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2018年6月

2018年6月26日 (火)

太平記ゆかりの地 1 天皇・上皇が住んでいた場所

太平記ゆかりの地 インデックス

[後醍醐天皇]が天皇位についた場所は、現在の[京都御所]の中ではない。

以下、下記の文献に記述されている内容を参照しながら、述べる。

 文献1:[都市の中世 中世を考える 五味文彦 編 吉川弘文館]
       中の
     [Ⅰ 平安京と中世京都 / 四 内裏と院御所 近藤 成一 著]

 文献2:[後醍醐天皇 森 茂暁 著 中公新書 中央公論新社]

[文献1]78P によれば、[後醍醐天皇]が「受禅」した場所は、[冷泉富小路内裏]であるという。この不動産(内裏)の位置は、現在の[京都御所]よりも南方である。

([受禅]とは、先帝の譲位を受けて帝位につくことを意味する。)

即位した後も、[冷泉富小路内裏]の中に住み続けて、天皇の仕事を行ったのだそうだ。太平記の最初の方に、[後醍醐天皇]が政務を行っている様子が記されているが、その現場は、この[冷泉富小路内裏]、ということになるだろう。

[後醍醐天皇]は、[大覚寺統]に所属していると言われてきた。しかし、上記に見るように、[後醍醐天皇]は[大覚寺]に住んでいたのではない。

[持明院統]および[大覚寺統]とは、鎌倉時代のある時期に発生した、天皇家の中の2つの家系のことである。

[後嵯峨天皇]には、天皇位についた2人の息子がいた、すなわち、[後深草天皇]と[亀山天皇]である。後に、この2人の子孫の中から、天皇になる人々が現れた。

[後深草天皇]をルーツとする家系の方は、[持明院統]と呼ばれ、
[亀山天皇]をルーツとする家系の方は、[大覚寺統]と呼ばれるようになった。

上記に述べたように、[後醍醐天皇]は、[大覚寺統]の方に属しているのだが、[光厳天皇](鎌倉幕府が倒された時に、天皇だった)は、[持明院統]に属している。

この天皇家の中の2つの家系の対立関係が、太平記に描かれている様々な争乱の根底となっていったのであった。

[文献1]によれば、この時代の天皇たちがいた場所は

 [冷泉万里小路殿]
 [二条高倉殿]
 [冷泉富小路殿]
 [持明院殿]

などであるという。

[文献1]76P に、これらの不動産(殿)の位置が、分かりやすく記述されている。ネット地図と照合して調べたところ、そのほとんどが、現在の京都市の上京区および中京区のエリア内にある。

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[持明院統]と[大覚寺統]は、大きな誤解を招く用語であると、私には思われる。

いったいなぜ、[後醍醐天皇]が所属する側の家系を、[大覚寺統]と呼ぶようになったのか?

[後醍醐天皇]の父・[後宇多天皇]は、退位・出家した後、1307年、[大覚寺](京都市・右京区)に入り、ここの門跡(トップ僧侶)になった。大覚寺に入った後の期間も含め、2度、[治天の君]として(上皇あるいは法皇として)、最大の政治権力を持っていた期間がある。

それで、[後宇多天皇]が所属する家系の方を、[大覚寺統]と呼ぶようにしよう、ということになったらしい。いつごろ誰が、最初にこのように呼び始めたのか、そこまでは、私には分らない。

天皇家の中に2つの家系(後深草天皇の家系と亀山天皇の家系)の対立が萌芽し、それが終結するまでの期間を、下記のように設定してみよう。

萌芽
 1258年 恒仁皇子が皇太子に就任。齢10歳。
 1260年 後深草天皇が、天皇位を、皇太子に譲り(譲るように仕向けられた?)、皇太子が天皇に就任(亀山天皇)。

終結
 1392年 南朝の後亀山天皇(大覚寺統)が、京都に帰還して、北朝の後小松天皇(持明院統)に、三種の神器を譲って退位。

よって、対立の萌芽から終結まで、およそ134年間( = 1392 - 1258 )を要した、ということになる。

ところが、[文献2]によれば(23P ~ 61P)、

[大覚寺]の門跡になった後に、[後宇多法皇]が[治天の君]として院政を行った期間は、

 1318年 ~ 1321年

たった、3年だけである。

だから、この2つの家系の対立の、萌芽から終結までの期間のうち、[大覚寺]に、日本の最大政治権力を持つ人、すなわち、[治天の君]がいた期間は、たった3年だけだった、ということになる。期間の長さ比率でいえば、たったの、2% に過ぎない。(3 / 134 about= 0.0224)

[持明院殿]に、[持明院統]の天皇が暮らし始めた期間も、実は、だいぶ後になってからである。

[文献1]83P によれば、1302年に、[伏見上皇]が[持明院殿]に移り、そこを御所としてから、であるという。

[持明院統]、[大覚寺統]と、言われると、この時代の天皇・上皇は代々、[大覚寺]や[持明院殿]で寝起きし、自らの政務オフィスをそこに置いて、そこで政務を行っていたかのような錯覚を起こしてしまわないだろうか?

「統」という言葉にも、何か、分かりにくいものを感じる。

よって、[持明院統]、[大覚寺統]という用語を使うよりも、[後深草系]、[亀山系]と呼ぶようにする方が、より、実情を反映して分かりやすいのではないかと、私は思うのが、どうだろう?

さて、前置きはこれくらいにして、(ずいぶんと長い前置きになってしまった)、この時代に、天皇や上皇が政務オフィスを置いていた、いくつかの京都市内の不動産の現地(正確に言うならば、跡地)を、見てまわることにしよう。

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1.持明院殿

(文中に挿入されている写真画像は、私が、2018年6月に撮影したものである。)

[文献1]中の「持明院殿」の説明(83P)には、下記のようにある。

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 「持明院統とその名称の由来する持明院殿との関係は意外に新しい。正安四年(一三〇二)伏見上皇が持明院殿に移りその御所として用いたのが始まりである。」

 「ここはもと持明院基家(もといえ)の殿第であった。基家の娘陳子が後高倉院の妃となったために、後高倉院は持明院殿に寄住し、「持明院宮」と称された。・・・」
========

持明院基家の娘と天皇の婚姻により、この不動産は天皇家の財産になったのであった。

[持明院家]は、藤原道長の子孫であるようだ。

さて、その[持明院殿]は、京都市内のどのあたりにあったのか?

京都市・上京区に、[光照院]という寺院がある。([京都市 上京区 新町通 上立売上る 安楽小路町])

そこの門の付近に、下記のような碑がある。

P1A1 碑

P1a1_3

「持明院仙洞御所跡」と彫られている。

[仙洞御所](せんとうごしょ)とは、譲位して元・天皇(上皇あるいは法皇)になった人が住む不動産のことである。

この寺の門の付近にある説明板(下記の映像中に写っている)には、

 「この地にもと持明院殿の持仏堂安楽光院がたっていたため、一時は安楽光院とも称した。」

と、ある。

P1A2 門の付近にある説明板

P1a2_2

上記より、[持明院殿]は、この寺の付近にあった、ということが分かった。

ネット地図を使用して、[京都市 上京区 安楽小路町 光照院]とインプットすれば、その位置を確認することができるだろう。

P1A3 光照院の門

P1a3_2

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2.冷泉富小路殿

(文中に挿入されている写真画像は、私が、2018年6月に撮影したものである。)

[文献1]76P の図によれば、この不動産(殿)の位置は、下記4本の道路に囲まれたエリア、ということになる。

 北側:冷泉小路(現在の夷川通)
 南側:二条大路(現在の二条通)
 東側:東京極大路(現在の寺町通)
 西側:富小路(現在の富小路通)

そのあたりに行き、下記のような碑を見つけた。([富小路通]と[夷川通]が交差する地点から、[富小路通]ぞいに南方へ行った場所)

P2A1

P2a1_2

「二條富小路」という文字だけが見えており、その下の部分が植物の葉に隠れてしまっている。

碑の側にこのように植物があるのは、地元の方々によって植えられ、手入れされているのであろうか。とてもいい感じ。

この碑にある全ての文字を見たい人は、[京都市 二条富小路内裏址 碑文]でネット検索すれば、それが可能になるのでは、と思う。

[文献1]中の「冷泉富小路殿」の説明(82P ~ 83P)には、下記のようにある。

========
 「徳治元年(一三〇六)冷泉富小路殿は焼亡する。文保元年(一三一七)、その故地にかつての閑院内裏に匹敵する恒常的な内裏として冷泉富小路内裏が建設され、花園天皇ついで後醍醐天皇の内裏として用いられることになる。」
========

このように、[文献1]では、「冷泉富小路内裏」と記されており、碑には、「二條富小路内裏」と彫られている、という違いはあるが、両者、同じ不動産のことを言っているのであろう。この不動産の北側には[冷泉小路](現在の夷川通)があり、南側には[二条大路](現在の二条通)があるのだから。

このあたりには、かつて、[京都市立商業實修學校]という教育施設があったようだ。

P2A2

P2a2_2

付近に、イチョウの木があった。

P2A3

P2a3_2

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3.冷泉万里小路殿

[文献1]76P の図によれば、この不動産(殿)の位置は、下記4本の道路に囲まれたエリア、ということになる。

 北側:大炊御門大路(現在の竹屋町通)
 南側:冷泉小路(現在の夷川通)
 東側:万里小路(現在の柳馬場通)
 西側:高倉小路(現在の高倉通)

このあたりをめぐってみたが、それらしき碑を見つけることができなかった。

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4.二条高倉殿

[文献1]76P の図によれば、この不動産(殿)の位置は、下記4本の道路に囲まれたエリア、ということになる。

 北側:二条大路(現在の二条通)
 南側:押小路(現在の押小路通)
 東側:高倉小路(現在の高倉通)
 西側:東洞院大路(現在の東洞院通)

このあたりをめぐってみたが、それらしき碑を見つけることができなかった。

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5.大覚寺

上記にも述べたように、ここは、太平記とはあまり関係が無い場所なのだけど、名前が出たついでに、過去に、私が現地で撮影した写真画像を添えて、述べてみたい。

入口は、こんなかんじだ。

P5A1 (2008年1月 に撮影)

P5a1_2

P5A2 (2008年1月 に撮影)

P5a2_2

大覚寺の中の当時の建物は、1336年の火災により、ほとんどが焼失してしまった、という。

この寺の大きな魅力は、境内にある大きな池であると、私は思う。池の名前は、[大沢池]。

寺の建物の中から見ても美しいし、池の周囲を歩きながら見ても美しいと、思う。

P5B1(2005年5月 に撮影)

P5b1_2

P5B2(2005年5月 に撮影)

P5b2_2

[大沢池]の周囲にはサクラが多くある。春のサクラ開花シーズンに行った時には、圧巻の景観を楽しむことができた。

カエデもある。紅葉した時には、下記のようなかんじであった。

P5C1(2006年12月 に撮影)

P5c1_2

[大沢池]のほとりに、[名古曽の滝跡(なこそのたきあと)]というのがある。

P5D1(2017年4月 に撮影)

P5d1_2

P5D2(2017年4月 に撮影)

P5d2_2

[百人一首]中の、[藤原 公任](ふじわらのきんとう)の歌、

 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
  名こそ流れて なほ聞こえけれ

で、知られている滝の跡なのだそうだ。

大覚寺の公式サイト中の説明によれば、

 奈良国立文化財研究所による発掘調査で、中世の遣水が発見され、現在の様相に復元された

のだそうである。

中秋の名月の日には、この池で観月会が行われる。[大覚寺 観月の夕べ]でネット検索すれば、それに関連する情報を得ることができると思う。

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6.後宇陀天皇の陵

太平記からはますます、関係希薄となっていくのだけど、

[大覚寺]の北東方向に、[後宇陀天皇]([後醍醐天皇]の父)の陵(墓)がある。ネット地図で、[後宇陀天皇 蓮華峰寺陵]とインプットすれば、その位置を知ることができると思う。

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7.広沢池

ネット地図で、大覚寺付近を見てみると、[大沢池]の東の方に、別の池があるのが分かると思う。[広沢池]だ。

過去に、[広沢池]と[大覚寺]の間を、歩いたことがある。田園地帯の中を行く道で、自分の好みのルートだと思った。

途中には、下記のような景観もあった。

P6A1(2012年10月に、私が撮影した)

P6a1_2

下記は、[広沢池]のほとりで、2008年10月に、私が撮影した写真画像である。

P7A1

P7a1_2

P7A2

P7a2_2

P7A3

P7a3_5

[五山送り火]が修される夜、ここで、[とうろう流し]が行われる。

[広沢池 灯籠流し]でネット検索すれば、それに関連する情報を得ることができると思う。

太平記ゆかりの地 インデックス

太平記ゆかりの地 インデックス

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太平記 現代語訳 総インデックス

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天皇・上皇が住んでいた場所

 後醍醐天皇、光厳天皇たちは、どこに住んでいた?

延暦寺

 [太平記]の中に何回も登場する、[延暦寺](えんりゃくじ)と、そこに所属する[衆徒]について

沙沙貴神社(ささきじんじゃ)

 [太平記]の中に登場する[佐々木]の姓を持つ人々のルーツは、滋賀県にあった

笠置寺(かさぎでら)

 鎌倉幕府からの追求から逃れるために、後醍醐天皇は近臣たちらと共に、ここにたてこもった

2018年6月23日 (土)

新作音楽作品の発表 名前はまだ無い・第3番

前回の作品発表から、約10か月が経過、久しぶりの音楽作品づくりを行うことができました。

[クレオフーガ](音楽投稿サイト)に、自らが作曲した曲(ピアノ独奏曲)をアップロードしました。曲の題名は、

 This is not titled yet, No.3, Op.46
   (名前はまだ無い・第3番)

です。

この曲をお聴きになりたい方は、下記で聴いていただけます。(コンテンツ格納先のサイト運営・クレオフーガのサイトにアクセスして)。

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下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲たち(クレオフーガ・サイト中にあり)

2018年6月12日 (火)

太平記 現代語訳 40-6 流れが変わってきた(最終章)

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利幕府・リーダーA とにもかくにも、今やらなきゃいかん最優先の課題は、管領(かんれい)職の選定と任命、これだよ、これ!

足利幕府・リーダーB 同感だな。第3代将軍たる若君(注1)は、まだ幼くていらっしゃるもんなぁ。

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(訳者注1)足利義満。
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足利幕府・リーダーC 「この人に任せときゃ、ぜったい、だいじょうぶ」ってな人を、管領に選出してさぁ、若君の補佐、バッチシやってもらわにゃぁ。

足利幕府・リーダーD でぇ・・・いったい、誰? 誰を管領に?

足利幕府・リーダー一同 ・・・。

足利幕府・リーダーE ・・・そうねぇ・・・ここはやっぱ、あの人でしょぉ。

足利幕府・リーダー一同 ・・・(Eを注視)。

足利幕府・リーダーA 「あの人」って、誰?

足利幕府・リーダーE 「敵を滅ぼし、人をなつけ、諸事(しょじ)の沙汰(さた)のそのさばき方、あの貞永(じょうえい)年間、貞応(じょうおう)年間の鎌倉幕府・黄金時代を、ほうふつとさせるような所がある」と、世間が評してる人さ。

足利幕府・リーダーー一同 ・・・(Eを注視)。

足利幕府・リーダーE 中国地方の統治を、委任されてる人。

足利幕府・リーダーD 細川頼之(ほそかわよりゆき)か!

足利幕府・リーダーE そぉ!

足利幕府・リーダーC なぁるほど。

足利幕府・リーダー一同 なるほどねぇ・・・うーん、彼だったら、立派に管領つとまるだろうよ。

というわけで、右馬頭(うまのかみ)・細川頼之(ほそかわよりゆき)を武蔵守(むさしのかみ)に補任し、幕府管領(かんれい)職に就任させる事に、衆議一決した。

頼之が管領に就任するや、外向きの姿と内に秘めた徳の両面において、世評に全く違わないその姿に、足利一族の面々も彼を重んじるようになり、外様(とざま)の人々も彼の命に服するようになっていった。

かくして、万人待望久しかった中夏無為(ちゅうかぶい:注2)の治世がようやく到来した。

長く続いたこの戦乱の世にも、平和の方向に向かって歴史のベクトルが収束していく様相が、ようやく見えてきた。あぁ、なんとすばらしい事であろうか!

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(注2)国家が、自然にうまく治まっている様。
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太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 40-5 将軍・足利義詮、死去す

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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このような中に、同年9月下旬頃から、将軍・足利義詮が、体調を崩してしまった。

寝食快く無いがゆえに、和気(わけ)と丹波(たんば)の両流はもちろんの事、医療の分野において世間に名を知られている人を残らず招き、様々の治療を施した。

しかし、かの大聖釈尊(たいせいしゃくそん)においてさえも、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下において涅槃(ねはん)せられたる時には、名医・ギバの霊薬も効験が無かったのである。この事を通して、釈尊は、「人生の無常」という事を、予め、我々に示し置かれたのである。

ならば、既に定まっている個々の人の寿命を先伸ばしにできるような薬など、この世にあろうはずがない。これまさに、明らかなる有待転変(うだいてんぺん)の理(ことわり)である。

京都朝年号・貞治6年(1367)12月7日午前0時、足利義詮は逝去した。享年38歳。

天下は久しく、将軍・義詮の掌(たなごころ)の中にあった。彼から恩を頂き、彼の徳をしたう者は、幾千万人いたことであろうか。

しかし、いくら嘆き悲しんでみても、もはやそのかいもない。

「いつまでも、嘆き悲しんでいてはいかんのだ」と、関係者一同、自らに言い聞かせ、泣く泣く、葬礼の儀式を取り営み、衣笠山(きぬがさやま:京都市・北区)の麓、等持院(とうじいん:北区)に、遺体を移した。

12月12日正午、火葬の準備が整えられ、荘厳なる仏事が始まった。

鎖龕(さがん)の偈文(げぶん)を唱えるは東福寺(とうふくじ:東山区)の長老・知親義堂(ちしんぎどう)、起龕(きがん)の偈文を唱えるは建仁寺(けんにんじ:東山区)の竜湫周澤(りゅうしゅうしゅうたく)、奠湯(てんとう)供えの儀は萬壽寺(まんじゅじ:東山区)の桂岩運芳(けいがんうんほう)、奠茶(てんちゃ)供えの儀は真如寺(しんにょじ:北区)の中山清誾(ちゅうざんせいぎん)、念誦は天龍寺(てんりゅうじ:右京区)の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、下火(あこ)は南禅寺(なんぜんじ:左京区)の定山祖禅和尚(ていざんそぜんおしょう)が行った。

文々(もんもん)に悲涙(ひるい)の玉詞(ぎょくし)を磨き、句々に真理の法義(ほうぎ)を述べる。故人も速やかに、三界(さんがい)の苦輪(くりん)を出て、直ちに涅槃四徳(ねはんしとく)の楽邦(らくほう)に到達されることであろうか・・・悲しみは、いやますばかり・・・。

世間の声A それにしても、今年っちゅう年はまぁ、いったいなんちゅう年やったんでしょうなぁ。

世間の声B 京都と鎌倉と時同じく、兄弟の連枝(れんし)たちまちに、同根(どうこん)空しく枯れてしまうとはねぇ。

世間の声C この先いったい、どなたさんが征夷大将軍に就任されて、四海の乱を治めていってくれるんじゃろかいのぉ?

世間の声D ムムム・・・まさに、危うき中に愁い有り、だが。

世間の声一同 さてさて、この先いったい、どないなっていくもんやら・・・。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 40-4 最勝講の場において、興福寺と延暦寺の衆徒、武闘に及ぶ

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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同年8月18日、「最勝講(注1)を行うので、所定の人員を出せ」との命令が、諸寺院に対して送られた。

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(訳者注1)[金光明最勝王経]を、5日間10講義して、天下太平を祈る。執行の場所は、御所の清涼殿。
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その割り当て人数は、興福寺(こうふくじ:奈良市)10人、東大寺(とうだいじ:奈良市)2人、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)8人。園城寺(おんじょうじ:大津市)は、そのメンバーリストから除外されてしまった。

京都朝廷閣僚A そら、しゃぁないわなぁ、園城寺は、今度の訴訟に決着つかん間は、朝廷からの僧侶招聘(しょうへい)には一切、応じひんて、言うてきとんねんから。

当日のレフェリー(注2)には、前大僧正(さきのだいそうじょう)・懐雅(かいが)と、延暦寺の慈能(じのう)僧正が任命された。

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(訳者注2)原文では、「証義(しょうぎ)」。
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仏教の講義・論争の場においては、学海智水(がっかいちすい)を沸かし、智慧の剣を互いに闘わすべきである。

なのに、この時、興福寺と延暦寺の衆徒たちは、よりにもよって御所の庭において、不慮の喧嘩をしでかし、激烈な戦闘をやらかしてしまったのであった。

紫宸殿(ししんでん)の東、朝廷侍医控え所(注3)の前には、興福寺の衆徒らが、紫宸殿の西、渡り廊下(注4)の前には、延暦寺の衆徒らが、列をなして立っていた。

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(訳者注3)原文では、「薬殿(くすどの)」。

(訳者注4)原文では、「長階(ながはし)」。
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見れば、興福寺の衆徒たちは全員、わきに太刀を差している。

突如、興福寺の衆徒たちは抜刀し、延暦寺側めがけて、切り掛っていった。

延暦寺側は、太刀も長刀(なぎなた)も持ちあわせていないから、抵抗のしようがない。一歩もそこに踏みとどまる事ができず、紫宸殿の大床(おおゆか)の上へ追い上がられ、もうどうにもならない。

光円坊良覚(こうえんぼうりょうかく)、一心坊(いっしんぼう)の越後注記・覚存(えちごのちゅうき・かくそん)、行泉坊(ぎょうせんぼう)の宗運(そううん)、明静房(みょうじょうぼう)の学運(がくうん)、月輪坊(げつりんぼう)同宿の円光房(えんこうぼう)と十乗房(じゅうじょうぼう)はじめ、延暦寺側主要メンバーたちは、意を決して小刀だけでもって反撃に転じ、勇み誇る興福寺衆徒らのまっただ中へ、脇目もふらずに切って入った。

中でも、一心坊の越後注記・覚存は、興福寺の一人の若い衆徒の手から4尺8寸の太刀を奪い取り、「ここは、自分が何とかせねば!」と勇み立って切り回る。

興福寺衆徒たちは覚存に切り立てられ、バァッと散った。その中に、手掻(てんがい)侍従房(じじゅうぼう)が、ただ一人その場に踏みとどまり、一歩も退かずに、おめき叫びながら覚存と対戦。

追い廻し、追いなびけ、1時間ほども闘争は続いたであろうか。

始めのうちは、人数において劣り、武装においても準備が無かった延暦寺側が劣勢にあったが、急を聞いてかけつけてきた延暦寺側の下役の僧侶たちが、太刀や長刀の切っ先をそろえ、4本柱の門から中へ突入、縦横無尽に切って回った。

人数において優勢であった興福寺側は、これにはたまらず、ついに、北門から御所を脱出して一条大路(いちじょうおうじ)へ、白雲が風に渦を巻くがごとく、たなびき出た。

彼らが去った後の御所の庭の白砂の上には、手掻侍従房をはじめ、興福寺側の主要メンバー8人が、屍を並べて切り伏せられていた。延暦寺側も負傷者多数であった。

半死半生の者らを、戸板や盾を担架代りに使って運び出していくその有様たるや・・・御所の中において、このような事が起るとは、まさに前代未聞の事である。

あぁ、なんという事であろうか・・・御所という最高に尊い場所が、冷たい剣の光が飛び交う戦闘の場になってしまったとは。

宮中の庭を流れる清らかな水には、紅の血が流れ、その場に着座していた公卿大臣たちは、ただただ茫然、彼らの束帯は、ことごとく、緋色に染まってしまっている。

これほどの騒動があったにもかかわらず、天皇は、動揺する事なく、負傷者や死者を除かせた後、庭一帯の血を洗い清めさせ、席を改めた後に、最勝講を滞りなく執行したという。

世間の声A 最勝講とは、陛下よりの厳重なる御願によって、執行されるもの、まさに、天下の大法会といえましょうなぁ。

世間の声B そやのに、こないな、とんでもない事が起こってしまうやなんて・・・。

世間の声C いったいぜんたい、どうなっとるん?

世間の声D これはなぁ、きっと、何かの前兆だぜ。

世間の声E 公私に渡っての、何か不吉な事の前兆たい。

世間の声F この先いったい、何が起こるんじゃろうかのぉ・・・。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 40-3 南禅寺と園城寺の確執

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

同年6月18日、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市、別名:三井寺)の衆徒が蜂起し、朝廷と幕府に対して訴えを起こした。その事の発端は、そもそも何であったかというと:

当時、南禅寺(なんぜんじ:京都市・左京区)造営の費用を捻出(ねんしゅつ)するために、新たに関所が設けられていたのだが、なんと、その関所において、園城寺へ帰る途中の児(ちご)を、関所勤務の禅僧が殺害してしまったのである。

園城寺・衆徒一同 これまさに、前代未聞の悪事!

園城寺の衆徒たちは、憤怒の炎を燃やし、このうらみ晴らさんと、大挙してその関所に押し寄せ、当番の僧から下部(しもべ)や力仕事役に至るまでの全員を、打ち殺した。

それでもなおも、彼らは憤り止まず、

 「我らは訴える! 南禅寺を破却せしめよ! 禅宗を根こそぎ破棄せよ!」

との、強訴に及んだ。

園城寺衆徒A 奈良の東大寺と興福寺、そして延暦寺とわが園城寺、これら4か寺は、「何かあったら連合して、自分たちの身を守ろう!」との、固い固い約束を、既に交わしておるぅ!

園城寺衆徒B まさに、わが寺にとっての安否の時が、今や来たったぁ!

園城寺衆徒C 4か寺、連合して、南禅寺と徹底的に、戦うべきであぁるーっ!

園城寺衆徒一同 戦うべきであぁるーっ!

彼らは直ちに、延暦寺(えんりゃくじ:大津市)と興福寺(こうふくじ:奈良市)に対して、「連合して、事に当たろうではないか」との勧誘文書を送った。

園城寺衆徒A 事の決着がグズグズと遅れるような事あらばぁ、神輿(しんよ)、神木(しんぼく)、神座(しんざ)の本尊と共に、首都の中に、なだれこむべぇし!

園城寺衆徒一同 いざぁ、首都へ、首都へーーー!

園城寺衆徒A シュップレヒコォールゥ!

園城寺衆徒一同 ウォーッ!

園城寺衆徒B (コブシを振り上げ)南禅寺ぃ、ボクメェーツ(撲滅)!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)南禅寺ぃ、ボクメェーツ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)禅宗をぉ、根絶(ねだ)やしにせよーッ!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)禅宗をぉ、根絶やしにせよーッ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)我らは戦うぞー!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)戦うゾーッ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)戦うぞー!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)戦うゾーッ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)戦うぞー!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)戦うゾーッ! (拍手)

衆徒一同の手 パチパチパチ・・・。

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「これは大変、天下の一大事」と、世の中の動きの先を見る目のある人々は、密かにこれを危ぶんだ。

しかしながら、園城寺からの誘いに乗る、という事は大変な事でもあり、延暦寺も興福寺も、そうそう気軽には決断できない。

延暦寺においては、東塔(とうとう)エリア、西塔(さいとう)エリアそれぞれにおいて、意見は様々に分かれ、園城寺からの使者は、連合勧誘書状を持ったまま、比叡山上の3エリアを巡る事に、ただただ時間を費やすばかり。

そんなこんなで、園城寺側は、実力行使にうって出る事もできず、幕府は幕府でノラリクラリ、待てど暮らせど一向に、裁決が出てこない。

園城寺衆徒一同 ほんまにもう! 幕府はいったいいつになったら、裁決、出してくれるんやぁ!

園城寺からの訴状は空しく放置され、衆徒たちは、ただただ、怒りの中に日を送るばかりである。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 40-2 足利基氏、死去す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「このような事では、いったいこの先、我が国はどうなっていってしまうのであろうか」と、衆人危ぶむ中に、またまた、ショッキングなニュースが、関東よりもたらされた。

今年の春より、足利幕府・鎌倉府長官・足利基氏(あしかがもとうじ)は、体調を崩していたが、京都朝年号・貞治(じょうじ)6年(1367)4月26日、突然、死去してしまった。享年28歳。

兄弟の愛情はまことに篤い、相手との死別を悲しまない者が、この世にあろうか。

ましてや、この二人(義詮と基氏)は、言うなれば二翼両輪(によくりょうりん)、日本の西と東、二つの中心的な存在であったのだから。

死別の悲しみもさることながら、関東の柱石たる基氏が砕け落ちてしまったのでは、幕府の力は今後、勢い衰えていってしまうのではなかろうか・・・関係者一同、愁嘆は深い。

京都中、大いに怖れ慎み、「諸々の寺社において、除災の祈祷が行われるのでは。」といったような事も、取りざたされた。

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太平記 現代語訳 40-1 清涼殿において、和歌会、盛大に催さる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・貞治(じょうじ)6年(1367)3月18日(注1)、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)は、長講堂(ちょうこうどう)へ行幸した。後白河法皇(ごしらかわほうおう)175周年御遠忌法要(ごおんぎほうよう)に参列の為である。

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(訳者注1)[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注によれば、史実としては、3月13日にあった事であるという。
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天皇は3日間、そこに逗留(とうりゅう)し、法華経(ほけきょう)の読経(どきょう)を行った。法要の導師は、安居院(あぐいん)の良憲法印(りょうけんほういん)と竹中(たけのうち)の慈照僧正(じしょうそうじょう)であった。

まことにすばらしい法要で、それに参座した僧俗は、全員残らず随喜した。

後光厳天皇の治世の理念は、「万事において、絶えたるを継ぎ、廃れたるを復興していこう」との事であったから、諸々の行事すべてにおいて、万全を尽くしていった。

後光厳天皇 それにしても残念なんは、清涼殿(せいりょうでん)での和歌と管絃の会が、すっかり廃れてしもぉた事やなぁ。これは、歴代の朝廷において執り行われてきたもんやのに、私が即位してからは、ただの一度もやってへん。なんとかしたいもんや。

そこで、天皇は、関白以下の閣僚たちを集めて、

後光厳天皇 このさい、清涼殿での和歌と管絃の会を、復活させたいんやが。

京都朝閣僚A えっ・・・清涼殿での和歌と管絃の会ですかいな・・・。

京都朝閣僚B ・・・陛下、おそれながら・・・あれをやるとなると、なかなか・・・。

京都朝閣僚C ごっつい、たいそうな事に、なりますよぉ。

京都朝閣僚D あれは、あんまし、えんぎのえぇ行事ではないんですわ。

京都朝閣僚E そうだす。あれをやった年には決まって、悪い事が起こるという、歴史的・経験則がありましてなぁ。

後光厳天皇 ・・・。

京都朝閣僚A やっぱし、やめときましょいな。

後光厳天皇 あのなぁ、みんな、よぉ考えてから、モノ言いや!

京都朝閣僚一同 ・・・。

後光厳天皇 かの孔子のたまわく、「詩は300篇もあり、その内容は実にバラエティに富んではいるが、一言でいえば、それらには一切、邪念というものが含まれてないのである。」

後光厳天皇 だからこそ、「治れる世の音は、安んじで楽しむ事ができる、乱れたる世の音は、恨みと憤怒を含んでいる」という言葉があるんやないか。和歌もまた同様や、政治を正し、正邪の判別を教え、王道の興廃を知る事において、和歌は大いなる力を持ってるんや。そやからこそ、歴代の天皇陛下方も、春の花の朝、秋の月の夜と、なにかにつけては臣下たちに和歌を詠ませ、その内容でもって、彼らの賢愚を判別していかれたんや。

後光厳天皇 和歌を詠むという行為はやな、それこそ、神代(かみよ)の昔からあった風俗(ならわし)や、これを捨てられた帝、歴代の中に、一人でもおられるか? おられんやろ?

後光厳天皇 和歌はまさに、聖代(せいだい)の教戒(きょうかい)、誰が、これをもてあそんでよいであろうか!

後光厳天皇 そもそも、この清涼殿での和歌と管絃の会、後冷泉上皇(ごれいぜいじょうこう)陛下が、天喜4年3月に、造花の桜をご覧になって感動され、大納言・土御門師房(つちみかどもろふさ)に歌会開催を命じられ、清涼殿に群臣を招集されたのが、その発端である。

後光厳天皇 この時、陛下は、「新たに桜花を成す」という歌の題を定められ、みなに和歌を詠ませはったんや。陛下おん自らも詠まれてな。その時、管絃の会もあわせて行われた。

後光厳天皇 その後、白河上皇(しらかわじょうこう)は、応徳元年3月、左大弁・大江匡房(おおえのただふさ)に命じられて、「花に多春を契る」という歌題でもって、清涼殿での和歌会を開催された。

後光厳天皇 堀川上皇(ほりかわじょうこう)の御代(みよ)・永長元年3月にも、権大納言・匡房に命じられ、「花に千年(ちとせ)を契る」の歌題でもって、宴遊を行われた。

後光厳天皇 崇徳上皇(すとくじょうこう)もまた、天承元年10月、権中納言・源師頼(みなもとのもろより)に命じられて、「松樹緑久し」の歌題でもって、同様に和歌会を開催された。

後光厳天皇 また、健保6年8月には、順徳上皇(じゅんとくじょうこう)が、関白・藤原道家(ふじわらのみちいえ)に命じられ、「池の月久しく澄む」の歌題でもって、和歌会を開催。

後光厳天皇 後醍醐(ごだいご)先帝の時にも、元徳2年2月、権中納言・藤原為定(ふじわらのためさだ)に命じられ、「花、萬春を契る」の歌題でもって、和歌会を開催。

後光厳天皇 この他にも、承保2年4月、長治2年3月、嘉承2年3月、建武2年正月、清涼殿での和歌の宴が行われた、それも、一度や二度の事ではない。それらは、清涼殿での和歌会の先例の数には入ってないけどな。

後光厳天皇 このような先例は全て、聖なる御代の偉大なる教化といってもえぇ事やないか、そやのにいったいなんで、「あれは、えんぎのえぇ行事ではない」てな事が言えるんや? えぇ?

京都朝閣僚一同 ・・・。

後光厳天皇 今年の春はとりわけ、都の内は花香ばしい。今や、日本全土に平和の気風がみなぎりはじめた今この時に、清涼殿の歌会を行わぬという事ではなぁ!

後光厳天皇 速やかに、かの健保の時の歌会の模様を克明に調査した上で、今回の歌会開催の準備を、関白以下、鋭意、進めていくように! 和歌の題とか、序のあり方とか、決めとかんならんこと、よぉけあるぞ、一同、心してな!

京都朝閣僚一同 ハハーッ(平伏)。

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京都朝閣僚D えらい事に、なってしまいましたなぁ。

京都朝閣僚E 幕府の意向が、気になりますが・・・。

京都朝閣僚A いや、それがなぁ、陛下から更に、ダメ押しされてもうてなぁ・・・陛下がおっしゃるには、現将軍は和歌を愛好してて、「勅撰集の編纂(へんさん)など、いかがでしょう」てな事まで、言うてきてる。みなは、えんぎが悪い行事やというけど、建武年間の清涼殿での和歌会では、他ならぬ先代将軍(注2)も、和歌を詠んでるやんかいなぁ、えんぎ悪いはず、ないやん、と、おっしゃられてなぁ。

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(訳者注2)尊氏は、和歌を詠むことをとても好んでいたようである。
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京都朝閣僚C まぁ、そやったら、幕府も賛成してくれるでしょう。

京都朝閣僚B やるしか、ないですなぁ。

京都朝閣僚A ハァー・・・(溜息)。

というわけで、3月29日に執行、奉行役は、蔵人・左少弁・勘解由小路仲光(かげゆこうじなかみつ)が担当することになった。

当日、勅によって召喚された歌人たちに出されるテーマは、「花は多春の友」。健保の時の例にならって、期日よりも前に、関白が定めたのだとか。

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いよいよ当日、清涼殿・中央間(ちゅうおうのま)の庇(ひさし)の御簾(みす)を巻き上げ、階(きざはし)の西の間から3間北に当たる2間の部屋に、それぞれ、菅(すげ)の円座を敷き、公卿たちの座とした。

長治元年の時には2列に座を作ったのであったが、今回のこのフォーメイション(formation:配置)は、関白がこのように定めたのである。

御座所の帳(とばり)の東西には、3尺の几帳(きちょう)が立てられ、昼の御座の上には、御剣(ぎょけん)と御硯箱(おすずりばこ)が置かれた。

大臣たちの席の末、参議たちの座の前には各々、高灯台が立てられた。

まず、関白・二条良基(にじょうよしもと)が、直廬(注3)から会場に入室、内大臣・二条師良(にじょうもろよし)以下が、それに続いた。

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(訳者注3)摂政、関白、大臣などに割り当てられている個室。
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保安の時の例にならい、直衣(のおし)の着はじめが行われた。

前駆(せんく)、布衣(ほい)、随身(ずいじん)の褐色の衣は常のごとくであったから、さほど鮮やかな装いであったとは、言い難い。

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午前2時、将軍・足利義詮が参内。その装いに、衆人、目を見張った。

公家の中で、義詮と親しい関係にある人々、すなわち、冷泉為秀(れいぜいためひで)、世尊寺行忠(せそんじゆきただ)、正親町実綱(おうぎまちさねつな)、冷泉為邦(れいぜいためくに)らが、庭まで下りて礼をつくした。

義詮は直ちに、左衛門(さえもん)の陣の四足の門をくぐった。その先には、帯刀(たてはき)10人が、左右に連なって列を引く。

左の列には、佐々木時秀(ささきときひで)、白地の直垂(ひたたれ)に金銀の箔で四目結(よつめゆわい)の家紋を押した紅の腰、鮫皮(さめがわ)の金作りの太刀を佩いている。

右の列には、小串詮行(おぐしのりゆき)、黒地の直垂に銀箔で二雁(ふたつかり)の家紋を押し、白太刀を佩いている。

その次に、伊勢貞行(いせさだゆき)、白地の直垂に金箔で村蝶(むらちょう)の家紋を押し、白太刀を佩いて左に歩む。

右には、斎藤清永(さいとうきよなが)、黄赤地の直垂に二筋違の中に銀箔でなでしこを押した黄腰に、鮫皮の太刀を佩いている。

その次に、大内詮弘(おおうちのりひろ)、直垂には金箔で大菱(おおびし)を押し、打鮫に金作りの太刀を佩く。

右には、海老名詮季(えびなのりすえ)、黒地に茶染めの直垂に金箔で大カゴを押し、黄の腰に白太刀を佩いている。

その次に、本間義景(ほんまよしかげ)、白紫地の片身易(かたみがわり)の直垂に金銀の箔で十六目結の家紋を押し、紅の腰に白太刀を穿く。

右には、山城師政(やましろもろまさ)、白地に金泥で州流(すながれ)を書いた直垂に、白太刀を佩いてあい従う。

その次に、粟飯原詮胤(あいはらのりたね)、黄色地に銀泥にて水を描き、金泥で鶏冠木(かえで)を描いた直垂に、帷子(かたびら)は黄色の腰に白太刀を佩いている。まことに立派に見える。

その次に、征夷大将軍(せいたいしょうぐん)・正二位(しょうにい)・大納言・源朝臣義詮卿(みなもとのあそんよしあきらきょう)、薄紫色の立紋(たてもん)の織物の指貫(さしぬき)に、紅の打ち衣を出し、常の直垂。

その左傍には、山名氏清(やまなうじきよ)、濃い紫の指貫に山吹色の狩衣(かりぎぬ)を着て、帯剣(たいけん)の役でもって随(したが)っている。

右には、摂津能直(せっつよしなお)、薄色の指貫に白青(あさぎ)織の狩衣を着て、沓持ち(くつもち)の役でもって随っている。

佐々木高久(ささきたかひさ)は、二重の狩衣姿で、弓矢持ちの役でもって随っている

本郷詮泰(ほんごうあきやす)は、香の狩衣姿で、笠の役でもって随っている

今川了俊(いまがわりょうしゅん)は、侍所(さむらいどころ)長官として、さわやかに鎧たる随兵100騎ほどを率い、軍門警護の役でもって随っている。

この他のメンバー:土岐直氏(ときなおうじ)、山城行元(やましろゆきもと)、赤松光範(あかまつみつのり)、佐々木高信(ささきたかのぶ)、安東高泰(あんどうたかやす)、曽我氏助(そがうじすけ)、小島詮重(こじまあきしげ)、朝倉詮繁(あさくらあきしげ)、朝倉高繁(あさくらたかしげ)、彦部秀光(ひこべひでみつ)、藤盛時(ふじもりとき)、八代師国(やしろもろくに)、佐脇明秀(さわきあきひで)、藁科家治(わらしないえはる)、中島家信(なかじまいえのぶ)、後藤伊勢守(ごとういせのかみ)、久下筑前守(くげちくぜんのかみ)、荻野出羽守(おぎのでわのかみ)、横地山城守(よこちやましろのかみ)、波多野出雲守(はたのいずものかみ)、濱名左京亮(はまなさきょうのすけ)、長次郎(ちょうのじろう)、彼らは、思い思いの直垂にて、乗馬に厚い房をかけ、まことに華やかなる装いである。

将軍・義詮が清涼殿に上がった後、帯刀役は全員、中門の外に敷皮を敷き、列をなして着座。

まず、天皇の勅により、「午前の召」の儀が行われ、関白が天皇の御前へ参った。

その後いよいよ、「清涼殿・和歌会オープニング」の刻限、人々は殿上に着座。

右大臣・西園寺実俊(さいおんじさねとし)、内大臣・二条師良、陸奥出羽按察使(あぜちし)・正親町三条実継(おおぎまちさんじょうさねつぐ)、中納言・日野時光(ひのときみつ)、中納言・冷泉為秀(れいぜいためひで)、首都圏長官・柳原忠光(やなぎはらただみつ)、侍従参議・世尊寺行忠(せそんじゆきただ)、前参議・小倉実名(おぐらさねな)、参議中将・二条為忠(にじょうためただ)、前参議・富小路実遠(つみのこうじさねとお)らが参じた。

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関白・二条良基が、奉行役の勘解由小路仲光を召し、準備が完全に整った事を確認の後、いよいよ、天皇の出御となった。

後光厳天皇(ごこうごんてんのう)は、黄色の直衣(のうし)に打って光沢を出した袴を、はいている。

二条良基は、着座の後、頭左中弁(とうのさちゅうべん)・万里小路嗣房(までのこうじつぐふさ)を召し、「公卿一同、着座すべし」と指示。嗣房は、殿上に公卿たちを招き入れた。

右大臣・西園寺実俊、内大臣・二条師良、以下、順次着座。

将軍・足利義詮は、殿上には着座せず、天皇のすぐ前に座った。

その後、万里小路嗣房、勘解由小路仲光、藤原懐国(やすくに)、五位の殿上人・伊顕(これあき)等のメンバーが、各々の役目に従い、灯台、円座、懐紙等を置いていく。

為敦(ためあつ)、為有(ためあり)、為邦(ためくに)、為重(ためしげ)、行輔(ゆきすけ)らも着座したが、右兵衛督(うひょうえのかみ)・二条為遠(にじょうためとお)は、御前には着座せず、殿上の端をぐるぐると回っている。これは、健保(けんぽう)年間の和歌会の時に、あの藤原定家(ていか)がこのようにしたのにならって、ということである。

富小路実遠、冷泉為秀、日野時光、足利義詮、二条師良、西園寺実俊、二条良基らが、思い思いに膝行し、懐紙を確認しては、また下がっていく。

健保の和歌会の時の例にならって、序文を書く任にある関白・二条良基は、座席の通りに懐紙を置いていく。直衣を中へ踏みたたみながら、膝行していく、これは元徳年間の和歌会の時に、当時の関白がこのようにしたから、という事なので。

和歌披露式の進行役を務めるは、右大臣・西園寺実俊、御前の円座に座して、和歌読み上げ役の勘解由小路仲光を召す。また、序文を読み上げんがために、別勅により、日野時光を召す。さらに、右大弁・為重を召して、懐紙を重ねさせた。

序文から順次、歌が読み上げられていく。

 春日(しゅんじつ) 中殿(ちゅうでん)に侍(じ)して 「花は多春の友」というテーマにて 同じく詠ず

 勅命を奉じて作った和歌一首ならびに序文
 関白従一位藤原朝臣・良基(よしもと) たてまつる

 まさに、天の仁を現すは春にして、地の和を示すは花。天地、悠久の道に則って、不仁の仁を施す。山水の清らかなる風景を楽しみて、大いなる和を展ず。黄色羽の鶯は友を呼びて万年の枝を遷(うつ)り、白い蝶は舞いて百里の園に遊ぶ。

 ああ、大いなるかな、陛下の聖徳、まさに今、清涼殿において、かくも盛大なる宴を催す。

 これより我ら、和歌を宮中において詠み、たちまち治世の風を呼びおこさんとす。古楽を宮中にて奏し、再びあの太古の調べを蘇(よみがえ)らせんとす。

 いわんや、陛下が笙(しょう)を演奏されるは、あたかも紫鸞鳥(しらんちょう)の声、高く引くがごとし。文章の技巧はまさに、月宮の仙女の新たに詞をつぐがごとし。

 大乱の世には、必ずしも雅楽を楽しまず、といえども、これを兼ねるは、まさに今この世。文学を好む人は、必ずしも和歌を詠むとは限らぬが、これを兼ねるは、まさに我らが陛下なり。

 この宴は、一世一大のイベントにして、未来永劫にわたって、世の中に良き影響を及ぼしていくはず。

 わたくし(小臣)は、久しく陛下の龍顔(りゅうがん)に謁(えっ)したてまつり、かたじけなくも、万機(ばんき)のまつりごと(政治)を、おたす(佐)け申し上げてきたり。また、陛下のお言葉を、親しく奏したてまつり、一日のおん遊びを、記してまいりたり。

 そのことば(辞)にいわく、

 仕えつつ 老いてはしもたが なおも先 千年までもと 花に誓うで

 (原文)ツカヘツツ、 齢(よわい)は老(おい)ぬ 行末(ゆくすえ)の 千年(ちとせ)も花に なおや契(ちぎ)らん

この次に、右大臣・西園寺実俊、内大臣・二条師良、陸奥出羽按観使・正親町三条実継、将軍・足利義詮、日野時光、冷泉為秀、日野忠光、世尊寺行忠、右兵衛監・二条為遠、藤原懐国らに至るまで、順次、和歌の披露が行われた後、和歌読み上げ役は全員、退席した。

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いよいよ、講誦(こうじゅ)の人々が、天皇作の歌を読み上げる段である。

後光厳天皇の意を受けて、二条良基が進行役の円座に座し、別勅にて日野時光を、陛下御作の和歌の読み上げ役として招いた。

陛下の作は、

 咲き匂う 御所の花の 元の枝に 永遠の春を 契ろうやないか

 (原文)開匂(さきにほ)ふ 雲居(くもい)の花の 本(もと)つ枝(え)に 百代(ももよ)の春を 尚(なお)や契覧(ちぎらん)

この歌の読み上げは10回にも及び、そうこうしているうちに、夜が明けてきた。

庭の様々の物が、徐々に定かに見え始め、花の薫るも懐かしく、かすみ立つ空気もじつに艶(えん)にして、和歌会参加メンバーたちの詠歌の声は、あたかも天に昇っていき、身体に沁み込んでいくかのようである。

陛下の御作の披露も終わり、めいめい、元の座に戻った。楽人以外の人々も退席した。

その後、直ちに、管絃楽が始まった。

笛は三条実知(さんじょうさねとも)、和琴(わごん)は正親町実綱(おうぎまちさねつな)、ヒチリキは兼親(かねちか)、笙は刑時(のりとき)、拍子木(ひょうしぎ)は綾小路成方(あやこうじなりかた)、琴は公全(きんまさ)、付け歌は宗泰(むねやす)。

まず、呂(りょ)の部が始まり、此殿(このとの)、鳥の破(とりのは)、席田(むしろだ)、鳥の急(とりのきゅう)が奏された。

次に、律(りつ)の部が始まり、萬歳楽(まんざいらく)、伊勢海(いせのうみ)、三台急(さんだいきゅう)が演奏された。

笙のすばらしい音色を聞いて、鳳凰さえもやってくるであろうか、和琴のみごとな調べには、鬼神さえも感動するかと思われる。

清涼殿和歌会において、天皇が自ら何かを演奏するのは、極めて希(まれ)な事である。健保の時には琵琶を演奏したが、その後、そのような事例は聞いた事がない。なのに、今この御代の和歌と管絃の双方の宴に、天皇自ら和歌を作られ、演奏をされるとは、まったくもって、なんとありがたい事であろうか。

参加メンバーF こないな大行事っちゅうもんには、だいたいにおいて、少々のトラブルはつきものなんですが。

参加メンバーG 今回のこれは、まったく一寸の狂いもなし、パーフェクトな進行ですわなぁ。

参加メンバーH これは、非常にえぇ(良)前兆ですよ。日本全国、和歌をもって行う政道に帰し、四海は、かつての旧き良き時代の気風を仰ぎ。

参加メンバーI 人は皆、かの大歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の功績をほめたたえ、世はこぞって、将軍の風流の心に感歎す・・・といったとこでしょかいなぁ。

翌日の正午頃、宴はようやく終わり、人々は御所から退出した。まことに盛大なるイベントであった。

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「清涼殿の和歌会などという大行事は、我が国には分不相応(ぶんふそうおう)と、いうべきものである。ゆえに、それをあえて強行すると、必ず、天下に重大事が起るぞ」とは、多くの人によって、語り伝えられてきた事である。

ゆえに、重臣たちはことごとく、天皇の意向に対して、眉をひそめて諫言もうしあげた。しかし、かくのごとく、天皇は、がんとしてそれを聞き入れず、ついに、和歌会を執行されたのである。

ここで、注目すべき事実がある。

和歌会前日の3月28日午前2時頃、天空において、大異変が観測されていたのである。

えたいのしれないUFO(未確認飛行物体)が多数、首都の西の空から、東の方向に向かって進んでいくのが、目撃されていた。

そして、翌29日16時頃、あの天龍寺(てんりゅうじ:右京区)の新築したばかりの大きな建物、それも、未だ工事完了にまで至っていないものが、失火によってたちまち焼失し、灰燼(かいじん)に帰してしまったのである。

世間の声J おいおい、これはいったい・・・。

世間の声K 天龍寺といやぁ、朝廷からも幕府からも、別格の尊崇(そんすう)、受けてるとこじゃないのよぉ。

世間の声L 京都五山(きょうとござん)の、ナンバーツーだっせぇ。

世間の声M 災いを払い、福を集める懇祈(こんき)を専らにしてはる、大きなお寺さんやのになぁ・・・ほんまに、いったい、これはどういう事なんどすやろなぁ?

世間の声N 清涼殿和歌会のまさに当日という、この時にねぇ・・・。

世間の声O なにかどうも、ブキミに感じられてならねぇ。

世間の声P やっぱ、まずいじゃぁねぇのぉ、あの和歌会やるのはぁ。

世間の声一同 ほんになぁ。

さすがに、この件は問題になり、将軍の和歌会への参加を差し控えたい、と、幕府は再三、朝廷に奏した。

後光厳天皇 あの天龍寺は、勅願によって建立された寺やないかいな・・・それが焼け落ちてしまうやなんて・・・最初聞いた時は、ビックリして、声も出ぇへんかったわ。

京都朝閣僚B やっぱし、和歌の会、中止された方がよろしん、ちゃいますやろか?

後光厳天皇 なに言うてんねん! こないな災いがあったからいうて、この期(ご)に及んで、和歌の会、中止できるわけないやろが! そないな先例、どこにも無いやろ!

京都朝閣僚C はぁ、たしかに、先例はございませんけどぉ。

後光厳天皇 とにかく、やるんや! やるいうたら、やるんやぁ!

京都朝閣僚一同 はぁ・・・。

京都朝閣僚A ハァー(溜息)。

しかしなおも、朝廷と幕府の協議は長引き、ついに決行と決まった時には、もうすでに夜は更けていた。それゆえに、徹夜して翌日の昼間までという、たいそうな宴に、なってしまったのであった。

まったくもって、驚くべき事であるといえよう。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年6月11日 (月)

太平記 現代語訳 39-12 光厳法皇の葬儀、執行さる

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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光明上皇(こうみょうじょうこう)、梶井宮(かじいのみや)・承胤法親王(しょういんほっしんのう)は、共に禅宗僧侶となり、伏見殿(ふしみでん)に住んでいたが、光厳法皇が亡くなられたとの知らせを聞いて、急ぎ、法皇の住んでいた山間の寺院(注1)へ赴き、ダビの事等を取り営み、背後の山中に遺体を埋葬した。

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(訳者注1)常照皇寺(京都市・右京区)。
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仙洞御所(せんとうごしょ)の中での崩御であったならば、百官、涙をしたためて葬車の後に従い、天皇も悲しみを呑んで虞附(ぐつ)の祭を営んだであろう。

しかし、世間に知られる事もなく、山中でひっそりと営まれる葬儀であるから、ただ徒(いたず)に鳥啼(な)いて挽歌(ばんか)の響きを添え、松(まつ)咽(むせ)んで哀慟(あいどう)の声を助けるばかり。

何もかもは、ただ一片の夢に過ぎなかったのであろうか・・・。

光明上皇 (内心)今日は、7月7日か・・・かつての華やかなりし時、、兄上と共に長生殿(ちょうせいでん)で、七夕祭をやったなぁ・・・。

後宮の美人らひしめき、宮殿の両階段に楽人たちが調べを奏でる中、二星一夜の契りを惜しみながらの乞巧奠(きっこうてん)の七夕行事が、ついこの間の事のように、なつかしく思い起こされてならない。

光明上皇 (内心)悲しいかな、当年の今日7月7日、閑静な山深いこの地において、三界八苦(さんがいはっく)の別離に逢わんならんとは・・・。

光明上皇と承胤法親王、山中に棺を担(にな)っての葬送の儀・・・あずまやから眺める月は、生滅変転(しょうめつへんてん)の雲に隠れ、万年樹(まんねんじゅ)の花は、無常の風に散る・・・寺の庭を回(めぐ)る山川も、法皇との別離を悲しんで、雨となり雲となるか、心無い草木も、法皇の死を悼(いた)んで、葉は落ち、花しぼむか・・・。

光厳法皇よりの恩を感じ、その徳を慕ってやまぬ旧臣の数は多かったが、あらかじめ言い含められていたがゆえに、そこに参集してくる者は稀であった。

わずかに、籠僧(こもりそう)3、4人が勤行を行い、四十九日までの仏事を、とり行った。

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その後も、光厳法皇の祥月命日毎に、様々の作善(さぜん)の仏事が毎年行われていった。

特に、三回忌法要の時には、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)が、てずから、一字三礼(いちじさんらい)紺紙金泥(こんしきんでい)の法華経(ほけきょう)写経を行って奉じ、5日間、朝夕2座の八講十種(はっこうじゅっしゅ)の経典講義が行われた。

楽人の奏でる音楽は、かの帝釈天(たいしゃくてん)・眷族八部衆(けんぞくはちぶしゅう)中の音楽神・キンナラの琴の音を思わせるかのよう、法要導師(ほうようどうし)が故人の徳をほめたたえるその言辞はまさに、釈尊(しゃくそん)・十大弟子(じゅうだいでし)中の弁舌第一(べんぜつだいいち)・プンナのごとくである。

法要の最終日、薪を採り雪を担う五位蔵人(ごいくろうど)は、千載給仕(せんざいきゅうじ)の昔の跡を重くし、水を汲み月を運ぶ殿上人(てんじょうびと)は、八相成道(はっそうじょうどう)の遠い縁を結ぶ。

これまた、かの善性童子(ぜんしょうどうじ)、あるいは、サンダイラン国に仕えた宝蔵(ほうぞう)の孝をも越え、浄蔵(じょうぞう)と浄眼(じょうげん)が父・妙荘厳王(みょうしょうごんおう)を仏道に導いた功をも、しのぐものである。

十方の諸仏がこの追善供養(ついぜんくよう)に随喜(ずいき)したもうた事は、言うまでもなく明らか、六道(ろくどう)に生きる諸々の存在もさだめし、その余薫(よくん)に預かった事であろうと思われるような、まことにすばらしい追善の仏事であった。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-11 光厳法皇、諸方を行脚

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝年号、正平12年(1357)、光厳上皇(こうごんじょうこう)は、吉野の山中・賀名生(あのお:奈良県・五條市)での幽閉から解放され、京都へ帰ってきた。(注1)

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(訳者注1)原文では、「光厳院禅定法皇は、正平七年の此、南山賀名生の奥より楚の囚を許され給て、都へ還御成たりし後」。

正平7年(1352)は、光厳上皇らが拉致された年である。ここは、太平記作者のミスである。
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その後、上皇は、厭世(えんせい)の感が強まり、「仙洞御所(せんとうごしょ)での華美な生活を捨て、身軽な境遇になってしまいたい」と、願い続けてい。そして、ようやくその願いがかない、袈裟を着して頭を丸め、世の塵を離れた生活ができるようになった。

まずは、伏見(ふしみ:伏見区)の奥の、光厳院(こうごんいん)という幽閑(ゆうかん)なる地に住んだ。

しかし、なんといっても都の近所、旧臣たちが、再び参り仕えようと、寄ってくる。

光厳法皇(注2) (内心)なんともまぁ、厭(いと)わしいもんやなぁ。過去のシガラミ、どこまでも、ひっついてくるやん・・・憂き世の事を、わが耳に入れただけで、なんや、心がどんどん汚れていってしまうような気持ちするなぁ・・・。

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(訳者注2)出家した上皇は、「法皇」と呼ばれる。今後、「光厳上皇」ではなく、「光厳法皇」と記述することとする。
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光厳法皇 (内心)中峯和尚(ちゅうほうおしょう)の作った送行偈(そうぎょうのげ)にもあるわなぁ、「来たりて止まる所無く、去って住する事無し。拄杖(しゅじょう)頭辺(とうへん)活路(かつろ)通ず。」(注3)

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(訳者注3)[拄杖]は、[禅僧が行脚(あんぎゃ)のときに用いるつえ]であり、この句の中においては、[行脚(あんぎゃ)]のシンボルとして使われている。

「来たりて止まらず、去って住する事無し」も、行脚の様態を示す語である。

「活路通ず」は、「その中に、覚りの境涯が開けるぞ」の意。
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光厳法皇 (内心)ほんまに、その通りや・・・行脚こそ、最高の人生やわなぁ・・・よし!

光厳法皇は、ついに思い立ち、しもべを一人も伴わず、順覚(じゅんかく)という僧一人だけを供に連れて、山林行脚の旅に出た。

光厳法皇 まずは、西国の方に行ってみるとしよか。

順覚 かしこまりました。

摂津国(せっつこく)の難波浦(なにわうら)を通過せんとした時、御津(みづ)の浜松に霞が渡り、曙の風景がもの哀れに感じられた。

光厳法皇 誰を待って 御津の浜松 霞んでるんや わが日本国に 春はまだ来ぬ

 (原文)誰待て みつの浜松 霞むらん 我が日本(ひのもと)の 春ならぬ世に

一首読み、涙ぐまれた。

そのまま、そこに足を止め、山遠き浦の夕日が波間に沈もうという時刻まで、一帯の風景を鑑賞された。それでもなおも、そこを去りがたい気持ちであった。

光厳法皇 そうそう、こんな詩があったわなぁ、

 望むに 窮まり無し 水 天色を接(まじ)え
 看(み)るに つきず 山 夕暉(せきき)に映ず

光厳法皇 あぁ、まさに、この風景にピッタリの詩やなぁ。

光厳法皇 それにしても・・・もしも、世を捨ててなかったら、こないな、すばらしい風景を見る事も、できひんままやったんやわなぁ・・・。

無常感のいやます法皇の心中である。

光厳法皇 次は、高野山(こうやさん:和歌県・伊都郡・高野町)へ行ってみよ。

順覚 はい、かしこまりました。

というわけで、まずは、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)の瓜生野(うりうの)へ。

野焼きの跡に緑が萌え出て、そこには早くも、春のきざしが・・・松の影は紅(くれない)を穿(うが)ち、日は西に傾く。海空と野原が織り成すパノラマは、歩けば歩くほど、新しい発見に満ち満ちており、足の疲れを全く感じない。

かつては、金箔を散らした軽いうすものの敷物を介してしか、かりそめにも地面を踏んだ事など無かった人が、今や、黒い深泥湿土(しんでいしつと)に足を汚している。

お供の順覚は、脇の下にかけていた護符を、托鉢に替えて、たすきがけにした。

二人はそのまま、堺浦(さかいのうら:大阪府・堺市)まで歩き、そこで、夜になった。

玉藻(たまも)を拾い、磯菜(いそな)を取る海人(あま)たちが、ツゲの櫛を頭に差し、葦(あし)の間に見え隠れしながら働いている様を見て、

光厳法皇 (内心)朝廷に貢ぎ物を備える民の労働が、これほど、たいへんなもんやったとは・・・今の今まで、こないな事、なにも知らんまま、ただただ、安閑と暮してきた自分やったなぁ。

今さながらに、自分の過去の人生を、「あさましきものであった」と痛感する法皇である。

頭を回らして東の方を見れば、雲に連なり霞に消えて聳え立つ高い山があった。道端に休んでいる木樵(きこり)に、法皇は問うた。

光厳法皇 あこに聳(そび)えたる高ぁい山、あれ、なんちゅう名前の山や?

木樵 坊(ぼん)さん、知らんのかいな。あれこそは、かの有名なる「金剛山(こんごうさん)」やがな。ほれ、あの・・・日本国中の幾千万もの武士らが、命落してしまいよったとこやがな。

光厳法皇 ということはやで・・・なにか、あの楠正成(くすのきまさしげ)が、鎌倉幕府の大軍相手に戦ぉた、あの城のあったとこかいな?

木樵 そうやがな、あの「千剣破(ちはや)城」のあったとこやがな。

光厳法皇 あぁ、あこがなぁ・・・。

光厳法皇 (内心)あの時、自分は一方の皇統(注4)を代表する立場として、天皇の位にあった・・・もとはといえば、あの千剣破城の戦も、自分が天下を争そうたが為に、引き起こされたんやった・・・あぁ、なんちゅう、あさましい事なんやろうか・・・あの戦場で死んでいった者らは、今ごろ修羅道(しゅらどう)に落ちて、長い長い苦患(くげん)を受ける身になってるんやろぉなぁ・・・それらの罪障(ざいしょう)、私が受けていく事にも、なるんやろうなぁ・・・。

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(訳者注4)持明院統。
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法皇は、過去の非を悔い、じっとたたずみながら、金剛山を見つめ続けた。

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それから数日後、紀伊川(きのかわ:和歌山県)を渡る事になった。

眼前には、柴木の小枝で造られた危(あやう)げな橋が一本かかっているだけ、橋脚は、既に朽ちてしまっている。

思い切って橋の上に進み出てはみたものの、足がすくみ、肝は冷え、もうとても先には進めない、法皇は、橋の途中で立ち往生してしまった。

そのような所に、7、8人の武士が、橋の上をやってきた。

この地で、肘を張り、目をイカラしながら生活している武士たちであろうか。法皇が橋の途中に立ちつくしているのを見て、いわく、

武士A おいおい、あのぼん(僧侶)さん、見てみいな。あんなとこで、つった(立)っとるわい。(ニヤニヤ)

武士B あこまで行ってみたはええもんの、ビビッテもぉてからに、身動きできんように、なってしもたんや。(ニヤニヤ)

武士C ほんまにもう、臆病なやっちゃのぉ。

武士D みっともないでぇ。

武士E おいおい、おれら、チト、先を急いどるんや。

武士F 橋は一本しか、ないんやからなぁ! 渡るんなら、とっとと渡れやぁ! 渡らんのやったら、おれらを通せ!

彼らは、法皇を押しのけて橋を渡っていこうとした。その瞬間、

光厳法皇 あぁぁ!

法皇は、橋の上から押し落とされて、川中に転落、水中に沈んだ。

順覚 あぁ、なんちゅう事を!

順覚は、衣を着たまま川に飛び込み、法皇を助け揚げた。

法皇は、膝が岩の角に当たって出血、衣は水びたし。

順覚は、泣く泣く、法皇を付近の辻堂へ入れ、衣を脱ぎ替えさせた。

光厳法皇 (内心)出家前には、こないな屈辱、味わぉた事、なかったわなぁ・・・。

順覚 (内心)元はといえば、天皇陛下・・・そやのに、ご出家されたばっかしに、こないなメにあわれるやなんて・・・。

法皇も順覚もさすがに、いったんは捨てた浮き世への未練の思いが心中に沸き上がってくるのを、とどめようがない。涙のかかる袖は、濡れに濡れて、干す暇もない。

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それでもなんとか、気力を回復、二人は再び、高野山を目指した。

行く末(すえ)心細き針のような道を経て、ひたすら山を登っていく・・・山また山、水また水・・・この先いったい何日間、登り続けなければならぬのであろうか・・・ともすると、身力疲れをおぼえるのではあったが、

光厳法皇 ハァハァ・・・なぁ、順覚よ・・・ハァハァ・・・。

順覚 はい・・・ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・先年、大覚寺法皇(だいかくじほうおう:注5)がなぁ・・・ハァハァ・・・高野山へお参りされた時にはなぁ・・・ハァハァ・・・供奉(ぐぶ)の公卿(くぎょう)らはもろともに・・・ハァハァ・・・。

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(訳者注5)後宇多法皇。
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順覚 ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・1町毎に設けられた卒塔婆(そとば)を見ては・・・ハァハァ・・・三度の礼拝をして、頭を地に着けて・・・ハァハァ・・・仏に誠を捧げながら進んでいったと、いうやないかぁ・・・ハァハァ・・・。

順覚 はぁい・・・ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・法皇陛下のその御願(ぎょがん)・・・ハァハァ・・・まことに有り難いもんやわなぁ・・・ハァハァ・・・。

順覚 はぁい・・・ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・私が在位の時、もうちょっと世の中が平穏やったら・・・ハァハァ・・・きっと私も、法皇陛下の・・・ハァハァ・・・それになろぉて・・・ハァハァ・・・同じようにして、高野山に・・・ハァハァ・・・お参りしてたやろうて・・・ハァハァ・・・。

順覚 ハァハァ・・・。

光厳法皇 (立ち止まる)ハァハァ・・・その夢が今、ついに実現したというわけやなぁ・・・ハハハハ・・・ハァハァ・・・(笑顔)。

順覚 ほんまに、そうですわなぁ・・・(微笑)。

そしてついに、

順覚 猊下(げいか)、ついに着きました、高野山ですわぁ・・・ハァー・・・。

光厳法皇 あぁ、ついに・・・ハァー・・・いやぁ、道中、キツかったなぁ。(笑顔)

順覚 はいぃーー。(笑顔)

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法皇は、高野山・金剛峰寺(こんごうぶじ)の大塔(だいとう)の扉を開かせ、金剛(こんごう)・胎蔵(たいぞう)両界曼荼羅(りょうかいまんだら)を拝観した。

胎蔵界の700余尊、金剛界の500余尊は、かの平清盛(たいらのきよもり)が、手ずから書いたものであった。

光厳法皇 さしもの積悪(せきあく)・平清盛、いったいいかなる宿善(しゅくぜん)に催されて、こないな大いなる善根を、致したんやろうかなぁ。

順覚 ・・・。

光厳法皇 「六大無碍(ろくだいむげ)の月(つき)晴(は)るる時(とき)有りて、四蔓相即(しまんそうぞく)の花(はな)発(さく)べき春を待ちける」・・・平清盛、ただの悪人では無かったんやなぁ・・・今日、あらためて思い知ったわ。

落花(らっか)雪となれども笠(かさ)重きこと無し、新樹(しんじゅ)昏(くれ)を誤れども日(ひ)未だ傾かず、その日のうちに、奥の院(おくのいん)まで参詣した。(注6)

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(訳者注6)弘法大師・空海の廟は、[奥の院]エリアにある。
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法皇は、弘法大師(こうぼうだいし)入定(にゅうじょう)の室(むろ)の戸を開かせた。

峯の松は風を含んでユガ上乗の理(ゆがじょうじょうのことわり)をあらわし、山花(さんか)雲をこめて赤肉中台之相(せきにくちゅうたいのそう)を秘す。過去仏(かこぶつ)の化縁(けえん)は過ぎぬれども、五時の仏説(ごじのぶっせつ)今、この耳に聞こえくるかの感あり。弥勒仏(みろくぶつ)の出世(しゅっせい)は遙か未来なれども、三会の粧(さんえのよそおい)既に目に遮(さえぎ)るがごとし。

そのまま3日間、奥の院で通夜した後、早暁に出立、そこで一首、

光厳法皇 高野山 迷いの夢も 覚めるかと その暁を 待ち続けてきた

(原文)高野山 迷の夢も 覚るやと 其暁を 待ぬ夜ぞなき

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「夏安居(げあんご)の期間中は、心静かに、この高野山の中ですごそう」と思い、光厳法皇は順覚を伴い、諸堂巡礼の日々を送っていた。

ある日突然、二人の男が、法皇の前にかけ寄ってきて、その場に平伏した。

光厳法皇 (内心)うっ、なんや、いったい?!

見れば、二人とも出家間もなくのよう、墨染(すみぞめ)の色も濃い衣を着ている。どういうわけか、二人とも、メソメソと泣いている。

いったい何者かと思い、しげしげと二人の顔を見つめ続けるうち、法皇の脳裡に、あの時の事がよみがえってきた。

光厳法皇 (内心)あぁっ、あの時の!

彼らは、紀伊川(きのかわ)を渡ろうとしていた時に、橋の上から法皇を押し落としたメンバー中の二人であった。

光厳法皇 (内心)いったい、どないしたんやろ? いったいなんでまた、急に出家したんやろ? あれほどの心無い放逸(ほういつ)の者にも、世を捨てる心が芽生える、なんちゅう事も、あるんやなぁ。

法皇は、そのままそこを通り過ぎたが、二人は後からついてくる。

順覚 あんたら、いったい、なんですか? どないしはったんですか?

出家者A (涙)はい・・・先日、紀伊川をお渡りの時に、このようなやんごとないお方とは知らんとからに、玉体(ぎょくたい)に乱暴に触れたてまつりました事、まことにあさましい事やと思うて、このような姿になりました。

出家者B (涙)「仏となる種は、縁(えん)より起る」と聞いております。どうか、今から、おそば近くに、お仕えさせてくださいませ。

出家者A なんでもしまっせ、薪(たきぎ)拾い、水汲み、なんでもします、今日から3年間、24時間、お仕えさせていただきますわ。そないしたら、仏神三宝(ぶっしんさんぼう)からも、お咎め無しで許してもらえますやろか。

順覚 (光厳法皇の方を向いて)こないな事、言うてますが・・・どないしましょ?

光厳法皇 そうやなぁ・・・(二人の方を向いて)かの、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)様は、道を行かれる時に、罵詈讒謗(ばりざんぼう)を浴びせかける人間がおっても、それを一切咎(とが)められる事もなく、自らを打擲蹂躪(ちょうちゃくじゅうりん)する者にさえも、かえって敬礼(きょうらい)したもうたという・・・ましてや、私は、既に出家の姿に身をやつしてるんやし、過去の私を知る人も無い。そやから、おまえらが私の事を分からんかったのも、ムリのない話しやがな・・・単なる一時の誤りや、何も、気にする必要ないでぇ。

出家者A ・・・(平伏、涙)。

出家者B ・・・(平伏、涙)。

順覚 ・・・(涙)

光厳法皇 とはいうものの・・・それがきっかけで、仏縁につながれ、そのように出家できたんやから・・・ほんまに、因縁(いんねん)っちゅうもんは、不可思議としか、言いようがないわなぁ・・・。

光厳法皇 そやけどな、私に随順(ずいじゅん)するのん、それだけは、ぜったいアカン、アカン。

出家者A ・・・(ガックリ、涙)。

出家者B ・・・(ガックリ、涙)。

このように言われても、二人は、片時も法皇の側を離れようとしない。

困惑した法皇は、夜明け頃、二人にアカ水を汲みに行かせ、その間に、順覚を伴って密かに高野山を去った。

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その後、光厳法皇と順覚は、大和国(やまとこく:奈良県)へ。

光厳法皇 道順もえぇし、いっちょ、あっち側の天皇陛下の御所、訪れてみよかいなぁ。

順覚 はい。

つい3、4年前までは、朝廷の両統は南北に分かれて、ここに戦い、かしこに侵攻、一方の前天皇が、もう一方の現天皇のもとを訪問するというような行為は、いわば、呉と越の会稽(かいけい)での対戦、漢と楚の覇上(はじょう)での会戦にも、等しい事である。

しかしながら、光厳法皇は今や、憂き世を捨てた出家の人、玉体を麻衣(まえ)草鞋(そうあい)にやつし、輿にも乗らず自ら徒歩にて、この山中はるばる、訪ね来たった。

吉野朝廷の伝奏(てんそう)役は、未だ事を告げない前に、涙で衣の袖を濡らし、吉野朝・後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、対面する前に既に、涙を流している。

御所に一日一夜逗留して、法皇と天皇は、様々に対話した。

後村上天皇 まぁ、よぉこそ、おこし下さいました・・・まるで、目覚めてからなおも夢を見ているかのよう、あるいは、夢の中で迷うているのかとさえ、思われますよ。(微笑)

光厳法皇 ・・・。(微笑)

後村上天皇 それにしても・・・たとえ、仙洞御所(せんとうごしょ)をお捨てになって、釈氏(しゃくし)の真門(しんもん)にお入りになられるとしてもですよ、あの宇多法皇(うだほうおう)陛下、あるいは花山法皇(かざんほうおう)陛下のように、大きな寺院にお入りになって余生を送られると、いう道も、あおりになったでしょうに・・・。

光厳法皇 ・・・。(微笑)

後村上天皇 このように、ご尊体を浮き草のように水上に寄せ、天子の御心を禅宗の教義に一心傾けられ・・・いったい、どないなふうにして、そないに澄み切ったご発心(ほっしん)の境地に至られたのか・・・ほんまにもう、うらやましい限りですわなぁ。

光厳法皇 ・・・う・・・う・・・。(涙にむせぶ)

後村上天皇 ・・・(涙)。

光厳法皇 ・・・陛下(注7)は、聡明文思(そうめいぶんし)の四つの徳をもって、お考えになる事が、おできになりますからね、人が一言申し上げるか申し上げんかの間に、何もかもすっと、理解する事がおできになるのでしょう。

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(訳者注7)後村上天皇の事。
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後村上天皇 ・・・。

光厳法皇 そやけど、私は、生れつき、煩悩(ぼんのう)の深い人間でして・・・いつまでたっても、煩悩から解放される事もなく・・・いわば、虚空(こくう)の中の塵(ちり)のごとき存在・・・。

光厳法皇 いや、私、なにも、自ら願うて、そのような人間になったわけではありません。

光厳法皇 そやけど、人間すべからく、持って生れた運命、前生(ぜんせい)での業因縁(ごういんねん)っちゅうもんが、ありますわなぁ・・・私もそれから離れられんままに、青年から壮年に至る人生を、送ってしもうたわけですよ。

光厳法皇 こないな事で、えぇんやろうか・・・自分の真実の人生は、帝位という権力に生きる中にあるのではない、もっと他の世界の中にこそ、あるのんとちゃうやろぉかと、何となく、漠然とは、思ってはおったのですが・・・。

光厳法皇 若気の至り、とでもいいましょうか、確実にやってくる老いという事も、さほど気にかけへんままに、年月を何とのぉ、送ってしまいました・・・時間の流れをせきとめてくれる関所なんか、この世のどこにも、ありませんわなぁ。

光厳法皇 私の天皇としての人生は、まさに、日々、天下の乱と共にあった、というべきでしょう・・・ほんまに、一日として、戦乱の止む時は無かった。

光厳法皇 元弘(げんこう)年間の始めには、あの六波羅庁(ろくはらちょう)の人々に伴われ、近江(おうみ)の番馬(ばんば:滋賀県・米原市)まで落ち下り・・・私はそこで、地獄をこの目でみました・・・500余人の武士たちが一斉に自害する中に、交わり・・・今になっても、鮮明に思い出すことができますよ・・・彼らの体からほとばしる、あの鮮血のなまぐさい匂い・・・あの時の私は、ただただ呆然、なすすべもなく、その場に座し続けるばかりやった・・・。(注8)

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(訳者注8)9-8 参照。
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光厳法皇 正平(しょうへい)の末には、この吉野の山に幽閉の身となりました・・・それから数年間、刑罰に伏す苦しさの中に、日々を送りました。(注9)

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(訳者注9)30-8 参照。
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光厳法皇 後醍醐(ごだいご)先帝陛下が政権に帰り咲かれた後の日々・・・今思い起しても、苦悩の連続・・・この世界はこれほどにも憂きものであったのかと、初めての体験に、ただただ、驚くばかりでした。

光厳法皇 あの時、もう一度天皇になろうなどとは、夢にも思わなんだ、政治にも一切、関心は無かった・・・ところが、一方の戦士(注10)が私を強いて、本主(ほんしゅ)としたのです・・・その運命から逃れる事は、不可能でした。

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(訳者注10)足利尊氏。
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光厳法皇 ひたすら、願い続けておりましたよ・・・いつの日にか、山深き住処に、雲を友とし、松を隣人として、心安く生涯を全うしたいもんやと・・・いつもいつも、願ぉておりました・・・それが、私の唯一の念願やったんです。

光厳法皇 そしてついに、その念願が実現する日がやってきたんですよ・・・天地の命により、譲位の儀とあいなりました・・・ついに・・・ついに、私は、過酷な運命のくびきから、解放されたんです・・・そして、このような姿になる事ができました・・・ついに・・・ついにね。(涙)

後村上天皇 あぁ・・・(涙)

吉野朝側メンバー一同 ・・・(涙)。

光厳法皇 ・・・。

後村上天皇 ・・・。

吉野朝側メンバー一同 ・・・。

光厳法皇 ・・・では、そろそろ、おいとますることにいたしましょう。

後村上天皇 ・・・(涙)。

光厳法皇 ・・・。(座を立つ)

後村上天皇 ・・・法皇猊下(ほうおうげいか)・・・あのぉ・・・。

光厳法皇 はい?

後村上天皇 この先、歩いて行かれるのでは、たいへんでしょう、馬寮(ばりょう)の馬を1頭、お持ち下さい。

光厳法皇 ありがたいお言葉ではありますが、それは、お受けできません。

後村上天皇 そやけど・・・。

光厳法皇 一介の出家が、天皇陛下の御馬に乗るなど、言語道断、辞退申し上げます。(微笑)

後村上天皇 ・・・。

長旅の疲労の蓄積があった光厳法皇ではあったが、今なお雪のごとく白い足に、粗末な草鞋を穿いて、御所を出立した。

後村上天皇は、警護所まで出て、御簾をかかげて法皇を見送った。公卿たちは、庭の外まで出て法皇を見送り、全員、涙の中に立ち尽くした。

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道すがら、山館(さんかん)、野亭(やてい)を見ながら、

光厳法皇 あぁ、あの家は・・・。

そこは、あの幽閉の時、このような場所では一日片時も過ごしがたいと、苦悩の中に日々を送った、松の扉のあばら屋であった。

光厳法皇 (内心)交戦地帯の山中でなかったら、こないな所に住む事もなかったんやろうなぁ・・・今となっては、かつての憂いの住処も、なつかしさが込み上げてくるわぁ。

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諸国行脚(しょこくあんぎゃ)の後、光厳院(こうごんいん)へ帰還し、そこにしばらく滞在した。

しかし、朝廷からの使者がしきりにやってきては、法皇の松風の夢を破り、あいもかわらず、旧臣が常に訪ねてきては、月下の寂静を妨げる。

光厳法皇 ここは、もう、あかんなぁ、住みにくぅて、かなんわ。

そこで、法皇は、丹波国の山国(やまぐに:京都市・右京区)という所へ、消息を絶って、移り住んだ。(注11)

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(訳者注11)常照皇寺へ入った。
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山果(さんか)庭に落ち、朝食、秋風に飽く、柴火(さいか)炉に宿して、夜は薄衣で寒気を防ぐ。

日々に詩を吟じ、肩骨やせて、泉の水を汲むのもものうく思える時は、雪を石鼎(せきてい)に積み、三杯の茶に、清風を飲む思いを起す。

緩慢(かんまん)と歩む山路は険しく、蕨(わらび)を摘むに倦(う)んだ時は、岩窓(がんそう)に梅をかじり、一連の句に、閑味(かんみ)をあじわう。

身(み)の安きを得る所、すなわち、心(こころ)安し。

家を出れば、そこには河と湖、家に入れば、山と川の景色を眺め。天地の外に逍遥(しょうよう)しては、破れ布団の上に、日々を過ごす。

その翌年の夏頃から、急に体調不良になり、7月7日、ついに光厳法皇は亡くなられた。(注12)

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(訳者注12)1364年7月7日、享年52歳。
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(訳者後書き)この章に記述されている「光厳法皇の行脚」は、史実かどうか、全く不明である。これが史実であったならば、すばらしいなぁと、訳者は思うのだけど。
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(訳者後書き)太平記現代語訳の記述を進めていく中に、私は徐々に、この光厳上皇(法皇)という方に、心ひかれていった。

過去に何回も、太平記原文(といっても、和紙の上に書写された文字通りの「原文」ではなくて、出版社から刊行されている古典文学集のそれ)を読んだが、その時の光厳上皇に対する自分の関心は、極めて薄いものでしかなかったように思う。

人間やはり、年を取り、様々な経験を積み重ねてくるにつれて、それまで見えていなかったものが徐々に見えてくる、それまで感受できなかったことを徐々に感受できるようになってくる、という事であろうか。

光厳上皇は2回、朝廷の最高権力者の地位についた。

一度目は、後醍醐天皇の打倒鎌倉幕府運動失敗の後より、六波羅探題の滅亡に至るまでの間。

二度目は、足利尊氏に擁立されて、京都朝廷を立ち上げて後。

治世に対しては、極めて真摯な態度で臨んだようではあるが、武士階級(鎌倉幕府、足利幕府に代表される)の力に圧倒され続け、思いのままにならぬ事が多かったようである。

こういうような人って、けっこう、世の中に多いんじゃないだろうか・・・理想を貫こうとしつつも、現実の厚い壁に阻まれ、あるいは、運命の変転にもてあそばれ・・・そういった人生を送った人であったからこそ、自分は、とても心ひかれるのだと思う。

光厳上皇について、もっと詳しく知りたい方には、下記をおすすめしたい。

 [地獄を二度も見た天皇 光厳院 飯倉 晴武 著 吉川弘文館]
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太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-10 神功皇后の遠征

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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(訳者前置き)この章に書かれている事も、史実からほど遠い内容であろう。

日本の歴史学の世界において、ここで取り上げられている時代ほど、扱いにくい時代は無いのでは、と思う。信頼できる史料が存在しないからだ。

第二次大戦が終了した後、日本にもようやく、[学問の自由]と[言論の自由]が根付き、「[古事記]や[日本書記]に書かれている事は、本当にあった事なのかどうか」、というような事を、おおっぴらに論じることができるようになった。

その結果、この章にあるような、[神功皇后が朝鮮半島に遠征して・・・]というような事は、史実ではない、ということが、日本史の常識となった。

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これははるか昔の話であるが・・・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、天子としての優れた徳と人間の域を越えた武徳をもって、朝鮮半島の三韓(注1)に遠征したが、戦いに利無く、帰国した。

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(訳者注1)原文では、「高麗の三韓」。

太平記作者は、この章では、「高麗」を「高麗王朝」の意ではなく(王朝名としてではなく)、「朝鮮」の意で(エリア名として)用いている、と思われる。

そこで問題となるのが、「三韓」の解釈である。

[新羅]、[百済]、[高句麗]の3国とするべきなのか、あるいは、[新羅]、[百済]、[任那]とすべきなのか・・・[任那]については、様々に議論が交わされてきている。

ゆえに、訳者は、「高麗の三韓」を「朝鮮半島の三韓」と訳しておく事にした。
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この結果を見て、神功皇后(じんぐうこうごう)は、

神功皇后 (内心)今回の遠征の失敗は、わが方に、智謀(ちぼう)・武備(ぶび)の双方に渡り、不足の点が多々あったゆえ・・・わが国はまだまだ、開発途上なのであるよ・・・。

神功皇后 (内心)方策はただ一つ、超大国、すなわち、かの「中華の国」の優れたる戦略と戦術を学び修める、これしかない!

そこで皇后は、ある者に砂金3万両を持たせ、中国へ送り込んだ。

彼は首尾よく、履道翁(りどうおう)著の一巻の秘書を得た。これは、かの黄石公(こうせきこう)が第5日目の鶏のなく時刻に、渭水(いすい)の土橋の上で、張良(ちょうりょう)に授けた書物である。

「再び、朝鮮へ出兵」と、決した後、皇后は祈願に入った。

神功皇后 かしこくも、倭の天地(あめつち)におわします、やおよろず大小の神祇冥道(じんぎみょうどう)に対し、つつしみうやまいて、我、請い願いたてまつる。願わくば、これより執行の軍評定(いくさひょうじょう)の場に降臨(こうりん)したまいて、非力(ひりき)なる我を、なにとぞ、擁護(ようご)したまわんことをー!

皇后のこの請(しょう)に応じ、一柱(ひとはしら)を除いた全ての神々が、常陸(ひたち:茨城県)の鹿島(かしま)に降臨しもうた。

そこに来られなかった神はといえば、その名を、「アトベノイソラ神」と申す、そのイグシステンス・フィールド(existence field:存在場)は、海底にあった。

やおよろずの神々 アトベノイソラが来ぬのは、なにか、ワケあっての事であろうよのぉ。

神々は、篝火(かがりび)を焚き、榊(さかき)の枝に白色御幣(ごへい)と青色御幣(ごへい)を取り掛け、風俗(ふうぞく)、催馬楽(さいばら)、梅枝(うめがえ)、桜人(さくらひと)、石河(いしかわ)、葦垣(あしがき)、此殿(このとの)、夏引(なつひき)、貫河(ぬきかわ)、飛鳥井(あすかい)、真金吹(まかねふく)、差櫛(さしくし)、浅水(あさうづ)の橋、呂律(りょりつ)を演奏、リフレインを繰り返しながら、歌いに歌った。

神々のこの歌声は海底にまでも達し、アトベノイソラ神のレセプター(recepter)中に、大量のレゾナンス(resonance:共鳴)を発生させた。

アトベノイソラ神 かの神々ら、なにやら、いとおかしき事、楽しみており、我も行くべし!

その瞬間、鹿島地方一帯に、時空間の著しい歪(ひずみ)が発生した。

やおよろずの神々 うっ・・・感ずる・・・感ずるぞ・・・この歪みは・・・いったい・・・アアア・・・。

神々の集う場の空間 ウワゥウワゥウワゥワワワ・・・。

神々の集う場の空間 ピィィィィィーーーーン!

やおよろずの神々 オォッ!

アトベノイソラ神は、4次元テレポーテーション(4D teleportation:時空間中・瞬間移動)を終え、実体化を完了。それと共に、一帯の時空間の歪みは解消、常態に復帰した。

その姿を見れば、これは奇怪(きっかい)、キサゴ、牡蠣(かき)、藻中に棲息する虫たちが手足五体にビッシリとりつき、人間の姿からはほど遠いものになってしまっている。

神々は、怪しんでいわく、

やおよろずの神々 アトベノイソラ神よ、アトベノイソラ神よ、なにゆえ、かような貌(かたち)に、成りにける?

アトベノイソラ神、答えていわく、

アトベノイソラ神 我、滄海(そうかい)の鱗(うろくず)に交わりて、彼らを利せんが為、久しく海底に住みはべりぬ間、かような貌(かたち)に、成りてそうろうなり。かかる形にて、やんごとなきおんみら(御神等)の前に参らんずる恥かしさに、今までは、参りかねそうろう・・・しかるに、曳々融々(えいえいゆうゆう)たる律雅(りつが)のみ声に、恥をも忘れ、身をも顧みずして、参りたり。

やおよろずの神々 よくぞ、来られた!

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神宮皇后は、このアトベノイソラ神を使者として龍宮城(りゅうぐうじょう)に送り、「貴城の宝なる、「干」と「満」の2つの珠玉(しゅぎょく)を借りたし」との要請を行った。

龍王はすぐに受諾し、その二個の玉を渡した。

神宮皇后 よろしい、これにて、智謀と武備、双方、万全じゃ。智謀においては、履道翁の一巻の秘書、武備においては、「干」と「満」の2個の珠玉! いざ、半島へ向けて、進発!(注2)

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(訳者注2)原文では、「新羅へ向はんとし給ふに」。
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この時、皇后の胎内には、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、すなわち、応神天皇(おうじんてんのう)が、既に妊娠5か月目の状態で宿っていた。

ゆえに、皇后の御腹は大きくなっており、鎧を着ようとしても、腹部がどうしても合わさらない。そこで、高良明神(こうらみょうじん:注3)が一計を案じ、鎧の草ずりを切って脇の下に装着、これで、皇后の武装も完全となった。

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(訳者注3)高良神社(福岡県・久留米市)にまつられている神。
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神功皇后が大将、諏訪(すわ)と住吉(すみよし)の大明神が副将軍となり(注4)、大小の神祇乗り込んだ軍船3,000余隻は、対馬海峡(つしまかいきょう)を一気に押し渡り、朝鮮半島へ寄せた。

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(訳者注4)諏訪大社(長野県・諏訪市&下諏訪町)にまつられている神と、住吉大社(大阪市・住吉区)にまつられている神。
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倭軍来襲の報に、三韓側も軍船1万隻に取り乗り、海上に出て、迎撃態勢を敷いた。

両軍戦い半ば、雌雄未だ決せざる時、皇后は、「干の玉」を海中に投げ入れた。

海水はにわかに退き、あたり一面が陸地に一変。三韓側の兵は、「天、我に利を与えたり」と喜び、全員、船から下り、徒歩で戦いだした。

この時、皇后は、「満の玉」を取って、陸地に投げた。

たちまち、潮が十方より漲(みなぎ)り来たり、三韓側数万人は、一人残らず溺死してしまった。

これを見て、三韓の王は、自ら罪を謝して降伏、神功皇后は弓の上端でもって石壁の上に、「三韓の王は我が倭の犬なり(注5)」と書き付け、帰国した。

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(訳者注5)原文では、「高麗の王は我が日本の犬也」。
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これより、三韓は日本に帰順し、長年の間、朝貢を続けた(注6)。

いにしえの、呉服部(くれはとり)という綾織(あやおり)技術者、王仁(おうにん)という才人も、この朝貢と共にやってきたのである。また、大紋(だいもん)の高麗縁(こうらいべり)も、その貢ぎ物の竹箱によって、伝来したのである。

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(訳者注6)原文では、「是より高麗我朝に順て、多年其貢を献る。」
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上記に見たように、その徳が天にかない、その王化が遠きにまで及んでいた上古の時代においてさえも、外国を従えるにあたっては、天地神祇の力をもってこそ、たやすく行えたのである。

なのに、この現代において、凶悪なる賊徒らが、元帝国や高麗を奪い犯し、ついには、高麗国王をして、使者を用い、外交ルートを通じての要請を我が国に送らしめるまでに至ったとは・・・まことにもって、前代未聞の不可思議である。

このような事では、もしかすると、日本はやがて、外国の支配下に入ってしまう、というような事もありうるのかも・・・まことに、異常事態であるとしか、言いようがない。

だからこそ、福州(ふくしゅう)の呉元帥(ごげんすい)・王乙(おういつ)がわが国に対して贈った詩にも、この意が述べられているのである。

 日本の狂いしナラズモノども わが国の浙江(せっこう)東部を乱す
 将軍 この異変を聞いて 怒気(どき)立ち上ること あたかも虹のごとし
 全軍出動 陣を連ね 闇の中に ノロシの火はあがる
 夜半には敵を皆殺し 海水は紅に染まる

 ヒツリツを弾じて 勝利を歌う 落月を眺めながら 笛を吹く
 敵の髑髏に盛ったこの酒の味 なんとまぁ すがすがしいことか
 そのうち 南山の竹を切り尽くし ビッシリ事細かに 書いてやるぞ この賊退治の功績の 一部始終を

(原文)
 日本狂奴乱浙東 将軍聴変気如虹
 沙頭列陣烽烟闇 夜半ミナゴロシ(注7)兵海水紅
 篳箻按哥吹落月 髑髏盛酒飲清風
 何時截盡南山竹 細冩當年殺賊功

この詩を見て思うに・・・「竹」といえば・・・近年、日本全国で竹が一斉に枯れている・・・もしかすると・・・日本が外国の支配下に入ってしまう事の前兆かも・・・先行き、極めておぼつかなく、思えてならない。

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(訳者注7)左側が[金]で右側が[鹿のような記号]から成る漢字。これに該当する漢字コードを見つけることができなかった。
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太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-9 元寇の時に、あった事

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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(訳者前置き)読者は思われるかもしれない、「いったいなぜ、前章の「高麗から使者来たる」に続き、ここで唐突に、元寇の話が始まるのであろうか?」と。その疑問は、次章の末尾に至ってはじめて、解決するであろう。
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つらつら、三余(さんよ:注1)の暇(いとま)に寄せて、千古(せんこ)の記する所を調べてみるに、海外からの日本への攻撃は、天地開闢(てんちかいびゃく)以来、既に7回に及んでいる。

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(訳者注1)[冬]と[夜]と[雨の日]。
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中でも特筆すべきは、文永(ぶんえい)年間と弘安(こうあん)年間の2度の元寇(げんこう)であろう。

元の老皇帝・クビライ、中国全土四百州を平らげ、勢い天地を凌(しの)ぐというまさにその時、日本は、この元帝国の脅威にさらされた。

小国日本の力をもってしては退治しがたい相手であったが、たやすく元軍の兵を亡ぼし、わが国の独立を維持できたのは、ただただ、尊神霊神(そんしんれいしん)の冥助(みょうじょ)のおかげである。

一連の流れを追えば、以下のようになる。(注2)

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(訳者注2)太平記の以下の記述は、史実と食い違う箇所が多々あるので、これを信用しない方がよい。
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元帝国の大将・萬将軍(まんしょうぐん)は、日本の畿内5か国の面積を3700里四方と見積もり、そこに、びっしりと隙間無く兵を立ち並べた、と仮定しての必要兵力を算出、その結果は、「必要兵力=370万人」と出た。

この大軍が、大船7万余隻に乗り、津々浦々から出撃したのである。

元帝国のこの「日本列島制圧プラン」に関しては、日本側も、以前から様々に情報を得ていたので、「さぁ、一大事、国土防衛の準備をせよ!」と、四国や九州の武士たちは、筑紫の博多(はかた:福岡県・福岡市)に馳せ集まり、山陽、山陰の勢力は、京都に馳せ参じた。東山道、北陸道の武士たちは、越前の敦賀津(つるがのつ:福井県・敦賀市)の防備をかためた。

やがて、文永2年8月13日、元軍7万余隻の軍船が、同時一斉に、博多の津に押し寄せてきた。

大船がずらりと並び、船どうしを繋ぎ合わせて自由に歩み渡れるように板を渡してある。陣営毎に油幕(ゆばく)を引き、矛を立ち並べている。まるで、五島列島(ごとうれっとう)の東方から博多の海岸に至るまで、海上300余里四方が突然、陸地となり、まるで蜃気楼(しんきろう)が起こっているのかと怪しまれるほどである。

日本軍側の陣の構えはといえば、博多の海岸に沿って13里に渡り、石の防塁(ぼうるい)を高く築いている。防塁の前面は切り立っていて、敵を防ぐに都合よく、後面は平らになっており、移動しやすい。防塁の後方に、塀を建て、陣屋を作り、数万の武士が並び居る。

日本軍側は、何とかして、自軍の兵力を元軍側に知られないようにしようとしていた。

しかし、それは空しい期待というもの、元軍側は、船の舳先(へさき)にハネツルベのような柱を数10丈の高さに立て、その上に取り付けられた横木の上に座席をしつらえ、そこに物見の兵を登らせている。高所から日本軍側陣を見下ろす形勢となるから、細部に渡り、手に取るように、日本軍側の状況を把握する事ができる。

また、4~5丈ほどの広さの板を、筏のように組み合わせて水上に敷き並べているから、波の上に平らな道路が多数出来上がったような形となっている。あたかも、京都の三条の広道、長安の都の12の道路のごとくである。

この道路を通って、元軍側は、数万の兵馬を繰り出し、死をもかえりみず、戦いをしかけてくる。日本軍側は苦戦を強いられ、メンバーの大半は、士気が衰えていく一方。

太鼓を打って兵刃(へいじん)まさに交わらんという時に、元軍側は、「テッパウ」という武器を使う。それは、毬(まり)くらいの大きさの鉄球、その破壊力は、坂を転げ落ちる車輪のごとく、閃光(せんこう)きらめくこと電光のごとし。

一回の射撃毎に、この「テッパウ」がなんと、2~3,000個も射出されてくるのである。そのたびに、日本軍側は多数が焼殺され、木戸や櫓にも火が燃えつき、それを消火しているいとまもない。

上松浦(かみまつら)と下松浦(しもまつら)の武士たちは、この戦闘の成り行きを見て、「オーソドックスな戦い方をしていたのでは、とても勝ち目が無い」と思い、わずか1,000余人でもって、外海を迂回し、夜襲をしかけた。

その志の程はまことに武(たけ)しといえども、九牛(きゅうぎゅう)の一毛(いちもう)、大倉(たいそう)の一粒(いちりゅう)にも当たらぬほどの小勢であるからして、どうにもならない。

元軍側の兵2~3万人を死に至らしめたものの、ついに、全員生け捕りとなり、縄で縛られ、手を綱で結えられ、舷側(げんそく)に繋がれてしまった。

こうなってしまっては、もはや誰も、戦闘を継続する事ができない・・・筑紫九州の武士たちは、一人残らず、四国地方、中国地方へ逃亡してしまった。

日本の貴賎上下は、「いったいどうすればよいのか!」と周章狼狽(しゅうしょうろうばい)すること、著しい。諸社への行幸、諸寺への大法秘法の執行要請と、時の天皇は苦悩し、肝胆(かんたん)を砕いた。日本60余州の大小の神祇(じんぎ)、霊験あらたかなる仏閣(ぶっかく)に勅使を送り、奉幣を捧げた。

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外敵退散・祈祷の開始より7日目、諏訪湖(すわこ:長野県)上に、異変が起った。五色の雲が西方にたなびき、大蛇の形に見えるのである。

さらに、異変は首都の近隣においても。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府・八幡市)の宝殿の扉が自動的に開き、馬の馳せる音、くつばみの鳴る音が、虚空に満ち満ちた。

比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県・大津市)日吉(ひえ)21社の錦帳(きんちょう)の鏡が振動、神宝の刃が自動的に研がれ、御沓(みくつ)が全て、西向きになった。

住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)の4つの社においても、神馬の鞍の下に汗が流れた。

吉野山(よしのやま:奈良県・吉野郡・吉野町)の小守明神(こもりみょうじん)と勝手明神(かってみょうじん)の鋼鉄の盾が自動的に立ち上がり、元軍のいる方角に向かってつき並べられたような格好になった。

その他、上中下22社の振動奇瑞は言うに及ばず、神名帳に記載されている3750余社をはじめ、山里村里の小さい祠(ほこら)、樹木神、道祖神(どうそしん)のような小神に至るまで、ことごとく、御戸(みと)が自動的に開いた。

この他にも、奈良・春日野(かすがの:奈良市)の神鹿(しんろく)、熊野山(くまのさん:和歌山県)の霊烏(れいう)、越前敦賀・気比神宮(けひじんぐう:福井県・敦賀市)の白鷺(しらさぎ)、伏見稲荷社(ふしみいなりしゃ:京都市・伏見区)の狐、比叡山の猿等、諸々の神の使者ことごとくが、虚空を西方へ飛んでいくのを、万人が夢に見た。

「これらの神々の助けを頂いて、侵攻してきた賊を退ける事が、きっとかなうであろう」との期待だけを頼みにして、みな、神社に幣を捧げた。

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このような中に、弘安4年7月7日、伊勢神宮(いせじんぐう:三重県・伊勢市)の禰宜(ねぎ)・荒木田尚良(あらきたのひさよし)と豊受太神宮(よとうけだいじんぐう(外宮):伊勢市)の禰宜・度会貞尚(わたらえのさだひさ)ら12人が、連署の起請(きしょう)をもって、朝廷に対し、以下のような事を上奏してきた。

 「伊勢神宮および豊受太神宮の末社である「風の社(かぜのみや)」の宝殿が、突如、鳴動しはじめました。鳴動は長く続きました。6日の暁、神殿から赤い雲が一群立ち上り、天地を輝かし、山河を照らしました。その光の中から、夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)のごとき青色の鬼神が出現し、土嚢(どのう)の結目(ゆいめ)を解きました。その土嚢の口から、火風が吹き出、砂を巻き上げ、その強風でもって、大木が根っこから抜けました。」

 「これをもって思うに、九州に攻めよせてきよった外国の者らは、この日すぐに滅ぶべし、という事でしょう。もしも、これが実現し、確かにこれが奇瑞やった、という事が証明された暁には、以前からお願いしておりましたところの宮号(みやごう)の件、陛下よりのご裁決、どうかよろしく、お願い申し上げます。」

やがて、元軍・萬将軍は、船団7万隻の船のいかりを一斉に上げさせ、8月17日午前8時、門司(もじ:福岡県・北九州市)、赤間が関(あかまがせき:山口県・下関市)を経て、長門(ながと:山口県北部)、周防(すおう:山口県南部)の沿岸への移動を開始。

「いよいよ元軍、上陸開始!」というまさにその時、それまで、風も無く、雲静かであった天候が一変、黒雲一群が、北東方向からムクムクと立ち上りだした。

そして、いきなり、強風が荒れ狂いだした。

逆巻く波は天にも届くかと漲(みなぎ)り、雷鳴は鳴り響き、電光は大地に激烈する。大山もたちまちに崩れ、高天も大地に墜落するかと思われるほどの激しさである。

元軍7万余隻の軍船は、荒磯(あらいそ)の岩に当たって、こっぱみじんに打ち砕かれ、あるいは、逆巻く波に転覆。

元軍の兵は、一人残らず死んでしまった。

萬将軍一人だけは、大風にも吹き飛ばされず、波の下にも沈まず、暗く深い大気中に、飛揚して立っていた。

そこに、呂洞賓(りょとうひん)という仙人が、西天の彼方より飛来してきて、萬将軍にいわく、

呂洞賓 日本全土の天神地祇(てんちじんぎ)3,700余社が来って、この暴風を起こし、逆浪(げきろう)を海に漲らせしめたのだ。もはや、人力の及ぶ所ではない。あんたは早いとこ、難破船に乗って、元に帰りなさい。

萬将軍 ・・・。

呂洞賓 早いとこ、元に帰りなさい!

萬将軍 はい。

萬将軍は、彼の言葉を信じ、難破船を見つけてそれに乗り、たった一人で太洋万里の波涛をしのぎ、程無く、明州の津に漂着した。

船から上がり、帝都へ行こうと思っている所に、またもや、呂洞賓が現われていわく、

呂洞賓 あんたは、日本との戦に負けてしまった。皇帝は怒って、あんたの親類骨肉すべて、三族皆殺しの刑に、処してしまったよ。

萬将軍 え! なんだって!

呂洞賓 あんたは、都には帰らん方がいい、帰れは必ず、処刑されるからな。

萬将軍 では、この先、どうすれば?

呂洞賓 早いとこ、ここから剣閣(けんかく)を経て、蜀(しょく)の地に逃げなさい。あそこの王は以前から、あんたを大将に任命して、雍州(ようしゅう)を攻めたいと切望している。あそこに行ったら、必ず、大功を立てることができるだろうよ。

萬将軍 わかりました、お言葉通りにいたします。

呂洞賓 さてと・・・なにか、はなむけに贈りたいと思うのだが・・・。(袋の中を探る)

呂洞賓の手 ゴソゴソ・・・

呂洞賓 あいにく、これしかないなぁ。

呂洞賓が袋から取り出したのは、一袋の膏薬(こうやく)であった。銘には、「至雍発」と書いてある。

萬は、呂洞賓のアドヴァイスに従い、蜀へ赴いた。

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呂洞賓の予言通り、萬将軍は、蜀王の大歓迎を受けた。

蜀王は直ちに、萬に上将軍の位を授け、雍州攻めを指揮させた。

萬将軍は、兵を率いて行軍を続け、雍州に至った。

雍州軍側は、高くそびえた山の上に石の門を閉じて待ち構えていた。まさにあの李白(りはく)の詩、「一夫(いっぷ)怒って関に臨めば、万夫(ばんぷ)も傍(そ)うべからず」さながらである。

萬将軍は、呂洞賓からの例の贈り物を、取り出した。

萬将軍 膏薬か・・・ふーん、膏薬・・・銘は「至雍発」・・・「至雍発」・・・はて・・・。

萬将軍 うん? もしかすると、こういう意味か? 「この膏薬を、雍州の石門に貼り付けよ」・・・。

萬将軍 とにかく、やってみよう。

彼は、密かに部下に命令し、その膏薬を、例の石門の柱に貼り付けさせた。

なんと不思議、膏薬を張り付けるやいなや、石門は、柱も戸も雪霜(せっそう)のごとく消滅、さらに、山は崩れ、道が平らになってしまった。

頼るべき要害が消滅してしまっては、雍州軍側数万は、もうどうしようもない、全員、蜀軍に投降した。

蜀王は、「この勝利、もとはといえば、萬将軍の徳によるものである」とし、直ちに彼を、癕癕公侯の位に引き上げた。

その30日後、萬将軍は、背中に癕瘡(ようそう)(注3)ができ、それから間もなく、死去してしまった。

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(訳者注3)はれものの一種。
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思うに、雍州の「雍」の字と癕瘡の「癕」の字とは、漢字の音韻が同じである。呂洞賓が例の膏薬の銘に「至雍発」と書いたのは、はたして、どちらの意味であったのか? 「雍州の石門に貼り付けよ」の意であったのか、それとも、「癕瘡が発病した時に使え」の意であったのか? 今となっては、どちらとも分からない。

功は高くして命短し・・・「功」と「命」、何れを捨てて、何れを取るべきか? どうしてもやむを得ず、二者択一を迫られる事になったならば・・・自分の「命」がいつ終わるのかは、天の定めたる事、私ならばきっと、「功」の方を選ぶであろう。

いずれにせよ、元軍300万が一時に全滅したのは、まったく、我が国の武勇によるものではなく、ただただ、3750余社の大小神祇、宗廟(そうびょう)の冥助によるものに、他ならない。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-8 高麗国より使者来たり、倭寇取り締まりを要請

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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この40年間というもの、日本は大いに乱れていたが、その余波は、海外にまでも及んでいた。

国内の動乱をいいことに、山路には山賊が出没して、旅客は緑林の陰を通過することもできず、海上には海賊が跋扈(ばっこ)して、船人たちはその難を避ける事が容易ではなかった。

欲心強盛(よくしんごうせい)のアウトロー(注1)たちが、それらの賊集団にどんどん加わっていった結果、浦々島々の多くは盗賊たちに占領され、駅路には駅屋の長も無く、関所で関を守る人間は、入れ替わりが激しかった。

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(訳者注1)原文では、「欲心強盛の溢物」。
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そして、ついに彼らは、数千隻の船団を組み、元(げん)王朝支配下の中国や高麗(こうらい)王朝支配下の朝鮮半島沿岸の港にまでも、押し寄せて行くまでになった。

中でも、中国の明州(みんしゅう)、福州(ふくしゅう)の被害は甚大、莫大な財宝が、彼らに強奪されていた。

官舎や寺院を焼き払う賊たちの前に、中国・朝鮮側は、官民共になすすべもなく、海岸に近い数10の州は無人の土地となってしまうほどまでに、荒れ果ててしまった。

たまりかねた高麗王朝は、元王朝皇帝の勅宣(ちょくせん)を得た上で、使者17人を、日本に送ることとした。

使者は、元王朝年号・至正(しせい)23年8月13日に高麗を発ち、京都朝年号貞治5年(1366)9月23日、出雲(いずも:島根県東部)に到着。

旅程を重ねて、程無く、彼らは京都に到着。京都中心部の内に入る事は許されず、天龍寺(てんりゅうじ:右京区)に滞在する事になった。

天龍寺長老&国師・春屋普明(しゅんおくふみょう)が、高麗からの国書を受け取り、それを朝廷へ奏上した。その内容は以下の通り:

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元帝国・征東行中書省(せいとうぎょうちゅうしょしょう)長官たる我・高麗国王は、皇帝陛下の意を受けて様々に調査した結果、貴国に対して、以下のごとき要請を行う事を決意するに至った。

貴国の領土・日本列島と、わが省の管轄テリトリー・高麗とは、海峡を介して互いに接している事は、あらためて言うまでもない事である。

過去、貴国からは、多数の人々がわが方に漂着、その都度、我々は、人道的見地により、それらの人々を、貴国領土中に護送してきた。

しかるに、至正10年庚寅(かのえとら)の頃より、海賊船多数が、貴国の領土より進発し、わが省の管轄テリトリー中の合浦(がっほ)等、多くの地に来寇(らいこう)、官庁を焼却し、人民を擾乱(じょうらん)、多くを殺害している。よって、この十余年の間、海上交通は途絶(とぜつ)し、辺境に住する人民は、安んずる寸土の地も無い状態に陥るに至った。

これはきっと、貴国の島嶼(とうしょ)部に居住の人々が、官法をおそれず、もっぱら、貪婪(どんらん)の道にいそしんでいるからであろう。彼らは、地を潜り、海に出(いで)ては、我がテリトリーをおびやかし、強奪を繰り返しているのである。

我々は、かの賊どもに関する情報を、少しでも多く把握したい。しかしながら、貴国は広大な領土を持たれる国であるがゆえに、貴国の国情を、全土に渡ってくまなく、我々が把握できるはずがない。

かといって、我々は、手をこまねいているわけにはいかない、賊の害を、可及的速やかに除かねばならぬ。

貴国の領土内に軍隊を送り込み、賊たちを捕縛、といったような強硬手段をば、できる事であれば避けたい、と考えている。それは、隣国間の外交マナーに反する行為であるからして。

ゆえに、我々は貴国に対して、海賊に関する調査を要請する。

なおかつ、我々は貴国に対して、早急なる海賊取り締まりの処置をも、要請する。貴国支配下の領土と島々の全住民に対し、厳重なる命令を頻繁に発し、わがテリトリーを犯し消耗せしめるような、国境を越えての犯罪行為を、厳禁していただきたい。

我が省は、代表メンバー一同を貴国に派遣し、日本国主の前につつしんで、以上のメッセージを伝達する次第である。メンバーたちには、貴国よりの返書をお与え下さるよう、よろしくお願いする。また、海賊に関する事実確認をも、よろしくお願いする。

以上の内容を、我が省は公文書にしたため、金逸如、金龍他のメンバーに託するものなり。
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さっそく、幕府内で、検討が行われた。

幕府リーダーA 「海賊を取り締まれ」って、言ってきてんだけどぉ。

幕府リーダーB 海賊ったってねぇ・・・みんな、四国や九州の連中らでしょ?

幕府リーダーC 「厳重なる命令」? 「国境を越えての犯罪行為を、厳禁」? とんでもないよ、捕縛する事すら不可能なのに。

幕府リーダーD 我々には、どうしようもないよねぇ。

幕府リーダー一同 あぁ。

幕府リーダーA 「返書を求む」って、言ってきてるんだぞぉ・・・どうするぅ?

幕府リーダーB 返書なんか、送れるわけ、ないでしょうがぁ。

幕府リーダー一同 ・・・(うなづく)。

幕府リーダーE でもさぁ、これ完全に無視しちゃうってぇのも、なにかと問題だからさぁ、何か、もの(物)だけ贈っておくって事に、すればぁ?

幕府リーダー一同 それでいいよねぇ。

というわけで、返書は無し、「はるばる日本まで使者を送ってきた事へのお礼に」ということで、鞍を置いた馬10匹、鎧2両、白太刀3本、綾織10段、あや模様の絹100段、扇子300本を、使者たちに持たせた。

使者たちは、日本の方々の地域から選出された奉送使(ほうそうし)に伴われ、高麗へ帰っていった。

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太平記 現代語訳 39-7 春日大社の神木、奈良へ帰る

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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斯波高経(しばたかつね)が京都から逃亡した後、越前国(えちぜんこく:福井県東部)の河口庄(かわぐちしょう:福井県・あわら市ー坂井市)は、興福寺(こうふくじ:奈良市)に返還された。そこで、衆徒たちはすぐに訴えを取り下げ、8月12日に、神木が奈良に帰る事になった。(注1)

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(訳者注1)神木が京都に持ち込まれたいきさつについては、39-5 を参照。
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神木・移動開始の時刻は午前6時、と定められていたが、夜明け頃から暴風雨となった。

「天の怒り、なおも幾分、残っているのであろうか」と、衆人、気をもんだが、その時刻が近づくにつれて、雨は晴れ、風も静まり、うららかな天気となった。

この天候変化の不思議に、人々には大いに、感ずる所があった。

いよいよ、移動開始のセレモニー。

まず、藤原大学・学長(注2)・万里小路嗣房(までのこうじつぎふさ)が、神木の前に参り、諸事を執行する。

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(訳者注2)原文では、「南曹弁」。「南曹」とは「勧学院」の事。「勧学院」とは、藤原氏の子弟が学ぶ学校。
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正午、左大臣・鷹司冬通(たかつかさふゆみち)はじめ、九条忠基(くじょうただもと)、一条房経(いちじょうふさつね)など、大納言(だいなごん)、中納言(ちゅうなごん)、首都圏長官(注3)以下、順次、参列。

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(訳者注3)原文では、「大理」。検非違使別当のことである。
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関白・二条良基(にじょうよしもと)着座の後、数人の僧侶以下全員、神木の前に座して礼を行う。良基は、藤原氏・氏の長者(うじのちょうじゃ)として、氏神である春日大社(かすがたいしゃ:奈良市)に対し、礼を尽くした。

いよいよ、神木の移動、開始。

数万人が立ち並ぶ中、興福寺衆徒中より一人の代表が前に進み出て、移動執行の開始を宣言。その音声は雲に響き、言葉は玉を連ねたかのようである。

宣言文の朗読終了の後、会場には雅楽の音が響き渡りだす。楽人(がくじん)斉唱の中に、布留(ふる)の神宝が取り出され、関白以下、公卿たちは、席から下り、全員ひざまづく。

次に、春日大社・神木の榊(さかき)、四社の御正体(みしょうだい)を、光明赫奕(かくやく)と揺すり出し、覆面をした数千の神官らが、神木を捧げ持つ。

神木移動の道中、左右の楽人たちは、還城楽(かんじょうらく)を奏して正始(せいし)を歌い、神人(じんにん)たちは、先払いの声を上げ、非常時に備えて警戒する。

赤衣(せきえ)の仕丁(じちょう)が、白杖(はくじょう)を持って神木の前に立ち歩み、黄衣(こうい)の神人たちは、神宝を捧げ持ちながら順次、歩み行く。

その他の神司(かんつかさ)たちも、束帯(そくたい)を着して列に連なる。白衣の神人、数千人の大和(やまと:奈良県)の国人たちが、その後に続く。

関白・二条良基は、柳の下重ねに糸を編んで作った履をはき、周囲を輝かさんばかりに歩み行く。先駆け4人が、その左右に従い、2人の殿上人(てんじょうびと)が、その裾を持つ。随身(ずいじん)10人は、あえて、先払いの声を出さない、これは神木をおそれつつしんでの事である。

その後に、左大臣・鷹司冬通、今出川公直(いまでがわきみなお)、花山院兼定(かざんいんかねさだ)、九条忠基(くじょうただもと)、一条房経(いちじょうふさつね)、坊城俊冬(ぼうじょうとしふゆ)、四条隆家(ひじょうたかいえ)、西園寺公永(さいおんじきんなが)、四条隆右(しじょうたかみぎ)、洞院公頼(とういんきみより)。

鷹司忠頼(たかつかさただより)、一条季村(いちじょうすえむら)、法性寺親忠(ほっしょうじちかただ)、万里小路嗣房(注4)、園基信(そののもとのぶ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、権右中弁・資康(すけやす)、蔵人・左中弁・仲光(なかみつ)、右少弁・宗顕(むねあき)、御子左為有(みこひだりためあり)、右少将・兼時(かねとき)らの殿上人たちも、装いを整え、威儀を正し、静かに列をなして進む。

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(訳者注4)万里小路嗣房は、左中弁でかつ、勧学院の学長を兼任。
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供奉(ぐぶ)の衆徒2万人が、各々ホラ貝を吹き連ね、前後30余町にわたって、この行列を守る。

今や、朝廷は安泰、わが国はよく治まっている・・・あの神代の昔、藤原氏の祖神・アメノコヤネノミコトが皇孫ニニギノミコトを助けて神事を司った時のように・・・関白・二条良基の至高の徳を仰ぎ見るに、タカムスビノミコトが下されたあの神勅、「アメノコヤネノミコトは、ニニギノミコトを、よろしく助けるべし」が、あらためて思い起される。

見物人A まことに、衆生を利益(りやく)せんがために、み仏は神に姿を変え、この世に現われたまいます。

見物人B ありとあらゆる衆生を仏縁に繋ぎとめんと、常に、慈悲の心を垂れたもうのでありますよ。

見物人C 善人に対しては、その善によって順(じゅん)なる仏縁(ぶつえん)を繋(つな)ぎ、

見物人D 悪事を犯す人に対しては、逆縁(ぎゃくえん)、すなわち、その悪事のもたらす因果応報(いんがおうほう)の理(ことわり)をもって、そのような人をも、救わせたまうのです。

見物人E まさに、今回のこの神木の一件、斯波高経殿の、神仏をもおそれぬ悪事から発した事ではありますが、

見物人F その悪事の結果、わたいらは、今日このように、ありがたい神木のご還御(かんぎょ)に、立ち会わせていただく事ができたっちゅうことですわいな。

見物人G いやぁ、ほんにまぁ、神仏の徳とは、ありがたいもんどすぅ。

見物人一同 同感ですぅ。

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太平記 現代語訳 39-6 高まる斯波高経への批判

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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そもそも、足利幕府の管領(かんれい:注1)職に就任できる人は、足利家親族中でも、とりわけ有力な家系のみに限定されていた。ゆえに、それになったからといって、そうそう、誰からも嫉まれるようなものでもない。

また、斯波高経(しばたかつね)は、鎌倉幕府・執権(しっけん)(これもまた、管領というべき地位である)の北条(ほうじょう)氏が未だ勢威を保っていた時代に、実際に生きてきた人であったから、礼儀も法度(はっと)もさすがに、現代の人間のような、ぶざまなものでもない。(注2)

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(訳者注1)この頃より、それまでの呼称・「執事」が、「管領」に変わったらしい。

(訳者注2)斯波高経は、「事実上の管領」というべきであろう。名目上は、息子の義将が管領であったから。
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「斯波高経こそは、足利政権の柱石として、立派な政治を行ってくれる人であろう」との、期待をかけていた人も多かった。

なのに、その期待を裏切るような事ばかり、しでかしてしまい、ついには、身をも失ってしまうに至ったのも、ただただ、春日大明神(かすがだいみょうじん)の神慮(しんりょ)という他、ないであろう。

「諸人の期待に反する事」を、具体的に列挙してみるならば:

まずは、全国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)の領地に対し毎年課税されている幕府納入税(注3)の取り扱いである。近年、その税率は慣例的に、2%に規定されてきた。ところが高経は、それを5%にアップした。

「こんなムチャな話、未だかつて、聞いた事ねぇ!」と、みな、憤懣やるかたなしである。

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(訳者注3)原文では「武家役」。地頭・御家人は、自らの領地からの取り分中の何%かを、幕府に対して納めなければならなかった。
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次なるは、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)が、三条坊門万里小路(さんじょうぼうもんまでのこうじ)に館を新築した際の事。

有力武士に対して、建物1個の建設が義務づけられた。

赤松則祐(あかまつのりすけ)も、その義務を果たさなければならなかったのだが、あいにく工事が遅延し、引き渡し納期にわずかに遅れてしまった。

すると、「法を犯す咎(とが)有り」とされ、新たに恩賞として得た大荘園1か所を、幕府に没収されてしまった。

則祐が、これを根に持たないはずがない。

さらには、佐々木道誉(ささきどうよ)の憤りである。

鴨川(かもがわ)に五条橋(ごじょうばし)を架橋しようという事になり、佐々木道誉が、その工事の責任者になった。

道誉は、京都中の家々から架橋・臨時税を取りたてながら、この工事を進めようとしたが、なかなかの大工事の為、進捗が多少遅れぎみであった。

これを督促せんがため、高経は独力で、民を煩わす事もなく、数日の中に、五条橋架橋工事を完璧に終わらせてしまった。(注4)

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(訳者注4)原文では、「事大営なれば少し延引しけるを励さんとて、道朝他の力をも不假、民の煩をも不成、厳密に五條の橋を数日の間にぞ渡にける」。

架橋工事を完成させてしまったのでは、「励まし」にはならないのでは、と思うのだが。
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道誉は、面目まるつぶれ、「何とかして、このお返しをしてやろう!」と、てぐすね引いて、待っていた。

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将軍邸の庭にも紅紫(こうし)の色とりどりに花が咲きはじめ、まことに興の乗る季節が、やってきた。

斯波高経は、様々の酒肴を用意し、京都朝年号・貞治(じょうじ)5年(1366)3月4日、「将軍御所の桜の花の下にて、盛大なる遊宴を開催!」という事にした。

佐々木道誉に対しては、特別な招待が行われた。

使者 「ぜひとも、この宴に、おこし下さい」と、主が申しております。

佐々木道誉 あぁ、いやいや、そこまで言っていただくとは、もったいないやら申し訳ないやら・・・はいはい、道誉、間違いなく、出席させていただきますよ、はいはい。

使者 なにとぞ、よろしくお願いいたします(礼)

佐々木道誉 はいはい!

使者 (退室)

佐々木道誉 桜かぁ・・・もうそんな季節になったんだなぁ・・・久しぶりに見たいなぁ、大原野(おはらの)の桜。(注5)

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(訳者注5)京都府向日市の勝持寺(通称、「花の寺」)の桜の事を言っている。
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道誉側近A あれからもう、だいぶになりますね、前に大原野へいらっしゃってから。

佐々木道誉 人間の思惑にかかわりなく、時は確実にめぐり、桜は花開くかぁ・・・よぉし、いっちょぉ行くぞ、大原野へ。

道誉側近B では、さっそくこれから、準備に取り掛かりましょう。

道誉側近A で、日程は?

佐々木道誉 3月4日がいいな!

道誉側近B 3月4日? それじゃ、バッティングしちゃいますよぉ、さっきの件と。

佐々木道誉 「さっきの件」? それ、いったいなんだぁ?

道誉側近B えぇ? いや、あのぉ・・・さっき、将軍御所での宴の、招待が来てたじゃぁないですかぁ。

佐々木道誉 えぇ? 招待? それって、いったい、なんの話しぃ?

道誉側近B 今から5分前の話しですよぉ・・・ほら、「3月4日、将軍御所の桜の花の下にてウンヌン」って・・・。

佐々木道誉 そんな話、わしゃぁ知らんなぁ。

道誉側近B ・・・(ケゲンそうな顔)

道誉側近A (ニヤニヤ)(側近Bの袖を引っ張る)

佐々木道誉 京都中の、ありとあらゆるジャンルの芸達者ども、一人残らずかき集め、大原野に連れていこう!

道誉側近A (扇を開く)

扇 パサッ!

道誉側近A (舞いながら)
 ささぁ ささぁ お立ち会い お立ち会いぃー
 桜の花のぉ 木の下にぃ
 設けられたる 大宴会場ぉ
 美麗尽くしたる 席整えてぇ
 世にも類(たぐい)無き 遊びの数々(かずかず)ぅ
 ささぁ ささぁ お立ち会い お立ち会いぃー

佐々木道誉 (拍手)ウワハハハ・・・。

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そして、問題の3月4日となった。

佐々木道誉は、軽やかな毛皮をまとい、肥えた馬に乗る高貴な家の人々を伴って、大原野の小塩山勝持寺(こしおやましょうじじ)に赴いた。

山麓に車を止め、そこから先は、青々とした蔦葛(つたかずら)を手で握り、山を登っていく。

彼らは黙々と、曲がりくねった小道を登っていく。静寂の中、聞こえるは、鳥の鳴き声と人々の荒い息の音ばかり。

やがて、眼前に、小さな寺院が見えてきた。

佐々木道誉 あぁ・・・(溜息)・・・寺が、花に埋もれている・・・まさに、花の寺・・・。

門を潜ったすぐ前には、渓谷のせせらぎがあった。

湾曲して流れる川を渡ると、その先には、曲がりくねった道が続き、橋の板は危うげに食い違っている。

寺の高欄は金襴で包まれ、ギボウシは銀箔で覆われている。

橋板の上には、中国渡来の毛氈(もうせん)、中国呉地方産の綾(あや)、蜀(しょく)の錦江(きんこう)の水でさらして織られた錦など、色とりどりの布が敷き並べられていて、その上に、桜の花が落ちてくる。

佐々木道誉 おぉ・・・まるで、朝日の至らぬ谷の奥深くに懸けられた橋の板1枚の上に、雪が残っているかのような・・・(橋を渡っていく)

道誉側近A (道誉の後に続いて橋を渡りながら)
 踏む雪の この冷たさ 足にシンシン
 踏む花の この香(こうば)しさ 履(くつ)にファーファー

佐々木道誉 ハハハハハ・・・。

心地よい風に吹かれながら、さらに石橋を渡ったその先には、既に、茶会の準備が整っていた。

石のかなえの上に茶釜がすえられ、その中には、竹のかけひで引いてきた泉の名水が満たされていた。

佐々木道誉 釜の湯の沸騰するその音は あたかも松籟(しょうらい)のごとく響き

道誉側近A 芳甘(ほうかん)なる大気の中に 今一服の茶を点ぜんとす

佐々木道誉 人間、この一碗を干さば 直ちに、天人(てんじん)仙人(せんにん)に転生(てんしょう)すべし

屈曲する藤の枝々に平江帯(ひんごうたい)を掛け、螭頭(ちとう)の香炉(注6)に鶏舌(けいぜつ)の沈水(じんすい)(注7)を薫じる。暖かい春風の中に芳香ただよい、まるで、栴檀(せんだん)の林中に入ったかのようである。

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(訳者注6)竜の形をした香炉。

(訳者注7)鶏舌香。
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はるか彼方に視線を合わせ、周囲の山々を見渡してみれば、けむる春霞の中に、山河は入り混じり、峙(そばだ)っている。

佐々木道誉 はぁー・・・なんて、すばらしい眺めなんだろう・・・全世界の画家たちが丹精こめ、一心不乱に描いた風景画、その全てが、ここに集まってきたってカンジだなぁ。

道誉側近A 足を寸歩(すんぽ)に移さずして、四海五湖(しかいごこ)の風景、たちどころに得る、ってとこですか。

一服の後、彼らは、本堂に足を運んだ。

佐々木道誉 おおお・・・あの桜の木、みごとだねぇ。

道誉側近A 一歩三嘆(さんたん)して遥かに登れば 本堂の庭に十囲の花木4本あり。

佐々木道誉 ふふん、こんどは、数字合わせで来たねぇ。(笑顔)

道誉側近A ・・・(笑顔)

その根本に、それぞれ、1丈余長の真鍮(しんちゅう)製の花瓶があり、1対の花が生けられた間には、2抱えの大きさの香炉2個が、机の上に置かれている。

道誉側近A 一斤(いっきん)の名香を一度(いちど)にたき上げたれば 香風(こうふう)四方に散じて 人みな、浮香世界(ふこうせかい)の中にあるがごとし。

佐々木道誉 またまたぁ・・・その「浮香世界」ってぇのは、「衆香世界」のモジリかい、あの「香積如来」がおられるっていう?(笑顔)

道誉側近A ・・・(笑顔)

桜の木陰に幔幕(まんまく)を引き、椅子を並べ、百味の珍膳(ちんぜん)を整え、百服の本非茶(ほんぴちゃ:注8)がセットされ、賞品(注9)が山のごとく積み上げられている。

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(訳者注8)「本」とは、栂尾産の茶。「非」とは、それ以外の産地の茶。

(訳者注9)「茶を飲んでその産地を当てる遊び」の賞品。
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猿楽ダンサー(猿楽優士)がひとたび回って、鳳凰(ほうおう)の翼を翻(ひるがえ)し、きれいどころ(白拍子)たちが、春の鶯(うぐいす)のごとくに歌い出す。一曲終わる度に、観客席から舞台めがけて、ギャラ(報酬)として、大口袴や小袖が投げ込まれる。

興たけなわに酔いに和し、いよいよ、宴会もお開き。

帰路に月無ければ、松明(たいまつ)天を輝かす。

きらびやかに飾った車の車軸は轟(とどろ)き、小作りの馬が、くつばみを鳴らす。馳せ散りオメキ叫びたるその様はただただ、身中三虫(しんちゅうさんちゅう)の深夜の行進、百鬼夜行(ひゃっきやこう)のちまたを過ぎ行くがごとくである。昔の人が、「花開き花落つる二十日、一城の人みな狂ぜるがごとし」と、牡丹妖艶(ぼたんようえん)の色を表現した、まことにそれさながらの光景である。

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この、「佐々木道誉の大原野花見」は、あっという間に、京都中のうわさのタネとなり、斯波高経の耳にも入っていった。

斯波高経 (怒り)(内心)クォォ、道誉め! わしが主催した将軍家の花見の宴、つまらん遊びと、見下しおったなぁ!

斯波高経 (内心)だけど、この怒り、じっと、こらえるしかない・・・道誉のあの行為、幕府で問題とされるべきような性質のものではないから。

斯波高経 (内心)道誉め、なんでもいいから、法を犯すような事、早くしでかせ。その時こそは見てろよ、バッシィーンとやってやるんだから!

高経の期待にたがわず、道誉は、例の5%の幕府納入税を、2年間、滞納した。

斯波高経 (内心)やった! こりゃぁ、絶好の罪科だ。

斯波高経は、佐々木道誉が近年給わってきた摂津国・守護職を別人に替え、さらに、摂津国中にあった道誉の領地・多田庄(ただしょう:兵庫県・川西市)を没収し、幕府政所(まんどころ)の直轄領とした。

道誉はもう、アタマにきてしまった。

佐々木道誉 (内心)なんとかして、斯波高経をシマツしてしまわにゃなぁ!

道誉はさっそく、有力武士たち相手に、工作を開始。

まずは、佐々木氏頼(ささきうじより)。彼は、道誉にとっては本家に当たる血筋にあったので、道誉の誘いにすぐに乗ってきた。

次は、赤松則祐。彼は、道誉にとっては娘婿、その誘いを断るわけが無い。

その他の有力武士たちも大半は、以前から道誉にこびへつらっていたから、彼の「世論形成工作」は、すんなりと成功、みな口々に、事に触れ折に触れ、「斯波殿は、管領職には不適任であります」と、将軍・義詮に対して讒言(ざんげん)し続けた。

孔子(こうし)いわく、

 「君主たるもの、衆人が憎む者の真の姿を、よくよく観察せよ、衆人が好む者の真の姿を、よくよく観察せよ。衆人の意見に流されていたのでは、君主はつとまらない。」

 (原文)
 衆悪之必察焉
 衆好之必察焉

また、菅子にも次のようにある、

 「巧みに人気取りをする者に、衆人は惹かれ、その周囲に集まっていくものである」

「世間の思惑におもねる事なく、ひたすら、わが道を行く」というような生き方をしている人が、運悪く、衆人から憎まれるようになってしまう、というのはよくある事だ。だから、世間の毀誉褒貶(きよほうへん)に対しては、よくよく慎重に、評価・判断を下していかねばならない。

しかし、将軍・義詮は、諸人の讒言のその真偽をよく糺(ただ)す事もなく処断を下してしまい、斯波高経は咎無くして、たちまち討伐される事と、なってしまった。

義詮は、極秘裏に佐々木氏頼に命令を下し、近江国中の武士を招集させた。

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「斯波高経(しばたかつね)を討伐の為、佐々木氏頼(ささきうじより)の下に近江国(おうみこく:滋賀県)勢、集結中」との情報を伝え聞いた高経は、京都朝年号・貞治(じょうじ)5年(1366)8月4日夜、将軍・義詮の御前へ参じて訴えた。

斯波高経 「あなたに対して、将軍様が疑惑の念をいだいておられるよ」って、内々に教えてくれた人がおりました。でも、不忠不義の事をした覚えなど全くないもんですから、「それはないよ、なんかの間違いだろう」って、思っておったのです。

斯波高経 ところが・・・「昨日、近江国の勢力が戦の用意整え、近江を進発、京都へ向かいつつある」というじゃないですか・・・あぁ、あの風説は、ほんとだったんだなぁって・・・。

足利義詮 ・・・。

斯波高経 この高経、無才庸愚(むさいようぐ)の身をもって、大任重責(たいにんじゅうせき)の職を汚(けが)してるわけですからね、そりゃぁ、私の悪口を言う人間の数、10や20ではきかないでしょうよ・・・でもねぇ・・・。

足利義詮 ・・・。

斯波高経 そういう讒言をする者らの、その言ってる事の真偽の糾明もされないままに、私に対して疑惑の念を抱かれるとは・・・まったくもう、残念な事ですわぁ。

足利義詮 ・・・。

斯波高経 わざわざ、方々の国々から軍勢を招集される必要なんか、ありませんでしょうに・・・側近の誰か一人に、「高経を殺せ」って命令されたら、それで、かたづく事じゃぁないですかぁ・・・忠諫(ちゅうかん)の下に死を賜り、この衰老(すいろう)の身の後に屍(しかばね)を残す・・・何もかも、いっぺんに、かたがついてしまう事なんですよ・・・。(涙)

足利義詮 ・・・。

恨みをたたえた面に涙を拭って訴える高経の言葉に、義詮も理に服したるようす、何の言葉を返す事もできない。

両者はそのまま、黙然と座し続けた。

斯波高経 ・・・。(涙)

足利義詮 ・・・。(涙)

やがて、高経は退出しようとした。その時、

足利義詮 高経・・・(手招き)。

斯波高経 ははっ(義詮に接近)

足利義詮 (ヒソヒソ声で)おまえの言い分、よく分かるよ・・・そうさ、まったく、おまえの言う通りさ・・・でもなぁ、今の世の中、私の思う通りに行かん事も、いろいろあるんだよぉ・・・ハァー(溜息)

斯波高経 ・・・。

足利義詮 (ヒソヒソ声で)なぁ、しばらくの間な、越前(えちぜん:福井県東部)の方へ引きこもってな、おとなしくしててくれよ。

斯波高経 ・・・。

足利義詮 (ヒソヒソ声で)そのうち、彼らの気も、おさまるだろうからさぁ・・・時間がたてば・・・な? そうだろ?

斯波高経 ・・・。

足利義詮 (ヒソヒソ声で)なぁ・・・高経・・・。

斯波高経 ・・・わかりました、おおせのままに致します・・・。

足利義詮 ・・・ハァー(溜息)

斯波高経 ・・・(退出)。

やがて、兼ねてのてはず通りに、佐々木氏頼が完全武装の武士800余を率いて将軍邸へ馳せ参り、四方の門をかためた。

その後、京都中、騒然となってきた。

義詮側へ馳せ参じようとする武士もあり、高経側へ馳せる人もいる。双方の館の間隔はわずかに半町ほどであるから、誰が義詮サイドで、誰が高経サイドなのか、さっぱり分からない。

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斯波高経 (内心)将軍様に、あぁは言ったけど・・・越前へ行く? いいや、ここから一歩も動かん! 攻めてきたら、一矢放った後、腹を切るまでのことだ!

このように、いったんは覚悟かためたが、義詮のもとからは何度も何度も、三宝院覚斉僧正(さんぼういんかくせいそうじょう)が使者としてやってくる。義詮側はひたすら、「なだめの一手」。

斯波高経 (内心)将軍様が、そこまでおっしゃるのならば・・・いたしかたない、越前へ行くか・・・。

斯波高経 (内心)かと言ってだな、ただオメオメと都を出ていくってな態(てい)では、まずいだろう、追撃かけられるかもしれんからな。

8月8日夜半、二宮信濃守(にのみやしなののかみ)率いる500余騎が、高倉面(たかくらおもて)の門から将軍邸に押し寄せる風を見せながら、トキの声を上げた。

義詮サイドに馳せ参じていた大軍勢は、邸内へ入ろうとする者あり、外へ出ようする者ありで、大混乱になってしまった。鎧の袖や兜を奪われ、太刀、長刀を取られ、馬や鎧を失う者は多数、「未だ戦わざる前に、禍(わざわい)、門の内から出現」の様相を呈している。

このどさくさに紛れて、斯波高経は300余騎を率い、長坂(ながさか)(鷹峯付近)経由ルートで越前へ向け、京都を脱出した。

高経が1里ほど進んだと思われる頃を見はからい、二宮信濃守もまた、その後を追って、京都を離れた。

義詮サイドの有力メンバーらは、相手の疲れに乗じてしとめてしまおうと、二宮を追撃した。

二宮信濃守は、いささかもひるんだ様子を見せず、馬に道草を食わせながら長坂峠の上から、義詮サイドの人々を睨んで嘲笑、

二宮信濃守 おぉい、そこのぉ! ちょっと、しつこいんだよなぁ・・・とことん、ついてきやがってぇ・・・獲物くわえたライオンの後おっかけるハイエナみたいになぁ!

二宮信濃守 あのなぁ、このさい言っとくけどなぁ、京都で戦しなかったのは、なにも、おまえらを恐れての事じゃぁないんだよぉ。あれはただ、将軍様に遠慮したまでの事さ。

二宮信濃守 もう今は、都を離れた、夜も明けた! 敵も味方もお互い、よく知りあった者どうし、今この時をおいて、おれが勇士なのか、それともただの臆病者なのか、はっきり示すチャンスは、またと無し。

二宮信濃守 馬の腹帯、伸びてしまわんうちに、さっさとかかってこいやぁ! おれたちの首を引出物(ひきでもの)に進呈するか、おまえらの首を旅の餞別(はなむけ)に頂くか、おれの運命もおまえらの運命も、二つに一つ、さぁ、どっちに転がるか、ためしてみようじゃぁないかぁ! さぁさぁ、とっとと、かかってこぉい!

高らかに叫び、馬上で鎧の上帯を締め直し、馬頭を東に向けてひかえている。その勇気はまさに、節(せつ)に中(あた)り、死を軽んずる義にあふれ、眼前に恐るべき敵など皆無の体。

義詮サイド数万人は、「もはやここまで」と、長坂の山麓で追撃をあきらめ、引き上げていった。

その後、二宮信濃守は、途中で彼を待っていた斯波高経に合流。やがて、斯波全軍は、越前に到着した。

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斯波高経は直ちに、杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)にたてこもり、子息・義将(よしまさ)を、栗屋城(くりやじょう:福井県・丹生郡・越前町)にこもらせた。

斯波高経 さてさて、北陸地方全体の制圧に向けて、作戦会議を開くとするか。

これを聞いた足利義詮は、

足利義詮 ハァー・・・(溜息)・・・じゃぁ、討伐軍を送れぇ。

というわけで、さっそく討伐軍が編成された。主要メンバーは以下の通りである。

 畠山義深(はたけやまよしふか:注10)、山名氏冬(やまなうじふゆ:注11)、佐々木高秀(ささきたかひで)、土岐左馬助(ときさまのすけ)、佐々木氏頼(ささきうじより)、その弟・佐々木崇誉(そうよ)、赤松光範(あかまつみつのり)、赤松貞範(あかまつさだのり)。

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(訳者注10)38-5に登場。義深はこの時点で既に幕府から赦免され、重要メンバーとしての扱いを受けているようである。

(訳者注11)氏冬は山名時氏の息子である。39-2 に、山名時氏の幕府への帰参が記載されているので、その息子・氏冬が幕府軍リーダーとして出陣するのは、順当な成り行きと言えようか。
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彼らが率いる、能登(のと:石川県北部)、加賀(かが:石川県南部)、若狭(わかさ:福井県西部)、越前(えちぜん:福井県東部)、美濃(みの:岐阜県南部)、近江(おうみ:滋賀県)の勢力・総勢7,000余騎は、その年の10月から、前述の斯波側の2城を包囲し、日夜朝暮に攻め続けた。

しかし、城が落ちる気配は、全く見えない。

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このような中に、翌年7月、斯波高経は、突然、病に犯され、死去してしまった。

子息・義将は様々に、将軍・義詮に対して赦免の嘆願を行い、義詮の方もそれを受け入れた。

同年9月、斯波義将は、「赦免&領地安堵の将軍命令書(注12)」を賜り、京都へ召し返された。

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(訳者注12)原文では、「宥免安堵(ゆうめんあんど)の御教書(みぎょうしょ)」。
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それから間もなく、義将は、越中国(えっちゅうこく:富山県)討伐の任を義詮より命じられ、桃井直常(もものいなおつね)を死に至らしめたので、その功績により、越中国守護職の地位を手に入れた。

これより以降、北陸地方一帯には、平和な日々が戻ってきた。

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この一連の経過を振り返って見るに、斯波高経をしてこのような結末に至らしめた事の発端は、ただただ、諸人から讒言をされた事にあった。その結果、彼は、幕府管領という高い権力の座から、転落してしまったのである。

古代中国・戦国時代、楚(そ)の屈原(くつげん)は、汨羅(べきら)の岸辺にさまよいながら、世を憤り、嘆いていわく、

屈原 世間の人々はみな、酔うておる、醒めているのは、我のみじゃ。

これを聞いた漁夫が、笑っていわく、

漁夫 ほほぉ、世間はみな、酔うておるかの・・・ならば、なぜ、その酒粕を食らい、その汁をすすらんのじゃ?

漁夫はそのように述べ、棹さして流れを行ったという。

まさにこの故事、現代のこの世相を想起させてしまうものが、あるではないか。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-5 斯波高経、興福寺と対立す

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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足利兄弟が対立した際に、斯波高経(しばたかつね)は、足利直義(あしかがただよし)サイドに属し、最終的には権力闘争に敗れてしまった。

その鬱屈(うっくつ)を晴らさんがため、しばらくは、吉野朝側に身を寄せていたが、二代目将軍・義詮(よしあきら)が様々に礼をつくして勧誘した結果、再び、幕府サイドにつくに至った。

やがて、高経は、三男・義将(よしまさ)を表に立て、彼を幕府執事職に就任させ、その背後で、幕府を意のままに動かすようになった。(注1)

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(訳者注1)37-6 参照。
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高経は長年、越前国(えちぜんこく:福井県東部)の守護職の任にあったが、その地において、思い切った処置を行った。

有力寺社が本所職(ほんじょしき)を所有している越前国内の荘園全てに対して、「半斉(はんぜい)」(注2)を施行し、それで得た収入を、家人たちに分け与えてしまったのである。

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(訳者注2)「荘園の生産物の50%を、守護が堂々とブン取れる」という制度である。

「世の安定を脅かそうとする勢力に対する戦いは、断固として遂行貫徹せねばならない、それが、あなたち(本所職を有する人々・団体)の経済的安定を確保する事にも、つながっていくのである。この戦いを、私・守護が遂行していく為には、軍需物資がどうしても必要である。ゆえに・・・」とかなんとか、「半斉が必要不可欠である事の理由」は、なんとでも形成できるのだ。

このようにしてブン取った財を、守護は、自らと主従関係を結ぶに至った(守護被官となった)人々に分配する。かくして、守護は、自分の任国に居住している武士たちに対する支配力を強めていき、ついには、「守護大名」となって、一国を丸ごと支配するに至る。

「半斉」は最初、「1年限りの臨時処置」から始まったようだが、次第に、「毎年毎年の定常的処置」になっていったようである。

守護の領国支配については、たとえば、下記を参照されてみてもよいかと思う:

 [日本の歴史9 南北朝の動乱 佐藤進一 中公文庫 中央公論社] 355P ~ 380P
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その半斉の対象中に含まれていた河口荘(かわぐちしょう:福井県・あわら市ー坂井市)が、紛争の種になってしまった。この荘園の本所職を、奈良(なら:奈良市)の春日大社(かすがたいしゃ)と興福寺(こうふくじ)が、連名で所有していたからである。

高経は、この荘園を、「ここは、家臣たちに分配する兵糧米供給の場とする」と宣言し、100%支配に及んだのである。(注3)

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(訳者注3)原文では、「一円に家中の料所にぞ成たりける」。

荘園に関わる他人の様々の「職」の全てを無効化し、そこからの生産物の100%をX(個人、あるいは寺社等の団体)が一人占めにするようになった場合、「その荘園は、[Xによる一円知行]の状態になった」という。
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興福寺の衆徒たちは、怒り心頭。さっそく、朝廷に奏上し、幕府に訴えた。いわく、

 「興福寺にとっては、あの河口庄という所は、特別の意味を持った所であります。あこは、わが寺の唯摩会(ゆいまえ)執行の為の、費用調達用・荘園なんであります。」

 「それだけやありません、あこの荘園からの供給があるからこそ、わが興福寺の全ての学僧に、朝ご飯を食べさすことができ、彼らに、僧侶としての修行を貫かせていくこともできるんであります。河口荘からの供給があるからこそ、夜の勉強もちゃんとできるんです、ホタルの光なんか使わいでも、明るい灯ともした下で、お経典の勉強ができるんです。」

 「しかるに近年、かの斯波高経殿の河口荘横領行為により、わが寺は、諸々の行事の為の費用にさえも事欠くような状態に、なってしまいました。今や、唯摩会執行の道場には、柳の枝が乱れて垂手(すいしゅ)の舞いを列(つら)ね、講師(こうし)・問者(もんじゃ)の座の前には、高僧の代わりに鶯(うぐいす)が、緩声(かんしょう)の歌を歌ぉとりますわいな。」

 「これまさに、一寺滅亡の前兆にして、四海擾乱(しかいじょうらん)の端緒(たんしょ)と言わずして、なんでありましょうや!」

 「願わくば、早いとこ、我々の荘園への横領行為を停止させ、大いなる唯摩会を再び執行できるように、旧態へ復帰せしめて下さいますように、なにとぞ、なにとぞ!」

しかし、興福寺にとって有利となる裁決を、朝廷がいくら出しても、何ら実効力を持たない。幕府は幕府で、斯波高経の権威をおそれ、みんなでその問題を、たらい回しするばかり。

アタマにきた興福寺の若手衆徒や春日大社の氏子(うじこ)・神人(じんにん)たちは、「伝家の宝刀」を、ついに抜いた。

「春日大社のご神木」を、かつぎだしたのである。彼らは、そのご神木を、斯波高経の館の前に、振り捨てた。

それを聞きつけた朝廷は、直ちに勅使を派遣し、神木を、長講堂(ちょうこうどう)へ入れ奉った。

天皇は自ら、謁見(えっけん)の場に設置の玉座背後の屏風(びょうぶ)を、そこに移動させ、自らの日々の食事を、神木の前に供した。五摂家(ごせっけ:注4)は、みな高門を覆い、天皇に対して、日々のお食事を奉った。

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(訳者注4)藤原北家の流れに属する5つの家。この家に生まれた人だけが、摂政・関白の位につけたので、「五摂家」と呼ばれた。
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京都朝廷・閣僚A 今や、末世に向けての流れは滔々(とうとう)、治世の根本理念からは遥(はる)か遠ざかり、政治道徳は廃(すた)れに廃れ、無に等しい状態と、なってしまってはいるけど、

京都朝廷・閣僚B さすがに神々は、そのご思慮を厳然(げんぜん)として、示現(じげん)されるもんやわなぁ。

京都朝廷・閣僚C あぁ、とにかく、この問題、早いとこ、決着してしまわんことには。

京都朝廷・閣僚D 河口荘を興福寺に戻す、早いとこ、この裁許(さいきょ)、出してほしいもんですわなぁ。

しかし、時の権威に憚(はばか)り、あえて、この問題の火の粉をかぶろうとする者は、一人もいない。

春日大社の禰宜(ねぎ)が鈴振る袖の上に、託宣(せんたく)の涙はせきあえず、社人(みやうど)の宿直の枕の上に、夢想(むそう)のお告げは、止む事無し。

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5月17日、いったいどこの山から下りてきたのであろうか、大きい鹿が2頭、京都中を走り回りはじめた。

家の棟(むね)、築地(ついじ)の覆いの上を走り渡り、長講堂の南門の前で4回鳴き、いずこの山へ帰るともなし、やがて、姿が見えなくなってしまった。

「これはなんと、不思議な事よ」と、うわさしている所に、5月21日、またまた、怪事件発生。

さかやきの跡のみあって、目も鼻も無く、髪が長々と生えたナマナマしい出家者の首が1個、七条東洞院(しちじょうひがしのとういん)を北方へ転々と、ころがっていく。

衆人驚愕の注視の中に、かき消すように、それは消滅してしまった。

5月28日、またもや、怪事件。

長講堂の大庭で独楽(こま)をまわして遊んでいた児童グループ中の一人、年の程10歳ほどの子が、にわかに憑依状態(ひょういじょうたい)となり、2~3丈も空中に飛び上がり、踊りはじめた。

それから3日3夜、その状態が続いたので、参詣人が、あやしんで問うた。

参詣人 あのぉ・・・もし・・・。

童 ・・・。(目ランラン・・・空中の1点を凝視)

参詣人 どうぞ、おこ(怒)らんとくれやっしゃ、ちょっと、おたずねしたい事、あるんですが・・・。

童 ・・・。(ジトーーーー・・・空中の1点を凝視)

参詣人 この童に憑きはったん、いったい、どこのどういう神様でおられますねん?

童 ・・・。(ジトーーーー・・・空中の1点を凝視)

参詣人 ・・・(オドオド)。

童 ひ・・・ひ・・・ひと・・・。

参詣人 えっ? なんです? ヒト?

童 ひと・・・ひとが・・・

 人が勝つか 神が負けるか まぁ見とけ 三笠(みかさ)の山が あらん限りは

(原文)人や勝つ 神や負ると 暫(しば)しまて 三笠の山の あらん限りは

参詣人 エェッ?(ゾクッ!)

数万人がじっと耳を傾ける中に、童は

童 人が勝つか 神が負けるか まぁ見とけ 三笠の山が あらん限りは

周囲の人々 ・・・(ゾクゾクッ!)。

童 人が勝つか 神が負けるか まぁ見とけ 三笠の山が あらん限りは

周囲の人々 ・・・(ゾクゾクゾクゾクゾクッ!)。

童 ウァーーーツ!(倒れる)

童の身体 バタッ

童 ・・・(憑依状態から復帰)

周囲の人々 ア・ア・ア・・・。(顔面蒼白)

見るもおそろしく、聞くに身の毛もよだつこの神託に、興福寺衆徒の強訴は直ちに裁許されるであろうと、みな思った。

しかし、幕府はひたすら、何も聞かなかった事にして、それから3年間、その問題を、たなざらしにした。

世間の声E 朱(あけ)の玉垣(たまがき) 徒(いたずら)に

世間の声F 引く人も無き 御(み)しめなわ

世間の声G その名も長く 朽ち果てて

世間の声H 霜(しも)の白幣(しらゆう) かけまくも

世間の声I 賢き 神の榊葉(ささきば)も

世間の声J 落ちてや塵(ちり)に 交(まじ)るらんと

世間の声K 今更(いまさら) 神慮(しんりょ)の程(ほど) 計(はか)られ

世間の声L 行く末 いかがと そらおそろし

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とにかく近頃、国々の守護や方々の有力武士たちは、全員残らず、寺社本所領を占領し、横領してしまっている。

朝廷や幕府にいくら訴えてみても、何のたしにもならない・・・仕方なく、嘆きつつも沈黙してしまうしかない。

このような状態だから、地方の治世においても、実にひどい事がなされているのだが、守護や有力武士たちに対して、中央からは、何ら、是正指導が無い。

しかしながら、この斯波高経、単独で、このような大神社の訴訟の的となり、神訴(しんそ)を得、呪詛(じゅそ)を負うも、ただただ、その身の不徳のいたす所かと、思えた。

はたして、10月3日、七条東洞院付近から、にわかに出火、そのあおりでもって、斯波高経の館は全焼、財宝一つ残らず、厩の馬までも、多数焼失してしまった。

世間の声M タタリじゃ、タタリじゃ、春日大明神さまの、タタリじゃぁ!

世間の声N それ見たことかぁ!

世間の声多数 天罰テキメンやぁ!

しかし、高経はすぐに、三条高倉(さんじょうたかくら)に、館を新築。

将軍に極めて近い所にいる人の事であるからして、その門前に鞍を置く馬の立ち止まる隙も無く、庭上に酒肴をかき列ねぬ時も無し、といった状態。

それを見て、才知に富んだ人々はいわく、

世間の声O 「富貴(ふうき)の家を、鬼は睨(にら)む」と、いうわなぁ。

世間の声P ましてや、斯波高経は、神訴を負った人。

世間の声Q 新築したあの家かて、この先、どないなることやらぁ。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-4 芳賀禅可、足利幕府・鎌倉府に対して、叛旗を翻す

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このように、これまで足利幕府に敵対してきた人々が続々と降参してきて、貞治(じょうじ)への年号改元の後より、京都と中国地方は静穏になった。

しかし、関東地方においては、再び、思いもよらない仲間割れが起こり、民衆の生活は、またまた危機に瀕した。

その、事の起こりはといえば:

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3、4年前に、足利兄弟(尊氏と直義)が仲違いして戦に及んだ際(注1)、上杉憲顕(うえすぎのりあき)は、直義(ただよし)サイド陣営に属して戦ったが、まずは、上野国(こうづけこく:群馬県)板鼻(いたばな:群馬県・安中市)の戦で宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)に敗北し、さらに、薩タ峠(さったとうげ:静岡県庵原郡)の戦においても、味方側が敗北。

憲顕はからくも、信濃国(しなのこく:長野県)へ逃がれ(注2)、吉野朝側に転じて、捲土重来(けんどじゅうらい)の機会を待っていた。

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(訳者注1)尊氏と直義の不和は、京都朝年号・観応1年(1350)の事であるから、貞治1年(1362)から12年も前の事である。

(訳者注2)上杉憲顕のこの動向については、30-4 を参照。
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このような不義なる行いをした憲顕であったが、足利幕府・鎌倉府長官・足利基氏(あしかがもとうじ)の彼に対する思いは、複雑であった。

足利基氏 (内心)幼少の頃から、自分は、あの憲顕に抱き育てられてきたんだもんなぁ・・・できることなら、彼を救ってやりたいなぁ。鎌倉へ呼び寄せたら、やってきてくれるだろうか?(注3)

足利基氏 (内心)ただ、来い、というだけじゃぁ、疑ってやってはこないだろうなぁ・・・何か、安心させるような事をしてやらなきゃ・・・。

というわけで、基氏は、越後(えちご:新潟県)の守護職を憲顕に与えた上で、彼を鎌倉へ呼び寄せた。

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(訳者注3)足利基氏と、その兄・足利義詮の生誕の年、そして、彼らの父・足利尊氏の将軍位就任の年は、以下のような順になっている。

 1330年 足利義詮、生誕
 1333年 足利尊氏、打倒・鎌倉幕府に決起
     鎌倉幕府、滅亡
 1338年 足利尊氏、征夷大将軍に就任
 1340年  足利基氏、生誕
 1349年 足利基氏、鎌倉公方として、鎌倉へ

義詮と基氏、二人共に、尊氏と登子の子であるが、足の方は、[鎌倉幕府中の有力御家人の子]として生まれ、弟の方は、[征夷大将軍の子]として生まれている。
それほどまでに、尊氏の運命の変転はすさまじかったのだ。

このような生まれなのだから、その後の成り行きによっては、基氏が征夷大将軍に就任、というような事にも、もしかしたら、なっていたかもしれない。

しかし、人間の運命というものは、まさに予期しがたい。

思いもかけない、足利兄弟間の争いの結果、鎌倉にいた義詮が京都へ(27-7 参照)、そして、それと入れ替わりに、基氏は鎌倉へ、ということになり、それ以降、基氏は、関東地方の最高権力者の座につくことになったのである。この時、基氏は、まだ十歳にも満たない年齢である。

上杉憲顕は1306年の生まれなので、基氏よりも30数歳、年上である。

憲顕は、鎌倉府の執事として、義詮をささえてきたが、義詮の上洛、基氏の鎌倉公方就任によって、基氏にも仕えることとなった。義詮と基氏にとっては、幼少の頃に自分をしっかりとささえてくれた、まさに、「執事のジイ(爺)」みたいな存在であったかのかもしれない。

上杉憲顕の子孫は、[山内上杉家]と呼ばれ、以降、関東管領の職に就任するようになった。

戦国大名・[長尾景虎]が、現在、[上杉謙信]の名で呼ばれているのは、景虎が、[山内上杉家]の家督と関東管領の職を、上杉憲政から譲られたことによる。
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この処置を聞いて、現・越後国守護・芳賀禅可(はがぜんか)は、びっくり仰天。

芳賀禅可 いったいなんで、越後が上杉のものに? えぇっ?! いったいどうなってんだぁ!

芳賀禅可 上杉なんてぇのは、降参不忠のやからじゃねぇかよぉ。そんなヤツに肩入れなすって、特別功労賞としてゲットした越後を、なんで、おれから取り上げるんだよぉ!

というわけで、越後において、上杉と芳賀との戦が始まった。

数ヶ月にわたる戦の末に、芳賀はついに敗北、越後は上杉の手中に帰し、芳賀の一族若党の多数が、敗北の中に命を落としていった。

禅可の怒りは、頂点に達した。

芳賀禅可 あぁ、もうこうなったら、どんな事でもいい、何か起こって、世の中とことん、ムチャクチャになってしまえや! 世の中、ひっくり返ってしまえやぁ!

芳賀禅可 上杉のヤロウと、なんとしてでも、もう一戦ヤラカさん事にゃぁ、おれの腹のムシ、おさまんねぇ!

芳賀家メンバーA 殿、ミミヨリ情報ですよ! 上杉やっちまうチャンスですぜぃ!

芳賀禅可 おう、なんでぇ、なんでぃ!

芳賀家メンバーA 上杉のヤロウ、基氏様の執事に就任とかで、近日中に、越後から鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ移動とか。

芳賀禅可 よぉし、鎌倉への道中で、やっちまえぃ!

禅可は、上野(こうずけ)の板鼻(いたはな:群馬県・安中市)に陣を構えて、上杉憲顕を待ち構えた。(注4)

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(訳者注4)越後(新潟県)から鎌倉(神奈川県)へ向かう途中、上野(群馬県)を通過することになる。
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ところが、憲顕が上野へ入る前に、この情報をキャッチした足利基氏は、

足利基氏 いったいなんで、芳賀は自分勝手に、こんなムチャな事するんだ! 何か思う所があるんなら、追って、訴訟を起こすべきである、いきなり戦とは、けしからん!

足利基氏 こういうふとどき者は、さっさと退治してしまうのが良い!

基氏は、自ら大軍を率い、宇都宮(うつのみや:栃木県・宇都宮市)へ寄せた。

この情報をキャッチした禅可は、

芳賀禅可 そうかい、そうかい、じゃぁ、上杉より先に、鎌倉殿と戦うまでの事よぉ。

芳賀禅可は、宇都宮から動かず、長男・芳賀高貞(たかさだ:注5)、次男・芳賀高家(たかいえ)に800余騎をそえ、武蔵国(むさしこく:埼玉県+東京都+神奈川県の一部)へ送った。

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(訳者注5)34-6に登場。そこでは、「高貞」と表記されている。
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彼らは、関東平野の道80里をたった一夜で駆け抜け、6月17日午前6時、苦林野(にがはやしの:埼玉県・入間郡・毛呂山町)に到着した。

小山に登って、足利基氏側の陣営を見渡してみれば、東方には、白旗一揆(しらはたいっき)武士団5,000余騎が、甲冑の光を輝かし、明け残る夜空の星のごとくに陣を張っている。西方には、平一揆(へいいっき)武士団3,000余騎が、武器を立て並べる勢いすさまじく、陰森(いんしん)たる冬枯れの林のごとしである。

その中央に布陣しているのが、足利基氏の軍勢であろうか、二引両(ふたつびきりょう:注6))の旗1本、朝日に映じて飛揚するその下に、左にも右にもビッシリと、騎射突進の兵3,000余騎がひかえている。

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(訳者注6)足利家の家紋である。
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山の上から見下ろせば、足利基氏率いる鎌倉府サイドの陣営は、数100里にも連なっている・・・まさに、関東8か国の軍勢、ただ今馳せ参ぜし、と見え、その数は雲霞(うんか)のごとし、雲鳥(うんちょう)の陣(注7)堅くして、兵はみなみな、気鋭に満ちる。

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(訳者注7)鳥が散じ、雲が合するように、変化きわまりない陣形。
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いかなる孫子(そんし)・呉子(ごし)の兵法をもってしても、1,000騎にも満たない小兵力の芳賀軍では、とても、攻めかかっていけそうにない。

芳賀高貞は、馬にまたがり、母衣(ほろ)を引きのばしながら、いわく、

芳賀高貞 (大声)平一揆と白旗一揆の連中らには、前からいろいろと手を打ってあるからなぁ、形勢次第で、敵になる者もいれば、味方につく者もありってカンジだろうよ。

芳賀高貞 (大声)でぇ、残るは中央の軍勢、後方に相当引いた形で布陣してるあのレンチュウだ。あいつらは皆、たった今この戦場に馳せ参じてきたってヤツラだ。あんなの、たとえ何100万騎集まったところで、なぁんの役にも立ちゃぁしねぇんだからぁ・・・ちっとも、こわかねぇやなぁ。

芳賀高貞 (大声)わが家の安否も、わが身の浮沈も、これからのたった一戦で決まるんだぁ! みんなぁ、覚悟はいいだろうなぁ! 行くぞー! ヘヤァー!(馬に拍車を入れる)

高貞は、前後に人無く、東西に敵ありとも思わぬような気色で、真っ先に馬を進めていく。

これを見た芳賀高家は、

芳賀高家 ひとたび軍門に入った後は、主(あるじ)の命令を聞く必要はない、戦場に臨んだ後は、兄に対して礼をつくす必要もない。今日の合戦の先駆けは、このオレよぉ!

誇らしげに広言し、兄をさしおいて、その先に馬を進める。

敵陣めがけて馬を走らせていくこの二人を見て、つき従う兵800余騎が、これに遅れるはずがあろうか、我れ先に戦わんと、魚鱗(ぎょりん)陣形をもって、突撃。

すさまじい芳賀軍の勇鋭を目の当たりにしながらも、足利基氏は、いささかもひるむ事なく冷静に、全軍を率いてしずしずと、馬を前進させていく。

先に、トキの声を上げたのは、芳賀軍の方であった。

芳賀高家 エェーイ! エェーイ!

芳賀軍メンバー一同 オーウ!

トキの声を3度上げた後、いささかのためらいの色が、芳賀軍サイドに表れた。その瞬間、

足利基氏 トキの声、イッパァツ!

鎌倉府軍メンバー一同 オーーーウ!

天も落ち、地も裂けるかと思われるほどのたった一声のトキの声、すかさず、鎌倉府軍は、左右にサァッと分かれた。

そして、鎌倉府軍は、芳賀軍800余騎を、東西から包囲。

両軍互いに、右方から襲い、左手背後に回り、切っては落とされ、追いつ追われつの1時間。

両陣、互いに場を替え、南北に分かれたその跡をかえりみれば、原野は血に染まり、緑の草も色を変え、人馬汗を流し、掘兼(ほりかね:位置不明)の池は血の池に変じた。

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足利基氏は芳賀軍が先に陣取っていた所に登り、芳賀軍は基氏のいた所に打ち上った。

双方、自軍の状態を見るに、戦死者100余人、負傷者はその数を知らず。

芳賀高貞 主要メンバーのうち、討たれたのは、誰と誰だ?

芳賀軍メンバーB 高家様の姿が見えません! 鎌倉殿に、切って落とされたんじゃぁ?

芳賀高貞 なに!

芳賀軍メンバーC ほんとだ・・・ついさっきまで乗っておられた馬だけが、ほら、あそこに・・・。

芳賀軍メンバーD あぁ、きっと、討たれちゃったんだ。

芳賀高貞 ・・・(涙)。

芳賀高貞 (額に流れる汗を、涙と共におしぬぐいならが)おれたち二人は、実体と影みたいなもん・・・常に行動を共にし、死なばもろとも・・・そう思ってた。その弟を目の前で討たれ、その死骸がどこにもないだなんて・・・そんな事、あってたまるかぁ!

芳賀高貞 (切り散らされた母衣を結び継ぎ、鎧に隙間が出来ないように鎧を揺すり動かし)エェイ、行くぞ、オオーー!

高貞は、一声おめいて、鎌倉府軍中に突っ込んでいく。

一方の基氏も、

足利基氏 戦死者の数は?!

鎌倉府軍リーダーE 70余人です!

足利基氏 主要メンバーの戦死は?!

鎌倉府軍リーダーF 両軍が引き分かれる時、木戸兵庫助(きどひょうごのすけ)殿が、接近してくる敵に引き組み、落馬、落ち重なってきた敵に、討たれました!

足利基氏 ナニィ!(目を血走らせて)

足利基氏 兵庫助! なんで、先に行ってしまった! この戦、死なばもろともに死ぬ、生き残らば同じく生き残ろうと、あれほど固く、誓いあったじゃないか!

足利基氏 よぉし、こうなればもう、我が命なんか惜しまん!

基氏は、敵と渡り合ってササラのようになってしまった太刀の刃本を小刀で削り直した後、二度三度、うち振るった。

足利基氏 行くぞぉ!

再び馬を走らせ始めた基氏を見て、左右の武士3,000余騎もまた、それに続く。

鎌倉府軍メンバー一同 ウオオオオオーーー!

彼らは基氏を追い抜き、その前方に展開して芳賀軍と相対。

両軍、追い廻(まわ)し懸け違(ちが)え、おめき叫んで戦う声は、さしも広大な武蔵野(むさしの)をも覆って余るかと思われるほど。

基氏はあまりにも頻繁(ひんぱん)に、懸け立て懸け立て、戦い続けたので、彼の乗馬は尻と首の両側に3箇所の傷を負い、ドウと尻餅をついて倒れてしまった。

当然の事ながら、鎌倉府長官・基氏の顔は、多くの者に知られている。芳賀軍メンバーは続々、そこに懸け寄ってきた。

基氏の兜を落としてしまおうと、背後から回り込んでくる者あり、馬から飛び下りて徒歩になり、組み打ちにしてしまおうと、太刀を背中にしょって左右から襲ってくる者もあり。

しかし、基氏は、その力は他に勝れ、心も極めて機敏、黄石公(こうせきこう)や李道翁(りどうおう)の兵法を臨機応変に駆使できる人、敵から逃げず、目もそらさず、襲いかかってくる相手を次々と倒していく。

兜の鉢を真っ二つに割られる者あり、おじけづいて後ずさりする所を斬りすえられてしまう者あり。鎧の胴の真ん中を一刀のもとに切断、余る太刀にて左からかかってきた敵を払う。

基氏がふるう刃(やいば)にキモを冷やし、あえて彼に接近しようとする者は、もはや誰もいなくなった。

そうこうするうち、東西開け、前後晴れ、基氏が乗馬を失ってしまって徒歩で戦っている事が、芳賀軍メンバー全員の知る所となった。

はるか彼方からこれを見た大高重政(だいこうしげまさ)は、急いでそこに馳せ寄り、基氏の左側に降り立った。

大高重政 いやぁ、まったくぅ! なんてぇ凄(すご)い戦いぶり! 古の世の、和泉(いずみ)や朝比奈(あさひな)だって(注8)、ここまで凄くはなかったでしょうなぁ。

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(訳者注8)和泉親衡と浅井名義秀。
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このように、正面からまじまじと見つめて褒めた後に、

大高重政 さ、この馬に乗られませ。

基氏は大いに喜び、馬にさっとまたがり、鞍壷に座りながら、

足利基氏 主人の替え馬を預かってた後藤守長(ごとうもりなが)が逃げちゃったんで、平重衡(たいらのしげひら)は生け捕りになったっていうよなぁ。おまえは、それとは、えらい違いだ。

大高重政 (ニッコリ)いえいえ、どういたしましてぇ。

足利基氏 「大高」・・・「大いに高い」か、名前がその行動に、みごとにマッチ(match:適合)してるよなぁ。

大高重政 いやぁー・・・デヘヘヘ(頭をかく)

両者、互いに褒め合いである。

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その後も、足利基氏は、主のいなくなった放れ馬を見つけてそれに乗り、方々に群れている鎌倉府軍メンバーを集めて、再び芳賀軍の中へ突入、2時間以上戦い続けた。

そして、両軍互いに、人馬を休めるために、両方へサッと引き分かれた。

見れば、またもや、双方、陣が入れ替わっており、基氏のいた陣は芳賀の陣となり、芳賀の陣は再び基氏の陣となっている。

芳賀高貞 (自軍を見渡しながら)八郎(はちろう)がいねぇ・・・討たれちまったか・・・。

我が子の安否を気づかい、心もとなげに言う。

馬の前にいた中間(ちゅうげん)いわく、

中間 殿、あっちの方に、放れ馬が数100匹、走り散ってるでしょ、ほら、あれ、あの馬! あれたしか、八郎殿が乗ってた馬じゃありません? ほら、あの、黒ツキ毛の、レンジャクのシリガイかけてんの・・・そうですよ、あの毛色、あの鞍具足(くらぐそく)、ぜったい間違いねぇ・・あぁ、きっと、討たれてしまったんだぁ。

芳賀高貞 その馬、血ぃついてるか?!

中間 (問題の馬を凝視しながら)・・・いんやぁ・・・頭に矢が一本ささってるけんど、鞍には、血ぃついてねぇよ。

これを聞いて、さしもの勇ましき芳賀高貞も、涙を目に浮かべ、

芳賀高貞 (涙)八郎、幼いんで、生け捕りになっちまったな・・・戦がちょっとでも止んだら、きっとその間に、八郎は斬られちまう、さぁ、もう一戦だぁ!

それを聞いて、岡本富高(おかもととみたか)はニッコリ笑って、

岡本富高 (笑顔)大丈夫ですよ、殿! もう、この戦、勝ったようなもんだもん! 敵側の大将が見分けらんねぇうちは、戦(いくさ)しにくくって、しょうがねぇけんどねぇ・・・そりゃそうでしょ、ヘタな木っ端武者なんか相手に、とっ組んで勝負したかぁねぇもんなぁ・・・でもねぇ、もう分かっちまったよ、敵の大将。さっきの、白糸威(しろいとおどし)の鎧きて、馬から下り立ってた若武者、あれが鎌倉殿だ、間違いねぇ。

芳賀高貞 ・・・。

岡本富高 鎧の糸の色、目標(めじるし)にしてさぁ、組み打ちにしちまやいいじゃん。カンタン(簡単)、カンタン。

鎌倉府軍の中になんとかうまく紛れこもうと、岡本富高は、自分の笠標(かさじるし)を取って投げ捨て、従軍時衆僧(じゅうぐんじしゅうそう)の前で「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と、称名(しょうみょう)を10回あげた。もうすっかり、覚悟をかためきった様子である。

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鎌倉府軍サイドの岩松直国(いわまつなおくに)は、思慮が深く、戦場における様々な情勢変化を、機敏に先読みできる人であった。

岩松直国 (内心)ヤベェな・・・基氏様の鎧の色、きっと、敵の目に焼き付いちまってるに違ぇねぇ。これから敵は、大将一人だけに狙いつけてくんぞぉ・・・おれが、身代わりになんなきゃ。

岩松直国 殿、おそれながら、その鎧を、おれに。

足利基氏 え?

岩松直国 その鎧、ちょっと目立ちすぎじゃぁありませぇん? そんなの、やめときましょうやぁ、敵の標的になるだけですぜぃ。

足利基氏 うん・・・それもそうだな。

岩松直国 さ、さ、早く、脱ぎましょ、脱ぎましょ!

というわけで、直国は、基氏の着ていた白糸威しの鎧を手に入れた。

岩松直国 よし!

直国は、今まで着ていた紺糸威しの鎧を脱ぎ、基氏の白糸威しの鎧に、急いで着替えた。

その後再び、両軍は混戦状態に突入、入れ替わり入れ替って戦い始めた。

岡本富高 ええっとぉ・・・白い鎧は・・・おっ、あそこにいる! よぉし!

てっきり基氏であると思い込み、相手を組み討ちにせんものと、岡本富高は、岩松直国めがけて接近していった。

直国はもとより、基氏の身代わりになろうと鎧を着かえたのであるからして、いまさら命を惜しむはずがない。

二人はしずしずと、馬を歩み寄せていった。

二人の間隔がぐっと縮まったその時、岩松直国の郎等・金井新左衛門(かないしんざえもん)が、いきなり前に飛び出した。

新左衛門は、直国の馬の前に立ち塞がり、富高に引き組み、共に馬からドウと落ちた。そして二人は、地上に達する前に、空中で互いに刺し違え、共に命を終えた。

岩松直国は基氏の命に代ろうと鎧を着替え、金井新左衛門は直国の命に代って討死にした。主従共に義を守り、節を重んずる忠貞(ちゅうてい)、このような人間は、そうそうそこいらにいるものではない。

その他の人々も、命を軽んじ義を重んじ、ここで勝負を決してしまおうと、互いに戦いあった。

さて、問題の芳賀八郎(はがはちろう)であるが、父・高貞の懸念通り、彼は生け捕りになってしまっていた。しかし、未だ幼い垂れ髪の身であったがゆえに、戦が終わって後、人をつけて芳賀サイドに帰されたという。

これを聞いた世間の人々は、「足利基氏のこの処置は、まことに寛大でよろしい」と、評価した。

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芳賀軍800余騎の乗馬は、昨日の強行軍の疲れが蓄積していた。標準2日行程の道のりを、たった1夜で懸け抜けてきたのだから。

軍のメンバーもまた、一息も継げない状態のままであったので、疲れ切ってしまっていた。入れ替わってくれる軍もないままに、終日戦い続けてきたので。

さすがの芳賀高貞も、「今はこれまで」と思ったのであろう、日が既に西に落ちかかろうかという頃、生き残ったメンバーわずか300余騎の命を助けんがため、宇都宮(うつのみや:栃木県・宇都宮市)へ向けて、撤退を開始した。

芳賀軍が退却していくのを見て、それまでは、この戦を他人事のように眺め、勝ち目のある方につこうと機を窺っていた白旗一揆(しらはたいっき)武士団は、堰をきったように、芳賀軍を追撃しはじめた。

白旗一揆武士団メンバー一同 (内心)相手の弊(へい)に乗じ、疲れきってる芳賀軍を、攻めろ、攻めろ、どこまでも追撃、全員みなごろしだぁ!

彼らは、得意満面で芳賀軍を追走した。

彼らだけではない、遅れ馳(ば)せに基氏のもとにやってきた武士たちも、「芳賀軍が敗北し、退いていく」と聞き、しめたとばかりに、橋を落し、芳賀軍の退路を塞ぎ、一人も逃がさじと、追撃に参加。

このような状況の下、芳賀軍サイドは、退却の途中、更に100余人の戦死者を出してしまった。

かろうじて命助かり、故郷に帰りつけた者も、ほとんどのメンバーが髪を切って遁世し、その存在無きも同然の状態になってしまった。

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この戦の完全終結の後、「今度は、宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)を退治だ、すぐにやってしまえ」という事になり、足利基氏は、80万騎の軍勢を率いて、宇都宮に向かった。

その途中、小山(おやま)氏の館に宿泊していた基氏のもとに、宇都宮氏綱が息せききってやってきた。

宇都宮氏綱 私の家臣、芳賀禅可(はがぜんか)の今回のけしからん振舞い、あれは、私が一切、預かり知らぬ所で起った事です。事前に何の相談も受けてません、もし相談されたとしたら、あんな事に、私が同意するはずがありませんよ。

足利基氏 フン・・・んで?

宇都宮氏綱 主従の義に背(そむ)いた自らの咎(とが)、到底のがれられるものではない、と思っての事でしょう、芳賀は既に、どこかへ逃亡してしまいました。ですから、あえて、軍勢を差し向けられる必要も無いと、私には思われますが。

足利基氏 フーン・・・。

基氏にも何か、深く考える所があったのであろう、翌日、すぐに全軍をまとめ、鎌倉に引き返した。

昔の人の言葉にも、次のようにある、

 諫言(かんげん)をしてくれる臣下がいない時には、君主は自分の国を失うであろう
 諫言をしてくれる子供を持たないならば、父は我が家を亡ぼしてしまうであろう

(原文)
 君無諫臣則君失其国矣
 父無諫子則父亡其家矣

たとえ、芳賀禅可が老いのひがみから、かくのごとき悪行を企てるに至ったとしても、彼の子供たちが義の道を知って父を制止していたならば、このような、一族中から多くの死者を出し、諸人からの嘲笑を招くような事に、なってはいなかったであろうに。

思慮を欠いた芳賀禅可が起こしたこの戦の結果、足利基氏の威勢は、ますますその重みを増すことになった。それにつれて、有力武士や一揆グループの勢を恃(たの)んでの無理押しは、幾分かは下火になったようである。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-3 仁木義長、吉野朝サイドから足利幕府サイドへ転ずる

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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仁木義長(にっきよしなが)は、さしたる不義の行為は無かったけれども、そのふるまいが余りにもひどいとして、多くの人々に憎まれた結果、心ならずも幕府に敵対し、伊勢国に逃げ下って長野城(ながのじょう:三重県・津市)にたてこもっていた。(注1)

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(訳者注1)仁木義長の幕府からの離反については、35-2、35-5、36-1 を参照。
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仁木・討伐軍の大将には、佐々木氏頼(ささきうじより)と土岐康頼(ときやすより)の二人が任命されて長野城を攻めていたが、氏頼は他の用事で京都に召されて上洛し、康頼だけが伊勢国に残って仁木義長を攻め続けていたが、義長は頑強に抵抗し、城は落ちなかった。

そうこうするうち、吉野朝側勢力の伊勢国司(いせこくし)・北畠顕信(きたばたけあきのぶ)が、雲出川(くもでがわ)以西を制圧し、兵を出し、すきを窺(うかが)って戦いを挑みはじめた。

かくして、伊勢国には3勢力が分立、片時も戦の絶える間が無い状態と、なってしまった。

このような状況で5、6年経過の後、ついに、仁木義長は、「これまでの咎(とが)を悔いて、降参したい」旨のメッセージを、幕府に送った。

幕府リーダーA ほほぉ、仁木もですかぁ。

幕府リーダーB 考えてみれば、彼は、先代様(注2)の頃から、そりゃぁもう、忠功抜群でしたよねぇ。

幕府リーダーC 彼がこっちサイドについたら、伊賀(いが:三重県西部)、伊勢両国も自然と、静まるでしょうよ。

足利義詮 じゃぁ、義長、赦免して、京都へ帰らせたらぁ。

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(訳者注2)足利尊氏の尊称。
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仁木義長の場合は山名父子とは違い、勢力がすっかり衰えてしまった後の降参であったから、領地も安堵されず、あい従う軍勢も無しである。かの、とらわれの身となって北方民族の中に生きた李陵(りりょう)のごとく、旧交の友さえ訪ねては来ない。

 庭に咲いた かえりみる人も無い 花 たった一輪
 春は 孤独に 光り輝く
 馬もまれにしかやって来ない門の前に 柳の木 たった一本
 秋は 孤独に 風が吹く

(原文)
 省る人遠き庭上の花
 春独春の色なり
 鞍馬稀なる門前の柳
 秋独秋の風なり

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-2 山名時氏、吉野朝サイドから足利幕府サイドへ転ずる

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

山名時氏(やまなときうじ)とその子息・山名師義(もろよし)はここ数年、足利幕府の敵となって吉野朝廷と連合し、二度までも、京都を占領した。

将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)にとっては、まさに、敵の最たるものというべき存在であったが、縁故をたどって内々に、幕府に対して降伏の意向を伝えてきた。その言い分は、以下の通り:

========
過去2回の、私の京都占拠、まったくもって不義なる行為であると、お思いのことでしょう・・・ただ・・・これだけは、聞いて下さい、あれはなにも、将軍様の政権を危うくしようという意図など、全く無かったのです。ただただ、あの大悪人・佐々木道誉(ささきどうよ)の、あまりにもムチャな振舞いに対して、ここはひとつ、思い知らせておかなければ、と思っての事だったのです。

今さら、こんな事、言えたものではないかもしれませんが、でも、思い切って申し上げます、もし過去の事を不問にし、私どもを赦免していただき、現在、領しておる国々の守護に任命していただけるならば、将軍様の下に参って、忠を致す所存でございますが・・・いかがでしょうか?
========

幕府リーダーA うーん、こりゃぁ、いいですねぇ。

幕府リーダーB 山名も、ついに折れてきましたなぁ。

幕府リーダーC ヤツがこっちサイドについたら、諸国の南方朝廷サイドの連中、さぞや、ガックリきちゃうことでしょう。

幕府リーダーD 中国地方は、これで完全に、静穏無事になりますね。

足利義詮 うん、いいねぇ、赦免しちゃおうよ。

というわけで、山名時氏は、赦免された・・・しかも、とほうもないオマケ付きで・・・ここ数年占領してきた、因幡(いなば:鳥取県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)のみならず、なんと、丹波(たんば:京都府中部+兵庫県東部)、丹後(たんご:京都府北部)、美作(みまさか:岡山県北部)までも・・・計5か国もの守護職を、獲得してしまったのである。

長年、幕府に功績のあった人々は、みな手を空しくし、山名父子のみ栄華に浴す・・・二人の上には、突然春がやってきたかのようである。

当然の事ながら、山名父子に対して、多くの人々のねたみが集中した。

幕府サイド所属の武士E (ヒソヒソ声で)なんでぇ、なんでぇ、今回の処置、ありゃいってぇ、なんでぇ!

幕府サイド所属の武士F (ヒソヒソ声で)将軍様もまた、ミョーな処置、されたもんだよなぁ。

幕府サイド所属の武士G (ヒソヒソ声で)山名っていやぁ、ずっと将軍様に敵対してきたヤロウじゃねぇか、なのに、あんなにガッポリ、せしめちゃってよぉ。

幕府サイド所属の武士H (ヒソヒソ声で)でもってぇ、ずぅっと、幕府に尽くしに尽くしてきたオレたちにゃ、なんにも無しかよぉ。

幕府サイド所属の武士I (ヒソヒソ声で)あぁもう、バカバカしくって、やってらんねぇ!

幕府サイド所属の武士J (ヒソヒソ声で)みんな、いいこと教えてやろうかぁ・・・領地をたくさん持つ一番の近道、それはだなぁ、将軍様の敵になることだぜ。

幕府サイド所属の武士一同 (ヒソヒソ声で)ブフッ、言えてるぅ。

しかし、こんな事をいくら言ってみても、どうしようもない。

昔の詩人の風刺詩に、次のようなものがある。

 人々が美麗を競えば
 堂々とした馬 きらびやかな車が 列を連ねる
 人々はひたすら 行列に目を奪われ 松や柏は忘れ去られてしまう
 立派な木々といえども 道端の花にさえ及ばないような存在に なりさがってしまうのだ

(原文)
 人物競紛花
 麗駒逐鈿車
 此時松興柏
 不及道傍花

人類の歴史は、まったくその言葉の通りであるのだなぁ、と、あらためて思い知らされるような、足利幕府の山名への処置であった。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

タイトル:太平記 現代語訳 39-1 大内弘世、吉野朝サイドから足利幕府サイドへ転ずる

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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聖人(せいじん)が世に出(いで)て、義を教え、道を正す時代においてさえも、上智を持つ人の数は少なく、下愚の者が多いから、人々の心は、なかなか一つにはならない。

それゆえに、かの古代中国・堯帝(ぎょうてい)の時代においてすらも、四大悪者(注1)が現われたし、孔子(こうし)が魯国(ろこく)の政治を司どった時にも、小星卯(しょうせいぼう:注2)がいた。

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(訳者注1)原文では、「四凶(しきょう)の族」。

(訳者注2)魯の大夫。
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ましてや、現代は末世にして、わが国は、中国から遠く隔たる東アジア辺境の卑賎(ひせん)なる国家、仁義をわきまえる人間の存在を期待する事が、そもそも間違っているのであろう。

とはいえ・・・あぁ、昨今の日本人の生きざま、いったい何たる事であろうか! このような惨澹(さんたん)たる状態は、日本史上、前代未聞の事である。

武士の家に生れた以上は、死を善道に守り、名を義路に失うまいと、常に念ずるべきである。

なのに、最近の武士の姿は・・・まったくもって、なさけない・・・ほんのわずか、欲心をくすぐられただけで、あっという間に味方になり、ちょっとでも恨みを含んだら最後、易々と敵になってしまうのだから・・・上に立つ者はもう、たまったものではない、「あの人間だけは、とことん最後まで、自分に味方してくれるだろう」との、絶対の確信を持って頼りにできるような者など、ただの一人もいないのだ。

まさに、変じやすき心は、鳳(おおとり)の羽毛よりも軽く、撓(たわ)まざる志は、麒麟(きりん)の角よりも希(まれ)なる存在。

武士の数には入らないような小者たちも、また同様である。

「自分は、ただの一度も、主を替えた事がない」というような者が、たまたま数人いたとしても、禄(ろく)で釣られ、利を含めて勧誘されたならば、ただの一日さえも、主君の下にとどまってはいないであろう。

誰も彼もが、頼りがたい事にかけては、五十歩百歩の大差なし、である。

このような事を言えば、きっと、次のような反論を述べたてる人が出てくるであろう、

 「あなたの言っている事は、しょせん、空理空論にすぎない。日々に生死をかけている実存の現場においては、そのような「あるべき論」は、じつに空しいもの。あなたの言説のごときを、「評論家の言(げん)」というのだ。」

あるいは、いろいろな書物をちょっとずつ読みかじった半可通の人からは、次のような批判が、浴びせられるかもしれない、

 「古代中国の歴史を見るがよい、主君を捨てて別の人につかえた事例など、山のようにあるではないか。百里奚(ひゃくりけい)は、虞(ぐ)の主君を捨てて秦(しん)の穆公(ぼくこう)に仕えた、管仲(かんちゅう)は、斉(せい)の恒公(かんこう)に投降し、公子糺(こうしきゅう)と共には死ななかったぞ。あなたは、これをいったいどのように説明されるおつもりか?」

たしかに、百里奚や管仲は、主を替えた。その点だけをとらえて論じるならば、彼らの生きざまも、現代の日本人のそれと何ら、変る所はない。しかし、問題は、主を替えたその動機である。

虞公は、晋(しん)国からの賄い、すなわち、垂棘(すいきょく)の玉(ぎょく)と屈(くつ)産の馬に誘惑されて、晋が自国の領土を経由して他国を攻めるのを許そうとした。そこで、百里奚は、虞公を諌めた。しかし、虞公は到底、彼の言を容れる可能性が無いと見て、百里奚は秦の穆公に仕えるようになったのである。

管仲に関しては、孔子(こうし)と子路(しろ)との次のような問答がある。

子路 管仲は、公子糺を見捨て、糺のもり役の召忽(しょうこつ)と、死を共にしませなんだ。あのような生き方はまさに、仁の道から外れておると言うべきでありましょう。

孔子 いや、それはちがうな。

子路 ・・・。

孔子 管仲はな、恒公を補佐して彼を覇者(はしゃ)に至らしめ、中国全土に安定をもたらしたであろうが? ゆえに、人民を安んじせしめた点において、管仲は大いなる功績があったと言える。民を安んじせしめる・・・これ以上の仁があろうか。

子路 ・・・。

孔子 おまえと共に我も死ぬと、男と女が首をつって溝の中に人知れず死んでいく・・・さような事の範疇でもって、管仲の生きざまを論じるべきではないぞ、子路よ。

古賢が世を治めんがために二君に仕えたのと、現代の人々が欲心のために降人となるのとでは、それこそ、雲泥の差というものではないか。

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(訳者注3)ここまでの記述は、以降に述べられる大内弘世に関する記述の、前置き的なものになっている。「二君に仕える」ということについて、古代中国での「二君に仕えた」事例を交えてまずは論じ、その後、今の世(太平記に描かれた時代)の、「二君に仕えた」具体例を、太平記作者は、ここから記述していく。
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大内弘世(おおうちひろよ)は長年、吉野朝側勢力の一員であった。

彼は、周防(すおう:山口県南部)、長門(ながと:山口県北部)両国を制圧して、こわいものなし状態であったが、いったい何を思ったのか、京都朝年号・貞治(じょうじ)3年(1364)の春頃より、急に心を変じ、「今、自分が制圧している周防と長門の両国を下さるならば、そちらのお味方に参じてもよいのですが・・・」とのメッセージを、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)のもとへ送ってきた。

足利義詮 へぇー、そぉー・・・大内がねぇ。

幕府リーダーA いかが、いたしましょう?

足利義詮 味方になりたいってんだから、OKしとけばぁ? 大内がこっちサイドについたら、中国地方も安定するだろうしさぁ。

幕府リーダーB 「周防、長門の両国をくれ」と、言ってきておりますが・・・。

足利義詮 いいんじゃぁないのぉ。

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この決定のあおりを食らったのが、幕府から長門国守護に任ぜられていた厚東義武(こうとうよしたけ)であった。

厚東義武 よぉよぉ、いったいなんで、幕府に忠誠尽くしてきたこのオレが、長門の守護職、クビなんじゃ!

彼は、恨みを含んでただちに長門を脱出、筑紫(つくし:福岡県)へ渡り、菊池武光(きくちたけみつ)と連合し、大内を攻撃しようと図った。

大内弘世は、3,000余騎を率いて豊後国(ぶんごこく:大分県)へ押し寄せ、菊池武光と戦ったが、2回目の戦で敗北し、菊池軍に包囲された。

彼は、菊池に降伏して命だけは助かり、自分の領地へ帰還の後、京都へ上洛した。

京都に滞在の間、数万貫の銭貨(せんか)や海外渡来の美を尽くした様々の品々を、幕府の奉行(ぶぎょう)、頭人(とうにん)、評定衆(ひょうじょうしゅう)、さらには、美人、田楽(でんがく)役者、猿楽(さるがく)役者、遁世者たちにまで、大盤ぶるまいした。その結果、世間の「大内株」は、右肩上がりの一本道。

世間の声C いやぁ、大内さまの気前のいいことったら!

世間の声D ほんにまぁ、ふところの広いお方どすわなぁ。

世間の声E あの人は、当代最高の器量人やで。

世間の声F あのような人の出現をこそ、この日本は、待ち望んでおったのでありますよ。

世間の声G まさに、待望のエロイカ(英雄的な人)、西方(せいほう)より来(きた)れり、ですわなぁ。

このように、「英雄・大内弘世」にただの一度も会ったことが無いのに、皆、はやしたてているのである。

世間の毀誉(きよ)は、当人の善悪によっては決まらず、人間の用捨(ようしゃ)は、その人の貧富によってのみ決する・・・これが、今の世の実態である。(注4)

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(訳者注4)原文では、「世上の毀誉は善悪に非ず、人間の用捨は貧福に在りとは、今の時をや申すべき」。
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太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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