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2018年11月 4日 (日)

伊豆半島に行きました

伊豆半島の中部と西海岸(静岡県)に、関心がありました。

 様々の旅行関係の書物や、パンフレットで、[伊豆半島・西海岸]の美しい海の風景の紹介を見た記憶がある。

 位置関係から見て、[伊豆半島・西海岸]において、[駿河湾]の向こうに[富士山]を見れる可能性があるのではないだろうか。(気象条件にもよるのだろうが)。

 [伊豆半島・西海岸]は、地図で見ると、[修善寺]の近くにあるようだ。[修善寺]は、温泉地として、有名なようだ。[夏目漱石]も、ここに滞在していたことがあるらしい。

 [韮山]には、[運慶]が作った仏像があるという。

 [韮山]には、[反射炉]というものがあり、ユネスコ世界遺産に認定されたと、聞いている。

このような様々な想いが交錯する中に、伊豆半島への家族旅行を思い立ち、計画を立案し始めました。

思案の結果、下記のようなコース概要が定まりました。

1日目:京都 --(東海道新幹線)--> 三島 --(伊豆箱根鉄道)--> 修善寺
    修善寺 --(東海バス)--> 土肥(伊豆半島・西海岸) --(東海バス)--> 修善寺
    修善寺温泉 で 温泉旅館に宿泊

2日目:修善寺 --(伊豆箱根鉄道)--> 韮山
    韮山 で、[反射炉]を見学、[運慶の仏像]を拝観
    韮山 --(伊豆箱根鉄道)-->  三島 --(東海道新幹線)--> 京都

更に、ネットを使って、いろいろと調べていくにつれて、様々な事が分かってきて、コース計画の修正が必要になりました。

 [伊豆箱根鉄道]の[修善寺駅]と、[修善寺]の温泉街との間の距離はけっこうあるので、バスを使って移動する方がよさそうだ。

 [運慶作の仏像]があるのは、[願成就院]という寺院である。

 [韮山反射炉循環バス]というものがあり、これを利用すると、[韮山反射炉]、[願成就院]のぞれぞれの近くまで、バスで行けるようだ。このバスは、運航日が限定されているようだ。[伊豆箱根鉄道]の[伊豆長岡駅]の駅前から、このバスに乗車できるようだ。

と、いうわけで、コース概要に対して、修正を行いました。修正後のものが、下記です。

1日目:京都 --(東海道新幹線)--> 三島 --(伊豆箱根鉄道)--> 修善寺
    修善寺 --(東海バス)--> 土肥(伊豆半島・西海岸) --(東海バス)--> 修善寺
    修善寺 --(東海バス)--> 修善寺の温泉街
    修善寺の温泉街にある、温泉旅館に宿泊

2日目:修善寺の温泉街 --(東海バス)--> 修善寺 --(伊豆箱根鉄道)--> 伊豆長岡
    伊豆長岡 --(韮山反射炉循環バス)--> 韮山反射炉 --(韮山反射炉循環バス)--> 北条の里
    北条の里 --(徒歩)--> 願成就院 --(徒歩)--> 北条の里
    北条の里 --(韮山反射炉循環バス)--> 伊豆長岡
    伊豆長岡 --(伊豆箱根鉄道)-->  三島 --(東海道新幹線)--> 京都

そして、 2018年10月、伊豆に行きました。上記の計画通りに、各地を移動しました。

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1.土肥へ

[伊豆箱根鉄道]の[修善寺駅]には、コインロッカーがあり、空いているコインロッカーがあったので、大きい荷物をそこに格納することができて、その後の行動が楽になりました。

そこから、[東海バス]に乗って、[土肥]へ移動。(「土肥」は「とい」と読むのだそうです。)

すごい山越えの道でした。

[地理院地図]を使って標高を調べてみると:

 [伊豆箱根鉄道]の[修善寺駅]:約50m

途中、長いトンネルをバスは通過していったのですが、ネット地図で調べてみたら、[船原峠]の下に掘られたトンネルであることが分かりました。

 トンネルの東側口付近の標高:約470m

そこからバスは、土肥の海岸(標高0m)めざして、下っていったのでした。

伊豆半島が、そして、伊豆半島のこのような険しい地形が、いったいどのようにしてできたのか、という点に関しては、下記のような説があるようです。

 [説A]:伊豆半島は、南方の海のかなたからやってきた地塊が、本州に衝突し、隆起してできた。その結果、現在見るような険しい地形ができた。

この件に関しては:

 [伊豆半島ジオパーク] というサイトがあり、その中の下記の部分
  伊豆半島ジオパークについて
   成り立ち

の中に、詳細な記述があります。

しかし、この[説A]に対しては、私としては納得が行かない点があります。

以下、現在の伊豆半島を形成している岩石の集合体の事を、[伊豆地塊]と呼ぶことにします。

[説A]によれば:

 むかしむかし、[伊豆地塊]は、[フィリピン海プレート]の上に「乗って」いた。[日本列島の本州]と離れた場所にあったのだが、徐々に、[本州]に接近していった。そして、ついに、現在のように、[本州]とくっついた。

 むかしむかしから今に至るまでの間、[日本列島の本州]は、[ユーラシアプレート]の上に「のって」いたし、(今も)「のって」いる。

 むかしむかしから今に至るまでの間、[フィリピン海プレート]は、[ユーラシアプレート]の下に、「沈み込んで」いったし、(今も)「沈み込んで」いる。

ということに、なるのでしょう。 

ならば、

 むかしむかし、[フィリピン海プレート]の上に乗りながら、[本州]の近くへやってきた[伊豆地塊]は、[フィリピン海プレート]と共に、[ユーラシアプレート]の下に、沈み込んでいった

ということに、なりはしないのだろうか? このように考えるのが、しごく自然な方向ではないかと、私には思われるのですが。

となると、[伊豆地塊]は、[ユーラシアプレート]の下に行ってしまう、よって、伊豆半島は形成されない、ということになるのでは?

しかし、[説A]によれば、分離的な地殻変動、すなわち、

 [フィリピン海プレート]は、[ユーラシアプレート]の下側に
 [伊豆地塊]は、海の上に

と、いうような事が起こった、ということになります。

私には、この点がどうしても納得いきません。いったいなぜ、このような分離的な地殻変動が起こったのか? この点を明快に説明してほしいなぁと、思います。

[伊豆地塊 フィリピン海プレート]でネット検索すると、これに関連する様々な情報を得られるかもしれません。

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2.土肥で

[土肥]で、昼食時に、キンメダイを食べました。

伊豆半島・西海岸の[土肥]で撮影した動画が、下記です。残念ながら、この日、富士山を見ることは、できませんでした。(翌日の夕方、京都へ帰る途中の、東海道新幹線の車窓からは、きれいに見えました。)

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/kd2Q-gDDuUM

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3.修善寺の温泉街

[土肥]から、[東海バス]を乗り継いで、[修善寺]の温泉街に移動しました。

[独鈷の湯]を見たり、川にかかる橋を渡ったり、[竹林の小径]を歩いたり、快適な散策をすることができました。

宿泊先にした温泉旅館に対して、[夕食無し、朝食あり、1泊]のコースを予約していたので、夕食を、宿泊先とは異なる場所でとりました。

計画立案の段階で、夕食をとる場所の選定に時間がかかりました。

[修善寺]の温泉街にある飲食店のことを、計画立案段階でいろいろと調べてみて、驚きました、閉店時間が早い店が多く、夜に食べに行けるような所が少ないのです。

[修善寺]の温泉街にある宿泊施設に泊まらない人は、夕方になったら別の場所へ移動してしまうし、[修善寺]の温泉街にある宿泊施設に泊まる人の大部分は、宿泊先で夕食をとる。だから、飲食店側は、夕方以降、店を開いていても、客は少ない、だから、夕方になったら閉店、という事情なのでしょうか。

今、[泊食分離]という言葉が、観光の世界で注目を集めているようです。

旅館の稼働率を上げるために、旅館側は、従来の[一泊二食つき]のコースの他にも、[宿泊のみ]、[夕食なし朝食あり]、[夕食あり朝食なし]など、様々な選択肢を宿泊客が選べるような方向にしていってはどうだろうか、という事のようです。

私にとっては、この、[泊食分離]の方向は、とても好ましいです。

[修善寺]の温泉街においても、この [泊食分離]の方向に変化していったら、温泉街の中で夕食をとることができる店が、増加していくかもしれません。

[観光庁 泊食分離]、[泊食分離とは]、[旅館 稼働率]でネット検索すると、これに関連する様々な情報を得られるかもしれません。

宿泊先の温泉旅館で、目がさめてしまったので、未明の時間帯に、露天ぶろに入浴しました。とても気持ちが良かったです。

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4.修禅寺

翌日、宿泊先から徒歩で、[修禅寺]へ行きました。

修[善]寺の温泉街の中に、修[禅]寺は、ありました。

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[修禅寺]の公式サイト中の記述によれば、

 正式呼称は、[福地山修禅萬安禅寺](ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)。
 807年、空海によって開創。
 その後、真言宗から臨済宗に改宗。その後、臨済宗から曹洞宗に改宗。

[修禅寺]の公式サイト中の[動物たち]のコーナーに、[護摩](ゴマ)、[空](くう)の名前があります。この日、境内にいたのが、これらの動物なのでしょうか。

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5.指月殿

かつて読んだ、[伊賀の影丸](横山 光輝・著)の中に、[夜叉王]という忍者が登場していたのを、今になっても記憶しています。

その後、[修禅寺物語](岡本 綺堂・著)という戯曲があることを知り、その中に、

面造り夜叉王

という人物が登場する、ということを、知りました。そこで、思ったのです、

 もしかしたら、横山光輝氏は、[修禅寺物語]の中のこの登場人物の名を、[伊賀の影丸]の中の忍者の名前に転用したのでは、ないだろうか、と。 

 [修禅寺物語]の[夜叉王]と、[伊賀の影丸]の[夜叉王]との間には、共通するキーワードがあります。それはすなわち、

 [顔]

です。

  [修禅寺物語]の初演は、1911年。
  [伊賀の影丸]の連載発表は、1961年から1966年。

だから、横山光輝氏が、[修禅寺物語]と、その中の登場人物・[夜叉王]について、何らかの知識を持たれていた、という可能性は大きいと思います。

[修禅寺物語 夜叉王]、 [伊賀の影丸 夜叉王]、[青空文庫 修禅寺物語]でネット検索すると、これに関連する様々な情報を得られるかもしれません。

[修禅寺物語]の中には、[源頼家]という人も登場します。

[源頼家]は、[源頼朝]と[北条政子]の子で、鎌倉幕府・第2代将軍に就任した、歴史上実在の人です。

そのような人の墓が、幕府のあった[鎌倉]ではなく、[修善寺]にあるのです、[指月殿]の傍らに。

[指月殿]へは、[修禅寺]から徒歩で行きました。

[伊豆市 観光情報サイト] 中の解説には、

「・・・頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれています。」

と、あります。

 いったいなぜ、[源頼家]の墓は、[鎌倉]ではなく、[修善寺]の地にあるのか?
 [源頼家]の最期は、どのような状態であったのか?

ネットで調べてみたのですが、調べれば調べるほど、分からなくなってしまいました。

例えば、

 [吾妻鑑 明月記 愚管抄 源頼家 北条時政 阿波局 比企氏]

という、複数の言葉から成るキーワードを使用して検索して、複数個の興味深いコンテンツを読むことができたのですが、それらのコンテンツを読んで感じたのが、[関連する史料の信憑性の低さ]ということでした。

[吾妻鑑]には、[源頼家]の最期の様については、何も書かれていないのだそうです。

[愚管抄]には、それが書かれているのだそうです。

でも、[愚管抄]は、京都にいた天台宗トップ(座主)・慈円が、京都で書いたものでしょう。京都からはるか遠く隔たっている関東の地で起こった事を、慈円がどこまで正確に把握できていたのか、極めて疑問に思えます。

今でいう、[情報ソース]の問題です。[源頼家]の最期の様に関して、慈円が得た情報のソースは、いったいいかなる性質のものであったのか? [源頼家]の側近くにいて、彼の最期の様を実際に見た人が、慈円に伝えたものであったのか、それとも、単なる「関東からのうわさ話」程度のものであったのか?

とにもかくにも、[源頼家]のお墓が、そこにありました、私は、墓前に合掌し、頼家公のために祈りました。

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6.韮山反射炉

ここへは、上記にも記したように、[韮山反射炉循環バス]を利用して、行きました。

PB1

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PB2

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PB3

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[伊豆の国市 のサイト]中の
 学び・文化
  文化財
   国指定史跡韮山反射炉
    韮山反射炉とは

に、解説があります。

江戸幕府の代官・[江川英龍]によって、築造が開始されたが、その完成を見ることなく、彼は世を去り、その跡を継いだ息子の[江川英敏]によって築造が継続され、1857年に完成したのだそうです。

その後、1864年までの間、鉄製や青銅製の西洋式大砲が、この炉を使って鋳造されたのだそうです。

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7.願成就院

[韮山反射炉]から、再び、[韮山反射炉循環バス]に乗り、[北条の里]バス停へ移動しました、[願成就院]へ行くために。

[北条の里]バス停にある案内図が分かりにくくて、[願成就院]へ行くのに、時間を費やしてしまいました。その結果、仏像鑑賞にあてることができる時間が、短くなってしまいました。

([願成就院]から[北条の里]バス停まで戻ってきて、また、[韮山反射炉循環バス]に乗らねばなりません。)

「こっちへ行くと、[願成就院]へ行けるよ」という事を示すような、分かりやすい標識が、[北条の里]バス停に、あればいいのになぁ、と、思いました。

[願成就院]にある[運慶]作の仏像は、すばらしいと思いました、とりわけ、[矜羯羅童子(こんがらどうじ)(Kiṃkara)]と[制吒迦童子(せいたかどうじ)(Ceṭaka)]が。

[願成就院のサイト]中の、[寺宝]の部に、それらの仏像の写真があります。

これらの仏像の内部に収められていた木札の記述から、仏像制作を注文したのは、[北条時政]([北条政子]の父)であり、仏像を制作したのは[運慶]である、ということが確かめられたのだそうです。

[北条時政]は、近畿地方に、[運慶]という新進気鋭の仏師がいる、ということを、どこで、どのようにして、知ったのでしょうか?

注文主・[北条時政]と、制作者・[運慶]は、実際に対面・面談した上で、発注が行われたのでしょうか?

(「こんな仏像、つくってほしいんだよねぇ」とかいうような事を、時政が言うのを、運慶が聞いて)。

対面・面談したのだとしたら、どこで、対面・面談したのでしょうか? 関東で? それとも、近畿地方で?

その場所が、京都である可能性も、あるようなのです。下記に、それについての記述があります。

連続講演会「東京で学ぶ京大の知」シリーズ14 美術研究最前線 第1回 運慶研究の最前線 京都大学大学院 文学研究科 根立 研介・教授

[願成就院]の中に、[北条時政]の墓所がありました。

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8.北条の里

「北条の里」と、バス停に名付けるだけあって、ここがまさに、鎌倉幕府の中で大きな権力を獲得した集団・北条氏のルーツの地であるようです。

付近には、[北条政子産湯の井戸]、[史跡北条氏邸跡(円成寺跡)] があるようですが、時間が足りなくて、行けませんでした。

もしも、[北条政子]が[源頼朝]と出会ってなかったら、[北条氏]の名前が日本史の教科書に記述されることは、なかったでしょうね。

人間の、あるいは、氏族の運命は、まことに不可思議、というしか、ないようです。

その付近に、もう一か所、行ってみたい場所があったのですが、そこも、時間が足りなくて、行けませんでした。それは、

 [堀越御所跡]

です。

[足利政知](第8代将軍・[足利義政]の兄弟)は、[鎌倉公方](足利幕府・鎌倉府のトップ)に任命されて関東にやってきたが、様々な事情により、鎌倉まで行くことができず、この地に館を構えた、という事なのだそうです。

[足利政知]には、[足利茶々丸]という息子がいたのだそうです。

[足利茶々丸 北条早雲]、[古河公方 堀越公方]、[結城合戦 春王 安王]、[南総里見八犬伝 里見義実 結城合戦]でネット検索すると、これに関連する様々な情報を得られるかもしれません。

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