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2017年4月13日 (木)

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2017年3月10日 (金)

人はなぜ、おじぎをするのか?

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人はいったいなぜ、おじぎをするのだろうか?

この問題に対する解答を考えてみた。

ここでの「人」は、日本人に限定することにした。

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1. まずは、おじぎに関連する記述を、昔の文書の中で探してみた

1.1 魏志倭人伝

ヤマタイ国においては、会合やパーティの場と、路上とでは、礼儀作法が大きく異なっていたようである。

[魏志倭人伝]には、以下のように書いてある。

[新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 編訳・石原道博 岩波文庫 青 401-1 岩波書店] の48P には、下記のようにある。

 「その会同・坐起には、父子男女別無し。人性酒を嗜(たしな)む。大人の敬する所を見れば、ただ手を搏ち以て跪拝に当つ。」

つまり、ヤマタイ国においては、身分の高い人に対して、身分の低い人は、「ただ手を搏ち」だけすれば、よかった、頭を下げる動作をしなくても、よかったようなのだ。ただし、これは、「会同」の場においての礼儀作法である。

当時の中国人(日本列島に使者としてやってきた魏の人)の目からは、これはとても奇異な振る舞いに感じられたのだろう。魏国の礼儀作法においては、身分の低い人は、身分の高い人に対して、「会同」の場においては、「跪拝」すべきであった。なので、「あぁ、あの「手を搏つ」動作は、我々の国(魏)での、「跪拝」に相当するものなのだな。」と考え、上記のように記したのだろう。

かたや、

[新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 編訳・石原道博 岩波文庫 青 401-1 岩波書店] の49P には、下記のようにある。

 「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡(しゅんじゅん)して草に入り、辞を伝え事を説くには、あるいは蹲(うずくま)りあるいは跪(ひざまず)き、両手は地に拠り、これが恭敬を為す。対応の声を噫(あい)という、比するに然諾(ぜんだく)の如し。」

すなわち、道路上においては、身分の高い人に出会った際には、身分の低い人は、「ただ手を搏ち」なんてことでは、ダメであった、「逡巡して草に入ら」ねばならなかった。その場で何か話しかけたいのであれば、「蹲り、跪き、両手は地に拠り」という体勢を取る必要があった、というのである。

 酒が入るような「会同」の場ではさぁ、そうそうカタイ事は言われないよ、テキトーにやってれば、いいんだよぉ。その場にエライ人がいても、ペコペコしなくても、OK、とにかく手さえ打っときゃ、それでいいんだよ。

 けどさぁ、シラフでもって、戸外で身分の高い人と出会った場合には、きっちりと、「蹲り、跪」かなきゃぁ、ダメよぉ!

ヤマタイ国の子供たちは、親から上記のように教えられながら、育っていってたのかもしれない。

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1.2 日本書紀

[巻第十五 顯宗天皇 即位前記] 中に、下記のような趣旨の記述がある。

[億計王]と[弘計王](二人とも大王家の血筋を引く人)は、わけ有って、播磨国に潜伏し、身分をかくして、[縮見屯倉首]という人に仕えていた。

[縮見屯倉首]が、[伊予来目部小楯]という人の家を訪問した際に、[億計王]と[弘計王]は、それに同行した。

それがきっかけとなって、[伊予来目部小楯]は、二人が大王家の血筋を引く兄弟であることを、知った。

[縮見屯倉首]に仕えている身分の低い人であろうと思っていた兄弟が、実は、大王家の血筋を引く人であることを知った際の、[伊予来目部小楯]の動作が、とても興味深い。

 「小楯大驚、離席悵然再拜」

(上記は、[日本古典文学大系67 日本書紀 上 校注:坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 岩波書店]よりの引用である。)

[全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫833 講談社]の 323P においては、これを下記のように現代語で表現している。

 「小楯は大いに驚いて席を離れ、いたみ入りながら、再拝申し上げた。」

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[巻第十五 仁賢天皇2年9月] 中に、下記のような記述がある。

 「二年秋九月、難波小野皇后、恐宿不敬自死。弘計天皇時、皇太子億計侍宴。取瓜將喫、無刀子。弘計天皇、親執刀子、命其夫人小野傳進。夫人就前、立置刀子於瓜盤。是日、更酌酒、立喚皇太子。縁斯不敬、恐誅自死。」

(上記は、[日本古典文学大系67 日本書紀 上 校注:坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 岩波書店]よりの引用である。)

[全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫833 講談社]の 334P においては、これを下記のように現代語で表現している。

 「二年秋九月、難波小野皇后(顯宗天皇皇后)は、以前から皇太子に対し、礼に反した行いのあったことを恐れて自殺された。
-弘計天皇の時、億計皇太子が、宴会に侍っておられた。瓜をとって食べようとされたが、刀子がなかった。弘計天皇は自ら刀子をとって、その夫人小野に命じて渡されたが、夫人は前に行って立ったまま、刀子を瓜皿に置いた。この日さらに酒をくんで、立ちながら皇太子を呼んだ。この無礼な行いで、罰せられることを恐れて自殺された。」

顕宗天皇と仁賢天皇が実在したかどうかについては、諸説あり状態のようだ。よって、上記の事が、史実であるかどうかも、不明である。

ただし、日本書紀が成立した時点において、下記のような事柄が、多くの人々にとっては、しごく当たり前な事として考えられていた、ということは言えるだろう。

(1)大王位を継承する資格を持つ人の前においては、「再拝申し上げ」るべきである。
(2)顕宗天皇の皇后といえども、皇太子の「前に行って立ったまま、刀子を瓜皿に置」く、というような行為は、皇太子に対して、非礼、無礼である。([億計皇太子]は、[顕宗天皇]の兄である、ということに、日本書紀のこの章ではなっている。)
(3)顕宗天皇の皇后といえども、「酒をくんで、立ちながら皇太子を呼」ぶ、というような行為は、皇太子に対して、非礼、無礼である。

日本書紀が成立した時点(8世紀)において、多くの人々の考えるところでは、

 身分の低い人は、身分の高い人の前では、身を低くすべきである

ということであったのだろう。

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2. 身を低くするとは、いったいどういう事なのか?

2.1 人間の心中に沸き起こる願望

人間の心の中には、多種多様な願望が湧き起こってくるであろう。

それらの願望を、下記のように分類することが可能であろうと思う。

 第1願望:自らに近しい人の生命を維持したい
 第2願望:自らの生命を維持したい
 第3願望:(自らが他の人に)尊ばれたい
 第4願望:上記以外

多くの人にとっては、上記のうちの、数字が小さい願望ほど、より切実な(より強い)願望であると、言っていいだろう。

我が子が高熱を出して苦しんでいる時、「代われるものならば、代わってやりたい!」と思う親の数は多いのではないだろうか。

(わが子と自分との身体を入れ替えることができるものならば、自分が高熱に苦しむことになるが、我が子は高熱に苦しまずにすむから。)

その時、親の心中においては、第2願望よりも第1願望の方が、より大きい強度でもって、(より切実な願望として)湧出しているのである。

第3願望は、第1願望と第2願望の両方が満たされている状態においてはじめて、湧出してくる願望だろう。

高熱に苦しんでいる状態の中においては、自分が他の人から尊ばれているかどうか、なんてことを考えている余裕はとてもない。

とはいいながらも、この[第3願望:尊ばれたい]、これもまた、極めて切実な(極めて強い)願望であろう。

[第3願望:尊ばれたい]、これの現れ方は様々である。下記のような様々な言葉でもって、多種多様に表現されるものである。

 「モテたい」、「ドヤ顔したい」、「マウンティングしたい」、「1着20万円くらいの、ブランドXの服を着てみたい」、「故郷に錦を飾りたい」、「もっと優しく、接してほしい」、「そんな、上から目線で、言ってほしくない。」・・・。

それらの欲望に共通している点はといえば、それは、

 他の人から自分はどのように思われている(思われるようになる)だろうか、という事が、とても気になる

という点である。それがすなわち、それらの願望の根元にあるものである。

その根元から、多種多様な枝葉が広がっている、というのが、この願望の様相であろう。

[第3願望:尊ばれたい]は、人間が生きていく上において、極めて重要なものなのだろうと、思う。

この願望があるがゆえに、人間は日々、身だしなみを整えたり、自室を清掃したり、礼儀作法を習得していったりするのであろう。

身だしなみが整っていなければ、自室の清掃ができていなければ、礼儀作法にかなった言動を行えなければ、その人は、他の人から「尊んでもらえない」可能性があるから。

この願望がゼロになった結果、セルフ・ネグレクト状態になってしまった、というような人も、もしかしたら、いるのかもしれない。

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2.2 [概念・尊ぶ尊ばれる]と[概念・高度]とのリンク

過去にアップロードした、下記コンテンツ

なぜ、晴から雨へと移りゆく時に、「天気は上り坂に」と、言わないのだろうか?

においては、[高度]という概念と、他の概念とが複合されることについて、考察を行った。

それと同様に、過去のいつかの時点において、人々の心(脳)中に、下記のような、概念間リンク、すなわち、[[概念・尊ぶ尊ばれる] と [概念・高度] とを結ぶリンク]が形成されたのであろうと、私は想像する。このリンクが、いかにして形成されたのか、という事については、後で詳細に述べる。

[[概念・尊ぶ尊ばれる] と [概念・高度] とを結ぶリンク]においては、下図に見るように、[要素:尊ばれる側]は[要素:高]に、[要素:尊ぶ側]は[要素:低]に、それぞれリンクされている。
Fig1_2
Fig1

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2.3 他人の[尊ばれたい願望]を満たすための、簡単な方法

古代の人々は、以下のように考えていったのだろうと、私は想像する。

(1)[尊ばれたい願望]の自覚

 自分の心中において、[尊ばれたい願望](2.1で(第3願望)としたもの)は極めて強い、ということを、ある人Aが自覚した。

 (古代日本の心理学者、といってもいいような人なのかも。)

(2)[尊ばれたい願望]が他者の心中にもある事を推察

 その人Aは、他者の心中においても、[尊ばれたい願望]は、(自分の心中と同様に)、極めて強いのだろう、と推察した。

(3)円滑な人間関係を作るための道具としての活用を思いついた

 その人Aは、次のように考えた:

 であるならば、(上記(2)の通りであるならば)、

 他者Bの心中の、[尊ばれたい願望]を、もしも自分Aが、満たしてあげることができたならば、

 他者Bは、自分Aのことを、悪くは思わないであろう(BはAに感謝するだろうから)

 よって、それ以降、自分Aとその人Bとは、とても良好な人間関係でもって、やっていくことができるであろう

(4)その方法は?

 その人Aは、更に考えた。

 では、他者Bの[尊ばれたい願望]を満たすために、自分Aは、いったいどのようにすればよいのか?

 「私Aは、あなたBを、尊んでいますよ」、ということを、何らかの方法によって、他者Bに伝えたらよいではないか

 それがBに伝わったならば、Bの心中の、[尊ばれたい願望]は充足され、Bは喜ぶであろう

 それをBに伝えるための、とても簡単な方法があるではないか!

 他者Bに相対した直後に、自分Aの目の位置の標高が、低くなるように、自分Aが何らかの動作を行えば、よいのだ

 いま、ヤマタイ国の道路の上で、上記のAとBとが出会ったとしよう。Aは、ヤマタイ国の人民、Bは大きい権力を持つ人であるとしよう。(ヤマタイ国の高位高官)。

2.2に述べたように、Bの心中には、 [概念・尊ぶ尊ばれる]と[概念・高度]とのリンクが存在しており、それが更に、ヤマタイ国内の様々な人物に関する概念と、リンクされている。
Fig2
Fig2

上図の中の右側にある[高度]の中の要素([最高]、[高]、[低])は、様々な人物の[尊ばれ]の様相を表現する、バロメーターのような役割をはたしている。いわば、[尊ばれ度]とも言うべきものである。

Bに出会ったAが、自らの目の位置の標高が低くなるように、何らかの動作を行ったならば、Bの心中の図は、下記のように変化する、すなわち、BとAとの高低差が拡大するように感じるのだ。
Fig3_2
Fig3

Aの目の位置の標高が下がったことに引きずられ、上図中のAの位置も、下がるのだ。

高度が下がったのはAの目の位置だけであるのに、自らの心中の図の中の、Aの位置もまた、下がるように感じられるのである。

BとAとの[尊ばれ度]の高低差が、より拡大したように感じることにより、Bは、Aと出会う前よりも、出会った後の今の方が、自分がより尊ばれる存在になった、ように感じるのである。このようにして、Bの「尊ばれたい」という願望が満たされ、Bは快くなる。

このBの快感の原因はひとえに、Aの行為(目の位置を下げる)にある。Aは自らの意志でもって、自らの体を動作させることにより、Bに、この快感を与えてくれたのである。当然、BはAに対して、悪くは思わないであろう。

Aは、自らの目の位置を、様々な動作でもって、下げることができる。おじぎをしても、目の位置を下げることができるし、ヨーロッパの伝統的な女性のあいさつのように、足を曲げることによっても(「カーテシー」というらしい)、目の位置を下げることができる。

この逆の場合は、どうなるだろうか?

Aが大きな権力を持つ人であり、Bが人民であったとしよう。AとBが道で出会い、Aが、目の位置を下げたとしよう。(例えば、おじぎしたとして)。

Bは、まずは、驚くだろう。

おじぎしながら、Aが、次のように言ったとしよう。

 「こないだは、どうも、ご苦労様。よくやってくれたおかげで、助かった。礼を言いますよ。ありがとうね。」

この言葉により、Bは、Aがおじぎをした動機を理解できる。

Bの脳内には、大量のドーパミンが湧出するのではないだろうか。

 あのような、おエラい方が、自分に頭を下げて、あのような、ていねいな言葉をかけてくださった! すばらしい方だなぁ、あのお方は。

2.2に述べたように、Aの心中にもまた、 [概念・尊ぶ尊ばれる]と[概念・高度]とのリンクが存在しており、Aの心中には、下記のような、ヤマタイ国の中の様々な人物に関する概念と、[概念・尊ぶ尊ばれる]、[概念・高度]とのリンクが形成されている。
Fig4
Fig4

Bのおじぎと言葉によって、Aの心中の図は、下記のように変化する。すなわち、BとAとの高低差が縮小するように感じるのだ。
Fig5
Fig5

BとAと[の尊ばれ度]の高低差が、より縮小したように感じることにより、Aは、Bと出会う前よりも、出会った後の今の方が、自分がより尊ばれる存在になった、というように感じるのである。このようにして、Aの「尊ばれたい」という願望が満たされ、Aは快くなる。

Aの快感の源はひとえに、Bの行為(目の位置を下げる)にある。Bは自らの意志でもって、自らの体を動作させることにより、Aに快感を与えてくれたのである。当然、AはBに対して、悪くは思わないであろう。

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2.4 おじぎをする相手の人数を増やせば増やすほど

このような経験を重ねていくうちに、我々の祖先は、おじぎをする相手となる人の数を多くしていけばいくほど、社会が円滑に回っていく(ある人が、別のある人の事を悪く思う、というような現象の頻度を、少なくしていける)ということを、知っていったのではないだろうか。

おじぎをする相手となる人の数を多くしていけばいくほど、多くの人の[願望:尊ばれたい]を満たしていくことができる、その結果、社会をより円滑に回していくことができる、ということを、知っていったのだろう。

だから、日本人は、なにかというと、お辞儀をするようになったのであろうと、思う。

このようになったのは、最近の事なのか、それとももっと以前、例えば江戸時代からなのか、といったような事については、今後の調査研究が必要であろう。

なお、この章に述べたような考察を進めるに当たり、最初のヒントとなった話がある。それは、仏教の経典の中にある話だ。詳細は、後の[5. 仏教経典中のある話]に記した。

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3.  [概念・尊ぶ尊ばれる]と[概念・高度]とのリンクは、どのようにして、形成されたか

[概念・尊ぶ尊ばれる]と、[概念・高度]とのリンクは、どのようにして、形成されたのであろうか?

私は以下のように想像する。

 生まれて以来、人間は、親を見上げて育つ

ある程度の年齢に達するまでは、人間は親(あるいは、親のような人)の庇護無しでは、生きていけない。よって、下記の関係が成立する。

 親=尊ばれる側
 自分=尊ぶ側

日常生活のほとんどの時間帯において、親の目の位置の標高は、自分の目の位置の標高よりも、高い。(ある程度の年齢に達するまでは)
Fig6
Fig6

このようにして、 [概念・尊ぶ尊ばれる]と[概念・高度]とのリンクが形成されたのであろう。
Fig7
Fig7

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4. おじぎの他にも

日本人に知られている、目の位置の標高の下げ方としては、おじぎの他に、下記の方法がある。

4.1 土下座

この場合には、土下座をしている人の目の位置の標高は、土下座している人の前に立っている人の足の位置の標高と等しくなる。よって、おじぎの場合よりも、動作の前と後での、目の位置の標高の変化は、大きくなる。

かつて、店のスタッフにむりやり、土下座をさせて、うんぬん、というような事が問題になったことがあった。

いったいなぜ、その時、問題になった人は、店のスタッフに土下座をさせたかったのだろうか?

頭を下げる側の人の、動作の前と後での、目の位置の標高の変化が大きければ大きいほど、相手の側の[願望:尊ばれたい]の充足度は高くなると、思われる。

よって、土下座を強いた人の心中には、とても大きな[願望:尊ばれたい]があったのでは、と、想像する。

4.2 五体投地

これは、仏教における動作である。(これを行わない宗派もあるようだ)。

五体(両手、両膝、額)を床面に接して、仏像や高僧などを礼拝する、という動作である。

額を床に接する際には、両方の掌を少し持ち上げるのだが、これを「仏足頂礼」というのだそうだ。掌の上に、み仏の足を載せていただく、という心を込めて行うのだ。この時、動作を行う人の目の位置の標高は、み仏の足がある位置の標高と、イコール、もしくは、それよりも更に低い、という事になる。よって、頭を下げている人の目の位置は、相手(み仏)の足の位置よりも、下になる、という事になる。

土下座の場合には、頭を下げる人の目の位置は、相手の足の位置よりも上になるだろう。よって、土下座の場合よりも、五体投地の場合の方が、動作の前と後での、目の位置の標高の変化が大きくなる、ということになるだろう。

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5. 仏教経典中のある話

上記の[2. 身を低くするとは、いったいどういう事なのか?]の考察を進めるに当たり、最初のヒントとなった話について、ここに記す。

[阿含経典]の[南伝 相応部経典 三、八、末利]

に、以下のような話がある。

(以下は、[阿含経典 第四巻 訳・増谷文雄 筑摩書房](以降、[書物1]と略記)の 79P~80P を参考にしながら書いた。)

ある日、コーサラ国のパセーナディ王と、その妃・マッリカーが、討論を行った。

討論の議題は、「自分自身よりも愛しい者は、存在するか?」というものであった。

二人は、「自分自身よりも愛しい者は、存在しない」という結論に達した。

パセーナディ王は、釈尊のもとを訪れ、そのことを語った。それに対する釈尊のコメントは、以下の通りであった。

(以下、[書物1]の80Pよりの引用である)

 「人の思いはいずこへも赴くことができる
  されど、いずこへ赴こうとも
  人はおのれより愛しい者を見出すことはできない
  それとおなじく、他の人々にも、自己はこのうえもなく愛しい
  されば、おのれの愛しいことを知る者は、他の者を害してはならぬ」

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2017年3月 7日 (火)

かつて「高い音」とは、大きい音のことであった

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1 「高音」って、どんな音?

「高音」という言葉があるようです。

これは、[高]の文字と、[音]の文字とでできている言葉です、

先日アップロードした、下記コンテンツ

なぜ、晴から雨へと移りゆく時に、「天気は上り坂に」と、言わないのだろうか?

において、

[高度]という概念と、他の概念とが複合されることにより、

 高位高官
 天気は下り坂に

等の様々な言葉が生み出されていることを確認したのでしたが、それと同様の何らかの事情によって、[高度]という概念と、[音]に関係するナニモノカとが、複合されて、下記のような言葉が生み出されたのでしょう。

 [高い音]、[高音]
 [低い音]、[低音]

このような言葉のことを、これ以降、[音・高度・複合語]と呼ぶことにします。

さて、[高音]、[高い音]とはいったい、どのような音なのか?

現代の日本においては、

 [高い音] = 大きな周波数を持つ音

という解釈が一般的であるようです。

ところが、いろいろ調べてみた結果、分かってきたのですが、江戸時代以前においては、どうもそのようではなかったようなのです。

後の方で詳しく述べますが、どうやら、江戸時代までの日本においては、

 [高い音] = 大きな振幅を持つ音

という意味であったようなのです。

現代の日本における、

 [高い音] = 大きな周波数を持つ音

という解釈は、もしかしたら、明治時代以降、欧米の文化・文明を急速に受け入れる過程において、発生したのかもしれません。

すなわち、

太古以降、江戸時代に至るまでは

 [高い音] = 大きな振幅を持つ音

明治時代以降、現代に至るまでは

 [高い音] = 大きな周波数を持つ音

というように、[高い音] という言葉において、その意味のダイナミックなチェンジ(変化)が発生した、という可能性があるのです。

そこで、ある問題が浮上します。

問題:[高い音]の意味チェンジの様相
 このような、[高い音] という言葉の意味の変化(チェンジ)は、日本語だけに起こった独特の現象なのだろうか、それとも、他の言語においても、起こっているのだろうか?

上記の問に対して、現在の私は、まだ解答を出せていません。

地球上には、膨大な言語が存在していると思われます。

現在、同じ言語を使用している人々においても、その祖先の段階までたどっていけば、異なる言語、異なる文化の中に生きていた、ということもありえます。(例えば、琉球の文化、アイヌの文化の中に)

そのような、[言語の森]の中で、私がよく分かっている言語といえば、たった一つだけ、日本語です。(厳密に言えば、よく分かっているのは、現代の日本語だけ。江戸時代以前の日本語となると、おぼつかない。)

そのような私なので、上記の[問題:[高い音]の意味チェンジの様相]への解答をとても出せそうにはありません。

これをお読みになっているあなたが、もしも、この問題に関心を持たれたならば、よろしければ、あなたも、[問題:[高い音]の意味チェンジの様相]の解答探しを、やってみられませんか?

解答探しの方法は、とても単純です。この後に記した内容を見ていただければ、それがとても単純な方法であることが、お分かりいただけると思いますが、ようは、

 (1)何らかの文書を選び
 (2)その文書を読みながら、その中に含まれている、[音・高度・複合語]らしき言葉を、拾っていく。
 (3)拾えた言葉を、その言葉が意味している事により、グループ分けする。グループ分けに関しては、様々な観点が考えられるでしょうが、例えば、下記のような観点からのグループ分け、というのもアリかもしれません。

 グループA : それは、音の周波数に関する事を表現する言葉なのか
    それとも
 グループB : 音の振幅に関する事を表現する言葉なのか
    それとも
 グループC : 上記とは異なる、音の質に関する事を表現する言葉なのか

上記の(1)に述べた「文書」(調査の対象とする)を、古典に限定する必要はないと思います。明治時代や大正時代に書かれた文書を調べていったら、もしかしたら、[グループAに属する[音・高度・複合語]]と、[グループBに属する[音・高度・複合語]]が混在していた時期を、発見できた! なんてことも、ありうるかもしれません。

あるいは、この地域では、[グループAに属する[音・高度・複合語]]を使用していたが、別の地域では、[グループBに属する[音・高度・複合語]]を使用していたことを、発見! なんてことも、ありうるかも。

あるいは、[グループAに属する[音・高度・複合語]]の使用と、[グループBに属する[音・高度・複合語]]の使用に関して、世代間の違いがあったことを、発見! なんてことも、ありうるかも。

場合によっては、調査対象となる書物の電子化媒体を利用することが可能となるかもしれません。そうなると、コンピューターを使っての語句検索もできるようになるだろうから、作業の効率が劇的にアップするかもしれません。

そのように調査して、何か分かった事があれば、それを紙に書いて机の引き出しの中にしまっておく、というのもアリでしょうが、それではなにか、もったいないのでは、というような感じもします。調査して分かった事を、ネット上に発表してみる、というのも、アリかも。

 『イーリアス』、『オデュッセイア』の中に、[音・高度・複合語]は使用されているかどうか?
 ローマ帝国の法律文書の中に、[音・高度・複合語]は使用されているかどうか?
 古代メソポタミアの、粘土板に書かれていたという様々な文書の中に、[音・高度・複合語]は使用されているかどうか?
 『三国志演義』の中に、[音・高度・複合語]は使用されているかどうか?
 『旧約聖書』の中に、[音・高度・複合語]は使用されているかどうか?

などなど、興味は様々に膨張するのですが、残念ながら私には、それらを調べるだけのパワーと時間がないようです・・・。

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2. 様々な古典を調べてみました

上記では、

 「どうやら、江戸時代までの日本においては、[高い音] = 大きな振幅を持つ音 という意味であったようなのです。」

というような、いかにも自信無さげな書き方になってしまいました。

なぜかと言えば、下記にも記すように、全ての古典を調査したのではないからです。もしかしたら、私が調査対象としなかった何らかの書物の中に、周波数を表現する語として、「高い音」、「低い音」の類の言葉が使用されているかもしれません。

(あるいは、私が調査対象とした書物の中に、周波数を表現する語として、「高い音」、「低い音」の類の言葉が使用されている箇所がある、私はそれを見落としてしまっていた、という可能性も。)

私が調査対象とした書物は、以下の通りです。

 日本書紀
 古事記
 万葉集
 土佐日記
 枕草子
 南総里見八犬伝 (江戸時代に曲亭馬琴(滝沢馬琴)により著された小説です。)

結論を先に述べてしまいますが、これらの書物の中においては、

 [高い音] = 大きな振幅を持つ音

という意味において使用されている箇所しか、私は見つけることができませんでした。

 [高い音] = 大きな周波数を持つ音

という意味において使用されている箇所を、私は見つけることができませんでした。

以下に、これらの古典の中の、

 [高い音] = 大きな振幅を持つ音

という意味において使用されている箇所を記します。文中の太字修飾は、私が施したものです。

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2.1 日本書紀と古事記

高天原へやってくるスサノオを迎えるアマテラスを描写した日本書紀の中の記述(巻第一 神代 上)の中に、下記のようなものがあります。

 「又背負千箭之靫 千箭、此云知能梨。 與五百箭之靫、臂著稜威之高鞆、稜威」

(上記は、[日本古典文学大系67 日本書紀 上 校注:坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 岩波書店]より引用しました。)

[全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫833 講談社]の 35P においては、これを下記のように現代語で表現しています。

 「背には矢入れ、腕には、立派な高鞆(たかとも)をつけ」

[全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫833 講談社]の 53P に、下記のような注があります。

 「(2) 高鞆 弓を射る時、左の腕にはめる革の道具、矢を射た後、弦が当って高い音をあげる。」

古事記にも同様の記述箇所があります。

[古事記(上)全訳注 次田真幸 講談社学術文庫207 講談社]の 76P に、下記のようにあります。

 「そびらには千入の靫を負ひ、ひらには五百入の靫を附け、亦いつの高鞆を取り佩ばして」

[古事記(上)全訳注 次田真幸 講談社学術文庫207 講談社]の 79P には、下記のような注があります。

「いつの高鞆 「いつ」は盛んな威力。「高鞆」は、高い音を発する鞆の意。「鞆」は弓を射るとき、左の臂に着ける武具で、弦があたって音を発した。」

これは余談ですが、日本書紀の中の[巻第二 神代 下] の最初の方に、[葦原中國](すなわち、日本列島))の当時の状況を、とてもおもしろく表現した箇所がありました。

 「然彼地多有螢火光神、及蠅聲邪神。復有草木咸能言語。」

(上記は、[日本古典文学大系67 日本書紀 上 校注:坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 岩波書店]より引用しました。)

[全現代語訳 日本書紀 上 宇治谷孟 講談社学術文庫833 講談社]の 54P においては、これを下記のように現代語で表現しています。

 「しかしその国に、螢火のように輝く神や、蝿のように騒がしい良くない神がいる。また草木もみなよく物をいう。」

----------------------
2.2 万葉集

[巻十一 2730 番]の和歌は、下記のような内容です。

 原文:木海之 名高之浦尓 依浪 音高鳧 不相子故尓
 訓読:紀伊(き)の海の 名高(なだか)の浦に 寄する波 音(おと)高(だか)きかも 逢(あ)はぬ児(こ)故(ゆゑ)に
 現代語訳:紀伊の海の 名高の浦に 寄せる波のように 音-噂が高いことよ 逢ってもいないあの娘のことで

(上記は、[新編 日本古典文学全集8 萬葉集3 校注・訳:小島憲之 木下正俊 東野治之 小学館]より引用しました。)

----------------------
2.3 土佐日記

「二月十六日」の項の中に、下記のような内容のものがあります。

 原文:今宵(こよひ)、「かかること」と、声高(こわだか)にものもいはせず
 現代語訳:今夜は、「こんなことってなかろう」と、みんなに、声高に言わせはしない。

(上記は、[新編 日本古典文学全集13 土佐日記 蜻蛉日記 校注・訳:菊地靖彦 木村正中 伊牟田経久 小学館]より引用しました。)

----------------------
2.4 枕草子

下記に、[音・高度・複合語]が使用されています。

二一 清涼殿の丑寅の隅の

 昼の御座の方には、おものまゐる足音高

七三 うちの局

 こと所の局のやうに、声高くえ笑ひなどもせで、いとよし

二二八 一条の院をば今内裏とぞいふ

 これを御笛に吹かせたまふを、添ひに候ひて、「なほ高く吹かせおはしませ。え聞きさぶらはじ」と申せば

(上記は、[新編 日本古典文学全集18 枕草子 校注・訳:松尾聰 永井和子 小学館]より引用しました。)

----------------------
2.5 南総里美八犬伝

[南総里美八犬伝(一) 小池藤五郎 校訂 岩波文庫 黄224-1 岩波書店] 60P に、下記のような内容のものがあります。

 「浩処(かゝるところ)に河下より、声高やかに唄(うた)ひつゝ、こなたを望(さし)て来るものあり。」

[南総里美八犬伝(四) 小池藤五郎 校訂 岩波文庫 黄224-4 岩波書店] 337P に、下記のような内容のものがあります。

 「復説(またとく)。荘介(さうすけ)・小文吾(こぶんご)の二犬士は、功ありながら賞を得ず、稲戸津衛(いなのとつもり)に謀られて、矢庭に搦捕(からめと)られしかば、倶(とも)に怒れる声高やかに、」

-----------------------------------------------------------
3 浮上した問題点

上記のような調査を行っている中に、またまた問題が浮上しました。

問題:いったいなぜ、[振幅が小さい音]のことを、「高い音」と表現しなかったのだろうか?(江戸時代以前の日本において)

上記の、[1 「高音」って、どんな音?] において、

 [高度]という概念と、[音]に関係するナニモノカとが、複合されて、[高い音]、[高音]、[低い音]、[低音]等の、[音・高度・複合語]が生み出されたのであろう、

と述べました。

[高度]という概念、これは、3次元空間上での位置に関する概念です。

かたや、[音を聴いている時の感覚]、これは、人間の聴覚に関りを持つナニモノカです。

両者([概念・高度]と[音を聴いている時の感覚])には、直接の関係は無いでしょう。

このような、直接の関係無しと思われる両者([概念・高度]と[音を聴いている時の感覚])が、何らかの[仕組み]によって複合され、その結果、[音・高度・複合語]が生み出されたのです。

その[仕組み]からは、なぜか、[振幅が小さい音]のことを、「高い音」と表現する、というような事態は生じてこなかったのです。

それはいったいなぜなのでしょう?

この問題に対して、下記のような答案を作成してみました。

----------------------
3.1 単独音波の場合

私は、長野県の諏訪地方にある高等学校を卒業しています。

諏訪地方には、[御柱祭]という祭事があります。

山の中から、16本の木を伐り出し、それを、諏訪大社まで運び、神社の境内に柱として立てる、という趣旨の行事です。

その行事の中で、[木遣り唄]という歌唱が唄われます。

[下諏訪町木遣保存会]のサイト中の、

代表的な木遣り唄

によれば、

 木遣り唄には、「曳行の木遣り」と「神事の木遣り」がある。
 「曳行の木遣り」は、御柱の曳行中に唄われる。
 「神事の木遣り」は、御柱の曳行開始前と、終了後に山の神様をお迎えする、お送りする際に唄われる。

のだそうです。

(ネット上の動画サイトを参照して、[木遣り唄]がどのようなものなのかを、確かめることが可能かもしれません。)

[木遣り唄]を唄っている人の歌声は、とてもよく通る声、と言いましょうか、遠方にも響き渡っていくような音であるように感じられます。

この[音](声の)と、[(御)柱]の視覚的イメージが、とてもよくマッチしているように、私には感じられるのです。

 曳きゆくこの大木、社の地の内に、高々と立つべぇし!

との念をこめての絶唱、とでも言えばよいのでしょうか。

これは単なる、私の個人的・主観的な感覚なのかもしれませんが。
Fig1_2
Fig 1

すなわち、私の心(脳)内の、[木遣り唄]の視覚的イメージは、上図にあるような、[平面の中に、1か所だけ、とても高い部分がある]というイメージ、すなわち、神社の境内に、高い柱が立っている、というようなイメージです。

(数学で言うところの、[特異点]のイメージと言っていいのかどうかは、分かりませんが。)

[下諏訪町木遣保存会]のサイト中の下記コンテンツ

木遣り

の中には、下記のようにあります。

 「木遣りとは、御幣(おんべ)を高くかかげ、天まで抜けるような澄んだ声で曳行の安全を願い、人々に勇気と力が出る様に唄います。」

「天まで抜けるような」という表現、とても興味深いです。

上記のFig1においては、円柱の上端面は一定の高度の所にありますが、[下諏訪町木遣保存会]の方々の心中においては、その上端面は、無限大の高み(すなわち、天)に位置しているのかもしれません。

その方が、諏訪のカミにとっては、都合が良いかもしれません。

[アマテラスの誕生 筑紫申真 講談社学術文庫 1545 講談社]の 203P

において、著者の筑紫申真氏は、諏訪大社の御柱は、天と地とを結ぶカミの昇降のかけはしのなごりであろう、という趣旨の事を、記しています。

ある人間の周囲に様々な音がある中に、突如、ボユーム大の音(振幅が大きい音波)が発生した時、その人の聴覚は、その音に対して、大きな関心・注意を持つのではないでしょうか。

通勤時間帯のプラットフォーム上で、突如、一人の男性が、ベルカント・テノールでもって、イタリア・オペラを歌いはじめ、というような状況を想像してみてください。おそらく、あなたは、その男性に関心・注意を向けることになるでしょう。

そのような状況になった時、古代日本の人々の心中には、下記のような、様々なリンクが生じたのであろうと、私は想像します。

(1)まず、[聴覚]と[視覚的イメージ]とをつなぐ、

 [リンク[聴覚-視覚的イメージ]]

が発生する。
Fig2
Fig2

(2)次に、上図の右側にある[視覚的イメージ]と、[概念・高度」とをつなぐ、

 [リンク[視覚的イメージ-概念・高度]]

が発生する。

Fig3_2
Fig3

(3)そして更に、上記の

 [リンク[聴覚-視覚的イメージ]]
  と
 [リンク[視覚的イメージ-概念・高度]]
  が合成されることにより、

 [リンク[聴覚-概念・高度]]

が形成される。
Fig4_2
Fig4

----------------------
3.2 複数音波の場合

上記においては、ボユーム大の音を発している人は、一人だけでした。

では、多数の人が、ボリューム大の音を同時に発している状況では?

そのような状況になった時、古代日本の人々は、高い波が続々と、自らの方へ向けて押し寄せてくる、このようなイメージを連想したのでは、と想像します。

まさに、上記の萬葉集中の和歌、

 紀伊の海の 名高の浦に 寄する波 音高きかも 逢はぬ児故に

の発想です。

(1)まず、[聴覚]と[視覚的イメージ]とをつなぐ、

 [リンク[聴覚-視覚的イメージ]]

が発生する。

ボリューム小の音波たちが、さざ波を立てている空間において、異なる方向から複数の、ボリューム大の音波が押し寄せてくる、というイメージです、ボリューム大の声を、自分の周囲で複数の人が発している、という状況は。
Fig5_2
Fig5

(2)次に、上図の右側にある[視覚的イメージ]と、[概念・高度」とをつなぐ、

 [リンク[視覚的イメージ-概念・高度]]

が発生する。

 [視覚的イメージ]中の、[高い波]は、[概念・高度]中の、[高]の要素に、
 [視覚的イメージ]中の、[低い波]は、[概念・高度]中の、[低]の要素に、

リンクされます。
Fig6_2
Fig6

(3)そして更に、上記の

 [リンク[聴覚-視覚的イメージ]]
  と
 [リンク[視覚的イメージ-概念・高度]]
  が合成されることにより、

 [リンク[聴覚-概念・高度]]

が形成される。
Fig7_2
Fig7

----------------------
3.3 上記を総合すると:

単独の音の発生にせよ、複数の音の発生にせよ、形成された

 [リンク[聴覚-概念・高度]]

においては、

 [聴覚]中の、[ボリューム大の音波]の要素
は、
 [概念・高度」中の、[高]の要素
に、リンクされます。

このようにして、[リンク[聴覚-概念・高度]]より、[振幅が大きい音(ボリューム大の音)]のことを、「高い音」と表現しようではないか、という発想が生まれたのであろうと、私は想像します。

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2017年2月20日 (月)

二条城に見る[権力と高度]

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先日アップロードした、下記コンテンツ

古典に見る[権力と高度]

の中の、下記の節

 2. 古典の中に見る2つのリンク
  2.3 ヒミコの宮殿
  2.4 オオクニヌシの神殿

において、私は以下のような趣旨の仮説を記述した。

-------------

大きい権力を保持する者は、自分が保持する権力と、他の人々が保持する権力との違いを、目に見えるような形でもって、表現しようとした。

そのために、大きい権力を保持する者は、多くの人々の心中にある、リンク[概念・[高度]-概念・[権力]] を活用しようとした。

すこで、大きい権力を保持する者は、自分が生活する場所の標高を、他の人々のそれの標高よりも大となるように、設定した。(宮殿等を建造することにより)。

-------------

上記のような、権力の違いを示すための高低差(標高差)の設定を、21世紀の現代においても確認できる場所が、京都市内にある。[二条城]だ。

-------------

2017年2月18日に、ひさしぶりに二条城へ行ってきた、上記の[高低差](標高差)の存在を確認するために。

[二条城]が建造されたのは、17世紀初めである。

[二条城]の中に、[二の丸御殿]という建物がある。

この中に、[大広間]という場所がある。1867年に、この場所で、江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜が、大政奉還を発表したのだそうだ。

[大広間]の中に、[一の間]と[二の間]がある。そして、[一の間]と[二の間]との間には、目で見て分かるような、[高低差]が設定されている。

(その高低差は、私の見たところでは、約20センチメートルか。おおざっぱな目測なので、正確な数値は分からない。)

下記に、それを図示する。
Fig1
Fig 1

おそらく、将軍は、高い方のスペースに座し、大名たちは低い方のスペースに座したのであろう。

(過去に、日本史関連の書物の中で見たある絵においても、[大広間]の中での将軍と大名たちは、そのような位置関係に描かれていたように、記憶している。ネット上には、[大政奉還]、[邨田丹陵]、[聖徳記念絵画館(明治神宮外苑)]というような情報があった。)

[二の丸御殿]の中には、[黒書院]、[白書院」があるのだが、いずれの方にも、上記と同様の、[高低差]が設定されている事も、この日、確認できた。

(その高低差は、私の見たところでは、約20センチメートルか。おおざっぱな目測なので、正確な数値は分からない。)

[白書院」は、将軍のプライベート空間であったようなのだが、そのような場所にまでも、権力の大きさの違いを表現する(見せつける)ための[高低差]が設定されていることに、驚いた。そこまでするか、そこまでしなければならないのか、という感じである。

二条城・公式サイトの中の、年表の項によれば、

 1603 二条城完成(現在の二の丸部分)
 1611 徳川家康と豊臣秀頼が会見

という事になるようだ。

すなわち、二の丸御殿が完成した当時、豊臣家と大坂城はまだ地上に存在していた、ということになる。

戦国時代の終わりをどのタイミングに設定するのか、という問題に関しては、諸説あるようだが、戦国・日本への逆行の気運、未だ消滅せず、という状況下、徳川家・江戸幕府側には依然として、危機意識(苦労して築き上げてきた徳川家の権力が、一瞬にして減少、消滅してしまうかも)があり、そのような意識が、[白書院」の[高低差]に、反映しているのかもしれない。

[勅使の間]にも、[上段]と[下段]との間に、上記と同様の、[高低差]が設定されている事も、この日、確認できた。こちらの方の[高低差]は、上記の[高低差](権力のサイズの違いを表現する)とは、その目的・意味が異なっているのだろう。

勅使が上段に、将軍が下段に、座すのだろうから。

江戸幕府が保持する権力の方が、朝廷の保持するそれよりも、大きい、でも、だからといって、将軍が上段に、勅使が下段に、というわけには、いかなかっただろう。

よって、[勅使の間]の[高低差]は、権力の違いではなく、何か別の違いを表現するためのものなのであろう。

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2017年2月13日 (月)

日本書紀に見る[権力と高度]

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先日アップロードした、下記コンテンツ

古典に見る[権力と高度]

において、私は以下のようなことを記述した。

-------------

「高位高官」、「昇進」、「昇格」、「降格」といったような、[権力・高度・複合語]ともいうべき表現が生まれ、広く使用されるに至ったその根底には、多くの人々の心中に、下記の2個のリンクの存在があったと、私は考える。

 リンク[概念・[高度の変化]-概念・[権力の変化]]
 リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]

[上記の2個のリンクが、多くの人々の心中に形成されたのは、日本の過去のいつごろの事であったのだろうか?]の問題の解答を探るために、私は以下の古典を調べてみた。

 徒然草、続日本紀、古事記、魏志倭人伝

そして、以下のように想像した。

 ヤマタイコクの時代(ヒミコ女王がいた)に既に、多くの人々の心中に、上記の2個のリンクが存在していた。

 古事記の作者は、人々の心中に存在するそのリンクを活用して、[大王家(天皇家)に属する人々は、それ以外の人々とは、別格の存在である。]という事を主張しようとした。

-------------

このたび、古事記と同時代に成立した古典である、日本書紀を調べてみた。[権力・高度・複合語]が使用されている箇所に注目しながらの読書となったので、少々骨が折れたが、様々な事が分かったので、以下にその結果を述べたい。

1  [大] と[大なし]

1.1 [大] と[大なし]

日本書紀の中には、当時の貴族階級に所属する人々の名前や官職名が多く、書かれている。

大王家に所属していない人々は、下記の2つに区分されていたようである。

 貴族階級
 非貴族階級(いわゆる、人民、庶民)

貴族階級の人々の間にも、権力の差はあったようである。その差を表す語として、ある時期から、

 [大] と [大なし]

が用いられるようになったようだ。例えば、

[大]
 大臣、大連

[大なし]
 臣、連、直

[大] の具体例としては、[大連・物部守屋]、[大臣・蘇我馬子]などの人名が記述されているのだが、詳細をここに書くと長くなるので、後述の[備考1]の方に書いた。

[大なし]の方の具体例としては、

 [巻第二十一 崇峻天皇] の中に記述されている、東漢直駒

 [巻第二十三 舒明天皇] には、下記の人名が記述されている。(推古天皇の次の天皇を誰にするかで、群臣が様々に折衝するシーン)

 大伴鯨連、阿倍麻呂臣、采女臣摩禮志、高向臣宇摩、中臣連彌氣、難波吉士身刺、許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣鹽手、蘇我倉麻呂臣
 境部摩理勢臣
 身狹君勝牛、錦織首赤猪

1.2 [大] と[大なし]間の異動

[大]から[大なし]方向への権力の変化に相当するような記述箇所は見つからなかった。

[大なし]から[大]方向への権力の変化に相当するような記述箇所は、数か所見つかった。いずれも、世襲により変化が起こったものと、推測される

大伴金村は、武烈天皇が即位する前は、[大伴金村連]であったが、即位後、大連に任命されている。

[乙巳の変](飛鳥板蓋宮でのクーデター)当時、蘇我入鹿は大臣の位にはついていない。その時に大臣の位にあったのは、入鹿の父・蝦夷である。

ただし、[巻第二十四 皇極天皇] の、皇極天皇2年10月の項には、

 蝦夷が、ひそかに、入鹿を大臣の位になぞらえた

というような趣旨の記述がある。

乙巳のクーデターの発生を未然に防げていたら、あるいは、クーデターで致命傷を負うことなくすんでいれば、やがて、入鹿は父から、大臣位を公式に継承していったのであろうか、あるいは、大王家から最高権力を奪取し、蘇我王朝が成立していたのであろうか。

1.3 [大]の中、[大なし]の中では、対等?

[臣]、[連]、[直]等の、[大なし]の人々の権力は同等であったのだろうか、詳細は分からない。

[大臣]と[大連]とは、対等の位置にあったように思える。

[巻第十九 欽明天皇] 中の[仏像破棄事件]の際には、[大臣・蘇我稲目]と[大連・物部尾輿]は、対等に争っているようだし、

[巻第二十 敏達天皇] 中の[仏像破棄事件]の際においても、[大臣・蘇我馬子]と[大連・物部守屋]は、対等に争っているように感じられる。

2 冠位の変遷

2.1 最初の段階においては、[権力・高度・複合語]は用いられず

以上の調査より、下記の事が分かった。

 大和政権の最初の段階においては、権力の差を表現するために用いられたのは、[権力・高度・複合語]ではなかった。

2.2 冠位十二階

そのような経過の後に、初めての、権力差の細分化の試みが行われた。[冠位十二階]制度の制定である。

[巻第二十二 推古天皇] 中の記述によれば、その[十二階]は、下記の語で表現されていた。

 大德 小德 大仁 小仁 大禮 小禮 大信 小信 大義 小義 大智 小智

すなわち、[徳]、[仁]など6個の文字と、[大]と[小]の2個の文字の組み合わせにより構成される位階でもって、各人の保持する権力の差を表現しよう、という試みである。権力のスペクトラム(権力のものさし)とも言うべき、表現手段である。

 (6×2=12)

上記に見るように、この段階においても、権力の差を表現するための手段として、[権力・高度・複合語]は用いられていない。

2.3 冠位十三階

次に制定されたのが、[冠位十三階]である。

[巻第二十五 孝徳天皇] 中の記述によれば、それは、下記の語で表現されていた。

 大織 小織 大繍 小繍 大紫 小紫 大錦 小錦 大青 小青 大黒 小黒 建武

この[権力スペクトラム]においても、[権力・高度・複合語]は、権力の差を表現するために用いられていない。

2.4 冠位十九階

次に制定されたのが、[冠位十九階]である。

[巻第二十五 孝徳天皇] 中の記述によれば、それは、下記の語で表現されていた。

 大織 小織 大繍 小繍 大紫 小紫 大花上 大花下 小花上 小花下 大山上 大山下 小山上 小山下 大乙上 大乙下 小乙上 小乙下 立身

ここで注目したいのは、

 [上]と[下]の文字が使用されている。
 [上]の方が、[下]の方よりも、権力が大きい、という順序になっている。

[上下]の概念は、[高度]の概念に密に関わる言葉である。概念どうしのリンクのみならず、その構成要素どうしのリンクも存在する。
Fig1_3
Fig 1

よって、ついに、この段階において、[権力・高度・複合語]が、[権力スペクトラム](権力のものさし)の中に用いられるようになった、としてよいだろう。

2.5 冠位二十六階

次に制定されたのが、[冠位二十六階]である。

[巻第二十七 天智天皇] 中に、それに関して記述されているのだが、それをここに詳細に書いてしまうと、読者の側もタイヘンだろうから、下記に要点だけ述べることとする。([冠位二十六階]、[冠位 変遷]等で検索したら、詳細情報が得られるかも)

注目すべきは、

 [上]と[中]と[下]の文字が使用されている。
 [上]の方が、[中]の方よりも、権力が大きい、[中]の方が、[小]の方よりも、権力が大きい、という順序になっている。

上記 Fig 1 の概念間リンク中に、新たに[中]という要素が追加されたと思えばよいのであろう。
Fig2_2
Fig 2

よって、この時代においても、[権力・高度・複合語]が、[権力スペクトラム]の中に用いられている、としてよいだろう。

2.6 冠位四十八階

次に制定されたのが、[冠位四十八階]である。

[巻第二十九 天武天皇 下] 中の、天武天皇14年の項の記述によれば、これは、下記の3個の文字の組み合わせにより、構成されている。

 [文字1|文字2|数字]

 [文字1]は、右記のいずれか:{正|直|勤|務|追|進}
 [文字2]は、右記のいずれか:{大|広}
 [数字]は、右記のいずれか:{壱|弐|参|肆}

上記を組み合わせて、表現するので(例えば、[正大壱]、[直広参])、合計48個となる。

(6×2×4=48)

この段階において、再び、[権力・高度・複合語]が、[権力スペクトラム]の中に用いられなくなってしまう。

([数字]は、高度の他にも様々な概念と密に関連する概念だから、[権力・高度・複合語]とはいえないだろう。)

2.7 最終段階の位階制度

大宝令と、養老令によって、[位階制度]が定められ、これが江戸時代まで使用し続けられたようである。

この[権力スペクトラム]において、再び、[上]と[下]の文字が、[権力・高度・複合語]として、部分的に使用されるようになった。

([従五位上]、[従五位下]というように。)

(知名度の高い戦国大名たちも、朝廷からこれらのうちのどれかを与えられているようだ。)

3 各氏族の中においても、[権力・高度・複合語]等を活用

各氏族の中においても、[権力・高度・複合語]を活用しての、権力の差の表現が導入されたようである。

[氏上]という語が、下記に記述されている。

[巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇5年 6月
[巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇10年 9月
[巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇11年 12月
[巻第三十 持統天皇] 持統天皇8年 1月

4 外交官

外交官に対しては、[権力・高度・複合語]は使用されなかったようだ。

例えば、以下の箇所においては、[大使 小使]の表現が用いられている。

 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇8年 11月
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇13年 4月
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇13年 10月

5 仏教界

仏教界に対しては、[権力・高度・複合語]は使用されなかったようだ。下記のような語が使用されている。

[僧正]、[僧都]、[法頭]
 [巻第二十二 推古天皇] 推古天皇32年4月

[小僧都]、[佐官]
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇2年12月

[沙門]、[寺主]
 [巻第二十五 孝徳天皇] 大化1年8月

6 [権力・高度・複合語]の使用の定着

この章においては、

漢文部分は、[日本古典文学大系68 日本書紀 下 校注:坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋 岩波書店]より引用した。

現代語訳部分は、[日本書紀(下) 全現代語訳 訳:宇治谷孟 講談社(講談社学術文庫834)]より引用した。

太字修飾は、私が行った。

6.1 [権力・高度・複合語]の使用

上記のようにして、日本書紀が記述された時代に至るまでの間に、[権力・高度・複合語]の使用が、当時の知識層の間に定着したようである。日本書紀の中には、[権力・高度・複合語]の使用箇所が多数見られる。以下にその例を示す。

「納、甚協王心而爲王佐。」
「上に伝え下に告げることは、よく王の心にかない、王の助けとなっている」
 [巻十九 欽明天皇] 欽明天皇11年2月

「臣連二造、二造者、國造伴造也。及百姓」
「臣・連・伴造・国造から下百姓に至るまで」
 [巻二十 敏達天皇] 敏達天皇12年10月

「對則好説過、逢下則誹謗上失」
「上に向っては好んで下の者の過ちを説き、下にあえば上の者の過失をそしる」
 [巻二十二 推古天皇] 推古天皇12年4月([十七条の憲法中の六]の文)

「易曰、損
「易経に、『上は損しても下の利を益するように努め」
 [巻第二十五 孝徳天皇] 孝徳天皇 大化1年9月

臣之墓者・・・臣之墓者」
「上臣(大臣か)の墓は・・・下臣の墓は」
 [巻第二十五 孝徳天皇] 孝徳天皇 大化2年3月

過、暴」
「上に立つ者は下の者の誤りを責め、下の者は上の者の粗暴な振舞いを諫めれば」
  [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇8年10月

上下通用綺帶白袴」
「綺の帯(組紐の帯)・白い袴は身分の上下を問わず使用してよい」
 [巻第三十 持統天皇] 持統天皇4年4月

6.2 階級間の比較を表現するための、[権力・高度・複合語]の使用

階級間の比較においても、[権力・高度・複合語]が多用されている。以下にその例を示す。

「唯今臣不賢、而遇當乏人之時、誤居群臣耳」
「ただ自分は不賢にもかかわらず、たまたま人が乏しかったので、間違って群臣の上にいるだけです」
 [巻二十三 舒明天皇] 舒明天皇の即位前のエピソード中の、蘇我蝦夷から山城大兄皇子へのメッセージ中。

「仍賜食封大夫以上、各有差。降以布帛、賜官人百姓、有差」
「そして食封(給与される戸口)を大夫(四位・五位)より以上にそれぞれに応じて賜わる。以下は布帛を官人・百姓にそれぞれに賜わることとする」
 [巻第二十五 孝徳天皇] 孝徳天皇 大化2年1月

「諸王以下、初位以上、毎人備兵」
「諸王以下初位以上の者は、各人で武器を備えよ」
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇4年10月

「唯雖以下庶人、其才能長亦聽之」
「これ以下の庶民でも、才能のすぐれている者は許せ」
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇5年4月

「因以看大山位以下之馬於長柄杜」
「大山位以下の者の馬を、長柄杜でご覧になり」
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇9年9月

6.3 階級間の移動を表現するための、[権力・高度・複合語]の使用

階級間の移動に関しては、権力と様々な概念とのリンクを活用しての表現が用いられるようになってきたようだ。[権力・高度・複合語]の使用も含まれている。以下にその例を示す。

「次官以上、其爵位」
「次官以上は冠位を降等し」 ([権力・高度・複合語]使用)
 [巻第二十五 孝徳天皇] 孝徳天皇 大化2年3月

「乃當郡々司等加增爵位」
「その郡の郡司らには爵位を加増された」
 (おそらく、爵位のクラスを+する、という意味だろう。1次元空間、すなわち、直線上での位置の変化。)
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇6年11月

「遣多禰嶋。仍一級
「多禰嶋(種子島)に遣わし爵位一級を賜わった」
 (おそらく、爵位のクラスを+1する、という意味だろう。1次元空間、すなわち、直線上での位置の変化。)
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇8年11月

「國司頭至目、一階
「国司の長官から主典に至るまで、位一階を進めさせる」
 (進め:2次元空間の中での移、位置の変化動)
 [巻第三十 持統天皇] 持統天皇8年3月

最後に、極めて興味深い記述を一つ。

「且專捕赤烏者、五級
「また赤烏を捕えた当人には、爵位五級を賜わった」
 [巻第二十九 天武天皇 下] 天武天皇6年11月

クラス5の位を賜る、ということではなく、位のクラスが+5される、ということであろうか。だとすれば、数直線上でのプラス方向への変化。+5とは、すごい大盤振る舞い。で、赤い烏なんて、いたんだろうか。

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[備考1]

[大]のつく位になった人としては、下記のような人名が記述されている。記述箇所(ここばかりではない)も併記した。

武内宿禰(大臣)
 巻第七 成務天皇

平群真鳥(大臣)
 巻第十六 武烈天皇

大伴金村(大連)
 巻第十六 武烈天皇()
(この巻の中で、[連・大伴金村]と[大連・大伴金村]で記述されている。連から大連に変わったのである。)

物部麁鹿火(大連)
 巻第十六 武烈天皇

許勢男人(大臣)
 巻第十七 継体天皇

物部尾輿(大連)
 巻第十八 安閑天皇

蘇我稲目(大臣)
 巻第十八 宣化天皇

物部守屋(大連)
蘇我馬子(大臣)
 巻第二十 敏達天皇

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2017年1月19日 (木)

認知言語学に見る、概念[高度]と他の概念とのつながり

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先日アップロードした、下記コンテンツ

なぜ、晴から雨へと移りゆく時に、「天気は上り坂に」と、言わないのだろうか?

において、

[高度]という概念と、他の概念とが複合されることにより、下記のような様々な言葉が生み出されていることを確認した。

 高位高官
 天気は下り坂に
 昇進 降格
 上司 部下
 献上 下賜
 仰ぎ見る存在
 他を見下す
 上目使い
 上から目線
 声高らかに 声を低めて
 落ち込む 舞い上がる
 上昇気流に乗っている
 落ち目
 没落
 都落ち
 上洛 上京
 下剋上
 高尚 低俗
 堕落
 高等遊民

そして、「天気は下り坂に」と「高位高官」という表現について、その成り立ちについて探ってみた。

言語学の中の一分野・認知言語学においては、このような表現を、[メタファー(隠喩 いんゆ)]であると認識しているようだ。

日本語の中には(あるいは、日本語以外の言語の中においても)一般に、「比喩表現」と呼ばれているような表現がある。例えば、

 あの人は、ネコのようにふるまう
 あの人は、ネコだ

前者のような表現を、直喩(simile)と言い、後者のような表現を、隠喩(metaphor:メタファー)と呼ぶのだそうだ。

[文献1]においては、上記に記した「高位高官」等の表現を、

 「方向性のメタファー」

として分類している。以下、[文献1]の20Pからの引用である:

 「方向性のメタファーとは、心理状態・感情・量・支配力・善悪の価値観など、本来は非空間的な経験を「上下」などの位置関係として概念化するものであり、一種の「空間化メタファー」(spatialization metaphor)である。」

文献1:[認知意味論の新展開 メタファーとメトニミー 谷口一美 研究社]

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2016年12月30日 (金)

古典に見る[権力と高度]

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1. はじめに

先日アップロードした、下記コンテンツ

なぜ、晴から雨へと移りゆく時に、「天気は上り坂に」と、言わないのだろうか?

の中の、

[3. なぜ、大きい権力を持つ人の事を、「低位低官」と言わないのだろうか?]

の章において、私は、[高度]という概念と、[権力のサイズ]という概念とが、[ある仕組み]によって複合された結果、「高位高官」という表現が生まれたのであろう、という内容の、自身の想像を述べた。その概略を述べると以下のようになる。

----------
古代の日本に、[詩的な魂を持っているある人B]が存在していた。以降、この人のことを、[詩的な人B]と略記することとする。

[詩的な人B]の心中に、下記のような、概念と概念を結びつけるリンクが、形成された。

 リンク[概念・[高度の変化]-概念・[権力の変化]]
  (概念・[高度の変化] と 概念・[権力の変化] とを結ぶリンク)

 リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]
  (概念・[高度] と 概念・[権力] とを結ぶリンク)

(後者は、前者から派生的に形成されたものである。)

Fig1_1
Fig 1.1

[詩的な人B]は、このリンクをもとにして、概念・[高度]と、概念・[権力]とを複合することにより、下記のような表現を創作した。

 「XXXXが持つ権力は、最高の高みに達している。」

しかし、この表現は、あまりにも長ったらしくて、使用するには不便である。そこで、[詩的な人B]は、上記の省略形として、

 「XXXXは高位高官」

という表現を創作した。

その後、この表現が多くの人々に受容・理解・使用され、今日に至った。

----------

以上が、私が想像した事の概略である。

いったいなぜ、この表現(「XXXXは高位高官」)が、「多くの人々に受容・理解・使用され」ていったのであろうか? それは、多くの人々の心中にもまた、

 リンク[概念・[高度の変化]-概念・[権力の変化]]
 リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]

が存在していたからであろうと、私は想像する。

多くの人々は、[詩的な人B]の口から発せられた「XXXXは高位高官」という表現を聞き、自らの心中の上記2個のリンクを活用し、その表現の意味しているところを理解すると共に、その表現がとても適切なものである(理解しやすい、誤解を招きにくい、カッコイイ表現だ、等々)と感じたので、自らもその表現を使用するようになっていったのであろう。

「昇進」、「昇格」、「降格」という表現も、上記と同様に、リンク[概念・[高度の変化]-概念・[権力の変化]] が活用された結果、生み出され、多くの人々に受容・理解・使用され、今日に至ったのであろう。

(「昇」、「降」ともに、高度の変化を意味する語である。)

このように、「高位高官」、「昇進」、「昇格」、「降格」といったような、[権力・高度・複合語]ともいうべき表現が生まれ、広く使用されるに至ったその根底には、多くの人々の心中での、上記の2個のリンクが存在があったと、私は考える。

では、上記の2個のリンクが、多くの人々の心中に形成されたのは、日本の過去のいつごろの事であったのだろうか?

これが、私の前に提出された次の問題である。

この問題の解答を見出すために、私は様々な日本の古典を調べてみた。

ようは、[権力・高度・複合語]が使用されているような古典があるかどうか、調べればよいのである。そのような古典がもしもあるのならば、その古典が著作された時代に生きていた多くの人々の心中に、

 リンク[概念・[高度の変化]-概念・[権力の変化]]
 リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]

が存在していたであろうと、考えられるのだ。

以下にその調査の結果を記す。

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2. 古典の中に見る2つのリンク

2.1 徒然草の中に、[権力・高度・複合語]が使用されている箇所あり

『徒然草』[第三八段] 中に、下記のような記述がある。

 「位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時にあへば高き位にのぼり、おごりを極むるもあり。」
 「ひとへに高き官・位をのぞむも、次に愚かなり。」

(『新編 日本古典文学全集 44 方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄』 校注・訳 神田秀夫、永積安明、安良岡康作 小学館 より引用。)

上記中には、「位高く」、「高き位」、「高き官・位」という語が用いられており、これらはいずれも、上記で言うところの[権力・高度・複合語]であると、考えられる。

『徒然草』の著者・吉田兼好は、13世紀から14世紀を生きた人である。

この時代に既に、多くの人々によって、[高度・権力・複合語]が用いられていた、従って、多くの人々の心中に、リンク[概念・[高度の変化]-概念・[権力の変化]]、リンク[概念・[高度]-概念・[権力]] が存在していたであろうと、私は考える。

2.2 続日本紀の中に、[権力・高度・複合語]が使用されている箇所あり

『続日本紀』[文武天皇元年]中に、下記のような記述がある。

 「それゆえ、このような事情を承り悟って、かいがいしくお仕えする人は、その勤めぶりに従って、それぞれお讃めになり、位階をお上げくださるという天皇の大命を、皆聞くようにと仰せになる。」

(『続日本紀(上) 全現代語訳』 宇治谷 孟 講談社学術文庫 1030 講談社 15P より引用。)

上記中の「位階をお上げくださる」の部分は、原文では下記のような記述になっている。

 「品々讃賜上賜治将賜物」
 「品々讃め賜ひ上げ賜ひ治め賜はむ物そと」
 「注 上も治も、位階を昇叙する意。」

(『新日本古典文学大系 12 続日本紀(一)』 校注 青木和夫、稲岡耕二、笹山晴生、白藤禮幸 岩波書店 より引用。)

このように、原文中においても、「上」の字が用いられている。よって、ここにおいても、[高度・権力・複合語]が用いられていることが分かる。

(「上」も、高度の変化を意味する語である。)

『続日本紀』が編纂されたのは、8世紀末である。

この時代に既に、多くの人々によって、[高度・権力・複合語]が用いられていた、従って、多くの人々の心中に、リンク[概念・[高度の変化]-概念・[権力の変化]]、リンク[概念・[高度]-概念・[権力]] が存在していたであろうと、私は考える。

2.3 ヒミコの宮殿

[高度・権力・複合語]の使用とは異なる角度から調べてみたら、興味深い事柄が浮上してきた。

『魏志倭人伝』の中に、とても気になる箇所があった。女王・ヒミコが住んでいる場所に関して記述している箇所だ。

 「王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」

(『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』 石原道博(編訳) 岩波文庫 青 401-1 岩波書店 49P より引用。)

ヒミコが日々、生活している場所の標高が、人々の生活している場所の標高よりも、大きかったのか、小さかったのか、それとも、ほぼ等しかったのか、そこまでは、魏志倭人伝から読み取ることはできない。しかし、「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」とあるのだ。

おそらく、ヤマタイコクの一般の人々の多くは、以下のように考えていたのではないか。

 ヒミコ様は、日々、土を踏むことのない生活をしておられる。

すなわち、

 ヒミコ様のおみ足の底面が位置している標高は、我々の足の底面が位置している標高よりも、常に大きい。

 我々は竪穴式住居の中で、土に足を触れながら日々、生活しているのだが、ヒミコ様は、あの、厳かに設けられた宮室内の、高床の上で生活しておられる、土を踏む事無く。

 おそらく、ヒミコ様のおみ足が位置している標高は、我々の眼球が位置している標高よりも、常に大きいのだろう。

ヤマタイコクの一般の人々の、この心中のイメージを描いてみるならば、下記のようになるだろう。

Fig2_3_1_2
Fig 2.3.1

上記を平たく言い換えると、下記のようになる。

 「ヒミコ様は 自分より 高い所 におられる」

Fig2_3_2
Fig 2.3.2

ここで、私は一つの仮説を提示したい。その仮説とは、

 ヤマタイコクの多くの人々の心中に、リンク[概念・[高度]-概念・[権力]] が存在していた。

というものである。

Fig2_3_3
Fig 2.3.3

そのように考えてみると、ヒミコが、「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」させた理由が、よく理解できるのである。

すなわち、

ヤマタイクコの多くの人々の心中において、

 「ヒミコ様は 自分より 高い所 におられる」(上記)

 リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]

とが複合されると、いったいどうなるか?

Fig2_3_4
Fig 2.3.4

リンク[概念・[高度]-概念・[権力]] を経由することにより、

 「ヒミコ様は 自分より 高い所 におられる」

から、

 「ヒミコ様は 自分より 大きな 権力 を 持っている」

との念が、派生するであろう。

Fig2_3_5
Fig 2.3.5

ヤマタイコクの多くの人々の心中にあった[リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]]を活用し、「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」た結果、ヒミコは、下記に述べるような観念を、人々の心中、植え付ける事に成功したのであろう(と、私は想像する。)

 我々シモジモ(注)の人間が持っている権力のサイズと、ヒミコ様が持っているそれとの間には、差がある。
 ヒミコ様のそれの方が、我々のそれよりも大きい。
 ゆえに、ヒコミ様は、我々とは別格の存在なのである。

注 「シモジモ(下々)」もまた、[高度・権力・複合語]であろう。

2.4 オオクニヌシの神殿

上記のような考え方を、『古事記』の中のある箇所に適用してみよう。それは、オオクヌヌシの国譲り、として知られている箇所である。

以下、[『古事記(上)全訳注』次田真幸 講談社学術文庫 207 講談社](以降、[文献1]と略記)147P ~ 170P を参考にしながら、記述した。

国譲り・ストーリーの概略を述べると、以下のようになる。

タマガハラ(高天原)・勢力が送りだしたタケミカヅチ率いる侵略軍が、出雲にやってきて、この地を統治していたオオクニヌシに対して、出雲の地をタマガハラ側に差し出せ、と、強要した。

それに対して、オオクニヌシは、以下のような、条件つきの降伏案を提示した。

 地上高くそびえる神殿をタカマガハラ・勢力が建設し、それを、私の隠退後の居場所(別荘と解釈すべきか?)として提供してくれるならば、出雲のクニを譲ってもよい。

この箇所は、[文献1](167P)においては、以下のように現代語訳されている。

 「ただわたしの住む所は、天つ神の御子が皇位をお継ぎになるりっぱな宮殿のように、地底の盤石に宮柱を太く立て、大空に千木を高々とそびえさせた神殿をお造り下さるならば、私は遠い遠い幽界に隠退しておりましょう。」

上記からは、以下の2つの事柄を読み取ることができよう。

(1)[天つ神の御子が皇位を継承する場所]は、地上高くそびえたち、千木が高々と揚げられている建物の中にある。

(2)その建物と同レベルの、地上高くそびえたち、千木が高々と揚げられている建物を自分の居場所として、タカマガハラ側が建設・提供してくれるならば、自分(オオクニヌシ)としても、おさまりがつく、と、オオクニヌシは考えた。

「皇位をお継ぎになる天つ神の御子」が、高天原側の誰の事を言っているのか、分からない。しかし、地上よりも極めて高い場所において、当時の社会中において最大レベルと思われるような(皇位にまつわる)権力を、継承者は手に入れるのである、と、古事記作者がしている、という事は、確実に読み取れる。

オオクニヌシがその宮殿と同レベルの、地上よりも極めて高い建物の上で、余生を過ごしたい、というのは、後世の人々に対して、目に見えるような形での記念碑的な建造物を残しておきたい、という願望の表れであろう。

その「記念碑的な建造物」は、後世の人々に、以下のような事を示すのである。

 かつて、この地に、オオクニヌシという、大きな権力を持つ者が、存在していたのだゾ。この建物の高さこそが、その権力の大きさを象徴しているのだゾ。

 しかも、その建造物を建てたのは、オオクニヌシの敵対者であった、タママガハラなのである。タカマガハラに、この、高い高い建造物を、オオクニヌシの為に、建てさせたのである、それほどにまで、オオクニヌシの権力は絶大であったのだ!

 よって、オオクニヌシの隠遁を、無残な敗北などとは、決して考えるでないゾ、これは、名誉ある隠退、なのである。

オオクニヌシの時代(と、古事記作者が想定している時代、弥生時代~古墳時代か?)においても、上記に述べたヤマタイコクの状況と同様に、多くの人々の心中に、リンク[概念・[高度]-概念・[権力]] が存在していた、と仮定すると、この、オオクニヌシ・神殿建設ストーリーも、ヒミコの宮殿と同様に、とても理解しやすい話となる。

以下、話の本筋とは関係ない余談となるが:

古事記のこの箇所の記述によれば、オオクニヌシのこの要求を、タカマガハラ側は承諾したようである、「出雲国の多芸志の小浜に天の御舎を造りて」とあるから。

ところが、はるか後世になってから、タカマガハラ側勢力の末裔に対して、オオクニヌシは、なぜか再び、神殿建造を要求するのである。(古事記の[垂仁天皇 ホムチワケノミコ]の節において)。

私は、このストーリー展開に、整合性の無さを感じる。もしかしたら、古事記作者は、[垂仁天皇 ホムチワケノミコ]の箇所において、ストーリー設定をミスったのではないだろうか。

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3. 古事記作者によって、フル活用された、リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]

古事記の中には、リンク[概念・[高度]-概念・[権力]] をなんとかしてうまく活用して、[ある事]を主張するための基礎工事を行っておきたい、との意図が感じられる箇所が、いろいろとある。

[ある事]とは、

 大王家に属する人々は、それ以外の人々とは、別格の存在なのである。

という内容の事である。

(「天皇」という称号が使用されるようになるまでは、「大王」の称号が用いられていたようだ。)

以下、[文献1] 36P ~ 170P を参考にして、記述した。記述中の引用部分(「」をつけた箇所)はいずれも、[文献1] より引用したものである。)

3.1 [天の浮橋]と[オノゴロ島]

古事記の記述によれば、日本列島の生みの親は、イザナキとイザナミである、ということになっている。

イザナキとイザナミによる日本列島生産のストーリーは、以下のようになっている。

(1)天と地が分かれた時に、[高天原(タカマガハラ)]という場所に、諸々の神が発生した。それらの神々の中に、イザナキという神と、イザナミという神がいた。

Fig3_1_1
Fig 3.1.1

(2)神々からの要請を受けて、イザナキとイザナミは、日本の国土造成作業を開始した。イザナキとイザナミは、[アメノウキハシ(天の浮橋)]の上に立ち、[アメノヌボコ(天の沼矛)]を「指し下ろして」「画」いた。(海面から海中に矛を差し込み、海水をかき回す、というようなイメージを想いうかべればよいのだろう。)「天の沼矛」を引き上げる際に、その先端からしたたり落ちる海水が、重なり積もって島ができた。これを、[オノゴロ島]という。

イザナキとイザナミの行った作業は、[天の沼矛]を「指し下ろして」「画」く、である。この作業を、[天の浮橋]の上に立ちながら行ったのである。よって、下図のように、[天の浮橋]は、[オノゴロ島]よりも高い位置にあると、古事記の中では想定されているのであろう。

Fig3_1_2
Fig 3.1.2

(3)イザナキとイザナミは、オノゴロ島に、「天降り(あまもり)」、その島の上で、淡路島、四国、九州等の日本列島を生んでいった。

Fig3_1_3
Fig 3.1.3

Fig3_1_4
Fig 3.1.4

以上が、古事記に記されている日本列島造成ストーリーの概略である。

以下に記述されている事は、あくまでも、私という一個人の単なる想像を述べたものに過ぎない。私は、古事記が制作されたその時と、その現場に立ち会ったのではない。

古事記においては、大王家のルーツは、アマテラスである、ということになっている。アマテラスは、イザナキの子である、とされている。よって、イザナキもまた、大王家のルーツであると、言える。

(古事記においては、アマテラスの親は、イザナキだけである、ということになっている。イザナキが自らの左の目を洗った時に、生まれた、ということになっている。)

そこで、古事記作者は考えた、

 大王家に属する人々は、それ以外の人々とは、別格の存在である

と、いう事に、なんとかして持っていきたい。

その為には、まずは、

 大王家のルーツは、それ以外の人々のルーツとは、別格の存在である

と、設定することが必要だろうネ。

その為には、

 イザナキは、別格の存在である

というように、設定しておいたら、いいじゃないか。

というわけで、古事記作者たちは、イザナキを別格の存在に位置づけるべく、使えそうな手をいろいろと考えた。

そのような中に浮上してきたのが、[リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]] であった。

上記にも述べたように、当時の多くの人々の心中に、このリンクは存在していた。

 高い所にいる存在(人、カミ)は、強い権力を持つ別格の存在なんだよ。

これは使えるぞ、ということで、古事記作者は、以下のようなコンセプトを考案した。

 [オノゴロ島]は、日本列島を生み出すための拠点になった地、いわば、[原日本列島]とも言うべき場所である。イザナキとイザナミは、[オノゴロ島]へ移住してきて、日本列島を産んだ。

 イザナキとイザナミは、日本人にとっては崇拝すべき存在である。日本人の始祖的な存在なのだから。

 イザナキとイザナミは、[オノゴロ島]よりも標高が高い場所([高天原]、[天の浮橋])から、[オノゴロ島]へ移住してきた。

 イザナキとイザナミは、移住する前は、高い高い所におられたのである。よって、強い権力を持っている、別格の存在である。
 (ここで、リンク[概念・[高度]-概念・[権力]] が用いられた)

このようにして、古事記作者たちは、

 大王家のルーツ(イザナキ)は、それ以外の人々のルーツとは、別格の存在である

というようなイメージを、古事記読者の心中に、巧みに醸成したのである。

3.2 アマテラスとスサノオ

ところが、古事記作者は、このままのストーリー展開だと、大問題がある事に気が付いた。

大王家のルーツ・アマテラスには、弟がいたのである(ということに、古事記ではなっている。)。弟の名は、スサノオ。スサノオもまた、イザナキの子である。

イザナキの大きい権力は、その子、アマテラスによって継承されている。しかし、スサノオも、それと同等の権力を継承する権利があるのではないか。

(スサノオが、アマテラスの兄ではなく、弟とされているのが、これまた興味深い。弟なので、継承できる権力の大きさは、姉・アマテラスよりもわずかに小さい、ということになるのかもしれない。兄弟姉妹の間において、相続の平等性が保障されている現代とは異なる、[相続の常識]が、当時すでに存在していたのかもしれない。)

となると、アマテラスより大王家の人々が代々継承してきている権力と同レベル・サイズの権力が、スサノオの末裔によって継承されていても、おかしくはない、ということになる。

となると、[大王家の人々は、別格の存在である]、という構図が崩壊してしまうではないか。

そこで、古事記作者たちは、あるストーリーを考案した。[スサノオの追放]である。

アマテラスが統治するタカマガハラに行ったスサノオは、そこで様々のトラブルを起こし、ついには、タカマガハラから追放されてしまう。(そのストーリー中のクライマックが、天岩戸のシーン)。

追放された彼が至った場所は、地上にあった。

 「かれ避追はえて、出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りましき。」

かくして、スサノオの居る場所の標高は、タカマガハラから出雲へと、急降下、急激に減少したのである。

このようにして、古事記作者は人々の心中に存在する、[リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]]を大いに活用し、スサノオの権力が急激に減少した、というイメージを、醸成したのである。(標高の急激な減少 ---> 権力サイズの急激な減少)

これを更に、別角度から見るならば、

追放される前にスサノオのいた場所は、「タカマガハラ」という極めて抽象的な、漠然としたエリアであり、広域的なイメージを伴っている。ところが、追放された後に至った場所は、「出雲国の肥の河上、名は鳥髪といふ地」というように、極めて具体的、限定的なエリアである。

タカマガハラからの追放後に、スサノオの手中に残された権力は、[鳥髪]という極めて限定的なエリア内だけに及ぶような、極小レベルのものとなってしまった、というようなイメージを、古事記作者は古事記読者の心中に植え付けたかったのかもしれない。

このように、高から低への居場所の変化、広から狭への居場所の領域の縮小、この2方向からの叙述を使えば、スサノオの持つ権力サイズが、急激に縮小したことを、読者の心中に強く印象づけすることができるのではないだろうか。

このようにして、古事記作者は、古事記読者の心中に、下記のようなイメージを埋め込んだのである。

 スサノオの末裔たちがこれから継承していくであろう権力のサイズと、アマテラスの末裔たちが継承していくであろう権力のサイズとの間に、大きな差ができた。前者の方が、後者よりも小である。

 [スサノオの末裔たちが継承していく権力のサイズ] << [アマテラスの末裔たちが継承していく権力のサイズ]

(「<<」は、不等号)。

Fig3_2_1
Fig 3.2.1

3.3 オオクニヌシ

その後、出雲の地は、スサノオの子孫であるオオクニヌシによって統治される状態となる。

上記に述べたように、タカマガハラから地上への追放により、スサノオの権力は、アマテラスのそれよりも、小さいレベルになってしまっている。よって、スサノオの権力を継承したオオクニヌシの権力も、アマテラスのそれよりも、小さいレベルとなる。

Fig3_3_1
Fig 3.3.1

古事記作者によってこのような前準備が整えられた後に、アマテラスの宣言が登場する。いわく、

 「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、我が御子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国なり」

現代語風に表現するならば、

 「[豊葦原の千秋長五百秋の水穂国](以降、[豊葦原]と略記)は、我が子・[アメノオシホミミ](天忍穂耳命)が統治すべき国である!」

 低い地上にある地域([豊葦原])に住む人とカミの権力は、タマガハラの高みに君臨する、我・アマテラスのそれよりも、極めて小レベルである。

 よって、我・アマテラスの子孫は、それらの地域を統治する正当性を有している

と、言いたいのであろう。

ということで、アマテラスはアメノオシホミミを、「天降し」た。

アメノオシホミミは、[天の浮橋]までやってきた。そして、これから行く先の地域([豊葦原])の状況を観察した。

[天の浮橋]の上に立ち、[豊葦原]の状況を観察する、というこのシーンのイメージはまさに、これから攻めこもうとしているエリアを、その上空から俯瞰しながら観察する、というイメージであろう。

アメノオシホミミが率いる侵略軍は、[豊葦原]よりも標高が高い地点(それは、地上ではなく、空中のある地点なのかもしれない)から、[豊葦原]に攻め入ろうとしているのである。

侵略しようとしている側は、標高の高い場所に位置し、侵略されようとしている側は、標高の低い場所に位置している。

ところが、アメノオシホミミの目に飛び込んできた[豊葦原]の状況は、まことにすさまじいものであった。

 「いたくさやぎてありなり」

([文献1]では、この箇所を、「ひどく騒がしい様子だ」と現代語訳している。)

そこで、アメノオシホミミは引き返して、その状況をアマテラスに報告した。

Fig3_3_2
Fig 3.3.2

ということで、今度は、アメノホヒが、[豊葦原]に送り込まれた。ところが、タカマガハラ側の期待に反し、アメノホヒは、オオクニニシの側についてしまった。

(アメノホヒが、[豊葦原]内の一地域である出雲に至り、その地においてオオクニヌシと会見、というストーリー、[豊葦原]全土を支配していたオオクニヌシとアメノホヒが、[豊葦原]内のどこかで会見、というストーリー、双方共にありかも。)

Fig3_3_3
Fig 3.3.3

次に、アメノワカヒコが、[豊葦原]に送り込まれた。ところが、アメノワカヒコもオオクニニシの側についてしまった。

Fig3_3_4
図 3.3.4

そこで、タカマガハラ側は、アメノワカヒコのもとへ、[鳴女]という名前の雉を使者として送り、

 オマエはいったいナニをしておるのか!(己の使命([豊葦原]侵略の先鋒)を、思い出せ)

という趣旨の事を伝えさせた。

アメノワカヒコはその雉に向けて矢を放った。その矢は、「雉の胸より通りて、逆に射上げらえて」、タカマガハラに達した。

タカマガハラ側に所属する、タカギが、「その矢を取りてその矢の穴より衝き返し下したまへば」、その矢はアメノワカヒコの胸にあたり、アメノワカヒコは死んだ。

Fig3_3_5
図 3.3.5

この段階において初めて、[タカマガハラ側・優勢-出雲側・劣勢]を暗示するような記述が登場した。

矢が往復する様を順に追ってみると、以下のようになっている。

段階1:[低]から[高]へ

アメノワカヒコにより、出雲の地から上空に向かって、射上げられた矢が、タカマガハラに至る。

段階2:[高]から[低]へ

タカギにより、タカマガハラから、下界に向かって、衝き返し下された矢が、出雲の地に至り、その矢によって、アメノワカヒコは死に至る。

ここにおいても、古事記作者は、人々の心中に存在する、[リンク[概念・[高度]-概念・[権力]]]を大いに活用し、古事記読者の心中に、下記のようなイメージを醸成したのである。

 出雲側(アメノワカヒコが与している)(低い場所にある)の権力のサイズ << タカマガハラ側(高い場所にある)の権力のサイズ

このようにして、古事記読者の心中における、[スサノオの末裔たちが継承していく権力のサイズ] と [アマテラスの末裔たちが継承していく権力のサイズ]との差のイメージは、更に増大したのである。

 [スサノオの末裔たちが継承していく権力のサイズ] <<<<< [アマテラスの末裔たちが継承していく権力のサイズ]

(「<<<<<」は、不等号である)

古事記作者による、このような綿密なお膳立てにより、古事記読者の心中において、[オオクニヌシ側・必敗ムード]が色濃く醸成された後に、満を持しての、タケミカヅチ率いる侵略軍の出動、となる。

その後の展開は、上記、「2.4 オオクニヌシの神殿」に述べた通りである。

かくして、アマテラスの子孫による[豊葦原]支配の正当性が確立され、古事記作者は、

 大王家に属する人々(アマテラスの子孫)は、それ以外の人々とは、別格の存在なのである。

という観念を、古事記読者の心中に植え付けることに成功したのである。

(アマテラスの子孫が[豊葦原]の実支配に乗り出すのは、それから更に先の事になるが。)

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2016年12月22日 (木)

なぜ、晴から雨へと移りゆく時に、「天気は上り坂に」と、言わないのだろうか?

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2017年1月19日 加筆・修正

1. 高低と他の概念との結びつき

「高位高官」という言葉があるようだ。大きい権力を持つ官職にある人のことを、このように表現するらしい。

「高」の字が含まれているので、この言葉は、以下の2つの概念が複合されることにより、できていると思われる。

 概念・高度 (高い・低い)
  これは、3次元空間上での位置に関する概念である。

 概念・権力のサイズ (大きい権力・小さい権力)
  これは、人間が持っている権力の大小に関する概念である。

このように、概念・高度が、他の概念と複合されることにより、できていると思われる言葉は、他にもある。例えば、

 「天気は下り坂に」

この表現は、下記の3つの概念が複合されることにより、できていると思われる。

 概念・坂を行く方向(上り坂を行く・下り坂を行く)
 概念・高度の変化(低から高へ・高から低へ)
 概念・天候の変化

このような例は下記にも述べるように、様々にある。

 昇進 降格
 上司 部下
 献上 下賜
 仰ぎ見る存在
 他を見下す
 上目使い
 上から目線
 声高らかに 声を低めて
 落ち込む 舞い上がる
 上昇気流に乗っている
 落ち目
 没落
 都落ち
 上洛 上京
 下剋上
 高尚 低俗
 堕落
 高等遊民

ここで、ある疑問が生じる。

疑問1 いったいなぜ、大きい権力を持つ官職にある人のことを、

 「低位低官」

と、言わないのだろうか?

疑問2 いったいなぜ、晴から曇り、雨へと移り行く天候の変化のことを、

 「天気は上り坂に」

と、言わないのだろうか?

「高位高官」という表現を産み出すもととなった、概念・高度 と、概念・権力のサイズ との間に、直接の関係を見出すことはできない。なぜならば、前者は、3次元空間上での位置に関する概念なのであり、かたや後者は、人間が持っている権力の大小に関する概念なのであるから。

[3次元空間上での位置] と [人間の権力] との間には、縁もゆかりもないであろう。

このような、無関係と思われる2個の概念が、何らかの[仕組み]によって複合され、その結果、「高位高官」という表現が生み出されたのである。その仕組みからは、なぜか、権力が大である人のことを「低位低官」と表現する、というような事態は生じてはこなかったのである。

いったいなぜ、その[仕組み]は、「低位低官(=権力が大である人)」という表現を生じさせなかったのであろうか?

「天気は下り坂に」においても同様である。

概念・坂を行く方向、概念・高度の変化、概念・天候の変化 の3個の概念が、何らかの[仕組み]によって複合され、その結果、「天気は下り坂に」という表現が生み出されたのである。その[仕組み]からは、なぜか、[晴から曇り、雨への天候の変化]のことを「天気は上り坂に」と表現する、というような事態は生じてはこなかったのである。

いったいなぜ、その[仕組み]は、「天気は上り坂に(=晴から曇り、雨へ)」という表現を生じさせなかったのであろうか?

==================================

2. 「天気は下り坂に」という表現を産み出した仕組み

概念・坂を行く方向、概念・高度の変化、概念・天候の変化 の3個の概念から、「天気は下り坂に」という表現を生み出した、その仕組みについて、私は以下のように想像する。

以下に記述されている事は、あくまでも、私という一個人の単なる想像を述べたものに過ぎない。私は、表現・「天気は下り坂に」が生み出されたその瞬間、その現場に立ち会ったのではない。

---------

2.1 概念間リンク

現在、我々が見聞きする様々な、[(気のきいた)表現]は、過去のある瞬間に、ある人が創造したと考えられる。

「高位高官」という[表現]も、「天気は下り坂に」という[表現]も、過去のある瞬間に、ある人が創りだしたものなのであろう。

しかし、[表現]は、創りだされるだけでは、ダメである。

その[表現]を見聞きした多くの人が、「これは、うまい言い回しだな」と感じ、「これは、使えるぞ」と思い、自らもその[表現]を使うようになる、それを見聞きした他の人もまた、その[表現]を使うようになる、このような、[表現]の受容・伝搬があってこそ、その[表現]は、世に残ることとなり、現代においても多くの人によって使用されることとなる。

このように、[表現]においては、下記の2つの段階が考えられる。

 A 創りだされる段階
 B 受容・伝搬される段階

上記のようにして世に残ることとなったような[表現]が創りだされるその瞬間において、その表現を生み出した人の心(脳)内には、ある[仕組み]が存在していると思われる。

なおかつ、その[仕組み]と同形の[仕組み]が、多くの人の心(脳)内にも、存在しているからこそ、その表現は多くの人によって、受容・伝搬されると思われる。

その[仕組み]とは、2個の概念どうしを結びつけるような、なにものかである。

その実体がいったい何であるのか、私には分からない。(大脳内のニューロンの結合なのか、あるいは、もっと別の何ものなのか、さっぱり分からない。)

その実体は分からないのだけど、とりあえず、2個の概念どうしを結びつけるようななにものか、それを、[概念間リンク]と呼んでみることにしよう。

これ以降、概念Aと概念Bとを結びつけるような[概念間リンク]を、下記のように表記することとする。

 [リンク[概念A-概念B]]

日本の過去の歴史上のどこかの時点に、[詩的な魂を持つある人A]が存在していた。以降、この人のことを、[詩的な人A]と略記することにする。

ある日ある瞬間、[詩的な人A]は、自らの心中に、下記のような[概念間リンク]が存在することに気が付いた。
Fig2_tuika_01_4

Fig 2.1.1

このリンクは、下記に述べるように、2階層構造のリンクになっている。

 概念・坂を行く方向 と 概念・天候の変化 との間に、リンクが形成されており
  なおかつ、
 それぞれの概念を構成している要素([上り坂を行く]、[晴 --> 曇り --> 雨]、等)どうしの間にも、リンクが形成されている

以降、この[概念間リンク]を、[リンク[概念・坂を行く方向-概念・天候の変化]]と呼ぶことにしよう。

その次の瞬間、[詩的な人A]は、下記のような、[表現の変換]を思いついた。

 変換前:今後の天候の変化は、[晴 --> 曇り --> 雨]となるであろう

       ===[表現の変換]===>

 変換後:今後の天候の変化は、[下り坂を行くがごときもの]となるであろう

下図に示すように、この[表現の変換]は、、[リンク[概念・坂を行く方向-概念・天候の変化]]を用いて行われているのである。
Fig2_tuika_02_2

Fig 2.1.2

[リンク[概念・坂を行く方向-概念・天候の変化]]が、[詩的な人A]の心中に存在したがゆえに、[詩的な人A]はこのような[表現の変換]を思いつけたのである。

以上が、[表現が創りだされる段階]に関しての説明である。

次に考えるのは、[(その表現が)受容・伝搬される段階]について、である。

[詩的な人A]の口、あるいは、筆・ペンから発せられた表現:

 「今後の天候の変化は、[下り坂を行くがごときもの]となるであろう」

を見聞きした、[別の人B]は、その表現が意味しているところのものを正しく理解し、「これは、うまい言い回しだな」と感じ、「これは、使えるぞ」と思った。

いったいなぜ、[別の人B]は、その表現が意味しているところのものを正しく([詩的な人A]が意図したごとくに)理解できたのか?

その人Bもまた、自らの心中に、下記のような[概念間リンク]が存在することに気が付いたからである。
Fig2_tuika_01_5

Fig 2.1.3

Fig 2.1.1に示されている[概念間リンク]と、Fig 2.1.3に示されている[概念間リンク]は、全く同形である。

[別の人B]は、上記の[概念間リンク]を、Fig 2.1.2に示されたのとは逆方向の経路をたどることにより(下記 Fig 2.1.4 で示したように)、下記のような、[表現の変換]を、(心中において)行えたのである。その結果、[別の人B]は、その表現が意味しているところのものを正しく([詩的な人A]が意図したごとくに)理解できたのである。

 変換前:今後の天候の変化は、[下り坂を行くがごときもの]となるであろう

       ===[表現の変換]===>

 変換後:今後の天候の変化は、[晴 --> 曇り --> 雨]となるであろう
Fig2_tuika_03_3

Fig 2.1.4

この表現:「今後の天候の変化は、[下り坂を行くがごときもの]となるであろう」

が、多くの人々によって受容・伝搬されるうちに、

より簡潔な表現:「天候は下り坂に」

へと変形し、定着して、現在、多くの人々によって使用されるに至ったであろう。

では、いったいどのようにして、[リンク[概念・坂を行く方向-概念・天候の変化]]が、[詩的な人A]と[別の人B]の心中に存在するようになったのであろうか?

私は以下のような、3段階の過程により、これが存在するようになったと想像する。

 段階1:[リンク[概念・坂を行く方向-概念・高度の変化]]の発生
 段階2:[リンク[概念・高度の変化-概念・天候の変化]]の発生
 段階3:上記2個の[概念間リンク]の統合

2.2 [リンク[概念・坂を行く方向-概念・高度の変化]]の発生

我々が坂道上の移動を行う時、

 [上り坂]を行く時には、我々の眼球がある位置の標高は、小さい値から、大きい値へと、変化していく、すなわち、我々の眼球の位置は、[低]から[高]へと、高度が変化していく。

 [下り坂]を行く時には、我々の眼球がある位置の標高は、大きい値から、小さい値へと、変化していく、すなわち、我々の眼球の位置は、[高]から[低]へと、高度が変化していく。

[詩的な人A]は、この、[坂道上の移動]と[高度の変化]との関係に着目した。その結果、[詩的な人A]の心中に、下記のような、概念・坂を行く方向 と、概念・高度の変化 とを結びつけるリンク、すなわち、[リンク[概念・坂を行く方向-概念・高度の変化]]が発生した。

このリンクは、下記に述べるように、2階層構造のリンクになっている。

 概念・坂を行く方向 と、概念・高度の変化 との間に、リンクが形成されており
  なおかつ、
 それぞれの概念を構成している要素どうしの間にも、下記のようにリンクが形成されている

 [上り坂を行く] (概念・坂を行く方向 を構成する要素)
  と
 [低 --> 高] (概念・高度の変化 を構成する要素)
  との間に

 [下り坂を行く] (概念・坂を行く方向 を構成する要素)
  と
 [高 --> 低] (概念・高度の変化 を構成する要素)
  との間に
Fig 2.2.1Fig2_1_4

2.3 [リンク[概念・高度の変化-概念・天候の変化]]の発生

[詩的な人A]の心中に、下記のような、概念・高度の変化 と、概念・天候の変化 とを結びつけるリンクが発生した。

このリンクが、どのようにして発生したのか、という事については、後述の2.5節において、述べる。

このリンクは、下記に述べるように、二階層構造のリンクになっている。

 概念・高度の変化 と、概念・天候の変化 との間に、リンクが形成されており
 それぞれの概念を構成している要素どうしの間にも、下記のようにリンクが形成されている

 [低 --> 高] (概念・高度の変化 を構成する要素)
  と
 [雨 --> 曇り --> 晴] (概念・天候の変化 を構成する要素)
  との間に

 [高 --> 低] (概念・高度の変化 を構成する要素)
  と
 [晴 --> 曇り --> 雨] (概念・天候の変化 を構成する要素)
  との間に

Fig2_2_2
Fig 2.3.1

2.4 上記2個の[概念間リンク]の統合

[詩的な人A]の心中において、上記の2個のリンクが、下記 Fig 2.4.1 で見るような形で合成された。その結果、

 [リンク[概念・坂を行く方向-概念・天候の変化]]

が発生した。

このリンクは、以下に述べるような意味で、二重構造のリンクになっている。

 概念・坂を行く方向 と、概念・天候の変化 との間に、リンクが形成されており
 それぞれの概念を構成している要素どうしの間にも、下記のようにリンクが形成されている

 [上り坂を行く] (概念・坂を行く方向を構成する要素)
  と
 [雨 --> 曇り --> 晴] (概念・天候の変化を構成する要素)
  との間に

 [下り坂を行く] (概念・坂を行く方向を構成する要素)
  と
 [晴 --> 曇り --> 雨] (概念・天候の変化を構成する要素)
  との間に

Fig2_3_2
Fig 2.4.1

2.5 [リンク[概念・高度の変化-概念・天候の変化]]は、どのようにして発生したか

我々の祖先は日々、様々な植物の状態変化を見続けながら生きていたであろう。中でも、食物源となるような植物の状態変化に対しては、大きな関心を持っていたであろう。

植物の体のうち、最大の標高に位置する場所を、[植物・最高部]と呼ぶことにしよう。そして、[植物・最高部]の標高と地表との標高との差を、[植物・最高部・高さ]と呼ぶことにしよう。

(多くの植物においては、花や実の部分が、[植物・最高部]になると、思われる。)

[植物・最高部・高さ]は、時間の経過と共に、以下のように変化していく。

段階1:種の段階では、[植物・最高部・高さ]は、マイナス値となる。(植物全体が、まだ地下にあるのだから)。

段階2:芽吹きの後、[植物・最高部・高さ]は、時間が経過するにつれて、増大していく。

段階3:開花、結実の段階で、[植物・最高部・高さ]は、最大値に達する。

段階4:その後、[植物・最高部・高さ]は、減少へと転じ、

段階5:ついには、[植物・最高部・高さ]は、ゼロとなる(植物は枯れて、地上に伏してしまう)。

段階2から段階3にかけての変化(すなわち、植物の成長段階での変化)を見続けていくのと、段階4から段階5にかけての変化(すなわち、植物の衰退段階での変化)を見続けていくのとでは、どちらの方が快いだろうか?

上記の問いが我々の祖先に対して出された時、多くの人々が、

 「前者、すなわち、植物の成長段階での変化を見続けていく方が、より快い。」

と、答えたであろうと、私は想像する。

食料源となるような植物が成長していく過程に対しては、当時の誰もが無関心ではおれなかったに違いない。また、自らの子供が成長していく様が、それに重ね合わせられることにより、その思いは更に強まっていったであろう。

(人間においても、その成長の段階において、[人間・最高部・高さ]は、増大していく。
  [人間・最高部・高さ] = [人間・最高部]の標高 - 地表の標高
  [人間・最高部]の標高 とは 人間の体のうち、最大の標高に位置する場所
 )

このような、我々の祖先の心情は、[詩的な人A]の心中にも継承されていた。

その結果、[詩的な人A]の心中に、概念・成長と衰退 が発生し、その要素として、下記の2つの要素が形成された。

 成長 [最高部・高さ の変化:小-->大]
 衰退 [最高部・高さ の変化:大-->小]

Fig2_4_2
Fig 2.5.1

 「最高部・高さ が、小 から 大 へと変化する」

は、下記の表現に言い換えることができる。

 「最高部の位置が、低 から 高 へとなるように、変化する」

よって、上記のFig 2.5.1を、下記のように書き換えることができる。

下図中の、[快]マークつきの矢印は、[詩的な人A]における、快・不快の念を表している。矢印の根元にある要素(すなわち、[衰退])を見続けているよりも、矢印の先にある要素(すなわち、[成長])を見続けている方が、より快い、という感情である。

Fig2_5_2
Fig 2.5.2

次に、[詩的な人A]の心中において、概念・天候の変化 が、発生した。その概念を構成する要素中には、下記の要素が含まれていた。

 天候の変化・[雨-->曇り-->晴]
 天候の変化・[晴-->曇り-->雨]

[詩的な人A]にとっては、天候の変化・[晴-->曇り-->雨]よりも、天候の変化・[晴-->曇り-->雨]の方が、より快いと感じられた。

よって、[快]マークつきの矢印の向きは、下図のようになる。

Fig2_6_2
Fig 2.5.3

ある日、[詩的な人A]の心中において、以下のような現象が次々と発生した。

(1)[詩的な人A]の心中において、詩的インスピレーションの湧出と共に、概念・成長と衰退 と、概念・天候の変化 とが共に想起された。

(2)[詩的な人A]は、概念・成長と衰退 と、概念・天候の変化 との間に、構造的な類似があることに気づいた。これについては、後に詳細を述べる。

(3)そこで、[詩的な人A]は、この2つの概念の間に、

 [リンク[概念・成長と衰退-概念・天候の変化]]

を生成した。

このリンクは、概念と概念を結びつけ、なおかつ、概念を構成する要素と要素を結びつけるような、二階層のリンクである。

 概念・成長と衰退   概念・天候の変化
  [低 --> 高]   と  [雨 --> 曇り --> 晴]   がリンクづけされ
  [高 --> 低]   と  [晴 --> 曇り --> 雨]   がリンクづけされ
Fig2_7_2

Fig 2.5.4

[詩的な人A]が気づいた、概念・成長と衰退 と、概念・天候の変化 との構造的な類似、それは、下記の2点である。

(A) [快]マークつきの矢印の存在

 概念・成長と衰退 と 概念・天候の変化 がともに、[快]マークつきの矢印を内包しており、その矢印は同じ方向を向いている。

(B) 時間の経過と共に増大・減少していく快

 概念を構成している要素の時間経過のパターンが同一形である。

 概念・成長と衰退 を構成する
  要素[成長] においては
   時間の経過と共に、成長を見続けている[詩的な人A]の快感が 増大 していく。
   (種から芽生え、青葉、そして、花へと、成長が進んでいくにつれて)。
  要素[衰退] においては
   時間の経過と共に、衰退を見続けている[詩的な人A]の快感が 減少 していく。
   (結実から、しおれ、やがて地に伏しと、衰退が進んでいくにつれて)。

 概念・天候の変化 を構成する
  要素[雨 --> 曇り --> 晴] においては
   時間の経過と共に、[詩的な人A]の快感が 増大 していく。
   (雨から曇り、晴へと天候が変わっていくにつれて)。
  要素[晴 --> 曇り --> 雨] においては
   時間の経過と共に、[詩的な人A]の快感が 減少 していく。
   (晴から曇り、雨へと天候が変わっていくにつれて)。

下図において、時間経過と共に快感が増加・減少していく様を、模式的に曲線で表した。

Fig2_8_2
Fig 2.5.5

そして更に、[詩的な人A]の心中において、概念・高度の変化 が想起され、これと、概念・成長と衰退 との間に

 [リンク[概念・高度の変化-概念・成長と衰退]]

が形成された。

Fig2_9_2
Fig 2.5.6

そして更に、[詩的な人A]の心中において、

 [リンク[概念・高度の変化-概念・成長と衰退]]
  と
 [リンク[概念・成長と衰退-概念・天候の変化]]
  が合成されることにより、

 [リンク[概念・高度の変化-概念・天候の変化]]

が形成された。

Fig2_10_2
Fig 2.5.7

==================================

3. なぜ、大きい権力を持つ人の事を、「低位低官」と言わないのだろうか?

前章で展開した考察を、今度は「高位高官」に対して展開してみよう。

私は、以下のように想像する。

以下に記述されている事は、あくまでも、私という一個人の単なる想像を述べたものに過ぎない。その時代の日本に行き、そこで生きていた人々にインタビューしたりして調査してきたのではない。

古代日本の社会において、社会を構成している人々の間に、[保有する権力の格差]というものが生じて以降、長期間に渡って、日本人の心中には、下記のような、[概念・権力]と、それから派生した、[概念・権力の変化] が存在した。

下図中の、[快]マークつきの矢印は、その期間に生きていた多くの日本人における、快・不快の念を表している。矢印の根元にある要素(すなわち、保有する権力が[大 --> 小]に変化する)を見続けているよりも、矢印の先にある要素(すなわち、保有する権力が[小 --> 大]に変化する)を見続けている方が、より快い、という感情である。

多くの人にとっては、[大 --> 小] よりも、[小 --> 大] へと、自らの権力が変化する方が、好ましかったであろう。

Fig3_1_2
Fig3.1

(現代日本のような法治国家とは異なる社会においては、自らが持つ権力の大小と、自らや家族の生命や財産の維持との間には、密接・切実な関係があったと思われる。多くの人々が、自らの権力の増減に対して、無関心ではおれなかったであろう。)

当時の日本に、[詩的な魂を持っているある人B]が存在していた。以降、この人のことを、[詩的な人B]と略記することとする。

[詩的な人B]の心中にも、前章で述べた、[快]マークつきの矢印を内包する概念・成長と衰退が存在していた。
Fig3_2_2

Fig 3.2

ある日、[詩的な人B]の心中において、以下のような現象が次々と発生した。

(1)[詩的な人B]の心中において、詩的インスピレーションの湧出と共に、概念・成長と衰退 と、概念・権力の変化 とが共に想起された。

(2)[詩的な人B]は、概念・成長と衰退 と、概念・権力の変化 との間に、構造的な類似があることに気づいた。これについては、後に詳細を述べる。

(3)そこで、[詩的な人B]は、この2つの概念の間に、

 [リンク[概念・成長と衰退-概念・権力の変化]]

を生成した。

このリンクは、概念と概念を結びつけ、なおかつ、概念を構成する要素と要素を結びつけるような、二階層のリンクである。

 概念・成長と衰退   概念・権力の変化
  [低 --> 高]   と  [小 --> 大]   がリンクづけされ
  [高 --> 低]   と  [大 --> 小]   がリンクづけされ

Fig3_3_2
Fig 3.3

[詩的な人B]が気づいた、概念・成長と衰退 と、概念・権力の変化 との構造的な類似、それは、下記の2点である。

(A) [快]マークつきの矢印の存在

 概念・成長と衰退 と 概念・権力の変化 がともに、[快]マークつきの矢印を内包しており、その矢印は同じ方向を向いている。

(B) 時間の経過と共に増大・減少していく快

 概念を構成している要素の時間経過のパターンが同一形である。

 概念・成長と衰退 を構成する
  要素[成長] においては
   時間の経過と共に、成長を見続けている[詩的な人B]の快感が 増大 していく。
   (種から芽生え、青葉、そして、花へと、成長が進んでいくにつれて)。
  要素[衰退] においては
   時間の経過と共に、衰退を見続けている[詩的な人B]の快感が 減少 していく。
   (結実から、しおれ、やがて地に伏しと、衰退が進んでいくにつれて)。

 概念・権力の変化 を構成する
  要素[小 --> 大] においては
   時間の経過と共に、[詩的な人B]の快感が 増大 していく。
   (時間の経過と共に、権力が増強していくにつれて)。
  要素[大 --> 小] においては
   時間の経過と共に、[詩的な人B]の快感が 減少 していく。
   (時間の経過と共に、権力が減衰していくにつれて)。

下図において、時間経過と共に快感が増加・減少していく様を、模式的に曲線で表した。

Fig3_4_2
Fig 3.4

そして更に、[詩的な人B]の心中において、概念・高度の変化が想起され、これと、概念・成長と衰退との間に

 [リンク[概念・高度の変化-概念・成長と衰退]]

が形成された。

Fig3_5_2
Fig 3.5

そして更に、[詩的な人B]の心中において、

 [リンク[概念・高度の変化-概念・成長と衰退]]
  と
 [リンク[概念・成長と衰退-概念・権力の変化]]
  が合成されることにより、

 [リンク[概念・高度の変化-概念・権力の変化]]

が形成された。

Fig3_6_2
Fig 3.6

このリンクにより、[詩的な人B]の心中に、

 権力の「小」から「大」への変化

  を

 権力の「低」(状態)から「高」(状態)への変化

に言い換えるような、比喩の心情が生じた。

ある個人(例えば、藤原氏・摂関家系に所属する人)において、

 権力の低から高への変化

が、継続して発生していった、その先にある状態とは、

 その人の権力が、極めて高い位置に到達した

という状態として表現されるだろう。

このようにして、

 概念・高度の変化 と 概念・権力の変化 とのリンク

から、

 概念・高度 と 概念・権力 とのリンク

が派生的に発生した。

Fig3_7_2
Fig 3.7

[詩的な人B]は、このリンクをもとにして、概念・高度と、概念・権力 とを複合することにより、下記のような表現を創作した。

 「XXXXが持つ権力は、最高の高みに達している。」

しかし、この表現は、あまりにも長ったらしくて、使用するには不便である。そこで、[詩的な人B]は、上記の省略形として、

 「XXXXは高位高官」

という表現を創作した。

その後、この表現が多くの人々に受容・伝搬され、今日に至った。

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