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2018年5月10日 (木)

太平記 現代語訳 37-3 吉野朝軍、京都から撤退

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝側の思惑としては、

 今回の京都奪還に成功し、足利勢力を首都の外へ追いやってしまいさえすれば、自然に事は成っていくであろう。あの元弘(げんこう)年間の打倒・鎌倉幕府の時と同様、全国の武士たちが、幕府支持勢力からこぼれ落ちて、こちらサイドになびいてくるであろう。

と、いう事であった。

ところが、案に相違して、新たに帰参してくる武士は、誰もいない。

九州の菊池(きくち)、伊予(いよ:愛媛県)の土居(どい)、得能(とくのう)、周防(すおう:山口県南部)の大内(おおうち)、越中(えっちゅう:富山県)の桃井(もものい)、そして、新田義宗(にったよしむね)、脇屋義治(わきやよしはる)をリーダーと仰ぐ新田一族など、吉野朝サイドの武士は、全国に数多くいるのだが、ある者は京都までの途中の道を塞がれ、ある者は勢力未だ十分ならず、誰も、京都までやってはこれないのである。

さらに、伊勢(いせ:三重県中部)の仁木義長(にっきよしなが)は、土岐頼康(ときやすより)が築いた向かい城の攻略を試みるも敗北し、再び、城に引きこもらざるをえなかった。

山陰地方の山名時氏(やまなときうじ)は、しばらく兵の疲れを休めなければ、ということで、美作(みまさか:岡山県北部)から撤退し、伯耆(ほうき:鳥取県西部)へ帰還した。

赤松範実(あかまつのりざね)は、養父・赤松則祐(のりすけ)からの様々の勧誘と宥(なだ)めに応じて、再び、播磨(はりま:兵庫県西部)へ戻ってしまった。

これらの情報をキャッチした全国の足利サイド勢力は、またまた、元気がわいてきた。

足利側勢力メンバー一同 勢力挽回のチャンス、来たぁー!

「さぁ、京都へ攻め上れ!」と、越前(えちぜん:福井県東部)からは斯波高経(しばたかつね)の子息・斯波氏頼(うじより)が3,000余騎を率いて、近江(おうみ:滋賀県)の武佐寺(むさでら:滋賀県・近江八幡市)(注1)へかけつけてきた。

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(訳者注1)37-2 で、京都を離れた足利義詮は、ここに移動している。
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佐々木高秀(ささきたかひで)(注2)と小原備中守(こはらびっちゅうのかみ)は、白昼堂々、京都の中を通過して、佐々木道誉(ささきどうよ)の軍に合流。道誉は、その軍勢を合わせて700余騎の勢力を率い、野路(のじ:滋賀県・草津市)、篠原(しのはら:滋賀県・野洲市)で、友軍の到着を待った。

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(訳者注2)37-2 では、忍常寺(大阪府・茨木市)に布陣した、とある。ここから北東に進んで京都へ至り、京都の中心部を通って滋賀県へ移動した、という事であろう。
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土岐(とき)氏・桔梗一揆(ききょういっき)武士団は、伊勢に築かれた[対・仁木義長攻略・向かい城]から500余騎を割き、鈴鹿(すずか)越えルート経由で近江へ進軍し、篠原宿で佐々木軍に合流した。

この他にも、佐々木崇永(ささきそうえい)、今川了俊(いまがわりょうしゅん)、宇都宮三河入道(うつのみやみかわにゅうどう)率いる軍勢1万余騎が、12月24日、武佐寺を出発、同月26日、その先陣が、瀬田(せた:滋賀県・大津市)に到着した。

丹波(たんば:京都府中部+兵庫県東部)からは、仁木三郎(にっきさぶろう)が、山陰道方面の勢力700余騎を率い、京都めざして攻め上ってくる。

播磨からは赤松軍が、二方面進軍作戦を展開、赤松貞範(さだのり)と赤松則祐が率いる1,000余騎は、陸路で京都を目指し、兵庫(ひょうご:神戸市・兵庫区)に到達。赤松氏範(うじのり)率いる500余騎は、軍船を仕立てて大阪湾を横断、堺(さかい:大阪府・堺市)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ上陸して、吉野朝廷の後村上天皇を捕ら、楠(くすのき)らの退路を塞いでしまえと、ひたひたと、海路を進んでくる。

「とにかくがんばって、首都さえ掌握していれば、何とかなるだろう」と、最初のうちは言っていた吉野朝サイドのリーダーたちも、「四方から、敵軍、雲霞(うんか)のごとく、京都に迫りつつあり!」との情報に、

吉野朝軍リーダーA 京都占拠にこだわり続けんのんも、あんまし、得策とは言えんわなぁ。

吉野朝軍リーダーB このままでは、今回の作戦の成果を、いっぺんに帳消しにしてまう事に、なるかも。

吉野朝軍リーダーC 同感です。ここはいったん全軍、本拠地へ退いた上で、後日の再攻勢を期すべきでしょう。

吉野朝軍リーダーD 四国と九州に大将クラスの人間を派遣して、現地の我がサイド勢力と協力し、その地方を完全に制圧してしまう。さらには、越前、信濃(しなの:長野県)の勢力、山名や仁木ともしめしあわせた上で、再度、京都を制圧する、というのが、よろしいかと。

吉野朝軍リーダー一同 よし、それで行こ!

12月26日夜、吉野朝軍は京都を撤退、宇治(うじ:京都府・宇治市)を経由して、天王寺、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)へ帰還した。

同月29日、それと入れ替わりに、足利義詮は京都へ帰り、首都を奪還した。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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