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2018年2月

2018年2月28日 (水)

太平記 現代語訳 27-8 足利直義、逼塞状態に

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利義詮(あしかがよしあきら)と入れ替わりに、足利直義(あしかがただよし)は、三条坊門高倉(さんじょうぼうもんたかくら:中京区)の館を出て、錦小路堀川(にしきこうじほりかわ:中京区)にある細川顕氏(ほそかわあきうじ)邸に移った。

その後、直義は、世間との接触を絶ってしまった。

しかし、直義は何といっても、ついこの間まで権力の頂点にあった人、彼の思惑通りには、世間はなかなか動いてはくれない。

直義側近A 殿、どうかご用心めせれませ。高師直(こうのもろなお)、師泰(もろやす)は依然として、殿への警戒心を緩めてはおりませんよ。

直義側近B そうですよ、ほんと危ないんですから。あいつら、「直義さまは、きっと、怒りの念を燃やし続けておられるからな、このままでは、おれたちが危ねぇんだよ」てな事、ヌカシテやがんですからねぇ! 「高兄弟は、殿を暗殺する計画まで立ててるぞ」なんてぇ、とんでもねぇ情報まで、入ってきてんですから。

足利直義 そうか・・・。ここはまず、彼らの疑心暗鬼の念を、きれいさっぱり消しとかなきゃな・・・。よし!

「もはやこの世には何の望みも無い、身を捨てた心境である」という事を示す為に、京都朝年号・貞和(じょうわ)5年12月8日、直義は出家した。当年42歳。

40歳をわずかに過ぎた年齢にして、墨染(すみぞめ)の衣をまとい、剃髪(ていはつ)してしまった直義の姿を見るに、「盛者必衰の理(じょうしゃひっすいのことわり)」とは言いながらも、まことに心が痛む。

足利直義 (内心)天下の政治を司っていた、かつての時ならばいざ知らず、今となっては、高い垣根をめぐらした、立派な家に住む必要なんか、ありゃしないのさ・・・。軽い薄物の衣服やしとね、そういったゼイタクも、もうみんなヤメだ! これからは、万事質素に、ひそやかに生きていくとしようじゃないか、なぁ、直義よ・・・。

外部との接触を全て絶ち切り、錦小路堀川の地にひっそりと暮す。垣根は苔むし、軒には古松が枝をかけている。茅(かや)や茨(いばら)で葺いた屋根は煙にかすみ、夜の月は朦朧(もうろう)。萩の花は風にそよぎ、夕暮れ時ともなると、人の声もまばらにしか聞こえてこない。

時は遷(うつ)り、事は去り、世間の人心や物事は速やかに変化していく。蔦(つた)や蔓(かずら)の生えかかる窓の中、雑草に囲まれた建物の中に、ただただ座しては、朝から夕まで終日ひたすら、仏教経典を紐解(ひもと)くのみの毎日。

やがて秋も終わり、時雨(しぐれ)がちに、冬が深まっていく。

足利直義 (内心)御簾(みす)の外は、草木も枯れて、淋しい風景になってしまったなぁ。

足利直義 (内心)「香炉峰(こうろほう)の雪 簾(すだれ)を撥(あ)げて看(み)る(注1)」か・・・あぁ、そんな風流な気分に、なってみたいもんだ・・・。

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(訳者注1)白楽天の詩の一節。枕草子にも引用されている。
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足利直義 (内心)それにしても、世の転変というものは・・・あの過去の輝いてた日々・・・あれはすべて、一瞬の夢だったのかもしれないなぁ・・・。

足利直義 (内心)「忘れては 夢かとぞ思う 思いきや 雪踏み分けて 君を見んとは 在原業平(ありわらのなりひら)」か・・・。業平の来訪を迎えた惟喬親王(これたかしんのう)の境地、思い知られるよなぁ・・・。もっともっと、訪ねてきてくれる人がいればいいのに・・・。

しかし、高兄弟の耳に入る事を恐れて、直義のもとを訪れてくる者は、玄慧法印(げんえほういん)の他には誰もいない。玄慧だけが、高師直の承諾の下、時々たずねてやってきては、海外や国内の様々の物語を直義に聞かせ、彼の無聊(ぶりょう)を慰めていたのであった。

しかしついに、その玄慧も、高齢故の病に伏してしまい、直義を訪問する事ができなくなってしまった。

玄慧の病気の事を聞いた直義は、薬を一包、彼のもとへ送り届けた。

玄慧 なになに、直義様からお薬とな・・・いやいや、またなんと、ありがたいお心づくし・・・(薬包を開く)。

薬包 ペシペシペシ・・・(開かれる音)。

玄慧 おぉ、歌が・・・。

 長生きを してまた遊びに 来てほしい 貴方の他に 仲間はいない

(原文)ながらへて 問へとぞ思ふ 君ならで 今は伴(ともな)ふ 人もなき世に

玄慧 ・・・(涙、涙)・・・。(筆を取り、詩を書く)

 あなたさまからいただいた この1日の御恩に感じ入って
 わたくしは 我が魂の100年の歳月を 今この最期の一瞬に凝縮しているのですよ
 病に伏せるこの身を奮い立たせ 床の上に座して 今 いただいたお手紙を開いております
 紙の上には点々と こぼれ落ちていきます
 拭いようにも拭いきれぬ わたくしの この涙の跡が

(原文)
 感君一日恩
 招我百年魂
 扶病坐床下
 披書拭泪痕

この一首の小詩に思いの限りを注いで、直義に贈ってから間もなく、玄慧はこの世での生を終えた。

直義は、玄慧の最後の心づくしに深く感じ入り、この詩が書かれた手紙に、さらに紙を継ぎ足し、下記の六喩般若(ろくゆはんにゃ)の真文を書いて、玄慧への追善とした。

 一切有為空
 如夢幻泡影
 如露亦如電
 応作如是観

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2018年2月27日 (火)

太平記 現代語訳 27-7 足利義詮、鎌倉より上洛し、政権の中枢へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利直義(あしかがただよし)が政治権力の頂点から去った後も、高師直(こうのもろなお)と高師泰(こうのもろやす)の、直義に対する怒りはなおも深く、ついに、直義は、政治の場から完全に疎外されてしまった。

足利尊氏(あしかがたかうじ) 考えてみればだ・・・もともと、政務のすべてを、私は直義に譲ってたんだよな・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 なのに、こんな事になってしまうだなんて・・・まったくもう・・・いやはや・・・困ったもんだ・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・いやいや、こんな事、グジャグジャ言ってても、仕方が無いな・・・。速やかに・・・直義の後任を決定しなきゃいかん・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・よし・・・こうしよう・・・。関東から急ぎ、義詮(よしあきら)を上洛させるんだ・・・。

幕府リーダー一同 (ビクッ)・・・。

足利尊氏 ・・・義詮にな・・・直義に代って、政務を取らせよう・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・義詮の補佐役は・・・師直に・・・政務全般に渡り、義詮に進言・・・実務面を執行・・・。

幕府リーダー一同 (互いに目を見合わせる)・・・。

かくして、以下のようなメッセージが、足利幕府から出された。

「今回、政権の中枢に座する事となられた足利義詮様、その幼名は千壽王丸(せんじゅおうまる)様である。年久しく関東の重鎮として、かの地に駐在されていたのであるが、年齢を重ねられ、政治家としての経験も順調に積まれ、いよいよ国家統治の中心たるべき器もおできになられた。よってこのたび、政治の最高権力を把握されるべく、御上洛とあいなり・・・」

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10月4日、足利義詮は、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)を出発、同月22日に、京都へ到着。

「これは、すごいミモノ(見物)やでぇ」ということで、粟田口(あわたぐち:左京区)、四宮河原(しのみやがわら:山科区)あたりまで、桟敷を立てて車を並べ、貴賎を問わず、「義詮様御入洛」見物の席を争った。(注1)

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(訳者注1)現在の「三条通り」ルートぞい。東海道(昔の)をやってきた人馬は、山科盆地から東山を超え、粟田口へ降りる。そこから三条大橋へは近い。
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高師直以下の在京の有力武士たちは、ことごとく、瀬田(せた:滋賀県・大津市)まで赴いて、義詮を迎えた。

関東からは、川越(かわごえ)、高坂(こうさか)を始め、有力武士のほとんどが、「義詮様のお見送りを」ということで、義詮に随行してきている。その乗馬や鎧の美麗さに、見物人一同、声も出ない。

東方からやってきた人々の、美を尽くし、善を尽くしたその姿もさることながら、行列中心を進む馬上の人は、他ならぬ、天下の将軍・足利尊氏の長男、今や、足利直義に代って国家の最高権力の地位に就任しようとしている人である。誰しも、興奮を覚えぬわけにはいかぬ。

その夜、義詮は、将軍・尊氏の館に到着。上皇からは、大納言・勧修寺経顕(かんしゅうじつねあき)を勅使として、「典厩(てんきゅう)上洛祝賀(注2)」のメッセージが、届けられた。

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(訳者注2)「典厩」は左右馬寮の中国風の役名称。足利義詮は当時、京都朝廷より「左馬頭(さまのかみ)」の役職を与えられていた。
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10月26日、義詮は、三条坊門高倉(さんじょうぼうもんたかくら:中京区)にある足利直義邸に移り、それから程なく、政務の執行を開始した。まことにめでたい事である。

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2018年2月26日 (月)

太平記 現代語訳 27-6 足利直冬、九州へ退避

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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高兄弟の尊氏邸・包囲事件の後、高師直(こうのもろなお)の威勢はますます増大、足利直義(あしかがただよし)派の人々は、面を垂れ、眉をひそめる毎日となった。

京都より遠隔の地においても、事情は同様であった。足利直冬(あしかがただゆふ)は、中国地方長官として、備後(びんご:広島県東部)の鞆(とも:広島県・福山市)に駐留していたが、高師直は、その近隣の地頭や御家人たちに、「足利直冬を討て」との指令を出した。

9月13日、杉原又四郎(すぎはらまたしろう)が、200余騎を率いて直冬の館へ押し寄せてきた。急な事ゆえ防衛の兵力も少なく、直冬の命も、もはやこれまでかと思われたが、磯部左近将督(いそべさこんしょうげん)の若党らが奮戦。メンバーいずれも屈強の手足(てだれ:注1)、放つ矢は百発百中、たちどころに杉原側の16人に負傷を負わせ、13人を馬から落した。

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(訳者注1)秀でた者。
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杉原サイドが少々ひるみ、攻撃をストップした間に、直冬は、河尻幸俊(かわじりなりとし)の用意した船に乗り込み、肥後国(ひごこく:熊本県)目指して逃走。直冬に対する忠節の志を失わない者たちは、小舟に乗ってそれを追走した。

それにしても、この足利直冬という人は、よくよくツイテない人である。将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の子息として生を受けながらも、なかなか世に出る事ができなかった。中国地方長官として、京都を離れて任地に赴いた後に、ようやく、その運は開けてきたのである。現地の人々は彼に靡き、富貴栄耀(ふうきえいよう)の門を開き、置酒好会(ちゅしゅこうかい:注2)の席を展べ、ようやく楽しい人生が始まったばかりというこの時に、またまた苦難のどん底へ。まったく夢を見る間のような短い時間の中に、彼の運命は急転してしまったのであった。

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(訳者注2)宴会の事。
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 落胆の引き潮の中
 船は進む 九州へ
 帆にいっぱいの 風をはらみながら

 あの雲が 湧き出ている所
 あそこに 九州の地があるのか
 しかし その陸の片鱗すらも 未だに見えてはこない
 眼前には 水蒸気にけむる
 はてしなき海が 広がるのみ

 ああ いったいいつまで
 この万里を漂泊する旅は 続いていくのだろうか
 一辺の木の葉のような船に 身をまかせての
 この う(浮=憂)き旅は
 いったいどこまで いったいどこまで

 波風にさらされて わが衣は
 すでに 袖も朽ちはててしまった
 わが涙を ぬぐう袖すらも
 もはや 残されてはいないのだ

(原文)
 心筑紫(こころつくし)に 落潮(おちじお)の
 鳴門(なると)を差(さし)て 行(ゆく)舟は
 片帆(へんぱん)は雲に 泝(さかのぼ)り
 烟水(えんすい) 眼(まなこ)に范々(ぼうぼう)たり
 万里漂泊(ばんりひょうはく)の愁(うれい) 一葉(いちよう)扁舟(へんしゅう)の浮(うき)思ひ
 浪馴衣(なみなれごろも) 袖(そで)朽(くち)て
 涙忘るる許(ばかり)也

直冬・側近A 殿、そんなに気落ちなさいますなって。九州はね、足利家にとっては昔から、エンギのいい土地なんですよ。

直冬・側近B そうじゃそうじゃ。殿のお父上は、その昔、京都での戦に利あらずということで、いったんは九州へ落ちられましたわいの。だけどすぐに、勢力を盛り返されて、京都に喜びの凱旋をなさったんじゃ。

直冬・側近C 殿の九州滞在も、ほんの少しの間のこと。きっとすぐに、京都へお帰りになることができますけんのぉ。

足利直冬 ・・・。

直冬・側近A (内心)行く末も いかが「不知火(しらぬい:注3)」の 筑紫(つくし)に赴く この旅路・・・。

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(訳者注3)有明海に出現する蜃気楼。
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直冬・側近B (内心)これから先、いったい、どうなっていくんじゃろうなぁ、わしらの運命は・・・。

直冬・側近C (内心)切ないのぉ・・・。

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9月13日夜、仲秋の名月。旅泊(りょはく)の思い、ますますつのり、直冬は一首。

 引き連れる 人々にまでも 見させてる あの空に浮かぶ 憂いの月を

 梓弓(あずさゆみ) 我こそあらめ 引連(ひきつれ)て 人にさへうき 月を見せつる(注4)

直冬・側近一同 ・・・。(涙、涙)

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(訳者注4)「梓弓」は「引」の枕言葉。「我こそあらめ」は「自分がつらいのはしょうがない事なのだが」。引き連れている人々にまで「う(憂)き月を見させている」の意。
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2018年2月25日 (日)

太平記 現代語訳 27-5 高兄弟の軍勢、足利尊氏邸を包囲

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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京都朝年号・貞和(じょうわ)5年(1349)8月12日、京都中にわかに騒然となってきた。

街の声A 合戦や、合戦やで!

街の声B エーッ! 合戦て、いったい、誰と誰が合戦すんねん?

街の声C 足利直義(あしかがただよし)さまと、高(こう)兄弟やがな。

街の声D エェーッ!

宵頃から、数万の軍勢が京都中をあちらこちらへ馳せ違いだした。馬の足音、鎧の草ずりの触れ合う音の鳴り止むひまもない。

足利直義邸へ集結したメンバーは以下の通り。

吉良満義(きらみつよし)、吉良満貞(みつさだ)、石塔頼房(いしどうよりふさ)、石塔頼直(よりなお)、石橋和義(いしばしまさよし)、その子息・石橋宣義(のぶよし)、斯波高経(しばたかつね)、その子息・斯波氏経(うじつね)、その弟・斯波氏頼(うじより)、荒河詮頼(あらかわのりより)、細川頼春(ほそかわよりはる)、細川顕氏(あきうじ)、畠山直宗(はたけやまなおむね)、上杉重能(うえすぎしげよし)、上杉朝房(ともふさ)、上杉朝貞(ともさだ)、長井廣秀(ながいひろひで)、和田宣茂(わだのぶしげ)、高師秋(こうのもろあき)、千秋惟範(せんじゅこれのり)、大高重成(だいこうしげなり)、宍戸朝重(ししどともしげ)、二階堂行通(にかいどうゆきみち)、佐々木顕清(ささきあききよ)、里見義宗(さとみよしむね)、勝田助清(かつたすけきよ)、狩野三郎(かのさぶろう)、苑田美作守(そのだみまさかのかみ)、波多野下野守(はだのしもつけのかみ)、波多野因幡守(いなばのかみ)、禰津小次郎(ねづこじろう)、和久四郎左衛門尉(わくしろうさえもんのじょう)、斎藤利康(さいとうとしやす)、飯尾修理入道(いいおしゅりのにゅうどう)、須賀清秀(すがきよひで)、秋山朝政(あきやまともまさ)、島津四郎左衛門尉(しまづしろうさえもんのじょう)、これら主要メンバーの他、7,000余騎が軍門をかためて控える。

高師直(こうのもろなお)邸へ馳せ加わってきたメンバーは、以下の通りである。

山名時氏(やまなときうじ)、今川範国(いまがわのりくに)、今川頼貞(よりさだ)、吉良貞経(きらさだつね)、大嶋盛真(おおしまもりまさ)、仁木頼章(にっきよりあきら)、その弟、仁木義長(よしなが)、仁木頼勝(よりかつ)、桃井義盛(もものいよしもり)、畠山国頼(はたけやまくにより)、細川清氏(ほそかわきようじ)、土岐頼康(ときよりやす)、土岐頼兼(よりかね)、土岐頼雄(よりたか)、佐々木秀綱(ささきひでつな)、佐々木秀定(ひでさだ)、佐々木氏綱(うじつな)、佐々木氏頼(うじより)、その弟・佐々木直綱(なおつな)、同じく佐々木定詮(さだのり)、同じく佐々木時親(ときちか)、千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮貞宗(うつのみやさだむね)、武田信氏(たけだのぶうじ)、小笠原政長(おがさわらまさなが)、逸見信茂(へんみのぶしげ)、大内民部大輔(おおちみんぶたいう)、結城小太郎(ゆうきこたろう)、梶原景広(かじわらかげひろ)、佐竹師義(さたけもろよし)、佐竹義長(よしなが)、三浦行連(みうらゆきつら)、三浦藤村(ふじむら)、大友頼時(おおともよりとき)、土肥高真(とひたかさね)、土屋範遠(つちやのりとお)、安保忠真(あふただざね)、小田伊賀守(おだいがのかみ)、田中下総三郎(たなかしもうささぶろう)、伴野長房(とものながふさ)、木村基綱(きむらもとつな)、小幡左衛門尉(おばたさえもんのじょう)、曽我左衛門尉(そがさえもんのじょう)、海老名季直(えびなすえなお)、大平義尚(おおひらよしなお)、粟飯原清胤(あいはらきよたね)、二階堂行元(にかいどうゆきもと)、中条秀長(なかじょうひでなが)、伊勢貞継(いせさだつぐ)、設楽五郎兵衛尉(しだらごろうひょうえのじょう)、宇佐美三河三郎(うさみみかわのさぶろう)、清久左衛門次郎(きよくさえもんじろう)、富永孫四郎(とみながまごしろう)、寺尾新蔵人(てらおしんくろうど)、厚東駿河守(こうとうするがのかみ)、富樫介(とがしのすけ)を始め、多田院御家人(ただいんのごけにん)、常陸国(ひたちこく:茨城県)の平氏、甲斐国(かいこく:山梨県)の源氏、さらに、高家一族は言うまでもなく、首都圏とその近隣地帯の武士、志ある高家恩顧の者らが、我も我もと馳せよってきた。

程なく、高サイドの兵力は5万余に達した。一条大路(いちじょうおうじ)、今出川(いまでがわ)、転法輪(てんぽうりん:注1)、柳が辻(やなぎがつじ:注2)、出雲路河原(いずもじがわら:注3)に至るまで、隙間なく陣取っている。

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(訳者注1)一条大路の北側にある東西の通り。

(訳者注2)烏丸通りと上立売通りの交差点の付近。

(訳者注3)現在の出雲路橋の付近の、鴨川の河原。
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ただならぬ雲行きに驚いた足利尊氏(あしかがたかうじ)は、足利直義のもとへ使いを送った。

使者 将軍様より、直義様に対して、次のように申し上げよと・・・「師直と師泰(もろやす)め、身の程知らずの奢侈(しゃし)をむさぼった末に、とうとう、主従の礼まで乱すようになってしまった。末世とはいえ、まったくもう、とんでもない事になってしまったものだ。もしかしたら、そちらに攻め寄せていくような事もあるやもしれぬ、急ぎ、こちらへ来られよ。兄弟一緒になって、今後の安否を見定めようではないか。」

直義はすぐに、自らのもとに馳せ集まってきた武士たちを連れて、近衛東洞院(このえひがしのとういん)の尊氏の館へ移動した。

この事態急変に、「これでは、とても勝ち目が無い」との思いが、直義陣営サイドに走ったのであろうか、5人、10人とボロボロと脱落者が続出、高サイドに寝返っていく。いつの間にか、直義の側にいるのは、主な一族と譜代の家臣、二心なく忠節を尽してきた者たちのみ、総計わずか1,000騎足らずになってしまった。

翌8月13日午前6時、高師直とその子息・武蔵五郎師夏(むさしごろうもろなつ)は、雲霞のごとき大軍を従え、法成寺河原(ほうじょうじがわら:現在の荒神橋付近)に打って出た。

二手に分かれた高師直軍は、尊氏邸の東側と北側に展開し、十重二十重に包囲し、三度トキの声を上げた。

さらに高師泰(こうのもろやす)は、7,000余騎をカラメ手側に分散配置し、尊氏邸の西側と南側に展開、小路を遮断した。

近隣住民E えらいこっちゃ、えらいこっちゃ! 戦が始まるぞ!

近隣住民F 高兄弟が、将軍様の館を攻めるんやと!

近隣住民G 四方から火ぃかけて、焼き攻めにするんやて!

近隣居住公家H こら、えらいこっちゃがな! 家財道具、は(早)よ、まとめぇ! はよはよ! えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!

近隣居住公家I あぁ、とばっちりで、わしの家も燃えてしまうがな・・・館も家宝も・・・どないしょ、どないしょ・・・はよはよ、運び出せ、運び出せ!

周辺の公卿の家々からは、一斉に家財道具が運び出され、長講堂(ちょうこうどう:注4)や三宝院(さんぼういん:注5)へ、次々と運び込まれていく。僧俗男女、ただただ東西に逃げまどうばかりである。

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(訳者注4)土御門東洞院(つちみかどひがしのとういん)にあった後白河法皇の持仏堂。

(訳者注5)現在、醍醐寺(山科区)の境内にある三宝院は、当時、土御門万里小路(つちみみかどまでのこうじ)にあった。
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御所の中も大騒ぎになってしまった。

公卿J ここはな、足利邸に近いから、危ないで。

公卿K ほんまや。高師直の軍勢、ドサクサにまぎれて、何しよるか分からん。

公卿L とにかく、一刻も早ぉ、陛下に避難していただかんとあかんわ!。

というわけで、崇光天皇(すうこうてんのう)は、持明院殿(じみょういんでん)へ緊急避難。関白や大臣以下の公卿らも、大慌てでそれに同行。宮中の官女らや公卿らは、徒歩のまま逃げ出し、参議(さんぎ)、弁官(べんかん)、五位、六位、関白家の家司(けいし)、文書管理局メンバー(注6)らはことごとく、階下庭上に立ち連なる。御所の中は全員パニック状態、まったく目もあてられない状態である。

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(訳者注6)原文では、「外記」。
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街の声M まいったなぁ、また戦かいなぁ。ほんまにたまらんでぇ。

街の声N 年号が暦応(りゃくおう)に革(あらた)まってからはよぉ、天下を幕府が手中に収め、世の中もチッタァ穏かになってきてたんだよなぁ。なのに、また、この騒ぎかよぉ・・・いってぇどうなってやがんでぇ・・・ったく、やんなっちまわぁな。

街の声O 去年、楠正行(くすのきまさつら)はんが、乱を起さはったけど、結局のとこ、討死にしてしまわはりましたどすなぁ。さぁこれでいよいよ、天下太平の世に成ったんかいなぁ、いうて、みなで喜んでましたのに。

街の声P なのに、またまたこの騒ぎだ。ほんと世の中、治まらないっすねぇ。困ったもんですよぉ。

街の声一同 ほんに、困ったもんですわ。

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足利尊氏 なぁ、直義・・・おまえ、どう思う?・・・かりにだな・・・師直と師泰がここに押し寄せてきたとしてだよ・・・彼らを相手に、徹底抗戦すべきか・・・否か・・・。

足利直義 あいつら相手に戦う?! そんなばかな事、できますか! それこそまさに、恥辱ってもんでしょう?! そうじゃないですか?!

足利尊氏 うん・・・。

足利直義 攻め寄せてきたら、その時はその時! 門前で皆が防いでいる間に、我々は腹を切るまでのこと!

足利尊氏 よし。じゃ、鎧を着る必要もないな・・・。

足利兄弟は、小手や脛当てだけを装着し、心静かに座している。

高兄弟の方もさすがに、主君に対して手を出す事はできないようである。気勢だけ上げてはみるものの、尊氏邸に押し寄せる気配も無く、ただ徒(いたずら)に、時を過ごすのみである。

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やがて、尊氏より師直のもとへ、須賀清秀(すがきよひで)が使者として送られた。

須賀清秀 高師直殿、征夷大将軍(せいたいしょうぐん)様よりのメッセージをお伝えしに参った。つつしんで承るように!

高師直 ・・・。

須賀清秀 「わが清和源氏(せいわげんじ)歴代の祖・源義家(みなもとのよしいえ)様が天下の武将となられてよりこの方、なんじの所属する高家の先祖たちは皆みな、累代(るいだい)の家僕として、わが足利家に仕えてきた。その間、いまだかつて一日たりとて、主従の礼儀を乱したような者は一人もおらぬ。」

高師直 ・・・。

須賀清秀 「しかるに、一片の怒りをもって身に余る恩を忘れ、穏かに申し開く事も無しに、いきなり大軍を催して、わが邸宅の東西を包囲するとは・・・まったく、あきれはててものも言えぬ・・・おまえはいったい、何を考えておるのか!」

高師直 ・・・。

須賀清秀 「大軍の威をもって、私を貶(おとし)める事がたとえできたとしても、天は、なんじのその罪を決してお許しにはならぬぞ、わかっておるのか!」

高師直 ・・・。

須賀清秀 「心中に憤る事あらば、いったん兵を引いた後、あらためて言上(ごんじょう)するがよい。ただし、これだけは言っておくぞ、「讒言をする者を除く」との名目を掲げて、その実、国家の権を奪おうとの魂胆であるならば、もはや問答無用! 白刃(はくじん)の前に我が命を止め、速やかに霊界に赴いた後、おまえの運命を、とことん最期の最期まで、見届けてやるまでのことだ!」

簡潔な言葉の中に多大な道理が込められた、尊氏の叱責(しっせき)に対して、師直は、

高師直 うーん・・・まいったなぁ・・・いったいなんで、あたしが将軍様から、そんなキツーイお叱りを頂かなくっちゃならんのかねぇ・・・そんな事言われるなんて、ゼーンゼーン思っても見いひんかったなぁ。

須賀清秀 ・・・。

高師直 あのねぇ! あたしゃ何も、将軍様にタテつく気持ちなんか、毛頭あらへんのやわ。あたしの事を讒言しやがる連中らの言う事をだよ、直義様がウノミにされちゃってだねぇ、ほいでもって、「高一族、滅ぼしておしまいやす!」なんてぇ事、言いだしはったんどすじゃんか! さぁそうなっちゃ、あっしだって黙っとれへんでしょうが! 「はい、わかりました、じゃぁ全員死にますんえー」てなわけにも、いかんでしょ、なあぁ? だからさぁ、あたしも仕方なしに、兵を集めたってわけよ・・・正当防衛だよ、これってね、正当防衛なんどすわ、そうじゃんかよぉ、えぇ?!

高師直 とにかく、わが身の潔白の申し開きをしてね・・・そいでもって、あたしの讒言をやらかしやがった張本人の身柄を引き渡してもらってね・・・「一罰百戒(いちばつひゃっかい)」って言葉あるでしょ?・・・そいつらをバチィンと懲らしめちゃってさ、そいでもって、讒言なんていう世の悪習をタメただそうってね、オイラ、そないに思ぉただけなんどすわぁ!

須賀清秀 高殿、とにかく、この囲みを解いてもらいましょうか!

高師直 はいはい、分かりましたぁ。おーい、テメェラ、旗、下げやしておくれやすう!

高師直軍メンバー一同 はぁい、ただいま! ハタハタハタハタ・・・(旗を下げる)

高師直 ヨイコのみなさぁーん、よくできました。今度は、盾を持ちましょう!

高師直軍メンバー一同 はぁい、ただいま! タテタテタテタテ・・・(盾を持つ)

高師直 はいはい、ヒッジョーニよくできましたぁ。さぁ、今度は包囲の輪を縮めてみましょう、グーイ、グーイっとね!

高師直軍メンバー一同 イェッサー、ギューイ、ギューイ、ギューイ!(尊氏邸にさらに迫る)

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師直よりの返答を聞き、尊氏はいよいよ腹に据え兼ねて、

足利尊氏 なにぃ、「讒言してる者の身柄を引き渡せ」だぁ? 師直め、言わせておけばぁ!

足利直義 ・・・。

足利尊氏 当家累代の下僕に包囲されたあげく、当事者の身柄を引き渡すなど前代未聞、そんな事では天下のものわらい、足利家の一大恥辱!

足利直義 ・・・。

足利尊氏 汚辱にまみれた生を取るか、名誉の中の死を選ぶか、言うまでもない! おい、鎧!

尊氏側近Q ははっ!(「御小袖」という名の鎧を取り、尊氏に着せる)

これを見た堂上堂下に集まった武士たちは、一斉に兜の緒を締め、色めきたった。

武士ら一同 (内心)さぁ、天下はいったい、どうなってしまうんだろうか!

一同肝を冷やしている中に、

足利直義 兄上! お待ちください、どうか、お待ちください!

足利尊氏 ・・・。

足利直義 高兄弟の、おごりたかぶり故の悪行が、あまりにもひどいのでね、これはちょっと誡(いまし)ておかねば、と思っていたのですよ。それを、彼らが伝え聞いて、このような暴挙に打って出た、というわけです。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 こんな事になってしまうなんて・・・わが家の名誉に、大きな傷がついてしまった・・・幕府の権威も、本当に衰えたもんだな・・・。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 今回のこの騒ぎ、高兄弟の私への怨みに端を発しているわけです。なのに、兄上が自らの手を下して軽々しく、家僕である高兄弟に対して戦を、なんて事になったんじゃぁ、これはもう実に、口惜しい限りではないですか!

足利尊氏 ・・・。

足利直義 讒言してる者の身柄引き渡しを、師直は名指しで要求してきてます。あいつの言うがままに、当事者の身柄を引き渡したとて、我々には、何の痛みも無いじゃないですか。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 かりにですよ、兄上が返答を躊躇(ちゅうちょ)された結果、師直がわが足利家への忠義を忘れ、本気になって逆らってきたら? 我が足利家の武運は風前の灯、天下の一大事となってしまいますよ。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 兄上、どうか、あんなヤツの為に、自らの命を軽くしないでください。ここは、譲歩しておくべきですよ!

足利尊氏 ・・・うん・・・おまえがそこまで言うのなら・・・。

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須賀清秀 高殿、再度、将軍様よりのメッセージを、お伝えしに参りました。

高師直 へぇへぇ、将軍様は何とおっしゃておられますですか?

須賀清秀 「師直の申し請うてきた事、将軍より裁可(さいか)するものなり。今後、直義は政治の任から外れるものとする。上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまなおむね)を遠流の刑に処す。」

高師直 ウッヒョー! 聞き届けていただけましたかぁ! やれやれ・・・。

師直は大いに喜び、尊氏邸の包囲を解いて自邸に戻った。

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翌朝、師直は、

高師直 おぉい、妙吉(みょうきつ)をフンジバ(捕縛)ッテこい!

高師直側近一同 がってんだい! それ行けぃ!

しばしの後、彼らは、てぶらで戻ってきた。

高師直 捕まえてきたか?!

高師直側近R いえ、もう逃げちゃってて、モヌケのカラでしたわ。

高師直 えぇい、逃げ足の速いヤツだなぁ!

妙吉が残していった財産も、略奪されて方々に散逸してしまった。まさに浮き雲のようなその富貴、たちまちにして夢のごとく、消滅してしまったのであった。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月24日 (土)

太平記 現代語訳 27-4 足利直義、高師直殺害を決意

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまなおむね)の讒言(ざんげん)は、さらにその激しさと執拗さを増していった。妙吉(みょうきつ)もまた、それに歩調を合わせ、足利直義(あしかがただよし)に対してしきりに、「高師直(こうのもろなお)、師泰(もろやす)兄弟に、誅罰を加えるべし!」と、訴えてやまない。(注1)

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(訳者注1)彼らの讒言については、26-7, 26-8 を参照。
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ついに、直義は決意した。

直義は、尊氏(たかうじ)には何も知らせずに、自らに近いメンバーらに対して密かに招集をかけた。それに応じて直義邸に集まってきたメンバーは、以下の通りである。

上杉重能、畠山直宗、大高重成(だいこうしげなり)、粟飯原清胤(あいはらきよたね)、斎藤実持(さいとうさねもち)、他若干名。

足利直義 君たちに今日集まってもらったのは、他でもない、私の重大な決意を、君たちに伝えるためだ。

メンバー一同 (かたずをのみながら)・・・。

足利直義 決めたよ!

メンバー一同 ・・・。

足利直義 高兄弟に、誅罰を加える!

上杉重能 ・!(ニッコリ)

畠山直宗 ・!(深くうなづく)

足利直義 重成!

大高重成 ははっ!

足利直義 朝重(ともしげ)!

宍戸朝重(ししどともしげ) ははっ!

足利直義 戦いなれたる剛の者、おまえたち二人に、この任務を任せる。近日中に、師直をこの館へ招くからな、やって来た所を襲え、わかったな!

大高重成 ははっ!

宍戸朝重 ははっ!

足利直義 万が一の事も考えて、うでききの者100人ほど、邸内に潜ませておくとしよう。

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このような事になっているとは夢にも知らず、高師直は、招待に応じて足利直義邸にやってきた。

若党(わかとう)や中間(ちゅうげん)の部下たちを全員、遠侍(とおざむらい:注2)や庭に待機させ、師直一人、中門の塀の中に入り、面積6間の客殿に座した。

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(訳者注2)中門付近にある建物で、日直当番の警護の者らが詰めている。
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まさに、師直の命、今にも風が吹かんとする直前の露よりも危うき状態。ところがここに、思いもかけぬ救い主が現われた。粟飯原清胤である。

口を極めて、高兄弟誅罰を訴えてきた粟飯原清胤であったのに、ここにきて、にわかに心変わりしたのであろう、ちょっとあいさつすると見せかけながら、師直に対して、キッと目配せした。

カンが鋭い師直、とっさに、自らが、何やら重大な危機に直面している事に気付いた。

高師直 あっ、いけねぇ! 大事な事忘れてた、ちょっと、自宅に戻らしていただきますよ!

師直は門から出るや、サッと馬にまたがり、自らの館へ電光のごとく逃げ帰った。

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その夜、粟飯原清胤と斎藤実持が、隠密裏(おんみつり)に師直を訪ねてきた。

粟飯原清胤 執事殿、ほんと、今日はあぶないとこだったんですよぉ! どうなることかと、ハラハラしましたわ。

斎藤実持 じつはね、ついこないだ、直義様から、貴方たち兄弟を殺害する計画を、打ち明けられましてね。

粟飯原清胤 すべては、上杉重能と畠山直宗が仕組んだ陰謀なんですよ。彼らが直義様に、あれやこれやとね・・・。

二人の話を聞いて、師直はビックリ。

高師直 いやぁーー、こりゃぁ驚いたねぇ! いやね、あんたがミョーな視線送るもんだからさぁ、こりゃ、なんかあるなってんで、あわてて逃げて帰ってきたんだけど・・・。ふーん、直義様がねぇ・・・。

高師直 あ、いやいや、とにかく、お二人にはお礼をさしあげないとね・・・えぇっと、何がいいかなぁ・・・。

師直は、あれやこれやの品々を取りそろえて、二人の前に差し出した。

高師直 とにかく、これは、ほんの感謝の気持ち、どうぞ、お持ち帰り!

斎藤実持 いやぁ、わるいですねぇ、こんなにいただいちゃって。

粟飯原清胤 じゃぁ、遠慮なく。

高師直 ねぇねぇ、これからも、何か変わった事あったらさ、逐一教えてよね、頼むから。

粟飯原清胤 はいはい、分かりましたよ。

斎藤実持 執事殿も、せいぜい気をつけられる事ですなぁ、昨今の世の中、一寸先は闇だもん。

高師直 まったくねぇ!

それ以降、師直は用心怠りなく、一族若党数万人を自宅近辺の民家に詰めさせ、仮病を使って、幕府への出仕をストップした。

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昨年の正月より、楠(くすのき)氏討伐のため、河内国(かわちこく:大阪府南東部)の石川河原(いしかわがわら)に向かい城を築いて滞陣していた(注3)高師泰(こうのもろやす)のもとに、京都の師直から密書が届いた。

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(訳者注3)高師泰の石川河原布陣については、26-5 を参照。
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密使 師直様よりの密書を持って参りました。これでございます。(密書を手渡す)。

高師泰 なんだなんだぁ? 密書たぁ、おだやかじゃねぇなぁ。いってぇ何があったんでい?(パサパサ・・・密書を開く音)。

高師泰 ・・・(密書を読む)・・・ナァニィ! なんだとぉ!・・・うーん・・・。

高師泰 おい、たしか、畠山国清(はたけやまくにきよ)は、紀州にいたっけなぁ?

師泰側近A さいです、紀伊国(きいこく:和歌山県)の守護として、現地に赴任中ですわいな。

高師泰 すぐにここへ呼べ! 石川城を守らせるんだ。

師泰側近B えっ?

高師泰 ただちに、全軍転進だぁ!

師泰側近A えーっ!?

師泰側近B いったいどこへ転進するんですか?

高師泰 決まってるだろ、京都だよぉ!

師泰側近A えーっ!? えーっ!?

高師泰 次の戦場はな、京都、京都なんだよぉ!

師泰側近一同 えーっ!? えーっ!? えーっ!?

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「高師泰が大軍を率いて上洛してくる」との情報に、足利直義は、

足利直義 (内心)まずいな、あいつに、今攻めこまれてきたんでは、形勢不利になってしまう。なんとかして、あいつの機嫌をとって、懐柔しとかないと。

直義は、飯尾宏昭(いいおひろあき)を高師泰のもとへ使いにやった。

飯尾宏昭 直義さまから、次のようにお伝えするようにと・・・「高師直の行状、すべてにおいて、才に欠け、愚かなる面、多々見受けられる。ゆえに当分の間、現在の職務を解く。その後任として、高師泰を執事職に任命するものなり。以後、幕府政所(まんどころ)のトップとして、政務万端きめこまかく執行すべし」。

高師泰 ふーん・・・おいらに、執事をやれっておっしゃるんですかい。おいらみてぇなソコツモノにねぇ・・・まことにありがたくもおそれ多いお言葉で・・・。

飯尾宏昭 ・・・。

高師泰 へん! どうせ、まずは枝を切って、それから後、ゆっくり根を切ろうって事でしょう?

飯尾宏昭 師泰殿!

高師泰 とにかく、お返事は京都へ帰りやしてから、いたしやすよ! そのように直義さまには、お伝えなまし!

飯尾宏昭 (内心)これはまた、予想外の返事だったなぁ。

師泰は、すぐに石河の陣を引き払い、京都へ向かった。甲冑を帯した3000余騎に加え、人夫7,000余人に持盾や一枚盾を持たせ、完全武装・臨戦態勢のまま、わざと白昼、京都に入った。まさに、万人の目を驚かす一大デモンストレイションである。

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「高師泰、高師直の館に到着、両人、足利直義との合戦の準備に余念無し!」との情報に、8月11日夕、赤松円心(あかまつえんしん)とその子息の則祐(そくゆう)、氏範(うじのり)は、700余騎を率いて高師直邸に向かった。

師直に対面するやいなや、円心は、

赤松円心 執事はん、いったいどないなっとぉねん? あんたら兄弟と直義様とが、戦やらかすとかいうて、京都中えらい騒ぎやがな。こらまたいったい、ナニがどないで、どないなってしもとぉねん?

高師直 いやぁ、よぉ聞いてくださったやんどすか。実はね、直義様が何のいわれもなく、わたいらの一族滅ぼしてしまっちゃえぃなんてね、思い立たたれたんですよねぇ! こうなっちゃ、喉元に刃(やいば)突きつけられたようなもんですやん? そやからな、わて、将軍様に内々に泣き付きましたんどすよ。「将軍さまぁ、なんとかしてくださいよぉ」ってね。

高師直 するとね、将軍さまがおっしゃいますには、「なに! 直義がそんな事考えてるのか、それはまた穏かではないな。そんな事、すぐに止めさせなくっちゃいかん! それにしても、まったくけしからんのは、おまえたちへの讒言を直義に吹き込みまくった連中らだ。やつら、厳罰に処さなきゃ、いかんなぁ! よし、しっかりと守りをかためてな、陰謀を未然に食い止めろよ!」。

高師直 で、あたしゃ、こう言ったんだな、「陰謀を食い止めろと、言われましても・・・そんなのムリですよぉ。直義様はあぁいったご性格でしょ、いったんこうと決めたら、トコトンですからね。絶対に、私らんとこに、討手差し向けてこられますってぇ。」

高師直 するってぇと、将軍様はね、「そうなった時には、私の館へ逃げ込んでこい。私と師直と一緒に、運命を共にするんだぁ!」ってねぇ、そうおっしゃってくださいますんですよぉ・・・まぁ、ありがたいお言葉じゃ、ござんせんかい、グスン・・・。

高師直 ってわけでぇ、将軍様のお心に従ってね、おそれながら、直義さまよりの討手に対して、矢の一本でも送って進ぜようかなって気にぃ、おいら、なってきましたんどすわ。

赤松円心 ふーん・・・将軍はんが、そないな事をなぁ・・・。

高師直 いやね、京都の中の事なんか、あたしゃ、ちぃとも心配しとらへんのどす。京都中、あたしのお味方、わんさといはりますから。あたしが気になっとりますのは、中国地方の事だわね。

赤松円心 中国地方なぁ・・・直冬(ただふゆ)殿か?

高師直 さすがに赤松円心様、ご明察! 足利直冬殿に、中国地方の勢力引き連れて京都へ攻めてこられたんじゃぁ、こりゃぁコトですわいな。

赤松円心 そら、そやわな。

高師直 赤松様、たってのお願いでございますが・・・。

赤松円心 うん、なんや!?

高師直 今夜中にでも急ぎ、京都をお発ちになって、ご当家の領国・播磨(はりま:兵庫県南西部)に戻られ、山陰と山陽の両道を、杉坂(すぎさか:兵庫県・佐用郡・佐用町-岡山県・美作市)と船坂(ふなさか:兵庫県・赤穂郡・上郡町-岡山県・備前市)の両急所で塞いでくださいませんでしょうか? 中国地方からの敵襲に備えて。

赤松円心 うーん・・・そやなぁ・・・。

高師直 おやおや、すっかり話に夢中になっちまって、お酒のご用意も何もせずに・・・なんともはや、失礼をお許しあれ。おぉい、酒、酒!

酒がやってくると、さっそく師直は、手ずから円心に杓をする。

高師直 あ、そうそう! 赤松様に、プレゼントさしあげなくっちゃ!

師直は、細長い錦の袋を取りだしてきた。その中には一本の懐剣が入っていた。

高師直 赤松様、ご覧くださいよ。この懐剣はね、かの有名な藤原保昌(ふじわらのやすまさ)の持ち物だったんですよ。それがいつの頃からか、わが家の宝になりましてね、先祖代々、「わが身を放さずの守刀」として、伝えてきたんですけどぉ、以前から、「これ、赤松様にプレゼントしちゃおうかなぁ」なんて、思ってたんですよねぇ。

赤松円心 えー! そらまたなんと、まぁ・・・。

剣を受け取った円心は、その夜直ちに京都を出発、播磨に馳せ下った。

円心は、手勢3,000余騎を二手に分け、備前の船坂と美作の杉坂に送り、山陽、山陰の両街道を塞いだ。

円心の義侠心を示す旗は空高く翻り、その方面の形勢を一変させてしまうような勢いを見せ付けた。この勢いに押されてか、大軍を率いて京都上洛を目指していた足利直冬であったが、その計画に様々の支障を来してしまった。

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(訳者注4)[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書 2443 中央公論新社] 53P には、以下のようにある。

「閏六月七日には、将軍尊氏が三条殿を訪問して先日の騒動について直義と相談した。そして同月十五日、高師直は執事を解任された。所領なども没収され、他人に与えられた。上杉重能の讒言によるとする史料もあるが、ともかく直義の攻勢が成功した。」

[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書 2443 中央公論新社] 57P には、以下のようにある。

 「やがて、師直の反撃が始る。本項の記述は、主に『太平記』『園太暦』『師守記』に依拠した。」

 「まず貞和五年(一三四九)七月二十一日、当時河内国石川城に駐屯していた高師泰が紀伊守護畠山国清を石川城に呼んで同城を守備させ、自らは大軍を率いて京都へ向かった(集古文書)。その目的は、師直に協力して直義に軍事的圧力をかけ、政敵を排除することである。場合によっては、直義との一戦もこの時点では覚悟していたのかもしれない。」

 「・・・八月九日、師泰は入京した(前掲集古文書)。」
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太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月23日 (金)

太平記 現代語訳 27-3 愛宕山・未来予言記

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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四条河原(しじょうがわら)の桟敷倒壊事件の他にも、不可思議この上ない事件の報告がなされた。

出羽国(でわこく:東北地方西部)羽黒山(はぐろさん)出身の一人の山伏がいた。その名を、雲景(うんけい)と言う。この人が、熊野三山(くまのさんざん)から発行される午王宝印(ごおうほういん)という護符の裏に、奇怪な体験の報告を書いて提出したのであった。

その内容は以下の通りである。

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雲景は、日本国中悉くを修行してめぐった末に、今年の春、思い立って京都にやってきた。

今熊野(いまくまの:京都市・東山区)のあたりに宿所を定め、都の様々な名所を巡礼していたが、京都朝年号・貞和(じょうわ)5年6月20日、天龍寺(てんりゅうじ:右京区)を見物するために嵯峨野(さがの:右京区)に赴いた。

その途中、太政(だじょう)官庁跡(注1)のあたりで、年齢60くらいの山伏に出会い、道を共にする事になった。

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(訳者注1)平安京の内裏は平安時代初期には現在の千本丸太町付近に存在し、太政(だじょう)官庁もそこにあった。
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雲景 いやぁ、わたしはねぇ、今年の春に京都へやって来たんですよ。それまではずうっと、諸国を旅して廻ってました。

山伏 そうですか。ほならもう、都のそこら中、見て回ってはりますやろなぁ。

雲景 えぇ、そりゃぁもう。いろんな所を見て回りましたよ。

山伏 今日もこれから、どっかの見物にお出かけですかいな?

雲景 えぇ。一度、天龍寺を見てみたいなぁと思いましてね。

山伏 ほう、天龍寺ですかいな。

雲景 はい。公家や武家の崇敬あつくして建立された、もうそりゃぁスゲェ大伽藍だと聞きましたのでね、こりゃ是非とも、一目見とかなきゃいかんなぁって思って、それでね。

山伏 あんなぁ、天龍寺もよろしけどな、わしらの住んでる山こそは、日本にまたとない霊地だっせ。どないだ、一度見ていかはりまへんか? よろしかったら、ご案内さしてもらいまっせ。

雲景 ほほぅ・・・日本にまたとない霊地ねぇ・・・そりゃぁ、是非とも拝見しておきたいものですなぁ。

山伏 ほな、今から、いきましょいな。

雲景 わかりました。では、道案内をお願いします。

というわけで、連れていかれたのが、京都西郊の愛宕山(あたごやま:右京区)という高峯(たかね)であった。

雲景 (内心)なるほど、こりゃぁすごい所だなぁ! 玉をしき、金を鏤めた見事な仏閣・・・うーん、まさにここは、一大聖地! この山に足を踏み入れて、自分の信心、ますます深まって来たような気がするよ。ここで、しばらく修行してみたいなぁ。

満身に鳥肌が立つほどの感動に包まれていると、山伏が彼の袖を引いていわく、

山伏 せっかくここまで来はったんやからな、秘密の場所も見したげますわ。きっと、一生のえぇ思い出になりますでぇ。

山伏は、雲景を本堂の後ろに立っている建物へ導いた。

雲景 (内心)いやぁ・・・この建物もまた素晴らしい! これはおそらく、この山のトップ僧侶たちの住坊だろうな。

中をのぞいてみると、多くの人が座していた。衣冠を正し、金の笏(しゃく)を持っている人もおり、茶色の袈裟を着た、いかにも貴僧高僧然とした人もいる。

雲景はかしこまり、縁側に着座した。

身を縮めながら、おそるおそる室内を観察しているうちに、雲景の目は、畳2畳を敷いてしつらえられた上座の上に、釘付けになってしまった。

雲景 (内心)おいおい、いったいあれはなんだ! あの上座に座っている人、翼が生えてるじゃないか!

その男の背中にはたしかに、金でできた鳶(とび)のような翼が生えていた。男は、着座しながら翼をつくろっている。

男の左右に着座している人物たちも、見るからに異様である。右側に座っているのは、身長8尺ほどもあろうかという大男で、大弓大矢を横たえて、かしこまっている。左側には、日月星辰(にちげつせいしん)の模様を織り込んだ礼服を着た人々が、金の笏を持ち、ずらりと並んでいる。

雲景 (内心)あんな模様の服は、天皇陛下しか着ないはず・・・いったい、あの人たちはナニモノなんだろう・・・。いったい、ここはどういう場なんだろうか・・・。

その場のあまりの異様さ、恐ろしさに、雲景は、横にいる山伏の袖を引いていわく、

雲景 (ヒソヒソ声で)ねぇねぇ、いったいここは、どういう場なんですか? あの人たちはいったい、どういう人たちなんですか?

山伏 (ヒソヒソ声で)ははは、さぞかし、ビックリしゃはったやろな。教えたげますわ、今あの上座に座らはったんは、崇徳上皇(すとくじょうこう)陛下ですわ。

雲景 (ヒソヒソ声で)えぇっ! あの、保元の乱(ほうげんのらん)に敗れ、讃岐国(さぬきこく:香川県)に島流しになられた、あの上皇ですか!

山伏 (ヒソヒソ声で)そうです。で、その右にいるのん、あの背の高い男、あれが、源為朝(みなもとのためとも:注2)ですわ。大きな弓、持ってまっしゃろ?

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(訳者注2)保元の乱で崇徳上皇側につき、敗れた源氏の武士。弓の名人。伊豆大島遠流に処された。
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雲景 (ヒソヒソ声で)では、あの上皇の左側に座ってる方々は?

山伏 (ヒソヒソ声で)あれはな、怨み残して亡くなっていかはった、かつての天皇陛下と皇族方ですわ。一番前の方が、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)、孝謙天皇(こうけんてんのう)によって廃位され、淡路島(あわじしま:兵庫県)に流されて、そこでお亡くなりにならはったお方ですわ。

山伏 (ヒソヒソ声で)その次に座ってはんのんは、井上皇后(いかみのこうごう)、光仁天皇(こうにんてんのう)の后やった人です。天皇呪詛の嫌疑でもって、投獄され、獄死しはったお方です。

山伏 (ヒソヒソ声で)三番目のお方は、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう:注3)。そして、そのお隣が、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)陛下。

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(訳者注3)鎌倉幕府倒幕の挙兵を行ったが、戦い敗れ(承久の乱)、隠岐島に遠流となった。
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雲景 (ヒソヒソ声で)エーッ!

山伏 (ヒソヒソ声で)みなさん、尊い位から退けられ、怨みの余り、悪魔王の頭となられた、やんごとなき賢帝方ですわ。

雲景 ・・・。

山伏 (ヒソヒソ声で)その隣からはな、かつての高僧方が、ずらっと並んではりますで。玄肪(げんぼう)、真斉(しんせい)、寛朝(かんちょう)、慈恵(じえ)、頼豪(らいごう)、仁海(にんかい)、そして僧形(そうぎょう)の護良親王(もりよししんのう)殿下。

雲景 (ヒソヒソ声で)なんとなんと! 史上有名な高僧方ばかり!

山伏 (ヒソヒソ声で)かつての天皇陛下方と同様にな、みなさん、大魔王となって、今ここに集合してきてはりまんねんわ。

雲景 (ヒソヒソ声で)いったい何の為に、みんなここに?

山伏 (ヒソヒソ声で)今後、いかにして、日本国中を大混乱に陥れていくか、その戦略会議ですわ。

雲景 (ヒソヒソ声で)エーッ!

雲景は、恐怖にかられながらも、あまりの不思議さにその場を去りがたく、かしこまりながら座していた。

一座の中の長老格の山伏が、雲景を見やっていわく、

長老格の山伏 そこにいる山伏はん、見慣れん顔やな。いったいどこから来はったん?

山伏 あ、いやいや、この方とはな、京都の街中(まちなか)で、たまたま知り会いになりましてな、「愛宕山見物に来はりませんか」言うたら、「いく」言わはったんで、わしがここまで案内してきましたんや。決して、あやしい人ではありませんから、ご心配無く。

長老格の山伏 (雲景に会釈して)そうでしたんかいな、それはどうもどうも・・・。で、どないだ、最近の京都は?

雲景 はぁ・・・。

長老格の山伏 京都での最近の出来事、いろいろと知ってはる事でっしゃろ。何か、変わった事、ありませんでしたかね?

雲景 そうですねぇ、変わった事ですかぁ・・・。事件といえば、桟敷倒壊の事くらいですかねぇ・・・四条河原の猿楽見物の桟敷が、急に倒壊しましてね、たくさんの人が亡くなったんですよ。「未だかつて、このような事故は、あったためしがない、きっと、天狗の仕業であろう」なんて事、京都中の人々が、言っておりますですねぇ。

長老格の山伏 その他には?

雲景 うーん・・・そうそう、将軍家の御兄弟、最近、あまり関係よろしくない、てなうわさもありましたっけ。どうも、執事(しつじ)の高師直(こうのもろなお)殿の事が原因で、コジレちゃってるようですね。

長老格の山伏 ほほう・・・。

雲景 「もしかしたら、この足利ご兄弟の事、天下の一大事に発展してしまうかも」なんてね、もう京都中のうわさですよ。

長老格の山伏 なるほどなぁ、まぁ、それもありうる事かもしれませんけどな、あの四条河原の桟敷倒壊事件な、あれ、天狗の仕業やと決めつけるのは、間違ぉとりますで。

雲景 えっ?

長老格の山伏 なんでかと言いますとな、あの桟敷には、関白をはじめ、梶井(かじい)門跡の宮様、それに、将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)殿まで、見物に来てたというやおまへんか。

雲景 ・・・。

長老格の山伏 考えてもみなはれ、関白言うたら、藤原(ふじわら)氏の出、藤原氏言うたら、あの天津児屋根尊(あまつこやめのみこと)の子孫やがな。そないな尊い血筋に繋がるお人が、天皇陛下を補佐する臣中の、最上の地位に着いてはるわけやわなぁ。

長老格の山伏 梶井門跡の宮様いうたら、今の上皇陛下のご兄弟にして、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)のトップ、言わば、国家護持の統領にして天台宗(てんだいしゅう)の元締めでいらっしゃるお方や。

長老格の山伏 将軍は、言うまでもなく、武士の統領、国の治安を守るべき任にある人ですわいな。

長老格の山伏 ところがや、その四条河原の桟敷たるや、橋を架ける資金集めのために、仏門に所属の世捨て人が興行した猿楽、その猿楽を見物するためのもんやがな。そういう見世物を見に来るもん(者)はというたら、普通はな、京都中の庶民とか商売人とか、そういった人らやがな。

長老格の山伏 そないな場所にやで、日本の政治を司る最高の地位にある人らがやってきて、シモジモのもんらといっしょになって、猿楽見物とは・・・そないな情けない光景を見たら、源氏の守り神の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)も、藤原氏の守り神の春日大明神(かすがだいみょうじん)、比叡山の山王権現(さんのうごんげん)も、そらぁ、カンカンに怒ってしまわはる事やろうて。

長老格の山伏 四条河原の土地を守ってはる地神も、それらの神々の怒りに感応して、ビックリしてしまわはったんやろな、その勢いで、あの桟敷が残らず倒壊してしもぉたんや。

長老格の山伏 実はな、あの時たまたま、わたいも、京都におりましたんやがな。所用があって、村雲(むらくも)にいるお人の所に行ってる間に、あの倒壊が起りましたんや。そやから、わたいは、その現場見ること、できひんかった。

雲景 あのぉ・・・お話のその方、村雲に寺院を構えてる人・・・ええと、たしか、妙吉(みょうきつ:注4)とかいうお人でしたっけ?

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(訳者注4)26-8 に登場。
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長老格の山伏 そうだす、妙吉ですわ。

雲景 あの方って、いったい、どういうお人なんでしょうか? 行徳(ぎょうとく)、権勢、今まさに世に鳴り響いてますよね・・・でも、京都の街(まち)の人々は、「あの人は天狗に違いないぞ」てな事、さかんに言ってるんですよ。これっていったい、どういう事なんですか?

長老格の山伏 わははは・・・それはな、街の連中らの言うてる事が、真実ですわいな。妙吉、あれはね、非常に頭がキレルやつなんで、天狗の中からセレクトされて、人間世界に送り込まれよったんですよ。彼のミッションは、日本を乱世に持っていく触媒の役ですわ。

雲景 エーッ!

長老格の山伏 あの男、世の中を混乱に陥れる事に成功した暁には、また、もとの住処(すみか)に戻ってきますわいな。それにしても、京都中に居場所はいっぱいあるのに、いったいなんで、村雲に住んどるんか? いったいなんでやと思います?

雲景 さぁ・・・。

長老格の山伏 雲は、天狗のノリモン(乗物)やから・・・ワハハハ・・・。

雲景 ・・・。

長老格の山伏 あんたな、わたいが今言うた事、他人にベラベラしゃべったら、あきまへんで! ここへ初めて来はったお人やから、詳しい話を教えたげたんやからね!

雲景 (内心)これはまったく、不思議な事ばかり聞くもんだ。もしかしたら、この山伏、わが国の大事な事とか、未来の安否なんかについても、教えてくれるかもな。

雲景 あのぉ・・・もう一つ、おうかがいしたいんですが・・・よろしいでしょうか?

長老格の山伏 あぁ、なんなりとぉ。

雲景 将軍御兄弟と執事殿の事なんですけど・・・。

長老格の山伏 はぁ。

雲景 あれは、どなたが正しくて、どなたが間違っておられるんでしょうか? 道理の面から見て、どちらに軍配が上がりますか?

長老格の山伏 うーん・・・そうやなぁ・・・足利直義(あしかがただよし)殿と執事の高師直(こうのもろなお)殿との不和、あれは、あと2か月ほどで、重大な局面に至るやろぉなぁ。

雲景 ・・・。

長老格の山伏 あの二人、どっちが正しぃてどっちが間違ぉとるんか・・・これは難しい問題でしてな、何とも言えませんわ。

長老格の山伏 「どっちもどっち」と、言うべきでっしゃろなぁ・・・。あの人ら、かつては、逆況と不運の中にありましたが、そないな時にも、わたいは、あの人らに期待しとりました。今はこないな状況やけど、いつか、政権を握った時には、立派な政治をやってくれるやろう、とね。

長老格の山伏 ところが、富貴充満の今となってはな、わたいが期待してたような事、何一つとして、国政において実行に移す気配すらも、ありませんわいな!

長老格の山伏 足利幕府は、もうメチャクチャや! 上の人らは、もう何も見えてない。下のもんらは、上にへつろうてばっかしや。何かにつけて、幕府要人のえこひいきが、横行しとるやないかい! 神仏の御心にも背き、国中の人々からの人望も完全に失ぉてしもとる。自らの非を一切省みる事なく、互いに他を責め、そしり合う。まさに、獅子身中(しししんちゅう)の虫、ライオンの体内に巣食ってその肉を食らうがごとき連中らの、集まりや。

雲景 ・・・。

長老格の山伏 たまぁに、仁政かと思えるような政策も、打ち出す事は打ち出す。そやけど、それもまた、人々の煩いや嘆きの元になっていきよる!

長老格の山伏 仁とは何か? 国中に恵みを施し、深く民を憐れむ、これが仁や! 正しい政治の道とは、国を治め、人を憐憫(れんびん)し、善悪親疎(ぜんあくしんそ)の区別を越えて、ことごとくの存在を撫育(ぶいく)する事にある。しかるに、昨今の我が国の政治、いったいなんやねん!

長老格の山伏 善政のゼの字も無い、そこにあるのは、欲ばっかしや! 政治の任に当たっとるもんらは、悉く欲心を燃えたぎらせ、君子や父子の道もわきまえず、ただただ、他人の財を我が物にする事ばっかし考えとる。そやから、その口から発せられる言葉はといえば、本心とはかけ離れたもんばっかし、虚言、おべっか、おせじ、ゴマスリ、そんなもん、ばっかしやないかい!

長老格の山伏 そないな人らに、神仏がご加護を垂れたもうはずがあろうか! そやからな、一生懸命になってあれやこれやと計画してみても、一切何も、成就せぇへんのや!

長老格の山伏 たまたま、前世の果報によって、少しの間は国家を統治し、政治を司る事になったとはいえ、これを、ホンモノやと思ぉたらあかんぞ! これから先、長期安定政権を維持していけるもんなんて、誰一人としておらんのやからな!

長老格の山伏 あぁ・・・それにしてもまぁ、なんっちゅう情けない世の中に、なってしもぉたんやろか・・・。国家の主たる天皇陛下を軽んじ、神や仏も畏れる事のない、末世の世の中やからなぁ、政治かてそらぁ、乱れるわけやわ。

長老格の山伏 えぇわい、えぇわい、権力をめぐって、醜い闘争を続けるがえぇ。悪逆の道を行くもんどうし、せいぜい争い合ぅて、次々と、政権交替を繰り返してったら、えぇねん。嫉み合い、非難し合うもんどうし、残らず滅びて行く事、間違いなしや!

長老格の山伏 今の幕府の連中らの言う事なす事、ほんま、笑えてくるで・・・。まるで、山賊と海賊の非難合戦や、「おまえら海賊の方が、わしら山賊よりも罪が重いぞ」、「なにいうとる、おまえらよりか、わしら海賊の方がよっぽどマシじゃ」とかいうてな・・・ワハハハ・・・。

長老格の山伏 だいたいがや、あの男が政権の座につきよった時から、世の中、おかしぃなってしもたんや。あの、源頼朝(みなもとのよりとも)がなぁ。

長老格の山伏 頼朝が鎌倉に幕府を開きよってから、北条高時(ほうじょうたかとき)に至るまで11代、東国の下層階級たる武士のブンザイで、この日本の主になって、大きな顔してきよったわい・・・。ここからしてが、すでに間違いなんやが、こないな末世の世の中や、これも致し方ないやろて。時代の流れ、様々な出来事、すべては、現世の道理だけで動くもんではない、過去からの深い深い因縁があって、そういう事になっていくんやから、そら、仕方がないわなぁ。

長老格の山伏 臣下が君主を殺し、子が父を殺す、まさに、力をもって争う世相、下克上(げこくじょう)の世の中や。身分の高い公卿、いや、天皇、関白であろうとも、共に力を失い、下輩(げはい)下賎(げせん)の者どもらが、天下を併呑(へいどん)、武士どもが、天下の権を掌握してしまいよったわ。

長老格の山伏 こないなったのは、誰のせいでもない、時代の流れ、人々の思想傾向、そういった歴史の構成要素が一定の状態に達した結果、因果業報(いんがごうほう)、過去から積み重なった業の結果が現れる時が、ついに来たったというわけや。

長老格の山伏 天皇陛下を遠い島へ流し奉り、天下に悪を行った北条義時(ほうじょうよしとき)は、まことにけしからん人間やけどな(注5)、前世に積んだ善因が残っている間、その子孫は、朽ちる事無く繁栄していったわいな。その子孫もまた、善政を行い、常に己を反省しては天下に徳を施したから、国は豊かに栄え、民が苦しむ事は無かった。

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(訳者注5)承久の乱の戦後処置で、後鳥羽上皇を隠岐島に遠流した事を言っている。
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長老格の山伏 しかしながら、その善因もついに尽き果て、北条家の命運は傾きだした。天の心にも背き、神仏も北条家を見放されるようになってしもぉた。そやから、後醍醐先帝の朝廷は、北条高時を討伐する事ができたんや。これは必ずしも、先帝陛下の聖徳ゆえに成った事ではない、北条家の自滅の時が来たからや。それが証拠に、もっと昔、後鳥羽上皇の時は、いったいどうやったか? 後醍醐先帝の時よりも、朝廷の権威はもっと強く、鎌倉幕府の力はもっと弱かった。そやのに、承久の乱に、朝廷は負け、幕府が勝ったやないか。

長老格の山伏 朝廷対武士階級、どっちが優勢になるか、それは全て、時の運次第。今は末世濁乱(まっせいだくらん)の時、武士階級は最終的勝利を得る事はついにかなわず、朝廷はかろうじて完敗からは免れるやろう・・・階級闘争の決着、それは階級の貴賎が決めるんやない、運の興廃、ただこれのみや。

長老格の山伏 あんさんもまぁ、こういったような事を、胸の中によぉよぉ刻んどかれたら、よろしいのんちゃいますかぁ・・・ハハハハ・・・。

雲景 フーン・・・。

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さらに、雲景は質問を続けた。

雲景 北条高時の滅亡後、ようやく政権を手中にされた後醍醐先帝でしたが、それも長続きしませんでしたよねぇ。これはいったい、どこに原因があったと、お考えですか?

長老格の山伏 まぁなぁ・・・それには、そうなるだけのわけがありますわいな・・・。たしかに、後醍醐先帝は、古の賢帝の治世に習うて、善政を行おうと、ずいぶん努力はしはった。そやけど、結局のところ総体的に見て、真実の仁徳を民に施して撫育するっちゅうような、ご叡慮に欠けておられた、としか言いようがないわなぁ。

長老格の山伏 絶えたる美風を復活させ、廃れたる道を再興する事に情熱を傾けられ、神明仏陀(しんめいぶっだ)への帰依の心も、随分と深いもんが、あおりになるように見えた。そやけどな、一皮剥けば、そこにあるのは驕慢(きょうまん)の心ばっかしやった、誠の心っちゅうもんが、おありにならんかったわなぁー、ハァー・・・(溜息)

長老格の山伏 ・・・まぁ、そうは言うてもや、世は末世やからな、そないに立派な君主が出てこられるはずが、ないやないか、ぜいたく言うたらあかんわなぁ、ハハハ・・・なにかにつけ、古の賢帝の真似事をする事に努められた、まぁ、これだけでもよしとせな、あかんわいて・・・。まさに「うわべだけの徳」やったけども、その徳の功徳によって、しばしの栄光を獲得しはったというわけや。今にも消えなんとしておる北条高時の運命の灯を、完全に消し止めてしまう、その扇の役目を、果たさはったというわけや。

長老格の山伏 まぁ、こないなわけで、先祖代々の繁栄四海に満ちた北条氏の最後のリーダー、北条高時を滅ぼす事には成功された。そやけどなぁ、あぁ悲しいかな、実の所、古代中国の聖帝、あの堯(ぎょう)や舜(しゅん)のような高大な徳というものが、おありにならない。それゆえに、高時よりもさらに劣るような存在である、あの足利氏に、権力を奪われてしまわはったというわけや。

長老格の山伏 かたや、もう一方の皇室、すなわち京都朝廷の方は、どないかと言うとやな・・・もう完全に、随順してもてはるわいな、ついに家運開けて政権を掌握するに至った足利家になぁ。その姿はまるで、幼児が乳母を頼むがごとく・・・もう、パシリ同然やわなぁ。(注6)

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(訳者注6)原文では、「今持明院殿は中々権を執り運を開く武家に順(したがわ)せ給て、偏に幼児の乳母を憑(たのむ)が如く、奴と等しく成て御座程(おわしますほど)に」。
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長老格の山伏 京都朝廷が、あないしてうまい事やってはんのんもなぁ、なにも、民を慈しみ治める善政をしておられるからとかな、そないな事とは、ちゃうんやでぇ、ただ運が良かった、それだけのこっちゃ。朝廷や上皇陛下、天皇陛下、いかにもその地位は安泰に見えたるけども、その実態は、ただ形だけの位や。実質もなぁんもない、名目だけの政治権力や。

長老格の山伏 そらな、京都朝廷の方々かて、今のこないな状態、決して本意ではないやろて。そやけどな、もはや理屈にこだわられる事も無く、権力欲もきれいさっぱり打ち捨ててしまわはってるからな、これは案外、末代に至るまで長続きしていけるかもなぁ。この邪悪に満ち満ちた世界の中にも、いつかは、その運が花開く時も来るんとちゃうやろか。

長老格の山伏 とにもかくにも、王法(おうぼう)徳治主義(とくちしゅぎ)のイデオロギー、すなわち、天皇の威徳をもって国を治めていこうという政治路線は、平氏が天下を握った時点で、完全に破綻(はたん)してもた。その後の日本の政治の潮流はご覧の通り、武力無くしては何もできひんようになってしもうた。ところが、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)陛下は、そこらへんの事に何のご理解もないままに、世の中を昔の状態に戻してしまおうとされたんや。自らの仁徳聖化のレベルが古の君主に及ばない事をも省みられずに、政治権力獲得の欲望だけが、先走りしてしまわれたんやなぁ。

長老格の山伏 現代末世の時代潮流は、完全に関東の武士階級の方に傾いてしもとる、彼らの側にフォワードの風がビュンビュン吹いておる、そういった歴史の流れっちゅうもんをな、後鳥羽上皇陛下は一切お悟りにはなれへんかった。そやから、打倒鎌倉幕府の試みも空しい結果に終わり、以来、朝廷と公家の威勢は、地に落ちてしもうたんや。

長老格の山伏 後鳥羽上皇陛下の無念を晴らすべく、後醍醐先帝陛下は再度、倒幕の兵を起され、首尾よく北条高時を滅亡に追い込まれた。そやけど結局のとこ、朝廷と公家の側には、ついに天下は戻ってはこんかった。

長老格の山伏 ここで問題になってくるんが、なんちゅうても、三種神器(さんしゅのじんぎ)やわな。これは言うまでもなく、朝廷の宝として、神代(かみよ)の昔から伝えられてきた天皇権の象徴ともいうべきもんや。国を治めるにしても守るにしても、この神器なくしては、到底不可能やわな。

長老格の山伏 この神器、代々の天皇がその後継者に、着実に伝えてきはったという事、これこそが、極めて重要なポイントなんや。ところがやなぁ、京都朝廷の今上陛下(きんじょうへいか)は、この神器を伝えられる事もないままに、即位されてはるんやなぁ・・・(注7)。こないな事では、真の天皇の位に付かはったとは、到底言い難いんとちゃうやろか?

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(訳者注7)京都朝の現在の天皇(崇光天皇)が、三種神器無しに皇位を継承した事を言っている。三種神器は吉野朝が保持しているのだ。
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長老格の山伏 とはいうもんのな、さすがに、即位の儀、御禊(ごけい:注8)の儀、大嘗会(だいじょうえ)と、皇位継承に伴う三つの儀式を済ましてきはったんで、アマテラスオオミカミも、三種神器を欠いた状態であってもあえて、今上陛下を守護せんと決意しはったと、そう思えるフシも無いでは無い。

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(訳者注8)鴨河原にて禊(みそぎ)を行う儀式。
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長老格の山伏 それにしても、この三種神器、わが国の至宝として、神代の始めより人間天皇(注9)の今に至るまで、代々受け継がれてきたっちゅうことは、ほんまに不可思議にして貴いこっちゃわい。この神器あればこそ、この小国日本は、インドや中国をも超えた存在になれたと言っても過言ではないわ。そやからな、三種神器を持ってはらへん天皇なんて、月が沈んでしもうた後の、明け方近くの夜空みたいなもんなんや。

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(訳者注9)原文では「人皇」。
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長老格の山伏 三種神器を欠いたままに即位される帝王の出現という事実、これぞまさしく末世の象徴という他はないわ。この事を通してな、日本の神々もついに天皇の治世を見放されたと、我々は深く認識すべきやとな、わしは思うでぇ。

長老格の山伏 三種神器はな、平家滅亡のあの時、そうや、あの安徳天皇(あんとくてんのう)が瀬戸内海をあちらこちらと巡られた末に、壇の浦(だんのうら:山口県・下関市)の海底に沈まれた時に、天皇と共に海に沈んでしもたんや。ヤサカノマガタマとヤタノカガミは、海から上がったけど、アメノムラクモノツルギだけは、ついに海底に沈んだまんま、見つからずじまいになってしもうた。悪い帝王の出現もあったとはいえ、安徳天皇の御代までは、なんとか保たれ続けてきてた天皇治世の正当性も、その時ついに消滅してしもぉたと、いうこっちゃわい。(注10)

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(訳者注10)原文では、「されば王法悪王ながら安徳天皇の御時までにて失はれはてぬる証は是也。」
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長老格の山伏 三種の神器なくして天皇に即位されたんは、実は、今上陛下が初めてではない、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が最初や。元暦(げんりゃく)年間に、上皇は即位され、その子孫が皇統(こうとう)を継承されて今日にまで至ってる。

長老格の山伏 今にして思えば、その、まさに元暦の時にこそ、武士の天下は始まったんやわなぁ。幕府が鎌倉に開設され、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・源頼朝(みなもとのよりとも)が幕府の長として国中に号令するようになり、それ以降、天皇権がないがしろにされてしまうような事態が生じ始めた、というわけや。まさにこの、武士階級の権力が天皇のそれを凌ぎ始めた事の象徴として、鎌倉幕府成立と時同じく、アメノムラクモノツルギは海底に失われてしもぉた、というわけや。

長老格の山伏 武士階級は、その後ぐんぐん威勢を増して、ついに、国家権力を朝廷より奪うに至った。ところが、源家の血統は、あえなく三代で途絶、政権は、北条氏の手にバトンタッチされた。その後100余年間(注11)、武士階級は、意のままに天下に権を行使。とはいうものの、天皇位は温存され、朝廷による文治の道もかろうじて、命脈を保たれた。北条氏がリードする鎌倉幕府は、まがりなりにも政治の正道をわきまえ、天皇権を崇め奉る体を保った。日本全国に守護(注12)を置きはしたものの、守護たちも分をわきまえ、朝廷諸官庁の予算充足のための国税や、神社や寺院が昔から所有してきた領地に対しては、一切手を出さなんだ。ここまでは、まぁ、よかったとしようやないかいな。

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(訳者注11)原文では、「仍(すなわち)武威昌(さかん)に立て国家を奪う也。然共(しかれども)其(その)盡(つき)し後百余年は」。

(訳者注12)原文では、「総追捕使(そうついぶし)」。
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長老格の山伏 そやけどなぁ、そこから後は、もうあかん。過去に積んできた功徳の果報によって、かろうじて維持されてきた朝廷の権力・・・しかし、後醍醐先帝陛下は、鎌倉幕府を倒してしまわはった。鎌倉幕府は、朝廷にとっての生命維持装置みたいなもんやったのに・・・。その後、朝廷と公家階級はサンタンたるもんや。結局のところ、政権は再び朝廷の手中から失われ、鎌倉幕府があった頃よりも、さらに天皇権は衰退し、公家はよりいっそうの退勢に追い込まれてしもぉた。

長老格の山伏 そしてついに、三種神器は、薄運の天皇(注13)と共に、空しく辺境の土地に移動してしもぉた。とうとう神々も、朝廷を完全に見放されてしもぉたというわけや・・・。この三種神器が都の外に出て行ってしもぉたという事、これこそが、天皇の権威は余す所なく完全に崩壊してしもぉたという事の、何よりの証拠やわなぁ。まさに、元暦の安徳天皇の時とおんな(同)じやないかいな。三種神器が、帝位を受けられた君主の側に存在しいひんということは、まさに、神器が国を守ってくれてないという事や。

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(訳者注13)原文では、「微運の君」。吉野朝廷の天皇の事を言っている。
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長老格の山伏 このように、神の道も帝王の法も、共に消滅した世の中になってしもぉたんや。そやから、上は廃れ、下はおごって是非をわきまえる事がない。もう世の中、ムチャクチャや!

長老格の山伏 ま、そういうこっちゃからな、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)の今後の運命、足利兄弟のこれからの幸運・不運、わしにはとんと、予想もつかんわいな。

雲景 ・・・ってことはですね、この乱れたワルイ世の中、この後もずっと続いていく? 下が上に逆らい、高兄弟のわがまま放題でもって、わが国の政治は今後も動かされていくって事ですか?

長老格の山伏 いやいや、そうは、いかんやろぉて。いかにも、末世濁乱(まっせいじょくらん)の時流であるからして、まずは、下が勝利を得て上を犯す。しかしながら、上を犯したその罪は逃れがたい。ゆえに、下もまた、その罪に伏す事になる。

長老格の山伏 そもそもや、足利兄弟自身が、自らの上位におられる上皇陛下や天皇陛下、敬い奉るべき方々の権威を、犯したてまつってしもてるやろ? そやからな、執事の高師直やその他の家臣らもまた、自らの上に立つ足利兄弟を軽んじていく、これぞまさしく、因果の道理っちゅうもんやわいな。他に対してした事は、必ず、自分に帰ってくるんやわなぁ。

長老格の山伏 そのうちな、大地が空の中心を呑んでしまうような、一大変事が起こるやろぉて。さぁいよいよ、「下克上の世」のスタートや。足利兄弟に対して、高師直が優勢になることやろう。その後、天下は大いに乱れ、父子兄弟どうし、怨みあい憎しみ合い、わが国の政治はますます乱れていってしまうやろう・・・世の中、そうそう簡単には静かにならんでぇ。

雲景 ・・・ふーん、そういうもんですかぁ。

雲景は、自分をここに案内してくれた例の山伏に、小声でたずねた。

雲景 (ヒソヒソ声で)それにしても、あの人はすごいですねぇ、世の中の事を、まるで鏡に写して見るかのように、何から何まではっきりと話してくださる・・・あの人は、いったいどういう人なんですか?

山伏 (ヒソヒソ声で)いやいや、あの老山伏こそがね、世間の人々が扱いかねて困ってる、「愛宕山の太郎坊(あたごやまのたろうぼう)」ですよ。

雲景はさらに、天下の安危、国の治乱について、長老格の山伏に質問しようとした。

その時、にわかに猛火が襲い来たった(注14)。

長老格の山伏 ウ!ウ!ウ!ウ・・・。

室内に集う一同 ウワー! ウグー! ギャー! グウェー!

雲景 アァッ!

室内にいる者全員、炎にまかれて七転八倒(しちてんばっとう)しはじめた。雲景は夢中で室を飛び出し、門まで走った。

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(訳者注14)天狗たちは毎日、炎熱に苦しまなければならない。25-2 を参照。
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門の外へ走り出た瞬間、周囲の景観が一変した。

雲景 あれ? いったいどうなってんだ? ここは、いったいどこ?

雲景の眼前には、椋(むく)の大木があった。

雲景 な、な、なんと・・・ここは大内裏跡(だいだいりあと)じゃないか。これは例の椋の木だな・・・。おかしいなぁ、さっきまで、愛宕山にいたはずなのに・・・。

雲景はただただ、大内裏跡に生える椋の木の下に、呆然としてたたずむばかり。たった今、夢から醒めたような心地である。周囲を見回せば、日はすでに西山に入りかけている。

京都中心部に行く多くの人々に混じって、雲景はようやくの思いで、宿にたどりついた。

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宿で一息ついた後、彼は、心静かにさきほどの不思議な現象を回想した。

雲景 (内心)・・・うーん・・・。

雲景 (内心)・・・まちがいない、あれは天狗界だ! あの時、自分は疑いなく、天狗界・超空間に、迷い込んでたんだ!

雲景 (内心)あの長老格の山伏・・・いや、「愛宕山の太郎坊」か・・・あそこで彼が語ってくれた事、このまま忘れてしまってなるものか! あの言葉通りだったら、この先、世の中、大変な事になっていくじゃないか!

雲景 (内心)あの話、後世の人々への、今生きている人々への、重大な警告だぞ。これは何としてでも、広く世に伝えとかなくっちゃ・・・たとえ、どのような刑罰に伏する事になったとしても・・・。

雲景は、太郎坊が語った事を、熊野・午王宝印(ごおうほういん)護符の裏に告文として詳細に書き記し、その最後に、「貞和5年6月3日記す」と書き付けて、京都朝廷に提出した。

まことにもって、怪奇な事件という他は無い。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月22日 (木)

太平記 現代語訳 27-2 四条河原・桟敷倒壊事件

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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世間の声A それにしても、今年はほんまに、キッカイ(奇怪)な事ばっかし起こりますわなぁ。

世間の声B キッカイちゅうたら、これもまたまた、キッカイな話やと、思えてしゃぁないんやが・・・あんなぁ、最近京都中、猫も杓子(しゃくし)も、田楽(でんがく)、田楽言うて、えらい騒ぎやがな。いくらなんでも、ちと度が過ぎてるんちゃうかい?

世間の声C そうですなぁ、ほんま、田楽はチョウ人気ですわ。将軍はんも、メッチャ田楽にイレこんだはるみたいですやん。

世間の声D あのお人が、田楽にイレこんだはるとなったら、そらぁもう国中、右へならえですからなぁ。

世間の声E もうみんな、なぁ(何)も手ぇつかへん。朝から晩まで田楽、田楽、せっせせっせと、金の浪費や。

世間の声F あのっさぁー、みんなっさぁー、憶えてるっかっなぁー? 鎌倉幕府滅亡の時の、最高権力者だった人んこと。

世間の声A あんたのお言いやしとん、北条高時(ほうじょうたかとき)はんのことですかいなぁ?

世間の声F そうだっよぉー、高時だよぉ。あの男も、えらい田楽にイレ込んでたわよねぇ。で、そのあげく、あのザマっさねぇ。北条家も、あの男でとうとう断絶しちゃったんだよねぇー。

世間の声B なるほどなぁ、そう言われてみると・・・。

世間の声F 将軍さんもっさぁ、いいかげんにしとかないとっさぁ、この先、足利家、あんましイイ事ないんじゃぁ、なぁい?

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京都朝年号・貞和(じょうわ)5年(1349)6月11日、一人の修行の旅僧が、一大公共事業を思い立った。京都の鴨川(かもがわ)に、四条(しじょう)大橋を架けようというのである。(注1)

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(訳者注1)四条通りと鴨川とが交差する場所への架橋。現在の四条大橋がかかっている、まさにその場所。
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彼は、その資金集めの為に、「四条河原・紅白田楽合戦」の興行を企画した。(注2)

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(訳者注2)興業を行って得られた利潤を、架橋建設費用に充てようというのである。現代においても、このようなイベントが開催されることもあるかも。
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さっそく、鴨川の四条河原に、舞台の設営が始まった。

京都の住人G えーっ! 「紅白田楽合戦」やてぇ!

京都の住人H いったいなんですのん、それ?

京都の住人I なんでもな、新座と本座の田楽ダンサーを合わせた後にやな、彼らを「ベテラン組」と「若手組」の紅白に分けてやな、そいでもって、互いに芸を競わせる、とかいう事らしいで。

京都の住人J うわぁ! という事はですよぉ、今をときめくダンサーたちが一同にっちゅう事ですやん。すごいわぁ!

京都の住人K あぁ、こらぁ、見逃せまへんなぁ。

京都の住人L うち、ぜったい、見にいくしぃ!

京都の住人M うちも!

田楽合戦興行の予告を聞いて、京都中の男女は上下を問わず、興奮の極に達した。

まず、要人たちが、当日の催しを是非とも見物しようと、四条河原に観覧用桟敷の建設を始めた。

朝廷においては、摂政・二条良基(にじょうよしもと)をはじめ、諸大臣たち、

宗教界からは、天台座主(てんだいざす)・梶井門跡(かじいもんぜき)・尊胤法親王(そんいんほっしんのう)、

幕府からは、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・足利尊氏(あしかがたかうじ)。

こういった人々の桟敷の建設が始まるや否や、その下位の人々は言うに及ばず、公家に仕える侍、神社仏閣の神官や僧侶までもが、我も我もと。5寸、6寸、8寸、9寸と様々の太さの阿武産(注3)等の材木を使い、穴をくりぬいて組み合わせ、3重4重に、おびただしい数の桟敷を建設。その周囲は83間、まさに一大壮観である。(注4)

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(訳者注3)長門国・阿武郡(山口県・萩市)で産出された材木。

(訳者注4)[太平記 鎮魂と救済の史書 松尾剛次 著 中公新書 1608 中央公論新社] の 140ページ に、以下のようにある。

 「・・・新座(奈良田楽)と本座(京都白川田楽)の田楽師が招かれ、芸比べを行った。四条河原には見物者用に桟敷が造られた。・・・」
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そしてついに、待ちに待った「四条河原・紅白田楽合戦」の日となった。

車や馬が殺到してきて、四条河原をくまなく埋めつくした。幔幕(まんまく)は風に飛揚し、薫香(くんこう)が天に散漫していく。

舞台の東西には、2個の楽屋が設置されており、それらと舞台との間には橋がかけられている。田楽ダンサーたちは、その上を通って舞台に登場するのだ。楽屋の幕は絞り染、天蓋の幕は金襴、ゆらゆらと風に揺らぎ、まるで炎が立ち上っているかのようである。

舞台の上には、木製の椅子や縄製の椅子が並び、紅緑の毛氈(もうせん)を敷いた上には、豹や虎の皮が敷かれている。その目にも鮮やかな舞台を見ていると、うっとりとなってきてしまう。

やがて、舞台の上に楽師たちが、しずしずと登場し、着席。

いよいよ定刻、舞台の上に、進行役が現れた。

進行役 えー、エヘン、エヘン・・・スゥー(大きく息を吸う音)・・ルレイディーズ(ladies)、アェーンド(and)、ジェントルメーン!(gentlemen) 長ぁらくお待たせいたしました! いよいよ、皆様お待ちかね、「四条河原・紅白田楽合戦」の、はぁじまり、はじまりぃー!

聴衆一同 うわー、きゃー、パチパチパチパチ・・・ピィピィピィピィ・・・。

進行役 本日この日の晴れ舞台に立つ為に、田楽ダンサー一同、そらもぅ、不眠不休の練習を続けてまいりましたぁ! その成果、これからトップリと、見ていただきましょかいなぁ!

聴衆一同 うぉー、きゃぉー、ピィー、ピィー、パチパチパチパチ・・・。

進行役 それでは・・・ミュージック、スタートォ!

楽師たちが、爽やかなる前奏曲を奏ではじめた。

鼓 パン・・・ポン・・・ピン・・・ポン・・・

笛 EーEーDCDEFGECGE、DーDーEDCBAGBDBGー、・・・。

聴衆一同 ・・・。

舞台の上に響き渡る雅やかな調べに、全聴衆は、みじろぎもせずに、じっと耳をすませて聞き入っている。

さぁ、いよいよ田楽ダンス開始である。東西双方の楽屋で、鼓を鳴らし始め、笛の音合わせが始まった。

鼓群 ポン・・・ポン・・・ポン、ポン、ポン・・・。

笛群 ビー、ピー、ヴワーン・・・ビー、ボー、ボー・・・。

聴衆一同 ・・・。

やがて、東の楽屋から、花も匂わんばかりの、紅粉で化粧した美麗なる童子が8人練り出してきた。全員、金襴(きんらん)の狩衣(かりぎぬ)を着ている。

同時に、西の楽屋からは、白く清らかなる僧侶姿のダンサー8人が登場。薄化粧してお歯黒をし、様々の花や鳥の柄を織り込んだり染め込んだりした狩衣、銀を散らした紫色の袴の裾を結び、拍子を打ちながら、狩り用の笠を傾けて、進み出る。そのきらびやかな姿は、言葉にも尽くしがたいほどの見事さである。

簓(ささら)(注5) パシリリリン・・・パシリリリン・・・。

拍子木(注6) カキーン、カキーン・・・。

第一番の簓を打つは、本座の阿古(あこ:注7)、拍子木(注6)は、新座の彦夜叉(ひこやしゃ:注7)、刀玉(かたなたま:注8)は道一(どういつ:注7)、各々、神業のごとき名人ゆえ、聴衆はただただ恍惚として見入るばかり。

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(訳者注5)竹や細い木などを束ねたもので、打楽器として使われていた。

(訳者注6)原文では、「乱拍子は新座の彦夜叉」。

(訳者注7)いずれも、田楽ダンサーたちの芸名である。

(訳者注8)刀を投げ上げて手で受けとる、というパーフォーマンス。
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かくして、最初の手合わせは終わった。

進行役 いやぁみなさん、いかがでしたやろか? 大いにお楽しみになられたようですなぁ! いやぁ、それにしても、なんちゅう見事な芸でっしゃろなぁ! そらそうですわなぁ、今日の演者は、日本国中のトップタレントぞろいですからねぇ。

進行役 そやけどな、もっとスゴイんは、これからだっせ!

聴衆一同 ウーン!

進行役 さぁ、では、行きましょう、次なる演目は、「あらたかなり、日吉山王権現示現利生(ひよしさんのうごんげんのじげんりしょう)」!

聴衆 ・・・(かたずを呑む)

進行役 演者の皆様方、用意はよろしいか? よろしいですな? はい、ではスタートォ!

謡方N はぁーーーぁ!

謡方O やぁーーーぁ!

謡方P いやぉー!

鼓Q ポン!

謡方N いやぉー!

鼓Q ポン!

謡方全員 いやぉー!

鼓全部 ポン!

謡方全員 いやぉー!

鼓全部 ポン!

演奏と共にしずしずと舞われる優雅な舞踊に、聴衆は心奪われていた・・・と、その時、

謡方全員 いやぉー! いやぉー!

鼓全部 ポン・・・ポン・・・ポン・・ポン・・ポン・ポン・ポンポンポンポンポン・・・。

聴衆一同 オ・オ・オ・・・・!

やにわに、新座側の楽屋から、猿の面をかぶった8、9歳ほどの童子が一人、舞台の上に飛び出してきた。新座所属の若手ホープである。赤地の金襴の打掛(うちかけ)を着、虎皮の靴を履いている。

御幣を差し上げ、テンポ(tempo)・アレグロ(allegro)で刻まれる急拍子に合わせ、舞台の上を所狭しと、まさに本物の猿のように駆け回る。紅緑の反り橋を斜めに渡ったと思えば、その欄干の上にすっと飛び上がる。まるで平均台運動を行っているかのように、細い欄干の上を、左へ回り右へ曲(めぐ)り、宙返りしたと見るや否や、次の瞬間、空中高く跳躍。

そのしなやかな身のこなし、その身体移動のスピード、跳躍ポイントの高さ、空中浮揚時間の長さ、とても、この世の人間とは思えない、まさに、日吉山王権現の憑依を受けて、このような驚異の超パーフォーマンスが今、聴衆の眼前に示現されているのであろうか・・・。

聴衆は、興奮の極みに達した。

聴衆一同 ウワァー! キャァー! ウワァー! ウワァー! キャァー!

聴衆の大歓声は四条河原を覆いつくし、しばし、静まる所を知らない。

その時、足利尊氏の桟敷のあたりで、一人の美しい女性が、練り絹の衣服の褄(つま)を手に取りながら、立ちあがった。

彼女は、手に持った扇で、幕を揚げた。すると、

桟敷 ドドド・・・バシバシバシ・・・ドシャドシャドシャ・・・バリバリバリ・・・。

上下249間の桟敷の全てが、将棋倒しのごとく、一斉に倒れた。あっという間の出来事であった。

崩れ落ちてくる太い材木に当たって、即死する人は無数。

窃盗の機会を窺って、田楽会場にたむろしていた盗人らは、このドサクサに紛れて、さっそく仕事を始めた。悪運の強い者は、他人の太刀や刀をとっさに奪ってその場から逃げおおせ、そうでない者は、持ち主によって、その場に切り倒される。

腰や膝を打ち折られる者あり、手足を打ち切られてしまう者あり、あたり一面、ウメキ声が充満している。自分が抜いた太刀や長刀に、自らの身体のここかしこを突き貫かれて血にまみれる者もいる。お茶の為に沸かした熱湯を頭から浴びて、おめき叫ぶ者もいる。あの八熱地獄(はちねつじごく)の中に存在するという衆合地獄(しゅうごうじごく)、叫喚地獄(きょうかんじごく)の罪人の惨状もかくや、と思われるほどの状態が、ここかしこに展開されている。

田楽ダンサーは鬼の面を着けながら、装束を奪って逃げていく盗人を、赤い棒を打ち振って追い走る。見物にやってきた女性をひっさらい、かき抱いてそこから逃げようとする者、その後を抜刀して追いかける家臣たち、中には、刀を抜いて反撃に打って出ている盗人もいる。

あたり一面、刀で切られ朱に染まる者が充満、阿修羅(しゅら)たちの戦闘、地獄の獄卒(ごくそつ)たちの呵責(かしゃく)を、まさに今、眼前に見るの感がある。

「田楽鑑賞中の梶井門跡(かじいもんぜき)、腰に打撲傷を負う」と聞いて、さっそく誰かが、一首の歌を作り、四条河原に立てた。

 釘打って 造った桟敷 倒壊や 欠陥商品やで 鍛冶ィ屋(かじいや)の宮(みや)さん

 (原文)釘付に したる桟敷の 倒(たおる)るは 梶井宮(かじいのみや)の 不覚なりけり(注9)

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(訳者注9)「釘」と「梶=鍛冶」とをかけている。「鍛冶屋の宮さん、桟敷を倒壊させるような不良品の釘作ったら、だめでしょうが」の意。
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また、関白・二条良基(にじょうよしもと)も、その田楽見物の場にいたと聞いて、

 田楽(でんがく)の 将棋倒し(しょうぎだおし)の 桟敷(さじき)の上 王様(おおさま)だけは いいひんかった

 (原文)田楽の 将棋倒(だおし)の 桟敷には 王許(ばかり)こそ 登(あが)らざりけれ(注10)

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(訳者注10)「将棋」と「王」とをかけてある。「王」とは天皇、上皇を指しているのであろうか。「関白などという高貴の地位にある人までもが、このような到底高尚とは言い難いような見世物(田楽)をノコノコと見物に行き、そのあげく、将棋倒しの惨事に遭遇してしまったではないか。天皇や上皇まで見にいっていたら、もうそりゃ大変な事になっていたろうなぁ」の意であろう。
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「これはまったくタダゴトではない、きっと、天狗か何かの仕業であろう」ということで、さっそく当局は捜査を開始。その結果、以下のような、驚くべき証言が得られた。

比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)・西塔(さいとう)エリア・釈迦堂(しゃかどう)の長講会(ちょうこうかい)講師の任にある僧侶が、当日たままた、所用を果たすために、比叡山を下り、京都へ向かっていた。

道中、一人の山伏(やまぶし)に出会った。

山伏は、僧侶にいわく、

山伏 これから四条河原でな、一世一大の見物が上演されるっちゅう話ですわ。あんたも、見に行かはったら、どないだす?

僧侶 へぇ、そうですかいなぁ、そら惜しい事したなぁ。そないなケッコウな催しもんがあるんやったら、もっと早ぉに、山、下りてくるんやった。もう昼過ぎですやんか、今から見に行っても、とても間にあいませんわなぁ・・・。いや、それにな、たとえそこへ行けたたとしてもですよ、桟敷の予約も何もしてませんから、中へ入れてもらえませんわ。

山伏 いやいや、心配ご無用。中へは簡単に入れまっさ。なんやったら、わたいの後に、ついてきなはれ。

スタスタと歩き出した山伏の後ろ姿を見ながら、僧侶は、

僧侶 (内心)一世一大の見物やてかぁ・・・あの人がオーヴァーに言うてるんやなかったら、そらほんまに凄い見物なんやろうなぁ・・・。よし、いっちょ、行ってみよ。

僧侶 あ、ちょっと、ちょっと、待ってくださいな。私もお伴させてもらいまっさ。

僧侶は、山伏の後を追って歩み出した。

不思議や不思議、たった3歩進んだだけで、僧侶は四条河原に着いてしまった。

僧侶 なんやなんや、これは! いったいどないなってんねん! まぁなんと不思議な事やなぁ・・・。

田楽の開演時刻が迫っていたのであろう、今まさに、桟敷の外門が閉められようとしている所であった。何とかそこは通過したものの、入り口の木戸は、既に閉ざされてしまっていた。

僧侶 あんた、いったいどないして、この中へ入るっちゅうんですか?

山伏 ハハハ、わたいに任せとき。さ、わたいの手につかまりなされ。

僧侶 エェー、いったいどないするんですか?

山伏 決まってますやんか、二人でいっしょに、あの木戸を飛び越えてな、桟敷の中に入るんです。

僧侶 (山伏の手につかまりながら)(内心)ほんまかいなぁ・・・そないな事できるはずが・・・あぁっ!

山伏は、僧侶を小脇に挟むやいなや、跳躍した。三重に設営されている桟敷群の上を、二人の体は軽々と飛び越え、足利尊氏の桟敷へ着地した。

僧侶 (内心)おいおい、これはまたエライ桟敷に飛び込んでしもたで。なんと、将軍様の桟敷やんか!

僧侶 (内心)うわぁ、この桟敷にいるのん、幕府のオエラガタばっかしやん・・・将軍様、仁木(にっき)家、細川(ほそかわ)家、高(こう)家、上杉(うえすぎ)家のお歴々・・・。

僧侶 (ヒソヒソ声で)ちょっとちょっと、あんた! こないなとこに、我々シモジモのもんが入ったらあきませんで! 見つかったらエライこっちゃがな。

身をすくめる僧侶に対して、山伏は、

山伏 (ヒソヒソ声で)大丈夫やて! えぇから、わたいにまかせときなさい。ほれほれ、そのへんに座ってな、ゆっくりと田楽見物しましょいな。(僧侶の手を引き、桟敷の一角に導き、着座)

僧侶 (着座しながら)(内心)うーん・・・こないな事言うてるけど、ほんまにえぇんかいなあ? それにまぁ、他に座る場所もあるやろうに、よりによってエライ場所選んだもんやで、将軍様のモロま正面やんか・・・ほんまに大丈夫かぁ?

不思議な事に、尊氏は、彼らを見とがめるどころか、

足利尊氏 さ、さ、どうぞ、どうぞ、召し上がれ。

尊氏は二人にことさら気を遣い、その場に酒や料理が出されるたびに、しきりに、盃やご馳走の皿を勧めてくれるのである。

僧侶 (内心)いったいぜんたい、どないなってんねんや? もうサッパリ、わけ分からんわぁ。

そして、例の演目が始まったのである。

新座の楽屋から、猿の面をかぶった少年ダンサーが登場、御幣を差し上げ、橋の欄干を一飛び跳んでは拍子を踏み、拍子を踏んでは御幣を打ち振り、軽々と跳躍を繰り返す。満座の聴衆はこれを見て、総立ちになって叫ぶ。

聴衆R わーぉ! おみごと、おみごと!

聴衆S 見て、見て、あれ! まるで、ホンモノの猿みたいやん! ホホホホ・・・。

聴衆T あぁ、オモシレェ、オモシレェ、ワハハハ・・・!

聴衆U チョウおもろい、チョウおもろい、ギャハハハ・・・。

聴衆V アハハハ・・・腹の皮がよじれそう・・・。

聴衆W ワハハハ・・・もう死にそう・・・笑い死にしそうや・・・誰か、うち助けてんか・・・ワハハハ・・・。

おめき叫び笑う声が、1時間ほど続いた。これを見た山伏は、僧侶の耳元でささやいた。

山伏 どいつもこいつも、大口アングリ開いて笑いほうけとるわい・・・大の大人がそろうて、なさけけない光景やなぁ・・・。よぉし、今からこいつらの肝(きも)潰(つぶ)してな、イッパツで興ざめさしたるわい・・・あんた、わたいが何しても、騒ぎなや!

山伏は立ち上がり、やにわに桟敷の柱を持った。

山伏 エーイ! エーイ! エーイ!

その次の瞬間、200余間の桟敷が、一気に倒壊したのであった。

倒壊の瞬間を遠方から目撃した人々の証言によれば、この時、旋風が巻き起こっており、「おそらく、それが、桟敷倒壊の原因となったのであろう」という。

今回の田楽興行は、神の御心に反する事であったと見受けられるフシもある。

なぜならば、桟敷が倒壊して死傷者多数が出たのが6月11日のこと。その翌日は終日終夜、天から車軸を降らすような大雨が降り、鴨川は、盤石をも流すような大洪水となった。

このようにして天は、昨日の事故の死者の遺体と共に、全ての汚物と不浄を洗い流し、来る14日の祇園神幸(ぎおんしんこう)の通路を清めたのであった。(注11)

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(訳者注11)祇園御霊会の神輿巡行。これが発展して、現在の祇園祭りの行事となった。
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天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)の悉くが祇園に祭られている神々に助力し、清浄の法雨を地に注いだのである。まことに尊い事象であったといえよう。

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(訳者注12)[寺社勢力の中世 無縁・有縁・移民 伊藤 正敏 著 ちくま新書 734 筑摩書房] 42P に、[四条河原]に関して、以下のようにある。なお、文中に登場する「京都劇場」は、現在既に無く、その跡地には「京劇ビル」が建っているようだ。また、「阪急デパート」も「マルイ」の京都店に変わっている。

 「鴨河原といっても、現在の鴨川河川敷を思い浮かべてはいけない。四条河原町は今日、京都随一の繁華街であるが、その名の通り、この場所は本当に「鴨河原の中」なのだ。現在の日本銀行・京都劇場・阪急デパート、東にある木屋町・先斗(ぽんと)町も鴨河原に含まれる。鴨川の氾濫原はずっと東西に広く、東は大和大路、西は東洞院や高倉あたりまでが、洪水危険地域であった。この大和大路は名前の通り、はるか奈良につながる幹線道路である。」

 「京都一の繁華街という点は今も中世も同じである。芸能についてもこれは言えて、先斗町や京劇があるように、鴨河原は京の、いや日本の芸能の中心であり続けたのだ。この現状を中世に投影させてイメージすべきなのである。中世鴨河原の賑わいは、形を変えて今、河原町通としてわれわれの目の前にある。中世では土倉・酒屋が立つ繁華街であるとともに、老病死の地獄絵巻と隣り合わせであったが。」

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月21日 (水)

太平記 現代語訳 27-1 次々と出現する怪奇現象に、人々は不安におののいている

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・貞和(じょうわ)5年(1349)1月頃より、日本列島上の天空に、異変が続出しはじめた。

妖星(ようせい)の出現相次ぎ、人々は不安にかられるばかり。天文局(注1)からは、「帝位に愁いあり、天下に異変起こり、兵乱疫病のおそれあり」との密奏が、朝廷に対して頻繁に寄せられた。

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(注1)原文では、「陰陽寮(おんみょうりょう)」。
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世間の声A ほんまに、最近、こわい事ばっかしどすなぁ。

世間の声B いったいぜんたい、世の中、どないなってしもてんねん?

世間の声C ほんに、今年はエライ年になってしまいよりましたわ。正月早々、例の妖星出現でっしゃろ。ほいでもって、2月26日のあの大騒ぎですやん。

世間の声D あの晩な、わたい、たまたま、現場近くにおりましたんやわ。ほんま、どえらい事でしたでぇ! 夜半過ぎごろやったかいなぁ、将軍塚(しょうぐんづか:東山区)が、ガタガタ音立てて動き出しましてなぁ・・・。ほいでもって、空中に大量の馬のヒズメの音がなり響き、ですわいな。そうですなぁ、かれこれ1時間ほどは、続いてましたかいなぁ。

世間の声E あの夜はなぁ、京都中もう、上から下まで大騒ぎやった。わてらも、こわぁてこわぁて、あれいったいなんかいなぁ、言うて、おびえとりましたがな。

世間の声C それに輪ぁかけて、翌2月27日のあの火事やがな。

世間の声A あの火事、ほんま、すごかったどすえぇ。うち、あの日たまたま仕事でな、あのへん通りがかりましてな、ほいで、一部始終、目撃してしまいましてん。

世間の声一同 へーぇ!

世間の声A ほんま、あの火事だけは、もう一生忘れられしまへんやろなぁ。正午ごろにな、清水坂(きよみずざか:東山区)から火ぃ出たぁ思ぉたら、もうそっから後は、イッキでしたわ。

世間の声B 清水寺(きよみずでら)の本堂、阿弥陀堂(あみだどう)、楼門、清水の舞台、地主(じしゅ)神社、あっという間に、みんな残らず、焼け落ちてしもぉたもんなぁ。

世間の声A そらな、京都では、火事はそれほど珍しい事やおへん。そやけど、あの火事は、ほんま不気味どしたえ。なぁんせ、風もなぁも吹いてへんのにな、最初に出火したとっから(所から)大きな炎が飛び出しよりましてな、ほいでもって、あっという間に、清水はんに燃え移ってしもたんどすぅ。

世間の声C 最初の出火場所から清水寺までは、相当な距離やいうやないか?

世間の声A そうどす、その通りどす、そやから、不気味なんどすぅ。朝廷の尊い祈願所の清水はんが、あっという間に焼けてしまうやなんて、ほんまにこれは、タダゴトやおへんえぇ。

世間の声F あのっさぁー、天下に大異変が起こる時にはっさぁー、その前兆としてっさぁ、霊験あらたかな神社仏閣が、燃え落ちちゃうもんなんだよねぇー。

世間の声D いやほんま、あんさんの言うてはる事、当たっとりますわなぁ。「霊験あらたか」言うたら、あの男山(おとこやま)の八幡(はちまん:京都府・八幡市)はんでも、異変がありましたわなぁ。

世間の声A えーっ その話は、うち知りまへんわ。いったいどないな異変どすかぁ?

世間の声D 6月3日の午前8時から午後10時頃までな、あこの社殿が、鳴動し続けたらしいわ。

世間の声E 神様が放たはった鏑矢が音を発してな、京都めがけて飛んでいった、とかいう話だっせ。

世間の声F そんなの、チョロイんだってぇ! もっとスサマジイ、恐怖におォののく話あぁんだよぉ! 教えたげよっかぁ?

世間の声A いったいなんですのん、それ!

世間の声F あのっさぁ、おたくらっさぁ、夜空を見上げてごらんなって。6月10日から、天空にトォーンデモナイ大異変、起こってんじゃん!

世間の声E あんたの言うてはんのん、「三星直列現象」の事かいな?

世間の声A なんどすか、その「三星直列」?

世間の声E つまりやな、金星と水星と木星が、接近して一列になっとるんやがな。

世間の声F あたいが密かに入手した情報によるとっさぁ、天文局の博士から、「三星直列現象は、大凶事の前兆、天子位を失い、大臣災を受け、子は父を殺し、臣は君主を殺し、飢饉、疫病、戦争あい続き、餓死者がちまたに満ち満ちる事になりましょう」ってな報告、ビィンビン、朝廷に上がってんだってよぉ。

世間の声A エーーツ!

世間の声G 「三星直列」もだけどさぁ、「南東対北西異変」も、あたくし、とっても懸念してるの。

世間の声A なに、それ?

世間の声E 閏の6月5日の午後8時ころにな、南東、北西の2方向から電光(いなびかり)が輝きだしてな、やがて、両方の光が寄り合わさって、戦い合うみたいなカンジになっていったんや。

世間の声B あれは、わたいも見ましたで。光と光がぶつかっては砕け散り、砕け散ったかと思えばまたぶつかりあい・・・ほんまにすごかったわなぁ。衝突が起こるたんびに、ものすごい光がきらめいてな、天と地がバァット燃え上がるように、明るぅなるんですわ。まるで、風が猛炎を吹き上げてるみたいにな。

世間の声C その光の中に、なんか見えへんかったか?

世間の声B あ、あんたも見たんかいな、あれ!

世間の声C 見ぃでかぁ!

世間の声A なになに、いったいなに見はったん!?

世間の声C その光の中にな、わしはたしかに見たんや、バケモノ、妖怪の類の姿をなぁ!

世間の声A おぉ、こわぁ!

世間の声B 結局、あの南東の光と北東の光との勝負、南東側に軍配が上がったようですわなぁ。何度も衝突をくりかえしたあげく、南東の光がどんどん前進していって、北東の光を呑み込むような形になって、そいでから、光、完全に消えよったから。

世間の声G いよいよ、天下騒乱の時節到来の様相、濃くなってきたわよねぇ!

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2018年2月20日 (火)

太平記 現代語訳 26-9 足利直冬、政治の表舞台に登場

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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「中国地方をも完全に制圧し、反足利幕府勢力の動きを封じ込めてしまおう」という事で、足利尊氏(あしかがたかうじ)の次男・直冬(ただふゆ)が、備前国(びぜんこく:岡山県東部)に派遣されることになった。

尊氏は若かりし頃、人目を忍んでたった一夜だけ、ある女性のもとに通ったことがあった。彼女の名は越前局(えちぜんのつぼね)。その人が、直冬の母である。

直冬は始め、武蔵国(むさしこく)の東勝寺(とうしょうじ:神奈川県・鎌倉市)に少年僧として入っていたのだが、元服の後、京都へやってきた。

直冬を父・尊氏にひきあわせてやろうと思い、内々に様々な斡旋活動を行った人がいた。しかし、尊氏は、直冬に会おうとはしなかった。そこで、玄恵(げんえ)が彼を預かる事になった。

直冬は玄恵のもとで勉学しながら、世間の注目を集める事もなく、わびずまいを続けるだけの毎日を送ることとなった。

玄恵 (内心)もったいないわなぁ、直冬殿・・・。才能においても人品においても、優れた人やのになぁ。幕府もな、こういう将来有望な若い人を、どんどん活用していくべきやでぇ。

玄恵 (内心)うーん・・・なんとかして、直冬殿を、世に出してさしあげたいもんやなぁ・・・。

玄恵 (内心)そうやなぁ・・・一回、直義(ただよし)殿に、相談してみよかいなぁ。

玄恵は機会を見て、足利直義に直冬を推薦してみた。

足利直義 そうですかぁ・・・。そんなに優秀なんだったら、一度会ってみようかなぁ。

玄恵 ぜひとも、そうしてくださいませ!

足利直義 わかりました。まずは、彼を私の所へ連れてきてくださいませんか。どのようなパーソナリティを持った人物なのか、自分の目で、よくよく確かめてみますよ。その上でね、「見どころあり」と思ったら、兄上の方に、私から推薦してみましょう。

というわけで、直冬は玄恵に連れられて、直義邸を訪問した。直冬にとっては、これが親族との初めての対面であった。

しかし、その後1年たち2年たっても、依然として、尊氏は直冬に面会しようとはしなかった。

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紀伊国(きいこく:和歌山県)において、吉野朝(よしのちょう)側勢力が蜂起した際に、尊氏はようやく重い腰を上げ、直冬を、正式に我が子として認知した(注1)。

直冬は、右兵衛佐(うひょうえのすけ)に補任され、吉野朝勢力征討軍の大将として、戦場に派遣された。

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(訳者注1)原文には、「将軍始めて父子の号を許され」。
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やがて、紀伊国が平定され、直冬は京都へ凱旋。彼もようやく、足利家中の重要人物として、人々に認められるようになってきた。

尊氏のもとに出仕する機会も、次第に増えてはきた。しかし、その際の座席たるや、仁木(にっき)家や細川(ほそかわ)家の人々と同列扱いにしか過ぎず、尊氏から重んじられているとは、到底言い難いものがあった。

しかしながら、人生の運・不運というものは、本当に分からないものである。政治の中心・京都を離れ、中国地方に赴任する事により、かえって、直冬の人生には、陽光が差し込み始めたのである。

「あの人は、他ならぬ足利直義様の計らいにより、中国地方統括局長(注2)に任命されてやってきた人なのだ」ともなれば、現地の人々の受け止め方は、格別のものがある。いつしか、皆が彼に帰服するようになり、多くの人々が、「佐殿(すけどの:注3)を盛り立てるパーティ(党:party)」に参入するようになってきた。

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(訳者注2)原文では「西国の探題」。

(訳者注3)「右兵衛佐」の地位にあったので、直冬に対してこのような愛称を設定してみた。
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直冬はやがて、備後(びんご:広島県東部)の鞆(とも:福山市)に居を定め、中国地方の政治全般を統括するようになっていった。彼の善政の下、忠功ある者は望まずとも恩賞を賜り、罪ある者は罰せざるともその地を去っていった。

さぁこうなると、長年にわたり自らの非を隠し、上を犯したてまつってきた、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟の悪行が、ますますクローズアップされてきてしまうのである。

善が輝きを増せば増すほど、悪もその鮮烈さを増していく。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月19日 (月)

太平記 現代語訳 26-8 妙吉、讒言・高兄弟・合唱の輪に加わる

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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将軍・尊氏(たかうじ)に代って国政面での実質的トップの座についてからというもの、足利直義(あしかがただよし)はますます、禅宗への帰依を深めていった。夢窓疎石(むそうそせき)に師事して後は、天龍寺(てんりゅうじ)建立の発願人になったり、説教の場や法要の座に頻繁に出席したり、膨大な額の供仏施僧(くぶつせそう:注1)をしたり・・・。宗教界に対する直義の一挙手一投足に、世間の注目は、いやがおうにも集まっていった。

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(訳者注1)仏に供え、僧に施す。ようは「お布施」のことである。
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ここに、夢窓と同門の一人の僧侶がいた。名を妙吉(みょうきつ)という。

妙吉 (内心)足利直義・・・今や、事実上の権力トップにある人。そのような人からまでも、夢窓殿は、深い帰依を受けておられるのだなぁ・・・すごいよなぁ・・・。

夢窓に寄せられる足利直義からの絶大な恩顧を見続けているうち、妙吉の心中にはいつしか、言い知れぬ羨望の念がムクムクと湧き起こってきた。

妙吉 (内心)羨ましいよ・・・夢窓殿が羨ましいよ・・・。

妙吉 (内心)わたしも、夢窓殿のようになりたいもんだなぁ・・・。

妙吉 (内心)なんとかして、あんなふうに、なれないだろうかなぁ・・・。

妙吉 (内心)そうだ・・・神通(じんつう)、神通力だよ・・・それさえありゃぁ、わたしもあのように、足利直義様に認めてもらえようになるんだよな、きっと。

妙吉 (内心)じゃぁ、いったいどうやって神通力を?・・・ そうだ、仁和寺(にんなじ:京都市・右京区)へ行って修行してみようか。聞く所によれば、あそこには、志一(しいち)という僧がいるとか。外法(げほう:注2)を完全に、マスターしちゃってるらしいよ。

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(訳者注2)仏教以外の法。
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そこで妙吉は、志一のもとを訪ね、彼に師事してダキニ天法(だぎにてんぼう:注3)を21日間修行した。

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(訳者注3)ダキニ天を礼拝して修する法。ダギニ天については、仏教辞典・大文館書店刊には以下のようにある。

「Dakini: 夜叉鬼の一類で自由自在の通力を有し、6月前に人の死を知り、その人の心臓を取ってこれを食とするという。胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)ではこれを外金剛部院(げこんごうぶいん)南方に配す。普通行わるる形像は曼荼羅に出づる所と異なり、小天狗の狐にまたがりたる形状、または、剣と宝珠とを持てる美女が白狐にまたがる状を図している。」
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修行の成果は、めざましかった。たった21日間の修行でもって、妙吉は絶大なる神通力を獲得し、心に願う事はことごとくその通りに実現、という状態になった。

それ以降、妙吉に対する夢窓の評価は、いやましに高まっていった。

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いつものように、足利直義と対座していたある日、夢窓はいわく、

夢窓疎石 直義殿、日夜にわたっての熱心なる参禅、仏の道を学ぶためとは言いながらも、まことにご苦労さまでございますなぁ。

足利直義 いえいえ、とんでもありません。これは大切な修行ですからね!

夢窓疎石 ・・・あのぉ・・・こんな事を言うのは、まことに気がひけるのですがね・・・なにやら、直義殿に修行を怠ることをお勧めするようで・・・でもね、直義殿は国政の中枢を預かっておられる大切なお方。だからあえて申し上げますね。

足利直義 ははは、いったいなんですか? そんなに改まって。

夢窓疎石 お館からここまで来られるの、道も遠くて大変でしょう? どうでしょうかね、これから先は、直義殿にここへ来ていただくのではなく、私の方から、信頼のおける者をそちらに行かせる、というのは?

足利直義 えぇ?! ウチ(私邸)に来ていただけると、いうのですか、その方に・・・。ウチにいながらにして、仏道修行の指導を受けれると、いうわけですか?

夢窓疎石 その通りですよ。実はね、私のとこに、その役目にうってつけの人がおりましてね・・・。妙吉と言う僧侶なんですが。

足利直義 ほほぉ・・・。

夢窓疎石 「禅宗歴代祖師語録」の講義なんか、やらせようもんなら、いやぁ、そりゃぁスゴイもんですゾォ。そのぉ、なんて言うのかなぁ・・・祖師方が説かれた教えに込められた本質をですね、深いレベルから直覚的にって言うのかなぁ・・・的確に、ダイレクトに、ずばりずばりと、把握していくんです・・・。とにかく、どこに出しても恥ずかくない、超一流の禅宗僧と言っていいですね。

足利直義 その話、私には何の異存もありませんけど・・・国師殿が、そこまでおっしゃるのですから。

夢窓疎石 じゃ、そういう事にさせていただきましょう。いつものね、私に対座しておられる感覚でもってね、妙吉殿にどんどん、対座問答してみてください。きっと、ご期待に応えると思いますよ。

足利直義 わかりました、よろしくお願いいたします。いやぁ、こりゃぁ楽しみだなぁ。

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一度会ったその日から、直義は妙吉に魅了されてしまった。

足利直義 (内心)イヤーッ、国師殿、すばらしい人を紹介してくださったなぁ! 妙吉殿はスゴイ! ほんとうにスゴイぞ! もしかしたらあの方は、禅宗の祖・ダルマ大師の生まれ変わりではないかしらん・・・。禅宗伝道の為に、我が国に再び生を受け、妙吉殿として誕生されたのかもなぁ。

足利直義 (内心)あんな立派な方に毎度毎度、私邸に来ていただくのは、こりゃぁ本当に失礼というもんだぞ。よし、妙吉殿に、お寺を建ててさしあげようではないか!

というわけで、一条堀川戻橋(いちじょうほりかわ・もどりばし)の近くの村雲(むらくも:上京区)という所に、直義は寺院を建立し、妙吉をそこの住職に据えた。

その寺を拠点としての妙吉の宗教活動が開始されるやいなや、直義は日夜の参禅、朝夕の法談聴聞と、ひっきりりなしに、そこへ通った。

「足利直義さま、妙吉のもとに日参!」となると、我も我もとそれに続く。延暦寺(えんりゃくじ:大津市)や園成寺(おんじょうじ:同左)のトップ僧侶たちが、宗旨を改めて弟子入りしてくるわ、五山十刹(ござんじゅっさつ)の格付けを得ている禅宗大寺院の高僧たちも、彼の勢力下に入りたき旨を希望してくるわ、さぁ、そうなると、俗人たちが妙吉を放っておくわけがない。朝廷の公卿たち、幕府の要人たちが、妙吉にこびへつらうその様は、もはや言葉にも尽くしがたい。

車馬は門前に列を作り、僧俗は堂上に群集する。たった一日の間に寄せられた布施の品や当座のプレゼントを集めれば、山のごとくうず高く積もる。出家をされた釈尊(しゃくそん)のもとへ、マガダ国のビンビサーラ王が毎日500両の車に様々の宝を積んで奉った、という話も、なんだか色あせてくるようである。

このように、万人からの崇敬(すうけい)類(たぐい)まれなる状態となった妙吉であったが、

高師泰(こうのもろやす) おい、あの妙吉ってヤロウ、どう思う?

高師直(こうのもろなお) フフン、あんなのどうってこたぁ、ねぇですわ。

高師泰 やっぱしそうか!

高師直 てぇした智恵才学もねえくせによぉ、手八丁口八丁で、まぁうまいこと、世渡りしていかはりまんなぁ。

というわけで、高兄弟だけは、妙吉に会おうともしない。村雲の寺の門前をも、馬から降りずに平気で通っていくし、道で出会おうものなら、彼の袈裟を、わざと沓の先に引っかけるような事までする。

これには、妙吉の方もアタマに来てしまった。物語の端、事のついでに、高兄弟のこの振舞いを、さかんに非難し始めた。

例の二人が、これを見逃すはずがない。

上杉重能(うえすぎしげよし) おおお、こりゃぁまた、格好のネタができたねぇ。

畠山直宗(はたけやまなおむね) 妙吉をうまく使やぁ、高兄弟を讒言して亡き者にしてしまう事だって、できちゃうかもよぉ。

二人は、妙吉に急接近した。媚びを厚くしつつ、高兄弟の悪口を、その耳にどんどん吹き込んでいく。もとより妙吉も、高兄弟の行為をけしからんと思っていたから、三人は大いに意気投合した。

勢いづいた妙吉は、事あるごとに毒づき始めた、

妙吉 高兄弟の言動は、国を乱し政治を破壊する最たるものであります!

その中でも特筆すべきは、実に言葉巧みに弁じた、以下のような悪口である。

ある日、例によっての足利直義相手の講義の日、首楞厳経(しゅりょうごんきょう)の講義が終わり、中国や日本の歴史の話になった。

妙吉 古代中国、秦王朝(しんおうちょう)の時代、始皇帝(しこうてい)には、二人の皇子がおりました・・・。

(以下、妙吉の講義:注4)
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(訳者注4)以下の話も例によって、「史記・秦始皇本紀」と相当異なっているので、読者はこれに信を置かれない方がよいと思う。
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その皇子、兄の名は扶蘇(ふそ)、弟の名は胡亥(こがい)。

扶蘇は始皇帝の長男であったが、民を哀れまず、仁義を重んじず、苛烈な政治ばかり行っている父を、常に諌めていた。いきおい、自分に対して何かと逆らう扶蘇に対して、始皇帝の愛情はどんどん薄くなっていった。

次男の胡亥は、始皇帝が寵愛する妃が産んだ子であった。彼は、驕りを好み、賢者を憎み、愛憎の念が人並み外れて異常に強かった。胡亥は、常に父の側を離れず、趙高(ちょうこう)という大臣をお守り役につけられていた。胡亥の事を、始皇帝は趙高にまかせっぱなしにしてしまっていた。

始皇帝は荘襄王(そうじょうおう)の皇子であったが、16歳になって間もなく、魏(ぎ)の畢万(ひつばん)、趙(ちょう)の襄公(じょうこう)、韓(かん)の白宣(はくせん)、斉(せい)の陳敬仲(ちんけいちゅう)、楚(そ)王、燕(えん)王ら、いわゆる「戦国時代の六国(りくこく)」をすべて亡ぼし、中国全土を統一した。

「諸侯を朝せしめ、四海を保つ事、古今第一の君主ゆえに、この方を「皇帝」と呼ぶべし」と言う事で、中国史上初の皇帝、「始皇帝」の尊号を奉った。

洪才博学の儒学者たちがともすると、古代の五帝三王の治世をなつかしみ、周公(しゅうこう)や孔子(こうし)の教えを伝道し、「今の政治は、古来からの良き伝統の道を踏み外している」と批判するのを聞いて、始皇帝は、

始皇帝 くされ儒者どもめが! わしの治世の事を、あれやこれやとぬかしおって! それもこれも、あぁいったけしからん書物が、未だにこの世に残っておるからじゃ。ことごとく、焼き捨てい!

というわけで、三墳(さんふん)・五典(ごてん)・史書(ししょ)・全経(ぜんきょう)、あげて3,760余巻、一部も世に残らず、すべて焼き捨てさせた。まことにあさましい所業である。

さらに、

始皇帝 宮門警護の武士の他、一切の者、武器を持つべからず!

というわけで、国中の兵らの持つ武器を残らず集めて焼却し、その鉄でもって、長さ12丈の「金人」12体を鋳させ、湧金門(ゆうきんもん)に立てさせた。

このような悪行が、聖に違い天に背いていたのであろう、邯鄲(かんたん)という地に、天から災を告げる不吉の星が一つ落ち、たちまち12丈の石となった。見ればその石の表面には一句の文章があり、そこには、「秦王朝滅びて漢王朝となる」由の瑞相が示されていた。

これを聞いた始皇帝は激怒して、

始皇帝 これは天のなした事ではない、人間のシワザじゃ。どこぞの何者かが、そのような文字を石の上に書いたにちがいないわ。下手人を厳罰に処すべし!

始皇帝 下手人はきっと、その石の落ちた場所の近くに住んでいるにちがいない。石から10里四方が怪しい!

というわけで、その石から10里四方に住んでいた貴賎の男女は、一人残らず首を刎ねられてしまった。なんという哀れな事であろうか。

東南には函谷二崤(かんこくにこう)の難所を障壁とし、西北には黄河(こうが)、涇水(けいすい)、渭水(いすい)の深い流れを要害とし、その中に、周囲370里高さ3里の山を9重に造り、その上に宮殿を造営した。その口には6尺の銅の柱を立て、上には鉄の網を張り、前殿46殿、後宮36宮、千門万戸通り開き、麒麟(きりん)の彫刻を並べ、鳳凰(ほうおう)の像を相対させる。虹の梁(うつばり)金の飾り、日月光を放ちて楼閣(ろうかく)互いに映徹(えいてつ)し、玉の砂(いさご)、銀の床(ゆか)、花柳(かりゅう)影を浮かべ、階段と小門は品々に分かれる。

その居所を高くし、その歓楽を極めるにつけても、思うのは、

始皇帝 人間の命には限りがある・・・このわしとて、いつかは、あの世に行かねばならぬ・・・残念じゃのぉ・・・。あぁ、なんとかして、かの蓬莱島(ほうらいとう)にあるとかいう不死の薬を手に入れて、永遠に、この世の主として君臨したいものじゃ。

そんな所へ、二人の道教行者(どうきょうぎょうじゃ)が拝謁を求めてきた。名を徐福(じょふく)、文成(ぶんせい)という。(注5)

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(訳者注5)文成は後代の人である。ここも太平記作者の誤り。
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徐福 おそれながら陛下、わたくしめは、不死の薬を求める術(すべ)を知っておりまする。

始皇帝 ナニッ!

始皇帝は大喜び、まずは彼らに高位を授け、大禄を与えた。その後、彼らの言うがままに、年齢15歳未満の少年少女6,000人を集め、龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟に乗せて、蓬莱島発見の航海に送り出した。

大海は満々として、行けども行けども限り無し。雲の波、煙の波いと深く、風は浩々(こうこう)として静かならず、月華星彩(げっかせいさい)は蒼茫(そうぼう)たり(注6)。「蓬莱島」は今も昔も、ただただその名を聞くばかり、天水茫々(てんすいぼうぼう)として(注7)、求めども求めども、その所在位置を示す手がかりの片鱗すら無し。「我、蓬莱島を発見せずば、再び中国の地を踏まじ」との決意を固め、航海に出た少年少女たちは、徒(いたず)に船の中で老いていくばかり。

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(訳者注6)「月の光、星の光は青く広い海原を照らす」の意。

(訳者注7)「「天」(空)も「水」(海)も広々と広がり」の意。
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徐福と文成は、自分たちの言葉が偽りであった事が露見し、処罰が我が身に降りかかってくるのを恐れていわく、

徐福 これはどうやら、龍神のタタリが、蓬莱島発見の障害となっておりまするな。陛下、なにとぞ、おん自ら海上に御幸あそばされ、龍神を退治してくださりませ。さすれば、蓬莱島はたちどころに、発見されましょうぞ。

始皇帝 よし! 龍神退治に行くぞ!

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始皇帝 それい! 出撃じゃーっ!

皇帝の命令一下、数万隻の戦艦は、一斉に出帆した。

各艦には、「連弩(れんど)」と言う超兵器を搭載している。これは400ないし500人でもって引きしぼり放つ巨大な弓である。蓬莱島(ほうらいとう)発見の障害をなしているという龍神が、海上に現われたならば、これを使って射殺しようというわけである。

帆に風をいっぱいにはらみ、艦隊はぐんぐん進んでいく。始皇帝が之罘(しふ)の大江を渡る道すがら(注8)、300万人の兵士たちは、それぞれの搭乗している戦艦の舷側を叩き、太鼓を打ち鳴らしながらトキの声をあげる。

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(訳者注8)史記・秦始皇本紀には「之罘山に登り」とあるので、これは明らかに山なのだが、どういうわけか、太平記原文には「始皇帝すでに之罘の大江を渡りたもう道すがら、三百萬の兵共・・・」とある。
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兵士たち一同 ウォー!ウォー!ウォー!ウォー!ウォー!・・・。

止む間もないトキの声、山から磯に吹き降ろす嵐の風音、沖に寄せる津波の怒涛、全ての音響が渾然一体となって響き合う。天をささえ、地を通る地軸も共に絶え、共に砕けるかと思えるほどである。

この大音響に驚愕一転、龍神は、長さ500丈ほどの巨大鮫に姿を変じ、海上に躍り出た。

兵士A 出たーーーっ!

兵士B 出たぞーーーっ!

その頭は、ライオンのごとく遥か上空まで延び上がり、その背中は、龍蛇のごとく広大な海域を覆いつくしている。

提督C 全艦、散開し、敵を包囲せよ!

数万の戦艦が左右に展開し、巨大鮫を包囲した。

提督C 弓引けぇーーー!

兵士一同 オォォォォーーー!

連弩 ギュリギュリギュリギュリ・・・。

全ての船上の連弩数万個が、一斉に引き絞られた。

提督C 撃ぅーてぇーーー!

連弩 ドババババババババ・・・。

巨大毒矢 ブヒュー、ブヒュー、ブヒュー、ブヒュー・・・ドドッ、ドドッ、ブシュッ、グシュッ、バシュ!・・・。

巨大鮫 ギョアアアーン・・・ギュアアアーン・・・。

始皇帝 やったぞぉーーー!

数百万本の毒矢が、巨大鮫の全身に突き刺さり、蒼海万里(そうかいばんり)の波は、その血で真っ赤に染まった。

かくして、巨大鮫は死んだ。

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その夜、始皇帝は悪夢にうなされた。

始皇帝 ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・むむ! なんじゃ? ここはいったいどこじゃ?・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・。

始皇帝 暗い・・・真っ暗じゃ・・・まるで海底におるような・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・。

始皇帝 ムムッ! なにやら、あちらから近づいてきよるわい・・・ボォット光る何ものかが・・・あれはいったい?・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・。

巨大鮫 ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・始皇帝、始皇帝はどこにおるぅー・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・・・・ゴボゴボゴボゴボ。

始皇帝 あっ・・・あやつは!

巨大鮫 ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・始皇帝ェーイ、始皇帝はどこにおるぅーーーー!

始皇帝 あやつ、まだ生きておったか!・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・ゴボゴボゴボゴボ・・・。

巨大鮫 おぉ、そこにおったか・・・よしよし・・・動くなよ、そのままそこで待っておれい・・・グブグブグブグブ・・・グブグブグブグブ・・・。

始皇帝 弓引け、弓引け、撃てい、撃てい! えぇい、ものども、なにをしておる、撃て、早く撃たんかぁ!

巨大鮫 グゥォッフォッフォッフォッフォッ。おまえを守る者など、もはや一人もおらぬわい。始皇帝、おまえはたった一人じゃー、おまえはたった一人じゃぁー・・・グブグブグブグブ・・・ゲブゲブゲブゲブ・・・。

始皇帝 あああ・・・こっちに来る・・・撃て、撃て、撃てい・・・ゴボッゴボッグヴァッグヴァッ・・・。

巨大鮫 シュヴァシュヴァシュヴァシュヴァ・・・。

始皇帝 あああ・・・ええい、こやつ! エェイ! エェイ!

巨大鮫 ウォッフォッフォッフォッフォ・・・。

始皇帝 エーイ! エーイ! くらえい!(ガキッ)いかん、刀が、刀が折れたぁ!

巨大鮫 始皇帝、なんじもこれで最後よのぉ、覚悟せぇーい!

始皇帝 うああああ・・・。

翌朝から、始皇帝は重病に伏す身となってしまった。

始皇帝 うああああ・・・。

その五体はしばしも休まる事なく、7日間苦痛にさいなまれながら、ついに沙丘(しゃきゅう)の平台(へいだい)において、息を引き取った。

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始皇帝の遺言では、帝位を長男の扶蘇(ふそ)に譲る、という事になっていた。しかし、それを見た超高(ちょうこう)は、

超高 (内心)これはまずいぞ。扶蘇が帝位についたりしたら、賢人才人が多く召し抱えられてしまう。そうなったら、わしは永久に、権力の座にはありつけぬわい。

超高は、遺言状を破り捨てていわく、

超高 (内心)遺言をデッチあげてな、胡亥(こがい)を帝位につけてしまえばよいのじゃ。さすれば、胡亥のバックにいるこのわしに、事実上の最高権力が転がり込むでのぉ。

超高 ご一同、よくよく聞かっしゃい! 始皇帝陛下のご遺言にはな、胡亥様に位を譲れと、あるぞよ!

いったん事を始めたら、超高は急スピードでやる男、すぐに咸陽宮(かんようきゅう)へ兵を送り、扶蘇を討ってしまった。

このようにして、超高は、未だ幼い胡亥を「二世皇帝」と称して帝位につけた。それ以降、秦帝国の政治はすべて、超高の意のままの状態となってしまった。

やがて、反乱軍がここかしこに蜂起した。高祖(こうそ)が沛郡(はいぐん)で兵を挙げ、項羽(こうう)は楚(そ)で兵を挙げた。いったん征服された戦国の六国の諸侯らも、たちまち秦帝国に反旗を翻しはじめた。

秦側は、白起(はくき)と蒙恬(もうてん)を将軍として戦に臨んだが、戦に利無く、大将はみな戦死してしまった。

さらに秦は、章邯(しょうかん)を上将軍に任命して再び100万の軍勢を送り、河北(かほく)一帯で戦わせた。百回千回と戦火を交えたが、未だに雌雄を決せず、天下の兵乱は止む時がない。

このような中に、超高は、さらに野望をたくましくしていった。

超高 (内心)今、この咸陽宮は、兵力が手薄になってしまっておるわい。反乱軍との戦いにみんな出払ってしまっておるでの。このドサクサにまぎれて、胡亥を殺し、帝位を我が手中に・・・。

超高 (内心)まずは、帝国内におけるわしの威勢が、いったいいかほどのものか、確かめてみて・・・それからじゃな。

超高は、夏毛(注9)になった鹿に鞍を置いて、胡亥のもとに引いていった。

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(訳者注9)鹿は夏になって黄色にはえかわり、斑が明瞭になってくるのだそうだ。
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超高 陛下、これをご覧ください、この見事な名馬を。さ、お乗り遊ばせ。

胡亥 ワハハハ、何をバカな事を言うておる、それは馬ではない、鹿であろうが。

超高 いいや、これは、馬でござりまする!

胡亥 鹿じゃ!

超高 そこまで言われるのであれば、わたくしめとしても、黙ってはおれませぬぞ。宮中の大臣どもを召されて、これが鹿か馬か、お尋ねあそばされてはいかが?!

胡亥 よぉし!

胡亥はすぐに、百司千官公卿大臣ことごとくを招集した。

胡亥 あのなぁ、超高がの、この動物を馬じゃと言い張って、聞かぬのよ、いったいなにを血迷うておるのかのぉ。みなの者に問う、これは馬か、それとも鹿か? 答えよ。

誰の目にも、そこにいる動物は鹿であると見えている。しかし全員、超高の威勢を恐れて、

一同 それは、超高殿の言われる通り、鹿ではのぉて、馬でござりまするなぁ。

胡亥 ナニーッ!

超高 (内心)よぉし!

この「馬・鹿判別事件」において胡亥に屈辱を味わせた後、超高はまさに、虎狼の心を持つようになった。

超高 (内心)今となっては、わしの威勢を遮れる者など一人もおらぬわい・・・よし、やるぞ、クーデター決行じゃ!

超高は、兵を宮中へ送り、胡亥を強迫させた。胡亥は送りこまれた兵を見て、もはや遁れるすべの無い事を悟り、自ら剣の上に伏して自害した。

漢・楚との戦いの中に、この報を得た秦の将軍・章邯は、

章邯 あぁ、祖国・秦もついに亡びてしもぉたわい。かくなる上は、いったい誰の為に、国を守れというのじゃ。

章邯は直ちに降伏し、楚の項羽の軍門に下った。

このようにして、秦王朝はついに滅び、高祖と項羽は共に咸陽宮に入った。

超高は、クーデーターを起してから21日目に、始皇帝の孫・子嬰(しえい)に殺され、子嬰もまた、項羽に殺された。秦の宮殿は3か月の間燃え続け、その煙は天高く上り続けた。あの世にまで持って行こうとして、始皇帝が自らの陵墓(りょうぼ)に納めた莫大な財宝も、すべて残らず散逸してしまった。
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(妙吉の話、以上で終わり)

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妙吉 このようにして、かくも強大を誇った秦帝国も、わずか2代にして亡びてしまいました。その原因はいったい何だったのか? 言うまでもない、超高の驕りの心ゆえですよね。

妙吉 これを見ても分かりますようにね、古の世においても今の世においても、治世者の家が代々続いていくか滅びてしまうかは、それを内部から支える執事(しつじ)、あるいは管領(かんれい)といった重臣の善悪にかかっている、というわけなんですよねぇ。

足利直義 ・・・。

妙吉 いやはや、それにしてもですよぉ、昨今の御当家執事・高師直(こうのもろなお)、さらには高師泰(もろやす)、あの両人の振舞いをみてますとね、これじゃあとても、世の中、静かにはなるまいなぁと、思われてなりません。

足利直義 ・・・。

妙吉 とにかく、ひどいもんですよ。主人が主人なら家臣も家臣だ。高家の家臣たちはね、あんなにたくさん恩賞をもらい、領地も十二分にもらってくるくせにね、「まだ足りない、まだ足りない」って嘆くんだそうですよ。

妙吉 でね、それを聞いた高兄弟は、家臣たちにこう言ってるんですって、「おまえら、領地が少ないなんて泣き言言ってるヒマがあったら、その領地の近辺にある寺社や公卿の領地を、どんどんブンどっていきゃあいいじゃないか」ってね。

足利直義 ・・・。

妙吉 こんな話も聞いてますよ、罪に問われて領地や財産を没収されそうになった人間がね、ツテを頼って、高兄弟の家臣になってね、「ねぇ、なんとかしてくださいよ」って、泣き付いていく。すると高師直が、こういう言うんですって、「よしよし、オレは見て見ぬフリしてやるからな、安心してそのまま領地を持ってろよ。幕府からどんな将軍決定書(注10)が出てきたって、おれが、みんな握りつぶしてやるから」。

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(訳者注10)原文では「御教書(みぎょうしょ)」。
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足利直義 ・・・。

妙吉 あ、そうそう、もっとひどい話も聞いてます、こんな事を言ってるんですって、「都には、天皇などという人がいて、たくさんの領地を専有してるし、やれ、ここは内裏だ、院の御所だとかなんとかいって、いちいち馬から下りなきゃなんない、ほんと、シチメンドクサイ話じゃぁないかい。どうしても天皇が必要だって言うんならな、木を削って造るか、金でもって鋳るかして、天皇をこさえりゃいいんだ。生きてる上皇や天皇は、どこかへ島流しにして捨ててしまえばいいんだよ」。こんなムチャクチャな事を言ってるんですよぉ、高師直は!(注11)

足利直義 ウーム・・・(口びるを噛み締める)。

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(訳者注11)太平記のこの一節だけを根拠に、「(歴史上実在の)高師直は、天皇制廃止論者であった」というような事を主張するならば、これぞまさしく「太平記の危険な読み方」である。その根拠を以下に述べてみたい。

1.「妙吉が直義にこのような事を言った」というのが、はたして史実なのかフィクションなのか、さだかではない。太平記には、史実ではない単なるフィクションがふんだんに盛り込まれていることは、ここまで読み進んでこられた読者には、納得していただけると思う。

2.たとえ、「妙吉が直義にこのような事を言った」という事が史実であったとしても、妙吉のその発言内容が事実なのかどうか、さだかではない。妙吉は、このような話を捏造して、高兄弟に対する誹謗中傷を行ったのかもしれない。あるいは、誰かが、このような事を捏造して、妙吉に、「高兄弟はこんな事を言っているよ」と、伝えたのかもしれない。あるいは、多数の口を経由していくにつれて、事実とは異なるうささが生成されてしまったのかもしれない。一個人の発言内容が多数の人の伝聞を経由していくにつれて、元の発言とは似ても似付かぬ内容に変貌していってしまう事は、我々がしばしば経験するところである。(「伝言ゲーム」)

[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書 2443 中央公論新社] 48P には、以下のようにある。

 「しかし『太平記』は、重能・直宗と同様、これらも妙吉の「讒言」であったと明記している。(厳密には、「讒し申さるること多かりけり」などと表現されている。)「讒言」とは、「事実をまげ、いつわって人を悪く言うこと」(『日本国語大辞典』)を意味する。つまり、これらの言動は事実ではないと、『太平記』自身が明言しているのである。どうしてこんな代物が「史実」と認定されてきたのか、著者は本当に理解に苦しむ。」

太平記は歴史書ではない、歴史小説である。歴史学と小説とを混同してはいけないと思う。
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妙吉 まったくもって、けしからんじゃないですか! 古代中国・周(しゅう)王朝の武王(ぶおう)はね、一人でも乱暴者が天下に横行したならば、それを自らの恥じとした、といいますよ。

妙吉 なのに、高兄弟はどうでしょう! へつらってくる者に対しては、自らの権限を行使して、有罪であっても無罪としてしまう。臣民の分際でありながら、天皇陛下や上皇陛下を、ないがしろにする。罪悪の上に罪悪を重ねて恥じない。

妙吉 あぁいった人間は、さっさと処罰してしまいませんとね。そうでないと、国の政治はいつまでたっても、安定しませんよ。早いとこ、彼らを討たれてですね、上杉重能殿と畠山直宗殿を、後任の執事に任命なさるのが、よろしいのではないでしょうかねぇ?

足利直義 ・・・。

妙吉 直義様、未だ幼いぼっちゃまに(注12)、いずれは、政治の全権をお譲りしようというお気持ち、おありにはならないのでしょうか? もしそれを考えておられるのなら、国家の政治基盤を、早いとこ正しておきませんとねぇ・・・。

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(訳者注12)直義夫妻の男子については、25-2 参照。
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このように、言葉を尽くし、史実を引用しながら様々に論じたので、足利直義も次第に、妙吉の言葉に心を動かされていった。

足利直義 (内心)なるほど・・・よくよく聞いてみれば、妙吉殿のおっしゃる事も、もっともな話だな。こりゃ、早いとこ、手を打たなきゃいかん。

仁和寺(にんなじ)の六本杉の梢の上で、再び天下を乱さんと天狗たちが練った計画(注13)、その一端がまさに今、始動しはじめたようである。

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(訳者注13)25-2 参照。
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太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月18日 (日)

太平記 現代語訳 26-7 上杉重能と畠山直宗、高兄弟を讒言す 付・「完璧」の語源

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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高兄弟だけでも、「もういいかげんにしてくれ!」と言いたくなるのに、問題な人物が、さらに2人いた。上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまなおむね)である。(注1)

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(訳者注1)これから後の時代、室町時代から戦国時代にかけて、上杉氏と畠山氏の人々の中から、日本史上においての知名度が高い人々が出現してくるようになる。

[鎌倉公方]を補佐する[関東管領]の職は、次第に、上杉氏によって独占される状態となっていく。

「上杉」の名字を持つ人のうち、最も知名度が高い人は、おそらく、[上杉謙信]だろうと思うが、謙信は、上杉氏ではなく、長尾氏の出身である。山内上杉家の家督と関東管領職を相続して、名を上杉政虎と改めたのである。

畠山氏の中には、上杉謙信ほどの知名度の高い人がいないようだが、室町時代のある時期以降、この家から、足利幕府の管領に就任する人々が出現し、斯波氏、細川氏と並び、[三管領家]と呼ばれるような、幕府上層に位置する家系となる。

[応仁の乱]に関する記述の中には、[畠山義就]、[畠山政長]という二人の人名が登場することが多いだろう。([応仁の乱]発生のきっかけを作った人たち、として)。幕府上層に位置する人々であり、従えている人の数も多かったので、[応仁の乱]を引き起こすきっかけを作れたのであろう。
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この二人は、自らの才覚の小なることを省みることもなく、他人よりも高い官位を望み、少しだけの功績しかないのに、他を超える褒賞を得ようとばかりしている。当然の事ながら、足利家執事として絶大な権力を持ち、万事思うがままの状態にある高兄弟に対して、二人の心中には、嫉妬の念がメラメラと燃えさかる。

それゆえに、折に触れ時に触れ、重能と直宗は、足利兄弟に対して、高兄弟のアラを探しては休むことなく讒言(ざんげん)を繰り返した。

しかし、足利兄弟は、

足利直義(あしかがただよし) (内心)いやいや、そうは言うけどな、いざという時にほんとに頼りになるの、高兄弟をおいて、他に誰がいる? 我々に敵対する勢力が再び武装蜂起した時、彼らの他にいったい誰が、それを鎮圧できるというのだ?

足利尊氏(あしかがたかうじ) (内心)高師泰(こうのもろやす)と高師直(こうのもろなお)、あの二人はとにかく、他の者らとは別格扱いにしとかなきゃねぇ・・・でぇ、彼らが妬ましいもんだからな、重能と直宗はあのようにな、ササイな咎を次々と取り上げては、あれやこれやと言ってくるんだよ・・・イヤハヤ、まったくもう、困ったもんだよなぁ・・・。ま、いいさ、右の耳から聞くだけ聞いといてだな、そのまますぐに、左の耳から出しちゃったらいい。

足利尊氏 (内心)・・・それにしても、なさけないなぁ、重能と直宗は・・・あぁいったゴマスリ男や讒言マニアが、世をかき乱していくんだよねぇ・・・あぁ、ほんと、カナシイことだよねぇ・・・。

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人類の歴史を振り返ってみれば、天下を取り、世を治めるに至った人の下には必ず、賢才輔弼(けんさいほひつ)の臣下がいて、国の乱を鎮(しず)め、君主の誤りを正してきた。

たとえば、古代中国の尭(ぎょう)帝の下には八元(はちげん)の臣下、舜(しゅん)帝の下には八凱(はちがい)の臣下、周王朝・武王(ぶおう)の下には十乱(じゅうらん)、漢王朝・高祖(こうそ)の下には三傑、後漢王朝・光武帝(こうぶてい)の下には28将、唐王朝・太祖(たいそ)の下には18学士、これらの臣下はみな、高位高給を得ながらも協調の心篤く、争い合おうとする心は皆無、互いに非を諌(いさ)めあい、国政を安定せしめ、天下に平和がもたらされる事のみを、ひたすら希求して止まなかった。このような臣下をこそ、まさに、「忠臣」と呼ぶべきであろう。

しかし、足利幕府においては、高家と上杉家とは仲が悪く、ややもすると相手を出し抜いてその権力を奪ってしまおうと考えている。そのような事では、とても、「忠烈の心ある人」とは言えない。

この事を思うにつけても、私、太平記作者は、昔の中国のある事件を思い起こさずにはいられない。以下にその内容を述べたいと思う。話が長々と横道にそれることになり、お聞き苦しい点が多少はあろうやもしれぬ、「なにをこのような、つまらぬ事をグタグタと書いておるのか」との読者諸賢よりのお叱りを受ける事になるかもしれぬが、なにとぞ、ご容赦たまわりたい。

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古代中国・春秋(しゅんじゅう)時代、楚(そ)の国に、卞和(べんか)という身分の低い者がいた。

ある日、山中の畑を耕していたところ、土中に、周囲1尺余りほどもある大きな石を見つけた。(注2)

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(訳者注2)「韓非子・第4巻・和氏第13」が原典。原典と太平記中の記述とは、例によって微妙に食い違っている。
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卞和 これは驚いた・・・原石じゃぞ! これを磨かば、巨大なる美玉(ぎょく)を得られようぞ。

卞和 このようなダイソレタものを、わしごとき庶民の所有物になど、できようか。これはやはり、どこかの貴人に奉るべきであろうて。誰ぞ、ここにやってこぬかのぉ・・・。

たまたまそこに、山で狩りをしていた楚の武王(ぶおう)が来合わせた。

卞和は、王の前に進み出ていわく、

卞和 陛下、今陛下の目にしておられますこの巨大なる石、これは世に類希(たぐいまれ)なる玉の原石にてござりまする。どうぞ、この石を持ち帰りになられ、職人に磨かしめたまわんことを。

武王 おう! それはそれは!

武王は大いに喜び、その原石を宮廷に持ち帰った。

武王 これこれ、今すぐ、玉磨(たまみがき)師を呼べい! この原石を磨かせるのじゃ!

武王側近A ハハッ!

武王の命に従って、それから数十日、玉磨師は、原石を磨きに磨いたのであったが、

武王 なんじゃこれは、全然、光っておらんではないか! いったい何をしておったのじゃ!

玉磨師B は、はい・・・必死に磨いてはおるのですがぁ・・・はぁ・・・

玉磨師B おそれながら陛下、これは、玉の原石などではありませぬ、そこらに転がっておるのと同じ、ただの石であります!

武王 (大怒)ナァニィ! さてはきゃつめ、たばかりおったな! ただではおかん! おい、あの石を供出せし、あの男、ただちにひっとらえてまいれ!

武王側近A ハハッ!

卞和は、左足切断の刑を受け、その石を背中に背負わされて、楚国の山中に追放された。

山中に草庵を結んだ卞和は、石を背中に負いながら、無実の罪によって足切断刑を受けた事を、嘆きに嘆き続けた。

卞和 (涙)ううう・・・ゼッタイに、ゼッタイに、この石は玉の原石じゃ、間違いない・・・間違いなぁいぃ! ううう・・・わしはウソなどついてはおらぬ! わしは無実だ・・・無実だ・・・無実だぁ・・・ううう・・・。(涙)

卞和 (涙)ううう・・・ああ・・・玉の原石と普通の石とを識別できる人間が、この世には一人もおらんのかぁーーー! ああ、情けなや・・・あああ・・・あああ・・・。(涙)

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3年後、武王は死去し、その子・文王(ぶんのう)の代となった。

これも不可思議な因果のめぐりあわせであろうか、山中に狩りに行った文王は偶然、卞和のいる草庵の近くを通る事になった。

文王 うん? あの草庵から泣声が聞こえてくるのぉ・・・いったい、どうしたというのじゃ?

文王は、草庵の中に入った。

文王 これこれ、そちはいったいなにゆえ、さように泣いておるのか?

卞和 (涙)はい、どこのどなたさまかは存じませぬが、よくぞ聞いてくださりました・・・。ううう(涙)

文王 いったい、何がどうしたというのじゃ、言うてみよ。

卞和 (涙)はい・・・わたくしめはその昔、この山中に入りて畑を耕しておりました。その際に、土中より1つの石を見つけましてござりまする・・・。世にも類希(たぐいまれ)なる玉の原石でござりましたがゆえに、それを・・・それを・・・王様に献上たてまつりましてござりまする。・・・ところが・・・ところが・・・う、う、う、うわぁ・・・(涙、涙)

文王 (内心)なに、「王様」じゃと? もしかして、父上の事か?

文王 その先を述べい!

卞和 (涙)は、はい・・・。あの玉磨師めが! よく分かりもしないくせに、いけしゃぁしゃぁと、「これは原石ではない、ただの石じゃ」と、知ったような事をほざきよって・・・ううう! そしてわたくしめは、これこの通り、不慮の刑に遭いて左足を切られ、かような体に・・・ううう・・・うあああああ・・・。(涙、涙)

文王 ・・・。

卞和 殿、たってのお願いでござりまする!

文王 なんじゃ?

卞和 願わくば、願わくば、この原石を、あなたさまに献上いたしたく・・・。この石を磨き出し、間違いなく玉の原石であることを、なにとぞ、世に証(あか)してくださりませ・・・さすれば、我が無実の罪を晴らすことも、かなおうかと・・・願わくば、願わくば・・・ううう・・・。(涙)

文王 よし、分かった。もう泣くな!

文王は、大いに喜んでその石を持ち帰り、武王の時とは別の玉磨師に磨かせた。しかし、彼もまた、正しき鑑定眼を持ってはいなかったのである。

玉磨師C これは、玉の原石ではありませぬのぉ、ただの石ですわい。

文王は大いに怒り、卞和の右足を切らせて、山中に追放した。

今や両足を失ってしまった卞和は、五体の苦しみにさいなまれつつ、血涙を流しながら嘆き続ける。

卞和 (涙、涙)あああ、あああ・・・あの親にしてあの子! 哀れなるかな、わが楚国よ、二代続けて、石を見る目のない君主の統治を受けるとは・・・・・・ああ、わしにはもはや絶望しか残っておらぬわ・・・とっとと死んでしまいたいぞ・・・ううう・・・うあああ・・・。(鮮血混じりの赤い涙)

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さらに20年が経過。卞和の生命線は強靭にして、一本のか細い糸のようなその命は、なおも持続していた。例の石を負いながら、嘆き暮す毎日。

文王も死去し、時代は、成王(せいおう)の御代に変わっていた。

ある日、狩りの為に山中に入った成王は偶然、卞和のいる草庵の前を通り過ぎた。

卞和は、なおも懲りずに草庵の中から這い出て、先々代、先代の2代にわたり、足切りの刑に処されてしまった事情を訴え、涙の中に、例の石を成王に献上した。

成王は、すぐに玉磨師を召し出し、その石を磨かせた。

三度目の正直、卞和の執念はついに実った。

成王 うーん・・・見事な玉じゃのぉ!

玉磨師D ご覧くださりませ、この輝きを! 玉から発せられる光、天地に輝きわたってござりまするぞ。

成王 まさに、天下無双の名玉じゃ。

成王側近E かの男の言葉通り、ただの石ではなかったのですなぁ。

この玉の発する光は凄まじかった。夜道を行く車の中に置けば、前後17台の車の姿を明明と映し出す。ゆえに人々はこれを「照車の玉」と呼んだ。また、宮殿の中に懸ければ、12の街区を明るく照らし出した。ゆえに人々はこれを「夜光の玉」とも呼んだ。まことに、天上のマニ宝珠(ほうじゅ)、海底の珊瑚樹(さんごじゅ)といえども、この玉の横に置けば、みすぼらしく見えることだろう。

かくして、この玉は楚の国宝となり、代々の王に相続されていった。

時代は下り、この玉は、趙(ちょう)国の王の持ち物となった。

趙国王も、楚国の歴代の王にも増して、この玉を愛好した。「趙璧(ちょうへき)」と名前を変え、24時間、肌身放さず状態となった。窓に蛍を集めなくとも、その玉さえあれば書物は明明と照らしだされ、闇夜の中にその玉を掲げれば、行く先の道は明瞭に照らし出されるのであった。

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その後、中国は戦国時代に突入。全域に渡って戦乱の絶える間は無く、弱肉強食、大が小を滅ぼす世となった。

趙は、強国の秦(しん)と境を接していた。

趙璧のうわさを聞いた秦の昭王(しょうおう)は、

秦・昭王 ムムム・・・なんとしてでも、その「趙璧」とやらを、奪いとってみしょうぞ・・・。さて、さて、いかような手を使えばよいものか・・・。

当時の中国には、「会盟(かいめい)」という外交儀礼があった。これは、国境を接する国どうし、双方の君主が国境に赴き、羊を殺し、その血をすすって天地の神に誓い、法を定め約を堅くして国交を結ぶのである。

この会盟の儀の時に、隣国に見下されたら大変な事になってしまう。その時ただちに、あるいは後日に、隣国からの侵略を受け、へたをすると君主の座を奪われ、といった事態を招いてしまうのだ。ゆえに、会盟に赴く際には、君主は選りすぐりの賢才の臣、勇猛の士をひきつれてその場に臨み、相手国と才能を競い勇武を争そうのであった。

ある日、秦・昭王から、「会盟しようではないか」とのメッセージが、趙国・恵文王(けいぶんおう)に送られてきた。恵文王はただちにそれに応じ、会盟の日取りを決めた。

約束の日、趙・恵文王は国境へ赴いた。

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「会盟の儀、未だ定まらず、未だ互いに羊の血をすすらず」という中に、秦・昭王は宴を催し、趙・恵文王をそこへ招いた。

宴席は終日に及んだ。

酒もたけなわになってきた時、昭王は、盃を高く挙げた。

秦国の兵士リーダーF (小声で)おっ、陛下が合図の盃を上げられた。よし、行くぞ!

秦国の兵士一群 (小声)こころえた!

彼らは、酒に酔った風を装いながら、酒宴の場へ乱入した。そして昭王と恵文王の席へつめより、目をイカラシ、肱(ひじ)を張っていわく、

秦国の兵士リーダーF 陛下ァァァ、陛下ァァァーーー、いやぁ、本日の会盟、まことに、まぁことに、しゅうちゃくしごくに、ぞんじたて、たてまつりまするぅー、ウワハッハッハッー!

秦国の兵士一群 おめでとうごりまするぅーー!

秦国の兵士リーダーF 陛下、その盃、しばらく、しばらくぅーーー!

秦国の兵士一群 しばらくぅー、しばらくぅーーー!

秦国の兵士リーダーF 陛下、大いに興に乗り、盃を干されんとされるのはよろしいのですが・・・じゃが、じゃがのぉ、鳴り物一切無しの酒では、あまりにもさびしすぎるというものじゃ!

秦国の兵士一群 さよう、さよう!

秦国の兵士リーダーF そこでじゃ、ここはヒトツゥ、趙国の主・恵文王様にお願いしたいーーッ! わが陛下が盃を干されるのにあわせて、琴を奏で、寿(ことぶき)をイッパツ言上していただきたいんですがのぉ!

秦国の兵士一群 琴を、琴を、寿をーーっ!

恵文王 (内心)ううう、おのれぇ! 挑発しおって・・・なにぃ、秦王の酒の肴にわしに琴を弾けだとぉ!・・・うぬら、趙国の君主をなんと心得えおるか・・・(ギリギリ)。

恵文王 (内心)・・・いやいや、ここはガマン、ガマンじゃ。もし否めば、こやつら、わしを刺し殺すかもしれぬ・・・。

恵文王は仕方なく、琴を弾いた。

当時の中国では、君主の傍らには必ず左右史(さゆうし)という、君主の言動を記録する係の者がついていた。秦国の左太史はさっそく筆を取り、こう書いた。

 「秦趙両国の会盟において、まずは酒宴、催さる。その席上、秦王、盃を挙げたもうた時、趙王、自ら進んで寿を言上し、琴を弾きたり。」

恵文王 (内心)あ、あ、あんな事まで書きおって・・・後世まで残る歴史に、とんでもない事を書かれてしもぉた・・・あぁ、無念じゃ! この上ない恥辱じゃ!

恵文王は、内心に怒りをたぎらせたが、どうすることもできない。

盃が廻(めぐ)り、今度は、恵文王がそれを飲み干す番となった。その時、恵文王の臣下グループ中より一人の男が立上った。男は、つかつかと秦・昭王の席に歩み寄っていく。

恵文王 (内心)はて、あの男・・・そうだ、最近召し抱えた男・・・姓はたしか、藺(りん)とか言うたな・・・。

やにわに、男は剣を抜き放ち、肱(ひじ)をいららげていわく、

藺相如(りんしょうじょ) さきほど、わが主君は秦王様の為に、琴を弾かれましたぞ。秦王様、今度は、あなたさまの番ですな!

昭王 ・・・。

藺相如 秦王様、いったいなぜ、お返しに、わが主君の為に、寿を述べようとなさいませぬのか!

昭王 ・・・。

藺相如 秦王様! どうしても、琴を弾き、寿を言上するのが、おいやとおぇせならば、ならばの、私めにも覚悟がありまするぞ! 今この場でただちに、主君の為に死ぬる覚悟がのぉ!

昭王は、もう何も言えない。

昭王 よしよし、わかった、わかった、そないに怒るでないわ。今まさに、寿の言上をさせていただこうと、思っていたところじゃにぃ。

昭王は、自ら立上って寿を言上し、ホトギ(注3)を打ちながら舞いを舞った。

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(訳者注3)口が小さく胴が大きい陶器。おそらく、これを打つと良い音が鳴ったのであろう。
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すぐに、趙国側の左太史が進み出て、次のように書き下した

 「某年某月某日、趙秦両国の会盟あり。趙王、盃を挙げたまう時、秦王、自ら酌を取り、ホトギを打てり」

このように詳細に記して、恵文王の恥をそそいだのであった。

やがて、恵文王が酒宴の席を引き上げようとした時、昭王の傍らに隠れていた兵20万人が、甲冑を帯してそこに馳せ来った。昭王は彼らを差しまねき、恵文王の方を向いていわく、

昭王 ところでのぉ、趙王殿、わしにひとつ提案があるのじゃが・・・。

恵文王 ・・・(かたずを呑む)。

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昭王 聞くところによりますればのぉ、趙王殿、あなたは、すばらしい宝玉をお持ちとか・・・。

恵文王 (ドキッ)・・・。

昭王 それそれ、えーと、何という名前でしたかのぉ、えーと・・・あ、そうそう、卞和(べんか)じゃ、卞和が掘り出したる原石から磨き出されたという玉・・・その玉の名は・・・えーと、えーと、あ、それそれ、「夜光玉」でしたかな?

恵文王 (ドキドキッ)・・・。

昭王 その玉、世にも類希(たぐいまれ)なる光を発するとかいう話しですな。いったいどのような輝きなのであろうかの、わしも一度、この目でとっぷりと拝ませていただきたいものじゃ。

恵文王 ・・・。

昭王 そこでじゃ、趙王殿、いかがでしょうかな、その玉とわが方の領土とを交換するというのは?

恵文王 えぇっ!

昭王 その玉と交換するためなら、我が領国中の15城を、あなたに差し上げてもよいと思いまするがのぉ・・・。

恵文王 えっ、15城?!

昭王 さよう、15、15城ですぞぉ!

恵文王 うーん・・・。

昭王 それがどうしてもおいやというのであればの・・・いたしかたあるまいて、両国の会盟はたった今、この場でご破算じゃ。さすれば今後永久に、両国の和親は望めませんのぉ。

中国の「1城」とは、360平方里の面積を持つ領域の事である。

恵文王 (内心)それを15個も、くれるというのだ・・・全部合わせれば、国2、3個分にもなる! じつにオイシイ話ではないか!

昭王 いかがですかな? わしのこの提案。

恵文王 (内心)かりに今、玉を惜しんで、この話を拒絶したとしよう、するといったいどうなる? 秦国側の大兵力に包囲されている現状の下では、無理やり玉を奪われてしまうであろうて。どっちみち、玉を渡してしまわねばならぬのであれば、15城と交換した方がまだまし、というものではないか。

恵文王 その話、おうけいたしましょう。

昭王 おぉ! よぉ言うて下された。これで、秦趙両国の絆(きずな)は未来永劫にわたり、この日この場にて、しっかと結ばれましたぞ!

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玉をゲットした昭王は、大喜び。

昭王 (しげしげと玉を見つめながら)なるほど、これが天下の名玉か・・・いやぁ、美しいのぉ!

昭王 この玉を得んがために、わが領国の15城を差し出す、というのじゃからのぉ・・・15城、15城じゃ・・・そうだ、この玉を、「連城の玉」と名付けようぞ。

昭王 ・・・15城・・・15城じゃよ・・・ウフフフフフフフ・・・ウハハハハハハハ・・・ガハハハハハハハ・・・ギャハハハハハハハ・・・。

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その後、恵文王はたびたび使者を秦国に送り、玉との交換条件になっている例の「15城」の引き渡しを迫った。しかし、昭王はたちまち約を違えた。たったの1城をも渡そうともせず、かといって、玉を返還する気配もない。ただただ使者を欺き、礼を軽んじて、返答さえ送ってよこさない。

かくして、恵文王は玉を失ったのみならず、中国全土からの激しい嘲りを受ける事になってしまった。

ある日、藺相如(りんしょうじょ)が恵文王の前にやってきていわく、

藺相如 陛下、願わくば、私めを秦国への使者に任命いただきたく!

恵文王 (溜息をつきながら)ハァー・・・なに・・・秦国への使者だと?・・・。

藺相如 はい。秦国の都へ赴き、秦王にかけあって、あの玉を取り返してくるのでござりまする。さすれば、陛下のお憤りも止むというもの。

恵文王 ハァー・・・いったいどのようにして、あの玉を取り返してくるというのじゃ・・・今や秦は超大国、国土は広く兵は多い。わが国の武力では到底太刀打ちができぬわい。たとえ兵を率いて戦をしたとて、玉を取り返す事など絶対に不可能じゃ・・・ハァー・・・。

藺相如 いえいえ、兵を率いて行こうというのではありませぬぞ。武力でもってあの玉を取り返そうというのではありませぬ。我が一人の力でもって、秦王を欺き、玉を取り返すのでござりまする。

恵文王 ・・・。

藺相如 わたくしめに、良き謀りごとがござりますれば、陛下、なにとぞ、秦国への特使に任命くださりませ!

恵文王は納得がいかなかたっが、

恵文王 ハァー・・・よし、そこまで言うのであれば、やってみるがよい。そちを秦国への特使に任命する・・・ハァー・・・。

喜び勇んで藺相如はただちに秦国へ赴いた。兵を一人も率いずに、身には剣もつけず、衣冠を正し車に乗って、特使としての威儀を調えて秦国の都へ入った。

宮殿の門をくぐってあいさつをし、出迎えの者に告げた。

藺相如 趙王陛下の特使、藺相如、ただいま秦国の王宮にまかりこした。秦の国王殿にじきじきにお目通り願い、申しあげたき義あり!

昭王は宮殿に出御し、ただちに藺相如を謁見(えっけん)した。

昭王 ふふふ・・・ひさしぶりじゃのぉ、藺相如。どうじゃぁ、あれから元気にしておったかぁ?

藺相如 ははっ!

昭王 して、今日はいったいいかなる用向きで、参ったのかなぁ?(ニヤニヤ)

藺相如 はい、例の玉(ぎょく)の事で。

昭王 玉? はてさて、いったい何の話じゃ? 玉? いったい何のことじゃぁ?(ニヤニヤ)

藺相如 先年、わが主君より秦王殿に進呈せし「趙璧(ちょうへき)」またの名、「夜光の玉」に関する、極めて重要なるある事実をお伝えせんがために、藺相如、本日、秦の王宮へまかりこしましてござりまする。

昭王 う?

藺相如 秦王殿、あの玉、実は・・・。(両手で顔を覆い、下を向く)

昭王 なんじゃ、なんじゃ?! あの玉に何か・・・。

藺相如 実は・・・隠れたる傷が少々ござりましてな・・・。

昭王 なにぃーーー!

藺相如 傷が存在することをば秦王殿にお知らせせぬままに、玉を呈上いたしましたること、まったくもって我が国の重大なる落ち度にてござりまする。このままでは、結局、かの玉、秦王殿の宝にはなりもうさぬ。ゆえに、趙王陛下は私めに命じられましてござりまする、「あの玉に隠れたる傷が存在せし事を、秦王殿に包み隠さず、ありのままにお伝えせよ」と。

これを聞いて昭王は喜んだ。

昭王 いやいや、よくぞ来てくれた! 傷の存在を知らぬ限りは、玉は永遠に「傷持ちの玉璧」。しかしながら、ひとたびその傷の存在を知らば、それはいくらでも修復可能ではないか! 修復の後は、玉は永遠に「完全なる玉璧」となるであろうが!

昭王は例の玉を取り出して玉盤の上に置き、藺相如の前に据えた。

昭王 さ、さ、速やかに傷の場所を教えよ!

藺相如 はは! ではおおせに従いまして。

昭王 どこじゃ、どこじゃ、傷はどこじゃ?!

藺相如 ご覧くださりませ、それ、ここに・・・。(手を玉に伸ばす)・・・(ガバッ)

藺相如は玉を左手に取るやいなや、それを宮殿の柱に押し当て、右手で剣を抜いた。

昭王 こらっ、何をする! ものども、であえい! であえい!

藺相如 寄るな、寄るな! 一歩たりともわしに寄らば、この玉、粉々にしてくれるわ!

昭王 あああ・・・玉・・・玉・・・。も、ものども、ひかえい、ひかえい!

藺相如 秦王! そなたはよくも・・・よくも、わが陛下をだましおったな!

昭王 ううう・・・。

藺相如 「君子は食言せず、その約の堅きこと金石のごとし」というではないか! 秦王、そなたは我が陛下を脅し、ムリヤリ、秦の15城とこの玉との交換を承服させた。しかるにその約を違え、15城を引き渡そうともせず、玉を返そうともせぬ!

昭王 ・・・。

藺相如 秦王、そなたはの、盜跖(とうせき:注4)のごとき、ヌスットじゃ! 文成(ぶんせい:注4)のごときペテンシじゃぁ!

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(訳者注4)盜跖は荘子に出てくる大盗賊。文成は漢王朝時代の人。「盜跖うんぬん」はともかくとして、文成よりも先の時代に生きている藺相如の言葉に文成の名が登場するわけがない。この部分、おそらく元ネタは「史記・廉頗・藺相如列伝」なのだろうが、史記中の藺相如はもっと別の事を言っている。この部分、史記と太平記とでは話の内容が大きく食い違っているので注意が必要。
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昭王 ・・・。

藺相如 はははは・・・。この玉にはの、傷なんか毛頭無いわ!

昭王 ヌヌヌ・・・。

藺相如 わしはな、わが命もろもと、この玉を粉々に砕かんがため、この秦国にやってきたのよ! わが肉体の血を秦王、そなたの王座の前に注がんがためにな!

彼は目を怒らせ、玉と昭王とをはたと睨む。わが身に近づく者あらば、たちまち玉を切り抜き、返す刀で自らの腹を切らんと、まことに思い切ったその様子、あえて誰も遮りとめようとする者もいない。昭王は呆然として言葉無くたたずむばかり、群臣は恐れて近づこうともしない。

藺相如 この玉、持って帰らせていただきますぞ、よろしいですな、秦王殿!

昭王 ・・・。

かくして、藺相如は「連城の玉璧」を奪回し、それを趙国に持ち帰った。まさに、「璧を完うした」わけである。

璧玉を取り戻す事ができた恵文王は大喜びである。藺相如をほめたたえ、大禄高位を授けた。かくして彼の位は王の外戚をも超え、その禄は万戸を超えることとなった。さらには、「牛車に乗ったまま宮城の門をくぐってもよし」という事にまでなった。彼が宮門を出入りする時には、王侯貴人でさえも目を側め、道をよけるのであった。

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ここに、廉頗(れんぱ)将軍という恵文王の旧臣がいた。先祖代々、趙の王家につかえて功績を積み、その忠はまことに重い。

廉頗 (内心)うーん・・・まったくいまいましいわい! わしに肩を並べられる者など、この趙の国内には一人もいないと思っておったにのぉ!

廉頗 (内心)藺相如め、あの玉の一件でえらいのし上がりよったもんじゃ。わしを凌いでしまうほどの高い権力の座にまで登りつめてしもうたではないか! ええい、まったくもって、いまいましいヤツじゃわい。

廉頗 (内心)よし、あやつを、亡きものにしてくれるわ! やつが宮中に参内するその道中を狙ってな・・・そうだな、兵は3000人くらい配置するとしようか。

これを察知した藺相如は精強の兵1000余を率いて自宅を出、王宮に向かった。

はるか彼方に待ち伏せしている廉頗を見つけるやいなや、藺相如は、

藺相如 これ、ただちに車を返せ! 館(やかた)に戻るのじゃ!

車引き ハハッ!

彼は廉頗と一切戦おうともせずに、すぐに兵を率いて車を飛ばし、館に帰った。

廉頗の兵G ざまを見ろ、藺相如め!

廉頗の兵H きゃつはまさに、「虎の威を借る狐」、自分の力では、何もできない男なのじゃよ。

廉頗の兵I 「いざ、直接対決!」となったらの、我らが将軍の小指ほどの力もないのじゃなぁ。

廉頗の兵一同 ワッハッハッハッハァ・・・。

これを聞いた藺相如側の兵たちは、

藺相如の兵J 言わしておけば!

藺相如の兵K これより直ちに、廉頗の館へ押し寄せ、

藺相如の兵L いざ合戦じゃぁ、雌雄を決してやろうぞ!

藺相如の兵M わしらを嘲笑ったやつらに、目にもの見せてくれるわい!

兵士らの憤りを見て、藺相如は目に涙を浮かべ、彼らに説いた。

藺相如 (涙)おまえら、こういうことわざを聞いた事がないかのぉ? 「両虎相い闘いて共に死する時、一匹の狐、その弊(ついえ)に乗じて是(これ)を噛(か)む」。

藺相如の兵一同 ・・・。

藺相如 今、この趙国においてはのぉ、廉頗とわしとは「二匹の虎」、戦えば必ず、二人共に死ぬ。して、「一匹の狐」とは、秦国の事じゃ。我らの闘争がもたらす国家の弊に乗じ、趙国を食らわんとするは必定(ひつじょう)。廉頗も藺相如もいなくなってしまったこの趙国、いったい誰が、これを守れるというのか?

藺相如の兵一同 ・・・。

藺相如 これを思うが故にのぉ、わしは廉頗と戦いとぉはないのじゃ。

藺相如の兵一同 ・・・。

藺相如 世間の人々は、わしを、「あの弱虫め」と嘲るであろうの。しかし、その嘲笑を避けんがために、国益に反してまでも、わしが廉頗とあくまで争うならば・・・そのようなことでは到底、わしは、国家の忠臣とは、言えぬであろうが!

このように、理を尽くして制止したので、兵たちもみな折れ、合戦を思いとどまった。

この一部始終を伝え聞いた廉頗は、言葉も無く、ただただ大いに恥じ入るばかりであった。

廉頗 あの藺相如という男、なんというスケールの大きな人間なのであろうか・・・それにひきかえ、このわしは・・・まったくもって、チャチな男よのぉ・・・ハァー(溜息)。

廉頗 ・・・詫びよう・・・じかに会って、詫びるのじゃ!

廉頗は、杖を背中に負い、藺相如のもとに赴いた。

門番 申しあげます、廉頗殿がこれへ! しかも、たったお一人で!

藺相如 なに!

門番 とりあえず、お庭に、お通し申し上げましてござりまするぞい!

藺相如は、あわてて庭に出た。

藺相如 廉頗殿! いったい・・・。

廉頗 藺相如殿、わしはのぉ・・・わしは、今日、あなたにお詫びする為に、やって参りましたのじゃ。

藺相如 ・・・。

廉頗 過日、あなたが兵士らに語られたお言葉をお聞きましての、わしはつくづく、自分が情けのぉなってきましたわい。

藺相如 ・・・。

廉頗 あなたは、まさに、わが国の忠臣じゃ! 自らの全てを国に捧げつくさんとするその誠の心・・・かたや、わしはといえば、自らのプライドにこだわり、つまらんイジばかり張っておるだけではないか・・・つくづく、恥じ入り申した。

藺相如 ・・・。

廉頗 (背中に負ってきた杖を手に持ち)願わくば、この杖でもって、わしを300回ほど打ち据えてくだされぃ。それでもって、わしの罪の償いとさせてくださりませぃ(涙)。

廉頗は庭に立ち尽くし、涙を流している。

義の心深く、怨みの心を全く持たない藺相如が、廉頗を杖で打つはずがあろうか、

藺相如 廉頗殿、廉頗殿・・・よぉおこしくださりましたなぁ・・・さ、さ、どうぞ、中へお入りくださりませ、さ、さ、さような所に、お立ちにならずに。

廉頗 ・・・(涙)。

藺相如 おぉい、酒の用意じゃ! これから廉頗殿と、一献(いっこん)傾けるでなぁ!

藺相如家人一同 ハイハイハイーっ!

廉頗 藺相如殿・・・(笑顔)。

藺相如は廉頗をもてなし、大いに親交を深めて家に帰した。まことに優しいその心。

以来、秦国と楚(そ)国に挟まれ、国土狭く兵力少なき趙国も、藺相如と廉頗が文武の両道さかんに国を治めている間は、他国の侵略を受ける事なく、その王権は長く保たれた。

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私心を忘れ、君主への忠節を専らにせんと志す人は、この藺相如と廉頗を、範とすべきである。

しかしながら、足利幕府を倒そうとしている虎や龍が、国土の四方辺境で機を窺っているという今この時に、高(こう)と上杉(うえすぎ)の両家の人々は、さしたる怨みも無く、大して咎められるような点もないのに、互いに権を争い、相手の威をそねみ、何とかして確執に持ち込まんと、互いにスキをうかがっているのである。

まさに、両者共に「忠臣からは、ほど遠し」としか、言いようがない。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月17日 (土)

太平記 現代語訳 26-6 高兄弟、驕りをきわめる

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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富貴(ふうき)に驕(おご)り、功に侈(おご)って、慎みを完全に失ってしまうのが人間の常、高兄弟とて、その例外ではなかった。

高師直(こうのもろなお)は、今回の対吉野朝戦における大勝利の後、ますます心奢(おご)り、やりたい放題、したい放題の毎日を送るようになっていった。仁義の道をもかえりみず、世間の嘲笑をも一切気にしない。

慣例では、4位以下の侍や武士は、板で葺いてない桧皮葺(ひわだぶき:注1)の家にさえも、住まない、という事になっている。

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(訳者注1)桧の樹皮を葺いた屋根である。現在でも古い神社仏閣に行くとこれが見られる。
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ところが、師直はなんと、あの護良親王(もりよししんのう)の母(注2)のかつての旧居(場所は一条今出川(いちじょういまでがわ:注3)、すっかり荒れ果ててしまってはいたのだが)を手に入れたのである。

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(訳者注2)6-1に登場。

(訳者注3)現在の京都の地理感覚でいくと、「一条今出川? 一条通りと今出川通りが交差する所? あれ? どっちも、東西方向の道路だが・・・」となるのだが、これを、「一条通り と 今出川という河川 とが交差する所」と思えば、納得が行く。[今出川]という河川が、かつてあったようだ。

堀川通と今出川通の交差点の西北に、[西陣舟橋]の跡地を示す石標があり、そこに、高師直の邸宅があった、という伝承があるようだ。
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その敷地内に新たに、切妻破風(きるづまはふ)や唐破風(からはふ)の門を四方に建て、立派な釣殿(つりどの)、渡殿(わたりどの)、泉殿(いずみどの)を建設し、壮麗なる屋敷を構えて、自らの邸宅としたのである。

世間の声A あこの屋敷な、庭もすごいんやで。立派な石が、ゴロゴロや。

世間の声B うわさじゃ、伊勢(いせ:三重県中部)や志摩(しま:三重県東部)、はたまた、雑賀(さいか:和歌山県・和歌山市)あたりから、取り寄せたっていうじゃぁないの。いずれも、名だたる石の名産地だよなぁ。

世間の声C その石運んでる時がなぁ、そらまたものすごいミモノやったそうどす。あないに大きな石どすやろ、運ぶ車がきしってもぉて、車軸が砕け飛んだとか、いいますやん。

世間の声D わしな、その運んどるとこ、見たで。車引いてる牛が、そらぁかわいそうなもんやったわ。石がよっぽど重かったんやろな、あえぎ苦しみながら、車引いとったなぁ。

世間の声E 石もさることながら、庭の植木がまた、すごいんだよね。あそこに植わってるあの見事な桂の木、まさに、月世界に生える桂を思わせる木だよ。

世間の声A ハハハ・・・そらまたオーヴァーな、いくらなんでも月世界はないやろ。

世間の声B 桂の木が月世界なら、あの菊はさしづめ、仙人の家で栽培された菊ってとこかな。

世間の声C 桜は吉野山の桜どすか。

世間の声D ほなら、松は、あの播磨高砂(たかさご:兵庫県・高砂市)の、尾上の松(おのえのまつ)ですな。

世間の声E 露霜染めた紅の八(や)しおの岡の下紅葉(したもみじ)ってとこかぁ。

世間の声F オイチャン、オイチャン、「ヤシオ」って、いったいどういう意味やぁ?

世間の声E 何度も何度も染め直してな、色を濃くするってことさ。

世間の声G あのっさぁー、あの屋敷に生えてる葦(あし)ってぇさぁー、いったい何を意味するシンボルだか、みんな知ってるぅー?

世間の声C えっ、庭に葦まで生やしたはるんどすかぁ。そら知らんかったわ、いったいなんでまた葦なんか?

世間の声G あの庭に一叢(ひとむら)の葦を生やしてるのはっさぁ、あれは古の世に、かの西行法師(さいぎょうほうし)がっさぁ、詠んだ歌にひっかけてるんだよねぇ。

 津(つ)の国の 難波(なにわ)の春は 夢なれや あしの枯葉に 風渡るなり(注4)

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(訳者注4)新古今和歌集 巻第六 冬歌より。
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世間の声F おねぇちゃん、おねぇちゃん、その歌、いったいどういう意味ぃ?

世間の声G 教えたげよっかぁ。「津の国」ってのはっさぁ、「摂津(せっつ)の国」の短縮形なんだよねぇ。でぇ、この歌の意味ってのはっさぁ、「おかしいなぁ こないだ見た時は 摂津の国の難波海岸は 春まっさかりだったのに あれって ただの夢だったのかなぁ だってさぁ 今 目の前にあるものといやぁ 葦の枯れ葉を渡っていく風だけじゃん」ってぇ、意味の歌なんだよぉ。

世間の声F ふーん・・・。

世間の声B 葦が西行なら、蔦(つた)と楓(かえで)は、業平(なりひら:注5)だなぁ。

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(訳者注5)在原業平。伊勢物語の主人公。
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世間の声C うんうん、伊勢物語のあのくだりどすな、「我が入らむとする道はいと暗う細きに蔦かえでは茂り」。遠州(えんしゅう:静岡県中部)の宇津谷(うつのたに:静岡市)の風景どすかぁ。うわぁ、師直はんてモロ、文学マニアのお人どすなぁ。

世間の声D 名所名所の風景をやな、自分とこの庭に残らず集めてみた、というわけや。

世間の声F あのっさぁ、あの人が関心を持ってるのってっさぁ、植木や石だけじゃないんだよぉ。

世間の声C 他にいったい何を?

世間の声G 最近、京都のお公家さんとこって、どこもかも落ち目じゃぁん?

世間の声C たしかに、落ち目どすわなぁ。

世間の声G でっさぁ、そういうおウチのお姫様たちってのはっさぁ、どうしても、先き行き不安じゃぁん? だからぁ、「確かな拠り所」ってのを求めてるってわけよ。でもってっさぁ、そういう家の戸を次々と、師直オジサンが、叩いてまわっるってわけなんよぉ。

世間の声H あのな、その件については、ちょっとワシにも、コメントさせぇ!

世間の声C あらぁ、いったいなんどすかいな、えらいイキマいといやすなぁ。

世間の声H あのな、お公家さんとこの子女に対して、あの男がナニすんのん、ワシとしては、まぁ許せるわいや、相手の家かて、それで潤おうんやからな。そやけどな、あれ、あれだけは、ワシにはゼッタイに許せへん! なんやねん、あの男は! よりにもよって、やんごとなき皇室の子女方にまでチョッカイ出しよって!

世間の声D エーッ、ほんまかいな、それ!

世間の声H そうやがな! そういう皇室の血を引いてるお姫様方をたくさんな、京都の方々に隠し置いてやな、毎夜毎夜、あちらこちらと通ぉとるんやがな、あの男はなぁ!

世間の声A 京都中、もっぱらのうわさだっせ、「執事(しつじ)の宮廻(みやめぐ)りに、手向(たむけ)けを受けぬ神も無し(注6)」っちゅうてなぁ。

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(訳者注6)高師直は足利家の執事であった。
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このような事が多かった中にも、これはあまりにもひどいとしか言いようのない行為が・・・なんと、よりによって関白家にまで・・・こんな事をしているようでは、神仏のご加護も頂けなくなってしまおうというものである。

前関白・二条道平(にじょうみちひら)には、妹君がいた。

深宮の中にかしづかれ、やがては天皇妃の一員にと期待されていたその女性を、なんと、師直は、二条家の邸宅から盗み出してしまったのである。

最初のうちは、少しは世間の目を忍ぶ様であったが、次第に彼女との関係をおおっぴらにするようになり、もはや誰の目も憚らないようになってしまった。

年月を経て、この女人は男子を産み、武蔵五郎(むさしごろう)(注7)と名付けられた。

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(訳者注7)高師夏の幼名である。
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あぁ、まさに世も末である。あの大織冠(たいしょくかん)・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)公の子孫である太政大臣・二条公の御妹君が、関東出身の一介の武士のもとに嫁するとは・・・もう、あきれはてて、ものもいえない。

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いやいや、これくらいの事で驚いてはならない。

高師泰(こうのもろやす)の悪行こそは、伝え聞くだけでもびっくぎょうてんである。

ふとした事から師泰は、東山(ひがしやま)山麓の枝橋(えだはし:注8)という所に別荘を造る気になった。

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(訳者注8)[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館] 中の注には、

 「・・・京都市左京区の叡山電鉄叡山線の出町柳から田中明神に至る東方の地域か。」

とある。
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さっそく、土地の所有関係を調査させたところ、そこは、菅原(すがわら)家のトップにして参議職にある菅原在登(すがわらのありのり)が所有する土地であることが分かった。

すぐに使者を立てて、用地取得の交渉に入った。

菅原在登 高師泰殿が別荘造営のため枝橋の地を所望との事、あいわかりました。こちらには一切異存はありませんわ。ただしですな、あこの敷地の中には当家の墓地がございましてな、先祖代々、そこに五輪塔を立ててお経を奉納したりしてきてますんやわ。そやから、そこのお墓を他の場所に移す間だけ、どうか待っとくれやす。

これを聞いた師泰は、

高師泰 ナニィ、先祖代々の墓だとぉ! さては菅原め、土地を手放すのがいやなんで、そんな口実を構えてやがんだな。えぇい、かまわん、そんな墓地なんか、隅から隅まで、きれいさっぱり掘り崩して、更地にしてしまえぃ!

さっそく、人夫5、600人がそこに送り込まれた。

彼らは、山を崩し木を切り倒し、どんどん整地を行っていく。累々と重なる五輪塔の下には苔に朽ちた屍(しかばね)あり、草の茂る中に転がっている割れた石碑の上には雨に消えた戒名あり、という惨状。

このように墓地が破壊され、墓に植えられた箱柳(はこやなぎ)の木も切り倒されたとなると、今までここに眠っていた菅原家の霊魂たちは、これから先、いったい、どこをどのようにさ迷う事になるのだろうか、まことにもって哀れな事である。

いったいどこの不心得者であろうか、この有様を見て、一首の歌を書きつけた札を、その更地の上に立てた。

 亡き人の 標(しるし)の卒塔婆 掘り捨てて お墓の上に はかない家を

 (原文)無人(なきひと)の しるし(標)の卒都婆(そとば) 掘棄(ほりすて)て 墓(はか)なかりける 家作哉(いえつくりかな)(注9)

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(訳者注9)そんなヒドイ事して建てた別荘なんか、実にハカない、あっという間に潰れてしまうよ、の意。「はかない」と「墓」とをかけてある。
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この落書を見た師泰は、

高師泰 こりゃきっと、菅原のしわざにちげぇねぇ! よぉし、ヤツに言いがかりつけてな、刺し殺しちまえ!

師泰は、大覚寺(だいかくじ)門跡(もんぜき)の寵愛を受けている我護殿(ごごどの)という大力の童(わらわ)を仲間に引入れ、彼に菅原在登を殺害させた。まったくもって、哀れな事である。

この菅原在登という人は、聖廟(せいびょう)・北野神社(きたのじんじゃ)をまつり、朝廷の学問関係の元じめの任にあった人である。いったいいかなる神慮に違いて、このような無実の死刑に遭わねばならなかったのであろうか。まさに古代中国、魏(ぎ)のビシカが鸚鵡州(おうむしゅう)の土に埋もれたあの悲しい物語に似ている。

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師泰の別荘の造営は、どんどん進んでいく。

ある日、四条隆陰(しじょうたかかげ)に仕官している大蔵少輔重藤(おおくらのしょうゆう・しげふじ)と古見源左衛門(ふるみげんざえもん)という二人の侍(さむらい)が、たまたま、その工事現場近くを通りかかった。

大蔵少輔重藤 おいおい、あこが例の土地やで。ほれ、例の山荘の用地買収で、ゴタゴタのあった、例の・・・。

古見源左衛門 あぁ、あこかいなぁ。

大蔵少輔重藤 ちょっと見て行こいな。

古見源左衛門 そやなぁ。

二人は工事現場に立ち寄った。見れば、土木工事をしている人夫たちは汗を流し、肩に重荷を背負いながら、休む間もなくこき使われている。

大蔵少輔重藤 おい、おまえら、かわいそぅやのぉ。

古見源左衛門 いくら身分の低い人夫やいうたかてな、ここまでキツゥ働かされいでも、えぇやろうになぁ。

大蔵少輔重藤 ほんまに、おまえらの雇い主、ヒドイやっちゃ。

二人は、師泰に対する批判の言葉を放ちながら、そこを去っていった。

現場監督をしていた者の部下がこれを聞き、さっそく師泰に報告した。

高家メンバーA 殿! いってぇ、どこのウマノホネだか知らねぇけんど、おそらく、どこぞの公家の使用人でしょうね、けしからんヤロウがいやしたぜぃ。工事現場を通りすぎながらね、こんな事言ってやがるんですよ、まぁ、聞いてくださいよ、あのね・・・。

これを聞いて、師泰は怒り心頭に達してしまった。

高師泰 そうかいそうかい、人夫がかわいそうだってかい、じゃ、そいつらに、代りに働いてもらう事にしようじゃねぇかい!

高家メンバーA ワハハ、こりゃぁおもしれえや。

高師泰 すぐにその二人、追いかけて、とっつかまえろい! 工事現場で、ビシビシこき使ってやれい!

高家メンバーA ウィッスゥ! おぉい、みんな、行こうぜぃ!

高家メンバー一同 ウィッス、ウィッスゥ!

彼らは、遥かかなたまで行っていた二人を追跡し、ウムを言わさず、現場まで連れ戻してきた。

大蔵少輔重藤 (内心)これからいったい何が・・・。(ワナワナ)

古見源左衛門 (内心)エライことになってもた・・・。(ワナワナ)

高家メンバーA おぉい、おまえらな、とっとと、そこの着物に着替えやがれぃ!

二人は指示に従って、人夫らが着ていた綴りあわせの着物に着替えた。

高家メンバーB そないな立ち烏帽子では、仕事ができひんやろがぁ。

二人は、立ち烏帽子をひっこめさせられ、夏の炎天下に放り出された。

高家メンバーA さぁ、これから、ここの整地作業をやってもらおうかい!

大蔵少輔重藤 えぇーっ、整地作業?

古見源左衛門 ここの土地の?

高家メンバーA アッタボゥよ! 他にどこの整地やるってんだぁ!

高家メンバーB ほれほれ、早ぉ、手に鋤持って、土かき寄せるんやがな・・・。そうやそうや、その調子でな。

高家メンバーC オラオラ、そこの石、とっとと掘り出しやがれ!

高家メンバーD こら! ナニ、ボサッと、つっ立ってんだよぉ! 掘り出した石、そこのアンダ(注10)に入れて、あっちへ運んでいけってぇ!

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(訳者注10)おそらく、繊維を編んで作成した容器であろう。
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高家メンバーE ほんーまにおまえら、トロイやっちゃのぉー。そんなスローペースでやっとったんでは、日ぃ暮れてしまうやろが。ほれほれ、ペースアップ、ペースアップーゥ!

このように、終日こき使われている二人を見て、人々はツマハジキし、

通行人F なんとなんと、これほどのハズカシメを受けながらも、じっと耐えての労働かいな。

通行人G よっぽど、命が惜しいんだろうよ。

通行人H こんな恥辱を受けるくらいなら、死んだ方が、よっぽどましじゃけん。

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いやいや、こんな事など、まだまだ序の口。

今年の楠(くすのき)攻めの際に、石川河原(いしかわがわら)に陣を取った時に、師泰は、どさくさにまぎれてその周辺をも完全に占領し、地域一帯の神社仏閣の領地を残らず横領してしまった。その中には、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)の24時間灯し続ける仏前の灯明の費用の充足に当てていた領地も含まれていた。その結果、700年の間、消えることの無かった仏法常住(ぶっぽうじょうじゅう)の灯火も、寺の威光と共に、ついに消えはててしまった。

さらに、こんな事もあった。

どこの輩か定かではないが、一人の極悪の者がいわく、

高軍メンバーI このあたりの寺の塔、九輪(くりん:注11)はおおかた、赤銅(しゃくどう)でできてると思うんだよな。あれみんな取ってきてさ、そいでもってお茶の釜に鋳直してみたらどうだろ。いい釜が、できるんじゃないかなぁ。

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(訳者注11)塔の頂上に取り付ける9個の輪。
--------

これを耳にした師泰は、

高師泰 なぁるほど!

さっそく、寺院の塔の頂きから九輪を取ってこさせ、釜を作らせた。

高師泰 うん、あいつが言ってた通りだ! こりゃぁ見事な釜ができたぜ。

高家メンバー一同 ホホォ・・・。

高師泰 見ろよ、窪みが一個所もねぇだろうが。磨けば磨くほどに、光冷々!

高家メンバー一同 ウーン・・・。

高家メンバーJ でぇ、いったいどうですかい、カンジンのお茶のお味の方は?

高師泰 まぁまぁ、待て待てぇ、これから飲んでみっからぁ。

高家メンバー一同 ・・・(かたずを飲んで師泰を見つめる)

高師泰 (ゴクリ)・・・。

高家メンバー一同 ・・・

高師泰 ・・・。

高家メンバー一同 (ゴクン・・・生唾を呑み込む)

高師泰 ギャハァー・・・ハァー・・・ああああ、なんともいえぬ、このかんばしさーッ・・・この福建(ふくけん:中国福建省)・建渓(けんけい)産の銘茶、この釜のおかげで、ひときわ味がひきたつねぇ・・・ハァー・・・。

高家メンバー一同 (ゴクンゴクン・・・生唾を呑み込む)

高師泰 いやぁ、かの蘇東波(そとうば)先生が、「世界一の名水」って詠んだ時も、まさにこういった最高の気分だったんだろうなぁ・・・ハァー・・・。

「上の好む所に下必ず随う」とは、かの孟子(もうし)の言葉、そこに集まっていた諸国の武士たちは、これを伝え聞き、我も我もと、そこいら中の寺の塔から九輪を略奪し、茶釜に変えていった。その結果、和泉(いずみ:大阪府南部)、河内(かわち:大阪府東部)中の数百か寺の塔という塔から、九輪が消滅してしまった。

九輪を取られて、柱の上の方形だけが残っているもあり、塔の中心の柱を切られて、九層だけが残っているもあり。塔の中にご安置の多宝仏(たほうぶつ)と釈迦仏(しゃかぶつ)は、今や無惨にもむき出し状態。仏像の玉飾りは暁の風に漂よい、五智を備えられた如来のみ像の頭髪を夜の雨が濡らす。

この高師泰という男、もしかしたら、かの物部守屋(もののべのもりや:注12)の生まれ変わりなのかもしれない。古の世に果たす事ができなかった、「我、仏法を亡さん」との望みを、今この世において達成しようというのだろうか。まったくもって、悪寒を催すような話ばかりである。

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(訳者注12)[日本書紀]の記述によれば、以下の通り:

物部守屋は、大和時代の有力豪族・物部氏のリーダーである。時あたかも朝鮮の百済から日本に仏教が伝来、「仏教を受容すべし」と主張する蘇我氏と、「仏教を排撃すべし」と主張する物部氏とが真っ向から対立。両者武力闘争の末、蘇我氏が勝利。以後、仏教が日本に広まっていった。
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(訳者注13)[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書2443 中央公論新社] の 41P ~ 42P には、以下のようにある。

 「・・・高師直を日本史上屈指の大悪人であるとする史観は現代なお根強く残存しているが、その史料的根拠はほぼすべて『太平記』である。」

 「だが、別の機会に検討したことがあるが、『太平記』に列挙される師直兄弟の悪行は、ほとんど一次史料で裏づけがとれない。・・・」
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太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月16日 (金)

太平記 現代語訳 26-5 吉野朝、賀名生において、逼塞状態に

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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京都朝年号・貞和(じょうわ)5年(注1)1月5日、四条縄手(しじょうなわて)の合戦において、和田(わだ)・楠(くすのき)軍は全滅し、今は、楠正行(くすのきまさつら)の弟・正儀(まさのり)が生き残っているだけの状態となった。

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(訳者注1)ここは、太平記作者のミスであり、四条縄手の戦があったのは、貞和4年(1348)である。
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高師泰(こうのもろやす) このチャンスを逃がしちゃいかん! 楠氏の拠点、残らず掃討しちまうんだ!

高師泰軍メンバー一同 ウィッスゥ!

師泰は、3,000余騎を率いて、石川河原(いしかわがわら)に向城(むかいじろ)を築き、楠一族を攻めたてた。高師泰側と楠側、互いに攻めつ攻められつ、合戦の止む間もない。

一方、吉野朝(よしのちょう)の後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、天川(てんかわ)の奥、賀名生(あのう:奈良県・五條市)という所に、小さな黒木の御所を建て、そこに住むことになった。

後村上天皇 (内心)まぁ、こないな粗末な御所やけどな、かの中国太古の時代、堯(ぎょう)帝や舜(しゅん)帝は、屋根を葺(ふ)いた茅(かや)の端を切り揃える事もせんと、ものすごい質素な生活をしてたというやないか。当時の虚飾無き生活は、まさに今のこの、私の状態みたいなもんやったんやろ。そない思うたら、こういう生活もまた、えぇもんかもしれんて。

しかし、天皇の母・廉子(れんし)や皇后たちは、とてもそういう気持ちにはなれない。

廉子 あーあ、ここはまたなんちゅう粗末な住いやねんなぁ(涙)。屋根に瓦も無いがな、ただ柴で葺いたるだけやないかいな。雨が降ったら降ったらで、軒からじゃぁじゃぁ、雨水が垂れ落ちてくる。あぁ、もういやや、こないなとこに住みとうない・・・みじめや・・・みじめや・・・ううう・・・。(涙)

女性方の涙は、乾くひまもない。

しかし、屋根の下に住めるだけ、まだましというものだ。公卿たちは、木の下や岩の陰に松葉を葺きかけ、寝具といえば苔が筵(むしろ)の代り、そのような場所を、我が身を置く宿とするしかないのである。

公卿A (内心)はぁー・・・こらぁ、ほんまにまいったでぇー・・・。

公卿B (内心)高峯(たかね)の嵐は吹き落ちて 夜の衣をひるがえし

公卿C (内心)露の手枕寒ければ 昔を見せる夢も無し

身分が低い者たちは、もっとみじめである。

身分が低い者D (内心)もうたまりまへん、わし、こないな生活には、もうとても耐えられしまへん。

身分が低い者E (内心)暮山(ぼさん)の薪(たきぎ)を拾うては

身分が低い者F (内心)雪を戴(いただ)くに 膚(はだ)寒く

身分が低い者G (内心)幽谷(ゆうこく)の水を掬(むす)んでは(注2)

身分が低い者H (内心)月を担(にな)うに 肩やせたり(注3)

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(訳者注2)谷川の水を両手で掬(すく)うこと。

(訳者注3)この部分は原文のまま記載した。その意味はおそらく、「夕暮れの山に入って薪を取っている。雪が積もる吉野の寒さが、厳しく肌に迫ってくる。深い谷に入って水を汲んでいる時、月光の下、水面に映る自分の姿を見て、驚いた。いつの間に、自分の肩は、このようにやせ細ってしまったのか!」。
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身分が低い者I (内心)こないなとこで、もうわし、よぉ生きていかん・・・1日、いや、1時間もムリや。いっそのこと、死んでしまいたい!

身分が低い者J (内心)いやいや、人間、命あってのモノダネやぞ、死んで花が咲くもんかいな。

身分が低い者K (内心)耐えて耐えて、生き抜いてったら、

身分が低い者L (内心)そのうち、運命も開けてくるかも・・・。

身分が低い者M (内心)歯ぁくいしばって、ここでがんばってみるとしょうかいな。

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2018年2月15日 (木)

太平記 現代語訳 26-4 高師直、吉野を急襲

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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高師直(こうのもろなお) デデンノデン、楠(くすのき)軍は全滅でごぜぇます。デデンノデン、もうおれたちのジャマするやつは、どこにもいはらしまへんのんで、ありますんどす、デデンノデンデン!

高師泰(こうのもろやす) このさいだなぁ、やつらの根拠地を徹底的に潰してしまおうよ。楠館(くすのきやかた)、焼き払っちまおうぜ。

高師直 楠の木を根こそぎにするお仕事、そちらにおまかせしまっさ。アチキは、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)へ向かうんでありんすえぇ。

高師泰 吉野ぉ?

高師直 そうざますであぁります。吉野の天皇、ひっ捕まえてしまうんどす。

1月8日、高師泰は、6,000余騎を率いて和泉国(いずみこく:大阪府南西部)・堺の浦(さかいのうら:大阪府・堺市)を発ち、石川河原(いしかわがわら)に到着。ただちにそこに向かい城を築き、楠家の根拠地に対する攻撃態勢を整えた。

一方、高師直は3万余騎を率いて1月14日、大和の平田荘(ひらたしょう)を発ち、吉野山麓へ押し寄せていった。

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「高師直軍、吉野へ迫る」との報に、吉野朝の臣・四条隆資(しじょうたかすけ)は急ぎ、黒木(くろき)の御所(注1)に参内していわく、

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(訳者注1)丸太を削らずに、そのまま使って造営した御所。
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四条隆資 陛下! 大変な事になりましたわ! 数日前に、楠正行(くすのきまさつら)は戦死。明日にも、高師直が、ここへ襲来してくるとの情報が!

後村上天皇(ごむらかみてんのう) なんやて!

四条隆資 このままここにおられたんでは、危のぉす! 防衛拠点も少ないです、兵も足りません。今夜のうちに急ぎ、天川(てんかわ)の上流の方、賀名生(あのお:奈良県・五條市)へ、お逃げ下さいませ!

後村上天皇 ・・・正行・・・死んでしもぉたんか・・・。

四条隆資の手配りは、俊敏であった。ただちに三種の神器を内侍(ないし)に取り出させ、皇室所有馬を庭に引いてこさせた。

後村上天皇 ・・・正行・・・高師直・・・天川・・・賀名生・・・ここの御所は・・・いったいどないなる・・・。

天皇は、呆然自失状態、頭の中を様々の想念がどうどう巡りをするのみ。夢路をたどるような心地のままに、黒木の御所を出た。

天皇の母・廉子(れんし)をはじめ、皇后、准后(じゅこう)、内親王(ないしんのう)等の皇族をはじめ、内侍(ないし)、童女(どうじょ)、関白夫人、公卿、国司、下級官僚、諸官庁の長官・次官、僧正(そうじょう)、僧都(そうず)、寺院所属の童子(どうじ)や役務担当者に至るまで全員、取るものも取りあえず、あわて騒ぎ倒れ迷い、慣れぬ岩だらけの道を歩き、重なる山の雲を分け、吉野を出て、さらに奥の方へと迷い入る。

吉野朝廷メンバーA (内心)あぁ・・・京都からここ、吉野の山中へ逃げてきてから、もう何年になるんやろうなぁ。

吉野朝廷メンバーB (内心)「ここは、仮の避難場所やねんぞ、自分の住処(すみか)はあくまでも、京都やねんぞ」とな、最初のうちは、自分に言い聞かしもって、ここでの生活を始めたんやった。

吉野朝廷メンバーC (内心)そやけどなぁ、「住めば都」とは、よぉいうたもんや。ここで何年かすごしてるうちに、吉野の地にも、すっかり住み慣れてしもぉたわいな。

吉野朝廷メンバーD (内心)ところがまたまた、こっから逃げ出さんならんようになってしもぉたわ。今度は、もっと山奥の方に行くんやて。(涙)

吉野朝廷メンバーE (内心)あぁ、ますます、暮らしにくぅ、なっていくやないかいな・・・。(涙)

全員、袖を涙に濡らすばかりである。

勝手明神(かってみょうじん)の前を通り過ぎる時、天皇は馬から降り、涙の中に一首詠んだ。

 名前聞き 熱い期待を 寄せてたが こんな事では 「勝手」の名折れや

 (原文)憑(たのむ)かひ 無(なき)に付(つけ)ても 誓ひてし 勝手の神の 名こそ惜(おし)けれ(注2)

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(訳者注2)「勝手明神」の名前を頼み、対足利幕府・権力闘争において、多大なる威神力を発揮していただき、我が方に最終的勝利がもたらされることを期待していたのに、こんな惨めな事になってしまって・・・の意。
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後村上天皇 (内心)逆臣が国を乱して、君主をないがしろにするような事があっても、やがては、君主が再び天下を平定する、それが歴史の鉄則や。それが証拠に、古代中国の唐王朝・玄宗皇帝(げんそうこうてい)を見よ。楊貴妃(ようきひ)を寵愛したが故に、安禄山(あんろくざん)に国を傾けられ、蜀(しょく:四川省)の剣閣(けんかく)に逃亡したが、やがて帝位に復帰した。

後村上天皇 (内心)わが国においても古(いにしえ)、大海皇子(おおあまのみこ)は大友皇子(おおとものみこ)に襲われ、この吉野山に避難しはったけど、やがて天下を平定され、天武天皇(てんむてんのう)として即位された。

後村上天皇 (内心)この私かて、このままここで朽ち果てへんぞ! そのうちいつか、きっと、きっとな!

しかし、周囲の男女は、上下を問わず周章狼狽(しゅうしょうろうばい)し、嘆き悲しんでいる。

吉野朝廷メンバーF あぁ、安全な場所、どこぞに無いもんかいなぁ。(涙)

吉野朝廷メンバーG 少しの間でもえぇから、安心して住めるとこ、広い日本のどこにも無いんかいなぁ。(涙)

彼らの様を目にして、天皇の愁いは休まる時がない。

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ついに、高師直軍3万余騎が、吉野山に押し寄せてきた。

三度トキの声を上げたが、吉野朝側は全員退避してしまったがゆえに、ひっそりと静まり返っている。

高師直 そうですか、そうですかぁ、みなさん、どこかへお逃げあそばしんたんざぁますね。じゃぁ、焼き払わしてもらいましょいな。

彼らは、皇居や公卿たちの宿所に、一斉に火を放った。

魔風が盛んに吹き寄せ、他の建物にも、どんどん延焼していく。2丈1基の笠鳥居、2丈5尺の金の鳥居、2階建の仁王門、北野天神の分社、72間の回廊、38か所の神楽屋(かぐらや)、宝蔵(ほうぞう)、竈(かまど)神社、三尊(さんぞん)の化身にして万人の礼拝するところとなっている金剛蔵王(こんごうざおう)の社壇に至るまで、すべて一斉に灰燼(かいじん)となりはて、煙は蒼天(そうてん)に立ち登る。まことにもって、浅ましい限りの所業(しょぎょう)である。

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そもそも、吉野の地に、この北野天神の分社が建立されたのは、以下のようないわれがあっての事であった。

承平(しょうへい)4年8月1日、笙ノ窟(しょうのいわや:奈良県の大峰山系)にこもって修行していた日蔵上人(にちぞうしょうにん)が、修行中に急死してしまった。

蔵王権現(ざおうごんげん)は、ただちに日蔵の霊魂を左の手の上に乗せ、閻魔大王(えんまだいおう)の宮殿に送り届けた。

日蔵 ハッ・・・ここはいったい、どこなんやろう?

閻魔宮・第一冥官(みょうかん) 閻魔宮へようこそ!

日蔵 はぁ・・・閻魔宮ですかぁ。

閻魔宮・第一冥官 さよう。ではさっそく、これからあなたに、六道世界(ろくどうせかい)をお見せしましょう。案内は、これなる倶生神(くしょうじん)がいたしまする。

倶生神 (突然、姿を現し)よろしく、お願いいたします。

日蔵 は、はい。

倶生神 まずは、鉄窟苦所(てっくつくしょ)へごあんなぁい!

日蔵 はぁ。

案内されていった所には、鉄の風呂があった(注3)。

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(訳者注3)湯船が鉄できた風呂ではない、湯船の中に液体状の鉄が満たされているのである。高炉から出てくる液状の「熱鉄」を想像していただきたい。
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鉄の湯の中に、王冠をかぶった天皇のような身なりをした罪人が入っている。その人は、手を上げて日蔵を招いた。

日蔵 いったいあれは誰?・・・あっ、陛下やないか!

日蔵は、天皇の前にひざまづいていわく、

日蔵 陛下、なんという、おいたわしい事!

醍醐天皇(だいごてんのう) 日蔵・・・。

日蔵 いったいなんで、こないな事に・・・。陛下は御在位の間、常に五常(ごじょう:注4)を正して仁義を専らにされ、内には五戒(ごかい:注5)を守って慈悲を先にされました。そやから、ご崩御(ほうぎょ)あそばされた後は、菩薩(ぼさつ)界の最高位にも列せられるやろうと、思ぉておりました。そやのに、いったいなんでまた、こないな地獄に!

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(訳者注4)儒教で説く仁義礼智信の五道徳。

(訳者注5)仏教で説く五つの戒。「殺さない、盗まない、邪淫しない、妄語しない、飲酒しない」。
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醍醐天皇 (涙をぬぐいながら)わたしが天皇位におった間はな、万事怠りなく、撫民治世(ぶみんちせい)の政治に努めたわ。ほんま、わたしの政治は完璧やった・・・たった一件のミスを除いてな・・・。

日蔵 たった一件のミス? いったい何の事ですか?

醍醐天皇 藤原時平(ふじわらのときひら)の讒言(ざんげん)を信じてもてなぁ、なんの罪も無い菅原道真(すがわらのみちざね)を、太宰府(だざいふ)流刑に処してしもうた。そのカドで、わたしは、ここへ落ちてしもぉたんや。

日蔵 ・・・(涙)。

醍醐天皇 なぁ、日蔵、おまえに、たっての願い事があるんやが。

日蔵 おそれおおくも、陛下、私にできますことやったら、なんなりと。

醍醐天皇 おまえは今、ここに来てしもぉてるけどな、これは一時的現象なんや。おまえの急死、あれは、おまえが持ってる因縁(いんねん)からの帰結(きけつ)ではない・・・言うてみれば、これは一種のアクシデントやったんや。

日蔵 アクシデント?

醍醐天皇 そうや。因果律(いんがりつ)の法則の埒外(らちがい)、決定律(けっていりつ)を超えた不確定性的現象(ふかくせいてきげんしょう)や。そやからな、おまえは間もなく蘇生(そせい)して、この霊界からあちらの現生界(げんせいかい)に、戻される事になっとる。

日蔵 ・・・。

醍醐天皇 日蔵、かつて、おまえと私とは、仏教においての師と弟子の関係やった、そうやわなぁ?

日蔵 はい。

醍醐天皇 ならばな、娑婆世界(しゃばせかい)に戻った後に、私を助けてくれへんか。この地獄から私を救いだしてくれ、頼む・・・。

日蔵 はい、陛下の為やったら、何でもいたします! で、私は、いったい何をしたら?

醍醐天皇 菅原道真の廟(びょう)を建立してな、そこを衆生利益(しゅじょうりやく)の一大依所(いちだいえしょ)に、したってくれ。そないしてくれたら、私はこの苦しみから救われるんや。頼む、頼む(涙)。

涙ながらの勅命を受けて、日蔵は、

日蔵 陛下、どうぞ、ご安堵くださいませ。陛下のおん願い、この日蔵、きっと、きっと!(涙)

醍醐天皇 頼む・・・頼んだぞぉ・・・。(涙)

それから12日後、日蔵は蘇生した。

日蔵 よし、霊界での陛下よりの勅命のごとく、社殿を建立や!

日蔵はただちに、吉野山に菅原道真の廟を立てた。醍醐天皇の言葉の通りに、その廟は、そこに参拝する人々に様々な利益を与えるようになった。これすなわち、利生方便(りしょうほうべん:注6)を施す天神の社壇である。

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(訳者注6)仏が衆生を仏道に導入するために現す方便(てだて、手段)。
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蔵王権現については、次のようないわれがある。

その昔、役行者(えんのぎょうじゃ)は、衆生済度(しゅじょうさいど)の為に金峯山(きんぷせん)に1,000日こもり、祈願を込め続けた。

役行者 乞い願わくば、諸々の菩薩、化身したもうて生身(しょうじん)の姿を顕現(けんげん)されたまわんことを・・・。

彼の祈りに応えて、この金剛蔵王は、「柔和忍辱(にゅうわにんにく)の相」を顕わし、地蔵菩薩の姿を取って、大地から湧出されたもうた。これを見た役行者は、頭を横に振り、

役行者 未来悪世(みらいあくせい)の衆生(しゅじょう)を済度(さいど)するためには、そのような穏やかなお姿では・・・。

地蔵菩薩 なるほどな。では、次に来たる者に交代じゃ。

地蔵菩薩は、伯耆(ほうき:鳥取県西部)の大山(だいせん)へ飛び去っていかれた。

その後に、金剛蔵王が顕わした姿は、「憤怒(ふんど)の形」であった。右の手に三鈷(さんこ)を握って肱(ひじ)を張り、左の手は5本の指で腰を押さえている。眼を大いにいからせて魔性降伏(ましょうごうぶく)の相を示し、片足を高く上げ、もう片足で地を踏みしめ、天地を治め整える徳を現す。

その示現(じげん)された形は、尋常の神の姿とは大いに異なっていたので、役行者はその湧出(ゆうしゅつ)の姿を秘することにした。ゆえに、その尊像を錦帳(きんちょう)の中に閉ざし、役行者と村上天皇とがそれぞれ脇仏を刻み、三尊を安置することとした。(注7)

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(訳者注7)役行者は奈良時代の人なので、「村上天皇」(原文では「天暦の帝」)とあるのは、太平記作者の誤りである。
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以来、この尊像は、「憎と愛」の姿を広く世間に示し、「善と悪」、「賞と罰」を、広く世の衆生に知らしめ、悪人には苦悩をもたらし、善人には利益を与え続けてきたのである。

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世間の声H ・・・というわけでやねぇ、吉野っちゅうとこは、もぉそらぁ、すごいとこなんですわ。

世間の声I ほんにまぁ、吉野のお山のどこを見ても、衆生利益(しゅじょうりやく)の為に、仏様が神様に化身して、鎮座してはるとこばっかしどすわなぁ。

世間の声J 神々のおわします7,000余座、そこから日々、衆生を利益する、どえりゃぁエネルギーが、発せられとるんだがや。

世間の声K ほんーと、こんな霊験あらたかなとこ、日本中探してみても、他にどこにもないんだよねぇ。

世間の声L こげな奇特な社壇仏閣ばぁ、イッキに焼き払うてしまうやなんて・・・ほんと、高師直はん、ムチャなことしよりましたばい。

世間の声M 「吉野全山、灰燼に帰す」なんてニュース聞いたらさぁ、そりゃぁ誰だって悲しくなってくるじゃん?

世間の声N あぁ 悲しむべきかな

 主無き宿の花は ただ露に泣ける粧(よそおい)を添え
 荒れはてた庭の松までもが 風に吟ずる声を呑む

世間の声O こんなアクラツな所業、天はさぞかし、お怒りだでぇ!

世間の声P この悪業がそのまま身に留まってたとしたら、高師直さん、いったいこれから先、どないなっていくんじゃろのぉ?

世間の声Q 決まってんじゃん! まぁ見ててごらんよ、あの人もそのうち、アットいう間にアレよ。

世間の声I 「アレ」っていったい、なんどすかぁ?

世間の声Q しぃず(沈)んでくのよ!

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2018年2月14日 (水)

太平記 現代語訳 26-3 楠正行の最期

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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やがて、楠(くすのき)軍と高師直(こうのもろなお)との間隔は、1町ほどになった。

楠軍メンバーA (内心)あこや、あこにおるんや、おれらの目指す敵はな!

楠軍メンバーB (内心)二度も自分の白骨を繋いで韓構(かんこう)と戦うたという魯陽(ろよう)も凄いけどな、今のおれら、完全にその上イッテルわい!

楠軍メンバーC (内心)グイグイ闘志、わきあがってくるやんけ!

楠軍メンバーD (内心)やるで、やるでぇ、やったるでぇ!

楠軍メンバーE (内心)たとえ千里の距離があろうとも、ただの一足で飛んだるわい、高師直に飛びかかってったるわい!

楠軍全員、心ははやりにはやる。しかし、彼らとても生身の人間、今朝の午前10時から戦い始めて、時は既に午後6時、30余度もの衝突に、息は絶えだえ気力も消耗、重軽傷を負わぬ者は一人も無し。しかも、騎馬の相手に徒歩で立ち向かって行くのである、どうにも、高師直を追いつめようがない。

楠軍メンバーA (内心)いや、まだチャンスは残っとる。見てみぃ、あれほどの大軍を四方八方へ追い散らしてもて、

楠軍メンバーB (内心)今や、敵将・高師直のまわりにいるんは、たったの7、80騎だけやんけ!

楠軍メンバーC (内心)あんなレンチュウ、なにほどのもんじゃぃ! 蹴散らしてもたれ!

楠軍メンバーD (内心)イケイケェ!

楠軍メンバーE (内心)イッタルレー!

和田(わだ)、楠、野田(のだ)、関地良円(せきぢりょうえん)、河邊石菊丸(かわべいしきくまる)らは、我先我先にと前進していく。高軍側はメチャクチャにやっつけられ、次第に敗色濃厚になってきた。

その時、高軍の最前線に一人の武士が現われた。九州の武士・須々木四郎(すずきしろう)である。

須々木四郎は、強弓の使い手で速射の名人。三人張りの弓に13束2伏の矢をつがえ、100歩先に立てた柳の葉めがけて射れば百発百中という人である。

四郎は、他人が解き捨てたエビラや、竹尻篭(たけしこ)、やなぐいを、抱きかかえて集めてきて自分の横に置いた、そして、次々と矢を抜いては楠軍に対し、狙いすまして連射した。

四郎の弓から放たれた矢は、まさに豪雨のごとく、楠軍を襲う。

矢 ビュン、ビュン、ビュン、ビュン、ビュン・・・。

楠軍メンバーたちは、朝から鎧を着けっぱなし、体温で暖められた鎧には、多くの隙間が生じてしまっていた。須々木四郎が放つ矢はことごとく、その間隙を貫通し、彼らの身体深く突き刺さっていく。

楠正時 ウゥッ・・・。

楠正時(くすのきまさとき)が、眉間(みけん)と喉(のど)を射られた。彼にはもはや、その矢を抜く気力さえも残っていなかった。

楠正行 アァッ・・・。

楠正行(まさつら)も、左右の膝の3か所、右の頬、左の目尻を、深く射られた。霜に伏した冬野の草木のように、矢は彼の身体に折れかかっている。ついに、正行も動けなくなってしまった。

他の30余人の身体にも、矢が3本4本と突き刺さっている。

楠正行 ・・・みんな・・・よぉやってくれた・・・もはやこれまでや・・・。

楠軍メンバー一同 タイショウ、タイショウ!

楠正行 ・・・みんなぁ・・・分かってるわなぁ・・・敵の手にかかるなよぉ・・・。

楠軍メンバー一同 タイショウ、タイショウ、タイショウ!(涙)

楠正行 正時・・・。

楠正時 お兄ちゃん・・・。

楠正行 行くぞ!

楠正時 うん!

楠兄弟は、刺し違えて北枕に伏した。他の者たち32人も、思い思いに腹をかき切り、重なり伏していった。

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いったいどうやって紛れこんだのであろうか、和田賢秀(わだけんしゅう)は、高軍の中深く入りこんだ。

和田賢秀 (内心)えぇい、なんとしてでも、高師直と刺し違えて死んだるわい。

賢秀は、じわじわと高師直に接近していった。しかし、運命はついに彼には微笑んではくれなかった。

高軍中に、湯浅本宮太郎左衛門(ゆあさほんぐうたろうざえもん)という人がいた。彼は、河内(かわち)に土着の武士であったが、最近になって高側に投降した。それゆえ、賢秀の顔をよく知っている。

湯浅本宮太郎左衛門 (内心)あっ、あれは、和田やないか! よぉし、イてもたれ!

太郎左衛門は、賢秀の背後に回り込み、その両膝に切り付けた。

湯浅本宮太郎左衛門 エェイッ

和田賢秀 ウゥッ!

倒れた賢秀の側に、太郎左衛門は接近し、その首を取ろうとした。賢秀は、朱を注いだような大きな目をかっと見開き、太郎左衛門をギリギリと睨(にら)んだ。

首を切られる最中も、切られた後も、その眼は、太郎左衛門を憎々しげに睨み続けていた。

剛勇の人に睨みつけられた事が、太郎左衛門の心中に一大衝撃を与えたのであろうか、彼はその日から、病に伏す身となり、心身悩乱状態に陥ってしまった。

湯浅本宮太郎左衛門 アアア・・・睨むな・・・そないに睨んでくれるな・・・アアア・・・。

上を仰げば、賢秀の怒る顔が、空の中から彼を睨みつけている。うつむけばうつむいたで、賢秀のあのかっと見開いて睨む眼が、地面の上から彼を見据える。賢秀の怨霊は、太郎左衛門の五体を責め続けた。戦い終わって7日後、湯浅本宮太郎左衛門は、悶えながら死んでいった。

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楠軍メンバー・大塚掃部助(おおつかかもんのすけ)は、負傷して一度は戦場を離れた。後方に、楠正行たちが残っている事を知らずに、主がいなくなってしまった馬に乗って、はるか彼方まで落ち延びた。しかし、「和田と楠が討たれた」と聞き、たった一人で戦場へとって返し、大軍の中へ駆け入って切り死にしていった。

和田新兵衛正朝(わだしんべえまさとも)は、吉野へ行って戦の顛末(てんまつ)を朝廷に報告しようと思ったのであろうか、戦線を離脱した。

たった一人で、鎧を着て徒歩のまま、太刀を右の脇に引き付け、高軍メンバーの首を一つ左手に下げ、東条(とうじょう:大阪府・富田林市)方面へ落ち延びた。そこへ、安保忠実(あふただざね)が追いすがってきた。

安保忠実 おいおい、そこのぉ! 和田や楠の人々はみんな自害したというのに、それを見捨てて逃げていくヒキョウモノ! 逃げるな、返せ! 一対一で勝負しようじゃねぇか!

正朝は、振り返ってニヤリと笑い、

和田正朝 なんやとぉ! おのれと勝負せぇてか、よぉし、したろやんけ!

正朝は、血のついた4尺6寸の螺鈿細工の太刀をうち振るい、忠実に走り懸かっていった。

忠実は、自分一人ではとてもかなわないと思ったのであろうか、馬を駆け開いて後退した。それを見て、再び正朝は、きびすを返して走りだした。

忠実が留まると正朝は走る、正朝が走り出すと忠実は再びそれを追う。追いかけるとまた止る・・・このようにして1里ほど行ったが、互いに討たず討たれずして、日はすでに暮れようとしていた。

そこへ、青木次郎(あおきじろう)、長崎彦九郎(ながさきひこくろう)が、馳せ来った。二人ともエビラに矢を残していたので、正朝を追いかけながら、次々と矢を射る。草ずりの余、引き合いの下に7本も矢を射立てられて、ついに正朝は倒れ、その首を忠実が取った。

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合戦は終わった。和田と楠の兄弟4人、一族23人、それに従う武士143人は、命を君臣2代の義に留め、その名を古今夢双の功(いさしお)に残した。

世間の声F もうこれは過去の事になってしもたけど、奥州国司(おうしゅうこくし)の北畠顕家(きたばたけあきいえ)はんが、阿倍野(あべの:大阪市阿倍野区)で討死にしてしまわはったやろ、それから、新田義貞(にったよしさだ)はんも、越前(えちぜん:福井県東部)で戦死してしまわはったわなぁ。それから後、吉野朝側、どうも、ぱっとせんかったですわなぁ。

世間の声G ほんに、そうどすなぁ。都から遠いとこらへんには、吉野朝方の城郭も、少しはありましたけど。

世間の声H あのっさぁ・・・いくら城郭があるったってっさぁ、局所的ピンポイント防衛してるだけじゃっさぁ、世間の注目もなぁんも、集まりゃしないんだよねぇ。

世間の声I いや、ほんま。そないな中で、吉野朝側が唯一、面目を保てれた事はというたら、この楠一族の奮戦、ただ、それだけやったような気がしますなぁ。

世間の声J 同感じゃ。楠正行は、京都に近い重要戦略地点で、ビンビン威を振るいよったけんねぇ。

世間の声K なんせ、足利幕府の大軍を二度も破ったんだもんなぁ、そりゃぁスゴイもんだよ。

世間の声L 吉野朝廷の天皇陛下、楠軍の活躍に、ごっつぅ喜んではったらしいですなぁ。まさに、水を得た魚のようやった、いいますやん?

世間の声M それにひきかえ、足利幕府の方は、山から出てきた虎に出会ったみたいに、ビビリにビビっちゃって。

世間の声G そやけどなぁ、和田と楠一族全員、あっという間に滅びておしまいやした。

世間の声H 吉野朝の天皇陛下の御聖運も、これでついに傾いてしまいましたなぁ。

世間の声J 同感じゃ。足利家の武徳、これでますます、揺るぎないものになってきよったのぉ。

世間の声K 足利幕府は永遠です・・・ってかい?

世間の声一同 そういうことなんでしょうなぁ、おそらく。

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(訳者注1)楠正行たちが足利幕府に対抗しえた期間は、下記に見るように、極めて短かかった。

1347年9月 藤井寺での、細川顕氏らとの戦。

1347年11月 瓜生野、阿部野、渡辺橋での、細川顕氏、山名時氏らとの戦。

1348年1月 四条畷での高師直らとの戦。

[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書2443 中央公論新社] の 37Pには、以下のようにある。

 「当時の四条畷周辺は、古代の河内湖の名残で低湿地が多く、大軍では迅速な動きは不可能であったらしい。飯盛山方面から側面を突かれることを防ぎ、戦闘力が高い精鋭の軍勢で一気に襲えば、正行軍にも十分な勝機があった模様である。」

 「正行の作戦は的中し、師直本陣は大混乱に陥った。このとき、上山六郎左衛門が師直の身代わりとなって戦死し、師直の窮地を救った著名な挿話もある。しかし大局的には多勢に無勢、わずか一日の戦闘で正行は敗北し、弟正時と刺し違えて自決した。」

[河内湖]に関しては、[河内湖 縄文海進]、[大阪平野 河内湾]等でネット検索して、関連する情報を得ることができた。
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太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月13日 (火)

太平記 現代語訳 26-2 楠正行・対・高師直の決戦

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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高師直(こうのもろなお) 楠攻め、年明けてからにしない? このまま、淀(よど)と八幡(やわた)で越年してさぁ。

高師泰(こうのもろやす) そうさなぁ。兵力が多いにこしたこたぁねぇもんな。これからまだまだ、集まってくんだろ?

高師直 はいなぁ。これからまだまだ、もっともっとギョォサンの方々がここに集まってきはるんでおますから、ここでじっと待ってた方がいいんどす。メイッパイ集まってきて、それから河内(大阪府東部)へ向かったって、じぇぇんじぇぇん、おそかぁねぇどす。

高師泰 グフ・・・そのセンでいいんじゃぁ?

伝令 一大事、一大事!

高師直 なんじゃい、なんじゃい、いってぇ何が起こりやがったんじゃい?!

伝令 楠正行(くすのきまさつら)、我らに対して逆寄(さかよ)せをかけんがため、吉野(よしの)御所へ参上していとまを申した後、本日、河内の往生院(おうじょういん:大阪府・枚岡市)に到着!

高師直 ガビーン!

高師泰 うーん・・・こっちもあんまり、ゆっくりしてらんねぇなぁ。

高師直 ほなしゃぁない、やるべいか。みなさん、おキバリやして戦うておくれやして、おくれやっしゃあ!

高陣営メンバー一同 ・・・。

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1月2日、まず高師泰が淀を発った。彼は2万余を率いて、和泉(いずみ:大阪府南部)の堺の浦(さかいのうら:大阪府・堺市)に陣を取った。

翌3日朝、高師直も八幡を発ち、6万余を率いて、四條縄手(しじょうなわて:大阪府・四條畷市)に到着。

高師直 このまますぐに、楠を攻めるのは愚策でおます。あちゃらはきっと、難攻不落の場所で待ち構えておるにちげぇねぇどすからな。寄せたらあかん、寄せるのはヨセヨセ、寄せられればヨ(良)イヨイ、サのヨイヨイ。

高軍リーダーA はぁ?

高軍リーダー一同 ・・・。

師直は、大軍を5か所に分かち、鳥雲の陣をなして、ありとあらゆるケースに備えた。

第1軍は、白旗一揆(しらはたいっき)武士団。リーダーは県下野守(あがたしもつけのかみ)で兵力5,000余騎。飯盛山(いいもりやま:北河内郡)にうち上り、南方の尾根先に布陣。

第2軍は、大旗一揆(おおはたいっき)武士団。リーダーは河津(かわづ)と高橋(たかはし)の2人で兵力3,000余騎。飯盛山の外の峯にうち上り、東の尾根先に布陣。

第3軍は、武田信武(たけだのぶたけ)率いる1,000余騎。四條縄手の田園中に、馬が走りまわれる空間を前方に残して布陣。

第4軍を率いるは、佐々木道誉(ささきどうよ)、その兵力2000余騎。飯盛山の南方、伊駒山(いこまやま)にうち上って布陣。陣の前面には折り畳み式の盾500枚をつき並べ、その後方に足軽の射手800人を馬から下ろして配置、さらにその背後に騎馬兵を配備。楠軍が山に攻め登ってくるならば、まずその馬の太腹を射て、ひるんだ所をまっ逆さまに駆け落してしまおう、との作戦である。

第5軍を率いる全軍の大将・高師直は、他の軍から20余町ほど後方に布陣。足利将軍家の旗の下に輪違紋(わちがいもん)の高家の旗を立てている。

その陣の外側には、騎馬の武者2万余騎、内側には、徒歩の射手500人。四方十余町を覆いつくすその陣は、びっしり密集して師直を囲んでいる。

各軍、互いに勇を競い、陣の張り様は密にして、これを相手に戦う者は、たとえ項羽のごとき山を抜く力、魯陽のごとき太陽を返す勢いがあろうとも、この堅陣の中に駆け入って戦うことは到底不可能としか思えない。

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1月5日早暁、吉野朝側、まず四条隆資(しじょうたかすけ)率いる和泉・紀伊(きい:和歌山県)の野伏(のぶせり)より構成の2万余人の軍が進軍を開始。様々の旗を手に手に差し上げ、飯盛山に向かっていく。これは、大旗一揆と小旗一揆(注1)の両軍を峯の上から下山させずに、楠軍を四條縄手に進めるための陽動作戦であった。

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(訳者注1)先の記述には「大旗一揆」とだけあり、「小旗一揆」の名は現れてないので、軍の構成がよく分からない。
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この作戦に、大旗一揆・小旗一揆・両軍は、ひっかかってしまった。

河津 敵の主力軍団がやってきたぞ!

高橋 射撃隊、分散陣形のまま前進、山の中ほどまで下りろ! 険阻な地点に拠点を確保、敵の襲撃を待て!

その間隙をついて、楠正行(くすのきまさつら)、その弟・楠正時(まさとき)、和田高家(わだたかいえ)、その弟・和田賢秀(けんしゅう)は、屈強の楠軍3,000余騎を率い、霞の中をまっしぐらに、四條縄手へつき進む。

楠正行 (内心)まず、敵の斥候(せっこう:注2)を蹴散らして、

楠正時 (内心)全軍の大将・高師直に肉薄し、

和田高家 (内心)イッキに勝負、

和田賢秀 (内心)決めたるろやんけぇ!

覚悟決した彼らは、いささかのためらいもなく、ひたすら前進していく。

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(訳者注2)敵側の動きを早期に把握するために、最前線よりもさらに前方に配置される人々。その任務は戦闘ではなく、情報収集および情報伝達である。
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第1軍の白旗一揆武士団のリーダー・県下野守は、そこからはるか彼方の峯の上に布陣していたが、

県下野守 あっ・・・あそこを行く軍・・・師直殿の本陣に迫っていくぞ! あれはいったい?・・・あっ、菊水(きくすい)の旗1本! いかん、楠だ、楠軍だ! おい、みんな、行くぞ!

白旗一揆武士団は、北方の峯を馳せ下り、今まさに楠軍が駆け入らんとしている空間の前方に立ち塞がった。彼らは馬からヒタヒタと飛び降りて、楠軍の進路に直交する形で東西横一文字に展開、徒歩のまま、楠軍を待ち構えた。

勇気盛んなる楠軍、わずかの人数の徒歩軍相手にひるむはずがあろうか、三手に分かれた前陣500余はしずしずと、白旗一揆武士団に襲い掛かっっていく。

最前線に位置していた秋山弥次郎(あきやまやじろう)と大草三郎左衛門(おおくささぶろうざえもん)が、楠軍の矢を受けて倒れた。これを見た居野七郎(いのしちろう)は、楠側を調子づかせまいと、倒れ伏した秋山の体の上をツッと飛び越え、前線へ進みでていく。

居野七郎 やーいやーい、テメェらなぁ、当てれるもんなら、ここに当ててみろってぇ!

七郎は、鎧の左袖を叩きながら小躍りして進んでいく。楠軍は東西から七郎に矢の雨を浴びせる。

矢 ブス、ブス!

居野七郎 ううっ・・・。

七郎は、兜の内側と草摺(くさずり)の外れの2箇所に矢を受けた。太刀を逆さに地面に突き立て、矢を抜こうとして立ちすくんだ所に、和田賢秀はツッと駆け寄り、

和田賢秀 エヤッ!

刀 ヴァシッ!

居野七郎 あぁ・・・。

兜の鉢を激打され、居野七郎は四つんばいに倒れてしまった。そこをすかさず、走り寄ってきた和田賢秀の中間が彼の首を取り、高々と差し上げる。

これが戦の始まりであった。

楠サイドの騎馬軍500余と県下野守率いる徒歩の兵300余人が、おめき叫んであい戦う。

戦場は田野が開けた平地ゆえ、馬の駆け引きは自由自在、徒歩で戦う白旗一揆側は、騎馬の楠側に駆け悩まされる。かくして、白旗一揆武士団300余のほとんどが討死にしてしまい、県下野守も5箇所もの重傷を負ってしまった。

県下野守 とてもかなわん、退(ひ)け、退けー!

県下野守は、生き残りの者たちと共に、高師直率いる第5軍に合流せんと、退却していった。

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武田信武 楠軍はもう相当、戦い疲れているだろう。そこにつけこんで、イッキに討ちとってしまうんだ! いぃくぞー!

武田軍メンバー一同 ウォーッ!

武田信武率いる幕府側第3軍700余騎が、戦場に殺到してきた。これに対抗するは、楠軍第2陣1,000余騎。左右二手にサッと分かれ、包囲陣形を取る。

楠軍第2陣メンバー一同 一人残らず、殲滅(せんめつ)してもたるわい!

汗馬(かんば)東西に馳せ違い、追いつ返しつの戦が展開。旗とノボリが南北に開き分かれ、巻きつ巻かれつ、互いに命を惜しまず、7度、8度と両軍激突を繰り返す。

戦い終わってみれば、当初700余の武田軍、残存者は限りなくゼロに近い。楠軍第2陣の側も、その大半が負傷、全身朱色に染まりながら踏みとどまっている。

小旗一揆武士団メンバーらは、戦の当初から、四条隆資(しじょうたかすけ)率いる陽動部隊に対抗して飯盛山から動かず、主戦場で展開されている合戦をただ横目に眺めるだけ、あたかも対岸の火事を見るような雰囲気であった。しかし、眼下の山麓にいる戦い疲れた楠軍第2陣を見て、それに襲いかからんと、一部のメンバーが動きはじめた。

長崎資宗(ながさきすけむね)、松田重明(まつだしげあきら)、その弟・松田七郎五郎(しちろうごろう)、その子・松田太郎三郎(たろうさぶろう)、須々木高行(すずきたかゆき)、松田小次郎(まつだこじろう)、河勾左京進(こうわさきょうのしん)、高橋新左衛門尉(たかはししんざえもんのじょう)、青砥左衛門尉(あおとさえもんのじょう)、有元新左衛門(ありもとしんざえもん)、廣戸弾正左衛門(ひろとだんじょうざえもん)、その弟・廣戸八郎次郎(はちろうじろう)、その弟・廣戸太郎次郎(たろうじろう)以下、屈強の武士48人が小松原から駆け下り、山を背後に楠軍に襲いかかった。

両軍互いに、騎馬駆けあいの混戦に突入、楠軍第2陣1,000余騎は、このわずかな相手に意外にてこずり、その地点から先へ前進できなくなってしまった。

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小旗一揆武士団と楠軍第2陣との戦闘を、じっと観察していた佐々木道誉(ささきどうよ)は、

佐々木道誉 あのカンジだと楠軍なぁ、もう相当疲れてきてるにちがいないぞ・・・って事はだなぁ、やつらはもう、他の陣には目もくれねえよ、ただひたすら、大将の高師直(こうのもろなお)だけを狙ってく。

佐々木軍リーダーB おれたちの事なんか、もう眼中にないでしょうね。

佐々木軍リーダーC 我々の目の前を通り過ぎていきたいってんならね、いいじゃないですか、黙ってそのまま行かせてやりゃぁ・・・でもって・・・。

佐々木軍リーダーD その背後を襲う!

佐々木道誉 ・・・(ニヤリ)。

というわけで、佐々木軍3,000余騎は、飯盛山の南方の峯に上がり、そこに旗をうち立ててじっと布陣していた。

数時間にわたる何度もの戦闘の結果、楠軍第2陣は、馬も人も、もはや疲労の極限に達してしまった。わずかばかりの気のゆるみが出てしまったその瞬間を、道誉は見逃さなかった。

佐々木道誉 よぉし、行けぇ!

佐々木軍3,000余騎は三手に分かれ、一斉にドッとトキの声を上げ、山を懸け下り、楠軍第2陣に激突。これを迎え撃つ楠側は、必死の防戦を展開。しかしながら、大軍を相手にしての疲労の極中での戦、元気いっぱいの馬を駆る佐々木軍にかけ立てられては、とてもかなうはずがなく、楠側は次々と倒れていく。

大半のメンバーが討たれた末に、ついに、楠軍第2陣の残存勢力は、南を向いて退却しはじめた。

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もともと兵力において劣っていた楠側であったのに、第2陣はすでに退き、今や戦場に踏みとどまっているのは第1陣のみ、その兵力はわずか300余にも満たない。これではとても、戦を続行することは不可能と思われたのだが、

楠軍メンバーE (内心)タイショウも、

楠軍メンバーF (内心)和田賢秀も、

楠軍メンバーG (内心)まだ生きてるで、わしらといっしょに。

楠軍メンバーH (内心)今日の戦、もとから生きて帰ろうなどとは、

楠軍メンバーI (内心)毛の先ほども思ぉとらんわい。

楠軍メンバーE (内心)去年の暮に、吉野(よしの)へみんなで行って、

楠軍メンバーF (内心)過去帳にいっしょに名前書いた、

楠軍メンバーG (内心)わしら楠軍のメンバー143人、

楠軍メンバー一同 (内心)タイショウといっしょに、ここで死ぬんじゃい!

全員一所にひしひしと集合し、自軍の第2陣が敗退した事など、いささかも意に介しない。

楠軍メンバーE コルラァ、敵の大将、高師直(こうのもろなお)! ワレいったい、どこにおるんじゃい!

楠軍メンバーF どうせ、そこらの陣の後ろの方に、ビビリたおして、こもっとるんやろう。

楠軍メンバーG とっとと、前に出てこんかい!

楠軍メンバーH さっさとその首、こっちに渡さんかいやぁ、ワルレェ!

楠軍は、高師直の本陣にキッと目を見据えながら、ひたすら前進していく。

高軍リーダーJ てへっ、ちょこざいな。

高軍リーダーK 友軍が敵を蹴散らしちまった。残ってるのは、たったあれぽっちかい。

高軍リーダーL えぇい、この機を逃さず、やっつけてしまえい!

高軍メンバーらは、勇み立って楠軍に立ち向かっていく。

まず一番に、細川清氏(ほそかわきようじ)が500余騎を率いて、楠軍を攻撃。楠軍300騎は、いささかもひるまずに真っ向からそれに相対し、面をも振らずに戦う。50余騎を討たれて、細川軍は北へ退いた。

細川軍に入れ替わって攻撃を始めた二番手は、仁木頼章(にっきよりあきら)率いる700余騎。楠軍300余騎は、馬のくつばみを並べてそのど真ん中に割って入り、火花を散らして戦う。仁木軍は四方八方へ蹴散らされ、再び集合することもままならない状態になってしまった。

三番手は、千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮貞泰(うつのみやさだやす)、宇都宮三河入道(うつのみやみかわにゅうどう)率いる500余騎。東西から接近して楠軍の先端に襲いかかり、中央突破を図る。しかし、楠正行(くすのきまさつら)の指揮の下、楠軍は一寸の綻(ほころ)びも見せない。相手が虎韜(ことう)陣形に連なって囲んでくれば虎韜に分かれて対抗し、龍鱗(りゅうりん)陣形に結んでかかってくれば、龍鱗に進んで戦う。両軍、3度衝突し3度左右に分かれた末に、千葉軍、宇都宮軍とも戦死者多数、ついに退却を余儀無くされた。

楠軍側も100余騎が討たれてしまった。生き残ったメンバーの乗馬には例外なく、矢が3本、4本と突き刺さっている。やむをえず、全員、馬を下りて徒歩になった。

楠正行 ハラへったな、メシにしよか!

楠軍メンバー一同 おう!

彼らは、田のあぜに背中を押し当て、エビラの中から竹筒を取り出した(注3)。そして、心しずかに飯を食い、しばしの休息を取った(注4)。

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(訳者注3)竹筒の中には、酒が入っているのだ。

(訳者注4)太平記中、戦場のまっただ中での食事のシーンは、ここが初出。これはノンフィクションか、あるいは、太平記作者の「覚悟定めきった楠軍」を演出するためのフィクションか?
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高軍リーダーM ねぇねぇ、あれ見てよ、あれ。悠々とメシ食ってやがる。

高軍リーダーN ほんとにもう、なんてぇ連中なんでぇ。

高軍リーダーO あのねぇ、あそこまで覚悟かためちゃってるヤツラをですよ、ムリヤリ囲んで打ち取るってぇの、ちょっと、やばかぁありません? こっち側にも相当の犠牲が出るの、覚悟しなきゃね。

高軍リーダーP まわりを完全に囲むんじゃなくってさ、後ろの方だけ開けといて攻めるのがいいと思いますよ。でもって、敵が逃げてぇってんなら、そのまま逃がしとくに限りますって。

高師直 よし、それで行け!

というわけで、数万の高師直軍は、あえて一所に集中して楠軍を包囲する態勢には出なかった。こうなると、小勢の楠軍といえども、その戦場から脱出できる可能性も見えてきた。

しかし、楠正行(くすのきまさつら)は、「今回の戦、高師直の首を取って帰るか、この正行の首が京都の六条河原(ろくじょうがわら)にさらされるか、二つに一つあるのみ!」と、後村上天皇(ごむらかみてんのう)に奏上した上で吉野(よしの)を後にしてきたゆえに、その言葉を違える事を恥じたのであろうか、あるいは、正行の命運もついにここに尽きてしまったのであろうか、和田(わだ)も楠も共に、後に退く気など微塵も無い。

楠正行 さぁ、行くでぇ!

楠軍メンバー一同 おぉう!

楠正時 目指すは、高師直ただ一人やぞ!

和田高家 師直に肉薄して、

和田賢秀 イッキに勝負決めたるわい!

楠軍メンバー一同 おぉう!

楠軍は静かに前進していく。

これを見て、細川頼春(ほそかわよりはる)、今川範国(いまがわのりくに)、高師兼(こうのもろかね)、高師冬(こうのもろふゆ)、南部遠江守(なんぶととうみのかみ)、南部次郎左衛門尉(なんぶじろうさえもんのじょう)、佐々木氏頼(ささきうじより)、佐々木宗満(ささきむねみつ)、土岐周斉房(ときしゅさいぼう)、土岐明智三郎(ときあけちのさぶろう)、荻野朝忠(おぎのともただ)、長九郎左衛門(ちょうくろうざえもん)、松田備前次郎(まつだびぜんのじろう)、宇津木平三(うつきへいぞう)、曽我左衛門(そがさえもん)、多田院御家人(ただいんのごけにん)をはじめ、高師直の前後左右に控える屈強の武士ら7,000余騎は、我先に楠軍を打ち取ろうと、おめき叫んで駆け出した。

楠正行は、これにいささかも臆(おく)せず、全軍を自らの手足のごとく統率(とうそつ)する。しばし息を継がんと思えば、楠軍は一斉にさっと列を作って鎧の袖を揺り動かし(注5)、相手の思うように矢を射させておく。

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(訳者注5)鎧の袖を揺り動かして小札に隙間が生じないようにする、そうすると矢が通らない、ということらしい。
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高軍が接近してきて間合いが十分に狭まったとみるや、一斉にハッと立ち上がり、太刀の切っ先を並べて襲いかかる。

高軍の先頭きってイの一番に楠軍に襲いかかったのは、南部次郎左衛門尉であった。

南部次郎左衛門尉 エェイ、カクゴー!

楠軍メンバーの刀 シャシャーッ!

南部の乗馬 ギャヒーーン!

乗馬の両の前足を刀で横に払い切られ、南部次郎左衛門尉はドウと落馬、起き上がる間もなく討たれてしまった。

南部に劣らじと、松田次郎左衛門(まつだじろうざえもん)が二番手で突っ込んでいった。彼は、和田賢秀に接近し、相手を切り伏せようと身を屈めた。その瞬間、和田賢秀は長刀(なぎなた)の柄を伸ばし、松田の兜の鉢を打つ。

長刀 ヴァシック!

松田次郎左衛門 ウゥッ・・・。

強烈な打撃を受けて、兜のシコロが傾いた次の瞬間、和田の長刀に内兜を突かれて、松田は馬から逆さ落ち。和田の長刀はまたたく間もなく、松田にとどめをさした。

勢いこんで楠軍に攻めかかってはみたものの、高軍側はさんざんである。たちどころに切って落される者50余人、腕を打ち落されて朱に染まる者200余騎。楠軍に追い立て追い立て、攻められて、「これはとてもかなわん」と、7,000余騎の高軍の武士たちは、左右に開き靡き、一斉に退きはじめた。

退(ひ)き足は留まる所を知らず、淀(よど)や八幡(やわた)をも走り過ぎ、そのまま京都まで逃げ帰ってしまった者も大勢いた。

この時、総大将・高師直までもが、一歩でも退く気配を見せたならば、たちどころに高軍は総くずれ、全軍ひたすら退却するばかり、それを追撃する楠軍は、京都のドまん中まで進撃できたに違いない。

しかし、高師直はいささかもひるむ様子を見せず、大音声をもって、全軍を叱咤(しった)する

高師直 こらこらこらこら! テメェらキタネェゾ! 逃げるんじゃねぇ! 返せ、返せ、戦え、戦え、戦えってんだよぉー!

高軍メンバー一同 ・・・。

高師直 テメェラ、いってぇナニ考えてやがんでぃ! 敵はたったあれっぽっちの人数じゃぁねぇか! おれは逃げねぇぞ、ここを動かねぇからな!

高師直 この戦場を捨てて京都へ逃げて帰って、それでいってぇ、どうするってんだよぉ! テメェラ、いってぇどのツラ下げて、将軍様の前に出るってんだ、あぁ?!

高師直 人間の運命なんか、天が決めてんだ、生きるも死ぬるも、天のご意向次第ってもんでぇ! いまさらジタバタしたって、はじまらねぇんだよぉ!

高師直 見ろい、敵はたった、あれぽっちじゃねえか! あんな小勢相手に逃げ出すなんて、テメェら、それでも武士のハシクレか! 恥ずかしくねぇのかよぉ! 家の名前が泣くぞ! テメェらのご先祖さま、草葉の陰で泣いてござるぞ!

目を怒らせ歯噛みして、四方に下知を下す師直の勢いに励まされ、恥を知る武士たちは、そこに踏み留まって師直の前後をかためた。

その目の前を、土岐周斉房の軍が通り過ぎていく。大半は打ち散らされてしまい、周斉房も、膝を切られ血に染まっている。すげなく退いて行く周斉房を、師直はキッと見つめ、

高師直 ヤイヤイ、そこの敵前逃亡ヤロウ!

土岐周斉房 ・・・。

高師直 いつも大口ばっかタタいてやがる土岐周斉房、いざとなったらブザマなもんだなぁ、えぇ!

土岐周斉房 ナァニィ! そこまであんたに言われちゃ、わしも黙っとれんが! じゃぁ、これから討死にするだで、よぉ見といてちょう! みんな、行くでぇ!

周斉房は、馬を返して楠軍のど真ん中へ駆け入り、ついに討死にしてしまった。これを見て、雑賀次郎(さいがじろう)も、楠軍の中に駆け入って討死にした。

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楠軍は高師直にじわじわと肉薄し、両者の間の距離はついに、半町ほどに縮まった。楠正行の長年の宿望も、ついにここに成就するかと思われた。ところがそこに、上山六郎左衛門(うえやまろくろうざえもん)が駆けつけてきて、高師直の前を塞ぎ、大音声をあげていわく、

上山六郎左衛門 八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)殿よりこのかた、源氏累代(げんじるいだい)の執権(しっけん)役をおおせつかり、その武功(ぶこう)天下に顕(あらわ)れたる高武蔵守師直とは、このおれ様のことよ! 首が欲しけりゃ、かかってこーい!

このように、師直になりすまして名乗りをあげ、殺到してくる楠軍を相手に戦い、上山六郎左衛門は死んでいった。その間に、師直は楠軍の遥か彼方に遠のいてしまい、正行はついに、その本意を遂げることができなかった。

師直の配下の大勢の武士の中、いったいなぜ、上山六郎左衛門ただ一人だけが、師直の身代わりとなって自らの命を捨てたのか? それは、「ただ一言(いちごん)の中に武士の情けを感じ、それに応(こた)えんがため一命を捨て」という事のようである。

楠軍が高師直の本陣に肉薄していることに、上山六郎左衛門は全く気づいていなかった。

上山六郎左衛門 さぁてと・・・ちょっくら師直殿のとこへでも行ってこようかな。ゆっくり世間話でもしてこようっと。

師直の本陣に足を踏み入れるやいなや、陣中にわかに騒がしくなってきた。

高軍メンバーQ 敵襲! 敵襲!

高軍メンバーR なに! 楠軍がこんな近くまで?!

高軍メンバー一同 タイヘンだー! 敵襲だ、敵襲だ!

上山六郎左衛門 (内心)おぉ、こりゃいかん! ウーン、おれもウカツだなぁ、鎧も兜も置いて出てきちゃったじゃないか、ウーン・・・。取りに帰っているヒマなんかないぞ!

陣中を見回す六郎左衛門の視野に、同色の二個の鎧が飛び込んできた。

上山六郎左衛門 (内心)しめた! あそこに鎧が! あれはいったい誰のだ? おそらく師直殿のものだ・・・えぇい、かまうもんか、緊急事態だもんな、ちょっと拝借!(鎧のもとに走り寄る)

鎧唐櫃(よろいからひつ)の緒を引き切り、中の鎧を取り出して肩にかけた。見とがめた高師直の若党が、鎧の袖をひかえていわく、

高師直の若党S なにをする! これは執事(しつじ)殿の鎧ですぞ! 一言の断りも無しに、無礼な!

鎧を奪い返そうとする若党と六郎左衛門とで引っ張り合いになった。これを見た師直は、馬から飛び降りて若党をハタと睨みつけ、

高師直 おい、やめろぉ!

高師直の若党S ・・・。

高師直 テメェ、いってぇナニ考えてやがんでい! その人はなぁ、おれの身代わりになって戦かうって、言ってくれてんじゃんかよぉ! そういうキトクな人にゃあ、千個だろうと万個だろうと、鎧なんかヒトッツモ惜しかねぇ、どんどん進呈するぜぃ!

高師直の若党S ・・・。

高師直 (六郎左衛門の方を見て)イヨッ! そこのイイ男、水もしたたるアデ姿! 「こんな男に着てもらって、嬉しいね」って、鎧も喜んでるよ!

自分の行為を一切責めたりせずに、かえって褒めたたえてくれる師直の態度に、六郎左衛門は感じいってしまった。

上山六郎左衛門 (嬉しそうな顔持ちで)・・・。

事と次第とをわきまえず、その鎧を取り上げようとした高師直のその若党は、その後、自軍が危機的状況に陥った時、イの一番に逃げ出した。しかし、師直の情けに感じ入った上山六郎左衛門は、彼の身代わりになり、討死にしていったのである。まことに哀れな事である。

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これによく似た逸話が、古代中国にもある。

戦国時代、秦の穆公はライバルの六国と戦いを交えたがあえなく敗退し、他国へ落ちた。

急追する敵軍から逃れる途上に乗馬を乗りつぶしてしまい、やむなく後からやってくる乗り換え用の馬を待っていた。

ところが、馬の口取りは馬を引いては来なかった。そのかわりに、後ろ手に縛られた疲れた兵士20余人を連行してきたのである。

軍門の前に引き据えられた兵士たちを見て、穆公は、

穆公 いったいこれはなんじゃ? 何事が起ったのじゃ? 馬はどうした?

馬の口取り 申しあげます! お召し替え用の馬を引いてまいりましたところ、これなる戦いに疲れ飢えた兵ども20余人、事もあろうに、殿のお馬を殺し、残らず食べてしまいよりましてござりまする。よって、死罪に処せんがため、こやつらを生け捕り、連行してまいりました!

穆公は、さして怒る気色もなく、

穆公 死せる馬を再び生き返らせる事は不可能じゃ。たとえそれが可能であったとしても、卑しき獣を食べたというだけの罪でもって、尊い人命を失うは非道の振舞い、そのような事は絶対にあってはならぬ。

馬の口取り ・・・。

穆公 飢えて馬を食らいし人間は、その後必ず病気になるという・・・。早く手当てをせねばの。この者らの縛めを解け。酒を飲ませ、薬を与えて、適切な医療を施すがよいぞ。

馬を食った兵士たち ・・・殿ぉ・・・殿ぉ・・・うううう・・・(涙)

穆公は、彼らに何の処罰も加えようとはしなかった。

その後、穆公が再び戦に負け、まさに大敵の手中に落ちて討たれようかという時に、馬を殺して食べたこの20余人の兵士らは、自らの命を穆公の命に代えて奮戦した。その結果、大敵はすべて退散し、穆公は死を遁れることができた。

このように、古(いにしえ)においても現代においても、人の上に将たらんとする者は全て、罰を軽く行い宥(なだ)め、賞を厚く与えしむるのである。もしも、古の穆公が馬を惜しんだならば、大敵の囲みを脱出できたであろうか? 現代の高師直が鎧を与えなかったならば、上山六郎左衛門は彼の身代わりになっていたであろうか? 「情けは人の為ならず(注6)」とは、まさにこの事を言っているのである。

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(訳者注6)「人に情けを施しておくと、そのうちそれが自分の益となって返ってくる」の意。
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上山六郎左衛門の首を、楠正行はじっと見つめた。

楠正行 (内心)肉のついた顔や・・・なかなかの美男子、いかにも、大将っちゅうカンジの顔や。

楠正行 (内心)鎧はどうや? おお、輪違いの透(す)かし彫(ぼり)の金物つきやんけ。これは高家の紋やぞ! 間違いない、間違いないぞ!

楠正行 やったで、ついにやったでぇ! みんな、これ見てみい! 高師直をついに討ち取ったでぇ! おれの長年の望み、ついに達成や! やった、やったぁ! ウーイー!

正行は、六郎左衛門の首を空中高く投げ上げては受け取り、受け取っては投げ上げし、ボールのようにもてあそびながら喜んでいる。

楠正時は、兄の側に走り寄り、

楠正時 おにぃちゃん、あかんて、あかんて・・・そんな事してたら、首が痛んでしまうやんか。旗のてっぺんに付けて、敵と味方に見せつけたろうな。はよ、その首、貸し。

楠正行 (首を正時に渡しながら)やった、やった、ついにやったぁ!

正時は、太刀の先に首を指し貫いて、高々と掲げた。

楠軍メンバーE それ、師直とちゃ(違)うで!

楠正時 えっ!

楠軍メンバーE そいつはな、上山六郎左衛門っちゅうヤツや。師直に、なりすましやがったんや。

正時は激怒して、首を地面に投げ捨てた。

楠正時 おのれぇ、上山六郎左衛門とやら! おのれは・・・おのれは・・・おのれは、日本一のツワモノじゃぁ! わしらの陛下にとっては、二人とない朝敵じゃぁ! あぁ、あぁ!

楠正時 ・・・そやけどな、高師直の身代わりになって死ぬとは、ワレもほんまに殊勝な男やのぉ。よし、ワレの武士だましいに免じてな、他の首とは別の所(とこ)に、置いといたるわい。

彼は、自らの小袖の片袖を引き切り、六郎左衛門の首を押し包んで岸の上に置いた。

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楠軍メンバーE 師直はまだ討たれてへんぞ!

楠軍メンバーF あぁ、オモロナイなぁ!

楠軍メンバーG 師直、ワレいったい、どこにおるんじゃぁ!

楠軍メンバーH とっとと、出て来いやぁ!

鼻田弥次郎(はなたやじろう)は、膝を射られて歩けなくなり、立っているのがやっとであったが、楠軍メンバーが口々に叫ぶ声に励まされ、気力を振り絞った。額にからみついた髪をかきのけ、血眼になって、こなたかなたと見回す。

北の方に、輪違い紋の旗が1本見えた。その下には、大将らしき立派な老武者がいて、その周囲を7、80騎ほどが守っている。

鼻田弥次郎 おいみんな、あこにおるあいつが、高師直や! さぁ、行こや!

飛び出そうとする弥次郎の鎧の袖を、和田新兵衛(わだしんべえ)が引いていわく、

和田新兵衛 ちょっと待て! おれにえぇ考えがある。おまえな、勇みすぎて、大事な敵を討ちもらしてもたらあかんど。

鼻田弥次郎 いったい、どないせぇっちゅうねん。

和田新兵衛 相手は馬に乗っとる、おれらは徒歩や。追うていっても、相手はスッと退(ひ)きよる。退かれたら、いったいどないして、師直を討ち取るんや?

鼻田弥次郎 ・・・。

和田新兵衛 さぁ、そこで作戦や。おれらは、「もうあかん、もちこたえられへんわ」いうて退却するフリをする。敵は図に乗って追いかけてきよる。敵を十分に引きつけといてな、それからイッキに反撃や。「こいつこそ師直や」と思うたヤツに、狙いつけてな。

楠軍メンバー一同 ・・・。

和田新兵衛 まず、そいつの乗ってる馬の足を狙う・・・ズバッ、ブシュ! 馬から落ちよったとこをすかさず、その細首をシャッー! ほいでもって、おれらも討死にする! どや?!

生き残った50余人は全員、

楠軍メンバー一同 よし、それで行こ!

彼らは、一斉に盾を背後にかざし、その陰に隠れながら、引き退くふりをした。

しかし、師直は思慮深い大将であった。

高師直 フフン・・・見えすいた事を・・・そのテには乗らねぇぜ。

師直は、少しも馬を動かさない。

その西方の田園中に、高師冬(こうのもろふゆ)が300余騎を率いて布陣していた。

高師冬 オッ、敵が引きはじめたぞ! 一人残らず、討ち取ってしまえ、行け! 行け!

高師冬軍は、楠軍の後を追った。

剛勇なる楠軍、相手の太刀の切っ先が、鎧の総角(あげまき)や兜のシコロの二つ三つ打ち当たるくらいの距離にまで、高師冬軍をひきつけた後、

楠軍メンバー一同 ウォーーー!

磯を打つ波が岩に当たって返るがごとく、イッキに逆襲にうって出て、火花を散らして戦う。

とっさの事に、高師冬軍は馬を返す事もできずに、たちどころに、50余人が討死。散々に切り立てられ、ようやくの思いで、馬を駆け開いて退却した。彼らは、師直の本陣をも通り過ぎ、そこから20余町ほども隔たった地点までたどりついて、ようやく一息ついた。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月12日 (月)

太平記 現代語訳 26-1 楠正行、吉野朝廷に参上す

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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住吉(すみよし)・阿倍野(あべの)における足利幕府軍と楠軍との戦は、冬のさ中、11月26日の事であった(注1)。

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(訳者注1)当然、旧暦である。
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渡辺橋(わたなべばし)からせき落されて川水に流されていった幕府軍の武士500余人は、かいなき命を楠正行(くすのきまさつら)に助けられ、川から引き上げられた。ひとまずは一命を取りとめたとはいうものの、冬の寒さは肉を破り、暁の氷は膚に結び、到底、生きながらえれようとは思えなかった。

しかし、正行は情け深い人であった。小袖を着替えさせて彼らの身を暖めてやり、薬を与えて傷の治療をさせた。4、5日ほどこのようにして労ってやった後、馬に乗ってやってきた者には馬を与え、鎧を失った者には鎧を着せてやり、礼をつくして送りだした。

幕府軍メンバーA (内心)あぁ、この楠正行って人、なんてすばらしい人なんだろう。

幕府軍メンバーB (内心)敵であるおれたちに、ここまでしてくれるとは・・・。

幕府軍メンバーC (内心)ほんに、この人は情け深い人じゃのぉ。

府軍メンバーD (内心)よし、決めた、これから先、おれは楠殿に、心通じていくもんね!

その恩になんとしてでも報いていこうと決意した人々は後日、楠陣営に加わり、四条縄手(しじょうなわて:大阪府・四条畷市)の戦において討死にしていった。

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あい続く敗戦に、足利兄弟は、あたかも手の上に熱湯をかけられたかのように、狼狽してしまっている。

足利尊氏(あしかがたかうじ) なんだ、なんだ、いったいどうしたんだ、藤井寺(ふじいでら)、住吉(すみよし)と、連敗じゃん、幕府軍はもうメチャメチャだ!

足利直義(あしあがただよし) そうですねぇ・・・。首都圏の相当広範囲にわたって、敵側の侵略を許すことになってしまいました。

足利尊氏 首都圏だけじゃない、遠国からも、反乱軍蜂起の報告が来てる・・・あぁ、もぉっ。

足利直義 ウーン・・・。

足利尊氏 その・・・なんだな・・・こうなったらもう・・・足利氏の末流の者や方々から寄せ集めた者らを戦場に送り込んでたんじゃ、もうダメだろ。もっと本格的な軍を編成しなきゃ!

足利直義 では、いったい誰に?

足利尊氏 こういう時に頼りになる者といやぁ、そりゃぁ、あの兄弟をおいて他には・・・。

というわけで、足利将軍執事(しつじ)・武蔵守(むさしのかみ)・高師直(こうのもろなお)と越後守(えちごのかみ)・高師泰(こうのもろやす)兄弟を大将とし、四国、中国、東山、東海20余か国の軍勢を河内へ派遣することになった。

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軍の編成を決定の後、中1日をおかず、まず、高師泰が自らの手勢3,000余騎を率いて京都を出発、12月14日の早朝に、淀(よど:京都市・伏見区)に着いた。

高師泰・出馬の報を聞き、続々と、他の武将たちがそこに集合してきた。武田盛信(たけだもりのぶ)、逸見孫六(へんみまごろく)、長井宗衡(ながいむねひら)、厚東武村(こうとうたけむら)、宇都宮貞宗(うつのみやさだむね)、赤松範資(あかまつのりすけ)、小早川貞平(こばやかわさだひら)等、合計2万余騎が、淀、羽束使(はつかし:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、大渡(おおわたり:位置不明)付近の民家や堂社仏閣に充満。

12月25日、高師直が手勢7,000余騎を率いて、八幡(やわた:京都府・八幡市)に到着。この軍に加わっているメンバーは、細川清氏(ほそかわきようじ)、仁木頼章(にっきよりあきら)、今川範国(いまがわのりくに)、武田信武(たけだのぶたけ)、高師兼(こうのもろかね)、高師冬(こうのもろふゆ)、南部遠江守(なんぶととうみのかみ)、南部次郎左衛門尉(なんぶじろうさえもんのじょう)、千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮貞泰(うつのみやさだやす)、佐々木道誉(ささきどうよ)、佐々木氏頼(ささきうじより)、佐々木宗満(ささきむねみつ)、長九郎左衛門尉(ちょうのくろうさえもんのじょう)、松田備前次郎(まつだびぜんのじろう)、須々木備中守(すずきびっちゅうのかみ)、宇津木平三(うつきへいぞう)、曽我左衛門(そがさえもん)、多田院御家人(ただのいんのごけにん)など、源氏23人、外様有力武士436人、総計6万余(注2)、八幡、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)、真木(まき:大阪府・枚方市)、葛葉(くずは:枚方市)、加島(かじま:大阪市・西淀川区)、神崎(かんざき:兵庫県・尼崎市)、桜井(大阪府・三島郡・島本町)、水無瀬(みなせ:島本町)に充満。

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(訳者注2)[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書2443 中央公論新社] 36P には、以下のようにある。

「話を戻すと、師泰に続いて執事高師直が総大将として、同月二六日に出陣した(日付は諸説ある)。兵力は師直の本隊が七〇〇〇騎あまりで、こちらも諸国の軍勢が集結して六万騎あまりとなった。師泰と合わせて八万騎を超える。『太平記』の誇張もあるだろうが、幕府の総力を結集した大軍であったことは間違いない。ちなみに山城国醍醐寺僧清浄光院房玄は、自身の日記『房玄法印記』で師直を一万騎あまりとしている。」
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「雲霞(うんか)のごとき足利幕府の大軍、淀および八幡に到着す」との報を聞き、楠正行(くすのきまさつら)と弟・楠正時(まさとき)は、一族を引き連れて12月27日、吉野朝廷(よしのちょうてい)の皇居に参上した。

正行は、四条隆資(しじょうたかすけ)を介して、後村上天皇(ごむらかみてんのう)に次のように言上した。

楠正行 わが父、楠正成(くすのきまさしげ)は、ひ弱い身をもって大敵・鎌倉幕府の威を砕き、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)陛下のみ心を、休んじたてまつりました。

楠正行 しかしながら、その後ほどなく、天下は麻のごとく乱れてしまいました。そしていよいよ、逆臣・足利一族が西方より京都に攻め上ってきて、朝廷は一大危機に瀕したのであります。その時、わが父は、先帝陛下の命を奉じたてまつり、かねてより思い定めておりました覚悟のごとく、摂津国(せっつこく)湊川(みなとがわ:神戸市・兵庫区)において、みごと、討死につかまつりましてございます。

楠正行 その時、この正行、齢(よわい)13歳にして父と共に従軍いたしおりしを、父・正成は、あえて私を戦の場へは伴わず、河内(かわち)へ帰しましてございます。「わしの死んだ後、生き残った一族のめんどうを見、朝敵を亡ぼし、皇太子殿下の帝位継承に向けて、大いにお仕えせよ!」と、正行に申し残しおいて後、父は戦場に散っていきました。

楠正行 時は過ぎ、今や、正行、正時、すでに壮年に達してございます。つきましては、このたびなんとしてでも、我と我が手を砕いて朝敵と合戦つかまつりたく存じます。さもなくば、亡父の残した遺言に背く結果となりましょう、「楠正成の遺児は、父には似ても似つかん、何の武略もない男」との、人の謗りをも受ける事になってしまいましょう。

楠正行 思いまするに、人間の身など、はかないもの、自分の寿命は、自分の思い通りにはなりません。病に犯されて早死にしてしまう事もありえます。かりにそのような事になってしまえば、この正行、陛下にとっては不忠の身となり、父にとっては不孝の子となってしまいます。人間、どうせ死ぬのであれば、戦って死ぬ方を、正行は選びとうございます。

楠正行 今回の戦、自らの身命を尽くして、戦う覚悟であります。高師直、師泰を、攻めに攻めてみせましょうぞ! あの二人の頭(こうべ)をこの手にかけて取るか、はたまた、正行と正時の首を彼らに取られてしまうか、結果は二つに一つ、ただただ、戦場において雌雄を決するのみ!

楠正行 かくなるうえは、今生において、いま一度だけ陛下の龍顔(りゅうがん)を拝し奉らんがため、楠正行、本日、御所に参上つかまつりましてございます!(涙)

涙を鎧の袖に注ぎながらのその言葉、義心を顕わして余すところないその態度、伝奏が未だ奏せざる先に、後村上天皇は感動のあまり、直衣(のうし)の袖を涙にぬらされた。

後村上天皇 ・・・(涙)御簾(みす)を上げい。

天皇は、紫宸殿(ししんでん)の御簾を高く巻き上げさせ、顔に笑みをたたえながら、楠軍一同を見つめた。

後村上天皇 (涙)正行、近ぉ。

楠正行 ハハッ!(膝ずりしながら接近)

後村上天皇 こないだの二度の合戦、よぉやった! 大いに勝利を収めて、敵軍の士気を見事、うち砕いたな!

楠正行 ハハッ!

後村上天皇 おまえの大活躍のニュース聞いてな、私の憤りも大いに慰まったで。父・正成の代からの累代の武功、ほんまにもう、見事なもんや。

楠正行 身に余るお言葉でございます!

後村上天皇 今度の合戦はな、天下分け目の戦いや・・・足利側は、あらん限りの兵力をかき集めて、攻めよせてきとるというやないか。

楠正行 はい。

後村上天皇 戦場における軍の進退、戦術の変化、すべて、度に当たり機に応じて、ということになるからな、軍の指揮は、それを率いる勇士に、すなわち、おまえの判断に全て委ねるしかない。

楠正行 ・・・。

後村上天皇 おまえに対して、この私がいったい何を命令できよう、何を指揮できよう・・・ただな、これだけは、言うておきたい。

楠正行 はい。

後村上天皇 ここは進むべき時、と判断したら、機を逸することなく進むがえぇ。そやけどな、退(ひ)くべき時には、迷わず退け、退くんやぞ・・・後日を期してな・・・最終的に、勝利を得ることができたら、それでえぇんやから。

楠正行 ・・・。

後村上天皇 私にとって、おまえは手足のような存在・・・もしも、もしも、おまえが逝ってしもうたら、いったい私は、どないしたらえぇんや・・・。(涙)

楠正行 陛下・・・。(涙)

後村上天皇 えぇか、正行、命(いのち)を大事にな! 慎んで、慎んで、命(いのち)を全うするんやぞ、えぇな、正行!(涙)

楠正行 ・・・。

正行は、頭を地につけたまま、沈黙を守るのみであった。

楠正行 (内心)これが、オレの最後の御所参内や。

正行は、覚悟定めて御所を退出した。

その後、楠正行、楠正時、和田賢秀(わだけんしゅう)、その弟・和田新兵衛(わだしんべえ)、和田紀六左衛門(わだきのろくろうざえもん)の子息2人、野田四郎(のだしろう)の子息2人、楠将監西阿(くすのきしょうげんせいあ)の子息・関地良円(せきじりょうえん)以下、今度の戦に一歩も退かず、一所にて共に討死にしようと誓い合った人々143人は、後醍醐先帝の御陵に参拝した。

楠正行 陛下、最後のごあいさつに、やってまいりました! 今度の戦、負けになったら、おれら全員、必ず討死にして、あの世にいきます!

その後、彼らは、如意輪堂(にょいりんどう)の壁板に、各々の名字を過去帳のように書き連ね、その奥に、一首の歌を書き留めた。

 覚悟込め 我が名書いたぞ 過去帳に 放たれた矢は 二度と帰らん

 (原文)返らじと 兼(かね)て思へば 梓弓(あずさゆみ) な(亡)き数にい(入)る 名をぞとどむ(留)る

楠軍メンバー一同 (内心)自分の四十九日までの供養、今のうちに、ここで全部済ませてしもたろ。

彼らは、各々髪を切って仏殿に投げ入れた。

12月27日、彼らは吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)を発ち、戦場へ向かった。

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(訳者注3)その「壁板」を、訳者は、2011年に現地に行って見てきた。

本文中の「如意輪堂」とは、如意輪寺(にょいりんじ)(奈良県・吉野郡・吉野町)の本堂のことである。現在の堂は江戸時代の再建なのだそうだが、幸いにも、上記中の「壁板」が、宝物殿に保存されており、一般公開されていた。

宝物殿の中には、この扉の他にも様々な文化財が陳列されており、とても興味深かった。(金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)木像、楠正行の短刀、等々)。

如意輪寺は、蔵王堂、吉水神社等の吉野の観光名所から少し離れた所にあるが、そこに至る道は、美しい野山の中を行くコースで、桜、カエデも多く生えていた。

後醍醐天皇の陵は、如意輪寺の付近にあった。
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太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 インデックス6

太平記 現代語訳 総インデックス

主要人物・登場箇所リスト

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第26巻

26-1 楠正行、吉野朝廷に参上す

26-2 楠正行・対・高師直の決戦

26-3 楠正行の最期

26-4 高師直、吉野を急襲

26-5 吉野朝、賀名生において、逼塞状態に

26-6 高兄弟、驕りをきわめる

26-7 上杉重能と畠山直宗、高兄弟を讒言す 付・「完璧」の語源

26-8 妙吉、讒言・高兄弟・合唱の輪に加わる

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第27巻

27-1 次々と出現する怪奇現象に、人々は不安におののいている

27-2 四条河原・桟敷倒壊事件

27-3 愛宕山・未来予言記

27-4 足利直義、高師直殺害を決意

27-5 高兄弟の軍勢、足利尊氏邸を包囲

27-6 足利直冬、九州へ退避

27-7 足利義詮、鎌倉より上洛し、政権の中枢へ

27-8 足利直義、逼塞状態に

27-9 上杉重能と畠山直宗の悲哀の旅路

27-10 天皇即位式に関して、閣議、紛糾す

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第28巻

28-1 足利幕府、傀儡(かいらい)政権状態に

28-2 足利直冬、九州で勢力を盛り返す

28-3 高師泰、石見へ遠征

28-4 足利尊氏、足利直冬討伐の為に、九州へ向かう

28-5 足利直義、京都から出奔

28-6 足利直義、反撃を開始

28-7 足利直義、吉野朝サイドへ (付・漢高祖と楚項羽の戦い)

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第29巻

29-1 吉野朝・足利直義・連合軍、攻勢に転じる

29-2 足利尊氏、京都を奪還せんとす

29-3 足利尊氏と義詮、京都を退去し中国地方へ退避

29-4 高師泰、三角城攻めを中止して、近畿地方へ向かう

29-5 光明寺の戦

29-6 越水の戦

29-7 尊氏軍より脱走者、続出

29-8 和平、成立

29-9 高兄弟、投降す

29-10 高兄弟の最期

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第30巻

30-1 足利兄弟の和睦なるも、戦乱の気運強し

30-2 足利直義、京都を離れて北陸へ(付 殷の紂王の事)

30-3 足利直義、越前から撤退し、鎌倉へ移動

30-4 足利尊氏、関東へ向かう

30-5 足利直義、死去す

30-6 足利義詮の対・吉野朝工作

30-7 足利義詮、近江へ退避

30-8 吉野朝、光厳上皇らを拉致・幽閉

太平記 現代語訳 25-5 楠正行、住吉において、再び足利幕府軍を撃破

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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さる9月17日の河内国(かわちこく:大阪府東部)藤井寺(ふじいでら:大阪府・藤井寺市)での戦いにおいて、細川顕氏(ほそかわあきうじ)率いる足利幕府軍は無惨な敗北を喫し、京都への退却を余儀無くされた。

それ以降、楠正行(くすのきまさつら)は勢いに乗り、首都圏辺境にしばしば侵入しては物資を奪い、というような状況になっていた。

11月23日の足利幕府の作戦会議の様子は、以下の通り。

幕府首脳A このまま、のさばらせておくわけにはいかんぞ・・・。楠一党に対しては、早急に手を打たねばな。

幕府首脳B えぇっとぉ・・・たしか、こないだの作戦会議では、「年内の出兵は見合わせよう」ってな結論じゃ、なかったでしたっけ?

幕府首脳C そう、そうでしたよ。「この年内は寒気が厳しいから、へたな出兵をしちゃダメ、兵がみんな凍傷にかかって指を落しちゃう。手もかじかんじゃって満足に戦えやしないからな」って事でしたよねぇ?

幕府首脳A うーん・・・かと言ってだなぁ・・・。

幕府首脳D これはやっぱし、年内にシマツをつけとくべきじゃぁないでしょうかねぇ? 出兵を後にずらせばずらすほど、楠側にはどんどん勢いがついてしまうじゃ、ありませんか。

幕府首脳E 「今年やれることは、今年のうちにやってしまえ、明年に先送りにしちゃあいかん」ってなことわざ、無かったでしたっけ?

幕府首脳A ・・・それはたしか・・・「今年やれることは」じゃぁなくて、「今日できることを」だよ・・・よし、出兵だ。

というわけで、山名時氏(やまなときうじ)と細川顕氏の二人を大将に任命し、幕府軍6,000余騎を率いさせて、「11月25日、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ出兵」ということになった。

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細川顕氏 (内心)こないだ9月の合戦の時には、楠正行にボロ負けしちまってよぉ、世間のモノワライのネタにされちまったぜ。まったくもって、一生の恥だよな。

顕氏は、四国地方出身の武士たちを集めていわく、

細川顕氏 いいか、おまえら、よく聞けよ! 今度の合戦で、またこないだみたいにボロ負けして、ブザマな姿さらして京都へ帰ってきたら、また、みんなに笑われちまわぁ。だからな、今度という今度こそは、めいめい心して身命を軽んじて、こないだの恥をそそぐんだぞ! いいか、わかったな!

細川軍メンバー一同 おう!

顕氏の言葉に、配下の者たちは大いに勇みたち、励まされた。彼ら坂東(ばんどう)、坂西(ばんせい)、藤原(ふじわら)、橘(たちばな)、大伴(おおとも)流の者たちは、500騎ずつのグループに分かれ、各グループ内で一揆(いっき)を結んだ(注1)。大旗、小旗、下濃(すそご)の旗3本を立てて3手に分かれ、「一度戦場に臨んだら最後、一歩も後には退かず討死にすべし」との覚悟の中に、神水を飲み、戦場に向けて発った(注2)。まことにすさまじいその覚悟、思い切ったその心、まずはすがすがしく見えたのである。

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(訳者注1)運命を共にすることを誓いあう。

(訳者注2)神前で水を酌み交わせして誓うこと。
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楠軍リーダーF またまた、足利のレンチュウらが、チョッカイ出しにきよったでぇ。

楠軍リーダーG もぉ、うっとぉしいのぉ!

楠軍リーダーH ほんーまに、コリひんやっちゃ。

楠正行 敵軍の配置は、どないや?

楠軍リーダーF 大手方面軍の大将は、山名時氏や。1,000余騎率いて、住吉大社(すみよしたいしゃ:大阪市住吉区)のへんに陣取っとるわいな。

楠軍リーダーG カラメ手方面軍の大将は、細川顕氏やで。こっちは、天王寺(てんのうじ:大阪市天王寺区)近辺に陣取っとるぞ。

楠正行 敵軍があこらへんにゆっくり腰を落ち着けよって、住吉大社と天王寺を要塞化してしまいよったら・・・そないなったら、おれらには不利な展開になってしまうわな。

楠軍リーダーH そら、いったいなんでぇな?

楠正行 そないなったらな、おれらは神社とお寺を攻めんならんわ。神に向かって、仏に向かって、弓を引き矢を放つことに、なってしまうやんけ。

楠軍リーダーH なるほど・・・そらまぁ、そやわなぁ。

楠軍リーダーI で、いったいどないするんや、タイショウ?

楠正行 決まっとるやんけ、急襲、急襲やぁ! 敵が腰落ちつけてしまわんうちに不意打ちして、まず住吉の敵をおっ払う。逃げる敵を攻めて攻めて攻めまくる。おれらの急追におそれをなして、天王寺にいよるレンチュウらは、戦意を失うて退却や。

楠軍リーダーF なるほど!

楠軍リーダー一同 よっしゃぁ!

同月26日早暁、楠正行は500余騎を率い、まずは住吉に布陣する敵を追いだそうと、石津(いしづ:大阪府・堺市)付近の民家に火をかけ、瓜生野(うりうの:住吉区)の北から攻め寄せた。

山名時氏はこれを見て、

山名時氏 敵はまさか、一方向だけから攻めてきてんじゃないだろうよ。ここは、兵力を分けて戦うべきだな。

時氏は、赤松貞範(あかまつさだのり)に摂津(せっつ:大阪府北東部+兵庫県南東部)、播磨(はりま:兵庫県西南部)両国の軍勢を与え、住吉海岸の南方に陣取らせた。さらに、土岐周済房(ときしゅさいぼう)、明智兵庫助(あけちひょうごのすけ)、佐々木四郎左衛門(ささきしろうざえもん)に3,000余騎を与えて、阿倍野(あべの:大阪市・阿倍野区)の東西に陣取らせた。

カラメ手方面軍の大将・細川顕氏は、自らの手勢に四国勢5,000余騎を合わせ、あえて本陣を離れず、いざというときに大手方面軍に加勢できるように、天王寺にそのまま留まった。

山名時氏 さぁ、いくぞ!

山名時氏、その弟・山名兼義(かねよし)、原四郎太郎(はらのしろうたろう)、原四郎次郎(はらのしろうじろう)、原四郎三郎(はらのしろうさぶろう)は、1,000余騎を率い、今まさに馬煙(注3)を上げながら進んでくる楠軍の先鋒を迎え撃たんと、瓜生野の東方に馬を走らせる。

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(訳者注3)馬の足がかき立てる土煙。
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足利軍側の馬煙を観察して、各軍の動きを把握した楠正行は、

楠正行 (内心)フフーン・・・敵は4箇所に分散しとるな・・・。兵力の少ないわが軍を分散して、それぞれの敵に当たらせたんでは、かえって不利になる。

正行は、それまで5手に分けていた自軍を一手に集め、瓜生野に進んだ。

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東西南北に広がった瓜生野の両端に、楠軍と山名軍が姿を現した。

両軍互いに射手を前面に進め、トキの声を一声あげるや、双方6,000余騎が一度にサッと掛け合い激突、思い思いにあい戦う。

1時間ほど経過の後、互いに勝ちどきをあげ、4、5町ほど両方へ引き分かれた。双方、見渡せば、過半数が戦死しており、死者が戦場に充満している。

大将・山名時氏は、刀傷や矢傷を7か所も負ってしまった。配下の者らがその前に立ちふさがって彼を守り、山名時氏は傷を吸い、血を拭いはじめた。

時氏の注意が戦場からそれて自らの傷に転じてしまったその時、楠軍の中から、年の頃20ほどの若武者が飛び出してきた。

和田賢秀(わだけんしゅう) おれはなぁ、和田賢秀(わだけんしゅう)や! そこのタイショウ、これから命もらいに行くから、待っとれやー!

賢秀は、洗い皮の鎧に長短2本の太刀を穿き、6尺余りの長刀を小脇に挟み、小うたを歌いながらしずしずと馬を歩ませていく。

続いてもう一人、進み出てきた。僧形(そうぎょう)で、その身長は7尺余りもあろうか。

阿間了願 おともさせてもらおうじゃん! おれの名は、阿間了願(あまのりょうがん)!

唐草威しの鎧に小太刀を穿き、柄の長さ1丈ほどの槍を馬の額の上に起き、いささかのためらいもなく、山名軍の方へ向かって懸け出した。

二人とも、その威勢といい体格といい、とても尋常の者とは思えない。しかし、その後に続く者が一人もいないので、山名軍側は「あれよあれよ」と言うばかりで、さほど驚いた様子もない。

二人はツッと、山名の大軍中に懸け入り、前後左右を突きまくる。その狙いは、小手(こて)の外れ、脛当(すねあて)の余り、兜の頂、兜の内側、ちょっとでも膚が露出している箇所をいささかも外さない。たちどころに36人を突き落し、大将の山名時氏に接近しようと、目をランランと輝かせている。

山名兼義 (内心)これはいかん、おっそろしく強いやつら! あいつらと一騎打ちの勝負したんじゃ、とても勝ち目はない。

山名兼義 おおぜいでもって、とり囲め!

兼義の命令に応じて、140、50騎ほどの武士たちが、横合いから二人に攻めかかった。

これを見た正行は、

楠正行 賢秀、死なしたらあかんぞ! 賢秀に続け!

双方またしても激突。太刀の鍔(つば)音は天に響き、汗馬(かんば)の足音は地を揺るがす。互いに味方を励まして、「引くな、進め!」と叫ぶ声に、退く者は一人もいない。

しかしながら、大将・山名時氏はすでに負傷し、それに入れ替わって戦おうとする友軍はどこにもいない。ついに進退窮まってしまい、馬から下りた武士たちは、山名時氏の馬の口を引き、後陣の友軍に合流しようと、天王寺をさして退きはじめた。

楠正行 行けぇ、行けぇ、ガンガン攻めぇー!

いよいよ勢いに乗った楠軍は、追撃、追撃、攻めまくる。山名軍側は続々と倒れていく・・・山名兼義、原四郎太郎、原四郎次郎の兄弟、犬飼六郎(いぬかいろくろう)主従3騎と、反撃を試みるも、あいついで戦死。

第2陣の土岐周斉房と佐々木六郎左衛門は、300余騎を率いて阿倍野の南に駆け出し、しばしの間、楠軍の進撃を食い止めた。しかし、目賀田(めかだ)、馬渕の一族の者ら38騎が一所にて討たれ、この軍もまた破れて、天王寺へ敗走を開始。

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第1陣と第2陣がこのような状態になってしまったので、大阪湾岸付近に布陣の幕府サイドの軍、さらには、天王寺に布陣の細川軍も、パニック状態に陥ってしまった。

細川軍メンバーJ 前陣の山名軍、崩壊してしまいよったぞぉ。

細川軍メンバーK おれたちの背後には、大きな川がある・・・(注4)。

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(訳者注4)淀川。
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細川軍メンバーL こりゃあかん・・・敵に後ろに回りこまれたら、橋、壊されてしまうぞな。

細川軍メンバーM そんな事になっちまったら、生きて帰れるもんは一人もいねぇや。

細川軍メンバーN 橋や、橋を守らんと!

全軍、渡辺橋(わたなべばし:位地不明)をさして、一斉に退却開始。

大軍が退却する時の常として、一度も反攻に転じることができない。

やがて、狭い橋の上に、大量の人馬がひしめきあいだした。

細川軍メンバーL (内心)あぁ、次から次へと、人が川に落ちていきよる。

細川軍メンバーM (内心)でもな、他人のことなんか、もうかまってらんねぇや。

細川軍メンバーN (内心)我が身、助かりたい一心じゃぁ。

ようやく渡部橋にたどりついた山名時氏は、橋の上の状況に愕然(がくぜん)。

山名時氏 (内心)なんてこったぁ・・・。もうだめだぁ・・・。おれは重傷を負ってしまってるし、馬も尻の方を2箇所も切られて、完全に弱ってしまってる・・・敵はなおも、執拗に襲いかかってくる・・・。もうだめだ・・・もうだめだ・・・とても逃げられやしない・・・。えぇい、ここの橋詰めで、腹を切ってしまえ!

思いつめた時氏の姿を見た河村山城守(かわむらやましろのかみ)がただ一人とって返し、迫りくる楠軍に立ち向かった。彼が楠軍の武士2人を切っておとし、3人に負傷を負わせ、そこをしばらく支えている間に、安田弾正(やすだだんじょう)が時氏の側に走り寄り、

安田弾正 殿、こんなトコで、いったいナニを!

山名時氏 もう腹切る!

安田弾正 なんちゅうことを! 全軍の大将が腹切って、どうする!

弾正は、自分の6尺3寸の太刀を腰から抜き、背中に負った。

安田弾正 さ、殿、ここへ! 早く!

弾正は、太刀の上に時氏を座らせた。

安田弾正 行くぞぉー!

弾正は、時氏をかついだまま、橋の上を全速力で駆け抜けた。

安田弾正の太刀 バシッ!

細川軍メンバーO うぁー!

安田弾正の太刀 ブシッ!

細川軍メンバーP あああ・・・。

左右に広がった弾正の太刀にせき落されて、橋から落ちて水に溺れる者は、その数知らずであった。

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播磨国住人・小松原刑部左衛門(こまつばらぎょうぶざえもん)は、主君の山名兼義が戦死した事を知らないまま、天神の松原(てんじんのまつばら:大阪市・西成区)まで敗走したのであったが、

小松原刑部左衛門 あっ! あの馬は・・・。

山名兼義の乗馬がそこにいた。馬は頭部に2箇所の傷を負っており、主のないままに放たれている。

小松原刑部左衛門 あぁ・・・殿は討たれてしまわれたんか・・・。殿、殿ぉ!(涙)

小松原刑部左衛門 こないなったら、おれ一人逃げおおせて、生きながらえたとて、それでいったいどないなるっちゅうんや! よし!

彼はただ一人で、天神の松原からとって返し、向かいくる楠軍に矢2本を射掛けた後、腹を切って死んでいった。

足利幕府軍のその他の者たちは、ひたすら、京都を目指して敗走していく。親が討たれようとも子は知らず、主が討死にすれども郎従はこれを助けず、鎧を脱ぎ捨て、弓を杖がわりに突きながら・・・。

ま夜中になってようやく、京都にたどりついた敗残の足利幕府軍、まことに見苦しい様であった。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月11日 (日)

太平記 現代語訳 25-4 失われた宝剣

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・貞和(じょうわ)4年(1348)、伊勢国(いせこく:三重県中部)から、驚くべき報告が京都朝廷にもたらされた。

あの源平争乱の時、安徳天皇(あんとくてんのう)と共に、壇の浦(だんのうら:山口県・下関市)の海底に沈んでしまった三種神器(さんしゅのじんき)のうちの一つ、宝剣(ほうけん)が発見された、というのである。

その詳細は以下の通りである。

伊勢国の神戸(かんべ)という所に、下野阿闍梨(しもつけのあじゃり)・円成(えんじょう)という僧侶がいた。彼は、「伊勢大神宮1000日参詣」の願を立て、毎日海水で水ごりを取り、2夜に1回のペースで参詣を行っていた。

円成 あぁ、ついに今日は満願やぁ、1000回目の参詣の日や・・・ようやくここまで・・・。

例のごとく、水ごりを取ろうと思い、円成は磯べりへ歩みよった。その時、はるか沖あいに異様な光が見えた。

円成 あれ? あれいったいなんや? 何か光るもんが見える・・・。ゆうべ(昨夜)までは、あんなもん、気ぃつかへんかったけどなぁ・・・。

いぶかしく思い、そこで釣りをしていた漁師に、

円成 なぁ、なぁ、あこ・・・あこ、なにやら光ってへんか?

漁師 あぁ、光ってますなぁ。

円成 あれはいったい、なんやろう?

漁師 さぁて、わしにもよぉ分かりませんなぁ。この2、3日ほど、毎晩あぁやってな、波の上に浮かんで光っとるんですよ。

円成 えー!

漁師 あの光、海の上を、あちらこちら流れ歩いとりましてなぁ、どんなもんなんか、一回調べたろ思うてな、船漕ぎよせていったんやけどな、すっとどっかへ消えてしまいよった。

円成 へー・・・不思議やなぁ。

漁師の話をきいて、円成はますます不思議に思い、その物体から片時も目を離さずに、海浜をはるばると歩いていった。

円成 (内心)あれぇ? こっちの歩いてんのんに、なんやあれ、調子あわせてついてきよるみたいやで。

円成の歩みと共に、光る物体は次第に磯へ接近してきた。

円成 (内心)なんやわからんけど、きっとこれには、深いわけがあるんやろうなぁ。

円成は立ち止まった。

その物体は、輝きを急速に衰えさせながら、彼の足元に流れ着いてきた。

円成は、おそるおそる物体に接近し、それを拾いあげてみた。

金でもなく石でもない。三つ又の柄を持った剣のような形をしている。長さは2尺5ないし6寸くらいある。

円成 (内心)これはいったい、なんなんやろ? 長いこと月光を浴びた末に、自ら光を発するようになるとかいう、あの「犀角(さいのつの)」とかいうもんやろか・・・それとも、海底に生えるという珊瑚樹(さんごじゅ)の枝やろか?

円成は、その物体を手に持って、伊勢神宮へ詣でた。

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伊勢神宮の領域に円成が足を踏み入れるやいなや、怪奇現象が起った。

12、3歳ほどの一人の童子が、にわかに憑依(ひょうい)状態を示し、4、5丈ほどの高さにピョンピョンと飛び上がりはじめた。そして、一首の歌を吟じた。

 もの思う 私に誰も 知らん顔 仰けば空には さやけき月が

 (原文)思ふ事 など問ふ人の なかるらん あふげば空に 月ぞさやけき(注1)

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(訳者注1)新古今和歌集・雑歌下 前大僧正慈円の作。新古今では、第1句が「思う事を」となっている。
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伊勢神宮に勤務する人々や村の長老たち数百人が集まってきて、童子の周りを囲んだ。

神社勤務の者B その童子に憑かせたもうた神様は、いったいどちらの神様であらせられますか?

童子(に憑依した神霊) あぁぁ・・・あぁぁ・・・か・・・かみ・・・神代(かみよ)の・・・昔より伝えて・・・わが・・・わが日の本(ひのもと)には・・・三種の神器これあるなり。世継ぎの天子たとえ位を継がせたもうといえども、この三種の神器無き時には、君は君たらず、世も世たらず。

童子 汝(なんじ)ら見ずや、承久(しょうきゅう)年間より以後、代々の天皇位は軽くして、武家の為に威を失わせたもう。その因はこれひとえに、三種神器の一(いつ)なる宝剣が、天皇の御守(おんまもり)とならずに、海底に沈めるがためなり。

童子 あまつさえ、今や内侍所(ないしところ)、ヤサカノマガタマの御箱さえも、京都より遠く隔たりし地にありて(注2)、天皇は空しく帝位に臨ませたまえる。これにより、四海はいよいよ乱れ、一天未だ静かならず。

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(訳者注2)三種の神器のうち2つが、吉野朝の所有するところとなっていることを、指している。
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童子 ここに、百王鎮護(ひゃくおうちんご)の皇祖(こうそ)おたまやの神、深海の龍宮に神勅(しんちょく)を下されて、元暦(げんりゃく)の古(いにしえ)に海底に沈みし宝剣を、召し出されたるものなり。

童子 その宝剣こそは、それ、そこに立ちて我を見つむる、あの法師の手に持ちたるぞ! 宮中取次役(きゅうちゅうとりつぎやく)を通じて、この宝剣を朝廷へ進(まいら)すべし。わが言うところ、不審あらば、これを見よ!

童子は円成の側に走り寄り、彼が持つ例の物体を手に取り、涙をはらはらと流し、額から汗を流していたが、

童子 ウゥッ!

いきなり気絶してしまった。

そのまま暫く、童子は意識を失い、憑依していた神霊はそこを去っていった。

「このような神託が下った以上、いさかかも不審をさしはさむべきにあらず」ということで、伊勢神宮の禰宜(ねぎ)をはじめ、この現象を目撃した神社勤務の人々の連署でもって、一連の経過を記した起請文を書いて円成に与えた。

円成は、これを錦の袋に入れて首に懸け、神託に従い、剣を持って京都へ向かった。

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円成は、京都へ入る前に奈良へ行き、さらなる神託を得られるかもと思い、春日大社(かすがたいしゃ:奈良市)に7日間参篭してみたが、これといった不思議な事も無かった。

次に、長谷寺(はせでら:奈良県・桜井市)へ参り、3日間の断食をして、そこにこもってみた。

3日目、拝殿の脇で徹夜の参篭をしている人が、円成に話しかけてきた。京都に住む公家方の人のように見える。

人物C あのぉ・・・つかぬ事を、おうかがいいたしますが・・・。

円成 はい。

人物C 今夜の夢にな、「伊勢の国からここへ参って、今日で3日目の断食をしてる僧侶がいる。彼の言う事を、宮中取次役に申し伝えよ」との示現が現れましてな・・・あんた、もしかして、伊勢からお参りにきはったんちゃいますやろか?

円成 いやいや、まさにそれ、その伊勢からですよ!

人物C エーッ!

円成は嬉しく思い、これまでの一部始終を詳細に語った。

人物C そうですかぁ・・・そないな事があったんですかぁ・・・フーン・・・。

円成 ほんまにもう、こないだから、不思議な事つづきですわぁ。

人物C じつはな、わたいはなぁ、日野の大納言はんに縁あるもんですねん。大納言はんにお願いして、この話を、陛下のお耳に入れるのんなんか、おやすいご用やで。

円成 やったぁ!

彼はすぐに、円成を同道して京都に帰り、日野邸を訪問した。宝剣と起請文を日野資明(ひのすけあきら)に提出し、円成から聞いた話をくわしく伝えた。

日野資明 ふーん・・・ほんにまぁ、不思議な事件やなぁ。

人物C はい・・・。

日野資明 ただなぁ、なんやなぁ、こういう「ナニナニの神託が下った」っちゅうような話はやなぁ、いいかげんな話を作って、人をだまくらかすようなケースが多いんやてぇ、いやほんまぁ・・・。そういうのんにひっかかってしもぉて、お上(かみ)に軽はずみに取り次いでしもぉた結果、世間のものわらいの種になってしもぉたっちゅうような例、ごっつ多いからなぁ・・・。

人物C はぁ・・・。

日野資明 そやからな、よぉよぉ事の真否を調査した上でやな、朝廷の閣僚の面々にも、「なるほど、これやったら信用できるわなぁ」と言わせるほどの確証を得た上でやな、わたいから陛下に、この話をお伝えする・・・こういうフウに、もっていきたいんやわ。

人物C ・・・。

日野資明 ま、その神託が信じるに足る、足らんはさておいてや・・・いずれにしても、この物体の発見、天下に静謐(せいひつ)をもたらす奇瑞(きずい)であるという事には、変りはないんやから・・・その僧侶・・・えぇと、名前は、なんちゅうたかいなぁ?

人物C 下野阿闍梨・円成ですわ。

日野資明 あんな、円成に、引き出物をな。

日野資明・側近D はは!

資明は、円成に銀製の太刀3本と布10重を与え、その物体を、自宅の前栽(せんざい)に安置した春日神殿(かすがしんでん)に納めた。(注3)

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(訳者注3)おそらく、自宅の庭中にまつった社(春日大社から勧請の)の中にその物体を納めた、という設定であろう。
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日野資明 (内心)さてと・・・あれがほんまに、三種の神器の宝剣かどうかを確かめるには、と・・・まずは神代の歴史を調べてみんとあかんわなぁ・・・。歴史の専門家に、詳しい聞いてみるべきやろなぁ。

資明は、平野神社(ひらのじんじゃ:北区)の神主・兼・神社総庁次官(注4)・卜部兼員(うらべかねかず)を、自宅に呼びよせた。

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(訳者注4)原文では、「神祇大副」。
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日野資明 今日来てもろたんはなぁ、あんたに、三種の神器についての講義をしてもらいたい、思いましてなぁ。

卜部兼員 はぁ・・・三種の神器ですか。

日野資明 そうやがな。あれに関しては、各家で相伝してる話がいろいろとあって、内容はまちまちやわなぁ。

卜部兼員 はい。

日野資明 じつはな、わしは、あぁいった話、ハナっから信用してないんや。

卜部兼員 そらまた、なんでですかいな?

日野資明 うん・・・どないにすごい旧家いうたかてな、歴史学においてはしょせん、シロウト集団やからなぁ。ヘンな尾の闘牛の絵を描いて牧童に笑われてしもたっちゅう話、あるやろぉ?(注5)

卜部兼員 ハハハハハ・・・。

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(訳者注5)牛は闘う時には尾を両足の間に挟むのに、尾を振りながら闘っている絵を描いて、牧童に笑われてしまった、という故事。
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日野資明 何事においてもな、シロウトの話ではあかん、エキスパート、専門家の話を聞かんと、あかんのや。そやからな、日本史の事やったら、歴史学の専門家に聞けっちゅうこっちゃがな。三種の神器に関しては、あんたの言う事だけが信頼できる・・・というわけでやな、今回ちょっとワケアリで、三種の神器について、知りたい事があってなぁ。

卜部兼員 なるほど。

日野資明 さぁ教授、詳細なる講義をお願いします。

卜部兼員 はぁ・・・。

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占部兼員は、かしこまっていわく、

占部兼員 いやぁー、日野様のおん前で、三種の神器についてお話するやなんて・・・なんや、養由(ようゆう)に弓を教え、王義之(おうぎし)に書を伝授するようなもんですわなぁ・・・。ま、そうは言いましてもな、たってのご依頼とあらば、ご講義させていただかんわけには、まいりませんわな。

占部兼員 よろしょま、歴代伝わってきました日本の古代史、余す所なく、お話しさせていただきましょう。

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(訳者注6)ここ以降、太平記には神代の事が様々に書いてあるのだが、古事記等と合致しない点も多々あるようなので、これを信用しない方がよいだろう。

もっとも、「信用」という言葉を使うのもヘンな話ではある。古事記に書いてある事ならば信用してよいとでも言うのか? いまどき、古事記に登場する「神武天皇」や「ヤマトタケル」が、歴史上実在の人間であったなどと信じている人は、この日本列島の上には一人もいないと思うのだが。
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以下、占部兼員の講義内容である。

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日本の歴史は、「天神七代時代」からスタートする。「天神七代」とは、第1・国常立尊(くにとこたちのみこと)、第2・国挟槌尊(くにさづちのみこと)、第3・豊斟淳尊(とよくんぬのみこと)。この時、天地(あめつち)が開け始めて空中に物質が誕生した。その様態は葦芽(あしかび)のごとくであったという。

その後、男神の泥土瓊尊(ういぢえのみこと)、大戸之道尊(おおとのちのみこと)、面足尊(おもたるのみこと)が、女神の沙土瓊尊(すいぢえのみこと)、大戸間邊之尊(おおとまべのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)が誕生。この時代にはじめて、男女の違いが現われたが、婚姻の儀はまだ無かった。

その後、イザナキとイザナミの男神女神の二柱、天の浮橋(あめのうきはし)の上において、「この下界に国土あれかし!」と、アマノヌボコを差し下ろし、大海をかきまわしたもう。その鉾の先の滴(したたり)が凝固して一つの島が形成された。これを「オノコロ島」と言う。

次に、二神は1つの洲(くに)を産出された。その面積があまりにも少なかったので、「淡路洲(あわじのくに)」と命名された。これは、「わ(吾)がはじ(恥)の国」という意味であろう。(注7)

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(訳者注7)淡路島にお住いの方々には申し訳ないのだが、太平記原文に、「吾恥の國と云心なるべし」とあるので、いたしかたなく、このように訳している。
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二神はこの嶋(しま)に天降(あめくだ)りたもうて、宮殿を造ろうとされた。しかし、どこもかも葦に覆われており、空地が全く無い。そこで両神は、葦を引き抜いて捨てられた。その葦を置いた場所は山となり、葦を引いた後は河となった。

二神は夫婦となり、建てた宮殿に住まわれた。未だに夫婦和合の道をご存知なかったのだが、「ニハクナブリ」という鳥が尾を土にたたきつける様を見て、その道を知られた。その時、イザナギノミコトが詠まれた詩、

 「喜哉遇(あなにえやあいぬ) 可美少女(うましおとめに)」(原文のまま)

これが、日本で最初の和歌である。

かくして、二神は四神を産みたもうた。日神(ひのかみ)、月神(つきのかみ)、蛭子(ひるこ)、スサノオノミコトを。

「日神」と申すは、アマテラスオオミカミ。この方は、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の変化身(へんげしん)である日天子(にってんし)が、さらに変化したもうた神である。

「月神」と申すは、月読明神(つきよみのみょうじん)である。この神は、あまりにも美しくおわしたので、「これは人間の類にはあらず」ということで、二親のおはからいにより、天に登らせたてまつった。

「蛭子」と申すは、今の西宮大明神(にしのみやだいみょうじん:注8)にておわす。生まれたもうた後3年経過しても御足が立たず、骨が堅固に形成されないので、固い樟で作った船に乗せて海に流したてまつった。

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(注8)兵庫県・西宮市にある西宮夷神社に、祭られている。
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 かぞいろは 何(いか)に哀(あわれ)と 思ふらん 三年(みとせ)に成(なり)ぬ 足立(たた)ずして(原文のまま)(注9)

という和歌は、この事を詠ったのである。

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(訳者注9)朗詠集 雑 大江朝綱・作。「かぞ」は父、「いろは」は母。
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スサノオノミコトは、出雲大社(いずもたいしゃ:島根県・出雲市)の神である。この神は、草木を枯らし、動物の命を奪い、様々の荒々しい事をされたので、出雲国(島根県東部)へ流したてまつったのである。

3神がこのように、あるいは天に上り、あるいは海に放たれ、あるいは流されたりした末に、アマテラスオオミカミが、我が国の主となられたのである。

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スサノオノミコトは、アマテラスオオミカミから日本の主の座を奪おうとして、戦を起こした。一千柱の荒ぶる神々を率いて、大和国(やまとこく:奈良県)の宇陀野(うだの)の地に行き、そこに1千本の剣を掘り立てて城郭を構え、その中にたてこもった。

それを見たアマテラスは、

アマテラス スサノオの所業、わらわは極めて不愉快じゃ!

アマテラスは、八百万神(やおよろずのかみ)を引き具して、葛城山(かつらぎさん:大阪・奈良境)にある天の岩戸(あまのいわと)に閉じこもってしまった。故に、世界は全て、常闇(とこやみ)の状態となり、太陽や月の光も見えなくなってしまった。

シマネノミコトは、この事態を大いに嘆いた。

シマネ やれやれ、これは困ったものよのぉ。これでは文字どおりの、「一寸先は闇」状態じゃわい。なんとか対策を講じねばのぉ。

シマネは、天香久山(あめのかぐやま:奈良県)に生息する鹿を捕えてその肩の骨を抜き、朱桜(かにわざくら)の皮でもってそれを焼き、今後の対策について占ってみた。すると、次のような卦(け)が出た。

 「鏡を鋳(い)て岩戸の前にかけ、歌を歌わば、アマテラスオオミカミは、外に出てこられるであろうぞ」

 香久山(かぐやま)の 葉若(はわか)の下(もと)に 占(うら)とけて 肩抜(ぬく)鹿は 妻恋(つまごい)なせそ(原文のまま)

と詠んだ歌は、この時の事を歌っているのである。

シマネ よしよし・・・。

シマネは、一千の神々をかたらって、大和国の天香久山で火を焚き、一面の鏡を鋳させたもうた。しかし、

シマネ うーん、この鏡、イマイチの出来じゃのぉ。

ということで、これを捨てた。現在の紀伊国(きいこく:和歌山県)・日前宮(ひのくまぐう:和歌山市)のご神体こそが、この捨てられた鏡なのである。

再び、鏡を鋳た。

シマネ ウン! 今度のは良いぞ!

その鏡を持って、一千の神々は天の岩戸の前に行った。鏡を榊(さかき)の枝に付けて岩戸の前に置き、神々は、声を長く伸ばしながら調子をそろえて、神歌(かみうた)を歌った。

アマテラス (耳をそばだてながら)おや? 外ではなにやら、みなで楽しそうにやっておるようじゃな・・・。おもしろそうじゃ、ちょっとだけ見てみよう。

神々の歌声に魅せられたアマテラスは、岩根手力雄尊(いわねたぢからおのみこと)に岩戸を少し開かせ、洞窟の外に顔を差し出した。

たちまち、世界は光明を取り戻し、鏡に映ったアマテラスの顔は、そのまま永久に消えることなく、鏡面に焼き付いた。この鏡を名付けて、「ヤタの鏡」、あるいは、「内司所(ないしどころ)」(注10)と呼ぶ。

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(訳者注10)これが三種の神器中の一、「内司所」である。
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アマテラスは、岩戸から出た後、八百万の神々を宇陀野に遣わした。神々は、城に掘り立てた千の剣を全て蹴破って捨てた。「千剣破る(ちはやぶる)」という「神」の枕言葉の語源は、ここにある。

そこにたてこもっていた一千の悪い神々は、小蝿となって消え失せた。

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たった独りになってしまったスサノオは、こなたかなたとさまよううちに、出雲国に到達。

海上に、あちらこちらと流れて動いている浮島があった。

スサノオ あの島は、アマテラスでさえも、その存在を知らぬであろう。わしの隠れ家に好都合じゃわい。

スサノオは、手で島を撫でて島を定着せしめ、そこに住みついた。ゆえにこの島を、「手摩島(てましま)」と呼ぶ。

島の上からはるか彼方を眺めていると、清地(すが)の郷(さと)の奥、斐伊川(ひいがわ:島根県)の川上に、八色の雲が漂っているのが見えた。

スサノオ ムム・・・あの雲はいったいなんじゃ?

スサノオがその場に行ってみると、3人の人間がそこにいた。翁(おきな)と媼(おうな)が、美しい娘を中において、切に嘆き悲しんでいる。

スサノオ これこれ、なんじら何ゆえに、さように嘆きおるか?

翁(おきな) はいぃ。私めの名はアシナヅチ、そしてこれなる媼(おうな)はテナヅチと申しまするぅ。この少女は、我らがもうけたる一人娘にござりまして、その名を「イナダヒメ」と申しまするぅ。(涙)

スサノオ フン・・・。

翁 近頃、このあたりに、「ヤマタノオロチ」と申す大蛇が棲息し始めおりましてなぁ・・・そのオロチは、八つの頭(かしら)を持ち、その身体は七つの尾根と七つの谷にまたがりおりまして、夜な夜な人間を食しまするぅ。(涙)

スサノオ なに、オロチが?

翁 はいぃ・・・。村人も長老もみな食べられてしまい、ついに今宵、この娘がオロチの餌食となる番となりましてござりまするわぁ。今日を限りの親子の別離(わかれ)、やる方もなき悲しさに、ただただ泣き伏すばかりでぇ・・・ウウウ・・・。(涙)

哀れに思ったスサノオは、

スサノオ どうじゃ、その娘をわしにくれんか? さすれば、そのヤマタノオロチとやらを退治して、娘の命を助けてやろうぞ。

翁は喜んで、

翁 まことにありがたきお言葉! みこころのままにぃ!

スサノオノミコトは、湯津爪櫛(ゆづつまぐし:注11)を8個作ってイナダヒメの髪にさした。絞りを8回繰り返して濃度を上げた酒を酒船(さかぶね)に満たし、その上に棚をしつらえてイナダヒメをそこに座らせ、彼女の像を酒の面に反映させながら、オロチの襲来を待ちかまえた。

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(訳者注11)歯の多い爪形の櫛。
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夜半過ぎ頃、荒々しい雨が降り始め、風が激しく吹きすさびだした。そして、大山の動くがごとく、巨大な物体が接近してきた。

ヤマタノオロチ ドドドドド・・・・ダダダダダ・・・・ドヨドヨドヨドヨドヨ・・・ドドドドド・・・・ダダダダダ・・・・ドヨドヨドヨドヨドヨ・・・ビカビカビカビカビカ!

電光の中に8個の頭が見えた。それぞれの上には2本の角が生えており、角と角の間には松栢が生い茂っている。16個の目からは日月のような光が発せられ、のどの下の鱗は、まるで夕日を浸す大洋の波のようである。

スサノオノミコト (内心)来たな!

ヤマタノオロチ ドドドドド・・・・ダダダダダ・・・・ドヨドヨドヨドヨドヨ・・・ドドドドド・・・・ダダダダダ・・・・ドヨドヨドヨドヨドヨ・・・キュオーンキュオーンキュオーン・・・。

酒船に映るイナダヒメの姿を見たオロチは、

ヤマタノオロチ キュオーンキュオーンキュオーン・・・ヴィエーンヴィエーンヴィエーン!

今夜の生け贄が酒船の底にいると思ったのであろうか、オロチは酒を飲み始めた。

ヤマタノオロチ キュオーンキュオーンキュオーン・・・ウグッウグッウグッウグッ・・・ピチャピチャ・・・ヴィエーンヴィエーンヴィエーン!

8,000石もたたえた酒が、あっという間に無くなってしまった。スサノオは、カケイを酒船に渡し、さらに数万石の酒を送り込んだ。

ヤマタノオロチ ウグッウグッウグッウグッ・・・ピチャピチャ・・・ヴィエーンヴィエーンヴィエーン・・・ウーイ! ウーーィ! ヒイック! ウーーィ・・・ムニャムニャ・・・ZZZZZZ・・・。

オロチはたちまち酒に酔いつぶれ、その場に眠り伏してしまった。

スサノオ よし、今じゃ!

スサノオは剣を抜き、オロチをずたずたに切り割き始めた。

剣 ズバッ! ズブッ! シャァッ! ズビーッ! バサッ!

8個の頭を次々と切り落し、胴体を切り刻み、いよいよ尾の部分に至った。

剣 シャバッ! ズバッ! シャァシャァシャァシャァッ! ガキッ!

スサノオ うう?

いったいどうしたわけであろうか、剣の刃が少し折れてしまい、尾が切り落とせない。怪しんで剣を取り直し、今度は尾を縦方向に割いてみた。

剣 スススーーーー。

オロチの尾の中には一本の剣があった。これがいわゆる「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」である。

スサノオはこの剣を取り、アマテラスに奉った。

アマテラス なんと! この剣は、そのかみ、わらわが高天原(たかまがはら)より落したしり剣なるぞ!

アマテラスは大いに喜んだ。

その後、スサノオは出雲に宮殿を造営し、イナダヒメを后とした。

八重(はちじゅう)に 雲わき出ずる 出雲の地 我ら夫婦を 守る八十垣(やえがき)

(原文)八雲(やくも)立(たつ) 出雲(いずも)八重垣(やえがき) 妻籠(つまこめ)に やへ垣造る 其(その)やへ垣を

これが、三十一文字に定まりたる和歌の始めである。

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それ以降、この剣は、代々の天皇の所有する宝となって10代を経過。

第10代の天皇・崇神天皇(すじんてんのう)の御代に、これを伊勢大神宮に奉納した。

第12代天皇・景行天皇(けいこうてんのう)の治世40年目の6月、東方において反乱が起こり、天下静かならず。そこで、第2皇子・日本武尊(ヤマトタケル)が、辺境征伐の為に東方に遠征することになった。

ヤマトタケルはまず、伊勢大神宮に参拝し、事の由を奏された。

ヤマトタケル 私、「東方の乱を鎮めよ」との命を陛下より頂き、これよりかの地に赴きまする。つきましては、御神託を頂きたく。

すると即座に「慎んで懈(おこた)ることなかれ」との神勅が下り、例の剣を与えられた。

与えられた剣を手に、ヤマトタケルが武蔵野(むさしの)を通過しようとした時、

ミコトの部下A 殿下、火が!

ヤマトタケル ムムム! きゃつらめ、謀りおったな!

ヤマトタケルに敵対する勢力が互いに謀り、広野(ひろの)に火を放ってミコトを焼き殺そうとしたのである。

ヤマトタケル みんな焼け死んでしまうぞ! 走れ、走れい!

しかし、燎原の炎の勢いは極めて強く、ミコトらはもはや遁れる方もないという所まで追いつめられてしまった。

ミコトの部下A 殿下、もうだめです!

ミコトの部下B 殿下、殿下!

ヤマトタケル ウーン・・・いや、待てよ、こういう時にこそ、この剣・・・。

ミコトは伊勢神宮から授かった例の剣を抜いてうち払ってみた。すると、刃の向かう方向2、3里の間の草木が自動的に薙ぎ伏せられ、炎はたちまち敵対勢力の方に靡いた。

このようにしてヤマトタケルは九死一生を得た。やがて大和朝廷に敵対する勢力の多くが滅びていった。

この逸話により、この剣を「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」とも呼ぶのである。

この剣が未だにヤマタノオロチの尾の中にあった時、悲斐川の上流の方に常に雲が垂れ込め、一向に空が晴れないという現象が見られたので、「天の群雲の剣(あめのむらくものつるぎ)」とも名付けられた。

また、長さがわずか10束しかないので、「十束の剣(とつかのつるぎ)」とも名付けられた。

天武天皇(てんむてんのう)の御代・朱鳥(しゅちょう)1年に再び朝廷に召され、内裏に収められてからは、代々の天皇の宝となった。ゆえに「宝剣」(注12)とも呼ばれる。

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(訳者注12)これが三種の神器中の一、「宝剣」である。
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第3番目の神器は神璽(しいし)である。アマテラスオオミカミとスサノオノミコトが夫婦となり、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)をなめられたので、陰と陽が生成し、正哉吾勝勝速日(マサヤアカツカツハヤヒ)天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)を産まれた。

この曲玉を「神璽」と言う。
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占部兼員 と、いうような次第でしてな、いずれの神器についても異説が多くございまして、その詳細を残らず申し上げるのは到底不可能っちゅうもんですわ。私の家に伝わってる一説、だいたい、以上申し上げた通りです。

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占部兼員の講義を熱心に聞いていた日野資明(ひのすけあきら)は、

日野資明 いやいや、ごくろうはん。あんな、今日べつに何のついでということもなしにやな、あんたをわざわざ呼びつけて、三種神器について詳しい教えてもろたん・・・それはいったいなんでかというとやな・・・。

卜部兼員(うらべかねかず) ・・・。

日野資明 (ヒソヒソ声で)じつはな、昨日、伊勢国(いせこく)から、「失われた宝剣が見つかりました、これですわぁ」言うてやな、なにやらそれらしいモンを持ってきよったんやわ。それでな、それが本物かどうか、不審な点を見極めるためにな、あんたに色々とたん(尋)ねたと、まぁ、そういうわけやったんやがな。

卜部兼員 (ヒソヒソ声で)あぁ、なんや、そういう事でしたんかいなぁ。

日野資明 (ヒソヒソ声で)あんたがしてくれた講義の内容、大略は、誰もが世間一般常識としてわきまえてるような事ばっかしやったから、別段とりたてて、どうのこうの言う事はないわ。ただな、一点だけ、注目すべき事があったんや・・・(右手の人差し指で自らの額をトントンとつつきながら)・・・あんた、たしか、「宝剣を「十束の剣(とつかのつるぎ)」とも呼ぶのんは、長さが10束あるからや」と言うたわな?

卜部兼員 (ヒソヒソ声で)はい、たしかに、そないに申し上げました。

日野資明 (ヒソヒソ声で)宝剣について、そこまで細かい事を知ってるもん、世間にそうそうは、いいひんよってに・・・(右手の人差し指で自らの額をトントンとつつきながら)・・・かりにやで、例の物がニセの宝剣やったとしたらやで、長さが十束と違うてるやろ・・・(パチン!・・・右手の3本の指で音を立てる)うん、これは非常に有力な手がかりや。

卜部兼員 (ヒソヒソ声で)なぁるほど!

日野資明 誰か、例の剣、出してみ!

庭に祭った春日社の中から、錦の袋に入った例の剣を取り出し、その長さを計ってみた。

日野資明 ワァォ!

卜部兼員 ピッタシカンカン、十束にイコール・・・フーッ。

日野資明 よぉし!(バシッ・・・右手で自分の膝を叩く)これで、不審な点は無(の)うなった。間違いなく、これはホンモノの宝剣や!

卜部兼員 ですなぁ。

日野資明 ただなぁ・・・「これは失われた宝剣です」言うて奏聞(そうもん)する為には、まだ足りひんな。奇瑞(きずい)の一つくらい起こってくれへんとなぁ・・・。そやないと、とても陛下には信じていただけへんやろう・・・。よし、こないしょ、この剣、しばらく、あんたんとこに預けるよってにな、どないな事でもえぇから、不思議の一つでも、何とかして祈り出してくれ。

卜部兼員 えーっ・・・うーん・・・。(腕組みして考え込む)

日野資明 なんやねん?

卜部兼員 いやぁ・・・お言葉ではありますがなぁ・・・今の世はなんせ末世でっからなぁ・・・神や仏の威徳(いとく)かて、あっても無きが如くの状態でっしゃろ? わたいみたいなモンがいくら祈ってみたかて、まっこと天下の人々をアット言わすような瑞相なんか、とても現れてくれへんのんちゃいますやろかいなぁ。

日野資明 そうかぁ・・・。

卜部兼員 ただしですねぇ、仏神の威光を顕(あら)わして人々の信心を進める事にかけては、昔から今に至るまで、夢に勝るもんはおまへん。

卜部兼員 こないしたら、どうでっしゃろ? とりあえずはこの剣、わたいのとこで預からしてもらいましてですねぇ、これから21日間、幣帛(へいはく)捧げてお供えを調(ととの)えて、わたいが自ら祈誓(きせい)を致してみますわ。

卜部兼員 その間に、お偉い方々・・・そうですねぇ、両上皇陛下(注13)、関白殿下、院に仕える公卿方、もしくは、将軍殿(注14)、足利直義(あしかがただよし)殿なんぞの夢にですねぇ、「この剣は真実、宝剣やぞ」っちゅうような、不審をイッキに散じてしまうような夢見が現れるんを、待ちましょいな。ほいでもって、その夢見の内容をきっちり確認された上でですね、陛下に奏聞しはったらどないでっしゃろ?

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(訳者注13)花園法皇と光厳上皇。

(訳者注14)足利尊氏。
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日野資明 (バシッ・・・右手で自分の膝を叩く)なるほど、そらえぇなぁ!

卜部兼員 ほな、この剣、わたいの方で預らしてもらいまっせ、よろしょまっか?

日野資明 よろしゅう頼むで。

というわけで、卜部兼員はこの剣を持ち帰った。

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翌日より卜部兼員は、剣を平野神社(ひらのじんじゃ:北区)の社殿に安置し、12人の社僧(注15)に大般若経(だいはんにゃきょう)を真読(しんどく)させ、36人の神子(みこ)に長時(じょうじ)の御神楽(みかぐら)を奉納させた。

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(訳者注15)神社に勤務する僧侶。
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読経の音声は朗々として、三身(さんじん:注16)の仏のお耳にも達するかと思われる。玲々(れいれい)たる鈴の音は、神に変身してあらゆる衆生を救済せんとする仏のお働きを助けるかのように響きわたる。そして神前には金銀幣帛、浮き草、白蓬(しろよもぎ)、水草、藻(も)を供えて、手厚く礼拝。

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(訳者注16)法身、報身、応身。
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これほどまでのまことを込めて祈ったとなれば、神が神である限り、奇瑞の現れないはずがあろうか。21日目の祈願満願の夜、足利直義に、一つの不思議が示された。

足利直義 (内心)・・・私が今いる、ここはいったいどこだ? ・・・ふん、どうも御所の中のようだな・・・神社総庁の庭かな?

足利直義 (内心)あそこに、たくさんの人が座っている・・・大臣、公卿、百司、千官、それぞれの位の順に座ってる。大きな旗を立てて幔幕(まんまく)を引き、楽士は音楽を奏し、文人が詩を吟じている。これから何か、よっぽど重要な儀式が行われるようだ・・・。いったい、何が始まるんだろう?

大極殿(だいごくでん)前の庭の龍尾堂(りゅうびどう)の側を歩きまわっていると、権大納言(ごんだいなごん)・勧修寺経顕(かじゅうじつねあき)がやってきた。

足利直義 あれはいったい何ですか? 何の大礼が、これから執行されるんですか?

勧修寺経顕 伊勢大神宮から宝剣を献上してきたよってに、中儀の節会(ちゅうごのせちえ)が行われるんですわ。

足利直義 (内心)えぇっ、宝剣! そりゃぁすごいな、希代の大慶事だ。

しばらく見ていると、

足利直義 (内心)おぉ・・・南の方から五色の雲が一群(ひとむら)流れてきた・・・。雲の中に光明カクヤクたる太陽が輝いて・・・。

足利直義 (内心)あの光の上に、何か立ってる・・・あれは・・・あ、剣だ、一本の剣・・・きっとあれが宝剣なんだな。

足利直義 (内心)剣の前後左右には・・・梵天(ぼんてん)、四天王(してんのう)、龍神八部衆(りゅうじんはちぶしゅう)・・・天蓋(てんがい)をさし、列を引いて、剣の周囲を囲んでおられる。

足利直義 (ガバッ)・・・うん?・・・あぁ、夢だったのか・・・。

直義は翌朝さっそく、この夢見の事を周囲に語った。これを聞いた人はみな、「これはまことにめでたい夢、天下静謐(せいひつ)に向かう前兆に違いありません」と、慶びを表した。

直義の夢見のニュースは、次第に京都中に広まっていった。卜部兼員はさっそく、その夢の内容を記録して、日野資明に見せた。

日野資明 よしよし、これで、瑞夢という条件も満たされた。さっそく・・・。

資明は、この夢見の記録を添えて、光厳上皇に、「伊勢国より宝剣献上」と奏聞した。

「一連の経緯を見れば、これが宝剣であることに関して、不審な点は皆無である」ということになり、8月18日早朝、諸卿参列して、宝剣受け取りの儀を行った。

翌日、宝剣を発見した円成(えんじょう)を、破格の取りたてにて直任(じきにん)の僧都(そうず)に任命し、河内国(かわちこく:大阪府東部)葛葉(くずは:大阪府・枚方市)の関所を、恩賞として与えた。(注17)

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(訳者注17)当時、関所は、「富を産みだす一大不動産」であったようだ。その通行料を収入とすることができるから。
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まさにこの「宝剣発見」の一大奇跡、古代中国の周(しゅう)王朝時代に、宝鼎(ほうてい:注18)を掘り出し、夏(か)王朝時代に河図を得た瑞祥に比べてみても、決して勝るとも劣らないものである。

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(訳者注18)宝のかなえ(鼎)。
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当時、京都朝廷には賢才補佐の臣は多くいたが、君主の不義を諌(いさ)め、政治の不善を誡(いまし)めることができるのは、勧修寺経顕と日野資明の二人だけであった。

「両雄あい並び立たず」の習い、この二人もまた、互いに権勢を競いあっていた。光厳上皇に対して勧修寺経顕が提案した事を、日野資明はすべてぶちこわしにしてしまおうとし、日野資明が進言する事に対しては、勧修寺経顕はことごとく異を唱える。

勧修寺経顕 ふーん、そうやったんか! 今回の伊勢国からの宝剣進奏は、日野資明がやりよったんかい! よーし!

経顕は、院に参っていわく、

勧修寺経顕 陛下、今回の宝剣の件に関してですね、私、詳細に調べてみました。その結果、わかったことなんですけどな、今回のこの一件は完全に、日野資明一味のデッチアゲでっせ!

光厳上皇 ・・・。

勧修寺経顕 いやぁー、「佞臣(ねいしん)、朝に仕うれば、国に不義の政有り」とはまさに、彼の為にあるような言葉ですわなぁ。陛下、よぉよぉ考えてみたら、今回のこの件、なんや、おかしい事やと思われませんか?

光厳上皇 いったい、何がおかしいねん?

勧修寺経顕 古(いにしえ)、スサノオノミコトによって悲斐川(ひいがわ)上流で切られたヤマタノオロチはね、元暦年間(げんりゃくねんかん)に安徳天皇(あんとくてんのう:注19)に生まれ変り、この宝剣を取り返して龍宮城へ帰りたもうたんですよ。

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(訳者注19)高倉天皇と平徳子(平清盛の娘)との間に生まれ、壇浦で平家一門と運命を共にして入水。その時、宝剣も海底に沈んだ、と平家物語に記されている。
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勧修寺経顕 それより後、君王19代、春秋160余年、良き政治が行われ、徳が豊かやった時でさえも、ついに世には現れへんかった宝剣がですよ、いったいなんで、こないな乱世無道の時代に出現するんですかねぇ?

光厳上皇 ・・・。

勧修寺経顕 こないな事を言うたら、すかさず、「いや、それはな、我が君、上皇陛下の聖徳に感じて出現したんや」てなこと、言うもんもおりましょうなぁ。そやけど、その言い分も、理屈が通りまへん。もしそやったら、まずは天下の静謐が先に来て、それから宝剣出現、という順番になってんと、あかんはず。

光厳上皇 そやけどな、例の直義の夢の件があるやないか。

勧修寺経顕 夢ですか・・・陛下、人間の夢が、そないに信用できるもんでっしゃろか? 確かでない事柄を世間一般、「夢幻(ゆめうつつ)」と言うんと、ちゃいましたかいなぁ?

光厳上皇 ・・・。

勧修寺経顕 そやから、「聖人に夢無し」と言う言葉もあるんですよ。ほれ、昔の中国、漢王朝の時代に、有名な「夢」の話がありますやんか、陛下もよくご存じの・・・。

(以下、勧修寺経顕が語った故事逸話)

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富貴を求める一人の男がいた。楚(そ)の君主が賢才の臣を募集していると聞き、御爵(おんしゃく)を貪らんがため、男はただちに楚に赴いた。

道中、歩きくたびれ、邯鄲(かんたん:注20)の旅亭にしばしの休息を取った。

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(訳者注20)河北省・成安県。
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そこにいあわせた呂洞賓(りょとうびん)という仙術使いが、この男の心中の願いを暗に悟り、富貴の夢を見ることのできる枕を貸した。

男はさっそく、その枕を使って一睡してみた。その時見た夢はといえば・・・。

楚侯の使者がやってきて、男を宮中に招いた。その礼といい贈り物といい、大変なものである。

男は喜んで楚侯の宮廷に赴いた。楚侯は男に席を近づけ、政道や武略について様々に質問してくる。男がそれに答えるたびに、同席の諸卿らは深くうなずいて得心の意を表わす。楚侯は男の才能を高く評価し、彼を閣僚に抜擢した。

それから30年間、男は楚国において大活躍、楚侯はこの世を去るまぎわ、その長女を男の妻とした。

その後は、侍従や召し使いに囲まれ、好衣珍膳、心にかなわずという事は何も無く、目を悦ばさざるという事は一切無い。座上には客が常に満ち、樽中(そんちゅう)には酒空しからず。楽しみは身に余り、遊興に日を尽くして51年、夫人は一人の男子を産んだ。

楚侯には位を継ぐべき男子が無く、この孫が出生したので、公卿大臣みなあいはかり、男を楚の君主とした。

周辺の民族らもみな帰服し、諸侯らがこぞって男のもとに来朝してくる様は、まさに、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が戦国の六国を併合し、漢の文帝(ぶんてい)・景帝(けいてい)が九の民族を従えたと同様である。

やがて、太子の3歳の誕生日となり、洞庭湖(とうていこ)の波上に3,000余隻の舟を並べ、数百万人の良客を集めて、3年3月にわたっての遊楽を行った。

赤褐色の髭の老将は錦の艫綱(ともづな)を解き、青い眉の美女らは舟漕ぎ歌を歌う。

大梵天王(だいぼんてんのう)の宮殿の花も、帝釈天(たいしゃくてん)の宮殿の月も、見るに足らず、もてあそぶに足らず、遊び戯れ舞い歌いて、3年3月の歓楽がついに終わりを告げたその時、かの3歳の太子を抱いて(注21)船端に立っていた夫人は、足を踏み外し、太子もろとも海底に落ちてしまった。

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(訳者注21)子供の年齢の設定が変だ。3歳の誕生日の後3年3月経過しているから、「6歳になった太子を抱いて」とあるべき。(6歳の男の子が母親に抱かれるか?) でもまぁ、あまり気にしないでおこう。
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数万の侍臣があわてふためき、一同に「あれよあれよ」と叫ぶ声に、男の夢はたちまち醒めてしまった。

つらつら夢中の楽しみの継続した時間を計ってみるに、君主の位にあった期間は50年、しかし、枕の上で眠っていた時間は、あまりにも短い。昼の眠りにつく前に、宿の主が蒸し始めた黄梁(こうりょう)は、男が夢から醒めた時、まだ蒸し終わってはいなかった。

男は悟った、人間百年の楽しみも、みな枕頭片時の夢に過ぎない、という事を。

彼は楚へ行くことを止め、たちまち身を捨てて世を避ける人となり、ついに名利に繋縛される心が無くなった。

これを、揚亀山(ようきさん)が「日月(にちげつ)に謝する詩」に詠んでいわく、

 少年よ 大志を抱け
  怠らず 学び励めよ
 人生の得失 それは一片の夢中のもの
  そのようなものに 心動かされるなよ
 うそだと思ったら きいてみるがいい
  邯鄲の旅亭において
  枕を欹(そばだ)てて 一睡した旅人に
 その歓楽の生の間
  黄梁は幾たび、蒸し終えられたか と(注22)

(原文)
 少年力学志須張
 得失由来一夢長
 試問邯鄲欹枕客
 人間幾度熟黄梁

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(訳者注22)この「邯鄲の夢枕」の話と、アインシュタインが発見した「特殊相対性理論」から導出される「時間」についての結論(移動している物体上と静止している物体上とでは、時間の経過の様相が異なる)」をからみあわせたら、おもしろい「HSF(Historical Science Fiction)=空想歴史科学小説」を作れるかも。
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勧修寺経顕 これを、「邯鄲午睡の夢」と言うのですよ・・・。人間の見る夢とはしょせん、このような、実にはかないもんにすぎませんわ。

光厳上皇 ・・・。

勧修寺経顕 それにですね、葛葉の関を、恩賞に与えはったと聞きましたが・・・これもまた問題でっせぇ。あこは長年、興福寺(こうふくじ:奈良市)が管領(かんしょう)してきた関ですからな、わけもなく取り上げてしもたら、あこの寺の衆徒、怒ってしもて、強訴してくるかもしれませんでぇ。

光厳上皇 うーん・・・。

勧修寺経顕 「綸言(りんげん)再びし難(がた)し」(注23)とはいうもののですな、「過(あやま)っては則(すなわち)改(あらたむ)るを憚ること勿(なか)れ」(注24)という言葉もあります。速やかに、こないだの勅裁を無効にされてですね、興福寺が強訴してくる兆候が未だに無い今のうちに、葛葉の関の恩賞を、取り消しにしはった方がえぇと思いますよ。

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(訳者注23)綸言(天子の言葉)は変更しがたい、の意。

(訳者注24)過ちに気付いたら、ただちに改めよ、の意。論語にある言葉。
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このように、委細に奏したので、上皇もなるほどと思われたのであろう、すぐに院宣を取り消され、宝剣を平野神社の神主・卜部兼員に預けられ、葛葉の関所を、再び興福寺の所領とした。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月10日 (土)

太平記 現代語訳 25-3 楠正行、決起す

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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湊川(みなとがわ:神戸市・兵庫区)での楠正成(くすのきまさしげ)の死の後の、その子・正行(まさつら)の人生は、「父の遺志の実現」というただ一点のみに捧げられてきた、と言っても過言ではない。

楠正行 (内心)あの時、父上は言われた・・・。

 「わしは思う所あって、今度の戦に必ず討死にすることになるやろ。おまえは河内(かわち:大阪府東部)へ帰って、陛下(注1)に忠誠を尽くせ! この先々、陛下がたとえどのような状態になられようとも、最後の最後までご奉公したてまつれ。」

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(訳者注1)後醍醐天皇。
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楠正行 (内心)父上のそのお言葉、おれは、今日まで片時も忘れた事はない。

楠正行 (内心)父上のそのご遺志にお応えせんがため、自分が一人前の武士になる日をじっと待ちながら、おれは今日まで生きてきた・・・湊川で討死にしたもんらの子孫のめんどうを見ながらな。

楠正行 (内心)なんとしてでも、父上の仇(かたき)を滅ぼし、陛下の憤りを休めたてまつろう! 明けても暮れても、そればっかし思い続けてきたわ、肺や肝が痛ぉなってしまうほどな。

楠正行 (内心)「光陰(こういん)矢のごとし」とは、よぉ言うたもんや・・・今年はもう父上の13回忌・・・おれも25歳(注2)に・・・。

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(訳者注2)楠正行の生年については諸説あり、ここにある年齢が史実かどうかは、定かではないようだ。
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楠正成の13回忌法要を営み、仏への供養、僧への布施など、諸々の作善(さぜん)を念願のごとく了(お)えた後、

楠正行 よぉし、もうこれで、思い残す事は何もの(無)ぉなった! わが命も惜しぃない! さぁー、いぃよいよ、父上の弔い合戦、始めたろやないかい! やるでぇ、やるでぇぃー!

正行の活動が始まった。

楠軍500余騎を率い、しばしば、住吉大社(すみよしたいしゃ:大阪市・住吉区)や天王寺(てんのうじ:天王寺区)周辺にうって出ては、中島(なかじま:北区・中之島)の家を少々焼き払い、といった風に、足利幕府への挑発を繰り返した。

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その報告を受けた将軍・尊氏(たかうじ)は、

足利尊氏 ・・・ふーん・・・あの楠正成の遺児、正行がなぁ・・・。

幕府リーダーA はい、幕府への挑発を繰り返しております。いかがいたしましょう?

足利尊氏 ・・・それほど大した勢力でもないんだろう?・・・楠は・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・楠勢に辺境部を侵略されたまま放置しておいたんでは、京都の住民らもパニックに陥ってしまうだろう・・・だいいち、あんな連中らひとつシマツできないようじゃぁ、我らは天下のワライモノ、武将の恥、という事になるよなぁ・・・。

幕府リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・よし・・・急ぎ馳せ向かって、退治しろ。

幕府リーダー一同 ハハ!

というわけで、細川顕氏(ほそかわあきうじ)を大将とし、宇都宮貞綱(うつのみやさだつな)、佐々木氏頼(ささきうじより)、長左衛門(ちょうのさえもん)、松田次郎左衛門(まつだじろうさえもん)、赤松範資(あかまつのりすけ)、その弟・赤松貞範(あかまつさだのり)、村田(むらた)、楢崎(ならさき)、坂西・坂東(ばんせい・ばんとう)の者たち(注3)、菅家(かんけ)一族ら、計3,000余騎が、河内国へ派兵されることになった。

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(訳者注3)徳島県・板野郡の武士たち。
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京都朝年号・貞和3年(1347)8月14日正午、足利幕府軍は藤井寺(ふじいでら:大阪府・藤井寺市)に到着した。

幕府軍リーダーB ここから楠の館までは、まだ7里もあるよなぁ。

幕府軍リーダーC 楠が急にこちらに向かってきたとしてもさぁ、着くのは明日かあさってくらいになるんじゃぁねえの?

幕府軍リーダーD 今日は、ゆっくり休んどっても、大丈夫ということやわな。

幕府軍リーダーE 今のうちに、鋭気をたっぷり養うとするかい。

このように油断して、ある者は鎧を脱いで休息し、ある者は馬から鞍を下ろして休んでいたところに、いきなり誉田(こんだ:大阪府・羽曳野市)の八幡宮の後方の山陰から、700余騎ほどが現われた。全員、兜をかぶり、しずしずと馬を進めて接近してくる。

幕府軍リーダーB あっ、あれは・・・。

幕府軍リーダーC 菊水(きくすい)の旗!

幕府軍リーダーD 楠軍や!

幕府軍リーダーE 敵が押し寄せてきよったぞ、早ぉ馬に鞍つけんかい!

幕府軍リーダーF なにボヤボヤしてやがる、みんな早く、鎧つけろい!

パニック状態に陥っている幕府軍をみすました正行は、

楠正行 行くぞぉー!

楠軍メンバー一同 ウォーッ!

全軍の真っ先かけて、正行は幕府軍陣中に突入。

幕府軍大将の細川顕氏は、今ようやく鎧を肩にかけた状態、上帯もまだ締めれてなく、太刀を佩く余裕もない。

何とかして大将を守ろうと、村田一族6人が、鎧無しの腹当て、こて、すね当てのみの武装のまま、そこにいた馬にてんでにまたがった。彼らは、雲霞のごとく群がり押し寄せる楠軍のまっただ中へ懸け入り、火花を散らして戦う。しかし、それに続く幕府軍側メンバーは一人もいない。大勢の中に取込められ、村田一族6人全員、一所にて討たれてしまった。

その間に、細川顕氏の武装もようやくととのった。

顕氏は、馬にまたがり、自分に従う100余騎を率いて体勢を立て直し、必死の抗戦を行う。

細川顕氏 敵は小勢(こぜい)、こちらは大勢(おおぜい)! ひるむな、退くな! 戦え、戦え!

前へ進んで楠軍と懸け合わせるまでの事はできずとも、せめて、引き退く者さえいなかったならば、この戦、幕府軍側が負けるはずがない。しかしながら、悲しいかな、四国地方や中国地方から寄せ集めた木の葉のような武者集団、防戦に必死の前衛をさておいて、後陣の方は全員、馬に捨て鞭を打って、ひたすら退くばかり。

こうなってしまうと、万事休す、大将、猛卒といえども、右にならえで退却する他どうしようもない。

楠正行 敵はビビッとるぞぉ、行け、行け、ガンガン行けぇー!

楠軍メンバー一同 イったれぇー! ウォーッ! ウォーッ!

怒涛(どとう)のごとき楠軍の追撃に、天王寺や渡部(わたなべ:位置不明)のあたりで、大将の細川顕氏までもが危うくなってきた。大将を救うために反撃を試みた、佐々木氏頼の弟・佐々木氏泰(うじやす)は、討死にしてしまった。

赤松範資・貞範兄弟率いる赤松軍300余騎は、名誉のために戦死せんと、とっては返し、とっては返し、7度、8度と踏みとどまって、楠軍に立ち向かった。しかし、彼らも次々と倒れていく。そして、楢崎主従3騎、討死、粟生田小太郎(あわたこたろう)も馬を射られて討死。

しかし、この赤松軍の度々の反撃が効を奏し、楠軍は深追いするのを差し控えた。

かくして、幕府軍は、大将も士卒も危うく命を拾い、京都に戻ってきた。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月 9日 (金)

太平記 現代語訳 25-2 天狗たち、仁和寺に集合して作戦会議を行う

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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仙洞御所(せんとうごしょ)に妖怪が出現しただけでも、これは希代(きたい)の事と、人々のうさわに上っていた所に、さらにまた、奇怪な事件が起こった。

場所は、仁和寺(にんなじ:京都市・右京区)。

嵯峨(さが:右京区)へ出向いていた僧侶が京都への帰りの途中、あいにく夕立に遭ってしまった。雨宿りする所も無いので仕方なく、仁和寺の六本杉の下で、晴れ間を待つことにした。

やがて、日はすっかり暮れてしまった。

僧侶 (内心)うわぁ、マイッタなぁ。日も暮れて完全に暗ぉなってしもたやないかいな・・・。こないな暗い道中、帰るのもなんや怖いしなぁ・・・今夜は、ここの御堂の傍らで明かすとしよかいな。

彼は、本堂の縁に座り、心中に仏を念じ、口には仏名を唱えながら、静かに心すましていた。

いよいよ夜が更け、清明なる月が上ってきたその時、

僧侶 ムム! なんや、あれは!

愛宕山(あたごやま:右京区)や比叡山(ひえいざん:左京区)の方から、屋形の四方が上に反った上級の輿(こし)が多数、空中を飛来してくる。

輿は次々と、六本杉の上空にやってきては停留し、そこから何者かが、杉の梢の上に降りて並んでいく。

全員の座が定まった時、虚空に引いた幕が、風にあおられて舞い上がった。

僧侶 (内心)アッ・・・あれは・・・。峯僧正!

上座には、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の従兄弟・峯僧正春雅(みねのそうじょうしゅんが)が座っていた。茶色の衣に袈裟を懸け、眼(まなこ)は日月のごとく光りわたり、鳶(とび)のごとく長い唇、いや嘴(くちばし)。水晶製の念珠(ねんじゅ)を爪繰(つまぐり)ながら座している。

その左右には、興福寺(こうふくじ:奈良市)の知教上人(ちきょうしょうにん)、浄土寺(じょうどじ)の忠円僧正(ちゅうえんそうじょう)が座している。みな、過去に見慣れた顔ではあるが、眼光は尋常ならず、左右の脇からは長い翼が生え出ている。

僧侶 (内心)これはいったい・・・もしかして、自分は天狗の世界に落ちてしもぉたんやろうか・・・それとも、天狗が、現実に眼の前に現れてとんねんやろぉか・・・。

肝をつぶしながらじっと見守っていると、今度は車が飛来してきた。

鮮やかな5本すじの模様の簾をかき揚げて、車から下りてきた人を見れば、

僧侶 (内心)あっ・・・護良親王(もりよししんのう)!

親王は、還俗する前の出家の姿である。先に座して待っていた天狗たちは全員席を立って、親王を出迎えた。

しばらくして、家司(けいし)と思われる者が、銀の銚子に金の盃をとりそろえ、酌に立った。

護良親王は、盃を手に取り、左右にキッと一礼した後、3回、盃を干した。峯僧正以下の人々も順次、盃を飲み流して行くのだが、それほど興が乗っている風でもない。

そして、全員一斉に、「ワッ」とわめいた。

手を上げ、足を曲げ、頭から黒煙を出し、悶絶し、倒れ伏す事、約1時間、全員、火中に入った夏虫のごとく、焼け死んでしまった。

僧侶 (内心)あぁ、恐ろしい・・・これやねんなぁ、天狗の世界の苦しみとは・・・。熱い鉄の塊を日に三度、のみこまんならんというやないか。

そのまま見ていると、4時間ほど後に、全員生き返った。

峯僧正は、苦しそうに息をつきながら、

峯僧正春雅 ハァーー・・・さてさて・・・ハァーー・・・今度はいったいどないな風にして・・・ハァーー・・・世間を騒がして見ようかいなぁ・・・ゲホゲホ・・・。

忠円僧正が、末座から進み出て、

忠円僧正 世間を騒がすのなんて、簡単、簡単・・・ゲホゲホ・・・。まずは、足利直義(あしかがただよし)にご注目あれ。彼は、「我、姦通せず」の戒を、かたく守っとりますからな(注1)、「俗人の中で、自分ほど、禁戒を犯してない人間は、おらんやろう」と思うてます。そやから、慢の心が、そらぁ深い深い。従って、我々にとっては、極めてつけ込みやすい人間、といえますわなぁ。

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(訳者注1)原文では、「先(まず)左兵衛督直義は他犯戒を持て候間」。
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峯僧正春雅 彼につけ込んで、何とします?

忠円僧正 我らがリーダー、護良親王殿下にね、再度、この世に出生していただきましょう。直義の妻の腹の中に、男子としてね・・・。

峯僧正春雅 ほほぉ・・・。

忠円僧正 もう一人、ねらい目の人物がおりますよ。夢窓疎石(むそうそせき)の秘書に、妙吉(みょうきつ)という者がおりましょう?

峯僧正春雅 おりますな。

忠円僧正 教学(きょうがく)と修行の両面において、まだまだ力不足であるにもかかわらず、「自分ほど、仏教を解ってるもんはいいひんわい」と思ぉとりますわなぁ。こういう慢心のある所にこそ、我々のつけ込む絶好のスキがあるわけですわ。

峯僧正春雅 なるほど、なるほど。

忠円僧正 峯僧正殿は、彼の心に憑依(ひょうい)しはってな、政治を補佐し、邪法を説破されたらいかがでしょうか。

峯僧正春雅 よぉし!

知教上人 あのぉ・・・わたいの出番、今回は無いんでっしゃろか?

忠円僧正 あります、あります。あんたはな、上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまなおむね)の心中を占領し、高師直(こうのもろなお)と高師泰(こうのもろやす)の命を取る算段をしてください。

知教上人 了解。で、あんたは?

忠円僧正 わたしは、高師直と高師泰の心中に潜りこみ、上杉と畠山を亡ぼしてみると、いたしましょう。

知教上人 ふふーん、これはなかなか、おもろい。

忠円僧正 我々のこのアクションによってな、足利兄弟の仲が悪うなり、高師直が、主従の礼に背くような事になったとしたら? そないなったら、またまた、天下には大いなる争乱来たり、我らの見物のネタも、当分尽きひんというわけですわいな! ムッフォッフォッフォッフォ・・・。

これを聞いた護良親王はじめ、我慢(がまん:注2)、邪慢(じゃまん)の小天狗ども(注3)までもが大喜び、

天狗一同 よぉもまあ、こないなおもろい事、考えつきはりましたなぁ、ゲッフォッフォッフォッフォ・・・。

面白がって声を揃えて笑いながら、天狗たちはみな、幻のように消えてしまった。

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(訳者注2)もともと、「ガマン」とは「我を誇る慢の心」の意であったのが、いつの間にか忍耐する事の意に変わってしまった。言葉は生き物である、とつくづく思う・・・時間の経過と共に変転して止まないのだ。

(訳者注3)当時、「驕慢なる心の持ち主は死して後、天狗になる」と説かれていたらしい。しかし、20世紀末から21世紀初頭の日本においては、生きている間に天狗になってしまうという現象も多発しているようだ。「あの人はテングになってしまってる」という言葉を、よく耳にするから。
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夜が明けた後、この僧侶は京都に帰り、首都圏総合病院・院長(注4)・和気嗣成(わけのつぐなり)に、自分の見てきたことの一切を語った。

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(訳者注4)原文では「施薬院師」。これは「薬剤師」の意ではない。「施薬院」とは京都の病人を収容・治療する機関。
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その4、5日後から、足利直義の奥方が、気分すぐれなくなってしまった。

和気、丹波(たんば)両流の博士や、内科、外科の一流の名医数十人を招いて、彼女の診察を行わせた。

ある医師いわく、

医師A これは「風」が原因の病ですわ。牛黄金虎丹(ごこうきんこたん)と辰沙天麻円(しんしゃてんまえん)を合わせて調合しときますので、これのまれて、ご養生されたら、よろしぉま。

また、ある医師は、

医師B 「病は気から」と申しましてな、「気」を収める薬やったら、愈山人降気湯(ゆさんじんごうきとう)と神仙沈麝円(しんせんちんじゃえん)が、よぉ効きます。えぇ案配に調合しときますよってに、服用なさいませ。

また、

医師C これは腹の病ですなぁ。腹病を直す薬は、金鎖正元丹(きんさしょうげんたん)と秘傳玉鎖円(ひでんぎょくさえん)。この2種類を合わせて服用されたら、治られますやろ。

少々遅参してきた首都圏総合病院院長・和気嗣成もまた、奥方の脈を取ってみた。

和気嗣成 (内心)うーん・・・わからん・・・病名が見つからんわ・・・。

和気嗣成 (内心)病の数は多しといえども、分類すれば4種類。そやけど、この症状は、どのカテゴリーにも、当てはまらん・・・うーん。

和気嗣成 (内心)・・・いくら考えてみても、これっちゅう病名が思い当たらんわい・・・うーん・・・。あ、そうや! こないだあの坊さん、仁和寺でどうやこうやとか、言うてたわな・・・ということになると、これはもしかして、懐妊? しかしそれにしてもなぁ・・・懐妊? まさかぁ・・・。

和気嗣成 (内心)いいや、どう考えてみても、そうとしか思えん! すべての症状が、「懐妊」の二文字を語っておる。

嗣成は、直義の前にやってきて、ささやいた。

和気嗣成 (ささやき声で)わたしの見立てはですなぁ・・・ご懐妊、奥様は、ご懐妊されたということですわ。それも、男の子をね。

その場にいあわせて、それを聞いた者はみな、あれやこれやと言い立てる。

足利直義・家臣D プッ、懐妊だとよぉ。おかしくって聞いてらんねえぜ。

足利直義・家臣E またまたぁ、嗣成め、殿にゴマすりやがってぇ!

足利直義・家臣F 奥様はもう、40歳過ぎなんだぜ。どこの世界に、40路越えて初の懐妊する女性が、居るってんだよぉ。

足利直義・家臣G もう・・・ばかばかしいったら、ありゃしねぇ!

しかし、月日の経過に伴っての奥方の体型の変化が、嗣成の診断の正しさを証明した。

高価な薬を調合した医師たちは全員面目を失い、和気嗣成ただ一人、所領を給わり、俸禄に預かるのみならず、やがて、宮内省医療局の長(注5)に推薦され、それに就任とあいなった。

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(訳者注5)原文では「典薬頭」。
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しかしながら、「懐妊」の2文字を頑として認めようとしない「偏執(へんしつ)の族(やから)」もいた。

偏執の人H 懐妊やてぇ? どうも疑わしいわなぁ。

偏執の人I あんなん、ぜったいウソや、ウソに決まったるぅ!

偏執の人J 予定日になったらな、どこぞの人間の産んだ子を持ってきてな、「見てみい、これが生れた子やねんぞ」ちゅうてな、かき抱いて、カワイイカワイイ、しはるんやで。まぁ、見ててみ!

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6月8日朝、足利直義夫妻の第一子誕生、安産、男子。

「男子誕生祝賀、蓬矢(よもぎや:注6)の慶賀、催さる!」のニュースは日本全国に流れ、足利家とその親族、国々の有力武士らは言うに及ばず、人と肩を並べ、世に名を知られるほどの公家と武家の人々はみな、鎧、腹巻、太刀、刀、馬、車、高級絹布、金銀など、他人よりもさらに多くのものをと、引き出物を先立て、我も我もと、祝賀言上にやってくる。かくして足利直義邸においては、賓客(ひんきゃく)は屋内に群集し、僧俗が門前に列を作る。後に来る禍を未だ知らずして、みな声をそろえ、

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(訳者注6)桑の弓で、蓬の茎で作った矢を射る。
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世間の声K いやー、足利直義さまのご長男として、生まれはるやなんて・・・。

世間の声L ほんにまぁ、幸せ者のお子さんどすなぁ。(注7)

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(訳者注7)原文では、「後の禍(わざわい)をば未(いまだ)知(しらず)、「哀(あっぱれ)大果報(だいかほう)の少(おさな)き人や。」と、云(い)はぬ者こそ無(なか)りけれ。」
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太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月 8日 (木)

太平記 現代語訳 25-1 京都朝・院の御所内において、不吉な怪事件おこる

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・貞和(じょうわ)4年(1348)10月27日、故・後伏見(ごふしみ)上皇の孫に当たる皇族(16歳)に天皇位が譲位され、同日、御所で元服の儀が執行された。(注1)

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(訳者注1)崇光天皇。光厳上皇の長子。なお、太平記の年齢記述は誤りで、実際は15歳の時に即位。
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三種神器(さんしゅのじんぎ)授与式終了の後、同日、花園法皇(はなぞのほうおう)の皇子・直仁(なおひと)親王が皇太子に就任。13歳であった。

卜部兼前(うらべかねさき)が、紫宸殿(ししんでん)前の回廊において卜占を立て、悠紀(ゆうき)役、主基(しゅき)役になる国郡を定め、[抜き穂]の使者が丹波国(たんばこく:京都府中部+兵庫県東部)へ送られた。

その年の10月に行われる[行事始め式]の為の斎場を設営している中、上皇が住んでいる院の御所に、一つの怪事件が発生した。

世間の声A 2、3歳ほどの少年の頭を咥(くわ)えた斑(まだら)の犬が現れよってな、院の御所の南殿、そこの大床の上に、上がり込みよったんや!

世間の声B えーっ!

世間の声C ほんまかいな!

世間の声A そうや、ほんまの話やで。

世間の声D で、それから、どないなりましたん?

世間の声A 聞きたいかぁ?

世間の声E 教(おせ)て、教(おせ)て!

世間の声A 夜明け頃にな、格子戸を開けにきた侍(さむらい)がそれを見つけてな、ホウキでもってその犬をシバキにかかったんやがな。

世間の声B で、どないなったん?

世間の声A 犬はな、孫庇(まごびさし)から御殿の棟木(むなぎ)の上に上りよってな、そいで、西の方角を向いて3回吠えよった・・・で、かき消すようにその姿は消え・・・。

世間の声E おー、コワ(怖)ァ・・・。

朝廷はもう大騒ぎである。

閣議メンバーF こないな妖怪が、院の御所に出現しよるやなんて・・・ものすごい不吉な事ですわなぁ。

閣議メンバーG こらぁ、今年の大嘗会(だいじょうえ)は、中止にせんとあきませんな。

閣議メンバーH いやいや、こういう事は、慎重にやらんとね。先例を調べたり、法令に照らし合わせたりした上で、決めるべきでしょう。

式典省の明法博士や法務省の判事ら(注2)に諮問(しもん)したところ、「1年間のもの忌みに伏し、大嘗会は中止すべきでしょう」との回答が多かった中に、前の大判事・坂上明清(さかのうえあききよ)の提出した文書においては、法令の文を引用しながら、

 「政治上の様々の決定においては、神道よりも王道の方が優先されるべきであります。ゆえに、この件に関しては、あくまでも、政治的観点からのみ御決断されるべきではないでしょうか。」

とあった。

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(訳者注2)原文では「法家の輩」。
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坂上明清のこの意見に対して、あからさまに異論を唱えた者は、神祇大副(じんぎのたいふ)・卜部兼豊(うらべかねとよ)ただ一人だけであった。

兼豊は、大いに怒っていわく、

卜部兼豊 法律専門家の言うがままに、「もの忌みをせぇへん」というのであれば、神道は、あっても無きが同然やないか! およそ、天地開闢(てんちかいびゃく)の時よりこの方、清濁汚穢(せいだくおえ)を忌み慎む事は、神道にあってはことのほか重要な事。そやのにあえて、「ものいみの儀は不要」というんか! さぁさぁ、そないな事で、天皇即位式が無事に終わるやろかな? もし無事に終わるような事があったらな、わたいは、我が派伝来の書物を火に投じ、出家遁世の身になって朝廷から退かしてもらいますわいな!

このように、憚る所なく言い放っているのを聞いた、若い殿上人らは、

殿上人I えらいまた、タイソウな事を、ズケズケと言うやないかい。

殿上人J そらな、いろいろと憤懣(ふんまん)やるかたない事もあるやろぉ。そやけどやなぁ、もうちょっと、言葉を選ばんとなぁ。

殿上人K そうやそうやぁ、人間、自分の思てること、100パーセント口に出してえぇっちゅうもんでは、ないんやぞぉ。

殿上人L フフフ・・・もしこれでやで、天下に何事も無ぉてや、なぁんのトラブルも無しのまま、大嘗会が済んでしもたらなぁ、さぁ、いったいどないなる? フフフフ・・・。

殿上人M 哀れなるかな、占部兼豊の髪・・・。(注3)

殿上人一同 ウワッハッツハッハ・・・。

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(訳者注3)出家すると、髪は剃り落とされてしまうから。
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卜部兼豊の抗議も空しく、天皇、上皇共に、坂上明清の意見を良しとされた。

光厳上皇 (内心)なるほど、彼の言う通りやわなぁ。

光厳上皇 よっしゃ、「今年、大嘗会を行うべし」との院宣(いんぜん)を、幕府に下しなさい。

それを受けて、足利幕府はさっそく、大嘗会執行の為の課税を諸国へ行い、その取りたてを急ピッチで進めた。

世間の声N 近ごろ、天下に兵乱あい次ぎ、国は疲弊し、民は困窮しているというのに・・・。

世間の声O 天皇陛下は、ポンポン交替されると、きたもんだ。(注4)

世間の声P ほいでもって、替わられるたんびに、大そうな儀式でっしゃろ?

世間の声Q そのたぁんびごと、課税、課税とくらぁな・・・ほんと、まいっちまわなぁ。

世間の声R 世の中、嘆きの声が、満ち満ちているのであーる!

世間の声S こんなご時勢やねんからねぇ、お金のかかる大嘗会なんか、今年は無しにしてもえぇやないのぉ!

世間の声一同 そうやそうや!

世間の声T まぁみなさん、聞いてください。

世間の声S いったいなんやのん、あんたは何がいいたいのーん?

世間の声T 近頃の政治見てて、みなさん、いったいどない思わはりますか? これぞ仁政(じんせい)やと思えるような事、一つでもありましたでしょうか?

世間の声S ないわなぁー。

世間の声T そうでっしゃろ? 仁政やと思えるような政策、ひとっつもありませんわなぁ。こんなデタラメな世界に、いったい誰がしたぁ!

世間の声一同 そうやそうやぁ!

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(訳者注4)原文では「近年は天下の兵乱うち続いて、国弊え民苦しめる処に、君の御位つねに替って、大礼止む時無かりしかば」。史実においては、この時点までの京都朝と吉野朝の天皇交替は以下のごとくである。これを「君の御位つねに替って」と言うべきかどうかは議論の分かれる所であろう。吉野朝の天皇位継承時に、課税が行われたとは考えにくい。

西暦 京都朝年号 京都朝上皇 京都朝天皇 吉野朝年号 吉野朝天皇 事件 
1336 建武3     光厳      光明     延元1     後醍醐    朝廷分裂
1338 暦応1     光厳      光明     延元3     後醍醐    新田義貞の戦死
                                             足利尊氏の征夷大将軍就任
1339 暦応2     光厳      光明     延元4     後村上    後醍醐天皇、崩御
1348 貞和4     光厳      崇光     正平3     後村上    京都朝、天皇継承

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2018年2月 7日 (水)

太平記 現代語訳 24-5 児島高徳、幕府要人の邸宅への夜襲を計画す (付・壬生地蔵の不思議)

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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児島高徳(こじまたかのり)は、脇屋義助(わきやよしすけ)に従って伊予国(いよこく:愛媛県)へ渡ったが、義助の不慮の死の後、備前国(岡山県東部)へ戻り、児島(こじま:岡山県・玉野市)に潜伏していた。

児島高徳 (内心)わしゃぁ、ナニがどうなっても、ゼッタイにあきらめんで! なんとしてでも、打倒足利の本懐(ほんかい)達成じゃぁ!

高徳は、上野国(こうずけこく:群馬県)から、脇屋義助の子・義治(よしはる)を備前に迎え、彼をリーダーに立てて旗挙げしようと、計画を様々に練っていた。

児島高徳 (内心)ふーん・・・丹波国(たんばこく:京都府中部+兵庫県東部)の住人・荻野朝忠(おぎのともただ)が、足利尊氏(あしかがたかうじ)に恨み抱いとるぅ? よぉし、いっちょう、誘いの手ぇ、入れてみるけえのぉ。

高徳は、朝忠のもとに密使を送り、反足利連合軍の結成を持ち掛けた。朝忠は喜んでこの誘いに乗った。

二人そろって備前と丹波両国から、日を定めて兵を起こそうとしていたその矢先、彼らの計画が幕府にリークしてしまった。

さっそく、山名時氏(やまなときうじ)が3,000余騎を率いて丹波へ押し寄せてきた。

時氏は、高山寺(こうさんじ:兵庫県・丹波市)の山麓の2、3里四方に塀を築き、荻野側に対して兵糧攻めをかけた。

荻野朝忠はついにこれに屈し、降伏してしまった。

一方、児島へは、備前、備中(びっちゅう:岡山県西部)、備後(びんご:広島県東部)3か国の守護たちが、5,000余騎を率いて押し寄せてきた。

児島高徳 えぇい、来よったかぁ!

児島家家臣一同 ・・・。

児島高徳 あんな大軍と、ここで戦うてみても、どうしようもないけんのぉ、いっその事、大将の脇屋義治殿といっしょに、海路で、京都へ行ってみようか。京都へ潜り込んでな、足利尊氏(あしかがたかうじ)、足利直義(あしかがただよし)、高(こう)、上杉(うえすぎ)たちに、夜討ちかけてやるんじゃ!

児島家家臣A なるほど。

児島高徳 小人数ではムリじゃけんのぉ、方々に廻文(まわしぶみ)送って、同志を集めんさい!

児島家家臣B あいよ!

諸国へ勧誘をかけた結果、ここかしこに身を側(そば)め、形を変えて潜伏していた親吉野朝サイドの武士たちが、夜を日に継いで、京都付近にたどりついた高徳の下に続々と集まってきた。その総勢1,000余人。

児島高徳 うーん・・・こないな大勢のもんが、一か所に集まっとったんでは、怪しまれるけぇのぉ・・・。

そこでまず、200余騎を、大将・脇屋義治につけて、坂本(さかもと:滋賀県・大津市)に隠し置いた。

次に、300余騎を、宇治(うじ:京都府・宇治市)、醍醐(だいご:京都市・山科区)、真木(まき:大阪府・枚方市)、葛葉(くずは:枚方市)に分散して宿らせた。

さらに、最精鋭の者300人を、京都内や白河(しらかわ:左京区)に散在させた。

このように、全兵力を一個所に集中させないようにしながら、夜襲の準備を着々と整えていった。

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「いよいよ明夜、木幡峠(こわたとうげ:宇治市)に集合の後、4手に分かれて、足利尊氏、足利直義、高、上杉それぞれの館へ夜襲を決行!」と、手はずを決めたその前日、いったいどこからどのようにして情報がリークしてしまったのであろうか、その未明、足利幕府・侍所所司代(さむらいどころしょしだい)・都筑入道が、200余騎を率いて四条壬生(しじょうみぶ:中京区)の宿へ押し寄せてきた。そこには、夜襲の手引きを担当する手練れ(てだれ)の忍びの者たちが、潜伏していたのである。

命知らずの彼らは、押し寄せてきた所司代の軍を見て、速やかに宿の屋根の上へ駆け上がり、矢を射尽した後、全員、腹を掻き破って死んでいった。

「四条壬生に潜伏中の味方勢、全滅!」との報を聞き、方々に潜んでいた児島高徳の同志らもそこから逃げ出して、散りぢりばらばらになってしまった。

夜襲計画が頓挫(とんざ)してしまったので仕方なく、児島高徳は、大将・脇屋義治と共に、信濃国(しなのこく:長野県)へ落ちのびていった。

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四条壬生の宿にいたメンバーのうち、たった一人だけ生き残った者がいた。武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都+神奈川県北部)の住人・香匂高遠(こうわたかとお)である。これがなんと、地蔵菩薩が身代わりになられた結果、命びろいをしたというのだから、まことに不思議な話である。

侍所所司代の手勢が未明に四方より押し寄せ、宿を十重二十重(とえはたえ)に包囲した時、この香匂高遠ただ一人、その包囲をうち破り、壬生寺(みぶでら:中京区)の地蔵堂の中へ走り込んだ。

香匂高遠 (内心)どこかに、隠れる場所は・・・どこかに!

あちらこちらと見まわっていると、寺の僧侶とおぼしき法師が一人、堂の中から出てきた。

法師 そないな格好のままでは、とても逃げおおせへんやろ。さ、早いとこ、その太刀をこっちに渡しなさい。代りにこの念珠、あんたにあげるから。

香匂高遠 (内心)なるほど!

香匂高遠 ありがとうございます! お言葉に甘えて・・・。

高遠は、法師の言葉に従った。

間もなく、所司代方の手勢4、50人ほどが、堂の庭内に乱入してきた。

所司代方リーダーC 門をぜんぶ閉じろ! 境内くまなく探せぇ!

高遠は、念珠を爪繰(つまぐ)りながら、高らかに啓白(けいびゃく:注1)を読む。

香匂高遠 以大神通方便力(いだいじんつうほうべんりき) 勿令堕在諸悪趣(もつりょうだざいあくしゅ)・・・。(注2)

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(訳者注1)開啓、開白(かいびゃく)、表白(ひょうびゃく)とも言う。法会又は修法を開始する時、事を本尊(崇拝対象)に告げもうすこと。(「仏教辞典」大文館書店刊より)。

(訳者注2)以大神通方便力(大いなる神通と方便の力を以って) 勿令堕在諸悪趣(諸悪趣の世界に堕ち在するように令(せしめる)事勿(なか)れ)
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これを見た所司代方の者たちは、

所司代方メンバーD あれは、ここの寺にお参りにきた人間やで。

所司代方メンバーE あぁ、きっとそやろな。

あえて、怪しみ咎めだてしようとする者は一人もいない。

所司代方リーダーC 仏壇の内、天井の上、残らずブチ破って探し出せぇ!

所司代方メンバーD あ、あこの堂の側に立ってるあの法師!

所司代方メンバーE あやしい! 法師のくせに、袖の下に太刀なんか持っとる!

所司代方メンバーF 見てみいな、あの太刀。切っ先に血ぃついてるやんか! ついさっき、なん(何)か切りよったんやで、あれは。

所司代方メンバーD 落人(おちうど)見つけたでぇ! それぇ!

所司代方メンバー3人は法師のもとに走り寄り、その体を宙に打ち揚げて倒し、後ろ手にして肱を曲げた形に縛り上げた。

その後、法師の身柄は侍所へ引き渡され、所司代・都筑入道がこれを受け取り、狭い牢の中に入れた。

翌日、牢の中を見てびっくり。番人は一時も牢から目を離していない、牢の扉も開いてはいない、なのに、中にいるはずの囚人がいない!

担当の者らは慌てて牢の中に駆け込み、囚人が収容されていた跡を調べてみた。

所司代方メンバーG あれぇ・・・えらいえぇ匂い、したるやん。いったいなんや、これ?

所司代方メンバーH インドの牛頭山(ごずさん)で採れるとかいう、最高品種の栴檀(せんだん)香木、あれの匂いにそっくりやわ。

所司代方メンバーI そういうたらな、あの囚人を捕まえよった人間から聞いたんやけどな、囚人の体に左右の手が触れてからっちゅうもん、鎧の草ずりのへんまで、えぇ匂い、しみついてしもたんやてぇ。その匂い、いつまでたっても消えへんねんやてぇ!

所司代方メンバーJ これは、タダゴトではおまへんでぇ!

報告を受けた都筑入道は、再び部下を、壬生の地蔵堂へやった。

地蔵堂の扉を開いた部下が目にしたもの、それは、六道能化(ろくどうのうげ)の本尊・地蔵菩薩像の身体に示された様々の不思議であった。

体の随所に、黒い細線が現れている、まるで、鞭で打たれた跡に残る内出血の黒ずみのように。腕の部分には、衣の上に縄がへばりついていた、まさしく、囚人を縛りあげた縄である。

地蔵菩薩を縛りあげた例の3人は、すすり泣きながら自らの罪を告白懺悔(ざんげ)したが、なおも犯した罪の重さに堪え切れず、たちまち髪を切って出家し、発心修行(ほっしんしゅぎょう)の身となった。

香匂高遠は、地蔵菩薩との順縁によって今生(こんじょう)に命を助かり、この3人は、菩薩との逆縁(注3)によって、来生(らいしょう)での仏との出会いを持つに至った。

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(訳者注3)悪事がかえって仏との結縁のきっかけとなること。
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まことに、み仏の残された金言(きんげん)には、一寸の齟齬(そご)も無し、今世(こんぜ)と後世(ごせ)共に、衆生を救いの岸へと引導されていく、あぁまことに頼もしきは、一切衆生を救済せんとの如来の悲願なるかな。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月 6日 (火)

太平記 現代語訳 24-4 天龍寺での供養法要、盛大に執行

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「かくなる上は、幕府により、天龍寺(てんりゅうじ)での供養法要を執行すべし。法皇(ほうおう)・上皇両陛下におかせられては、法要の翌日に御幸(みゆき)おん願いたてまつる」と、決した。

康永(こうえい)4年8月29日、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・足利尊氏(あしかがたかうじ)と、左兵衛督(さひょうえのかみ)・足利直義(あしかがただよし)は、行列を調(ととの)え、天龍寺へ参詣。

見物人は道の両側に満ち溢れ、僧俗はここかしこに群れを成し、前代未聞の壮観である。

行列の先頭を進むのは、侍所(さむらいどころ)メンバー、山名時氏(やまなときうじ)。華やかな鎧を身に着けた武士500余騎を率いながら、先行する。

それに続く随兵(ずいひょう:注1)の先陣を務めるのは、武田信氏(たけだのぶうじ)、小笠原政長(おがさわらまさなが)、戸次頼時(とつきよりとき)、伊東祐熙(いとうすけひろ)、土屋範遠(つちやのりとう)、東常顕(ひがしつねあき)、佐々木道誉(ささきどうよ)の子・佐々木秀定(ひでさだ)、同じく佐々木氏綱(うじつな)、大平義尚(おおひらよしなお)、栗飯原清胤(あいはらきよたね)、吉良満貞(きらみつさだ)、高師兼(こうのもろかね)、以上12名。様々の色の糸で綴られた鎧を着け、烏帽子(えぼし)の上から紐をかけて顎の下で結び、太くたくましい馬に厚く広いシリガイをかけ、2騎1組で進んでいく。

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(訳者注1)将軍が外出する時、その前後を警備する。
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3番手を進むは、帯刀(たてはき:注2)隊である。武田四郎(たけだしろう)、小笠原政経(おがさわらまさつね)、小笠原宗光(むねみつ)、三浦藤村(みうらふじむら)、三浦越中の次郎(えっちゅうのじろう)、二階堂政直(にかいどうまさなお)、二階堂対馬四郎(つしまのしろう)、佐々木高秀(ささきたかひで)、佐々木高秋(たかあき)、海老名季直(えびなすえなお)、平賀忠経(ひらがただつね)、逸見貞有(へんみさだあり)、小笠原行嗣(おがさわらゆくつぐ)他16名。様々な色の直垂(ひたたれ)を着し、思い思いの太刀を佩き、2列縦隊で歩みゆく。

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(訳者注2)太刀を佩いて供奉する武士。
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その後方に、八葉の紋を付けた色鮮やかな牛車が進む。その車中の人こそは、正二位大納言(しょうにいだいなごん)・征夷大将軍・源朝臣(みなもとのあそん)足利尊氏。簾を高く揚げ、衣冠正して乗っている。

5番手を進むは、後陣の帯刀。設楽助定(しだらすけさだ)、設楽助兼(すけかね)、寺岡師春(てらおかもろはる)、寺岡次郎(じろう)、逸見朝之(へんみあさゆき)、逸見清重(きよしげ)、小笠原蔵人(おがさわらくろうど)、秋山光政(あきやまみつまさ)、佐々木出羽四郎(ささきでわのしろう)、佐々木清氏(きようじ)、富永四郎(とみながしろう)、宇佐美三河守(うさみみかわのかみ)、清久泰行(きよくやすゆき)、木村基綱(きむらもとつな)、曽我師助(そがもろすけ)、伊勢貞継(いせさだつぐ)、以上16名、衣服帯剣、前陣の帯刀と同様に、行列の順番を守って進む。

その後方にまたも、八葉の紋を付けた牛車。車中の人は、参議・正三位(さんぎしょうさんみ)・左兵衛督・源朝臣・足利直義。左右に飾りのついた紐で冠を結び、蒔き絵細工を施した飾り太刀を佩いている。

7番手を、役人(やくにん:注3)の一団が進む。南部宗継(なんぶむねつぐ)と高師冬(こうのもろふゆ)は御剣(ぎょけん)の役。長井廣秀(ながいひろひで)と長井時春(ときはる)は御沓(おんくつ)の役。佐々木秀長(ささきひでなが)と佐々木貞信(さだのぶ)は御調度(おんちょうど)の役(注4)。和田宣茂(わだのぶしげ)と千秋惟範(せんしゅうこれのり)は御笠(おんかさ)の役。以上8名、無紋の狩衣(かりぎぬ)に指貫袴(さしぬきばかま)の裾を膝下に結んで列を引く。

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(訳者注3)特定の役目を持った人、の意。官僚の事ではない。

(訳者注4)将軍の弓矢を帯する役。
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8番手には、高師直(こうのもろなお)、上杉朝定(うえすぎともさだ)、高師泰(こうのもろやす)、上杉重能(うえすぎしげよし)、大高重成(だいこうしげなり)、上杉朝房(うえすぎともふさ)。無紋の狩衣(かりぎぬ)に袴の裾を足首のへんで結び、騎馬用靴を穿いて左右2騎ずつ並びながら進む。

9番手には、後陣の随兵(ずいひょう)、斯波高経(しばたかつね)の子・斯波氏頼(しばうじより)、千葉氏胤(ちばうじたね)、二階堂行通(にかいどうゆきみち)、二階堂行光(ゆきみつ)、佐竹師義(さたけもろよし)、佐竹義長(よしなが)、武田盛信(たけだもりのぶ)、伴野長房(とものながふさ)、三浦行連(みうらゆきつら)、土肥高実(とひたかさね)、以上10名、軍衣、甲冑(かっちゅう)いずれも金玉を磨いたごとくである。

10番手には、外様(とざま)の有力武士500余騎が、直垂を着てあい従う。土佐四郎(とさのしろう)、長井修理亮(ながいしゅりのすけ)、長井丹波左衛門太夫(たんばのさえもんだいう)、摂津左近蔵人(せっつのさこんくろうど)、城丹後守(じょうたんごのかみ)、水谷刑部少輔(みずたにぎょうぶしょうゆう)、二階堂安芸守(にかいどうあきのかみ)、二階堂山城守(やましろのかみ)、中條備前守(なかじょうびぜんのかみ)、薗田美作権守(そのたみまさかごんのかみ)、町野加賀守(まちのかがのかみ)、佐々木豊前次郎左衛門尉(ささきぶぜんのじろうさえもんのじょう)、結城三郎(ゆうきさぶろう)、梶原河内守(かじわらかわちのかみ)、大内民部太夫(おおうちみんぶたいう)、佐々木能登前司(ささきのとのぜんじ)、大平六郎左衛門尉(おおひらろくろうさえもんのじょう)、狩野下野三左衛門尉(かののしもつけさんざえもんのじょう)、里見義宗(さとみよしむね)、嶋津下野守(しまづしもつけのかみ)、武田兵庫助(たけだひょうごのすけ)、武田八郎(はちろう)、安保肥前守(あぶひぜんのかみ)、土屋三河守(つちやみかわのかみ)、小幡右衛門尉(おばたうえもんのじょう)、疋田三郎左衛門尉(ひきださぶろうさえもんのじょう)、寺岡九郎(てらおかくろう)左衛門尉、田中下総三郎(たなかしもうさのさぶろう)、須賀(すが)左衛門尉、赤松美作権守(あかまつみまさかごんのかみ)、赤松次郎左衛門尉、寺尾新蔵人(てらおしんくろうど)、以上32名、入り乱れ、順番を守らずに馬を進める。

その後方に、吉良(きら)、渋川(しぶかわ)、畠山(はたけやま)、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)はじめ、足利家有力親族や外様の有力武士が入り乱れ、弓矢や刀を帯して、思い思いの馬や鞍に跨りながら、大宮御所(おおみやごしょ)から天龍寺のある嵯峨野(さがの:右京区)まで、絶える事無く、袖を連ねて続いていく。

薄馬場(すすきのばば:右京区)のあたりで、随兵、帯刀他、直垂や狩衣を着た一行は、行列を再度正した後、行進を再開した。

やがて、行列の先頭が天龍寺の門前に到達した。

寺の山門は、首都圏知事(注5)・佐々木秀綱(ささきひでつな)が警護していた。彼の統率の下、黒い袴をはいた走り使いの下僕、金銀を延べたかのような水干(すいかん)や直垂を着た雑役担当の下僕、さわやかに鎧を着た若党300余人、敷皮の上に腰掛を並べて列座しながら山門を警護するその威風は、周囲を圧している。

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(訳者注5)原文では「検非違使(けびいし)」。
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やがて、尊氏と直義が寺の本堂へ入り、勅使・日野資明(ひのすけあきら)、院よりの使者・高泰成(こうのやすなり)も加わって、いよいよ法要開始。

その日の法要は順調に進み、何のトラブルもなく終了した。

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翌8月晦日(つごもり)、いよいよ、花園法皇(はなぞのほうおう)と光厳上皇(こうごんじょうこう)が、仏と結縁するために天龍寺へ御幸(みゆき)する日がやってきた。

昨日とは全く異なる様の行列が見れるということで、見物人の数は膨大、足の踏み場も無いほどである。

見物人A あ、き(来)はった、きはった、上皇陛下、きはったえ!

見物人B うわぁー、ほんまや!

やがて、牛車が天龍寺の総門に到着した。

見物人C あれぇ、車から牛、放してるやん、なんで?

見物人D あの門から先はな、人間が車を引いていくんやがな。

見物人C ふーん・・・。

見物人E あの牛車の御者はな、7人とも全員、持明院グループ(注6)所属の名人ぞろいですわ。

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(訳者注6)原文では「持明院党(じみょういんとう)」。
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見物人F へぇー、御者にまで、そないなグループありますんかいな?

見物人E ありますんや。中でも松一丸(まついちまる)、ほれ、あの先頭左の男ですよ、あれが一番の達人ですわ。金銀鏤(ちりばめ)た豪華な服、着てまっしゃろ。

見物人F ほんに、まぁ。

見物人A あっ、車の御簾(みす)上がったえ!

見物人B いやぁ、上皇陛下のお顔が・・・陛下ぁー! キャーァ!

見物人C 陛下ぁー! わーい! 陛下ぁー!

光厳上皇は、車の中から見物の人々をじっと見ている。

見物人G 陛下の今日のお召しもの、とってもゴージャスなのよねぇ。あの御衣(ぎょい)は黄練貫(きねりぬき)って言ってね、経(たていと)に生糸(きいと)、緯(よこいと)に練糸(ねりいと)を使って織ってあるのよね。

見物人A へーえ。

見物人G 直衣(のおし)がまた、とってもシックよねぇ、生糸織りの素材に2本の曲線に囲まれた雲のデザイン・・・いいわぁ。その下には、薄紫色の指貫袴(さしぬきばかま)・・・ほんと、キマってらっしゃるわねぇ。

見物人B 今、あこの車寄せに来はったあの貴公子、どこのどなたや?

見物人E あれは、大納言の竹林院公重(ちくりんいんきんしげ)はんでんな。

見物人G あの方のお召し物もステキだわぁ。裏白に表はオレンジ色の狩衣(かりぎぬ)、牡丹(ぼたん)の花のデザイン。衣(きぬ)の素材は生糸、薄紫の地色の上に金銀粉散らして、巴藤(ともえふじ)の紋様。指貫袴は生糸織りの青鈍(あおにび)ね。

見物人E あのすぐ後ろにいはんのんが、左参議中将(ささんぎちゅうじょう)の洞院忠季(とういんただすえ)はんですわ。

見物人G あの方のファッションも、なかなか見事よ。狩衣は薄紫色だけど、裏布を外して着ておられるのよね。蔦の紋がまたいいわよね。指貫袴は浅黄色(あさぎいろ)みたいに見えるけど、複雑な光沢をしてるでしょ? あれはねぇ、女郎花(おみなえし)って織り方してるの。経(たていと)と緯(よこいと)に別の色の糸を使いあわせるの。あの袴の場合は、経に青、緯に黄を使って、経糸を浮き上がらせてあるのよね。

見物人E ほならあれは? そのすぐ左の人、左中将・鷹司宗雅(たかつかさむねまさ)はんの着物。

見物人G あの狩衣も基本は、女郎花織りね。素材は生糸かしら、青色の経糸が浮き出てるでしょ? 朝顔の花の紋がきれいだわねぇ。薄紫色の生糸の衣、指貫袴には藤の丸の紋ね。

見物人E その後ろは、頭左中弁(とうのさちゅうべん)・日野宗光(ひのむねみつ)はんや。

見物人G あの狩衣はとってもユニーク。浮き織りは浮き織りなんだけどさぁ、表が萌黄(もえぎ)色で裏は黄色でしょ、ほんと、ユニークなカラーよぉ!

見物人D その左、右少将(うしょうしょう)・山科教言(やましなのりこと)はんの着たはるのん、またまた鮮やかやねぇ!

見物人G ほんと、鮮やかよねぇ! 紋は紫苑唐草(しおんからくさ)、上に着ておられる青の生糸織り、下の紅色との対比で、とっても鮮やか。あの下の布はね、「ヒキヘギ」って仕上げがしてあるの、だからあんなに光沢があるのよね。

見物人A その「ヒキヘギ」言うたら、どんなん?

見物人G 漆を塗った板にね、絹布を貼り付けるの。それから引っぱがすのね。

見物人B ふーん!

見物人D あの右横の皇太子局・権大進(ごんたいしん)(注7)・日野時光(ひのときみつ)はんのんも、なかなかよろしいなぁ。

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(訳者注7)原文では「春宮権大進」。
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見物人G あれも、狩衣は経糸と緯糸、別々の色を使ってあるわね。経は青、緯は紫、萩のデザインがいいわねね。衣は「女郎花」織り、生糸の素材で色は青。指貫袴の藍色と、とってもマッチしてるわぁ。

この後には、六位の院警護役、中原季教(なかはらすえのり)、源康定(みなもとのやすさだ)、源康兼(やすかね)、藤原親有(ふじわらみつあり)、安部親氏(あべみつうじ)、豊原泰長(といはらやすなが)が続く。

御随身(みずいじん)役を務めるのは、秦久文(はたひさふん)、秦久幸(ひさゆき)たち。

法要参座の公卿は、三条公秀(さんじょうきんひで)、日野資明(ひのすけあきら)、四条隆蔭(しじょうたかかげ)、洞院実夏(とういんさねなつ)、足利直義(あしかがただよし)。彼らの華やかな姿は周囲までをも輝かせている。

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仏殿の北の廊4間を飾って高座がしつらえてある。三重菱紋の畳を重ね敷き、その上に毛氈(もうせん)が敷かれている。

その北側に、法皇と上皇の為の御席として、畳がおいてある。

仏殿の西の間には、屏風を立てた休憩所が設けられている。その内には島台が置かれており、台の上には箱庭がある。天龍寺の前を流れる大堰川(おおいがわ)の景観を表現したもので、紅葉の下を水が流れ行く様を見事に表しており、大いに感興を盛り上げている。これは、尊氏の命を受けて、三宝院賢俊(さんぼういんけんしゅん)が制作させたものである。

仏殿の裏2間に御簾をかけ、両陛下の法要御聴聞(ちょうもん)所が設置されている。その北側には、畳を敷いた公卿たちの座も設けられている。

仏殿前の庭を見れば、東西に幕が張られ、左右に分かれた舞人11人が、舞楽装束を着て椅子に腰掛けている。

左方には、光栄(みつなが)、朝栄(ともなが)、行重(ゆきしげ)、葛栄(かつよし)、行継(ゆきつぐ)、則重(のりしげ)。右方には、久経(ひさつね)、久俊(ひさとし)、忠春(ただはる)、久家(ひさいえ)、久種(ひさたね)。

さらに、鳳笙(ほうしょう)と龍笛(りゅうてき)(注8)を手に持った楽人が18人、新秋(にいあき)、則祐(のりすけ)、信秋(のぶあき)、成秋(なりあき)、佐秋(すけあき)、季秋(すえあき)、景朝(かげとも)、景茂(かげもち)、景重(かげしげ)、栄敦(よしあつ)、景宗(かげむね)、景継(かげつぐ)、景成(かげなり)、季氏(すえうじ)、茂政(みちまさ)、重方(しげかた)、重時(しげとき)。

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(訳者注8)笙と笛の美称。
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いよいよ、法要開始。

本日の導師(どうし)・夢窓疎石(むそうそせき)が、山門から進み出た。楽人が乱調で楽を奏で始め、舞人が一斉に舞いはじめる。

楽の音は響き続ける・・・その場に居合わせた全員の目に、次第に感涙が浮かんでくる。

導師・夢窓疎石は、金襴(きんらん)の袈裟(けさ)と沓(くつ)を身に付け、筵(むしろ)を敷き述べた参道を粛々(しゅくしゅく)と進む。導師に天蓋(てんがい)を差し掛ける役は、二階堂丹後三郎左衛門(にかいどうたんごさぶろうざえもん)、天蓋に着けた綱を執る役は、嶋津常陸前司(しまづひたちのぜんじ)、佐々木三河守(ささきみかわのかみ)の両人である。3人は、導師と共に歩を進める。

左右の舞人が全員、幕の前に立ち上がり、参向の儀礼を行った後、萬秋楽(まんじゅうらく)のフレイズが奏せられると共に、舞台の下に列を引く。

他寺から招待された高僧たちも、導師の後に続き、次々と入堂していく。南禅寺(なんぜんじ)の長老・智明(ちみょう)、建仁寺(けんにんじ)の友梅(ゆうばい)、東福寺(とうふくじ)の一鞏(いっきょう)、万寿寺(まんじゅじ)の友松(ゆうしょう)、真如寺(しんにょじ)の良元(りょうげん)、安国寺(あんこくじ)の至孝(しこう)、臨川寺(りんせんじ)の志玄(しげん)、崇福寺(すうふくじ)の慧聡(えそう)、清見寺(せいけんじ)の智琢(ちたく)、そして天龍寺次席の士昭(ししょう)(注9)、いずれも天下の賢聖ばかり、釈尊の十大弟子に擬して、その後に従者たちが続く。まさに荘厳この上ない様である。

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(訳者注9)原文では「本寺当官にて、士昭首座」。
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正面の扉が閉ざされた後、まずは願文(がんもん)の奉読、次に説法、このようにして、数時間が経過していく。

やがて法要は終了、舞人が再び、幕の前に帰って舞う。左方は蘇合(そこう)、右方は古鳥蘇(ことりそ)、そして、陵王荒序(りょうおうこうじょ)、納蘓利(のうそり)、太平楽(たいへいらく)、狛杵(こまほこ)。

中でも、「荒序」は秘中の秘曲、そうそうたやすく奏せられるものではないのだが、他ならぬ法皇・上皇両陛下ご臨幸の法要の座とあらば、大いに披瀝(ひれき)すべし。朝栄がこれを舞い、笙は新秋、笛は景朝、太鼓は景茂が担当。まさに一世一大の名誉、天下の壮観たぐい無し。

その後、夢窓は花形香(注10)を薫じ、「今上皇帝(きんじょうこうてい)、聖躬萬歳(せいきゅうばんざい)」と祝辞を述べた。

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(訳者注10)原文では「一弁の香」。
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最後は「布施の儀」。御布施(おんふせ)役は、飛鳥井雅孝(あすいかいまさたか)、高階雅仲(たかしなまさなか)、一条実豊(いちじょうさねとよ)、持明院家藤(じみょういんいえふじ)、難波宗有(なんばむねあり)、二条資将(にじょうすけまさ)、難波宗清(なんばむねきよ)、紙屋川教季(かみやがわのりすえ)、持明院基秀(じみょういんもとひで)、姉小路基賢(あねこうじもとかた)、二条雅冬(にじょうまさふゆ)、持明院盛政(じみょういんもりまさ)、千秋駿河左衛門太夫(せんじゅするがさえもんだいう)、星野刑部少輔(ほしのぎょうぶしょうゆう)、佐脇左近太夫(さわきさこんだいう)。

彼らは、金銀珠玉、高級絹布、さらには国内外にもその名を聞くばかりで未だ実物を見た事もないような珍宝を次々と仏前に運び、布施の品々が山のように積み上げられていく。かつての古代インド・マカダ国において、ビンビサーラ王が500の車に珍貨を積んで釈尊に奉ったというあの故事も、これに比べれば、まだまだ小さい事のように思えてならない。

両日の法要を目にした人々はことごとく、「福徳(ふくとく)と智慧(ちえ)の二荘厳(にそうごん)を成就し、衆生済度(しゅじょうさいど)の道を拡大するにおいて、夢窓国師はまさに最高の人!」との感服の念を深め、これまでの自らの宗旨を改め、禅宗に対する忌避(きひ)の念を捨てて、それに帰依するに至った。

このようにして、事前の様々なトラブルに悩まされ続けたこの大法会(だいほうえ)も無事終了し、「上皇陛下の叡願も、幕府の帰依も、一時に望みを達成することができた!」と、全員、喜悦(きえつ)の眉を開いたのであった。

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仏像を作り寺院を建立する、という行為がもたらす善根はまことに勝れている。しかしながら、それを発願した人がわずかでも驕慢(きょうまん)の心を起こしたならば、その寺院の入仏開眼落慶法要(にゅうぶつかいげんらっけいほうよう)には様々なトラブルが発生し、仏・法・僧の安住保持も長続きしなくなってしまうのである。

ゆえに、中国・梁(りょう)王朝の武帝(ぶてい)がダルマに対して、「我は、寺を建てる事1,700余箇所、僧尼を供養する事10万8千人。いかなる功徳ありや?」と問うた時、ダルマは、「功徳無し」と答えたのである。

ダルマは、本当に、武帝に功徳が無いから「功徳無し」と言ったのではない。「多くの寺を建てたぞ」と誇るその驕慢の心をうち破り、武帝の信心を無為自然の大いなる善の境地に帰せしめんがために、わざと、このように答えたのである。

わが国においてもその昔、聖武天皇(しょうむてんのう)が東大寺(とうだいじ:奈良県・奈良市)を造立(ぞうりゅう)して、金銅16丈のルシャナ仏が安置された時、「さぁ、いよいよ大仏開眼法要!」という事になり、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)をその法要導師に請(しょう)じた。

その時、行基は勅使に答えていわく、

行基 陛下よりのご命とあっては、それを辞退申しあげるっちゅうわけには、そらいかんやろぉ・・・そやけどなぁ、、大仏開眼っちゅうような大変な御願ともなると、それが叶うかどうか、それは、人間世界に姿を現された神仏と、姿を現せされてない神仏のお心一つですわいな。とにかく、神仏におまかせ、これしかしゃぁないんや。

勅使 ・・・。

行基 当日は、仏前に香花(こうげ)をそなえ、仏徳賛美の偈(げ:gāthā)を唱え、インドから招いた高僧を導師に仰いで法要を行う、こないするしか、しゃぁないですわ。

それを聞いた、天皇はじめ朝廷の面々は、

公卿H 行基もまた、ヘンな事、言いよりますなぁ。

公卿I インドから、法要の導師を呼べやてぇ!

公卿J 百万里もの波涛を隔てた地から、いったいどないして、日本に呼び寄せぇっちゅうや! えぇかげんにしいや!

公卿K 釈尊のご在世の頃やったら、そのような奇跡も起こりえたんかもしれません、そやけど、今は末世ですよってにな、そないな事、到底、期待できしませんがな。

聖武天皇 まぁまぁ、そないにワァワァ言うなぁ。他ならぬあの行基がそないに言うてんねんから、彼に任しとこうやぁ。

公卿一同 ・・・。

というわけで、朝廷は、法要の前日になっても導師を定めおかなかった。

いよいよ法要当日の朝、行基は、自ら摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)の難波浦(なんばうら:大阪市)に出て、西に向かって香花を供し、座具を延べて礼拝した。

すると、五色の雲が天にたなびき、一隻の船とともに、インド僧が忽然と行基の前に姿を現した。諸天善神が僧の上に絹がさをかけるその様は、まるで大阪湾の松が雪に傾くかのようであり、僧の衣からは馥郁(ふくいく)たる香りが発せられ、難波津(なにわづ)の梅もたちまち春を得たかと怪しまれるほど。一時の奇特(きどく)ここに現れ、万人その威に打たれる事この上なし。

行基が、そのインド僧の手をとったその時、インド僧は一首、

 カピラエで 共(とも)に約しぃた かいあって 文殊(もんじゅ)よあなたに 再会できぃた

(原文)伽毘羅會(カピラエ:注11)に 共に契(ちぎり)し かい有(あり)て 文殊(注12)の 御貌(みかお) 相(あい)みつる哉(かな)

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(注11)カピラヴァーストゥ。釈尊の父、シュッドーダナ王の居城。出生の後、釈尊はここで青春時代を過ごしたが、出家を決意した後、この城を出た。

(注12)文殊菩薩。「行基=文殊菩薩の化身、インド僧=普賢菩薩の化身」の伝説による。
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それに対する行基の返歌、

 霊山(りょうぜん)の 釈迦の御許(みもと)での 約束ゆえに 真如(しんにょ)は不滅 再会(さいかい)成就(じょうじゅ)

 (原文)霊山(注13)の 釈迦の御許に 契(ちぎり)てし 真如朽(くち)せず 相(あい)みつる哉(かな)

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(訳者注13)霊鷲山(りょうじゅせん)。マカダ国の首都・ラージャグリハ付近の山。釈尊はここで仏教を説いた。
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そのインド僧を導師に迎えての大仏開眼法要の盛儀、とても言葉でもって言い尽くせるものではない(注14)。天花(てんげ)は風に舞い、導師の音声は雲間にまで響き漂っていく。古代にも末代にもめったにないような、まことに素晴らしい法要であった。

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(訳者注14)ボーディセーナ(Bodhisena)が、この法要の導師をつとめた。
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世間の声L まぁーなんとぉ申しましょうかぁ、寺院建立の法要というものはですねぇ、かつての大仏開眼供養の時のこの話のように、何のトラブルもなく、順調かつ厳かに行われるべきものなんですよねぇー。

世間の声M ところがなぁ、今回のこの天龍寺の法要、相当、様相が異なっとりますでぇ。

世間の声N まったく、あなたのご指摘の通りです。延暦寺から強引な横やりを入れられてしまったもんだから、上皇陛下勅願の法要、ついに取りやめになってしまったじゃないですか。

世間の声O ほんと、こりゃぁタダゴトじゃぁねえで。

世間の声P こないなトラブルが起こる原因、いったいどこにあるんどすぅ?

世間の声Q やっぱぁ、なんかなぁ、そのぉ、なんて言うんでしょうかなぁ・・・宗教界においても俗世間においても、人々の心中に驕慢の心ってぇのが深ぁく根を張っちまってやがる、どうもこれが、原因じゃぁねえでやんすかい?

世間の声R 驕慢の心があるけん、天魔がそこにつけ込んできよるってわけじゃなぁ。

世間の声Q そうそう!

はたして、この天龍寺、その後20年の間に二度までも火災に遭ってしまっているのである。この現象の根底には、いったいいかなる因果関係が潜んでいるのであろうか・・・もはや到底、人知の及ぶ所ではない。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月 5日 (月)

太平記 現代語訳 24-3 延暦寺、天龍寺の供養法要執行に対して、強硬に抗議

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・康永4年(1345)8月、「光厳上皇(こうごんじょうこう)ご臨席を賜り、天龍寺(てんりゅうじ)において、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)供養法要を執行」との趣旨の下、幕府より諸国の有力武士らに招集が発せられ、例のごとくに、諸々の役が課せられた。

「まさに天下の一大イベント、洛中の壮観ここに尽き!」との前評判に、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県・大津市)の衆徒らが、心中おだやかであろうはずがない。

天龍寺への怒りの炎をむらむらと燃やし、毎夜のごとく決起集会を開き、比叡全山の谷々の雷動(らいどう)休む時なし。天魔は障碍(しょうげ)の手を伸ばし、法要の前途に暗い影がさしはじめた。

梶井(かじい)、青蓮院(しょうれんいん)、妙法院(みょうほういん)の3人の門跡(もんぜき)が、彼らの怒りを静めるために比叡山に登山したが、延暦寺の若手メンバーらは宿泊先の坊へ押し寄せ、即座に、門跡たちを下山せしめてしまった。

そして、東塔、西塔、横川の延暦寺3エリアこぞっての一大決起集会が、大講堂の広庭で行われた。その場で、以下の内容の決意声明文の宣言が、議題提案された。

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決意声明

王道の盛衰(せいすい)は仏法の正邪によって決せられ、わが日本国の安全はひとえに、我ら延暦寺の護持によって保たれている。

桓武(かんむ)天皇による平安京開設の際、天皇は、「朝廷と延暦寺とは、運命共同体的関係にある」とされた。その御心を受け、伝教大師(でんぎょうだいし)による比叡山延暦寺の開闢(かいびゃく)以来、わが寺は、首都・京都の鎮守としての役目を立派に果たしてきた。

衆生済度(しゅじょうさいど)の為に釈尊(しゃくそん)が教えたもうた仏教の正しい教義を、一寸の間違いもなく今に伝えてこれたのも、あるいは、天皇の本命星(ほんみょうじょう)を祈念したてまつって、わが日本を安泰たらしめてこれたのも、ひとえに、わが延暦寺の教義の繁興(はんこう)あってこその事である。

このようなわけで、代々の聖君主は、わが寺を尊崇し続けてこられた。

ところが昨今、「禅宗(ぜんしゅう)」なる流派が世にはびこり、顕密(けんみつ)二教(注1)は世に無きがごとしの状態になっているではないか! これぞまさしく、亡国の前兆にして仏法を滅亡に至らしめる過程、これは誰が見ても明々白々の事。

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(訳者注1)天台宗と真言宗。
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我々は断言する、このままでは、わが国の将来は、お先まっくらであると!

我々は、過去の歴史に学ぶべきである。

中国の例を見てみよう。宋(そう)王朝の幼帝は、禅宗を崇拝していた。で、その結果、どういう事になったか? 宋王朝はモンゴル帝国に征服されてしまったぞ!

わが国ではどうか。かの北条高時(ほうじょうたかとき)も禅宗を尊んでいたが、その結果、朝廷に家を傾けられてしまったではないか。

近い過去に、このような失敗の教訓が存在するのであるからして、後に続く者は、その轍(てつ)を踏まぬようにしなければならない。

しかし、「天龍寺の先帝供養は国営法要の体をもって執行、上皇陛下もそれに御参列」との風聞が、都中に飛び交っている。かりにも、そのような事が真実であるのならば、我々としては、もはや黙って見すごしているわけにはいかない!

我々は、朝廷に対してお願いする、

 夢窓疎石(むそうそせき)を、流罪に処せらるべし!
 犬神人(いぬじんにん)を送り込んで、天龍寺を破却せしめらるべし!

我々のこの訴えが聞きいれられなくば、比叡七社の神輿(しんよ)をかついで御所の中まで乗り込み、我々の決意の程を、朝廷にたっぷりと見ていただこうとの所存である。

決意表明、以上!
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この決意表明は、満場一致をもって可決採択された。

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同年7月3日、延暦寺高僧らの連名により、朝廷に対して、以下のような訴状が送られた。

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延暦寺三千の大衆法師ら、つつしんで申し上げたてまつります。

特別なる陛下よりの裁定を賜った上で、先例に沿い、夢窓疎石が宣布しておる邪法を廃せられ、彼を、遠島流刑に処せしめられん事を。また、天龍寺における供養法要を中止せられん事を。そして、顕密両宗の教えを広く世間に宣布し、国家護持の祈りをますます強固たらしめん事を。

我らつつしんで思いまするに、諸宗の頂点に位置し、代々の天皇陛下を護持したてまってきたのは、なんといっても、我ら、顕密両教の教えを奉ずる天台宗をおいて他にはありません。

我が宗派が提唱する一実円頓(いちじつえんとん)の境地は、夜空に高く輝く満月のごとく、我らの獲得せる四曼相続(しまんそうぞく)の花は、誰にも破壊できぬ堅固なる存在。

ゆえに、代々の帝王は、わが寺に篤い尊崇の思いを寄せられ、かたじけなくも、そのご命運をわが寺に託してくださいました。

諸々の宗派の新たなる寺院の建立に際しては、その多くは、わが延暦寺の末寺としての位地づけをもって、認可されてきました。

その宗派の者たちが我々に対して従順であるならば、我々は、その建立を決して妨げは致しませんでした。例えば、建仁(けんにん)年間のあの寺のように(注2)。しかし、いったん我らに逆らった時には、その寺院は建立が不可能となったのであります、嘉元年間のあの時のように。

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(訳者注2)建仁寺の事を指している。
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さて、問題の人、夢窓疎石の日ごろの行いを、つらつらと見てみまするに・・・いやはや・・・。

柱を食らう木食い虫とは、まさに、このような人間の事を言うのでは、ないでしょうか。

人間に毒気を吹きかけて病に至らしめるという怪虫・含沙(かんしゃ)のような男であります、あの男は。

あのような者が大きな顔をしてのさばっているようでは、亡国の前兆の極み、仏の大法も衰微していく事でありましょう。

我々がなにゆえに、このような事を申すのか、少し説明させてください。

夢窓が提唱している禅宗、あれをはじめたのは、インドのダルマという者なのであります。禅宗は、インドから中央アジア、中国を経て我が国に伝えられた正統なる仏法を乱すものであります。

禅宗の信者たちは、「我らの教祖・ダルマは、ホトギを被って壁に向かって座り続けて修業された」、と言っております・・・いやはや、信ずる者には、ただの石コロでも黄金のように思えてくるのでしょう。まったくもって、愚か者の集団としか、言いようがなく・・・。

ましてや、亀山天皇がお住いになっておられた跡を寺に変えて、そこに、ただの人間が住むとは・・・(注3)、あぁ、なんと痛ましい事でありましょう。

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(注3)天龍寺の事を指している。
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そんな事になってしまったら、儀礼の場たる天皇陛下のお住いも、野狐(やこ)が屍を奪いあう地に成り果ててしまうことでしょう。八宗(はっしゅう:注4)論談の聖なる場所も、鬼神が舌を伸べて邪な教えを広めていく、悪の拠点になってしまいます。

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(訳者注4)倶舎、成実、律、法相、三論、華厳、天台、真言。
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夢窓疎石の日常の行動を見るにつけ、我々は、二人の仏教史上の大悪人を思い出さずにはおれません。

その一は、かのデーバダッタ。釈尊のもとに集まった修行者らの中において分派活動を行い、多くの人々を邪なる路に至らしめた人物です。

その第二は、かのサンディーラ。人々からの供養を得んとの不純な動機より荒野において座禅し、その悪因ゆえに地獄に落ちたといいます。

普通人の住いでさえも、それを寺に変えるような事をしてはならないと、古賢は戒めました。ましてや、天皇陛下のお住いの後を寺の敷地にするとは、まったく、何を考えているのでしょうか!

仏道を修行する者たるや、岩の間に住み、谷の水を飲んで俗世間より離れているべきであります。贅沢な建物を建て、その中にぬくぬく暮すなど、まさに俗人の奢侈(しゃし)と言うものであります。

しかし、夢窓疎石は、これよりもさらにひどい。自らの威勢を隠し、おとなしくやっている風を装ってはおりますが、人の隙を見ては、悪事を行っております。手を垂れて、あいそ笑いをふりまきながら、世間の人気取りに終始する、まことにいやしいその、人となり。

世間においては、彼の事を何か言った後には、口をすすいで清め、比叡山上においては、彼の事を何か聞いた後には、耳を洗って浄めるほどなのですよ。

ましてや、「このたび上皇陛下おごそかに御臨幸の下、かの天龍寺において供養法要が執行」とあっては、我々、黙ってはおれましょうか。三千の学侶(がくりょ)はたちまちに雷動し、一筆したため、先日、朝廷に対して、直訴申し上げました。

それに対する、朝廷よりのご回答は、以下の通りでした。

 「天龍寺での供養法要は、厳密な意味においての勅願寺の国営法要とは言えない。あの寺はあくまでも、先帝の菩提を弔うために、というので建立を許可した寺なのである。」

 「今回の追善法要の件も、朝廷からではなく、幕府から願い出てきたものである。上皇陛下は、その法要を、ちょっと聴聞しに行かれるだけのことではないか。公式な参列ではなく、あくまでも非公式のものなのである。延暦寺はいったい、なにをわけの分からぬ事を言ぅておるのか、うんぬん」と。

そのようなご回答、我々には到底、納得いきません。

代々の天皇のご政策をつらつらと考えまするに、元を捨てて末を求めるのは、決して名君のなされる所ではありません。正を軽んじ邪を重んずるは、み仏のみ心に反する事であります。

今や、延暦寺内の九院は荒廃し、苔が生えて露の置く間もないほど。五堂は焼失したまま、再建もままなりません。

わが君、いったいなにゆえ、天子の本命星を祈願したてまつるわが延暦寺をさしおいて、[前世=子牛]・集団が建てた寺を、盛り立てなされますのですか。

純朴(じゅんぼく)なる世には、比叡山上に天台四教の法門起こり、あぁ、痛ましきかな、人心浮薄の末世になりて、禅宗五門が繁茂する。

正法と邪法の興廃は燦然(さんぜん)として、これを見るべし。つらつら仏法滅尽経(ぶっぽうめつじんきょう)の文を見まするに、はたせるかな、釈尊は次のように予言しておられます。

 「私の入滅後、五濁(ごじょく:注5)が満ちる悪い世となり、天魔は修行者になりすまし、私が説いたこの教えを破壊し、私の教えを信ずる者たちを、混乱に陥れようとするであろう。彼らは、財物を貪り、蔵の中にそれを積み上げ、決して人々にそれを施そうとはしない。」

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(訳者注5)劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁。
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夢窓疎石のしていることこそ、まさしく、この大聖釈尊の予言通りであります。

願わくば、朝廷におかれましては、仏道にからみつき、ついにはこれを倒してしまうツタや藤ヅルの類を、直ちに断ち切られますように。

すなわち、天龍寺に対しては、法要列席の儀を中止され、あそこに与えられた勅願寺の称号を取り消されますように。

さらに、夢窓疎石を流刑に処せられ、天龍寺を破却せしめらますように。

このような果断なる処置を行っていただきましたならば、法性常住(ほっしょうじょうじゅう:注6)の灯火(ともしび)は末長く輝いて末法500年の闇を明々と照らし、朝廷から発せられる陽光は温かく日本全土を包み、民の頭上には、春二月三月の天空のごとき麗わしい青空が、いっぱいに広がっていくことでありましょう!

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(訳者注6)仏の本体たる「法性」は「常住」、すんわち、永遠に不変であり、壊れる事がない。
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以上、仏教と日本の行く末を憂えるあまり、なんとしてでも朝廷に懇願を致さずにはおれなかった我らの心中、なにとぞ、なにとぞ、ご理解たまわりたく、衆徒ら一同、ここにつつしんで申し上げたてまつります。

康永4年7月日 三千の大衆法師ら、たてまつる
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延暦寺(えんりゃくじ)よりの訴状を受け、関白(かんぱく)は、その取り扱いを決するために閣議を招集した。

関白 ・・・というわけでしてなぁ、またまた延暦寺からエライ強硬に言うてきよりましたわ。つきましては、みなさんのご意見をおうかがいしたい。

閣議列席メンバー一同 ・・・。

あまりにも重大な問題であるだけに、誰も口を開こうとしない。

やがて、坊城経顕(ぼうじょうつねあき)が、意を決して口火を切った。

坊城経顕 延暦寺よりの訴えをよくよく聞き、彼らの言わんとしている所をつらつらと考えてはみましたが・・・はっきり言うて、彼らの言うてる事はムチャクチャですわ!

閣議列席一同 ・・・(坊城経顕を注視)。

坊城経顕 中国や我が国の史実を根拠にして、「禅宗を好む世は必ず滅びる」とかなんとか、主張してますけどな、それは、論理的に破綻しとります。なぜならば、中国に禅宗が広まった最初のきっかけは、梁(りょう)王朝の武帝(ぶてい)が、ダルマの「無功徳話(注7)」を聞き、大同寺(だいどうじ)にて座禅を修した事からでした。以来、唐(とう)王朝289年間、宋(そう)王朝320年間、政権は長期に渡って安定し、中国の全土に安静が続きました。

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(訳者注7)「寺を建立したが、どんな功徳があるか」との武帝の問いに対し、「功徳は無い」とダルマが答えた、という逸話。
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坊城経顕 我が国においても同様です。北条(ほうじょう)氏歴代の鎌倉幕府執権は、代々禅宗に帰依してましたが、9代に渡っての栄華を築きあげてるやないですか。

坊城経顕 たしかに、中国では、幼帝の時に至って、宋王朝はモンゴル帝国に征服されました。我が国においては、元弘(げんこう)年間の初め、高時(たかとき)と共に北条氏は滅亡しました。そやけど、これはなにも、禅宗に帰依してたからではありませんよ。政治を乱し、驕りを極めていたから、そのような破局を迎える事になってしもぉたんですわ。

坊城経顕 そやのに、延暦寺の者らは、良き治世が行われていた期間はことさらに無視し、宋王朝や北条氏が滅亡したその時だけにスポットライトを当てて、「それ見ぃ! 禅宗に重きをおいてるから、そないな事になるねんや」と言いよる。まったくもって、なんちゅう、ずるい言い方なんやろか!

閣議列席メンバー・多数 ・・・(うなづく)。

坊城経顕 彼らは、天皇陛下の権威を、いったいなんやと思ぉとるのか! 陛下のお名前に、例えば「武」の一文字が入っていたならば、世人は「武」という字を一切用いてはいけない、それくらいに、天皇陛下に対しては、畏れかしこみつつしむべきなんです。

坊城経顕 ましてや、夢窓疎石(むそうそせき)は、後醍醐(ごだいご)先帝、上皇陛下(注8)、そして今上(きんじょう)天皇陛下(注9)と、三代に渡っての天皇陛下の国師(こくし)、天下の名僧ですよぉ。

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(訳者注8)光厳上皇。

(訳者注9)光明天皇。
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坊城経顕 延暦寺がなんとしてでも、自らの主張を押し通すにしてもや、少しは義を知り、礼をわきまえておるのであれば、もうちょっと穏当なモノの言い方をして、陛下のご裁決を仰ぐべきなんちゃいますか。なにぃ、「夢窓疎石を流刑にせぇ」やてぇ! 「天龍寺(てんりゅうじ)破却を犬神人に命ずべし」やてぇ! ナニを言うとるか!

坊城経顕 ここまで朝廷を軽んずる延暦寺の罪、決して軽いとはいえません。ここは、キツゥーイ処罰を下すべきです。ここで甘い顔してたんでは、連中、ますますつけあがってしもぉて、今後、延暦寺からの強訴(ごうそ)は絶える事がなくなるでしょう。早いとこ、三門跡(さんもんぜき:注10)に調査していただき、今回の強訴の張本人となった衆徒らを逮捕し、断罪流刑に処せられるべきと存じます!(きっぱり)

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(訳者注10)三千院、青蓮院、妙法院。
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閣議列席メンバー・多数 ・・・(深くうなづく)。

日野資明(ひのすけあきら) ・・・うーん・・・たしかに延暦寺の言い分、強訴に近いものがあるといえば、その通りかも・・・ただねぇ・・・ここでちょっと冷静になって、近頃の我が国の宗教事情について、考えてみたいと思うんですわ。

閣議列席メンバー一同 ・・・(日野資明を注視)。

日野資明 そもそも、日本列島の開闢(かいびゃく)は、延暦寺のある比叡山(ひえいざん)から発してましてな(注11)、首都・京都の鎮護(ちんご)は、専ら延暦寺の力によってなされてきましたわいな。

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(訳者注11)18-8 中で、玄慧が語っている、「葦の葉が、日本列島に・・・」の話を言っているのであろうか?
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日野資明 朝廷が乱れた政治を行った時には、延暦寺はこれを諌(いさ)め、邪教が世にはびこる時には、かの寺の衆徒らがそれを退けっちゅうような事が、過去にもたびたび、ありましたわなぁ。

日野資明 例えば、後宇多(ごうだ)上皇陛下の御代(みよ)、横岳(よこだけ)の太応国師(たいおうこくし)が嘉元寺の建立認可を願い出ましたが、延暦寺がそれに抗議したよってに、認可はされませんでした。

日野資明 それよりか前、土御門(つちみかど)上皇の御代、元久(げんきゅう)3年、沙門(しゃもん)・源空(げんくう:注12)が、専修念仏(せんじゅうねんぶつ:注13)の教えを流布しようとした時にも、延暦寺は朝廷に訴えて、これを押さえ込みました。後堀川(ごほりかわ)上皇の御代、嘉禄(かろく)3年には、なおも専修念仏の残存影響力、看過しがたし、ということで、法然上人(ほうねんしょうにん:注14)の墳墓を破却せしめました。

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(訳者注12)法然上人の本名。

(訳者注13)ひたすら「南無阿弥陀仏」と唱えること。

(訳者注14)この箇所、原文には「法然上人」となっている。源空は、その房号が「法然」であったので、「法然上人」と呼ばれるようになった。
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日野資明 後鳥羽(ごとば)上皇の御代、建久(けんきゅう)年間、栄西(えいさい)や能忍(のうにん)が、禅宗を京都中に広めようとした時には、延暦寺は奈良の興福寺(こうふくじ)と共に、禅宗排撃の強訴を行いました。そこで栄西は、建仁寺(けんにんじ)を建立するに当たり、シャナ道場と止観(しかん)道場(注15)を寺内に建て、そうやって延暦寺の末寺の体裁をもってして、建立をようやく許可されたんですわ。

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(訳者注15)
「シャナ」は「ビルシャナ(Vairocana)」の略。ビルシャナは真言密教の中心仏。

「止観」は天台宗の教義に深い関わりを持つ。最澄(伝教大師)は中国において真言密教と天台宗の双方を学び、帰国後、比叡山に一堂を築いて、止観業(天台学)とシャナ業(密教学)をおいて、円・密一致の宗旨を宣揚した。以降、延暦寺に伝わる密教の流れを「台密(たいみつ)」という。ちなみに、最澄が最初に建てたこの堂は後に「一乗止観院」と号せられた。(以上、「仏教辞典 大文館書店刊」より)。
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日野資明 朝廷と延暦寺との密なる関係、これはなにも、仏教の事だけに限った事ではありません。数多の君主の治乱、国家の安危、古より今に至るまで、延暦寺は決して、これを看過する事がありませんでした。例えば、治承(じしょう)年間、平清盛(たいらのきよもり)が天下の権力を一手に握った末に、都をこの京都から、海浜の辺地、福原(ふくはら:神戸市・兵庫区)に遷そうとした時にも、延暦寺は唯一、これに異議を唱え、ついに、遷都を思いとどまらせたのでした。

日野資明 こういった過去の事例、何も、延暦寺を大事にしたゆえに、そのような結果になったのではありません。仏法と王法とが対等の関係にあるからこそ、そのような裁決がなされたのであります。

日野資明 さて、問題の禅宗ですが・・・。禅宗の教義の根本は、かつての宋王朝時代に確立された諸々の形式と、その祖師・ダルマの行跡とにおかれているはず。そやのに、今の世の禅宗僧侶たちの心のあり方、ことごとく、これに違背しておるといえましょう。なぜかといえば・・・。

日野資明 宋王朝には、「西方異国の帝師」と呼ばれる真言密教の修行者がおりました。その者は、マハーカーラの法を修して、王家の護持をいたしておったのです。その地位たるやなんと、「天の下、帝王の上」と決められとりましてな、禅宗のいかなる大寺院の高僧、老僧といえども、道で彼に出会うた時には、膝を屈(かが)めて地に跪(ひざまず)き、王宮の庭に参会する時には、手を伸べて彼の靴を取る、というように、礼儀の限りをつくしたもんです。

日野資明 ところが、我が国ではどうかといえば・・・、修行未だ至らず、学才もないくせに、禅宗の僧侶やというだけで、東寺、延暦寺、興福寺の宗務長や大僧正、天台座主(てんだいざす)や一山の長に、肩を並べようとする。ついこないだ、父母の養育の手を離れてきたばかりの修行者や童子までもが、兄を越え、父を越えようなどと、思い上がってしまいよる。

日野資明 もうこないなったら、仏教以前の問題ですわなぁ・・・人間としての踏むべき道を踏んでない、仁義礼智信の法を踏み外してしもとるっちゅう事ですわ。このような事は、かつての宋王朝では見られへんかった現象、わが国独特の現象ですよ。

日野資明 彼らはそらもう、口だけは達者ですわぁ。言うてる事聞いてたら、なにやら偉い高僧の言い残した言葉に、似てなくもない。いったん自分とこの宗旨の事を説き始めたら、ソラもうすごいもんや、ひょっとしたら、仏様やダルマさんよりも説教うまいんちゃうやろか。

日野資明 ところがね、そのやってる事は、いったいなんですかいなぁ! 利得の巣窟には、サァット集まり、権力者に対して、媚びを売る。施主を見てはへつらい、金持ちには、ペコペコ頭を下げる。身には華美なる衣服を纏(まと)い、食にはグルメを尽くし。財産を蓄えて一寺の住職の地位を望み、「寄進」と称しては、せっせと金集め・・・あぁ、まことに、仏法滅亡の至りなるかな。

日野資明 かの孔子様も、いみじくも、のたもうておられますよ、「君子はその言のその行に過ぎんことを恥ず」・・・人間、恥(はじ)を知るべきですわなぁ。

日野資明 心ある修行者たるや、モノに目を奪われているようではあかんのですよ。未だ修行の途上、悟りの境地にも至れてへん状態では、施主から施された色々なモノ、それらは全て、罪作りの元になっていってしまうんですわなぁ。

日野資明 さらに言うならば・・・仏道を学ぶ者に、三種類あり。

日野資明 まず第一は、[上機(じょうき:注16)の人]。この人は[人我無相(じんがむそう)]の境地に至った人です。[我]を完全に滅し去った境地におりますから、心に掛かる事が一切無い。

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(訳者注16)「機類」、「機根」、「機縁」等と熟語をなし、宗教上の対象たる教法に対する主体(衆生)の方を総じて「機」という。(「仏教辞典 大文館書店刊」より)。
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日野資明 その第二は、[中機(ちゅうき)の人]。[自意識]が未だ完全に滅しきれてはいないがゆえに、「彼はナニナニやけど、自分は違う、自分はあんなんやない」とか「オレがしてやったんやぞ」とか、どうしても「自分が」「自分は」という風に、ついつい思ってしまうが、それでも、[自他一切差別無し]の道理をしっかりと観じる事ができるまでにはなっておりますから、その瞬間瞬間、湧き起こってくる「自意識」、すなわち、自と他を別の存在とみなしてしまう心を自覚するやいなや、それをスパッ、スパッと、断ち切っていく事ができる。

日野資明 第三に、[下機(げき)の人]。この人は、[我]の執着から未だに脱出できてはおりません。そやけどな、この人は、慚愧(ざんぎ:注17)懺悔(ざんげ:注18)の心を持っとりますのや。そやから、他人を悩ましませんし、慈悲の心を持っとります。

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(訳者注17)「慚とは自己の作った罪を自らはぢ、愧は他に対してはづるをいふ。」(「仏教辞典 大文館書店刊」より)。

(訳者注18)自らが犯した罪の許しを請う事。
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日野資明 さて、この「上機」、「中機」、「下機」以外にな、どうやら「地獄に落つべき仏教修行者」がおるようですよ。いったいどういう人らかと言うとですなぁ、他人の人生を妨げ、朝から晩まで他人の非をあげつらい、他人を難じて止まぬ、そういう人らの事ですわ。

日野資明 およそ寺を建てるにしてもですなぁ・・・人間としてのまともな生き方を、まずは踏まえたその上に、仏教修行者としてのあるべき道を重ねていく・・・禅宗の者らがそういう風に心がけていくのであれば、仏法の世界の道にも、俗世間の道徳の道にもかなっていくでありましょうに・・・。いくら立派な寺を建てたところで、それをいくらきれいに飾りたててみたところで、その中におる僧侶が、慈悲の心無く、不正直にして、仏教を盾に取って他人を誹謗(ひぼう)しながら徒(いたずら)に日々を送っているようでは・・・そないな事では、仏法興隆とはとても言えませんでしょう。

日野資明 仏教の力によって人々を幸せに導く人、すなわち善知識(ぜんちしき)とは、自らの身命を惜しまず常に他人に仕え、人々に救いの手を差し伸べ、諸々の執着と自他の対立観を離れ、清浄な心をもって、日夜修行に励むべし。

日野資明 そやのに、今の禅宗の姿はどうですか! 天皇陛下や皇太子殿下の御所でさえも、昨今の財政事情悪化ゆえに、あばらや同然、なのに、禅宗寺院は、玉の楼閣、黄金の御殿。大臣諸公は、木の実を食べ、草の衣を着ているが、禅宗僧侶は、山海の珍味を食し、身にはトップモードのオートクチュール。禅宗の祖師のダルマさん、こんな生活してはりましたんか?

日野資明 昔、インドのマガダ国に、一人の僧侶がいたんやそうです。

日野資明 彼は毎朝、東の方を向いては、面に歓喜をたたえて礼拝し、北の方を向いては、溜息をついて涙を流しとったんやそうな。ある人が彼に問いました、「あんた、いったいなんで、そないな事してはるんですか?」。僧侶は答えていわく、「東の方の山中にはな、智慧の光輝き、戒を守ること厳重なる一人の僧がおられるのや。樹下の石の上に座して、既に覚りを開いてから年久しい。そこは、仏教が興隆してる地、そやから、私はそちらを向いて礼拝してる。

日野資明 かたや、北の方には、ある都市があって、そこに寺院がある。数十の堂塔が甍(いらか)を並べ、仏像経文、金銀を鏤(ちりば)めておるわ。ここに住する百人千人の僧俗は、飲食(おんじき)衣服、何ひとつとして欠く所はない。そやけどなぁ、その寺の中には、如来の正法を究めてるもんは一人もおらん。そちらの場所においては、仏法は滅亡の危機に立ち至っている。そやから、毎朝溜息をついてるんや。」

日野資明 ねぇ、こういう事ですやん・・・。いかに立派な寺を作ってみたところで、人々の煩(わずら)いや嘆きのみ有ったんでは、何の益もないでしょう。

日野資明 かたや、壮麗華美をつくした禅宗寺院、かたや衰微しきった朝廷。まことに、嘆いて余りあります。こういう現状を憂えるからこそ、延暦寺は、朝廷にしきりに訴えてきとりますのや。延暦寺の主張はまさに、正論以外の何ものでもない、彼らには何の咎もありません。彼らの主張に我々は耳を傾け、自らへの戒めとすべきではないでしょうか!

憚る所なく言い放つ、日野資明である。

閣議列席メンバー一同 ・・・。

真っ向から対立する二人の主張の双方いずれにも一理あるように思え、閣議列席メンバーらは、ただただ、沈黙を守るのみであった。

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(訳者注19)西暦1300年代の日本においても、このような諸々の宗教教団のあり方についての問題意識があったのかと思うと、まことに感慨深いものがある。教団を構成するメンバーの日常のあり方、寺院建築の問題、布施の問題、政治権力との教団の関わりかた等、現代にも通ずるような問題であるように思える。
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しばしの沈黙の後、

中院通冬(なかのいんみちふゆ) やれやれ、お二方のご主張は完全に相反しとりまんなぁ。妥協の余地はまったくないようです、ハァー(溜息)

閣議列席メンバー一同 ・・・。

中院通冬 延暦寺は、いろいろと言うてきてますけど・・・そやけどな、今回の問題の本質はですなぁ、ようは、禅宗が正法なんか邪法なんか、いったいどっちやねん? これに尽きると思うんですわなぁ。

閣議列席メンバー一同 ・・・(うなづく)。

中院通冬 ここはね、いっちょ、宗教論争をやらせてみては、どないでっしゃろ? 禅宗側と旧仏教側、双方から高僧を招いてね、議論を戦わさせるんですわ。そないでもせん事には、この問題、どこまで行っても決着つけれませんでぇ。

閣議列席メンバー一同 ふーん・・・。

中院通冬 こういった宗教論争はな、インド、中国、日本にも、過去に例が多数あるんですよ。例えば、インドでは、あの有名な祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)建立の際の逸話がありまっしゃろが。わたいな、朝廷での勤務の余暇・・・いやいや、余暇はないな・・・勤務のひま見てですな、「賢愚因縁経(けんぐいんねんきょう)」を開いて勉強してみたんですがな、そこに、こないな話がのってましたでぇ。

(以下、中院通冬が紹介した故事逸話)
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むかしむかし、釈尊(しゃくそん)が、インドのコーサラ国において、広く仏教を説いておられた時の事。その国の大臣に、スダッタ長者という人がいた。

スダッタは、釈尊の教えに深く帰依していたのだが、ある日、一念発起した。

スダッタ よし! 拙者(せっしゃ)不肖の身ながら、釈尊とそのお弟子方らのために、この国に精舎を一つ建立し、その中に、み仏を安置したてまつらん!

精舎用地の選定のため、スダッタは、釈尊の高弟・サーリプッタ(注20)と共に、あちらこちらの村の園林を見てまわった。そしてついに、「まさにここ!」というような所が見つかった。

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(訳者注20)釈尊の十大弟子の一人で、「智慧第一」と称された人。サンスクリット語では「シャーリプトラ」であるが、一般に広く知られているパーリー語の「サーリプッタ」を用いて表記した。「シャーリ」は、は彼の母の名前であり、「プトラ」は、「息子」の意であるのだそうだ。
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スダッタ この園林の所有主は、どこのどなたかのぉ?

村人 はい、皇太子殿下でごぜぇやす。

スダッタ なに、皇太子殿下とな? プラセーナジット王(注21)の皇子、あのジェータ太子殿下(注22)が、この園林を所有しておられると申すか?

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(訳者注21)「プラセーナジット」(サンスクリット語)、「パセーナディ」(パーリ語)。日本の仏教書には、「波斯匿王」と表記されている。

(訳者注22)日本の仏教書には、「祇陀(ぎだ)太子」と表記されている。
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村人 おおせの通りでごぜぇやす。殿下はよく、ここにいらっしゃいましてな、禅定(ぜんじょう)に入られたり、散策を楽しんだりしておられますじゃ。

スダッタ 精舎を建てるにふさわしき土地、ここをおいて他にはない。譲り渡して下さるように、さっそく太子とかけあってみようぞ。

スダッタは、太子のもとを訪れた。

スダッタ ・・・と、いうわけでしてな、殿下、なにとぞ、あの地を、私めにお譲り下さいませ。

ジェータ太子 ・・・うーん・・・あの園林をそちに譲れとな・・・これはちと、無理な話じゃのぉ。

スダッタ 殿下、そこをなんとか!

ジェータ太子 あの園は、わしが大いに気にいっておる場所でなぁ・・・あの中を散策しておるとな、わしは何ともいえん良い気分になってくるのじゃよ・・・心がゆったりと、のびやかになってくるのじゃよ・・・そうそうたやすく、そちにあの地を譲るわけにはいかん。

スダッタ 金ならば、いくらでもお出ししますぞ。

ジェータ太子 うーん・・・(ニコリ)よし、ならばこうしよう。あの広大な園の敷地をな、黄金で残す所なく敷きつめてみよ。その黄金全てとならば、あの土地と交換してもよいわ。

太子の側は、単なる戯れに出した言葉であったのだが、スダッタの方は、しんけんそのもの。

スダッタ 分かりもうした、では、さっそく!

スダッタは、自家の数個の倉庫を開き、黄金を運び出して象に背負わせ、園林へ向かった。

園林に到着するやいなや、

スダッタ それぇ! この園の地面のことごとくを、この黄金で覆い尽すのじゃ! ものども、かかれえぃ!

スダッタ家の召し使い一同 ヘェーイ!

スダッタ家の召し使いリーダー よぉし、一列に並べぇ!

スダッタ家の召し使い一同 ほいほい!

スダッタ家の召し使いリーダー バケツリレー開始ぃー! 一(ひと)つめー!

スダッタ家の召し使いA 一(ひっとつ)っとせぇー(金板αをつかんで、隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いB 他人(ひと)を救(たす)ける ためなっらばぁー(金板αを隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いC 金銀財宝(金板αを隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いD ドンッと出すぅ!(金板αを地面に置く)

金板α ドス!(地面に置かれる音)

スダッタ家の召し使い一同 そいつぁ ゴウキ(豪気)だねぇ そいつぁ ゴウキだねえぇー!

スダッタ家の召し使いリーダー 次、二つめいけー!

スダッタ家の召し使いA 二(ふったつ)っとせぇー(金板βをつかんで、隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いB フマン(不満)たらたら グチばっかりぃ(金板βを隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いC こぼす人生(金板βを隣に手渡し)

スダッタ家の召し使いD おっさらばだぁ!(金板βを地面に置く)

金板β ドス!(地面に置かれる音)

スダッタ家の召し使い一同 そいつぁ ゴウキ(豪気)だねぇ そいつぁ ゴウキだねえぇー!

このようにして、ついに、園の全土、面積80項のことごとくが、黄金で敷き詰められてしまった。

スダッタ 殿下、ご覧ください。お約束通り、黄金を敷き詰めましたぞ。さ、お受け取りくださいませ。

ジェータ太子 ・・・スダッタ・・・。

スダッタ 殿下、どうか、あの園を私めに。

ジェータ太子 スダッタ・・・この黄金を、そちの倉の中に収めよ。

スダッタ 殿下、何をおっしゃる! お約束ですぞ!

ジェータ太子 あれはな、戯れに言ってみたに過ぎぬ。そちは大願を発して、精舎を建てんがため、わしにこの地を請うた・・・わしがこの地を惜しむはずがあろうか・・・わしはなぁ、この地、そちに、タダで譲り渡そうと思う・・・その黄金は、精舎の建物の建立の費用に使うがよい。

スダッタ (首を横に振り)ありがたきお言葉ではありまするが、殿下、国を保つ太子ともあろうお方が、戯れにもせよ、妄語(もうご)を発してなんといたしますか!

ジェータ太子 ・・・。

スダッタ 不肖スダッタ、国王陛下よりの信任を頂き、臣としてお仕えする身、食言は絶対に許されませぬ! 出すと、いったん言った以上、この黄金、もはや拙者のものではない! 黄金を返すなどと言われても、受け取れませぬ!

ジェータ太子 スダッタ!

スダッタ よし、かくなる上は、この黄金、どこぞの断崖絶壁から地中に捨てるまでのことよ! ものども!

ジェータ太子 待て、待てぃ、スダッタァ!

スダッタ ものども、この黄金をな、

ジェータ太子 待てい、スダッタァ、待てぇいぃぃぃーーー!

スダッタ ・・・。

ジェータ太子 わかったぁ! この黄金、わしがもらい受く! たった今からこの園林は、そちのものじゃぁ!

スダッタ 殿下、殿下ァーッ!

ジェータ太子 わしのこよなく愛して止まぬこの美しき園林にな、世にもたぐいまれなる立派な精舎、みごとに建ててくれぇい、スダッタァーッ!(感涙)

スダッタ かぁたじけありませぬゥーッ! ウ、ウ、ウ・・・(感涙)

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このニュースを聞きつけた6教団(注23)の者たちは、プラセーナジット王のもとへやってきて、訴えた。

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(訳者注23)原文では、「六師外道」。
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6教団メンバーA 陛下、我らの聞き及びますところによりますれば、ジェータ太子殿下は、スダッタに、某園林をお譲りになられたそうですな。スダッタはそこに、かのシャモン・ゴータマ(注24)の為に、精舎を建立する計画とか。

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(訳者注24)釈尊のお名前。「シャモン」は修行者の意。
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プラセーナジット王 ほう、それはまた・・・。

6教団メンバーB 陛下、まさか、その計画をご承認なされるような事、ありますまいな?

プラセーナジット王 うん?

6教団メンバーC そのような事をお許しあっては、世のためになりませぬ。国の弊(ついえ)、民の煩(わずらい)を招くのみならず、世を失い、国を保つことあたわざる結果となりましょうぞ。速やかに、スダッタの計画を禁止されんこと、おん願い奉ります。

プラセーナジット王 うーん・・・よしわかった、よく考えてみる。今日のところは、一応、聞き置いておく。

6教団メンバーA 陛下、くれぐれも・・・。

プラセーナジット王 わぁかったと、言っておるではないか!

プラセーナジット王は困ってしまった。6教団側の言い分ももっともに思えたが、かといって、スダッタの大願を無に帰せしめる気にもなれない。

プラセーナジット王 よし、こうしよう! ゴータマ側の弟子代表と、6教団側の弟子代表を王宮に招いてな、その神通力を競わせてみるのだ。どっちが勝つかで、今回のこの問題の決着をつけよう。

これを聞いたスダッタは、

スダッタ ふふん・・・見て驚くなよ。6教団の者らの神通力などな、釈尊の高弟のそれに比べたら、わしの足の毛一本ほどのものじゃよ。いや、それ未満かな? ムハハハハ・・・。

やがて、王宮より、「期日を定め、両者の神通力の勝劣を国王陛下がご覧ぜらる」との宣言が発表された。

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いよいよ、その日がやってきた。

王宮では、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして、見物の衆を集合せしめた。コーサラ国中、仏教に帰依する3億の人々が、行競(ぎょうくらべ)の場に定められた宮庭にことごとく集まり、膝を重ねて座に連なった。

次に、その場に、6教団側の門徒たちが雲霞のごとく、続々参集してきて着座した。

スダッタ (ヒソヒソ声)はて・・・サーリプッタ殿は、いかがした?

スダッタ家召し使いD (ヒソヒソ声)菩提樹の下で、まだ禅定を続けておられます。

スダッタ (内心)相手側は、もう出揃っておるのに・・・。

6教団メンバーE こちらは全員そろったぞ。そちらの側の代表は、まだか!

スダッタ ちょっと待ってくれ、今、仕度を調えておるのでな。

6教団メンバーF 仕度? えらく時間がかかっておるのぉ。普段からの神通力エネルギー蓄積が、チト少なすぎるのではないかのぉ?

6教団側門人一同 ワハハハ・・・。

6教団メンバーG ゴータマの側の代表は、いったい誰じゃ?

スダッタ サーリプッタ様である。

6教団メンバーG ふーん、サーリプッタか。

6教団メンバーE こちら側の今日の代表は、最高の行者ぞろいじゃでな、あの男もオソレをなして、どこかへ逃げていってしもうたのかも。

6教団側門人一同 ワハハハ・・・。

その時、サーリプッタは、禅定の座から、すっと立った。

衣服を整え、布を左の肩にかけ、行競べの場に向かって、ライオンのように厳かに歩んでいく。

王宮のメンバーH サーリプッタ殿ぉ、到着ぅーーー!

一斉に、どよめきが起った。

仏教信者たち おお、サーリプッタ様が、あれに・・・。

プラセーナジット王 来たか!

スダッタ (内心)よーし!

無言のまま、行競べの場に歩み入るサーリプッタ。

仏教信者たち ・・・(五体投地:ごたいとうち:注25)

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(訳者注25)額、両肱(ひじ)、両膝の計5箇所の身体の部分を地につけて礼をする。
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この時、思わず、6教団の者たちも、サーリプッタの威厳に打たれ、彼の前に、

6教団の者たち全員 ア、ア、ア・・・(五体投地)

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双方の座が定まった後、6教団側の代表、ロウトシャが、会場に歩み出た。

ロウトシャ さぁ、いくぞ!

サーリプッタ ・・・。

ロウトシャは、虚空を仰ぎ、目をつむり、呪文を唱えた。

ロウトシャ DPHX&R=)IIFS・・・。(注26)

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(訳者注26)呪文は、公の場に明らかにすべきではないようなので、このように暗号で書いた。ただし、訳者は6教団の呪文を知らない、太平記原文にも記載されていない。
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ロウトシャが呪文を唱え終えるやいなや、まことに不思議な事に、天空に突如、巨大な樹木が現れた。

やがて、春の温かい風が吹きはじめ、その樹木から花びらを散らしはじめた。

次に、急激なる気温の低下。降りた霜が、みるみる葉を枯らしはじめる。

人々は、夢を見るような思いの中に、それをただ、見つめるばかり。

その時、サーリプッタ、口をすぼめて、

サーリプッタ フッ!

彼の口から噴出した息は、たちまち大旋風と化し、巨大なる幻の樹木に襲いかかった。

樹木 バリバリバリ・・・ドシャーン!

旋風にあおられた樹木は、根こそぎ空中に舞い上がった後、地上に倒れた。

見物の人々 おお!

ロウトシャ ふふふ・・・なかなか、やるではないか。よし、ならば!

再び空を見上げながら、ロウトシャは、呪文を唱えた。

ロウトシャ WP8HF4==#NV!

たちまち、周囲300里もあろうかという池水がにわかに湧出、宮庭一帯はことごとく、七宝の霊池と化した。

見物の人々 オオオオオオ・・・。

サーリプッタは、目を上げて、遥か天のかなたを見つめた。すると、6本の牙を持つ1頭の白象が、空中より下ってきた。

それぞれの牙の上に七宝の蓮華が生えていて、その花の一つ一つの上には、玉のような7人の美女が載っている。象は舌を伸べ、

象 グビリ、グビリ、グビリ・・・。

あっという間に、その池水を飲み尽くしてしまった。

見物の人々 うわぁ!

ロウトシャ ヌヌ、おぬし、できるな!

再び空を見上げながら、ロウトシャは呪文を唱えた。

ロウトシャ 9URMBGDDDDDD!

今度は三つの大山が現われた。その上には、百余丈もの樹木が生えている。雲のように花が咲き、玉のような実が連なっている。

見物の人々 うおぉーーー!

サーリプッタは手をあげて、空中より何者かを招くしぐさをした。

すると、一人の仁王(におう)が現われた。

仁王は、金剛杵(こんごうしょ)を振るって山を一撃、

金剛杵 ヴァシーン!

大山は粉微塵に砕け散ちった。

見物の人々 あわわわ!

ロウトシャ これでどうだぁ! JORQBFYDQQQQQQQ!

10個の頭を持つ巨大な龍が、雲中から下降してきた。雨が降り、雷が鳴り出す。

見物の人々 うわあああ!

またもや、サーリプッタは頭を上げて、空中を凝視した。

一羽の巨大なカルラ鳥が飛来して、龍に襲い掛かった。

カルラ鳥 キュェーン!

大龍 ギャオー!

見物の人々 うああ、こりゃすごいー!

あっという間に、カルラ鳥は大龍を裂き食らってしまった。

ロウトシャ ええい! PPPRRREEEYYY$$$!

肥え太った大力の鉄牛が、一頭現われた。

鉄牛 ウグモーーー! ウグモーーー!

鉄牛は、地上を這い回りながら吠え、怒る。

見物人一同 キャアー!

サーリプッタ トットッ!

猛り狂った鉄のライオンが現れて、鉄牛に襲いかかった。

鉄ライオン ガオー!(バリバリバリ)

鉄牛 ギュヒーン!

鉄ライオンはまたたく間に、鉄牛を食い殺してしまった。

ロウトシャ これでもか! ZDXFCGVHBKNL!

身長10丈余りほどもある一匹の鬼神が出現した。頭上から火を吹き、その炎は、天までも上がる。四本の牙は剣よりも鋭く、眼は日月のごとく輝いている。

見物人一同 キャアーーー!

その場にいた者はみな倒れ伏し、恐怖のあまり魂も消えんばかり。サーリプッタただ一人、黙然と座し続けている。

たちまち、巨大な天神が現れた。かの四天王中、北方を護る多聞天(たもんてん)である。身には金色の鎧を着し、手には魔性降伏(ましょうごうぶく)の矛を持っている。

多聞天が睨み付けるやいなや、

鬼神 ウ、ウ、ウ・・・。

鬼神はおそれをなして、風のように逃げ去っていった。

にわかに猛火がまき起こり、炎が、ロウトシャめがけて襲いかかった。

ロウトシャ うぁぁーーーっ!

6教団の者たちは悉く、サーリプッタの前に倒れ伏し、五体投地しながら叫ぶ。

6教団メンバーE 願わくば、サーリプッタ尊者(そんじゃ)、慈悲(じひ:注27)の心を起して、我らを哀れみたまえ。

6教団の者たち全員 我ら今ここに、自らの罪を謝する事、かくのごとし。

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(訳者注27)「慈」とは、相手に楽を与えること、「悲」とは相手の苦しみを除くことである。
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これを見たサーリプッタは、慈悲と忍辱の心を起こし、多数の分身を現ぜしめ、18種類の神通を現した後、蓮華座(れんげざ)に着座した。

この一部始終を見物していた人々はことごとく、過去に積んだ福徳善根が今や善果を結び、随喜感動の念を起こし、6教団の門徒たちは全員出家して、仏教に帰依するようになった。

その後、スダッタの願望みごとにかない、かのジェータ太子の所有していた園林に、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)が建立された。厳浄(ごんじょう)の宮殿とも微妙(びみょう)の浄院とも言うべきその精舎には、ミロク菩薩をはじめ、極楽浄土の諸仏のことごとくが参集、人間や諸天人が日々、仏の教えを仰ぎ頂く仏教宣布の一大拠点となったのであった。
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中院通冬 ・・・というのが、インドにおける宗教論争の一例ですわ。

中院通冬 中国ではどないかと言いますとな・・・時は後漢(こうかん)王朝第2代、顕宗(けんそう)皇帝の時代に、こないな事がありましたわなぁ。

(以下、中院通冬が紹介した故事逸話)
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永平某年8月16日の夜、皇帝は不思議な夢を見た。太陽のごとき光明を帯びたシャモンが一人、皇帝の前にやってきて、空中に立ったのである。

その翌朝、起床するやいなや、皇帝は群臣を召して、

顕宗皇帝 昨夜、かくかくしかじかの内容の不思議な夢を、朕(ちん)は見たのじゃ。そなたら、この夢を何と解く?

傅毅(ふぎ) その御夢の意味、私めといたしましては、以下のごとく解釈いたしたく・・・今を溯ること数百年の昔、かのインドにおいて、「大聖釈尊(たいせいしゃくそん)」なる一人のブッダが現れたもうたとか。釈尊が説きたまいしその教法、やがてはわが国にも流布し、多くの人々がその化導(けどう)に預かる事とならん・・・陛下の見たまいし夢、まさにその前兆たる瑞夢(ずいむ:注28)なりかと。

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(訳者注28)めでたい夢。
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はたせるかな、それから間もなく、インドから、マトウとジクホウランがやってきて、仏舎利(ぶっしゃり:注29)と42章からなる仏典を中国にもたらした。

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(訳者注29)釈尊の遺骨の一部。
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これ以降、皇帝は、仏教を尊崇する事この上なし、という状態となった。

これを見て、老荘の道(ろうそうのみち:注30)を尊んで虚無(きょむ)自然の理(しぜんのことわり)を専らにする道教(どうきょう)家たちは、皇帝の前で激しく仏教を批判していわく、

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(訳者注30)老子と荘子の教え。
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道教家I わが国におきましては、太古・五帝三皇(ごていさんこう)の時代以来、歴代の帝王は、儒教をもって仁義を治め、道徳をもって純朴なる心を修したもうてまいりました。

道教家J しかるに、今、マトウらは、釈氏(しゃくし:注31)の教えを我が国に伝え、彼の遺骨が何よりも尊いものであるかのように、説いて回っておりまする。

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(訳者注31)「シャカ族出身の尊い方」との意をこめて、仏教徒は「釈尊」と呼ぶのだが、道教側からは、「釈氏」との呼称となるのであろう。
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道教家I 彼らの布教活動を、放置しておいてはなりませぬ。彼らを野放しにしておいたのでは、学徳兼備の儀に背くことになりましょうぞ。「徳をもって世を治むる」の道にも違(たが)う結果となりましょう。

道教家J 速やかに、マトウらを流罪に処せられ、わが国の宗教のあり方を、旧きよき時代、天地開闢(てんちかいびゃく)以前の状態に復せしめられまする事、ここに、こい願いたてまつりまする。

この訴えを受けて、皇帝は、

顕宗皇帝 なんじらがそこまで言うのであればな、ひとつ、道教修行者と仏教修行者とを召し合わせての、その威徳の優劣を、じっくりと見てみるとしようではないか。

というわけで、皇宮の東門に壇を高く築き、行競(ぎょうくら)べの日時を定めた。

いよいよ、その日がやってきた。

道教側3,700人は、椅子を連ねて西に向かって着座し、マトウ法師は東を向いて、草座(そうざ:注32)の上に座した。

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(訳者注32)法会(ほうえ)の時、仏前に座す長老の用いる座具の一種。「茅座」ともいう。釈尊が菩提樹下に悟りたもうた時、吉祥草(きっしょうそう)(香茅)を敷ける故事にならうもの。後世用いる物は四周に糸を垂れて吉祥草に模倣している。(以上、「仏教辞典 大文館書店刊」より)。
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道教家I さてと、いかようの行をもってして、勝負を決せようぞ?

マトウ 天に上ぉり、地に入るぅ、山を裂ぁき、月を握ぃる、で、どうでっしゃう?

道教家J (ヒソヒソ声で)なんと!

道教家K (ヒソヒソ声で)してやったり!

道教家L (ヒソヒソ声で)天に上り、地に入り、山を裂き、月を握るだと? なんの事はない、朝な夕な、我らがやっておる行ばかりではないか。こんなの、わけない、わけない。

道教家I マトウからの提案、承諾しても問題なかろう?

道教家一同 問題なし!

道教家I よろしい、その術でいこう。

道教家J そちら側の代表は誰じゃ?

マトウ法師 わったくしでぇす。

道教家I 心得た!・・・では、いくぞ。

玉晨君(ぎょくしんくん)を礼し、柴と萩を焚き、息をいっぱい吸い込み、鯨の泳ぐ淵を脳裡に思い描きながら、

道教家I 天に昇るぞ、エエエーーイ!

見物人一同 ・・・。

道教家I (内心)おかしいな・・・術がきかん。

道教家I 地に入るぞ、ヤアーーー!

見物人一同 ・・・。

道教家I (内心)ムム、術が・・・術がきかんではないか!

道教家J おい、どうした?

道教家I 山よ、裂けよ、トオーーー!

見物人一同 ブツブツブツブツ・・・。

道教家I (内心)いったいどうしたというのだ、術がきかんではないかぁ!(冷や汗)

道教家J (内心)おかしい・・・。

道教家I 月を・・・つかむぞ、ムーーーーン! あぁ・・だめだ!

種々の仙術もすべて仏力に押されて、効力を発揮しえなくなってしまったのであろうか。

見物人一同 ワイワイガヤガヤ、ピィーピィー、ブーブー、ワハハハ(手を打って大笑い)

道教家たちが、面を垂れて意気消沈してしまったと見るや、マトウは、瑠璃(るり)の宝瓶(ほうびょう)に仏舎利を入れ、左右の手でそれを捧げ持った。その瞬間、マトウの姿が、公衆の面前からかき消えてしまった。

見物人M ややや、マトウが見えなくなってしもぉたぞ。

見物人N マトウはいずこに?

見物人O 空を見ろー!

見物人一同 アアッ!

なんと、虚空百余丈の上空に、マトウの体が浮かんでいるではないか。何かの下にぶら下がっているわけでもない、何かの上に載っているわけでもない。完全浮遊状態である。

見物人N あの光は、いったい・・・。

マトウが捧げ持つ仏舎利は光明を発し、その光は一天四海を照らし、皇帝が座する金帳(きんちょう)の裏、その背後の屏風までをも光り輝かせ、皇帝、諸侯、高官、諸官僚、万民ことごとく、金色の光を反映して輝いている。

皇帝は、玉座から下り、マトウに向かって五体投地(ごたいとうち)した。皇后、公卿、官僚ことごとく、信仰(しんごう)の首(こうべ)を地につき、随喜(ずいき)の涙に袖を濡らす。

仏教に対立していた道教家とその信者たち3,700余人は、即時に出家し、マトウの弟子となった。

そして、白馬寺(はくばじ:河南省・洛陽県)が建立され、その後、仏教は中国全土に弘通、合計1,703箇所の寺院が建立されるに至った。

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中院通冬 このようにして、仏教は中国に広まり、今に至るまで流布してるんですわ。

中院通冬 さてと、我が国においては、どないな例があるかといいますとな・・・。

中院通冬 村上(むらかみ)天皇の御代、応和(おうわ)元年(961)にな、天台(てんだい)宗と法相(ほっそう)宗の各々の本山から高徳の僧侶を宮中に招いて、宗教論争をさせはった事がありました。

中院通冬 天台宗側の代表は、延暦寺(えんりゃくじ)横川(よかわ)エリアの慈慧僧正(じえそうじょう)。法相宗側代表は奈良の興福寺(こうふくじ)松室(まつむろ)の仲ゼン法師。

(以下、中院通冬が紹介した故事逸話)
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論争の当日、仲ゼンは、奈良を出発して京都へ向かった。

途中、木津川(きづがわ)にさしかかったのだが、あいにくの増水。しかし、舟も橋も、付近には見当たらない。

川のほとりに輿をすえて、

仲ゼン まいったなぁ。どないしたらえぇんや。

そこへ、怪しげなる老翁が一人現れていわく、

老翁 いったい、どないしはったんですか?

仲ゼン いやな、御前での宗教論争に召されて御所に向かってやってきたものの、この増水や・・・。しょうことなしに、水が引くのをじっと待っておるんですよ。

老翁 やれやれ・・・。水は深し、智は浅し、魚や水鳥にも力及ばず・・・。そないな事では、宗教論争なんか、とてもとても・・・はははは。

仲ゼン ムムッ!

仲ゼン (内心)まさに、真理をつく言葉・・・水は深し、智は浅し、魚や水鳥にも力及ばず・・・この翁の言う通りや。よし!

仲ゼン (僧形の輿かきたちに対して)輿かついで、川に入り!

輿かき えぇっ・・・そんなムチャな。

仲ゼン えぇから、入り!

輿かき そこまで言われるのならば・・・。

思い切って、輿を川にかつぎ入れた瞬間、おびただしい川水が左右にバァット分かれ、大河もにわかに陸地と化した。一行全員、足を濡らす事もなく、木津川を渡りきる事ができた。

その頃、慈慧の方も、川水に行く手を阻まれていた。比叡山(ひえいざん)西側山麓の下松(さがりまつ:左京区)のあたりまで車を迎えにこさせ、御所に向かったのだが、鴨川の岸でストップしてしまった。川水は増水し、逆波が岸を茫々と浸している。

牛童(うしわらわ)が牛車(ぎっしゃ)の轅(ながえ)を持ちながら、呆然と立ち尽くしていたその時、水の中から一頭の水牛が姿を現し、川を泳ぎ来たり、車の前にやってきた。

喘(あえ)ぎながら立っている水牛を見て、慈慧は、

慈慧 そうや!(パンと手をたたき)

慈慧 この車の牛をな、その水牛ととりかえてな、川の中に車を入れなさい。

牛童は命に従って水牛に車を懸け、一鞭くれるやいなや、水牛は飛ぶがごとく走りだして、鴨川へザブン。

不思議や不思議、水牛の引く車は川の中をひた進み、車の轅を水に濡らす事もなく、波の上30余町を一気に駆け抜けていった。

車はそのまま御所に向かい、陽明門(ようめいもん)の前で、水牛はかき消すように消滅してしまった。

かたや仲ゼン、かたや慈慧、共に、仏菩薩の化身ゆえ、このような奇跡が起こっても不思議ではないといえばそれまで。しかしそれにしても、類まれなる出来事ではある。

さぁいよいよ、天台対法相・宗教論争の開始。

御所の清涼殿(せいりょうでん)に法座をしつらえ、問者(もんじゃ)、講師(こうし)、東西に相対した。村上天皇は南面して飾りのついた冠を被り、臣下は北面して、階下に冠をずらりと並べる。

法席定まった後、まず慈慧が、自宗派の重要テーゼ、「草木成仏(そうもくじょうぶつ)の義」を弁じた。

それに対して、仲ゼンは、以下のように反駁(はんばく)した。

仲ゼン わが法相宗では、「五性各別の理(ごしょうかくべつのり)」と申しましてな、一切万物は5種類に分かれる、と説いております。5種類とは、「菩薩定性(ぼさつじょうしょう)」、「縁覚定性(えんがくじょうしょう)」、「声聞定性(しょうもんじょうしょう)」、「三乗不定性(さんじょうふじょうしょう)」、「無性有情(むしょううじょう)」。

仲ゼン 前者3つのカテゴリーに属する者は、生まれる前に先天的に、このうちのどれかに生まれ落ちるように決定されてしもてます。ゆえに、「定性」といいます。このうち、仏になれるのは、「菩薩定性」のみです。

仲ゼン 次に、「三乗不定性」。「三乗」とは言うまでもなく、「菩薩」、「縁覚」、「声聞」のことです。「乗」とは、「衆生を悟りの彼岸に運ぶ乗り物」の意ですな。「三乗不定性」に属する者においては、「菩薩」、「縁覚」、「声聞」の中のいったいどれに生まれ落ちるかに関して、根本的な不確定性が存在します。ゆえに、「不定性」と申します。

仲ゼン 最後の「無性有情」。これは、前の4種のいずれにもなる可能性が皆無であるような存在の事をいいます。

仲ゼン 人間、動物、植物、万物は、この5種類のカテゴリーのいずれかに所属しております。どのカテゴリーに所属するかは、先天的、決定的、確定的でありまして、努力次第で所属カテゴリーが変化する、などというようなものではないのです。

仲ゼン さて、さきほど、慈慧殿は、「草木成仏」と説かれました。しかし、この「五性各別の理」をもってすれば、草や木が成仏するなど、到底ありえない事です。

仲ゼン たしかに、心を持たぬ草や木も、その中に仏性(ぶっしょう)を秘めてはおります。しかしながら、その秘められた仏性を顕現し、実際に仏となるためには、慈悲の心を起こしたり、他者に救いの手を差し伸べたり、真理を認識したり、といった、心や行いの持続が絶対に必要不可欠なのであります。しかるに、草や木は心を持ってはいません。ゆえに、成仏は不可能です。(注33)

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(訳者注33)原文では、「非情草木、理仏性を具すといえども、行仏性無し。行仏性無くんば、何ぞ成仏の義有らんや。」。
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仲ゼン ・・・お経典のどこかに、「草木成仏す」と書かれている、とでも言うのであれば、話は別ですけどねぇ。

慈慧 書いたりますでぇ、円覚経(えんがくきょう)にね!

 じごくてんぐう みなじょうどたり(地獄天宮 皆為浄土)
 うしょうむしょう ひとしくぶつどうをなす(有性無性 斉成仏道)

仲ゼン ・・・。

言葉につまり、しばらく口を閉ざしてしまった仲ゼン。

ところが、法相宗を擁護する奈良の春日明神(かすがみょうじん)が、助け舟を出した。明神は高座の上に姿を現し、かすかな声で仲ゼンに何やら耳うちした。

仲ゼン (内心)なるほど!

仲ゼン その、円覚経の漢文はね、そないに読んだらあきませんねん。こないな風に読むのが正しい。

 じごくてんぐう みなじょうどたらましかば(地獄天宮 皆為浄土)
 うしょうもむしょうも ひとしくぶつどうをなってまし(有性無性 斉成仏道)

つまり、「地獄や天宮が皆浄土であるはずがなかろう。もしそんな事が事実だとすれば、心を持つ存在も心を持たない存在も皆、仏になっているはずではないか。」と。

慈慧 な、なんと・・・。そないなムチャクチャな漢文解釈、仏教の世界では到底、通用しませんでぇ!

仲ゼン ・・・。

慈慧 一木(いちもく)一草(いっそう)各一因果(かくいちいんが)、一本の木も草も、それぞれその因があって果として生じたんや。山河大地同一仏性(さんがだいちどういつぶっしょう)、山も川も大地も皆、仏性を持っておる。

慈慧 「心を持たぬ草や木も、仏性(ぶっしょう)を秘めてはいる」と、先ほど仲ゼン殿は認められた。ところがその一方では、「いくら仏性を秘めていたとて、草や木には永遠に仏となる可能性は無い」と言われる。ではいったい、仲ゼン殿の言われる「中に秘められた仏性」とは、そもそもなんぞや? 「仏性」とは、「仏となる可能性」の事ではなかったのか?(注34) 「可能性を秘めている」のに、「可能性は無い」? 矛盾してますわなぁ。

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(訳者注34)「仏性」:サンスクリット語では"Buddhatva"。パーリ語では"Buddhatta"。成仏すべき本性、迷語によって改ることなく本来衆生に具はる仏たるべき性質をいう。即ち、衆生成仏の可能性である。(「仏教辞典 大文館書店刊」より)<
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仲ゼン ・・・。

慈慧 「仏となる可能性」を秘めている草や木が決して成仏はできない、というのであれば、「心ある有情(うじょう)なる存在」、すなわち動物や人間もまた、決して成仏できない、と言う事になりはしまいか? 「有情が成仏できる」という事の根拠は、「それが仏性を秘めている」という一点にのみ、求められるのであるがゆえに。

仲ゼンは、返す言葉も無く、しばらく沈黙していたが、

仲ゼン 草や木、心のない非情の存在が成仏するなどとは、到底信じがたい。まず、あなたが、今この場にて、成仏の証(あかし)を示してくださらんことには、私としては全く納得がいきませんなぁ。

慈慧 ・・・。

慈慧は、しばらく沈黙しながら座し続けた。

茶褐色の法衣がたちまち、宝玉をちりばめた柔軟な衣服に変じ、その肉身はにわかに変じて、黄金に輝きはじめた。彼の体から発せられる光は十方をあまねく照らし、宮庭の葉の落ちた樹木には、にわかに花が開き、温かい春風が吹き始めた。その場に列席の公卿らも、その身そのままに蓮華蔵(れんげぞう)世界の浄土にトランスポートし、妙雲相如来(みょううんそうにょらい)のみもとに至れるかと思われたほど。

これを見た仲ゼンは、嘲ったような顔をして、如意棒(にょいぼう:注35)を揚げ、席を叩いていわく、

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(訳者注35)僧侶が論議の時に手にとる棒。
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仲ゼン 止みなん 止みなん 説くべからず 我が法は妙にして思い難し(注36)。

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(訳者注36)法華経 方便品中の文。
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たちまち、慈慧の体から発していた大光明は消滅し、もとの姿に戻った。

これを見た藤原氏の公卿らは、

藤原氏メンバー一同 やっぱしなぁ、うちの氏寺、興福寺はんの法相宗が最高やでぇ。

このような、高慢な心を起して御所を退出しようとした彼らが、門外で目撃した不思議、それは一匹の牛のヨダレであった。

門外に繋がれた車を引く牛が、舌をたれヨダレでもって、門下の石だたみの上に、何かを描いていた。

見れば、一種の和歌がそこに。

 こころ(心)無い くさき(草木)さえほとけ(仏)に なれるとは こころ(心)有るみ(身)には 嬉しいかぎり

 (原文)草も木も 仏になると 聞(きく)時は 情有身(こころあるみ)の たのもしき哉(かな)

これすなわち、「草木成仏」の証歌。

というわけで、この日の宗論は引き分け、仲ゼン、慈慧、いずれを勝劣とも定めがたかった。

それもそのはず、仲ゼンは千手観音(せんじゅんかんのん)の化身、慈慧は如意輪観音(にょいりんかんのん)の化身であったのだから。その智慧と弁才、言説、いずれを取っても相手にひけを取るはずがない。まさに、かの中国の好敵手、雲間の陸雲が日下の荀隠と初めて相対した時もかくのごとくであったのだろうか。

かくして、「天台と法相、ともに仏教八宗の最頂たるべし」と決せられ、共に面目を施したのであった。
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中院通冬 このように、宗教論争も過去に色々と行われてまいりました。さて、問題の天台宗と禅宗間の仏教の正統争いですが。

中院通冬 そもそも、天台宗の法脈相承(ほうみゃくそうしょう)は、獅子尊者(ししそんじゃ)の時に、いったん途絶えてしもぉたんですよ。そのはるか後、唐王朝の大師・南山慧思(なんがくえし)が天台宗を復興し、以降、智顗(ちぎ)、章安灌頂(しょうあんかんじょう)、妙楽(みょうらく)が、自解仏乗(じげぶつじょう)の智を得て、金口相承(きんくそうしょう)を絶やさず続けてきたというわけで、天台宗はまさにこれを根拠として、自らを「正統仏教である」と主張しているわけでして。

中院通冬 この「金口相承」、まさに釈尊が教えたもうた事をそのままに、師から弟子へと相承してるんやという事らしい・・・まことに奇特な事ですわな。しかし、禅宗側はこれを、「釈尊からの直々の相承やなんて、確たる証拠もないくせに、えぇかげんな事言うとるわい」と批判してますわ。

中院通冬 一方の禅宗の側の「正統仏教」なる主張の根拠は、といいますと・・・。

中院通冬 ブラーフマ(注37)の願いを受けて、トウリ天において釈尊がご説法をされました時、花を手に取り、それを拈(ねじ)って見せられました。みんな、「いったいなんで釈尊は、あないな事をしはったんかいなぁ」と、首をかしげておりましたが、マハーカーシャパ(注38)のみ、その意味を覚り、ニッコリ笑った、という故事があるのです。これを「拈花瞬目の妙旨(ねんげしゅんもくのみょうし)」といいましてな、ま、いわば、「拈った花」というシンボルを使って、マハーカーシャパに対して、釈尊は以心伝心による法の伝達を行われた、という事ですかいなぁ。この教化が、禅宗の起源なんやと言うんですわ。

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(訳者注37)原文では「大梵王」。

(訳者注38)釈尊の十代弟子の一人。ズタ(欲を捨て去る行)第一と称せられた。第一回目の仏典結集(ぶってんけつじゅう)を主宰する等、釈尊入滅後の仏教の継承・発展に大いなる力を発揮した。
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中院通冬 ようは、禅宗の者らは、自らの正当性を、「釈尊からマハーカーシャパへ、そして、我らに伝えられた教え、それぞすなわち、禅宗なり」というテーゼでもって、主張しておるわけでしてなぁ。この「拈花微笑」の故事は、「大梵天王問仏決疑経(だいぼんてんのうもんぶつけつぎきょう)」に説かれておる話やと、禅宗の者らは主張しとりますわいな。

中院通冬 ところが、この経典、宋(そう)王朝の王安石(おうあんせき)が翰林学士(かんりんがくし)やった時に、秘して官庫に収めたんやが、その後どこぞに紛失してしもたんやと言うんですわ・・・。そこを他宗の者から鋭くつかれとりましてな、「そんな経典、ほんまにあったんかいやぁ?!」とね。

中院通冬 天台宗の側が禅宗を「あれは邪法や」と難じてきたからには、この際、以上に挙げたような宗教上の疑問点をも解明したいと、私は思います。そやから、ここはひとつ、禅宗、天台双方から高僧を召し合わせて、宗教論争を行わせてみては、いかがでしょう?

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坊城経顕、日野資明、中院通冬の順に述べられた三つの主張、いずれも是非は様々に分かれ、特失互いに備わっている。

閣議列席者P (内心)いやぁ、ほんまにこれは難しい問題やなぁ・・・わたいらみたいな下席のもんでは、こないな議論には、よぉついて行けへんなぁ。

閣議列席者Q (内心)考えれば考えるほど、誰の意見がベストが、さっぱり分からんようになってきてしもぉた。もうこないなったら、上席の方々に決めてもらうしかないなぁ。

全員、互いに顔を見合わせ、沈黙するばかりである。

二条良基(にじょうよしもと)いわく、

二条良基 八宗派分かれて、末流は道異なる・・・とはいうもんの、どの宗派の教えも、ライオンのごとき威厳をもって、自信をもって説かれた釈尊の教えに非ず、と、言うようなもんでもないんやろうなぁ・・・こちらの説を採り、あちらの説を捨てる、というようなすじあいのもんでは、ないんやろう。

二条良基 それになぁ、たとえ宗教論争をやらせてみたところで・・・天台宗は、「唯受一人の口決(ゆいじゅいちにんのくけつ)」、その教義の本当に深い所は、師資相承(ししそうしょう)、すなわち、師から弟子へ一対一でもって、口で伝えられていく。

二条良基 一方、禅宗はといえば、「没滋味の手段(ぼつじみのしゅだん)」。滋味を噛み砕いて弟子に教えていくような行き方ではなしに、難解な課題をいきなり与えて、自力でもって、それに必死で取り組ませる。

二条良基 ムリ、宗教論争なんてムリな話。双方に、互いに理を弁じ、奥義を談じさせてみたところでですよ、いったい誰が、その優劣を判断します? 双方の教義、その本質、わたいらのうち、いったい誰が、それを的確に理解できます?

閣議列席メンバー一同 ・・・。

二条良基 そらな、旧き良き時代であれば、マトウのように、虚空の中に立てる人もおりましょう、慈慧大師のように、即身成仏できる人かておりましょう。そやけどね、今は末世、見ての通りのこないな世の中ですやん・・・。如来の説きたもうた尊い教えも、この現代の宗教論争の場においては、いたずらなる詭弁に堕してしまう、ダルマ大師の精神でさえも、叫騒怒張(きょうそうどちょう)の中に埋没してしまうだけやないか・・・。

二条良基 宗教論争っちゅうもんはなぁ、そらもう、やっかいなもんやでぇ。こないな話を聞いた事がありますわ。

二条良基 釈尊のご入滅から1,100年の後、インドに、ダルマパーラ(Dharmapāla:護法)と, バヴィヤ(Bhavya:清弁)という二人の菩薩が現われたんやそうや。ダルマパーラは、法相宗の元祖(がんぞ)にして、「有相(うそう)の義」を談じ、バヴィヤは三論宗(さんろんしゅう)の初祖にて、「諸法無相の理(しょほうむそうのり)」を宣説した。(注39)

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(訳者注39)太平記のこの箇所の記述は、仏教に対する大きな誤解の方向へ、読者をミスリードする可能性が大と思う。これの詳細については、末尾の(訳者注46)に書いた。
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二条良基 双方の門徒は、互いの是非を論じ合っておった。そしてついに、ダルマパーラとバヴィヤはあいまみえ、「空か有か」の宗論を戦わせはじめた。

二条良基 議論は7日7夜続き、ともに、プンナ(注40)のごとき弁舌をもって、その智は三千世界を傾ける。二人の論戦を聞いて、無心の草木も随喜して時ならぬ花を開き、人を恐れる鳥獣も感歎しながら議論に聞き入り、その場を去ろうともせん。

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(訳者注40)仏教界ではよく、[富楼那(ふるな)]という表記で表現される。釈尊の十大弟子中の一人で、「説法第一」とされた人。
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二条良基 論争はついに終止符を打つことなく、双方の法理、互いに一歩も譲らへん。「こないなったら仕方が無い、56億7千万年の後、ミロク菩薩がこの世に出生したまう時に、再びあいまみえ、この論争に決着をつけよう」と言う事になり、ダルマパーラは、蒼天(そうてん)の雲を分かちて遥かトソツ天に上り、バヴィヤは、青山(せいざん)の岩をつんざき、シュラ洞窟に入った。

二条良基 その後、華厳宗(けごんしゅう)の祖師、法蔵(ほうぞう)が、中国の唐時代にこの「空か有か」の論争の内容を聞いていわく、

 「色即是空」と書いたならば、ダルマパーラの説いた「有」の主張にも通じていくし、
 「空即是色」と書いたならば、バヴィヤの説いた「空」の理論にも反しない。

このように主張して、双方の宗旨を、アウフヘーベン(aufheben:止揚)した、というんですわ。

二条良基 遠い昔の菩薩でさえも、宗教論争始めたら、かくのごとし。ましてや、この現代、末法の世に生きてる僧侶を招いて、宗教論争させてもなぁ・・・。

二条良基 それにやね、近頃は、国の事は、大きな事から小さな事まで、何事も幕府に決定させて、天皇陛下におかせられてもノータッチ状態。そやからね、延暦寺がどないな事を言うてきとるにしてもや、まずは幕府に諮問(しもん)してや、その返事を聞いてから、陛下の御聖断を仰ぐと・・・まぁ、これが無難なセンとちゃいますかいなぁ。

閣議列席メンバー一同 ・・・。(うなずく)

この意見、満場一致の同意を得て、その日の閣議は終了した。(注41)

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(訳者注41)「ここまでの議論、いったいナンやったん(なんだったのか)!」と、訳者としては言いたくなる。太平記原文に記載のこの閣議の議事録、これもまた史実ではないのかもしれない、フィクションかもしれないぞ、と自らに言い聞かせながらも・・・。

14世紀の日本において、すでに、現代にもあるこのような、「問題先送り」の精神構造が存在していたのか? いや、「問題先送り」ではなく、「問題幕府送り」か・・・。

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翌日、朝廷から足利幕府に対して、延暦寺(えんりゃくじ)からの抗議文を添えて、「これに対しては、いかが取り計らうべきか」との諮問(しもん)が行われた。

抗議文を見た足利兄弟は、

足利直義(あしかがただよし)まったくもう! 延暦寺の連中ときたら!

足利尊氏(あしかがたかうじ) うーん・・・今回の天龍寺(てんりゅうじ)での法要に対して・・・いったいぜんたいどうして、こんなケチをつけてくるんだろう?・・・いったい何が、気に食わないって言うんだぁ?・・・分からんなぁ・・・。

足利直義 天龍寺を建立し、そこの僧侶たちを尊んだとて、それでいったい、延暦寺にどんな損害が及ぶってんでしょうかねぇ! べつに、延暦寺の領地を取り上げようとしてるわけでもないでしょ、衆徒を煩わすような事を強いてるわけでもないでしょ、ただ単に、朝廷と幕府と共同で、仏法に帰依しての大法要を営もうってだけの事じゃないですか!

足利尊氏 ・・・同じ仏教徒どうしなんだもんなぁ・・・天龍寺の法要を、共に喜んでくれたっていいじゃぁないのぉ・・・。

足利直義 そうですよ! なのに、ジャマばっかりして! まったく理解に苦しむなぁ。

足利尊氏 ・・・彼ら・・・言い分が聞き入れないとなったら・・・またまた例のごとく、御輿(みこし)をかついで押し寄せてくるんだろうなぁ・・・どうする?

足利直義 兵を出動し、彼らが京都へ乱入してくるのを、防ぎ止めるまで!

足利尊氏 ・・・ふーん・・・もしも、道中に神輿(しんよ)を振り捨てていったら?

足利直義 京都内のそこら中に、延暦寺に関係の金融業者がたぁくさんいますからねぇ、そこからちょいとばかり金、出させて、新しい神輿を作らせたらぁ?(注42)

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(訳者注42)原文では、「京中にある山法師の土蔵を点じ、造替させんに何の痛みか可有」。
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足利尊氏 ハハハハハ・・・そりゃぁいいな。

足利直義 「こんな根拠のない理不尽な抗議など一切相手にせず、天龍寺において荘厳なる供養法要を執行すべきです」と、朝廷には、このように回答申し上げておこうと思います。それでよろしいですよね?

足利尊氏 うん。

「幕府より、かようの回答がなされた。朝廷においても、それに対しては一切異議は無し。」との厳重なる決定により、例の抗議文は廃棄処分となってしまった。

延暦寺の衆徒たちは、完全に面目を失い、空しく比叡山に帰っていった。

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延暦寺三千の衆徒たちの、怒りは頂点に達した。

衆徒一同 強訴(ごうそ)やぁーーー!

康永(こうえい)4年8月16日、彼らは、比叡山(ひえいざん)上の三社の神輿(しんよ)を、根本中堂(こんぽんちゅうどう)に上げ奉った。

八坂(やさか)と北野(きたの)の両社の門は閉ざされ、獅子舞や田楽舞を舞う法師や、神社に勤務する者たちまでもが大挙して、延暦寺に集合してきた。

比叡山上、老若問わず、異常な興奮状態になっている。

延暦寺衆徒リーダーR 朝廷からも幕府からも、我々の意向は完全に無視されてしもぉたぞ!

延暦寺衆徒リーダーS わが寺にとっての、非常時や、非常時や!

延暦寺衆徒リーダーT 今まさに闘いの時来る! ここをどう闘い抜くかで、わが寺の将来は決まるぞ!

延暦寺衆徒リーダーU しかし・・・。

延暦寺衆徒リーダーR 「しかし」? いったいなんやねん!

延暦寺衆徒リーダーS いったい何がいいたいねん?!

延暦寺衆徒リーダーU 強訴するには、これだけでは人数、足らん!

延暦寺衆徒リーダーV 言われてみれば、なるほどその通り。末寺にも動員をかけようやないか。

延暦寺衆徒リーダーT 他宗の本山にも、応援要請やな。

というわけで、同月17日、劔神社(つるぎじんじゃ:福井県・丹生郡・越前町)、白山神社(はくさんじんじゃ:福井県・勝山市)、豊原寺(といはらじ:福井県・坂井市)、平泉寺(へいせんじ:福井県勝山市)、書写山円教寺(しょしゃざんえんきょうじ:兵庫県・姫路市)、法華寺(ほっけじ:奈良県・奈良市)、談山神社(たんざんじんじゃ:奈良県・桜井市)、内山永久寺(うちやまえいきゅうじ:奈良県・天理市)、日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ:栃木県・日光市)、太平護国寺(たいへいごこくじ:滋賀県・米原市)他、末寺末社370余箇所へ動員をかけた。

同月18日、東大寺、興福寺、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市)に対して、連盟結成の勧誘文を送った。

以下に紹介するのは、興福寺へのそれである。

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延暦寺よりの連盟結成勧誘の状
 興福寺宗務局御中

先例にならい、貴寺に対して、我らここに、連盟結成の訴えを送るものなり。天龍寺供養の儀を停止すると共に、禅宗の興行を断絶せしめられらん事を、我らはここに主張する。

貴寺と我が寺とは古来より、仏教究極の真理の日月(にちげつ)を共に戴き、教えの門を広く開いて、無尽蔵の福徳の貯蔵庫たる大聖釈尊(たいせいしゃくそん)のみ教えの源流から、互いに仏智(ぶっち)の水を汲みあってきた。

都よりの距離の遠近の違いを越えて、皇室安寧(こうしつあんねい)の為に、仏法擁護(ぶっぽうようご)の為に、常に力を合わせ、功を同じくし、真理を全うしてきて、歳月幾久しいものがある。また、邪なる宗教を退治し、教法を乱す者を掃討する事においても、古より今日に至るまで、両寺は決して怠る事がなかった。

朝廷を扶翼(ふよく)し、政道を修整(しゅせい)する必要が生じた際には、貴寺と当寺とは盟を合してそれを行い、聖君明王(せいくんめいおう)の叡願(えいがん:注43)を受けた時には、尊神霊祇(そんしんれいぎ)に祈りを捧げて、その成就に尽力してきた。

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(訳者注43)天皇が神仏に願をかけること。
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国家の安危の時や政局の緊迫の時に、貴寺と我が寺は、この上ない大きな力を発揮してきた、これは、誰しも否定することのできない、厳然たる事実なのである。

しかるに昨今、禅宗の興行(こうぎょう)天下に喧(かまびすし)く、ただ座禅だけを頼りにして経文の研究を一切顧みようとせぬ輩(やから)が、世に満ち満ちておる。この厭(いと)わしい風潮、まだ端緒(たんしょ)の段階にあるとはいえ、やがては天上界にまでも達するような大きな波涛と化する兆候を見せている。くすぶったる松明(たいまつ)の火とて、決して油断はならんぞ。ひとたび放置せば、たちまち燎原(りょうげん)の炎となり、野原を焼き尽くしてしまうであろうて。

正統仏教に連なる諸宗派・本寺本山の威光は、彼ら禅宗勢力によって、白日の下に空しく掩蔽(えんぺい)され、朝廷、公卿、幕府の面々における禅宗偏信(へんしん)の迷いの雲も、一向に晴れる兆しがない。今この時、禅宗に対して禁圧を加えなければ、諸宗の滅亡は必至!

伝えきく所によれば、昨年、大和国(やまとこく:奈良県)においては、貴寺の活躍により、片岡山達磨寺(かたおかさんだるまじ:奈良県・北葛城郡・王寺町)が速やかに焼き払われ、その住職は流刑に処せられたとか。

貴寺のその一大快挙からまだ1年も経過していないというのに、禅宗側はまたまたしょうこりもなく、天龍寺での供養法要などという、とんでもない行事を企画しておる。

我ら延暦寺が、それを黙って見すごすはずがない。朝廷に対して再三再四、その法要の中止を訴え続けてきたのだが、今月14日、院よりの回答があった、「今度の法要は、勅願寺での国営の体にはしないから、うんぬん」と。

あまりしつこく騒ぎ立るのもいかがなものか、ここはしばらく様子を見てみよう、ということで、こちらもしばらくは静かにしていた。ところがなんと、陛下からのお言葉、あっという間に裏を返すように変わってしまった、供養法要の形式、前よりもさらに盛大なものになってしまっておるではないか。なんと、「院に仕える者全員、上位者から下位者までこぞって、その法要に参座予定」ときた。

朝廷のご決定は、もっと、理にかなうものであるべきだ。「天下の政治においては、言葉をもって欺くべからず」と、声を大にして言いたい。

当寺は、朝廷から完全にコケにされてしまい、面目マルつぶれである! かような仕打ちを見たならば、朝廷のバックにおられる日本古来のヤオヨロズの神々でさえも、憤怒の念をいだかれる事であろう。

というわけで、我々は再び、朝廷に対して以下のように訴え申し上げ、しばしば、上皇陛下のお耳をも驚かしもうしあげた。

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 公卿以下の方々の天龍寺法要への参座を、取りやめとせられんこと
 上皇陛下の、法要への御参座、当日、翌日ともに、取りやめとせられんこと
 禅宗の布教を禁圧せんがために、以下の処分をなされんこと
  1 夢窓疎石(むそうそせき)を遠島流刑に処する
  2 天龍寺一寺に限らず、洛中洛外の禅宗の大小の寺院を、ねこそぎ破却する

 かくのごとくして、かのダルマの教えの足跡(そくせき)を永久に掃去(そうきょ)し、正しき仏教の法輪(ほうりん)弘通(ぐつう)を開かれんこと
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邪(よこしま)を排し、世に正法(しょうぼう)を確立する、これこそまさしく、仏教徒の努めではないか!

この趣旨に対しての貴寺よりの協賛を、我々は大いに期待する。事態がここまで進んでしまった以上、いまさら、後ろをふりかえる余地は無い!

この連盟結成の勧誘を貴寺が受け入れてくれたならば、我々は朝廷に対して、以下のような宣言を発する予定である。

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 1 延暦寺衆徒がかつぐ比叡山・日吉社(ひえしゃ)の神輿と、興福寺衆徒がかつぐ春日大社(かすがたいしゃ)の御神木、双方機を一(いつ)にして、堂々の京都入洛を果たした後、

 2 藤原氏の中の、天龍寺供養法要の諸役を務めようとする者、および、当日の法要への参座要請を受諾した公卿らを全員、法要の執行前に、藤原氏から排除せしめる。

 3 それでもなお、あえて法要に参座しようとする者がいるならば、延暦寺、興福寺より、事務方、社家の神人(じんにん:注44)、公人(くにん:注45)らをそれらの者の家に遣わし、苛烈なる処分を加える。

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(訳者注44)神社に使える人々。

(訳者注45)寺の雑役に携わる人々。
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貴寺への我らからの提案、以上の通りである。速やかなる衆議をつくしていただくことを希望する。

過去の前例のごとく、「この連盟提案、受諾した」とのご返報を頂けたならば、南の興福寺と北の延暦寺、両門の合力により、天下は太平となり、両寺の一致協力は、わが国の未来長久を約束するものとなるであろう。

貴寺と当寺、過去において、トラブルが全く無かったとまでは言わない。朝廷において宗旨を論じあった際には、「一つ屋根の下での兄弟げんか」のごとき様相を呈したような事もあった。しかし、もとはといえば同じ仏教を信ずる者どうしではないか、この危急の事態にあたっては、呉越同舟(ごえつどうしゅう)の志を共にすべきではないだろうか。「緊急事態に臨んでは、過去の細かいことには、こだわらず」の姿勢を早急に整えていただき、「義を見ては、すなわち勇む」の歓声を速やかに聞きたいものである。

我々よりの連盟結成勧誘の状、以上の通り。

康永4年8月日。
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延暦寺が興福寺に連盟結成の勧誘を行ったと聞き、院に使える藤原氏の諸卿らは、「興福寺からの返答が発せられる前に、早いとこ、事態を収拾せんとあかん!」ということで、院にやってきて光厳上皇に訴えた。

院の近臣W 昔から、延暦寺の訴訟ちゅうもんは、道理の通らん事でも道理にかなった事であるかのように強弁する、そういうのんが非常に多かったです。ただし、今回の彼らの言い分、もっともと思えるフシがないでもないですわ。

院の近臣X 天龍寺での法要・・・仏事を行い、僧や法を尊ぶのんも、たしかにえぇ事には違いありません。そやけど、それを執行した結果、天下が太平に保たれた、という事になってこそ、法要執行の意義がある、と言えませんでしょうか?

院の近臣Y やれ神輿や神木が京都に入ってくる、やれ興福寺や延暦寺の衆徒らが強訴に押し寄せてくる・・・幕府が何と言おうとも、そないな騒ぎになったんでは、法要も無事に済みませんやろて。

院の近臣W そないな結果になってしもうたんでは、上皇陛下のみ心も、徒(あだ)になってしまうんとちゃいますやろか?

院の近臣X 陛下、ただただ速やかに、ご聖断あそばされまして、衆徒の訴えをなだめられました後に、お心安く大法要を執行されてと、こないな風に、段階を踏んでやっていかれた方が、えぇのんちゃいますやろか?

このように様々に申し上げたので、

光厳上皇(こうごんじょうこう) そうやなぁ・・・近頃のわが国、ほんまに乱れてしもてて、一日も気の休まる時がない・・・その上にまだ、興福寺や延暦寺が、神輿や神木を持って京都に押し寄せてきてもて、衆徒らが鬱憤を晴らして怒り狂う、てな事になってしもぉたら、これまた、どんならんわなぁ。

というわけで、諸事を曲げて、以下のような院宣(いんぜん)が下された。

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上皇陛下におかせられては、先日よりの勅願の義を停止せられる事となった。当日の法要参座は見合わされ、仏様との御結縁(ごけちえん)の為に、その翌日、天龍寺に御幸せられる。
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これにより、ようやく延暦寺の衆徒らも気がおさまって静かになり、神輿はたちまち元の場所に還った。京都の警護に当たっていた武士たちもみな、馬の腹帯を解き、延暦寺の末寺末社の門戸は再び、参詣の道を開いた。

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(訳者注46)
私は、学校での理科等の学習によって、物、物質について、いろいろな事を学んできた。その結果、

 [モノ(物、物質)が 有る(存在する)」

という文の意味を、ある程度は、理解することができるようになっている。(哲学的に、厳密なレベルの理解でなくとも、少なくとも、日常生活に支障をきたさないレベル程度には)。

更に、私は、学校での物理の学習によって、[電波]というモノが、我々の周りを飛び交っていることを学んだ。その結果、

 [人間の目では見ることができないモノ(物、物質)が 有る(存在する)」

という文の意味を、ある程度は、理解することができるようになっている。

私は、学校での理科等の学習によって、[真空(状態)]ということを学んだ。その結果、

 [モノ(物、物質)が 無い(非存在)」

という文の意味を、一応は、理解することができるようになっている、とは思っている。

ところが、

 「電波は、真空の中でも、伝わっていく。だからこそ、人間が月に着陸した時の映像を、地球上で見ることができたのだ。」

という文を見ると、「あれっ」と思ってしまう。

 [モノ]が一切無い[真空]の中を、いったいなぜ、[電波]という[モノ]が、伝わっていけるのだろうか?

[有]と[無]という概念に関しての、私の理解のレベルは、未だにこの程度のものである。

それでも、日常生活には支障をきたしてはいない。「圏外」の表示が出ている場所においては、携帯電話用の電波が[無]の状態であることくらいは、理解できる。だから、そのような場所で電話をかけるような事はしない。

このような状態の所に、

 法相宗:有相
 三論宗:無相

と言われてみても、理解しがたいし、無理して理解しようとすれば、誤解するおそれが大いにある。

(例えば、法相宗=唯物論、三論宗=虚無主義、といったような誤解)

薬師寺(奈良県・奈良市)の公式サイト中に、以下のような趣旨の事が書かれている、(薬師寺は、法相宗の寺院なのだそうである)。

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[法相宗]は、インドにおいて、
 マイトレーヤ(Maitreya:弥勒)、
 アサンガ(Asaṅga:無著)、
 ヴァスバンドゥ(Vasubandhu:世親)
によって大成され、 
 ダルマパーラ(Dharmapāla:護法)
等によって発展した。

玄奘によって、インドから中国に伝えられた。

その後、中国に留学した、
 道昭、智通、智達、智鳳、智鸞、玄昉によって、日本に伝えられた。

[法相宗]は、別名[唯識宗]とも呼ばれるように、以下のように、全てのモノとコトの存在の様を説く:

 我々の心の深層(奥)には、[阿頼耶識(あらやしき)]と[末那識(まなしき)]という深層意識がある。

 [一切法]は、[阿頼耶識]に蔵する[種子(しゅうじ)]から転変されることにより、存在する。([唯識所変(ゆいしきしょへん)]。
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[一切法]とは、私が想像するに、[all 法](全ての法)という意味であろう。

仏教界においては、[法](dhárma)は、様々な意味を持っているようだが、上記で用いられている[法]はおそらく、[存在するモノとコト]という意味で用いられているのであろう。

原子や素粒子は、dhármaなのであろう、電波も、dhármaなのであろう、「あぁ、今日はシンドイ一日やった」という[思い]も、dhármaなのであろう。「元気が湧いてきた」の[元気]も、dhármaなのであろう。

薬師寺の公式サイト中には、以下のような記述もある:

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 「つまり私達の認めている世界は総て自分が作り出したものであるということで、十人の人間がいれば十の世界がある(人人唯識[にんにんゆいしき])ということです。みんな共通の世界に住んでいると思っていますし、同じものを見ていると思っています。しかしそれは別々のものである。・・・」
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余談だが、ここで、一つの疑問が湧いてきた。

 「我々の心の深層には、[阿頼耶識]と[末那識]という深層意識がある。」
 という考え(考える行為)(以降、これを、[dhárma-A]と略記する)

これもまた、一つの、[dhárma]なのであろうか?

もしもそうであるのならば、どうもワケが分からない話になってくる。なぜならば:

 [一切法]は、
 [阿頼耶識]に蔵する[種子]から
 転変されることにより、
 存在する。

と、[法相宗]ではしている。(上記で見た通り)

[dhárma-A]は、[一切法]の中に含まれる。([一切法]とは、[一切のdhárma]の意なのであろうから)

よって、

 [dhárma-A]([一切法]の中に含まれる)は、
 [阿頼耶識]に蔵する[種子(しゅうじ)]から
 転変されることにより、
 存在する

ということになる。

上記の文を、略記を用いずに書き直すと、以下のようになる。

 「我々の心の深層には、[阿頼耶識]と[末那識]という深層意識がある。」という考え(考える行為)(=[dhárma-A])は、
 [阿頼耶識]に蔵する[種子]から
 転変されることにより、
 存在する

なんだか、ワケの分からない話になってしまったような感じがするのだが・・・。

一方、[三論宗]について、ネットで調べてみた結果、以下の事が分かった:

========
[三論宗(さんろんしゅう])は、中国において、隋王朝の時代に、[吉蔵]によって大成され、高句麗から日本に渡来した[慧灌(えかん)]により、日本に伝えられた。

[三論]の名は、[中論]、[百論]、[十二門論]という3個の[論]を、教義の中心に置く事によっている。

[中論]と[十二門論]の著者は、ナーガールジュナ(Nāgārjuna:龍樹)。
[百論]の著者は、アーリヤデーヴァ(Āryadeva:提婆)。

奈良時代に、[元興寺]と[大安寺]が[三論宗]の中心寺院となり、[南都六宗]のうちの一つとして興隆するも、その後、衰退して現在に至る。
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(仏教界の言語においては、[論]とは、[仏教の解説書]を意味するようだ。)

太平記中に登場する[バヴィヤ」については、

[仏教の思想 3 空の論理<中観> 梶山 雄一 上山 春平 著 角川ソフィア文庫] の179P~180Pには、以下のようにある:

 「ブッダパーリタを非難したバヴィヤは、中観思想をインド論理学の形式をもって解説するという前者と同じ意図をもちながら、こんどは定言論証式をその方法として主張したのである。」

同書の187Pには、以下のようにある。

 「以上見てきたように、ナーガールジュナの論理を定言論証式に書き換えるというバヴィヤの努力は、帰謬法を武器としたブッダパーリタの努力ともども不成功に終わってしまった。」

 「・・・したがって『中論』の論理は形式論理によってではなく、これを弁証法として理解すべきものであろう。」

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月 4日 (日)

太平記 現代語訳 24-2 夢窓疎石、後醍醐先帝の鎮魂の為に天龍寺建立を提言

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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武士階級の人々が諸国の領地を横領していくのも、軍用の出費をまかなうために止むを得ず、というのであれば、致し方無しと言えるのかもしれない。しかし、その実態を見れば、とてもそのようには思えない。

下らないばさら趣味にうつつをぬかし、身にはきらびやかな衣服を纏(まと)い、食においては最高級のグルメを堪能(たんのう)。茶会や酒宴に膨大な金を費やし、美女や田楽(でんがく)ダンサーには、野放図(のほうず)に財を与える。それゆえ、国家は費(つい)え、人民は疲弊し、飢饉や疫病、盗賊、兵乱の止む間もない。

これは決して、天災ではない、人災である!

この国に、まともな政治がなされていないゆえに、このような惨禍がもたらされているのである。なのに、誰もそれに気がつかない。

あぁ、今の日本には愚か者ばかり、正しき道を知る人など、一人もいなくなってしまった。乱れきった国家の現状を見て、それを己(おのれ)の不徳の至らしめるところと観じ、強い自責の念をいだこうとする者など、ただの一人もいないではないか!

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夢窓疎石(むそうそせき) わが国の現状を見るにつけ、つくづく思うのですが・・・。

足利直義 はい。

夢窓疎石 人間の力をもってして、天災を除く事は不可能。

足利直義 ・・・。

夢窓疎石 この災、どうも、南の方からやってきているようで・・・。

足利直義 南?

夢窓疎石 吉野(よしの)。

足利直義 ・・・。

夢窓疎石 吉野の先帝(注1)は、御崩御の時、様々な悪相を現されたとか・・・。

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(訳者注1)後醍醐天皇のこと。
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足利直義 ・・・。

夢窓疎石 先帝の神霊(じんれい)の、おん憤りが深いがゆえに、国土に災を下し、社会に禍がもたらされていると、私は思います。

足利直義 ・・・。

夢窓疎石 先日、6月24日に夢を見ました。

足利直義 はい・・・。

夢窓疎石 先帝がおでましになられ・・・輿に乗っておられて・・・亀山離宮(かめやまりきゅう:京都市・右京区)にお入りになられた。

足利直義 ・・・。

夢窓疎石 それから間もなく、先帝はご崩御。

足利直義 ・・・。

夢窓疎石 その後、先帝は時々、金色の龍に乗り、大堰川(おおいがわ:右京区・嵐山)の河畔を逍遥しておられ。

足利直義 ・・・。

夢窓疎石 あのあたりは、昔、壇林皇后(だんりんこうごう:注2)がお寺を建てられた、いわくある霊地です。どうでしょう、あそこにしかるべき寺院を建立されて、先帝の菩提を弔われては・・・。必ずや、日本は良い方向に・・・。

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(訳者注2)嵯峨天皇の后。
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足利直義 なるほど。

夢窓疎石 こういう事は、昔からもよくやってきた事。菅原道真(すがわらのみちざね)公の聖廟(せいびょう)には、朝廷より官位を贈り、保元の乱の敗者・藤原頼長(ふじわらのよりなが)にも、その死後に官位を贈った。讃岐院(さぬきのいん:注3)、隠岐院(おきのいん:注4)にも、尊号を謚(おくりな)し奉り、その御座所(ござしょ)を、京都に遷しまいらせた。その結果、それらの人々の怨霊(おんりょう)はみな静まり、ついには、国家鎮護の神とならせたもうたのです。

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(訳者注3)崇徳上皇(すとくじょうこう)の事である。保元の乱に敗れ、讃岐(香川県)に流罪となり、そこで亡くなった。上田秋成著の「雨月物語」に、「白峯」という素晴らしい小説があるのだが、墓前を訪れた西行の前に、上皇が怨霊となって現れる凄絶なシーンがある。

(訳者注4)後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の事である。鎌倉幕府打倒を目指すも、承久の乱に敗れ、隠岐島に流罪となった。一流の歌人で、新古今和歌集のプロデューサーでもある。
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足利直義 国師殿のお言葉、まことにごもっとも。兄上には、私からお勧めしてみましょう。

直義から話を聞いた足利尊氏(たかうじ)も、この提言に積極的に賛同。

すぐに、「夢窓国師を開山とし、一寺を建立せよ」との命が、光厳上皇(こうごんじょうこう)より足利兄弟へ下された。亀山殿の跡地が寺の用地に割り当てられ、安芸(あき:広島県西部)と周防(すおう:山口県南部)2か国よりの税収の全額が、寺院建立の費用に充てられることとなった。

天龍寺(てんりゅうじ:右京区・嵐山)は、このような経緯によって、建立されたのである。

建立の為のさらなる費用捻出のため、様々な資材を積み込んで中国へ貿易船を出したところ、極めて有利な売買が成立し、膨大な利益を得る事ができた。(注5)

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(訳者注5)歴史学の世界では、これは、[天龍寺船]と呼ばれている。
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遠方からの材木運搬にもかかわらず、海上輸送は非常に円滑に行き、順風にも恵まれた。まさに、この寺院の建立を、天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)は随喜し、仏法守護の諸天善神(しょてんぜんじん)も、寺院建立の志を納受(のうじゅ)せられたものと見える。

このようにして、仏殿(ぶつでん)、法堂(はっとう)、庫裏(くり)、僧堂(そうどう)、山門(さんもん)、総門(そうもん)、鐘楼(しゅろう)、方丈(ほうじょう)、浴室(よくしつ)、輪蔵(りんぞう)、雲居庵(うんごあん)等、70余個の寮舎、84間の廊下まで、不断の努力のかいあって、見事に完成した。

夢窓は、天性の芸術家でもあった。水や石を愛し、池の上に揺らぐ浮き草を見つめて時のたつのを忘れてしまい、というような人。我が意を得たりとばかりに、水と山を縦横に駆使して、様々の景観を寺内に造りあげていった。

夢窓疎石 (内心)この山門、普明閣(ふみょうかく)と名付ける。この世の衆生を救わんがため、仏様・菩薩様が、姿を変えて出現されたそのお姿を象徴。

夢窓疎石 (内心)この祠(ほこら)は、「霊比廟(れいひびょう)」。八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)様が人間界と交わるために、その御霊(みたま)を現された場所。

夢窓疎石 (内心)天心秋を浸(ひた)す曹源池(そうげんち)、金鱗(きんりん)尾を焦がす三級岩(さんきゅうがん)、真珠あぎとを磨く龍門亭(りゅうもんちん)、神仙が住まう三山を捧げる亀頂塔(きちょうどう)、雲半間(うんはんけん)の萬松洞(まんしょうとう)、もの言わずして笑いを開く拈花嶺(ねんげれい)、声無くして音を聞く絶唱渓(ぜっしょうけい)、天の川にかかる橋、号して渡月橋(とげつきょう)。

この十景にさらに加えて、石を集めては霞に包まれた山の風景を借景にして庭を造り、樹木を植えては風の音をそこに移す。慧崇(えそう)の雨の絵、韋偃(いえん)の山水の絵でさえも表現できなかったような風流である。

康永(こうえい)4年に、全ての堂宇が完成し、この寺は京都五山(きょうとござん)の第2位に列せられた。以来、朝廷、公家、武家より、祈願や祈祷の拠所(えしょ)として厚く遇せられ、1,000人の僧侶が住む大寺院となった。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月 3日 (土)

太平記 現代語訳 24-1 京都朝廷、財政危機により朝廷の諸行事を行えず

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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年号が暦応(りゃくおう)に変わった頃から(注1)、日本の内乱もしばらくは静まり、天下太平となった。しかし、京都の人々の暮らしにおいては依然として困窮状態が続いており、改善の兆しは一向に見えてこない。

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(訳者注1)ユリウス暦1338年10月11日に、 京都朝廷は、[建武]から[暦応]への改元を行った。
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国府(こくふ:注2)も荘園の主も、領地からの収入激減に悩み、国への税や年貢の輸送も滞ってしまっている。朝廷は日に日に衰微し、そのの行事も悉く廃絶、日本の政治は今や、どん底まで落ちてしまった。

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(訳者注2)地方の行政庁。中央から派遣された国司(または国司代)が、そこで政務を執行した。
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古よりこの方、日本の国家権力の頂点に天皇は君臨し、万機の政(まつりごと)を行い、四海(しかい)を治めてきた。その年中行事はといえば:

1月

元旦午前4時、[天地四方拝(てんちしほうはい)]を執行、その後、[屠蘇白散(とそびゃくさん)]、、[群臣の朝賀(ちょうが)]、[小朝拝(こじょうはい)]、[七曜の御暦(しちようのごりゃく)]、[腹赤の御贄(はらかのみにえ)]、[氷様(ひのためし)]、[式部省(しきぶしょう)と兵部省(ひょうぶしょう)よりの内外官の補任帳呈上(ほにんちょうていじょう)]。

立春の日には、[主水司(もんどつかさ)よりの春の水の献上]。

子(ね)の日の[若菜(わかな)]、卯(う)の日の[御杖(みつえ)]、[視告朔(こうさく)の礼]]、[中春両宮(ちゅうとうりょうぐう)の御拝賀(ごはいが)]。

5日、[東寺の国忌(とうじのこっき)]、[叙位の議白(じょいのぎびゃく)]。

7日、兵部省(ひょうぶしょう)の[御弓の奏(おんゆみのそう)]、[白馬節会(あらうまのせちえ)]。

8日、[大極殿(だいごくでん)御斎会(みさいえ)]、[真言院(しんごんいん)の御修法(みしほ)]、[太元の法(たいげんのほう)]、[諸寺の修正(しゅしょう)]、[女叙位(にょじょい)]。

11日、[外官の除目(げかんのじもく)]。

14日、[殿上の内論議(てんじょうのうちろんぎ)]。

15日、[七種の御粥(ななくさのみかゆ)]、[宮内省の御薪(みかまぎ)]。

16日、[踏歌の節会(たうかのせちえ)]、[秋冬の馬料(あきふゆのめりょう)]、[諸司の大粮(しょしのおおがて)]。

17日以降、[射礼(じゃれい)]、[賭弓(のりゆみ)]、[年給の帳(ねんきゅうのちょう)]、[神祇官の御麻(じんぎかんのみぬさ)]。

晦日(つごもり)、[巫(みかんなぎ)御贖(おんあがもの)を奉る]、[院の尊勝ダラニ]。

2月

上の丁(ひのと)の日、[尺尊(しゃくそん)]

上の申(さる)の日、[春日祭(かすがのまつり)]。

その翌日、[卒川祭(いさがわのまつり)]。

上の卯(う)の日、[大原野祭(おおはらののまつり)]

上記以外に、[京官の除目(きょうかんのじもく)]、[祈年の祭(きねんのまつり)]、[三省考選の目録(さんしょうこうせんのもくろく)]、、[列見の位録(れっけんのいろく)]、[季の御読経(きのみどっきょう)]、[仁王会(にんのうえ)]。

3月

3日、[御節句(ごせっく)]、[御灯(ごとう)]、[曲水の宴(きょくすいのえん)]。

7日、[薬師寺(やくしじの)最勝会(さいしょうえ)]、薬師寺(奈良県)で最勝王経が講じられる。

上記以外に、[石清水(いわしみず)の臨時の祭]、[東大寺(とうだいじ)の華厳会授戒(けごんえじゅかい)]、[鎮花祭(はなしずめまつり)]。

4月

1日、[告朔(こうさく)]、[掃部寮(かもんりょう)冬の御座を徹して夏の御座を供ず]、[主水司(もんどずかさ)始めて氷を献る]、[兵衛府(ひょうえのふ)御扇(みおうぎ)を進(たてまつ)る]。

5日、[中務省(なかつかさしょう)妃(ひ)・夫人(ふじん)・嬪(ひん)・女御(にょうご)の夏の衣服の文を申す]、[准蔭の位記(じゅおんのいき)]。

7日、[擬階の奏(ぎかいのそう)]。

8日、[灌仏(かんぶつ)]。

10日、[女官、春夏の時のかざり物の文を奏す]。

中の申(さる)の日、[国の祭(くにのまつり)]、[関白(かんぱく)の賀茂詣(かももうで)]。

中の酉(とり)の日、[賀茂(かも)の祭]、[男女の被馬(かざりうま)]。

下の子の日、[吉田(よしだ)宮の祭]。

上記以外に、[山科(やましな)]、[平野(ひらの)]、[松尾(まつお)]、[杜本(もりもと)]、[當麻(たいま)]、[當宗(まさむね)]、[梅宮(うめみや)]、[大神(おおわ)]、[広瀬(ひろせ)]、[立田(たつた)]の祭り、[内の弓場(ゆんば)の埒(らち)]、[斎(いつきの)内親王(ないしんのう)の御禊(みそぎ)]、[東大寺の授戒(じゅかい)の使(つかい)]、[駒牽(こまひき)]、[神衣(かんみそ)]、[三枝(さいぐさ)の祭]。

5月

3日、[六衛府、菖蒲丼(あやめ)に花を献(たてまつ)る]。

4日、[走馬の結番(はしりうまのつがい)丼家色(にけいろ)を奏す]。

5日、[端午(たんご)の祭り]、[薬玉御節句(くすだまのおんせっく)]

上記以外に、[競馬(くらべうま)]、[日吉(ひよし)祭]、[最勝講(さいしょうこう)]。

6月

[内膳司(ないぜんのつかさ)、忌火の御飯(いんごのごはん)を供ず]、[中務省、暦を奏す]、[酒造司(さけのつかさ)の醴酒(ひとよざけ)]、[神祇官(じんぎかん)の御体(みたい)の御占(みうら)]、[月次(つきなみ)]、[神今食(じんごんじき)]、[道饗(みあい)]、[鎮火の祭(ひしずめのまつり)]、[神祇官の荒世(あらよ)の御贖(みあかもの)を奏す]、[東西の文部(ひんひとべ)、祓(はらい)の刀を奏す]。

15日、[祇園(ぎおん)の祭]。

晦日、[節折(よおり)]、[大祓(おおはらい)]。

7月

1日、[告朔(こうさく)]、[広瀬、龍田(たつた)の祭りに向かう可し]、[五位の定め]、[女官の補任帳]。

2日、[最勝寺(さいしょうじ)の八講]。

7日、[七夕の乞巧奠(きっこうてん)]。

8日、[文殊会(もんじゅえ)]。

14日、[盂蘭盆(うらぼん)]。

19日、[尊勝寺(そんしょうじ)の八講(はっこう)]。

28日、[相撲節会(すもうのせちえ)]。

8月

上の丁(ひのと)の日、[尺尊(しゃくそん)]。

その翌日、[内論議]。

4日、[北野(きたのの)祭]。

11日、[官の定考(こうじょう)]、[小定考(ここうじょう)]。

15日、[八幡(やわた)の放生会(ほうじょうえ)]。

16日、[駒引(こまひき)]。

上記以外に、[仁王会(にんのうえ)]、、[季の御読経(きのみどっきょう)]。

9月

9日、[重陽の宴(ちょうようのうたげ)]。

11日、[伊勢の例幣(いせのれいのへい)]、[祈年(としこい)]、[月次]、[神嘗(かんなめ)]、[新嘗(にいなめ)]、[大忌風神(おおみかざかん)]

15日、[東寺の灌頂(かんじょう)]。

上記以外に、[鎮花(はなしずめ)]、[三枝(さいぐさ)]、[相嘗(あいなめ)]、[鎮魂(たましずめ)]、[道饗(みあい)の祭]。

10月

[掃部寮、夏の御座を徹して冬の御座を供す]、[兵庫寮(ひょうごのりょう)、鼓吹(つづみふえ)の声を発(おこ)し]、[刑部省、年終断罪(ねんしゅうたえづみ)の文を進(たてまつ)る]。

亥(い)の日、[三度の猪子(みたびのいのこ)]。

5日、[弓場始(ゆばはじめ)]。

10日、[興福寺(こうふくじ)の唯摩会(ゆいまえ)]。

上記以外に、[競馬(くらべうま)の負方(まけかた)の献物(こんぶつ)]、[大歌始(おおうたはじめ)]。

11月

1日、[内膳司、忌火の御飯(いんごのごはん)を供ず]、[中務省、暦を奏す]。

上記以外に、[神祇官の御贖(みあかもの)]、[斎院の御神楽]、[山科]、[平野]、[春日]、[森本(もりもと)]、[梅宮]、[大原野]の祭、[新嘗会(しんじょうえ)]、[賀茂の臨時の祭]。

12月

1日~18日、[内膳司、忌火の御飯を供ず]。

[御体の御占]、[陰陽寮、来年の御忌(おんき)を勘録(かんろく)して、内侍(ないし)にこれを進(たてまつ)る]、[荷前の使(にのさきのつかい)]、[御仏名(おんぶつみょう)]。

大寒の日、[土牛の童子(とごのどうじ)を立てる]。

晦日、[宮内省、御薬を奏す]、[大禊(おおはらい)]、[御髪上(みくしあげ)]。

晦日の夜、追儺の節会(ついなのせちえ)が行われる。

近衛兵が4隊に列なり、いずれの宮殿も、灯を焼き白日のような明るさ。美人は沈香を焚き、笙(しょう)を吹いて座す。

以上、朝廷の年中行事を、要約してみた。詳細に記すならば、あまりにも記載事項が多すぎて、車にも乗せることができなくなるであろう。

これらの行事はすべて、代々の聖主賢君(せいしゅけんくん)の、帝位を天より授かり、地にこれを奉じ、世を静め、国を治めるにあたっての肝要の重大事。これまで一度たりとも断絶する事が無かったのだが、近頃の国中の内乱によって、ついに一つの行事も行われなくなってしまった。仏法(ぶっぽう)も神道(しんとう)も朝儀(ちょうぎ)も節会(せちえ)も、何もかも無しの世の中になってしまったとは、まぁなんと、嘆かわしい事であろうか。

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月 2日 (金)

新作動画の発表 [鴨川、白川の鳥, ヒナも,京都市]

ユーチューブ上に、自らが制作した動画3個をアップロードしました。バックグラウンド音楽に、自作曲を使用しました。

下記でご覧になることができます。

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撮影地:[白川]の岸 京都市内
撮影時:2016年4月
バックグラウンド音楽:京都・白川沿いの道, Op.28

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撮影地:[鴨川]の岸 京都市内
撮影時:2018年1月
バックグラウンド音楽:人形たちが踊る, Op.26

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撮影地:[鴨川]の岸 京都市内
撮影時:2018年1月
バックグラウンド音楽:水琴窟 (すいきんくつ), Op.9

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私が制作した動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

https://creofuga.net/runw
ここをクリックしてください。

太平記 現代語訳 23-3 土岐頼遠、光厳上皇に対して乱暴狼藉

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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故・伏見上皇(ふしみじょうこう)の命日に、故上皇のかつての住まいで年忌を、ということになり、暦応(りゃくおう)5年9月3日、光厳上皇(こうごんじょうこう)は、伏見殿(ふしみでん:京都市・伏見区)へ御幸(みゆき)した。

この御殿は、贅をつくした造りであり、庭園には奇樹怪石が集められ、なかなか見所の多い屋敷であった。しかしながら、故上皇がこの世を去ってから既に久しい年月が経過し、かつての面影をどこにも止める事もなく、今や荒れ放題になってしまっていた。

光厳上皇 あぁ、ここの庭も、一面のススキ野になってしもぉたなぁ。

法要参座メンバーA ほんにまぁ、草が生いしげってもぉて、露深く・・・おぁ、草叢の中で鶉(うずら)が啼く声までしてますがな。

法要参座メンバーB 門の側にも、雑草がよぉけ生いしげってもぉて・・・門が草に隠れてしもてますなぁ。

萩の花を揺らす軒端の風に吹かれ、苔むした板間を眺めながら、上皇はしきりに溜息をついている。

光厳上皇 あぁ、床の上にまで、こないにビッシリと苔が。

法要参座メンバー一同 ・・・。

光厳上皇 ・・・(涙)。

法要参座メンバーA 陛下。

光厳上皇 あ・・・いや、なに・・・(涙を拭う)・・・ありし日の秋の事、つい思いだしてしもぉてなぁ・・・。(涙)

やがて、年忌法要の開式となった。

法要導師 ・・・いま、時はまさしく秋・・・この秋という季節、まことにもって、人にものを思わせる季節であります。秋の空、秋の風、秋の月、秋のススキ・・・見るもの、聞くもの、ことごとく、愁いを引き寄せ、悲しみを添えないものはありません。

法要参座メンバー一同 ・・・。

法要導師 この、「秋の心象風景」の中に、我々がひしひしと感得するもの、これこそがまさしく、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の本質なのであります。

法要導師 「光陰、人を待たず」と申します。人間の都合など一切おかまいなしに、我々のすぐ側を、時間は駆け足で通り過ぎていってしまいます。「無常」は足早に「人生」に追いすがり、速やかに「人生」を追い越していってしまうのです。

法要導師 その跡に残されるのは、「かつてはここに、一人の人間が生きていたんやなぁ」という事の追憶のみ・・・上下貴賎の差別なく、人間すべからく、時間の経過と共に、「過去の人」になっていってしまうんですねぇ・・・。

プンナ(注1)のごとき弁舌をふるっての数時間の導師の法話に、上皇はじめ、故伏見上皇づきの旧臣や学者たちはみな、涙を流し、衣服の袖を絞らんばかりである。

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(訳者注1)釈尊の十大弟子中の一人。「説法第一の弟子」と称揚された。
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このようにして、多くの儀式が順次執行され、やがて、秋の一日も暮れていった。

光厳上皇 さて、そろそろ帰るとしよかいなぁ。

法要参座メンバー一同 ハハッ。

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9月初旬の夜の月、出たかと思えば雲間に隠れ、大空には雁(かり)の鳴き声響き、伏見殿周辺の田園は、すでに農夫らの姿も無く、さびしく静まりかえっている。

松明(たいまつ)を灯しながらの還御(かんぎょ)となり、夜更け前に、京都市街地に到達。

上皇が乗る車が、御所を目指して東洞院(ひがしのとういん)通りをまっすぐ北に進み、間もなく五条通りとの交差点にさしかかろうとしたその時、前方に、樋口(ひぐち)通りを東からやってきた武士の一団が姿を現わした。

お伴メンバーC おいおい、あいつらいったい、どこの何もんや?

お伴メンバーD えらい大声で、歌ぉとるなぁ。

お伴メンバーE 相当、酔ぉとるみたいやで。

それは、土岐頼遠(ときよりとう)と二階堂行春(にかいどうゆきはる)の一行であった。彼らは、新日吉神社(しんひよしじんじゃ:東山区)の馬場で笠がけをして遊んだ後、芝生に座しての大酒宴に時を過ごして後の夜更、家路に向かう途中であった。

二階堂行春 ビーン、ビィビィビィビィットー ビーン、ビィビィビィビィーン・・・

土岐頼遠 ドンジャンジャンジャン、ジャジャジャン、ジャンジャン、ドンジャンジャンジャン、テケテケテケテケ・・・。

お伴メンバーC こらこらぁ! おまえら、どこのどいつや! この行列を何やと思ぉとるねん!

お伴メンバーD 無礼者めが! 馬から降りんかい!

二階堂行春 (内心)あっ・・・あれは皇室の車。御幸だ、こりゃいかん。

行春は、あわてて馬から飛び降り、その場にかしこまった。

ところが、土岐頼遠の方は、上皇の御幸とも気付かない。それに加え、彼は、最近上げ潮に乗りまくっている「時(とき)の人」、万事において己の思うがまま。馬をその場に止め、騎乗のまま、大声でわめき散らした。

土岐頼遠 なにぃ、「馬から降りぃ」だとぉ! この京都の町中で、わしを馬から下ろす事のできるヤツなんか、どこにもいるはずねえだが。そういうバカなことホザクおまえら、いったいどこのタワケじゃ? いっちょう、蟇目矢でも射てくれてやるでね。

これを聞いて、上皇側は怒り心頭。先懸け、護衛担当ら、全員集まって声々に叫ぶ。

先駆けE おまえはいったい、どこのバカモンじゃ?!

先駆けF 礼儀作法をわきまえとらんヤツちゅうのんは、ほんまに困ったもんやのぉ!

護衛G えぇい、頭(ず)が高ーい、頭(ず)が高ーい! こちらの御車(みくるま)の中のお方を、どこのどなたと、こころえおるか! おそれおおくも、院(いん)であらせらるるぞよ!(注2)

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(訳者注2)天皇を退位した後、前天皇は、「上皇(じょうこう)」と呼ばれた。退位後も、上皇が権力を保持している場合には、その政務を執る場所は、「院」と呼ばれた。

よって、[上皇]は、[身分・立場を表す概念]であり、[院]は、[場所を表す概念]である。

しかし、時間の経過と共に、[身分・立場を表す概念]と[場所を表す概念]は、しばしば連合する。例えば、「永田町」、「霞ヶ関」、「桜田門」。

これと同様に、[院]という語が、身分・立場を表す為に用いられ、なおかつ、場所を表す為にも用いられるようになる。

「ホワイトハウス」のように、[身分・立場を表す概念]と「建物の名称」が連合する場合もある。

このような、異なる概念の連合がなぜ起るのかは、心理学、言語学、脳科学の極めて興味深いテーマであるように思う。
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酒に酔った勢いであろうか、これを聞いて土岐頼遠は、

土岐頼遠 ワハハハハ・・・・なにぃ、「いん」だとぉ? 「いん」? 「いん」? はてさて、「いん」とはいったい何ぞや?・・・「いん」? 「いん」? 「いぬ」? ワハハハ・・・そうか、「犬(いぬ)」か! 「犬(いぬ)」が、その車に乗ってるんか・・・なるほど、ワハハハ・・・。

護衛G なな・・・なんと!

土岐頼遠 犬も歩けば、矢に当たる! 犬ならば、射て落してくれるでな。それっ、みんな、矢を浴びせろ!

頼遠とその部下らは、上皇の行列を包囲し、その周囲をぐるぐると馬を走らせながら馬上から、上皇の乗る車を的にして、ゲームのごとくに続々と矢を射掛けた。

後方から騎馬で続いていた西園寺公重(さいおんじきんしげ)は、これを見て、儀式用の太刀を抜き、馬を馳せてきた。

西園寺公重 なんちゅうムチャクチャなことを! はよ車走らせて、包囲、突破してまえ!

しかし、牛の縄を切られ、牛追いたちも散りじりに逃げ去ってしまい、お伴の公卿らもみな地上に倒されてしまい、御車めがけて浴びせられる矢を防ぐ者は一人もいない。車内の御簾の内にかけた垂れ幕もかなぐり落され、車軸から伸びる30本のスポーク中の数本が折れてしまい、ついに御車は、路上に転倒した。

まったくもって、あきれはてるばかりの光景である。

やがて、頼遠らは高笑いしながら、その場を去っていった。

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光厳上皇は、悪夢を見るような心地のまま、ただじっと車内に座している。公重が御前にやってきて、

西園寺公重 陛下、おけがは?

光厳上皇 おぉ、公重!

西園寺公重 大丈夫ですか?

光厳上皇 ・・・(涙)。

西園寺公重 ・・・。

光厳上皇 ・・・う、う、う(涙)。

西園寺公重 ・・・(涙)・・・ほんまにもう、最近の京都は・・・武士どもの思い上がり、無礼の至極・・・まったくもう、なんちゅうことでしょう・・・。

光厳上皇 ・・・う、う、う(涙)。

西園寺公重 陛下、さぁ、元気をお出しくださいませ。お天道(てんどう)さまと月輪(げつりん)が空にある限り、今夜あった事、何もかも、天はご覧になってます。まぁ、見ててごらんなさい、そのうちきっと、あいつらに天罰が下りますわいな!。

上皇も、少し心が慰まったのか、

光厳上皇 五条の天神(松原通西洞院)は、御幸が前を通ると聞いたら、社殿から出てきて路傍にかしこまるそうやな・・・。宇佐八幡(うさはちまん:大分県・宇佐市)の神は、勅使が出向するたんびに、威儀を正して勅使に回答を申すとか・・・。

西園寺公重 はい。

光厳上皇 そやけどなぁ、今は武士が天下を握っとって、まさに無礼の世。そやから、こないなムチャクチャな狼藉も、されてしまうんやなぁ・・・。あぁ、ほんまに世も末や、人間の習俗は乱れきって最悪になってしもてる。こないな世の中になってしもたんで、私も神のご擁護がいただけへんねんやろうなぁ。(涙)

御衣の袖を顔に押し当てている上皇の姿を見て、公重は涙にくれるばかり。

しかし、いつまでもここにじっとしているわけにもいかないので、牛飼いたちを数人探し出し、涙ながらの還御となった。

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当時の日本の政治は、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・足利尊氏(あしかがたかうじ)に代って、その弟・足利直義(ただよし)により、執行されていた。

一連の報告を聞いて、直義は激怒。

足利直義 ナニィ! 上皇陛下の御幸の車に、矢を射掛けただと!

側近の者H はい。

足利直義 なんという、けしからん事を!(怒)

側近の者一同 ・・・。

足利直義 このような無礼な振舞いは、外国にも例がないぞ。ましてや、我が国においては、前代未聞!

側近の者一同 ・・・。

足利直義 厳罰に処さねばならん! 三族皆殺し(注3)などでは済まん! 五刑(注4)に処してもまだ足りん! 即刻、下手人どもを逮捕! 車裂きに処すべきか、それとも、身体を千切りにして塩辛(しおから:注5)にしてしまうべきか、さぁ、どっちだぁ!

側近の者一同 ・・・。

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(訳者注3)中国・漢王朝の制度では、父方の親族、母方の親族、妻方の親族を「三族」とした。親族まで連座して処刑されるのであるから、これはすさまじい刑罰である。

(訳者注4)鞭打ち刑、棒打ち刑、徒刑(労役)、流刑、死刑。

(訳者注5)原文では、「醢(ししびしお)」。春秋戦国時代の中国の書物にはしばしば「処刑してその身体をシシビシオに・・・」の記述がある。孔子の弟子の子路も、この刑に遭った。
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これをきいた土岐頼遠と二階堂行春は、おそれをなして、自らの本拠地に逃げ下った。

「そく、追討軍をさしむけて退治すべし」と、幕府の会議は決した。

二階堂行春は、観念して首を伸べて上洛し、自分には一切咎が無い事を、様々に陳述した。

事件の詳細が次第に明らかになるにつれて、二階堂行春の罪が軽い事が判明し、死一等を減じて讃岐国(さぬきこく:香川県)への流罪となった。(注6)

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(訳者注6)とても気の毒な感じがする。たまたま、土岐頼遠と一緒にいただけなのに。頼遠の乱暴な行為を止めなかった、という事で、流罪になってしまったのだろうか。
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土岐頼遠は、いよいよ罪科遁れがたき事を悟り、本拠地の美濃(みの:岐阜県南部)にたてこもって謀反を起こそうと一族で決し、近隣の知人や親族に招集をかけ始めた。

幕府は、「急ぎ追討軍を下し、土岐を退治すべし」ということで、頼遠の甥の土岐頼康(ときよりやす)をはじめ一族の主なメンバーらに、土岐頼遠追討の将軍命令書(注7)を送った。

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(訳者注7)原文では、「御教書(みぎょうしょ)」。
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幕府のこの処置を見て、頼遠は謀反が不可能である事を悟り、前後策を検討した末、密かに京都へ上り、夢窓疎石(むそうそせき)を頼った。

夢窓疎石は、その高い徳のゆえに日本国中に盛名をとどろかしており、公家、武士を問わず、たぐいまれなる尊崇を広範囲に渡って集めていた。彼は何とかして土岐頼遠を救おうと思い、足利直義邸に向かった。

夢窓疎石 ・・・というわけでして・・・。土岐頼遠殿の命、救ってやってはいただけませんでしょうか。

足利直義 いや・・・そればかりは・・・。

夢窓疎石 本人も、深く深く、反省しておりますから・・・。

足利直義 あの男はね、上皇陛下に対して矢を射かけたのですよ! あのような大逆の罪を犯した者に対して、てぬるい処置をしてたんじゃぁ、今後、模倣犯が続出するおそれが、大いにあります。

夢窓疎石 はい、はい、そのへんの事情、よくよく、わかっております・・・しかし、そこを曲げて・・・なんとか。

足利直義 ・・・うーん、困ったなぁ・・・。

夢窓疎石 直義殿、この通り・・・お願いいたします・・・。(平伏)。

足利直義 そんな、国師(こくし)殿、そんな・・・どうぞ、頭をお上げください。

夢窓疎石 ・・・。(平伏)

足利直義 ウーン・・・。

夢窓疎石 ・・・。(平伏)

足利直義 わかりました、こうしましょう。土岐頼遠の子孫に対しては、領地は安堵(あんど:注8)、頼遠本人は死刑。

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(訳者注8)父母の領地を継承することを認証する事。
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夢窓疎石 ・・・。(平伏)

足利直義 これが、私の最大限の譲歩です。まことに申し訳ありませんが、これ以上は無理です。

夢窓疎石 ハァー(肩を落し、嘆息)。

頼遠は、侍所(さむらいどころ)の細川顕氏(ほそかわあきうじ)に身柄を預けられた後、六条河原(ろくじょうがわら)で首を刎ねられ、命終えた。

「頼遠の弟の周済房(しゅさいぼう)という僧侶も、兄と共に処刑すべし」との決議が下ったが、例の事件には加わっていなかった事の明らかな証拠が上がり、死一等を減じて本国へ送還となった。

足利幕府に対しての夢窓疎石の土岐頼遠・助命嘆願が成功しなかった事をあざける者がいて、和歌が一種、天龍寺(てんりゅうじ:右京区:注9)の壁の上に。

 口当たりの ええ斎(とき=土岐)だけが 食べられて 酢菜(すさい=周済)だけが 皿に残った

 (原文)いしかりし ときは夢窓に くらはれて 周済(しゅさい)計(ばかり)ぞ 皿に残れる

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(訳者注9)夢窓疎石の開山による寺院。

(訳者注10)「斎」は僧侶の食事。「酢菜」は「大根や冬瓜などを酢に浸したもの」だそうである。
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世間の声I 土岐頼遠いうたら、そらぁすごい人やでぇ。反足利サイドに属する大敵を度々破り、足利家に忠節を尽くし続けてきた人やもんなぁ。

世間の声J それゆえに、幕府のおぼえも非常によろしく、他に抜きんでる恩賞を得ていた。

世間の声K なのに、このような狼藉をしでかしてしまい、夢窓疎石の助命嘆願も容れられずに、ついに命を失うことになってしまった。

世間の声L いやぁ、やっぱし、お天道さまも月輪さまも、見てはったんやわぁ。天罰テキメンやなぁ。

世間の声M 天罰っちゅうもんは、ほんまにコワイもんどすぅ。

世間の声N それにしても、足利直義様の今回のご処断、非常に理にかなってたよな。

世間の声一同 同感ですねぇ。

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いまやこの日本も、落ちる所まで落ちてしまったようである。首都圏に住む人間もみな、原始人に退化してしまい、「院」とか「国王」とかいった言葉も、彼らにとってはいまや、「未知なる概念」となってしまったようである。

京都の街の声O 「院」の御幸の行列と出逢うた際に、狼藉の振舞いをしたということで、土岐頼遠殿は死刑になってしまわはったんやてなぁ。

京都の街の声P 「院」の行列に出おうたときには、ちゃんと馬から下りて、畏まらんとあかんのや。

通りがかりの人Q えぇっ? 「院」に出会ったら、馬から降りなきゃなんねぇのかよぉ。

通りがかりの人R だったらよぉ、足利将軍様に出会ったら、もう、土の上に這いつくばるしかねぇじゃん、ワハハハ・・・。

このような世の中であるからして、以下に紹介するような、あきれた事も起るのである。

ある日、公家の行列が京都の市街地を通過していた。

車の中の人は、どこの誰とも分からないが、御簾の破れ目から見れば、年齢は40過ぎほど。眉を描き、歯を黒く染め(注11)、立烏帽子(たてえぼし)をかぶっている。車は相当古びているようで、轅(ながえ)の塗装も剥げてしまっており、打てども進まぬ牛が、のろのろとそれを引いている。どうやら、北野天満宮へ参拝に行く途中らしい。

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(訳者注11)当時、お歯黒をしていたのは上流階級の女性ばかりではない、男性もしていた。
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最近、京都には、上げ潮に乗った武士たちが充満しているのだが、そのような武士たちの一行が、ちょうどそこを通りがかった。

大きくたくましい馬に鞍を置き、唐笠(からかさ)に皮靴を履き、紅葉を焼いてあたためた酒を飲みながら、やってくる。焼き残しの紅葉の枝を手にかざし、歌ったり雑談したりしながら、内野(うちの:京都市上京区の大内裏跡)の芝野の花を露と共に蹴散らしながら、悠然と進んで行く。

主人とおぼしき武士が、公家の車をみつけていわく、

武士S やや、あそこに牛車が! あれこそが例の、「院」とかいう危険人物に違いないぞ。

武士たち一同 (顔をひきつらせながら)・・・。

武士S 土岐頼遠みてぇな権勢この上なかった人でさえもな、馬に乗ったままあいつの前に出ていったばっかしに、命を失ってしまった。おれたちみてぇなシモジモのもんは、どんなオトガメを食らうかも。さ、みんな早く、馬から降りろ! 早く、早く!

全員、さっと馬から降りて頬かぶりを外し、笠を脱ぎ、頭を地に付けて畏まる。これを見た車中の人は、

公家T (内心)うわっ! えらいこっちゃ! もしかしてあいつら、例の土岐一族とちゃうやろか。上皇様でさえも散々矢を射られはったんやからな、わしらみたいなシモジモのもんは、どないな目にあうか分からへん。こら、はよ車から下りんとあかん。

車も止めずにあわてて飛び降りたものだから、前進していた車の車軸に、彼の身体は衝突。立烏帽子も脱げてしまい、髪も露わな、若年の身分の低い伴人のような様になってしまった。

片手で髪をつかみ、もう片方の手で笏(しゃく)を持ち直し、武士たちの前に跪き、

公家T いやいや、はじめまして、はじめましてぇ!

公家も武士も、地に体を投げて双方互いに畏まるとは、まったくもって、前代未聞の珍事という他はない。

その日は北野天満宮の縁日で、布を引くがごとく、多くの参詣の人々が道に連なっていたのだが、これを見ていわく、

参詣の人U いったいなんやねん、あれはぁ!

参詣の人V ぶざまやなぁ。

参詣の人W 路上での礼儀作法はな、弘安格式(こうあんかくしき:注12)に定められてるんや。そやけどな、「武士と出会ぉた時には、公家は車から降り、烏帽子を脱いで髪を出せ」なんちゅうような事、書かれてないわなぁ。

参詣の人々一同 ワハハハ・・・。

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(訳者注12)弘安8年(1285)に、朝廷において制定された礼儀作法。
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太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年2月 1日 (木)

太平記 現代語訳 23-2 足利直義、重病に

太平記 現代語訳 インデックス5 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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世間の声A 最近ほんまに、吉野朝(よしのちょう)側、さっぱりワヤになってしまいましたなぁ。

世間の声B ほんにまぁ・・・。日本国中の吉野朝側勢力の勢い、完全に衰えてしまいましたわいな。

世間の声C 天下はいよいよ、足利幕府ががっちりと掌握するところと、なってきました。

世間の声D おかげでなぁ、この京都にも、再び平和な日々が蘇ってきましたわ。

世間の声E うーん・・・そうかしらぁ? これからの日本の事、そんなに楽観視してて、いぃんだろうか?

世間の声D あんさん、ナニそないに心配しておいやすねん?

世間の声E 今の世相、あたくしには、なんだか非常にアブナイものが感じられましてねぇ。

世間の声C いったい何がやねん?

世間の声E 神仏を敬おうという気風が、最近とみに、薄れてきてません? 仏、法、僧の三宝(さんぼう)が近頃すごく、ないがしろにされてるような気がするんです。

世間の声一同 ・・・。

世間の声F 朝廷の最高位にあるお公家さん方でさえも、領地をガンガン、武士に横領されてまってるでね。

世間の声G いやはや、もう・・・ご政道も、まっこと、地に落ちてしもとるばい。

世間の声H この先、世の中、いったいどないなっていくんでっしゃろなぁ。

世間の声C ほんまにもう! 先帝が吉野でご崩御(ほうぎょ)あそばされてからは、あれやこれやと、いろんな流言蜚語(りゅうげんひご)飛ばす輩(やから)が多いよってになぁ、おたくさんらみたいな、悲観論者がどんどん多なってきてしまうんや。ほんま、どんならんで。

世間の声A いやいやぁ、そらな、えぇかげんな話もいっぱいあるけどやな、中にはホンマモンもあるんやで。例えば、あの光物(ひかりもの)の話。

世間の声B あぁ、あの「京都目指して毎夜飛び来る、光り輝く未確認飛行物体」ってやつかいなぁ。あれ、ほんまかいなぁ?

世間の声F あれはぁ、ほんとの話だでぇー! わし、この目で見たが!

世間の声一同 エーッ!

世間の声E どんな形してました? やっぱし円盤形?

世間の声F いいや、車輪のような形だったわ。光輝く車輪、そうや、まさに光輪(こうりん)だが。。京都の上空に飛んで来ては、あれやこれやと不吉な相を現しよるんやねぇ。

世間の声A ほんま、不思議な話やなぁ。

世間の声F 最近、京都に病気の人間多いやろぉ? きっと、その光輪の出現と大いに関係あると思うよぉ。

世間の声G そうだねぇ・・・最近、上下貴賎を問わず、京都、まっこと、病人多いっす。

世間の声A ほんまに、こらタイヘンなこっちゃ。

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そのような中、2月5日の暮れ時頃より、足利直義(あしかがただよし)は、気分がすぐれなくなった。

その後、病状は次第に悪化し、ついに、心身悩乱(しんしんのうらん)、五体逼迫(ごたいひっぱく)状態に陥ってしまった。

足利尊氏(あしかがたかうじ) いかん!いかん! 京都中の寺に言いつけて、直義の当病平癒(とうびょうへいゆ)の祈祷、行わせろ! 早く、早くーッ!

足利尊氏側近メンバー一同 ハハッ!

足利尊氏 祈願だ、加持(かじ)だ、祈祷(きとう)、陰陽道(おんみょうどう)、医術、薬、何でもいいから早く! 直義、何としてでも、直義を救わせたまえー!(合掌し仏前に祈る)

足利尊氏側近メンバー一同 ハハッー!

さっそく、諸寺の貴僧、高僧による熱祷(ねっとう)が始まった。陰陽道庁(注1)では、閻魔大王(えんまだいおう)とその御家来衆、ならびに泰山府君(たいさんぶくん)を祭って財宝を焼き尽くす。直義付きの侍医や医療局(注2)は、最高の医術を尽くして治療に当たる。しかし、病状は悪化の一途をたどるばかり。

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(訳者注1)原文では「陰陽寮」。

(訳者注2)原文では「典薬」。
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世間の声H なぁなぁ、聞いてはるぅ? 足利直義さまのご病気の事。

世間の声I うん・・・なんか、相当おわるいらしいやん?

世間の声J もう、「おわるい」なんちゅうレベルの話とちゃうみたいよぉ。日増しに病状悪化で、もういよいよ、いうとこまで、きてはんねんてぇ!

世間の声一同 エーッ!

世間の声K そんなんあかん・・・そんなん、ウチいやや。あのお方に、もしもの事があったら、これから先、世の中マックラやん。

世間の声L ふふーん・・・あノッさぁ・・・あの源平争乱の時代にッさぁ、小松大臣・平重盛(こまつのおとど・たいらのしげもり)が若死にしちゃってからッさぁ、平家もイッキに運勢傾いちゃったんだよねぇ。

世間の声M んもーっ、あんたぁ! そんなエンギでもない話、やめてよぉ!

世間の声N 足利直義様がおられたからこそ、我が国のご政道もかろうじて、まともなセンに保たれてきてたんだぜぃ・・・これから先どうなっていくんだろう、この日本・・・。おれ、ものすごく心配だ。

世間の声O ほんと、嘆かわしいのぉ。

世間の声一同 ほんまやなぁ・・・。

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「足利直義、重篤」と聞いて、光厳上皇(こうごんじょうこう)も非常に嘆き、密かに勅使を立てて、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府・八幡市)に一紙の御願書(ごがんしょ)を送り、様々な立願(りつがん)を行った。その御願書の内容は、以下の通りである。

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敬って白(もう)す 祈願の事

民を安んじ、国を良く治める事をもってして、神の明徳を明らかにする事も可能となるのであります。功ある者を賞し、賢なる才を貴ぶこと、これすなわち、王者の行う良き政治の大道であると、いえましょう。

さて、私のもとにおりまする左兵衛監(さひょうえのかみ)・足利直義は、単に朝廷の爪牙の良将(そうがのりょうしょう:注3)たるに止まるものではなく、股肱の賢弼(ここうのけんひつ:注4)ともいうべき存在であります。我が国の安危は、いまやひとえに、彼の存在にかかっているのであります。

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(訳者注3)「爪牙」は「護り」の意味ゆえ、「朝廷を強力に守る良き将」という意味。

(訳者注4)手足とも言うべき、賢明なる輔弼(補佐役)。
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私は、この小身をもって、わが国の統治に日夜、努力し、政治の荒波を乗り越えながら、今日までなんとかやってくる事ができましたが、それもこれも、彼、足利直義の補佐があったればこそであります。

私と彼は、形の面で申さば君臣の間柄、しかし心情面においてはもはや、父子のごとき関係と言い切ってしまいましても、決して過言ではありません。

しかるに最近、その直義が病魔に犯され、医薬もすでに効力を発揮できない状態になってしまったとのこと。私は驚愕し、心ここにあらずの状態であります。

み山の奥深く鎮座したもう八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)さまのお力を頂くこと無くして、病を癒す事は、もはや不可能。ゆえに、私は心中に、「足利直義・当病平癒(とうびょうへいゆ)」の願い込め、八幡様の尊前に、熱き祈りをつつしんでお捧げたてまつります。

直義のあの病、神霊様方のどのようなお怒りに触れてのものなのか、私には分かりません。しかし、たとえそうであったとしても、私のこのまことを込めた祈りを、お聞き届けくださいまして、そのお怒りを、どうかお静めくださいますように。

私のこの熱き願いをお聞き届けあって、彼が速やかに病から癒えましたならば、7日の間、天にも満ちるような高徳を持つ高僧をもって、仏法賛仰(ぶっぽうさんごう)の詩句を講義させ、尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)を念じ、尊勝仏頂尊ダラニを誦(じゅ)させしめることを、今ここに、お約束たてまつります。

なにとぞ、天子たるこの私めの伏しての願いをあわれみたもうて、ご納受されたまわんことを。かつての黄金時代の君臣一体の統治の実をお忘れなくば、現代のこの日本の政道を安泰たらしめんがため、絶大なるご霊験を現したまわんことを。

今後ますます、我が国の国力盛んにして、花の都・京都に輝きいやましますように。

以上、敬(つつしんで)白(もうす)

暦応5年2月日
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勅使・菅原公時(すがわらきんとき)は、この祈願状をもって八幡に赴き、神前に跪(ひざまず)き、涙を流しながら声高らかに読み上げた。

その時、神殿がしばらく振動し、妻戸が開く音がかすかに聞こえた。

菅原公時 おぉ! 陛下のご祈願、八幡大菩薩さまにお受けいただけたようやぞ! 君主が臣下を思いやるその誠の心、神さまに通じたようや。きっと、お力を頂けるに違いないわ!

はたして、菅原公時が京都へ帰って3日後、足利直義の病は、たちまち平癒した。

世間の声H なぁなぁ、聞いたぁ? 足利直義さま、回復されたんやてぇ!

世間の声I うわー、よかったやん。

世間の声J 上皇陛下のご祈願をな、石清水の八幡さんがお聞き届けあって、そいで、直らはったんやてぇ。

世間の声K 臣下の健康回復を祈って、陛下がじきじきご祈願をねぇ・・・ほんま、ありがたい話やなぁ。

世間の声L ふふーん・・・あノッさぁー、古代中国にもッさぁー、似たような話あるんだけどッさぁ。聞きたぁい?

世間の声H うん、聞きたい!

世間の声I うちも、聞きたい、聞きたい!

世間の声L 周(しゅう)王朝の武王(ぶおう)が病に伏すようになっちゃってさぁ、いよいよもうダメってなった時にだよぉ、大臣の周公旦(しゅうこうたん)って人がさぁ、「武王の代わりに私のこの命をお取り下さいませ」って、天に祈ったんだよね。そしたらさぁ、武王の病がたちまち癒えちゃってさぁ、それから長いこと、天下太平の世の中が続いたんだってぇ。

世間の声M ふーん、どこの国にも、おんなじ様な美談があるんやねぇ。

世間の声N 上皇陛下のご聖徳って、すげぇもんなんだなぁ。

一方、吉野朝に心通わせる人々は、

世間の声P 上皇の祈願が神に通じてやてぇ? フン、なに、アホな事言うてまんねん。

世間の声Q ほんまに・・・よぉ言わんわぁ。

世間の声R 「神は非礼を納受せず、正直者の頭上に宿らんと欲す」と、いいまんねん。足利家にこびへつろうてのそないな祈願、神さまがお聞き届けになるはず、おまへんやんなぁ!

世間の声S そうだす、そうだす。

世間の声T あのな・・・足利直義の病気の治る頃合い見はかろぉてな、それにうまぁいことタイミング合わせて、祈願文、八幡に送らはったんと、ちゃいますやろかいなぁ?!

世間の声U そのセン、ありえますなぁ。

世間の声一同 ウワハハハ・・・。

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