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2018年1月

2018年1月31日 (水)

太平記 現代語訳 23-1 大森盛長、異界の勢力と対決す

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・暦応(りゃくおう)5年(1342)の春、伊予国(いよこく:愛媛県)から早馬が京都にやってきて、足利幕府に対して奇怪な報告を行った。その内容は以下の通りである。

伊予国の住人に大森盛長(おおもりもりなが)という人がいた。大胆不敵な心の持ち主で、力も並外れて強く、まことに血気の勇者というべき男であった。

去る建武(けんむ)3年5月に、足利尊氏(あしかがたかうじ)が九州から京都へ攻め上り、兵庫の湊川(みなとがわ:神戸市)にて新田義貞(にったよしさだ)と決戦を行った際、この大森一族は、足利軍リーダー・細川定禅(ほそかわじょうぜん)の下でめざましい戦いを行い、あの楠正成(くすのきまさしげ)に腹を切らせるという、大殊勲を成しとげたのであった。

「その功績、抜群なり!」との評価の結果、盛長は数箇所の領地を恩賞として得た。以来、この喜びに誇り、大森一族は様々の遊宴に日々を送っていた。

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大森盛長 さぁてと、来週はどんな遊びをやるかいのぉ。

大森家メンバーA そりゃやっぱし、猿楽(さるがく)がえぇんちゃいますかぁ? あれやったら、寿命が延びるっちゅうけぇのぉ。

大森盛長 よぉし、じゃ、猿楽で行こうや。

さっそく、ある寺院の庭を借り切り、桟敷を並べ、舞台をしつらえて、大猿楽会の準備を始めた。これを聞きつけて、近隣から大勢の人々が見物に集まってきた。

いよいよ、その当日となった。

盛長は、自らも出演するつもりでいたので、様々の舞台衣装を持たせた郎等をひきつれて、その寺へ向かった。

山間の細道を通りすぎる途中、一人そこに佇(たたず)む女に出会った。

今しも山の端から出た月の光に照らし出された女の顔は、はっと息を呑むほどの美しさ。年の頃は17、8ほどであろうか、京都の公家の家に仕える女房のようなふぜいである。赤い袴に表白裏青の5枚重ねの衣服を着ている。髪は、鬢(びん)をそいで間も無いように見える。

大森盛長 (内心)おかしいなぁ・・・こないなとこにいったいなんで、あないに高貴なカンジの女がおるんじゃぁ? いったいどっから来たんじゃろかのぉ。これからどっかへ、宴の見物にでも行く途中なんじゃろか? それにしても、すごい美人じゃのぉ・・・うーん・・・。

女は、盛長に向かっていわく、

女 あぁ、困ったわぁ・・・道に迷うてしもぉた・・・。誰に道を尋ねたらえぇんやろ、このワタシは・・・。

女のうちしおれたその様を見れば、いかなる野蛮な男といえども、その気にならずにおられようか。

大森盛長 (内心)ほんと、いい女じゃなぁ・・・ナンパしてやるかいのぉ・・・。いやいや、どこぞの誰かの妻かもしれんのに、そないな事したら、いけんいけん。

大森盛長 (内心)とは言うもののなぁ・・・こないにいい女にここで出会ぉたのに、何も無しに別れて行くっちゅうのもなぁ・・・あぁ、もったいない・・・えぇい!

大森盛長 おぉい、あのなぁ! 道に迷ぉとるんやったら、わしについて来んさい。これから猿楽やりに行く途中じゃけぇ、宴の見物に行きたいんやったら、どうや、わしんとこの猿楽、見に来んか? 連れてったげるでぇ。

女 (微笑)あら・・・嬉しい事を言うて下さいますのねぇ・・・ほなら、おたくはんの猿楽に、うちもおじゃまさせてもらいましょかいなぁ。

大森盛長 おぉ、来いや、来いや!

女は、盛長の後について歩き始めた。

大森盛長 (内心)あぁ・・・この女、ほんと、なよなよしとるなぁ。今までろくに、土踏んだ事もないのんちゃうかぁ。あれ見ぃや、あの歩いとる様・・・今にも倒れてしまいそうじゃ・・・あぁ、とても見とれんわ。

大森盛長 なぁなぁ、道は露が深いけぇのぉ、足元が濡れるじゃろう。猿楽やっとる所まで、わしがあんたをおぶってったげるわ。さ、わしの背中に乗りんさい。

盛長は腰を落して、女を招いた。

女 いやぁ、そないにずうずうしい事ぉ。

大森盛長 遠慮するな、えぇから、えぇから。

女 そうですかぁ・・・ほなら。

女は、盛長の背中に寄りかかった。彼は女を背負い、再び歩き出した。

大森盛長 (内心)あぁ、なんちゅうえぇ気分なんやろ・・・あの伊勢物語のシーン、在原業平(ありわらのなりひら)が明子を背負うて京都から逃げていくとこ、思いだしてしまうわなあ。業平もきっと、こないな気分やったんじゃろなぁ。

月夜の中に美女を背負い行く・・・嵐に散った桜の花びらが袖にふりかかるかのごとく、盛長の足はたどたどしく宙を踏み、芳香のたち込める梅林の中を行くかのように、心はうわの空。

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そのまま半町ほど行き、山陰にさしかかった。

山が月光を遮ってあたりが暗くなったその瞬間、あれほど高貴で美しかった女が、盛長の背中の上でにわかに変身しはじめた。

身長は8尺ほどに伸び、両眼は朱を水に解いて鏡の表面に注(そそ)いだかのよう、上下の歯は食い違い、口は耳元まで広く裂けている。漆を何度も塗り重ねたかのように黒く太い眉は額を覆い、振り分け髪の中からは5寸ほどの鱗をかぶった角が生え出ている。

その姿はまさしく、鬼。

大森盛長 (内心)ムム? この女、急にエライ重たくなりよったな。なんだか、大きな岩でも背負ってるみたいなカンジじゃ・・・ムム、こいつは女なんかじゃない、バケモノじゃ!

盛長は、怪物を背中から振り落とそうとした。怪物は、熊のような手で盛長の髪をひっつかみ、虚空めがけて懸け上がろうとする。剛勇な盛長は、怪物にムズと引き組み、両者もろとも深田の中に転げ落ちた。

大森盛長 おぉい、化け物をひっつかまえた、はよ、皆で組み伏せろ!

後方に離れて従ってきた郎等たちは、あわてて太刀や長刀の鞘を外し、駆け寄ってきた。

大森家メンバーB えぇ、化け物?・・・そないなアヤシゲなん、どこにもおらんよ。

化け物は、かき消すように姿を消してしまっていた。

郎等たちは、盛長を助け起こした。見れば、呆然として、正気を失ってしまっている。

大森家メンバーB こりゃ、タダゴトじゃねぇで。

大森家メンバーC こんなんじゃ、猿楽なんて、とてもできんわな。

大森家メンバーD そうじゃのぉ・・・。

というわけで、その夜の猿楽は中止となってしまった。

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大森盛長 えぇい、もぉ! 猿楽に出演するからいうんで、せっかく一生懸命練習しとったのに、こないだはとんでもないジャマが入ってしもぉたぁ! えぇい、いまいましいのぉ!

大森盛長 わしゃなぁ、いったんやると決めたら絶対に、猿楽やったるでのぉ!

というわけで、再び吉日を選び、寺の堂の前に舞台がしつらえられ、桟敷が並べられた。またもや見物の人々がおおぜい押し寄せてきた。

はたせるかな、再び怪事件は起った。

猿楽のプログラムの半ほどまで進行した時、遥かな海上に直径8尺ほどの光を放つ物体が2、300個ほど出現。

猿楽見物人E おいおい、あれいったい、なんじゃぁ?

猿楽見物人F 漁師が縄を燃やして、魚を集めとるんかいのぉ。

猿楽見物人G 鵜(う)飼いが舟に灯しとる、かがり火じゃろか。

光る物体は、急速に猿楽舞台の方へ接近してきた。

見れば、一群の黒雲の中に玉の輿を連ね、恐ろしげな鬼のような者たちがその前後左右に列をなしている。その後方には、色とりどりの鎧を着た武士が100騎ばかり、良馬にくつわを噛ませて続いている。しかし、すぐまじかに迫ってきてもなお、彼らの顔は陽炎(かげろう)のように朦朧としていて、よく見えない。

稲妻を光らせながら接近してきた黒雲は、やがて、猿楽舞台のすぐ近くの森の梢の上に止まった。

全員、恐怖におののきながら見ていると、その雲の中から高らかに声が響いた。

楠正成の亡霊 おーい、大森盛長はん、久しぶりやのぉ! わしや、楠正成(くすのきまさしげ)や!

その場にいあわせた者全員 エーッ、楠正成じゃとぉ!

楠正成の亡霊 楠、そうや、楠や! 楠正成カムバーックじゃい! ワッハハハ・・・。

その場にいあわせた者全員 (震えながら)・・・。

楠正成の亡霊 なぁ、大森、これからわしの言う事、よぉ聞けよ!

大森盛長は、このような事にはいささかも動じない男である。まったく臆する様なく、返答していわく、

大森盛長 人間は一度死んだら、二度とこの世に戻ってはこんからのぉ、きっと、楠正成の魂魄(こんぱく)が霊鬼(れいき)となって、ここにやって来よったんじゃろう。ま、そないな事はどうでもえぇわ。楠殿、あんたはいったい何用があって、今ここにやってきて、このおれを呼ぶんじゃ?

楠正成の亡霊 あんなぁ、わしが生きとった間はなぁ、あれやこれやと謀略をめぐらして、北条高時(ほうじょうたかとき)とその一族を滅ぼしてな、先帝陛下のお心を安んじ申し上げ、そのかいあって、陛下は天下ことどとくを治められるようになったわい。

楠正成の亡霊 めでたしめでたしと喜んでたら、なんと、あの足利尊氏(あしかがたかうじ)と直義(ただよし)兄弟が、たちまち虎狼(ころう)のごとき心を起こしやがってなぁ、ついに陛下を、政権の座から追い落してしまいよったやんけぇ!

楠正成の亡霊 足利兄弟と戦ぉて屍を戦場にさらした忠臣や義士らは、あいつらに対する怒りの念がどうにも収まらん。ついに、全員意を決して、アシュラ、そうや、アシュラ王の手先になったんじゃい! わしらの怒りは、一時として止む時がないんやぞ!

楠正成の亡霊 アシュラ王の支援を受けて、もう一回、天下をひっくり返してしもたろ、思ぉてな、あれやこれやと考えた末に、ついに、わしはその方法を見出したんじゃい。そのためには、3本の刀が必要なんやなぁ、「貪(どん)」の刀、「瞋(じん)」の刀、「痴(ち)」の刀がな。(注1)

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(訳者注1)貪、瞋、痴を仏教では「三毒」という。「毒」とはすなわち「煩悩」。

貪 = 貪欲(Rāga):自己の情に順応せる事物に愛着し、これをむさぼって飽くことなきをいう。すなわち、世間の色欲財宝等を貪愛して足るを知らぬこと。

瞋 = 瞋恚(しんい)(Dveṣa):自己の心に反する対境に対して憎み怒り、心身ともに平安ならざる心作用をいう。

痴 = 愚痴(Moha):事象に惑い、真理をわきまえざること。愚かなること。
(以上、「仏教辞典」大文館書店刊より)
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楠正成の亡霊 さてさて、そないな刀、いったいどこにある? わしら皆で、憤怒の眼をカッと見開き、三千大世界(さんぜんだいせかい)の隅から隅まで一瞬のうちに、リモートセンシングしてみたんじゃい。

大森盛長 で、その刀、見つかったんかいのぉ?

楠正成の亡霊 ウハハハ・・・。見つかったわい、見つかったわい! この日本の国土の中にな、ちゃぁんと3本揃ぉとったわい、ざまぁ見さらせ!

楠正成の亡霊 まず一本目はな、比叡山(ひえいざん)の日吉山王七社(ひよしさんのうななしゃ)のうちの大宮(おおみや)社にあったわいな。その刀は、修行者の心中に入り込んで、そいつを操って取ってしもたった、ワッハッハッ・・・。

楠正成の亡霊 二本目はな、なんと、尊氏、そうや、足利尊氏のとこにあったわいな。あいつのお気に入りの童子に対して心理操作してな、その刀もまんまと奪い取ってしもたったわい。

楠正成の亡霊 さて、問題は三本目! 三本目の刀、それはなぁ、おまえがいま、腰に差しとるその刀、そうや、その刀じゃぃ!

大森盛長 ナヌゥ!

楠正成の亡霊 おまえな、その刀、いったいどういう、いわれのもんなんか、知っとるかい?

大森盛長 いいや。

楠正成の亡霊 その刀はな、元暦(げんりゃく)年間に、平家が壇の浦(だんのうら:関門海峡)で全滅した時に、あの悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)が、海へ落しよった刀なんや。それをイルカが呑み込みよってやな、そのまま、讃岐(さぬき:香川県)の宇多津(うたつ:香川県・綾歌郡・宇多津町)の沖まで泳いで行きよって、そこで死によったんや。刀は海底に沈んだまま100余年が経過、やがて漁師の網にひっかかって、ほいで、おまえのもんになったというわけや。

大森盛長 ふーん・・・。

楠正成の亡霊 その刀さえ、わしらのもんになったらな、尊氏から天下を、そうや、この日本の天下を奪回する事なんか、もうイッパツで、できてしまうんじゃい。

大森盛長 ・・・。

楠正成の亡霊 先帝陛下から、「こら正成、はよ、その刀取ってこんかい!」とのお達しでな、楠正成の霊がここまで参上したっちゅうわけや、ハハハ・・・さぁ、さぁ、ワレ、早いとこ、その刀、こっちに渡さんかい!

雷鳴 ゴロゴロゴロゴロ・・・。

雷鳴が東西に轟き、今にも、盛長めがけて落ちかからんばかりである。

大森盛長 さては、こないだ女に化けて、わしをたぶらかそうとしたん、おまえらのしわざじゃな!

雷鳴 ゴロゴロゴロゴロ・・・。

盛長は、刀の柄(つか)を砕けんばかりにかたく握りしめ、仁王立ちになり、虚空をハタと睨んで叫ぶ、

大森盛長 楠殿、あんたが生きてなさった時には、わしも、いろいろとおつきあいさせてもろぉたけぇのぉ、あんたが欲しいいうんじゃったら、どんな宝物でもさしあげたいのはヤマヤマじゃ。そやけど、足利将軍様のご治世をひっくり返す為とあってはの、この刀だけは、絶対に差し上げるわけにゃいけんのぉ。

大森盛長 わしはな、こないな不肖の身じゃけんど、将軍様のお味方に馳せ参じて、幕府に忠誠心あつい人間と信頼してもろとるけん、こないに恩賞をたぁんと頂いてな、わしの一族はほんま、もったいないくらい豊かな暮らしをしとれるんじゃ。こないして猿楽して遊んどれるんも、将軍様からのご恩顧あってのことじゃ。

大森盛長 主君に対して忠心変ぜざるをもって義となす、これが勇士というもんじゃろて。たとえ、この身をズタズタに割かれ、骨を粉々に砕かれようとも、この刀をあんたに渡すわけにはいかんでの。さぁ、これでわしの思い、分かったじゃろう。分かったら、さっさと、魔界に帰りんさい。

楠正成の亡霊 (大怒)えぇい、このぉ!

大森盛長 さっさと、帰りんさい!

楠正成の亡霊 えぇわい、そのうち絶対に、その刀奪(と)ったるからな、まぁ見とれ!

罵(ののし)りの言葉を後に残し、光る物体は一斉に、海上はるか彼方めざして飛び立っていく。

猿楽見物の人々はみな、大パニック状態になってしまった。

猿楽見物人E ウヒャー! わしらもいっしょに、空中へ引き上げられてまうでぇ!

猿楽見物人F キャア!

猿楽見物人G さ、さ、はよ逃げよ!

猿楽見物人H オトーチャーン!

子は親を呼び、親は子の手を引き、四方八方へ逃げ去っていく。

このようなわけで、今夜の猿楽も、プログラムの始めの2、3の演目を終えただけで、中止となってしまった。

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その4、5日後、雷を伴った激しい風雨が、付近一帯を通り過ぎていった。

大森盛長 おっ、こりゃ前触れじゃな。またまた今夜も、例のがきっとやってきよるんじゃ。よし、今日はこっちから先に、出迎えてやるわ。

盛長は鎧を着て、中門の前に鹿皮を敷いた座席を据え、その上にドッカと腰を据えた。藤巻きの大弓と何本もの矢を用意し、鼻の油を指で矢にこすりつけながら、異界の者らの到着を、今か今かと待ちかまえる。

夜半過ぎ頃、それまでくまなく晴れ渡っていた夜空がにわかにかき曇り、一群の黒雲がムクムクとわきおこって、月を完全に覆い隠してしまった。

大森盛長 おぉ、来よった、来よった!

やがて、雲の中から例の声が響き渡った。

楠正成の亡霊 おーい、大森はん、おるかぁ?!

大森盛長 おぉ、待ってたでぇ!

楠正成の亡霊 今日はわしはな、勅使の身分で来てんねんぞ。こないだわしが言うてた例の刀、「それ、はよこっちに渡さんかい!」との先帝陛下よりの命令書(注2)、持ってきてんねんぞぉ。

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(訳者注2)原文では、「綸旨(りんじ)」。
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盛長は、楠正成霊の言葉を全く意に介する風はない。庭へ立ち出でていわく、

大森盛長 今夜ぐらいにきっと、あんたがまたやって来よるんじゃろ、思ぉてな、宵のうちからじっと待っとったんよ。

楠正成の亡霊 ほう、そうかいや。

大森盛長 さっきまではな、「楠正成の亡霊? ふふん、笑わせるな、そんなん、口からでまかせじゃろう。どこぞの天狗(てんぐ)かなんかが、正成の名前を騙(かた)って、おれにちょっかい出しとるんやろう。えぇい、かまわん、問答無用で討ち取ってしもたれ」と、思うとったんよ。そやけど、「先帝よりの命令書を持参」とあっては、あんたは本当に、楠正成殿の亡霊なんじゃろうな。わしにもようやく納得いったわ。

楠正成の亡霊 ・・・。

大森盛長 こないな事は、よけいな事かも知れんけどのぉ、まだまだ不審な点がいっぱいや。ひとつ、わしが完全に納得行くように、答えてくれんかの。

楠正成の亡霊 いったい、なんじゃい?!

大森盛長 あんたといっしょに大勢来てなさるお方ら、いったいどこのどなたはんじゃ? それともう一つ、あんたは、六道(ろくどう)四生(ししょう)(注3)の中の、いったいどこの辺に、今、おるんじゃ?

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(訳者注3)「六道」とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの世界。「四生」とは、胎生(哺乳類のように胎内から生まれる)、卵生(鳥類のように卵から生まれる)、湿生(昆虫類のように湿気の中から生まれる:当時はこのように考えられていたらしい)、化生(諸天のように忽然と生まれる)。
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楠正成の亡霊は、庭の前の蹴鞠コートの片隅に立つ柳の梢のあたりまで下ってきた。

楠正成の亡霊 よぉし、ほならな、今日ここに来てる主要メンバーを紹介したるわい・・・まずは、先帝陛下、それから、護良親王(もりよししんのう)、新田義貞(にったよしさだ)、平忠正(たいらのただまさ:注4)、源義経(みなもとのよしつね:注5)、平教経(たいらののりつね:注5)、それにこのわし、楠正成、以上計7人や。その他のもんらまでは、わしゃとてもよぉ紹介しきらん。

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(訳者注4)平安時代の保元の乱の際に、崇徳上皇方について敗れ、斬罪に処せられた人。

(訳者注5)平家物語に登場の二人。
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大森盛長 先帝陛下は、普段は、どこの世界におられるんじゃ?

楠正成の亡霊 陛下はもとはといえば、マケイシュラ王(注6)の生まれ変わりやからな、今は元の姿に戻らはって、六天世界(ろくてんせかい:注7)に住んだはる。

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(訳者注6)大自在天(第18天)の主。

(訳者注7)四天王天、トウリ天、ヤマ天、トソツ天、楽変化天、他化自在天。
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大森盛長 その他のメンバーは、どないな姿になっとるん?

楠正成の亡霊 全員、阿修羅王(あしゅらおう)の家来になってな、ある時は帝釈天(たいしゃくてん)と戦い、ある時は人間界に下って、怒りの念がキツーイ人の、その心中に入り込んどるんじゃい。

大森盛長 では、あんたは今、いったいどないな姿になっておられるんじゃ?

楠正成の亡霊 わしか、わしはなぁ・・・この世を去る時の今わの際の悪念が足かせになって、どうしても成仏できんとからに、今や、千個の頭を持つ鬼となり、七個の頭を持つ牛に乗ってるわいな。

大森盛長 ふーん?・・・。

楠正成の亡霊 どうしても疑わしい言うんやったらな、何もかも見せたろかい。さぁ、じっくりオガみぃ!

にわかに、14、5本もの松明がサッと翳(かざ)され、虚空の中にいる異界の者たちの姿を、鮮明に照らし出した。

まず、一片の雲の中に、12人の鬼が、先帝の乗る美しい輿をかついでいるのが見えた。

それに続いて、八龍王が引く車が見えた。その車中の人はまぎれもなく、護良親王である。

新田義貞は、3,000余騎を率いて前陣に進み、源義経は、甲冑に身をかためた数100騎を率いて後陣を支える。その後には、平教経が300余隻の軍船を雲の波間に推し浮かべ、平忠正も平氏のシンボルの赤旗を一本風に靡かせながら、後陣に控えている。

それらのグループから遥かに隔たった位置に、楠正成の姿が見えた。その様は、湊川(みなとがわ)の戦の時と全く同じ、紺地錦(こんぢにしき)の直垂(ひたたれ)に黒糸威(くろいとおどし)の鎧を着し、その言葉の通りに、七個の頭を持つ牛の上に乗っている。

この他にも、保元(ほうげん)の乱、平治(へいじ)の乱で討たれた者たち、その後の争乱の中で滅んでいった源平両家の者たち、さらに、最近の元弘(げんこう)年間から建武(けんむ)年間にかけての戦の中で亡んでいった武士たち、世間にその名を知られた者らが全員、甲冑を帯し、弓矢を携え、虚空10里四方の空間をびっしりと埋めつくしている。

しかし、彼らの姿は、盛長の目にのみ幻のごとく映り、他の人たちには全く見えないようである。盛長は左右を顧みて、

大森盛長 おいおい、みんな、あれが見えんか!

大森家メンバーA え? いったい何が?

大森家メンバーB 殿はいったい何のこと、言うてなさるんじゃ?

やがて、風に吹き散らされる雲のごとく、それらの幻影は徐々に消え失せていった。楠正成の亡霊の声のみが、なおも虚空に響いている。

これほどの不思議を見せつけられたにもかかわらず、大森盛長は、なおも心動ぜず、

大森盛長 「目に病があると、空に花が乱舞す」っちゅうからのぉ(注8)・・・妖怪やバケモノの百匹や千匹見えたからって、別に、なんてぇこたぁないでぇ。

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(訳者注8)飛蚊症(ひぶんしょう)の事を言っているのかも?
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楠正成の亡霊 またまたぁ、そないなツヨガリを・・・ハハハハ。

大森盛長 たとえ、第六天の魔王どもが、ここに乗り込んできよったとしてもな、この刀、絶対に渡さんで! 「先帝の命令書を持参してきた」じゃとぉ、フーン! またまた例によって、手のひらを返すような朝令暮改の命令書じゃろう、そんなもん、いくら持ってきたって、何のキキメもないんじゃ。(注9)

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(訳者注9)建武新政当時の、後醍醐天皇の「朝礼暮改の綸旨政治」を皮肉っているのであろうか。
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楠正成の亡霊 オマエなぁ、言うてえぇ事と悪い事と、あるぞぉ!

大森盛長 さぁさぁ、あんたらみんな、とっとと六道世界へ帰りんさい! この刀は、将軍様へ進呈するけぇのぉ、いくら狙ぉてみても、ダメ、ダメ!

盛長は、言い捨てて、館の中に入ってしまった。

楠正成の亡霊 おいおいおいおい、大森盛長、よぉもヌケヌケと、大口たたいてくれたやんけ! 刀を足利尊氏んとこへ持っていくやとぉ、ワッハッハッハッハァ・・・たとえ、この伊予が京都と陸続きやったとしても、わしらの目をかすめて刀を持って行くんは、そうそうたやすい事ではないでぇ、ましてや、海上を行くとあってはなぁ・・・刀は絶対に京都へは届かへんでぇ! 途中で、ゼッタイに、わしらが奪い取ってやるよってになぁ。ワッハッハッハッハァ・・・。

亡霊たち一同 ワッハッハッハッハァ・・・。

亡霊たちは哄笑(こうしょう)しながら、西の方へ飛び去っていった。

それ以降、盛長は狂気に陥ってしまったかのようである。休む間もなく山を走り、水に潜る。ひっきりなしに太刀を抜き、矢を放つ。

これを憂えた大森一族が集まって相談した結果、盛長は一室に押し込められ、武装した者らが24時間、彼を警護する事になった。

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ある夜またもや、雷を伴った激しい雨風がやってきた。

警護の者I    おっ、また例の楠の亡霊とやらが・・・。

突然、大森盛長の居室の方から、大音響が轟いた。

警護の者J おい、あれは!

警護の者K いかん、夜討ちじゃ! 障子を蹴破って押し入りよったぞ!

警護の者Kの足 ドドドド・・・。

警護の者L あの音のグアイだと、敵は数十人はおるでぇ!

警護の者Lの足 ドドドド・・・。

警護の者らは、あわてて太刀や長刀の鞘を外し、盛長のもとへ駆けつけた。

警護の者L 殿、殿ーっ!

警護の者K あれっ? 敵は?

警護の者L どこにもおらん・・・はて?

警護の者J 殿の姿も見えんでぇ・・・。

警護の者I げぇ! 天井、天井じゃ!

警護の者M ウァッ!

見れば、天井から、熊のような毛むくじゃらの長い手がすうっと伸びており、盛長の髻(もとどり:注10)をしっかと握りしめ、彼を宙づりにして、破風の口から運び去ろうとしていた。

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(訳者注10)髪を頭上で結び束ねた所。
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大森盛長 エイ! エーイ! エーイ!

盛長は、宙づりにされながらも例の刀を抜き、化け物の体の中心とおぼしき場所を3回突いた。

化け物 ギゥワァィーーーーン!

化け物は少し弱ったようである。盛長はその敵にムズと引き組んだ。両者はそのまま、破風から母屋の外に伸びた庇の上に転げ落ちた。

大森盛長 エイ! エイ! ウォェーイ!

盛長は、化け物をおさえつけながら、なおも7回、突きを入れた。

化け物 ウググググ、ギャフィー、ddddd、ギョフョィーーー・・・シュポッ!

急所を破られてついに力尽きたのであろうか、盛長の脇の下から、毬のようなものがスッと抜け出し、虚空を飛び上がっていった。

警護の者らは、梯子をかけて軒の上に上ってみた。そこには、牛の頭が一個転がっていた。

警護の者J これがもしかして、殿が言うてた、「楠正成の亡霊が乗っとる牛」の頭かのぉ?

警護の者K 正成の魂魄(こんぱく)が、この中に宿っとるんかもしれんでぇ。

その牛の頭を中門の柱に結わえつけたが、終夜、物音をたてながら動き回る。始末に負えないので、コナゴナに打ち砕いて水底に沈めた。

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その次の夜も、月が曇り強風が吹きすさびだした。

母屋の別棟に詰めている警護の者たちは、

警護の者I またまた今夜も、雲ゆきが怪しくなってきよったのぉ。

警護の者J 連中、今夜もやってくるんやろうか。

警護の者K とにかく、夜明けまではゼッタイに眠ったらいけんよ。

警護の者L 眠気ざましに、囲碁か双六でもしながら番するかのぉ。

警護の者一同 おぉ、それがえぇで!

夜半を過ぎた頃、その百人余りの警護の者ら全員に異変が起った。

警護の者たち一同 アッ!・・・グーグーグーグー・・・。

みんな酒に酔ったような状態になり、頭を垂れて眠り始めた。その中で、正気を失っていないのはただ一人の僧侶のみ。

僧侶N あれっ? みんないったい、どないしたんじゃ?

怪物が天井に姿を現した。灯火の影の中から僧侶が見たもの、それは、巨大な蜘蛛の姿であった。

僧侶N あっ・・・。(カタズを呑みながら凝視)

巨大蜘蛛は、天井から糸を吐いて床上に垂らした。

蜘蛛の糸 ユアーン、ユヨーン・・・。

蜘蛛は、その糸を伝って床の上に降りてきた。

巨大蜘蛛 ツト・・・ツト・・・ツト・・・。(糸を伝って降りてくる音)

僧侶N ・・・。

蜘蛛は、眠りこんでいる警護の者らの体の上を、あちらこちらと這いまわっている。

巨大蜘蛛 サワサワ・・・サワサワ・・・サワサワ・・・。(這う音)

そして、再び天井へ上がっていった。

巨大蜘蛛 ツトー・・・ツッ・・・ツトー・・・ツッ・・・ツトー・・・ツッ・・・。(糸を伝って上っていく音)

やがて、盛長の寝室の方から、大声が。

大森盛長 おのれ、来たなぁ! えぇい!

寝室の方から轟く物音 ドタドタ・・・ドシャン、ガシャン、バチューン、バタバタ・・・ガラガラ、ガッシャーン・・・。

寝室で、猛烈な取っ組み合いが始まったようである。

やがて、盛長の方が不利な体勢になったのであろうか、助けを求める彼の声が響いた。

大森盛長 みんな、こっちへ・・・こっちへ早く来んかーっ!

警護の者M しまった、殿が危ないで!

警護の者L 早く殿のもとへ・・・あれっ・・・。

警護の者K 殿ぉー!

警護の者Kの身体 ドタッ(倒れる音)

みな驚いて起き上がろうとするのだが、髪を柱に結わえ付けられていたり、他人の手を自分の足に結わえられていたりして、体の自由がまったくきかない。まるで網に掛かった魚のようである。

僧侶N ナニがどないなっとる? みんな何しとるんや?

僧侶は走り出て、その場を見回した。

僧侶N アーッ、蜘蛛の糸で縛られとるわ!(注11)

いかに強力ぞろいの警護の者とて、これでは自由が効かないわけである。

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(訳者注11)巨大蜘蛛が天井に出現してからここに至るまでのシーンは、以下のように解釈すればよいのであろう。
 シーン1:巨大蜘蛛、天井に出現。
 シーン2:天井から下りてきて、警護の者らを糸で縛り付けた後、再び天井へ上がっていった。
 シーン3:次に蜘蛛は、大森盛長の寝室へ忍び入っていき、彼との格闘が始まった。
--------

大森盛長 化け物、取り押さえた、早(はよ)ぉ! 早、火ぃ持って来い!

警護の者らは、力をふりしぼって蜘蛛の糸を切って起き上がり、盛長のもとへ駆けつけた。

警護の者一同 殿ーッ!

警護の者らの足 ドタドタドタドタ・・・。

蝋燭を灯してみると、盛長が、化け物らしき物体を膝の下におさえつけている。物体は逃げ出そうともがいているのか、彼の膝が上下に揺れている。

警護の者I 逃がすな! それ!

警護の者全員、手に力を込めて、その物体をおさえつけにかかった。

化け物 パリ、パリ、パリーーン!

大きな素焼きの陶器が割れるような音がした。みんな、手をのけて、そこを覗き込んだ。

警護の者J ウァー!

警護の者K ア、ア、ア・・・。

そこには、髑髏(どくろ)が転がっていた。眉間(みけん)から片側は完全に砕けてしまっている。

大森盛長 フー・・・。

大きな吐息をついて、しばし心を静めた後、腰に手をやった盛長は、

大森盛長 いけん! 刀、刀!

彼の腰には、例の刀の鞘だけが残っていた。

大森盛長 アァー、やられてもぉたぁ・・・刀を奪(と)られてもぉたぞ・・・ウーン!

警護の者ら一同 ・・・。

大森盛長 ついに・・・ついに、やられてもぉたわ・・・妖怪に惑わされてなぁ・・・。万事休すじゃ・・・。今さら、いくらがんばってみても、もうどうしようもないで・・・。アァー!(天を仰ぐ)

警護の者ら一同 ・・・。

大森盛長 わしの命なんか、どうでもええんじゃ。将軍さまを守ろぉ思ぉて、がんばってきたのに・・・あー! わしはほんまに、ダメな男じゃのぉーっ!(涙)

青ざめながら涙を流し、ブルブルと体を震わせている盛長を見て、全員、身の毛のよだつ思いのまま、言葉もなく立ち尽くすばかりである。

--------

さらに夜は更け、有明けの月が中門の中を明るく照らしはじめた。

盛長は、簾を高く巻き上げて、庭を見つめていた。と、そのとき、

大森盛長 あ・・・。

光る球体が、空から庭の草叢(くさむら)の中に落下した。

大森盛長 あれはいったい?

庭に走り出て草叢の中を見てみると、先ほど皆で推し砕いた髑髏のもう片方が転がっており、例の刀が、その髑髏を柄(つか)の所まで深々と貫いていた。

大森盛長 おぁ、刀じゃ、刀じゃー! おぉい、みんなぁ、刀、戻ってきたぞぉー!

もはや、不思議という言葉さえも及ばないほどの、意外な展開である。

--------

警護の者I さぁてと、問題は、この髑髏、どないな風にして処分するかじゃなぁ。

警護の者J 火に投げ入れて、燃やしてみたら?

警護の者K よぉし!

さっそく火中に投じてみたが、髑髏は自動的に、そこから飛び出してくる。

警護の者L フー! まったくもう! 煮ても焼いても食えねぇとは、こういうヤツの事じゃのぉ。

警護の者一同 ワハハハ・・・。

警護の者M ツカミでしっかりつかんでの、逃げ出せないようにして、それでもって、完全に焼ききるんじゃ。

警護の者K よーし! ツカミ持ってこい!

警護の者L あいよ!

かくして、髑髏は、完全に灰と化した。

--------

大森盛長 もうこれで、化け物は来んでぇ。

大森家メンバーA えぇ? なんでぇ?

大森盛長 楠正成の亡霊が引き連れてきよったヤツらの数は6体、それと楠と合わせて7体じゃ。わしが襲われたん、今夜で7度目じゃけん、これでヤツらは全滅、(注12)ハイそれまーでーよ、じゃ、ワハハハ・・・。

--------
(訳者注12)ここで、「7回も襲われてないではないか」という疑問が生じる。しかし、上記の「それ以降、盛長は狂気に陥ってしまったかのようである。休む間もなく山を走り、水に潜る。ひっきりなしに太刀を抜き、矢を放つ。」の箇所において、大森盛長と亡霊たちのみに認知でき、他の者の目には見えないような戦いが数度展開されていた、と解釈すれば、矛盾は生じない。
--------

大森家メンバー一同 ふーん、そういうもんかねぇ。

その時、虚空に、しわがれた声が響いた。

声 おほほほ・・・うちらのメンバー、なにも7体とは限ってしまへんでぇ。

みな、驚いて空を見上げた。

蹴鞠コートの端の木の上に、直径4、5尺ほどもあろうかという巨大な女の頭があった。太く眉墨を描き、歯を黒く染めている。(注13)

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(訳者注13)原文では、「金黒(かねくろ)なる女の首」。化け物だから歯が黒いのではない、当時の上流階級の女性はみな歯を黒く染めていた。いわゆる「お歯黒(はぐろ)」である。
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女の顔は、乱れ髪を振り上げ、大笑いしながら、

声 きゃきゃきゃきゃ・・・みんなでそないにじっと見つめられたら、うち、恥ずかしいやおまへんかぁー。

顔はさっと後ろを向いた。

大森家メンバー一同 うぁーっ!

全員、恐怖のあまり、その場に倒れ伏してしまった。

--------

大森家メンバーA やれやれ、困ったのぉ。いったいどないして、化け物らの襲来を防いだらえぇんじゃろう。

大森家メンバーB 何かえぇ方法、ないんかいのぉ。

大森家メンバーC あぁいう連中らはな、蟇目矢(ひきめや:注14)の音を恐れるっちゅうで。

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(訳者注14)鏃の一種。中が空洞になっていて孔があり、射ると大きな音がする。
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大森家の者A よし、それでいけ!

さっそくその夜、警護の者らが蟇目矢を放って見た。

警護の者K いーくでぇー! エーイ!

蟇目矢 シャキーーーン、ヒュルヒュルヒュルヒュル・・・。

警護の者L どうじゃぁ! こわいじゃろうー!

虚空にはドッと笑い声が響く。

亡霊たち ワッハハハハハ・・・・。

次の夜も、

蟇目矢 シャキーーーン、ヒュルヒュルヒュルヒュル・・・。

亡霊O しゃきぃーーーん、しゃきぃーーーん!

亡霊P きゃいーーーん、きゅいーーーん!

亡霊たち ウワッハッハッハッハッハ・・・・。

かくして毎夜、虚空に哄笑湧き起こり、天まで響く。

大森家メンバーA あぁかんのぉ・・・。

大森家メンバーB あいつら、ぜーんぜん、ビビットらんでぇ。

大森家メンバーC うーん、効き目無かったかぁ。

大森家メンバーA 何か、他の方法、考えんとなぁ。

大森家メンバーD 陰陽師(おんみょうじ)はどうじゃ? 妖怪ロックアウトの術をかけさせるんじゃ。

大森家メンバーA えぇい、もうこうなったら、陰陽師、ゴーストバスター、何でもありじゃ!

さっそく、陰陽師に符を書かせて門々に貼り付けた。しかし、透明人間が毎度やってきては、それを剥がしていってしまう。

大森家メンバーA マイッタのぉ・・・。

大森家メンバーB ウーン・・・。

大森家メンバーC いったい、どうしたもんかいのぉ・・・。

そこへ、大森家に縁のある一人の僧侶が来ていわく、

僧侶Q 毎晩現れよる悪霊(あくりょう)らはみな、自らを称して、アシュラ王の眷族(けんぞく:注15)であると、言うとるんじゃろう?

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(訳者注15)家来。
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大森家メンバーA はい。

僧侶Q じゃったらの、これを静めるには、大般若経(だいはんにゃきょう:注16)の読経がベストじゃ。

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(訳者注16)「大般若波羅密多経(だいはんにゃはらみたきょう)」の略。般若心経(はんにゃしんぎょう)はこれの要約である。
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大森家メンバーB そりゃ、いったいどういうわけで?

僧侶Q 帝釈天(たいしゃくてん)は、常にアシュラ王を相手にな、シュミ山(せん)の中央で合戦をしとられるんじゃ。帝釈天が勝利された時には、アシュラ王は、体を縮小して蓮根の孔の中に身を隠す。アシュラ王が勝った時には、彼はシュミ山のいただきに座し、手に太陽と月を握り、大海中に足を踏みしめる。それからさらに、アシュラ王は、帝釈天の本拠地たるトウリ天まで駆け上り、帝釈天をそこから追い落とし、人間世界の衆生を完全に自らの支配下に収めんとする。その時、仏教守護の諸天善神(しょてんぜんじん)は、天の法堂に集まり、大般若経の読経を開始する。するとたちまち、虚空から輪宝(りんぼう)下り、剣戟(けんげき)は雨と降り、アシュラ王の軍勢を寸々に割き切る。

大森家メンバーC ふーん・・・。

僧侶Q 戦い利あらざる時には、トウリ天を領したもう帝釈天でさえも、大般若経の威力をもってアシュラ王を降伏(ごうぶく)される。いわんや、我らあわれなる凡夫(ぼんぷ)においてをや、じゃ。大般若経の偉大な力をお借りしてしか、やつらを退治する事はできんじゃろうよ。

大森家メンバー一同 なるほどなぁ。

さっそく、僧侶集団を招いて、大般若経の真読(しんどく:注17)を日夜6部ずつ行ってもらった。

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(訳者注17)以下、「仏教辞典」(大文館書店)より引用。

 「真読 経典の紙をぱらぱらと翻じて、読誦するに代えるを轉読と言うに対し、その文句を逐次に拾い読むをいう。」
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その読経の威力により、アシュラ王は勢力を失ったのであろうか、5月3日の暮れ方、導師(どうし)が高座の上で鉦(かね)を打ち鳴らすやいなや、にわかに天はかき曇り、雲の上に車が進み馬が馳せ違う音がしきり。鏃が甲冑を貫く音が雨のごとく続き、剣戟を交える光が星のように輝く。

全員、肝を冷やしながら天を凝視する。

やがて、戦いは終結した。雲上の物音がハタと止み、夕焼けが美しく空を染め始めた。

それ以来、大森盛長は狂乱から回復し、楠正成の魂魄(こんぱく)は、彼の夢の中にすらも現れなくなった。

この大般若経真読の功力(くりき)により、吉野朝側に力を添えようとしていた楠正成の亡霊はついに静まった。それゆえに、脇屋義助(わきやよしすけ)、大館氏明(おおたちうじあきら)をはじめ、土居(どい)、得能(とくのう)に至るまで、あるいは死亡し、あるいは腹を切り、吉野朝側勢力は壊滅状態となってしまったのである。

古代インドの班足王(はんぞくおう)は、仁王経(にんのうきょう)の功徳によって千王(せんおう)を害する事を止め、わが国の楠正成の霊魂は、大般若経講読(こうどく)の結縁(けちえん)により、ついに三毒からの解脱を遂げた。まことにこの経典こそは、鎮護国家のための諸経中の最高、人民を利益(りやく)せしめんがための肝要であるといえよう。

--------

その後、大森盛長は、例の刀を「天下の霊剣」として、詳しい報告を添えて、足利家に贈り届けた。

刀を受け取った足利直義(あしかがただよし)は、

足利直義 ふーん・・・これが、その問題の刀か・・・。

鞘から刀を抜き、しげしげと眺めながらいわく、

足利直義 大森盛長の言ってきたその報告が真実だとしたら・・・これは実にすごい事だよなぁ、いやぁ、まったく・・・。この末法の世にも、そのようなみ仏の偉大なる力が示される事もあるってことだなぁ・・・いやぁ、まったくもって・・・。

直義は、その刀を上部だけ作り直させ、小竹(こたけ)と共に賞玩(しょうがん)したという。(注18)

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(訳者注18)原文には、「上を作り直して、小竹作(こたけつくり)と同じく賞玩せられけるとかや」とあるが、意味がよく分からない。「小竹作」という名前の別の刀と共に、その刀をも大事にした、という意味であろうか?
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世間の声R 伊予の海岸の砂中に埋もれて久しく、

世間の声S かつての姿を失ぉてしもてた、この、いわくありの刀、

世間の声T 大森盛長のその報告と共に、京都にやって来て、

世間の声U 足利直義様の手によって、再びかつての輝かしい姿を取り戻したんやなぁ。

世間の声V ほんまに、ほんまに、不思議な話やなぁ。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月30日 (火)

太平記 現代語訳 22-6 大館氏明の討死と篠塚伊賀守の豪胆

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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千町原(せんちょうがはら:愛媛県・西条市)での決戦の後、

細川頼春(ほそかわよりはる) 敵軍とわが軍、双方の戦死・負傷者は?

細川軍書記 わが方の戦死と負傷、あわせて700余人。敵側の戦死、200余人です。

細川頼春 こっちサイド、そんなに、やられてたのか・・・うーん・・・。

細川軍リーダーA そやけど、わしらの戦ぉた相手は、敵方の精鋭中の精鋭ですやろ? そういう連中らを200人も討ち取ったんやから、こらぁ大戦果と言えますやろぉ。

細川軍リーダーB わしも、そない思います!

細川軍リーダーC まったく同感ですわ。

細川軍リーダーD わしらは、事実上勝ったようなもんですわ。

細川軍リーダーE どんどん、軍を進めましょうや!

細川頼春 よし・・・。では、次の攻撃目標は、大館氏明(おおたちうじあきら)がたてこもる世田城(せたじょう:西条市)だ。

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8月24日早朝、細川軍は現地に到着。まず、城の背後の山上に登って城内を観察した後、1万余騎を7手に分け、城の周囲に展開して各々陣を構えた。

攻撃態勢をこのようにしっかりとかためた後、四方から一斉に城へ押し寄せた。盾を持って接近して城の前の乱杭(らんぐい)や逆茂木(さかもぎ)を除去し、30日間、昼夜ぶっ通しで攻め続けた。

城にこもる大館氏明側の勢いは衰えてきていた。一番頼りにしていた岡部出羽守(おかべでわのかみ)一族40余人が、日比の沖で自害していたし、その他の勇士たちも、千町原の野戦の際に、ほとんど討死にしてしまっていた。

細川軍の猛攻を受け、城内ではもはや、力も食料も尽きてしまい、落城必至の情勢となってきた。

9月3日の暁、意を決した大館氏明主従17騎は、城の一の木戸からうって出て、塀に取り付いていた細川軍500余人を、山麓下まで追い落した後、全員一斉に腹を切り、枕を並べて死んでいった。

防ぎ矢を射ていた他のメンバーたちもこれを見て、「今はもはや、生き続けてもどうしようもない」と覚悟し、細川軍メンバーに襲い掛かって互いに刺し違える者もあり、自らの陣屋に火を放ち、その猛火の中に死んでいく者もあり、目もあてられぬ惨状である。

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このように、次々と自害していく中に、篠塚伊賀守(しのつかいがのかみ)は、城の大手の一の木戸と二の木戸を完全に開き放ち、その奥にただ一人で、立っている。

細川軍メンバーF おぉい、そこのやつ! そんな所に突っ立って、いったいどういうつもりなんじゃぁ?

細川軍メンバーG 降伏するんかい?

篠塚伊賀守 バッキャロゥ!

彼は、紺糸の鎧に鍬型打った兜の緒を締め、4尺3寸の太刀を持ち、8尺余りの棒を脇に挟み、悠然と立っている。大音声でいわく、

篠塚伊賀守 おまえら、いってぇ誰に向かってモノ言ってんのか、全然分かってねぇようだな。とっとと、かかってきやがれぃ! そしたらな、おれがいったいどこの誰だが、ちったぁ思い知るだろうぜ。

細川軍メンバー一同 ・・・。

篠塚伊賀守 畠山重忠(はたけやましげただ)より6代目の子孫にて武蔵(むさし)国の生まれ、新田義貞(にったよしさだ)殿から一騎当千と頼りにしていただいた篠塚伊賀守たぁ、このおれの事よ!

細川軍メンバーF (内心)あやぁ、あいつがあの、篠塚!

細川軍メンバーG (内心)こらまた、えらいヤツと出くわしてもぉた。

篠塚伊賀守 さぁさぁ、おれのこの首、取れるもんなら取ってみて、がっぽり恩賞せしめるがいいぜ! ワハハハ・・・。

篠塚伊賀守は、このように怒声を発しながら、100人ほどの細川軍メンバーらのまっただ中へ突っ込んでいった。

かねてより、彼の武勇と大力の評判を聞いていた上に、今、目の当たりに見るその勇姿と覇気におそれをなして、細川軍側は、誰も彼を遮り止める事ができない。全員左右へサァット退いた後に生じた空間を、篠塚は悠々と駆け抜けていった。

細川軍メンバーF おいおい、あいつは馬にも乗っとらんし、弓矢も持っとらんのやでぇ。しかも、たった一人やないか。よぉ考えたら、そないに恐れる必要も無かったんちゃう?

細川軍メンバーG 接近していったらやられてしまうからな、遠くから矢を射て殺したらえぇんや。

細川軍メンバーH そやけどな、もし反撃してきよったら、どないする?

細川軍メンバーI あっちは徒歩、こっちは馬じゃ。回りを駆けめぐって、あいつを悩まし疲れさせての、そいでもって、やっつけてしまうんじゃ。

細川軍メンバー一同 よぉし!

細川軍メンバー、すなわち、讃岐国(さぬきこく:香川県)の藤原、橘(たちばな)、伴(ばん)の家系の者ら200余騎は、篠塚の後を追った。

篠塚伊賀守 ビンビンビンビン ババントタッタッ バババン ババンバ ドドドバ ビンビン・・・。

篠塚は悠々と、歌を口ずさみながら戦場から去っていく。

細川軍メンバーJ それ、やっつけてしまえー!

篠塚は立ち止まって、例の棒を振り回しながらいわく、

篠塚伊賀守 おいおい、おまえら、おれにあんまり近づくなよ、胴体と頭が、ケンカ別れになっちまうぜぃ・・・フハハハ・・・。さあさあ、最初にこの棒を食らうの、どこのだーれだ? そこのおまえかな、それともそっちのおまえかな? ホイ!ホイ!

棒 ビューン、ビューン。

細川軍メンバーはおそれをなして、蜘蛛の子を散らすようにサッと逃げていく。

今度は、群らがって鏃を揃え、矢を射てみた。

篠塚伊賀守 あのなぁ、ハァー(溜息)、そんなおまえらのヒョロヒョロ矢、いくら射てみたって、俺の鎧には一本も立たねぇやなぁ。それ、ここを射てみろよ、ここ。

篠塚はくるりと向きを変え、細川軍メンバーに背中を向けながら、休息を取りはじめた。細川軍メンバーは、もはや声も出ない。

やがて、篠塚は、再び走り始めた。「あの名高い勇士を、あわよくば討ち取って」との思いに、細川軍メンバーはなおも、彼の後を追う。そのようにして、両者はそのまま6里の道をかけ抜けた。

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その夜半、篠塚伊賀守は、今治浜(いまばりはま:愛媛県・今治市)に到着。

篠塚伊賀守 (内心)さぁてと・・・ここから海を渡って、沖島(おきしま:現在、魚島:愛媛県・越智郡・上島町)へでも逃げるとするか・・・船、ねぇかなぁ・・・。

付近には、細川軍が乗り捨てた船が多数、停泊していた。船上には船員たちだけが残っている。

篠塚伊賀守 (ニヤリ)よぉし。

彼は、鎧を着たまま海に入り、そのまま沖合いの方へ5町ほど泳ぎ(注1)、一隻の船に接近、それにガバッと飛び乗った。

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(訳者注1)「重い鎧を着たまま泳ぐのだから、すごい力の持ち主である」という事を、太平記作者は暗に表現しているのであろう。
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舵取り うわっ!

船頭 あんたはいったい何者じゃぁ?

篠塚伊賀守 まぁまぁ、そんなに騒ぐなってぇ。バケモノが出たわけでもあるめぇ。おれはな、朝廷方の落人(おちうど)、篠塚ってもんよ。急いでこの舟出して、おれを沖島まで送りやがれぃ!

彼は、20余人でもってたぐり下ろす船の碇(いかり)を、一人で楽々と引き上げ、14ないし15尋(ひろ)もある帆柱を、軽々と押し立てた。その後、船室に入り、高枕でいびきをかきはじめた。

舵取り なんちゅう、おそろしいヤツじゃ。

船頭 とても人間わざとは思えんのぉ。

舵取り ここはなぁ、あいつの言う通りにしといた方がえぇんちゃう? さもないと、いったい何されるか分かったもんやないでぇ。

船頭 そうやなぁ。

彼らは篠塚に恐れ入り、順風に帆をかけて沖島まで航行し、彼をそこへ降ろした後、いとまを告げて今治に帰った。

世間の声K 古今東西、様々な勇士の話が残されてはいるんだけどぉ、

世間の声L いやぁ、この篠塚伊賀守ほどすっげぇのは、聞いた事ねぇだが。

世間の声M いやほんま、すごいお人どすなぁ。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月29日 (月)

太平記 現代語訳 22-5 脇屋義助の突然の死去により、瀬戸内の情勢は混沌状態に

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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このような中、誰もが思いもよらぬ事が起った。

伊予の国府(愛媛県・今治市)に滞在していた脇屋義助(わきやよしすけ)が、5月4日、にわかに発病。心身の悩乱深まり、それからわずか7日の後、ついに、帰らぬ人となってしまった。

義助のもとに参集していた吉野朝サイドの人々の心中は、もはや言葉にはつくしがたい。

秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が沙丘(さきゅう:河北省)に崩じた時、その臣下たちは、漢(かん)や楚(そ)がこの機に乗ずる事を悲しみ、三国時代、諸葛孔明(しょかつこうめい)が籌筆駅(ちゅうひつえき:注1)で没したとき、呉(ご)と魏(ぎ)がこれによって勢力を拡大していくことになるであろうことを、蜀(しょく)の人々が憂えた様も、かくのごとくであったろうか。

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(訳者注1)孔明の最期の地は、五丈原である。

おそらく、この時代には、[三国志演義]はまだ未完成状態、あるいは、日本には未伝達状態であったので、太平記作者も[三国志演義]を読む事が不可能であった、だから、このような記述になっているのであろう、と、訳者は考える。[三国志演義]を読んでいれば、諸葛孔明の最期の地を、[五丈原]以外の場所と記述することは、ありえないだろうから。
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吉野朝サイド・メンバーA あぁ・・・脇屋義助殿が亡くなってしまわれるとはなぁ・・・真夜中に灯火が消えてしまった中に、破れた窓から吹き込む雨に顔をザンザン打たれてるような気分だ。

吉野朝サイド・メンバーB 川を渡ってる途中、乗ってる舟が沈没してしまい、一筋の波に浮きつ沈みつ翻弄されてるような気分だよ。

吉野朝サイド・メンバーC こないな事が敵方に知れてしもぉたら、えらい事じゃで。敵はイッキに勢いづきよるけぇのぉ。

吉野朝サイド・メンバーD 脇屋殿の死、とにかく隠せ! 隠し通すんじゃ!

吉野朝サイド・メンバーE こっそり葬礼をすましてしまわんと、いかんのぉ。

吉野朝サイド・メンバーF 悲しみの声もあげたらいかんで。もうなんもかもすべて、我が胸の中にぐっと飲み込んでしもぉてなぁ。

しかし、このような大事件をそうそう隠し通せるものではない。足利尊氏(あしかがたかうじ)より四国地方の管轄を任されていた細川頼春(ほそかわよりはる)は、すぐに、脇屋義助・死去の情報をキャッチした。

細川頼春 (内心)これは、天からおれに与えられたビッグチャンスじゃねぇの! この時を逃さず、そく、行動にうって出よう。司馬仲達(しばちゅうだつ)が諸葛孔明亡き後の蜀の疲弊につけ入って、かの国を滅ぼしたようにな。(注2)

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(訳者注2)蜀が滅びたのは司馬仲達の死後、その子・司馬師・司馬昭・兄弟の全盛時代である。
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頼春は、伊予、讃岐(さぬき:香川県)、阿波(あわ:徳島県)、淡路(あわじ:淡路島)の勢力7,000余騎を率い、伊予・讃岐国境付近の河江城(かわえじょう:愛媛県・川之江市)へ押し寄せ、そこを守る土肥三郎左衛門(とひのさぶろうざえもん)を攻めた。

脇屋義助に従って四国へやってきた長年の新田家恩顧の武士たちは、土居(どい)、得能(とくのう)、合田(あいだ)、二宮(にのみや)、日吉(ひよし)、多田(ただ)、三木(みき)、羽床(はゆか)、三宅(みやけ)、高市(たかいち)家の者らと協力し、金谷経氏(かなやつねうじ)を大将に仰いで軍船500余に搭乗、土肥を援護するために、河江城の沖合いに押し寄せた。

これを聞いて、備後(びんご:広島県東部)の鞆(とも:広島県・福山市)や尾道(おのみち:広島県・尾道市)に船ぞろえしていた、安芸(あき:広島県西部)、周防(すおう:山口県南部)、長門(ながと:山口県北部)の足利側勢力は、軍船1,000余を編成して一斉に発進し、河江城を目指す。

海戦が始まった。両陣営、海上に帆を張り、舷側をたたいて互いにトキの声を上げる。潮流に乗り、風に従いながら。押し合い押し合い、戦いあう。

吉野朝サイド・大館氏明(おおたちうじあきら)の執事・岡部出羽守(おかべでわのかみ)が率いる軍船17隻は、備後の足利サイド・宮兼信(みやかねのぶ)が率いる左右に分かれて漕ぎ並ぶ軍船40余隻の集団の内に突入していった。

岡部らは宮サイドの船に乗り移り、相手と引き組んでは次々と海中に飛び込んでいく。まことにあっぱれな戦いぶりである。

足利サイドの船は大船ぞろい、艫(とも)や舳先(へさき)に櫓(ろ)を高くかいて、上方から矢を散々に射下ろす。吉野朝サイドの船はみな小船ばかり、逆櫓(さかろ)を立てて機動力を駆使し、縦横に走り回る。

足利サイド・メンバー一同 たとえここで死んでしもぉて、海底の魚腹の中に葬られる事になろうとも、

吉野朝サイド・メンバー一同 天下の笑い者になるような事だきゃぁ、絶対にせんでぇ!

双方、気を励まし、一歩も退かずに終日戦い通す。

その後、にわかに強い東風が吹き起こり、吉野朝サイドの船は全て西方に吹き流されてしまい、足利サイドの船は風に乗って伊予へ進んでいった。

--------

夜になって、東風もようやく静まった。

吉野朝サイド・メンバーG あーあ、おれたちゃ、まったくツイてねぇよなぁ。

吉野朝サイド・メンバーH こういう時にゃ、どんな作戦立ててみても、何もかも裏目、裏目に、出てしまいよるんじゃ。

吉野朝サイド・メンバーI ここはいったん退却、船を漕ぎ戻すべきなんかいのぉ・・・。

金谷経氏 おいおい、おまえら、ナニ言ってんだよぉ! 時の運がどうのこうのとか、勝利を得られる可能性が何十パーセントあるだの、どうやって手柄を立てるべきか、なんてぇ話はなぁ、危機に陥ってない、まだまだ余裕のある時に言う事なんだよ。今のおれたち、そんなケッコウな状況かい?

吉野朝サイド・メンバー一同 ・・・。

金谷経氏 おれたちのたった一本の頼みの綱だった脇屋義助殿がなぁ、病に犯されて亡くなってしまったんだよぉ・・・今はもう何もなすすべ無くなっちまった、運の薄いおれたちなんだ。

吉野朝サイド・メンバー一同 ・・・。

金谷経氏 ここで生きながらえてみたところで、これから先、どうなるもんでもねぇだろう? 今は命の限り、とにかくガムシャラに戦い抜くしかねぇだろうが! 運の良し悪しとか戦闘の吉凶を、うんぬんしてる場合じゃねぇだろうが、えぇ?!

吉野朝サイド・メンバー一同 ・・・。

金谷経氏 さぁ、今夜これから、備後の鞆へ押し寄せて、あそこの城、落としてしまおうじゃねぇの! おれたちが気勢を上げさえすりゃ、中国地方の連中らも、加勢に来てくれるだろうよ。そうなったら、中国地方全域だって、制圧できるかもしんねぇぞ!

吉野朝サイド・メンバー一同 よぉし!

彼らはその夜半、備後・鞆城へ押し寄せた。

城の守備は手薄く、城内には30余人がいるのみであった。しばらく防戦してはみたが、全員戦死。

吉野朝サイド・メンバーらはこの勝利に勢いづき、大可島(おおかしま:福山市:注3)を根城にして鞆の浦一帯に充満し、淡路の武島(むしま)や小豆島(しょうどしま)からの援軍の到来を待った。

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(訳者注3)[円福寺](鞆の浦)の境内が、その城址。
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そこに、備後、備中(びっちゅう:岡山県西部)、安芸、周防4か国の足利サイド勢力3,000余騎が、押し寄せてきた。

吉野朝サイドは、大可島を背後に布陣し、東西の宿へ船を漕ぎ寄せては次々と上陸、新手の兵を送りこみながら戦う。足利サイドは、小松寺(こまつでら:愛媛県・西条市)に陣を取って海岸一帯に騎馬武者を送り出し、吉野朝サイドと激戦。

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このようにして10余日が経過、互いに疲れが見えはじめた頃、

吉野朝サイド・メンバーH おぉい、大変やぁ! 伊予の土肥家の連中らの城、落ちてしまったようやでぇ!

吉野朝サイド・メンバーG ナァニィー!

吉野朝サイド・メンバーH 土肥の城を落した後、細川頼春は、大館氏明(おおたちうじあきら)がたてこもる世田城(せたじょう:西条市)に攻めかかっとるっちゅうわ。

吉野朝サイド・メンバーI いよいよオレらも、ネングの収め時かいのぉ・・・。

吉野朝サイド・メンバーJ おんなじ死ぬんじゃったら、この備後じゃのぉて、生まれ故郷の伊予で死にたいもんじゃ。

吉野朝サイド・メンバーK おれもほんと、そう思うわ。

金谷経氏 うーん・・・。

というわけで、彼らは大可島を放棄して、伊予へ退却した。

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伊予へ帰還の後、残存の士卒らが集まってみたところ、総勢2,000余騎。

金谷経氏 あのな、おれにちょっと考えがあるんだが・・・。

吉野朝サイド・メンバー一同 ・・・。

金谷経氏 様々な情報から察するに、細川頼春が動かしてる兵力は相当な数のようだ。そんなの相手に、なまじい役にも立たねぇもんらを集めて戦ってみても、どうにもなりゃしねぇよな。臆病もんらに足引っ張られて、こっちが負けるの、目に見えてらぁな。

吉野朝サイド・メンバー一同 ・・・。

金谷経氏 だからぁ・・・日ごろの戦いぶりが際立ってる一騎当千のもんだけを選りすぐってな、それでもって軍を編成して、敵の大軍に当たるのよ。そうすりゃ、何とか対等に戦えるってもんだろ・・・あわよくば、敵の大将・細川頼春と引っ組んで刺し違えて・・・。

吉野朝サイド・メンバーG で、その人数は?

金谷経氏 そうさなぁ・・・ここにいるのは2,000騎だから、ま、そこから、300騎ほど選んでってとこかぁ。

吉野朝サイド・メンバーH って事なら、敵が伊予に本格的に侵入して来んうちに。

というわけで、金谷経氏を大将に、選抜軍300騎が編成された。

全員、縨(ほろ:注4)にマンダラを書き、とても生きては帰れぬ戦と、あえて十死一生の大凶日を出陣の日に選んだ。

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(訳者注4)矢を防ぐために身にまとった布。
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吉野朝サイド・メンバーL あぁ、大敵・細川軍に対して、これから戦いを挑みよる彼ら、まことにアッパレじゃのぉ。

吉野朝サイド・メンバーM あの古代中国の樊噲(はんかい)、周勃(しゅうぼつ)さえも、これには及ぶまいて。

吉野朝サイド・メンバーN あいつらこそは、まさに義士じゃ。どこまでも、義の志に生きんとする、勇士たちじゃ。

吉野朝サイド・メンバーO あぁ、なんちゅう立派なヤツラよのぉ。(涙)

吉野朝サイド・メンバーP 哀れじゃ・・・見てたら涙、出てきてまう。(涙)

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細川頼春も、7,000余騎を率いて出陣。「吉野朝サイド、すでに出陣せり」との報に、野戦にて一気に勝敗を決しようと、千町原(せんちょうがはら:西条市)に進んだ。

前方を見渡せば、広々とした野原の中に中黒紋(なかぐろもん)の旗が一本、かすかな風に飛揚している。その旗の下に展開するは、わずかに300騎。

細川頼春 おやぁ・・・敵側はたったあれだけの兵力か・・・伊予国の敵勢力、もっと数が多いはずだがなぁ。

細川軍リーダー一同 ・・・。

細川頼春 ・・・なるほど、敵側の思惑(おもわく)、読めたぞ。あれは、精鋭中の精鋭だけを選んで組んだ軍だな。わが方の中央を突破して、おれに接近して組み付いて、一気に勝敗を決めてしまおうってコンタンにちがいない。

細川頼春 と、いうことであればだな、決死の覚悟を固めた小勢を、一気に討ち取ろうとしてはいかんのだよ。意外にてこずってしまって、気がついてみたら、こっちの命が無くなってた、なんて事にもなりかねないから。

細川頼春 いいか、みんな、よく聞け!

細川軍リーダー一同 ははっ!

細川頼春 敵がわが陣を破らんがため突撃をしかけてきたならばな、あまり抵抗せずに、そのまま破らせておけ。その上で、わが陣への突入をし終えたタイミングを見計らって、後方を塞いで敵の退路を絶て。横あいから馬を寄せられた時には、相手にならずにわざと逃げ回り、敵の馬の足を疲れさせろ。太刀を抜いての一騎討ちで攻め掛かってきたら、馬に鞭打って走らせながら、相手のスキを窺い、振り返りざま、矢を射て相手を落とせ。 いいな!

細川軍リーダー一同 ははっ!

細川頼春 敵に疲れが見えてきたら、すぐに攻撃部隊を交替させて、新手を戦線に投入して、敵を包囲しろ。敵に近づきすぎて組まれないように注意しろよ。退却する時にも、互いに助け合いながら退却するんだ、味方を見放して一目散に退却てな事、絶対にしてはいかん! わかったな!

細川軍リーダー一同 ははっ!

細川頼春 敵と味方の兵力を比べれば、あっちとこっちは、1対10! 敵をとことん悩まし続け、敵が疲れてきた頃合いを見計らって、一気に攻撃をかける、これで確実に、敵は全滅だ!

このように、詳細な指示を下した後、細川頼春は旗の前に馬を進め、吉野朝サイド陣の方に向かってしずしずと前進し始めた。

金谷経氏 敵が動き始めた。よぉーし、行くぞぉー!

吉野朝サイド・選抜軍メンバー一同 ウオー!

両軍、一斉に馬に鞭を入れた。まずは矢の一斉射撃。

吉野朝サイド・選抜軍メンバーの放った矢 ビュンビュンビュンビュン、ビシビシビシビシ・・・・。

細川軍・メンバーの放った矢 ビシバシビシバシ、ビュンビュンヒュンヒュン・・・。

吉野朝サイド・選抜軍メンバーは全員、弓矢を投げ捨て、一斉に抜刀。

吉野朝サイド・選抜軍メンバーの太刀 シャキン、シャキーン、シャイーン・・・(太刀を抜く音)

細川サイドの密集大軍のまっただ中へ突入していく、吉野朝サイド・選抜軍メンバー一同。

吉野朝サイド・選抜軍メンバー一同 ウオー! ウオー! ウオー! ウオー!・・・。

細川頼春の周辺をかためていた讃岐藤原氏(さぬきふじわらし)流の者ら500余騎は、事前の頼春の指示の通りに、左右へさっと分かれて道を開けた。その中に大将・細川頼春がいるとは思いも寄らず、吉野朝サイド・選抜軍300騎は、そのまま後方へツッと駆け抜け、細川軍第2陣に襲い掛かった。

第2陣は、三木(みき:香川県・木田郡・三木町)、坂西(ばんせい:徳島県・板野郡・板野町)、坂東(ばんとう:板野町-藍住町-北島町-松茂町-鳴門市-徳島市)の武士ら700余騎で構成されていた。兜のシコロを傾け、馬を立たせて静かに待機していたが、勇猛強力の吉野朝サイド・選抜軍に一たまりもなく懸け散らされ、南方の山の峰上へサァット退いていく。

金谷経氏 なんだなんだぁ、細川軍には、まともに戦えるヤツ、一人もいねぇのかよぉ!

吉野朝サイド・選抜軍は、続けて細川軍第3陣に襲い掛かった。これを構成するは、詫間(たくま)、香西(こうさい)の他、橘(たちばな)氏流の者たちと小笠原一族、合計2,000余騎。

金谷経氏 (内心)きっとこの中に、細川頼春が。

吉野朝サイド・選抜軍は、細川軍第3陣の中をサット懸け破り、取って返し、引き組んでは刺し違え、落ち重なっては首を取られ。

このように、一歩も退かずに戦い続けるうちに、決死の300人は一人、また一人と、馬蹄の下に討ち死にし、今はわずか17騎が残るだけとなってしまった。

そのメンバーは以下の通り・・・まず、大将の金谷経氏、そして、河野通郷(こうのみちさと)、得能弾正(とくのうだんじょう)、日吉大蔵左衛門(ひよしおおくらさえもん)、杉原興一(すぎはらこういち)、富田六郎(とんだろくろう)、高市興三左衛門(たかいちよざえもん)、土居備中守(どいびっちゅうのかみ)、浅海六郎(あさみろくろう)等。

いずれも一騎当千のツワモノ、自ら敵に当たる事10余回、陣を破る事6回、全員、身体のどこかに何らかの負傷を負い、体力は、もはや限界に達してしまっていた。

全員、一個所に馬をうち寄せて、

吉野朝サイド・選抜軍メンバーQ うーん、まいったのぉ。いったいどこにいる誰が、敵の大将・細川頼春なんか、さっぱり分からんがの。

吉野朝サイド・選抜軍メンバーR 馬か鎧か、目印になるようなもんでもありゃ、何とか見分けがつくんじゃが・・・。

吉野朝サイド・選抜軍メンバーS このままじゃ、わしらぁ犬死にやでぇ。大した事もねぇ、方々からの寄せ集めの連中らと戦ぉて討死にしてみても、つまらんがの。

金谷経氏 よし、こうなったら、敵陣の一角を破って、どこかに落ちるとしよう。

17騎は再び馬の鼻を返し、細川軍7,000余騎のど真ん中を懸け破り、備後を目指して落ちていった。

このように、目を見張らんばかりの立派な戦いぶりを展開した、吉野朝サイド・選抜軍であった。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月28日 (日)

太平記 現代語訳 22-4 脇屋義助、伊予国へ

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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かくして、四国への通路はついに開き、京都朝年号・暦応3年4月1日(注1)、脇屋義助(わきやよしすけ)は、中国四国方面軍大将の任命を受け、伊予国(いよこく:愛媛県)へ向かった。

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(訳者注1)
[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館]の「注七」(104P)には、下記のようにある。

 「九四ページ注二に記したように、義助は暦応四年中に美濃から吉野へ移っているから、ここは史実では暦応五年の出来事と思われる。」

[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店] の「補注一一」(484P)には、下記のようにある。

 「忽那一族軍忠次第によれば、興国三年、伊予国に於て義助に兵粮を供している。」

よって、義助が伊予に来た、ということは史実としてよいであろう。
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長年、義助につき従ってきた武士の数は多かったが、越前(えちぜん:福井県東部)と美濃(みの:岐阜県南部)でのあいつぐ敗退の中に、彼の行くえを知らないままに、山林の中に潜行したり、身に及ぶ危難を遁れんがために遠隔の地に去ってしまった者が多数あった。それゆえ、吉野にいる脇屋義助のもとに馳せ参じてきた武士の数は500騎にも足らず、といった状態であった。

脇屋義助 (内心)これから四国へ行こうってのに、おれが連れていけるのはたった500騎足らずか・・・でもまぁ、いいさ、四国や中国地方には、わが方に心を通じている連中ら、大勢いるんだもんな。おれがあっちに行きさえすりゃぁ、後は何とかなるだろうってもんさ。とにかく、一日も早く、四国へ行こう。

脇屋義助らは、未明に吉野を出発、やがて紀伊国(きいこく:和歌山県)へ入った。

脇屋義助 (内心)これから行く先の途中に、弘法大師(こうぼうだいし)が開かれた、あの高野山金剛峯寺(こうやさんこんごうぶじ)があるんだよなぁ・・・。

脇屋義助 (内心)以前から、あそこにお参りしたいなぁって、思ってた。あの聖地の土を一度は踏んで、来世に仏と遭って救われるための縁をつけておきたいなぁって、思ってた。

脇屋義助 (内心)寄って行こうかなぁ・・・こんな旅のついでにでも行っておかないと、これから先、いつお参りできるか分からん・・・よし、寄って行こう!

義助は、高野山に詣でてそこに3日間逗留し、方々の坊や谷を参拝して回った。

脇屋義助 (内心)あぁ、やっぱり来てよかった・・・ほんと、ここは、すばらしい所だなぁ。前々から人の話に聞くばかりで、いったいどんなすばらしい所なんかなぁって、あれやこれやと想像してたんだけど・・・やっぱし、百聞は一見にしかずだぁ、おれの想像をはるかに上回るような、尊い場所だったよ。

大塔の周囲には、あたかも蓮華の花弁のごとくに八つの峰がそびえ、その上には数多(あまた)の仏の座のごとく、白雲が浮かんでいる。

修行僧たちは、来るべき弥勒菩薩(みろくぼさつ)出現の時に自らが遭遇することを期して、庵の扉を閉ざし、心中の煩悩を断ち切る修行に徹している。

こちらには、諸衆を集めて仏法を説く僧あり、あちらには、一心不乱に念仏を唱える僧あり。

脇屋義助 あぁっ、これがあの有名な、「三鈷(さんこ)の松」か。弘法大師が中国から帰国の途上、船上から投げた三鈷(注2)が、高野山まで飛んできてここに落ち、そこに生えたのがこの松だって言うんだよなぁ。

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(訳者注2)真言密教で使う法具に「金剛杵(こんごうしょ)」というものがある。仏教辞典(大文館書店刊)には、以下のような解説されている。

金剛杵 五鈷杵(ごこしょ)ともいう。僧侶が御修法の時用うる道具の一首で、多く真言宗で使用する。鉄または銅をもって作り、その両端の独頭なるを独鈷(どっこ)、三股なるを三鈷、五股なるを五鈷という。杵はインドの武器、金剛杵は菩提心(ぼだいしん)の義であるから、これを所持せざる時は仏道修行を完うしがたしという。
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脇屋義助 (内心)ここが、弘法大師の肖像画がまつられているという、御影堂(みえいどう)かぁ。過去の何度かの火災にも、このお堂は無事だったっていうよなぁ・・・あ、軒の下に少し焦げ跡があるじゃない・・・もしかするとあれが、その火災の名残なのかねぇ。

脇屋義助 (内心)窓からかすかに煙が流れ出てる・・・あぁ、いいにおいだ・・・中で香を薫じてんだなぁ。

鈴 リーン・・・リーン・・・。

脇屋義助 (内心)あ、中から鈴の音も聞こえてくるぞ。朝霧の中にこもるあの音を聞いてると、なんだか、しみじみとした気持ちになってくるなぁ・・・。

脇屋義助 (内心)ここが昔、あの瀧口入道(たきぐちにゅうどう:注3)が住んでた庵の跡か・・・。

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(訳者注3)「平家物語・巻第10・横笛」に登場の斎藤瀧口時頼。
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脇屋義助 (内心)あれからもう相当の年月がたってしまってんだもんなぁ・・・もう板間もすっかり古びてしまって苔むしてるねぇ・・・屋根もボロボロになってしまって、破れ目から月光が差し込んでるよ。

脇屋義助 (内心)あぁ、ここが昔、西行法師(さいぎょうほうし:注4)が構えてた庵の跡かぁ。

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(訳者注4)平安末期から鎌倉時代にかけての歌人。彼の和歌は「山家集」にまとめられている。
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脇屋義助 おお、庭に散り敷く花びら、誰も掃いたりせずに、そのままにしてあるじゃぁないか・・・こりゃぁなかなか風流なもんだぜ、西行法師のご希望通りにってわけかい、ははは・・・。(注5)

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(訳者注5)花の雪の 庭に積もるに 跡(あと)付けじ 門(かど)なき宿(やど)と 言い散らさせて(西行 山家集 下 百首)

(現代語訳)踏ませへんぞ 庭に積もった 花の雪 門の無い家やと 言いふらしてでも

「花の雪」は「雪のように積もった花」の意。これを誰にも踏ませたくない、「ここは門がない家ですから、庭に足を踏み入れる事は不可能ですよ」と言いふらしてでも、散り敷いたこの美しい花びらをそっとしておきたい、という意。
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脇屋義助 (内心)こうやって、高野山中の方々の霊場や静寂な場所を見て回ってると、おれにもなんだか分かるような気がするなぁ、「出家するのであれば、高野山でしたい」っていう、あの平維盛(たいらのこれもり)の気持ち。(注6)

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(訳者注6)平家物語・巻第10の「横笛」~「維盛出家」を参照。
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脇屋義助 (内心)できる事なら、もっと長くこの尊い霊地にいたいよ。これまで憂き世に生きてきた間に、すっかり汚れちまった自分の心の洗濯、ここに腰を落ち着けて、じっくりとしてみたいもんだ。

脇屋義助 (内心)でもなぁ、おれはこれから戦場に赴く身なんだから・・・そんな事言ってらんねぇやなぁ。

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やがて、義助らは高野山を出発して紀州路に入り、千里浜(せんりはま:和歌山県・日高郡・みなべ町)を過ぎて、田辺宿(たなべじゅく:和歌山県・田辺市)に逗留し、渡海の船を準備した。

熊野新宮(くまののしんぐう:和歌山県・新宮市)の長・湛誉(たんよ)、湯浅定仏(ゆあさじょうぶつ)、山本判官(やまもとほうがん)、東四郎(とうしろう)、西四郎(さいしろう)以下の熊野党(くまのとう)の者らが、馬、鎧、弓矢、太刀、長刀、食料などを、我も我もと供出してきたので、脇屋軍の軍資は非常に豊かになった。

やがて順風となり、熊野党は軍船300余を仕立てて、彼らを淡路(あわじ)の武島(むしま)へ送り届けた。

ここには、もともと吉野朝側についていた安間(あま)、志知(しうち)、小笠原(おがさわら)一族の者らが城を構えており、彼らは、様々の酒肴や贈り物をもって、義助らをもてなした。

そして彼らは、300余の船でもって、義助らを備前の小豆島(しょうどしま)に送った。

ここは昨年より、吉野朝側へ寝返った佐々木信胤(ささきのぶたね)と梶原三郎(かじわらさぶろう)が支配して、島を挙げて親吉野朝勢力になっていた。彼らは、大きな軍船多数を仕立てて、義助らの四国への渡海を助けた。

4月23日、脇屋義助らは、伊予国・今治(いまばり:愛媛県・今治市)に到着、ついに四国の土を踏んだ。

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伊予には、吉野朝側勢力が多数いた。

まずその筆頭は、あの大館氏明(おおたちうじあきら)である。彼は、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)が足利側の攻勢に屈して比叡山から京都へ還った時、新田義貞(にったよしさだ)のもとを去り、先帝と行動を共にしたのであった。

当時、大館氏明がいったい何を考えていたのか、今となっては分からない。とにかく彼はその後、足利側に降伏し、足利尊氏の支配下に入っていたのだが、「後醍醐先帝、京都を脱出、吉野へ!」とのニュースを聞くと、いちはやく吉野へ馳せ参じ、先帝のおぼえめでたく、伊予国の守護に任命され、その後、伊予に居住する身となっていた。

また、四条隆資(しじょうたかすけ)の子息・有資(ありすけ)も、吉野朝年号・延元2年より伊予国司として、そこに滞在していた。

さらに、土居(どい)、得能(とくのう)、土肥(とひ)、河田(かわだ)、武市(たけいち)、日吉(ひよし)一族らも、長年の吉野朝側勢力として、讃岐国(さぬきこく:香川県)の足利側勢力の西方への進出を食い止め、土佐国(とさこく:高知県)方面も畑(はた:高知県幡多郡)を境として伊予国内の地盤を固めていた。

「大将・脇屋義助、四国に到着!」という事で、彼らはますます勢いに乗った。まさに、龍が水を得、虎が山に入ったかのごとしである。

かくして、吉野朝側勢力の威勢は近隣を圧しはじめ、四国は言うに及ばず、備前、備後(びんご:広島県東部)、安芸(あき:広島県西部)、周防(すおう:山口県南部)、さらには九州の方までも、みなみな口をそろえて、

中国地方の武士たち こりゃぁまたまた、エライ事になってきよりましたでぇ!

伊予国には、足利サイド勢力の城はわずか10余箇所しかなかったのだが、

伊予の吉野朝側勢力メンバーA その城の連中ら、わしらがまだひとっつも攻めもせんうちに、みなビビリきってしもぉてのぉ、

伊予の吉野朝側勢力メンバーB カタッパシから城捨てて、逃げだしてしまいよったみたいやでぇ。

伊予の吉野朝側勢力メンバーC こうなったら、わしらの四国全域制圧、もう時間の問題じゃのぉ。

伊予の吉野朝側勢力メンバーD あったりまえじゃ! わしらの進出を食いとめれるもんなんか、いったいどこにおると言うんじゃぁ?

伊予の吉野朝勢力メンバーE もうとにかく、イケイケのウハウハじゃぁ!

伊予の吉野朝側勢力メンバー一同 ウワッハッハッハ・・・。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月27日 (土)

太平記 現代語訳 22-3 佐々木信胤の寝返りにより、瀬戸内の制海権、吉野朝の手中に

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このような所に、伊予国(いよこく:愛媛県)より特使が吉野朝廷へやってきていわく、

伊予よりの特使 急ぎ、大将としてふさわしいような人を一人選んで、伊予へ派遣してくださりませ。わしら、その人の下について、朝廷の為に忠義の戦しますけん。

検討の結果、脇屋義助(わきやよしすけ)を伊予へ、ということになった。

しかし、吉野から伊予への道中は、海上も陸上もすべて足利側によって制圧されている。いったいどうやって義助を伊予へ送りこんだものやらと、様々に検討を重ねている所へ、今度は、備前国(びぜんこく:岡山県東部)の住人・佐々木信胤(ささきのぶたね)からの早馬がやってきた。

佐々木信胤よりの使者 先月23日、主・佐々木信胤は小豆島(しょうどしま)に押し渡り、忠義の戦に決起しましたところ、さっそく備前国中の忠誠心の厚いモンらが馳せ集まってきよりましてなぁ、そいでもって、足利側の連中らを攻めて、少々痛い目を見せてやりましたわ。でもって、瀬戸内海の制海権を手中に収めましてな、京都への海上輸送ルートを完全にストップしてまいましたんですわ。こないなわけで、こっち方面では非常に順調に事が運んどりますけぇのぉ、急ぎ、大将クラスの人を、わしらのとこへ送り込んで、強力にテコ入れしてもらえませんかいのぉ。

公卿A うぉー! やったぁ!

公卿B いったいどないしたら脇屋義助を伊予へ送れるんか、こないだからそれがほんま、悩みの種やったんですがねぇ。

公卿C イッキに、その道が開けましたなぁ。

公卿D 天運はついに、我らの方にめぐり来たり、という事ですかいなぁ。

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そもそも、この佐々木信胤という人は、もとはといえば、足利サイドの強力メンバーであった。

去る建武(けんむ)年間の後醍醐天皇(ごだいごてんのう)対足利勢力の権力闘争の初期に、信胤は、細川定禅(ほそかわじょうぜん)に協力して、備前、備中(びっちゅう:岡山県西部)両国を制圧し、足利尊氏(あしかがたかうじ)に対する輝かしい忠功を打ち立てたのであった。

そんな彼が、いったいまたどういうわけで、今にわかに、吉野朝側に寝返りして反足利の兵を起こしたのか? その原因を探ってみれば、ここにおいてもまたもや例の、「美女起因性国家危機症候群」に行き着くのである。(注1)

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(訳者注1)原文では、「事の根源を尋ぬれば、此比(このころ)天下に禍をなす例の傾城故とぞ申しける。」
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当時、菊亭(きくてい)家に、「御妻(おさい:注2)」という名前の女房がいた。

容貌もスタイルもバツグン、家柄もなかなかよくてまことに艶やか、という女性であった。

しかしながら、この人は元来移り気な性格で、とかく浮気っぽい心の持ち主であったようである。当然の事ながら、彼女に言い寄ってくる男の数は非常に多かったのだが・・・。

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(訳者注2)これより後の部分の文脈から察するに、「誰かの妻」という意味ではなく、「御妻」という名前の女性だったのだろう。ただし、この話が史実かどうかは例によって不明。ゆえに、この女性の実在についても真偽のほどは不明。
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御妻 (内心)あーあ・・・うちに接近してくる男は、そらまぁ、星の数ほどおるんやぁ。そやけどねぇ、そのぉ・・・なんちゅうたらえぇんかなぁ・・・どの男を見ても、イマイチ真剣に入れこめへんのよねぇ。「うちの全てをささげるのは、この男(ひと)!」ちゅうような、なんか確信みたいなもんがねぇ、なかなか持てへんのよ。うち、どないしたらえぇんかしら・・・。

とは言うものの、男性がたやすく入り込む事のできない御殿の深奥で生活する彼女のもとへ、美しい簾の隙間から、いかようにして入り込んだのであろうか、ついに彼女は、ある男と結ばれた。その男こそは、今の世に権勢肩を並べる人も無い、あの高(こう)一族の一員、高師秋(こうのもろあき)であった。

人知れず始まった二人の仲、最初のうちは、人目を忍んで会っていた。しかし、募る男女の思いは、何物をもってしても到底塞き止める事はできない。次第に、人目も憚らずに逢瀬を重ねるようになっていき、彼女も、菊亭よりも実家で過ごす時間の方がどんどん多くなっていく。

ついに、主の菊亭左大臣(きくていさだいじん)も、彼女と高師秋との仲に気付き、

菊亭左大臣 そうやなぁ・・・二人に注がれる世間の目という事もあるしなぁ・・・御妻としても、毎日夜が更けるのを待って、それからようやっと、わしの邸宅から退出するっちゅうのんも、なかなかつらいもんがあるやろぉ。えぇんやでぇ、時々は、もっと早い時間に退出してもなぁ。

このように、主からの理解と許可を得てからは、二人の仲はいよいよ深まって行った。

ところが、ここに問題が起った。それは、高師秋が鎌倉にいた頃に結婚した妻である。

師秋とこの妻との間には、子供もたくさん生まれていた。関東地方で生まれ育った彼女にしてみれば、夫が自分以外の女性と情を通じているというのは、到底許し難い。嫉妬にかられて激情の余り、あの源氏物語の「雨夜の品定め・頭中将の話」の中にある、「夫の指に食いついて」というほどのレベルの事が、しばしば起こった。

「じつにけしからん夫である」と思いながらも、子供たちの事を考えれば、離婚に踏み切る事もできない、仕方なくそのままの状態が続いていたのだが、ここに転機がやってきた。

高師秋 ふーん・・・「高師秋、伊勢国の守護に任ず」ときたかぁ・・・。いよいよ、首都を離れての転勤だなぁ・・・。

高師秋 こうなったら、二人の妻を両方とも、任地に連れて行くとしよう。(注3)

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(訳者注3)当時の辞書にはどうやら、「単身赴任」という言葉は存在しなかったようである。子供の受験や教育といったような問題も無かった時代なのだから、当然といえば当然かも。
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というわけで、師秋はまず、鎌倉居住時代に結ばれた妻を任地に送った。そして、御妻をも同様に任地へ送り、と思うのだが、かんじんの御妻の方が、なかなかその気になってくれない。

御妻 うーん・・・そうかてぇ・・・今日急に言われて、明日、伊勢へ行くやなんて・・・そないな事できますかいなぁ・・・いろいろと心の準備とかも、せんならんしぃ・・・。

このように言われると、ますます彼女への思いが募る師秋であった。

高師秋 おまえがいない人生なんて、おれにはもう、考えられない。おまえが側にいてくれないと、おれはもう生きていけない。とにかく、おれといっしょに伊勢へ行くんだ!

御妻 うーん・・・。

その後3日間、押し問答を繰り返したあげくに、ようやく、

御妻 あーあ・・・わかりました・・・伊勢でもどこへでも、行きますわいな。

高師秋 よーしよし!

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その夜半、師秋は、チャーターした輿と共に、御妻の住いに向かった。

到着するやいなや、彼女の居室の出口から輿までの間に、几帳(きちょう)を左右に立てて目隠し通路を作ってやった。

やがて、彼女は輿に乗り込んだ。

高師秋 (内心)うー、うー! これから彼女と二人、伊勢への旅が始まるぅー! あぁ、いいな、いいな、アツーイアツーイカップルのロマンチックトラベル伊勢ーっ! あぁ、伊勢へついたら二人でいっしょに、どこへ行こうかなぁ・・・まずはやっぱし、伊勢神宮に参拝だろうな、そしてその夜は、双見(ふたみ)が浦に一泊・・・ウギュー! 翌朝は、鳥羽(とば)へ向かう。あそこの海の眺めもなかなかいいらしいぞ。いやいや、それよりも賢島(かしこじま)へ直行、海に沈む夕日を、二人で肩を組みつつ、丘の上から眺めるかぁ・・・。ウギュー、もう、たまらん!

心は躍動の上に躍動、道中一回も休憩を取らずに、彼らは伊勢への旅路をたどっていく・・・。

 まだ夜を籠(こめ)て 逢坂(おおさか:滋賀県・大津市)の
 関の岩かど 踏(ふみ)鳴(なら)し(注4)
 ゆう(木綿)付鳥(つけどり:注5)に 被送(おくられ)て
 水の上なる 粟津野(あわづの:大津市)の(注6)
 露分行けば にほの海(注7)
 流(ながれ)の末の 河となる
 勢多(せた)の橋を 打(うち)渡れば(注8)
 衣手(ころもで)の 田上(たながみ)河の 朝風に(注9)
 比良(ひら)の峯わたし 吹(ふき)来(きたっ)て
 輿(こし)の簾(すだれ)を 吹(ふき)揚(あげ)たり

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(訳者注4)「百人一首」にもある清少納言の歌に、

 夜(よ)をこめて 鳥のそら音(ね)は はかるとも 世(よ)に逢坂(おうさか)の 関(せき)は許さじ

(現代語訳)夜通(よどお)しで 鶏(とり)の鳴きマネ してみても ウチの逢坂の 関は開(あ)かんで

史記・孟嘗君(もうしょうくん)列伝中に、以下のような話がある。

秦国を脱出せんとする孟嘗君一行の前に立ち塞がるは、函谷関(かんこくかん)。鶏が鳴いてからでないと、関所の門は開かない。背後からは追手が迫る。その時、孟嘗君の食客中に、鶏の鳴きまねの名人あり。その鳴きまねにつられて、関所中の鶏が一斉に鳴き出し、定刻よりも早く門は開き、孟嘗君らは関所を通過。

この故事をベースにして、清少納言は、「アナタは、うまい事を言うて、うちに言い寄ろうっちゅうコンタンなんやろうけどね、ダマシの手を使ぉて関所の門をこじ開けようっちゅうような、そういうヤラシイ事は、やめといた方がえぇわよ! 函谷関ならいざしらず、うちの心中の「逢坂の関所」の門は、そないな事では、絶対に開かへんのやからねぇ。」との意を込めて、この歌を詠んだのであろう。

(訳者注5)木綿(ゆう)を鶏につけて、逢坂の関で祓いをした。

(訳者注6)「粟津」という地名の「粟(あわ)」と、「泡(あわ)(水上の)」とをかけてある。

(訳者注7)古来より琵琶湖は、「にほの海」とも呼ばれた。

(訳者注8)琵琶湖の南岸から流れ出る水は「瀬田川」となり、下流に下るにつれて、「宇治川」、「淀川」と名前を変え、最後は大阪湾に注ぐ。その瀬田川にかかる橋が「瀬田橋」、別名「瀬田の唐橋(からはし)」である。東海道新幹線は、京都・米原間においてこの瀬田川をまたいでいるので、その車窓からこの川を望む事が可能である(ただし、列車は一瞬の中に、川を越えてしまう。)

(訳者注9)「田上」という地名の「田(た)」と、「衣手」の「手(た)」とをかけてある。衣手とは袖の事。

百人一首にもある光孝天皇の歌(古今和歌集 巻第一 春歌上)に

 仁和(にんな)のみかど(光孝天皇)、みこ(皇子)におましましける時に、人にわかな(若菜)たまひ(賜い)ける御うた

 きみがため 春の野にいでて わかなつむ 我(わが)衣手(ころもで)に 雪はふ(降)りつつ
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舞い上がった簾の奥を一目見た師秋は、ビックリ仰天。 

高師秋 アーッ!

なんと、輿の中には、いとしの御妻とは似ても似つかない女性が! 年の程80歳ほどの老尼がちょこんと座り、衣服の裾を輿の外に出している。額にはしわが寄り、口には歯が一本もなく、腰は二重に曲がっている。

高師秋 うー! おまえはいったい何者だぁ! うん、これはきっと、どこぞの古ダヌキか、古ギツネが化けてやがんだな。おぉい、誰か、こいつの鼻の前に、煙を吹きかけていぶしてみろ、きっと正体を現すぞ! いやいや、それよりも、ヒキメ鏃でこいつを射て、魔除けをする方がいいかもな!

尼 (泣きながら)いえいえ、あのな、あのな、うちは決してな、決して、バケモノなんかではありません。あの、あの、うちはなぁ、そのぉ、あの、以前から菊亭家へな、通うておった者でございますよ。あのな、あのな、昨日、御妻の局さまがな、うちをお招きにならはりましてな、ならはりましてな・・・。

高師秋 (尼を睨みつけながら)・・・。

尼 「あんた、京都でわびしぃ暮してても、しょうがないやおへんか。どうや、うちといっしょに、伊勢へ行きまへんか? 伊勢で、のんびり暮らしなはれ。」てなこと、言わはるもんやからな、そいで、あの、あの、うちも、その気になりましてな・・・。

高師秋 (尼を睨みつけながら)・・・。

尼 うちも最近ほんま、めっきり気ぃ弱ぁなってしもてましてな、「誰か誘ぉてくれはる人がいはったら、その人についていってもえぇわなぁ」てな事な、思ぉとりましたんでな、な、「こら、嬉しい事言うてくれはりますやん」てな事でな、な、ほいで、なぁも考えんとからにな、この輿に、ホイホイ乗ったんどすぅ。

高師秋 ウーン・・・御妻めに、まんまと出し抜かれてしまったか! えぇい! こうなったら、菊亭家に押し入って、あいつをかっさらってきてやる。おれ一人では絶対に、伊勢には行かぁん!

師秋は、瀬田橋のたもとに尼をうち捨て、空輿をかかせて、京都へ戻った。

元より、思慮も何も無い高師秋である、菊亭家に押し寄せ、四方の門を塞いで、邸内くまなく御妻を探しにかかった。

菊亭家の人々は、上から下まで皆、「いったいこれは、なにごとが起ったんや!」とあわて騒ぐ。しかし、御妻の姿はどこにも無い。

彼女の居室近くの局にいた童女を捕え、責め問いただしたところ、

童女 (恐怖に怯えながら)あのな、あのな・・・あの人のとこへはな、よぉけ男が通うてきてたからな・・・あの、あの・・・いったいどこに行かはったんか、うちにはな、な、分からしまへん・・・最近はとりわけ、とりわけね、佐々木信胤とかいう人とねんごろになってはったようや・・・人目もはばからんとからにね・・・えぇ、えぇ!

師秋は、怒り心頭、

高師秋 よーし! ならば、佐々木の家へ押しかけてやる! あいつめぇ、オレの妻に手を出しやがって! 血祭りにしてくれるわ!

これを聞いた佐々木信胤は、

佐々木信胤 (内心)いかん・・・こりゃ、取り返しのつかない失敗をしでかしちまったぞ・・・。オレの命は風前の灯火、身を隠す場所なんか、もうどこにもありゃしない。こうなったらもう、足利サイドへの長年の粉骨砕身(ふんこつさいしん)の忠功も何もかも捨て、吉野を頼っていくしかない。

このようなわけで、佐々木信胤は、吉野朝側へ寝返りを打ったのである。

 折り取ったとて 油断するなよ 山桜 さそう嵐に 散るかもしれんで

(原文)折(おり)得ても 心許すな 山櫻 さそふ嵐に 散(ちり)もこそすれ

人心まさに、花のごとくはかなしと、今さらのごとく思い知られる、なんともあさましい事件であった。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月26日 (金)

太平記 現代語訳 22-2 脇屋義助、吉野朝廷へ参内

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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脇屋義助(わきやよしすけ)はその後、美濃国(みのこく:岐阜県南部)の根尾(ねお:岐阜県・本巣市)城にたてこもっていたが、去る9月18日(注1)、土岐頼遠(ときよりとう)と土岐頼康(ときよりやす)に城を攻め落されてしまった。

義助は郎等73人と共に城を脱出し、人目を忍びながら南下して、熱田大宮司季氏(あつたのだいぐうじすえうじ)が守っている尾張国(おわりこく:愛知県西部)の羽豆崎城(はづがさきじょう:愛知県・知多郡・南知多町)へ逃げ込んだ。

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(訳者注1)
[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店] の「補注六」(483P)には、下記のようにある。

 「・・・義助は興国元年(暦応三年)九月二十三日平葺城を逃れた(得江文書)から、興国二年(暦応四年)と見ねばならぬ。但し、ここの九月十八日は信じ得るか否かは疑わしい。」

[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館]の「注一一」(94P)には、下記のようにある。

 「暦応四年(一三四一)であろう。正確な日時は史料に見えない。暦応三年九月二十三日に義助のこもる越前国平葺陣が破れて以来(天野文書、得江文書)、義助の動静はほとんど未詳。」
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10余日間ここに逗留しながら、義助は敗軍の兵を集めた後、伊勢(いせ:三重県中部)、伊賀(いが:三重県北西部)を経て、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)へたどりついた。

義助は直ちに、御所へ参内し、後村上天皇(ごむらかみてんのう)の拝謁(はいえつ)を賜った。(注2)

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(訳者注2)
上記・訳者注1に引用した内容によれば、脇屋義助が吉野へ来たのは、1341年である。後村上天皇
は、1328年生まれだから、この時はまだ十代前半の年齢である。よって、以下に記したような言葉を、後村上天皇が脇屋義助に対して発しえたかどうか、疑わしいのだが、ここは、太平記の記述に沿うように、翻訳してみた。

当時の人々の成熟(大人になっていく)のスピードは、現代の我々が想像するよりも、はるかに速かったのかもしれない。
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後村上天皇 おぉ、義助・・・よぉ来た・・・。さ、さ、そないに遠くにいんとからに、もっと近ぉ寄れ、さ、さ、もっとこっちへ、こっちへ!

脇屋義助 ハハーッ!

後村上天皇 この5、6年間というもの、義助、おまえは、北陸地方で忠節を尽くして、ほんまによぉ、戦い抜いてくれたなぁ。おまえのこの忠功、抜群やで!

天皇は、北陸地方での新田一族の無念の敗北には、全く触れない。

後村上天皇 それにしてもな、よぉ今日まで生きながらえて、ここへ来てくれたもんや・・・。これも、君臣水魚(くんしんすいぎょ)の忠徳(ちゅうとく)を、再び天下に示せ、との、天のおぼしめしなんやろぉなぁ・・・。義助、おまえの顔見る事できて、ほんまに嬉しいぞ。(涙)

脇屋義助 陛下・・・。(涙)

翌日、臨時の人事異動があり、脇屋義助に1階級昇進が与えられた。彼と共にやって来た一族や郎等らにもさまざまに、恩賞や官位が与えられた。まさに、脇屋義助の面目躍如(めんもくやくじょ)である。

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それから数日後、殿上の間(てんじょうのま)に諸卿が集まってよもやま話をしていた。

洞院実世(とういんさねよ)(当時、まだ左衛門督(さえもんのかみ)であったが)は、皮肉の笑みを浮かべながら、

洞院実世 ふーん・・・異例の人事異動にて脇屋義助、1階級特進ですかいねぇ・・・ふーん。

公卿一同 ・・・。

洞院実世 いったいあの男が、どないな手柄を立てたと言うんですかいねぇ? 比叡山(ひえいざん)を落ちて、まずは越前へ。で、そこでの合戦にボロ負け。仕方なしに美濃へ逃げた。ところが、そこからも追い落とされてもて、身の置き所がどこにも無(の)うなってしもぉた。で、仕方無しに、ここ吉野へ。

公卿一同 ・・・。

洞院実世 そないな男を、陛下はあのように誉めそやし給うて、官位を進めてしまわはるやなんて・・・こんなんゼッタイにおかしいわ、ナットクいきません。まるで、あの源平争乱期・治承(じしょう)年間に、源氏追討の為に関東へ向かった平維盛(たいらのこれもり)が、富士川(ふじがわ:静岡県)で鳥の飛び立つ羽音に驚き、そのまま京都へ逃げ帰ってきてしもぉたのに、祖父・清盛(きよもり)のはからいで位を1級進めたっちゅう話と、全く同じですやんかぁ!

これをじっと聞いていた四条隆資(しじょうたかすけ)は、膝を後ろに引いていわく、

四条隆資 私はそうは思わんなぁ・・・今回の陛下の御処置、まことに理にかのぉてると、思う。

公卿一同 ・・・。(一斉に四条隆資に注目)

洞院実世 へぇ・・・いったいなんでですか?

四条隆資 ・・・脇屋義助が、北陸で戦い利あらずの結果に終わってしもぉたんは、彼の指揮統率がまずかったからでは決してない。それはただ、ご聖運、未だその時至らずが故(ゆえ)、さらには、朝廷の様々の政策が、結果としては、彼の威をそいでしまうような方向に作用してしもぉたということ、この2点にありますな。

公卿一同 ・・・。

四条隆資 皆様のような才知豊かな方々に、こないな事を申し上げるのは、広大な天を、細い管の先から覗くようなもの、あるいは、道でたまたま聞いただけの事を、知ったかぶり顔して話すようなもんかもしれませんが・・・まぁとにかく、私の考えの一端なりとも申し上げましょうか。

公卿一同 ・・・。

四条隆資 これは、古代中国の周(しゅう)王朝末期の事・・・そうです、あの「戦国時代」・・・七つの強国が互いに争い、他を倒さんと、しのぎを削っていた時の事です。

四条隆資 呉(ご)王・闔閭(こうりょ)は、孫武(そんぶ:注3)を将軍に任命し、敵国を打倒する計略を共に練っておりました。

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(訳者注3)この人が、いわゆる「孫子の兵法」で有名な「孫子」の著者である。太平記作者は史記・列伝・孫子呉起列伝をもとにこの話を組み立てたと思われるが、その原典とは細かい点で差異がある。
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(以下、四条隆資が紹介する故事)

孫武 殿、敵国と戦端(せんたん)を開くにあたっては、事前の準備こそが極めて重要。中でも肝要(かんよう)なるは、軍事教練(ぐんじきょうれん)にてござりまする。訓練の行き届かざる兵をして戦場に赴(おもむ)かしむるような事、絶対にあってはなりませぬ。

闔閭 なるほど!

孫武 なんとしてでも敵国を打倒せんと欲せられるならば、まず、兵を徹底的に鍛え上げなされませ。厳しい訓練をもってして、鋼鉄のごとき軍団を、鍛造(たんぞう)せしめるのでありまする!

闔閭 ムム! で、その方法はいかに?!

孫武 まず、宮中のありとあらゆる房(ぼう)から、妃ら全員を集合せられませ。

闔閭 なに? 妃らを集めよと申すか? 彼女らを集めて、いったいなんとする?

孫武 日に三度、妃らと兵らに対して、私めが軍事教練を施しまする。妃の方々には、兵らの最前列に立っていただき、陣を張り、戈(か)を持って、他に範を示していただくようにいたしましょう。私の命令に即応しての動作が、彼らに可能となりました暁には、敵国を滅ぼさん事は、いと容易。

闔閭 ウーン・・・妃らにのぉ・・・あの者どもに、いかほど訓練を施してみたところで、アマゾネス集団に仕立て上げるのは、到底不可能というものじゃぞぉ。

孫武 ハハハ・・・殿、どうか私めに、すべてお任せ下さりませ。

闔閭 ・・・よし、わかった、おまえにまかせる、存分にやってみやれぃ!

孫武 ハハッ!

やがて、宮中の美女3,000人が宮殿の庭に集められ、兵らの前列に立たされた。

孫武は、甲冑(かっちゅう)を帯し、戈を持って、全員に命令を下した。

孫武 よいか、鼓(つづみ)が打たれたならば、前進して、互いに刃(やいば)を交えよ! 金(かね)が打たれたならば、そく退いて、第2番手の兵に前衛を譲れ! 敵退かば、そくそれを追えぃ! 敵反撃したらば防戦し、敵陣の弱点を突破すべし!

孫武 なんじらへの命令は以上! 全員、真剣白刃(しんけんしらは)で教練を修むべし! 「これは実戦ではない、ただの訓練じゃから」などと思ぉて、手抜きをするでないぞ。そういう輩(やから)のもとにはな、わしのこの戈の一撃が飛んで行くのじゃ! よいか、繰り返すぞ、真剣白刃じゃ! わしの命令に絶対服従せよ、さもなくば、自らの命は即座に消し飛ぶと思えい!

兵たち !!!!!・・・。(ビンビンビン・・・)

美女たち ・・・。(タラァーン)

孫武 よぉし、教練開始ーッ!

孫武 前進(ぜんし)ーン!

鼓 ドドドドドド・・・・。

孫武 退却(たいきゃ)ーク!

金 キンキンキンキンキンキン・・・。

孫武は、馬を左右へ駆って、命令を次々に発する。

王の命に従って軍事教練の場に出てきた3,000人の美女たち、まぁその体つきたるや・・・薄絹に打たれただけでも倒れてしまいそうな、なよなよとした腰、今にも折れてしまいそうなほっそりした腕・・・戈を持つ事などできるはずもなし、まして相手と刃を交えるなど、とてもとても・・・ただ立ち尽くし、笑うばかりである。

孫武 なんじら、ここをいったいいかなる場所と心得(こころえ)おるか、軍事教練の場であるぞ! ニヤニヤ笑っておる場合か!

妃A さような事を言われてもなぁ・・・かような重い物、わらわにはとても持てぬぞえ・・・オホホホ。

妃B そうそう急に、鼓や金をドンドンパチパチ打ち鳴らされても、とても体がついていきませぬぅー・・・オホホホ。

妃C ンモー! いったいなぜ、わらわどもが、かような事をせねばならぬのか?!

孫武は大いに怒り、闔閭が最も寵愛していた妃3人を引きずり出し、その場で斬って捨てた。これを見た妃たちは全員、顔面蒼白(がんめんそうはく)。

孫武 教練再開じゃ! 前進ーン!

鼓 ドドドドドド・・・・。

美女たちの足 タッタッタッタッタッタッタッタッ・・・。(足音)

兵たちの足 ダッダッダッダッダッダッダッダッ・・・。(足音)

孫武 退却ーク!

金 キンキンキンキンキンキン・・・。

美女たちの足 スッスッスッスッスッスッスッスッ・・・。

兵たちの足 ズッズッズッズッズッズッズッズッ・・・。

このようにして、軍事教練は極めて効果的に進行、呉軍の全員が、臨機応変に機敏なる進退ができるようにまでなった。

孫武は、王の妃を殺す為にこのような事を図ったわけではない。ただ、大将の命に士卒が絶対服従する事の大切さを、人々に示さんがためである。呉王は最愛の妃を3人も失った事を悲しみはしたが、孫武のこの謀(はかりごと)を非常に高く評価し、やがて彼に全軍を率いさせ、多くの敵国に対して戦勝を得るに至った。

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四条隆資 ・・・とまぁ、このような次第で。

四条隆資 さらに、もう一つ、これも中国の話です。時代はさっきの話よりもさかのぼり、殷(いん)王朝の末期。周(しゅう)の武王(ぶおう)は、殷の紂王(ちゅうおう)を討つ事を決意し、その軍の大将の任を、太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)に委ねる事にしました。その命に対して、太公望はいわく・・・。

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(以下、四条隆資が紹介する故事)

太公望呂尚 国家に危機が及びし時、君主は宮殿から他に逃れた後、将を召して彼に命を下しまする、「今や国家の安危は、ひとえに将軍の双肩にかかっておる。願わくは将軍、軍を率いてわが期待に応えよ」と。

太公望呂尚 将軍はこの命を受けて、すぐに、卜占(ぼくせん)担当官に卦(け)を見させまする。3日間の精進潔斎(しょうじんけっさい)の後、卜占担当官は、王家始祖(おうけしそ)の廟(びょう)中において霊妙なる亀甲(きっこう)を火で焼いて吉日を占い、その後、君主は、将軍に斧(おの)と鉞(まさかり)を授けて、軍事上の全権を委任しまする。

太公望呂尚 その際、君主は廟門より入りて西方を向いて立ち、将軍は廟門より入りて北向きに立ちまする。そして君主は、鉞を取ってその頭の方を持ち、柄の方を将軍に持たせていわく、「地表より上方、天に到るまでの間ことごとくを、将軍、なんじこれを制すべし」と。次に君主は、斧を取ってその柄の方を持ち、刃の方を将軍に持たせていわく、「地表より下方、深淵に到るまでの間ことごとくを将軍、なんじこれを制すべし」と。

太公望呂尚 このようにして、君主から全権を委託(いたく)された後、将軍は軍事上の全責任を負いまする。敵の虚をついては進撃し、敵の集積を見ては止まる。全軍を一つに束ね、敵を軽んずることなし。君主よりの命を受けた事の重みを十分に認識し、死に急ぐような事は決してしない。身分の低い者を見下すこともなく、一人よがりの僻見を専らにして士卒たちから浮き上がるような事もない。弁舌さわやかな者の意見に、とかく心動かされてしまうような事もない。

太公望呂尚 士卒ら未だ座せざるに、自分一人だけ座す事無し、士卒ら未だ食せざるに、自分一人だけ食する事も無し。常に、士卒らと寒暑を共にす。かくのごとく軍を率いていかばこそ、士卒らは、死力を尽くして戦うようになるのでありまする。

太公望呂尚 ひとたび将軍に軍の指揮を委任したからには、君主は、戦の事に関して一切、口出しをしてはなりませぬ。戦場の外よりその軍隊を指揮する事など、到底不可能、戦の統率は、戦場のまっただ中に自らの身をおいてこそ可能なり。一方、君主より全権を託されたからには、将軍は二心をもって君主に仕えるべからず、君主に対する疑惑の念に動かされ、敵とよしみを通ずる事など、もってのほか。

太公望呂尚 殿、殿はたったいま、私めに対して、殷王討伐軍の将の任務を託され、その証(あかし)として、この斧鉞(ふえつ)の権威をお与え下されました。殿の御命を受けまして、私めはこれより、わが全軍を率いて出陣いたしまする。これより先、殿に対して御指示を仰ぐ事は一切無く、自らの独断でもって、全軍の指揮を執りまする。いったん敵と遭遇したならば、殿に対して二心を抱く事など一切無く、自らの生死を賭し、全力をもって戦いまするぞ。

太公望呂尚 もはやこれよりは、我が頭上に天は無く、我が足下に大地も無し、我が眼前に敵は無く、我が背後に君主も無し。唯々(ただただ)、我と我が率いる士卒らのみ、戦場裡(り)に実存(じつぞん)す。智慧ある者は智謀の限りを尽くして謀略を練り、勇猛なる者は武勇の限りを尽くして戦闘すべし! 見よ、我らが青雲(せいうん)の志! 聞け、我らの疾駆(しっく)の轟き! 我が軍のこの勢威の前に、兵、刃(やいば)を交えずとも敵は降伏す、国土の外において勝利を決し、国家の中において忠功を立つ。官僚は栄進し、人民は喜悦(きえつ)す、将軍には咎も災いも無し。かくして、われらが国土、天地の恵みに包まれて五穀豊饒(ごこくほうじょう)、我らが国家、太平安寧(たいへいあんねい)なり!

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四条隆資 ・・・と、まぁね、こういう事なんですわ。

四条隆資 いったい私が何を言いたいのかといえば、要(よう)はですよ、敵を滅ぼし国を治めるための重要なノウハウは、古より今に至るまで不変である、そのノウハウとは、「全軍を率いる将を重んじよ」という事なんですわ。

四条隆資 ところがですよ、こないだまでの北陸方面の状況、これとは全く逆の状態でしたわなぁ。

四条隆資 新田義貞(にったよしさだ)亡き後、北陸方面の統率は脇屋義助に任されていたはず。ところが、彼の許可も無しに、地元の連中らは自分勝手に、色々な事を朝廷に直訴する為にここ、吉野までボンボンやってきよる。そないな連中らの言う事、一切無視すべきやのに、陛下はいちいち、その直訴を取り上げはる。「北陸から吉野への遠い道のり、はるばるよぉ来たなぁ、よっしゃよっしゃ、おまえの言い分、何でも聞いたるでぇ」という事で、事情をよぉ調べもせんとからに、そういう連中らに、北陸地方の領地をボンボン与えてしまわはる。

四条隆資 そないな事では、朝廷から北陸方面の統率を委ねられたはずの脇屋義助の立場、いったいどないなってんねんっちゅう事ですわなぁ。彼の威信はみるみる低下、地元の連中らは思い思いの方向に走りだす・・・かくして、脇屋義助は、百戦の利を失うてしもたというわけですわ。

四条隆資 そやからね、今日のこの事態を招いた事に関して、脇屋義助には、全く何の咎(とが)も責任もない、咎を負うべきは朝廷の側ですよ。ようは、陛下の政策ミスっちゅう事ですわ。そのへんの事を陛下も重々ご承知やからこそ、今回、彼に恩賞を厚く施されたんですよ。(注4)

四条隆資 秦(しん)国の将軍・孟明視(もうみょうし)、西乞術(せいきつじゅつ)、白乙丙(はくいつへい)が、鄭(てい)国との戦に敗れて帰ってきた時、秦の穆公(ぼくこう)は、喪服を着て都の郊外で彼らを迎えていわく、「今回の敗戦の責は、このわしにある。わしが、百里奚(ひゃくりけい)と蹇叔(けんしゅく)の諫言(かんげん)を聞かなかったばかりに、かくのごとき結果を招いたのじゃ。おまえたちにいったい何の罪があろうか、これよりも変らず、忠勤に励んでくれよ」。そして、三人を元の位階に復したのですよ。

洞院実世 ・・・。

四条隆資の理路整然たる反駁(はんばく)の前に、さすがの大才・洞院実世も、返す言葉が無い。

四条隆資 どうですかいな、これでもあなたは、今回の脇屋義助への恩賞付与を、平清盛・維盛間のあの低次元の話と同一視しはるんでしょうか?

洞院実世 ・・・(沈黙のまま、退場)。

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(訳者注4)
この箇所は、原文では、

 「北國の所領共を望む人あれば、不事問(こととはずして)被成聖断(せいだんをなさる)。依之(これによって)大将威軽(かろく)、士卒心恣(じそつのこころほしいまま)にして、義助遂に百戦の利を失へり。是(これ)全(まったく)戦ふ處に非ず。只上(かみ)の御沙汰の違(たがふ)處に出たり。君忝(かたじけなく)も是を思召(おぼしめし)知るに依(よっ)て、今其(その)賞を被重(おもんぜらるる)者也。」

ここで問題となるのは、以下の3点である。

(1)聖断の主語 「被成聖断」とあるが、このような「聖断」を行ったのは、いったい誰なのか?
(2)「上」 只上(かみ)の御沙汰にある「上」とは、いったい誰なのか?
(3)「君」 「君忝も是を思召知るに依て」
(4)「賞」 「君」は、自分の判断でもって、脇屋義助に対して、「賞を被重」ことが可能であったろうか?

まず、(3)から。前後の文脈から見て、

 「君」 = [後村上天皇]

として良いだろう。

次に、(2)。前後の文脈から見て、

 「聖断」を行った人 = 「上」

として良いだろう。

問題となるのが、(1)。

「聖」断とあるのだから、これを行えるのは、天皇であろう。よって、

 「聖断」を行った人 = 後醍醐天皇
  OR
 「聖断」を行った人 = 後村上天皇

となる。

吉野と越前で起こった事を時系列で見ると、以下のようになる。

1336年 12月 後醍醐天皇、吉野へ逃避

1338年 8月 新田義貞、越前で死去

1339年 8月 後醍醐天皇、吉野で薨去
      後村上天皇、吉野で即位

1341年 脇屋義助、吉野へ(本章の記述)

21-6 に、以下のような趣旨の記述がされている。

 新天皇(後村上帝)は未だ幼少であるし、前天皇が崩じた後3年間は公家のリーダーに政治が任される、という古来からの習わしもあるので、政治面での判断は、大納言・北畠親房(きたばたけちかふさ)が行う。洞院実世(とういんさねよ)と四条隆資(しじょうたかすけ)が、諸事を取り次いで奏上する、という事になった。

上記の記述が史実通りであるとするならば、[脇屋義助、吉野へ来たる]のタイミングにおいては、後村上天皇は未だ、自らの意志で政策を決定できない状態にあるはず。前天皇が崩じた後3年間は、新天皇は政務を取らない、とあるのだから。

よって、

 「聖断」を行った人 = 後村上天皇

という可能性は消え、

 「聖断」を行った人 = 「上」 = 後醍醐天皇

ということになる。

しかし・・・。

新田義貞の死の直前の段階において、新田サイドは、越前において、斯波サイドに対して圧倒的優位にあったように、太平記には記述されている。

となると、 後醍醐天皇の「聖断」によって、脇屋義助が苦しい立場に追い込まれていった期間は、

 1338年 8月 (新田義貞、越前で死去) から
 1339年 8月 (後醍醐天皇、吉野で薨去) まで
の期間となる。

たった1年間の「聖断」の連続の結果、越前での情勢がそんなに激変するものであろうか?

更に、疑問があるのが、(4)。

上記にも述べたように、[脇屋義助、吉野へ来たる]のタイミングにおいては、後村上天皇は未だ、自らの意志で政策を決定できない状態にあるはず。

政治面での判断は、北畠親房が行い、洞院実世と四条隆資が、諸事を取り次いで奏上する、という事になっているはず。

なのに、四条隆資は、

 「君忝(かたじけなく)も是を思召(おぼしめし)知るに依(よっ)て、今其(その)賞を被重(おもんぜらるる)者也。」

と言っている。

上記のような様々な疑問より、訳者は、この章の中の四条隆資の発言は、史実では無く、太平記作者のフィクションであろうと考える。実際には存在しなかった吉野朝側の政策ミスを、実際にはそのような事を語ってはいない吉野朝の重要人物(四条隆資)が語る、という場面を創作して、吉野朝側を貶めようとの意図の下に制作されたフィクションであろうと、訳者は、考える。
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太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月25日 (木)

太平記 現代語訳 22-1 畑時能の奮戦

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都から越前(えちぜん:福井県東部)に進軍した足利軍は、圧倒的な大兵力をもって、杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)を始め、新田側の城を続々と攻略していった。その結果、越前、加賀(かが:石川県南部)、能登(のと:石川県北部)、越中(えっちゅう:富山県)、若狭(わかさ:福井県西部)5か国中に残された新田側の城は、ほとんど皆無の状態となってしまった。

そのような中に、唯一もちこたえていたのが、畑時能(はたときよし)がたった27人の手勢と共に守る鷹巣城(たかのすじょう:福井県・福井市)であった。さらにそこに、一井氏政(いちのいうじまさ)が合流した。氏政は昨年、杣山城から平泉寺(へいせんじ)へ赴き、その衆徒らを味方に引入れようと様々に工作していたのであったが、越前国中の吉野朝サイド勢力が衰微してしまったとあっては味方につこうとする衆徒など一人もいない。そこで仕方なく、平泉寺から引き上げ、この城にこもったのである。

足利氏・北陸方面軍総大将・斯波高経(しばたかつね)いわく、

斯波高経 越前国中、敵方の城はもうほとんど落ちちゃって、残るは鷹巣城だけ。でも、あそこには、あの二人がこもってやがるんだよなぁ。城内の兵力は極めて少ないとはいえ、畑時能の勇力と一井氏政の智謀は、決してあなどれない。あのまま放っときゃ、またどんな大変な事態になってしまうかもねぇ。

そこで、斯波高経と高師重(こうのもろしげ:注1)は、北陸道7か国の軍勢7,000余騎を率いて、鷹巣城に攻め寄せた。城の周囲をアリの這い出る隙間もないほどビッシリと包囲した上で、30余箇所に、向かい城を設営した。

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(訳者注1)太平記作者のミスであろう。21-7において、北陸地方援軍・大手方面軍大将は、「高師治」となっている。
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この畑時能という人は、武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)の住人である。16歳の頃より相撲を好み、やがて関東8か国中、彼にかなうものは一人もいなくなってしまった。

腕の筋肉は隆々、股(もも)の筋肉は劇厚、あの古代の相撲の名人、薩摩(さつま)の氏長(うじなが)をほうふつとさせるような、実に立派な体をしている。

その後、信濃国(しなのこく:長野県)に移住。以来、山野で狩りをし、湖沼河川で漁を営む。馬に乗ったまま急峻な斜面や岩盤をかけ降りていくその様は、あたかも神通力を有しているかのようである。千里のかなたまで車を御しても疲れを見せなかったという、あの古代中国・周王朝の馬術の名人・造父(ぞうほ)でさえも、時能には及ばないのではなかろうか。

水泳も、河神・憑夷(ひょうい)のごとく巧み、黒龍の顎の下にあるという珠玉でさえも、彼ならばきっと奪って来るであろう。弓を引かせれば、古代中国の弓の名人・養由(ようゆう)に匹敵。ひとたび弦を鳴らさば、はるか彼方の樹上の猿をも射落す。

謀略にもたけていて、人心収攬(しゅうらん)の達人。気は健(すこや)かにして、不撓不屈(ふとうふくつ)の心。一度(ひとたび)戦場に臨めば、敵を退け堅陣を破る。まさに、中国漢王朝の名将、樊 噲(はんかい)、周勃(しゅうぼつ)をも、しのぐ。

「類は友を呼ぶ」とはよくいったもの、時能の側には常に、甥の所大夫房快舜(ところのだいぶぼうかいしゅん)という豪勇の僧がいた。さらに、悪八郎(あくはちろう)という大力男も彼の配下にいた。

時能の側にいたのは人間だけではない、「犬獅子(けんじし)」という名の不思議な犬もいた。

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この、畑時能、快舜、悪八郎の三人組は、毎晩密かに鷹巣城を出て行く。ある時は、帽子兜(ぼうしかぶと)に鎖帷子(くさりかたびら)の軽装で、またある時は、大鎧を着て七つ道具を手に持って、というように、様々に武装を変じながら、夜陰に乗じて、足利側が築いた向かい城へ忍び寄っていく。

城に接近したら、まず犬獅子を城内に忍び入らせる。犬は、城内の様子を窺い、警戒が厳重で忍び入る隙が無いと見れば、一声吠え、走り帰って来る。城内が寝入ってしまい夜間の巡回も止んでしまっておれば、城から走り出てきて、尾を振ってそれを知らせる。

そのようにして犬獅子が「ゴーサイン」を出せば、3人は犬獅子の案内を頼りに、塀を乗り越え城内に侵入し、おめき叫んで縦横自在に切って回る。数千の足利軍はパニック状態となってしまい、一斉に向かい城から逃げ出してしまうのである。

「犬は、人間を守護するがゆえに、人間に養われる」という。心無き禽獣(きんじゅう)といえども、報恩酬徳(ほうおんしゅうとく)の精神を有しているのであろうか、犬が重要な戦力となるといったこのような話、古にもその例がある。

古代中国における周王朝の衰微の時代、異民族が反旗を翻し、周王の命に従わなくなってしまった事があった。軍を送って攻めてはみたものの、周国側に戦い利あらず、討たれし者の数30万人、地を奪われること7000余里。ついには、周の国家そのものさえも危機に瀕し、将軍たちは敗北の屈辱を噛み締め、諸侯らはこぞって異民族に降伏するより他無しか、という土壇場まで来てしまった。

周王 あぁ、いかにすればよいのじゃ・・・いかにすれば、わが国体を保つ事ができるのか・・・。わが王朝が異民族の支配に屈する、かような事があってよいものであろうか! あぁ、いかにすべきか、いかにすれば、わが王朝を守りおおせるのか・・・。

周王は、御前にいた犬に魚肉を与え、戯れていわく、

周王 のぉ、そちにもし心有るならばのぉ、わしのこの命を聞け。異民族の国に赴き、すきあらばその王を噛み殺して世の乱れを静めい。しからば、後宮三千人の美女の中の一人を、そちに与えて夫婦(めおと)となし、そちを、かの異民族の王に任命してくれるわ。

犬はこの命令を聞くやいなや、立って3回吠え、王宮から走り去った。

万里の道程を越えてその異民族の国に赴き、密かに王の寝所に忍び入ってたちまち彼を噛み殺し、その首を咥えて周王の御前へ戻ってきた。

周王 おぉ、この首は! でかしたぞ!

犬 ワン! ワン!

周王 わしのあの戯れの命を、そちが忠実に実行するとは、思いもよらぬ事であったわい。しかしのぉ・・・いかに戯れとはいえ、いったん王の口から発した事であるからには、翻す事はあいならぬわい。

王は、後宮の中でも最高の妃一人をこの犬に与えて夫婦とならしめ、さらに、異民族国王の地位を褒賞として与えた。王の命の前には彼女も力無く、寵愛を捨てて犬と共に、泣く泣くかの地へ赴いた。(注2)

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(訳者注2)なんだか、どこかで聞いた話だな・・・そうだ、あの「南総里見八犬伝」の冒頭のストーリー、伏姫と八房の物語。しかしここから後、「八犬伝」の方は、以下に記述の「太平記」の話とは全く異なる展開となっていく。その後、伏姫は城を出て山にこもり・・・いやいや、この話はもうやめておこう、さもないと、「現代語訳・太平記」ではなくて、「現代語訳・八犬伝」になってしまうから。
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やがて、一人の男子が生れた。頭は犬で身体は人間。その後、子孫相続してその国を保った。ゆえにそこを、「犬戎国(けんじゅうこく)」と呼ぶのである。

この古代中国の事例をもってすれば、畑時能の忠犬・犬獅子の働きも、あえて奇とする事もないであろう。

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このようにして、犬獅子が向かい城に忍び込み、タイミングを見計らっては主に知らせ、3人組が城を落す、というパターンが続いていった。逆茂木(さかもぎ)を設置し塀をしつらえた37か所もの向かい城も、夜毎に1城あるいは2城というペースで、落とされていく。城を守っていたメンバーたちは、甲冑を捨て、馬を失い、恥辱の極みである。

ついには、味方に笑われる事を恥じるあまり、畑時能に利を与える結果になるにもかかわらず、彼に対して密かに食料や酒肴を送り、「ねぇねぇ、お願いですからね、わしの守っている城にだけは、夜討ちをかけないでくださいよね」などと、残らず、時能のご機嫌を取りだしはじめた。

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上木家光(うえきいえみつ)は、この鷹巣城の包囲陣の一角に加わっていたのだが、彼についてのあらぬうわさが飛び交いはじめた。

足利軍メンバーA なぁなぁ、聞いてるか、上木のやつ、どうもアヤシイぞってな話。

足利軍メンバーB うん、聞いてるよ。なんでも、「鷹巣城への数百石もの食料の搬入を、見て見ぬフリして通しやがった」って、ウワサだぜ。

足利軍メンバーC あいつはな、もともと新田義貞(にったよしさだ)についてたんだけどな、こっちサイドへ、寝返ってきたんだよ。

足利軍メンバーD 忠実な足利陣営メンバーのような顔しながら、裏では、畑時能と気脈通じてやがんじゃねえのぉ。

足利軍メンバーE きっとそうだよ、そうに決まってらぁ。

やがて、いったい誰のしわざであろうか、大将の斯波高経の陣の前に、こんな高札が立てられた。

 畑をうとうと思うんだったら
 まずは その上の木を 切らなきゃねぇ(注3)

まったく、うまい事を言ったものである。

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(訳者注3)原文:「畑を討(うた)んと思はば、先(まず)上木を伐(きれ)」。「畑を打つ(耕す)」と「畑時能を討つ」とをかけ、「上木(畑の上に伸びている木)を切る」と「上木家光を斬る」をかけているのである。
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これより、斯波高経も上木家光に対して警戒心を抱きはじめ、朋輩(ほうばい)たちも、家光に対してよそよそしい態度を示すようになった。

上木家光 これはミョーな疑いをかけられたもんだ、非常にオモシロクない! よし、この疑い、なんとしてでも晴らしてみせる!

上木家光は、2月27日の早朝、一族郎等200余人に、にわかに武装をかためさせ、彼らを率いて鷹巣城に向かって動きだした。太い竹をひしいで盾の表面に装着し、それを頭上にかざしながら、隊列を組んで城に接近していく。これを見た他のメンバーらは、

足利軍リーダーF おっ、上木が城攻めを始めた!

足利軍リーダーG 鷹巣城のレイアウトをよく知っている上木が、急に城攻めを始めたってことはぁ・・・もしかすると・・・。

足利軍リーダーH 何か、攻め落すいい方法でも見つけたのかもよぉ。

足利軍リーダーI 上木に手柄を一人占めされちゃ、たまらん。よぉし、行くぞー!

30余箇所の向かい城にこもっていた足利側軍勢7,000人は、取る物も取りあえず、一斉に動きだした。

岩根を伝い、木の根に取り付き、さしも険しい鷹巣城の麓の坂18町を一気に登りきり、城の切り岸の下にたどりついた。

しかしなぜか、鷹巣城内はひっそりと静まりかえっている。

足利軍リーダーF 畑のやつ、またなにか、たくらんでやがんのかい?

足利軍リーダーG まったくもう、あいつだけは、油断ならねえもんなぁ。

足利軍リーダーH おぉい、みんな、用心しながら、慎重に進んでけよぉ、慎重になぁ。

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城の防御壁近くまで足利サイドが迫ったその時、城内からオメキ声が上がった。畑時能、快舜、悪八郎、鶴澤源蔵人(つるさわげんくろうど)、長尾新左衛門(ながおしんざえもん)、児玉五郎左衛門(こだまごろうざえもん)が、甲冑に身をかため、太刀や長刀の切っ先をそろえ、各々名乗りを上げながら襲い掛かってきた。

城の防備を甘くみて不用意な前進をしていた足利サイド数百人は、不意の襲撃に一驚、互いに頼りあって、一個所へギシギシと集中。

これを見た悪八郎は、手に持っていた8、9尺もの大木を脇に挟み、5、60人がかりで押してもびくともしないような巨岩を、足利側に向けて転がした。輪宝(りんぼう)が山を崩すがごとく、大石が卵を押しつぶすがごとく、その巨岩は足利軍を粉砕した。

ひるむ足利軍に対して、時能らは一斉に猛攻、左右に当たって八方を払い、破っては返し、帰っては進み、手当たり次第メチャクチャ切りまくる。足利側の損害は計り知れない。

その後は、城に攻め登ろうとする者は全くいなくなり、足利軍は、山を隔て川を境にして、城から遠く陣を敷くのみであった。

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しかしながら、戦線が膠着状態(こうちゃくじょうたい)になってしまったのでは、畑時能の方も打つ手がなくなり困る。

畑時能 (内心)このまま持久戦に持ち込まれたんじゃ、ヤバイ。ここはいっちょう決戦にうって出て、敵を散らすか敵に散らされるか、二つに一つ、運を天にかけてやってみるしかねぇな。

時能は、城の守備を、一井氏政と11人の武士らに委ね、自らは快舜ら16人を率いて、10月24日夜半、豊原(といはら:福井県・坂井市)の北方、伊地山(いづちやま:福井県勝山市)に登り、中黒の旗を2本立てて、足利軍の来襲を待った。

斯波高経(しばたかつね)は、伊地山の軍勢が、鷹巣城勢の一部がそこに出向いて陣取ったのだとは思いもよらず、

斯波高経 その伊地山に陣取ってるのは、おそらくは豊原方面の勢力か、あるいは平泉寺(へいせんじ:勝山市)の衆徒だろう。あいつら、とうとう新田側のさそいに応じて、反旗を翻しやがったな。とにかく、敵に時間を与えてはいかん、今すぐ、伊地山を攻撃だ。

同月25日午前6時、高経は、3,000余騎を率いて伊地山へ向かった。

最初のうちは、相手の兵力の多寡が分からないので慎重に前進していたが、やがて伊地山に依拠している兵力が極めて少ない事が判明し、恐れる所無く我先にと、進みはじめた。

足利軍が遠くにいる間は、時能は、自分が伊地山を守っている事をわざと明らかにせず、両者の間隔が1、2町ほどに縮まったタイミングにあわせて、陣頭に姿を現わした。

輝かんばかりの畑時能の勇姿・・・鉄製の胴巻の上に火威(ひおどし)の鎧、袖と草摺(くさずり)は敷目模様、同色の5枚しころの兜に鍬形(くわがた)打って緒を締める。顔を、熊野(くまの:和歌山県)地方製の鉄面で覆い、股まで覆う鉄製の脛当てで、脇盾(わきだて)の下あたりまで防御している。4尺3寸の太刀を腰に差し、3尺6寸の長刀(なぎなた)の柄の刃に近い部分を握っている。またがっている馬は塩津黒(しおづぐろ)という名、馬体長5尺3寸、鎖鎧で全身覆われている。その三頭(さんず:注4)のあたりまで、一引両(ひとつひきりょう)に三(みつ)スハマの笠標(かさじるし)がなびいている。

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(訳者注4)後脚のつけ根部分。
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そして、時能の前後左右には、彼に劣らず武芸に秀でた武士が16人。

畑時能 畑将軍はここにいるぜぃ。斯波高経は、いってぇどこにいやがる! さっさと出てきて勝負しろい!

時能らは、大軍の中に懸け入り、追廻し、懸け乱し、八方を払って四方を遮る。この勢いに恐れをなして足利軍はたちまち、蜘蛛の子を散らすように散ってしまい、馬の足の立つ者は一人もいない。

これを見た斯波高経は、鹿草兵庫助(かくさひょうごのすけ)の旗の下に控えて、全軍に対して、指令をひっきりなしに飛ばす。

斯波高経 えぇい、どいつもこいつも、ふがいねぇヤツばかり! たとえ敵が鬼にせよ神にせよ、たったあれだけの小勢にビビッて、オメオメと退却するとはなぁ! 馬を互いに接近させて、魚鱗陣形(ぎょりんじんけい)の密集形態を取れ! 兵を虎韜(ことう)陣形に展開して敵を包囲してしまえ! 一人残らず、敵を殲滅してしまえーい!

大将からのこの厳命に、かろうじて気力を取り戻した足利軍3,000余騎は、時能ら16騎を真ん中に取込め、残らず殲滅せんと、襲いかかっていく。しかし、この大軍勢の猛攻にも、畑時能は動じない。

時能の乗馬は、あの古代中国の英雄・項羽(こうう)が乗っていた騅(すい)にも劣らぬ駿足、足利軍メンバーらは次々と、この馬のアブミの鼻に当て落され、蹄(ひづめ)の下に転落し、たちどころに、時能に首を取られてしまう。

首を取っては馳せ通り、取って返してはサッと陣を破る時能。彼に従う部下たちも、負けず劣らずの猛者ぞろい、目に止まった敵は残らず切って落す。膚を刺されてもたじろがず、目の前に尖った物をつきつけられても瞳をそらす事など決してない彼らの豪勇の前には、いかなる大軍をもってしても歯が立たない。足利軍3,000余は、東西南北に散乱し、河の対岸へ退却していった。

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戦が終わって後、畑時能は陣屋に帰り、再び部下を集めてみた。戦死5人、重傷9人。彼が最も頼りにしていた快舜は、7か所も深傷(ふかで)を負ってしまっており、その日の暮れ方、ついに帰らぬ人となった。

時能も、脛当の外側の部分や小手(こて:注5)で覆っていない部分に、多数の切り傷を負っていた。

少々の負傷など意に介しない時能ではあったが、障子の板(しょうじのいた:注6)の脇から肩先へ付き刺さった一本の白羽の矢が、彼を苦しめた。

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(訳者注5)鎧のうち、腕を覆う部分

(訳者注6)これも鎧の部品の名前。鎧の左右の綿上(わたがみ)に続けてその上に立てる板。首の左右を保護する。
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畑時能 うーん、まいった! 肩に突き刺さったヤジリが、どうしても抜けねぇ・・・うーん・・・抜けねぇ・・・ウーン・・・ウーン・・・。

3日間、苦痛にのたうちまわった末、時能は絶叫の中に死んでいった。

この畑時能という人は、悪逆無道にして、罪のおそれというものを全く知らない人間であった。何の目的もなく僧侶を殺害し、寺院や神社を焼き払い、修善(しゅうぜん)の心など、さらさら無い。

過去になしてきたそのような悪業(あくごう)が、山のごとく積もり積もっていたが故に、勇猛と智謀をあわせ持っていた時能も、ついに天罰を受け、流矢のために悲惨なる最期に至ってしまったのである。

昔、中国において、天に太陽が9個現われた時、舁(げい)は弓を引いて、そのうち8個を射落したという。また、奡(ごう)いう大力の者がいて、巨大な船を押して陸上を前進させたという。しかし、舁はカンサクに殺され、奡は夏后小康(かこうしょうこう)に討たれ、その武名だけを残して空しく命終えていった。

唐王朝の宰相・宋璟(そうえい)は、幼い玄宗皇帝のために、みだりに戦いをすることを恥とし、辺境での戦功を高く評価しなかったというが、まことに智慮ある忠臣と言うべきであろう。人間、武勇一辺倒ではダメなのである。

かくして、畑時能の死の後は、北陸地方の吉野朝勢力は意気消沈、逼塞(ひっそく)状態に陥ってしまった。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月24日 (水)

太平記 現代語訳 21-7 高師直、塩冶高貞の妻を恋慕す

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「北陸地方の吉野朝廷側勢力、大攻勢、黒丸城(くろまるじょう)落城、斯波高経(しばたかつね)殿、加賀へ退却!」との報に、京都の足利幕府メンバーらはビックリ。「至急、援軍を送るべし!」ということで、すぐに四方面の大将を選定し、下記のように、北陸地方の国々に派兵することになった。

高師治(こうのもろはる)が、大手方面軍大将として、加賀(かが:石川県南部)、能登(のと:石川県北部)、越中(えっちゅう:富山県)の勢力を率い、宮腰(みやのこし:石川県・金沢市)から加賀国内を南下。

土岐頼遠(ときよりとう)が、からめ手方面軍大将として、美濃(みの:岐阜県南部)、尾張(おわり:愛知県西部)の勢力を率い、穴間(あなま:福井県・大野市)、郡上(ぐじょう:岐阜県・郡上市)を経て、大野(おおの:福井県・大野市)へ向かう。

佐々木氏頼(ささきうじより)が、近江(おうみ:滋賀県)勢を率い、木目峠(このめとうげ:福井県・南条郡・南越前町-敦賀市)を超え、敦賀湊(つるがみなと:福井県・敦賀市)より向かう。

塩冶高貞(えんやたかさだ)は、海軍の指揮を執り、出雲(いずも:島根県東部)と伯耆(ほうき:鳥取県西部)の勢力から成る軍船300隻を率い、上記3方面軍が新田軍の本拠地へ接近するタイミングに合わせて、津々浦々から上陸し、敵の背後を襲ったり敵軍団の間を遮断したり、というように、その場の状況に応じて臨機応変に戦う。

以上のような作戦の下、全軍互いに綿密な打ち合わせを行った。

やがて、陸路を行く三方面の大将は次々と京都を出発し、分国で兵を招集しはじめた。

塩冶高貞も、自らの根拠地である出雲へ戻り、出兵の用意をしようと思っていたその矢先、思いもかけぬ事が起こり、高師直(こうのもろなお)に命を奪われる事になってしまった。

高貞を非業の死に至らしめたものは、いったい何だったのか? それは、「色恋」である。彼に長年つれそってきた妻に対して、高師直が恋慕したあげく、その夫を死に追いやったのである。

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当時、高師直は軽い病を患(わずら)い、幕府への出仕をしばらく休んで、自宅で療養していた。

家臣らは彼の無聊(ぶりょう)を慰めようと、毎日、酒や肴を調えては様々な方面のタレントを高邸へ招き、その芸能を披瀝させて座を盛り上げていた。

今宵もまた宴。月深く静まり返った夜、荻の葉をわたる風も身にしみ入るかと思われる中に、平家物語読みの声が朗々と流れていく。

高家メンバーA 今夜のあの二人の平家読み、いったいどこの誰だい?

高家メンバーB えぇっ、知らなかったの? あれが有名な、真都(しんいち)検校(けんぎょう:注1)と覚都(かくいち)検校だよ。

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(訳者注1)目の不自由な人に与えられた官名中の最高位のもの。
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高家メンバーC あぁ、あれがあの・・・。

琵琶D ビヨヨーン・・・ビィーン・・・ビヨヨーン・・・ジャララァーーーン・・・。

真都(しんいち) 近衛院(このえいん)のおん時、紫宸殿(ししんでん)の上にヌエという怪鳥飛び来たって、夜な夜な鳴く。源頼政(みなもとのよりまさ)、勅命をたまわってそれを射て落す。近衛上皇、限りなく叡感(えいかん)有って、紅の御衣(ぎょい)を当座の褒賞として頼政の肩にかけられる。

覚都(かくいち) 上皇のたまわく、「頼政のこの手柄には、いったいどんな褒美がえぇんかいのぉ・・・官位がえぇのか、はたまた国主がえぇのか・・・いやいやぁ、そんなもんでは、とてもとてもぉ、褒美としては、足らんー足らんー。あー、そやそやぁ、頼政はぁ、藤壷殿(ふじつぼでん)の女房の菖蒲(あやめ)に懸想(けそう)してしもぉてぇ、堪えられん思いに伏し沈むとやらぁ。ならばのぉ、今夜の手柄の褒美に、この菖蒲を下すとしようやないかぁ。」

琵琶E ビビィーン・・・ジャラァン・・・ビヨヨーン・・・。

真都 「ただしなぁ、この女の事、頼政はうわさに聞いてるだけで、未だ目には見ずという。そこで一興、菖蒲と同じくらい美人の女房をたくさん並べぇ、その中から菖蒲を選ばすとしようかいのぉ。」

覚都 「でやなぁ、頼政が菖蒲をうまいことよぉ引き当てんかったらなぁ、「あやめも知らぬ恋をするかな(注2)」と、笑ぉてやると、しよかい、しよかい。」

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(訳者注2)ほととぎす なくやさ月の あやめぐさ あやめもしらぬ こひもする哉(かな)(古今和歌集 恋歌1 読人しらず)

現代語訳:ほととぎす 鳴いてる五月の 菖蒲草(あやめぐさ) あやめも知らぬ 恋をしてるわ

「あやめも知らぬ」:物事のすじめもわからない、夢中の。
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琵琶D ビビビビヨヨーン・・・ビビビビヨヨーン・・・ビビィーン・・・。

真都 後宮3000人の侍女の中より、花をそねみ月を妬むほどの女房たちを12人、同じ様に装束させ、あからさまには見せず、金紗の薄い帷(とばり)の中に置きぃ。

覚都 その後、頼政を清涼殿(せいりょうでん)の庇の下に召され、更衣(こうい)にかくのごとく言わしめらる、「今夜の働きの褒賞には、浅香(あさか)の沼の菖蒲(あやめ)を下さるとぞ。その手はたゆむとも、自ら引いて我が宿の妻となせ、とのおぼしめし。」

真都 頼政、勅命に従いて、清涼殿の大床に手をうちかける。見れば、何れも齢16ほどの女房、みめかたち、絵に描くとも筆も及びがたきほどが、金とヒスイの首飾りを着け、桃顔(とうがん)の媚(こび)を含みて、ズラリと並び居る。頼政、心は迷い、目は美女から美女へとうつろいて、何れを菖蒲と引き当てるべき心地も無し。

覚都 更衣、うち笑っていわく、「水が増(ま)さば、浅香の沼さえ紛るる事も、あるのかえぇ」。

真都 そこで頼政、一首、

 五月雨(さみだれ)に 澤邊(さわべ)の真薦(まこも) 水越えて 何(いずれ)菖蒲(あやめ)と 引きぞ煩(わずら)ふ

琵琶E ジャジャジャジャーン・・・ビシィーン!

覚都 時に、近衛関白(このえかんぱく)殿、あまりの感に堪えかねて、自ら立って菖蒲前(あやめのまえ)の袖を引き、「これこれ、これが菖蒲、これがあんたの宿の妻」とて、頼政に下される。

真都 頼政、ヌエを射て弓矢の名を揚(あ)げたるのみならず、一首の歌の御感(ぎょかん)によりて、長年久しく恋い忍びつる菖蒲前を賜る。

覚都 歌人の面目、今ここにあり。

琵琶D ビイーン、ビイーン、ビイーン、ジャラララーン!

真都は、三重(さんじゅう)の甲(こう)の音調に載せて高らかに詠い、覚都は、初(しょじゅう)の乙(おつ)に収めて詠いすます。

高師直は、枕を押しのけ、耳をそばだててそれに聞き入り、簾中(れんちゅう)庭上(ていじょう)もろともに、感動の声を上げる。

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平家物語吟詠終了の後、そこに残った若党や遁世者(とんせいもの)らの談笑が始まった。

高家メンバーF さっきの話、どうもひっかかるんだよなぁ。

高家メンバーG えぇっ? いったい何がぁ?

高家メンバーF だってね、考えてもみろよ、源頼政は、上皇を悩ませた怪鳥ヌエを射落すという、大殊勲を成し遂げたんだよ。なのに、その褒美があれではねぇ・・・。

高家メンバーH そうかなぁ。菖蒲前のような美女を褒美にもらえたんだもん、武士の面目躍如ってもんじゃない?

高家メンバーF まぁ、面目はそれなりに立ったのかもしれないけど・・・でもさぁ、褒賞もらうんだったら、やっぱし、美女なんかよりも領地とか高額のモノとか、そういったもんの方がよかぁなぁい?

高家メンバーI 「花より団子」かよぉ。

高家メンバー一同 わははは・・・。

高家メンバーJ たしかに言えてるよなぁ。同じもらうんだったら、やっぱし領地の方がゼッタイにいいや。

高家メンバーF (節をつけて)ハアァー、美女か領地かと、問われてみれバァ。

高家メンバーI (節をつけて)あ、そりゃ、決まってるわいのぉ。

高家メンバーJ (節をつけて)領地だ、領地だ、領地だわいなぁ。

高家メンバー一同 うわっはっはっは・・・。

これを聞いていた高師直は思わず、

高師直 タハッ・・・この野獣どもめが・・・。

高家メンバーF えぇっ?・・・。

高師直 テメェラ、なんちゅうバカな事、言うてはりまんねん。「美女か領地か」? そりゃぁ、「美女」に決まってるじゃぁ、おまへんか!

高家メンバー一同 ・・・。

高師直 おれなんざぁ、菖蒲前くらいの美女とだったらな、国の10個くらい、領地の2、30箇所くらい、交換に出しますぜい。

高家メンバー一同 ・・・。

それを垣根ごしにきいていた一人の女性がいた。

彼女は、「侍従の女房(じじゅうのにょうぼう)」と呼ばれていた。若かりしころは新参三位の公家の家に仕えて華やかな時を送ってもいたのだが、時の流れとともにその運も傾き、今は身寄りもないまま、高師直のもとへしょっちゅう出入りしていた。

彼女は、障子を引きあけてケタケタ笑いながらいわく、

侍従の女房 まぁまぁ、いったいなにをおっしゃいますやら・・・。あんさん(貴方)、それはトンデモない考え違いちゅうもんですえ・・・アハハハ。

高師直 どうして?!

侍従の女房 話の筋書きから推察するに、平家物語に出てくる菖蒲前はな、そないに言うほどの美人とはちゃいますよぉ。

高師直 いったいどうして、そんな事、言えるんだよぉ?!

侍従の女房 かの楊貴妃(ようきひ)の美しさは、「一度微笑めば、後宮三千人顔色無し」と言われてますわなぁ。それにひきかえ、菖蒲前はなぁ・・・。そないにすごい美人なんやったら、たとえ幾千万人の女房を側に並べ置かれたかて、源頼政は彼女を選び出すのに、そないに苦労はしませんでしたやろうに。他を圧して輝いている美貌の持ち主を選び出すだけの事ですからな、なんの苦もなくできますやんか、そうでっしゃろ? そやのに、それができんかった、ということはやなぁ、菖蒲前は、そないに言う程の美人では決してなかった、ちゅうことですやんかぁ。

高師直 うーん、なるほど・・・。

侍従の女房 その程度の美しさの女房とでも、国の10個くらい交換しても惜しぃない、言わはりますんやったらな、先帝の外戚(がいせき)の早田宮(はやたのみや)の息女であらせられる、「弘徽殿(こきでん)の西の台の方」なんかご覧にならはったら、あんさん、いったいどない言わはりますやろかいなぁ・・・ククク・・・。「あの女性とやったら、日本全土、いや、中国、インドと交換してもえぇぞ!」てな事、言いださはりますやろな、きっと。オホホホ・・・。

高師直 ほうほう、そんなすげぇ美人、いるのかい。

侍従の女房 まぁほんまに、この方の美貌というたら、それはもう・・・。世に類無い美しさですよぉ! あれはそや、いつの事やったかいなぁ・・・殿上人の皆さんがね、桜の花を待ちかねての春の日のつれずれに、宮中の美人がたを花にたとえて批評、なんちゅう事を、しはりましたんやわぁ。

高師直 ほうほう。

侍従の女房 まずは、桐壷殿(きりつぼでん)に住んだはる御后様。誰もはっきりとそのお顔を見たことがないもんやから、花に喩えてみても仕方の無い事ですが、「あの方は、明けやらぬ外山(とやま)の花かいなぁ」と。

高師直 はははは・・・。

侍従の女房 次に、梨壷殿(なしつぼでん)にお住まいのお方。いつも伏し沈んだように見えるその様が、なんともはや、ものがなしい。中国・周王朝の幽王(ゆうおう)が、妃・褒姒(ほうじ)の笑顔を見とぉて見とぉて、というのんも、まさにこないなカンジやったんかいなぁ、とね。年がら年中、あないに落ち込んだ妻の顔を見せつけられたんでは、あぁ、陛下のご心中はいかばかりか・・・「玉顔(ぎょくがん)寂寞(せきばく)として涙は欄干(らんかん)に落つ」、まさに喩えるならば、「雨中の梨の花」。(注3)

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(訳者注3)梨壷殿には梨の木がある。「梨壷にいる女性」と「梨の花」をかけている。
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高師直 おぉ、いいねぇ。

侍従の女房 その他にもな、いろいろな美しいお方が話題に上りましたわいな。月もうつろう本粗(もとあら)の小萩(注4)。波も色ある井手(いで)の山吹。あるいは、遍昭僧正(へんじょうそうじょう)が、「我落ちにきと 人に語るな(注5)」と戯れた嵯峨野(さがの:京都市右京区)の秋の女郎花(おみなえし)。

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(訳者注4)古郷(ふるさと)の もとあらのこはぎ 咲きしより よなよな庭の 月ぞうつれる(摂政太政大臣・藤原良経 新古今和歌集 秋歌上)

現代語訳:故郷(ふるさと)の 本粗(もとあら)の小萩 咲いてから 夜な夜な庭に 月影映る

「本粗」:根本の葉がまばら。 「月ぞうつれる」:萩の露に月が映る。

(訳者注5)名にめでて おれる許(ばかり)ぞ をみなえし(女郎花) 我おちにきと 人にかたるな(僧正遍昭 古今和歌集 秋歌上)

現代語訳:名に惹かれ 折っただけやぞ 女郎花(おみなえし) 堕落したとは 言うてくれるな

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侍従の女房 光源氏(ひかるげんじ)の大将が、「あの白く咲いてるのは?(注6)」と名を問うた、黄昏(たそがれ)時の夕顔の花。見るに思いの牡丹(ふかみぐさ)(注7)・・・というようにな、あれやこれやと、様々な花に喩えられた美人美女が、次々と登場したんですがぁ・・・。

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(訳者注6)うちわたす をちかた人に もの申すわれ そのそこに 白く咲けるは なにの花ぞも(読み人知らず 古今和歌集 雑体 旋頭歌)

現代語訳:おーいそこの はるかかなたに 居る人に問う そのそこに 咲いたる白い花 何の花やあ?

「うちわたすおちかた人=うち渡す遠方人」

(訳者注7)かたみとて みれば歎きの ふかみ草 なに中々(なかなか)の 匂ひなるらん(藤原光輔 新古今和歌集 哀傷歌)

現代語訳:あの人の 形見と匂う 牡丹花 歎きはさらに 深まるばかりや
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高師直 フンフン・・・。

侍従の女房 どうしても、花にたとえようのない女性がお一人・・・。

高師直 (ゴクリ)・・・。

侍従の女房 梅は匂い深くして枝はたおやかならず。桜は花の色はことに優れたれども、その香は無し。柳は風を留める緑の糸(注8)、露の玉貫(ぬ)く枝(注9)は殊に趣深けれども、匂いも無し花も無し。
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(訳者注8)春風の 霞吹きとく たえまより みだれてなびく 青柳(あおやぎ)のいと(いん富門院大輔 新古今和歌集 春歌上)

現代語訳:春風が 吹いて霞を 押しのけて 柳の糸も 躍っているわ

(訳者注9)西大寺の邊の柳をよめる

浅緑(あさみどり) いとよりかけて 白露(しらつゆ)を 珠(たま)にもぬける 春の柳か(僧正遍昭 古今和歌集 春歌上)

現代語訳:浅緑 撚(よ)った糸が 白露の 珠を貫ぬく 春の柳か
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侍従の女房 梅の香りを桜の色に移し、柳の枝に咲かせてみたとしたら・・・この女性はまさに、そういうカンジの人やなぁ、と。

侍従の女房 まぁ、そないなグアイなわけでして、この女性はついに、花でたとえる事もできひんままに終わってしまいましたんでなぁ、その美しさを言葉ではどうにも表現できませんわいなぁ・・・オホホホ・・・。

このように言い戯れながら、障子を引き立てて室内に入ろうとする、その袖を師直は捕えて、

高師直 (ニヤニヤ)ちょっと待った!

侍従の女房 (ニヤニヤ)まぁ、なんですかいねぇ。そないに目尻下げてしまわはって・・・。

高師直 (ニヤニヤ)その女・・・梅桜、いや、柳桜か・・・今はいったいどこにいるんだ? 年は幾つくらいになってる?

侍従の女房 ウフフフ・・・それがねぇ・・・。

高師直 おいおい、そんなに気をもたすな、いいじゃないか、ちょっと教えろぉ。

侍従の女房 聞きたいですかぁー?(ニヤニヤ)

高師直 聞きたいぃーー(ニヤニヤ)。

侍従の女房 ウフフ・・・いや、それがねぇ・・・実は先日、久しぶりにお会いしたんですわ。

高師直 うん、それで?!

侍従の女房 そのお方、もうすでに人妻になってしもぉてはりますんでな、あのすばらしい美貌も、宮中にいはった時からは随分と衰えてはるやろうし、年も盛りを過ぎてしまわはったからなぁ、と、ウチ、そないに思ぉとったんですわ・・・ところが、トコロガァ!

高師直 トコロガ、トコロガァ、トコロテン!?

侍従の女房 ついこないだな、神社へお参りしたその帰り道に、訪ねていってみたんですよぉ。

高師直 で、どうだった!?

侍従の女房 イヤァーーーー、もう、そらァ、もう、なんちゅうたらえぇんか・・・。

高師直 (ゴクリ)・・・。

侍従の女房 かつてのあの美貌、春を待ち遠しがっている若木の花にも喩えるべきあの美貌は、今やさらに色深く、匂わんばかり。有明の月が隈なく差し居る中に、南向きの御簾を高く上げ、琵琶をかき鳴らしてはるそのお姿・・・はらはらとこぼれかかる鬢(びん)のはずれより、ほのかに見える眉の美線、芙蓉(ふよう)のごときあの瞳、赤く美しい唇・・・いやぁー、こないな美しい人を目にしたら、岩屋の奥で修行したどんな聖人たりとも、心迷わずにはおれまいて・・・ほんまにもう、まばゆいばかりの美貌でしたなぁ。

高師直 フギュゥゥゥ・・・。

侍従の女房 まぁそれにしても、うらめしやの男女の結び神。こないな素晴らしいお方が、いったいなんで天皇の后になれへんかったんか・・・后がだめやというんやったら、いったいなんで、結び神は、この人を今の世の天下の権を取る人の妻にせぇへんかったんか・・・いったいなんで、よりにもよって、塔の鳩が鳴くような声を出す、あの無骨の(ぶこつ)ヤボ男、出雲の塩冶高貞(えんやたかさだ)なんかに・・・。

高師直 エーッ、おまえが言っているその美人って、塩冶高貞の奥方の事かぁ!

侍従の女房 先帝陛下もほんまになぁ・・・あないな美しい人を、出雲の塩冶にやってしまわはるなんて。あれではもう、我が身を捨てたも同然ですやん。まるであの、政略結婚で匈奴(きょうど)の王に嫁がされた中国の美女、王昭君(おうしょうくん)同然ですやんか!

高師直 そっかぁ・・・そうだったのかぁ・・・あの塩冶のなぁ・・・ふーん、知らんかったなぁ・・・塩冶の奥方って、そんなにスゴイ美人だったのかぁ・・・。

侍従の女房 ・・・。

高師直 いやいや、おもしろき話を、ありがとう。では、さっそく、お礼をさしあげちまおうじゃん。

色鮮やかな小袖10着と沈香(じんこう)の枕が、侍従の女房の前に置かれた。

侍従の女房 エーッ、こないにけっこうなもんを・・・ほんま、おおきにどすえぇ。

思いもかけない儲けものを目の前に、驚くやら嬉しいやら、その場をすぐには立ち去りかねる侍従の女房。

高師直は、彼女の側にツッと寄っていわく、

高師直 ところで、トコロテン、モノはソウダン・・・。

侍従の女房 はぁ?

高師直 いやいやぁ、とってもおもしろい話を聞かしてもらったおかげでな、オレの病気もどっかへスッとんじまったようだ。でもなぁ、今度は、別の病気にとりつかれちまったぜぃ。

侍従の女房 ・・・。

高師直 なぁ、侍従のネェさん、何とかしてその絶世の美女とオレとの間、取り持ってくんないかなぁ。なぁ、頼む、頼むからさぁ!

侍従の女房 えぇっ!

高師直 仲を取り持ってくれたらさぁ、お礼は十分にね・・・領地だっていいんだよ、この家の中にある財宝だっていいよ、どんなもんでも、オネェさんのお望み次第。

侍従の女房 (内心)うわっ、こらエライ事になってしもぉた。こないな事になるとは、思いもよらなんだ。

侍従の女房 (内心)そらな、独身の女性やったら、なんとかやりようもあるでぇ、そやけど、相手は人妻やんかぁ。そんなん、どだい、ムリな話やがな・・・。

侍従の女房 (内心)あぁ、そやけどな、この話断ったりしたら、ウチは師直に殺されてしまうかもしれへん、どんなヒドイ目にあわされるかもしれへん・・・うわぁ、これは困ったわぁ・・・。

侍従の女房 よろしょま。先方に、一応は言うてみますわ。

その場をなんとか取り繕い、侍従の女房は、ほうほうのていで高師直邸から退出した。

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それから二三日、侍従の女房は、悩みに悩み続けた。

侍従の女房 (内心)あぁ、いったいどないしたらえぇんやろ・・・先方に、いったい、どない言うてったらえぇんやろ・・・。

すると、師直の所から様々の酒肴を添えて、「その後、どうだ、結果はどうなった、遅いなぁ!」との督促の手紙がやってきた。

もうどうにもしようがなく、侍従の女房はこっそり、塩冶高貞(えんやたかさだ)の奥方のもとを訪問した。

侍従の女房 あのねぇ、奥様・・・。これからウチが申し上げます事、言いだした本人もどこまで本気で言うてはんのか、ウチにもよぉ分かりませんねんけどなぁ・・・とにかく、ただ聞いておく、くらいのカンジでもって、聞いといてくださいや。

塩冶奥方 えぇ? いったいなんどすかぁ?

侍従の女房 何を隠そう、実はなぁ、あの高師直、今をときめく師直はんがなぁ、奥様にタイソウな関心を持ってはりましてなぁ・・・。「奥様と自分との間を手引きせぇ!」てなこと、ウチに言うてきはりましてなぁ・・・ハァー(溜息)

塩冶奥方 えー!

侍従の女房 奥様・・・ウチの口からこないな事申し上げるのも、ナンですけどなぁ、ほんの申し訳程度でもよろしいやん、ここは、師直はんを喜ばしとかはったらどないだす? そないしはったら、お子様方の将来の出世の道かて開けますでぇ・・・それに・・・そないな風にうまいことしてくれはったらなぁ、頼る先のないウチかて、この先安心して、生きていけるようになりますねんわぁ。

塩冶奥方 ・・・。

侍従の女房 な、な、奥様、師直はんに、ちょっとだけ会ぉたげるだけでよろしいねんわ。度重なったら人目につきますけどな、ちょっと会うだけの事ですから、誰にも気づかれへんですみますてぇ・・・なぁ、なぁ、奥様ぁ。

このように、侍従の女房は様々にかき口説いたのであったが、奥方はきっぱりと、

塩冶奥方 とんでもない事や・・・もうそないな話、やめとくれやす。

しかし、侍従の女房としては、ここは何としてでも引き下がれない。

侍従の女房 (内心)色よい返事がもらえるまでは、何度でも何度でも、おしかけるんや、あきらめへんでぇ!

毎日、塩冶邸に赴いては、奥方に懇願を繰り返す。

侍従の女房 他ならぬ高師直はんがな、このウチに直々に、「奥様との手引きせぇ」て、キツゥ言うてきてはりますねんやんかぁ。そやからな、奥様から色良い返事が頂けへんかったら、このウチはいったいどないなりますねんや・・・。

侍従の女房 ウチが憂き目を見て、深い淵川の底に沈んでしもぉたその後で、「あぁ、あわれやなぁ」てな事、思ぉてくれはりましてもな、そんなん、何の足しにもならしまへん。今は亡きお父上の宮さまに長年お仕えしてきたこのウチのことを、宮さまの名残と思ぉて下さるんやったらなぁ、せめて、師直はんへの返事の一言だけでもお願いします、なぁ、なぁ、奥様、お願いですから、なあぁーー。

様々な恨み事も交えての強請に、奥方は、もはやうちしおれてしまい、困惑しきっている。

塩冶奥方 そないな、悲しいなるような事、もうこれ以上、言うてくださいますな。人間だいたい、他人の事を哀れやと思う心からついつい、世間にスキャンダルまき散らすような事になってしまうんやからねぇ・・・。

侍従の女 (内心)あぁ、あかんなぁ・・・。ま、とにかく、これまでの結果を、師直はんに報告するしかないわ。

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侍従の女房は高邸を訪ね、師直に一連の経過を報告した。

これを聞いて師直は、ますます、邪の道にのめりこんでしまった。

高師直 そうは言っててもな、何度も何度も言い寄っていけば、そのうち、先方もその気になってくるだろう・・・よし、手紙送るか!

侍従の女房 ・・・。

高師直 おれが書くのもナンだし・・・誰かに代筆を頼むとしよう・・・いったい誰がいいかな・・・そうだ、アイツがいい!

師直は、兼好(けんこう:注10)という能書の遁世者を呼び寄せた。

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(訳者注10)あの「徒然草」の著者、「兼好法師」である。
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紅葉重(ももじがさね)の薄紙に、それを持つ手まで薫(く)ゆらんばかりに香をたきしめ、自らの思いのたけを注ぎ込んだ文を兼好に代筆させて、先方に送った。

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奥方からの返事が来るのを、今か今かと待つ高師直。

使いの者 ・・・ただいま、戻りました。

高師直 どうだった?!

使いの者 ・・・はぁ、それがですなぁー。

高師直 いったい、どうだったんだぁ!!!

使いの者 ・・・奥方様はなぁ、手紙を手に取られましてなぁ・・・。

高師直 おっ、手紙を受け取ってくれたんだな!

使いの者 で、開きもせんとからに、ポイと庭に捨てられてしまいましたわ。

高師直 ・・・(ガーーン!)。

使いの者 ・・・人目についたらあかん思いましたんで、ウチ、それ懐に入れてなぁ・・・。

高師直 ・・・。(怒気ムラムラ)。

使者 (ビクビク)・・・持って帰って・・・き、ま、し・・・。

高師直 ・・・(怒気ムラムラムラムラ)。

使者 (手紙をそこに置き、あわてて退出)。

高師直 えぇい、もぉ!

高師直 それにしても、書家なんてのはホント、なんの役にも立たんヤツラだ! 本日から、兼好法師、この邸内への立ち入り、厳禁ーん!

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このような所に、薬師寺公義(やくしじきんよし)が、たまたま所用があってやってきた。

高師直 おっ、これはいい所へ、ちょっと、ちょっと・・・。

薬師寺公義 はぁ?

師直は、公義を傍らへ招いて、これまでの経過を説明した後

高師直 てなわけでな、手紙を送っても開いて見もしない。全くとりつくシマもない、つれなさだ。いったいどうしたもんだろう、何かいい案なぁい?(ニヤニヤ)

薬師寺公義 そうですねぇ・・・。人間誰しも、岩や木ではないわけですからぁ、相手がたとえどんな女であっても、慕う心になびかないはずがない。もう一度、手紙を送って見られては?

高師直 いったいどんな風に書いたらいいんだろ?

薬師寺公義 よろしければ、代書させていただきましょうかぁ?

高師直 うん、頼む!

薬師寺公義 (筆を走らせながら)こういうのはね、あんまりクドクド書いても、かえって逆効果なんですよねぇ。スッキリクッキリ、言語明瞭、意味明瞭で行く、こんなのどうですかぁ?

高師直 どれどれ・・・(パン!・・・膝を叩く音)なるほど、和歌で行くかぁ!

 返された 手紙でさえも いとおしい だって貴女(あなた)の 手が触れてんだもん

いぃねぇー!

 (原文)返すさへ 手やふれけんと 思(おもふ)にぞ 我文(わがふみ)ながら 打(うち)も置(おか)れず

この手紙を持って、使いの者は、塩冶邸へ再び赴いた。

奥方はいったい何を思ったのか、その歌を見て顔を赤らめ、手紙を袖に入れてその場を立った。

使いの者 (内心)しめた、脈ありまっせぇ。

使いの者 (奥方の袖を捕らえて)ちょっとちょっと、奥様。お返事のお手紙、頂けしまへんのんどすか?

塩冶奥方 重きが上の小夜衣(さよころも)。

このようにだけ言い捨てて、奥方は内へ入ってしまった。

そのまま待っても一向に出てこないので、使いの者は、急いで高邸へ帰った。

使いの者 (経過を報告し)・・・とまぁ、こないな次第でしたわ。

高師直 やったぞ、やったぞ! 手紙を受け取ってくれたか! うわぁ、こりゃぁルンルン気分だなぁ。

師直はすぐに、薬師寺公義を呼んだ。

高師直 ついにやったぜ! 相手はレター(letter:手紙)、受け取ってくれたとよぉ!

薬師寺公義 で、リプライ(reply:返事)は?

高師直 使いの者が言うにはな、「重きが上の小夜衣」ってだけ言って、すぐに座を立ってしまったんだって。おそらく、「衣や小袖を調えて贈れ、そうすればこちらになびくぞ」って事じゃないかなぁ。ウシシシ、そんなんお安いご用どすえ、どんな豪華な装束かて仕立てさせるでありんす・・・アチキのこの解釈、これでよござんすか?

薬師寺公義 ウーン・・・その返事に込められた意味、残念ながら、あんまり色よい内容じゃぁないですねぇ。

高師直 ・・・。

薬師寺公義 新古今和歌集の巻20、釈教歌編の中に、「十戒(じゅっかい)の歌」ってのがあるんですがね、

 さなきだに 重(おもき)が上の 小夜衣(さよころも) 我がつま(褄)ならぬ つまを重ねそ(注11)

ってね。

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(訳者注11)現代後訳、以下の通り。

 ただでさえ 厚くて重い かけ布団(ぶとん) 他人の布団の 褄(つま)重ねるな 

褄(つま)は小夜衣(夜着)の褄であるが、ここでは「夫(つま)」あるいは「妻(つま)をかけてある。
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薬師寺公義 ですからね、このように人目を憚って、他人には分からなぁいようにしてですよ、この歌の意味を借りながら先方は、心の内を表現したんです。ようは、「この話、お断りします」って事ですわ。

実に鮮かな「歌解き」をやってみせた薬師寺公義に、高師直は感歎、

高師直 いやー、すげぇなぁ。あんたは弓矢の道だけじゃなくて、和歌の道にかけても天下最高レベルだぜ。よぉし、お礼のプレゼント!

師直は、黄金の丸鞘の太刀一振を手ずから取り出して、公義に贈った。

兼好の不幸、公義の高運、栄枯一時に地を替え、とでも言うべきか。

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それ以降、師直はしょっちゅう、侍従の女房を呼び付けては、

高師直 あー、彼女、恋しくて恋しくて、もうオレ、死んじまいそう・・・将軍様の大事に臨んでこそ捨てようと思ってたオレのこの命なのに、焦れてみてもどうしようもない人妻の為に、空しくなってしまうとは・・・ハァー(溜息)、なんて悲しい事なんだろう・・・えぇ、そうだろ、そう思わんかいー?!

侍従の女房 はぁー。

高師直 オレが死ぬ時はな、侍従のネェさん、あんたも道連れだぁ。必ずあんたを連れて、死出の山、三途の川、渡るんだぁ!

侍従の女房 ガタガタ・・・((恐怖におののく)

このように、ある時は目をイカラせて威し、ある時は顔を垂れて恨み事をさんざんに言う。

侍従の女房は、ホトホト困り果ててしまった。

侍従の女房 (内心)よーし、こないなったら、もうしゃぁない! 師直に、あの方の湯上がりの顔、見せたろ。スッピンの顔見せたったら、百年の恋かて、いっぺんに醒めるやろて。

侍従の女房 もう暫くだけ、猶予を下さいな。「見ずもあらず 見もせぬ(注12)」というようなんではな、その女の人、本当に自分の好みなんかどうか、かいもく分かりませんやろ? そやからね、相手に気づかれーんように、彼女の姿見れるように、ウチ、うまいことやりますよって、な、な。

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(訳者注12)「古今和歌集 恋歌1」の下記の歌。

右近の馬場のひおりの日、向かいにたてたりける車の下すだれより、女の顔のほのかに見えければ、詠んでつかはしける  在原業平

 見ずもあらず みもせぬ人の こひしくは あやなく今日や ながめくらさん

 現代語訳:見せるなら はっきり見せて ほしかった 貴女の顔に 思いはつのる
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高師直 ヨーシ、ヨシ!(ニヤリ)

「決行の日」の到来を、今日か、明日かと待ち続ける高師直。

--------

かねてからの約束通りに、塩冶家の奥方付きの童女が、侍従の女房の所にやってきていわく

童女 今夜がチャンス! ご主人さま、お留守ですわ。奥様もきっと、お風呂に入られますでしょう。

侍従の女房はすぐさま、師直にそれを伝えた。

高師直 よーし、行きますでぇ!(ワクワク)

師直は、侍従の女房に案内させて、塩冶邸に忍び入った。

彼女は、柱間が二つある室内へ師直を導いた。

侍従の女房 もうすぐ、この前をお通りやすからな、物陰に隠れながら、奥様のお顔、とっぷり拝んどくれやす。

高師直 うん!

師直は、身を側めて障子の陰に隠れながら、奥方が廊下を通るのを、今か、今かと待ち構える。

高師直 ・・・・・。

高師直の心臓 ドッキン、ドッキン、ドッキン・・・。

侍従の女房 ・・・(ヒソヒソ声で)ほれ、きはりましたで!

高師直 (ヒソヒソ声で)オオッ!

師直の眼前を、この世の者とは思われないような絶世の美人が通りすぎていく・・・。たった今、湯から上がったばかりであろうか、表地は紅梅、裏地は蘇芳(そほう)の襲(かさね)に氷のようなネリ絹の小袖。しおしおと裾を持ち上げ、濡れ髪が長く肩から腰にかかっている・・・。

高師直 ウゥ、アァーーーー・・・。

限りなく美しいその人は、あっという間に通り過ぎていってしまった。袖の下にたきしめた香の匂いだけが、その人が去った跡に漂っている。

高師直 アァーーー、アァーーー、行ってしまったぞ、花はどこへ行った? アァーーー。

侍従の女房 (ヒソヒソ声で)そないに大きい声出したら、あきませんがな、家のモンに気づかれてまいますやろ!

巫女廟(ぶじょびょう)の花は夢の中に残り、王昭君(おうしょうくん)の生地の柳は雨にうたれていよいよ美しく・・・。

高師直 アァーーー、アァーーー、アァーーー・・・(ワナワナワナワナ・・・)

モノノケにでも憑かれたようにワナワナと震えだした師直に、侍従の女房は、気も動転するばかり。

侍従の女房 (内心)うわぁ、またまたエライ事になってしもぉたで。恋を冷まそう思うて、こないな事までしたのに、かえって深みにはめてしもたやん・・・こらとにかく、はよ、邸の外に連れださなあかん。

侍従の女房 あんな、ここにいたんでは、グアイ悪いですわ。塩冶高貞がいつ帰ってくるか、しれまへんやろ。さ、はよはよ、外に! はよいきましょ!

師直の袖を引いて、蔀(しとみ)の外まで連れ出したものの、彼は縁の上に平たく伏してしまい、引いても叩いても起き上がれない。

高師直 アァーーー、アァーーー、アァーーー(ワナワナワナワナ・・・)

侍従の女房 (内心)このまま、ここで死んでしまいよるんちゃうやろか。いやいや、そないな事になったら、一大事! とにかく、この家から外に出さんと!

ほうほうのていで、高邸へ師直を連れ帰ったものの、彼はそのまま、恋の病に伏し沈んでしまった。

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高師直 アァーーー、アァーーー、アァーーー、美しい、美しい、美しい、アァーーー、アァーーー、アァーーー、(ワナワナワナワナ・・・)

高家メンバーA (ヒソヒソ声で)おいおい、ウチの殿、いったい、どうなっちゃってんの?

高家メンバーB (ヒソヒソ声で)まいったぜぇ、もう。寝てもさめても、あんなカンジで、ヘンなウワゴトばっかし、うなってんだよぉ。

高家メンバーC (ヒソヒソ声で)恋の病ってやつかねぇ?

高師直 恋だ、恋だ、ウァーーーー!

高家メンバーC (ドキッ)・・・あ、なんだ、ウワゴトかぁ・・・びっくりするなぁ、もう。

高師直 恋しない、恋すれば、恋するよ、恋する人、恋すれども、恋しろ! ウァーーーー! ウァーーーー! ウァーーーー!(ワナワナワナワナ・・・)

高家メンバーA あーあ・・・。

高家メンバーB んもう、どうしたらいいのぉ?

これを伝え聞いた侍従の女房は、

侍従の女房 (内心)ほんーまに、エライ事になってしもぉたで。こないな事では、ウチにも、どないなトバッチリ来るか分からへん。

あまりの恐ろしさに、侍従の女房は、誰にも行く先を覚られないような京都から遠隔の地へ、逃亡してしまった。

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その後、師直の邪な恋の手引きをする者は、誰もいなくなってしまった。

高師直 (内心)まいったなぁ・・・いったいどうしたもんかなぁ・・・。

高師直 (内心)うん、そうだ、いいテがあるぞ。

師直は、足利尊氏(あしかがたかうじ)と足利直義(ただよし)に対して、「塩冶高貞(えんやたかさだ)は、幕府に対して謀反を企てております」と、様々に讒言(ざんげん)した。

これを聞いた塩冶高貞は、

塩冶高貞 (内心)高師直は幕府の実力者、尊氏のおぼえも抜群だからな、あぁまで讒言されたんでは、わしはもうとても、生きてはおれん。

塩冶高貞 (内心)よぉし、同じ死ぬんだったらな、本拠地の出雲(いずも:島根県東部)へ逃げ下って、旗上げしてやらぁ! 一族こぞって師直に対抗し、命を捨てるまでのことよ!

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3月24日早暁、塩冶高貞は、忠義の心堅い若党30余人を率いて、京都を発った。

全員、狩服に身を包み、手には小型の鷹を止まらせて、蓮台野(れんだいの:京都市・右京区)や西山(にしやま:西京区)へ狩りに行くかのように装いつつ、寺戸(てらど:京都府・向日市)から山崎(やまざき:京都府・大山崎町)を経由し、播磨路(はりまじ)を逃走。(注13)

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(訳者注13)原文では、「寺戸より山崎へ引違、播磨路よりぞ落行ける。」
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それから1時間ほど遅れて、高貞の側近の郎等20余人が、奥方と子供達を護衛して京都を離れた。

彼らは、神社詣でをする一行のように装い、丹波路(たんばじ)を西へ急いだ。(注14)

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(訳者注14)原文では、「半時計(はんじばかり)引別(ひきわか)れ、丹波路よりぞ落しける。」
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しかし・・・あぁ、昨今の人間の心は、なんとまぁあさましい事であろうか、子が親の敵となり、弟が兄の命を奪うなど、もはや日常茶飯事。高貞の弟の塩冶貞泰(えんやさだやす)が、高師直邸に急行し、兄の計画を残らずリークしてしまった。

高師直 しまったぁ! 塩冶一家が京都から逃げ出したか!

高師直 (内心)もうっ! 尊氏様がチャッチャと処置なさらないから、こんな事になってしまうんだよ! 美女が逃げていってしまうだろうが、天下の美女がぁ!

師直は、足利尊氏邸へ急行。

高師直 殿! 一大事! 塩冶高貞が、京都を脱出しましたぜぃ!

足利尊氏 え・・・。

高師直 もうー、殿ぉ!

足利尊氏 ・・・。

高師直 だからぁ、こんな事になっちゃ困るからねぇ、やいのやいのと申し上げてきたんじゃないですかぁ、早く塩冶を処罰なさいませ、とねぇ。

足利尊氏 ・・・。

高師直 今暁、京都を出て中国地方を目指して逃走中、とのことですぞい。このまま、出雲か伯耆(ほうき:鳥取県西部)に逃げられて、一族こぞって城にたてこもられたら、もう、シッチャカメッチャカ大変な事になっちゃうじゃないですかぁ!

足利尊氏 ・・・それはいかんなぁ・・・。

高師直 早く、今すぐ追討軍を!

足利尊氏 ・・・うん、分かった・・・問題は追討軍のリーダーか・・・誰がいいかなぁ・・・。(周囲を見回す)

足利サイド・リーダーK (内心)うわっ、こりゃエレェ事になっちまったぞぉ。(ドキドキ)

足利サイド・リーダーL (内心)おれもよくよく運が悪い男だ、こんな時にここに居あわせるなんて・・・。(ドキドキ)

足利サイド・リーダーM (内心)塩冶殿の追討だなんて、こりゃまた、イヤァな仕事が、降ってわいてきたもんだぜぇ。(ビクビク)

足利サイド・リーダーN (内心)「お前、行け」ってな事になったら、どうしようかなぁ・・・。(ビンビン)

足利尊氏 (内心)やれやれ・・・塩冶追討の任務が自分に回ってきやしないかと、みんなカタズ飲んで緊張しまくりじゃん・・・。こんな事じゃぁ、この任務、彼らにはとてもムリだなぁ。

足利尊氏 (側近の者に)えぇと・・・あのな・・・山名時氏(やまなときうじ)とな・・・うーん、そうだな・・・桃井直常(もものいなおつね)・・・えーと・・・大平出雲守(おおひらいずものかみ)もだ・・・ここへ呼べ。急いでな。

尊氏側近の者 ハハッ!

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足利邸へかけつけてきた3人に対して、尊氏より、「塩冶高貞は現在、中国地方を目指して逃走中。どこまでも追跡して、彼を討て」との命が伝えられた。3人ともいささかの異議もなく、かしこまって命に服した。

山名時氏 (内心)こりゃ困ったな・・・こんな用件とは思いもよらなかったもんだから、バッチシ正装で来ちゃった・・・今から自宅へ帰って、鎧を身につけ部下を率いて、なんて事してるうちに、塩冶は、はるか彼方に逃げていってしまう。そうなってからでは、もうとても追いつけない・・・よし!

山名時氏 高殿、あそこにいるあなたの若党ね、ほら、あいつですよ、あいつの着てる鎧、オレに貸してくださいな。家に取りに帰っているひま無いんで。

高師直 おぉ、どうぞ、どうぞ。

時氏は、その鎧を取って肩にうち懸け、馬に乗り、馬上で鎧の紐を結びながら、足利邸を風のように飛び出した。

山名父子主従7騎は、馬を急かせて、播磨路を一気に進んでいく。(注15)

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(訳者注15)原文では、「父子主従七騎、播磨路にかゝり、揉にもみてぞ追たりける。」
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桃井直常と大平出雲守も、自宅に戻らないまま、中間(ちゅうげん)一人だけを帰らせて、「乗り替えの馬や武具を持って、後から追いかけてこい」と家臣たちに伝えさせ、丹波路を一目散に追跡していく。

桃井直常 (通行人に対して)おい、この先の方で怪しげなグループに出会わなかったか?

通行人O はー、怪しげなグループねぇ・・・そういえば、小鷹を数羽手に持った男ら14、5騎ほどと出会いましたわ。(注16)

桃井直常 そのグループ、男だけか?

通行人O いやいや、女の人を輿に乗せてな、なんや知らんけど、えらい先を急いでる風でしたでぇ。そうやなぁ・・・もうかれこれ2、3里程は、先に行ってしもてますかいなぁ。

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(訳者注16)原文では、「小鷹少々すへたりつる殿原達十四五騎が程、女房をば輿にのせて急がはしげに通りつる。」

奥方と子供たちを護衛するグループは、先には、「神社詣でを装って丹波路を行っている」とあるので、「小鷹を数羽手に持った男」というこの記述と矛盾している。狩に行く風を装っているのは、先発して播磨路を行く塩冶高貞と家臣のグループの方のはず。
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桃井直常 そのグループ、きっとヤツらだな。それほど先には行ってないようだ。だったら、我々もそんなに先を急ぐ必要もない。よし、しらばくここで止まって、後続部隊を待とう。

その夜、彼らは、波々伯部宿(ははかべじゅく:兵庫県・篠山市)にしばし逗留。やがて、子息・左衛門佐(さえもんのすけ)(注17)、小林民部丞(こばやしみんぶのじょう:注17)、小林左京亮(こばやしさきょうのすけ)以下の者らが到着。

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(訳者注17)「子息・左衛門佐」とは、いったい誰の子息なのであろうか?

[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店] 359P 注では、この人物を、[山名師義(やまなもろよし)]、すなわち、[山名時氏]の子息である、としているのだが、この説明だけでは、話がおかしくなる。後の記述によれば、[山名師義]は、父の[山名時氏]と共に播磨路を進んでいっている、という設定になっているから。

「小林民部丞」については、[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館] 66P,67P 注では、この人物を、山名氏被官で、山名時氏の領国丹波の守護代を務めた人であるとしている。

山名氏被官であるこの人が、主君・時氏とは別行動を取って、桃井直常が担当している丹波路を進む追討部隊に参加してくるとは、到底考え難い。

「小林左京亮」も、後に、播磨路の加古川での戦闘場面に登場してくる。

以上より、訳者は以下のように推測する:

太平記作者がミスをして、山名時氏と共に、あるいは、山名時氏に続いて、播磨路を行く設定になっている、[山名師義]、[小林民部丞]、[小林左京亮]を、丹波路の方に登場させてしまった。
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取る物も取りあえず、追討軍250余騎は、追跡を再開。道中、塩冶家の人々の行くえを問いながら、昼夜ぶっ通しで馬を走らせていく。

塩冶家の家臣らは、「既に、追跡がかけられているだろう、少しでも先を急がねば!」と、気ばかりあせるのだが、女性や幼児を混じえての逃避行ゆえ、あれやこれやの世話にどうしても時間が取られてしまう。ついに、播磨の陰山(かげやま:兵庫県・姫路市)で、追討軍に追いつかれてしまった。

もはやこれまで、と覚悟を定めた塩冶家家臣一同は、輿を路傍の家に入れ、向かってくる追討軍に立ち向かい、もろ膚脱いで散々に矢を射る。

追討軍側には、鎧を装着している者が少なかった。懸け寄せては射落され、刀を抜いてかかっていっては射すえられ、たちどころに戦死者11人、負傷者多数。

しかし、後続の者らが次々と到着し、追討軍側の兵力は増していく一方。ついに、塩冶家側の矢が尽きてしまった。

塩冶家臣リーダーP もはやこれまで! 奥様とお子様方をあの世にお送り申し上げ、それからオレたちも腹を切ろう!

家の中へ走り入ってみれば、奥方が弱々しくしおれはて、美しい顔を泣き腫らしている。一睡もできずに、泣き続けていたのであろう。あえて彼らが手をかけずとも、もう今にも死んでしまうかというような有様である。膝の傍に二人の子供をかき寄せ、「いったいどうすれば」と思い悩むその姿を目にしては、さしもの剛勇ぞろいの塩冶家の家臣らも、落ちる涙に目もくれてしまい、ただただ、呆然と立ちつくすばかり。

追討軍は徐々にその包囲網を狭めてくる。

桃井直常 (追討軍全員に向かって)おまえら、これからオレが言う事、よく聞けよ、非常に大事な事なんだからな。

追討軍メンバー一同 ・・・。

桃井直常 この事件のそもそもの発端がいったい何だったかという事をだな、よぉくよく考えてみるにだな、たとえ、塩冶高貞は死んだとしても、その奥方は、生きたまま確保しなきゃいかんのだ。そうでないとなぁ、あの足利家執事(しつじ)・高師直殿を満足させることはできない。なぁ、分かるだろ、おまえら。この点を、よくよく注意して、かかれよ。

それを、家の中で聞いていた塩冶家臣の八幡六郎(はちまんろくろう)は、奥方に抱き着いている今年3歳になる高貞の次男をかき抱いて、家を走り出た。

付近の辻堂に一人の行脚僧(あんぎゃそう)がいた。八幡六郎はその僧に、

八幡六郎 お願いだ、この幼い人を預かってくれないか! あんたの弟子にして、出雲まで連れてってくれ! なんとかして、なんとかして、この子の命、助けてやってくれ! 頼む、頼む!

行脚僧 ・・・。

八幡六郎 そうしてくれたら、あんた、必ず、所領一所の主になれるから! 頼む!

六郎は、小袖一着を幼い人にそえ、行脚僧に渡した。

行脚僧 よし、分かった! 何とかやってみよう。

八幡六郎 あ・・・ありがとよ・・・。(涙)

八幡六郎 ・・・若様、どうかご無事で・・・(涙)

六郎は大いに喜び、みながたてこもっている家へとって返した。

八幡六郎 よぉし、こうなったらもう、思い残す事は何もない! おい、みんな、おれは矢が続く限り防ぎ矢を射るから、みんなは中へ入ってな、奥様とお子様らを刺し殺し申し上げて、家に火ぃかけて腹切れ!

塩冶家臣一同 よぉし、頼んだぞ!

塩冶一族に所属の塩冶宗村(えんやむねむら)は、家の中に走り入った。太刀を持ち直し、

塩冶宗村 奥様、どうかお許しを!

雪よりも清く花よりも美しい奥方の胸の下を一突き、

塩冶奥方 アッ!

ほとばしる鮮血・・・かすかな叫び声と共に、奥方は薄衣(うすぎぬ)の下に倒れ伏した。

五歳になる息子は、太刀に怯えてワッと泣きだし、息絶えた母にすがりつく。

塩冶子息 お母さま、お母さま!(泣きじゃくりながら)

塩冶宗村 さ、わしといっしょに、お母さまの所に行こう、な・・・(涙)。

宗村は心をはげまし、子供をかき抱いた。太刀の柄(つか)を垣に当て、抱いた子供もろとも、宗村はその太刀に鍔元まで貫かれて絶命した。

これを見た他の22人は、「もうこれで、思い残す事は一切無し!」と、髪を振り乱し、もろ膚脱いで、迫りくる追討軍メンバーに走り懸かり走り懸かり、火花を散らして切り合う。

塩冶家臣メンバーQ (内心)いくら戦ってみても、もうとても逃れられるもんでもない。イワマの際に、こうやって人殺しの罪を重ねるのも、何やら空しい事のようにも思えるのだけど、

塩冶家臣メンバーR (内心)でも、おれたちがここでこうやって一時でも敵を食い止めたら、殿は、もっと遠方に逃げることができるのだから、

塩冶家臣メンバーS (内心)とにかく、ここで時間をかせぐのだ、殿が逃げる為の時間をな。

塩冶家臣メンバーT おい、よく聞け! このわしが、おまえらが追いかけている塩冶高貞だ! わしの首を取って、師直に見せてやれ!

このように、家臣たちは高貞の名を次々と名乗り、およそ4時間ばかり戦い続けた。

今や、矢は尽き、切傷を負ってない者は一人もいない。

塩冶家臣R もういいだろう!

塩冶家臣S そろそろ行くかい?

塩冶家臣T よぉし!

彼らは家の戸口に火を放った。猛火の中に走り入り、22人全員思い思いに腹を切り、炎にまかれて死んでいった。

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鎮火の後、焼け跡の捜索が始まった。

一塊の灰を取り除いてみると、そこに女性の焼死体があった。焼野の雉(きじ)が雛(ひな)を翼の下に隠しながら焼死したごとくに、刀の先に懸けられた胎内の子供の半身が腹から外に露出しており、血と灰にまみれていた。

さらに、腹をかき切った死者多数が重なり伏した下に、幼い子供と共に一本の刀に貫かれた一人の男性の遺体が見つかった。

桃井直常 おそらくこれが、塩冶高貞の遺体だろうよ。でもなぁ、こんなに焼けただれて損傷が激しいんじゃ、首実検は不可能だ。

大平出雲守 そうだなぁ。首を取って帰っても仕方がないだろう。

というわけで、桃井と大平は、遺体から首を取る事無しに、すぐに京都へ帰還した。

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塩政高貞を追って山陽道を行く山名時氏の一行が、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)の宝積寺(ほうしゃくじ)の前を過ぎようとしていた時、後方より声がかかった。

人物U おーい、山名家の方々、少し待ってくださいよぉー。・・・高師直(こうのもろなお)殿よりの手紙をねー、持って参りましたんですよぉー。・・・師直殿よりの伝言もあるんですよぉー!

山名時氏 はて・・・いったい何を言ってきたのかな?(馬を止める)

その人物は、3町ほど彼方から大声で、

人物U いやねぇ・・・もう京都からここまで、猛スピードで来ちゃったもんだから・・・ハァハァ・・・息が切れちゃってね・・・ハァハァ・・・とてもそこまで、行く元気ありませんわ・・・すみませんがね、ちょっとここまで来てくださいよ。

山名時氏 (馬から下りて若党らに)高殿からいったい何を言ってきたのかな、おまえたち、あそこまで行って、用件を聞いてこい。急いで帰ってくるんだぞ!

若党たち ハハッ!

彼らは馬を馳せ、その人物の前で馬から飛び降りて、

山名家・若党V 高殿からの用件、承ろう。

人物U フフン、師直からの使者だなんて、真っ赤なウソよ。オレは、塩冶様の御家中の者さ。殿が京都を脱出されるなんて事、まったく知らなかったんでな、お伴ができずに、おれだけ取り残されちゃった。だからな、ここで殿のために命を捨てて、冥土へのみやげ話を作ろうと思ってな、ワハハハ・・・。

言うやいなや、刀を抜いて切り掛っていく。しばらく戦って山名家の3人に傷を負わせ、自らも2傷負った。やがて、今はこれまでと思い切り、塩冶家のその家臣は、腹かき切って死んでいった。

山名時氏 えぇい、まんまとイッパイ食わされて、時間をムダにしちゃった。塩冶との距離があいてしまった、急がなきゃ! さぁさぁ、みんな、急げ、急げ!

彼らは、ますます馬のスピードを上げて追跡を続行し、湊川(みなとがわ:兵庫県・神戸市)に到着。京都から18里もの距離を、たった4時間でかけ抜けたのである。

山名時氏 もう無理だな、今日はこれ以上、先には進めんよ、馬が完全にヘバッてしまってるから。しょうがない、ここで一晩馬の足を休めて、明日また、追跡再開だ。

というわけで、山名時氏たちは、その夜は湊川に逗留する事になった。

追討軍に加わっていた今年14歳の山名時氏の子息・師氏(もろうじ)は、血気盛んな若武者たちを選抜していわく、

山名師義 逃げていく塩冶は、後からの追跡を恐れ、夜を日に継いで逃走していく。かたやオレたちは、疲れた馬を休めながら、徒(いたずら)に夜明けを待つばかり。こんな事じゃとても、塩冶を追いつめて討ち取る事なんてできない! オレはこれから、オヤジに内緒で、馬を走らせて塩冶を追いかける! 今夜の中に塩冶を追いつめて、討ち取とってしまうんだ、アイツが出雲へたどりつく前にな。乗馬の得意なヤツは、おれに続け!

言うやいなや、師義は馬にまたがり、宿所から弾丸のように飛び出した。小林以下の武士ら12人も、我も我もと師義に続き、夜通し馬を走らせた。

湊川から加古川(かこがわ:兵庫県・加古川市)まで16里の道程を、彼らは一夜で駆け抜けた。

やがて、ほのぼのと夜が明けてきた。

川霧の絶え間から対岸を透かし見たそのはるか彼方に、旅人らしき騎馬の人々の姿が見えた。その人数およそ30騎ほど、足運びの乱れた馬を急かしながら、我先にと急いでいる。

山名師義 あぁ! 塩冶だな、ついに追いついたぞ!

師義は、川べりまで進み、対岸めがけて叫んだ。

山名師義 おぉーい、そこの馬を早めて先を急ぐご一行! 塩冶高貞殿とそのご家中と見たが、これはオレの見間違いかぁ?!

塩冶家の人々 (馬の足を止めて振り返る)・・・。

山名師義 将軍様を敵に回し、オレたちの追跡を受けて、いったいどこまで逃げおおせると思ってるんだぁ! ここで踏みとどまって正々堂々と戦え! とっとと討死にして、この川の流れに武名を残されよ!

塩冶高貞の弟・六郎(ろくろう)は、若党たちに対して、

塩冶六郎 あいつらを食い止めるために、まずオレが、ここで討死にする。おまえらは兄上を守って、先に行け。これから先の道中、路が細くなってる所々でな、防ぎ矢を射て敵を食い止めるんだ。みんないっぺんに討死にしちゃいかんぞ、これから先の道中は長いんだから・・・わかったな!

自分が死んだ後の事までもこのように事細かに指示した後、塩冶六郎は従者6人とともに、川べりへとって返した。

山名師義ら12騎は一斉に川へ入り、馬のくつばみを並べて川を渡っていく。塩冶六郎たちは対岸から鏃を揃え、散々に矢を射る。

師義は、兜の吹返(ふきかえし)部分と左の袖に矢を3本受けながらも、対岸へサッと駆け上がった。そこへ塩冶六郎が襲いかかっていく。

山名師義 エーイ! カクゴ!

塩冶六郎 何をほざくか、これでもクラエィ!

二人の太刀 チャイーン!

二人は馬を懸け合わせながら刀を合わせ、死闘を展開。主危うしと見た小林左京亮(こばやしさきょうのすけ)がそこに加勢してきた。

小林左京亮 エヤー、エヤー!

塩冶六郎 えぇい!

塩冶六郎の太刀 ヴァシーン!

小林左京亮 うぁっ!

塩冶六郎の太刀を受けて、小林左京亮は落馬してしまった。まさにその太刀の下に果てんというその時、山名師義がそこに馳せ寄り、

山名師義 エイッ!

塩冶六郎 ウゥッ!

山名師義の太刀の一撃に、塩冶六郎は息絶えた。

塩冶家の他の6人も思い思いに討死。山名師義はその首を路地にさらした後、すぐに追跡を再開した。

この間に、塩冶高貞らは50町ほど先まで逃げていたが、家臣らの乗馬が疲れ果て、もう一歩も先に進めなくなってしまった。彼らは、馬を捨てて徒歩で高貞に従った。

このような状態では本道を行くのはとても無理なので、御着(ごちゃく:兵庫県・姫路市)宿から進路を変え、小塩山(こしおやま:姫路市)へ入った。

山名師義は、なおもその後を追った。塩冶家の者3人がそれを迎撃し、一叢の松林を盾がわりに、さしつめひきつめ散々に矢を浴びせる。最前列を進む山名側6名を射落し、矢が尽きてしまった後は、刀を抜いて山名側と切り合いながら、次々と倒れされていく。

彼らの防戦のかいあって、塩冶高貞は、はるか彼方に逃げのびることができた。

山名側は、馬も疲れはててしまい、

山名時氏 うーん、出雲への道中で追いつくのは、もうとてもムリだ。よし、こうなったら先を急ぐ必要もあるまい、もうちょっとスピードを落して、出雲へ向かうとしようか。

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3月末日、塩冶高貞は出雲へ到着。

翌4月1日、追討軍の大将・山名時氏とその子・師義も、300余騎を率いて、出雲国・屋杉(やすぎ:島根県・安来市)庄に到着。山名時氏は直ちに、出雲国中に布告を出した。

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布告 山名伊豆守時氏(やまないずのかみときうじ)発令す

将軍様に対する塩冶高貞の謀反の企てが露見したゆえに、これを誅罰せんが為、私は、当国に下向した。

塩冶高貞を討ち取った者には、その身分の上下を問わず、恩賞を頂けるように、私の方から将軍様に申告する。

出雲国中の者ら、競って、塩冶高貞を討ち取るべし! 手柄をたてて、大いなる恩賞に預かるがよかろう!
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この布告を見て、他家の者は言うに及ばず、高貞の親類や血族の者らまでもが、ムラムラと欲心を起こし、年来のよしみを忘れはててしまった。

出雲国内外の武士らが、道を塞ぎ、行く手に立ちはだかり、ここに待ちかまえ、かしこに来たって、高貞の命をつけ狙う。もはや一日とて、彼には身を隠すべき所も無い。

塩冶高貞 こうなったら、佐々布山(ささふやま:島根県・松江市)に上って城を構え、一戦するしかないな。

佐々布山めがけて馬を早めている所に、丹波路(たんばじ)方面から逃げてきた若党が一人走り寄ってきた。

塩冶家・若党W 殿、殿ぉーっ!

塩冶高貞 おぉ! おまえは!

塩冶家・若党W 殿・・・殿はいったい誰の為に、お命を惜しまれて、城にたてこもるおつもりなのですか・・・。

塩冶高貞 奥はどうした! 子供らは!

塩冶家・若党W (涙)・・・奥様をお守りしながら丹波路を急ぎましたが、播磨の陰山(かげやま)という所で追討軍に追いつかれてしまい・・・(涙)

塩冶高貞 なにぃ!

塩冶家・若党W (涙)奥様もお子様も、みな刺し殺し申し上げ、一人残らず腹を切って死にました・・・ううう・・・(涙)。

塩冶高貞 ・・・(呆然)。

塩冶家・若党W (涙)これを・・・これを殿にお知らせする為に・・・その為だけに、オレは・・・オレは・・・もう生きててもどうしょうもない命を長らえて、ここまでやって来ました・・・(涙)。もうこれで、思い残す事はありません!

言うやいなや、彼は腹をかき切って、高貞の乗馬の前に倒れ伏した。

塩冶高貞 ・・・奥も子供らも・・・みな、逝ってしまったのか・・・。(涙)

塩冶高貞 つかの間も離れ難い妻と子を・・・殺されてしまった・・・これ以上、生きててもしようがない・・・。

塩冶高貞 ・・・無念・・・無念だ・・・。

塩冶高貞 えぇい、高師直! (ギリギリと歯を食いしばり)思い知らせてやるからな! 未来永劫、おまえの敵になって、わしは生まれかわってくるぞ!

高貞は、憤怒の中に、馬上で腹を切り、逆さまに落ちて死んでいった。

塩冶家の若党30余人は、高貞より、「城になすべき適当な場所を見つけてこい」との命を受けて方々に散っていたので、その時、彼の側にいたのは木村源三(きむらげんぞう)ただ一人であった。

源三は、馬から飛び降り、高貞の首を取って直垂(ひたたれ)に包み、はるか遠くの泥田の中にそれを埋めた。

その後、源三は主君の遺骸が横たわっている場所に帰ってきて、

木村源三 殿、冥土の旅、オレがおともいたします!

源三は、自らの腹をかき切り、腸を繰り出して高貞の遺骸の首の切り口を覆い、その上にうち重なって死んでいった。

その後、山名時氏の部下らは、木村源三の足に付着した泥の跡をたどって、深田の中に隠されていた高貞の首を探し当て、高師直のもとへ送った。

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(訳者注18)後の注20に述べるが、この塩冶高貞の最期の様は、太平記作者によるフィクションであり、史実ではない可能性が、極めて高い。
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世間の声α なんてまぁ、ムゴイ話なんでしょう・・・気の毒でとても聞いてられないわ・・・。

世間の声β ほんに・・・あれほど足利幕府に忠功のあった塩冶高貞様やったのになぁ。ほんま、ひどい話どすなぁ。

世間の声γ 塩冶様に、いったい何の罪があったってのよぉ!

世間の声δ そうよ、そうよ! 絶大な功績こそあれ、なんの罪もないわよねぇ!

世間の声ε 立派なお方やのになぁ、一朝の讒言(ざんげん)に百年の命を失(うしの)ぉてしまわはって・・・ほんま、お気の毒ですなぁ。

世間の声ζ この事件の顛末(てんまつ)聞いててさぁ、アタイ、古代中国のある話、思いだしちゃったんだよねぇ。

世間の声β いや、それいったい、どないな話どす? おせ(教)て、おせて!

世間の声ζ あのね・・・昔、晋国(しんこく)にね、こんな事件があったんだってぇ・・・石崇(せきすう)って男に、緑珠(りょくしゅ)って美女の愛人がいたんだってさ。で、その美人に横恋慕したヤツがいてさぁ、そのヤロウが王様に、石崇の事を讒言しちゃったんだよねー。で、石崇は、金谷園って所で殺されちゃってさぁ、緑珠も、園内の高所から飛び降りて石崇と共に死んで、金谷園の花と散っていった・・・ってまあ、こんなカンジの話なんだよねぇ。

世間の声ε ふーん・・・なんや、今回の塩冶家の惨事と、よぉ似た話どすなぁ。

この後、高師直の悪行はさらに積もりに積もっていった。そして程なく、彼は滅んでしまったのである。

古賢いわく、

 人を利する者は 天必ずこれを福(さいわい)し
 人を賊(そこな)う者は 天必ずこれを禍(わざわい)す(注19)

まさにこれ、永遠の真理であると言えよう。

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(訳者注19)
愛人利人者 天必福之
悪人賊人者 天必禍之
 (墨子 法儀篇)
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(訳者注20)
[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館] 78P,79P 注には、以下のようにある。

「塩冶高貞の自害は、『師守記』暦応四年三月二十九日条に「今日聞ク、隠岐大夫高貞於テ影山ニ自害スト云々」、また『鶴岡社務記録』暦応四年三月条に「佐々木近江守高貞陰謀露顕之間、於テ播磨国景山宿ニ自害、余類無ク残リ被ルト打取云々」と記される。」

上記の史料より、我々は、塩冶高貞の最期の地が、出雲ではなく、播磨の陰山であったことを知ることができる。

ところが、陰山は、太平記においては、高貞の奥方と子供らの最期の地として、記述されている。

上記より、以下のように考えられる:

この章において、太平記作者は、ごく少量の史料(『師守記』等)を材料に用い、腕を振るって、フィクションの大盛りをしたのであろう。京都から遠隔の地で起こった事なので、太平記作者にとっても、当時の他の人にとっても、情報が乏しかったので、このような事ができたのであろう。

となると、この章のうちの、高師直が登場するシーンから最後のシーンまでが、全てまるごと、太平記作者のフィクションである可能性が高くなる。

この章に登場の、「先帝の外戚・早田宮息女」の実在さえも、怪しくなってくる。

高師直が、塩冶邸に忍び込んだ、という記述も、怪しい。守護大名の邸宅の厳しい警戒をかいくぐって、邸内に忍び入り、再び無事に外へ出てこれるものだろうか。高師直が忍びの術を会得していた、というような記述は、太平記中のどこにもないし、他に聞いた事もない。

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太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月23日 (火)

太平記 現代語訳 21-6 新田軍、反攻に転ず

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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11月5日、吉野朝(よしのちょう)の群臣らは合議の後、先帝に謚名(おくりな)を奉った。

在位の間、先帝は延喜(えんぎ)年間の治世を理想としていたので、その時の帝王の謚名(醍醐天皇)に縁の深い名前を、ということで、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とした。(注1)

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(訳者注1)実際には、天皇自ら生前すでに自分の謚名を決定していたようである。[日本の歴史9・南北朝の動乱 佐藤進一 著 中央公論社 1974] の 11ページには、以下のようにある。

「久しい以前から、延喜(醍醐朝)、天暦(村上朝)時代こそ聖徳な天子の君臨した平和な時代であり、王朝の最盛期であったという伝説が王朝・貴族の間に語りつがれていたが、後醍醐はこの伝説を次のように解釈した。すなわち、延喜・天暦時代は、幕府・院政・摂政関白など天皇の権力を掣肘(せいちゅう)するもののまったくない時代であり、このように国家権力が完全に天皇の一身に集中する政治形態こそ、日本の政治のあるべき姿であると。これは延喜・天暦政治の実体と一応別個の、後醍醐自身の解釈である。彼が前例を無視して、死後におくられるべき謚名(しごう=おくりな)を生前に「後醍醐」と定めたのも、「延喜・天暦にかえれ」というスローガンを打ち出したのも、そのような思想的立場からであった。」
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新天皇(後村上帝)は未だ幼少であるし、前天皇が崩じた後3年間は公家のリーダーに政治が任される、という古来からの習わしもあるので、

 「政治面での判断は、大納言・北畠親房(きたばたけちかふさ)が行う。洞院実世(とういんさねよ)と四条隆資(しじょうたかすけ)が、諸事を取り次いで奏上する。」

という事になった。

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新帝即位の後、その布告はまっ先に、越前(えちぜん:福井県東部)の脇屋義助(わきやよしすけ)のもとへ送られ、さらに、筑紫(つくし:福岡県)にいる懐良(かねよし)親王、遠江(とうとうみ:静岡県中部)の井伊(いい)の城にいる宗良(むねよし)親王、奥州(おうしゅう:東北地方東部)の新国司・北畠顕信(きたばたけあきのぶ)のもとにも、「後醍醐先帝のご遺言を奉じ、陛下への忠義の戦に邁進(まいしん)せよ!」との天皇命令書が送られた。

新田義貞(にったよしさだ)が死して後、北陸地方の反足利陣営は、義貞の弟・脇屋義助が統括していたが、彼らの勢いは微々たるものになっていた。しかしなおも、方々の城郭に軍勢を駐留させ、足利側勢力の進出をなんとか食い止めていた。

脇屋義助 いつまでもなぁ、こんな状態で引っ込んでるオレたちじゃねぇぜ、なぁ、みんな!

新田軍リーダーA そうですとも! そろそろね、方々の城から軍勢を繰り出してね、

新田軍リーダーB 全軍合流の後、イッキに黒丸(くろまる)城攻めだぁ!

新田軍リーダーC 斯波高経(しばたかつね)めぇ、今度という今度こそは、アイツの息の根止めてやっからなぁ!

新田軍リーダーD 義貞様のカタキ、絶対に取ってやるぞぉ!

新田軍リーダーE (その場にかけこんできて)殿、殿!

脇屋義助 うぅ? いったいなんだぁ?

新田軍リーダーE 吉野から勅使(ちょくし)が!

脇屋義助 エーッ!

やがて、その場に勅使が入ってきた。

勅使 ・・・と、いうわけでなぁ・・・(涙)。

脇屋義助 (ガク然)・・・そんなぁ・・・陛下が崩御だなんて・・・そんな・・・。

新田軍リーダーA ・・・。

新田軍リーダーB ・・・。

新田軍リーダーC まったく・・・闇夜の中で灯火を失ってしまったようなもんだぜ・・・まったく。

新田軍リーダーD 殿・・・。

勅使 いやいや、皆そないに力を落すでない。先帝陛下はなぁ、今際(いまわ)の際に至っても、あんたら新田兄弟に対してな、深い深い思いを寄せてはったんやでぇ。

脇屋義助 ・・・。

勅使 陛下は最期にな、こう仰せられたんやで、「新田兄弟の子孫らを股肱(ここう)の臣とならしめ、彼らに天下を平定させよ」とな。

脇屋義助 ・・・陛下!・・・(涙)。

勅使 ・・・ことの他、あんたら新田一族を頼りにしてはったんや。あんたらに全ての期待を託して、崩御あそばされたんやでぇ!(涙)。

脇屋義助 陛下! なんというありがたい・・・なんというもったいない・・・。わが新田一族、陛下への忠義、さらに、さらに、心肝に銘じて・・・(涙)。

勅使 ・・・という事やからな、義貞の時と同様、今後は義助、あんたが朝廷軍の指揮を執るんや。各自の武勲やそれに対する恩賞等々、万事よぉ考えて、朝廷に申請するようにな。

脇屋義助 ははっ!(平伏)

新田軍リーダーA こうなったら、なんとしてでも、一戦して勝利をもぎとらなきゃなぁ!

新田軍リーダーB この戦場でのオレたちの奮闘が、吉野にいる人々らの励ましになっていくってわけさね。

新田軍リーダーC よぉし、やるぞぉ!

新田軍リーダーD でもね、明日からすぐに戦闘開始ってわけには、行かないよねぇ。

新田軍リーダーC どうして?!

新田軍リーダーD だってさぁ、陛下の49日も、まだ明けてないんだよ。

新田軍リーダーC あ、そっかぁー。

脇屋義助 49日か・・・戦闘開始の日が待ち遠しいな!

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この3年間というもの、越前の30余か所の城において、戦の止む時はなかったが、中でも特筆すべきは、湊城(みなとじょう:福井県・坂井市)であろう。

北陸道7か国の足利側勢力をもってしても、ついに攻め落せなかったこの城は、脇屋義助の若党・畑時能(はたときよし)が、わずか23人を率いてこもっている平城であった。

吉野朝の新天皇が即位して間もないこの時、天の運りもようやく、新田サイドに有利に傾きはじめたようである。

いよいよ、先帝の喪が明け、新田軍の大反攻開始の時が来た。

大将・脇屋義助より各方面に、「一斉に城から兵を出して一所に合流し、越前国にたむろする朝敵を平らげ、他国までうって出るべし!」との通達が送られた。

7月3日、畑時能は、300余騎を率いて湊城からうって出た。(注2)

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(訳者注2)先には、「わずか23人を率いてこもり」とあったのに、ここでは300余に兵力が増えていて、「?」である。少人数でもって城を守りきったので、周囲からの寝返りによって兵力が増強した、と解釈すべきなのだろうか?
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彼らは、金津(かなつ:福井県・あわら市)、長崎(ながさき:坂井市)、河合(かわい:福井県・福井市)、河口(かわぐち:あわら市-坂井市)へ進撃し、足利サイドの城12か所を落し、首を切る事800余人、女子供や嬰児まで、残らず刺し殺していった。

同月5日、由良光氏(ゆらみつうじ)は、500余騎を率い、西方寺(さいほうじ:あわら市)からうって出て、和田(わだ:福井市)、江守(えもり:福井市)、波羅密(はらみ:福井市)、深町(ふかまち:福井市)、安居(はこ:福井市)へ進出、足利サイドが守りをかためている城6か所を2日間の中に攻め落し、すぐに自らの将兵をその城に入れて守らせた。

同月5日、堀口氏政(ほりぐちうじまさ)は、500余騎を率いて、居山城(いやまじょう:大野市)を出て、香下(かした:大野市)、鶴澤(つるさわ:越前市)、穴馬(あなま:大野市)、河北(かわきた:福井市)一帯の11か城を5日間の中に攻め落し、降伏した者ら千余人を引率して河合庄へ進撃。

総大将・脇屋義助は、禰津(ねづ)、風間(かざま)、瓜生(うりう)、川嶋(かわしま)、宇都宮(うつのみや)、江戸(えど)、波多野(はだの)の軍勢、合計3,000余を率いて出陣。国府(こくふ:福井県・越前市)から三手に分かれ、織田(おだ:福井県・丹生郡・越前町)、田中(たなか:越前町)、荒神峯(こうじんがみね:越前町)、安古渡(あこのわたし:福井市)一帯の17城を3日3夜の中に攻め落し、城の大将7人を捕虜にし、士卒500余人を殺して、河合庄へうって出た。

同月16日、各方面の新田軍は合流して6,000余騎の大軍となり、三方から黒丸城(福井市)に迫った。

河合種経(かわいたねつね)は、新田サイドに投降して畑時能の配下に入っていたが、時能は、種経の部下を率いて夜半、足羽城(あすはじょう)の南西方向にある小山の上に陣取った。その後、終夜にわたって黒丸城の周囲を懸け回ってはトキの声を上げ、遠矢を射かけ、「新田軍主力がここに到着したら、オレが真っ先に城へ攻め入るのだ!」とのデモンストレイションを行いながら、夜明けを待った。

上木平九郎家光(うえきへいくろういえみつ)は、元は新田サイドにありながら、最近は足利サイドに寝返り、黒丸城の中にいた。家光は、足利・北陸方面軍総大将の斯波高経の前にきていわく、

上木家光 この城は昨年、新田殿に攻めたてられましたよねぇ。でも、あの時は、斯波殿の不思議なご強運でもって、なんとか勝利することができました。でもねぇ、今度もまた前のようなチョウシで大丈夫、なぁんて事、まさか思われてませんでしょう?

斯波高経 ・・・。

上木家光 万が一にも、そんなふうに考えておいでだとしたら・・・そいつぁ、とんでもない考え違いってもんですよぉ!

斯波高経 ・・・。

上木家光 あの時はね、こちらの城へ向かってきた連中らはみぃんな、関東や中国地方の武士たちでしたから、ここらの地理も不案内だったんですよ。でもって、深田に馬をはまらせてしまい、掘や溝に落ちてしまい・・・そしてついに、名将・新田義貞も流矢の鏑(かぶら)にかかって、というわけですわ。

斯波高経 うん・・・。

上木家光 でもね、今度の戦は前とは相当、ようすが違ってますよ。まず第一に、今までこちらの陣営に属してた連中らがたぁくさん寝返ってしまって、あちらサイドにいっちゃってますからね、攻めてくる側も、城内や付近の地理をよくよく心得てる。

斯波高経 ・・・。

上木家光 その上、畑時能なんていう、それこそ日本一の大力の剛の者が、「この城攻めて、命を落とすぞ」なんてぇ、覚悟かためて、オレらに立ち向かってくるんですからなぁ・・・あの男と互角に渡り合える者なんか、おそらく、こちら側には一人もおりませんでぇ。

斯波高経 ・・・。

上木家光 他からの援軍もあてにできないこの平城に、こんな小勢でたてこもったあげくに、「名将・斯波高経殿、落命」だなんて・・・そんな話、わしとしては願い下げにしてほしいもんですわ。

斯波高経 ・・・。

上木家光 ですからねぇ、ここはとにかく一歩引いてね、今夜の中に、加賀国(かがこく:石川県南部)へ退却なされませ。遅かれ早かれ、京都から援軍がやってくるんだから、それと合流して兵を集め、越前に戻って敵を退治する、それでいいんですよ、それでぇ!

細川出羽守(ほそかわでわのかみ) 同感ですねぇ。

鹿草兵庫助(かぐさひょうごのすけ) 上木殿の言われる事も、もっともですよ。

朝倉広景(あさくらひろかげ) 上木殿の提案通りにしてみません?

斉藤(さいとう) それがいいと思いますねぇ。

斯波高経 ・・・よし、いたしかたあるまい。

というわけで、高経は、自らの勢力範囲下にある五つの城に火を放ち、その光を松明がわりに、夜の間に、加賀国の富樫(とがし)氏の城へ逃げ込んだ。

畑時能のこの謀略をもってして、脇屋義助はついに黒丸城を落し、兄の雪辱を果たした。

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2018年1月22日 (月)

太平記 現代語訳 21-5 吉野朝・後村上天皇、即位

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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吉野朝年号・延元(えんげん)4年(1339)10月3日、伊勢神宮へ奉幣(ほうへい)の使者を送った後、義良(よりよし)親王が天皇位についた。

古来より新天皇即位に際しては、様々の大礼が執行される事になっている。

まず、即位の日には、三種の神器が新帝に渡され、天皇即位式が行われる。

その翌年の3月には、陰陽博士(おんみょうはくし)の卜部宿禰(うらべのすくね)が、御所・紫宸殿(ししんでん)前の回廊で占いを行って、悠紀(ゆうき)役、主基(しゅき)役になる国を選ぶ。その後、諸々の儀式を執行する行事所(ぎょうじどころ)の仕事始めとなり、以降、諸官庁の神事が順次、執行されていく。

10月、新帝は鴨(かも)河原に赴き、みそぎ行をする。また、神泉苑(しんせんえん)の北に斉場を設けて、前天皇は終日、抜き穂(注1)を見る。

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(訳者注1)国郡の田地を卜定して神を作り、その年の10月に勅使を下してその稲を取る。
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その後、新天皇は、龍尾道(りゅうびどう:注2)に立てられた仮屋(これを回立殿(かいりゅうでん)と呼ぶ)内の壇上で行水を行い、礼服を着用の後、大嘗宮(だいじょうきゅう)に行く。

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(訳者注2)大極殿南庭の歩道。
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堂上では、楽士らが端正なる音律でもって「正始(せいし)の曲」を奏で、堂下では、5人の舞姫が白地に青模様の衣を着て舞い、五度、袖を翻す。これを「五節(ごせち)の宴」という。

その後、大嘗宮で御牲(おんにえ)の祭り(注3)が執行される。悠紀役および主基役となった国の国司(こくし)2人が、風俗の歌を唱えて帝徳を賛じ、童女(いんご)と八乙女(やおとめ)が、稲春(いねつき)の歌を歌って神饌(しんせん)を献じる。

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(訳者注3)諸国からの貢ぎ物を神前に捧げる儀式。
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吉野朝主要メンバーA 皇太子が天皇位を継承しはるにあたっては、こういう一連の儀式を行うっちゅうのが、古来からの慣例なんやけどなぁ。

吉野朝主要メンバーB たしかにそうですわなぁ。どれもかもごっつい大事な儀式ですよってに、一つも欠かしてはいかんのです・・・とはいうものの・・・。

吉野朝主要メンバーC 京都から遠く離れた吉野の山中の皇居ですからねぇ、何から何まで完全無欠にっちゅうのんは、とてもムリですがな。

というわけで、「形のごとく三種神器を拝するだけ」に儀礼を縮小して、新帝は天皇位に就いた。

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2018年1月21日 (日)

太平記 現代語訳 21-4 後醍醐天皇、崩御

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝(よしのちょう)年号・延元(えんげん)4年(1339)8月9日より、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は病の床に伏すようになった。

その後、病状は次第に悪化、薬師如来(やくしにょらい)を祈っても効験は無く、いかなる名医の処方をもってしてもその効果は現われない。命の燈火は日々に細り、崩御(ほうぎょ)の時がいよいよ迫ってきた。

忠雲僧正(ちゅううんそうじょう)は、天皇の枕辺に参り、涙を押さえていわく、

忠雲僧正 伊勢神宮(いせじんぐう)のお山にも、再び花開く春は来る・・・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の流れも、いつかは澄みわたる時が来る・・・仏も神も三宝(さんぼう:注1)も、決して陛下を見捨てられる事は無い・・・そのように固く信じて、この忠雲、今日まで生きてきたのですが・・・。

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(訳者注1)仏・法・僧。
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忠雲僧正 「陛下のお脈がついに乱れ始めた」と、医療チームのリーダー(注2)が、驚いて私に言うてきましてな・・・。

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(訳者注2)原文では「典薬頭(てんやくのかみ)」。
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忠雲僧正 陛下、今となっては、なにとぞ・・・なにとぞ、陛下・・・(涙)、十善の天子の位をお捨てになり、成仏に至る悟りの道に赴かれます事をのみ・・・どうぞ、お覚悟をお定め下さいますように・・・(涙)。

後醍醐天皇 ・・・。

忠雲僧正 経文には、こう説かれてございます、「人間、いまわの際の最期の一念に応じて、生まれかわる先の世界が決まる」と・・・。ご崩御の後の事とか、お気がかりなこと、なんでもけっこうです、一つ残らず今ここで、おおせ置きくださいませ。その後は、どうぞ、ご成仏の事のみ、お念じくださいますように・・・(涙)。

後醍醐天皇 ・・・(ハァー)(苦しそうに)。

忠雲僧正 ・・・。

後醍醐天皇 ・・・「妻子、珍宝は・・・言うに及ばず・・・王位さえも・・・命終える時に・・・臨んでは・・・(ハァー)・・・身に随える・・・事なし・・・(注3)」・・・まさに如来の・・・金言・・・わしはいつも・・・肝に銘じてきた・・・。

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(訳者注3)原文では「妻子珍宝及王位 臨命終時不随者」。
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忠雲僧正 ・・・。

後醍醐天皇 ・・・秦(しん)の穆公(ぼくこう)・・・三良臣の・・・殉死・・・秦の始皇帝(しこうてい)・・・宝玉といっしょに・・・埋葬・・・そないな事は・・・一切・・・せんでえぇ・・・そないな・・・事は・・・わしは一切・・・してほしぃない・・・(ハァー)・・・。

忠雲僧正 はい・・・。(涙)

後醍醐天皇 ・・・ただ・・・あれだけが・・・心残り・・・あれ・・・だけが・・・。

忠雲僧正 陛下・・・。(涙)

後醍醐天皇 ・・・もう、これは・・・妄念やな・・・死んだ後にも・・・ずっと残る・・・消えへん・・・妄念・・・。

忠雲僧正 ・・・。

後醍醐天皇 ・・・いま思う事は・・・ただ一つ・・・朝敵をことごとく滅ぼして・・・天下を泰平にならしめたい・・・なんとかして・・・なんとかして・・・。(ハァハァ)

忠雲僧正 (うなづく)・・・。(涙)

後醍醐天皇 (ハァハァ)・・・。

忠雲僧正 (うなづく)・・・。(涙)

後醍醐天皇 ・・・わしが・・・逝(い)った後・・・義良(よりよし)を・・・天皇に・・・。

忠雲僧正 はい!

後醍醐天皇 ・・・賢人・・・忠臣・・・みなで・・・義良を助けてな・・・。

その場に集っていた一同 はい!

後醍醐天皇 ・・・義貞(よしさだ)と・・・義助(よしすけ:注4)の・・・。

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(訳者注4)新田義貞と脇屋義助。
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忠雲僧正 ・・・。

後醍醐天皇 ・・・忠功を・・・賞してやってくれ・・・子孫(注5)に・・・不義の行いが・・・なかったら・・・股肱(ここう)の・・・臣ならしめ・・・天下を・・・鎮めさせるんや・・・。

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(訳者注5)新田兄弟の子孫。
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忠雲僧正 ・・・。

後醍醐天皇 ・・・天下を・・・鎮めさせるんや・・・そうや、わが国の全土を平定するんやぞ、わかったな!(ハァハァ)

忠雲僧正 ハハッ!

後醍醐天皇 ・・・。(ハァハァ)

忠雲僧正 ・・・。

後醍醐天皇 ・・・天下・・・天下をな・・・平定・・・(ハァハァ)・・・たとえ・・・たとえ、わしの骨は・・・この吉野の地に埋もれても・・・わしのこの魂は・・・魂は・・・いつも京都の空を見つめてるぞ・・・天下・・・平定するんやぞぉ・・・。(ハァハァ)(注6)

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(訳者注6)この部分の原文は、以下のような格調高い文章である。

 之(これを)思(おもう)故(ゆえ)に
 玉骨(ぎょっこつ)は縦(たとい)南山(なんざん)の苔(こけ)に埋(うずも)るとも
 魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望(のぞま)んと思う
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忠雲僧正 ハハーッ!(涙)

後醍醐天皇 ・・・わしの・・・この命に背き・・・義を軽んずる・・・ような事が・・・あったならば・・・義良かて・・・義良かて・・・わしの後継者とは・・・言えん・・・臣下らも・・・忠烈の・・・臣ではない・・・わかったなぁ・・・。(ハァハァ)

その場に集っていた一同 ハハーッ!(涙)

このように、こと細かく遺言を残した後、左手に法華経5巻を持ち、右手に剣を握りながら、延元4年8月16日午前2時、後醍醐天皇はついに崩御(ほうぎょ)した。

悲しいかな、北極星(注7)は位高くして、その周囲に百官は星のごとく列するといえども、黄泉(よみ)の国の旅路に供奉(ぐぶ)仕る臣は一人も無し。遠く都を離れたこの吉野の地に、万卒(ばんそつ)雲のごとく集まるといえども、無常の敵(注8)来(きた)らば、それを防ぎ止める兵は更に無し。流れの中に舟覆(くつがえ)り、一壷(いっこ)にすがりついては波に漂い、暗夜に燈火消えて未明の雨に向かうがごとし。

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(訳者注7)天皇の比喩。

(訳者注8)死の比喩。
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葬礼に際しては、生前の遺言を鑑(かんが)みて、臨終の際の御形(おんかたち)をそのままに、棺を厚くし、御座(ぎょざ)を正し、吉野山の麓、蔵王堂(ざおうどう)の北東の林の奥に円丘を高く築き、北向けに(注9)埋葬し奉った。

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(訳者注9)吉野の北の方角に京都は位置する。「魂魄は常に北闕の天を望んと思う」の遺言通りにしたのであろう。

後醍醐天皇の陵(後醍醐天皇・塔尾陵)は、如意輪寺(にょいりんじ:奈良県・吉野郡・吉野町)の近くにあり、寺の境内から行けるように道がつけられている。訳者は、2011年11月に、ここへ行った。太平記での記述通りに、陵は北を向いているように思われた。

しかし、陵のあるこの場所は、蔵王堂の南東方向に位置しており、太平記の「蔵王堂の艮なる林の奥に」と、違っていた。(「艮(うしとら)」とは、北東方向のことである)。

太平記作者が間違って記述しているのか、それとも、後日、陵の場所が移動したのか、訳者には分からない。
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静寂な無人の林中に鳥は鳴き、日は暮れていく。見れば、土墳の傍らには、はやくも数尺の草が伸びている。

吉野朝メンバーA (内心)陛下が逝かれたあの時から、もうこないに日がたってしもぉてたんか・・・つい昨日の事のように思えるなぁ・・・。

悲しみの涙はもはや出尽したといえども、愁いは未だ尽きることなし。旧臣・后妃(こうひ)らは泣く泣く、蒼穹(そうきゅう)に漂う雲を見上げてはありし日の先帝をしのび、天空を行く月を見上げてはいよいよ嘆きが深まっていく。御陵(みささぎ)を吹き渡る秋風にわが身を包んでは、夢中の花を惜しむがごとく、今はなき主上(しゅじょう)との別離を悲しむ。

あぁ、哀れなるかな。(注10)

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(訳者注10)この部分の原文は、以下のようなすばらしい美文である。

 寂寞(じゃくまく)たる空山(くうざん)の裏(うち)
 鳥(とりは)啼(なき)日(ひ)已(すでに)暮(くれ)ぬ
 土墳(どふん)数尺(すうしゃく)の草
 一経(いちけい)涙(なみだ)盡(つき)て愁(うれい)未(いまだ)盡(つきず)
 旧臣(きゅうしん)后妃(こうひ)泣々(なくなく)鼎湖(ていご)の雲を瞻望(せんぼう)して
 恨(うらみ)を天邊(てんぺん)の月に添え
 覇陵(はりょう)の風に夙夜(しゅくや)して
 別(わかれ)を夢裡(むり)の花に慕(した)う
 哀(あわれ)なりし御事(おんこと)也(なり)
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吉野朝メンバーB (内心)天下が久しく争乱の中にあること、これはまぁ、仕方がないとしよう。なんせ、現代は末法の世なんやから。

吉野朝メンバーC (内心)それにしても残念な、陛下の崩御。

吉野朝メンバーD (内心)延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)よりこの方、陛下のようにすばらしく、神々しいばかりの武徳を備えてはった天皇は、未だかつておられんかった。

吉野朝メンバーE (内心)今はこないな状況に追い込まれてはいるけど、そのうち必ず、陛下の聖徳は開け、お仕えしてきた我らの忠功の望みも必ず達成されるやろうと、

吉野朝メンバーF (内心)皆みな、固く信じて、陛下に望みを託してきたんやったが・・・。

吉野朝メンバーB (内心)その陛下が、崩御してしまわはるとはなぁ・・・。

吉野朝メンバーC (内心)今となっては、伊勢神宮の五十鈴川(いすずがわ)の流れの末も絶え、(注11)

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(訳者注11)「伊勢神宮の擁護のおかげで、連綿と続いてきた皇統も絶え」という意味。
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吉野朝メンバーD (内心)筑波山(つくばやま:茨城県)の陰に寄る人もなし。(注12)

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(訳者注12)つくばね(筑波嶺)の このもかのもに 影はあれど 君がみかげに ます影はなし(古今和歌集・巻第20 大歌所御歌 東歌 ひたちうた)
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吉野朝メンバーE (内心)今や天下はことごとく、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の手中に落ちてしもぉたわい。

吉野朝メンバーF (内心)あぁ、もうなんの希望も無ぉなってしもうたなぁ・・・。

吉野朝メンバーB (内心)長年、陛下に従うてきたこの私やけど・・・。

吉野朝メンバーC (内心)こないなったら、「秦が天下を取ったら、東海の波を踏んで死のう」と言うた、あの中国・斉国の魯仲連(ろちゅうれん)みたいに、わしも・・・。

吉野朝メンバーD (内心)「南山うんぬん」と泰平の世を望む歌を歌って、斉の恒公に認められたとかいう、あの寗戚(ねいせき)みたいに、名君が現われるまでは、わしもどこかにじっと身を潜め、

吉野朝メンバーE (内心)こないなったら、各自、思い思いに、我が身を隠す場所でも探しにかかるしかないかいなぁ・・・。

吉野朝廷全体がこのような心理状態に陥ってしまっている事を密に伝え聞き、蔵王堂・宗務長の吉水法印(よしみずのほういん)・宗信(そうしん)は、急ぎ御所へ参内していわく、

宗信 みなさん、おぼえておいででしょう、崩御あそばされたおりに、先帝はこのようにご遺言なされましたわな、「義良親王殿下を天皇位につけ、朝敵追伐の本意を遂げるように」と。

臣下一同 ・・・。

宗信 陛下のそのお言葉、ここにおられる臣下のみなさまも直々(じきじき)にお聞きになられたはずですよ。そやのに、いったいなんですか! みなさん、いったいなに考えたはりますねん!

臣下一同 ・・・。

宗信 陛下の崩御から未だ日も浅いというのに、もうみなさん、退散やら隠遁やら、我が身のふり方を考えたはる、てな事が、わたしの耳に入ってきとりましてなぁ・・・ほんまにもう、アタマに来るやら、情けないやらで、もうわしゃ、たまらん!

臣下一同 ・・・。

宗信 偉大なる主君がお亡くなりになってしもぉたからというて、何もそないに力落す事もないでしょうに。中国の例を見てくださいよ。文王(ぶんおう)が開始した天下統一の企て、息子の武王(ぶおう)は立派に継承して、周(しゅう)王朝を設立しましたやんか。漢(かん)王朝を創始の高祖(こうそ)が崩じて後、その子・孝景帝(こうけいてい)は、みごとにその王朝を維持したやないですか! 陛下が崩御あそばしたからというて、陛下の恩顧を被ってこられた皆様が、その功績を捨てて敵に投降しようなど、そないな事考えたはるようでは、そらぁあきませんでぇ。

臣下一同 ・・・。

宗信 それにな、わが方の勢力かて、まだまだ行けまっせぇ。国の行く末を案じ、命を捨ててもえぇと考えてる人間、まだまだ、よぉけおりますやぁん。まず、上野国(こうずけこく:群馬県)には新田義貞の次男・義興(よしおき)がおりまっしゃろ。武蔵国(むさしこく:東京都+埼玉県+神奈川県一部)には、義興の弟の義宗(よしむね)かておりますよ。それに、越前国(えちぜんこく:福井県東部)には、あの脇屋義助(わきやよしすけ)とその子息の義治(よしはる)他、江田(えだ)、大館(おおたち)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、田中(たなか)、羽河(はねかわ)、山名(やまな)、桃井(もものい)、額田(ぬかだ)、一井(いちのい)、金谷(かなや)、堤(つつみ)、青龍寺(しょうりゅうじ)、青襲(あおそい)、篭澤(こもりざわ)など、新田一族計400余人。国々に陰謀を回らし、所々にたてこもり、寸時の間も、忠義の戦を図って止まない人々です。

宗信 新田家以外でも、わが方に所属の人間は、よぉけおりますわいなぁ。筑紫(つくし:福岡県)には、菊池(きくち)、松浦是興(まつらこれおき)、草野(くさの)、山鹿(やまが)、土肥(とひ)、赤星(あかぼし)。四国には、土居(どい)、得能(とくのう)、江田(えだ)、羽床(はねゆか)。淡路(あわじ:淡路島)には、阿間(あま)、志知(しうち)。安芸(あき:広島県西部)には、有井(ありい)。石見(いわみ:島根県西部)には、三角信性(みすみしんしょう)、合四郎(ごうのしろう)。出雲(いずも:島根県東部)と伯耆(ほうき:鳥取県西部)には、故・名和長年(なわながとし)の一族たち。備後(びんご:広島県東部)には、櫻山(さくらやま)。備前(岡山県東部)には、今木(いまき)、大富(おおどみ)、和田(わだ)、児島(こじま)。播磨(はりま:兵庫県西部)には、吉河(よしかわ)。河内(かわち:大阪府東部)には、和田(わだ)、楠(くすのき)、橋本(はしもと)、福塚(ふくづか)。大和(やまと:奈良県)には、三輪社神主の西阿勝房(せいあかつふさ)、真木宝珠丸(まきほうじゅまる)。紀伊国(きいこく:和歌山県)には、湯浅(ゆあさ)、山本(やまもと)、井遠三郎(いとうのさぶろう)、賀藤太郎(かとうたろう)。遠江(とうとうみ:静岡県中部)には、井伊(いい)。美濃(みの:岐阜県南部)には、根尾入道(ねおにゅうどう)。尾張(おわり:愛知県西部)には、熱田大宮司昌能(あつたのだいぐうじまさよし)。越後(新潟県)には、小国(おくに)、池(いけ)、風間(かざま)、禰津(ねづ)、大田(おおた)。延暦寺勢には、南岸(なんがん)の円宗院(えんじゅういん)。その他、無名の者にいたってはもうとても数えきれないくらい。これらは皆すべて、義心金石のごとき人々にして、過去に一度も心変わりした事がありません。

宗信 そして最後に、この吉野。不肖この宗信、見ての通りですわ。当寺に関する限り、一切何のご心配もご無用に願いましょう!

臣下一同 (深くうなずく)。

宗信 とにもかくにも、陛下のご遺言通りに、早いとこ、お世継ぎの君をお立てしませんとなぁ! その後に、国々へ、「新帝御即位」の通達を出されませ。

臣下一同 うん!

そのような会議がなされている所へ、楠正行(くすのきまさつら)と和田和泉守(わだいずみのかみ)が、2,000余騎を率いて吉野へ馳せ参じてきた。

皇居を守護し、ひたすら先帝の遺志を実現せんとの彼らの意気込みを見て、人々は、「吉野から退散せん」との思いを一変。かくして、吉野朝の人心は落ち着きを取り戻した。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月20日 (土)

太平記 現代語訳 21-3 法勝寺の塔、炎上

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・康永(こうえい)元年(1342)3月20日、岡崎(おかざき:京都市左京区)の民家で出火。

火はすぐにおさまったのだが、わずかな火屑が、はるか10余町かなたまで飛び散り、法勝寺(ほうしょうじ:左京区)の塔の上に落ちた。

しばらくは、灯篭(とうろう)の火程度の勢いで、消えもせず燃えもせず、という状態であった。

寺の僧たちは、身をもんであわてふためくのだが、火が燃えている所まで登っていけるような階段もなく、消火のしようがない。ただ徒(いたずら)に塔を見上げ、手を広げて、立ちつくすばかりである。

そのうち、火が桧皮(ひわだ:注1)に燃え移り、天を焦がすような黒煙が立ち上りはじめた。

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(訳者注1)桧皮葺(ひわだぶき)の屋根であった、ということであろう。
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猛火は雲を巻き、翻る炎は、地球の対流圏(たいりゅうけん)最上層(注2)までも、立ち上る。

やがて、塔頂の九輪(くりん:注3)が、地底のマグマ最下層(注4)にまで響き渡ろうかと思われるほどの大音響をたてて、地上に落下した。

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(訳者注2)原文では、「非想天」。

(訳者注3)寺院の塔の頂上につけられた九重の金属の輪。

(訳者注4)原文では、「金輪際の底」。
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魔風が吹きすさび、火炎は四方を覆い、周囲の堂宇にまで、次々と燃え広がっていく。

金堂(こんどう)、講堂(こうどう)、阿弥陀堂(あみだどう)、鐘楼(しゅろう)、経蔵(きょうぞう)、総社宮(そうしゃのみや:注5)、八足(やつあし)の南大門(なんだいもん)、86間(けん)の回廊(かいろう)・・・あっという間に焼失し、灰燼(かいじん)はたちまち地上に満ちる。

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(訳者注5)仏教を守護する神々をまとめて祭った社。
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目撃者A 建物が燃えさかったる中にな、うち、見たで、たしかに見たで! 立ち上る煙の上に、鬼みたいなヤツがおってな、そちらのお堂、あちらの建物へ、火ぃ吹きかけまくっとったわ。

目撃者B あぁ、そないいうたらたしかに、鬼みたいなん、いよったなぁ。

目撃者C なんやしらんけど、天狗(てんぐ)みたいなんも、いよったえ。松明(たいまつ)振り上げてな、塔の一段ごとに火ぃつけもって、上がっていきよったえ。

目撃者D そいつら、金堂の棟木(むなぎ)が焼け落ちるのを見て、いっせいに手ぇ打って、ドッと笑いやがってなぁ、それからすぐに、愛宕山(あたごやま:京都市西方)やら比叡山(ひえいざん:京都市北東)やら、金峯山(きんぷせん:奈良県吉野郡)の方角めがけて、去っていきよったわいな。

法勝寺のその火災があってからしばしの間に、今度は、華頂山知恩院(かちょうざんちおんいん:東山区)の五重の塔、さらには、醍醐寺(だいごじ:山科区)の七重塔と、たて続けに焼け落ちてしまったのだから、これはまことに不可思議としか、いう他はない。

「法勝寺、ただいま炎上中!」との報を聞き、朝廷も幕府も一驚。光厳上皇(こうごんじょうこう)は二条河原(にじょうがわら:注6)まで出かけて、仏法滅亡の煙に胸を焦がし、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、法勝寺の西門の前に馬をひかえ、燃え盛る災の中に国家の先行きを案じた。

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(訳者注6)鴨川と二条大路が交差する付近の河原。法勝寺は、鴨川の東方、二条大路の東方延長線上に位置していた。
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そもそもこの法勝寺という寺院、日本国家の泰平を祈り、百代の天皇に安全を得しめんがために、白河上皇(しらかわじょうこう)によって建立された霊地である。堂舎の構(かま)えは善美を尽くし、本尊(ほんぞん)は金を鏤(ちりば)め玉を磨いての装飾を施されていた。

中でも見事であったのが、八角九重の塔であった。縦横ともに84丈、各階ごとに、金剛界(こんごうかい)マンダラが安置されていた。その美麗にして高大なること、まさに三国無双(さんごくむそう:注7)の塔であった。

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(訳者注7)三国において他に並び無し、の意。仏教関連の叙述において「三国」といえば、インド、中国、日本のことである。
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この塔が完成したまさにその時、インドの無熱池(むねつち)、中国の昆明池(こんめいち)、わが国の大阪湾の水面上にまで、その姿が鮮明に反映したというのだから、まことに奇特な事である。

世間の声E あのような霊徳不可思議なる朝廷建立の寺院が、ほんの一時の間に焼滅してしまうだなんて・・・これはどうも、単なる一寺院の荒廃なんていうような、軽いレベルの議論で片づけては、いけないのでは。

世間の声F ほんに、そうどすわなぁ。これから先、我が国はますます、争乱の渦中に投じられ、仏法(ぶっぽう)も王法(おうぼう)も有名無実の状態になっていってしまう・・・あの事件はまさに、その前兆なんやないかいなぁと、うちは思ぉとります。

世間の声G 仏法も王法も・・・公家も武家も・・・朝廷も幕府も・・・みんな共に衰微(すいび)していってしまう・・・あの火災はその前兆かもね。

世間の声H なるほどねぇ。

世間の声I いやはや、まったく・・・これから先、とんでもない世の中になっていくんですやろなぁ。

世間の声一同 ほんと、やんなっちゃうよねぇ。

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2018年1月19日 (金)

太平記 現代語訳 21-2 佐々木道誉、皇族に対して狼藉

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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当時とりわけ、時流に乗り、その栄華が衆人の目を驚かす存在となっていたのが、佐々木道誉(ささきどうよ)であった。

例によっての、バサラ・スタイルで風流を極め、西山や東山で小鳥を取る鷹狩をしての帰途、妙法院(みょうほういん:京都市。東山区)の前を通過。行列の後方の部下らに命じて、そこの庭園内にある紅葉の枝を折らせた。

まさにその時、妙法院門跡(みょうほういんもんぜき:注1)は、御簾の中から暮れゆく秋の庭の風景を鑑賞しながら、「霜葉紅於二月花」などと吟詠して楽しんでいた。

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(訳者注1)亮性法親王。後伏見天皇の皇子。
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その目の前で、道誉の不心得者の部下たちが、最も鮮やかに紅葉した枝を次々と引き折っていく。

妙法院門跡 誰か! あのイタズラを止めさせなさい!

妙法院家司(けし:注2) ははっ!

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(訳者注2)原文では「坊官」。僧衣を着し、帯刀している人。
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彼は、庭に出て一喝(いっかつ)、

妙法院家司 こらぁっ! ここは御所の中やぞぉ、いったいどこのなにもんや、御所に生えたる紅葉に、そないなムチャするやつはぁ!

しかし、相手は意に介しない。

佐々木家メンバーA なにぃ、「御所」やとぉ! 「御所」がいったいどないしたぁ! なにガタガタ言うてんだよぉ、チャンチャラおかしいじゃぁ、あーりませんかぁ!

彼は嘲り笑い、さらに大きな枝を、引き折ってしまった。

その時そこには、妙法院の門徒でもある延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)の衆徒らが多数、宿直していた。

彼らは怒った。

延暦寺衆徒B やいやい、ここをいったいなんやと思とんねん! 門跡寺院やぞ!

延暦寺衆徒C けしからんやっちゃ!

延暦寺衆徒D その枝をこっちへ渡せ! エーイ

延暦寺衆徒E おれの鉄拳を、食らえぃ!

延暦寺衆徒Eの握りこぶし ボカッボカッ!

佐々木家メンバーA ウゥッ・・・ウゥッ・・・。

延暦寺衆徒F このドアホメが!

延暦寺衆徒Fの握りこぶし ボカーン、ボカーン!

佐々木家メンバーA ウグッ・・・ウグッ・・・。

延暦寺衆徒B そんなヤツ、はよ、門前に放り出してまえ!

延暦寺衆徒C とっとと出てけぇ!

延暦寺衆徒Cの臂 グキ!

佐々木家メンバーA ウグッ!

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この事件の報告を受けて、今度は、道誉が怒りだした。

佐々木道誉 ふざけんじゃねぇぞぉ! どこの門跡だが知らんけんど、よりにもよって、この道誉の家中のもんをなぐりつけるとは、なにごとだぁ!

道誉は、自ら300余騎を率いて妙法院へ押し寄せ、ただちに火を放った。

折りからの激しい風に、火炎は周囲に広がり、建仁寺(けんにんじ:東山区)まで延焼。回転式経典蔵、開山堂、塔中・瑞光庵(ずいこうあん)が一斉に燃え上がった。

その時、妙法院門跡は修行の最中で、持仏堂(じぶつどう)にいたのだが、すばやい判断で、後方の小門からはだしのまま、光堂(ひかりどう)の中へ逃げ込んだ。

弟子の若宮は自室にいたが、縁側の下に逃げ隠れた。それを、道誉の子息・秀綱(ひでつな)が見つけ、走りかかってさんざんになぐりつけた。

清僧(注3)、家司、稚児(ちご)、警護担当僧らは、思い思いに方々へ逃亡した。

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(訳者注3)原文では、「出世」。不妻帯で持仏堂の法事を担当する。
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ま夜中に、いきなりトキの声が京都や白河一帯に響き渡り、兵火は四方に延焼していく。京都警護番役の武士らは、「いったい何事!」とあわて騒ぎ、そちらこちらに馳せ違う。

事の次第を確かめ、帰宅した人々らはみな、

京都の人G あぁ、もう、なんちゅう事すんねん。

京都の人H よりにもよって、門跡さんがいはるお寺に、火ぃつけるやなんてなぁ・・・前代未聞の悪行やでぇ。

京都の人I そのうちきっと、延暦寺からガーンと言うて来よるぞぉ。

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案の定、延暦寺から、朝廷や幕府に対して強硬な抗議が来た。

 「古より今に至るまで、喧嘩や不慮に出できたる事は多いとはいえ、門跡のおわします寺院を焼き払い、清僧や家司を面縛(注4)するなどとは、前代未聞である。ただちに、佐々木道誉と佐々木秀綱の両名を逮捕し、死刑に処せられたし!」

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(訳者注4)顔を前に出し、両手を後ろ手に縛る。
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延暦寺からの抗議文を読んだ光厳上皇(こうごんじょうこう)は、あまりの無念さに、激しい憤りをおぼえた。

光厳上皇 (内心)妙法院の門跡は、他ならぬ私の弟や! 佐々木道誉め、いったいなんちゅう事すんねん、天皇家を侮辱しおって! よーし、すぐに刑罰を加えたる。斬罪にするか流罪にするか・・・。

光厳上皇 (内心)いやいや、そうは言うてもなぁ・・・今の世の中、朝廷の意向だけでは何一つ決めれへんがな・・・「この問題を善処するように」と、まぁ、足利幕府にこう申しわたすより他、しようがないやろなぁ。

しかし、足利尊氏(あしかがたかうじ)も直義(ただよし)も、道誉を大いに贔屓(ひいき)しているので、一向にラチがあかない。

延暦寺からの理のこもった訴状も、ただ机上に積もっていくのみ、訴える側も、ただただストレスがたまっていく。なのに、道誉は、そのような事には一向におかまいなし、いよいよ奢侈放埓(しゃしほうらつ)をほしいままにしている。

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忍耐の限界に達した延暦寺の衆徒たちは、ついに決起集会を開いた。

延暦寺衆徒J えぇい、もぉ! 一向に事が動かん!

延暦寺衆徒K 足利兄弟は、佐々木道誉の事を、見て見んフリしとるわい。

延暦寺衆徒L こないなったら、我々としては、実力行使あるのみや! 大宮社(おおみやしゃ)と八王子社(はちおうじしゃ)の神輿(しんよ)を、根本中堂(こんぽんちゅうどう)へ上げ奉った後に、それを京都御所の中まで持ち込むべし!

ついに、延暦寺は、ストライキ(strike)に突入。延暦寺内の諸寺諸堂の講義を完全ストップ、朝廷から依頼の祈願をも完全ストップ、末寺や末社の門戸を閉ざし、祭礼をも一切ストップ。まさに延暦寺の運命、天下の大事、今ここにあり。

こうなると、足利幕府としてもさすがに、延暦寺からの強訴(ごうそ)を無視できなくなってきて、光厳上皇に対して、「佐々木道誉の処分、死罪一等を減じて、遠流(おんる)の刑に処せられるべきかと存じます」と奏上した。

これを受けて、院はさっそく上皇命令書を発行し、延暦寺を宥(なだ)めにかかった。

従来であれば、延暦寺の強訴はこんな事ではとてもおさまらないのだが、

延暦寺衆徒J あんな事しよったヤツが流罪やなんて、そんなん、あかん、あかん!

延暦寺衆徒K それでは、刑罰、軽すぎぃ。

延暦寺衆徒L 死刑、断固、死刑!

延暦寺高僧M あんなぁ・・・。

延暦寺高僧N おまはんがた、まぁまぁ、そないにイキリ立たんと・・・もちっと冷静になりなさい、冷静にぃ。

延暦寺高僧O 今の世の中の情勢見てみいな、天下は足利家のもんやないかい。そないな中にやでぇ、足利幕府の方でも譲歩してくれてや、五刑(注5)のうちの一つを採用してなぁ、わが寺の面目を保ってくれたんやんかぁ。

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(訳者注5)鞭、杖、徒、流、死。
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延暦寺高僧P そうやでぇー。

延暦寺高僧Q まぁ、ここまでの結果を勝ち取れたんやから、比叡山の神々の訴えも聞き届けられたっちゅうもんやろがぁ。

というわけで、4月12日、三社の神輿を元に戻して、延暦寺は矛を収めた。

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同月25日、佐々木道誉と佐々木秀綱の流刑先が決定された。場所は、上総国山辺郡(かずさこくやまのべぐん:千葉県・山武郡)。

流刑先への道誉の出発に際しては、近江の国分寺(こくぶんじ:滋賀県・大津市)のあたりまで、若党300余騎が、「主の見送り」と称して前後に従った。見れば全員、猿皮で矢つぼを覆い、猿皮の腰当てを着け、手には鶯(うぐいす)が入った鳥籠(かご)を持っている。

道中至る所で酒宴を設け、宿場ごとに、遊女と戯れる。世の常の流人の姿とはうって変わり、なにか、非常に華やいで見える。

まさに、「朝廷や院の決定など、何ほどのものか、延暦寺の怒りなど、どこ吹く風」との思いを見せつけんがための、佐々木道誉一流のパーフォーマンスに他ならない。

世間の智慧ある人の声P ねぇねぇ、聞いたことあるでしょ、「延暦寺から訴訟を起された人間は、その後10年の中に、その身を滅ぼす事になる」って説。

世間の智慧ある人の声Q その説、たしかに当たってるよ。例えば、治承(じしょう)年間の、藤原成親(ふじわらのなりちか)、西光(さいこう)、西景(さいけい)。

世間の智慧ある人の声R 康和(こうわ)年間には、藤原師通(ふじわらのもろみち)。その他おおぜいに至っては、もうとても数えきれないくらい、そういった例があるんだよなぁ。

世間の智慧ある人の声S 佐々木一族の運命、これからいったい、どうなっていくのかなぁ。だいじょうぶなんだろうか?

はたして、文和(ぶんわ)2年(1353)の6月13日、後光厳上皇(ごこうごんじょうこう)が、山名時氏(やまなときうじ)に襲われて近江国へ避難した際に、佐々木秀綱は、堅田(かたた:滋賀県・大津市)において延暦寺衆徒に討たれてしまった。

その弟・秀宗(ひでむね)は、大和国(やまとこく:奈良県)の宇智郡(うちごおり:奈良県・五条市)で、野伏(のぶし)らに殺されてしまった。

孫の秀詮(ひであきら)とその弟・氏詮(うじあきら)は、摂津国(せっつこく)・神崎(かんざき:兵庫県・尼崎市)の戦の際に、吉野朝廷軍によって討たれてしまった。

弓馬の家(きゅうばのいえ:注6)に生れたのであれば、戦の場に死して本望、とはいいながらも、「これはみな、比叡山守護の医王(いおう)・山王(さんのう)の怒りに触れたからだ」と、その後の展開を見聞きした人々は、舌を震わせながら、神仏を畏れつつしむ思いをさらに深くした。

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(訳者注6)武家。
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2018年1月18日 (木)

太平記 現代語訳 21-1 足利家の勢威、ますます増大

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・暦応(りゃくおう)元年、吉野朝(よしのちょう)年号・延元(えんげん)3年(注1)(1338)は、足利対反足利・権力闘争の一大ターニングポイント(転機)となった年であった。

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(訳者注1)従来、日本史の教科書や歴史専門書に、「南朝」、「北朝」と表記されてきた両朝廷の呼称を以後、訳者は用いないこととした。これ以降、大覚寺統の朝廷を「吉野朝廷」あるいは「吉野朝」、持明院統の朝廷を「京都朝廷」あるいは「京都朝」と呼ぶ事とする。その方が、それぞれの根拠地が明示されていて、読者にとっては分かりやすいと思うから。なお、「吉野朝」はこの後、吉野さえをも放棄して他の地に避難する事を余儀無くされる時もあるのだが、その際にも、「吉野朝廷」と表記することとする。
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その年の末には、日本各地の勢力が後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の側に立って一斉に大軍を起こし、いよいよ吉野朝廷の運も開けゆくか、と見えたのもつかの間、北畠顕家(きたばたけあきいえ)、新田義貞(にったよしさだ)が共に、流れ矢のために落命し、奥州(おうしゅう:東北地方東部)下向のメンバーらも、航海途中に難風に遭遇して、行くえ不明になってしまった。

そのような情勢を見て、「これで、日本の政治権力の帰趨(きすう)も先が見えた」と判断したのであろうか、結城道忠(ゆうきみちただ)の子息・親朝(ちかとも)は、父の遺言にそむいて足利サイドに投降してしまった。

芳賀禅可(はがぜんか)も、主家の宇都宮公綱(うつのみやきんつな)の子息・加賀寿丸(かかじゅまる)を取り込めて足利サイドに走り、主従の礼儀を乱し、己の威勢を恣(ほしいまま)にしている。

新田氏の人々はなおも、方々の城にたてこもり、後醍醐天皇の親王方も、時節の到来を待ちながら諸国に住しているとはいうものの、吉野朝サイドは、あたかも、猛虎が檻に入れられたようなもの、追いつめられた鳥が翼をくじかれて飛べなくなってしまったかのようであり、虎の眼は百歩かなたを見る力を失い、鳥は悲しく九天の雲を望むのみ、日本の政治権力の構造に何らかの大異変が起こるのを、ただじっと待ち続けるしかない。

天下の帰趨(きすう)が未だ定かでなかった時でさえ、世間のそしりを意に介さず、驕りを極め、欲望をほしいままにつのらせていた足利サイドの有力武士や、高(こう)家、上杉(うえすぎ)家の人々は、もうこうなったら怖いものナシ状態。才も学も無いのに、破格の位階、褒賞に預かり、過去の慣例も法も何もかも無視しながら、国政の様々な任務を遂行していく。

最初のうちは、「朝敵」の汚名を被(こうむ)ることを憚(はばか)り、何事においても京都朝廷におうかがいを立ててから決めていたが、「今や、天下は武士のもの、公家など、国家にとっては何ほどのものか!」とばかりに、公卿、殿上人、諸役所の役人、親王家等に仕える侍たちの領地は言うにおよばず、親王、后妃、天皇、上皇が所有する領地までをも、武士たちはズカズカと横領していく。

このようなわけで、曲水(きょくすい:注2)や重陽(ちょうよう:注3)の宴も休止になってしまい、白馬(あおうま:注4)や踏歌(とうか:注5)の節会(せちえ)も行われず、朝廷の儀式はすべて、形ばかりのものになってしまった。今や宮中も院御所もさびれかえってしまい、そこへ出入りする人の姿も見えない。

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(訳者注2)3月に行われる宴。庭内の小川の上流から流された盃が自分のいる所まで流れてくる前に和歌を作り、盃に入っている酒を飲む、という宴。現在、城南宮(京都市)等で、往時をしのんでこの行事が行われている。

(訳者注3)9月9日の菊花の宴。

(訳者注4)正月7日に天皇が白馬を覧る儀式。

(訳者注5)正月16日に、少年童女が歌舞する儀式。
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国家の政治は全て、足利幕府(あしかがばくふ)に委ねられてしまっているがゆえに、太政(だじょう)・左右(さゆう)の大臣ら(注6)は、幕府の審議委員や審議委員長:注7)の前に媚びを成し、五摂家(ごせっけ:注8)に所属の人々も、足利家・官房長(注9)や国防・警察庁(注10)の要人らに、賄賂を贈っている。

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(訳者注6)原文では、「三家の台輔」。

(訳者注7)原文では、「奉行頭人」。

(訳者注8)藤原北家の血筋に連なる5つの家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)。当時、摂政・関白職には、これらの家の出身でないと就任できなかった。

(訳者注9)原文では、「執事(しつじ)」。

(訳者注10)原文では、「侍所(さむらいどころ)」。
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納言(どうげん:注11)や宰相(さいしょう:注12)などに至っては、幕府の高位の者と道で出会えば、その京言葉を、おもしろおかしくまねして揶揄(やゆ)され、指さされて侮辱される。

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(訳者注11)大納言、中納言、少納言。大臣の下の役職。

(訳者注12)参議とも言う。納言の下の役職。
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世間の声A なぁなぁ、あんたら最近、お公家さんらの言葉聞かはって、なんかヘンやなぁて、思わはらしまへん?

世間の声B 思う思う。ムリして関東弁なんか使ちゃってよぉ。ったくオカシくって、聞いてらんねぇぜ。

世間の声C 言葉だけじゃぁなかと。ファッションまでも、武士のマネしとるとよ。

世間の声D 着なれん折烏帽子(おりえぼし)なんかかぶって、額をズルっと出しとるあの姿、とても見られるもんやないでぇ、あれは。

世間の声E まぁな、あれでもなんとかムリして、武士のマネしてみえるんだわ。けどなぁ、なんってったらいいんかねぇ・・・なんか、はたから見てても、ヒジョーに、おかしいんだわ。

世間の声A 急に練習しはったかて、立ち居振舞いまではそうそう、武士のお方らの真似しきれるもんやおへんなぁ。

世間の声E ほんと、あんたの言うとおりだわね。いくら武士のマネしてみても、皆さんどこか、ナマメイてみえなさるでねぇ。

世間の声B さかやき(注13)の剃り込みだって、あれじゃぁ、武士にしてはチト深すぎるってもんだぜ。

世間の声C あんなんじゃ、公家らしくもなか、かというて、武家らしくもなか。

世間の声F 都のスタイルにも地方のスタイルにも、双方どっちつかず、言うならば、まっ、チュゥーートハンパ(中途半端)な状態に落ち込んでしもた人、いうことですかいなぁ。

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(訳者注13)額の髪を半月方に剃り上げた部分。
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太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 インデックス5

太平記 現代語訳 総インデックス

主要人物・登場箇所リスト

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第21巻

21-1 足利家の勢威、ますます増大

21-2 佐々木道誉、皇族に対して狼藉

21-3 法勝寺の塔、炎上

21-4 後醍醐天皇、崩御

21-5 吉野朝・後村上天皇、即位

21-6 新田軍、反攻に転ず

21-7 高師直、塩冶高貞の妻を恋慕す

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第22巻

22-1 畑時能の奮戦

22-2 脇屋義助、吉野朝廷へ参内

22-3 佐々木信胤の寝返りにより、瀬戸内の制海権、吉野朝の手中に

22-4 脇屋義助、伊予国へ

22-5 脇屋義助の突然の死去により、瀬戸内の情勢は混沌状態に

22-6 大館氏明の討死と篠塚伊賀守の豪胆

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第23巻

23-1 大森盛長、異界の勢力と対決す

23-2 足利直義、重病に

23-3 土岐頼遠、光厳上皇に対して乱暴狼藉

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第24巻

24-1 京都朝廷、財政危機により朝廷の諸行事を行えず

24-2 夢窓疎石、後醍醐先帝の鎮魂の為に天龍寺建立を提言

24-3 延暦寺、天龍寺の供養法要執行に対して、強硬に抗議

24-4 天龍寺での供養法要、盛大に執行

24-5 児島高徳、幕府要人の邸宅への夜襲を計画す (付・壬生地蔵の不思議)

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第25巻

25-1 京都朝・院の御所内において、不吉な怪事件おこる

25-2 天狗たち、仁和寺に集合して作戦会議を行う

25-3 楠正行、決起す

25-4 失われた宝剣

25-5 楠正行、住吉において、再び足利幕府軍を撃破

昔昔、京都は海の底にあったそうな

おとぎ話のように思えてくるが、事実であるようです。

ネットでいろいろと調べていて、[地震本部]のサイト中に、

[各地方公共団体による地下構造調査]という項の中に、
 [京都市:京都盆地の地下構造]というコンテンツがあるのを見つけました。

数年分の調査結果が掲載されているようですが、その中の

  [H14 京都市:京都盆地の地下構造]の中に、

  [2 ボーリング調査]

  という項がありました。

それによれば、京都盆地を地中深く掘り進んでいくと、

[基盤岩]

という層に到達するのだそうです。これは、京都盆地を取り囲む山地に広く見られる丹波層群と呼ばれる中生代の堆積岩からなっているのだそうです。

その[基盤岩]の層の上に、[大阪層群]というのがあるのだそうです。

複数の層をまとめて、[大阪層群]と呼ばれているようなのだが、注目すべきは、それらの中に、

[海成粘土層]と[火山灰層]が存在する

という事です。

[海成粘土層]がある、ということは、京都盆地が海の底にあった時代があったことを物語っています。

[火山灰層]がある、ということは、かつて、京都盆地の近くで、火山の噴火があったことを物語っています。

  [H14 京都市:京都盆地の地下構造]の中には、

  [5-3-3 3次元地質構造モデル]

  という項もあり、その中に、京都盆地の地下の様子を示す、

  [3次元地質モデル鳥瞰図]

というものもありました。

上記にあるように、

京都盆地を取り囲む山地に広く見られる丹波層群と同じような地質の層が、京都盆地の地底深くにあり([基盤岩])、その上に、水の底に形成されるような地層([大阪層群])が存在する、という事から、以下のような事が推論できるでしょう。

 京都盆地は、陸地が沈みこんだ結果、できた。
 東山は、隆起してできたのではない、京都盆地が沈んでいった結果、残った高地が東山になったのである。

[吉岡 敏和]氏による、[京都盆地周縁部における第四紀の断層活動]

中の、[図7 京都盆地形成機構のモデル] を見て、なんとなく、納得がいった気がしました。

しかし、上記のモデルに対しては、以下のような疑問が残ります。

(1)山科盆地の形成を説明できないのでは?

地理院地図を見ると分かるように、京都市の東山区と山科区は、東山山地の西と東に位置しています。これらの地理的な関係は、広い部屋を屏風でしきって、東の間と西の間に分けたような感じになります。(屏風が、東山山地)。

上記のモデルだけでは、山科区エリアは、現在のような盆地ではなく、[山科高地]になっていってしまうのではないでしょうか?

山科盆地形成を説明しうるような、何か他の説明を追加する事が必要ではないかと思われるのですが、いかがでしょう?

(2)東と西からの力の源は?

京都盆地を沈みこませた、東と西からの圧力は、どこからどのようにして生じたのでしょうか? プレートの運動と、何か関係があったのでしょうか?

(3)京都はいかにして、這い上がってこれたのか?

いったん海の底に沈んだ京都が、現在のように、陸上の都市となるまでには、どのような地形の変遷があったのでしょうか?

地理院地図を使って、[京都市役所]がある場所の標高を調べてみたら、

 標高 約42m

と表示されました。

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下記に、[東山山地]の中を歩き回って撮影・制作した動画があります。よろしければ、参考にしてください。

京都一周トレイル・東山コース (1) ( 標識 34 - 38 間)

京都一周トレイル・東山コース (2) ( 標識 47-2 - 46 間)

京都一周トレイル・東山コース (3) ( 標識 18-1 - 27 間)

京都一周トレイル・東山コース (4) ( 標識 17 - 18-2 間)

京都一周トレイル・東山コース ( 標識 46 - 45 間の地点) と 大文字山

大文字山 (1)

大文字山 (2)

上記の動画を、私のユーチューブチャンネルからも見れます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

[Zhiyun Crane-M](動画撮影用スタビライザー)使ってみた

2018年1月に、意を決し、動画撮影用・スタビライザーを購入しました。

購入したのは、[Zhiyun Crane-M]という製品です。

使用してみての感想は、

 買ってよかったと思う
 改善の余地ありの製品か

です。

1. 以下の点が、改善の余地ありでは、と感じました。

1-1 セッティングの手間

精密機器ゆえに、リュックサック等に直に入れて持ち運ぶ勇気は無く、撮影時においても、専用のカバン(製品に付いてきた)に格納して、持ち運ぶようにしました。

カバンから出して、まずやらなければならないのが、バランス調整です。

カメラを[Zhiyun Crane-M]に装着した後、[Zhiyun Crane-M]の様々な部分に対して、以下のような操作を行わねばなりません。

 [Zhiyun Crane-M]の、特定の部分のネジを緩め、
 カメラがバランス良く保持されるように、[Zhiyun Crane-M]の、その部分を動かして調整し、
 [Zhiyun Crane-M]の、その部分のネジを締めて、固定する

上記のような操作を、[Zhiyun Crane-M]の複数の部分に対して、行わねばなりません。

上記のような操作を行った後、[Zhiyun Crane-M]を使用できるようになります。

カバンに、[Zhiyun Crane-M]を格納する際には、ネジを緩め、調性した[Zhiyun Crane-M]の各部を、カバンに収まるような状態にまで戻した後、カバンに格納することになります。

このような作業をいちいち行うテマを省くためには、[Zhiyun Crane-M]をカバンから出し入れする回数を減らすようにする、これしかありません。

1-2 モード切替の分かりにくさ

[Zhiyun Crane-M]は、3種類のモードで使用する事ができるのですが、あるモードから他のモードへの切り替えは、[MODE]ボタンを押して行うことになります。シングルクリックするか、ダブルクリックするかによって、移行先のモードが異なってくるようになっているので、分かりにくいです。今、どのモードを使用中なのか、という事を確認することも、一目見ただけでは不可能です。

1-3 バッテリー残量の分かりにくさ

[バッテリー残量表示ライト]の点滅回数で、バッテリー残量を示す、という仕組みになっているので、、分かりにくいです。数字等で表示してくれたらいいのに。

1-4 バッテリー格納の際の分かりにくさ

バッテリーを格納する[Zhiyun Crane-M]の部分に、どの向き(+-)にバッテリーを入れたらよいのかの表示が無いので、分かりにくいです。

1-5 バッテリー充電の際の不便さ

家庭用100Vコンセントに接続して充電ができるような充電器であれば、いいのにな、と思います。

1-6 専用のカバン(製品に付いてくる)の開け閉めが円滑にできにくい

ファスナーが硬いので、開け閉めが円滑にいきません。

2. 上記のような点はありますが、買ってよかったと思います。

2-1 持ち運びが楽になった

これまで使っていた三脚より、[Zhiyun Crane-M]が格納されているカバンを持ち運ぶ方が、楽だと感じます、重量の点において、サイズの点において。電車やバスの中でも、周りにあまり気兼ねすることなく、持ち運ぶことができると思います。

(2) 移動しながらの撮影が可能になった

三脚を使用しての撮影では、ある場所に静止しての(三脚を立てて)撮影が多くなってしまいますが、[Zhiyun Crane-M]を使って、移動しながらの撮影も、自分には可能になったと、感じます。

下記に、[Zhiyun Crane-M]を購入した数日後に撮影した動画があります。よろしければ、参考にしてください。

[Zhiyun Crane-M] (スタビライザー)使ってみた (1)

[Zhiyun Crane-M] (スタビライザー)使ってみた (2) ネコ

[Zhiyun Crane-M] (スタビライザー)使ってみた (3) 鳥

[Zhiyun Crane-M] (スタビライザー)使ってみた (4) 風景 哲学の道

[Zhiyun Crane-M] (スタビライザー)使ってみた (5) 風景 哲学の道

[Zhiyun Crane-M] (スタビライザー)使ってみた (6) 風景 哲学の道

上記の動画を、私のユーチューブチャンネルからも見れます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

Zhiyun社の本部は、Guilin(桂林) にあるようです。

[桂林]は、[漓江下り]で有名な場所。切り立った岩山の絶景の中を行くコース。

[桂林 水墨画]、[桂林 カルスト]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

[桂林]は、[広西チワン族自治区]のエリア内にあるようです。

太平記 現代語訳 20-13 結城道忠、地獄に堕ちる

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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結城道忠(ゆうきみちただ)が乗った船は、悪風に吹き流されて、広々とした海上に揺られ漂うこと7日7夜。今にも大海の底に沈んでしまうか、はたまた、悪鬼の住む世界に落ちてしまうかと思われたが、風もようやく静まり、伊勢の安野津(あのつ:三重県・津市)へ吹き寄せられた。

ここで10余日滞在し、なおも奥州を目指して渡海の順風を待つ中、道忠は、にわかに重病を発して起居も容易ならざる状態になってしまい、もはやこれまで、という所まで容体が悪化した。

その枕辺に、僧侶がやってきた。

僧侶 ついこないだまでは、さほどの病気とも思えませんでしたが、日を経るに従い、どんどん病状が悪化してきてますわ・・・。こないな事を言うのもナンですが、ご臨終の日も近いのではないかと・・・。そういう事ですからな、とにかく、よくよく気を引き締められて、「死後は必ず浄土へ行くぞ」との望みをしっかりと、持ち続けるようにしていってくださいや。

僧侶 とにかく、阿弥陀仏(あみだぶつ)の御名をひたすらお唱えしてな、阿弥陀三尊様(あみださんぞんさま:注1)のおむかえを、お待ちなされませ。

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(訳者注1)阿弥陀仏、観世音菩薩、勢至菩薩。
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僧侶 今生において、何か思い残す事はありませんかいなぁ? お心に掛かる事がもしあるんやったら、今のうちに言うといてくださいや。御子息様に、私から申し伝えておきますから。

もうすでに目を塞ぎかけていた道忠であったが、それを聞いたとたん、ガバと起き上がった。

結城道忠 はっはっはぁ・・・。

僧侶 !(驚愕)

結城道忠 思い残す事が・・・あるかってぇ?

僧侶 ・・・。

結城道忠  わしももう・・・70超えた・・・栄華も身に余りあり・・・この世において・・・思い残す事なんて・・・何もね(無)ぇ。

僧侶 ・・・。

結城道忠 ただなぁ・・・。

僧侶 ・・・。

結城道忠 奥州からはるばると・・・吉野までやってきたのに・・・朝敵滅ぼせねぇで、空しく黄泉路(よみじ)へ行く・・・それだけが・・・残念。この朝敵征伐の願い・・・未来永劫まで・・・燃えて止まねぇわしの妄念に・・・なってしまやがった。

僧侶 ・・・。

結城道忠 息子の親朝(ちかとも)にゃ・・・こう言ってやっとくれ・・・「わしの後生(ごしょう)を弔いたきゃ・・・供仏施僧(くぶつせそう)(注2)の作善(さくぜん)なんか・・・しちゃいかん・・・称名(しょうみょう)、読経(どっきょう)・・・なんかの、追善(ついぜん)もするな・・・とにかく朝敵の首取って・・・わしの墓の前に・・・懸けて・・・並べて見せろ・・・それこそが、わしへの最高の・・・追善追福」・・・ってな・・・言ってやっとくれ。

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(訳者注2)仏にお供えをし、僧侶に布施を施す。
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最期の言葉をこのように言い残し、道忠は、刀を抜いて逆手に持ち、歯噛みしながら死んでいった。

罪障(ざいしょう)深き人の数は多いとは言うものの、死の間際に及んで、これほどの悪相を現した人は前代未聞である。

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この結城道忠という人の生前の行いを聞けば、なるほど、この人は、十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)にして重障過極(じゅうしょうかごく)の悪人、としか言う他はない。

鹿を狩り、鷹を使うのは世俗の風習であるから、これはまぁ、よしとしよう。

しかしながら、罪もない人を打ち、縛り、僧侶や尼僧を殺した事は、数え切れないほどである。

「死人の首をいつもオレの目の前に置いとけよ、でねぇと、気分がサッパリしねぇから」などと言い放ち、僧俗男女を問わず毎日2、3人の首を切り、わざと、自分の目の前に懸けさせていた。

このような状態であったから、道忠が少しでも立ち止まった場所は、あっという間に死骨が満ち満ちて屠殺場のごとくになり、死骸が積まれて墓地のようになるのであった。

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以下の話は、道忠が伊勢で死去した事が、遠方にいる遺族にまだ伝わっていなかった時に起こった事である。

結城家に縁の深い一人の律宗(りっしゅう)僧が、武蔵から下総(しもうさ:千葉県中部)へ旅をしていた。

日は暮れたが、目的地までの道はまだ遠い。その夜の宿を探しているところに、一人の山伏が現われた。

山伏 もしかして、宿をお探しですか? ならば、私についてらっしゃい。近所に格好の所がありますんでね、そこへご案内いたしましょう。

僧は喜んで、山伏について行った。

やがて目の前に、鉄の築地に金銀の楼門が立っている建造物が見えてきた。

律宗僧 (内心)ほほぉ、立派な建物だなぁ。門に額がかかってる・・・なにぃ、「大放火寺」だってぇ!?

門から入って中を見ると、美麗を尽くした仏殿があった。

律宗僧 (内心)おぉ、ここにも額がかかってる・・・なになに、「理非断」!?

山伏 ここでしばらく待っててくださいね。

僧を宿泊所に残して、山伏は中へ入っていった。

暫くして、山伏が建物の中から、螺鈿(らでん)装飾の箱を持って出てきた。

箱の中には、法華経(ほけきょう)が入っている。

山伏 あのね・・・そのうち、ここで、とんでもない不思議な事が起こりますよ。

律宗僧 エェ!

山伏 恐怖に身をすくめるような事になるかもしれません。でもね、どんなに恐ろしくなってもね、ゼッタイに息を荒くしないように、心を静めて、この経典をひたすら読み続けるようにしてください、ゼッタイに、ゼッタイにね。

山伏は、第6巻の紐を解き、法華経・如来寿量品・第16(ほけきょう・にょらいじゅりょうぼん・だいじゅうろく)を読み、僧侶には第8巻を与えて、法華経・観世音菩薩普門品・第25(ほけきょう・かんぜおんぼさつふもんぼん・だいにじゅうご)を読ませた。

律宗僧 (内心)なんだなんだ、いったいどうなってんだぁ? いったい何が起るんだろう?

僧は、山伏に言われたままに、口には経を唱え、心中から妄念を払い、寂々として室内に座した。

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夜半過ぎ頃、月がにわかにかきくもり、激しい雨が降りだし、雷鳴まで轟きはじめた。

やがてそこに、異形の者らがやってきた。

見れば、全員、牛の頭、馬の頭、まさしく、あの地獄の獄卒たち。数え切れないほどの集団を成して大庭に群集。

しばしの間に、周囲の風景は一変してしまった。地獄の城が高くそびえ、鋼鉄の綱が四方に張られている。1ユジュン四方には烈々たる猛火が燃え盛り、毒蛇は舌を伸ばして炎を吐き、鉄の犬が牙をといで吠える。

律宗僧 (内心)あぁ、なんと恐ろしい・・・ここはきっと、無間地獄(むげんじごく)なんだ。

恐怖におののきながら見つめる僧の眼前に、牛頭(ごず)や馬頭(めず)らが、車の轅を引いて虚空からやってきた。燃える車の上には、一人の罪人が載せられている。

それを待ち構えていた悪鬼たちは、盤石のごとき鉄のまな板を庭に据え、車から罪人を下ろして、そのまな板の上に仰向けに据えた。そして、その上にさらに、鉄のまな板を重ねた。

悪鬼たち スタンバイ、OK!

悪鬼A ヨォシ、デハマズ、第1過程開始ーッ!

悪鬼たちは、膝を屈し、ひじを伸ばし、そのまな板を上から押さえつけ始めた。

悪鬼たち エイヤァ、エイヤァ、エイヤァヤァ、エイヤァ、エイヤァ、エイヤァヤァ・・・

まな板の横から、油がしたたるように、罪人の血が流れ出てくる。その下には、大きな鉄のバケツが置かれていて、血は全てそこに溜まっていく。

程なく、バケツ一杯に血液が溜まった。まるで、夕日を浸す川水のようである。

悪鬼A 血液ハ一滴残ラズ絞リ尽クサレタゾヨ。

悪鬼B シカラバ、コレヨリ第2過程ニ移行スルゾーッ!

悪鬼たちは、上に載せた俎板を外し、紙のようにぺちゃんこになった罪人を、鉄の串で差し貫いた。そして、それを炎の上にかざしながら、表裏とひっくり返しながら、あぶり始めた。まさに、料理人が肉を料理しているかのごとくである。

悪鬼B 加熱ヨーシ!

悪鬼C シカラバ、第3過程ヘト移行ーッ!

徹底的にあぶり乾かしてから、悪鬼たちは、再び罪人をまな板の上に押し広げた。そして今度は、肉切り包丁と魚料理用の箸を使って、その体を細かく切り裂き、ポンポンと、銅製のネットの中に投げ入れていく。

悪鬼C 第3過程、完了セリ!

悪鬼D デハ、回復過程ヘト移行スル。全員、集合シ、ネットヲ保持スベシ!

悪鬼たち 了解!

悪鬼らは、罪人の肉が詰まったネットの周囲に群がり、それを手にとって声をそろえて、

悪鬼たち 活(カツ)活、活活、活活・・・。

悪鬼たちがネットを上下させるにつれて、その中で肉片がくっつき始めた。

間もなく、罪人はもとの身体に戻った。

今度は、一匹の悪鬼が鉄の鞭を取り、罪人の前に立って怒声を浴びせた。

悪鬼E 地獄ハ地獄ニアラズ、汝ガ罪、汝ヲ責(セ)ムル!

罪人は、この責め苦のあまりのつらさに、泣くにも涙も出ない。猛火が眼を焦がす故に、叫ぼうとしても声も出ない。鉄のボールを呑みこまされてのどを塞がれている状態の中に、無理をして地獄の苦しみを少しでも語ろうものなら、それを聞く人はあまりの恐ろしさに、地に倒れ伏してしまうに違いない。

その一部始終を見まもりながら、僧は、魂も浮かれ骨髄をも砕かれるような心地がして、恐怖におののくばかり。

彼は、山伏に問うた。

律宗僧 いったいあの罪人は、生前にどんな事をしたのでしょうか? いったいどんな因果でもって、あのような呵責(かしゃく)を加えられることになってしまったのか?

山伏 あの罪人こそはね、奥州の住人・結城道忠なのですよ。伊勢国で死んだ後に、阿鼻地獄(あびじごく)へ落ちて、あのように常に呵責されているのです。

律宗僧 えぇ! あれは、結城道忠殿なのですか!

山伏 あなたはもしかして、彼に縁の深い人ではありませんか? もしそうならば、後に残された彼の妻子たちに、こう伝えてやって下さいませんか、「みんなで集まって一日経を行い(注3)、彼を苦しみの世界から救いあげてやれ」ってね。どうか、そのように、伝えてやって下さい。

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(訳者注3)みんなで手分けして、一日の間に一部の経典を写経するという行。
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律宗僧 ・・・あなたはいったい何者ですか?

山伏 今回の上洛に際して、結城道忠は、鎧の袖に私の名前を書き記しました、「六道を救う地蔵菩薩」とね。

山伏の言葉が終わるか終わらぬうちに、暁を告げる寺の鐘が、松風とともにほのかに響き渡ってきた。地獄の鉄城は、たちまちかき消すように消え、山伏の姿も見えなくなってしまった。

気がついてみれば、僧はただ一人、野原の草の露の上に呆然と座していた。

律宗僧 (内心)・・・あれはいったい、なんだったんだ?・・・それにしても驚いたなぁ、地蔵菩薩様が化身して、あのような不思議を現されるとは・・・。

夢か現実かも定かならぬ心地の中に、周囲は次第に明るくなってくる。

律宗僧 (内心)よし、とにかく奥州へ行って、結城殿の家族に、この事を伝えよう。

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僧は、奥州への道を急ぎ、結城道忠の子息・親朝に、自分が見た事を全て伝えた。

律宗僧 ・・・とまぁ、こういうわけでしてねぇ。

結城親朝 そうかい・・・フーン・・・。

結城親朝 (内心)いってぇ何を言うかと思えば、よりによって、オヤジが伊勢で死んだだとぉ! そんな報告、何も聞いてねぇぞ! こりゃぁきっと、この者の夢の中の妄想だろうよ・・・もしそうでなきゃ、どっかの得体の知れねぇバケモノにでも惑わされたんだろうよ、きっとな。

その3、4日後、伊勢から飛脚がやって来て、結城道忠の遺言の事や臨終の際の悪相を詳しく語ったので、親朝もようやく、僧の言葉を信じるようになった。そこで、遺族らは、死後の7日目ごとに一日経を行って、道忠の追善供養をした。

供養の導師は、仏の徳を賛じ、珠玉のような言葉を述べた。

供養の導師 「若有聞法者無一不成仏(注4)」とは、如来の金言(きんげん)にして、これぞまさしく、法華経をもって大聖釈尊(たいせいしゃくそん)が我々に教えんとしたもうたところ。八寒八熱(はっかんはちねつ)の地獄の底までも、み仏の救いのおん手は伸べられ、悪業(あくごう)の猛火はたちまちに消え、清冷(しょうりょう)の池水が満々と湛えられるのでありますよ。

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(訳者注4)若(も)し仏法を聞く者有らば、成仏せ不(ざ)るは一人として無し。仏の法を聞いたならば、誰でも成仏していくことができる、という意味。
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これを聞いた法要に参座の者たちはみな、随喜の涙を流し、たもとをうるおした。

まことに、地蔵菩薩様は、善にして巧妙なる方便をもって、結城道忠が地獄で苦しんでいる様をその遺族に明示し、彼を救うための追善を行わせように、仕向けられたのであった。

地蔵菩薩様は、釈尊がこの世に出現される前から、そして、釈尊がご入滅された後も一貫して、迷える衆生を救いの世界に導き続けてこられた。まさに、大慈大悲(だいじだいひ)の菩薩といえよう。

仏様に結んでいただく縁というものは、人によって多かったり少かったりする。その違いが、頂くご利益(りやく)の厚薄にも影響してくるのである。しかし、どのように仏縁の少ない人であっても、この地蔵菩薩さまに一度めぐりあえたならば、仏の世界の真理と人間の世界の道徳を会得し、善なる人生を全うしていこうとの願を達成することが可能となる。

「現世においても死後世においても、衆生をよく引導せん」との地蔵菩薩の御誓願、ああ、なんと頼もしきかな。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 20-12 吉野朝廷、奥州に拠点確立を図る

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷・重臣A 北畠顕家(きたばたけあきいえ)は阿倍野(あべの:大阪府・大阪市・阿倍野区)で戦死するわ、春日少将(かすがのしょうしょう)の守る八幡(京都府・八幡市)も落とされてしまうわで・・・もう、ガックリくるような事ばっかしですわぁ。

吉野朝廷・重臣B ほんま、最近えぇことおへんなぁ。毎日、落ち込んでばっかしですぅ。

吉野朝廷・重臣C いやいや、まだ望みはありますやんかぁ、新田義貞(にったよしさだ)が、「そのうち北陸から京都に攻め上りますから」て、言うてきとりますやん。

吉野朝廷・重臣D ほんま早いとこ、新田に京都を奪回してほしい。待ち遠しいですわ。

ところが、その頼みの綱の新田義貞も足羽(あすは:福井県・福井市)で討たれてしまった、との報に、天皇以下、みな色を失ってしまった。まさに、蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん:注1)が諸葛孔明(しょかつこうめい)を失い、唐の太宗(たいそう)が魏徴(ぎちょう)の死を歎き悲しんだがごとくである。

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(訳者注1)劉備の子供。父の後を継承して蜀王となった。
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このような中に、奥州(おうしゅう:東北地方東部)の住人・結城道忠(ゆうきみちただ)が天皇のもとに参内して、ある提案を行った。

結城道忠 奥州国司・北畠顕家卿が、3年の内に2度までも大軍を動かして上洛されました間は、出羽(でわ:東北地方西部)、奥州両国の武士たちはみな、北畠卿に従い、足利サイドが東北地方に手を伸ばす隙を、全く与えませんでした。

後醍醐天皇 ・・・。

結城道忠 あちらの国人たちが心変わりしない今のうちに、陛下、なにとぞ、親王様をお一人、東北地方に派遣下さいませ。その上で、忠功ある者には、親王様から直接に褒賞を与えられ、不忠の輩たちの根を切り葉を枯らすように処置して下さいましたなら、東北地方全域を陛下の支配下におさめることができましょう。

後醍醐天皇 ・・・。

結城道忠 わが国の地図を見れば分かりますように、奥州54郡の面積合計は、およそ日本の半分にも及びます。あの地方の勢力を残らずこちらになびかせる事ができましたならば、4、50万騎もの大兵力が、我が方のものとなりましょう。

結城道忠 私、道忠、親王様をお守りして、奥州へ参りとうございます。その後、老年の首(こうべ)に兜をかぶって再び京都に攻め上り、1年の間に、これまでの雪辱を成しとげてみせましょう!

後醍醐天皇 よぉ言うた!

吉野朝廷・重臣A なるほど、これは良きアイデアですわなぁ。

吉野朝廷・重臣B そうやぁ、まだ奥州があったんやぁ。

後醍醐天皇 よかろう、それ、さっそく実行に移せぇ!

というわけで、今年7歳になった後醍醐天皇の第8皇子・義良(よりよし)親王に、元服の儀を行い、春日少将をその輔弼(ほひつ)の臣に任じ、結城道忠を衛門尉(えもんのじょう)に任命し、ともに奥州へ向かわせた。

さらに、新田義興(にったよしおき)と北条時行(ほうじょうときゆき)の二人に対して、「関東八か国を平らげて、義良親王を援助せよ」との命を与え、武蔵と相模へ派遣した。

足利サイドの力が方々に及んでいるので、陸を経由しての奥州行きは困難、というわけで、海路を行くことになり、全員、伊勢(いせ:三重県中部)の大湊(おおみなと:三重県・伊勢市)に集まり、船を揃えて良風を待った。

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9月12日の宵頃から、風は止み雲も収まり、海上が穏やかになってきたので、船員たちは艫綱(ともづな)を解き、船団は万里の雲に帆を飛ばし始めた。

軍船500余隻、親王の乗る御座船を中央に囲み、遠江(とおとうみ)の天龍灘(てんりゅうなだ)を通過の際(注2)、海風にわかに吹き荒れて、逆巻く波は天をも巻返す。帆柱を折られ、舳先に張った帆でかろうじて航行可能な船もあり、舵をかき折られて渦に漂う船もあり。

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(訳者注2)強風に遭遇した場所については、この船団に搭乗した北畠親房(きたばたけちかふさ)が著した「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」の記述との間に、違いがあるらしい。
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日没後、ますます風は強まり、風向が様々に変わった。船団は、まちまちの方向に散乱してしまった。伊豆大島(いずおおしま)、女良湊(めらみなと:千葉県・館山市)、神奈川湊(かながわみなと:神奈川県・横浜市)、三浦半島(みうらはんとう:神奈川県)、由比が浜(ゆいがはま:神奈川県・鎌倉市)等、津々浦々の湊に、船は吹き寄せられていった。

親王が乗っている船は他の船から離れてしまい、満々たる大洋上を吹き流されていった。今にも船が転覆してしまうかと思われたまさにその時、光明赫奕(かくえき)たる太陽(注3)が船の舳先に現れるやいなや、風向きはにわかに変わり、船は伊勢の神風浜(場所不明)へ吹き戻された。

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(訳者注3)原文では、「日輪」。
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船団中の多くの船が行くえ知れずになってしまった中に、この船だけが、太陽神の擁護によって伊勢へ吹き戻された事には、実に深い意味が込められている。これはきっと、この親王がやがては天皇の位を継がれる運命にあることを、もったいなくも天照大神(あまてらすおおみかみ)が示現され、奥州への下向を止められ、すぐに吉野へ返されたのにちがいない。(注4)

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(訳者注4)太平記作者はここで、「太陽」、「天照大神」、「伊勢(天照大神が祭られている伊勢神宮がある)」というキーワードを提示することにより、義良親王が「次の天皇位につくべく選ばれた人」であることを強調したいのだろう。
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はたして、後醍醐天皇の崩御(ほうぎょ)の後、吉野朝廷の天皇位を継承されて「吉野の新帝」と呼ばれるようになる方こそ、まさにこの、義良親王殿下に他ならない。(注5)

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(訳者注5)後村上天皇。
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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 20-11 新田義貞と勾当内侍

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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やがて、新田義貞(にったよしさだ)の首は京都に到着、「これぞ朝敵の最たる者、足利幕府の仇敵ナンバーワン!」とされ、都大路を引きまわしの上、獄門に掛けられる事になった。

生前の義貞は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の寵臣であり、その武功のお陰を受けていた人は多く、天下が頼りとする存在であった。義貞からの好意を喜び、その恩顧に浴すことを望んでいた人は、京都中に幾千万といた。そのような人々がこぞって、「義貞殿のお顔を、一目でも」と、集まってきた。

車馬は都大路沿いに列をなし、男女が道の両側を埋めつくす。

人A あないな姿に、なってしまわはって・・・(涙)。

人B 新田さま・・・(涙)。

人C う、う、う・・・(涙)。

人D あぁ、あぁ、・・・(涙)。

人E なむあみだぶつ、なむあみだぶつ・・・(涙)。

目の前を行く義貞の変わり果てた姿に、至る所から、嘆き悲しみの声が湧き起こってくる。

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中でも、義貞の奥方、かの勾当内侍(こうとうのないし)の悲しみこそは、伝え聞くだけでも哀れを催すものであった。

この女性(ひと)は、頭の太夫(とうのだいぶ)・世尊寺行房(せそんじゆきふさ)の娘である。(注1)

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(訳者注1)[新編 日本古典文学全集55 太平記2 長谷川端 校注・訳 小学館] 532P の注には、以下のようにある。

『尊卑分脈』によれば、行実祖父経尹の女を「新田義貞朝臣室」とするが、この注記を誤りとする説もある(大系『増鏡』補注四〇六)。
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壮麗な館の中に秘め育てられ、あでやかな衝立の内に成長し、やがて、絶世の美人に。

16歳の春の頃から、内侍として宮中に召され、天皇の傍らに侍ることになった。

その美しさはいかに、と問えば、

世間の声F 彼女の顔を一目見たら、薄布(うすぎぬ)や綾布(あやぎぬ)でさえ、たちまち融解してしまうほどですわいな。

世間の声G 春風、一片の花を吹き残し、てな風情(ふぜい)でしてなぁ。

世間の声H 紅や白粉(おしろい)でメイクしはったそのお顔、秋の雲から半分顔をのぞかせた月が水に映ずるがごとく、とでも、申しましょうか。

世間の声I と、いうわけですから、陛下のご寵愛はただもう、勾当内侍殿の上に、一点集中、

世間の声J お妃がたは、自分とこへの陛下の訪れのあまりの少なさを、ただただ嘆くのみ、

世間の声K 宮中の水時計が告げる一夜25刻を、ただただ聞きながら過ぎていく・・・あぁ、ひとりぼっちの夜、時間の経過のなんと長いことよ・・・。

天下に再び乱の兆しが見え始めた建武年間の初めの頃、新田義貞は、天皇に常に召されて、御所の警護の任をつとめていた。

秋風が吹き、月が冷涼と照る、ある夜、

勾当内侍 (内心)あぁ・・・今夜の月は、また格別やねぇ・・・。

彼女は、半分おろした御簾を巻き上げ、月光の下に琴を弾き始めた。

新田義貞 (内心)お・・・誰かが琴を弾いてるな・・・なんて素晴らしい音色なんだろう。

義貞は、琴の音に心引かれ、音源の方へと向かった。

月光に照らされる御所の庭を進むにつれて、得体の知れない心の高まりをおぼえる義貞であった。

唐垣(注2)の傍らに隠れながら、義貞は、中を覗いてみた。

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(訳者注2)草木の茎や幹、または丈で編んで作った垣根。
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新田義貞 (内心)アァッ・・・!

新田義貞 (内心)・・・なんて美しい女性・・・この世の人とは思えん・・・。

覗き見する人の気配を感じ、興ざめしてしまった勾当内侍は、琴を弾くのを止めてしまった。

義貞はもう、その場から一歩も動けなくなってしまった。

夜はいよいよ更け行き、有明(ありあけ)の月光が、室内くまなく差し入る。

勾当内侍 類(たぐい)までやは つらからぬ・・・(注3)

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(訳者注3)つれなさの たぐひまでやは つらからぬ 月をもめでじ 有り明けの空(新古今和歌集 恋2 藤原有家)
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このように一人ごちながら、月光の下にしおれ伏している勾当内侍の艶姿(あですがた)、折らば落ちる萩の露、拾えば消える玉篠(たまざさ)か・・・。

新田義貞 (内心)あぁ・・・たおやか・・・なまめかしい・・・艶(あで)やか・・・美しすぎ・・・あまりにも美しすぎ・・・。

義貞の心は乱れに乱れ、行くえも知れぬ道に迷ってしまったかのような心地。帰り道も分からなくなってしまい、淑景舎(しげいしゃ:注4)の傍らに立ち尽くしたまま、夜明けを迎えてしまった。

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(訳者注4)桐壷。
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早朝、御所から自宅に帰還の後も、ほのかに見た彼女の面影が、目の中に焼き付いて離れない。

義貞の日常は、一変してしまった。世間の出来事や人の言葉など、全て上の空。自分が起きているのか、眠っているのかさえも、定かではない、ただただ、勾当内侍の面影を心中に抱きながら、夜を明かし昼を暮らし・・・。

新田義貞 (内心)・・・よりにもよって、相手は内侍職にある女(ひと)だ・・・しょせん、高嶺の花、かなわぬ恋の道よ・・・。

新田義貞 (内心)案内してくれる海士(あま)がいるんだったら、「忘れ草」が生えているとかいう海岸へでも行きたいぜ・・・そしたら、彼女の事を忘れることも、できるだろうに。

ますます、心は沈んでいく。

あまりのやるせなさに、とうとう、恋の仲立ちをしてくれる人を見つけた。

新田義貞 (内心)彼女に寄せるおれのこの熱い思い、ほんの一端なりとも伝えることができれば・・・風の便りの下萩の、穂に出ずるまでは不可能であっても・・・。

意を決した義貞は、彼女に手紙を送った。

 我が袖の 涙に影を 映すとも 知らずに月は 空に浮かぶよ

 (原文)我袖の 泪(なみだ)に宿る 影とだに しらで雲井の 月やすむらん(注5)

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(訳者注5)「自分の袖に溜まった涙の池に月影が映じる」という描写は新古今集に多用されている。「雲井」は「空」と「宮中」の双方を意味している。「雲井にいる月」に内侍を喩えたのである。
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これを受け取った内侍は、

勾当内侍 (内心)えぇっ! あたくしに恋文を! うわぁ、困ったなぁ・・・こないな事、陛下のお耳に入りでもしたら、もうそれこそ、大変なことになってしまうやないの。

というわけで、仲立ちに立った者は、勾当内侍からの返事をもらえず、空しく帰ってきた。

仲立ち ・・・というわけでしてなぁ・・・。

新田義貞 ・・・。

仲立ち あてが見たカンジではな、「あの新田義貞はんからのラブレターやねん」ちゅうことで、勾当内侍はんの方でも、マンザラでもなさそうでしたんやけどな、結局、義貞はんからのお手紙、手にもとって、もらえまへんでしたわぁ。

新田義貞 そうでしたか・・・。(ガックリ)

義貞は、完全に落ち込んでしまった。失恋の痛手に打ちひしがれながら、送る日々・・・。

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見るに見かねて、誰かがその事を、天皇の耳に入れた。

後醍醐天皇 イェーイ、そうかい、そうかい、ハハハハ・・・義貞め、勾当内侍に懸想(けそう)してしまいよったんかいやぁ。ハハハハ・・・。

天皇のお側の者たち ・・・。

後醍醐天皇 武士っちゅうもんは、ほんまにもう、見境(みさかい)無いよってになぁ、相手がどないな身分の女性であっても、もう、思い込んだらイチズになってしまいよる・・・うーん、なんか、義貞の事、かわいそうに思えてきた・・・ヨーシ!

ある時の詩歌管弦の席に、天皇は義貞を召した。

後醍醐天皇 これ、誰か、義貞に盃を取らせい!

天皇のお側の者 はは! (義貞に盃を差し出す)

新田義貞 もったいなくも陛下よりのおん盃、ありがたく頂きます。

後醍醐天皇 義貞、その盃にな、ある人を付けて取らすぞ。

新田義貞 はぁ?

後醍醐天皇 ふふふ・・・勾当内侍を付けてな・・・。

新田義貞 えっ!・・・ありがとうございます!

天にも昇る心地とはこの事か。次の夜、義貞は美しく装った牛車をしつらえ、勾当内侍を迎えに宮中へ送った。

使者が用件を勾当内侍に伝えた。

義貞から長年にわたって寄せられてきた熱情にほだされて、彼女の方も、「誘う水があるならば誘われてみても・・・」との思いに至っていたようである。

夜もさほど更けぬ時分、きしる音を立てて、新田邸の中門の前に牛車が止まった。一人二人の侍女が、妻戸を閉じて、ささやき合った。

世間の声F いやぁ、めでたしめでたしどしたなぁ。

世間の声G ほんにまぁ、義貞はんのお心、察して余りありますわなぁ。

世間の声H 何年もの間、耐えに耐え、忍びに忍んだ恋心、

世間の声I ようやく成就し、ついに、勾当内侍はんと結ばれはった、今の義貞はんのお心は、

世間の声K まさに、優曇華(うどんげ)の花が、待ちに待った春に出会うたとでもいうような、

世間の声K 昔、中国で、楚(そ)の懐王(かいおう)は、珊瑚樹(さんごじゅ)上で神女と契る夢を見たとか・・・義貞はんも、勾当内侍はんを何度夢に見はったことですやろか。

世間の声F その夢も、今は現実のものとなり・・・まさに、唐の玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃(ようきひ)のごとく、ついに、二人は結ばれたのでありました。

世間の声G しかしながら、まさに危きは、男女の仲。

世間の声H 勾当内侍はんとの情愛に溺れ、心の迷いの中へと没入。

世間の声I そんな義貞はんを諌める人は、一人もいいひん。

世間の声J 去る建武年間、足利兄弟が西海の波上に漂っている時に、義貞はんは勾当内侍はんとのしばしの別れを悲しみ、中国地方への遠征の出発を遅らせてしまい、

世間の声K その後、陛下が延暦寺(えんりゃくじ)に動座された折も、足利軍が比叡山(ひえいざん)から追い落とされたそのタイミングを逃さずに、すぐに追撃に移ったならば、京都をも手中に収めることができたやろうに、義貞はんは勾当内侍はんに心迷い、浮き足立つ足利側を、勝ちに乗じて攻めまくることもせぇへんかった。

世間の声F その結果、とうとう、足利兄弟に天下を奪われてしまわはったんやなぁ。

「美女一笑して、国傾く」との古人の戒め、まことにもっともな事である。

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坂本(さかもと:滋賀県・大津市)から北陸地方へ逃げ行く際に、義貞は、行く先の道中の難儀を思い、勾当内侍を、今堅田(いまかただ:滋賀県・大津市)という所に留め置くことにした。

愛し合う男女であれば、ちょっとの間別れる時でさえも、行く側は、後を何度もふり返って家の上空に浮かぶ雲を見つめ、留まる側は、これから先の事をあれやこれやと心配し、天から降る雨に自分の涙を交えるものである。

新田義貞 (内心)ましてや、おれは今から、先の保証の全くない北陸へ行くのだ、生きて再び、この人の顔を見ることができるかどうか。

勾当内侍 (内心)この堅田の地で、これからもずっと、漁師の磯屋に、身を隠し通せるもんやろか・・・。いつ何時、足利側の捜索を受けて、つらい目にあい、憂き名を世にさらすことになるやも・・・。(涙)

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その翌年、「金崎(かねがさき)で、父の行房、戦死」との報がやってきた。

悲しみは増すばかり、「明日まで、もつかどうかも分からない我が命」と、嘆き沈む勾当内侍。

しかしさすがに、消えてしまう露のような身ではない、涙を流しながら細々と暮す、堅田での2年余が経過。

義貞の方も、越前に到着したその日から、「すぐにでも、彼女を迎えに誰かを!」と思い続ける毎日であったが、

新田義貞 (内心)でもなぁ、堅田から越前への道中には、どんな危険が潜んでいるか分かんないし・・・だいいち、こんな苦しい状況下に、おれ一人だけがイイ目を見るってのも、どうもなぁ・・・周囲はどんな目で、おれたちを見ることだろう・・・。

というわけで、時々手紙を交わして互いの無事を確認しあえるだけでもよし、としながら、二人は、異郷の空の下に別れながら、生きてしくしかなかった。

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秋の初め頃、勾当内侍のもとに、義貞からの使者がやってきた。

使者 堅田から越前への道中も大分、安全になってきましたのでね、殿のご命令を受けて、奥様をお迎えにあがりました。さ、旅のお仕度を!

勾当内侍 あぁ、ついに!(大喜)

勾当内侍はすぐに、越前に向かった。

勾当内侍 (内心)この3年間というもの、暗い夜の闇の中にさ迷ぉてたようなもんやった。それが、今、急に夜が明けたような・・・うれしい・・・もうすぐ殿にお会いできる・・・うれしい・・・。

やがて、勾当内侍は、杣山城(そまやまじょう)へ到着。しかし、すでに義貞は、足羽城(あすはじょう)攻めに出ていってしまっていた。

杣山城の人々は、すぐに輿をしつらえ、勾当内侍を義貞のもとへ送った。

輿が浅津橋(あさうづのはし:福井県・福井市:注6)にさしかかった時、瓜生照(うりうてらす)が100騎ほどを率いてやってきた。

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(訳者注6)現地では、「朝六橋(あさむるばし)」の名称で呼ばれているようだ。
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瓜生照 (内心)あれ? あの輿かついでるの、ウチの杣山城の連中らじゃない。

瓜生照 おぉい、その輿の中、いったいどなたがおられるん?

杣山城メンバーL はい・・・新田義貞様の奥方、勾当内侍さまが・・・。

瓜生照 なにぃ!

照は馬から飛び下り、輿の前にひれ伏して、

瓜生照 (涙)これからいったいどちらへ? 新田殿、昨日の暮方、足羽という所で、討死にされてしまいましたよ・・・(涙、涙)。

勾当内侍 えっ!・・・

これは夢か現実か・・・勾当内侍は、胸ふさがり肝も消え、涙さえも出てこない。

勾当内侍 あぁ・・・。

輿の中に伏し沈みながら、やっとの思いで勾当内侍は、

勾当内侍 (涙)お願い、殿が亡くなられた野原の草の露の底にでも、あたくしを捨てて帰ってください・・・殿は、まだそれほど先には行っておられないでしょう・・・あたくし、殿の後を追います・・・殿といっしょに死にます・・・。

瓜生照 そんな・・・(涙)・・・おいおい、おまえら、とにかく、輿を早いこと、杣山城に戻せ!

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勾当内侍 (内心)ここが、殿がお暮らしになってた室・・・。

色紙を押し散らした襖(ふすま)を開けてみると、

勾当内侍 (内心)あ、メモがある、何か書き残してはるわ。

義貞が何となく書き散らしたメモには、

 そのうち 都へ帰るのさ
 そうさ 都へ帰るのさ
 ゼッタイニ 都へ帰るのさ

今は空しくなってしまった義貞のその形見を見るにつけても、悲しみはいや増すばかりである。

杣山城には少しも、心なぐさむものは無いのだが、

勾当内侍 この数年、ここで殿は暮してはったんやから・・・せめて、殿の49日が過ぎるまでは、あたくしもここにいて、殿の菩提をお弔い申し上げたい。

しかし、彼女のそのささやかな願いも、かなえられなかった。杣山城付近にも足利側の圧力が及んできて、騒然となってきた。

「このような状況下に、城の近くに奥様がおられるのは危険きわまりない」ということになり、杣山城の人々は、勾当内侍を京都へ送った。そして、仁和寺(にんなじ:京都市・右京区)周辺に、主が住まなくなってしまった家を見つけ、そこに彼女を隠し置いた。

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勾当内侍 (内心)あたくしの故郷、京の都も、今となっては旅寝の土地になってしもうた。安心して住める場所もないし、心も落ち着かず涙が出るばかり。誰か、頼っていけるような人はいいひんもんやろか。

昔なじみの行くえを尋ねて、勾当内侍が御所の陽明門(ようめいもん)の傍らを通り過ぎた時、多くの人が集まって、「あぁ、お気の毒に」と口々に言っている。

勾当内侍 (内心)あれはいったい、なに?

彼女は立ち止まり、みんなの後ろから覗いてみた。

勾当内侍 アァッ・・・!

そこにいたのは、あの愛しい人・・・はるばる北陸まで尋ねて行きながら、ついに会えずに帰ってきてしまった、夫・義貞の首が、そこにあった。獄門の木に懸けられて、眼は塞がり、色も変わってしまっている。

勾当内侍はそれを二目と見れずに、傍らの築地(ついぢ)の陰に、泣きながら倒れ伏した。それを見て、義貞と勾当内侍の事を知る人も知らない人も、みな共に、涙を流した。

日はすでに暮れたが、宿に帰ろうという気持ちには、とてもなれない。蓬(よもぎ)の根元の露の中に泣きしおれている勾当内侍を見て、近所の道場の僧侶が声をかけた。

僧侶 ほんにまぁ、お気の毒な事ですわなぁ・・・。さ、そないなとこにいはったんでは、体に悪いですからな、こちらの道場にお入りください。

勾当内侍 ・・・(涙)。

その夜、彼女は、翠(みどり)の髪を剃り落して出家。美しかった女人の姿はもはやそこには無く、一人の尼が座している。

それからもなお、義貞の面影を常に思いおこし、嘆き悲しむ日々が続いた。

しかしながら、会者定離の理(えしゃじょうりのことわり:注7)に触れて愛別離苦(あいべつりく)の苦悩を脱し、厭離穢土(おんりえど:注8)の心は日々に進み、欣求浄土(ごんぐじょうど:注9)の念が時々に、内侍の心中に定着していった。

やがて、勾当内侍は、嵯峨野(さがの:右京区)の奥にある往生院(おうじょういん)のあたりの庵に入り、明け暮れ、仏道修行にはげむ身となった。

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(訳者注7)いったん会った者にもいつかは必ず別離がやってくる。

(訳者注8)現世を嫌う。

(訳者注9)浄土を求める。
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太平記 現代語訳 20-10 脇屋義助、兄の弔い合戦を志すも叶わず

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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脇屋義助(わきやよしすけ)は、河合の石丸城(いしまるじょう:福井県・福井市:注1)へ帰った後に、

脇屋義助 おぉい、誰か、アニキの行くえ、知らないかなぁ? いったい、どこ行っちまったんだろ・・・。

最初の間は、確かな情報を把握している者が一人もおらず、自分たちが今いったい、どのような状況に陥ってしまっているのか、誰にも分からなかった。しかし、時間が進むにつれ、事は次第に明らかになってきた。

様々のメンバーから提供される情報を総合すれば、そこから得られる結論はただ一つ、

 新田義貞、戦死

脇屋義助 ・・・アニキ・・・(涙)。

新田軍リーダー一同 ・・・(涙)。

脇屋義助 よぉし、アニキの弔い合戦だ。明日にでも黒丸城へ押し寄せて、アニキの討たれた場所で、おれも討死にする! 待ってろよ、アニキ、おれもすぐに行くからなぁ!(涙)

しかしながら、あまりの出来事に、全員ショックに打ちのめされて、ただただ呆然。戦意はほとんど沸き上がってはこない。

まさに、変わり易きは人の心。その衝撃に追い討ちをかけるかのように、足利サイドになびく者も城中に出てきたと見えて、城内に不審火が発生すること、一夜の中に3回。

斉藤季基(さいとうすえもと)、斉藤道献(さいとうどうけん)の二人は、義貞からの格別の恩顧を被った近習であったので、門前の左右の脇に陣を並べ構えていた。ところが彼らは、その陣を引き払い、夜陰に紛れて、いずこへともなく逃亡してしまった。

これをかわぎりに、その場限りの出家をして、称念寺(しょうねんじ:福井県・坂井市)へ入ってしまう者や、縁故を頼って、黒丸城の斯波高経(しばたかつね)サイドへ、新田サイドに所属した罪を謝して投降してしまう者も続出。昨日まで3万騎もいたのに、一夜明けて見れば、わずか2000騎足らずになっている。

脇屋義助 これじゃぁとても、越前・制圧なんて無理だ。

仕方なく、義助は、残ったメンバーを、越前の方々に配置した。

三峯城(みつみねじょう:福井県・鯖江市)には、河嶋(かわしま)を、
杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)には、瓜生(うりう)を、
三国湊城(みくにみなとじょう:福井県・坂井市)には、畑時能(はたときよし)を残し、

うるう7月11日、脇屋義助・義治(よしはる)父子は、禰津(ねづ)、風間(かざま)、江戸(えど)、宇都宮(うつのみや)の軍勢700余騎を率いて、越前国府へ帰還した。

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(訳者注1)21世紀になってからの発掘調査により、石丸城があった、とされてきた地から、様々な遺構や様々な物が発掘されたようである。

[福井市 石丸城 発掘調査]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。
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2018年1月17日 (水)

太平記 現代語訳 20-9 新田義貞の最期

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田軍は、燈明寺(とうみょうじ)の前で3万余騎を7手に分け、足羽(あすは)7城の間を遮断すべく、城と城との中間地点に、向かい城を築きはじめた。

事前の作戦会議では、「前線にいる者が足羽7城に対して戦う間に、後衛の足軽集団に、櫓を建設し、塀を立て、向かい城を確立させる。向かい城が完成してから後、じっくりと腰を据えて、足羽7城を攻めおとそう。」と決していた。

ところが、平泉寺(へいせんじ)衆徒たちがたてこもっている藤島城(ふじしまじょう)が意外に浮き足立ってきて、今すぐにでも落とせそうな状態になってきた。新田軍数万は、これを見て完全に舞い上がってしまい、「まずは、向かい城を確立」との決定を忘れ、藤島城の塀に一斉に取り付き、堀に飛び入り、おめき叫んで、城を攻め始めた。

城にこもる平泉寺衆徒らは、敗色濃くなってきたが、「もはやどこにも逃れるすべ無し!」と覚悟し、身命を捨てて防衛に当たった。新田軍が櫓を覆して攻め入らんとすれば、衆徒らは木を滑らせて攻撃側の頭上に落下させる。衆徒らが橋を渡ってうって出れば、新田軍は太刀の切っ先そろえて彼らを切って落す。追いつ返しつ、攻守時をおかず入れ替わる大激戦に時は過ぎ、やがて、日は西の山に沈みはじめた。

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新田義貞(にったよしさだ)は、燈明寺の前にひかえ、負傷者の認定(注1)を行っていた。

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(訳者注1)原文では、「手負(ておい)の実検(じつけん)」。戦って負傷すれば「軍功」となるのだが、それを大将に認めてもらわなければ(「実検」してもらわなければ)、戦後の褒賞にはありつけない。
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伝令A 殿! 藤島城の敵側の抵抗、思いの他、頑強(がんきょう)。わが方、ややもすれば、退き気味に!

新田義貞 そうか。藤島城攻めが撃退されちまったら、これは大変な事になる。よし、今からあっちへ応援に行く! 馬引けぇ!

義貞側近B ハッ!

馬に乗り、鎧を着けかえ、義貞は、わずか50余騎だけを率いて、陣を出た。

路を変え、畦を伝い、彼らは、藤島城へ馬を走らせた。

その時、藤島城を攻めている新田軍を撃退するために、黒丸城(くろまるじょう: 福井県・福井市)から畦道(あぜみち)づたいに駆けつけてきた細川出羽守(ほそかわでわのかみ)と鹿草彦太郎(かくさひこたろう)率いる300余騎が、義貞が率いるこの部隊に遭遇した。

細川軍側には、盾をもった歩立(かちだち)の射手が多くいた。彼らは、深田の中に走り下り、前面に持ち盾をつき並べ、鏃を揃え、新田軍に対して散々に矢を浴びせかけた。

新田軍側には、射手は1人もおらず、盾の1枚もない。前方にいる武士らが義貞の矢面に立ち塞がったが、的のように、ただただ矢を浴び、続々と倒れていく。

新田義貞 えぇい! やつら、タタッ切ってやる! おまえら、そこのけ、道開けろ!

先頭に立って突撃しようとする義貞を、中野藤内左衛門尉(なかのとうないざえもんのじょう)が、キッと見つめて、

中野藤内左衛門 殿! いけません! 殿は全軍の将じゃないですか! 自分の立場というものを、よっくわきまえてくださいよ! さ、早く、本陣へ退却を!

しかし義貞は、彼の言葉に耳を貸そうともしない。

新田義貞 おまえらだけ死なせて、おれ一人おめおめと、生きて帰れるかぁ! 行くぞぉ!

駿馬に一鞭あて、義貞は、細川軍めがけて突進した。

彼の乗っているこの馬は名高い駿足、一二丈ある堀でも軽々と飛び超えることができる。しかし・・・。

矢 プス! プス! プス! プス! プス!

馬 ヒヒヒーン!

5本もの矢が体に突き刺さり、馬も力が弱ってしまったのであろう、目の前の一本の小さな溝をも超える事ができずに、屏風を倒すがごとく、水辺に転がってしまった。

新田義貞 あっ、足が・・・!

義貞の左足が、倒れた馬体の下敷きになってしまった。

なんとか起き上がろうとして、上体を起こしたその時、

新田義貞 ウッ!

一本の白羽の矢が、彼の兜の真正面の下のはずれ、眉間(みけん)の真ん中に的中した。

急所に突き立った矢が、自分の眼前に見える・・・。

新田義貞 (内心)あぁ・・・もう、これまでか・・・。

義貞は、抜いた太刀を左手に持ち替え、自らの首を掻き切った。首は深田の泥の中に沈み、倒れた彼の体がその上に覆いかぶさった。

越中国住人・氏家重国(うじいえしげくに)が、畔道(あぜみち)伝いに走り寄り、その首を取って太刀の切っ先に貫き、鎧、太刀、刀も奪い、黒丸城へ馳せ帰った。

義貞の前方で、あぜ道を隔てて戦っていた、結城上野介(ゆうきこうずけのすけ)、中野藤内左衛門尉、金持太郎左衛門尉(かなじたろうざえもんのじょう)らは、馬から飛び降り、義貞の遺体の側に駆けつけた。

結城上野介 殿!(涙)

中野藤内左衛門 殿・・・ううう・・・(涙)

金持太郎左衛門 ううう・・・(涙)

中野藤内左衛門 殿! わしらも、冥土の旅のお供しますよ!(涙)

彼らは、義貞の遺骸の前にひざまづき、自らの腹をかき切って、重なり伏していった。

その場にいあわせた他の40余人も全員、堀や溝の中に射落とされ、敵の一人をも倒すことができずに命終えていった。まさに、「犬死」としかいいようのない遺体が、そこここに伏している。

この時、新田義貞の麾下(きか)には、3万余騎もの武士がいた。全員、猛く勇めるツワモノ、義貞の身代わりになるのならば、自分の命など捨てても惜しくはない、と言う者ばかり。

しかしながら、小雨混じりの夕霧の中、誰を誰とも見分けることもできず、大将が自ら戦って討死にしてしまった事に、殆どの者が気がつかなかった、というのがまた、悲しい事である。

義貞に従っていなかった郎等が、彼の馬に乗り換えて河合めざして引いていくのをはるかに見て、数万の新田軍はよく見定めもしないままに、大将の後に従わんと、思い思いに退却していった。

漢の高祖(こうそ)は、自ら軍を率いて淮南(わいなん)の黥布(げいふ)を討った時に流れ矢に当たり、やがて未央宮(びおうきゅう)の内に崩じた。また、斉(せい)の宣王(せんおう)は、自ら楚(そ)の軍と白兵戦を展開、矛に貫かれて修羅場の中に死んだ。だからこそ、「蛟竜(こうりゅう:注2)は常に深淵の中に身を沈める。浅渚(せんしょ)に遊んだりすれば、網にかかったり釣針にかかったりするから。」というのである。

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(訳者注2)鱗のある龍。
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新田義貞は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の股肱(ここう)の臣として武将の位にあるのだから、身を慎み、命を全うしてこそ、大義の功を致せるのである。なのに、大将がわざわざ出向く必要もないような方面に出動したあげく、名も無い者が放った一本の矢に落命してしまうとは・・・運がそこで尽き果ててしまったのである、と言ってしまえばそれまでだが、それにしても、何ともなさけない事ではないか。(注3)

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(訳者注3)原文では、「自らさしもなき戦場に赴いて、匹夫の鏃に命を止めし事、運の極めとは云(い)いながら、うたてかりし事共也」。
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戦が終わった後、斯波高経(しばたかつね)のもとに、氏家重国が義貞の首をもってやってきた。

氏家重国 私、新田殿のご一族と思われる敵を討ち取りましてな、ほれ、この通り、首を取ってきましたよ。この首の持ち主、どこの誰とも名乗りなさらんかったんで、名前も何も分からんのです、はぁ・・・でもまぁ、乗馬とか鎧とか、従ってた者らがこの人の死んだのを見て追い腹を切って死んで行った事とか・・・まぁ、そういうような事から考えあわせてみるに、どうも、そんじょそこらの武士ではござらんでしょうな。あ、これこれ、これがね、死人が膚につけとったお守りですよ。

このように言いながら氏家は、未だ血も洗ってない首に、土のついた金襴のお守りを添えて提出した。

斯波高経 うーん?・・・。なんかしらん、この首、新田義貞の顔に似てるなぁ・・・本当にそうだったら、左の眉の上に、古い矢傷があるはずだ。

高経は、自ら鬢櫛(びんぐし)をもって首の髪を掻き揚げ、血をすすぎ、土を洗い落して、顔を検分した。

斯波高経 オォッ! あるある、左の眉の上に傷の跡が! うーん!

いよいよ確信が深まってきて、高経は、首の主が佩いていたという、二本の太刀を取り寄せて、検分してみた。

二本とも金銀の伸べ金で装飾を施されている。うち一本には、金はばき(注4)の上に銀でもって、「鬼切」という文字が沈められている(注5)。もう一方には、銀はばきの上に金でもって、「鬼丸」という文字が沈められている。

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(訳者注4)鍔(つば)の上下にはめて、鍔元が動かないように止める金具。

(訳者注5)17-8 で、義貞は、「鬼切」を日吉神社に奉納してしまったはずなのだが。
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斯波高経 ふーん、「鬼切」に「鬼丸」・・・これは共に源氏の重宝で、新田家に代々伝えられているという。こんなものを、新田家の傍流の者がもっているはずがない。うーん、これは本当に、もしかすると、もしかするぞぉ。よし、このお守りをチェックしてみよう。

お守りを開いて見ると、なんと、その中から、後醍醐天皇の直筆の手紙が出てきた。

 「朝敵征伐において、わしは義貞、おまえだけを頼りにしておる。おまえの他には、速やかに政権回復の計略を回らせられる者など、一人もおらん。」

斯波高経 よーし、これで決まりだな。この首は、新田義貞の首に間違いない!

高経は、彼の死骸を輿に載せ、8人の時宗(じしゅう)僧侶にそれを運ばせ、往生院(おうじょういん:注6)に送って葬儀を行わせた。首の方は、朱色の唐櫃(からひつ)に入れ、氏家重国を付き添わせて、密かに京都へ送った。

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(訳者注6)称念寺(福井県・坂井市)。境内に、新田義貞の墓所があるという。
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(訳者注7)新田義貞の死を、「自らさしもなき戦場に赴いて、匹夫の鏃に命を止めし事、運の極めとは云(い)いながら、うたてかりし事共也」と、太平記作者は評しているのだが、本当にそうなのだろうか?

史実では、いったいどうなっているのだろう?

太平記の中には、史実に反する事が記述されている箇所が多い、という事は、ここまで読んできてくださった読者には、理解していただけると思う。

よって、新田義貞の戦死を記述したこの箇所も、史実とは異なっている可能性が大である。

新田義貞の死に至るまでの太平記の記述中、注目すべき箇所が、以下のように数か所ある。

(1)いよいよこれから

戦死の直前まで、新田側は、相手の斯波側よりも、優勢な状態にあった、と、太平記ではしている。20-6 中に、斯波側は300騎足らず、新田軍は3万余騎、というような記述がある。義貞側にとっては、「いよいよこれから」という状態である。

(2)夢

20-7 で、義貞が夢を見たと、記述されている。

(3)馬が暴れる

20-8 で、義貞の乗馬が突然暴れだした、と、記述されている。

(4)意外な展開による戦死

本章において記述される戦死は、「えーっ なんでぇ?」というような、意外な展開による戦死として、描写されている。

上記の4点セット、すなわち、[いよいよこれから, 夢, 馬が暴れる, 意外な展開による戦死]が、そっくりそろっている別の話が、知名度の高い古典の中にある。

[三国志演義]だ。

[三国志演義] 第35回 の中で、水鏡老人が劉備に、

 伏竜(ふくりゅう)と鳳雛(ほうすう)の二人のうち、一人だに得たならば、天下を安んずることができるであろう

と語るシーンがある。

「伏竜」とは、諸葛孔明の事であり、「鳳雛」とは、龐統の事である。

第57回 において、龐統は、劉備の臣下となる。

第60回~第61回 において、龐統は、劉備に対して、益州を、劉璋から奪い取る事を進言するが、劉備はそれを採用せず。

第62回 劉備と劉璋が、戦い始める。

第63回
 劉備と龐統は、既に益州の中の地に拠点を持っており、成都めざして軍を進めていく。(いよいよこれから)
 劉備は、夢を見て不吉を感じ、龐統の出撃を止めようとするが、龐統は、出撃をやめない。(夢)
 長年乗ってきた龐統の馬が、龐統を下へ振り落とした。(馬が暴れる)
 落鳳坡という所で、龐統は、張任による待ち伏せの襲撃により、落命する(意外な展開による戦死)

上記に見るように、[三国志演義]の中の[龐統]の死に関する記述部分と、[太平記]の中の[新田義貞]の死に関する記述部分は、同一の構造(4点セット)を持っている。

[三国志演義]が現在のような形に完成した時期については、「元末・明初」と、大まかにしか特定されていないようなので、太平記作者が[三国志演義]を読んでいたかどうかは、分からない。

しかし、20-7 の中に、斉藤道献が、三国分立時代の事について語っているシーンがあるので、[三国志演義]の原形となったような何らかのコンテンツ([原・三国志演義]とも言うべきもの)を、太平記作者は読んでいたであろうと推察される。

京都から遠隔の越前の地での新田義貞の突然の戦死、という事なのだから、信頼できるような一次史料(公卿の日記等)が無い状態で、太平記作者は、この章を記述しなければならなかった。そこで、[三国志演義]あるいは、[原・三国志演義]の中の、[龐統の死に関する記述部分]を翻案して使用した、しかも、足利幕府に対する忖度(そんたく)をもって、足利尊氏のライバル・新田義貞の輝きを減じるために、「うたてかりし」新田義貞、というようなイメージを醸成できるようなストーリーを創作した、という可能性がある。
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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月16日 (火)

太平記 現代語訳 20-8 義貞の乗馬、暴れる

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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うるう7月2日、「いよいよ足羽(あすは)城攻め、開始!」との伝達が回り、越前(えちぜん)国中の新田サイド勢力が、河合庄(かわいしょう:福井県・福井市)の新田義貞(にったよしさだ)の陣営に集まってきて、雲霞(うんか)のごとき大軍勢となった。

大将・新田左中将(さちゅうじょう)義貞は、赤地錦の直垂(ひたたれ)に、鎧の脇立てだけを装着して、中門脇の廊下に座り、その左の一番座には、紺地の錦の直垂に、小具足(こぐそく)だけを装着した、脇屋義助(わきやよしすけ)が座る。

その他、山名(やまな)、大館(おおたち)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、一井(いちのい)、細屋(ほそや)、中條(なかじょう)、大井田(おおいだ)、桃井(もものい)以下の、新田一族30余人が、思い思いの鎧兜、色とりどりの太刀、刀を帯び、美麗を尽くして、東西2列の座に連なる。

新田一族以外からは、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)をはじめ、禰津(ねづ)、風間(かざま)、敷地(しきぢ)、上木(うえき)、山岸(やまぎし)、瓜生(うりう)、河嶋(かわしま)、大田(おおた)、金子(かねこ)、伊自良(いじら)、江戸(えど)、紀清両党(きせいりょうとう)以下、陣営に参加の軍勢3万余人が、旗竿を傾け、膝を屈し、手をつかねて、屋内庭前に充満。

由良(ゆら)と舟田(ふなだ)に大幕を掲げさせ、大将・新田義貞が一同に目礼するや、全員一斉に座を立って、いざ出陣!

その、巍々(ぎぎ)たる装い、堂々たる様・・・「足利尊氏(あしかがたかうじ)から天下を奪う人、それはこの、新田義貞!」・・・その時その場に居合わせたすべての者の思いは、一致していた。

今回の戦の軍奉行(いくさぶぎょう)を勤める上木平九郎(うえきへいくろう)が、人夫6,000余人に、幕、垣盾(かいだて)、埋草(うめくさ)、塀柱(へいばしら)、櫓建設のための資材を持ち運ばせてやってきた。

さぁ、いよいよ大将の出陣。

義貞は、中門の前で、鎧の上帯を締めさせた。そして、「水練栗毛(すいれんくりげ)」という名前の体長5尺3寸もある大馬に、たずなを打掛け、門前でそれに乗ろうとした。

その時、急に馬が暴れだした。狂ったように躍り上がり、左右にいた馬の口取り2人がこれに踏まれて、半死半生状態になってしまった。

示された不思議は、これだけでは無かった。

戦場へ向かう途中、義貞のすぐ後に続いていた旗手が足羽川(あすはがわ)を渡る時、彼の乗馬が急に川の中に伏してしまい、旗手は水びたしになってしまった。

このような不可思議な事象が、事前に義貞の凶なる運命を暗示していたのであったが、

新田軍メンバーA (内心)うーん・・・まいったなぁ・・・。

新田軍メンバーB (内心)戦に臨む途上に、凶事が2件も・・・。

新田軍メンバーC (内心)でもなぁ、もうすでに、出陣してしまったことだし・・・。

新田軍メンバーD (内心)今さら引き返すわけにも、いかんだろうぉ。

新田軍メンバーE (内心)あぁ、誰か、「おい、この戦、エンギ悪いから引き返そうや」って言い出してくんねぇかなぁ。そしたら、おれも賛成するんだけどぉ。

新田軍メンバーF (内心)あぁ、みんな黙々と進んでいく・・・しようがねぇなぁ。

新田軍メンバーG (内心)それにしても・・・どうにもエンギが悪いんだ・・・いやぁな予感がして、しょうがねえや。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月15日 (月)

太平記 現代語訳 20-7 新田義貞に示された不思議

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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その7日後、

新田義貞(にったよしさだ) うん?・・・おれが今居る所は、いったいどこだ?・・・ふーん、どうも、足羽城近くの川のほとりのようだなぁ。

新田義貞 こちらの岸には、我が軍のメンバーたち、あちら岸にいるのは、斯波高経(しばたかつね)・・・両軍対峙してからもう数日も、戦いを交えないままに経過している・・・。

新田義貞 ややっ、これはいったいどうしたことか! おれの体が変身していく! どんどん大きくなっていくぞ、おぉーっ!

新田義貞 こりゃぁ驚いた! おれは、長さ30丈ほどの大蛇に変身してしまったではないか!

新田義貞 フフフ・・・高経め、おれの姿に驚いて、逃げ出しやがったぞ。兵をまとめ、盾を捨てて、数10里ものかなたにまで逃げていっちまいやがった・・・ワッハハ、ザマァ見ろーー!

新田義貞 (ガバッ)・・・うん?・・・あぁ・・・夢だったのか・・・。

義貞は、朝早く起きて、この夢を周囲の者らに語った。

新田軍リーダーA ほっほぉ、殿が大蛇に変身とはねぇ。それっていってぇ、どういう意味がこめられた夢なんでしょうかねぇ?

新田軍リーダーB 大蛇も龍も、共に爬虫類、同類ですわなぁ。龍は、雲雨(うんむ)の気流に乗り、天地を動かす動物であると言われてますよ! とにかく、これは、めでたい夢ですわさ。

新田軍リーダーC 殿、夢の中で、斯波高経は、龍になった殿の姿を見て、こわがって逃げだしちゃったんでしたよねぇ?

新田義貞 うん。

新田軍リーダーC 古代中国の葉子高(ようしこう)は、龍が好きでよく絵に描いていたそうですけどね、ある日、本物の龍が天から舞い下りてきたのを見て、恐れおののいて逃げ出しちゃってね、とうとう、魂まで失っちまったって、いいますよ。斯波高経も、近いうちに、雷鳴のごとき殿の威力を恐れて、スタコラ逃げ出すってぇような・・・まぁ、なんと申しましょうか、これはいわゆる、「予知夢」の類(たぐい)じゃぁないでしょうかねぇ。

この会話を垣根ごしに聞いていた斉藤道献(さいとうどうけん)は、眉をひそめ、密かに周囲に語った。

斉藤道献 テヘ! ナニ言ってやがんでぇ、ったくもう! めでてぇ夢でもなんでもねぇよ、殿の見なすったあの夢はな。

新田軍メンバーD えぇ?

斉藤道献 「凶」を告げる天からの声だよ、あれは。

新田軍メンバーD いったいどうして?

斉藤道献 あのなぁ、昔、中国に、「三国時代(さんどくじだい)」という時代があってなぁ・・・。

新田軍メンバーD うんうん・・・。

斉藤道献が語った話は、以下の通りである。

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中国の三国時代、それは、呉の孫権(そんけん)、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)、魏(ぎ)の曹操(そうそう)の3人が、中国400州を三分して支配した時代であった。3人とも目指す所はみな同じ、他の2国を亡ぼして、自らが中国を統一しようとしていた。

曹操は、才智においてひときわ抜きんでており、謀略を陣幕の内に運(めぐ)らし、敵を国の外に防ぐ事ができた。

孫権は、優しさと厳格さを時宜に応じてよく使い分け、士を労(ねぎ)らい、衆を慰撫(いぶ)したので、国を賊し政治を掠める者たちは競って、彼の下に参集し、邪に帝都を侵し奪った。(注1)

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(訳者注1)孫権についてのこの記述、どうも解せない。三国志にも三国志演義にも、「帝都を侵し奪った」というような記述は一切無いのだが。
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劉備は、漢の皇族の血筋に連なる人で、その心は仁義を守り、利欲にとらわれることがなかった。ゆえに、忠臣や孝子が、四方から彼の下に集まってきた。彼らの力を活用して、劉備は大いに文教を図り、武徳を高めた。

この3人は、「智」、「仁」、「勇」の三徳をもって、中国全土を分割支配、呉魏蜀の三都は相並び、鼎(かなえ)の3本の足のごとくに対峙した。

その頃、諸葛孔明(しょかつこうめい:注2)という賢才の人が、世を避け身を捨てて、蜀の南陽山(なんようさん)(注3)に住んでいた。

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(訳者注2)姓は「諸葛」、名は「亮」、あざなは「孔明」。以下、[「諸葛孔明」 植村清二著 中央公論社 1985.11.10 ISBN4-12-201275-9 C1123]の「四 孔明の出身」より引用。

 「中国語は日本やヨーロッパの言語と違って、単綴語であるから、氏族の名称も楊(隋)・李(唐)・趙(宋)・朱(明)というような単姓が普通である。もっとも司馬・公孫・長孫・欧陽・夏侯というような複姓もいくらかあるが、それらは官職や住地に基づいた由緒が明らかである。諸葛というような姓はすこぶる珍しい。」

(訳者注3)諸葛孔明が住んでいた伏竜岡は、蜀の地(四川盆地)ではなく、長江中流域・荊州(けいしゅう)である。「孔明の草廬(住居)は襄陽の西北20里(8キロ)ばかり、隆中山の東麓にあった。」(上記同書より引用)。

当時、劉備は荊州を支配する劉表の配下にあり、そこで孔明に出会ったのである。その後、勢力を伸張した劉備は、蜀をも支配するようになり、蜀の成都に居を移した。劉備を「蜀の劉備」と呼ぶのは、そこから来ている。
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寂を釣り、閑を耕して歌う孔明の、次のような詩が残されている。

 斉(せい)国の城門を出(いで)て 歩み行き
 遥かに蕩陰の 里を望む
 里中に 三つの墳墓(ふんぼ)あり
 形同じく塁々(るいるい)と並ぶ その塚を見て
 私は問うた これは何家の墓なるや

 それは 田疆と古冶子の墓であった
 その才気 南山を圧倒し
 その智慧 世界に冠絶す
 しかしながら 一朝にして讒言せられ
 3人に送られた2個の桃を争って 彼らは共倒れとなってしまった
 いったい誰が かくなる謀略を練ったのであるか
 斉の大臣・晏子(あんし)こそ まさにその張本人

(原文)
 歩出斉東門
 往到蕩陰里
 里中有三墳
 塁々皆相似
 借問誰家塚
 田疆古冶子
 気能排南山
 智方絶地理
 一朝見讒言
 二桃殺三士
 誰能為此謀
 國将斉晏子

蜀の智臣(注4)がこれを読み、孔明が賢人であることを悟って、劉備にいわく、

臣下H 殿、諸葛亮こそは、天下の賢人にてござりまするぞ。彼をお招きになって高位高官を与え、国の政治を見させたもうてはいかが?

劉備 よし。

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(訳者注4)一説によれば、孔明を劉備に推薦したのは、徐庶(じょしょ)であった。
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劉備はすぐに、豪華な進物品を用意して、孔明のもとを訪れた。

劉備 諸葛殿、なにとぞ、わしのもとへ来て、国の政治を見てはくださらぬか。わしのたっての願いじゃ・・・これ、この通り・・・。

このように、礼を厚くして招いたが、孔明は、

諸葛孔明 劉備殿のたってのお招き、恐悦至極(きょうえつつしごく)に存じまする。しかしがら、私めといたしましては、お招きをお受けすること、あいなりませぬ。

劉備 なに故じゃ?!

諸葛孔明 谷の水を飲みて岩の上に暮らし、一切の野心を捨てて気楽なる生涯を送る・・・これに勝る楽しみなど、他にありましょうや。

劉備 ・・・。

しかし、劉備はあきらめず、孔明の草庵を三度訪れて、彼への説得を繰り返した。(注5)

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(訳者注5)ここから、「三顧の礼(さんこのれい)」の言葉が生まれた。
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劉備 かくなる不肖の身とはいえ、わしは、天下の太平を求めて止まぬ。自身を安ずるためとか、欲を縦(ほしいまま)にせんとか、さような心を持って生きておるのではない。見よ、今のこの世のありさまを! 人道は地に落ち、至る所で、民は苦しみに沈んでおるではないか! わしはのぉ、ただただ、彼らを、あの苦しみの中から救いたいと思う、それだけじゃ・・・。

諸葛孔明 ・・・。

劉備 いみじくも、かの孔子様は言われたそうな、「善人が国を治むること百年にして、民に悪をなさしめず、死刑の必要無からしむるに至る」と。しかしながら、貴殿がその溢れんばかりの才能を発揮して、わしを補佐してくれるなれば、百年もかけずとも、そのような社会を形成できるであろう。

諸葛孔明 ・・・。

劉備 石を枕にし、泉に口すすいで、隠棲(いんせい)を楽しむ、たしかにそれもまた、一つの人生。じゃがのぉ、そのような人生など、しょせん、「自分の為だけの人生」に過ぎぬではないか。国を治めて民を利し、大いなる善政をもって社会を改革していく、これこそがまさに、「万人の為の人生」というものであろうが!

このように、誠意を尽くし、理(ことわり)を究(きわ)めて説く劉備の前に、ついに孔明も辞する言葉に窮してしまった。

諸葛孔明 ・・・あい分かりました。殿の御意(ぎょい)のままに。

劉備 おぉ! わしのもとに来てくれるかぁ!

諸葛孔明 ははーっ!(平伏)

このようにして、諸葛孔明はついに、劉備の宰相となった。

劉備は、孔明に対して絶大なる信頼を寄せた。

劉備 孔明がおってこそ、わしは生きていけるのじゃよ。水があるから、魚が生きていけるようなものじゃな。(注6)

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(訳者注6)ここから、「水魚の交わり」の言葉が生まれた。
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劉備はついに、孔明に公侯の位を与え、「武公(ぶこう)」の号を与えた。

こうなると、劉備のライバルたちも、気が気ではない。

曹操 (内心)劉備に、臥竜(がりょう)孔明がくっついてしまいおったわ・・・いかん・・・このままでは、天下は劉備のものになってしまう!

そこで曹操は、司馬仲達(しばちゅうだつ)という将軍に70万騎の兵を率いさせて、劉備を攻めさせた。

これを聞いた劉備は、孔明に30万騎の軍勢を与え、魏・蜀の国境地帯の五丈原(ごじょうげん)という所へ差し向けた。(注7)

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(注7)この記述は、史実と大きく違っている。五丈原での対決は、曹操、劉備の死後の事である。しかも戦を仕掛けたのは孔明の方であり(魏国領域への侵攻を図った)、司馬仲達はこれを防ぐ側の立場にあった。
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魏と蜀の兵が川を隔てて対峙すること50余日、司馬仲達は一向に戦端を開こうとしない。魏軍サイドでは、次第に馬は疲れ、食料も日々に乏しくなってきた。

魏軍リーダーI 将軍、わが軍の食料、底をつきかけておりまするぞ。

魏軍リーダーJ このままでは、わが方はジリ貧。

魏軍リーダーK 直ちに、蜀と戦い始めた方が、よろしいのでは?

司馬仲達 いや、あいならぬ!

ある日、魏軍にとらわれた蜀側の芻蕘(すうじょう:注8)に、司馬仲達がたずねた。

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(訳者注8)草を刈ったり薪を確保する役目の者。
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司馬仲達 なんじらの将軍、諸葛孔明は、蜀の陣をどのように、取り仕切っておるのかの?

芻蕘L へぇ、そりゃぁもう! わしらの将軍・孔明さまはな、士卒をいたわり、まっこと礼儀をつくして、わしらに接してくださりますでよ。一椀の豆を食うにも、みんなに分けていっしょに食いなさるしな、酒一樽あけても、川に注いで大地と共に飲みなさるだよ。わしらがもの食わねぇうちは、孔明さまも、ご自分の食事に箸つけられねぇ。わしらが雨露に濡れてる時にゃぁ、油ぁ塗った天幕張らずに、わしらといっしょに、雨に濡れてなさるだ。楽しみはまず、みなに与え、自分を一番後まわしにされる。でも、愁いとなったら、万人に先んじてお受けになる。

司馬仲達 フーン・・・。

芻蕘M それだけじゃぁねえよ。夜明けまで一睡もなさらんとな、自ら陣中を回られて、緩みが見えてる所を引き締めなさるんだ。朝から夕まで、顔を和らげて、みなと親しく交わられるだよ。孔明さまが自分の為に何かされているとことか、身を休めておられるとか、そういった事なんか今まで、一瞬たりとも見たことねぇだよ。

司馬仲達 ホーォ・・・。

芻蕘N こんなお方が将軍やってなさるんだからよぉ、わしら蜀軍30万は心を一つにして、自分の命もおしまねぇ。太鼓を打って前進するにも、鐘を叩いて後退するにも、すべて、孔明さまの命令通りってわけさなぁ。

司馬仲達 ヘーェ・・・。

芻蕘たち ・・・。

司馬仲達 諸葛孔明について、他に言いたいことは?

芻蕘L わしが知ってる事はみんな言っちまっただ。それ以上の事までは、わしらシモジモのもんには分かんねえよ。

これを聞いた司馬仲達は、

司馬仲達 我が方の兵は70万騎、その心は、全員ばらばらじゃ。それにひきかえ、孔明の兵30万騎は、心が一つになっておる。ならば、戦ってみても、わが方が蜀に勝利することなど、到底、期しがたい。しかし、孔明が病に伏す時、それに乗じて戦わば、必ずや勝利を得るであろう。

魏軍リーダーM いったいなぜ、孔明が病に?

司馬仲達 見よ、この炎暑を。かくなる気候のさ中に、あのように孔明は、昼夜、心身を労しておるのじゃ。温気(うんき)が骨に侵み入り、病にならずにはおらりょうか。

かくして、司馬仲達は、自軍の士卒らの嘲りも気にせず、蜀からますます遠くに陣を引き、ただじっと数ヶ月を送っていった。

魏軍リーダーN 「そのうち孔明が病を得る」とな? はてさて、司馬仲達殿はいったいいつから、軍人から医師に商売替えされたのやら。

魏軍リーダーO いやいや、たとえ医師であろうとも、40里も彼方の人間の脈を取り、その健康状態を診断することなど、できようや?

魏軍リーダーP ふふん、見え透いた事よ。孔明の臥竜の威力を恐れて、あのような言い逃れをしておるのじゃわい、ハハハ。

魏軍メンバー一同 ワハハハハ・・・(手を打って大笑い)

--------

ある夜、両陣営の対峙する間の空に、奇怪な星が輝きはじめた。火のように赤々と輝くその光を見て、司馬仲達はいわく、

司馬仲達 今から7日のうちに、天下の人傑が死ぬ・・・あの星はその予兆じゃ・・・そうじゃ、諸葛孔明がいよいよ、この世を去る時が来たのじゃよ・・・。魏が蜀を併呑(へいどん)する日も、遠くはないぞ。フフフ・・・。

果たして、その翌朝より孔明は病に伏し、7日後に陣幕の中に没した。

蜀の副将軍らは、魏軍がこれにつけこんで攻撃をしかけてくるのを恐れ、孔明の死を秘して、「将軍の命であるぞ!」と触れ、兵を並べ旗を進めて、魏陣へ突撃した。

司馬仲達は、もとから戦いを交えて蜀に勝つことはできないと思っていたので、一戦もせずに、馬に鞭打って走ること50里、険阻な場所に到達して、ようやくそこで軍を止めた。

今に言う、「死せる孔明、生ける仲達を走らしむ」とは、この司馬仲達の行動を嘲った言葉なのである。

戦闘終了の後、孔明の死を聞いて、蜀の兵は全員、司馬仲達の軍門に降った。

この後、蜀がまず滅び、呉もそれに続いて滅び、魏の曹操はついに中国全土を統一した。(注9)

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(訳者注9)これも史実と違う。曹操はこれよりもずっと前に没している。魏は蜀を亡ぼしたものの、国の実権は完全に司馬仲達の子孫らに奪われ、司馬仲達の孫・司馬炎に滅ぼされた。司馬炎が建てた晋国が呉を併呑して、中国は統一され、三国時代は幕を閉じた。
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--------

新田軍陣営の方に、話を戻そう。

斉藤道献 以上のような故事をもとに、殿の見られた夢を、「夢判断」してみるにだなぁ・・・。

斉藤道献 まず、今の国内情勢は、闘争が続いた中国・三国時代に共通する面が、大いにある。

斉藤道献 次に、「殿が龍に変身された」という点だが・・・龍は「陽気」に向かう時は威力を振るい、「陰」の時に至っては蟄居(ちっきょ)の扉を閉ざす、と言われてるんだなぁ。時は今7月、まさに初秋、「陰」が始まる時じゃないか。

斉藤道献 「龍の姿で水辺に臥せってた」って、殿は言われてたよな。これも、孔明が「臥龍」と呼ばれてた事にピッタシ合うじゃん!

斉藤道献 その孔明は、結局どうなった? 皆は、「目出度い夢だ」なんて言って、殿といっしょに、はしゃいでるようだけど、わしにはどうしても喜べんぞ。

このように、眉をひそめて言う斉藤道献の言葉に、そこに居合わせた人々も、

新田軍メンバーD (内心)なるほどなぁ。

新田軍メンバーE (内心)うーん、なるほど。

新田軍メンバーF (内心)でもなぁ・・・殿もあんなに喜んでおられることだし・・・「殿ぉ、殿の見られたその夢は、凶夢ですぜ!」なんて、おれにはとても言えねぇなぁ。

新田軍メンバーG (内心)あぁ、やだやだ! こういう忌み憚られるような事は、この際、何も聞かなかった事にしておこうっと。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月14日 (日)

太平記 現代語訳 20-6 新田義貞、再び足羽城攻めを計画

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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脇屋義助(わきやよしすけ) ・・・と、いうわけでねぇ・・・。

新田義貞(にったよしさだ) そっかぁ、そんな事になっちまったのかぁ・・・。

脇屋義助 ・・・。

新田義貞 八幡の連中らを支援しつつ、スキあらば京都を攻略、ということで、進軍を急がせたんだけどなぁ・・・互いの手違いで好機をムザムザ逃しちまったか・・・うーん、残念!

脇屋義助 面目ない・・・アニキ・・・(がっくりと頭を垂れる)

新田義貞 ハハハ・・・まぁまぁ、そう落ち込むなって、義助! ものは考えようってもんさね。これで、じっくり腰を落ち着けてさぁ、越前の敵勢力を完全に退治できるようになったって、わけじゃぁねえの! 越前をしっかりかためてから、また、吉野としめし合わせて、京都を攻めりゃいいんだわさ。

脇屋義助 うん!

新田義貞 今度は、おれとお前といっしょに、一戦やらかそうやぁ! 河合庄(かわいしょう:福井県・福井市)へ打って出て、足羽(あすは)の城を落としちまうんだ!

脇屋義助 よーし!

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これを聞いた、足利・北陸方面軍大将・斯波高経(しばたかつね)は、

斯波高経 こっちはわずか300騎足らず、新田軍は3万余騎。城を囲まれてしまったら、千に一も勝ち目はないな。

斯波軍リーダー一同 ・・・。

斯波高経 方々の道路もすでに、新田軍に全て塞がれてしまった、と言う情報もあるからなぁ・・・たとえ城から脱出しても、どこまで逃げれるもんやら・・・。

斯波高経 こうなったらもう、「討死あるのみ!」って覚悟固めて、城の守りをかためる以外、どうしようもないだろうが、えぇ? なぁ、みんな!

斯波軍リーダー一同 その通りです!

斯波サイドは、本拠地の周囲一帯の深田に水を入れて馬の足を立たないようにし、道路の随所に堀を切り、落とし穴を仕掛け、橋を外し、溝を深くして、防御をかためた。自らの支配エリア内に7つの城砦(じょうさい)を建設し、敵が攻めてきたら互いに助けあいながら挟撃(きょうげき)できるようにしていた。

この足羽(あすは)の地は、藤島庄(ふじしましょう)に隣接しており、7つの城の半ばが、藤島庄(ふじしましょう)の内にあった。

やがて、平泉寺(へいせんじ:福井県・勝山市)の衆徒から、斯波高経のもとへ密使が送られてきた。

平泉寺密使 藤島庄は長年に渡って、わが平泉寺と延暦寺が、その所有権をめぐって係争を繰り広げてきた地です。藤島庄を平泉寺のものにしてくださるのであれば、わが寺の若手のめんめんを足羽の城の中へ援軍として送りこみ、戦わさせましょう。老僧らは室にこもり、斯波殿の為に戦勝祈願いたすとしましょうか。

高経は大いに喜び、下記のような将軍御教書(しょうぐんみぎょうしょ)を作成した。

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今回の合戦においては、ひたすら貴寺の衆徒方の応援を仰ぎ、神霊のご擁護を頼むものなり。ゆえに、まずは、藤島庄を貴寺にさしあげる事とする。もし勝利を得られたならば、さらなる恩賞を、将軍にお願いして、さしあげるといたそう。

以上、将軍様のご意向、たしかに申し伝えるものなり。

建武5年(注1)7月27日 尾張守・高経

平泉寺衆徒御中
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(訳者注1)20-1 以降、「延元」とか「建武」とか、年号が様々に錯綜していて、ややこしい。鎌倉幕府倒幕後、「建武」という年号を定めた後醍醐天皇であったが、足利軍を九州に追いやって後、「延元」と改元。しかし、尊氏に支持されて帝位に就任した持明院統は、「建武」の年号を復活した。ゆえに、後醍醐天皇側の新田義貞は「延元」を用い(20-4)、足利側の斯波は「建武」を用いているのである。

 参照:「日本の歴史・9・南北朝の動乱 佐藤進一著 中央公論社 1974 ISBN4-12-200077-7」中の「延元の改元論議」(126P)、「新帝擁立」(136P)、「年表」(巻末)。
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この将軍御教書の発行に、平泉寺の衆徒らは喜び勇んだ。

さっそく、若手500余人が山から藤島庄へ下って足羽城にたてこもり、老僧50人は護摩壇(ごまだん)の煙にくすぶりかえりながら、怨敵調伏(おんてきちょうぶく)の法を修し始めた。

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2018年1月13日 (土)

太平記 現代語訳 20-5 高師直、八幡に焼き討ちをかける

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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「脇屋義助(わきやよしすけ)率いる新田軍、敦賀(つるが:福井県・敦賀市)へ到着!」との報に、

足利尊氏(あしかがたかうじ) (内心)なんだって! 八幡(やわた:京都府・八幡市)をまだ落とせず、我が方は苦戦しているというのに、こんどは北から、脇屋か・・・。しかも、あの延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)と連合して。エライ事になってしまった。

足利尊氏 (内心)この期(ご)に及んで京都から退却したりなどしたら、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)の連中らに、一気につけこまれてしまう。

足利尊氏 師直(もろなお)に伝えよ、「重大事態にならぬ前に、八幡の戦をさしおいて急ぎ京都へ帰り、北陸方面から寄せくる敵に備えよ」と。

尊氏側近メンバー一同 ハハッ!

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尊氏からのその指令を聞いて、高師直(こうのもろなお)は、

高師直 (内心)ふーん・・・。京都へ帰ってこいってかぁ。

高師直 (内心)けどなぁ、ここまで八幡を攻めながら、それを落とさないまま引き返すなんてぇ・・・吉野の連中らはきっと、手をたたいて大喜びするだろうぜ。

高師直 (内心)かといって、京都を放っちらかしといたんじゃぁ、北陸方面から来る敵につけ入られてしまうしなぁ・・・。

高師直 (内心)さてさて、師直よ、いったいどちらを取るべきか・・・八幡に留まるべきか、京都へ行くべきか、それが問題だ。

高師直 (内心)よぉし、こうなりゃ、手段を選ばずでい!

師直は、うでききの忍びの者を選んで(注1)、風雨に紛れて夜、八幡山へ潜入させ、八幡神社に放火させた。

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(訳者注1)原文では、「逸物の忍」。
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この社に祭られている八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は、もったいなくも王城鎮護(おうじょうちんご)の宗廟(そうびょう)にして、代々の源氏がことさら崇敬(すうけい)深くしてきた霊神である。いくらなんでも社殿に放火などというような悪行までは、足利サイドはしないだろうと、春日軍サイドは油断していた。

突如、社に上がった火の手を見て、みなパニック状態となり、煙の下に迷倒。

これを見て、足利軍10万余騎は、四方の谷々から一斉に攻め上り、一の木戸口を突破、さらに、二の木戸口へと侵攻していった。

この場所は、三方向は険阻な地形になっていて登りにくく、防衛は容易。ウィークポイントは山の西方、山麓の平地までなだらかな坂になっている。

そこに、わずかに乾堀(からほり:注2)一重のみを掘って守りの頼りとしていた。春日軍メンバー500余騎がそこを守っていたが、神殿を焼く炎や攻め上ってくる足利軍の激しい勢いに気を呑まれてしまい、全員、浮き足たちはじめた。

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(訳者注2)水を入れてない堀。
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八幡を守る軍の中に、多田入道(ただのにゅうどう)の手の者で、高木十郎(たかぎじゅうろう)、松山九郎(まつやまくろう)という二人の有名な武士がいた。

高木十郎は、心は剛なれども力が足らず、松山九郎は、力には優れるものの、その心は臆病であった。二人いっしょに同じ方面に配置されていたが、一の木戸を足利軍に攻め破られて二の木戸まで後退し、そこで防戦に努めていた。

今や、足利軍が逆茂木(さかもぎ)を引き破り、二の木戸までも打ち破ろうとしているというのに、松山九郎は例のごとく、恐怖に手足を震わせ、戦う気配も見せない。これを見た高木十郎は、眼をいからせ、腰の刀に手をかけて、

高木十郎 おまえ、いったいナニ考えとんねん!

松山九郎 ガチガチガチガチ・・・。(震えて歯が合わさる音)

高木十郎 敵はな、山の四方をビシッと囲んで、一人残らずい(殺)てまえと、一斉に攻め上ってきとんねんぞ。この木戸を破られてもたら、もう後が無いんや、後がぁ!

高木十郎 そないなったらもう、主な大将連中はもちろんのこと、わしらまでみな、命無くすんやないか。せやからな、この木戸は何としてでも死守せんとあかんのや! そやのに、おまえは、臆病風に吹かれて、ガタガタ震えとるだけやないかい! あぁほんまに、なんちゅう情けないやっちゃねん、おまえという男はぁ!

松山九郎 ガチガチガチガチ・・・。

高木十郎 「おれの力は百人力、二百人力」いうて、いつもおまえは自慢しとるけど、いったい何の為の百人力なんや、えぇ?

松山九郎 ガチガチガチガチ・・・。

高木十郎 えぇい、もうえぇ! ここで震えとるだけで、どうしても敵と戦わへんいうんやったらな、わしにも考えがあるぞ! 敵の手にかかって死ぬなんてオモロないわい、今ここでお前と刺し違ぉて、死んでもたる!

そのあまりの形相に、九郎は、足利軍よりも、すぐ側にいる十郎の方が恐ろしく思えたのであろうか、

松山九郎 ちょ、ちょっと待ってぇや・・・ガチガチガチガチ・・・わかった、わかったがな・・・ガチガチガチガチ・・・公私のケジメつけんならん大事な今のこの時や、わいも命は惜しまんがな・・・ガチガチガチガチ・・・ほなら一戦して、敵にわしの力を見せつけたる・・・ガチガチガチガチ・・・。

九郎は、震えながら前線に走り出て、傍らにあった五六人がかりでしか持ち上げられないような巨岩に手をかけた。彼はそれを軽々とひっつかみ、足利軍の密集しているど真ん中に投げ込んだ。

さらにもう一個、さらにもう一個・・・九郎は、14ないし15個の巨岩を投げつけた。崩れくる大山のごときこの巨岩に打たれて、足利軍数万は将棋倒しとなり、一斉に谷底へ転落していった。自らの太刀や長刀に貫かれて落命する者の数は幾千万人にも達した。

世間の声A いやぁ、八幡の陣、今夜中にでも落ちてしまうかいなぁと、思われましたが。

世間の声B よぉ持ちこたえたもんですわなぁ。

世間の声C 防衛側の一番の殊勲者は、なんちゅうても、あの松山九郎でっしゃろ。

世間の声D いやいや、松山のあの大力もなぁ、言うなれば、高木十郎の体から発したようなもんですわいな。

世間の声E ほんに、言われてみれば、なるほどなぁ。

世間の声一同 わはははは・・・。

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敦賀まで進出してきた脇屋軍にも「八幡山炎上」の情報は伝わり、「八幡はもうすでに、攻め落とされてしまったのではないだろうか」と言いだす者もいた。「確実な情報を把握できるまで、このまま敦賀で待機しよう」ということになり、彼らは、徒に日数を送ってしまった。

一方、八幡の守備サイドは、食料が底をついてしまった。食料を社頭に積んでいたので、全て燃えてしまったのである。よって、北陸からの援軍を待つ事も不可能となってしまった。

6月27日の夜半、彼らはひそかに八幡から退却し、河内(かわち:大阪府南東部)へ戻った。

もう4、5日、彼らががんばって八幡にとどまり、脇屋軍も敦賀に逗留することなく軍を先に進めていたならば、たった一戦の下に、京都を攻略できていたものを・・・。「後醍醐天皇の聖運、未だ時至らず」ということであろうか、敦賀と八幡、両軍の呼吸が合わずに共に退いて帰ってしまったとは・・・まったくもって、「後醍醐天皇側はツイテなかった」の一語に尽きる。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月12日 (金)

太平記 現代語訳 20-4 新田義貞、延暦寺に同盟勧誘文を送る

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「いざ、京都へ!」と勇みたつ新田義貞(にったよしさだ)に、児島高徳(こじまたかのり)いわく、

児島高徳 いや、ちょっと待った!

新田義貞 うん?

児島高道 前の京都での合戦の時もな、朝廷軍は比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)にたてこもったけど、結局はそこを維持できんかったでしょ? あの時の敗因はいったい何だったかのぉ? 戦闘に負けたからではない、北陸地方の敵に、我が方のロジスティックスライン、すなわち、食料輸送ルートを遮断されてしもぉたから、ただそれだけのことじゃ。

新田義貞 うん・・・そうだったよね。

児島高徳 今回も、それと似たような状況になりゃせんかのぉ? たとえ比叡山上に陣を置いたとしても、また同(おんな)じ事の繰り返しになってしまいよりますでぇ。

新田義貞 うーん・・・。

児島高徳 そうならん為にな、越前や加賀の主な城に我が方の軍勢を残して、ロジスティックスラインをきっちり確保しとくんじゃ。そいでもってな、新田義貞殿と脇屋義助(わきやよしすけ)殿とお二人で、6,000ないし7,000騎の軍勢を率いて、比叡山に陣を進め、京都を、毎日毎夜攻める。これこそまさに、根を深くしホゾを堅くする戦略。そうすりゃ、八幡の朝廷軍への援護にもなるじゃろうし、ついには、京都におる逆徒らを亡ぼす事もできよりますじゃろう。

新田義貞 なるほど!

児島高徳 ただ問題はな、延暦寺の連中らの思惑じゃ。少ない軍勢でもって比叡山に上って行ったら、衆徒連中ら、こっちの期待とは逆に、離反せんとも限らんですけぇのぉ。

新田義貞 うーん。

児島高徳 まずは、延暦寺へ同盟勧誘文を送ってみて、彼らの意向を探ってみなさるがえぇ。

新田義貞 なぁるほどぉ! いやいや、児島殿の言われる事、いちいちごもっとも。深謀遠慮(しんぼうえんりょ)とはまさに、こういうのを言うんだろうな。ならばいっちょう、同盟勧誘文、書いてみてくんない?

児島高徳 OK!

高徳の心中には、すでにその文面までもが出来上がっていたのであろう、すぐに筆を取って書き始めた。

その内容は以下の通り。

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正四位上(しょうよんいのじょう)・行(ぎょう:注1)・左近衛中将(さこのえちゅうじょう)・兼・播磨守(はりまのかみ)・源朝臣義貞(みなもとのあそんよしさだ)より、延暦寺宗務局へ寄する同盟勧誘

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(訳者注1)位に比して低い職にある時に、「行」と書いた。
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速やかに貴寺よりの御厚誼(こうぎ)を頂き、逆臣たる尊氏(たかうじ)・直義(ただよし)以下の党類を誅罰し、仏法(ぶっぽう)と王法(おうぼう)の光栄をもたらさんことを請い願うの義

ひそかに考察して深遠なる道を聞くに、桓武天皇(かんむてんのう)が、詔(みことのり)をもって延暦寺の基を築かれしは、大いなる天皇の徳化によって、顕密両宗(けんみつりょうしゅう)を未来永劫にわたって大いに興隆せんがため。伝教大師(でんぎょうだいし)が、朝廷に対して表を奉って王城を鎮めしは、仏法の威力をもって、国家の太平を無窮の未来にわたって護らんがため。

しかれば、延暦寺の衰微を聞いては、これを悼(いた)み、朝廷の傾廃を見ては、これを悲しむ。天皇の聖なる位とて、延暦寺の三千の衆徒の存在無くして、もちこたえることは不可能である。

さて、去る元弘年間(げんこうねんかん)の始め、我が国の政治権力構造が一変して、国中が朝廷になびくようになってより後(注2)、源家の末裔(まつえい)に、尊氏と直義という者あり。

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(訳者注2)原文:「一天革命、四海帰風之後」。
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両者いずれも、忠も無いくせに大禄を貪り、才能もないのに高官に登る。分際を超えた陛下からの恩顧を自ら誇り、万事すべて満ち欠けする自然の道理をもかえりみず、たちまち君臣の義を捨て、狼のごとき悪心を抱く。

その害、ついに万民に及び、尊氏・直義兄弟のもたらす禍は、日本全土を覆い尽す。朝廷も止むを得ず、これに天誅を下さんとした結果、戦乱はついに宮中にまで及び、天皇陛下は難を逃れて比叡山に遷座されるに至った。

その時、貴寺は、危機に瀕された陛下をよく助け、凡庸なる臣・新田義貞もまた(注3)、暴逆の輩を退けんと、共にあい謀ったのであった。

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(訳者注3)自らをへりくだって、このように書いているのである。
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しかしながら・・・。

あぁ、人間のまっとうなる道を守って死を選ぶ者の、なんと少いことか、利欲の門前に群がる者の、なんと多いことか・・・。

朝廷軍はあえなく敗れ、聖主は逆徒らの囚われの身になってしまわれた。さらに、辺境の城・金崎(かねがさき)において、皇子は戦場の刃(やいば)に自ら伏された。(注4)

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(訳者注4)尊良親王の自害の事を言っている。
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それ以降、逆徒らは、いよいよ意を恣(ほしいまま)にして、理非曲直をもわきまえぬ刑罰を、みだりに執行してきた。まさに、暴虐にして人道の破壊者、ありとあらゆる悪の道を、余す所無く極めんとするか。

あぁ、もはや、天をささえる綱も切れ、日月(にちげつ)の掛かる所も無し。地軸は傾き、山川を載せることもできなくなってしまった。見るがよい、昨今のこの異常なる世相を! 人はみな、耳をそばだて、ただただ目を奪われるばかり!

しかし、私・新田義貞は、なんとしてでも捲土重来(けんどじゅうらい)を果たさんと、炭を呑み刃(やいば)を含んで(注5)、逆賊・足利兄弟に迫って彼らをうち倒す機会を、じっと窺い続けてきた。

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(訳者注5)原文には、「呑炭含刃」とある。史記に、「炭を呑んで声を変え、変装して仇に接近して仇を討たん・・・」という話があるが、「刃」の方は「刃を懐に隠し持って・・・」となっている。
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果たせるかな、「天皇陛下、都の南山(なんざん)・吉野(よしの)に遷座され、衆星が北極星の周囲に集まるがごとく、廷身らもそこに続々と参集」との報が。よってここに、陛下よりのご厚恩を思い起こし、何としてでもそれにおこたえせんと、私は奮い立った。

見よ、わが全身に充満せるこの憤怒!

かくして、都より遠隔のこの地・越前において兵を起し、この地の一部の者らの支持を得るに、ようやく至った。その後、謀略を用いて、敵を自滅へと追い込み、敵の城を降した。その戦、未だ半ばにして、一挙に勝利を決し、敵を四方に退けた。(注6)

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(訳者注6)越前国府攻略の事を言っている。
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その昔、范蠡(はんれい)は黄池において、呉軍3万を破り、周瑜(しゅうゆ)は赤壁(せきへき)において、魏(ぎ)軍10万を捕虜にした。(注7)

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(訳者注7)赤壁の戦。三国志演義の山場である。
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私の今回のこの勝利は、彼らのそれに比べれば、取るに足るものではないが、いまや、国をあげて、朝敵・足利に、天誅が加えられようとしているのである。

天は、私・義貞に対して、陛下の爪牙(そうが)の任を与えたもうた。かくなる上は、もはや、これからの戦の行方について、あれやこれやと考えているひまなどあるものか、腕を振るい、京都に向けて、今まさに進撃を開始するまで!

私とのかつてのよしみを、基寺がお捨てにならなければ、必ずや、かの大敵・足利を、我がこの二本の手でとりひしぐ事ができよう。

伝え聞くところによれば、古から今に至るまで、基寺の他を護持する力は、天地の間に超絶す、というではないか。

承和年間に、大威徳明王法(だいいとくみょうおうぼう)を修して、兄をさしおいて弟の皇子を帝位につけたのも、その一例。また、承平年間に、四天王の像を安置し、平将門(たいらのまさかど)の鉄身をついに傷(やぶ)ったのも、その一例。

ゆえに、我が良運を基寺の七社の冥応に頼み、私の勝利に向けて、再び一山あげての懇祈を請い願うものである。

つらつら思うに、悪は尊氏の方にあり、義は私の方にある。天下の治乱と基寺の安危にとって、いったいどちらが大事なのか、よくよく思案していただきたい。

早急に、わが同盟勧誘に対する基寺の承諾の評決を頂いて、双方時を同じくして、大軍を京都へ進め、錦の御旗を都の中央にうち立てたいものである。

以上、私の言いたいことを文書で申し上げた。なにとぞよろしく!

延元3年7月日
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新田義貞からの勧誘を受けた比叡山延暦寺では、さっそく会議が招集された。

延暦寺衆徒リーダーA あぁ、思いだすなぁ、あの時のことを・・・春と夏と二回もなぁ、陛下は、この比叡山へ臨幸しはったんやった。

延暦寺衆徒リーダーB そうやったなぁ・・・あの時、わしらは粉骨砕身の忠功を、陛下に尽くしたんやった。

延暦寺衆徒リーダーC その功績あって、領地をよぉけ(たくさん)、頂いたんやけど。

延暦寺衆徒リーダーD ところが、情勢は急変、新田らは北陸に落ちていくわ、陛下は京都に還幸してしまはるわで・・・。

延暦寺衆徒リーダーE わしらの望みも、みんないっぺんに消えてしもぉた。

延暦寺衆徒リーダーF そやからな、「あぁ、何か思いがけへん事でも起こって、再び、陛下が政権を奪回されますようにーっ」とな。

延暦寺衆徒リーダーA 毎日毎日、祈念込めてきてましたんやわ。

延暦寺衆徒リーダーB そないな中に、新田義貞からのこの勧誘文やろ。

延暦寺衆徒リーダーC よぉ言うてきてくれたで、ほんま、嬉しいわぁ。

延暦寺衆徒リーダーD 新田義貞からの誘い、わし大歓迎や! みなは、どないだ?

延暦寺衆徒リーダー一同 大歓迎ぇーぃっ!

7月23日、軍務担当の衆徒らは、大講堂の庭で会議した後、返答を、義貞のもとに送った。その内容は以下の通り。

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延暦寺より新田左近衛中将家への同盟合意

先日頂いた朝敵追罰の件に関して

国内の擾乱を鎮め、国家に太平をもたらすことは、武将が自らの忠節に励むゆえに可能となる事である。

一方、百代の帝王の皇位を祈り、天地の禍を消すことにかけては、我が比叡山延暦寺の右に出るものは無い。

武将と寺院、それぞれ道は異なるが、その期する所は結局のところ、同じ。両者の間には、一本の境界線を引く事もできぬであろう。

さてさて、かの足利尊氏と直義の行状をつらつらと見るに、その暴悪のひどさは、我が国の開闢(かいびゃく)以来、類を見ないほどである。「仏法と王法の怨敵(おんてき)」などというレベルのものではない、まさに、「国を害し民を害する賊徒」そのものである!

いみじくも、かの孟子(もうし)も言わく、「己(おのれ)より出(いず)ることは己に帰る」と。今ますぐに、彼らが滅んでしまわねば、いったいいつまで待てばよいのやら。

とはいいながらも、逆臣がますます威を振るい、義士が困惑するのが世の常。いったいなぜ、このような事になってしまうのであろうか?

呉王・夫差(ごおう・ふさ)は、越(えつ)を併合して国力を増強したものの、勾踐(こうせん)に亡ぼされ、項羽(こうう)は、山を抜く力がありながらも、ついには漢の高祖によって捕えられた。

いったいなぜ、このような結果になったのか? 呉は、義無くしてただ猛く、漢は、仁ありて正しかったからである。

国家の安危は、結局の所、天命によって決定される。

ゆえに、我ら延暦寺衆徒一同は、内には、貴方の忠烈の心をよしとして、新田義貞殿の佳運を祈り、外には、聖主の尊崇をかたじけなく頂いて、天皇陛下の治国の道を祈り続けてきた。

「この熱願が天に通じて、速やかに、何かしらの良き動きが生じないものか」と念願していたところに、越前より使者が来たりて、貴方からの赤心あふれるメッセージを、もたらしてくれた。我ら一山(いっさん)、欣悦至極(きんえつしごく)この上なし。山王七社(さんのうななしゃ)の霊力、まさに今、顕現(けんげん)せり!

つらつら、往昔(おうじゃく)を回想して人の運命の吉凶を鑑みるに、「この人間には味方せず」と、ひとたび当山が決意したならば、たとえ、世の中こぞって彼を支持したとしても、事は成らない。それが証拠に、治承(じしょう)年間の源平争乱の時、我らの支持を得られなかった以仁親王(もちひとしんのう)は、ついに都の外で没したもうた。

それとは逆に、わが寺が真摯に支援した時には、敵がいくら軍勢を集めて防御をかためてみても、防ぎきれるものではない。元暦(げんりゃく)年間の初め、源義仲(みなもとのよしなか)は、我らの支持をとりつけて、速やかに、京都入りを果たしたではないか!

人間の心の動きは、すべて、神慮によって発生するものである。あちらの人間を捨て、こちらの人間を取る、これもすべて、神慮の赴く所。

かくなる次第で、満山の群議、今や決した。我ら比叡山延暦寺は、新田義貞殿に協力する! これで、凶徒を誅戮(ちゅうりく)できること、疑い無し。

時は至れり、一刻たりとも、京都への進軍を遅らせること、ありませぬように!

貴殿よりの同盟勧誘への我が方の返答、以上、文書にて申し上げた。

延元3年7月日
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延暦寺からのこの返答は、やがて越前に到着、これを見た義貞は大喜び。

新田義貞 (内心)よぉし、すぐに上洛だぁ!

新田義貞 (内心)いや、待てよ・・・越前を完全に放置して京都へ行っちまったら、斯波高経(しばたかつね)め、またまた兵を起こして、北陸道を塞いじまうんだろうなぁ・・・うーん。

新田義貞 (内心)しょうがねぇなぁ、軍を二手に分けて、越前を確保しながら、京都を攻めるべし、か。

というわけで、新田義貞は3,000余騎を率いて越前に残留、京都へは脇屋義助(わきやよしすけ)が進軍、という事になった。

7月某日、脇屋義助は2万余騎を率いて越前国府を出発し、翌日、敦賀湊(つるがみなと:福井県・敦賀市)に到着した。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月11日 (木)

太平記 現代語訳 20-3 後醍醐天皇、新田義貞に上洛を促す

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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そうこうするうち、新田家・越後勢力軍は、越前の河合(かわい:福井県・福井市)に到着。新田義貞(にったよしさだ)の勢いはますます強大になり、「足羽(あすは)城攻略も、もはや時間の問題!」と、全員勇みたつ。

斯波高経(しばたかつね)の足利尊氏(あしかがたかうじ)への義心にはいささかの動揺も無いものの、小さな平城にたてこもるのはたった300余人だけ、その四方を3万余騎の新田軍が包囲している。

斯波軍メンバーA 籠の中の鳥が、雲を恋いしたい、

斯波軍メンバーB 枯れかかった水たまりの魚が、水を求めるがごとく、

斯波軍メンバーC おれたちの現状は、まさにそういったカンジだなぁ。

斯波軍メンバーD あーあ、我が命、いったいいつまであるものやら。

新田側は斯波側を見下して勇みたち、斯波側は意気消沈して悲しみに沈む。

新田軍リーダーE さぁてと、いよいよ21日、黒丸(くろまる)城攻めにかかるぞぉ。

新田軍リーダーF 国中の人夫を動員してな、草の束3万ほど集めさせるんだ。城の堀をそれでもって埋めるんだよ。

新田軍リーダーG 盾も用意しとかなきゃ。3,000個ほど作らせようか。

このように、あれやこれやと城攻めの用意をしている新田陣中に、吉野(よしの)からの勅使がやってきた。

勅使 天皇陛下よりのお言葉を今、伝えますんでな・・・(後醍醐天皇からの手紙を開く)

手紙 パサパサパサ・・・(開かれる音)

勅使 「新田義興(にったよしおき)と春日(かすが)が、敗軍の兵を集めて、八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)にたてこもっておる。そこへ、京都の逆賊どもが大軍でもって押し寄せてきて、山を包囲してしまいよった。新田・春日サイドは、食料が乏しうなって、士気も低下しとる。しかし、「北陸の朝廷軍が、もうすぐ京都を攻めてくれるから、なんとかそれまでは」と、みな、ギリギリのとこでふんばっとる。」

勅使 「そちらの、京都進軍開始が遅れてしもぉたら、八幡はもう、もたへん。国が傾くかどうかは、今や、北陸の朝廷軍の動向いかんにかかっとる。そこいらへんでの戦はもう捨て置いて、京都攻めを急げ!」

勅使 陛下からのお言葉は以上の通り。このお手紙、おそれおおくも、陛下の直筆や。

新田義貞 ハハーッ!(平伏しながら、手紙を受け取る)

手紙に目を通した義貞は、

新田義貞 我が国の歴史上、大功ありといえども、源平両家の武臣に対して、天皇陛下より直々にご自筆のお手紙を下された事など、過去に一度も聞いたことがありません。わが新田家にとりまして、今回のこれは、分際を超えたあまりにももったいない名誉。なんというありがたい事でしょう! 今この時をおいて他に、わが命を軽んずるべき時はありません!

新田義貞 分かりました、陛下のおおせのごとく、足羽城攻めは即刻中止して、京都への進軍を急ぎます!

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2018年1月10日 (水)

太平記 現代語訳 20-2 越後の新田勢力、越前へ向かう

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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越後国(えちごこく:新潟県)は、新田一族の本拠がある上野国(こうずけこく:群馬県)の隣国ゆえ、もともと彼らが勢力を増殖していた地であった。元弘年間以降、倒幕の恩賞として、越後は新田貞義(にったよしさだ)に与えられ、数年が経過する中、国中の地頭、御家人は、義貞の統治に従ってきた。

「新田義貞、既に越前を掌握し、京都へ攻め上らんとす」との情報に、大井田氏経(おおいだうじつね)、中条入道(なかじょうにゅうどう)、鳥山家成(とりやまいえなり)、風間信濃守(かざましなののかみ)、禰津掃部助(ねづかもんのすけ)、大田瀧口(おおたたきぐち)をはじめ、合計2万余騎の新田家・越後勢力軍は、7月3日に越後の国府(新潟県・上越市)を発ち、越中国(えっちゅうこく:富山県)へ侵入した。

越中国守護・普門俊清(ふもんとしきよ)は、国境付近でそれを食い止めようとしたが、兵力数において劣る普門側はその大半が討たれてしまい、松倉城(まつくらじょう:富山県・魚津市)へ引きこもった。

新田家・越後勢力軍は、これを放置して、すぐに加賀国(かがこく:石川県南部)へ入った。

富樫介(とがしのすけ)がこれを聞いて、500余騎の軍勢を率いて、安宅(あたか:石川県・小松市)、篠原(しのはら:石川県・加賀市)付近でこれを迎撃するも多勢に無勢、富樫側は200余騎が討たれてしまい、那多城(なたじょう:小松市)へ引きこもった。

新田家・越後勢力軍リーダーA 越中、加賀の2回の戦に、連勝しちゃったぁ。

新田家・越後勢力軍リーダーB 北陸地方の敵勢力なんか、恐れるに足らず。

新田家・越後勢力軍リーダーC このまますぐ、越前まで行っちゃおう!

新田家・越後勢力軍リーダーD いやいや、我々の最終目標は、越前じゃないよ、京都だろ? ここから京都までの間の地域は、これまでずっと戦続きだったんだから、住民たち、みんなスカンピンになってしまってるだろう。食料の調達なんか、とても無理なんじゃないかなぁ。

新田家・越後勢力軍リーダーA そうだよなぁ。しばらくは加賀に滞在して、これから先の食料を確保するとしようか。

彼らは、今湊宿(いまみなとじゅく:石川県・白山市)に10余日間、逗留した。その間、剣(つるぎ)や白山(はくさん)他の方々の神社仏閣に押し入っては、仏物(ぶつもつ)や神物(しんもつ)を略奪し、民家に押し入っては資材を強奪した。

先を読める人E あぁ、なんというけしからんことを・・・。「霊神、怒りをなせば即(そく)、災害、ちまたに満つ」というぞ。

先を読める人F 集団の悪行の果はすべて、その集団のトップにいる人の所に行くのではなかろうか・・・。

先を読める人G となると・・・新田義貞の対足利闘争も、この先いったいどうなることか。

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2018年1月 9日 (火)

太平記 現代語訳 20-1 新田軍、越前国の完全制圧を目指す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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去る2月初、越前国府(福井県・越前市)の戦に勝利の後、国中の足利側の城70余箇所をあっという間に降伏させて、新田義貞(にったよしさだ)の勢力はまたまた盛り返していた。

この時、義貞が、比叡山・延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県・大津市)の衆徒らを旧交のよしみを通じて味方につけていたならば、すぐに比叡山(ひえいざん)に上り、吉野(よしの: 奈良県・吉野郡・吉野町)の勢力とも力を合わせて京都を攻めることなどたやすいことであったろう。

しかし、義貞は、「なおも越前の黒丸城(くろまるじょう)に踏みとどまっている斯波高経(しばたかつね)を攻め落とさないままにして、上洛するのは無念だ」と思い、そうはしなかった。このようなつまらない事にこだわって、大事な事を二の次にした義貞のこの態度は、まことに愚かといえよう。(注1)

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(訳者注1)これも例によって、太平記作者の一方的なキメツケであると、私は思う。

「あっという間に降伏した足利側の城70余箇所」というであるならば、それらは情勢のちょっとした変化で再び、「あっという間に」新田に敵対することであろう。越前の在地勢力をこのような中途半端な状態でしか掌握できてないのに、斯波高経の息がかかっている勢力をなおも越前に残存させたまま、新田軍がすぐに京都へ進撃できたかどうか、極めて疑問である。京都への途上において、背後から斯波軍に追撃をかけられたならば、いったいどうなるだろうか?
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5月2日、義貞は、自ら6,000余騎を率いて国府へ進み、波羅密(はらみ:福井市)、安居(はこ:福井市)、河合(かわい:福井市)、春近(はるちか:坂井市)、江守(えもり:福井市)の5つの城に対して5000余の兵を差し向け、足羽城(あすはじょう)群を攻めさせた。(注2)

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(訳者注2)「足羽七城」と呼ばれる城砦群があったようだ。
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まず一番に、義貞の義理の甥・(注3)一条行実(いちじょうゆきざね)が、500余騎を率いて江守から押し寄せ、黒龍明神(くずれみょうじん)の前で斯波軍に遭遇(そうぐう)、戦い利あらずして本陣へ退却した。

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(訳者注3)勾当内侍(こうとうのないし)の甥。
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二番手に、船田経政(ふなだつねまさ)が、700余騎を率いて安居の渡しから押し寄せた。川の中ほどまで進んだ時、細川出羽守(ほそかわでわのかみ)率いる200余騎が対岸に現れ、高岸の上から矢をどんどん射掛けてくる。漲(みなぎ)る波に溺れて馬も人も次々と死に、さしたる戦を交える事もなく退却を余儀無くされた。

三番手は、細屋秀国(ほそやひでくに)。1,000余騎を率いて河合庄から押し寄せ、勝虎城(しょうとらじょう:福井市)を包囲、一気に攻め落とそうと、塀に取り付き、堀に飛び入り、攻めはじめた。そこに、鹿草兵庫助(かぐさひょうごのすけ)が300余騎で背後から襲いかかり、細屋の大軍の中に懸け入って脇目も振らず攻め戦った。細屋軍メンバーらは、城中の敵と背後からの敵に追い立てられて、本陣へ退却した。

このようにして、新田サイドは、足羽の合戦に3連敗をくらってしまった。この3人の大将(一条、船田、細屋)はいずれも天下の人傑、武略の名将ではありながら、あまりにも敵をあなどって勝ちを急ぎすぎたがために、敗戦を重ねてしまったのである。

中国の後漢王朝建国の祖・光武帝(こうぶてい)が戦に臨むたびに口にしたという、「大敵を見ては侮り、小敵を見ては恐れよ」との言葉、まことに真理である。

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2018年1月 8日 (月)

太平記 現代語訳 19-9 青野原の戦

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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関東から北畠(きたばたけ)軍を追尾してきた足利関東方面軍リーダーたちは、美濃国(みのこく:岐阜県南部)に到着後、今後の作戦について討議した。

足利関東方面軍・リーダーA 将軍様はおそらく、宇治橋と瀬田橋の防衛ポイントを死守しようと、橋の板を外して北畠軍の到着を待っておられるんだろう。北畠軍も、そうそう簡単には宇治川を渡れないだろうな。

足利関東方面軍・リーダーB おれもそう思うな。宇治川を前にして、北畠軍は進軍ストップしちゃうだろう。

足利関東方面軍・リーダーC だったら、我々、そのタイミングまで、待ってみてはどうだろう? やつらは遠路はるばる遠征してきてんだからさぁ、宇治川に到着する頃には、もう疲労も極限になっちゃってるだろう。その疲れに乗じてだね、将軍様は前面から、我々は背面から、北畠軍を攻撃。そうすりゃ、イッパツでこちらの勝ちだ!

土岐頼遠(ときよりとお)は、会議が始ってからずっと、黙って他のメンバーの発言に耳を傾けていたが、この時おもむろに口を開いて、

土岐頼遠 あのなぁ、いくら相手が大軍だからといってもな、すぐ目の前を行く敵に対して矢の一本も射ずに、ただ黙ぁって後をついていくだけっちゅうの、どうもわしゃぁ、面白くねぇだが。

リーダー一同 ・・・。

土岐頼遠 相手に疲れが出てくるその時をじっと待ち続けよう、なんちゅう事ではな、あの古代中国・楚(そ)の、宋義(そうぎ)の例の言葉と同じだが。

足利関東方面軍・リーダーA それっていったい?

土岐頼遠 「蚊を殺すには、その馬を撃たず」。(注1)

リーダー一同 ・・・。

土岐頼遠 今、天下の注目が、この一戦に集まっとるが。あんたらがどういう気持ちでおるんかは知らんけんど、この土岐頼遠はな、わが命をかけてガァーンと一戦、やらかしたいんよ。それでもって戦死したってえぇんよ。そうなりゃわしの墓の上には、「義に殉じて死んだ男一人、ここに眠る」って書いた墓標が立つってもんだが。

桃井直常(もものいなおつね) いやいや、土岐殿、おれだってあんたと同じ思いよ。おれも、北畠軍と正々堂々戦ってみたい! みんなはどうだ?

この二人の言葉に他のリーダーたちも動かされ、満場一致で、「いざ決戦!」となった。

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(訳者注1)史記の項羽本紀にある話。秦軍に対して攻撃を挑まずに停滞を続ける上将軍・宋義に対して、次将軍・項羽が、「すみやかに兵を率いて黄河を渡り、秦軍を攻撃しよう」と進言したところ、宋義は言う、「牛を手で打ってみても、牛の表面に止まっている虻(あぶ)は殺せようが、その体内に深く食い込んだシラミまでは殺すことができない。真の勝利を収めようと思えば、拙攻は禁物。先に他の軍に秦と戦わせ、秦に疲れが出てから攻撃するのがベストなのだ」と。
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その時、北畠軍は既に、垂井(たるい:岐阜県・不破郡・垂井町)、赤坂(あかさか:岐阜県・大垣市)まで進んでいたのであったが、「背後から足利軍が接近」との情報に、

北畠顕家(きたばたけあきいえ) まずは、そっちの敵軍から撃破かな。よし、全軍、3里ほど東へ後退!

かくして北畠軍は、美濃と尾張の国境地帯に、広く展開して布陣した。

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いよいよ戦端を開く時が来た。足利サイドは、総勢8万余騎を5グループに分けて、攻め順をクジ引きで決めた。

1番クジを引いたのは、小笠原貞宗(おがさわらさだむね)と芳賀禅可(はがぜんか)であった。二人は、2,000余騎を率いて印食渡(きじのわたし:岐阜県・羽島郡・岐南町)へ向かった。

これに応戦するは、北畠軍中の伊達(だて)・信夫(しのぶ)の勢力3,000余騎。彼らは、木曽川(きそがわ)を東へ渡り、小笠原軍と芳賀軍に襲いかかり、これをけ散らした。かくして、足利側一番手は崩壊。

足利側2番手の高重茂(こうのしげもち)は、3,000余騎を率いて墨俣川(すのまたがわ:注2)を渡ろうとして、北条時行(ほうじょうときゆき)軍5,000余騎と乱戦になった。互いに笠標を目印に、組んでは馬から落ち、落ち重なっては首を取り、というような戦いを1時間ほど展開。結局、高重茂が頼りとする武士300余人が討ち取られてしまい、高軍メンバーは東西に散りじりになりながら、付近の山中に逃げ込んだ。

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(訳者注2)現在の墨俣の付近を流れる長良川のことらしい。
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3番手の今川範国(いまがわのりくに)と三浦高継(みうらたかつぐ)率いる軍は、足近(あじか:岐阜県・羽島市)方面に進み、横合いから北畠軍を攻撃した。南部(なんぶ)、下山(しもやま)、結城宗広(ゆうきむねひろ)率いる1万余騎がこれを迎撃し、火の出るような激戦を展開。兵力面でもとから劣勢であった今川軍と三浦軍はあえなく敗退し、川の東へ撤退。

4番手の上杉憲顕(うえすぎのりあき)、上杉藤成(うえすぎふじなり)は、武蔵・相模の勢力1万余騎を率いて、青野原(あおのがはら:岐阜県・大垣市-岐阜県・不破郡・垂井町)に進んだ。これに対しては、新田義興(にったよしおき)の軍と宇都宮率いる紀清両党の軍が戦いを挑んだ。

両軍互いによく知った紋所の旗がひらめく戦場、後日の嘲りを恐れて、双方互いに一歩も後に引かず、命の限り戦う。その戦いの凄まじさ、まさに世界終末の時に吹く大風止みて、地球は無限地獄の底へ飲み込まれていかんとするか、はたまた、世界の周囲の水輪(すいりん)沸騰し、大地みなことごとく宇宙の頂まで舞い上がらんか。

新田軍と宇都宮軍は、やはり強かった。上杉軍はついに敗退し、右往左往しながら退却していった。

足利サイド5番手は、桃井直常と土岐頼遠。二人が率いるよりすぐりの精鋭1,000余騎は、目を遮る物とて何一つ無い青野原へ進み、北畠軍を西北に睨んで陣を整えた。

そしてついに、北畠軍・主力が戦場に姿を現した。軍団の総帥、これぞまさしく、奥州国司兼鎮守府将軍(おうしゅうこくしけんちんじゅふしょうぐん)・北畠顕家。副将は顕家卿の弟、春日少将・北畠顕信(かすがのしょうしょう・きたばたけあきのぶ)。二人が率いるは、出羽(でわ)・陸奥(むつ)の勢力、兵力総数6万余騎。

北畠軍と桃井・土岐軍、双方の兵力を比較すれば、桃井・土岐側1に対して、北畠側は1000超。しかるに、土岐頼遠も桃井直常も、いささかの気後れも無し。前方に展開する敵を全く恐れず、後ろに退こうとの心、微塵たりとも無し。トキの声を上げるやいなや、桃井・土岐軍1,000余騎は一体となって、北畠の大軍中にガァーンと突撃。1時間ほど戦って、ツット懸け抜けた。

桃井直常 300人ほどは、やられてしまったか・・・。

残る700余騎は、再び一団となり、今度は、副将軍・北畠顕信率いる2万余の陣へ突入、東へ追い靡き、南へ蹴散らし、馬の足は休まる時なく、太刀を打ち交わすツバ音が止む間も無く、「エイ! ヤァ!」の掛け声の下、必死の戦闘を展開。

桃井直常 1000騎が残り一騎になったって、絶対に退(ひ)くんじゃねぇぞ!

土岐頼遠 そうじゃ、ゼッタイに退(ひ)いたらいかんで! 命のある限り、戦うたるんじゃぁ!

しかし北畠の大軍を相手にしては、さすがの彼らも、どうしようも無かった。こちらに囲まれ、あちらに取りこめられ、力も尽き、気力も衰えてくる。700余騎もついに、残り23騎になってしまった。

土岐頼遠は、左目の下から右の口脇、鼻まで刀の切っ先で切り付けられてしまい、ついに長森城(ながもりじょう:岐阜県・岐阜市)に逃げ込んだ。

桃井直常が率いる軍も、30余度もの突撃の末、残り76騎になってしまった。自身の乗馬も、尻と首の側面に二個所切り付けられ、鎧の胴のあたりを3箇所も突かれ、ついに疲労の極限にまできてしまった。

桃井直常 よし、戦闘ストップ! 戦は今日だけじゃないからな、明日からも、まだまだ続くんだ。さぁ、みんな、馬の足を休めようぜ。

桃井軍メンバーは、墨俣川に馬を追い浸し、太刀や長刀の血を洗い、日没後もそのまま、青野原に滞陣し、川の西岸に踏みとどまった。

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一方、京都の足利尊氏(あしかがたかうじ)の下では、

足利尊氏 奥州からの北畠の大軍、京都を目指しているそうだが・・・。

足利サイド・リーダーD いや、なぁに、土岐頼遠が美濃におりますからねぇ、彼がいったんは食い止めてくれるでしょうよ。

足利サイド・リーダーE 土岐にまかせときゃ、大丈夫でしょう。

そこへ、伝令が息せききってやってきた。

足利軍伝令 大変です! 美濃国の青野原において、土岐頼遠殿、北畠軍に敗退!

足利サイド・リーダーD なにぃ!

足利サイド・リーダーE 頼遠が負けたってぇ?!

足利サイド・リーダーF で、彼は、頼遠は、どうしてんだ?

足利軍伝令 情報が錯綜しております。現在、行方不明との情報もあり、既に討死にされたとの情報もありで・・・。

これを聞いて、リーダーたちは全員、浮き足立ってしまった。

足利軍リーダーG これは一刻の猶予もなりません、早いとこ、宇治と瀬田の橋板を引っこ抜いて、北畠軍の進撃を食いとめなきゃ!

足利軍リーダーD いやいや、そんな事したって、もう手後れだろう。北畠軍は勢いづいちゃってるもんなぁ。

足利軍リーダーE ここはいったん、中国地方へ退却し、四国や九州からの援軍の到着を待って、それから反攻に・・・。

足利軍リーダーH いやいや、そういう逃げの態勢はいかんっすよぉ。逃げに入ってしまったんじゃ、ジリ貧の一本道だわ。

足利軍リーダーI そうですよ、とにかく一刻も早くですねぇ、瀬田と宇治の防衛ポイントを確保してですねぇ・・・

このように、様々な意見が飛び交って、なかなか結論が出ない。

じっと考えこんでいた高師泰(こうのもろやす)が、口を開いた。

高師泰 古から現代に至るまで、「京都へ敵が攻め寄せて来た、さぁ、宇治と瀬田の橋を守れ」ってなケース、よくありましたよねぇ。でもねぇ、その戦略ポイントを確保しきって敵の宇治側渡河を阻止し、京都を守れたってなぁ事、これまでただの一度も無いんですよねぇ。

一同 ・・・。

高師泰 その原因はいったい何か? 考えてみりゃぁ簡単な事です。京都へ寄せてくる側は、なにせ日本国中を味方につけてるわけでしょう、いやが応でも、意気が上がりますわね。かたや、京都を守る側はってぇと、掌握できてるのは、わずかに京都市中のみ。これじゃぁ、士気も一向に振るわんってわけだ。

高師泰 そぉいう事だからね、いくら、宇治川という天然の防衛ラインがあったって、相手の進撃を食い止める事なんて、到底できっこないんだなぁ。

一同 ・・・。

高師泰 だからね、この際、宇治川で防衛なんてぇような、不吉きわまりない戦略なんか、思い切って捨てた方がよくね? 大軍の到着を京都付近で待ちかまえてなんかいるよりか、近江(おうみ:滋賀県)、美濃のあたりまで急いで進撃して行く方が、よっぽどいいや。「戦いを王城の外に決する」って言うでしょ、これですよ、これぇ!

この、勇気にあふれ、合理的でもある師泰の案に、

高師直 いーんじゃぁないのぉ、この作戦ーん!

足利尊氏 ・・・よし・・・師泰案に決定だ。

一同 分かりました!

足利尊氏 ならば、時間を無駄にしてはいかん。速やかに、近江、美濃へ向けて出撃せよ!

一同 ハハーッ!

かくして、1万余騎の軍勢が、近江・美濃方面へ向かうこととなった。

軍勢を率いるリーダーは、高師泰、高師冬(こうのもろふゆ)、細川頼春(ほそかわよりはる)、佐々木氏頼(ささきうじより)、佐々木道誉(ささきどうよ)、その子・秀綱(ひでつな)他、諸国の有力武士53人。

2月4日に京都を発って、6日の早朝、近江と美濃の境にある黒地川(くろじがわ:岐阜県・不破郡・関ケ原町)に到着。

北畠軍、垂井、赤坂に到着、との情報に、「ここで北畠軍を待とう」ということになり、関の藤川(せきのふじかわ)を前に、黒地川を背後にし、両川の間に陣を取った。

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そもそも、古より今日に至るまで、勇士や猛将が陣を取って敵を待つに際しては、山を背後にし、水を前にして陣を取るのが通常。なのに、足利軍は、大河を後ろにして陣を敷いた(注3)。これもまた、一つの作戦なのであった。

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(訳者注3)関ヶ原一帯に「大河」と呼ぶにふさわしいような川は無い。おそらく、太平記作者は、この地域の地理をよく知らないまま、この節を書いたのであろう。
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古代中国において、漢の高祖(こうそ)と楚の項羽(こうう)は、天下を争って8年間戦い続けた。(注4)

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(訳者注4)以下の記述は、「史記・淮陰侯列伝」と、細部において異なっている。
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ある時、高祖は、戦いに負けて敗走すること30里。彼に従う生き残りの兵の数は、わずか3,000余騎にも足らず。これを追う項羽の軍勢は、40万騎。

項羽 残念、目が暮れてしもぉたか・・・よし、今宵はここに野営じゃ。黎明と共に、我が軍は出動、漢軍の陣へ押し寄せようぞ。にっくき高祖めを一気に滅ぼしてしまうのなど、我が片手だけで十分じゃ。

高祖は、韓信(かんしん)を大将に任命し、項羽に対して陣を敷かせた。

韓信は、わざと大河を後ろにして陣を敷き、橋を焼き落とし、舟を全て破壊して捨てた。「もうどこにも逃げ場はないぞ、士卒ら一歩も退く事なく、全員討死にせよ」とのメッセージを皆に徹底せしめるための謀であった。

夜明けと共に、項羽軍40万騎は、韓信軍めがけて殺到。

項羽 見よ、敵はあのような、取るに足らぬ小勢じゃ。ものども、一気に勝負を決めてしまえぃ!

項羽軍は、意気揚々と左右を顧みず、韓信軍に襲いかかって行く。韓信軍3,000余騎は一歩も引かず、命の限り戦う。かくして、項羽軍はたちまち敗れ、討たれし兵の数20万人。韓信軍は逃げる項羽軍を追うこと50余里。

かろうじて、安全地帯に逃げ込んだ項羽は、

項羽 ここまで逃げたら大丈夫。敵軍と我軍の間には沼沢地帯があるし、橋は全て破却した。まさかこんな所までは、敵軍はやってはこれまいて。

漢の兵は勝に乗じて、「いよいよ今夜、項羽の陣を攻撃」という事になった。

韓信は、兵を集めていわく、

韓信 わしに、よい作戦がある。全員、所持の兵糧を捨てよ。空になった兵糧袋に砂を入れ、それを背負って進軍すべし。

兵は皆、不安に思いながらも、大将・韓信の命に従い、所持していた食料を捨て、その袋に砂を入れて項羽陣目指して進軍した。

夜になって、韓信軍は項羽陣に接近。見れば、四方のすべての沼沢を天然の防衛バリアーとして活用し、渡れる所などどこもないように、うまく陣を敷いている。

韓信 よし、持参した砂包みを、あの沢に投げ入れよ!

砂包みが積まれて道ができ、その上を韓信軍は渡っていった。深い沼地も平地のごとし。(注5)

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(訳者注5)「史記・淮陰侯列伝」によれば、嚢砂を積んだ上を歩いて渡っていったのではなくて、嚢砂をダム状(今で言う「ロックフィル式ダム」のような状態か)に積んで川を塞き止めて水位を低め、川の中を渡ったのである。現代においても、水害の時には土嚢(どのう)を用いて水を防ぐ。
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項羽側の兵20万騎は、終日の戦いに疲れ果てていた。ここまでは敵も攻めてはこれぬと油断し、帯紐を解いてぐっすり寝入っていた所に、韓信軍7,000余騎は、どっとトキの声を上げて攻めこんだ。項羽軍側は何らなすすべなく、10万余騎が、川水に溺れて戦死した。(注6)

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(訳者注6)「史記・淮陰侯列伝」によれば、韓信は川を渡って敵陣を攻撃した後、負けたふりをして退却。敵軍が後を追ってきた頃合いを見計らって、流れを塞き止めていた嚢砂を決壊させたのである。
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これが、かの有名な、「韓信の嚢砂(のうしゃ)の謀・背水(はいすい)の陣」なのである。

今、高師泰、高師冬、細川頼春らが敵の兵力の大きさを鑑みて、わざと水沢を背後にして関の藤川を前に陣を取ったのも、士卒の心を一つにせんがために韓信の作戦を採用した結果であろう。

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北畠軍10万騎は、垂井、赤坂、青野原に充満し、東西6里南北3里に広がって陣を張った。夜のしじまの中にあたり一帯を見渡せば、篝火(かがりび)のおびただしいこと、天の星が残らず地上に落ちて輝いているかと思われるほどである。

この時、越前では、新田義貞(にったよしさだ)と脇屋義助(わきやよしすけ)が北陸道を制圧し、その勢いは天を掠め地を略するほど強盛であった。

ゆえに、目前に展開する足利軍を破ることが北畠軍にとって非常に困難、というのであれば、北近江から越前へ移動して新田軍に合流する、という手もあったろう。

新田・北畠連合軍が比叡山(ひえいざん)に上って京都を眼下に見下ろした後、吉野(よしの)方面の後醍醐天皇サイド勢力としめし合わせて、東西から都を攻めていたならば、どうなっていたであろうか。

おそらく、足利尊氏はただの一日も、京都に踏みとどまることはできなかったであろう。

しかし、顕家は、自分の功績が義貞のそれに隠れてしまうことを嫌い、北陸へ移動しなかった。(注7)

かといって、目前の足利軍と戦いを交えるでもなく、顕家は、全軍を率いて伊勢(いせ:志摩半島以外の三重県)へ転進し、そこから吉野を目指して進んだ。

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(訳者注7)原文には、「顕家卿、我大功義貞の忠に成んずる事を猜で、北國へも引合ず、黒地をも破りえず・・・」とある。

この部分は、「私はそのように推理した。(太平記作者談)」といったような「解説」の類にすぎないので、これを読んだだけで、「北畠顕家さん(歴史上実在の)って、なんて人なんだ!」というように思うとしたら、それは危険な行為であろう。

太平記作者がここで言う、「北畠軍が、越前(新田兄弟がいる)へ転進する」を実際に行うとすれば、どのようなルートが可能であろうか?

[地理院地図]を使って、見てみよう。

北畠軍が今いる場所は、[岐阜県・不破郡・関ケ原町]の付近である。

ここから、越前へ向かう最も容易なルートは、そこから西進して近江(滋賀県)に至り、そこから北方へ転じて、越前へ、というものである。(現在の鉄道で言えば、JR・東海道本線で米原まで行き、そこからJR・北陸本線に乗り換えて、福井県へ、というルート。)

しかし、そのルート上には、足利軍が既に布陣している。

足利軍が布陣している場所を迂回して越前へ向かう、となると、

(1)[岐阜県・大垣市]の付近まで引き返し、そこから[揖斐川(いびがわ)]沿いに北西に向かい(国道303)、伊吹(いぶき)山地を超えて[木之本(きのもと:滋賀県・長浜市)]へ至り、そこから北上(国道8、もしくは国道365)して、福井平野へ出る、というルート。

しかし、このルート上には、斯波高経(しばたかつね)が率いる勢力が支配しているエリアがあるだろう。

となると、

(2)[岐阜県・大垣市]の付近から、北上して、[根尾谷(ねおだに)]を進み(国道157)、[福井県・大野市]を経由して、福井平野へ、というルート。

あるいは、

(3)[岐阜県・岐阜市]の付近まで引き返し、そこから[長良川(ながらがわ)]沿いに進み(国道156、長良川鉄道)、[白鳥]から西進し、峠を越えて、[九頭竜湖]に至り、そこから[九頭竜川]に沿って(国道158)[福井県・大野市]に至り、そこから福井平野へ、というルート。

上記の(2),(3)共に、たやすく移動できるようなルートではない、という事は、[地理院地図]を見ればよく分かる。(地図上で右クリックすると、その地点の標高値が表示されるようだ)。

かつて、越前と美濃を結ぶ鉄道を、という事で、[越美線(えつみせん)]の敷設計画があったという。

[越美南線]と[越美北線]が敷かれたが、両者は現在に至るまで、接続されていないので、[越美線]は完成していない。[越美南線]は現在、[長良川鉄道](第三セクター)になっている。

このように、隣り合う国である[越前]と[美濃]との間の交通にとっては、山地が大きな障害となっているのである。

関東地方や東北地方から遠征してきた人々に、更にこのルートを行けというのは、非常に酷な事であろう。へたをすれば、越美国境において全滅(戦わずして)というリスクもありうる。
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北畠軍、伊勢方面へ転進、との情報をキャッチした京都の足利サイドの人々は、一様に安堵の胸をなでおろした。

足利サイド・リーダーD いやぁ、北畠顕家率いる奥州勢、鬼神のごとき恐ろしいヤツラと思ってたんだけどぉ。

足利サイド・リーダーE なんだか、拍子抜けしちゃったよなぁ。

足利サイド・リーダーF 黒地川(くろぢがわ)に布陣してた我が軍は、敗れなかったんだ。

足利サイド・リーダーG 北畠軍を追尾してきた、わが関東方面軍も、京都に到着したってよぉ。

足利サイド・リーダーH こうなったら、北畠軍なんか、恐れるに足らずだぁ!

足利サイド・リーダーI あんなの、恐かない、恐かなぁーい!

足利サイド・リーダー一同 ワッハッハッハァー!

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顕家たちは、奈良(なら:奈良県・奈良市)に到着した。

そこでしばらく馬の足を休めながら、顕家は、主要メンバーを集めて、今後の作戦を議論させた。

白河(しらかわ:福島県・白河市)から従軍してきた結城宗広(ゆうきむねひろ)が、膝を進めていわく、

結城宗広 今回の遠征、道中、何度も戦っては勝ち、方々の強敵を追い散らし、京都へあと一歩という所までは、来ました。でも、青野原(あおのがはら)の合戦で少々利を失ってしまったんで、黒地川の橋を渡る事もできなかった・・・やむをえず、迂回して、奈良までやってきたんですよね。

北畠顕家 うん・・・。(唇をかみしめる)

結城宗広 こんな状態のまんまで、吉野の陛下の下へ参ずるってぇのは、私としてはどうもねぇ・・・あまりにもフガイないって言うか・・・どうでしょう、我々の軍勢だけでもって、ここからまっすぐ北上して京都を攻める、というのは。朝敵を一気に追い落とすか、さもなくば、自らの屍(しかばね)を王城(おうじょう:注8)の土に埋めるか、どっちに転んだって、それで本望ってもんじゃないですかねぇ!

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(訳者注8)「都」。
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宗広の実にきっぱりとした意見に、

北畠顕家 よぉ言うた! 私も同じ思いやで!

ということで、北畠軍は一転して、京都攻めの作戦を練り始めた。

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その情報は、すぐに京都にリークした。

足利尊氏はこれを聞いてびっくり、さっそく会議を招集。

足利尊氏 急ぎ、奈良へ大軍を差し向けなきゃいかん・・・誰かが・・・軍を率いて、北畠の進撃をインターセプトしなきゃ・・・。

足利サイド・リーダー一同 ・・・(シーン)。

足利尊氏 誰かが軍を率いて奈良へ向かいだな・・・北畠軍の京都進撃をだな・・・。

足利サイド・リーダー一同 ・・・(シーン)。

足利直義 おいおい、誰もいないのか、「北畠軍攻めの大将、私がやりましょう!」って言ってくれる者は!

足利サイド・リーダー一同 ・・・(シーン)。

足利直義 じゃ、仕方ない、こっちから指名だ。兄上、誰に任せたらいいでしょう?

足利尊氏 ・・・そうだなぁ・・・。

高師直(こうのもろなお) あの、あのぉ、今回のその大役に、ピッタシカンカンってぇお方が、おられやんすですよぉ!

足利直義 いったい、誰?

高師直 北畠顕家ほどの大敵に向かうとなったら、そりゃぁなんつぅたって、ハートのエースとスペードのエース、あの桃井(もものい)兄弟でしょうがぁ。

高師直 わが関東方面軍は、鎌倉撤退の後、そりゃぁいろんな所で、北畠軍と何度も戦ってきたでやんすが、そのたんびに、相手にキツゥいボディブロー打ち込んで、北畠軍をビビラセてきたのが、桃井軍ではありまへんか。

高師直 せやからね、やつらの臆病神が去ってしまわん今のうちに、またまた、桃井兄弟を北畠の眼の前に送り込んだるんですわいな。そないなったら、こちらの思いのままに、奈良なんてあっちゅう間に制圧できてしまいますじゃん。

足利尊氏 ・・・なるほど・・・よし、奈良攻めは、桃井兄弟で決まり。師直、桃井に命令を伝えよ。

高師直 あいあい。

尊氏の命を受けた桃井直常(もものいなおつね)・直信(なおのぶ)兄弟は、異議もなく、さっそくその日のうちに京都を発ち、奈良へ向かった。

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「桃井軍、奈良へ」との情報に、顕家は、般若坂(はんにゃざか:奈良市)に一陣を張り、桃井軍の到着を待った。

般若坂へ到着した桃井直常は、軍の先頭に進み出て、士卒に指令を下す。

桃井直常 今回のこの戦、足利サイドの錚々(そうそう)たるメンバー多数いる中、誰も引き受ける者が無かったんだとよ。そこでな、ここはもう、桃井に任せるしかないってことで、おれたち兄弟が選ばれたんだって。

桃井軍メンバー一同 イェーィ! ピィピィ・・・。

桃井直常 もうまさに、武門の名誉に尽きるってもんじゃん。この一戦に勝てなきゃ、これまでの数々の我が桃井家の高名も、みんな泥にまみれちまわぁ。さぁみんな、志一つに励ましあって、あの陣を破るんでぃ!

桃井軍メンバー一同 オーゥ!

曽我師助(そがもろすけ)を先頭に、桃井軍・精鋭メンバー700余騎が、身命を捨てて北畠陣中に切り込んでいった。

北畠軍も、ここを先途(せんど)と必死に防戦。

しかし、東北地方や関東地方からの長途の遠征に疲れきった武士たちが、桃井軍をささえきれるはずがない。第一陣、第二陣と順に破られていき、数万騎の武士らは方々に退散していく。そしてついに、顕家も行方不明になってしまった。

かくして、桃井直常・直信兄弟は、やすやすと大軍を追い散らし、傷一つ負う事もなく京都へ凱旋した。

桃井直常 (内心)やぁったぜ! こうなったらもう、おれの戦功、足利家ナンバーワンじゃねぇの。褒賞、一人占めしちゃえるなぁ、ムフフフフフ・・・。

ところが、直常の意に反して、その功績は尊氏には全く認められずに終わってしまい、褒賞に関しても、何の音沙汰(おとさた)もない。

桃井兄弟は、不満たらたら。

桃井直常 なんだー、この処遇はぁ! いってぇどうなってんだぁ!

桃井直信 ったくもう、命を捨てて北畠と戦いつづけてきたのによぉ! ざけんじゃねぇぞぉ!

桃井直常 えぇい、もう! こんなオモシロクねぇ世の中、さっさと、ひっくりかえっちまやがれい!

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そうこうするうち、今度は、北畠顕家の弟・春日少将(かすがのしょうしょう)・顕信(あきのぶ)(注9)が、奈良の敗軍の兵らを集め、和泉(いずみ:大阪府南西部)の堺(さかい:大阪府・堺市)に拠点を定めて近隣を侵食、ついには、大軍となって八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)に陣を構え、京都を睨む勢いになってきた。

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(訳者注9)[新編 日本古典文学全集55 太平記2 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、[春日少将・顕信]は、顕家の弟ではなく、[春日顕国」と考えのが正しいようだ、としている。([結城文書による史実の発見 松本周二 著]を参考文献として挙げている)。
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またまた、京都の足利サイドの中に驚きが広がり、尊氏から、「急ぎ大将を派遣して、北畠顕信を討つべし!」との厳命が出された。しかし、

足利サイド・リーダーD (内心)功績抜群のあの桃井兄弟でさえ、褒賞ゼロだったんだもん。

足利サイド・リーダーE (内心)ましてや、おれたちみたいなモンには、討伐に行ったって、何のお褒めも出ないだろうな。

足利サイド・リーダーF (内心)やめとこ、やめとこ。誰か、がんばって行ってきてねぇー。

このような状況に、

高師直 あんれまぁ・・・。誰も引き受けて、ねぇでやんすか。こうなっちゃぁ仕方がないじゃけん、わが高家が一家ぐるみで出馬するしか、しょうがおまへんじゃん。

「春日軍・討伐に、高家メンバー全員出動!」との報に、みな驚いて、我も我もと馳せ集まってきた。

雲霞(うんか)のごとき大軍勢となった高軍は、八幡へ押し寄せ、山麓の四方を一寸の余地もなく覆い尽くした。

しかし、守る側は堀を深くし、猛卒たちが志を一つにたてこもっている。攻め手側は、戦うたびに利を失っていった。

「八幡攻め苦戦」との情報を聞き、桃井兄弟は反省。

桃井直常 今回の動員催促には従わず、都に残留したよ。でもなぁ、高家が一家総動員で八幡を攻めても一向に戦果が上がらん、なんてぇ話聞いちゃうと、なんだかなぁ・・・他人事みたいに考えてちゃ、いかんかもねぇ。

桃井直信 我々の不満は私事(わたくしごと)、戦は公事(おおやけのこと)。ここはやっぱし、出陣すべきぃ?

桃井直常 だよねぇ。

桃井兄弟は、手勢だけを率いて密かに京都を出て、友軍にまったく知らせることなく、単独で八幡山麓に押し寄せ、一昼夜、攻めた。

この攻撃によって、春日軍サイドでは、死傷者多数。

桃井軍サイドも、多数の死傷者を出して残りわずかになってしまい、ついに退いて、高軍団に合流した。

最近、京都の人々が「桃井塚」と呼んでいるのが、彼ら兄弟が合戦を行ったこの場所なのである。

これをかわぎりに、厚東武村(こうとうたけむら)、大平孫太郎(おおひらまごたろう)、和田近江守(わだおうみのかみ)らが先頭に立って、春日軍と戦いはじめた。

彼らは、自らも負傷し、若党を多数討たれながらも、日夜朝暮、戦いを挑んだ。

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このような中に、高師直は、各陣のリーダーを集めていわく、

高師直 問題は、目の前の八幡山だけじゃぁないのさね。和泉の堺や河内だって、とっても気になるんざんしょ。だって、あそこら一帯は、ずっと敵が支配してきてるエリアだもんね。

高師直 八幡山攻めるだけでも、こんなにオタオタしてるっちゅうのに、あっちに強敵が現れちまったら、さぁタイヘン。和田(わだ)や楠(くすのき)も、それに力合わすだろうし。

高師直 敵勢力の力が弱い今のうちに、あっちら方面の敵をさっさと退治してしまうに、限るんだっちゅうの!

師直はまず、大軍をもって八幡山包囲網をかため、春日軍メンバーが外へ出られないようにした。その上で、自ら軍を率いて天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ向かい、北畠顕家の軍に攻撃をかけた。

北畠軍は疲弊の極にあり、その兵力はわずかになってしまっていた。

みな身命を投げ出して、高軍と戦ったが、戦に利無く、全員散りじりになってしまった。

北畠顕家 もうここは、持ちこたえられへん。吉野へ脱出や!

顕家に従うは、今はわずか20余騎のみ。なんとかして高軍の大包囲網を破らんと、顕家自身も剣を振るい、向かいくる相手の鎧を破り、大いに奮戦。

しかし、それも空しく、戦功徒(いたず)らにして、5月22日、和泉の阿倍野(あべの:大阪市・阿倍野区)にて、北畠顕家卿、討死。

顕家に従う者も、あるいは腹を切り、あるいは負傷し、一人残らず死んでしまった。

顕家を倒したのは、武蔵国の住人・越生四郎左衛門尉(こしふしろうさえもんのじょう)、その首を取ったのは、丹後国(たんごこく:京都府北部)の住人・武藤政清(むとうまさきよ)であった。

彼らは、顕家の兜、太刀、刀を高師直に提出。鑑識の結果、「北畠顕家卿のものに間違いなし」となり、尊氏名での抽賞・賞賛文書が両人に下された。

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世間の声J まぁ、なんと、あわれな・・・北畠顕家卿。

世間の声K ほんになぁ・・・生まれは武士のお家やおへんけど、あの武略、あの智謀。

世間の声L まっこと、天下無双の勇将でいらしたねぇ。

世間の声M まだお若いのにのぉ、鎮守府将軍に任命されなさってな、奥州からの大遠征軍を二度も起こされたんじゃった。あのお方やろ、将軍を、遠い九州まで追い下したの。

世間の声N 顕家卿の大活躍で、吉野の天皇陛下もどれほどか、お心が晴れたことか。

世間の声O なんてったってぇ、吉野の天皇派の中で、顕家卿、功績ナンバーワンだで。

世間の声P そやけどなぁ・・・しょせんは、天皇陛下の聖運、天のおぼしめしに叶(かな)わず、将軍はんの武徳が大きぃ輝きだす時が、ついに来たっちゅうことですやろかいなぁ。

世間の声一同 そういうことだろね。

「北畠顕家、死す」の報に、吉野の公卿や武士たちも一様に、肩を落とした。

公卿Q 顕家卿、あんたもついに、逝ってしまわはったか・・・。

武士R また一人、陛下の大切な臣が・・・。

武士S あえなく、戦場の露と消えてしもぉた、ううう・・・。

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(訳者注10)北畠顕家は、戦死の直前の段階で、後醍醐天皇に対して、[顕家諫奏]と呼ばれる奏上を行っているようだ。それまでの天皇の政治に対する批判が、その内容であるという。
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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月 7日 (日)

太平記 現代語訳 19-8 北畠軍、鎌倉を攻略の後、京都へ向かう

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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足利家関東方面の総帥(そうすい)・足利義詮(あしかがよしあきら)は、この時わずか11歳であった(注1)。未だ、思慮が備わるとは思えない年齢である。

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(訳者注1)史実の上では、この時点では8歳である。いくらなんでも、8歳の少年が、このような事を言えるはずがないだろう、との読者の疑問を回避するために、太平記作者が、年齢をこのように変えて記述したのであろう。
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義詮は、会議出席メンバーらの議論をじっと聞いていたが、にわかに口を開いた。

足利義詮 ちょっと待った! みんな、いったいなに考えてるんだ!

足利軍リーダー一同 !!!(驚愕)。

足利義詮 さっきから聞いてりゃぁ、撤退、撤退って・・・みんな、揃いも揃って、弱気一色じゃないか。

足利軍リーダー一同 ・・・。

足利義詮 みんな、いったいどうした? いつもの元気は、いったいどこへ行ってしまったのかなぁ。

足利軍リーダー一同 ・・・。

足利義詮 戦をすりゃ、どちらかが負けるに決まってるさ。そんなに、負けるの怖けりゃ、そもそも戦わなきゃいいんだ、そうじゃなぁい?

足利義詮 いやしくも、この義詮、父上から関東を任されて、ここ、鎌倉にいるんだぞ。敵が大兵力だからって、一戦もしないで逃げ出したんじゃ、後で世間から何と言われるか。そんなことでは、敵に何と嘲られても、反論のしようが無いじゃないか。

足利軍リーダー一同 (驚きの眼差し)・・・。

足利義詮 たとえこちらが小勢であっても、敵が寄せてきたら、それに馳せ向かって戦うだけのことさ! 戦ってもかなわなかったら、その時には、討死にするだけのことだろ!

足利軍リーダー一同 (目を輝かせながら)・・・。

足利義詮 あるいは・・・他所(よそ)へ撤退するにしてもだよ、敵軍の一角を破ってからね、安房か上総へ退くべきじゃぁなぁい?

足利義詮 鎌倉に入った後、敵軍は、京都を目指して東海道を西へ進むだろうよ。我々は、その後にピッタシついて、追いかけていきゃぁいいんだ。そしてね、宇治か瀬田のあたりで、京都から東に進む父上の軍と呼応して、東西から敵を挟み撃ちにする。そういったグアイに事を進めていったら、敵は確実に滅んじゃう!

このように、事細やかに理路整然たる義詮の言葉に、一同奮起した。

足利軍リーダーA わかりやした! やりますよ!

足利軍リーダーB こうなったら、討死にするまでのことよ!

足利軍リーダー一同 そうだそうだ!

全員、覚悟をかためて、鎌倉にたてこもった。その軍勢は、1万余騎足らずしかいない。

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足利サイドの情勢を見定めた後、北畠顕家(きたばたけあきいえ)、新田義興(にったよしおき)、北条時行(ほうじょうときゆき)、宇都宮(うつのみや)・紀清(きせい)両党、合計10万余騎は、12月28日、全軍しめしあわせて、鎌倉へ押し寄せた。

攻めくる側の兵力数を聞き、足利サイドは、「到底、勝ち目の無い戦」と一筋に覚悟を固め、城の守りをかため、塁を深くした。

謀略は一切用いない。1万余騎を4手に分けて、北畠軍の進路に向かい、相手と駆け合わせ駆け合わせて、全員身命を惜しまずに、まる一日戦い続けた。

やがて、一方の大将の斯波家長(しばいえなが)が、杉下(すぎもと:鎌倉市)で戦死。この方面から足利サイド防衛ラインは破れ、攻撃軍は、鎌倉の谷々へ乱入。

3方向からの包囲を受けて、足利軍は一所に集合、戦死者続出、戦力となる兵も少くなってきた。

このままでは到底無理、という事で、大将・足利義詮を守りながら、高(こう)、上杉(うえすぎ)、桃井(もものい)以下全員、思い思いに鎌倉を脱出した。

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これより後、関東の勢力もどんどん北畠軍に参加してきて、雲霞のような大軍になった。

北畠顕家 こないなったら、鎌倉に長居する必要もない。いざ、京都へ!

建武3年(1336)1月8日、北畠軍は鎌倉を出発、夜を日についで京都へ向かった。

その軍勢は合計50万騎、先頭から後尾まの進軍ラインは5日間の行程に伸び、左右4、5里に広がって、押し進んでいく。

善悪の見境もない人々ゆえ、それが進み行く道中一帯にはまことに惨澹(さんたん)たる光景が広がっていった。路傍の民家に押し入っては掠奪し、神社仏閣と見ればかたっぱしから放火。軍勢が通過していった後の東海道一帯は、塵を払うがごとく、家の一軒も、いや、草木の一本さえも残っていない。(注2)

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(訳者注2)戦争のトバッチリを受ける側の視点から考えてみることも、必要ではないだろうか。「中世民衆史の方法-反権力の構想 3 内乱と農民(208P~209P)」(佐藤和彦著 校倉書房1985)」より以下、引用。

 「南北朝内乱は、民衆生活にいかなる影響を与えただろうか。14世紀末の作品といわれる「秋夜長物語絵巻」には、わずかな資材を背負って戦火に追われて逃げまどう人びとの姿が描かれている。「太平記」にも「路次ノ民屋ヲ追捕シ、神社仏閣ヲ焼払フ、総ジテ、此勢の打過ケル跡、塵ヲ払テ、海道二三里ガ間ニハ、在家ノ一宇モ残ラズ、草木ノ一本モ無リケリ」と兵糧を現地調達しつつ進撃する武士団によって、民衆生活が悲惨な状況へと追い込まれてゆく様相が記されている。南北両軍の往来のはげしかった東海道筋にあたる東大寺領美濃国大井庄や茜部庄の農民たちが、内乱によっていかに生活を破壊されたかをのべた「百姓等連署起請文」などを読むかぎり、”絵巻”や”軍記物”の描写がけっして誇張ではないことを知りうる。南北両軍が村々を通過するとき、船便を待って村に駐留するとき、牛馬は徴発され、資材は略奪されつくしたのである。内乱が長期化すれば、兵員の不足を補うとの名目で、陣夫役・野伏役が課せられて、農民たちが戦場へかりだされることもあった。かかる惨状からみずからの生活を守るものは、相互の扶助と団結だけであった。鎌倉中末期に成立した惣(そう)結合は、その内部にさまざまな矛盾をはらみつつも、内乱期をつうじて次第に強化されていった。惣結合は、戦火のなかで農民の生活を守るための基盤であり、生活向上をめざして闘うための砦(とりで)であった。」
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このようにして、北畠軍の前陣は、熱田(あつた:名古屋市・熱田区)に到着。熱田大宮司・昌能(あつたのだいぐうじ・まさよし)が、500余を率いてこれに合流してきた。

同日、美濃国(みのこく:岐阜県南部)の根尾(ねお:岐阜県・本巣市)、徳山(岐阜県・揖斐郡・揖斐川町)から、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)が、1,000余騎を率いて馳せ加わった。

こうなってはもはや、ここから京都への道中において、この大軍を食い止めようとする者など誰もいないと、思われる。

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鎌倉の戦に負けて方々へ逃げていた、上杉憲顕(うえすぎのりあき)と上杉藤成(うえすぎふじなり)は相模より、桃井直常(もものいなおつね)は箱根より、高重茂(こうのしげもち)は安房・上総より鎌倉へ渡り、武蔵と相模の武士らを招集した。思う所あって北畠軍に靡(なび)かなかった、江戸(えど)氏、葛西(かさい)氏、三浦(みうら)氏、鎌倉氏、関東八平氏、武蔵七党らがこれに加わり、総勢3万余騎になった。

清(せい)党のリーダー・芳賀禅可(はがぜんか)は、もとより足利サイドに与(くみ)していたので、紀清(きせい)両党が北畠軍に参加して京都へ向かった際には、仮病を使って国元に止まっていたのだが、彼もまた、清党1,000余騎を率いて足利軍に加わってきた。

この軍勢5万騎は、北畠軍を追尾し、先鋒は遠江(とうとうみ:静岡県西部)に到着。その国の守護・今川範国(いまがわのりくに)が、2,000余騎を率いてこれに加わってきた。

中1日経過の後、三河国(みかわこく:愛知県東部)に到着。その国の守護・高尾張守(こうのおわりのかみ)が、6,000余騎を率いてこれに合流。

美濃の墨俣(すのまた:岐阜県・大垣市)に到着後、土岐頼遠(ときよりとお)が、700余騎を率いて合流。

北畠軍60万騎は、足利尊氏を討たんとして、京都への道を急ぐ。北畠顕家を討たんとして、高、上杉、桃井軍8万は、その後を追う。まさに、荘子の次なる言葉そのものである。

 じっと 蝉を狙うカマキリ
 そのカマキリを じっと狙う野鳥

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月 6日 (土)

太平記 現代語訳 19-7 北畠顕家、大軍を編成して、奥州より関東へ進撃す

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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奥州(おうしゅう:陸奥国)の国司・北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、

 「去る建武3年1月、園城寺での戦の際に、東北地方から遠路上洛して新田義貞(にったよしさだ)を支援し、足利尊氏(あしかがたかうじ)を九州に追いやったその功績、まことにもって並び無きものなり」

ということで、鎮守府将軍(ちゅんじゅふしょうぐん)に任命されて、再び、奥州に赴任した。

しかしその後、「後醍醐天皇サイドの軍勢は戦いに破れ、天皇は比叡山より京都へ還幸、花山院の故宮に幽閉。金崎城は攻め落とされ、新田義貞は自害。」との情報が東北地方にも伝播するにつれて、顕家に付き従っていた者は、一人去り、二人去りして、彼の勢力は微々たるものとなってしまった。

今はわずかに、伊達郡(だてごおり)の霊山城(りょうざんじょう:福島県・伊達市)のみを拠点として確保するのみ、有名無実の存在になっている。

このような所に、「陛下が京都を脱出されて吉野へ潜行、新田義貞は北陸地方を征圧。」との情報が飛びこんできて、またまた人心は一変、顕家の徴兵に応ずる者が多くなってきた。

北畠顕家 時節到来! いよいよ、軍を動かす時が来たわ。よぉし、この地域一帯に廻文を廻して、兵を募るとしよう!

顕家の呼びかけに応じて、結城宗広(ゆうきむねひろ)をはじめ、伊達(だて)、信夫(しのぶ)、南部(なんぶ)、下山(しもやま)6,000余騎が、馳せ参じてきた。

その他の勢力も加わって兵力3万余騎にまで膨張した北畠軍は、白河関(しらかわぜき: 福島県・白河市)まで歩を進めた。

やがて、奥州54郡の勢力のあらかたがそこに加わってきて、ついに、総勢10万騎を数えるに至った。

北畠顕家 よぉし、行くぞぉ! まずは鎌倉を攻め落とすんや。それから京都やぁ!

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建武4年(1337)8月19日、北畠軍は白河関を進発し、下野国(しもつけこく:栃木県)へ入った。

当時、鎌倉にあって関東地方の行政を委ねられていたのは、足利尊氏の子・義詮(よしあきら)であった。

北畠軍侵攻の報を聞いて、足利義詮は、上杉憲顕(うえすぎのりあき:注1)、細川和氏(ほそかわかずうじ)、高重茂(こうのしげもち)ら3人に、武蔵、相模の軍勢8万騎をそえて、利根川ぞいに防衛ラインを敷かせた。(注2)

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(訳者注1)[山内上杉家]のルーツとなった人。

(訳者注2)原文では、「鎌倉の管領足利左馬頭義詮此事を聞給て」とあるのだが、義詮は当時、まだ10歳に満たないから、名目だけの「管領」であったろう。実際には、有力な家臣たちが行政を担当していたのであろう。
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やがて、北畠と足利の両軍は、利根川を挟んで東西の岸に対峙。相手よりも先に利根川を渡ってしまおうと、双方ともに適当な渡河地点を探したが、折りからの上流地帯に降った雨のせいで川の水位は増しており、逆波が高く漲(みなぎ)っている、浅瀬の有無を尋ねようとしても、それを問うべき渡守(わたしもり)もいない。

両軍共に、水位が低くなるのを待つうちに、徒に一昼夜が過ぎていった。

この時、北畠サイドに加わっていた長井斉藤実永(ながいのさいとうさねなが)という者が、顕家の前に進み出て、

長井斉藤実永 古から現代に至るまで、川を挟んでの戦、そりゃぁたくさんあったけんどよぉ、先に川を渡った方が、必ず勝ってるんだなぁ。この目の前の川、増水して通常より深くなってるったってぇ、宇治(うじ)や瀬田(せた)、藤戸(ふじと)、富士川(ふじがわ)(注3)よりも深い、なんてこたぁねえでしょぉ。敵に渡られるより先に、こっちが川を渡っちまって、勇を奮って戦を挑むに限るってぇ。そうすりゃぁ、勝利はまちがい無しですわさ。

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(訳者注3)いずれも、源平争乱時代の戦場である。
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北畠顕家 そうか、そうか。戦の事は、勇士に任せとくに限るわなぁ。よし、ここは、おまえに任せた、好きにやってみぃ!

長井斉藤実永 あいよ!

実永は、大いに喜び、馬の腹帯をかため、兜の緒を締め、川岸へ進む。

長井斉藤実永 さぁ、いっくぞーぉぃ!

それを見て、いつも先駆け争いをやっている部井十郎(へいのじゅうろう)と高木三郎(たかぎさぶろう)が、脇目もふらずにたった2騎、いきなり川へ馬を懸け入らせた。

部井十郎 今日の合戦の先駆けがいったい誰だったか、後日、問題になった時には、

高木三郎 この川の神さまに、聞いてみるがいい!

二人は、川を斜めにつっきり、ぐいぐい進んで行く。

これを見た実永とその弟・次郎は、

長井斉藤実永 えぇい、もぉ! 先を越されたぁ!

長井斉藤次郎 おんもしろくねぇなぁ。他人が先に渡っちまった所を、後から渡ったって、なんの名誉にもなりゃしねぇ。

長井斉藤実永 他の所を渡ろうぜ。

彼らは、そこから3町ほど上流の瀬を、たった2騎で渡り始めた。しかし、逆巻く高波に二人は巻き込まれてしまい、馬も人も水面から没して、水の底に沈んでしまった。

北畠軍メンバーA あぁ、二人とも、なすすべもなく、川に溺れてしまやがった。

北畠軍メンバーB 彼らの屍(しかばね)は、急流の底に漂う。

北畠軍メンバーC だけんどなぁ、長井斉藤実永と次郎、二人のその武名は未来永劫、墓標に刻まれるだろうよ。

北畠軍メンバーD そうだよな・・・白髪を黒く染めて戦に臨み、戦死したあの斉藤実盛(さいとうさねもり:注4)の子孫だけのことはある。

北畠軍メンバーE 先祖の名を再び輝かすような、なんと立派な最期。

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(訳者注4)「平家物語・巻第7・実盛」に登場する武士。
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斉藤兄弟の勇に励まされて、北畠軍10万余騎、一気に川に飛び込み、一直線に川を進んだ。

それを見て、足利軍8万余騎も一斉に川に入った。

両軍、川中で勝負を決しようとした。

先に川に入った北畠軍の人馬によって、川の東側の流れが塞き止められ、水流が川の西側に集中、その流れは、黄河上流・龍門三級の瀑布のごとくである。

この激流に、足利軍の先陣3,000余騎の組んだ馬筏(うまいかだ:注5)が押し破られてしまい、浮きつ沈みつしながら、川を流されて行く。

これを見た足利軍後陣は、渡河をあきらめ、川の中程から引き返した。

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(訳者注5)馬を繋ぎあわせ、密集して川を渡る陣型。
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その後、平場で戦陣を立て直した足利軍であったが、一度退いてしまった軍ゆえにその勢いは弱い。北畠軍に縦横無尽に蹴け散らされてしまい、全軍、鎌倉へ撤退していった。

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利根川の戦に勝利して、北畠顕家の勢いはますます強大になっていった。しかし、鎌倉にはなおも、関東8か国の足利側勢力がひしめいていて、その兵力は雲霞のごとし。ゆえに、顕家は武蔵国府(東京都・府中市)に5日間逗留し、鎌倉の情勢を探った。

このような中に、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)が、紀清両党(きせいりょうとう)1,000余騎を率いて北畠軍に参加してきた。

ところが、宇都宮家臣・清党の芳賀禅可(はがぜんか)だけは北畠軍に参加せずに、公綱の子・氏綱(うじつな)を大将として、宇都宮城(栃木県・宇都宮市)にたてこもっている。

顕家は、伊達、信夫の武士2万余騎を差し向けて、宇都宮城を攻めさせた。

3日後、城は落ち、芳賀禅可は降伏。しかし、その4、5日後、禅可は再び、足利サイドに走ってしまった。

この時既に、後醍醐天皇から赦免を取り付けていた北条氏生き残りの北条時行(ほうじょうときゆき)は、伊豆国(いずこく:静岡県東部)で挙兵し、足柄山(あしがらやま)と箱根(はこね:神奈川県・足柄下郡・箱根町)に陣取っていた。

時行は、顕家に対して、「時を同じくして鎌倉を攻めよう」との提案を送った。

また、新田義貞の次男・義興(よしおき)も、上野国(こうずけこく:群馬県)で挙兵し、2万余騎を率いて武蔵国へ進み、入間川(いるまがわ:埼玉県・狭山市)で軍勢を招集。「もし、北畠軍の進行が延引するようであれば、他の友軍を頼りにせずに、自分たちだけで鎌倉を攻めよう」との作戦を決した。

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鎌倉では、上杉憲顕、上杉憲藤(うえすぎのりふじ)、斯波家長(しばいえなが)、桃井直常(もものいなおつね)、高重茂以下、足利一族・家臣の主なメンバー数十人が、大将の足利義詮の前で作戦会議を行った。

足利軍リーダーF いやぁ、利根川の合戦の後、我が軍はみんな、ガックリきちゃっててねぇ。

足利軍リーダーG 毎日のように、兵力が減っていく。みんなどんどん、逃げ出してっちゃう。

足利軍リーダーH 敵の方は勢いに乗って、ますます増強されていってるってのになぁ。

足利軍リーダーI 今ここでもう一度戦ってみても、とても勝ち目、ねぇでやんしょう。

足利軍リーダーJ ここはいったん、安房(あわ:千葉県南部)、上総(かずさ:千葉県中部)方面へ撤退してだね、関東八か国の勢力がどっちへ付くかを見極めながら、情勢の変化に応じて、その有利不利をよっく見極めながら、戦っていくってカンジでどうかねぇ?

足利軍リーダーF そうだなぁ。

足利軍リーダーG やっぱし、鎌倉から撤退するしかねぇかぁ。

足利軍リーダーH うーん、まいったなぁ。

足利軍リーダーI 撤退、撤退、撤退あるのみだぁ。

足利軍リーダーF そうだなぁ・・・。

足利軍リーダーG うーん、でもなぁ・・・

このように、作戦会議はダラダラと続いていくだけで、一向に、潔い意見が出てこない。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月 5日 (金)

太平記 現代語訳 19-6 北条時行、後醍醐天皇サイドに加わる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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北条高時(ほうじょうたかとき)の次男・時行(ときゆき)は、北条家滅亡後も、人目を忍んで生きていた。

その毎日はまさに、頭が天に触れはしないかと心配しては背を屈め、自分の踏みしめる地が窪まないようにと抜き足で歩き、といった風、わが身を安心して置けるような所など日本国中どこにも無かったのである。(注1)

こちらの禅宗寺院、あちらの律宗(りっしゅう)寺院にと、一夜二夜をあかしながら逃亡生活を続けていたのであったが、この時、密かに使者を吉野(よしの)へ送っていわく、

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(訳者注1)原文では、「相模次郎時行は、一家忽(たちまち)に亡びし後は、天にせぐくまり地にぬきあしして、一身を置くに安き所なかりしかば」とあるのだが、13-4においては、北条勢力残党たちのリーダーとなり、足利軍と戦っている。よって、太平記の記述に矛盾があるように感じられる。足利軍と戦って敗退した後に、そのような状態になった、というのであれば、話は通るのだが。
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 「亡親・高時は、臣としての道をわきまえなかったので、陛下からのお咎めを頂き、ついに、死を得てしまいました。しかしこれは、天が下した罰によるものですから、私、北条時行は、いささかも陛下をお恨み申しあげてはおりません。」

 「忘れもしない元弘(げんこう)年間のあの時、新田義貞(にったよしさだ)は鎌倉幕府を滅ぼし、足利尊氏(あしかがたかうじ)は六波羅(ろくはら)庁を攻め落としました。かの両人、いずれも、わが北条家の仇(かたき)。彼らに対しての我が憤りが、どれほど激しいものであったか、なにとぞ、お察し下さいませ。」

 「しかしながら、彼らもしょせん、陛下のご命令に従って我が北条家に刃を向けたまでのこと、ゆえに、彼らに対する憤りも、いつしか、私の胸中から忘れ去られていたのでありました。」

 「ところが、足利尊氏め、北条家が亡ぶやいなや、たちまち、陛下に反旗を翻しました。ここにおいて、傀儡(かいらい)政権を樹立し、その威を借りて天下を我が者にしようとの、足利尊氏の魂胆、ついに露見したのであります。」

 「そもそも、尊氏が今日あるのも、もとはと言えば、かつてのわが北条家から足利家への手厚い優遇あってこそ。しかるに、恩を被(こうむ)って恩を忘れ、天を戴いて天を背く。その大逆無道の甚だしき事、世間の憎むところ、人がこぞってツマハジキする所であります。」

 「ゆえに、わが北条家一同、今後はただ、足利家のみを敵とすることに、決意いたしました! 他のお家の方々に敵対することは、もはやありません。我らが仇は、足利尊氏と足利直義(ただよし)のみ。何としてでも、あの兄弟を打ち果たし、北条家の恨みを晴らさん!」

 「陛下、なにとぞ、我らのこの心情をお汲み取り頂きまして、我が北条一族に対して、御赦免の沙汰を下さいまして、「朝敵誅罰(ちゅうばつ)の計略を、回(めぐら)せよ」との綸旨(りんじ)を下さいませ。そうなれば、我らは、陛下の軍勢の義戦の戦列に加わり、陛下の統治の翼の下に喜んで入らせていただきます。」

 「不義なる父を誅されながらも、忠功あるその子供を召しつかう、という事は、過去の歴史において、いくらでも例がございます。中国では趙盾(ちょうとん)、我が国では源義朝(みなもとのよしとも:注2)等、枚挙にいとまがございません。「国家の人材を選ぶに際しては、緩急に応じて偏り無く」というのが名君のなされ方。過去の罪にこだわって当然の理に従わない、などというような事を、陛下は絶対になされない、私はこのように、固く信じております。」

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(訳者注2)平安末期から鎌倉初期にかけて、清和源氏の本家は、源為義(ためよし)-義朝(よしとも)-頼朝(よりとも)と続いていくのだが、ここで太平記作者が言わんとしているのは、[為義-義朝]の関係なのか、それとも[義朝-頼朝]の関係の方なのか、よく分からない。

保元の乱(ほうげんのらん)においては、為義と義朝は両陣営に別れて所属し、その戦後処理において、為義は朝敵として処刑され、義朝は功臣として処遇されて、清和源氏の血脈は保たれた。

その後、平治の乱(へいじのらん)においては、義朝と頼朝は共に同陣営に所属して平氏と戦って敗戦、その戦後処理において、義朝は朝敵として、逃亡途中で殺害され、頼朝も朝敵として、伊豆に流罪となった。その後、頼朝は平家打倒に成功し、朝廷から征夷大将軍に任じられて、鎌倉幕府を開くに至った。
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このようなメッセージが、伝奏(てんそう:注3)を通じて、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に届けられた。

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(訳者注3)天皇と臣下との間の話を取り次ぐ役。
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後醍醐天皇 かの孔子は、言われたそうな、「毛色が赤ぉて角がまっすぐやったら、たとえそれが雑色の親牛から生れた子牛であっても、犠牲として神にお供えすることができる」とな。

後醍醐天皇 人を罰するにあたっては、その親の罪ではなく、本人の罪を問題にして行う、人を賞するにあたっては、その親の功績ではなく、本人の功績に対して与える、これが善政の最たるもんやろう。

後醍醐天皇 よぉし、「北条時行を赦免す」の綸旨、発行したれ!

伝奏 ははっ!

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2018年1月 4日 (木)

太平記 現代語訳 19-5 国内各所において、御醍醐天皇サイド勢力、次々と蜂起

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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「天皇、比叡山延暦寺から京都へ帰還、天皇サイド残党は全員、金崎にて戦死」との発表があった時には、「これから先、武士から朝廷に再び政権が戻る、などということは、ありえない」というのが、大方の見解であった。

ところが、「天皇、三種神器を持って吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)へ潜伏。新田義貞(にったよしさだ)、数万騎の軍勢を率いて越前(えちぜん)を制圧。」との情報に、またまた、様々な動きが出はじめた。

まず、いったんは足利サイドに降伏した大館氏明(おおたちうじあきら)。彼は、伊予国(いよこく:愛媛県)へ逃亡し、土居(どい)、得能(とくのう)の子弟らと合流し、四国全域を、反足利勢力一色に染めようとした。

さらに、江田行義(えだゆきよし)。彼も、京都を脱出し、丹波国(たんばこく:京都府西部+兵庫県東部)へ走り、足立(あだち)、本庄(ほんじょう)らをかたらって、高山寺(こうさんじ:兵庫県・丹波市)に、反足利の旗を翻した。

金谷経氏(かなやつねうじ)は、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)の東条(とうじょう:兵庫県・加東市)で兵を挙げ、吉川(きっかわ)、高田(たかだ)を味方に引き込み、丹生(にう:神戸市・兵庫区)の山陰(やまかげ)に城郭を構え、山陰道の中道を押さえてしまった。

遠江国(とうとうみこく:静岡県西部)の井伊(いい)は、宗良親王(むねよししんのう)を奉じて、奥の山にたてこもった。

宇都宮公綱(うつのみやきんつな)は、紀清両党500余騎を率いて、吉野へ馳せ参じた。以前の忠誠の志を忘れない公綱のこの行動に、後醍醐天皇は大いに喜び、すぐに彼を還俗させて、四位・少将に任命した。

この他にも、四方八方ここかしこで、諸々の武士らが反足利に決起、との情報に、後醍醐天皇のかつての功臣たちや新田義貞恩顧の勢力は、みな大喜びである。

後醍醐天皇サイドの人A (内心)いやいやぁ、最近、グイグイ風向き変わってきたやんかぁ。えぇニュースが、次から次へと、飛び込んでくるわい。

後醍醐天皇サイドの人B (内心)病んでいた雀が、花を食べて力を回復し、飛揚の翼を伸べる、とはまさに、この事かなぁ。

後醍醐天皇サイドの人C (内心)轍(わだち)の跡にできた水たまりにいる魚が、雨を得て唇を潤す、といった気分やねぇ、いや、ほんま。

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2018年1月 3日 (水)

太平記 現代語訳 19-4 恒良親王と成良親王の最期

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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越前よりの使者A 新田義貞(にったよしさだ)と脇屋義助(わきやよしすけ)が、杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)からうって出てきよりましてな、斯波高経(しばたかつね)殿と斯波家兼(いえかね)殿は、止むを得ず、越前国府から退避されましたわ。越前国内各所の城も、みんな落ちてしまいよりました。

足利直義 なんと!

足利尊氏 ・・・(右手を握りしめる)。

足利直義 うーん・・・新田め!

足利尊氏 ・・・なにもかもが・・・あの恒良親王(つねよししんのう)のウソから出た事だ。新田兄弟を助けんようとの、「彼らは金崎城で腹を切った」という親王のウソ・・・あれを、我々が真に受けてしまったからだな。

足利直義 親王のあの言葉を信じて、杣山城攻めを後回しにしちゃったんだ・・・今となっては、悔やまれますねぇ。

足利尊氏 恒良親王はそれほどまでに、わが足利家を憎んでおれらたのか・・・。

足利直義 足利家を滅ぼしてしまいたいって、思っておられるんでしょうね。となると、親王をあのままにしておいてはマズイでしょう。この先また、どんな事を企みだすか、わかったもんじゃない。

足利尊氏 そうだなぁ・・・。

足利直義 兄上、何とかしないと!

足利尊氏 そうだなぁ・・・。

足利直義 おぉい、誰か! 栗飯原氏光(あいはらうじみつ)をここへ!

足利側近メンバーB ははっ

間もなく、栗飯原氏光がやってきた。

足利直義 (小声で)いいか氏光、おまえ秘かにな、鴆毒(ちんどく:注1)を盛って恒良親王を、失い奉れ。

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(訳者注1)鴆という鳥の羽から抽出された毒薬。
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栗飯原氏光 (小声で)わぁかりました。

足利尊氏 ・・・。

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皇太子・恒良親王(つねよししんのう)は、以前、足利直義と共に鎌倉へ赴いた後醍醐先帝の第7皇子・成良親王(なりよししんのう)と共に、京都内の某所に幽閉されていた。

そこへ、栗飯原氏光が薬を一包持ってやってきた。

栗飯原氏光 いやねぇ、ははは・・・このようなカンジで、ずっとこもりっきりになっておられたんじゃぁ、もしかして、病気になられるかもしれねえなぁと。で、直義様より、「この薬を、親王様方に進ぜよ」ってわけでして。

恒良親王 ・・・。

栗飯原氏光 ほらね、このお薬なんですよ。毎朝1服づつ、7日間連続で服用してくださいな。(薬包みを親王の前に置く)

栗飯原氏光 では、わしは、これにて失礼。

氏光がそこを立ち去った後、成良親王はその薬を見て、

成良親王 はぁっ 笑わせるやないか。薬ねぇ・・・はぁはぁ、そうですか、そらまたエライご親切な事ですわなぁ。まだ病気の兆候も無いうちに、ボクらの健康を気づこぉてくれるとは、足利直義もなかなかヤサシイ男やねぇ。

成良親王 あんなぁ、ボクらの事をそこまで思うんやったら、いったいなんで、こないな室の中に閉じこめて、ボクらにつらい思いさしてんねん! ふざけるなよ、直義!

成良親王 おまえの魂胆なんか、見え見えや! この薬は病を癒す薬やのぉて、命を縮める毒薬やろが! えぇい、こんなもん、庭へ捨ててもたるわい!

恒良親王 あ、ちょっと待って・・・。

恒良親王は、毒薬を手にとってしげしげと見つめながら、

恒良親王 尊氏と直義がここまで情け容赦ないんやったら、たとえこの薬を飲まへんでがんばってみたところで、結局は、二人ともいつかは、殺されてしまうやん。

成良親王 ・・・。

恒良親王 毒薬か・・・ボクとしては、もとより望むところやわ。ボクはこの毒を飲んで、さっさとこの世を去ってしまいたい。「人間は、一日一夜の間に8億4千の念を起こす」といわれてるやろ、その念の中に悪念が1個含まれてたら、一生、悪い生涯を送らんならん。10個の悪念を起こしたら、10回生まれ変わって、悪い生涯を送らんならん。1,000億の悪念がもしあったならば、1,000億回の・・・。

成良親王 ・・・。

恒良親王 たった1日の間に起こす悪念でも、その報いはまことに大きい。ましてや、一生の間に起こす悪念ときたら、その報いはもう・・・。

恒良親王 悲しいかな、未来永劫にわたって、生まれては死に、また生まれ変わっては、また死に・・・いったいいつになったら、この生死の輪廻(りんね)から脱することができるのか・・・。

恒良親王 富貴栄華の中にある人でさえも、この生死の輪廻の苦しみから遁(のが)れる事ができひんのや。ましてや、今のこのボクの境遇は、大空を恋う籠の中の鳥、水を求める枯池の中の魚。見ること聞くこと何もかも、悲しぃなるような事ばっかし。何の期待も無しに、ただ月日を送っているだけ。ここに来てから今日は何日目か、てな事さえも、もう分からんようになってきてしもぉてる。

恒良親王 こないな日々を送りながら、心中に悶々と湧いてくる悪念に犯されていくよりも、その毒でもってわが命を縮めて、死後に極楽浄土に生まれ変わる望みを遂げる方が、よっぽどええわ。

それからは、恒良親王は毎朝、法華経を1回読んだ後、念仏を唱えながらこの毒薬を飲んだ。

成良親王も、

成良親王 そうやねぇ・・・こないな憂世(うきよ)に未練を持つこともないわなぁ。ボクも死後の世界まで、殿下の御伴をするとしよう。

二人は共に、この毒薬を7日間服用し続けた。

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その翌日から、恒良親王は体調を崩し始め、4月13日の夕方、静かに息を引き取られ、ひっそりと葬儀が行われた。

成良親王の方はその後20日ほど身体に不調は現れなかったが、やがて黄疸(おうだん)が出始め、全身が黄色になってしまい、こちらもついに亡き人となられた。

 哀れなるかな 鳩の止る枝崎の花二輪 一朝の雨に散り
 悲しきかな セキレイたたずむ野に生える同根の草二本 秋の霜に枯る

街の声A 一昨年には、護良親王(もりよししんのう)が鎌倉で殺害され、昨年には、尊良親王(たかよししんのう)が金崎にて自害しはった。こないに、親王様方が次々と死んでいかはるなんて事は、めったに聞かん話やわ。

街の声B ほんになぁ・・・両殿下とも、なんちゅう哀れな運命の星の下に、生まれてきはったんやろか。

街の声C それだけでもタイソウな事やのに、今度は、恒良親王様と成良親王様までも、次々とお亡くなりにならはったやんかぁ。

街の声D 心ある人も、心ない人も、いくらなんでもこれには、哀れを催さずにはおれまへんて。

街の声E それにしてもやでぇ、他ならぬ天皇陛下のお子様である親王殿下に、毒を盛るやなんてなぁ。

街の声F ほんまにもう、エライ事しはるんやなぁ、足利直義はんは。

街の声G あんなエゲツナイ事ばっかししてはったら、これから先の人生、えぇことないんちゃうかなぁ、直義はん。

街の声H ほんまやでぇ、先が思いやられるわ。

はたして、足利直義もまた毒殺されてしまう運命にあったとは・・・人間の一生というものは、分からないものである。(注2)

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(訳者注2)訳者としてはここで一言、足利直義殿のために弁明しておきたい。

これはすでに何度も書いていることであるが、太平記に書いてある事をそのまま史実だと思ってはならない。14世紀の日本に実際に生きていた足利直義(リアル直義氏)が、太平記に描写された足利直義(ヴァーチュアル直義氏)の行為と同様の事を実際に行ったのかどうか、その事実関係は慎重の上にも慎重を期して検証されなくてはならない。

上記に関連して、

 [足利尊氏 高柳光寿 著 春秋社 1955初版 1966改稿]

の 418ページ には次のようにある。

「これは「太平記」によれば、暦応元年(延元3年 1338)のことであり、尊氏が鴆毒を盛り、両親王はそれを知ったが、運命と諦めて、それを服して死なれたといっている。他には何も証拠はないので、真相は全く不明というほかはないけれども、成良親王が康永3年(興国5年 1344)正月にはまだ生きておられ、武家から近衛基嗣に預けられたことが、中原師守の日記によって明らかであるから、少なくとも成良親王毒殺は偽妄である。」

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 [皇子たちの南北朝 森茂暁 著 中公新書886 中央公論社 1988刊]

の 76~78ページ には次のようにある。

 「成良が鎌倉に滞在したのは、中先代の乱のあおりを受けて、直義とともに鎌倉を脱出する建武二年七月までの一年七か月の間にすぎない。直義は成良を京都に帰し、みずからは軍を三河にとどめた。」

(途中略)

 「京都にもどった成良は、父後醍醐の側近くに侍ったが、時代の荒波は容赦なく成良を翻弄した。」
「建武二年八月には、征夷大将軍のポストを尊氏に渡さないために、成良がこれに任ぜられたし(「相顕抄」「神皇正統記」)、翌延元元年十一月には後醍醐-光厳両院間の一時的和睦のもとで、成良は光明天皇の皇太子にすえられた。」

 「成良が皇太子に立てられたのは、鎌倉後期以来の両統(持明院統・大覚寺統)迭立の原則が復活したことと、成良自身が「本より尊氏養ひ進せたりけ(「保暦間記」る皇子であったことによる。」

 「成良が尊氏によって養育されたという記事は注目される。しかし、成良が皇太子であったのは、わずかの期間であった。翌十二月には、和睦が破綻、後醍醐は神器を奉じて吉野にのがれているから、成良の皇太子も同時に廃されたと考えられる。」

 「この後の成良の動向はまったくわからない。その没については、「太平記」(巻第十九)が延元二年三月の越前金崎城陥落の際に捕えられて洛中にもどされた兄恒良と「一処に押こめられ」たのち、翌三年四月ともに鴆毒で弑されたと描く。・・・(途中略)・・・」

 「しかし一方、同時代人の日記たる「師守記(もろもりき)」の康永三年(1344)一月六日条に、前左大臣近衛基嗣(このえもとつぐ)に預けおかれていた、「後醍醐院皇子先坊」が没したということが記されている。「先坊」が「前坊」とはちがい、直前の皇太子を意味することは、ほかの事例からも明らかであるので(たとえば「師守記」貞治四年四月十九日条の頭書では、後二条天皇の子邦良を「前坊」と記す)、「先坊」が成良をさすことはまちがいない。従って延元三年に成良が没したとする「太平記」の記述は、荒唐無稽(こうとうむけい)だというほかない。」

 「そのように考えれば、成良の没年は康永三年(南朝興国五年)、享年は十九歳ということになる。延元元年十二月に皇太子を辞した成良は、あるいはそのまま京都にとどまり、近衛基嗣に預けられていたのかもしれない。なお成良の墓所は不明である。」

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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月 2日 (火)

太平記 現代語訳 19-3 新田義貞、再起して、越前国府を攻略す

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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金崎落が落ちた後、新田義貞(にったよしさだ)と脇屋義助(わきやよしすけ)は、杣山(そまやま:福井県・南条郡・南越前町)の麓、瓜生(うりう)氏の館に潜伏していた。

新田義貞 なぁ、義助。いつまでもここでこうやって、くすぶってるわけにはいかんよな。方々に潜伏している敗軍の兵を集めて、越前国中にうって出ようぜ! それでこそ、吉野におられる天皇陛下も安堵して下さるし、金崎で死んでいったあいつらの恨みだって晴らせるってもんだろう。

脇屋義助 よぉし、行くかぁ!

義貞は、諸国へ秘かに使者を送り、かつての戦友や家臣たちに召集をかけた。

方々に蟄居(ちっきょ)しながら態勢挽回の機をじっと待ち続けていた武士たちは、この義貞の召集を伝え聞いて、

武士A (内心)よしよし、チャンスが、またまためぐってきたぞ。

武士B (内心)龍の鱗にくっつき、鳳(おおとり)の翼にぶら下がって天まで上がり、我が宿望(しゅくぼう)を達成せん、か・・・。

武士C (内心)再チャレンジだぁ!

彼らは続々と義貞の下に参集。立派な馬や鎧は無くとも、その心は中国漢王朝の高祖(こうそ)の功臣、樊噲(はんかい)、周勃(しゅうぼつ)にも劣らず、という義心金鉄(ぎしんきんてつ)の武士ら3,000余騎が杣山城に結集するに至った。

この情報はすぐに京都へ伝わった。

足利尊氏(あしかがたかうじ)はさっそく、斯波高経(しばたかつね)とその弟・家兼(いえかね)を大将とし、北陸道7か国の軍勢6,000余騎を添えて、越前国の国府(注1)へ送り込んだ。

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(訳者注1)各国の行政の中心。任命された国司がそこに駐在、というのが原則であったが、平安時代後期からはその原則が徐々に崩れ、国司の代理が京都から赴いていたようである。越前国の国府は、福井県・越前市にあった。
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それから数ヶ月が経過したが、斯波サイドは大兵力を擁し、一方の新田サイドは難攻不落の杣山城にたてこもり、というわけで、斯波サイドは城へ寄せることができず、新田サイドも越前国府を攻撃することができない。

両軍は、双方の中間地点に位置する大塩(おおしお:福井県・越前市)、松崎(まつざき:越前市)あたりに兵を出して、日々夜々の戦闘を継続していった。

そのような中に、加賀国(かがこく:石川県南部)の住人、敷地伊豆守(しきじいずのかみ)、山岸新左衛門(やまぎししんざえもん)、上木平九郎(うえきへいくろう)らが、畑時能(はたときよし)の調略に応じて新田サイドについた。

彼らは、加賀国と越前国との境にある細呂木(ほそろぎ:福井県・あわら市)のあたりに城を構え、津葉五郎(つばのごろう)の大聖寺(だいしょうじ:石川県・加賀市)城を攻め落とし、加賀国中を制圧してしまった。

斯波サイドに忠誠を誓っていた平泉寺(へいせんじ:福井県・勝山市)の衆徒らも、いったい何の思惑(おもわく)あってか、その過半数が分裂行動をとり始めて、新田サイドに寝返りした。彼らは三峯(みみね:福井県・鯖江市)という所に進出して城を構え、斯波軍に圧力を加え始めた。

さらに、伊自良次郎(いじらじろう)が300余騎を率いてこれに合流。近隣の地頭や御家人たちもこれを防ぎようがなく、自分の館に火をかけ、越前国府にある斯波陣営へ逃げ集まってきた。

このようにして、新田義貞の再起を契機として、北陸地方には一大地殻変動が起こり、馬の足の休まる日は無し、という状態に。

三峯にこもる平泉寺の衆徒らは、杣山城に使者を送り、「大将を一人、こちらへ派遣していただきたい。その人の指揮の下に戦うから。」と要請した。義貞はすぐに、義助に500余を添えて、三峯へ送り込んだ。

加賀国全域にも新田義貞からの挙兵勧誘の使者が回り、敷地、上木、山岸、畑、結城(ゆうき)、江戸(えど)、深町(ふかまち)らが細屋右馬助(ほそやうまのすけ)を大将と仰ぎ、3,000余騎の兵力でもって越前国へ越境。彼らは、長崎(ながさき:福井県・坂井市)、河合(かわい:福井市)、川口(かわぐち:福井県・あわら市)の3か所に城を構え、ジワジワと越前国府へと迫った。

斯波高経は、6,000余騎を従えて越前国府にたてこもっていたが、

斯波高経 (内心)うーん、まずいな。ついに、新田側勢力に、国中を占領されてしまった。このまま国府にこもってたんじゃ、そのうち食糧も尽きてしまう。そうなったら、もうおしまいだぞ・・・うーん・・・ここはどうするべきかなぁ・・・やっぱし、兵力の分散配置をすべきだろうなぁ。

というわけで、兵力6,000のうち3,000を国府に残し、残りの3,000を越前国中に送り、30余箇所に城を構えさせて、こちらに200、あちらに300、というように分散配置した。

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戦場一帯が雪深く、馬の足も立たないような状態の間は、城と城との間に毎日のように戦いが起こっても、しょせん小競合(こぜりあい)の域を出ず、わずか1日ほどの戦闘を行うだけ、決定的な総力戦を行う所までは行かない。

やがて年も改まり、2月中旬に。寒さがようやく和らいできて、武士たちは、手をかじかませずに弓をひけるようになってきた。残雪はまだら模様になりながら徐々に消えていき、馬が楽に地上を走れるようになってきた。

脇屋義助 (内心)やっと、戦いやすい気候になってきた。さぁ、いよいよ出動。越前国府へじわりじわりと接近していって、足利軍が往来する道々に城を構え、国府の四方を塞いでしまうんだ。さぁてと、城を構えるに適当な場所をちょっと検分しに、行ってみようかな。

義助は、わずか140騎ほどを率いただけで、鯖並宿(さばなみじゅく:福井県・南条郡・南越前町)へ向かった。

「脇屋義助が、わずかな手勢を引き連れただけで城を出ていった、脇屋を討つなら今がチャンス。」と、三峯城から斯波サイドに通報した者がいたのであろうか、斯波軍の副将・細川出羽守(ほそかわでわのかみ)は、500余騎を率いて国府からうって出て、鯖並宿へおしよせていった。

細川軍は、脇屋軍を3方から包囲し、一人残らず殲滅せんと、攻めかかっていった。

前と後に敵を受けて、脇屋義助は、もはや逃がれる場所は無し、と覚悟。窮地に陥り、脇屋軍は全員一心となった。

勇気を奮い起こし、高木社(たかぎのやしろ:福井県・越前市)を背後にして瓜生野(うりうの)の中央に陣取り、矢をおしまずさんざんに射る。細川軍の馬の足も立たせず、7度、8度と攻めかかっていく。細川出羽守と鹿草兵庫助(かくさひょうごのすけ)率いる500余騎は小勢の脇屋軍に攻めたてられ、鯖江宿(さばえじゅく:福井県・鯖江市)背後の日野川(ひのがわ)の浅瀬を渡り、対岸へサァット退いていった。

結城上野介(ゆうきこうずけのすけ)、河野通為(こうのみちため)、熊谷直経(くまがいなおつね)、伊東次郎(いとうじろう)、足立新左衛門(あだちしんざえもん)、小嶋越後守(こじまえちごのかみ)、中野藤内左衛門(なかのとうないざえもん)、瓜生次郎左衛門(うりうじろうざえもん)ら8騎が、川の瀬頭(せがしら)に進み、細川軍の後を追って渡河しようとするのを見て、脇屋義助は馬を寄せて彼らを制した。

脇屋義助 おい、いかん! 止まれ! おれたちみたいな小勢でもって、さっきはあんな大軍を退けることができたけどな、これは単なる一時のまぐれ、たまたまラッキーってもんよ。いつまでも勝ちが続くなんてこと、ありっこねぇんだから。

脇屋義助 ほら、よく見てみろよ。ここから先は、攻めるには難しい地形だぞ。このまま敵に向かっていったんじゃ、沢に入りこんじまって身動き取れなくなっちまう。そうなったらがぜん、敵に有利になってしまわぁ。

脇屋義助 まずは援軍、援軍を集めるんだよ。今日の合戦は思いがけないタイミングでいきなり起こっちまったもんだから、遠い所にいる味方の連中、まったく気がついてないだろう。だから、すぐに応援に駆けつけて来てくれないんだろう。だからな、そこらの家に火かけてな、こっちで合戦してるってこと、味方の連中らに知らせるんだ。

さっそく、篠塚五郎左衛門(しのつかごろうざえもん)がそこら中を回って、高木(たかき)、瓜生(うりう)、真柄(まがら)、北村(きたむら)一帯の在家20余箇所に火をかけた。

天を焦がすその火を見て、方々の新田サイド勢力は、「オッ 鯖江のあたりで合戦か! すぐに駆けつけて応援!」

宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)と天野政貞(あまのまささだ)が、300余騎を率いて鯖並宿から駆けつけてきた。一条行実(いちじょうゆきさね)は、200余騎を率いて阿久和(あくわ: 南越前町)からうって出た。瓜生重(うりうしげし)とその弟・照(てらす)は、500余にて妙法寺(みょうほうじ:福井県・越前市)の城から、平泉寺衆徒300余騎は、大塩城(福井県・小浜市)より、河嶋唯頼(かわしまこれより)は300余騎で三峯城から、総大将・新田義貞(にったよしさだ)は、1000余騎を率いて杣山城を出た。

「合戦の合図が発せられたと見えて、方々の新田軍が鯖江宿へ殺到!」との報に、「日野川付近にいる細川軍を見殺しにはできない」と、斯波高経と斯波家兼は、3,000余騎を率いて、国分寺(こくぶんじ:越前市)の北へ進んだ。

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新田と斯波の両軍、川を挟んで互いに隔たること10余町。さほどの大河ではないのだが、折からの雪解け水で増水し、漲る波が岸を浸している。双方互いに浅瀬を探し、適当な渡河地点を探す事に手間取っている。

新田サイド船田経政(ふなだつねまさ)の若党の葛新左衛門(かつらしんざえもん)という者が、川べりに近寄って、

葛新左衛門 この川は、増水すると、急に洲ができてな、勝手を知らねぇヤツが渡ると必ず失敗しちまうんだ。ここはひとつ、オイラが瀬踏みしてやろうじゃねぇかよぉ!

言い放つやいなや、川にザンブと馬を乗り入れた。

葛新左衛門 さぁ行くぜぇ! しっかり泳げよぉ!

白葦毛の馬にまたがり、カシ鳥威しの鎧を着けた葛新左衛門。3尺6寸のカヒシノギの太刀を抜いて兜の真っ向にかざし、波がぶつかりあって盛り上がっている中をただ一騎、白波を立てて馬を泳がせて行く。

悠々と川を渡っていく葛新左衛門を見て、我先に渡河せんものと意気込む新田軍メンバー3,000余騎は、一斉に川に飛び入った。

弓の両端を前後の者どうしで持ち合い、馬の足の立つ所はたずなをゆるめて馬を歩かせ、足の立たない所は馬の頭をたたき上げて泳がせ、一直線に流れをつっきって、対岸へかけ上がった。

新左衛門は、味方の軍勢から2町ほど先行して渡河したので、対岸で孤立してしまい、斯波軍メンバーに馬の足をなで切りにされ、6騎に囲まれて徒歩で戦っていた。あわや討たれてしまうかというその時、宇都宮泰藤の家臣・清為直(せいのためなお)がそこに駆けつけ、2騎を切って落とし、3騎に負傷を負わせて新左衛門を救った。

攻め寄せる新田軍は3,000余騎、守る斯波軍も3,000余騎。双方いずれの大将も、同じ血筋から出た、名を惜しむ清和源氏のリーダーである(注2)。馬の駆け引きも自在の場所とあって、両軍6,000余騎は、前後左右に追いつ返しつ入り乱れ、死闘を展開することおよそ1時間。命の限りに戦い、いつになったら勝負がつくのか分からない。

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(訳者注2)斯波家は足利家一族に所属するので、清和源氏の流れである。新田家ももちろん、清和源氏の流れである。
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その時、

斯波軍メンバーD 殿、あれを! 国府付近から火が!

斯波高経 なにっ! あぁ、しまったぁ!

杣山河原方面からやってきた三峯城からの軍勢と、大塩から下ってきた平泉寺衆徒が、斯波軍の背後へ回り込んで国府に火を放ったのであった。

斯波高経 新田軍を新善光寺城(しんぜんこうじじょう)に入りこませてはならん! 全軍、国府へ退却!

新田軍は、逃げる斯波軍を追って連続攻撃。

城へ逃げ込もうとする斯波軍にとっては皮肉な事に、自分たちが設置した木戸や逆茂木(さかもぎ)が障害となって、入城も容易ではない。仕方なく、新善光寺城の前をそのまま通過し、国府の西方へ退却した。

その後、斯波家兼軍1,000余騎は、若狭国(わかさこく:福井県西部)目指して退却、斯波高経軍2,000余騎は、織田(おだ:福井県・丹生郡・越前町:注3)、大虫(おおむし:越前市)を経由して、足羽城(あすはじょう:福井県・福井市)へ退いた。

「たった一度の戦いで、国府の城が新田軍に攻め落とされた」との情報は越前国中にあっという間に伝わり、新田軍が攻め寄せてもいないのに自ら降伏してしまった城は、国内73か所にも上った。

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(訳者注3)織田氏の発祥の地。
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太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年1月 1日 (月)

太平記 現代語訳 19-2 足利兄弟、政権を掌握

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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同年10月3日、改元が行われ、年号は「延元(えんげん)」となった。

その年の11月5日の人事異動で、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、上席11人を飛び越えて正三位に昇進。役職も、参議(さんぎ)から大納言(だいなごん)へ昇格し、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)を兼務することとなった。

弟・直義(ただよし)も、上席5人を飛び越して四位に昇進、参議に昇格、あわせて、副将軍に任ぜられた。

そもそも、我が国に征夷大将軍職が最初におかれたのは、養老(ようろう)4年。その時は、多治比真人(たじひのまひと)が将軍に任ぜられたのである。

その後、神亀(じんき)元年には藤原宇合(ふじわらのうまかい)、宝亀(ほうき)11年には藤原継綱(ふじわらのつぐつな)。

その後、時代はるかに隔たって、藤原小里麻呂(ふじわらのこざとまろ)、大伴家持(おおとものやかもち)、紀右佐美(きのうさみ)、大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)、文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)、藤原忠文(ふじわらのただふみ)、平宗盛(たいらのむねもり)、平知盛(たいらのとももり)、源頼朝(みなもとのよりとも)、源義仲(みなもとのよしなか)、源頼家(みなもとのよりいえ)、源実朝(みなもとのさねとも)に至るまで16人。

その功績の抽賞により、父に続いてその子も将軍位に就任、という事もなきにしもあらず。しかし、兄弟が同時にそろって将軍位に任命される、というような事は、日本の歴史上に未だかつてなかった事。足利家に縁故ある者たちはもう、得意満面である。

その他、足利一族の主要メンバー43人が、破格の昇進に浴して、その柄にも無く、たちまちに殿上人(てんじょうびと)となり、凡庸な才しかない人がたちどころに、内閣の一員となった。

さらに、足利家家臣の者らは、諸国の守護や役人に就任。その出世の速さたるや、銀の鞍を解かぬうちに五頭の馬はたちまち重なる山の雲中を進み、木蘭製の櫂が乾かぬうちに、巨船ははるか青海原を進み行き、とでも言うべきか。

このような世間の情勢であるからして、関白・大臣たちでさえも、足利家と対抗して上位を望む事がはばかられるようになってきた。ましてや、儒学を家業とする者たちは、足利家の面々によしみを通じ、喜んでその風下に連なろうとするのであった。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


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