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2018年7月 5日 (木)

太平記ゆかりの地 2 延暦寺

太平記ゆかりの地 インデックス

 みやこ(東京)の西北に 早稲田はあり
 みやこ(古都)の東北に 延暦寺はある

[太平記]の中に、[延暦寺](えんりゃくじ)、あるいは、[延暦寺]に所属する[衆徒]が、何回も登場する。

ネット地図を使って、[比叡山](ひえいざん)とインプットすれば、[延暦寺]がある位置を知ることができるだろう。

[延暦寺]は、[比叡山]の山上にある。京都府側から見れば、その位置は、京都盆地の北東方向、ということになるだろうし、滋賀県側から見れば、南部の琵琶湖の西方、ということになるだろう。

[比叡山]は、京都市内の様々な所から見える。

[正伝寺]からも、庭園と共に見ることができる。

A1 (2015年10月に撮影)

A1  

[京都府立植物園]からも、見ることができる。

A2 (2012年11月に撮影)

A2

京都の人々は、京都盆地の東側にある山々を、[東山三十六峰]と呼んできたが、その最北の山が、[比叡山]である。

[東山]については、専門家の間では、以下のような見解が一般的であるようだ。

 京都盆地は、陸地が沈みこんだ結果、できた。
 東山は、隆起してできたのではない、京都盆地が沈んでいった結果、残った地が東山になったのである。

これに関しては、例えば、

 [吉岡 敏和]氏による、[京都盆地周縁部における第四紀の断層活動]

が参考になるだろう。

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電気も石油も無かった時代、京都や大津から[延暦寺]へ行くには、徒歩で、あるいは、馬で、[比叡山]に登っていくしかなかった。

現在、我々は、かつてよりは楽に、様々なルートで[延暦寺]へ行くことができる。それらのうち、私が知っているものは、下記の通りである。

(1)坂本(滋賀県・大津市)から

[京阪電車・石山坂本線]で、[坂本比叡山口]駅へ
 あるいは、
[JR・湖西線]で、[比叡山坂本]駅へ

行き、次に、[坂本ケーブル]で、[比叡山]へ登る、というルート。

私はこのルートがとても好きで、過去に何度か、このルート経由で[延暦寺]へ行った。

[坂本ケーブル]公式サイト中の記述によれば、このケーブルカーは、1927年に敷設されたものであり、

 全長:2,025m(日本最長)
 高低差:484m
 最急勾配:333.3‰
 隧道:2ヵ所
 橋梁:7ヵ所

なのだそうである。

(2)京都バス 51 系統

京都市からのルートである。過去に一度、これに乗って、[延暦寺]へ行ったことがある。[銀閣寺]付近からは、[白川]ぞいに上流方向へバスが登っていったように、記憶している。

(3)叡山ケーブル

京都市からのルートである。[叡山電車]で、[八瀬比叡山口]駅まで行き、次に、[叡山ケーブル]、[叡山ロープウェイ]で[比叡山]へ登る、というルートである。

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歩いて[比叡山]へ、となると、上記に比べて、そうそう楽ではなさそうだ。

中世の時代、[延暦寺]の衆徒たちが強訴のために[京都]へやってくる時には、[きらら坂]を下ってきたという。

これは、[修学院離宮]の付近から[比叡山]へ通ずる山道だ。この道を上っていくと、[京都一周トレイル・東山コース]中の[水飲対陣跡]の碑がある場所に到達する。

[水飲対陣跡]は、[太平記 第17巻 1 山攻事 付 日吉神託事] に記述されている戦闘が行われた付近の地だという。[千種忠顕](ちぐさただあき)、[坊門正忠](ぼうもんまさただ)らは、この戦闘において戦死した、と記述されている。

2018年2月に、私は、[きらら坂]を初めて歩いた。

登ったのではなく、下ったのである。これが下りではなく、登りであったならば、もう、タイヘンだったろうと思う。途中、人間一人がやっと通れるか、というような箇所がある。

どんな道なのか、知りたい方は、よろしければ下記の2つの動画(私が撮影した)を参照いただければ、と思う。前の方が、[修学院離宮]に近い方の部分(きらら坂のうち、高度がより低い方の部分)であり、後の方が、[水飲対陣跡]に近い部分(きらら坂のうち、高度がより高い方の部分)である。

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1571年に、[延暦寺]は、織田軍によって攻撃された。

この攻撃は、[比叡山焼き討ち]と呼ばれているようだが、これは、大きな誤解を招く呼称であろうと思う。[比叡山焼き討ち]という用語よりも、[延暦寺攻撃]という用語の方が良いと、思う。

[比叡山]の上に[最澄](さいちょう)が[延暦寺]を開創した時と、この時とでは、[延暦寺]のエリアが、大きく異なっている。

[京を支配する山法師たち 中世延暦寺の富と力 下坂 守 吉川弘文館] 39P ~ 49P によれば、

[坂本衆徒]と呼ばれる人々が、中世には存在していたという。彼らは、[延暦寺]に所属する[衆徒]なのだが、[比叡山]の上ではなく、東側の山麓にある[坂本]に居住していた。中には、妻がいる人もいたという。

[太平記 第14巻 4 箱根竹下合戦事]に、[道場坊祐覚]という[延暦寺]の[衆徒]が登場するのだが、彼は、

 「坂本様(さかもとよう)の袈裟切(けさきり)に成仏(じょうぶつ)せよ」

と叫びながら闘っている。現代語に翻訳するならば、

 「坂本流の袈裟(けさ)がけで切ったるから、ちゃんと成仏せぇよぉ!」

と、いうことになろうか。

なんと、刀の使い方を示す語の中に、闘争とはおよそ縁遠いはずの仏教、その一本山・[延暦寺]の、門前町・[坂本]の地名が使われているのである。

[京を支配する山法師たち 中世延暦寺の富と力 下坂 守 吉川弘文館] 39P ~ 55P, 90P ~ 130P によれば、[坂本]の地には、大きな富と武力があった、という。

よって、[延暦寺攻撃]の戦において、[織田信長]が主ターゲットとしたのは、[比叡山]の上の方のエリアではなく、この、富と武力の集積の地・[坂本]エリアであった、という可能性もある。

よって、織田軍の攻撃によって命を失ったり捕虜となった人々の数は、[比叡山]の上の方に居住していた人々よりも、[坂本]に居住していた人々の方が、より多かった、という可能性もある。

これに関連して、ネット上には、[兼康 保明]氏による、比叡山中の考古学的調査の結果についての、いろいろな興味深い情報があった。

[兼康保明 比叡山]でネット検索すれば、関連する情報を得られるかもしれない。

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[延暦寺]には、[東塔]、[西塔]、[横川]の3エリアがあるが、[横川]へは未だ行ったことがない。

過去に訪れた際に撮影した写真画像を添えて、以下に紹介したい。画像記号の先頭がBのものは、2006年8月に撮影したものであり、画像記号の先頭がCのものは、2007年8月に撮影したものである。

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東塔エリア

B1 大講堂

B1

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、[大講堂]は、1956年に焼失してしまったという。現在の建物は、坂本にあった讃仏堂を移築したものであるという。

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B2 根本中堂

B2

[最澄]が788年に創建した[一乗止観院](いちじょうしかんいん)が、[根本中堂]の元であるのだそうだ。現在の建物は、1642年に竣工したものであるという。

[一乗止観院]を建立した際に、最澄は、下記の歌を詠んだ。

 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼじ)の仏たち
 我立杣(わがたつそま)に冥加(めか)あらせ給へ

この歌が、[太平記 第2巻 1 南都北嶺行幸事]の中で、伝教大師(でんぎょうだいし)(最澄)が詠んだ歌、として紹介されている歌である。

B3 根本中堂

B3

ここの本尊・薬師如来像は、参拝者の目と同じくらいの高さになるように、安置されているのだそうだ。それによって、「仏凡一如」という事を表現しているのだそうだ。「仏凡一如」は、

 「私(薬師如来) と あなた(参拝者) とは 一体なのよ だから 私を あなたから遠いものとは 思わないでね」

という意味であろうか。

[根本中堂]の中には、[不滅の法灯]というものがあり、1200年間、消えることなく灯し続けられてきた、という。

この、[消えることなく続いていく燃焼]という物理現象は、天台宗の教えの永遠性、すなわち、[天台宗の教えは永遠に存在し続け、救いの力を人々に対して、発進し続けていく]という理念を象徴するものなのであろう。

記号学的に表現するならば、

[消えることなく続いていく燃焼] が、シニフィアン(記号表現、能記)(signifiant)

[天台宗の教えは永遠に・・・] が、シニフィエ(記号内容、所記)(    signifié)

と、いうことになるのだろう。

しかし、考えてみると、この燃焼が永続していく、という事の保証は、どこにもない。

何らかのアクシデントによって、[不滅の法灯]の炎が消えてしまう、という事象の発生確率はゼロではない。あるいは、[不滅の法灯]の炎が燃え続けていくためには、継続的な燃料の供給が必要なのだが、何らかの原因により、この燃料供給がストップしてしまう(油断)事象の発生確率も、ゼロではない。

このように、[永続性の保証のない燃焼]という現象をもってして、[天台の教えの永遠性]という理念のシニフィアンとする、というのは、極めてリスクが高い方法である。

織田軍が[延暦寺]を攻めた時、[不滅の法灯]は、どうなったのだろう? 消えなかったのだろうか?

じつは、それよりも前に、[延暦寺]から[立石寺](山形県・山形市)に[不滅の法灯]が分灯されており、その灯から分灯して、[根本中堂]へ持ってきたのだそうだ。

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B4 戒壇院

B4

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、江戸時代に再建されたものである、という。

[延暦寺]が創建された当時、僧侶になるためには、全国に3か所設置された[戒壇]において、戒を授かることが必須であった。[最澄]は朝廷に対して、[延暦寺]にも戒壇の設置を認可し、[延暦寺]の裁量で、戒を授け、僧侶の資格を与えることができるようになることを願い出た。[最澄]の没後7日目に、朝廷はこの願いを聞き入れた。

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東塔エリア と 西塔エリア の間

B5 弁慶水

B5

[東塔エリア]から[西塔エリア]へ歩いていく途中に、[弁慶水]というのがあった。[武蔵坊弁慶]が、閼伽水を汲んだ場所であると、言い伝えられているようだ。

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B6 山王院堂

B6

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、「円珍の住房」であるというのだが、[円珍]が延暦寺第5代座主となったのは、868年だという。どう考えてみても、この建物は、その当時に建てられたものではないだろう。

[延暦寺]の教えの中には、[密教]が含まれているのだそうだ。[台密]と呼ばれている。

[山家の大師 最澄 大久保 良峻 編 吉川弘文館]
 中の
 [八 最澄の残したもの 大久保 良峻 著] 193P ~ 194Pによれば、

[円仁]、[円珍]、[安然]によって、[台密]は充実・大成されたのだそうだ。

[円珍]派の人々は、彼の死後、[延暦寺]から[園城寺]に移った。

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延暦寺の修行としては、[千日回峰行]が有名だが、[十二年籠山行]というのもあるようだ。それが行われるのが、[浄土院]である。

[浄土院]は、延暦寺境内中、最高に聖なる場所である。[最澄]の廟(墓)が、ここにある。

延暦寺公式サイト中の説明によれば、[籠山比丘]として選ばれた僧は、ここに12年間こもり、最澄に食事を献じたり、坐禅、勉学、清掃を行うのだそうだ。

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西塔エリア

B7 常行堂

B7

C1 常行堂

C1

C2 常行堂

C2

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、[常行三昧]という行を修する堂であり、1595年に建てられた、とあった。

B8 法華堂

B8

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、[法華三昧]という行を修する堂であり、1595年に建てられた、とあった。

B9 廊下

B9

常行堂と法華堂は、この廊下で結ばれている。

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C3 椿堂

C3

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[JR]がまだ「国鉄」(日本国有鉄道)(注1)と呼ばれていた時代、[伊吹]、あるいは、[比叡]と名づけられた列車があった。いずれも、[伊吹山]、[比叡山]から採られた名前なのだろう。

この「比叡山」という山の名の由来は、次のようなものであるらしい。

以下、下記の文献を参照しながら、記述する。

文献1  [山家の大師 最澄 大久保 良峻 編 吉川弘文館]
中の
 [二 比叡山 学山開創 佐藤 眞人 著]

文献2 [古事記(上) 次田 真幸 訳注 講談社学術文庫 講談社]

坂本(滋賀県・大津市)に、[日吉大社]という神社がある。そこの東本宮には、[大山咋神](おおやまくいのかみ)という神が祀られている。この神については、[文献1] 41P には、

 「また二宮(東本宮)には大山咋神が祀られている。二宮は地主権現(じしゅごんげん)とも称されるように、古くから比叡の土地を占めていた神である。」

とある。

[大山咋神]は、古事記の中の、オオクニヌシの国土開発の話に登場する。[文献2] 143P には、

 「次に大山咋神、亦の名は山末之大主神。この神は、近つ淡海国(あふみのくに)の日枝山(ひえのやま)に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。」

とある。

[文献1] 42P には

 「「日枝山」とは今日の比叡山のことであり、比叡(ひえい)の地名はこの日枝(ひえ)に由来する。日吉大社の「日吉」は、今日では「ひよし」と呼んでいるが、これは平安中期以後のことであり、古くは「ひえ」と称したのである。」

とある。

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(注1)私の祖母は、国鉄のことを、「省線(しょうせん)」と呼んでいたように記憶している。これは、[鐵道省]が鉄道を保有していた時代のなごりなのだろう。

かつて、日本政府は様々の事業を営んでおり、「三公社五現業(さんこうしゃごげんぎょう)」という言葉があった。

「三公社」については、私も明瞭に記憶しているのだが、「五現業」については、あまり知らない。

三公社
 日本国有鉄道:現在のJR各社の前身である。
 日本専売公社:発足当初、たばこ、塩、樟脳の専売業務を行っていた。現在の日本たばこ産業株式会社の前身である。
 日本電信電話公社:現在のNTTグループの前身である。

五現業
 郵政
 造幣
 印刷
 国有林野
 アルコール専売

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