも、破ることができない。

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小笠原貞宗 このままじゃ、いつまでたってもラチあかねぇずら。攻め方を変えてみるか。

貞宗は、自軍の中から屈強の兵800人を選りすぐって、コマンド部隊を編成。

部隊は、城の東山麓から進み、南東角の尾根を斜めに横切り、楯を頭上にかざして登っていった。

まさにこの方面こそが、金崎城の急所であったのであろう、二の木戸がサァッと開かれたと見るや、城中から300余人が、一斉にうって出てきた。

双方接近の後、弓は使わず太刀を打ちあっての白兵戦となった。

新田軍メンバー一同 (内心)この一角を敵に渡してたまるか・・・渡してしまったら最後、ここからイッキに攻め込まれてしまう!

守る側は、危機感に燃え、一歩も退かない。

小笠原コマンド部隊メンバー一同 (内心)ここでフガイなく退いたんじゃ、敵にも味方にも笑われるじゃん!

攻める側も、命を捨てて戦う。

数において劣る新田軍サイドに、やがて疲れが見えてきた。

その時、栗生左衛門(くりふさえもん)が登場。

火威(ひおどし)の鎧に龍頭の兜を夕日に輝かし、5尺3寸の太刀と八角に削った長さ1丈2、3尺ほどの樫の棒をうち振るい、小笠原コマンド部隊の大軍中に突入。棒を片手で2、30回振り回し、連続打撃。

栗生左衛門の棒 ビュー、ドシャ! ビュー、ドゥ! ビュー、ヅゥーン!

たちどころに小笠原サイドの武士4、50人、上からドウと打ちすえられて尻餅をつき、下から中天にヅンと打ち上げられて、砂の上に倒れ伏す。

これを見て、後続の者たちはしどろもどろになり、波打ち際に群がって立ち尽くす。そこへさらに、気比大宮司(けひのだいぐうじ)・太郎、大学助(だいがくのすけ)、矢嶋七郎(やじましちろう)、赤松大田帥法眼(あかまつおおたのそつのほうげん)ら4人が、ズンズンと切り込んでいく。

小笠原コマンド部隊メンバー一同 こりゃ、とてもかなわねぇ。

小笠原コマンド部隊800余人は、一斉にドッと退き、自陣に帰っていった。

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今川頼貞は、この日の戦いの経過を見て、作戦を練った。

今川頼貞 (内心)今日、小笠原軍団が攻略を試みた地点、どうやらあそこが、金崎城の急所ポイントのようだ。だからこそ、新田側も城の中からうって出てきて、必死に戦ったんだろうよ・・・そうだよ、城攻略の突破口は、ゼッタイにあそこなんだ・・・でもなぁ・・・陸路を経由して城に詰めよっていくんでは、どうしても地の利が悪いから、今日の小笠原軍みたいに、簡単にやられてしまう・・・船を使って、あの地点に兵を送り込んでみようかな。

翌日、今川軍メンバーらは、小舟100余隻に乗り、小笠原コマンド部隊が攻めよせた地点に向かって漕ぎ寄せた。

上陸するやいなや、彼らは、城の切岸の下の枝つき逆茂木を1ライン分取り除き、出塀(だしへい)の直下地点まで進んだ。

昨日と同様に、城内から200人ほどが、一斉にうって出てきた。今川軍500余人は、あっという間に追い落とされ、我先にと舟に乗り込んだ。

沖合いはるかまで舟を漕ぎ出してから、城を振り返ってみると、

今川軍メンバーG おい、あれ見ろ、誰か、あそこに取り残されちゃったようだ!

磯に生えた小松の陰に、負傷者が一人取り残されている。彼は、太刀を逆さまに突き、叫んでいる。

中村六郎 おぉーい、頼むぅー! 舟をここへー!

しかし、今川軍メンバーらは、みな口々にあれよあれよと言っているだけ、六郎を助けに行こうとする者は一人もいない。

播磨国(はりまこく)の住人・野中貞国(のなかさだくに)はこれを見て、

野中貞国 あいつがあこに取り残されとぉ事に、誰も気ぃつかんまんま、退却してしもた、いうんやったらな、そらぁもぉ仕方ない事やろけど。そやけどな、味方の舟に乗り遅れた人間が、必死に助け求めとぉんを見ながら、ムザムザ見殺しにするやなんてこと、できるはずないやろが! おい、この舟、あこまで漕ぎ戻せ! あいつ、助けたろやないか。

しかし、貞国の言葉を聞く者は誰もいない。

野中貞国 えぇいもぉ!(大怒)・・・こら、その櫓(ろ)、よこせ!

貞国は、漕ぎ手から櫓を奪い、それを舳(へさき)の所に艫(とも)に向けて、立てた(注2)。そして、自ら漕いで舟をバックさせ、遠浅になった所から海中に飛び降り、単身、六郎のもとへ歩み寄っていった。

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(訳者注2)原文では、「逆櫓(さかろ)に立」。当事の軍船は、このような操船を行うことによって逆進させることができたようだ。
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城内の武士たちはこれを見て、

新田軍メンバーH あの負傷して舟に乗り込めなかったヤツ、きっと敵の主要メンバーだよ。

新田軍メンバーI きっとそうだろう。だから、あいつを討たせないようにな、沖合いはるかまで一度は退いたのに、また引き返してきたんだな。

新田軍メンバーJ あそこまで下りてって、あいつの首、取っちまおうや。

新田軍メンバー十数人 よぉし!

12、3人ほどが城から出てきて、中村六郎の後方へ走り寄ってきた。

野中貞国は、それを見てもいささかも動ずることもなく、長刀(なぎなた)の柄の先端を伸ばして、

野中貞国 エーィ! ヤァー!

貞国は、向かってくる新田軍の武士の膝を払った後、彼を切りすえた。その首を取って長刀の切っ先に突きさしてから、六郎を肩にかついで、静かに舟に乗り込む。

新田サイドも足利サイドもこれを見て、全員、貞国を誉めそやす。

新田軍メンバー一同 イェーィ、敵ながら、立派なもんだなぁ。

足利軍メンバー一同 イヤァー、まさに野中貞国こそは、あっぱれ剛の者だぁ!(ピューピュー、パチパチパチ)

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これより後は、さしもの大軍を擁する足利サイドも、

足利軍リーダーA いやぁ、まいったねぇ。

足利軍リーダーB 新田側の防衛力、じつに頑強である。

足利軍リーダーC どうやってあの城、攻めたらいいんだか、もう分かんなくなってきちゃったぁ。

というわけで、足利サイドは、城を遠巻きに包囲して逆茂木を設置し、向櫓(むかいやぐら)を構築。ただただ、遠矢を射るだけの日々が過ぎて行く。

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2017年12月21日 (木)

太平記 現代語訳 17-14 金崎の船遊び

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田軍メンバーA 昨日までは、この城、百重千重に包囲されてたのによぉ。

新田軍メンバーB それがどうだい、栗生のたてた計略イッパツでもって、この近辺に敵と名のつくもん(者)、一人もいねぇようになっちまったじゃん。

新田軍メンバー一同 もうほんと、タダゴトじゃぁ、ねぇよぉ・・・。

金崎城内の人々の、喜ぶこと限りなしである。

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10月20日の曙、雪は止んだ。敦賀湾岸や周囲の山々は白銀に輝き、海上を行く漁船の上には、夜明けの月がこうこうと輝いている。陣幕に風ははためき、冬にも色を変えぬ松ながら、一面に花が咲いたかのようである。(注1)

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(訳者注1)原文では、「江山雪晴て漁舟一蓬の月を載せ、帷幕風捲て貞松千株の花を敷り」

山の松に雪が積もった様をこのように表現したのであろう、と訳者は解釈した。
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公卿A 親王殿下におかれましては、こないな珍しくも美しい風景、一度もご覧になられたこと、あられませんやろなぁ。

公卿B ほんになぁ。今までずっと、京都にいはったんやから。

公卿C どうでっしゃろ、親王方のつらいお旅の道中、少しでもお慰めさせていただくために、雪見遊覧船出すっちゅうのは?

公卿一同 おぉ、よろしぉまんなぁ!

ということで、浦々から船を用意させ、うち2隻を1対に結合し、龍の頭と鷁(げき)の頭をそれぞれの船首に飾り、御座船とした。そしてそれに親王を乗せて、雪見に出発。

船上では、恒良親王(つねよししんのう)と尊良親王(たかよししんのう)が琵琶を弾き、洞院実世(とういんさねよ)が琴、新田義貞は横笛、脇屋義助は箏(しょう)、川嶋維頼(かわしまこれより)が打楽器。

「蘇合香(そごうこう)の序3部」、「万寿楽(まんじゅらく)の破」と、順に、曲は進む。

管弦はノリにノリ、独唱にバックコーラスが和し、ハーモニーも伸びやかに、音楽の伝統に正しく則った見事な演奏。天部(てんぶ)の衆もここに天下り、龍神もこれを納受せられるか。9回奏される「簫韶(しょうじょう)」を聞けば、鳳凰(ほうおう)も天空を舞い、魚は波上に躍るかと思われるほど。

心を持たぬ魚類(注2)までもが、この演奏に感じ入ったのであろうか、水中より一匹の魚が跳(おど)り、御座船の中に飛び込んできた。

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(訳者注2)原文では、「誠に心なき鱗(うろくず)までも」。
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これを見て、洞院実世は、

洞院実世 古代中国・周(しゅう)の武王(ぶおう)は、800諸侯を率いて、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)を討たんと、孟津(もうしん)を渡りました。その時に、白魚が跳ねて武王の船に飛び込んだと言います。武王は、この魚を天帝に捧げました。はたして、天は武王に味方し、彼は戦いに勝利、殷王朝をついに滅ぼして、周王朝800年の扉を開いたんですわ。

洞院実世 今、我々の眼の前に起こったこの奇瑞(きずい)、まさしくそれと同じです。さぁ、早いとこ、この魚を天に捧げて、祝いましょう!

さっそく料理人がこれをさばき、天にお供えした後、その肉を恒良親王に奉った。

親王の酒の酌をつとめる嶋寺(しまでら)の袖(そで)という名前の遊女が、拍子を打って歌いだした。

 ここには 豪勢な翠(みどり:緑)色の帳(とばり)もない
 色あざやかな 紅の閨(ねや)だってないわ
 宮中のお方たちと あたしたち下々(しもじも)の人間とでは
 礼儀も作法も まるで違うんでしょうねぇ
 でもさぁ
 たとえ舟の中 波の上でも
 人間 楽しけりゃぁ それでいいのよね
 どこへいったって 楽しさに 変わりがあるわけじゃなし

 (原文)翠帳紅閨 萬事之禮法雖異 舟中波上 一生之歓會是同

彼女の優美な歌を聞き、親王をはじめ列席メンバーは感極まり、みな、鳴咽の涙に袖を濡らした。

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2017年12月20日 (水)

太平記 現代語訳 17-13 新田軍、計略をもって、金崎城の囲みを解く

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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今庄浄慶(いまじょうじょうけい)と由良光氏(ゆらみつうじ)との交渉の結果を最後まで見とどけないまま、「この分では、金崎(かねがさき:福井県・敦賀市)へ行くことなど、とてもムリ」と、早々に判断してしまった者は多かった。鯖波を出た時には250騎であったが、あちらこちらへ逃げ去ってしまい、残るはわずかに16騎になってしまっていた。

一行はそのまま、金崎城めがけて馬を進めた。

深山寺(みやまでら:福井県・敦賀市)のあたりで一人の樵(きこり)に出会ったので、金崎方面の情勢を問うてみると、

樵 あぁ、あそこの城はなぁ、昨日の朝から包囲されてるよ。方々の国から軍勢がやってきてねぇ・・・そうさなぁ、2、3万騎はいるんかなぁ・・・城を百重千重に取り巻いて、攻めてるよ。

脇屋義助 そうか・・・。

新田軍メンバー一同 ・・・。

脇屋義助 これから先、おれたち、いってぇどうしたもんかなぁ。

新田軍メンバーA ここから東山道(とうさんどう)経由で、人目を忍びながら越後をめざすってのは?

新田軍メンバーB いやいや、もうこれ以上何をやっても無駄。今すぐ全員、腹切ってしまおう。

このように様々の意見が飛び交う中に、栗生左衛門(くりふさえもん)が、進み出て、

栗生左衛門 どのルートを選んだにしても、越後までは長い長い道のりなんです、行き着くのはとても不可能でしょう。旅人姿に変装したって、召使いの一人も従えてない旅人が、疲れて道を行くんですからね、すぐに、落人(おちうど)だって分かってしまうじゃないですか。

新田軍メンバー一同 ・・・。

栗生左衛門 かといって、全員、ここで腹を切るってのもねぇ・・・それって、あまりにも、あきらめ早すぎゃしませぇん?

新田軍メンバー一同 ・・・。

栗生左衛門 あのね、おれの考え、ちょっと聞いて下さい。まず今夜は、この山中で人目を忍んで夜を明かす。で、明日の夜明けごろに、金崎城を包囲してる敵軍のまっただ中へ、突撃する、「おぉい、杣山城(そまやまじょう)からたった今、後攻め(ごづめ)にやってきたぞっ!」って、大声で叫んでね。運よく敵がパニック状態になってくれて、城の包囲網に穴が空きゃシメタもん、そこをくぐり抜けて、金崎城へ入る。

新田軍メンバーB 敵が踏みとどまって、おれらの前に道が開かなかったら?

栗生左衛門 その時はね、やつらと思う存分太刀を打ち交わしてね、おん大将・義貞様の見ておられる前で、討死にするまでのことよ。死んで骨になろうとも、オレたちの名だけは後世に残るでしょうよ。

新田軍メンバー一同 よし、それで行こう!

新田軍メンバーA だったら、こちらの人数を少しでも多く、見せかけるようにしときたいよね。

新田軍メンバー16人は、鉢巻きと上帯を解いて青竹の先に結び付けて旗のように見せかけ、こちらの梢、あちらの陰に立て置き、夜明けをじっと待った。

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鶏が3度鳴いた。山の端が、雪の積もった所から次第に明るくなってくる。たなびく横雲も見えてきた。

脇屋義助 よぉし、行くぞ!

16騎は、中黒紋の旗1本を掲げ、深山寺の木陰から敵陣の後方に駆け出して、口々に叫ぶ、

新田軍メンバーA 瓜生(うりう)家、

新田軍メンバーB 富樫(とがし)家、

新田軍メンバーC 野尻(のじり)家、

新田軍メンバーD 井口(いのくち)家、

新田軍メンバーE 豊原(といはら)家のメンバーら、ただいま参上!

新田軍メンバーF 平泉寺(へいせんじ)、

新田軍メンバーG 剣(つるぎ)、

新田軍メンバーH 白山(はくさん)の衆徒も、同じく参上!

新田軍メンバーI 総勢2万余で、金崎城の援護にやってきたぁ!

新田軍メンバーJ 城の中の人々ぉー、さぁ、そっちらからも、うって出ろぉー、足利軍を挟み打ちだぁー!

新田軍メンバーK まっ先にうって出てくんの、誰と誰ぇー? そいつらの戦いぶり、臆病か勇ましいか、城の中からよくよく見といてなぁー、後で恩賞決定する時に、証人になってやれよぉー!

脇屋義助 エーイ! エーイ!

新田軍メンバー一同 オーーウ!

まっ先に進む武田五郎(たけだごろう)は、京都の戦で切られた右の指の傷が未だに癒えず、太刀の柄(つか)を握る事が出来ない。仕方なく、杉の板でもって木太刀を作り、右腕に結わえ付けて戦っている。

二番手に進むは、栗生左衛門。帯副(はきぞえ)の太刀(注1)が無いので、周囲1尺ほどの太さの深山柏(みやまかしわ)の木を1丈ほどの長さに切り、鉄棒のように見せかけて右の小脇に挟み、敵の大軍の中に踏み込んでいく。

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(訳者注1)予備のための刀。太刀に添えて、腰に帯びる。
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これを見た、金崎城を包囲している足利サイド3万余騎は、「馬はどこだ、鎧はどこだ」と大慌て。新田側の策略にはまり、深山寺方面に立ち並べた旗が、木々を揺るがす強風に翻るのを見て、「後詰めの勢力は大軍だ」と思いこんでしまった。包囲の最前線に位置していた若狭(わかさ)国と越前(えちぜん)国の武士たちは、楯を捨て、弓を引く事も無く、サット退いてしまった。

城中の新田軍800余人は、これを見て、海岸の西方へ、あるいは、氣比神宮大鳥居の前へと、城からうって出てきた。

城の周囲に充満していた足利側の大軍は、あわてふためいて十方へ逃げる。後から退いてくる味方を敵軍と思いこみ、返し合わせて同士討ち、あるいは自分の前を横切って逃げていく友軍を敵軍と見誤り、立ち止まって自害する。戦場から2里3里隔たっても、まだ逃げ足が止まらず、追う者もいないのにどんどん城から遠ざかり、みな、自分の本拠地へとんで帰っていってしまった。

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2017年12月19日 (火)

太平記 現代語訳 17-12 脇屋義助、杣山への入城ならず、金崎への帰還を目指す

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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10月14日、脇屋義助(わきやよしすけ)と新田義顕(にったよしあき)は、3,000余騎を率いて、敦賀(つるが:福井県・敦賀市)の港を立ち、杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)へ向かった。

瓜生(うりう)家の保(たもつ)、重(しげし)、照(てらす)の三兄弟は、種々の酒や肴を用意して鯖波(さばなみ)宿(南越前町)まで出向き、彼らを歓迎した。さらには、人夫5、600人に食料を運搬させて新田軍メンバーに与え、上を下にも置かないもてなしぶりである。これを見て、新田軍の大将も士卒も、瓜生家の人々を頼もしく思った。

献杯が下の者まで順に回った後、脇屋義助が飲んだ盃を、瓜生保が席を立って頂き、三度傾けた。その後、義助は保に、白幅輪(しろふくりん)の紺糸おどしの鎧1両を贈った。保は、瓜生家の面目身に余りと、感じ入っているようであった。

瓜生保は、館へ帰還した後も、新田軍の両大将(義助、義顕)のもとへ、様々な色の小袖(こそで)20着を贈り届けた。さらに、新田一族やその他のメンバーらが薄い着物しか着ていないのを見て、「痛々しくて、とても見てはおれない。メンバーお一人に小袖一着ずつ仕立てて、お贈りするとしよう。」と思い、蔵の中から、絹布や綿布を数千疋取り出し、裁縫を急がせた。

そのような所に、斯波高経(しばたかつね)よりの密使がやってきた。

使者 瓜生殿、これをご覧ください。先帝が発せられた命令書ですよ。ほらね、「新田義貞一族を追討すべし」って、書いてありますでしょ。

瓜生保という男、元来深く考える性質ではない。それが、足利尊氏(あしかがたかうじ)が偽造した命令書である、などということには、到底考えが及ばなかった。

瓜生保 (内心)うわっ! こりゃぁいかんでぇ。朝廷からおとがめ受けた無法の人らに味方してもて、大軍を動かすだなんて事をしたら、そらもう、わしゃぁ、天罰受けることになるでぇ。

保は、たちまち心変わりしてしまい、杣山城へこもって木戸を閉ざしてしまった。

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瓜生保の弟で禅僧の義鑑房(ぎかんぼう)という人がいた。

彼は、鯖波宿へ急行して脇屋義助らに面会した。

義鑑房 兄の保はねぇ、ほんと、じつに愚かな人間ですわ。足利尊氏がムリヤリ、天皇陛下に書かせた命令書を、まともに受けとってしまい、たちまち、貴方がたに敵対する意志を、かためてしまいました。

脇屋義助 なんだってぇ!

義鑑房 私がもしも弓矢を取る身であったらね、そりゃぁもう、兄と刺し違えて、共に死ぬところでしょうよ。でもまぁ、見てのとおりの、僧侶の身ですからねぇ・・・そんな事をしたら、仏様からおしかりを頂くから、黙って見ているしか、しようがなかったんです・・・じつに、口惜しい限りです。

脇屋義助 うーん・・・。

義鑑房 でね、私、色々と考えてみたんですけど・・・保にしても、だんだん詳しい事情がわかってくれば、最後は、貴方がたのお味方につくでしょう。

脇屋義助 ・・・。

義鑑房 もしかして貴方がた、幼いお子様を大勢引き連れての、行軍の途上では? だったら、その中から一人だけ、ここに留め置かれる、というのは、いかがでしょう?

脇屋義助 ・・・。

義鑑房 そのお子様をね、この義鑑房、懐の中、衣の下に隠しおいてでも、必ず、無事にお育てします。やがて時が来れば、そのお子様の旗揚げだって、お助けしてさしあげます。そうなったら、金崎の守りとなる勢力が一つ、誕生することになりますでしょう?(涙、涙)

脇屋義助 (ヒソヒソ声で義顕の耳に)なぁ、このお坊さんさぁ、おれたちをタブラカそうとして、こんな事を言っているとは、おれには到底、思えねぇんだけど・・・。

新田義顕 (ヒソヒソ声で義助の耳に)おれも、そう思います。この人、信用してもいぃんじゃぁ?

二人は、義鑑房のすぐ側に、にじり寄った。

脇屋義助 (ヒソヒソ声で)実はね・・・陛下は、京都へご帰還の直前に、こうおっしゃられたんだよ、

 「足利尊氏に強制されて止むを得ず、新田義貞追討の命令書を発行、というような事も、将来、ありうるかもしれない。しかし、義貞、仮にもおまえが、朝敵の汚名を着るような事があってはならんのだ。だから、恒良親王に位を譲り、今後の国の政治の全てを委ねることにする。義貞は股肱の臣(ここうのしん)となって、親王を助け、再び政権を朝廷に奪回の、大いなる功績を建てよ」

とね。そしてな、三種神器を、親王に渡されたんだ。

義鑑房 (ヒソヒソ声で)はぁー・・・そうでしたかぁ!

脇屋義助 (ヒソヒソ声で)だからな、いくら「先帝よりの命令書だ」なんて言われてもだよ、「尊氏が言っている事なんだから、一切信用しちゃぁいけないよ」とね・・・思慮ある人ならば、そのように考えてくれるはずなんだけどなぁ・・・ハァー(溜息)。

脇屋義助 (ヒソヒソ声で)でもま、瓜生保が正邪を見分けられねぇようになっている以上、いくら口をすっぱくして、彼に説明してみても、ラチあかんだろうしなぁ・・・。

義鑑房 ・・・。

脇屋義助 それにしてもね、急ぎ兵をまとめて金崎へ引き返すのも、もう困難というこの時にね、貴方一人だけが、兄弟のよしみを曲げてでも、朝廷への忠義を全うしてこのように教えてくださったこと、まことにありがたい事だと、おれは思います。

義鑑房 ・・・。

脇屋義助 おれは、貴方を信じます。あなたに頼ってみようと思います。お言葉に甘えて、私のまだ幼い息子、義治(よしはる)を、預かっていただけませんか! なんとしてでも、あの子を守り育ててやって下さいませんか!

義鑑房 分かりました! どうぞ、お任せ下さい!

かくして、義助は、今年13歳になった息子・義治を、義鑑房に預けることにした。

脇屋義助 (内心)義治・・・おれはおまえに、一心の愛情を注いできたぞ。片時も側から放す事なく、荒い風にも当てないようにと、愛し育んできた。なのに、今ここで、信頼のおける若党の一人も付けずに、心も知らぬ人に預け、敵の真っただ中に、おまえを置いて行かなきゃならんとは・・・あぁ、息子と別れるとは、何と悲しい事なんだろう・・・再会できるのは、いつの日かなぁ・・・。

夜が明けた。

脇屋義助 義顕、いよいよおまえとも、さらばだなぁ。おれは金崎へ、おまえは越後へ。

新田義顕 それが・・・。

脇屋義助 いったいどうした?

新田義顕 昨日まで、おれたちに従うは3,500余騎。それが今朝になってみたらなんと、250騎だけ・・・。

脇屋義助 ったくもう! 瓜生の心変わりを聞いて、みんな、逃げていきやがったのかぁ!

新田義顕 こんな小勢では、敵中を突破して越後へ行くなんて、不可能です。

脇屋義助 じゃぁ、こうしよう、おまえもな、おれといっしょに、いったん金崎へ戻れや。それから海路で、越後に向かったら?

新田義顕 うん、そうします。

二人は、鯖波宿から共に、敦賀へ向かう事となった。

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ここに、越前国の住人・今庄浄慶(いまじょうじょうけい)という人がいた。

今庄浄慶 なになに、このあたりを、落ち武者が通るってか・・・よぉし、道中で襲ってやれ!

浄慶は、近在の野伏(のぶし:注1)たちを誘って集め、険阻な場所に枝つき逆茂木(さかもぎ)を設置し、鏃を揃えて、義助らの前に立ちはだかった。

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(訳者注1)落武者を襲って甲冑などを強奪する農民や武士の集団。
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これを見た義助は、

脇屋義助 たしかな、今庄久経(いまじょうきゅうけい)とかいうもん(者)が、こないだまで、坂本でわが軍の下にいたなぁ。あそこにいるやつらはきっと、その今庄の一族だろう。よもや、かつての恩義を忘れちゃぁいねぇだろうよ。誰か、あいつらの近くまで行って、交渉してみろ。

由良光氏(ゆらみつうじ) では、おれが。

光氏は、ただ一騎で今庄たちに接近して、声高らかに、

由良光氏 おぉい、おめぇらぁ、いってぇなに考えてやがる! 脇屋義助殿がなぁ、作戦会議に出席する為、杣山城から金崎へ、ちょっくらお出かけになるその道中と知って、そのように、道塞いでやがんのかよぉ? 矢ぁ一本でも放ちゃぁ最後、どこに逃げようたって、その罪からは遁れられんぞぉ。とっとと、弓伏せてなぁ、兜脱いで、そこをお通し申し上げろぃ!

今庄浄慶は、馬から下りて、

今庄浄慶 私の親、久経は、脇屋殿の下で軍忠奉公を致しました。いただいたそのご恩、まことにありがたく、思ってはおります。でも、我ら父子は、足利サイドと、先帝陛下サイド、双方の陣営に別れて所属しておりましてな、私は、斯波高経(しばたかつね)殿にお仕えする身です。

今庄浄慶 もしも、ここをお通しするような事になってしまえば、高経殿から、きつぅいお咎めを頂くことになってしまいます。だから、あえて、矢の一本でも射とかないかんなぁということで・・・いや、こんな事、わしの本意ではないんだけど・・・。

由良光氏 ・・・

今庄浄慶 どうでしょう、ここは一つ相談という事で・・・そちらサイドから、その名が足利サイドにもある程度は知られてるっていうような人をね、一人か二人、出していただけませんでしょうか? その方々の首を取って、「新田軍と、たしかに戦いを交えました」という事の証拠とする。そうすれば、わしの方も、斯波殿から咎められずにすみますわ。

光氏は、義助のもとに帰って、浄慶からの提案を伝えた、

脇屋義助 ・・・。

義助は、進退窮まって返す言葉もない。それを見た新田義顕は、

新田義顕 今庄の言い分ももっともだけどな、ここまで我々についてきてくれた士卒たちの志は、親子の間よりも重いよ。彼らの命に代って、自分の命を差し出すってんなら、おれにはできるよ。でも、自分の命を助けるために、彼らに命を捨て去せるなんて、そんな事、おれにはできないな! 光氏、おまえな、もう一度今庄のとこ行ってな、おれがこう言ってるって、伝えてくれ!

由良光氏 ・・・。

新田義顕 それでもまだ、今庄が無理難題を言ってくるんだったら、もう仕方ねぇよ、おれも士卒ももろとも討死にして、部下を重んずる義の心を、後世に伝えるまでのことだ!

光氏は再び浄慶の方に行き、様々に折衝を試みた。しかし、浄慶の決意を変えることができない。そのまま、数時間が過ぎていった。

由良光氏 えぇい、これだけ言ってもダメかぁ! よぉし!

光氏は、馬から下り、鎧の上帯を切って投げ捨て、

由良光氏 新田義顕様は、日本の為に無くてはならない大将。そんな大事なお方なのに、部下たちの身代わりになろうと言って下さってる。かたや、このわしは、一介の郎等、義に依って命を軽んじていかなきゃなんねぇ人間、ならば、わが身をもって、主君の命をお助け申し上げるべし! 今庄、さぁ、この光氏の首を取ってな、それとひきかえに、わが軍の大将をお通し申し上げろ!

言い放つと同時に、光氏は腰の刀を抜き、腹をはだけ始めた。その忠義の心を見て、浄慶はたまらず、

今庄浄慶 待て!

浄慶は、走り寄って光氏の手をしっかと押さえた。

今庄浄慶 待て! 待て!・・・自害なんか、しちゃいかん・・・自害するな!(涙)

由良光氏 ・・・。

今庄浄慶 そちらの軍、大将の言われる事も、部下の決意も、まことにご立派。たとえ、わが身がどのように罰せられようとも、貴方がたに対して、無情な仕打ちをする事なんか、わしにはとてもできない。さ、早くここを通れ!

浄慶は、弓を伏せ、逆茂木を引きのけ、涙を流しながら道の傍らにかしこまった。

由良光氏 浄慶殿!(涙)

新田義顕、脇屋義助も、これに大いに感激。義助は、鎧の左側に差していた金装飾鞘の太刀を、今庄浄慶に与えて、

脇屋義助 おれとこの義顕の運命、この先どうなるか分かんねぇ。もしかしたら二人とも、戦場の塵の中に消えてしまうかも。でもな、たとえそうなってもな、やがて、やがて、わが新田家の中から、再び天下を平定するような人が現われたら・・・今庄、いいか、その時が来たらな、おまえ、その太刀を持って名乗り出るんだぞ、わかったな。その刀がな、おれたちに対して尽くしてくれた、今日のお前の忠義の、何よりの証拠になるんだよ!

今庄浄慶 ハハーッ(太刀を受け取りながら)。

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世間の声A 由良光氏、立派だよなぁ。主君が危機の渦中にある時に、わが命をもって、主の命に替ろうってんだもん。

世間の声B いやいや、今庄浄慶だって、立派なもんさ。義の心を、互いにあくまで貫ぬいていこうとする新田サイドの人々の態度に感動してね、後日の禍も顧みずに、新田軍の前に道を開けたんだから。

世間の声C いやぁ、双方いずれも、ホント、立派なもんですよぉ。

世間の声多数 同感、同感!

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月18日 (月)

太平記 現代語訳 17-11 新田軍、地獄を行く

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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10月11日、新田義貞(にったよしさだ)率いる7,000余騎は、塩津(しおづ:滋賀県・長浜市)、海津(かいづ:滋賀県・高島市)に到着した。

「これより先、西近江路(にしおうみじ)7里半の山中は、越前国の守護・斯波高経(しばたかつね)の大軍によって、完全に塞がれている」との情報に、そこからのルートを、木ノ芽峠(きのめとうげ)越えに変更した。(注1)

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(訳者注1)「西近江路7里半」とは、国道161ぞいの、いわゆる、「七里半越(しちりはんごえ)」のルートである。「木ノ芽峠」は、国道476号が通る峠である。
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この地方においては、通常、10月初め頃から、高い山々に雪が降りはじめ、山麓地帯も、時雨が続くようになってくる。(注2)

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(訳者注2)旧暦の10月だから、今でいえば11月頃の事になろう。当時と今とでは、敦賀付近の気候は、相当違ってきているのかもしれない。
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今年は例年よりも、曇天と寒気の到来が早いようだ。

山道の吹雪が、新田軍メンバーの甲冑に降り注ぎ、鎧の袖を翻し、彼らの面を激しく打つ。

士卒は寒谷(かんこく)に道を失い、暮山(ぼざん)に宿無く、木の下、岩の陰に身を縮めて臥すばかり。運よく火を求めることができた者は、弓矢を折って薪となし、未だに友を見捨てない者は、互いに抱きあって身を暖める。

皆、薄着のままで比叡山を出てきたし、馬には食料を十分にやれていない。人も馬もバタバタと倒れ、次々と道を塞いでいく。

叫喚地獄(きょうかんじごく)、大叫喚地獄の声は耳に満ち、紅蓮地獄(ぐれんじごく)、大紅蓮地獄の苦しみが眼を覆う。

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河野(こうの)、土居(どい)、得能(とくのう)ら300騎は、後方を進んでいたが、見曲(けんくま:滋賀県・高島市)のあたりで前陣から遅れてしまい、道に迷って、塩津の北に止まっていた。

佐々木道誉(ささきどうよ)の一族と熊谷(くまがや)が、彼らを見つけ、包囲して討ち取ろうと襲い懸かっていった。

河野たちも、これを迎え撃とうとしたが、馬は雪に凍えて動かず、人間は指を凍傷にやられてしまっていて、弓を引く事もできず、太刀のツカを握る事も出来ない。どうしようもなくなってしまい、腰刀を土の上に置き、その上にうつ伏せに倒れて、次々と自害していった。

千葉貞胤(ちばさだたね)率いる500余騎も、進む方角が分からなくなっていた所へ降雪となり、道に迷った末に、敵陣のま正面へ出てしまった。

千葉貞胤 おれたちは、進退を失い、前後の友軍にも離れちまった。もう、これまでだな・・・みんな、一個所に集まって、一斉に自害しようぜぃ!

そこへ、斯波高経の使者がやってきて、いわく、

使者 わが主・斯波高経は、こう申しております、

 もう勝負はついた、戦はおしまい! 志を曲げて、降伏されてはいかがでしょう? 敵側に属していた間の事については、高経、わが身に替えてでも、千葉殿の事を、尊氏様になんとかとりなしして、赦免していただくように努力しますから、と。

千葉貞胤 ・・・。

斯波高経よりのこのような慇懃な勧誘に、千葉貞胤は、心ならずもついに折れ、高経に降伏して、その配下につくことになった。

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10月13日、新田義貞たちは、敦賀(つるが:福井県・敦賀市)に到着。気比氏治(けひうじはる)が、300余騎にて、彼らを出迎えた。

氏治は、恒良親王(つねよししんのう)、尊良親王(たかよししんのう)、新田父子兄弟を、ひとまず、金崎(かねがさき:敦賀市)の城へ入れ、他のメンバーらに対しては、敦賀港周辺の在家を宿としてあてがい、長旅の疲れをいやさせた。

ここに一日逗留の後、これからも全軍が一個所に集結し続ける、というのは不可能だろう、という事で、リーダーたちを、方々の城へ分けて派遣することになった。

新田義貞は、恒良親王について、金崎の城にそのまま滞陣。

彼の子息・義顕(よしあき)には、北陸地方の2,000余騎を添えて、越後国(えちごこく:新潟県)へ向かわせた。

脇屋義助(わきやよしすけ)には、1,000余騎を添えて、瓜生(うりう)氏がいる杣山(そまやま)城(福井県・南条郡・南越前町)へ派遣した。

それぞれの行く先の地元勢力を味方につけて、金崎を後方から支援させよう、との意図が、そこにはあった。

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2017年12月17日 (日)

太平記 現代語訳 17-10 後醍醐天皇、花山院に幽閉される

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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後醍醐天皇(ごだいごてんのう)らが法勝寺(ほっしょうじ:京都市・左京区)のあたりまでやってきた時、足利直義(あしかがただよし)が、500余騎を率いてやってきた。

足利直義 まずは、三種神器を、今上(きんじょう)天皇陛下(注1)に、お渡しください。

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(訳者注1)足利尊氏が擁立した持明院統の天皇の事である。
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後醍醐天皇は、前もって用意しておいたニセの三種神器を、持明院統側の内侍(ないし)に渡した。

その後、足利側は、後醍醐天皇を花山院(かざんいん:現・京都御苑・敷地内)へ押し込めてしまった。四方の門を閉じて警護を固め、幽閉同然の扱いである。

降参した後醍醐天皇側に所属の武士たちは各々、足利側の主要メンバーのもとへ預けられ、そこで囚人としての扱いを受ける事になってしまった。

後醍醐天皇サイド・武士A (内心)あぁ、こんな事になると分かっていたら、

後醍醐天皇サイド・武士B (内心)新田殿について、北陸へ行ったんけどなぁ。

後醍醐天皇サイド・武士C (内心)その方が、今のこの状態に比べりゃ、まだなんとかなったろうに。

後醍醐天皇サイド・武士D (内心)こうなってしまってからじゃ、いくら後悔しても、どうしようもねぇよぉ・・・。

10数日後、菊池武重(きくちたけしげ)は、警護のスキをついて拘束先を脱出し、本拠地の肥後(ひご:熊本県)へ逃げ帰った。

宇都宮公綱(うつのみやきんつな)だけは、囚人とは言っても特別扱い、一室に禁固されているだけで、獄舎に繋がれているわけではない。脱出しようと思えばいくらでも、その機会はあったはず。しかし、公綱は出家の体(てい)になり、じっとこもっている。

この態度を良しとしなかった何者かが、落書きしたのであろう、その館の門戸に山雀(やまがら)の絵が描かれ、その下に一首、

 ヤマガラは 左右往復 打(う)つのみや 籠の外には 一歩も出んわい

 (原文)山(ヤマ)ガラが さのみもど(戻)りを うつのみや 都に入(いり)て 出(いで)もやらぬは

本間孫四郎(ほんままごしろう)は、もともとは足利家の家来すじの者であったのだが、去る1月16日の合戦以後、新田陣営に走り、兵庫ビーチ戦においては、遠矢を射て満場の喝采を浴び、比叡山・雲母(キララ)坂の戦においては、扇を射当ててその弓術の程を披露した。「たび重なるその振る舞い、けしからん!」ということで、六条河原へ引き出されて、首を刎ねられてしまった。

延暦寺の道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)は、もとは、法勝寺に属する律宗(りっしゅう)僧侶であった。後醍醐天皇が船上山(せんじょうさん)において倒幕の旗揚げをした時に、祐覚は、律宗僧の衣を脱ぎ捨てて延暦寺衆徒集団に身を投じ、武闘の道に入った。その後、天皇の信任を得て、一気に栄華の階段を駆け上がっていったのであった。

足利サイド・リーダーE 天皇の二度もの延暦寺への動座も、ひとえに、祐覚の軍事面からの支援があったからこそ可能になったんだ。

足利サイド・リーダーF そうそう。彼こそは、延暦寺を我々に敵対するように仕向けた張本人だ!

かくして、祐覚は12月29日、東山の阿弥陀峰で斬首されることになった。その時、彼から法勝寺の上人に送られた歌一首、

 大方(おおかた)の 年の暮(くれ)ぞと 思いしに 我(わが)身のは(果)ても 今夜(こよい)成(なり)けり (原文のまま)

延暦寺から天皇のお供をして降伏してきた公家たちも、死罪一等を減じられてかろうじて命だけは繋がったものの、官職からは解任され、もはや、この世から消滅してしまったも同然の境遇となった。

後醍醐天皇派・公家G (内心)今や栄華の光彩に包まれるようになった人のとこに行っては、その前に平伏し、わが面(おもて)を、泥や砂の上に垂れ、

後醍醐天皇派・公家H (内心)「輝やいていた昔のあの日よ、もう一度」とばかりに、逆賊の輩の足元に、はいつくばり、

後醍醐天皇派・公家I (内心)ようやく我が家に帰りついてみれば、庭には秋の草が深く繁り、小径(こみち)には露深く。

後醍醐天皇派・公家J (内心)寝室に入ってみれば、そこには、夜の月がしんしんとさし込んでいるばかり。

後醍醐天皇派・公家K (内心)室に積もった塵を払う人も無く。

後醍醐天皇派・公家A (内心)顔回(がんかい)は、日々わずか1椀の食と1杯の酒しか得られへん境遇にあっても、心清く、道を求めて生きていったと言うが、

後醍醐天皇派・公家G (内心)そうは言うても、この今のわしの情けない状態、これはいったいなんやねん。司馬相如(しばそうじょ)の伝記に出てくるあの、「家の四方に壁があるだけ、中には家具などまるでなし」の、極貧状態そのものやないか。

後醍醐天皇派・公家H (内心)「天人五衰(てんにんのごすい)」とは、よぉ言うたもんやなぁ・・・エエメの絶頂を味わぉた後は、人間、どこまでも、落ちていくしかないんやわぁ。

後醍醐天皇派・公家I (内心)あーあ、「天界」にいた時はほんま、黄金の日々やったぁ・・・あれも楽しかった、これも楽しかった・・・。それにひきかえ、今のあれやこれやを思うと、涙止まらんでぇ。(涙)

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2017年12月16日 (土)

太平記 現代語訳 17-9 天皇軍メンバー、比叡山を後に

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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翌10月10日午前10時、天皇は、手輿に乗って比叡山を後にし、今路を西へ向かった。

恒良親王(つねよししんのう)は、戸津(とづ:滋賀県・大津市)経由で北に向かった。

天皇のお供(とも)をして京都へ向かったメンバーは以下の通り。

公家:吉田定房(よしださだふさ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、御子左為定(みこひだりためさだ)、三条公明(さんじょうきんあきら)、坊門清忠(ぼうもんきよただ)、勧修寺経顕(かんしゅうじつねあき)、九条光経(くじょうみつつね)、甘露寺藤長(かんろじふじなが)、頭弁・範国(のりくに)。

武家:大館氏明(おおたちうじあきら)、江田行義(えだゆきよし)、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)、菊池武重(きくちたけしげ)、仁科重貞(にしなしげさだ)、春日部家綱(かすかべいえつな)、南部為重(なんぶためしげ)、伊達家貞(だていえさだ)、江戸景氏(えどかげうじ)、本間孫四郎(ほんままごしろう)。

延暦寺衆徒:道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)。

これら総勢700余騎が、輿の前後に従った。

一方、恒良親王のお供をして北陸方面に落ちのびていった人々は、以下の通りである。

皇族:尊良親王(たかよししんのう)

公家:洞院実世(とういんさねよ)、洞院定世(とういんさだよ)、三条泰季(さんじょうやすすえ)、御子左為次(みこひだりためつぐ)、世尊寺行房(せそんじゆきふさ)、その子・世尊寺行尹(ゆきたか)。

武家:新田義貞、その子・新田義顕(よしあき)、脇屋義助、その子・脇屋義治(よしはる)、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、一井義時(いちのいよしとき)、額田為綱(ぬかだためつな)、里見義益(さとみよします)、大江田義政(おおえだよしまさ)、鳥山義俊(とりやまよしとし)、桃井義繁(もものいよししげ)、山名忠家(やまなただいえ)、千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)、宇都宮泰氏(うつのみややすうじ)、河野通治(こうのみちはる)、河野通綱(こうのみちつな)、土岐頼直(ときよりなお)、一条為治(いちじょうためはる)。

これに、延暦寺の衆徒も少々加わって総勢7,000余騎、地理に詳しい者を先頭に、親王の前後を囲んで北陸へと進んでいく。

尊澄親王(たかずみしんのう)は、船に乗って遠江(とうとおみ:静岡県中部)へ。

懐良親王(かねよししんのう)は、山伏に変装して吉野(よしの:奈良県・吉野郡)の奥へ。

四条隆資(しじょうたかすけ)は、紀伊(きい:和歌山県)へ。

中院定平(なかのいんさだひら)は、河内(かわち:大阪府東部)へ潜行。

その様はまさしく、かの中国・唐王朝の時代、哥舒翰(かじょかん)が安禄山(あんろくざん)に敗退し、玄宗皇帝(げんそうこうてい)が蜀(しょく)へ落ちのびた時、皇族や妃らがみな、美しいす足のまま、剣閣(けんかく)の雲の中を逃げ迷い、衣冠(いかん)を汚して、野道の草むらに逃げ隠れした時、そのままである。

天皇にお供する人A (内心)昨日、おとといまでは、苦しい日々が続いてはいたが、まだ希望の灯は、消えてなかった。

天皇にお供する人B (内心)忍耐の日々の末に、陛下の聖運は見事に花開き、われらも、錦を飾って京都へ帰還。

天皇にお供する人C (内心)京都にいた時には知らんかったような、あちらこちらの里、浦、山に、仮の宿を取りながら、見た事、聞いた事、

天皇にお供する人D (内心)つらかった事、苦しかった事、

天皇にお供する人E (内心)京都への帰還がかなった、その後は、

天皇にお供する人F (内心)何もかもが、えぇ思い出になるんやろぉなぁ、と、

天皇にお供する人G (内心)各々、自分の心を慰めてはいたんやったが、

天皇にお供する人A (内心)いまや、君臣父子、互いに万里の彼方に隔たってしまい、

天皇にお供する人B (内心)兄弟夫婦、十方に別れ行く。

天皇にお供する人C (内心)もはや、再会がかなう日も永遠に来いひんやろぉ(涙)。

天皇にお供する人D (内心)自分の身を置く所もないわ(嘆)。

天皇にお供する人E (内心)あの日、京都を出てからは、漂泊の日々を重ね、

天皇にお供する人F (内心)今、京都へ帰ると言うても、向かう先は敵陣の中。

天皇にお供する人G (内心)哀れなるかな、イの一番に殺されてしまう者、それはいったい誰?

天皇にお供する人A (内心)後になってから処刑されて、死者のカウントをアップする事になる者、それはいったい誰?

 春秋の 廻りとともに
 雁(かり)の群れは 南に飛翔し北に帰る
 今 飛び行くあの翼に
 大切なあの人への便りを 託す事も出来ないのか
 じっと立ち尽くして 大空を眺める

 東の空から 登った月は
 西の地平へ 没していく
 巡り行く あの天体に
 あの人への思いを 託す事もできないのだ
 じっと 暁の月を仰ぎ見る

 (原文)南翔北嚮 難附寒温於春雁 東出西流 只寄瞻望於暁月

大江朝綱(おおえともつな)作のこの「別離の歌」の筆の跡、今は涙となって、人々の頬の上を流れ落ちるのであった。

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2017年12月15日 (金)

太平記 現代語訳 17-8 後醍醐天皇、新田義貞に恒良親王を託す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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それからしばらくして、新田義貞(にったよしさだ)ら親子兄弟3人が、3,000余騎を率いて御座所へやってきた。全員、心中に怒りを漲らせながらも、礼儀を忘れる事なく、階下の庭に袖を連ねて、並び座った。

後醍醐天皇は、普段よりも一段と顔を和らげ、

後醍醐天皇 義貞、義助、近ぉ寄れ。

新田義貞 ははっ。(平伏)

脇屋義助 ・・・。(平伏)

後醍醐天皇 (涙)いやなぁ、さいぜんからなぁ、貞満に、エライ言われてたんやわぁ。

新田義貞 陛下!

後醍醐天皇 そらな、貞満の言う事にも、一理はあるで。そやけどな、貞満、ちと、考えが浅すぎるわ。

新田義貞 ・・・。

後醍醐天皇 わが身の分際をはるかに超えた栄誉に酔いしれて、尊氏が、ついに朝廷を傾けようとし始めた時、わしな、思たんやわ、「義貞は尊氏とは親戚やし、きっと、あっちサイドにつきよんねんやろう」と。しかし、おまえは、源氏という氏族の繋がりを断ち切って、あくまでも義を貫く志堅固にな、傾く朝廷を助け、命を天に差し出してくれたんやわ。そないなおまえの事を、わしがおろそかに、思うはずないやろが、そやろぉ?

新田義貞 ・・・。(涙)

後醍醐天皇 わしは、思ぉた、おまえら、新田一族だけを国家の守りと頼んで、天下を治めよう、とな。今になってもな、それに、いささかの変わりもないでぇ。

後醍醐天皇 ただなぁ・・・(ハァー 溜息)天が定めたその時節が、未だ到来してへんのやなぁ・・・わが軍の兵士は疲れ、戦闘能力ガタ落ちやないかい。そやからな、ここは一旦謀って尊氏と和睦しといてや、捲土重来(けんどじゅうらい)のチャンスを、じっと待つのがえぇんかなぁ、とな、そない思ぉてやな、ほいで、京都帰還っちゅう事に、したんやがなぁ。

後醍醐天皇 この事、おまえにも前もって、知らしといた方がえぇかなぁ、とはな、思ぉたんやで、思ぉたんや。そやけどな、あんまり色々な方面にこないな機密情報もらすのも、相当問題ありやろぉ? どないな事で、外部へ漏れたりせんとも限らんやんかぁ。そないな事になってもたら、グアイ悪いよってに、おまえには、いざという時になってから伝えよぉ思ぉてな、そのままにしてたんやわ。

後醍醐天皇 そやけどなぁ、あないに、貞満にガンガン言われてしもぉてなぁ、ここはやっぱし、前もって、おまえにも一言伝えとくべきやったなぁと、後悔してるわ・・・あぁ、これはもう、ほんま、わしのミスやったしか、言いようがないわ。

新田義貞 ・・・。

後醍醐天皇 なぁ、義貞、おまえな、これから、北陸へ向かえ。

新田義貞 えっ?!

後醍醐天皇 越前国(えちぜんこく:福井県北東部)へは既に、川嶋唯頼(かわしまこれより)を派遣してるからな、きっとうまいこと、地元対策してくれてるやろう。それにな、気比社(けひしゃ:福井県・敦賀市)の神官らがな、敦賀津(つるがのつ:福井県・敦賀市)に城を築いて、こっち側につく、と言うてきてるんや。そやからな、まずは、あっち方面へ転進して、兵の気力を回復してな、北陸一帯を平らげた後、再度兵を起して、皇室守護の柱となってくれ。

新田義貞 はい!

後醍醐天皇 うーん・・・そやけどなぁ・・・わしが京都へ帰還した後、おまえは、朝敵の汚名を着せられてしまうかもしれんわな・・・よし、それを防ぐ為に、こうしょう、今日のうちに、恒良(つねよし)に天皇位を譲って、北陸へおまえと同行させるわ。

後醍醐天皇 義貞、これから後の天下の事、何もかも、おまえが取りしきってな、わしに仕えてくれたように、恒良を盛り立ててやってくれ。えぇか、頼んだで!

新田義貞 ははーっ!

後醍醐天皇 義貞、今日からわしはな、全ての希望をおまえに託すぞ・・・(涙をこらえながら)句践(こうせん)が受けたと同様の恥辱、何もかも堪え忍ぶ覚悟や。おまえも早いとこ、范蠡(はんれい)のように謀をめぐらして、わしをこの危機から救ぅてくれ!

新田義貞 陛下ぁーっ・・・う・う・う・・・。(涙)

堀口貞満 う・う・う・・・。(涙、涙)

怒っていた堀口貞満も、コワモテの関東武士たちも皆、顔を伏せて涙を流し、鎧の袖を濡らしている。

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かくして、9日は、皇位継承の儀、そして、京都帰還の準備にと、あわただしく暮れていった。

その夜更け、新田義貞は、密かに日吉(ひよし)社・大宮権現(おおみやごんげん:滋賀県・大津市)に参拝した。

義貞は、社前で祈願を込めた。

新田義貞 私は今日まで、神のお力におすがりして、日々を送ってまいりました。

新田義貞 私も武士のはしくれ、戦、すなわち闘争を生業とする者です。本来であれば、み仏には到底救っては頂けないような人間です。しかし、み仏は神に姿を変じて、このような私にも、久しく仏縁をつけてきて下さったのであります。

新田義貞 神仏よ、願わくば、私がこれから赴きます征路万里の彼方までも、擁護のおん眼差しをめぐらし下さり、再び大軍を起こして朝敵を滅ぼす力を、私にお与え下さいませ。

新田義貞 あるいは・・・不幸にも、私が命ある間には朝敵討伐がかなわぬというのであれば・・・もしそうだとしても、私は願わずにはおれません、我が子孫の中に必ず、朝敵討伐の大軍を起こすものが現われて、父祖のこの無念の思いを晴らしてくれますように、と!

新田義貞 この二つの祈願のうち、どちらか一方だけでもかなえて頂けますならば、私の子孫が永久に当社の檀徒となって、権現さまのご威光を輝かし奉る事を、ここにお誓い申し上げます!

義貞は、一心こめて祈りを込め、新田家累代の重宝の鬼切(おにきり)という太刀を、社壇の中に奉納した。

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2017年12月14日 (木)

太平記 現代語訳 17-7 足利尊氏の調略、功を奏し、天皇側陣営あえなく崩壊

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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進退極まってしまった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)のもとへ、足利尊氏(あしかがたかうじ)から、密使が送られてきた。

天皇側近A (小声で)陛下・・・。

後醍醐天皇 う? なんや、いったい、どないしたんや。

天皇側近A (ヒソヒソ声で)足利尊氏のもとから、使者が・・・。

後醍醐天皇 (ヒソヒソ声で)なんやてぇ!

天皇側近A (ヒソヒソ声で)いかがいたしましょう?

後醍醐天皇 ・・・。

天皇側近A ・・・。

後醍醐天皇 ・・・(ヒソヒソ声で)通せ。

天皇側近A (ヒソヒソ声で)ハハッ。

やがて、天皇の前に通された密使は、いわく、

密使 将軍より、以下のようなメッセージを、預かってまいりました。

 昨年の冬、近臣の讒言(ざんげん)によって、私は陛下より、御勘気を頂く身となってしまいました。その時、私は、出家して身の潔白を証し、陛下より無罪とお認め頂いた上で、死なせて頂こうと思っておりました。

 ところが、新田(にった)兄弟は、陛下のお怒りを利用して、日ごろの恨みを晴らさんと、私に兵を向けてまいりました。そこで、私の方も止むを得ず、決起したのです。それ以来、日本国中が、今見るような騒乱状態になってしまったのであります。」

 私が挙兵するに当たっては、陛下にタテつこうという意図など、全くございませんでした。ただただ、新田義貞(にったよしさだ)一味を滅ぼし、他人を誹謗中傷するねじけた心を持つ輩を、陛下の周辺から根絶せん、ただ、それだけを願っての事でありました。

 願わくば、私のこの誠心(まことごころ)、陛下の御眼差しでもって、つぶさにご照覧下さいませ。讒言によって無実の罪に陥れられたこの私めを、どうか、哀れとおぼしめし下さいませ。なにとぞ、なにとぞ、御所へご帰還あそばされ、再び、玉座にお座り下さって、国家の平和を回復せしめてくださいませ。

 陛下のお供をして、そちらに行かれた公卿の方々は言うに及ばず、降参して来られる方々はすべて、その罪の軽重を一切問わないことと、致しましょう。全員、元の官職に復帰していただき、領地回復の手続きも、取らせていただきましょう。国家の運営も、今後は全て、公卿方にお委ね申し上げようと思っております。

 このような事をいきなり申し上げても、なかなか信じては頂けないのかもしれません。よって、「私が申し上げる事に、嘘偽りは決してありません」との趣旨の起請文を別紙にしたため、浄土寺(じょうどじ:京都市・左京区)の忠円僧正(ちゅうえんそうじょう)のもとへ、お届けしておりますので、そちらの方も、ご照覧くださいませ。

密使 将軍よりのメッセージ、以上でございます。(平伏)

後醍醐天皇 ・・・。

後醍醐天皇 (内心)う-ん・・・どないしょう?

後醍醐天皇 (内心)どないしたらえぇねん、どないしたら・・・。

後醍醐天皇 (内心)今のままでは、我がサイド、ジリ貧やしなぁ・・・。

後醍醐天皇 (内心)神仏への起請文まで書いてきとるんやし、よもや尊氏、嘘偽りでもって、こんな事言うてきてるんとはちゃうやろ。

後醍醐天皇 (内心)よし、出された船に、乗ってみるかぁ。

天皇は、側近の老臣や智臣に一切相談されずに、

後醍醐天皇 その話、乗った!

密使 ハハーッ。(平伏)

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密使 陛下は、ご承諾なさいました。

足利尊氏 そうか・・・ご苦労であった。

密使 ハハッ(平伏)。

足利尊氏 (内心)帝、叡智浅からずとは言いながらも、意外に簡単にだませたなぁ、フフフ・・・。よぉし、こうなったら、他の連中らも、どんどん誘ってみようじゃないの。

それ以降、尊氏は、ありとあらゆる機会と縁故を利用して、天皇方の有力武士多数に対して、密かに調略を進めていった。

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このようにして、後醍醐天皇の京都帰還の手はずは着々と整えられ、いよいよ、その当日となった。

降伏の意志を固めた天皇軍メンバーは、各自勝手に陣を離れ、今路(いまみち)、修学院(しゅがくいん)あたりに待機して、天皇の到着を待った。

新田一族中の重要メンバー、江田行義(えだゆきよし)と大館氏明(おおだちうじあきら)は、いずれも一軍の指揮を任されるほどの人物で、新田義貞とは運命共同体的関係にあった。しかし、いったい何を考えてか、二人は足利サイドへの降伏を決意してしまった。

9日の明け方、二人は、坂本を抜け出て比叡山上に登っていった。

そんな事とは夢にも知らない新田義貞は、その朝もいつものように周囲の人々と応対していた。そこへ、洞院実世(とういんさねよ)のもとから使者がやってきていわく、

使者 主より、次のように、急ぎ、新田殿に申し伝えるように、と、言いつかってまいりました。

 「天皇陛下がたった今、「これから京都へ帰還する」と言い出されて、供奉する人々を招集しておられる。新田殿はこの事、ご存じかいな?」

新田義貞 エェッ! 陛下が京都へ帰還? ハハハ、そんなバカなぁ。洞院実世様が本当に、そんな事を、あなたに言われたんですかぁ? あんた、洞院様のおっしゃった事を、何か聞き間違えてない?

それを聞いていた堀口貞満(ほりぐちさだみつ)は、

堀口貞満 殿! もしかしたら・・・。

新田義貞 えぇっ?

堀口貞満 いやね・・・どうも・・・どうも、なんかおかしいぃフンイキなんですよねぇ。実はね、今朝早く、江田と大館が、別に何の用も無いのに、「これから、根元中堂にお参りするんだい」とか言って、山の上へ登っていっちまったんですよ。

新田義貞 ・・・。

堀口貞満 とにかく、おれ、今から御座所へ行って、あちらの様子、見てきます!

貞満は、郎等に持たせていた鎧を取って肩に投げかけ、馬上で上帯を締め、両方のアブミを蹴立てて、馬を急がせた。

御座所近くにさしかかったので、馬から下り、兜を脱いで中間(ちゅうげん)に持たせ、貞満は、周囲を鋭い視線で見回した。

堀口貞満 やっぱしそうだったのか、まさに今、陛下御出発ってぇ状態じゃん!

供奉の公卿や殿上人(てんじょうびと)の中には、既に衣冠を帯している者もいる。御座所の縁の前には輿が据えられ、新任の内侍次官が内司所の櫃(ないしどころのひつ:注1)を手に持ち、輿の中に運び入れようとしている。そして、三種の神器中の「クサナギの剣」と「ヤサカノマガタマ」のお守り担当者として、蔵人頭(くろうどのとう)兼右少弁(うしょうべん)・藤原範国(ふじわらののりくに)が、御簾の前にひざまづいている。

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(訳者注1)三種の神器中の「神鏡」を格納している櫃。
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貞満は、左右に軽く会釈しながら輿のすぐ前まで駆け寄り、轅(ながえ)を握りしめて、叫んだ。

堀口貞満 陛下が京都へご帰還とのうわさ、このあたりの子供らの口から、聞いてはいましたがね、でも、新田義貞殿は、「そんな事、全く聞いてないなぁ」と言われる。だから、「ただのデマだろう」って、おれは思ってました。なのに・・・なのに、もうこんなトコまでいっちゃってたんだぁ!

後醍醐天皇 ・・・。

堀口貞満 陛下! いったいなぜ、新田義貞を、お見捨てになるのですか! いったいぜんたい、義貞が、どんな悪い事をしたというのですかぁ!(涙)

後醍醐天皇 ・・・。

堀口貞満 多年に及ぶ、義貞の粉骨砕身(ふんこつさいしん)の陛下への忠節、陛下はお忘れですかぁ! 陛下は、あの大逆無道の尊氏の方に、お心を移してしまわれたのかぁ!

後醍醐天皇 ・・・。

堀口貞満 さる元弘年間のはじめ、不肖・新田義貞は、もったいなくも陛下よりの倒幕勅命を頂いて、関東の大敵・鎌倉幕府を、たった数日の間に滅ぼし、陛下を、隠岐島流刑の境遇からお救い申し上げたんだ。さらにその後3年間も、朝廷に忠節を尽くして陛下の宸襟(しんきん)を安んじ奉ってきた。義貞のこの功績、古代の忠臣といえども、これに匹敵するもんなんか、いやしねぇ! 最近の義士の功績たってぇ、彼のそれに比べれば、ナニホドのもんだってんだぁ!

堀口貞満 足利尊氏が朝廷に反旗を翻すやいなや、朝廷軍の大将として敵に相対、反乱軍と戦ってそれを打ち負かし、敵の大将を捕虜とした、死線をかいくぐっての奮戦に継ぐ奮戦、もうその回数なんか、到底数え切れるもんじゃぁねぇよ! その戦いの中で、義を重んじて命を落としたわが新田一族、その数132人、節に臨んで、屍を戦場にさらした我らの郎従らのその数、8,000余!

堀口貞満 でも、でも、今回の京都での数度の戦い、朝敵の勢いは盛んになり、わが方は、次第に形勢不利・・・でもなぁ、この敗戦の責任、おれらの大将・義貞には全くね(無)ぇ! 敗戦の原因・・・原因は・・・ようは・・・ようは・・・。

後醍醐天皇 ・・・。

堀口貞満 ・・・陛下に、徳がね(無)ぇからですよぉ! だから、味方についてくれるモン(者)が、こんなに少ねぇんだぁ!

後醍醐天皇 ・・・。

堀口貞満 陛下! わが新田一族の長年の忠義を見捨てて、京都へどうしてもお帰りになりたいってんならね、まずは、義貞以下、当家の氏族50余人を御前へ召し出されて、伍子胥(ごししょ)みてぇに、全員の首を刎ねてからになさいませ! 比干(ひかん)みてぇに、全員の胸をお割きになったらどうですか!(涙)

満面に怒気をみなぎらせながら、涙を流し、理を砕いて訴える貞満の言葉は、その場に居合わせた全員の心を、強烈に揺り動かした。

後醍醐天皇 (内心)あぁ・・・わし、なんか、とんでもない思い違いしてたようやなぁ。

供奉の人々も、貞満の言葉にこめられた「理」と「義」の前には、ただただ、面を伏せて座すしかなかった。

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2017年12月13日 (水)

太平記 現代語訳 17-6 延暦寺衆徒、近江方面へ軍を進める

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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「京都を包囲しての四方からの天皇軍の一斉総攻撃、今度こそは勝利の可能性、大!」との期待も空しく、各方面の意志不統一の結果、天皇軍は敗退。四条隆資(しじょうたかすけ)も、八幡(やわた・京都府・八幡市)から坂本(さかもと:滋賀県・大津市)への撤退を余儀なくされた。阿弥陀峰(あみだがみね)に陣取っていた阿波(あわ)・淡路(あわじ)勢も、細川定禅(ほそかわじょうぜん)の攻撃に敗退し、坂本へ退却。長坂(ながさか:京都市・北区)をかためていた額田(ぬかだ)らも敗退して、山の奥へ逃走。

このような情勢の急変に、足利サイドは籠から外に出た鳥のごとく喜び、天皇サイドは穴にこもった獣のごとくに縮こまってしまった。

延暦寺・衆徒リーダーA 興福寺(こうふくじ:奈良県・奈良市)の衆徒らも、あないな返答を送ってきたことやし、きっと、我々ワイドについてくれるんやろう。

延暦寺・衆徒リーダーB それにしては、奈良からの援軍の到着、遅いやないか。いったいいつになったら、来てくれよんねん?

いつまで待ってみても、援軍は奈良からは来ないのだ。実は、

足利尊氏(あしかがたかうじ) この際、興福寺の連中らもこちらサイドに引きずり込んでしまおう・・・よし、「荘園数箇所を寄付しますから、どうでしょう、我々といっしょにやりませんか?」との書状を、興福寺に送れ。

尊氏からのこの申し出を受けて、興福寺衆徒らは、目の前の欲に後々の恥をも忘れ、延暦寺に加勢するとの約束をあっという間に反故にしてしまい、足利軍との連合結成を承諾してしまったのであった。

延暦寺・衆徒リーダーA あーあ、どこもかしこも、八方ふさがりやんかぁ。

延暦寺・衆徒リーダーB 今となっては、希望の持てそうな情報と言うたら、備後の桜山家(さくらやまけ)の者らと、備中の那須五郎(なすのごろう)、備前の児島(こじま)、今木(いまき)、大富(おおどみ)らが、軍船を仕立てて近日中に京都へやってくる、という情報くらいかなぁ。

延暦寺・衆徒リーダーC 伊勢国の愛洲(あいす)からの、「伊勢国の敵を退治した後、近江国へ発向しますよ」とのメッセージも、来てるけど・・・。

延暦寺の衆徒らは、あらん限りの財力を尽くして、天皇軍の士卒らの食料確保に努力してきた。しかしながら、公家、武家やその郎等ら、上下合わせて20万人を越える人々の胃袋を、6月初めから9月の中旬に至るまで、養い続けてこなければならなかったのである。今や、経済的備蓄も底をついてしまい、米蔵はスッカラカンになってしまった。

さらに悪い事には、北陸方面は、斯波高経(しばたかつね)に完全に制圧されてしまっていて、その方面からの食料輸送ルートが遮断されている。一方、近江においては、小笠原貞宗(おがさわらさだむね)が野路(のじ:滋賀県・草津市)、篠原(しのはら:滋賀県・近江八幡市)付近に陣取っていて、琵琶湖上の舟運を全てストップさせてしまっている。

このようなわけで、延暦寺内の食料不足は、日に日に深刻さを増してきた。朝廷軍の士卒のみならず、いよいよ三千の僧侶らまでもが、朝夕の食事にも事欠くようになってきた。谷々の仏教講義も絶えはてて、社々の祭礼さえも行えなくなってきた。

延暦寺・衆徒リーダーA このままでは、どうしようもないわ。まず、近江方面の朝敵を退治して、美濃(みの:岐阜県南部)、尾張(おわり:愛知県西部)との間の輸送ルートを開かんと、あかん!

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9月17日、延暦寺の衆徒5,000余人が出動、琵琶湖を船で渡って、志那浜(しなのはま:滋賀県・草津市)に上陸し、野路、篠原へ押し寄せていった。

延暦寺から寄せてきたこの大軍を見て、

小笠原貞宗 防備の整ってねぇ、平地のどまん中の城にこもってみても、包囲されたら、もうどうにもならねぇ。むしろ、平原での迎撃戦にうって出るのが、正解ずら。

かくして、両軍は激突。

やがて、延暦寺サイドの道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)率いる軍は、一敗地にまみれて足も立たない状態のまま退いていく。これと入れ替わった、成願坊源俊(じょうがんぼうげんしゅん)の軍は、一人残らず討たれてしまった。

延暦寺サイドは、この敗北にますますいきり立ち、同月23日、全山500房から精鋭の衆徒らを選抜して2万余人の軍を編成、再び軍船を連ねて、琵琶湖をおし渡って行った。

小笠原サイドは、「延暦寺の大軍、再びよせ来る」との情報に、浮き足立ってしまった。

延暦寺軍・前衛リーダーD おいおい、小笠原軍なぁ、わしらの数の多さにビビッテしもぉて、その大半が逃亡、残るは、わずかに300足らずになってしもぉた、との情報をキャッチ!

延暦寺軍・前衛リーダーE なんや、たったそれだけやったら、わしらだけで十分やん。後続のもんらの到着なんか待ってる事ないわ、さっさと攻めかかろうやぁ!

延暦寺軍・前衛リーダーF 行こ行こぉ!

例によって血気盛んな者たちばかり、延暦寺軍前衛メンバーたちは、我先にと進んでいった。

この大軍を前にして、なおも戦場に留まった小笠原軍のメンバーたちである、気後れなどいささかも見せようはずが無い。

早暁午前6時、小笠原軍300余騎は、延暦寺軍が陣取っている四十九院(しじゅうくいん:滋賀県・犬上郡・豊郷町)へ、先制攻撃をかけた。

小笠原軍の猛攻に、延暦寺サイドは、理教坊(りきょうぼう)阿闍梨(あじゃり)をはじめ、主要メンバーが30余人も討たれてしまった。

かくして、船に竿差し、堅田(かたた:滋賀県・大津市)目指して、延暦寺軍は湖上を退却余儀なくされた。

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このような中に、足利陣営の佐々木道誉(ささきどうよ)が、京都を密かに脱出し、若狭(わかさ:福井県西南部)経由で、坂本の天皇軍側陣営へ投降してきた。

佐々木道誉 近江はねぇ、わが佐々木家が代々、守護職をおつとめしてきた国でごぜぇやすよ。なのに、小笠原のヤロウめが、京都へのルート上に居座りやがって、おまけに2度もの合戦に、意外にうまいことやりやがって・・・。その手柄でもって、「近江国の守護は小笠原に」なぁんて事になっちゃってぇ、おれの面目、マルツブレやぁ!

新田義貞(にったよしさだ) ・・・。

佐々木道誉 んだもんでね、朝廷から私メを近江国の守護に任命していただけるんでしたら、私すぐにあちらに行って、小笠原を追い落とし、近江国丸ごと制圧しちゃいまさぁ。そうなりゃ、朝廷軍もイッキに態勢挽回できるやろ? どう? えぇ?

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)も新田義貞も、佐々木道誉が自分たちを欺かんとしてこのような事を持ち掛けているとは見抜けずに、

後醍醐天皇 よっしゃ、道誉の要求通りに、してやれ。

そこで、佐々木道誉に、近江国守護職と領主不在の上等の領地数10箇所を降伏の恩賞として与えた上で、近江へ遣わした。

道誉は、もとから天皇軍側に加担する気など、さらさら無い。近江に着くや否や、彼は、小笠原貞宗に対して言わく、

佐々木道誉 やぁやぁ、近江方面の包囲ラインがため、ご苦労やったのぉ。ところでなぁ、ついこないだの事だけど、足利将軍様からこの道誉に、「近江国の守護に任命するぞよ」という事になってなぁ・・・てなわけで、今日をもって、あんたとわしと、この近江の守備担当、バトンタッチよ。あぁ、いやいや、まことにお役目ご苦労でありましたのぉ、はいはい。

小笠原貞宗 ・・・。

ということで、小笠原貞宗は、すぐに近江から京都へ向かった。

この後、道誉はたちまち、近江国全域を制圧し、ますます坂本への圧力を強めていった。

かくして、延暦寺衆徒らの遠い親類、近い親類、後醍醐天皇派の公家らに仕えている者、縁ある者、みな悉く、近江国内に、寸分の身の置き所も無くなってしまった。

後醍醐天皇 ううう、道誉め、よくもだましよったなぁ! すぐにあいつを退治せぇ!

さっそく、脇屋義助(わきやよしすけ)を大将として、2,000余騎が近江へ差し向けられた。

脇屋軍が湖上を渡り、志那浜で上陸しようとしている所へ、佐々木軍3,000余騎が押し寄せてきて、猛攻を加えた。

脇屋軍サイドは、遠浅の湖面ゆえに、船に乗ったまま湖岸に接近することもできず、上陸地点に馬を下ろすこともできずに難渋している間に、次々に射落とされ、切り倒されていく。

ついにこの日の戦にも天皇軍側は敗れ、生き残ったわずかの者らは、坂本へ漕ぎ戻っていった。

これより後、比叡山上も坂本も、いよいよ食料が尽き、最初は100騎、200騎あった軍も5騎、10騎となり、5騎、10騎で構成の小集団は、誰も馬に乗れない状態になってしまった。(注1)

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(訳者注1)食べる事ができないので(武士が)衰弱して、馬に乗れなくなってしまった、という事を意味しているのか、あるいは、食料に事欠くあまり、ついに乗馬まで食べてしまった、という事を言わんとしているのか、記述の意図がよく分からない。
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2017年12月12日 (火)

太平記 現代語訳 17-5 新田義貞、足利尊氏に対して一騎打ちを挑む

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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八幡方面から京都に寄せていった四条軍の敗北を知らないまま、約束の時刻となったので、新田義貞(にったよしさだ)・脇屋義助(わきやよしすけ)兄弟は、2万余騎を率いて、今路(いまみち)、修学院(しゅがくいん:京都市・左京区)から南下、3手に別れて、京都中心部に押し寄せていった。

第1軍を率いるは、新田義貞、脇屋義助、江田(えだ)、大館(おおだち)、千葉(ちば)、宇都宮(うつのみや)、その兵力1万余騎。大中黒(おおなかぐろ:注1)、月ニ星(つきにほし:注1)、左巴(ひだりともえ:注1)、丹(たん)と児玉のウチワ(注1)などの旗30本を連ね、糺森(ただすのもり:京都市・左京区)を西へ通過し、大宮大路を南下、足利軍がこもる東寺へ、ひたひたと寄せていく。

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(訳者注1)大中黒は、新田家の紋、月ニ星は、千葉家の紋、左巴は、宇都宮家の紋、ウチワは、児玉党武士団の紋。
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第2軍を構成するは、名和長年(なわながとし)、仁科(にしな)、高梨(たかなし)、土居(どい)、得能(とくのう)、春日部(かすかべ)、他、諸国の武士らからなる混成軍、その兵力5,000余騎。大将・新田義貞の旗を守りながら、鶴翼魚鱗(かくよくぎょりん)の陣をなし、猪熊(いのくま)通りをまっしぐらに南進。

第3軍は、二条師基(にじょうもろもと)、洞院実世(とういんさねよ)を大将とする5,000余騎。牡丹の旗、扇の旗ただ2本だけを掲げ、足利軍に背後に回り込まれぬようにと、四条通りを東へ進み、わざと先へは進まない。

先日から東山・阿弥陀峰(あみだみね)に陣取っていた、阿波(あわ)、淡路(あわじ)勢1,000余騎は、未だ京都中心部へ入ってはおらず、泉湧寺(せんゆうじ:京都市・東山区)の前の今熊野(いまくまの:東山区)まで降りてきて、合図の烽火を上げた。

これを見た長坂(ながさか)に陣取る額田(ぬかだ)勢800余は、嵯峨(さが:右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)のあたりに散開し、方々に火を放った。

足利サイドは、大兵力ではあるが、人も馬も疲れきっており、今朝の戦で矢も使い果たしてしまっている。これを攻める側は、小勢ではあるものの、それを指揮するは名将・新田義貞。

新田義貞 (内心)これまで、わが方は連戦連敗だった。今日こそは、何としてでも、その恥をそそがずにおくもんかい、新田家の面目にかけてな! 今日こそは、やるぞぉ!(ギシギシギシ・・・歯ぎしり)

街の声A 大覚寺統(だいかくじとう)と持明院統(じみょういんとう)の、天皇家内部の政権争いも、

街の声B 新田、足利両家の、長年にわたる確執(かくしつ)も、

街の声C 何もかも、今日のこの一戦で、ピリオドを打つことになるんやろぉなぁ。

街の声D いったい、どないなるんやろぉか、うーん!

街の声E いったい、どちらが勝つんやろうか、うーん!

街の声F 緊張いや増す、今日この時!

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六条大宮(ろくじょうおおみや)で、戦いが始まった。足利軍20万騎と新田軍2万騎の乱戦が展開されていく。

飛び交う矢の音は、軒を過ぎ行く夕立のごとくけたたましく、撃ち合う太刀の鍔音(つばおと)は、空に答える山彦(やまびこ)の鳴り止むひまもなし。足利軍は、小路(こうじ)小路を塞ぎ、新田軍を東西から包囲せんとする。相手が進めば先を遮り、左右へ分かれればその中に割って入らんと、変化、機に応じて戦う。

対する新田軍は、兵力をいささかも分散する事無く、中央を相手に破らせず、今退いたかと思えば、すぐに反撃に転ずる。立ち向かってくる足利側の各軍を次々と撃破しながら、大宮通りをグイグイ南進。

足利側の仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、今川(いまがわ)、荒川(あらかわ)、土岐(とき)、佐々木(ささき)、逸見(へんみ)、武田(たけだ)、小早川(こばやかわ)各軍は、こちらに打ち散らされ、あちらに追い立てられ、チリジリバラバラになってしまった。

かくして、新田軍2万余騎はついに、東寺の小門前に到達、一斉にトキの声を上げた。

新田義貞 坂本を出る時になぁ、おれは、天皇の御座所におうかがいして、陛下にお誓い申し上げたんだぁ、

 「これから天下がどうなるかは、陛下の御聖運次第、自分があれこれ、心わずらうべき事ではありません。とにかく今日の戦、尊氏がこもってる東寺の中へ、矢の一本も射る事もなしに、退却しちまう、そのような事だけは、絶対にいたしません!」

ってなぁ! その約束を違えず、ついに、敵の本拠地までたどりついたぞぉ!(大喜)

義貞は、旗の下に馬をすえ、東寺の方角を睨みつけ、弓を杖につきながら大声で叫んだ。

新田義貞 おぉーい、そこの足利のぉー、よぉく聞けぇー!

新田軍メンバー一同 ・・・。

足利軍メンバー一同 ・・・。

新田義貞 この数年間ってもーん、日本国中、混乱休まるところを知らずぅー、罪もない人民は、身を安んずる事もできずにぃー、ずっーーときてしまったよなぁーー。

新田義貞 その原因、一つにはなぁー、天皇家の両統の政権争いにありとぉ、言えるんだろぉぜぇー。

新田義貞 けんどよぉー! それはあくまでも、表面上の事よぉー。何もかもがぁ、足利尊氏(あしかがたかうじ)ぃー、おまえとおれとの争いー! これこそが、この日本の動乱の、真の原因だぁー!

メンバー一同 ・・・。

新田義貞 おれはなぁ、尊氏ぃー、思ったんだよぉ、おれかおまえか、どっちかの顔を立てるために、大勢の人間を争いに巻き込んで、苦しめるぅー、そんな事やってねぇで、おれたち二人だけでもって勝負決めりゃいいじゃんってなぁー。その方が、よっぽど良かぁねぇかい、えぇーー!?

メンバー一同 ・・・。

新田義貞 オォーイ、尊氏! おまえ、おれの言ってるの、ちゃんと聞いてんのかよぉー! おれはなぁ、これから自分一人だけで、そっちの軍門めがけて行くからなぁー! 尊氏ぃー、おまえも男だったらなぁー、とぉっとと外に出てきて、潔(いさぎよ)く、おれと、一騎打ちの勝負しやがれーぃ!

メンバー一同 ・・・。

新田義貞 サァテ、まずはイッポン(一本)、ごあいさつといくぜーぃ! この矢に込めたおれのこの覚悟、てめぇ、思い知りやがれってんだぁーー!

義貞は、2人張りの弓に13束2伏の矢をつがえ、思い切り引き絞って、ツル音高く放った。

弓 ビューン!

矢 ヒューーーーーーーー、ヴィシコーン!

矢は、二階建ての櫓の上を超えて、尊氏が座す本堂の中まで飛び込み、東北角の柱に突き刺さった。鏃は柱の中に深々と埋まり、一瞬、柱が揺らいだ。

足利尊氏 ・・・ウウウ・・・ウウウ・・・。

尊氏の側にいる足利軍メンバー一同 ・・・。(ソワソワソワ)

足利尊氏 ・・・ウググ・・・義貞ァ!・・・。

尊氏の側にいる足利軍メンバー一同 ・・・。(ゾクゾク)

足利尊氏 いいか! 私はなにもなぁ、天皇陛下を倒そうと思って、この戦をはじめたんじゃぁなぁい!

尊氏の側にいる足利軍メンバー一同 ・・・(ワナワナ)。

足利尊氏 鎌倉を・・・鎌倉を出発したあの時以来、心中に念じ続けてきたことは、たった一つ・・・たった一つだけ! 義貞に出会い、この憤りを晴らさん、ただそれだけ、ただそれだけだぁー!

尊氏の側にいる足利軍メンバー一同 ・・・(ブルブル)。

足利尊氏 一騎打ちぃ? ヨォシ、もとよりこちらも願う所だ、受けて立つぞ! 馬引けぇ、馬引けぇ!

足利軍メンバーG ウワッ、こりゃ大変だよぉ!

足利軍メンバーH 殿、殿!

足利軍メンバーI ちょっと待ってくださいよ、殿ぉ!

足利尊氏 エェイ、さっさと門を開けろ! うって出るぞォ! 一騎打ちだぁ!

上杉重能(うえすぎしげよし) 殿、殿、これはいったい・・・いったいナンテェ事を・・・なんてムチャな事を・・・。

重能は、尊氏の鎧の袖に取り付いて、必死に尊氏をなだめる。

上杉重能 あのォォ・・・古代中国においてですネェェ、楚(そ)の項羽(こうう)が漢(かん)の高祖(こうそ)に対して一騎打ちを挑んだ時、高祖は項羽をアザ笑って、一体何て言いやしたぁ? 「なんでおれが、おまえみたいなヤツと、一騎うちなんかしなきゃぁなんねんだよぉ、おまえなんざぁ、そこらの罪人にでも討たせるわさ」ってねぇ。

足利尊氏 ・・・(怒気さめやらず)。

上杉重能 義貞はね、ロクに作戦も立てねぇまんま、こちらの陣へ深入りしちまったばっかしに、もうどこにも退却しようが無くなっちまった。だから、フテクサレてやがんですよ。

足利尊氏 ・・・(冷静さを取り戻しつつ)。

上杉重能 義貞のコンタンはですねぇ、なんとかして、戦いがいのある相手を、寺の外に引っ張り出し、それと戦って、死んで一花咲かせようって事ですわさ。なのに、そんな挑発に乗って、外に出てくだなんて・・・やめてくださいよぉ、一騎打ちなんて、とんでもねぇです、一騎打ちなんて!

このように、道理を尽くして説得する重能の言葉に、尊氏も仕方なく怒りを押さえ、再び席に戻った。

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土岐頼遠(ときよりとう)は、300余騎を率いて上賀茂(かみがも:北区)に布陣していた。

五条大宮(ごじょうおおみや)にいる相手勢力を見て、

土岐頼遠 オッ、あの軍、立てとる旗を見りゃ、みぃんな、お公家さん方の家の旗ばっかしだがね。ということは、あの軍のリーダーに、武士はおらん・・・こりゃぁ、いいカモだが。よぉし、あれに攻めかかれ!

土岐軍は、トキの声を上げ、おめき叫んで、第3軍に襲いかかった。

背後から攻めかかってきた土岐軍を見て、第3軍は、パニックに陥った。

天皇軍・公家J 敵が、背後に回り込んできよった!

天皇軍・公家K このままではあかん、鴨(かも)河原まで退(しりぞ)いて、そこの広みで戦うんや、退(ひ)け、退け、はよ退かんかぁ!

その軍勢は一戦もせずに、たちまち五条川原へ追い出され、そのまま足が止まらず、一目散に修学院へ。

土岐頼遠 なぁんじゃぁ、あの腰抜けどもはぁ、ワッハッハッハァー。よぉし、勝ちどきじゃぁ!

土岐頼遠 エェイ!エェイ!

土岐軍メンバー一同 オーウ!

その声を聞いて、そこかしこから足利サイド軍勢が集合してきて、数千騎の勢力に膨張、大宮通りを南下して、新田軍の背後から襲いかかった。

さらに、神社総庁前(注2)にひかえていた、仁木、細川、吉良(きら)、石塔(いしどう)ら2万余騎は、朱雀大路(すざくおうじ)を斜めに突っ切って西八条(にしはちいじょう)へ押し寄せてきた。

東からは、小弐(しょうに)、大友(おおとも)、厚東(こうとう)、大内(おおうち)、四国・中国の勢力3万余騎が、七条河原を南下し、針小路(はりこうじ:南区)、唐橋(からはし:南区)へ回り込んできた。

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(訳者注2)原文では、「神祇官」。
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このようにして、足利サイドは、水も漏らさぬ包囲網を敷いた。

新田軍は、三方かくのごとく百重千重に取り囲まれ、天を翔け地を潜るしか、包囲網の外に遁(のが)れることができない。前方には、城砦(じょうさい)と化した東寺の守りかたく、数万の兵が鏃をそろえて、散々に矢を射てくる。

新田義貞 もともと、今日限りのわが命と、覚悟定めてきたんだ、さぁ、行くゼィ!

義貞は、2万余騎を一手にまとめ、八条から九条一帯に展開する足利軍10万余騎を四角八方へ駆け散らし、三条河原へサァット退いた。千葉、宇都宮も、思い思いに血路を切り開いて、戦場を去っていった。

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名和長年が率いている軍は、いつのまにか、孤立状態になってしまった。

仁科、高梨、春日部、丹、児玉ら3,000余騎は、一団となって一条大路を東へ退き、途中300余騎が討たれながらも、鷺森(さぎのもり:左京区)へ駆け抜けた。

長年の軍は、200余騎にて大宮で反撃に転じ、長年以下、一人残らず討死。

その後、各方面での戦闘に勝利した足利軍30万騎は、再び、新田軍を包囲。

新田義貞は思い切った様子、もはや一歩も退こうとしない。全員、馬の頭を西に向け、最後の突撃を敢行しようとする。

その時、後醍醐天皇から頂いた衣を切り割いた布を笠標(かさじるし)につけた武士2,000余騎が、方々から集まってきた。

彼らは、戦い疲れた足利軍を相手に、激しい白兵戦を展開、雲霞(うんか)のごとき大兵力の足利サイドは、馬の足も立ちかねる状態となり、京都中心部へツゥット退いていった。

かくして、新田義貞、脇屋義助、江田、大館らは、万死を出でて一生に逢い、坂本へ退却していった。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月11日 (月)

太平記 現代語訳 17-4 四条隆資軍、八幡より京都に攻め寄せる

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「京都攻めは13日午前10時」との通達が天皇軍各方面に回っていたので、坂本から出動した天皇軍は、逢坂山(おうさかやま:滋賀県・大津市)から今道越(いまみちごえ)一帯に待機して、約束の刻限を待った。

その時、足利側が謀って火をかけたのであろうか、北白川(きたしらかわ:京都市・左京区)一帯に火の手が上がり、煙が空に充満しはじめた。

八幡(やわた:京都府・八幡市)方面から攻め寄せていた天皇軍サイド・四条隆資軍はこれを見て、

四条軍リーダーA おぉっ、比叡山方面の友軍は、もう京都に突入して、火を放ちよったようやぞ。

四条軍リーダーB わしらもここでグズグズしてたらあかんわ、なぁもせんうちに、今日の戦、終わってしまうやんか。そないな事になってしもぉては、面目まるつぶれやがな。

約束の時刻を待たずに、彼らは、わずか3,000余騎で、鳥羽の作道(つくりみち:伏見区)経由で、東寺(とうじ)の南大門前へ寄せた。

東寺にこもっていた足利サイドは、その兵力の大半を比叡山方面から攻め寄せてくる天皇軍に当て、糺森(ただすのもり:左京区)、北白川方面へ送り出してしまっていた。東寺には、公家や足利尊氏(あしかがたかうじ)のお側つきの老人、少年しか残っていない。このような態勢で、四条軍を迎撃することなど、できようはずがない。

四条軍の足軽たちが、鳥羽一帯の畦道づたいに、四塚(よつつか:南区)、羅城門(らじょうもん:南区)付近まで進出してきて、矢を散々に射てくる。作道で四条軍を迎撃した高師直(こうのもろなお)の軍500余騎は、たまらず退却。四条軍サイドは、いよいよかさにかかって、盾を突きだし、頭上にかざし、一気に東寺へ攻めよせていった。

東寺の南西角の出塀(でべい)の上に設営された櫓(やぐら)が、あっという間に攻め破られ、焼け落ちていく。東寺の内部は騒然となり、あたり一面、大声が飛び交う。しかし、そのような中にも足利尊氏一人、まったく動揺する様もなく、仏前で静かに読経を続ける。

尊氏の側には、幕府司法省(注1)所属の信濃詮康(しなのあきやす)と土岐存孝(ときそんこう)がいた。存孝は、周囲をキッと見まわしながら、

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(訳者注1)原文では「問注所(もんじゅうしょ)」。
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土岐存孝 あぁ、こういう時にこそ、うちのセガレがここにいてくれたらのぉ。頼直を、北の方へ送り出すんじゃなかったわ・・・ここに留めとりゃぁよかったわ。あいつさえ、ここにいてくれりゃ、あんな敵くらいイッペンで追い払えるがね。

すると、話題の主が、そこにスット現れていわく、

土岐頼直 今、おれの事、何か言うとったかね? おれなら、ここにおるがね。

土岐存孝 (嬉しそうに)ありゃまぁ・・・びっくらこいてしもぉたでにゃぁか。北の方ではまだ戦、始まっとらんのかぁ?

土岐頼直 いや、おれには、そのへんの事、分からん。三条河原まで行った時にな、おれ、東寺の方を振り返ってみただよ。そしたら、寺の西南の方に煙が立っとるのが見えたもんでなぁ、こりゃいかんわいってなわけで、あわてて引っかえしてきたんだわ。こっちの戦況は、どないなっとる?

高師直 つい今しがた、作道のあたりで敵にやられちまってよ、退却してきたんだわさ。ここに残ってる兵力は少ねぇから、新手を繰り出して迎撃する事もできねぇ。そうこうしてるうちに、西南角の出塀を打ち破られちまってな、櫓も焼け落ちてしまった!

土岐頼直 ムムム・・・。

高師直 今まさに、将軍様の身に、重大な危険が迫ってんだよぉ! おまえな、たった一騎でもいいから外に出てって、敵を追っ払いやがれ!

土岐頼直 よぉし、分かったぁ!

即座に立ち上がり、外へ出向こうとする頼直に対し、

足利尊氏 ちょっと待て、頼直!

土岐頼直 ははっ!

足利尊氏 これを。

土岐頼直 エーッ・・・ありがとうございます!

尊氏は、常に腰に差していた菊花文様入りの太刀を、頼直に与えた。

このようなすばらしい贈り物を、将軍・尊氏から下付されて、心が勇まぬはずがない。土岐頼直は、洗革の鎧を着て、銀をビョウにかぶせた白星兜をかぶり、今賜ったばかりの黄金装飾の太刀を腰に差し、さらにその上に、3尺8寸の漆塗り鞘の太刀を差した。山鳥の引き尾の羽をつけた矢36本を森のごとくにエビラに背負い、3人張りの弓に弦をかけ、さっそうと出陣した。脛当(すねあて)は、わざと装着していない。深田を進む時に、馬から降りて歩行するためである。

東寺の北の小門から出て、羅城門の方へ回り、馬を物陰に放った後に、3町ほどかなたにひしめいている敵軍めがけて、頼直は、さしつめ引っつめ矢を射始めた。1本の矢で2人3人をいっぺんに倒し、ムダ矢は皆無。

南大門の前に押し寄せていた四条軍メンバー1000余人はおそれをなして、一斉にさぁっと退いた。

頼直は、これにますます元気づき、俊足の馬を駆って、ドロの深い鳥羽の田園の中を、あたかも平地を行くかのように突進。6騎を切って落とし、11騎に負傷を追わせ、曲がった太刀を押して直し、ミエを切るかのように東寺の方をキッと振り返る。そのりりしい姿は、まさにかの大力、和泉小次郎(いずみのこじろう)、朝比奈三郎(あさひなさぶろう)に、いささかもひけをとるものではない。

土岐頼直たった一人にあしらわれて、シドロモドロになっている四条軍の混乱を見て、高師直は、1,000余騎を率いて、再び作道を南方に進み、高師泰(こうのもろやす)は、700余騎を率いて竹田(たけだ:伏見区)方面から南下、四条軍を分断しにかかった。

いったん逃げ足づいてしまった大軍は、もはや止めようがない。討たれる者をも顧みず、負傷した者を助けもせず、四条軍メンバーらは、我先にと逃げ散り、八幡へ帰っていってしまった。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月10日 (日)

太平記 現代語訳 17-3 延暦寺、興福寺に対して、連合軍結成の勧誘檄文を送る

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利サイドとの戦に敗北あいつぎ、天皇サイドは士気も衰え、影が薄くなってきてしまった。

後醍醐天皇 こないな情勢ではなぁ、延暦寺やここ坂本の中にも、敵に寝返りをうつようなもんがいつ出てこんともかぎらんわなぁ。不測の事態に至るような事も、もしかしたらありうるでぇ。

天皇側近の公卿一同 ・・・。

後醍醐天皇 あぁ、困ったなぁ! 今のうちになんとかせんと、あかんがな! あぁ、あかんあかん! どないしたらえぇねんや、どないしたらぁ!

天皇側近の公卿一同 ・・・。

後醍醐天皇 あぁ、なんとかせんとあかん、なんとかせんとあかん!

側近A 陛下・・・ここはやはり、わが国家を守護してくださってる、比叡山に祭られてる神々方の、お力をお借りしてですねぇ。

後醍醐天皇 なんか、えぇ案あるんか?!

側近A 寄付、どないですやろ? 延暦寺へボーンと。そないしたら、比叡山の神仏も喜ばはりますやろし、延暦寺の衆徒連中らも、そらぁ奮いたちよりますやろて。

というわけで、延暦寺の九つの堂と比叡山守護の七社に対して、大荘園を各2、3か所ずつ、朝廷より寄進。

側近B いやいや、それだけではまだまだ、不十分なんちゃいますぅ?

かくして、延暦寺の衆徒800余人が、早尾社(はやおしゃ)に集まり、食料配分の事などについて会議を開いている所に、朝廷よりの使者がやってきていわく、

使者 天皇陛下より延暦寺に対して、ご寄進のお沙汰が下ったぞぉ!

衆徒一同 オォォォ・・・(どよめき)

使者 聞いて驚くなよぉ! 陛下は以下のごとく、おおせや!

 「近江国(おうみこく:滋賀県)内の、領主がいいひんようになってしもぉた荘園300余箇所を、朝廷より延暦寺に寄進するものなりい!」

衆徒一同 ウォォーーッ、ピィピィ、パチパチ!

使者 これだけとちゃうでぇ、まだあんねんぞぉ、よお聞けよぉ!

 「今後永久に、近江国の国司役所を管理する特権を、延暦寺に与えるものなりい!」

衆徒一同 イェーイ! やったでえぃ!

これを聞いた延暦寺の智慧ある者はいわく、

延暦寺の者C これで、天皇軍が勝利を得る、とでもいうような事になったら、わが寺の今後の繁栄は間違い無しと、みな思うんやろうけどなぁ・・・あんなぁ、この話、見かけほどエェ(良い)話やない、いうような気ぃするんやわ。わし、あんまり喜べへんなぁ。

延暦寺の者D えぇ? いったいなんでぇなぁ?

延暦寺の者C まぁ、考えてもみなはれ。こないな、人間の欲望をくすぐるような褒美をもろぉてやでぇ、うちのお寺のみんながエェ気になってしもぉたら、延暦寺の未来はいったいどないなる、えぇ?! これから先、学窓の前に座して仏教の真理を地道に究めていこうと志す者(もん)なんか、一人もいいひんようになってしまうんとちゃうかい? み仏を讃仰(さんごう)するこの山に上り、花のように美しく香(かぐわ)しい天台宗の教えを学ぼうとするもんも、皆無になってしまうやろうて。

延暦寺の者D ・・・。

延暦寺の者C 朝廷から頂いたこの富貴が原因となって、仏法を滅ぼしてしまう結果となるおそれ、十分にあり得る。こないなトンデモナイ事を、神々は、どのようにお考えあそばすやろ・・・あぁ、コワイコワイ!

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7月17日、延暦寺の衆徒多数が、大講堂の広庭に集まり、延暦寺三塔エリア合同会議を開催。

衆徒リーダーE 我らが寺は、王城(おうじょう)の北東方向の鬼門(きもん)を守る場所に位置し、神徳のあふれる霊地であーる!

衆徒一同 その通りぃ!

衆徒リーダーE 我ら一山(いっさん)、歴代の帝王の御治世が安泰でありますようにと、日々まこと込めて、祈願し続けてきた。また、国の四方に沸き起こる反逆者の国家擾乱(じょうらん)を、なにとぞお鎮(しず)め下さいますようにと、比叡七社の神々に対しても、なにとぞ御擁護(ごようご)を垂れ給え、と祈り続けてきたのであーる!

衆徒一同 まさしく、その通りぃ!

衆徒リーダーE さてここに、源氏の末裔(まつえい)、足利尊氏(あしかがたかうじ)、ならびに、直義(ただよし)なる者が出現。こやつらは、今まさに朝廷を傾け、仏法を滅ぼそうとしとるけしからんやつ! その大逆の罪の重さ、異国にも比較すべき対象が見つからないほど、その悪逆ぶりは、かの中国・唐王朝の反乱の首謀者・安禄山(あんろくざん)をも上回る。その積悪(せきあく)の罪は、わが国の歴史上においても未だ類を見ないものであり、かの物部守屋(もののべのもりや:注1)でさえも、これに比べたらはるかにに罪は軽いーっ!

衆徒一同 異議無ぁし!

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(訳者注1)大和時代の豪族・物部氏の長。日本に仏教を導入すべきか否かで、蘇我氏と争い、敗れた。
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衆徒リーダーE そもそも、日本の国土はことごとく、天皇陛下のものである! 我ら、たとえ仏に仕える身といえども、この国家存亡の時にあたり、天皇陛下に忠義を尽くさいでどないする!

衆徒一同 そうやそうやぁ!

衆徒リーダーE さらに言うならば、ここ北嶺(ほくれい)・延暦寺は歴代の天皇陛下の本命星(ほんみょうじょう:注2)を祈念したてまつる寺でもある。従って、朝廷の危機に際しては、それをお助けするのが当然っちゅうもんやろがぁ!

衆徒一同 当然やぁ!

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(訳者注2)中国の占星術中の一概念。その人の生れた年と関係深い星。
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衆徒リーダーE 一方、南都(なんと)・奈良の興福寺(こうふくじ)は、摂関家藤原(せっかんけふじわら:注3)氏の氏寺(うじでら)やねんから、藤原家の久しい不遇を救って当然。ゆえに、一刻も早く、南都の東大寺(とうだいじ)や興福寺に、連合軍結成・勧誘檄文を送り、我らと同盟して天皇陛下をお守りする義戦に立ち上がるように、誘ってみようではないかぁー!

衆徒一同 異議無ぁし! 異議無ぁーしぃー!

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(訳者注3)摂政、関白を輩出する家を「摂関家」と称する。平安時代以降、摂政や関白の地位は、藤原家の中の一部の家系によって独占されるようになった。
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満場一致となったので、さっそく、興福寺に牒状(ちょうじょう)を送った。その文面、以下の通り。

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 興福寺宗務局御中  延暦寺より

メッセージ:両寺、心を一(いつ)にして、朝敵・源尊氏・直義以下の逆徒(ぎゃくと)を追罰(ついばつ)し、わが日本国に、仏法(ぶっぽう)と王法(おうぼう)の昌栄(しょうえい)を大いにもたらそうではないか!

我が国に仏教が伝来してより、すでに700有余年になるが、その諸々の教義の中、なんというても、法相宗(ほっそうしゅう:注4)と天台宗(てんだいしゅう:)とが、最も勝れているのである!(注5)

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(訳者注4)世界の全ての存在・現象は、自らの心の奥深くにある「アラヤ識」という所から発するのである、と説く仏教の一派。「自分の心が自分を取り巻く世界の全てを作り出している」という主張なのだから、ヨーロッパの思想で分類すれば、唯物論ではなく、唯心論に属する、ということになろうか。(さらに正確に呼ぶならば「唯心論」ではなく「唯識論」と呼ぶべきか)。そのようにして、アラヤ識から発生した世界のすべての存在あるいは現象(「相」)を細かく分類説明するので「法相宗」と名づけられた。

法相宗は、玄奘(げんじょう)によって、インドから中国に伝道された後、さらに日本へも道昭他の遣唐使僧侶複数によって、4回にわたって伝えられた。その後、元興寺や興福寺において興隆を見た。

(以上の記述は「仏教辞典:大文館書店刊」を参考にして書いた。)

(訳者注5)興福寺は法相宗の本山であり、延暦寺は天台宗の本山である。延暦寺の衆徒たちはこのように相手の興福寺をもちあげて、連合結成の勧誘を試みた、という事になるのであろう。
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仏が仮の手段として神に姿を転じて人間世界に鎮座ましまし、その威光を輝かせておられる7000余か所の中でも、春日社の四神と、日吉社の三神の霊験はひときわあらたか。ここをもって、先には、藤原不平等(ふじわらのふひと:注6)公が興福寺を建立されて、八識五重の明鏡(はっしきごじゅうのめいきょう)を磨き、後には、恒武天皇(かんむてんのう)が比叡山・延暦寺を開かれて、四教三観(しきょうさんかん)の法灯(ほうとう)をかかぐ。

以来、南都北嶺(なんとほくれい:注7)は共に、護国護王(ごこくごおう)の重責をうけたまわり、天台と法相は互いに、権教(ごんきょう:注8)と実教(じつきょう:注9)の奥義(おうぎ)を究(きわ)めてきた。

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(訳者注6)藤原家のルーツ・鎌足(かまたり)の長男。藤原家の偉大なる二代目。

(訳者注7)このように、両寺(興福寺と延暦寺)は、しばしば対になって称されてきた。

(訳者注8)如来が衆生をして真実の義を悟らしめんがために、まずその手段として説かれた方便(ほうべん)の教えを言う。「権(ごん)」とは「実」の対で「方便」の異名、すなわち「手段」のことである(「仏教辞典」大文館書店刊より)

(訳者注9)「権教」の対。真実の教、すなわち、如来出世(にょらいしゅっせい)の本懐(ほんかい)たる大乗真実教(だいじょうしんじつきょう)のこと。(「仏教辞典」大文館書店刊より)
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この両寺が開基(かいき)されたまさにその時から、仏法は王法を守護し、王法は仏法を援助し、という、持ちつ持たれつの関係が始まったのである。

ゆえに、我らの寺に困った事が出てきた時には、上奏文を朝廷に奉って親しく相談し、逆に朝廷にトラブルあった時には、我らは朝廷と心を一にして、問題解決に向けて祈念してきた。

この5、6年間というもの、天下は大いに乱れ、人民の心は安まる事を知らぬ。中でも、目に余るのは、かの足利尊氏・直義である。

彼らは、辺境地帯の族長の分際でありながら、朝廷よりの過分のおとりたてに、いやというほど浴すような境遇になった。なのに、君臣の道をわきまえぬ彼らは、山犬や狼のごとき心を起こし、徒党を組んで、辺境地帯の者どもをその仲間にひきずりこんだ。さらに、陛下よりの命令を歪曲解釈し、陛下の盾ともいうべき人々を殺害した!(注10)

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(訳者注10)護良親王を殺害した事を非難しているのであろう。
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つらつら、天皇陛下の鎌倉幕府倒幕の聖行を鑑みるに、なにもあれは、尊氏一人だけに功績があったわけでは決してない。なのに、あれほどまでに恩寵を下さった陛下に対して、逆らい奉るとは、まったくもって、なんちゅう所業か、言語同断である!

さらに、尊氏は、新田義貞(にったよしさだ)を誹謗中傷しておる、「新田こそは朝敵である。天皇のご寵愛をむさぼり、それをかさに着て、自らの権力をほしいままに拡大しておる」てな事を、ぬかしとる。咎犯がそれを聞いたら、さぞかし不愉快に思うことであろうて。古代中国において「朝錯(ちょうそう)を討つ!」との名目を立てて反乱軍を起こしたリュウビ、その末路はどのようなミジメな結果となったか、よくよく考えてみるがよい、尊氏よ!

このように、臣下の分際でありながら主君を犯したてまつり、陛下よりの御恩を忘れて義に背くその行い、我が国の歴史はじまって以来、かくなるヒドイ男の話は聞いた事もない!

この男のせいで、今年の春の初め、煙火は都を焼き尽くし、九重の御所も灰燼に帰した。暴風は地をなぎ払い、罪もない民は塗炭の苦しみに陥った。その悪業を見ては、どこの誰もが、ため息をつかずにはおらりょうか!

かくして、日本の国土を覆うこの災いを鎮めんがため、神仏のご冥護(みょうご)を仰ぎながら比叡七社の神々の下、我ら延暦寺メンバー一同は、国家に安泰をもたらさんと、立ち上がった! 三千の衆徒は心を一にし、自らの身命をかなぐり捨てて、義兵を助けるために決起した! そして、老若心を同じくして、冥府(めいふ)の威力を頂いて、異賊(いぞく)をやっつけた!

あぁ、王道は未だ衰えず、神々の叡慮は我らを助く・・・逆賊の党は、旗を巻いて西に敗走、凶徒はホコを倒して敗北す。まさに、赤く燃える囲炉裏の火が雪を消すがごとく、丸い石が卵を押しつぶすがごとく。中国・東晋(とうしん)の帝が八公山に祈って、前秦(ぜんしん)・苻堅(ふけん)王の兵を退け、唐の時代に、不空三蔵(ふくうさんぞう)は四天王を祈願して、吐蕃(とばん)民族の陣を退けた。まさに、我らの働きも、これにたとえる事ができるであろう。

そしてついに我らは、威儀正しく、天皇陛下の御所への還御(かんぎょ)を成功せしめた! 天は妖星(ようせい)を払い、君臣は上下みな瑞雲(ずいうん)を見た。海に逆賊の主を切り、遠近ことごとく逆波(ぎゃくろう)の声を止む。これは、我ら学僧・衆徒の誠(まこと)をつくした所に、医王山王(いおうさんのう)のご加護を頂けたからである。

しかるに今、賊徒は再び都を窺い、朝廷軍はしばしの彷徨(ほうこう)の征途(せいと)を余儀なくされている。ゆえに、前回の例になろぉて、陛下は再び当山に御臨幸あそばされた。

山上山下の興廃、今まさにこの時にあり! 仏法王法の盛衰が決せらるるは、まさに今日のこの時。天台の教法、七社の霊験、その安危を、ひとえに朝廷と共にする。

法相宗の護持、四所の感応利益(かんのうりやく)もまた、国家の運命を離れて成り立つはずがない! 貴寺にもし報国の忠真の心があるのならば、興福寺の衆徒方もこぞって、陛下を助けるための計略をめぐらされてはいかが?!

我ら一山(いっさん)あげてのこの願い、なにとぞお聞きいれあって、貴寺も我らに合力せられたし! 朝廷が危機に瀕している今まさにこの時、必ず貴寺におかれては、我らの要請を容れ、我らと連合してもらえるものと信じる!

我らよりのメッセージ、以上の通り。事態は切迫しておる、もはや一刻の猶予もならん!

延元元年 6月日 延暦寺三千衆徒らより

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これを見た興福寺の衆徒らは、すぐに延暦寺と連合軍を組む事を決定し、返答を送った。

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 興福寺衆徒 延暦寺宗務局にメッセージを送るものなり

天台宗の説かれるところの観行五品(かんぎょうごぼん)の境地の上位を究めんと、わが法相宗の道昭師は、唐に渡り、黄河と准河の間の地にて、かの玄奘三蔵法師からそれを学ばれた。

インドにおいて、釈尊はすべての修行を了(お)えられて正覚者=ブッダとなられ、究極の教えを人々に説かれた。そしてこの教えは中国に伝道され、隋(ずい)王朝の高祖(こうそ)、唐王朝の大宗(たいそう)によって大いに興隆を見た。そしてさらに日本にも伝わり、貴寺にはその一つの理論であるところの天台の教えが伝えられた。

しかしながら、インド、中国、日本の三国に広まった仏教の中で、最高の真実なる教義・法相宗は、唯一わが興福寺のみに伝えられ、以来、長い歳月の経過の中に、我らはそれを護持し続けてきた。

まことに、仏法を広く世界に広めるためのみ仏の壮大なる御計画の下、我が興福寺は、天皇の基盤を護持する事業を展開してきたと言えるであろう。

さて、

かの足利尊氏・直義らは、辺境にうごめいてきた輩、鎌倉幕府側から降伏してきた者である。彼らに比べれば、犬や鷹の方がよっぽど使いものになるのでは、というほどの無才の人間であるのだが、それでも、天皇陛下の爪や牙の役目を頂いて、お仕えしてきた。なのに、たちまちその御恩を忘却し、謀反の心を起こした。

「楊氏を討つ」と称して、家臣でありながら皇帝に反逆し、各地の州県を攻略して掠奪を繰り返し、吏民を捕虜とした、かの中国・唐王朝の安禄山にも、足利兄弟はたとえられるべきであろう。足利兄弟のせいで、帝都はことごとく焼き払われ、仏閣多数が失われてしもぉた。まさに、赤眉(せきび)の乱、黄巾(こうきん)の乱を越えるような害悪である。

その資格の全くない者が日本の政権を握るなどとは、全くもって前代未聞。足利一味に天誅が下され、神罰がすぐに顕われる事は必定(ひつじょう)。よって、昨年の初春、足利軍は惨めな敗北を喫し、命からがら西海に逃亡していった。

それにも懲りず、再び敗軍を集め、生き残りの者どもを引き連れ、雷のごとき神威をも恐れず陛下に迫るとは、いやはや・・・またもや、天罰は下るにちがいない。

足利軍は今、京都を徘徊(はいかい)して凶悪を振るっておるが、それは決して、長続きするものではない。かの古代中国・殷(いん)王朝の紂(ちゅう)王を見よ、再び孟津を渡った周の武王によって、滅ぼされたではないか。尊氏の運命も、それと似たようなもの。

かの、中国春秋時代、楚の軍が晋の文公に打ち破られた事を忘れてはいかん。天命にそむく者は大いなる咎を受ける、道にそむく者は誰にも助けてもらえない。積悪の勢いも、そうそういつまでも続くもんではない。

まさに今、天皇陛下は京都の外に臨幸を余儀なくされておられ、比叡山に陣を張っておられる。延暦寺三千の衆徒らは、「なにとぞ陛下を守りたまえ」と、合掌の中に熱い祈りを捧げ、七社の霊神も陛下を擁護しようとされている。

唐の代宗(だいそう)は反乱軍の難を避けて、香積寺に遷座した。また春秋時代、越王・勾践(こうせん)が会稽(かいけ)山にあった時、その兵は天台山の北に布陣した。これらの歴史事例を見るならば、陛下が延暦寺へ遷座された事も、なにかしら吉なる結果をもたらすように思える。

我ら興福寺の衆徒らは、天皇が奈良から京都に都を遷された後も、朝廷に忠節を尽してきた。皇室の長久(ちょうきゅう)を専ら祈り、朝廷に逆らう者らの滅亡を願ってきた。我らのこの陛下に捧げ奉る赤心(まことごころ)に表裏はない、神仏もきっと我らを助けたもうであろう。

しかも、こちらの寺の周辺の若き者らや、大和国(やまとこく:奈良県)一円の武士らは、朝廷軍に参加しようとの意志を持っており、反逆者を退治する策をめぐらすに余念無し、という状況である。

しかしながら、こちらとそちらとでは南北遠く距離が隔っており、なかなか、行動を共には、しにくい。さらに、敵は様々に作戦を立てて、兵を、陛下のすぐ足元にまで進めてきているという。

そちらサイドの陣営内、人心未だ、和して一体という状態になってはいないように、見うけられる。禍の芽は、内部にもあるのでは?

前には、北方の異民族の軍、後には、フェルガナの軍、攻めにうってでるのが良いのか、はたまた、守りに転ずるのが良いのか・・・まことに悩ましい所である。

しかしながら、陛下からもわが寺に、「朝廷軍に参加せよ」との勅命を何度も何度もお送りいただいていることであるし、貴寺からも牒状をいただいたことでもあるからして、我々も黙って見ているわけにはいかん、速やかに精鋭部隊を編成してそちらに送り、一日も早く逆賊を征伐するために、貴寺と連合することを、ここに約束する。

延元元年 6月日 興福寺衆徒らより

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「興福寺、延暦寺に同盟・連合」との情報が伝わり、この戦の帰趨(きすう)を計りかね、いったいどちらについたものやら、と迷い煩っていた近畿地方とその周辺の勢力は全て、「延暦寺に加担し、それに協力しよう」という状況になっていった。

しかし、天皇のいる坂本は足利軍に完全に包囲されてしまっていて、そこへ参ずる事も不可能。そこで、「陛下の下よりお一人、腹心の方を我々のエリアの方におつかわしください、我々はその方を大将として頂き、京都を攻めてみますから」との要請を、坂本へ送った。

「よし、ならば」ということで、八幡(やわた:京都府八幡市)に、四條隆資(しじょうたかすけ)が派遣されてきた。

真木(まき)、葛葉(くずは)、禁野(きんや)、交野(かたの)(以上、大阪府・枚方市)、鵜殿(うどの:大阪府・高槻市)、加島(かしま:大阪市・西淀川区)、神崎(かんざき:兵庫県・尼崎市)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)、加茂(かも:京都府・木津川市)、瓶原(みかのはら:京都府・木津川市)の武士たちがそこに馳せ参じてきて、たちまち3,000余騎の勢力となり、大渡の橋(おおわたりのはし:場所不明)の西手に陣を取り、淀川一帯の交通路を完全に押さえてしまった。

宇治(うじ:京都府・宇治市)へは、中院定平(なかのいんさだひら)が派遣されてきた。さっそく彼の下に、宇治、田原(たわら:京都府・綴喜郡・宇治田原町)、醍醐(だいご:京都市・山科区)、小栗栖(おぐるす:山科区)、木津(きづ:京都府・木津川市)、梨間(なしま:京都府・城陽市)、市辺山(いちのべやま:城陽市)、城脇(しろわき:城陽市)の武士らが馳せ集まってきて、2,000余騎。宇治橋2、3間を引き落とし、橘小島(たちばなのこじま:宇治市)のあたりに陣取った。

北丹波道(きたたんばどう)へは、大覚寺宮親王(だいかくじのみやしんのう)を大将とし、額田為綱(ぬかだためつな)に300余騎を率いさせて差し向けた。彼らは白昼、京都を通過、長坂(ながさか:京都市。北区)を上がっていった。嵯峨(さが:京都市・右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)、高雄(たかお:右京区)、栂尾(とがのお:右京区)の在地勢力に加え、須智(すち)、山内(やまのうち)、芋毛(いもげ)、村雲(むらくも)らの家の者らが馳せ集まってきて1,000余騎。京都を足下に見下ろす京見峠(きょうみとうげ:北区)、嵐山(あらしやま:右京区)、高雄、栂尾に陣を取った。

この他、鞍馬道(くらまどう)を、延暦寺西塔エリアの衆徒が押さえ、瀬田(せた:滋賀県・大津市)を、愛知川(えちがわ:滋賀県・愛知郡・愛荘町)、信楽(しがらき:滋賀県甲賀郡)の勢力が占領した。

このように、京都に通じる四方の七つの道のうち、わずかに唐櫃越(からうとごえ:西京区)だけを残して、他の全てが天皇軍によって占領されてしまった。諸国からの運輸は途絶え、京都内部の足利サイドは食料不足に陥った。しばらくは、馬や鎧を売って食物を得て、なんとか食いつないでいたが、とうとう、京都や白川の在家や寺々へ乱入し、衣服や食物を掠奪しはじめた。

公卿や殿上人らも兵火の為に焼け出されてしまい、こちらの辻堂、あちらの社殿に身を側(そば)め、僧俗男女(そうぞくなんにょ)は道路に食を乞うて、築地(ついじ)の陰、門の下の石畳の上に飢え伏している。日本の歴史が始まって以来、戦乱は数多くあったが、これほどの惨状は前代未聞である。

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「足利軍サイド弱体化、天皇軍サイド、再び優勢」との情報に、諸国の武士らが100騎、200騎と団体を成して、続々と坂本へ参集してきた。海の彼方の阿波(あわ:徳島県)や淡路(あわじ:兵庫県淡路島)からさえも、阿間(あま)、志知(しち)、小笠原(おがさわら)家の人々が3,000余騎でやってきた。

公卿F いやぁ、まことにたのもしい事ですやんか。

公卿G あんな遠いとこからも、こっちサイドに、馳せ参じてきよるとはねぇ。

公卿H 京都奪回のチャンス、今まさに到来、この機会を逃してはなりません!

公卿I 総攻撃の日取りを決め、京都の四方から攻めさせましょう!

そこでまず、四国勢を阿弥陀峯(あみだがみね:京都市東山区)に繰り出して、毎夜、カガリ火を焼かせた。その光は2里、3里ほどにわたって連続し、一天の星々が地上に落ちてきてきらめいているかのようである。

東寺(とうじ:京都市・南区)の楼門の上からそれをながめる足利軍に、どよめきの声が起こる。

足利軍メンバーJ うわぁ、ものすげぇ数だなぁ、あの峯に燃えてるカガリ火。

高重茂(こうのしげもち)が、すかさず一首詠んだ。

 多くても 48をは 超えまいて 阿弥陀峯(あみだがみね)の 光だもんなぁ

 (原文)多く共(とも) 四十八には よも過(すぎ)じ 阿弥陀峯(あみだがみね)に 灯(とも)す篝火(かがりび)
(注11)

足利軍メンバーK イェーイ、なかなかうまいこと、詠むじゃん。

足利軍メンバー一同 ウワッハッハッハ・・・。

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(訳者注11)浄土三部経(じょうどさんぶきょう)中の一・観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には、「阿弥陀仏の48個の誓願」が説かれているとのことである。
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再度、京都へ寄せて決戦を、と、天皇軍側では軍議決定、各方面への通達を行った。

士卒の士気を高めるために、後醍醐天皇はもったいなくも、紅の袴をお脱ぎになり、それを三寸ずつに切り裂いて、希望する武士に下付された。

7月13日、大将・新田義貞は、過去何度もの戦に生き残った一族43人を率いて、天皇のもとへ参じた。天皇は、一同を笑顔で迎えた。

後醍醐天皇 今日の合戦、過去にも増して、忠節をつくせよ!

新田義貞 ははーっ!

後醍醐天皇 うん、うん。

新田義貞 陛下、合戦の結果は、運次第であります。ですから、前もって勝負をうんぬんするのは、不可能と思います。でも、でも・・・。

後醍醐天皇 ・・・。

新田義貞 今日の戦、尊氏がこもってる東寺の中へ、矢の一本も射る事もなしに、退却しちまう、そのような事だけは、絶対にいたしません!

後醍醐天皇 うーん!

このように天皇に誓って、義貞は御前を退出し、前後に天皇軍を率いて出陣した。

白鳥岳(しらとりだけ)の前を通過している時、見物している少女が、朝廷軍の後方を進む名和長年(なわながとし)を見ていわく、

少女 なぁなぁ、みんな、「三木一草(さんもくいっそう)」ってご存じ? あたくし、知ってますよぉ。

見物の人L そんなもん、今時(いまどき)、誰でも知ってるわぁい。「三木」いうたら、結城(ゆうき):伯耆(ほうき)、楠(くすのき)。「一草」は、千種(ちぐさ)やろぉ。

少女 その人らはみな、天皇陛下から思う存分、ご寵愛を受けた人らやねんけどなぁ、もう3人も死んでしまわはった・・・伯耆の木だけは、まだ生き残ってるようやけど。(注12)

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(訳者注12)「結城」は、結城親光(ゆうきちかみつ)、「伯耆」は、名和長年(伯耆守)、「楠」は、楠正成、「千種」は千種忠顕。
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これを聞いた、名和長年は、

名和長年 (内心)なるほどなぁ・・・おれが今日まで生き残ってきたの、世間の連中らからは、こういう目で見られてたんだわ。あんな子供までが、あんな事、言うんだもんなぁ。

名和長年 (内心)よぉし、今日の戦、わが方の敗北に終わっても、おれはたった一騎になっても、戦場に踏みとどまって討死にするぞ。今日が、おれの最後の戦いだわな!

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月 9日 (土)

太平記 現代語訳 17-2 京都、再び戦火の渦中に

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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6月5日から20日にかけての比叡山攻防戦において、死傷した者の数はおびただしかった。

その戦の結果、足利軍は比叡山の東西双方の山麓から追い立てられ、戦場から退いた武士たちは、京都の中に踏みとどまることもかなわず、十方へ逃亡。かくして、京都内の防備も極端なまでに手薄となってしまい、足利サイドは、「これは、いかがしたものであろうか・・・」と、青くなってしまっている。

この時、天皇サイドがそく、京都を攻めていたならば、足利サイドは到底、持ちこたえることはできなかったであろう。しかし、天皇サイドにおいては、内部の意思統一がなかなか出来ないままに、空しく10余日が経過、その間に、京都周辺に逃亡していた足利サイド勢力は、再び士気を回復して京都に帰還し、その兵力は回復。

このような情勢の変化を全く把握しないままに、天皇サイドは、「京都内の敵側兵力、手薄なり!」との情報だけでもって、6月末日、10万余騎を二手に分けて、今路(いまみち)と修学院(しゅがくいん)から、京都に押し寄せていった。

足利尊氏(あしかがたかうじ)は、わざと少ない兵力でもって鴨河原へ繰り出して、矢を少しだけ放たせた後、退却、との作戦を立てていたのだが、千葉(ちば)、宇都宮(うつのみや)、土居(どい)、得能(とくのう)、仁科(にしな)、高梨(たかなし)の軍勢が、緒戦の勝利に乗じて、京都中心部まで足利軍を追撃。

それに対して尊氏は、相手をぎりぎりの地点まで引き付けた上で、東寺(とうじ)から、軍勢50万騎を繰り出し、京都の街中を走る南北東西の小路(こうじ)を使って、臨機応変の布陣を取らせ、天皇軍を東西南北に分断、四方に当たり八方に囲み、一騎残らず討ち取れと、戦闘を展開。

天皇軍側は、あっという間に、戦死者500余人、比叡山西山麓目指して、撤退。

このようにして、足利サイドは再び勢力を盛り返し、天皇サイドは力を落とし、というわけで、またまた、双方互角の形勢に戻ってしまった。

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その後しばらくは戦闘も無かった所へ、二条師基(にじょうもろもと)が、北陸方面から敷地(しきじ)、上木(うえき)、山岸(やまぎし)、瓜生(うりう)、河嶋(かわしま)、深町(ふかまち)以下の3000余騎を率いて、7月5日、坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ到着。

大いに意気上がった天皇軍は、7月18日、再び京都に軍を進めた。

天皇軍リーダーA 前回は、京都中心部を超えて、はるか南方の東寺まで攻め寄せてしまったので、小路をうまく使って前後左右から攻めかかってくる敵軍を防ぐことができなかったし、相手の陣を破ることもできなかった。だから今回は、軍を二手に分けて、第1軍は、二条大路(にじょうおうじ)を西へつっきって北野(きたの)のあたりまでかけ抜けた後、大宮大路(おおみやおうじ)を南下する。第2軍は、鴨川ぞいに河原を南進する。その後、東西双方から京都中心部に向けて、挟み撃ちの火攻めを敢行するのだ!

ところが、天皇サイドのいかなる野心の者が、足利サイドに通報したのであろうか、この作戦はたちまち、足利サイドの知る所となった。

足利尊氏 よし・・・では、我々の布陣、以下のようにしよう。60万騎の兵力を3手に分ける・・・。

足利軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 まず第1軍、兵力20万騎。東山および七条河原一帯に配置・・・。この第1軍は、河原を南下してくる敵勢力を、東西から包囲せよ。

足利尊氏 次に第2軍、これも兵力20万騎。船岡山(ふなおかやま)の麓から、神社総庁(注1)の南方にかけて配置・・・。北野方面から進んでくる敵軍を包囲せよ。

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(訳者注1)原文では、「神祇官」。
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足利尊氏 残るは兵力20万・・・西八条(にしはちじょう)から東寺の本陣の前面にかけて配置・・・つまり、予備軍だ。我が方のどこかの方面の陣が破れた時に、援軍を差し向けるためのな。

足利尊氏 軍の配置については以上。よろしいかな、諸君!

足利軍リーダー一同 ははっ!

翌、18日午前6時、天皇軍は、北白川(きたしらかわ)、八瀬(やせ)、薮里(やぶさと)、一乗寺下松(いちじょうじさがりまつ)、修学院(しゅがくいん)一帯に押し出した後、東西二手に兵を分けた。

新田一族が率いる5万余騎は、糺森(ただすのもり)を南に見て、紫野(むらさきの)経由で北野方面へ。

一方、二条師基、千葉、宇都宮、仁科、高梨が率いる軍は、真如堂(しんにょどう)の前を西へ進み、鴨川の河原まで出て、そこから南に進んだ。その軍に所属している足軽(あしがる)たちは、本隊に従い走りながら、京都中の民家数百箇所に放火して回った。猛火は天に満ち広がり、風に乗った黒煙は四方を覆う。

鴨川の五条河原で、両軍の戦端が開かれた。射る矢は雨のごとく、剣戟(けんげき)は稲妻(いなずま)のごとし。

やがて、北野方面でも戦闘開始。右近馬場(うこんのばば)の東西、神社総庁の南北に、汗馬(かんば)の馳せ違う音、トキの声が入り混じり、百千もの雷が大地を打つかのようである。

やがて、五条河原方面の戦場で、天皇軍は敗北し退却。これに力を得た北野方面の足利軍は、新田義貞の軍勢を十重二十重(とえはたえ)に包囲し、おめき叫んで攻め戦う。

しかし、新田軍の兵らは、臨機応変・百戦錬磨、混戦乱戦おてのもの、一挙に百重(ももえ)の囲みを解き、たった一人も討たれることもなく、追撃する足利軍に反撃を繰り返しながら、比叡山へ退却していった。

天皇軍メンバーB (内心)それにしても、今回の戦・・・どうも、こちらの作戦、敵側につつぬけになってたような気がして・・・。

天皇軍メンバーC (内心)古代中国の武経七書の中に、こんな事、書いてある、

 「将の立てし作戦 敵側にもれ出(いず)る時には 軍(いくさ)に利無し」
 「自軍の中に敵に内通する者ある時には およそ リスクマネジメントは不可能なり(注2)」

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(訳者注2)原文では「禍不制」。
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天皇軍メンバーD (内心)この比叡山の中に、足利と内通してるヤツがいやがるとは・・・。

天皇軍メンバーE (内心)内通してるの、いったい誰? こんな事になってきちゃったら、お互い信用おけなくなってくる。

天皇軍メンバーF (内心)もしかしたら、あいつかな?

天皇軍メンバーG (内心)あいつのこと、信用してていいのかなぁ?

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月 8日 (金)

太平記 現代語訳 17-1 足利軍、延暦寺を攻める

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都の東寺(とうじ)において、足利尊氏(あしかがたかうじ)、直義(ただよし)、高(こう)家、上杉(うえすぎ)家メンバーたちは、作戦会議を開いた。

会議メンバーA 皆様もご存じのように、天皇は再び、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)へ行かれました。寺の衆徒たちは、今年の春に勝利したごとく、今回も、天皇にかたく忠誠を誓って擁護しよう、との態勢であります。

会議メンバーB どうやら、比叡山にじっと待機しながら、北陸地方や東北地方からの援軍の到着を待っているようですね。

会議メンバーC このままズルズルと行っちまったんじゃぁ、イカンと思いますよ。新田義貞(にったよしさだ)の兵力が増大してしまっては、まずいのでは?

会議メンバーD 敵サイドの兵力がまだ少ない、今この時ですよ、延暦寺攻撃のタイミングは!

足利尊氏 ・・・よし・・・比叡山に兵を送るとするか。

6月2日、各方面の軍編成決定の後、足利軍50万騎は、大手とカラメ手の2手に分かれて、比叡山へ向かった。

足利・大手方面軍: 吉良(きら)、石塔(いしどう)、渋川(しぶかわ)、畠山(はたけやま)を大将として5万余騎。大津、松本(まつもと)の東西の宿、園城寺(おんじょうじ)の焼け跡、志賀(しが)、唐崎(からさき)、如意が嶽(にょいがたけ)まで充満。(注1)

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(訳者注1)ここに出てくる地名は、最後の「如意が嶽」以外は、滋賀県・大津市内にある。「園城寺の焼け跡」については、15-3を参照。「如意が嶽」は山腹に、送り火行事の「大文字」がある山。
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足利・カラメ手方面軍: 仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、今川(いまがわ)、荒川(あらかわ)を大将として四国・中国方面勢力8万余騎。今道越(いまみちごえ)ルートを通り、三石山麓を経て、無動寺(むどうじ)へ寄せていく。

修学院(しゅがくいん:京都市・左京区)方面へは、高師重(こうのもろしげ)、高師秋(こうのもろあき)、大高重成(だいこうしげなり)、南宗継(みなみむねつぐ)、岩松(いわまつ)、桃井(もものい)らを大将として30万騎。八瀬(やせ)、薮里(やぶさと)、静原(しずはら)、松が崎(まつがさき)、赤山(せきさん)、下り松(さがりまつ)、修学院、北白川(きたしらかわ)まで展開し、音無滝(おとなしのたき)、不動堂(ふどうどう)、白鳥越(しらとりごえ)経由で寄せて行く。

天皇サイドでは、これほどの大軍が押し寄せてくるとは予想もしなかったのであろうか、行く道には警護の者もおらず、木戸(きど)や逆茂木(さかもぎ)も設置されていない。足利サイドの馬は、岩石多い道を行く事にも慣れているので、険しい山道をものともせず、どんどん登っていく。

天皇サイドの主要メンバーは、新田義貞をはじめ、千葉(ちば)、宇都宮(うつのみや)、土肥(とひ)、得能(とくのう)に至るまで、比叡山の東山麓の坂本(さかもと:大津市)に集まっており、山上には、歩行さえおぼつかない高僧や、窓を閉ざして修行に専念している修学者がいるだけで、まったくの無防備状態であった。

この時、比叡山の西側山麓から寄せていった足利サイドの大軍が、途中瞬時も停滞することなく四明嶽(しめいがたけ:注2)までまっしぐらに突き進んでいたならば、天皇サイドは、比叡山上も坂本も全く防御する事ができず、一気に総崩れになっていたであろう。

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(訳者注2)比叡山中の最高峰。
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しかし、延暦寺を守護する山王(さんおう)のご加護があったのであろうか・・・。

足利・後衛陣メンバーE ありゃりゃぁ、すげぇ朝霧、立ち込めてきたよぉ。

足利・後衛陣メンバーF 一寸先も見えねぇや。

足利・後衛陣メンバーG おいおい、山の上の方で、すげぇでかい叫び声、上がってるぜ。

足利・後衛陣メンバーE うわぁ、声の大きさから思うに、ものすげぇ人数だぞぉ。あれはきっと、敵側の矢の一斉射撃の時の叫び声だよ。

足利・後衛陣リーダーH こりゃ、うかつに前へは進めねぇぞ。よし、とにかくここでいったん、進軍ストップだぁ!

なんの事はない、足利・後衛陣の者らは、自軍の前衛陣の上げるトキの声を、深い霧のせいで敵側の喚声と聞き誤ってしまったのである。このようにして、足利サイドは、時間を空費してしまった。

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大宮(おおみや)まで降りて、「延暦寺3エリア・合同全体会議」に参加していた衆徒たちは、「足利軍急襲!」との報を聞き、急遽、山上にとって返した。

彼らは、将門の和労堂(しょうもんのわろうどう)の周囲に陣を構え、「ここを破られてなるものか!」と、必死に防衛戦を行い、足利軍の先頭を進んでいた武士らはたちどころに300人ほど討死。

これ以降、足利軍は一歩も前進できなくなってしまった。

前衛が進もうとしないので、後衛はなおさらのこと、前進できない。

かくして双方とも、急勾配の坂の木陰に陣を取り、切り通した堀を境として盾を並べ、互いに遠矢を射るだけで、その日は終わった。

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足利・大手方面軍中の志賀、唐崎に配備された10万余騎は、比叡山の西側からトキの声が響き渡ってくるのを聞いて、「いよいよ西側で、闘いが始まったか、よぉし、こっち側も!」ということで、坂本の西方の穴生(あのう)まで押し寄せて、トキの声を上げた。

足利・大手方面軍リーダーI さてさて、敵陣を見渡してみるにだなぁ・・・。

足利・大手方面軍リーダーJ ウーン・・・。

無動寺の山麓から琵琶湖の波打ち際まで、2丈ほどの深さの空堀が延々と続いていて、その所々に橋が懸けられている。堀の向うには、塀、木戸、逆茂木がビッシリ。渡櫓(わたりやぐら)や高櫓(たかやぐら)の数はざっと300余。塀の向うには、ここが大将・新田義貞の本陣であろうか、中黒(なかぐろ)紋の旗30余本が、山を吹き降ろす風に吹かれ、龍蛇(りゅうじゃ)のごとく翻っている。

その旗の下には、陣屋を並べ、油を塗った幕を引き、輝く鎧を装着した武士らが2、3万騎。各陣営とも、後方に馬をつなぎながら、密集して並んでいる。

無動寺の麓、白鳥越(しらとりごえ)のあたりを見渡せば、千葉、宇都宮、土肥、得能をはじめ、四国・中国の武士らがここをかためていると見え、左巴(ひだりともえ)、右巴(みぎともえ)、月に星、片引両(かたひきりょう)、傍折敷(そばおりしき)に三文字等々、各家の紋を描いた旗60余本、木々の梢に翻りはためく。その陰には、兜の緒を締めた兵3万余騎、敵近づかば横合いから攻め下ろせとばかりに、馬を並べて控えている。

琵琶湖上を見下ろせば、四国、北陸、東海道の水上戦を得意とする武士らが、亀甲(きっこう)、下濃(すそご)、瓜紋(うりもん)、連銭(れんぜん)、三星(みつぼし)、四目結(よつめゆい)、赤幡(あかはた)、水色(みずいろ)、三つスハマ等々、各家の紋を描いた旗300余本、淡水の上に姿を現し、漕ぎ並ぶ船々の舷側には、射手とおぼしき武士ら数万人、盾の陰に弓杖(ゆんづえ)を突いて、足利軍に横矢をあびせかけようと、待ち構えている。

さしもの大兵力の足利軍も、相手のこの勢いに機を呑まれ、矢の射程距離域中にまでは前進できず、大津、唐崎、志賀の300余箇所に陣を取り、ただ遠攻めにするしかない。

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6月6日、足利・大手方面軍の一人の大将が、比叡西側山麓方面の足利軍に使者を送った。

使者 西側山麓方面の皆様へ、わが方の大将より、以下のようなメッセージをお伝えに参りました。

 「こちらの坂本方面の敵陣を視察したところ、新田、宇都宮、千葉、河野(こうの)をはじめ、敵側の主要メンバーのほとんどは、こちら側、比叡山の東側の防衛を担当しているようです。となると、山の西側の防衛は、急峻(きゅうしゅん)な地形を頼んで、公家の人々、あるいは、延暦寺衆徒らが担当しているのでしょう。」

 「ですから、ここは一つ、そちら方面からガツーンとイッパツ、攻めてみればどうでしょう? おそらく、敵はまともに抵抗できないしょう。」

 「四明嶽から敵を追い落とされた後、大講堂(だいこうどう)、文殊楼(もんじゅろう)のあたりに移動して、そこで火をあげてください。それを合図に、こちらからも一斉に打って出ますから。こちら側の坂本をかためている敵を一人残らず、湖水に追い落として滅ぼしてやりますよ!」

これを聞いて、足利・西側山麓方面軍の大将・高師重は、全軍に指令を出した。

 「明日、わが足利軍、全方面から延暦寺総攻撃と、決定した。」

 「この戦において、一歩たりとも退いた者は、たとえこれから先に抜群の忠功ありといえども、それは一切認められずに所領没収し、その身柄は追放処分となる。」

 「一太刀でも敵と刃を交えて陣を破り、分捕りした者は、凡下(ほんげ:注3)ならば侍(さむらい)に取りたてられる、御家人(ごけにん:注4)ならば、将軍様から直接に恩賞が与えられよう。」

 「かといって、自分一人だけ手柄を立てようと思っての抜け駆けは、絶対にしてはならない。また、仲間の功績をそねんで、相手が危い時に知らん顔をする、などということも、まかりならぬ。互いに力を合わせ、共に志を一つにして、敵が斬りかかってこようと、矢を射てこようと一切かまわず、味方の死骸を乗り越え乗り越え、進むべし!」

 「敵が退いたならば、再び返ってこない間にさらに進み、山上に攻め上がれ。そして、堂舎(どうしゃ)、仏閣(ぶっかく)に火を懸け、比叡全山、一宇(いちう)残らず焼き払い、延暦寺3千の衆徒全員の首を一つ一つ、大講堂の庭にさらして、将軍様のお褒めに預かるとしようではないか!」

このように、全軍を励まして命令した高師重の悪逆のほど、まことにあさましい。(注5)

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(訳者注3)御家人でもない、侍でもない身分。

(訳者注4)将軍直属の家臣。「御家人制度」は源頼朝の時から始まったという。

(訳者注5)数百年後の織田信長の「比叡山焼き討ち」を連想させるようなくだりである。もしかしたら、信長は太平記のここにヒントを得たのかも?
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この命令を聞いて、足利・西側山麓方面軍の将兵は、全員奮い立った。

夜明けとともに、20万騎は、三石、松尾(まつのを)、水呑(みずのみ)の3方面から、太刀、長刀の切っ先を並べ、左手を前にかざしながら、「エイ、エイ」と声を上げながら、山道を登っていった。

彼らはまず、恒良親王(つねよししんのう)の副将軍に任命されていた千種忠顕(ちぐさただあき)と坊門正忠(ぼうもんまさただ)が率いる軍勢に襲いかかった。

忠顕たちは、たった300余騎でもって防戦に努めたが、松尾方面から攻め上ってきた足利軍に後方から攻められ、一人残らず討死にしてしまった。(注6)

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(訳者注6)ここでまた一人、後醍醐天皇側の重要メンバーが舞台から去ってしまった。鎌倉幕府打倒から後醍醐政権樹立前後における千種忠顕に関する太平記の描写に比して、彼の最期を述べたこの部分の記述はまことにあっけない感じがする。
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これを見て、後方に位置して防衛に努めていた、護正院(ごしょういん)、禅智坊(ぜんちぼう)、道場坊(どうじょうぼう)以下の衆徒7,000余人は、一太刀打っては退き登り、暫く支えては引き退いて、徐々に、山上に追い上げられて行く。

足利サイドはますます、それに乗じて追い立て追い立て、相手に一息も継がせる事なく、さしも険しき雲母坂(きららざか)、蛇池(じゃいけ)を左手に見ながら、ついに四明嶽の付近に到達した。

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「比叡山・西山麓方面の防衛線、破れたり!」との知らせは、延暦寺全域を疾風のごとくかけ抜けた。あちらでもこちらでも、急を告げる鐘の激しい連打が鳴り響き、東塔エリア一帯は、パニック状態に陥った。

歩行もおぼつかない高僧たちは、鳩頭の杖をつきつき、根本中堂(こんぽんちゅうどう)や常行堂(じょうぎょうどう)などへ移動して、嘆き悲しむ。

高僧K あぁ・・・わしらみな、ここで死んで行くんかいなぁ。

高僧L ご本尊様といっしょに、死んでいくしかないんやなぁ。

かたや、仏教書の研究に明け暮れる毎日を送ってきた学僧たちは、経典・注釈書を懐深くしまって腹に当て、逃げていく武闘派衆徒たちの太刀や長刀を奪い取り、四郎谷(しろうだに)の南方の箸塚(はしづか)の上に駆け登り、そこを拠点とし、わが命を投げ出して、足利軍に抵抗し続けた。

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ここに、足利軍サイドに加わっていた一人の武士が、大音声を張り上げていわく、

江田泰氏 こらこら! そこのもん(者)ら、よぉ聞きんさい! わしは、備後国の住人・江田泰氏(えだやすうじ)じゃ! これからおまえら、片っ端から切り倒してくれるわ!

泰氏は、洗革(あらいかわ)の鎧に5枚シコロ(注7)の兜を装着し、所々錆びが浮いた血まみれの太刀を振りかざしながら、まっしぐらに坂を駆け登っていった。

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(訳者注7)兜の左右・後方を構成する部品。
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山神定範 よぉし、おれが、おまえの相手したるでぇ!

泰氏の前に立ちふさがるは、杉本(すぎもと)の山神定範(やまかみのじょうはん)という、武勇優れる延暦寺の僧である。定範は、黒糸威(くろいとおどし)の龍頭の兜をかぶり、股まで覆うすね当てを装着、3尺8寸の長刀を短く持って、泰氏に立ち向かっていった。

江田泰氏 えぇい、くらえぃっ!

泰氏の太刀 ヴァシーンッ!

山神定範 なんのなんのぉ!

定範の長刀 グァキッ!

余人を交えぬ二人だけの闘いが展開されていく・・・打ち交わされる刃(やいば)からは火花が飛び散り、二人の足はあちらにこちらにと、激しく大地を踏み締める。

泰氏は、比叡山の長い坂道を登りながら、何度も何度も戦闘を繰り返しながらここまでやって来ており、すでに相当疲労していた。朝、戦闘を開始した時よりも、腕の動きが鈍っており、気力も衰えを見せ始めていて、ややもすると受け太刀になってしまう。

その気配を見てとった定範は、ここぞとばかりに、長刀を長く持ち替え、相手の兜も割れよ砕けよとばかりに、連打。

山神定範 エェーィッ、エェーィッ!

定範の長刀 ガキーン、ガキーン!

泰氏の兜 ボコッ!

江田泰氏 (内心)しまった!

定範が打ち下ろした長刀は、泰氏の兜に命中、兜は、ずれて泰氏の目の上にかぶさってしまった。

泰氏が、兜を元に戻そうとして、頭を上にもたげたその瞬間、定範は、長刀をカラリとうち棄て、泰氏に走り寄ってムズと組んだ。

山神定範 エェイ・・・締め殺したるわい・・・。

江田泰氏 ウウウ・・・その・・・手を・・・放せ・・・。

山神定範 エェイ・・・。

定範の足の下の地面 ド、ド、ド・・・。

江田泰氏 ウウウ・・・。

泰氏の足の下の地面 ド、ド、ド・・・。

二人が力をこめて踏みしめる足は、大地を揺るがせる。と、その時、

定範の足の下の地面 ドッ、ボスッ!

泰氏の足の下の地面 ドッ、ボスッ!

江田泰氏 あぁぁ!

山神定範 うわぁぁ!

二人が足を踏みしめたその瞬間、足元の土が崩れた。

二人はなおも組合いながら、小笹の茂る数千丈もの高さの斜面を、上になり下になりながら、転げ落ちて行く。斜面の中ほどからようやく二人の体は分かれ、谷底めがけて別々の方向に転落していった。

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延暦寺側の抵抗は続いた。

伝灯(でんとう)称号を与えられた14人の高僧や、法華堂(ほっけどう)を護持する僧侶までもが、袈裟(けさ)の袖を結んで肩にかけ、降魔の利剣(ごうまのりけん)をひっさげて足利軍に立ち向かい、命を風塵(ふうじん)よりも軽んじて決死の防戦を展開、さしもの足利軍も、前進の足がパタリと止まってしまった。

四明嶽(しめいだけ)の山頂および西谷口まであと3町ほど、という地点で、足利軍は止むをえず小休止。軍を率いるリーダーたちに、今後の戦闘指揮についてのためらいの色が見え始めた。

天皇サイドに加わっている宇都宮軍メンバー500余騎は、「篠の峯をかためよ」との指令を受けて、昨日から横川(よかわ)エリアに布陣していた。

宇都宮軍団メンバーM 殿、あれ、聞こえませんか・・・なんだか、大講堂の鐘、ガンガンなってますぜ。

宇都宮軍団メンバーN ほんとだ・・・いったい誰が鳴らしてるのか分からないけど。

宇都宮軍団メンバーO もしかしたら、四明嶽・西谷口方面で、何かまずい事になってるんじゃぁ?

宇都宮公綱(うつのみやきんつな) よし、全員、西谷口へ移動せよ!

宇都宮軍は馬にムチ打ち、アブミを蹴立てながら、西谷口へ急行した。

やがて、坂本に陣取って天皇御座所を守っていた新田義貞も、6,000余騎を率いて四明嶽へかけつけてきた。

義貞は、宇都宮とその家臣団・紀清両党(きせいりょうとう)のメンバーを、虎韜(ことう)陣形を組ませて進ませ、江田(えだ)、大館(おおたち)には魚鱗(ぎょりん)陣形を組ませ、足利軍めがけて、山上から一気に攻め下らせた。

足利軍20万騎もこれにはたまらず、水呑(みずのみ)付近の南北の谷へ追い落とされ、人馬は上下に積み重なり、深い二つの谷は死者が堆積して平地になってしまった。

かくして、この日の戦いは足利側の敗北に終わり、東西呼応しての比叡山一斉攻撃という作戦も頓挫(とんざ)。足利サイドの西側山麓方面軍は、水呑の下方に陣取って、相手のスキをただ窺うばかりの態勢となってしまった。

一方、新田義貞は坂本には戻らずに、そのまま四明嶽に陣取ることにした。

朝から始まったこの戦、両軍ともまる一日必死に戦い続けたのであったが、結局引き分けに終わり、比叡山・西山麓方面の戦線は、膠着状態(こうちゃくじょうたい)に。

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翌日、足利・西側山麓方面軍の大将・高師重は、比叡山の東側山麓に布陣している足利・大手方面軍に使者を送り、次のように伝えた。

 「敵サイド主要勢力はみな、比叡山の四明嶽に移動してきたようです。よって、そちら方面の防備が手薄になっていると思われます。早急に、そちらの東側山麓方面でも戦闘を開始されて、坂本を制圧し、一帯の神社、仏閣、僧坊、民家を一軒残らず焼き払い、敵を山上に追い上げてみてはどうでしょうか。」

 「その後、東塔エリアと西塔エリアの中間地点に進出されて、そこで兵火を起こせば、四明嶽にいる敵の連中らは、前方と後方、双方において、我々サイドに直面することとなりますから、必ずや、進退を失ってしまうでしょう。その時、こちら側からも山上に攻め上がって、一気に勝負をつけてしまいましょう!」

これを聞いた、足利・大手方面軍の、吉良(きら)、石塔(いしどう)、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)のメンバーらは、

リーダーP 昨日は、こちら側からの勧めに従って、あちら側の高家一族率いる勢力が攻撃を仕掛けたんだったよなぁ。

リーダーQ せいいっぱい、できる限りの事を、彼らはしてくれたんだ。

リーダーR 今度は逆に、あちらからこちらへ攻撃を勧めてきたってわけか。

リーダーS 順当に行けば、次はこっちが攻撃をしかける番ってとこでしょうねぇ。

ということで、足利・大手方面軍18万騎の兵力を3つに分け、田中(たなか)、浜道(はまみち)、山傍(やまそえ)から東に向かって、坂本を攻めることにした。敵に夕日のある方角を向かせるようにして、眩しがらせた方が有利になるであろう、というもくろみである。

坂本の城を守る天皇軍の大将は、兄からここを託された脇屋義助(わきやよしすけ)。

義助は、関東地方および中国地方出身の強弓(ごうきゅう)の手練(てだれ)を、城の土壁の矢狭間(やはざま)や櫓の上に配置し、土居(どい)、得能(とくのう)、仁科(にしな)、春日部(かすかべ)、名和長年(なわながとし)らが率いる四国地方および北陸地方からの強兵2万余騎を、白鳥岳(しらとりだけ)に配置。さらに、水上戦になれた諸国の武士に、和仁(わに)、堅田(かたた)の在地武士らを添えた5000余人を、盾を並べた軍船700余隻に乗り込ませ、湖上の沖合いに配置していた。

足利・大手方面軍リーダーP ウーン・・・やっぱし、敵側の構えは厳しいなぁ・・・。

足利・大手方面軍リーダーQ でも、とにかく戦をしないと・・・戦わなきゃ、敵を破れねぇわさ。

足利・大手方面軍80万騎は、3方向から坂本城に接近して、トキの声を上げた。それに応えて、城中の6万余騎も、矢狭間の板を打ち鳴らし、湖上からは、船の舷側を叩いて、トキの声を合わせる。大地も裂け、大山も崩れようかというような大音響。

足利軍メンバーらは、盾を頭上にかざし、城の前まで寄せていった。

足利・大手方面軍リーダーP みんな、草、運べぇ! 堀の中にどんどん運び込んでな、堀を埋めちまうんだぁ。

足利・大手方面軍リーダーQ 堀が埋まったら、城の塀のすぐ横に草を積め。積み上がった草に火をつけて、それを城の櫓に延焼させて、櫓を焼き落とすんだぁ!

足利・大手方面軍リーダーR 行けぇーー!

足利・大手方面軍メンバー一同 ウォーツ!

その時、城中から矢の連射が。

矢 ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ・・・。

城の300余か所の櫓、土塀、出塀(だしべい)の中から、雨が降るような一斉射撃。射放たれた矢は一本のムダも無く、足利軍メンバーの盾の間、旗の下へと飛んでくる。たちまち、足利サイド、死傷者3,000人超。

足利・大手方面軍メンバーT こりゃたまんねぇ・・・わが方は次々とヤラレていってるぞぉ。

足利・大手方面軍メンバーU 盾の陰に身を隠して、ジットしているしか・・・。

城中からこれをじっと見つめる、脇屋義助、

脇屋義助 フッフフゥ・・・あいつら、もう怖じけづいてやがんじゃん。よぉし、みんなぁ、ウって出るぞぉ!

新田軍メンバー一同 オーーゥ!

城の三の木戸がサァッと開き、脇屋、堀口(ほりぐち)、江田、大館ら6,000余騎が、ドッと駆け出た。彼らはまっしぐらに、足利軍に。

それに呼応して、土居、得能、仁科、名和ら2,000余騎も、白鳥岳から駆け下りてきて、足利軍の側面を突く。

湖上に展開している水軍も、船を一松(ひとつまつ)のあたりへ漕ぎよせ、連射、遠矢、斜め矢と、矢を惜しまずに、散々に射まくる。

大兵力の足利・大手方面軍ではあったが、山と湖の双方向から矢を浴びせられ、田中、白鳥方面からも攻めたてられ、「これはとてもかなわぬ」ということで、自陣へ退却していった。

それから後は、双方とも日夜朝暮(にちやちょうぼ)に兵を出しては矢戦を展開するのみとなり、足利・大手方面軍は専ら遠攻めに終始、天皇軍も城を守り抜き、といった状態が続き、こちらの戦線においても、何ら進展無しの様相を呈してきた。

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同月16日、熊野八庄(くまのはっしょう)の庄司(しょうじ)らが、500余騎を率いて京都へ来た。

彼らは、まだ一戦もしていない新参者なので、「おれらも延暦寺攻めに参加して、いっちょ、やらかしたろや」ということで、比叡山西側山麓へやってきた。

彼らは、高師重に目通りを願いでた。

高師重 なに、熊野八庄のメンバーらが、参戦を申し出てきたってぇ? よし、会ってみよう。

高師重の前に、熊野八庄の代表メンバーたちがずらりと並んだ。

高師重 (内心)おぉぉ・・・。

黒糸威の鎧兜、指の先まで防備をかためた籠手(こて)、さらには、脛当(すねあて)、半頬(はんぼう:注8)、膝鎧(ひざよろい:注9)、彼らは身体中一寸の隙も無く、ビッシリと鉄で覆いかためている。

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(訳者注8)頬から下の部分を覆う面。

(訳者注9)鎧の下につけて、草摺(くさずり)のはずれを覆い、股と膝を守る器具。
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高師重 (内心)うーん・・・こいつらは、並みの者ではなさそうだなぁ。使えそうだ。

高師重 参戦の申し出、まことにあっぱれ。おまえらには、大いに期待してるぞぉ。

熊野八庄・代表メンバー一同 ウィー!

高師重 さて、問題は作戦だ。いったいどんな作戦をもって戦うべきか、思う所を残らず、述べてみろ!

熊野・湯川(ゆかわ)の庄司が、前へ進み出ていわく、

湯川庄司 おれら、紀州育ちのもんはなぁ、小さい頃から、険しいとこや岩だらけのとこを駆け回っては、鷹を使い、狩りをしながら、大きいなってきたわいな。馬もよぉ行かんような険しいとこかて、わしらにとっては平地同然や。ましてや、このへんのこんな山なんか、何程の事があるかいなぁ!

高師重 ほほぉ。

湯川庄司 おれらの着てるこの鎧、まぁ見たってぇ。見た目はそないに上等のもんには見えんやろけどな、自ら精根込めた手作りやでぇ! たとえ、源平時代のあの弓の名手、源為朝(みなもとのためとも)がこの世に帰ってきて、この鎧を狙ぉて矢ぁ射ても、そうそう簡単に、射通せるもんやないでぇ!

高師重 ・・・。(ニヤニヤ)

湯川庄司 足利将軍さまにとっては、この戦は、「まさにここ一番!」っちゅうとこやろ?

高師重 その通り!

湯川庄司 そんなら、おれらに任しといてんか! おれらが、あんたらの矢面に立って、敵が射てくる矢を片っ端から、この鎧で受け止めたろやないかい。敵が切り掛ってきたその太刀、長刀に食らいついて、おれらが先頭切って、敵陣にズバズバ、破(わ)って入ってったるわいな。

高師重 ウハハハ・・・。

湯川庄司 新田どんが、いくら強いいうたかてなぁ、おれらがこの戦に参加した以上は、もうあいつもアカンなぁ。おれらにかかったら、新田軍もイチコロやでぇ。

このように、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に大言壮語する彼らを見ては、他のメンバーの面白かろうはずがない。

足利軍リーダーP (内心)チィッ、でけぇ口、タタキやがってぇ。

足利軍リーダーQ (内心)言うだけだったら、ナァントでも、言えますわさ。

高師重 よぉし! 明日の戦、おまえら、熊野八庄のもん(者)らが、先頭に立ってやってみろ!

熊野八庄・代表メンバー一同 ウィー!

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6月17日午前8時、足利・西側山麓方面軍20万騎は、熊野八庄軍500余人を先頭に置き、松尾坂(まつおざか)の尾崎(おざき)から、一斉に山を登りはじめた。

天皇軍10万騎中には、四人の弓の名人がいた。

 綿貫五郎左衛門(わたぬきごろうざえもん)
 池田五郎(いけだごろう)
 本間孫四郎(ほんままごしろう)
 相馬四郎左衛門(そうましろうざえもん)

綿貫と池田は、坂本へ派遣されていて西山麓方面防衛線には不在、本間と相馬だけが、新田義貞の側について、そこにいた。

真っ黒な武装に身をかためて山道を攻め上ってくる熊野八庄軍をはるか下に見下ろし、二人はカラカラと笑って、

相馬四郎左衛門 オォー、今度はスゲェのが、やってきやがったなぁ。

本間孫四郎 なぁ、なぁ、今日の戦、味方の者らに太刀の一本も抜かせずに、片づけちまおうじゃぁねぇの。矢の一本も射させずにな。

相馬四郎左衛門 いったいどうやって?

本間孫四郎 おれたち二人だけで、ヤツラを迎え撃って、肝(きも)つぶしてやんのよぉ。

相馬四郎左衛門 そりゃぁ、おもしれぇ。よぉし。

二人は、静かに席を立ち、強く弓を引くために、鎧を脱いで脇立だけを装着し、兜も脱いだ。

本間孫四郎 さぁてと、今日は、どの弓にすんべぇっかなぁ。

孫四郎は、いつも使っている弓ではなく、丸木づくりの弓を選んだ。一見、サイズは短いように見えるのだが、通常の弓と並べて見ると2尺ほど長い。

彼は、ピンとそり立ったその弓を、大木に押し当ててユラユラと曲げ、弦を張った。そして、多数の矢の在庫の中から白鷹の羽根がついている15束3伏を2本選び、それを弓といっしょに持ち、歌をうたいながら静々と、向かいの尾根に向かう。

本間孫四郎 ウシシ ウシシ ウシシノシィ イェーイ!

相馬四郎左衛門もまた、銀のツクを打った4ないし5人張りの弓(注10)を左の肩にかつぎ、金磁頭(きんじとう)の矢2本を選び取ってノタメ(注11)にはめた。彼は、その矢をためつすがめつしながら、孫四郎の後に続いて行く。

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(訳者注10)「n人張」とは弓の強度の単位である。「n人が力をあわせて弓を曲げ、やっと弦を張れるほどの強さ」という意味。

(訳者注11)矢の曲がっているのを矯正する道具。
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二人は、一群の松林の中に入り、弓づえをついて立ちながら、山の下方を窺った。

本間孫四郎 なぁ、見ろよ、あの先頭をやってくるやつ。

相馬四郎左衛門 ほっほぉ、すげぇ体格だなぁ。

本間孫四郎 きっとあいつが、うわさに聞く「熊野八庄一の大力男」だよ。

ひときわ背の高い男が、熊野八庄軍の先頭に立って山道を登ってくる。

身長は8尺ほどもあろうか、全身に荒々しさがみなぎっている。鎖帷子(くさりかたびら)の上に黒皮の鎧をつけ、5枚シトロの兜の下には朱色に塗った半頬を着けている。9尺ほどの長さの樫の木の棒を左手に握り、猪の目(いのめ:注12)を打ち抜いた刃わたり1尺ほどの鉞(まさかり)を右肩にかつぎ、少しもためらう様子もなく、サッサッと登ってくる。マケイシュラ王(注13)、ヤシャ(注14)、ラセツ(注15)の怒れる姿、かくありなん、といった風である。

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(訳者注12)器物の表面をえぐってつけられた装飾のためのマーク。

(訳者注13)仏教辞典(大文館書店)によれば、
「Maheśvara。大自在天・自在天・威霊帝と訳す。色界(しきかい)の頂上に位する天神の名。」

(訳者注14)仏教辞典(大文館書店)によれば、
「夜叉:Yakṣa。八部衆(天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽)の一、・・・羅刹と共に毘沙門天の眷属となって北方を守護する。之に天夜叉・地夜叉・虚空夜叉の三種がある。天と虚空の二夜叉は飛行するを得るが地夜叉は飛行し得ないといふ。」

(訳者注15)仏教辞典(大文館書店)によれば、
「羅刹:Rākṣasa。・・・悪鬼の名。夜叉と共に毘沙門天の眷族であるとし、或は地獄に於ける鬼類とする。」
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その男との距離が2町ほどにまで縮まった時、孫四郎は松林から出て、例の弓に15束3伏の矢をつがえ、力の限りに引き絞った。

本間孫四郎 ウウウ・・・。

弓 ギリギリギリ・・・。

本間孫四郎 それぇ!

矢 ビューーン!

狙い過たず、彼の放った矢は男の鎧の胴に命中し、鎧の弦走(つるはしり)から総角付(あげまきづけ)の板まで、表裏5重の装甲をわけなく貫通した。その背中から3寸ほど突き出た矢は血潮に染まり、鬼か神かと見えた男の手から鉞は離れ、その巨体が小篠の上にドウと倒れた。

相馬四郎左衛門 本間殿、おみごと! さぁ、次はおれの番だな。

四郎左衛門が目をつけた熊野人は、これもまた立派な体格をしている。先ほどの男よりもさらに一回り、背丈があるだろうか。まるで、作りそこないの仁王像、目尻は上に裂け、髭(ひげ)は左右に分かれ、火威の鎧に龍頭の兜をかぶり、手には6尺3寸の長刀、腰には4尺余の太刀。

男は、左手を前にかざして矢を防ぎながら、後方をキッと見つめ、

熊野八庄の男 みんな、あわてるな! あわてて遠矢、射たらあかんぞ! 矢ぁもったいないからな。

男は、鎧を上下に揺すりはじめた。(注16)

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(訳者注16)このようにすると、鎧に矢が当たっても貫通しにくいらしい。
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四郎左衛門は、5人張(ごにんばり)の弓に14束3伏の金磁頭の矢を、くつ巻を残さずつがえ、その男に狙いを定めながら、弦を引き絞る。

相馬四郎左衛門 ・・・。

弓 ギリギリギリギリ・・・。

相馬四郎左衛門 ヤァッ

矢 ビューーー、ヴァシッ!

熊野八庄の男 アァ!

弦の音に呼応して、男のウメキ声が上がった。矢は、男の兜の真正面に命中、頭を貫通し、矢先は後方のシコロの縫い糸を切って表面まで突き出ていた。

熊野八庄軍メンバー一同 ・・・(ドッキンドッキン)。

先頭に立っていた男二人がたて続けに倒されたのを見て、その後に続く熊野八庄軍500余は、恐怖にとらわれて、前へも進めず後に下がりもせず、前かがみになったまま、全員その場に棒立ちである。

本間孫四郎と相馬四郎左衛門は、そんな彼らを一向に意に介する風もなく、2町ほど向かいの尾根に陣取っている友軍の者らに向かって叫んだ。

本間孫四郎 おぉーい、しばらくなりをひそめていた敵軍が、またまた動きはじめやがったようだぜーぃ。そろそろ戦闘再開ってとこかなぁ。となると、おれたちもここで、ウォーミングアップしとかんといかんからなぁ、そっちの山の上に何か的、立ててくんねぇかぁ。ここから一本づつ、射てみっからよぉ。

向かいの尾根にいる新田軍メンバーV よぉしわかったぁ! これなんかどうだぁい?

向かいの尾根ではさっそく、全面紅のバックに月を描いた扇を矢に挟み、的として高く掲げた。

孫四郎は前に、四郎左衛門は後ろに立って、二人で同時にその扇を射ようという事になったが、

相馬四郎左衛門 な、本間殿、あの扇の月、射抜いちゃったら、天からおとがめ受けるかもよ。

本間孫四郎 なるほど・・・じゃ、こうしよう、月の両側を狙おうじゃねぇの。

相馬四郎左衛門 よし!

孫四郎と四郎左衛門は、同時に矢を射た。2本の矢は二人の狙い通りに、月のマークの部分だけを残し、その左右を射飛ばしてしまった。

その後、二人は、多くの矢が入ったエビラ2個と新しい弓を陣から取り寄せ、矢をつがえないで、弦をビンビンと引いて音をたてながら、

本間孫四郎 わしは、相模(さがみ)国の住人・本間孫四郎忠秀だぁ!

相馬四郎左衛門 わしは、下総(しもうさ)国の住人・相馬四郎左衛門忠重!

本間孫四郎 わしら2人で、ここの陣、かためてるぜぃ。

相馬四郎左衛門 おまえら、わしらの射る矢を少し受けてみてな、自分の鎧の強度チェックでもしてみるかい?

これを聞いて、足利軍20万騎は、追われもしないのに我先に、あわてふためき退却していった。

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高師重 (内心)えぇい、もぉっ・・・イライラするよなぁ、まったくう! 毎日毎日こんな矢戦ばかりしていたんじゃ、何年たっても延暦寺を攻め落とせない!

攻略の糸口もまったく見えないまま、イライラが増す一方の足利サイド。そのような時、延暦寺・金輪院(こんりんいん)の律師(りっし)・光澄(こうちょう)から、今木隆賢(いまぎりゅうげん)という同宿の者を使者として、高師重(こうのもろしげ)のもとに送ってきた。

今木隆賢 光澄さまからのメッセージ、以下の通りです:

新田殿が守っておられる四明嶽の下一帯は、比叡山上で第一の難所ですからな、そこを攻め破るのは、極めて困難ですよ。そやからね、そちらサイドの中の、中国地方出身の勢力の中から、戦い慣れた武士4、500人ほどを選んで、この隆賢に預けてください。隆賢の案内で、無動寺(むどうじ)の方から延暦寺の寺域内に侵入し、文殊楼(もんじゅろう)あるいは四王院(しおういん)のあたりまでその一団を進ませ、そこでトキの声を上げさせたら、私・光澄に心寄せる衆徒たちも、東塔エリア、西塔エリアの方々で旗を掲げトキの声を合わせ・・・そないなふうにしていったら、比叡山全域をあっという間に制圧できますよ。

高師重 (内心)やったぁ! 延暦寺の中に、こちらに寝返ってくるヤツが一人でも現われてくれないかなぁと、ずっと願ってたんだ。そんな所に、この今木とかいうヤツがこっそりやってきて、夜襲の手引きをしよう、なんて言ってくれるとは・・・イヤァ、こりゃぁ、願ったり叶ったりじゃないのぉ。

そこで師重は、播磨(はりま)、美作(みまさか)、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)計4か国の軍勢の中から、夜襲に慣れている武士500余人を選抜し、6月18日の夕闇の中、彼らを隆賢と共に、四明嶽の山頂へ向かわせた。

今木隆賢にとって、そこは長年通いなれた道筋である上に、天皇軍側がかためている所とそうでない所とをつぶさに検分してから、足利サイドに内通してきたのであったから、少しも道に迷うはずがない。

ところが・・・きっと天罰が下ったのであろう、隆賢は急に目がくらんできて、心も迷ってしまい、終夜、四明嶽の麓を、北へ南へとさ迷い歩き続けながら、一行を連れ歩いた。

夜明けと共に、彼らは紀清両党(きせいりょうとう)に発見されて包囲され、隆賢に同行していた武士ら100余人は、討ち取られて谷底へ転落していった。

孤立してしまった隆賢は、重傷数箇所を負った後、腹を切ろうとしたが、鎧の上に絞めた帯を解こうとしているところを組み伏せられて、捕虜になってしまった。

天皇に対する大逆行為の張本人であるから、すぐにも処刑されるべきを、新田義貞は、隆賢が延暦寺衆徒の一員であることに配慮した。義貞は、今木一族のもとへ彼を送り届け、「この男、生かすも殺すも、あなた方のお好きなように」と伝えた。

隆賢の身柄を受け取った今木範顕(いまぎのりあき)は、義貞の使者に対して、かしこまって「承知いたしました」とたった一言答えた後、すぐに使者の見ている前で、隆賢の首をはねて捨てた。

ありがたくも万乗の聖主(ばんじょうのせいしゅ)たる天皇が、比叡山守護神・医王(いおう)・山王(さんのう)の擁護を頼まれて、延暦寺に臨幸あそばされた故に、3千の衆徒はことごとく、仏法(ぶっぽう)王法(おうぼう)共に助け合うべき理(ことわり)をよくわきまえ、二心なく忠戦を致す事となった。

そのような中に、金輪院のみが、延暦寺の一員の身でありながら仲間を背き、武士の家でもないのに足利将軍の下に走り、さらには同宿の弟子を足利陣営に送って延暦寺を滅さんと企てるとは・・・まったくもって、けしからん事を考えついたものである。

故に、その悪逆の果はたちまちに顕われ、足利サイドに内通して手引きをした同宿の者らは、あるいは討たれ、あるいは捕虜となった。光澄もそれから間もなく、最愛の子の手にかかって命を終えた。そして、その子もまた、同母弟に討たれてしまったのである。

このような、世に類(たぐい)無き不可思議な事象を顕現(けんげん)された神罰の程、まことにもって怖るべし。

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そうこうしているうちに、「越前国(えちぜんこく:福井県北部)の守護・斯波高経(しばたかつね)が、北陸道より足利軍を従えて、仰木(おうぎ:滋賀県・大津市)から比叡山に押し寄せ、延暦寺・横川(よかわ)エリアを攻めようとしている」との情報をキャッチした楞厳院(りょうごういん)や九谷(くたに)の衆徒は、要所要所に逆茂木(さかもぎ)を設置し、要害を構えた。

当時、伝教大師・最澄(でんぎょうだいし・さいちょう)の御廟(ごびょう)(注17)の修造の為に、多数の材木を山上に引き上げていたのだが、それを、櫓の柱、矢狭間の板に使おうと、衆徒たちは坂本へ運び始めた。

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(訳者注17)最澄の墓。
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その日、般若院(はんにゃいん)の法印(ほういん)に召し使われている童子が、急に狂ったような状態になり、色々と口走りはじめた。

童子 僕に、この山をご守護されてる八王子権現(はちおうじごんげん)さまが、憑(つ)かはりましたぁ!

童子 なんじら、よっく聞けぃ! これらの材木は、尊き伝教大師様の御廟を造営せんがための材木なるぞ、急ぎ、もとの場所に戻せい!

その場に居合わせた衆徒ら全員 ・・・(ビックリ)

衆徒W うーん・・・八王子権現様がこの子に憑かれたやなんて・・・そないな事を急に言われてもな、信じてえぇんかどうか・・・。

衆徒X 同感、同感。

衆徒Y ほんまに権現様がこの子に憑かはったんやったらね、権現様の本身は仏様やねんから、仏のお心の内は一切分かってはるやろし、仏教の教義の全てにわたっても、知り尽くしてはることやろ。そやからな、みんな、この子にあれやこれやと質問してみたらえぇんちゃう? ここのお寺の碩学(せきがく)の僧侶らが、師から弟子へ伝えてきはった色々な事があるやろ、そういった事について、あれやこれやと質問してみたら、どないや?

衆徒一同 それ、えぇなぁ。

そこで衆徒たちは、天台宗の教義の様々な事柄について、童子に問いただし始めた。すると、童子は、

童子 ワッハッハッハッ・・・。

童子 我は、この世の衆生を救済せんがため、仏身を変じて神体となり、人間世界の中に現われたのであるぞよ。以来、長い歳月の経過の故に、過去・現在・未来の三世を達観する智慧も、少々浅ぉなってきたようじゃ。しかしながら、釈迦如来(しゃかにょらい)が人間世界に姿を現わされ、教えを説かれたその席に、我も連なっておった事ゆえ、そこでお聞きした範囲内であれば、その概略を、なんじらに言って聞かせる事も可能である。

そして、童子は、衆徒らの質問の一つ一つに対して、花のように美しい言葉でもって、玉のように清らかな道理を尽くして回答した。それで、衆徒たちも、童子に八王子権現がたしかに憑いていることを確信できた。

衆徒X 権現さま、一つお尋ねてしても、よろしょまっか?

童子 何なりと、尋ぬるがよい。

衆徒X この先、我らの延暦寺の運命は? この戦の勝敗は? いったいどっちが、勝つんでっしゃろ?

童子 (涙をハラハラと流しながら)内に向かっては天台宗の教法を守らんがため、外に対しては永久に皇室を守護せんがため、延暦寺が開基(かいき)されたその時より、我は、仏の姿を神に変じて、この山に降り立った。以来、延暦寺の繁盛と朝廷の安泰とを、ひたすら心にかけて念じてきたのではあるが・・・。

衆徒一同 ・・・。

童子 まことに遺憾ながら、天皇は、富貴栄華のみを追い求めておられる・・・この国には、理民治世(りみんちせい)の政治が全く行われておらぬ。

童子 また、ここ延暦寺においても、なんじら衆徒たちはみな、驕奢放逸(きょうしゃほういつ)の原因となるような事ばかり、願っておるではないか・・・尊くも、伝教大師がともされた仏法の灯を受け継ぎ、さらに輝かせていかんとの志の一片も無く・・・。

童子 故に、諸天善神(しょてんぜんじん)は擁護の手を休め、日吉山王(ひよしさんのう)の三神も、延暦寺に対して、加護の力をめぐらされぬのじゃ。

童子 あぁ、悲しいかな、これより後は、朝廷は久しく塗炭(とたん)の苦しみの中に落ち、公卿大臣は、武家の者らの召し使いの立場にまで、貶(おとし)められようぞ。国主(こくしゅ)は帝都(ていと)をはるか遠くに離れ、臣下が君主を殺し、子が父を殺すような世の中になっていくであろうて・・・あぁ、なんとあさましき事よのぁ・・・。

童子 しかしながら、大逆の悪業も、積もり積もったその後は、やがてはそれを犯した人間にハネ返っていくのであるからして、逆臣が猛威を振るう事も、そうそういつまでも、続くものではない。

童子 それにしても、あぁ恨めしや、高師重! あやつの振る舞いは、不届き千万! 我が守護するこの延暦寺を攻め落とし、堂舎、仏閣を焼き払わんとの命を下しおったる事、我はしっかと見届けておるぞよ。見よ見よ、なんじら、明日の正午、我は日吉山王七社の一なる早尾大行事(はやおのだいぎょうじ)をさし遣わして、逆徒らを四方に退けん!

童子 かくなる上は、この山に何の怖れがあろうか、その材木、皆、元の所へ運びかえせぃ!

このように託宣(たくせん)を下した後、この童子は大人4、5人でやっと持てるような巨大な材木を一本、ひょいとかついで運び、御廟の前に投げ捨てた。そしてその場に立ち尽くし、手足を縮めて震えている。

衆徒W 「明日の正午に敵を追い払う」と言われたけど・・・いくらなんでも、信じられへんわ。

衆徒X そうやなぁ、「1か月後に」とか言うんやったらまだしも、「明日に」やなんてなぁ。

衆徒Y さっきのあの託宣と、明日起る事とが、少しでも食い違うようやったら、あの子が口走った事はみんなウソやったっちゅう事になるやん。どうや、みんな、ここはもう暫く、様子を見ることにしようやないか。

衆徒Z そうやそうや、明日起る事、よぉ見といてやな、それでさっきの「託宣」とやらと照合してみて、完全に一致しとったら、後日、「実はこんな不思議な事がありましてん」言うて、報告上げたらええやん。

というわけで、その日の出来事を報告することは止めようという事になった。かくして、この神託も衆徒の胸の内に空しく秘められただけに終わり、他の人には知れずじまいになってしまったのである。

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延暦寺においては、「西山麓方面で戦が始まったならば、本院の鐘を突き、坂本方面で戦になった時は、生源寺(しょうげんじ)の鐘を鳴らそう」という取り決めを行っていた。

6月20日早朝、早尾大行事社に、猿が多数、群れをなして出現。猿たちは、生源寺の鐘を激しく撞き鳴らした。鐘の音は、東西両塔エリアに響き渡り、延暦寺全域の天皇軍武士や衆徒らは、

天皇軍メンバー一同 おっ、合図の鐘が鳴ってるぞ、敵が攻めてきた方向へ馳せ向かって、防げ!

と、我先に走り出した。

山の東西の足利軍はこの形成を見て、「山上から逆落としに攻め寄せて来るぞ!」と思い、水呑(みずのみ)、今路(いまみち)、八瀬(やせ)、薮里(やぶさと)、志賀(しが)、唐崎(からさき)、大津(おおつ)、松本(まつもと)に布陣していた足利軍メンバーらは、「盾はどこだ! 鎧はどこだ!」と、あわてふためき始めた。

これに利を得た天皇軍は、山上と坂本の軍勢10万余騎、木戸を開き、逆茂木を取り除き、うって出た。

足利軍リーダーP 敵は小勢だ、退(ひ)くな、退くなぁ! 退いて討たれるなぁ!

足利軍リーダーQ おめぇら、きたねえぞ、返せぇ!

足利軍は暫くは踏みとどまったが、しょせん、いったん退却態勢に入ってしまった軍勢、もはや引き足は一歩も止まらない。

脇屋義助率いる5,000余騎は、志賀の炎魔堂(えんまどう)のあたりの足利側の向かい城に襲いかかり、東西500余箇所に火を放ち、おめき叫んで攻めたてた。

足利サイドの陣はここからも破れはじめ、180万余騎は、険しい今路(いまみち)、古道(ふるみち)、音無の滝(おとなしのたき)、白鳥(しらとり)、三石(みついし)、四明嶽(しめいだけ)から、人間の雪崩(なだれ)を起しながら、逃げ下っていく。

谷は深く、先に行くに従って細くなっている地形の所が多い。馬や人が、上に上にと落ち重なって、死んでいく。伝え聞く治承年間(じしょうねんかん)の昔、平家10万余騎が、源義仲(みなもとのよしなか)の夜襲に追いたてられて、クリカラ谷を死者で埋め尽くしたその様も、これほどの惨状ではなかったろうと思われるほどである。

西側山麓方面軍の大将・高師重は、自分の太刀で自分の大腿部(だいたいぶ)を突き貫いてしまい、進退窮まっていたところを、舟田経政(ふなだつねまさ)の部下らが生け捕りにした。

師重は白昼、坂本に送られ、新田義貞の前に、縄に縛られて引き据えれらた。

延暦寺の衆徒たちは、高師重は仏敵、神敵の最たる者であり、東大寺(とうだいじ)を燃やした平重衡(たいらのしげひら)の例にならって処置すべきである、として、師重の身柄を申し請け、すぐに、唐崎浜で首を刎ねて獄門に処した。

この高師重という人は、足利尊氏の執事(しつじ)・高師直(こうのもろなお)の養子の弟であり、一方面軍の大将に任じられるほどの人物、わが身に代えてでも彼の命を助けよう、というような人間は、足利軍中には幾千万もいたことであろう。

ところが、戦場で進退窮まったその時に、彼の側には若党の一人も居合わさず、むざむざ捕虜になってしまったのである。まことに、延暦寺守護の医王・山王の神罰はてきめん、しかも、昨日の例の「神託」と今日の戦いの経過は寸分違わず一致している・・・神の怒りというものはまことに、身の毛もよだつほど恐ろしいものである。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月 7日 (木)

京都一周トレイル・東山コース 2017年12月

2017年12月に、[京都一周トレイル・東山コース] を歩きました。

動画を撮影するために、京都市内の[インクライン]を登り、[日向大神宮]の付近から、[京都一周トレイル・東山コース]の道に入り、そこから、如意ヶ嶽(大文字山)の方へ、[京都一周トレイル・東山コース]の道を行きました。

[京都一周トレイル・東山コース] の道には、標識が多数設置されていて、道に迷わないようにしてくれていて、ありがたいです。

[七福思案処]と呼ばれる地点まで行き、更に、その先へ進んで[大文字山]めざして少し歩いていったのですが、この季節の日没の時刻が早い事も考え、途中でギブアップして下山し、[同志社墓地]へ至りました。

今後、 [京都一周トレイル・東山コース]上の様々な場所へ、行ってみたいなと思っています。

[京都一周トレイル・東山コース]の (標識 34 - 38 間)で撮影した動画を編集して、下記の動画作品を制作しました。

(バックグラウンド音楽に、自作音楽作品 [分散和音曲・第1番, おだやかな気分です, Op.15] を使用しました。)

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/0LayFmTQvAE

私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

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「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時」(ひがしやま さんじゅうろっぽう くさきもねむる うしみつどき)

という言葉を、遠い過去に聞いたことがあります。

草木は、実際に眠るのでしょうか?

[草 眠る]でネット検索してみたけど、注目すべき情報を見つけることができませんでした。

ところが、

[木 眠る]でネット検索してみたら、興味深い情報を見つけることができました。

かりに、夜に木が眠っている、ということが確かな事実であるということになったならば、下記の事が問題になってくるのでは、と思われます。

 樹木のライトアップは、樹木の健康の為に、良い事なのかどうか?
 ライトアップされて、樹木の[概日リズム(circadian rhythm)]が狂ってしまわないか?

[東山 三十六 ある]でネット検索して、東山に関連する情報を得ることができました。

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[日本後紀]の中に、平安遷都に関係する、以下のような記述があります。

[日本後紀(上)全現代語訳] 森田 悌 訳, 講談社・刊, 講談社学術文庫 1787
より、引用。

44P ~ 45P
「甲午 大納言藤原小黒麻呂と左大弁紀古佐美らを派遣して、山背国葛野郡の宇太村(京都市右京区宇多野)の土地のようすを視察させた。遷都のためである。」

70P
「丁卯 ・・・遷都が行われ、天皇は次のように詔した(宣命体)。
(略)葛野の宮が営まれるようになった土地は、山川も麗しく、四方の百姓が参上するに際し好都合である。・・・」

71P ~ 72P
「丁丑 天皇が次のように詔りした。
 (略)山背国の地勢はかねて聞いていたとおりである。(略)この国は山と川が襟と帯のように配置し、自然の要害である城の様相を呈している。このすばらしい地勢に因み、新しい国号を制定すべきである。そこで、山背国を改めて山城国とせよ。また、天皇を慕い、その徳を称える人々は、異口同辞して平安京と呼んでいる。・・・」

桓武天皇は、京都盆地の地形が、外からの攻撃を防ぐのに適していると考えたようです。しかし、その後の歴史(武士階級が力を持ってから以降の)を見れば、そのようでも無かったようです。

桓武天皇が初めて、京都盆地を見た時には、東山山地は、既に存在していたのでしょう。しかし、それよりも過去において、東山が無かった時があったようだ、という情報があり、(平安京の地は、かつては湖底だったという情報も)、下記でネット検索してみたら、様々な情報を得ることができました。ただ、情報量が極めて多いので、要点をまだ把握できていません。

[京都盆地 南北性山地 東山山地]
[京都盆地 湖底]
[京都盆地 沈降]

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京都の三山(東山、北山、西山)に対して、人間の側からの手入れをもっと積極的に行っていくべきである、との方針の下に、下記が定められているようです。

 [京都市三山森林景観保全・再生ガイドライン]

上記中の、[第3章 三山の森林の歴史と現状] 等を読んで、三山について初めて知った、という事が多くありました。

上記・再生ガイドラインによれば:

三山の森は、人間との密なる関りの中に形成されてきたようです。

中世から近世にかけて、三山は様々な資源を人間に与えてきたようですが、中でも特筆すべきは、エネルギー源を生み出す場所であった、ということでしょう。

石油も石炭も無い時代、人間は、三山へ入って、アカマツや柴を採取し、それをエネルギー源として活用してきたのでした。

まさに、三山は、京都の油田みたいな存在だったようです。

しかし、昭和30年代以降の燃料革命により、三山は、エネルギー源供給の場では無くなりました。

更に、木材価格の低下により、建設用資源(木材)を提供する機能も低下しました。

その結果、三山に対して、手入れがなされない、という状況になりました。

その結果、三山に生えている植物の状況が大きく変化したようです。アカマツが衰退し、常緑広葉樹が多くなってきたようです。

毎年、5月から6月にかけて、東山の銀閣寺の背後の山から南禅寺の背後の山にかけて、白っぽい色が目だつようになります。シイの花です。最近、ほんと、増えてきたなぁと感じていました。

手入れがなされない森林が増えると、山腹の崩落が多発するようになり、治水面でのリスクが増大します。

シイ等の常緑樹の森が広がってくると、そこでは、下層植生が育ちにくいので、山腹の崩落の原因となる可能性があるのだそうです。

シカや虫による被害も、最近、拡大してきているようです。

これからも、観光産業は、京都市の重要な産業であり続けていくのだろうから、景観保全の点からも、三山への手入れ(三山の管理)は重要になってくるでしょう。

銀閣寺の背後にハゲ山、というのでは、それはもう、さびしい限りですから。

新作動画の発表 [京都一周トレイル・東山コース ( 標識 34 - 38 間)]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画1個をアップロードしました。バックグラウンド音楽に、自作曲を使用しました。

下記でご覧になることができます。

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撮影地: [京都一周トレイル・東山コース] ( 標識 34 - 38 間 )
撮影時:2017年12月
バックグラウンド音楽:分散和音曲・第1番, おだやかな気分です, Op.15

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/0LayFmTQvAE

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私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

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2017年12月 5日 (火)

太平記 現代語訳 19-6 北条時行、後醍醐天皇サイドに加わる

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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北条高時(ほうじょうたかとき)の次男・時行(ときゆき)は、北条家滅亡後も、人目を忍んで生きていた。

その毎日はまさに、頭が天に触れはしないかと心配しては背を屈め、自分の踏みしめる地が窪まないようにと抜き足で歩き、といった風、わが身を安心して置けるような所など日本国中どこにも無かったのである。(注1)

こちらの禅宗寺院、あちらの律宗(りっしゅう)寺院にと、一夜二夜をあかしながら逃亡生活を続けていたのであったが、この時、密かに使者を吉野(よしの)へ送っていわく、

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(訳者注1)原文では、「相模次郎時行は、一家忽(たちまち)に亡びし後は、天にせぐくまり地にぬきあしして、一身を置くに安き所なかりしかば」とあるのだが、13-4においては、北条勢力残党たちのリーダーとなり、足利軍と戦っている。よって、太平記の記述に矛盾があるように感じられる。足利軍と戦って敗退した後に、そのような状態になった、というのであれば、話は通るのだが。
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 「亡親・高時は、臣としての道をわきまえなかったので、陛下からのお咎めを頂き、ついに、死を得てしまいました。しかしこれは、天が下した罰によるものですから、私、北条時行は、いささかも陛下をお恨み申しあげてはおりません。」

 「忘れもしない元弘(げんこう)年間のあの時、新田義貞(にったよしさだ)は鎌倉幕府を滅ぼし、足利尊氏(あしかがたかうじ)は六波羅(ろくはら)庁を攻め落としました。かの両人、いずれも、わが北条家の仇(かたき)。彼らに対しての我が憤りが、どれほど激しいものであったか、なにとぞ、お察し下さいませ。」

 「しかしながら、彼らもしょせん、陛下のご命令に従って我が北条家に刃を向けたまでのこと、ゆえに、彼らに対する憤りも、いつしか、私の胸中から忘れ去られていたのでありました。」

 「ところが、足利尊氏め、北条家が亡ぶやいなや、たちまち、陛下に反旗を翻しました。ここにおいて、傀儡(かいらい)政権を樹立し、その威を借りて天下を我が者にしようとの、足利尊氏の魂胆、ついに露見したのであります。」

 「そもそも、尊氏が今日あるのも、もとはと言えば、かつてのわが北条家から足利家への手厚い優遇あってこそ。しかるに、恩を被(こうむ)って恩を忘れ、天を戴いて天を背く。その大逆無道の甚だしき事、世間の憎むところ、人がこぞってツマハジキする所であります。」

 「ゆえに、わが北条家一同、今後はただ、足利家のみを敵とすることに、決意いたしました! 他のお家の方々に敵対することは、もはやありません。我らが仇は、足利尊氏と足利直義(ただよし)のみ。何としてでも、あの兄弟を打ち果たし、北条家の恨みを晴らさん!」

 「陛下、なにとぞ、我らのこの心情をお汲み取り頂きまして、我が北条一族に対して、御赦免の沙汰を下さいまして、「朝敵誅罰(ちゅうばつ)の計略を、回(めぐら)せよ」との綸旨(りんじ)を下さいませ。そうなれば、我らは、陛下の軍勢の義戦の戦列に加わり、陛下の統治の翼の下に喜んで入らせていただきます。」

 「不義なる父を誅されながらも、忠功あるその子供を召しつかう、という事は、過去の歴史において、いくらでも例がございます。中国では趙盾(ちょうとん)、我が国では源義朝(みなもとのよしとも:注2)等、枚挙にいとまがございません。「国家の人材を選ぶに際しては、緩急に応じて偏り無く」というのが名君のなされ方。過去の罪にこだわって当然の理に従わない、などというような事を、陛下は絶対になされない、私はこのように、固く信じております。」

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(訳者注2)平安末期から鎌倉初期にかけて、清和源氏の本家は、源為義(ためよし)-義朝(よしとも)-頼朝(よりとも)と続いていくのだが、ここで太平記作者が言わんとしているのは、[為義-義朝]の関係なのか、それとも[義朝-頼朝]の関係の方なのか、よく分からない。

保元の乱(ほうげんのらん)においては、為義と義朝は両陣営に別れて所属し、その戦後処理において、為義は朝敵として処刑され、義朝は功臣として処遇されて、清和源氏の血脈は保たれた。

その後、平治の乱(へいじのらん)においては、義朝と頼朝は共に同陣営に所属して平氏と戦って敗戦、その戦後処理において、義朝は朝敵として、逃亡途中で殺害され、頼朝も朝敵として、伊豆に流罪となった。その後、頼朝は平家打倒に成功し、朝廷から征夷大将軍に任じられて、鎌倉幕府を開くに至った。
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このようなメッセージが、伝奏(てんそう:注3)を通じて、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に届けられた。

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(訳者注3)天皇と臣下との間の話を取り次ぐ役。
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後醍醐天皇 かの孔子は、言われたそうな、「毛色が赤ぉて角がまっすぐやったら、たとえそれが雑色の親牛から生れた子牛であっても、犠牲として神にお供えすることができる」とな。

後醍醐天皇 人を罰するにあたっては、その親の罪ではなく、本人の罪を問題にして行う、人を賞するにあたっては、その親の功績ではなく、本人の功績に対して与える、これが善政の最たるもんやろう。

後醍醐天皇 よぉし、「北条時行を赦免す」の綸旨、発行したれ!

伝奏 ははっ!

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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