« 太平記ゆかりの地 3 沙沙貴神社 | トップページ

2018年7月13日 (金)

太平記ゆかりの地 4 笠置寺

太平記ゆかりの地 インデックス

1331年に、打倒・鎌倉幕府の計画を幕府は把握、幕府からの追求から逃れるために、[後醍醐天皇(ごだいごてんのう)]と近臣たちは、京都から脱出し、奈良へ向かった。

[太平記 第2巻 7 天下怪異事] には、その時の事が下記のように記されている。

--------
(1)京都を出た後、木津川の沿岸付近に達した時、夜が明けた。

[太平記]には、「古津石地蔵(こづのいしじぞう)」という語が記されている。

「古津石地蔵」とは、[泉橋寺](京都府・木津川市)のことである。

ネット上に、この寺に関する情報があった。鎌倉時代に作られた石造の地蔵菩薩坐像(高さ約4.58m)があるようだ。

ネット地図で、この寺の位置を調べてみた。[木津川]の北岸にあるようだ。[国道24]の付近にある。

[木津]の地は、[古津]とも呼ばれていたという。

--------
(2)奈良に到着した後、東大寺へ行った。

[太平記]には、「南都の東南院」という語が記されている。

「南都」とは、[奈良市]のことである。京都(平安京)に遷都される前、日本の首都は奈良市にあり(平城京)、平城京は平安京の南方にあるので、このように呼ばれるようになったのであろう。

[東南院]は、[東大寺]の中の寺院であったようだ。

--------
(3)奈良から和束へ移動した。

[太平記]には、「和束の鷲峰山」という語が記されている。

東大寺の多数メンバーが、鎌倉幕府の威を恐れて天皇サイドにつかなかったので、奈良からここへ移動した、という趣旨の事が記されている。

「鷲峰山」とは、[鷲峰山(じゅうぶさん)金胎寺(こんたいじ)(京都府・相楽郡・和束町)のことである。

[和束町]に行くと、広大な茶園がある景観を見ることができる。

下記の写真画像は、私が、2010年10月に、和束町で撮影したものである。

A1

A01

A2

A02

A3

A03

A4

A04

A5 [安積親王]の陵墓が、茶の丘の上にある

A05

[安積親王(あさかしんのう)]は、[聖武天皇(しょうむてんのう)]の次男である。

奈良時代の天皇、となると、多くの人がまず思い浮かべるのが、[聖武天皇]だろう。(大仏殿との連想等で)。

なぜ、この時代を、「奈良時代」と呼ぶのか? 奈良の地(現在の奈良市)が、政治権力の中心、すなわち、首都であったからだろう。

では、いったいなぜ、[聖武天皇]の次男の墓が、奈良から遠いこの和束の地に築かれることになったのだろうか?

[安積親王陵墓]の位置は、ネット地図を使って知ることができる。[恭仁宮大極殿跡]とインプットすると、そのあたりの地図が表示されるだろうから、[恭仁宮大極殿跡]の北東方向を見ればよい。[安積親王陵墓]のある場所、そして、その位置と[恭仁宮大極殿跡]との位置関係が分かるだろう。

[奈良時代]の期間中に、奈良が首都ではなかった期間がある。

[続日本紀(上) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫] 巻第十三 の中に、(406P)

 「十二月十五日 天皇は先発して恭仁宮に行幸し、はじめてここを都と定めて、京都の造営にかかった。太上天皇(元正上皇)と皇后はおくれて到着した。」

とある。

「天皇」とは、[聖武天皇]のことである。
「十二月十五日」は、740年(天平12年)の十二月十五日、である。

ところが、

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫] 巻第十五  の中に、(25P)

 「閏正月一日 天皇は詔(みことのり)して百官を朝堂によび集めた。そして次のように尋ねられた。
 「恭仁・難波の二京でどちらを都と定めるべきか、それぞれ自分の考えを述べよ」と。」

とある。

「閏正月一日」は、744年(天平16年)の閏正月である。

[聖武天皇]のこの問いかけは、「恭仁 平城(奈良) の どちらを都に」ではない、「恭仁 難波 の どちらを都に」である。

この期間、奈良は、[聖武天皇]の関心事の中には無かったのであろう。

天皇以外にも、奈良のことを、「旧都」あるいは、「古都」、「こないだまでは、都やったとこや、そやけど、今はもう・・・」という感覚で見ていた人も、多くいたのであろう。それをうかがわせる以下のような記述がある。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五  の中に、(25P)

 「正月四日 従三位の巨勢朝臣奈弖麻呂・従四位上の藤原朝臣仲麻呂を遣わして市(いち)に行かせ、京をどちらに定めるべきかを尋ねさせた。市人はみな恭仁京を都とされることを願った。ただし、難波京を望む者が一人、平城京を望む者が一人あった。」

とある。 

しかし、結局、[聖武天皇]は、難波宮への遷都を行った。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五  の中に、(25P ~ 26P)

 「正月十一日 天皇は難波宮に行幸された。」

 「この日、安積親王は脚の病(脚気か)のため、桜井の頓宮(河内郡桜井郷)から恭仁京に還った。」

 「正月一三日 安積親王が薨(こう)じた。時に年は十七歳であった。従四位下の大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして葬儀を監督・護衛させた。」

とある。

上記をまとめると、二人が居た場所は、下記のようになるだろう。

     744年・正月十一日  744年・正月一三日
聖武天皇  難波宮        難波宮
安積親王  恭仁京        恭仁京

なので、大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして(恭仁京へ出張させて)、ということになる。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五   の中に、(27P)

 「二月二十六日 左大臣が勅をのべて次のように言った。
  今から難波宮を皇都と定める。この事態をわきまえて、京戸の人々は意のままに両都の間を往来してかまわない。」

とある。 

「二月二十六日」は、744年(天平16年)の二月二十六日である。

「両都」とは、恭仁宮と難波宮を意味しているのだろう。ここにおいても、平城京・奈良は、関心の対象外となってしまっている。

[安積親王]は、このような、恭仁京から難波京への遷都の期間のまっただ中に亡くなった。なので、その墓は、恭仁京の近くに、ということになり、この[和束]の地に定められたのであろう。

740年の十二月から、744年の二月までの4年間、日本の政治権力の中心、すなわち、首都は、奈良ではなく、恭仁京にあったのだ。その間、[和束]は、首都の近郊、まさに、首都圏の中の地であった、ということになるだろう。

--------

[宇治茶]の原料となる茶葉は、京都府、奈良県、滋賀県、三重県で栽培されているのだそうだ。[和束]の地から出荷されて[宇治茶]になる茶葉もあるのだろう。

([宇治茶の定義]、[和束産 宇治茶]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。)

--------
(4)和束から笠置へ移動した。

[太平記]には、「南都の衆徒少々召具せられて、笠置の石室へ臨幸なる」と記されている。

「笠置の石室」とは、[笠置寺](京都府・相楽郡・笠置町)のことである。

[笠置寺]は、[笠置山]の上の方にある寺院である。

ネット地図を使用して、[笠置駅]とインプットすれば、この山の位置を知ることができるだろう。[JR西日本・関西本線 笠置駅]の南東方向にある。

2009年11月に、私は、[笠置寺]へ行った。下記にある写真画像は全て、その時、私が現地で撮影したものである。

B01 加茂駅から笠置駅まで、これに乗っていった

B01

B02 笠置駅から南東方向へ歩いていって、ここに着いた

B02

「史の道 ハイキングコース」という表示板がある方の道を、歩いて行くことにした。[笠置寺]にたてこもる天皇サイド軍勢を攻めるために、この地へやってきた鎌倉幕府サイドの人々は、この道を行ったのであろうと、想像したので。自分が幕府軍のメンバーになったつもりで、かつての彼らの進軍を追体験しようと思ったのである。

B03 先に進んでいったら、このような道に

B03

B04

B04

「追体験」のこの登り坂で、自らの体力の少なさを思い知った。幕府軍メンバーは、この道を、武器を持ちながら登っていったのであろう。すごい体力!

B05

B05

B06 ようやく、[一の木戸跡]へたどりついた

B06

ここが、[太平記 第3巻 2 笠置軍事 付 陶山小見山夜討事] の中で、[足助次郎重範(あすけじろうしげのり)]が矢を射た、とされている場所、[本性房(ほんじょうぼう)]が岩を投げた、とされている場所なのだろう。

(太平記に記されている事は、史実かどうか分からない。)

ここから先は、幕府軍サイドではなく、後醍醐天皇サイドに所属を変えて(天皇軍のメンバーになったつもりで)の追体験に、チェンジすることにした。そうしないと、ここから上へ行くことができないから。(太平記には、幕府軍メンバーたちの進軍が、ここでストップした、というように記述されている。)

B07 [一の木戸跡]に立って、下を見ると、このようなかんじ

B07

幕府軍を迎撃している天皇軍メンバーからの視点では、このようなかんじになる。

B08

B08

B09

B09

B10 更に歩を進めて、笠置寺へ

B10_2

B11 着いた

B11

B12 寺の門をくぐると、巨岩が

B12

B13 巨岩に彫られた弥勒菩薩(maitreya:マイトレーヤ)

B13

いわゆる、[摩崖仏]である。しかし、菩薩の姿が無い。

この時の幕府軍の攻撃により、焼失してしまったので、このような姿になっているのだ、と、されているようだ。

でも、岩に彫られた仏像でしょ、燃えたりなんかしないでしょ、と思うのだが・・・。

この事に関して、ネットで調べて、

[日本経済新聞]のサイト中の[コラム(地域)]コーナー中の

 [姿・由来、伝説につつまれ 笠置寺磨崖仏(もっと関西)]
 2017/11/15 17:00

というコンテンツを見つけた。その中に、

 仏が刻まれていた花こう岩は、炎にあぶられると表面が剥がれたり割れたりする。

との趣旨の、[日本石材産業協会]の見解が、記されている。

B14 巨岩に彫られた虚空蔵菩薩(Ākāśagarbha:アーカーシャガルバ)

B14

B15 巨岩の間をくぐりぬけていく道がある

B15

B16

B16

B17

B17

B18 見晴らしのいい場所に出た

B18

B19 ゆるぎ石

B19

説明板には、下記のようにあった。

 「・・・この石は奇襲に備えるため武器としてここに運ばれたが使用されなかった。重心が中央にあり人の力で動くため”ゆるぎ石”といわれている。」

B20

B20

B21

B21

B22 後醍醐天皇行在所跡

B22

B23 後醍醐天皇行在所跡

B23

B24 カエデが多数ある場所があった

B24

B25

B25

B26

B26

[笠置山]から下りて、笠置駅まで歩いた。

B27 笠置駅の構内に、このようなものがあった。弓を持っているのが[足助次郎重範]、岩を持ち上げているのが、[本性房]だろうか。

B27

B28 笠置駅の構内で撮影

B28

--------

[笠置寺公式サイト] 中の [笠置寺について] 中の記述によれば、

========
弥生時代から、笠置山の巨石は信仰の対象となっていたという。それを示すのが、弥生時代の有樋式石剣である。

実際に建物が建てられ人が住み着いたのは1300年前であり、鎌倉時代に、藤原貞慶(後の解脱上人)がここを拠点とした。

江戸中期より荒廃し、明治時代初期に、住職不在の寺になってしまったが、その後、復興し、現在に至る。
========

と、いうことなのだそうだ。

[太平記 第12巻 4 千種殿並文観僧正奢侈事 付 解脱上人事] にも、解脱上人が[笠置寺]に入った事が、記されている。

-----------------

[笠置寺]に行ってみて思うに、ここは、[後醍醐天皇]らがたてこもるには不適な場所だったのではないだろうか。

[地理院地図]を使って、[笠置駅]で検索すれば、このあたりの地形を把握することができると思う。おおよその地形は標高線から読み取れるだろうし、標高を知りたい地点があれば、そこをマウスでクリックすればよい。

私が調べた結果は、以下の通りである。

 笠置駅 標高 約 54m
 行在所跡 標高 約 262m

標高差200m、急襲するとなると、攻めにくい場所であろう。

しかし、この山の周囲を、鎌倉幕府軍がビッシリと隙間なく包囲してしまっての持久戦になったならば、笠置寺は、たてもこりメンバーたちの食料を確保することが不可能となってしまうだろう。

水の確保については、もしかしたら、山のどこかに湧水があるのでOK、ということに、なるのかもしれないが。

スペースの問題もある。笠置寺の境内を見た感じでは、大軍勢が駐屯できるような場所が無いように、思われた。

だから、幕府軍サイドが攻め急がず、兵糧攻めにしていたら、天皇サイドは降伏するしか他になし、という状態になっていた可能性が十分にあると思われる。

ところが、[太平記]では、思わぬ展開となり、天皇サイドは一気に崩れた、ということになっている。

その「思わぬ展開」は、[陶山(すやま) and 小見山(こみやま)グループ]により編成された[コマンド部隊]によって、引き起こされた、ということになっている。

[太平記 第3巻 2 笠置軍事 付 陶山小見山夜討事] に、[陶山 and 小見山グループ50余人]が登場する。

グループのリーダー2人の名は、「備中国の住人 陶山藤三義高(すやまとうぞうよしたか) 小見山次郎某(こみやまじろうなにがし)」と記されている。グループメンバーの「陶山吉次(よしつぐ)」の名も、登場する。

彼らは、幕府軍が集中的に攻めているのとは異なる笠置山の別の斜面を、夜間に登って、笠置寺に侵入しようと試みた。

彼らが行ったルートは、[笠置寺]の北側の斜面であると、太平記では、している。

 「城の北にあたりたる石壁の数百丈聳(そびえ)て、鳥も翔(かけ)り難き所よりぞ登りける」

[地理院地図]を使って、[笠置寺]の北側斜面を見てみるに、確かに、この方面においては、等高線の間隔が短く、急峻な斜面のようだ。しかし、「笠置北壁」とも称せられるほどの絶壁、という感じではない。

しかし、太平記の記述では、そのルート上には、彼らの前進を阻む大岩壁があった、としている。

この箇所を、私は、以下のように、現代語に翻訳した。

太平記 現代語訳 3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣

より:

========
9月末日の夜、漆黒の暗闇の中、目指す方向さえ不分明、風雨は荒れ狂い、顔を正面向けてはおれないほど。

陶山グループ50余人は、太刀を背に背負い、小刀を腰の後ろに差し、笠置寺北方の断崖、鳥も駆け上がれまいと思われるような高さ数百丈の岩壁にとりつき、登山を開始。

二町ほどは、なんとかかんとかして登ってはみたものの、その上には、さらに険しい断崖がそびえたっているではないか・・・屏風を立てたかのごとく岩石は重なり、古松は枝を垂れ、青苔に覆われた滑りやすい表面。

陶山グループ一同 あぁ・・・。

いかんともしがたく、はるか上方を見あげながら立ちつくす陶山グループの面々・・・。

陶山義高 よし、おれが登ってみるけぇのぉ。

彼は、岩の上をサラサラと走り登り、用意した例の縄を上方の木の枝にかけて、下の方におろした。

陶山グループ一同 おぁ、やったじゃねぇかぁ!

彼らは、陶山義高が垂らしたロープを握り、その一番の難所を易々と登り切ってしまった。
========

[笠置山]の北側斜面には、上記にあるような断崖が、実際にあるのだろうか?

そのような箇所があるのだとしたら、そこは、鎌倉時代の武士たちが、縄を使ったロッククライミングでもって、登っていけたような場所なのだろうか?

現在に至るまでの700年間の、雨水による浸食により、山登りの困難さが軽減されている可能性はあるが。

これに関しては、山登りに熟達している方々の見解を、お聞きしたいところである。

--------

[陶山 and 小見山グループ]の人々は、現在の岡山県・[笠岡市]を本拠としていたようだ。[笠岡市 陶山氏]でネット検索したら、様々な情報へのエントリーが表示された。

私はかつて、Web上に開設したサイト(ブログではなかった)に、現代語に翻訳された太平記(私が翻訳した)をアップし続けていたのだが、その時に、そのコンテンツによる縁でもって、[陶山 and 小見山グループ]の事を調査しておられるある方と、面談する機会があった。

その際に、その方に、[陶山 and 小見山グループ]の人々の、現代語訳中でのせりふに関する方言指導を、お願いした。できる限り、彼らの地元の言葉(現代の)を使って、彼らに語らせたかったからである。

その方は、私のその願いを受諾され、その方の知人と共に、方言指導を行ってくださった。

[太平記 現代語訳 3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣] 中の、[陶山 and 小見山グループ]の人々のせりふは、そのようにして成立した。

[陶山 and 小見山グループ]が、笠置寺の境内で放火し、天皇サイドはパニック状態になり、それを見た幕府サイドは急襲をかけ、天皇サイドは敗退した。しかし、この幕府軍の猛攻をかいくぐり、後醍醐天皇と近臣らは、笠置寺から山麓の地へ脱出したと、太平記には記されている。

この山の、いったいどのルートを通って、脱出したのだろう? あまり人には知られていない、けもの道でも、あったのだろうか?

--------

[陶山 and 小見山グループ]の人々の、鎌倉幕府内での地位は、この笠置での戦の功績によって、急上昇したのかもしれない。

[太平記] 第8巻、第9巻に、[陶山次郎]という人が登場する。鎌倉幕府側の極めて重要・強力メンバー、という感じで、一軍を率いて戦っている。

しかし、その後、[陶山 and 小見山グループ]の人々の運命は、暗転してしまったようだ。

彼らは、鎌倉幕府・六波羅探題サイドの人々と共に、京都を脱出し、鎌倉へ逃げようと試みたが、滋賀県・米原市の付近で、先に進めなくなってしまい、そこで自害した。

[太平記 第9巻 8 越後守仲時已下自害事] の中にある、亡くなっていった、鎌倉幕府サイドの人々の氏名の中に、

 陶山次郎
 陶山小五郎
 小見山孫太郎
 小見山五郎
 小見山六郎次郎

の名がある。

米原市の公式サイト中に、[紙本墨書陸波羅南北過去帳]というコンテンツがあり、そこには、以下のように記されている。

 「・・・蓮華寺第三代の同阿良向が、元弘3年(1333年)5月9日に自害した仲時ら六波羅勢のうち姓名のわかる189人の交名を記した。」

この[紙本墨書陸波羅南北過去帳]の中には、[陶山]姓、[小見山]姓の人々の名があるという。([蓮華寺 過去帳 陶山]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。)

鎌倉幕府・六波羅探題の人々と最後まで行動を共にした結果、このような事になってしまった。

最後の最後まで、六波羅探題の人々についていく・・・幕府側のスターとなった彼らには、それより他に、行く道が無かったのかもしれない。

太平記ゆかりの地 インデックス

« 太平記ゆかりの地 3 沙沙貴神社 | トップページ

太平記」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/2452662/73851502

この記事へのトラックバック一覧です: 太平記ゆかりの地 4 笠置寺:

« 太平記ゆかりの地 3 沙沙貴神社 | トップページ

フォト
無料ブログはココログ