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2018年4月

2018年4月28日 (土)

太平記 現代語訳 36-7 反幕府勢力、東西に台頭

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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若狭国(わかさこく:福井県西部)は近年、細川清氏(ほそかわきようじ)の支配下にあり、頓宮四郎左衛門(とんぐうしろうざえもん)が、その統治の実務を任されていた。

四郎左衛門は、小浜(おばま:福井県・小浜市)に堅固な城を築き、食料数万石を備蓄していた。

小浜城に逃げ込んだ細川清氏は、城の構えや軍備を調べて、

細川清氏 (内心)ここなら大丈夫。双方攻め合いの戦をするにしても、篭城戦(ろうじょうせん)をするにしても、1年や2年は、もつな。そうそう簡単には、落ちないだろう。

やがて、清氏のもとへ、次のような情報がもたらされた。

細川軍メンバーA きますよ、きますよ、敵軍がぁ。

細川軍メンバーB 大手方面の敵側・大将には、斯波氏頼(しばうじより:注1)が任命されました。斯波は、北陸地方の勢力3,000余騎を率い、越前国(えちぜんこく:福井県東部)から椿峠(つばきとうげ:福井県・三方郡・美浜町)経由ルートで、若狭へ進軍の予定とか。

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(訳者注1)斯波氏頼は、36-6 に登場している。ただし、[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注では、大将に任命されたのは、石橋和義であり、この部分の記述は、太平記作者が誤っているのであろう、としている。
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細川清氏 うん。

細川軍メンバーC カラメテ方面軍の大将には、仁木義尹(にっきよしたか)が任命されました。山陰道(さんいんどう)の勢力2,000余騎を率いて、丹波(たんば:兵庫県東部+京都府中部)から逆谷(さかさまたに:福井県・大飯郡・おおい町)経由で、こちらへ向かう予定とか。

細川清氏 ウワハハハ・・・攻めてくるってかぁ? 哀れなやつらめ、ウワハハハ・・・。

細川清氏 あんな連中ら、幾千人攻めてきたって、どうってことないねぇ。そうさなぁ・・・こっちサイドの力仕事専門のもん2、3人に、杉材棒(注2)でも持たせて、立ち向かわせとくとするかぁ・・・もうそれで十分だろ、ウワハハハ・・・。

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(訳者注2)杉の棒の先に、鋭利な刃物を装着した武器。
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細川清氏 よぉし、まずは、敦賀(つるが:福井県・敦賀市)。あそこには、あっちの先鋒役の朝倉(あさくら)ナントカってのが陣取ってる、それを蹴散らすんだ、わかったな!

細川家・中間8人 オウ!

彼ら8人は、敦賀の津へ潜入し、浜に面した民家10余軒に火をつけて、トキの声を上げた。

朝倉軍メンバー300余騎は、びっくり仰天、

朝倉軍メンバーD ヤヤ、細川軍の奇襲だ!

朝倉軍メンバーE きっと、ものすごい大軍でやってきてるよぉ!

朝倉軍メンバーF 退却して、後陣に合流しようや。

朝倉サイドは、矢の1本も射る事も無いまま、敦賀から撤退。メンバー300余騎は、馬や鎧を捨て、越前の国府(福井県・越前市)へ逃走した。

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若狭&越前の人々G あんなんじゃぁ、とてもとても、細川には立ち向かえないとの、もっぱらの前評判だったけど、

若狭&越前の人々H やっぱし、その通りになってしまったね、ククク・・・。

若狭&越前の人々 ほんと、ほんと、アハハハハ・・・。

世間の人々のこの嘲笑を聞いて、斯波氏頼は、

斯波氏頼 (激怒)えぇい! なにやってんだよぉ!

10月29日、氏頼は、大軍を率いて椿峠へ向かった。

これを聞いた細川清氏は、

細川清氏 来たかぁ・・・よぉし・・・。

細川清氏 今度は、おれが出陣する。あいつら、徹底的に、やっつけてやる。一人も、生きて越前に帰さないよぉ!

というわけで、小浜城を頓宮四郎左衛門に任せ、清氏は、弟・頼和(よりかず)と共に500余騎を率いて、斯波軍に馳せ向かっていった。

しかし、斯波軍に直面して、細川兄弟の心中に、迷いが生じてしまった。

細川頼和 うーん・・・これはまたぁ・・・えらい攻めにくい所に、陣を構えられてしまったなぁ。

細川清氏 そうさなぁ。

細川頼和 あっちから攻め懸かってくるのを待ち、迎撃するか・・・それとも、先制攻撃、しゃにむに攻撃しかけるか・・・さぁて・・・。

細川清氏 うーん・・・。

このように、あれやこれやと思案を重ね、未だ戦の火蓋を切らずにいた、そんなある日、

細川軍メンバーI たいへんです! 頓宮が裏切りましたぁ!

細川清氏 えぇっ!

細川頼和 なにぃ!

「これまで、彼に対して施してきた恩は、格別である、ゆえに、決して、裏切ったりしないであろう」と、厚い信頼を置いていた頓宮四郎左衛門が、どうしたことか、にわかに心変りしてしまった、というのである。

細川軍メンバーI 頓宮のやろうめ、城ん中に降伏サインの旗、揚げやがりましてね。

細川軍メンバーJ それから、城の木戸、閉じて。

細川軍メンバーK 敵側の連中、あっという間に、後方から城になだれこんできて。

細川軍メンバーL みんなもう、どうしようもなくなっちゃって、右往左往しながら、やっとの思いで城を脱出・・・。(うなだれる)

細川清氏 ・・・(愕然)。

細川頼和 ・・・(愕然)。

いやはや・・・まったくもって、「馬6匹を繋(つな)ぎ止めるに、朽ちた縄を用いるがごとき、危うさ」とでも言うべきか・・・昨今の武士たちの心ほど、あてにならないものはない。

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勇士・細川清氏といえども、さすがに、「こうなっては、もはやかなわぬ」と思ったのであろう、頼和と二人だけで若狭を脱出、篠峯(ささのみね)越えルート(注3)経由で、密かに京都へ潜入した。

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(訳者注3)仰木(滋賀県・大津市) --> 比叡山の篠峯付近 --> 大原(京都市・左京区)のルート。
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「一夜だけでも京都の中に潜伏するのは、極めて危険」との判断の下、清氏と頼和は、それからは各々、別ルートを取る事にした。

清氏は、比叡山(ひえいざん)を越えて坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ下った。そこで1日、馬の足を休めた後、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ向かった。

頼和はその夜半、京都市街地の中を西方へ駆け抜けた。その後、大渡(おおわたり)を経由して、兄との取り決め通り、天王寺へ向かった。

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天王寺へ到着した清氏は、直ちに、石塔頼房(いしとうよりふさ:注4)のもとへ使者を送った。

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(訳者注4)31-1 において、石塔頼房は父・義房と対立し、足利幕府側陣営に留まった。しかし、32-3 では吉野朝勢力の一員として、細川清氏との戦に参加している。
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使者 わが殿より石塔さまにお願いしたい事があって、やってきました。

石塔頼房 おぉ。

使者 わが殿より、次のように石塔さまに申し上げよと、おおせつかってきております、

 「清氏、讒者(ざんしゃ)の不当なる訴えにより、何の罪も無いのに、死罪に処せられることになりました。今やまさに日本国内、我が身の置き所は、一寸の地もございません。よって本日、天皇陛下のご恩顧をいただきたく、御軍門に降参してまいりましてございます。石塔殿とは長いおつきあい、ただただ、貴方様をおたのみ申すばかり。とにもかくにも、何とかして、朝廷へのお口ききを、なにとぞ、よろしくお願いいたします。」

石塔頼房 ・・・。

使者 わが殿よりのお願い、以上、確かにお伝えいたしました。なにとぞ、なにとぞ、よろしくお願い申し上げます!(平伏)

石塔頼房 ・・・(涙)。

使者 ・・・(平伏)

石塔頼房 ・・・まったくもう・・・これは、夢か現実なのか・・・信じられん・・・あの清氏殿がなぁ・・・(涙)。

使者 石塔殿、なにとぞ、なにとぞ!

石塔頼房 うん、わかった。とにかく、朝廷の方へ折衝してみるよ。結果がどうなるか、保証はできないけど。

使者 お願い申し上げます!(平伏)

頼房は直ちに朝廷に参内し、細川清氏降伏の件を奏上した。

閣議の結果、以下のような赦免の旨を記した天皇裁決書(注5)が発行された。

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敵軍リーダー、首を伸べて帝徳に降る。しかれば、天子が彼を許さないはずがあろうか。速やかに、朝廷軍の一員としてその軍門に慎み仕え、朝敵征伐の忠を専らにすべし。
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(訳者注5)原文では、「恩免の綸旨」
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頼房は大喜び、すぐに、清氏に対面した。

石塔頼房 細川殿・・・(涙)。

細川清氏 石塔殿・・・(涙)。

石塔頼房 ・・・(涙)。

細川清氏 ・・・(涙)。

石塔頼房 ほんとになぁ、人間の一生ってぇのは・・・一寸先は闇、何が起るか、分からんもんだなぁ。

細川清氏 世の転変、今に始まった事じゃぁないけど・・・でもなぁ、こうやって、あんたと、思いもかけない再会ができた・・・これで長年の願いもかなった・・・嬉しいよ・・・嬉しいよぉ・・・。(涙)。

石塔頼房 ・・・おれもだ・・・。(涙)

このように、清氏はただ、あいさつだけして帰って行った。

古代中国・秦(しん)帝国の末期、陰の実力者・趙高(ちょうこう)の讒言を恐れて、将軍・章邯(しょうかん)が楚(そ)の項羽(こうう)の軍門に降った時、面(おもて)を垂れ、涙を流し、言葉には出さねどもその心中には、讒者が世を乱す事への恨みを含んでいた、その時の光景と全く同様である。

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京都の人M えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、仁木頼夏(にっきよりなつ:注6)はんも、京都から脱出しはったえーっ!

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(訳者注6)36-6 に登場。
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京都の人N えーっ、いったい、どこえぇなぁ?

京都の人M 本拠地の伊勢(いせ:三重県中部)やがな。伊勢で兵集めて、旗揚げしはるんやろう。

京都の人O 仁木はんだけと、ちゃうでぇ、細川氏春(ほそかわうじはる:注7)はんもや。京都、脱出して、淡路島(あわじしま:兵庫県)へ逃げていかはったわ。「淡路全島の勢力を集めて、清氏殿に連合、軍船を整え、大阪湾(おおさかわん)をつっきり、堺(さかい:大阪府堺市)へ上陸ぅ!」っちゅうてなぁ、エライ気勢、上げたはるらしいでぇ。

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(訳者注7)36-6 に登場。
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京都の人P 摂津国(せっつこく)のなぁ、源氏の血筋引いたはる松山(まつやま)とかいうお人も、幕府に叛旗ひるがえしはったえぇ。香下城(かしたじょう:兵庫県・三田市)の防備かためてな、吉野の朝廷に志、通じ、播磨道(はりまどう)塞いでもてな、人馬の通行、完全ストップやてぇ。

京都の人Q ほんにまぁ、えらいこっちゃがなぁ。

京都の人M たまらんでぇ。

京都の人一同 アァーッ、また、戦争かいなぁ。

「近畿地方において、反乱蜂起、多発!」との情報をキャッチしても、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)は、涼しい顔。

足利義詮 大丈夫だってぇ。みんなちょっと、騒ぎすぎぃ。

足利義詮 京都近辺がガタガタしたってさぁ、関東はあの通り、安定しちゃってるじゃぁん。いざとなったら、関東八か国の軍勢を上洛させてだねぇ、反乱軍、退治させちゃえばいいんだろぉ。みんないったい、なに、そんなに大騒ぎしてるんだぁ?

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京都朝年号・康安(こうあん)元年(1361)11月13日、関東よりの早馬が京都に到来、使者いわく、

関東よりの急使 関東地方に一大事発生! 畠山国清(はたけやまくにきよ)とその弟・畠山義深(よしふか)、幕府に対して叛旗(はんき)をひるがえし、伊豆国(いずこく:静岡県東部)にたてこもりました。関東の道は、諸処(しょしょ)で寸断、武士たちは軍勢催促に応じようとしません!

足利義詮 えっ!

関東の事態急変の経緯は、以下の通りである。

一昨年の冬、吉野朝勢力・討伐軍・大将として上洛した際に、畠山国清は、関東八か国の武士たちを、大小問わず残らず率いて、京都にやってきた。(注8)

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(訳者注8)34-2 参照
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関東から遙か遠く離れた近畿地方への遠征、しかも、長期戦となって在陣は数か月。メンバー全員、出費がかさみ、どうにも首が回らなくなり、ついには、馬や鎧までをも売却せざるをえない状態に、追い込まれてしまった。

こうなってしまってはもう、戦も何もあったものではない、畠山陣営からは、毎日ポロリ、ポロリと、メンバーの姿が見えなくなっていく。

大将の畠山国清にいとまごいをする事もなく、大半のメンバーが陣を去り、自らの本拠地へ帰っていった。

戦の後、関東に帰還した国清、いわく、

畠山国清 あの国家の一大事、あの大遠征の際に、戦陣を勝手に離れるたぁ、なにごとだぁ! そんなやつらは、絶対に許さぁん!

かくして、関東武士たちは、命の懸かった我が領地(注9)を、次々と没収されていった。

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(訳者注9)原文では、「一所懸命の所領どもを」。
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関東武士たち一同 なんてぇムチャな! そんなの、ヒデェぞぉ! 領地、返してくれよぉ!

彼らの必死の嘆願を、国清は一切無視。足利幕府・鎌倉府(かまくらふ)の奉行たちが、見るに見かねて進言してきても、

畠山国清 ウルセェィ! よけいな差し出口しやがるやつは、かたっぱしから、たたっきるぞぉ!

奉行たち ・・・。

このようなわけで、関東中、訴人(そにん)は徒(いたず)らに群集し、憂いを心中にいだかざる者は一人も無し、という状態に至ってしまった。

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領地を没収された武士たちは、しばらくの間は、訴訟状を手に、東奔西走していたが、

武士R おい、おまえも、領地、没収されちまったんかい?

武士S そうだよ。おまえもだろ?

武士T うん。

武士V おれっちの近所で、同じメにあったやつ、けっこういるよ。

武士W おれっちの方も。

武士R おれたちと同じメにあったやつ、大勢、いるみたい。

武士S みんな集まりゃ、けっこうな数になるかもよぉ。

武士T どうだい、みんなで一致団結してだ、鎌倉府長官の基氏(もとうじ)様に、直訴するってぇのは。

武士U そうだったなぁ・・・団体交渉ってぇテがあったよなぁ。

武士V 団交だよ、団交。

武士W いっちょ、やってみっかぁ?

武士R みんなで手分けしてさぁ、オルグ(org : organizeの略称 : 組織化活動)やってみようや。

武士S よーし!

武士T やるぞぉ!

彼らは、ついに決起した。

主要メンバー1000余人、共に神水を呑んで一揆団結(いっきだんけつ)を誓い合った後、足利幕府・鎌倉府長官・足利基氏に対して、畠山国清の非行を訴え出た。

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悪辣(あくらつ)にして暴虐(ぼうぎゃく)なる、鎌倉府・執権・畠山国清を、どうか、罷免(ひめん)してください。そうでないと、我々は今後一切、長官様のご命令には従えません!」
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足利基氏 (内心)まったくもう、なんてやつらだ! しもじもの分際でありながら、上位に当たる執権職の罷免要求を出すとは! 下克上(げこくじょう)も甚(はなは)だしい! けしからん!(憤り)

足利基氏 (内心)でもなぁ・・・彼らに背かれてしまったら、1日たりとも、関東地方を安定状態に保つ事はできない・・・うーん・・・やむをえん!

基氏は、すぐに、国清のもとへ使者を送った。

使者 長官様よりのメッセージ、お伝えいたします、

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一昨年のあの上洛の際、南方朝廷勢力の退治を二の次にして、おまえは専ら、仁木義長(にっきよしなが)討伐にのみ、血道(ちみち)を上げていた。

今にして思えば、その行動は、おまえの密かなる、幕府転覆・陰謀の一端では無かったか?

さらに、関東に帰還の後、さしたる罪もない諸人の領地を、おまえは、かたっぱしから没収してしまった。

おそらくそれも、おまえの陰謀であろう。世間を混乱状態に陥れ、天下の人心を、私・基氏から離反せしめようとの、魂胆(こんたん)であろう?

かくのごとく、反逆の意志が明々白々に露見してしまったからには、なんじ、畠山国清、ただの一日たりとも、我が館の門下に、その足跡をも残すべからず! 退出が遅々に及ぶならば、速やかに追討の軍勢をさし向ける事になるから、そのつもりでな!
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その時、国清は鎌倉(神奈川県・鎌倉市)にいたが、

畠山国清 (内心)いってぇなんでぇ、これは・・・基氏様、カンカンに、怒っちまってらぁ。

畠山国清 (内心)こういう状態じゃ、もう、なに言ってもだめだろうなぁ・・・しかたねぇ、とにかく、鎌倉から、トンズラするべぇ。

かくして、畠山兄弟5人、郎従ともども300余騎、鎌倉を出て、伊豆へ向かった。

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国清たちが小田原宿(おだわらじゅく:神奈川県・小田原市)へ着いた時、土肥掃部助(とひかもんのすけ)は、

土肥掃部助 畠山たちは、今や、基氏様の敵だ。矢の一本も射ずに、逃亡していくのを見過ごすわけには、いかんよなぁ。

掃部助ら主従8騎は、小田原宿へ押し寄せ、風上から火をかけ、煙の下から切り込んでいった。

畠山側の遊佐(ゆさ)、神保(じんぼ)、斎藤(さいとう)、杉原(すぎはら)が、それに立ち向かい、散々に追い払った。

畠山側メンバー一同 たった、あれっぽっちの人数で、おれたちに襲いかかってくるだなんて・・・あいつら、どうかしてるよなぁ・・・アハハハ・・・。

後陣メンバーたちに、防ぎ矢を少々射させながら、国清たちはその夜、小田原宿を発った。

そして彼らは、伊豆の修善寺(しゅぜんじ:静岡県・伊豆市)に到着し、そこにたてこもった。

その後、国清の弟・義深は、修善寺から信濃(長野県)へ向かい、諏訪祝部(すわのはふり:注10)を仲間に引入れた。

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(訳者注10)諏訪盆地を本拠地とする諏訪氏である。諏訪氏は代々、諏訪大社の大祝を務めていた。
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京都の人X 近畿地方一帯、えらい事になってもた、と、思ぉてたのに、あれまぁ。

京都の人Y 関東、中国、東山道、どこもかも一斉に、反乱軍、決起やがな。

京都の人Z いったいこれ、どないなってんのぉん?

京都の人一同 ほんにまぁ、えらいこっちゃがなぁ、これからいったい、世の中、どないなっていくんやろかいなぁ?

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 36-6 細川清氏と佐々木道誉の対立、激化

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「あの大地震(注1)こそは、日本全国に戦乱続出の予兆(よちょう)そのものであったのか!」と、万人が驚愕の渦の中に巻き込まれていた中に、さらに、京都において驚くべき事件が起こった。

なんと、将軍家執事・細川清氏(ほそかわきようじ)、その弟・細川顕和(あきかず)、その養子・仁木頼夏(にっきよりなつ:注2)の3人が京都を去り、足利幕府に敵対する側のメンバーになってしまったのである。

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(訳者注1)36-2 参照。

(訳者注2)35-2 に登場。
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その原因はといえば、またしてもあの名前、「道誉」が。

佐々木道誉(ささきどうよ)と細川清氏の間の怨恨(えんこん)から発した紛争が、ついには、主君・足利義詮(あしかがよしあきら)と臣下・清氏との険悪な対立にまで、発展してしまったのである。

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加賀国(かがこく:石川県南部)の守護職は、建武(けんむ)年間の初めより現在に至るまで、富樫高家(とがしたかいえ)がその地位を独占してきて、ただの一度も、他家のものとなることがなかった。

「足利家に対する軍功は、他に抜きんでたものがある。なおかつ、領国統治の能力においても優秀なり」との評価の下、高家は、その恩賞として加賀国守護の地位を与えられ、富樫家歴代の祖先と同列に扱われてきた。

ところが、彼の死後、加賀の守護職に目をつけた佐々木道誉は、さっそく、政界裏工作を開始、

佐々木道誉 たしかに、富樫高家はりっぱな守護だったよ・・・でもなぁ、後継ぎが問題だなぁ・・・彼の息子、まだ幼いもん・・・加賀の守護なんてぇ任には、とても耐えられないだろぉー。

足利幕府・有力者メンバー一同 ・・・。

佐々木道誉 そこで、だ、加賀の守護は、とりあえずだ、隣国、越前(えちぜん:福井県東部)の斯波氏頼(しばうじより:注3)にやらせとくってセンで、いぃんじゃぁなぁい?

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(訳者注3)斯波高経の子。
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足利幕府・有力者メンバーA (内心)おいおい、待てやぁい。

足利幕府・有力者メンバーB (内心)斯波氏頼だってぇ? 道誉さん、氏頼を婿に迎える政略結婚、もくろんでるってうわさ、あるんだけどぉ・・・。

佐々木道誉のその動きをキャッチした細川清氏は、

細川清氏 なんだってぇ! そんなメチャクチャな事、あってたまるかぁ!

清氏は先手を取って、道誉の動きを完全シャットアウト、執事の職権を行使して富樫高家の子供を後押しし、「なんじに、加賀国守護の職を与えるものなり」旨の将軍任命書(注4)を発行してしまった。

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(訳者注4)原文では、「守護安堵の御教書」。
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佐々木道誉 (内心)フゥン! 清氏め、でしゃばりおってぇ!

これが、佐々木道誉をして、細川清氏に対して、腹に一物持つに至らしめた最初の出来事である。

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備前国(びぜんこく:岡山県東部)・福岡庄(ふくおかしょう:岡山県・瀬戸内市)は、頓宮四郎左衛門尉(とんぐうしろうざえもんのじょう)の領地であった。

四郎左衛門は、一時期、幕府への軍忠を途絶えさせた事があった。その時、幕府は福岡庄を没収し、赤松則祐(あかまつのりすけ)に与えた。

その後、四郎左衛門は、細川清氏の配下となって忠誠をつくしたので、清氏の好意を得ることができた。そして、清氏は、「頓宮四郎左衛門尉を、福岡庄の領主に復帰させる」旨の将軍任命書を発行した。

しかし、佐々木道誉と舅・婿の関係にあった赤松則祐は、道誉の威勢をバックに強気に出て、福岡庄を押え込んだまま、四郎左衛門にひき渡そうとしない。

四郎左衛門は、福岡庄へ一歩も立ち入る事ができず、幕府への上訴の道も完全に閉ざされてしまった。

細川清氏 (内心)ほんとにもう、あの佐々木道誉って人はぁ!

このようにして、細川清氏の対・佐々木道誉・鬱憤が、また一つ増えてしまった。

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それからというもの、清氏と道誉の対立は、エスカレイトの一途。

例の摂津国守護職の件の時にも(注5)、二人は激しく対立した。

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(訳者注5)36-5 参照。
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「摂津国守護職を、なんとかして、孫の秀詮のものに!」と、道誉は、横車を押しまくった。

最終的には、道誉の思惑通りの結果になったのであったが、その際にも、細川清氏は、なに憚る事無く、「摂津国守護は、赤松光範に戻すべきである!」と、機会ある毎に、声高に主張して止まなかった。

そんなこんなで、佐々木道誉の心中には、細川清氏への憤りが充満していた。

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足利義詮(あしかがよしあきら) ねぇ、ねぇ、今、ふと思いついたんだけどさぁ、今年の七夕の夜は、清氏の館へ行ってみようかなぁ。天の川、見上げながら、700番の歌合わせ、なんて、とっても、オツなかんじじゃぁん?

細川清氏 えぇ! 拙宅(せったく)へおこしいただけるんですか! いやぁ、これはまことにありがたいお言葉、えぇ、どうぞ、どうぞ、ぜひとも、おこしくださいませ!

そして、今夜はいよいよ七夕、細川家では、将軍を迎える準備万端、すっかり整った。

細川清氏 えぇっとぉ、何もかもちゃんとやってるよなぁ。忘れてしまってる事、ないだろうなぁ。

細川清氏 (台所に準備された料理を見ながら)豪華なグルメも用意した・・・(控えの間に目をやりながら)招いた歌人・数10人も、全員そろった。

細川清氏 よぉし、じゃ、将軍さまの所へ招待状、出すとしようか・・・これを将軍家へ、な!(使者に招待状を手渡しながら)

使者C (招待状を受け取りながら)ハハ!

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その頃、将軍家では、

足利義詮 なんだってぇ? 道誉さんから、七夕の招待状?

義詮・側近D はい、これでございます(義詮に招待状を手渡す)

足利義詮 ・・・(招待状を開く)。

招待状 パサパサ・・・(開かれる音)

足利義詮 なになに、「今宵七夕の夜、私・佐々木道誉の拙宅にて、抹茶ブレンドテイスト大会を開催予定。自宅内会場には、七所を飾り、7種類のグルメをとりそろえおりまする。大会の賞品は700品にして、テイスト回数は70回。まさに、七夕の夕べにちなんでの七七趣向の「七七づくめ・抹茶ブレンドテイスト大会」への、将軍様のおこしを、今か今かと、お待ち申しあげております」・・・ヘぇー、おもしろいじゃぁん!

足利義詮 さぁすがぁ・・・粋人の道誉さぁん、考えたましたねぇ、七夕の夜の七七づくしかぁ!

足利義詮 歌会は他の日でもできるけど、この「七七づくめ・抹茶ブレンドテイスト大会」ってぇのは、七夕の今夜を外しちゃぁ、ぜったいできないよ。よぉし、道誉さんの方へ行っちゃお!

と、いうわけで、せっかくの細川清氏の心づくしも全て無駄になってしまい、茶道・歌道の専門家たちは、空しく、細川邸から帰っていくしかなかった。

細川清氏 エェイ!

このようなわけで、互いに憤りの念は深まる一方、両人の確執は止む事が無かった。

表面上は何事もないかのように接してはいるが、内心には、憎悪の念が煮えたぎっている。「そのうちいつか、噴火してしまう時がやってくるのでは・・・」と、先が思いやられるような状態が、続いていたのである。

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細川清氏という人は、驕慢(きょうまん)の心深く、その言動は、世間の常識を逸脱するような事が多かった。

しかし、神仏を敬う心は、人一倍深かった。

神に帰服してわが子孫の幸福を祈ろうと思ったのであろうか、あるいは、我が子の烏帽子親(えぼしおや)にふさわしい人間など、この世には一人たりとも存在せず、と思っていたのであろうか、9歳と7歳になった二人の我が子の元服の儀式を、なんと、あの男山八幡宮(おとこやまはちまんぐう:京都府・八幡市)で行い、「二人の烏帽子親は、八幡大菩薩様である!」と、声高らかに宣言、兄の方を「八幡六郎」、弟の方を「八幡八郎」と名づけた。

この一件は、あっという間に、世間の多くの人の知る所となり、将軍・義詮の耳にも入った。

足利義詮 それにしても、清氏、だいそれた事、やったもんだなぁ・・・あれって、まるっきし、我が家のご先祖の頼義(よりよし)様が行われた事、そのまんまじゃぁん・・・ほら、あれだよ、あれ、三人の息子を、八幡太郎(はちまんたろう)、賀茂次郎(かものじろう)、新羅三郎(しんらさぶろう)って名づけられた、例のあれ。(注6)

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(訳者注6)源頼義は、三人の息子をそれぞれ、男山八幡宮、賀茂神社、園城寺新羅明神社で元服させた。
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足利義詮 清氏、もしかして、天下を奪おうってな野心、心中に秘めてるんじゃぁ・・・いやいや、まさかなぁ・・・。

清氏のこの言動は、自身の真意とは全く異なる心象を、義詮に与えてしまったのである。

これを聞いて、道誉は、

佐々木道誉 (内心)ウッシッシッシ・・・にっくき清氏め、みごとなミステイクを、イッパツやらかしてくれたもんだ(眼ギラギラ)。(注7)

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(訳者注7)原文では、「佐渡判官入道道誉是を聞て、すはや憎しと思ふ相模守が過失は、一出来にけるはと独笑して、薮にめくはせ([目]+[旬])し居たる處に」。「薮にめくはせ」の意味がよく分からないまま、「眼ギラギラ」としておいた。
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そのような折しも、鎌倉から上京してきた志一上人(しいちしょうにん)が、道誉を訪ねてきた。

志一は、外法(げほう:注8)をも会得していた。

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(訳者注8)仏教の正式修行の範疇には含まれていないような祈祷。
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よもやまの世間話がはずんでいる最中に、

佐々木道誉 それにしても、都へはほんと、久々のご帰還ですなぁ。

志一 そうですなぁ、京都を出てからもう、だいぶたちましたわ。

佐々木道誉 長い間、京都から離れておられたから、もしかして、経済的に大変なんじゃぁ? 誰か、檀家になってくれた人います? 祈祷を依頼してくれる人なんか、います?

志一 いやいや、まさにそれですねん、問題は。大した檀家もなかなかできひんもんやから、ほんま、なんぎしとりますねん。こないな事では、都にも長居できひんのんちゃうかいなぁと、もう、ほんま、弱気になってきとりましてなぁ・・・祈祷の依頼なんか、細川清氏殿から来たぁる、ほんの一件だけだっせぇ。

佐々木道誉 ほう、細川殿が・・・。

志一 はい・・・先方様が言われるには、「この一両日先に、重大な所願がありますから、速やかにそれが成就するように、祈祷してください」てな事、言うてきてはりましてなぁ。願書を一通封じて、祈願のおてんくに10万文そえて、おくってきてくれはりましてん。

佐々木道誉 ほぉ・・・そりゃまたいったい、何の所願ですかねぇ。

志一 はぁ・・・。

佐々木道誉 志一殿、ひとつ、その願書とやら、わしにちょっとだけ見せて下さらんか。

志一 エェッ! そないな事、できまっかいなぁ! 私、宗教家ですよぉ、守秘義務っちゅうもんがありまんがな。

佐々木道誉 まぁまぁ、そんなかたい事を言わずにぃ・・・ちょっと、ここで見るだけじゃぁないかぁ!

志一 いやぁ、そないな事、言われても・・・。

佐々木道誉 いや、そこをなんとか!

志一 エーッ・・・。

佐々木道誉 志一殿! 頼む、頼むから!

志一 ウーン・・・。

志一 (内心)あーあ、よけいな事しゃべってもたぁ、うかつやったなぁ・・・。この人、幕府の実力者やしなぁ・・・ここで逆らぉたら、なにされるかわからへん。

志一 分かりました、ちょっと待ってくださいや、今、その願書、宿所から取り寄せまっから。

やがて、問題の願書が届けられた。

志一 これですわ。(願書を道誉に渡す)

佐々木道誉 はいはい。(願書を受け取り、それを懐へ入れて立上る)

志一 あのぉ!

佐々木道誉 今日は、ちょっと急用がありましてな、これからすぐに、出かけなきゃなんない。この願書、じっくり拝見してから、お返ししますから。また明日、ここへおこしくださいな。

志一上人 あ、あ、あ・・・。

佐々木道誉 じゃぁーにぃー!(背後の門から出て行く)

志一上人 あ、あ・・・。

なすすべもなく、志一は宿所へ帰って行った。

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翌日、佐々木道誉は、足利幕府・政所奉行(まんどころぶぎょう)・伊勢貞継(いせさだつぐ)のもとへ、その願書を持参して、

佐々木道誉 (懐から願書を取り出し)見てよ、これ!

伊勢貞継 えっ?・・・いったいなんですか、それ?

佐々木道誉 陰謀だよ、陰謀!(願書を2回、つまはじく)

願書 ピン!ピン!(はじかれる音)

伊勢貞継 陰謀?

佐々木道誉 呪詛(じゅそ)だよ、呪詛!(右手で願書を持ち、左掌に2回叩き付ける)

願書 バァン!バァン!(叩き付けられる音)

伊勢貞継 エェーッ、呪詛ぉ?!

佐々木道誉 そうだよ、呪詛、呪詛! 対象はなんと、将軍様! 呪詛の依頼願書だよぉーん。

伊勢貞継 エェーッ・・・いったい誰が、こんなものを?

佐々木道誉 決まってるじゃぁないのぉ、細川清氏だよぉーん! 細川が志一に言いつけて、将軍を呪詛し奉ろうとしてるんだなぁー。

伊勢貞継 エェーッ、まさかぁ!

佐々木道誉 なに言ってんだ、ここ見ろ!(願書の一点を指さす) やつの自筆自印、あるだろ!

伊勢貞継 (願書に目を凝らしながら)・・・あ・・・り・・・ますねぇ・・・。

佐々木道誉 証拠十分だろ? なんら、疑いをさし挟む余地無しじゃないの! ね、あんた! 至急、これ持参して、将軍様のお目にかけてよ! ね! ね!(願書を、伊勢貞継に手渡す)

伊勢貞継 ・・・。(願書を受け取り、開く)

願書の内容は、以下のようなものであった。

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 敬白(うやまってもうす) 荼枳尼天(だきにてん:注9)・宝前(ほうぜん)

 一つ 清氏、日本全土を領し、その子孫、末永く栄華に誇る事
 一つ 宰相中将(さいしょうちゅうじょう)・義詮朝臣(あそん)、たちまちに、病患(びょうげん)を受けて死去せらるべき事
 一つ 左馬頭(さまのかみ)・基氏(もとうじ)、武威を失い、人望に背き、我が軍門に降らるるべき事

 前記三ヶ条の所願、一々成就せしめば、我、末永く、荼枳尼天様の檀家となりて、真俗の繁盛を専らにすべし。

 祈願の状、件(くだん)のごとし

 康安元年9月3日 相模守清氏
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(訳者注9)仏教の神。「荼枳尼」は、サンスクリット語のダーキニー(Ḍākinī)を音訳したものである。
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願書の裏には、清氏の花押印がサインされている。

伊勢貞継 (眉をひそめ)ハァー・・・(溜息)。

佐々木道誉 ・・・。

伊勢貞継 ハァー・・・(溜息)。

佐々木道誉 ・・・。

伊勢貞継 ハァー・・・(溜息)。

伊勢貞継 ま、とりあえず、これは、お預かりさせていただきます。

佐々木道誉 早いとこ、将軍様に見せなきゃだめよぉ!

伊勢貞継 はいはい・・・ハァー(溜息)・・・。

道誉が帰った後、貞継は、じっと考え込んでしまった。

伊勢貞継 (内心)筆跡は誰のものかは分からんが、花押はたしかに、細川殿のものにまちがいない。これはすぐに、将軍様のお目に入れないと、いかんよなぁ。

伊勢貞継 (内心)でもなぁ、こんなもの、将軍様に見せちゃったら、細川殿、そく死刑になってしまうだろうなぁ。

伊勢貞継 (内心)だいたい、こういった話には、陰謀がらみのものが多いんだよ・・・そうだよ、あわてちゃぁいかん、あわてちゃぁいかんのだよ、もうちょっと、じっくり考えてからにしよう。

というわけで、貞継は、その願書を、箱の底深く秘匿した。

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そのような中、足利義詮が急病になってしまった。

祈祷(きとう)の効験あらたかな高僧を呼んで、病気平癒(びょうきへいゆ)の加持(かじ)をさせたが、一向によくならず、頭痛は日を追って強まるばかり。

それを聞いた佐々木道誉は、

佐々木道誉 (内心)よぉし、チャンス!

道誉は、義詮のもとへ見舞いに行った。

佐々木道誉 将軍様、おかげんはいかが! どうですか、大丈夫ですか!

足利義詮 うーん・・・どうもいかん・・・頭がぁ・・・。

佐々木道誉 やっぱしねぇ、あれが原因だな、やっぱし・・・。

足利義詮 あれって?

佐々木道誉 例の願書ですよ、願書。ご覧になりましたでしょ?

足利義詮 えっ・・・願書?・・・いったいなんのこと?

佐々木道誉 ほら、あのぉ、細川清氏の願書ですよぉ・・・貞継が、ご覧に入れませんでしたぁ?

足利義詮 えーっ・・・なんのことだかサッパリ・・・あぁ、頭痛い、ただでさえ頭痛いのにさぁ、そんな、へんな事言って、悩ませないでよぉ、頼むからさぁ・・・ウウウ・・・。

佐々木道誉 さては貞継めぇ、将軍様がご病気だもんで、遠慮してまだ見せてないんですな。おぉい、すぐに、伊勢貞継をここへ!

義詮・側近E ハハッ!

というわけで、ついに、例の願書が足利義詮の知るところとなってしまった。

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数日後、義詮は健康を回復した。

それ以来、義詮は、道誉の言い分をすっかり信じこんでしまった。

足利義詮 (内心)道誉さんが言ってた事、真実だったんだ・・・清氏め、私を呪詛してたんだなぁ。

さらに数日後、

足利義詮 (内心)うっ!・・・清氏め、まさか、呪詛の願書を男山八幡宮に出したりしてないだろうな。

内々に神官を召して、問いただしてみたところ、

男山八幡宮・神官 はい、細川殿から願書をお預かりしとります。神馬(じんめ)といっしょに送られてきましたので、そく、神殿に奉納しました。

足利義詮 それ、取り出して、ここへ持ってこい。ちょっと不審に思うこと、あるから。

神官は、急ぎ八幡宮に帰り、願書を持ってきた。

足利義詮 ・・・。(願書を開く)

願書 パサパサ・・・。(開かれる音)

足利義詮 (内心)やっぱし! 「将軍の命を奪い、自分が最高権力者の地位につけるように」ってな発願(ほつがん)、書いてあるじゃん!

足利義詮 (内心)これで、容疑は固まったなぁ。

足利義詮 (内心)ハッハァーン・・・分かったぞぉ・・・国清(くにきよ:注10)だなぁ、志一を上洛させたのは!

足利義詮 (内心)国清め、思い上がりおって・・・清氏と手を結んで、京都と関東を我が物としようって魂胆(こんたん)かぁ。。

足利義詮 (内心)その為に、まずは、私に対する呪詛の祈祷をやらせなきゃぁってんで、国清の推薦で、志一が選ばれたってわけかぁ、なぁるほど。

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(訳者注10)畠山国清。
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それ以来、義詮の頭の中は、「細川清氏・対策」でいっぱいになってしまった。

「どうしたら、清氏を討伐できるだろうか、こうすべきか、ああすべきか」と、ただひたすら、佐々木道誉のみを相手に密談にふけり、案じ煩(わずら)う毎日である。

そのような中、道誉は突然、「病気になってしまったので、ちょっくら、湯治(とうじ)にいってきます」と称し、京都を離れて、有馬温泉(ありまおんせん:兵庫県・神戸市)に行ってしまった。

4、5日後、大勢の人間を引き連れて、細川清氏が館を出た。「仏事の為に、これから天龍寺(てんりゅうじ:右京区)へ参拝」とは言いながらも、その様は実に異様なものであった。

足利義詮 (内心)清氏の天龍寺参拝、完全武装300余騎、率いてなんだって・・・仏事に行くのに、いったいなんで、そんなタイソウな武装集団?

足利義詮 (内心)さては、私が道誉さんとこっそり相談してるの、清氏め、早くも感づいたか。こりゃヤバイ、きっと、こっちへ押し寄せてくるぞぉ。

足利義詮 (内心)京都中心部で迎撃ってセンは、こんな小勢じゃぁとてもむり。要害にたてこもって、防ぐべきだろうな。

9月21日夜半、義詮は館を出て、今熊野(いまくまの:東山区)にたてこもった。

東福寺(とうふくじ:東山区)の一の橋を引き落とし、方々に垣盾(かいだて)を立て、車を引きならべ、逆茂木(さかもぎ)や陣屋門(じんやもん)でびっしりと陣をかため、細川軍の来襲を、今か今かと待ち続けた。

今川範氏(いまがわのりうじ)、宇都宮三河入道(うつのみやみかわにゅうどう)以下のメンバーらも、続々とそこに参集してきた。

急な事ゆえ、いったい何のための集合なのか、はっきり聞いている者は非常に少ない。わけも分からないままに、武士たちは、東西に馳せ違い、今熊野付近の貴賎の人々は、ただただ四方に逃げまどうばかりである。

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天龍寺に滞在中の細川清氏は、京都でのこの一大異変の知らせを聞いて、

細川清氏 なんだってぇ? 京都で大騒動? 将軍様が今熊野にたてこもったぁ? いったいなんでまた、こんな時に? ハハハ、そんなの、デマだよ、デマ。

しかし、徐々に情報が集積してくるにつれ、その表情はみるみる、険しくなっていった。

細川清氏 なにぃ、おれが謀反?! いったいぜんたい、どこの誰が、そんなたちの悪い情報、流してんだぁ?!

清氏は、300余騎を率い、天龍寺から自宅へ駆け戻った。そしてすぐに、弟の僧侶・愈侍者(ゆじしゃ)を、今熊野の義詮のもとへ送り、弁明させた。

義詮・側近E ・・・。

愈侍者 どうか、どうか、将軍様にお伝えくださいませ、「洛中に騒動発生」と聞き、わけも分からないまま、兄は急ぎ、将軍さまのもとへと、馳せ参じてまいりました、と。

義詮・側近E ・・・。

愈侍者 ところがなんと、その騒動の原因が、他ならぬ自分であったとは・・・兄はもう、ただただ、びっくり仰天、呆然自失(ぼうぜんじしつ)でございますよ。

愈侍者 いったい兄に、何の罪があるというのですか!

愈侍者 兄は無実です! いいかげんな讒言(ざんげん)によって、もしも兄が死罪を賜るような事にでもなれば、もう、天下のご政道は大混乱、敵の嘲る所となる事、この上無しでしょうに!

愈侍者 兄は、こう申しております、「しばらくのご猶予を下さり、よくよくご調査された上で、有罪か無罪かを決めてくださる、というのであれば、喜んで、頭を延べて将軍様の軍門に参じたい」と。

しかし、愈侍者の必死の訴えも空しかった。

義詮・側近E とにかく一度、将軍様にお目通り願って、直々(じきじき)に弁明したいと、言ってきておりますが。いかがいたしましょう? お会いなさいますか?

足利義詮 ダメェ! 会わなぁい!

義詮・側近E ・・・。

足利義詮 清氏の以前からの陰謀、もう明白に、露見しちゃってんだもんな。

義詮・側近E ・・・。

足利義詮 もう結論、出ちゃってんだ。会わないよ!

義詮との対面もかなわず、一言の返事ももらえないとあって、愈侍者は、もうガックリ。なすすべもなく、悄然と細川邸へ帰ってきた。

愈侍者 ・・・と、いうわけで・・・まったく、とりあおうともしてくださいませんよ。

細川清氏 そっかぁ・・・。

愈侍者 ・・・。

細川家・メンバー一同 ・・・。

細川清氏 もうこうなったら、何をどう言い開きしても、無駄だなぁ、ハァー(溜息)。

細川家・メンバー一同 ・・・。

細川清氏 今頃もう、討手を差し向けておられるんだろうな・・・よぉし、一矢射てから、腹切るぞ!

細川家・メンバー一同 オゥ!

清氏をはじめ、弟・細川頼和(よりかず)、細川家氏(いえうじ)、細川将氏(まさうじ)、猶子(ゆうし)・仁木頼夏(にっきよりなつ)、従兄弟の細川氏春(うじはる)ら6人は、館の中門の側に集まり、鎧をひしひしとかため、旗棹(はたざお)を取り出し、馬の腹帯(はらおび)をかためさせた。

譜代の家臣たち、新参の郎従たちも、「我らの殿、大ピンチ!」との知らせを聞き、京都中のあちらこちらから馳せ参じてきた。その結果、細川集団は、総勢700余騎もの一大勢力となった。

今熊野の義詮の側には、500余騎が参集していた。

義詮陣営・メンバーF 細川なんて、チョロイ、チョロォイ!

義詮陣営・メンバーG あっという間に、かたづけてやるぜぃ!

義詮陣営・メンバーH 将軍様、おれに討手軍のリーダー、やらしてくんねぇかなぁ。

義詮陣営・メンバーI 早く、出陣してぇよぉ。

このように、集まった当初は、気勢が大いに上がっていたのだが、時間の経過と共に、情勢は一変、

義詮陣営・メンバーF (小声で)おい、聞いたか、あっちの兵力。

義詮陣営・メンバー一同 ・・・。(じっと耳をすませる)

義詮陣営・メンバーF (小声で)700だってよ、700。

義詮陣営・メンバーG (小声で)エッ・・・なな・・・ひゃく?

義詮陣営・メンバー一同 ・・・。(顔を曇らせる)

意気消沈してしまった義詮陣営メンバーらは、三々五々、こちらの僧坊の中へ、あちらの民家の中へと引きこもり、うんともすんとも言わなくなってしまった。

義詮陣営・メンバー一同 (あちらこちら、キョキョロ、東山方向を見やりながら)(内心)えぇっとぉ・・・あっちから攻めてこられたら、そっち方向へ逃げるのがいいな・・・こっちから攻めてこられたら、あの道を通って逃げるとするか・・・。

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義詮から差し向けられた討伐軍が今にもやってくるかと、細川清氏は兜の緒をしめたまま、まる2日間、じっと待ち続けたが、

細川清氏 来ないねぇ・・・。

細川家・メンバー一同 ・・・。

細川清氏 こんなぐあいに、洛中に兵を集めて臨戦態勢かためてるってのも、あんまし、褒められたもんじゃないよなぁ。

細川家・メンバー一同 ・・・。

細川清氏 まずは、この陣を解いて、京都を出よう。それから、もう一度、弁明してみよう。

細川家・メンバー一同 (うなづく)

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9月23日早朝、清氏らは、若狭(わかさ:福井県西部)を目指し、京都を離れた。仁木頼夏と細川家氏二人だけが、京都に残留した。

道中、清氏に従って共に若狭を目指す人々の数は、徐々に減じていった。

「細川清氏、若狭へ」との情報をキャッチした、京都近郊を地盤としている細川家の郎等たちは、「我ら、非力にして小兵力といえども、何とかして、殿の力に!」との志の下、清氏のもとへ、馬を駆った。

清氏たちと合流した彼らは、口々に訴えた。

細川家・郎等J 殿、いったいなんで、若狭へなんか、逃げはりますねん?

細川家・郎等K 将軍側、わずか500騎足らずやと、聞いてまっせぇ。

細川家・郎等L 兵力面で言うたら、殿の方が、圧倒的優勢ですやんかぁ。

細川家・郎等M わからんなぁ・・・いったいなんで、京都から逃げ出さんならん?

細川清氏 (馬を止めて)あのなぁ。

細川清氏 もしも、このおれがだなぁ、将軍様に対して戦争しかけれるような身分だったらなぁ、そりゃもう、とっくの昔に、やらかしてたわさ。

細川清氏 あんな、臆病もんの寄せ集め集団4、500騎、ワナワナビクビク連中をだなぁ、このおれが、ものの数とも思うかってぇ!

細川清氏 だけどなぁ、人間、「君臣の道」ってもんが、あるんだよぉ。絶対に、違えちゃいけないんだ、この道はなぁ。死んでも、踏み外しちゃぁいけないんだ、この道は。

細川清氏 下のもんが上の人に逆らう、なんて事、絶対にあっちゃぁ、いけないんだ!

細川清氏 そう思うからこそな、こうやって、いったんは京都を離れてだ、あらためて、身の潔白を弁じようとしてるんじゃぁないか。

細川家・郎等一同 (うつむく)・・・。

細川清氏 でもなぁ・・・こんな、なさけない姿を、世間の人に見せつける事になるとはなぁ・・・悲しい・・・おれ、ほんと、悲しいよぉ。

細川清氏 不肖の身としか言いようのない、こんなおれだけど・・・まぁ、いいさ、罪無くして討たれてもな・・・それで何か、世の中の為になるってんなら、わが命、惜しくはない、おれはぁ。

細川清氏 でもな、人を讒言するやつが、政治をどんどん乱していく、将軍が天下の政権を失ってしまわれる、草葉の陰で、そんな事を見聞きするような事になる・・・ほんと、かなしいなぁ。(涙)

清氏と行を共にする人々一同 ・・・。(涙)

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千本(せんぼん:注11)を過ぎ、長坂(ながさか:北区)へさしかかった所で、清氏は、弟・将氏と従兄弟・氏春を側に呼び寄せて、

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(訳者注11)北区・北野天満宮の東北のあたり
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細川清氏 おまえたちとおれは、兄弟骨肉(きょうだいこつにく)、切っても切れない縁・・・おれの運命を、とことん最後まで見届けてやろうと、ここまでついてきてくれたんだよなぁ。

細川将氏 ・・・。

細川氏春 ・・・。

細川清氏 おまえらのその志、1,000個、いや、10,000個の宝玉よりも、ズッシリ重い、一染・二染の紅色よりも、もっと深い。

細川将氏 ・・・。

細川氏春 ・・・。

細川清氏 でもなぁ、今や、おれは、心ねじけたやつの讒言におとしめられ、思いもよらない刑に沈められちゃったよ・・・もう、おれには、何の力も無い。

細川清氏 おまえら二人は、何も讒言されてないよな、将軍から嫌疑をかけられてるわけでもない。なのに、将軍から何のお沙汰もないまま、おれといっしょに京都を出て、あげくに、行く先の道中に屍を曝す、そんな事になっちゃぁ、後々、いろいろと問題も多いよな。

細川清氏 だからな、早いとこ、こっから引き返してな、将軍のもとへ帰参しろ。

細川将氏 ・・・(涙)。

細川氏春 ・・・(涙)。

細川清氏 将軍のとこ行ってな、おれの無実の申し開きしてくれ! 細川家を絶やさないように、うまくやってくれ! 頼む!

細川清氏 それで、おれは助かるんだ、おまえらの身も、それで立つ、これしか、ない!(涙)

細川将氏 ・・・。(涙)

細川氏春 ・・・。(涙)

細川将氏 う、う、う・・・。(涙)

細川氏春 うっ、うっ・・・。(涙)

細川清氏 ・・・。(涙)

細川将氏 ・・・。(涙)

細川氏春 ・・・。(涙)

細川清氏 ・・・。(涙)

細川将氏 そんな、かなしい事、言ってくれるなよぉ!(涙)

細川氏春 そうだよ! たとえ、ここから引き返してみたところでな、どうにもなりゃしないわさぁ。だってさぁ、他人の事を讒言しまくる、いやぁな例の野郎が、将軍の側にいやがるんだよぉ。もう、頼りになる人、誰もいないんだもん、いつまで生きてられるかってぇ。(涙)

細川将氏 そうだよ、そうだよ、将軍からは警戒され、みんなからは後ろ指さされ・・・そんな事になっちまったら、恥じの上塗り、するようなもんじゃん。

細川氏春 おれは、あにきといっしょに、どこまでも行く!

細川将氏 おれも! あんたの運命を、最後まで見届ける、それだけのことだい!

このように、二人は再三、清氏との同行を願ったが、

細川清氏 そう言ってくれる、おまえらの気持ち、とっても嬉しいよ。けどなぁ、おまえらが、おれにどこまでもついてきたら、世間の人、いったいどう思う? 「やっぱし、清氏、将軍への謀反、たくらんでたんだぁ」って、思われちゃうだろ? そうなったら、おれは、ほんと、無念だ。

細川清氏 心底(しんそこ)、おれを助けたいと思うんだったらな、ここから引き返して投降しろ。で、後日、音信を知らせてくれ! な、わかったな、わかったな!

細川将氏 ・・・。(涙)

細川氏春 ・・・。(涙)

細川清氏 ・・・(涙)な・・・頼むよ、頼むから、わかってくれ、わかってくれよ! おれの言う通りに、してくれぇーっ!

細川将氏 ・・・わかったよぉ。(涙)

細川氏春 ・・・そこまで言うんだったら、とにかく、言う通りにするよぉ。(涙)

細川清氏 よぉし、よく言ってくれたぁ!(涙)

細川将氏 う、う、う・・・。(涙)

細川氏春 う、う、う・・・。(涙)

二人は、泣く泣く清氏と別れ、自分の館へ帰っていった。

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「合戦になったら、都は焼け野原になってまうでぇ!」と、京都中、上下万人みな、パニック状態になっていた。

しかし、大方の予想に反し、細川清氏は何の抵抗をする事もなく、京都から去ってしまったので、9月24日、義詮は、今熊野から館へ戻った。

清氏の息がかかっていた者たちは、続々と、館を逃げ出し、身をやつして、京都から脱出していった。

あぁ、哀れなるかな、昨日までの楽しみも、今日、一片の夢と消えてしまった。有為転変(ういてんぺん)は世のならい、今に始まった事ではないが、それにしても、人間の運命とは、まことに不可思議にして予測不可能なものである。(注12)

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(訳者注12)原文では、「何しか相州被官の者共、宿所を替身を隠たる有様、昨日の楽今日の夢と哀也。有為転変の世の習、今に始ぬ事なれ共、不思議なりし事ども也。」
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太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 36-5 佐々木兄弟、戦死

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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9月28日、摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)においても、思いもかけぬ事態の展開により、幕府側に多数が戦死者が出た。

そもそもの発端はといえば、

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今は亡き赤松範資(あかまつのりすけ)は、二心無き忠戦の功績により、先代将軍・故・足利尊氏(あしかがたかうじ)から、摂津国の守護職を拝領していた。そして、範資の死後、その長男・光範(みつのり)が、その地位を継承していた。

ところが昨年、あの、日本全国の勢力を率いての足利義詮(よしあきら)による「吉野朝・大攻略戦」の際に、こんな事があった・・・

足利義詮・側近A (小声で)あの人、いつもこうなんだよなぁ、ハァー(溜息)。

義詮・側近B 「あの人」って、いったい誰?

義詮・側近A (小声で)赤松光範殿だよぉ・・・今回も、戦費調達、過少だぁ。

義詮・側近C (小声で)エェー! またかよぉ。

たまたま、その場に居あわせ、この会話に耳をそばだてていた佐々木道誉(ささきどうよ)は、思わずニンマリ、

佐々木道誉 (内心)オォッ、これは、いい事を聞いたね!

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吉野朝大攻略戦の終了の後、赤松光範には、別にどうという咎(とが)も無かったのに、佐々木道誉は足利義詮に対していわく、

佐々木道誉 (小声で)さぁ、これから天下分け目の戦をやるぞぉってぇ時なのに、戦費の調達もちゃんとしない、そんな、ふとどき(不届)なやから(輩)が、いるんですもんねぇ・・・もうヤンなっちゃいますなぁ・・・そんなちょうしだから、今回の戦も、うまくいかなかったわけですよぉ・・・ハーァ(溜息)。

足利義詮 (小声で)それって、いったい誰?

佐々木道誉 (小声で)えぇっ! ご存じ無かったんでぇ? 赤松ですよ、ほら、あの摂津国の守護の!

足利義詮 (小声で)へぇー、あの光範がねぇ。

佐々木道誉 (小声で)あの男はね、いつもいつも、あぁなんですよぉ。

足利義詮 ・・・。

佐々木道誉 (小声で)あんな、ガバナンス(govenance)能力最低の人間に、摂津国守護職だなんて・・・もうほんと、ミスマッチ(mismatch)もいいとこですわ。

足利義詮 ・・・。

佐々木道誉 (小声で)摂津国の守護職、彼から取り上げるべきですよ。

足利義詮 (小声で)・・・うーん、それもそうかなぁ・・・。

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というわけで、摂津国・守護職は、赤松光範から取り上げられてしまったのである。そして、その後任におさまったのが、なんと、佐々木道誉。

赤松光範 なんやなんやぁ! なにがいったい、どないなっとぉねん!

赤松光範 今度の吉野攻めに際してはなぁ、「おれは、将軍様への忠烈、ぜったい誰にも負けへんどぉ!」の一心でやってきたんやないかぁい! 「戦費の調達にせよ、合戦にせよ、誰にもぜったい負けへんどぉ」っちゅう思いでなぁ!

赤松光範 そやから、さぞかし、恩賞グンバツ(抜群)やろなぁと、大いに期待しとったわいやぁ。そやのに、いったい、なんやねぇーん、この処置はぁ!

赤松光範 だいたいがや、摂津いうたら、おやじ(父)が、故・将軍様からもろ(貰)て以来、長年拝領してきたとこやねんどぉ! それを取り上げるっちゅう事はやなぁ、おれら親子二代に渡っての忠節に、ゼロ査定、下したっちゅう事やないかぁーい!

光範は、憤りに燃え、どうにも恨みがおさまらない。

しかし、とにもかくにも「上の人」が下された裁決であるからして、彼の力ではどうにもならない。怒りをグッとこらえ、慎んで、幕府に訴えを起こすしかなかった。

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和田正武(わだまさたけ) おいおい、聞いたか、「摂津の松」の話。

楠正儀(くすのきまさのり) あぁ・・・摂津の「松」、なんや、真っ「赤」になって、怒(おこ)っとるらしいなぁ。

和田正武 で、どう思う?

楠正儀 そらぁもう、おれらにとっては、絶好のチャンス到来っちゅうことやんけ。

和田正武 ブフフ・・・いっちょ、行くか?

楠正儀 行こ!

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正武と正儀は、500余騎を率いて摂津国へ侵入、渡辺橋(わたなべばし:位置不明)を渡り、天満天神(てんまてんじん:大阪市・北区)の森に陣を取った。

それに対抗すべく、摂津国に駐在の、佐々木道誉の孫・佐々木秀詮(ささきひでのり)とその弟・佐々木次郎左衛門(じろうざえもん)は、1,000余騎を率いて出陣、神崎橋(かんざきばし:位置不明)のたもとへ到達し、そこで作戦会議を開いた。

佐々木秀詮 橋のこちら側に陣を展開して、敵を迎え撃つのがいいのでは?

守護代・吉田秀仲(よしだひでなか)いわく、

吉田秀仲 殿(との)! そないに弱気なことで、どないしますねんや!

佐々木秀詮 ・・・。

吉田秀仲 この摂津国が道誉様のもんになったん、いったいどないなわけ(理由)やったかというとですね、「赤松光範は、守護の地位にありながら、ややもすると、和田・楠の領国内への侵犯を許してきた。摂津国の守護職を務(つと)めるには、あまりにも未熟にして無能、ゆえに、佐々木家に」と、いう事やったわけですよ。

吉田秀仲 敵の勢力下にある国を攻めとってしまえ、とまでは言いません、そやけど、この摂津国に侵入してきた敵をただの一人でも生きて帰らしたとなっては、赤松に大笑いされてしまいますやん? 「ホレ見てみぃ、あいつらかて、あかんやんかぁ」言うてね。

吉田秀仲 それだけですんだら、まぁえぇですわ。そやけど、京都の将軍様、それ聞いて、いったいどない、思わはるでしょうかなぁ?

佐々木秀詮 ・・・。

吉田秀仲 わてはなぁ、殿! もう自分の命、完全に、捨ててしもぉとりますねん! 殿の為やったら、百回でも千回でも、わが命捨てるでぇ! 佐々木のお家の方々も、よそ(他家)のお方らも、きっとわしの事、見捨てるような事、ないわなぁ! そぉやろぉ?!

吉田秀仲 さぁ、みんなぁ、恩賞欲しかったら、わしに続いて来んかいやぁー!

大口をたたいて、秀仲は真っ先に神崎橋を渡った。佐々木軍1000余騎も、彼に続いて河を越えた。

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吉田秀仲は、付近に居合わせた牛飼(うしかい)の童(わらわ)たちにたずねた。

吉田秀仲 おいおい、おまえら、楠や和田の事、なんか知らんかぁ?

牛飼の童D あぁ、楠に和田かいなぁ・・・楠軍は、まだ、川、越えとらへんでぇ。

牛飼の童E ここらにいよるんは、和田軍だけやわ。

吉田秀仲 和田軍の人数、どれくらいや?

牛飼の童E そないに多ない・・・そうやなぁ・・・500騎足らず、ぐらいやろなぁ。

吉田秀仲 なにぃ、わずか500騎足らずぅ? ウワッハッハッハッァ! まぁなんと、哀れなやっちゃないかい! 和田のもんら、ここで残らず全滅やなぁ。楠も、川越えてきよったとこで、イチコロやぁ。

というわけで、佐々木軍メンバーは、馬に食料を与えたりしながら、のんびりと構えている。

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この様子を見すました和田正武と楠正儀は、川の西方へ、部下4、5人を送り込んだ。

頃合いを見はからい、彼らは口々に叫んだ、

楠軍メンバーF えらいこっちゃ、えらいこっちゃぁ!

楠軍メンバーG 和田と楠、奇襲しかけてきよったどぉ!

和田軍メンバーH 西の方から攻めてきとるどぉ!

和田軍メンバーI 神崎橋の橋詰、大丈夫かいやぁ?!

和田軍メンバーJ 橋、ちゃんと守れよぉ! 逃げ道なくなってしまうどぉ!

これを聞いた佐々木秀詮は、

佐々木秀詮 オ! 敵、迂回して、我が軍の背後に回りこんだ! 全軍Uターン! Uターンして、敵に当たれぇ!

佐々木軍・メンバー一同 ウギャギャギャギャ・・・。

深田の中に伸びる一本道に列を成し、さっき渡った橋のたもとへ戻らんと、佐々木軍メンバーは全員、馬頭を西に向け、ひたすら馬を駆った。

と、その時、

矢 ビューン、ビューン、ビューン・・・

左右から、矢が飛んできた。楠正儀の指示の下、道の両側、深田の中に潜伏していた軽武装の野伏(のぶせり)300人が、鏃(やじり)をそろえて一斉に射撃してきたのである。

佐々木軍は、大混乱に陥った。矢を避けて道から左右に退避しようにも、両側とも深田ゆえ、馬の足が立たない。

佐々木軍・先陣メンバー一同 後陣、前進ストップ、ストップゥーッ! 引き返せぇ、引き返せぇ! 広い所で戦えーっ!

前陣に制止され、佐々木軍・後陣は、再び、東方にUターン。そこへ、和田、楠、橋本(はしもと)、福塚(ふくづか)ら、吉野朝側正規軍500余騎が、一斉に襲いかかってきた。

中津川(なかつがわ)の橋詰(位置不明)付近で、白江源次(しらえげんじ)ら6人が踏みとどまって、戦死。

「戦場の地理、それぞれの場所の足場の良し悪しを熟知しきっているから、きっとうまく戦ってくれるであろう」と、かねてより秀詮から期待を寄せられていた摂津国在住の地元武士・中白一揆(なかしろいっき)武士団メンバー500余騎は、一戦もせずに、鎧兜、太刀、刀を捨て、続々と川中へ飛び込んでいく。

戦闘開始の前、あれほど大いに気勢を上げていた吉田秀仲は、いの一番に橋を渡って逃げていく・・・ごていねいにも、自らの背後の橋板一間分を落として・・・和田・楠軍に追跡されないように、と思っての事であろうか・・・その結果、後続の佐々木軍メンバー300余騎は、全員、川の中へ・・・水中に溺れながら、流されていく。

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佐々木秀詮と佐々木次郎左衛門は、ようやく橋のあたりまで逃げおおせたが、

県二郎(あがたじろう) あぁ・・・もうあかん・・・(天を仰ぎ、目を閉じ)橋、落とされてる。

佐々木秀詮 ・・・。

佐々木次郎左衛門 ・・・。

県二郎 (馬から下り、佐々木兄弟の前に座して)もう、とても逃げれません・・・こないなったら、他に道は無し・・・殿、馬の頭、向け直して、敵に堂々と渡り合い、どうか、討死にしてくださいませ! わし、おともします!

佐々木秀詮 うん!

佐々木次郎左衛門 (黙ってうなづく)

佐々木兄弟は、さすがに名ある武士、敵前逃亡を恥じて、兄弟たった二人でとって返し、即座にその場で、討死にしてしまった。

瓜生次郎左衛門(うりうじろうざえもん)・父子兄弟3人は、佐々木兄弟がまさに討死寸前状態になっているのを見て、応援にかけつけようと試みた。

しかし、乗馬の首部分を射られてしまい、騎馬での移動が不可能となってしまった。

彼ら3人は、田のあぜの上に立ち並び、「敵がかかってきたら、相打ちにして死ぬまで!」と身構えたが、遠距離からの矢の連射を浴び、次々と倒れていった。

約1時間で、戦闘は終結。

佐々木軍側の戦死者は273人、このうち、敵に討たれて死んだ者は、わずかに5、6人のみ、残り250余人の死因は全て、川に流されての溺死であった。

楠正儀は、父祖代々の仁慧(じんけい)の心を受け継ぎ、情け深い人であったから、野伏によって生け捕りの身となり、縛りあげられていた佐々木軍メンバーを、斬って捨てる事もなく、川に流された者も、助け上げてやった。そして、このようにして命拾いした人々を監禁する事もなく、裸の者には小袖を着せてやり、負傷者には薬を与え、全員、京都へ帰らせた。

佐々木軍・メンバー一同 (内心)敗残のわが身の恥は悲しいけれども、命拾いできたとあっては、そりゃもうやっぱし、嬉しくないと言えば、うそになる。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 36-4 山名時氏、美作へ侵入 and 九州地方において菊池武光、攻勢に

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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7月12日、吉野朝廷(よしのちょうてい)側の重要メンバー、山名時氏(やまなときうじ)とその息子の師義(もろよし)、氏冬(うじふゆ)が、出雲(いずも:島根県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)、因幡(いなば:鳥取県東部)3か国の軍勢3,000余騎を率いて、美作(みまさか:岡山県北部)へ侵入した。

美作国の守護・赤松貞範(あかまつさだのり)は、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)にいて、山名軍に対して、何の対応もすることができなかった。

その結果、廣戸掃部助(ひろとかもんのすけ)の奈義能山(なぎのやま:鳥取県・八頭郡・智頭町)の2か城、飯田(いいだ)一族がたてこもる篠向城(ささぶきじょう:岡山県・真庭市)、菅家(かんけ)一族の大別当城(だいべっとうじょう:岡山県・勝田郡・奈義町)、有元民部太夫入道(ありもとみんぶたふうにゅうどう)の菩提寺城(ぼだいじじょう:岡山県・勝田郡・奈義町)、小原孫次郎入道(おはらまごじろうにゅうどう)の小原城(おはらじょう:岡山県・美作市)、大野(おおの)一族がたてこもる大野城(おおのじょう:岡山県・美作市?)、以上6か城は、矢を一本も射る事なく、山名に降伏してしまった。

林野城(はやしのじょう:岡山県・美作市)と妙見城(みょうけんじょう:美作市)は、20日間余り、山名軍に対して抵抗したが、山名時氏の言葉巧みなる調略の結果、これらもついに、山名側に転じた。

今や残るは、倉懸城(くらかけじょう:美作市)ただ一つだけ。ここには、作用貞久(さよさだひさ)と有元佐久(ありもとすけひさ)が、わずか300余騎で、たてこもっていた。

山名時氏・氏冬父子は、3,000余騎を率いてこの城めがけて押し寄せ、周囲の山々峯々23箇所に陣を取り、鹿垣(ししがき)を二重三重に張りめぐらし、逆茂木(さかもぎ)をビッシリと設置した後、矢を射るのに都合がよい地点まで前進して、倉懸城を攻撃した。

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播磨と美作の国境付近には、竹山城(たけやまじょう:美作市)、千草城(ちくさじょう:兵庫県・宍粟市)、吉野城(よしのじょう:美作市)、石堂が峯城(いしとうがみねじょう:岡山県・備前市-兵庫県・赤穂郡・上郡町)の4つの城があり、赤松則祐(あかまつのりすけ)が、それぞれに100騎ずつ配備しながら守備していた。

山名家執事(しつじ)・小林重長(こばやししげなが:注1)は、2,000余騎を率いて星祭山(美作市)へうち上り、城を眼下に見下ろし、相手側にすきあらば攻め下らんと、馬の腹帯をかためてひかえている。

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(訳者注1)32-8 に登場。
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赤松貞範、その弟・赤松則祐、その弟・赤松氏範(うじのり)、赤松光範(みつのり)、赤松師範(もののり)、赤松直頼(なおより)、赤松顕範(あきのり)他、作用(さよ)、上月(こうづき)、真嶋(ましま)、杉原(すぎはら)ら、赤松一族2,000余騎は、高倉山(たかくらやま:岡山県・津山市)の麓に陣を取り、山名軍が倉懸城を攻撃するのを、じっと見守り続けていた。山名軍に疲れが見え始めたら、その後方から攻めかかろうとの作戦である。

それを見てとった山名師義は、精鋭800余騎を率いて、接近してきた赤松軍を迎撃せんと、山名軍本体から離れて待機した。

この、山名師義率いる軍が小勢であるとの情報をキャッチした赤松軍は、「まずは、この敵をやっつけてしまえ」と、出陣した。

ところが、「阿保直実(あぶなおざね)が、急に山名と気脈を通じて但馬国(たじまこく:兵庫県北部)へ侵入、長九郎左衛門(ちょうくろうざえもん)と連合して、さらに播磨へまでも侵攻しようと企てている」との情報に、

赤松貞範 東の方に城郭を構え、道々に警護の兵を置け!

ということになり、法華山(ほっけさん:注2)に城を構えて大山越(おおやまごえ:注3)ルートを塞ぎ、5箇所の地点へ軍勢を差し向けた。

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(訳者注2)法華山一乗寺(兵庫県・加西市)。

(訳者注3)兵庫県・神崎郡・神河町の大山地区を経由するルート。
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その結果、赤松軍本体の兵力が減少し、山名軍と戦う事も、但馬へ退却する事もできなくなってしまい、進退窮まり、前後の敵に悩まされることになった。

赤松貞範 こないなったら、細川頼之(ほそかわよりゆき)に頼るしかないわいな。

中国地方の大将・細川頼之は、讃岐国(さぬきこく:香川県)の守護をも兼任しており、当時、四国にいた。彼に手紙を送って援軍を頼み、備前(びぜん:岡山県東部)、備中(びっちゅう:岡山県西部)、備後(びんご:広島県東部)、播磨4か国の軍勢をもって、倉懸城の後づめをしようと、考えたのである。

赤松貞範からの援軍要請を受けた細川頼之は大いに驚き、9月10日、瀬戸内海を渡って備前へ進軍、そこで後続の軍勢の到着を待った。

ところが、頼之の麾下(きか)にある4か国の武士たちは、自身の本拠地における私闘で手一杯、一向に、頼旨の旗の下に集まってこない。

細川頼之 まったくもう! みんな野心満々の連中ばっかし、ほんと、頼りにならないんだからぁ!

頼之は、唐河(からかわ:位置不明)に停滞したまま、徒(いたずら)に月日を送るしかなかった。

倉懸城は、守る兵の人数多く、食料の備蓄は少ない。戦う度に有利に事が運んではいたものの、後づめの援軍も来ない、食料も矢もついに尽きてしまった。もはやいかんともしがたく、11月4日、ついに全員、城を捨てて逃げ出した。

かくして、山名時氏は、山陰道4か国を完全制圧、その勢威はますます増大していった。

時氏の影響力は、近燐諸国のみに止まる事なく、「山陰道に山名あり!」との認識は、広大な範囲へ拡大していった。

「このような事では、これからいったい、世の中はどうなっていくものやら」と、誰しもが危ぶまずにはおれない、足利幕府にとっては、危機的な状況展開になってきた。

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九州地方においても、情勢の激変があった。

7月初め、「吉野朝廷サイドの懐良親王(かねよししんのう)、新田(にった)一族2,000余騎、菊池武光(きくちたけみつ)率いる3,000余騎が、博多(はかた:福岡県・福岡市)に進出し、香椎(かしい:福岡市)に陣取った」との情報に、九州地方の足利幕府サイド勢力は、一斉に色めきたった。

「あっちサイドの兵力が増えない前に、さっさと追い落としてしまうに限るばい!」ということで、大友氏時(おおともうじとき)率いる7,000余騎、少弐頼尚(しょうによりひさ)率いる5,000余騎、宗像大宮司(むなかただいぐうじ:注4)率いる800余騎、紀井常陸前司(きいのひたちのぜんじ)率いる300余騎他、総勢25,000余騎が、一つに合して、大手方面へ向かった。

さらに、からめて方面からは、上松浦(かみまつら)、下松浦(しももつら)両党武士団3,000余騎が、飯守山(いいもりやま:福岡市)に上り、相手の背後へ回り込んだ。

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(訳者注4)宗像神社の大宮司家。
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幕府側の兵力は膨大で、相手を完全に包囲しきっている。これに対する吉野朝側勢力は、到底対抗すべくもないほどの小勢で、平地に陣を取っている。

しかし、菊池武光は、常に大敵を前にしていささかもひるむ事なく、逆に相手を呑んでかかってきた武将、一寸たりとも動揺する事もない。

両軍の間隔は、わずか20余町。

それから数日の間は、互いに馬の腹帯をかため、鎧の高紐を緩めずに、自分の方から攻撃を仕掛けようか、それとも相手の攻撃を待って迎撃にうって出ようかと、互いのすきをうかがい、決断をためらないながら、徒(いたずら)に2か月が過ぎていった。

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菊池の家臣中に、城隆顕(じょうのたかあき)という、謀略に優れた人がいた。

彼は、山伏、禅僧、時宗(じしゅう)僧侶たちを、松浦党武士団の陣中に潜入させて、様々な流言飛語(りゅうげんひご)を放流させた。

山伏A (小声で)おまえらの仲間のXばぁ、とっくの昔に、敵方に内通しとるとよぉ。

禅僧B (小声で)この陣中のYばぁ、敵方にな、「戦ばぁ始まったらぁ、松浦党の連中らに背後から矢ぁ浴びせてぇ、そいからさっさと降参しますたい。」とか、言うとるらしいよぉ。

時宗僧侶C (小声で)裏切りもんには、よくよく警戒しとくに限るたい、でないと、あんたら犬死にするだけよぉ。

松浦党武士団・メンバー一同 (内心)そないな事、ありえん!

松浦党武士団・メンバー一同 (内心)いやいや・・・もしかすると・・・昨今の人間の心なんかぁ、あてにぁならんでねぇ。

かくして、松浦党武士団中に、互いに警戒しあい、危ぶむような気分が、蔓延(まんえん)していった。

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その少し後、8月6日の暁、城隆顕は、1000余騎を率いて飯守山に押し寄せ、全員に盾の板を叩かせ、ドッとトキの声を上げさせた。

松浦党武士団側は、大軍勢である上に、城の防備も堅い。たったこれだけの人数相手に、城を落とされるはずなどありえないのだが、「城中には、敵に内通する者、多し」との謀略宣伝に完全にのせられてしまっているから、

松浦党武士団・リーダー一同 味方に討たれちゃ、たまらんばい、周囲をしっかり見張っとけよ!

と叫びつつ、我先に、城から逃げていく。

城軍サイドは、勝に乗り、追いかけ追いかけ、彼らを討つ。

夜が明けてみれば、松浦党武士団は、どうやら全滅してしまったようである。

菊池武光 松浦党の連中、さぞかし手強かろうと、思うとったけどぉ、さすがは城、謀略使ってあぁっという間に、やっつけてしまいよったばい。こうなったら、少弐と大友、やっつけるんなんか、カンタン(簡単)、カンタァーン!

菊池軍は、懐良親王率いる軍勢に合流。総勢5,000余騎は、翌7日正午、香椎の陣へ押し寄せた。

「昨日の戦において、からめて方面軍の松浦党武士団、完敗!」と聞いた瞬間から、「あぁ、さっさと退却してしまいたいなぁ」との思いに駆られていた少弐と大友の軍勢メンバーは、もう一瞬も踏みとどまれるはずがない。馬に鞭うち、鐙(あぶみ)を入れ、我先に、退却していく。

横道に逃げ込む事もできず、遺棄(いき)した鎧兜(よろいかぶと)や弓矢をかえりみる余裕もなく、幕府側・大手方面軍2万余騎は、まる1日、菊池軍の追撃を受け続けながら、ただただ敗走していくばかり。ようやく本拠地へ帰りつけた者は、全軍の50%もいたかどうか・・・。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 36-3 天王寺の金堂、再建成る

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)・閣僚A 今回の大地震では、日本全国そこら中の寺院が、被害を受けたと聞いとります。中でも、天王寺(てんのうじ)金堂(こんどう)の倒壊(注1)、これほどひどい被害を受けたとこ、他にあらしまへん。

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(訳者注1)36-2 参照。
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吉野朝廷・閣僚B 地形の変動も、すさまじいもんがありますよ。中でも最大は、紀州(きしゅう:紀伊国=和歌山県)の山々の至る所にできた地割れ。

吉野朝廷・閣僚C どっちも、わてらの近所で起った災害ですからなぁ。

吉野朝廷・閣僚D こらほんまに、ただ事ではないわいな。

吉野朝廷・閣僚E 陛下におかれても御慎(おんつつし)みいただき、寺社にも加持祈祷を行わせるべきやろなぁ。

と、いうわけでさっそくに、様々の加持祈祷が始まった。

吉野朝廷・後村上天皇(ごむらかみてんのう)よりの勅命を受け、直ちに、般若寺(はんにゃじ:奈良県・奈良市)の円海上人(えんかいしょうにん)が、天王寺金堂の再建に着手した。

この工事の際には、希代(きたい)の奇特事(きどくじ)が多かった。

「なんせ、大きな建造物を建てるんやから、安芸(あき:広島県西部)、周防(すおう:山口県南部)、紀伊(きい:和歌山県)の山々から、大木を切り出す必要あり。1、2年程度の工事期間では、とても無理。」、というのが、大方の予測であった。

ところがなんと、2人がかりで抱きかかえるほどの太い桧(ひのき)の柱と、6~7丈ほどのカブキ(注2)300本が、どこからともなく難波浦(なんばのうら:大阪市の海岸)に漂着(ひょうちゃく)してきて、干潟(ひがた)の上に乗り上げた。

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(訳者注2)門や鳥居の上に渡す横木。
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「これはきっと、どっかの誰かのもんやろて、そのうち、誰か探しにきよるわい」という事で、しばらくそのままにしておいた。

ところが、いつまでたっても、「あの材木は、わてのもんだす」と、名乗り出てくる者が、一人もいない。

「さては、天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)が、今回の天王寺・金堂の再建工事を助けようと、この材木、送ってくれはったんやなぁ」ということになり、その材木を、虹の梁(にじのうつばり:注3)、鳳の甍(おおとりのいらか:注4)など、様々な部位に用いる事にした。

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(訳者注3)梁の一種で、虹のように上方に反っているもの。

(訳者注4)甍の美称。甍とは切妻屋根の下の三角形の部分のこと。
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「柱立て作業」が完了し、棟木(むねき)をその上に揚げよう、という段になり、工事担当・現場監督いわく、

現場監督 あれだけ重たいもん、滑車で持ち上げるんやからな、綱、大量に要(い)りまっせぇ・・・そやなぁ・・・科(しな)の木の樹皮でこしらえた綱、1000束(ぞく)は、用意してもらわんとなぁ。

円海 そうかいな。で、その、「科の木の綱」とやらは、いったいどこにあるねん?

現場監督梁 そんじょそこらには、ありませんでぇ。信濃国(しなのこく:長野県)みたいな山国に行って探さんと、あきまへんわ。

円海 そうか、それやったら、わし、行ってくるわ。知り合いの人らに、寄付、もちかけてみるわいな。

ところが、難波の堀江(ほりえ)の渚に、死んだ蛇のようなものが漂着した。

いったい何かと思って近づいて見たら、まさに、科の樹皮で編んだ太い綱であった。直径2丈、長さ30丈もの巨大な綱が16本も、水泡(みなわ)の中に列をなして横たわっていた。

円海はもう大喜び、その綱は直ちに、滑車にかける綱として用いられる事になった。

円海 ほんまにまぁ、これぞまさしく、第一級の奇特やわなぁ!

という事で、工事に使用した後に、円海はその綱を、宝蔵に収めた。

また、300余人もの大工がいる中に、肉を食べず酒を呑まない者が、多数いた。

円海 (内心)大工にしては、また、珍しもん(者)ぞろいやがな。いったい彼らは、なにもんなんやろ?

円海は、彼らの仕事ぶりをじっと観察してみた。

円海 (内心)なんと、なんと! 1人で10人分もの仕事、してるやないか、あの大工ら・・・あれは、タダモンではないぞぉ。

円海は、ますます不思議に思い、日没の後、帰路につく彼らの後ろ姿をじっと見送った。

円海 あっ! 消えたぁ!

にわかにかき消すように、円海の目の前で、彼らは姿を消してしまった。

円海 なんとまぁ・・・不思議な事もあるもんや・・・。

円海 いや待てよ・・・彼らは、たしか28人おったな・・・あ、わかったぞ!(両手を打つ)

円海の両の掌 パン!

円海 彼らはきっと、千手観音(せんじゅかんのん)様のご家来衆、あの二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)の化身(けしん)やな!

建築関連者一同 あぁ、なんとまぁ、ありがたいこっちゃ!(合掌)

このようにして、金堂はあっという間に完成し、美麗にして金銀を鏤(ちりば)めたその威容(いよう)を、地上に現した。

霊仏の威光と円海上人の陰徳、まさに、蓋が箱にピタッと合うがごとく、両者みごとなるマッチングを見た、実に奇特なる再建工事であったといえよう。

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一方、京都朝廷側においても、加持祈祷(かじきとう)の勅命が出された。ある寺の僧侶が、「東寺(とうじ:京都市・南区)の金堂が、1尺2寸南方へ移動し、真言宗(しんごんしゅう)の祖・弘法大師(こうぼうだいし)が、南方の天へ飛び去っていかれた」との内容の夢を見たからである。

「これは一大事、首都一円、大いに慎みあるべし」(注5)という事となり、青蓮院(しょうれんいん:京都市・東山区)の尊道法親王(そんどうほっしんのう)に、加持祈祷の勅命が下った。

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(訳者注5)この部分は、以下のようなストーリーであると解釈されよう:

弘法大師・空海が南方へ移動、かつ、空海にゆかりの深い東寺においても、金堂が南へ移動、これは、京都の南方にある吉野朝廷側に、大きな力が加わって吉野朝廷側が援護される事になることを予見させる夢である、と、京都朝廷側は解釈した、その結果、「これは一大事」ということになった。
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尊道法親王は、伴僧(ばんそう)20人と共に、8月13日から御所に伺候し、大熾盛光法(だいしじょうこうぼう)を修した。

さらに、聖護院(しょうごいん:京都市・左京区)の覚誉法親王(かくよほっしんのう)は、御所の清涼殿(せいりょうでん)・夜の御殿・東の間に参内し、9月8日から7日間、尊星王法(そんしょうおうぼう)を修した。

これのみならず、近年途絶(とだ)えていた金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)・問答も行われた。論者のメンバーリストは、以下の通りである。

第1日目
 質問者(注6) : 延暦寺(えんりゃくじ)・尋源(じんげん) and 東大寺(とうだいじ)・深慧(しんえ)
 回答者(注7) : 興福寺(こうふくじ)・盛深(しょうじん) and 興福寺・範忠(はんちゅう)

第2日目
 質問者 : 東大寺・経弁(けいべん) and 東大寺・良懐(りょうかい)
 回答者 : 興福寺・実遍(じつべん) and 延暦寺・慈俊(じしん)

第3日目
 質問者 : 興福寺・円守(えんしゅ) and 延暦寺・円俊(えんしゅん)
 回答者 : 園城寺(おんじょうじ)・経深(けいじん) and 興福寺・覚成(かくせい)

第4日目
 質問者 : 興福寺・孝憲(こうけん) and 興福寺・覚家(かくげ)
 回答者 : 延暦寺・良憲(りょうけん) and 園城寺・房深(ぼうじん)

最終日
 質問者 : 東大寺・義実(ぎじつ) and 興福寺・教快(きょうかい)
 回答者 : 延暦寺・良壽(りょうじゅ) and 興福寺・実縁(じつえん)
 レフェリー(注8) : 大乗院(だいじょういん:注9)の前大僧正・孝覚(こうがく) and 尊勝院(そんしょういん:注10)の慈能(じのう)僧正

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(訳者注6)原文では、「問者」。

(訳者注7)原文では、「講師」

(訳者注8)原文では、「證義」。

(訳者注9)興福寺の塔頭である。[旧大乗院庭園]が、奈良市内に現存する。ここの門跡を務めた、尋尊、政覚、経尋が記した日記は、[大乗院寺社雑事記]と呼ばれていて、重要な史料である。特に、尋尊が記した部分は、応仁の乱の頃の史実を知るための重要なものである。

(訳者注10)陽範によって延暦寺の横川エリアに開創された「尊勝坊」が、そのルーツである。現在地は、京都市・東山区・粟田口。元三大師(がんざんだいし)を本尊とする。
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質問者と回答者は、朝と夕で席を替え、互いに論争を展開していく。仏教学の大海中から珠玉のごとき言説を拾い、双方堂々の弁論を展開、最終的には、レフェリーが勝負を決する。まさに論談(ろんだん)の林中に百花開き、プンナ(注11)の弁舌、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の智慧も、かくや、と思われるような一大盛儀である。

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(訳者注11)釈尊の十大弟子中の一人、「弁舌第一」と称された人。
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太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 36-2 相次ぐ天変地異に、人々、恐れおののく

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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6月18日の午前10時頃からその年の10月に至るまで、大地がおびただしく振動し、日々夜々、揺れが止まなかった。

山は崩れて谷を埋め、海は傾いて陸地となった。神社仏閣が続々と倒壊、牛馬人民の死傷者は幾千万という数になった。

日本全国の山河、林野、村々にまでも、この天災は及んだ。

中でも、阿波国(あわこく:徳島県)の雪湊(ゆきのみなと:徳島県・海部郡・美波町)の住民たちの被害は甚大であった。

にわかに、大山のごとき津波が海岸におしよせ、家屋1,700余のことごとくが、引き波にひきずりこまれ、海底に沈してしまった。家々の中にいた僧俗男女、牛馬鶏犬、残らず、海の藻屑(もくず)となってしまった。

このニュースを聞いて、「前代未聞の大天災、来たれり!」と、日本国中、パニック状態になってしまった。しかし、それは単なる序章に過ぎなかった。

6月22日、にわかに天がかき曇ったと思うや否や、なんと、雪が降り始めた。気温は急降下、冬至前後の頃のような気候になってしまった。

酒を飲んで身を暖め、火をたく囲炉裏を囲める人たちは、なんとかして、その寒さをしのぐ事ができた。しかし、そのような防寒をする事が不可能であった人々、すなわち、山路を行く樵(きこり)、野道を行く旅人、牧場の馬、林の鹿らは、ことごとく氷の中に閉じ込められたり、雪の上に倒れ臥し、多くが凍死した。

7月24日、今度は摂津国(せっつこく)の難波浦(なんばうら)沖の海底が、数100町に渡って隆起(りゅうき)した。

砂の上に大量の魚が横たっているのを見て、周辺の漁民たちは、網を巻き、釣竿を捨て、我先に、魚を拾い始めた。

その1時間ほど後、急に、大山のような潮が満ち来たり、あたり一帯は再び、漫々たる海に戻った。魚を拾っていた数百人の漁民は、全員、海にのみこまれてしまい、生存者は一人もいなかった。

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更に、阿波の鳴門海峡(なるとかいきょう)においては、急激に海面水位が低下し、海底が陸地になった。

つい今しがたまで海底であった所には、高く切り立った岩があった。

なんと、その岩の上に、周囲長20ひろほどの、巨大な太鼓が載っかっているではないか!

太鼓の皮は、銀の鋲(びょう)を打って張られており、その面には巴(ともえ)の文様、太鼓台には、からみあった8匹の龍が描かれている。

それを目にした者たちは皆、おそれおののき、暫くの間は、その太鼓の側に近寄ろうともしなかった。

3、4日経過後、周辺の漁民たち数百人が、おそるおそる、太鼓の側に近寄ってみた。

漁民A おいおい、すごいやん、この太鼓の胴、石でできたるわ。

漁民B この面は・・・きっと水牛の皮やな。

漁民C ちょっと叩いてみよな、おもろいやん。

漁民D そんなん、むりやてぇ、こないに大きい太鼓、いったいどないして叩くんやぁ?

漁民E 普通の太鼓叩くバチなんか、持ってきても、あかんやろなぁ。

漁民F お寺の鐘つく木ぃ、あるやん? あんなん作って、それで打ってみたら、どないやろ?

漁民一同 お、それえぇなぁ、いっちょやってみるか。

早速、彼らは巨大な鐘木(しゅもく)を製作した。

漁民A でけた、でけた。

漁民C はよ、叩いてみよ!

漁民B よぉし、この鐘木、みんなで持ちやぁ。

漁民一同 よっしゃぁ。

漁民A えぇかぁ、みんなぁ、しっかり持ったかぁ?

漁民一同 よっしゃ、持ったでぇ!

漁民A ほな、行くでーっ、セェノォ!

漁民一同 (鐘木を持って前進)ヨォ!

巨大太鼓 グワワワワワワワワワ・・・・・・。

漁民一同 うわぁ!(撞木を放り出し、両手で両耳をふさぐ)

漁民B (両手で両耳をしっかりと抑えながら)(内心)こらまたなんちゅう、おそろしい音やねん!

巨大太鼓 ワワワワワワワワワ・・・・・・。

漁民C (両手で両耳をしっかりと抑えながら)(内心)まだ鳴っとるぞ!

巨大太鼓 ワワワワワワワワワ・・・・・・。

太鼓の轟音は、それから6時間ほども鳴り続けた。

その音は、天に響き、地を揺るがし、山は崩れて谷を埋め、海水は沸騰(ふっとう)して天にまで漲(みなぎ)った。

太鼓を鳴らした数百人の人々は、今すぐにも大地の底へ引き入られるかのような心地、肝も魂も身から吹っ飛び、倒れるともなく走るともなく、四方八方へ逃げ散った。

それからというもの、もはや誰も、太鼓に接近しようとはしない。

数日後、潮がまた元のごとく海峡に満ちて、太鼓は見えなくなってしまった。

この巨大太鼓は、はたして天に上ったのであろうか、それとも再び海中へ沈んだのであろうか、それは、誰にも解きえない永遠の謎となってしまった。

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8月24日、大地震。雨は荒く降りしきり、風は激しく吹きすさび、虚空はしばし、暗黒に閉ざされた。

その時、難波浦(大阪市の海岸)の海上に、巨大な龍2匹が出現。

龍は陸地へ飛び来たり、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)の金堂(こんどう)の中に突入した。

それからしばらくの間、雲の中にカブラ矢の音が鳴り響き、矛の光が四方にきらめいた。金堂の中で、2匹の龍と四天王が、壮絶なる戦を展開していたのであろうか。

やがて、二匹の龍は天王寺から飛び去った。それと同時に、再び大地は激しく揺れ動き、金堂が跡形(あとかた)も無く微塵(みじん)に砕け散った。しかし、その中に安置されている四天王像には、一切何の損傷も無かった。

おそらく、かの聖徳太子(しょうとくたいし)が金堂の中に安置した仏舎利(ぶっしゃり:注1)を奪い取らんとして、龍王が押し寄せてきたのを、仏法護持の四天王が、なんとしてでもそれを撃退せんとした、という事であろう。

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(訳者注1)釈尊の遺骨の一部。
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これらの断続的な一連の地震の結果、京都内およびその周辺部において、寺院の塔の九輪(くりん)は、ことごとく傾いてしまった。また、熊野神社(くまのじんじゃ:和歌山県南部)参詣ルートの至る所に、地割れが生じた。

世間の声G ほんまにもう・・・いったい、世界はどないなってしまうんでっしゃろなぁ。

世間の声H こないに異変続きではなぁ、もう、神経、も(耐)ちませんでぇ。

世間の声I そうさねぇ・・・日本の歴史書のどこを見ても、わが国の開闢(かいびゃく)よりこの方、こんな不可思議現象が連続して起ったなんて事、ただの一度も無いんだもんねぇ。

世間の声J こんな調子だと、この先またまた、どれほどひでぇ乱世になるんだかぁ。

世間の声K あぁ、やんなっちゃうなぁ。

世間の声L おぉ、こわ(怖)、こわぁ!

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太平記 現代語訳 36-1 仁木義長、吉野朝サイドに転じる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝廷・閣僚A 去年は、ほんまに、えらい年やったなぁ。

京都朝廷・閣僚B ほんまになぁ・・天災続きやった。

京都朝廷・閣僚C 旱魃(かんばつ)、飢饉(ききん)、疫病(えきびょう)・・・都の内外に、猛威を振るいよりましたなぁ。

京都朝廷・閣僚D そこら中の道ばたに、人間の死骸が充満してましてねぇ、その惨状たるや、もう、なんちゅうか・・・。

京都朝廷・閣僚E これは、ただ事ではおまへんで。ここらでいっちょ、心機一転せなあきまへん。

京都朝廷・閣僚A 改元(かいげん)かいな?

京都朝廷・閣僚E はい、そうだす、改元だす。

というわけで、延文(えんぶん)6年3月末日に改元が行われ、京都朝廷の年号は、「康安(こうあん)」に変わった。

その夜、四条富小路(しじょうとみのこうじ:下京区)付近から出火、四方86町が焼失してしまった。

世間の声F こらまたいったい、なんちゅうこっちゃねん! よりにもよって、改元したその日の夜に、首都のどまん中で、大火災ときたわ!

世間の声G いったいぜんたい、どないなってますねぇん?

世間の声H こらほんま、不吉の前兆どすえぇ。

世間の声I そうだそうだ、不吉以外の何ものでもなぁい。

世間の声J やっぱさぁ、この年号、どっか、まずいんじゃぁねぇのぉ?

世間の声K あたいも同感だなぁ。

朝廷でも、様々に議論になったが、

京都朝廷・閣僚C いやいや、そないなこと言いましてもな、そらどだい、むりっちゅうもんだっせ、今から急に年号変えるやなんてぇ。

京都朝廷・閣僚D 陛下からのご命令を受けて、幕府の方でも、もう既に、日本全国に新元号、通達してもてますがな。

京都朝廷・閣僚E 改元してたった数日で、また改元やなんて、過去の歴史においても、前例ありませんわいなぁ。

京都朝廷・閣僚一同 そんなん、絶対、むりですわぁ。

というわけで、ついに、この「康安」という年号を、そのまま使用する事になった。

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仁木義長(にっきよしなが)は、3年もの間、足利幕府の大軍に包囲されたまま、伊勢の長野城(ながのじょう:三重県・津市)にたてこもったままであった(注1)。

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(訳者注1)仁木義長の籠城については、35-5 を参照。
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領地を失い、食料が乏しくなってきて、頼みの一族郎従たちは、徐々に城から逃亡してしまい、今は、わずか300余騎ほどになってしまっていた。

土岐氏光(ときうじみつ)、外山(とやま)、今峯(いまみね)の3兄弟も、最初のうちは、義長に従って城にこもっていたが、弟の外山と今峯は、ついに幕府軍側に寝返ってしまい、氏光だけが、なおも城にこもり、仁木サイドに踏みとどまっていた。

敵味方に分かれてしまったとはいえ、そこは兄弟どうし、外山と今峯は、何としてでも兄の氏光を助けたい。彼らは、兄のもとへ密使を送った。

密使 外山様と今峯様から、このお手紙をことづかってまいりました。(手紙を渡す)

土岐氏光 うん・・・(手紙を受け取る)(手紙を開く)。

手紙 パサパサ・・・(開かれる音)

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(手紙に記された内容)

城が完全にダメになってしまわない前に、急いで、幕府側に降参されたらどうですか? 将軍も、あえて兄上を罰しようというご意向も無いようですから、領地安堵(りょうちあんど)は大丈夫、間違い無しですよ。
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土岐氏光 ・・・(手紙を裏返し、そこに何やら書く)(手紙を密使に返す)

密使 ははっ!(手紙を懐に入れる)

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密使 ただいま、帰りました!

今峯 で、どうだった?

外山 あにきはなんて?

密使 ・・・(黙って、例の手紙を外山に差し出す)

外山 (密使から手紙を受け取り、氏光が手紙に書いた内容を黙読の後、今峯にその手紙を差し出しながら)だめじゃぁ・・・。

今峯 (氏光が書いた内容を読み上げる)

 連なってた 枝の木の葉も 散々(ちりぢり)よ おまえも散れじゃとぉ よく言うよなぁ嵐め

(原文)連(つらな)りし 枝の木葉(このは)の 散々(ちりぢり)に さそふ嵐の 音さへぞうき

今峯 このかんじだと、あにき、とことん、死ぬ覚悟、かためとるでぇ。

外山 これじゃぁとても、寝返りなんか説き伏せれんわなぁ。

今峯 ほんと、この歌の通りだで。おれたち兄弟、もともとは、一本の木の枝に連なって着いてた木の葉だが。

外山 散り散りに、なってしもぉたんよなぁ。(涙)

今峯 あにきの名前も、秋の霜の下に朽ち果ててしまうんや・・・あぁ、悲しい事だでぇ。(涙)

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日に日に、城中の人数が減っていってしまうのを見て、ついに、義長も、

仁木義長 あぁ、もう、ダメダメェ! おれ一人の力じゃ、もう、どうしようもねぇ!

仁木義長 よぉし、この際、利用できるモンならなんだって、利用してやらぁ。

義長は、密かに吉野朝廷(よしのちょうてい)に使者を送り、味方に参じたい旨を申し入れた。

伝奏(てんそう)役の吉田宗房(よしだむねふさ)が御所に参内し、義長からの申し入れを、朝廷に伝えた。

吉田宗房 ・・・てなわけですわ。

吉野朝廷・閣僚L えーっ、あの仁木が、そないな事、言うてきよったんかいな!

吉野朝廷・閣僚M こらまた、思いもかけぬ、グッド・ラック(good luck)。

吉野朝廷・閣僚N なぁんもラッキーな事ありませんよぉ! あきませんてぇ、こんなんに乗ったらぁ!

吉野朝廷・閣僚O そうですよぉ。なんとかして今の窮状を脱せんがために、我々を利用したろ、いうだけの事ですわぁ。仁木のコンタン(魂胆)、み(見)えみえですやぁん。

吉野朝廷・閣僚P あいつは、信頼できひん男ですからな。

吉野朝廷・閣僚M そやけどな、考えてみいな、義長がこっち側にきよったらやで、あいつが所行(ちぎょう)しとる伊賀と伊勢の二カ国が、こっち側の勢力範囲に入るんやでぇ。

吉野朝廷・閣僚O うーん・・・そやけどぉ・・・。

吉野朝廷・閣僚L 伊勢がこっち側の勢力圏内に入ったら、あこの国司の北畠顕能(きたばたけあきよし)卿の城かて、ずいぶんと安泰になるやんか。

吉野朝廷・閣僚一同 ・・・。

吉野朝廷・閣僚L とにかく、この話、どう転んだかて、こっちの損にはならへんねんから・・・OKしとこうなぁ。

吉野朝廷・閣僚一同 そうですなぁ・・・。

というわけで、吉野朝廷は直ちに、「仁木義長の過去の罪を許す」との、天皇宣言書を送った。(注2)

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(訳者注2)原文では、「即勅免の綸旨をぞ被成ける」。
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ある日、吉野朝廷の夜警当番の者たちが、こんな会話を、ささやき声で始めた。

武士Q 近頃、足利一族の中から、いろいろなモン(者)が、こっち側に寝返ってきよったけどな、どいつもこいつも、その内心は偽りのみ、わが陛下を欺き申したモンばっかしやなぁ。

武士R ほんまやなぁ・・・まずは、足利直義(あしかがただよし)・・・あいつは、譜代の家臣の高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟からの迫害から逃れんがため、こっちサイドに寝返ってきよったんや(注3)。そやけど、こっちの力を借りて、自らの敗北の恥をそそいだ後は、ただの一日たりとも、わが陛下からのご恩を重んじる事なんか、全く無かったわなぁ。そのせいで、罪はその身にとどまって、ついに毒殺されてしまいよったがな。(注4)

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(訳者注3)28-7 参照。

(訳者注4)原文では、「其譴(そのせめ)、身に留て遂に毒害せられにき。」。

太平記作者がここに記述(作者自らが断言するのではなく、無名の登場人物の会話の中に表現という形式でもって)した「毒殺」が、史実であるのかどうかは全く不明である。これについては、30-5 の末尾に記した訳者の注を参照していただきたい。
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武士Q その後、足利義詮(あしかがよしあきら)も、「そちらの味方になって、君臣合体の体制となりたい」なんちゅうて、言うてきよったけど(注5)、あれも、あてにならんかった。「政治の全てを、陛下の御成敗にお任せすることを、固くお約束いたします」との言葉も、いつの間にか、ホゴ(反古)になってしもぉたわ。その後、義詮が近江へ逃げんならんようになったんも(注6)、ウソつきのバチが当たったんやわなぁ。

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(訳者注5)30-6 参照。

(訳者注6)30-7 参照。
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武士R 他にも、よぉけおったのぉ、足利直冬(あしかがただふゆ)(注7)、石塔頼房(いしどうよりふさ)、山名時氏(やまなときうじ)(注8)・・・こいつらが味方になりよったんも、心底からのもんとは、到底思えん。推量するに、ただ、陛下の勅命を利用して、自分の願いを達成せんというだけのこと。陛下を再び日本の主にしたとしても、その陰で、天下を我が物にしてしまおうと、そないな野心を抱いとったんやろうなぁ。

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(訳者注7)32-6 参照。

(訳者注8)32-3 参照。
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武士S 今また、仁木義長が、味方になりたい言うてきよった・・・もう動機は、見え見え。幕府側の大軍に包囲されてしもて、にっちもさっちもいかんようになってしもたから、こないな事、いうてきよったんや。

武士T そうやで、そうに、決まったるがな。

武士U そやのになぁ、それを受け入れはった閣僚方もなぁ・・・あの人ら、いったい、なに考えてはんねんやぁ? さっぱりわからん。

武士S あの仁木義長っちゅう男の、普段の振舞い見る限り、もうほんまに、「悪の権化(あくのごんげ)」っちゅうかんじやぁん。やることなすこと、何から何まで、悪い事ばっかしやないかいなぁ。

武士T そうやでぇ。ちょっとでも、何か気にさわるような事あったら、すぐに、人、殺してまいよんねんからぁ。なぁの罪もない人間をなぁ・・・で、そいでもって、悪い事したっちゅうような自覚、ただの一かけらも、無いやんかぁ、あいつ。

武士S そやのにな、気が合う相手と見たら、何の功績も無いのに、すぐに、褒美やりよるやろ?

武士T ほいでもって、すぐさま、その褒美、取り返す。

武士一同 ワハハハ・・・。

武士S 長年の恩顧を忘れて、足利義詮にさえも、背(そむ)いてしまうような、やつやねんからなぁ、わが陛下に対して、深い忠義の心なんか、さらさら無いわいなぁ。

武士U 7か国もの守護職、持ってるくせして、「まだまだ足らんわい」っちゅうような、やつやねんどぉ、あいつはぁ。こっちから3か国、5か国、恩賞に与えたっても、満足しよるかいやぁ。

武士V いやいや、あないなやつでもな、欲望の限界っちゅうもんは、さすがにあるんやでぇ。「もうこれで十分です、もうこれ以上、要(い)りませんわぁ」っちゅうような、限界がなぁ。

武士U へぇ、そうかいなぁ。で、いったい、何か国与えたったら、満足しよるんじゃい?

武士V 66。

武士U なにぃ、66か国? それやったら、日本全国、まるごとやんけぇ!

武士V そうやぁ。日本全国66か国、それが、あいつの欲望の限界やねん。

武士一同 ウワハハハ・・・。

武士U そないな事してみぃ、日本国中に土地、一個所も、無(の)うなってまうやんけぇ! 長年、陛下に忠功つくしてきた、オルレ(俺)ら、いったいどこで、オマンマ食うてったら、えぇんじゃぁぃ!

武士一同 ウワハハハ・・・。

武士Q つらつら考えてみるにやな、仁木義長は、忠臣にもあらず、智臣にもあらず、神仏に見放され、人望に背いて、自滅へ向かってまっしぐら。

武士R そないな悪人を、こっちの味方にしてやでぇ、いったいなにが、陛下の開運の助けとなるっちゅんやろう?

武士Q 虎を養うて、自ら禍を招くっちゅう、かんじやわなぁ。

その側から、明らかに、仁木義長に好意を抱いていると思われる人が、口を開いて、

武士W たしかに、仁木義長は悪人や。ただし、ただの悪人では、ないわなぁ。

武士一同 ・・・。

武士W そらもう、なみの悪人ではないでぇ、あの人はなぁ。鎌倉にいた時には、鶴岡八幡宮(つるがおかかちまんぐう:神奈川県・鎌倉市)で、稚児(ちご)を切り殺して、神殿に血を注いだ。京都の八幡宮(京都府・八幡市)では、駒形神人(こまがたじんにん)を殺害してしもて、神社側から、ものすごい強硬な訴訟を起こされた。

武士W ふつうの人間がこれほどの悪行してもたら、そらもう、たちまち天罰や、ただの一時も、安穏としとれるもんやない。ところが、あの人はどうや? 未だに生きてるやないか。そやから言うんや、仁木義長はふつうの人とはちゃうでぇ、てなぁ。

武士U ほならいったい、あの男は、なにもんやねん?

武士W あんなぁ・・・古代インドには、むちゃくちゃな王様が、おったらしいなぁ。仙誉(せんよ)っちゅう王様は、500人の人間を殺し、斑足(はんぞく)っちゅう王子は、1000人の王の首を切ったとか。そやけど、この二人、仏菩薩が衆生を救わんがため、人間の姿になって世に現れたんやと、いうやないかぁ。

武士Q ほならなにか、あんたは、仁木義長もまた、仏菩薩の生まれ変わりや、とでも言いたいんかいな?

武士W あんな、別にこれはな、なにも、仁木をひいきして言うてんのとは、ちゃうねんからな、誤解せんといてくれよぉ・・・人が語り伝えてきて、わしの耳にとどまった事を、言うてるだけのことやねんから。

武士V そんなぁ・・・あの男が、そないにえぇもんかいやぁ、なぁ?(その場の全員に対して、同意を求める)

武士たち ・・・(うなずく)。

武士W あんな、よぉ聞けよ、仁木義長、最近、伊勢の守護やったやろ。あこに在国中に、こないな話があるんやで・・・。

(以下、武士Wが語った話)
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仁木義長は、未だかつて、公家も武士も手をつけようとしなかった伊勢の神三郡(かみさんぐん:注9)に侵入し、伊勢大神宮の領地を押領した。

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(訳者注9)度会郡、多気郡、飯野郡のこと。伊瀬神宮の領地であった。
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伊勢神宮の祭主と神官らは、すぐに京都に行き、朝廷や幕府に、義長の行為を訴えた。

「日本列島開闢(かいびゃく)以来、未だかつて、このようなけしからぬ行為は聞いた事が無い、速やかに、大神宮に対して、領地を返却すべし!」と、朝廷、幕府から、厳重命令が下された。

しかし、義長は知らぬ顔。それどころか、「このおれを、訴訟の対象にするとは!」と激怒、神域を流れる五十鈴川(いすずがわ:三重県・伊勢市)をせきとめて魚を捕り、神苑南西の神路山(かみじやま)に入って鷹狩を行った。

伊勢神宮の神官リーダー 仁木義長の悪行は、日に日に積もる一方。こないなったら、神様にお願いして、彼を亡ぼしてもらおうやないか! 神罰を下していただこうやないか!

伊勢神宮の神官一同 よぉし!

神官500余人は、榊(さかき)の枝に木綿(しで)をかけ、様々の幣を神前に捧げ、異口同音に呪詛(じゅそ)し始めた。

神官リーダー 願わくば、今から7か日の間に、かの大悪人にして大バチ当たり男、仁木義長を蹴り殺したまえ!

神官一同 蹴り殺したまえ! 蹴り殺したまえ! 蹴り殺したまえ!

それから7日目、突然、10歳ほどの童子に、憑依現象(ひょういげんしょう)が現れた。

童子 うわぁ、うわぁ、うわぁ! フー!フー!フー!

神官一同 おおお・・・。

神官X 神ががりや!

神官Y 神ががりや!

童子 う・・・う・・・わ・・・わ・・・われ・・・。

童子 われ・・・我に大神宮、乗り居させたまえりぃー!

神官一同 はははぁーー!(童子の前に平伏)

童子 我、真理の根源たるかの本覚真如(ほんがくしんにょ)の都を出(いで)て、一切の衆生(しゅじょう)を救わんがために、わが姿を変じて、人間界に足を踏み入れたり。わが威徳(いとく)、秋月(しゅうげつ)のごとく、遍(あまね)く世界を照らし、わが教化(きょうげ)の一切衆生に及ぶは、あたかも春華(しゅんげ)の薫(くん)ぜざる袖の皆無なるがごとくなり。

童子 されば、一切衆生救済の為なる方便(ほうべん)の門においては、罪ある者をも、嫌う事無し。一切衆生に利益(りやく)授くる為には、愚かなる者をも、捨つる事は無し。

童子 さてさて、かの仁木義長なる者の悪行を、なんじら天に訴えて呪詛しおるが、我はそれに納得しがたし。

童子 彼、前世(ぜんせい)において義長法師(きちょうほうし)と言いし時、五部の大乗経典(だいじょうきょうてん)(注10)を書写し、この国に納めたりき。故に、その善根(ぜんこん)、今生(こんじょう)にこたえ、この伊勢の国を知行する事を得たるに至るものなり。かようの宿善(しゅくぜん)無くしては、彼、一日たりとて、安穏なる事を得んや。

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(訳者注10)華厳経、大集経、大品般若経、法華経、涅槃経。
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童子 あぁ、されど・・・されど・・・なんともはや、もったいなきこの善根なるや・・・かの義長法師、もしも無上菩提(むじょうぼだい)の心に趣きて、かの大乗経典を書写したりしかば、速やかに生死の輪廻(しょうじのりんね)より脱し、仏果菩提(ぶっかぼだい)へと至れりしものを・・・おしむらくは、その写経(しゃきょう)の動機・・・ただただ、名声利益(めいせいりやく)を求めんが為に修せし所の善根なれば、今生(こんじょう)においては武士の家に生れ、諸国の守護となり、多くの家臣もかかえるといえども、その悪行は心に染まりて、乱を好み、人を悩ます・・・うっうっうっ・・・。(涙)

童子 あぁ、哀れなるかな・・・過去の善根この世にこたえて、今生の悪業(あくごう)また未来に酬(むく)わん・・・哀れなるかな、哀れなるかな、うっうっうっ・・・。(涙)(横たわる)。

童子 (仰臥しながら)うっうっ・・・うっうっ・・・う・・・。

童子 スゥスゥスゥ・・・(寝入る)

童子 (ガバッ)(急に起き上がる)

童子 あれっ? ボクはいったい何を?・・・こんなとこで寝て・・・みなさん、いったいなんでそないに、ボクの事、じっと見てはるんですかぁ?

--------

武士W ・・・とまぁ、こないなわけや。こういう話もあるよってにな、仁木義長もそれなりに、相当わけありの人やねんなぁと、わしは思うとるんやが。

武士Q へぇー! そないな話があったんかいなぁ。

武士R 知らんかったなぁ。

武士S そうは言うけど、悪行においては天下第一の不心得もんやわい、あの男はのぉ。

武士T それだけは、言えてるわな。

それからも、話は夜通し続いたが、夜明けと共に、武士たちは全員、朝廷から退出した。

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太平記 現代語訳 インデックス8

太平記 現代語訳 総インデックス

主要人物・登場箇所リスト

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第36巻

36-1 仁木義長、吉野朝サイドに転じる

36-2 相次ぐ天変地異に、人々、恐れおののく

36-3 天王寺の金堂、再建成る

36-4 山名時氏、美作へ侵入 and 九州地方において菊池武光、攻勢に

36-5 佐々木兄弟、戦死

36-6 細川清氏と佐々木道誉の対立、激化

36-7 反幕府勢力、東西に台頭

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第37巻

37-1 吉野朝廷、京都攻略を検討

37-2 足利義詮、京都から逃走

37-3 吉野朝軍、京都から撤退

37-4 後光厳天皇、京都へ帰還

37-5 大将の選定に関する考察(付 高祖と項羽の議帝擁立の逸話)

37-6 新・幕府執事職、選出される

37-7 サーリプッタの話、一角仙人の話、志賀寺の上人の話

37-8 足利基氏、畠山討伐軍を伊豆へ派兵す(付 楊貴妃と楊国忠の話)

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第38巻

38-1 京都において、異変続々

38-2 吉野朝側勢力、続々蜂起

38-3 斯波氏経、九州へ

38-4 九州において、菊池武光、大いに武威を振るう

38-5 畠山国清、死去す

38-6 細川清氏、死去す

38-7 和田正武と楠正儀、摂津国を制圧

38-8 元 versus 南宋 の戦

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第39巻

39-1 大内弘世、吉野朝サイドから足利幕府サイドへ転ずる

39-2 山名時氏、吉野朝サイドから足利幕府サイドへ転ずる

39-3 仁木義長、吉野朝サイドから足利幕府サイドへ転ずる

39-4 芳賀禅可、足利幕府・鎌倉府に対して、叛旗を翻す

39-5 斯波高経、興福寺と対立す

39-6 高まる斯波高経への批判

39-7 春日大社の神木、奈良へ帰る

39-8 高麗国より使者来たり、倭寇取り締まりを要請

39-9 元寇の時に、あった事

39-10 神功皇后の遠征

39-11 光厳法皇、諸方を行脚

39-12 光厳法皇の葬儀、執行さる

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第40巻

40-1 清涼殿において、和歌会、盛大に催さる

40-2 足利基氏、死去す

40-3 南禅寺と園城寺の確執

40-4 最勝講の場において、興福寺と延暦寺の衆徒、武闘に及ぶ

40-5 将軍・足利義詮、死去す

40-6 流れが変わってきた(最終章)

2018年4月19日 (木)

太平記 現代語訳 35-5 仁木義長、逼塞状態に

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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小河中務丞(おがわなかつかさのじょう)と、土岐一族に属する東池田(ひがしいけだ)は、連合して仁木義長(にっきよしなが)と手を結び、尾張国(おわりこく:愛知県西部)の小河庄(おがわしょう:愛知県・知多郡・東浦町)に、城を構えてたてこもった。

土岐直氏(ときなおうじ)は、3,000余騎を率いてこの城に押し寄せ、7重8重に包囲して、20日間余り、攻め続けた。

にわかづくりの城であったので、たちまち食料が尽きてしまい、小河中務丞と東池田は、共に投降して城から出てきた。

以前から、領地争いに関して含む所のあった土岐直氏は、小河中務丞の首を刎ね、京都へ送った。

一方、東池田の方は、同じ土岐一族どうしなので、命を助け、尾張の番豆崎城(はずがさきじょう:愛知県・知多郡・南知多町)へ護送した。

吉良満貞(きらみつさだ)も、仁木義長の誘いに乗り、三河国(みかわこく:愛知県東部)の守護代理・西郷弾正左衛門尉(さいごうだんじょうさえもんのじょう:注1)と連合し、矢作川(やはぎがわ:愛知県・岡崎市)の東岸に陣を張り、東海道を塞いで、畠山国清(はたけやまくにきよ)の関東帰還を阻止した。

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(訳者注1)35-3 に登場。
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しかし、大島義高(おおしまよしたか)が三河国守護に任命され、星野(ほしの)、行明(ぎょうめい)たちと連合して三河に進軍。これに敗北して、西郷弾正左衛門尉は、伊勢(いせ:三重県北部)へ逃走した。

吉良満貞は、将軍側に寝返り、京都へ出ていった。

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一方、石塔頼房(いしどうよりふさ)と仁木義任(にっきよしとう)(仁木義長の弟)が大将となって、伊賀(いが:三重県西部)、伊勢の軍勢を集め、2,000余騎を率いて近江(おうみ:滋賀県)へ侵入、葛木山(かずらきやま:滋賀県・甲賀市)に陣を取った。

佐々木氏頼(ささきうじより)とその弟・山内判官(やまのうちはんがん)は、近江国中の軍勢を集め、飯守岡(いいもりがおか:甲賀市?)に陣を張り、両軍、にらみあいとなった。

数日後の9月28日早朝、仁木義任は、配下の軍勢を集めていわく、

仁木義任 この近江までやってきても、なお数日間、合戦の一つも無しに、たたいたずらに、地元の民を煩わすだけの現状、おれとしては、まことに残念でならん。伊勢にいるアニキもさぞかし、気をもんでる事だろうよ。

仁木義任 そこでだ、今日は、戦にはもってこいの吉日、ここらでいっちょう、敵を一攻め、け散らしてしまおうじゃぁねえか!

仁木義任 まずは、佐々木高秀(ささきたかひで)が手勢を配分して守っている、市原城(いちはらじょう:滋賀県・東近江市)を攻め落とす。あそこを落として、敵一人も無しの状態にしちまえば、これから、心安く合戦できるんでなぁ!

仁木義任の出陣宣言に、石塔頼房、伊賀の名張(なばり)一族、近江の大原(おおはら)、上野(うえの)の者たちも、我遅れじとばかりにつき従い、義任の手勢300余騎もあわせ、一丸となって出陣した。

旗をなびかせ、軍を進めてくる仁木軍を見て、それに相対する佐々木氏頼も、兵を集めた。

佐々木氏頼 敵は、陣をたたんで、動きだした! さぁ、戦(いくさ)、戦!

しかし、譜代恩顧(ふだいおんこ)の若党300余騎の他には、誰も招集に応じてこない。

仁木サイドは、この戦に全てを懸けている様子である。主力の桐一揆(きりいっき)武士団をはじめ、主だった勇士500余騎、さらに、伊賀の服部(はっとり)一族、河合一揆(かわいいっき)武士団も加わり、いっきに形勢逆転してしまおうといわんばかりの勢い。

佐々木サイドは、500騎足らず、到底、仁木軍に対抗できようとは思えない。

しかし、勇猛果敢な佐々木氏頼、いささかも、ひるむ様がない。

佐々木氏頼 (内心)今回のこの戦、確かに重要な戦いではある。今日敗北したら、佐々木家の面目も失われてしまう・・・かといって、たったこれだけの兵力でもって、真っ正面からぶつかっていっても、とうてい勝ち目はない・・・とにかく、陣を構え、勝機をうかがうとしよう。

氏頼は、全軍を3つに分け、分散配置することにした。

まず右手に、目賀田(めかだ)、楢崎(ならさき)、儀俄(ぎが)、平井(ひらい)、赤一揆(あかいっき)武士団を旗頭に、川端にそって陣を展開。

左手には、青地(あおち)、馬渕(まぶち)、伊庭入道(いばにゅうどう)、黄一揆(きいっき)武士団を大将として、左手の川原に陣を張る。

そして中央には、氏頼自らが位置し、吉田(よしだ)、黒田(くろだ)、二部(にいべ)、鈴村(すずむら)、大原(おおはら)、馬杉(ますぎ)をはじめとした主要メンバーを周囲に集め、すきあらば、敵の真ん中を破ろうとひかえている。

このような相手方の軍陣構成を見て、兵力面において圧倒的優勢の仁木サイドが、勇みたたないわけがない。

蝿払一揆(はえはらいいっき)武士団リーダーA 3手に分かれた敵の小勢を見るに、あの中央の四目結(よつめゆい)の大旗(注2)、あの旗の立っている所に、大将の佐々木氏頼はいると見た。佐々木を討ち取って、勲功に預かろうや、なぁ、みんな。

蝿払一揆武士団メンバー一同 ウウウイ!

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(訳者注2)佐々木家の家紋は、「四目結」である。
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伊勢の長野(ながの:三重県・津市)からやってきた蝿払一揆武士団は、最前線に進出し、佐々木軍めがけて突撃を開始した。

戦のかけひきをよく心得ており、決死の覚悟でこの戦場に臨んでいる佐々木氏頼、いささかも躊躇するわけがない。大軍の真ん中に懸け入っては、十文字(じゅうもんじ)、巴の字(ともえのじ)にと懸け散らし、鶴翼魚鱗(かくよくぎょりん)に連なっては、東西南北に馬を自在に懸け回らせ、相手を懸け靡ける。

激戦の後、氏頼は、後方にひかえる小野(おの)軍をちらりと見やり、西方向に馬首を転じて、しばし、人馬に休息を取らせた。

佐々木軍の周囲には、主を失い、鮮血に染まった馬が多数、立っている。そのヒズメの下には、切って落とされた仁木軍側メンバーらの死骸が、あたり一面に散乱している。

これを見て、仁木軍サイドの他の武士たちは、完全に戦意を喪失(そうしつ)、内貴田井(ないきのたい:滋賀県・甲賀市)の天満山(てんまやま)の奥深くへ退かんと、左方に逃走を開始、勝ちに乗った佐々木軍サイドの若党らが、これをグイグイ追撃していく。

退却する側が難所に追い立てられてしまっては、もはや、持ちこたえる事はできない。矢野下野守(やのしもつけのかみ)、工藤判官(くどうはんがん)、宇野部(うのべ)、後藤弾正(ごとうだんじょう)、波多野七郎左衛門(はだのしちろうざえもん)、波多野弾正忠(はだのだんじょうのちゅう)、佐脇三河守(さいきみかわのかみ)、高嶋次郎左衛門(たかしまじろうざえもん)、浅香(あさか)、萩原(はぎわら)、河合(かわい)、服部(はっとり)ら、主要メンバー50余人が、一個所で討たれてしまった。

戦闘終了後、11月11日、仁木軍サイド戦死者の首が京都へ送られ、六条河原にさらされた。

彼らの首を見た人々は、身分の上下を問わず、みな、悲しみの思いでいっぱいである。

無名の武士B あぁ、なんてこった・・・おまえ・・・。(涙)

僧侶C つい昨日までは、親しく言葉を交わし、(涙)

有力武士D 肩を並べ、見慣れた朋友であったのに・・・(涙)

俗人E こないな姿に、なってしまわはった・・・(涙)。

この結果、仁木義長は、「公称3,000余騎」の兵力の大半を失ってしまい、彼のもとには、500余騎が残るだけとなった。更に、弟の仁木義任は、今回の敗戦の後、幕府側に投降してしまった。

「この機を逃さず、イッキに仁木をつぶしてしまえ!」との、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)の命令に従い、仁木追討軍大将の任を受けた佐々木氏頼と土岐大膳太夫入道(ときだいぜんだいぶにゅうどう)は、7,000余騎の兵を率いて、伊勢へ軍を進めた。

さしもの勇士・仁木義長も、ここまで手持ちの兵力が減じてしまっては意気消沈、追討軍に対して迎撃に出る事も無く、ひたすら、長野城(ながのじょう:三重県・津市)にたてこもるばかりであった。

長野城は要害であるがゆえに、追討軍側は、そうそうたやすくは攻め寄せる事ができない。大兵力ゆえに平場に陣を取った追討軍側に対して、仁木側が城から出てそれを攻める、という事もない。

両軍、5、6里の距離を隔てたまま、この伊勢の戦場では、その後2年もの間、戦線膠着状態が続いていった。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 35-4 北野天満宮において、3人の登場人物、現代の政治について論ず

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)サイドの日野僧正頼意(ひののそうじょうらいい)は、密かに吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)の山中から出て、京都にやってきた。霊験あらたかなる、あの北野天満宮(きたのてんまんぐう:上京区)の威神力(いじんりき)にすがり、自らの宿願を達成せんと願っての事であった。

今夜も、頼意は徹夜で参篭(さんろう)している。

秋は既に半ばを過ぎ去り、梢を吹き渡る風の音も、心なしか、うすら寒く聞こえてくる。有明(ありあけ)の月は、松の頂を越えて西に傾き、庭にひっそりと降りた一面の霜を、明るく照らし出している。

頼意 (内心)今夜は殊更(ことさら)に、神聖な雰囲気や・・・なにか、しみじみと、ものを思ぉてしまうわなぁ。

巻き残した経典を手に持ちながら、頼意は、灯火をかかげて壁に寄り添い、古歌を詠じつつ、庭の夜景を楽しんでいた。

頼意 (内心)あれ・・・あんなとこに、人がおるやないか・・・。

頼意 (内心)あの人らも、秋のあわれに誘われて、月を見て楽しんでるんやろか?

彼の視線の先には、神殿の欄干に寄りかかって座る、3人の姿があった。

頼意は、じっと目をこらして、彼らを見つめた。

1人目の人物を、「A」と名付けよう。

Aは、年の頃60ほどの世捨て人(注1)、その話し言葉は、関東なまりである(注2)。

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(訳者注1)原文では、「遁世者」。

(訳者注2)原文では、「坂東声」。
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盛んに、かつての鎌倉幕府(かまくらばくふ)時代の治世を、なつかしんでいるようだ。

その話の内容から察するに、Aは、かつては鎌倉幕府の中枢メンバー、すなわち、頭人(とうにん:注3)あるいは評定衆(ひょうじょうしゅう)に、名を連ねていたようである。

「あの頃の政治は、よかったなぁ」というような事を、繰り返し繰り返し、言っている。

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(訳者注3)引付衆のトップ。
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2人目の人物を、「B」と名付けよう。

Bはどうやら、今まさに、朝廷に仕える身分であるようだ。

しかしながら、「仕える」といっても、それは名目だけ、その家は貧しく、朝廷への出仕もせず、毎日、徒(いたずら)に、学窓に明かりをともして書物、それも仏典以外のものばかり読んで、心を慰めているようだ。

顔色は青白く、その態度は極めて、ものやわらかである。

3人目の人物「C」は、僧侶である。

人々からは、「ナニナニ律師(りっし)」、あるいは、「ナニナニ僧都(そうず)」などと、呼ばれているようだ。

門跡寺院(もんぜきじいん:注4)に所属し、顕教(けんぎょう)密教(みっきょう)の両真理を求めんと、一室に閉じこもってひたすら、天台宗(てんだいしゅう)の教義研究に没頭、という事らしい。

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(訳者注4)皇族や貴族を、「門跡(その寺院のトップ僧侶)」として、迎え入れている寺院。
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とても痩せており、何かしら、疲労感を漂わせている。

やがて3人は、「南無天満天神」の文字を句頭に置いての連歌を始めた。

連歌が終わった後、今度は、外国や我が国の様々な事がらについて、論じ合いはじめた。

頼意は、じっと耳を傾けた。

頼意 (内心)ほほぉ、あの3人、なかなか、鋭いとこ、突いてるやないかいな。「うーん、なるほど」と、うなずかされるような話、やたらと多いわ。

頼意 (内心)あの「朝廷に仕えてる」っちゅう人、彼は、明らかに儒学(じゅがく)の信奉者やねぇ。

人物B ・・・ようはやね、「戦争と平和」、その問題ですわ・・・。

人物B どのような戦争も、いつかは終結して、世に平和がもたらされる、それが歴史の鉄則なんやと、私は思うておりました。

人物B 歴史書をめくってみても、そうですわなぁ。古代中国・戦国時代、互いにしのぎを削ったあの「戦国の6強」も、最終的には、秦(しん)の支配に屈しました。漢(かん)の高祖(こうそ)と楚(そ)の項羽(こうう)とが70余度も戦いを繰り広げたあの時代も、8年の歳月の経過の後に、漢の天下と、定まりましたやろ。

人物B わが国においても同様。阿倍貞任(あべのさだとう)、宗任(むねとう)の乱、前九年(ぜんくねん)の役、後三年(ごさんねん)の役(えき)、源平争乱(げんぺいそうらん)の3か年、いずれも結局は、カタがつきました。他にも、争乱はいろいろとはあったけど、どれもこれも、せいぜい2年以内にはカタがついて、平和が到来しました。

人物B ところが、今回のこの争乱だけは、まったく例外や。元弘(げんこう)年間の鎌倉幕府滅亡以来このかた、天下は乱れに乱れて30余年、たった一日として、静かに送れた事はない。

人物B もしかして、この戦乱はエンドレス(end less)なんやろか、いつになっても終結する時は来ぃひんのんと、ちゃうかいなぁと・・・いったいぜんたい、なんで世の中、こないな事になってしもたんでっしゃろなぁ? どない思わはりますぅ?

人物A (数回、念珠を高らかにすり鳴らす)

人物Aの念珠 ジュラジュラジュラ・・・。

人物A (憚る事なく明瞭に)そりゃぁなぁ、あんたぁ、世の中、治(おさ)まんねぇには、治(おさ)まんねぇだけのワケ(道理)ってもんが、あるってことよぉ。

人物A あんたはさぁ、外国や我が国の歴史ってもんを、よくよくご存じのようだから、こんな事あらたまって言う必要、ねぇのかも・・・でも、この際、一言、言わせてもらうよ。

人物A 昔の世の中にはね、「民苦を問う使者」って職種があったんだよなぁ。帝王が、勅使をいろんな地方へ送り込んでだなぁ、そこいらの人民が苦しんでねぇかどうか、現地でじっくり調査させるってわけよ。

人物A いってぇなんで、こんな事をしたかって言やぁ・・・人民無しじゃぁ、君主は政治をやってけねぇからよ。

人物A 人民は、食わなきゃ、生きてけねぇ、穀物が無くなっちまったら、人民は困窮する。人民が困窮すりゃぁ、年貢が入ってこなくなる。年貢が入ってこねぇとなったら、君主の方も、お手上げよぉ。

人物A 人民がトコトンまで、疲弊しきっちまったら、もう、その国はオシメェ(終)さなぁ。だってな、考えてもみろよ、疲れきった馬はもう、鞭だって恐がらなくなるんだよぉ・・・「おれたちゃ、もう、トコトン破局まで追いつめられたプロレタリアート(無産階級)よ、これ以上失うモンなんか、もうナニもありゃしねぇ!」ってな状態に追い込まれちまったら、もう人間、コワイモン無しさなぁ・・・「帝王の権威」なんか、ドコ吹く風ってもんよぉ・・・みんながみんな、わが身の利益だけを追い求めるような、そんな社会になっちまうんだ。不法な事が、日常茶飯時のように行われる、そぉいった、トンデモネェ世の中になっちまうんだ。

人物A 人民が不正に走るとすりゃぁ、その責任は、官吏にあらぁな。んでもって、官吏の悪事の全責任は、帝王が負わなきゃなんねぇや。そんな、フザケたヤロウを官吏に選んだのは、他ならぬ帝王だもんなぁ。いわゆる、「任命責任」ってぇ、やつよ。まともな人間を官吏に選んでさえすりゃぁ、何も問題、起こりっこねぇんだもんなぁ。

人物A 私利私欲を貪ってばかりいやがるような人間を、官吏に登用するってこたぁ、暴れ虎を村に送り込むようなもんだぜ。徹底的に、人民を虐(しいた)げていきやがるからなぁ。

人物A 国の中に、そういった状態が続いていきゃぁ、いってぇ、何が起ると思う?

人物A 天災だよ、人民の憂いが天に昇って、災難になって落ちて来るんだよ。

人物A 天災が起ったら、国土は乱れるさなぁ。で、そんな事になっちまった責任は、権力者の側にあるんだよ。権力者に慎みってもんがなくて、人民をあなどってるから、そんな事になっちまうんだ。

人物A 国が乱れ始めたら、もう帝王だって、安閑たぁ、してらんねぇぜぇ。人民が苦しんでる国ってもんは、必ず、そこら中で反乱が起きるんだからぁ。

人物A だからこそ、古代中国・殷(いん)王朝の湯王(とうおう)はだな、旱魃(かんばつ)の時、桑林(そうりん)の中で雨を祈り、自分自身を犠牲として火中に投じたんだ。唐(とう)王朝の太祖(たいそ)だって、蝗(いなご)の害をおさめるために、蝗を呑み込んで野外に横たわり、自らを天の運命に任せたじゃぁねぇか。

人物A ようはだ、権力者たるもの、常に、己(おのれ)を責めて、天の意志にかなうように心掛け、人民を撫育(ぶいく)して、地の声に耳を傾けよってことだよなぁ。かの白楽天(はくらくてん)だって書いてるだろ、「王者の憂楽(ゆうらく)は衆と同じかりけりと知る」ってねぇ。

人物A こういった事を、ちゃぁんと心がけておられた君主が、過去の日本には、おられたんだぁ! そう、あの、醍醐天皇(だいごてんのう)陛下だよ。

人物A 陛下はな、寒い夜にはお衣を脱がれて、寒さに震える民衆の苦しみを体感し、彼らを哀れまれた・・・でも、そんな陛下でさえも、死後は地獄に落ちなすったんだってなぁ・・・笙の岩窟(しょうのがんくつ:奈良県・大峰山系・文殊岳南面)にこもって修行してた日蔵上人(にちぞうしょうにん)が、地獄に行って陛下に会ってるよなぁ。

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以下、人物Aが語った話。(注5)
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(訳者注5)この話は、26-4 にも記述されているのだが、そこに述べられた内容と、これ以降に述べられるのとでは、詳細が相当異なっている。
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日蔵上人は、承平(しょうへい)4年8月1日午後、頓死(とんし)したが、その13日後に生き返った。

その間、日蔵は、不思議な臨死体験の中にあった。

それは、夢でも幻でも無い、まさに、金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)の方便により、欲界(よくかい)、色界(しきかい)、無色界(むしきかい)を流転(るてん)し、六道(ろくどう:注6)四生(ししょう:注7)の棲息地を見てまわる、というものであった。

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(訳者注6)地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の6つの世界

(訳者注7)六道を輪廻する衆生の分類。胎生、卵生、湿生、化生。
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その中に、「鉄崛地獄(てつくつぢごく)サブゾーン」という所があった。これは、等活地獄(とうかつぢごく)ゾーンに付属しているエリアである。

そのエリアにおいては、火炎が渦を巻き、黒雲が空を覆っていた。鋭い嘴(くちばし)を持つ鳥が飛来して、罪人の目をつつき抜く。さらには、鋼鉄の牙を持つ犬がやってきて、罪人の脳を吸い食らう。目をいからせた獄卒(ごくそつ)の怒声は、雷鳴のごとくに響きわたる。狼や虎が、罪人の肉を裂き、地上には、足の踏み場も無い程、鋭利な剣が密集して生えている。

そこに、焼き炭のようになってしまっている罪人が4人いた。彼らの阿鼻叫喚(あびきょうかん)の声を耳にした日蔵は、

日蔵 待てよ・・・なんか、聞き覚えのある声が・・・。

日蔵 まちがい無い! あれは陛下の声や! それにしても、なんで、陛下がこないなとこに・・・。

日蔵は、そこに立ち寄って、獄卒に問うてみた。

日蔵 あのぉ、つかぬ事をおうかがいしますが・・・。

獄卒D なんじぇい! このクソ忙しい時にぃ!

日蔵 いやいや、ほんま、ご多忙の中、まことにすみませんが・・・ちょっと教えてくださいな。もしかして、その4人の中に、醍醐帝(だいごのみかど)、おられませんかいなぁ。

獄卒D おぉ、おるぞ、おるぞ。こいつが、帝やわい!(醍醐天皇を矛に刺し貫く)。あとの3人は臣下じゃ・・・ほれぇ!(醍醐天皇の身体を、火炎の中に投げ入れる)

日蔵 (内心)あぁぁ・・・なんともはや・・・人間、何事も、善因善果(ぜんいんぜんか)・悪因悪果(あくいんあっか)の理(ことわり)のままとはいいながらも、余りにも、おいたわしい・・・陛下、陛下・・・。(涙)

しばしの後、日蔵は思い切って、

日蔵 これは、ムリなお願いかもしれませんけどな・・・陛下への責めを、ほんのちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、ストップしては、いただけませんでしょうかいなぁ(涙)。

獄卒D おまえ、ナニかぁ! わしらの地獄の運営業務を、妨害しようっちゅんかい! ほんまにもう、トンデモないやっちゃ!

日蔵 ほんのちょっとの間だけですがなぁ。今一度、なつかしい陛下のお顔を拝してから、現世へ戻りたいんですわいなぁ(涙)、なぁ、なぁ、頼んまっさかいに・・・なにとぞ、なにとぞ!(涙)

獄卒D あかぁん! 地獄の規律は鉄の規律、一寸たりとも、ルーズにするわけにはいかんのじゃぁぃ!

獄卒E おまえなぁ・・・そこまでカタイ事言わいでも、えぇやないかぁい・・・そないにかたくな態度でこりかたまっとったんでは、世間の人から悪口言われるぞぉ、「まるで地獄の番人みたいなヤツやなぁ」て。

獄卒D 「地獄の番人」で、ワルカッタなぁ!

獄卒E 他ならぬ、この立派なお坊さんが言うてはんねんからなぁ、ここはちょっと、融通きかしてやぁ、弾力的に対応したげよぉなぁ。なぁ、ええやろ?

獄卒D えぇい、もう! 好きにせぇ!

獄卒E お坊さん、ちょい待っとりや。今から、接見(せっけん)手続き、とったるからなぁ。

日蔵 あぁ、ありがとうございます、ありがとうございます!(合掌)

獄卒E ホイ!(火炎の中の醍醐天皇の身体を、無造作に鋼鉄の矛で刺し貫き、火炎中から取り出す)

獄卒E ヤァ!(醍醐天皇の身体を、地上10丈ほどの高さにまで差し上げる)

獄卒E ドェーーイ!(醍醐天皇の身体を、熱鉄の地上に打ちつける)

日蔵 アァーー!

その身体は、焼炭が砕け散ったかのごとく、粉々に打ち砕かれ、原形を全く留めない状態になってしまった。

獄卒たちが、その周囲に走り寄ってきて、輪になった。

彼らは、砕けて散乱した破片を、輪の中心の方へ、足で蹴り集めた。

そして、一斉に声を放った。

獄卒一同 活(かつ)活!

次の瞬間、その輪の中心に、醍醐天皇が蘇った。

日蔵 (天皇の前に平伏、畏まり)陛下、陛下・・・。(涙)

醍醐天皇 おぁ、日蔵、よぉ来てくれたなぁ。

日蔵 ううう・・・(涙)。

醍醐天皇 あぁ、もう、そないにな、私に頭下げいでもえぇ。ここでの価値基準はただ一つ、罪業が無いかどうか、ただそれだけや。ここへ来てしもたら、身分の上下も何も、あらへんのや。

日蔵 それにしても、いったいなんで、陛下がこないなとこへ。

醍醐天皇 私はなぁ、日蔵、生前、5つの罪を犯したよってに、この地獄へ落ちてしもたんや。

日蔵 「5つの罪」といいますと?

醍醐天皇 まず、罪の第一は、父・宇多法皇(うだほうおう)の御命に背きたてまつり、久しく法皇陛下を見下したてまつってた事。

醍醐天皇 罪の第二は、無実の罪でもって、あの才ある人、菅原道実(すがわらのみちざね)を流罪に処してしもぉた事。

醍醐天皇 罪の三番目は、「あれは自らの怨敵や」と、烙印(らくいん)を押しては、他の人々を害した事。

醍醐天皇 罪の四番目は、毎月の精進の日(注8)に、ご本尊の扉を開くのを怠った事。

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(訳者注8)原文では、「月中の斎日」。
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醍醐天皇 五番目の罪はなぁ、日蔵・・・日本の最高権力者として、自らが定めた法律、すなわち、王法、それを、至上のもの、仏法以上に尊いものであると、誤認識した事や・・・私は、人間世界の様々なものに対して、余りにも執着の念が深すぎた。(注9)

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(訳者注9)原文では、「五には日本の王法をいみじき事に思て人間に著心の深かりし咎。」
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醍醐天皇 根本的な罪はこの5つやけど、もちろん、その他にも、罪業を無限に多く積んでしもてる。それ故、この地獄で受ける苦しみも、無限大や。

日蔵 ・・・。

醍醐天皇 日蔵、おまえに頼みがあるんやが・・・。

日蔵 なんなりとも、仰せつけ下さいませ。陛下の為なら、どんな事でも!

醍醐天皇 頼む、どうか、私を、この地獄から救い上げてくれ! 私の為に、徳を積んでくれ。善因となるような事をやってくれ。

日蔵 わかりました! やります! で、どのようにいたしましょう?

醍醐天皇 日本全国に、1万本の卒塔婆(そとば)を立ててな、内裏(だいり)の大極殿(だいごくでん)で、仏名懺悔法(ぶつみょうざんげぼう)を修してくれ。

日蔵 はい!

獄卒E さぁさぁ、もう制限時間いっぱいやでぇ。罪人との接見は、これにて終了や。

醍醐天皇 日蔵、頼んだぞ、頼んだぞ!

日蔵 陛下! 陛下!

獄卒E オラヨットォ!(醍醐天皇の身体を、矛で刺し貫く)

獄卒E オォリャ!(醍醐天皇の身体を、火炎の底に投げ入れる)

日蔵 あぁ・・・陛下・・・陛下・・・(涙)

日蔵は泣く泣く、地獄巡りの旅から、金剛蔵王権現のもとへ戻ってきた。

金剛蔵王権現 (微笑をたたえながら)どうでした? 六道巡(ろくどうめぐ)りツアーは。

日蔵 はい・・・。(涙)

金剛蔵王権現 あちらの世界で、誰か、知ってる人に会いませんでした?

日蔵 会いました、陛下に・・・。

金剛蔵王権現 そうでしょう・・・そうでしょうとも・・・実はね、あなたに六道巡りをさせたのは、他でもない、あの帝の現在の状態を、知らせてあげたかったからなんだ。

日蔵 ・・・(涙)(金剛蔵王権現の前に平伏)

金剛蔵王権現 分かりますよね、私の心(微笑)。

日蔵 はい! この日蔵、なんとしてでも、陛下を地獄からお救い申しあげます!(涙)

金剛蔵王権現 ・・・(うなずきながら微笑)。
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人物Aが語った話、以上で終わり。

人物A 醍醐天皇っていやぁ、そりゃぁもう随分と、民を憐れんで善政を行われた方だよ。でも、そんなお方でさえも、地獄に落ちちまうんだもんなぁ・・・ましてや、現代の世となりゃ、さぁ、どうだろうかねぇ、ハァー(溜息)・・・さほど立派な政治が行われてるようにも、見えねぇもんなぁ・・・死んでから地獄へ落ちてく人、きっと、多いんじゃぁねぇのぉ。

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人物A あの承久の乱(じょうきゅうのらん)以降ってもん、武士階級が、日本の最高権力を握って、政治をやってきたよなぁ。こう見えても、わしも、あの鎌倉幕府・評定衆(ひょうじょうしゅう)の末席に連なってたもんだからさぁ、当時の政治、少しは、実際に体験してるぜぃ。

人物A わしの現役時代・・・あの頃は、武士が天下を取ってから、もう大分経ってた・・・日本全国一所残らず、武士階級の所有地、どこの家もみな、幕府に従属する民ばかり、そんな状態だったわさ。

人物A でもなぁ、そんな中にあってもなぁ、幕府が、武威(ぶい)をカサに来て横車(よこぐるま)を押し通すってなぁ事は、絶対になかったんだぜぃ。

人物A 幕府がそういう態度だったから、地頭(じとう)だって、あえて、領家(りょうけ:注10)を侮らなかったよ。守護のもんらも、権断(けんだん:注11)やる以外には、荘園にゃぁ、一切手ぇ出さなかった。

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(訳者注10)荘園の[本所職(ほんじょしき)]を持つ公家。公家や寺社は本所職を所有している荘園に、荘官を送り込んで現地の管理をさせていた。土地を実質的に所有している者が、その土地を公家や寺社に寄進して、[本所職=寄進先の公家や寺社、荘官=寄進行為を行った土地の実質的所有者]の構造を取った場合もある。

(訳者注11)鎌倉時代の守護の任務は、「大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)」、すなわち、謀反人の検断(捜査、摘発、捕縛、裁判)、殺人犯の検断、大番催促(任国内の御家人に、京都と鎌倉の大番役(警備役)を割り当てる)であった。
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人物A にもかかわらずだ、天下の成敗を正すために、貞応(じょうおう)年間、鎌倉幕府・執権(しっけん)・北条泰時(ほうじょうやすとき)様はだよ、日本国中の荘園を洗い出して、台帳(注12)にまとめさせられたんだ。

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(訳者注12)原文では、「貞応に武蔵前司入道、日本国の大田文を作て庄郷を分て」
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人物A さらに、貞永(じょうえい)年間、泰時様は、51か条の法律を定めて、諸々の認可・裁決に停滞を来(きた)さないようにされた(注13)。

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(訳者注13)原文では、「貞永に五十一筒條の式目を定て裁許に不滞」。いわゆる、「御成敗式目」、別名、「貞永式目」の事である。
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人物A 上に立つ人は法を守り、下の者は禁を犯さず、その結果、世は治まり、民は正しくなったんだ。

人物A でもなぁ、いつの時代にも、不満分子(ふまんぶんし)ってぇのは、いるんだよなぁ・・・(ハァー:溜息)・・・「わが国は神の国なのに、武士が国家権力を握ってしまってる。古来からの良き王道、仁をもって行う政治の裁断も、関東の連中らの顔色をいちいちうかがいながら、下さなくてはならない、あぁ、なんと嘆かわしい事なのであろう」ってな事、言うヤツも、いた事はいたさ。

人物A それでもだ、泰時様は、ただひたすら、立派な政治を行っていこうって志を、ますます、深めていかれたんだよなぁ・・・たまたま、京都におられた時にな、泰時様は明慧上人(みょうえしょうにん)に面会された。

人物A 明慧上人と対面して、仏教の事について、いろいろと教えを請われた後に、こんな質問をされたんだ・・・。

以下、人物Aが語った話。
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北条泰時 明慧殿、もう一つ、お教えを乞いたい事があるのですが。

明慧 はいはい、どうぞ、なんなりと。

北条泰時 いったいどのようにしていったら、天下を良く治め、人民を安んじていくことができましょうか?

明慧 ・・・はぁ・・・そうですなぁ・・・。

北条泰時 ・・・。

明慧 良医は、患者の脈を取って、その病患(びょうげん)の根本原因を探り当てます。その上で、適切な薬を処方し、適切な場所に灸(きゅう)を処置します。その結果、病は自ずから癒えていく・・・そうでっしゃろ?

北条泰時 はい、その通りです。

明慧 政治かて、それと同じことですやん。国に混乱をもたらすその根源をよくよく究明(きゅうめい)、認知(にんち)した上で、よろしく治世を行っていけっちゅうことですわいな。

北条泰時 うん・・・。

明慧 乱世の社会を生みだしてしまうその根本原因、泰時殿は、いったいなん(何)やと思われますか?

北条泰時 ・・・。

明慧 慾ですよ、慾・・・欲望本位の生き方ですよ。人間の欲心が変じて、万事一切の禍(わざわい)となるんです。

北条泰時 うん・・・たしかにその通り・・・その通りだと思います。でも、人々に、「無欲になれ」といっても、それはしょせんムリというものではないだろうか? 慾心を捨てるのは、人間にとってはとうてい不可能な事だ、そう思われませんか?

明慧 まずは、最高権力の座にある人からですわなぁ。その人さえ、慾の心を捨ててしもたら、もうそれで、うまいこといくんや。

北条泰時 え?

明慧 そら、そうでっしゃろなぁ、上にいる人が無欲に徹してみなはれ、その姿見る下の人は、自分が欲望たくましぅ生きてる事、なんや恥ずかしぃなってきますやんかぁ。そやからね、みんな自然と、慾心が薄ぅなっていくんですよぉ。

北条泰時 うーん・・・。

明慧 欲心深い人間が訴訟を起してきたらな、「これは、自分がまだまだ欲望を捨て切れてない、っちゅう事を、示してるんやなぁ、自分がこんなんやから、こないな訴訟が持ち上がってくるんやぞぉ」とね、自分で自分に、よぉよぉ、言いきかせていかはったら、よろし。

明慧 古人いわく、「その身(み)直(すぐ)にして影(かげ)曲(ま)がらず、その政(まつりごと)正(ただ)して国(くに)乱(みだ)る事(こと)無し、うんぬん」。またいわく、「君子(くんし)、その室に居(おり)て、その言(ことば)を出す事(こと)善(ぜん)なるときは、千里(せんり)の外(そと)、皆(みな)これに応ず」。

明慧 「善」というのは、無欲という事です・・・これは、古代中国・周(しゅう)王朝建国直前の時代の話ですが・・・。

明慧 当時、周の民は、互いに畔(くろ)を譲りおぅ(合)てたらしいですわなぁ。

明慧 「畔」というのはですね、ようは、自分の田んぼと他人の田んぼの間にある境界地帯の事ですわ。境界地帯やから、自分のもんでもない、他人のもんでもない、なんか中途ハンパな存在ですわなぁ。それを、隣の田んぼの持ち主に譲ってしまうっちゅうんですからなぁ・・・そないなフウですから、ましてや、他人の土地を掠(かす)め取るなんちゅう事は、周の国では、到底ありえへんかった、というわけですよ。

明慧 いったいなんで、そないな美風が生れたかというとですね、それは、周の君主である西伯(せいはく)、この人は後の周王朝の文王(ぶんおう)となる人ですが、この人の徳の力が、非常に大きかったからなんですわ。

明慧 この西伯の徳は、周一国にとどまる事無く、その他の国々にまでも、良き影響を及ぼしていきました。その結果、万民が皆、やさしい心になったというわけですわ。

明慧 ほんまになぁ・・・現代の人々の心とは、まるでかけはなれたレベルですわいなぁ。他人のものを掠(かす)め取る事はあっても、自分のものを他人にやる、なんちゅう事、今の世の中では、到底考えられませんやぁん?

明慧 ある日、周の国に、他国から二人の人間がやってきました。その二人はね、領地争いをしとったんですよ。で、その紛争の決着をつけるために、周の西伯のとこへ来たんですわ。今フウの言葉で言うたら、訴訟の決着をつけるために周にやってきた、というわけや、西伯に裁決してもらおう、思うてね・・・西伯っちゅう人は、それほどにまでも、人望が厚かったんでっしゃろなぁ。

明慧 周に入った二人は、目を見張りました。

明慧 「この周っちゅうトコ(国)はいったい、なんちゅうトコやねん! 農民は互いに畔を譲り合い、道行く人は互いに路を譲りおぅとるやないかい。それにひきかえ、わしらは、いったいナニやってんねん、醜い領地争いに毎日、血道上げてるだけやないか、恥ずかしいやら、あほらしいやらで、もうこら、たまらんわ」という事になり、二人は、訴訟を止めて国に帰り、和解に至りました。

明慧 というわけで、この西伯は、自分の国一国を見事に治めるのみならず、他国にまでも、徳を施すに至ったというわけですわなぁ。たった一人の無欲の心が、他国にまでも、良き影響を及ぼしていったというわけですよぉ。この西伯の徳は満々と満ち満ちて、ついに、彼は中国全土の支配者となり、百年の寿命を得ました。

明慧 ようはですな、上に立つ者一人だけでも、このように小慾に徹していったならば、天下万民が、それを見習うようになっていくっちゅう事ですわいなぁ。

北条泰時 (右腕で右膝を叩く)

北条泰時の右腕 ドン!

北条泰時 うーん、なるほど! 分かりました! やります、やりましょう!

明慧 がんばってくださいやぁ! 万民の為になぁ!

北条泰時 やりますよ、まぁ見ててください! いやぁ、これはジツにイイ事を教えていただいた!
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人物Aが語った話、以上で終わり。

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人物A ってなワケでさぁ、北条泰時様は、明慧上人のその言葉を深く信じてなぁ、なんとかして、それを実践に移していこうとされたんだ・・・その最初のチャンスが、ご尊父・義時(よしとき)様が急逝(きゅうせい)された時にやってきたんだよ。

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北条泰時 (内心)父上は、遺言状を残さずに、逝ってしまわれた・・・さてさて、領地をどのように分配したらいいのか・・・。

北条泰時 (内心)明慧上人は言っておられたな、上に立つ者一人だけでも、小慾に徹していったならば・・・。

北条泰時 (内心)ご生前の父上は、おれよりも弟たちの方を、かわいがっておられた。おそらくは、おれよりも彼らの方に多くの遺産をと、思っておられたに違いない。
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人物A というわけで、泰時様はだな、朝時(ともとき)様、重時(しげとき)様ら弟様方に、主な領地を配分しちゃってだな、自分の取り分は、三男、四男の相続相当分程度に止められたんだ。それでも、泰時様には、何の不足も無かったんだよねぇ。

人物A このように、何事においても、小慾に、小欲にと、していかれたからだろうなぁ、天下は、日に日に良く治まっていき、諸国は、年を重ねる毎に豊かになっていったんだ。

人物A 自分の前に訴訟人がやってくると、泰時様はいつも、訴えを起こした側、起こされた側双方の顔をしげしげと見つめられて、いわく、

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北条泰時 天下の政治を司(つかさど)るに当たり、私が願って止まぬ事、それは、全ての人が自己の中から、ねじけた邪悪な心を追い出してしまう、ただそれだけだ。私は、それを実現するために、政治権力を執行している。

北条泰時 それにしてもだ・・・人間、口が達者であるよりも、廉直(れんちょく)な人柄でありたいもんだよなぁ。きれいな心で私欲無く、曲がった事は一切しない、そういったパーソナリティーで、ありたいもんだよなぁ。(注14)

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(訳者注14)原文では、「泰時天下の政を司て、人の心に無姦曲事を存ず。然ば廉直の中に無論。」。
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北条泰時 きっと、君たち二人のうちのどちらかが、ねじけた邪悪な心の持ち主なんだろう・・・さぁてさて、いったいどっちなんだろうなぁ・・・ま、いいさ、そんな事、調べを始めたら、すぐに分かるんだから。

訴えを起こした人 ・・・。

訴えを起こされた人 ・・・。

北条泰時 じゃ、いいかね、X月Y日に、双方共に、領地取得間連の経緯(けいい)を証明する文書を持って、ここに再度出頭してくること、わかったね!

北条泰時 これだけは、言っておくぞ、この裁決の場において、わるだくみが明るみに出たその瞬間、即座に罪に問われるから、そのつもりでなぁ!

北条泰時 とにかくだ、ずるがしこいヤツをこの世の中にノサバラセとくわけには、いかんのだ! そんなヤツを放置しといたんじゃぁ、万人の禍になってしまうからな。諸悪の根源、天下最大の敵とも言うべき害虫のようなヤカラは、さっさとシマツしてしまうに限る!

北条泰時 本日、申し渡す事は、以上の通り。分かったら、もう帰ってよろしい。
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人物A 泰時様のこの毅然とした態度に、「なんとかうまいことして、領地を掠め取ってやろう」ってたくらんでいた側はな、「もしも、この悪巧みがバレたら、こりゃぁ、ただじゃぁすまねぇなぁ」ってんでぇ、もう、ビンビンに震えあがっちまうってぇわけよ。両者、さっそく談合開始、和談成立となって一件落着となるケースもありゃぁ、わるだくみをしていた側があきらめて、訴訟を取り下げてしまうケースもあった。

人物A このように、泰時様は一貫して、無欲の人を賞し、慾深い者を恥ずかしめていかれた。だから、他人のものを掠め取ろうとするようなヤツぁ、日本国中、一人もいなくなっちまったんだ。

人物A 寛喜(かんき)元年に国中を大飢饉が襲った時には、借用証書を大量に製作し、それに幕府執権の印鑑を押された。その上で、富裕者から米を大量に借りられた。

人物A そして、「来年、穀物の作柄が回復したならば、元金の分だけを借り主に返納すべし。利息分は私、北条泰時が、全額支払うから。」としてな、その米を、困窮している者に分配されたんだ、その借用証書にサインさせてな。

人物A 翌年、領地を持っている者には、その約束どおりに、元金分だけを出させ、利息分はご自身が負担されて、確実に返済しなすったよ。貧しい者に対しては、返済を全額免除されて、ご自身の領内の米でもって、その返済の肩代わりをされたんだぞぉ。

人物A その年の、泰時様の暮らしぶりたるや、いやもうそりゃぁ、質素なもんだったねぇ・・・家中、何かににつけ、倹約、倹約、新品の購入、みなストップ、何もかも、古物を使ってすまされたよ。衣服も新調せずに、烏帽子(えぼし)でさえも、古びたのを繕わせて使われた。夜は灯火を消し、昼は一食抜き、酒宴や遊覧は一切無し、このようにして、その借金肩代わりの出費を捻出されたのさぁ。

人物A 食事の最中に面会人が来れば、食べるのすぐにやめて、面会されたねぇ。髪をくしけずっている時でさえも、訴える者が来たら、先ず、それへの対応を先にされた。一寝一休さえも、のんびりしているわけにはいかない、憂いを抱いてやってくる人を、一時でも待たせてはいかん、ただただ、それだけだったねぇ。

人物A まさに、進んでは、万人を慰撫(いぶ)せん事を計(はか)り、退いては、わが身に過失あらんことを恥じる、泰時様って方は、そういうお人だったんだよぉ。

人物A でもねぇ、残念な事には、泰時様がお亡くなりになってから後は、父母を背き、兄弟を亡き者にしちまおうってな訴訟が、どんどん出てきちまった。人倫の孝行も日に日に衰え、年を経るに従ってどんどん廃れていっちまったんだよなぁ。

人物A とにかくだ、最高権力者が振舞いを正せば、万人それに従うって事はだなぁ、この泰時様の例を見れば、もうこりゃぁ、明々白々(めいめいはくはく)ってぇもんだろう、そうじゃぁねぇかい?(注15)

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(訳者注15)このような、過去の日本における善政の話を聞いた時には、我々は、その「善政」の対象者がどこまでの範囲であったのか、という事についても、目を向ける必要があるだろう。日本列島に住む全ての人々が、この北条泰時の政治によって救われたのかどうか? その救済は、武士階級以外の人々(例えば、武士階級に従属しながら様々な生産活動に従事していた人々)にまでも、及ぶものであったのかどうか、というように。
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人物A それから数代後の鎌倉幕府・執権・北条時頼(ほうじょうときより)様、この人の政治も、これまた、すばらしいもんだったなぁ。

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北条時頼 (内心)鎌倉から遠隔にある地の、守護や、国司、地頭、御家人たち、もしかしたら、無道猛悪の振舞いをして、他人の領地を横領したり、民百姓を悩ましてるかもしれない・・・鎌倉にじっとしてちゃぁ、そういった諸国の実態は何も分からん・・・よし、この際、変装して、こっそり、日本全国を視察して回ってみようじゃぁないの!
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人物A ってわけでだな、時頼様は、全国を旅行しはじめられたんだ・・・で、摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)の難波浦(なにわうら:大阪市の海岸)に来られた時に、こんな事があったんだ。

以下、人物Aが語った話。
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北条時頼 (海から海水を汲む労働(注16)に従事している人々の姿を眺めながら)(内心)いやぁ、まったくもう・・・彼らの労働たるや、実にたいへんなもんだなあ・・・人間、安閑と暮しておったのでは、たった一日たりとも生きてはいけないって事なんだよなぁ・・・ウーン・・・。

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(訳者注16)海水から塩を得るために、海水を汲んでいるのであろう。『安寿と厨子王』の中でも、安寿がこの労働を行っているように描かれている。
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そうこうしているうちに、日が暮れてしまった。

時頼は、宿を借りようと思い、一軒の荒れ果てた家の門前に立った。

垣根もまばら、軒も傾き、屋内では雨も月も屋根の下へ漏れ放題であろうかと思えるような、実に、すさまじい家屋である。

北条時頼 (扉を叩く)。

扉 トントン、トントン。

北条時頼 もしもぉし、どなたかおられませんかぁ?

扉 ギシギシギシギシィーー。

家の中から、年老いた尼僧が出てきた。

尼僧 いったい、どちらさんですかぁ? 何のご用でっしゃろかぁ?

北条時頼 あのぉ・・・私は旅の者でしてぇ・・・おさしつかえなければ、今夜一晩、宿をお貸ししては、くださらんでしょうか?

尼僧 はぁー、宿でっかいなぁ・・・そら、宿貸すだけやったら、お安いご用だっせ。しやけど、ウチにある敷きもんいうたら、藻塩草(もしおぐさ:注17)しか、おませんでぇ。

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(訳者注17)当時の製塩法は、海藻を集めてスノコの上に積み、その上に海水を注いで塩を作る、というものであった。この海藻を藻塩草と言った。
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尼僧 お食事にお出しできるもんかて、海藻のたぐい(類)しか、おませんしなぁ。なまじい宿なんかお貸ししても、あんさん(貴方)に、ミジメな思いさすだけですわいなぁ。

北条時頼 まぁまぁ、そう言わないでぇ。もう日も暮れちゃったし、里も近くに無いんだからぁ。どうか、無理を承知で、宿を貸してくださいよぉ。

尼僧 そこまで言わはんねんやったら、もう、しゃぁない(仕方ない)わなぁ。よろし、宿、貸しまひょ。けどな、あんさんの健康までは、うち(私)、よぉ保証しませんでぇ・・・よろしぉすか、ウチ(我が家)へ泊って病気にならはっても、一切責任持ちませんでぇ。それでもよろしぃかぁ?

北条時頼 ウハハハ、こりゃぁマイッタなぁ・・・えぇ、いいですよ、いいですよ。

尼僧 自己責任やでぇ。

というわけで、旅寝の床(ゆか)に秋深く、浦風寒くなるままに、折り焼(た)く葦(あし)の夜もすがら、伏し詫びながら一夜を過ごした。

翌朝、尼僧は、手ずから音をたてて、しゃもじでご飯を釜からすくい、椎の葉を折り敷いた縁付きのお盆の上に干飯を盛って、時頼に供した。

北条時頼 (内心)なかなか、かいがいしく、朝ご飯の仕度、してくれるじゃぁないの・・・でも、どこか、なんか、手つきが、ごこちないなぁ。このテの仕事に、あまり慣れてるようにも見えない。いったい、どういう人なんだろう、この尼さんは?

北条時頼 いったいぜんたい、どうして、この家には、召し使いってモンが一人もいないのかしらん? あなた、一人で暮してんですか?

尼僧 は・・・はい・・・(涙)。

北条時頼 (内心)ムム、何か、わけあり(事情有)ってかんじ・・・。

尼僧 (涙)じつはなぁ・・・親から遺産相続してな、このへん一帯の一分地頭(いちぶんじとう)の権利をな、わて(私)、持っとりましたんやぁ。ところがなぁ、夫と死別し、子供とも別れ、身寄りのない身の上になってしまいましたやろ、そこへもってきて、総領地頭(そうりょうぢとう)のXっちゅう男が、やってきよりましてなぁ。

尼僧 (涙)そいつ、事もあろうに、鎌倉幕府に仕えてる権威をカサに着よってからに、先祖代々受けついできた、わての一分地頭権を、横領してしまいよりましたんやがなぁ。

尼僧 訴訟、起こそう思うても、京都、鎌倉へ代理人送る事も、できしまへん。そないなわけで、この20余年、こないな貧窮孤独の身になってしまいましたんやぁ。

尼僧 ほんまになぁ・・・麻の衣のあさましく、垣根の柴のしばしばも、この先到底、生きながらえれしまへんわ・・・毎日毎日、涙で袖を濡らす、この露のようなわが身、いつ消え失せるとも分からんままに、こないして細々と、生き続けとりますねん・・・この、朝ご飯たく煙の心細さから、うちのみじめさ、どうぞ、お察し下さいまし。(涙、涙)

このように、涙にむせびながら、彼女は身の上を詳細に語った。

北条時頼 (内心)あぁ、なんて気の毒な境涯なんだろう・・・。

時頼は、つづらの中からミニ硯(すずり)を取り出し、卓の上に建てた位牌の裏に、歌を一首書いた。

 難波江(なにわえ)の 干潟(ひがた)遠くに 行った月 貴女(あなた)の元に 戻ってくるよ 

(原文)難波潟(なにわがた) 塩干(しおひ)に遠(とおき) 月影(つきかげ)の 又(また)元(もと)の江(え)に すまざらめやは(注18)

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(訳者注18)「再び月が澄み渡って、ここをも照らすであろう」、という意味と、「奪われてしまった領地にまた、領主として住めるようになるであろう」という意味を、かけている。
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諸国めぐりを終えて鎌倉に帰還するやいなや、時頼は、この位牌を取り寄せて、横領されてしまった領地を総地頭から没収し、先祖代々の尼の領地に加えて、彼女に与えた。
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人物Aが語った話、以上で終わり。

人物A 時頼様はな、この他にも、方々の土地に出向いては、その地の人間の善事悪事を尋ね聞き、詳細に記録した上で、善人には恩賞を与え、悪人には罰を加えて行かれた・・・そういった事例はもう、数え切れねぇほどだ。

人物A そのおかげで、諸国の守護、国司、諸々の所の地頭も領家(りょうけ)も、威を持つも驕(おご)る事なく、世間の目に隠れて悪事をする事も無くなり、日本全国の風土が、素直で虚飾の無いものとなり、民衆の経済力はぐんぐん高まっていったんだ。

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人物A それから数代後の鎌倉幕府執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)様も、時頼(ときより)様の前例にならい、日本全国、あっちこっち回ってみられた。貞時様の時には、こんな事があったぜ。

以下、人物Aが語った話。
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当時、内大臣(ないだいじん)の地位にあった久我通基(こがみちもと)は、ふとした事で上皇の意にそぐわない事をしでかしてしまい、領地をことごとく没収され、城南宮(せいなんぐう:京都市・伏見区)付近の粗末な館内に蟄居(ちっきょ)する身となっていた。

その館の前へ偶然、北条貞時が立ち寄ったのである。

北条貞時 (内心)こりゃまた、えらい粗末な館だなぁ。いったい、誰が住んでんだぁ?

北条貞時 もしもぉーし! この家にどなたかおられませんかぁー? ちょっとおたずねしたい事があるのですがぁ・・・もしもぉーし!

男 はいはい、なんぞ、ご用でぇ?

北条貞時 (内心)おぉ・・・こんな所に、こんな立派な風采(ふうさい)の従僕が・・・関白家に勤務してる人間って雰囲気だ。

北条貞時 ここの館にお住いの方は、いったい、どこのどなたですかねぇ?

男 何を隠そう、内大臣の久我様でございますがな。

北条貞時 えぇっ? なんでまたいったい、内大臣が、このような所に?

男 いや、それがなぁ・・・じつはなぁ・・・。

事情を詳しく聞いて、貞時は、

北条貞時 まぁ、なんとお気の毒な事で・・・たったそれだけのミスでもって、こんな処罰を受けるだなんてねぇ。

男 そうですわいな、ほんま、お気の毒なこってすぅ。

北条貞時 久我家といったら、由緒正しい旧家じゃないか。そんな尊いご家系が、今この時に滅んでしまうなんて、ほんと、もったいない事だよなぁ。いったいどうして、久我様は、鎌倉の幕府に、何も言っていかれないの?

男 いやなぁ、わたいも再々、それ、言うてはみたんですよぉ。ところがなぁ・・・ご主人さまは、ほんまになんちゅうか・・・昔かたぎのお方でしてなぁ、こないな事、言わはりまんねんやん、

 「おまえなぁ、よぉ考えてみいよぉ、わが身に咎(とが)が無い事を幕府に訴えるっちゅう事はやでぇ、とりもなおさず、上皇陛下が誤っておられるぞと、幕府に訴えていく行為に他ならんやないか。そないな事、わしにできるわけないやろが! たとえ、わが家が今この時に滅びるとしても、家臣の分際で主君の非をあげつらう、なんちゅうこと、絶対、したらあかんねん!・・・あぁ、もう、どうにもしゃぁない、人間何事も運命や、わが家の滅びる時がついにやってきよったっちゅうこっちゃぁ・・・嘆いても、しゃぁない、しゃぁない。」

北条貞時 なんと・・・。(涙)

男 わたいがいくら言うても、ガンとして、聞いてくれはらしまへん。ほんまにもう・・・(涙)、久我の立派な御家門も、これでいよいよ最後ですわいなぁ。(涙)

北条貞時 ・・・。(涙)(その場を立ち去る)

その時には、誰も、その訪問者が北条貞時であることに気付かなかった。

鎌倉へ帰った後、貞時は、聞いてきた事をありのままに、院へ上奏した。

それを聞いて、上皇は大いに恥じ入り、没収した旧領ことごとくを、再び久我家に戻した。

その事があってはじめて、先日の修行僧が北条貞時であった事を、関係者は知った。

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人物Aが語った話、以上で終わり。

人物A たった一日、二日の旅でさえ、最高につらいもんだわさ。ましてや、煙たなびき霞(かすみ)けむる万里の道中ともなると、もう、たまったもんじゃねぇやなぁ、旅の先を考えるだけでも、憂鬱になってくらぁな。

人物A 深い山路に行き暮れては、苔(こけ)の筵(むしろ)に露を敷き、遠い野原を分けわびては、草の枕に霜を結ぶ。渡し場に船を呼んで立ち、山頂に路を失って帰る。かすむ雨の中に蓑笠(みのがさ)をつけ、草鞋(わらじ)をはき破っては、「あぁ、早く家へ帰りてぇ!」、思う事は、ただそれだけよ。

人物A なのにどうして、幕府執権という最高権力の地位にあり、富貴の極みに達している人がだよ、よりにもよって、諸国行脚(しょこくあんぎゃ)の修行僧になんか、好んでなったりしたのか?

人物A それはだなぁ、ただただ、天下国家の為に、それだけよぉ・・・自分の身体を安穏な中に置いて、快楽にふけってたんじゃぁ、国を治める事なんか、到底できゃぁしねぇ、それをご存知だったからこそ、3年間たった一人で、諸国の山河を歩みめぐられたってぇわけさぁ。「あぁ、なんて立派なお心がけなんだろうなぁ」って、誰もが感動せずにはおれなかったねぇ。

人物A あ、そうそう、こんな人もいたよ・・・時宗(ときむね)様と貞時様の2代の執権にわたって、幕府に仕えた、青砥左衛門(あおとさえもん)って人だ・・・ずっと、幕府の引付衆(ひきつけしゅう)の一員だったんだ。

人物A この人、領地を数10か所も持っていて、そりゃぁ裕福なもんだった。でもな、着るもんといやぁ、粗織(あらおり)の麻の直垂(ひたたれ)に、麻の袴。ご飯のおかずは、焼き塩と干魚(ほしうお)1匹だけ。

人物A 幕府に出仕する時は、塗り無しの鞘の小刀を腰に差し、白木のままの鞘の太刀を従者に持たせて・・・従五位下(じゅうごいげ)の位をもらった後には、その太刀に弦巻(つるまき:注19)だけ付けるようにした。

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(訳者注19)スペアの弓弦を巻いて置く為の装置。
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以下、人物Aが語った話。
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青砥左衛門は、私事においては、分不相応のぜいたくは一切しなかった。その一方で、公の事に対しては、千金万玉の出費をも惜しまなかった。

飢える乞食や、疲労にうちひしがれている訴訟人を見かける度に、相手の分に応じて、米、銭、絹布などを与えた。まさに、仏・菩薩の「我、一切の衆生を救わん」との悲願にも等しい、広大な慈悲の心を持った人であった。

ある時、北条氏宗家(そうけ)所有の領地(注20)に関しての訴訟がもち上がった。

訴訟人の一方は、荘園の現地在住・文書記録担当者(注21)、もう片方はなんと、時の幕府・執権(注22)である。

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(訳者注20)原文では、「徳宗領(とくそうりょう)」。徳宗家は、幕府最高権力者である執権を送り出す、北条氏の中でも最高の家門であった。

(訳者注21)原文では、「地下(ぢげ)の公文(くもん)」。

(訳者注22)原文では、「相模守(さがみのかみ)」。
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道理の面から言えば、もう理非ははっきりしており、誰がみても、文書記録担当者の側に分がある。しかし、引付衆頭人(ひきつけしゅうとうにん)も評定衆(ひょうじょうしゅう)も皆、執権の権力を憚(はばか)り、「文書記録担当者側の敗訴」で、決着をつけようとした。

ところがその時、青砥左衛門ただ一人だけが、異議を唱えた。執権の権威をも恐れず、理非を明快に弁じたて、ついに、「執権側敗訴」の判決に持ち込んでしまったのである。

ダメモトで訴訟を起こした文書記録担当者側にとって、これは、思いもよらぬ結果であった。

文書記録担当者 イェーィ! これはおどろきぃ・・・なんでも、やってはみるもんだなぁ・・・領地、みごとに確保できちゃったじゃぁないの!

文書記録担当者 とにかく、この恩、返さなきゃぁね。

彼は、銭300貫を俵に包み、密かに、後ろの山から青砥左衛門邸の中庭に運び込ませた。

それを見た左衛門は、激怒、

青砥左衛門 なんだ、これは!

青砥の家僕一同 ・・・。

青砥左衛門 こないだの訴訟で、あくまでもスジを通して執権殿側敗訴としたのは、あれは、執権殿の事を思っての事だ、文書記録担当者を、えこひいきしたからじゃ、決してなぁい!

青砥の家僕一同 ・・・。(深くうなずく)

青砥左衛門 贈り物をもらうんなら、執権殿からもらうのが道理ってぇもんだ、だって、おれは、執権殿の悪名が世間に立つのを、未然に防いだんだもんな。訴訟に勝った側のもんが贈り物をしてくるだなんて、スジちがいにも程があらぁ!

青砥の家僕一同 ・・・。(深くうなずく)

青砥左衛門 残らず、ツッ返せぇぃ!

青砥の家僕一同 ウィィー!(笑顔)

左衛門は一銭も受け取らず、はるかに遠いその荘園まで、その銭を送り返した。

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ある時、夜になってから、急な幕府出勤が必要になった。

幕府オフィスへ向かう道中、火打ち石袋の口を開けた拍子に、青砥左衛門は、銭10文を滑川(なめりかわ:鎌倉市)の水中に落としてしまった。(彼はいつも、火打ち石袋の中に、銭を入れていたのである)

世間一般、普通の人であったならば、「たったあれっぽちの銭、まぁ、いいか」と思い、そのまま行ってしまう事であろう。ところが、彼は違った。

青砥左衛門 いかん、いかん! すぐ拾わなきゃ! おい、どっか近くの店行ってな、松明、買ってこい!

青砥の家僕F 10本くらいで、よろしいですか?

青砥左衛門 そうだな、それでいいだろう、とにかく、急いで、早く!

青砥の家僕F ハイハイ!(駆け出す)

買ってこさせた松明10本に火を灯し、その明かりでもって川の中を探させ、落とした銭をなんとか回収できた。

当夜の、青砥左衛門の収支決算は、以下の通り:

 遺失:銭    -10文
 支出:松明購買 -50文 ( = 5文(松明1本当) × 10本)
 回収:銭    +10文
 --------------------------------
 赤字      -50文

後日、その話を聞いた人々は、大笑い、

人物G 青砥さぁん、あんたって人は、いったいもう・・・10文の銭拾うのに、50文出して松明買ってたんじゃぁ、小利どころか、まるで大損じゃねぇかよぉ、アハハハ・・・。

人物一同 ワハハハ・・・。

青砥左衛門 ハァー・・・(溜息)・・・まったくねぇ・・・みんな、そろいもそろって、愚かな人間ばっかしだなぁ・・・ハァー・・・(溜息)。

青砥左衛門 国富の消失とか、国民経済といったような事、君らは、まるでわかってないんだなぁ。(注23)

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(訳者注23)原文では、「さればこそ御邊達(ごへんたち)は愚(おろか)にて、世の費(ついえ)をも知らず、民を慧(めぐ)む心なき人なれ」。
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青砥左衛門 こういった問題はだよ、ミクロじゃぁなくって、マクロ経済の観点から考えていかなきゃぁ、ダメなんだ。だってそうだろ、おれたちは幕府の引付衆だよ、日本国家の運営に携わってる立場なんだよぉ。常に、国全体としての観点に立って、物事を考えていかなきゃぁ、ダメなんだ!

青砥左衛門 いいかい、よぉく考えてみてくれ・・・あの日、おれの懐中には10文の銭があった。って事は、取りもなおさず、日本の懐の中に、10文の銭があったって事なんだ。だって、おれは日本列島の上に住んでんだもんな・・・おれの銭はそく、日本の銭ってわけさ。あの10文は、日本の国富に属してたんだ。

青砥左衛門 おれはあの夜、その銭10文を、滑川の水中に落としちまった。あの時すぐに回収してなきゃ、あの10文は、日本の懐から、永久に失われたままになっちまってただろう。すなわち、日本の国富から10文分が失われてしまったって事になるわけだ。

人物H どうして? あんたが回収しなくったってさぁ、銭は依然として、滑川の川底にあるわけだろ? 滑川は日本列島の上を流れてる川だ。だったら、銭10文は、日本列島の懐の中に存在し続けるって事に、なりゃしなぁい? ただ単に、居場所が変わっただけのことだろ、あんたの懐中から滑川の底へ。日本の懐から銭10文は、ちっとも失われちゃいないわさ。

青砥左衛門 ハァー・・・(溜息)・・・川底に眠ってるまんまじゃぁ、その銭、誰の役にも立たねぇだろうがぁ・・・死に金になってしまうだろうがぁ・・・そういうのを、国富とは言わねぇよぉ・・・どうして、こんな簡単な事、分かってもらえねぇのかねぇ、ったくぅ!

人物H ・・・。

青砥左衛門 おれは、あの銭10文、あの夜、全額回収した。だから、国富のロス、すなわち、国富の消失はゼロだ。

人物I じゃぁ、50文はどうなるんだい? 松明の代金50文は?

青砥左衛門 それこそ、ただ単に居場所を変えただけの事だよ、おれの懐から商人の懐へな。おれの損失50文はそく、商人の利益50文さ。おれの懐中にいようが、商人の懐中にいようが、銭は銭、別に何の変りもありゃしねぇ。あの50文は、決して死に金にはならねぇ。

青砥左衛門 川に落としてから回収した10文は、今、おれの懐の中にある。松明代金50文は、今、商人の懐の中にある。両方合わせて60文、国富のロスはゼロだ。

青砥左衛門 結局、一番トクしたのは誰だ? 日本さ、日本の国富にロスは生じなかったんだもん。日本がトクしたんだから、誰も、もんくあるまい?

青砥左衛門 何事も、マクロに、マクロな視点で考えてくれよなぁ。(チョンチョン・・・人差し指の爪を親指の腹に当てて弾く動作を2度くりかえす)

人物一同 (首を振り)ハァーッ! なぁるほどねぇー! いやいや、今日はほんと、いい勉強させてもらったよ・・・。(注24)

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(訳者注24)青砥左衛門のこの行為を、地球環境問題、すなわち、CO2排出量削減の視点から考えてみるのも、また一興かと。

 選択枝A:松明を燃やして、銭を回収する --- 松明を燃やした分だけ、CO2が大気中に排出される。

 選択枝B:川中へ落とした銭の回収をあきらめる --- 選択枝Aよりも、松明を燃やさなかった分だけ、CO2排出量が少なくなる。

故に、選択枝Bよりも選択枝Aの方が、地球環境に与える負荷は大きい。

ただし、松明は、いわゆる[バイオマス(生物資源)・エネルギー源]であるから、石油や石炭等の[化石燃料]を燃やすよりは、はるかにマシである。バイオマス・エネルギーを消費する事によるCO2排出は、もともと大気中にあったCO2(生物の体内に取り込まれた)を、再び大気中に戻すだけの事なので、地球規模のマクロな視点からのCO2収支決算は、ゼロとなる。
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このような、自分の利益を忘れ、ひたすら公の為にと、つくしていく生き方が、神の意にかなったのであろう、ある時、執権が鶴岡八幡宮(つるがおかかちまんぐう:鎌倉市)に徹夜の参篭(さんろう)をした際、夜明け前の夢に、衣冠正した老翁が枕辺に立ち、

 「政道をまっすぐなものにし、長期政権を維持したくば、私心無く、理に暗からざる青砥左衛門を、賞玩(しょうがん)すべし」

との言葉を放った。

あまりにも明瞭な夢であったので、庁舎に帰るやいなや、執権は、自筆の補任状をしたためて、鎌倉近在の大荘園8箇所を青砥左衛門に与えた。

青砥左衛門 (補任状を開いて見て、驚愕)いったいなんでまた、こんな3万貫分もの大荘園を?

執権 いやね、夢見でもって、そのようにしろって、言われたんでね・・・まずはとりあえず、それだけでも取っておいてくれないか。後は追々(おいおい)・・・。

青砥左衛門 (首を左右に振り)いいえ、一個所たりとも、いただけません! この恩賞、無かった事にしてください!

執権 いったい、なんでまた!

青砥左衛門 「夢見でもって、そのようにしろって、言われた」ですって? いやはや、もう、なんというかぁ・・・。

執権 ・・・。

青砥左衛門 常に変化して止まず、遷(うつ)ろいゆくもののたとえとして、「夢や幻、泡や影のごとく、露のごとく、はたまた電のごとく」・・・金剛般若密経(こんごうはんにゃみっきょう)には、そのように書いてありますねぇ。

青砥左衛門 夢なんてぇもんはねぇ、それくらいに、いいかげんなもんなんですよぉ・・・じゃぁなんですかい、執権殿、もしもかりに、執権殿が、「青砥の首を刎(は)ねよ、との神のお告げ下る」なんてぇ夢をご覧になったとしたらですよぉ、たとえ何の咎(とが)が無くとも、おれは、首を刎ねられちまうんでしょうかねぇ? あぁ、やれやれ・・・。

執権 えっ・・・い・・・いやいや・・・そんなことは・・・う、う、う・・・。

青砥左衛門 こんな報国の忠薄いおれなのに、分不相応の恩賞もらっちまったら・・・おれは、日本最悪の国賊になっちまいまさぁ。

執権 ・・・。

青砥左衛門 とにかく、この恩賞は、お返しします!

これを聞いて、他の幕府メンバーたちは己を恥じ、青砥ほどの賢才こそ無かったが、いささかも理に背き、賄賂を取るような事は一切しなかった。
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人物Aが語った話、以上で終わり。

人物A って、まぁ、こんなぐあいでだなぁ、北条氏は8代に渡って、最高権力者の地位を保ったってぇわけよぉ。

人物A 政治にとって大いに害をなすものとは、いったい何か? 無礼、不忠、邪慾(じゃよく)、功誇(こうか:注25)、大酒、遊宴、バサラ(注26)、美女愛好(注27)、双六(すごろく)、ギャンブル(注28)、剛縁(こうえん:注29)、内奏(ないそう:注30)、二枚舌を使う奉行。

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(訳者注25)功を誇って、おごりたかぶること。

(訳者注26)華美にして人目を驚かすような衣服や趣味にこること。

(訳者注27)原文では、「傾城(けいせい)」。

(訳者注28)原文では、「博奕」。

(訳者注29)権力者とのコネを活用しての非道なる行為。

(訳者注30)皇后たちからの口ききによって、様々な政治上の決定を行わせしめる事。
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人物A かつてのよく治まってた時代には、こういった事を、厳に戒めてきた。なのに、最近の世の中の風潮は、いったいどうだい、こんな事、ちっともかまったふうじゃねぇよなぁ。

人物A それとも、ナニかなぁ、こんな事をいつまでもヤイノヤイノ言ってる、わしの方が、間違ってるのかしらん。

人物A ちったぁ礼儀をわきまえた人とか、すごい実直な人なんかが、いたりしようもんなら、まわりの人間は、目と目を合わせ、そっくりかえりながら嘲笑だぁ、「あぁ、とても見てらんねぇなぁ、あぁいう化石のような礼儀作法、あぁ、またなんて気詰まりな、あいさつしてんだろうねぇ・・・。(注31)」

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(訳者注31)原文では、「「あら見られずの延喜式や、あら気詰の色代や。」とて、目を引き、仰(あおのけ)に倒れ笑ひ軽謾す。」
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人物A 昔話にさぁ、「まともな顔をした猿、9匹の鼻欠け猿に笑われて、逃げサル(去)」ってぇのが、あるだろ? その通りだよなぁ。

人物A 寺院や神社の領地にまでも、課税しちゃってさぁ、神仏のみ心に背くような事、平気でやってんだからぁ。領地だけじゃぁない、寺院や道場そのものに対しても、税を課してんだぞぉ。それって結局、信者と僧侶の共有財産や、信者が納めたお布施を、横合いから掠(かす)め取っていくような行為に他ならねぇじゃぁねぇの!

人物A こういった様々の悪事、幕府上層部の知らねぇ所で、やられちゃってんだよねぇ。だからといって、彼らが責任を免れるわけじゃぁない。最終的な責任は、最高権力を持っている人、すなわち、将軍が取らなきゃぁなんねぇよなぁ。(注32)

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(訳者注32)原文では、「是併上方御存知なしといへ共、せめ一人に帰する謂もあるか。」
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人物A とにもかくにも、こんな事じゃぁ、到底、世の中、まともに治りっこねぇや。自分としちゃぁもう、南の方の朝廷に、期待を寄せるしかねぇなぁ。

人物A あっちの天皇陛下は、長年、艱難辛苦(かんなんしんく)を舐(な)めてこられた方だ、きっと、民の憂える所を、分かって下さってることだろうて。臣下も、さすがに知恵者ぞろい、世の中うまく統治していくだけの器量、ちゃぁんと備えてるんじゃぁねぇのぉ。ほんと、あっちの朝廷には、期待しちゃうんだよなぁ。

それを聞いて、鬢帽子(びんぼうし)を被った人物Bは、皮肉な笑みを浮かべた。

人物B なにをそないに、期待したはりますねん・・・あっちの朝廷も、幕府と五十歩百歩ですよぉ。(注33)

人物A ほぉ。

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(訳者注33)原文では、「何をか心にくく思召候覧。宮方の政道も、只是と重二、重一にて候者を。」
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人物B わたし、今年の春まで、南方の朝廷に仕えとりましたんや。

人物A あぁ、そんな事、言ってたねぇ。

人物B えぇ、そうなんですよ・・・そやけどねぇ、あちらの朝廷の内実をつくづく見てみるにですよ、こないな事では、あかんなぁ、政権の奪回も、旧き良き時代にならっての政治を行う事も、こらもう、到底不可能やろうなぁと、まぁ、見極(みきわ)めがついてしまいましてなぁ・・・もう、しゃぁない・・・人世の選択枝を、あんまり狭めとうはないわいな・・・場合によっては遁世(とんせい)するっちゅう道かてあるやんかと、まぁ、そない思いましてなぁ、それで、京都へ帰ってきましてん。

人物A ふーん。

人物B あのねぇ、これだけは言うときますよ、あっちの朝廷に期待できるとこなんか、もうこれっぱかしも、あらしませんでぇ。

人物B これは、随分と古い昔の事やけど・・・古代中国、周(しゅう)王朝の太王(たいおう)の話ですが・・・彼は、豳(ひん)という所に住んでたんです。で、隣国の異民族らが兵を起し、そこを攻めようとしました。太王は、牛馬珠玉等の宝を彼らのもとに送り、礼を尽くして和平を求めました。しかし、彼らは一向に、矛(ほこ)をおさめようとはしませんでした・・・。

以下、人物Bが語った話。
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使者 ご報告申し上げまする、きゃつらめ、とんでもない事を言うておりますぞ、「王も民も残らず、豳の地を去れ。さもなくば、大軍をもって豳に押し寄せる。」

民J なんじゃとぉ!

民K 言わせておけばぁ!

民L あっちがそのつもりなら、こっちにも覚悟というものがある。我ら全員一丸となり、身命を捨てて、防衛の戦をいたしまする、なぁ、みなの衆!

民一同 おぉ、やるぞ、やるぞ!

民M 戦うぞぅ!(右手を上方に突き上げながら)

民一同 戦うぞぅ!(右手を上方に突き上げながら)

民N 戦うぞぅ!(右手を上方に突き上げながら)

民一同 戦うぞぅ!(右手を上方に突き上げながら)

民O 我らは戦うぞぅ!(右手を上方に突き上げながら)

民一同 我らは戦うぞぅ!(右手を上方に突き上げながら)

民一同の手 パチパチパチパチ・・・(拍手)。

民M 王様、もはや、きゃつらに対して、和を請うような事など、断じてなさいますな!

民一同 そうじゃ、そうじゃ、和を請う必要など、なぁい!

太王 ・・・。

民一同 ・・・。

太王 皆の者、わしはのぉ・・・。

民一同 ・・・。

太王 いったいなぜ、わしがこの地を彼らに渡したくないと思うか・・・それはのぉ、そなたら人民を養いたいがため、それだけの事じゃ。国土なくしては、民を養う手段(すべ)が無いでのぉ。

民一同 ・・・。

太王 もし今、わしが彼らと戦火を交えたならば、いったいどうなる? おまえたちの中から、大量の戦死者が出てしまうではないか。

太王 民を養うための手段に過ぎぬ領土を惜しんだ結果、かんじんの養うべき民を失ったとしたならば、それぞまさしく本末転倒、いったい何の益が、そこにあろうか。

太王 それにのぉ、もしかりに隣国のあのものらが、わしの政道よりもより良き統治を行ってくれるならば・・・おまえたちにとっては、とても幸せな事になるであろう、そうではないか?

民一同 ・・・。

太王 ならば、どうしても、わしがおまえたちの統治者でなければならぬ、という理由は、何も無いというわけじゃよ。

民一同 ・・・(涙)。

かくして、太王は豳の地を異民族に与え、岐山(きざん)の麓へ逃げ去り、その地で悠然と暮していった。

民J 太王様のようなすばらしきお方、この世に二人とはおられぬわい。

民K まさに、至高(しこう)の賢人じゃ。

民L わしはいつまでも、太王様の統治される地に生きていきたい。礼儀もわきまえぬ、仁義も何も解せぬ、きゃつらの統治下に暮らしていく事なぞ、到底、がまんならん。わしは決意した、太王様のおられる所へ、移住する!

民M おぉ、よくぞ言ぅた! わしも同じ事を考えておったわい!

民N いざ行かん、王様のもと、岐山山麓のかの地へ!

民一同 おぉ、わしも行く! わしも行くぞぉ!

彼らは全員、子弟老弱を引き連れて岐山山麓へ移住し、再び太王につき従ったので、侵略者は自然に皆亡び果て、太王の子孫はついに中国全土の主となった、これすなわち、周の文王(ぶんおう)、武王(ぶおう)である。
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人物Bが語った話、以上で終わり。

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人物B 古(いにしえ)の世においては、良き政治の実現を図るために、忠臣が君主を諌(いさ)め、といった事例がたくさんありますわなぁ・・・現代の朝廷の臣下らとは、まるで違いますわ。例えば、これは中国・唐(とう)王朝、玄宗(げんそう)皇帝の時代の話ですが・・・。

以下、人物Bが語った話。
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唐の玄宗皇帝は、男二人兄弟の次男に生れた。兄を寧王(ねいおう)という。

帝位についた後、玄宗の好色僻はどんどん深まっていった。彼は、中国全土に勅(ちょく)を下して、容色華やかなる美人を求めた。その結果、後宮には美人多数がひしめきあう状態となった。

彼女たちは、こぞって金翠(きんすい:注34)を飾り、媚(こび)を競いあう。しかし、玄宗のお召(めし)を受けるのは、全員ただの1回限り、2度目のお召は来ない。

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(訳者注34)黄金と翡翠(ひすい)の羽毛の首飾り。
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ここに、弘農(こうのう)の地、楊玄琰(ようげんえん)の娘に、楊貴妃(ようきひ)なる美人があった。深窓(しんそう)の内に養われ、いまだ誰も、彼女の顔を見た事がない。

この人の美しさは、まさに天の形成(なせ)るわざ、とても、人間の類(たぐい)とは思えぬほどのすばらしさである。

ある人が仲立ちして、彼女を、寧王のもとへ輿入(こしい)れさせようとした。

それを聞いた玄宗は、高力士(こうりきし)という将軍を遣わし、嫁入りの道中に彼女を強奪、自らの後宮の中へ入れてしまった。

寧王は、悲憤慷慨(ひふんこうがい)。しかし、我が弟とはいえ、玄宗は皇帝、どうにもしようがない。

寧王もまた、玄宗と同じく、内裏の中に暮している。宴会のつど、玉の几帳(きちょう)の隙間、あるいは錦鶏(きんけい)の羽で飾られた障子の隙間から、楊貴妃の顔をほのかに窺い見る・・・その美貌たるや・・・

 ひとたび笑んだその瞳を見ては、金谷千樹(きんこくせんじゅ)の花々も、自らの容を恥じて四方の嵐に誘引され
 ほのかにかいま見るその容貌には、銀漢万里(ぎんかんばんり)の月も妬みを覚え、五更(ごこう)の霧に沈みゆく

寧王 (内心)あぁ、いったい、いかなる運命のいたずらでもって、私と彼女とは、かくも遠く、引き裂かれてしまったのであろうか・・・彼女への思いは、ただただ募るばかり、わが心、ただただ痛みが増すばかり・・・このままでは嘆き死にするのみ。そのうち水泡(すいほう)のごとく、我は消滅してしまうのであろうよ。

楊貴妃への恋慕の情に耐えかねて、伏し沈み、嘆く毎日。寧王の心中、まことに哀れなるかな。

当時の中国には、「大史の官」という職種があった。その人数は8人で、常に皇帝の傍らに侍る。善事につけ悪事につけ、皇帝がなした行為を逐一記録し、官庫に収納する、というのが、その職務の内容である。

その記録は、宮殿の中にいる者はもちろんの事、皇帝でさえも、決して見る事はできない、史書に書き置かれて収納される、ただそれだけである。「前代の皇帝の行いの是非をもってして、次代の皇帝への戒めとする」、その目的のために、このようにして、史書が作成されていたのである。

玄宗は次第に、この史書の事が気になってきた。

玄宗 (内心)楊貴妃は、もとはといえば、寧王のもとへ輿入れする事になっていた・・・それをわしは、あのようにした・・・いくらなんでも、まさか、そのまま、ストレイト(真相忠実)に、書いてはおらぬであろうな・・・まさか・・・まさかな・・・いやいや、どうかな?・・・うーん・・・。

玄宗 (内心)気になる・・・どうしても、気になる・・・えぇい!

彼は、密かに官庫を開かせて、大史の官が書いた記録を読んでみた。

玄宗 エェイ! モロ、書きおったかぁ!(激怒)バリバリバリバリ・・・(記録を破って捨てる)。

玄宗は、それを書いた大史の官を召し出し、そく、彼の首を刎(は)ねさせた。

それより後、大史の官は欠員となり、記録を作成する者がいなくなってしまった。かくして、玄宗は何はばかる事なく、悪事を犯せるようになった。

ここに、魯(ろ)に一人の才人あり。彼は王宮にやってきて、大史の官を望んだ。玄宗はすぐに、彼を左大史に任命した。以来、彼は常に、玄宗の傍らにつつしみ従う事となった。

玄宗 (内心)今度の新任の大史、まさか、あの件を記録してはおらぬであろうな・・・あの箇所は、すでに破いて捨てたからな・・・いやいや、もしかして・・・もしかすると、もしかするぞ・・・。

玄宗 (内心)気になる・・・どうしても、気になる・・・えぇい!

再度、密かに官庫を開かせ、記録を取り出して読んでみた。

玄宗 ナ、ナ、ナニィーー!

 「天宝10年3月、弘農の楊玄琰(ようげんえん)の娘を、寧王の夫人と為す。皇帝、その美貌のうわさを聞き、高将軍をみだりに遣わして、彼女を奪いて後宮に入れる。時に、大史の官、皇帝のその行為を記録して史書に留むる。皇帝、密かにこれを読む。皇帝、激怒し、大史の官を殺す。」

玄宗はますます激昂し、この大史を召し出して、車裂きの刑に処した。

 「もはや、大史の官のなり手は、一人としてあるまいて・・・」。

誰もがこう思ったにもかかわらず、再び、魯から儒者が一人やってきて、大史の官を望んだ。すぐに、左大史に任命された。

玄宗 (内心)今度のやつも、もしかして書いておるかも・・・。

またもや玄宗は、官庫を開かせて、記録を取り出した。

玄宗 ハアアアア・・・。

 「天宝年末、天下泰平(てんかたいへい)にして四海無事(しかいぶじ)なり。政道は徐々に緩みを見せる一方、遊宴歓楽(ゆうえんかんらく)において、その増大の傾向、甚(はなは)だし。」

 「皇帝、色を重んじて、寧王の夫人を奪う。」

 「先任の大史の官ら、これをありのままに記したる結果、あるいは誅され、あるいは車裂きに処せらる。」

 「皇帝の非を正さんがために、いやしくも我、わが一命をかけて史職に居するものなり。願わくば後続の史官諸君、たとえ死を賜うとも、たとえ史官の屍(しかばね)累々(るいるい)たる結果になろうとも、我がこの志を、継続していかれんことを。いやしくも史官の職にある者たるや、この事実を、歴史の上から、決して抹消(まっしょう)してはならぬ。」

自分の命をもかえりみず、後続の史官に対してまでも、「たとえ史官の屍累々たる結果になろうとも、この事実を、歴史の上から抹消してはならぬ」と、書ききっているのである。三族(注35)に及ぶ刑罰をも恐れずに、そこまできちんと書き記したこの史官の忠心たるや、まったくもって、すごいものではないか。

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(訳者注35)自らの3種類の親族。「三族」の具体的内容には、様々な異説があるらしい。
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玄宗 わしは間違っておった・・・かくなる志こそが、真の忠義心というものじゃなぁ。

その後、玄宗は二度と史官を処罰する事なく、かえって大禄を与えるようになった。

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人物Bが語った話、以上で終わり。

人物B 人間として、死はこの上なく痛ましい事・・・「これを、ありのままに記録してしもぉたら、死刑にされてまうかもしれへん・・・」、この三人の史官、いったい、どないな気持ちでしたんやろかいなぁ・・・そやけど、「今もし、皇帝の力を恐れて、その非を記録せぇへんままにしといたら、皇帝は、もう何憚る事無く、ますます悪事を重ねていくようになってしまうやろぅ」、そない思うたからこそ、彼らは、死をも恐れずに、史書に記録しましたんや。この史官らの心中、ほんまに、想像するだけでも、あっぱれなもんや、おまへんか。

人物B 昔の人が、こないな事言うてますわ、

 諌臣(かんしん) 国に有れば 其(そ)の国 必ず安く
 諌子(かんし) 家に有れば 其の家 必ず正し

人物B 天皇は、天下の人々を安からしめん事を、日々念じられる、臣下らも、私心無く、天皇の非をお諌(いさ)め申し上げていく・・・南方の朝廷がそないなふうやったら、これほどまでに乱れてしもうた天下を、再び自らの手中に奪回するのんなんか、実に簡単な事ですわいな。武士階級が捨ててしもて、そこらに落ちたる天下をな、ただヒョイと、拾い上げるようなもんですやん。

人物B そやのにねぇ・・・これほどまでに有利な情勢に、なっておるにもかかわらずですよぉ、30余年もの間、くすぶったまんまやないですかぁ・・・南方のお山の谷底の埋れ木には、もう、花開く春は、廻っては来(こ)んようですなぁ。

人物B と、いうわけでねぇ、(チョンチョン・・・人差し指の爪を親指の腹に当てて弾く動作を2度くりかえす)南の朝廷のご政道いうたかて、まぁ、こないな程度のもんですわいな、ハハハハ・・・あんまし、期待せん方がよろしでぇ。

頼意 (耳を澄まして聞きながら)(内心)なるほどなぁ。あの両人の言う事、まことにごもっとも。

人物Cは、これまでは、人物Aと人物Bの話にじっと聞き入っていたが、帽子を押しのけ、菩提樹(ぼだいじゅ)製の念珠をつまぐりはじめた。

頼意 (内心)おっ、3人目が、何か言いたいみたいやな。あの仏教書籍の研究者然とした、あの人。

人物C 最近の戦乱の世をつくづくと考察してみるに、これは公家のせいでも、武家のせいでも、どっちのせいでも無いと思いますよ。

人物A じゃぁ、いったい誰のせいなんだい?

人物C 何もかもは、これ全て、因果応報(いんがおうほう)の結果と言うべきでしょうなぁ。

人物C その根拠は、といいますとですな・・・「仏の言葉には偽り無し」と言いましてな、これほど確かな話はおませんのや。その、み仏のお言葉、すなわち仏説ですな、これを記録したるのが言うまでもなく、経典(きょうてん)ですわいな。

人物C 「経典」と一口にいいましても、そらぁ膨大なもんでして・・・その中の一つ、「増一阿含経」(ぞういちあごんきょう)に、こないな話が、書いてありますねん。

以下、人物Cが語った話。
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釈尊(しゃくそん)ご在世の頃のインドに、コーサラ国(Kosala)という大国があった(注36)。

ある時、そこの国王・プラセーナジット(注37)が、釈尊が生まれた国、すなわち、カピラヴァストゥ(Kapila-vastu)に対して、使者を送ってきた。当時のカピラヴァストゥ国の王は、釈尊の父、シュッドーダナ王(注38)である。

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(訳者注36)原文では、「昔天竺に波斯匿王と申ける小国の王、浄飯王の婿に成んと請ふ」。

プラセーナジットが統治していたコーサラ(漢訳:舎衛国)は、当時のインドにおける大国であり、それを「小国」とするのは、太平記作者のミスであろう。

(訳者注37)Prasenajit(サンスクリット語)、Pasenadi(パーリ語)。「波斯匿(はしのく)」は、漢訳、すなわち、中国に仏教が伝来した時に使用された中国風の「翻訳当て字」である。

(訳者注38)Śuddhodana(サンスクリット語)、Suddhodana(パーリ語)、漢訳では、「浄飯王」。

[ブッダ入門 中村元 春秋社] の17Pに、以下のような解説がある。

「(釈尊の)お父さんは浄飯王(じょうぼんのう)、パーリ語(当時の言語)でスッドーダナといいます。「スッダ」というのは清らかな、純粋な、混じりけがないという意味です。「オーダナ」は米飯のことです。」(途中略)「浄飯王の場合は、その(オーダナという語の)前に「スッダ」とあるから、白米のことです。ネパールの人もやはり白米のご飯を炊いていたということが、この名前からわかります。」
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シュッドーダナ王 これはこれは、ようこそ、おいでくださいました。プラセーナジット陛下におかれましては、つつがなくおわしますかな?

使者 はい、おかげさまで。

シュッドーダナ王 して、今日は、いかなる趣で、こちらへ?

使者 はい、わがプラセーナジット陛下におかれましては、シュッドーダナ陛下との間に、旧来にもまして更なる親密なる御関係を結びたいとの念、泉のごとく湧き起こる事を止むる事あたわず、シュッドーダナ陛下の婿に成らんと、ご決意、その旨を、陛下に対してお願いもうしあげんがため、それがしを、ご当地に派遣なされましてござりまする。

シュッドーダナ王 (驚愕)なに? 陛下が、わしのような者の婿に?

使者 その通りでござりまする。

シュッドーダナ王 プラセーナジット陛下は、大国コーサラの大王にあらせられる。いったいなぜ、わしのような者の婿に?

使者 そのお問いに対しましては、それがしは、一切お答えいたしかねまする。それがしの任務は、ただただ、プラセーナジット陛下のお言葉を、お伝えするのみにて・・・。

シュッドーダナ王 ・・・。

使者 ・・・。

シュッドーダナ王 あいわかりもうした。他ならぬプラセーナジット陛下のご要望とあらば、一も二もない。この話、喜んで、お受けいたしまする。

使者 かたじけのうござりまする。

使者が帰った後、

シュッドーダナ王 (内心)今回のこの縁むすび、どうも気がすすまぬのぉ・・・かというて、断るわけにもいかぬし・・・。

シュッドーダナ王 (内心)いったい、誰を嫁にやる? うーん・・・。

結局、シュッドーダナ王は、召し使っていた夫人の中から、容貌類なく優れた女人を選び、彼女を、「自分の三番目の王女である」という事にして、プラセーナジットのもとに、輿入れさせた。

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やがて、彼女は男子を生んだ。その子は、「ヴィルーダカ太子(注39)」と名付けられた。

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(訳者注39)サンスクリット語で、Virūḍhaka。漢訳では「瑠璃太子」
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7歳になった年のある日、ヴィルーダカは、シュッドーダナ王の城へ遊びにいった。

彼にとっては、シュッドーダナ王は母方の祖父、当然の事ながら、その近くに寄って行きたい。

ヴィルーダカは、シュッドーダナと同じ床に座した。

これを見たシャカ族のリーダーや大臣たちは、

シャカ族リーダーP ややや・・・王様と同じ床に上がるとは!

シャカ族リーダーQ まったくもう、とんでもない子じゃ。礼儀も何も、あったものではないな。

大臣R さぁさぁ、そこから下りられよ!

ヴィルーダカ 何を言う! 我が母は、シュッドーダナ王の皇女なるぞ。シュッドーダナ王陛下は、我の祖父である。孫が祖父と同じ床に登るに、何の不都合があるか!

シャカ族リーダーP そなたはな、陛下の実の孫ではない。

ヴィルーダカ ナニィ!

シャカ族リーダーQ コーサラに帰ってからな、じっくり、母ごに聞いてみるがよいわ。

大臣R とにかく、そなたには、陛下と同じその床に座す資格はござらぬのじゃよ・・・速やかに、そこから下りられませ。

ヴィルーダカ 下りぬ! 下りぬぞ! 誰が下りるものかぁ!

大臣R 皆のもの、その子を引きずりおろせぃ!

臣下ら一同 オウ!

ヴィルーダカ いやだ! いやだぁ! 下りるの、いやだぁーーー!(涙)

臣下ら一同 エェーィ!(ヴィルーダカを、床から引きずりおろす)

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自らの母の出自に関する真相を知って、ヴィルーダカは、心に深い傷を負った。

ヴィルーダカ (内心)おのれ、シャカ族めぇ!

ヴィルーダカ (内心)よぉし、我、長じた暁には、必ず、シャカ族を滅ぼしてくれるわ。この恥、そそがずにはおくものか! おのれ、見ておれよぉ、シャカ族め!

このような深い悪念を、ヴィルーダカは心中に抱いた。

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20余年が経過した。

ヴィルーダカは、成人に達した。

カピラヴァストゥ国では、シュッドーダナ王が死去した。

ヴィルーダカ さぁ、行くぞぉ! あの時の屈辱を、晴らしになぁ!

ヴィルーダカは、300万の大軍を率いて、カピラヴァストゥ国へ押し寄せた。

急の事ゆえ、諸国からの援軍もやってこず、今にも、カピラヴァストゥ国の王宮は陥落するかと思われた。(注40)

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(訳者注40)原文では、「瑠璃太子三百萬騎の勢を卒して摩竭陀国の城へ寄給ふ。摩竭陀国は大国たりといへ共、俄の事なれば未国々より馳参らで」。

たしかに当時のマカダ国は大国である。しかし、シャカ族の住んでいたのは、マカダではなく、カピラヴァストゥである。よって、ここは太平記作者の誤りである。
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ところが、シャカ族の刹利種(セツリしゅ:注41)に所属の、強弓の使い手・数100名が、前線に出てきた。

彼らは、10町20町の彼方からの遠距離射撃を盛んに行った。コーサラ軍は、これにおそれをなし、山に上り、川を隔てて、徒(いたず)らに日を送った。

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(訳者注41)「セッテイリ」階級。
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このような中に、シャカ族中の一人の大臣が、ヴィルーダカに内通してきた。

大臣が送り込んできた密使 (ヒソヒソ声で)シャカ族を攻め落そうとお思いでしたならば、ただただ、しゃにむに攻め寄せられませ。シャカ族の刹利種の者らは、五戒(ごかい:注42)を守るが故に、これまで一度も人を殺した事がありませぬ。たとえ、弓強くして遠矢を射るとも、それを人間に命中させる事は、彼らには不可能なのでありまする。命中させたならば、不殺生戒に違背することになりまするゆえ・・・ただただ、攻め寄せられませ。

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(訳者注42)五つの戒め、すなわち、「不殺生戒(ふせっしょうかい)=殺しません」、「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)=盗みません」、「不邪淫戒(ふじゃいんかい)=不倫しません」、「不妄語戒(ふもうごかい)=うそ偽りを言いません」、不飲酒戒(ふいんしゅかい)=ノミません。
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ヴィルーダカ なるほど!

ヴィルーダカ よぉし、ものども、イッキに攻め寄せい! シャカ族の弓は単なるこけおどしじゃ、恐れる必要など一切無いぞ!

コーサラ軍メンバー一同 ウオオオオ!

コーサラ軍メンバー一同は、大いに奮い立ち、盾も持たず鎧も着ず、トキの声を上げ、カピラヴァストゥ城めがけて、突撃を敢行。

内通者のもたらした情報の通りであった。シャカ族の刹利種たちが放つ矢はことごとく、わざと、狙いを外していて、誰にも当たらない。矛を使い剣を抜いて、切りかかってくる事さえもない。

かくして、カピラヴァストゥの王宮はたちまち陥落、シャカ族の刹利種メンバーらは、全員、今日1日だけの命となってしまった。

この時、釈尊の弟子・モッガラーナ(注43)は、今まさに、シャカ族が殲滅(せんめつ)の危機に瀕(ひん)している事を悲しみ、釈尊の御前(おんまえ)に参って、

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(訳者注43)漢訳仏典中では、「目連(もくれん)」、「目犍連」、「目健連」等と記される。釈尊の十大弟子中の一人で、「神通第一(じんつうだいいち)」と称された。弟子入りの前からサーリプッタとは親友の間柄で、二人は同時に釈尊の門下になった。
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モッガラーナ シャカ族の人々は、既にヴィルーダカによって滅ぼされ、残るは、わずか500人。世尊(せそん)、いったいなにゆえ、世尊は、大いなる神通力をもってして、彼らを助けたまいませぬのか。

釈尊 ・・・。

モッガラーナ なにゆえ・・・いったい、なにゆえ・・・。(涙)

釈尊 モッガラーナよ、これは、どうにも、しようがない事なのだ・・・。

モッガラーナ ・・・。

釈尊 全ては、因果の法則のなせるわざ・・・これだけは、私にも、どうしようもない。

それを聞いても、モッガラーナは、悲しみの余り、

モッガラーナ (涙)前世からの定めと言ってしまえば、それまでですが・・・それでは、あまりにも・・・。

釈尊 ・・・。

モッガラーナ (内心)もしかしたら、彼らを助けれるかも・・・自分の神通力を使って、彼らを隠してしまえばよいではないか・・・そうだ、きっと彼らを助ける事、できようぞ。

そこで、モッガラーナは、超強力なる神通力を発揮、シャカ族の500人全員を、サイズ縮小して鉄鉢の中に入れ、それを、トウリ天の中に隠し置いた。

シャカ族の領土を完全制圧の後、ヴィルーダカは、全軍を率いて、コーサラに帰って行った。

モッガラーナ よし、もう大丈夫。

モッガラーナは、再び神通力を発揮し、トウリ天まで手を伸ばして、例の鉢を地上に降ろした。

鉢の蓋を、開けてびっくり、

モッガラーナ あぁ! 死んでおる・・・みな、死んでおる! あぁぁ・・・。(涙)

モッガラーナは、釈尊のみ前へ戻ってきた。

モッガラーナ (涙)(肩をガックリ落とし)・・・。

釈尊 ・・・。

モッガラーナ ・・・(涙)(着座、ガックリ肩を落として、地面を見つめる)・・・。

釈尊 (目をつぶる)・・・。

モッガラーナ 世尊、どうか、お教え下さい・・・いったい何故(なにゆえ)、かような悲痛事(ひつうじ)が起らねばならなかったのか・・・いかなる前世の因果(いんが)でもって、シャカ族は全滅してしまわねばならなかったのか。

釈尊 うん・・・今回のこの事件、全てみな、過去の因果によるものである・・・どうして、彼らを助ける事など、できようか。

モッガラーナ ・・・。

釈尊 昔、昔、はるかに遠き昔・・・3年連続の旱魃(かんばつ)が全土を襲い、無熱池(むねつち)の水位が著しく低下した。

釈尊 無熱池には、マカツ魚という、長さ50丈もの巨大な魚がいた。また、多舌魚(たぜつぎょ)という、人間の言葉を話す魚もいた。

釈尊 その池に、数万人の漁師が集まってきた。水位の低下に乗じて、池から水を完全に汲み出し、その中にいる魚を一網打尽にせん、として。

釈尊 池は完全に干上がった。しかし、魚は一匹もいなかった。

釈尊 漁師たちは、がっかりして、引き上げようとした。その時、岩穴の中から多舌魚が這い出してきて、漁師たちに向かっていわく、

 「池の北東の方角に、大いなる岩穴あり。その中に、マカツ魚なる魚、潜(ひそ)みおり。その穴は、マカツ魚が堀りしものなり。穴の中には、無数の小魚も共に潜みおり。速やかにその岩を掘り崩し、隠れおるマカツ魚を殺すべし。」

 「ただし、汝(なんじ)ら、我が命のみは、助くべし、かくなる貴重な情報をそなたらに教えし事への報謝としてな。」

釈尊 このように、漁師たちに告げた後、多舌魚は、再び岩穴の中に戻った。

釈尊 漁師たちは大いに喜び、多舌魚が教えた岩を掘り起こしてみた。その言葉の通り、そこには、マカツ魚をはじめ、5、6丈ほどもの大魚が多数、潜んでいた。狭い水域にひしめきあうが故に、他のどこにも、逃げ場は無い。

釈尊 魚たちは一匹残らず、漁師たちに殺されてしまった。かくして、無熱池の中には、多舌魚のみが生き残った。

釈尊 その後の、長い長い時間の経過の末に、漁夫たちも魚たちも、新たなる生を得て、再び、この世に現われた。

釈尊 あの、コーサラ国の兵士たち・・・彼らの前世こそは、かのマカツ魚なのである。

モッガラーナ ・・・。

釈尊 シャカ族の刹利種たちの前世は、魚たちを殺した漁夫、そして、コーサラ国に密通したあの大臣の前世こそが、あの多舌魚。

モッガラーナ ・・・さようでありましたか・・・。

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人物Cが語った話、以上で終わり。

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人物C 人間世界、万事(ばんじ)何事も、因果の故・・・こないな話もありますよ。これもはやり、釈尊ご在世の頃の、コーサラ国の話ですが・・・。

以下、人物Cが語った話。
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コーサラに、一人のバラモンがいた。

彼の妻は、一人の男子を生んだ。その子は、リグンシと名づけられた。

リグンシの容貌は、とても醜かった。舌の力は並み外れて強く、母は乳を与える事ができない。しかたなく、酥(そ:注44)と蜂蜜を指に塗り、それを舐(な)めさせて、育てた。

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(訳者注44)牛乳や羊乳を精製して採取した液体。
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リグンシは成人したが、家は貧しく、いつも、食に飢えていた。

ある日、リグンシは、托鉢(たくはつ)の為にコーサラに入ってきた釈尊の弟子たちに出会った。

リグンシ かの出家僧たち、いかなる教団に所属する人々であろうかの?

通行人S えぇっ、ご存じでありませなんだか? あれこそは、例のシャカ族ご出身のゴータマ聖者、そのお弟子様方であらせられますがの。

リグンシ あぁ、あれが例の。

住民T み弟子様方、ささやかな食(じき)ではございますが、どうか、お受け下さいませ。(食物を、弟子が持つ托鉢鉢に入れた後、合掌一礼)。

釈尊の弟子U ・・・。

住民V どうぞ、お召し上がり下さいませ。(食物を、弟子が持つ托鉢鉢に入れた後、合掌一礼)。

釈尊の弟子W ・・・。

リグンシ (内心)ウウウ! 見る間に、鉢が食物でいっぱい・・・ウーン・・・うらやましい事よのぉ・・・(唾を呑み込む)。

リグンシの喉 ゴクリ!

リグンシ (内心)よし、私もこの際、ゴータマ聖者に弟子入りするとしよう。さすれば、毎日、腹いっぱい食べれるようになるであろうて。

リグンシ あのぉ・・・もし・・・(仏弟子たちに呼びかける)貴殿らは、かの高名なるゴータマ先生の、み弟子であられまするか?

仏弟子U はい、さようでございます。

リグンシ これはいいところでお会いできた。じつは私、以前から、ゴータマ先生のもとへ弟子入りしたいと、考えておった次第。

仏弟子U おぉ、それはそれは!(笑顔)

リグンシ 貴殿らは、これから、先生の所へお帰りになられまするか?

仏弟子U はい。

リグンシ いっしょに、私も、連れていって下さらぬか?

仏弟子U はい、喜んで。(笑顔)

仏弟子W さ、参りましょう!(笑顔)

釈尊のみ前に行って、リグンシはまず三礼、その後、

リグンシ ゴータマさま、このたび私、一念発起いたしまして、ぜひとも、先生のもとへ弟子入りさせていただきたく、存じまして。

釈尊 おぉ、それはそれは!(喜びに顔を輝かせ)よくぞ、来られました。

リグンシ ・・・。

釈尊 ではさっそく、今の今から、私が説く教えに添い、しっかり、修行精進していきなさい。さすれば、人世の苦しみの一切を、滅尽(めつじん)していく事ができましょうぞ。

リグンシ はい!

リグンシは、自ら頭を丸め、出家僧の姿になった。

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出家の動機はともかくとして、リグンシは、仏道精進に励んでいった。そして、ついに、阿羅漢(あらかん:注45)の境地にまで到達した。

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(訳者注45)当時の仏教においては、修行が進むにつれて向上していく各自の心境の様相を、「スダオン」、「シダゴン」、「アナーガーミ」、「アラカン(阿羅漢)」に、4分類していた。阿羅漢が、最終のレベルである。
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ところが、どうしたわけか、リグンシの食に事欠く事態には、一向に改善が見られない。どこに托鉢に行ってみても、さっぱり食物が得られないのである。

そのような状態が長く続き、弟子たちもみな、リグンシを思いやって、心を痛めた。

仏弟子U リグンシさん、宝塔の中に入って座っていれば、よいのでは?

リグンシ えっ? 宝塔の中?

仏弟子U 参詣の人々が仏前にお供物を捧げるであろうから、それを頂けば、よろしいのでは?

リグンシ なぁるほどぉ。

リグンシは、喜んで塔の中に入ったが、そこでグッスリ眠り込んでしまい、参詣の人々が仏前に供物を捧げたにもかかわらず、それに全く気付かなかった。

そこへ、500人の仏弟子を引き連れたサーリプッタが、他の地から帰ってきた。

サーリプッタは、塔の中にある供物を集め、物乞いの人々に、全て与えてしまった。

リグンシが眠りから覚めたのは、その後であった。

リグンシ ・・・(仏前を見まわして)ない・・・ない・・・。

サーリプッタ やや? リグンシさん、リグンシさん、かような所で、いったい何を?

リグンシ 「食べ物を得たいならば、仏塔の中に入って、お供物を頂けばよい」と教えられて、それで、ここに入っておったのですが・・・やはり、食べ物は得られない・・・。

サーリプッタ ウウウ・・・さような事とは、つゆ知らず・・・すみません、お供物はことごとく、物乞いの人々に与えてしもぉたぁ。

リグンシ エェー!

サーリプッタ すみません、すみません。

リグンシ (足を摺り合わせながら)あーっ どうしても、私に食は、回ってはこぬのじゃなぁ・・・(悲)

サーリプッタ リグンシさん、リグンシさん・・・悲しまれるな。大丈夫、今日は、あなたにもきっと、食が供されましょうて。じつはな、これから、ガヤ城内のある方の家に招待されておって・・・あなたも、いっしょに連れていってあげましょう。

リグンシ いや、これはありがたい!

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サーリプッタとリグンシは、ガヤ城の門をくぐり、招待主の家に入った。

招待した家の妻 まぁまぁ、ようこそ、ようこそ、かようなムサ苦しい家に、お越しいただきましてぇ。どうぞ、どうぞ、こちらへ。

サーリプッタ はい。

招待した家の妻 では、さっそく、お食事のご用意を。

サーリプッタ ・・・。

リグンシ (内心)あぁ、ようやく食に・・・。

招待した家の夫 ・・・。

サーリプッタとリグンシが鉢をささげて、食物の施を受けようという、まさにその時、

招待した家の夫 (妻に向かって)やぃやぃ、いってぇナニやってやがんでぇ、テメェは!

招待した家の妻 (食物を入れた容器を手に持ちながら)なによぉ、その言い方! テメェってぇ・・・あんた、いったい誰に向かって、モノ言ってんのさぁ!

招待した家の夫 テメェっていやぁ、テメェしか、いねぇだろうがぁ!

招待した家の妻 いったい、ナニそんなに怒ってんのよぉ!

招待した家の夫 尊いゴータマさまのお弟子方を、我が家に迎えるってぇのに、いってぇなんだ、この家ん中はぁ! あっちゃこっちゃ、散らかしっぱなしの置きっぱなし。ちっとも、片付いてねぇじゃねぇかぁ! 掃除や整理整頓くれぇ、ちったぁマジメにやったらどうだぁ!

招待した家の妻 フーンだ! そんな横柄な言い方されるスジアイ、ないわねぇ! だいいち、家の中が散らかってるのは、あたしのせいじゃないさ、あんたが悪いのよぉ!

招待した家の夫 なんだとぉ!

招待した家の妻 だって、そうじゃないのさぁ、毎日毎日、市場へ行っては、次から次へ、のべつまくなし、ガラクタばぁっかし買いあさってくんだもん! どんなに広い家だって、これじゃぁ、とても、かたづきっこないわねぇ!

招待した家の夫 なにぃー! がらくただとぉ! 言わせときゃぁ、いいきになりやがってぇ! このぉ!(妻を打つ)

夫の手 バシッ!

招待した家の妻 なぐったわねぇ、このあたしをぉ! この、DVヤロウーーー!(注46)! サーリプッタさま、見てくださいよ、こんなの、いいんですか?!

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(訳者注46)Domestic Violence 野郎。
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サーリプッタ あ、あ、暴力はいけませんな、暴力は・・・。

招待した家の妻 えぇぃ、もうガマンならない、このぉ!(左手で鉢を持ち、右手で夫を殴る)

妻の手 ガーン!

招待した家の夫 やったなぁ!(妻を殴る)

夫の手 グワーン!

招待した家の妻 このヤロウ!(夫と、とっくみあいを始める)

鉢 (妻の手から落ちて)ガシャーン!

鉢中の食物 ピシャーッ(散乱)

サーリプッタ ・・・だめだ・・・帰ろう。

リグンシ (内心)あーあ、また食が逃げていったぁ・・・(ガックリ)。

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翌日、ある富豪の招待を受けていたサーリプッタは、再び、リグンシを伴ってその家に行った。

富豪は、サーリプッタら500人の阿羅漢全員に食を供じたが、どういうわけか、リグンシにだけは、気がつかなかった。

リグンシはまたもや、食を受ける事ができない。鉢を掲げて大声で叫んだが、誰も、彼に気付かずじまい。ついに、その日も、彼は、飢えたまま帰るしかなかった。

これを聞いたアーナンダ(注47)も、心を痛めた。

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(訳者注47)アーナンダ(Ānanda)は、十大弟子中の一人で、「多聞第一」と称された。

「多聞」とは、「釈尊が説いた事を、弟子中、最も多く聞いている」という事である。

出家の20年後、釈尊は、アーナンダを、自らの身の回りの世話係として選んだ。その結果、アーナンダは、常に釈尊の側にいる事となり、自然と、「多聞第一」の人になっていったのである。

釈尊が涅槃(ねはん)に入ったその最後の瞬間においても、アーナンダは、釈尊の側にあった。

釈尊の涅槃の後、釈尊が教えた事を、弟子たちが確認しあった、[第一結集]において、アーナンダは、この「多聞第一」の努力成果をフルに発揮して、大きな役割を果たした。
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アーナンダ リグンシさん、大丈夫、大丈夫ですぞ。今日、私は世尊にお伴して、ある家に行きまする、そこの主から招待を受けておりますのでな。あなたも、連れていってあげましょう。今日こそは、おなかいっぱい食べる事ができまするぞ。

リグンシ ハァーーー、ありがとうございます・・・ハァー。

ところが、いよいよ釈尊と共に出かける時、アーナンダは、リグンシとの約束をすっかり忘れてしまい、リグンシは置き去りにされてしまった。

その日も、彼は、空っぽの鉢を前に置いたまま、徒らにすごした。

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翌日になってからようやく、アーナンダは、この約束の事を思い出した。

アーナンダ しまったぁ! 悪い事をしてしもぉたなぁ・・・。

アーナンダ よし、今日はなんとしてでも、リグンシ比丘のために托鉢を!

アーナンダは、ある家を訪れて、食物を得た。

ところがその帰途、彼の背後に、猛犬数10匹が現われた。

猛犬たち ウーウーウー、ウワオー、ワウワウワウワウ・・・。

アーナンダ うわぁ!(逃げる)

アーナンダの両足 ダダダダダダ・・・。

猛犬たち ワウワウワウワウ・・・。

アーナンダ (鉢を落とす)

鉢 (アーナンダの手から落ちて)ボトーーン!

鉢中の食物 ピシャーッ(散乱)

その日も、リグンシは飢える事になった。

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第6日目、今度は、モッガラーナが、リグンシのために、托鉢に歩いた。

食物を得ての帰途、

モッガラーナ (前方の上空を見つめ)う! あれは何じゃ!

巨大カルラ鳥 ギャオウー!(空中から舞い下り、モッガラーナを急襲)。

モッガラーナ ア、ア、ア!

巨大カルラ鳥 (両足で鉢を挟む)

カルラ鳥の両足 グァシ!

巨大カルラ鳥 ギャオウーーン!(天空高く舞い上がる)。

モッガラーナ アァーーー!

巨大カルラ鳥は、その鉢を大海に浮かべた。

かくしてこの日も、リグンシは飢えたまま。

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第7日目、サーリプッタは、リグンシのために、家々を托鉢してまわった。

ところが、どこの家も、門戸を閉ざして開かない。

サーリプッタ えぇい!

門 ギィィィィ・・・。(開く)

サーリプッタは、神通力を行使して門戸を開き、中へ入った。

食物を得て、帰路についたとたん、

大地 シュヴァ!(裂ける)

鉢 ヒューーー(裂け目に吸い込まれる)

サーリプッタ アアア、鉢が、鉢がぁ!

鉢 ヒューーー・・・・ポソッ(地底160万ユジュナにある、金輪際(こんりんざい)へ着地)

サーリプッタ えぇい、ぜったいあきらめんぞ! エェーーィ!

サーリプッタの右手 グワイーン、グワイーン、グワイーン、グワイーン・・・。

サーリプッタは、神通力を行使し、右手を金輪際まで伸ばした。

サーリプッタの右手 グワイーン、グワイーン、グワイーン、ピタ!(鉢をつかむ)

サーリプッタ よぉし!

食物を持ち帰ったサーリプッタは、急いでリグンシのもとへかけつけた。

サーリプッタ お待ちどおさまぁ! やっと、持ってこれました、さ、どうぞ。

リグンシ ウグググ・・・。

サーリプッタ ウ? どうした? どうした?

リグンシ ウグググ・・・ウムムム・・・。

サーリプッタ ・・・口が・・・開かない?

リグンシ (口を閉ざしたまま、うなづく)・・・。

サーリプッタ アアア・・・。

そのまま時は経ってしまい、この日もついに、リグンシは食べる事ができなかった。

ここにきて、リグンシは、大いに自分の事を慙愧(ざんき)し、みんなの前でいわく、

リグンシ みなさんに、ここまでしていただいても、私はどうしても食を受く事ができぬ・・・よっぽど、業の深い人間なのでしょうねぇ。

仏弟子一同 ・・・。

リグンシ もはや、これしか、私に食べれるものはない・・・(砂を噛み、水を飲む)

リグンシは、そのまま涅槃に入った。まことに哀れな事である。

--------

後日、弟子たちは、釈尊に問うた。

サーリプッタ リグンシ比丘は、いったいいかなる業因縁(ごういんねん)あって、あのような事になってしまったのでしょうか?

釈尊 みんな、私がこれから言う事を、よく聞くがよい。

仏弟子一同 ・・・。

釈尊 はるかなる過去、ハラナ国に、クミという一人の大富豪がいた・・・。

クミは、信心あつき人であり、出家僧らに対して毎日、熱心に布施を行った。

クミの死後、彼の妻もまた信心あつく、出家への布施を怠らなかった。

クミの息子はこれを怒り、母を一室の中に閉じ込め、門戸を固く閉ざし、人の出入りを一切禁じた。

母は7日間、泣き続けながら幽閉された。

7日目、いよいよ餓死寸前となり、母は息子に懇願した。

母 お願い、どうか、食べさせておくれ。

息子は、怒りの眼をもって母をにらみ、言い放った。

息子 家の中のもの、みんな、出家僧にやってしまったろう。だから、もう何もないぞ。食べるものなど、もう何もないぞ。そんなに食べたければ、砂と水を食べろ!

彼は、母に食物を一切与えようとしなかった。

幽閉されてから7日目、母はついに餓死した。

息子はその後、貧困のどん底に陥り、死して後、無間地獄(むげんじごく)に落ちた。

釈尊 長い長い時間の間、彼は、地獄の苦しみを受け続けた。そしてついに、その受苦の期間を終え、再び人間としての生を受けた、リグンシとしてな。

仏弟子一同 (内心)あぁ、そういう事であったのかぁ。

釈尊 リグンシは、私のもとへやってきて出家し、みごと、阿羅漢の境地に到達した。それは、彼の父・クミが、生前、僧侶に対して厚く布施を行っていた、その善き功徳の果である。

釈尊 食に飢え、砂を噛んで死んでいかねばならなかった、それは、母を餓死させた、その悪業の果である。

釈尊 なにごとも、因果応報の理(ことわり)に従って、ものごとは進んでいくのだ。

このように、釈尊がリグンシの過去生での所業を説き明かされたので、アーナンダ、モッガラーナ、サーリプッタらは、ようやく事の真相を理解し、礼をして釈尊の前を去った。

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人物Cが語った話、以上で終わり。

人物C ・・・と、まぁ、こないなわけでしてなぁ。

人物C こういった、み仏のお説き下さった事を、つらつら思うにですよ、臣下が君主をないがしろにし、子が父を殺すといった悪事もすべて、今生一世(こんじょういっせい)だけの事でもって、考察されるべきものではない。そないなってしまうには、そないなってしまうだけの、前世からの深ぁい因果があるっちゅうことですわいな。

人物C 今の世の中、武士が衣食に満ち飽き、公家は餓死にまで及んでる、これもまた、過去の因果の結果という事でっしゃろなぁ。

このように、人物Cは、仏典中の記述内容をもとにして、現代政治の諸相について、明快に論じた。

人物A なぁるほどなぁ、ははは・・・。

人物B ははは・・・。

人物C ははは・・・。

人物A あぁっ、水時計の針、もうあんなになってらぁ。

人物B いやぁ、こら、つい話に夢中になって、えらい長話、してしまいましたわ。

人物C 東の空が、明るうなってきましたなぁ。

人物A そろそろ、帰らなきゃ。

人物B ほな、わても。

人物C さいなら。

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頼意 (内心)ふーん・・・なかなか、聞きごたえのある談論会やったなぁ。

頼意 (内心)彼らの言うてた事を、つらつらと考えてみるに・・・今はこないな戦乱の世やけど、そのうちまた、平和な世の中になってくれるんかもなぁ。

頼意 (内心)いや、ぜひとも、そうあって欲しいもんや。平和な世の中になってもらわんと、ほんま困るわ。

頼意 (内心)人間、決して、希望を捨てては、あかんのや!

3人の談話の内容を噛み締めながら、頼意は、帰路についた。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 35-3 吉野朝サイド、再び攻勢に

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝(よしのちょう)サイド使者A 京都において、幕府側に内紛勃発(ぼっぱつ)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)に押し寄せてきとった足利(あしかが)軍はみな、京都へ引っ返していきよりましたでぇ!

吉野朝サイド勢力・メンバー一同 よっしゃぁ!

大和(やまと:奈良県)・和泉(いずみ:大阪府南部)・紀伊(きい:和歌山県)の吉野朝サイド勢力は、再び元気を取り戻し、山々峯々にかがり日をたき、津々浦々に船を集めた。

これを見た足利幕府サイドの城々にこもる武士たちは、集まり散じながら、ささやき交わす。

足利軍メンバーB こないだの戦の時にゃぁ、日本国中の軍勢が集まって攻めたんだ、和田(わだ)と楠(くすのき)をなぁ。

足利軍メンバーC でも、結局、退治できなかった。

足利軍メンバーD そんな連中らに、この城、包囲されちゃぁ、たまったもんじゃねぇぜ。

足利軍メンバーE 生きて故郷に帰れるの、一人もいねぇだろうなぁ・・・。

というわけで、まず、和泉守護職に任じられていた細川業氏(ほそかわなりうじ)が、未だ敵が攻めかかってきてもいないのに、城から逃げ出してしまった。

紀伊国の湯浅(ゆあさ)一族も、船に乗り、兵庫(ひょうご:兵庫県・神戸市・兵庫区)をめざして落ちていった。

河内(かわち:大阪府東部)国の守護代・杉原周防入道(すぎはらすおうにゅうどう)は、誉田城(こんだじょう:大阪府・羽曳野市)を出て、水走城(みずはやじょう:大阪府・東大阪市)にたてこもり、ここでしばらく篭城(ろうじょう)して、京都からの援軍を待とうとした。

しかし、楠正儀(くすのきまさのり)は、大軍をもって、息も継がせずにこの城を攻め続けた。一日一夜の抵抗の後、杉原周防入道は、奈良(なら:奈良県奈・良市)方面へ落ちていった。

根来寺(ねごろじ:和歌山県・岩出市)の衆徒たちは、このような足利サイド防衛ラインの全面的崩壊を知らないままに、味方する武士らと共に300余人、紀伊国の春日山城(かすがやまじょう:和歌山県・紀の川市)にたてこもり、二引両(ふたつびきりょう)マークの旗(注1)を1本立てていた。

しかし、恩地(おんぢ)、贄川(にえかわ)が、3,700余騎の軍勢を率いて押し寄せ、城の四方を包囲して、衆徒たちを一人残らず討ち取ってしまった。

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(訳者注1)「二引両」は、足利家の家紋である。
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熊野(くまの)地方においては、湯川庄司(ゆかわのしょうじ)が足利サイドにつき、鹿の瀬(ししのせ:和歌山県・日高郡・日高町ー和歌山県・有田郡・広川町)、蕪坂(かぶらざか:和歌山県・海草郡・下津町-和歌山県・有田市)に陣取って、阿瀬川(あぜがわ:和歌山県・有田郡・有田川町)の湯浅宗藤(ゆあさむねふじ)の城(注2)を攻めようとしたが、宗藤と山本判官(やまもとはんがん)、田辺別当(たなべのべっとう)が、2,000余騎を率いてこれを攻撃、湯川軍を四方八方へ追い散らし、333人の首を取り、田辺宿(たなべじゅく:和歌山県・田辺市)にさらした。

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(訳者注2)阿瀬川城についての記述は、34-6 にある。
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世間の声F (ササヤキ声で)「翡翠(かわせみ)と蛤(はまぐり)、互いにあい争いし時、烏(からす)、すなわちその弊(へい)に乗って、利を得る(注3)」とは、まさに、こないな事を言うんでっしゃろなぁ。

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(訳者注3)原文:「鷸蚌相挟則烏乗其弊」。「カワセミとハマグリ争そう」とは、中国の古典[戦国策]中の[漁夫の利]の逸話。戦国策においては、「利を得るのは漁夫」という事になっており、烏ではない。
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世間の声G (ササヤキ声で)「仁木義長(にっきよしなが)め、ついに、京都から出ていってまいよったぁ」言うて、都中、みな大喜びしたはりますけどなぁ。

世間の声H (ササヤキ声で)近畿地方、あるいは遠国の南方の朝廷サイド勢力、これに乗じて、またまた蜂起したって、いうじゃぁないの。

世間の声I (ササヤキ声で)あーあ、ほんまによぉ言わんわぁ・・・またまたムチャクチャの、戦乱の世に、逆戻りどすかいなぁ・・・。

いったい誰のしわざであろうか、ある日、京都・五条(ごじょう)の橋詰に高札が立った。そこには、二首の和歌が。

 将軍の 敵の種蒔く 畠山 そろそろ打たれて ひっくり返され

 (原文)御敵(おんてき)の 種(たね)を蒔置(まきおく) 畠山(はたけやま) 打返(うちかえ)すべき 世(よ)とは知(しら)ずや(注4)

 どれくらい 豆まいたら気がすむ? 畠山 日本まるごと 味噌にする気かい

 (原文)何程(なにほど)の 豆を蒔(まき)てか 畠山 日本国(にほんこく)をば 味噌(みそ)になすらん(注5)

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(訳者注4)「種蒔く」と「畠」とを、さらに「畠」と「打返す」とをかけてある。「畠山」は、畠山国清を指しているのであろう。

「御敵の種」は、「将軍(=足利義詮)の敵の種」という意味だろうが、これをどう解釈すべきか、訳者には分からない。「敵勢力側(吉野朝側)が蒔こうと狙っている、足利幕府の権力を弱体化させる種を、畠山が、吉野朝側に代って蒔いてしまっている」という解釈がよいのか、あるいは、「様々な人(例えば、仁木義長)を、義詮の敵にしてしまうような紛争の種を、畠山が蒔いている」と解釈すべきか?

(訳者注5)「豆まく」と「畠山」を、さらに、「豆」と「味噌」をかけている(言うまでもなく、味噌は大豆から作られる)。「豆」は「災いの豆」の意味だろうか。
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「これは明らかに、仁木びいきの人間が書いたもの」と、思われるような和歌もあった、六角堂(ろっかくどう:京都市・中京区)の門の扉には、次のように。

 すばらしい 源氏の日記 失(うしの)ぉて 伊勢物語 せぇへん人無し

 (原文)いしかりし 源氏(げんじ)の日記(にっき) 失ひて 伊勢物語(いせものがたり) せぬ人もなし(注6)

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(訳者注6)「いしかりし」は、「美(い)しかり」の意味だろう。「美(い)し=よい、すぐれている、すばらしい。

「日記(にっき)」と「仁木(にっき)」とをかけている。

「源氏」と「伊勢」が、キーワードであろう。仁木家は足利一族だから、源氏に所属している。さらに当時、仁木義長は、伊勢の守護職についていた。故に、[源氏]も[伊勢]も、[仁木義長]を指し示す[シンボル]の役割を果たす語となっている。

そこにさらに、日本の古典文学のキーワードたる、「源氏物語」、「紫式部日記」、「伊勢物語」という3つの固有名詞が、重層的にかぶさっている。「伊勢物語する」は「伊勢地方についての話しをする」の意味にも取れよう。すなわち、「京都を去ってしまって、今は伊勢にいる仁木義長の事をしのんで、人々は、彼の事を話しているよ」、という意味を、この和歌から汲み取れるのだ。とてもイキ(粋)な和歌だなぁ、とは、訳者の感想。
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当時、畠山国清(はたけやまくにきよ)は、常に狐皮の腰当てを付けて、人に対面していた。これをブザマと感じた人が読んだのであろうか、こんな歌もあった・・・。

 畠山 狐の皮の 腰当てや バ(化)ケの皮ついに 現(あらわ)しよったで

 (原文)畠山 狐の皮の 腰当(こしあて)に ばけの程(ほど)こそ 顕(あらわ)れにけれ

また、湯川荘司の館の前には、「芋瀬(いもせ)の荘司(注7) この歌を詠める」とのただし書き付きで、次のような和歌が。

 吉野汁 ほのかに香った ゆず(柚子)のかわ(皮) 京都についたら 何の香もせんわい

 (原文)宮方(みやがた)の 鴨頭(こうと)になりし 湯川(ゆのかわ)は 都(みやこ)に入(いり)て 何(なん)の香(か)もせず(注8)

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(訳者注7)湯川荘司も芋瀬荘司も共に、奈良県吉野郡の豪族であった。

(訳者注8)[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注に、「鴨頭は香頭とも書く。吸物の中に入れる柚子の皮の薬味」とある。「湯川」と「柚(ゆ)の皮」とをかけている。「宮方」は「吉野朝側についている」の意。「都に入る」は「京都朝=幕府側に寝返る」の意。
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このように、「今回の紛争は全て、畠山の行為に原因あり」と、落書にも書かれ、和歌にも詠まれ、風呂屋の女や子供らからまでも、嘲笑されるに至っては、さすがの畠山国清(はたけやまくにきよ)も、面目失墜してしまったのであろう、しばらくは仮病を使って、幕府への出仕をストップしていた。

畠山国清 (内心)ヤベェな・・・このまま京都にいたんじゃ、そのうち、国中の禍が、わしの上に降りかかってきちまわぁ・・・。

8月4日夜、国清は、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)への暇乞い(いとまごい)も無しに、密かに京都を脱出し、関東を目指して東へ進んだ。

ところが、三河国(みかわこく:愛知県東部)まで来て、そこから先へ一歩も進めなくなってしまった。

そこは、仁木義長(にっきよしなが)が長年守護をつとめてきた国(注9)、守護代の西郷弾正左衛門尉(さいごうだんじょうさえもんのじょう)が、500余騎を率いて矢作川(やはぎがわ:愛知県・岡崎市)沿いに布陣し、道を塞いでしまったのである。

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(訳者注9)三河国は、仁木氏の出身地でもある。三河には足利一族の出身地が多くあり、彼らはその地名をそのまま名字とした。(吉良(きら)、仁木、細川、一色(いっしき)、今川)。
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畠山国清 (内心)あーぁ、まいったなぁ。ここで足止め食らってから、もう何日目だぁ? ずるずると、日が過ぎていっちまうじゃねぇかよぉ。

畠山国清 (内心)いってぇ、この先どうするべぇ? このまま、ここで、じっと止まっているべきか・・・それとも、ここから中山道(なかせんどう)へ入って、あっちルート経由で、関東へ戻るべきか? それとも、いっそのこと、京都へ引っ返しちまおうか・・・。

そうこうしているうちに、国清は、背後をも塞がれてしまった。尾張国(おわりこく:愛知県西部)の小川中務(おがわなかつかさ)が、仁木義長に呼応し、国清に叛旗を翻したのである。

関東からやってきた軍勢は、畠山はじめ、白旗一揆(しらはたいっき)武士団、平一揆(へいいっき)武士団、佐竹(さたけ)、宇都宮(うつのみや)に至るまで、みな困りはててしまった。前と後から敵対勢力に塞がれ、前進もできない、後戻りもできない、ただ呆然と立ちつくすのみである。

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首都圏での思いもかけない異変の勃発は、山陰地方(さんいんちほう)にまでも、その影響を及ぼしつつあった。

「関東からの遠征軍、南方朝廷サイド勢力に決定的ダメージを与えた後、首都に凱旋(がいせん)」との情報に、山名時氏(やまなときうじ)は、「次は、自分が攻められる番だ」と思い、城を構え、鏃(やじり)を磨いて、防衛の準備怠り無かったが、

山名時氏 ほんと、世の中、わからんもんだわなぁ・・・京都において不慮の事変が勃発、あげくのはてに、あの仁木義長が、南方朝廷サイドに寝返ってしまうとは・・・ハァー。(注10)

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(訳者注10)[日本の歴史9 南北朝の動乱 佐藤進一 中央公論社刊]の333ページに、以下のようにある:

「仁木は兵をまとめて、分国の伊勢に下り、長野城にこもって幕府の追討軍に抵抗したが、やがて康安元年(1361)二月、南朝にくだった。」
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山名時氏 それに乗じて、和田と楠は、またまた勢力を回復、金剛山の奥から打って出てるって言うわな。よぉし、このチャンス、逃してたまるか!

時氏は、3,000余騎を自ら率いて出陣、全軍を二手に分け、因幡(いなば:鳥取県東部)・美作(みまさか:岡山県北部)国境に配置した。

山名軍は、赤松貞範(あかまつさだのり)と赤松則祐(のりすけ)に従属している方々の城に対して、一斉に攻めかかった。草木(くさぎ:鳥取県・八頭郡・智頭町)、揉尾(もみお:智頭町)、景石(かげいし:鳥取県・鳥取市)、塔尾(とうのお:位置不明)、新宮(しんぐう:鳥取県・岩美郡岩・美町)、神楽尾(かぐらお:岡山県・津山市)の各城を守っている者たちは一たまりもなく、山名側に寝返って味方を攻め始める者もあり、逃走して行方不明になってしまう者もありの、大混乱状態となった。

「仮に、唇が無くなってしまったとしたならば、寒さを、歯にまともに感じるようになるであろう」という言葉があるが、まさに、今の赤松サイドにぴったりあてはまる言葉である。仲間の城が次々と落ちてしまうと、心細さがつのってきてしまうものである。

また、「魯(ろ)の酒が薄かったせいで、趙(ちょう)の首都・邯鄲(かんたん)が包囲されてしまった(注11)」という逸話もあるが、これも、今回の成り行きにフィットしていると、言えよう、京都での事件が思いもかけず、遠く山陰地方にまで影響してしまったと、いうのであるから。

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(訳者注11)「荘子」に書いてある話。

古代中国・春秋時代、中国に多くの国があった時代の事である。

梁(りょう)国の王 わしは趙国を攻めたい。しかし、それは不可能じゃ。もし趙を攻めたら、楚国が必ず、趙の救援に出てくるであろうからな。

ところが、楚と魯との間に紛争が起こってしまった。楚国の王に対して、魯が薄い酒を饗応したというので、楚国の王が激怒、魯を攻め始めたのである。

梁国の王 シメシメ、好機到来じゃ。楚は魯を攻めるにせいっぱいじゃから、とても、趙を助ける余裕などない。よし、安心して趙を攻めれるぞよ!

かくして、梁国の軍隊は、趙国の領土に侵入、その首都・邯鄲を包囲した。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 35-2 仁木義長、没落す

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このように、打倒・仁木義長(にっきよしなが)の計画が進められているさ中、

 「和田(わだ)、楠(くすのき)らが、金剛山(こんごうさん:大阪府-奈良県 境)と国見山(くにみやま::大阪府・南河内郡・千早赤阪村)を出て、再び、摂津(せっつ)、河内(かわち)方面へ進出、渡辺橋(わたなべばし:位置不明)を切り落し、誉田城(こんだじょう:大阪府・羽曳野市)を攻めようとしている、急ぎ、討伐軍をさしむけられたし!」

との急報が、和泉(いずみ)、河内方面から京都へもたらされた。

足利義詮(あしかがよしあきら) (内心)なぁんてこったぁ! 数ヶ月がかりの軍事作戦、ついこないだ、大成功の中に終結を見たというのに・・・あっという間に、オジャンになってしまったじゃない・・・こないだまでのあの苦労、あれはいったい、なんだったのぉ・・・。(狼狽)

足利義詮 (内心)ウーン・・・討伐軍、いったい誰に行かせようかなぁ・・・「行け」と命令しても、誰も行こうとしないかもねぇ・・・うーん、困ったなぁ・・・みんな、いったい、どういう態度に出てくるんだろうか・・・。

足利義詮 (内心)・・・ウーン・・・。

ところがところが、あに図らんや、義詮の命令も出ないうちに、あっという間に、大軍団が自然発生、あれよあれよという間に、京都を出陣して我先にと、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ向かった。

それを率いるメンバーは、畠山国清(はたけやまくにきよ)、細川清氏(ほそかわきようじ)、土岐頼康(ときやすより)、佐々木氏頼(ささきうじより)、今川範氏(いまがわのりうじ)、その弟・今川了俊(りょうしゅん)、武田直信(たけだなおのぶ:注1)河越弾正少弼(かわごえだんじょうしょうひつ:注1)、赤松光範(あかまつみつのり)、芳賀禅可(はがぜんか:注1)以下、先日、畠山邸で同盟を結んだ有力者ら30余人、その軍勢は総計7,000余騎。

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(訳者注1)これらの人々は、畠山国清率いる関東からの遠征軍に加わって京都へやってきたのである。34.2を参照。
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一連の経緯を考察してみるに、彼らの意図は、吉野朝(よしのちょう)勢力の蜂起を鎮圧するのとは、全く別の所にあったと、言わざるえをない。ようは、仁木義長(にっきよしなが)を亡ぼさんが為に、軍団を編成して出陣した、というわけである。

和田正武(わだまさたけ)と楠正儀(くすのきまさのり)は、そこまでは読む事ができなかった。

京都からやってきたこの大軍を相手にしては、渡辺橋を支える事ができず、誉田城を攻め続ける事もできない、という判断の結果、彼らは再び、金剛山の奥へひきこもってしまった。

京都からやっていった人々は、もとより、吉野朝勢力退治が真の目的ではないがゆえに、退いていく楠軍を攻め続ける事も無く、勝ちに乗って次の手を繰り出す事もない、全員、天王寺に集結し、頭をつきあわせてうなづきあいながら、仁木義長討罰の作戦を練り始めた。

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「たった二人の密談でさえも、天は知る、大地は知る、我は知る」という言葉がある。ましてや、これほど大勢のメンバーたちが集まってササヤキあっているのだから、到底、隠しようがない。彼らの密談の内容は、すぐに京都へ伝わっていった。

仁木義長 (激怒)なんだとぉ! おれを討つぅ?! いったいなんで、なんで、このオレが討たれなきゃぁ、なんねぇの! おれが、どんな悪い事をしたってぇの!

仁木義長 いやいや、これはきっと、道誉や清氏のサシガネさ。おれをダシにして、将軍様に対して謀反を起こそうってんだ、きっとそうだ、そうに決まってらぁ!

仁木義長 急ぎ、将軍様に報告しとかなくっちゃな。

義長は、甥の仁木頼夏(よりなつ:注2)だけを伴い、足利義詮邸へ急行した。

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(訳者注2)仁木頼章の子。
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仁木義長 あのね、将軍様! 佐々木道誉と細川清氏が、私を討とうと、天王寺から二手に分かれて、京都へ向かっておりますよ。

足利義詮 えぇっ!

仁木義長 ヤツらの真の目的は、別の所にあります。ようはね、政権を転覆してしまおうってんですよ。決して、ご油断なさいませんように。

足利義詮 えぇっ!そんなぁ! 信じられん・・・ウソ(嘘)だろ、デマ(Demagogie:ドイツ語)だろ?!

仁木義長 イ・イ・エ! これは確かな情報です! デマなんかじゃぁ、決してありませぇん!

足利義詮 ・・・千に一つ・・・いや、万に一つ、そのような事があるとすれば・・・それは、おまえを狙っての事じゃない、この私を、滅ぼそうという事だろうなぁ。

仁木義長 ・・・。

足利義詮 大丈夫だぁ! 私とおまえと、一所になって戦えば・・・どこの誰が、そんな下克上(げこくじょう)の輩(やから)の味方なんかするもんかぁ!

仁木義長 ありがたいお言葉! よし、戦いましょう!

義長は、大いに喜んで館へ戻った。

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仁木義長 どうってこたぁ、ねえやな、こっちの手持ち兵力は十分さ。こないだの戦争の為に、領国から集めた連中、まだ、国元へ帰してねぇもんなぁ。

「天王寺を発した大軍が、二手に分かれ、京都へ攻め上りつつある」との情報にも、義長は全く動揺しなかった。

仁木義長 とは言ってもなぁ・・・こっちサイドの兵力、いったいどれくらいなんか、一応、把握だけはしとかなきゃ・・・よぉし、着到(ちゃくとう)リスト、すぐ作れぃ!

仁木家家臣 ハイハァイ!

さっそく、国別に兵力を把握してみたところ、自分の一族郎等が3,600余騎、他家の軍勢は4,000余騎。

仁木義長 (着到リストを見ながら)いやぁ、こりゃぁなかなか、ゴーセイ(豪勢)、ゴーセイ、7,000余騎もいるのかよぉ。これだけいりゃぁ、天王寺から10万騎攻めてきたって大丈夫だ。よぉし、各方面に分散して、敵の襲来を待つとするべぃ。

義長は、頼夏に2,000余騎を与えて四条大宮(しじょうおおみや:下京区)に配備し、自らの弟・頼勝(よりかつ)には1,000余騎を付けて東寺(とうじ:南区)付近に陣を張らせた。そして自らは、仁木軍中の精鋭を率いて自邸に陣取った。

自邸の周囲4~5町一帯の民家を全て焼き払って、馬の駆け場を広く取り、帷幕(いばく)の中に、どっかと腰を下ろしている。その威勢、その様子、いかなる大軍で攻めかかろうとも、2度や3度は、仁木軍によって駆け散らされてしまうであろう。

仁木義長 (内心)待てよぉ・・・もしもだよ・・・おれの事を悪く言ってるヤツラの言葉を、将軍が真にうけてだよぉ、細川や畠山と内通しちゃったりしたら・・・こりゃまずいな、外様(とざま)の連中らは、イッパツで、あちらに寝返ってしまうだろうなぁ。

仁木義長 (内心)この際、へんな事にならんように、将軍の周囲を、おれサイドの人間で、完全にかためちまうに限るって・・・近習(きんじゅう)のやつら全員、将軍から遠ざけちまおう。

仁木義長 (内心)と、なるとだな・・・おれは、あっちに詰めといた方がいいな・・・ここは、頼夏に守らせるとしよう。

義長は、頼夏を呼び戻し、それと入れ替わりに、200余騎を率いて館を出て、足利義詮邸に入った。そして、四方の門の警護をかため、足利家の身内、外様を問わず、一切の者に対して、義詮の身辺に近づく事を禁じた。

それからは、仁木義長は、自らの思うがまま、万事に渡って全権をふるいはじめた。

天王寺を発して京都に向かいつつある人々はたちまち、「朝敵」の汚名を被る事となり、朝敵追罰の天皇命令書と将軍命令書が発行された。さらに、「仁木義長を、足利幕府・執事(しつじ)職に任命す」ということになり、義長は天下の権力を一身に掌握することとなった。

夜明け前、皿の中の灯油尽き果て、灯火まさに消えんとする時、その光は明々と輝きを増す・・・。(注3)

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(訳者注3)原文では、「只(ただ)五更(ごこう)に油(あぶら)乾(かわい)て、灯(ともしび)正(まさ)に欲銷(きえんとほっする)時(とき)増光(ひかりをますに)不異(ことならず)」。
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天王寺を発した軍勢7,000余騎は、7月16日、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)に到達、そこで二手に分かれた。

第1軍は、細川清氏を大将に3,000余騎、物集女(もずめ:京都府・向日市)、寺戸(てらど:向日市)を経て、西七条(にししちじょう:京都市・下京区)方面から攻め寄せる。

第2軍は、畠山国清、土岐頼康、佐々木氏頼を大将に5,000余騎、久我縄手(くがなわて:京都市・伏見区)を経て、東寺方面から攻め寄せる。

京都中心部に住む人A 今年になってようやっと、南方勢力が占領してたあたりの戦乱、収まったのになぁ。

京都中心部に住む人B 敵勢力は、もはや首都圏からは一掃された、ついに、京都にも平和がやってきたんやなぁと、みなで喜び合(お)うてたのにぃ。

京都中心部に住む人C またまた、戦(いくさ)かいなぁ・・・どないなってんねんなぁ、もう!

京都中心部に住む人D わてらいったい、どないしたらえぇねん!

妻子を避難させる事に難渋(なんじゅう)、財宝を隠し運ぶ事におおわらわ、京都中、どこの道もごったがえして、通行不可能である。

そのどさくさにまぎれて、物資を消耗してしまった軍勢メンバーや、猛悪なるその下部(しもべ)らが、町々に繰り出しては有無を言わさず、家々から物資を奪い取り、人々から剥ぎ取っていく。恐怖と悲嘆におめき叫ぶ声は京都中に満ち溢れ、その他の物音は一切聞こえないほどである。京都中、上を下へひっくりかえしたような、パニック状態。

ここに至って、なおも、足利義詮は、仁木義長に取り込められたままである。

ところがなんと、佐々木道誉(ささきどうよ)が、密かに小門から入り、義詮のいる所まで忍び入ってきた。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)まったくもってねぇ・・・いったいぜんたい、どうなっちゃてんですかぁ? どこもかしこも、仁木家のモンがかためてやがる。

足利義詮 (ヒソヒソ声で)あぁ、あんたかぁ・・・。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)将軍様、いったいなんで、あんな男と一緒におられるんですか、仁木義長みたいなヤツと。

足利義詮 ・・・。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)日本全国の有力メンバーが、一人残らず同心して、打倒・仁木義長を叫んでる・・・なのに、そんな男と運命を共にしようだなんて・・・そんな事しちゃ、ダメですよ、ダメ!

足利義詮 ・・・。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)あの男はね、あぁいった振舞い故に、もう、神にも仏にも見放されちゃってる、人望も完全に失っちゃってる、そう、お思いになりませんでした?

足利義詮 ・・・。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)とはいってもねぇ・・・「どっちもどっち」って感、無きにしも、あらずかなぁ・・・将軍様のお許しも何も得ないまま、その寵臣(ちょうしん)を、否応無く討ってしまえってんで、いきなり京都へ攻め寄せてくる、それも、どうかと思いますよねぇ・・・そんな事されちゃぁ、誰だって、恐怖、覚えちゃいますもんねぇ。

足利義詮 ・・・(うなづく)。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)じゃぁね、こうしましょうや、とにかく、ここをこっそり脱出なさいませな。

足利義詮 (ヒソヒソ声で)いったい、どうやってぇ?

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)今から、あたしゃ、仁木に対面して、作戦会議って事にしますからね、その間に、スキ見て、しっかりした近習の者一人だけ連れてね、女房姿に変装してね、北の小門から、こっそり脱出してください。馬は、もう、用意してありますからね。

足利義詮 ・・・(うなづく)。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)とにかく、どこでもいいですからね、できるっかぎり、ここから遠く離れてください。

足利義詮 ・・・(うなづく)。

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足利義詮 ウーン・・・なんだか気分悪い・・・カゼひいちゃったみたい・・・。

仁木義長 ありゃりゃ、そりゃぁ、いけませんな。

足利義詮 ちょっと横になるよ・・・。(帳台の中に入り、衣を頭からかぶって横になる)

仁木義長 どうぞ、お大事に。(座を立ち、遠侍の間(とおざむらいのま)に移動)

やがて、佐々木道誉が、100騎ほどを引き連れてやってきた。

佐々木道誉 さぁてと、作戦会議、やるかね。

仁木義長 オケーイ!(OK)

義長と道誉の作戦会議は長時間に及び、そうこうするうち、夜もとっぷり更けてきた。もう、誰も見咎めする者はいない。

足利義詮 (ヒソヒソ声で)よーし、行くか・・・。

義詮は、紅梅柄の小袖(こそで)を着て、柳裏(やなぎうら)の絹を頭から被って、女房姿に変装した。そして、海老名信濃守(えびなしなののかみ)、吹屋清式部丞(ふきやせいのしきぶのじょう)、小島二郎(こじまじろう)3人だけを引き連れ、北の小門から、密かに館を脱出した。

道誉の言葉通り、築地の陰に、手綱をかけた馬が用意されていた。

小島二郎は、馬にすっと寄り、義詮を抱きかかえて馬に乗せた。

中間2人に馬を引かせ、装束を入れた袋を持たせ、4、5町程の間、静かに馬を歩ませた。

このようにして京都中心部から脱出した後は、馬に鞭を入れ、鐙(あぶみ)を蹴って、猛ダッシュ。

花園(はなぞの:右京区)、鳴滝(なるたき:右京区)、双岡(ならびがおか:右京区)、広沢池(ひろさわいけ:右京区)を通過、1時間ほどで、西山(にしやま:右京区)の谷堂(たにどう)へ逃げ込んだ。

このような事になっていようとは、夢にも知らない仁木義長、まさに、運も尽き果てたというべきか。

佐々木道誉 (内心)もう大丈夫だろうな、今頃、義詮様は、どこか遠くへ落ち着かれた事だろうて。じゃぁ、わしも、家へ帰らせてもらう事にしましょうかねぇ。

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その後、仁木義長は、義詮の御座所に出向いていわく、

仁木義長 将軍様、夜も明けました。そろそろ、敵も攻め寄せてくるでしょう。御旗をお出しにならないと・・・軍勢への御対面、お願いします。

仁木義長 ・・・今朝は、いつになく遅くまで、寝ておられますなぁ・・・お体のぐあい、どうですか?

義長の言葉を伝えるために、女房一人二人が、寝床の側に行ったが、

女房E あれ?

そこには、夜着が小袖に重ねて置かれているだけ、その下にいるべき人の姿は、影も形もない。

女房F おかしいねぇ、将軍様、いったい、どこ行かはったんやろか?

女房E どっか、そこらへんに、い(居)はるんちゃうぅ?

女房F (方々探し回りまがら)どこにも、居はらへんよぉ。

女房E (方々探し回りまがら)そんなぁ!

女房F (方々探し回りまがら)いったい,どないなってんねやろ、将軍様、どこにも居はらへん!

女房E (オロオロ)どないしょ、どないしょ!

女房F (オロオロしながら、仁木義長のもとへ走り寄り)仁木様、えらいこってすがな、将軍様、どこにも,居はらしまへん!

仁木義長 なんだとぉ! 将軍様がおられん?!

女房F (オロオロ)はい・・・どこ探しても、居はらしまへん。

仁木義長 エェー! エェー!

義長が大騒ぎしているのを聞いて、仁木頼夏も、そこに駆けつけてきた。

仁木頼夏 (ドタドタ・・・)伯父上、いったいどうしたんですか? なにがあったんですか?

仁木義長 (怒)この館の中の、どこかにおられるはずだ! 女房か近習の誰かが、きっと居場所を知ってる! おぉい、四方の門を閉めろ、一人も外に出すな!

一瞬の間に、事の次第を悟った頼夏の心中には、ムラムラと怒りの念がこみあげてきた。

頼夏は、二枚合わせの扉を開き、戦闘用下足のままズカズカと、義詮の寝所に乱入、屏風や障子を、手当たり次第に踏み破っていく。

仁木頼夏 えぇい・・・ったくもう! 日本一のいくじなしを、頼みにしたおれたちゃぁ、ほんとにバカだったぜぇ!

仁木義長 ・・・。

仁木頼夏 おれたちが戦に勝ったら、すぐに出てくんだろうよぉ、手ぇすりあわせてなぁ、おれたちの前に、出てくんだろうよぉ!

頼夏は、義詮の悪口をさんざん吐き散らした後、自邸へ帰っていった。

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仁木サイドの、方々からやってきた人々、外様の者たちは、足利義詮が仁木サイドについているからこそ、義長を見捨て難く、彼の下についていたのである。

ところが、肝心のその義詮が、「仁木義長を討たせんがため、館を脱出した」と、いうではないか。

彼らは、あっという間に、雪崩(なだれ)を打ったように脱走しはじめた。

我も我もと、100騎、200騎、連れ立って、アンチ仁木サイドへ、続々と投降していく。今朝時点では7,000余騎と記録されていた仁木陣営、今はたった、300余騎だけになってしまった。

仁木義長 ワッハッハッハッ・・・いいのさ、いいのさ、頼りにならん連中なんか、いくらいたって、足手まといになるだけだもんなぁ! 逃げ出してくれて、よかったぁ!

このように、しばらくの間は強がりを言っていた義長であったが、自らの身に替わり、命に替ってくれるもの、と信じきっていた昔からの恩顧(おんこ)の郎等たちまでもが、みな脱走してしまったと聞いて、ガックリきてしまった。

仁木義長 ・・・。

言葉も出ずに意気消沈、ただ呆然と座すのみである。

そうこうしているうちに、夜になってしまった。

夜が更けるにつれて、物集女、寺戸あたりに、松明の火が灯りだした。その数は、2万、いや、3万・・・。

アンチ仁木サイドの軍勢の接近を見て、「このままでは、とても勝負にならぬ」と判断したのであろう、仁木義長は、仁木頼勝を長坂(ながさか:北区)経由で丹後(たんご:京都府北部)方面へ脱出させ、仁木頼夏を唐櫃越(からうとごえ:右京区)ルート経由で丹波(たんば:京都府中部)方面へ脱出させた。

自身は、京都を脱出して近江(おうみ:滋賀県)方面を目指すかのように装いつつ、粟田口(あわたぐち:東山区)から方向を南へ転じ、木津川(きづがわ:京都府南部)ぞいに進み、伊賀(いが:三重県西部)を経て、伊勢(いせ:三重県中部)へ落ちのびた。

「勢い尽きた仁木義長、京都から逃亡」との知らせを聞き、足利義詮はすぐに京都へ帰った。

「今度の戦は、おそらく、激戦になるであろう」と思っていた、アンチ仁木陣営のメンバーたちは、案に相違して、一戦も無しに勝利を手中に収める事ができたので、皆、喜び勇んで、京都へ入っていった。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 35-1 畠山国清、打倒・仁木義長を図る

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「南方の敵軍を、首尾よく退治!」との公式発表の後、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)は京都へ凱旋(がいせん)、首都では、上から下まで喜びに溢れかえっている。後光厳天皇(ごこうごんてんのう)も叡感(えいかん)限りなくめでたく、「速やかに敵を討ったる大功績、殊更にもって神妙なり」とのメッセージを、勅使を介して送った。

「今回の戦勝祈願(せんしょうきがん)に精魂(せいこん)を尽くした諸寺院の上級僧侶や諸社の神官たちに、直ちに恩賞を与えよ」との、天皇からの言葉があったが、国司(こくし)不在の国も無し、恩賞として与えれるだけの領地も無し、仕方なく、わずかに官位を与えるだけの事になった。

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京都へ帰還の後、細川清氏(ほそかわきようじ)、土岐頼康(ときよりやす)、佐々木道誉(ささきどうよ)らは、畠山国清(はたけやまくにきよ)の館に毎日集まり、先日までの戦場での辛苦を忘れようと、酒宴や茶会などを催しながら、夜となく昼となく遊んでいた。

親交の日が重なり、互いの隔心が完全に消滅してしまうタイミングを、畠山国清は、じっと見計らっていた。

そんなある夜、

畠山国清 (内心)よぉし、もういいだろう。

畠山国清 (ササヤキ声で)なぁ、みんな・・・相談したい事、あんだけどぉ。

メンバー一同 ・・・(いずまいを正す)。

畠山国清 (ササヤキ声で)わしもう、何もかも隠さないで、打ち明けちまうわな・・・実はね、今回、わしが関東からやってきたのはね・・・吉野朝勢力退治の為というのは、単なる表向きの理由でなぁ・・・本当の目的はだな、他でもねぇ・・・あの・・・仁木義長(にっきよしなが)・・・あいつの思い上がりを、いっちょ懲らしめてやろうと思ってね。

メンバー一同 ・・・。

畠山国清 (ササヤキ声で)なぁみんな、考えても見てくれよ、あの男、仁木家のリーダーが務まるような人間かい?

畠山国清 (ササヤキ声で)・・・とても、その器たぁ思えねぇ・・・なのによぉ、まったく分不相応にも、四か国もの守護職についてやがんだよぉ・・・いいかい、四か国だよ、四か国!

畠山国清 (ササヤキ声で)テェ(大)した忠功もねぇくせによぉ、数百か所もの大荘園を、恩賞でゲットしてやがんだぜぇ。

畠山国清 (ササヤキ声で)あいつのやってる事、ありゃぁいってぇなんでぃ! 外に出りゃぁ、仏神をも敬わずに、朝に夕に、狩や漁を楽しんでは殺生(せっしょう)を繰り返す。幕府内では、将軍様(注1)のご命令を軽んじ、政務は完全にほぉったらかし。

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(訳者注1)足利義詮のことである。
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畠山国清 (ササヤキ声で)今度の南方の敵との戦いでも、ひでぇもんだぁ。敵が勝ったら喜び、味方が勝ったら悲しむ。あんなの、勇士の本意と言えるんだろうか、忠臣のふるまいと言えるんだろうか。

畠山国清 (ササヤキ声で)将軍様はなぁ、尼崎(あまさがき:兵庫県・尼崎市)に、200余日もの長きに渡って、陣を敷いておられたんだよぉ・・・で、その間、義長は、いったいどこにいた? そうだよ、ヤツぁ、西宮(にしのみや:兵庫県・西宮市)に、いたんだよ、西宮になぁ・・・尼崎の目と鼻の先さなぁ・・・なのによぉ、将軍様のもとに出向いたこたぁ、ただの一度も無かったよなぁ。将軍様を招いて饗応(きょうおう)するなんて事も、ぜーんぜん(全然)無かったよなぁ。

畠山国清 (ササヤキ声で)あんな不忠者、あんなトンデモヤロウに、大国の守護を任せ、広い領地を支配させといたんじゃ、世の中、ぜぇったい(絶対)うまく治まりっこねぇやなぁ。

畠山国清 (ササヤキ声で)でぇ、この際だぁ、ここに集まったみんなで一致協力して、仁木義長を退治してだなぁ、将軍様のやっかいごと始末をお助け申し上げるってのは、どうだろうねぇ? そうなったら、今は亡き先代様(せんだいさま)だってきっと、草葉の陰で嬉しく思われるにちげぇねぇ(注2)。なぁ、みんな、どう思う?

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(訳者注2)原文では、「故将軍も草の陰にては、嬉くこそ思召候はんずらめ。」。「故将軍」とは、尊氏のことである。
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それを聞いたメンバー一同は、

細川清氏 (内心)国清氏の言う通りだ。あの仁木義長って男、まったくもって、とんでもないトンデモヤロウだ。今回の戦で、三河国(みかわこく:愛知県東部)の星野(ほしの)、行明(ぎょうみょう)たちは、三河国守護であるヤツの配下じゃなく、おれの配下で戦った。あいつめ、それにヘソ曲げちゃって、星野や行明たちの領地をブン取って、自分とこのもん(者)らに配分しちゃった・・・まったくもって、なんてぇヤロウなんだろう、あの仁木義長ってやつは。

土岐頼康 (内心)「義長」って聞いただけで、おれ、もう、トリハダたっちゃうんだわぁ。今はなき土岐頼遠(ときよりとお)の子の左馬助(さまのすけ)は、義長の養子になってる。だもんで、何かといやぁ、義長め、おれの領地を取り上げて、左馬助に与えやがる・・・貯まりに貯ったおれの怒り、もう、ダム決壊寸前よぉ。

佐々木氏頼 (内心)長年の仇敵(きゅうてき)の高山(たかやま)を、ようやっと討てて、あいつの領地を、おれ、将軍様から拝領したわいな。ところが、仁木義長め、ヌケヌケとヌカシよったわい、「あの領地は、建武(けんむ)年間の合戦の勲功として、この義長が先代様から頂いたものである!」・・・フン!・・・でもって、未だに、あこの領地、義長に不法占拠されたまんまや。ほんまに、おもろないでぇ!

佐々木道誉 (内心)フフフン・・・こいつら、義長に、さんざん煮え湯飲まされちゃってるからなぁ・・・さぞかし、恨みイッパイ、骨髄(こつずい)ズイズイズイッコロバシってとこだろよ・・・いや、おれはさぁ、義長に対して恨む含むような事、これといって何もないんだよなぁ・・・ただなぁ・・・あの男の傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の振舞い、あまりにも、目に余るものがあるよなぁ・・・。

このように、そこに集まった今川、細川、土岐、佐々木らは皆、仁木義長に対して不快の念を抱いていたので、畠山国清のこの提案に、全員が乗ってきた。

メンバー一同 (ササヤキ声で)やろうじゃないの! 軍勢が手元に確保できてる今この時に、仁木義長を討ってしまおう! その趣旨はただただ、世の混乱を静めんがため。

畠山国清 (ササヤキ声で)じゃ、今からすぐに作戦会議、始めよう。

メンバー一同 (うなづく)。

メンバー全員、下人らを遠くにやった後、「さぁ、これから作戦会議」というタイミングに、招かれてもいない時宗僧侶や田楽児童ら多数が、室内にゾロゾロと入ってきた。

メンバー一同 (内心)こりゃ、まずいな。

メンバー一同 ・・・(互いに、めくばせ)

というわけで、その日の作戦会議は中止、酒宴のみで終わった。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年4月18日 (水)

太平記 現代語訳 34-10 吉野朝側の上北面侍、不思議な夢を見る

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝側の後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、金剛山(こんごうさん:大阪府-奈良県 境)の奥の観心寺(かんしんじ:大阪府・河内長野市)という寺院の中にいた。そこは、極めて山奥深い所であるので、足利軍も、そうそうたやすく接近してくるわけにはいかない。

しかし、

吉野朝メンバーA 前線拠点と頼りにしてた龍泉峯城(りゅうせんがみねじょう)も、赤坂城(あかさかじょう)も、攻め落とされてしもぉた。

吉野朝メンバーB こないだまで、こっち側についてた武士らも、気ぃついてみたら、よぉけ、敵側に寝返ってしまいよったがな。

吉野朝メンバーC そのうちきっと、山人(やまびと)か樵(きこり)に道案内させて、こないな奥深いとこ(所)にも、敵、攻め入ってきよんのんちゃうやろか。

吉野朝メンバーD あぁ、いったい、どないしたらえぇねん!

後村上天皇はじめ、女院(にょいん)、皇后、公卿らの不安は、もはや極限に達していた。

二条師基(にじょうもろもと)に仕える上北面侍(じょうほくめんざむらい)Eは、吉野朝側が城を次々と落とされ、どんどん劣勢に追い込まれていくこの情勢に、

上北面侍E (内心)こらあかん・・・もう、事態は絶望的や。

上北面侍E (内心)敵がき(来)よらへんうちに、妻子を京都へ送っとかな、あかんなぁ。

上北面侍E (内心)自分も、髪切って出家して、どこぞの山林にでも、身を潜めるしかないわなぁ・・・。

意を決したEは、吉野(よしの:奈良県・吉野郡・吉野町)へ赴いた。

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上北面侍E (内心)あぁ、なつかしいなぁ・・・吉野を離れてから、もうだいぶん(大分)なるわなぁ・・・。

上北面侍E (内心)長年の奉公を捨てて、今、自分は主君から離れていく・・・あぁ、やるせない・・・(涙)。

上北面侍E (内心)この地を見るのんも、今日で最後か・・・なごりおしいなぁ・・・そうや、せめて、もう一度だけでも、先帝(せんてい)陛下の御廟(ごびょう)へお参りしとこ・・・陛下に、出家の暇(いとま)、申しあげると、しよかいな。

彼は、たった一人で、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の御陵へ向かった。

上北面侍E 最近は、御陵の掃除する人も、おらんようになってしもたんやなぁ。

参道は、繁茂した棘(いばら)に塞がれ、御陵の上には葎(むぐら)が茂り、古苔(ふるごけ)がびっしり生えていた。

上北面侍E (ここかしこを見回しながら)それにしても、すごい荒れようやなぁ、いったいいつの間に、こないな無惨(むざん)な事に、なってしもたんやろ。

黄金の香炉には香絶えて、草は一叢(いっそう)の煙を残し、玉殿(ぎょくでん)には灯(ともしび)も無く、蛍が夜明け前の夜を照らすばかり。心無き鳥の声でさえも、哀れを覚えて鳴いているかのように聞こえてくる。岩の間を漏れしたたる水の流れも、悲しみを秘めながら音をたてているかのようである。

Eは、御陵の円墳(えんぷん)の前にひざまづき、先帝の霊に向けて、じっと祈りを込めた。

1時間、2時間・・・いつしか、彼の頬は涙に濡れていた。

上北面侍E 天よ、天よ・・・なんで(何故)・・・いったいなんで、我らを、見捨ててしまわはったんですか・・・。(涙)

上北面侍E つくづく、この憂き世の移り変わる様を案じ見るに・・・いったいなんで、この世の中には、こないなムチャクチャな事が、まかり通っとるんでっしゃろか・・・。(涙)

上北面侍E 先人(せんじん)は、かく、のたもうた、「威(い)有(あ)りて道(みち)無き者は必ず亡ぶ」と・・・。(涙)

上北面侍E 神は誓われたはず、「我、百代の後までも天皇を擁護せん」と・・・そやのに・・・そやのに・・・今の世の現実は、それに、完全に反してるやありませんか!

上北面侍E どないな身分の低いもん(者)でも、死んだ後は霊となり鬼となり、善人を助け、悪人を懲(こ)らす、この理(ことわり)は、言うまでも無い事。ましてや、先帝陛下、陛下は前世(ぜんせい)において、十善(じゅうぜん)を施された、その良き因縁(いんねん)でもって、現世(げんせい)においては、日本全土を統治されるお方として、お生まれになられた・・・。

上北面侍E ならば、たとえ、陛下のお骨は野原の土と朽ち果てたまうとも、そのおみたま(御神霊)は必ずや、天地の中に留まって、帝位を継承された方々を守り、逆臣の威をも亡ぼされるものと・・・わたしは、固く・・・固く・・・信じておりました・・・そやのに・・・。

上北面侍E 臣が君を犯せども、天罰は無し、子が父を殺せども、神の怒りも未だに見えず。いったいぜんたい、この世の中は、どないなってしもてるんでっしゃろか・・・あぁ、あぁ・・・(涙)。

彼は、泣く泣く天に訴え、五体を地に投げて、礼拝をくりかえした。

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やがて、あたり一帯に、不気味な音が鳴り響きはじめた。

音 ガガガガガガガ・・・。

上北面侍E (内心)う!? いったいなんや!

音 グググググググ・・・。

上北面侍E あっ、円墳が・・・揺れてる!

御陵円墳 ガギガギガギガギガギガギガギガギ・・・。

上北面侍E うぁぁぁ・・・。

声F おーい、誰かおらんか! 誰かおらんか!

円墳の中から、声が響き渡った。まことに気高い響きを持つ声である。

それに呼応して、東西の山の峰から、

声G としもと、参上いたしました!

声H すけとも、参上いたしました!

声と共に、二人の男が忽然と、御廟の前に姿を現した。

上北面侍E (内心)なんやて! 「としもと」に「すけとも」!? まさか!

上北面侍E (内心)・・・もしかして、あの両人は・・・あの日野(ひの)の二人かいな、日野俊基(ひのとしもと)、日野資朝(ひのすけとも)かぁ? エェーッ!

上北面侍E (内心)二人とも昔、先帝陛下に打倒・鎌倉幕府を勧めたんで、処刑されたんやったなぁ・・・。

まさにその通り、日野資朝は、元徳(げんとく)3年5月29日に、配所先の佐渡島(さどがしま:新潟県)で斬られ(注1)、日野俊基はその後、鎌倉へ護送され、葛原岡(くずはらおか)で工藤二郎左衛門尉(くどうじろうさえもんのじょう)に斬られたのである。(注2)

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(訳者注1)2-5 参照。資朝が処刑されたのは元徳3年ではなく、元弘2年(1332)。この章の時間設定は観応2年(1351)であろうから、処刑から19年が経過している。

(訳者注2)2-6 参照。
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そこに登場した両人を見れば、顔かたちは、まさしく昔見たその通りではあるが、顔色は朱を注いだように真っ赤、眼光はランランと輝き、左右の犬歯が、銀の針を立てたように、上と下に噛みあっている。

円墳の石の扉 ギ・・・ギ・・・ギギィィィ・・・。

上北面侍E (内心)あっ、墓の扉が!

開いた扉から現われた人を遙かに仰ぎ見れば、それは紛れも無く、後醍醐(ごだいご)先帝・・・龍紋様(りゅうもんよう)の帝衣を着し、抜き身の宝剣を右手に持ち、玉座の上に座している。

その顔は、かつてのそれとはうって変り、怒りの眦(まなじり)は逆さまに裂け、髭(ひげ)は左右に分かれ、まるで、夜叉(やしゃ)か羅刹(らせつ)のごとくである。

先帝は、とても苦しそうに呼吸している。口から出る息は、火炎となって燃え上がり、黒煙が天に立ち上る。

暫しの後、先帝は、俊基と資朝を御前近くに召して、

後醍醐先帝 さてさて、天皇を悩まし、世を乱す逆臣を、いったい誰に罰しさせたら、えぇんかいのぉ?

日野俊基 陛下、その件につきましては、もう既に、マケイシュラ王の午前会議で、議決が行われとりましてな、

日野資朝 討伐軍の大将、もう決定ずみですわ。

後醍醐先帝 おぉ、そやったんかぁ、わしも、そこまでは知らなんだ・・・で、いったい、誰が任命されよった?

日野資朝 はい、まずは、皇居を襲撃しようとしとる日本全国の朝敵どもの退治は、楠正成(くすのきまさしげ)に、申し付けられました。あいつの事ですから、一両日中には、敵を追い返してしまいよるでしょうなぁ。

日野俊基 仁木義長(にっきよしなが)の退治は、菊池武時寂阿(きくちたけときじゃくあ)に、申しつけられました。義長はそのうち、伊勢(いせ:三重県中部)で滅びますやろて。

日野資朝 細川清氏(ほそかわきようじ)退治は、土居(どい)と得能(とくのう)の仕事になりました。四国地方に渡った後に、滅ぶでしょう。

日野俊基 関東からの遠征軍の大将・畠山国清(はたけやまくにきよ)とその弟・義深(よしふか)の退治は、怒りと恨みの強大魔王、あの新田義興(にったよしおき)が自ら願い出て、承認されましたわ。あいつにまかしといたら、畠山退治なんか、イチコロだっせ・・・義興、こないな事、言うてましたでぇ、「国清の郎従(ろうじゅう)連中の首、方々で、刎ねてやります。中でも、江戸下野守(えどしもつけのかみ)と江戸遠江守(とおとうみのかみ)は、メッチャ憎いヤツですから、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)・龍の口(たつのくち)の刑場に引きすえ、我が手にかけて、斬ってしまいましょう!」。

後醍醐先帝 (とても心地良さげにニッコリ)そうかぁそうかぁ・・・首尾万端、準備万端、整ぉとるなぁ・・・よぉしよし・・・ほなら、年号の変わらん前に、みな(皆)、は(早)よ退治してまえ!

日野俊基 ははぁっ!(平伏)

日野資朝 ははぁっ!(平伏)

後醍醐先帝 ・・・(円墳の中に入る)

上北面侍E (ガクッ!)・・・う? 今のはいったい?・・・あぁ、夢やったんかぁ。

熱心に祈り続けた末に気力が尽きてしまい、Eは、円墳の前でいつしか頭を垂れ、ぐっすりと寝入っていたのであった。

彼は、この不思議な夢中の示現(じげん)に驚き、吉野からまた観心寺へ戻り、人々に内々に、自分の見た夢の事を話した。しかし、誰も、本気になってとりあおうとはしない。

吉野朝メンバーF それはな、きっとな、「そうなってほしい」というあんたの願望がな、あんたの夢の中に現われただけの事やで。

しかし、その夢は決して、「ただの夢」ではなかったようである。

吉野朝側は、「もしも、敵が観心寺にまで押し寄せてきたら、陛下を、もっと山奥深くにお隠しする。無駄な戦は止めて、とにかく逃げる。」との方針を固めていた。しかし、足利軍は、ただの一度も攻めてはこなかった。

さらに不思議な事には、それから後、別にどうこういうような出来事も無かったにもかかわらず、「吉野朝勢力の退治、今日をもって、作戦完了」という事になり、5月28日、足利軍総大将・足利義詮(あしかがよしあきら)は、尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)の陣を引き払って京都へ帰還、畠山、仁木、細川、土岐(とき)、佐々木(ささき)、宇都宮(うつのみや)以下、日本全国からやってきた20万騎の軍勢も、我先にと、京都へ帰還の後、各々の本拠地へ帰ってしまった。

吉野朝メンバーA いやぁ、あの上北面侍が、先帝陛下の御陵の前で見たという、あの夢の話!

吉野朝メンバーB あれはどうも、正夢(まさゆめ)やったようですなぁ。

吉野朝メンバーC あないなうまい話、夢の通りに行くはず、ないやんかと、わたいは、ハナから相手にしとりませんでしたけど・・・。

吉野朝メンバーD あの夢の通りに、今後も事が運ぶとなると・・・こらぁなかなか、先行きオモロイ事になってきますでぇ。

吉野朝メンバーA 仁木義長、細川清氏、畠山国清・・・そして誰もいなくなった・・・てな事、期待しても、えぇんかもねぇ。

吉野朝メンバーB こないなったら、最初は疑ぉてはみた、あの夢に、ここはいっちょ、賭けてみましょかいなぁ!

吉野朝メンバー一同 ウンウン!

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 34-9 平石城・攻防戦

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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今川範氏(いまがわのりうじ)、佐々木氏頼(ささきうじより:注1)、その弟・山内定詮(やまのうちさだのり:注1)は、龍泉峯城(りゅうせんがみねじょう:注2)の攻略に遅れを取ってしまった事があまりにも悔しいので、わざと他家の軍を交えずに500余騎を率いて同日夕、平石城(ひらいわじょう:大阪府・南河内郡・河南町)へ押し寄せた。(注3)

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(訳者注1)32-3 に登場。

(訳者注2)龍泉寺(大阪府・富田林市)の付近の場所。

(訳者注3)吉野朝側の平石城への軍勢配備については、34-4 を参照。
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城を守備する側と、たった一回矢を合わせるやいなや、攻撃側は、城内への突入を試みた。

先に進み行く者の盾裏の横木を踏み、兜の鉢を足がかりにして高い切岸を上り、木戸や逆茂木を次々と切り破り、討たれる者をも構わず、負傷者をもかえりみず、全員、我先に城へ突入。

この猛攻には、吉野朝側も到底、抵抗しきれない。その日の夜半頃、全員、城を脱出し、金剛山(こんごうさん:大阪府-奈良県 境)目指して落ちていった。

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龍泉峯、平石と、吉野朝側の2つの拠点を、次々とあっけなく落とせてしまったので、足利軍側は勝ちに乗って龍が水を得たがごとく、和田(わだ)・楠(くすのき)側は、気力を失い、魚が泥の中であえぐがごとしである。

足利軍メンバーA (内心)このチョウシで行ったら、赤坂城(あかさかじょう:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)が落ちる日も近いぞぉ。

足利軍メンバーB (内心)あっという間に攻め落しちゃってぇ、あっち側の天皇、生け捕りにしちまうんでぃ!

足利軍メンバーC (内心)三種神器(さんしゅのじんき)を取りあげて、京都の朝廷へお返ししようじゃぁないの!

足利軍メンバーD (内心)もう、勝負は決まったね!

世間の声E ついに、天下は静まって、幕府の政治権力、確立ですか・・・。

世間の声一同 どうも、そないなカンジですわなぁ。

龍泉峯城、平石城が落ちてしまった今となっては、もはや、八尾城(やおじょう:大阪府・八尾市)の維持も不可能、和田・楠側に残された拠点は、赤坂城だけになってしまった。

足利軍リーダーF 赤坂城ねぇ・・・あの城の構え、まぁ見てよ・・・どう考えたって、そんな大した防衛力があるとは思えないな。

足利軍リーダーG あれはさ、和田と楠がね、自分らの本拠地をおれたちに簡単に蹂躪(じゅうりん)されてはたまらんってんで、あわててこさえた城なんだ。

足利軍リーダーH イッパツ攻めりゃぁ、あっという間に落ちるぜぃ。

というわけで、足利軍全軍合体して20万騎、5月3日の早朝に、赤坂城へ押し寄せた。

城の西北方向30余町ほどの場所に、全軍を展開して陣を取り、まず、向かい城を築いた。

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楠正儀(くすのきまさのり)という人は、一見思慮深いように見えてその実、敵と激しく渡りあうだけの気力に欠ける所があった。(注4)

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(訳者注4)太平記作者は、楠正儀に対して、あまり好意的ではないようである。他の箇所にも、正儀に対する批判の言葉が記されている。知名度の高い人を親や兄弟に持ってしまった人というのは、いろいろとタイヘンなものだなぁ、なにかにつけ、比較されてしまうから。
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楠正儀 あんな大軍相手に戦うやなんて、とうていムリやがな。ここはとにかく、金剛山の奥へひっこんでで、じっと隠れとくのが得策やろう。

和田正武(わだまさたけ) ・・・。

楠正儀 山奥へじっと身を潜めて、敵にスキあらば、その時に、再び戦うんや。

正武は、正儀とは真逆(まぎゃく)、常に戦う事を先行、謀略を構える事を良しとせぬ性格であった。

和田正武 あかん、あかん! そんな弱気な事で、どないすんねん!

楠正儀 ・・・。

和田正武 敗北は戦の常、負けたかて、別にどうて事ないやんけ。ただただひたすら戦うべき時に、戦わずして身を慎む、そないな事しとったんでは、武士の恥じゃ!

楠正儀 ・・・。

和田正武 そないな事しとったんではなぁ、日本国中の武士らに、笑いもんにされてまうどぉ、「あれ、見てみいや、あいつら! 日本全国の武士らを敵に回しといてやで、いざ戦うとなったら、毎度毎度のゲリラ戦しか、よぉしよらんやんけぇ、ざまぁ、見さらせぇ、ワッハッハァ」! そないな事言われて、おまえ、悔しぃないかぁ?!

楠正儀 なら、どないすんねん? どうやって戦うっちゅうねん?

和田正武 おれなぁ、いっちょ、夜討ちかけたろ、思ぉとんねんやんかぁ。太刀の束(つか)まで微塵(みじん)に砕け散るくらい、思いっきり、敵と切りあいしてな、ほいで、敵が散りじりになって退却しよったら、すかさず、勝ちに乗って追撃やぁ! バァンバン、敵、やっつけてもたんねん!

楠正儀 ・・・(首を左に傾げながら、微かに笑み)・・・もしそこで、敵が退いてくれへんかったら?

和田正武 その時は、しゃぁないわなぁ、ハハハ・・金剛山の奥へ引きこもって戦うわいな。

楠正儀 ・・・(首を右に傾げながら、考え込む)。

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和田正武は、夜襲のベテラン300人を選抜した。

和田正武 えぇな! 今夜、夜襲を決行や!

和田コマンド部隊メンバー一同 オィッス!

和田コマンド部隊メンバーI で、タイショウ、合言葉(あいことば)は、なんやぁ?

和田正武 合い言葉は・・・問われたら、そく、「タケシ(武)」と答える。

和田コマンド部隊メンバー一同 オィッス!

彼らはじっと、夜の到来を待った。

時は5月8日の夜、月は宵頃に没してしまい、あたりは暗闇に包まれた。

和田正武 よぉし、行くぞ!

和田コマンド部隊メンバー一同 オィッス!

彼らは、一団となって夜陰の中を進み、足利サイド・結城(ゆうき)軍が築いた向城の木戸口に忍び寄った。

和田正武 エェーイ! エェーイ!

和田コマンド部隊メンバー一同 ウオーーー!

和田部隊のトキの声を聞いて、他の軍の陣は大騒ぎを始めたが、結城軍は少しも騒がず、なりをひそめて、和田部隊の襲撃を待ち構えた。

結城軍リーダーJ よぉし、撃てぇーッ!

結城軍メンバーの弓 ビュンビュンビュンビュン・・・。

結城軍の射手たちは、櫓(やぐら)の矢狭間(やはざま)を一斉に開き、さしつめ引きつめ、和田軍の頭上に、矢の雨を浴びせた。

刀を取る者たちは、垣盾(かいだて)や逆茂木(さかもぎ)を隔て、着実なる防衛戦を展開、上がってくれば切って落し、越えてくれば突き落し、ここが勝負の分かれ道と、必死の戦闘。

和田正武は、全軍の先頭切って、しゃにむに城に切り込んでいく。

和田正武 おまえら、いつも言うとるわなぁ、「命なんか、100でも200でも、ポンポン捨てたるわい」てぇ! その言葉、忘れんと、全員、おれについて来いよぉ!

和田コマンド部隊メンバー一同 オゥィーーッスゥーー!

正武は、結城軍の垣盾を切って引き破り、一枚盾を身に引き付けながら持ち、城の中へ飛び込んだ。

コマンド部隊メンバー300人も続々、正武の後を追って城内へ突入していく。

兜の鉢を傾け、鎧の袖をゆり合わせゆり合わせ、そこかしこで、結城軍と壮絶な切り合いを展開、天地を揺るがし、火花を散らす。

互いに、おめき叫んで斬り合うこと、およそ1時間、結城軍700余人はついに戦い屈し、敗色濃厚となってきた。

その時、細川清氏(ほそかわきようじ)率いる500余騎が、和田部隊の後方につめよってきた。

細川清氏 おぉい、結城の諸君! 退(ひ)くなよぉ! 退いちゃいかんぞぉ! この清氏が今、敵の後に攻めかかったからなぁ! もう大丈夫だ、退くなよぉ、退くなよぉ!

これに力を得て、結城軍の鹿窪十郎(かのくぼじゅうろう)、富澤兵庫助(とみさわひょうごのすけ)、茂呂勘解由左衛門尉(もろのかげゆざえもんのじょう)の3人が、そこに踏みとどまって戦った。

和田部隊の側も、既に数十人が戦死、負傷者多数の状態である。

和田正武 (内心)限界やなぁ・・・。

和田正武 よぉし、退却!

和田コマンド部隊メンバー一同 オィッス!

和田部隊は、城の一方の垣盾を踏み破り、一斉に退却を開始した。

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結城軍・若党集団中に、物部次郎(もののべじろう)他、うでのたつ者ぞろいの4人のグループがあった。

かねてより、この4人は、「もしも敵が夜襲をしかけてきたら、4人そろって、退却する敵の中にまぎれ込み、そのまま、赤坂城の中へ入ってしまおう。それから後は、和田、あるいは楠と相打ちして死ぬか、それがダメなら、城に火をかけて焼き落とすかだ。」と、約束していた。

4人はその約束通りに、退いて帰る和田部隊に紛れ込み、赤坂城内へ入る事に成功した。

夜討ちや強盗から帰ってきた時には、「立勝(たちすぐ)り居勝(いすぐ)り」という事を行う。これは、あらかじめ決めておいた2個の合言葉をリーダーが任意に発し、それに応じて、メンバー全員がサッと立ったり、サッと座ったりするのである。このようにして、紛れ込んできた敵を発見する事ができるのだ。(注5)

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(訳者注5)紛れ込んできた者は、その2個の合言葉を知らないから、リーダーの発する合言葉に対して、正しく対応できない。
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赤坂城に帰還の直後、和田コマンド部隊は、四方に松明(たいまつ)をかざして、その「立勝り居勝り」を行った。

紛れ込んできた結城サイドの4人は、このような事に馴れてはいなかったので、簡単に見破られてしまった。大勢の中にとりこめられて、哀れ、4人共に討死、歴史の中に名を留める事になった。

世間の声K 「天下一の剛の者」とは、まさに、彼らの為にある言葉でしょうなぁ・・・。

世間の声一同 同感、同感。

和田正武のこの夜襲をもってしても、足利軍側はただの一陣も退かず、もはや、赤坂城の維持さえも不可能と思えてきた。

楠正儀 なぁ、もうムリやろぉ?

和田正武 ・・・。

楠正儀 これ以上、ここにこもって、敵を防ぐのん、もうムリやでぇ。

和田正武 そうやなぁ・・・。

というわけで、その夜半、和田と楠は、赤坂城に火を放ち、金剛山の奥へ退いた。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 34-8 龍泉峯城、陥落す

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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和田正武(わだまさたけ)と楠正儀(くすのきまさのり)は、龍泉峯(りゅうせんがみね:注1)の城に、大和(やまと:奈良県)と河内(かわち:大阪府南東部)の武士1000余人を篭城(ろうじょう)させていた。(注2)

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(訳者注1)龍泉寺(大阪府・富田林市)の付近の場所。

(訳者注2)龍泉峯への吉野朝軍の軍勢配置については、34-4 を参照。
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ところが、城に対して、足利軍側からは全く何の攻撃もない。

そこで、「徒(いたずら)に兵を城に置いとくのんも、えらい無駄な話やんけ、城から出して分散配置し、ゲリラ戦でもって、兵力の有効活用はかろうや」という事になり、城にこもっている武士たちを全員呼び下した後、弱小の野伏(のぶせり)100人ほどを、「見せかけの兵力」として城に残した。

なおかつ、こちらの木の梢(こずえ)、あちらの弓蔵(ゆみかくし:注3)の外れにと、そこら中に旗だけを結わえ付けて、いかにも大軍がたてこもっているように、カモフラージュさせた。

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(訳者注3)弓の射手が隠れる場所。
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これを見た、津々山(つづやま:大阪府・富田林市)に布陣の足利軍側は、

足利軍メンバーA すっげぇなぁー。

足利軍メンバーB あっちの兵力、めっちゃくちゃ、多いじゃぁん。

足利軍メンバーC 四方に手を立てたように切り立ってるあの山の上に、あんな大勢たてこもってやがるんじゃぁ・・・。

足利軍メンバーD たとえ、いかなる鬼神が攻撃したとしても、

足利軍メンバーE あの城、攻め落とすの、とてもムリだよねぇ。

皆、口々に言い恐れ、「あの城を攻めてみよう」と言いだす者は一人もいない。

ただ徒(いたずら)に、山上に翻る城の旗を見上げながら、それから150日ほどが経過した。

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足利軍中に、土岐・桔梗一揆(とき・ききょういっき)武士団所属の、小才の効くベテラン武士がいた。

桔梗一騎武士団メンバーF フーン・・・(龍泉峯城を凝視)・・・フーン・・・フン・・・フン・・・。

桔梗一騎武士団メンバーF おい、みんな! わかったでぇ! 敵の手の内、読めたでぇ!

桔梗一騎武士団メンバーG わかったって・・・いったい何が?

桔梗一騎武士団メンバーF あのな、太公望呂尚(たいこうぼうりょしょう)が書いた「六韜(りくとう)」って兵法書に、こんな事、書いてあんだわ、「塁虚編(るいきょへん)」ってとこにな、

 其(そ)の塁上(るいじょう)を望むに、飛鳥(ひちょう)驚かざれば、必ず敵、詐(いつ)わりて、偶人(ぐうじん)を為(つくれ)りと知る

桔梗一騎武士団メンバー一同 ・・・。

桔梗一騎武士団メンバーF おれな、ここ3、4日、あの城に接近して、いろいろじぃっと観察しとったんだわ。で、ついに、ある事に気ぃ付いたわけよ。

桔梗一騎武士団メンバー一同 ・・・。

桔梗一騎武士団メンバーF 見ろや、あの城の上・・・鳥、たくさん飛んどるやろ? 天にはトンビ舞っとるし、夕方には林に帰ってく烏も飛んどるわ。だけんどな、見てみいな、あれ! あいつら、城の上、悠々(ゆうゆう)と飛んどるがね・・・モノに脅えたような気配、全く無いやろ?

桔梗一騎武士団メンバーG あぁ、言われてみりゃ、なるほど。

桔梗一騎武士団メンバーF おれが思うには、あの城、空っぽだで。旗だけ、あっちゃこっちゃ立ててな、大勢たてこもっとるように見せかけとるんだわ、ゼッタイそうやで、そうに決まっとるで!

桔梗一騎武士団メンバー一同 ウーン!。

桔梗一騎武士団メンバーF なぁ、みんな、どや、よそ(他家)の連中混ぜんと、おれら桔梗一揆グループだけでもって、あの城、落としてみんか? うまくいったら、おれら、日本国中から拍手喝采だでぇ!

桔梗一騎武士団メンバーG おれらだけで、落とせるかなぁ?

桔梗一騎武士団メンバーH 落とせるわぁ! 誰も守っとりゃせん、カラッポの城だでぇ!

桔梗一騎武士団メンバー500余人一同 よーし、やってみるか!

桔梗一騎武士団メンバーI やるなら、すぐやろや!

桔梗一騎武士団メンバー500余人一同 よーし!

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うるう4月29日早暁(そうぎょう)、桔梗一揆武士団500余騎は、密かに津々山を下山し、夜明け前の霧に紛れて、龍泉峯城に接近していった。

桔梗一騎武士団メンバーF おぉ、見えてきたぞ、あそこが、城の一の木戸口や。

桔梗一騎武士団メンバー一同 ムムム・・・。

桔梗一騎武士団メンバーF さぁ、みんな、行くかぁ!(抜刀)

桔梗一騎武士団メンバー一同 (一斉抜刀)・・・。

桔梗一騎武士団メンバーF エェーイ! エェーイ!

桔梗一騎武士団メンバー一同 ウォーーーー!

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津々山の陣中で、隣合わせに陣オフィスを構えていた細川清氏(ほそかわきようじ)と赤松範実(あかまつのりざね)は、このトキの声を聞いて飛び起きた。

細川清氏 おい、今の、聞いたか?

赤松範実 聞いたわ、聞いたわ、聞かいでかぁ!(鎧を着ながら)えぇぃもう! どこのどいつか知らんけんど、まんまと、先駆けやられてしもたのぉ!

細川清氏 (鎧を着ながら)フフン、トキの声を上げるだけなら、カンタン、カンタン。城に切り込む事こそ、最大の手柄。

赤松範実 城に切り込んでこそ、ほんまの先駆けじゃぁー! おい、馬に鞍置けぇー!

細川清氏 旗持ち、急げーッ!

赤松範実 (馬にサッとまたがる)行くぞぉー!(拍車を入れる)

赤松範実の乗馬の拍車 ガガッ!

細川清氏 (馬にサッとまたがる)おう!(拍車を入れる)

細川清氏の乗馬の拍車 ガガッ!

道々、高紐(たかひぼ:注4)を締めながら、二人は馬をひた走りに走らせ、龍泉峯城の西側にある一の木戸の前に駆けつけた。

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(訳者注4)鎧の肩上と胸板を結ぶ紐。
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二人の眼前には、城の高櫓がそびえたっている。

馬から下りて後方をキッと見やれば、すぐ後ろには赤松範実の家臣、田宮弾正忠(たみやだんじょうのちゅう)、木所彦五郎(きどころひこごろう)、高見彦四郎(たかみひこさぶろう)の3人が続いていた。さらにその後方には、細川清氏の家臣ら6、70人が、崖を上り掘を越えながら、続いていた。

細川家の旗持ちは、高岸に馬の鼻を突っこんでしまい、そこを上りかねていた。

清氏は、彼の側まで走り下り、その旗を取り、城の切岸の前に突き立てて、大声で叫ぶ。

細川清氏 城攻め一番乗りぃ、細川清氏ぃー!

赤松範実 (塀の上を乗り越え)ちゃうでぇ、ちゃうでぇー! 城攻め一番乗りは、この赤松範実やでぇー! 細川殿には後日、おれの一番乗りの証人になってもらうんやぁー!

細川清氏 なぁにをぬかすか、このぉ!(塀の上を乗り超える)

桔梗一騎武士団メンバー一同 いかん、先越されてまうで! 早(はよ)ぉ行かなぁ!

桔梗一騎武士団メンバー中の、日吉藤田兵庫助(ひよしふじたひょうごのすけ)、内海光範(うつみみつのり)が、城の木戸を破って内部に突入した。

城内の野伏たちは、暫(しば)し抵抗を試みたが、「相手は大勢、味方は無勢、こりゃとても、かないませんわいな」と諦め、心静かに防ぎ矢を射ながら、赤坂城(あかさかじょう:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)めざして、城から落ちていった。

方々に分散して陣を敷いていた足利側の全軍も、遅ればせながらも行動を開始、

足利軍リーダーJ おいおい、聞いたかよぉ! 桔梗一揆の連中が、城へ向かったって言うじゃねぇか!

足利軍リーダーK あぁ、聞いた、聞いたァアーア(あくび)。

足利軍リーダーL 早く行かなきゃ! 城、落ちちゃうよぉ!

足利軍リーダーM 大丈夫だよぉ、そんなにあせらなくっても・・・そんな簡単に落ちるわけ、ねぇだろぉ。

足利軍リーダーK そうだよ、そうだよ、ゆっくり行きゃぁいいのさぁァアーア(あくび)・・・おーい、みんなぁ、盾の板締めろよぉー・・・射手は全員集合ぉーー・・・射手を先頭に、さあ、ボチボチ、行くかぁァアーア(あくび)。

足利軍10万余騎が龍泉峯城の山麓へ到着した時には、既に城は攻め落とされてしまい、櫓や垣盾(かいだて)には火が掛けられていた。

足利軍リーダーJ あぁ、やられたぁ!

足利軍リーダーK 城の中には、ほんの僅かしか、いなかったんだってぇ。

足利軍リーダーL そんなに少ねぇと分かってりゃぁ、おれだって、さっさと攻めてたぁ。

足利軍リーダーM まんまと、土岐と細川に、一番乗りの手柄、立てさせちゃったじゃぁん・・・あーあ。

足利軍リーダー全員 クヤシイねぇー!

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 34-7 興良親王、吉野朝廷において反乱を起こす

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)には、一人のホープ(期待される人)が存在した。それは、故・護良親王(もりよししんのう)の遺児・将軍の宮・興良親王(おきよししんのう)である。

親王の母は、北畠親房(きたばたけちかふさ)の妹である。

吉野朝閣僚A なんせ、あの宮さまは、ご幼少の頃からほんまに、文武両道に秀でておられましたわなぁ。

吉野朝閣僚B まさに、お父様譲りですわ。

吉野朝閣僚C まぁ、見てなはれ、興良親王殿下は必ずや、わが朝廷の勢力挽回に、大きな力を発揮されまっせ。

吉野朝閣僚D 再び、日本全土は、わが朝廷のもとに統一・・・。

吉野朝閣僚E そないなったら、先帝陛下(注1)も、どれほどお喜びになられることでしょう。

吉野朝閣僚A 先帝陛下のご遺志、なんとしてでも、実現せんとなぁ!

吉野朝閣僚B それを実現できるだけのご器量、殿下、お持ちでっせぇ。

このような期待の下に、後村上天皇(ごむらかみてんのう)即位の後、直ちに天皇からの宣下(せんげ)があり、この皇子に征夷大将軍の位が授けられたのであった。

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(訳者注1)後醍醐先帝。「後醍醐先帝の遺志」については、21-4 参照。
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去る吉野朝年号・正平(しょうへい)7年(1352)、赤松則祐(あかまつのりすけ)が、吉野朝側に寝返ってきた(単なる策謀に過ぎなかったが)。その時、吉野朝廷は、興良親王を大将として、則祐の上につけた。

しかし、則祐は、たちまち心変りして、再び足利幕府側についてしまった。

その結果、親王は、心ならずも京都へ送られ、囚人扱いのような処遇を受ける事になった。

ところがその後、但馬(たじま:兵庫県北部)国の吉野朝側勢力の者らが、興良親王を救出し、高山寺(こうさんじ:兵庫県・丹波市)に入れて守った。

本庄平太(ほんじょうへいた)と本庄平三(へいぞう)は、親王を頭と仰いで挙兵し、但馬・丹波(たんば:兵庫県北東部+京都府中部)の両国を制圧、一帯の勢力を、残らず支配下に置く事に成功した。

興良親王 さぁ、次は、播磨(はりま:兵庫県西南部)やなぁ!

興良親王は、直ちに軍勢を率いて山陽道(さんようどう)へ進み、赤松則祐の軍勢3,000余騎と、甲山(かぶとやま:兵庫県・西宮市)山麓で衝突した。

まさに戦たけなわ、という時に、親王が一騎当千と頼りにしていた本庄兄弟が、共に数箇所の傷を追い、二人同時に討たれてしまった。

興良親王側は、たちまち総崩れになってしまい、親王は、かろうじて河内(かわち:大阪府南東部)へ逃れた。

その後も、方々の吉野朝側勢力から、「興良親王様を、大将に仰ぎたてまつりたいので、こちらへ派遣してください」との要望が、多く寄せられたのだが、「陛下のおわす本拠地において、万一の事があった際には、この親王殿下に全軍を統括してもらわんと」ということで、どこへ派遣される事も無かった。その武略の才を高く評価され、吉野の奥に、大事にとっておかれたのである。

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吉野朝廷の閣議において、興良親王は、主張した。

興良親王 皆も承知のように、こないだの紀伊国(きいこく:和歌山県)での戦は、惨敗に終わってしもぉた。大将の四条隆俊(しじょうたかとし)は、かろうじて、阿瀬川(あぜがわ:和歌山県・有田郡・有田川町)に逃れた。

吉野朝閣僚一同 ・・・。

興良親王 和田正武(わだまさたけ)と楠正儀(くすのきまさのり)も、津々山(つづやま:大阪府。富田林市)に布陣の敵軍に攻めたてられて、消耗が相当激しぃなってきとる。

吉野朝閣僚一同 ・・・。

興良親王 今のうちに手ぇ打っとかんと、もう後が無い! 陛下、私に、それ相応の兵力を下さい、自ら前線に出向いて、戦いますから。

吉野朝閣僚一同 ウーン・・・。

後村上天皇 ウーン・・・。

興良親王 今のうちに、なんとかせんと!

親王の度重なる主張に、天皇も閣僚も心動かされ、ついに、親王は前線に送り出される事となった。

朝廷は、赤松氏範(あかまつうじのり)(3、4年前に、兄弟仲たがいの為、吉野朝側へ寝返ってきていた)に吉野18郷の武士たちを添え、彼らを、親王の配下に設定した。

--------

人間の心というものは、まったくもって、はかり知れないものである。

いったい、いかなる心理状態でもって、このような事になったのか、軍勢を手中に収めた親王は、とんでもない事を考えはじめた。

興良親王 (内心)・・・今上天皇(きんじょうてんのう)を亡き者にする・・・そないしたら、足利幕府にとっては、まことに大なる功績や・・・吉野18郷一帯の領主権くらいは、恩賞にくれるやろ、きっとな。

親王は、密使を足利義詮(しかがよしあきら)のもとに送り、様々にしめしあわせた後、4月25日、ついに蜂起した。

配下の軍勢200余騎と野伏(のぶせり)3,000人を率いて、賀名生(あのお:奈良県・五條市)の奥の銀峯山(かねがたけ:奈良県・五條市)という山に登り、叛旗を翻した。そして、先の皇居であった賀名生の黒木の御所(くろきのごしょ:注2)をはじめ、周辺の山中に隠れ住む諸卿の宿所を、残らず焼き払ってしまった。

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(訳者注2)26-5 参照。
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しばらくは、事の真相を知る人は少なかったから

吉野朝メンバーF 興良親王殿下、いったい、どないしはったん?

吉野朝メンバーG 黒木の御所を焼いてしまわはったとかいうん、あれ、ほんまかぁ?

吉野朝メンバーH いったい、なに考えてはんのやろ。

吉野朝メンバーI いやいや、あれはきっとな、殿下のご作戦やて。

吉野朝メンバーJ 我が方の本拠地を焼いて、敵をだまくらかそうっちゅう事なんやろう、中国元(げん)王朝の伯顔(はくがん)将軍のようにな。

吉野朝メンバーK あるいは、もしかしたら、楚(そ)の項羽(こうう)の事跡にならわれたんかもなぁ。自ら陣屋を焼いて、再びこの陣へは戻って来んと誓った、あれやで、あれ。

みんな様々に推量をめぐらしてはみるものの、興良親王が敵側に回ってしまったとは、誰一人として知るよしもない。

しかし、吉野朝廷から派遣された担当者の精力的な調査の結果、ついに真相が明らかになった。

閣僚メンバーC えらいこってすわ! 興良親王、敵に内通しはりましたで! 銀峯山に上って気勢を上げとられます。はよ、なんとかせんと!

閣僚メンバーD なにーぃ!

閣僚メンバーA 信じられへん・・・あの宮様が・・・。

閣僚メンバー一同 なんでやねん!

翌日さっそく、二条師基(にじょうもろもと)を大将に、和泉(いずみ:大阪府南部)、大和(やまと:奈良県)、宇陀郡(うだぐん:奈良県)、宇智郡(うちぐん:奈良県)の勢力1,000余騎をさしむけた。

二条軍の到来を見た、吉野18郷の武士らは、

吉野18郷の武士たち一同 (内心)謀反起こしよった親王の下なんかに、ついてられっかいやぁ!

彼らは、陣営から四散逃亡(しさんとうぼう)、かくして、興良親王の手持ち兵力は、わずか50騎だけになってしまった。

赤松氏範 (内心)オチメになってしもうた殿下を、見捨てて逃げたりしたら、武士の道に反するわなぁ・・・しゃぁない、ここは討死にするしかない!

意を決した赤松主従26騎は、四方に馳せ向かい、火花を散らして戦い続ける。

二条軍側も、そうそう簡単には親王に近づけない。

3日3晩戦い続けた末に、赤松氏範は、数箇所の負傷を負ってしまい、

赤松氏範 もうあかん、ギブアップやぁ!

かくして、興良親王は、奈良(なら:奈良県・奈良市)方面へ落ち、赤松氏範は播磨へ逃亡、兄の赤松則祐に降伏して、命をつないだ。

それにしても、まったく不可思議としかいいようのない、思いもかけない興良親王の謀反であった。

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故・足利尊氏(あしかがたかうじ)卿が朝廷に叛旗を翻し、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)が吉野において崩御(ほうぎょ)されてより今日に至るまで、天下大いに乱れること、既に27年。

今や、公家に仕えている人たちは、ことごとく生活に困窮し、道路に袖を広げる物乞いになりはててしまっている。

一方、足利幕府に奉公する族(やから)は皆、国郡(こくぐん)に肘(ひじ)を張って、ハブリをきかせている。

このような「武高公低」の社会構造が形成されてきた、その流れの発端は、いったい何であったのか? 端的に言ってしまえば、それは、「尊氏卿が、故・護良親王を殺し奉った」事にある。(注3)

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(訳者注3)原文には、次のように記述してある。

 「抑(そもそも)故尊氏卿朝敵と成て、先帝外都にて崩御なり、天下大に乱て今に廿七年、公家被官人悉(ことごとく)道路に袖をひろげ、武家奉公の族(やから)は、皆国郡に臂(ひじ)を張る事は何故ぞや。只尊氏卿、故兵部卿親王を殺し奉し故也。」

太平記のこの箇所の記述は、これまでの記述と、以下の点で矛盾している。

(1)13-5 での太平記の記述は、「足利直義が護良親王殺害を命じた」というストーリーだけが記述されていて、それへの尊氏の関与については、何のコメントもない。

(2)14-2 での太平記の記述は、「足利尊氏は、「護良親王殺害に関して、自分には責任はない」との主張を行い」というストーリーになっている。
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興良親王はこの護良親王の遺児なのであるからして、もしも天がそれを許したならば必ずや、日本全国66か国ことごとく、「このお方こそまさしく、天下の征夷大将軍」として、親王に帰服したことであろう。

そうなっておれば、故・後醍醐先帝も、草葉の陰でどんなにお喜びになられたことであろうか。その忠孝のお志に対しては、天神地祇(てんじんぢぎ)も必ずや、感応(かんのう)のおんまなざしを添えられたに違いない。

かくして、子々孫々に至るまで繁盛(はんじょう)し、天下の武将としての務めを、立派に果たされる事になっていたたであろうに・・・。

このような、無思慮なる謀反を起こして、先帝陛下や皇族方の御遺骸の上に、血をそそぎかけるような結果となってしまった。

亡父・護良親王殿下もいかほど、落胆しておられることであろうか、その草葉の陰はきっと、涙の露に濡れしきっている事であろう。

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ここで、古代中国のある逸話を、一つ紹介しておきたい。

時は後漢(こうかん)王朝時代、一人の貧しい人がいた。

通りいっぺんの「貧しい」などというものではない・・・朝ご飯を作る煙も完全に絶えてしまい、柴の庵(いおり)をしばし訪ねてくる者も一人としていない。ただただ絶え忍びながら、生と死との境目の上に、かろうじて我が身をつないでいた。

男 いかん・・・もう、いかん・・・ここにいたのでは、生計の道が立たぬわい・・・このままでは、餓死するしかない・・・。

いたしかたなく、彼は、曹娥(そうが)という一人娘を伴って、他の地へ落ちていった。

洪河(こうが)という名の川を渡ろうとしたが、あいにく、水かさが増し、橋も無く、舟も無い。

男 あぁ・・・目指す目的の地は、遥かかなたじゃ。泊まれるような里からも、遥か遠くまできてしもぉた。あぁ、いかにせん・・いかにせん。

男 かというて・・・いつまでもここに止まっておっても、せんなきこと・・・。

男 よし、わが娘を背負い、歩いて川を渡るべし!

まずは、川の深い場所と浅い箇所を調べてみようと思い、曹娥を岸の上に残し、彼は、一人で川に入っていった。

おそるおそる、彼は、浅瀬に歩を進めていく・・・と、その時、

男 あぁーっ! うあぁーーー!

彼の眼前に突如、水中から巨大な毒蛇が浮上した。

男 あーっ! あーっ!

曹娥 お父さま! お父さま!

巨大毒蛇 バクン!

毒蛇は男をくわえたまま、深淵の底へ潜ってしまった。

これを見て曹娥は、

曹娥 (手を上げ、地に倒れ)あぁ、お父さま、お父さま!

曹娥 (手を上げ、地に倒れ)どうしよう、どうしよう・・・誰か、誰か、助けて! 助けてぇ!(涙)

しかし、彼女を助けてくれる人は、一人もいなかった。

曹娥 もしかしたら、川下の方に、浮き上がっておられるやも・・・とにかく、探して見よう!

彼女は、水際に添って川下へ歩いてみた。しかし、どこにも、父が浮き上がっている気配は見えない。

曹娥 もしかして、岩の間に、流れかかっておられるかも・・・。

岸に上がって川を見渡してみたが、散り浮かぶ木の葉の他には、岩にせきとめられている物は、何も無かった。

それから一日が経過、また一日が経過・・・

日を暮し、夜を明かし、父と離別してたった一人で、空しく元の地へ帰っていく気にもなれない。

7日7夜、彼女は、川の上にひれ伏し、天に叫び、地に慟哭(どうこく)した。

曹娥 天の神よ、地の神よ、願わくば、願わくば、わが父をさらいし、にっくきあの毒蛇めを、罰したまわんことを。

曹娥 天の神よ、地の神よ、願わくば、願わくば、たとえ命空しき姿なりとも、わが父を今一度、我に見せしめたまえ。

曹娥 梵天(ぼんてん)よ、帝釈天(たいしゃくてん)よ、堅牢地神(けんろうじじん)よ、願わくば、願わくば!

肝胆(かんたん)を砕いて、彼女は祈り続けた。

曹娥 (内心)この願いが叶わぬのであれば、父上と共に、川底へ身を沈めるまで!

彼女の祈りはみごと、蒼天(そうてん)にまで届いた。

洪河の水が突如、鮮血に染まり、波の上に、異様な物体が浮揚した。

それは、かの巨大毒蛇の死体であった。河の神に罰せられたのであろうか、その死体はズタズタに切り裂かれており、その中に、父の遺骸があった。

曹娥は、父のお骨を拾い、泣く泣く、故郷へ帰っていった。

彼の地の人々は、この父と娘を憐れみ、そこに塚を築いて、記念の石碑を建てた。それは今も残っていて、その石碑に刻まれた碑文を読んだ旅人は感涙にくれ、詩人は感動のあまり、詩を詠んだのである。まことに哀れな、親孝行の物語ではないか。

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さらにもう一つ、逸話を。

発鳩山(はっきゅうさん:山西省)に、精衛(せいえい)という人がいた。

ある時、精衛は他国へ旅に出たが、その帰途、海上で暴風に遭遇して船は転覆、海中に沈んで死んでしまった。

故郷には、幼い息子が一人、父の帰りを待っていた。

父が海に沈んでしまった事を聞き、その子は海岸に行って、夜となく昼となく、泣き悲しんでいたが、なおも父を慕う思いに耐えかねて、ついに蒼海(そうかい)の底に身を投げて死んでしまった。

その子の魂魄(こんぱく)は、なおもそこに留まり、ついに一羽の鳥と化した。

その鳥は、波の上を飛び渡りながら、「精衛、精衛」と、鳴く。

その鳴き声を聞いた人は皆、涙した。

鳥に姿を変えてからも、父の命を奪った海に対する怨念は尽きる事が無い・・・ある日、この鳥の心中に、とてつもない大望が生じた。

その時から、鳥は毎日3度、草の葉や木の枝をくわえてやってきては、海中にそれを沈める、という動作を繰り返し始めた。

鳥 (内心)我、このにっくき大海を埋めて、平地になさん!

大海の底にはシンク(sink)があって、そこから絶えず海水が漏れ出ているというが、それでも、水が無くなる事など決してないのである。古代中国の湯王の時代には、8年間に7度もの干魃(かんばつ)があったというが、それでも、大海からは一滴の水も減ずる事が無かったのである。

たとえいかなる神通力をもってしても、大海を埋めてしまう事など、できようはずがあろうか。

しかしながら、父の仇を取らんが為に、一枝一葉(いっしいちよう)を口に含んでは海中にこれを沈めるというこの鳥の志、まことに、涙無くしては語れない。

故に、ある詩人は、これを讃嘆して、次のような詩を読んでいる。

 その鳥の姿を見て
 世間の人は 笑うんだろうな
 海を埋めつくすだって?
 そんな努力 いくらしてみたところで
 結果は ゼロさ

 その鳥の姿を見て
 私は 笑わない
 私はむしろ 憐みをおぼえる
 ああ その志
 広大なること 無限大

(原文)
 人笑其功少
 我怜其志多

世間の声K さてさて、みなさん、どない思わはりますか? この二つの話をお聞きになって。

世間の声L 精衛はんのお子はん、ほんまに、親孝行の心あついお子はんどすわなぁ・・・(涙)

世間の声M ちっぽけな鳥の体でもって、あの大海を埋めてしまおうってんだから・・・ほんとスゲェよなぁ。

世間の声N 曹娥はんかて、立派なもんどすえ。幼い女児でありながら、お父はんの事を悲しんで、天に祈らはったんですやろ? ほいでもって、お父はんのカタキの毒蛇を殺す事ができた、いうねんからなぁ・・・ほんに、リッパなもんどすえぇ。

世間の声O それにひきかえ、この興良親王殿下はなぁ・・・。

世間の声P 人間の身に生れながら、鳥獣にさえも、その志、劣っとるがね。

世間の声Q 男子としての生を受けながら、その振舞い、女子よりも劣ってんじゃぁねぇのぉ。(注4)

世間の声R なっさけねえわなぁ、謀反だなんて・・・護良親王殿下の血ぃ引いてるんじゃったら、もうちょっと、まともな行動せんとねぇ。

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(訳者注4)ここは原文では、「人として鳥獣にだにも不及、男子にして女子にも如ず、何をか異也とせんやと、此宮の御謀叛を欺き申さぬ人はなし。」となっている。「男子にして女子にも如ず」の記述は、現代の男女平等の観点からは、極めて問題のあるものであるが、原文にこのようにあるので、仕方なく、上記のように現代語に翻訳した。
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太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 34-6 第2次・ 龍門山戦

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「紀伊国(きいこく:和歌山県)・龍門山(りゅうもんざん:和歌山県・紀の川市)の戦闘において、畠山(はたけやま)軍、戦死者多数、和佐山(わさやま:和歌山県・和歌山市)の我が方の陣も、もはや維持困難!」との報に、津々山(つづやま:大阪府・富田林市)に陣取っている軍勢も、尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)にいる足利義詮(あしかがよしあきら)も愕然(がくぜん)、色を失ってしまった。

しかし、仁木義長(にっきよしなが)だけは、我が意を得たりとばかりに、一人ほくそえんでいる。

仁木義長 なにぃ、畠山軍大敗ってかぁ・・・ムッフフフフ・・・おれの思惑通りに、なってきたじゃねえかよぉ、ムフフフフ・・・。

仁木義長 あぁ、もうこうなったら、津々山の陣、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)の陣、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)の陣、どこもかもみぃんな、敵に追い散らされてしまいやがれぃ! みぃんな丸裸になって逃走しちまいやがれぃ! じぃっくり見物して、楽しませてもらうとしようぜぇ・・・ムハハハ、ムハハハ、ウワハハハハ・・・。

仁木義長は、いったい、足利軍の味方なのか敵方なのか? 全くもって理解しがたい、その心理状態である。

足利義詮 いかん、このままじゃ、いかんよぉ・・・紀伊の龍門山にいる敵に対抗して敷いた、こちらサイドの向かい陣が追い落とされてしまったんじゃぁ、もう津々山だって、とても、もちこたれるもんじゃぁない・・・いかん、このままじゃ、いかん!

足利軍リーダーA 敵がここまで迫って来ないうちに、新手を送って、畠山義深(はたけやまよしふか)殿を応援させては、どうでしょう?

足利義詮 そうだなぁ・・・それしかないだろうなぁ。

というわけで、4月11日、畠山義熈(よしひろ)、今川了俊(いまがわりょうしゅん)、細川家氏(ほそかわいえうじ)、土岐直氏(ときなおうじ)、小原義信(おはらよしのぶ)、佐々木定詮(ささきさだのり)、芳賀公頼(はがきみより)、土岐の桔梗一揆(ときのききょういっき)武士団、佐々木の黄一揆(ささきのきいっき)武士団ら、総勢7,000余騎を、再び紀伊へ送った。

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自らは天王寺に留まり、息子の公頼を紀伊へ送り出す事になった芳賀禅可(はがぜんか)は、公頼を見送りながら2、3里ほど同行した。

芳賀禅可 じゃ、そろそろこのへんで・・・。

芳賀公頼 はい・・・父上、どうかお元気で・・・。

芳賀禅可 うん・・・。

芳賀公頼 ・・・。

芳賀禅可 ・・・。

芳賀公頼 ・・・。

芳賀禅可 あのなぁ、公頼・・・(涙)。

芳賀公頼 はい。

芳賀禅可 ・・・関東に、名のある武士は大勢いるけんど・・・武士として何ら恥じる所のない、人に後ろ指一本たりとも指される事がない・・・そんな家は、わが芳賀一族以外には、ひとっ(一)つもねぇんだから・・・分かってるよなぁ!(涙)

芳賀公頼 はい、分かってます!

芳賀禅可 こないだの戦、こっちはあれほどの大軍だったのに、もののみごとに負けちまって、敵に力つけちまった・・・だから、今度の戦、こっちがますます不利になるって事だけは、よくよく、心得といた方がいいぞぉ!(涙)

芳賀公頼 はい。

芳賀禅可 もしも・・・もしもだ、今度も戦がうまくいかずに、おまえが逃げて帰ってきたら・・・そうなりゃ、また、こないだの繰り返し・・・畠山のあのブザマな壊走の繰り返しになっちまわぁ・・・敵は、ますます勢いづきやがる。

芳賀公頼 ・・・。

芳賀禅可 そうなったら、またヤツめ、手ぇ叩いて笑いやがるんだろうなぁ・・・仁木めぇ!

芳賀公頼 ・・・。

芳賀禅可 そんな事になったんじゃぁ、おれ、もうとても耐えられねぇや・・・おまえの恥はそく、俺の恥さな。

芳賀公頼 ・・・。

芳賀禅可 今回の戦でもし、敵を追い落とせなかったら・・・もし、追い落とせなかったら・・・おい、頼むからな、生きたまま、おれに顔を合わせるのだけは、やめてくれよなぁ・・・。(涙)

芳賀公頼 はい!(涙)

芳賀禅可 (懐から七条袈裟(しちじょうげさ)を取り出して、公頼に渡す)これはな・・・(涙)、円覚寺(えんがくじ:神奈川県・鎌倉市)の長老から頂いたお袈裟だ・・・これを母衣(ほろ)に懸けて戦え・・・そうすりゃ、後世に受ける悪報から、逃れられるだろうから・・・。(涙)

芳賀公頼 (袈裟を受け取る)はい!(涙)

父は、最後の教えを子に授け、子は、父の言葉に決して違わない事を約した。そして、二人は南北へ分かれた。

今生(こんじょう)の対面は、もしかしたらこれを限りになるかもと、涙の中に何度も何度も、互いに名残惜しげに振り返る。

あぁ、親子の愛情というものは、まことに深いものである。いかなる鳥獣といえども、子を思う心は浅からず、ましてや人間においてをや、ましてや、一子においてをや。

しかしながら、芳賀父子は、共に弓矢の道に生きる人、最愛の子に向かって、「討死にしてこい!」と諭さねばならぬ芳賀禅可の心中、まことに哀れなものである。

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「足利側が、再び大軍を送りこんできた」との報を受け、吉野朝側は、四条隆俊(しじょうたかとし)を中心に作戦会議を開いた。

「龍門山にとどまって戦うべきか、それとも、平地に軍を進めて敵とぶつかるべきか」と、議論している中に、

吉野朝リーダーB えらいこってすわ! 湯川庄司(ゆかわのしょうじ)のヤツ、敵に寝返りよりましたで!

四条隆俊 なに!

吉野朝リーダーB 湯川め、熊野街道(くまのかいどう)経由で、こっちへ向こぉとるようです。

四条隆俊 いかん、背後を突かれる形に、なってしまうやないか!

吉野朝リーダーC 海路、熊野灘(くまのなだ)から紀伊水道(きいすいどう)へと進み、田辺(たなべ:和歌山県・田辺市)付近で上陸したという情報もあるが・・・。

四条隆俊 うーん・・・こんなんでは、この陣、持ちこたえれるやろか・・・うーん・・・。

越智(おち)家・トップD (内心)・・・あかんわぁ、こら・・・。

越智は、城の大手方面・第一木戸(きど)の守備を担当していたのであったが、降伏を決意、芳賀公頼のもとに投降してしまった。

ただでさえ勇猛果敢をもってならす清党(せいとう)武士団、芳賀公頼はそのリーダーである。父には義を勧められ、今また、越智の投降によって力を付けられ、もうこうなっては、いささかの停滞(ていたい)もするはずがない、龍門山の麓へ打ち寄せるやいなや、盾をもつかず、矢を一本も射ず、清党軍は、連なって一斉に攻め上っていく。

彼らの猛攻の前に、これぞツワモノとの呼び声高い、さしもの恩地(おんぢ)、贄川(にえかわ)、貴志(きし)、湯浅(ゆあさ)、田辺別当(たなべのべっとう)、山本判官(やまもとはんがん)も、龍門山を1時間も守りきる事ができず、全員、そこから追い落とされて、阿瀬川(あぜがわ)城(和歌山県・有田郡・有田川町)へ、たてこもらざるをえなかった。

かくして、芳賀公頼は、第2次・ 龍門山戦においてみごと、先日の足利側敗戦の恥を濯いだのであった。

芳賀公頼 戦はこれまで! 一手柄立てた上は、いざ帰還!

津々山の陣へ帰ってきた息子の姿に、父・禅可は、ただただ喜悦(きえつ)するばかり。

芳賀禅可 わが息子が、敵を蹴散らして大殊勲! その上、生きて帰ってくるなんて・・・公私両面、バンバンザイだぁ!

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吉野朝・閣僚E 四条隆俊卿、龍門山の戦に負けて、阿瀬川へ落ちたとのことですわ!

吉野朝・閣僚F えっ、なんやて!(青ざめる)

吉野朝・閣僚G あぁ、あかん・・・(両手で顔を覆う)

後村上天皇 うーん・・・(顔をしかめる)

吉野朝側は、天皇も閣僚も完全にがっくり、意気消沈である。

このような中に、更に追い討ちをかけるような事が起った。住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)の神主・津守国久(つもりのくにひさ)が、密かに、次のような報告を吉野朝廷に上げてきたのである。

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今月12日正午頃、当社の神殿が、相当長時間に渡り、鳴動しました。その後、神殿の前庭に生えていた楠の木が、風も吹いてないのに急に真ん中から折れて、神殿に倒れ懸りました。枝がたくさん生えていたおかげで、倒木は空中にかろうじて支えられて、社殿は無事でした。
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この密奏を聞いた閣僚らは、

吉野朝閣僚E (ササヤキ声で)こらぁ、えらい事になりましたなぁ。

吉野朝閣僚F (ササヤキ声で)神殿が鳴動するやなんて・・・間違いなく、凶の兆し・・・疑う余地がありません。

吉野朝閣僚G (ササヤキ声で)それにまたなんと、楠の木が倒れるやなんて・・・楠正儀(くすのきまさのり)は、朝廷軍の棟梁(とうりょう)だっせ。

吉野朝閣僚H (ササヤキ声で)楠が倒れてしもたら、いったい誰が、陛下をお守りできるっちゅうねん。

吉野朝閣僚I (ササヤキ声で)何から何まで、不吉だらけやぁ。

忠雲僧正(ちゅううんそうじょう:注1)は、それを黙って聞いてはおれずに、

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(訳者注1)21-4 に登場。
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忠雲僧正 「良い事が起るよりも、何も起こらない方が、よっぽどまし」と、言いますわなぁ。

吉野朝閣僚一同 ・・・。

忠雲僧正 神殿が鳴動し、楠の木が倒れる・・・こないな事象が、起こってしもぉた、いやはや・・・。

忠雲僧正 たしかに、これは、吉なる事とは到底、言えませんでしょうな。そやけどね、こうも、考えれますやんか、神が凶を告げ給うのは、神が未だに我々を見捨てはおられない、という事の証拠。

吉野朝閣僚一同 ・・・。

忠雲僧正 昔の中国、後漢(こうかん)王朝の時代に、こないな事がありました・・・宮殿の庭に一本のエンジュの木が生えとりました・・・高さは20丈余り・・・ものすごい大木です。

忠雲僧正 ある日、風も吹いてへんのに、その大木が突然、根っこから抜けてしもて、逆立ちしてしまいよりました。

忠雲僧正 大臣らは、皆これを見て震え上がってしまいました。ところが、皇帝はこれを喜びました、「天は、わしの政治に満足してはおられんのや、それを告げ知らせるために、このような超常現象を示してくれはったんやなぁ」と、言うてね。

忠雲僧正 そこで皇帝は、一生懸命、善政に努めました。王室の支出を削減して国家予算の余裕を生みだし、それを、貧しい民を救うための福祉関係の予算に回すようにしました。その結果、この木は一夜の中にまた、元通りに戻ったんです。一葉も枯れる事無しにね。

忠雲僧正 外国だけではありませんよ、我が国にも、同様の例がありますわ。かの村上(むらかみ)帝の御代、応和(おうわ)年間の末、比叡山(ひえいざんの三宮林(さんきゅうりん)の数千本の松が、一夜にして枯れしぼみ、霜をもしのぐ緑色の葉が、いっぺんに黄色になってしまいました。延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)三千の衆徒は大いに驚き、十善寺(じゅうぜんじ:滋賀県・大津市)にお参りして、各自が受法した法に従って、読経を行いましてな・・・。

(以下、忠雲僧正が語った話)
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延暦寺衆徒一同 (内心)み仏様、これはいったい、何の前兆でございましょうか、どうか、お説き明かしくださいませ!

一心に祈り込める彼らの前に、一人の巫女(みこ)が、にわかに憑依(ひょうい)現象を現し始めた。

巫女 ううう・・・ううう・・・うああああ・・・。

巫女 た・・・た・・・いま・・・たった今・・・我に・・・し・・し・・・七社権現(しちしゃごんげん)、乗り移られたまえりぃー! あああ・・・あああ・・・。

延暦寺衆徒一同 おおお・・・。

巫女 我は、この山内において、天台宗(てんだいしゅう)の教法を守り、そなたら比叡山三千の衆徒に対して、教え導きの縁(えにし)を繋ぎ、外部に対しては、国家の安全を致して、利益(りやく)を日本全国60余国に垂れるものなり。

巫女 しかりといえども、昨今のそなたら衆徒のふるまい、神慮(しんりょ)に叶うもの、ただの一つとして無し! 武器を携えては法衣(ほうい)を汚(けが)し、甲冑(かっちゅう)を帯しては社頭(しゃとう)を往来す。

巫女 あぁ、今より後、天台の教旨たる三諦則是(さんたいそくぜ)の春の花、いったい誰(た)が袂(たもと)に薫(にお)わまし、天台密教(てんだいみっきょう)・四曼不離(しまんふり)の秋の月、何(いず)れの扉をか照らすべきや。

巫女 かくなる上は、我、この山麓に鎮座(ちんざ)せるも空しき事なり、ただ速やかに、我が本籍地たるかの空間、寂光本土世界(じゃっこうほんどせかい)へ帰還あるのみ。

巫女 あぁ、我が耳に今も残るは、旧き良き時代の、延暦寺衆徒らの唱えし常行三昧(じょうぎょうざんまい)の念仏の声、なおも心に残るは、かの時代の法華経(ほけきょう)読経(どきょう)とその解釈議論の声・・・あぁ、かのすばらしき延暦寺は、いったい何処(いずこ)へ・・・あぁ、あぁ・・・。(涙、涙)

巫女 うああああ・・・うああああ(涙、涙、額から汗ダラダラ)あああ・・・あああ・・・うあっ!(バタッ・・・倒れ伏す、憑依から醒める)

これに驚愕した衆徒らは、聖真子権現(しょうしんじごんげん)社の前に行って、常行三昧の仏名を称え、根本中堂(こんぽんちゅうどう)の外陣(げじん)において、法華経解釈議論を執行した。

これによって、神もたちまち納得されたのであろう、霜枯れしてしまった木々の色は、もとの緑を回復し、衆徒らも、ホッと胸をなでおろしたのであった。

後日、住吉神社の神が、以下のような神託を下した。

 「日の本の地の、方々の反乱を静めんが為、我は過去、様々に威力を下ししものなり。天慶(てんぎょう)年間・藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱、あの時、我は大将軍となり、比叡山・山王(さんのう)は副将軍たり。承平(しょうへい)年間・平将門(たいらのまさかど)の乱の時には、山王は大将軍たり、我は副将軍となりて、逆徒を鎮めしものなり。山王は、天台宗によりて支えられておるが故に、彼、勢力において我より勝る・・・うんぬん・・・。」
========
(忠雲僧正の話、以上で終わり)。

忠雲僧正 ま、こないなわけですからな、陛下におかれましては、徳行(とくぎょう)に専心され、国中の民の生活を安穏ならしめんと思(おぼ)し召す大願を起こされて、仏法の力によって神の擁護を頂けるように、持っていかはったら、よろしぃんちゃいますやろか? そないなフウにしていかはったら、朝敵もかえって味方となり、禍(わざわい)転じて福となること、間違いなしだっせ。

吉野朝閣僚一同 うーん、なるほど。

閣僚らは全員、忠雲僧正のこの言葉に深く得心、後村上天皇も、神仏への信心をさらに固められた。

直ちに、住吉神社の四柱の神と比叡山山王七社の神々を、皇居の中に勧請(かんじょう)、昼夜ぶっとおし、席が冷える暇も無き修法が、100日間連続で修された。

天皇は、毎朝水ごりをとり、尊い体を五体投地(ごたいとうち)して、一心に祈り込める。

吉野朝閣僚E (内心)除災興楽(じょさいよらく)と祈られるあの陛下のお姿・・・あぁ、ほんまに、鳥肌が立つほど感動やぁ。

吉野朝閣僚F (内心)天地もきっと、これに感応し、

吉野朝閣僚G (内心)神も仏も必ずや、擁護(ようご)の御手を垂れたまうことやろうて。

吉野朝閣僚H (内心)まぁ、なんと、たのもしぃことやないかいな!

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 34-5 第1次・ 龍門山戦

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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「吉野朝(よしのちょう)側のリーダー、四条隆俊(しじょうたかとし)が、紀伊国(きいこく:和歌山県)の勢力3,000余騎を率いて、紀伊国・最初峯(さいしょがみね:和歌山県・和歌山市)に陣取っている」との情報をキャッチし、4月3日、畠山国清(はたけやまくにきよ)の弟・畠山義深(よしふか)を大将に、白旗一揆(しらはたいっき)武士団、平一揆(へいいっき)武士団、諏訪祝部(すわのはふり)、千葉(ちば)一族、杉原(すぎはら)一族ら、合計3万余騎が、最初峯へ向かった。

現地に到着の後、彼らは直ちに、敵陣に相対する和佐山(わさやま:和歌山市)に登り、そこに3日間留まった。まずは自陣の守りをかためた後に、最初峯を攻めようとの作戦の下、塀をしつらえ、櫓(やぐら)を建て始めた。

これを見た吉野朝側の侍大将・塩谷伊勢守(しおのやいせのかみ)は、畠山軍を罠にはめてやろうと思い、自軍の兵を集めて最初峯から退き、龍門山(りゅうもんざん:和歌山県・紀の川市)にたてこもった。

これを見た畠山家執事(しつじ)・遊佐勘解由左衛門(ゆさかげゆざえもん)は、

遊佐勘解由左衛門 ヤヤァ! 敵め、退きやがったぞぉ! よぉし、どこまでも追いかけて、討ち取っちまえぃ!

畠山軍メンバー一同 ウォッスゥ!

命令一下、畠山軍は、龍門山に馳せ向かった。

盾を用意する事も無く、軍勢配置も何も無し、「勝ちに乗じて、敵を追撃」と言えばとてもカッコ良く聞こえるが、それにしても、あまりにも慌てすぎである。

龍門山は、岩は龍の顎(あご)のごとく重層し、道は羊腸(ようちょう)のごとく曲がりくねり、といった地形の所である。高所には、松や柏(かしわ)が生い茂り、吹きすさぶ強風の音が、まるでトキの声のように聞こえてくる。崖の下には、一面に小笹が生い茂り、結ぶ露に滑って、馬の蹄も立たない。

このような難所ではあるが、山麓まで下りてきて抵抗する敵もいないので、畠山軍メンバー一同は、勇む心を力にして、山の中腹あたりまで、一気に懸け上がっていった。

少し平らになった所までようやくたどりつけたので、そこで馬を休めて小休止を取ろう、という事になった。

弓や太刀を杖がわりについて、ホッと一息ついているまさにその時、

矢 ビュンビュンビュンビュン・・・。

畠山軍メンバー一同 ウワッ!

超軽量一枚板の盾を持ち、ウツボに一杯矢を背負った野伏(のぶせり)集団1,000余人が、東西の尾根先に現れ、畠山軍めがけて、雨のごとく矢を降らしてきた。

わずかに開けた谷底に3万余もの軍勢がびっしりと集中している所へ、上から見下ろしざまに矢を浴びせかけるのであるからして、その効果は絶大である。人間から外れても馬に当たり、馬を外しても人間に命中する。一本の矢によって二人の人間を倒す事はあっても、的を外してしまう無効矢は、一本も無い。

敵陣向けて歩を進め、懸け散らしてしまおうとしても、岩石が前を塞ぎ、懸け上がるすべもない。左右に開いて敵と戦おうと思っても、南北の谷は深く切り立たっていて、梯子(はしご)でも使わない限り、移動は不可能である。

畠山軍メンバーは、全員背中をすくめ、ただただ、うろたえるばかり・・・。

畠山軍メンバーA (内心)いってぇ、どうすりゃいいんだよぉ、どうすりゃ!

畠山軍メンバーB (内心)これじゃ、一歩も身動き取れねぇ。

畠山軍メンバーC (内心)あぁん、ニッチもサッチも行かんくなっちまったぁ。

畠山軍メンバーD (内心)退くべきか、踏み留まるべきか、それが問題だ。

畠山軍メンバーE (内心)どうしよう、いったいどうしよう! どしたらいいのぉ!

パニック状態に陥っている彼らの眼前に、一人の武士が現われた。

黄瓦毛(きかわらけ)の太くたくましい馬にまたがり、新品の紺糸威(こんいとおどし)の鎧(注1)を着している。背中には濃紅色(こきくれないいろ)の母衣(ほろ)をかけ、刃渡り4尺ほどの長刀の真ん中を握りしめて馬の首に添えて持ち、大声で名乗りを上げる。

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(訳者注1)原文では、「紺糸の鎧のまだ巳の刻なるを著たる武者」。
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塩谷伊勢守 おぉい、そこの関東武士ら、よぉ聞け! わしの名は、塩谷伊勢守! おまえら、コテンパンに、イてもたるわい! 行くぞー!

塩谷軍メンバー一同 ウオー!

塩谷伊勢守を先頭に、野上(のがみ)、山東(さんとう)、貴志(きし)、山本(やまもと)、恩地(おんぢ)、贄川(にえかわ)、志宇津(しうつ)、禿(かぶろ)の武士ら2,000余騎が、大山が崩れ雷鳴が落ちるかのごとく、おめき叫んで襲いかかってきた。

畠山軍メンバーA ウワッ、たまんねえ。

畠山軍メンバーB アワワ・・・。

畠山軍メンバー一同 ウグググ・・・。

もとより、吉野朝側の猛攻に圧倒されて弱気になっていた畠山軍、もはや、一歩も踏みとどまることができない。負傷者を助けようともせず、親や子が討たれるのも顧みず、馬を捨て鎧を脱ぎ捨て、険しい笹原を滑るともなく転がるともなく、潰走(かいそう)すること30余町。

塩谷伊勢守は、畠山軍を余りに深追いしすぎてしまい、乗馬に矢を3本立てられ、槍で2箇所突かれてしまった。

馬は、弱って足が立たなくなってしまい、険阻な所からまっ逆さまに転落、伊勢守も、崖から5丈ほど下に落下してしまった。

打撲のショックで目がくらみ、体のバランスが保てなくなってしまいながらも、何とかして起き上がろうと、彼は、残る力を振り絞った。

しかし、そこには、踏みとどまった畠山軍メンバー多数がいた。

彼らは、伊勢守の鎧の周囲や兜の内側めがけて、矢を一杯に射込んだ。

救援にかけつけてくる味方もおらず、ついに、塩谷伊勢守は討たれてしまった。

戦闘は、1時間ほどで終結、畠山軍側はさんざんな結果であった。生け捕りになってしまった者が67人、戦死者は273人もいたそうである。戦場に遺棄(いき)してきた馬、鎧、弓矢、太刀、刀に至っては、その数幾千万になるのか、さっぱり見当も付かない。

遺棄された物の中には、あのうわさの、「遊佐勘解由左衛門の3尺8寸の太刀」も含まれていた。今度の上洛に際して、天下の耳目(じもく)を驚かしてやろうと、金100両をもってして作らせた太刀である。

「これぞ、日本第一の太刀」との評判高い、あの「禰津小次郎(ねづこじろう)の6尺3寸の丸鞘の太刀」も、戦場に捨てられた。

大力の人といえども、高名を輝かすも不覚を取るも、まことに、時の運次第である。

禰津小次郎は、いつも次のように自慢していた。

禰津小次郎 戦場において、このオレの名前を知らずに、馳せ合わせて太刀を交わすんならいざ知らず、自分の相手を禰津小次郎と知った上で、オレと勝負しようなんてヤツぁ、関東8か国中、一人もいやしねぇぜぃ。

それほどの大力の剛の者でありながら、その力の割にはパットするような働きも何も無いままに、禰津小次郎は、真っ先切って、戦場から逃走してしまったのである。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 34-4 足利義詮、大軍を率いて、吉野朝を攻める

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・延文(えんぶん)4年(1359)12月23日、足利幕府・第2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)は、吉野朝(よしのちょう)征討・大手方面軍を率いて京都を発ち、摂津(せっつ:大阪府北部+兵庫県南東部)方面へ向かった。その軍に所属のメンバーは、以下の通りである。

足利氏親族からは、

細川清氏(ほそかわきようじ)、その弟・細川家氏(いえうじ)、細川業氏(なりうじ)、細川師氏(もろうじ)、細川氏春(うじはる)、斯波氏頼(しばうじより)、仁木義長(にっきよしなが)、その弟・仁木頼勝(よりかつ)、仁木右馬助(うまのすけ)、一色直氏(いっしきなおうじ)、今川範氏(いまがわのりうじ)、その子・今川氏家(うじいえ)、その弟・今川了俊(りょうしゅん)。

足利氏以外からは、

土岐氏:土岐頼康(ときよりやす)、その弟・土岐頼忠(よりただ)、土岐頼雄(よりかつ)、土岐直氏(なおうじ)、小宇津美濃守(こうつみののかみ)、高山伊賀守(たかやまいがのかみ)、小里兵庫助(おさとひょうごのすけ)、猿子右京亮(ましこうきょうのすけ)、厚東駿河守(こうとうするがのかみ)、蜂屋貞経(はちやさだつね)、土岐康行(やすゆき)、今峯駿河守(いまみねするがのかみ)、舟木兵庫助(ふなきひょうごのすけ)、明智下野入道(あけちしもつけにゅうどう)、戸山光明(とやまみつあきら)、土岐頼行(よりゆき)、土岐頼世(よりよ)、土岐頼近(よりちか)、土岐飛騨伊豆入道(ひだいずのにゅうどう)。

佐々木氏:佐々木氏頼(ささきうじより)、その弟・佐々木信詮(のぶあきら)。

河野(こうの)一族。

赤松氏:赤松貞範(あかまつさだのり)、その弟・赤松則祐(のりすけ)、その甥・赤松光範(みつのり)、その弟・赤松直頼(なおより)、赤松範実(のりざね)。

諏訪信濃守(すわしなののかみ)、禰津小次郎(ねづのこじろう)、長尾弾正左衛門(ながおだんじょうざえもん)、浅倉弾正(あさくらだんじょう)。

これらを主要メンバーとして、総勢7万余騎。大島(おおしま:兵庫県・尼崎市)、渡辺(わたなべ:場所不明)、尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)、鳴尾(なるお:兵庫県・西宮市)、西宮(にしのみや:西宮市)一帯に満ち溢れ、その地域の神社仏閣の中にまでも充満。

畠山国清(はたけやまくにきよ)は、カラメ手方面軍の大将として、関東8か国の軍勢20万騎を率いて、翌日午前8時に京都を出立(しゅったつ)、八幡(やわた:京都府・八幡市)から真木(まき:大阪府・枚方市)、楠葉(くずは:枚方)にかけて、陣を取った。これは、大手方面軍が渡辺橋にさしかかった時に、もし相手側が川を防衛ラインとして戦ったならば、左々良(ささら:大阪府・四条畷市)から生駒山地(いこまさんち:大阪府と奈良県県境)西山麓経由のルートをとって、吉野朝軍の背後に回り込んで相手を包囲してしまおう、との作戦である。

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大手方面軍リーダーの赤松光範は、今回のこの戦に対しては、格別の思い入れがあった。

赤松光範 (内心)今度という今度こそはなぁ、あいつらに、痛いメ、見したんねん!

光範は、戦場となる摂津国の守護の地位にありながら、その領域の50%にも及ぶ、吉野朝勢力側の実質的支配を許してしまっていたからである。

光範は、全軍の真っ先切って、500余騎を率いて渡辺橋まで進んだ。そして、川舟100余隻を集め、川面2町に渡ってそれらを引き並べ、柱を川底に打ち込み、舟どうしを繋ぎあわせ、その上に板を敷き並べた。

赤松光範 (内心)さぁ、これで、渡河もスタンバイOKやぁ。この舟橋の上、人馬続いて渡っていったら、一切なんの問題もないぞぉ。

赤松光範軍メンバーA (内心)こんな舟橋作ったん、敵見よったら、あっという間に戦、始まるでぇ。

赤松光範軍メンバーB (内心)和田(わだ)と楠(くすのき)、ほっときよるわけないわなぁ、きっと、ここに馳せ向かってきよるやろうて。

赤松光範軍メンバーC (内心)そないなったら、さぁ、一大激戦の始まり、始まりィーー。

しかし、いかなる深謀遠慮あってか、吉野朝側は、あえて、足利軍の渡河を阻止するような動きを一切見せない。

そうこうするうち、足利軍の大手、カラメ手30万騎は、同日中に渡河を済ませ、川の南方へ軍を進め、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)、阿倍野(あべの:大阪市・阿倍野区)、住吉の遠里小野(うりうの:大阪市・住吉区)に陣を取った。

総大将の足利義詮はあえて川を越えず、尼崎にとどまって守りをかため、赤松貞範と赤松則祐は大渡(おおわたり:場所不明)付近に布陣して、吉野朝側の出方を探る為の陣形を敷いた。

仁木義長は指揮下の3000余を一所に集めて西宮に陣を構えた。

仁木義長 (内心)先陣が戦に負けたとなったら・・・その時こそ、おれの出番がやってくるのよ・・・消耗ゼロのわが兵力を率いて、戦場に乗り込む・・・敗勢となった先陣に入れ替わって戦い、わが軍は、敵をイッキに殲滅(せんめつ)・・・その結果、今回の戦の手柄は100%、おれ一人の独占状態に・・・将軍はじめ、世間の賞賛は、我が一身の上に集中・・・ムフフフフフ・・・ムフフフフフ・・・ムハハハハハハ・・・。

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吉野朝側の最大の関心事は、関東からやってきた畠山国清が率いる大軍の動向であった。

 「城にこもって戦うたんでは、包囲され、そのうち攻め落とされてしまうかもしれへん。今回の戦において有効となる作戦は、深い山と谷のフル活用、これあるのみ。すなわち、敵にこちらの居場所を知られる事なく、機動性を高度に発揮しての戦闘を継続。」

 「いま敵の前にいるかと思えば、次の瞬間、敵の後方に回り込む、たった今、馬に乗って敵前に姿を現したかと思えば、そのすぐ後には、野山に潜伏。このように、こちらの居場所を急激に変化させながら、戦ぉていくべし。」

 「敵がしつこく攻めかかってきよったならば、険阻(けんそ)な場所に誘(おび)き寄せてから、反撃に転ずる。敵が退いたならば、その後を追撃する。このように、大いにゲリラ戦を展開して敵を疲れさせ、消耗戦に持ち込んた末に、勝利を得る。」

ところが、関東勢の動きは、その予想には全く反していた。しゃにむに吉野朝側の陣に突っ込んでくる事もなく、ここに日を経、あちらに時を送り、というように、のらりくらりとしている。

楠正儀 それやったら、こっちも、陣を前に敷き、城を後ろに構えての持久戦、という事に、しようやないかい。

というわけで、和田正武(わだまさたけ)と楠正儀(くすのきまさのり)は急遽、赤坂(あかさか:大阪府・南河内郡・千早赤阪村)に城を構え、300余騎を率いてたてこもった。

福塚(ふくづか)、川辺(かわべ)、佐々良(ささら)、当木(まさき)、岩郡(いわくに)、橋本判官(はしもとはんがん)以下の武士ら500余騎は、平石(ひらいわ:大阪府・南河内郡・河南町)に城を構えてたてこもった。

真木野(まきの)、酒辺(さかべ)、古折(ふるおり)、野原(のはら)、宇野(うの)、崎山(さきやま)、佐和(さわ)、秋山(あきやま)以下の武士ら800余騎は、八尾(やお:大阪府・八尾市)の城を修理してたてこもった。

その他、大和(やまと:奈良県)、河内(かわち:大阪府南東部)、宇陀郡(うだぐん:奈良県)、宇智郡(うちぐん:奈良県)の武士1000余人は、龍泉峯(りゅうせんがみね:注1)に塀を建て櫓(やぐら)を構えて、虚勢を張った。(注2)

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(訳者注1)龍泉寺(大阪府・富田林市)の付近の場所。

(訳者注2)大兵力がいるかのように、見せかける。
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2月13日、足利軍側は、後陣の勢3万余騎を、住吉、天王寺の先陣と交代させて背後をかためた後、先陣20万騎が、金剛山(こんごうさん)北西の津々山(つづやま:大阪府・富田林市)に登り、陣を取った。

吉野朝軍と足利軍の間隔は、わずかに50余町、にらみあいが始まった。

それから間もなく、丹下(たんげ)、俣野(またの)、誉田(こんだ)、酒匂(さかわ)、水速(みはや)、湯浅太郎(ゆあさたろう)、貴志(きし)の一族500余騎が、弓の弦を外し、兜を脱いで、足利軍側に投降してきた。

足利軍側メンバーD やったやったぁ!

足利軍側メンバーE ざまぁ見やがれ。

足利軍側メンバーF こりゃぁ敵サン、相当、まいっちゃってんじゃぁ、ねぇのぉ?

足利軍側メンバーG 和田も楠も、これから先、いってぇどこまで、もちこたえれるもんだかぁ、ウハハハ・・・。

足利軍側メンバー一同 ウワハハハハ・・・。

しかし、その後も、騎馬の兵どうしが真っ正面から激突して勝負を決するという事も無く、ただただ、両軍互いにゲリラ戦部隊を繰り出しては、矢戦のみに明け暮れの毎日である。

吉野朝側は地理にくわしく、足利側は案内不慣れな地とあって、毎度の戦に、足利側の負傷者、戦死者が増加の一途をたどるのは、自然の勢い。

足利軍側メンバーD ヤベェよぉ、こりゃぁ・・・。

足利軍側メンバーE うーん・・・どうやら、和田と楠の手の内に、ハマッちまったようだなぁ、おれたち・・・。

足利軍側メンバーF このままいったんじゃ、まずいよなぁ、なんとかしなきゃ、なんとかぁ!

足利軍側メンバーG いってぇ、どうしろってんだよぉ?! 遠いとこから、はるばるやってきてんだ、いきなり、戦やめて帰るってわけにも行くめぇ?

足利軍側メンバーH ここに踏みとどまるしか、ねぇやなぁ。

足利軍側メンバー一同 ったくもう、マイッタねぇ。

最初のうちこそは、陣中規律も守られてはいたが・・・メンバーの疲弊の色が次第に濃くなってくるにつれて、それは、「ただ単なる言葉の上だけの事」になっていった。

足利サイドの武士らは、神社仏閣に乱入し、聖なる場所の帳を剥ぎ取り、神宝を奪い合った。

乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)の度は、日を追うにつれて増していき、軍トップからの制止命令をも、もはや、彼らは意に介しない。ついには、社殿の前におかれた獅子や狛犬を破壊して薪にし、寺院から略奪した仏像や経典を売りとばして、その代金でもって、魚肉鳥肉を購入するにまでに至った。まさに前代未聞の悪行としか、言いようがない。

過去に、高師泰(こうのもろやす)が、石川(いしかわ)河原に陣を敷いて楠一族を攻めた時、その軍勢のメンバーたち(悪事という悪事を、徹底的になしてやまぬ連中ら)が、周辺の寺院の塔から九輪(くりん)を外し、それを鋳つぶして茶釜にしまうという、希代の罪業をなした事があったが(注3)、今回のこれは、それを100倍も上回る悪事である。もはや、「あさましい」などというような、なまはんかな言葉では到底表現しきれないほどの、極大レベルの悪事である。

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(訳者注3)26-6 参照。
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世間の声I (ヒソヒソ声で)こないな事、あんまし大きな声では言えませんけどなぁ、わたい、今回の戦、足利幕府側の思うようには、うまいこといかへんのんちゃうやろかなぁと・・・どうも、そないなカンジしますねん。

世間の声J (ヒソヒソ声で)へぇー、そらまたいったい、なんでどすかいな?

世間の声K (ヒソヒソ声で)いや、別にこれといった根拠はあらしまへん・・・そやけど・・・なんとなしぃになぁ・・・。

世間の声L (ヒソヒソ声で)あのっさぁあ、古代中国・春秋時代(しゅんじゅうじだい)にっさぁ、「荘子(そうし)」って人、いたじゃぁん?

世間の声M (ヒソヒソ声で)あぁ、あの儒家(じゅか)の荘子はんでんなぁ、いはりました、いはりました。

世間の声L (ヒソヒソ声で)その荘子がっさぁあ、こんな事、言ってんだよねぇえ。

 人が見ている所で 善くない事を行う者に対しては
 人間が これを処罰する事ができよう
 人が見ていない所で 善くない事を行う者に対しては
 鬼が これを処罰する事ができるのだ

 (原文)
 為不善于顕明之中者
 人得誅之
 為不善乎幽暗之中者
 鬼得誅之

世間の声M (ヒソヒソ声で)ふーん、こらまた、えぇ事、いわはりまんなぁ。

世間の声N (ヒソヒソ声で)あの大悪事を働いた高師泰、天罰受けて、ミジメな死に方しやがったぜぃ・・・「前車の轍(てつ)、未だ遠からず」(注4)って言うじゃねぇかよぉ・・・畠山国清も、もちっとよくよく考えてった方が、いいと思うんだけんどなぁ。

世間の声O (ヒソヒソ声で)高師泰の哀れな結末をもってして、自らの戒めとしないのであれば、まさに、「後車の危うき事、近きに在り」(注5)って事ですわよねぇ。

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(訳者注4)「先の世に生きた者の、その人生の様をよくよく考察し、そこから深く学んで、自分の今後の処世を考えていけ」、の意。「轍(てつ)」は、「わだち」すなわち、地上に残った車輪の跡。

(訳者注5)「後車」は「前車」と対になっている、すなわち、[前車=高師泰 後車=畠山国清]という構図である。前車の残した[轍のルート]は、[寺社に対する略奪行為を行った --> その結果、天罰を受けてミジメな最後を遂げた]である。

後車も今すでに、[寺社に対する略奪行為を行った]という轍のルートに乗り入れてしまっている、ゆえに、そのまま進んでいくと、前車の残した轍のままに行く事になるから、[--> その結果、天罰を受けてミジメな最後を遂げた]となってしまうであろう、との、「世間の声」を借りての太平記作者の未来予測(類似パターンにもとづく推論)である。
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世間の声P (ヒソヒソ声で)なるほどなぁ・・・やっぱし、今回の戦、足利幕府側の思うようには、うまいこといかしませんわいな。

世間の声一同 (ヒソヒソ声で)同感、同感。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 34-3 吉野朝側、着々と迎撃の準備を整える

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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その当時、吉野朝廷(よしのちょうてい)の帝(みかど)・後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、河内国(かわちこく:大阪府東部)・天野(あまの:大阪府・河内長野市)の金剛寺(こんごうじ)を皇居としていた。

楠正儀(くすのきまさのり)と和田正武(わだまさたけ)は、皇居に参内し、奏上していわく、

楠正儀 畠山国清(はたけやまくにきよ)率いる関東からの軍勢20万騎は、既に、京都に到着しました。

後村上天皇 ・・・。

楠正儀 それのみならず、播磨(はりま:兵庫県西南部)以西の山陽道(さんようどう)、丹波(たんば:京都府中部+兵庫県東部)以西の山陰道(さんいんどう)から、さらには、東海道(とうかいどう)、東山道(とうさんどう)、四国、北陸からも、膨大な数の敵勢力が続々と京都に終結しとりますから、敵側の兵力は、雲霞(うんか)の如くでございましょう。

後村上天皇 ・・・。

吉野朝・閣僚一同 

楠正儀 とはいいましても、今回の戦、結局は、我が方の勝利になるものと、私は確信しとります。その根拠を申し上げすに。

楠正儀 戦においては、三つの重要な要素がございます。いわゆる、「天の時、地の利、人の和」です。これら3要素の中、どれか一つでも欠けた時には、兵力がいくらあっても、勝利は絶対に得られないのであります。

楠正儀 まず、「天の時」、これについて、陰陽道(おんみょうどう)の原理に則(のっとっ)て考察してみますれば・・・明年からは、大将軍(だいじょうぐん)は西方に在り、故に、東方から西方への軍勢移動は、今後3年間の禁忌(きんき)。しかるに、畠山が関東を発進したのは、冬至を過ぎた時点。ゆえに、敵側は、「天の時」を外してしもとるわけです。(注1)

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(訳者注1)原文では、「先づ天の時に付て勘候へば、明年よりは大将軍西に在て東よりは三年塞たり。畠山冬至以後、東国を立て罷上て候。是已に天の時に違れ候はずや」。

ここは明らかに太平記作者の記述ミスである(というよりは、「演出ミス」と言うべきかも)。34-2 には、畠山国清の関東出発を、10月8日としているのだから、彼らが関東を出発したのは、冬至より以前である。
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楠正儀 次に、「地の利」について、見てみましょう・・・我々の陣は、背後には深山が連なっておりまして、敵側は一帯の地理には不案内。しかも、我が陣の前には、大河(注2)が流れとります・・・それを越えるルートは、たった一つだけ・・・そうです、たった一本だけかかっとるあの橋・・・あの橋を越えてくる以外に、敵の進軍ルートはありません。

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(訳者注2)この「大河」が、どの川を指しているのか、訳者には分からない。
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楠正儀 そのような、地の利を確保できる場所であるが故に、過去、度重なる攻撃をことごとく、退けてくる事ができました・・・あの元弘(げんこう)年間の千剣破(ちはやじょう:注3)攻防戦は言うまでもなく、建武年間以降も・・・。

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(訳者注3)7-2 参照。
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和田正武 (指折り数えながら)まずは、細川直俊(ほそかわなおとし)、ほいで、細川顕氏(あきうじ)、さらには、山名時氏(やまなときうじ)、高師直(こうのもろなお)、高師泰(もろやす)・・・今回の遠征軍の大将・畠山国清も、過去に一度、攻めこんできた事があります。

楠正儀 実に、過去6度までも、敵はこの地に攻め寄せ来たって猛勢を振るい、我々に対して戦いを挑んできました。しかしついに、敵は勝利を得る事ができませんでした。寄せ来たるその都度、敵は屍(しかばね)をこの河内の地にさらし、その武名を敗北の陣中に失い・・・。

楠正儀 そのような結末を敵にもたらしめた要因、それはいったい何であったかといいますと、まさに、我々の依拠(いきょ)しておるこの一帯が、防衛戦にとっては極めて適した地形であって、難攻不落の所となっているからであります。

楠正儀 最後に、「人の和」ですが・・・今回の遠征に当たっての畠山の魂胆(こんたん)は、見え透いております・・・ただ単に、幕府の威勢を借りて、恩賞を一人占めしてしまおうというだけの事。故に、仁木(にっき)家や細川家の連中が彼の権威を嫉(そね)むようになっていくのは、当然の成り行き、土岐(とき)や佐々木(ささき)の一族も、畠山の忠賞を妬(ねた)まずにはおれませんでしょう。従って、敵側は、「人の和」をも欠いているという事になります。

楠正儀 天、地、人の三つの要素を、三つ全部欠きながらでは、たとえ数百万の軍勢があったとて、敵側に何ほどの事ができましょうや。敵、恐れるに足らず・・・ただし・・・我が方にも、気がかりな事が一点・・・。

後村上天皇 ・・・。

吉野朝廷閣僚一同 ・・・。(息を呑む)

楠正儀 ここの皇居は、戦場想定地から、余りにも近すぎます。

和田正武 そうです、もうちょっと、奥の方に移ってもろた方が、よろしですわ。

楠正儀 金剛山の奥に観心寺(かんしんじ:大阪府・河内長野市)という寺があります。そこでしたら、皇居にするには絶好でしょう。

和田正武 陛下にそこに遷座(せんざ)していただいたら、もう安心、わてら二人は、心おきのぉ戦う事ができるようになります。まぁ、見といとくなはれ、和泉(いずみ:大阪府南部)、河内の勢力を伴ぉて、千剣破、金剛山にひきこもり、龍山(りゅうせん:注4)、石川(いしかわ:注5)あたりに懸け出て、懸け出て、日々夜々に、敵と戦いまっせぇ!

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(訳者注4)龍泉寺(大阪府・富田林市)の付近の場所。

(訳者注5)大阪府・富田林市、大阪府・南河内郡・河南町の付近の場所。
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楠正儀 湯浅(ゆあさ)、山本(やまもと)、恩地(おんぢ)、贄河(にえかわ)、野上(のがみ)、山東(やんとう)らは、紀伊国(きいこく)守護代の塩治中務(えんやなかつかさ)に付けて、龍門山(りゅうもんざん:和歌山県・紀の川市)と最初峯(さいしょがみね:和歌山県・和歌山市)に陣取らせます。さらに、紀川(きのかわ)べりの学文路(かむろ:和歌山県・橋本市)あたりには、野伏(のぶせり)をくりだして、ひっきりなしのゲリラ戦を展開。そないなったら、あの極めて気短の関東勢の事です、いっぺんに、ネを上げてしまいますでしょう。

和田正武 ネぇ上げて退却しはじめよったら、勝に乗じて、それを追撃。

楠正儀 敵を千里の外に追い散らし、陛下の御運を一気にお開き申し上げたてまつる、今回の戦はまさに、願ったりかなったりの合戦でございます!

このように、事もなげに言い放つ二人の言葉に、

後村上天皇 (内心)うん!

吉野朝閣僚A (内心)いやぁ、たのもしい事、言うてくれるやないかいなぁ。

吉野朝閣僚B (内心)こら、いけるでぇ!

吉野朝閣僚一同 (内心)よーし!

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二人の提案を受け入れて、「すぐに、皇居を観心寺へ遷座」と、決したが、

吉野朝閣僚C 無用の人々を、徒(いたず)に引き連れていかれるっちゅうのんも、ちと、考えもんですわなぁ。

吉野朝閣僚A そやなぁ。

吉野朝閣僚B 随行メンバーは、最小限に絞り込むべきでしょう。

というわけで、伝奏(てんそう)役の上席公卿3人、事務を司る蔵人(くろうど)2人、護持僧(ごじそう)2人、衛府(えふ)の官4、5人のみが、天皇に随行する事になった。

吉野朝閣僚A それ以外の人間は、どこへなりとも暫(しばら)く身を潜(ひそ)め、敵が退散する時を待てと、いうこっちゃ。

かくして、摂政関白(せんしょうかんぱく)、太政大臣(だじょうだいじん)、左右の大将、大納言(だいなごん)、中納言(ちゅうなごん)、七弁(しちべん)、八史(はっし)、五位、六位、後宮の女性方、新参の公卿、内侍(ないし)、更衣(こうい)、上級女官、門跡寺院(もんぜきじいん)僧侶、事務僧に至るまで、あるいは高野山(こうやさん:和歌山県・伊都郡・高野町)、粉川寺(こかわでら:和歌山県・紀の川市)、天川(てんかわ:奈良県・吉野郡・天川村)、吉野(よしの:奈良県吉野郡・吉野町)、十津川(とつがわ:奈良県・吉野郡・十津川村)方面に落ちて、身分低い里人らの元に憂き身を寄せる人もあり、あるいは、志賀(しが)の旧都(滋賀県・大津市)、奈良(なら)の古都(奈良県・奈良市)、さらには京都、白河(しらかわ:京都市・左京区)に立ち帰り、敵勢力の中に紛れこんで魂も消え入らんばかりの生活をしていく事を、選んだ者もいる。

「諸々の苦しみの根本原因は、貪欲(どんよく)にあり」との、み仏の貴いお言葉、今まさにその通りであると思い知られて、まことに哀れな有様である。

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太平記 現代語訳 34-2 畠山国清、関東より大軍を率いて京都へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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世間の声A 最近、意外と、世間も、静かになってきよりましたわなぁ。

世間の声B ほんに、そうどすわなぁ。幕府の敵対勢力のお方ら、メッキリ、勢いの(無)ぉなってしまわはりましたから。

世間の声C あのっさぁあ、世の中から、バトルのネタなんて、ゼェッタァイ、無くなりっこないんだってぇえ! こないだまでの敵対勢力が無くなったら無くなったで、また、イロイロと出てくんだからぁ。

世間の声D そうさなぁ・・・昔っから、「両雄、相い争そう」って、言うからよぉ。

世間の声E おいちゃん、おいちゃん、両雄て、いったい、誰と誰の事やのん?

世間の声D 鎌倉のトップ・左馬頭(さまのかみ)・足利基氏(あしかがもとうじ)(注1)殿と、京都の新将軍・足利義詮(よしあきら)殿だい。

世間の声F お二人の間に、またぞろ、なんやかやと、イサカイゴト、出てくるかもよぉ。

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(訳者注1)当時、鎌倉(神奈川県・鎌倉市)には、足利幕府の出先機関の「鎌倉府(かまくらふ)」が置かれており、足利基氏がそこのトップの地位にあった。
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世間のこのうわさを聞いて、畠山国清(はたけやくにきよ)は、足利基氏にいわく、

畠山国清 いやぁ、ったくもう、世間の連中ってぇのは、もうほんと、口さがねぇもんですねぇ・・・いやはや、ったくぅ・・・ハァー(溜息)。

足利基氏 ・・・。

畠山国清 困ったもんですぜぃ、いやはやぁ、ったくぅ・・・ハァー(溜息)。

足利基氏 グフ(笑)・・・なんだい、いったい? どうしたっての?

畠山国清 イヤァ・・・それがですねぇ・・・故・将軍様がお亡くなりになってからってもん、世間の連中はしきりに、危ぶんでやがりますよぉ。

足利基氏 いったい、ナニをさ?

畠山国清 いやぁ、それがねぇ・・・コトもあろうに、「基氏様と義詮様の間に、いつかは不愉快な事が、もちあがるんじゃねぇだろうか」ってな事、ヌカシてやがんですよぉ! ったく、もう!

足利基氏 ふぅん、そりゃぁまた・・・。

畠山国清 ・・・でもねぇ、殿・・・取るに足らねぇ世間のうわさとはいえ、こういう、うっとぉしいのは、早い目に消し止めておいた方が、よろしい事はよろしいんですよねぇ。

足利基氏 ・・・。

畠山国清 古代中国・漢(かん)王朝の時代にねぇ、初代帝王・高祖(こうそ)の死後、呂(りょ)氏と劉(りゅう)氏の二大勢力が、仲違いしはじめましてねぇ(注2)、あわや、「またまた、戦乱の世に逆戻りか」ってな状況に、なっちゃったんですってぇ。その時にねぇ、高祖の旧臣の周勃(しゅうぼつ)と樊噲(はんかい)らが、兵を集め、勢をあわせて、世を治めたっていいますからねぇ。

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(訳者注2)呂氏は、高祖の妃・呂后の親族。劉氏は、高祖の一族。
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足利基氏 うん・・・。

畠山国清 殿・・・こんな事、私の口から言うのもなんですけど・・・ここは、早いとこ手ぇ打って、殿と義詮様との間の不和の懸念、きれいさっぱり一掃しちゃおうと、思うんですよぉ・・・で、遠征軍の大将に、任命していただけやせんでしょうかねぇ・・・。

足利基氏 え? 遠征軍? いったい、どこ行くんだ?

畠山国清 京都の南の方でさぁね。関東の勢力を率いて京都へ上洛、その後、南へ向かい、あっちの朝廷サイドの勢力を討つ!

足利基氏 ふーん・・・。

畠山国清 和田(わだ)と楠(くすのき)を、攻め落としちゃってぇ、天下の形勢、イッキにカタつけちゃおうってんですよ・・・そうすりゃぁ、義詮様の疑惑なんてぇ、あっという間に、消え失せちまいまさぁね。

足利基氏 いいねぇ・・・よぉし!(両手を合わせて叩く)

基氏の両の掌 パチン!

足利基氏 たった今、おまえを、遠征軍の大将に任命したぞぉ!

畠山国清 ははぁーっ!(平伏)

足利基氏 速やかに、関東8か国の勢力を糾合(きゅうごう)し、京都南方の敵陣向けて、発向(はっこう)せよ!

畠山国清 ははぁーっ!(平伏)

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畠山国清は、足利基氏を補佐する地位にあったから、いわば、関東地方における「足利幕府・ナンバー・ツゥー(NO.2)」。国清は、その地位をもって、幕府という公権力を利用して、自己の私的な権威を貪ろうとしていた。

軍勢召集に先立ち、国清はまず、地元の有力武士たちに対して、次々と訪問外交を展開していった。

未だ、幕府に対して何ら功績の無い者に対しても、

畠山国清 まぁ、見てろって、そのうち、メンタマ(目玉)飛び出るような、恩賞もらう事になっから。楽しみに待ってりゃ、いいと思うよぉ。

有力武士G ・・・。(ニンマリ)

さほど親しいつきあいも無かった者を、前にしては、

畠山国清 あんたんち(家)とワシっち(家)と、今後、末長くぅ末長くぅ、互いに信頼関係のきづな固く、かたぁく、結んで行きたいよねぇ!

有力武士H はいーっ!(感激)

「人の上に立つ者が、たった一日でもよいから、自分の欲望を抑えて旧き良き礼に従うようにしたならば、それだけでもって、天下の人民は、よく仁に帰するものである(論語)」とは、よく言ったものである。まさにこの言葉の通りに、国清のこの活動の結果、関東8か国の武士たちは残らず、彼の軍勢催促(ぐんぜいさいそく)に従うようになった。

畠山国清 よぉし、遠征の態勢、十分、準備万端、整ったぁ。こうなったら、一日も早く、京都へ発進せにゃぁ。

京都朝年号・延文(えんぶん)4年(1359)10月8日、畠山国清は、武蔵国(むさしこく)のキャンプ(camp)・入間川(いるまがわ)(埼玉県・狭山市)(注3)を出発。

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(訳者注3)[新編 日本古典文学全集57 太平記4 長谷川端 校注・訳 小学館] の126Pの注に、以下のようにある。

「基氏は武蔵野合戦後、文和二年(一三五三)七月二十八日、尊氏の命により入間川へ向い、新田勢に対する鎌倉防御の任に当った(鶴岡社務記録)。在陣は康安二年(一三六二)までの九年間に及び、世に「入間川殿」と称された。」
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その軍勢に従うメンバーは以下の通り。

畠山一族からは、国清の弟・畠山義深(よしふか)と畠山義熈(よしひろ)。

一族以外からは、武田氏信(たけだうじのぶ)、その弟・武田直信(なおのぶ)、逸見美濃入道(へんみみののにゅうどう)、その弟・逸見刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)、逸見掃部助(かもんのすけ)、武田左京亮(さきょうのすけ)、佐竹師義(さたけもろよし)、河越弾正少弼(かわごえだんじょうしょうひつ)、戸嶋因幡入道(とじまいなばのにゅうどう)、土屋修理亮(つちやしゅりのすけ)、白塩入道(しらしおにゅうどう)、土屋備前入道(びぜんにゅうどう)、永井時治(ながいときはる)、結城入道(ゆうきにゅうどう)、難波掃部助(なんばかもんのすけ)、小田孝朝(おだたかとも)、小山(おやま)一族13人、芳賀禅可(はがぜんか)、その子・芳賀公頼(きんより)、高根澤備中守(たかねざわびっちゅうのかみ)とその一族11人。

これらの有力武士の他に、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)武士団、武蔵七党(むさししちとう)武士団、紀清両党(きせいりょうとう)武士団、伊豆(いず:静岡県東部)、駿河(するが:静岡県中部)、三河(みかわ:愛知県東部)、遠江(とおとうみ:静岡県西部)の勢力も加わって、総勢207,000余騎。前後70余里にわたって、櫛の葉を引くがごとく、京都へ進軍していく。

途中20余日の逗留(とうりゅう)を経て、いよいよ、11月28日、京都へ入る事になった。

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「畠山国清率いる関東からの大遠征軍、正午頃に、京都入り」との情報に、摂政関白(せっしょうかんぱく)はじめ、京都朝廷の公卿、さらには公家武家の貴賎上下(きせんじょうげ)は、四宮河原(しのみやがわら:山科区)から粟田口(あわたぐち:東山区)に渡って、桟敷を続け、車を並べ、道の両側に見物の列を作った。

見物人I ほれほれ、あれ、見よし!

見物人J 来はったえ、来はったえ!

見物人K おぉ、来た、来た。

見物人L いやぁ、それにしてもこりゃぁ、すごい大軍勢だねぇー、フーッ(頭を振るわす)。

見物人M 関東武士のお方はんら、最近、えらいゴ-ジャスなお暮らしぶりやと、聞いとりましたけどなぁ、ほんま、その通りどすわなぁ。まぁ、見てみいなぁ、あの、きらびやかなことぉ。

見物人N そらそうどすわ、武士のお方はんらが、天下の権力握らはってから、もう相当になりますもんなぁ。金銀財宝、ジャカジャカ、貯め込まはったん、ちゃいますかぁ。

見物人O 富貴に誇る関東武士、今日まさに、一世一代の晴れ姿ってとこですか・・・ハハハ。

見物人P ほぉんと、ほんと・・・馬、鎧、衣服、太刀、刀・・・隅から隅まで、何から何まで、金銀バリバリのキンキラキン。

見物人Q (ある武士を指差しながら)なぁ、なぁ、あのひと(男)、いったいどこの誰?

見物人R うわぁ、ひときわ、ゴージャス、目立ってるわなぁ!

見物人S あれやん、あれがあの有名な、河越弾正少弼(かわごえだんじょうしょうひつ)っちゅう人やん。

見物人Q あぁ、あれがそうなん。うーん、スゴイなぁ。

見物人R スゴイ、スゴイーッ。

見物人S なぁ、なぁ、見て、見てぇー! あのひとが引かせてる馬の数ぅ・・・えーっとぉ・・・(目で馬の数を数える)・・・スゴォイ、全部で30匹やでぇ!

見物人Q それを引いてる馬丁の数が、なんと、8人ときたわぁ・・・馬にはみんな、白い鞍、置いてぇ・・・カッコいいー!

見物人T えー、マドゥムワゼル、馬の毛色に、ご注目ください。

見物人R えぇ? 馬の毛色・・・いや、ほんまや、スゴイ、スゴイー! 一匹ずつ、違うやん!

見物人S ほんまやぁ・・・濃い紫、薄い紅、萌黄(もえぎ)、水色・・・そやけど、なんでぇ? あんな色の馬、いるはずないやん!

見物人T あれはねぇ、毛を染めているのでありますよ。

見物人Q&R&S エーッ!

見物人U 見てみぃ、見てみぃ、あの馬、ほれ、あの最後の馬! ありゃぁいったいナンジャぁ?!

見物人V ほぉー! ありゃぁすげぇわ・・・馬の毛ぇ豹柄(ひょうがら)に染めるかぁ・・・わしもなげ(長)ぇこと生きてきたけんど、あんな柄に染めた馬見たん、今日がはじめてだわ。

見物人W よくやるよなぁ、まったくぅ。 

その他の有力メンバーたちも、それぞれの軍毎に密集体型をとって、見物衆の眼前を通過していく。

全員、同色の鎧に統一の500騎、1,000騎の集団があるかと思えば、全員一様に、虎皮の防水カバーを被せた4尺5尺の銀製太刀を腰に差し、さらにそこに、刀を2本佩き副(そ)えた100騎、200騎の集団もいる。

古代中国・戦国時代、かの孟嘗君(もうしょうくん)が抱えていた3,000人の食客(しょっかく)らは、全員、珠玉の靴をはいて、富貴に誇る春信君(しゅんしんくん)を嘲笑したというが(注4)、まさにその情景が、現代の世に再現したかと思わせるほどの、関東からやってきた人々の、このきらびやかさである。

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(訳者注4)「史記・春申君列伝」に、以下のような事が書いてある。

 趙の平原君が、楚の春申君のもとに、使者を送り込んできた。

 使者は、自国の富貴を見せびらかすために、刀剣の鞘を珠玉で飾って、春申君の食客たちに面会を申し込んだ。

 春申君の食客は総勢3,000余人いたが、その中の上客たちは全員、珠玉の飾りをつけた履(くつ)をはいて使者に面会した。

 故に、使者は大いに恥じ入った。

ここで太平記作者は、下記のような取り違えをしているのである。

 「春申君」とすべき所を「孟嘗君」と誤記し、「平原君」とすべきところを、「春信君」と誤記。
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太平記 現代語訳 34-1 足利義詮、第2代将軍に就任

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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尊氏(たかうじ)の死後、足利(あしかが)政権はまさに、深淵に張った薄氷上にあるがごとくの状態、日本の権力構造が、今にも覆ってしまうのではなかろうかとさえ、思えたのであったが、

吉野朝(よしのちょう)サイドの人A あれはほんまに、痛かったわなぁ・・・ほれ、あの新田義興(にったよしおき)。

吉野朝サイドの人B ほんになぁ。間違いなく、武士階級のトップに登りつめれるだけの、器を持った人物やったのになぁ・・・ほんまに、惜しいわい。

吉野朝サイドの人C 武蔵国(むさしこく)で、だまし討ちに、逢(お)うてしもぉたんやったなぁ。(注1)

吉野朝サイドの人D そうやがな。

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(訳者注1)33-10 参照。
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吉野朝サイドの人A 九州の方も、イマイチやねぇ。

吉野朝サイドの人B そうやなぁ・・・菊池武光(きくちたけみつ)、昨年までは、九州全域を制圧してブイブイいわしとったんやけど、どうも最近、パッとせぇへん。

吉野朝サイドの人C 小弐(しょうに)と大友(おおとも)が、叛旗を翻(ひるがえ)して、わが方の敵対勢力となりよってからは、もう、さっぱりワヤやがな・・・菊池の武威、最近、ガタ落ちらしいでぇ。

吉野朝サイドの人D まん丸の月見して、えぇ気分になっとったら、急に、暁の雲がムクムク湧いてきよってやな、お月さん完全に隠れてもた・・・今の気分を喩(たと)えてみるならば、そないなカンジや。

吉野朝サイドの人E さんざんっぱら、期待したあげくに、またまた、さびしい世の中に、なってしもうたわいな。

吉野朝サイドの人A あーあ、ほんまに、世の中っちゅうもんは、思うようには、ならんもんやなぁ・・・。

吉野朝サイドの人B ほんまにもう、いやんなってくるわぁ。

吉野朝サイドの人々 あーあ・・・。

一方、足利幕府サイドは、

足利幕府サイドの人F いやいやぁ、あれやこれやと、そりゃぁもう、いろいろとあったけどぉ、ようやく、フォワードの風が吹きはじめたようでぇ。

足利幕府サイドの人G そうさなぁ。

足利幕府サイドの人H 他所(よそ)から櫻の木を持ってきて、我が家の庭に移植してさぁ、苦労して苦労して根づかせた末に・・・ようやく開いた花を、今、見て楽しんでるってとこかい?

足利幕府サイドの人I おぉ、なかなか、うまい事、言うじゃぁん。

足利幕府サイドの人J いやいや、まだまだ安心できねぇ、危険はいっぱいだよぉ。

足利幕府サイドの人F でもさぁ、その、いっぱいある危険の向うには、希望を持てる事だって、いっぱいあるじゃんかよぉ。

足利幕府サイドの人G そうだよ、そうだよ、人間、先行きに希望が持てたら、待つ事なんか、ちっとも苦にならねぇってもんよ。

足利幕府サイドの人々 そのうちきっと、イイ事あんぞぉー・・・。

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京都朝年号・延文(えんぶん)3年(1358)12月18日、足利義詮(あしかがよしあきら)、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任、当年29歳。

朝廷よりの将軍任命の宣旨(せんじ)を幕府オフィスに持ち来るは、左中弁(さちゅうべん)・日野時光(ひのときみつ)、それを受け取るは、佐々木秀詮(ささきひでのり)。

天下に広く武功をうちたてたのであるからして、義詮の将軍位就任は当然の事とは言えようが、それにしても、父子相続して二代たちまち、征夷大将軍に就任とは、まことにめでたい事である。

昨今(さっこん)、幕府においては、「自分以上に将軍家に忠功ある者は、この世にいないのでは」と、肩肘(かたひじ)振るって鼻高々の者が多い中に、

佐々木秀詮 (内心)イェーイ、やったぜぇ! このチョウチョもハラハラの晴れ舞台に、なんとまぁ、宣旨の受領役を担当だなんて・・・イヤァーもう、シッチャカメッチャカ、気分い(良)いーッ!

佐々木秀詮の面目躍如、この上無しである。

いったいなぜ、彼がこのように、はぶりが良くなったのかといえば、それはなんといっても、祖父・佐々木道誉(ささきどうよ)の存在を抜きにしては、語れない。

去る元弘(げんこう)年間の始め、佐々木道誉は、あの、鎌倉幕府執権(かまくらばくふしっけん)・北条高時(ほうじょうたかとき)の悪逆無道(あくぎゃくむどう)の振舞いを見て、「北条家の武運も、ついに傾きはじめた」と判断したのであろうか、足利尊氏に対して、しきりに勧めた、

佐々木道誉 足利殿、北条氏を討って、天下を取りなさい!

その言葉通りに、鎌倉幕府の首都圏支配拠点である六波羅庁(ろくはらちょう)は、足利尊氏によって滅ぼされたのであった。(注2)

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(訳者注2)9-3 ~ 9-7 参照。
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それからなおも、日本国中、乱れに乱れて20余年間、有力な武士たちは、いったん吉野朝側に帰参したかと思えば、はたまた足利幕府側に下り、足利直義(ただよし)の陣営に属していたかと思えば、今度は足利直冬(ただふゆ)の味方をし・・・転変極めてめまぐるしく、一瞬たりとも、腰が定まったためしがなかった。(注3)

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(訳者注3)原文では、「然(しかれ)共(ども)四海(しかい)尚(なお)乱れて廿余年、其間(そのかん)に名を高くせし武士共、宮方に参らば又将軍方に降り、高倉禅門に属するかと見れば、右兵衛佐直冬に興力(よりき)し、身を一偏に決せず。」。

あちらこちらと帰趨(きすう)を転変する、腰の定まらない武士たちの態度を批判しようという趣旨であるならば、「高倉禅門(足利直義)に属するかと見れば、右兵衛佐直冬(足利直冬)に興力(よりき)し」の記述箇所は、少々弱いのではないか、足利直義と足利直冬は、同一陣営に属するから。故にここは、「足利直義の陣営に属していたかと思えば、今度は足利尊氏の味方をし」、あるいは、「足利直義の陣営に属していたかと思えば、今度は高師直の味方をし」というような記述の方が、よかったのではと思う。
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しかし、佐々木道誉は、終始一貫して、尊氏を支持し続けてきた。

その間に、彼の親族の大半が、戦死してしまっていた。

中でも、秀詮の父・秀綱(ひでつな)の最期は、特筆に値する。

去る京都朝年号・文和(ぶんわ)2年(1353)6月、山名時氏(やまなときうじ)の謀反(むほん)により、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)は京都を出て、北陸地方への逃避行を余儀なくされた。(注4)

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(訳者注4)原文では、「主上帝都を去(さら)せ御座(おわしま)して、越路(こしじ)の雲に迷わせ給ふ。」。

この箇所は、太平記作者の記述ミスである。天皇は北陸方面ではなく、美濃へ移動した。32-4 参照。
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この時、新田(にった)氏所属の堀口貞祐(ほりぐちさだすけ)は、山名の謀反に乗じて、堅田浦(かたたうら:滋賀県・大津市)で、天皇一行を襲った。それに対して、佐々木秀綱は反撃にうって出て命を捨て、その間に、天皇は落ち延びて難を逃れた。(注5)

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(訳者注5)32-4 参照。
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そのような過去の忠功の蓄積があったが故に、「あの時に、天皇陛下が難を逃れられたのは、佐々木秀綱の奮戦あってこそ。この点において、彼の武功は、他に抜きんでている。故に、今回の将軍任命宣旨の受領役は、彼の息子・秀詮に」と、いう事になったのである。

この、「将軍任命・宣旨を、武士階級に所属する者が受領する」という形式は、おそらく、いにしえの建久(けんきゅう)年間、源頼朝(みなもとのよりとも)の将軍就任の時に、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう:神奈川県・鎌倉市)において、三浦義澄(みうらよしずみ)が宣旨を受領した、あの事跡にならって、企画されたものと思われる。

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2018年4月17日 (火)

太平記 現代語訳 33-10 新田義興、憤死す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利尊氏(あしかがたかうじ)死去の後、九州地方は先に述べたように大混戦状態になってしまったが、関東地方においては静謐(せいひつ)が保たれていた。しかし、風雲の種が皆無の状態であったわけではない。

新田家(にったけ)・第2世代の3人のリーダー、すなわち、故・新田義貞(にったよしさだ)の子息・新田義興(よしおき)、その弟・新田義宗(よしむね)、故・脇屋義助(わきやよしすけ)の子息・脇屋義治(よしはる)は、ここ3、4年間、越後国(えちごこく:新潟県)内に城郭を構え、国の半ばを支配下に収めていた。

そこへ、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、上野(こうづけ:群馬県)の一部の勢力から連名でもって、「二心無く、忠節を尽くしたし」との趣旨をしたためた起請文を添えて、以下のような手紙が送られてきた。

 「お三方のうち、お一人だけ、関東へおこし下さいませ。大将に奉じたてまつり、義兵をあげたく存じます。」

新田義宗 ハァー(溜息)、まったくもって、近頃の人間、ほんと、心変わり激しいんだもんなぁ。

脇屋義治 ヤツラの言う事なんか、あてになるもんかよ。

義宗と義治は思慮深い性格であったから、相手にしなかった。

ところが、新田義興は、非常に性急なパーソナリティーを有していた上に、その心中には常に、「忠功においては、人よりも先に!」との思いがあった。

新田義興 なにぃ、「関東へ来て、大将になってくれ」だってぇ! 願ってもないチャンスだ、行くぞ、おれは! いざ関東へ!

深謀遠慮をめぐらす事も全くないままに、義興は、わずか郎従100余人だけを引き連れ、旅人の集団を装って、密かに武蔵国へ入った。

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義興のもとへは、多くの人々から、内通の意志が寄せられた。新田一族に昔から縁の深い者は言うまでもなく、かつて、父・義貞に対して忠功あった者、さらには、足利幕府・鎌倉府(あしかがばくふ・かまくらふ)のナンバー2・畠山国清(はたけやまくにきよ:注1)に対して恨みを含んでいる者。

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(訳者注1)当時の足利幕府・鎌倉府のナンバー1は、尊氏の息子・基氏。畠山国清は、その執事職にあった。
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彼らは、密かに義興に音信を通じ、しきりに媚びを入れては、彼からの軍勢催促に応ずる旨のメッセージを送ってきた。

このようにして、義興も今は身を寄せる所も多くなり、上野と武蔵両国の中に、彼の武威は、ようやくその萌芽の兆しを見せ始めた。

「天に耳無しといえども、天は、人間の耳を借りて、何もかも知ってしまう」という。

上野、武蔵の人々と新田義興は互いに隠密裏に事を進めているのではあるが、やはり、そこには限界というものがある。兄は弟に語り、子は親に知らせているうちに、彼らの動向はついに、鎌倉府の足利基氏(あしかがもとうじ)と畠山国清の知る所となった。

畠山国清 (内心)うわぁ、こりゃぁ、えれぇ事になっちまったぞぉ!

国清は心配でたまらない。食事の間も寝ている間も、新田義興の事が、頭から離れない。

義興の居場所をつきとめ、大軍を差し向けても、その情報はあっという間に伝わってしまい、彼の行くえはサッパリ分からなくなってしまう。また、500騎、300騎の軍勢を差し向けて、道中で待ち伏せしたり夜討ちをかけたりしても、義興はいささかも意に介さず、群がる軍勢を蹴散らしては道を通り、打ち破(わ)っては包囲を脱出。

畠山国清の部下A まったくもってぇ、新田義興ってぇのは、トンデモネェやろうですわ。

畠山国清の部下B 今ここにいるかと思えば、次の瞬間、もうあちらに。

畠山国清の部下C もしかしたら、ヤツって、エスパー(超能力者)?

畠山国清の部下D テレポーテーション(瞬間的遠隔移動)ってぇ、やつかい?

畠山国清の部下E こう出てくるかと思えば、あぁ出てくる。

畠山国清の部下F まさに、千変万化(せんぺんばんか)、とても、人間わざとは思えませんや。

畠山国清の部下C もしかして、ヤツって、宇宙人?

畠山国清 ヤイヤイ、なにバカな事言ってやがんでぃ、ザケンジャァねぇ!

畠山国清の部下一同 ・・・。

畠山国清 (内心)うーん・・・ったくもう、どうしようもねぇなぁ。手に余るヤロウだぜぃ。

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畠山国清 (内心)うーん・・・マイッタなぁ・・・でも、とにかく、なんとかしなきゃな・・・うーん・・・いってぇ、どうしたらいいんだ、どうしたらぁ! エェーン、何か名案は、ねぇのかよぉ、名案はぁ! うーん・・・。

国清は昼夜、新田義興・対策を考え続けた。そんなある日、

畠山国清 そうだ!(両手を打ちあわせる)

国清の両の掌 パチン!

畠山国清 アイツを使うんだよ、アイツを・・・うん、こりゃぁ、うまくいくかもしんねぇぞぉ。

ある夜、国清は密かに、竹澤右京亮(たけざわうきょうのすけ)を自邸に呼び寄せた。

竹澤右京亮 いってぇ、何のご用でしょう?

畠山国清 まぁまぁ・・・さ、イッパイやれや。(ニヤニヤ)

竹澤右京亮 はぁ・・・。(盃を傾ける)

畠山国清 ・・・。

竹澤右京亮 ・・・。(盃を傾ける)

畠山国清 あのなぁ・・・例の武蔵野(むさしの)の合戦(注2)の時にさぁ、アンタたしか、あの新田義興の配下にいたんだっけなぁ?

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(訳者注2)31-2 を参照。
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竹澤右京亮 (ドキッ)・・・。

畠山国清 ・・・新田に対して、随分と、忠節尽くしてたっていうじゃぁねぇか。

竹澤右京亮 それは過去の事です! 今は、公方(くぼう)様(注3)に、固く固く、忠誠を誓っとりまさぁね!

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(訳者注3)鎌倉府のトップ、すなわち、足利基氏。
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畠山国清 グフフフ・・・まぁまぁ、そうムキになるなって。わかってるよぉ、わかってるってばぁ。

竹澤右京亮 ・・・。

畠山国清 義興もきっと、あんたとの古いよしみ、忘れちゃぁいねぇだろぅよ・・・そこでだ、そんなアンタを見込んでだ、ひとつ、頼みがあんだけんどなぁ・・・。

竹澤右京亮 ・・・。

畠山国清 ヤツをだまくらかして、討っちまう・・・あんたほどの適任者、他には、いねぇやなぁ。

竹澤右京亮 ・・・。

畠山国清 どんな謀略使ってもいいから、なんとかして新田義興、討ってよ。ヤツの首、基氏様にお見せしようじゃねぇか。

竹澤右京亮 ・・・。

畠山国清 そうなりゃ、恩賞は、あんたの望みのままだもんなぁ。

竹澤右京亮 (眼ギラギラ)・・・。

畠山国清 なぁ、どうだい?

右京亮は元来、欲の深い性格、世間の人々の嘲りをものともせず、古のよしみを顧慮(こりょ)する事も無い、情けのヒトカケラもない男である。

竹澤右京亮 ・・・わぁかりやした、やりやしょう。

畠山国清 おぉ!

竹澤右京亮 まずは、わしに対する義興殿の疑惑を消さなきゃ・・・そうでねぇと、接近できませんもんねぇ・・・。

畠山国清 そうだなぁ。

竹澤右京亮 畠山殿、こうしません? まずは、わしがわざと、法律に触れるような事をしでかす。で、畠山殿から勘気(かんき)をこうむり、追放の身になった、という事にして、領地へ帰る。その後、わしは義興殿に接近する・・・と、まぁ、こんなカンジでどうです?

畠山国清 いいねぇ!

このように、綿密にしめしあわせた後に、竹澤右京亮は自邸へ戻った。

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翌日、竹澤右京亮は、「工作」を開始した。

あちらこちらの宿場からキレイドコロ数十人を自宅に呼び寄せ、連日連夜のドンチャン騒ぎ。さらには、とりまき連中2、30人を呼び集め、10余日間、昼夜ぶっとおしで、賭博(とばく)をやらかした。

ある人が、彼のこの行状を、国清に知らせた。

畠山国清 (激怒)竹澤め、ケシカランやつだぁ! ヤツが犯してる法律、一つや二つじゃぁ、キカねぇぞ!

畠山国清 たとえ道理から外れた法律であったとしても、その法律を破ってもいぃってぇ道理なんかね(無)ぇんだよ。ましてや、人倫(じんりん)の道にのっとって制定された法律を破ったとあっちゃぁ、もう、タダじゃぁすまされねぇぞぉ!

畠山国清 人間一人の罪を戒むるは、万人を助けんがため。今この時、ゆるい処罰をしてたんじゃぁ、世間にシメシがつかねぇ!

国清はそく、右京亮の領地を没収し、鎌倉府から彼を追放した。

それに対して、右京亮は一言の弁明をすることもなく、

竹澤右京亮 てやんでぇぃ! 基氏殿に仕えなくたってぇ、この身一つ食わせていくことくらい、ラァクラク(楽々)できらぁな!

このように、声高らかにうそぶきながら、右京亮は自分の領地へ帰っていった。

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数日後、右京亮は、新田義興のもとへ密書を送った。

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私の親、竹澤入道は、殿の御父君であらせられます故・新田義貞殿の配下に属して、忘れもしないあの元弘(げんこう)年間の、打倒・鎌倉幕府戦を、戦い抜きました。その際の忠功は、抜群のものがありました。

私もまた先年、武蔵野合戦において、殿のお味方に馳せ参じ、忠戦致しました事、よもや、殿はお忘れではございませんでしょう。

その後、世の転変度々に及び、殿のご所在も分からなくなってしまいました。いたしかたなく、しばらくは、この命を保って、再び殿が活躍される日の来たるのを待とうと思い、以来、私は、畠山国清の配下に所属しておりました。

ところが、私のこの心中に秘めた志、どういうわけか、表面化してしまい、さしたる罪科とも思えない事に対して、畠山からケチをつけられ、一所懸命(いっしょけんめい:注4)のわが領地を、没収されるに至りました。

このままでは早晩(そうばん)、討たれてしまうだろうと思いましたので、すぐに、武蔵の畠山陣営から逃亡して、今は、深山幽谷(しんざんゆうこく)に潜伏(せんぷく)しておる次第(しだい)です。

私のこれまでの、殿に対する不義の行為をお許しいただけますならば、私は直ちに、殿の直参(じきさん)の家来となりまして、いざという時には、殿のおん為に、わが命を投げ出す所存(しょぞん)です。

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(訳者注4)「わが命が懸かっている所」の意味。武士階級の人々の生活の頼みはまさに、「わが領地」であった。
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このように、右京亮から、ねんごろに言ってきたのであったが、

新田義興 うーん・・・どうも信用できねぇなぁ。

というわけで、義興は右京亮に会おうともせず、秘密の相談を持ち掛ける事もなかった。

竹澤右京亮 (内心)この程度じゃぁ、だめかぁ・・・よぉし。

さらに、心中の偽らざる所を顕わして、義興に接近しようと思い、右京亮は、京都へ部下を派遣した。

部下は、ある皇族の家から、周囲から「少将殿(しょうしょうどの)」と呼ばれている年齢16、7歳の上級女房をもらいうけ、武蔵に連れ帰ってきた。

竹澤右京亮 うわぁ、こりゃぁいいねぇ。容色類(ようしょくたぐい)まれ、心様(こころさま)も優(ゆう)にやさしく・・・ゼッタイ、義興、いかれちまうぜぃ。

右京亮は、彼女を自分の養女にし、装束(しょうぞく)や召し使いなど様々に整えた上で、義興のもとへ彼女を送った。

義興は元来、好色の心深い人、少将殿とメロメロに、思い通わしてしまった。

新田義興 (内心)あぁ・・・たった一晩、彼女と離れているだけでも、千年も経ってしまったようなキモチする・・・はぁ・・・。

いきおい、隠れ家を変える事もしなくなり、少々、気も緩みがちになってきた。

新田義興 (内心)竹澤は、信用ならんヤツだ。そして、彼女は、その竹澤の養女・・・でも、養女ったってな、ついこないだ、養子縁組みしたばかりなんだろう? 大丈夫、彼女は、信用していいよ。

警戒すべき竹澤であるならば、それとわずかの縁しか無い者に対しても、やはり、警戒を怠ってはならないのに・・・。

「褒姒(ほうじ)ひとたび笑(え)んで、幽王(ゆうおう)国を傾け、楊貴妃(ようきひ)傍らに媚(こ)びて、玄宗(げんそう)世を失う」とは、まさに、このような事を言うのであろうか。

かの太公望(たいこうぼう)いわく、

 利を好む者には 珍財(ちんざい)を与えて 迷(まよ)わせよ
 色を好む者には 美女(びじょ)を与えて 惑(まよ)わせよ

 (原文)
 好利者興財珍迷之
 好色者興美女惑之

このように、敵を陥れる謀略の手口を、太公望がわざわざ示してくれているというのに、それを知らないとは、義興も愚かなものである。

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竹澤右京亮の工作は、ついに効を奏した。

「あなたのお味方になりたい」との切々たる訴えに、義興もついに心を許し、右京亮に面会した。

右京亮は、鞍を置いた馬3匹に新品の鎧3領を添え、お召し替用の馬として、義興に贈った。さらに、越後から義興と共にやってきて、そこかしこに潜伏している武士たちに対して、酒宴のもてなしを行い、馬、鎧、衣装、太刀、刀に至るまで、様々の品物をとりそろえて与えた。

その結果、義興は右京亮に対して、格別の信頼を置くようになり、義興の周囲の人々も皆、「こんなに役に立つ人は、他にはいないな」と、大いに喜んだ。

このように、朝に夕にと、義興に対して犬馬(けんば)の労を積み、昼となく夜となく、自分に二心無い事を顕わし続けていくこと半年、右京亮に対する義興の警戒心は、完全に消滅してしまった。

何かにつけて、右京亮に心おきなく接するようになり、打倒・鎌倉府の計略、自分に味方する者の数等、何一つ隠すことなく、残らず、右京亮にうちあけるようになってしまった。あぁ、なんという事であろうか。

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今宵は9月の13日、仲秋の明月の日。暮天(ぼてん)と共に、雲は晴れ、明月の名にふさわしく、月もきっと光り輝くことであろう。

竹澤右京亮は、信頼のおける一族若党300余人を、集めていわく、

竹澤右京亮 このようにな、皆に集まってもらったのは、他でもねぇ、今夜、一大重大事を、決行するからでぇぃ。

竹澤一族若党・メンバー一同 ・・・。

竹澤右京亮 今宵、月見の会に事よせて、新田義興をこの館へ招き入れる・・・で、宴たけなわとなったその時・・・。

竹澤一族若党・メンバー一同 ・・・。

竹澤右京亮 義興をヤっちまうんだ!

竹澤一族若党・メンバー一同 !(一斉にうなずく)

竹澤右京亮 おまえら全員、館の近くに、待機してろ。義興が館に入るのを見届けて、館内へ入ってこい。で、オレが合図したら、そく、客殿へ突入しろ!

竹澤一族若党・メンバー一同 !(一斉にうなずく)

やがて、日が暮れた。

竹澤右京亮 さぁてと・・・。

右京亮は、義興のもとに赴いていわく、

竹澤右京亮 義興様、今宵は、仲秋の明月じゃぁごぜぇませんか。おそれながら、私のオソマツな館へいらっしゃって、草深き庭の上に輝く月を、どうぞ、ご覧あそばせな。

新田義興 うーん、いいなぁ。

竹澤右京亮 ご家来衆の方々も、どうぞ、ごいっしょに。キレェドコロも、少々、呼んでおりますぜぃ。

新田義興・部下A うっひょー!

新田義興・部下B うれしいねぇ。

新田義興・部下C 今夜は愉快に遊べそう。

新田義興・部下一同 行こう、行こう!

すぐに、馬に鞍を置かせ、郎従達を集めて、まさに竹澤邸へ向かおうとしたその時、少将の局からの手紙が届いた。

新田義興 う? いったいなんだぁ?

手紙 パサパサ・・・(開かれる音)

手紙には、次のように。

 「うち(私)、ゆうべ(昨夜)、ものすごい悪い夢みましたんどす。ものすごい気になるもんやから、夢占い師に相談してみましたんどす。そしたら、なんとまぁ、「厳重なる慎みが必要です、7日間、門から一歩も出たらいけません!」言うやおへんか・・・。殿、どうぞ、むちゃな事、絶対に、せんとくれやしや。」

これを見て、義興は、執事(しつじ)の井弾正忠(いのだんじょうのちゅう)を側に招いて、

新田義興 なぁ、少将が、こんな事、言ってきたんだけど・・・どう思う?

井弾正忠 はい・・・(手紙を読んで)・・・うーん、やっぱしねぇ、凶事の予言を聞いたとあっちゃぁ、外出は慎むべきですよ。とにかく、今夜の宴には行かない方がいいと思います。

新田義興 うん、わかった、そうする。

義興は、「急に風邪ぎみになってきたので、今夜の宴会への出席は見合わせる」と言って、右京亮を帰らせた。

竹澤右京亮 (内心)うーん、残念! もうちょっと、という所だったのになぁ・・・。

竹澤右京亮 (内心)どうも、あの女からの手紙を見て、宴会欠席という事になったらしい・・・という事はだぞ・・・おそらく、あの女、おれのこの企みに感づきやがった・・・で、義興に注進に及んだ・・・そうに違いない・・・。

竹澤右京亮 (内心)ヤバイ! あの女を生かしといちゃ、ヤバイ!

翌夜、右京亮は、密かに少将の局の住居を訪れ、彼女を門口まで呼び出した。

少将の局 はいはい・・・あのぉ、なにか・・・。

竹澤右京亮 エヤ!

少将の局 アァ!

右京亮は、少将の局を刺し殺し、掘の中へ沈めた。

あぁ、いたわしきかな、少将の局。

戦乱のうち続く京都ゆえに、皇族方の家でさえも、困窮の度は増すばかり、長年仕えてきた者たちは、秋の木の葉のごとく、散りぢりに去っていく。皆、自分の体一つ養うだけでせいいっぱい、頼りになる人は誰もいなくなってしまい、浮き草のごとき日々を送る。

そのような状態であったからこそ、この竹澤右京亮という人に、自分の運命を託し、彼の養女となったのであった。

なのに、わけも何もわからないままに、あっという間に殺されて、秋の霜の下に伏し、深い淵の中に身体を沈められるとは・・・彼女のこの最期、思いやるだに哀れ、涙が出る。

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竹澤右京亮 (内心)新田義興討伐、オレ一人の力じゃ、到底、むりだなぁ。

というわけで、右京亮は、畠山国清に手紙を送った。

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 「ついに、新田義興の潜伏先を、きっちりと把握いたしました。しかし、わが竹澤家の者だけで彼を襲っていったのでは、なにせ小勢ですから、討ち漏らしてしまう可能性が大きいです。」

 「つきましては、私の親類である江戸遠江守(えどとおとうみのかみ)と江戸下野守(しもつけのかみ)を、こちらに派遣してくださいませ。彼らと、よくよく作戦を練った上で、必ず、新田義興を討ちとりますから。」
========

国清は大いに喜び、すぐに、江戸遠江守とその甥・江戸下野守を、現地に送る事にした。

畠山国清 (内心)いや待った! ただ単に、ヤツラを送り込むだけじゃぁダメだ。その情報をキャッチしたら、義興は、またまた潜伏場所を変えて、こっちの手の届かない所に行っちまうかもしれんからな・・・うーん、いったい、どうするべい?

畠山国清 (内心)よし、こうしよう。

国清は、江戸たちとしめし合わせた上で、彼らの領地の稲毛庄(いなげしょう:神奈川県・川崎市)12郷を没収し、自らの代官を置いた。

江戸たちは、偽って大いに怒り、すぐに稲毛庄へ馳せ下った。そして、国清が送り込んできた代官を追い出し、城郭を構え、一族以下500余騎を招集した。

江戸遠江守 こうなったら、もうトコトン、やってやるからな!

江戸下野守 畠山に向かって、矢の一本でも射てから、討死にしてやらぁ!

それから程無く、江戸遠江守は、竹澤右京亮を介して、新田義興に手紙を送った。

========
わが一族の一所懸命の領地を、無法にも畠山に没収され、我ら江戸氏、叔父も甥も、共にボロボロの状態になってしまいました。

このままでは、もうどうしようもないので、一族を率いて、鎌倉府の足利基氏(あしかがもとうじ)殿の御陣に馳せ向かい、あのにっくき畠山国清に、一矢射てやろうと思っております。

ただし、問題は兵力です。しかるべき人を、大将として仰がなければなりません、でないと、誰も我々に加勢してはくれんでしょう。

そこで、新田義興殿にお願いします、なにとぞ、我々の大将となって、全軍の指揮を取って下さいませんでしょうか。

この提案をお受け頂けるのでしたら、まず、お忍びで、鎌倉へいらしてくださいませ。あそこには、当家の一族、少なめに見積もっても、2、3,000騎はおりますから、イッキに鎌倉を制圧できましょう。

鎌倉制圧の後は、相模(さがみ:神奈川県)一国を打ち従え、関東8か国を平定。その後は、足利氏の天下を覆してしまう謀を、どうぞ、めぐらしてくださいませ。
========

このように、いとも簡単に事が成るかのように、書き記して送った。

江戸からの手紙を読んで、義興は、

新田義興 あの、忠誠心深い竹澤が、仲を取り持って言ってきたんだもんな、これは信頼してもいいだろう。

新田義興 よぉし、行くぞ! いざ、鎌倉!

義興は直ちに、武蔵(むさし:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)、上野(こうずけ:群馬県)、常陸(ひたち:茨城県)、下総(しもうさ:千葉県北部)中の、自分に内々、志を通じてくれている人々に対して、この計画を通知した。

10月10日の暁、義興は、隠密裏に鎌倉へ向かった。

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江戸と竹澤は、新田義興・殺害計画を着々と整え、矢口渡(やぐちのわたし:位置不明)で、彼を待ちかまえた。

渡し舟には、前もって仕掛けが施されていた。底部に2箇所、穴が開けられており、その穴は、桧(ひのき)の内皮を砕いて作った詰め物を押し込んで、ふさがれていた。

川の対岸は、宵の頃より、江戸遠江守と江戸下野守率いる300余騎で、ビッシリとかためられた。全員、完全武装で、木の陰や岩の下に待機。生き残った者がいたら、確実にしとめてしまおうと、用意万端、怠りない。

川のこちら岸には、竹澤右京亮が、えりすぐりの弓射の達人150人を率いて待機。義興が引き返してくるような事があれば、遠矢を浴びせて射殺そう、とのたくらみである。

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「大勢で行ったのでは、あやしまれるから」というので、新田義興は、郎従たちを小出しに鎌倉へ送っており、彼の周囲には、わずかの人数しかいなかった。

義興は、世良田右馬助(せらだうまのすけ)、井弾正忠、大島周防守(おおしますおうのかみ)、土肥三郎左衛門(とひさぶろうざえもん)、市河五郎(いちかわごろう)、由良兵庫助(ゆらひょうごのすけ)、由良新左衛門(ゆらしんざえもん)、南瀬口六郎(みなせくちろくろう)ら、わずか13人だけを従え、他のメンバーは一切交えずに、矢口の渡しに到着した。

彼らは、例の渡し舟に乗り込んだ。

舟は、川の中へ漕ぎ出した。

今、眼下を流れいくその河が、まさに死出の旅路に渡る三途の川であるとは、到底、思い知るすべもなし、あぁ哀れなるかな、舟上の人々・・・。

この状況をたとえるならば、無常(むじょう)の虎に追われて煩悩(ぼんのう)の大河をようやく渡り終えたと思うやいなや、眼前に三毒(さんどく)の大蛇が浮かび出て、我を呑まんと舌を延べる。大蛇の害から逃れんと欲して、岸に生える草の根に命を懸けてしがみつけば、黒白2匹の鼠が忽然(こつぜん)と出現し、その草の根をかじり始める・・・まさに、あの無常のたとえに他ならない、もはや絶望的としか、いう他はない。

この矢口渡、川幅は4町余り、波険しくして、河底は深い。

船頭は、ひたすら櫓(ろ)を押し続け、舟は川の中ほどに達した。

と、その時、

船頭 あ、しまったぁ!

櫓 ボシャン!

ミスって手から滑り落してしまったかのように装いつつ、船頭は、櫓を河に落した。

次の瞬間、二人の水夫が、例の二個所の穴から、詰め物を同時に抜き放つやいなや、河中へ身を躍らせた。

あっという間の出来事であった。

船頭や水夫たちは、悠々と浅瀬に泳ぎ着いて逃亡。後に残されたのは、みるみる浸水していく舟に取り残された、義興と13人のメンバーのみ。

対岸に、江戸が率いるメンバー4、500騎が現れて、トキをどっと作る。

江戸サイド・リーダー ヤッタァー、ヤッタァー、

江戸サイド・メンバー一同 オオオオーーー!

こちら岸からも、それに呼応して、

竹澤サイド・メンバーG やった、やったぁ!

竹澤サイド・メンバーH ウヒャヒャヒャヒャ・・・。

竹澤サイド・メンバーI やつら、まんまとハマリおって!

竹澤サイド・メンバーJ ヌケヌケと、だまされおったわ。

竹澤サイド・メンバーK ザマァ見やがれぃ!

竹澤サイド・メンバー一同 ウッヒャッヒャッヒャッ・・・(パンパンパンパン・・・エビラを叩く)

舟への浸水はどんどん進み、ついに全員、腰まで水につかってしまった。

井弾正忠は、新田義興をだいて、空中に差上げた。

新田義興 (激怒)あぁ、残念無念! 日本最悪の無法モンらに、まんまと、だまされちまったぁ! よぉし、見てろよ、これから7回生まれ変わって、おまえらに、とっついてやっからなぁ! この恨み、晴らさでおくもんかぁー!

激怒の中に、義興は腰から刀を抜き、左の脇から右のアバラ骨の所まで、かき廻しかき廻し、2回切った。

井弾正忠は、自らの腸を引き切って川の中へガバと投げ入れた後、自分の喉を2箇所刺し、自らの髪をひっつかんで首を後ろへ折った。その首骨の折れる音は、2町先までも聞こえたほどである。

世良田右馬助と大嶋周防守は、互いに、刀を柄まで刺し違え、引き組んで川へ飛び込んだ。

由良兵庫助と由良新左衛門は、舟の後方に立ち上がり、刀を逆手に取り直し、共に、自分の首をかき落した。

土肥三郎左衛門、南瀬口六郎、市河五郎は、袴の腰を引きちぎって裸になり、太刀を口にくわえて、川へ飛び込んだ。彼らは、水中を潜って対岸にかけ上がり、300騎の中に走り入って1時間ほど切りあった。5人を討ち取り、13人に負傷を負わせた後、共に死んでいった。

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その後、江戸と竹澤は、水泳達者のメンバーを川に入れ、新田義興と彼の家来たちの遺体を捜索させた。その結果、全員の遺体が引き揚げられた。

保存の為に酒に浸された義興と家来たち13人の首を持ち、江戸遠江守、江戸下野守、竹澤右京亮は、500余騎を従えて、足利基氏が駐在しているキャンプ(camp)・入間川(いるまがわ)(埼玉県・狭山市)(注5)へ向かった。

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(訳者注5)原文では、「左馬頭殿の御坐(おわします)武蔵の入間河の陣へ馳参。」
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畠山国清は大喜び、さっそく、小俣宮内少輔(おまたくないしょうゆう)(注6)、松田(まつだ)、河村(かわむら)(注7)を呼び出して、彼らに、その首を見せた。

彼らは全員、「これは、新田義興殿に、まちがいありません」と、認めた。

彼らは、3、4年前のわずか数日間ではあったが、義興の旗の下に馳せ参じた当時の事を語り、涙を流した。

彼らの涙を見て、足利サイドの人々も、喜びの中にもついつい、もらい泣きしてしまうのであった。

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(訳者注6)31-1 に登場。

(訳者注7)31-4 に登場。
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新田義興(幼名:徳寿丸)は、愛人が生んだ子であったので、長男の義顕(よしあき)が死んだ後も、新田義貞(よしさだ)は彼を嫡子には立てず、三男の義宗(よしむね)を、新田家の後継者とした。

わずか6歳にして早くも朝廷での昇殿(しょうでん)を許され、華やかな人生のスタートをきった義宗とは違い、義興の方は、まったく世に出る事もなく、孤児のような状態のままに、新田家の本拠地・上野国(こうずけこく)に捨て置かれていた。

ところが、奥州国司(おうしゅうこくし)・北畠顕家(きたばたけあきいえ)が、陸奥(むつ:東北地方東部)から鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ攻め上ってきた際に(注8)、新田義貞に心寄せる武蔵(むさし)と上野の武士たちは、この徳寿丸を大将にかつぎ、3万余騎の軍勢でもって北畠軍に合流し、鎌倉を攻め落した後、吉野までやってきた。

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(訳者注8)19-7 参照。
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後醍醐(ごだいご)先帝(当時は天皇)は、徳寿丸を見て、

後醍醐天皇 なんとまぁ、りっぱなもんやないかいな! 武勇に優れてるとこなんか、まさに、父親譲りやわなぁ。

後醍醐天皇 まさに、この子やで、次代の新田家を盛り立てていくのんは・・・。

後醍醐先帝は、御前にて徳寿丸の元服式を上げさせられ、「新田左兵衛佐義興(にったさひょうえのすけ・よしおき)」と命名して、彼を召し使われるようになった。

義興は器量に優れ、軍略においてもまことに巧み、頭の回転も早かった。吉野朝年号・正平(しょうへい)7年(1352)の武蔵野(むさしの)合戦、鎌倉合戦においても、大軍を破り、万卒を相手に戦った。まことに、古今まれにみる戦上手の人といえよう。

その後、世間の目から隠れ、身辺に2、3人を従えただけで武蔵や上野に潜伏していた時、宇都宮家(うつのみやけ)家臣の清党(せいとう)300余騎の包囲をもってしても、彼を討つ事ができなかった。

「新田義興という人は、まるで天を翔(かけ)り、地を潜る術を身につけているかのようである、まったくもって、驚嘆すべき勇者である」との世間のうわさに、足利幕府・鎌倉府の足利基氏(あしかがもとうじ)も、京都の足利義詮(よしあきら)も、彼を恐れていた。

しかし、ついにその命運も尽き、才覚無き愚かな者たちにだまされ、水に溺れて討たれてしまったのである。

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やがて、「新田義興を討った江戸と竹澤の功績は、抜群である」ということで、数箇所の領地が、彼らに恩賞として与えられた。

「あぁ、武士としての面目躍如(めんもくやくじょ)じゃないか!」と、これを羨む人もあり、「きたねぇ男の振舞いよぉ」と、批判する人もいた。

「なおも、新田に同心した者たちを詮議する為に必要だから」という事で、竹澤右京亮は、キャンプ・入間川に留め置かれた。

一方、江戸家の二人は、足利基氏にいとまごいをして、今回新たに恩賞として下された領地へ赴く事になった。

江戸遠江守は大喜びで、ただちに拝領の地へ下向した。

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10月23日の暮れ方、江戸遠江守は、矢口渡に到着、渡し舟の来るのを待った。

先日、義興が川を渡ろうとした際に、江戸から言われるままに、詰め物を抜いて舟を沈めた例の船頭は、

船頭 なになに、江戸遠江守さまが、恩賞の領地へこれから行かれるんだってぇ? そりゃ、お祝いしなきゃなぁ。

船頭は、種々の酒肴を用意し、迎えの舟を漕ぎ出した。

舟が川の中程に達した時、にわかに、天がかき曇り、雷鳴が轟(とどろき)き始めた。強風が激しく吹きすさび、荒波が舟を翻弄(ほんろう)する。船頭は、あわてて櫓を押し、こぎ戻そうとして舟にUターンをかけた。しかし一瞬の間に、逆巻く波に舟は呑まれ、漕ぎ手も舵取りも、一人残らず水底に没してしまった。

岸にたたずみながら舟の来るのをじっと眺めていた江戸遠江守は、この想像だにしなかった展開を見て、恐怖におののいた。

江戸遠江守 (顔面蒼白)(内心)タタリだ、タタリだぁ! 天の怒り、こりゃ、タダゴトじゃぁねぇぞ!

江戸遠江守 (顔面蒼白)(内心)怨霊(おんりょう)だ、怨霊だ・・・きっと、義興の怨霊だぁ!

彼は、川端から後すざりした。

江戸遠江守 (内心)別の渡しを渡ろう。

20余町ほど上流にある渡しめがけて、遠江守は馬を駆った。

ひっきりなしに、眼前には電光がひらめき、雷鳴は轟音(ごうおん)を発して轟きわたる。付近には民家も無く、日は暮れてしまった。

江戸遠江守 (内心)今にも、雷神に蹴り殺されてしまうかも・・・どうか、お助けを、義興殿・・・。

もはや、渡し場どころではない、手を合わせて虚空を拝し、必死に四方に逃げまわる。

とある山麓の辻堂が目に止り、

江戸遠江守 (内心)よし、あそこまで、なんとか・・・。

馬をあおりにあおる。

その時、黒雲が一群、遠江守の頭上に下りてきた。

思わず首をすくめる遠江守。

その次の瞬間、彼の耳のすぐ側で、轟音がとどろいた。

雷 バリバリバリ!

江戸遠江守 ウァ!(のけぞる)

江戸遠江守 ・・・(恐怖のあまり、後ろをキッとふりかえる)ウアァ!

彼の背後にはなんと、あの新田義興が! 火のような真っ赤な糸で威(おど)した鎧に、龍頭(たつがしら)の5枚かぶとの緒を締め、白栗毛(しろくりげ)の馬・・・よく見ると、馬の額には角が生えている!

江戸遠江守 ウアアアアア・・・(馬に拍車、拍車、拍車、拍車・・・)

江戸遠江守の乗馬の蹄 タタラッ、タタラッ、タタラッ、タタラッ・・・。

新田義興 ・・・。

新田義興の持つ鞭 ビシ! ビシ! ビシ! ビシ!(馬に鞭を当てる音)

新田義興の乗馬の蹄 ドドドッ、ドドドッ、ドドドッ、ドドドッ・・・。

義興の乗馬はたちまち、遠江守の乗馬に追いつき、義興は右側に、遠江守は左側に、二頭は並走状態となった。

新田義興 ・・・(左手に弓を持ち、右手で、長さ約7寸のカリマタ矢をつがえる、そして、身体を左下にグット落とす)

新田義興の弓 ギリギリギリギリ・・・ビュィ!

新田義興の矢 ヒューーーー! ズヴーーーヴァ!(遠江守の肩甲骨を貫通し、乳の下へ鏃が出る)

江戸遠江守 ウア・ア・ア・アー・・・。(落馬)

落馬した江戸遠江守のもとに、家臣らが懸け寄ってきた。

家臣L 殿、殿!

家臣M 気をたしかに!

江戸遠江守 義興殿、義興殿、どうか助けて、命ばかりは、どうか、どうか、フワッ、フワッ・・・。

家臣N えぇっ? 義興殿? いってぇ、ナニ言ってんですか。

家臣L 義興なら、こないだ、やっつけましたじゃん。

江戸遠江守 そこに、義興が・・・真っ赤な鎧・・・フワッ、フワッ・・・。

家臣M だぁれも、いやしませんぜ。なに言ってんですか、もう!

江戸遠江守 いや、いるんだ、そこに・・・見えないか・・・義興が、義興が・・・ウウウ・・・フワッ、フワッ・・・ゲボッ(吐血)。

家臣L いけねぇ、何とかしなきゃ!

家臣M 殿、殿!

江戸遠江守 ・・・(悶絶(もんぜつ))。

家臣N とにかく、お館へ! 早く!

家臣たちは、遠江守を輿に乗せ、やっとの思いで江戸邸へたどりついた。

それから7日間、遠江守は、もだえにもだえ、苦しみ続けた。手足をあがき、水におぼれた時のような動作をしながら、絶叫するのである。

江戸遠江守 ・・・ああ、苦しい、とてもガマンできん・・・助けて・・・助けて・・・どうか・・・。(バタバタバタバタ・・・手足を激しく動かす)

彼は、絶叫の中に息絶えていった。

この世はしょせん、諸行無常(しょぎょうむじょう)、明日をも知れぬ命の中に、わずかの慾にかられ、人道から外れた事を企み行ったその結果、一月もたたない中に、因果応報(いんがおうほう)の理(ことわり)歴然(れきぜん)、たちまち悪報(あくほう)が、その身に下ったのである。これは又、未来永劫(みらいえいごう)、江戸遠江守の成仏を妨げる障害ともなっていくのである。

武士の家に生れ、先祖代々の家業を継いで弓矢を取る事は、世俗の法であるがゆえに、それはそれで仕方が無い事である。しかしながら、このような人の道に外れるような策謀を好み行う、というような事は、人間、決して、やってはならないのである。

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その翌夜、眠りについた畠山国清は、悪夢にうなされた。

翌朝早く、国清は、起床して周囲にいわく、

畠山国清 いやぁ、ゆんべ(昨夜)はよぉ、とんでもねぇ悪ぅい夢、みちゃってなぁ・・・。

畠山家臣O いってぇ、どんな夢ですかね?

畠山国清 いやぁ・・・あのさぁ・・・例の新田義興が、出てきちゃったのぉ。

畠山家臣P んもう・・・エンギでもねぇ。

畠山国清 黒雲の上に突然な、太鼓の音とトキの声がな。いってぇどこのどいつが、攻めてきやがったんだろうなぁってぇ、思ってなぁ、そっちの方をじっと睨んでたんだよ、するとだな、なんと・・・。

畠山家臣一同 ・・・。

畠山国清 ワォ、あれはぁ! マギレもねぇ新田義興! 身長2丈の鬼の姿になっちまってるじゃん・・・牛頭(ごづ)、馬頭(めづ)、阿放(あほう)、羅刹(らせつ)ども10人ほど、前後に従えちゃってぇ・・・火の車、引いちゃってぇ・・・あああ、いかん! 基氏様の陣中へ、入っていきやがるぅ!

畠山国清 いかん、いかん、基氏様を守らなきゃ・・・いかん、いかん、おぉい、馬、馬・・・誰か、誰か、いねぇのかよぉ・・・誰かぁーーー!(ガバッ)

畠山国清 ・・・ってなフゥにな、必死になって叫んでたとこで、夢から覚めたんだ。

畠山家臣一同 ・・・。

その時急に、キャンプ・入間川のエリア一帯に、雷が光り始めた。

雷 ビカビカァ!・・・・ドドドドド、ドシャァーーーン!

畠山家臣一同 ウア!

畠山国清 ウアア!

この落雷により、キャンプ・入間川の付近の民家300戸、神社仏閣数10箇所が、あっという間に焼失してしまった。

怪奇現象は、それだけには止まらなかった。

義興の最期の地となった矢口渡には、その後、夜な夜な、ボォッと光る物体が出現し、往来の人々を悩ますようになった。

近隣の村人たちが集まって、義興の怨霊を静める為に、矢口渡の付近に神社を建立し、彼の亡霊を神として崇め奉った。その社は、「新田大明神(にっただいみょうじん)」と呼ばれ、常盤(ときわ)や堅盤(かたわ)の祭礼が、現在も絶える事なく続いているという。

以上、まことに不可思議なる数々の現象である。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 33-9 菊池武光、大いに武威を振るう

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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九州地方の有力武士、小弐頼尚(しょうによりひさ)と大友氏時(おおともうじとき)は、菊池武光(きくちたけみつ)に九州全域を制圧されてしまい、その支配下に伏さざるをえないこの現状が、まことに、おもしろくない。ゆえに、足利幕府が派遣した細川繁氏(ほそかわしげうじ)の九州上陸に機を合わせて、菊池に対して叛旗(はんき)を翻そうと、たくらんでいた。

ところが、崇徳上皇(すとくじょうこう)の御霊(ごりょう)に罰せられて繁氏が悶死(もんし)してしまった、との知らせにガックリ、旗揚げ計画を断念した。

菊池武光 九州でぇ幕府側についとるんは、もう、畠山直顕(はたけやまなおあき)だけだわねぇー。これからちょっくらぁ出かけてってぇ、あいつがたてこもっとる穆佐城(むかさじょう:宮崎県・宮崎市)ばぁ、攻めてみるとねぇー!

菊池一族メンバー一同 よぉーし!

吉野朝年号・正平(しょうへい)13年(1358)11月17日、菊池武光は、5,000余騎を率いて肥後(ひご:熊本県)を出発、日向(ひゅうが:宮崎県)へ向かった。

道中は4日間の行程、山を超え川を渡り、行く先は険阻にして、後方には難所が多い。

その時、小弐頼尚と大友氏時は、菊池武光からの兵力動員催促(へいりょくどういんさいそく)に応じて、豊後(ぶんご:大分県)まで進んで、陣営を整えつつあった。

大友氏時 (内心)ムムム、絶好のチャンス到来!

菊池軍が肥後・日向国境を越えたタイミングを見計らって、大友氏時は、菊池に対して叛旗を翻し、豊後の高崎山(たかさきやま:大分県・大分市)に登ってたてこもった。

さらに、宇都宮宏知(うつのみやひろとも)は、川を前にして豊前(ぶぜん:福岡県東部)への道を塞(ふさ)ぎ、肥田刑部太輔(こえだぎょうぶのたいう)は、山を後ろに当てて、筑後(ちくご:福岡県南部)への道を塞いだ。

このように、周囲を完全に包囲された形となり、菊池軍は、どこへも退く事ができなくなってしまった。もはや籠の中の鳥、網代(あじろ)にかかった魚のごとしと、これを哀れに思わぬ人はいない。

しかしながら、菊池武光、この24年間というもの、九州のありとあらゆる武士たちと、あるいは敵対し、あるいは連合したりを繰り返してきたが故に、個々の勢力の陣構えスタイルや戦闘能力を、完全に知り尽くしてしまっている。

菊池武光 なにぃ、大友が豊後で叛旗? 宇都宮が豊前へのルートを塞ぎよったぁ? それがどうした! 痛くもかゆくも無かとぉーっ!

菊池一族メンバー一同 そぉとも、そぉとも、おぉとも(大友)、おぉとも、痛くもかゆくも、無かとぉ、無かとぉーっ!

武光は軍を進め、11月10日から戦闘開始、畠山直顕の子息・重隆(しげたか)がたてこもっている三保城(みつまたじょう:宮崎県・北諸県郡・三股町)を昼夜兼行で17日間攻め続け、それを落して300人の首を取った。

頼りにしていた三保城を落されて、畠山父子は、「もはやかなわじ」と思ったのであろう、本拠地たてこもりをギブアップし、穆佐城を捨てて深山の奥へ逃げこんだ。

菊池武光 ここまでテッテイテキにやっといたら、もう十分。さぁ、肥後へ帰るとね。

菊池一族メンバー一同 あんたがった、どっこさ、ひぃご(肥後)さ、ひぃごどっこさ。

菊池軍の背後を塞いでいた大友たちは、大軍をもってしても、彼らに対して何のアクションも起こせなかった。

かくして、武光は、矢の一本を放つ事もなく、自分の館へ帰還した。

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菊池武光 次は、大友よぉ、バァシッと、やっつけちゃるとねぇ。

菊池一族メンバーA 小弐や阿蘇が、ヘンな動き、せにゃ、いいんだが。

菊池武光 大丈夫。あいつら今まで、わしらの陛下にたてつくような気配、見せとらんばい。

というわけで、小弐頼尚、阿蘇惟村(あそこれむら)としめし合わせた後、菊池武光は、5,000余騎を率いて、大友氏時を退治するために、豊後へ向かった。

ここに至って、小弐頼尚は急に心変わりし、太宰府(だざいふ:福岡県・太宰府市)で菊池に叛旗を翻した。

阿蘇惟村も、頼尚を支援する動きに出た。菊池軍の退路を塞ぐべく、小国(おくに:熊本県・阿蘇郡・小国町)という所に9箇所の城を構え、「菊池軍、一人残らず殲滅!」との企てである。

菊池武光 チィ! ロジスティクス・ライン(兵糧運送経路)塞がれたんでは、豊後へ攻め寄せていくん、ちと無理ばぁい。

菊池一族メンバーB えぇい、小弐のヤロウめ、まっことニク(憎)かぁ!

菊池一族メンバーC いっそのこと、太宰府ばぁ攻めるとね。

菊池武光 いやいや、ここはムリしちゃ、いかんばい。

菊池一族メンバー一同 ・・・。

菊池武光 しょうがなかとぉ。いったん肥後ばぁ引き返してから、あらためて、戦の準備ばぁ、するとねぇー。

菊池軍は、本拠地の菊池(きくち:熊本県・菊池市)へ退却開始。阿蘇側が構えた9箇所の城を、順に一つずつ落して、退路を切り開いていった。

菊池軍の猛攻の前に、阿蘇軍は壊滅状態、阿蘇惟村は、頼りにしていた家臣を300余人も失ってしまった。菊池軍の退路を遮(さえぎ)るどころか、自分の命さえも危うい状態になってしまい、惟村は、ほうほうのていで逃走していった。

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吉野朝年号・正平(しょうへい)14年(1359)7月、「征西大将軍宮(せいせいだいしょうぐんのみや:注1)を大将に、新田(にった)一族、菊池一族、太宰府へ攻め寄せきたる!」との情報に、小弐頼尚は、陣を構えて相手の襲来を待ちかまえた。

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(訳者注1)後醍醐天皇の皇子・懐良(かねよし)親王。延元元年(1336)、比叡山から京都へ帰還の折、後醍醐天皇は懐良親王に「征西大将軍」の称号を与えて、九州へ送った。
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大将・小弐頼尚の下、その子息・小弐忠資(ただすけ)、その甥・小弐頼泰(よりやす)、朝井胤信(あさいたねのぶ)、筑後頼信(ちくごよりのぶ)、窪泰助(くぼのやすすけ)、肥後泰親(ひごやすちか)、太宰頼光(だざいよりみつ)、山井惟則(やまいこれのり)、饗場重高(あいばしげたか)、饗場行盛(ゆきもり)、相馬小太郎(そうまこたろう)、木綿左近将監(こわたのさこんしょうげん)、西河兵庫助(さいかのひょうごのすけ)、草壁六郎(くさかべろくろう)、牛糞刑部太輔(うしくそぎょうぶのたいふ)。

松浦党(まつらとう)武士団は以下の通り:佐志将監(さしのしょうげん)、田平左衛門蔵人(たひらさえもんのくろうど)、千葉右京太夫(ちばうきょうのだいぶ)、草野筑後守(くさのちくごのかみ)、その子・草野肥後守(ひごのかみ)、高木肥前守(たかぎひごのかみ)、綾部修理亮(あやべしゅりのすけ)、藤木三郎(ふじきさぶろう)、幡田次郎(はたたじろう)、高田筑前前司(たかだちくぜんのぜんじ)、三原秋月(みはらあきづき)の一族、島津貞久(しまづさだひさ)、渋谷播磨守(しぶやはりまのかみ)、本間十郎(ほんまじゅうろう)、土屋三郎(つちやさぶろう)、松田弾正少弼(まつだだんじょうしょうひつ)、河尻肥後入道(かわじりひごのにゅうどう)、詫間三郎(たくまさぶろう)、鹿子木三郎(かのきごさぶろう)等、総勢6万余騎、杜(えづり:福岡県・久留米市)の渡しを前にあて、味坂庄(あじさかしょう:福岡県・小郡市-福岡県・久留米市)に陣を取る。

それに対して吉野朝側は、後醍醐先帝の皇子・征西大将軍宮・懐良親王をはじめ、洞院権大納言(とういんごんだいなごん)、竹林院三位中将(ちくりんいんさんみのちゅうじょう)、春日中納言(かすがちゅうなごん)、花山院四位少将(かざんのいんよんいのしょうしょう)、土御門少将(つちみかどしょうしょう)、坊城三位(ぼうじょうのさんみ)、葉室左衛門督(はむろさえもんのかみ)、日野左少弁(ひののさしょうべん)、高辻三位(たかつじのさんみ)、九条大外記(くじょうのだいげき)、その子息・九条主水頭(もんどのかみ)。

新田一族からは、岩松相模守(いわまつさがみのかみ)、瀬良田大膳太夫(せらだだいぜんのだいぶ)、田中弾正大弼(たなかだんじょうだいひつ)、桃井左京亮(もものいさきょうのすけ)、江田丹後守(えだたんごのかみ)、山名因幡守(やまないなばのかみ)、堀口三郎(ほりぐちさぶろう)、里見十郎(さとみじゅうろう)。

侍大将の陣には、菊池武光、その子息・菊池武政(たけまさ)、その甥・菊池武信(たけのぶ)、同じく甥・菊池武明(たけあきら)、赤星武貫(あかぼしたけつら)、城越前守(じょうのえちぜんのかみ)、賀屋兵部太輔(かやひょうぶのたいふ)、見参岡三河守(みさおかみかわのかみ)、庄美作守(しょうのみまさかのかみ)、国分次郎(こくぶんのじろう)、故・名和長年(なわながとし)の次男・名和長秋(ながあき)、同じく三男・名和修理亮(しゅりのすけ)、宇都宮刑部丞(うつのみやぎょうぶのじょう)、千葉刑部太輔(ちばぎょうぶのたいふ)、白石三川入道(しらいしみかわのにゅうどう)、鹿嶋刑部太輔(かしまぎょうぶのたいふ)、大村弾正少弼(おおむらだんじょうしょうひつ)、太宰権小弐(だざいのごんのしょうに)、宇都宮壱岐守(いつのみやいきのかみ)、大野式部太輔(おおのしきぶたいふ)、派讃岐守(みなまたさぬきのかみ)、溝口丹後守(みぞぐちたんごのかみ)、牛糞越前権守(うしくそえちぜんのごんのかみ)、波多野三郎(はだのさぶろう)、河野辺次郎(かわのべじろう)、稲佐治部太輔(いなさじぶのたいふ)、谷山右馬助(たにやまうまのすけ)、渋谷三河守(しぶやみかわのかみ)、渋谷修理亮(しゅりのすけ)、島津上総四郎(しまづかずさのしろう)、斎所兵庫助(さいしょひょうごのすけ)、高山民部太輔(たかやまみんぶのたいふ)、伊藤摂津守(いとうせっつのかみ)、絹脇播磨守(きぬわきはりまのかみ)、土持十郎(つちもちじゅうろう)、合田筑前守(あうたちくぜんのかみ)。

これら主要メンバーの他、総勢8,000余騎が、高良山(こうらさん:福岡県・久留米市)、柳坂(やなぎざか:久留米市)、水縄山(みなうやま:久留米市)の3箇所に陣を取った。

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(訳者注2)福岡県・久留米市に、「宮ノ陣神社」という社がある。神社境内にある久留米市による解説によれば、「征西将軍宮・懐良親王がここに陣を張ったことが、『宮ノ陣』の地名の由来とも言われている」のだそうだ。

神社の境内に、「将軍梅(しょうぐんばい)」という梅の古木があり、「懐良親王のお手植」と言い伝えられているのだそうだ。
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7月19日、菊池武光が先陣を切った。

武光は、自らの手勢5,000余騎を率いて筑後川(ちくごがわ)を渡り、小弐頼尚の陣へ押し寄せた。

頼尚は何を思ったのか、戦わずして30町ほど退き、大原(おおはら:福岡県・小郡市)に陣を張り直した。

武光は、引き続き頼尚を攻めようと思ったが、両者の間には深い沼が横たわり、そこを貫く細い道が一本あるばかり、途中には三個所、掘が切られており、その上には細い橋を渡してあるだけ、とてもそこを通過できそうにない。

両軍の間合いは次第に縮まり、互いに、旗の紋までもが、鮮やかに見えるようになってきた。

頼尚をはずかしめんがため、武光はわざと、金銀の太陽と月を打ってつけた旗の蝉本(せみもと:注3)に、一枚の「イワクつき」の起請文を貼り付けた。

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(訳者注3)「蝉」は、旗の頂上に取り付けられた小さな滑車であり、旗のその部分を「蝉本」という。
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昨年(注4)、足利直冬(あしかがただふゆ)の陣営に所属していた小弐頼尚は、古浦城(ふるうらじょう:場所不明)において、足利幕府九州庁駐在・一色一族メンバー・一色範氏(いっしきのりうじ)によって、今まさに討たれんか、という状態になった。そこへ、武光が大軍をもって後づめをかけた結果、一色範氏は退却し、頼尚は命拾いをした。

頼尚は喜びに堪えず、「今より後、子孫7代に至るまで、菊池家の人々に向かって、弓を引き、矢を放つような事は、決していたしません」と、熊野神社(くまのじんじゃ:和歌山県)の護符の裏に、自らの血を絞って書いた。それが、この起請文なのである。

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(訳者注4)史実においては、「昨年」ではなく、1353年の出来事。
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それにもかかわらず、このようにあっけなく、心変りしてしまったなんともなさけない頼尚の醜態を、天に訴え、人に知らしめようとの、武光の意図である。

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8月16日夜半、武光は、夜襲のベテラン300人を選抜してコマンド部隊を編成。

彼らは、山を越え川を渡り、小弐陣営のカラメテ方面へ進んだ。

その後、武光は、主力7,000余騎を3手に分けて筑後川(ちくごがわ)ぞいに進軍、川の水音に紛れて険阻な場所を超え、小弐陣営から至近距離の地点へ迫った。

大手方面軍のこの接近に時を合わせて、コマンド部隊300人は、カラメテ方面から小弐陣営内へ突入。3箇所に分かれて一斉にトキの声をあげ、十方に走り回りながら小弐陣へ矢を射掛け、相手の背後に回り込んでひかえる。

狭い場所に、6万余騎もの軍勢が、クツの鋲のようにビッシリと陣を並べていた小弐サイドは、あっという間に、大混乱状態に陥ってしまった。

菊池軍コマンド部隊の上げるトキの声にあわてふためき、敵がどこにいるのかも定かならないままに、こちらに寄せ合い、あちらに懸け合わせては、延々数時間もの同志打ちを展開。頼尚が頼りとするメンバー300余人が、この同志打ちの中で死んでしまった。

小弐陣営パニック状態の中に、やがて、夜が明けた。

菊池武光 よぉし、総攻撃開始ぃー!

吉野朝軍一同 ウオオオーーーー!

吉野朝側第1陣は、菊池二郎(きくちじろう)、例の起請文の旗を進め、1,000余騎を率いて小弐陣に突入。

これを迎え撃つは、頼尚の長男・小弐忠資。

50余騎でもって戦ったが、父の起請違反が子にたたってしまったのであろうか、忠資はあっけなく敗北、なおも、返し返し戦い続けたが、ついに、菊池軍の武士に組まれて討ち取られてしまった。

これを見て、小弐軍の朝井胤信、筑後頼信、窪泰助、肥後泰親(注5)ら100人が反撃に出て、迫り来る菊池軍メンバーに引き組み引き組み、刺し違えて次々と死んでいく。

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(訳者注5)原文では、「肥前刑部太輔」となっているが、これはおそらく太平記作者の誤りで、正しくは、「肥後刑部太輔」すなわち、「肥後泰親」であろう。
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吉野朝側も、菊池武明、菊池越後守(えちごのかみ)、賀谷兵部大輔(かやひょうぶのたいふ)、見参岡三川守、庄美作守、宇都宮刑部丞、国分次郎以下の主要メンバー83人が、全員一所に討たれた。

小弐側の第1陣は、大将の小弐忠資が討たれてしまったので退却。吉野朝側の第1陣も、馬を休めるために、第2陣に最前線を譲った。

吉野朝側第2陣は、菊池武光の甥・菊池武信と赤星武貫が率いる1,000余騎。

これを迎え撃つは、頼尚の次男・小弐頼泰と太宰頼光が率いる20,000余騎。

始めのうちは、双方100騎ずつ、順次、最前線に出ては戦っていたが、次第に乱戦模様となり、双方あわせて22,000余騎、サッと入り乱れ、ここに分かれ、かしこに合し、1時間ほど戦い続けた。組んで落とせば下敷きにし、切って落とせば首を取る。

勝敗が未だ決しないままに、吉野朝側の赤星武貫を討ち取って、小弐側は大いに意気上がり、吉野朝側は退却。しかし、吉野朝側も、小弐側の太宰越後守を生け捕りにできたので、勝ちどきをあげて喜ぶ。

吉野朝側は、結城右馬頭(ゆうきうまのすけ)、加藤太夫判官(かとうだいぶのはんがん)、合田筑前入道(あったちくぜんにゅうどう)、熊谷豊後守(くまがやぶんごのかみ)、三栗屋十郎(みくりやじゅうろう)、太宰修理亮(だざいしゅりのすけ)、松田丹後守(まつだたんごのかみ)、松田出雲守(まつだいずものかみ)、熊谷民部大輔(くまがえみんぶのたいふ)以下、主要メンバー300余人が戦死。

小弐側は、饗場重高、饗場行盛、山井惟則、相馬小太郎、木綿左近将監、西河兵庫助、草壁六郎以下、頼りのメンバー700余人が討死。

吉野朝側第3陣は、懐良親王・親衛隊、新田一族、菊池肥後守ら3,000余騎。彼らは、一団となって小弐陣を中央突破し、蜘蛛手(くもで)十文字(じゅうもんじ)に懸け散らさんと、おめいて、馬を走らせる。

小弐、松浦党武士団、草壁、山賀(やまが)、島津、渋谷ら20,000余騎は、左右へサッと開き、吉野朝側に矢の雨を浴びせかける。吉野朝側もこれにはたまらず、退却。

懐良親王は、三個所もの重傷を負ってしまった。

日野左少弁、坊城三位、洞院権大納言、花山院四位小将、北山三位中将(きたやまさんみのちゅうじょう)、北畠中納言(きたばたけちゅうなごん)、春日大納言(かすがのだいなごん:注6)、土御門右小弁(つちみかどうしょうべん:注7)、高辻三位、葉室左衛門督に至るまで、何とかして懐良親王を逃がそうと、踏みとどまって戦い続けた。

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(訳者注6)前記中には、「春日中納言」と記されている。

(訳者注7)前記中には、「土御門少将」と記されている。
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これを見た新田一族33人は、1,000余騎を率いて横方向から攻撃、左右の小弐側最前線を追いまくり、真ん中へ会釈もなく懸け入って、引き組んでは落ち、打ち違えては死に、命を限りに戦う。

世良田大膳太夫(注8)、田中弾正大弼、岩松相模守、桃井右京亮(注9)、堀口三郎、江田丹後守、山名播磨守(注10)が、小弐軍メンバーに引き組まれて討たれていった。

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(訳者注8)前記中には、「瀬良田大膳太夫」と記されている。

(訳者注9)前記中には、「桃井左京亮」と記されている。

(訳者注10)前記中には、「山名因幡守」と記されている。
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懐良親王が負傷したのみならず、公卿や新田一族が多数討たれてしまったのを見て、菊池父子は、

菊池武政 もうこうなったら、命なんか惜しぃない。

菊池武光 日頃の約束違えずに、わしについてくるモンら、全員、討死にしてもらうとね!

菊池軍メンバー一同 ウオーーー!

菊池父子は、全軍の真っ先切って、反撃にうって出た。

よく見知った菊池父子であるから、小弐軍側はここぞとばかり、

小弐軍メンバーD 菊池や、菊池や!

小弐軍メンバーE 弓、弓!

小弐軍メンバーF 射落とせぇ!

鏃(やじり)をそろえ、雨のごとく矢を射掛ける。

しかし、菊池武光が着ている鎧は、今回の戦の為に特別にあつらえたもの、「強弓の使い手に、3人張りの弓を持たせて、鉄板を射させて」といったような耐久テストを行い、それに合格した鉄板だけを用いて組み立てさせたものである。故に、小弐側からどのような強弓で射られようとも、その鎧を貫通する矢は1本も無い。

馬は射られて倒れども、それに乗る武光は無傷。馬を乗り換えては乗り換えては、17度もの突撃を敢行。その結果、武光は、兜を落され、頭部に2箇所の太刀傷を負った。

さすがの菊池武光も、「あわや、これまでか」と思われたが、武光は小弐武藤(しょうにたけふじ)に馬を並べて組んで落ち、相手の首を取って太刀の先に貫き、武藤の兜を取ってかぶり、その馬に乗り換えた後、さらに小弐陣中へ突入。午前6時から午後10時頃まで、休む事なく戦い続けた。

長男・忠資をはじめ、一族23人、頼りにしていた郎従400余人、その他の軍勢3226人を失ってしまった小弐頼尚は、「もはやかなわぬ」と、太宰府へ退却し、宝万岳(ほうまんだけ:福岡県。太宰府市)に逃げ上った。

勝利を得たものの、吉野朝側も戦死者を調査してみれは、その数なんと1800余人、これではとても、戦闘続行は不可能である。「ここしばらくは、負傷者の回復を待ち、あらためて再度の戦を」という事になり、吉野朝軍は肥後へ引き返した。

その後は、双方、自らの本拠地にたてこもり、にらみあいの状態となった。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 33-8 足利幕府、九州地方における形成逆転を図る

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)によって、足利幕府・九州庁(きゅうしゅうちょう)長官に任命され、筑紫国(つくしこく:福岡県)に駐在していた一色直氏(いっしきなおうじ)とその弟・一色範光(いっしきのりみつ)は、京都朝年号・延文(えんぶん)3年(1358)の春(注1)、吉野朝陣営所属の菊池武光(きくちたけみつ)と戦ってボロボロに打ち負かされてしまい、京都へ逃げ帰ってしまった。

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(訳者注1)原文では、「今年の春、筑紫の探題にて将軍より置かれたりける一色左京太夫直氏・舎弟修理太夫範光は、」。
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その後、九州全域にわたって、吉野朝サイドの勢力は著しく伸張、小弐(しょうに)、大友(おおとも)、島津(しまづ)、松浦党(まつらとう)武士団、阿蘇大宮司(あそのだいぐうじ)、草野(くさの)に至るまで皆、吉野朝側に順い靡(なび)き、今となっては、足利サイド勢力は、畠山直顕(はたけやまなおあき)ただ一人が日向国(ひゅうがこく:宮崎県)の穆佐城(むかさじょう:宮崎県・宮崎市)にこもるだけ、という状態になってしまった。

足利幕府リーダーA 九州地方をあのままの状態にしておいたのでは、非常にまずいと思うんですけど・・・。

足利幕府リーダーB 将軍様がお亡くなりになって間もない今この時、菊池がこれに付け込んで動き出しでもしたら・・・。

足利幕府リーダーC あの菊池武光の事ですからね、きっと、京都まで攻め上ってくる事でしょうよ。

足利幕府リーダーD いやぁ、こりゃぁ天下の一大事。放置しておいちゃぁ、いけません!

足利義詮 そうだなぁ・・・急ぎ、討伐軍の大将を、送り込まなきゃぁねぇ・・・。

ということで、故・細川顕氏(ほそかわあきうじ)の子息・繁氏(しげうじ)を伊予守(いよのかみ)に任命し、九州討伐軍の大将として派遣する事になった。

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細川繁氏は、まず自らの本拠地、讃岐(さぬき:香川県)へ下り、軍船をそろえ、軍勢を集めにかかった。

ところが、京都朝年号・延文4年(1359)6月2日、繁氏はにわかに病に伏し、なにか、モノにとりつかれたような状態になってしまった。

細川繁氏 アアア・・・フゥフゥフゥ・・・アアア・・・フゥフゥフゥ・・・フワワワワ・・・ウウウ・・・(ガタガタガタガタ)・・・フワワワワ・・・ファーッファーッ・・・(ガタガタガタガタ)。

細川繁氏 フゥフゥフゥ・・・おれ・・・おれはなぁ・・・(ガタガタガタガタ)・・・軍事費にあてがうためになぁ・・・(ガタガタガタガタ)・・・崇徳上皇(すとくじょうこう)の御領地を横領したぁ・・・(ガタガタガタガタ)・・・でもってぇ、でもってぇ・・・こんな重病になってしまったぞぉ・・・フワワワワ・・・ウウウ・・・(ガタガタガタガタ)・・・。

細川繁氏 フゥフゥフゥ・・・アアア・・・天の責めが・・・アアア・・・8万4千の毛孔(はちまんしせんのもうく)から入ってきてな・・・5臓6腑(ごぞうろっぷ)に溢(あふ)れかえる・・・ウァァァァ・・・熱い・・・熱い、アツイーッ!

細川繁氏・側近E (必死に扇ぐ)

扇 バタバタバタバタ・・・。

細川繁氏・側近E 殿、ほれ、涼しい風!

細川繁氏 やめろ、やめろ、熱い、熱い! ナニが涼しい風じゃ・・・燃え盛る炎みたいな・・・な・・・ウァァァァ・・・!

細川繁氏 水、水、水!

細川繁氏・側近F 殿、ほれ、冷たい水でございますよ、ほれ!(水を飲ませる)

細川繁氏 (ゴクン、ブァー!・・・口から水を、噴水のように吐き上げる)アチチ! アチチ! おのれ、煮え湯を・・・飲ませやがったな!

細川繁氏・側近F そんなぁ・・・水でございますよ、水!

細川繁氏 ファー、ファー、ファー・・・もうダメだぁ! 熱い! 熱い! もうダメだぁ! 誰かぁ・・・助けてくれぇー! ウァ、ウァ、ウァァァーーーー!

悶絶(もんぜつ)しながら転げまわる繁氏を何とかして助けようと、医師や陰陽師(おんみょうじ)らがやってくるのだが、彼の周囲4ないし5間の空間は、まるで猛火が燃え盛っているように高熱を帯びていて、誰もそこに近づく事ができない。

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病に伏し始めてから7日後の午前6時、黄色の旗一流を立て、兜をかぶった兵1,000騎ほどが、三方から、同時にトキの声をあげて、細川邸に押し寄せてきた。

謎の軍・リーダー オエーイ、オエイー、

謎の軍・メンバー一同 ワウワウワウワウーーー!

細川軍メンバーG 敵襲(てきしゅう)じゃ! 敵襲じゃぁ!

細川軍メンバー一同 いったい、どこのやつらやぁ?!

細川軍メンバーG 分からん! けど、敵に間違いない!

細川軍メンバー一同 よぉし!

繁氏からの召集に応じてやってきていた武士たち500余人は、庭に走り出て、襲来してきた謎の軍めがけて、散々に射る。矢が尽きてしまった後は、太刀を抜いて、追いつ返しつ1時間、必死の防戦を展開。

細川軍メンバーH あー! やられたぁ!

細川軍メンバー一同 なにぃ!

細川軍メンバーH あれ、見ぃや!

細川軍メンバー一同 アーッ!

見れば、カラメ手方向から細川邸内に潜入してきたのであろうか、紅色(くれないいろ)の母衣(ほろ)をかけた兵10余騎が、細川繁氏と彼の家来・行吉掃部助(ゆきよしかもんのすけ)の首を、太刀の先に貫いているではないか。

謎の軍・別動隊の隊長 見ろ、見ろ!(二つの首を、高々と差し上げる)憎いヤツの首はみんな取ってやったぞ! ウヒャヒャヒャヒャ・・・。

謎の軍・リーダー オエーイ、オエイー、

謎の軍・メンバー一同 ワウワウワウワウーーー!

トキの声を上げ終わるやいなや、謎の軍のメンバーたちは全員、天に上って雲に乗り、白峯(しらみね:香川県・坂出市:注2)の方角へ飛び去って行った。

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(訳者注2)崇徳上皇は、「保元の乱」の後、讃岐へ流されてそこで死去した。白峯寺に御陵がある。
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ナゾの軍が去った後、ふと、我に帰ってみれば、細川軍のメンバーたち、討たれたと思った者は、死んではおらず、負傷したと思った者も、身体に何の傷も無い。

細川軍メンバーI あれぇ? あいつさっき、ヤラレタはずやのに・・・ピンピンしとるやん。

細川軍メンバーJ ・・・おかしいのぉ・・・おれ、いったい今まで、何、しとったんやぁ?

細川軍メンバーI おいおい、オマエさっき、ヤツラにやられて倒れんのん、おれ、たしかに見たけど。

細川軍メンバーJ えーっ?・・・なぁも覚えとらんよぉ。

細川軍メンバーI はぁー?

細川軍メンバーK ・・・さっきオレ、左腕、矢にやられたはずなんじゃが・・・跡(あと)っかた一つ、残っとらんがの。いったいぜんたい、どうなっとんじゃぁ?

細川軍メンバーL 不思議な事もあるもんじゃのぉ。

ところが、その後しばらくして、細川繁氏と行吉掃部助が、同時に死去してしまった。

現代の世はまさに濁悪(じょくあく)の末世(まっせい)とはいいながらも、まことに霊験あらたかにして、不可思議な出来事である。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 33-7 廉子、死去す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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同年4月18日、吉野朝(よしのちょう)側においても、重要な人が世を去っていた。新待賢門女院(しんたいけんもんのにょいん)、すなわち、後村上天皇(ごむらかみてんのう)の母君・廉氏(れんし)である。

天皇はじめ百官みな、御所の月に涙を落し、後宮の露に思いを砕きながら、何と悲しい事であろうかと、ただただ、涙を拭うばかりである。

さらに、同年5月2日、梶井門跡(かじいもんぜき)・尊胤法親王(そんいんほっしんのう)が亡くなられた。延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)の人々の悲嘆、皇族方の嘆きは、この上も無い。

世間の声A まぁそれにしても、今年はいったい、なんちゅう年なんやろ。大事なお方が、次から次へと、亡くなってしまわはりましたやん。

世間の声B いや、ほんとにそうですよね。これはまさに、国家レベルの重大な嘆きと、言うべきです。

世間の声C 亡くなられた方々をよく知っていた人も、そうでない人も、みんなそろって口々に、不安を訴えておりますよ、「これから世の中、いったいどうなっていくんだろう」ってねぇ。

京都、比叡山延暦寺、吉野朝の支配エリア、どこもかもが、うち続くVIP(Very Important Person)死去の報に、哀傷に沈み込んでいる。新待賢門女院の御所は露深く、幕府オフィス煙暗くして、比叡山は雲の色を悲しみ。

関係者D いったいぜんたい、どういう巡り合わせで、こんな年になってしまったのかなぁ。将軍様がこの世におられなくなってしまうだなんて・・・なんだか、心にポッカリと、大きな穴があいてしまったような・・・(涙)。

関係者E ほんまになぁ、美しい美しい花のようなお方やった・・・女院様はなぁ。(涙)

関係者F 高い所に咲いてはった花も、今となっては嘆きの花になってしまわれた・・・花は散って陰の草葉にかかる・・・あぁ、門跡様は逝ってしまわれた・・・。(涙)

僧俗男女、共に、涙の袖を絞るしかない。

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太平記 現代語訳 33-6 足利尊氏、死去す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・延文(えんぶん)3年(1358)4月20日頃より、将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)は、重病の床についた。背中に、腫れ物が生じてしまったのである。

内科、外科の医師が数を尽くして集まり、史上に名高い名医の倉公(そうこう)、華陀(かだ)の如き秘術を施し、朝廷、幕府、上から下まで、様々の薬を送ったが、一向に利き目が現れない。

陰陽博士(おんみょうはかせ)、効験あらたかな高僧たちも集まって、様々な祈念を行った・・・鬼見(きけん)、太山府君(たいさんぶくん)、星供(ほしく)、冥道供(みょうどうく)、薬師如来十二神将法(やくしにょらいじゅうにしんしょうぼう)、愛染明王法(あいぜんみょうおうぼう)、一字文殊法(いちじもんじゅぼう)、不動明王慈救延命法(ふどうみょうおうじくえんめいぼう)等、種々の懇請祈願(こんせいきがん)を込めた。

しかし、病状は、日々悪化の一途を辿(たど)り、時々刻々、尊氏の命の灯火は、細っていく・・・邸内の男女は息をひそめ、側近の者らは、ともすると溢れ来る涙を押さえつつ、日夜、寝食を忘れて看病に当たる。

このような中に、身体は次第に衰えゆき、ついに、4月29日(注1)午前4時、尊氏は、命終えた。享年54歳。

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(訳者注1)史実においては、4月30日。
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人間と人間との別離の悲しさもさることながら、たった今、国家の柱石(ちゅうせき)が、砕け散ってしまったのである。

これから先、日本はいったい、どうなってしまうのであろうかと、人々の嘆き悲しみは、止まる所を知らない。

そうは言っても、いつまでも、嘆き悲しんではおれぬから、という事で、2日後、衣笠山(きぬがさやま:北区)の麓、等持院(とうじいん:北区)に埋葬した。

鎖龕(そがん)は天龍寺(てんりゅうじ:右京区)の龍山和尚(りゅうざんおしょう)が、起龕(きがん)は南禅寺(なんぜんじ:左京区)の平田(へいでん)和尚が、奠茶(てんちゃ)は建仁寺(けんにんじ:東山区)の無徳(ぶとく)和尚が、奠湯(てんとう)は東福寺(とうふくじ:東山区)の鑑翁(かんおう)和尚が、下火(あこ)は等持院の東陵(とうりょう)和尚が執行した。

哀れなるかな、将軍となって25年(注2)、向かう所は必ず順(したが)うといえども、無常の敵の来るをば、防ぐにその兵は無し。

悲しいかな、天下を治めて60余州、命(めい)に随う者多しといえども、有為(うい)の境(きょう)(注3)を辞するには、伴うて行く人も無し。

身(み)は忽(たちまち)に化(け)して、暮天数片(ぼてんすへん)の煙と立ち上り、骨(ほね)は空しく留まって卵塔一掬(らんとういっきく)(注4)の塵(ちり)と成りにけり。

別れの泪(なみだ)かきくれて、是(これ)さえ止まらぬ月日かな。

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(訳者注2)尊氏は後醍醐天皇により、1333に鎮守府将軍に任命されたから、1358 - 1333 = 25 (「武将に備わって25年」)

(訳者注3)因果によって形成された現象の世界、すなわち、現世界。

(訳者注4)1個の石によって作られた卵形の塔。
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葬儀より50か日が経過、京都朝廷は、左中弁(さちゅうべん)・日野忠光(ひのただみつ)を勅使として遣わし、故・足利尊氏に、従一位左大臣(じゅいちいさだいじん)の官位を贈った。

足利義詮(あしかがよしあきら)は、その任命書を開いて三度礼拝した後、涙を抑えて一首詠んだ。

 帰って来る 道はないのだ 位山(くらいやま) 登ると聞いても ただ涙だけ

 帰(かえる)べき 道しなければ 位山(くらいやま) 上(のぼ)るに付(つけ)て ぬるる袖かな(注5)

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(訳者注5)従一位への「官位の昇進(上)」と、「山に登る(上)」をかけている。
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日野忠光 (内心)・・・あぁ、なんとまぁ、この歌は・・・すばらしいというか、なんというか・・・ほんま、親子の別れというもんはなぁ・・・。

忠光は、それをありのままに、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)に報告。

天皇も限りなく感動し、新千載和歌集(しんせんざいわかしゅう)の編纂(へんさん)の折に、その和歌を選び、詳細な解説付きで、「哀傷(あいしょう)の部」に載録(さいろく)した。

天皇のその賞賛、まことに、ありがたい事である。

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太平記 現代語訳 33-5 公家と武家、栄枯の地を替える

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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このように、公家の人々の困窮(こんきゅう)は増すばかり、溝や谷の中に行き倒れとなり、道路上をあちらこちらと、さ迷い歩くような状態。それに引き替え、武家の族(やから)はどうかといえば、富貴なることかつての百倍、オートクチュールを身にまとい、グルメを食する日々である。

鎌倉幕府最後の最高権力者、あの北条高時(ほうじょうたかとき)が天下の成敗を行っていた時代でさえも、諸国の守護(しゅご)たちは、自らの権力の限界を、きちんとわきまえていたものである。公家の所有する領地に介入してくる事があったとしても、それは、大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)の検断(注1)の際のみであった。

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(訳者注1)[大犯三箇条の検断]とは、以下の3つの事柄を言う。

1 謀反の鎮圧
2 殺人者の逮捕
3 任国内の御家人に、京都と鎌倉の大番役(警備役)を割り当てる

これらの任務を遂行する為に、守護は、公家の領地といえども、そこに踏み入る事ができたのである。
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ところが今や、大小全てにおいて、守護の意向一つで事が決してしまい、任国(にんごく)の政治は、彼らの思うがままである。(注2)

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(訳者注2)「任国」とは、守護の任務に当たっている国のことである。なお、この箇所、原文では、「今は大小の事、共に只守護の計ひにて、一国の成敗雅意に任すには、」。
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地頭(じとう)や御家人(ごけにん)を、自らの郎従(ろうじゅう)のごとく召し使い、「軍事面での出費をまかなうための、致し方ない手段」と称しては、寺社や公家の領地をどんどん横領して、自らの管理下に置いてしまう。

今やまさに、彼らの権威は、かつての鎌倉幕府時代の六波羅庁(ろくはらちょう)や九州庁(きゅうしゅうちょう)にも比肩せられるほどの、強大なものになりつつある。(注3)

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(訳者注3)原文では、「その権威只古の六波羅、九州の探題の如し」。
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京都においても、武士階級は、大いにハブリをきかしている。

佐々木道誉(ささきどうよ)をはじめとする在京の有力武士たちは、しょっちゅう集まってはお茶会を催したり、毎日のように、何やかやのパーティを盛大にやっている。

国の内外の重宝をかき集め、居館の中は、装飾でキンキラキン。豹(ひょう)や虎の皮を敷いた椅子の上に、金襴段子(きんらんどんす)を裁断して縫った衣服を着した人々が列座している主賓席(しゅひんせき)のその様はあたかも、百福荘厳(ひゃくぶくしょうごん:注4)の床(ゆか)の上に、千体仏(せんたいぶつ)が光輝きながら、並びたもうがごとくである。

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(訳者注4)[仏教辞典 大文館書店 刊]によれば、「百福荘厳: 三十二相をいう。佛の三十二相の一々は、みな因位(修養時代)に於て百福を積んだ功徳によって具備されたものであるから百福荘厳という。」
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識者A 中国の貴人が、遊宴をする時にはですなぁ、「食膳方丈(しょくぜんほうじょう)」と言いましてなぁ、座の周囲1丈四方に、珍味にグルメを、ドバドバドバーっと、並べまくりますんやでぇ。

有力武士B なにぃ!

有力武士C よぉし、こっちも、負けてらんねぇ!

というわけで、面5尺のテーブル上に、いやもう、並べた並べた・・・アツモノ10種類、点心100種類、五味(ごみ:注5)の魚鳥、甘酸苦辛(かんさんくしん)の果物(注6)、色とりどりのギッシリグッシリ・・・。

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(訳者注5)甘味、酸味、塩味、苦味、辛味。

(訳者注6)原文では「菓子」。
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それらを食し終えたその後に、ようやく、本格的な酒宴が始まるというのだから、いやはや、もうあきれてモノも言えない。

酒宴が済んだら、今度は、抹茶ブランド・当てっこ大会。

これがまた、スゴい。座にはズラリと残念賞、その奥に、さらに豪華な賞品が、ギッシリ山積み。(注7)

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(訳者注7)原文では、「飯後に旨酒三献過て、茶の懸物に百物、百の外に又前引の置物をしけるに」。当時の「茶(会)」は、出された茶を飲んで、その産地を言い当てる、というような内容のものであったようだ。
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第1回目の当番の人は、奥染物(おくそめもの:注8)を、参加者1人当たり100個づつ、63人の前に積む。

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(訳者注8)詳細不明。
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第2回目の当番の人は、色とりどりの小袖を、1人当たり10重(かさね)づつ、63人の前に置く。

第3番目の当番の人は、沈香(じんこう)の切れ端を100個づつ、さらに麝香(じゃこう)の臍(ほぞ)(注9)3個を添えて、各人の前に置いていく。

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(訳者注9)麝香鹿の臍の付近から取れる香。
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4番目の当番の人は、砂金100両ずつを、金糸花(きんしか)彫の盆に入れて、各人の前に置いていく。

5番目の当番の人は、新品の鎧1個、柄を鮫皮で覆った白太刀1本、そして、柄も鞘も金メッキの刀に虎皮の火打袋を結わえつけたのを、各人の前に置いていく。

それ以降の当番となった20余人も、「他人より、少しでもスゴイものを!」と、様を変え数を尽くして、豪華な品々を、山のごとく積み上げていく。

その費用たるや、いったい、いかほどになるのであろうか・・・「せめて概算だけでも」と思ったところで、私・太平記作者の所有しているような日常計算用途の電卓をもってしては、桁数オーヴァーとなってしまって、計算不可能であるに違いない。

しかしまぁ、これも、よしとしよう、それらの品々を、参加者が家に持って帰る、というのであれば・・・。

もしそうであるのならば、「抹茶ブランド・当てっこ大会」という名前の、[物の移動の場]が、そこに開かれた、と言うだけの事なのだ、マクロ経済学の観点から見るならば。

ようは、その場において、「財」の移動が起こっているだけのことなのだ、参加者Xから参加者Yの手元への。

ところがなんと、それらの物品は、最終的には全て、参加者以外の人々の手に、渡っていくのである! お供衆(ともしゅう)の時宗(じしゅう)僧侶たち、あるいは、その場に見物に集まってきた田楽(でんがく)ダンサー、猿楽(さるがく)ダンサー、キレイドコロ、女性ダンサーら(注10)らに、一つ残らずバラマかれてしまい、参加者本人たちは、手ぶらで帰って行くのである。

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(訳者注10)原文では、「見物の為に集る田楽・猿楽・傾城・白拍子なんどに皆取くれて、手を空しくして帰りしかば」。
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まったくもって、「空しい費え」としか言う他、ないではないか! 貧窮(ひんきゅう)の民や孤独なる社会的弱者の飢えを助けるたしになるわけでもなし、供仏施僧(くぶつせそう)の檀施(だんせ)になるわけでもない。ただただ、金(こがね)を泥中(でいちゅう)に捨て、玉(ぎょく)を淵に沈めるに等しい行為である。(注11)

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(訳者注11)田楽ダンサー等の人々の手に渡った「財」もその後、何らかの形で回り回って、世の中に流れていくのであろうから、マクロ経済学的観点から見るならば、これを、「空しい費え」とは言いきれないのかも。現に、不況の時代には、「GDPアップ、総需要喚起の為には、イベントでも公共事業でも、とにかく何でもいいから、金が出ていくような場を創設せよ」という意見が多くなる。当時の日本の経済状況が不況傾向であったのかどうか、そこまでは、分からないけれど・・・。
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「抹茶ブランド・当てっこ大会」が終わった後、その場は、カジノに一変する。

賭金(かけきん)の相場は、勝負1回当たり、5貫あるいは10貫。

これがまた不思議な事に、「誰ももうからないカジノ」なのである。

一晩勝負を張り続けたあげく、5、6千貫の持ち出しになってしまう人ばかり、わずか100貫でも懐に入れて家路につく者は、誰一人としていない。これは何故かといえば、賭金をせしめた端からパッパパッパと、田楽ダンサー、猿楽ダンサー、キレイドコロ、女性ダンサーらに、ばらまいてしまうからである。

いったいぜんたい、これらの人々は、どういうわけで、このようなゴージャスな日々を送れるようになったのであろうか? 前世からの何らかの果報でもあって、地中より物が湧き出、天上から財が降ってきて、このような富者になれたのであろうか?

いやいや、財が降ってきたわけではない、物が湧き出てきたのでもない、ただただ、寺社や公家の領地を横領し、農民百姓の所有資材を強奪(ごうだつ)、訴訟の被告、原告から、賄賂(わいろ)を取り集めただけの事である!

かつての鎌倉幕府の時代、幕府の要職にあった人々は、賄賂とは完全無縁にして清廉潔白(せいれんけっぱく)この上なし、賭博(とばく)、勝負事などもっての外、囲碁やスゴロクでさえも、厳禁であった。

なのに、現代の政府要人たちのこの醜態(しゅうたい)は、いったいなんたる事か!

政務はことごとく後回し、まずは遊興事を優先。人が請願を持ってきても、「これから酒宴だ、茶会だから」と言って、対面もしない。世間の人々の嘆きをも知らず、嘲りをも顧みず、毎日延々と、遊び狂っている。まったくもって、前代未聞の劣悪なる所行ではないか!

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このような情勢の中、京都朝年号・延文(えんぶん)3年(1358)2月12日、京都朝廷より、故・足利直義(あしかがただよし)に対して、「そら、色々とあったけどもや、そこはそれ、なんちゅぅても、朝廷に大功ある爪牙耳目(そうげじぼく)の武臣やねんから」という事で(注12)、従二位(じゅにい)の位が、苔の下の遺骸に対して下賜(かし)された。

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(訳者注12)「君主の爪、牙、耳、目とも言うべき存在として、大いに天皇を助けたから」という事で。
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世間の声D いやぁ、こらぁ、驚きましたなぁ。

世間の声E いや、ほんまに。あの足利直義はんに、従二位とはなぁ。

世間の声F 「従二位」いうたら、スゴイんでっしゃろ?

世間の声G そらぁあんた、スゴイ位だっせぇ。

世間の声H 出家の身でさぁ、死後にこんな高い位、贈られるのなんて、前例の無い事じゃん?

世間の声I おいちゃん、おいちゃん、「出家」言うたら、お坊さんの事やろ? 直義さん、お坊さんとちゃ(違)うやんかぁ!

世間の声J あのっさぁ、ボクぅ。おネェさんが教えたげよっかぁ?

世間の声I うん、おせ(教)て、おせて。

世間の声J 高師直(こうのもろなお)さんに負けて、政界から追放された時にっさぁ、足利直義さん、出家なさったじゃないのよぉ。(注13)

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(訳者注13)27-8 参照。
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世間の声I あっ、そうかぁ・・・そやったなぁ。

世間の声J 出家して、「慧源(えげん)」って名前に、なってたんだよぉ。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 33-4 院の北面侍・Xの悲劇

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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様々な事を見聞きするにつけても、まことに嘆かわしいのは、首都・京都の、目をおおわんばかりの荒廃ぶりである。

天下に兵乱が続くこと既に20余年、大内裏(だいだいり)、仙洞御所(せんとうごしょ)、皇族方の屋敷を始め、公卿(くぎょう)、殿上人(てんじょうびと)、諸司百官(しょしひゃっかん)の屋敷のほとんどが、戦火によって焼失してしまい、今となっては、わずか12、3箇所が残っているだけである。

そこに加えて、今回の東寺(とうじ:南区)周辺での戦(注1)。

戦火はまさに地を払い、京都中心部と白河(しらかわ:左京区)一帯は、武士の館以外には家が1軒も無しの状態になってしまった。あたり一面、野には繁茂する草ばかり、草叢(くさむら)の中には累々と白骨が点在している。かつての首都の繁栄は、もはや見る影もない。

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(訳者注1)32-8 ~ 33-1 に描写された、尊氏 versus 直冬の一連の戦いを指している。
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上は大臣レベルから下は新参の公卿まで、高貴な女性から女房たちに至るまで、あるいは大堰川(おおいがわ:注2)、桂川(かつらがわ)の波底の水屑(みくず)となるもあり、あるいは遠隔の地に落ち下って身分低き人のもとに身を寄せるもあり、あるいは片田舎に身を潜めて世捨て人となり、落剥(らくはく)の身をかこちながら、かろうじて生をつなぐもあり。

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(訳者注2)「保津川下り観光船」で有名な「保津川」は、右京区の嵐山付近で「大堰川」と名前が変わり、さらにその下流、右京区の桂付近で、さらに名前が「桂川」となり、伏見区・淀付近で、宇治川、木津川と合して「淀川」となる。
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夜の衣は布地薄く、暁の霜は骨まで染み通るほど冷たい。朝ご飯の煙を立たせる事ももはや無くなり、ついに餓死に至ってしまった人の数もまた多い。

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その中でも、とりわけ哀れであったのが、院上北面侍(いんのじょうほくめんざむらい:注3)、兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)・Xである。

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(訳者注3)「院」とは上皇の御所である。「北面侍」はそこの警備の任にあった人で、「上」とあるので、四位・五位である。
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かつては、Xも富み栄え、人生の快楽、身に余る日々を送っていた。

ところが、この戦乱の渦中に、財宝は残らず略奪され、従類家臣(じゅうるいかしん)全員どこかへ逃亡してしまった。今や、彼の傍(かたわら)には、7歳の女児、9歳の男子、そして、長年連れ添った妻のみが・・・。

兵部少輔・X (内心)・・・あかん・・・もう、あかん・・・。

兵部少輔・X (内心)京都の中には、頼っていくツテもなぁんも、ないわいな。

兵部少輔・X (内心)このまま、ここにじっとしとったんでは、家族4人、餓死するだけや・・・。

兵部少輔・X (内心)・・・かと言うてなぁ・・・道端に袖を広げて乞食するなんて、わしにはとてもでけへんやん・・・。

というわけで、妻は娘の手を引き、兵部少輔・Xは息子の手を引き、一家四人、泣く泣く、丹波(たんば:京都府中部+兵庫県東部)方面へ向かった。

頼る先のあても無し、落ち着く先のあても無し、4、5町行っては野原に横たわり、露に濡れる袖を枕に泣きあかし、一足歩んでは木の下草にひれ伏して、泣き暮す。

ただただ、夢路(ゆめじ)を辿(たど)る心地の中に、京都を出てから約10日、丹波国・井原岩屋(いはらのいわや:注4)の前を流れる、思出川(おもいでがわ)という川のほとりにたどり着いた。

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(訳者注4)石龕寺(せきがんじ)(兵庫県・丹波市)。
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道中、道に落ちている栗や柿などを拾って、ようやく食い繋(つな)いではきたものの、もはや、飢えも疲労も、極限に達してしまった。

足も立たなくなって、川辺に倒れ伏すばかりの妻や子供たちを見るに見かね、Xは、

兵部少輔・X みんな、ここで、ちょっと待っとり。わし、そこらで食べもん、さがしてくるから。

妻と子供たち ・・・。

Xは、身を焼くような焦りの念に駆りたてられながら、その周辺を歩き回り続けた。

兵部少輔・X (内心)あぁ、食いもん、食いもん、食いもん、食いもん・・・早ぉ、早ぉ、早ぉしたらんと・・・。

兵部少輔・X (内心)おぉ! あこに、大きな家あるやん! あこやったら、何か、くれるやろ。

Xは、その家の門の前に立ち、

兵部少輔・X あのぉ・・・もし・・・都からやってきたもんです・・・もうかれこれ10日ほど、何も食べてしまへん・・・どうぞ、哀れや思うて、なにか食いもん、恵んどくれやす。

暫くして、家の中から、侍や中間10余人が走り出てきた。

彼らは、いきなり、Xに襲いかかってきた。

兵部少輔・X あっ、あっ、なにすんねん!

中間A 黙れぇ!

中間B えぇい、こいつ!

兵部少輔・X あイタ! い、いったい、なんやねん!

中間C 用心しとるとこへ、何となしぃウサンくさぁいヤツが、物乞いして門を叩く、こういうケースが、一番あぶないんやわなぁ。

中間D そうや、そうや。こういうのんは、だいたい、夜討強盗(ようちごうとう)の案内役に決まってるんやから。

中間E そうでないとしたら、きっと、吉野方(よしのがた)の廻文(かいぶん)(注5)持って回っとるヤツやろて。

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(訳者注5)原文では、「宮方の廻文」。吉野朝廷からの「わが方に味方して決起せよ」との趣旨の手紙。
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兵部少輔・X ちゃ(違)う! ちゃう! わし、そんなんやない!

侍 拷問や拷問や、徹底的にシメ上げたれ!

中間一同 よっしゃぁ!

兵部少輔・X うわ! やめぇ! やめてくれぇ!

彼らは、手取り足取り、Xを縛り上げ、上げつ下しつ、まる4時間、彼を責め続けた。

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このような事になっていようとは思いも寄らず、Xの妻子らは、川辺に疲れ伏しながら、彼の帰りを、今か今かと待ち続けている。

ふと、道を通り行く人の声が、耳に入ってきた。

通行人F ほんまに、かわいそうにのぉ・・・都の公家に仕えてるフウの、年の頃40ほどの男がのぉ、あこの家の前行って、エライ目に会いよったらしいわ。

通行人G えっ、いったい、どないしたんや?

通行人F うん、旅の道中に疲れ果てて、「助けて下さい」いうて行きよったらしぃんやわ。ところがなぁ、あこの家の連中、助けるどころか、「こいつ、アヤシイやっちゃぁ」言うてな、縛りあげてしまいよったんやがな。

通行人G へぇー。

通行人F で、それからなぁ、上げつ下ろしつの拷問や。

通行人G えーっ!

通行人F 今頃はもう、責め殺されてしもとるでぇ、きっとなぁ。

これを聞いた母子3人は、声々に泣き悲しむ。

息子 ここまで手を引いてきてくれた父上が・・・あぁ、あぁ・・・(涙)。

娘 お父様、お父様・・・あぁ、あぁ、・・・(涙)。

妻 もう、誰も頼れる人、いいひん・・・ううう・・・(涙)もう生きてても、しゃぁない・・・・・・ううう・・・(涙)。

息子 ううう・・・あぁ、あぁ・・・(涙)

娘 うわーん・・・(涙)。

妻 あたしらが死に遅れたら・・・お父様は、冥土の旅に一人迷ぉてしまわはる・・・みんな一緒に死の、な、死んで、お父様に追いつこ、な、な?(涙)

息子 (涙の中にうなずく)。

娘 うっ、うっ・・・(しゃくりあげながら、うなずく)。

妻 あなた、ちょっとだけ待っとくれやす、今すぐ、行きますからな。

母と二人の幼い人は、互いに手に手を取り、思出川の深い淵に身を投げた。

ああ、なんと、哀れな事であろうか。

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一方、Xは、いかように責め問われようとも、元来、何の咎(とが)もないので、罪を白状しようがない。

ついに、

侍 しゃぁない、ほなら、もう許したれ。

中間一同 はいなぁ。

ようやくの思いで、その家を後にしたXは、

兵部少輔・X ハァハァ・・・あぁ、ほんまにまいったわ・・・ハァハァ・・・もう死にそうや・・・ハァハァ・・・いやいや、ここで死んでたまるか・・・わしが死んでしもたら、飢えて待ってる人らは、どないなる・・・ハァハァ・・・死んでたまるか・・・死なんぞぉ!

Xは、懲りずに再び、別の家の門を叩いた。

兵部少輔・X ハァハァ・・・あのぉ・・・ハァハァ・・・もし・・・ハァハァ・・・都からやってきたもんです・・・もうかれこれ10日ほど、何も食べてしまへん・・・ハァハァ・・・どうぞ、哀れや思うて・・・ハァハァ・・・なにか食いもん、恵んどくれやす・・・ハァハァ・・・。

幸いにも、こちらの家の主は、心温かい人であった。

家の主 おぉ、おぉ、そらぁ、タイヘンでしたなぁ・・・(家人の方に向かって)おぉい、なんか食べもん、ないかぁ?

食べ物を恵んでもらったXは、家族のもとへと、ひた走った。

兵部少輔・X (恵んでもらった木の実(注6)を、懐中に持ちながら)やった、やった! これで、しばらくはやっていける! さ、早いとこ、持ってったろ! みんな待っとれよ、木の実や、木の実、もろたでぇ!

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(訳者注6)原文では、「菓(このみ)」。
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川辺へ着いた。

しかし、家族の姿が、どこにも見えない。そこには、妻や子供の草鞋や杖が、残されているだけである。

兵部少輔・X おい、どないした! いったい、どないなってんねん! みんな、どこへ行ってしもた?!

Xは、家族を探して、あちらこちら、周辺を走り回った。

渡しから少し下流に行った時、

兵部少輔・X あっ、あれは!

井堰(いせき:注7)に、何か、ひっかかっている。

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(訳者注7)田の用水を採取するために、川に設けた堰。
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兵部少輔・X まさか、まさか!

Xは、無我夢中で、井堰の側へ走った。

兵部少輔・X まさか、まさかぁ!

堰にかかっていたのは、手に手を取り合いつつ、変わり果ててしまった、妻と二人の子であった。

兵部少輔・X あぁぁ・・・あぁぁ・・・うぅぅ・・・(涙)。

Xは、彼らを川から取り上げ、必死に揺すった。

兵部少輔・X おい、おい、おい! どうか、どうか、生き帰って、生き帰って! な、な、おい、おい!(涙)

兵部少輔・X 神様、仏様、どうか、どうか、生き返らせて・・・生き返らせて・・・どうか、どうか・・・(涙)。

いくら嘆き悲しんでみても、もはや、体の色も変り果て、手の施しようがない。

兵部少輔・X ・・・うあぁぁーーー!(涙)。

Xは、妻と二人の子を抱きかかえ、川の淵に身を投げて、共に、帰らぬ人となってしまった。

その後、現在に至るまで、ものごとの機微に疎(うと)い野人村老(やじんそんろう)や、事情を知らない行客旅人(こうかくりょじん)までもが、この思出川の側を通る時には、その哀れな出来事を伝え聞いて、涙を流さぬ人は無い。

Xとその家族の心中、いかに悲哀の極みであったかと、思いやられて、哀れでならない。

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太平記 現代語訳 33-3 光厳上皇ら、京都へ帰還

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利直冬(あしかがただふゆ)、斯波高経(しばたかつね)、山名時氏(やまなときうじ)、桃井直常(もものいなおつね)らは、諸国から京都に攻め上ってはみたものの、東寺(とうじ:京都市南区)と神南(こうない:大阪府高槻市)の戦いに連敗してしまい、それぞれの本拠地へ逃げ帰ってしまった。

しかし、彼らが政権転覆(せいけんてんぷく)の志を捨てたわけではない。

ゆえに、首都においてはかろうじて静謐(せいひつ)が保れ、よその地からやってきた武士たちが覇権(はけん)を握るような状態になってはいないが、地方においてはなおも平和が到来する兆しも見えず、日々武器を取り、朝に夕に兵糧を準備し、といった状態である。

吉野朝(よしのちょう)年号・正平(しょうへい)7年(1352)に、京都朝廷の光厳上皇(こうごんじょうこう)、光明上皇(こうみょうじょうこう)、崇光上皇(すうこうじょうこう)、皇太子・直仁親王(なおひとしんのう)が、吉野朝廷の囚われの身となり、賀名生(あのお:奈良県・五條市)の奥に押し込められてから、すでに5年が経過(注1)。

「京都において、既に新天皇(注2)が即位された今となっては、このような山中にお住みいただくのは、余りにもおいたわしい事ではないか」という事で、吉野朝年号・正平12年(1357)2月、吉野朝廷は、これらの皇族全員を賀名生の山中から解放し、京都へ還幸(かんこう)させた。(注3)

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(訳者注1)30-8 参照。実際には、5年間の中、前2年間が賀名生、後3年間は河内の金剛寺に幽閉されていた。([日本の歴史9 佐藤進一 著 中央公論社])。

(訳者注2)後光厳天皇。32-1 参照。

(訳者注3)史実においては、これらの人々の京都への帰還は、太平記のここに書かれているような、同一タイミングでは行われていない。
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光明上皇は、父君の故・後伏見上皇(ごふしみじょうこう)のかつての住居・伏見殿(ふしみでん)に入り、そこを住いとした。

上皇のもとへ参上してくる公卿は、一人もいない。

庭には草が生い茂り、桐の落ち葉が積もって道も隠れ、軒は深く苔むしてしまっている。

光明上皇 (内心)あぁ・・・見る人に涙を催させる月とさえも、疎い間柄になってしもうたなぁ・・・。

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光厳上皇は、去る京都朝年号・観応(かんのう)3年(1352)8月8日、河内(かわち:大阪府南東部)の金剛寺(こんごうじ:大阪府・河内長野市)で出家していた。おん年41歳(注4)、法名は、「勝光智(しょうこうち)」。

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(訳者注4)太平記作者の誤り。正しくは、40歳。
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京都へ帰還の後、光厳上皇、光明上皇は、共に、夢窓疎石(むそうそせき)の弟子になった。そして、光厳上皇は、嵯峨(さが:右京区)の奥、小倉山(おぐらやま)の麓にひっそりとした庵を結んだ。一方、光明上皇は、伏見の大光明寺(だいこうみょうじ:伏見区)に入った。双方共に、ものさびしく、目立たない住いの様で、言葉にも表現し難い。

かのゴータマ・シッダルタ太子(注5)は、父・シュッドーダナ王の王宮を出てダンタロカ山に分け入り(注6)、シュダイナ太子(注7)は、クル国の翁(おきな)に対して、我が身をもって布施とした。

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(訳者注5)釈尊の出家前の名前。

(訳者注6)太平記作者の誤り。ダンタロカ山は、「釈尊が前世においてシュダイナ太子であった時に、修行された所」とされている。([仏教辞典 大文館書店刊])。

(訳者注7)上記の注を参照。
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シッダルタ太子も、シュダイナ太子も共に、将来、十善の国を合わせた16の大国の王位を約束されていたのであったが(注8)、何もかも捨てて出家を決意した時には、「その王位、一塵よりもさらに軽し」と、されたのあった。

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(訳者注8)シュダイナ太子はともかくとして、シッダルタ太子については、太平記作者の誤りである。シッダルタ太子の時代、インドの大国といえば、マガダ国、コーサラ国。太子の生国・カピラ国は、小国であって大国とは言い難い。
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光厳上皇 (内心)ましてや、わが日本列島をインドに比較してみたら、粟粒(あわつぶ)のごとき小さな国、アジア大陸東方の辺境の地に過ぎん。たとえ日本全土を統一して無為の大化(ぶいのたいか:注9)の中に人民を楽しませることができたとしても、あちらの大国の王位に比べたら、1000億分の1にも満たへんようなもんやないかいな。

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(訳者注9)あえていろいろと作為せずとも、自然と国家が治まっている状態。
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このような理(ことわり)を、よくよく噛み締め、憂いの念をもってして、それをかえって仏縁に繋がれる良き契機と成し、ついに世を捨てて、出家を遂げたのであった。

光明上皇 (内心)思い切って捨ててしもて、ほんまによかったわ。わが身が、ものすごい軽ぅなったようなカンジや・・・いや、それだけやない、心もなんか、ものすごい静かな、深い平安を得られたような気がする。

部屋の半ばまで入り込んでくる雲も、寝床に差し込んでくる月光も、今や、座禅修行の合間の友である。

光厳上皇 (内心)天皇や上皇の位におった時は、その地位・権力の力でもって、心の平安を得ようと、私は願(ねご)ぉとった。そやけど、ついに、それは叶(かな)わんかった。ところが、地位も何もかも捨てた今になって、はじめて、それを得る事ができたとは・・・自分はほんまに、逆説の人生を生きてきてたんやなぁ・・・。

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太平記 現代語訳 33-2 石清水八幡宮において、決定的神託、下る

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都攻撃の陣を引き払って撤退してきた、足利直冬(あしかがただふゆ)陣営側の兵力は、ざっと5万余騎であった。

直冬陣営リーダーA これだけの兵力がありゃぁ、まだまだ、戦えるよなぁ。

直冬陣営リーダーB そうだよ! それにさぁ、これからも続々と、援軍やってくるって情報、入ってきてんだからぁ! 伊賀(いが:三重県西部)、伊勢(いせ:三重県中部)、和泉(いずみ:大阪府南西部)、紀伊(きい:和歌山県)から、続々とね。

直冬陣営リーダーC せっかく集まったこの軍勢を、バラバラにしてしまったんじゃぁ、非常にもったいない。このままの編成で、もう一戦やるべきだ。

直冬陣営リーダーD うーん・・・でもねぇ。

直冬陣営リーダーE 京都に、あそこまで攻め入りながらさぁ、結局、ああいう結果になっちまっただろ? 再度、戦うにしてもだ、タイミングってぇもんが、あるんじゃぁなぁい?

リーダーたちの意見は、まちまちであった。

直冬陣営リーダーA どうします? 直冬様・・・。

足利直冬 そうだなぁ・・・再び戦うべきか否か・・・うーん・・・。

直冬陣営リーダー一同 ・・・。

足利直冬 (ハァー・・・溜息)どうもこれは、我々のようなタダの人間が、いくら考えてみたって、分かりっこないからな、どうだい、ここは一つ、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)様に、お伺(うかが)いを立ててみようじゃないか。

直冬陣営リーダー一同 ・・・。

足利直冬 八幡様の神殿の前で、お神楽(かぐら)を奏したてまつって、神様の託宣(たくせん)を聞かせていただこう。それでもって、戦の吉凶を教えていただこうや。

というわけで、直冬とリーダーたち全員は、岩清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府・八幡市)へお参りした。

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彼らは、神殿の前に様々の奉幣(ほうへい)を奉り、供物(くもつ)を上納してその場に座し、神のお告げが下るのを、じっと待った。

足利直冬 (内心)ドキドキドキドキ・・・。

リーダーたち一同 (内心)ドキドキドキドキ・・・。

更け行く夜の月光の下、神官の打つ鼓(つづみ)の音と、巫女(みこ)が袖振る鈴の音が、シンシンと響きわたる。やがて下されるであろう神託を待ちうけて、全員、一心に祈りを傾注(けいちゅう)する。

巫女 うー・・・オホン、オホン・・・偉大なる八幡大菩薩様を仰ぎ奉(たてまつ)り、ここに足利直冬、切なる祈願を込め、深尽微妙(じんじんみみょう)の御神託を下さるべく、乞い願いたてまつるものなり。なにとぞ、凡夫(ぼんぷ)の我を憐れみ給うて、ご擁護(ようご)の御手(みて)を差し伸べたまわんことを。

巫女 おうかがいしたき儀は、戦の事にて、そぉろぉ。我ら、再び兵を結集して、王城(おうじょう)の地を攻めるべきや否やぁ?

巫女 三千世界を一望に見そなわしたもう八幡大菩薩様の偉大なる通力を下したまいて、右の件につき、我らに教えたまわん事をーーっ・・・たまわん事をーーっ・・・たまわん事をーーっ・・・うーっ、うーっ、うーっ・・・アアアアァァァ・・・。

巫女 (形相一変)アアアアァァァ・・・ウウウウウウ・・・・。

足利直冬とリーダーたち一同 (かたずをのんで、巫女を凝視)・・・。

巫女 タァ・・・タァ・・・タラ・・・チネ・・・

巫女 タラチネノ オヤマヲマモル カミナレバ コノタムケヲバ ウクルモノカワ(注1)

巫女 タラチネノ オヤマヲマモル カミナレバ コノタムケヲバ ウクルモノカワ

巫女 タラチネノォ オヤマヲマモル カミナレバァ・・・コノタムケヲバ ウクルモノカワァ・・・ウウウウ・・・

巫女 ウウウウ・・・アッ! アッ!アッ!(ドタッ 倒れ伏す)

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(訳者注1)原文では、「タラチネノ親ヲ守リノ神ナレバ此手向ヲバ受ル物カハ」だが、[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注記を参考にして、「たらちねの 男山(おやま)を守る 神なれば この手向けをば 受くるものかわ」という事にしておいた。「男山」は岩清水八幡宮のある山の名。「たらちね」は「親」にかかる枕言葉。
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足利直冬とリーダーたち一同 ・・・。

そして、神霊は巫女から離脱した。

直冬陣営リーダーF (内心)オヤマ(男山)ヲマモル カミナレバ・・・なるほどなぁ、ここの神様は、「おや(親)を守る神」ってわけか。

直冬陣営リーダーG (内心)コノタムケヲバ ウクルモノカワ・・・なんてったって、尊氏様は、直冬殿の実の親なんだもんなぁ・・・そうだよなぁ、親を守る神様なんだもん、父親に対して弓引く人の手向けなんか、受け取られるはず、ないよなぁ。

直冬陣営リーダーH (内心)こりゃぁ、いかんわねぇ。

直冬陣営リーダーI (内心)八幡の神様、わしらには、力、貸して下さらんとよ。

直冬陣営リーダーJ (内心)あーあ、しょせん、ムリな戦だったというわけか・・・直冬様を大将に頂いてる限りは、将軍様といくら戦ってみても、勝ち目、ないんだぁ。

というわけで、東山道、北陸道からやってきた武士たちは、馬にムチを当てて自らの本拠地へ引き上げてしまい、山陰勢、九州勢も、船に帆を揚げて逃げ帰ってしまった。

戦の法則は厳然としている。戦闘を実際に行うのは士卒ではあるが、勝敗を決するのは大将である。

ゆえに、古代中国・周(しゅう)王朝・武王(ぶおう)は、父・文王(ぶんのう)の位牌(いはい)を作り、それを戦車に載せて戦場に臨み、殷(いん)王朝を倒した。漢(かん)王朝の高祖(こうそ)も義帝(ぎてい)を尊んでその命の下に、秦(しん)王朝を滅ぼした。これは、古い時代の歴史書に記されている、万人周知の事実である。

「子が父を攻める」・・・まったくもって、足利直冬は、なんというけしからぬ事をしたのであろう・・・このような行為を、天が許すはずがあろうか。かつて、遊和軒朴翁(ゆうわけんはくおう)がインドと中国の事例をもとに、「今度の戦、吉野朝廷側は、勝利を得がたし」と、眉をひそめて予言したのも(注2)、まことに真理をついていたと、今まさに、思い知られされるのである。

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(訳者注2)32-6 参照。
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東寺から直冬らが退いた翌日、門前に、落書が二、三、立てられた。その内容を以下に紹介しよう。

 苦労して 九重重ね(きゅうじゅうがさね)の 石の堂 取(と)り建(た)てた思(おも)ぉたら またコケてもたわ

 (原文)兔(と)に角(かく)に 取立(とりたて)にける 石堂(いしどう)も 九重(くじゅう)よりして 又(また)落(おち)にけり(注3)

 深い海 高い山名(やまな)と 頼むなよ 前にも同じ事 した人や言うやん

 (原文)深き海 高き山名と 頼(たのむ)なよ 昔もさりし 人とこそきけ(注4)

 唐橋(からはし)や 塩小路(しおこうじ)らへんが 焼けたんは 桃井(もものい)はんが 鬼味噌(おにみそ)摺(す)ったから

 (原文)唐橋(からはし)や 塩の小路(しおのこうじ)の 焼(やけ)しこそ 桃井殿は 鬼味噌(おにみそ)をすれ(注5)

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(訳者注3)直冬を大将にかついだ(とりたてた)石塔頼房の野望も、空しくなってしまった、の意。「九重(9階)」と「九重(ここのえ=都)」を、「石堂」と「石塔」を、かけている。

(訳者注4)「高い山」と「山名」を、かけている。「山名」は山名時氏を指す。山名は以前にも、京都に攻め込みながら結局、撤退してしまった。(32-5 参照)

(訳者注5)「唐橋(からはし:南区)も「塩小路(しおこうじ:下京区)」も、東寺付近。「桃井」は桃井直常。「鬼味噌(おにみそ)」は、辛味がある味噌。「辛(からい)」と「唐橋(からはし)」とをかけている。
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太平記 現代語訳 33-1 足利尊氏、京都奪還を目指す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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伝令 報告、申し上げまぁす! 昨日、神南(こうない:大阪府・高槻市)において、義詮(よしあきら)様、大勝利! 敗北した山名(やまな)軍は、淀(よど:京都市・伏見区)の本陣まで撤退しましたぁ!

足利尊氏(あしかがたかうじ) うん! よぉし!

尊氏の右手 バチン!(右手で右膝を叩く)

尊氏は、比叡山(ひえいざん)から下山し、3万余騎を率いて東山(ひがしやま:京都市東方)に陣を取った。

仁木頼章(にっきよりあきら)も、丹後、丹波勢3,000余騎を率いて上洛、嵐山(あらしやま:京都市・右京区)の上に陣を取った。

その結果、京都南方の淀(よど)、鳥羽(とば:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、八幡(やわた:京都府・八幡市)一帯は、アンチ尊氏連合軍側の陣となり、東山、西山(にしやま:注1)、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)、西岡(にしおか:注2)一帯は全て、尊氏側の陣となった。

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(訳者注1)右京区から西京区にかけての山々。

(訳者注2)向日市、長岡京市一帯の丘陵地帯。
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双方の陣のエリア内においては、ありとあらゆる神社仏閣が破壊され、その材木は、武士たちの詰め所の防御壁と化した。陣中の薪や櫓(やぐら)建設用の建材を得るために、あたり一帯の木々や竹は、残らず切り倒されてしまった。

「敵軍が横合いに懸かってきた時には、見通しが良い方が戦いやすいから」という事で、尊氏側は、東山から日々夜々(にちにちやや)、京都中心部へ寄せてきては、家々を焼き払っていく。

かと思えば、東寺(とうじ:南区)に駐留している足利直冬(あしかがただふゆ)側は、「敵陣付近の建物を残らず焼き払ってしまおう、そうすれば、敵は雨露をしのぐ事もできないようになってしまうから、そのうち、人馬共に疲れきってしまうだろう」と、白河(しらかわ:左京区)エリア一帯に、寄せては放火を繰り返す。

両軍の手がかからないままに、今も無事に残っている所は、といえば、もはや、皇族、妃、里内裏(さとだいり:注3)、大臣、公卿らの館のみである。それらの建物もみな、門戸を閉ざし、その中には人の気配も無く、野狐(やこ)の住処(すみか)と成り果てて、棘(いばら)が扉を被いつくしてしまっている。

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(訳者注3)外戚(がいせき)などの邸宅を、仮の皇居としたもの。
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京都朝年号・文和4年(1355)2月8日、細川清氏(ほそかわきようじ)は、1,000余騎を率いて四条大宮(しじょうおおみや:下京区)に押し寄せ、北陸地方からやってきた軍勢800余騎と激突した。

追いつ返しつ、両軍終日戦い暮らし、左右へサッと引き退くと見るや、紺糸威(こんいとおどし)しの鎧に紫色の母衣(ほろ)をかけ、黒瓦毛(くろかわらげ)の馬に厚総(あつぶさ)かけてまたがった武士が一人、北陸勢の中から前線へ出てきた。年の頃は40歳ほど、ただ1騎、しずしずと馬を歩ませていわく、

武士 今日の戦、そっち側に、とっても目立つ人が一人いたよなぁ。

武士 進む時には士卒に先んじて進み、引く時は士卒に遅れて退いてた・・・おれの見たところ、その人はまぎれもなく、細川清氏殿にちげぇねえ・・・そうだろう?

細川清氏 ・・・。

武士 細川殿、この声を聞いたらさ、おれがどこの誰だか、もう分かってるだろう?

細川清氏 ・・・。

武士 日も落ちて、すっかり暗くなっちまいやがった、相手の顔の見分けも、つきゃしねぇ。こんな時に、つまらん敵と出会って勝負するのも、イヤなもんさなぁ、細川殿よ。

細川清氏 ・・・。

武士 ってなわけでな、改めて、名乗りを上げるとしよう。このたび、北陸道を打ち順(したが)えて京都へ上ってきた桃井播磨守直常(もものいはりまのかみ・なおつね)たぁ、おれの事よ。この際、何とかして細川殿に見参(けんざん)してな、人がうわさしてるあんたの力の程を、じっくり拝見、細川殿も、おれのこの太刀の切れ味、とっぷりと味わってみられちゃぁ、いかがかねぇ? ワッハッハァ・・・。

声高(こわだか)に名乗りを上げ、馬を北に向けて控えている。

細川清氏 (内心)おぉ、おでましだねぇ!

細川清氏は、敵からの挑戦を受けたら、じっとしておれない人である。

細川清氏 ほほぉ・・・そこにおられるのは、他ならぬ桃井殿であったかぁ。相手にとって不足無しだなぁ!

いささかも躊躇(ちゅうちょ)せず、清氏はただ一人、馬をUターンさせて、直常に接近していく。

二人の間の距離は、グイグイと縮まっていく。

「相手はまさに、格好の敵なり、天下の勝負、ただ、我と彼との死生(しせい)に有り、馬をかけ合わせ組み、いざ勝負!」と、両者互いに、相手の鎧の肩の部分をしっかとつかみ、手元に引き寄せ合う。

細川清氏 (内心)なんだぁ、桃井め、あんな大口たたきやがって。意外と、力、ね(無)ぇじゃねぇか。

清氏は、相手の兜を引き切って投げ捨てた。そして、鞍の前輪に相手の頭部を押し当て、その首をかき切って高々と差し上げた。

駆け寄ってきた郎等14、5騎に、取った首と母衣を持たせ、清氏は意気揚々と、尊氏の本陣へ向かった。

細川清氏 やりました! ついにやりましたよ! 桃井直常の首を取ってきました!

足利尊氏 エーッ!

細川清氏 私、今日は、四条大宮方面に向かったのですよ。で、そこでバッタリ、桃井勢と、でくわしましてね・・・。

その時の様子を滔々(とうとう)と説明する清氏の声に、じっと耳を傾けながら、尊氏はその首を見つめている。

細川清氏 ・・・で、ですね、その時、私はですね・・・。

足利尊氏 ・・・。

細川清氏 ・・・いやぁ、もう、とにかく・・・。

足利尊氏 ・・・暗くて、よく見えんな・・・あかりを・・・。

尊氏側近A ハハッ!

直ちに、蝋燭(ろうそく)の数が増やされ、その場に居あわせた全員が、首を凝視した。

足利尊氏 (内心)これは、本当に直常か?・・・年の頃は、たしかにそれらしい・・・でも・・・どうもなぁ・・・こんな顔じゃ無かったけどなぁ・・・北陸に行ってからもう長くなるから、人相も変わってしまったのかなぁ・・・それにしてもなぁ・・・。

足利尊氏 ・・・とにかく・・・誰かに、確認させよう。

尊氏側近B 昨日、降伏してきた、八田左衛門太郎(やださえもんたろう)という者がおりますが・・・彼に確認させてみては、いかがでしょう?

足利尊氏 うん、すぐに呼んで来い。

尊氏側近B ハハッ!

やがて、八田左衛門太郎がやってきた。

尊氏側近B この首、誰だか、分かるか?

八田左衛門太郎は、その首を一目見るなり、ハラハラと涙を流し、

八田左衛門太郎 (涙)あぁ・・・こりゃぁ、越中国(えっちゅうこく:富山県)の住人で二宮兵庫助(にのみやひょうごのすけ)ってもんですよ。

一同 ・・・。

八田左衛門太郎 (涙)先月、越前(えちぜん:福井県北部)の敦賀(つるが:福井県。敦賀市)に着いた時にね、この男は、気比大明神(けひだいみょうじん:敦賀市)のおん前で、誓いを立てよったんですよ(涙)・・・、

 「これから京都へ行って、合戦の場に臨んだ際、もし敵陣に、仁木、細川といったようなオオモノがいあわせたならば、わしは、桃井直常殿の名を名乗って、勝負を挑みます。もしも、この言葉を違えるような事があったならば、今生(こんじょう)においては、永久に武士としての名誉を失わせ、死後の世界においては、無限地獄(むげんじごく)に落としてくださいますように。」

一同 ・・・。

八田左衛門太郎 (涙)二宮はね、社前でそう誓って、起請文(きしょうもん)を一枚書いて、神殿の柱に押し当てとったですよ。その言葉通りの、立派な戦死を遂げよりましたんですなぁ・・・(涙)

足利尊氏 その母衣を・・・。

尊氏側近C ハハッ!(母衣を尊氏に手渡す)

足利尊氏 (母衣をじっと見つめながら)・・・うん・・・確かに書いてあるな、「越中国の住人・二宮兵庫助、屍(かばね)を戦場に曝(さら)し、名を末代(まつだい)に留むる」・・・。

この話を伝え聞いた世間の人々は、

世間の声D かつての源平争乱の時代、あの斎藤実盛(さいとうさねもり)は、白髪頭を黒く染めて自分の年を隠し、敵にあい見(まみ)えたというじゃぁないか。

世間の声E かたや、今の世の二宮兵庫助、名字を変えて命を捨て、ですか・・・。

世間の声F 時代こそ異なってますけど、その志は、おんなじ(同)どすわなぁ。

世間の声G いやぁ、まっこと、リッパな武士たい。

世間の声一同 同感、同感。

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2月15日朝、「将軍サイド、東山から大挙して上京(かみぎょう)エリアへ繰り出し、食料を略奪中」との情報に、「よぉし、イッキに蹴散らしてしまえ!」とばかりに、東寺に駐留の直冬(ただふゆ)サイド陣営から、桃井直信(もものいなおのぶ)、斯波氏頼(しばうじより)が、500余騎を率いて出陣、一条大路(いちじょうおおじ)と二条大路(にじょうおおじ)の間を二手に分かれて前進。

これを見て、細川清氏と佐々木黒田判官(ささきくろだはんがん)が、700余騎を率いて、東山から下りてきた。

彼らは、斯波軍の後陣を進む朝倉高景(あさくらたかかげ:注4)率いる50騎の集団に狙いをつけ、それを背後から攻撃せんとして、六条河原(ろくじょうがわら:注5)から京都中心部へ懸け入った。

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(訳者注4)後に、越前を支配する戦国大名となる朝倉氏の二代目。

(訳者注5)鴨川の河原のうちの、六条通りと交差する付近一帯。
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朝倉軍は、いささかも動揺する事無く、馬の頭を東に向け直して、静かに敵襲を待ち受ける。

細川・佐々木の大軍勢はこれを見て、「敵、あなどりがたし」と思ったのであろうか、朝倉軍との間隔0.5町程の所まで、ジリジリとにじり寄った後に、ドッと一斉にトキの声を上げ、全軍揃って、馬にムチ入れ、攻撃を開始した。

朝倉軍メンバーたちは、少しもひるまず、大軍の中に懸け入り、馬煙を立てて相手に切り結ぶ。

これを見た斯波氏頼は、

斯波氏頼 朝倉を死なせるな! おれに続け!

氏頼は300余騎を率いて取って返し、六条東洞院(ろくじょうひがしのとういん:下京区)から東方へ、烏丸通り(からすまどおり)から西方へと、追いつ返しつ、7度8度と、攻撃を繰り返す。

両軍衝突の度毎に、細川軍は追い立てられるような形勢になってしまった。

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細川軍の中に、南部六郎(なんぶろくろう)という、世にもすぐれた武士がいた。彼はただ一人、戦場に踏みとどまっては戦い、返し合わせては切って落し、四方八方に敵を追い散らして戦い続ける。

六郎の奮戦の結果、斯波軍側は、次第にまばらになっていった。

斯波軍中に、三村首藤衛門(みむらすどうざえもん)、後藤掃部助(ごとうかもんのすけ)、西塔金乗坊(せいとうのこんじょうぼう)ら、常に行動を共にしている5人のグループがあった。

彼らは、互いにキッと目配(めくば)せしあい、南部六郎を組み打ちしてしまおうと、六郎に接近していった。

5人を尻目に見ながら、南部六郎はカラカラと笑った。

南部六郎 ウハハハ・・・なんだなんだぁ?! 5人がかりとは、こりゃまたなんとも、モノモノしい人らだなぁ。

南部六郎 おまえら、それほど、おれのこの太刀に切られたいんかぁ。よぉし、お望み通り、全員、胴切りにしてやらぁ。この太刀の切れ味、たっぷり味わってみろぉい!

六郎は、5尺6寸の太刀を片手に持って打ちまくり、迫り来る5人の攻撃をかわす。

その一瞬のスキをついて、西塔金乗坊が、六郎の至近距離に飛び込んだ。

金乗房 えやっ!(六郎の身体に組み付く)

南部六郎 なんのなんの、てぇやぁ!

金乗房 うあぁ!

六郎は大力の持ち主、金乗房の身体を掴(つか)んで、頭上、高々と差し上げた。しかし、そのまま放り投げて殺傷するには、さすがに金乗坊の体重は重すぎた。かといって、太刀は長いから、手元近くに捉えて切ってしまうわけにもいかない。

南部六郎 (内心)よし、グイグイ押して、殺してしまえ。

六郎は、金乗房の身体を、築地(ついじ)の壁面に押し当てた。

南部六郎 エーイ! エーイ!

金乗房 ウウウ、ウウウ・・・。

その反動で、六郎の乗馬が、尻餅をついて倒れてしまった。

5人のグループ・メンバー一同 (内心)しめたっ!

六郎の鎧草(よろいくさ)ずりの下敷きになってしまった馬を、2人のメンバーが引き据えて、完全に地べたに、はいつくばらせた。さらにそこへ、4人が応援に馳せ寄ってきた。

そしてついに、南部六郎は、討たれてしまった。

金乗房は、六郎の首を取り、それを太刀の切っ先に貫いて、自陣へ戻った。

これにて一戦終了、双方共に退き、京都中心部と白河(しらかわ:左京区)に帰った。

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同日夕方、仁木義長(にっきよしなが)と土岐頼康(ときよりやす)が、3,000余騎を率いて七条河原(しちじょうがわら:東山区)へ押し寄せ、桃井直常、赤松氏範(あかまつうじのり)、原(はら)、蜂屋(はちや)らの軍勢2,000余騎と激突。鴨の河原3町を東西に追いつ返しつ、煙塵をまきあげて戦う事、20余回に及んだ。(注6)

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(訳者注6)この時代の「鴨の河原」は、現在の鴨川の河川敷よりも、はるかに広かったようだ。

[寺社勢力の中世 無縁・有縁・移民 伊藤 正敏 著 ちくま新書 734 筑摩書房] 42P に、[四条河原]に関して、以下のようにある。なお、文中に登場する「京都劇場」は、現在既に無く、その跡地には「京劇ビル」が建っているようだ。また、「阪急デパート」も「マルイ」の京都店に変わっている。

 「鴨河原といっても、現在の鴨川河川敷を思い浮かべてはいけない。四条河原町は今日、京都随一の繁華街であるが、その名の通り、この場所は本当に「鴨河原の中」なのだ。現在の日本銀行・京都劇場・阪急デパート、東にある木屋町・先斗(ぽんと)町も鴨河原に含まれる。鴨川の氾濫原はずっと東西に広く、東は大和大路、西は東洞院や高倉あたりまでが、洪水危険地域であった。この大和大路は名前の通り、はるか奈良につながる幹線道路である。」
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その結果、桃井軍は、過半数が負傷。

新手と入れ替わって東寺(とうじ:南区)へ引き返す途中、さらに、土岐の桔梗一揆(ききょういっき)100余騎の攻撃を受けた。反撃に出た者は切って落され、東寺へ逃げ込もうとした者は、木戸や逆茂木にさえぎられて、道を塞がれてしまった。

東寺の内部は騒然、全員パニック状態、「足利直冬サイドの本陣も、もはや、これまでか」との雰囲気である。

赤松氏範は、重傷を負って動けなくなってしまった郎等・小牧五郎左衛門(こまきごろうざえもん)を助けようとして、馬上から五郎左衛門の手を引いて、歩ませていた。

そこから遠く隔たった高櫓(たかやぐら)の上から、二人を見た大将・足利直冬は、叫んだ、

足利直冬 赤松殿--ぉ!、早いとこぉ、とって返してぇ、味方を助けてやってくれぇーー!

直冬は、扇を揚げて2度、3度、氏範に向かって叫んだ。

足利直冬 赤松殿--ぉ! 赤松殿--ぉ! 早くーー! 早くーー! 早く、味方をーー!

赤松氏範 よっしゃ、よっしゃぁ! ちょい待ってやぁ!

氏範は、五郎左衛門の身体をひっつかみ、

赤松氏範 ほーい! 頼んだでぇーっ!(五郎左衛門の身体を、木戸の中へ投げ込む)

小牧五郎左衛門の身体 ビューーーン、ドサ!

赤松氏範 よぉーし、いぃくでぇ!

氏範は、5尺7寸の太刀のつば本を持ち直し、ただ1騎、木戸の外で反撃にうって出た。

相手に馳せ並んでは切りかかり、また、馳せ並んでは切りかかる・・・こちらに走っては、兜の鉢から胸板付近までカラ竹割りにまっぷたつ、あちらに走っては、胴の真ん中から瓜(うり)を切るように一刀両断・・・。さしも勇み立っていた土岐軍メンバーも、「こりゃぁ、とても、かなわんでぇ」と思ったのであろう、七条河原へ退却してしまった。

かくして、2月15日の戦は終了。

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3月13日、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、土岐(とき)、佐々木(ささき)、佐竹(さたけ)、武田(たけだ)、小笠原(おがさわら)は、兵力合わせて7,000余騎の軍を編成し、七条西洞院(しちじょうにしのとういん:下京区)へ押し寄せ、その半数が、但馬(たじま)・丹後(たんご)勢と戦い、残りの半数は、斯波高経(しばたかつね)軍と戦いを交えた。

ともすると押され気味の仁木らの様子を見て、尊氏は、那須資藤(なすのすけふじ)のもとに使者を送り、援軍に向かうように命令した。

那須資藤は、今回のこの戦に参加する前に、故郷の老母のもとへ人をつかわして、次のような文面の手紙を送っていた。

 「今度の戦で討死にするような事になったら、私は、親に先立つ身となってしまいますね。草場の陰、苔の下に行ってからも、母上がお嘆きになられてるお姿を、毎日見る事になるのでしょうか・・・そんな事、想像するだけでも、悲しい事でございますよ。」

これを読んだ資藤の母は、涙の中に、次のような返事を書いて送ってきた。

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 「古(いにしえ)より今に至るまで、武士の家に生れた人間は、名を惜しみこそすれ、命を惜しんだ事など、決して、ありませんでしょう?」

 「いよいよこれが最後という時には、誰しもおそらく、妻子に名残(なごり)を惜しみ、父母との別れを悲しんだ事でしょうよ。でも、家名を思い、世間の嘲りを恥じるが故に、この捨て難い自分の命をも捨ててきたのですよ、そうではありませんか?」

 「あなたは、あたくしから、その身体と髪、膚を受け、それを損なう事なく、今日まで生きてきてくれました。それだけでも、もう既に、立派に親孝行を果たしたというものでしょう。更に今また、身を立て、武士の道にまっすぐに沿って行動し、その名を後世に輝かしめる絶好の機会が得られた、というのですから、「親への孝行、これにて完結す」という事に、なるのではないかしら?」

 「ならば、今度の合戦では、心に心していってくださいね。己が身命を軽んじて、ご先祖様のおん名を汚す事など決してないように、よろしくお願いしますよ。」

 「同封のこの母衣(ほろ)は、元暦(げんりゃく)の古、わが家が誇るあのご先祖・那須興一資高(なすのよいちすけたか)様が、屋島(やしま:香川県・高松市)の合戦で、あの扇をみごと射当てて大いに名を揚げられた、あの時、お召しになっていた母衣ですよ。」
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資藤は、母から送られてきた錦の袋を開いて見た。中には、薄紅色の母衣があった。

ただでさえ、戦場に臨んでは常に命を軽くする那須資藤、ましてや、母からこのように、「義に生きよ」と励まされて、ますます、勇気燃えさかっていた。

そんな所に、将軍・尊氏から特使をもって、「この方面が苦戦に陥っているので、ただちに出向いて敵を払え」とだけ、言って来たのである。資藤は一も二も無く、畏(かしこ)まって、その命令を受けた。

那須資藤 さぁ、行くぞぉー!

那須家一族郎等一同 ウォーー!

資藤は、味方の大軍が、足も立たないほどに攻めまくられている所に、駆けつけた。

勇み立って攻め寄せてくる直冬サイド軍勢のど真ん中へ、名乗りも上げずにしゃにむに突入、兄弟2人一族郎等36人、一歩も退かずに、全員、討死にしていった。

那須家の人々の戦死の後、直冬サイドは、機に乗じ、かさにかかって、猛攻に継ぐ猛攻、「この方面の戦局、尊氏サイド、ますます不利」と思われたその時、佐々木崇永(ささきそうえい)と細川清氏が、軍を合して七条大宮(しちじょうおおみや:下京区)へ懸け抜け、直冬側軍勢を西に受け、東に顧(かえり)みて、入れ替わりたち替わり、戦闘遂行、約1時間。

直冬サイドも、「ここで引き下がっては、後が無し!」と、戒光寺(かいこうじ:南区)の前に垣楯(かいだて)を敷き並べ、火花を散らして戦い続ける。

細川清氏は、軽傷を数箇所に負い、あわや討死にかとまで思われたが、佐々木崇永が、グイグイと軍を進め、清氏を討たせじと奮戦。さらにそこに、土岐・桔梗一揆軍500余騎が駆けつけてきた。

にわかに強化された相手軍を見て、直冬サイドも、新手(あらて)の応援を頼る気になったのであろう、垣楯を一斉に放棄し、0.5町ほど退却した。

佐々木崇永 敵に、息をつがせちゃいかん! 立ち直るスキを与えちゃいかん! 攻めろ、攻めろ、ガンガン攻めろ!

佐々木と土岐は、垣楯の内まで入り込んで、相手陣を完全に占拠してしまおうとの意図である。

佐々木軍の旗手・掘次郎(ほりじろう)は、

掘次郎 (内心)垣楯の左右両側から、回り込んでいったんでは、遅すぎるな、よぉし!

次郎は、旗を棹ごと、垣楯の内部へ投げ入れるやいなや、

掘次郎 ハァッ!

垣楯の上端に手がかかるやいなや、掘次郎の両足は、大地を蹴った。

掘次郎 テヤッ!

次郎の身体は空中に舞い、一瞬の後、

掘次郎の身体 ドス!(垣楯の内部領域に着地する音)

その後、細川・土岐両軍メンバーらが大挙、左右から回り込んで、垣楯の内部領域に殺到してきた。

彼らは、その領域の南方に、自分たちの垣楯を突き並べ、その背後に3,000余騎を配置して、その場を踏み固めた。

まさに、東寺に相対する向かい城が、急に建ち上がったかのような観である。

これを見て、東寺にこもる直冬サイドは、意気屈してしまい、相手に勢いを呑まれ、木戸から外に出てこなくなった。

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このようにして、京都中心部での戦は数日に及び、形勢も日々逆転、勝敗は、全く予断を許さない状態である。

足利幕府の命運が決せられるこの大事な時に、幕府執事(しつじ)・仁木頼章(にっきよりあきら)は、いったい何をしていたのかといえば、桂川(かつらがわ)を東へ越える事も無く、嵐山の上から、はるか彼方、京都中心部を、ただただ、見下ろしているだけ。尊氏側の勝ち戦になれば、伸び上って喜び、敗勢になってくれば、顔面蒼白、逃げ仕度の他、余念無し、といった有様である。

見るに見かねて、同じ陣にいた備中国(びっちゅうこく)守護・飽庭(あいば)のみが、自らの手勢だけを率いて、何度か戦を行った。

しかしながら、「大きい家は、ただ一本の柱だけで支えられているわけではない。」との言葉のごとく、戦においては、双方の陣営の総合力の差異が、勝敗の分かれ目になってくるケースが、ある。

各方面へ配置されている尊氏サイド陣営の総合力が、ジワジワと、効果を現わしはじめた。

山陰道(さんいんどう)方面は、仁木頼章が塞いでいる、山陽道(さんようどう)方面は、足利義詮(あしかがよしあきら)が抑えている、東山(とうさん)、北陸(ほくりく)両道方面は、尊氏の大軍が塞いでいる。

河内(かわち)方面が、京都に、かろうじて繋がっているだけ・・・直冬サイドのロジスティックス・ライン(兵站線)は、完全に切断されてしまった。援軍の来るあてもない。

これまでの所は、双方互角の戦ではあったが、尊氏サイドの兵力は、日に日に、増強されていく。

「このまま行ったのでは、早晩、敗退」との判断の下、3月13日夜、足利直冬とその陣営所属リーダーたちは、共に、東寺、淀(よど:伏見区)、鳥羽(とば:伏見区)の陣を引き払い、八幡(やわた:京都府・八幡市)、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)、堺(さかい:大阪府・堺市)の海岸へ、撤退した。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年4月15日 (日)

太平記 現代語訳 32-8 神南の戦

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「将軍様は、天皇を守護しつつ、近江国の四十九院(しじゅうくいん:滋賀県・犬上郡・豊郷町)に滞在中。義詮(よしあきら)殿は、中国地方から進軍してくる敵を食い止めるために、播磨の鵤(いかるが)庄(兵庫県・揖保郡・太子町)に、駐留しておられる」との情報を聞いて、土岐(とき)、佐々木、仁木義長(にっきよしなが)が、3,000余騎を率いて、四十九院に馳せ参じてきた。さらに、四国地方と中国地方の武士ら2万余騎が、鵤へ馳せ集まってきた。

関東地方に駐留している畠山国清(はたけやまくにきよ)からも、「関東8か国の勢力を率いて、今日、明日にでも、応援の為に上洛いたします!」とのメッセージを携えた急使が、何度も送られてくる。

このような情勢なので、尊氏・義詮父子サイドの勢は、天に飛翔して雲を起こす龍のごとし、山に寄りかかって風を生じさせる虎のごとし、である。

四十九院と鵤庄との間に使者を走らせて、合戦の日を定めた後に、2月4日、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、3万余騎を率いて坂本(さかもと:滋賀県・大津市)に到着。足利義詮も同日早朝、7,000余騎を率いて、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)の西、神南(こうない:大阪府・高槻市:注1)の北方の峯に陣を取った。

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(訳者注1)現在では、[高槻市 神内]の地名になっている。
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足利直冬(あしかがただふゆ)陣営側は当初、「大津(おおつ:滋賀県・大津市)、松本(まつもと:大津市)付近にまで兵を進めて、尊氏軍を迎撃しよう」との作戦をかためていた。しかし、「延暦寺(えんりゃくじ:大津市)と園城寺(おんじょうじ:大津市)の衆徒は皆、尊氏に気脈を通じている」との情報をキャッチし、「このまま京都に留まって、東西からの敵襲を受け止めよう」と、作戦を変更(注2)、京都全体に防衛陣を敷いた。

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(訳者注2)大津まで兵を進めた後に、延暦寺、園城寺、坂本の尊氏軍によって三方向から一斉攻撃を仕掛けられたならば、直冬側は極めて不利になる。
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第1陣は、足利直冬を大将とし、斯波高経(しばたかつね)、その子・斯波氏頼(うじより)、桃井直常(もものいなおつね)、土岐(とき)、原(はら)、蜂屋(はちや)、赤松氏範(あかまつうじのり)らが率いる総勢6,000余騎によって構成。東寺(とうじ:南区)を最後の防衛拠点とし、七条(しちじょう)から南、九条(くじょう)まで、家々、小路に充満。

第2陣は、山名時氏(やまなときうじ)とその子・山名師義(もろよし)を大将とし、伊田(いだ)、波多野(はたの)、石原(いしはら)、足立(あだち)、河村(かわむら)、久世(くぜ)、土屋(つちや)、福依(ふくより)、野田(のだ)、首藤(すどう)、澤(さわ)、浅沼(あさぬま)、大庭(おおにわ)、福間(ふくま)、宇多河(うだがわ)、海老名和泉守(えびないずみのかみ)、吉岡安芸守(よしおかあきのかみ)、小幡出羽守(おばたでわのかみ)、楯又太郎(たてのまたたろう)、加地三郎(かぢさぶろう)、後藤壱岐四郎(ごとういきのしろう)、倭久修理亮(わくしゅりのすけ)、長門山城守(ながとやましろのかみ)、土師右京亮(とじうきょうのすけ)、毛利因幡守(もうりいなばのかみ)、佐治但馬守(さじたじまのすけ)、塩見源太郎(しおみげんたろう)以下、総勢5,000余騎。陣の前面には深田をあて、左方は河を境に、淀(よど:伏見区)、鳥羽(とば:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、大渡(おおわたり:位置不明)一帯に分散して陣を取る。

淀川(よどがわ)南岸には、四条隆俊(しじょうたかとし)、法性寺康長(ほうしょうじやすなが)を大将として、吉良満貞(きらみつさだ)、石塔頼房(いしとうよりふさ)、原、蜂屋、赤松氏範(注3)、和田(わだ)、楠(くすのき)、真木(まき)、佐和(さわ)、秋山(あきやま)、酒邊(さかへ)、宇野(うの)、崎山(さきやま)、佐美(さみ)、陶器(すえ)、岩郡(いわくり)、河野邊(かわのへ)、福塚(ふくづか)、橋本(はしもと)ら、吉野朝(よしのちょう)勢力3,000余騎が、八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)の下に陣を取る。

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(訳者注3)原、蜂屋、赤松氏範(原文では「赤松弾正少弼」)が第1陣のメンバーリストと重複している。太平記作者のミス、あるいは写本の段階のミスであろう。
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第2陣中の山名師義の軍は当初、「敵の来るのを待ち受けてじっと待機、仕掛けてきたら迎撃しよう」との作戦であった。しかし、「神南の北方山中に陣取っている足利義詮の手持ち兵力は、それほど多くはないぞ」と見透かした結果、作戦を急遽(きゅうきょ)変更、八幡に陣取る吉野朝軍と一つに合した後、まずは神内宿(注4)へと進軍。楯の板を締め、馬の腹帯を固めて、二の尾根から攻め上がって行った。

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(訳者注4)注1に記したように、[神南]と[神内]は、同じ場所である。
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これに対して、足利義詮側は、3箇所に分散して陣を取っていた。

西の尾根先をかためているのは、赤松則祐(あかまつそくゆう)、赤松師範(もろのり)、赤松直頼(なおより)、赤松範実(のりざね)、赤松朝範(とものり)、そして、佐々木道誉(ささきどうよ)の家臣からなる黄旗一揆(きはたいいっき)武士団、総勢2,000余騎である。

南の尾根先を守っているのは、細川頼之(ほそかわよりゆき)、細川繁氏(しげうじ)が率いる四国地方、中国地方の勢力2,000余騎である。

そして、北方の峯には、大将・義詮の本陣。佐々木道誉、赤松則祐(注3)以下の老武者、引付頭人(ひきつけとうにん)、評定衆(ひょうじょうしゅう)、奉行人(ぶぎょうにん)ら、総勢3,000余騎、油幕(ゆばく:注4)の中に敷き皮を並べ、鎧の袖を連ねて並び居る。

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(訳者注3)西の尾根先の布陣と、だぶってしまっている。

(訳者注4)雨露を防ぐために油を引いた天幕。
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険しい山中に陣を置いている時には、えてして、はるか遠方の事はよく見えるのであるが、自らの足もと、すなわち山麓の情勢は把握しにくいものである。

「さてさて、山名軍はまっ先に、いったいどこの陣へ、攻めかかってくるのであろうか」と、義詮軍側は全員、じっと目をこらして遠くを眺めていた。

突然、思いもかけない西の尾根先から、トキの声がドッと一斉に上がった。山名師義を先頭に、出雲(いずも:島根県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)の勢力2,000余騎が、イッキにそこまで懸け上がってきたのである。

二つの峯に挟まれた狭隘(きょうあい)なエリア中に、大量の人馬がいきなり乱入してきたのである。人も馬も、互いに身をギシギシと摺り寄せるような大混雑、両軍互いに射る矢は、一本も外れる事が無い。

義詮軍中に、播磨国の住人・後藤基明(ごとうもとあきら)という名の、強弓を引く武士がいた。

基明は、一段高くなった岩の上に駆け上り、そこからビュンビュンと矢を連射した。3人張(さんにんばり)の弓に14束(そく)3伏(ぶせ)の矢を次々とつがえ、これでもか、これでもか、と射放つ。楯も鎧もこれにはたまらず、山名軍は前進を阻止され、少々ひるみぎみになってしまった。

これに利を得て、佐々木家・黄旗一揆武士団中から、3人の武士が前面に出てきた。彼らは大鍬型(おおくわがた)に母衣(ほろ)をひっかけて前傾姿勢を取り(注5)、自ら結わえた陣前の鹿垣(ししがき)を切って押し破り、陣の外へ出てきた。

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(訳者注5)「鍬型」とは、兜の前に立っている2本の棒状の飾りの事。「母衣」は矢を防ぐための布製のもの。「母衣」を兜の上から被り、前傾姿勢を取って、矢に当たりにくくなるようにしたのである。
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江見勘解由左衛門尉(えみ・かげゆさえもんのじょう) わしらは、日本一の大剛(だいごう)の武士、近江国の住人やぞぉ! わしの名は、江見勘解由左衛門尉!

蓑浦四郎左衛門(みのうらしろうざえもん) 同じく、蓑浦四郎左衛門!

馬渕新左衛門(まぶちしんざえもん) 同じく、馬渕新左衛門!

江見勘解由左衛門尉 みんなのまっ先かけて、討死にするぞぉ!

蓑浦四郎左衛門 この中に、生き残ったもんがおったらな、

馬渕新左衛門 わしらの事を語って、子孫に名を伝えてくれよぉ!

三人は、声々に名乗りを上げて山名陣中に突入、次々と討ち死にしていった。

さらに、後藤基明、一宮有種(いちのみやありたね)、粟飯原彦五郎(あいはらひこごろう)、海老名新左衛門(えびなしんざえもん)の4人が、前線に進み出た。

彼らは、声高らかに名乗りを上げ、川を渡って山名軍中へ突入していった。

後藤基明 合戦先駆けの栄誉に輝くの、普通だったら、一人だけなんだけどなぁ。

一宮有種 こんなに狭い場所での戦だもん、いったい誰が一番乗りなんだか、サッパリわかりゃしねえや。

粟飯原彦五郎 ようは、敵と真っ先に太刀交わしたもんが、先駆けってことになるんだろう。

海老名新左衛門 お味方の衆、一人でも生き残ったもんがいたらな、おれたちが先駆けしたってこと、証人になってくれよなぁ!

彼らは、たった4人でもって、山名軍数万の中へ切り込んでいく。

山名師義 (大声で)前陣が、疲れてきたようだわな、後陣メンバー、前陣と入れ替わって、あの敵を討て!

その命令を聞いて、伊田家、波多野家の若武者ら20余人が、馬から飛び降り、勇み立って一斉突撃。

山名軍後陣数万人 おれたち、続いてる、退(ひ)くなよ!

伊田家&波多野家の若武者たち一同 ウオォーー!

両軍の最前線で、50余人の乱戦切り合いが始まった。太刀の鍔音(つばおと)、鎧突(よろいづき:注6)の音が、山にコダマして響き、しばしも止む間がない。周囲の山岳も崩れて、川や谷を埋めてしまうかと思われるほどの凄さである。

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(訳者注6)鎧に隙間ができないように、鎧を揺する動作。
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やがて、後藤基明以下、両軍の最前線で戦った武士50余人が、討ち死にしてしまった。

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義詮陣営側の南尾根は、細川頼之、細川繁氏を大将に、四国地方、中国地方の勢力2,000余騎がかためていた。彼らは、「地形が急峻(きゅうしゅん)で、谷は深く切れているから、とてもここまで、敵は上がってはこれんだろう」と、思っていた。

ところが、山名時氏を先頭に、小林重長(こばやししげなが)、小幡、浅沼、和田、楠らをはじめ、和泉(いずみ:大阪府南部)、河内(かわち:大阪府東部)、但馬(たじま:兵庫県北部)、丹後(たんご:京都府北部)、因幡(いなば:鳥取県東部)の武士ら3,000余騎が、さしも険しき山道を、ツヅラ折りに攻め上ってきた。

この陣は、未だに鹿垣を一重も結んでいなかったので、双方トキの声を合わせ、矢を一本づつ射交わすやいなや、たちまち、太刀を振るっての白兵戦に突入していった。

全軍の先頭きって戦っていた四国勢の中、まず、秋間兵庫助(あきまひょうごのすけ)の兄弟3人、生稲四郎左衛門(いなふしろうざえもん)の一族12人が、前線から一歩も退かずに討死。これを見て、坂東(ばんとう)地方、坂西(ばんせい)地方の藤原流武士たち、橘流(たちばなりゅう)武士たちに、少しのひるみが生じた。

備前国(びぜんこく:岡山県東部)住人・須々木三郎左衛門(すずきさぶろうざえもん)父子兄弟6人が、彼らに入れ替って戦闘を続行、しかし、後続の味方は皆無、全員一所にて討死。

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このように、義詮陣営側は西の尾根先、南の尾根先の両方面にわたって、崩壊の気配が漂いだし、メンバー全員に、動揺が走り始めた。

山名軍側の小林重長は、勢いに乗って、義詮陣営側をイッキに壊滅せしめようと、ここぞとばかりに、猛攻に次ぐ猛攻を繰り出していった。

義詮陣営側の四国勢・中国勢3,000余騎は、山から北方へ追い立てられ、深い谷に、人間なだれをうって落ち込んでいく。

そのようなわけで、この方面の義詮陣営内においては、敵と戦って討死にした者の数は少なく、自分の太刀や長刀に貫かれて死んでしまった者が多かった。

これを見て、ますます勢いづいた山名師義は、全軍の先頭駆けて、前へ前へと突き進んでいく。大将のこの勇姿を見ては、それに従う者、誰ためらうはずがあろうか、「我、まっ先に敵と闘わん!」とばかりに、全員、先を争って前進していく。

中でも、山名家郎等・因幡国の住人・福間三郎(ふくまさぶろう)は、その名を世に知られた大力の持ち主。

彼の使う太刀は、幅広でその長さは7尺3寸、鍔元から3尺ほどの部分は、膨らみを持たせて打ってある。鎧の威(おどし)は白、黄、ブルーの三色混合、「山の字」形の鍬型打った兜を、首が隠れるほどまで深くかぶり、小躍りしながら、片手打ちの払い切り、坂をズンズン上っていく。その太刀の刃に当たった人間は、胴中、モロ膝かけて落され、太刀の峯に当たったものは、あるいはズンッと宙に打ち上げられ、あるいはドサッと地上に打ち倒されて尻餅をつき、血を吐いて死んでいく。

かくして、義詮陣営側の前線は、西の尾根、南の尾根とも全面的に崩壊、メンバーたちは全員、パニック状態に陥り、大将・義詮の本陣に何とかして合流しようと、雪崩を打って退いていく。

山名軍側の伊田、波多野両家メンバーたちは、「全員、残らずやっつけろ!」と、おめき叫ぶながら、彼らを追撃していく。

石や岩は、苔滑らかにして敗走する人々の足を取り、棘(いばら)が、彼らの前を塞ぐ。もはや、退こうにも退きようが無し、返し合わせる者は、ことごとく討たれていく。

赤松師範、赤松直頼、赤松範実は、その場に踏みとどまって叫ぶ、

赤松師範 ここで踏みとどまらんと退いたかて、生き残れるモンは、一人もおらんぞぉ!

赤松直頼 命惜しかったら、返せや、おまえら!

赤松範実 返せ、返せ、みんなぁ、返せ!

このように、他の人々を恥かしめ、ののしって、何とかその場に踏みとどまらせようとするのであったが、踏みとどまる者は誰もおらず、小国播磨守(おくにはりまのかみ)、伊勢左衛門太郎(いせさえもんたろう)、疋壇藤六(ひきだとうろく)、魚角太夫房(うおすみたゆうぼう)、佐々木壇正忠(ささきだんじょうのちゅう)、佐々木能登権守(ささきのとのごんのかみ)、新谷入道(にいのやにゅうどう)、薦田壇正左衛門(こもだだんじょうざえもん)、河匂彌七(こうわやしち)、瓶尻兵庫助(かめじりひょうごのすけ)、粟生田左衛門次郎(あわふださえもんじろう)だけが、返しあわせて、討たれていった。

河原重行(かわはらしげゆき)は、「今度の戦に負けたら、絶対に討死にしてしまおう!」と、かねてから決意していたのであろうか、山名軍が方々から打ち寄せてくるのを見て、

河原重行 今日の戦は、おれ一人の喜びに、なってしまったなぁ。

河原重行 あの、元暦(げんりゃく)年間の古(いにしえ)、一谷(いちのたに)の合戦の時、平家側の防衛ライン・生田森(いくたのもり:神戸市・中央区)の一の木戸(きど)の前で、おれのご先祖様の河原太郎(かわはらたろう)、河原次郎(じろう)のお二人は、木戸を乗り越えて平家陣中へ突入、見事に討死にしていかれた。今と同じ、二月の事よ。

河原重行 一谷は、摂津(せっつ:大阪府北部+兵庫県南東部)の国にある。今日の戦場も、摂津の中だ。国も月も、ご先祖様のあの時と、まったく同じさぁね。おれもまた、ご先祖様と同じように、今日この場で討死にして、ご先祖様の高名を、ますます輝かかしいものにしていこう。そうすりゃ、冥土黄泉(めいどこうせん)の道の岐(ちまた)ででくわした時に、ご先祖様もさぞかし、喜んでくれるだろうぜ。(涙)

その言葉に少しも違わず、重行は、数万人の相手の中にたった一人で懸け入って、ついに討死を遂げた。まことに哀れな事である。

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赤松朝範(あかまつとものり)は、自分が守っている陣がまっさきに破られてしまった事を、我が身の恥と思い、袖につけた笠印(かさじるし)を外して隠し、山名軍中に紛れ込んだ。

赤松朝範 (内心)なんとかして、相手にとって不足のない敵に出会うて、打ち違えて死んだろ!

朝範は、周囲を窺(うかが)いながら、馬を進めていった。

やがて、朝範の左手前方に、リーダー格と思われる一人の武将がやってきた。その武将は、逃げいく義詮軍を追いかけている。

山名師義 敵に、ちょっとでも、足を止めさせちゃいかんぞ、どこまでも、追いつめ、追いつめろ! とことん追いつめて、討ち取れ! 前へ進め、ガンガン進めぇー!

赤松朝範 (内心)オァッ、あいつ、山名師義やんか! なんとまぁ、こらラッキー。あんなオオモノに、出会えるとはなぁ。

朝範は、師義の側まで馬を走らせ、通り過ぎざまに、師義の兜を、割れよとばかりに打った。

赤松朝範の太刀 ヴァシッーーン!

山名師義 うっ!

師義は、キッと振り返り、朝範を見つめた。

とっさに、山名家の若党3人が、二人の間に割って入った。

彼らは、朝範の兜をメッタ打ちにしたので、兜が脱げ落ちてしまった。

落ちた兜を拾おうとして、うつぶせになった所を、鬢(びん)の外れの小耳の上に、3回切り付けられた。

流れる血に目がくらんで、朝範は、ドッと倒れ臥した。

山名家の若党たちは、朝範を押さえ込み、トドメを刺した。そして、彼をそのまま放置した。

朝範には、死なねばならぬ前世の業報が、未だに到来してはいなかったのであろうか、山名家の者たちは、彼の首を取らなかったのである。

戦い終わって後、朝範は、草の陰で息を吹き返し、命拾いをした。まことに不思議な事であったとしか、言いようがない。

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かくして、足利義詮(あしかがよしあきら)陣営側は、西の尾根先、南の尾根先の両方面ともに、前線ラインを、あっという間に攻め破られてしまった。

山名軍側は、ますます勢いに乗って攻めたてていく。

峯々に布陣している方々の地方からの寄せ集めの義詮陣営側勢力は、未だ一戦もせずして我先にと、馬にむち当てて、逃げ出していく。

ついに、義詮の本陣は、わずか100騎ばかりになってしまった。

しかし、佐々木道誉と赤松則祐は、いささかも気を屈する事なく、敷皮の上に居直っていわく、

佐々木道誉 他の連中はいざしらず、わしは、逃げも隠れもしませんぞ!

赤松則祐 わたしら二人が討死にするのん、見届けてから、自害しはったらよろしぃわ、義詮様。

このように言い放ち、ますます勇み立って見える二人である。

義詮の本陣がスケスケになってしまった中に、四目結(よつめゆわい)の旗一流が立っているのを見て、山名師義は大いに喜んで、

山名師義 そもそも、おれがこの反乱を起したのは、何も天下を傾け、将軍を滅ぼそうと思っての事じゃぁない。ただただ、佐々木道誉が、おれに無礼な振舞いをしたのが、憎かったからよ。

山名師義 見ろよ、あそこにひるがえってるあの旗! 四目結の紋どころ、まぎれも無い、佐々木家の旗だ!

山名師義 まさに、天が与えたもうたチャンス! おまえら、他の敵には目もくれるなよ! 道誉の首を取って、おれに見せろ!

師義は、歯を食いしばって前進していく。山名軍6,000余騎も、我先にと勇み進んで、義詮の本陣へ迫っていく。

両者の間隔が2町ほどにまで縮まった時、赤松則祐は、幕をさっと打ち挙げ、大音声をもって叫ぶ、

赤松則祐 天下の勝負、まさにこの一戦にあり! この戦場に命かけいで、他にどこで、命捨てるんや! 名将の御前(おんまえ)で堂々と討死にして、後世の書物に、我が名を止めようやぁ!

7人の武士 よぉし!

則祐の激励にこたえて、7人の武士が声を上げた。平塚次郎(ひらつかじろう)、内藤興次(ないとうおきつぐ)、近藤大蔵丞(こんどうおおくらのじょう)、今村宗五郎(いまむらそうごろう)、湯浅新兵衛尉(ゆあさしんひょうえのじょう)、大塩次郎(おおしおじろう)、曽禰四郎左衛門(そねしろうざえもん)らである。

彼らは、足利義詮の前を走り抜け、山名軍に立ち向かっていった。

山名軍側には、射手は一人もいない。

向かってくる相手を、味方の射手に射すくめさせながら、7人の武士たちは、鎧の左袖を揺すって隙間を塞ぎ、山名軍に、跳りかかり、跳りかかり・・・7本の太刀の鍔本からは火花が飛び散り、切っ先に血をそそぎ、切ってまわり、切ってまわり・・・あっという間に、山名軍側の先鋒4人が討たれ、30人が重傷を負った。

その光景を目前に見て、後続の山名軍300余人の前進の足が、ピタッと止まってしまった。

これを見た義詮陣営側・所属メンバー、平井景範(ひらいかげのり)、櫛橋三郎左衛門尉(くしはしさぶろうさえもんのじょう)、櫻田俊秀(さくらだとしひで)、大野氏永(おおのうじなが)は、声々に、

4人の武士 後ろから、オレたち続いてるからな、退くなよぉ!

7人を力づけながら、彼らもおめいて、山名軍に襲いかかっていく。

思いも寄らぬ頑強な抵抗に遭遇し、しかも、全員徒歩の山名軍、にわかに形勢は逆転。

新手の騎馬武者たちに懸け破られて、山名軍メンバーたちは、みるみる逃げ足になってしまい、両方の谷へ、なだれを打って落ちていく。

その形勢の急変を見て、義詮陣営の前線に位置しならが、緒戦の段階で蹴散らされてしまっていた四国・中国勢メンバーたちが、続々と、戦場に復帰してきた。そして、義詮の本陣は、あっという間に、その兵力を1,000余にまで回復した。

山名師義は、なおも、後続の部隊をさしまねいて、義詮軍の陣中にかけ入らんと、四方を見渡したが、

山名師義 なんだぁ!

なんとなんと、後方に控えていた吉野朝軍1,000余騎が、別にどうといった理由も無いのに、陣を崩して、退却をし始めているではないか!

山名師義 あぁぁ・・・あいつらぁ!

矢を射尽くしてしまい、気力も使い果たしてしまっていた山名軍メンバーたちは、闘志だけは失ってはいなかったものの、既に総崩れ状態になってしまった味方たちに巻き込まれてしまい、心ならずも、山崎を目指して、撤退を開始した。

両軍の形勢は、今や完全に逆転、今度は、義詮軍側が勢いに乗じ始めた。

方々の峯々谷々から、500騎、300騎と現れてきては、山名軍を側面から脅かしたり、前面に立ちふさがったり、蜘蛛手(くもで)、十文字(じゅうもんじ)に懸け立てる。

内海範秀(うつみのりひで)は、敗走する山名軍に追いすがり、相手かまわず、兜の鉢、鎧のあげまきにと、切り付け切り付け、進んでいるうちに、太刀が鍔本から折れてしまった。

馬も疲れきってしまっていたので、範秀は馬から下りた。

右手の方をキッと見ると、美しい鎧を着た一人の武士の姿が目に止まった。目の前を走り抜けていくその武士の、三引両(みつびきりょう)の笠標を見て、

内海範秀 (内心)お! あれは、山名家のヤツ。敵にとって申し分無し。

範秀は、その馬の側に走り寄り、背中にヒラリと飛び乗った。範秀とその武士とが、馬に二人乗りになった格好である。

武士は、「味方の人間が、馬に飛び乗ってきたのであろう」と、勘違いして、

山名軍武士A あんたはいったい、どこの誰だい? 負傷してんだったら、おいらの腰に、しっかりつかまってろ、助けてやっから。

内海範秀 いやぁ、ありがとよ!

言うやいなや、範秀は、刀を抜いて目の前の相手の首をかき落した。そしてそのまま、その馬に乗ってなおも、逃げ行く山名軍を追撃した。

山名軍メンバーたちは、因幡を出発した時から、「今度の戦では必ず、京都に、わが屍(しかばね)をさらすんだ!」との覚悟を固めて、やってきていた。

故に、伊田(いだ)、波多野(はたの)、多賀谷(たがたに)、浅沼(あさぬま)、藤山(ふじやま)、土屋(つちや)、福依(ふくより)、石原(いしはら)、久世(くぜ)、竹中(たけなか)、足立(あだち)、河村(かわむら)、首藤(すどう)、大庭(おおにわ)、福塚(ふくづか)、佐野(さの)、火作(こつくり)、歌(うだ)、河澤(かわざわ)、敷美(しきみ)以下、主要メンバー84人、その一族郎等263人は、退却の道中4、5町ほどの中、随所において、返し合わせ返し合わせては、全員討死にしていった。

山名師義は、後方に踏みとどまって防ぎ矢を射ている小林重長を死なせまいと、たった7騎で取って返し、迫り来る義詮サイドの大軍中に懸け入り、脇目も振らず戦い続けた。

と、その時、

矢 ビューン、ブシュッ!

山名師義 ウッ!

飛び来った矢は、師義の左目に刺さり、耳の根本まで達した。

師義は、目がくらみ、肝がつぶれてしまった。

山名師義 ウーン・・・。

師義は、太刀を地上に逆さまに突き立て、その場で、かろうじて持ちこたえ、自らの心中に残っているあらん限りの気力を、振り絞った。

相手陣からは、豪雨のごとく矢が浴びせかけられる。師義の乗馬は、太腹と胸先に5本の矢を受け、膝を折って、ドウと伏してしまった。

観念した師義は、馬から下りて、鎧の草ずりをたたみ上げ、腰の刀を抜いて自害しようとした。

それを見て、河村弾正(かわむらだんじょう)が、馳せ寄ってきた。

彼は、馬から飛び下り、師義をその馬上に乗せた。

河村弾正 誰か、誰か、いないか!(周囲を見回す)お、オォイ、オォイ!

岩の上に、福間三郎が座っていた。彼は、戦い疲れて、そこで休息を取っていたのである。

河村弾正 こっちへ! 早く!

福間三郎 おぉ!

駆け寄ってきた福間三郎に、馬のたずなを持たせ、

河村弾正 それ行け! 大将を頼むぞ!

福間三郎 よぉし!

河村弾正は、追いすがってくる義詮軍メンバーに走り懸かり走り懸かり、何とかして山名師義を逃がそうと奮戦、ついに、討死にしていった。

馬上に揺られていくうちに、師義の意識は、徐々に回復してきた。

山名師義 (内心)・・・なんだ? おれはいったい? ここはどこだ?

師義は、状況を確認しようと思い、周囲を見回した。しかし、流れる血が目に入り、東西の方角を区別することさえ不可能な状態である。

山名師義 おぉい、この馬の近くに、誰かいるか! 馬の首を、敵の方へ向けろ! 敵ん中、懸け入って、河村の死骸の上で、おれも討死にするんだぁ!

勇み立つ師義に対して、福間三郎は、

福間三郎 はいはい、今、敵の方に、向こぉとりますよ。

三郎は、馬の首を下げ、その左側の七寸(みぞつき:注1)付近をしっかりと握りしめながら、ひたすら走った。このようにして、小砂混じりの笹原を3町ほど逃走の末に、ようやく、味方勢に合流する事ができた。

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(訳者注1)たずなの先を結びつける穴。
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義詮軍も、もはやここまでは追って来ない。

このようにして、最終的には、山名軍敗走で、神南の戦は終結した。

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淀(よど:京都市・伏見区)へ帰着の後、山名師義は、今回の戦で討死した者全員の名字を、一人ずつ書き記して、因幡・岩常谷(いわつねだに:鳥取県・岩美郡・岩美町)の満願寺(まんがんじ)へ送り、彼らの菩提(ぼだい)を弔(とむら)わせた。

中でも、河村弾正は、わが命に代って討たれた者ゆえ、獄門にかけられていた彼の首を、義詮陣営側から乞い受けた。

今は空しくなってしまった弾正の顔を一目見るなり、師義は、涙を流して、

山名師義 (涙)そうだよなぁ・・・おれがこの乱を起して天下をくつがえそうとした、その最初の時から、おまえは、おれを、父のように頼み、おれも、おまえを、我が子のように思ってたんだわなぁ・・・。

山名師義 (涙)戦場に臨むたんびに・・・おまえが生きてんなら、おれも生きてよう、おまえが討死にしてしまったならば、おれも死のうって、約束してたんだよなぁ・・・。

山名師義 (涙)なのに・・・おまえは、義に殉じておれの為に死に・・・・おれは、命を助けられて、おまえの跡に生き残ってる・・・あぁ、なんて、恥ずかしい事なんだろう。

山名師義 (涙)苔(こけ)の下、草の陰(かげ)・・・おまえが、いったいどこにいるんか、おれには分からないけど・・・でもきっと・・・おれが、約束破ってしまった事、さぞかし、無念に思ってるだろうよなぁ。

山名師義 (涙)でもなぁ、いいかぁ、どのみち、おれも、いつかはそっちへ行くんだわ・・・木の枝に結んだ露みたいなもんよ・・・先の方に結んだのは先に消え、本の方に結んだのは遅れて消えてく・・・いつかは消えるんだわ・・・おまえと、また会える日は、必ず来るんだわ・・・そうさ、極楽浄土の世界で、またきっと、会えるんだわなぁ・・・(河村弾正の頭髪を、かきなでながら)・・・待っててくれよな、なぁ、なぁ、・・・(涙)

その後、師義は、一人の僧侶を請じて、秘蔵の白瓦毛(しろかわらげ)の馬と白い鞍、白い太刀一本を布施として与え、討死にした河村弾正の菩提を弔わせた。

この、河村弾正に向ける山名師義の心情、まことに、すばらしいではないか。

古代中国・唐(とう)王朝時代、太宗(たいそう)皇帝は兵を大切にし、負傷者の傷を癒(いや)す為に、自らその傷口を吸って、その血を口に含んだのみならず、戦死者の遺骸を、帛(はく)を散らして収めたという。何やら、その逸話を思い起させるような、山名師義のこの行為に対しては、大いに心打たれるものがある。

太平記 現代語訳 32-7 足利直冬、京都を制圧(付 宝刀・鬼丸と鬼切の由来)

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)は検討を重ねた末に、「足利直冬(あしかがただふゆ)を大将に任命して、京都攻めを決行!」との天皇命令を発行した。

これを受けて、山名時氏(やまなときうじ)とその子息・山名師義(やまなもろよし)は、京都朝年号・文和3年(1354)12月13日、5,000余騎を率いて、その本拠地・伯耆(ほうき:鳥取県西部)より京都を目指して進軍開始。山陰道(さんいんどう)一帯の武士たちはことごとく、これに合流し、その兵力は7,000騎にまで膨張した。

山名軍リーダーA 但馬(たじま:兵庫県北部)から、杉原越(すぎはらごえ:兵庫県・多可郡・多可町)ルートで播磨(はりま:兵庫県西南部)に進み、鵤宿(いかるがじゅく:兵庫県・揖保郡・太子町)に滞陣中の義詮(よしあきら)殿を打ち散らすってのは、どうやろう?

山名軍リーダーB いやいや、それよかな、山陰道ルートをまっすぐ丹波(たんば:京都府中部+兵庫県東部)へ進むべきやでぇ。あそこにはほれ、あの仁木頼章(にっきよりあきら)が佐野城(さのじょう:兵庫県・丹波市)にたてこもって、おれたちを通せんぼしとるやろ、あれをまず、やっつけるんよ。

作戦会議を開いてあれやこれやと議論をしているさ中、越中(えっちゅう:富山県)の桃井直常(もものいなおつね)と越前(えちぜん:福井県北部)の斯波高経(しばたかつね)からの使者が、同時に到着した。

彼らからのメッセージは、「とにかく、急ぎ京都へ攻め上られよ、北陸地方の勢を率いて、こちらも同時に攻めるから」との内容であった。

山名時氏 ならば、夜を日に継いで、京都へ進めぇ!

山名軍リーダー一同 ウゥィ!

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山名父子率いる7,600余騎は、前後10里にわたる行軍時・陣編成をもって、丹波国へ進軍した。

これを迎え打つ仁木頼章は、丹波国守護の任にあり、山陰道方面から京都に向かって進軍してくる敵対勢力を食い止めるという、極めて重要な任務を負っていた。その上、彼は今や、将軍執事(しょうぐんしつじ)の地位にもあって、その威勢は他を越える存在である。

山名軍リーダーA (内心)さぁ、いよいよ、丹波に入ったぞぉ!

山名軍リーダーB (内心)これから、仁木軍との間に、火花を散らすような激戦の5回や10回・・・。

山名軍リーダーC (内心)覚悟しとかんとなぁ!

ところが案に相違、山名軍の勇鋭ぶりを見て、「戦ってみても、到底勝ち目なし」とフンだのであろうか、仁木軍側は矢の一本を射る事も無く、山名軍に佐野城の麓を、易々と通過させてしまった。

その結果、仁木頼章は、山名軍メンバーからの嘲笑を受けるのみならず、日本国中の人々のモノワライのネタにされてしまった。

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足利尊氏(あしかがたかうじ) (内心)山名軍、丹波を無抵抗状態の中に進軍か・・・まいったな・・・。

足利尊氏 (内心)京都滞在の手持ち兵力は、残らず、義詮につけて、播磨へ送ってしまってる・・・援軍は未だにやっては来ない・・・そりゃそうさ、みんな、遠国からやってくるんだもんなぁ。

足利尊氏 (内心)これっぽっちの残存兵力でもって、京都の中で戦ってみても・・・良い結果は出ないだろうな・・・うーん、いったいどうしたものか・・・。

やがて、「直冬殿と山名軍がついに、大江山(おおえやま:右京区)を越えました、一路、京都へ向かっております!」との情報が、尊氏のもとへもたらされた。

足利尊氏 よし・・・京都脱出!

1月12日(注1)の暮れ方、尊氏は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を守り、京都を離れて近江国(おうみこく:滋賀県)へ退避、武作寺(むさでら:滋賀県・近江八幡市の長光寺)へ入った。

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(訳者注1)史実においては、12月24日。
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そもそも、今上天皇陛下(きんじょうてんのうへいか:注2)が即位されてから未だに3年にも満たないというのに、その間2度も、京都から離れる事を、陛下は余儀なくされた(注3)。その都度、朝廷に仕える百官は皆、他郷の雲の下にさ迷う事になってしまったのである。あぁ、まったくもう、なんというメチャクチャな世の中になってしまったのであろうか!

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(訳者注2)後光厳天皇のこと。

(訳者注3)後光厳天皇の、京都脱出・一回目については、32-3 を参照。
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1月13日(注4)、足利直冬は京都に入った。越中の桃井直常、越前の斯波高経も、3,000余騎を率いて京都にやってきた。

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(訳者注4)史実においては、1月22日。
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直冬はこの7、8年間というもの、継母の讒言(ざんげん)(注5)によって、こなたかなたへと漂泊の生活を余儀無くされていた。しかし今や、多年の不運も一気に晴れて、にわかに、国中の武士に仰ぎ見られるような存在となったのである。

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(訳者注5)ここでいう「継母」とは、尊氏夫人、すなわち、義詮の生母の事を言っているのであろうか? はたして彼女が、自分の産んだ子ではない直冬の事を尊氏に讒言したのであろうか? ここに書かれているこういった事柄がいったい史実なのかどうか、よく分からない。太平記作者の書いている事はフィクション(非史実)が多いので、注意が必要である。
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「1年に2度も花を咲かせた木は、その無理な開花が原因となって、ついに根が枯れてしまう」と言われている。そのような地上の真理を認識する事も無く、直冬とその周囲の人々は、今回のこの大成功に完全に酔いしれてしまっている。まさに、「春風三月、一城の人、皆狂する」の言葉そのままである。

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今回のこの京都攻めを成功に導くにあたっての重要メンバーは、いったい誰であったかといえば、それはなんといっても、山名時氏、桃井直常、そして、斯波高経であろう。彼らは、それぞれそれなりに、足利幕府に対する恨みがあったが故に、この戦いに参加したのである。

まず山名時氏、既に述べたように、彼は、若狭の領地の件に関して、足利義詮に恨みを持っていた。(注6)

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(訳者注6)32-3 を参照。
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桃井直常は、故・足利直義(あしかがただよし)の党派に属した結果、権力闘争において敗退を余儀なくされた事への憤りがあった。

故に、この二人が幕府に対して叛旗を翻すに当たっては、それなりの理由があると言えばある。しかし、いったいなぜ、斯波高経までもが、今回のこの京都攻めに加担したのであろうか?

高経は、足利幕府の草創期以来、忠戦の功績面において、他の足利家親族をはるかに超えている人である。将軍・尊氏も、彼に対しては別格扱いの恩賞を与えており、世間からの高経に寄せられる声望も、極めて高かった。

故に、尊氏に対しては、何の恨みを含むものでもないと思われるのに、今やにわかに、彼の敵方に回り、打倒・尊氏政権の挙に、打って出たのである。いったいどのような遺恨(いこん)が、高経の心中に潜んでいたのであろうか?

世間の声D あのっさぁ、その真相、あたいは知ってんだよねぇ。教えたげよっかぁ?

世間の声E うん、教(おせ)て、教(おせ)て。

世間の声D あいよぉ。ずっと前にっさぁ、越前国の足羽(あすは)の戦の時にっさぁ、斯波高経さん、敵方の大将、討ち取ったでっしょぉう?(注7)

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(訳者注7)20-9 参照。
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世間の声F 新田義貞(にったよしさだ)ですな。

世間の声D そっそ。その時にっさぁ、義貞さんが持ってた源氏代々の重宝の太刀、2本とも、高経さんの手に渡ったんだよねぇ。

世間の声G 義貞はんが持ってはった源氏代々の太刀言うたら・・・えぇと、なんやったかいなぁ・・・鬼平(おにへい)やったかいなぁ・・・オムスビやったかいなぁ?

世間の声H ブフフ・・・あのねぇ、「鬼丸(おにまる」と「鬼切(おにきり)」ですよ。「オニギリ」じゃぁないんだからぁ。

世間の声D そっそ。ところがっさぁ、それ聞いた尊氏さんがね、さっそく、横ヤリ入れてきたんだよぉ。

(以下、世間の声Dが語った当時の話)
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尊氏よりの使者 高経殿、尊氏様は以下のように、仰せでございますよ、「鬼丸と鬼切、これは、源氏末流の者が所有すべき物ではない。だからすぐに、こちらに渡すように。我が家の重宝として、代々、嫡流が相伝していくようにするから。」

斯波高経 ・・・。

尊氏からは、その後もしつこく催促が来た。

斯波高経 (内心)・・・。

斯波高経 (内心)いやだ! どうしても、渡したくない。鬼丸、鬼切は、わしが新田義貞を倒して、手にいれたんだ、だから、わしのもんだ!

斯波高経 (内心)よぉし!

高経は、同じ寸法の太刀を入手し、それをわざと火中に投じた。そして、それを使者に渡していわく、

斯波高経 ほら、それが例の、鬼丸と鬼切だ。持って帰れ!

尊氏よりの使者 エェッ・・・なんですか、こりゃ・・・焼けてしまってるじゃないですか。

斯波高経 そうなんだよ。実はな、これ、長崎(ながさき)の道場(注8)に預かってもらってたんだよな。で、あそこが焼け落ちた時に、いっしょに焼けてしまったんだ。

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(訳者注8)称念寺(福井県・坂井市)。
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尊氏よりの使者 ・・・。

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(世間の声Dが語った当時の話、以上で終わり)

世間の声D ところがっさぁ、事の真相、そっくりそのまま、京都へ伝わっちゃったんだよねぇえ。

世間の声E うわぁ。尊氏はん、そら、ものすごい、お怒りどしたやろなぁ。

世間の声D そりゃぁ、もう。

世間の声G ふーん、そないな事、ありましたんかいなぁ。

世間の声D ってワケでっさぁ、新田義貞を討ち取った抜群の功績があるってのにぃ、たいした恩賞もらえなかったんだよねぇ、高経さんは。

世間の声H ふーん・・・。

世間の声D それだけじゃぁ、ないんだよぉ。それからも高経さん、尊氏さんから面目まるツブレされるような事、何度もあっちゃってっさぁ、で、とうとう、キレちゃった。

世間の声H ふーん・・・。

世間の声D ってワケでっさぁ、高経さんは、故・足利直義さんが尊氏さんと戦(いくさ)やらかしちゃった時に、直義さんサイドについたんだよねぇ。今回もまた、直冬さんの上洛に合力して、京都へ攻め上ったってぇわけよぉ。

世間の声E ふーん・・・。そやけどその太刀、よっぽど、すごいもんどしたんやろうなぁ。斯波高経はんほどのお人が、そこまでこだわらはった、いうんやから。

そう、確かに、すごいものなのである。

そもそも、この鬼丸という太刀は、かの鎌倉幕府・初代執権(しっけん)・北条時政(ほうじょうときまさ)に由緒ある太刀なのだ。

以下に紹介する話は、北条時政が、国家の最高権力を手中に納め、日本国中をその支配に服せしめた後の事である。

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毎夜毎夜、身長1尺ほどの小鬼が、北条時政の枕元にやってきては、彼に襲いかかろうとする。これははたまた、夢か、幻か。

修験道(しゅげんどう)の行者に加持祈祷(かじきとう)を行わせてみても、その怪奇現象は一向におさまる気配すら見えない。陰陽寮(おんみょうりょう)の博士に鬼封じの祈祷をやってもらっても、一向に、ききめがない。ついに時政は、病に伏す身となってしまった。心身の苦しむが止む事、一瞬の間も無し・・・。

ところが、ある夜の事、

北条時政 うん?・・・あそこにある太刀・・・あれは、わしの守り刀だが・・・。

北条時政 やや! 太刀が変形していく・・・なんと不思議な!

北条時政 太刀が、老人に姿を変じたぞ!

老翁 時政、時政よ・・・。

北条時政 あなたはいったい?

老翁 わしは、そなたを護持する太刀の霊じゃよ。

北条時政 ・・・。

老翁 わしは常に、そなたを擁護(ようご)せんと念じておるでな、先日より、かの妖怪を退けんとしておるのよ。じゃがのぉ、どうもうまくいかん。その原因はの、汚(けが)れたる人間の手でもって、わしに触れたが故に、錆びが身から出てしもぉての、刀身を抜こうにも抜けぬのじゃわい。

北条時政 ・・・。

老翁 かの妖怪を速やかに退けんと欲するならば、清浄(しょうじょう)なる人間をもってして、わしのこの身の錆びを拭わしむるべし。

北条時政 ・・・はぁ・・・。

老翁 この身の錆びを・・・拭わしむるべしぃーーー・・・。(人間から太刀の形状に戻りつつ)

北条時政 ・・・はぁ・・・。

北条時政 (ガバァッ!)ハッ!・・・あぁ、夢だったのか・・・。

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時政は、翌朝早々に側近を集めた。そして、老翁が夢に示したごとくに、側近中から一人の者を選び、彼に沐浴(もくよく)させた後に、問題の太刀の錆びを取らせた。そして、その刀身を鞘にささないまま、寝床の側の柱に立てかけておいた。

時は冬。

北条時政 あぁ、寒い、寒い!

時政は、身を暖めようとして、火鉢を近くに寄せた。

その火鉢が据えられている台を何気なくみやった時政の目は、そこに釘付けになってしまった。

北条時政 お、お、お・・・。

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火鉢が据えられている台の上には、銀製・鋳物の装飾がついていた。その形はまさに、身長1尺の鬼! 目には水晶を入れ、歯には金を沈めてある。

北条時政 (内心)こないだから毎夜毎夜、夢の中にやってきては、わしを悩ましてる鬼のようなヤツ・・・似てるなぁ・・・いや、ジツに似てるぞ、この飾りに。

じっと見つめていたその時、抜いたまま立ててあった例の太刀が、にわかに火鉢台の上に倒れかかってきた。

太刀 ヒューーーン、バシッ!

火鉢の台 スコーン!

小鬼の首 ポトッ!

太刀は火鉢台に当たり、その小鬼の飾りの頭の部分を、スッパリ切り落してしまった。

まさに、この鬼の装飾こそが、毎夜変身しては時政を悩ましていたのであろう、それを期に、時政の病はあっという間に直り、鬼形のものは、全く夢に現れないようになった。

時政は、この太刀に、「鬼丸」と命名した。その後、この「鬼丸」は、北条氏本家に代々家宝として伝えられていき、最後に、北条高時(ほうじょうたかとき)のものとなった。

高時が鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)の東勝寺(とうしょうじ)で自害に及んだ時、彼は、この鬼丸を、次男・時行(ときゆき)に、「これは我が北条家の重宝だから」とことづけて渡した。その後、鬼丸は諏訪祝部(すわのはふり)を頼って逃亡した北条時行と共に、信濃へ移った。(注9)

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(訳者注9)10-13 参照。
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建武2年(1335)8月、鎌倉の合戦に敗北した諏訪頼重(すわよりしげ)はじめ、北条氏与党の有力武士40余人は、大御堂(おおみどう)の中に走り入り、全員、顔の皮をはいで自害した(注10)。

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(訳者注10)13-6 参照。
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遺骸が群がる中に、この鬼丸が残されていたので、「きっと、北条時行も腹を切って、この中にいるんだろうなぁ」と、人々は皆、哀れに思った。

その後、鬼丸は新田義貞(にったよしさだ)に進呈された。

義貞は大いに喜んだ、

 「これが、かの音に聞こえた、北条家代々に伝わる重宝・鬼丸か!」

というわけで、それから後、鬼丸は、新田義貞の秘蔵する所となったのである。

この太刀は、奥州(おうしゅう)宮城郡(みやぎぐん:宮城県)の府に住んでいた三の真国(さんのさねくに)という刀匠が、3年間の精進潔斎(しょうじんけっさい)を貫きながら、七重にしめ縄を引いた中に鍛えあげた、まさに名刀中の名刀なのである。

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一方の「鬼切」、これもまた、ものすごいいわれのある名刀である。

これは、もとはといえば、清和源氏(せいわげんじ)・源頼光(みなもとのよりみつ)の太刀であった。

昔、大和国(やまとこく:奈良県)の宇陀郡(うだぐん)に広大な森があった。そして、その周縁部には夜な夜な、妖怪が出現、往来の人を採って食い、牛馬六畜(ぎゅうばろくちく:注11)をつかみ裂いていた。

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(訳者注11)牛、馬、羊、犬、鶏、豚。
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これを聞いた源頼光は、郎等の渡部源五綱(わたなべのげんごつな)に対していわく、

源頼光 おい、綱、あんな、大和の宇陀まで行ってな、例の妖怪、しとめてこいや!

渡部綱 はいはい!

源頼光 あんな、この我が家の秘蔵の太刀、持ってかんかいや!

渡部綱 うわぁ、おぉきに、ありがとさんですぅ!

渡部綱は、直ちに宇陀郡に赴き、甲冑を帯して夜な夜な、森の陰で妖怪を待ち構えた。

妖怪は、綱におそれをなして、あえて、その前に姿を現そうとはしなかった。

妖怪 えぇい、あの、綱とかいうヤツ、うっとぉしいやっちゃのぉ! よぉし、変身して、だまくらかして、イテもたるわい!

妖怪は、髪を解き乱して顔を覆い、鬘(かつら)をかぶり、自らの歯を黒く染めた。眉墨(まゆずみ)を使って太く眉を描き、薄衣(うすぎぬ)を頭からかぶり、女に変装した。

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時はまさに、おぼろ月夜、綱の眼前に、森の中から、一人の女が現われた。

女は静々(しずしず)と、綱の方に歩み寄ってくる。

渡部綱 ムムッ!

にわかに空がかき曇り、何者かが森の上空を疾走(しっそう)する気配がした。と、その瞬間、

何者かの手 ムギュ!

渡部綱 アッ!

何者かが、綱の髪をひっつかんだ。

綱の身体が、空中に宙づりになった。

綱は、頼光から賜った例の太刀を抜くやいなや、虚空を払い斬りに切った。

渡部綱 テャェーイ!

太刀 ヅヴァッ!

何者か ギュャェァエーーーイ!

たれこめた黒雲の上に、異様な叫び声が轟(とどろき)き渡った。

何者かの血 ドヴァーーーッ!

綱の顔に、血が降り注いだ。

渡部綱の身体 ドン!(着地)

何者かの腕 ボスッ!(着地)

渡部綱 なんや、これ!

見ると、綱が切り落とした腕は、黒い毛むくじゃらで、指は3本、カギ爪が生えている。

太刀は、妖怪の二の腕から下を、完全に切断していたのであった。

綱は、その腕を京都に持って帰った。

渡部綱 見てぇな、タイショウ、これ、これ!

源頼光 ウワッ! なんやねん、これ!

渡部綱 例の妖怪の腕ですわいな。わし、切り落してきましたんやぁ。

源頼光 そうかぁ! ワレ、よぉやりよったのぉ!

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その後、源頼光は、この腕を朱色の唐櫃(からびつ)に収納して秘蔵していた。

ところが、それからというもの、頼光は夜な夜な、恐ろしい夢を見るようになってしまった。

源頼光 ウーン・・・まいったのぉ。ちょっと、診(み)てもらおか。

そこで、陰陽博士(おんみょうはかせ)に、夢診断をしてもらうことになった。

頼光から、夢の内容を聞いた博士は、

陰陽博士 うーん・・・。

源頼光 どんなカンジですか?

陰陽博士 うーん・・・あかんな・・・。(首を左右に振る)

源頼光 ・・・。

陰陽博士 厳重なる物忌(ものいみ)が必要やな。

源頼光 日数は?

陰陽博士 7日間やな。

というわけで、頼光は、自邸の門戸をかたく閉ざし、自宅の周囲に、しめ縄を七重に引き回した。四方の門に12人の護衛を置き、毎晩、夜警担当の者に、ヒキメ(注12)を射させた。

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(訳者注12)朴(ほお)や桐(きり)の木で作り、中を空洞にくりぬいた孔を彫る。これを射ると、高く響く。ようは、魔除けのまじないである。
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源頼光 あぁー、やれやれ、ようやっと7日目かぁ・・・今夜で、物忌も終わりやなぁ・・・やれやれ・・・。

頼光の家人 (ドタドタ・・・)タイショウ、タイショウ、えらいこってすわ、どないしましょ?!

源頼光 またまた、えらいソウゾウしいやんけ。まだ物忌終わってへんねんぞ! 静かにせんかいや!

頼光の家人 すんまへん・・・。

源頼光 で、なんやねん? いったい、何が起こったんや?

頼光の家人 いやな、河内(かわち:大阪府東部)の高安(たかやす)の里(大阪府・八尾市)からな、タイショウのお母さまが、おこしになりやしたんやがな。

源頼光 なにぃ、おかやん(母)がぁ?!

頼光の家人 そうでんがなぁ。門、叩いて、「ここ開けてぇなぁ」言うたはりまっせぇ、いったいどないしましょぉ?

源頼光 うーん、こらぁ困ったなぁ。今、物忌みの最中やねんけどなぁ。

頼光の家人 ・・・。

源頼光 うーん・・・年とったおかやん(母)が、はるばる高安から京都まで、たん(訪)ねてきてくれたとあっては、会わんわけには、いかんわなぁ・・・しゃぁない、おい、門ちょっとだけ開けて、通したってくれや。

頼光の家人 よっしゃ!

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久々に再会した母と子の、終夜の酒宴が始まった。

頼光は酔いに乗って、例の一件を語り始めた。

源頼光 ・・・てな、わけでしてな、なんと、その妖怪の腕をな、綱が、持って帰ってきよりましたんやぁ。

母は、手に持った盃を前に置いていわく、

頼光の母 いやぁ、まぁ、なんちゅう、恐ろしい話なんやろ。

源頼光 はい、ほんまにもう。

頼光の母 妖怪いうたらな、高安の方でも、妖怪がアバレまくっとんねんでぇ。子供に先立たれた親とか、夫が食われてしもうた未亡人とか、最近よぉけ出てんねん。

源頼光 そうですかぁ、高安の方でもなぁ。

頼光の母 それにしてもやな、その妖怪っちゅうのん、いったい、どないな姿カタチ、してるんやろかいなぁ?

源頼光 ・・・。

頼光の母 な、あんた! ワタシに、その妖怪の腕とやら、いっちょ、見してくれへんか!

源頼光 エェッ!

頼光の母 な、な、頼むから、その腕、見せてぇなぁ。

源頼光 そんなぁ、見て楽しいもんやおまへんで。ごっついコワイもんやねんから。

頼光の母 えぇから、えぇから、ちょっと見せとくれ。なぁ、頼むから・・・えぇやろぉ?

源頼光 ・・・。

頼光の母 なぁ、頼むから、なぁぁなぁぁー!

源頼光 ・・・うーん・・・しゃぁないなぁ・・・よっしゃ、見せたげましょ・・・見せるのは、簡単な事やけど、その後が心配やなぁ・・・見て、腰ぬかさんといてやぁ。

頼光の母 大丈夫やてぇ。あんたを生んだこのワタシやで、ナニ見ても、驚きますかいなぁ。

頼光は、櫃の中から例の腕を取り出して、母の前に置いた。

頼光の母 ・・・。

源頼光 ・・・。

頼光の母 ・・・(その腕を自らの手に取り、凝視)。

源頼光 ちょっとちょっと、つかむか、そんなもんを・・・。

頼光の母 !(バサッ:突然、自らの右の袖をまくる)。

源頼光 アッ!

彼女の右腕を見た頼光はびっくり。肘から下が無い!

頼光の母 これは、オレの右腕やぁ!

頼光の母はたちまち、身長2丈ほどの牛鬼(うしおに)に変身した。そして、その場で酒の杓(しゃく)をしていた渡部綱を、左手にひっつかんだ。

牛鬼 よぉも、オレの腕、切り落としてくれたなぁ! エェーイ!

牛鬼は、綱をひっつかんだまま、頼光めがけて走り寄った。

頼光はとっさに、例の太刀を抜き、

源頼光 テェェーイ!

太刀 シュヴァーッ!

切り落とされた牛鬼の首は、なおも空中に飛び上がり、太刀に食らいついていった。

牛鬼の首 うぉぉぉぉ!(グァシ!)

太刀 ヴァキッ!

牛鬼の首は、太刀の切っ先5寸ほどを食い切った。そして、それを口に含んだまま、その後1時間ほど、ピョンピョン跳ねながら、吠え怒り続けていたが、ついに地上に落ちて静かになった。

一方、牛鬼の首から下の身体部分は、破風から飛び出て、はるか天上に上っていってしまった。

現在に至るまで、渡部党(わたなべとう)武士団の家屋に破風を設けないのは、このような事件があったからである。

後日、頼光は、延暦寺(えんりゃくじ)横川(よかわ)エリア(滋賀県・大津市)より、修験清浄(しゅげんしょうじょう)の評判高い覚蓮僧都(がくれんそうず)を招き、壇上にこの太刀を立ててしめ縄を引き、7日間の加持祈祷を修してもらった。

すると、天井からするすると、黒色の龍が下りてきた。

切っ先5寸が折れてしまったこの太刀を、その龍が口に含むやいなや、太刀は復元して元通りの形となった。

その後、この太刀は、源満仲(みつなか)のものとなり、信濃国(しなのこく:長野県)の戸隠山(とがくしやま:長野県・長野市)で、再び鬼を切った。故に、「鬼切」と呼ばれるようになった。

この太刀の起源はといえば、伯耆国(ほうきこく:鳥取県西部)会見郡(えみのこおり:鳥取県)の大原五郎太夫安綱(おおはらごろうだゆうやつつな)という刀匠が、一心清浄(いっしんしょうじょう)の誠(まこと)を込めて、鍛(きた)えあげたものである。

時の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に、これを奉った。鈴鹿山(すずかやま)における、鈴鹿御前(すずかのごぜん) versus 坂上田村麻呂 の剣合わせの際に、田村麻呂が使用したのが、この太刀である。

その後、田村麻呂が伊勢神宮に参拝の折、神宮の神より、「その太刀が欲しい」との夢のお告げがあり、御殿に奉納した。

源頼光が伊勢神宮に参拝した時、夢の中に、「なんじに、この太刀を与うる。これをもって、子孫代々の世継ぎに伝え、天下の守りたるべし」との、お告げがあった。その結果、この太刀、すなわち「鬼切」は、頼光のものとなったのである。故に、源家に代々伝えられていくのも、当然の理といえよう。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 32-6 足利直冬、吉野朝廷と連合す(付 獅子王とその子の物語、虞舜の物語)

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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翌年の春、新田家の二人の中心人物、新田義興(にったよしおき)と脇屋義治(わきやよしはる)が、共に相模(さがみ:神奈川県)の河村(かわむら)一族の城を出て、行方不明になってしまった。

関東もこれで一安心、という事になり、京都朝年号・文和(ぶんわ)2年(1353)9月、将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)は京都へ帰還、首都における幕府側の兵力は再び増大を見た。

足利尊氏 そうだな・・・今すぐ山名攻め・・・遠征軍の大将・・・そう・・・ここはやはり・・・宰相殿(さいしょうどの:注1)に行ってもらうとしよう。

足利義詮 分かりました!

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(訳者注1)足利義詮は当時、宰相(参議の別名)・中将であった。
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足利義詮は、播磨(はりま:兵庫県西南部)へ下った。(注2)

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(訳者注2)当時の史料によれば、義詮が播磨へ下ったのは文和3年10月18日とのことであり、尊氏の京都帰還から1年も後の事である。なのに、太平記原文ではこの箇所の記述は、「将軍尊氏卿上洛し給へば京都又大勢に成にけり。さらばやがて山名を攻めらるべしとて、宰相中将義詮朝臣をまず播磨国へ下さる」とある。文中の「やがて」は、「すぐさま、直ちに」の意である。(「やがて」の意味は、当時と現代では大きく異なる)。故に、太平記のこの部分の時間経過に関する形容は、史実とは大きくかけ離れている。
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この情報をキャッチした山名家総帥(そうすい)・山名時氏(やまなときうじ)は、

山名時氏 (内心)こりゃぁ、おれたち、山名勢だけじゃぁ、とてもかなわんなぁ。誰かしかるべき大将を一人、カンムリ(冠)にかついで戦せんことにゃぁ、こっちサイドの味方に着く者、誰もおらんだろうよ。

山名時氏 (内心)うーん・・・誰かいいヤツ、いないかなぁ・・・。

山名時氏 (内心)・・・そうだ! うってつけのがいるじゃぁないか。足利直冬(あしかがただふゆ)、直冬がいいわな!

山名時氏 (内心)聞く所によれば、ヤツは九州の連中らに背かれて、安芸(あき:広島県西部)や周防(すおう:山口県南部)あたりを転々としているとか・・・いいぞぉ、この話、ヤツは絶対に食らいついてくるわなぁ。

山名時氏 おぉい!(パンパン!・・・手を鳴らす)誰か!

山名時氏側近A ハハッ、お呼びで?

山名時氏 あぁ、呼んだ、呼んだ。

山名時氏側近A して、ご用は?

山名時氏 すぐに、足利直冬に使者を送るんだ。

山名時氏側近A わかりました。ではさっそく、祐筆(ゆうひつ:注3)を呼びまして・・・。

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(訳者注3)「祐筆」とは高位の人の手紙を代書する人。なお、この時氏と側近とのやりとりの部分は太平記原文中には存在せず、訳者が想像して付け加えた。
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時氏の予想通り、直冬はこの誘いに乗った。

足利直冬 (内心)今回のこの件、渡りに舟で、乗ってはみたが・・・でも、よくよく考えてみると、大義名分の面で弱い面があるんだよなぁ・・・自分対将軍の戦ってことになると、「父に弓引く不孝息子」の、大いに咎(とが)ありの構図になってしまうよな。その上に、京都朝廷の天皇にもタテツク事にもなるから、「臣でありながら、主君をないがしろにする、足利直冬とその一味」ってな事に、なってしまいかねない。

足利直冬 (内心)・・・そうだ、あっちが天皇かついでんだったら、こっちも天皇かつぎゃぁいいんだ。吉野朝廷(よしのちょうてい)に接近して、私に対する勅免を取り付け、「朝敵討伐せよ」の宣旨(せんじ:注4)のままに、またまた京都を攻略し、将軍を攻めるんだ。そうなったら、天の怒りも人のそしりも、買うオソレ、なしだ。

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(訳者注4)天皇の命令を記述した公文書。この後に出てくる「綸旨」も、これと同様の意味の言葉である。
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足利直冬 (内心)よぉし、このセンで行ってみよう!

直冬は密かに、吉野朝廷へ使者を送り、「尊氏卿、義詮朝臣(あそん)以下の逆徒を退治せよとの綸旨(りんじ)を下したまえ、さすればただちに、陛下のお心を安んじたたまつりましょう。」とのメッセージを伝えた。

直冬よりのこの提案を、洞院実世(とういんさねよ)が何度も後村上天皇(ごむらかみてんのう)に伝えた結果、「ではとにかく、直冬の言う通りにしてみよう」という事になり、「足利尊氏、足利義詮を、速やかに討伐せよ」との綸旨が、直冬に対して下された。

遊和軒朴翁(ゆうわけんはくおう)は、吉野朝廷のこの政策を批判して、いわく、

遊和軒朴翁 天下の治まる、乱れる、勃興(ぼっこう)する、滅亡する、こういった事はみな、天の理(ことわり)に従うて決まっていくんやわなぁ。

登場人物B はぁ、そないなもんですかぁ。

遊和軒朴翁 そうやねん、天の理に従う事は成就し、それに背くような試みは全て失敗する。故に、足利直冬を大将として京都を攻めようっちゅう、吉野朝廷のこの作戦、一見、良き謀(はかりごと)のように見えはするけど、成功を収めることは不可能やろうて。

登場人物C そらいったい、なんでですかいね?

遊和軒朴翁 なんでかというとやな・・・そうやな、その根拠を分かりやすく示すために、ここにひとつ、古代インドの逸話を持ち出してみるとしょうかいなぁ。

遊和軒朴翁 昔々の大昔、インドに、師子国(ししこく)っちゅう国があった・・・。

(以下、遊和軒朴翁の話)
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ある時、師子国の王が、他国から后を迎える事になった。

花嫁に選ばれた王女の父は、軽快な車や美しい車数100台の編隊を組み、護衛兵10万人を付けて、嫁入りの旅に娘を送り出した。その行列は、前後4、50里にもわたる実に壮大なものであった。

日没の後、一行は、ある深山の中を通過していた。

その時、勇猛奮迅(ゆうもうふんじん)なるライオン2、300匹からなる群がいきなり出現し、彼らに襲いかかった。

ライオンに追いかけられて、人間は続々と食われていく。車軸も折れんばかりに車を走らせてみても、彼らから逃れる事はできない。護衛兵たちは、持てる限りの矢を射放ってライオン群の襲撃を防がんとしたが、その抵抗も空しく、大臣、公卿、武士、従僕ら上下300万人、一人残らず食い殺されてしまい、今や生き残っているのは、王女一人のみとなってしまった。

王女 ・・・。(ワナワナ・・・ショックのあまり、恐怖に震え、言葉無し)

ライオン群の中から、ひときわ体格優れた一匹が歩み出てきた。そのライオンは、静かに王女の方へ接近してくる。

王女 (内心)あぁ、食い殺される・・・。(ワナワナ・・・)

王女の眼前に、ライオンのどう猛な頭部が迫ってきた。獣の熱い吐息が、彼女の頬に吹きかかってくる。

ライオンはガァッと大きく口を開いた。列をなす鋭いキバを目の当たりにして、恐怖のあまり、王女は意識を失った。

しかし、ライオンは王女を殺しはせずに、深山幽谷中のとある洞窟中に、彼女をくわえて運んでいった。

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王女 ・・・(意識を取り戻す)ハッ! ここはいったいどこじゃ?!

獅子王(ししおう) お目覚めかな。

王女 アァ! そなたはいったい何者じゃ?! あのライオンは、いずこへ?!

獅子王 わしの名は獅子王、以後、お見知りおきを。そなたをこの洞窟へ運びしかのライオンこそは、わしのまたの姿にてござる。

王女 ・・・(獅子王をしげしげと見守る)。

王女 (内心)まぁ、なんという美しい男・・・。

というわけで、他国に嫁入りするはずの王女の運命は、思いもよらぬ急変転、獅子国の王ならぬ獅子王の妻となり、山の岩陰に年月を送る事となった。

王女 (内心)あぁ、かような荒々しき獣の中に交わりての生活、人身(じんしん)を受けて生まれながら、かくのごとく、獣類の身となりはてぬるとは・・・あぁ、なんたる憂い。かような事では、わらわ、とても命長らえられようとは思えぬぞえ。一日一時間とて、生きていけようとは思えぬ・・・あぁ、今にも消ゆる露の、わが身の憂(う)さよ・・・あぁ・・・。(涙、涙)

最初のうちはこのように、絶望の淵に沈む毎日であった。

しかしながら、獅子王の超能力によって、苔深き岩窟変じて玉楼金殿(ぎょくろうきんでん)となり、虎、狼、狐らはみな卿相雲客(けいしょううんきゃく)に化け、獅子王も化して万乗の君(ばんじょうのきみ)となる。きらびやかな玉座に座し、薫香(くんこう)を散ぜし龍の模様の天子の衣服を身にまとう、水もしたたるいい男・・・彼女の憂いは、徐々に薄れていった。

時の移ろいというものは、まことに不可思議な作用を、人間の心に及ぼすものである・・・ここにいるのは、もはや一匹の獣と一人の人間ではない・・・互いに相手をこの上なくいとぉしい存在として認め合う、一対の魂・・・。

王女 (内心)わらわとしたことが、いったいなんという変わりようであろう・・・かつてはあれほど、わが身の運命を嘆いたものであったに・・・今や、心の花のうつろう色を悲しみ、夫婦仲むつまじの枕の下に、わらわが嘆く事はといえば、夜のしじまが二人を隔てて、あのりりしく美しい、獅子王様のお顔を見る事ができぬという、ただその事だけ・・・あぁ・・・。

それから3年が経過して、彼女は妊娠、そして男子が生れた。

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両親のいつくしみの懐の中に、その男子(以降、「獅子太子」と呼ぶ)はすくすくと成長。15歳の誕生日を迎える頃には、そのみめ形の世に勝れたるのみならず、筋力は人を超え、かの泰山(たいざん)の上を、あるいは渤海湾(ぼっかいわん)上を飛び越える事さえも可能かと、思われるほどにまでなった。

そんなある日のこと、獅子太子(ししたいし)は、母・獅子王后(ししおうき)に対していわく、

獅子太子 母上・・・今日の今日まで、この思い、じっとわが胸中に秘めてまいりましたが・・・思い切って申し上げましょう。

獅子王后 う? なんじゃ? いったいなに?

獅子太子 母上、母上は、今のこの生活に、ご満足ですか?

獅子王后 えっ?・・・。

獅子太子 母上は、父上、すなわち獅子王の妻としてのこの生活に、真実、心の底から、満足しておられるのでしょうか?

獅子王后 ・・・。

獅子太子 人間の生を受けながら、母上は獣類の妻とならせたもうた・・・そして私は、その子として、この世に生を受けた・・・。

獅子王后 !(息を呑む)・・・。

獅子太子 あぁ、なんという呪(のろ)わしき我らが運命・・・すべては、過去世(かこせい)の宿業(しゅくごう)のなせるわざと、言うてしまえばそれまでだが・・・なんという憂わしい、我らが運命・・・残酷じゃ、あまりにも残酷じゃ・・・。

獅子王后 太子よ・・・そなた・・・。

獅子太子 母上! かような人生、私には、もはや耐えられませぬ!

獅子王后 ・・・。

獅子太子 スキを見て、この山から逃げ出しましょう! 私、母上を背負うて、師子国までひた走りに走りまする。かの地の王宮に逃げ入りさえすれば、もう大丈夫。母上を后妃の位に上せ奉り、私も獅子国の王の下に、臣下としてお仕えしましょうぞ。かようにすれば、母上も私も共に、この残酷な運命から逃れる事が、かないましょう。この、いまわしき獣類としての生から、離脱する事がかなうのですぞ!

獅子王后 ・・・。

獅子太子 母上! 私といっしょに、ここから逃げ出して下さいませ、母上! 母上!

獅子王后 ・・・太子よ・・・よぉ言うてくだされた・・・わらわは嬉しいぞえ。(涙)

獅子太子 ・・・。

獅子王后 そなたの言う通りに、いたしましょう。

獅子太子 はい!

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数日の後、脱出のチャンスがめぐってきた。獅子王が、洞窟を出て他の山へ出かけたのである。

獅子太子 母上、行きますぞ!

獅子王后 あい・・・。

獅子太子 私にしっかり、つかまっていてくださいませよ!

獅子王后 あい・・・。

母を背中に背負うやいなや、獅子太子は、猛スピードで走り出した。あっという間に、岩窟のある山を下り、数百キロもの道程を一走り、首尾よく、師子国の王宮に逃げ入る事ができた。

獅子太子 母上、やりましたぞ! もう安心です。

獅子王后 あい・・・。

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事の次第を聞いた、獅子国の王は、大喜びである。

獅子国の王 そうか、そうか・・・それにしてもまったく、不思議な事もあるものじゃなぁ・・・。18年前に、わが方に輿入れの途中、行くえ不明になられた、あの王女殿下がご存命であったとはのぉ・・・。「事実は小説よりも奇なり」とは、よくぞ言うたものじゃわい。

獅子王后 ・・・。

獅子太子 ・・・。

獅子国の王 (獅子王后を凝視しながら)(内心)いやぁ、ジツに美しい・・・はぁぁ・・・もうわしは、心もとろけんばかりじゃわ・・・はぁぁ・・・。(クラクラクラ・・・)

一目見ただけで、王は獅子王后に心奪われてしまった。後宮3000人の美女といえども、もはやその眼中には無い。彼女たちが衣装に芳香をいくらたきしめてみても、王からは何の反応も無い。必死の工夫をこらしてメイクしてみても、

獅子国の王 (内心)変わりばえせんのぉ。

新しき女人来たりて、旧き女人たちは捨てられた。一方は掌中の花のごとく愛せられ、他方は目の中のトゲのような扱いを受けている。

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それから数日後、獅子王が山に帰ってきた。

獅子王 后やぁ、帰ったぞぉー。さぞや、待ち遠しかったことであろうなぁ。珍しき土産、山のように持ち帰ったでなぁー・・・后やぁー・・・后・・・うん?

獅子王 ・・・おらぬ! 后がおらぬではないか! いったいどこに?

獅子王 ウウウ・・・太子もおらぬ・・・。わしの留守中に、いったい何が起ったのか!

彼は驚き慌てて、元のライオンの姿に戻った。山を崩し、木を掘り倒して、必死になって山中くまなく、二人の行方を探した。しかし、二人はどこにもいない。

獅子王 人間の住む里に、いるのかも。

彼は山を下り、師子国の領土へ走り入った。

獅子王 ウォー、ウォー、ガゥォー、ガゥォー・・・!

いかに頑丈なる鉄の城といえども、奮迅の力をもって吠え怒るこのライオンの猛威の前には、たちどころに破れていく。野人村老(やじんそんろう)恐れ倒れ、死する者は幾千万人、その数を知らず。

村人D 大変だ! 獅子王がこっちに向かってるぞ!

村人E エーッ! 獅子王が!

村長 みな、早く逃げるのじゃ! 家も財宝も何もかも捨てて、早く逃げるのじゃ! 命あってのモノダネじゃぞ! さぁ、早く、早く!

村人一同 たいへんだ、たいへんだ、たいへんだ、獅子王がやってくる、獅子王がやってくる、獅子王がやってくるぅー・・・!

このようなわけで、師子国領土10万里の中に、人民は一人も居なくなってしまった。

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しかしながら、さすがの獅子王も、王の位という権威を恐れたのであろうか、王宮の中にまでは侵入してはこない。夜な夜な、至近距離までやってきては、地を揺るがして吠え怒り、天に飛揚して鳴き叫ぶ。

大臣、公卿、クリャトリヤ、居士(こじ)らは、獅子王を恐れて全員、宮中に逃げこもった。

大臣F これは、なんとかせねばのぉ・・・。

大臣G して、その方策は?

大臣H ウーン・・・。

大臣一同 ウーン・・・。

大臣一同 ・・・。

大臣I そうじゃ・・・このテが、ありまするな。

大臣G うん? いかような?

大臣I 懸賞をかけるのです、あのライオンにな。

大臣一同 懸賞か・・・なるほど。

というわけで、王国の道々に、高札が立てられた。

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布告:かのライオンを退治せる者には、その褒賞として、大国を一州与えるものなり
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この高札を目にした獅子太子は、

獅子太子 (内心)ほほぉ・・・大国を一州とな。

獅子太子 (内心)さらば、我が手にて、我が父・獅子王を殺し、恩賞に一国を賜ろう。

獅子太子 (内心)よし・・・さっそく、準備にかかるとしよう。

彼は、並の人間100人がかりで引いても引けないような、超強力の鋼鉄製の弓と、鋼鉄の矢をあつらえた。そして、鏃(やじり)に毒を塗って、父・獅子王を待ち構えた。

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獅子王はついに、最後の一線を踏み越えて、王宮へ飛び入ってきた。

獅子王 えぇい、国王、大臣、みな食い殺してしまえぃ!

王宮の門を通過した彼の眼前に、一人の人間が立ちはだかった。

獅子王 おお、わが子よ・・・やはり、ここにおったか!

獅子太子 父上、お待ち申し上げておりました。いざ、この矢を受けられませ!

弓に毒矢をつがえて自分の前に立つわが息子の姿を見て、獅子王は、ハラハラと涙を流し、地面の上に伏してしまった。

獅子王 太子よ・・・そなた・・・。

獅子太子 ・・・。

獅子王 太子よ・・・わしはのぉ・・・年久しく、むつみおうたわが后と、かけがえ無きわが愛児なるそなたが、突然いなくなってしもぉたのでな・・・あまりの恋しさに、あまりの悲しさに耐えかねて、我を忘れてしもぉてのぉ・・・たくさんの人間を殺し、多くの国土を滅ぼしたわい。

獅子太子 ・・・。

獅子王 しかるに、つぶさに情報を集めてみれば、なんと、わが后は、この王宮の中におるというではないか。さすれば、今生にて再び、后にあいまみえる事は、もはや不可能。

獅子太子 ・・・。

獅子王 ならばせめて、そなたの姿でも一目見れたらと、そぉ思うてのぉ・・・そなたの姿さえ一目見れたならば、たとえ我が命を失う事になったとしても、もはや悔いは無し、と思ぉてのぉ、意を決し、ついにここまでやって来たのじゃ。

獅子太子 ・・・。

獅子王 道中に立っておる高札(こうさつ)を見たぞ。わが命をもってして一国の恩賞を報じようとな。しかし、わしを一矢にて射殺せる者など、この広い世界の中に、そなたしかおらぬわ。

獅子太子 ・・・。

獅子王 生類(しょうるい)すべからく、わが命を惜しむは、わがいとし子の為を思ぉての事。そなたが一国の主となり、その栄華がわが子々孫々に及ぶとならば、この期(ご)に及んでわが命、なんで惜しむはずがあろうか。太子よ、すみやかに、その弓を引き、矢を放って、わしを射殺せ。そして、恩賞に預かるがよい。

獅子王は、黄色の涙を流しながら、

獅子王 ここが、わしの急所じゃ、ここを射るがよい。

獅子王は、大きく口を開きながらその場に臥した。

ライオンは獣類なれども子を思う心は深く、その子の方は人間の身でありながらも、親を思う道を微塵(みじん)もわきまえていない。

獅子太子 ・・・・(いっぱいに弓を引き絞る)

弓 ギリギリギリギリ・・・ビュッ!

矢 ヒャ! ビュシ!

獅子王 エゥ・・・。

獅子太子の放った矢に獅子王は喉を射抜かれ、大地に伏して、たちまち死んでしまった。

獅子太子は獅子王の首を取り、獅子国の王に捧げた。それを見て、王も人民も安堵の胸をなでおろし、禍が除かれた事を喜ぶ事、限り無し。

既に宣旨(せんじ)を下して、獅子王退治の恩賞を決定しているからには、議論の余地は一切無し、太子に一国を与えようという事に、いったんはなったのであったが、

大臣F おのおのがた、このような事で、よろしいのか? 今回のこの処置を決するにあたり、どうもわしは、抵抗感が払拭(ふっしょく)できぬわいて。

大臣G 貴殿のお気持ち、わしにはよぉわかる。じゃがのぉ、陛下が、おん自らのみ口からいったん発せられた宣旨とあっては、あくまでも、その通りに実行されねば、なるまいて。

大臣H そうは言うがのぉ、まぁ考えてもみなされ! かのライオンは、たしかに獣類じゃ。しかし、あれを射た者は、かのライオンの息子ですぞ。まさに文字通り、父に向かって弓引いたわけではないか!

大臣I ・・・。

大臣H 人倫(じんりん)の身として、かような行為は、決して許されるものではありませぬ! 父殺しの罪は重い!

大臣G そうは言うてものぉ・・・あの恩賞は、国法にもとづいて定めた後に、陛下の詔(みことのり)として、天下に広く公布したものであろうが。今更くつがえす事は、不可能じゃぁ!

大臣I では、かようにしてはいかが? 約束通り、あの男には一国を与えましょう。しかる後、その恩賞の対象となった当該国の国税と政府の所有物100か年分を、当該国中の、配偶者を失った男女、および、身寄りの無い者に施すべし、という事にしては?

大臣J うーん、なるほど、名を与えて実を奪う、というわけですな!

大臣F うーん、まさに妙案じゃぁ!

大臣一同 では、そういう事に・・・。
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(遊和軒朴翁の語った古代インドの話、以上で終わり)

遊和軒朴翁 この事例をもってして思うにやな、父に対して子が弓引くなんちゅう、けしからん事をやったら、たとえ一時の利を得たとしても、ついには、諸天のおとがめを受けるっちゅうこっちゃ。

登場人物A はぁー、なるほどねぇ。

遊和軒朴翁 古代中国には、これと正反対の話があるんや。

登場人物A へぇ、そらまたいった、どないな話でっしゃろか?

遊和軒朴翁 聞きたいかぁ?

登場人物B ぜひとも、お願いします。

遊和軒朴翁 あのなぁ、古代中国の大昔、堯(ぎょう)っちゅう、ものすごい聖徳ある帝王がいたんやわ・・・。

(以下、遊和軒朴翁の話)
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堯帝 わしものぉ、帝王の位についてから、はや70年、既に年老いてしもぉたわい。そろそろ誰かに、天下を譲らねばのぉ。みなのもの、いったい誰に、譲るべきであろうか?

大臣たちは皆、へつらって、

大臣K 陛下、なにをおっしゃいますか、陛下には立派な後継者、すなわち、皇太子様が、おられるではありませぬか。

大臣L さようですとも、太子・丹朱(たんしゅ)殿下に、天下をお譲りなされませ。

大臣一同 それがよろしいかと、存じまする。

堯帝 ・・・天下というものはのぉ、誰によっても、私(わたくし)されてはならぬのじゃ・・・天下は、わし一人の天下ではないでのぉ。わしの息子だからという、ただそれだけの理由でもって、天下を授けるべき器では無い者に位を譲ってしもぉては、もうそれは大変な事になってしまう。国中の民を、苦しめる事になってしまうでのぉ。

というわけで、堯帝は丹朱に位を譲らなかった。

堯帝 あぁ、それにしても、どこかに、天下を譲るべき賢人はおらぬものか・・・。

堯帝は、後継者を求めて、国中広く、隠遁している者にまでも、その探索の網を拡大していった。

ある日、一人のリサーチャー(探索者)から、希望を持たせるような情報がもたらされた。

リサーチャー 陛下、わたくしめの調査によりますれば、箕山(きさん)という所に、許由(きょゆう)という名の、一人の賢人がおりまする。世を捨てて姿を隠し、苔深く松痩せたる岩の上にホッタテ小屋を建て、水のしたたるような風の音を聞きつつ、心の迷いの人生から、遠く身を遠ざけながら、生きておりまする。ひとつ、この人物に当たってみられては、いかがかと。

堯帝 よし。さっそく勅使を遣わせい。

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数日後、勅使が許由のもとにやってきた。

勅使 許由どの、堯帝陛下はの、そなたの事を知られ、ぜひとも、帝位の後継者にそなたを、とのご所望(しょもう)じゃ。いかがかのぉ?

許由 おそれながら、お断り申し上げまする。

勅使 !!!・・・帝の後継者となられるのであるぞ。中国全土を統(す)べる身と、なられるのじゃぞ。

許由 お断り申し上げまする。

勅使 なにゆえ? いったいなにゆえじゃ?

許由 ・・・。(いきなり座を立ち、谷川の方へ歩む)

勅使 これ、どこへ行かれる?!

許由 (内心)まったくもう! 松風渓水(しょうふうけいすい)の清い音を毎日聞き続けて、この耳もだいぶ、爽(さわ)やかになってきていたというのに! えぇい、いまいましい、富貴栄華の賤しい話を聞いてしまって、イッキに耳が汚れてしもぉたではないか。かくなる上は、一刻も早く洗浄して、この汚れ、洗い落さねばならぬわい。

彼は、潁川(えいせん)の流れに耳をつけて、それを洗った。

ちょうどその時、同じ山中に身を捨てて隠居していた巣父(そうふ)という賢人が、牛に水を飲ませるために、そこにやってきた。

巣父 やや? 許由よ、かような所で、いったい何をしておる? いったいなんで、耳を川につけておる?

許由 いやな、たった今、堯帝からの使いと称する者がきよってのぉ、そいつの話によれば、なんでも、帝がこのわしに天下を譲ろうと欲しておられるとか・・・その話を聞いて、いっぺんに耳が汚れてしもぉたような心地がしてのぉ、それで、耳をせっせと洗ぉておったのじゃ。

巣父 (ポリポリ・・・首をかきかき)そうかぁ・・・そうであったのか、ドウリでのぉ・・・いやな、どうもこの川の水、今日はいつもより濁っておるなぁ、いったいなにゆえかと、さっきから考えておったのよ・・・ドウリでのぉ、そういうわけであったか。かように汚れた耳を洗った流れの水、牛に飲ませるわけにもいかんのぉ・・・フォッフォッフォッフォッ・・・。

巣父は、牛を引いて帰っていった。

--------

堯帝 ウーン・・・だめであったか。

堯帝はなおも、帝位の後継者を探した。探索は、彼の統治エリアの隅々にまで及んだ。

探索者 陛下、すばらしき人物を、発見いたしましたぞ!

堯帝 ムム!

探索者 冀州(きしゅう)に住む、虞舜(ぐしゅん)なる人物にてござりまする。身分は賤しく、その父・瞽叟(こそう)は、目が不自由、その母は、頑固者にして道理に暗い。また、彼の弟・象(しょう)は、傲慢な男にてござりまして、他人の言う事を、絶対に聞きいれようとはいたしませぬ。かような家族の中にあって、虞舜は孝行の心深く、父母を養う為に毎日、暦山(れきざん)に赴いては、せっせせっせと、畑を耕しておりまする。

堯帝 ウーン。

探索者 まぁ、それにしましても、虞舜の人望は、抜群でござりまするぞ。暦山においては、人々は進んで、彼に土地を譲りまする。また、雷沢(らいたく)に下りて漁をする時は、その付近の人々は進んで、彼に宿を貸しまする。河浜において器を作らば、彼の手になった物においては、ゆがみ、ひずみなど一切ござりませぬ。

堯帝 ウーン。

探索者 虞舜の行きて居を据える所はみな、2年のうちに村となり、3年たてば都市となりまする。万人が、彼の徳を慕うて、そこに集まり来るからでござりまする。

堯帝 して、その年齢は?

探索者 弱冠20(はたち)にして既に、その孝行ぶりは、天下に聞こえておりまする。

堯帝 ウムム!

堯帝 (内心)後継者候補としては、極めて有望じゃ・・・よし、まずは観察。家庭の外での姿、家庭の内での姿、その双方を、しかと見極めてみよう。

そこで、堯帝は、長女・娥皇(がこう)と次女・女英(じょえい)を、虞舜に娶(めあ)わせた。さらに、9人の皇子を虞舜の臣下に任命し、彼の身辺に仕えさせた。

堯帝の二人の娘は、己の身分の高きをもって夫・虞舜に奢る事など決して無く、彼の母に対しても、嫁としてこまめに接していった。また、9人の皇子たちも同様に、虞舜に対して、臣下としての礼敬怠らず、仕えていった。

堯帝はますます喜び、虞舜に、穀物倉、牛、羊、葛織りの袋、琴一張を与えた。

かくして、虞舜の声望は頂点に達しつつも、なおも、父母への孝行において怠り無かった。

それにもかかわらず、継母はどうしても、自分が生んだ象を世に出したくてたまらない。いきおい、光輝く虞舜を見るのが、だんだん不愉快になってきた。

彼女は、瞽叟、象と共に謀り、虞舜を亡き者にしてしまう為の算段を練り始めた。

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虞舜(ぐしゅん)は、父母や弟の悪巧みを察しつつも、父を恨む事も無く、母や弟に対して怒りの念を起す事も無く、孝悌(こうてい)の心ますますつつましく、天を仰いで嘆いた。

虞舜 自分が生きている、というその事じたいが、わが父母の意にそぐわぬとは・・・あぁ、なんという不幸な人生なのであろうか・・・。

そんなある日、

瞽叟 これこれ、今から倉の上に登ってな、屋根を葺き直してくれぬかの。

虞舜 はい。

虞舜が屋根に上がるや否や、

母 それっ!

彼女は、倉の下から火を放ち、虞舜を焼殺しようとした。

もとよりこれを推察していた虞舜は、下方から自らに迫りくる炎を見るやいなや、手にもった二本の唐傘を広げた。

傘1 バサッ!

傘2 バサッ!

虞舜 えやっ!(ヒューーーー)

虞舜は、二本の唐傘を両手でしっかと握りしめ、それをパラシュートがわりに使って、地上に飛び降りた。

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瞽叟 ウーン、残念、しくじったか!

母 ムムム・・・。

象 別の手を考えよう。

瞽叟 ウーン・・・よぉし、今度はこの手で行くとするか。おい、聞け!

母 ・・・。(瞽叟の側に耳を寄せる)

象 ・・・。(瞽叟の側に耳を寄せる)

瞽叟 コソコソコソ・・・。(ささやく)

母 !(うなずく)

象 !(うなずく)

その翌日、

瞽叟 これこれ、あそこに井戸をイッチョウ、掘ってくれんかの。

虞舜 はい。

父に言われた通りに、虞舜は井戸を掘り始めた。それをじっと見つめる瞽叟と象・・・。

瞽叟 (内心)地中深く掘り進んだ頃合いを、見はからい、

象 (内心)上から大量の土をドバッと落として、生き埋めにしてやるでな・・・フフフ。

ところがところが・・・大地を守る女神が、孝行息子の虞舜を哀れんだのであろうか、思いもかけない事になった。

井戸の底から虞舜が地上に上げてくる土の上に、瞽叟の眼は釘付けになった。

瞽叟 なんじゃ、あれは?! あの光るものは?!

その土中には、金色に輝く粒が大量に混じっていた。その混合比は、ざっとみて50%ほどにまで達しているようである。

瞽叟 ・・・(粒を拾い上げ、凝視)砂金じゃ、砂金じゃ!

象 ウワワァ!

瞽叟も象も、これを見て欲心ムラムラ、

瞽叟 砂金じゃ、砂金じゃ!

象 ウワッ、ウワッ!

当初の計画そっちのけで、瞽叟と象は、土が上がってくるたびに、争って砂金集めに熱中。

そうこうしているうちに、井戸は相当深くまで掘り進んだ。

瞽叟 あ、しまった! あれを、完全に忘れておったわい。

象 土、土!

計画を思い出した二人は、虞舜が地上に上げてきた大量の土を、井戸の中へイッキに落とした。

土 ドヴァドヴァドヴァ・・・。

その上にさらにダメ押しで、巨石まで落して、虞舜を完全に生き埋めにしてしまった。

巨石 ドガァァァーン・・・。

瞽叟 やったぞぉ!

象 ウヒヒヒヒヒ・・・(パチパチパチ・・・)

瞽叟、母、象、3人とも大喜びである。さっそく、堯帝(ぎょうてい)から虞舜に下された財産分配の相談を始めた。

象 あのな、牛、羊、倉は、父上、母上がお取りなされい。

母 して、おまえは?

象 フフフ・・・わしは琴と、あのお美しい女性二人をいただくわいて。さてと、アノコらを慰めに、行ってくるとしようかのぉ・・・ムッフォッフォッフォッ・・・。

期待に胸をふくらませながら、意気揚々と、館に乗り込んでいった象は、ビックリ仰天!

象 ナンジャァ!

生き埋めにしたはずの虞舜が、そこにいるではないか! 虞舜は悠然と、二人の妻と共に、琴を合奏している。

あの時、虞舜は井戸を掘りながら、こっそりトンネルをも掘っていたのである。土が落とされた瞬間、彼はそのトンネル中に逃げ込み、そこを通って地上に脱出、自分の舘へ帰ったのであった。

象は、大いに驚いていわく、

象 ・・・わしは・・・わしは兄上を殺してしもぉた・・・そう思うと、もうどうしようもなくなっておったのですよ・・・。

自らの行為を恥じているような象を見て、虞舜は琴をさしおいた。

虞舜 (内心)あぁ、なんと嬉しい事だ! ようやく象が、弟らしい言葉を発してくれたぞ!

虞舜 おまえ・・・さぞや、悲しかった事であろうな。よしよし、もうよい、もうよい。(涙)(注5)
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(遊和軒朴翁の語った古代中国の話、以上で終わり)

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(訳者注5)この箇所、太平記原文には、「象大いにおどろいていわく、「我、舜をすでに殺しつと思いて鬱陶(うっとう)しつ」といいて、誠に忸怩(はじ)たる気色なれば、舜琴をさしおいて、その弟たる言ばを聞くがうれしさに、「汝(なんじ)さぞ悲しく思いつらん」とて、そぞろに涙をぞ流しける。」とあるのだが、「史記」では以下のようなストーリーとなる。

象は大いに驚いて不機嫌になっていわく、

象 私は兄上の事が心配で、気がふさいでいたのですよ・・・。

虞舜 そうであろう、おまえの事だ、きっとそうであったろうな。
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遊和軒朴翁 こないな事があった後も、虞舜はますます孝行の心篤(あつ)く、父母に仕える事を怠らず、弟を愛する心も深かった。その忠孝の徳は天下に顕(あら)われ、ついに堯帝は、虞舜に位を譲った。

遊和軒朴翁 虞舜が帝位を継いでから後、その世を治める事、天に叶(かな)い地に従(したご)うたので、気候は順調、国は富み、民は豊かになり、周囲の国々は彼の帝恩を仰ぎ、中国全土がその徳をたたえた。そやゆえに、かの孔子(こうし)様も、「忠臣を尋(たず)ねて、孝子の門に在(あ)り」と、言わはったんやわなぁ。

遊和軒朴翁 父に対して不孝な者が、君主にとっての良き忠臣に、いったいなれるもんやろうか? そないな事、とても考えられへんわなぁ。

遊和軒朴翁 これまで述べてきたインドと中国の古き時代の事例をもって、考えるならばや、

遊和軒朴翁 まず言える事は、親孝行の道から外れた中に、どないな忠功を建てたとしても、どうにもならんというこっちゃ。いずれは罰せられる事になる、インドの獅子太子(ししたいし)のようにな。

遊和軒朴翁 その反面、父に対して孝行あつくしていくならば、たとえ身分いやしくとも賞せられるっちゅうこっちゃ、虞舜のようにな。まさに、親孝行の徳やわなぁ。

遊和軒朴翁 しかるにや、足利直冬殿は、父を滅ぼさんがために、天皇陛下の命を利用しようとした。天皇陛下も、これを許容されて、彼に大将の号を授けられた。どちらの行為も、道に反しとる。山名時氏殿がこの人をとりたてて大将にかついでも、その目標達成は、不可能やろうて。

このように、遊和軒朴翁は、足利直冬と山名時氏の企てを、眉を顰(ひそ)めて批判した。

やがて、世間の人々は、彼の言葉が実に的確に的を射ていた事を、思い知ることになるのである。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 32-5 山名軍、京都から撤退

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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京都からの足利義詮(あしかがよしあきら)追い落としにみごと成功、山名師義(やまなもろよし)は、心中の憤りもイッキに晴れて上機嫌である。

山名師義 ウワハハハ・・・そうかそうか、敵は美濃(みの:岐阜県南部)にいるんかぁ、ウワハハハ・・・。よぉし、さらに兵を集めて美濃へ進軍だ。この際、テッテイテキにやっつけてやるわなぁ。さぁさぁ、兵を集めろ、軍勢催促(ぐんぜいさいそく)だぁ!

ところが、山名家の旗の下に降参してくる幕府側勢力は皆無、軍勢催促に応じて新たに参加してくる者も、ほとんどいない。

京都においては、吉野朝廷(よしのちょうてい)から派遣された四条隆俊(しじょうたかとし)が一切をしきってしまうので、何事も山名父子の思い通りに、というわけにはいかない。

首都の近隣には、山名家の領地は一切無いから、軍メンバーらの食料確保にも困難が生じてきた。

このような情勢に、今回の遠征に従軍して、はるか出雲(いずも:島根県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)からやってきた者たちも、京都での布陣を維持する事ができなくなってきた。

山名軍からは脱落者が続出、地元に逃げ帰る者が、後を絶たない。

山名師義 (内心)おいおい、いったいどうなってんだ! いつの間に、我が軍の兵力、こんなに少なくなってしまったんだぁ?!

山名師義 (内心)うーん・・・こんなんじゃ、まずいわなぁ。敵が反攻しかけてきたら、今度はおれたちが、京都から逃げ出さなきゃならんかもね。

表面は強気を装いつつも、内心はビクビクもの。このような中に、気がかりな情報が、どんどん入ってくる。

 「足利義詮、東山(とうさん)、東海、北陸の勢力を率いて、宇治(うじ:京都府・宇治市)、瀬田(せた:滋賀県・大津市)より、京都へ進撃開始!」

 「中国地方から、京都を目指して、赤松則祐(あかまつのりすけ)、進軍中!」

結局、「四方の敵が接近してくる前に、速やかに退却するべし」という事になり、吉野朝・山名連合軍勢力は、京都から撤退することになった。

ここ数日の間にあっという間に獲得できた大いなる戦功も空に帰し、天下の形勢をくつがえす事もできないままに、四条隆俊は、吉野朝軍を率いて南方に帰り、山名父子は、共に道中の敵を追い払いながら、本拠地の伯耆へ帰って行った。

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太平記 現代語訳 32-4 足利義詮、美濃へ逃亡

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都を脱出し、ひとまず坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ逃れた幕府軍ではあったが、問題は、この先どうするかである。

足利義詮(あしかがよしあきら) ここにいりゃぁ、もう安全だろぉ、佐々木秀綱(ささきひでつな)が守ってくれてるしなぁ。ここに腰を据えて、諸国から援軍を集めるのが、いいんじゃぁないのぉ。

幕府軍リーダーA いやいや、ここも、そんなに安全じゃぁありませんよ。

幕府軍リーダーB 問題は、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)ですわ。これから先、あそこがどう出てくるか。

幕府軍リーダーC とにかく油断ならないですねぇ、延暦寺は。南の朝廷の方から、任憲法印(にんけんほういん)を大将として招いてんですから。(注1)

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(訳者注1)この件については、30-7 の中にも同様の記述がある。
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幕府軍リーダーD 天皇陛下が、このまま、ここに滞在されるの、リスク、大きかありません?

足利義詮 うーん・・・。

というわけで、6月13日、足利義詮は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を守りながら、坂本を撤退して近江国(おうみこく:滋賀県)の東部へ向かった。

天皇に従う京都朝廷メンバーは、関白・二条良基(にじょうよしもと)をはじめ、三条実継(さんじょうさねつぐ)、西園寺実俊(さいおんじさねとし)、裏築地忠秀(うらつじただひで)、松殿忠嗣(まつどのただつぐ)、大炊御門家信(おおいのみかどいえのぶ)、四条隆持(しじょうたかもち)、菊亭公直(きくていきんなお)、花山院兼定(かざんのいんかねさだ)、坊城俊冬(ぼうじょうとしふゆ)、勧修寺経片(かじゅうじつねかた)、日野時光(ひのときみつ)、勘解由次官(かげゆじかん)・行知(ゆきとも)。さらには、梶井門跡(かじいもんぜき)法親王殿下に至るまで、本山・門跡寺院の僧侶、坊官一人残らず、輿に乗って天皇の後に続く。

彼らを守護する幕府軍メンバーは、足利義詮を大将に、細川清氏(ほそかわきようじ)、斯波尾張民部少輔(しばおわりのみんぶしょうゆうう)、その弟・斯波左京権太夫(さきょうごんのたいふ)、その弟・斯波左近将監(しばさこんしょうげん)、今川頼貞(いまがわよりさだ)、今川助時(すけとき)、今川左近蔵人(さこんくろうど)、土岐頼康(ときやすより)、熊谷直鎮(くまがいなおつね)、山内信詮(やまのうちのぶあきら)をはじめ、総勢3,000余騎、琵琶湖西岸の和仁(わに:大津市)、堅田(かたた:大津市)の浜道を、馬を早めて進み行く。

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新田(にった)一族の一員で今は亡き堀口貞満(ほりぐちさだみつ)の子息・堀口貞祐(さだすけ)は、この4、5年間、堅田に潜伏していた。

堀口貞祐 なに! 足利義詮が京都を逃げ出して、堅田へ向かってる?! こりゃぁ絶好のチャンスだ!

貞祐はその地域一帯の野伏(のぶし)たちをかたらって、500余人を集めた。そして、落ち行く人々の進路を塞ぐべく、堅田付近の真野浦(まののうら)を、待ち伏せ地点に選んだ。

堀口貞祐 オォ! 来た来たぁ!

行列の先頭には、天皇を守護しながら梶井門跡法親王が、門徒らを大勢従えてやってくる。

堀口貞祐 (内心)うーん・・・いくらなんでも、皇族方に弓引くわけには、いかねぇやなぁ。

貞祐は、攻撃指示を出さずに物陰に身を潜めながら、先頭集団の通過を見送った。

遙か後方に続いてやってきた佐々木秀綱の軍勢300余を認めた貞祐は、

堀口貞祐 おお、あそこに来るヤツは例の男、延暦寺のかたき(注2)、侍所(さむらいどころ)長官の佐々木秀綱じゃねぇかよ。よぉし、あいつを討ち取っちまえ!

野伏たち一同 ワーイワーイワーイ!(カンカンカンカン、ドンドンドンドン・・・)

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(訳者注2)佐々木秀綱と延暦寺との対立関係については、21-2 を参照。
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堀口貞祐が率いる500余人は、東西から佐々木軍を包囲した。

足軽の射手たちが山沿いに展開し、沢を隔てて矢の雨を降らす。この不意打ちの結果、佐々木軍側の佐々木三郎左衛門(ささきさぶろうざえもん)、箕浦次郎左衛門(みのうらじろうざえもん)、寺田八郎左衛門(てらだはちろうざえもん)、今村五郎(いまむらごろう)が、次々と戦死した。

佐々木秀綱は、頼りにしていた一族・若党たちが後方に踏みとどまって討死にしていくのを見て、あまりの無念さに、高谷四郎左衛門(たかやしろうざえもん)とたった2人だけでもって、馬の向きを返し、野伏集団の中へ懸け入った。

野伏集団側は全員徒歩であったが、しょせん多勢に無勢、あっという間に、秀綱たちは、馬の両膝を切られてしまい、落馬した所をすかさず討たれてしまった。

はるか前方まで落ちのびていた佐々木家の若党37人も、主君と死を共にせんと返しあわせ、そこかしこで討たれてしまった。

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足利義詮たちは、ほうほうのていで、その夜ようやく、琵琶湖北岸の塩津(しおづ:滋賀県・長浜市)にたどりついた。そこで輿を止め、天皇にお供する人々に、少しでも休息を取らせてあげようと思ったのだが、

塩津や海津(かいづ:滋賀県・高島市)の住民A おいおい、こらまた、えらい事になってしもたがな。

塩津や海津の住民B あんなんに、ここらへんウロウロされたら、かなんわぁ。

塩津や海津の住民C 一晩でも逗留されてみぃ、いったいナニが起こるか、わかったもんやないでぇ。

塩津や海津の住民D 早いとこ、追い出してしまうに限る。

塩津や海津の住民一同 そやそや、それがえぇ。

彼らは、こちらの道の辻、あちらの岡の上へと集合し、鐘を鳴らしトキの声を上げた。

それゆえに、そこにしばしの逗留もままならず、後光厳天皇は再び、輿に乗らざるをえなかった。

ところが、それをかつぐ者が一人もいない。ここまで輿をかついできた者たちが、全員、逃亡してしまったのである。

細川清氏 (内心)あぁ、なんともはや、おいたわしい事・・・。

清氏は、馬から飛び降り、天皇の側へ寄ってしゃがみこみ、

細川清氏 おそれながら、陛下、私の背中にお乗り下さいませ。さ、さ、どうぞ!

後光厳天皇 うん。

清氏は、鎧の上に天皇を背負い、そのまま徒歩でもって、塩津の山を越えた。

古代中国春秋時代に、介子推(かいしすい)が股の肉を切って重耳(ちょうじ)に与え(注3)、ある人が趙盾(ちょうとん)を逃がすために彼の車の片輪をかついだという故事も(注4)、清氏のこの忠節に比べれば、まことに小さい事のように思えてならない。

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(訳者注3)晋の重耳(後の文公)と共に亡命中に食物が無くなった時、介子推は、自分の股の肉を切って重耳に食べさせた。

(訳者注4)これについては、いったい何の故事を指しているのか不明である。
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一行は、ただひたすらに、逃避行を続けていく。

延々と続く渚の月に鞭を挙げ、曲がりくねった浦の波に棹を差しながら、黙々と道を行く。中国唐王朝時代の人、公乗億(こうじょうおく)が詠んだ、あの旅の詩に込められた心境が、今まさに思い知られる。

 ここは地の果て 巴東三峡(はとうさんきょう)
 明月峡(めいげつきょう)に 猿の鳴声こだまする
 このような地に 舟を停めざるをえぬ ああ このやるせなさよ

 ここは地の果て ゴビ砂漠
 黄砂に埋もれて 道は消失
 このような地に 馬を歩ませて行かざるをえぬ ああ この憂いよ

(原文)
 巴猿一叫 停舟於明月峡之辺
 胡馬忽嘶 失路於黄沙之裏

塩津から先は、道中の煩(わずらい)一切無く、一行は、美濃国(みのこく:岐阜県南部)に入った。

垂井宿(たるいじゅく:岐阜県・不破郡・垂井町)の、ある長者の家を仮の皇居として天皇をそこに入れ、義詮たちは、その周辺の民家に宿を取って、陛下を守った。

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太平記 現代語訳 32-3 山名父子、幕府に反旗をひるがえし、吉野朝側勢力となる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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八幡山(やわたやま:京都府・八幡市)での対・吉野朝・戦において、大いなる戦功を上げた山名師義(やまなもろよし)は(注1)、一人ほくそえんでいた。

山名師義 (内心)いやぁ、ウハハハ・・・今度の褒賞はきっと、オレが一番だわな・・・ウハハハ・・・。

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(訳者注1)山名師義の八幡山戦への参戦については、31-5 を参照。
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山名師義 (内心)さて、そこでだ・・・問題は、どこを恩賞に願い出るかだが・・・そりゃぁもう、あそこ、あそこに決まってるわな、若狭(わかさ:福井県西部)の今富庄(いまとみしょう:福井県・小浜市)だわ。

山名師義 (内心)あそこは、先年、拝領したんだが、まだ、実効支配できてない。だからこの際、あそこを完全に、かためきってしまうべきだわな。

山名師義 (内心)となると、対幕府ロビー活動が、ちょっとばかし、必要になってくるんだが・・・いったい、どのルートを使うべきか・・・そうだなぁ、やっぱし、佐々木道誉(ささきどうよ)かな・・・ヤツに、口ききしてもらうのがベストだわ。

というわけで、師義は、佐々木邸へせっせと日参しはじめた。しかし、訪問する度に、

佐々木邸門番A 殿は、今日はお留守です。連歌の御会席に出かけられました。

佐々木邸門番B あいにく、殿は今、茶会のまっ最中でして・・・。

行けども行けども、門前に数時間立ち続け、日が暮れるまで待たされたあげく、何の成果も無く帰宅。

このような事が度重なり、ついに、師義は怒り心頭に達してしまった。

山名師義 (小声で)おいおい、あの佐々木道誉ってヤツ、いったいナニ考えてる!

山名師義 (小声で)古代中国・周(しゅう)王朝の時代、かの周公旦(しゅうこう・たん)は、文王(ぶんおう)の子、武王(ぶおう)の弟という身分でありながら、髪を洗っている最中に嘆願者が来たら、髪を握ってそれに面会し、飯を食っている時に賓客(ひんきゃく)が来れば、口から飯を吐き出して、それに対面したっていうじゃないか。

山名師義 (小声で)そりゃぁ、オレはな、才能も何も無い男さ、でもな、これでも、将軍様の一門に連なってる人間なんだぞ。礼儀というものを、少しでもわきまえてるんなら、履(くつ)を逆さまに履いてでも庭に出迎え、袴(はかま)の腰紐を結びながらでも、急いでオレに対面すべきだろうが!

山名師義 (小声で)なのに、こんな無礼な振舞いをされるとは・・・まったくもって、恨めしいヤツ!

山名師義 (小声で)いったいなんで、こんな事になってしまうんだ? それはだな、しょせん、実現不可能な事を願い出ていくからだわ。

山名師義 (小声で)そういう事をするから、諂(へつら)う必要もないようなヤツにまで、ペコペコ頭を下げなきゃならんのだわ!

山名師義 (小声で)よぉし、見てろよ、今夜のうちに京都を発って、伯耆(ほうき:鳥取県西部)へ下り、すぐに謀反を起して、天下ひっくり返してやっから! 無礼なヤツラに、とことん思い知らせてやるんだわ!

このように、ブツブツと一人言をつぶやきながら館へ帰るやいなや、郎等達には何も言わずに、京都朝年号・文和(ぶんわ)元年(1352)8月26日夜、山名師義はたった一人で、伯耆めざして京都を発った。

これを伝え聞いた郎等たち700余騎は、急ぎ、彼の後を追った。

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伯耆に到着した師義は、直ちに、父・時氏(ときうじ)のもとへ行って、

師義の身体 ドタ!(時氏の前の床に座る音)

山名師義 えぇいもう! 京都で完全に面目つぶされて、帰ってきましたわ。

山名時氏 なんだ、なんだぁ、いったい、どうしったってんだぁ?

山名師義 今の幕府の政治は、もうメチャクチャだぁ!

山名時氏 まぁまぁ、そう怒るな・・・あのな、人間あまりに憤怒のストレスが蓄積しすぎると、そのうち、体に悪影響きちゃうんだわな。まぁまぁ、とにかく・・・いったい、ナニがあった?

山名師義 こないだの、対吉野朝作戦での、わが山名軍の一大戦功、幕府から完全に無視されちゃいましてね、もう、アッタマきちゃったもんだから、将軍に暇(いとも)も何も申し上げずに、黙って帰ってきましたわ!

山名時氏 なにぃ! あれほどの戦功をあげながらか!

山名師義 はい! 完全無視、無視、恩賞ゼロ! 恩賞ゼロですよぉ!

山名時氏 (激怒)えぇい、幕府の連中は、いったいナニ考えてる! ふざけるなよ!

このようなわけで、山名時氏は、吉野朝側に寝返り、打倒・足利幕府の旗揚げをした。

時氏はまず、出雲国(いずもこく:島根県東部)駐在の佐々木道誉の代官・吉田秀仲(よしだひでなか)を現地から追い出し、決起文を一帯の武士たちに回した。

その結果、富田判官(とんだのはんがん)をはじめ、伊田(いだ)、波多野(はだの)、矢部(やべ)、小幡(おばた)ら、出雲国の武士たち全員が、時氏に心を通じるようになった。

かくして、出雲、伯耆、隠岐(おき:島根県隠岐諸島)、因幡(いなば:鳥取県東部)4か国が、あっという間に、山名時氏の勢力圏と化した。

山名時氏 よし、この結果を直ちに、南の朝廷へ報告。

時氏からの報告を受けた吉野朝廷は、「そちらが山陰道を攻め上るならば、こっちからも出兵して、両者同時に京都攻めと行こか!」との返答を送った。

山名時氏 よぉし、やるぞぉ!

山名師義 イェーイ!

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吉野朝廷という大きな後ろ盾を得て、覇気リンリンの山名時氏は、京都朝年号・文和(ぶんわ)2年(1353)5月7日に、伯耆を出発、但馬(たじま:兵庫県北部)、丹後(たんご:京都府北部)の勢力3,000余騎を率い、丹波路を経て京都へ攻め上っていった。

時氏と吉野朝との事前の合意通りに、吉野朝からは、四条隆俊(しじょうたかとし)を総大将に、法性寺康長(ほうしょうじやすなが)、和田正武(わだまさたけ)、楠正儀(くすのきまさのり)、原(はら)、蜂屋(はちや)、赤松氏範(あかまつうじのり:注2)、湯浅(ゆあさ)、貴志(きし)、藤波(ふじなみ)はじめ、河内(かわち)、和泉(いずみ)、大和(やまと)、紀伊(きい)の諸国から選抜の武士3,000余騎が進軍。

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(訳者注2)赤松円心の子、赤松則祐の弟。
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京都の南方の淀(よど:伏見区)、鳥羽(とば:伏見区)、赤井(あかい:伏見区)、大渡(おおわたり:位置不詳)、あるいは、京都西方の梅津(うめづ:右京区)、桂の里(かつらのさと:西京区)、谷堂(たにのどう:西京区)、峯堂(みねのどう:西京区)、嵐山(あらしやま:右京区)一帯にくまなく陣を敷く。連なり燃える吉野朝軍の篝火(かがりび)は、幾千万とその数知れず。

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「山名・吉野朝連合軍、京都目指して、怒濤(どとう)のごとき進撃!」との情報に、足利義詮(あしかがよしあきら)周辺の、土岐(とき)家、佐々木(ささき)家のメンバーたちは、戦々恐々(せんせんきょうきょう)である。

土岐氏リーダーC 将軍様は、まだ鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)におられるし、京都を守る兵は少ないし・・・。

土岐氏リーダーD これじゃぁ、あまりにも多勢に無勢だで。

土岐氏リーダーE ヘタな戦して、敵に勢いつけてしまってもなぁ・・・。

佐々木氏リーダーF ここはひとまず、近江(おうみ:滋賀県)へ退避(たいひ)、という事にしては?

佐々木氏リーダーG 瀬田川(せたがわ:滋賀県・大津市)の東岸に陣を敷いて、そこで敵を待ちましょう。

足利義詮 ハァー・・・(溜息)。

土岐氏・佐々木氏リーダー一同 ・・・。

足利義詮 またまた、そんな弱気な事を・・・ハァー・・・(溜息)・・・いくら敵が大軍と聞いたからって、ただの一度も戦せずに、逃げ出しちゃって・・・そんなんでいいのぉ?

土岐氏・佐々木氏リーダー一同 ・・・。

義詮は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を坂本(さかもと:滋賀県大津市)へ移した後、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、土岐、佐々木家の兵3,000余騎を一箇所に集め、鹿が谷(ししがたに:左京区)を背にし、吉野朝軍の来襲を待ち受けた。

結果としては、前に川あり、背後に山そびえたち、といった陣形を取った事になる。決して、逃げ退こうという思いが先行しているわけではないのだが、あの古代中国の韓信(かんしん)が兵法書の内容を完全に無視して背水の陣を敷いたのとは、だいぶ話が違うようである。

吉野朝軍リーダーH 足利側が敷いたあの陣、あのすぐ背後は、近江の地や。

吉野朝軍リーダーI 近江いうたら、佐々木の本拠地やわなぁ。

吉野朝軍リーダーJ その近江の東は、美濃(みの:岐阜県南部)、ここは土岐の本拠地や。

吉野朝軍リーダーK 京都を守りきれへんかったら、すぐに東へ退いて、自分らの本拠地で一休み。

吉野朝軍リーダーL まぁ、あいつらの考えとる事いうたら、その程度のもんやろぉて。

吉野朝軍リーダー一同 ハハハハ・・・敵の魂胆(こんたん)、ミエミエやぁ。

このように、未だ戦わざる前に、相手に心を見透かされてしまっている、足利幕府軍であった。

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文和2年6月9日午前6時、吉野朝側の、吉良満貞(きらみつさだ)、石塔頼房(いしとうよりふさ)、和田正武、楠正儀、原、蜂屋、赤松氏範率いる3,000余騎は、八条、九条一帯の民家に放火し、合図の煙を上げた。

それに呼応して、山陰道から攻め上ってきた山名時氏、山名師義、伊田、波多野ら5,000余騎は、梅津、桂、嵯峨(さが:右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)、西七条(にししちじょう:下京区)に放火し、京都中心部へ攻め入った。

京都中心部には、彼らに抵抗する動きは全く無かった。

吉野朝軍と山名軍は合流し、くつばみを並べて、四条河原(しじょうがわら:下京区)に布陣した。

かるか彼方の相手陣営を見れば、鹿が谷、神楽岡(かぐらおか:左京区)の南北一帯に、各家の旗が2、300本翻っている。中でも目立つのが、真如堂(しんにょどう:左京区)の前に立っている四ツ目結(よつめゆわい:注3)の旗一本。全軍、山中に身を潜め、木陰に待機し、その兵力の多寡(たか)も判別しがたい。

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(訳者注3)佐々木氏の紋。
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和田正武と楠正儀は、法勝寺(ほっしょうじ:左京区)の西門の前を通って、河原に兵を展開した。そして、相手をおびき出して兵力を確かめんがために、射撃隊500人を、馬から下ろした。

彼らは、持盾、つき盾を地に突きながら、しずしずと田の畦を進み、次第に幕府軍との距離を縮めていく。

この挑発に、山内定詮(やまのうちさだのり)率いる近江国の地頭や有力武士ら500余騎が応じた。

彼らはエビラを叩き、トキの声を上げ、楠軍に襲いかかった。

(この当時、佐々木氏の統領・佐々木氏頼(ささきうじより)は出家して西山(にしやま:注4)に隠棲(いんせい)し、その弟の山内定詮が彼に代って実務を執行し、近江国守護の任を果たしていた。)

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(訳者注4)西京区から向日市にかけての丘陵地帯。
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楠軍は、陽に開き陰に囲み、さんざんに矢を射る。山内軍はこれにいささかもひるむ事なく、兜のシコロを傾け、鎧の袖をかざして突撃していく。

両軍激突の様をじっと注視し、介入のタイミングを見計らっていた山名家執事(やまなけしつじ)・小林右京亮(こばやしうきょうのすけ)は、

小林右京亮 よし今だ、行ケーッ!

小林軍メンバー一同 オーーッ!

小林右京亮が率いる700余騎は、山内軍の側面を突いた。

思いがけないこの突然の攻撃に、山内軍は被害甚大、「これはとても叶わない」と、神楽岡(かぐらおか:左京区)へ退却した。

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緒戦(しょせん)をモノにして、大いに意気あがる、吉野朝・山名連合軍である。

小林右京亮 オオッ! あれはどこの軍やぁ?

東の方を見やれば、水色の旗を差し上げ、大鍬型(おおくわがた)を夕日に輝かし、魚鱗(ぎょりん)形に陣を連ねた6、700騎ほどの軍が控えている。

小林右京亮 やぁ、土岐(とき)んチの、桔梗一揆(ききょういっき)か。よぉし、行ケーッ!

小林軍一同 オーーッ!

小林右京亮は、人馬に息も継がせず、土岐軍に襲いかかろうと馬を走らせた。

これを見た山名師義は、扇を揚げて小林を制止した。

山名師義 待て待て! ここは、おれにまかせて、おまえは、ちょっと休んでろ!

師義は、新手の兵1,000余騎を率いて、土岐軍に迫っていった。

土岐軍、山名軍、双方共にしずしずと、馬を歩ませながら接近。

矢を射交わすやいなや、全員一斉に左右の鐙(あぶみ)をあおって、双方激突。

両軍合計2,000余騎は、一度にさっと入り乱れ、右側に遭って左側に背き、1時間ほど死闘を展開。馬がかき立てる土煙は、空に立ち上り、突風がほこりを舞い上げたかのよう、太刀のツバ音、トキの声は、大山を崩し、大地をも揺るがす。

激戦の末に、山名サイドが勝利を得た。

鞍の上に無人の馬4、500匹が、川より西方向へ走り出てきた。山名軍各メンバーの掲げる太刀の切っ先上には、土岐軍の人々の首があった。

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細川清氏(ほそかわきようじ)は、味方の土岐軍のこの惨敗を見ても、なおも戦意を失わなかった。

細川清氏 いやいやぁ、戦はこれからだよぉ!

清氏は勇み立ち、最前線へ自軍を進めた。

細川軍の前に、吉良満貞、石塔頼房、原、蜂屋、宇都宮民部少輔(うつのみやみんぶしょうゆう)、海東(かいとう)、和田正武、楠正儀らが、立ちはだかった。

彼らの軍メンバーは全員新手ゆえ、終始、押し気味に戦いを展開、細川軍を川から西へ追い渡し、真如堂の前を東へ追い立て、2時間ほど戦い続けた。

細川清氏 ここは断じて、退かんぞ! たとえ、1,000騎が1騎になろうともな!

しかしながら、今や、幕府軍側は各軍散り散りバラバラの状態、細川軍と後方に位置するグループとの間隔が大きく開いてしまっている。何の援護もないままに、細川軍もついに戦い破れ、戦場から退却して比叡山・四明岳(しめいがたけ)上へ逃れた。

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吉野朝・山名連合軍側メンバーの赤松氏範(あかまつうじのり)は、常に、他家の者を交えた混成軍での戦いを好まなかった。今日もまた、自分の手勢のみ5、60騎を率い、反撃に出てくる相手を追い立て追い立て、切って落しながら、前へ前へと馬を進めていく。

赤松氏範 あーあ、どこの誰とも知れんような敵、何百人切ってみたとこで、しゃぁないわなぁ。これはっちゅうような敵に、何とかして、であいたいもんや。

氏範は、北白川(きたしらかわ:左京区)から今道(いまみち)超えルート方向に、馬を歩ませていった。

赤松氏範 オッ! 居(い)とぉ、居とぉ!

はるか彼方に、洗い皮の鎧を着した一人の武士の姿が見えた。

鎧の袖と草ずりの端だけは、別色で威してある。龍頭(りゅうず)の兜の緒を閉め、腰には5尺ほどの太刀を2本佩(は)き、刃渡り8寸ほどの大鉞(おおまさかり)を振りかざし、近づく敵あらば、ただの一打ちでしとめてしまおうと、尻目に敵を睨みながら、しずしずと馬を進めて撤退していく。

赤松氏範 (内心)あれはきっと、人のうわさに聞く、長山遠江守(ながやまとおとうみのかみ)やな。あいつやったら、相手にとって不足無い。よぉし、組みついて討ってもたれ!

氏範は、左右のあぶみを打って乗馬を全速力で駆けさせ、その武士に追い着いた。

赤松氏範 おいおい、そこの洗い皮の鎧着たお人! あんたは長山殿と見たが、これはオレの人違いかな? 敵に後ろを見せるなんて、キタナイやないかぁい!

そのからかいの言葉に、武士はキッと振り返り、氏範の姿を認めるやいなや、カラカラと笑っていわく、

長山遠江守 ワハハハ・・・ナニをホザクか・・・。そういうおまえこそ、いったいどこの誰?

赤松氏範 赤松弾正少弼氏範(あかまつだんじょうしょうひつうじのり)よ!

長山遠江守 おぉ、これはこれはぁ。相手にとって不足無しだなぁ。だけんどなぁ、いきなりただの一打ちで殺してしまっちゃぁ、かわいそうってぇもんだろう、少し時間やっからな、念仏唱えて西を向けぇ!

長山は、少し体を引いて、赤松との間合いを取った。次の瞬間、

長山遠江守 ドェーイ!

例の大鉞でもって、氏範の兜の鉢めがけ、割れよ砕けよと、渾身(こんしん)の力を込めて激打。

長山の大鉞 ヴューッ!

赤松氏範 なんのぉ!

氏範は、太刀を横に払って、その鉞の打撃をそらした。

氏範の太刀 ヴァシーン!

氏範の左腕 グァシ!(鉞の柄を、捕捉)

氏範は、鉞の柄をそのまま左の小脇に挟みながら、片手でグイグイと引き寄せる。

赤松氏範 エーイ! エーイ!

氏範の猛力に引き寄せられて、双方の馬は至近距離にまで接近、両者互いに、太刀を使えなくなってしまった。

赤松氏範 (内心)この鉞さえ奪(と)ってしもたら、こっちのモンや!(鉞をグイグイ引っぱる)

長山遠江守 (内心)奪られてたまるか!(鉞をグイグイ引っぱる)

両者、しばらくもみ合っているうちに、

長山の大鉞の柄 パキーン!

藤で巻いた樫(かし)の木製の柄が、まっ二つに断裂してしまった。手元の方は長山の手に残り、刃の付いた方が氏範の左脇に留まった。

長山遠江守 (内心)今の今まで、オレ以上の大力のヤツは、この世にはいねぇと思ってたが・・・世間は広いもんだな、こんなすげぇヤツがいたのかよ・・・。こりゃぁ、とてもかなわねぇや。

長山は、氏範の猛力に勇を挫(くじ)かれ、馬の足を速めてひたすら逃げていく。氏範は大いに口惜しがり、

赤松氏範 あぁ、しもたぁ! クダラン力くらべなんかしてるもんやから、組んで討つべき長山を、討ちもらしてしもたやないかぁ・・・あぁ、しもたぁ!

赤松氏範 よぉし、こうなったら、相手が誰やろうと、敵である事に変りないわい。一人でもよぉけ、討ちとってしもたれぇ。

氏範は、長山から奪い取った鉞を使い、逃げいく敵を追いつめ追いつめ、その背後から猛打を浴びせる。その打撃を受けた者はことごとく、兜の鉢を前面まで破られてしまい、鉞は流れる血を浴びて、柄も朽ちてしまうかと思われるほどであった。

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戦いは終わった。幕府軍側の惨敗であった。

美濃(みの:岐阜県南部)勢は、土岐七郎(ときしちろう)をはじめ、桔梗一揆97騎が討死。

近江(おうみ:滋賀県)勢は、伊庭八郎(いばはちろう)、蒲生将監(がもうしょうげん)、川曲三郎(かわぐまさぶろう)、蜂屋将監(はちやしょうげん)、多賀中務(たがのなかづかさ)、平井孫八郎(ひらいまごはちろう)、儀俄知秀(ぎがともひで)以下、38騎が戦死。

その他、粟飯原氏光(あいはらうじみつ)、疋田能登守(ひきだのとのかみ)も戦死、後藤貞重(ごとうさだしげ)は生け捕りの身になってしまった。

生き残りの者たちも、負傷したり、矢を射尽くしてしまったりで、再戦は到底不可能と思われた。

やむなく、足利義詮(あしかがよしあきら)は、日没と共に京都から撤退し、坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ逃げた。

細川清氏は、なおも戦場に踏みとどまり、人馬に息を継がせながら自陣を維持していた。

細川清氏 (内心)合流してくる味方がいるなら、もう一戦してみよう。潔く勝負を挑んで、雌雄を決するまで、とことん、やってみるんだ!

清氏は、西坂本(にしさかもと:注5)まで退き、その夜はそこでねばり続けた。(注6)

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(訳者注5)比叡山の西側山麓、左京区の一乗寺のあたり。

(訳者注6)ここは原文では、「是までもなお細河相模守清氏は元の陣を引き退かず、人馬に息を継がせて、我に同ずる御方あらば、今一度快く挑み戦って雌雄をここに決せんとて、西坂本に引き、その夜はついに落ち給わず」とあるのだが、先の「比叡山・四明岳上に撤退した(原文:「細河ついに打ち負けて、四明の峯へ引き上がる」)」との記述と矛盾している。
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翌朝夜明け頃、足利義詮のもとから、伝令がやってきた。

伝令 「再度、作戦会議を行いたい。まずは、東坂本(ひがしさかもと:注7)まで来い。」との仰せでした。

細川清氏 うん・・・。

細川清氏 (内心)こうなったら、自分一人だけここでがんばってても、どうにもならないよなぁ・・・あーあ。

というわけで、翌早朝、細川清氏も、ついに京都を撤退し、東坂本へ落ち延びた。

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(訳者注7)こちらの「坂本」は、比叡山東山麓の大津市・坂本である。
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山名軍団リーダーM これで、京都は完全に制圧できたわなぁ。

山名軍団リーダーN いやいやぁ、まだ残ってるわなぁ、西山に。

山名軍団リーダーM 西山?

山名軍団リーダーN そう。西山の善峯寺(よしみねでら)。阿保忠実(あぶただざね:注8)と荻野朝忠(おぎのともただ:注9)が、たてこもってる。

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(訳者注8)29-2 に登場。

(訳者注9)8-7 に登場。そこでは「荻野彦六」という名前で登場しているが、この人のフルネームは「荻野彦六朝忠」である。
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山名軍団リーダーO 聞くところによるとなぁ、今は亡き高師直(こうのもろなお)の愛人が産んだ、高師詮(こうのもろあきら)って男がなぁ、例の騒動の後、片田舎に潜伏してたのをだなぁ、阿保と荻野らが、にわかに大将にかつぎあげてなぁ。

山名軍団リーダーN 方々から、ケッコウ集まってきてるらしいぞ。

山名軍団リーダーM 兵力、いくらくらいだ?。

山名軍団リーダーN 丹波(たんば)、丹後(たんご)、但馬(たじま)3か国の勢力、総勢3,000余騎だと。

山名軍団リーダーP たった3000かぁ、そんなのチョロイもんだわなぁ。

山名軍団リーダー一同 ま、そういう事だわな。

京都の大敵さえも、たやすく撃退して、勇気凛凛(ゆうきりんりん)の山名軍、少しの猶予(ゆうよ)もするものではない、6月11日曙(注10)、善峯寺へ押し寄せた。

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(訳者注10)史実では、6月12日。
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矢の一本も放たずに、全員一斉に切り上がる。

阿保・荻野側はてきびしく攻め立てられ、一たまりも無く、谷底へ懸け落されてしまった。

久下五郎(くげごろう)をはじめ、討たれた者は40余人、負傷者に至っては数え切れない。かろうじて逃げ延びたわずかの者も、弓矢、太刀、長刀を遺棄し、鎧も捨てて赤裸で逃げて行く。何とも見苦しい有様である。

高師詮は、2町ほどは落ち延びたが、阿保忠実と荻野朝忠は、後方から追いすがる山名勢を見て、

阿保忠実 もはやこれまで。

荻野朝忠 自害なされませ。

二人の勧めに従って、高師詮は馬上で腹を切り、逆さまに落ちて死んだ。

彼の首を取ろうと、山名軍メンバー全員が、そこに殺到してきた。

沼田小太郎(ぬまたこたろう)ただ一人、返し合わせて戦ったが、相手は大勢、自分に続く者は一人も無し、とてもかなわないと思ったのであろう、彼もまた同じく腹を切り、高師詮の死骸を枕にして、伏した。

その間に、阿保忠実と荻野朝忠は、そこから遠くへ落ち延び、救い甲斐のない命を保った。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 32-2 持明院殿、焼失す

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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同年9月27日、京都朝廷(きょうとちょうてい)は改元(かいげん)を行い、年号は「文和(ぶんわ)」に変わった。

10月、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)は、鴨川原(かもがわら)にてみそぎの儀を済ませ、翌月、大嘗会(だいじょうえ)が執行された。

この儀式の執行、スンナリ決まった、というわけでもないようである。

京都朝閣僚A 三種の神器(さんしゅのじんぎ)も無しのまま、ご即位の式までやってしもぉて、ほんまにえぇんかいなぁ。

京都朝閣僚B 同感やなぁ・・・今のままでは、どうにも、形つかんでぇ。

京都朝閣僚多数 ほんま、そうですわ。どだい、ムチャですよ。

京都朝閣僚C そんな事いうたかて、しょうおまへんやろ。幕府の方から、「早いとこ、即位式やってまえー」て、キツウ、言うてきとんですからぁ。

京都朝閣僚多数 ・・・。

京都朝閣僚D まぁまぁ、とにもかくにも、幕府の言う通りに、しときましょいなぁ、ハーア(溜息)。

京都朝閣僚多数 ハーア(溜息)。

このように、「閣議においては異論が多かったのだけれども、結局、執行されることになったのだ」とは、さるスジからの情報である。

京都朝・故実典礼(こじつてんれい)担当者E そもそも、百代の天皇の始めは、ウガヤフキアワセズノミコトの第4皇子・カンヤマトイワアレヒコノミコト、すなわち神武天皇(じんむてんのう)陛下であらせられます。

京都朝・故実典礼担当者F 神武天皇陛下が、大和(やまと:奈良県)の畝傍橿原宮(うねびかしわらのみや)において政治を執り行われてより以来、今上陛下(きんじょうへいか)に至るまで、99代。

京都朝・故実典礼担当者G その間、三種神器無しに帝位を継承される、なんちゅう事は、ただの一度もなかった。

京都朝・故実典礼担当者H 今回のこれはまさに、前代未聞の事ですわなぁ・・・ヒッヒッヒッ・・・。

京都朝・故実典礼担当者I いやはや・・・昨今の世の中はもう、何でもアリの、ムチャクチャでござりまするがな。

京都朝・故実典礼担当者一同 グフフフ・・・。

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後光厳天皇(ごこうごんてんのう) (内心)京都も、やっと静かになったわ。わが帝位も、一応は安泰や。そやけどなぁ・・・。

後光厳天皇 (南方の空を仰ぎながら)(内心)父上・・・叔父上・・・兄上・・・。

後光厳天皇 (内心)みんな、南の山奥に幽閉されておられる・・・きっと、ご苦悩の絶え間の無い事やろなぁ・・・あぁ、自分一人だけが京都でこないにノウノウとして・・・ほんまに心苦しい。

後光厳天皇 (内心)なんとかして、敵の手から、救出させていただきたいなぁ。

陛下も様々に手だてをめぐらしたが、光厳上皇(こうごんじょうこう)、光明上皇(こうみょうじょうこう)、崇光先帝(すうこうせんてい)の周囲は、吉野朝廷側の警護が非常に厳しく、手の出しようがない。その後ようやく、梶井門跡・尊胤法親王(かじいもんぜき・そんいんほっしんのう)殿下のみ、なんとか救出する事ができた。

同年10月28日、皇太后(こうたいごう)・陽禄門院(ようろくもんいん)が亡くなった。

天下一斉に服喪(ふくも)となり、京都中、3か月間の歌舞音曲(かぶおんきょく)一切自粛、御所も皇后宮(こうごうきゅう)もことさらに、ものの哀れのつのる毎日である。

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翌・文和2年2月4日、失火によって、上皇の御所・持明院殿(じみょういんでん)が、あっという間に焼失してしまった。

火事は、しょせん天災で尋常(じんじょう)の事、それでもって、どうこうというものでもない。

しかしながら、近年これほど続けざまに、京都中の寺社や宮殿が焼失してしまい、残っている物はほとんど無し、となると、どう見ても、タダ事とは思えない。これもまた、仏法滅亡(ぶっぽうめつぼう)の因縁(いんねん)、王城衰微(おうじょうすいび)の兆候(ちょうこう)と言う事であろう。

元弘(げんこう)年間の戦、あるいは建武(けんむ)年間の戦からこの方、火災を被った場所をリストアップしてみると:

まずは内裏(だいり)、そして、馬場殿(ばばどの)、准皇(じゅこう)の御所、恒明親王(つねあきしんのう)の常盤井殿(ときわいどの)、兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)の二条(にじょう)の御所、宣光門女院(せんこうもんにょいん)の旧宅、城南離宮(せいなんりきゅう:伏見区)の鳥羽殿(とばでん)、竹田(たけだ:伏見区)近くの伏見殿(ふしみでん)、十楽院(じゅうらくいん:東山区)、梨本(なしもと)、青蓮院(しょうれんいん:東山区)、妙法院(みょうほういん:東山区)の白河殿(しらかわでん)、大覚寺(だいかくじ:右京区)の旧跡、洞院公賢(とういんきんかた)の邸宅、西園寺公経(さいおんじきんつね)の邸宅、吉田定房(よしださだふさ)の邸宅、近衛殿(このえでん)、小坂殿(こさかでん)、為世卿(ためよきょう)の和歌所(わかどころ)、大覚寺の御山荘(ごさんそう)、三条大納言(さんじょうだいなごん)の住み馴れし毘沙門堂(びしゃもんどう)、頼基(らいき)の天の橋立(あまのはしだて)の旧跡、塩釜(しおがま)の浦を模した河原院(かわらいん)、具平親王(ともひらしんのう)の古をしのんで建てた花園(はなぞの)、源融(みなもとのとおる)の跡をしのんで建てた千種宰相(ちぐささいしょう)の新亭。その他、五位以下の人々の家ともなると、もう数えあげようがない。

天皇の御所、上皇の御所、皇族方の屋敷、大臣・公卿の邸宅以下、なんと総計320余箇所もが、この戦乱の期間中に焼失してしまっているのである。

仏閣霊験(ぶっかくれいけん)の地においても同様である。法城寺(ほうじょうじ:東山区)、法勝寺(ほっしょうじ:左京区)、長楽寺(ちょうらくじ:東山区)、清水寺(きよみずでら:東山区)の6僧坊、双林寺(そうりんじ:東山区)、革堂行願寺(こうどうぎょうがんじ:現中京区)、慶愛寺(けいあいじ:位置不明)、北霊山(きたりょうぜん:東山区)、西福寺(さいふくじ:位置不明)、宇治(うじ:京都府宇治市)の平等院(びょうどういん)の経蔵(きょうぞう)、浄住寺(じょうじゅうじ:西京区)、六波羅(ろくはら)の地蔵堂(じぞうどう:東山区)、紫野(むらさきの:北区)の寺(詳細不明)、東福寺(とうふくじ:東山区)、建仁寺(けんにんじ:東山区)内の雪村友梅(せっそんゆうばい)の塔頭(たっちゅう)・大龍庵(たいりゅうあん)、夢窓疎石(むそうそせき)建立の天龍寺(てんりゅうじ:右京区)に至るまで、禅宗寺院、律宗(りっしゅう)寺院、朝廷の祈祷所(きとうしょ)など、30余箇所の仏閣も皆、この間に焼け落ちてしまっている。

かくして、東山(ひがしやま)、嵯峨野(さがの:右京区)、京都中心部、白河(しらかわ:左京区)一帯は、民家もまばら、寺院も数少なくなってしまい、盗賊は巷(ちまた)に満ち満ち、往来の道中にも危険が伴う。

寺院から聞こえてくるホラ貝や鐘の音もかすか、というこのような状態の下では、無明(むみょう)の眠りからは人心醒(さ)め難し、という他はない。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 32-1 京都朝廷、新天皇を擁立

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)と足利幕府(あしかがばくふ)との和平交渉が破れて戦となった結果、京都朝廷(きょうとちょうてい)は、大きなダメイジを受けた。

光厳上皇(こうごんじょうこう)、光明上皇(こうみょうじょうこう)、崇光天皇(すうこうてんのう)、皇太子・直仁親王(なおひとしんのう)、梶井門跡・尊胤法親王(かじいもんぜき・そんいんほっしんのう)が、吉野朝廷の虜囚(りょしゅう)の身となってしまい、賀名生(あのお:奈良県・五條市)の奥、あるいは金剛山(こんごうさん:奈良県・御所市-大阪府・南河内郡・千早赤阪村)の麓に移されてしまったのである。

かくして、首都・京都には天皇が不在、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)には天台座主(てんだいざす)が不在、という、異常事態になってしまった。

平安京(えいあんきょう)の都、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)、双方共にその始まりを同じくして既に600余年経過、未だかつて、このような事はただの一日も無かったのに・・・やはりこれも、現代が末法(まっぽう)の世になってしまった証拠であろうかと思うと、まことに情けない限りである。

しかしながら、「いつまでもこないな状態では、あいなりませんがな!」という事になり、新たなる人選が行われた。

まず、天台座主には、梶井門跡・尊胤法親王の弟子、承胤親王(じょういんしんのう)が就任した。

この人は、前の座主とはうって変り、遊宴(ゆうえん)や珍奇(ちんき)な事物を愛する事も無く、仏道修行に怠りなく、ただただ延暦寺の興隆(こうりゅう)に専心余念(せんしんよねん)無し、という風であったので、比叡全山の衆徒残らず、すぐにこの人に心服するようになった。

次なる問題は、「いったいどなたを、天皇に?」。

京都朝廷重要メンバーたちの様々の思案の結果、光厳上皇の第2皇子が、即位する事になった。(注1)

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(訳者注1)京都朝廷・後光厳天皇(ごこうごんてんのう)。崇光天皇の弟。
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この方は、内大臣(ないだいじん)・三条公秀(さんじょうきんひで)の娘・三位殿の御局(さんみどののおつぼね)(後に「陽禄門院(ようろくもんいん)とお呼びすることになるお方)を母として生れ、その年齢は15歳である。

もちろん、吉野朝廷はこの皇子にも目をつけていた。「わが方に拉致(らち)して、身柄を確保しておこう」というわけで、春宮権大進(とうぐうごんのたいしん)・日野保光(ひのやすみつ)に、「あの皇子も、確保せよ」と命じていたのであったが、何かと手間取って保光の手が届かないままであった所を、京都朝廷メンバーらが探し求めて、天皇の位に着けたのであった。

ここに、後光厳天皇の即位にまつわる、興味深いウラ話がある。

実は昨年、この方はすんでの所で、出家の身になられるところであったのだ。

継母に当たる宣光門女院(せんこうもんにょいん)のはからいで、「妙法院門跡(みょうほういんもんぜき)に就任を」というセンでの話が、着々と進められていたのである。

そのようなさ中に、後光厳天皇の外祖母(がいそぼ)に当たる廣義門院(こうぎもんいん)は、内々に、北斗堂(ほくとどう:注2)の実筭法印(じつさんほういん)に、この皇子の将来を占わせてみた。

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(訳者注2)清水寺の近くにあったようだ。
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廣義門院 ・・・で、どないどしたんや、占いの結果は?

実筭法印 ・・・。

廣義門院 なにか、気がかりなことでも?

実筭法印 うーん・・・いやいやぁ、こらスゴイですなぁ・・・はぁー・・・。

廣義門院 いったい、なんどす? なにがどう、スゴイんえ?

実筭法印 はい、占いの卦(け)は、こう出ましたわ、「この方は将来、帝位につかせたもうべき御果報(ごかほう)をお持ちである」。

廣義門院 エェェ!

廣義門院 (内心)まさか、そないな事・・・。

というわけで、法印の言葉をストレートには信じがたい廣義門院ではあったが、結局、出家の儀を中止させ、右大弁(うだいべん)・日野時光(ひのときみつ)に皇子を預け置いたのであった。

そしてその翌年、京都朝年号・観応(かんのう)3年(1352)8月27日(注3)、にわかに、「天皇即位の儀式を!」という事になったのである。

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(訳者注3)実際には、8月17日。
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「その占い、ドンピシャ、一寸の狂いも無かった」ということで、実筭法印は、天皇よりの覚えまことにめでたく、たちまちにして、多大の恩賞に預かった。

太平記 現代語訳 インデックス7 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年4月 1日 (日)

京都市のサクラ 2018 開花から満開までが短かったようです

寒さ厳しい冬の中をようやく通過し、サクラの花を見れる時が、やってきました・・・と思ったら、あっという間に、満開に。京都市に住むようになってからこれまでの間、このようなサクラの開花状態を、過去に見た事がありません。

3月31日時点で、すでに、花が散り始めている樹木もあります。

例年より1週間ほど早い満開だとか。この時期に、海外から京都市に来られた方々は、”ベリー ラッキー” と思っておられるのかも。

早めに撮影しておかなくては、と思い、自転車で数か所に行って、動画を撮影してきました。下記、よろしければご覧ください。

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白川

[行者橋]の付近の場所から、白川の河口(白川は鴨川に流入)付近の場所までの間、川の岸のあちらこちらで撮影しました。

川べりには、海外から来られたと思われる方々が、大勢、おられ、和服を着ておられる女性も、多数。

最近、祇園エリアとその周辺に、和服レンタルの店が急増しています。”Kyoto に行って、kimono 着て、walk する”が、最近、ちょっとしたブームになっているようです。

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清流亭

[清流亭]は、南禅寺の付近にあります。

[清流亭]の付近には、[野村別邸 碧雲荘]、[怡園 (細川家の別邸)]、[真々庵(松下幸之助 氏 の別邸であった)]等、別荘が多数あります。[南禅寺 別荘群]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

これらの別荘のうちの多くの庭が、[小川治兵衛](七代目・植治)によって、作庭されました。

京都には、[七代目・植治]が作庭した庭が、多くあります。知名度の高いと思われるものでは、

 [円山公園]、[平安神宮]の庭園、[無鄰菴](山縣有朋の別邸)の庭園、といったところでしょうか。

「第二無鄰菴」、あるいは、「高瀬川源流庭苑」と称される庭園も、あります。

[京都 白河院](旅館)の庭も、彼による作庭です。

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琵琶湖疏水

「京都やのに、いったいなんで、琵琶湖?」と思われる方もおられるかもしれませんね。

[琵琶湖疏水]は、琵琶湖の水を京都まで流れるようにする疎水(運河)なのです。取水口は、滋賀県・大津市にあります。

この疏水の建設を構想したのは、第3代京都府知事・[北垣国道]です。

このインフラの建設の目的は、物流とエネルギー源を得るため、ということであったようです。

 (1)物流:舟に荷物を載せての、琵琶湖-京都 の輸送
 (2)エネルギー源:高低差で得られる水力によって、水車を回し、その水車の回転を直接利用して、何らかの事を行う

そして、[田辺朔郎]が、工部大学校(東京大学工学部の前身の一つ)を卒業と同時に、京都府の御用掛に採用され、琵琶湖疎水の建設担当になりました。(この時、田辺朔郎は、21歳。)

アメリカで、世界初の水力発電所等のインフラを見た田辺朔郎は、上記(2)のエネルギー源としての利用方針を転換しました。

すなわち、水車の回転を直接利用するのではなく、水車の回転の運動エネルギーを、電気のエネルギーに変換した後、その電気エネルギーを利用する、という方向へのチェンジでした。

その結果、[蹴上発電所]が誕生しました(営業用としての、日本最初の水力発電所)。

この方針転換は、極めて有効であったと思われます。

水車の回転を直接利用する、という形態では、疏水に近い場所でしか、そのエネルギーを利用する事ができません。しかし、電気ならば、疎水から遠隔の地でも、そのエネルギーを利用することが可能となります。

かくして、日本初の営業用電車が、京都の街を走ることになりました。(京都電気鉄道)。

この方針転換の結果、水車を回して何かしようという意図で取得されていた、[疎水の水利権]の価値が、極めて低くなってしまったようです。

その水利権を、[塚本与三次]と[小川治兵衛]が獲得して、南禅寺付近に、[水が流れる庭園]を持つ別荘を造っていったのです。その庭園の中を流れている水は、[琵琶湖からやってきた水]なのです。

(平安神宮や無鄰菴の中を流れている水も同様です。)

[塚本与三次 小川治兵衛 琵琶湖疏水 水利権]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

[夷川発電所]は、[蹴上発電所]の建設後の電力需要の増加に対応して建設されました。

琵琶湖疏水・1

琵琶湖疏水・2

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