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2018年5月10日 (木)

太平記 現代語訳 37-5 大将の選定に関する考察(付 高祖と項羽の議帝擁立の逸話)

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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全軍を率いる大将を選ぶに際しては、それなりの方策というものがある。それを無視して不適切な人物を選んでしまうと、戦には勝利できない。

天下が既に平定され、文治をもって世を治めるべき時節においては、智慧のある人材を求める事が最優先課題となる。更に、統治の根本イデオロギーとしては、「仁義」を前面に掲げるべきである。

それゆえ、今まで敵サイドにいた者をも許容し、その人に政治上の重要な任務を与え、統治の手腕を存分に揮(ふる)わせる、といったケースが多々見られる。

その例として、まずは、魏徴(ぎちょう)。彼は、楚(そ)の君主の旧臣であったが(注1)、唐(とう)王朝の太宗(たいそう)は、魏徴を重く用いた。

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(訳者注1)「楚の君主の旧臣」とあるのは、太平記作者の誤りである。
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次に、管仲(かんちゅう)。彼は、公子・糾(きゅう)の寵人(ちょうじん)であったけれども、斉(せい)の恒公(かんこう)は、彼を賞した。(注2)

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(訳者注2)[斉]の君主位の継承者という点において、[公子・糾]と[公子・小白(後の桓公)]は、ライバルの関係にあった。
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逆に、天下未だ混乱状態にして定まらず、というような時節においては、武力をもって世の中を制圧していくより他に道はない。そのような時においては、功績ある者を賞し、咎(とが)ある者を処罰する、といった事が、何よりも重要となってくる。ゆえに、いかなる威勢持つ者であったとしても、降伏してきた人物を大将にすべきではない。

伝え聞くところによれば、秦(しん)帝国の左将軍・章邯(しょうかん)は、自らが率いる40万の兵を引き連れて楚(そ)に降伏したが、項羽(こうう)は、章邯に大将の位を与えなかった。

かの項伯(こうはく)は、鴻門(こうもん)の会見の際、漢(かん)の高祖(こうそ)に心を通じ、彼を助けた。(注3)しかし、項伯が漢に降伏した後、高祖は、項伯に対して、諸侯としての位や領地を与えなかった。

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(訳者注3)28-7 参照。
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このような歴史上の教訓を、吉野朝側の諸卿の誰もが、知っていたであろう。なのに、彼らは、大将選任の失敗を、何度も何度もくりかえしてしまったのである。

まずは、足利直義(あしかがただよし)。彼に対して大将の称号を授け、その兄・尊氏(たかうじ)を討たせようとしたが、ついに実現しなかった。

次に、足利直冬(あしかがただふゆ)。大将の称号を許し、父・尊氏を討たせようとしたが、これも実現しなかった。

更には、仁木義長(にっきよしなが)をも大将に任命し、足利政権の転覆を試みたが、これも失敗に終わった。

今また、細川清氏を大将に任命し、細川家の先祖代々が主君と仰いできた足利家の当主・義詮(よしあきら)を亡さんとしたが、これもまた、失敗に終わった。

これら度重なる失敗の根本原因は、火を見るよりも明らか、大将の選定にある。

前述の理論に反するような大将選任を行い、父兄の道を違えるような行為、主従の義に背くような行為の後押しをしようとしたゆえに、天からの咎めを受けたのである。

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古の世においても、天下を取ろうと願う人は、大将の選定に心したのである。

古代中国・秦帝国の時代、陳渉(ちんしょう)(注4)という者が、「始皇帝(しこうてい)が築いた帝国を、くつがえしてしまえ!」と、自ら大将の印を帯び、大澤(たいたく)という所で旗上げしたが、ほどなく、秦の右将軍・白起(はくき)によって討たれた。

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(訳者注4)別名「陳勝」。[陳勝・呉広の乱]のリーダーである。「白起によって討たれた」とあるのは、太平記作者の誤りである。
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その後、項梁(こうりょう)という者が、自ら大将の印を帯び、楚において旗揚げしたが、秦の左将軍・章邯に討たれてしまった。

項梁の旗の下に集まっていた項羽、高祖らは色を失い、「こうなったら、いったい誰を大将にいただいて、秦を攻めたらよいのだろうか」と、相談しはじめた。

その時、范増(はんぞう:注5)という当年73歳の老臣が、座中に進み出ていわく、

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(訳者注5)28-7 に登場。
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范増 天と地との間における、様々の勢力の興亡、それらはすべからく、理法に依って推移していくのでござる。

対秦帝国・反乱軍リーダー一同 ・・・。

范増 楚は、人口少なき小国ではあるが、かの秦帝国を滅ぼす人は必ずや、楚王の子孫であろう。

対秦帝国・反乱軍リーダー一同 ・・・。

范増 それはいったい何故かといえば・・・秦の始皇帝、かの戦国六大国を亡ぼし、天下を併呑(へいどん)せし際、楚の懐王(かいおう)は、最後まで、秦に背く事は無かった。にもかかわらず、始皇帝は、これといった理由もないのに、懐王を殺し、楚の地を奪ったのである。ゆえに、この行為による罪は秦側に存在し、逆に、善は楚に残っている、といえようかのぉ。

范増 ゆえに、秦を討たんとするならば、なんとでもして、楚の懐王の子孫を一人、頭に仰ぎ、全員、彼の命に従えばよい。

項羽 なるほど!

高祖 (内心)なかなか、良き事をいうではないか、あの范増という男。

項羽 よぉし、では、楚の懐王の子孫を探し出すとしよう。

その結果、懐王の孫・孫心(そんしん)という人が見つかった。彼は、久しく民間に下り、羊を養いながら生きていた。

項羽、高祖らは、孫心を自分たちのリーダーにかつぎあげて、「義帝」と号し、全員等しく、彼の命につつしみ従った。(注6)

その後より、漢と楚の軍は、大いに勢いに乗り始め、秦側は連戦連敗、ついに、秦帝国は滅亡した。

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(訳者注6)ここでは、太平記作者が様々にミスっているようだ。

司馬遷著の「史記・項羽本紀」によれば、范増がこの提案を行ったのは、陳渉の死の直後のタイミングであり、その時、項梁はまだ生きている。しかも、提案を行った相手は、項梁その人なのである。(以下、[史記 上 司馬遷 著 野口定男・近藤光男・頼惟勤・吉田光邦 訳 平凡社] 102P より引用)

 「・・・范増はときに歳七十、平素だれにも仕えず、奇計を好んだが、でかけていって項梁に説いた。「陳勝がやぶれたのは当然のことです。秦は六国を滅ぼしましたが、その六国のなかで、楚が最も罪がなかったのです・・・。」

 「項梁は、その言葉のとおりだと思って、楚の懐王の孫の心(しん)が民間にあって人に雇われて羊を牧しているのを見つけだして、立てて楚の懐王とした。」
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この故事をもってして、つくづくと考察してみるに・・・故・新田義貞(にったよしさだ)・脇屋義助(わきやよしすけ)兄弟は、後醍醐先帝(ごだいごせんてい)の股肱の臣(ここうのしん)として、その武功は天下に並びないものがある。

彼らの子息・新田義宗(よしむね)と脇屋義治(よしはる)は、越前(えちぜん:福井県東部)にいる。両人共に、武勇の道は父に劣らず、才智の面においてもまた、世に恥ずるものはない。

彼らを召して天皇のお側近くに仕えさせ、武将に任命して軍事面を委託していったならば、きっと、うまくいっていたであろうに・・・新田家を軽んじる者など、この世の中には誰一人としていないのだから・・・新田義宗と脇屋義治は必ずや、亡父の旧功の上に、更なる武功を積み重ねていったであろうに。

なのに、彼らをさしおいて、降参不義の人間を、大将に任命したのであった。

このような事をしていたのでは、吉野朝の天皇が天下を奪回する可能性は、0.1%すらも無い。

いったんは戦いに勝ったが、すぐさま、首都を足利幕府に奪い返されてしまったのも、当然の結果であろう。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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