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2018年6月12日 (火)

太平記 現代語訳 40-1 清涼殿において、和歌会、盛大に催さる

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・貞治(じょうじ)6年(1367)3月18日(注1)、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)は、長講堂(ちょうこうどう)へ行幸した。後白河法皇(ごしらかわほうおう)175周年御遠忌法要(ごおんぎほうよう)に参列の為である。

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(訳者注1)[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注によれば、史実としては、3月13日にあった事であるという。
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天皇は3日間、そこに逗留(とうりゅう)し、法華経(ほけきょう)の読経(どきょう)を行った。法要の導師は、安居院(あぐいん)の良憲法印(りょうけんほういん)と竹中(たけのうち)の慈照僧正(じしょうそうじょう)であった。

まことにすばらしい法要で、それに参座した僧俗は、全員残らず随喜した。

後光厳天皇の治世の理念は、「万事において、絶えたるを継ぎ、廃れたるを復興していこう」との事であったから、諸々の行事すべてにおいて、万全を尽くしていった。

後光厳天皇 それにしても残念なんは、清涼殿(せいりょうでん)での和歌と管絃の会が、すっかり廃れてしもぉた事やなぁ。これは、歴代の朝廷において執り行われてきたもんやのに、私が即位してからは、ただの一度もやってへん。なんとかしたいもんや。

そこで、天皇は、関白以下の閣僚たちを集めて、

後光厳天皇 このさい、清涼殿での和歌と管絃の会を、復活させたいんやが。

京都朝閣僚A えっ・・・清涼殿での和歌と管絃の会ですかいな・・・。

京都朝閣僚B ・・・陛下、おそれながら・・・あれをやるとなると、なかなか・・・。

京都朝閣僚C ごっつい、たいそうな事に、なりますよぉ。

京都朝閣僚D あれは、あんまし、えんぎのえぇ行事ではないんですわ。

京都朝閣僚E そうだす。あれをやった年には決まって、悪い事が起こるという、歴史的・経験則がありましてなぁ。

後光厳天皇 ・・・。

京都朝閣僚A やっぱし、やめときましょいな。

後光厳天皇 あのなぁ、みんな、よぉ考えてから、モノ言いや!

京都朝閣僚一同 ・・・。

後光厳天皇 かの孔子のたまわく、「詩は300篇もあり、その内容は実にバラエティに富んではいるが、一言でいえば、それらには一切、邪念というものが含まれてないのである。」

後光厳天皇 だからこそ、「治れる世の音は、安んじで楽しむ事ができる、乱れたる世の音は、恨みと憤怒を含んでいる」という言葉があるんやないか。和歌もまた同様や、政治を正し、正邪の判別を教え、王道の興廃を知る事において、和歌は大いなる力を持ってるんや。そやからこそ、歴代の天皇陛下方も、春の花の朝、秋の月の夜と、なにかにつけては臣下たちに和歌を詠ませ、その内容でもって、彼らの賢愚を判別していかれたんや。

後光厳天皇 和歌を詠むという行為はやな、それこそ、神代(かみよ)の昔からあった風俗(ならわし)や、これを捨てられた帝、歴代の中に、一人でもおられるか? おられんやろ?

後光厳天皇 和歌はまさに、聖代(せいだい)の教戒(きょうかい)、誰が、これをもてあそんでよいであろうか!

後光厳天皇 そもそも、この清涼殿での和歌と管絃の会、後冷泉上皇(ごれいぜいじょうこう)陛下が、天喜4年3月に、造花の桜をご覧になって感動され、大納言・土御門師房(つちみかどもろふさ)に歌会開催を命じられ、清涼殿に群臣を招集されたのが、その発端である。

後光厳天皇 この時、陛下は、「新たに桜花を成す」という歌の題を定められ、みなに和歌を詠ませはったんや。陛下おん自らも詠まれてな。その時、管絃の会もあわせて行われた。

後光厳天皇 その後、白河上皇(しらかわじょうこう)は、応徳元年3月、左大弁・大江匡房(おおえのただふさ)に命じられて、「花に多春を契る」という歌題でもって、清涼殿での和歌会を開催された。

後光厳天皇 堀川上皇(ほりかわじょうこう)の御代(みよ)・永長元年3月にも、権大納言・匡房に命じられ、「花に千年(ちとせ)を契る」の歌題でもって、宴遊を行われた。

後光厳天皇 崇徳上皇(すとくじょうこう)もまた、天承元年10月、権中納言・源師頼(みなもとのもろより)に命じられて、「松樹緑久し」の歌題でもって、同様に和歌会を開催された。

後光厳天皇 また、健保6年8月には、順徳上皇(じゅんとくじょうこう)が、関白・藤原道家(ふじわらのみちいえ)に命じられ、「池の月久しく澄む」の歌題でもって、和歌会を開催。

後光厳天皇 後醍醐(ごだいご)先帝の時にも、元徳2年2月、権中納言・藤原為定(ふじわらのためさだ)に命じられ、「花、萬春を契る」の歌題でもって、和歌会を開催。

後光厳天皇 この他にも、承保2年4月、長治2年3月、嘉承2年3月、建武2年正月、清涼殿での和歌の宴が行われた、それも、一度や二度の事ではない。それらは、清涼殿での和歌会の先例の数には入ってないけどな。

後光厳天皇 このような先例は全て、聖なる御代の偉大なる教化といってもえぇ事やないか、そやのにいったいなんで、「あれは、えんぎのえぇ行事ではない」てな事が言えるんや? えぇ?

京都朝閣僚一同 ・・・。

後光厳天皇 今年の春はとりわけ、都の内は花香ばしい。今や、日本全土に平和の気風がみなぎりはじめた今この時に、清涼殿の歌会を行わぬという事ではなぁ!

後光厳天皇 速やかに、かの健保の時の歌会の模様を克明に調査した上で、今回の歌会開催の準備を、関白以下、鋭意、進めていくように! 和歌の題とか、序のあり方とか、決めとかんならんこと、よぉけあるぞ、一同、心してな!

京都朝閣僚一同 ハハーッ(平伏)。

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京都朝閣僚D えらい事に、なってしまいましたなぁ。

京都朝閣僚E 幕府の意向が、気になりますが・・・。

京都朝閣僚A いや、それがなぁ、陛下から更に、ダメ押しされてもうてなぁ・・・陛下がおっしゃるには、現将軍は和歌を愛好してて、「勅撰集の編纂(へんさん)など、いかがでしょう」てな事まで、言うてきてる。みなは、えんぎが悪い行事やというけど、建武年間の清涼殿での和歌会では、他ならぬ先代将軍(注2)も、和歌を詠んでるやんかいなぁ、えんぎ悪いはず、ないやん、と、おっしゃられてなぁ。

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(訳者注2)尊氏は、和歌を詠むことをとても好んでいたようである。
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京都朝閣僚C まぁ、そやったら、幕府も賛成してくれるでしょう。

京都朝閣僚B やるしか、ないですなぁ。

京都朝閣僚A ハァー・・・(溜息)。

というわけで、3月29日に執行、奉行役は、蔵人・左少弁・勘解由小路仲光(かげゆこうじなかみつ)が担当することになった。

当日、勅によって召喚された歌人たちに出されるテーマは、「花は多春の友」。健保の時の例にならって、期日よりも前に、関白が定めたのだとか。

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いよいよ当日、清涼殿・中央間(ちゅうおうのま)の庇(ひさし)の御簾(みす)を巻き上げ、階(きざはし)の西の間から3間北に当たる2間の部屋に、それぞれ、菅(すげ)の円座を敷き、公卿たちの座とした。

長治元年の時には2列に座を作ったのであったが、今回のこのフォーメイション(formation:配置)は、関白がこのように定めたのである。

御座所の帳(とばり)の東西には、3尺の几帳(きちょう)が立てられ、昼の御座の上には、御剣(ぎょけん)と御硯箱(おすずりばこ)が置かれた。

大臣たちの席の末、参議たちの座の前には各々、高灯台が立てられた。

まず、関白・二条良基(にじょうよしもと)が、直廬(注3)から会場に入室、内大臣・二条師良(にじょうもろよし)以下が、それに続いた。

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(訳者注3)摂政、関白、大臣などに割り当てられている個室。
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保安の時の例にならい、直衣(のおし)の着はじめが行われた。

前駆(せんく)、布衣(ほい)、随身(ずいじん)の褐色の衣は常のごとくであったから、さほど鮮やかな装いであったとは、言い難い。

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午前2時、将軍・足利義詮が参内。その装いに、衆人、目を見張った。

公家の中で、義詮と親しい関係にある人々、すなわち、冷泉為秀(れいぜいためひで)、世尊寺行忠(せそんじゆきただ)、正親町実綱(おうぎまちさねつな)、冷泉為邦(れいぜいためくに)らが、庭まで下りて礼をつくした。

義詮は直ちに、左衛門(さえもん)の陣の四足の門をくぐった。その先には、帯刀(たてはき)10人が、左右に連なって列を引く。

左の列には、佐々木時秀(ささきときひで)、白地の直垂(ひたたれ)に金銀の箔で四目結(よつめゆわい)の家紋を押した紅の腰、鮫皮(さめがわ)の金作りの太刀を佩いている。

右の列には、小串詮行(おぐしのりゆき)、黒地の直垂に銀箔で二雁(ふたつかり)の家紋を押し、白太刀を佩いている。

その次に、伊勢貞行(いせさだゆき)、白地の直垂に金箔で村蝶(むらちょう)の家紋を押し、白太刀を佩いて左に歩む。

右には、斎藤清永(さいとうきよなが)、黄赤地の直垂に二筋違の中に銀箔でなでしこを押した黄腰に、鮫皮の太刀を佩いている。

その次に、大内詮弘(おおうちのりひろ)、直垂には金箔で大菱(おおびし)を押し、打鮫に金作りの太刀を佩く。

右には、海老名詮季(えびなのりすえ)、黒地に茶染めの直垂に金箔で大カゴを押し、黄の腰に白太刀を佩いている。

その次に、本間義景(ほんまよしかげ)、白紫地の片身易(かたみがわり)の直垂に金銀の箔で十六目結の家紋を押し、紅の腰に白太刀を穿く。

右には、山城師政(やましろもろまさ)、白地に金泥で州流(すながれ)を書いた直垂に、白太刀を佩いてあい従う。

その次に、粟飯原詮胤(あいはらのりたね)、黄色地に銀泥にて水を描き、金泥で鶏冠木(かえで)を描いた直垂に、帷子(かたびら)は黄色の腰に白太刀を佩いている。まことに立派に見える。

その次に、征夷大将軍(せいたいしょうぐん)・正二位(しょうにい)・大納言・源朝臣義詮卿(みなもとのあそんよしあきらきょう)、薄紫色の立紋(たてもん)の織物の指貫(さしぬき)に、紅の打ち衣を出し、常の直垂。

その左傍には、山名氏清(やまなうじきよ)、濃い紫の指貫に山吹色の狩衣(かりぎぬ)を着て、帯剣(たいけん)の役でもって随(したが)っている。

右には、摂津能直(せっつよしなお)、薄色の指貫に白青(あさぎ)織の狩衣を着て、沓持ち(くつもち)の役でもって随っている。

佐々木高久(ささきたかひさ)は、二重の狩衣姿で、弓矢持ちの役でもって随っている

本郷詮泰(ほんごうあきやす)は、香の狩衣姿で、笠の役でもって随っている

今川了俊(いまがわりょうしゅん)は、侍所(さむらいどころ)長官として、さわやかに鎧たる随兵100騎ほどを率い、軍門警護の役でもって随っている。

この他のメンバー:土岐直氏(ときなおうじ)、山城行元(やましろゆきもと)、赤松光範(あかまつみつのり)、佐々木高信(ささきたかのぶ)、安東高泰(あんどうたかやす)、曽我氏助(そがうじすけ)、小島詮重(こじまあきしげ)、朝倉詮繁(あさくらあきしげ)、朝倉高繁(あさくらたかしげ)、彦部秀光(ひこべひでみつ)、藤盛時(ふじもりとき)、八代師国(やしろもろくに)、佐脇明秀(さわきあきひで)、藁科家治(わらしないえはる)、中島家信(なかじまいえのぶ)、後藤伊勢守(ごとういせのかみ)、久下筑前守(くげちくぜんのかみ)、荻野出羽守(おぎのでわのかみ)、横地山城守(よこちやましろのかみ)、波多野出雲守(はたのいずものかみ)、濱名左京亮(はまなさきょうのすけ)、長次郎(ちょうのじろう)、彼らは、思い思いの直垂にて、乗馬に厚い房をかけ、まことに華やかなる装いである。

将軍・義詮が清涼殿に上がった後、帯刀役は全員、中門の外に敷皮を敷き、列をなして着座。

まず、天皇の勅により、「午前の召」の儀が行われ、関白が天皇の御前へ参った。

その後いよいよ、「清涼殿・和歌会オープニング」の刻限、人々は殿上に着座。

右大臣・西園寺実俊(さいおんじさねとし)、内大臣・二条師良、陸奥出羽按察使(あぜちし)・正親町三条実継(おおぎまちさんじょうさねつぐ)、中納言・日野時光(ひのときみつ)、中納言・冷泉為秀(れいぜいためひで)、首都圏長官・柳原忠光(やなぎはらただみつ)、侍従参議・世尊寺行忠(せそんじゆきただ)、前参議・小倉実名(おぐらさねな)、参議中将・二条為忠(にじょうためただ)、前参議・富小路実遠(つみのこうじさねとお)らが参じた。

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関白・二条良基が、奉行役の勘解由小路仲光を召し、準備が完全に整った事を確認の後、いよいよ、天皇の出御となった。

後光厳天皇(ごこうごんてんのう)は、黄色の直衣(のうし)に打って光沢を出した袴を、はいている。

二条良基は、着座の後、頭左中弁(とうのさちゅうべん)・万里小路嗣房(までのこうじつぐふさ)を召し、「公卿一同、着座すべし」と指示。嗣房は、殿上に公卿たちを招き入れた。

右大臣・西園寺実俊、内大臣・二条師良、以下、順次着座。

将軍・足利義詮は、殿上には着座せず、天皇のすぐ前に座った。

その後、万里小路嗣房、勘解由小路仲光、藤原懐国(やすくに)、五位の殿上人・伊顕(これあき)等のメンバーが、各々の役目に従い、灯台、円座、懐紙等を置いていく。

為敦(ためあつ)、為有(ためあり)、為邦(ためくに)、為重(ためしげ)、行輔(ゆきすけ)らも着座したが、右兵衛督(うひょうえのかみ)・二条為遠(にじょうためとお)は、御前には着座せず、殿上の端をぐるぐると回っている。これは、健保(けんぽう)年間の和歌会の時に、あの藤原定家(ていか)がこのようにしたのにならって、ということである。

富小路実遠、冷泉為秀、日野時光、足利義詮、二条師良、西園寺実俊、二条良基らが、思い思いに膝行し、懐紙を確認しては、また下がっていく。

健保の和歌会の時の例にならって、序文を書く任にある関白・二条良基は、座席の通りに懐紙を置いていく。直衣を中へ踏みたたみながら、膝行していく、これは元徳年間の和歌会の時に、当時の関白がこのようにしたから、という事なので。

和歌披露式の進行役を務めるは、右大臣・西園寺実俊、御前の円座に座して、和歌読み上げ役の勘解由小路仲光を召す。また、序文を読み上げんがために、別勅により、日野時光を召す。さらに、右大弁・為重を召して、懐紙を重ねさせた。

序文から順次、歌が読み上げられていく。

 春日(しゅんじつ) 中殿(ちゅうでん)に侍(じ)して 「花は多春の友」というテーマにて 同じく詠ず

 勅命を奉じて作った和歌一首ならびに序文
 関白従一位藤原朝臣・良基(よしもと) たてまつる

 まさに、天の仁を現すは春にして、地の和を示すは花。天地、悠久の道に則って、不仁の仁を施す。山水の清らかなる風景を楽しみて、大いなる和を展ず。黄色羽の鶯は友を呼びて万年の枝を遷(うつ)り、白い蝶は舞いて百里の園に遊ぶ。

 ああ、大いなるかな、陛下の聖徳、まさに今、清涼殿において、かくも盛大なる宴を催す。

 これより我ら、和歌を宮中において詠み、たちまち治世の風を呼びおこさんとす。古楽を宮中にて奏し、再びあの太古の調べを蘇(よみがえ)らせんとす。

 いわんや、陛下が笙(しょう)を演奏されるは、あたかも紫鸞鳥(しらんちょう)の声、高く引くがごとし。文章の技巧はまさに、月宮の仙女の新たに詞をつぐがごとし。

 大乱の世には、必ずしも雅楽を楽しまず、といえども、これを兼ねるは、まさに今この世。文学を好む人は、必ずしも和歌を詠むとは限らぬが、これを兼ねるは、まさに我らが陛下なり。

 この宴は、一世一大のイベントにして、未来永劫にわたって、世の中に良き影響を及ぼしていくはず。

 わたくし(小臣)は、久しく陛下の龍顔(りゅうがん)に謁(えっ)したてまつり、かたじけなくも、万機(ばんき)のまつりごと(政治)を、おたす(佐)け申し上げてきたり。また、陛下のお言葉を、親しく奏したてまつり、一日のおん遊びを、記してまいりたり。

 そのことば(辞)にいわく、

 仕えつつ 老いてはしもたが なおも先 千年までもと 花に誓うで

 (原文)ツカヘツツ、 齢(よわい)は老(おい)ぬ 行末(ゆくすえ)の 千年(ちとせ)も花に なおや契(ちぎ)らん

この次に、右大臣・西園寺実俊、内大臣・二条師良、陸奥出羽按観使・正親町三条実継、将軍・足利義詮、日野時光、冷泉為秀、日野忠光、世尊寺行忠、右兵衛監・二条為遠、藤原懐国らに至るまで、順次、和歌の披露が行われた後、和歌読み上げ役は全員、退席した。

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いよいよ、講誦(こうじゅ)の人々が、天皇作の歌を読み上げる段である。

後光厳天皇の意を受けて、二条良基が進行役の円座に座し、別勅にて日野時光を、陛下御作の和歌の読み上げ役として招いた。

陛下の作は、

 咲き匂う 御所の花の 元の枝に 永遠の春を 契ろうやないか

 (原文)開匂(さきにほ)ふ 雲居(くもい)の花の 本(もと)つ枝(え)に 百代(ももよ)の春を 尚(なお)や契覧(ちぎらん)

この歌の読み上げは10回にも及び、そうこうしているうちに、夜が明けてきた。

庭の様々の物が、徐々に定かに見え始め、花の薫るも懐かしく、かすみ立つ空気もじつに艶(えん)にして、和歌会参加メンバーたちの詠歌の声は、あたかも天に昇っていき、身体に沁み込んでいくかのようである。

陛下の御作の披露も終わり、めいめい、元の座に戻った。楽人以外の人々も退席した。

その後、直ちに、管絃楽が始まった。

笛は三条実知(さんじょうさねとも)、和琴(わごん)は正親町実綱(おうぎまちさねつな)、ヒチリキは兼親(かねちか)、笙は刑時(のりとき)、拍子木(ひょうしぎ)は綾小路成方(あやこうじなりかた)、琴は公全(きんまさ)、付け歌は宗泰(むねやす)。

まず、呂(りょ)の部が始まり、此殿(このとの)、鳥の破(とりのは)、席田(むしろだ)、鳥の急(とりのきゅう)が奏された。

次に、律(りつ)の部が始まり、萬歳楽(まんざいらく)、伊勢海(いせのうみ)、三台急(さんだいきゅう)が演奏された。

笙のすばらしい音色を聞いて、鳳凰さえもやってくるであろうか、和琴のみごとな調べには、鬼神さえも感動するかと思われる。

清涼殿和歌会において、天皇が自ら何かを演奏するのは、極めて希(まれ)な事である。健保の時には琵琶を演奏したが、その後、そのような事例は聞いた事がない。なのに、今この御代の和歌と管絃の双方の宴に、天皇自ら和歌を作られ、演奏をされるとは、まったくもって、なんとありがたい事であろうか。

参加メンバーF こないな大行事っちゅうもんには、だいたいにおいて、少々のトラブルはつきものなんですが。

参加メンバーG 今回のこれは、まったく一寸の狂いもなし、パーフェクトな進行ですわなぁ。

参加メンバーH これは、非常にえぇ(良)前兆ですよ。日本全国、和歌をもって行う政道に帰し、四海は、かつての旧き良き時代の気風を仰ぎ。

参加メンバーI 人は皆、かの大歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の功績をほめたたえ、世はこぞって、将軍の風流の心に感歎す・・・といったとこでしょかいなぁ。

翌日の正午頃、宴はようやく終わり、人々は御所から退出した。まことに盛大なるイベントであった。

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「清涼殿の和歌会などという大行事は、我が国には分不相応(ぶんふそうおう)と、いうべきものである。ゆえに、それをあえて強行すると、必ず、天下に重大事が起るぞ」とは、多くの人によって、語り伝えられてきた事である。

ゆえに、重臣たちはことごとく、天皇の意向に対して、眉をひそめて諫言もうしあげた。しかし、かくのごとく、天皇は、がんとしてそれを聞き入れず、ついに、和歌会を執行されたのである。

ここで、注目すべき事実がある。

和歌会前日の3月28日午前2時頃、天空において、大異変が観測されていたのである。

えたいのしれないUFO(未確認飛行物体)が多数、首都の西の空から、東の方向に向かって進んでいくのが、目撃されていた。

そして、翌29日16時頃、あの天龍寺(てんりゅうじ:右京区)の新築したばかりの大きな建物、それも、未だ工事完了にまで至っていないものが、失火によってたちまち焼失し、灰燼(かいじん)に帰してしまったのである。

世間の声J おいおい、これはいったい・・・。

世間の声K 天龍寺といやぁ、朝廷からも幕府からも、別格の尊崇(そんすう)、受けてるとこじゃないのよぉ。

世間の声L 京都五山(きょうとござん)の、ナンバーツーだっせぇ。

世間の声M 災いを払い、福を集める懇祈(こんき)を専らにしてはる、大きなお寺さんやのになぁ・・・ほんまに、いったい、これはどういう事なんどすやろなぁ?

世間の声N 清涼殿和歌会のまさに当日という、この時にねぇ・・・。

世間の声O なにかどうも、ブキミに感じられてならねぇ。

世間の声P やっぱ、まずいじゃぁねぇのぉ、あの和歌会やるのはぁ。

世間の声一同 ほんになぁ。

さすがに、この件は問題になり、将軍の和歌会への参加を差し控えたい、と、幕府は再三、朝廷に奏した。

後光厳天皇 あの天龍寺は、勅願によって建立された寺やないかいな・・・それが焼け落ちてしまうやなんて・・・最初聞いた時は、ビックリして、声も出ぇへんかったわ。

京都朝閣僚B やっぱし、和歌の会、中止された方がよろしん、ちゃいますやろか?

後光厳天皇 なに言うてんねん! こないな災いがあったからいうて、この期(ご)に及んで、和歌の会、中止できるわけないやろが! そないな先例、どこにも無いやろ!

京都朝閣僚C はぁ、たしかに、先例はございませんけどぉ。

後光厳天皇 とにかく、やるんや! やるいうたら、やるんやぁ!

京都朝閣僚一同 はぁ・・・。

京都朝閣僚A ハァー(溜息)。

しかしなおも、朝廷と幕府の協議は長引き、ついに決行と決まった時には、もうすでに夜は更けていた。それゆえに、徹夜して翌日の昼間までという、たいそうな宴に、なってしまったのであった。

まったくもって、驚くべき事であるといえよう。

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