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2018年6月26日 (火)

太平記ゆかりの地 1 天皇・上皇が住んでいた場所

太平記ゆかりの地 インデックス

[後醍醐天皇]が天皇位についた場所は、現在の[京都御所]の中ではない。

以下、下記の文献に記述されている内容を参照しながら、述べる。

 文献1:[都市の中世 中世を考える 五味文彦 編 吉川弘文館]
       中の
     [Ⅰ 平安京と中世京都 / 四 内裏と院御所 近藤 成一 著]

 文献2:[後醍醐天皇 森 茂暁 著 中公新書 中央公論新社]

[文献1]78P によれば、[後醍醐天皇]が「受禅」した場所は、[冷泉富小路内裏]であるという。この不動産(内裏)の位置は、現在の[京都御所]よりも南方である。

([受禅]とは、先帝の譲位を受けて帝位につくことを意味する。)

即位した後も、[冷泉富小路内裏]の中に住み続けて、天皇の仕事を行ったのだそうだ。太平記の最初の方に、[後醍醐天皇]が政務を行っている様子が記されているが、その現場は、この[冷泉富小路内裏]、ということになるだろう。

[後醍醐天皇]は、[大覚寺統]に所属していると言われてきた。しかし、上記に見るように、[後醍醐天皇]は[大覚寺]に住んでいたのではない。

[持明院統]および[大覚寺統]とは、鎌倉時代のある時期に発生した、天皇家の中の2つの家系のことである。

[後嵯峨天皇]には、天皇位についた2人の息子がいた、すなわち、[後深草天皇]と[亀山天皇]である。後に、この2人の子孫の中から、天皇になる人々が現れた。

[後深草天皇]をルーツとする家系の方は、[持明院統]と呼ばれ、
[亀山天皇]をルーツとする家系の方は、[大覚寺統]と呼ばれるようになった。

上記に述べたように、[後醍醐天皇]は、[大覚寺統]の方に属しているのだが、[光厳天皇](鎌倉幕府が倒された時に、天皇だった)は、[持明院統]に属している。

この天皇家の中の2つの家系の対立関係が、太平記に描かれている様々な争乱の根底となっていったのであった。

[文献1]によれば、この時代の天皇たちがいた場所は

 [冷泉万里小路殿]
 [二条高倉殿]
 [冷泉富小路殿]
 [持明院殿]

などであるという。

[文献1]76P に、これらの不動産(殿)の位置が、分かりやすく記述されている。ネット地図と照合して調べたところ、そのほとんどが、現在の京都市の上京区および中京区のエリア内にある。

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[持明院統]と[大覚寺統]は、大きな誤解を招く用語であると、私には思われる。

いったいなぜ、[後醍醐天皇]が所属する側の家系を、[大覚寺統]と呼ぶようになったのか?

[後醍醐天皇]の父・[後宇多天皇]は、退位・出家した後、1307年、[大覚寺](京都市・右京区)に入り、ここの門跡(トップ僧侶)になった。大覚寺に入った後の期間も含め、2度、[治天の君]として(上皇あるいは法皇として)、最大の政治権力を持っていた期間がある。

それで、[後宇多天皇]が所属する家系の方を、[大覚寺統]と呼ぶようにしよう、ということになったらしい。いつごろ誰が、最初にこのように呼び始めたのか、そこまでは、私には分らない。

天皇家の中に2つの家系(後深草天皇の家系と亀山天皇の家系)の対立が萌芽し、それが終結するまでの期間を、下記のように設定してみよう。

萌芽
 1258年 恒仁皇子が皇太子に就任。齢10歳。
 1260年 後深草天皇が、天皇位を、皇太子に譲り(譲るように仕向けられた?)、皇太子が天皇に就任(亀山天皇)。

終結
 1392年 南朝の後亀山天皇(大覚寺統)が、京都に帰還して、北朝の後小松天皇(持明院統)に、三種の神器を譲って退位。

よって、対立の萌芽から終結まで、およそ134年間( = 1392 - 1258 )を要した、ということになる。

ところが、[文献2]によれば(23P ~ 61P)、

[大覚寺]の門跡になった後に、[後宇多法皇]が[治天の君]として院政を行った期間は、

 1318年 ~ 1321年

たった、3年だけである。

だから、この2つの家系の対立の、萌芽から終結までの期間のうち、[大覚寺]に、日本の最大政治権力を持つ人、すなわち、[治天の君]がいた期間は、たった3年だけだった、ということになる。期間の長さ比率でいえば、たったの、2% に過ぎない。(3 / 134 about= 0.0224)

[持明院殿]に、[持明院統]の天皇が暮らし始めた期間も、実は、だいぶ後になってからである。

[文献1]83P によれば、1302年に、[伏見上皇]が[持明院殿]に移り、そこを御所としてから、であるという。

[持明院統]、[大覚寺統]と、言われると、この時代の天皇・上皇は代々、[大覚寺]や[持明院殿]で寝起きし、自らの政務オフィスをそこに置いて、そこで政務を行っていたかのような錯覚を起こしてしまわないだろうか?

「統」という言葉にも、何か、分かりにくいものを感じる。

よって、[持明院統]、[大覚寺統]という用語を使うよりも、[後深草系]、[亀山系]と呼ぶようにする方が、より、実情を反映して分かりやすいのではないかと、私は思うのが、どうだろう?

さて、前置きはこれくらいにして、(ずいぶんと長い前置きになってしまった)、この時代に、天皇や上皇が政務オフィスを置いていた、いくつかの京都市内の不動産の現地(正確に言うならば、跡地)を、見てまわることにしよう。

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1.持明院殿

(文中に挿入されている写真画像は、私が、2018年6月に撮影したものである。)

[文献1]中の「持明院殿」の説明(83P)には、下記のようにある。

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 「持明院統とその名称の由来する持明院殿との関係は意外に新しい。正安四年(一三〇二)伏見上皇が持明院殿に移りその御所として用いたのが始まりである。」

 「ここはもと持明院基家(もといえ)の殿第であった。基家の娘陳子が後高倉院の妃となったために、後高倉院は持明院殿に寄住し、「持明院宮」と称された。・・・」
========

持明院基家の娘と天皇の婚姻により、この不動産は天皇家の財産になったのであった。

[持明院家]は、藤原道長の子孫であるようだ。

さて、その[持明院殿]は、京都市内のどのあたりにあったのか?

京都市・上京区に、[光照院]という寺院がある。([京都市 上京区 新町通 上立売上る 安楽小路町])

そこの門の付近に、下記のような碑がある。

P1A1 碑

P1a1_3

「持明院仙洞御所跡」と彫られている。

[仙洞御所](せんとうごしょ)とは、譲位して元・天皇(上皇あるいは法皇)になった人が住む不動産のことである。

この寺の門の付近にある説明板(下記の映像中に写っている)には、

 「この地にもと持明院殿の持仏堂安楽光院がたっていたため、一時は安楽光院とも称した。」

と、ある。

P1A2 門の付近にある説明板

P1a2_2

上記より、[持明院殿]は、この寺の付近にあった、ということが分かった。

ネット地図を使用して、[京都市 上京区 安楽小路町 光照院]とインプットすれば、その位置を確認することができるだろう。

P1A3 光照院の門

P1a3_2

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2.冷泉富小路殿

(文中に挿入されている写真画像は、私が、2018年6月に撮影したものである。)

[文献1]76P の図によれば、この不動産(殿)の位置は、下記4本の道路に囲まれたエリア、ということになる。

 北側:冷泉小路(現在の夷川通)
 南側:二条大路(現在の二条通)
 東側:東京極大路(現在の寺町通)
 西側:富小路(現在の富小路通)

そのあたりに行き、下記のような碑を見つけた。([富小路通]と[夷川通]が交差する地点から、[富小路通]ぞいに南方へ行った場所)

P2A1

P2a1_2

「二條富小路」という文字だけが見えており、その下の部分が植物の葉に隠れてしまっている。

碑の側にこのように植物があるのは、地元の方々によって植えられ、手入れされているのであろうか。とてもいい感じ。

この碑にある全ての文字を見たい人は、[京都市 二条富小路内裏址 碑文]でネット検索すれば、それが可能になるのでは、と思う。

[文献1]中の「冷泉富小路殿」の説明(82P ~ 83P)には、下記のようにある。

========
 「徳治元年(一三〇六)冷泉富小路殿は焼亡する。文保元年(一三一七)、その故地にかつての閑院内裏に匹敵する恒常的な内裏として冷泉富小路内裏が建設され、花園天皇ついで後醍醐天皇の内裏として用いられることになる。」
========

このように、[文献1]では、「冷泉富小路内裏」と記されており、碑には、「二條富小路内裏」と彫られている、という違いはあるが、両者、同じ不動産のことを言っているのであろう。この不動産の北側には[冷泉小路](現在の夷川通)があり、南側には[二条大路](現在の二条通)があるのだから。

このあたりには、かつて、[京都市立商業實修學校]という教育施設があったようだ。

P2A2

P2a2_2

付近に、イチョウの木があった。

P2A3

P2a3_2

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3.冷泉万里小路殿

[文献1]76P の図によれば、この不動産(殿)の位置は、下記4本の道路に囲まれたエリア、ということになる。

 北側:大炊御門大路(現在の竹屋町通)
 南側:冷泉小路(現在の夷川通)
 東側:万里小路(現在の柳馬場通)
 西側:高倉小路(現在の高倉通)

このあたりをめぐってみたが、それらしき碑を見つけることができなかった。

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4.二条高倉殿

[文献1]76P の図によれば、この不動産(殿)の位置は、下記4本の道路に囲まれたエリア、ということになる。

 北側:二条大路(現在の二条通)
 南側:押小路(現在の押小路通)
 東側:高倉小路(現在の高倉通)
 西側:東洞院大路(現在の東洞院通)

このあたりをめぐってみたが、それらしき碑を見つけることができなかった。

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5.大覚寺

上記にも述べたように、ここは、太平記とはあまり関係が無い場所なのだけど、名前が出たついでに、過去に、私が現地で撮影した写真画像を添えて、述べてみたい。

入口は、こんなかんじだ。

P5A1 (2008年1月 に撮影)

P5a1_2

P5A2 (2008年1月 に撮影)

P5a2_2

大覚寺の中の当時の建物は、1336年の火災により、ほとんどが焼失してしまった、という。

この寺の大きな魅力は、境内にある大きな池であると、私は思う。池の名前は、[大沢池]。

寺の建物の中から見ても美しいし、池の周囲を歩きながら見ても美しいと、思う。

P5B1(2005年5月 に撮影)

P5b1_2

P5B2(2005年5月 に撮影)

P5b2_2

[大沢池]の周囲にはサクラが多くある。春のサクラ開花シーズンに行った時には、圧巻の景観を楽しむことができた。

カエデもある。紅葉した時には、下記のようなかんじであった。

P5C1(2006年12月 に撮影)

P5c1_2

[大沢池]のほとりに、[名古曽の滝跡(なこそのたきあと)]というのがある。

P5D1(2017年4月 に撮影)

P5d1_2

P5D2(2017年4月 に撮影)

P5d2_2

[百人一首]中の、[藤原 公任](ふじわらのきんとう)の歌、

 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
  名こそ流れて なほ聞こえけれ

で、知られている滝の跡なのだそうだ。

大覚寺の公式サイト中の説明によれば、

 奈良国立文化財研究所による発掘調査で、中世の遣水が発見され、現在の様相に復元された

のだそうである。

中秋の名月の日には、この池で観月会が行われる。[大覚寺 観月の夕べ]でネット検索すれば、それに関連する情報を得ることができると思う。

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6.後宇陀天皇の陵

太平記からはますます、関係希薄となっていくのだけど、

[大覚寺]の北東方向に、[後宇陀天皇]([後醍醐天皇]の父)の陵(墓)がある。ネット地図で、[後宇陀天皇 蓮華峰寺陵]とインプットすれば、その位置を知ることができると思う。

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7.広沢池

ネット地図で、大覚寺付近を見てみると、[大沢池]の東の方に、別の池があるのが分かると思う。[広沢池]だ。

過去に、[広沢池]と[大覚寺]の間を、歩いたことがある。田園地帯の中を行く道で、自分の好みのルートだと思った。

途中には、下記のような景観もあった。

P6A1(2012年10月に、私が撮影した)

P6a1_2

下記は、[広沢池]のほとりで、2008年10月に、私が撮影した写真画像である。

P7A1

P7a1_2

P7A2

P7a2_2

P7A3

P7a3_5

[五山送り火]が修される夜、ここで、[とうろう流し]が行われる。

[広沢池 灯籠流し]でネット検索すれば、それに関連する情報を得ることができると思う。

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