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2018年1月 8日 (月)

太平記 現代語訳 19-9 青野原の戦

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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関東から北畠(きたばたけ)軍を追尾してきた足利関東方面軍リーダーたちは、美濃国(みのこく:岐阜県南部)に到着後、今後の作戦について討議した。

足利関東方面軍・リーダーA 将軍様はおそらく、宇治橋と瀬田橋の防衛ポイントを死守しようと、橋の板を外して北畠軍の到着を待っておられるんだろう。北畠軍も、そうそう簡単には宇治川を渡れないだろうな。

足利関東方面軍・リーダーB おれもそう思うな。宇治川を前にして、北畠軍は進軍ストップしちゃうだろう。

足利関東方面軍・リーダーC だったら、我々、そのタイミングまで、待ってみてはどうだろう? やつらは遠路はるばる遠征してきてんだからさぁ、宇治川に到着する頃には、もう疲労も極限になっちゃってるだろう。その疲れに乗じてだね、将軍様は前面から、我々は背面から、北畠軍を攻撃。そうすりゃ、イッパツでこちらの勝ちだ!

土岐頼遠(ときよりとお)は、会議が始ってからずっと、黙って他のメンバーの発言に耳を傾けていたが、この時おもむろに口を開いて、

土岐頼遠 あのなぁ、いくら相手が大軍だからといってもな、すぐ目の前を行く敵に対して矢の一本も射ずに、ただ黙ぁって後をついていくだけっちゅうの、どうもわしゃぁ、面白くねぇだが。

リーダー一同 ・・・。

土岐頼遠 相手に疲れが出てくるその時をじっと待ち続けよう、なんちゅう事ではな、あの古代中国・楚(そ)の、宋義(そうぎ)の例の言葉と同じだが。

足利関東方面軍・リーダーA それっていったい?

土岐頼遠 「蚊を殺すには、その馬を撃たず」。(注1)

リーダー一同 ・・・。

土岐頼遠 今、天下の注目が、この一戦に集まっとるが。あんたらがどういう気持ちでおるんかは知らんけんど、この土岐頼遠はな、わが命をかけてガァーンと一戦、やらかしたいんよ。それでもって戦死したってえぇんよ。そうなりゃわしの墓の上には、「義に殉じて死んだ男一人、ここに眠る」って書いた墓標が立つってもんだが。

桃井直常(もものいなおつね) いやいや、土岐殿、おれだってあんたと同じ思いよ。おれも、北畠軍と正々堂々戦ってみたい! みんなはどうだ?

この二人の言葉に他のリーダーたちも動かされ、満場一致で、「いざ決戦!」となった。

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(訳者注1)史記の項羽本紀にある話。秦軍に対して攻撃を挑まずに停滞を続ける上将軍・宋義に対して、次将軍・項羽が、「すみやかに兵を率いて黄河を渡り、秦軍を攻撃しよう」と進言したところ、宋義は言う、「牛を手で打ってみても、牛の表面に止まっている虻(あぶ)は殺せようが、その体内に深く食い込んだシラミまでは殺すことができない。真の勝利を収めようと思えば、拙攻は禁物。先に他の軍に秦と戦わせ、秦に疲れが出てから攻撃するのがベストなのだ」と。
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その時、北畠軍は既に、垂井(たるい:岐阜県・不破郡・垂井町)、赤坂(あかさか:岐阜県・大垣市)まで進んでいたのであったが、「背後から足利軍が接近」との情報に、

北畠顕家(きたばたけあきいえ) まずは、そっちの敵軍から撃破かな。よし、全軍、3里ほど東へ後退!

かくして北畠軍は、美濃と尾張の国境地帯に、広く展開して布陣した。

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いよいよ戦端を開く時が来た。足利サイドは、総勢8万余騎を5グループに分けて、攻め順をクジ引きで決めた。

1番クジを引いたのは、小笠原貞宗(おがさわらさだむね)と芳賀禅可(はがぜんか)であった。二人は、2,000余騎を率いて印食渡(きじのわたし:岐阜県・羽島郡・岐南町)へ向かった。

これに応戦するは、北畠軍中の伊達(だて)・信夫(しのぶ)の勢力3,000余騎。彼らは、木曽川(きそがわ)を東へ渡り、小笠原軍と芳賀軍に襲いかかり、これをけ散らした。かくして、足利側一番手は崩壊。

足利側2番手の高重茂(こうのしげもち)は、3,000余騎を率いて墨俣川(すのまたがわ:注2)を渡ろうとして、北条時行(ほうじょうときゆき)軍5,000余騎と乱戦になった。互いに笠標を目印に、組んでは馬から落ち、落ち重なっては首を取り、というような戦いを1時間ほど展開。結局、高重茂が頼りとする武士300余人が討ち取られてしまい、高軍メンバーは東西に散りじりになりながら、付近の山中に逃げ込んだ。

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(訳者注2)現在の墨俣の付近を流れる長良川のことらしい。
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3番手の今川範国(いまがわのりくに)と三浦高継(みうらたかつぐ)率いる軍は、足近(あじか:岐阜県・羽島市)方面に進み、横合いから北畠軍を攻撃した。南部(なんぶ)、下山(しもやま)、結城宗広(ゆうきむねひろ)率いる1万余騎がこれを迎撃し、火の出るような激戦を展開。兵力面でもとから劣勢であった今川軍と三浦軍はあえなく敗退し、川の東へ撤退。

4番手の上杉憲顕(うえすぎのりあき)、上杉藤成(うえすぎふじなり)は、武蔵・相模の勢力1万余騎を率いて、青野原(あおのがはら:岐阜県・大垣市-岐阜県・不破郡・垂井町)に進んだ。これに対しては、新田義興(にったよしおき)の軍と宇都宮率いる紀清両党の軍が戦いを挑んだ。

両軍互いによく知った紋所の旗がひらめく戦場、後日の嘲りを恐れて、双方互いに一歩も後に引かず、命の限り戦う。その戦いの凄まじさ、まさに世界終末の時に吹く大風止みて、地球は無限地獄の底へ飲み込まれていかんとするか、はたまた、世界の周囲の水輪(すいりん)沸騰し、大地みなことごとく宇宙の頂まで舞い上がらんか。

新田軍と宇都宮軍は、やはり強かった。上杉軍はついに敗退し、右往左往しながら退却していった。

足利サイド5番手は、桃井直常と土岐頼遠。二人が率いるよりすぐりの精鋭1,000余騎は、目を遮る物とて何一つ無い青野原へ進み、北畠軍を西北に睨んで陣を整えた。

そしてついに、北畠軍・主力が戦場に姿を現した。軍団の総帥、これぞまさしく、奥州国司兼鎮守府将軍(おうしゅうこくしけんちんじゅふしょうぐん)・北畠顕家。副将は顕家卿の弟、春日少将・北畠顕信(かすがのしょうしょう・きたばたけあきのぶ)。二人が率いるは、出羽(でわ)・陸奥(むつ)の勢力、兵力総数6万余騎。

北畠軍と桃井・土岐軍、双方の兵力を比較すれば、桃井・土岐側1に対して、北畠側は1000超。しかるに、土岐頼遠も桃井直常も、いささかの気後れも無し。前方に展開する敵を全く恐れず、後ろに退こうとの心、微塵たりとも無し。トキの声を上げるやいなや、桃井・土岐軍1,000余騎は一体となって、北畠の大軍中にガァーンと突撃。1時間ほど戦って、ツット懸け抜けた。

桃井直常 300人ほどは、やられてしまったか・・・。

残る700余騎は、再び一団となり、今度は、副将軍・北畠顕信率いる2万余の陣へ突入、東へ追い靡き、南へ蹴散らし、馬の足は休まる時なく、太刀を打ち交わすツバ音が止む間も無く、「エイ! ヤァ!」の掛け声の下、必死の戦闘を展開。

桃井直常 1000騎が残り一騎になったって、絶対に退(ひ)くんじゃねぇぞ!

土岐頼遠 そうじゃ、ゼッタイに退(ひ)いたらいかんで! 命のある限り、戦うたるんじゃぁ!

しかし北畠の大軍を相手にしては、さすがの彼らも、どうしようも無かった。こちらに囲まれ、あちらに取りこめられ、力も尽き、気力も衰えてくる。700余騎もついに、残り23騎になってしまった。

土岐頼遠は、左目の下から右の口脇、鼻まで刀の切っ先で切り付けられてしまい、ついに長森城(ながもりじょう:岐阜県・岐阜市)に逃げ込んだ。

桃井直常が率いる軍も、30余度もの突撃の末、残り76騎になってしまった。自身の乗馬も、尻と首の側面に二個所切り付けられ、鎧の胴のあたりを3箇所も突かれ、ついに疲労の極限にまできてしまった。

桃井直常 よし、戦闘ストップ! 戦は今日だけじゃないからな、明日からも、まだまだ続くんだ。さぁ、みんな、馬の足を休めようぜ。

桃井軍メンバーは、墨俣川に馬を追い浸し、太刀や長刀の血を洗い、日没後もそのまま、青野原に滞陣し、川の西岸に踏みとどまった。

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一方、京都の足利尊氏(あしかがたかうじ)の下では、

足利尊氏 奥州からの北畠の大軍、京都を目指しているそうだが・・・。

足利サイド・リーダーD いや、なぁに、土岐頼遠が美濃におりますからねぇ、彼がいったんは食い止めてくれるでしょうよ。

足利サイド・リーダーE 土岐にまかせときゃ、大丈夫でしょう。

そこへ、伝令が息せききってやってきた。

足利軍伝令 大変です! 美濃国の青野原において、土岐頼遠殿、北畠軍に敗退!

足利サイド・リーダーD なにぃ!

足利サイド・リーダーE 頼遠が負けたってぇ?!

足利サイド・リーダーF で、彼は、頼遠は、どうしてんだ?

足利軍伝令 情報が錯綜しております。現在、行方不明との情報もあり、既に討死にされたとの情報もありで・・・。

これを聞いて、リーダーたちは全員、浮き足立ってしまった。

足利軍リーダーG これは一刻の猶予もなりません、早いとこ、宇治と瀬田の橋板を引っこ抜いて、北畠軍の進撃を食いとめなきゃ!

足利軍リーダーD いやいや、そんな事したって、もう手後れだろう。北畠軍は勢いづいちゃってるもんなぁ。

足利軍リーダーE ここはいったん、中国地方へ退却し、四国や九州からの援軍の到着を待って、それから反攻に・・・。

足利軍リーダーH いやいや、そういう逃げの態勢はいかんっすよぉ。逃げに入ってしまったんじゃ、ジリ貧の一本道だわ。

足利軍リーダーI そうですよ、とにかく一刻も早くですねぇ、瀬田と宇治の防衛ポイントを確保してですねぇ・・・

このように、様々な意見が飛び交って、なかなか結論が出ない。

じっと考えこんでいた高師泰(こうのもろやす)が、口を開いた。

高師泰 古から現代に至るまで、「京都へ敵が攻め寄せて来た、さぁ、宇治と瀬田の橋を守れ」ってなケース、よくありましたよねぇ。でもねぇ、その戦略ポイントを確保しきって敵の宇治側渡河を阻止し、京都を守れたってなぁ事、これまでただの一度も無いんですよねぇ。

一同 ・・・。

高師泰 その原因はいったい何か? 考えてみりゃぁ簡単な事です。京都へ寄せてくる側は、なにせ日本国中を味方につけてるわけでしょう、いやが応でも、意気が上がりますわね。かたや、京都を守る側はってぇと、掌握できてるのは、わずかに京都市中のみ。これじゃぁ、士気も一向に振るわんってわけだ。

高師泰 そぉいう事だからね、いくら、宇治川という天然の防衛ラインがあったって、相手の進撃を食い止める事なんて、到底できっこないんだなぁ。

一同 ・・・。

高師泰 だからね、この際、宇治川で防衛なんてぇような、不吉きわまりない戦略なんか、思い切って捨てた方がよくね? 大軍の到着を京都付近で待ちかまえてなんかいるよりか、近江(おうみ:滋賀県)、美濃のあたりまで急いで進撃して行く方が、よっぽどいいや。「戦いを王城の外に決する」って言うでしょ、これですよ、これぇ!

この、勇気にあふれ、合理的でもある師泰の案に、

高師直 いーんじゃぁないのぉ、この作戦ーん!

足利尊氏 ・・・よし・・・師泰案に決定だ。

一同 分かりました!

足利尊氏 ならば、時間を無駄にしてはいかん。速やかに、近江、美濃へ向けて出撃せよ!

一同 ハハーッ!

かくして、1万余騎の軍勢が、近江・美濃方面へ向かうこととなった。

軍勢を率いるリーダーは、高師泰、高師冬(こうのもろふゆ)、細川頼春(ほそかわよりはる)、佐々木氏頼(ささきうじより)、佐々木道誉(ささきどうよ)、その子・秀綱(ひでつな)他、諸国の有力武士53人。

2月4日に京都を発って、6日の早朝、近江と美濃の境にある黒地川(くろじがわ:岐阜県・不破郡・関ケ原町)に到着。

北畠軍、垂井、赤坂に到着、との情報に、「ここで北畠軍を待とう」ということになり、関の藤川(せきのふじかわ)を前に、黒地川を背後にし、両川の間に陣を取った。

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そもそも、古より今日に至るまで、勇士や猛将が陣を取って敵を待つに際しては、山を背後にし、水を前にして陣を取るのが通常。なのに、足利軍は、大河を後ろにして陣を敷いた(注3)。これもまた、一つの作戦なのであった。

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(訳者注3)関ヶ原一帯に「大河」と呼ぶにふさわしいような川は無い。おそらく、太平記作者は、この地域の地理をよく知らないまま、この節を書いたのであろう。
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古代中国において、漢の高祖(こうそ)と楚の項羽(こうう)は、天下を争って8年間戦い続けた。(注4)

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(訳者注4)以下の記述は、「史記・淮陰侯列伝」と、細部において異なっている。
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ある時、高祖は、戦いに負けて敗走すること30里。彼に従う生き残りの兵の数は、わずか3,000余騎にも足らず。これを追う項羽の軍勢は、40万騎。

項羽 残念、目が暮れてしもぉたか・・・よし、今宵はここに野営じゃ。黎明と共に、我が軍は出動、漢軍の陣へ押し寄せようぞ。にっくき高祖めを一気に滅ぼしてしまうのなど、我が片手だけで十分じゃ。

高祖は、韓信(かんしん)を大将に任命し、項羽に対して陣を敷かせた。

韓信は、わざと大河を後ろにして陣を敷き、橋を焼き落とし、舟を全て破壊して捨てた。「もうどこにも逃げ場はないぞ、士卒ら一歩も退く事なく、全員討死にせよ」とのメッセージを皆に徹底せしめるための謀であった。

夜明けと共に、項羽軍40万騎は、韓信軍めがけて殺到。

項羽 見よ、敵はあのような、取るに足らぬ小勢じゃ。ものども、一気に勝負を決めてしまえぃ!

項羽軍は、意気揚々と左右を顧みず、韓信軍に襲いかかって行く。韓信軍3,000余騎は一歩も引かず、命の限り戦う。かくして、項羽軍はたちまち敗れ、討たれし兵の数20万人。韓信軍は逃げる項羽軍を追うこと50余里。

かろうじて、安全地帯に逃げ込んだ項羽は、

項羽 ここまで逃げたら大丈夫。敵軍と我軍の間には沼沢地帯があるし、橋は全て破却した。まさかこんな所までは、敵軍はやってはこれまいて。

漢の兵は勝に乗じて、「いよいよ今夜、項羽の陣を攻撃」という事になった。

韓信は、兵を集めていわく、

韓信 わしに、よい作戦がある。全員、所持の兵糧を捨てよ。空になった兵糧袋に砂を入れ、それを背負って進軍すべし。

兵は皆、不安に思いながらも、大将・韓信の命に従い、所持していた食料を捨て、その袋に砂を入れて項羽陣目指して進軍した。

夜になって、韓信軍は項羽陣に接近。見れば、四方のすべての沼沢を天然の防衛バリアーとして活用し、渡れる所などどこもないように、うまく陣を敷いている。

韓信 よし、持参した砂包みを、あの沢に投げ入れよ!

砂包みが積まれて道ができ、その上を韓信軍は渡っていった。深い沼地も平地のごとし。(注5)

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(訳者注5)「史記・淮陰侯列伝」によれば、嚢砂を積んだ上を歩いて渡っていったのではなくて、嚢砂をダム状(今で言う「ロックフィル式ダム」のような状態か)に積んで川を塞き止めて水位を低め、川の中を渡ったのである。現代においても、水害の時には土嚢(どのう)を用いて水を防ぐ。
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項羽側の兵20万騎は、終日の戦いに疲れ果てていた。ここまでは敵も攻めてはこれぬと油断し、帯紐を解いてぐっすり寝入っていた所に、韓信軍7,000余騎は、どっとトキの声を上げて攻めこんだ。項羽軍側は何らなすすべなく、10万余騎が、川水に溺れて戦死した。(注6)

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(訳者注6)「史記・淮陰侯列伝」によれば、韓信は川を渡って敵陣を攻撃した後、負けたふりをして退却。敵軍が後を追ってきた頃合いを見計らって、流れを塞き止めていた嚢砂を決壊させたのである。
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これが、かの有名な、「韓信の嚢砂(のうしゃ)の謀・背水(はいすい)の陣」なのである。

今、高師泰、高師冬、細川頼春らが敵の兵力の大きさを鑑みて、わざと水沢を背後にして関の藤川を前に陣を取ったのも、士卒の心を一つにせんがために韓信の作戦を採用した結果であろう。

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北畠軍10万騎は、垂井、赤坂、青野原に充満し、東西6里南北3里に広がって陣を張った。夜のしじまの中にあたり一帯を見渡せば、篝火(かがりび)のおびただしいこと、天の星が残らず地上に落ちて輝いているかと思われるほどである。

この時、越前では、新田義貞(にったよしさだ)と脇屋義助(わきやよしすけ)が北陸道を制圧し、その勢いは天を掠め地を略するほど強盛であった。

ゆえに、目前に展開する足利軍を破ることが北畠軍にとって非常に困難、というのであれば、北近江から越前へ移動して新田軍に合流する、という手もあったろう。

新田・北畠連合軍が比叡山(ひえいざん)に上って京都を眼下に見下ろした後、吉野(よしの)方面の後醍醐天皇サイド勢力としめし合わせて、東西から都を攻めていたならば、どうなっていたであろうか。

おそらく、足利尊氏はただの一日も、京都に踏みとどまることはできなかったであろう。

しかし、顕家は、自分の功績が義貞のそれに隠れてしまうことを嫌い、北陸へ移動しなかった。(注7)

かといって、目前の足利軍と戦いを交えるでもなく、顕家は、全軍を率いて伊勢(いせ:志摩半島以外の三重県)へ転進し、そこから吉野を目指して進んだ。

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(訳者注7)原文には、「顕家卿、我大功義貞の忠に成んずる事を猜で、北國へも引合ず、黒地をも破りえず・・・」とある。

この部分は、「私はそのように推理した。(太平記作者談)」といったような「解説」の類にすぎないので、これを読んだだけで、「北畠顕家さん(歴史上実在の)って、なんて人なんだ!」というように思うとしたら、それは危険な行為であろう。

太平記作者がここで言う、「北畠軍が、越前(新田兄弟がいる)へ転進する」を実際に行うとすれば、どのようなルートが可能であろうか?

[地理院地図]を使って、見てみよう。

北畠軍が今いる場所は、[岐阜県・不破郡・関ケ原町]の付近である。

ここから、越前へ向かう最も容易なルートは、そこから西進して近江(滋賀県)に至り、そこから北方へ転じて、越前へ、というものである。(現在の鉄道で言えば、JR・東海道本線で米原まで行き、そこからJR・北陸本線に乗り換えて、福井県へ、というルート。)

しかし、そのルート上には、足利軍が既に布陣している。

足利軍が布陣している場所を迂回して越前へ向かう、となると、

(1)[岐阜県・大垣市]の付近まで引き返し、そこから[揖斐川(いびがわ)]沿いに北西に向かい(国道303)、伊吹(いぶき)山地を超えて[木之本(きのもと:滋賀県・長浜市)]へ至り、そこから北上(国道8、もしくは国道365)して、福井平野へ出る、というルート。

しかし、このルート上には、斯波高経(しばたかつね)が率いる勢力が支配しているエリアがあるだろう。

となると、

(2)[岐阜県・大垣市]の付近から、北上して、[根尾谷(ねおだに)]を進み(国道157)、[福井県・大野市]を経由して、福井平野へ、というルート。

あるいは、

(3)[岐阜県・岐阜市]の付近まで引き返し、そこから[長良川(ながらがわ)]沿いに進み(国道156、長良川鉄道)、[白鳥]から西進し、峠を越えて、[九頭竜湖]に至り、そこから[九頭竜川]に沿って(国道158)[福井県・大野市]に至り、そこから福井平野へ、というルート。

上記の(2),(3)共に、たやすく移動できるようなルートではない、という事は、[地理院地図]を見ればよく分かる。(地図上で右クリックすると、その地点の標高値が表示されるようだ)。

かつて、越前と美濃を結ぶ鉄道を、という事で、[越美線(えつみせん)]の敷設計画があったという。

[越美南線]と[越美北線]が敷かれたが、両者は現在に至るまで、接続されていないので、[越美線]は完成していない。[越美南線]は現在、[長良川鉄道](第三セクター)になっている。

このように、隣り合う国である[越前]と[美濃]との間の交通にとっては、山地が大きな障害となっているのである。

関東地方や東北地方から遠征してきた人々に、更にこのルートを行けというのは、非常に酷な事であろう。へたをすれば、越美国境において全滅(戦わずして)というリスクもありうる。
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北畠軍、伊勢方面へ転進、との情報をキャッチした京都の足利サイドの人々は、一様に安堵の胸をなでおろした。

足利サイド・リーダーD いやぁ、北畠顕家率いる奥州勢、鬼神のごとき恐ろしいヤツラと思ってたんだけどぉ。

足利サイド・リーダーE なんだか、拍子抜けしちゃったよなぁ。

足利サイド・リーダーF 黒地川(くろぢがわ)に布陣してた我が軍は、敗れなかったんだ。

足利サイド・リーダーG 北畠軍を追尾してきた、わが関東方面軍も、京都に到着したってよぉ。

足利サイド・リーダーH こうなったら、北畠軍なんか、恐れるに足らずだぁ!

足利サイド・リーダーI あんなの、恐かない、恐かなぁーい!

足利サイド・リーダー一同 ワッハッハッハァー!

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顕家たちは、奈良(なら:奈良県・奈良市)に到着した。

そこでしばらく馬の足を休めながら、顕家は、主要メンバーを集めて、今後の作戦を議論させた。

白河(しらかわ:福島県・白河市)から従軍してきた結城宗広(ゆうきむねひろ)が、膝を進めていわく、

結城宗広 今回の遠征、道中、何度も戦っては勝ち、方々の強敵を追い散らし、京都へあと一歩という所までは、来ました。でも、青野原(あおのがはら)の合戦で少々利を失ってしまったんで、黒地川の橋を渡る事もできなかった・・・やむをえず、迂回して、奈良までやってきたんですよね。

北畠顕家 うん・・・。(唇をかみしめる)

結城宗広 こんな状態のまんまで、吉野の陛下の下へ参ずるってぇのは、私としてはどうもねぇ・・・あまりにもフガイないって言うか・・・どうでしょう、我々の軍勢だけでもって、ここからまっすぐ北上して京都を攻める、というのは。朝敵を一気に追い落とすか、さもなくば、自らの屍(しかばね)を王城(おうじょう:注8)の土に埋めるか、どっちに転んだって、それで本望ってもんじゃないですかねぇ!

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(訳者注8)「都」。
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宗広の実にきっぱりとした意見に、

北畠顕家 よぉ言うた! 私も同じ思いやで!

ということで、北畠軍は一転して、京都攻めの作戦を練り始めた。

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その情報は、すぐに京都にリークした。

足利尊氏はこれを聞いてびっくり、さっそく会議を招集。

足利尊氏 急ぎ、奈良へ大軍を差し向けなきゃいかん・・・誰かが・・・軍を率いて、北畠の進撃をインターセプトしなきゃ・・・。

足利サイド・リーダー一同 ・・・(シーン)。

足利尊氏 誰かが軍を率いて奈良へ向かいだな・・・北畠軍の京都進撃をだな・・・。

足利サイド・リーダー一同 ・・・(シーン)。

足利直義 おいおい、誰もいないのか、「北畠軍攻めの大将、私がやりましょう!」って言ってくれる者は!

足利サイド・リーダー一同 ・・・(シーン)。

足利直義 じゃ、仕方ない、こっちから指名だ。兄上、誰に任せたらいいでしょう?

足利尊氏 ・・・そうだなぁ・・・。

高師直(こうのもろなお) あの、あのぉ、今回のその大役に、ピッタシカンカンってぇお方が、おられやんすですよぉ!

足利直義 いったい、誰?

高師直 北畠顕家ほどの大敵に向かうとなったら、そりゃぁなんつぅたって、ハートのエースとスペードのエース、あの桃井(もものい)兄弟でしょうがぁ。

高師直 わが関東方面軍は、鎌倉撤退の後、そりゃぁいろんな所で、北畠軍と何度も戦ってきたでやんすが、そのたんびに、相手にキツゥいボディブロー打ち込んで、北畠軍をビビラセてきたのが、桃井軍ではありまへんか。

高師直 せやからね、やつらの臆病神が去ってしまわん今のうちに、またまた、桃井兄弟を北畠の眼の前に送り込んだるんですわいな。そないなったら、こちらの思いのままに、奈良なんてあっちゅう間に制圧できてしまいますじゃん。

足利尊氏 ・・・なるほど・・・よし、奈良攻めは、桃井兄弟で決まり。師直、桃井に命令を伝えよ。

高師直 あいあい。

尊氏の命を受けた桃井直常(もものいなおつね)・直信(なおのぶ)兄弟は、異議もなく、さっそくその日のうちに京都を発ち、奈良へ向かった。

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「桃井軍、奈良へ」との情報に、顕家は、般若坂(はんにゃざか:奈良市)に一陣を張り、桃井軍の到着を待った。

般若坂へ到着した桃井直常は、軍の先頭に進み出て、士卒に指令を下す。

桃井直常 今回のこの戦、足利サイドの錚々(そうそう)たるメンバー多数いる中、誰も引き受ける者が無かったんだとよ。そこでな、ここはもう、桃井に任せるしかないってことで、おれたち兄弟が選ばれたんだって。

桃井軍メンバー一同 イェーィ! ピィピィ・・・。

桃井直常 もうまさに、武門の名誉に尽きるってもんじゃん。この一戦に勝てなきゃ、これまでの数々の我が桃井家の高名も、みんな泥にまみれちまわぁ。さぁみんな、志一つに励ましあって、あの陣を破るんでぃ!

桃井軍メンバー一同 オーゥ!

曽我師助(そがもろすけ)を先頭に、桃井軍・精鋭メンバー700余騎が、身命を捨てて北畠陣中に切り込んでいった。

北畠軍も、ここを先途(せんど)と必死に防戦。

しかし、東北地方や関東地方からの長途の遠征に疲れきった武士たちが、桃井軍をささえきれるはずがない。第一陣、第二陣と順に破られていき、数万騎の武士らは方々に退散していく。そしてついに、顕家も行方不明になってしまった。

かくして、桃井直常・直信兄弟は、やすやすと大軍を追い散らし、傷一つ負う事もなく京都へ凱旋した。

桃井直常 (内心)やぁったぜ! こうなったらもう、おれの戦功、足利家ナンバーワンじゃねぇの。褒賞、一人占めしちゃえるなぁ、ムフフフフフ・・・。

ところが、直常の意に反して、その功績は尊氏には全く認められずに終わってしまい、褒賞に関しても、何の音沙汰(おとさた)もない。

桃井兄弟は、不満たらたら。

桃井直常 なんだー、この処遇はぁ! いってぇどうなってんだぁ!

桃井直信 ったくもう、命を捨てて北畠と戦いつづけてきたのによぉ! ざけんじゃねぇぞぉ!

桃井直常 えぇい、もう! こんなオモシロクねぇ世の中、さっさと、ひっくりかえっちまやがれい!

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そうこうするうち、今度は、北畠顕家の弟・春日少将(かすがのしょうしょう)・顕信(あきのぶ)(注9)が、奈良の敗軍の兵らを集め、和泉(いずみ:大阪府南西部)の堺(さかい:大阪府・堺市)に拠点を定めて近隣を侵食、ついには、大軍となって八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)に陣を構え、京都を睨む勢いになってきた。

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(訳者注9)[新編 日本古典文学全集55 太平記2 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、[春日少将・顕信]は、顕家の弟ではなく、[春日顕国」と考えのが正しいようだ、としている。([結城文書による史実の発見 松本周二 著]を参考文献として挙げている)。
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またまた、京都の足利サイドの中に驚きが広がり、尊氏から、「急ぎ大将を派遣して、北畠顕信を討つべし!」との厳命が出された。しかし、

足利サイド・リーダーD (内心)功績抜群のあの桃井兄弟でさえ、褒賞ゼロだったんだもん。

足利サイド・リーダーE (内心)ましてや、おれたちみたいなモンには、討伐に行ったって、何のお褒めも出ないだろうな。

足利サイド・リーダーF (内心)やめとこ、やめとこ。誰か、がんばって行ってきてねぇー。

このような状況に、

高師直 あんれまぁ・・・。誰も引き受けて、ねぇでやんすか。こうなっちゃぁ仕方がないじゃけん、わが高家が一家ぐるみで出馬するしか、しょうがおまへんじゃん。

「春日軍・討伐に、高家メンバー全員出動!」との報に、みな驚いて、我も我もと馳せ集まってきた。

雲霞(うんか)のごとき大軍勢となった高軍は、八幡へ押し寄せ、山麓の四方を一寸の余地もなく覆い尽くした。

しかし、守る側は堀を深くし、猛卒たちが志を一つにたてこもっている。攻め手側は、戦うたびに利を失っていった。

「八幡攻め苦戦」との情報を聞き、桃井兄弟は反省。

桃井直常 今回の動員催促には従わず、都に残留したよ。でもなぁ、高家が一家総動員で八幡を攻めても一向に戦果が上がらん、なんてぇ話聞いちゃうと、なんだかなぁ・・・他人事みたいに考えてちゃ、いかんかもねぇ。

桃井直信 我々の不満は私事(わたくしごと)、戦は公事(おおやけのこと)。ここはやっぱし、出陣すべきぃ?

桃井直常 だよねぇ。

桃井兄弟は、手勢だけを率いて密かに京都を出て、友軍にまったく知らせることなく、単独で八幡山麓に押し寄せ、一昼夜、攻めた。

この攻撃によって、春日軍サイドでは、死傷者多数。

桃井軍サイドも、多数の死傷者を出して残りわずかになってしまい、ついに退いて、高軍団に合流した。

最近、京都の人々が「桃井塚」と呼んでいるのが、彼ら兄弟が合戦を行ったこの場所なのである。

これをかわぎりに、厚東武村(こうとうたけむら)、大平孫太郎(おおひらまごたろう)、和田近江守(わだおうみのかみ)らが先頭に立って、春日軍と戦いはじめた。

彼らは、自らも負傷し、若党を多数討たれながらも、日夜朝暮、戦いを挑んだ。

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このような中に、高師直は、各陣のリーダーを集めていわく、

高師直 問題は、目の前の八幡山だけじゃぁないのさね。和泉の堺や河内だって、とっても気になるんざんしょ。だって、あそこら一帯は、ずっと敵が支配してきてるエリアだもんね。

高師直 八幡山攻めるだけでも、こんなにオタオタしてるっちゅうのに、あっちに強敵が現れちまったら、さぁタイヘン。和田(わだ)や楠(くすのき)も、それに力合わすだろうし。

高師直 敵勢力の力が弱い今のうちに、あっちら方面の敵をさっさと退治してしまうに、限るんだっちゅうの!

師直はまず、大軍をもって八幡山包囲網をかため、春日軍メンバーが外へ出られないようにした。その上で、自ら軍を率いて天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ向かい、北畠顕家の軍に攻撃をかけた。

北畠軍は疲弊の極にあり、その兵力はわずかになってしまっていた。

みな身命を投げ出して、高軍と戦ったが、戦に利無く、全員散りじりになってしまった。

北畠顕家 もうここは、持ちこたえられへん。吉野へ脱出や!

顕家に従うは、今はわずか20余騎のみ。なんとかして高軍の大包囲網を破らんと、顕家自身も剣を振るい、向かいくる相手の鎧を破り、大いに奮戦。

しかし、それも空しく、戦功徒(いたず)らにして、5月22日、和泉の阿倍野(あべの:大阪市・阿倍野区)にて、北畠顕家卿、討死。

顕家に従う者も、あるいは腹を切り、あるいは負傷し、一人残らず死んでしまった。

顕家を倒したのは、武蔵国の住人・越生四郎左衛門尉(こしふしろうさえもんのじょう)、その首を取ったのは、丹後国(たんごこく:京都府北部)の住人・武藤政清(むとうまさきよ)であった。

彼らは、顕家の兜、太刀、刀を高師直に提出。鑑識の結果、「北畠顕家卿のものに間違いなし」となり、尊氏名での抽賞・賞賛文書が両人に下された。

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世間の声J まぁ、なんと、あわれな・・・北畠顕家卿。

世間の声K ほんになぁ・・・生まれは武士のお家やおへんけど、あの武略、あの智謀。

世間の声L まっこと、天下無双の勇将でいらしたねぇ。

世間の声M まだお若いのにのぉ、鎮守府将軍に任命されなさってな、奥州からの大遠征軍を二度も起こされたんじゃった。あのお方やろ、将軍を、遠い九州まで追い下したの。

世間の声N 顕家卿の大活躍で、吉野の天皇陛下もどれほどか、お心が晴れたことか。

世間の声O なんてったってぇ、吉野の天皇派の中で、顕家卿、功績ナンバーワンだで。

世間の声P そやけどなぁ・・・しょせんは、天皇陛下の聖運、天のおぼしめしに叶(かな)わず、将軍はんの武徳が大きぃ輝きだす時が、ついに来たっちゅうことですやろかいなぁ。

世間の声一同 そういうことだろね。

「北畠顕家、死す」の報に、吉野の公卿や武士たちも一様に、肩を落とした。

公卿Q 顕家卿、あんたもついに、逝ってしまわはったか・・・。

武士R また一人、陛下の大切な臣が・・・。

武士S あえなく、戦場の露と消えてしもぉた、ううう・・・。

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(訳者注10)北畠顕家は、戦死の直前の段階で、後醍醐天皇に対して、[顕家諫奏]と呼ばれる奏上を行っているようだ。それまでの天皇の政治に対する批判が、その内容であるという。
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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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