« 太平記 現代語訳 19-9 青野原の戦 | トップページ | 太平記 現代語訳 20-2 越後の新田勢力、越前へ向かう »

2018年1月 9日 (火)

太平記 現代語訳 20-1 新田軍、越前国の完全制圧を目指す

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

去る2月初、越前国府(福井県・越前市)の戦に勝利の後、国中の足利側の城70余箇所をあっという間に降伏させて、新田義貞(にったよしさだ)の勢力はまたまた盛り返していた。

この時、義貞が、比叡山・延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県・大津市)の衆徒らを旧交のよしみを通じて味方につけていたならば、すぐに比叡山(ひえいざん)に上り、吉野(よしの: 奈良県・吉野郡・吉野町)の勢力とも力を合わせて京都を攻めることなどたやすいことであったろう。

しかし、義貞は、「なおも越前の黒丸城(くろまるじょう)に踏みとどまっている斯波高経(しばたかつね)を攻め落とさないままにして、上洛するのは無念だ」と思い、そうはしなかった。このようなつまらない事にこだわって、大事な事を二の次にした義貞のこの態度は、まことに愚かといえよう。(注1)

--------
(訳者注1)これも例によって、太平記作者の一方的なキメツケであると、私は思う。

「あっという間に降伏した足利側の城70余箇所」というであるならば、それらは情勢のちょっとした変化で再び、「あっという間に」新田に敵対することであろう。越前の在地勢力をこのような中途半端な状態でしか掌握できてないのに、斯波高経の息がかかっている勢力をなおも越前に残存させたまま、新田軍がすぐに京都へ進撃できたかどうか、極めて疑問である。京都への途上において、背後から斯波軍に追撃をかけられたならば、いったいどうなるだろうか?
--------

5月2日、義貞は、自ら6,000余騎を率いて国府へ進み、波羅密(はらみ:福井市)、安居(はこ:福井市)、河合(かわい:福井市)、春近(はるちか:坂井市)、江守(えもり:福井市)の5つの城に対して5000余の兵を差し向け、足羽城(あすはじょう)群を攻めさせた。(注2)

--------
(訳者注2)「足羽七城」と呼ばれる城砦群があったようだ。
--------

まず一番に、義貞の義理の甥・(注3)一条行実(いちじょうゆきざね)が、500余騎を率いて江守から押し寄せ、黒龍明神(くずれみょうじん)の前で斯波軍に遭遇(そうぐう)、戦い利あらずして本陣へ退却した。

--------
(訳者注3)勾当内侍(こうとうのないし)の甥。
--------

二番手に、船田経政(ふなだつねまさ)が、700余騎を率いて安居の渡しから押し寄せた。川の中ほどまで進んだ時、細川出羽守(ほそかわでわのかみ)率いる200余騎が対岸に現れ、高岸の上から矢をどんどん射掛けてくる。漲(みなぎ)る波に溺れて馬も人も次々と死に、さしたる戦を交える事もなく退却を余儀無くされた。

三番手は、細屋秀国(ほそやひでくに)。1,000余騎を率いて河合庄から押し寄せ、勝虎城(しょうとらじょう:福井市)を包囲、一気に攻め落とそうと、塀に取り付き、堀に飛び入り、攻めはじめた。そこに、鹿草兵庫助(かぐさひょうごのすけ)が300余騎で背後から襲いかかり、細屋の大軍の中に懸け入って脇目も振らず攻め戦った。細屋軍メンバーらは、城中の敵と背後からの敵に追い立てられて、本陣へ退却した。

このようにして、新田サイドは、足羽の合戦に3連敗をくらってしまった。この3人の大将(一条、船田、細屋)はいずれも天下の人傑、武略の名将ではありながら、あまりにも敵をあなどって勝ちを急ぎすぎたがために、敗戦を重ねてしまったのである。

中国の後漢王朝建国の祖・光武帝(こうぶてい)が戦に臨むたびに口にしたという、「大敵を見ては侮り、小敵を見ては恐れよ」との言葉、まことに真理である。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

« 太平記 現代語訳 19-9 青野原の戦 | トップページ | 太平記 現代語訳 20-2 越後の新田勢力、越前へ向かう »

太平記」カテゴリの記事

フォト
無料ブログはココログ