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2018年6月11日 (月)

太平記 現代語訳 39-9 元寇の時に、あった事

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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(訳者前置き)読者は思われるかもしれない、「いったいなぜ、前章の「高麗から使者来たる」に続き、ここで唐突に、元寇の話が始まるのであろうか?」と。その疑問は、次章の末尾に至ってはじめて、解決するであろう。
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つらつら、三余(さんよ:注1)の暇(いとま)に寄せて、千古(せんこ)の記する所を調べてみるに、海外からの日本への攻撃は、天地開闢(てんちかいびゃく)以来、既に7回に及んでいる。

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(訳者注1)[冬]と[夜]と[雨の日]。
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中でも特筆すべきは、文永(ぶんえい)年間と弘安(こうあん)年間の2度の元寇(げんこう)であろう。

元の老皇帝・クビライ、中国全土四百州を平らげ、勢い天地を凌(しの)ぐというまさにその時、日本は、この元帝国の脅威にさらされた。

小国日本の力をもってしては退治しがたい相手であったが、たやすく元軍の兵を亡ぼし、わが国の独立を維持できたのは、ただただ、尊神霊神(そんしんれいしん)の冥助(みょうじょ)のおかげである。

一連の流れを追えば、以下のようになる。(注2)

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(訳者注2)太平記の以下の記述は、史実と食い違う箇所が多々あるので、これを信用しない方がよい。
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元帝国の大将・萬将軍(まんしょうぐん)は、日本の畿内5か国の面積を3700里四方と見積もり、そこに、びっしりと隙間無く兵を立ち並べた、と仮定しての必要兵力を算出、その結果は、「必要兵力=370万人」と出た。

この大軍が、大船7万余隻に乗り、津々浦々から出撃したのである。

元帝国のこの「日本列島制圧プラン」に関しては、日本側も、以前から様々に情報を得ていたので、「さぁ、一大事、国土防衛の準備をせよ!」と、四国や九州の武士たちは、筑紫の博多(はかた:福岡県・福岡市)に馳せ集まり、山陽、山陰の勢力は、京都に馳せ参じた。東山道、北陸道の武士たちは、越前の敦賀津(つるがのつ:福井県・敦賀市)の防備をかためた。

やがて、文永2年8月13日、元軍7万余隻の軍船が、同時一斉に、博多の津に押し寄せてきた。

大船がずらりと並び、船どうしを繋ぎ合わせて自由に歩み渡れるように板を渡してある。陣営毎に油幕(ゆばく)を引き、矛を立ち並べている。まるで、五島列島(ごとうれっとう)の東方から博多の海岸に至るまで、海上300余里四方が突然、陸地となり、まるで蜃気楼(しんきろう)が起こっているのかと怪しまれるほどである。

日本軍側の陣の構えはといえば、博多の海岸に沿って13里に渡り、石の防塁(ぼうるい)を高く築いている。防塁の前面は切り立っていて、敵を防ぐに都合よく、後面は平らになっており、移動しやすい。防塁の後方に、塀を建て、陣屋を作り、数万の武士が並び居る。

日本軍側は、何とかして、自軍の兵力を元軍側に知られないようにしようとしていた。

しかし、それは空しい期待というもの、元軍側は、船の舳先(へさき)にハネツルベのような柱を数10丈の高さに立て、その上に取り付けられた横木の上に座席をしつらえ、そこに物見の兵を登らせている。高所から日本軍側陣を見下ろす形勢となるから、細部に渡り、手に取るように、日本軍側の状況を把握する事ができる。

また、4~5丈ほどの広さの板を、筏のように組み合わせて水上に敷き並べているから、波の上に平らな道路が多数出来上がったような形となっている。あたかも、京都の三条の広道、長安の都の12の道路のごとくである。

この道路を通って、元軍側は、数万の兵馬を繰り出し、死をもかえりみず、戦いをしかけてくる。日本軍側は苦戦を強いられ、メンバーの大半は、士気が衰えていく一方。

太鼓を打って兵刃(へいじん)まさに交わらんという時に、元軍側は、「テッパウ」という武器を使う。それは、毬(まり)くらいの大きさの鉄球、その破壊力は、坂を転げ落ちる車輪のごとく、閃光(せんこう)きらめくこと電光のごとし。

一回の射撃毎に、この「テッパウ」がなんと、2~3,000個も射出されてくるのである。そのたびに、日本軍側は多数が焼殺され、木戸や櫓にも火が燃えつき、それを消火しているいとまもない。

上松浦(かみまつら)と下松浦(しもまつら)の武士たちは、この戦闘の成り行きを見て、「オーソドックスな戦い方をしていたのでは、とても勝ち目が無い」と思い、わずか1,000余人でもって、外海を迂回し、夜襲をしかけた。

その志の程はまことに武(たけ)しといえども、九牛(きゅうぎゅう)の一毛(いちもう)、大倉(たいそう)の一粒(いちりゅう)にも当たらぬほどの小勢であるからして、どうにもならない。

元軍側の兵2~3万人を死に至らしめたものの、ついに、全員生け捕りとなり、縄で縛られ、手を綱で結えられ、舷側(げんそく)に繋がれてしまった。

こうなってしまっては、もはや誰も、戦闘を継続する事ができない・・・筑紫九州の武士たちは、一人残らず、四国地方、中国地方へ逃亡してしまった。

日本の貴賎上下は、「いったいどうすればよいのか!」と周章狼狽(しゅうしょうろうばい)すること、著しい。諸社への行幸、諸寺への大法秘法の執行要請と、時の天皇は苦悩し、肝胆(かんたん)を砕いた。日本60余州の大小の神祇(じんぎ)、霊験あらたかなる仏閣(ぶっかく)に勅使を送り、奉幣を捧げた。

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外敵退散・祈祷の開始より7日目、諏訪湖(すわこ:長野県)上に、異変が起った。五色の雲が西方にたなびき、大蛇の形に見えるのである。

さらに、異変は首都の近隣においても。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府・八幡市)の宝殿の扉が自動的に開き、馬の馳せる音、くつばみの鳴る音が、虚空に満ち満ちた。

比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県・大津市)日吉(ひえ)21社の錦帳(きんちょう)の鏡が振動、神宝の刃が自動的に研がれ、御沓(みくつ)が全て、西向きになった。

住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)の4つの社においても、神馬の鞍の下に汗が流れた。

吉野山(よしのやま:奈良県・吉野郡・吉野町)の小守明神(こもりみょうじん)と勝手明神(かってみょうじん)の鋼鉄の盾が自動的に立ち上がり、元軍のいる方角に向かってつき並べられたような格好になった。

その他、上中下22社の振動奇瑞は言うに及ばず、神名帳に記載されている3750余社をはじめ、山里村里の小さい祠(ほこら)、樹木神、道祖神(どうそしん)のような小神に至るまで、ことごとく、御戸(みと)が自動的に開いた。

この他にも、奈良・春日野(かすがの:奈良市)の神鹿(しんろく)、熊野山(くまのさん:和歌山県)の霊烏(れいう)、越前敦賀・気比神宮(けひじんぐう:福井県・敦賀市)の白鷺(しらさぎ)、伏見稲荷社(ふしみいなりしゃ:京都市・伏見区)の狐、比叡山の猿等、諸々の神の使者ことごとくが、虚空を西方へ飛んでいくのを、万人が夢に見た。

「これらの神々の助けを頂いて、侵攻してきた賊を退ける事が、きっとかなうであろう」との期待だけを頼みにして、みな、神社に幣を捧げた。

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このような中に、弘安4年7月7日、伊勢神宮(いせじんぐう:三重県・伊勢市)の禰宜(ねぎ)・荒木田尚良(あらきたのひさよし)と豊受太神宮(よとうけだいじんぐう(外宮):伊勢市)の禰宜・度会貞尚(わたらえのさだひさ)ら12人が、連署の起請(きしょう)をもって、朝廷に対し、以下のような事を上奏してきた。

 「伊勢神宮および豊受太神宮の末社である「風の社(かぜのみや)」の宝殿が、突如、鳴動しはじめました。鳴動は長く続きました。6日の暁、神殿から赤い雲が一群立ち上り、天地を輝かし、山河を照らしました。その光の中から、夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)のごとき青色の鬼神が出現し、土嚢(どのう)の結目(ゆいめ)を解きました。その土嚢の口から、火風が吹き出、砂を巻き上げ、その強風でもって、大木が根っこから抜けました。」

 「これをもって思うに、九州に攻めよせてきよった外国の者らは、この日すぐに滅ぶべし、という事でしょう。もしも、これが実現し、確かにこれが奇瑞やった、という事が証明された暁には、以前からお願いしておりましたところの宮号(みやごう)の件、陛下よりのご裁決、どうかよろしく、お願い申し上げます。」

やがて、元軍・萬将軍は、船団7万隻の船のいかりを一斉に上げさせ、8月17日午前8時、門司(もじ:福岡県・北九州市)、赤間が関(あかまがせき:山口県・下関市)を経て、長門(ながと:山口県北部)、周防(すおう:山口県南部)の沿岸への移動を開始。

「いよいよ元軍、上陸開始!」というまさにその時、それまで、風も無く、雲静かであった天候が一変、黒雲一群が、北東方向からムクムクと立ち上りだした。

そして、いきなり、強風が荒れ狂いだした。

逆巻く波は天にも届くかと漲(みなぎ)り、雷鳴は鳴り響き、電光は大地に激烈する。大山もたちまちに崩れ、高天も大地に墜落するかと思われるほどの激しさである。

元軍7万余隻の軍船は、荒磯(あらいそ)の岩に当たって、こっぱみじんに打ち砕かれ、あるいは、逆巻く波に転覆。

元軍の兵は、一人残らず死んでしまった。

萬将軍一人だけは、大風にも吹き飛ばされず、波の下にも沈まず、暗く深い大気中に、飛揚して立っていた。

そこに、呂洞賓(りょとうひん)という仙人が、西天の彼方より飛来してきて、萬将軍にいわく、

呂洞賓 日本全土の天神地祇(てんちじんぎ)3,700余社が来って、この暴風を起こし、逆浪(げきろう)を海に漲らせしめたのだ。もはや、人力の及ぶ所ではない。あんたは早いとこ、難破船に乗って、元に帰りなさい。

萬将軍 ・・・。

呂洞賓 早いとこ、元に帰りなさい!

萬将軍 はい。

萬将軍は、彼の言葉を信じ、難破船を見つけてそれに乗り、たった一人で太洋万里の波涛をしのぎ、程無く、明州の津に漂着した。

船から上がり、帝都へ行こうと思っている所に、またもや、呂洞賓が現われていわく、

呂洞賓 あんたは、日本との戦に負けてしまった。皇帝は怒って、あんたの親類骨肉すべて、三族皆殺しの刑に、処してしまったよ。

萬将軍 え! なんだって!

呂洞賓 あんたは、都には帰らん方がいい、帰れは必ず、処刑されるからな。

萬将軍 では、この先、どうすれば?

呂洞賓 早いとこ、ここから剣閣(けんかく)を経て、蜀(しょく)の地に逃げなさい。あそこの王は以前から、あんたを大将に任命して、雍州(ようしゅう)を攻めたいと切望している。あそこに行ったら、必ず、大功を立てることができるだろうよ。

萬将軍 わかりました、お言葉通りにいたします。

呂洞賓 さてと・・・なにか、はなむけに贈りたいと思うのだが・・・。(袋の中を探る)

呂洞賓の手 ゴソゴソ・・・

呂洞賓 あいにく、これしかないなぁ。

呂洞賓が袋から取り出したのは、一袋の膏薬(こうやく)であった。銘には、「至雍発」と書いてある。

萬は、呂洞賓のアドヴァイスに従い、蜀へ赴いた。

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呂洞賓の予言通り、萬将軍は、蜀王の大歓迎を受けた。

蜀王は直ちに、萬に上将軍の位を授け、雍州攻めを指揮させた。

萬将軍は、兵を率いて行軍を続け、雍州に至った。

雍州軍側は、高くそびえた山の上に石の門を閉じて待ち構えていた。まさにあの李白(りはく)の詩、「一夫(いっぷ)怒って関に臨めば、万夫(ばんぷ)も傍(そ)うべからず」さながらである。

萬将軍は、呂洞賓からの例の贈り物を、取り出した。

萬将軍 膏薬か・・・ふーん、膏薬・・・銘は「至雍発」・・・「至雍発」・・・はて・・・。

萬将軍 うん? もしかすると、こういう意味か? 「この膏薬を、雍州の石門に貼り付けよ」・・・。

萬将軍 とにかく、やってみよう。

彼は、密かに部下に命令し、その膏薬を、例の石門の柱に貼り付けさせた。

なんと不思議、膏薬を張り付けるやいなや、石門は、柱も戸も雪霜(せっそう)のごとく消滅、さらに、山は崩れ、道が平らになってしまった。

頼るべき要害が消滅してしまっては、雍州軍側数万は、もうどうしようもない、全員、蜀軍に投降した。

蜀王は、「この勝利、もとはといえば、萬将軍の徳によるものである」とし、直ちに彼を、癕癕公侯の位に引き上げた。

その30日後、萬将軍は、背中に癕瘡(ようそう)(注3)ができ、それから間もなく、死去してしまった。

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(訳者注3)はれものの一種。
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思うに、雍州の「雍」の字と癕瘡の「癕」の字とは、漢字の音韻が同じである。呂洞賓が例の膏薬の銘に「至雍発」と書いたのは、はたして、どちらの意味であったのか? 「雍州の石門に貼り付けよ」の意であったのか、それとも、「癕瘡が発病した時に使え」の意であったのか? 今となっては、どちらとも分からない。

功は高くして命短し・・・「功」と「命」、何れを捨てて、何れを取るべきか? どうしてもやむを得ず、二者択一を迫られる事になったならば・・・自分の「命」がいつ終わるのかは、天の定めたる事、私ならばきっと、「功」の方を選ぶであろう。

いずれにせよ、元軍300万が一時に全滅したのは、まったく、我が国の武勇によるものではなく、ただただ、3750余社の大小神祇、宗廟(そうびょう)の冥助によるものに、他ならない。

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