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2018年5月10日 (木)

太平記 現代語訳 37-2 足利義詮、京都から逃走

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷サイドは軍編成を完結、いよいよ、京都奪回作戦がスタートした。

公家グループの大将は、二条殿(注1)、四条隆俊(しじょうたかとし)。

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(訳者注1)
[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注では、「二条師基か。・・・」とある。
[新編 日本古典文学全集57 太平記4 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、「・・・師基息、教基か。」とある。
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武家グループの大将は、石塔頼房(いしとうよりふさ)、細川清氏(ほそかわきようじ)と弟・細川頼和(よりかず)、和田正武(わだまさたけ)、楠正儀(くすのきまさのり)、湯浅(ゆあさ)、山本(やまもと)、恩地(おんぢ)、贄川(にえかわ)。

吉野朝年号・正平(しょうへい)16年(1361)12月3日、総勢2,000余騎の軍勢が、住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)と天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)に勢揃いした。

さらに、淡路国(あわじこく:兵庫県・淡路島)からは、細川氏春(ほそかわうじはる)率いる軍船80余隻が、瀬戸内界を渡り、堺の浜(さかいのはま:大阪府・堺市)に到着。

さらに、赤松範実(あかまつのりざね)からは、「摂津国(せっつこく)・兵庫(ひょうご:神戸市・兵庫区)から出陣し、速やかに、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)へ攻め寄せる!」とのメッセージが寄せられた。

「吉野朝軍、首都・総攻撃!」のニュースに、京都・白河(しらかわ:左京区)一帯は大パニック状態、身分の上下を問わず、皆、家財を鞍馬(くらま:左京区)や高雄(たかお:右京区)へ持ち運び、家の蔀(しとみ)や引戸(ひきど)を完全に取り外す。

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吉野朝軍の攻撃に備え、足利義詮(あしかがよしあきら)は、12月2日から東寺(とうじ:南区)に陣取っていた。

足利義詮 着到(ちゃくとう:注2)リスト、どんなぐあい? どれくらい、集まってるぅ?

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(訳者注2)兵力動員に応じて集まってきた武士の氏名を、記録したもの。
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義詮側近・メンバーA 譜代(ふだい)と外様(とざま)合わせて、4,000余騎といった所ですね。

足利義詮 敵兵力よりもこっち側の方、遥かに多いんじゃぁん。だったら、京都の外へ出てっても、十分防げるよなぁ。

というわけで、幕府有力メンバーらが、各方面軍の司令官に任命された。

佐々木高秀(ささきたかひで)は、現・侍所(さむらいどころ)長官だから、ということで、摂津国へ派遣された。摂津は、父・佐々木道誉(ささきどうよ)が守護職の任にある地ゆえ、国中の勢力を集めて500余騎、忍常寺(にんじょうじ:大阪府・茨木市)に陣を取り、吉野朝軍が眼下に寄せ来たるタイミングをじっと待った。

今川了俊(いまがわりょうしゅん)は、三河(みかわ:愛知県東部)と遠江(とおとうみ:静岡県西部)勢700余騎を与えられ、山崎へ向かった。

吉良満貞(きらみつさだ)、宇都宮貞宗(うつのみやさだむね)、佐々木黒田判官は、大渡(おおわたり:位置不明)へ向かった。

残りの兵1,000余騎は、淀(よど:伏見区)、鳥羽(とば:伏見区)、伏見(ふしみ:伏見区)、竹田(たけだ:伏見区)で待機した。

義詮は、親衛隊1,000余騎と共に、東寺(南区)の中にたてこもった。

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12月7日、吉野朝軍は、淀川を越えた地点で作戦会議を行った。

その場において、細川清氏は、前へ進み出ていわく、

細川清氏 京都に布陣している軍勢の各グループの兵力、兵員メンバーたちの気風、私は、何もかも知り尽くしてますよ。ですからね、皆さん、今回のこの戦、どうか私を信頼していただいて、私の言う通りにしてくださいませんでしょうか。

吉野朝軍リーダー一同 ・・・。

細川清氏 まず、私が、全軍のまっ先切って、山崎へ向かいましょう(注3)。進軍ルート途中の忍常寺に、佐々木高秀が布陣しているようですね・・・兵力何千という数のようですけど、あえて、矢の一本も射てはこないでしょうよ、彼は。

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(訳者注3)原文には、「先(まず)清氏後陣に引へて、山崎へ打通り候はんに」とあるのだが、「後陣」に下がってから山崎へ向かう、というのでは、これ以降のストーリー展開に矛盾するし、この前にある清氏の言葉とも不調和な感じである。ゆえに、ここは訳者の独断で、「全軍のまっ先切って」とした。
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細川清氏 山崎を守っているのは、今川貞世(いまがわさだよ)・・・ですか・・・ま、彼も、どうってこたぁないでしょう(注4)。

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(訳者注4)原文では、「山崎を今河伊予守が堅て候なる。是又一軍までも有まじき者にて候。」。

今川貞世は、出家後、「了俊」の法号を名乗ったが、下記によれば、この話の時点では未だ出家していないので、「貞世」としておいた。

 「ちなみに、貞世であるが、ふつうには、貞治六年十二月、二代将軍義詮の死をきっかけに剃髪出家したときの法号了俊の名の方が有名なので・・・」([駿河・遠江国守護 今川氏 小和田哲男 著)([歴史と旅1997/9/5増刊号 守護大名と戦国大名 秋田書店] 中の150P)
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細川清氏 と、いうわけで、我々はあっという間に、京都中心部に突入、という事になりましょうねぇ・・・さぁ、ここからが大事なポイント、よぉく、聞いといてくださいよ。

細川清氏 京都中心部での戦闘に入ったらね、大和(やまと:奈良県)、河内(かわち:大阪府東部)、和泉(いずみ:大阪府南部)、紀伊(きい:和歌山県)の諸君、全員、馬から下りて、徒歩で進むようにしてくださいな。

吉野朝軍リーダーB えっ、徒歩?

細川清氏 そうです、徒歩です、徒歩で進むんです。まずは、最前線に盾を一面に突き並べ、防御壁を形成する。防御壁の後ろには、槍(やり)と長刀(なぎなた)を持った兵員を、グループ編成して配置・・・そうですねぇ・・・1グループ当たり、500ないし600人くらいの編成でいいでしょう。

細川清氏 向うはきっと、騎馬で、つっかかってくる・・・で、かかってくる馬の、胸先と腹を狙うんだ、槍と長刀でね・・・この戦法、絶対にうまくいきますってぇ・・・馬は続々、倒れていく・・・全員、続々、馬上から跳ね落とされていく。

細川清氏 このようにして、鉄壁の盾の防御壁で守られた槍・長刀部隊を、グイグイ前進させていく。「一足前へ進むとも、一歩も後ろには退かんぞ!」ってな気色を見せ付けてやりゃぁ、向うは、もう二度と、かかってこれなくなってしまう。

細川清氏 向こうがたじろいだその瞬間を逃さず、石塔頼房殿、赤松範実殿、そして私の軍勢を一手に合わせて、イッキに突撃、敵軍の中央を突破。さぁ、そうなったらもう、こっちのマイペース、義詮様の姿を目にしたら最後、将軍もそうそう遠くまでは逃げられない!

細川清氏 どうです? こうやりゃぁ、天下の形成、あっという間に、カタがついてしまうじゃないですかぁ。

吉野朝リーダー一同 その作戦、えぇねぇ! よし、それでいこや!

と、いうわけで、吉野朝軍は、中之島(なかのしま:大阪市・北区)を越え、京都を目指して進軍した。

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その後の展開は、清氏の言葉通りに、推移(すいい)していった。

まず、忍常寺の麓を通過する際には、

吉野朝リーダーC (内心)「佐々木高秀は、矢の一本も射てきぃひん」てな事、細川、言うとったけどなぁ・・・ほんまやろかぁ?

吉野朝リーダーD (内心)佐々木は、侍所長官やでぇ、いくらなんでも、プライドっちゅうもんがあるやろがぁ。

吉野朝リーダーE (内心)こないだの戦では、甥二人、この摂津の地で、楠に討たれてしもてるしなぁ。(注5)

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(訳者注5)36-5 参照。
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吉野朝リーダーF (内心)「今日は、こないだの雪辱戦やぁ!」いうて、おれら待ちかまえとんのん、ちゃうやろか。ものすごい激戦になっていくんやろうなぁ。

しかし、佐々木高秀は細川清氏に圧倒されて臆したのであろうか、矢を一本も射る事なく、おめおめと、吉野朝軍が眼下を通過するのを許してしまった。

吉野朝リーダーC (内心)へぇ、意外な展開になってもた。

吉野朝リーダーD (内心)細川の予想通りに、なってしもたやんけ。

吉野朝リーダーE (内心)そやけど、問題は、この次の山崎や。山崎で、一戦やらかす事になんのんちゃうやろか。

吉野朝リーダーF (内心)今川は、そうそうすぐには、退いてはくれまへんでぇ。

ところが、今川了俊も、「これは、とてもかなわない」と思ったのであろうか、一戦もせずに、鳥羽(とば:伏見区)の秋山(あきやま)へ退いてしまった。

これを見て、あちらこちらに陣を取っている幕府側勢力メンバーは、未だに吉野朝軍が接近しない前から、逃げじたくの他余念無し、といった状態に。

足利義詮 (ガックリ)だめだぁ、こりゃぁ・・・。(天を仰ぐ)

足利義詮 こんなんじゃぁ、とても勝負にならない。よし、とにかく、京都を撤退、関東、北陸からの援軍を待とう。

12月8日早暁、足利義詮は、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)を護衛しつつ、苦集滅道(くずめじ:東山区の清水寺付近)経由で京都を脱出して、瀬田(せた:滋賀県・大津市)へ到着し、そこからさらに移動して、近江の武佐寺(むさでら:滋賀県・近江八幡市)へ入った。

君主と臣下の関係は、舟と水のそれのようなものである。

水は、舟を浮かべる。そして、時には、舟を覆してしまいもする。

一昨年の春、細川清氏は、幕府執事職に就任し、将軍・足利義詮を補佐する立場となった。しかし、今年の冬、清氏はたちまちに幕府の敵となって、将軍を傾け奉った。

この事象を通して、まさに我々は、かの古代中国・唐王朝の名臣・魏徴(ぎちょう)が太宗(たいそう)皇帝を諌(いさ)めたという、貞観政要(じょうがんせいよう)の一節の重さを、思い知らされるのである。(注6)

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(訳者注6)[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店] の[巻三十七 補注二]によれば、貞観政要の巻十、災祥篇に、君主は舟で臣下は水である、というような事が記されてはいるが、それと魏徴とは無関係である、とのことである。よって、ここは、太平記作者のミス記述であろう。
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同日夜、吉野朝軍は京都に進入し、足利義詮邸を焼き払った。

「首都中心部において、戦闘は全く無し、そこから去りゆく軍勢、そこへ進入してくる軍勢、双方共に、住民に危害を加えることも皆無」という、大方の予想に反した展開となり、京都と白川では、つい先日までの騒然とした状態から一変して、静かで落ち着いた状態になった。

京都からの脱出の際、佐々木道誉(ささきどうよ)は、

佐々木道誉 わしんち(我館)は、きっと、あっち側の重要メンバーが占領する事になるんだろうからね・・・。

道誉は、自邸を見苦しくないように清掃させた。そして、六間の客殿に、大きな紋つきの畳を敷き並べ、中央と両脇の掛け軸、花瓶、香炉、茶釜、盆に至るまで、全て準備した。

書院の間には、王義之(おうぎし)筆の草書の偈(げ)、韓愈(かんゆ)の漢文集の掛け軸を、寝所には、沈香(じんこう)製の枕、緞子(どんす)地の絹製の夜具を用意した。

さらに、十二間の夜警室には、鳥、兎(うさぎ)、雉(きじ)、白鳥の肉を3本の棹に懸け並べ、容積3石ほどの大筒に酒を満たし、遁世者二人を留め置いて、

佐々木道誉 誰でもいいから、ここへ来た人には、一献(いっこん)進めるんだぞ、わかったな。

遁世者G ハハッ!(平伏)

遁世者H ハハッ!(平伏)

このように、細々と言い置いた上で、道誉は京都から出ていった。

佐々木邸へ一番に乗り込んできたのは、楠正儀(くすのきまさのり)であった。二人の遁世者が、彼を出迎えた。

遁世者G これはこれは!

遁世者H ようこそ、おこし!

遁世者G まずは、一献、召し上がれ!

楠正儀 なんや? おまえらいったい、ナニモンや?

遁世者H 「きっと、拙宅へもどなたかおこしになるやろから、その方に一献進めよ」と、佐々木道誉様から、しかと申し置かれとりましてなぁ。

楠正儀 へぇー、そないな事言うて、出ていきよったんかいなぁ・・・。

遁世者H はいなぁ。

佐々木道誉は、細川清氏の不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であったから、「佐々木邸、断固、焼き払うべし!」と、清氏らは憤っていた。

しかし、道誉のこの粋なはからいに、正儀は感動し、館をそのままにしておいた。その後も、泉水の樹木一本も損なう事なく、客殿の畳一畳を傷つける事も無かった。

後日、京都を去る際に、正儀は、その礼に応える形で、道誉に邸宅を返却した。すなわち、道誉が用意したのよりもさらに盛大な酒肴を夜警室に取りそろえ、寝所には秘蔵の鎧と銀製の太刀一本を残し、郎等二人を留めおいた上で、佐々木邸を去っていったのである。

世間の声I いやぁ、それにしても、佐々木道誉さん、さすがだわねぇ。

世間の声J たとえ、敵であったとしてもだ、客人に対しては礼儀深く、手厚くもてなすべしってわけだなぁ。

世間の声K ほんと、風情(ふぜい)を解してるというか、なんというか。

世間の声L まさに、最高に、イキナオヒト(粋人)っちゅう、かんじどすなぁ。

世間の声多数・α(アルファ)グループ いやぁ、同感ですぅ。

世間の声M フフフフ・・・。

世間の声L あんさん、なにそないに、笑ぉといやすねん?

世間の声M ウフフフ・・・あのっさぁ、あんたたちってっさぁ、ほんと、アマ(甘)チャンなんだよねぇーぇ。

世間の声J なんでだよ?

世間の声I いったいぜんたい、あたくしのどこが、アマチャンだっていうんです、えぇ?!

世間の声M ウッフッフッフッ・・・。

世間の声J このぉ、ヒト(他人)をバカにしゃがって! ただじゃおかねえぇぞ!

世間の声I あたくたちしのどこが、アマチャンだってんですか、はっきりおっしゃってくださいな、はっきり!

世間の声M あのっさぁ、ようはっさぁ、楠正儀が、バクチに負けたって事なんだっよぉ!

世間の声N バクチ? いったいなんの事どす?

世間の声M 一世一大の大バクチヤロウ・佐々木道誉がうった手に、マンマとハマッちゃってっさぁ、太刀と鎧、取られちゃったんだよぉ、楠はねぇ。

世間の声O なぁるっほどぉ・・・それ、言えてるわなぁ、ウワハハハ・・・。

世間の声P うーん、相当、穿(うが)った見方だけど、なかなかおもしろい見解だね。

世間の声Q はぁ・・・バクチのカタに、鎧と太刀持っていかれてもたんかぁ・・・言われてみれば、そないなフウに、わたいにも思えてきましたわいな、ウワハハハ・・・。

世間の声多数・β(ベータ)グループ いやぁ、同感ですぅ、ウワハハハ・・・。

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