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2018年3月

2018年3月24日 (土)

太平記 現代語訳 31-6 吉野朝廷、八幡より撤退

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)攻防の戦いが3月15日に始まってから、はやすでに50余日が経過、山中にたてこもる吉野朝(よしのちょう)側は、ついに食料が底をついてしまった。救援軍がやってきてくれそうな気配も全く感じられない。

「このままでは、どうなることやら」といったようなササヤキ声が、聞こえ始めた。このような言葉は、あっという間に人間の気持ちを一変させてしまうもの、やがて、山中残らず全員、逃亡の準備以外に余念無しの状態になってしまった。

そしてついに、防衛陣の一角が崩壊した。

吉野朝が頼りとするメンバー、伊勢(いせ:三重県中部)の矢野下野守(やのしもつけのかみ)、熊野(くまの:和歌山県・熊野地方)の湯川荘司(ゆかわのしょうじ)ら、合計300余騎が、東西の陣を放棄して、足利側へ降伏してしまったのである。

吉野朝閣僚A こらぁ、えらいことになってしもたわいな。

吉野朝閣僚B ついに、裏切り者が出てしまいましたなぁ。

吉野朝閣僚C 極めて、やばい事態ですよ。あの両人、わが陣営の事、隅から隅まで知りつくしてまっから。あいつらの手引きで、敵が攻め寄せてきよったら、もうとても、逃げるに逃げれんように、なってしまいますやんか。

吉野朝閣僚D 早いとこ、今夜にでも、陛下をお逃がし申し上げんと!

吉野朝閣僚A 事は急を要する! すぐに取りかかるんや!

というわけで、5月11日の夜半、後村上天皇(ごむらかみてんのう)を馬に乗せ、その前後を武士たちが護衛し、大和(やまと:奈良県)方面へ脱出した。

数万の足利軍は、天皇を逃すまじと、前を塞ぎ、後に追いすがって、襲いかかってくる。

義を重んじ、わが命を軽んずる吉野朝軍メンバーたちは、返し合わせては防ぎ、打ち破っては前進。傷を受けては腹を切り、踏み留まって討死にする者、その数300人に及んだ。

その乱戦のさ中に、石見宮皇子(いわみのみやおうじ)は落命、四条隆資(しじょうたかすけ)、一条内嗣(いちじょううちつぐ)、三条雅賢(さんじょうまさかた)が討死にした。

護衛の武士たちの中に紛れ込ませんがために、天皇は山本判官(やまもとはんがん)が奉った黄糸の鎧を着し、栗毛(くりげ)色の馬に乗っていた。それを見つけた一宮有種(いちのみやありたね)が、天皇に追いすがっていわく、

一宮有種 おい、そこを行く男、止まれ! おまえは、軍の一角を守るしかるべき大将と見たぞ。そんな立派な男が、ザマもなく敵に追い立てられ、ただの一度も返し合わせる事も無く、ただノウノウと逃げて行くだけでいいのかい!

このように呼ばわりながら、有種は、天皇まで弓3本ほどの至近距離にまで迫った。

法性寺康長(ほうしょうじやすなが)は、後ろを振り返り、有種をキッと睨み付けていわく、

法性寺康長 なんやとぉ・・・言わしといたら、えぇ気になりおって・・・ほんまに、憎たらしいやっちゃ! よぉし、おまえに、わしのウデ見せたろかい。

康長は、馬から飛び降り、4尺8寸の太刀でもって、有種の兜の鉢を、割れよ砕けよとばかりに猛打。さしものツワモノの有種も、あまりに激しい打撃に尻餅をついてしまい、目がくらんで呆然自失(ぼうぜんじしつ)状態になってしまった。暫(しば)し、心を静めようと目を塞いでいるその間に、後村上天皇は、はるか彼方に逃走。

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木津川(きづがわ)べりを西方向に馬を早めていくその前に、備前(びぜん:岡山県東部)の松田(まつだ)と備後(びんご:広島県東部)の宮(みや)が率いる2、300騎が立ちふさがった。

十方から射かけられる矢は雨のごとく、「もはや、とても遁(のが)れるすべなし」と思われたが、これも天地神明(てんちしんめい)のご加護であろうか、天皇の鎧には、袖と草ずりに2本矢が当たっただけ、それも鎧を貫通せず、であった。

法性寺康長はたった一人で、常に天皇の側を離れず、守った。後方から相手がかかってくれば引き返して追い散らし、相手が前を遮ればそこを懸け破って、天皇の前に血路を切り開いていく。

やがて、どこからともなく、援軍が現われた。その数は100騎ほど、全員、新田家の中黒(なかぐろ)の笠標(かさじるし)を着けている。彼らは、天皇の前後を守りながら、接近してくる足利軍を右に左にと追い散らす。

ようやく、天皇は安全な場所に到達した。それと同時に、謎の援軍は、かき消すように姿を消してしまった。

かくして、後村上天皇は、身体つつがなく、河内国(かわちこく:大阪府東部)の東条(とうじょう:大阪府・富田林市)へ逃れることができた。

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三種神器(さんしゅのじんき)の一つ、ヤタノカガミも、無事であった。

最初にヤタノカガミを持っていた者は、それを、田んぼの中に捨ててしまった。その場にいあわせた名和長重(なわながしげ)が、すぐに、ヤタノカガミを拾い、鎧を脱ぎ捨てて、カガミを自らの背中にかつぎ、必死に走った。

後から追いすがってくる足利軍は、長重を狙って、蒔(ま)いて捨てるように、矢を浴びせかけてくる。

矢 ビュンビュンビュンビュン・・・ポッポッポッポッ・・・。

ヤタノカガミが入っている櫃(ひつ)の蓋(ふた)に矢が当たる音は、まるで板屋を過ぎるにわか雨のようである。しかし、名和長重の身体に、矢は一本も当たらず、彼はようやくの思いで、賀名生(あのう:奈良県・五條市)の御所にたどりついた。

名和長重 いやぁ、なんとか、持ってはこれましたけど・・・矢ぁバンバン当てられたからねぇ・・・きっと、ムチャクチャになってしまってるだわ。あぁ、情けなや。

ところが、担当の者が、櫃を点検してみてびっくり。矢の跡は13箇所もあったのに、いずれも貫通していない。実に薄い桧(ひのき)の板製なのに、それを射とおす矢が一本も無かったとは、まことに不思議な事である。

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ここで、話の筋は少し時間を遡(さかのぼ)る事になるが・・・。

京都攻めの前、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)に滞在中のとある日、後村上天皇は、児島高徳(こじまたかのり:注1)を呼び寄せた。

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(訳者注1)原文では、「児島三郎入道志純」となっている。
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後村上天皇 おぉ、高徳、よぉ来た、よぉ来た。

児島高徳 ハハァッ!(平伏)

後村上天皇 今日、おまえを呼び寄せたんは、他でもない、おまえに、重大な任務を果たしてもらおう、思うてな。

児島高徳 ハハッ! なんなりと、お申しつけくださいませ!

後村上天皇 うん・・・あのな、これから急ぎ、関東と北陸へ向かえ。現地に着いたらな、新田義貞(にったよしさだ)の甥や息子らと接触して、朝廷のみ旗の下に、挙兵させよ。

児島高徳 はい、分かりました!

後村上天皇 それから更にな、小山(おやま)、宇都宮(うつのみや)といった、こっちサイドに傾きそうな有力武士にも接触してな、天下の大功を即時に致すように、とにかく智謀(ちぼう)を回(めぐ)らしてみい。

児島高徳 ハハァッ!(平伏)

高徳は、夜を日に継いで、関東へ急いだ。

しかし、関東では、既に戦の決着がついてしまっており、新田義興(にったよしおき)、脇屋義治(わきやよしはる)は、河村(かわむら)氏の城にたてこもり、新田義宗(よしむね)は、越後(えちご:新潟県)に引きこもってしまっていた。

高徳は、関東や北陸を巡り、新田勢や他の有力武士たちに、説いて回った。

児島高徳 天皇陛下は今、大敵に包囲されておられる。陛下を守っとるもんらも、もう力つきかけてしもとるわ。万一、陛下が足利軍の囚われの身になってしまわれたら、この先、わしらは、いったいどなたの為に戦ぉてったらえぇんじゃぁ?

児島高徳 人間、なんちゅうても、義の心を中心に生きて行くことが、カンジンじゃ。義の前には、命を軽んずるべきじゃ。

彼の説得工作は功を奏し、小山五郎(おやまごろう)、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)は、「これからは、陛下の御命に従う」と回答、関東での吉野朝側勢力の一大反攻作戦に協力する事を約束した。

「新田義興、脇屋義治は、なおも関東に止まって、足利尊氏(あしかがたかうじ)との戦いを続行、新田義宗、桃井直常(もものいなおつね)、上杉憲顕(うえすぎのりあき)、吉良満貞(きらみつさだ)、石塔義房(いしどうよしふさ)は、東山道(とうさんどう)、東海道(とうかいどう)、北陸道(ほくりくどう)の勢力を率いて、2手に分かれて京都へ上り、八幡の後詰めをして、足利軍を千里の外に退けよう」と、諸方、手はずを定め、まずは、高徳が先行して京都へ向かった。

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4月27日、新田義宗は、7,000余騎を率いて、越後の妻有(つまり:新潟県・十日町市-新潟県・中魚沼郡・津南町)を出発し、放生津(ほうじょうづ:富山県・新湊市)に到着。そこへ、桃井直常が率いる3,000余騎が、加わってきた。

5月11日(注2)、新田・桃井連合軍1万余騎の先陣は、能登(のと:石川県北部)を目指して出発した。

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(訳者注2)原文には、「九月十一日」とあるのだが、どう考えても不合理なので(いったいなんで、5か月も長滞在する?)、訳者の判断で、「5月11日」に変えた。
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一方、吉良満貞、石塔義房は、4月27日に駿河(するが:静岡県中部)を出発。道中、方々からの軍勢を吸収しながら、6,000余騎の勢力でもって、5月11日、その先陣が、美濃(みの:岐阜県南部)の垂井(たるい:岐阜県・不破郡・垂井町)、赤坂(あかさか:岐阜県・大垣市)に到着。八幡にたてこもる吉野朝側勢力を元気づけようと、大々的に篝火(かがりび)を燃やした。

信濃(しなの:長野県)に滞在の宗良親王(むねよししんのう)も、神家、滋野(しげの)、友野(ともの)、上杉(うえすぎ)、仁科(にしな)、禰津(ねづ)等の軍勢を率いて、同日、信濃を出発。

四国の伊予(いよ:愛媛県)からは、土居(どい)、得能(とくのう)が、軍船700余隻をそろえ、瀬戸内海上を京都へ攻め上る。

このように、八幡山にこもっている吉野朝側勢力が待ちに待っていた救援軍が、東山、北陸、四国、九州のそれぞれの根拠地を一斉に出発し、京都へ向かっていたのである。

京都からのそれぞれの距離によって、その到着に5日や3日ほどの差は出るにしても、「吉野朝側救援軍の大勢力、京都に接近中!」との情報が、八幡山周辺に伝わってさえいたならば、そこを包囲している足利軍もおそれをなして、みな退散してしまっていたであろうに・・・「もうあと、4、5日待てば、形成は一気に逆転」という、まさにこのタイミングに、後村上天皇は八幡から逃走してしまったのであった。

「天皇はもはや、八幡にはおられない」との情報に、吉野朝側救援軍勢力メンバーは、みなガックリ、なすすべもなく、本拠地へ引き返していった。

これもただただ、「天運の時至らず、神のご思慮によって起った事」と、言ってしまえばそれだけのことだが・・・まぁそれにしても、何事も裏目裏目と出てしまう吉野朝側の運の程、これで思い知られよう、というものである。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月23日 (金)

太平記 現代語訳 31-5 八幡の戦

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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吉野朝年号・正平(しょうへい)7年(1352)うるう2月20日、京都での戦に敗れて、足利義詮(あしかがよしあきら)は近江(おうみ:滋賀県)へ落ち、京都朝廷の皇族方、すなわち、光厳上皇(こうごんじょうこう)、光明上皇(こうみょうじょうこう)、崇光天皇(すうこうてんのう)、皇太子・直仁親王(ないひとしんのう)は皆、身柄を拘束され、賀名生(あのお:奈良県・五條市)に移された。

しかし、吉野朝廷(よしのちょうてい)側の後村上天皇(ごむらかみてんのう)はなおも、京都に入る事に危険を感じ、八幡(やわた:京都府・八幡市)に留まっていた。

京都朝廷側の公卿たちは残らず、西山(にしやま:注1)、東山(ひがしやま:東山区)、良峯(よしみね:西京区)、鞍馬(くらま:左京区)の奥等へ逃避(とうひ)してしまい、御所もついに、勇猛な兵が警備に当たる事も無く、朝廷の儀式・大礼の執行もなされないままに、狐の住処(すみか)になり果ててしまった。

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(訳者注1)京都市の西京区から向日市、長岡京市一帯に広がる丘陵地。
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世間の声A ほんまにもう、都も、えらいことになってしもぉたわなぁ。

世間の声B ほんに、そうどす。エライ荒れようですわ。

世間の声C あの恒武天皇(かんむてんのう)陛下が、いったいなんで、この地を都に定めなさったか? それはやな、ここが、四神相応(ししんそうおう)の地形やったからや。

世間の声D おっちゃん、おっちゃん、その「四神相応」って、いったいナンの事や?

世間の声C 「四神」言うたらやな、四匹の聖なる動物、つまり、青い龍に、朱色の孔雀(くじゃく)、白い虎に、玄武(げんぶ)の事やがな。「相応」言うのはな、この京都の地形が、その四匹の聖なる動物に、うまいこと守られるようになったるっちゅうこっちゃ。

世間の声D おっちゃんの言うてる事、よぉわからんわ。京都中どこ見たかて、龍なんか、おらへんやん。

世間の声C いやいや、それはやな、そういうこっちゃないんやがな・・・。

世間の声E あのっさぁ、あんたぁ、教え方がまずいんだよぉ。こんな小さい子どもに、そんな難しい事言たって、わかんないでっしょぉお?!

世間の声C ほなら、あんたが、説明してみぃな!

世間の声E いいよぉ、あたいが教えたげっからねぇ。ボクゥ、京都御所の東側にある、北から南へ伸びてる長ぁいものって、いったいなぁんだ?

世間の声D 長ぁいもん言うたら・・・あっ・・・もしかしたら川か? 鴨川(かもがわ)か?

世間の声E そのトオリィ! 川だよぉ、川ぁ! 川も龍も、長ぁくのびてるでしょ? それに、川には水が流れてる。水と龍さんとは、切っても切れない縁があるんだよぉん。だってさぁ、龍が天から雨降らしてんだもーん。

世間の声D ふうん・・・。ほなら、白い虎は?

世間の声E 御所の西に通ってる広ぉい道よぉ。道って白いでしょ?

世間の声D なるほどぉ。ほなら、孔雀は?

世間の声E 京都の南の方、山無いでしょ、窪地でしょ? 孔雀さんは、そういうとこが好きなのぉお。

世間の声B ふーん・・・よっしゃ、3匹目までは、なんとか分かりましたわ。で、最後の「玄武はん」って、いったい、どないなお方どすか? なんや、岩みたいなカンジの方どすなぁ。

世間の声F あ、それならオイラ、似顔絵(にがおえ)見たことあるぞ。えぇっと、たしか、奈良にある「藤の木古墳(ふじのきこふん)」の中に描いてあんだっけ? 頭から胴体までは亀みたいでさ、尻尾が蛇みたいなの。

世間の声E その聖なる動物・玄武はねぇ、高い山に住むのよ。京都の北の方、高ぁい山つながってるじゃぁん? 三条大橋から見てごらんよ、雪降った日なんか、山とってもきれいだよぉ。

世間の声C 恒武天皇陛下はな、さらに都の防御をかためる為に、東山に、将軍塚(しょうぐんづか)っちゅうもんを、築かはったんや。

世間の声G 都の鬼門(きもん)、丑寅(うしとら)の方角には、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県・大津市)があるしねぇ。

世間の声C まさに、百王万代の皇統を継いで行かれるにふさわしい土地なんや、この京都というとこは。

世間の声A ほんにまぁ、この末世の世といえども、未来永劫に至るまで、この京の都が荒廃するやなんて事、想像もしいひんかったわ・・・そやのになぁ。

世間の声一同 ほんまにもう、情けない世の中に、なってしまいましたわいなぁ。

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足利義詮は、近江の四十九院唯念寺(しじゅうくいんゆいねんじ:滋賀県・犬上郡・豊郷町)での長滞在(ながたいざい)を、強いられていた。土岐(とき)一族、佐々木(ささき)一族の他には、彼に従う者は皆無の状態であった。

ところが、「関東での合戦に、将軍様、勝利!」との報がもたらされるや否や、形勢は激変、次から次へと雲霞(うんか)のごとく、彼のもとに武士たちが馳せ参じてきた。

足利義詮 よぉし、ソク、京都奪回だぁ!

吉野朝年号・正平(しょうへい)7年(1352)3月11日、足利義詮は、3万余騎の軍勢を率いて四十九院を発ち、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市)へ移動、そこで陣営の配置を決した。

漫々たる琵琶湖(びわこ)上に、山田(やまだ:滋賀県・草津市)、矢橋(やばせ: 滋賀県・草津市)の渡しに棹さして、馳せ参じてくる人もあり、あるいは、広々とした砂浜に、堅田(かたた:大津市)、高島(たかしま:滋賀県・高島市)を経て、馬に鞭打ってやってくる者もあり。

軍旗は水煙に翻(ひるがえ)り、龍蛇(りゅうじゃ)たちまち天に上がる。甲冑(かっちゅう)は夕日に輝いて、星座たちまち地に連なる。

吉野朝廷側の中院具忠(なかのいんともただ)は、足利軍を迎撃するために、1,000余騎を率いて大津の付近に陣を展開していたが、足利側のこの大兵力を見て、「これでは、戦ってみてもとてもムリ」と思ったのであろう、足利軍が接近する前に、早々に八幡へ退却してしまった。

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3月15日、足利義詮は京都へ入り、東山に陣を取った。

吉野朝側の大将・北畠顕能(きたばたけあきよし)は、京都から撤退し、淀(よど:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)に陣を取った。

3月17日、義詮は、京都南部に移動し、東寺(とうじ:南区)に陣を取った。

顕能は、淀川付近からさらに後方に撤退して、八幡の山下に陣を取った。

結局のところ、未だ戦わざる前に、吉野朝側の大将はずるずると、三度も退却を繰り返してしまったのである。このような事では、この先いったいどうなることやら、心細い限りである。

とはいうものの、八幡山は、究竟(くっきょう)の要害(ようがい)にして難攻不落、赤井の橋を引き落とし、近畿地方の吉野朝側勢力が7,000余騎も、たてこもっているのである。

足利義詮 さぁてと、これから先、いったいどうしたもんかなぁ? 八幡を強攻すべきか否か・・・。

足利軍リーダーH 八幡山の三方は、淀川(よどがわ)に囲まれてますからねぇ・・・橋も無けりゃぁ、舟も無し。

足利軍リーダーI それに、八幡から宇治街道(うじかいどう)を経由すりゃぁ、我が軍の後方に出れますからなぁ。敵がその手を使ってきたら、我々は、はさみ打ちになってしまう。進退に窮して、ニッチもサッチも行かなくなってしまいますよ。

足利義詮 うーん・・・いったい、どうしたもんかなぁ・・・うーん・・・。

足利軍リーダーJ ま、とにかく、ここで、もうしばらく待ってみません? これからも、援軍は続々来るんでしょうから。

その期待通りに、細川顕氏(ほそかわあきうじ)が、四国の武士たち3,000余騎を率いてやってきた。(注2)

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(訳者注2)細川顕氏の京都からの撤退については、30-6 を参照。
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さらに、赤松則祐(あかまつのりすけ)が、再び足利側に寝返ってきた。彼は、吉野朝廷から親王一人を大将として頂き、アンチ尊氏勢力の一員としての活動を展開していたのであったが(注3)、ここに来て、いったい何の思惑あってかは分からないが、吉野朝廷を背いて京都へやってきたのである。

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(訳者注3)赤松則祐のこの動きについては、30-1 参照。
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義詮は、龍が水を得たごとく、虎が山に跋扈(ばっこ)するがごとく、いよいよ、京都と近畿地方全域に、その威をふるい始めた。

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3月24日、義詮は、3万余騎を率いて、宇治街道を経て木津川(きづがわ)を渡り、洞峠(ほらがとうげ:注4)に陣を取らんとした。河内(かわち:大阪府東部)の東条(とうじょう:大阪府・富田林市)と八幡間の補給ルートを遮断し、吉野朝側を兵糧攻(ひょうろうぜ)めにしようとの作戦である。

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(訳者注4)八幡宮のある男山の、南方に位置する。
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八幡以北エリアの吉野朝側の軍事は、和田五郎(わだごろう)と楠正儀(くすのきまさのり)が担当していた。

正儀は当年23歳、五郎は16歳。いずれも若武者であるが故に、「経験不足が災いして、思慮の無い戦をやってしまうのでは」と、吉野朝側の諸卿はしきりに危ぶんでいた。

和田五郎は、八幡の御所に参内していわく、

和田五郎 私の親類、兄弟はことごとく、度々の合戦にわが身を捨てて、討死につかまつってまいりました。今日のこの合戦もまた、公私の一大事と存じとります。まぁ、見ててください、命がけの戦を展開して、敵の大将一人、必ず討ち取ってみせますでぇ! さもなくば、生きて再び、陛下の御前へ帰って来ません!

きっぱりと言い放って退出する和田五郎の後ろ姿に、列座の諸卿、国々の武士たちは残らず、賞賛の眼差しを送る。

吉野朝メンバーK いやぁ、さすがですわなぁ。

吉野朝メンバーL やっぱしなぁ・・・代々、勇士を産み出してきた家のもん(者)やからなぁ。

吉野朝メンバーM たいしたもんやでぇ!

和田、楠および紀伊国(きいこく:和歌山県)の武士ら3,000余騎は、荒坂山(あらさかやま:八幡市)に向かい、そこを防衛拠点として、足利側の進出を防がんとして待機した。

やがて、細川清氏(きようじ)、細川顕氏、土岐頼康(ときやすより)、その弟・土岐頼里(よりさと)が、6,000余騎を率いて、荒坂山に押し寄せてきた。

山路険しく峯高くそびえたっているので、足利側は山麓で全員、続々と馬を乗り捨て、頭上に盾をかざし、連なって山道を進んでいく。

そこを守る側は、大和(やまと:奈良県)生まれ、河内生れの者たちであるからして、このような地形を利用しての戦には慣れている。

岩の陰、崖の上に走り渡り、矢をサンザンに射る。土岐軍と細川軍の最前線に位置する者たちは、矢を浴びせ掛けられて、一歩も先に進めなくなってしまった。

土岐頼里は当時、日本国中に名前の知れ渡った、大力の早わざの人であった。

太刀を振るえば天下一品、卯の花威し(うのはなおどし)の鎧に鍬型うって、水色の笠標(かさじるし)を吹き流している。5尺6寸の太刀を抜いて引き側(そば)め、左手の袖を振りかざし、遥か遠い山道を一気にかけ登らんと、猪が前進するがごとくに、笑みを浮かべながら斜面を登っていく。

これを見た和田五郎は、

和田五郎 オッ! 戦うに格好の相手が、来よったわい!

五郎は、手に持った盾をガバと投げ捨て、3尺5寸の小さい長刀を短めに持ち、土岐頼里に切り掛っていった。

和田五郎 テヤァーー!

それを見た細川清氏の郎従(ろうじゅう)・関左近将監(せきさこんしょうげん)が、とっさに土岐の脇からツット走り抜け、和田五郎に打ちかかっていく。

関左近将監 待て待てぇ、オレが相手だぁ!

すると今度は、和田の中間(ちゅうげん)が、小松の陰から走り出てそのすぐ近くまで詰め寄り、12束3伏の矢をギリギリと引き絞った後に、パッと放つ。

弓 ビュンッ!

矢 ヒューーー、バシッ!

関左近将監 うぁっ!

矢は、関左近将監の鎧を貫通し、彼は膝をついて伏してしまった。

それを見た土岐頼里は、

土岐頼里 おい、しっかりしろ!

頼里は、倒れた左近将監の側に走り寄って、彼を引き起こそうとした。そこをすかさず、和田の中間は、二本目をつがえて矢を放つ。その矢は、頼里の胴右の鎧の板に命中し、その鏃(やじり)は完全に、鎧の中に没した。

これを見た関左近将監は、

関左近将監 (内心)もうダメだ、オレを助けてくれる人は、もう誰もいやしねぇ。よし、切腹!

左近将監は、腰の刀を抜いて腹に当てた。

土岐頼里 待て待て! 早まって自害なんかすんなよ! 今、助けてやるからぁ。

頼里は、ツボ板に突き立った矢を、鎧の右胴部分もろとも引き切って投げ捨てた。そして、襲いかかってくる相手5、6人を、やにわに切り伏せた後、左近将監を左の小脇にグイと挟んだ。そして、右手で例の太刀を振り回して接近する相手をなぎ倒しながら、3町ほど退却した。

和田五郎 こら、待てぇ! 逃げるな、ヒキョウ者、逃がさんぞぉ!

五郎は、どこまでもどこまでもと、土岐頼里に追いすがっていったが、ついに、彼をとり逃してしまった。

和田五郎 アーア・・・。

しかし、ついに、頼里の運もここで尽きてしまったのであろうか、夕立のせいで深く掘れてしまった溝を飛び越えようとしたとたん、足元の土が、ガサッと崩れてしまった。

土岐頼里 (内心)しまった!

深い溝の底に落ちてしまっては、さすがの頼里もなすすべもなく、そこに走り寄ってきた五郎は、長刀の柄を伸ばして、頼里と左近将監を討ち取った。

和田五郎 やったぁ、やったでぇー!

しかし、今はまさに乱戦のまっただ中、ゆっくり首など取っているひまがない。

和田五郎 しゃぁないな、これだけでも、持って帰るとするか。これが、相手を討ち取った証拠物件っちゅぅわけや。

五郎は、頼里が引き切って捨てた鎧の右胴部分だけを拾い上げた後、引き返した。そして、自分の鎧に突き立った矢を少し折り、後村上天皇の御前へ参って、戦の報告をした。

和田五郎 陛下! 敵の大将、一人討ち取って参りました! あいにく首を取るヒマはありませんでしたけど、これがその証拠です!(例の鎧の右胴部分を、前に置く)

後村上天皇 よぉやったぁ! 今朝の約束、みごとに果たしたなぁ! あれほどの大軍を迎え撃った上に、敵の大将一人討ち取るとは、あっぱれ、見事!

和田五郎 ハハァー!(平伏)

後村上天皇 その上、身に数箇所の傷を受けながらも、つつがなく帰って来るとは・・・前代未聞の高名や!

後村上天皇も、大喜びである。

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土岐頼里を討ちとって、吉野朝側は緒戦を飾れたものの、双方の兵力差は、余りにも大きい。

「このまま、ここに陣取っていても、とても持ちこたえられまい」との形勢判断の下、夜になってから、楠正儀(くすのきまさのり)は八幡(やわた:京都府・八幡市)へ退却した。その翌朝、足利(あしかが)軍はすぐに、和田(わだ)・楠軍団が退却した後の荒坂山を占領した。

それから4、5日の間、戦線は膠着状態(こうちゃくじょうたい)に入った。吉野朝側も攻めかからず、足利側も攻め登ろうとしない。

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そのような情勢下に、山名師義(やまなもろよし)が、出雲(いずも:島根県東部)、因幡(いなば:鳥取県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)三か国の軍勢を率いて、京都にやってきた。

山名師義 そうかぁ・・・荒坂山ってとこで、そんな激戦あったんかぁ・・・あぁ残念、おれもそこにいたかった。遠い道やってきたもんだから、戦場に遅れてしまったよ。かえすがえすも残念だなぁ!

山名師義 よぉし、今すぐ八幡へ押し寄せて、一戦やらかすぜ!

彼は、全軍を率いて、淀(よど:伏見区)へ向かった。

そこには、吉野朝側の法性寺康長(ほうしょうじやすなが)が陣を取って守っていた。淀の橋を3間ほど引き落とし、西の橋詰めに盾をつき並べ、足利側の襲来を待ち受けている。

山名師義 橋を渡るのは、ムリだな・・・筏(いかだ)作って、川を渡せ!

さっそく、周辺の民家を破壊して得た材木を筏に組んではみたものの、梅雨の長雨のため、川の水かさが増しており、筏は全て押し流されてしまった。

数日後、

山名師義 なにぃ! 淀の大明神の前に、浅瀬があるぅ?! エェイモウ、なんでそれを早く言わないんだ! 行け、行けぇ!

2,000余騎一団となり、浅瀬を一気に渡った。

対岸には、法性寺康長がただ一人。川から上がった山名側の3人を、たちどころに切り落とし、反り返った太刀を押し直した後、静かに退いていく。

山名軍3,000余騎は、康長に追いすがっていった。

山名軍メンバーN そこにいるは、一軍の大将と見たぞ!

山名軍メンバーO 敵に背中を見せるとは、卑怯千万(ひきょうせんばん)!

山名軍メンバー一同 逃げるな! 正々堂々と相手しろ!

法性寺康長 フフン、雑魚(ざこ)どもが、ナニを言うか! おもろい、相手になったろやないかい!

康長は、取って返して山名軍をハット追い散らした。返し合わせては切って落し、淀の橋詰めから八幡山に至るまで、17回も返し合わせた。なのに、馬に傷を負わせる事も無く、我が身にも重傷を負う事も無く、鎧の袖のX字形板の上に突き立った矢2、3本を折った後、八幡山へ悠々と帰っていった。

山名師義はその後、財園院(ざいおんいん:八幡市)に陣を取り、法性寺康長はなおも守堂口(もりどうぐち:八幡市)に守備陣をかためて、山名軍の進出を防がんとした。

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4月25日、全方面の足利軍は、しめし合わせて一斉に、総攻撃にうって出た。

吉野朝側は、北畠顕能(きたばたけあきよし)が、伊賀(いが:三重県西部)、伊勢(伊勢:三重県中部)の武士3,000余騎をもって、園殿口(そのどのぐち:八幡市)を防御する。

和田、楠、湯浅(ゆあさ)、山本(やまもと)他、和泉(いずみ:大阪府南西部)、河内(かわち:大阪府東部)の軍勢は、佐羅科(さらしな:八幡市)方面を防御する。

戦が進む中に、やがて、高橋(たかはし:八幡市)のあたりの民家が燃えはじめた。

火は、強風にあおられて四方に広がっていく。吉野朝側は煙にむせび、戦を続行する事はもはや不可能、全員、八幡山上へ退却した。

足利軍2万余騎は、すかさず四方から殺到し、洞峠(ほらがとうげ)まで上って、そこに拠点を確保、土岐(とき)、佐々木(ささき)、山名、赤松(あかまつ)、松田(まつだ)、飽庭(あくわ)、宮(みや)らが数十箇所に陣を取り、垣を築いて、八幡山を五重六重に包囲した。

一方、細川顕氏(ほそかわあきうじ)と細川清氏(きようじ)は、真木(まき:大阪府・枚方市)、楠葉(くずは:枚方市)方面から進み、八幡山西方の尾根上の如法経塚(にょほうきょうづか:八幡市)付近に陣を取り、掘一重を隔てて、吉野朝側を攻撃した。

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5月4日、吉野朝側は、全軍7,000余騎の中から、夜襲のベテラン800人を選抜して、コマンド部隊を編成した。部隊を率いるは、法性寺康長。

康長は、昼過ぎ頃から彼らを自陣へ集め、全員に、共通の笠標(かさじるし)を着けさせた。

法性寺康長 覚悟はえぇか、いよいよ、今夜やぞ!

吉野朝コマンド部隊メンバー一同 分かっとります!

法性寺康長 夜襲において、最も気ぃつけなあかん事、それはいったい何か? おまえ、言うてみぃ!

吉野朝コマンド部隊メンバーP はい、同志討(どうしう)ちです。

法性寺康長 その通り。よって、同志討ちを避ける為に、これから、合い言葉を定める、えぇか、よぉ聞いとけよ。

吉野朝コマンド部隊メンバー一同 ・・・。(耳を澄ます)

法性寺康長 合い言葉はな、「おまえは誰や?」に「進む」。「おまえは誰や」と問いかけられたら、「進む」と答えるんや、分かったなぁ!

吉野朝コマンド部隊メンバー一同 分かりましたぁ!

いよいよ夜も更けて、午後11時、吉野朝コマンド部隊は、移動を開始。宿院(しゅくいん:八幡市)の後ろを回って、如法経塚へ。

法性寺康長 よっしゃ、行くでぇ! トキの声!

吉野朝コマンド部隊メンバーP エェイ! エェイ!

吉野朝コマンド部隊メンバー一同 オォーーーウ!

細川軍メンバー一同 なんだぁ?

法性寺康長 行ぃけ、いけぇー!

吉野朝コマンド部隊メンバー一同 ウォーーー!(ドドドド・・・)

細川軍メンバー一同 あ、あ、あ、夜襲、夜襲!

細川軍メンバーQ 馬、馬は、どこだ?!

細川軍メンバーR 鎧、鎧、早くぅ!

細川軍3,000余は、真っ暗闇の中で、パニック状態に陥ってしまった。

自分がいったい陣中のどこに位置しているのやら、さっぱり見当もつかない。馬は勝手に走り回り、人はただ騒ぐばかり、太刀をも抜けず、弓をも引けない。続出する負傷者、死者、その数さえも定かでない。

遥か彼方の谷底へ、全員一気に追い落とされ、遺棄された馬や鎧の数は何千万・・・。

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「一陣が破れたならば、そく、全軍が崩壊するであろう」との、吉野朝側の期待に反して、細川軍の壊滅の後も、土岐、佐々木、山名、赤松の各陣は微動だにせず、垣を密に結んで用心堅い。夜襲をかけるスキもなく、打ち破るすべもない。

「このままでは、いつまでも、もちこたえれるもんやない。和田と楠を河内へ返して、あっちで兵を召集させ、八幡山の後詰めをさせよ」との決定に従い、二人は、こっそり八幡山を抜け出して河内へ向かった。

その後、八幡山にたてこもる吉野朝側は、二人が後詰めをかけてくるのを、一日千秋の思いで待ち続けた。

しかしながら、「今回の後詰めの任務こそ、わが一大事!」との思い深く、河内へ帰った和田五郎は、にわかに病に倒れてしまい、それから間も無く、死去してしまった。

一方の楠正儀は、父(正成)にも兄(正行)にも似ない、少々ノンビリ屋の人、「今日にも八幡へ」、「明日には八幡へ行くから」とかなんとか、言い続けているばかり、「天皇が、足利側の大軍に包囲されておられるのを、何とかしてお救けもうしあげよう」、との考えは無かったようである。まことに遺憾(いかん)な事である。

世間の声S そらまぁあ、古代中国にかて、似たような事は、ありましたわいな。あの聖君・尭帝(ぎょうてい)の息子の丹朱(たんしゅ)は、父には似ても似つかんような人物でしたわなぁ。あの舜帝(しゅんてい)の弟の象(ぞう)もまた、これが舜帝の兄弟であるとは、とても思えへんような、エゲツナァイ人物やった。

世間の声T そやけどねぇ、この楠正儀いう人はですよ、他ならぬ、あの楠正成(まさしげ)の息子ですよぉ、あの正行(まさつら)の弟ですよぉ。いったいなんでまた、こないにも、親とうって変り、兄にここまで劣る人間が、あの楠家に、生まれてきたんでっしゃろなぁ。

世間の声一同 いやぁ、まったく同感ですねぇ。(注5)

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(訳者注5)以下に、太平記のこの個所の原文を掲載しておく。

 「尭の子尭の如くならず、舜の弟舜に不似(にず)とは乍云(いいながら)、此楠は正成が子也。正行が弟也。何(いつ)の程にか親に替り、兄に是まで劣るらんと、謗らぬ人も無りけり。」

[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注には、以下のようにある。

 「史実として楠木正儀はこの頃和田助氏・淡輪助重を率い、和泉国村松で五月六日、十六日頃戦っていて(和田文書、淡輪文書)、八幡を助ける余地がなかったようである。」

当時、本当にそのような「楠正儀評」が世間に存在したのかどうか、怪しいものである。太平記作者が記述した事を、安易に信じない方がいいと思う。

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太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月22日 (木)

太平記 現代語訳 31-4 笛吹峠の戦

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田義宗(にったよしむね)は、足利尊氏(あしかがたかうじ)の強運の前に、石浜(いしはま:位置不明)で本意を遂げる事ができずに、ついに撤退、武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)を前にして越後(えちご:新潟県)と信濃(しなの:長野県)を後ろに見る笛吹峠(ふえふきとうげ:位置不明)に陣を取った。

「新田義宗、笛吹峠にあり」との情報をキャッチして、方々から、反尊氏勢力が続々と参集してきた、そのメンバーは以下の通りである:

大江田氏経(おおえだうじつね)、上杉憲顕(うえすぎのりあき)、その子息・上杉憲将(のりまさ)、中條入道(なかじょうにゅうどう)、その子息・中條佐渡守(さどのかみ)、田中氏政(たなかうじまさ)、堀口近江守(ほりぐちおうみのかみ)、羽川時房(はねかわときふさ)、荻野遠江守(おぎのとおとうみのかみ)、酒匂左衛門四郎(さかわさえもんしろう)、屋澤八郎(やざわはちろう)、風間信濃入道(かざましなののにゅうどう)、その弟・村岡三郎(むらおかさぶろう)、掘兵庫助(ほりひょうごのすけ)、蒲屋美濃守(かまやみののかみ)、

長尾右衛門(ながおうえもん)、その弟・長尾弾正忠(だんじょうのちゅう)、仁科兵庫助(にしなひょうごのすけ)、高梨越前守(たかなしえちぜんのかみ)、大田瀧口(おおたたきぐち)、干屋左衛門太夫(ほしやさえもんだいう)、矢倉三郎(やくらさぶろう)、藤崎四郎(ふじさきしろう)、瓶尻十郎(みかじりじゅうろう)、五十嵐文四(いがらしぶんし)、五十嵐文五(ぶんご)、

高橋大五郎(たかはしだいごろう)、高橋大三郎(だいざぶろう)、友野十郎(とものじゅうろう)、繁野八郎(しげのはちろう)、禰津小二郎(ねづこじろう)、その弟・禰津修理亮(しゅりのすけ)、諏訪上社祝(すわかみしゃのはふり)一族33人、繁野(しげの)一族21人、

以上の主要メンバーをはじめ、総勢2万余騎。

彼らは、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の第2皇子・宗良親王(むねよししんのう)を大将にかついで、笛吹峠に集合した。

一方、「将軍様は、小手差原(こてさしはら)の合戦で無事、現在、石浜におられる。」との報に、足利尊氏の方にも、続々援軍が駆けつけてきた。そのメンバーは、以下の通りである:

千葉氏胤(ちばうじたね)、小山氏政(おやまうじまさ)、小田治久(おだはるひさ)、宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)、常陸大丞(ひたちのだいじょう)、

佐竹義篤(さたけよしあつ)、佐竹刑部大輔(ぎょうぶだいう)、白河権少輔(しらかわごんしょうゆう)、結城判官(ゆうきはんがん)、長沼判官(ながぬまはんがん)、川越弾正少弼(かわごえだんじょうしょうひつ)、高坂刑部大輔(こうさかぎょうぶだいう)、

江戸(えど)、豊島(としま)、古尾谷兵部大輔(ふるおやひょうぶだいう)、三田常陸守(みたひたちのかみ)、土肥兵衛入道(とひひょうえのにゅうどう)、

土屋備前前司(つちやびぜんのぜんじ)、土屋修理亮(しゅりのすけ)、土屋出雲守(いずものかみ)、下條小三郎(しもじょうこさぶろう)、

二宮近江守(にのみやおうみのかみ)、二宮河内守(かわちのかみ)、二宮但馬守(たじまのかみ)、二宮能登守(のとんかみ)、

曽我上野守(そがこうずけのかみ)、海老名四郎左衛門(えびなしろうざえもん)、本間(ほんま)、渋谷(しぶや)、

曽我三河守(そがみかわのかみ)、曽我周防守(すおうのかみ)、曽我但馬守(たじまのかみ)、曽我石見守(いわみのかみ)、

石浜上野守(いしはまこうづけのかみ)、武田陸奥守(たけだむつのかみ)、その子息・武田安芸守(あきのかみ)、武田薩摩守(さつまのかみ)、武田弾正少弼(だんじょうしょうひつ)、

小笠原(おがさわら)、坂西(はんぜい)、一条三郎(いちじょうさぶろう)、板垣三郎左衛門(いたがみさぶろうざえもん)、逸見美濃守(へんみみののかみ)、白洲上野守(しらすこうづけのかみ)、

天野三河守(あまのみかわのかみ)、天野和泉守(いずみのかみ)、狩野介(かののすけ)、長峯勘解由左衛門(ながみねかげゆざえもん)、

以上の主要メンバーをはじめ、総勢8万余騎。

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足利尊氏 鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)には、新田義興(にったよしおき)と脇屋義治(わきやよしはる)の軍勢7,000余騎。しかも、続々と兵が集まっているという・・・かたや、武蔵には、新田義宗と上杉憲顕か・・・えぇっと、そちらの兵力は?

足利軍リーダーA 2万余騎ですね。

足利尊氏 ・・・うーん・・・2万・・・2万・・・7,000・・・はてさて・・・いったいどちらを・・・先に叩くべきか・・・。

足利軍リーダーB そりゃぁやっぱし、武蔵の方の敵軍でしょう。

足利軍リーダーC その理由は?

足利軍リーダーB こっから鎌倉へ軍を動かしてたんじゃ、みんな疲れちゃいますからねぇ。まずは、近くにいる大敵を叩いて打ち負かしちゃう、そうすりゃぁ、鎌倉の小勢なんか、一戦もせぬ前に、退散しちまいまさぁ。

足利軍リーダー一同 なぁるほど!

足利尊氏 ・・・う・・・じゃ・・・そのセンで行くか。

2月25日、足利尊氏は、全軍を率いて石浜を出発、武蔵の国府(こくふ:東京都・府中市)に到着した。

そこにさらに、以下のメンバーが馳せ加わってきた:

甲斐国(かいこく:山梨県)の源氏(げんじ)集団、武田信武(たけだのぶたけ)、武田氏信(うじのぶ)、その子息・武田修理亮(しゅりのすけ)、武田上野守(こうづけのかみ)、武田甲斐前司(かいのぜんじ)、武田安芸守(あきのかみ)、武田弾正少弼(だんじょうしょうひつ)、その弟・武田薩摩守(さつまのかみ)、

小笠原近江守(おがさわらおうみのかみ)、小笠原三河守(みかわのかみ)、その弟・小笠原越後守(えちごのかみ)、

一條四郎(いちじょうしろう)、板垣四郎(いたがきしろう)、逸見入道(へんみにゅうどう)、逸見美濃守(みののかみ)、その弟・逸見下野守(しもつけのかみ)、南部常陸守(なんぶひたちのかみ)、下山十郎左衛門(しもやまじゅうろうざえもん)をはじめ、合計2,000余騎。

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2月28日、尊氏は、全軍を率いて、笛吹峠へ押し寄せた。

新田・上杉連合軍は、小松が生い茂る山の南側斜面上に、流れる小川を前にして、陣を取っている。峯には、錦の御旗を打ち立てて、山麓には、白旗(しらはた)、中黒(なかぐろ)、棕櫚葉(しゅろのは)、梶葉(かじのは)の紋を描いた各家や武士団の軍旗が満ち満ちている。

いよいよ、戦闘開始。

尊氏側の一番手には、新手(あらて)で戦場一帯の地理に通じているから、ということで、甲斐国・源氏集団3,000余が当てられた。

新田義宗軍と戦って約1時間、逸見入道以下の主な甲斐国源氏集団100余騎が戦死し、退却。

尊氏側の二番手は、千葉、宇都宮、小山、佐竹、合計7,000余騎。上杉憲顕軍の陣へ押し寄せ、入り乱れ、入り乱れ、戦う。その結果、上杉軍側は信濃勢200余騎が戦死、尊氏側も300余騎が戦死、左右にサッと別れた。

引けば入れ替わって、両軍、追いつ返しつの激戦、午前11時頃から午後7時頃まで、少しの休む間も無く、戦闘が続いた。

少勢をもってして大敵と戦うには、「鳥雲(ちょううん)の陣形」がベストである。この陣形は、山を背後にし、左右に水を境にして、敵を平野に見下ろして陣を取る、というものである。このように構えると、我が方の兵力の程を敵に覚られる事なく、勇将猛卒(ゆうしょうもうそつ)が、かわるがわる最前線に射手を進めて戦えるのである。

新田・上杉連合軍側が取った陣形は、まさにこの鳥雲の陣そのものであった。故に、じっと待ってさえいれば、そのうち勝機は廻(めぐ)ってくるのである。

しかし、新田義宗は、やはり経験不足の若武者、何度も何度も広みに出てしまっては、尊氏側の大軍に包囲されてしまう。百度戦い千度懸け破るとも、尊氏側は圧倒的な大兵力、ついに、新田・上杉連合軍は、戦に負け、笛吹峠への撤退を余儀無くされた。

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上杉憲顕軍の中に、長尾弾正(ながおだんじょう)、根津小次郎(ねづこじろう)という、二人の大力・剛の者がいた。

長尾弾正 えぇい、おもしろくねぇ!

根津小次郎 やられちまったなぁ。

長尾弾正 おいら、とてもこのまま、引き下がってらんねぇな。このまま負けたんじゃ、一世一大のハジじゃんかよぉ!

根津小次郎 ほんと、ほんと。どうだい、おれとおまえと、二人してさ、この恥、晴らそうじゃん。

長尾弾正 いってぇ、どうやってぇ? なんか、いい作戦でもあんのかよぉ?

根津小次郎 敵に紛れてな、あっちの陣に入り込むんだよ・・・将軍の側近くまで近づいてな・・・そいから・・・ブスッ!

長尾弾正 おもしれぇ、やってやろうじゃぁん!

二人は急いで、自らの笠標(かさじるし)を二両引(ふたつりょうびき)の足利家のそれに替えた。

根津小次郎 おれたち、あっちの連中に、顔知られちまってるからよぉ、うまく変装しなきゃなぁ。

長尾弾正 (乱れ髪を、顔に振り掛け)これで、どうだ?

根津小次郎 ウハハハ・・・それじゃ、誰にも分かりっこねぇやなぁ。じゃぁ、おいらはもうちょっとハデにやってやっかなぁ・・・オウッ(小刀で、自らの額を突き切る)。

長尾弾正 おぉ、そこまでやるかぁ! 顔面、血シブキじゃぁん。

根津小次郎 (切って落した尊氏軍所属の武士の頭を、太刀の先に貫き)どうだ、これなら、誰にも気付かんねぇだろう?

長尾弾正 ハハハハ・・・ジュウブン(十分)、ジュウブン。

彼らはたった二人で、尊氏軍数万の中に懸け入っていった。

尊氏軍メンバーD こらこら、待て! 止まれ!

尊氏軍メンバーE テメェら、いったいどこの家中のもんだ?!

長尾弾正 なんだとぉ! おれを誰だと思ってやがんでぃ! テメエらみてぇな下っ端レンチュウに、検問されて、たまるかぁ!

根津小次郎 おれたちゃなぁ、他ならぬ将軍様のお御内(みうち)のモンだぞ! 分かってんのかぁ!

尊氏軍メンバーD (ドキッ)・・・。

長尾弾正 ついさっきまで、新田のレンチュウらとチャンチャンバラバラやりあってよぉ、あっちのリーダークラスのやつ、組み討ちにしてやったんだ。そいだもんで、これから将軍様の御前へ行ってだなぁ、首実検(くびじっけん)してもらおぅってんだよぉ!

根津小次郎 オラオラ、ナニしてやがんでぃ! 早いとこ、道、開(あ)けやがれぃ!

尊氏軍メンバーD いやいや、こりゃぁ、どうも失礼しやした。

尊氏軍メンバーE それはそれは、おめでとうござんす。

こうなっては、誰も二人を咎めだてする者は無い。

長尾弾正 将軍様は、いったいどちらにおられるんだい?

尊氏軍メンバーG (尊氏の陣を指差し)ほらほら、あちら、ほら、あそこ。

馬の上に伸び上って、指差された方向を見ると、そこにはたしかに、尊氏の姿が見えた。二人が今いる所からの距離は、ちょうど、弓の射程距離くらいであろうか。

長尾弾正 (内心)ラッキー!

根津小次郎 (内心)よぉし、ただの一太刀で、

長尾弾正 (内心)切って落してやらぁ!

根津小次郎 (内心)将軍様、待ってなせぇよぉ、そこ、動きなさんなよぉ!

二人は、キッと目配(めくば)せを交わし、尊氏の方に、馬を静かに歩ませていった。

しかし、またしても、尊氏はその強運に助けられた。

尊氏軍メンバーH おい、てぇへん(大変)だ! 将軍様、危ねぇぞ!

尊氏軍メンバー一同 (ビクッ)

尊氏軍メンバーH その二人に、気ぃつけろ、狙ってるぞ! 将軍様、狙ってるぞ!

尊氏軍メンバー一同 なにぃ!

尊氏軍メンバーH そいつら、上杉の配下だよ、長尾弾正と根津小次郎だ! おれ、そいつらの顔、よく知ってんだから。だまされんなよ、将軍様に近づけちゃ、だめだぞ!

武蔵と相模の武士ら300余騎が、たちまち左右から殺到してきて、二人と尊氏との間を隔ててしまった。

長尾弾正 チェッ、バレちまったか。

根津小次郎 (太刀の先に貫いた首を投げ捨て)こうなりゃ、トコトンやってやらぁ!

長尾弾正 (乱れ髪を振り上げ)よぉし、行くぜぃ!

二人は、300騎の集団の中に、突入した。

根津小次郎 エーイ!

小次郎の太刀 ドシャッ!

長尾弾正 ヤァー!

弾正の太刀 ブス!

二人の太刀の切っ先に回った者は、兜の鉢から胸板まで真っ二つに割られたり、腰の関節を切られたりして、馬上から次々と落ちていく。

しかしながら、しょせん多勢に無勢、たった二人では、限界というものがある。弾正と小次郎は、十方を包囲され、矢の雨を浴びせられ始めた。

長尾弾正 (内心)こりゃぁ、ちょっとムリかなぁ。

根津小次郎 (内心)惜っしいなぁ、もうちょっとのトコだったのにぃ!

長尾弾正 ウハハハ・・・いやぁ、それにしても、運の強い足利殿。

根津小次郎 じゃ、またなぁ、バイバーイ!

二人はしずしずと、上杉軍の陣へ引き上げていった。

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夜になって、両軍共に引き退き、各陣、思い思いに、かがりびを焚(た)きはじめた。

尊氏軍側を見渡せば、かがり火は周囲四方5、6里にも及び、あたかも、銀河高く澄む夜空に星を連ねるかのようである。それにひきかえ、笛吹峠の新田・上杉連合軍側のかがり火は、月の明かりに消され行く蛍火(ほたるび)が山陰(やまかげ)に残っているようなもの。

これを見て、新田義宗は、

新田義宗 一日中の合戦で、こちら側のメンバーが、大勢やられちまった、それはたしかに、そうだろうよ。けどなぁ、このかがり火、いってぇどうなってんだぁ? これほど陣が、スケスケになっちまうはず、無(ね)ぇだろうがぁ!

新田軍リーダー一同 ・・・。

新田義宗 きっと、逃亡者がいるに違(ちげ)ぇねぇ。よぉし、逃げれねぇようにな、道々に関、構えろ。

というわけで、上田山(うえだやま:新潟県・南魚沼市)と信濃路(しなのじ)に、厳しく関を据えた。

新田義宗 (内心)「士卒が将を疑う時は、戦い利あらず」って事があるからな・・・。目の前には勝利に乗ってる大敵、背後には味方の国ときちゃぁ、そりゃぁ、みんな疑うだろうよ、「今夜にでも、新田は、越後、信濃へ撤退しちまうんじゃなかろうか」ってなぁ。

新田義宗 (内心)こういう時には、不退転の姿勢を示すのが一番なのさ。「舟を沈め、食料を捨てて、再び帰らじの心を示すは、良将の謀(はかりごと)なり」って言うからな。

新田義宗 おい、みんな! 馬の鞍、降ろせ。鎧、脱げ。おれたちゃ絶対、ここから撤退しねぇぞって心意気、みんなに見せつけてやるんだ。

義宗自ら、鎧を脱いたので、士卒ことごとく、鞍を下ろして馬を休ませた。

宵のうちは、全員心を静めて落ち着いていたが、夜半を過ぎる頃ともなると、尊氏陣営側のおびただしく連なっている松明(たいまつ)に、どうしても目が行ってしまう。

「明日の戦も、負け戦になること必定(ひつじょう)」と、思ったのであろうか、ついに、上杉憲顕が脱落してしまった。憲顕は、カガリ火を陣中に燃やしたまま、信濃へ撤退。

新田義宗も、止む無く、翌暁、越後へ撤退した。

大将2人が撤退してしまったとなっては、もはや、新田・上杉連合軍は、総崩れ。たった今まで、新田、上杉に付き従っていた武蔵、上野の武士たちも、いずこへともなく、霧散霧消(うさんむしょう)。

この戦の結果を日和見(ひよりみ)していた上総(かずさ:千葉県中部)、下総(しもうさ:千葉県北部)の武士たちは、我先にと尊氏のもとへ馳せ参じていったので、やがてその兵力は百倍して、ついに総勢80万騎にまで膨張した。

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6,000余騎を率いて鎌倉を制圧している、新田義興(にったよしおき)と脇屋義治(わきやよしはる)の、何よりの関心事は、笛吹峠の戦の結果であった。

新田軍使者 報告、申し上げます、笛吹峠の戦い、わが方、利あらず、上杉殿は信濃へ、義宗様は越後へ撤退!

新田義興 えぇっ!

脇屋義治 ハァー・・・(溜息)だめだったかぁ!

新田軍使者 足利尊氏は、関東8か国の勢力を率いて、こちら、鎌倉へ向かっております。

新田軍リーダーI 殿、どうします?

新田義興 決まってるだろ、ここで、討死にするだけさ、なぁ?

脇屋義治 その通り! もともと、その覚悟で、やってきたんだもんね。

松田(まつだ)家リーダーJ いやいや、そぉそぉ早まっちゃぁ、いけません!

松田家リーダーK そうだよ! ここは、シンボウが大切。

河村(かわむら)家リーダーL おれたちんちや、松田んちの領土はね、相模川(さがみがわ)の上流、山奥深いとこにあるんです。(注1)

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(訳者注1)原文には「松田、河村の者共、「それがしらが所領のうち、相模河の河上に屈竟の深山候へば、只それへ先引籠らせ給て・・・」。とあるが、これは太平記作者のミスであろう。「相模川上流」の「屈竟の深山」となると、山梨県上野原町よりもさらに上流となってしまい、松田、河村の本拠地からはるか彼方に離れてしまう。ゆえにここは、「相模川上流」ではなくて、「酒匂川上流」とするのが正しいようだ。
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河村家リーダーM 守りをかためて、たてこもるにゃ、絶好の場所だい。

松田家リーダーJ まずは、そこへたてこもってね、そいから、勢力挽回の努力でさぁね。

松田家リーダーK 京都の様子を見ながら、

河村家リーダーL 越後や信濃に撤退された新田の大将方とも、連絡、密に取り合って、

河村家リーダーM 天下の形勢を、じっとうかがい、

松田家リーダーJ チャンスと見れば、再び諸国から兵を集めて、

松田家リーダーK 再度、合戦!

新田義興 ウーン・・・どう思う?

脇屋義治 ・・・。

松田、河村両家リーダーたちの強いいさめを、ついに二人は聞き入れた。

3月4日、新田義興と脇屋義治は、石塔(いしどう)、小俣(おまた)、二階堂(にかいどう)、葦名(あしな)、三浦(みうら)、松田、河村、酒匂(さかわ)以下6000余騎を率いて、鎌倉より撤退し、国府津山(こうづやま:位地不明:注2)の奥にたてこもった。

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(訳者注2)これを、現在の神奈川県・小田原市の国府津の付近と見るのは、相当、無理がある。国府津は相模湾沿岸だから、「相模川(あるいは、酒匂側)上流の屈竟の深山」の地ではない。
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太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月21日 (水)

太平記 現代語訳 31-3 新田義興と脇屋義治、石塔義房らと連合して鎌倉を攻略す

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田義興(にったよしおき)と脇屋義治(わきやよしはる)が率いる軍勢は、わずか200余騎になってしまった。

新田義興 義宗(よしむね)とも、離ればなれになっちまったなぁ・・・。

脇屋義治 他の連中、みんな、どこへ行っちまったんだろう。

新田義興 (内心)波にも着かず、磯からも離れ、

脇屋義治 (内心)どこにも拠所(よりどころ)無し、まさに宙ぶらりんって、かんじ。

全員、馬から下りて休息を取りつつ、義興は、

新田義興 なぁ・・・この人数じゃぁ、上野(こうずけ:群馬県)へ帰るなんて、もう到底不可能だろう。かといって、他に落ちていく先の当ても無ぇ。どうせ死ななきゃなんねぇんだったら、いっそのこと、鎌倉(神奈川県・鎌倉市)へ打ち入ってさぁ、足利基氏(あしかがもとうじ:注1)やっつけてから、死のうじゃん。

脇屋義治 それ、いいね!

新田軍一同 おもしれぇ、やりやしょうぜ!

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(訳者注1)尊氏の次男。上洛した義詮に代わって、鎌倉府の長に就任した。
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全員、ひたすら討死にせんと志し、思い思いに母衣(ほろ)をかけて、鎌倉へ向かう。

夜半過ぎ頃、関戸(せきと:東京都・多摩市)を過ぎたあたりで、兵力およそ5、6,000騎はあろうかという、西方向に進む大軍勢に遭遇した。

新田義興 ありゃぁいってぇ、どこの軍だぁ?

脇屋義治 きっと、足利側のカラメ手方面軍だよ。

新田軍メンバーA 鎌倉まで行かずに、いっそのこと、ここで死んじまいやしょう。

新田軍メンバーB この関戸の地に屍をさらすってぇのも、また、いいじゃないですかぁ。

新田義興 よし。とにかく、あれが誰だか、確かめようぜ。戦うなら、それからだ。

新田軍は一団となり、馬を進めて行く。

新田義興 おぉい、そこのぉ! いったいどこんちの軍勢かなぁ?

石塔軍メンバーC おれは、石塔(いしどう)軍のメンバーよ。石塔義房(いしどうよしふさ)様と三浦高通(みうらたかみち)殿が、これから、新田殿に合流しようってんだよぉ(注2)。

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(訳者注2)31-1 では、石塔たちは、新田軍との合流を目指して、関戸へ向かった、という事になっている。
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脇屋義治 うわっ、こりゃぁいいや!(パチパチ・・・手を打って喜ぶ)

新田義興 やぁったぜ!(パチパチ・・・手を打って喜ぶ)

石塔軍メンバーC あんたら、いってぇ、なに喜んでんだぁ?

脇屋義治 ナニを隠そう、ここにいるおれたちこそが、その新田軍よぉ! おれは、脇屋義治。そして、こっちの人が、新田義興!

石塔軍メンバーC ゲホッ!

古代中国、魯陽(ろよう)が朽骨(きゅうこつ)を二度連ねて韓搆(かんこう)と戦いをした時に、日を三舎に返しての喜びも、これに比べれば、まだまだささやかなものであろう。まさに新田軍、思いがけなくも死中に活を得た、というわけである。

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(訳者注3)史実においては、起こった事の順序が、太平記の記述とは逆である。新田勢力は、挙兵後すぐに、鎌倉へ進撃し、その後、小手指原で足利軍と戦ったのである。
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合流した新田軍と石塔らの軍は一路、鎌倉へ。やがて、神奈川(かながわ:横浜市・神奈川区)に着き、一息入れた。

ひととおりの対面のあいさつの後、さっそく作戦会議となった。

新田義興 で、鎌倉の情勢は?

石塔義房 鎌倉にはねぇ、将軍の次男坊・基氏が、以前から駐在してまさぁ。これは、オタクらもご存じの事だよね?

新田義興 あぁ。

三浦高通 基氏には、南宗継(みなみむねつぐ)がついてる。安房(あわ:千葉県南部)と上総(かずさ:千葉県中部)の勢力3,000余騎でもって、化粧坂(けはいざか:鎌倉市)と巨福呂坂(こぶろざか:鎌倉市)を、用心厳しく、かためてる。

石塔義房 ところがね、昨日の朝、「新田軍、三浦半島(みうらはんとう:神奈川県南部)に有り!」って聞いて、「それ、やっつけちまえ」ってんで、やつら、鎌倉を出やがったんだ。でも、結局それ、ガサネタだったもんだから、すぐに引っ返して・・・今はもう、帰ってきてるらしい。

脇屋義治 なるほど、なぁるほど・・・鎌倉攻め、今がチャンスだよねぇ。

石塔義房 まったく、その通り。

新田義興 こりゃぁ、グズグズしてらんねぇや。今からすぐにここで準備して、直ちに、鎌倉攻めと行こうじゃぁねぇの。

石塔義房 OK!

三浦高通 じゃ、さっそく準備に・・・。

新田・石塔連合軍は、食事をとり、馬にたっぷりカイバを食べさせた上で、全軍3,000余騎を二手に分けた。そして、鶴岳(つるがおか:鎌倉市)へ旗差(はたさし)少々をつかわした後、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の上方から、逆落としに押し寄せていった。

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「敵軍、鎌倉に迫る!」との情報を。足利幕府・鎌倉庁がキャッチしたのは、南宗継軍が、三浦半島から戻ってきたばかりの時であった。彼らは、鎧の上帯も解かないまま、若宮小路(わかみやこうじ)に直ちに移動し、陣を構えた。

小俣宮内少輔(おまたくないしょうゆう:注4)は、今朝の時点で、新田・石塔連合軍側の軍奉行に任ぜられていた。宮内少輔は、手勢73騎を率いて、南宗継軍が群がるどまん中に突撃、火花を散らして切り乱す。

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(訳者注4)31-1 に登場。
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三浦、葦名(あしな)、二階堂(にかいどう)各軍のメンバーたちは、勝手知ったる鎌倉の中、人馬ともに元気一杯、こちらの谷から、あちらの小路より、ドッとおめいては懸け入り、サッと懸け破っては裏へ抜け、谷々小路小路に、入り乱れて戦う。

新田義興は、由比ガ浜(ゆいがはま)の民家の外れで、南側のメンバー3人を切って落し、大軍の群がる中をツッと駆け抜けた。

南側の一人が、義興の小手の手覆いを狙って切り付けてきたが、とっさに身をかわしたので、相手の太刀はそのまま流れて手綱(たづな)をズンと断ち切った。手綱の左側が地上に落ち、馬の足に踏まれた。

義興は、とっさに太刀を左脇にさし挟み、鐙(あぶみ)の鼻まで体を落して、落ちた手綱を拾い上げ、その右側に手早く結ぶ。

「これは絶好のねらい目」と、南側の3騎が、義興めがけて馳せ寄り、兜の鉢や鎧の後方を三回、四回と強打する。しかし、義興はいささかも騒がず、落ち着きはらって手綱を結び終え、再び鞍の上に体を戻した。

これを見たその3人は、

南側メンバーD なんてすげぇ武者なんだろう。

南側メンバーE おれたち3人相手にして、悠々と、手綱結んじゃってさぁ。

南側メンバーF こんな人、相手にしても、とてもかないっこねぇ。おいら、降参しちまおうっと!

南側メンバーD おれも!

南側メンバーE おれも!

3人は、新田軍にねがえってしまった。

「塔辻(とうのつじ:鎌倉市)方面、苦戦」と見て、脇屋義治軍と小俣宮内少輔軍は合体し、200余騎の軍勢でもって、南軍に襲いかかった。この攻撃を受けて南軍は、一気に総崩れになってしまい、南宗継は、旗を巻いて退き始めた。

これを見て、方々の谷々で抵抗を続けていた南側の者たちも、十方へ散りはじめた。もはや再び合流する事もかなわず、100騎、200騎と、思い思いに落ちていく。

しかし、三浦軍と石塔軍の武士たちは、すでにその戦闘力の限界に達していたので、それを深く追う事はなかった。

かくして、南宗継は、何とか一命だけは取りとめ、足利基氏を守りながら、石浜(いしはま:注5)目指して落ちていった。

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(訳者注5)位地不明。31-2 にも、この地名が登場している。
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このようにして、2月13日の鎌倉での戦に、新田義興と脇屋義治は大勝利を得て、先日の屈辱をみごとに果たしえたのみならず、二人は「両大将」と仰がれて、それからしばらくの間、関東8か国の統治者としての地位に据えられたのであった。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月20日 (火)

太平記 現代語訳 31-2 武蔵野の戦い

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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石塔義房(いしどうよしふさ)、三浦高通(みうらたかみち)らの陰謀が露見してしまい、双方しめし合わせて足利軍を壊滅せしめんとの計画が完全に覆ってしまった事を、新田義宗(にったよしむね)は夢にも知ろうはずがない。

新田義宗 さぁ、約束の時刻だぞぉ!

うるう2月20日(注1)午前8時、新田軍は、武蔵野(むさしの)の小手差原(こてさしはら:埼玉・所沢市)へ前進。

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(訳者注1)専門家の研究によれば、これ以降に記述の太平記の内容は、戦いの日時、場所等において史実と大きく食い違っているようだ。
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新田軍の編成は以下の通りである。

第1軍:大将・新田義宗、総勢5万余騎。白旗(しらはた)、中黒(なかぐろ)、頭黒(かしらぐろ)の紋を描いた旗が風に靡いている。団扇(うちわ)の紋の旗は、児玉党(こだまとう)武士団。さらに、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)武士団、赤印一揆(あかじるしいっき)武士団らが参加している。彼らは5つのグループに分かれ、それぞれ5箇所に陣を取っている。

第2軍:大将・新田義興(にったよしおき)、総勢2万余騎。カタバミ、鷹の羽(たかのは)、一文字(いちもんじ)の紋。さらに十五夜の月弓一揆(いざよいのつきゆみいっき)武士団。ただの一人も敵に後ろを見せるまいと、こちらも、5グループに別れて四方六里に展開する。

第3軍:大将・脇屋義治(わきやよしはる)、総勢2万余騎。大旗(おおはた)、小旗(こはた)、下濃(すそご)の旗、鍬型一揆(くわがたいっき)武士団に、母衣一揆(ほろいっき)武士団、彼らも5箇所に分かれて陣を取り、射手を左右に展開し、騎馬隊を後方に置いている。

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「新田軍、小手差原に布陣」との報を聞き、

足利尊氏(あしかがたかうじ) よぉし、行くぞ!

足利軍一同 オオウ!

尊氏は、10万余騎の軍勢を5グループに分け、街道沿いに進んだ。

第1陣は、平一揆(へいいっき)武士団3万余騎、小手(こて)の袋、四幅袴(よのはかま)、笠標(かさじるし)に至るまで赤一色、ことさら輝いて見える。

第2陣は、白旗一揆(しらはたいっき)武士団2万余騎、白葦毛(しろあしげ)、白瓦毛(しろかわらげ)、白佐馬(しろさめ)、ツキ毛の馬に乗り、練貫(ねりぬき)の笠標に白旗を差す。新田軍側にも白旗一揆武士団が加わっていると聞き、それとの区別を明確にするために、彼らは、出陣の直前に旗の棒を切って短くした。

第3陣は、花一揆(はないっき)武士団、大将は饗庭命鶴丸(あえばみょうづるまる)、総勢6000余騎。萌黄(もえぎ)、火威(ひおどし)、紫糸(むらさきいと)、卯の花(うのはな)でツマ取った鎧に薄紅(うすくれない)の笠標。全員、梅花を一枝折って兜の正面に差している。四方の嵐の吹くたびに、鎧の袖は匂わんばかり。

第4陣は、「御所一揆(ごしょいっき)」と称し、総勢3万余騎。二引両(ふたつびきりょう)の足利家紋の旗の下、将軍・尊氏を守っている。これを構成するは、譜代家臣中の年長者や守護の任にある者たち、彼らは静かに馬を控えている。

第5陣は、仁木(にっき)三兄弟率いる軍、仁木頼章(よりあきら)、仁木義長(よしなが)、仁木義氏(よしうじ)の下、3,000余騎。笠標を付けず、旗も差さず、少し離れた場所に陣を取り、馬から下りて待機している。彼らは、いわば予備軍である。新田、足利双方共に大軍ゆえに、互いの激突は10回、20回と繰り返されていくであろう、敵も味方も気力を失い、戦い疲れてしまう事も予想される。その時こそが、この仁木軍の出番である。敵の大将が退いた地点に狙いを付け、夜襲を仕掛けるのだ。

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いよいよ、新田、足利双方の軍勢20万騎、小手差原に臨む。

一方が3度トキの声を上げれば、相手側も3度トキの声を合わす。上は須弥山(しゅみせん)の8万ユジュン上空に存在する、かの三十三天(さんじゅうさんてん)にまで響きわたり、下は大地の下160万ユジュンに存在の、あの金輪際(こんりんざい)まで聞こえるかのような、大音声である。

ついに、戦いの火蓋は切って落された。

新田義興が率いる新田第2軍団2万余騎と、足利第1陣・平一揆武士団3万余騎が、激突。

追いつ返しつの一進一退を1時間ほど展開、やがて左右へサァッと引き分かれる。双方共に、戦死者800余人、負傷者は数え切れないほど多数。

次に、最前線へ出たのは、脇屋義治が率いる新田第3軍団2万余騎。それに対するは、足利第2陣の白旗一揆武士団2万7千余騎。東西より、ガップリヨツに組み、一所にサッと入り乱れ、火花を散らして戦う。

馬たち ドドドドドドドド・・・。

太刀ら ガチッ! バチッ! パシーン! バシーン!・・・。

汗馬(かんば)の馳せ違う音、太刀と太刀とが鍔(つば)で激突する音、天に光り地に響く。

こちらでは、引き組んで首を取るもあり、取られるもあり、あちらでは、右方、左方に接近しては、切って落すもあり、落されるもあり。人血(じんけつ)の溜(たま)りを、馬蹄(ばてい)が蹴立(けた)てて、紅葉に注ぐ雨のごとく、屍(しかばね)は、野に道に横たわり、一寸の空隙も残ってはいない。

今の瞬間、相手を追い靡(なび)けたかと思いきや、次の瞬間には懸け立てられ、七度、八度と激突の末、東西にサァッと分かれていく。双方、戦死者500人。

そしていよいよ、足利第3陣が、最前線に姿を現した。これを率いる大将は、饗庭命鶴丸、当年18歳。まさに、当代無双の美青年、今日は「花一揆」の大将ゆえ、花を折って笠標に差してのいでたち、花一揆6,000余騎の最前列を、懸け進む。

これを見た、新田第1軍の大将・新田義宗は、

新田義宗 おやおや、花一揆と来ましたかぁ、じゃぁ、こっちは、児玉党で行こうじゃないの! 児玉党の諸君、君らの旗の紋、いったい、なぁーんだ?!

児玉党リーダーA 決まってらぁね、団扇(うちわ)でござんす!

新田義宗 じゃ、その団扇でもって風ビュンビュン、あの花、カタッパシから散らしてやんな!

児玉党一同 オオオ、うまいこと言うねぇ、ワッハッハッハッ・・・。

児玉党リーダーB よぉし、まかしときなってぇ! 団扇ドモォ、行ぃくぜぇーぃ!

児玉党一同 ウォー!

児玉党7,000余騎が、花一揆に襲いかかっていく。

花一揆は全員、若武者ばかり、思慮もなく、ただただ相手に懸かっていき、懸命に戦う。しかし、児玉党7,000余に一気に揉み立てられ、一回の反撃も出来ずに、ハァーッと退いていく。

足利サイドの他の武士団は、攻撃を仕掛ける時は一団となってかかり、退却する時は左右へサッと分かれ、間隙の開いたその中央部に、新手の軍をすかさず繰り出し、というようにして戦う。このようにしていれば、後陣には決して混乱が起らないからである。

しかし、この「花一揆」の者らは、そういった軍勢コントロール法を何も知らないものだから、前線から一目散に退却した末に、尊氏の後方に控えている陣中に、ボロボロとこぼれ落ちるかのように、乱入していく。それが障害となって、新手の軍を前線に送り出す事が出来ない。

この混乱に乗じた新田軍は、足利陣中に、巨大なクサビのごとくに、グイグイと食い込んでくる。勝ちドキを上げては突入、また勝ちドキを上げては突撃、波状攻撃の連続。

足利軍リーダーC このままではいかん!

足利軍リーダーD 少しだけ退いて、態勢を立て直してから、一気に反撃に!

足利軍リーダーE 退け、ちょっとだけな! ちょっとだけだぞ!

不用意に口にした彼らのこの言葉が、全軍崩壊の引き金を引いてしまった。

足利軍メンバーF 退却、退却!

足利軍メンバーG 退却だぁ--!

足利軍メンバー全員 アワワワ・・・。

足利軍10万余騎は、一斉に浮き足立ってしまい、大混乱の中に、壊走(かいそう)し始めた。

新田義宗は、自軍の旗の前へ馬を進めて叫ぶ、

新田義宗 おぉい、みんなよく聞けぇ! あそこにいやがる足利尊氏こそはなぁ、国にとっては陛下の敵、おれにとっては親のカタキよぉ! 今日という今日こそは、あいつの首取って、軍門に曝(さら)さん事にゃぁ、この先いつになるか、わかりゃしねぇー!

新田第1軍メンバー一同 オーッ!

新田義宗 行けぇ、行けぇ! どこまでも追え! とことん追え、尊氏を追えーっ!

新田第1軍メンバー一同 オーッ!

新田義宗 地の果てまでも追え、尊氏を追えーっ!

新田第1軍メンバー一同 オーッ! オーッ!

新田義宗 目指すは、尊氏ただ一人! 他のヤツは放ぉっとけーっ!

新田第1軍メンバー一同 それイケーッ!

彼らはひたすら、二引両の大旗を目印に、尊氏の本隊を追撃、南北へ逃げ行く足利サイドの他の武士には、目もくれない。

退く側は馬に鞭打ち、追う側はひたすら馬を走らせる。たった1時間の中に、小手差原から石浜(いしはま:注2)までの坂東道46里を、双方、疾風のごとく駆け抜けた。

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(訳者注2)諸説あって、位地不明。
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尊氏が、今まさにこれから石浜を渡ろうとしていた時、新田軍は、ついに足利軍に追い着いた。

足利尊氏 (内心)あぁ、我が人生、これにて終わりか・・・。

尊氏は、腹を切る覚悟を定め、鎧の上帯(うわおび)を切って投げ捨て、高紐(たかひも)を外しにかかった。

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尊氏の近習(きんじゅう)H (尊氏の右手をつかんで)将軍様、お待ち下さい!

尊氏の近習I (尊氏の左手を捕えて)だめですよ、自害なんか、なさっちゃ!

尊氏の近習J ここはおれたちに任せて、将軍様、さ、あっちへ、向う岸へ!

尊氏の近習K おい、おまえら、将軍様を頼む! えーい、行くぞ!

尊氏の近習L よぉし!

尊氏の近習一同 (内心)ここが、おれの死に場所だぁ、えぇい将軍様の為なら!

近習たち20余人は、とって返し、川中まで追いすがってくる新田軍の武士らを迎え撃つ。相手に引き組み、引き組み、一人、また一人と死んでいく間に、尊氏は窮地を脱し、向う岸にかけ上がる事ができた。

逃げる側は3万余騎、追いすがる側は500余騎。川の対岸は岸高く、屏風を立てたかのようである。足利サイド数万騎は、「ここが最後の防衛ライン!」と、対岸をかためにかかった。

時刻は既に18時過ぎ、相当暗くなってきており、川の浅深も定かには見えない。

新田義宗 エェーーイ! 尊氏が、目と鼻の先にいるってのにぃ! これじゃぁ、川、渡れやしねぇやぁ!

後から続いてくる味方の姿も見えない。

新田義宗 エェーイ、モォー!(ギリギリギリ・・・歯噛み)

やむをえず、義宗は、自軍の本陣に引き返した。

まぁそれにしても、足利尊氏という人、よくよく、運が強い人であるとしか、言いようがない。

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新田義興(にったよしおき)と脇屋義治(わきやよしはる)は合流し、白旗一揆(しらはたいっき)武士団中の2,3万騎が北の方に逃げていくのを見て、「あれこそが、尊氏の本隊であろう、どこまでも追いつめて討ちとってしまえ」と、50余町ほど追跡していった。

追いつめられた白旗一揆武士団メンバーたちは、続々と馬から下りて投降し、二人に対面して挨拶してくる。これに、方々で応対している間に、二人が率いていた軍勢は、逃げる相手を追ってさらに先に進んでいってしまい、二人と軍勢の大半とは、東西に隔たってしまった。

今や、義興と義治の周囲には、たった300余騎しかいない。

これぞまさに、仁木(にっき)兄弟にとっては、願っても無いチャンス、こういう機会を狙いながら、彼らは未だに一戦もせずに、馬を休めながら、葦(あし)原の中に隠れていたのである。

仁木義長 見ろよ、あれ! 敵の大将が2人も・・・しかも、その周囲(まわり)には、たったあれだけ!

仁木頼章 まったくもう、信じられねぇよなぁ、こんなチャンスに恵まれるなんてよぉ。

仁木義長 まさにこれは、天から与えられた絶好の機会だな。

仁木頼章 源氏末流(まつりゅう)の連中だの、方々から駆けつけてきたヤツラだの、何千騎討ってみたところで、どうにもなりゃしねぇ。狙うんだったら、ああいうヤツを狙うわなきゃなぁ・・・よぉし、行くぜ!

仁木軍メンバー一同 オウッ!

仁木軍3,000余騎は、一団となって、新田義興と脇屋義治に襲いかかっていく。

新田義興 ウゥッ! あれは!

脇屋義治 伏兵だ、伏兵がいたんだ!

新田義興 どうみても、こっちの方が兵力少ないな・・・きっと、鶴翼陣形(かくよくじんけい)でもって、包囲しにかかってくるだろう。

脇屋義治 なら当然、こっちは、魚鱗陣形(ぎょりんじんけい)。

新田軍は、魚の鱗のように密集して馬のくつばみを並べ、仁木軍の中央を突破しようとした。

仁木義長は、とっさに陣形を構えた相手のこの動きに、鋭い視線を送り、

仁木義長 おいみんな、敵の数が少ねぇからって油断するなよ! あの馬の配置、あの陣構(じんがま)え、ありゃぁナミの武士じゃねぇや。油断してると、こっちの中央、イッパツで割られちまうぜぃ。

仁木義長 こっちも密集陣形取ってな、敵が懸かってきても、絶対に陣形崩すなよ、いいな、わかったなぁ! 常に前後に目を配ってな、大将らしい敵見つけたら、引き組んでいっしょに落ちて、首を取れ。下っ端が懸かってきたら、射て落とせ。

仁木義長 とにかく、敵に、トコトン力を出し切らせちまうんだ。それまで、こっちがひるまずに持ちこたえれたら、こっちは多勢、相手は無勢、もうそうなったら、勝利はこっちのもんさ!

このように、戦い方を詳細に全軍に指示し、一団となって待ち構えている。

その後の戦況推移は、義長のもくろみ通りになっていった。

目前に控えて挑発を繰り返す仁木軍にがまんならず、新田義興と脇屋義治は、300余騎を一団にまとめ、仁木軍のど真ん中を懸け破り、蜘蛛手(くもで)、十文字(じゅうもんじ)に蹂躪(じゅうりん)せんと、一斉におめいて、襲いかかっていった。

義長は、その面に動揺のかけらも見せる事無く、的確に指示を出す。

仁木義長 中央を破られるなよ! とにかく、敵に力を出しきらせてな、疲れさすんだ! 疲れさせろ!

仁木軍は、ますます馬を寄せ合い、隙間なくビッシリと陣をかためる。

双方、最前線に位置する者たちが互いに討たれあった後、サッと退く。しかし、仁木軍は追撃をかけない。

次に、新田軍は、仁木軍の背後に回り込んだ。しかし、仁木軍の正面陣には、いささかの動揺も見られない。

東から新田軍が攻めかかっても、仁木軍の西側は落ち着き払っている。新田軍が北へ回り込んでも、仁木軍の南側は微動だにしない。懸け寄せれば打ち違い、組んで落ちれば落ち重なる。千度百度と、新田軍が攻撃をしかけていっても、仁木軍の強陣は勢い堅く、大将は一寸たりともその場を退かない。

ついに、新田義興と脇屋義治は戦い疲れてしまい、東方を目指して退却開始。

20余町ほど逃げた後に、戦死者を調べてみたところ、当初は300余騎あった兵力も、100余が討たれ、残るは200余になってしまっていた。

義興は、兜のシコロと袖の三の板を切り落とされ、小手の外れと脛当ての外れに、軽症3箇所を負っていた。

義治の鎧は、その胴左部分、草ずりの横縫いを全部突き切られ、かろうじて威し糸が残っているだけの状態であった。兜の鍬型は両方とも切り折られ、星も少し削られていた。太刀が鍔元(つばもと)から折れてしまったので、中間(ちゅうげん)に持たせていた長刀(なぎなた)を持っていたが、その峯の側はササラの子のようにギザギザに傷つけられており、刃の側はノコギリのように刃コボレしていた。乗馬に三個所も傷を付けられてしまったので、予備の馬に乗り換えたが、その後すぐに乗馬は倒れて死んでしまった。

両大将ともに、自ら戦ってこのように傷をこうむったのである、ましてや、その下の武士たちは何をかいわんや、全員重傷を負い、切り傷の2、3箇所を負わぬ者はまれである。

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もう少し、という所で、足利尊氏を討ち漏らしてしまった新田義宗は、

新田義宗 今日はもう、日も暮れちまったし、しょうがねぇやなぁ。軍勢をまた集めて、明日、石浜(いしはま)まで進撃だぁ。

義宗は、兵をまとめて小手差原へ帰った。しかしそこには、新田義興と脇屋義治の姿が見えない。

新田義宗 おっかしいなぁ・・・いってぇ、どうしたんだろう・・・二人とも、どこへ行っちまったんだい?

義宗は、二人を捜して、あちらこちらへ馬を走らせ、行き会う武士毎に問うた。

新田義宗 おい、アニキ、どこにいるか知らねぇか? 義治はどこだい?

武士M 義興殿と義治殿は、いっしょに陣組んどられたけんど、仁木に負けちまってね、東の方へ逃げてった。

新田義宗 ナニッ!・・・で、今、どうしてる?

武士M 東の方へ行くトコまでは見けたけど・・・さぁー、その後、いったいどうなったんだかねぇ。

新田義宗 うーん・・・じゃ、あのかがり火は・・・。

武士N ありゃ、敵方の火ですわ。ここいらにゃぁ、味方のもんは一人もいやしねぇよ。きっと、仁木兄弟の軍勢か、白旗一揆の連中らの火だろ。

新田義宗 エェーイ!

武士O 殿、そんな小勢で、ここらにジットしてちゃぁ、もうホント危険ですぜぃ。悪いこたぁ言わねぇ、早いとこ、夜に紛れて、笛吹峠(ふえふきとうげ:注3)の方へでも移動なさいまし。そいでもって、越後(えちご:新潟県)と信濃(しなの:長野県)の連中集めてさぁ、もう一度合戦なさいまし。

義宗は、暫く思案していたが、

新田義宗 しょうがねぇなぁ・・・よし、そうしよう。

義宗は夜通しかけて、道々

新田義宗 おいおい、笛吹峠へ行くには、いってぇ、どっちへ行ったらいいんだい?

と尋ねながら、戦場から落ち延びていった。

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(訳者注3)この「笛吹峠」の位置は不明。
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太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月19日 (月)

太平記 現代語訳 31-1 新田一族、再起す

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)と足利幕府(あしかがばくふ)との和平交渉が行われていた間、京都をはじめ日本全土には、暫(しば)しの静穏(せいおん)が訪れた。

しかし、それはたちまちにして破れ、再び戦乱の世に逆戻りとなった。

吉野朝側の首都奪回の後、京都と近畿地方だけは、かろうじて彼らの支配下になったものの、それ以外の地域においては、依然として足利幕府の武威に従う者が大多数であった。このような情勢下であるがゆえに、諸国七道(しょこくしちどう)の武士たちは皆、彼を討ち、これを従えんと、互いに覇(は)を競い、戦の止む時が無い。

世はすでに、釈尊(しゃくそん)滅後(めつご)2000年を経過し、第5堅固(だいごげんご:注1)すなわち名付けて「闘諍(とうじょう)堅固」の時代になっている。従って、天皇&公家 versus 武士の階級闘争という要素がたとえ無かったとしても、自然と世の中、戦闘が多くなるのは当然の理(ことわり)とはいえよう。

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(訳者注1)釈尊の滅後の時間の経過を500年単位に区切り、その一単位を「堅固」と言う。
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世間の声A それにしてもやでぇ、元弘(げんこう)年間、建武(けんむ)年間以降、まぁ何と、争い事の多いことか。

世間の声B ほんに、そうどすなぁ。天下は久しく乱れに乱れ、一日たりとて、まともに政治が行われた事、あらしませんやん。

世間の声C 心有る者も心無き人も、もうこうなっちゃぁ、思いは同じよ、「いっそ、どこかの山奥にでも引きこもって・・・」。

世間の声D あのっさぁ、そんな事、いくら考えてたってぇ、ダメなんだよぉ!

世間の声C いってぇ、どうして?

世間の声D まぁっさぁ、考えてもごらんよぉ。我が身の隠れ家を求めて、日本全国どこへ行ったってっさぁあ、同じ憂き世の空の下にいる事に、変わりないじゃぁん?

世間の声C うーん・・・。

世間の声D 昔、中国の後漢(こうかん)王朝時代にっさぁ、厳子陵(げんしりょう)って人がいたんだってぇ。皇帝から宮づかえの誘いかかったんだけどぉ、それ断ってっさぁ、毎日、釣りと畑仕事で一生終えたんだってぇ。でもっさぁ、そんなの、現代ではしょせんムリなんだよねぇ。釣り場に座ってっさぁ、足伸ばして水の中へ入れてごらんってぇ、身を切るような冷たさなんだよぉ、この憂き世の水はねぇ。

世間の声E 田舎へひっこむのがあかんのやったら、ほなら、誰も人のいいひん山ん中へ引っ込むっちゅうテはどうや?

世間の声D 甘い甘いー! ダメダメェ! これも、後漢王朝時代の人なんだけどっさぁあ、鄭弘(ていこう)って人がいたんだよねぇ。この人、山ん中で薪取って生活してたんだなぁ。で、ある日この人、出会った仙人に親切にしてあげたんだよねぇ。でもってぇ、その仙人が、お礼に何くれたと思う?

世間の声B 京都のきれいな、お干菓子(ひがし)!

世間の声D あぁのねぇ・・・お菓子なんかいくらあったって、山ん中で暮していけないじゃないのっさぁ! 仙人はね、風をくれたんだよぉ、風!

世間の声B 風? 風なんかもろて、いったい、なにになるんどす?

世間の声D 薪かつぐのって重いだろ? でもってぇ、鄭弘が薪かつぐ時、いつも谷から不思議な風が吹いてくるようになってっさぁ、それで薪が重くなくなっちゃったんだってぇ。だけどぉ、今の世の中じゃっさぁ、そんな不思議な風なんか、ゼッタイ吹きっこないんだよねぇーえ。

世間の声F 
 人生は 重き薪を背負うていく 遥かに続く山道のごとし
 ああ わが背中に食い込む あまりにも重き この薪かな
 わが か弱き足もて超え行くには あまりにも険しき この山々かな
 わが人生 何処(いずこ)まで行かば ついに峠に辿り着かんや

世間の声C あーあ、いってぇぜんてぇ、何の因果を共有してオレたち、こんなとんでもねぇ乱世に、生まれてきちまったんだろなぁー!

世間の声F 
 今や我々は 現実この世の中に 六道(ろくどう)の世界を 体験しているのだ
 ある者は 生きながらにして 餓鬼道(がきどう)の苦を味わい
 ある者は 死ぬ前にして既に 修羅道(しゅらどう)の奴隷の日々を 送っているではないか

世間の声一同 ああ、ほんまに、なんちゅうムチャクチャな世の中なんやろう、なんちゅう悲惨な人生なんやろう。

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今は既に故人となってしまったかの新田(にった)兄弟の遺児たち、すなわち、新田義貞(にったよしさだ)の次男・義興(よしおき)、三男・義宗(よしむね)、脇屋義助(わきやよしすけ)の長男・義治(よしはる)は、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、上野(こうずけ:群馬県)、信濃(しなの:長野県)、越後(えちご:新潟県)の各地を転々として身を隠しながら、生き続けていた。

彼らの願いはただ一つ、「時、来たりなば、朝廷の旗を高く掲げて、打倒・足利勢力に向けて挙兵!」。

吉野朝廷は、彼らの決起を促すべく、後村上天皇(ごむらかみてんのう)が住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)に滞在中の時に、由良信阿(ゆらしんあ)を勅使として彼らのもとに送った。

由良に託された朝廷からのメッセージは、以下の通りである。

 「足利との和平交渉は、敵を欺く為の当面の謀りごとである、ゆえに、決して迷ぉたりせぬように。躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)しておる時間は無いぞ、速やかに兵を挙げ、足利尊氏(あしかがたかうじ)を追討し、わが陛下のみ心を、安んじたてまつれ。」

由良信阿は急ぎ関東へ赴き、三人に接触して事の詳細を伝えた。

脇屋義治 なぁんだ、そういう事だったのかぁ!

新田義宗 和平交渉は、敵を油断させる為の作戦だったんだぁ。

新田義興 じゃぁさっそく、挙兵と行くか!

新田義宗 挙兵だ!

脇屋義治 挙兵だ!

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さっそく、檄文(げきぶん)を関東八か国の武士たちに送ったところ、これに応ずる者の数が800人にも達した。

その中でもとりわけ目立ったのが、石塔義房(いしどうよしふさ)である。

義房は、足利直義(あしかがただよし)の旗の下、薩埵峠(さったとうげ:静岡県・静岡市)の戦(注2)に参戦したが、あえなく敗北、かろうじて命だけは助けられて、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)にいた。しかし、頼みのツナの直義は死去してしまった。(注3)

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(訳者注2)30-4 参照。

(訳者注3)原文では、「大将に憑(たのみ)たる高倉禅門は毒害せられぬ」。ここでも、太平記作者は、足利直義が毒殺されたと、断言しているのだが、これは史実に反する記述であると、訳者は考える。これの詳細については、30-5の末尾の訳者注を参照いただきたい。
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石塔義房 (内心)ああ、なんとかして、自分のこのミジメな運命、打開してぇもんだなぁ!

石塔義房 (内心)でも、オレ一人じゃ何もできゃしない・・・。

石塔義房 (内心)いっそのこと、どっかの誰かが反乱起してくれたらなぁ・・・オレもそれに乗っかるんだけど。

そのような所に、新田兄弟から、密かに檄文が送られて来られたのであった。

石塔義房 (内心)こりゃぁ好都合! まさに、「流れに棹さす」ってとこだな。よぉし、乗っかれ、乗っかれぃ!

義房は直ちに、内応の返事を送った。

三浦高通(みうらたかみち)、葦名判官(あしなはんがん)、二階堂下野二郎(にかいしもつけじろう)、小俣宮内少輔(おまたくないしょうゆう)もまた、同様の状態下にあった。直義陣営に加わった後に、薩埵峠の戦で敗北。降伏してかろうじて命だけは繋いだが、「世間の人の目、世間の人の口は、我々の事をののしるばかりで、まことに口おしい限り、機会あらば、再び決起を」と思っていた。

そのような所に、新田義宗と脇屋義治から、「あんたら、頼りにしてますよ」とのメッセージが届いた。「もっけの幸い、これぞ渡りに舟!」とばかりに大喜び、すぐに内応の返事を送った。

彼らは密かに、鎌倉の扇谷(おうぎがやつ)に集まって、作戦会議を持った。

メンバーG 新田の連中らが、上野で兵を挙げて武蔵へ侵入となったらね、おそらく、将軍(注4)は、鎌倉でじっと彼らを待ってたり、しないだろうな。

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(訳者注4)ここに登場の「将軍」とは、時の征夷大将軍・足利尊氏の事である。
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メンバーH そうさなぁ・・・きっと、関戸(せきど:東京都・多摩市)から入間川(いるまがわ:埼玉県)あたりまで進んで、そこで、新田軍を防ぎ止めようって事になるだろうね。

メンバーI 我々の兵力は? どれくらい、かき集めれるかなぁ?

メンバーJ いくら低めに見積もっても、3,000騎は、いけるだろう。

メンバーK なぁなぁ、こんな謀略どうだろうね? 将軍が出陣する時には、おれたちも当然、いっしょについていく事になるだろ? その時にさ、わざと、将軍のすぐ近くに布陣するんだよ。でもってさ、合戦が半ばほどに達した頃合いを見計らって、将軍を包囲する、でもって、一人残らず討ち取り、その後、新田軍に合流。

メンバー一同 お、いいな、それ。

メンバーK じゃぁ、そう書いて、新田に送るよ、それでいいね?

メンバー一同 よぉーし!

このように、新田側と確かにしめし合わせた後、石塔、三浦、小俣、葦名たちは、鎌倉でじっと機会をうかがった。

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各方面の手はずが整い、新田義宗と脇屋義治は、うるう2月8日、手勢800余騎を率いて、西上野で挙兵。これを聞いて、新田一族や他家の者たちが続々、そこに参集してきた。そのメンバーは、以下の通り。

新田一族:江田(えだ)、大館(おおたち)、堀口(ほりぐち)、篠塚(しのづか)、羽川(はねかわ)、岩松(いわまつ)、田中(たなか)、青龍寺(しょうりゅうじ)、小幡(おばた)、大井田(おおいだ)、一井(いちのい)、世良田(せらだ)、篭澤(こもりざわ)。(注5)

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(訳者注5)なつかしい名前が多く見られる。新田義貞の家臣として、これまでに、江田行義、大館氏明、堀口貞光、篠塚伊賀守らが、登場した。
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他家からは:宇都宮三河三郎(うつのみやみかわさぶろう)、天野政貞(あまのまささだ:注6)、三浦近江守(みうらおうみのかみ)、南木十郎(なんぼくじゅうろう)、西木七郎(せいぼくしちろう)、酒匂左衛門(さかわさえもん)、小畑左衛門(おばたさえもん)、中金(なかかね)、松田(まつだ)、河村(かわむら)、大森(おおもり)、葛山(かつらやま)、勝代(かつしろ)、蓮沼(はすぬま)、小磯(こいそ)、大磯(おおいそ)、酒間(さかま)、山下(やました)、鎌倉(かまくら)、玉縄(たまなわ)、梶原(かじわら)、四宮(しのみや)、三宮(さんのみや)、南西(なんさい)、高田(たかだ)、中村(なかむら)。

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(訳者注6)19-3 に登場。
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児玉党(こだまとう)武士団からは:浅羽(あさば)、四方田(よもだ)、庄(しょう)、櫻井(さくらい)、若児玉(わかこだま)。

丹党(たんとう)武士団からは:安保信濃守(あふしなののかみ)、その子息・安保修理亮(しゅりのすけ)、その弟・安保六郎左衛門(ろくろうざえもん)、加治豊後守(かじぶんごのかみ)、加治丹内左衛門(たんないざえもん)、勅使河原丹七郎(てしがわらたんのしちろう)。

その他、西党(せいとう)、東党(とうとう)、熊谷(くまがい)、太田(おおた)、平山(ひらやま)、私市(きさいち)、村山(むらやま)、横山(よこやま)、猪俣(いのまた)党。

これら総勢10万余騎は、方々に火を放ちながら南下、国境を越えて、武蔵国になだれこんでいった。

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「上野(こうずけ)で、新田(にった)一族、叛旗(はんき)を翻(ひるがえ)す、はやくも武蔵国(むさしこく)へ越境侵入!」との急報が、足利幕府・鎌倉(かまくら)庁へ、櫛(くし)の葉を引くがごとくに頻繁(ひんぱん)に伝えられてくる。

仁木(にっき)家メンバーL んでぇ、敵の兵力はいってぇ、どれくれぇなんだぁ?!

使者 ざっと見積もっても、20万騎を下回る事は、なかろうかと。

これを聞いた仁木&細川(ほそかわ)両家のメンバーらは、

細川家メンバーM こりゃぁ、えれぇ事になったなぁ。

細川家メンバーN 鎌倉中の兵、残らずかき集めたって、1,000騎足らずしか、いやしねぇぞぉ。

仁木家メンバーO だよなぁ・・・諸国から援軍、やっちゃぁくるんだろうけど、今のこの急場には、とても間に合やしねぇ。

仁木家メンバーL 将軍様、1,000騎足らずでもって、20万の敵を防ぐなんて、こりゃ到底、ムリってもんでさぁ。

細川家メンバーM そうですよ! ここはいったん、安房(あわ:千葉県南部)か上総(かずさ:千葉県中部)へでも退避(たいひ)してですね、そこで兵を集めてから、あらためて合戦ってフウにもってった方が・・・。

足利尊氏(あしかがたかうじ) ・・・。

仁木家メンバーL 早く、決断していただかないと、手後れになっちまいます!

仁木家メンバーM 将軍様ぁ!

足利尊氏 ・・・。

仁木&細川両家メンバー ・・・。

足利尊氏 退避・・・退避なぁ・・・。

仁木&細川両家メンバー ・・・。

足利尊氏 あのなぁ・・・これは、戦(いくさ)の常だけどな・・・戦ってのは、いったん逃げだしてしまったら、もうそれで、終わりなんだよ・・・逃げた後に、再び戦って勝てる確率なんか・・・まぁ、ゼロとは言わんけどな・・・そうさな、0.1%くらいのもんだろう。

仁木&細川両家メンバー ・・・。

足利尊氏 安房・・・あるいは上総に、逃げたとしてもだ・・・武蔵、相模(さがみ:神奈川県)、上野、下野(しもつけ:栃木県)の者たち・・・たとえ、私につこうと思う心があったとしても、敵に間を隔てられてちゃぁ、どうしようもない・・・絶対に、味方になってはくれないだろうよ。

仁木&細川両家メンバー ・・・。

足利尊氏 それにだ・・・私が鎌倉を放棄したと聞いたら・・・敵側に回ってしまう者が、多くなるだろうな・・・。

足利尊氏 今回の戦、たとえこちらは小勢であったとしても・・・鎌倉を出て、敵の来るのを途中で待ちうけ、そこで決戦・・・これがベスト、これしかない・・・これしかないのだよ。

というわけで、16日早朝、尊氏は、わずか500余騎を率いて、新田軍を迎撃せんがために、武蔵国へ出発した。

彼の後を追って、鎌倉から出陣したメンバーのリストは、以下の通り。

畠山高国(はたけやまたかくに)、その子息・畠山伊豆守(いずのかみ)、畠山国清(くにきよ)、その弟・畠山義深(よしふか)、その弟・畠山清義(きよよし)、その弟・畠山義熙(よしひろ)、
仁木頼章(にっきよりあきら)、その弟・仁木義長(よしなが)、その弟・仁木修理亮(しゅりのすけ)、
岩松式部太夫(いわまつしきぶだゆう)、大嶋義政(おおしまよしまさ)、石塔義基(いしどうよしもと)、
今川範国(いまがわのりくに)、今川式部太夫(しきぶだゆう)、
田中三郎(たなかのさぶろう)、
大高重成(だいこうしげなり:注7)、大高土佐修理亮(とさしゅりのすけ)、
大平惟家(おおひらこれいえ)、大平義尚(よしなお:注8)、
宇津木平三(うつきへいぞう)、宍戸朝重(ししどともしげ:注9)、山城判官(やましろはんがん)、曽我兵庫助(そがひょうごのすけ)、梶原弾正忠(かじわらだんじょうのちゅう:注10)、
二階堂丹後守(にかいどうたんごのかみ)、二階堂三郎左衛門(さぶろうざえもん)、
饗庭命鶴丸(あえばみょうづるまる:注11)、和田筑前守(わだちくぜんのかみ)、
長井廣秀(ながいひろひで:注12)、長井備前守(びぜんのかみ)、長井時春(ときはる:注13)、その子息・長井右近将監(うこんしょうげん)ら。

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(訳者注7)大高重成は、30-7 で、足利義詮と共に近江にいることになっているはず。

(訳者注8)24-4 に登場。

(訳者注9)27-5 に登場。

(訳者注10)29-6 に登場、その中で戦死したということになっている。

(訳者注11)29-8 に登場。

(訳者注12)24-4 に登場。

(訳者注13)24-4 に登場。
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さらに、例の「陰謀グループ」すなわち、

石塔義房、三浦高通、小俣宮内少輔、葦名判官、二階堂下野二郎は、他家の者を交えず3,000騎を率いて、尊氏の前後に、ぴったりくっついて出陣した。

久米川(くめがわ:東京都・東村山市)に、一日逗留(注14)。さらに多くの武士たちが、尊氏の下に馳せ参じてきた。そのメンバーは以下の通り。

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(訳者注14)これも史実と異なるらしい。
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川越弾正少弼(かわごえだんじょうしょうひつ)、川越上野守(こうずけのかみ)、川越唐戸十郎左衛門(からとじゅうろうざえもん)
江戸遠江守(えどとおとうみのかみ)、江戸下野守(しもつけのかみ)、江戸修理亮(しゅりのすけ)
高坂兵部大輔(こうさかひょうぶのたいう)、高坂下野守(しもつけのかみ)、高坂下総守(しもうさのかみ)、高坂掃部助(かもんのすけ)
豊嶋弾正左衛門(としまだんじょうざえもん)、豊嶋兵庫助(ひょうごのすけ)
土屋備前守(つちやびぜんのかみ)、土屋修理亮(しゅりのすけ)、土屋出雲守(いずものかみ)、土屋肥後守(ひごのかみ)
土肥次郎兵衛入道(とひじろうびょうえにゅうどう)、その子息・土肥掃部助(かもんのすけ)、その弟・土肥甲斐守(かいのかみ)、土肥三郎左衛門(さぶろうざえもん)
二宮但馬守(にのみやたじまのかみ)、二宮伊豆守(いずのかみ)、二宮近江守(おうみのかみ)、二宮河内守(かわちのかみ)
曽我周防守(そがすおうのかみ)、曽我三河守(みかわのかみ)、曽我上野守(こうずけのかみ)、その子息・曽我兵庫助(ひょうごのすけ)
渋谷木工左衛門(しぶやもくざえもん)、渋谷石見守(いわみのかみ)
海老名四郎左衛門(えびなしろうざえもん)、その子息・海老名信濃守(しなののかみ)、その弟・海老名修理亮(しゅりのすけ)
小早川刑部太夫(こばやかわぎょうぶだゆう)、小早川勘解由左衛門(かげゆざえもん)
豊田因幡守(とよだいなばのかみ)、狩野介(かののすけ)、那須遠江守(なすとおとうみのかみ)、本間四郎左衛門(ほんましろうざえもん)、鹿嶋越前守(かしまえちぜんのかみ)、嶋田備前守(しまだびぜんのかみ)、浄法寺左近太夫(じょうほうじさこんだゆう)、白塩下総守(しらしおしもうさのかみ)、高山越前守(たかやまえちぜんのかみ)、小林右馬助(こばやしうまのすけ)、瓦葺出雲守(かわらぶきいずものかみ)、見田常陸守(みたひたちのかみ)、古尾谷民部大輔(ふるおやみんぶのたいう)、長峯石見守(ながみねいわみのかみ)等、
合計8万余。

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戦いを明日に控えた夜、石塔義房と三浦高通は、二人っきりで何やらヒソヒソ話。

石塔義房 (ヒソヒソ声で:以降同様)いよいよ、明日、決行だな。

三浦高通 (ヒソヒソ声で:以降同様)そうだなぁ・・・。

石塔義房 ・・・実はな・・・。

三浦高通 うん・・・。

石塔義房 こないだから、みんなで謀ってきた事、うちのセガレ、頼房(よりふさ)には、まだ知らせてねぇんだよ。

三浦高通 エーッ! あんな大事な事をかい?

石塔義房 うん・・・そのうち言おう、そのうち言おうって思ってるうち、ついつい言いそびれちまってな・・・このまま例の作戦決行したらさぁ、あいつってあんな性格だろ、きっとおれたちに加担してこねぇと思うんだよなぁ・・・でもって、あいつ、へたすりゃ、将軍に討たれちまうかもしれん・・・。

三浦高通 ・・・。

石塔義房 おれとあいつが、たもとを分かち、それぞれの側に義を通じて与(くみ)する・・・こんな白髪頭(しらがあたま)に兜をかぶって、いったいなんで、そこまでするんだ? 何もかも、ただただ子孫を思っての事だ・・・そうだろ? そうじゃねぇかい? もしも、我が望みを達成できたら、わが石塔家の子孫たちに、栄光を残してやる事ができる・・・武士なんざぁ、みんなそう思って戦場に臨むんだよなぁ? そうだろ?

三浦高通 その通りだ。

石塔義房 だからこそな、おれは、あいつを死なせたかぁねぇんだよ・・・今からでも遅かぁねぇ、あの計画の事、きちんと打ち明けといてさぁ、あいつにも納得だけはいくように、しといてやろうって思うんだけど・・・どうだろうなぁ?

三浦高通 そりゃぁ、そうした方がいいよ。こんな大事な事、息子さんに知らせないまま決行したら、あんた、きっと後悔するぜ。早く言ってやれや。

石塔義房 うん。

石塔義房は、頼房を呼び寄せて、

石塔義房 おい、おまえ・・・あの・・・あのなぁ・・・この際、ちょっと言っておきてぇ事、あんだけど・・・。

石塔頼房 アハハハ・・・なんだよぉ、そんなにあらたまっちゃてぇ・・・エライ険しい顔しちゃってぇ・・・。

石塔義房 あのなぁ・・・おまえも知っての通り、薩埵峠の合戦以降、おれはもう、サンザンだぁ。降人みたいな形になっちまってよぉ、仁木や細川のレンチュウらに、完全に押さえこまれちまってらぁな・・・ったくもう、足利家中(あしかがかちゅう)の、モノの数にも入れてもらえねぇような、ブザマな姿だぁ(注15)。おまえもさぞかし、おもしろくねぇ毎日だろうなぁ。

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(訳者注15)石塔、仁木、細川は全て、足利家の親族である。
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石塔頼房 ・・・。

石塔義房 おれは決めたぜ! 明日はなぁ、一大決意をもって、戦場に臨むんだ! これはもう、三浦や葦名、二階堂らとも相談して決めた事なんだけどな、おれたちは明日、合戦の最中に、将軍を討ち奉るんだ!

石塔頼房 エェッ!

石塔義房 おれは決めたんだ! 明日こそ、明日こそ、この恨み、みごとに晴らして、わが石塔一族の家運を、ただ一戦の中に開くんだぁ!

石塔頼房 なんだってぇ!

石塔義房 おまえも、おれのこの考え、よぉく心得てな、おれの旗の趣くがままに、従うんだぞ! いいか、わかったなぁ!

石塔頼房 (激怒)父上! なんてぇ事を!

石塔義房 ・・・。

石塔頼房 主君に対して二心(ふたごころ)を持つなんてぇ、武士の恥だぁ!

石塔義房 ・・・。

石塔頼房 他の人はいざ知らず、おれは、おれは、将軍様に深く信頼していただいてる、そんなこたぁ、絶対にできねぇよ! 将軍様に背後から弓引くだなんて、そんな事しちゃぁ、わが石塔家、後代までの名折れじゃないの! まったく、そんな事・・・口に出すだけでも、恥ずかしい事でしょうが!

石塔義房 なにぃ! じゃぁなにか、おまえは、あくまでも将軍の側に立つってのかい! おれに弓引くつもりかよ!

石塔頼房 こうなっちゃぁ、それもしょうがないですね! 兄弟父子の合戦なんざぁ、古(いにしえ)から現代に至るまで、例の無い事でも無し。

石塔義房 なぁにぃ!

石塔頼房 それにしてもだ、三浦に葦名、いってぇなんてぇヤロウドモなんでぃ、こぉんな陰謀に加担しやがってよぉ! 相談もちかけられたら、ソク、将軍様にご注進申し上げなきゃいけねぇのによぉ、ったくもって、トンデモねぇ不忠のヤロウドモでぃ。

石塔義房 ウウウ・・・。

石塔頼房 父上、父子の恩義も今日限り! 今生(こんじょう)でお会いするのも、これが最後と思ってください!(腹立ちの余り、顔を真っ赤にして、席を蹴る)

石塔義房 お、おい! どこへ行く?!

石塔頼房 今から将軍様のとこ行って、洗いざらいブチまけてやんでぃ!

石塔義房 おい、こら、待て、待たんか!

石塔頼房 (退場)

石塔義房 ・・・あぁ、行っちまった・・・いかん、こうは、しとれんぞ!

義房は急ぎ、高通のもとへ駆けつけた。

三浦高通 どうした?

石塔義房 ヤバイ、ヤバイ事になった!

三浦高通 えっ? 何がいったい?

石塔義房 「親の心、子知らず」たぁ、よく言ったもんだぜ、父が子を思うほど、子は父の事を思っちゃくれねぇんだよ、例の件、セガレに知らせねぇままでは、あいつ、敵中に残って討たれちまうかもってんで、思いきってうちあけたのにぃよぉ! ったくもう!

三浦高通 ・・・。

石塔義房 思っても見ねぇ展開になっちまったよ、あいつ、怒り出しやがってな、「これから将軍に、この陰謀の事、知らせる!」って、えらいイキマイテ、出ていきやがった。

三浦高通 エーッ! やばいよ、そりゃ!

石塔義房 あのカンジじゃ、きっと今頃、将軍に言っちまってるぞ、すぐにも、討手を差し向けられる!

三浦高通 どうする?!

石塔義房 どうするもこうするもねぇ、仲間どうし部下を集め、すぐに、ここを脱出だ! 関戸から武蔵野へ回り、新田の連中らと合流、そいでもって、明日の合戦に参加するんだ、それしかねぇだろ?!

三浦高通 よし! すぐに、みんなに知らせなきゃ!

多くの日数を費やして、練りに練ってきた陰謀も、たちまち白日(はくじつ)の下に露見(ろけん)してしまい、かえってわが身の禍(わざわい)となってしまった。恐怖におののきながら、石塔、三浦、葦名、二階堂らは、手勢3,000余騎を引き連れ、新田軍に加わるために、関戸を目指して逃げていく。

足利尊氏、その強運は、まだまだ尽きてはいなかったようである。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 インデックス7

太平記 現代語訳 総インデックス

主要人物・登場箇所リスト

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第31巻

31-1 新田一族、再起す

31-2 武蔵野の戦い

31-3 新田義興と脇屋義治、石塔義房らと連合して鎌倉を攻略す

31-4 笛吹峠の戦

31-5 八幡の戦

31-6 吉野朝廷、八幡より撤退

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第32巻

32-1 京都朝廷、新天皇を擁立

32-2 持明院殿、焼失す

32-3 山名父子、幕府に反旗をひるがえし、吉野朝側勢力となる

32-4 足利義詮、美濃へ逃亡

32-5 山名軍、京都から撤退

32-6 足利直冬、吉野朝廷と連合す(付 獅子王とその子の物語、虞舜の物語)

32-7 足利直冬、京都を制圧(付 宝刀・鬼丸と鬼切の由来)

32-8 神南の戦

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第33巻

33-1 足利尊氏、京都奪還を目指す

33-2 石清水八幡宮において、決定的神託、下る

33-3 光厳上皇ら、京都へ帰還

33-4 院の北面侍・Xの悲劇

33-5 公家と武家、栄枯の地を替える

33-6 足利尊氏、死去す

33-7 廉子、死去す

33-8 足利幕府、九州地方における形成逆転を図る

33-9 菊池武光、大いに武威を振るう

33-10 新田義興、憤死す

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第34巻

34-1 足利義詮、第2代将軍に就任

34-2 畠山国清、関東より大軍を率いて京都へ

34-3 吉野朝側、着々と迎撃の準備を整える

34-4 足利義詮、大軍を率いて、吉野朝を攻める

34-5 第1次・ 龍門山戦

34-6 第2次・ 龍門山戦

34-7 興良親王、吉野朝廷において反乱を起こす

34-8 龍泉峯城、陥落す

34-9 平石城・攻防戦

34-10 吉野朝側の上北面侍、不思議な夢を見る

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第35巻

35-1 畠山国清、打倒・仁木義長を図る

35-2 仁木義長、没落す

35-3 吉野朝サイド、再び攻勢に

35-4 北野天満宮において、3人の登場人物、現代の政治について論ず

35-5 仁木義長、逼塞状態に

2018年3月16日 (金)

太平記 現代語訳 30-8 吉野朝、光厳上皇らを拉致・幽閉

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利義詮(あしかがよしあきら)が京都から撤退した結果、吉野朝(よしのちょう)側は、念願の首都奪回を果たした。しかしながら、後村上天皇(ごむらかみてんのう)の京都への帰還は、しばらく先延ばしとなり、北畠親房(きたばたけちかふさ)と顕能(あきよし)父子だけが、京都に入った。

北畠父子は、京都の政務全般を取りしきり、その他の公卿たちは依然として、八幡にいる後村上天皇の下に伺候(しこう)していた。

吉野朝年号・正平(しょうへい)7年(1352)うるう2月23日、中院具忠(なかのいんともただ)を勅使として、御所にあった京都朝廷保有の三種神器(さんしゅのじんぎ)が、吉野朝廷へ引き渡された。

「この三種神器は、故・後醍醐先帝(ごだいごせんてい)陛下が、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)から京都へご帰還の折に、京都朝廷に差し出されたものであるが、実はニセモノである(注1)」との事ゆえに、ヤサカノマガタマは廃棄処分となり、アメノムラクモノツルギとヤタノカガミは、天皇の身の回りの世話役担当の貴族がもらい受けた末に、六衛府(ろくえふ)用の太刀と、装束姿を正すために用いる鏡になってしまった。

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(訳者注1)17-10 参照。
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世間の声A いくらなんでもなぁ、あれはないでぇ、あれはぁ。

世間の声B ほんまやでぇ。いくらニセの三種神器や、いうたかてなぁ。

世間の声C あのっさぁ、あの三種神器使ってっさぁ、天皇即位式、過去にもう何回かやってしまってんだよねーえ。えぇっと、いったい何回だっけぇ?

世間の声D 3回どす。3回も、使うてしもたはるんどすえ。

世間の声E それだけじゃ、なかとぉ。毎朝の天皇陛下の、伊勢神宮の方角ばぁ向いての参拝にも、ずぅっと使うてきてしもとるばい。

世間の声F ほれほれ、天皇即位式の後のな、清署堂(せいしょどう)でのお神楽(かぐら)にも、使いなさったけぇのぉ。

世間の声G もうかれこれ、20余年は使ぉてしもとるだが・・・いくらニセモノ言うたかてなぁ、もうすでに、神霊がその中に宿ってみえるがね。

世間の声H あまりにも、オソレっちゅうモンを知らなさすぎますわなぁ。そないにタイソウなモンを、凡俗の器物になんかにしたら、あきまへんがなぁ。

世間の声I これから先、世の中ヘンな事になっていきゃしないかしらねぇ・・・そんな事にならなきゃ、いいんだけど・・・。

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うるう2月27日(注2)、北畠顕能は、500余騎の武士を引き連れて、京都朝廷の皇族方のおられる持明院殿(じみょういんでん)へ赴いた。

付近の辻々や門の全てをかためてしまった武士たちの姿に、殿中は大騒ぎである。

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(訳者注2)太平記作者の誤りらしい。史実では「うるう2月21日」。
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京都朝・皇太后 えらいこっちゃがな! 武士どもが、よぉけ来よったがな!

京都朝・皇后 いったい、ナニしに来たんでしょうか・・・。

京都朝・皇太后 上皇陛下や今上(きんじょう)陛下の、お命を取りに・・・。

京都朝・皇后 まさか! そんな事まで、せぇへんでしょう! しませんよねぇ?!

京都朝・皇太后 ああ、ほんまにもう、なんちゅう世の中になってしもぉたんやろか・・・。(涙)

京都朝・皇后 どないしょ、どないしょ・・・。(涙)

二人はただただ、心迷い、伏し沈むばかり。内侍(ないし)、上童(うえわらわ)、高級女官、女官たちは前後不覚、逃げふためいて、あちらこちらへ、さ迷うばかりである。

そんな騒ぎをも全く意に介さず、北畠顕能は、穏かに西の小門から殿中に入り、四条隆蔭(しじょうたかかげ)を介して、奏上した。

四条隆蔭 北畠殿はこう申しております、「世の中がもう少し落ち着くまでの間、皇居を、南の方にお移しせよ、との、主上のおぼしめしでございます。」

光厳上皇(こうごんじょうこう) ・・・。

光厳上皇、光明上皇(こうみょうじょうこう)はじめ、崇光天皇(すうこうてんのう)、皇太子は、呆然自失、何も言葉が出てこない。出るのはただ涙ばかり、うすぎぬの袂を絞らんばかりに。

しばしの後、

光明上皇 天下が争乱に転じた後、ほんのわずかな期間、私は帝位についた。そやけど、それがいったい、何ほどのもんやったと言うんか・・・。

光明上皇 自分の意志でもって、天皇に即位したわけではない。そやから、政治に関して、私は全く無力やった・・・ただの一事たりとも、自分の思い通りになったためし、なかったわいな。

光明上皇 今やまさに、天皇位の光は、完全に消滅してしもぉた・・・この都・・・都はもう、真っ暗闇の世界になってしもぉたわ。

光明上皇 もう、権力には、何の執着も無い、兄弟いっしょに隠居出家して、あの花山法皇(かざんほうおう)様のような人生を送ろうやないかいな・・・よぉ兄弟で、そないな事、言うてたわ。そやけどな、それも叶(かな)わんままに、ついに今日まで来てしもぉたんや・・・このツライ気持ち、吉野の陛下にはきっと、理解していただけるんやないやろかなぁ。

光明上皇 今まさに、天運は一転し、吉野の陛下が、再び光を得られる日が来た・・・陛下に忠節を尽くしてきたもんらが残らず、その望みを達成できる日が来たんや。そやからな、吉野の陛下におかれては、なにとぞ、私に対してご赦免をたまわりたく、願う次第や。

光明上皇 もし、ご赦免いただけたら、すぐにでも出家して、辺鄙(へんぴ)なとこ(所)でひっそり暮して行こうと思う。

光明上皇 なぁ、隆蔭、私のこの願い、先方に伝えてくれへんかなぁ。

四条隆蔭 ハハッ・・・。

光明上皇の言葉を伝えられた北畠顕能は、

北畠顕能 (首を横に振り)私は、既に主上からの勅命を受けて、ここへやってきてるんです。上皇陛下が何とおおせられましても、もう、どうしようもありませんな。

四条隆蔭 (ガックリ)・・・。

顕能は、牛車2両を殿中に呼び寄せた。

北畠顕能 さぁ、そろそろ・・・もうだいぶ、時間が経ってしまいましたからな。

こうなっては、京都朝廷側には、何らなすすべも無い。光厳上皇、光明上皇、崇光天皇、皇太子がまず、一両の牛車に乗り、南門から出た。

普段でさえも霞める花の木の間の月、是や限りの涙に、さらに朧(おぼろ)に見える。

皇太后と皇后は、御簾(みす)の中、几帳(きちょう)の陰に、伏し沈むばかり。こちらの廊下、あちらの室内と、女たちのすすり泣きの声が、方々から漏れてくる。

暁の月下、牛車は、東洞院通(ひがしのとういんどおり)を一路南下していく。

都の木々のその梢の先までも徐々に判別できる程に、あたりは次第に明るんできた。東山にあるどこかの寺院の鐘の音が、明けゆく雲の中に横たわる。

車はやがて、東寺(とうじ:南区)へ到着。

公卿ら多数がお伴していったが、ここから先の随行を北畠顕能に禁じられ、三条実音(さんじょうさねとし)と宮廷医療チームリーダーの篤直(あつなお)だけを伴っての旅となった。(注3)

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(訳者注3)下記の文献によれば、史実においては、吉野朝廷は京都朝廷に対して、太平記のこの箇所に記述されているような、「軍隊を送り込んで皇族方を拉致」というような暴力的な事を行ってはいないようである。

 [地獄を二度も見た天皇 光厳院 飯倉晴武 著 吉川弘文館]
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皇族方が、、普段は目にされる事も無いようなムクツケキ武士たちに囲まれて進むうちに、鳥羽(とば:伏見区)に到着。夜は早ばやと、明けはてた。

ここから乗り物を変更、牛車から粗末な輿(こし)に乗り換えた。そして数日後、光厳上皇らは、吉野の奥・賀名生(あのお)に到着(注4)。

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(訳者注4)これも太平記作者の誤り。史実では、まず、京都-->東条(河内)、その3か月後に、賀名生へ。
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周辺住民たちが「わが陛下」と仰ぎ奉っている吉野朝の帝・後村上天皇の皇居でさえも、その柱は丸太を削っただけ、その外部は竹縁と垣根だけの、とても高貴の人々が住むような館ではない。

ましてや、今回の「客人」は、「敵方」の人、その居所はいわば、「流刑の配所」である。

年を経て崩壊寸前状態の庵室(あんしつ)、軒の下は杉の板張り。夜ともなると寂寥感(せきりょうかん)がいや増して、眠るに眠れない。訪れてくる者は、夜の雨が降る音ばかり、涙に袖が濡れるばかりの毎日である。

 樹木の梢を鳴らす 寒風の中
 月は庭内の 松に懸る
 暮れ行く夕べの中に 猿群の鳴き声
 ああ 風が洞庭湖(とうていこ)から 雲を送ってくる

(原文)
 衆籟暁寒して月庭前の松に懸り
 群猿暮に叫で風洞庭の雲を送る

光厳上皇 賀名生というとこは、ものすごい山の中やと、聞いてたけど・・・。

光明上皇 「そらぁ住みにくいとこでっせぇ」て、みな言うてましたよねぇ。

崇光天皇 いざ実際に住んでみたら、もうそら、「住みにくい」なんちゅう、なまやさしいもんやないですよぉ・・・。

このような会話を交わす度に、虜囚(りょしゅう)となった人々の目には、涙が溢れてきてしまうのであった。

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梶井門跡(かじいもんぜき)・尊胤法親王(そんいんほっしんのう)は、この時、天台座主(てんだいざす)の地位にあったが(注5)、この人もまた囚われの身となり、金剛山(こんごうさん:大阪府と奈良県の境)の山麓に幽閉の日々を送っていた。

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(訳者注5)これも、太平記作者の誤りであるようだ。
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この法親王は、光厳上皇の弟であり、慈覚大師(じかくだいし)の法統を継承し、三回も延着寺のトップ、すなわち天台座主になった人である。よって、法親王は富貴並び無く、そこに集う門徒の数は、極めて多かった。

法親王は、獅子舞と田楽をとりわけ愛好し、毎日毎夜、その方面のタレントたちに舞い歌わせ、さらには、抹茶ブランド判別会(注6)に、連歌の会にと、朝に夕に、遊興に大忙し。ゆえに、世間の人々の謗(そし)り、延暦寺からの訴えの止む間が無かった。

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(訳者注6)原文では、「茶飲み」。
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「我、人生の楽しみを謳歌(おうか)して止まず」の観があった所に、突如やってきた運命の暗転。今は、かつてとはうってかわっての、流刑配所のごとき住い、山は深く、人里からは遠く、鳥の声でさえも幽(かす)か、力仕事を担当する僧侶一人の他は、法親王の身の周りには、誰一人としていない。

隙間だらけの柴で造られた庵(いおり)の中、袖を枕に、苔を筵(むしろ)に、露は枕に結べども、都に帰る夢は無し、傷心の中にただただ送る日々・・・。

しかし、仏道を求める心というものは、まったく思いもかけない縁から、湧き起こるものである。

尊胤法親王 (内心)自分は、ここでこのまま朽ち果てて行くしかないのか・・・よし、ならば、人生の全ての執着を、今ここで、断ち切ってしまおうやないか・・・天台座主の位か・・・そんなもん、もうどうでもえぇ! 命終えるまでひたすら、仏の道を求めて行くぞ!

まことに、哀れなる事である。

尊胤法親王 (内心)今のこの情勢が、そのまま続いて行って、吉野朝廷の長期政権になったとしたら? そないなったら、出家して仏道を貫いて行こうという私のこの願いは、かなえられる事、間違いなしやろう。

尊胤法親王 (内心)逆に、もしも再び、足利幕府が勢力を盛り返して、吉野朝側の敗退となったとしたら? そないなったら、もしかしたら・・・もしかしたら・・・私は、殺されてしまうかもしれへん。

尊胤法親王 (仏前で合掌)(内心)み仏よ、どうか、私のこの仏道修行の願い、どうか、お聞き届け下さいますように・・・政界の状態が今のまま続き、世の中が安定していきますように・・・。

覚悟が定まった今、我が祈りのかつてない深まりを感じる、尊胤法親王であった。

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太平記 現代語訳 30-7 足利義詮、近江へ退避

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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細川頼春(ほそかわよりはる)が討たれてしまい、京都から撤退した細川顕氏(ほそかわあきうじ)は行方不明になってしまっている。

「このような状態では、もはや再戦は不可能」との形勢判断の結果、足利義詮(あしあがよしあきら)は、わずか140~50騎のみの軍勢を率い、近江(おうみ:滋賀県)方面へ向けて、京都を脱出した。

しかしながら、彼らの行く手を、瀬田川(せたがわ:滋賀県・大津市)が阻んだ。

兼ねてからの作戦通り、儀俄(げが)氏と高山(たかやま)氏(いずれも源氏流)が、既に瀬田橋を焼き落としてしまっていたのである。こちら岸には、舟は一隻も無い。

足利義詮軍リーダーA しかたねぇや、比叡山(ひえいざん:滋賀県・大津市)へ登ろうぜ! 延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)を頼るんでぇい。

足利義詮軍リーダーB だめだよ、あそこも! もう完全に、敵側にまわっちまってる。

足利義詮軍リーダーC エェッ!

足利義詮軍リーダーB 吉野朝(よしのちょう)がな、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)の任憲法印(にんけんほういん)を延暦寺に送りやがったんだ。ヤツの工作で寺中、あっち側についちまったぜ。

足利義詮軍メンバーD じゃぁ今頃、こっちに攻め寄せてくる途中かもな、おれたちが京都逃げ出した事に気づいてさ。

足利義詮軍メンバーE あーあ、こぉんな事になるんだったら、あのまま、京都に踏み止まっときゃぁよかったよなぁ。

足利義詮軍メンバーF そうさなぁ・・・同じ死ぬんだったら、京都で名誉の戦死遂げてた方がよかったよぉ!

足利義詮軍メンバーG 命おしんで、こんなとこまで逃げてきちゃってさぁ・・・みっともねぇったらありゃしねぇ。

足利義詮軍メンバーE あげくの果てに、目の前の琵琶湖(びわこ)の底に、屍(しかばね)埋めってわけかい。

足利義詮軍メンバーF あーあ、おれの名はこのまま永久に、都の外の大地の下に埋もれてしまうんだぁ。

足利義詮軍メンバーG おれって、ほんとバカ! 自分が恥ずかしいぜ、自分がなさけねぇ!

足利義詮軍メンバーE 後悔しちゃうよなぁ。

足利義詮軍メンバー一同 ったくなぁ!

「敵軍の旗が見えてきたら、直ちに腹を切ろう」と決意を固め、足利義詮以下全員、鎧を脱ぎ、腰刀だけ帯びて、白砂の上に並ぶ。

その中に、相模国(さがみこく:神奈川県)の住人・曽我左衛門(そがさえもん)という水泳の達人がいた。

いったい何を思ったのか、彼は突如、瀬田川の水中に飛び込んだ。

曽我左衛門の体は、グイグイと急流を突っきって、対岸に接近していく。

対岸にたどりついた曽我左衛門は、そこに停留していた一隻の舟に乗り込み、櫓を押して、こちら岸にその舟を漕いできた。

足利義詮軍メンバー一同 おおお・・・オマエ、なかなかやるじゃんかよぉ! ピィー、ピィー!

足利義詮軍一同、歓声をもって、彼を迎えた。

まずは、義詮と主要メンバー20余人が、その舟に乗り込み、対岸に渡った。

その後、彼らはさらに、小舟3隻を手に入れて、残り150騎全員、川を渡った。

なおも敵がやってくる気配が無かったので、舟に乗り込む直前に遺棄してきた馬や鎧をも順次、対岸まで渡す事ができた。

そして最後に、舟を蹴って川中へ流した。

川を流れていく舟を、一同見やりながら、

足利義詮軍メンバーD ヒャー、やったなぁ!

足利義詮軍メンバーE 命拾いしたぁ・・・。

足利義詮軍メンバ一同 (パチパチパチ・・・手を叩きながら)ワッハッハァッ、やったぜ、やったぜー!

やがて、「将軍・尊氏(たかうじ)様、無事、関東より近江までご帰還。現在、四十九院唯念寺(しじゅうくいんゆいねんじ:滋賀県・犬上郡・豊郷町)におられる」との情報に、坂本(さかもと:大津市)に逃げていた土岐頼康(ときよりやす)と大高重成(だいこうしげなり)が舟に乗り、足利義詮のもとに合流してきた。

それに加え、近江国一帯に地盤を張っている佐々木(ささき)一族が、さらには、美濃(みの:岐阜県南部)、尾張(おわり:愛知県西部)、伊勢(いせ:三重県中部)、遠江(とおとうみ:静岡県中部)からも武士たちが続々、義詮の下に馳せ参じてきた。

足利義詮 よぉし、この大軍をもってすれば、京都奪回も不可能ではなぁい!

足利義詮軍リーダーH 山陰(さんいん)地方、山陽(さんよう)地方の、わが方の勢力ともしめし合わせた上で、いっちょう、京都攻めといきましょうや!

足利義詮軍リーダー一同 イィケイケェーッ!

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 30-6 足利義詮の対・吉野朝工作

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利尊氏(あしかがたかうじ)の関東方面への出馬の後、京都守護の任を帯びて都に残された足利義詮(よしあきら)の心中には、日増しに不安の念が募っていった。

足利義詮 (内心)関東方面の形勢、いったいどうなってんだ? 未だに、何の情報も入ってこないじゃないか、いったいどうなってんだ?!

足利義詮 (内心)「京都を頼むぞ」って父上から言われたはいんだけど・・・よくよく調べてみたら、首都防衛に確保できる手持ちの兵力、意外と少ないんだよなぁ。

足利義詮 (内心)こんなんじゃぁ、いつなんどき、和田(わだ)や楠(くすのき)(注1)が攻め寄せてきて、ふがいなくも首都を攻め落されちゃい・・・ってな事に、なってしまうんじゃぁ? うーん・・・。

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(訳者注1)吉野朝側の軍事リーダーである、和田正武と楠正儀を指している。
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足利義詮 (内心)そうさなぁ・・・ここはひとまず、策略を駆使して時間をかせいでさ、京都の安全を確保しとくべきかもよぉ。

というわけで、義詮は、吉野朝廷(よしのちょうてい)へ使者を送り、和平の提案を行った。いわく、

 「御治世の事、国衙(こくが)が所有する荘園(注2)、および、本家領家・年来進止の荘園(注3)、そういった事物に関しては今後、幕府からの介入は一切無しといたします。」

 「ただし、以下に挙げる例外事項に関してだけは、今後とも引き続き、幕府にその処置・決定をおまかせ下さい。すなわち、

 承久の乱(じょうきゅうのらん)以後に新たに補任された地頭たちの、荘園生産からの分け前取り分の割合(注4)
 諸国の守護、地頭および御家人の所領と官職。」

 「君臣和睦の恩恵を施されましたならば、幕府は、武力行使を全面的にストップ、一切の戦闘行為を直ちに停止、聖主の永遠の御治世を、仰ぎたてまつります。」

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(訳者注2)原文では、「国衙の郷保」。中央から任命されて地方に赴任してきた国司が詰めるオフィスの事を「国衙(こくが)」と言う。国衙の行政を遂行するためには財が必要となるから、国衙も荘園を所有していた。

(訳者注3)荒地の開墾や土地取り引き等々によって荘園を所有するに至った人々は、国司他様々の有力勢力からの干渉を避けるために、首都圏等に居住する有力者に、自らの荘園を「寄進」した。その結果、寄進を受けた側は、荘園の名目上の領主となって、その荘園の生産物中の何割かを自らのポケットに収め、寄進を行った側は、実質上の領主となってその荘園の生産物中の何割かをポケットに収める、という事になる。このように、荘園の支配に何らかのコミットメントを行い、そこの生産物の一部を自らのものにしてしまえる権利を「職(しき)」という。平安時代から室町時代にかけての荘園の所有・支配の実態は20世紀末から21世紀初における日本の土地所有のそれとは相当異なっており、この「職」がキィワードとなるのである。

太平記文中にある「領家」とは、「領家職」(「本所職」とも言う)すなわち「名目上の領主権」を持つ者の事である。

さらに、領家がその荘園を自分よりももっと有力な人あるいは団体(社寺等)に寄進して、自らの所有する「職」の安定度を増強する、というような事も行われていた。その結果、この寄進を受けた側もまた、その荘園に対して「職」を得るに至る。これを「本家職」と言う。このように、荘園の所有・支配(これを「進止」という)の関係は複雑な重層構造になっていた。(「本家職」と「本所職」とは別概念である)

鎌倉時代以降、荘園の「職」構造は、さらに複雑さを増していった。武士階級に所属する多くの人々が幕府によって「地頭」に任命され、「地頭職」という職を得るに至ったからである。

(訳者注4)原文では、「承久以後新補の律法」。[承久の乱]に勝利した鎌倉幕府は、多くの御家人を新たに地頭に任命し、敗者の側が支配していた荘園(西日本に多く分布していた)に送り込んだ。これを、[新補地頭]と言う。

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足利幕府からしきりに寄せられるこの和平の申し出に対して、吉野朝側は、慎重に検討を重ねた。

吉野朝閣僚A 足利家の連中らの言う事は、とにかく信じられへんわなぁ。ついこないだも、足利直義(あしかがただよし)が、「和平や」言うてきよったやろ、そやけど、その舌の根も乾かんうちに、態度豹変してしまいよったやん。

吉野朝閣僚B ほんにそうですわなぁ。今度のこれもきっと、偽りの和平交渉や、謀略やで。

吉野朝閣僚C うーん・・・そらまぁそうですけどな、敵の謀略を逆手に取るっちゅう方法も、無きにしもあらずだっせ。

吉野朝閣僚A それ、いったい、どういうこっちゃ?

吉野朝閣僚C 足利義詮が言うてきよった事を、まずはいったん、そのまま受け容(い)れとくんですわ。ほいでもって、「天皇陛下、京都御帰還の儀」を広く世間に公表する。さぁ、そないなったらもう、幕府はガタガタですがな。その後、近畿地方とその周辺の勢力をもって、直ちに義詮を退治する。

吉野朝閣僚D 尊氏の方はどないします? やつは、関東におりますよ。

吉野朝閣僚C 関東は関東で、打つ手がありますわいな。ほれほれ、あっちには、あの新田義貞(にったよしさだ)の子孫がおりますやん。彼らに、尊氏討伐を命じたらよろしぉす。

吉野朝閣僚一同 なぁるほど、そらえぇなぁ。

というわけで衆議一致、「和平提案を受け入れる」との返答を直ちに送った。

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両者互いにだましあいの虚偽の和平などと、誰が知るであろう・・・さっそく、ついこの間まで京都朝に忠誠を尽くしていた諸卿たちの、賀名生(あのう)詣でが始まった(注5)。そのメンバーを列挙すれば以下の通り。

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(訳者注5)当時、吉野朝廷は賀名生にあった。26-5 参照。
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現職閣僚は以下の通り。

関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)・二条良基(にじょうよしもと)、右大臣・近衛道嗣(このえみちつぐ)、内大臣(ないだいじん)・久我通相(くがみちすけ)

大納言メンバー:葉室長光(はむろながみつ)、鷹司冬通(たかつかさふゆみち)、洞院実夏(とういんさねなつ)、三条公忠(さんじょうきんただ)、三条実継(さんじょうさねつぐ)、松殿忠嗣(まつどのただつぐ)、今小路良冬(いまこうじよしふゆ)、西園寺実俊(さいおんじさねとし)、裏築地忠季(うらついじただすえ)

中納言メンバー:大炊御門家信(おおいのみかどいえのぶ)、四条隆持(しじょうたかもち)、菊亭公直(きくていきんなお)、二条師良(にじょうもろよし)、華山院兼定(かざんいんかねさだ)、葉室長顕(はむろながあき)、万里小路仲房(までのこうじなかふさ)、徳大寺実時(とくだいじさねとき)

参議メンバー:二条為明(にじょうためあきら)、勘解由小路兼綱(かげゆこうじかねつな)、堀河家賢(ほりかわいえかた)、三条公豊(さんじょうきんとよ)、坊城経方(ぼうじょうつねかた)、日野教光(ひののりみつ)、中御門宣明(なかみかどのぶあきら)

殿上人メンバー:日野時光(ひのときみつ)、四条隆家(しじょうたかいえ)、日野保光(ひのやすみつ)、平親顕(たいらのちかあき)、日野忠光(ひのただみつ)、安居院信兼(あぐいのぶかね)、安居院行知(あぐいゆきとも)、右兵衛助・嗣房(うひょうえのすけ・つぐふさ)

この他、前職の公卿、三位以上でまだ参議になっていないもの、太政官の弁官、五位、六位、さらには延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)や園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市)の僧侶たち、三門跡寺院(さんもんぜきじいん:注6)のトップ、諸院家(しょいんけ:注7)の住職たち、禅宗や律宗の長老たち、寺社のトップ、神主に至るまで、我先にと続々、馳せ参じてきた。

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(訳者注6)梶井、青蓮院、妙法院。皇室から親王が門跡として入っていた。

(訳者注7)公家の子弟が住職として入っている寺院。
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昨日までは、人里離れた鄙(ひな)の地であった賀名生の山中は、急に花が咲いたかのよう、そこら中の辻堂、温室、風呂に至るまで、残らず、幔幕(まんまく)に引き飾られている。

「今回、こちらに馳せ参じてきた諸卿らの官位はすべて、持明院殿(じみょういんどの:注8)の方より下されたものであるから」との理由により、彼らのほとんどが、吉野朝廷によって一階級落とされてしまった。階級を落されずにすんだのはただ二人、大納言・中院通冬(なかのいんみちふゆ)と大納言・御子左為定(みこひだりためさだ)のみであった。もともと、吉野朝に気脈を通じていたのが幸いしたのである。

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(訳者注8)京都朝廷の事。
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このように、京都からやってきた公卿・殿上人らは、降参人あつかいされて官職を貶(おとし)められた一方、後村上天皇(ごむらかみてんのう)に従って賀名生の山中でがんばり続けてきた者たちは、「長年の功労あり」という事で、破格の褒賞を頂く事となった。まさに、窮乏と栄達、たちまちその位地を変え、といった所である。

三位局(さんみのつぼね)、すなわち廉子(れんし)は、吉野朝・今上陛下たる後村上天皇の母であるがゆえに、新たに院号を頂き、人々から、「新待賢門院様(しんたいけんもんいんさま)」と呼ばれる身分になった。

北畠親房(きたばたけちかふさ)は、准后(じゅこう:注9)の宣旨(せんじ)を賜り、花を着けた童子に随行され、輿に乗ったまま宮中に出入りする身分となった。その華やかな姿は、天下の耳目を驚かせた。

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(訳者注9)三皇(太皇太后、皇太后、皇后)に准ずる待遇。
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この人は、今は亡き奥州国司(おうしゅうこくし)・北畠顕家(あきいえ)卿の父にして、現在の皇后の父でもある。従って、武功の面からも家柄の面からも、准后となるについて、不都合な点など一切無いといえば無い。しかしながら、皇族と五摂家(ごせっけ:注10)の他からは、准皇の宣旨を得た人は、いまだかつてその例が殆ど無いのである。

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(訳者注10)摂政・関白となれる家柄。藤原北家の血筋に連なる、近衛(このえ)、鷹司(たかつかさ)、九条(くじょう)、二条(にじょう)、一条(いちじょう)の五家に限定されていた。
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その数少ない例はといえば、かの平清盛(たいらのきよもり)、彼は出家した後に、准后の宣旨を賜った。清盛が、異例ともいうべきそのような高い地位に就けたのには、やはりそれなりのわけがある。清盛は、「単なる皇后の父」であったというには止まらず、他ならぬ天皇(安徳)の外祖父であったのだ(注11)。さらに、表向きは平忠盛(ただもり)の子という事になっていたが、その実は、白河上皇(しらかわじょうこう)の子であったのだ。(注12)

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(訳者注11)[自分の娘が天皇の后になれた人]の集合を[娘が后な人・集合]とし、[天皇の祖父(母方の)になれた人]の集合を[外祖父・集合]とすると、以下の関係が成立する。

 [外祖父・集合] は [娘が后な人・集合] に包含される
  and
 [娘が后な人・集合] に所属はするが、[外祖父集合]には所属しない、という人が、実際に存在する。

[娘が后な人・集合]に所属できたということは、考えてみれば、[極めてラッキー]な事であろう。しかし、その娘(后)の生んだ子が天皇になれた(ということは、[外祖父・集合]にも所属できたということ)ともなれば、それは、[超極ラッキー]な事と言えよう。

(訳者注12)これも、史実かどうか、分からない。
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従って、平清盛の華麗なる生涯と栄達の事実を例に引き、「だから、北畠親房だって准后になってもよいではないか」などというような事は、決して言えないのである。

日野護持院(ひののこじいん)の僧正・頼意(らいい)は、東寺長者(とうじのちょうじゃ)・兼・醍醐寺座主(だいごじざす)に任ぜられた上に、仁和寺(にんなじ)所属の諸々の院家のトップ職をも兼任することになった。

大塔(おおとう)の僧正・忠雲(ちゅううん)は、梨本(なしもと)と大塔の両門跡寺院のトップを兼任する事になり、さらに鎌倉(神奈川県・鎌倉市)の勝長寿院(しょうちょうじゅいん)と天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)のトップにも補任された。

その他、長年山中で吉野朝廷に忠節を尽くしてきた全ての人々の運命が、この時突然、花開いた。名家(めいけ)は清華家(せいがけ)を超え(注13)、庶子は嫡子を越えて、というように、この時の官職の与えられ方は、極めてデタラメであった。

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(訳者注13)一口に公家といっても、その中にも様々なランクがある。生まれた「家」の格に応じて、生涯中に到達できる最高限界の職が事実上定まっていた。その中でも最高は、前述の「五摂家」である。「名家」は「清華家」の直下のランクである。
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もしも、今のような状態のままに天下の形勢が固まってしまうならば、嘆く者の数は多く、喜ぶ者の数は少ないであろう。あの元弘(げんこう)年間、打倒・鎌倉幕府成就の後の世相を思いおこしてみるがよい。あの時の数多くの人々の不満が引き金となって、政権は再び、武士階級の手中に落ちたのではなかったか?

今のこの世相、あの時のそれに何と相似していることであろう。吉野朝廷の人々は、過去の歴史から学ぶという事を、全く知らないのであろうか、実にもって愚かなる政策であるとしか、言いようがない。

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かくして、憂いの年(吉野朝年号・正平6年(1351))は過ぎ去り、あらたまの新春の到来と共に、吉野朝廷(よしのちょうてい)の上に突如、光がさし始めた。

しかしながら、依然として皇居は賀名生(あのお)の山中、白馬踏歌(あおむまとうか)の儀を行うべくもなく、元日午前4時の天地四方拝(てんちしほうはい)、1月3日の月奏(げっそう)のみが、かろうじて行われた。7日間の御修法(みすほ)は、文観僧正(もんかんそうじょう)が承り、賀名生(あのう)から京都に出向き、御所の中の真言院(しんごんいん)で執行した。

1月15日過ぎに、足利幕府からの贈り物が、吉野朝廷にもたらされた。まずは、後村上天皇(ごむらかみてんのう)に馬10匹、砂金3,000両。さらに、皇后や公卿たちにもれなく、馬30匹、巻絹300疋(ひき)、砂金500両。

2月26日、ついに、後村上天皇が賀名生を去る日がやってきた。

天皇が乗った輿(こし)は、まず東条(とうじょう:大阪府・富田林市)へ向かう。三種神器(さんしゅのじんぎ)の守り役のみが衣冠正してそれに供奉(ぐぶ)する。その他の公卿や諸官僚らは、全員甲冑(かっちゅう)を帯して、天皇の前後に従った。

東条に一泊した翌朝、一行は直ちに、住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)へ向かった。和田正武(わだまさたけ)、楠正儀(くすのきまさのり)以下、真木定観(まきじょうかん)、三輪西阿(みわせいあ)、湯浅宗藤(ゆあさむねふじ)、山本判官(やまもとほうがん)、熊野(くまの:和歌山県・熊野地方)八庄司(はちしょうじ)武士団、吉野十八郷(よしのじゅうはちごう:奈良県・吉野郡)の武士ら、総勢7,000余騎が、その道中を警護した。

住吉神社の神主・津守国夏(つもりのくになつ)は、自分の館を急遽、皇居に改造して、後村上天皇一行を迎え入れた。彼はその功で、直ちに従三位(じゅさんみ)に昇格となった。このような高位への昇進は、津守家にとっては未だかつて先例の無い事であり、まことにもって面目躍如(めんもくやくじょ)である。

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住吉での逗留(とうりゅう)が始まって3日目、不可思議な現象が起った。

天皇の勅使(ちょくし)が、馬を神社に奉納して幣(へい)を捧げ奉った時、風も無いのに、たま垣の前に立つ松の大木が、幹の途中からポッキリ折れてしまい、南向けに倒れてしまったのである。

驚いた勅使は、すぐにその詳細を朝廷に報告したが、伝奏(てんそう:注14)役担当の吉田宗房(よしだむねふさ)は、さほど驚いた様子もなく、ただ一言、

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(訳者注14)様々な事柄を、天皇へ伝える役。
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吉田宗房 妖(よう)は、徳(とく)に勝たずや、そんなん、気にする事ないわいな。(注15)

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(訳者注15)「いくら、妖しい力が蠢(うごめ)いてみたところで、わが天皇の輝かしい徳力の前には無力である」、と言いたいのであろう。
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警護詰め所に控えていた伊達優雅(だてのゆうが:注16)が、これを聞いていわく、

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(訳者注16)1-7 に登場。
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伊達優雅 あの人、なにアホな事、言うてはりまんねん・・・こらぁどうも、陛下の今回のの京都ご帰還、実現しませんなぁ。

吉野朝メンバーE そらいったい、なんでぇなぁ?

伊達優雅 あんな、昔の中国、殷王朝(いんおうちょう)の時代にな、大戊(たいぼう)っちゅう王様がいたんや。ちょうどその頃、殷王朝の命運が傾きかけてた兆候やったんやろな、王宮の庭にな、突然、桑の木が生えてきよったんや。それがまた、たった一夜のうちに、20余丈もの高さに伸びてしまいよってなぁ。

吉野朝メンバーE ふーん!

伊達優雅 大戊王は不安にかられて、大臣の伊陟(いちょく)に問うた、「あれはいったい、どういう事なんやろう?」。伊陟は答えた、「「妖は徳に勝たず」っちゅう言葉がありまっしゃろ? 陛下の政治に何かまずいとこがありますよってに、天がこのような兆(きざ)しを下さはったんでございますわいな。そやから、早いとこ、徳をもっての政治を修めるようにしはりませんと」」。

吉野朝メンバーF で、どないなった?

伊達優雅 王様も偉いわな、伊陟の諌(いさ)めに従うて、政治を正し、民をいつくしみ、賢人を臣下に招き、心ねじけた輩を退けていったんや。すると不思議な事には、その問題の桑の木、たった一夜の中に枯れてしまい、霜露(そうろ)のごとく、消滅してしもぉたというわけや。

吉野朝メンバーG ふーん!

伊達優雅 こないな風にな、聖徳をもってしたら、妖しき力を除く事も可能なんやわ。そやけどやな、今の世のご政道の、いったいどこに「徳」がある?

吉野朝メンバーE うーん・・・。

伊達優雅 (眉をひそめながら)「妖は徳に勝たず」やて? まぁヌケヌケとよぉ言うわなぁ、あの伝奏役の人。きっとな、その言葉の語源を知らんとからに、テキトーなこと言うてんねんやろ・・・まったくもう、信じがたいほどの無学やでぇ。

その夜、いったいどこの不心得者のしわざであろうか、この松の幹を削って、一首のかえ歌が落書された。

君が代の 短い事を 示すため 前もって折れた 住吉の松

(原文)君が代の 短(みじか)かるべき ためしには 兼(かね)てぞ折(おれ)し 住吉の松

元歌は、

君が代の 久しかるべき ためしにや 神も植えけむ 住吉の松

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住吉に18日間逗留の後、天皇一行は、うるう2月15日に天王寺(てんのうじ:大阪市天王寺区)へ移動。この日、伊勢(いせ)国司・北畠顕能(きたばたけあきよし:注17)が、伊賀(いが:三重県中西部)と伊勢(いせ:三重県中部)の勢力3,000余騎を率いて馳せ参じてきた。

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(訳者注17)親房の子、顕家の弟。
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19日、八幡(やわた:京都府・八幡市)へ到着。法印(ほういん)・田中定清(たなかさだきよ)の房を、皇居とした。

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「吉野朝側、赤井(あかい:伏見区)と大渡(おおわたり:位置不明)に関所を設置、兵は男山(おとこやま:京都府・八幡市)の上下に充満、ひたすら合戦の準備に余念なし」との情報に、京都中、不安におののく。

足利義詮(あしかがよしあきら)は、法勝寺(ほっしょうじ:左京区)の円観(えんかん)を、吉野朝への使者に立てた。

円観 おそれながら申し上げます、足利義詮殿は、以下のように言うておられます。

 「過日、私めは、陛下に背きたてまつった過去の罪を謝罪し、勅免の議をお願い申しあげました。それに対して、もったいなくも、陛下よりお情けを頂戴いたしまして、朝廷と幕府との和平の義、既に事定まりましてございます。かくなる上は、もはや何ら、ご警戒なされる必要もございませんでしょう。しかるに、和田、楠以下の者らは、ひたすら合戦の準備に余念無しとか。これはいったいどういう事でありましょうか?」

後村上天皇は直接、円観に対面して、

後村上天皇 日本国中の民人(たみびと)は未だに、いったいこの先、世の中どないなるものやらと、恐れおののいておる。今後どないな非常事態が発生するとも限らん。そやからな、私の方も止むを得ず、かように皆を武装させとるのや。

円観 はい。

後村上天皇 けどな、安心するがえぇぞ。君臣すでに和平にこぎつけたからには、この上いったい何の異変が起ころうか。そらなぁ、世間にはなんやかやと、グチャグチャ言いよるモン(者)もいよるやろ。そやけど、そないなモンの言葉に心惑わされる必要は、全くないのや、なぁ、円観よ。

円観 ハハァ!

後村上天皇 お互いの間に、決して敵対心を醸成(じょうせい)せぇへんこと、これこそが、天下太平確立(てんかたいへいかくりゅう)の基礎と言うべきやろうて、そうやないかぁ、なぁ、円観よ。

円観 ハハァ!(平伏)

これを聞いた義詮は、

足利義詮 陛下がそこまでおっしゃるのなら、大丈夫だろう。なんせ、天皇陛下のお言葉なんだもんなぁ・・・まさか、嘘偽りは無いだろうよ。

義詮側近H でもねぇ・・・やっぱし、あれやこれやと、疑惑の念を訴えてる者もおりますよぉ。

足利義詮 ハァー(溜息)やれやれ、いつの世にもいるんだよなぁ、心配性(しんぱいしょう)の人間ってぇのが・・・ま、いいじゃないの、言わせておけばぁ? ハハハハ・・・。

そのうち、出し抜かれる事になろうとは夢にも思わず、義詮も京都防衛軍メンバーたちも、すっかり油断してしまっていた。

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27日午前5時頃、北畠顕能が、3,000余騎の軍勢を率いて、鳥羽(とば:伏見区)方面から京都攻撃を開始。東寺(とうじ:南区)の南、羅城門(らじょうもん)の東西に、軍旗をはためかせる。

丹波(たんば)方面からは、千種顕経(ちくさあきつね:注18)が、500余騎を率いて攻め寄せた。唐櫃(からうと)越えルート経由で京都盆地に下り、西七条(にししちじょう:下京区)一帯に火を放つ。

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(訳者注18)千種忠顕の子。
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和田、楠、三輪、越智(おち)、真木、神宮寺(じゅんぐうじ)ら総勢5,000余騎は、宵の中に桂川(かつらがわ:右京区&西京区)を渡り、夜明け前に七条大宮(しちじょうおおみや:下京区)付近に到達。南北7、8町に展開の後、トキの声を上げた。

東寺、大宮で上がるトキの声、丹波口(たんばぐち:下京区)付近から立ち上る煙を見て、

京都の人々一同 えらいこっちゃ、えらいこっちゃ! 楠が攻めてきよったで!

京都中、大パニック状態になってしまった。

千本通り(せんぼんどおり:注19)付近に館があった細川顕氏(ほそかわあきうじ)は、はるかかなた西七条方面に煙が立ち上るのを見て、

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(訳者注19)京都を南北に走る通りの一つ。平安京の中軸・朱雀大路にほぼ一致している。現在の市街地でいえば、堀川通と西大路通の中間。
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細川顕氏 しまった、やられたぞ! まずは東寺へ!

顕氏は、わずか140、50騎を率いて、千本通を南へ馬を走らせた。しかし、七条大宮に布陣していた楠軍に包囲され、甥の八郎が討たれてしまった。

主従たった8騎だけになってしまった顕氏は、止むを得ず撤退、若狭(わかさ:福井県西南部)目指して京都を脱出。

侍所(さむらいどころ)担当であった細川頼春(ほそかわよりはる)もまた、東寺付近へ駆けつけて味方の軍勢を集めようと思い、手勢300騎のみを率いて、大宮通りを南下した。

六条付近に、吉野朝側の旗がはためいているのを見て、

細川頼春 こうなったら、軍勢をかき集めたり勢揃いしてるヒマなんか無ぇよ。とにかく、目の前のこの敵をイッパツけ散らさん事にゃぁ。他の場所は、それからだ!

頼春は、和田・楠軍3,000余騎に、立ち向かっていった。

楠たちは、前もって作戦を練っており、一枚盾の裏のさんを密度高く打ち、盾を梯子がわりにも使えるようにしていた。弓の使い手300人ほどが周辺の民家の垣根にその盾を打掛け、さんを伝って家の屋根に上り、そこからビュンビュン、矢を射放つ。

頭上から矢を浴びせかけられては、細川軍も面を向ける事もできず、ついに身動きが取れなくなってしまった。

そこをすかさず、和田・楠軍500余騎が、馬のくつばみを並べて一斉突撃。

細川軍500余騎は、相手側の中央突破を許し、左右へサッとかけ隔てられてしまった。

陣を立て直そうとしていたまさにその時、頼春の乗馬は相手の太刀に驚き、弓3本分もの高さまで飛び上がった。

空中で鞍から離れてしまった頼春の身体は、真っ逆さまにドドッと地上に墜落。

落下と同時に、楠軍の武士3人が、頼春に襲いかかってきた。

頼春は、倒れながらも相手二人の膝を切り、すぐさま起き上がろうとした。

そこに駆け寄ってきた和田正武の中間(ちゅうげん)が、槍の柄を伸ばして頼春を一突き、喉を付かれて頼春は倒れた。そして、彼は、正武に首を取られた。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 30-5 足利直義、死去す

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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鎌倉へ到着の後、足利直義(あしかがただよし)は、付き従う者誰も無しの、幽閉状態になってしまった。

荒廃久しい牢屋同然の館の中に、警護の武士に取り囲まれてすごす毎日、耳に入ってくる事何もかもが、悲しみを催し、心を傷ましめる。

足利直義 (内心)あぁ、なんて空しい人生なんだろう・・・このような憂き世の中に、命ながらえてみたところで、それでいったいどうなるっていうんだ?

足利直義 (内心)あぁ・・・もう、生きがい完全に無くなってしまった・・・自分なんてもう、この世にとっては無用の存在、いてもいなくても、どうでもいいんだよなぁ・・・。

このような嘆きの日々を送っていたが、それから程無く、京都朝年号・観応(かんのう)3年(1352)2月26日、直義は、突然死去してしまった。

足利幕府からの公式発表によれば、「急に、黄疸(おうだん)という病気になられ、死去された」。しかし、「実際の所は、鴆毒(ちんどく)を盛られて、殺害されたらしい」とのうわさが、人々の間でささやき交わされた。(注1)

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(訳者注1)この部分は極めて重要と思われるので、以下に原文の記述を掲載する。

 (原文)「俄(にわか)に黄疸と云(いう)病に犯(おか)被(され)、墓無(はかなく)成(なら)せ給(たまい)けりと、外には披露ありけれ共(ども)、実(まこと)には、鴆毒の故に、逝去(せいきょ)し給(たまい)けるとぞささやきける。」

上記からも明らかなように、太平記作者は、ここではただ単に、「かくかくしかじかのうわさがあった」とだけしか、言っていないのである。

にもかかわらず、太平記作者(もしかしたら複数? 太平記は複数の人の手になる作品?)は、次の文章において、いきなり「毒殺」を前提に据え、それ以降に、強引な意見陳述を展開している。

こと、「毒殺」という事に関しては、太平記作者は史実に反する記述を、既に1回行っている(19-4 の末尾の訳者注を参照)。故に、読者の皆様は、足利直義の死去に関しての太平記の記述を、「それが史実である」とは思われない方がよいと思う。なお、この点についての訳者の見解を、この章末の「付記」に記載しておいたので、そちらをもあわせてご参照いただきたい。
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一昨年の秋には(注2)、高師直(こうのもろなお)が上杉重能(うえすぎしげよし)を亡ぼし、昨年の春には、足利直義が高師直を誅した(注3)。そして、今年の春には、足利直義もまた、怨を持った敵により、毒を呑んで死去してしまった・・・まことに哀れなるかな。「三過門間(さんかもんかん)の老病死(ろうびょうし)、一弾指頃去来今(いちだんしこうきょらいいま)(注4)」とは、まさにこのような事を言うのであろう。

因果応報(いんがおうほう)歴然の理(れきぜんのことわり)は、何も今に始まった事ではないが、たった3年の間に、次々とこのような果が現われた事は、まことに不可思議としか言いようがない。(注5)

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(訳者注2)正しくは、3年前の貞和5年(1349)である。

(訳者注3)観応2年(1351)。

(訳者注4)「ある人のもとをたった3回訪問する間にさえも、その人の身の上に「老病死」の3苦が襲ってくる事だってある。過去、未来、現在と言うと、とても長い時間のように感じるかもしれぬが、そんなものは指を1回はじくくらいの短い間の事である。その間の人生の転変は計り知れない。」の意。

(訳者注5)上記の部分は原文では、以下のようになっている。

 (原文)「去々年の秋は師直、上杉を亡し、去年の春は禅門、師直を誅せ被(られ)、今年の春は禅門又怨敵の為に毒を呑て、失(うせ)給(たまい)けるこそ哀なれ。三過門間老病死、一弾指頃去来今とも、加様(かよう)の事をや申べき。因果歴然の理は、今に始め不(ざ)る事なれども、三年の中に日を替え不(ず)、酬(むく)いけるこそ不思議なれ。」
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それにしても、この足利直義という人、随分と政治に心を砕き、仁義の道をもわきまえた人であったといえよう。なのにいったい何故、このような自滅の最期を迎えなければならなかったのであろうか? いったい何の罪故に?

この問題をつらつら考察してみるに、私、太平記作者の見解は、以下の通りである。

罪その1:直義の提案を容れて、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、鎌倉において偽りの告文(こうぶん)を書いた(注6)。その、神を欺いた罰により、兄弟の仲が悪くなり、その結果、直義は死を招いたのである。

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(訳者注6)原文では、「此(この)禅門(訳者注:直義のことである)申(もうさ)被(るるに)依(よって)、将軍(訳者注:尊氏のことである)鎌倉にて偽て一紙の告文を残されし故に其(その)御罰にて、御兄弟の中も悪(あし)く成(なり)給て、終に失(うせ)給(たまう)歟(か)」。

この「告文」がいったい何を指しているのか、訳者には分からない。

[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注には、

 「巻十七、自山門還幸事に見える尊氏が告文を奉って御醍醐天皇に還幸を請うた事を指す・」

とある。

上記中の「巻十七、自山門還幸事」は、本現代訳中の、17-7 に相当するのだが、この時、尊氏は、鎌倉ではなく、京都にいるように、太平記では記述されている。よって、「鎌倉において偽りの告文を書いた」事にはならない。
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罪その2:護良親王(もりよししんのう)を殺害し、成良親王(なりよししんのう)を毒殺したのも、この人のしわざである(注7)。故に、被害者側の憤り深く、そのために、このような最期を遂げねばならなかったのである。

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(訳者注7)原文では、「又大塔宮を殺(ころし)奉(たてまつり)、将軍宮を毒害し給(たもう)事、此人の御態(わざ)なれば、其の御憤深して、此(かくの)如く亡(ほろび)給う歟(か)。」

大塔宮(護良親王)の最期については、13-5 参照。護良親王殺害を指示したのが直義である、というのは史実なのかどうか、訳者には分からない。

成良親王の最期については、19-4 参照。この「成良親王を直義が毒殺した」とする記述については、複数の歴史学者(高柳光寿 、森茂暁)が、これが太平記作者の捏造であり、史実ではない、という事を断定している。(19-4末尾の訳者注を参照。)
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「災患(さいかん)の種などというものは本来、存在しないのだ、悪事がその種となるのである」と言う、古来からの名言がある(注8)。

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(訳者注8)原文では、「災患本種無、悪事を以て種とすといえり」
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まったくもって、その通りである。

武士たる者は、武勇の家に生れ、戦をもってその家業とするといえども、慈悲を常に心がけ、悪事の業報(ごうほう)を恐れるべきである。いくら自分に威勢があるからといって、神のご照覧(しょうらん)をも憚(はばか)らず、他人の辛苦(しんく)にも心痛(こころいた)めず、思うがままの振舞いを重ねていくならば、楽も尽きて悲み来たり、我が身を責める結果となるは必定(ひつじょう)。そのような真理に気がつかなかったとは、まったくもって哀れにして、愚かなる事であったと言えよう。

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(訳者注9)
「足利直義は、兄・足利尊氏によって毒殺された、尊氏は弟・直義を殺害した」との言説が、21世紀初頭の今日においても、以前として存在している。インターネット上にもそのような記述が複数個存在する。(興味のある方は、適当なインターネット検索エンジンを用いて、キーワード:[直義 毒殺]等で検索するとよいだろう)。

これらの言説の源はいったいどこにあるのか? 訳者が様々に調べてみたところ、どうやら歴史関係の書物に、その源はあるようだ、ということが分かってきた。「XX歴史辞典」の類の書物や、一般向けに書かれた書物の中に、上記のような記述が多く見受けられるのだ。例えば、

[太平記の群像 森茂暁 著 角川選書 角川書店 1991刊] の 136P

 「直義は観応二年(一三五一)七月政務を返上し、自派を率いて越前に去った。直義はこののち関東に下り、京都から攻め寄せた尊氏軍と戦ったが敗れ、翌三年二月尊氏によって毒殺された。」

[室町時代政治史論 今谷明著 塙書房 2000刊] の 14P

 「二月末に没した直義の死因を「太平記」は尊氏による毒殺の噂として伝え、それが通説となっている。頼朝と義経、三好長慶と安宅冬康等、権限を共有する兄弟の悲劇がここでも現出したのである。」

この、「兄(尊氏)が弟(直義)を殺した」という説が「通説」になったのは、いったいいつ頃の事なのか、訳者には分からない。もしかしたら、第二次大戦前の[皇国史観の時代]に、「朝敵にして悪者・足利尊氏」のイメイジを広く一般に植え付けるために、「通説」としての形成が、誰か(個人あるいは複数の人?)によって為されたのだろうか?

[足利尊氏 高柳光壽 著 春秋社 昭和30 初版第1刷 昭和41 改稿第1刷 昭和62 新装第1刷]の 416P には、以下のようにある。

 「二月二十六日直義は突然死んでしまった、時に四十七歳であった(「公卿補任」による。四十六、四十五とする説もある。)「常楽記」には、鎌倉円(延)福寺において円寂とあるが、「太平記」には、直義は牢のような荒れ果てた屋形に警護の武士の下に置かれたが、急に死んだ、外には黄疸で死んだ、と披露したが、実は鴆毒で浙去したとささやくものがあった、と書いてある。」

「常楽記」の記述内容について、訳者は未だ確かめてはいないので、「常楽記」そのものについては何のコメントもできないが、「太平記」の記述に関する、高柳氏の上記の説明そのものに対しては、訳者には全く何の異論も無い。太平記にはたしかに、その通りの事が書かれている。

そして、「太平記」には、それ以上の事は何も書かれていない。

すなわち、「太平記」には、以下のような記述は、どこにも全く無い。

 「足利直義殺害の張本人(あるいは黒幕)は、足利尊氏である。」

しかし、高柳氏の記述は以下のように続いていく。

 「二月二十六日といえば、師直が死んだ日である。ちょうど一周忌になる。尊氏が殺さなくとも、師直の一類が殺したかも知れない。しかし尊氏がその殺したものをどう処分したという記事が見えないばかりか、葬儀を行ったという記事も何も見えていない。それは関東のことであるので、文献が残っていないためだといえば、それまでであるが、疑えば疑える。そこで、「諸家系図纂」などは、尊氏が殺したとしているのである。「臥雲日件記」に、”錦小路殿(直義)死後すこぶる神霊あり、故にこれを祭って、大蔵明神(延福寺は大倉にあった)となす”とあるは、この間の事情を物語るものといえよう。」

この記述の段階において既に、高柳氏の脳裡には、「尊氏が直義を殺したのではないかな?」との思考が、濃厚なる渦を巻いているように、訳者には感じられてならない。なぜならば、「尊氏が殺さなくとも」とか、「尊氏がその殺したものを」といったような記述があるからである。

実は、この前の箇所(412P)にも、以下のような記述がある。なお、文中「親房」とあるのは、前後の文脈から見て、吉野朝側の重臣・北畠親房の事を指すとみて間違いないだろう。

 「十月の末になって、南朝の使者が上京し、十一月の三日この使者が義詮と会って”元弘一統の初めに違わず聖断を仰ぎ申すことを承知した、もっとも神妙である。このうえは天下安全の道を講じて無二の忠節を致せ”という後村上天皇の綸旨を尊氏に与え、また義詮にもほぼ同様の綸旨を与え、さらに尊氏には直義追討の綸旨を与えた。・・・(途中略)・・・それはともかくとして、後村上天皇の綸旨に直義を誅罰せよ、とあるのは注意すべきである。これで尊氏は直義を殺す名義を得たのであった。この綸旨の内容は親房の考えそうなことでもあるが、尊氏の方から和睦の条件として申し入れたものであったかも知れない。」

このように、上記の文中に、「これで尊氏は直義を殺す名義を得たのであった」との記述がある。

以上見てきた事により、高柳氏は、確かな証拠が一切存在しないにもかかわらず、足利尊氏の心中を様々に推理し、「足利直義殺害の犯人=足利尊氏」説を形成していっている、と、訳者にはそのように思えてならない。

このような、「他人の心理状態をあれやこれやと推理し、状況証拠だけでもってその人を犯罪者として断定、もしくは、それらしい事を匂わせる」というような行為を、現代の日本において誰かが行った時には、その行為者は、相手から、「名誉毀損」の提訴を起されるおそれが大いにあるだろう。

犯罪捜査のプロ(つまり、警察官)が行う捜査をもってしても、冤罪が発生し、無実の人が有罪とされてしまう事があるのだ。ましてや、犯罪捜査のプロでない人が、犯罪・加害者探しを始めた場合、それが錯誤に陥る確率は、極めて高いのではないだろうか?

以下に、この問題に関する訳者の考えを述べたい。

1 太平記の記述は信用できない

すでに何度も書いてきた事であるが、「太平記に書いてある事は、うのみにしてはならない」。太平記はどこまでが史実で、どこからがフィクションなのか、分からないのだ。その判別は、専門家にすら困難、あるいは不可能である。[岩波古典文学体系34 太平記1 後藤丹治、釜田喜三郎 校注 岩波書店 昭和35年 第1刷]の「解説」22P ~ 23P には、以下のようにある。

 「要するに久米博士の如く史学に益なしというのも公平な議論では勿論ないが、さりとて虚構や先行作品の襲用の多い太平記に対して、その史料的価値を実質以上に買いかぶるのも禁物である。太平記に近い時代の今川了俊が、「此記は十が八九はつくり事にや」(難太平記)と評したのは味わうべき言葉である。太平記の作者から見れば、面白く読ませればそれで十分で、それが歴史に一致するかどうかは問題ではなかったのであろう。太平記の記載のみを、唯一の、もしくは主な史料として、南北朝時代の歴史を描こうとするのは、余程の傍証のない限り、危険であることを断言したい。」

2 人のうわさだけでもって、「毒殺」と決め付けてはならない

仮に、上記の太平記の記述が史実であったとしても、太平記作者が「事実」として主張しうる事は、

 「俄に黄疸と云病に犯被、墓無成せ給けりと、外には披露ありけれ共、実には、鴆毒の故に、逝去し給けるとぞささやきける。」

と、いう事だけである。その後に記述してある、

 「去年の春は禅門、師直を誅せ被、今年の春は禅門又怨敵の為に毒を呑て、失給けるこそ哀なれ。」

は、太平記作者の勝手な思い込みに過ぎない。

「世間の人々のうわさ」ほど、あてにならないものはない。

3 仮に、毒殺されたとしてみても、犯人の記述は一切なし

「毒殺された」という事が正しいと、百歩、いや、千歩、1億歩譲歩して、仮定してみたとしても、太平記中には、その犯人、あるいは殺害行為を指示・教唆した人の名は、一切記述されていない。

 「直義殺害の犯人は誰々である」というような記述は、太平記中には無い。従って、当然の事ながら、「直義殺害の犯人は尊氏である」というような記述は、太平記中のどこにも無い。

以上、1~3 の考察を踏まえてみるならば、訳者は、以下のように考えざるをえない。

 足利直義の死因は不明である、ただそれだけ、それだけだ。

確かな証拠が得られないような歴史関連の事柄に対しては、いくら考えてみても、どうしようもないだろう。分からないものは、どこまで行っても分からない。

最後に、「このように考えているのは、訳者一人だけではない」という事を述べておこう。下記をご参照下さい。

[日本の歴史11 太平記の時代 新田一郎 講談社 2001] の 174P ~ 175P から引用。

 「・・・これをうけて尊氏は、京都の留守を義詮に託し、鎌倉を指して進発した。尊氏は駿河・伊豆、ついで相模国早河尻(現 神奈川県小田原市)で直義方の軍勢を破り、直義を伴って翌年正月五日に鎌倉に入った。屋敷に軟禁された直義は、二月二十六日に急死する。これについては毒殺との噂が流れたようだが、尊氏の関与の有無は明らかではない。」

[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書 2443 中央公論新社]  の 174P ~ 175P から引用。

 「直義は尊氏に毒殺されたとする説が、古くから有力である。しかし、筆者はこの見解には懐疑的である。

 古今東西、政争に失脚した政治家が失意のうちに早世することは頻繁にある。四六歳という享年も、当時としてはよくある年齢である。甥の義詮も三八歳で死去している。史料的にも、毒殺を記すのは『太平記』くらいしか存在しない。

 直義の暗殺に用いられたとする「鴆毒」なる毒物についても、謎が多い。これは鴆という南方に生息する鳥の羽の毒だとも言われている。しかし、鴆の実在は確認されず、存在自体が疑問視されてきた。

 ところが一九九二年、ニューギニアできわめて強い毒性を持つ鳥が発見された。有毒な鳥が実在する以上、同じく毒鳥である鴆が存在した可能性も出てくるが、だとすれば尊氏がいかなる径路で鴆毒を入手したかなど新たな疑問も出てくる。日本に本格的な毒殺文化が入ってきたのは織豊期以降であるとする見解もある。

 管見の限りでは、筆者以外に毒殺説を否定する論者に峰岸純夫氏がいる。峰岸氏は、黄疸が出たとする『太平記』の記述に基づいて、直義の死因を急性の肝臓ガンであったと推定する(『足利尊氏と直義』)。」

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 30-4 足利尊氏、関東へ向かう

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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八相山(はっそうやま:滋賀県・長浜)の戦に勝利の後、足利尊氏(あしかがたかうじ)はすぐに京都へ戻ったが、10月13日、朝廷(注1)より重ねて、「足利直義(あしかがただよし)を誅罰(ちゅうばつ)せよ」との命令書が来た。席の暖まるひまもなく、翌日、尊氏は京都を発ち、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ向かった。

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(訳者注1)[園太暦](洞院公賢の日記)によれば、10月24日、尊氏はなんと、吉野朝廷から(京都朝廷からではなく)、直義追討の綸旨を賜ったのだそうだ。当時、尊氏は吉野朝廷との和平工作を行っていたらしい。
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足利尊氏 (内心)京都にも兵力を残して置かねば・・・吉野朝廷に隙を狙われてはいかんからな・・・。

というわけで、尊氏は足利義詮(あしかがよしあきら)に京都の防備を委ねた。

やがて、尊氏は駿河国(するがこく:静岡県中部)へ到着。しかし、遠江(とおとうみ:静岡県西部)より以東の関東地方や北陸地方の武士たちのほとんどは、すでに直義陣営側に馳せ参じてしまっており、尊氏の下へ集まってくる者はわずかしかいない。

足利尊氏 たったこれだけの兵力ではなぁ・・・今すぐ鎌倉へ攻め寄せるってなわけにもいかんだろう・・・うーん・・・。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 よし、こうしよう。ここしばらくは要害にたてこもり、じっくり兵を集めるんだ。

11月末日、尊氏は、駿河国の薩埵峠(さったとうげ:静岡県・静岡市:注2)に登り、東北方向の斜面に陣を張った。彼に従うメンバーは、仁木頼章(にっきよりあきら)、その弟・仁木義長(よしなが)、畠山国清(はたけやまきにくよ)を筆頭に畠山兄弟4人、今川範国(いまがわのりくに)、その子息・今川了俊(りょうしゅん)、武田信武(たけだのぶたけ)、千葉氏胤(ちばうじたね)、長井(ながい)兄弟、二階堂行珍(にかいどうぎょうちん)、二階堂山城判官(にかいどうやましろはんがん)ら。その兵力は3,000余騎ほどでしかない。

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(訳者注2)原文では「薩埵山」とあるが、「薩埵峠」としておいた。ここは、東海道新幹線の静岡駅と新富士駅との間の地点付近、駿河湾と山に挟まれた狭い地域に、鉄道と道路が密集して走り、という場所である。
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「将軍、薩埵峠に陣を取り、ひたすら、宇都宮(うつのみや)軍の来援を待つ」との情報に、足利直義は、

足利直義 宇都宮軍が兄上と合流してしまったら、こちらの形勢はがぜん不利になる。先手を打たねばな。

直義は、桃井直常(もものいなおつね)に、長尾左衛門尉(ながおさえもんのじょう)他、北陸道7か国の軍勢1万余騎を与え、宇都宮軍の進軍を阻止すべく、上野国(こうづけこく:群馬県)へ向かわせた。

同日、直義も鎌倉を発ち、薩埵峠へ向かった。

足利直義軍は、2方面に分かれて進軍。

大手方面軍の大将・上杉憲顕(うえすぎのりあき)は、20万余騎を率いて、由比(ゆい:静岡市)、蒲原(かんばら:静岡市)を目指した。

からめ手方面軍の大将・石塔義房(いしどうよしふさ)とその子息・石塔頼房(よりふさ)は、10万余騎を率いて、内房(うつぶさ:静岡県・富士宮市)経由で薩埵峠へ押し寄せた。

総大将・足利直義は、主要勢力10万余騎を従えて、伊豆国府(いずのこくふ:静岡県・三島市)で待機した。

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薩埵峠は、最大級の難所である。周囲三方は険阻にして谷は深く切れ込み、残る一方は海に直面、その崖は高く聳(そび)え立っている。まさに難攻不落の急所、たとえ何万人をもって攻めてみても、そこへ接近する事すら難しい。しかし、直義軍側は、あくまで強気である。

直義軍リーダーA なぁに、こっちは50万、なのにあっちは3,000、いいかい、たったの3,000だよ、3,000!

直義軍リーダーB しかもさぁ、遠路はるばる京都からの長旅ときたもんねぇ。馬も疲れてるだろよ、食料だって乏しいんじゃぁねぇのぉ。

直義軍リーダーC あそこにたてこもってみたところで、いってぇいつまで持ちこたえれるもんだかぁ。

直義軍リーダーD タハッ、哀れなもんさね。

直義軍リーダーE 敵サン、もう、おれたちの掌(てのひら)ん中入ったも同然だぁ。

というわけで、あえて攻撃を急がず、ただただ周囲を千重万重に取り巻くだけ、矢戦すら始めぬままに、じっと包囲を続けていく。

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ここで、舞台は関東へと変る。

薬師寺元可(やくしじげんか)の勧めにより、かねてより足利尊氏に心を通わせていた宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)は、自らの本拠地エリア内に潜伏していた、故・高師直(こうのもろなお)一族の三戸七郎(みへしちろう)に目をつけた。

宇都宮氏綱 なぁなぁ、どうだい、ヤツを司令官に任命してさ、薩埵峠へ援軍を送り込むってのは?

宇都宮家家臣F うーん、いいんじゃぁないでしょうかねぇ。

宇都宮家家臣G いけますよ、それ。

その情報をキャッチした上野国住人・大胡(おおこ)と山上(やまがみ)の一族らは、おそらく他人に先を越されたくないと思ったのであろう、新田(にった)一族に所属の大島(おおしま)を大将に取りたてて500余騎の軍を編成し、「いざ、薩埵峠へ援軍!」と、笠懸原(かさがけのはら:群馬県・みどり市)へ繰り出した。

長尾孫六(ながおまごろく)と長尾平三(へいぞう)は、上野国警護の為に、かねてより300余騎を率いて世良田(せらだ:群馬県・太田市)に駐屯(ちゅうとん)していたが、「大胡&山上、出陣」の情報をキャッチするやいなや、笠懸原へ急行した。(注3)

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(訳者注3)長尾家は代々上杉家の家臣であったから、当然、直義側勢力である。故に、尊氏軍の応援を標榜する大胡&山上と戦う事になる。ここ以降の話は、宇都宮&薬師寺=尊氏側勢力、桃井&長尾=直義側勢力という構図をもってすれば、理解しやすいと思う。
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長尾軍は、相手に一矢射る時間も与えずに、そく一斉攻撃、大島を大将と仰ぐ500余騎は十方に懸け散らされて、全員、行くえ不明になってしまった。

これを聞いた宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)は、

宇都宮氏綱 まったくもう、あのレンチュウ! 不用意なコトしでかしゃがってよぉ。

宇都宮氏綱 つまらん事で、敵を勢いづけちまったじゃねぇか! あーあ、ほんと、興ざめだよなぁ。

宇都宮家家臣一同 ・・・。

宇都宮氏綱 いやいや、こんな事でガックリきてちゃいけねぇや。みんな、元気出して行こうぜぃ!

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12月15日、宇都宮軍は、宇都宮(うつのみや:栃木県・宇都宮市)を発ち、薩埵峠へ急いだ。その軍を構成するメンバーは、以下の通りである。

氏家周綱(うじいえちかつな)、氏家下総守(しもふさのかみ)、氏家綱元(つなもと)、氏家備中守(びっちゅうのかみ)、氏家忠朝(ただとも)。

譜代家臣の清党(せいとう)からは、芳賀貞経(はがさだつね)、芳賀肥後守(ひごのかみ)。

譜代家臣の紀党(きとう:注4)からは、益子貞正(ましこさだまさ)。

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(訳者注4)宇都宮家の有力家臣団に「紀党」と「清党」の2グループがあった。彼らをあわせて「紀清両党」と呼ぶ。
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薬師寺元可、その弟・薬師寺義夏(よしなつ)、同じく薬師寺義春(よしはる)、薬師寺助義(すけよし)。

武蔵国(むさしこく)の住人・猪俣兵庫入道(いのまたひょうごのにゅうどう)、安保信濃守(あふしなののかみ)、岡部新左衛門入道(おかべしんざえもんにゅうどう)、その子息・岡部出羽守(でわのかみ)。

以上、総勢1,500騎。

16日正午、彼らは、下野国(しもつけこく:栃木県)の天命宿(てんみょうじゅく:栃木県・佐野市)にうって出た。

その日、佐野(さの)一族、佐貫(さぬき)一族ら500余騎がこれに加わってきて、宇都宮軍は勇気凛凛(ゆうきりんりん)。

その夜の作戦会議は、いやが応にも盛り上がった。

宇都宮氏綱 さぁー、行くぜ、行くぜぃ!

宇都宮軍リーダー一同 イェーイ!

宇都宮氏綱 明朝夜明けに出発だぁ! 桃井なんかにゃ目もくれず、全員そろって、一気に薩埵峠を目指そうじゃぁねぇか!

宇都宮軍リーダー一同 イェーイ! イェーイ! ピュー、ピュー!

宇都宮軍リーダーH あのぉ、大将・・・いったいどうしたの?

宇都宮軍リーダーI ・・・顔面蒼白だよ・・・。

三戸七郎 ・・・。

宇都宮軍リーダー一同 ・・・。

三戸七郎 (ガタガタガタガタ・・・震える)

宇都宮軍リーダー一同 ・・・。

三戸七郎 ウワッ、ウワッ(いきなり立ち上がる)・・・ウウッ、ウウッ・・・(腰の刀を抜く)・・・ウァァァ・・・(自害、倒れ伏す)。

宇都宮軍リーダー一同 ・・・(ゾォーーー)。

なんと、作戦会議のまっ最中に、今回の遠征軍大将に取りたてられた三戸七郎が、にわかに発狂し、自害して死んでしまったのである。

この異変を見て、「戦の門出だってのに、まぁ何ともエンギの悪い事だなぁ」と思ったのであろう、途中参加してきた武士たちは、一騎残らず去っていってしまった。

宇都宮軍リーダーH 結局、また元の、宇都宮を出てきた時のメンバーだけになっちまったよ。

宇都宮軍リーダーI 兵力わずか、700騎足らずかぁ。

宇都宮軍リーダー一同 (内心)こんなことじゃぁ、この先いったいどうなることか・・・(愕然)。

しばらく思案にふけっていた薬師寺元可が、口を開いた。

薬師寺元可 いやいや、こんな事、気にする必要、ジェーンジェン(全然)ないな。「吉凶はあざなえる索のごとし」ってな事、言うじゃん(注5)。氏綱殿、三戸七郎のこの突然の死、きっと宇都宮大明神の御心(みこころ)だと思いますよ。氏子のあなたが、この軍の総司令になれっての御心でしょう、きっと。

宇都宮氏綱 うーん・・・。

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(訳者注5)「人間万事、塞翁が馬」と同義のことわざ。人生の吉凶は絶えず入れ替わり、今は吉と思っていた事が、すぐに凶となり、凶と思っていた事が吉となったりする、という意味。吉と凶を二本の綱に、それをよりあわせて作られた索(縄)を人間の運命にたとえている。たしかに、垂直に垂らした索を下から上へと見ていくと、「吉」の綱が見えている部分の上には「凶」の綱が見えている部分が、さらにその上には、再び「吉」の綱が、というように循環構造となっている。
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薬師寺元可 さ、さ、こんなとこで、ぐずぐずしてる場合じゃないでしょ! 一刻も早く、薩埵峠、薩埵峠!

元可の言葉にみな気を取り直し、薩埵峠への進軍続行となった。

その後は、道中にいささかの滞りも無く、馬をひたすら走らせ続け、19日正午、利根川(とねがわ:注6)を渡って那和庄(なわしょう:群馬県・伊勢崎市)に到着した。

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(訳者注6)古代より、利根川の流路は何度も変わっている。
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宇都宮軍リーダーJ 殿! 軍の後方に、馬煙が!

宇都宮氏綱 うっ、いったいどこの連中だ?

宇都宮軍リーダーH 味方かな?

宇都宮軍リーダーI 違う、違う、あの旗見ろ! 桃井と長尾だよ。

まさに、桃井直常と長尾左衛門が1万余騎を率いて、宇都宮軍の後方に迫ってきたのであった。

宇都宮氏綱 よぉし、ここに陣を張って戦うぞ!

小川を前にして、広々とした野原の中に、宇都宮軍は布陣した。紀勢両党(きせいりょうとう)700余騎は、大手を受け持って北端に控え、氏家周綱は、200余騎を率いて中央に、薬師寺兄弟は、500余騎を率いてからめ手を受け持ち、南端にひかえた。

宇都宮 versus 桃井、双方にらみ合いのまま、1時間が経過。

やがて、桃井軍7,000余騎が、トキの声を上げ、宇都宮軍に対して攻撃開始。

長尾軍3,000余騎も、それに続いて、魚燐(ぎょりん)陣形をもって薬師寺軍に襲いかかる。

長尾孫六と長尾平三率いる500余騎は、全員馬から飛び降り、徒歩になって鎧の左の袖をさしかざし、太刀や長刀の切っ先そろえ、静々と小躍りしながら氏家軍へうってかかる。

だだっ広い平野のど真ん中、馬の足に懸る草木など一本もない所、双方あわせて1万2000余騎の武士たちは、東に開き、西に靡き、追いつ返しつ激戦1時間、長尾孫六率いる徒歩の武士500余人は、氏家軍に縦横に懸け悩まされ、一人残らず討たれてしまった。

これを見て、桃井も長尾も、「とてもかなわない」と思ったのであろう、十方に分かれて退散してしまった。

戦闘終了後4、5か月もの間、戦場となった2、3里四方一帯で、草は、なまぐさい匂いを発し続けた。人間の血液が原野に深く染み込み、戦死者の死骸はいたる所にうずたかく積もっていた。

この那和の戦と日を同じくして、兵を募っていた武蔵国守護代・吉江中務(よしえなかつかさ)が、津山弾左衛門(つやまだんざえもん)と野興(のいよ)党に攻撃され、あっという間に討たれてしまった。

かくして、武蔵と上野両国には、宇都宮に敵対する者は皆無となった。武士たちは、続々と宇都宮の下に馳せ参じ、その総兵力は3万余騎にまで膨張した。

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ここで、舞台は再び、薩埵峠へ。

直義軍リーダーA やべぇぞ・・・「宇都宮軍、関東各地で連戦連勝、まもなく、薩埵峠の後詰めにやってくる」ってな情報が、入ってきてんだよ。

直義軍リーダーB エェッ!

直義軍リーダー一同 宇都宮がやって来ねぇうちに、早いとこ、薩埵峠を攻め落そうよ!

しかしながら、もう既に運命が傾いてしまっている、という事なのであろうか、石塔も上杉も、総攻撃開始の指示をなかなか出そうとしない。

児玉党(こだまとう)武士団3,000余騎は、いてもたってもおられずに、単独行動にうって出た。

急峻な桜野(さくらの)方面から、薩埵峠目指して進軍を開始。この坂を守る尊氏軍勢力は、今川範氏(いまがわのりうじ)、南部(なんぶ)一族、波木井遠江守(はきいとおとうみのかみ)らが率いる300余騎である。

坂の途中、一段と高くなった所を切り開いて設置した防衛拠点から、彼らは、石弓多数を一斉に発射すると共に、大きな岩をゴロゴロ落としてくる。

児玉党の先陣数100人が、この岩に、盾の板を押し潰され、バタバタと倒れていく。

これを見て後陣の者らはひるんでしまい、少々退き気味になってしまった。

そこをすかさず、南部軍、波木井軍が一斉攻撃。大類行光(たいるいゆきみつ)、富田(とんだ)以下、児玉党17人が、一所にて討死にしてしまった。

しかし、直義軍の他のメンバーたちは、児玉党武士団の苦戦を見ても、一向に意に介しない。

直義軍リーダーK 児玉党がやられちゃったのかぁ、はぁーそりゃ残念だなぁ。

直義軍リーダーL なにもあんなに、あせんなくってもいいのにね。我々50万の軍が一斉に攻め上ってったら、薩埵峠なんかイッキに落せちゃうじゃないの。

直義軍リーダーM 何もしなくったって、そのうち必ず、相手は落ちてくれるんだよ。なのに、功名心にかられて戦なんかしかけちゃってさぁ。

直義軍リーダーN あげくの果てに、討死にかよ。

直義軍リーダーO もう、ばかげてるったらありゃしねぇ。

直義軍リーダー一同 わはははは・・・。

なにを言っている、「ばかげてる」のは君たちの方だぞ! 自分たちの運が、完全に傾いているのも知らずに・・・。

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12月27日、ついに、宇都宮軍がやってきた。

宇都宮軍3万余騎は、足柄山(あしがらやま:静岡県・駿東郡・小山町-神奈川県・南足柄市)に布陣していた直義軍をけ散らし、竹下(たけのした:静岡県・駿東郡・小山町)に陣を取った。(注7)

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(訳者注7)ここは、かつての、新田 versus 足利の戦場となった所。14-4 参照。
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小山判官(おやまはんがん)も宇都宮に加勢し、700余騎を率いて国府津(こうづ:神奈川県・小田原市)に到着した。

夜になってみれば、あたり一面、宇都宮軍の膨大な数のかがり火に満ち満ちている。直義軍50万騎は、大手もからめ手も、しばしの間も持ちこたえる事無く、四方八方へ逃亡。

これに乗じた仁木義長は、300余騎を率いて、逃走する直義軍を追撃し、伊豆国(いずこく:静岡県東部)の国府(静岡県・三島市)まで押し寄せた。

足利直義は、何の抵抗もできずに、北条(ほうじょう:静岡県・伊豆の国市)へ落ち延びた。

上杉憲顕と長尾左衛門は、2万余騎を率い、信濃国(しなのこく:長野県)を目指して撤退。千葉氏胤の一族約500騎がこれを追跡。彼らは、早川(はやかわ)河口付近(神奈川県・小田原市)で上杉らに追いついたが、兵力に勝る相手に逆に包囲されてしまい、一人残らず討ち取られてしまった。

退却を妨げる者は誰もいなくなり、上杉と長尾は、事なく信濃へ退く事ができた。

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思いもかけぬ自陣営の大崩壊に、足利直義は、完全にうちのめされてしまった。

北条に踏みとどまる事もできずに、伊豆の走湯山権現社(はしりゆやまごんげんしゃ:静岡県・熱海市)に逃げ込み、大きく吐息をつきながら、ただ座するのみ。

足利直義 (内心)身をやつして、どこかへひとまず、逃げて見ようか。

足利直義 (内心)いいや、もういっその事、ここで自害してしまおうか・・・。

足利直義 (内心)どちらにしよう・・・どちらに・・・。

このように思い煩っている所に、

足利直義側近 殿! 将軍様よりお手紙が!

足利直義 なにっ!(側近の手から手紙をひったくり、開く)

手紙 バサバサ・・・(開かれる音)。

足利直義 ・・・えぇ!「再度の和睦」?

尊氏からは、それからも矢継ぎ早に、「もう一度和睦をしよう」との旨をしたためた手紙が送られてくる。さらに、畠山国清、仁木頼章、仁木義長が、入れ替わり立ち代わり、迎えの使者としてやってくる。

足利直義 ・・・うーん・・・。

さすがの直義も、これには心がぐらついてしまった。

今の命の捨て難さに、後日の恥をも忘れてか、ついに、直義は降伏した。

降人の体で、尊氏に伴われて1月6日の夜、直義は鎌倉へ帰還した。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 30-3 足利直義、越前から撤退し、鎌倉へ移動

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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8月18日、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)源二位大納言(みなもとにいだいなごん)足利尊氏(あしかがたかうじ)は、足利直義(あしかがただよし)追討の命令書を朝廷から拝受(はいじゅ)し、近江国(おうみこく:滋賀県)へ出陣、鏡宿(かがみじゅく:滋賀県・蒲生郡・竜王町)に陣を取った。

京都を出た時は、その兵力はわずか300騎にも満たなかったが、佐々木道誉(ささきどうよ)とその子息・秀綱(ひでつな)が、近江勢3,000余騎を率いて馳せ参じてきた。

さらに、仁木義長(にっきよしなが)は、伊賀国(いがこく:三重県西部)と伊勢国(いせこく:三重県中部)の勢力4,000余騎を率い、土岐頼康(ときよりやす)は、美濃国(みのこく:岐阜県南部)の勢力2,000余騎を率いて馳せ参じてきたので、尊氏軍は、あっという間に総勢1万騎超となった。いかなる大軍と戦う事になろうとも、兵力面での不足はまず考えられない。

これに対して、足利直義は、石塔義房(いしどうよしふさ)、畠山国清(はたけやまくにきよ)、桃井直常(もものいなおつね)3人を大将に任命、各々に2万余騎ずつ割り当てて、9月7日、近江へ送り出した。

彼らは、八相山(はっそうやま:滋賀県・長浜市)に陣を取った。

両軍、かたく守りをかため、にらみあいのまま、なかなか戦端を開こうとしない。

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その日、一大異変の報が、京都朝廷に伝えられた。

下鴨神社(しもがもじんじゃ:注1)よりの使者 エライこってすわいな! 今日の14時頃からな、糺森(ただすのもり:注2)の中にある当社の神殿が、鳴動しはじめましてな、長いこと鳴動し続けてたか思ぉたらな、突然、2本の鏑矢(かぶらや)が、そっから飛び出しましてな、北東方向の空めがけて、飛んで行きよりましたんやでぇ!

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(訳者注1)左京区・下鴨にある神社。

(訳者注2)下鴨神社の境内一帯は森のような状態になっており、それを「糺森」と呼ぶ。
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閣僚A そらまた、一大事やがな!

閣僚B こらまたいったい、なんの徴(しるし)でっしゃろかいなぁ?

閣僚C おそらくは、足利兄弟の合戦における、双方の吉凶を示す怪異なんと、ちゃいますやろか。

閣僚一同 うーん・・・。

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はたして、翌日の12時頃、近江の戦場で思いもかけない事が起った。

足利直義側に所属の多賀将監(たがのしょうげん)と秋山光政(あきやまみつまさ)が、拙劣(せつれつ)な戦をしてしまい、秋山光政が佐々木道誉の部下に討たれてしまったのである。

桃井直常は大いに怒り、「断固、速やかに雪辱戦を行うべぇし!」と主張。しかし、他のリーダーたちがこれに反対して作戦会議は紛糾。ついに、全軍、兵をまとめて越前に引き上げざるをえなくなってしまった。

さらに、直義にとって、形勢は不利に展開していった。

どうしたことか、畠山国清がにわかに、声高(こわだか)に和平を提唱し始めたのである。

畠山国清 直義さま、このようにご兄弟どうし、骨肉の争いを続けていかれるのは、いかがなものでしょうか。そろそろ兄弟、仲直りされてですね、政権を義詮(よしあきら)様に、お譲りなされては?

しかし、直義はこの言葉を聞き入れようとはしない。

激怒した畠山国清は、自分の手勢700余騎を率いて、尊氏サイドへ走ってしまった。

これを皮切りに、直義サイドからは脱落者続出、様々な人脈を頼っては、5人、10人と連れだって、尊氏サイドに寝返っていく。

桃井直常 えぇいもう、毎日のように、ボロボロボロボロ、脱落していきやがる! こんな状態じゃ、越前にいちゃ危ないですよ、直義様!

しきりに訴える直常の言葉に、直義はついに、越前からの撤退を決意、北陸道(ほくりくどう)経由で鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ移動した。

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太平記 現代語訳 30-2 足利直義、京都を離れて北陸へ(付 殷の紂王の事)

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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7月末日、石塔義房(いしどうよしふさ)と桃井直常(もものいなおつね)が、足利直義(あしかがただよし)のもとへやってきた。

石塔義房 殿! 敵側、いよいよ動き始めましたよ!

桃井直常 主要メンバーが続々、京都を離れて本拠地へ向かってます、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、土岐(とき)、佐々木(ささき)。

石塔義房 おそらく、将軍様の御意(ぎょい)を受けてか、あるいは、義詮(よしあきら)様の命令書発行に従ってか・・・いずれにしても連中、国元へ帰って兵をかき集め、決起しようってコンタンでしょう。

桃井直常 赤松則祐(あかまつそくゆう)も、何やら怪しげな動きを始めましたよ。故・護良親王(もりよししんのう)の遺児を戴いて、吉野朝の方へかけ込んだそうで・・・ま、おそらく一種のカムフラージュでしょうな。吉野朝に味方するふりして兵を集め、それから、義詮様の下へ走ろうってことでしょうよ、きっと。

足利直義 うーん・・・。(唇をかみしめる)。

石塔義房 殿、このまま京都におられたら、非常に問題ですよ。こんな少ない手持ち兵力のまま、ここにじっとしてるだなんて、あまりにも不用心すぎるんじゃないでしょうかねぇ?

桃井直常 そうですよ、今夜中にでも夜陰に紛れ、篠峯越(ささのみねごえ:注1)のルートを通って、北陸地方に移動なさいませ。あっちへ着いてしまやぁ、もうしめたもの、木目峠(このめとうげ:福井県・敦賀市)と荒血の中山(あらちのなかやま:注2)を塞いでしまやぁいいんですから。

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(訳者注1)京都の大原から、篠峯(比叡山中)付近を経由して、滋賀県・大津市・仰木に至るルート。

(訳者注2)滋賀県と福井県の県境、JR北陸線の深坂トンネル付近。
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桃井直常 あっち方面には、我が方の勢力、そりゃもうワンサカおりますからね。まずは、越前(えちぜん:福井県東部)に斯波高経(しばたかつね)殿でしょ、加賀(かが:石川県南部)には富樫高家(とがしたかいえ)でしょ、能登(のと:石川県北部)には吉見氏頼(よしみうじより)、それに、信濃(しなの:長野県)の諏訪下宮(すわしもしゃ:長野県・諏訪郡・下諏訪町)の祝部(はふり)、みんな殿に忠節をつくしている者ばかり。彼らがいる地域へは、敵は一歩だって、足を踏み入れる事なんかできゃしません。

石塔義房 おまけに、甲斐(かい:山梨県)と越中(えっちゅう:富山県)は、我ら二人の領国、もうパーフェクトにかためてしまってますからね、敵サイドに走るやつなんか、ただの一人だっていやしませんや。

桃井直常 とにかく、北陸地方に行けば、絶対に安心! まずはあちらへお下りになって、それから関東、中国へ、軍勢召集令状を送られませ。そしたら、みんなイッパツで、殿の下に集まってきますってぇ!

今日になっていきなり持ち掛けられた提案ゆえに、直義には、熟慮する時間が無かった。

足利直義 よし、分かった、すぐに北陸へ出発する。

取る物も取りあえず、その場に居あわせた人々だけを引き連れ、その夜半、直義は京都を出て、篠峯越ルート経由で越前へ入った。実にあわただしい決断であった。

この報を聞いて、直義の親族の者らはもちろんの事、外様(とざま)の有力武士、各国の守護、京都市中48か所警護所所属の者たち300余人、在京警護担当武士たち、近畿とその周辺、四国、九州からついこの間京都へやってきたばかりの武士たちも、我も我もと、直義の後を追って京都を去ってしまった。今や京都に残っている武士はといえば、公家に仕えている者しか見当たらない。

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翌朝、足利義詮は、父・尊氏(たかうじ)の館へ急行した。

足利義詮 まったくもう、昨夜の大騒動、タダゴトじゃありませんよ! 京都中の武士どもが、叔父上といっしょに京都を出ていってしまいました! あれだけの数だから、いつなんどき踵(きびす)を返して、京都に攻めかかってくるかも。

このような事を聞いても、尊氏はいささかも動じない。

足利尊氏 ・・・あのなぁ、義詮・・・人間の運命なんてものはだな・・・すべて、天の一存で決まるんだ・・・いまさらジタバタしたって、しょうがないだろう・・・。

足利義詮 ・・・。

足利尊氏 うー、あー・・・こしかたもぉ・・・。(注3)

尊氏は、歌競技会の和歌記録の短冊(たんざく)を取り出し、それを心静かに詠吟しながら、悠然と座している。

足利義詮 (内心)ウーン、モォゥ、父上! そんなノンキに構えてる場合じゃぁ、ないでしょうがぁ!

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(訳者注3)「足利尊氏 高柳光寿著 春秋社 1955初版 1966改稿」の510ページに、「等持院殿御百首より」として、尊氏の詠んだ和歌が2首紹介されている。

 山ふかく 心はすみて 世のために まだ背(そむ)き得ぬ 憂身(うきみ)なりけり
 こしかたも いま行すえの あらましも 思ひのこさぬ 暁のそら
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敦賀(つるが:福井県・敦賀市)に到着した足利直義は、さっそく軍勢を招集し、参集してくる武士の氏名をリストアップしはじめた。

当初は、13,000余騎。ところが、リストに記録される者の数は日に日に激増、ついに、ト-タル(total)6万余騎となった。

この時すぐに、この大軍を率いて京都に攻め寄せていたならば、尊氏も義詮も、何の抵抗も出来なかったであろう。ところが、主要メンバーたちは、才学に溺れた議論をあれやこれやと展開して作戦会議に時間を費やし、貴重な数日が空しく経過してしまった。

いったいなぜ、直義はこのような行為、すなわち肉親である兄や甥とあえて戦を交えてでも、無道なる輩を誅して世を鎮めんとする方向へと、自らの政治路線ベクトルを定めていったのか? それは、一人の儒学者が、おりある毎に提案していた事を直義が採用したからであると、聞いている。

その儒学者の名は、藤原有範(ふじわらのありのり)、藤原南家の流れに属し、当時、足利幕府・禅宗寺院管理局・局長(注4)の地位にあった。

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(訳者注4)原文では、「禅律の奉行にて召し仕われける南家の儒者」
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有範は、直義に以下のような中国史上の逸話を語った。

藤原有範 昔々、中国を韻(いん)王朝が支配していた時の事、武乙(ぶいつ)という人が、王の位につきました。これがまた、どえらいワルの王様でしてなぁ・・・。

(以下、藤原有範が語った内容)
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武乙王 わしは天子として、一天四海を我が掌(たなごころ)に握っておるわい。しかるに、未だに、わしの言う事を聞かぬ、ふとどきものがおる。まずは太陽、そして月じゃ。あやつらは、わしの命令を完全に無視し、自分勝手に、世界を明るくしたり暗くしたりしおるではないか!

武乙王 それに、雨と風じゃ! わしの意向に逆らいおって、暴風雨をもたらしおる! まったくもって、けしからん!

武乙王 天が、どうしてもわしの言う事をきかぬというのならば、わしが、この手で亡ぼしてくれるわい!

武乙王は、細工師に命じて木製の人形を作らせた。そして、これを「天神」と名付け、これを相手に一対一の賭博勝負を行った。

相手は、ほんものの神にはあらず、木製であるからして、サイコロを振れるわけがない。いったいどのようにして勝負を? なんの事は無い、武乙王の家臣が「天神」の後ろに座り、「天神」の手となってサイコロを振り、石を置くのである。このような八百長勝負に、王が負けるはずがあろうか。

武乙王 ウワッハッハッハァッ! ザマを見ろ天神め、おまえの負けじゃ! よぉし、これから負けた罰を与えるでな!

王は、その木製の「天神」の手足を切り、頭を刎ね、打擲(ちょうちゃく)して踏みにじり、獄門にその首を曝した。

武乙王 えぇい、かような事ではてぬるいのぉ。徹底的に、天をこらしめてやるわい!

今度は、皮を縫い合わせて人形を作り、その中へ血を入れて、高い木の梢に駆けさせた。

武乙王 みなのもの、見ておれよ! これから天を射て見せるでな! (弓に矢をつがえ)ウウウウウ、エェーイ!

矢 ヒューーーー、ブシュッ!

血 ドヴァーッ!

「天」からほとばしり出たおびただしい血が、地面に降り注いだ。

武乙王 ウワッハッハッハァッ! 天め、出血多量で瀕死(ひんし)の重傷じゃぁ、ウワッハッハッハァッ!

このような悪行の積み重ねが身に余る結果となり、渭水(いすい)での狩りの途中、武乙は雷に討たれ、体が八つ裂きになって死んでしまった。

時は流れ、やがて、武乙王の孫の末子が帝位についた。これがかの、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)である。

紂王はやがて、「おそるべき君主」に成長した。

キレモノであるがゆえに、家臣たちは、彼を諌めてもことごとく、言い負かされてしまう。弁舌さわやかであるがゆえに、あれやこれやと言いつくろって、自らの罪を覆い隠してしまう。その武勇は常人の域を遥かに越え、自らの手を下して猛獣を楽々と取りひしいでしまう。自らの能力を最高として、人臣を見下ろし、声望の高さを天下に誇る。

紂王 わしは、至高(しこう)にして絶対なる存在じゃ! 世の中のものどもはすべて、わしの下で仕えるために生まれてきておるのじゃ。ゆえに、わしに諫言(しんげん)をする者など、この宮廷に置いておく必要はない。先代の王たちの定めた法にも、従う必要など毛頭ない。世界はわしのものじゃ、わしが世界の法を決めるのじゃ!

紂王は、妲己(だっき)という美人を寵愛し、万事彼女の言うがままに処置した。ゆえに、罪無くして死刑に処せられる者が非常に多く、ただただ悪を積んでいく。

鉅鹿(きょろく)という郷に(注5)、周囲30里もある倉を作り、そこに米穀をいっぱい貯め込んだ。また、朝歌(ちょうか)という所に、高さ20丈の台を建て、銭貨をいっぱい貯め込んだ。

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(訳者注5)司馬遷著の「史記・殷本紀」にはこれらの地名は書かれてはいない。[史記 司馬遷 著 野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦 訳 平凡社]には、「鹿台(ろくだい)に金銭をみたし、鉅橋(きょきょう)に穀物をみたし」とある。太平記作者が、混乱して書いてしまっているようだ。
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また、沙丘(しゃきゅう)には、周囲1千里の苑台を造営し、酒を湛えて池とし、肉を懸けて林とした。その中に、若い美男300人、容貌優れた女300人を、裸にして放ち、相遂うて婚姻なさしめた。酒の池には龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟を浮かべて長時に酔いをなし、肉の林には北里の舞い、新しく作曲されたみだらな音楽を奏させ、不逞なる歓楽を尽した。いやはや、天上世界の淫楽快楽さえも、これには到底及ばないであろう。

ある日、妲己が、暮れゆく宮庭の中に花をめでながら、寂寞(じゃくまく)として立っていた。

紂王は、見るに堪えずして、

紂王 妲己よ、何をそのように、さびしい顔をしておるのじゃ? 何か、気にくわぬ事でもあるのか? う? うん?

妲己 はい・・・わらわ、「炮烙(ほうらく)の刑」とやらを、未だにこの目で見たことがござりませぬ・・・あぁ、一度でもよいから見てみたいもの・・・しかし、それは到底かなわぬ事でありますゆえに・・・。

紂王 なんじゃ、そんな事で沈んでおったのか! なぜ、もっと早く言わぬ、「炮烙の刑」を見せる事など、たやすき事よ。

妲己 んまぁ! 本当でござりまするか?! 見せていただけるのでござりまするか?!

紂王 たやすき事と、言うておるではないかぁ。よし、さっそく準備にかからせようぞ!

紂王は、すぐに工事にかからせた。

やがて、宮庭に「炮烙」が完成し、いよいよ妲己が、それを見物することになった。

この「炮烙の刑」というのは、以下のようなものである。

長さ5丈の銅製の柱を2本東西に立て、その間に鋼鉄製の縄を張る。その下に炉をおいて、鉄をも融解せしめてしまうほどの高温の炭火を赤々と燃やす。その後、背中に石を負わせた罪人を、刑吏が矛を取って責め、柱の上に上らせる。そして、中空に張られたその鋼鉄の縄を渡る事を、強制するのである。やがて、罪人は力つきて縄上から炉中に落下、灰燼となって焼け死んでいく。まさに、焼熱地獄、大焼熱地獄の苦患さながらの刑ゆえに、「炮烙の法」と名付けられたのである。(注6)

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(訳者注6)「炮烙の刑」については、[史記 司馬遷 著 野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦 訳 平凡社]の注には、上記とは異なる内容が書いてあるが、この件については、もうこれ以上書きたくないので、書かない。
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「炮烙の刑」の執行を見て、妲己はこの上なく興じた。

妲己を喜ばせる為なら、どんな事でもする紂王であったから、その日以降、子を殺され、親を失った人々の泣き悲しみの声、家々に満ち満ちて止む事無しの状態となった。

ここに、西伯(せいはく)・昌(しょう)という人がいた。後に、周(しゅう)王朝の文王(ぶんおう)となる人である。彼は、人民のこの苦しみを目の当たりにして、密かに嘆いた。

西伯・昌 あぁ、なんということだ・・・至る所で民は悲しみ、殷王の非道をそしっておる・・・このままでは、天下の乱が出来(しゅったい)するぞ。

これを、崇侯(そうこう)・虎(こ)という者が聞きつけて、紂王に密告した。

紂王は大いに怒り、ただちに西伯・昌を捕え、羑里(ゆうり)の獄舎に押し込めた。

西伯・昌の家臣・コウ夭(ゆう)は、砂金3,000両、大苑(たいえん)産の馬100匹、みめかたち麗しく妖艶なる美女100人をそろえて紂王に献じ、西伯・昌の赦免を願い出た。

色に溺れ、宝を好む事この上なしの紂王は、後日の禍をも顧みず、

紂王 これらのみつぎ物、その一をもってしてさえも、西伯を許してやるには十分じゃ。ましてや、これほど多くのものを献上せんというからにはのぉ・・・(喜色満面)

紂王は、すぐに西伯・昌を釈放した。

故郷に帰りついた西伯・昌は、自分の命が助かった事をさして喜ばず、依然として、炮烙の刑によって罪無き民人が毎日毎夜10人、20人と焼き殺されていく事を、我が身に被る苦のごとくに、哀れに、悲しく思うのであった。

ついに西伯・昌は、洛西(らくせい)の領土300里を妲己に献上して、「炮烙の刑」の停止を嘆願した。

妲己も紂王同様、慾に染む心が深かったので、紂王に、「炮烙の刑」停止を提案した。かくして、洛西の地と引き替えに、「炮烙の刑」の執行が止まった。(注7)

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(訳者注7)史記には、西伯・昌は、妲己にではなく、紂王に直接この嘆願を行った、と記されている。
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紂王は、西伯・昌が領土300里を献上した事を非常に喜び、「炮烙の刑」を停止したのみならず、ついには、弓矢斧鉞(ゆみやふえつ)を賜り(注8)、天下の政治を執行し、武力を執行する権利を持つ官位を授けた。

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(訳者注8)諸侯を征伐する地位を与えた、という事である。弓矢斧鉞はその地位の象徴である。
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苦難の末に得た、この西伯・昌の運命の開花、まさに、「龍が水を得て雲上に上がる」の構図である。

それから数年後、西伯・昌は、渭水(いすい)の北岸に狩りに出ようとした。

事前に、史編(しへん)という者に、占いを立てさせてみたところ、

史編 今回の狩の獲物は、熊にもあらず、ヒグマにもあらず。天は伯に、師を与えたまうものなり。

西伯・昌 (大喜)おぉ、これはこれは・・・わしは、すばらしい獲物に出会えるのじゃな。ならばこちらもそれなりに、準備を整えて行かねばのぉ。

西伯・昌は、7日間、精進潔斎(しょうじんけっさい)した後に、渭水北岸に赴いた。

西伯・昌 (内心)わしの師となるべき人とは・・・いったいどこにおるのか・・・あの男かな?・・・いや、違うな・・・フィーリングがどうもな・・・ではあの男か?・・・いやいや違う、インスピレイションが湧かぬ。

西伯・昌 ヌヌ!

西伯・昌はふと、雨の中に岸辺にじっと釣竿を垂れる初老の男に、目を止めた。彼の着ている蓑は粗末そのもの、その身をやっと半分ほど蓋うのみ。男は冷たい雨に打たれながらも、黙想するかのように目をじっと閉じながら、心静かに糸を水面に垂れている。

その瞬間、西伯・昌は、自分があたかも河中の魚になったかのように感じた。男の垂れる釣り糸にグイグイと吸引されていくのだ。何か目に見えない不思議な大きな力が、自分をつき動かしているように感じられてならない。

西伯・昌 もし・・・そこのお人・・・。

姜子牙(きょうしが)・太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう) ・・・はぁ?

西伯・昌 そこのお人。

太公望呂尚 ・・・わたくしめの事にて、ござりまするか?

西伯・昌 さよう。

しばらく男と語りあった後、西伯・昌は、確信を得た。

西伯・昌 (内心)史編が言っておった「今回の狩の獲物」とは、まさにこの男の事じゃ、間違いない! もっとも、「獲物」というべきは、むしろわしの方であったかもな・・・彼の釣り糸に、わしが食らいついたというわけよ・・・フフフ・・・。

西伯・昌は、太公望呂尚を車の右に乗せて、宮殿に帰った。そしてただちに、彼を武成王と仰ぎ(注9)、彼を師として心細やかに仕え、その献策に従って、自らの領国中に徳治を広く敷延(ふえん)していった。

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(訳者注9)史記にはそのような記述は無い。
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西伯・昌の子・周の武王(ぶおう)の時代になると、もはや、天下の人心はことごとく韻を背いて、周になびくようになった。そしてついに、武王は殷の紂王を亡ぼして周王朝を建国、その後800年間、周王朝は支配者として中国全土に君臨した。
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(以上、藤原有範が語った内容)

藤原有範 ・・・と、まぁ、こういうわけでしてなぁ・・・。それにしてもこの話、なにやら現在の世相に相通ずる所、大ありやと思わはりまへんか? 足利義詮殿の淫乱なるご日常なんか、殷の紂王の無道なる生きざまに、よぉ似とりますわなぁ。

足利直義 ウーン・・・。

藤原有範 悪逆なる権力者は、速やかに、政治の場から退場させんとあきまへん。ゆえに、周の武王は、紂王を討ちました。これもまた、民を救い、国を救う「仁」の道と申せましょう。

足利直義 ・・・。

藤原有範 直義さま、直義さまも周の文王と武王にならい、「仁」の道に立たれませ! 悪逆非道の人物を亡ぼす事に、いったい何の不都合がありましょうか!

足利直義 ・・・。

このように有範は、直義を徳篤い周の文王にあてはめ、自らを太公望呂尚になぞらえて、折に付け節に付けては、直義をたきつけた。有範のその言葉に影響されてしまった直義こそ、まことに愚かであったといえようか。

足利直義はあまりにも、自らを過大評価してしまっていたのではないだろうか? いったい彼に、どれほどの「仁」があったというのか? 君主の地位を有徳なる自らの甥・西伯・昌に譲り、他国に出奔したあの周の泰伯(たいはく)ほどの「仁」があったろうか? いったい直義に、どれほどの「義」があったというのか? 無道の行いをする兄弟の管叔(かんしゅく)をあえて討った周公・旦(しゅうこう・たん)ほどの「義」があったといえようか?

結局のところ、足利直義という人は、権道(けんどう:注10)、覇業(はぎょう:注11)の双方共に欠けたる人であったと、いうべきであろう。

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(訳者注10)手段は正しくないのだが、結果として正道を実現できている、というやり方。

(訳者注11)武力や権謀術数を駆使して権力を獲得していく、というやり方。
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太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 30-1 足利兄弟の和睦なるも、戦乱の気運強し

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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人間、志を同じくする者どうしであれば、たとえ遠隔の地に離れていようとも、あたかも隣人のごとくに心が通いあうもの、ましてや、同じ父母から血を受け、運命の浮沈を共にし、毎日近くにいて親しんできた足利兄弟。

高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)の不義を罰せんがために、弟は兄に対していったんは軍を向けたものの、その目的が達成された今となっては、骨が肉から離れてしまうような心を、兄弟が抱き続けるはずがあろうか。

かくして、足利尊氏(あしかがたかうじ)と足利直義(ただよし)との間に和睦が成立、尊氏は播磨(はりま)から、義詮(よしあきら)は丹波・井原(いはら)の岩屋寺(いわやでら:注1)から、そして直義もまた八幡(やわた:京都府・八幡市)から上洛とあいなった。

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(訳者注1)石龕寺(兵庫県・丹波市)の別名。
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三人、共にめでたく京都に帰還の後、「和平のしるしに、まずは酒宴を一献(いっこん)」という事になった。しかしながら、つい先日まで続いてきた兄弟間の確執(かくしつ)ゆえ、「これまでの事は全て、キレイサッパリ水に流し」とは行かなかったようである。互いに交わす言葉も少なく、盛り上がりを欠いたまま酒宴は終ってしまった。

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足利直義は元来、仁義の道に沿った行動を常に心掛けてきた人、世間の人々のそしりの声を憚るがゆえに、権力闘争に勝利したからといってすぐに、天下の政治を執る最高権力者のポジションに復帰してその威勢を振るい、というような事は無かった。

しかし、世間の人々の心は、直義の意向とは無関係に、いやおうなしに動いていく。以前にも増して、彼は重要人物視され、衆人から仰ぎ見られる存在となっていった。いきおい、直義派の家臣たちの威勢もまた、折に触れ、事に触れ、いやが上にも高まっていかないはずがない。

足利直義邸の門前には連日車馬が立ち連なり、そこに出入りする者は、あまりの混雑に身を側めてそこをくぐり抜けるしかないほど、賓客(ひんきゃく)は毎日堂上に群集し、へり下って礼をし、かしこまっている。まさに直義の身辺、「再び巡りきたったわが世の春」の観を呈している。

ところが、そのさ中、突然の不幸が彼を襲った。

今年4才になった最愛の一子(注2)が2月26日、にわかに死去してしまったのである。直義夫人をはじめ、上下万人、嘆き悲しむ事、限りなしである。

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(訳者注2)その誕生の様については、25-2 を参照。
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関東と近畿、東西符丁(ふちょう)を合わせたかのごとく、時同じくして起った戦の結果、高一族は滅亡、師直、師泰ら兄弟父子の首が京都に送られてきた。等持寺(とうじじ:注3)のトップ僧侶・別源(べつげん)が、その葬儀を執(と)り行った。

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(訳者注3)足利家菩提寺の等持院(京都市北区に現存)とは異なる寺である。
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いよいよ火葬に送るという段になった時、別源は次のような告別の詩を詠んだ。

 春まっさかりの園に 暴風雨が荒れ狂った一夜
 明けてみれば 枝に吹き付ける風に落とされた
 棣棠(ていとう)の花が

(原文)
 昨夜春園風雨暴
 和枝吹落棣棠花

この詩を聞いた人はみな、感涙を流した。

高家の旧臣A (内心)この20余年間、師直様、師泰様の家臣となってその恩顧に誇っていた人間、その数幾千万人ってカンジだったよなぁ。

高家の旧臣B (内心)こないだまでは、ほんと、よかった。烏帽子(えぼし)の折り方、衣紋(えもん)の描き方まで、あのご兄弟のまねして、京都の街を闊歩(かっぽ)できてたんだ、おれたちは。

高家の旧臣C (内心)街歩いてると、みんな言ってくれたもんだぜ、「見ろよ、見ろよ、あの人は執事殿のご家中のお人なんだぜ、すげぇなぁ!」って。

高家の旧臣D (内心)世間の人から重要人物に見られたいと思ったら、とにかく、あのご兄弟にすり寄って行ってりゃ、それでよかったんだ。

高家の旧臣A (内心)なのに、今はどうだい、あっという間に、風向き逆転しちゃってよぉ。

高家の旧臣B (内心)烏帽子も衣紋も何もかも、スタイル完全に変えちゃってさぁ、横向いて顔隠しながら、京都の街歩かなきゃなんねぇようになっちまった。

高家の旧臣C (内心)「見ろよ、見ろよ、あいつは、直義様の敵対勢力だぜ!」ってな、世間のそしりに、恐れおののきながらなぁ。

古代中国・前漢時代の人・東方朔(とうぼうさく)が言った「虎鼠論(こそのろん)」は、まことに世の真理を突いていると言えよう。

 世に重んぜられるとなると 鼠でさえも虎となる
 世に重んぜられなくなってしまうと 虎でさえも鼠になってしまう

(原文)
用則鼠為虎
不用則虎為鼠
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尊氏と直義との間には、いささかの疎遠(そえん)の心もなく、いったん和睦となった以上、二人とも、過去のわだかまりを捨て去る事ができたようである。しかし、問題はその周囲の人々、すなわち、足利家親族、あるいは譜代の家臣たちであった。

彼らは、天高く舞い上がる鳳(おおとり)とも言うべき足利兄弟の体にとりついて、自らもまた、大空の高みに舞い上り、ついには龍のごとき存在にまで成り上がろうとの野心を、常に胸中に抱いていた。そのような彼らゆえ、他人が時を得るのを見ては嫉(そね)み、己(おのれ)が威を失った事を顧みては、憤りを胸にはらんでやまないのである。

というわけで、石塔(いしどう)、上杉(うえすぎ)、桃井(もものい)各家のリーダーたちは、様々に讒言(ざんげん)を構えては、尊氏派の人々を抹殺しようと画策(かくさく)する。それに対して、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、土岐(とき)、佐々木(ささき)家のリーダーたちもまた、種々の謀略を廻(めぐ)らして、直義をはじめ、人もなげな振舞いをする直義派の人々を滅ぼしてしまうと企(たくら)んでいる。

チャンスあらば仏法を滅亡してしまおうと、常に画策している第六天魔王(だいろくてんまおう)・波旬(はじゅん)が、この情勢を見逃すはずがない。いったいいかなる天狗どものしわざであろうか、毎夜のようにいずこからともなく、500騎あるいは300騎といった武装集団が出現、鹿が谷(ししがたに:左京区)、北白河(きたしらかわ:左京区)、阿弥陀が峯(あみだがみね:東山区)、紫野(むらさきの:北区)に集結して、軍勢の勢揃いをする。これを聞いて、尊氏派の人々は肝を冷やす。

尊氏派の人々 ヤヤ! ついに、直義様が攻撃を仕掛けてきたか!

一方、直義派の側でも、

直義派の人々 こりゃきっと、将軍様が、我々に対して討手(うって)をさし向けられたんだ!

禍(わざわい)は、利欲より起りて止む事を知らない。

ついに、両派のリーダーたちは、自分の本拠地へ帰って、軍備を整える事を決意した。

まず、仁木頼章(にっきよりあきら)が、仮病を使って有馬(ありま:兵庫県・神戸市・北区)へ去った。

その弟・仁木義長(にっきよしなが)は、伊勢(いせ:三重県中部)へ去った。

さらに、細川頼春(ほそかわよりはる)は讃岐(さぬき:香川県)へ、佐々木道誉(ささきどうよ)は近江(おうみ:滋賀県)へ、赤松貞範(あかまつさだのり)、その甥・師範(もろのり)、弟・範直(のりなお)は播磨(はりま:兵庫県南西部)へ逃げ下った。

世間の声E 土岐頼康(ときよりやす)はんなんか、そらもう、すごいもんどすえぇ。なに憚(はばか)る気色(きしょく)もなぁも無しに、白昼堂々、京都出ていかはりましたがな。

世間の声F きっと、領国の美濃(みの:岐阜県南部)へ向かったんだろうな。

世間の声E そうどすやろ、あこで兵かき集めはって、それから京都へ攻め上ろうっちゅう事どすやろなぁ。

世間の声G 貴女に一つおうかがいしたいのですが・・・その兵力、アバウト(about)に見て、ハウメニー(how many)、いかほどでした?

世間の声E ウェルル(Well)・・・そうどすなぁ・・・300騎以上は、いはりましたやろかいなぁ・・・全員、鎧兜(よろいかぶと)の完全武装してはりましたえぇ。

世間の声G ふーん・・・完全にバァトゥルモードゥ(battle mode:戦闘体勢)に入ってしまっている・・・。

世間の声H あのっさぁ、もっとスゴイ事、あんたたち、知ってるぅ?

世間の声E なになに、いったいなんどすかいな、そのスゴイ事て?

世間の声H 赤松則祐(あかまつそくゆう)サンはさぁあ、最初から上洛せずにっさぁあ、ずっと領国の播磨にいたんだよねぇえ。で、彼っさぁ、最近、吉野(よしの)の朝廷にうまぁく取り入っちゃったんだよねぇえ。でもってっさぁあ、故・護良親王(もりよししんのう)殿下のオボッチャンをっさぁあ、大将にいただく事に成功しちゃったんだよねぇえ。

世間の声I えーぇ! あの殿下に、遺児がいたんだぁ!

世間の声H 知らなかったっでっしょう? でもって、そのオボッチャンのおかげでっさぁ、「中国地方の政務全般につき、殿下をよろしく補佐すべぇし」なんて事書いた委任状まで、吉野朝から、ゲットしちゃったんだぁ。

世間の声E へぇー! やらはりますなぁー。

世間の声H でもってぇ、播磨近辺のあちらこちらから軍勢かき集めてっさぁあ、吉野、十津川(とつがわ:奈良県・吉野郡・十津川村)あたりの勢力、さらに、和田(わだ)・楠(くすのき)一族ともしめし合わせちゃってっさぁ、もう既に、京都へ軍を進めてるんだってよぉお!

世間の声J うわぁー、たまらんなぁ! また都で戦争かいなぁ!

世間の声I まさに、天下三分の時、来たるか・・・いやはや・・・。

世間の声K もう、いいかげんにしてくれってぇ!

世間の声L 最近、年がら年中、戦争、戦争、そこら中で戦争ばっかしだが!

世間の声M こんな不安イッパイの世の中、続いとったんじゃ、みんな、安心して暮していかれんがのぉ!

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 29-10 高兄弟の最期

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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2月26日、直義(ただよし)との和平が成立し、足利尊氏(あしかがたかうじ)は京都へ向かった。高(こう)兄弟も、時宗(じしゅう)僧侶グループの中に紛れ込み、尊氏に同行した。

まさに、その行く道は無常(むじょう)の岐(ちまた)、しめやかに降りそそぐ春雨の下、数万の敵がここかしこにうごめく中に、我が正体をひた隠しにしながら、ひたすら馬に鞭打つ高兄弟。

蓮葉形の笠をま深くかぶり、袖で顔を隠しはしても、それもしょせん空しい行為、天下広しといえども、そのいずこにも我が身を紛れ込ませる一寸の余地も無し、ただただ身の縮まる思い、まことに哀れなものである。

高師直(こうのもろなお) (内心)とにかく、尊氏様から離れないように、ピッタシくっついていよう。

高師泰(こうのもろやす) (内心)尊氏様の側にいる限り、安全。離れちまったらもう、誰にナニされるか分からん。

両人ひたすら、尊氏から遅れまいと馬を早める。

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高兄弟に対して、最大の恨みを持つ集団は、何といっても、彼らに主君を殺された上杉(うえすぎ)家、畠山(はたけやま)家の家臣たちである(注1)。

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(訳者注1)27-9 参照。
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京都への道中に、高兄弟を殺害してしまおうとの兼ねてからの計画に沿って、彼らは、組織的な行動を開始した。

彼らは、街道のあちらこちら、道路の両側に100騎、200騎、50騎、30騎と控え、尊氏と高兄弟の来るのをじっと待ち構えた。

高兄弟の姿を目にするや否や、鷹角一揆(たかづのいっき)武士団70余騎が、会釈も挨拶も無しに、尊氏と高兄弟との間に割り込んで来た。ようは、双方を、徐々に遠くに隔てていってしまおう、との意図である。

その結果、武庫川(むこがわ:兵庫県尼崎市と西宮市境)のあたりを過ぎる頃には、高兄弟は、心ならずも尊氏の後方、河を隔て山を阻(へだ)てて50町ほどの位地に遠ざかってしまった。

哀れなるかな人間の運命、その盛衰(せいすい)の刹那(せつな)の間(かん)に替(かわ)る事、帝釈天(たいしゃくてん)との戦いに破れた阿修羅(あしゅら)がグウゲの穴に身を隠し、五衰(ごすい:注2)の兆(きざ)しが身に現われた天人(てんじん)が歓喜苑(かんぎえん)をさまよう様も、かくのごとくであろうか。

高師直、天下の執事(しつじ)の地位にあった時には、その威勢は、誰にも犯しがたいものであった。

いかなる大名(だいみょう)高貴(こうき)の者といえども、彼の笑顔を見ては、千金の禄(ろく)、万戸の領地を得たるがごとくに喜び、彼の不機嫌顔(ふきげんがお)を見るや、薪(たきぎ)を負うて焼原(しょうげん)を通過する思い、雷鳴(らいめい)轟(とどろ)く下に大河を渡るがごとくの恐怖感を抱いたものである。

ましてや、将軍・尊氏の側に馬を走らせるその中に、あえて割って入ろうとする者など、ただの一人も存在しえたであろうか。なのに今は、名も知らぬどこぞの武士、取るに足らない他家の若党(わかとう)家臣たちに、尊氏との間を遠く押し隔てられてしまっているのである。

馬が蹴立てるぬかるみの水に、衣は泥にまみれ、天から降る雨は、「なんじ、おのが身の没落を知れ」と語って止まない。高兄弟はただただ、涙で袖を濡らすばかりである。

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(訳者注2)「天人」とは、天上界に住む存在の事である。その滅が近づいてくると5つの前兆が身体に現れてくるといい、これを「天人五衰(てんじんごすい)」という。仏教においては、最下の地獄界からこの天上界までを「六道(ろくどう)」といい、一切の存在はこの6つの世界の中に生々流転を繰り返していく、と説く。これが「六道輪廻(ろくどうりんね)」の概念である。最上の歓楽を味わいつつ生きる天上界に住む存在も、いつかは滅して他の世界に生まれ変わらなければならないのだ。ただし、六道輪廻からの脱出は絶対に不可能なのかといえば、決してそうではない。仏道修行とはまさに、この「六道輪廻」の無限ループからの脱出法に他ならない。
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武庫川を渡り終え、堤防の上を通過しようとしたその時、三浦八郎左衛門(みうらはちろうさえもん)の中間(ちゅうげん)2人が、師直の側に走り寄ってきた。

三浦家中間A こら待てぇ! そこの遁世者(とんせいもの:注3)ぉ!

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(訳者注3)時宗僧侶の事。ここは原文のまま「遁世者」とした。
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三浦家中間B いってぇなんで、そんなに顔隠してやがんでぃ!

三浦家中間A アヤシイぞ、その笠、脱ぎやがれぃ!

二人は師直に飛び掛かり、彼が被っていた蓮葉形の笠を引き切って捨てた。そのひょうしに、ほお被りが外れ、師直の横顔が少し露出した。

三浦八郎左衛門 やったぜ、ドンピシャ、師直じゃん! おれってほんと、ラッキー!

八郎左衛門は、喜び勇んで長刀(なぎなた)の柄を伸ばし、師直の胴を真っ二つにせんと、切りかかった。

三浦八郎左衛門 テェーイ!(長刀を一振)

高師直 アァーッ!

右の肩先から左の脇下まで切っ先下がりに切り付けられたと思う間もなく、次の刃が飛んできた。

三浦八郎左衛門 エヤァー!(長刀を一振)

高師直 ウッ・・・。

馬からドウと落ちた師直の側に、八郎左衛門はすかさず下馬して駆け寄り、その首をかき落した。

三浦八郎左衛門 (師直の首を長刀の切っ先に貫いて高々と指しあげ)三浦八郎左衛門、たった今、高師直を討ち取ったゾォー!

三浦家中間A&B (パチパチパチパチ・・・拍手)

高師泰は、そこから半町ほど遅れて馬を進めていたが、

高師泰 あ!

師直が討たれるのを目の当たりにして驚愕、反射的に馬に拍車を入れた。

その瞬間、背後に迫っていた吉江小四郎(よしえこしろう)が、師泰の身体を槍で一突き、槍は背骨から入って左胸へ貫通した。

師泰は、その槍先を左手で握りしめ、懐に差した小刀を右手で抜こうとしたが、小四郎の中間が走り寄って鐙(あぶみ)に取り付き、師泰を馬から引きずり落とした。

小四郎は師泰の首をかき切り、顎(あご)から喉(のど)へかけて穴を開け、そこに紐を通して自らの乗馬の鞍の後輪に結わえ付けた後、馬を進めた。

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高師景(こうのもろかげ)は、小柴新左衛門(こしばしんざえもん)に討たれた。

高師幸(もろゆき)は、井野弥四郎(いのやしろう)に組み打ちされて首を取られた。

高師世(もろよ)は、長尾彦四郎(ながおひこしろう)に馬の前足を切られて落馬した所を、2回切り付けられ、弱った所を押え込まれた末に首を切られた。

遠江次郎(とおとおみのじろう)は、小田左衛門五郎(おださえもんごろう)に切って落された。

山口入道(やまぐちにゅうどう)は、小林又二郎(こばやしまたじろう)にひき組まれた末に刺し殺された。

彦部七郎(ひこべしちろう)は、背後から小林掃部助(こばやしかもんのすけ)に太刀で切りつけられたが、太刀影に馬が驚いて深田の中に逃げ込んだ。馬を再び街道の上に帰し、彦部は声を限りに叫んだ。

彦部七郎 みんな、どこにいる!? 一所に馳せ寄って、思う存分戦ってから討ち死にしよう!

小林掃部助の中間3人が走り寄り、彦部七郎を馬から逆さまに引きずり落とした。彼らは彦部の体を踏んで首を切り、小林に渡した。

梶原孫六(かじわらまごろく)は、佐々宇六郎左衛門(ささうろくろうざえもん)に討たれた。

山口新左衛門(やまぐちしんざえもん)は、高山又次郎(たかやままたじろう)に切って落された。

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梶原孫七(かじわらまごしち)は、そこから10余町ほど先にいたが、後方の騒ぎを聞きつけ、

梶原孫七 (内心)うっ、何だか様子がおかしい!

武士C なんだなんだ、後ろの方がえらく騒がしいじゃねぇか。

武士D おぉい、タイヘンだ! あっちの方で一悶着あってよ、執事殿がやられたらしいぜ!

武士一同 エェッ!

梶原孫七 しまった!

梶原孫七は、馬を反転させて後方にとって返した。彼は刀を抜いて、上杉・畠山勢と戦ったがついに力及ばず、路傍に倒れ伏した。

梶原孫七 もはや、これまで・・・。(小刀を右手に握り、腹を露出)

阿佐美三郎左衛門(あさみさぶろうざえもん) 待て待て! 梶原、待てよ!

梶原孫七 おう、阿佐美じゃねぇか!

阿佐美三郎左衛門 梶原・・・。

梶原孫七 止めるなよ! これから腹切るんだから。

阿佐美三郎左衛門 ・・・(涙)。

梶原孫七 おれの首、おまえにくれてやらぁ。おまえとは、長いつきあいだもんなぁ。

阿佐美三郎左衛門 ・・・よし、分かった・・・おまえを他人の手にかけるくらいなら・・・おれが・・・(涙)。

梶原孫七 よぉし、介錯(かいしゃく)頼んだぜ!

阿佐美三郎左衛門 うん・・・。(涙)

三郎左衛門は泣く泣く、孫七の首を切った。

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山口入道が討たれたのを見て、鹿目平次左衛門(かのめへいじざえもん)は、

鹿目平次左衛門 (内心)次は、おれが殺(や)られる番だな。

彼は太刀を抜き、後ろにいた長尾三郎左衛門(ながおさぶろうざえもん)に切り掛っていった。三郎左衛門は少しも騒がず、

長尾三郎左衛門 ちょい待ちぃ! ちまよっちゃぁいけねぇぜ。なにも、おまえまでヤッてしおうってんじゃぁねぇんだから。余計な事して、命落とすなよなぁ。

鹿目平次左衛門 (太刀を鞘に戻しながら)おぉ、そうかい。じゃ、のんびり行くとするか。

長尾三郎左衛門 そうそう、ノンビリ行きましょうや、世間バナシでもしながらね・・・で、あんた、京都へ行ってから、いったいどうするんだい?

鹿目平次左衛門 そうさなぁ・・・何も考えてねぇよ。そんな事考えてる余裕、無かったもん。

長尾三郎左衛門 だろなぁ・・・。(中間二人に、キッと目配せを送る)

長尾家中間E&F (鹿目の馬の側に寄る)

長尾家中間E ちょっと待ってくださいよ、お馬の沓(くつ)を切らせてもらいますから。

二人の中間はいきなり、抜いた刀を取り直し、馬の肘に二刀切り付けた。そして馬上から鹿目平次左衛門を引きずり下ろし、長尾三郎左衛門にその首を取らせた。

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河津左衛門(かわづさえもん)は、越水(こしみず:兵庫県・西宮市)の合戦で重傷を負っていたので馬に乗る事ができず、屋根無しの輿に乗って、はるか後方を進んでいた。「執事殿が討たれてしまった!」との叫び声を聞き、彼は、路傍の辻堂の前に輿を降ろさせ、そこで腹をかき切って死んだ。

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高師直(こうのもろなお)の子息・武蔵五郎師夏(むさしごろう・もろなつ)は、西左衛門四郎(にしさえもんしろう)によって生け捕りになった。

彼は日没まで高手小手(たかてこて)に縛されたままになっていた。

この人は、前関白・二条道平(にじょうみちひら)の妹という、いとやんごとなき女性から生まれた人であり、その容貌は世にも勝れ、性格はとても温和で優しかった。それゆえ、足利尊氏(あしかがたかうじ)からも格別に目をかけられており、世間の多くの人々からも限りなくもてはやされていた。

我が子に才があろうが無かろうが、とにかくかわいいと思うのが父というもの、ましてやこのような最愛の子、師直の師夏に対する思いはもうこの上無し、塵をも足に踏ませじ、荒い風にも当てさせじと、大事に大事にかわいがってきたのである。

しかしながら、その果報もいつの間に尽きてしまったのであろうか、年齢15に満たずして、今や荒武者たちに生け捕りにされ、露のようなはかない命、日没と共に消えてしまうとは、まことに哀れな事ではないか。

いよいよ夜になり、縄を解かれて斬られる時がやってきた。

西左衛門四郎 (内心)なんせねぇ、あの高師直の子供なんだもん・・・いってぇどれほどキモッタマすわってやがんだか・・・ちょっと試してみてやるかい・・・フフフ。

西左衛門四郎 おい、おまえ、命惜しくねぇかぁ?

武士G (太刀を持って、師夏の背後に歩み寄る)・・・。

高師夏 ・・・。

西左衛門四郎 命が惜しけりゃ、今すぐその髪切ってな、天台宗(てんだいしゅう)か真言宗(しんごんしゅう)、さもなきゃ時宗(じしゅう)の僧にでもなりやがれ。そしたら、命だけは助けてやっからよぉ。ここでめでたく出家して、これからの一生、心安く生きていけやぁ!

高師夏 ・・・父上はどうなされたか、何か聞いてる? 生きておられるのか、それとも、もう亡くなってしまわれたのか?

西左衛門四郎 師直は、もう死んじゃったぞぉ!

高師夏 そうか・・・。

西左衛門四郎 ・・・。

高師夏 (頭を垂れる)・・・(涙)。

西左衛門四郎 ・・・。

高師夏 父上・・・父上・・・(涙)。

西左衛門四郎 ・・・。

高師夏 ・・・じゃ、もう、命を惜しむ必要もないわけだ・・・誰の為にもね・・・冥土(めいど)にあるとかいう死出の山(しでのやま)、三途の大河(さんずのたいが)とやら、父上と一緒にお渡りしよう。

西左衛門四郎 ・・・。

高師夏 さ、すぐに、この首、切ってくれ!

師夏は、敷き皮の上に居直った。

武士G ・・・。

高師夏 さ、早く!

武士G ・・・(涙)。

高師夏 ・・・。

武士G ウッ・・・ウッ・・・ウウウ・・・(涙)。

西左衛門四郎 ・・・(涙)。

斬り手の武士は、目を上がられずに師夏の背後に立ちつくしたまま、泣いている。

西左衛門四郎 ・・・(涙)・・・えぇい、いつまでもこうしとれんわい。さぁ、お浄土のある西の方に向かって、念仏を10回お唱(とな)えなされぃ!

高師夏 ・・・南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏・・・。

そしてついに、師夏も首を打たれてしまった。

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越水(こしみず)の戦の後、高兄弟側についていた武士たちが十方に分散してしまい、その残存兵力が極めて少なくなっていた事は事実である。とは言いながらも、今朝、松岡城(まつおかじょう)を出た時には、たしかに6、700騎はいたはず。しかし、高一族の主要メンバーが次々と討たれていくのを見て、みなどこかへ逃げて隠れてしまったのであろう、討たれた14人の他は、中間(ちゅうげん)、下部(しもべ)に至るまで、一人残らず、影も形も見えなくなってしまった。

この14人の高一族メンバーはといえば、これまで度々の戦において輝かしい高名を揚げ、その逞しい力を、周囲にいやというほど見せ付けてきた者たちばかり、たとえその命運は尽き、どのみち、命ながらえる事はできなかったとしても、全員、心を一丸にして上杉(うえすぎ)・畠山(はたけやま)家臣団に対して立ち向かっていったならば、分相応の相手と闘って死んでいけたであろう。

なのに、彼らの中の誰一人として、相手に太刀を打ち付ける事さえもできないままに、切っては落され、押さえられては首をかかれ、全員ふがいなく討たれてしまった。これもやはり天から下された罰であろうとは言いながらも、あまりにも、ぶざまで、なさけない事である。

「戦う人」にも2種類ある、すなわち、「仁義(じんぎ)の勇者」と、「血気(けっき)の勇者」である。

「血気の勇者」は、戦場に臨む度に、勇進んで肘(ひじ)を張り、強きを破り堅きを砕く事、鬼のごとく、怒れる神のごとく、速やかである。

しかしながら、この種の人々は、敵側から利をもって誘われた時、あるいは、味方が形勢不利に陥ってしまったとなると、チャンスさえあれば、いとも簡単に恥を忘れて投降、あるいは、心にもない出家をして、自己保全の延命行為に走るのである。

一方、「仁義の勇者」は、むやみやたらに他人と先陣争いをするような事はない。また、敵を目の前にして、高声多言に勢いを振るったり、肘を張ったりするような事も無い。

しかし、一度(ひとたび)盟約を成して、盟主から戦力の一端としての期待をかけられた後は、二心をまったく持つ事がないし、心を変じて味方を裏切るような事も絶対にしない。重要な局面に臨んでは、志を決して失わず、たとえ味方が敗勢になっていようとも、自らの命を軽んじて、必死に戦う。「仁義の勇者」とは、まさにこのような人の事を言うのである。

現代の世においては、「聖人」という言葉は、もはや死語、多くの人々の心は、梟悪(きゅうあく)に深く染まってしまっている。ゆえに、「仁義の勇者」の数は少ない。そこいら中、「血気の勇者」だけがうごめいている。

古代中国において、漢(かん)と楚(そ)は70回もの戦を繰り返した。我が国においても、源氏と平氏は3年間戦い続けた。そのいずれにおいても、シーソーゲームが展開され、戦う両者の優劣はめまぐるしく入れ変わった。しかし、1回はともかくとして、2回も敵に降伏した者はさすがに皆無であったのだ。

なのに、現代においてはどうか。

元弘(げんこう)年間の鎌倉幕府滅亡以降の、[朝廷&公家階級 versus 武士階級]の権力闘争において、ヘゲモニー(Hegemonie:覇権)の交代は2度あった(注4)。ところが、このたった2回の権力構造変化の間に、日本全国のほとんどの人々が、5回、10回と、「あちらについたと思ったら、またこちらに寝返り」の行為を、繰り返して止まなかったのである。一度も心を変ずる事が無かった者は、ごく少数でしかない。

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(訳者注4)
1回目は、後醍醐天皇派勢力 versus 北条氏勢力(朝廷&公家階級 versus 武士階級)。後醍醐天皇派勢力が勝利。
2回目は、後醍醐天皇派勢力 versus 足利氏勢力(朝廷&公家階級 versus 武士階級)。足利氏勢力が優勢に。
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このような、不安定極まりない世相であったが故に、天下の争いは止む時がなく、戦を繰り返せど繰り返せど、ついに決定的勝敗を決する事ができないまま、ずるずると、混乱状態が引き伸ばされてきてしまったのである。

このような観点から、高兄弟の政治権力の構造を考察してみるならば、その実態が、今や極めて明瞭に見えて来るではないか。

ヒエラルキー(Hierarchie:権力階層)の頂点に立つ師直(もろなお)と師泰(もろやす)を支えていたその下部構造たるや、まさに、上に述べたところの、「血気の勇者集団」以外の何ものでもなかったのである。

彼らの日頃の名誉も高名も、しょせんは「血気に誇る者たち」のそれでしかなかったのだ。でなければ、高兄弟と運命を共にして討死にしていった者の数は、1,000、あるいは、2,000という数に上っていたはず、彼らの名は、「名誉の戦死者」として、後世にまで伝わっていたはず。

今にして思い起せば、かの孔子(こうし)の言葉、けだし名言というべきか。

 仁者は 必ず 勇有り
 勇者は 必ずしも 仁あら不(ず)(注5)

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(訳者注5)論語・憲門より。
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太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 29-9 高兄弟、投降す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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高師直(こうのもろなお) (ヒソヒソ声で)西日本の方はこんなミジメな状態になっちまって、わしらに背く者が続出してるけどさ、関東の方は大丈夫だよ、師冬(もろふゆ)がしっかり抑えてくれてるから。

高師泰(こうのもろやす) (ヒソヒソ声で)そうさなぁ、こうなったらもう、彼だけが頼りだぁ。

高師直 (ヒソヒソ声で)いや、まったく。

高師泰 (ヒソヒソ声で)もう、どうにもこうにもしようが無くなっちまったらさ、兵庫湊(ひょうごみなと:神戸市・兵庫区)から船に乗って、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へトンズラ(遁走)ってのどう? 師冬と合流してしまやぁ、後はなんとかなるだろう。

高師直 (ヒソヒソ声で)そうさなぁ・・・。

この話題になっている人、師冬は、高師直の養子である。彼は、足利尊氏(あしかがたかうじ)の三男・基氏(もとうじ)の執事に任命され、基氏と共に鎌倉に行き、上杉憲顕(うえすぎのりあき)と共に関東管領(かんとうかんれい)の職務を遂行、その威勢を関東8か国に振るっていたのである。

25日の夜半、甲斐国(かいこく:山梨県)からやってきた時宗(じしゅう)僧侶が、こっそり二人を訪ねてきた。

時宗僧侶 上杉憲顕の養子・能憲(よしのり)は、父が守護職をつとめる上野国(こうずけこく:群馬県)の守護代理として現地に赴任しておったのですが、昨年の12月に謀反を起し、直義様の側に立って挙兵いたしました。

時宗僧侶 上杉憲顕は、「能憲を誅罰(ちゅうばつ)してくれるわい」と称して上野に急行し、たちまち能憲と合流して叛旗をひるがえしました。上杉父子はその後、武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)へ侵入して、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)武士団と武蔵七党(むさしななとう)武士団を、味方につけてしまいました。

時宗僧侶 この情報をキャッチされた師冬殿は、上杉父子を誅罰する為に、関東八か国から軍勢を招集。しかし、ただの1騎も、それに応じてやっては来ない。「このままではどうしようもない。ならば、基氏様を先頭に立てて軍を進め、上杉を退治しよう」という事になり、たった500騎のみを率いて、上野国へ進軍されました。

時宗僧侶 ところが、よもや二心を持ってはいまいと信頼しきっていた武士たちが、心変わりをしてしまい、基氏様を奪い取って軍勢から離脱。基氏様後見役の三戸七郎(みとのしちろう)殿もその夜、同志打ち状態になってしまい、半死半生、行くえ不明になってしまわれました。

時宗僧侶 それ以降、上杉側に加わる者はますます増加、師冬殿の方には誰一人としてやってはきません。ここはいったんどこかへ逃れ、師直殿の方の様子も見ながら、という事で、師冬殿は、甲斐国(かいこく:山梨県)へ逃れ、須澤城(すさわじょう: 山梨県・南アルプス市)にこもられました。そこに、諏訪下社(すわしもしゃ:長野県・諏訪郡・下諏訪町)の祝部(はふり)が6千余騎の軍勢を率いて攻め寄せてきて、3日3晩の戦いで、多数の死傷者が出ました。

時宗僧侶 敵は皆、城の大手方面へ向かってきたので、城中の軍勢もその大半はそちらに回り、防戦につとめておりました。しかしそのスキに、周辺の地理をよく知っている敵側の者らが、城の背後へ回り込み、高所から攻め込んできました。それを防ごうとした八代(やつしろ)は、持ち場から一歩も退かず、奮戦の末に討死。

時宗僧侶 まさに落城寸前という時に、師冬殿の烏帽子子(えぼしご:注1)であった諏訪五郎(すわごろう)が、初めは諏訪の祝部側に属して城を攻めていたのですが、城の守備が弱ってきたのを見て、祝部の前に出ていわく、

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(訳者注1)元服の儀の際に、元服する者を「烏帽子子」、その親代わりの役をつとめる人を「烏帽子親」と言う。
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 「おれはなぁ、元服の時、高師冬殿に烏帽子親になっていただいた。だとしたら、師冬殿とは言ってみりゃぁ、父子の関係じゃん。今や、誰もかもが師冬殿に敵対してるからってんで、右に習えで刃(やいば)向けるってのも、どうかと思うんだよな。そんな事したんじゃそれこそ、不義の行為って事になっちまうずら。」

 「孔子(こうし)の弟子の曹参(そうさん)は、その地名が「勝母」って言うってんで、自分の故郷には決して帰らなかったっていうじゃん。孔子だって、いくら喉が渇いてても、「盗泉」って名前の泉の水だけはゼッタイに飲まなかったって言うよ。聖人君子ともなるとこんなフウに、ただその名前が悪いって理由だけでもって、色々と自分に禁じていくんだから、ましてや、義に違う事なんか、おれにはとてもできねぇ。」

時宗僧侶 というわけで、諏訪五郎は祝部に最後の暇乞(いとまご)いをした後、須澤城の中へ入り、師冬殿の為に身命惜しまず戦いました。

時宗僧侶 やがて、城は背後から破れ、四方から敵が殺到、諏訪五郎と師冬殿は、手に手を取りあい・・・(涙)・・・腹・・・腹かき切って・・・(涙)亡くなっていかれました。(涙)

高師直 ・・・師冬・・・(涙)。

高師泰 ・・・。(涙)

時宗僧侶 (涙を拭いながら)その他の、義を重んじ名を惜しむ武士たち64人、全員一斉に自害して、その名を墓場の苔の上に残し、屍(しかばね)を戦場の土に曝(さら)しましてございます・・・(涙)。

高師泰 ・・・。(涙)

高師直 ・・・。(涙)

時宗僧侶 この戦の後、関東地方、北陸地方、残らず、直義様の方へ靡いてしまっております。もはや万事休す、なすすべ無しと思われます。(涙)

高師泰 ・・・。(涙)

高師直 ・・・。(涙)

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高一族メンバーA (内心)「九州全域、直冬(ただふゆ)殿(注2)についた」ってな情報も、入って来てたよなぁ。

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(訳者注2)足利直冬。
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高一族メンバーB (内心)四国の連中らも残らず、細川顕氏(ほそかわあきうじ)の旗下に参集してるんだとよ。そいつらを率いた顕氏は、もう既に、須磨(すま:神戸市・須磨区)、大蔵谷(おおくらだに:同左)のあたりまで押し寄せてきてるっていうじゃないか。

高一族メンバーC (内心)最後の頼みの綱はもう関東だけ・・・だったのに、カンジンの師冬殿も討たれてしまったとは・・・。

高一族メンバーD (内心)こうなっちゃ、いったいどこへ逃げ、いったい誰を頼ればいいんだろ?

勇ましかった人々も全員ガックリきてしまい、いかにも心細げな様子である。

しかしながら、何としても捨て難きは我が命。高兄弟は一寸の最後の望みを託して、道心のカケラもない出家をした。

二人は、「師直入道道常」、「師泰入道道勝」という法名を授けられ、裳無し衣(もなしごろも:注3)を着し、小刀を腰に下げ、投降者となって松岡城を出た。

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(訳者注3)時衆僧侶の服装。
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二人のそのみじめな姿を見て、皆、つまはじき(注4)しながら、語り合う。

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(訳者注4)親指の腹を人差し指の爪で弾く動作。当時、嘲笑しながらこのような動作を行ったらしい。
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世間の声E あれ見てみぃな、まぁ、なんちゅうブザマな姿なんやろ。

世間の声F カッコわるぅ!

世間の声G ついこないだまで、肩で風きって歩いてた人とは、とても思えへんわなぁ。

世間の声H そやけど、出家の功徳は莫大(ばくだい)やていいますからな、来生での罪だけは許されますやろて。

世間の声I そりゃ、来生は救済されるかもね。だけど、カンジンの今の命まではどうだか。

世間の声J ムリムリ、ゼッタイムリですよ。今になって生きながらえようだなんて・・・そんなのムリに決まってまさぁね。

世間の声K まったくもって、往生際(おうじょうぎわ)の悪い兄弟だわ。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 29-8 和平、成立

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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松岡城(まつおかじょう)の東の木戸 ドンドンドンドンドンドン! ドンドンドンドンドンドン!

尊氏軍メンバーA なんだよ、あれ!

尊氏軍メンバーB いよいよ、攻めてきやがったかな?!

松岡城の東の木戸 ドンドンドンドンドンドン! ドンドンドンドンドンドン!

尊氏軍メンバーC (櫓の上から下を見下ろして)敵が攻めてきたんじゃぁねえぞぉ、木戸の前には一人しかいねぇや。

尊氏軍メンバーD (櫓の上から下を見下ろして)おぉい、そこのぉ、いったい、どこの誰だぁ?!

饗庭命鶴丸(あえばみょうづるまる) 命鶴です! 命鶴ですよ!

尊氏軍メンバーA エーッ!

饗庭命鶴丸 和平ですよ、和平! 戦っちゃダメ、みんな、死に急いじゃ、ダメ!

尊氏軍メンバーB えぇっ! なんだよ、いってぇナニ言ってんだよ?

饗庭命鶴丸 とにかく、ここ開(あ)けて、早く! 早く!

尊氏軍メンバーC お、よしよし、ちょっと待ってろよ、今開けてやっから。おぉい、木戸、開けてやっとくれ。

尊氏軍メンバーB あいよ。

東の木戸 ギィー・・・。

饗庭命鶴丸 早く、早く、将軍様のとこへ!(ダダダダダダダダ・・・:木戸を走り抜け、猛スピードで本陣へ)

饗庭命鶴丸 (ダダダダダダッ、ダダンッ!:尊氏らのいる室内に走り込み、大声で)腹切っちゃダメ! ダメですよぉ!

尊氏ら一同 !!!(驚愕)

饗庭命鶴丸 (ドタッ:尊氏の前に平伏)ハァハァハァハァ・・・(荒い息)。

足利尊氏(あしかがたかうじ) 命鶴、命鶴じゃないか、いったい・・・。

饗庭命鶴丸 ハァハァハァハァ・・・(荒い息)、申しわけありません、ハァハァハァハァ・・・(荒い息)、勝手に城出たりして・・・ハァハァハァハァ・・・(荒い息)。

足利尊氏(あしかがたかうじ) ・・・。

饗庭命鶴丸 ハァーハァー・・・本当に、申しわけありませんでした、どうか、お許しを・・・ハァーーハァーー。

足利尊氏 いったい、どこへ行ってたんだ?

饗庭命鶴丸 わけも申し上げずに、いきなり城を出たから・・・ハァ、ハァ・・・きっと、命鶴は逃亡したと思われたでしょうね。

足利尊氏 ・・・。

饗庭命鶴丸 お味方の方々がみんな戦意を失って、意気消沈しちゃってるの見てね、わたし、思いました、「この分じゃぁ、もう一回戦ってみたとしても、とても勝ち目は無いぞ。かと言って、今から城を脱出されるのは到底不可能」ってね。で、わたし、行ってきたんですよ、畠山国清(はたけやまくにきよ)殿の陣まで。(注1)

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(訳者注1)この、「饗庭命鶴丸が独断で和平交渉のために城を抜け出しうんぬん」の記述も、例によって史実かどうか、極めて疑わしい。
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高師泰(こうのもろやす) なんだってぇ! 一人で、敵陣に乗り込んできたぁ?

饗庭命鶴丸 和平の斡旋(あっせん)をしに、行ってきたんですよ。

高師直(こうのもろなお) 和平の斡旋!(驚愕)

饗庭命鶴丸 わたし、畠山殿に申し上げました、「将軍様と直義(ただよし)様が仲直りされるのって、もう絶対に不可能なんでしょうか?」。するとね、畠山殿、こんな事言われるじゃないですか、「いや、実はな、直義様も、しょっちゅうそればかりおっしゃってんだよ、「もう一度、兄弟いっしょにやっていきたいもんだなぁ」ってね」。

足利尊氏 ・・・。

饗庭命鶴丸 畠山殿はね、こうもおっしゃいましたよ、「高兄弟の事については、直義様はそれほど深く、根に持ってはおられないようだ。彼らの不義を一応は罰しておいて、二度とあんな事しないように思い知らせときさえすれば、まぁ、許してやってもいいんじゃないか、命まで取る必要は無いのでは・・・どうもそんなカンジだぞ」。

饗庭命鶴丸 八幡(やわた)におられる直義様からのお手紙も数通、出して見せてくださいましたよ。手紙には、こんな事書いてありましたね、「親への愛を越えて、さらに睦(むつ)まじきは兄弟の愛。我が子に対する思いよりもなお深きは、長年にわたる主従の誼(よしみ)。獣類でさえも、そのような情愛の心があるのだ、ましてや万物の霊長たる人間どうしにおいてをや。たとえ合戦に及ぶ事になったとしても、情け容赦の無い処置だけは絶対に、してくれるなよ」。

高師直 ふーん。

足利尊氏 ・・・(じっと考え込む)。

高師泰 ・・・どうします?

足利尊氏 ・・・。

高師直 ・・・。

高師泰 ・・・。

足利尊氏 ・・・自害・・・中止・・・。

高師直 はい。

高師泰 わかりました。

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高師泰 で、問題は・・・我々、これからどうするかって事ですなぁ。

高師直 ・・・なんてったって、ご兄弟ですからねぇ、直義様は将軍様、よもや、憎いとは思ってはおられんでしょう・・・でもねぇ・・・ハァー(溜息)・・・私ら兄弟に対してとなると・・・ハァー(溜息)・・・また話は別なんだろうなぁ・・・ハァー(溜息)・・・。

高師泰 そりゃ、絶対に憎んでおられるに決まってるさ。去年、あんな事しちゃったんだもん・・・。

高師直 ハァー(溜息)・・・首を延べて降参するくらいならば、いっその事、出家して頭丸めてから出て行った方がいいのかも・・・ハァー(溜息、うつむく)

尊氏軍リーダーE うーん・・・それはどうですかねぇ、あんましイイ(良)方策とは思えませんが・・・ここはあくまでも、徹底抗戦にうって出た方が、いいんじゃないかと思いますけど。

高師泰 徹底抗戦? こんな人数で、いったいどうやって?

尊氏軍リーダーE いや、なにもね、ここの城を死守しようってんじゃぁないですよ。別の場所に身を移して、戦いを続行するんでさぁね。

高師泰 ここから他に、いったいどこへ行くってんだ?!

尊氏軍リーダーE 将軍様は、赤松(あかまつ)殿の城へ、師直殿と師泰殿は、四国へ逃れる、なんてのは、どうでしょう?

高師直 そんなの、ムリだよ・・・ムリ・・・ハァー(溜息)・・・頭丸めて降伏して出るよ、それが一番だよな・・・ハァー(溜息)・・・。

薬師寺公義(やくしじきみよし) あのねぇ、執事(しつじ)殿!

高師直 ・・・。

薬師寺公義 そぉんな弱気な事言ってちゃぁ、ダメですよ!

高師直 ・・・。

薬師寺公義 頭丸めるって言われますけどね、よぉく考えてみてくださいよ、過去の歴史において、頭丸めて命が助かったなんて人、いったい誰がいます? 保元(ほうげん)の乱の時はどうでした? 源為義(みなもとのためよし)は自分の咎(とが)をわびるために、頭を丸めて降伏して出た。でも、その子・義朝(よしとも)は、為義の首を刎(は)ねざるをえなかったじゃぁないですかぁ! 親子の関係をもってしても、父親の命を救う事ができなかったんですよぉ!

薬師寺公義 たとえここで出家なすって、どんなに立派な持戒持律(じかいじりつ)の僧侶になられたところでね、そんな事でもって、直義様のお心が休まり、上杉(うえすぎ)家や畠山(はたけやま)家の連中らの憤りが消えるとは、私には到底思えませんねぇ。

薬師寺公義 頭丸めた屍(しかばね)が、墨染(すみぞ)めの衣の袖を真っ赤な血で染め、なんてぇ事になっちまうがオチですよ。そうなったら、ただもう汚名を後の世に残すだけ、あまりにも口惜しいじゃありませんか、そう思いません?

薬師寺公義 将軍様は赤松殿の本拠地へ、高ご兄弟は四国へ、という案も、現実問題としては実行不可能でしょう。だってそうじゃないですか、細川顕氏(ほそかわあきうじ)も直義様の招集に応じて、大軍を率いて既に三石(みついし)に到着ってな情報が入ってますよ。将軍様が摂津(せっつ)国での戦に負けて播磨(はりま)の赤松殿の本拠地に退かれたと聞いたら、最後のトドメを指しに、細川が襲いかかってくる事、間違い無しですわ。

薬師寺公義 四国へ行くのもムリでしょうね。船の用意も無いのに、いったいどうやって瀬戸内海を渡るってんですか! ここかしこの湊(みなと)で渡海の順風を待ってから渡るなんて事、できるはずない。そこに敵が追撃しかけてきたら、いったい誰がどうやって防ぐってんです? まともに矢の一本でも射てみようなんてヤツ、ただの一人もいやしませんよ。だってそうでしょ、我々サイドの連中らが心の中でいったいどんな事考えてるのか、もう昨日の戦で、ミ(見)エミエじゃぁないですか。

薬師寺公義 そもそもですよ、剛勇とか臆病とかいった事に関してはね、個人差なんてのは無いんです。あるのは気分差だけなんです。人間は、剛勇になったり臆病になったり、とにかく、心が変化してしまうんですわ。人間の心理とはしょせん、そういうもんなんです。だから、敵に打ち懸かっていこうって時には、自然と心は武(たけ)くなるけど、一歩でも退きはじめたとなると、いっぺんに臆病者に変わってしまうんだ。

薬師寺公義 私は、あくまでも徹底抗戦を主張します! それも、この場を動かずにね。我々サイドの兵力が更に減ってしまわない今のうちに、ひたすら討死の覚悟かため、もう一度敵に当たってみる! 今この局面での最善の策といったら、これより他にはありません!

高師直 ・・・。

高師泰 ・・・。

薬師寺公義は、心中に思う事をズバズバと主張してみたが、高兄弟は心も虚ろ、ただただ放心状態である。

足利尊氏 ・・・。

薬師寺公義 将軍様、なにとぞ、ご決断を!

足利尊氏 ・・・。

尊氏軍リーダー一同 将軍様、なにとぞ、ご決断を!

足利尊氏 ・・・。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・この城・・・出よう・・・。

尊氏軍リーダーF で、そっから先は?

尊氏軍リーダーG 赤松殿の本拠地へ向かうんですか?

足利尊氏 ・・・。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・和平・・・。

高師直 ・・・ハァー(溜息)・・・じゃ、髪剃りますわ・・・ハァー(溜息)・・・。

薬師寺公義 (ガックリ 肩を落す)(内心)あぁ・・・まったくもって、今のおれのこの気持ち、あの范増(はんぞう)の心境そのものさなぁ。「かような青二歳といっしょでは、天下など、とても取れはせぬ!」(注2)・・・分かるぞぉ、その気持ち、范増よぉ・・・(涙)

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(訳者注2)28-7参照。
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薬師寺公義 (内心)まぁそれにしても、運が尽き果ててしまった人間の姿ほど、カナシイもんはねぇやなぁ・・・。こんな人らといっしょに死んだって、いったい何の高名になるってんだぁ? あぁ、もうこんな憂き世なんか、捨てちまえい! 出家して坊さんになって、これからは、この人らの後生を弔って生きていくとしよう!

このように、にわかに思い定まり、一首。

 取れば憂(うれ)い 取らねば武士の 失格者(しっかくしゃ) 捨ててしまおう 弓矢(ゆみや)の人生

 (原文)取(とれ)ばう(憂)し 取(とら)ねば人の 数ならず 捨(すつ)べき物は 弓矢也けり(注3)

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(訳者注3)「取る」の目的語は「弓矢」。弓矢を取って戦えば憂いも多いが、かといって、それを取らない(戦わない)というのでは、武士の数には入れてはもらえない。もうこうなったらいたし方無い、弓矢(武士としての人生)を思い切って捨ててしまおう、という意。
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薬師寺公義は、自ら髪を切り、墨染(すみぞめ)の衣に身を包んで高野山(こうやさん)へ登った。

それから後は、広さ3間の茅ぶきの家に身を置き、無数の松がたてる風音を聞いて暮す毎日。

薬師寺公義 (内心)ああ・・・俗世間を離れて、まさに天地と一体になった心境だ。心も澄み渡り、おれもようやっと、安らかな人生を送れるようになったよなぁ。

 娑婆世界(しゃばせかい)の 空しい夢から 覚(さ)めれたよ 明けゆく高野(こうや)の 松風(まつかぜ)の音(ね)で

 (原文)高野山 憂世(うきよ)の夢も 覚(さめ)ぬべし その暁(あかつき)を 松の嵐に

このようにして、公義はついに、閑居幽隠(かんきょゆういん)の人となった。

仏道を求める心というものは、実に様々な縁によって起るものである。このようなふとしたキッカケでもって、憂き世を捨てる事ができた彼の後半生は、まことにすがすがしく、すばらしいものであったといえよう。

しかしながら、美女との別れを惜しんで戦場に赴こうとしない主君・源義仲(みなもとのよしなか)を諌(いさ)めんが為に自害して果てたという、あの越後能景(えちごよしかげ)と比べて見ると、相当見劣りがする事であるようにも、思えてならない。(注4)

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(訳者注4)薬師寺公義に関するこの部分の記述も、太平記作者によるフィクションである可能性が濃厚だ。

[楠木正成と悪党~南北朝時代を読みなおす ちくま新書185 海津一朗 著 ちくま書房]の167P以降には、下記のようにある。

「「豊島・宮城文書」以下の第一次資料を集めて見ると、『太平記』の記述はまったくの虚構であることがわかる。まず公義はこの時、師直と行動を共にすることなく、遠く関東の戦場にいたことが確実であった。・・・(途中略)・・・虚構と史実を読み比べていただければわかるように、『太平記』の公義叙述は時間的にも空間的にも不正確であり、そればかりか、師直滅亡の直接の原因を作ったという、もっとも重大な因果関係を見落としている。では、まったく(『太平記』は:訳者補足)「史学に益なし」かといえば、とんでもないことで、非常に巧みに公義像の本質的部分に肉薄しているように思われる。まず、戦場での激闘や師直への諫言のエピソードに見られる血気盛んな主戦論者の人物形象は、常陸攻めを強行した公義の風貌をほうふつとさせる。(以下、略)」

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 29-7 尊氏軍より脱走者、続出

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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越水(こしみず:兵庫県・西宮市)の戦に惨敗して退却を余儀無くされた尊氏(たかうじ)軍2万余騎は、松岡城(まつおかじょう:位地不明)へ、我も我もと逃げ込んでいった。しかしそこは、たった4町四方足らずの面積しかない狭い所、城の中は混雑を極め、身動きもできなくなってしまった。

「こんな状態では城の防衛どころではない、このままではもうどうしようもないから、主要メンバー以外は城の中へ入るべからず」という事になり、各家の郎従・若党たちは全員、城の外へ追い出されてしまった。

尊氏軍武士A てやんでぇい!

尊氏軍武士B テメェラだけ、安全なトコへこもりやがってよぉ!

尊氏軍武士C オレたち締め出して、城の四方の木戸、閉めちまいやがったぜ!

尊氏軍武士A (内心)シメシメ、こりゃぁ、もっけのサイサイってもんよぉ。

尊氏軍武士B (内心)なんとかして、この戦場から逃げちまいたいなぁって、思ってたとこに・・・。

尊氏軍武士C (内心)おあつらえむきの口実をくれるんだもんねぇ!

尊氏軍武士A あーあ、ほんと、高師直(こうのもろなお)って、頼りになんねぇ人だよなぁ。

尊氏軍武士B ったくもう、ヤンなっちまったぜ。

尊氏軍武士C おいら、いってぇ誰の為に、討死にすりゃぁいいんだぁ? あぁ、もうヤダヤダ! 戦争なんて、やめたぁ、やめたぁ!

このように各々つぶやきながら、仲間を組んで続々と逃亡していく。

尊氏軍武士D (内心)こっから逃げるったってさぁ・・・城の四方には敵がウヨウヨいやがんだもん、とても脱出ムリ・・・いやいや待て待て、海路を逃げるって手があるぞ。

というわけで、釣りをする漁民たちの中に紛れ込んで破れ蓑(みの)を身にまとい、福良(ふくら:兵庫県・南あわじ市)の渡し、あるいは明石海峡(あかしかいきょう:兵庫県明石市)を、船に乗って逃げ行く者もいる。あるいは、山林業従事者(注1)に変装して竹の籠を肩に掛け、須磨(すま:兵庫県・神戸市・須磨区)の北方、あるいは、生田森(いくたのもり:神戸市・生田区)の奥へと、裸足のままで逃げていく者もいる。

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(訳者注1)原文では、「草刈りのおのこにやつれつつ」。
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人間、運勢が下降局面になった時は、必ずといっていいほど、臆病神にとりつかれてしまうものではあるが・・・しかしそれにしても、まぁなんと、見苦しい事であろうか。あれほど混雑していた城内だったのに、中にたてこもっている者の数がどんどん減っていく。夜更頃には、無人の城かと見まがうほどに、スカスカの状態になってしまった。

足利尊氏(あしかがたかうじ)は、高(こう)兄弟を近くに呼び寄せていわく、

足利尊氏 いったいぜんたい、どうなってんだ? 城の中、えらく人数、減ってるじゃないか。

高師直(こうのもろなお) ・・・。

高師泰(こうのもろやす) ・・・。

足利尊氏 ハァー(溜息)・・・まったくもう、なさけない連中ばっかりだなぁ・・・。たった1回、戦に負けただけで、もう逃げ出すってのかぁ・・・ハァー(溜息)・・・まったくもう・・・分からんなぁ・・・連中、いったいナニ考えてんだ?・・・サッパリ分からん・・・ハァー(溜息)・・・。

高師直 ・・・。

高師泰 ・・・。

足利尊氏 まさか、一人残らず逃げ出してしまったってことじゃぁ、ないんだろうな?!

高師直 ・・・。

高師泰 ・・・。

足利尊氏 命鶴(みょうづる)(注2)は? 高橋英光(たかはしひでみつ)は? 海老名六郎(えびなろくろう)は? まさか、逃げ出したりなんかしてないだろうな?!

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(訳者注2)饗庭命鶴(あえばみょうづる)の事。
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高師泰 いや・・・それが・・・そのぉ。

高師直 三人とも姿消しちゃいました。

足利尊氏 えぇっ・・・。

高師直 ・・・。

高師泰 ・・・。

足利尊氏 じゃ、長井、長井治部少輔(ながいじぶしょうゆう)は?! 佐竹加賀(さたけかが)は?!

高師直 二人とも、やはり・・・。

足利尊氏 ・・・いったい・・・この城には今、どれくらい残ってるんだ?

高師直 ・・・残ってるのは・・・将軍様のおん御内(みうち)の方々、それと私らの郎従、赤松範資(あかまつのりすけ)殿の軍勢・・・それだけです。

高師泰 総勢かれこれ、500騎足らず・・・。

足利尊氏 ・・・そうか・・・。

高師直 ・・・。

高師泰 ・・・。

足利尊氏 ・・・今宵(こよい)が、我が人生最後の時となったか・・・。

高師直 ・・・。

高師泰 ・・・。

足利尊氏 さぁ、みんな、用意はいいか?

尊氏は、鎧を脱ぎ、小手、すね当て等の小具足(こぐそく)だけになった。

これを見た、高師直、高師泰、高師夏(ものなつ)、高師世(もろよ)、高師景(もろかげ)、高師幸(もろゆき)、高遠江次郎(とおとうみじろう)、彦部(ひこべ)、鹿目(かめ)、河津(かわづ)以下、高家の一族7人と主要メンバー23人は、12間の客殿に2列に座を連ねて、各々、諸天(注3)に香を手向けた。

全員、鎧直垂(よろいひたたね)の上部を取って投げ捨てて袴だけの姿になり、首からは長方形の略袈裟(りゃくげさ)を掛けている。尊氏が自害したらすぐにそのお供をしようと、腰の刀に手をかけて静まりかえっている。

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(訳者注3)仏教の天部の神々。
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一方、厩侍(うまやざむらい)の控えの間では、赤松範資(あかまつのりすけ)が上座に座り、赤松一族若党32人、膝を屈して並んでいる。

赤松範資 さぁさぁみんな、このさいパァッと行こや、パァッとなぁ!

赤松家メンバーE ウォー! 行きましょ、行きましょ! パァッと行きましょ!

赤松家メンバーF ハラキリマエ(腹切前)の最後の酒盛り、ハリキッテやりましょ、やりましょ!

赤松範資 ウハハハ・・・よーし、この世で最後の酒盛りや、ハリキリマエ・・・ハラキリマエの最後の酒盛りやぁ、やるで、やるでぇーっ!

赤松家メンバーG ちょい待ちぃなぁ。酒の接(つ)ぎ役、指名してもらわんと、始められへんやん!

赤松範資 おぉ、そやったな! よぉし、源十郎、おまえやれ!

家城源十郎(やぎげんじゅうろう) ほれきた、殿の御指名や! ほな、行きまっせーッ!

赤松家メンバー一同 行け、行けー! ウハハハハ・・・。

大いなる酒樽に酒を満々とたたえ、銚子に盃を取り副(そ)えて、家城源十郎が酌を取ったその時、

赤松範資 直頼!(なおより)

赤松範資は、今年13歳になった次男の直頼(なおより)の名を呼んだ。

赤松直頼 はいっ!

赤松範資 わしの前へ来い!

赤松直頼 はいっ!

赤松直頼 (範資の正面に移動し、そこに座す)

赤松範資 論語(ろんご)にな、こないな事が書いたるわ、「鳥のまさに死なんとする時、その鳴くこと哀(かな)し。人のまさに死なんとする時、その言う言、善なり」。

赤松直頼 ・・・。

赤松範資 わしがこれから言う事、おまえの耳に残ったならば・・・。

赤松直頼 ・・・。

赤松範資 わが赤松家の家訓(かくん)を常に忘れず、おのが身を慎み、先祖の顔に泥を塗るようなマネだけは・・・絶対に・・・絶対にすなよ! わかったなぁー!

赤松直頼 はぁーいっ!

赤松範資 将軍様は、これから自害しはる。わしも、そのお供をする。日頃の誼(よしみ)を思うて、ここにおる、わが家の子・若党らも皆、わしといっしょに死出の旅路に出る覚悟、かためてくれとるようやわい。

赤松家メンバー一同 おぉ、その通りやでぇ! 死にまっせぇ、死にまっせぇ、殿といっしょに死にまっせぇ!

赤松範資 ・・・主君と運命を共にする・・・武士の家に生れたからには、こらどうにも、いたしかたないこっちゃわい。

赤松直頼 ・・・。

赤松範資 そやけどな、おまえは別や。おまえはまだ幼いからなぁ。

赤松直頼 ・・・。

赤松範資 ここでいっしょに腹切らいでも、世間の人も、おまえに指差す事はないやろうて・・・実はな、前から、則祐(そくゆう)と約束したんねんわ、わしが死んだ後、おまえを養子にもろてくれるように、てな。

赤松直頼 ・・・。

赤松範資 そやからな、おまえはすぐに、こっから赤松家の本拠地へ帰れ。

赤松直頼 ・・・。

赤松範資 明日からは・・・則祐を実の父やと思うて、自分の生涯をあいつの運命にかけてみるか・・・それとも、僧侶になってわしの後生を弔い、おまえ自身も仏様に救い上げてもらうようにするか・・・どっちでもえぇ・・・(涙)・・・どっちでもえぇぞ・・・(涙)・・・おまえの人生なんやからな、明日からは、おまえが自分で決めていけ!(涙を拭う)

赤松家メンバー一同 う、う、う・・・(涙)

父の言葉をじっと聞いていた直頼は、扇を取り直して、

赤松直頼 父上!

赤松範資 ・・・。

赤松直頼 「おまえはまだ幼い」やて? いったいナニ言うてはりますねん! 人間が幼いというんはなぁ、5、6歳から10歳になるまでの事を言うんですよ! 直頼はもう13歳です!

赤松範資 ・・・。

赤松直頼 こう見えてもね、おれはもうすでに、善悪の判断のつく人間ですわいな! 今日、たまたまこの座に居合わせながら、父上が御自害されるのを見捨てて、一人郷里へ帰るやなんて・・・そんなブザマな事してですよぉ、この先、いったい誰を、父と頼めるというんですか、いったい誰の前に、このツラ下げて出れるというんですかぁ!

赤松直頼 たとえ、禅僧になったとしても、新米(しんまい)僧や給仕の子供連中にバカにされて笑われるがオチですわ。「おぉい、見てみい、あいつが例のな、自害する父親見捨てて逃げて帰ってきよったヤツやぞぉ」言うてね!

赤松直頼 そうかというて、天台宗の僧侶になったらなったで、今度は、稚児(ちご)どもに笑われるだけですわなぁ。

赤松直頼 たとえ自分にどないな前世の果報があって、将来、人生に花が咲くとしても、父上といっしょに死ねんとからに、この先、人生重ねていったところで、いったい何の生きがいがあるっちゅうんですか!

赤松範資 ・・・(嬉涙)。

赤松直頼 なぁ、みんな、この際やから、もう無礼講(ぶれいこう)でえぇやろ? ハラキリマエの最後の酒盛りやねんから、年の順番とかそんな事、もうどうでもえぇやんなぁ? 父上、まず一番に、おれが盃、頂きますでぇ!

赤松家メンバー一同 おぉぉ、えぇぞ、えぇぞぉ! 行け行けぇ!(パチパチ・・・拍手)

直頼は、自分の前の盃を取り、少しばかり傾けた後、糟谷保連(かすややすつら)に渡した。保連は三度酒を飲んで盃を次に回した。以下順に、糟谷伊朝(かすやこれとも)、奥次郎左衛門尉(おくじろうざえもんのじょう)、岡本次郎左衛門(おかもとじろうざえもん)、中山助五郎(なかやますけごろう)と、盃が渡っていく。

一同、無明(むみょう)の酒の酔いの中に、ひたひたと近づいてくる自身の死を自覚している・・・まことに哀れなるかな。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月15日 (木)

太平記 現代語訳 29-6 越水の戦

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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その日の暮れ近くに、摂津国守護の赤松範資(あかまつのりすけ)からの使者が、足利尊氏(あしかがたかうじ)の本陣へやってきた。

使者 主よりのメッセージ、申し上げます。
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 「八幡(やわた)より、石塔頼房( いしどうよりふさ)、畠山国清(はたけやまくにきよ)、上杉能憲(うえすぎよしのり)を大将に7,000余騎が出陣、光明寺(こうみょうじ)にたてこもっとぉ連中らに加勢せんと、こっちに向かぉとりますで。前に聳(そびえ)えたっとぉ光明寺の守りはかたいというのに、この上さらに、後方からこないな大軍に攻めかかられてもたら、我が方はエライ事になってしまいますで」。

 「そやから、ここはまず城攻めを中止されて、神呪寺(かんのうじ:兵庫県・西宮市)、鷲林寺(じゅうりんじ:西宮市)、越水(こしみず:西宮市)のあたりで、こっちへ向うとぉ敵軍を迎え撃つ、こないなフウにしていかはったら、敵側の敗北は間違い無しですわ。その一戦に勝利できたら、敵側がいくら方々に根拠地を構えてたかて、そんなもん、そうそういつまでも、もちこたえれるもんやないでしょう」。

 「ここはとにかく、ただイッキに戦を決して、万方(ばんぽう)に勝利を計るべき局面や、と思われますが。」
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このようなメッセージを、早馬でもって、1日に3回も言ってきた。

高師泰(こうのもろやす) 八幡からやってくる敵軍の兵力が、赤松の言う通りなら、そんなもん、我々にとっちゃ、何の脅威にもなりませんやなぁ。

高師直(こうのもろなお) そうです、そうです。たったの7,000騎なんて、イタクもカユクもない。わが方の兵力、優に、その10倍はあるじゃないですか。

高師泰 (光明寺を指さしながら)なんせ、あんな険しい山の上にある寺だからね、そりゃぁヒトスジナワじゃぁ攻めきれませんわ。でもね、平地で激突してイッキに勝負を決するって事になったら、そりゃぁ絶対に我が方有利、勝てねぇわけがねぇや。

足利尊氏 ・・・よし・・・城攻めを中止・・・こちらへやってくる敵軍を迎え撃つ。

高師泰 ヘェーイ!

高師直 わかりやんしたぁ!

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2月13日、尊氏と高兄弟は、光明寺の山麓を発ち、兵庫の湊川(みなとがわ:兵庫県・神戸市・兵庫区)へ向かった。

八幡から派遣された光明寺救援軍3,000余騎を率いる畠山国清はその時、播磨国の東条(とうじょう:兵庫県・加東市)に到達していたが、「どこであれ、とにかく、高兄弟の現在いる所へ向かうべし」ということで、有馬(ありま:神戸市・北区)を南へ越えて、打出(うちで:兵庫県・芦屋市)北方の小山に陣取った。

光明寺にたてこもっていた石塔右馬頭(いしどううまのかみ)、上杉朝房(うえすぎともふさ)らは全員、光明寺を出て、畠山軍に合流した。

17日夜、尊氏と高兄弟率いる2万余騎は、御影(みかげ:神戸市・東灘区)海岸まで進み、そこで大手とカラメ手の2方面に軍を分けた。

足利尊氏 戦闘を、大手方面軍よりまず開始。戦い半ばのタイミングに、カラメ手方面軍は、浜の南方から押し寄せ、敵を包囲せよ。

尊氏軍リーダー一同 わかりましたぁ!

尊氏軍に参加していた薬師寺公義(やくしじきみよし)は、

薬師寺公義 (内心)今度の戦、どうも心配なんだよなぁ。

薬師寺公義 (内心)我がサイドの兵力は、敵のそれを大きく上回ってはいる・・・いや、それはたしかに、紛れも無い事実だよ・・・うん、それはそれで、非常にいい事だよ・・・でもなぁ・・・どうも、兵力の多さを頼んで油断してるムキが、わが陣営のあちらこちらに見うけられてならんのだ・・・こんなチョウシのままで行ってしまったら、思いもよらぬ事態になってしまうかも・・・うーん・・・。

薬師寺公義 (内心)今度のこの戦・・・自分にとっての、一生の一大事ともいうべき戦になりそうな・・・なんだか、そんな予感がしてきちゃったなぁ。

薬師寺公義 (内心)とにかく、キアイ入れて引き締めていこう! 我が薬師寺軍だけは、他の連中とは違うんだぞって心意気、バッチシ表していきたいねぇ!

公義は、絹布3枚を縫い合わせて5尺長の旗を作り、その両サイドに、赤色の手を装着した。(注1)

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(訳者注1)原文では、「絹三幅を長さ五尺に縫合せて、両方に赤き手を著たる旌をぞ差たりける。」

「手」は、旗の上端頂点と竿を結ぶ緒である。
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薬師寺公義 (内心)うん、いいぞ、この旗だったら、ものすごい目立つよ、いいねぇ!

公義は、一族手勢200余騎を率いて、雀松原(すずめのまつばら:神戸市・東灘区)の木陰に待機し、大手方面の戦闘開始を今か今かと待ち構えた。

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作戦通りに、大手方面での戦闘が始まった。河津氏明(かわづうじあきら)、高橋英光(たかはしひでみつ)率いる大旗一揆(おおはたいっき)武士団6,000余騎が、一斉に畠山軍めがけて押し寄せ、トキの声を上げる。

畠山軍側は、静まりかえっている。わざとトキの声を返さずに、こちらの薮陰(やぶかげ)、あちらの木陰に身を隠しながら、さしつめひきつめ散々に矢を射る。

大旗一揆武士団の最前線にいた武士数100人が、その矢に当たり、馬から真っ逆さまに落ちていく。

これを見て、後陣の方は逃げ腰になってしまい、前進が止まってしまった。

河津氏明 えぇい、みんな、何してやがんでぇ! 矢射てるだけじゃぁ戦はできねぇ! 刀抜いて、かかっていきやがれぃ!

氏明は、弓を薮の中へカラリと捨て、3尺7寸の太刀を抜き、畠山軍の群がる中に一言のあいさつもなく駆け入らんと、馬を進めた。

小高い場所に達したまさにその瞬間、氏明は、畠山軍からの矢の猛攻を浴びた。十方から鏃(やじり)を揃(そろ)えて射られた矢は、彼の乗馬に次々と命中、首の両側、右側前足の付け根、右側後足の大腿部の4か所に刺さった矢は、矢竹の中ほどまで馬体に陥入した。馬は、膝を折ってドウと倒れ伏す。

氏明は朱色に染まり、倒れた馬の側に立つ。これを見た畠山軍200余騎が、おめいて大旗一揆武士団に襲い掛かっていく。

後方に控える尊氏サイド大手方面軍は、彼らの救援にやってこようともしない、負傷者を助けにかけつけようともしない、馬の尻に鞭を打ち、左右同時に鐙を踏み蹴り、一斉に退却しはじめた。

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石塔右馬頭は、そこから10余町ほども隔たった所に陣を構えていて、我が味方の畠山軍の優勢の下に、戦況が進んでいる事をまだ知らない。

石塔右馬頭 おいおい、あの打出浜に靡(なび)いている旗、見えるだろ?

原義実(はらよしざね) はい。三本ありますね。

石塔右馬頭 あれは、敵か味方か、ちょっと見てこいや。

原義実 ハハッ!

義実はすぐに、打出浜へ馬を走らせた。

そこには、赤い手を左右に装着した3本の小旗が立っていた。

原義実 (内心)こんな旗を立てるもんは、わが方にはおらん。これは敵側のヤツだ。

原義実 (戦場をじっと観察して)(内心)ホホォ・・・畠山軍優勢ですか・・・やったねぇ!

義実は、馬を返して自陣に向かった。

原義実 (内心)このまま徒(いたず)らに、馬の足を疲れさすってのも、なんだかなぁ・・・よぉし!

義実は扇を掲げて、自軍を招いた。

原義実 おーい! 浜の南に控えてるのは敵軍だぞーー! こっちじゃ畠山軍が勝ってるぞーー! みんなぁー、早く、敵にかかれぇーー!

血気盛んな石塔軍、上杉軍の武士らが、これを聞いて躊躇(ちゅうちょ)するわけがない。700余騎の武士たちが、馬の首を並べ、一声おめいて一斉突撃にかかった。

これを見て、薬師寺公義の後方に控える高兄弟率いる大軍は、未だ、たった一本の矢を射らてもいないのに、激しく馬に鞭打って退きはじめた。

梶原孫六(かじわらまごろく)と梶原弾正忠(かじわらだんじょうのちゅう)は、高軍に所属していたが、心ならずも退却する味方にまきこまれ、6、7町程も退いた。

二人は、「このままでは後世の名折れ、梶原の家名に泥を塗る事になってしまう」と思い、たった二人だけで引き返し、石塔・上杉の大軍中に懸け入った。

しばらくは、二人一緒に戦っていたが、やがて離ればなれになってしまった。しかしなおも、命を限りに戦い続けた。

梶原孫六は、3人を切って落し、敵陣の裏へツッとかけ抜けた。

後に続く味方も無く、また、彼を見咎(みとが)める者もいないので、「敵軍に紛れて命助かろう」と思い、笠標(かさじるし)を取り除いて袖の下に隠した。孫六は、そこから西宮戎神社(にしのみやえびすじんじゃ:兵庫県・西宮市)まで馬を走らせ、夜になってから小舟に乗って、足利尊氏の本陣へ帰ってきた。

一方、梶原弾正忠は、敵陣中に紛れこもうともせずに、懸け入っては戦い、懸け入っては戦い、7度、8度と馬煙を立てて戦い続けた。しかし、彼もついに、藤田小次郎(ふじたこじろう)と猪股弾正左衛門(いのまただんじょうざえもん)に討ち取られてしまった。

藤田小次郎 この男、すげぇヤツだったな。勇猛果敢この上無しってカンジだったじゃぁねぇの。

猪股弾正左衛門 いったい、どこの誰なんだろう?

藤田小次郎 おい、見ろよ、エビラの上に、梅の花が一輪さしてあるじゃないか。

猪股弾正左衛門 あぁ! さてはこいつ! 元暦(げんりゃく)の古(いにしえ)に、一の谷(いちのたに)の合戦で2度も敵陣に突入して武名を揚げた、あの梶原景時(かじわらかげとき)の子孫だよ、きっと。(注2)

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(訳者注2)源平盛衰記等に、「梶原景時がエビラに梅花を差して戦場に赴いた」と、記されているようだ。
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まさに、名乗りを上げずして、その名を知られる事となったわけである。

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薬師寺公義 ハァー・・・(溜息)やっぱし、こうなっちまったかい・・・こっちは総勢2万余騎いるんだよぉ・・・なのに、戦闘開始早々、もうこんな総崩れ状態になっちゃってさぁ。

薬師寺公義 えぇい、とにかくここは、戦うのみ!

薬師寺軍250騎は、石塔軍・上杉軍700余騎を山際まで追いつめ、後続の味方を待った。しかし、援軍に駆けつけてくる者は一騎もいない。仕方なく、再び波打ち際に戻り、静かに退却を開始した。

それを見た石塔・畠山の大軍は、

石塔軍メンバーA あの左右両方に吹き流しがついてる旗、いったいどこの家のだ?

石塔軍メンバーB ありゃぁおそらく、薬師寺公義の軍だぜ。

畠山軍メンバーC わぁぉ、薬師寺なら相手にとって不足無しだぁ。

石塔軍メンバー一同 行け、行けぇ!

畠山軍メンバー一同 一騎残らず、やっちまえぃ!

彼らは一斉に薬師寺軍を追撃した。薬師寺軍250騎は、相手が後ろに近づいてくれは一斉に馬をキット反して戦い、前方を遮る者があれば一斉にワットおめいて懸け破り、打出浜の東から御影浜の松原までの間、16回も返し合わせて戦った。討たれる者あり、敵に懸け散らされる者あり、最終的には、薬師寺公義、薬師寺義冬(よしふゆ)、薬師寺義治(よしはる)ら、たった6騎だけになってしまった。

しばらく馬を休ませながら彼方を見ると、輪違(わちがい)(注3)の笠標を着けた武士がたった一人で、相手7騎に包囲されているのが見えた。彼の乗馬は、既に白砂の上に倒れてしまっている。

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(訳者注3)高家の紋。
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薬師寺義冬 あれはきっと、松田左近将督(まつださこんしょうげん)殿ですよ。目の前で味方が今にも討たれようってぇのに、それを見捨てるのは、どうもねぇ。

薬師寺公義 よぉし、行くか!

薬師寺軍6騎は、一斉にそちらへ馬を走らせた。これを見た7騎はそこから逃げ去り、松田は命拾いをした。

松田左近将督と薬師寺公義ら7人が、しばらくそこにいる間に、彼らの手勢が再び方々から集まってきて、その兵力は100騎ほどにまで回復した。

このように、先陣を切って尊氏軍を2、3町ほども退かせた石塔と畠山ではあったが、さすがに戦い疲れたのであろうか、そこで追撃をストップした。

戦いは終わった。

薬師寺公義は、鎧に突き立った矢を折り、湊川へ帰った。

湊川には、敵陣営の旗を目にする事もないままに、ふがいなく退いてしまった2万余騎の武士たちがひしめいていた。皆、闘志を完全に失ってしまっており、どこへ逃げて行こうかと、必死の算段をするのみの状態である。

薬師寺公義 (内心)いやはや、まったくヒドイもんだんねぇ・・・まるで、泥に酔った魚が水溜まりの中でアップアップしてやがるみたい。

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今回のこの合戦についてつらつら考察してみるに、双方の兵力比較(尊氏側、圧倒的多数)と、実際の戦闘結果(尊氏側、完敗)との、そのあまりのギャップに、私・太平記作者は、唖然(あぜん)としてしまうのである。

尊氏サイドはいったいなぜ、このような無惨な敗北を喫してしまったのであろうか? きっと、そこには、何か深いワケがあるに違いない。

思い当たるフシが無いでもない・・・。

実は、戦いの前夜、まことに不思議にも、高師夏(こうのもろなつ)と河津氏明が、全く同じ内容の夢を見ていた、というのである。

高師夏 いや、その夢ってのがさ、ジツにいやぁな夢でねぇ・・・いったいどこだか、場所は分かんないんだけどさ、だだっ広(ぴろ)ぉい平原にボクはいるんだ・・・で、その東西に、今まさに戦いを始めようとしている両軍が対峙(たいじ)してるんだ。

高師夏 ボクら高家一族の軍は、その平原の西側にいる。父上をはじめ、叔父上(注4)、一族郎従数万騎。ギッシリと密集して馬の首を並べてね。

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(訳者注4)高師夏は師直の子なので、師泰は彼の叔父に当たる。
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高師夏 平原の東側には、直義(ただよし)殿、そして石塔頼房、畠山国清、上杉憲顕(うえすぎのりあき)が・・・そうさなぁ、兵力合計1千余騎ってとこかなぁ。

高師夏 両陣、トキの声を合わせ、戦闘開始。

高師夏 やがて、石塔と畠山が、旗を巻いて退却し始めた。ボクらは、勝(かち)に乗じて彼らを追撃していった。

高師夏 その時突如、雲の上に錦の旗が一本上がったんだよ。でもって、その旗の下からね、100騎ほどが現れた。

高師夏 その軍を率いてるの、いったいどこの誰なのかなぁって、よくよく見たらさ、なんと、それが!

高師夏 左翼軍を率いてるのは、吉野山(よしのやま)におわすあの金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)様なんだ! 頭に角があって、8本足の馬に乗っておられるんだよね。その前と後ろにはね、吉野山の子守三所権現(こもりさんしょごんげん)と勝手明神(かってみょうじん)が、金の鎧に身をかため、鋼鉄の盾を手挟(たばさ)んで従っておられるんだ。

高師夏 右翼軍の方を見て、ボカァもう、ビックリ仰天しちゃったねぇ。そっちの大将はさ、あの天王寺(てんのうじ)を建てた人・・・そうなんだよ、あの聖徳太子(しょうとくたいし)様なんだよ! 甲斐(かい:山梨県)国から献上の黒馬に白い鞍を置き、その上に乗ってんだなぁ。その脇には、日本史上の重要人物がズラズラだよぉ。まずは大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)が甲冑を帯して太子の脇を守ってる。それにね、小野妹子(おののいもこ)、跡見赤檮(あとみのいちい)、秦河勝(はたのかわかつ)、そんな人らが、弓矢持って太子の前を進んでるってわけよぉ!

高師夏 父上は叫ばれた、「敵の右翼、聖徳太子が率いてる方が兵力少いぞ、まずあっち側からやっつけちまいな! 包囲して全員討ち取っちまえぃ!」。で、みんなでウォーって、襲いかかってった。

高師夏 するとさ、左翼軍大将の金剛蔵王権現が、目をいからせて叫んだ、「あやつらを射て落とせい!」

高師夏 その命令一下、子守三所権現、勝手明神、跡見赤檮、秦河勝が、四方にさっと散開した。そいでもって、四方から一斉に矢を放ってきた。

高師夏 まず、叔父上がやられた。次に、師世(もろよ:注5)が・・・父上も・・・そして・・・そして・・・4本目の矢が、ボクの眉間(みけん)に・・・。(目を閉じて身震い)

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(訳者注5)師泰の子。
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高師夏 4本の矢が、4人の眉間のど真ん中を貫通、みんな馬から落ち、地ひびきをたてて落下。

高師夏 で、そこで夢から覚めたんだ・・・。

高師夏 あーあ、ほんとにもう、こんな大事な戦の前夜だってのに、いやぁな夢見ちゃったもんだよなぁ。今日の戦、大丈夫かなぁ?

このように、夢見の内容を朝、高師夏は周囲に語っていたのだが、果たして、その夢の通りになってしまったのである。

この話を聞いた人は全て、高家一族の今後を危惧し始めた。

この夢の記録は、吉野の某寺の僧侶が保管している。読者は決して疑ってはならない、これは正真正銘の「実際にあった事」なのである。(注6)

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(訳者注6)原文では、「此夢の記録、吉野の寺僧所持して、其の隠れなき事也」。しかし、太平記作者がここでいくらこのように言ってみても、この話の信憑性はまことに疑わしいものがあるとしか、言いようが無い。これもまた例によって、太平記作者のフィクションに過ぎないのかもしれないと、訳者には思えてならない。
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太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月14日 (水)

太平記 現代語訳 29-5 光明寺の戦

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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「高師泰(こうのもろやす)が大軍を率いて、足利尊氏(あしかがたかうじ)がいる播磨(はりま)・書写山(しょしゃざん:兵庫県・姫路市)に到着した」との情報に、書写山を攻める為に播磨へ既に入っていた足利直義(あしかがただよし)側の軍勢は、作戦変更を余儀無くされた。

石塔右馬頭(いしどううまのかみ)を大将に、愛曽伊勢守(あいそいせのかみ)、矢野遠江守(やのとうとうみのかみ)以下、5,000余騎で編成のその軍勢は、急戦を避けて播磨の光明寺(こうみょうじ:兵庫県・加東市)にたてこもり、八幡に対して援軍を求めた。

その情報をキャッチした足利尊氏は、

足利尊氏 ・・・そうだな・・・八幡から援軍が来ぬうちに・・・光明寺にいる連中をシマツしてしまおうか。

2月3日、尊氏は、自ら1万余騎を率いて書写山を出発、光明寺の四方に包囲陣を敷いた。

石塔右馬頭は持久戦を決意、守りをかためて光明寺にたてこもった。

ここで注目すべきは、地名である。尊氏が陣を取った場所は、引尾(ひきお)、高師直(こうのもろなお)が陣を取った場所は泣尾(なきお)・・・よりにもよって、「引」に「泣」とは・・・まさに名詮自性の理(みょうせんじしょうのことわり:注1)、尊氏サイドにとってはいずれも縁起の悪い地名であるとしか、言う他は無い。

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(訳者注1)ものの名は、そのもの自身の本体本性を表わす、という意味の仏教語。
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2月4日、双方矢合わせ開始、尊氏軍は高倉(たかくら)尾根から攻め上り、愛曽軍はそれを、仁王堂(におうどう)の前で防ぐ。

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光明寺にたてこもった側の人々は、言ってみれば、「もはや何も失うものが無い、命知らずの者たち」。ここで負けてはもう先が無しと、命を擲(なげう)って、ひたむきに戦う。

それにひきかえ、攻める側は、功績高く禄重き有力武士ぞろい、ただただ味方の兵力の多さを頼むばかりで、どうも、この戦を自分ごととして真摯に受け止めている様子がまったく見られない。故に、攻めても攻めても毎日毎日、ただただ敗退を繰り返していくばかりである。

700余騎を率いて泣尾に到着した赤松則祐(あかまつそくゆう)は、遥か彼方に聳え立つ光明寺を見上げて、

赤松則祐 あこ守っとぉん、たったあれだけの小勢やからな、試しにいっちょう、攻めてみぃ!

則祐の命に従って、浦上行景(うらかみゆきかげ)、浦上景嗣(うらかみかげつぐ)、吉田盛清(よしだもりきよ)、長田資真(ながたすけきよ)、菅野景文(すげのかげぶん)が出陣。彼らは、極めて険阻な泣尾の尾根をよじ登り、防衛側の垣盾(かいだて)の際までたどりついた。

この時に、他のグループのメンバーらもそれぞれ別ルートから、彼らに呼応して同時一斉に攻め上っていたならば、光明寺は一気に落せたであろうに、

尊氏軍リーダーA (内心)いったい、なにやってんですかねぇ、あいつら。

尊氏軍リーダーB (内心)ほんに、ご苦労なこったねぇ。

尊氏軍リーダーC (内心)そぉんなに、あせって攻めなくたってさぁ、そのうちゃ、なんとかなるだろうに。

尊氏軍リーダーD (内心)あと2、3日もすりゃぁ、あそこ守ってるヤツラも戦意失っちゃってさぁ、城も自然と落ちるだろうにねぇ。ただじぃっと待ってりゃ、勝利は自然に転がりこんでくるのになぁ。

尊氏軍リーダーE (内心)無意味なエネルギー消費、したくないんだよね。

数万の軍勢はただ徒(いたず)らに、浦上らが攻め上っていくのを傍観しているばかりである。

浦上行景ら、城に接近していった者たちは、頭上からの矢の猛攻を受け、垣盾の下にうずくまるばかりで一歩も先に進めず、結局、山下の陣へ引き返してくるしかなかった。

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石塔右馬頭 緒戦(しょせん)はまぁ、これでなんとかしのげたな。

愛曽伊勢守 いやほんま、これでわが方の士気も、少しは持ち直したんかねぇ。

矢野遠江守 そやけどなぁ・・・見てぇ、あれ、敵サンの数の多いこと。

愛曽伊勢守 まだ、城の構えもマトモにできてへんしなぁ・・・。

石塔右馬頭 うーん・・・このままずっとこうしてたんじゃぁ、先行き不安だなぁ・・・あぁぁ、どうしたらいいんだろ! ウァーッ!(両手で、髪をグシャグシャとかきむしる)

石塔軍メンバーF えらいこっちゃ、えらいこっちゃ!

石塔右馬頭 なんだなんだ、いってぇどうしたってんだよぉ! ウァーッ!(両手で、髪をグシャグシャとかきむしる)

石塔軍メンバーF 神ガカリですがな、神ガカリ!

石塔右馬頭 エェ?! 神がかりぃ?

矢野遠江守 いったい誰が?

石塔軍メンバーF 愛曽さんとこの童(わらわ)ですがな、ほれ、ほれ、あこ、あこ!

愛曽伊勢守 ア、ア、ア!

石塔右馬頭 ウワッ、すげぇー!

見れば、童が憑依(ひょうい)状態になっており、10丈ほどもピョンピョンと、空中に飛び上がっている。

愛曽伊勢守 おいおい、なんや、なんや、どないしたんや!

童 ハァー、ハァー・・・(目をランランと輝かせ、大きく息をはきながら、ピョンピョン、空中に飛び上がる)。

愛曽伊勢守 おいおい!

童 ハァー、ハァー・・・いせっ・・・いせっ・・・ハァー、ハァー・・・。

愛曽伊勢守 「いせ」? 「いせ」っていったい・・・なんや、なんなんや?!

童 ハァー、ハァー・・・いせ・・・じんぐう・・・伊勢の大神宮、我に憑依したもう。

石塔軍メンバー一同 ・・・(かたずを呑みながら、童を見つめる)。

童 伊勢の大神宮・・・この城を守護の為・・・三本杉の上に・・・御座(みざ)したもうぞ。

童 寄せ手、たとえいかなる大軍なりとも、我かくてあらん程は、この城落とさるる事、断じてありえず!

童 悪行(あくぎょう)、身を責め・・・師直、師泰ら・・・今7日の中(うち)に・・・滅ぼさんずること、なんじら、知らずや。

童 あつ、あつ、あら熱(あつ)や、堪えがたし、いで、畜生道(ちくしょうどう)の三熱(さんねつ)の焔(ほのお)冷(さ)まさん! テヤァー!(空中高く跳躍し、閼伽井(あかい:注2)の中へ飛び込む)

閼伽井の水 ドヴォォーン!(童の高熱を受けて瞬間的に沸騰)ドヴォドヴォドヴォ・・・ジュワ、ジュワ、ジュワワ、ジュワワワァー・・・ブワーブワーー!!

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(訳者注2)仏前に備える水を「閼伽」といい、それを汲む井戸を「閼伽井」という。
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石塔軍メンバーF やぁったぁー!

石塔軍メンバーG 聞いたかぁ、伊勢大神宮の神様やてぇ!

石塔軍メンバーH 神のご加護、わが方にありやぁー! ウァーッ!

石塔軍メンバー一同 神よ、なにとぞ、わが方に勝利をーっ!

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「神憑(かみがかり)」のニュースは、光明寺を包囲している側にも伝わっていった。

赤松則祐 (内心)うーん・・・伊勢の神さん、あっち側についてしまわはったんかぁ・・・どうもこら、今度の戦、ヤバイんちゃうかぁ。

赤松則祐 (内心)いやいや、これは敵の謀略かもしれんぞ。ありもせん事、言いふらしといて、こっち側をビビラらそうっちゅうコンタンかも、しれんわなぁ。

赤松則祐 (内心)それにしてもや、これは、非常に気になる話やわなぁ。

翌朝、則祐の子息・朝範(とものり)が、則祐の側にやってきて、

赤松朝範 (小声で)父上、ちょっと、お話ししたい事が・・・。

赤松則祐 なんやなんや、えらい落ちこんどぉやないかい。

赤松朝範 (小声で)じつはねぇ・・・オレ昨夜(ゆうべ)、兜(かぶと)を枕に、ついウトウトっとしてしもたんやけどな、そん時、えらいイヤァナ夢、見てしもぉてなぁ。

赤松則祐 (ドキッ)・・・(小声で)いったい、どんな夢や?

赤松朝範 (小声で)我が方の軍勢1万騎ほどがな、あの寺へ攻め上って行きよんや。で、垣盾のとこまで攻め寄せて、火ぃつけた。するとな、八幡山と吉野(よしの)の金峰山(きんぷせん)の方からな、山鳩がよぉけ飛んできてな・・・そらぁもう、ムチャクチャな数や・・・数千羽もの山鳩が、飛んできよったんやんかぁ。

赤松則祐 ・・・。

赤松朝範 (小声で)そいでな、そいつら、何しよった思う?

赤松則祐 ・・・。

赤松朝範 (小声で)一斉に、翼(つばさ)水に浸(ひた)してなぁ、垣盾に燃えついた火ぃ、片っ端から消していきよんねん!

赤松則祐 (小声で)・・・そうか・・・。

赤松朝範 ・・・。

赤松則祐 (小声で)あんな、その夢の話、ゼッタイ、誰にも言うなよ、えぇな!

赤松朝範 (小声で)はい・・・。

赤松則祐 (内心)やっぱしなぁ・・・この城、攻め落すのん、ムリちゃうかいなぁと、最近ミョーに思えてしやぁなかったんやけど・・・どうりで、あっち側には、神明の擁護がついてたんかいな。

赤松則祐 (内心)うー、ヤバイヤバイ! にっちもさっちも行かんようになってしまう前に、なんとかして、ここから引き上げてしまわんとあかん!

ちょうど折良く、「美作(みまさか:岡山県北部)から敵軍侵入、赤松氏の本拠地へ迫る」との報がもたらされたので、則祐はこれ幸いと陣を引き払い、白旗城(しらはたじょう:兵庫県・赤穂郡・上郡町)へ帰ってしまった。

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戦場心理の常として、自陣に加勢が一人でも加わったとなると、戦う人の心は勇み、一人でも去ってしまったと聞いたとたんに、士気は衰えがちである。自陣の兵力が次第に減少していくにつれて、高師直軍の武士らは、ますます戦意を失い、みな、帷幕(いばく)の中に毎日ダラダラと、たむろしているだけの状態になってしまった。

そんなある日、南東の方角から怪しげな雲一群が立ち上り、風に吹き流されるままに、戦場の上空にやってきた。雲の下には、百千万羽もの鳶(とび)や烏(からす)が飛び回っており、まるで、散り乱れる木の葉が空を覆ってしまったかのようである。

怪しげな物体が近距離にまで接近してきて、ようやくその正体が明らかになった。それは雲でも霞でもなく、一流(ひとながれ)の無紋の白旗であった。

天から飛び降ってきたその白旗を見て、みんな大騒ぎである。

石塔軍メンバーF 見てみいなぁ、あれ!

石塔軍メンバーG すごいなぁ、天から旗が降ってくるやなんて!

石塔軍メンバーH あれはきっと、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)様の示現(じげん)やわ。八幡様が、これからどっちかに加勢されるんやろ。

尊氏軍リーダーA (内心)問題は、あの旗がどっち側に落ちるか、だよ、あっちかこっちか。

尊氏軍メンバー一同 (内心)あの旗が落ちた側が、今度の戦に勝つんだよな、きっと・・・(ドキドキ)。

城を守る側、攻める側、双方共に、全員合掌して旗を礼拝し、「あの旗、なんとか、わが方に落ちますように」と、祈念を込める。

やがて、旗は光明寺の上空にやってきて止まり、そのポイントで、上下動を繰り返している。

石塔軍メンバー一同 なにとぞ、なにとぞ、この寺の中に、あの旗を落させたまえ!

その時、にわかに風が巻き起った。梢を吹き過ぎる風に流されて、旗は、城を包囲する側の上空に飛んできた。

尊氏軍メンバー一同 あぁ、来たぞ、来たぞ!

彼らは、頭を地に着けて一心に祈る。

尊氏軍メンバー一同 もう少し、もう少しだ! なにとぞ、なにとぞ、我々の上に、あの旗を落させたまえー!

突然、旗の下に群がっていた鳥たちが、十方に飛び散った。

鳥たち バタバタバタバタバタ・・・。

次の瞬間、

旗 フワァーン・・・。

旗は、高師直の本陣の中に、緩やかに落下していく。

尊氏軍メンバー一同 うわーい、やったぞぉ、やったぁーーーー! バンザーイ、バンザーイ!・・・。

石塔軍メンバー一同 ・・・(ガックリ)。

高師直 ウファファファファ・・・これで今回の戦、わが方の勝利に、決まりチャンチャコねぇー! ヘーイヘイヘーイ、イェーイ、ブラヴォー!

師直は、兜を脱ぎ、落下してきた旗を左の袖に受け止め、三度礼拝した。そして、あらためて、その旗に目を凝らした。

高師直 なんだ、コレ! 旗なんかじゃねぇぞぉ!

まさに、それは旗ではなく、反故(ほご)紙を2、30枚継ぎ集めたものであった。その裏には、2首の歌が書いてあった。

 吉野山(よしのやま) 峯の嵐の 激しさに 高い梢の 花は散り行く

(原文)吉野山 峯の嵐の はげしさに 高き梢の 花ぞ散行(ちりゆく)

 永遠(えいえん)に 続く盛夏(せいか)など ありゃしない 武蔵野(むさしの)一面 霜枯(しもがれ)れになり

(原文)限(かぎり)あれば 秋も暮(くれ)ぬと 武蔵野の 草はみな(皆)がら 霜枯(がれ)にけり

高師直 ねぇねぇ、みなさん、どう思います? この歌って、吉かな、それとも凶かなぁ?

尊氏軍リーダーA (内心)ううう・・・なんてヤベェ歌なんだろ。

尊氏軍リーダーB (内心)「高い梢の 花は散り行く」だってぇ? これってもしかして、高家の人が亡んじまうって事じゃぁねぇの?

尊氏軍リーダーC (内心)「吉野山 峯の嵐の 激しさに」と来たか。師直さん、吉野山の蔵王堂(ざおうどう)、焼いちまったっけなぁ(注3)・・・うわぁ、こりゃぁ大変な事になっちまったぜ。神仏を犯し奉った罪、師直さん一人でひっかぶる事になっちまったなぁ。

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(訳者注3)高師直の吉野焼き討ちについては、26-4 を参照。
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尊氏軍リーダーD (内心)「武蔵野一面 霜枯れになり」か・・・こりゃ相当ヤベェよ。だってさ、師直さん今、武蔵守(むさしのかみ)の地位にあるんだよぉ。

尊氏軍リーダーE (内心)まぁ、そろいもそろって二首ともに、極めて不吉としか言いようがねぇ歌だよなぁ・・・あーあ。

尊氏軍リーダー一同 いやいやぁ、これはね、ヒッジョーに、縁起のいい歌だと思いますよぉ。

高師直 ヤッパシそうかい!(ニンマリ)、ウッシッシッシ・・・。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月13日 (火)

太平記 現代語訳 29-4 高師泰、三角城攻めを中止して、近畿地方へ向かう

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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高師泰(こうのもろやす)は、三角城(みすみじょう)攻めの為に、石見国(いわみこく:島根県西部)に長滞陣をしていた。

高師泰側近A 殿! 師直(もろなお)様から、急使がきやしたぜい!

高師泰 うぅ・・・ファー・・・(あくび)。

高師直よりの使者 これ、お手紙です!(手紙を捧げ持つ)

高師泰 あぁ・・・ファー・・・(あくびをしながら、使者から、手紙を受け取る)

高師泰 ・・・(手紙を開く)。

手紙 パサパサパサ・・・(開かれる音)。

高師泰 ・・・(手紙を読む)。

高師泰 エェー!

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高師直よりの手紙:
 摂津(せっつ)と播磨(はりま)において合戦、事は急。速やかに、石見の合戦をさしおいて、馳せ上られたまえ。中国地方の勢力が、我らの弱みに付け込んで、そちらの軍勢の帰還の道を塞ぐ可能性もあるので、師夏(もろなつ:注1)を備前(びぜん)へ派遣し、中国地方の蜂起を防ぎつつ、貴殿のご到着をそこで待つようにと、命じてあるから。とにかく、早く!
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(訳者注1)高師夏、幼少時の名前は、「武蔵五郎」。
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高師泰 ・・・。

高師泰軍リーダー一同 ・・・。

高師泰 全軍、すぐに出発!

高師泰軍リーダーB エーッ!

高師泰軍リーダーC いったいどこへ?

高師泰 近畿!

高師泰軍リーダー一同 アワワワ・・・。

父・師直の定めたこの手はずを間違いなく実行するために、高師夏は、播磨を発ち、備後(びんご)の石崎(いわさき:注2)に到着した。

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(訳者注2)[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館] の注には、「広島県福山市駅家町中島・駅家町弥生ヶ丘の辺。芦田川中流左岸の地。」とある。
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ここで、舞台は近畿地方へ。

京都近郊の八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)の、足利直義(あしかがただよし)の陣営に、石見国よりの密使が到着した。

石見国よりの密使 高師泰は、急に三角城の包囲を解きよりましてな、今頃は、東へ向かっとりますわな。

足利直義 ふーん・・・そうか。石見方面は今、そういう情勢か。

足利直義軍リーダーD よぉしよし、遠路はるばるご苦労さーん!

石見国よりの密使 では、これにて。(退出)

足利直義軍リーダーD オレたちは八幡から、桃井(もものい)殿は比叡山(ひえいざん)から、東西から、ニラミきかされたとあっちゃぁねぇ。

足利直義軍リーダーE そりゃぁ、いくら将軍様だって、京都にはとても、踏みとどまれねぇやなぁ。

足利直義 で、兄上は、今いったいどこに?

足利直義軍リーダーF 最新の情報によりますと、京都撤退の後、播磨まで行かれ、現在、書写山(しょしゃざん:兵庫県。姫路市)にたてこもっておられる、との事です。

足利直義軍リーダーG あのぉ・・・自分が思うにわぁ・・・高師泰が将軍様と合流する前に、師泰をタタイといた方が、よかぁないでしょうかねぇ?

足利直義 そうだな、それがいいな。

というわけで、上杉朝定(うえすぎともさだ)が、迎撃軍の大将に選ばれた。(注3)

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(訳者注3)上杉朝定は当初、尊氏サイドにいたが、直義サイドに転じた。

[新編 日本古典文学全集56 太平記3 長谷川端 校注・訳 小学館] の注には、「朝定。重顕息。一月十二日夜、今川範国とともに京都を逐電し、八幡の直義の陣営に参っている(房玄法印記)。」とある。
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朝定は、八幡を発って瀬戸内海を海路西進、備後の鞆(とも:広島県・福山市)へ上陸。これを聞きつけた備後、備中、安芸(あき)、周防(すおう)の勢力が、我先にと馳せ参じてきた結果、上杉軍の兵力は膨大なものとなり、草木も靡かんばかりの勢いとなった。

事態は、さらに急変した。

上杉軍リーダーH 殿、チャンスです! 高師夏の軍、石見から引き上げてくる高師泰軍と、備後で合流するはずでしたよね?

上杉朝定 あぁ、そうだったね。

上杉軍リーダーH それがね、師夏、どういうわけか、師泰軍の到着を待たずに、備後から動きだしたそうですよ。京都へ向かってるようですわ。

上杉朝定 と、なるってぇとぉ、なにかい、高師泰軍は、単独で東に向かってるってわけかい?

上杉軍リーダーH まさに、その通り!

上杉朝定 イェーイ! チャンス、チャンスゥー。ただちに、高師泰を追撃ぃーっ!

朝定は、2,000余騎を率いて、1月13日の早朝、草井地(くさいじ:広島県・福山市・草戸町)を発ち、高師泰軍の後を追った。

こんな事とは夢にも知らず、高師泰は、一刻をも惜しみながら東へ東へ、馬に鞭当てて勢山(せやま:岡山県・倉敷市)を通過。

後続の、小旗一揆(こはたいっき)武士団、河津(かわづ)、高橋(たかはし)、陶山(すやま)兄弟は、師泰から遥か後方に遅れながら、ようやく、龍山(たつやま:兵庫県・高砂市)の西に到達した。

高軍の先陣と後陣は互いに遠く隔たり、全軍の兵力も判然としない。

上杉軍の先鋒500余騎は、高軍の最後尾を行く陶山軍100余騎を見つけ、盾の端を叩いて、トキの声を上げた。

上杉軍先鋒メンバーの楯 バシバシバシバシ・・・(盾の端を叩く音)。

上杉軍先鋒リーダーI エーイ! エーイ!

上杉軍先鋒メンバー一同 オーーウ!

戦場に臨んでは、一度たりとも相手に背中を見せた事がない陶山兄弟、これしきの事に、ひるむわけがない。陶山軍もトキの声を返し合わせ、矢を一斉射撃するやいなや、自軍側兵力の劣勢をものともせず、上杉軍中に突入。

魚鱗(ぎょりん)、鶴翼(かくよく)と、陣形をめまぐるしく変形、旗を左右に激しく振動、剣戟(けんげき)には電光が走る。一瞬の中に変化し、万方(ばんぽう)に当たる。

野草が紅色に染まり、汗馬(かんば)の蹄(ひづめ)は血を蹴たてる。河の水脈(みなまた)は分かれ、士卒の屍(かばね)たちまち、流れを閉ざす。

その奮闘にもかかわらず、前陣は、はるか彼方に隔たり、後陣にはもはや、続く味方もいない。ここを限りと戦い続ける中に、陶山高直(すやまたかなお)は、脇の下と頭部の3箇所を突かれて、ついに討死。

これを見た弟・陶山又五郎(またごろう)は、

陶山又五郎 (内心)あにき、冥土でちょい待ってろよ、おれもすぐに、行くけぇのぉ!

陶山又五郎 (内心)どこかに、えぇ敵おらんかの、そいつと刺し違ぉて死んじゃるけん。

そこに、火威しの鎧、紅のほろをかけた一人の武士が接近してきた。

陶山又五郎 おまえ、どこの誰じゃ?!

土屋平三(つちやへいぞう) おれの名は、土屋平三よ!

陶山又五郎 (ニコリ)おれは、敵が大好きじゃでのぉ! ほれ、来い! 組んじゃるけん!

二人は接近して組みあい、二頭の馬の真ん中に、ドッと落ちた。

上になった又五郎は、平三を抑え込んで首をかこうとした。

そこへ、道口七郎(みちくちしちろう)が駆け寄ってきて、又五郎の上にのしかかった。

又五郎は、下にいる平三を左手で押さえ、上にいる七郎を右手でかいつかみ、相手の首を捻(ねじ)切って殺してしまおうと、後ろを振り返った。

そこへさらに、七郎の郎等(ろうどう)が、かぶさってきた。

郎等は、又五郎の鎧下部の板をたたみ上げるやいなや、そこに3回、突きを入れた。

かくして、道口七郎と土屋平三は、危うく一命を取り留め、陶山又五郎は命を失った。

これを見た陶山の一族郎等は、

陶山軍メンバー一同 こうなったら、命惜しんでて、ナンになるんじゃ! おれたちゃみんな、死ぬだけやぁ!

長谷興一(はせこういち)、原八郎左衛門(はらはちろうざえもん)、小池新兵衛(こいけしんべえ)ら須山家一族郎党は、上杉の大軍中に破(わ)っては入り、破(わ)っては入り、一歩も引かずに、全員、討死にしていった。

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かくして、上杉軍は多数の死者を出しながらも、高軍の後陣に対して勝利を収めた。

高師泰軍に所属の宮兼信(みやかねのぶ)軍団は、総勢70騎であったが、「わが方の後陣、敗北」との情報に脱走者が続出、いつの間にか、たった6騎だけになってしまった。

宮兼信は、四方をキッと見回し、

宮兼信 へん! コシヌケどもめが、みんな逃げくさったか! えぇわえぇわ、あんな臆病もんらに囲まれとっても、かえって足手まといになるだけじゃでのぉ、逃げ出してくれて、こっちも大助かりじゃ。

宮兼信 敵サイドは、人も馬も、戦い疲れとるじゃろう、一息つかさんうちに、さぁ、かかったれやぁ!

宮軍6騎、馬の鼻を並べ、上杉軍に突撃。これを見て、小旗一揆、河津、高橋の500余騎が、おめいて宮の応援に向かう。

上杉の大軍は、浮き足立って退き始めた。間もなく、総崩れ状態に陥ってしまい、ついに一度も反撃に出る事なく、ただただ、大混乱の中に退却していくばかり。

大将の上杉朝定は重傷を負い、戦死者300余人、負傷者は無数。道中3里の間に、鎧、腹巻、小手、すね当て、弓矢、太刀、小刀等、遺棄された武具が、足の踏み場も無いほどに散乱している。

かくして、備中での合戦は、最終的には、高師泰サイドの楽勝という結果に終わった。

高師泰 ここから播磨までは、もう抵抗勢力、いやしねぇよな、ガハハハ・・・。

ところが、師泰の予想は外れ、美作(みまさか)国の武士の、芳賀(はが)、角田(つのだ)一族700余騎が集結し、山陰道の杉坂(すぎさか)を塞ぎ、高軍の進軍を食い止めようとした。

備中での勝利に乗って、勢い天地をしのぐ河津、高橋の両軍は、相手に矢を一本放つ余裕をも与えず、抜刀して一気に突撃。

芳賀・角田サイドは、谷底へ追い落とされ、ほとんど全員、討死にしてしまった。

かくして、備中、美作で首尾よく連勝し、高師泰と高師夏は、喜び勇んで歩を進め、観応(かんのう)2年2月、書写山にいる足利尊氏(あしかがたかうじ)のもとに合流した。

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2018年3月12日 (月)

太平記 現代語訳 29-3 足利尊氏と義詮、京都を退去し中国地方へ退避

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利義詮(あしかがよしあきら)サイド・リーダーA (内心)やったやったぁ、やったぜぇ!

足利義詮サイド・リーダーB (内心)将軍さまは、京都へ帰ってこられたし、

足利義詮サイド・リーダーC (内心)桃井直常(もものいなおつね)を、叩きのめしてやったぁ!

足利義詮サイド・リーダーD (内心)八幡(やわた:京都府・八幡市)の敵軍、もうめっちゃ、パニク(恐慌)っちゃってんじゃぁねえのぉ。

足利義詮サイド・リーダーE (内心)きっとそのうち、ナダレうって、こっちサイドに寝返ってくるぜ。

足利義詮サイド・リーダーF (内心)勝負あったねぇ!

しかしその後、誰も予想せぬような展開となってしまった。

15日の夜半より、脱走者続出、八幡へ八幡へと逃げていく。足利尊氏(あしかがたかうじ)率いる軍勢の大半が、影も形も無くなってしまった。

足利尊氏 なんだ、なんだ、これは! 戦(いくさ)に勝利したというのに、兵力がどんどん減っていくだなんて・・・いったいどうなってるんだ!

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 心底(しんそこ)、私について来ようという人間は、たったこれだけなのか!

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 こんな事では・・・あっちが攻めてきたら、もう京都では戦えんな・・・。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・ここはだな・・・一度、京都を撤退しておいた方が・・・よいと思うのだが・・・どうだ?

足利義詮 どちらへ転進しますか?

足利尊氏 もちろん・・・中国地方さ。あっち方面へいったん退いて・・・現地の勢力を集めて大軍を編成・・・関東方面にいる我が方の軍勢としめしあわせた上で・・・反攻にうって出る・・・。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 とにかく、このまま京都にいたんじゃ、どうしようもない・・・いったん撤退だ・・・撤退・・・。

尊氏軍リーダー一同 分かりました。

1月16日の早朝、尊氏軍は、丹波路(たんばじ)経由で京都を撤退した。

昨日は、将軍・尊氏、京都に立ち帰って、桃井、戦いに敗れ、京都には歓声わきおこり、八幡はこれを聞いて沈む。

今日は将軍、都を落ち、桃井すかさず入れ替わりて再び京都を占拠、八幡は大いに意気上がり、京都は密かに悲しむ。

吉凶(きっきょう)はあざなえる縄(なわ)のごとく、哀楽(あいらく)時を変えたり。いったい何を喜んでよいのやら、何を悲しめばよいのやら・・・。昨日、東山に立ち上る暁の霞(かすみ)を望みながら京都を出て、今日、山陰道の夕べの雲に引き分かれ、中国地方へと歩を進める足利父子である。

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足利尊氏 なぁ・・・みんな・・・。

尊氏軍リーダー一同 はい。

足利尊氏 なんてったって、わが軍はこれだけの名将ぞろい・・・それぞれが、一方面軍を率いれるだけの力量、十分にあるよな。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ならば、全員一個所にかたまっているってのは・・・極めて・・・非合理的・・・無策というべきだろう・・・。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・ここからは・・・分散して進むとしよう。

尊氏軍リーダー一同 はい。

足利尊氏 宰相(さいしょう)殿。

足利義詮(あしかがよしあきら) はい!

足利尊氏 丹波・井原(いはら)の岩屋寺(いわやでら:注1)を拠点に・・・しばらく、そこでがんばってくれ。

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(訳者注1)石龕寺(兵庫県・丹波市)の別名。
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足利義詮 わかりました!

足利尊氏 頼章(よりあきら)、義長(よしなが)、宰相殿を頼んだぞ・・・2,000騎ほど、つけてやるから。

仁木頼章(にっきよりあきら) ハハッ!

仁木義長(にっきよしなが) おまかせ下さい!

岩屋寺の衆徒たちは、以前から尊氏に対して無二の忠誠を通じていたので、軍勢の食料、馬の食料等を山のごとく積み上げて供出してきた。

ここは、地理的に絶好の防衛拠点であった。高い崖と聳(そび)える峰に守られ、四方は全て険阻(けんそ)な地形である。更に、地元勢力の支援も得られた。荻野(おぎの)、波波伯部(ははかべ)、久下(くげ)、長澤(ながさわ)の家の者たちが一人残らず馳せ参じてきて、日夜、城砦の防衛を怠り無く努めた。

義詮サイド・リーダーA やれやれ、これでまずは、一安心。

義詮サイド・リーダーB 昨日までの苦労が、まるでウソのよう。

義詮サイド・リーダーC 足にからまった糸がついに外れた、鳥の気分ってとこかなぁ。

義詮サイド・リーダーD 轍(わだち)の跡の水たまりの中で苦しんでた魚が、ようやっと川にたどりつけたってカンジ。

義詮サイド・リーダーE ほんと、ほんと。やっと一息つけたよねぇ。

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義詮が寺に入ったその日から、岩屋寺の衆徒たちは、昼夜ぶっ通して、勝軍毘沙門天法(しょうぐんびしゃもんてんぼう)を修し始めた。

7日間の修法の最終日に、寺のトップ・雲暁僧都(うんぎょうそうず)が、勝軍毘沙門天法・修行証明記録(注2)を持って、義詮のもとにやってきた。

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(訳者注2)原文では、「巻数(かんじゅ)」。
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義詮は雲暁に対面し、その寺が開かれた契機や、そこに祭られている本尊の霊験といった事などを、様々に問うていった。

足利義詮 僧都殿、私はね、なんとかして、この乱れた天下を静め、大敵を亡ぼしてしまいたいのですよ。その為にも、ぜひとも仏様のご擁護(ようご)を頂きたいと思ってます。いったい、どの菩薩(ぼさつ)様を礼拝し、いかなる秘法を修していったらいいんでしょう?

雲暁 はい、それはですねぇ・・・(ぐっと背を伸ばす)・・・およそ、諸仏(しょぶつ)諸菩薩(しょぼさつ)がもたらされる利益(りやく)、あるいは方便(ほうべん:注3)といったもんは、実にバラエティに富んでおりましてなぁ。

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(訳者注3)衆生を自らに近づけんがために、仏が駆使する様々な手だて。
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足利義詮 ふーん。

雲暁 み仏は、ありとあらゆる手を自由自在に使ぉて、衆生(しゅじょう)を救われますんでなぁ。・・・こっちが良ぉて、あっちが劣ってるっちゅうような事、そないに簡単に言い切れるもんでも、ないんですわ。

足利義詮 ふーん。

雲暁 ただし、これだけは言えますわなぁ・・・世界の中心に聳(そび)え立ってるシュミ山の北方の守護を担当して、鬼門(きもん)の方角をガード、悪をくじいて屈服せしめ、戦の勝利という一大利益(いちだいりやく)を我々に与えたまう事にかけては、四天王(してんのう)中の多聞天(たもんてん)、別名、毘沙門天(びしゃもんてん)ともお呼び申し上げますが、この仏様のおん徳が、一番ですわ。

足利義詮 ふーん。

雲暁 宰相様、これはな、なにも、我が寺のご本尊が毘沙門天様やから、わざと言うてんのんとは、ちゃいますでぇ。その証拠にな、古代中国に、こないな事例がありますがな。

雲暁 唐(とう)王朝の時、玄宗皇帝(げんそうこうてい)治世の天宝12年、安西(あんせい)という所に反乱が起こりました。数万の官軍が鎮圧に向かぉたのですが、戦うたんびに負けてばっかしですわ。

雲暁僧都 玄宗皇帝、臣下にいわく、「もうこないなっては、人間の力の及ぶ所ではないわいな、わし、いったい、どないしたらえぇねん?」。

雲暁僧都 臣下達は口をそろえていわく、「まことに、天の擁護無くしては、乱を鎮める事は不可能ですわ。不空三蔵(ふくうさんぞう:注4)を召されて、彼に大法を修させるしか、しょうがおまへんなぁ。」

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(訳者注4)不空(Amoghavajra):真言宗付法第6祖。スリランカ出身(一説には北インド出身とも)。720年に師の金剛智(Vajrabodhi)に随って唐へ入った。その後、真言密教はこの不空から恵果(けいか)へ伝えられ、さらに恵果から空海(くうかい:弘法大師)へと伝えられ、空海の帰国によって日本に入ってきた。(参考:「仏教辞典:大文館書店刊」)
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雲暁 皇帝はすぐに、不空三蔵を宮中に召し、彼に毘沙門天法を修させました。すると、まぁなんと驚いた事には、その夜、鋼鉄の牙を持つ金の鼠数100万匹が、安西に突如出現しよりましてな、反乱軍の太刀、小刀、兜、鎧、矢のハズ、弓の弦に至るまで、一つ残らず食い破り食い切り、さらには、人間までも、噛み殺し始めました。こないなっては、反乱軍もそら、たまりまへんわいな、全員首を延べて降伏してきよりました。かくして、官軍は矢の一本も射る事なくして、反乱側の大軍を平定することができた、というわけです。

足利義詮 フーン!

雲暁 我が国にも、同じような例がございますで。

雲暁 朱雀(すざく)天皇の御代においては、金銅製の四天王を比叡山(ひえいざん)に安置し奉って、あの平将門(たいらのまさかど)を亡ぼしました。かの聖徳太子(しょうとくたいし)も、毘沙門天の像を刻んで兜の正面にそれを置き、物部守屋(もののべのもりや)を誅せられました。

足利義詮 うーん、なるほど!

足利義詮の両手 パン!(右手を握りしめ、開いた左手を軽く叩く)。

雲暁 こないに奇特(きとく)なご擁護のお力は、広く世の知る所、人々の仰ぐ所ですよってにな、毘沙門天様のご加護の威力に、何ら、不審をさしはさむ余地はありません!

足利義詮 うん!

雲暁 それにしても、宰相様は、ほんまにもう、なんとまぁ、運のお強いお方なんでっしゃろなぁ・・・よりにもよって、毘沙門天様が示現したもう、この我が寺に陣を敷かれるとは!

足利義詮 そうだよな! きっとお力、頂けるんだよな!(強く、うなずく)

雲暁 頂けますともぉ! 頂かいでかぁ! 先に申しあげました昔の事例の数々が、何よりの証拠ですやん! 宰相様は必ずや、毘沙門天様のお力を頂かれて、イッパツで天下を静められ、敵軍を千里の外に掃(はら)い除(のぞ)かれますわいな、ゼッタイ間違いありませんてぇ!

足利義詮 よーし! やるぞぉ!

足利義詮の両手 パンパンパンパン!(握りしめた両手で、膝を叩く)。

このように、頼もしげに力説する雲暁の言葉に、義詮も大いに信心を起こし、丹波国の小川庄(おがわしょう:兵庫県・丹波市)を、岩屋寺の永代領地として寄進した。

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2018年3月11日 (日)

太平記 現代語訳 29-2 足利尊氏、京都を奪還せんとす

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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心細い思いの中に京都を出た足利義詮(あしかがよしあきら)は、桂川(かつらがわ)を西へ渡った。

向日明神(むこうみょうじん:京都府・向日市)の前を南へ過ぎようとした時、前方の物集女(もずめ)、西岡(にしおか)の辺に、大軍が進んでくるのが見えた。小松の生い茂る原からたった今、姿を現したばかりの軍勢ゆえ、その兵力を判断しがたく、ただ、おびただしい馬煙(注1)と旗2、30本が翻っているのだけを、かろうじて認める事ができた。

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(訳者注1)馬が掻き立てる土煙。
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義詮は馬を止めて、

足利義詮 もしかして、あれは、八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)からカラメ手方面に攻めてきた敵軍かも。(注2)

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(訳者注2)八幡山に陣を敷いている、足利直義側の軍。
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さっそく、斥候(せっこう)を送って調べさせたところ、それは、八幡山から来た敵軍ではなく、尊氏(たかうじ)と高師直(こうのもろなお)率いる軍勢であった。山陽道一帯の勢力を集めて2万余騎の軍を編成し、京都へ帰ってきたのである。

足利義詮 やれやれ・・・これで安心だね。

義詮軍メンバーA (内心)嬉しいねぇ・・・これってまるで、法華経(ほけきょう)の中にある、あの話みたい。

義詮軍メンバーB (内心)家出して、あちらこちらと放浪しまくってた息子が偶然、父の長者の家の前に立ったっていう、あの有名な話ね。

義詮軍メンバーC (内心)さしづめ、「窮子、父の長者に逢える喜び」ってとこだよなぁ・・・あぁ、やれやれだ。

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足利尊氏 今からすぐに・・・京都へ押し寄せるとしようじゃないか・・・桃井(もものい)を攻め落とし、首都を奪還。

足利義詮 はい!

足利尊氏 そちらの軍勢とこちらの軍勢・・・合わせて兵力2万余騎・・・十分だよな。

足利義詮 はい!

足利尊氏 みんな・・・桂川を渡河の後、三手に分かれて進軍。

足利軍リーダー一同 おう!

足利尊氏 師直・・・第1軍は・・・おまえにまかせるからな・・・総指揮を取れ。

高師直 ハハーッ!

足利尊氏 第1軍のリーダー・・・仁木頼章(にっきよりあきら)、仁木義長(よしなが)、細川清氏(ほそかわきようじ)、今川頼貞(いまがわよりさだ)・・・兵力5,000。

第1軍リーダー一同 ハハーッ!

足利尊氏 第2軍は・・・第2軍は・・・佐々木殿に、お願いするとしようか。

佐々木道誉(ささきどうよ) まぁかしてといてちょ!

足利尊氏 で・・・どれくらいの兵力を・・・ご希望かな?

佐々木道誉 いやいや、心配ご無用、うちの連中らだけで、十分ですわ。

足利尊氏 了解、ご存分に。

佐々木道誉 OK!

足利尊氏 第3軍は、私と宰相殿(さいしょうどの:注3)が、指揮を取る。

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(訳者注3)義詮の事。「宰相」は参議(官職)の別称。
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第3軍リーダー一同 ハハーッ!

足利尊氏 桂川渡河の後・・・各方面軍3手に分かれて、京都へ進入。

足利尊氏 第1軍は、四条通りを一直線に東へ。

足利尊氏 第2軍は、東寺(とうじ:南区)の前を東へ進んだ後に・・・そうだなぁ・・・日吉神社(ひえじんじゃ:東山区)あたりの東山(ひがしやま:東山区)へ登って待機ってセンで、どうだろ?

佐々木道誉 旗竿を下ろし、笠標(かさじるし)を巻き隠してね。

足利尊氏 そうそう。

足利尊氏 第3軍は、大宮(おおみや)通りを二条大宮(にじょうおおみや:注4)まで北上した後、二条通りを法勝寺(ほうしょうじ:左京区)を目指して東へ進む。

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(訳者注4)二条通り(東西に走る)と大宮通り(南北に走る)の交差点。
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足利尊氏 最新の情報によれば、桃井は現在、東山に陣取っている。四条通りを東進してくる第1軍を見たら、おそらく、東山から下りてきて、鴨川(かもがわ)に防衛ラインを敷くだろう。

足利尊氏 第1軍は、しばらくそこでもみ合った後、わざと退却しろ。桃井はきっと、勝ちに乗じて追撃にかかってくるだろう・・・佐々木殿、そこをすかさず、後方から急襲。

佐々木道誉 ガッテンガッテン!

足利尊氏 前と後から攻められて、桃井軍は大混乱に陥る、そこに第3軍がトドメを。

足利義詮 我々は、桃井軍を、北白河(きたしらかわ:左京区)方面から突くのですね?

足利尊氏 そうだよ。

高師直 ウハハハ・・・こりゃぁもう、勝ったようなもんですなぁ。いくら勇猛果敢な桃井だって、そうなりゃ退散する他ないでしょう、ウハハハ・・・。

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桂川を渡河の後、作戦通りに、高師直率いる尊氏サイド第1軍は、大宮通り付近で旗を降ろし、四条河原へ一直線に進んだ。

第1軍のその動きを、東山の上から観察していた桃井直常(もものいなおつね)は、

桃井直常 おぉ、来やがった来やがった。よぉし、全軍、鴨川まで前進ィーン!

桃井軍メンバー一同 オーゥッ!

桃井軍は東山を背にし、鴨川を前に、防衛ラインを敷いた。

赤旗一揆(あかはたいっき)、扇一揆(おうぎいっき)、鈴付一揆(すずつけいっき)各武士団から構成の2,000余騎が、3か所に分散布陣。射手を前線に進め、垣盾(かいだて)200~300個をつき並べ、相手がかかってきたら一斉に迎撃し、広い河原の中で勝負を決しようと、無言の中に待機する。

やがて、尊氏サイド第1軍が、戦場に到着。

両軍、旗を上げ、トキの声を上げつつも、尊氏サイド第1軍は、他の軍よりの準備完了の合図を待って、戦端を開こうとはしない。桃井軍も、八幡よりの援軍の到着を待って、戦闘開始をわざと遅らせようとした。

両軍相対して戦意をかき立てている間にも、5騎あるいは10騎と集団で、あちらこちらと馬を走らせたり止まらせたりしているグループがいる。これは、いざ戦闘開始となれば進退自在に対処するために、馬のウォーミングアップをしているのである。母衣(ほろ)袋から母衣を取り出し、「さぁ、いよいよこれから、我が命のかかった大事な戦が始まるぞ」と、いかにも覚悟定めた形相の中に、鎧を装着している者もいる。

やがて、桃井サイド・扇一揆武士団の中から、一人の男が最前線に現われた。身長はおよそ7尺、黒い髭に血を注いだような眼、火威(ひおど)しの鎧に5枚シコロの兜の緒を締め、鍬形(くわがた)の間には、太陽と月を描いた紅色の扇を全開。夕日にその扇が真っ赤に染まっている。

手には1丈強の長さの樫(かし)製の棒を持っている。その棒は八角形に削られていて、両端に金具をつけて重みを加えてある。彼は、その棒を右の小脇に挟み、口から白泡吹く白瓦毛(しろがわらげ)の太くたくましい馬にまたがり、たった一騎、河原に進み出て、大音声をもっていわく、

秋山光政(あきやまみつまさ) いったん戦場に臨んだが最後、誰だって一応は討死覚悟ってもんだろさ。でもなぁ、今日のおれのこの心境、そんな通りイッペンのもんじゃぁねぇよ! おれはもうこの命、バァーンと投げ捨ててしまったんだわさぁ、みんな、わかってくれっかなぁ。

秋山光政 この戦が終わった後によぉ、「あいつの日頃の大口、ありゃぁ、ダテじゃぁなかったなぁ」ってな事、みんなで言ってくれりゃぁいいよなぁ・・・そうなりゃ、おれも大満足ってもんだい。

秋山光政 それほど有名なおれじゃぁねぇからさぁ、こんなとこで大声出して名乗り上げるのも、なんとなくザァトらしいとは思うけど・・・ま、とにかく、聞いてくれ。

秋山光政 おれっちのルーツは、清和源氏(せいわげんじ)、おれの名は、秋山新蔵人光政(あきやましんくろうどみつまさ)ってんだ、以後どうぞ、お見知りおきをねぇ!

秋山光政 清和源氏なんだから、こう見えても天皇家の血統だい! 皇室を出て臣下の位になってから、まだそんなに経っちゃぁいねぇけど、先祖代々、武略の家に生れ、弓矢の道に励んできたぜぃ。

秋山光政 わが家の武名を高めんがために、おれは、幼少の頃から壮年の今日まで、兵法を学びたしなむに暇(いとま)無しってわけさぁな。ただし、黄石公(こうせきこう)が張良(ちょうりょう)に授けた兵法、あれだけは、おれもまだ勉強できてねぇけど・・・一口に兵法って言っても、レベルがいろいろあってな、あれは天下国家治世レベルの兵法なんだ、武士一人の身を処するようなレベルのもんじゃぁねぇんだよなぁ。

秋山光政 ってわけでぇ、おれがマスターした兵法はだなぁ、鞍馬(くらま:左京区)の奥の僧正谷(そうじょうがたに)で愛宕(あたご)や高雄(たかお)の天狗どもが九郎判官(くろうほうがん)・源義経(みなもとのよしつね)に伝授したってスジのヤツだ。その兵法、隅から隅まで、おれは完璧にマスターしちゃってんだよなぁ!

秋山光政 さぁ、さぁ、そこにいる仁木、細川、高家の方々、我こそはって思う人いるんだったら、名乗りをあげて、いざ勝負ぅ、前へ出て来い、前へぇ! 見物の皆々様の眠気冷ましに、華やかなバトル、いっちょうやらして見ようじゃぁねぇかよぉ!

馬首を西に向けて立つ秋山光政の覇気(はき)に、相手側は完全に威圧されてしまった。仁木、細川、高家の中には、手柄を顕わし名を知られた武士は多数いるのに、いったいどうしたことか、みな互いに周囲を見回すばかり、「あいつにおれが立ち向かって勝負してやろう」と言う者は、一人もいない。

やがて、尊氏サイド第1軍中から、一人の武士が馬を進めて前線に出てきた。丹党(たんとう)武士団所属の阿保忠実(あふただざね)である。

連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬に厚い房を掛け、唐綾威(からあやおどし)しの鎧、龍頭(りゅうず)の兜の緒を締めている。4尺6寸長カイシノギの太刀を抜いて、その鞘を川中へ投げ入れ、3尺2寸長の豹皮の尻鞘(しりざや)かけた金造りの小刀を腰に穿き、たった1騎、大軍の中から進み出ていわく、

阿保忠実 いやぁ、なかなか、お見事なご口上、あぁんまり見事なんでぇ、すっかり聞きほれちまったよなぁ、秋山殿!

阿保忠実 おれは、将軍家執事・高師直様の家臣、阿保肥前守(ひぜんのかみ)忠実ってモンだ。

阿保忠実 おれはね、幼ねぇ時から関東住まいさねぇ。明けても暮れても、山野に獣を追い、川に入っては魚を採り・・・そんなカンジで、身すぎ世すぎしてきたもんですからねぇ、兵法なんか勉強してるヒマございませんでしたねぇ、ハハハハ・・・。その張良一巻の兵法とかいうヤツはもちろんの事、呉氏(ごし)や孫氏(そんし)が伝えたとかいうヤツだって、ただのいっぺんも・・・もう名前すら聞いた事ぁありゃしねぇ、ワッハハハ・・・。

阿保忠実 だけどな、ここでイッパツ、言わせてもらうぜ! 戦場において、状況に応じて態勢を変え、敵を前にして気力を発するってなぁ合戦のノウハウなんてもんはなぁ、兵法なんざぁ勉強しなくったってぇ、勇士でありさえすりゃ、自然と身についてくるもんなんだよぉ! こう言っちゃぁなんだが、このおれだって、元弘(げんこう)、建武(けんむ)以後、300余回もの合戦に、敵を靡(なび)いて味方を助け、強きを破り堅きを砕く事、その数を知らずってとこさねぇ!

阿保忠実 人間、言うだけだったら、なぁんとでも言えるわさ。「九郎判官の兵法」だぁ? フン、笑わせんじゃぁねぇやい! そんな口先だけの自慢が、いったいなんになる? そんなの、矢をつがえずに弓の弦(つる)引くようなもんじゃぁねえか、畑の中で水泳の訓練するようなもんじゃぁねえか! そんな事いくら言ってみたって、誰もビビッちゃぁくれねぇぜ!

阿保忠実 まずは、このおれの戦いっぷりをよぉくよく見てな、大口タタクなぁ、その後にしやがれぃ!

高らかに応答して、静々と馬を進めていく。

尊氏サイド第1軍メンバー一同 おいおい、あれ見ろ。一騎うちが始まったぜ。

桃井軍メンバー一同 こりゃぁ、一世一代のミモノだよぉ。

両軍全員、手を握りしめて、二人にじぃっと見入る。数万の合戦見物の人々も、そこが戦場であることを忘れたかのように至近距離まで走り寄ってきて、「この勝負、さぁどうなるのだろうか」と、かたづを呑んで見つめている。まことに、今日の戦の華、ただこの二人に尽きたり、の感あり。

二人の間が狭まった。互いにニッコリ笑みを交わし、

阿保忠実 行くぜい!

秋山光政 来やがれい!

阿保忠実 エーイ!(ガガガッ:馬に拍車を入れる音)

秋山光政 オーウ!(ガガガッ:馬に拍車を入れる音)

二人は右に駆け違え、左に開き合わせ、縦横無尽に馬を走らせながら、バトルを展開していく。

秋山光政 エェイ!

光政の棒 ビュゥッ(棒が風を切る音)

阿保忠実 なんのぉ!

忠実の太刀 ドヒュィーン!(太刀で棒を受け流す音)

阿保忠実 エェイ!

忠実の太刀 シュィーン!(太刀が風を切る音)

秋山光政 イヤァ!

光政の棒 ブシュッブシュッブシュッ(棒と太刀が接触する音)

3回戦って3回引き離れた。

光政の棒は、先5尺が折り切られて無くなっており、わずかに手元部分を残すのみ。忠実の太刀も、鍔元から打ち折られてしまっており、腰に差した小刀が残っているのみである。

高師直 うーん、こりゃぁいけませんなぁ。忠実は、刀を使わせたらなかなかのもんなんだけど、腕力がちょっとねぇ・・・。どうみても、秋山の方が腕っぷし強いよねぇ・・・このままじゃ、アイツに勝ち目ね(無)えわ。

高師直 おぉい、みなの衆、忠実を死なせちゃぁいかんよ! 秋山を射落しちゃえ!

師直の命令に従い、弓の名手7、8人が河原に出て、光政けがけて矢の雨を降らせ始めた。

秋山光政 ・・・。

光政の棒 バシバシバシバシ・・・(棒を使って飛び来る矢をはたき落す音)

光政は、体の正面に飛び来った矢23本を、棒を使って打ち落した。

忠実も武士の情けを知る男、今は光政を討とうともせず、その矢面(やおもて)に自分の身を置き、

阿保忠実 おい、射ちゃいかん、射るな、射るなぁ!

「秋山光政ほどの武士を、むざむざと射殺してしまうには忍びなし」と、味方を制するその心、まことに爽(さわや)やかなものである。

かくして、この対決は、双方引き分け。まさに万人が目を見晴る名勝負であった。

二人のこの一騎うちは一大ブームを巻き起こし、後日、おびただしい数の神社や仏閣に奉納される絵馬(えま)、あるいは、扇や団扇(うちわ)の絵柄に、「阿保VS秋山・鴨河原対決」のシーンが登場した。

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その後、本格的な戦が始まった。

桃井軍7,000余騎と、仁木・細川軍10,000余騎が、白川一帯を西へ、東へ、一進一退を繰り返す。7、8回と衝突を繰り返す中に、戦死者300人、負傷者多数。

両軍互いに戦い疲れ、一息入れている所に、かねてよりの作戦通り、尊氏サイド第2軍すなわち佐々木軍700余騎が、思いもよらぬ中霊山(なかりょうぜん:位地不明)の南方からドッと一斉にトキの声を上げ、桃井軍の後方を急襲した。

これに驚いた桃井軍は、陣を乱しながらも、二方面の相手と戦い続けた。

西南方向から攻めかかる尊氏サイド第1軍が徐々に桃井軍を圧倒し始め、まさに総崩れにならんかと思われたが、桃井兄弟は馬から飛び下り、敷皮の上に座して、

桃井直常 勝つも負けるも、運を天に任せるのみ、一歩も退いてはいかん! 全員、討死!

桃井兄弟のこの気力に支えられ、桃井軍はかろうじて持ちこたえた。

日没が近づいてきた。戦闘開始から既に、数時間が経過している。

桃井直常 (内心)八幡はいったい何をしてるんだ! 早く援軍を送ってくれよなぁ、早くぅ!

桃井直常 (内心)うーん・・・もう限界だぁ。

桃井直常 全軍、東山方面へ退却!

しかし、この時既に、足利尊氏と足利義詮が率いる尊氏サイド第3軍が、二条通りを東進し、桃井軍の東山方面への退路を塞いでしまっていた。

終日の合戦に援軍もなく、戦い疲れた上に三方を大軍に囲まれたとあっては、さすがの猛将・桃井直常もいかんともし難く、桃井軍は、粟田口(あわたぐち:左京区)から東山を越えて、山科(やましな:山科区)へ退いた。

しかし、直常は坂本(さかもと:滋賀県・大津市)までは退かず、その夜は逢坂山(おうさかやま:大津市)に陣を取り、大カガリ火を焚いてそこに留まった。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月10日 (土)

太平記 現代語訳 29-1 吉野朝・足利直義・連合軍、攻勢に転じる

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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急場しのぎの策謀が功を奏して、吉野朝廷との連合が成立し、足利直義(あしかがただよし)は、何とか窮地を脱することができた。

やがて、大和(やまと)国の越智(おち)氏の下に身を寄せている直義のもとへ、和田(わだ)、楠(くすのき)をはじめ、大和、河内(かわち)、和泉(いずみ)、紀伊(きい)の吉野朝側勢力が、我も我もと馳せ参じてきた。

「京都とその周辺地域から、武士たちが続々と、足利直義の旗の下へ参集」との知らせに、楠氏を攻略するために石川(いしかわ)河原に築いた向城に陣取っていた、無二の尊氏党・畠山国清(はたけやまくにきよ)までもが、1,000余騎を率いて、直義のもとへ馳せ参じた。

風雲、急を告げはじめた。都中至る所に、様々な流言飛語(りゅうげんひご)が飛び交い始め、「吉野朝の軍勢が、京都へ向かっている」などといううわさまで、立ちはじめた。京都の防衛を担当している足利義詮(あしかがよしあきら)は、九州遠征途上の備前(びぜん)国・福岡(ふくおか)に滞陣中の父・尊氏(たかうじ)のもとへ、しきりに早馬を走らせて急を告げる。

足利尊氏 (内心)ふーん・・・直義が吉野朝になぁ・・・思ってもみない展開になってしまった・・・。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 とにかく、一刻の猶予もできんな・・・よし、まずは、師泰(もろやす)を京都へ帰らせよう。

足利尊氏 師泰は今、石見(いわみ)の三角(みすみ)城を包囲してるんだったよな・・・すぐに、師泰のもとに手紙を送れ、「京都が今、大変な状況になっている、三角城攻めを中止して、すぐに京都へ戻れ、夜を日に継いで、京都へ戻れ」とな。

尊氏側近 ははっ!

足利尊氏 ・・・でもなぁ・・・ここから石見まで、早馬を飛ばしてたんでは・・・それから、師泰が京都へ向かったんでは・・・手おくれになってしまうかも・・・。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 ・・・京都へ戻る!

尊氏軍リーダー一同 ははっ!

2,000余騎を率いて、尊氏は福岡を発ち、京都へ向かった。

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この情報をキャッチした直義は、

足利直義 軍勢が京都へ到着する前に、義詮を攻め落す! 行くぞ!

直義軍リーダー一同 おう!

京都朝年号・観応(かんのう)2年(1351)1月7日、7,000余騎を率いた直義は、大和を出て京都に向けて軍を進め、八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)に陣を取った。

直義側勢力中の有力メンバー・桃井直常(もものいなおつね)は当時、越中国(えっちゅうこく)守護の任にあり、現地に滞在していた。かねてよりの直義との約束通りに、同年1月8日、直常は越中を発ち、能登(のと:石川県北部)、加賀(かが:石川県南部)、越前(えちぜん:福井県東部)の勢力7,000余騎を率い、夜を日に継いで京都へ向かった。

途中、大雪に遭遇(そうぐう)して、馬の足が立たなくなってしまったので、

桃井直常 全員、馬から下りて、カンジキを履(は)け!

カンジキを履いた2万余人に、全軍の先頭を歩ませ(注1)、雪を踏み固めさせた。これによって、山の雪は凍って鏡のようになり、かえって馬の蹄を労せずして、[7里半街道]の山中を、人馬共に容易に越える事ができた。

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(訳者注1)先に「7000余騎」とあるのだが、ここではいきなり「2万余人」になっている。どうもよく分からない。
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かくして、桃井軍は、比叡山(ひえいざん)山麓の坂本(さかもと:滋賀県・大津市)に到着した。

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京都を守っている足利義詮は、東西双方から脅かされる状態になってしまった、西の八幡からは足利直義に、東の坂本からは桃井直常に。

足利義詮 おいおい、こりゃぁ油断ならない状勢になってきたじゃぁないの。毎日、着到(ちゃくとう:注2)バッチシ記録して、兵力の確認、しっかりしといた方がいいよなぁ。

義詮側近A それが、いいでしょうね。

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(訳者注2)招集に応じてやってきた武士の氏名を記録する行為を、「着到」と言う。
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1月8日、着到記録開始初日の兵力は3万騎。翌日、登録兵力は1万騎に、その翌日、さらに3,000騎にまで減じてしまった。

足利義詮 なんだいなんだい、こりゃまたいったい・・・寝返りするもん、続出じゃぁないのぉ。やんなっちゃうよなぁ、ったくぅ。

義詮側近一同 ・・・。

足利義詮 うん・・・そうだな、そうだよなぁ、こうなったら、道々に関を設けるしか、ないよなぁ。わが方の軍勢が京都から逃亡しちゃわないようにさ。

というわけで、淀(よど:京都市・伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、今路(いまみち:左京区)、逢坂山(おおさかやま:滋賀県・大津市)に関を設けた。ところが、その関を守る人間もろとも、我も我もと集団脱走があいついだ。そしてついに、「1月12日夕刻現在、わが方の兵力、譜代(ふだい)、外様(とざま)合わせて500騎足らず」と、記録せざるをえないような状態にまで、なってしまった。

13日の夜から、桃井軍が比叡山上に陣取ったものと見え、山頂に、大かがり火が見え始めた。八幡山の直義軍も、これに呼応して合図のかがり火を焼き始めた。

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尊氏派の主要メンバー、すなわち、仁木(にっき)家、細川(ほそかわ)家の人々と義詮との作戦会議が始まった。

会議出席メンバーB 兵力、足りねぇわぁ、今のこれじゃぁねぇ。

会議出席メンバーC この兵力でもって、あの大軍に立ち向かっていっても、とても勝ち目無いだろう。

会議出席メンバーD わが方、勝利の確率・・・0.1パーセントも、あるかないか。

会議出席メンバーE 幸いな事に、将軍様はすでに、中国地方から京都へ向かっておられます。今ごろはもう、摂津(せっつ)山城(やましろ)国境のへんに到着されてるんじゃぁ? どうでしょうかね、ここはいったん、無難な方策を選ばれては? 京都から出て西へ転進して、将軍様の軍勢に合流、というのが、いいんじゃないでしょうかねぇ?

会議出席メンバーF わしも、それがいいと思います。将軍様と合流された後、またすぐ、京都に攻め寄せてくりゃぁ、いいじゃないですか。

会議出席メンバーC そうやって、態勢を立て直した後だったらね、あのテこのテと、様々に作戦も展開できようってもんですわさ。

会議出席メンバーD 殿、ここは、後日を期して、ジットガマンノコでいきましょうや。将軍様と合流さえなさったら、もうコワイモンなし、そうなってから、思う存分、一戦やらかしやしょう!

会議出席メンバーB しょせん、戦争ってぇのは、最後に勝ちゃ、それでいいんですわ。

足利義詮 うん・・・そうだな、そうだよな・・・いい意見に従っておくってのが、すじみちってもんだよねぇ・・・ハァー・・・(溜息)

会議出席メンバーC じゃ、いいですね? 京都撤退のセンで?

足利義詮 ・・・ハァー(溜息)・・・しょうがないね・・・。

1月15日早朝、義詮たちは、京都を撤退し、西へ向かった。同日正午、桃井直常がそれに入れ替わって、京都を占領した。

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世間の声G おいおい、桃井直常って、チョウ(超)ラッキーな男だよなぁ。一戦もせずに、京都を手中に収めちゃったじゃぁないの。

世間の声H ほんに、鮮やかなもんどすなぁ。足利義詮はんが撤退しはったその日のうちに、さっさと京の都、占拠しておしまいやしたわ。

世間の声I いやいや、あれはあんまし、えぇ戦略とは言えませんで。じつはなぁ、昔の日本の歴史上においても、これと似たような事が、ありましてなぁ。

世間の声J おっちゃん、おっちゃん、なんやのん? その「似たような事」言うのん、おせ(教)て、おせて。

世間の声I あんなぁボク、よぉ聞きなはれや。源氏と平氏が天下を争そぉてた、治承(じしょう)年間、平氏は都落(みやこお)ちをしてしもたんやがな。

世間の声J うん? みやこおち? それなに?

世間の声K ボクゥ、あのっさぁ、都落ちってのはっさぁ、京都から逃げ出すって事なんだわさぁ。

世間の声J ふーん・・・ほなら、おねぇちゃん、なにか、足利義詮さんも、今回、「都落ち」しはったっちゅうことになるんか?

世間の声K キミィ、なかなか、ワカッ(理解)てるじゃぁん。

世間の声I 平氏を京都から追い落としたんはな、源義仲(みなもとのよしなか)っちゅうお武家さんやったんやわ。ところがな、義仲はん、それからなおも、比叡山(ひえいざん)にじっとしててな、京都へ入らはったんは、それから11日も後の事やったんや。

世間の声L いったいなんでまた、そんなにグズグズしてたんだろう?

世間の声I 急いで京都に入りたいのは、ヤマヤマやったんや。そやけどな、そこはじっくり、慎重に構えてはったんや、状勢を見定めながらな。相手をあなどって、ワナにはまったりせんようにな。

世間の声M 源義仲のその判断、京都占領政策の面からの配慮も、あったんですよね。

世間の声J え? それ、どういう事やのん? おせ(教)て、おせて。

世間の声M いきなり京都へ入ってしまったら、義仲軍の連中ら、みんなイイキになってしまってさ、そこら中で、住民に悪いこと、するかも知れないだろ? 略奪とか放火とかね。

世間の声J なるほどなぁ。

世間の声M 桃井直常も、そういった所に、もっと配慮があっても、よかったのではないだろうか。

世間の声K 武略に長じてる人ってのはっさぁ、そういうトコの配慮が違うんだよねぇ。シメルべきとこは、きちんとシメテかかるんだよねぇ。

世間の声N うーん・・・そういう観点から見てみりゃ、桃井の行動、ちょっと、思慮が無さ過ぎるってぇ面も、無きにしもあらずってとこかい。

世間の声O 自軍メンバーに食事も取らさずに、馬にも糠(ぬか)を食べさせる事もなく、あわててバァーッと京都に入ってしまったんだが。いったいなんで、そないにあせる? なぁも、あせる必要ねぇだが。

世間の声H もしかしたら、京都をあけ渡さはったん、足利義詮はんの作戦どしたんやろか? 桃井はんに油断させといて、ほいでそのスキをついて、再び京都を攻める・・・そないなったら、桃井はん・・・。

世間の声I 確実に負けるわなぁ。

世間の声P テメェるら、なにバカな事、グチャグチャ言ってやがんでぇぃ! いいかげんにしろよぉ!

世間の声Q 戦(いくさ)ってぇもんはなぁ、キモヂカラァ(胆力)ふりしぼって、ガンガンやっていくもんなんでぃ! テメェらみてぇな軟弱モンに、戦の事なんか、わかってたまるかってんだぁ! 知ったような口、聞くんじゃねぇ!

世間の声R そうさそうさ、敵の姿見てビビッてちゃぁ、ハナシになんねぇのぉ。まずは、敵を呑んでかからんきゃな。

世間の声S その通りやぁ! たとえ、足利義詮が京都にがんばってたとしてもやなぁ、「エェイ、イケェー!」っと、京都に突入していくしか、ないんやわい! ましてや、相手が撤退してもて、もぬけの空やねんから、指くわえて見てる事、ないやろがぁ!

世間の声T 一瞬のチャンスを逃さず、すかさず京都を占拠、それでこそ、日頃よりの念願も達成できるってもんですよねぇ! 人生のビッグチャンスを、逃しちゃぁいけません! 逃したチャンスは、二度と、やっては来てくれなぁーい!

世間の声J そやけどな、もしあれが、足利義詮さんの側の作戦でやで、わざと、わざと、京都から逃げ出しといてやで、そいでな、また、京都へ攻めてきはったら・・・そないなったら、桃井さん、どないする?

世間の声P あのなぁ、ボウヤ、武士ってぇのはなぁ、戦をするために生まれてきてんだよ。

世間の声Q 日本の中心にして王城の地・首都・京都のど真ん中で戦えりゃ、もう言う事ぁねぇやな。たとえそこに屍をさらす事になったとしたって、それで本望ってもんだろが。

世間の声U さきほど、「京都の住民に乱暴をさせないためには、自軍メンバーを京都へ入るのを遅らせるべきであった」という見解を、主張されてた方がおられたようですが・・・。

世間の声M あぁ、たしかに、そのように言いましたけど・・・。

世間の声U 私としては、その見解は、到底受け容(い)れられるものではない。京都へ軍を入れる日時Tと、それ以降の期間中の京都市街地における略奪放火事象の生起確率Pとの間には、何ら相関関係は認められないと思われますが。

世間の声V いやいや、それがね、最新の臨戦心理学の知見によりますとですねぇ・・・、

世間の声W まぁまぁ、みなさん・・・桃井直常はんといえば、足利軍中きっての戦上手のお人ですわいな。そないなお人が、あないに急いで京都へ入らはったという事はですよ、何かそこには、深ぁい深ぁい思惑(おもわく)があらはったという事でっしゃろて。

世間の声X そうやろかぁ?

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月 9日 (金)

太平記 現代語訳 28-7 足利直義、吉野朝サイドへ (付・漢高祖と楚項羽の戦い)

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、高(こう)家の人々らに背かれた足利直義(あしかがただよし)は、京都を出奔してはみたものの、大和(やまと)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、紀伊(きい)の勢力らはいずれも、吉野朝(よしのちょう)側陣営に所属しており、今更、彼の味方をしようとする者は誰もいない。

足利直義 これじゃぁまるで、沖からも磯からも離れちゃって、中途半端なままフラフラ漂ってる舟みたいなもんだな。完全に進退を失ってしまったよ。

越智伊賀守(おちいがのかみ) そうですなぁ・・・このままでは、どないにもこないにも、しようがありませんわなぁ・・・この際、いちかばちか、吉野朝(よしのちょう)方へ投降してみはったら、どないでっしゃろ?

足利直義 えっ! 吉野朝へ?!

越智伊賀守 ダメモトですがな、ダメモト! 今までの事にワビ入れはってな、ほいで、吉野朝に身を寄せて、我が身の安全を確保しはってな、それから、態勢挽回、図らはったらよろしがな。

足利直義 ・・・うん・・・うん・・・なるほどな・・・。

直義は、吉野朝へ特使を派遣し、以下のような書状を提出した。

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元弘(げんこう)年間の初め、先帝陛下は、逆臣・北条高時(ほうじょうたかとき)により、西海(さいかい)の隠岐(おき)島に遠流(おんる)の身となってしまわれました。

ご苦悩のただ中にあられた先帝陛下よりの勅命に応じて、義兵を起す者もおりましたものの、あるいは敵に囲まれ、あるいは戦に負けて気力を屈し、打倒鎌倉幕府の志も、ついに空しいものとならんか、という状態でありました。

そのような中にあって、いやしくも私、足利直義は、尊氏(たかうじ)卿に対して上洛を勧め、勅命に応じて決戦し、再び天下を、皇室のものならしめたのでありました。今上(きんじょう)天皇陛下におかれましても必ずや、その事をご記憶に留められ、我々のその行為を良しとして下さっておられることと、存じあげます。

ところがその後、我々足利兄弟は、かの新田義貞(にったよしさだ)の讒言(ざんげん)により、罪無くして勅勘(ちょっかん)を受ける身となってしまいました。以来、君臣は、吉野と京都に別れて疎遠の度を増すばかり、わが足利一族は悉く、朝敵の汚名を受ける事になってしまいました事、いかほど嘆いてみても、嘆き切れぬ事でございます。

私の罪は、まことに重いものがあります。しかしながら、ここに伏して、御朝廷に、以下の如くお願いたてまつります。

もしも、陛下が過去の事をすべて水に流してくださり、前非を深く悔いておるこの私めの咎をお許しくださいまして、今直ちに赦免のお言葉を下し頂けますならば、私は、喜んで御朝廷の戦列に加わらせていただきたいと存じます。四海の逆乱を直ちに静め、陛下の御治世を安泰たらしむるべく、粉骨砕身、努力いたす所存でございます。

以上の旨、なにとぞ、内々に陛下のお耳にお伝えしていただきますように、ここにつつしんでお願いたてまつる次第です。

12月9日 沙彌慧源(注1)

大納言・四条隆資(しじょうたかすけ)殿
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このように詳細な書状を記して、吉野朝へ降参したい由を送った。

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(訳者注1)「慧源」は、出家の後の直義の号。
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吉野朝の重臣らは、直ちに御所に参内し、この件についての検討を行った。

真っ先に口を開いたのは、洞院実世(とういんさねよ)である。

洞院実世 あのね、我々サイドに降参したいやなんて、直義も殊勝な事を言うてきとりますけどな、こんなん信じたらあきまへんで! これは、虚偽以外の何ものでもありません!

閣議メンバー一同 ・・・。

洞院実世 足利家代々に譜代家臣として仕えてきよった高家の兄弟、ほれ、あの師直(もろなお)と師泰(もろやす)、あの二人に、京都から追い出されてしもぉて、どこにも身の置き所が無(の)うなってしまいよった、そやから、こないな事、言うてきとるんですわ。自分の怨恨晴らさんがため、ちょっとの間、陛下のご威光を借りよう、ちょっとの間、陛下に気に入られとこ、そういう魂胆(こんたん)ですわ。ミエミエですがなぁ。

閣議メンバー一同 ・・・。

洞院実世 皆さん! 考えてもみてくださいよ! 私らが、京都からこの地へ出てきてしもてから、もう既に20余年(注2)。その間、私らはいったい、どないな思いで生きてきました?! 陛下におかれてはもちろんの事、百司千官みんな、どないなツライ思いして生きてきた事か・・・来る日もぉ来る日もぉ、京都の方の空を見上げながら、生きてきた・・・(涙)・・・翼を切られた鳥のような無念の思いの中に・・・ずっと・・・ずっと・・・生きてきたんとちゃいましたか!(涙)

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(訳者注2)実際は16年間である。
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閣議メンバー一同 (うなずく)・・・。(涙)

洞院実世 それもこれも、元はといえば、あの直義のせい、足利直義の悪逆非道の故にですよ・・・。それがですよ、なんとまぁ、今や我らの軍門に投降したいと、願い出てきとるんですがな! まさに、天の与えた贈り物ですがな!

洞院実世 この機会を逃してはいけません! 断固、今この時、足利直義を誅するべきであります! この時を逃したら、後の禍を招くは必定(ひつじょう)だっせ。後悔の臍(ほそ)をいくら噛んでみても、失われた時は二度と再び、戻ってはきいひんのですわ!

洞院実世 ただただ速やかに、討手(うって)を大和に差し遣わして、足利直義を誅殺、その首を、御所の門の前に曝(さら)すべきですわ!

閣議メンバー一同 ・・・。

全員しばらく思案の後、二番手に口を開いた二条師基(にじょうもろもと)いわく、

二条師基 古代中国・漢王朝のあの謀臣、張良(ちょうりょう)が記した「三略(さんりゃく)」に、次のような言葉がありますわなぁ・・・「恵(けい)を推(お)し、恩を施せば、士力日々新たに戦うこと、風の発するが如し」。

閣議メンバー一同 ・・・。

二条師基 己の罪をわびて、新たに戦列に加わってきた者は、忠貞に怠らず、万事に誠意をもって努力するもんや、こういう人間はかえって、二心が無くなるもんなんや・・・張良は、このように言うておるわけですよ。

二条師基 まぁ、見てみなはれ、古代中国の歴史を。

二条師基 秦(しん)王朝の将軍・章邯(しょうかん)は、戦いに敗れて楚(そ)の項羽(こうう)の軍門に投降、その後、章邯は項羽軍の先鋒として活躍、そしてたちまち、秦王朝は滅亡。

二条師基 斉(せい)の恒公(かんこう)は、昔、自分に対して矢を射掛けた管仲(かんちゅう)の罪を許し、大臣にまでしましたやろ? その結果、管仲の治世よろしくして、斉の国は大いに治まったのでありますよ。こういった史実は、現代の世においても、立派な教訓として、通用しますわなぁ。

二条師基 足利直義がこちらサイドに加わったならば、もはや天下は、陛下の物。朝廷は、末永く安泰となりましょう。そやからね、足利直義のかつての元弘年間の功績を消却することなく、再び官職に復せしめて朝廷が召し使う、今の最良の方策は、これ以外にはありえないと、私は思いますがねぇ。

このように、二人の意見は真っ向から対立した。

閣議メンバーA (内心)かたや、洞院実世、かたや、二条師基、どっちも、わが朝廷の最重要メンバーやがな。なんせ、陛下に堂々と諫言(しんげん)できるのは、この二人やねんからなぁ。

閣議メンバーB (内心)こら困ったな、どっちの言い分聞いても、「なるほど、もっともやな」と思えてくるわ。

閣議メンバーC (内心)双方の意見、どちらも、メリット、デメリットがあるわいな。

後村上天皇(ごむらかみてんのう) (首を傾けながら考える)(内心)うーん・・・これはムズカシイ・・・。どっちの意見を採用すべきか・・・うーん・・・これはムズカシイなぁ・・・。

閣議メンバー一同 (内心)ウーン・・・。

しばらく続いた沈黙を破ったのが、北畠親房(きたばたけちかふさ)であった。

北畠親房 漢王朝といえば・・・初代君主、漢の高祖(こうそ)は、最初は、沛公(はいこう)と呼ばれていたんでしたなぁ・・・沛公は秦の世が傾きだした時、己の任地、沛郡で挙兵したんやった。そして、そのライバル、項羽(こうう)は、楚(そ)の地で挙兵したんやった・・・。

(以下、北畠親房が語った、沛公と項羽の話)
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沛公と項羽の挙兵と時を同じくして、秦に滅ぼされたかつての戦国時代の六国の諸侯たちもこぞって、秦に反旗を翻しはじめた。彼らは続々、沛公と項羽の旗下に参集してきて、二人の勢力は徐々に増大、沛公は10万余、項羽は40万を率いるようになった。

やがて、沛公の軍は漢の濮陽(ぼくよう)の東に布陣、項羽の軍は定陶(ていとう)を攻略して雍丘(ようきゅう)の西に至った。

ここに、孫心(そんしん)という、かつての楚王の末裔に当たる人がいた。その祖先は、楚の王室から下野して久しく、彼は当時、羊を飼って暮していた。

沛公と項羽は、この孫心を取りたてて「義帝」と号し、冠にかつぐことにした。そして、その新しい帝の前で、「先に秦帝国の首都・咸陽(かんよう)に入って秦を滅ぼした者を必ず、天下の王としよう」との約を交わした。

その後、二人は東西に分かれ、秦国の中心部めがけて軍をつき進めていった。

鉅鹿(きょろく)に至った項羽を待ちかまえていたのが、100万騎を率いる秦の左将軍・章邯(しょうかん)であった。

項羽 (内心)敵は大勢、味方は小勢。一人たりとて生きて帰らじと、覚悟固めて一心に戦わぬ限り、千に一も勝機は無い。この思い切ったるわしの心中を、全軍に徹底せしめるためには、いかがすべきや?・・・うん、よし、こうしよう!

項羽は、自ら20万騎を率いて河を渡った後、船を沈め、釜や炊飯器を捨て、陣屋を焼き、その決意を全軍に示した。

かくして、項羽と章邯は、9度相対して100度、戦を交えた。

やがて項羽は、秦の副将軍・蘇角(そかく)を討ち、王離(おうり)を生け捕りにした。

討たれた秦側の兵は40余万人、章邯は、もはや戦いを続行する事が不可能となり、ついに項羽に投降、翻って、秦帝国攻略の先鋒と化した。

次に項羽は、新安城(しんあんじょう)の戦いにも勝利、秦側兵士の首を斬ること20万。

項羽が向かう所ことごとく、破れない都市は無く、攻める城は片っ端から落ちていった。

しかし彼は、その赴く先至る所で、美女を愛し、酒におぼれ、財を貪り、住民を殺戮(さつりく)していった。いきおい行軍のスピードはスローダウン、未だ、秦帝国の首都に突入することができずにいた。

漢王朝建国・元年11月、ようやく項羽は、秦の首都・咸陽の東側の入り口、函谷関(かんこくかん)に到着。

ところがなんと、咸陽には既に、沛公が入城してしまっていた。

項羽とは別ルートで軍を進めた沛公は、兵力も少なく、難所続きの道中であった。しかし、彼は民を憐れみ、人を撫する心も深く、財をも貪らず、人を殺す事も無かった。彼の進軍ルートの先に位置する城は自ずから下り、秦側の勢力はことごとく、彼の下に投降してきた。

このように、「道開けて事安かりし」状態の中に、沛公は項羽に先だつこと3月にして、秦の帝宮・咸陽宮へ入ったのであった。

中国全土を手中に収めんとの野望を持つ沛公は、秦の宮室を焼く事もなく、始皇帝陵墓の土中の宝玉を暴く事もなく、投降してきた秦の帝王・子嬰(しえい)をも保護した。

沛公 さぁてさて、例の約束があったよのぉ、「先に秦の王宮に入った者が、中国全土の主になる」・・・項羽よ、お先に失礼、ワハハハ・・・。約束通りに、中国全土の主にならせて頂くぞよ!

沛公 函谷関へ、兵を進めよ! 関の門を閉じ、項羽を一歩たりとも、秦の領域に入らせるでないぞ!

沛公の臣たち一同 りょうかぁーい(了解)!(ニヤリ)

数か月後、函谷関へたどりついた項羽は、驚愕した。

項羽の臣D 殿、一大事ですぞ! 沛公はすでに、秦の都城の中におりまする!

項羽 なんじゃとぉ!

項羽の臣D して、函谷関を、自らの兵をもって、塞いでおりまする! あやつめ、我々の通行を拒絶しおりましたぞ!

項羽 ウヌーッ ふざけおって!(激怒)。よし、あやつに、メニモノ見せてくれるわい!

項羽は当陽君(とうようくん)に12万の兵を与え、函谷関を打ち破らせた。

全軍を率いて咸陽宮へ入った項羽がまず行った事は、殺戮(さつりく)と破壊であった。

沛公に投降した秦の旧皇帝・子嬰を殺し、咸陽宮に火を掛けた。四方370里にわたって建ち並んでいた宮殿楼閣はことごとく焼失、その火は3か月間、燃え続けた。

まことに悲しいかな、秦帝国初代の君主・始皇帝(しこうてい)の陵墓である驪山(りざん)の神陵も、たちまちに灰燼と化してしまった。

始皇帝は常々、自らの死後の世界に対して、はかない願いを抱いていた・・・「今生の人生で得たこの富貴を、あの世にまでも、身から放さず持って行きたい」と。ゆえに、その陵墓の中に、楼殿を建造させ、山や川まで造営させていたのである。墓の上方には、日月をかたどった10丈ほどもある金銀の鋳物を掛け、地面には江海を形どった広さ100里にも及ぶ水銀の湖があった。

人魚の油10万石を銀製の油皿に入れて、常に灯火を燃やしていたので、太陽が差し込まぬ暗い墓の中も、まるで青天白日の下にいるかのようであった。

始皇帝の崩御の時には、多数の人々が殉死した。三公以下の官人6,000人、宮門守護の兵10,000人、後宮の美女3,000人、楽府(がくふ)の妓女(ぎにょ)300人、みな生きながらに、神陵の土中に生き埋めにされ、苔の下に朽ちていったのである。「俑(よう)を作る人はそれ以来、跡を絶ってしまったのであろうか(注3)」との孔子の言葉、今にして思い知られる事である。

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(訳者注3)原文には、「始めて俑を作る人、後無からんか」。訳者には、これの意味がよく分からない。始皇帝陵墓から出土のあの「兵馬俑」と何か関係がある?
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このように、様々の執念を燃やし、様々の詔を下して残された神陵であれば、始皇帝の妄執もきっとその地に留まっているであろうに、項羽は一切おかまいなしに、これを掘り崩し、殿閣ことごとく焼き払ったのである。始皇帝と共に、一旦はあの世のものとなった宝玉が再び人間界に戻ってくるとは、まぁ何とすさまじい事であろうか。

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この時、項羽の兵は40万、新豊(しんほう)の鴻門(こうもん)にあった。沛公の兵は10万、咸陽の覇上(はじょう)にあった。

両者の間は30里、しかし沛公は未だに、項羽のもとにあいさつにやってこようとしない。

ここに、范増(はんぞう)という老臣が、項羽の下にいた。范増いわく、

范増 殿、あの沛公という男、よくよく、気をつけておいた方がよろしいですぞ。

項羽 ・・・。

范増 あの男が、秦王朝の役人として沛郡にいた時、その日常の振舞いはといえば、財を貪り美女を愛する心尋常ならざるものがありました。しかしながら、どうでしょう、今、咸陽に入りて後は、財をも貪らず、美女をも愛せず。

范増 いったいなぜか? それは、天下を我がモノにせんとの野心を、抱いておるからに他なりませぬ。ようは、まずは世論を我が味方に付けんとの、方略でござりまする。

項羽 ・・・。

范増 わたくし、密かに人をやって、沛公の陣中の様子を探らせました。その者は、彼の陣中で驚くべきものを発見しましたぞ! いったい、何だと思われまするか?

項羽 何があったのじゃ?

范増 「龍に虎」の紋ですわい! 龍虎、それも軍旗の紋印にね。あの男、もはや、中国全土の主になった気分でおるようですなぁ。

項羽 フーン・・・龍に虎のぉ・・・。

范増 殿! 今、速やかに沛公を討たずんば、必ずや、天下をあやつに、のっとられてしまいまするぞ!

項羽 フーン・・・。

項羽 (内心)やれやれ、あいかわらず、范増は、心配性じゃのぉ・・・。わが旗下のこの大軍を見よ! 沛公めが何を画策しようと、あやつに何ほどの事ができようか。

このように、項羽が相手を侮っている所に、沛公の臣下・曹無傷(そうぶしょう)という者が、密使を送ってきた。

密使 わが主よりの手紙でござりまする、ハイ!(手紙をささげ持つ)

項羽 ナニナニ・・・(手紙を開く)

手紙 パサパサ・・・(開かれる音)。

項羽 (内心)フフーン、「沛公、天下に王たらんとしておりまする」か・・・。フーン・・・范増のヨミは当たっておったようじゃな・・・。よし、こうなったら疑いは無い。

項羽 ものども! 明朝、全軍をもって出陣じゃ! 敵は咸陽・覇上にあり!

范増 殿! 決意なされましたな!

項羽 うん、やるぞ! 沛公の陣へ寄せ、一人残らず討ち取ってしまうのじゃ、よいか!

項羽臣下一同 オオーウ!

項伯(こうはく) (内心)ウーン・・・ついに、来る所まで来てしまったかぁ。

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項伯(こうはく)は、複雑な立場にあった。彼は、項羽(こうう)にとっては叔父に当たる。しかも、彼は沛公(はいこう)の下に仕えている張良(ちょうりょう)と、以前から親しかったのである。

項伯 (内心)明日の総攻撃の事、なんとかして、張良に知らせてやらねばの・・・うまく逃げおおせてくれれば、よいのじゃが。

項伯は急いで沛公の陣へ赴き、張良を呼び出していわく、

項伯 明朝、項羽はこの陣へ総攻撃をかけるぞ。もはや一刻の猶予もならぬ。今夜の中に急いでこの陣中から逃げてな、命だけは全うしてくれ・・・頼む。

張良 ・・・。

張良は、もとより義を重んじ、節に臨む時には、わが命を塵芥(じんかい)よりも軽くする人である。

張良 (内心)殿の身に一大危機が迫っているこの時、殿をおいて逃げて行けようか。とにかくこの事を、お知らせせねば!

張良 項伯殿、よぉ知らせてくださいましたのぉ・・・あのぉ、えぇと・・・ちょっと中座させてくださいまし・・・。まずは、急ぎの所用を済ませてきての、それからじっくりと、相談に乗って下さらんか。

項伯 よかろう・・・けど、急ぐのじゃぞ、事は急を告げておるのじゃからな。

張良 はいはい、すぐに戻ってまいりますから。

沛公に目通りした張良は、

張良 (ヒソヒソ声で)殿、タイヘンな事になりましたぞ。たった今、項伯よりこっそり知らせてくれましたるによれば、明朝、項羽は大軍をもって、わが方に襲いかかってくる由(よし)!

沛公 (ヒソヒソ声で)エェッ!・・・。

張良 ・・・。

沛公 (ヒソヒソ声で)わが現有の兵力をもってして項羽と戦ぉたならば、勝敗はいかに? 思いきって運を天に任せ、戦うべきであろうかのぉ?

張良 (ヒソヒソ声で)はい・・・(しばし黙考)・・・わが方の兵力は10万、項羽の方は40万。平原にて戦わば、わが方の勝利、到底期待し難いでしょうな。

沛公 (ヒソヒソ声で)やはりな・・・。そうか・・・戦が無理となれば、外交しか手はない。項伯はまだ陣中におるのか?

張良 (ヒソヒソ声で)はい。私の幕舎に、待たせておりまする。

沛公 (ヒソヒソ声で)今から項伯をここに呼んでな、彼と義兄弟の交わりをなし、互いに親戚となる約を交わそうと思うが・・・どうじゃな?

張良 (ヒソヒソ声で)うーん、なるほど。

沛公 (ヒソヒソ声で)彼に、間に立ってもらってな、項羽とわしとの間を、穏便に収めてもらうのじゃ。どうじゃな、この策?

張良 (ヒソヒソ声で)それぞまさしく、ベスト・ストラテジー(best strategy)に、ござりまする。

沛公は、項伯を帷幕(いばく)の内へ呼び入れた。

まず酒を奉じ、自ら寿(ことぶき)を宣した後、

沛公 ところで項伯殿、たっての願いがあるのですが。

項伯 いったい、なんですかな?

沛公 いやね・・・かつて、わしと項羽殿とは、ある約束を交わしたのですよ・・・「先に咸陽に入った者を中国全土の王としよう」という・・・。

項伯 はい、その約束については、それがしも、聞き及んでおりまする。

沛公 わしは項羽殿より70余日も先に、咸陽に入ったのですぞ。しかしじゃな、その約をタテに取って天下に王たらんなどと、わしは微塵(みじん)も、思ってはおらんかった。秦(しん)国の中心部に入ってからも、手をつけたものは何一つ無い。住民の戸籍を記録し国庫を封印して、項羽殿の到着を一日千秋の思いで、待ち続けておったのです。これは世間の周知の事実でありますぞ。

項伯 しかし、兵を送って函谷関(かんこくかん)を封鎖(ふうさ)されましたな・・・あれはまずかった。あれで、項羽は激怒してしまいましたのじゃ。

沛公 あ、いやいや、それは項羽殿の完全な誤解じゃ・・・誤解じゃよ・・・。項羽殿をどうのこうのしようと思って、函谷関を塞いだのではありませぬ。ただただ、咸陽への盗人の出入りを阻止せんがためじゃ・・・秦が滅亡した今この時、そこいら中に火事場ドロボウが跋扈(ばっこ)しておりまするでな・・・ドロボウだけではない、いかなる非常事態が出来(しゅったい)するやもしれぬではないか、そういった事にも備えておかねばのぉ・・・そう思ったゆえに、関を塞いだのです。

項伯 ふーん・・・なるほど、そういう事だったのですか。

沛公 とにかく項伯殿、願わくば、速やかに帰陣され、我がこの思い、項羽殿に取り次いではいただけませんでしょうかのぉ。わしの側には、徳に背く行いも思いも一切無き事、項伯殿からなにとぞ、お口ぞえいただきたい。そして、明日の戦を、止めていただきたいのじゃ。さすれば、明日にでも、わしは項羽殿の陣に赴き、これまでの誤解を与えるような言動を項羽殿におわびし、我が身の潔白を申し開く所存。

項伯 ・・・わかりもうした。とにかく言ってみましょう。

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項伯は、すぐに馬に鞭打って帰り、項羽の陣に入った。

項伯 ・・・とまぁ、こういうわけじゃよ。沛公はのぉ、「項羽殿にはまことに申しわけない事をした、早急に詫びを入れたい」と、しきりに恐縮がっておったぞ。

項羽 ・・・。

項伯 そもそもじゃな、あのように、沛公が我々よりも先に、秦の中心部を抑えてくれてなかったならばじゃな、いったいどうであったかのぉ? 項羽殿は今のように、咸陽宮に入り、枕を高くし、安心して食事をする事が可能であったかどうか・・・。

項羽 ・・・。

項伯 さすれば、沛公はまさに、「天下の大功績ある人」ではないか。しかるにじゃ、つまらぬ人間の讒言(ざんげん)を信じて沛公を討つならば、それは功績ある人を討つ事、大いなる不義の行為を犯す事になりはしまいか?

項羽 ・・・。

項伯 のぉ、項羽殿! ここはのぉ、沛公と交わりを深ぉして、その功績を賞して、天下を鎮める、これが一番じゃと、わしは思うがのぉ・・・どうじゃ?!

項羽 うん、そうですな・・・

理を尽くしての項伯の説得に、項羽も深く納得し、顔色快くなった。

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やがて、沛公が100余騎を従えて、項羽のもとにやってきた。

沛公は、礼を正し、項羽に対していわく、

沛公 項羽殿、ありし日の光景、今も、我がまぶたの内に浮かんできまするぞ・・・運を天に任せて旗上げをしてはみたものの、秦の勢力は強大にして、当時の我々の勢力は微々たるものでござった。しかし、あなたとわしは力を合わせ、最初の一歩を進めたのでした、打倒秦帝国のイバラの道へと。

項羽 ウーン・・・。

沛公 我ら二人を待っていたのは、戦いに継ぐ戦いであった・・・。項羽殿は、河北(かほく)地方一帯を転戦、そしてわしは、河南(かなん)地方を駆け巡った。

項羽 ・・・。

沛公 お互い、何度も何度も危機に落ちては、かろうじて、秦帝国軍の虎口(ここう)から逃れ・・・そしてついに今日この時、この鴻門の地に、互いに、生きて再びあいまみえる事ができたのじゃ・・・あぁ、感慨無量じゃのぉ・・・。

項羽 ・・・。

沛公 しかるに今や、心ねじけた輩(やから)の讒言(ざんげん)によって、わしと項羽殿との間には、深い深い心の溝ができてしもぉた・・・あぁ、なんと悲しい事であろう!

頭を地に着けて切々と訴える沛公の言葉に、項羽はすっかり心解けたようである。

項羽 いやいや、沛公殿。実はの、おぬしを讒言してきたのは、他ならぬおぬしの臣下、左司馬(さしば)の曹無傷(そうぶしょう)なのじゃぞ。わしの身内からならまだしも、他ならぬおぬしの臣下から、「沛公殿は、項羽殿に敵意をもっておりまする」などと言われてみぃ、もうどうしようもなく、おぬしを疑りたくなるではないか。

沛公 ・・・。

項羽 まったく、人騒がせなヤツじゃのぉ、曹無傷という男は! あやつが下らぬ事を言ってさえこなければ、絶対に、おぬしを疑ったりせんかったのに!

沛公 ・・・。

項羽 いやいや、これは真実じゃぞ、ウソではないぞ! なんなら証人を立てようか? 曹無傷の言葉をきいておったのは、わし一人だけではないでのぉ・・・。おい、おまえ、わしの証人になれい。おまえもあの時、わしの横で聞いておったであろうが?

項羽臣下E はい、たしかに!

沛公 あ、いやいや・・・。

項羽 あぁ、もうよい、もうよい! 疑いが解けたならば、もう、それでよいではないか!

まことに項羽、思慮の浅い男である。

項羽 それにしても、久しぶりの再会じゃのぉ、沛公殿。さ、飲もう! 大いに飲もう!

沛公 はぁ、いやぁ・・・今日わしは、ここに詫びを入れに参ったのですからなぁ・・・なのに、酒など・・・いくら項羽殿のご好意とはいえ、それではあまりに、甘えすぎというものじゃ・・・。

項羽 ナァニを言っておる! いやいや、このままではゼッタイに帰さんぞ! 酒じゃ、酒の仕度をせぇい!

沛公 ・・・では、お言葉に甘えて、少しだけ・・・少しだけですぞ。

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酒宴が始まった。項羽と項伯は東向きに、范増(はんぞう)は南向きに、沛公は北向きに、張良は西向きに座した。

范増 (内心)沛公・・・あのシタタカモノめ、弁舌を弄して、我が身に迫る危機を、うまうまと切り抜けおったわ。

范増 (内心)きゃつは、恐るべきヤツじゃ、何としてでも、シマツしてしまわねばならぬ、さもなくば将来、わが殿に重大な禍根(かこん)をもたらす事になってしまう。

范増 (内心)いつかはやらねば・・・ずっと、そのように思ってきた・・・そしてその日がついにやってきた・・・。飛んで火に入る夏の虫・・・沛公は今、わが目の前におる、アヤツを守る兵の数も少ない・・・絶好のチャンスじゃ、かようなチャンス、二度と廻(めぐ)っては来ぬ・・・よし!

范増は、自らの腰に佩(は)いた太刀の束(つか)をぎゅっと握り締め、項羽に目配(めくば)せを送った。

范増 (内心)殿! さぁ、ご命令下さい、「沛公を殺(や)ってしまえ」と。さすれば拙者、沛公と刺し違えまする! さ、殿!

項羽 (チラッと范増の方を見やる)・・・。

范増 (内心)えぇい、分からぬかのぉ、殿は、このわしの心を! 殿!

范増は再度、太刀の束を握り締め、項羽に目配せを送った。

范増 (内心)殿、早く! 「沛公をやってしまえ」と、ご命令を!

項羽 (ボンヤリと范増の方を見やる)・・・。

范増 ・・・ハァ・・・(溜息)。

范増 (内心)あああ・・・なんというドンカン(鈍感)・・・まったくもう! イライラしてくる!

范増はまたまた、太刀の束を握り締め、項羽に目配せを送った。

范増 (内心)殿! 殿! 殿! 殿! 殿! 殿! 殿! 殿! 殿! 殿! 殿! 殿!

項羽 (ポカァンと范増の方を見やる)・・・。

范増 (内心)えぇい、もう!

范増は、席を立って幕の外に行き、

范増 項荘(こうそう)殿! 項荘殿!

項荘 ・・・范増殿、いったいなんですかな? 顔を真っ赤にされて・・・。

范増 まったくもって、わが殿には困ったものよのぉ! 殿の為に、沛公を殺害してしまおうと思うのに、殿は、我が意を全く察知してくださらぬ! そこでじゃ、あなたを見込んで頼みますがのぉ!

項荘 ・・・。

范増 項荘殿、あの席に入り、沛公の前で、寿(ことぶき)を言上(ごんじょう)してくだされい。沛公がその盃を傾けた時、あなたとわしとで、舞踏を始める。剣の舞いをやるのです。スキを見て、その剣でもって、沛公を座中にて殺す。

項荘 おぉ、まさしく「死の舞踏」ですなぁ。

范増 あのな、これだけは言うておきますぞ・・・わしらがこれからやる事はの、あなたの将来にとって、極めて重要な事なのじゃ。考えてもみなされぃ、わしらが沛公を今この場で殺してしまわねば、そのうち、あなたもあなたの一族も残らず、沛公に殺される事に、なってしまうのじゃから。

項荘 フーン・・・。

范増 このまま放っておけば・・・わが殿が沛公に天下を奪われるに、1年もかからぬわ・・・。(涙)

項荘 わかりました、やりまする!

二人は席に戻った。

項荘 (とっくりを手に持ち、沛公の前に立つ)沛公殿、お願いでござりまする。それがしの寿を、受けてはいただけませんでしょうか?

沛公 あぁ、いやいや、これは恐縮でござりまするなぁ。喜んで、お受けいたしまする。

沛公が、盃を傾け始めるや否や、

項荘 我らが殿は今、沛公殿と飲酒しておられる。なのに、ナリモノ一切無しというのでは、まことにさびしいではないか! 思えばここ数年、戦いに明け暮れて、陣中長らく、楽を奏する事もなかったよのぉ・・・。よぉし、今から、わしが剣を抜いて、太平の曲を舞ってみしょうぞ!

項荘は、剣を抜き放って立った。

范増 一人で舞うのは、いかにも淋しい、わしも共に!

范増もまた、剣をさしかざして沛公の前に立った。

項伯 (内心)ムムッ これはいかん! やつら、沛公を殺(や)る気じゃ!

項伯 これこれ、そこの二人、わしも仲間に入れんか!

項伯も、剣を抜いて立上った。

項荘が南を向けば、項伯は北を向いて彼に相対する。范増が沛公に接近したら、項伯はその間に割って入り、わが身をもって沛公をかばう。

三人の「死の舞踏」は延々と続き、楽の終わりに差し掛かってきた。項伯にじゃまをされて、項荘と范増はどうしても、沛公に襲いかかる事ができない。

スキを見て、張良は門前に走り出た。

張良 (内心)あのままでは、殿が危ない! 誰か、誰かいないか!(周囲を見回す)

これを見た樊噲(はんかい)が、ツット走り寄ってきた。

樊噲 おい、どうした? 何かあったのか?! 殿は大丈夫か?!

張良 大ピンチじゃ! 一刻の猶予も無い!

樊噲 ナニッ!

張良 あの中でな、今も、項荘が剣を抜いて舞っておるわ、じっと殿をツケ狙いながらの。

樊噲 いかん、殿の喉に死が迫っておる! 直ちにあの中に突入! 殿といっしょに死ぬ!

樊噲は、兜の緒を締め、鋼鉄の盾を持ち、軍門の中に突入しようとした。

門の左右に矛を十文字に構えた門衛500余人が、矛を横たえ太刀を抜いて、樊噲を阻止せんとした。

門衛リーダー こら! おまえはナニモノじゃ!

樊噲 (激怒)エェーイ! じゃまするなぁ!

樊噲は、盾を身に横たえ、門に体当たりした。

門 ヴァキャーーーーン!

門の閂 ベシベシベシベシベシベシベシベシ!

閂(かんぬき)7、8本が、いっぺんにヘシ折れた。

樊噲の身体は、門扉を押し倒し、あっと言う間に軍門を走り抜けた。

樊噲 エェェーイ!

樊噲の盾 バシバシバシバシバシバシ・・・。

門衛たち ワアアア・・・。

倒れてくる門扉に打ち倒されたり、樊噲の鉄の盾につき倒されて、矛を交えていた門衛500人は、その場に倒れ伏して起き上がれない。

樊噲 ここじゃな!(幕を上げて、中に入る)

樊噲 御免(ごめん)!

幕中一同 !(ビックリ)

沛公 (内心)おぁ、樊噲! 樊噲!

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幕中に入ってきた樊噲は、目をいからし、項羽をハッタと睨みつけながら仁王立ち。

怒りのあまり逆立ったその頭髪は、兜の鉢を覆いつくしてライオンの怒り毛のごとく渦を巻き、まるで百千万もの銀河系がそこに出現したかのよう、その眦(まなじり)は逆さまに裂け、百練の鏡の上に鮮血を注いだがごとくである。

樊噲は、9尺7寸もの長身、鬼のごとき髭は左右に分かれ、勇みたつその勢いに、鎧がガタガタと音を立てて振動している。いかなる悪鬼羅刹(あっきらせつ)であろうとも、これほどには恐ろしくないだろう。

彼を見て、項羽は思わず剣を抜き、腰を屈めて身構えた。

項羽 ナニモノじゃ!

張良 あ、いえいえ・・・これなるは、沛公様の兵にして、その名を、はんかい(樊噲)と申す者にてござりまする。

項羽 フーン・・・。

項羽は身構えを解き、背を伸ばしていわく、

項羽 いやぁ・・・まさに、天下の勇士じゃな。よし、あの者に酒を取らせい!

項羽は、1斗もの酒をついだ盃をその場に持ってこさせ、それを樊噲の前に置かせた。さらに、七頭分の豚の肩肉を、酒の肴に添えさせた。(注4)

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(訳者注4)この部分の元ネタとなっている司馬遷著の「史記・項羽本紀」には、「一片の豚の肩肉が与えられた」とあるのだが、太平記原文には、「七尾ばかりなるイノコの肩を肴にとって出されたり」とある。ここは太平記作者のオーヴァー演出かも。
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樊噲は、盾を地に伏せ、剣を抜いて、その豚肉を切り割いた。あっという間に肉を残らず平らげるやいなや、ナミナミと酒をたたえた巨大な盃に、手を伸ばした。

樊噲 ウィッウィッウィッ・・・ハァーーー。

項羽 (内心)おぉ、見事なノミっぷりじゃのぉ。

項羽 よし、もう一杯!

盃 ナミナミナミナミ。

樊噲 ウィッウィッウィッ・・・ウグゥーーー。

項羽 おおお、よしよし、もうイッチョウ!

盃 ナミナミナミナミ。

樊噲 ウィッウィッウィッ・・・ゲフーーー。

あっという間に、酒3杯を飲み干した樊噲は、盃を置いて、

樊噲 今にして思えば、秦(しん)王朝の君主は、虎狼(ころう)のごとき心の持ち主でありました。しょっちゅう、人を殺し、民を害しておりました。それゆえ、天下はことごとく、秦帝国に背いたのでありまする。

項羽 うん。

樊噲 ここに、わが主君・沛公様と項羽殿は、時同じくして義兵を挙げ、無道の秦帝国を亡ぼして天下を救わんがため、かの義帝(ぎてい)の御前において、血をすすりて約を交わされましてござりまする、「先に秦を破り、咸陽に入った者を、天下の主としよう」と。

項羽 ・・・。

樊噲 沛公様は、項羽殿に先立って咸陽宮に歩を入れる事数か月、しかるに、ビタ一文たりとも、私したモノはござりませぬわい。帝宮のありとあらゆる室を封印し、項羽殿のご到着をば、ひたすら待ち続けておられたのじゃ。これまさに、沛公様の仁義の姿としか、言いようがないではござりませぬか!

項羽 ・・・。

樊噲 兵を遣わして函谷関(かんこくかん)を塞がしめたのも、盗賊の出入りを防がんがため、なおかつ、非常事態に備えんがため。

項羽 ・・・。

樊噲 まさに、沛公様の功(いさしお)の高きこと、かくのごとしでござりまする。しかるに未だに、沛公様に対しては、いずこの地の領主に封ずるとの褒賞の儀もないではござらぬか! いや、それどころか、あなたは、沛公様を誅殺しようとしているではないか! 項羽殿のかくなるしうち、まさに亡びし秦の悪を継いで、自ら天の罰を招くものでありましょうぞ!

いささかも憚る事なく、睨みつけながら言い放つ樊噲の前に、項羽は返す言葉もなく、ただただ頭を垂れて赤面している。

思う存分言いまくった後、樊噲は張良の次席に着席した。

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しばらくしてから、沛公は、厠(かわや)に立つふりをして、席を離れた。彼は、樊噲を手招きした。

幕の外に出た沛公は、樊噲にいわく、

沛公 いやぁ、ジッツにイイ所に来てくれたのぉ。項荘(こうそう)め、わしのすぐ目の前で、剣の舞いをやらかしよっての・・・あやつめ、スキを見て、わしを討たんと図ったに違いない。

樊噲 ハァー・・・まったく、アブナイ所でござりましたなぁ。

沛公 このまま、あそこに長居しておったのでは、わが身が危のぉて仕方がない。今から、我が陣へ戻ろうと思うのじゃがの、黙って帰るのも非礼というもの、いかが、すべきであろうかのぉ?

樊噲 殿、ナニを言っておられますか! この危急の場に及んで、礼儀作法だのなんだの、そんな事に構っとれますかって! 大事を行おうという時には、細かい事など放っておくもんですぞ。大いなる礼儀とは、へりくだってオジギばかりしている事ではありませぬ! このままここに居たのでは、あちら側は、刀とまな板、こちらは魚肉。今すぐ、帰りましょう!

沛公 ・・・。

樊噲 後は、張良におまかせあって、殿、早く帰りましょう! さ、さ、殿!

沛公 よし!

沛公は、白い玉璧(ぎょくへき)1個と玉の盃1個を張良に渡し、

沛公 後は頼むぞ。

張良 おまかせあれ。さ、早く!

沛公 おう!

沛公は鴻門の地を離れ、驪山の麓を間道伝いに俊馬を走らせた。靳強(きんきょう)、紀信(きしん)、樊噲、夏侯嬰(かこうえい)の4人が、盾を脇挟み、矛を手に持って、彼の前後を護衛する。

彼らは、20余里の道程、険阻な山道をも、渡しのない川をも一気に駆け抜け、1時間足らずで、覇上の自陣に帰りついた。

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沛公につき従ってやってきた百余人の兵らは、なおも項羽の陣の前に並び居る。張良もまた鴻門に留まっているので、沛公がそこを去った事に誰も気がつかなかった。

しばらくしてから、張良は座に戻っていわく、

張良 項羽殿・・・そのぉ・・・まことに、もうしわけござりませぬ・・・わが主君・沛公は、酒にチト深酔いしてしまいましてな・・・もはや盃を汲むに耐ええず・・・止むを得ず失礼させていただきました。それがし、沛公より、「わしの代理として、項羽殿につつしんで、これを献上せよ」と、ことづかりましてござりまする。

張良は、白い玉璧の包みを開き、再拝しながらそれを項羽の前に置いた。

項羽 おぉ、これはこれは! まさに天下の重宝じゃなぁ!

項羽は大喜び、その玉を座上に置き、うっとりと見入っている。

范増(はんぞう) (内心)あぁぁ・・・ナンタルことかぁ・・・沛公をとり逃がしてしもぉたわ・・・もう少しの所であったにのぉ・・・(ガックリ)。

張良 沛公は、こうも・・・、「この玉斗(ぎょくと:注5)を、范増(はんぞう)殿に進呈せよ」と。

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(訳者注5)玉で作った酒を盛るひしゃく。
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目の前に置かれた沛公からのプレゼントを見て、范増は、ついにキレてしまった。

范増 (激怒)エェイ!

范増は、玉斗を地上に投げつけ、剣を抜いてそれを突き砕いた。そして、項羽をハタと睨み付けながら、

范増 あぁ、かような青二歳といっしょでは(注6)、天下など、とても取れはせぬ! 項羽様はそのうち必ずや、沛公に天下を奪わるるであろうて。

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(訳者注6)原文では、「豎子」。項羽の事をののしっているのである。
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范増 あぁ、あぁ・・・そのうち、みんな残らず、沛公の捕虜になってしまうのであろうなぁ・・・あぁ、あぁ、いかんせん・・・。

范増 白璧は、たしかに重宝じゃ。じゃがのぉ、天下と白璧と、いったいどっちが上なのじゃ! 手中に収めたこの天下を、みすみす、一個の白璧と交換してしまうとは・・・あぁ、なんとした事・・・ああ、なげかわしい・・・なさけない!

項羽 フウフウ・・・グニャグニャ・・・ハンゾウ・・・ハンゾウ? いったい何を、怒っておるのじゃぁ? フワフワ・・・ムニュムニュ・・・。

怒る眼に涙を流しながら、范増は1時間ほど、その場に立ち尽くした。しかし、項羽はなおも、范増のこの憂慮の心を悟らず、完全に酔いつぶれてしまい、帳の中に入ってしまった。

張良 (内心)ハァー、ヤレヤレ・・・なんとか無事に終わった。まったく、あの時は、どうなることかとハラハラしたぞぉ・・・。さぁて、わしも帰るとするかの。

張良は、百余騎を従えて覇上の自陣に帰った。

沛公は、自陣に帰着するやいなや、自分を裏切って項羽に密告した曹無傷(そうむしょう)を斬り、その首を軍門に曝した。

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この後数年間、沛公と項羽は、互いに合い見(まみ)える事が無かった。

天下の成敗は、項羽の司る所となったが、賞罰共に理不尽な点が多く、諸侯万民皆共に、沛公の功が隠れてしまって、彼が天下の主ではない事を嘆き悲しんだ。

その後、項羽と沛公が、再び天下を争そう形勢となり、中国全土の兵は、項羽の楚(そ)と沛公の漢(かん:注7)の両陣営に分かれ、争乱止む事なき状態となった。

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(訳者注7)項羽が全権を掌握の後、沛公は「漢中」の地の領主に封ぜられた。
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沛公は、自らが新しい王朝を開くとの決意を示さんが為、「漢の高祖(かんのこうそ)」と名乗った。その陣営に属するメンバーは以下の通りである。

韓信(かんしん)、彭越(ほうえつ)、蕭何(しょうが)、曹参(そうさん)、陳平(ちんぺい)、張良、樊噲、周勃(しゅうぼつ)、黥布(げいふ)、盧綰(ろかん)、張耳(ちょうじ)、王陵(おうりょう)、劉賈(りゅうか)、酈商(れきしょう)、潅嬰(かんえい)、夏侯嬰(かこうえい)、傅寛(ふかん)、劉敬(さいけい)、靳強、呉芮(ごぜい)、酈食其(れきいき)、董公(とうこう)、紀信(きしん)、轅生(えんせい)、周苛(しゅうか)、侯公(こうこう)、随何(ずいか)、陸賈(りくか)、魏無知(ぎのぶち)、齊孫通(しゅくそんつう)、呂須(りょしゅ)、呂巨(りょこ)、呂青(りょせい)、呂安(りょあん)、呂禄(りょろく)以下の呂氏300余人、合計30万騎である。

一方、項羽の陣営はといえば:

彼の家は代々将軍を出してきた家柄であったので、譜代の兵が8,000人いた。その他、新たに馳せ参じてきた者はといえば、櫟陽長史欣(やくようのちょうしきん)、都尉董翳(といとうえい)、塞王司馬欣(さいおうしばきん)、魏王豹(ぎおうひょう)、瑕丘申陽(かきゅうのしんよう)、韓王成(かんおうせい)、趙司馬卬(ちょうのしばごう)、趙王歇(ちょうのおうけつ)、常山王張耳(じょうざんおうちょうじ)、義帝柱国共敖(ぎていちゅうこくきょうごう)、遼東韓廣(りょうとうのかんこう)、燕将臧荼(えんのしょうぞうと)、田市(でんし)、田都(でんと)、田安(でんあん)、田栄(でんえい)、成安君陳餘(せいあんくんちんよ)、番君将梅鋗(ばんくんしょうばいけん)、雍王章邯(ようおうしょうかん)(この人は元、秦帝国軍の将軍であったが、河北の戦いで敗れて後、30万騎を率いて項羽に投降)。

というわけで、項羽側は項氏一族17人、諸侯53人、合計386万騎である。

漢建国2年、項羽は城陽(せいよう)に至り、高祖陣営の田栄と戦った。田栄の軍は敗れ、投降。項羽はその地で老人、病弱者、婦女も含めて20万人を、土の穴に生き埋めにして殺した。

漢・高祖は、56万人を率いて彭城(ほうせい)に入った。項羽は自ら精兵3万を率い、胡陵(こりょう)で高祖と戦った。高祖は戦いに敗れ、項羽軍は高祖軍10余万を生け捕りにし、それをスイ水の淵に沈めた。その為、川の流れが止まってしまった。

連敗した高祖は、霊壁(れいへき)の東方に逃れた。その軍勢わずか300余。項羽軍は300万をもって、高祖を三重に囲んだ。もはや高祖は絶対絶命。ところが、にわかに激しい風雨がまきおこり、白日にして夜よりもなお暗しという状態に。これ幸いと、高祖は数10騎と共に、この囲みを逃れ、故郷の沛郡(はいぐん)へ逃がれた。

これを追って、項羽は沛郡へ押し寄せた。高祖側の兵は、ここに支えかしこに防ぎ、討死にする者20余人。この戦にも高祖は敗れ、彼の父は項羽軍に囚われの身となってしまい、項羽の前に引き出された。

漢・高祖は、周呂侯(しゅうりょこう)と蕭何(しょうか)の兵を旗下に収めて、その兵力を20万にまで回復し、栄陽(えいよう)に至った。

項羽は勝ちに乗じ、80万を率いて、彭城から栄陽に押し寄せた。この戦においては、高祖の側にわずかに利があったが、項羽はものともしない。

二人は、互いに勢いを振るいつつも、戦いを重ねずに廣武(こうぶ)に陣を張り、川を挟んでの、にらみ合いの状態となった。

項羽は、自陣に高い舞台を築き、その上に高祖の父を置き、高祖に告げた。

項羽 見よ、おまえの父は、あの舞台の上におるぞ。今もし、おまえが首を延べて降参してくるならば、おまえも父も、命だけは助けてやろう。しかし、どうしても降参しないというのであれば、ただちに、おまえの父を、あの舞台の上で煮殺してしまうからな!

これを聞いた高祖は、大いに嘲笑(あざわら)い、

高祖 ハァッハッハッ・・・項羽よ、よぉくよく、思い出すがよいぞ、わしとおまえが北面して、秦帝国打倒の命を懐王より受けし時の事。二人は、義兄弟となることを誓ったではないか。さすればなぁ、わが父はそく、お前の父でもあるという事になるではないかぁ! 自分の父を煮殺すというのかぁ? この親不孝モノめが! このバァチアタリめが!

項羽 ヌヌヌ・・・。

高祖 どうしても煮殺したくば、とっとと、やるがよいわ。煮あがりのスープ、わしにも一杯、分けてくれよのぉ!

項羽 (激怒)えぇい! よぉし! 薪に火をつけい!

高祖の父 ・・・。

項伯(こうはく) 待った! 待て! 待て!

項羽 止めてくださるな、叔父上!

項伯 まぁ、待て、待てと申すに! 無益な殺人は止めよ!

項羽 ・・・。

高祖の父 ・・・。

項伯 止めよ!

項羽 ・・・おまえの命、しばらく預けおく。

高祖の父 ・・・。

というわけで、項羽はようやく、煮殺しを思いとどまった。

--------

両者の闘争は、膠着状態(こうちゃくじょうたい)に入ってしまった。両軍に従軍している者は、青年・壮年は軍旅(ぐんりょ)に苦しみ、老弱は転漕(てんそう)に疲れる。

ある時、項羽は、自ら甲冑を着し、矛を取り、一日千里を走る騅(すい)という名の馬にうちのり、ただ一騎、川べりに出て、対岸に向かって叫んだ。

項羽 漢王! よく聞け! 天下の士卒が戦いに苦しむ事、すでに8か年。何もかも、もとはといえば、わしとおまえ、両人の争いのためじゃ。いたずらに国中の人民を悩ますよりは、今この場で、おまえとわしと、一騎打ちで、勝負を決してしまおうではないか! どうじゃ!

高祖の陣営を睨みつける項羽の前に、幕から出てきた漢・高祖が姿を現した。

高祖 はぁ? なにぃ? 天下の士卒が戦いに苦しむのは、わしとおまえ、両人の争いのためじゃとぉ? 笑わせるでないぞ! 国中の人民の悩みのよってきたる原因、それはひとえに、おまえ一人に責任がある事じゃ! 罪はおまえだけにある。おまえこそが、諸悪の根源なのじゃ!

項羽 なんじゃと!

高祖 そもそもじゃな、おまえの辞書には、「義」という文字が無いのであろう。ゆえに、あのような天罰を招くような罪の数々を犯しても、おまえは平然としておれるのじゃ。

項羽 ・・・。

高祖 よっく聞くがよい、今からな、積もり積もったおまえの罪業の数々、順に明らかにしてみしょうぞぉ。大罪人・項羽の罪その第一ぃ、それはじゃのぉ・・・。

高祖 わしは、おまえと共に、懐王(かいおう)より、打倒秦帝国の命を受けた。その時、「関中(かんちゅう)エリアを平定した者を、王としよう」との約を交わしたはず。しかるに、おまえは、たちまちそれを反故(ほご)にして、わしを、巴蜀(はしょく)の地に封じ込めてしもぉた。これが、お前の罪その第一じゃ。

高祖 懐王の命を受け、宋義(そうぎ)が、打倒秦帝国全軍のトップリーダーとなった。なのに、おまえは、みだりに彼の帷幕(いばく)中に乱入し、彼を殺害した。そして、「懐王は、我をして宋義を誅せしめたり」との偽りの軍令を、軍中に発した。これが、お前の罪その第二。

高祖 趙(ちょう)救援の戦いにおいて、おまえは勝利を収めた。しかし、おまえは懐王に対して、何の報告もせず、その勝利に乗じ、趙の兵を掃討して、かの国に侵入した。これが、お前の罪その第三。

高祖 懐王は、厳重なる命令を下していた、「秦の領域に入った時は、民を害するなかれ、財をむさぼるなかれ」と。しかるに、おまえは、わしに数ヶ月おくれて秦に入るやいなや、王宮を焼き払い、驪山の始皇帝(しこうてい)陵墓(りょうぼ)を掘り暴(あば)き、そこに埋められていた宝玉を残らず、私してしもぉた。これが、お前の罪その第四。

高祖 さらには、投降してきた秦の帝・子嬰(しえい)を殺し、天下を我がものにした。これが、おまえの罪その第五。

高祖 「命を助けてやるぞ」と偽り、20万人もの秦の子弟を、新安城(しんあんじょう)の穴に生き埋めにして殺した。これが、おまえの罪その第六。

高祖 自分だけ、良い所の領主におさまり、旧六国の君主の子孫らことごとくを、その領国から引き離して別の場所に封じた。このようなムチャクチャな戦後処理への不満ゆえに、みな、おまえに対して反旗を翻すようになったのじゃ。これが、お前の罪その第七。

高祖 懐王を彭城に移し、韓(かん)王の地を奪い、自らは梁楚(りょうそ)に王として収まり、中国全土に独裁権力を振るうようになった。これが、おまえの罪その第八。

高祖 さらには、刺客を送り込んで、懐王を江南(こうなん)にて暗殺。これが、おまえの罪その第九。数々の罪悪中でも、この罪こそが最悪じゃな。中国全土の人々が、おまえのこの行為を指弾しておるぞ、おまえがこわくて口に出せずとも、道路で行き会うたび毎に、目と目をあわせて、おまえを非難しておるわい。まったくもって、大逆無道の甚だしきこと、そのうちきっと、天はお前を誡めて、厳罰を与える事であろうて。

高祖 かような極悪人のおまえを相手に、いったいなんで、このわしが、わざわざ自らの手を汚して、一騎打ちの相手などしてやらねばならぬのじゃ? ふざけるなよ、この、身の程知らずめが!

高祖 たとえ、おまえが山を抜くほどの力を持っていようとも、それがいったい何になる! 天の心にかなうわしの義の前には、おまえの力なんぞ、とてもかなうまいて。

高祖 おまえと一騎打ちさせるにふさわしき者はといえば・・・そうじゃなぁ、前科者くらいが適当かのぉ・・・そうじゃ、それがよいのぉ。きゃつらに鎧も着させず、刀も矛も持たせずに、ただ、杖と鞭のみ持たせようぞ、罪人を打つ杖と鞭をのぉ。その、杖と鞭に打たれて死ぬる、それが、おまえにふさわしき最期というものじゃ、ワッハッハァ・・・。

高祖軍百万の兵一同 トントントントン・・・(一斉にエビラをたたきながら)ワッハッハァ・・・。

項羽 (激怒)えぇい、言わしておけばぁ!

項羽は、強弓を引いて高祖を射た。その矢は、川の上4町の距離を飛び越えて高祖陣に到達し、高祖の前に控えていた兵の鎧の草ずり部分に命中、兵の体を貫通し、高祖の鎧の胸板に、鏃の元まで突き刺さった。

これを見て、高祖軍中から、樓煩(ろうはん)という者が、弓に矢をつがえて前線に歩み出た。彼は、強弓連射、馬上騎射の達人で、3町4町先にある針にさえ矢を命中させるほどの腕前。

樓煩 項羽め、よくも高祖様に矢を・・・返し矢を射てやる!

樓煩は、矢の射程距離まで前進した。それに対して、項羽は自ら矛を持って立ち向かい、目をいからし、大音声をもっていわく、

項羽 おまえはいったい、どこのウマノホネじゃ! このわしに向かって弓を引くとは、ふとどきせんばん!

樓煩 ・・・。

怒りに身を震わせながら、グッと睨む項羽の前に、さしもの樓煩も、思わずひるんでしまった。

樓煩の馬 ・・・ガタガタガタガタ・・・。

樓煩 ・・・ブルブルブルブル・・・。

人馬ともに、ふるえわななき、項羽に目を合わせる事もできず、ましてや、弓を引けるはずもなく、樓煩は自陣へ逃げ戻った。

--------

この矢に負傷した高祖の傷の回復を待つ間、高祖軍は士気振るわず、項羽側は連戦連勝。

張良 いかんのぉ・・・負けが、たてこんでおるわ。

陳平(ちんぺい) このままズルズルといってしまうと、非常にまずいぞ。

張良 思うにの・・・あの項羽の強さ、あれはヤツ自身の力ではない。ヤツに仕えておる、ある男の力なのじゃ。

陳平 その男の名は、范増(はんぞう)?。

張良 ズボシ(図星)。

陳平 ・・・。

張良 あの范増めと項羽との間を離反させることができたら・・・何かよい手は無いか?

陳平 こういうテはどうかの・・・ヒソヒソ(張良の耳元でささやく)。

張良 (ニヤニヤ)・・・。

陳平 (ニヤニヤ)・・・。(注8)

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(訳者注8)「史記・項羽本紀」では、高祖が陳平の計略を用いて項羽と范増の離反を図ったとあり、張良はこの件には関与していないようだ。しかし、太平記には、「陳平・張良等、如何にもして此范増を討(うた)んとぞ計りける」とある。
--------

ある日、項羽よりの使者が、高祖のもとへやってきた。陳平がこれに対面した。

陳平 やや、これは、どうもどうも! まずは、ごゆるりとお酒でも。

使者の前には、牛肉、羊肉、豚肉の三種盛合わせグルメ(注9)をはじめ、山海の珍味を尽くし、酒を泉のごとくたたえ、砂金4万斤、珠玉、綾羅(りょうら)、錦綉(きんしゅう)以下の重宝が、引き出物として、山のごとく積み上げられた。

--------
(訳者注9)原文では、「大窂」。
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陳平 いやぁ、范増殿は、ご機嫌いかがにしておられますでしょうかなぁ?

使者 ・・・(?)

陳平 連戦につぐ連戦、転戦につぐ転戦、范増殿も、さぞやお疲れでは・・・。なにとぞ、よしなに、お申し伝え下さいませぇ。

使者 ・・・(?)

陳平 この珠玉はとりわけ、范増殿のお気に召すかと思い・・・せっしゃ自ら、考えに考え抜いた末にとりそろえましたる逸物でございましてなぁ・・・。

使者 あのぉ・・・。

陳平 で、(急にヒソヒソ声になり)先日、范増殿よりの例の件でござりまするが、わが主君に内密でお伝えしましたところ、わが主君、ことの他、お喜びでござりましてな・・・。

使者 ・・・(?)

陳平 わが主君から、「范増殿に、ぜひともそのセンでお願いしたい、と伝えよ」と・・・

使者 拙者(せっしゃ)は、范増殿の使者として参ったのではござらぬ!

陳平 えぇっ! ではいったい、誰の使者で?

使者 言わずと知れたこと、項羽様よりの使いじゃわい!

陳平 しまったぁ! てっきりあなたは、范増殿からのご使者かと思うて・・・まぁ、しゃべるべきでないことをベラベラとしゃべってしもうたものじゃ・・・。あーあ、今頃になって、そなたが項羽よりの使者であったと知ってもなぁ・・・後悔、先に立たずじゃよ。

使者 ・・・。

陳平 あいつが悪いのじゃよ、あいつがぁ! 「范増殿よりのご使者が来られました」、さきほど、あいつ、たしかにこう申しよったぞぉ。ハァー、あのような者を部下に持つのは、実につらいものじゃのぉ・・・あ、いやいや、失礼失礼、こっちの話じゃよ。

使者 ・・・。

陳平 おぉい、この酒、肉、みんな下げてしまえ! 財宝も!

接待係 はいはい。して、ご使者さまには、いかなる馳走をご用意させていただきましょうか?

陳平 そうじゃのぉ・・・メニューはどうなっておるぅ?

接待係 かような場合のメニューといたしましては、「松」、「竹」、「梅」の三種類がござりまするが。

陳平 「苔(こけ)」じゃ、「苔」にせぃ!

使者 !!!

接待係 ははっ。

接待係 (内心)「苔」・・・「苔」・・・ご使者殿接待のメニュー、「苔」にせよとな・・・「苔」と言わば、最悪レベルの食材と最低レベルの調味料を用いて作る、チョウ最悪の料理じゃぞぉ、飢えている者でさえも、箸をつけるのをためらうようなシロモノじゃよ。外交の局面において、かようなモノを出して、本当によいのかのぉ? それこそ「コケ益」、もとい、「国益(こくえき)」を損なうような結果に、なりかねないのでは?・・・アァ、よいわ、よいわ、参謀閣下からのご命令じゃ、わしの知ったことかぁ。

自陣に帰った使者は、項羽に洗いざらいブチまけた。

使者 最初のうちは、范増殿よりの使者と、かんちがいされましてな、牛肉、羊肉、豚肉、山海の珍味、酒の海、珠玉、砂金、いやぁ、そりゃもう、すごいもんです。ところが、拙者が項羽様よりの使者と判明するやいなや、扱いが一転・・・何もかもひっこめてしまいよりましてな・・・で、出された料理は、「苔」!

項羽 ・・・。

使者 コケにされてしもぉた!

項羽側近一同 ?!・・・。

使者 敵側の陳平、なにやら、范増殿よりのメッセージを、心待ちにしていた風にてござりましたぞ。

項羽 もうよい、下がれ!

使者 ははっ。

項羽 (内心)・・・范増よりの使者とかんちがいして、大いなるもてなし・・・范増よりのメッセージを心待ち・・・もしや・・・范増・・・もしや、わしを裏切り、あやつと手を握っているのでは?・・・まさか!

項羽 (内心)・・・いやいや、やっぱり、どうも怪しいぞ・・・。

項羽 (内心)・・・このさい、范増から全権を取り上げ、誅を加えて、後の禍根を断つのがよいのかも・・・。

やがて、項羽の心中は、後戻りできない所まで来てしまった。

自らに対して項羽が疑惑を抱いている事を聞いた范増は、

范増 殿は、私をお疑いとか・・・。

項羽 ・・・。

范増 ハァー・・・(溜息)。

項羽 ・・・。

范増 天下の大勢、あらかた先が見えてしもぉた。これから先は、あなた一人でやっていかれるのが、よろしいでしょう。

項羽 ・・・。

范増 わしも既に、齢(よわい)80を超えた。この先なまじい生き長らえて、あなたの滅亡をこの目で見る事になるのも、悲しい事ですわい。

項羽 なにぃ!

范増 願わくば、わがこの首を刎ねて市にさらされるか、あるいは、鴆毒(ちんどく)を賜り、さっさと死んでしまいとうござりまする。

項羽 えぇい、望み通りにしてくれるわい!

范増は、鴆毒を飲んで3日後、血を吐いて死んだ。

--------

項羽と高祖の戦いが始まってからすでに8年が経過、双方、自ら戦場に臨むこと70余度に及んでいた。

天下の人心がすでに項羽を見限っていたにもかかわらず、項羽が勝利をおさめ続けてこれた原因、それはただ単に、項羽軍の兵の勇猛のみにあったわけではない。范増が絶えず戦略を練り、民を育み、士を勇め、敵状を察知し、疲れた兵を助け、徳を広範に施して、項羽陣営の団結心を保ち続けていたからである。

ゆえに、范増の死後、諸侯はことごとく項羽から離反し、多くの者が、高祖の下に寝返ってしまった。

それ以降、形勢は逆転。

高祖と項羽が、栄陽(えいよう)の東方で長いにらみ合いを続けた時、高祖の側は、兵力多く、食料多く、項羽の側は、兵は疲れ、食も絶えてしまった。

高祖は、陸賈(りくか)を項羽のもとに遣わした。

陸賈 わが主君よりの、和平の提案をお伝えしに参りました。「今日より後は、天下を二分し、鴻溝(こうこう)より西方をわが方の領土、それより東方を項羽殿の領土と、するはいかが?」との、提案にてござりまする。

項羽は喜んで、

項羽 よかろう! その提案、受けたぞ!

陸賈 ではこの際、わが主君のおん父上を、お返しいただきたく!

項羽 よし、連れて帰れ!

かつての敗軍の日々の中、いけどりの身となり、項羽の手によってあやうく煮殺されかけた人が、ついに無事帰還を遂げたとあって、高祖陣営は大喜び、全軍感きわまって万歳三唱。

高祖陣営一同 バンザーイ! バンザーイ! バンザーイ!(パチパチパチパチ・・・)

かくして、講和が成立、項羽は東に、高祖は西に、馬首を向けて分かれたその時、

陳平 殿、なんとまぁ、もったいない事をされますなぁ。

張良 うん、本当に、もったいない。

高祖 えぇっ?

陳平 殿、考えてもごらんあそばせ。今、天下の勢力の大半は、いったいどちらに、靡(なび)いておりまするか? 殿に? それとも項羽の方に?

高祖 そりゃぁ、わしの方じゃろぉ。

張良 今や、中国全土の実力者のほとんどが、殿に従うようになっておりまする。

陳平 それにひきかえ、項羽の方はどうでしょう?

張良 兵は疲れ果て、食料も底を尽き。

陳平 まさに今、天が項羽を滅ぼす時が来たのです。

張良 陳平の言う通りですぞ。この機会に項羽を討たずして、なんといたしまする! 今、何もしないのは、虎を養うようなもの、自ら、後の患いの種をまく事になりましょうぞ。

高祖 よし、わかった!

高祖は、二人の諌(いさ)めを聞き入れ、実力者たちと同盟を結んで300万の軍勢を編成し、項羽を追った。

項羽は、わずか10万の軍勢をもって、固陵(こりょう)に返し合わせて高祖と戦った。高祖軍は、40万人を討たれて退却した。

これを聞き、韓信(かんしん)は、斉(せい)国の軍勢30万騎を率いて、壽春(じゅしゅん)経由の迂回進路を取り、項羽を攻めた。さらに、彭越は、彭城の兵20万騎を率いて、城父(せいほ)を経て項羽陣に接近し、項羽軍の進路を遮って陣を張った。大司馬(だいしば)・周殷(しゅういん)も、九江(きゅうこう)の兵10万騎を率いて項羽陣に迫り、川を隔てて対峙(たいじ)した。

このように、東西南北全方向から百重千重に包囲され、活路の全てを失った項羽は、垓下(がいか)の城にたてこもった。

高祖側勢力は、垓下をヒシヒシと包囲した。

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項羽 (内心)あぁ、なんとかしてここを脱出し、わが祖国・楚(そ)へ落ちのびたいものじゃ。楚へたどり着ければ、勢力挽回もできようて。

項羽 (内心)それにしても、このわしを囲むために、よくもまぁ、あのような大軍をかき集めよったものじゃのぉ・・・。広い中国の方々からやってきておるようじゃ・・・てんでばらばら、思い思いに歌っておるわい・・・それぞれの出身の地域の歌を歌っておるのじゃな・・・。

項羽 (内心)ムムッ・・・あの歌は!

包囲網中から聞こえてくる合唱
 水ぬるむ 洞庭湖(とうていこ)の岸辺
 そぞろ歩く 乙女らの足下
 散りぬる花弁は 絨毯(じゅうたん)のごとく
 水面(みなも)をこごごとく 覆い尽す
 誰(たれ)思わざらんや 晩春の一刻
 永遠(とわ)に 不変(かわら)ざれよと
 ああ麗しの わがふるさと(故郷)
 ああ麗しの わがそのくに(楚国)

項羽 (内心)楚の国の歌じゃ・・・さては・・・あの包囲網には、わが故郷、楚の国の者らまで、加わっておるのじゃな・・・。

項羽 わが四面(しめん)、皆、楚歌(そか)す・・・あぁ、わが祖国、わが楚国よ、そなたまでもが、我を見捨てしか。(涙)

虞美人(ぐびじん) 殿・・・。(涙)

項羽 ・・・わしの人生も、今宵限りじゃ。(涙)

虞美人 殿ぉ、ううう・・・。(涙)

項羽 あぁ、どうにもならぬこの人生! 人間とはなんという、か弱き存在なのか! 運命のなすがままになっていくより他に、しかたがないのかぁ!

 わが力は山を抜き わが気概は広大な世界をも覆いつくす
 されども 時 我に利せず わが乗馬・騅も 前進するのを止めてしまった
 騅よ 騅よ なぜ前へ進んではくれぬのか このわしにいったい どうせよというのじゃ
 虞よ 虞よ おまえを どうすればよいのじゃ このわしは

 (原文)力 山を抜き 気は世を蓋(おお)う
 時 利あらず 騅逝(ゆ)かず
 騅逝かざるを 奈何(いかん)すべき
 虞や虞や 若(なんじ)を奈何せん(注10)

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(訳者注10)この詩は、太平記中にはない。「史記・項羽本紀」より訳者が載録した。
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虞美人は、悲しみに耐え得ず、

虞美人 殿、殿の剣を、頂きとうござりまする!(涙)

項羽 うん・・・(剣を虞美人に手渡す)

虞美人 殿のお側におれて、わらわは幸せでござりました・・・。殿、これにて永遠(なが)の別離(わかれ)でござりまする・・・。エェイ!・・・。(倒れる)

項羽 あぁ・・・虞よ、虞よ!(涙)

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項羽 よぉし、もはや思い残す事など、何もない! とことん闘って、死んでやるわ!

翌朝、項羽は、生き残った兵28騎を伴って城を出て、四方を包囲する高祖側勢力100万の軍を懸け破り、烏江(うこう)という川の岸辺にたどりついた。

涙を抑えて、項羽は28人の兵に語った。

項羽 打倒・秦(しん)帝国の旗揚げをしてよりこの方8年間、自ら戦場に立つ事70余戦、当たる所は必ず破り、撃つ所は皆わしに服した。かつて一度たりとも敗北を喫する事なく、わしはついに覇者となり、天下を手に入れた。

項羽 しかれど、今やわが勢いは尽き、力は衰え、わしはまさに、あの男の為に亡ぼされようとしておる。これは全く、わしの戦がつたない為ではない、ただ、天がわしを亡ぼさんとしておるだけのことじゃ。

項羽 今日これからの戦において、その証拠を、おまえたちに見せてやる! これからわしは、敵と三度戦いを交え、三度勝利をおさめてみせるぞ。そして、敵の大将の首を取り、その旗をヘシ折ってくれるわ。さすれば、わしの言葉に、うそ偽りがない事、おまえたちも、しかとわかってくれようて。

彼は、28人を四手に分け、四方から襲いかかる高祖軍100万騎を相手に戦った。

真っ先に仕掛けてきたのは、韓信率いる30万騎であった。項羽は、28人の先頭切って韓信軍に突撃を敢行、自ら300余騎を切って落し、大将クラスのメンバーの首を取り、切っ先にそれを貫いて元の陣へ帰った。

項羽 (内心)8人討たれて、20人になった・・・。

彼は、その20人を三個所に分散して配備し、高祖軍の接近を待った。

孔熙(こうき)が10万騎、陳賀(ちんが)が50万騎を率いて、東西から襲いかかってきた。項羽は大いにおめいて山を懸け下り、両軍を四方八方へ蹴散らし、逃げる相手500余人を切って落し、大将クラスのメンバーの首をまた一つ取って左手に引っ提げ、陣へ孵った。

項羽の兵は、わずか7人だけになっていた。

項羽は、相手方の大将クラスメンバー3人の首を、刀の切っ先に貫いて指し上げ、兵らにいわく、

項羽 どうじゃ、わしの言うた通りになったであろうが!

兵らは、驚きおそれつつ、感きわまったように、

兵7人 まことに、項王さまの、お言葉通りでしたわい!

項羽 分かればそれで、よぉし!

項羽は、すでに50余箇所もの傷を負っていた。

項羽 もはやこれまでじゃ、自害するとしよう。

項羽は、烏江の岸辺に座った。

これを見た烏江の亭長が、舟を一隻漕ぎ寄せてきて、いわく、

亭長 項王さま、この川の向うは、項王様のおん手に属して、方々の合戦にて討死にした兵らの故郷でござりまする。土地はさほど広くはござりませぬが、それでも、兵を集めれば10万くらいにはなりましょう。この川には、浅瀬も無ければ橋もござりませぬ。この舟をもってしか、川を渡るすべは無し。敵兵がこの川に至るといえども、もはや、川を渡る事はかないませぬわい。

亭長 さ、項王さま、この舟にお乗りくださいませ! この川を渡って、お命をつなぎあそばされて、かの地へお逃れなされませ。そして再び大軍を動かし、今一度、天下を覆されませ!

項羽 ハハハハ・・・なにを申すか。

亭長 項王さま・・・。

項羽 天が、わしを滅ぼそうとしておるのじゃぞ。川を渡ったとて、なんになる!

亭長 ・・・。

項羽 ・・・わしはなぁ・・・かの地の若者8,000人を率いて、この川を渡ってきた、あの秦帝国を倒さんとして。

項羽 わが望ついに成り、わしは、天下に覇を唱える事ができた。しかし、わしについてきてくれた者たちに恩賞を取らせるひまもなく、あの男との闘争が始まった。

項羽 以来8年間・・・わしについて、この川を渡った者らの中、ただの一人とて、再び生きて、この川を渡って帰る者はおらぬわい・・・なのに、なのに・・・わし一人だけが、おめおめと、この川を渡って帰れようか。

項羽 彼らの父兄は、わしを憐れんで、王として迎えてくれるやもしれぬ。しかし、いったいどのツラ下げて、わしは・・・わしは、彼らの前に出たらよいのじゃ! 彼らの息子をみな、死なせてしもぉたのじゃぞ・・・このわしはなぁ・・・(涙)

項羽 いや、彼らは決して、わしを責めはしまいて。彼らは黙って、許してくれよう・・・しかし、わし自身が、わしをどうにも許せぬわ!

項羽はついに舟には乗らなかったが、亭長のその志に感じ入り、それまで乗っていた、一日に千里を駆けるという乗馬の騅を亭長に贈った。

項羽はなおも、徒歩で高祖軍相手に戦いを続行しようとした。今や、たった3人となってしまった項羽軍は、怒りに震えながら立っている。

そこへ、2万騎を率いた楊喜(ようき)がやってきた。楊喜は、項羽をいけどりにしようと、接近していった。

項羽は、目をいからせて一喝した。

項羽 おまえはどこの何者じゃ! わしを討たんとして、ここにやってきおったか!

さしもの楊喜もひるんでしまい、心無き馬までもが震えわななき、小膝を折って伏せてしまった。

高祖軍の中に呂馬動(りょばどう)がいるのを遥かに見て、項羽は、

項羽 おぁ、そこにおるのは呂ではないか、ひさしぶりじゃのぉ!

呂馬動 項羽殿・・・。

項羽 (呂馬動を手招きしながら)これは、よい所へきよったわい。おまえとは、昔からの知り合いじゃでのぉ、わしの最後のはなむけを進呈しようかの。

項羽 聞く所によれば、わしの首には、千金の賞金、万戸の領主の褒賞が、かかっておるとか。同じ首を取られるのであれば、おまえに取られて、長年の交友の恩義に報いたものよのぉ。

呂馬動 ・・・。(涙)

項羽 さ、討て、早く! 何をしておる、早く、この首を取らんか!

呂馬動 ・・・。(涙)

項羽 ・・・そうか、では、自ら首かっ切って、おまえにやるとしよう。

項羽は、左手で自分の頭髪をつかみ、右手に剣を持ち、

項羽 エェーーイ!

左手に自らの首を持って立ったまま、項羽は絶命した。
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(以上、北畠親房が語った、沛公と項羽の話)

北畠親房 このようにして、項羽はついに亡び、高祖が天下を取りました。高祖が建てた漢王朝は、その後700年もの(注11)間、長期政権を維持しましたわ。

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(訳者注11)太平記原文には、「漢七百の祚を保し事は」とあるが、史実においては、「約400年」である。
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北畠親房 高祖がついに天下を手中に収めれたんは、外交と戦争の双方を、柔軟に駆使できたからですわ。陳平と張良の進言に従って、いったんは、項羽と偽りの和睦を結んだ、これが大いに功を奏したんですわなぁ。

北畠親房 まさに、今この時、我々は、この陳平と張良の謀(はかりごと)、その智謀を、大いなる教訓とすべきではないやろか。

北畠親房 すなわち、ここはひとまず、足利直義の言う通りに、彼との連合を組んでおく。そないなったら、我らの態勢は一気に挽回、そのうち、めでたく京都にて、わが君の正式の帝位継承の儀を、取り行う事もできるようになるやろて。

北畠親房 そこまで行ったら、もう、こっちのもんや、日本国中の政治は、わが君の一意専決、聖徳あまねく施し、士卒ことごとく朝廷に帰服したてまつり、ということになるやろう。陛下の威はたちまちにして振るい、逆臣らことごとく滅亡の淵に・・・火を見るより明らかなる、ストーリー展開となっていきますわなぁ。

このように、深い学識を駆使し、言葉たくみに論ずる北畠親房の主張に、諸卿も納得、直ちに、以下のごとく、「足利直義赦免」の宣言が発行された。

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陛下よりのお言葉、以下のごとく伝えるものなり

故(ふるき)を温(たずね)、新(あたらしき)を知る者は、明哲をよくする所なり。乱を収め、正しきに復する者は、良将の先んずる所なり。かの元弘(げんこう)年間の旧功を忘れず、帝(みかど)の大命に、今また従う事を決意するとは、まことにあっぱれな事、ほめてつかわす。

かくなる上は、すみやかに義兵を挙げ、天下に静謐(せいひつ)をもたらすための策を、運(めぐら)すべし。

陛下よりのお言葉、以上の通り。ここにたしかに、申し伝えるものなり。

正平(しょうへい:注12)5年12月13日 左京権太夫(さきょうごんのだいぶ)・正雄(まさお) 奉ず

足利左兵衛督入道(あしかがさひょうえのかみにゅうどう)殿
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(訳者注12)吉野朝側の年号である。
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まさにこの時をもって、その後長く続く、君主と臣下との離反、兄弟背反しての骨肉の争いが始ってしまったのであった。いやはや、まことにあさましい世の中になったものである。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月 8日 (木)

太平記 現代語訳 28-6 足利直義、反撃を開始

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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高師直(こうのもろなお)がいよいよ中国地方へ出発というその時、足利直義(あしかがただよし)は、「極秘裏に、直義を暗殺してしまおうとの企てあり」との情報をキャッチした。そこで直義は、我が身を守るがために密かに京都を脱出し、大和国(やまとこく:奈良県)に逃げたのであった。

直義が頼った先は、大和国土着の武士・越智伊賀守(おちいがのかみ)である。

越智は直義を温かく迎え入れ、近隣の郷民たちもこれに合力し、街道を切り塞ぎ、国の四方に関所を設け、二心なく直義を守る態勢を見せた。

翌日には、石塔頼房(いしどうよりふさ)他の、多少なりとも直義に志を通じている旧好(きゅうこう)の人々が、彼の下に馳せ参じてきた。

かくして、足利直義が大和に居る事は、天下周知の事実となった。

直義派メンバーA さてさて、現在の我々の勢力は、いかほど?

直義派メンバーB そうだなぁ・・・地域によって様々、という他ないなぁ。

直義派メンバーC 首都圏、その周囲、我々が優勢な地域もあれば、そうでもない地域もありで・・・。

直義派メンバーD 直義さま、ここはやっぱし、朝廷の威を借りないと、だめでっしょ。

直義派メンバーE 我々の力だけでは、どうにもねぇ・・・。

足利直義 ・・・院か・・・。

直義は、京都へ使者を送り、院との交渉を行った。

「なにとぞ、上皇命令書(注1)を賜りたく!」との直義の願いに、光厳上皇(こうごんじょうこう)からは何の異議も無く、すぐに上皇命令書が下された。さらに思いがけずに、「鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)補任」までもが、そのおまけについてきた。

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(訳者注1)原文では、「院宣(いんぜん)」。
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その任命の言葉にいわく、

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上皇陛下よりの院宣を受け、以下のごとく申し伝えるものなり。

古(いにしえ)の世、聖徳太子(しょうとくたいし)は、物部守屋(もののべのもりや)を誅したまい、朱雀天皇(すざくてんのう)は平将門(たいらのまさかど)を戮(りく)された。これまさに、悪を滅し善を保つ、君主の聖なる処断である。

今ここに、そちが凶悪なる逆徒を退治し、父叔両将(ふしゅくりょうしょう:注2)の鬱念(うつねん)を晴らさんとしておる事、上皇陛下におかせられては、大いにお喜びである。

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(訳者注2)父と叔父、すなわち、尊氏と直義。「凶悪なる逆徒」とは高師直の事を指すのであろう。
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よってここに、そちを鎮守府将軍に任命し、あわせて、左兵衛督(さひょうえのかみ)に任ずるものなり。

速やかに九国二島(きゅうこくにとう:注3)ならびに五畿七道(ごきしちどう)の軍勢を率いて、上洛を企て、天下を守護すべし。

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(訳者注3)九州と2島(壱岐、対馬)
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以上、ここに上皇命令書をもって、上記のごとく執達(しったつ)せしものなり。

観応(かんのう)元年10月25日 権中納言・吉田国俊(よしだくにとし)奉ず

足利左兵衛督殿
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2018年3月 7日 (水)

太平記 現代語訳 28-5 足利直義、京都から出奔

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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足利尊氏(あしかがたかうじ)が中国地方へ向けて出発したその前夜、京都では大事件が起こっていた。

謹慎蟄居(きんしんちっきょ)中の足利直義(あしかがただよし)が、石塔頼房(いしどうよりふさ)を伴って京都を出奔(しゅっぽん)、行方不明になってしまったのである。

この情報に、昨今の世相に危機感をつのらせていた人々は、京都のあちらこちらでヒソヒソ話。

世間の声A (ささやき声で)こらぁ、えらいこっちゃでぇ!

世間の声B (ささやき声で)ついに足利直義様、行動開始と来たな。

世間の声C (ささやき声で)またまた国中、戦乱のちまたに、ひきずり込まれる事になるんかいなぁ。

世間の声D (ささやき声で)ムムム・・・高(こう)家一族の、滅亡の日は近づいたゾォ。

突然の出来事に事情がよく分からず、足利直義サイドの男女も、ただただ、うろたえるばかりである。

直義サイドの人E いやまぁほんまに、タイヘンな事に、なってしもたやないかいな!

直義サイドの人F いったいぜんたい、世の中、どないなってしもとんのん?・・・。

直義サイドの人G 直義様はいったいどこへ? 誰が、おともしてるの?

直義サイドの人H 誰も、おともしてやしませんことよ。たったお一人で、失踪なすったようですわ。

直義サイドの人I 馬は全て、厩(うまや)につながれてますがねぇ・・・馬も無しに、いったいどこへ行かれたんでしょうかねぇ?

直義サイドの人G なに言ってんのよ、馬が無けりゃ、どこへも逃げれないじゃないの!

直義サイドの人E あんな、これはきっと、高師直(こうのもろなお)のサシガネでっせぇ。

直義サイドの人F そうやそうや、きっとそうや、師直が誘拐しよったんやわ、今夜中に、こっそり殺されてしまわはるんや。

直義サイドの人G そんな! ひどい、ひどいわ!

直義サイドの人一同 うぁぁ、うぁぁ、うぁぁ・・・(涙)。

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仁木(にっき)家、細川(ほそかわ)家の人々も、血相変えて、高師直の館にかけつけてきた。

仁木家メンバーJ こりゃ、タイヘンな事になっちまった!

仁木家メンバーK うーん・・・直義殿の京都からの逃亡、どうもこりゃぁ、タダじゃぁすまないような気がする・・・。

細川家メンバーL 執事(しつじ)殿、九州行き、しばらく延期されては?

細川家メンバーM うん、それがいいと思う。暫く京都に逗留されてですね、直義殿の居場所をよくよく探索された方が、いいんじゃあ?

高師直 モシモシカメよ、カメさんよ、ナァニをおっしゃるウサギさん。まぁ皆はん、そろぉて、タイソウなフゥに、言うておいやしておくれやすやんかいさぁ。デェジョウブ(大丈夫)、デェジョウブ、たとえ、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)、十津川(とつがわ:奈良県・吉野郡・十津川村)の奥、はたまた、鬼界島(きかいがしま:注1)、朝鮮半島へ逃げちっちとしてもですなぁ、この師直が生きてる限りは、いってぇぜんてぇ、どこのバカヤロウ様が、直義はんに味方しはるって言うんどすかいなぁ? ウワッハッハッハッハァ!

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(訳者注1)平家物語にも出てくるこの「鬼界島」は、現在の奄美群島中の「喜界島」ではなく、鹿児島県・薩摩半島南方の「硫黄島」の事であるようだ。
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一同 ・・・。

高師直 まぁまぁ、どこへなりと、お好きな所へ、お逃げあそばし。いくら逃げたってね、そうさねぇ、せいぜい3日のうちにゃぁ、首を獄門の木の上に曝(さら)し、どこぞの誰かの矢の鏃(やじり)にでもお当たりなすってね、屍(しかばね)となられるこたぁ、確実のジツでござんしょ。(注2)

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(訳者注2)原文では、「首を獄門の木に曝し、尺を匹夫の鏃に止め給はん事、三日が内を出ず可(べから)不(ず)。」
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一同 ・・・。

高師直 あのね、だいいちね、「将軍様、九州へ向けて進発ーーゥ!」ってね、その日程を既に諸国へ大々的に触れまわっちゃってんだよぉ。そのスケジュール狂っちまっちゃぁ、あれやこれやとトラブル続出でしょうにぃ。ダァメダメ、京都に留まって直義殿の行き先を詮索しているヒマなんて、これっぽっちも、ありまっしぇーーーん!

10月13日早朝、高師直は、ついに京都を出発、足利尊氏を先頭に、軍を西へ進める。

道中、方々からの軍勢を糾合(きゅうごう)しつつ、11月19日、備前国(びぜんこく:岡山県東部)の福岡(ふくおか:岡山県・瀬戸内市)に到着。

ここで、四国地方と中国地方からやってくる勢力を待ったが、海上に風波荒れて船は航行できず、山陰道(さんいんどう)には雪が降り積もり、馬の蹄も立たなくなっているので、馳せ参じてくる者の数は少ない。

足利尊氏 仕方がない、年が明けてから、九州へ向かうとしようじゃないか。

というわけで、尊氏は、備前の福岡にて、徒(いたずら)に日を送る事になった。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月 6日 (火)

太平記 現代語訳 28-4 足利尊氏、足利直冬討伐の為に、九州へ向かう

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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高師泰(こうのものやす)の遠征によって、中国地方はあらかた、静穏を取り戻した。しかし、九州地方において再び、足利直冬(あしかがただふゆ)の勢力が蜂起した。

9月29日、肥後国(ひごこく:熊本県)から京都に、早馬がやってきた。

使者 兵衛佐(ひょうえのすけ)・直冬殿は、昨月13日に当国へ来られてましてな、川尻幸俊(かわじりなりとし)の館におられますたい。ほいでもって、詫磨宗直(たくまむねなお)が、彼に同心して、国中に徴兵を行いよりましたばい。我々サイドに志ばぁ通じとるモンはぁ、当国にはそりゃぁ多いんですけど、詫磨からの徴兵にゃぁ到底、抵抗できんとね、結局みんな、直冬殿の陣営ばぁ加わってしまいよりましたとね。

使者 その後、川尻の勢力は雲霞のごとく膨張して、宇都宮三河守(うつのみやみかわのかみ)の城ばぁ囲みよりましたと。城の攻防戦は1日1夜、その合戦の末、戦死者100余人、負傷者多数、ついに、城ばぁ攻め落とされてしまいよりましたばい。宇都宮殿の生死も、定かじゃなかとね。

使者 詫磨と川尻の勢力はぁ、ますます強大になりよりましての、次には、鹿子木貞基(かのこぎさだもと)の城ばぁ包囲しよりましたばい。城の救援の為にぃ、少弐(しょうに)氏の現地代官・宗利重(そうとししげ)が近隣の武士らに声かけとりますが、なんせ九州全域と対馬(つしま)・壱岐(いき)の武士らの大半が、直冬殿に心を通じてしもとりますばい、その催促に従う者は、あんまし多かぁありません。

使者 こういうワケでぇ、もう九州は、シッチャカメッチャカになってしもとりますたい。早ぉ救援軍ばぁ派遣してもらわんと、もうどうにもこうにも、ならんとね。

これを聞いて驚いた将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)は、執事・高師直(しつじ・こうのもろなお)にいわく、

足利尊氏 これは大変だ・・・。さてと・・・いったい誰を、反乱軍討伐に送るべきかな?

高師直 うーん・・・そうですねぇー・・・。遠国の反乱軍を鎮めるんだったら、末流のご一族の方とか、あるいは、あたしなんかが行きゃぁいいんでしょうけど・・・ただねぇ・・・今回ばかりは、ちょっと話が違うんですよねぇー。

足利尊氏 ・・・。

高師直 将軍さま、今度という今度ばかしはね、将軍さまおん自ら、九州へ赴かれて、反乱軍を討伐されるより他、ないんじゃないでしょうかぁ?

足利尊氏 ・・・。

高師直 どうしてかってぇ、いいますとですねぇ・・・九州の連中、いったいなんで、直冬殿に付き従ってるかってぇ、いいますとですねぇ・・・そのぉ・・・。

足利尊氏 ・・・。

高師直 いやねぇ、直冬殿は、将軍様の血の繋がったお子様でしょ? ですからね、みんなカングッチャってるわけですよぉ、「将軍様も内々には、直冬殿に心を通わせておられるんじゃぁねぇかい」ってね。

足利尊氏 ・・・。

高師直 あ、いやいや、これはなにもね、あたしがそんな風にカングッちゃってるってわけじゃぁ、ねぇんですよ。九州の連中がぁ、そう思ってるんじゃぁ、ないだろうかってね、あくまでも、そういう話なんでしてね、誤解しないでくださいね。

足利尊氏 フーン・・・。

高師直 そんな風に思ってやがる九州の連中の心に相違してですよ、将軍様がじきじきに、直冬殿討伐に向かわれるってな事になりましたらなぁ、もうそりゃぁ、誰の目にもハッキリクッキリ明瞭になるじゃないですかぁ、将軍様のお心ってもんが。

足利尊氏 ・・・。

高師直 そうなりゃね、これは、「紛れも無く明確なる、父と子との争い」って事になるわけだ、どこの誰が、子供の方に加担したりなんか、するもんですか、そんな事すりゃぁ、天罰てきめんですわさ。

足利尊氏 ・・・。

高師直 そういうグアイにね、自ら現地に赴いてこられた将軍様の御旗下(おはたもと)で、このあたしが、命を投げ出して戦うってな事になってごらんなさいな、たとえ九州、中国が全部敵に回ったって、何も恐れる事なんか、ありゃしません!

足利尊氏 フーン・・・。

高師直 ささぁ、手後れにならないうちに! 夜を日についで、九州へ! 九州へ!

師直の強い勧めに、尊氏は一言の反論も無く、それに同意。京都の防備を足利義詮(あしかがよしあきら)に委ね、10月13日、征夷大将軍・正二位・大納言(せいいたいしょうぐん・しょうにい・だいなごん)・足利尊氏は、執事・高師直を伴い、8,000余騎の軍勢を率いて京都を出発、「兵衛佐直冬・討伐」の為に、まずは中国地方へ軍を急がせた。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月 5日 (月)

太平記 現代語訳 28-3 高師泰、石見へ遠征

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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石見(いわみ:島根県西部)国よりの使者 申し上げます! 石見国住人・三角兼連(みすみかねつら)が、足利直冬(あしかがただふゆ)の命に従い、石見の国中を席巻(せっけん)、荘園を横領しまくり、逆威(ぎゃくい)をほしいままに振るっております!

高師直(こうのもろなお) はぁー、さいですかいなぁ。そりゃまた、ミツマタ、どんならしまへん事ですじゃん(ニヤニヤ)。

高師泰(こうのもろなお) おいおい・・・あのなぁ、こういうのを甘く見ちゃダメなの! やつらの勢力が大きくなっちまわねぇうちに、さっさと退治しとかにゃぁ。よし、おれが、ちょっくら行ってくらぁ!

高師直 はいはい、じゃぁ、お願いしますどす。

高師泰 なぁに、現地へ行ってな、ババッとやって、ビビッとやってやりゃあ、もうそれでバタバタってカタついちまうんさ。どうってこたぁねぇやな。

高師直 ・・・(ニヤニヤ)。

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師泰は、6月20日に京都を出発、途中続々と合流してくる軍勢を従えて、石見へ向かった。

7月27日の暮れ方、江川(ごうのがわ:島根県西部を流れる)の岸に臨み、対岸の敵陣を見渡した。

高師泰 ふーん、あれが例の、佐和善四郎(さわぜんしろう)がたてこもってやがる城かい。

眼前には三つの城が望見された。その名は、「青杉城」(あおすぎじょう:島根県・邑智郡・美郷町)、「丸屋城」(まるやじょう:美郷町)、「鼓崎城」(つづみがさきじょう:美郷町)。各城の間の距離は、4ないし5町ほどであろうか。聳(そび)え立つ三つの山の上に城があり、その麓には、大河・江川が流れている。

やがて、佐和軍300余騎が、城から下りてきて、対岸に展開した。

佐和軍メンバー一同 おぉーい、そこのコシヌケどもぉー、とっととこっちへ、渡ってこんかぁーい!

佐和軍側の堅い守備態勢を見ては、うかつに手も出せず、高軍2万余は川端に立ちつくす。

どこかに適当な渡河地点がないものかと、各自、目を見やるのではあるが、眼前を流れる江川は、中国地方の深山の雲を分けて流れ出てきた大河、両岸に聳え立つ山々に生える松や柏(かしわ)の緑影を映して、流れ下る急流は、大きな山をも押し流してしまうかと思われるほどの激しさである。石や岩の間を縫って流れ下る水流は、至る所で高く水しぶきを上げ、まるで白雪が翻(ひるがえ)っているかのようである。

高軍リーダーA こりゃぁ、あんまりあせらん方がいいですな。もうちょっと川の中の状態をよっく調べてみてからね、渡河を決行した方がいいと思いますよ。

高軍リーダーB おいらも同感ですわ。なんせ、この川がどんな状態なのか、誰もまだよく解ってませんしねぇ。

高軍リーダーC 功をあせってこんな激流に飛び込んでですよ、あげくの果てに水に溺れ・・・いやいやぁ、そんなの願い下げってもんですわさ。勇ましい格好ばかりつけたってね、「結局のとこ、オレっていってぇなんのために、京都からはるばる、ここまで来たのかねぇ?」てな事になっちゃうでしょ?

高軍リーダーD そうですよぉ。それに、もう日も暮れかかってますしねぇ・・・夜になって、敵が目が利かねえようになってからね、水泳達者の連中をたくさん川に飛び込ませてね、そいでもって、浅瀬を探させて・・・でもって、明日、そこを渡河するってセンでどうです?

高師泰 うーん、そうだなぁ・・・それがいいかもなぁ・・・。

300余騎を率いて最前線を進んでいた森小太郎(もりのこたろう)と高橋九郎左衛門(たかはしくろうざえもん)いわく、

森小太郎 あんたら、いったいナニ弱気な事、言うとるんじゃぁ! 治承(じしょう)の源平合戦の足利又太郎(あしかがまたたろう)見てみぃ! あの宇治川(うじがわ:京都府・宇治市)の急流を渡った時、又太郎は、まず浅瀬を探してから渡りよったんかいのぉ?

高橋九郎左衛門 承久(じょうきゅう)の乱の時だって、そうじゃぞぉ。柴田橘六(しばたきちろく)は瀬田の供御(くご)の瀬を渡りよったが、あんときも、浅瀬探しなんか一切しよらんかったわ。いきなり川にザブンじゃ。

森小太郎 あんたら、よぉ考えてみんさい。敵があないして対岸に出てきよったの、あれいったいなんでかのぉ? それはな、ここが絶好の渡河地点じゃからよ。わしらにここ渡れられちゃいけん、なんとかして防がにゃってんで、あないして、わしらの目ん前に出てきよったんじゃが。

高橋九郎左衛門 とにもかくにものぉ、この川の事は、ここにいる中じゃ、わしら二人が一番よぉ知っとんじゃけん、まずわしらが先頭切って、この川渡ってやるけぇのぉ!

森小太郎 みんな、わしらに、ちゃぁんとついて来(き)んさいよ!

高橋九郎左衛門 ほな、行くでーっ!

森小太郎 おおーっ!

二人は、真っ先切って川に馬を飛び込ませる。二人の郎等300余騎が、それに続く。さらに、三吉一揆(みよしいっき)武士団200余騎が、サット一斉に、馬を川に打ち入れる。全員、弓の両端を互いに手に握りながら一団となって川中を進んでいく。連なる馬は流れをせきとめ、続々と対岸に駆け上がっていく。

高橋九郎左衛門 それ行けーッ!

森小太郎 カカレー!

森軍・高橋軍・三吉一揆軍メンバー一同 ウオオオーー!

佐和軍側は、しばらくは防戦を試みたが、散々に掛け立てられ、後方の山城に退却していった。

森軍・高橋軍・三吉一揆軍は、勢いにまかせて佐和軍を追撃し、そのまま、城へなだれ込もうとした。

その時、三つの城の木戸がサッと開かれ、佐和軍が一斉に反撃に転じてきた。前後左右から攻城側を包囲し、矢の雨を降らせる。

森軍・高橋軍・三吉一揆軍はたちまち、100余人が重傷を負い、投石機(注1)によって次々と倒されていく。

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(訳者注1)原文では、「石弓」。
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彼らの後に続いて渡河した高師泰は、それを見て、

高師泰 あいつらを死なせちゃいかんぞ、みんな、あれに続けーッ!

山口七郎左衛門(やまぐちしちろうざえもん)、赤旗一揆(あかはたいっき)武士団、小旗一揆(こばたいっき)武士団、大旗一揆(おおはたいっき)武士団が、1,000余騎でもって城に攻めかかっていく。

この新手の大軍に攻め立てられて、佐和軍側は全員、城に引きこもってしまった。高サイド全軍は、逆茂木(さかもぎ)のすぐ際まで迫り、盾を垣根のように並べ敷き、しばしの休息を取った。

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緒戦においてはこのように、高軍サイドが勝利を収め、相手を城内へ追い込んだ。

しかし、城の防備はまことにかたく、切り岸は高く切り立ち、城に打ち入る手がかりもなければ、攻め落す手だても無い。ただ徒らに、塀を隔て、盾を境に、矢戦に日を送るばかりの高軍である。

ある日、三吉一揆武士団中の、日頃より戦場で手柄をたてていたメンバー3、4人が寄り集まって、作戦会議を始めた。

三吉一揆メンバーE なぁなぁ、おまえら、どない思う、この戦?

三吉一揆メンバーF うーん・・・はっきり言って、このままじゃ、やべぇのぉ。

三吉一揆メンバーG あの城の守りを見る限り、この調子で攻めてたんじゃ、いつまでたっても城は落ちんぞ。そのうち、こっちの食料が尽きてしまうが。

三吉一揆メンバーH それにの、わしらの敵は、あの城だけじゃねぇんじゃよの。備中(びっちゅう:岡山県西部)、備後(びんご:広島県東)、安芸(あき:広島県西部)、周防(すおう:山口県南部)、そこら中に、足利直冬様に心を通わせとる者が、たっくさんおるっちゅうが。

三吉一揆メンバーE そいつらが、わしらの背後突いてきよったら、こりゃぁおおごとじゃがの。

三吉一揆メンバーF 目の前の数十箇所もの城の一つもよぉ落とせんままに、後方で敵に道を塞がれ、なんて事になってみぃ、たとえここに、樊噲(はんかい)や張良(ちょうりょう)がおったかて(注2)、一時(いっとき)も、もたんでぇ。

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(訳者注2)漢王朝の創始者・高祖の功臣。樊噲は武勇に優れ、張良は智謀にたけていた。
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三吉一揆メンバーG じゃ、どうすりゃいい? なにか、えぇ策あるんけぇのぉ?

三吉一揆メンバーH ある! 一つだけな。

三吉一揆メンバーG なんじゃなんじゃ、いったいどんな策じゃ?

三吉一揆メンバーH 決まっとろうが、夜襲じゃ!

三吉一揆メンバーG ふーん、夜襲のぉ・・・。

三吉一揆メンバーE なるほど・・・ふぅん、ふん・・・案外、うまく行くかものぉ・・・。

三吉一揆メンバーH あの城を夜襲で落してな、敵の気力をイッキにそいでしまうんじゃ。そうすりゃ、京都におられる足利義詮(よしあきら)様も、意気あがられる事じゃろうて。

三吉一揆メンバーF よぉし、いっちょ、大将に提案してみるかのぉ。

この提案を受けた高師泰は、

高師泰 なるほど、夜襲なぁ・・・。おもしれぇ、いっちょうトライしてみようじゃん。おぉい、全軍の中から、腕のたつヤツ集めろぉい!

かくして、6,000余騎の中から(注3)、世にもすぐれたる精鋭コマンド部隊が選抜・編成された。

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(訳者注3)冒頭にはたしか「2万騎」とあったはず・・・ま、いいか、例によっての「太平記的アバウトカウント」だろう。
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その部隊のメンバーリストは、以下の通り。

足立五郎左衛門(あだちごろうざえもん)、その子・足立又五郎(またごろう)、杉田弾正左衛門尉(すぎただんじょうざえもんのじょう)、後藤種則(ごとうたねのり)、後藤泰則(ごとうやすのり)、熊井政成(くまがいまさなり)、山口新左衛門尉(やまぐちしんざえもんのじょう)、城所藤五(きところとうご)、村上新三郎(むらかみしんざぶろう)、村上彌二郎(むらかみやじろう)、神田八郎(かんだはちろう)、奴可源五(ぬかげんご)、小原平四郎(こはらへいしろう)、織田小次郎(おだこじろう)、井上源四郎(いのうえげんしろう)、瓜生源左衛門(うりうげんざえもん)、富田孫四郎(とだまごしろう)、大庭孫三郎(おおにわまごさぶろう)、山田又次郎(やまだまたじろう)、甕次郎左衛門(もたいじろうざえもん)、那珂彦五郎(なかひこごろう)ら、総勢27人の精鋭である。

彼らは全員、一騎当千のツワモノ、機転も利き、夜襲のベテラン。とはいいながらも、相手は1,000人規模の態勢で、用心きびしく城を守っているのである。とても、攻め落とせるとは思えない。

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8月25日の宵方から、「エイ、エイ」と互いに元気づけながら、コマンド部隊は集結。目じるしの明かりを手に持つ者を先頭に、順に列をなして、城の背後の山に分け入った。

深い山の中を、地を這い身を忍ばせながら、彼らは進んで行く。ススキやカヤ、篠竹(しのだけ)を切って、鎧の上部と兜の頂きにヒシと差して、身をカモフラージュ、鼓が崎城の切り岸の下、岩尾根の陰に伏す。

突然現れた彼らの気配に驚き、枯れ草を集めて寝ていた猪や、木の洞の中で寝ていた熊が一斉に飛び起き、やみくもに走り出した。

動物たちの足音 ドドドドドドド・・・ドサドサドサドサ・・・。

猪や熊たちは、2、30匹の集団となって、城の前の笹原を走り下っていく。

動物たちの足音 ドドドドドドド・・・ドサドサドサドサ・・・ザワザワザワザワ・・・。

佐和軍メンバーI おおーっ、敵襲だわ! 夜襲だわな!

佐和軍メンバーJ やっつけろ!

佐波軍側の弓 ビューーン、ビューン、ビューン、ビューン・・・。

櫓(やぐら)毎に、弓の弦音(つるおと)激しく、塀からは続々と投げ松明(たいまつ)が投じられる(注4)。

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(訳者注4)敵陣を照らすための松明。
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ほどなく、城内の興奮は静まっていった。

佐和軍メンバーI すまんすまん、夜襲じゃなかったわ。後ろの山から、熊が逃げだして、城の前を下っていきよったんだわなぁ。みんな、いっちょその熊、しとめてみんかや。

佐和軍メンバー多数 よぉし!

我先に、熊を射て取ろうと、弓を押し張り矢筒をしょって、300人余が城を飛び出していった。

彼らは、逃げ行く熊の後を追って、はるか下の山麓まで下りていってしまい、城に残るは、わずか50余人となってしまった。(注5)

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(訳者注5)城を守らなければならない大事な時だというのに、いったいなんで、熊なんかを、のんきに追いかけていくのか、まったく、訳者には理解しがたい。これは本当に史実なのだろうか? あるいはこれもまた、太平記作者のフィクションなのであろうか?
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夜は既に明けた。木戸はみな、開いている。

コマンド部隊メンバーK よし、いくか!

コマンド部隊メンバー一同 オウッ!

天が与えたこのチャンス、何を躊躇(ためら)うことがあろうか、コマンド部隊27名は、太刀の鞘を外し、城内に突入した。

コマンド部隊メンバー一同 ウォーーーッ!

佐和善四郎 アヤッ!

城の大将・佐和善四郎とその郎等3人は、腹巻鎧を取ってすばやくそれを着用し、木戸口まで下りて、一歩も引かず戦い続けた。しかしついに、善四郎は膝に傷を負い、地に手をついて倒れてしまった。

3人の郎等は、迫り来るコマンド部隊の前に立ちふさがり、しばしの時間を稼いだ。彼らが防戦する間に善四郎は、自らの詰め所に走り入り、火を放ち腹を切って死んでいった。3人の郎等も、次々と倒れていった。

城にこもっていたその他のメンバー40人は、防戦を放棄し、青杉城へ落ちていった。熊狩りに行ってしまっていたメンバーたちは、熊を追う事もできず、城へ帰る事もできず、ちりじりばらばらになって落ちていった。

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守備側の中心的存在であった鼓崎が落城し、大将の佐和善四郎までもが討たれてしまったとあっては、もうどうしようもない。残りの2城も、それから1日のうちに全て落ちてしまった。

世間の声L それにしても、この鼓崎城にこもってた連中、ホント、情けねぇやなぁ。

世間の声M 彼らは、孫子(そんし)の兵法の一節を知らなかったんだろうな、「敵の伏兵、野にある時、空飛ぶ雁の群、列を乱す」。(注6)

世間の声N そぉどすなぁ。それさえ知ってはったら、なにも、熊さんなんか追いかけてて城を落すなんて事には、ならへんかったですやろなぁ。

世間の声一同 タハッ、大笑いだぜ、まったくもう。

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(訳者注6)「雁の行動を見てさえも、敵の伏兵の存在を察知できるのだから、ましてや熊が一斉に逃げ出したとあったら、敵の夜襲を当然察知すべきではないか、いったい何をやっているんだ」と言いたいわけである。後三年役(ごさんねんのえき)の時、源義家は、雁の列が乱れるのを見て、清原軍側の伏兵の存在を察知した、という話あり。
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その後、高師泰は、石見国の武士らを順(したが)えて、国中あちらこちらへ進軍。

攻めてこられたら落城は確実、と恐れを成して、三角に与(くみ)していた32箇所もの城はすべて、高軍が進軍する前から、守備する側が逃げ出してしまう。今や残るは、三角兼連がこもっている三隅城(みすみじょう:島根県・浜田市)ただ一つだけとなってしまった。

高師泰 うーん・・・この城は、難攻不落だなぁ。

高軍リーダーA いやぁ、じっつ(実)に、険しい地形のとこに建ってますねぇ。

高軍リーダーB 防衛、ビシビシかためてやがるでよ。

高軍リーダーC あのね、あんな城、何も無理に強攻しなくったって、いいじゃないですかぁ。もうこうなっちゃ、どっからも、あの城に援軍が来るあてがあるわけじゃなし。それにですよ、城の周囲は、我々サイドが完全に制圧しちゃってるわけでしょぉ? まぁ見ててご覧なって、城の食料、見る見る減っていきますわさ。

高軍リーダーD そうそう。あのカンジじゃぁ、さぁて、いったいいつまで、持ちこたえれるものかぁ。

高師泰 よし、じゃ、こうしよう、城の周囲四方の峰々に、向かい城を建てるんだ。でもって、2年かかってもいい、いや、3年かかってもいいからな、じっくり腰落ち着けてな、城をジュワーンジュワーンと、攻め続けてやるぞぉ。

高軍の包囲網の厳しさに、三隅城中の者たちは、ともすると士気も衰えがち。もはやどこにも、心の支えが無くなってしまった。

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(訳者注7)[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書 2443 中央公論新社] 74P, 75P には、以下のようにある。

 「『太平記』では、師泰軍が一瞬で石見国内を制圧し、敵の本拠三隅城ただ一つを残し、ここも向城で厳重に包囲して城兵をさんざん苦しめたと描写されている。
  しかし実際の石見侵攻は、非常に難航したようだ。直義派の桃井左京亮が中国大将軍として三隅氏を支援したため(周防吉川家文書)、師泰は進軍を阻止された。
  一一月頃には、師泰が三隅城から撤退し、出雲国に落ち延びたとの噂が京都で流れている。九州では、安芸国に退いたとする情報も流れた(肥後阿蘇家文書)。事実、一一月一三日には直義派に属する岩田胤時が三隅城を包囲する師泰軍を攻撃し、一二月二六日に師泰を撤退させている(長門益田家文書)。
  要するに、師泰は九州に上陸して直冬と対決する以前に、石見国さえも突破できない有様だったのである。」
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太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月 4日 (日)

太平記 現代語訳 28-2 足利直冬、九州で勢力を盛り返す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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昨年9月、足利直冬(あしあがただふゆ)は、備後(びんご:広島県東部)から脱出し、九州へ落ち延びた後、河尻幸俊(かわじりなりとし)の庇護の下にあった。

そのような状況下に、九州の有力武士たちのもとへ、足利尊氏(あしかがたかうじ)から将軍命令書が送られてきた。

九州の有力武士A おいおい、おたくへはまだ来てないか? 将軍様からの御命令書(注1)。

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(訳者注1)原文では「御教書(みぎょうしょ)」。
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九州の有力武士B 来たとね、来たとね。つい2、3日前にな。

九州の有力武士C うちへも来たばい。

九州の有力武士A で、なんて?

九州の有力武士B いやぁ、それがなぁ、見てビックラこいてしもぉたばい。なんと、「直冬を討て」とよ。

九州の有力武士A やっぱしか・・・。おたくんとこへは?

九州の有力武士C うん、うちの方へ来たんも、おんなじような内容たい。

九州の有力武士B あれな、どう考えてみても、わしゃぁナットクいかんとね。だってな、直冬殿は足利直義(あしかがただよし)様のご養子ってことになってるけんど、もとはといえば、将軍様と血の繋がった親子だぞ。いくら将軍様が直冬殿を疎遠にしておられたというてもな、実の子を殺せ、なんて命令、出すかぁ?

九州の有力武士C わしの推測では、あの将軍命令書、おそらく、高師直(こうのもろなお)の陰謀たい。きっと将軍様には無断で、執事の地位を悪用して、勝手に将軍命令書、発行して、九州中にばらまいとるんよ。

九州の有力武士A うん、おそらくな・・・。で、どうする?

九州の有力武士B こんな命令書、うっかり信用して直冬殿に手ぇ出してみろ、後がこわいぞ。

九州の有力武士C そうそう、将軍様から、どんなオトガメを受ける事になるか・・・「いったい・・・どこの誰だ・・・偽の将軍命令書に惑わされて・・・わたしの大事な息子に手を出したのは・・・ただでは・・・すまんぞ・・・」てなことになってしまうとよ。こわいんだからぁ、もぅー。

九州の有力武士A うー、ブルブル・・・こわかこわか。

九州の有力武士B 触らぬ神に、タタリなし。

九州の有力武士A&B&C ワハハハ・・・。

このような状勢の中、いったい何を思ったのであろうか、少弐頼尚(しょうによりひさ)が、直冬を自分の館に迎え入れ、彼を娘婿にしてしまった。

それを機に、直冬の運命は一転、九州はもちろんの事、その近隣地域においても、直冬の軍勢催促に従い、その命令を重要視する人の数が一挙に増えていった。

というわけで、ついに我が日本も、「三国分立」の時代に突入したのである。

第1の勢力:今は賀名生(あのお)に避難中の、吉野朝とその権力回復を目指す勢力。
第2の勢力:足利尊氏の下に集結、もしくはその庇護・支配下にある勢力。京都朝もこれに含まれよう。
第3の勢力:足利直冬の下に結集し、彼を盛り立てていこうとする勢力。

こうなっては、世の中の騒乱はますます休まる時がない。なにやら、後漢(こうかん)王朝傾いて後、呉(ご)・魏(ぎ)・蜀(しょく)の三国が鼎(かなえ)のごとくに対峙(たいじ)し、互いに他の二国を滅ぼそうと死力を尽くした、あの「三国志・戦乱の時代」の始まりの頃に相似した情勢である。

太平記 現代語訳 インデックス6 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年3月 3日 (土)

太平記 現代語訳 28-1 足利幕府、傀儡(かいらい)政権状態に

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝において、貞和(じょうわ)6年(1350)2月27日に改元が行われ、元号が、観応(かんのう)に改まった。

振り返ってみれば、昨年は、日本の政権構造において激変の起こった年であったと言えよう。

8月14日、高師直(こうのもろなお)と高師泰(もろやす)が、将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の館を包囲、上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまなおむね)を責め出し、最終的に、彼らをその配所・越前(えちぜん)にて死に追いやった。

足利直義(あしかがただよし)派は閉塞状態に陥ってしまい、直義は出家、隠遁の身となった。そして、国政の最高権力は、10月23日、鎌倉から京都にやってきた尊氏の嫡男・足利義詮(よしあきら)に引き継がれた。

しかしながら、「最高権力」とは名ばかり、その実態は、「人形師に背後からあやつられている傀儡(かいらい)政権」。国政を背後から操っている者、それは、武蔵守(むさしのかみ)・高師直(こうのもろなお)、そして、越後守(えちごのかみ)・高師泰(こうのもろやす)に他ならない。

かくして、高家の人々の権勢はいや増す一方、あかたも、あの古代中国・春秋時代(しゅんじゅうじだい)、魯国(ろこく)の君主・哀公(あいこう)に対して威を振るった太夫・季桓子(きかんし)、あるいは、唐(とう)王朝・玄宗(げんそう)皇帝の下で驕りを極めた楊国忠(ようこくちゅう:注1)のごとくである。

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(訳者注1)楊貴妃の親族。
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2018年3月 2日 (金)

太平記 現代語訳 27-10 天皇即位式に関して、閣議、紛糾す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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そうこうするうち、京都朝廷において、「年内に、天皇陛下御即位(注1)の大礼を、急ぎ執行すべし」との、重ねての決定が下った。

ここで、「重ねて」とあえて強調したのには、わけがある。実は、「当年3月7日に執行すべし」と、一度は決定を見たにもかかわらず、大礼を執行する事ができていなかったのである。「このままずるずると延引しているのも、いかがなものか」という事で、再度、日程を決定したのである。

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(訳者注1)崇光天皇の即位式。
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この「大礼」、歴代天皇即位の慣例に従って、本来ならば大極殿(だいごくでん)で執行すべきところを、大内裏(だいだいり)焼失の後は、大政官庁(だじょうかんちょう)にて執行してきた。

大礼儀式のディレクター(director:注2)任命の件において、「洞院公賢(とういんきんかた)でどうだろう」という提案がなされたとたんに、にわかに閣議がモメだした。

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(訳者注2)原文では「即位の内弁」。
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閣議メンバーA あのね、洞院殿は、太政大臣の職にあられる方ですよ。そんな最高職にある人が、ディレクターをつとめた、なんちゅう先例、あんまし聞いた事おまへんなぁ。

閣議メンバーB たしかに、あんたの言わはるように、「先例」はそら大事なこっちゃ。そやけどな、なんでもかんでも「先例」、「先例」と、昔からのしきたりにガンジガラメになっとったんでは、国政の変革なんか、いつまでたっても、できしまへんがな!

閣議メンバーC そうだっせ、今我々に課せられとんのは、まさに「変革」! これからの日本、新しい日本のガイドラインを創成する事なんや、そうやおまへんか?!

閣議メンバーD いやいや、「変革」の一点バリでは、国家はもちまへん! 革(あらた)むるべきは革め、守るべきはダンコとして守る、健全なる「保守」こそが、国政のキモ(肝要)ですわいな!

閣議メンバーA その通りですわ! 最近の世相は、まったく嘆かわしい限りや! 「良き先例に従い」なんちゅう事を、ちょっとでも口に出そうもんならな、「あいつは守旧派や、変革に対する抵抗勢力やぞ!」てな事で、フクロダタキやからなぁ・・・あぁ、いやはや・・・。

閣議メンバE あのね、ちょっとわたしにも言わせてください。この問題、先例を守るべきや否や、というような、トゥリヴィアル(trivial)な観点の議論よりも先に、もっと別の、チョウハイレベル(super high level)の観点から論じるべきやと、わたしは思いますが。

閣議メンバーB ほぉ、いったいなんやいな、あんたの言わはる「チューハイレベルの観点」とは?

閣議メンバーE 「チューハイ」ではのぉて、「チョウハイ」です・・・サウンドネス(soundness)、すなわち、「国政の健全さ」という観点ですよ。太政大臣が儀式のディレクターをつとめるやなんて、不健全なる姿以外の何ものでもない!

閣議メンバーC あのな、いったい何をもって、国政の健全・不健全を決めてなさるんかいな?! ほなら問う、「健全なる国政」の定義とはいったい何か?! そのデフィニション(definition)を述べよ!

閣議メンバー一同 グチャグチャグチャグチャ・・・・。

大納言・勧修寺経顕(だいなごん・かんしゅうじつねあき) (内心)いやはや・・・はぁーーー。

閣議メンバー一同 グチャグチャグチャグチャ・・・・。

勧修寺経顕 ちょっとちょっと、まぁまぁ・・・。みなさん、口角泡飛ばして、なんですいな! ここは大事な国政を論じる場ですやんか、もっと冷静になりましょうよ、冷静にぃ。

閣議メンバー一同 ・・・。

勧修寺経顕 「太政大臣が即位式のディレクターを務めた先例は無い」と、おっしゃいましたけどな、その先例、過去に皆無というわけでは、ないですよ。

閣議メンバーA いや、わたいはナニも、「過去に皆無」とまでは言うとりませんよ、「あんまし聞いた事ないなぁ」と・・・。

勧修寺経顕 まぁ、まぁ、よろしやん。あのな、過去にたった2回だけ、ありますんやがな、これがなぁ。

閣議メンバー一同 うん・・・。

勧修寺経顕 まず1回目は、保安(ほうあん)年間の崇徳天皇(すとくてんのう)陛下ご即位の時。その際には、太政大臣・源雅実(みなもとのまさざね)公が、ディレクターつとめはりましたわ。

閣議メンバー一同 ・・・。

勧修寺経顕 ほいでから、2回目が、久壽(きゅうじゅ)年間の後白河天皇(ごしらかわてんのう)陛下の時。その時は、太政大臣・藤原実行(ふじわらのさねゆき)公でしたわ。

閣議メンバー一同 ・・・。

勧修寺経顕 崇徳天皇陛下の時の先例は、皆様も知っての通り、エンギの悪い先例といえましょうなぁ(注3)。そやけど、後白河天皇陛下の先例は、非常にエンギのええ(良)先例と言えまっしゃろ?

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(訳者注3)崇徳天皇は、保元の乱に敗れ、讃岐に流罪となったから。
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勧修寺経顕 こういう、じつにエンギのえぇ(良)先例が、過去の日本の歴史上に厳然と存在しとるんですからな、太政大臣がディレクターを担当する事に、いったい何のさしさわりがありましょう? それになぁ、今の太政大臣は、まさに適役、洞院殿は、世に聞こえたる才覚の人ですがな。

勧修寺経顕 かりに、君主から義の道や政治の道について問われたならば、その師範役を立派にこなせるだけの才覚を持った人。他の家々からも、「礼」をはじめとする日本や外国の緒学の道において、まさにその鑑(かがみ)と尊敬され、儀式の演出・執行に関する見識・知識においても、まったく世のお手本とも言うべき、お人ですわいな。

閣議メンバー一同 ・・・。

メンバー一同、返す言葉も無く、議論は終結。洞院公賢が、ディレクターに正式任命された。

アシスタント・ディレクター(注4)には、源家信(みなもとのいえのぶ)、高倉廣通(たかくらひろみち)、冷泉経隆(れいぜいつねたか)が任命された。

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(訳者注4)原文では、「外弁」。
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左側侍従(じじゅう)には、花山院家賢(かざんいんいえかた)、右側侍従には、菊亭公真(きくていきんさね)が任命された。

即位の大礼は、まさに国家を挙げての行事、僧俗多数が参集の一大壮観ゆえに、遠近から、見物人が踵(きびす)を継いで押し寄せてきた。

光厳(こうごん)、光明(こうみょう)両上皇も、列席の為に御幸(みゆき)し、アシスタント・ディレクターの詰め所、西南の門外に車を並べた。

そして、天皇陛下のお出まし。陛下も諸卿も冠をかぶり、礼服を着し、左右の近衛府(このえふ)、左右の衛門府(えもんふ)、左右の兵衛府(ひょうえふ)緒陣が参列する。

四神(ししん:注5)の旗を四方に立て、諸衛府のメンバー各陣が、太鼓を打ち鳴らす。紅旗は風に翻り、あたかも龍が天に昇っていくかのよう、玉座には陽光がさんさんと降り注ぎ、鳳凰の模様は今にも空に飛び立つかのようである。

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(訳者注5)青龍、朱雀、白虎、玄武。
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話に聞く、あの古代中国・秦(しん)国の阿房宮(あぼうきゅう)、呉(ご)国の姑蘇台(こそだい)も、かくのごとくであったかと、思われる。

世は末世とは言いながらも、このような大儀式を執行されるのは、まことにもって尊い事である。

まさに今日この日、貞和(じょうわ)5年12月26日、天子は登壇して即位を遂げ、数度の大礼、事はめでたく執行、かくして、今年はめでたく暮れていく。

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2018年3月 1日 (木)

太平記 現代語訳 27-9 上杉重能と畠山直宗の悲哀の旅路

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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そうこうするうち、上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまなおむね)に対する処分の決定が行われた。

 「上杉重能、畠山直宗の両名、所領没収、邸宅破却の上、越前国(えちぜんこく:福井県東部)流罪に処するものなり」

重能も直宗も、「まさか、流刑先で死刑に処せられる事まではないだろう」と思ってか、家族とのしばしの別離を悲しみ、夫人や幼い子供まで皆伴って、配流先への旅に出発した。

慣れぬ旅寝の床の露に、起きても寝ても、悲しみの涙に袖を濡らす旅であったことであろう。そのつらさを紛らわすため、日頃より好んで演奏していた一面の琵琶を馬の鞍にかけ、思い込みあげるままにかき鳴らしながら、道を行くのであった。

琵琶A びぃいいーーん びぃいーーーん ぼよよーーん・・・。

上杉重能 旅館の上に浮かんでる、あの月見てるとなぁ、あの古代中国の王昭君(おうしょうくん:注1)の逸話、思いだしてしまうんだよなぁ。

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(訳者注1)漢王朝の后であったが、対外政策のために、異民族の王の后となって嫁いだ。
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上杉重能 
 異国の角笛の一声に 夢を破られて はたと目覚める
 目覚めてみれば ここは一面に霜置く 大草原のまっただ中
 ああ なつかしき漢帝国の王宮は
 あの輝く月の 万里の彼方にあり
 ああ わが胸 張り裂けんばかりなり

(原文)「王昭君が胡角一声霜後の夢、漢宮万里月前腸」

琵琶B びやぁーーん びしいーーーん びびびぃーーーん・・・。

畠山直宗 
 嵐の風に 関(注2)越えて
 紅葉(もみじ)を幣(ぬさ)と 手向山(たむけやま)(注3)
 暮れ行く秋の 別れまで
 身に知られたる 哀れにて

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(訳者注2)逢坂の関(滋賀県・大津市)。

(訳者注3)このたびは ぬさもと(取)りあえず たむけ山(手向山) 紅葉(もみじ)の錦(にしき) 神のまにまに (すがはらの朝臣 古今和歌集巻第9 旅歌)
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上杉重能 
 遁(のが)れぬ罪を 身の上に
 今は大(おお=おう(負う))津の 東の浦
 浜の真砂(まさご)の 数よりも
 思えば多き 嘆きかな

畠山直宗 
 絶えぬ思いを 志賀浦(しがのうら)(注4)
 渚(なぎさ)に寄する さざなみの
 返るを見るも うらやましく(注5)

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(訳者注4)「志賀」の「し」と「絶えぬ思いをし」の「し」とをかけている。志賀浦は大津市の北寄りの琵琶湖岸。

(訳者注5)波は沖に帰っていくのに、自分は京都へは帰れない、という思い。
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上杉重能 
 七座の神(注6)を 伏し拝み
 身の行く末を 祈りても
 都にまたも 帰るべき
 事は堅田(かたた:注7)に 引く網の
 目にもたまらぬ 我が泪(なみだ)

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(訳者注6)比叡山山王七社。

(訳者注7)堅田は大津市北方、琵琶湖に面している。「堅田」の「かた」と、都にまたも帰るべき事は「難い」の「かたい」とをかけている。
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今津(いまづ:滋賀県・高島市)、海津(かいづ:高島市)と過ぎ行く中に(注8)、湖水の霧の中、波間に小さい島が見えてきた。

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(訳者注8)琵琶湖の西岸をたどるコース、すなわちJR西日本・湖西線ぞいのルートを、彼らは越前へと旅していくのである。現在もこれが、京都市から福井県への、鉄道の最短ルートである。
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畠山直宗 あぁ、あれが、かの有名な島。

上杉重能 その昔、あの島で、都良香(とりょうきょう)は、湖の絶景に感動してこう詠んだ。

 三千世界は 眼前に尽きぬ

畠山直宗 すると、あの島の守り神・弁才天(べざいてん)様が、その下の句を継いだという。

 十二因縁(じゅうにいんねん)は 心の裡(うち)に空し

上杉重能 まさにその、伝説の島、あれこそが、竹生島(ちくぶしま)。

一同暫(しば)し、そこにたたずみ、経文を唱えて弁才天に手向(たむ)けた。

陰(かげ)の声α 
 焼かぬ塩津(しおづ:伊香郡)(注9)を 過ぎ行けば
 思い越路(こしじ)の(注10) 秋の風
 音は愛発(あらち)(注11)の 山越えて
 浅茅色(あさじいろ)付く(注12) 野を行けば

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(訳者注9)「焼く」という詞より「塩」への連想。

(訳者注10)「越路」は北陸地方のこと。「思い」から「こす」へ連想。

(訳者注11)「愛発」は海津から敦賀へ越える道。「音」より「あら(荒)」へ連想。

(訳者注12)新芽が出だした。
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陰の声β
 末こそ知らね 梓弓(あずさゆみ)(注13)
 敦賀(つるが:福井県・敦賀市)の津にも 身を寄せて
 袖にや浪の 懸(かか)るらん

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(訳者注13)「梓弓」は「つる(弦=敦)」の枕詞。
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陰の声γ
 稠(きびし)く守る 武士(もののふ)の
 矢田野(やたの)は何(いず)く 帰山(かえるやま:福井県・南条郡・南越前町)
 名をのみ聞きて 甲斐(かい)もなし(注14)

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(訳者注14)「帰る山」という地名を聞いてみても、京都へ帰れるわけではない、の意。
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陰の声α 
 治承(じしょう)の乱に 篭(こも)りけん
 火打が城(ひうちがじょう:注15)を 見上(みあぐ)れば
 蝸牛(かぎゅう)の角(つの)の上 三千界(さんぜんかい)
 石火(せっか)の光の中 一刹那(いちせつな)
 哀れあだなる 憂世(うきよ)哉(かな)と
 今更(いまさら)驚く 許(ばかり)也(なり)(注16)

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(訳者注15)源義仲と平氏との古戦場。

(訳者注16)「人間どうしの争いなど、言ってみれば蝸牛(かたつむり)の角の上の小さい世界の中のこと、永遠の時の経過の中の光がピカット光るほんの一刹那の間のこと、ああ、人生とは何と哀れなものなのか」という慨嘆を込めている。「火打」と「石火」との連想。
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陰の声β
 無常(むじょう)の虎の 身を責むる
 上野(うえの)の原を 過ぎ行けば(注17)
 我ゆえ さわがしき
 月の鼠(ねずみ)の 根をかぶる
 壁草(いつまでぐさ)の いつまでか
 露の命の 懸るべき(注18)

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(訳者注17)虎のように恐ろしい「無常」に身を責められながら、「うえの」=「ういの(有為:無常転変)」の原を行く。

(訳者注18)「我ゆえさわがしき」:自分の行いゆえに自らの心乱れ。「月の鼠(ねずみ)の 根をかぶる」:月では鼠が樹木の根をかじっているという。「壁草」:きづた。「懸る」に連想。「露の命」:露のように今にも消えなとするはかない命。
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陰の声γ
 とても消(きゆ)可(べき) 水の泡の
 流れ留まる 所(ところ)とて
 江守(えもり:福井市)の庄にぞ 着(つき)にける

越前国守護代・細川頼春(ほそかわよりはる)と八木光勝(やぎみつかつ)が、彼らの身柄を受け取った。

彼らが収容されたのは、見るからにみすぼらしい柴の庵、このような所では、少しの間もとても住めないであろうと思えるような家屋であった。その外部は、厳重な警護で固められた。

あぁ、なんと痛ましい事であろうか。この家屋に収容された人々、京都にいた時には、まことに立派な薄桧皮葺(うすひはだぶき)の屋敷に住み、その敷地内には、三つ葉四つ葉のように建物が建っていたのである。車馬は門前に群集し、賓客(ひんきゃく)は堂上に充満し、まことに華やかな日々を送っていた。

なのに、今はうって変わったこの状況。都から遠く離れた地への長旅にさすらうだけですら、悲哀余りあるというのに、竹の編戸(あみど)に松の垣、時雨(しぐれ)も風も防げない。無念の涙に、たもとの乾くひまもない。

畠山直宗 (内心)あぁ、いったいどんな前世の宿業(しゅくごう)でもって、こんなツライ目に遭わなきゃならんのか・・・。

上杉重能 (内心)なんて恨めしいんだろう。こんなんじゃ、生きてる甲斐も無いなぁ。

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二人をここまで追いつめながらも、まだ足りない、というのであろうか、高師直(こうのもろなお)は、後の禍をも顧みず、「守護代・八木光勝と協力して、上杉と畠山を討て」との命を含み、密かに討手を差し向けた。

八木光勝は、もとは上杉重能に服従していたのであったが、高師直からの密命を聞いて、たちどころに心を変じた。

8月24日夜半、八木光勝は、上杉重能の配所の江守庄へ赴いた。

八木光勝 上杉殿、大変な事になりましたよ!

上杉重能 う? いったい何が?

八木光勝 昨日の暮れ方頃にね、京都から、高定信(こうのさだのぶ)が大軍率いて、越前の国府(こくふ:福井県・越前市)にやってきたんですよ。いったい何なんだろうと思いましてね、わたし、密かにサグリを入れてみたんですわ。それがなんと、上杉殿と畠山殿を討つために、やってきたんだと!

上杉重能 なに!

八木光勝 こんなとこで、じっとしてちゃ、もうどうにもなりゃしない。今夜のうちに、急いでここから脱出なさらんと!

上杉重能 ・・・。

八木光勝 越中(えっちゅう:富山県)か越後(えちご:新潟県)まで逃げられてね、まずはそこに身を隠されてね、そいでもって、将軍様へ、事の次第を詳細に訴えてみられては? そうすりゃ、師直たちは、いっぺんに将軍様からお怒りを買う事になる。ほいでもって、上杉様も罪を軽くしてもらい、都へ、めでたくご帰還ってなことに・・・。

上杉重能 逃げるったってなぁ・・・手勢もほとんどいやしない。

八木光勝 なぁに、大丈夫ですって。今、ここを警護してる連中らを、この先ずっと護衛につけたげますから。とにかく、事は一刻を争そうんです、討手が来ないうちに、早く、早く、ここから脱出なさらんと!

このように、あくまでの忠誠心を装っての光勝の言葉に、まさか、自分をだますつもりとは夢にも思わず、

上杉重能 よし、わかった!

取る物も取りあえず、重能と直宗は、夫人や幼い子供たちまでみな引き連れて、一行上下53人、急いで配所を脱出。中には、はだしのまま歩いていくしかない者もいる。

一行はひたすら、加賀(かが:石川県)国境を目指す。

逃避していく人々に対して、天はどこまでも無情であった。霰(あられ)混じりに降る時雨(しぐれ)は、人々の面を激しく打ってやまない。田んぼの中に続く細道には、馬の足跡に氷が張り、踏み行く毎に、泥が膝まではね上がる。

上杉家メンバーC (内心)あぁ、こんな悪天候だというのに、蓑(みの)も無けりゃあ、笠(かさ)も無しか・・・。

上杉家メンバーD (内心)膚の中まで、水が浸みてきちゃったわ。

上杉家メンバーE (内心)手がかじかんじゃって、もう・・・つらいなぁ。

上杉家メンバーF (内心)足も、すっかり冷えきっちゃった。

男は女の手を引き、親は幼き子を負うて、

畠山家メンバーG (内心)逃げて行く先といっても、確たるあてがあるでもなし・・・。

畠山家メンバーH (内心)でも、とにかく逃げるしかないんだ。後から討手が迫ってくる・・・。

畠山家メンバーI (内心)あぁ、怖ろしい、怖ろしい、とにかく先を急がなきゃ! 急がなきゃ!

なんと哀れな事であろうか。

八木光勝は、彼らの先回りをして、その行く手の方々の地域に触れてまわる。

八木光勝 おぉい、もしかしたらな、この先、上杉家と畠山家の連中らが、ここを通るかもしれん。やつら、流罪人の身でありながら、配所を脱走しやがったんだ、まったくけしからん! 見つけたら有無を言わさず、全員討ち取ってしまえ! いいな、わかったな!

これを聞いた、江守、浅生水(あさふじ:福井市)、八代庄(やしろしょう:福井市)、安居(あこ:福井市)、原目(はらめ:福井市)一帯の野伏(のぶせり)たちは、一斉に色めきたった。太鼓を鳴らし、鐘をつき、「落人が通るぞ、やっつけてしまえ!」と、大騒ぎ。

上杉家と畠山家の人々はこれに驚き、一足でも先へ逃げのびようと、倒れふためきながら、ようやく、足羽川の渡しへたどりついた。

上杉重能 あぁ、だめだ・・・。橋が落とされてる・・・。(ガックリ)

対岸には、足羽、藤島(ふじしま:福井市)一帯の野伏たちが、盾を一面に敷き並べている。

畠山直宗 しょうがない、江守へ引き返して、八木を頼ってみよう! 今はそれしか!

上杉重能 うん・・・。

彼らは、やむなく踵(きびす)を返し、江守へ向かった。が、しかし・・・。

上杉重能 あぁ・・・、こっちの橋も!

彼らが渡ってきた浅生水の橋も、すでに橋桁を引き落されてしまっている。そして、その対岸にはやはり、野伏の大軍が。

上杉重能 (内心)まさに、犬と鷹に追い立てられて、疲れはてたる鳥の心境・・・。

主の運命を最後まで見極めんがために、ここまでつき従ってきた若党13人が、二人に自害を勧めんが為に、一斉に衣をはだけた。

上杉家若党J 殿、我らの運命、もはやこれまで!

上杉家若党K 長年に渡る、殿よりのご恩、あの世に行っても決して・・・決して忘れません!

畠山家若党L 殿、奥方様、お子様方、今生(こんじょう)の別れでございます!

畠山家若党M 一足先にあの世へ行って、あちらのお館の掃除をして、お待ちしております!

上杉家若党一同 殿、お先に!

畠山家若党一同 お先に!

彼らは、一斉に腹を切った。

畠山直宗 よしよし、ちょっと待ってろ! おれも、今すぐ行くから!

直宗は、自らの腹を掻き切った刀を抜き、重能の前に放りなげた。

畠山直宗 上杉殿・・・あんたの刀・・・ちょっとヤワになってるよう・・・それ、使い・・・(うつ伏せに倒れる)

重能は、その刀を手に持ち、肌脱ぎになった。

上杉重能 (内心)彼女をこの目でみれるのも、これが最後か・・・。

上杉夫人 (涙)あぁ、あなた・・・あなた・・・ううう・・・。(涙)

重能は、眼前に泣き伏す夫人の顔をつくづくと見つめ、その姿を、眼の底に焼き付けた。

上杉重能 (内心)あぁ、おまえと夫婦になってから、長いような短いような・・・。これでもう別れか・・・なんて、名残(なごり)惜しい・・・。

上杉夫人 ううう・・・ううう・・・。(涙)

重能は、目にあふれる涙を袖で拭い、さめざめと泣くばかり。

上杉重能 (内心)おれはなんと、メメシイやつなんだろう・・・武士の家に生まれたこの身、家族に未練引かれていて、いったいどうする!・・・えぇい、重能、往生ギワが悪いぞ! 思い切れ、思い切るのだ、思い切って、腹を切るのだ・・・行くぞ!(涙、涙)

上杉夫人 ううう・・・ううう・・・(涙)

上杉重能 (内心)・・・行けない、とても行けない・・・おまえを残して、行けようか・・・。あぁ、どうしたらいいんだ、どうしたらいいんだ、おれはいったい、どうしたらいいんだ!

このように、徒に時を過ごした末に、重能は、八木光勝の中間たちに生け捕られ、刺し殺されてしまった。

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世間の声N まぁ、なんちゅう、ぶざまな最期なんやろか・・・。

世間の声O 武士ってぇのはなぁ、極端な事言やぁ、普段の振舞いなんてぇのは、どうでもいいんだ。武士の生きざまってぇのは、その最期の死にざまで、決まっちまうんだよなぁ!

世間の声P ほんに、そうどすなぁ。武士らしいに、潔い最期を遂げはらへんと、そらぁ、あきまへんわなぁ。上杉はんはなぁ・・・。

世間の声Q ほんと、キタネェ最期だったぜ、まったくよぉ!

世間の声一同 同感、いや、まったく同感!

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上杉夫人は、長年24時間、夫に連れそった身、昨日今日に始まった二人の間ではない。愛する人を失った悲しみは、永遠に続いていくように思われた。

上杉夫人 もう死んでしまおう! どこかの淵瀬に身を投げて・・・あの世に行って、早く、あの人に会いたい。

そのような彼女を思いとどまらせたのが、長年帰依してきた僧侶であった。

僧侶R いけませんな、身投げなんかしはっては。そないな事で、重能さまが浮かばれますでしょうかな?

上杉夫人 だって・・・。

僧侶R あんさんがほんまに、重能様の事を、今もお慕いされてるんやったらな、あんさんは死んだらあきまへん。この世に残されたあんさんには、重能様の為に、やってさしあげんならん、大事な事があるのんちゃいますか?

上杉夫人 ・・・。

僧侶R 追善追福(ついぜんついふく)ですがな。善徳を積み、善徳を積みして、せっせせっせと、あの世の重能さまのもとに、お送りしてさしあげなはれ。その徳でもって、重能さまの成仏も、かなうんですわいな。

上杉夫人 ・・・。

僧侶R あの世とこの世、別々の所に住むようになったかてな、夫婦は永遠に夫婦ですわいな。重能様を今も愛しておられるんやったらな、あんさんには、この世に生き続けて、なすべき事があるはずですよ。

上杉夫人 はい・・・。

後の風の便りによれば・・・やがて彼女は、往生院(おうじょういん:福井県・坂井市)で出家し、夫の菩提を弔う以外にはさらに他事無しの毎日を、過ごすようになったという。

かくして、高兄弟に敵対する勢力は次々と、逼塞(ひっそく)あるいは滅亡状態に追い込まれてしまった。まさに、天下の政道ことごとく、足利家執事の手中に落ちてしまい、今にも乱れを生ぜんかという事態に、今や立ち至った。

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