太平記

2018年6月12日 (火)

太平記 現代語訳 40-6 流れが変わってきた(最終章)

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利幕府・リーダーA とにもかくにも、今やらなきゃいかん最優先の課題は、管領(かんれい)職の選定と任命、これだよ、これ!

足利幕府・リーダーB 同感だな。第3代将軍たる若君(注1)は、まだ幼くていらっしゃるもんなぁ。

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(訳者注1)足利義満。
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足利幕府・リーダーC 「この人に任せときゃ、ぜったい、だいじょうぶ」ってな人を、管領に選出してさぁ、若君の補佐、バッチシやってもらわにゃぁ。

足利幕府・リーダーD でぇ・・・いったい、誰? 誰を管領に?

足利幕府・リーダー一同 ・・・。

足利幕府・リーダーE ・・・そうねぇ・・・ここはやっぱ、あの人でしょぉ。

足利幕府・リーダー一同 ・・・(Eを注視)。

足利幕府・リーダーA 「あの人」って、誰?

足利幕府・リーダーE 「敵を滅ぼし、人をなつけ、諸事(しょじ)の沙汰(さた)のそのさばき方、あの貞永(じょうえい)年間、貞応(じょうおう)年間の鎌倉幕府・黄金時代を、ほうふつとさせるような所がある」と、世間が評してる人さ。

足利幕府・リーダーー一同 ・・・(Eを注視)。

足利幕府・リーダーE 中国地方の統治を、委任されてる人。

足利幕府・リーダーD 細川頼之(ほそかわよりゆき)か!

足利幕府・リーダーE そぉ!

足利幕府・リーダーC なぁるほど。

足利幕府・リーダー一同 なるほどねぇ・・・うーん、彼だったら、立派に管領つとまるだろうよ。

というわけで、右馬頭(うまのかみ)・細川頼之(ほそかわよりゆき)を武蔵守(むさしのかみ)に補任し、幕府管領(かんれい)職に就任させる事に、衆議一決した。

頼之が管領に就任するや、外向きの姿と内に秘めた徳の両面において、世評に全く違わないその姿に、足利一族の面々も彼を重んじるようになり、外様(とざま)の人々も彼の命に服するようになっていった。

かくして、万人待望久しかった中夏無為(ちゅうかぶい:注2)の治世がようやく到来した。

長く続いたこの戦乱の世にも、平和の方向に向かって歴史のベクトルが収束していく様相が、ようやく見えてきた。あぁ、なんとすばらしい事であろうか!

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(注2)国家が、自然にうまく治まっている様。
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太平記 現代語訳 40-5 将軍・足利義詮、死去す

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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このような中に、同年9月下旬頃から、将軍・足利義詮が、体調を崩してしまった。

寝食快く無いがゆえに、和気(わけ)と丹波(たんば)の両流はもちろんの事、医療の分野において世間に名を知られている人を残らず招き、様々の治療を施した。

しかし、かの大聖釈尊(たいせいしゃくそん)においてさえも、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下において涅槃(ねはん)せられたる時には、名医・ギバの霊薬も効験が無かったのである。この事を通して、釈尊は、「人生の無常」という事を、予め、我々に示し置かれたのである。

ならば、既に定まっている個々の人の寿命を先伸ばしにできるような薬など、この世にあろうはずがない。これまさに、明らかなる有待転変(うだいてんぺん)の理(ことわり)である。

京都朝年号・貞治6年(1367)12月7日午前0時、足利義詮は逝去した。享年38歳。

天下は久しく、将軍・義詮の掌(たなごころ)の中にあった。彼から恩を頂き、彼の徳をしたう者は、幾千万人いたことであろうか。

しかし、いくら嘆き悲しんでみても、もはやそのかいもない。

「いつまでも、嘆き悲しんでいてはいかんのだ」と、関係者一同、自らに言い聞かせ、泣く泣く、葬礼の儀式を取り営み、衣笠山(きぬがさやま:京都市・北区)の麓、等持院(とうじいん:北区)に、遺体を移した。

12月12日正午、火葬の準備が整えられ、荘厳なる仏事が始まった。

鎖龕(さがん)の偈文(げぶん)を唱えるは東福寺(とうふくじ:東山区)の長老・知親義堂(ちしんぎどう)、起龕(きがん)の偈文を唱えるは建仁寺(けんにんじ:東山区)の竜湫周澤(りゅうしゅうしゅうたく)、奠湯(てんとう)供えの儀は萬壽寺(まんじゅじ:東山区)の桂岩運芳(けいがんうんほう)、奠茶(てんちゃ)供えの儀は真如寺(しんにょじ:北区)の中山清誾(ちゅうざんせいぎん)、念誦は天龍寺(てんりゅうじ:右京区)の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、下火(あこ)は南禅寺(なんぜんじ:左京区)の定山祖禅和尚(ていざんそぜんおしょう)が行った。

文々(もんもん)に悲涙(ひるい)の玉詞(ぎょくし)を磨き、句々に真理の法義(ほうぎ)を述べる。故人も速やかに、三界(さんがい)の苦輪(くりん)を出て、直ちに涅槃四徳(ねはんしとく)の楽邦(らくほう)に到達されることであろうか・・・悲しみは、いやますばかり・・・。

世間の声A それにしても、今年っちゅう年はまぁ、いったいなんちゅう年やったんでしょうなぁ。

世間の声B 京都と鎌倉と時同じく、兄弟の連枝(れんし)たちまちに、同根(どうこん)空しく枯れてしまうとはねぇ。

世間の声C この先いったい、どなたさんが征夷大将軍に就任されて、四海の乱を治めていってくれるんじゃろかいのぉ?

世間の声D ムムム・・・まさに、危うき中に愁い有り、だが。

世間の声一同 さてさて、この先いったい、どないなっていくもんやら・・・。

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太平記 現代語訳 40-4 最勝講の場において、興福寺と延暦寺の衆徒、武闘に及ぶ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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同年8月18日、「最勝講(注1)を行うので、所定の人員を出せ」との命令が、諸寺院に対して送られた。

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(訳者注1)[金光明最勝王経]を、5日間10講義して、天下太平を祈る。執行の場所は、御所の清涼殿。
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その割り当て人数は、興福寺(こうふくじ:奈良市)10人、東大寺(とうだいじ:奈良市)2人、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)8人。園城寺(おんじょうじ:大津市)は、そのメンバーリストから除外されてしまった。

京都朝廷閣僚A そら、しゃぁないわなぁ、園城寺は、今度の訴訟に決着つかん間は、朝廷からの僧侶招聘(しょうへい)には一切、応じひんて、言うてきとんねんから。

当日のレフェリー(注2)には、前大僧正(さきのだいそうじょう)・懐雅(かいが)と、延暦寺の慈能(じのう)僧正が任命された。

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(訳者注2)原文では、「証義(しょうぎ)」。
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仏教の講義・論争の場においては、学海智水(がっかいちすい)を沸かし、智慧の剣を互いに闘わすべきである。

なのに、この時、興福寺と延暦寺の衆徒たちは、よりにもよって御所の庭において、不慮の喧嘩をしでかし、激烈な戦闘をやらかしてしまったのであった。

紫宸殿(ししんでん)の東、朝廷侍医控え所(注3)の前には、興福寺の衆徒らが、紫宸殿の西、渡り廊下(注4)の前には、延暦寺の衆徒らが、列をなして立っていた。

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(訳者注3)原文では、「薬殿(くすどの)」。

(訳者注4)原文では、「長階(ながはし)」。
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見れば、興福寺の衆徒たちは全員、わきに太刀を差している。

突如、興福寺の衆徒たちは抜刀し、延暦寺側めがけて、切り掛っていった。

延暦寺側は、太刀も長刀(なぎなた)も持ちあわせていないから、抵抗のしようがない。一歩もそこに踏みとどまる事ができず、紫宸殿の大床(おおゆか)の上へ追い上がられ、もうどうにもならない。

光円坊良覚(こうえんぼうりょうかく)、一心坊(いっしんぼう)の越後注記・覚存(えちごのちゅうき・かくそん)、行泉坊(ぎょうせんぼう)の宗運(そううん)、明静房(みょうじょうぼう)の学運(がくうん)、月輪坊(げつりんぼう)同宿の円光房(えんこうぼう)と十乗房(じゅうじょうぼう)はじめ、延暦寺側主要メンバーたちは、意を決して小刀だけでもって反撃に転じ、勇み誇る興福寺衆徒らのまっただ中へ、脇目もふらずに切って入った。

中でも、一心坊の越後注記・覚存は、興福寺の一人の若い衆徒の手から4尺8寸の太刀を奪い取り、「ここは、自分が何とかせねば!」と勇み立って切り回る。

興福寺衆徒たちは覚存に切り立てられ、バァッと散った。その中に、手掻(てんがい)侍従房(じじゅうぼう)が、ただ一人その場に踏みとどまり、一歩も退かずに、おめき叫びながら覚存と対戦。

追い廻し、追いなびけ、1時間ほども闘争は続いたであろうか。

始めのうちは、人数において劣り、武装においても準備が無かった延暦寺側が劣勢にあったが、急を聞いてかけつけてきた延暦寺側の下役の僧侶たちが、太刀や長刀の切っ先をそろえ、4本柱の門から中へ突入、縦横無尽に切って回った。

人数において優勢であった興福寺側は、これにはたまらず、ついに、北門から御所を脱出して一条大路(いちじょうおうじ)へ、白雲が風に渦を巻くがごとく、たなびき出た。

彼らが去った後の御所の庭の白砂の上には、手掻侍従房をはじめ、興福寺側の主要メンバー8人が、屍を並べて切り伏せられていた。延暦寺側も負傷者多数であった。

半死半生の者らを、戸板や盾を担架代りに使って運び出していくその有様たるや・・・御所の中において、このような事が起るとは、まさに前代未聞の事である。

あぁ、なんという事であろうか・・・御所という最高に尊い場所が、冷たい剣の光が飛び交う戦闘の場になってしまったとは。

宮中の庭を流れる清らかな水には、紅の血が流れ、その場に着座していた公卿大臣たちは、ただただ茫然、彼らの束帯は、ことごとく、緋色に染まってしまっている。

これほどの騒動があったにもかかわらず、天皇は、動揺する事なく、負傷者や死者を除かせた後、庭一帯の血を洗い清めさせ、席を改めた後に、最勝講を滞りなく執行したという。

世間の声A 最勝講とは、陛下よりの厳重なる御願によって、執行されるもの、まさに、天下の大法会といえましょうなぁ。

世間の声B そやのに、こないな、とんでもない事が起こってしまうやなんて・・・。

世間の声C いったいぜんたい、どうなっとるん?

世間の声D これはなぁ、きっと、何かの前兆だぜ。

世間の声E 公私に渡っての、何か不吉な事の前兆たい。

世間の声F この先いったい、何が起こるんじゃろうかのぉ・・・。

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太平記 現代語訳 40-3 南禅寺と園城寺の確執

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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同年6月18日、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市、別名:三井寺)の衆徒が蜂起し、朝廷と幕府に対して訴えを起こした。その事の発端は、そもそも何であったかというと:

当時、南禅寺(なんぜんじ:京都市・左京区)造営の費用を捻出(ねんしゅつ)するために、新たに関所が設けられていたのだが、なんと、その関所において、園城寺へ帰る途中の児(ちご)を、関所勤務の禅僧が殺害してしまったのである。

園城寺・衆徒一同 これまさに、前代未聞の悪事!

園城寺の衆徒たちは、憤怒の炎を燃やし、このうらみ晴らさんと、大挙してその関所に押し寄せ、当番の僧から下部(しもべ)や力仕事役に至るまでの全員を、打ち殺した。

それでもなおも、彼らは憤り止まず、

 「我らは訴える! 南禅寺を破却せしめよ! 禅宗を根こそぎ破棄せよ!」

との、強訴に及んだ。

園城寺衆徒A 奈良の東大寺と興福寺、そして延暦寺とわが園城寺、これら4か寺は、「何かあったら連合して、自分たちの身を守ろう!」との、固い固い約束を、既に交わしておるぅ!

園城寺衆徒B まさに、わが寺にとっての安否の時が、今や来たったぁ!

園城寺衆徒C 4か寺、連合して、南禅寺と徹底的に、戦うべきであぁるーっ!

園城寺衆徒一同 戦うべきであぁるーっ!

彼らは直ちに、延暦寺(えんりゃくじ:大津市)と興福寺(こうふくじ:奈良市)に対して、「連合して、事に当たろうではないか」との勧誘文書を送った。

園城寺衆徒A 事の決着がグズグズと遅れるような事あらばぁ、神輿(しんよ)、神木(しんぼく)、神座(しんざ)の本尊と共に、首都の中に、なだれこむべぇし!

園城寺衆徒一同 いざぁ、首都へ、首都へーーー!

園城寺衆徒A シュップレヒコォールゥ!

園城寺衆徒一同 ウォーッ!

園城寺衆徒B (コブシを振り上げ)南禅寺ぃ、ボクメェーツ(撲滅)!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)南禅寺ぃ、ボクメェーツ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)禅宗をぉ、根絶(ねだ)やしにせよーッ!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)禅宗をぉ、根絶やしにせよーッ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)我らは戦うぞー!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)戦うゾーッ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)戦うぞー!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)戦うゾーッ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)戦うぞー!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)戦うゾーッ! (拍手)

衆徒一同の手 パチパチパチ・・・。

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「これは大変、天下の一大事」と、世の中の動きの先を見る目のある人々は、密かにこれを危ぶんだ。

しかしながら、園城寺からの誘いに乗る、という事は大変な事でもあり、延暦寺も興福寺も、そうそう気軽には決断できない。

延暦寺においては、東塔(とうとう)エリア、西塔(さいとう)エリアそれぞれにおいて、意見は様々に分かれ、園城寺からの使者は、連合勧誘書状を持ったまま、比叡山上の3エリアを巡る事に、ただただ時間を費やすばかり。

そんなこんなで、園城寺側は、実力行使にうって出る事もできず、幕府は幕府でノラリクラリ、待てど暮らせど一向に、裁決が出てこない。

園城寺衆徒一同 ほんまにもう! 幕府はいったいいつになったら、裁決、出してくれるんやぁ!

園城寺からの訴状は空しく放置され、衆徒たちは、ただただ、怒りの中に日を送るばかりである。

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太平記 現代語訳 40-2 足利基氏、死去す

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太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「このような事では、いったいこの先、我が国はどうなっていってしまうのであろうか」と、衆人危ぶむ中に、またまた、ショッキングなニュースが、関東よりもたらされた。

今年の春より、足利幕府・鎌倉府長官・足利基氏(あしかがもとうじ)は、体調を崩していたが、京都朝年号・貞治(じょうじ)6年(1367)4月26日、突然、死去してしまった。享年28歳。

兄弟の愛情はまことに篤い、相手との死別を悲しまない者が、この世にあろうか。

ましてや、この二人(義詮と基氏)は、言うなれば二翼両輪(によくりょうりん)、日本の西と東、二つの中心的な存在であったのだから。

死別の悲しみもさることながら、関東の柱石たる基氏が砕け落ちてしまったのでは、幕府の力は今後、勢い衰えていってしまうのではなかろうか・・・関係者一同、愁嘆は深い。

京都中、大いに怖れ慎み、「諸々の寺社において、除災の祈祷が行われるのでは。」といったような事も、取りざたされた。

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太平記 現代語訳 40-1 清涼殿において、和歌会、盛大に催さる

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太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都朝年号・貞治(じょうじ)6年(1367)3月18日(注1)、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)は、長講堂(ちょうこうどう)へ行幸した。後白河法皇(ごしらかわほうおう)175周年御遠忌法要(ごおんぎほうよう)に参列の為である。

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(訳者注1)[日本古典文学大系36 太平記三 後藤丹治 岡見正雄 校注 岩波書店]の注によれば、史実としては、3月13日にあった事であるという。
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天皇は3日間、そこに逗留(とうりゅう)し、法華経(ほけきょう)の読経(どきょう)を行った。法要の導師は、安居院(あぐいん)の良憲法印(りょうけんほういん)と竹中(たけのうち)の慈照僧正(じしょうそうじょう)であった。

まことにすばらしい法要で、それに参座した僧俗は、全員残らず随喜した。

後光厳天皇の治世の理念は、「万事において、絶えたるを継ぎ、廃れたるを復興していこう」との事であったから、諸々の行事すべてにおいて、万全を尽くしていった。

後光厳天皇 それにしても残念なんは、清涼殿(せいりょうでん)での和歌と管絃の会が、すっかり廃れてしもぉた事やなぁ。これは、歴代の朝廷において執り行われてきたもんやのに、私が即位してからは、ただの一度もやってへん。なんとかしたいもんや。

そこで、天皇は、関白以下の閣僚たちを集めて、

後光厳天皇 このさい、清涼殿での和歌と管絃の会を、復活させたいんやが。

京都朝閣僚A えっ・・・清涼殿での和歌と管絃の会ですかいな・・・。

京都朝閣僚B ・・・陛下、おそれながら・・・あれをやるとなると、なかなか・・・。

京都朝閣僚C ごっつい、たいそうな事に、なりますよぉ。

京都朝閣僚D あれは、あんまし、えんぎのえぇ行事ではないんですわ。

京都朝閣僚E そうだす。あれをやった年には決まって、悪い事が起こるという、歴史的・経験則がありましてなぁ。

後光厳天皇 ・・・。

京都朝閣僚A やっぱし、やめときましょいな。

後光厳天皇 あのなぁ、みんな、よぉ考えてから、モノ言いや!

京都朝閣僚一同 ・・・。

後光厳天皇 かの孔子のたまわく、「詩は300篇もあり、その内容は実にバラエティに富んではいるが、一言でいえば、それらには一切、邪念というものが含まれてないのである。」

後光厳天皇 だからこそ、「治れる世の音は、安んじで楽しむ事ができる、乱れたる世の音は、恨みと憤怒を含んでいる」という言葉があるんやないか。和歌もまた同様や、政治を正し、正邪の判別を教え、王道の興廃を知る事において、和歌は大いなる力を持ってるんや。そやからこそ、歴代の天皇陛下方も、春の花の朝、秋の月の夜と、なにかにつけては臣下たちに和歌を詠ませ、その内容でもって、彼らの賢愚を判別していかれたんや。

後光厳天皇 和歌を詠むという行為はやな、それこそ、神代(かみよ)の昔からあった風俗(ならわし)や、これを捨てられた帝、歴代の中に、一人でもおられるか? おられんやろ?

後光厳天皇 和歌はまさに、聖代(せいだい)の教戒(きょうかい)、誰が、これをもてあそんでよいであろうか!

後光厳天皇 そもそも、この清涼殿での和歌と管絃の会、後冷泉上皇(ごれいぜいじょうこう)陛下が、天喜4年3月に、造花の桜をご覧になって感動され、大納言・土御門師房(つちみかどもろふさ)に歌会開催を命じられ、清涼殿に群臣を招集されたのが、その発端である。

後光厳天皇 この時、陛下は、「新たに桜花を成す」という歌の題を定められ、みなに和歌を詠ませはったんや。陛下おん自らも詠まれてな。その時、管絃の会もあわせて行われた。

後光厳天皇 その後、白河上皇(しらかわじょうこう)は、応徳元年3月、左大弁・大江匡房(おおえのただふさ)に命じられて、「花に多春を契る」という歌題でもって、清涼殿での和歌会を開催された。

後光厳天皇 堀川上皇(ほりかわじょうこう)の御代(みよ)・永長元年3月にも、権大納言・匡房に命じられ、「花に千年(ちとせ)を契る」の歌題でもって、宴遊を行われた。

後光厳天皇 崇徳上皇(すとくじょうこう)もまた、天承元年10月、権中納言・源師頼(みなもとのもろより)に命じられて、「松樹緑久し」の歌題でもって、同様に和歌会を開催された。

後光厳天皇 また、健保6年8月には、順徳上皇(じゅんとくじょうこう)が、関白・藤原道家(ふじわらのみちいえ)に命じられ、「池の月久しく澄む」の歌題でもって、和歌会を開催。

後光厳天皇 後醍醐(ごだいご)先帝の時にも、元徳2年2月、権中納言・藤原為定(ふじわらのためさだ)に命じられ、「花、萬春を契る」の歌題でもって、和歌会を開催。

後光厳天皇 この他にも、承保2年4月、長治2年3月、嘉承2年3月、建武2年正月、清涼殿での和歌の宴が行われた、それも、一度や二度の事ではない。それらは、清涼殿での和歌会の先例の数には入ってないけどな。

後光厳天皇 このような先例は全て、聖なる御代の偉大なる教化といってもえぇ事やないか、そやのにいったいなんで、「あれは、えんぎのえぇ行事ではない」てな事が言えるんや? えぇ?

京都朝閣僚一同 ・・・。

後光厳天皇 今年の春はとりわけ、都の内は花香ばしい。今や、日本全土に平和の気風がみなぎりはじめた今この時に、清涼殿の歌会を行わぬという事ではなぁ!

後光厳天皇 速やかに、かの健保の時の歌会の模様を克明に調査した上で、今回の歌会開催の準備を、関白以下、鋭意、進めていくように! 和歌の題とか、序のあり方とか、決めとかんならんこと、よぉけあるぞ、一同、心してな!

京都朝閣僚一同 ハハーッ(平伏)。

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京都朝閣僚D えらい事に、なってしまいましたなぁ。

京都朝閣僚E 幕府の意向が、気になりますが・・・。

京都朝閣僚A いや、それがなぁ、陛下から更に、ダメ押しされてもうてなぁ・・・陛下がおっしゃるには、現将軍は和歌を愛好してて、「勅撰集の編纂(へんさん)など、いかがでしょう」てな事まで、言うてきてる。みなは、えんぎが悪い行事やというけど、建武年間の清涼殿での和歌会では、他ならぬ先代将軍(注2)も、和歌を詠んでるやんかいなぁ、えんぎ悪いはず、ないやん、と、おっしゃられてなぁ。

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(訳者注2)尊氏は、和歌を詠むことをとても好んでいたようである。
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京都朝閣僚C まぁ、そやったら、幕府も賛成してくれるでしょう。

京都朝閣僚B やるしか、ないですなぁ。

京都朝閣僚A ハァー・・・(溜息)。

というわけで、3月29日に執行、奉行役は、蔵人・左少弁・勘解由小路仲光(かげゆこうじなかみつ)が担当することになった。

当日、勅によって召喚された歌人たちに出されるテーマは、「花は多春の友」。健保の時の例にならって、期日よりも前に、関白が定めたのだとか。

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いよいよ当日、清涼殿・中央間(ちゅうおうのま)の庇(ひさし)の御簾(みす)を巻き上げ、階(きざはし)の西の間から3間北に当たる2間の部屋に、それぞれ、菅(すげ)の円座を敷き、公卿たちの座とした。

長治元年の時には2列に座を作ったのであったが、今回のこのフォーメイション(formation:配置)は、関白がこのように定めたのである。

御座所の帳(とばり)の東西には、3尺の几帳(きちょう)が立てられ、昼の御座の上には、御剣(ぎょけん)と御硯箱(おすずりばこ)が置かれた。

大臣たちの席の末、参議たちの座の前には各々、高灯台が立てられた。

まず、関白・二条良基(にじょうよしもと)が、直廬(注3)から会場に入室、内大臣・二条師良(にじょうもろよし)以下が、それに続いた。

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(訳者注3)摂政、関白、大臣などに割り当てられている個室。
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保安の時の例にならい、直衣(のおし)の着はじめが行われた。

前駆(せんく)、布衣(ほい)、随身(ずいじん)の褐色の衣は常のごとくであったから、さほど鮮やかな装いであったとは、言い難い。

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午前2時、将軍・足利義詮が参内。その装いに、衆人、目を見張った。

公家の中で、義詮と親しい関係にある人々、すなわち、冷泉為秀(れいぜいためひで)、世尊寺行忠(せそんじゆきただ)、正親町実綱(おうぎまちさねつな)、冷泉為邦(れいぜいためくに)らが、庭まで下りて礼をつくした。

義詮は直ちに、左衛門(さえもん)の陣の四足の門をくぐった。その先には、帯刀(たてはき)10人が、左右に連なって列を引く。

左の列には、佐々木時秀(ささきときひで)、白地の直垂(ひたたれ)に金銀の箔で四目結(よつめゆわい)の家紋を押した紅の腰、鮫皮(さめがわ)の金作りの太刀を佩いている。

右の列には、小串詮行(おぐしのりゆき)、黒地の直垂に銀箔で二雁(ふたつかり)の家紋を押し、白太刀を佩いている。

その次に、伊勢貞行(いせさだゆき)、白地の直垂に金箔で村蝶(むらちょう)の家紋を押し、白太刀を佩いて左に歩む。

右には、斎藤清永(さいとうきよなが)、黄赤地の直垂に二筋違の中に銀箔でなでしこを押した黄腰に、鮫皮の太刀を佩いている。

その次に、大内詮弘(おおうちのりひろ)、直垂には金箔で大菱(おおびし)を押し、打鮫に金作りの太刀を佩く。

右には、海老名詮季(えびなのりすえ)、黒地に茶染めの直垂に金箔で大カゴを押し、黄の腰に白太刀を佩いている。

その次に、本間義景(ほんまよしかげ)、白紫地の片身易(かたみがわり)の直垂に金銀の箔で十六目結の家紋を押し、紅の腰に白太刀を穿く。

右には、山城師政(やましろもろまさ)、白地に金泥で州流(すながれ)を書いた直垂に、白太刀を佩いてあい従う。

その次に、粟飯原詮胤(あいはらのりたね)、黄色地に銀泥にて水を描き、金泥で鶏冠木(かえで)を描いた直垂に、帷子(かたびら)は黄色の腰に白太刀を佩いている。まことに立派に見える。

その次に、征夷大将軍(せいたいしょうぐん)・正二位(しょうにい)・大納言・源朝臣義詮卿(みなもとのあそんよしあきらきょう)、薄紫色の立紋(たてもん)の織物の指貫(さしぬき)に、紅の打ち衣を出し、常の直垂。

その左傍には、山名氏清(やまなうじきよ)、濃い紫の指貫に山吹色の狩衣(かりぎぬ)を着て、帯剣(たいけん)の役でもって随(したが)っている。

右には、摂津能直(せっつよしなお)、薄色の指貫に白青(あさぎ)織の狩衣を着て、沓持ち(くつもち)の役でもって随っている。

佐々木高久(ささきたかひさ)は、二重の狩衣姿で、弓矢持ちの役でもって随っている

本郷詮泰(ほんごうあきやす)は、香の狩衣姿で、笠の役でもって随っている

今川了俊(いまがわりょうしゅん)は、侍所(さむらいどころ)長官として、さわやかに鎧たる随兵100騎ほどを率い、軍門警護の役でもって随っている。

この他のメンバー:土岐直氏(ときなおうじ)、山城行元(やましろゆきもと)、赤松光範(あかまつみつのり)、佐々木高信(ささきたかのぶ)、安東高泰(あんどうたかやす)、曽我氏助(そがうじすけ)、小島詮重(こじまあきしげ)、朝倉詮繁(あさくらあきしげ)、朝倉高繁(あさくらたかしげ)、彦部秀光(ひこべひでみつ)、藤盛時(ふじもりとき)、八代師国(やしろもろくに)、佐脇明秀(さわきあきひで)、藁科家治(わらしないえはる)、中島家信(なかじまいえのぶ)、後藤伊勢守(ごとういせのかみ)、久下筑前守(くげちくぜんのかみ)、荻野出羽守(おぎのでわのかみ)、横地山城守(よこちやましろのかみ)、波多野出雲守(はたのいずものかみ)、濱名左京亮(はまなさきょうのすけ)、長次郎(ちょうのじろう)、彼らは、思い思いの直垂にて、乗馬に厚い房をかけ、まことに華やかなる装いである。

将軍・義詮が清涼殿に上がった後、帯刀役は全員、中門の外に敷皮を敷き、列をなして着座。

まず、天皇の勅により、「午前の召」の儀が行われ、関白が天皇の御前へ参った。

その後いよいよ、「清涼殿・和歌会オープニング」の刻限、人々は殿上に着座。

右大臣・西園寺実俊(さいおんじさねとし)、内大臣・二条師良、陸奥出羽按察使(あぜちし)・正親町三条実継(おおぎまちさんじょうさねつぐ)、中納言・日野時光(ひのときみつ)、中納言・冷泉為秀(れいぜいためひで)、首都圏長官・柳原忠光(やなぎはらただみつ)、侍従参議・世尊寺行忠(せそんじゆきただ)、前参議・小倉実名(おぐらさねな)、参議中将・二条為忠(にじょうためただ)、前参議・富小路実遠(つみのこうじさねとお)らが参じた。

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関白・二条良基が、奉行役の勘解由小路仲光を召し、準備が完全に整った事を確認の後、いよいよ、天皇の出御となった。

後光厳天皇(ごこうごんてんのう)は、黄色の直衣(のうし)に打って光沢を出した袴を、はいている。

二条良基は、着座の後、頭左中弁(とうのさちゅうべん)・万里小路嗣房(までのこうじつぐふさ)を召し、「公卿一同、着座すべし」と指示。嗣房は、殿上に公卿たちを招き入れた。

右大臣・西園寺実俊、内大臣・二条師良、以下、順次着座。

将軍・足利義詮は、殿上には着座せず、天皇のすぐ前に座った。

その後、万里小路嗣房、勘解由小路仲光、藤原懐国(やすくに)、五位の殿上人・伊顕(これあき)等のメンバーが、各々の役目に従い、灯台、円座、懐紙等を置いていく。

為敦(ためあつ)、為有(ためあり)、為邦(ためくに)、為重(ためしげ)、行輔(ゆきすけ)らも着座したが、右兵衛督(うひょうえのかみ)・二条為遠(にじょうためとお)は、御前には着座せず、殿上の端をぐるぐると回っている。これは、健保(けんぽう)年間の和歌会の時に、あの藤原定家(ていか)がこのようにしたのにならって、ということである。

富小路実遠、冷泉為秀、日野時光、足利義詮、二条師良、西園寺実俊、二条良基らが、思い思いに膝行し、懐紙を確認しては、また下がっていく。

健保の和歌会の時の例にならって、序文を書く任にある関白・二条良基は、座席の通りに懐紙を置いていく。直衣を中へ踏みたたみながら、膝行していく、これは元徳年間の和歌会の時に、当時の関白がこのようにしたから、という事なので。

和歌披露式の進行役を務めるは、右大臣・西園寺実俊、御前の円座に座して、和歌読み上げ役の勘解由小路仲光を召す。また、序文を読み上げんがために、別勅により、日野時光を召す。さらに、右大弁・為重を召して、懐紙を重ねさせた。

序文から順次、歌が読み上げられていく。

 春日(しゅんじつ) 中殿(ちゅうでん)に侍(じ)して 「花は多春の友」というテーマにて 同じく詠ず

 勅命を奉じて作った和歌一首ならびに序文
 関白従一位藤原朝臣・良基(よしもと) たてまつる

 まさに、天の仁を現すは春にして、地の和を示すは花。天地、悠久の道に則って、不仁の仁を施す。山水の清らかなる風景を楽しみて、大いなる和を展ず。黄色羽の鶯は友を呼びて万年の枝を遷(うつ)り、白い蝶は舞いて百里の園に遊ぶ。

 ああ、大いなるかな、陛下の聖徳、まさに今、清涼殿において、かくも盛大なる宴を催す。

 これより我ら、和歌を宮中において詠み、たちまち治世の風を呼びおこさんとす。古楽を宮中にて奏し、再びあの太古の調べを蘇(よみがえ)らせんとす。

 いわんや、陛下が笙(しょう)を演奏されるは、あたかも紫鸞鳥(しらんちょう)の声、高く引くがごとし。文章の技巧はまさに、月宮の仙女の新たに詞をつぐがごとし。

 大乱の世には、必ずしも雅楽を楽しまず、といえども、これを兼ねるは、まさに今この世。文学を好む人は、必ずしも和歌を詠むとは限らぬが、これを兼ねるは、まさに我らが陛下なり。

 この宴は、一世一大のイベントにして、未来永劫にわたって、世の中に良き影響を及ぼしていくはず。

 わたくし(小臣)は、久しく陛下の龍顔(りゅうがん)に謁(えっ)したてまつり、かたじけなくも、万機(ばんき)のまつりごと(政治)を、おたす(佐)け申し上げてきたり。また、陛下のお言葉を、親しく奏したてまつり、一日のおん遊びを、記してまいりたり。

 そのことば(辞)にいわく、

 仕えつつ 老いてはしもたが なおも先 千年までもと 花に誓うで

 (原文)ツカヘツツ、 齢(よわい)は老(おい)ぬ 行末(ゆくすえ)の 千年(ちとせ)も花に なおや契(ちぎ)らん

この次に、右大臣・西園寺実俊、内大臣・二条師良、陸奥出羽按観使・正親町三条実継、将軍・足利義詮、日野時光、冷泉為秀、日野忠光、世尊寺行忠、右兵衛監・二条為遠、藤原懐国らに至るまで、順次、和歌の披露が行われた後、和歌読み上げ役は全員、退席した。

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いよいよ、講誦(こうじゅ)の人々が、天皇作の歌を読み上げる段である。

後光厳天皇の意を受けて、二条良基が進行役の円座に座し、別勅にて日野時光を、陛下御作の和歌の読み上げ役として招いた。

陛下の作は、

 咲き匂う 御所の花の 元の枝に 永遠の春を 契ろうやないか

 (原文)開匂(さきにほ)ふ 雲居(くもい)の花の 本(もと)つ枝(え)に 百代(ももよ)の春を 尚(なお)や契覧(ちぎらん)

この歌の読み上げは10回にも及び、そうこうしているうちに、夜が明けてきた。

庭の様々の物が、徐々に定かに見え始め、花の薫るも懐かしく、かすみ立つ空気もじつに艶(えん)にして、和歌会参加メンバーたちの詠歌の声は、あたかも天に昇っていき、身体に沁み込んでいくかのようである。

陛下の御作の披露も終わり、めいめい、元の座に戻った。楽人以外の人々も退席した。

その後、直ちに、管絃楽が始まった。

笛は三条実知(さんじょうさねとも)、和琴(わごん)は正親町実綱(おうぎまちさねつな)、ヒチリキは兼親(かねちか)、笙は刑時(のりとき)、拍子木(ひょうしぎ)は綾小路成方(あやこうじなりかた)、琴は公全(きんまさ)、付け歌は宗泰(むねやす)。

まず、呂(りょ)の部が始まり、此殿(このとの)、鳥の破(とりのは)、席田(むしろだ)、鳥の急(とりのきゅう)が奏された。

次に、律(りつ)の部が始まり、萬歳楽(まんざいらく)、伊勢海(いせのうみ)、三台急(さんだいきゅう)が演奏された。

笙のすばらしい音色を聞いて、鳳凰さえもやってくるであろうか、和琴のみごとな調べには、鬼神さえも感動するかと思われる。

清涼殿和歌会において、天皇が自ら何かを演奏するのは、極めて希(まれ)な事である。健保の時には琵琶を演奏したが、その後、そのような事例は聞いた事がない。なのに、今この御代の和歌と管絃の双方の宴に、天皇自ら和歌を作られ、演奏をされるとは、まったくもって、なんとありがたい事であろうか。

参加メンバーF こないな大行事っちゅうもんには、だいたいにおいて、少々のトラブルはつきものなんですが。

参加メンバーG 今回のこれは、まったく一寸の狂いもなし、パーフェクトな進行ですわなぁ。

参加メンバーH これは、非常にえぇ(良)前兆ですよ。日本全国、和歌をもって行う政道に帰し、四海は、かつての旧き良き時代の気風を仰ぎ。

参加メンバーI 人は皆、かの大歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の功績をほめたたえ、世はこぞって、将軍の風流の心に感歎す・・・といったとこでしょかいなぁ。

翌日の正午頃、宴はようやく終わり、人々は御所から退出した。まことに盛大なるイベントであった。

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「清涼殿の和歌会などという大行事は、我が国には分不相応(ぶんふそうおう)と、いうべきものである。ゆえに、それをあえて強行すると、必ず、天下に重大事が起るぞ」とは、多くの人によって、語り伝えられてきた事である。

ゆえに、重臣たちはことごとく、天皇の意向に対して、眉をひそめて諫言もうしあげた。しかし、かくのごとく、天皇は、がんとしてそれを聞き入れず、ついに、和歌会を執行されたのである。

ここで、注目すべき事実がある。

和歌会前日の3月28日午前2時頃、天空において、大異変が観測されていたのである。

えたいのしれないUFO(未確認飛行物体)が多数、首都の西の空から、東の方向に向かって進んでいくのが、目撃されていた。

そして、翌29日16時頃、あの天龍寺(てんりゅうじ:右京区)の新築したばかりの大きな建物、それも、未だ工事完了にまで至っていないものが、失火によってたちまち焼失し、灰燼(かいじん)に帰してしまったのである。

世間の声J おいおい、これはいったい・・・。

世間の声K 天龍寺といやぁ、朝廷からも幕府からも、別格の尊崇(そんすう)、受けてるとこじゃないのよぉ。

世間の声L 京都五山(きょうとござん)の、ナンバーツーだっせぇ。

世間の声M 災いを払い、福を集める懇祈(こんき)を専らにしてはる、大きなお寺さんやのになぁ・・・ほんまに、いったい、これはどういう事なんどすやろなぁ?

世間の声N 清涼殿和歌会のまさに当日という、この時にねぇ・・・。

世間の声O なにかどうも、ブキミに感じられてならねぇ。

世間の声P やっぱ、まずいじゃぁねぇのぉ、あの和歌会やるのはぁ。

世間の声一同 ほんになぁ。

さすがに、この件は問題になり、将軍の和歌会への参加を差し控えたい、と、幕府は再三、朝廷に奏した。

後光厳天皇 あの天龍寺は、勅願によって建立された寺やないかいな・・・それが焼け落ちてしまうやなんて・・・最初聞いた時は、ビックリして、声も出ぇへんかったわ。

京都朝閣僚B やっぱし、和歌の会、中止された方がよろしん、ちゃいますやろか?

後光厳天皇 なに言うてんねん! こないな災いがあったからいうて、この期(ご)に及んで、和歌の会、中止できるわけないやろが! そないな先例、どこにも無いやろ!

京都朝閣僚C はぁ、たしかに、先例はございませんけどぉ。

後光厳天皇 とにかく、やるんや! やるいうたら、やるんやぁ!

京都朝閣僚一同 はぁ・・・。

京都朝閣僚A ハァー(溜息)。

しかしなおも、朝廷と幕府の協議は長引き、ついに決行と決まった時には、もうすでに夜は更けていた。それゆえに、徹夜して翌日の昼間までという、たいそうな宴に、なってしまったのであった。

まったくもって、驚くべき事であるといえよう。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2018年6月11日 (月)

太平記 現代語訳 39-12 光厳法皇の葬儀、執行さる

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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光明上皇(こうみょうじょうこう)、梶井宮(かじいのみや)・承胤法親王(しょういんほっしんのう)は、共に禅宗僧侶となり、伏見殿(ふしみでん)に住んでいたが、光厳法皇が亡くなられたとの知らせを聞いて、急ぎ、法皇の住んでいた山間の寺院(注1)へ赴き、ダビの事等を取り営み、背後の山中に遺体を埋葬した。

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(訳者注1)常照皇寺(京都市・右京区)。
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仙洞御所(せんとうごしょ)の中での崩御であったならば、百官、涙をしたためて葬車の後に従い、天皇も悲しみを呑んで虞附(ぐつ)の祭を営んだであろう。

しかし、世間に知られる事もなく、山中でひっそりと営まれる葬儀であるから、ただ徒(いたず)に鳥啼(な)いて挽歌(ばんか)の響きを添え、松(まつ)咽(むせ)んで哀慟(あいどう)の声を助けるばかり。

何もかもは、ただ一片の夢に過ぎなかったのであろうか・・・。

光明上皇 (内心)今日は、7月7日か・・・かつての華やかなりし時、、兄上と共に長生殿(ちょうせいでん)で、七夕祭をやったなぁ・・・。

後宮の美人らひしめき、宮殿の両階段に楽人たちが調べを奏でる中、二星一夜の契りを惜しみながらの乞巧奠(きっこうてん)の七夕行事が、ついこの間の事のように、なつかしく思い起こされてならない。

光明上皇 (内心)悲しいかな、当年の今日7月7日、閑静な山深いこの地において、三界八苦(さんがいはっく)の別離に逢わんならんとは・・・。

光明上皇と承胤法親王、山中に棺を担(にな)っての葬送の儀・・・あずまやから眺める月は、生滅変転(しょうめつへんてん)の雲に隠れ、万年樹(まんねんじゅ)の花は、無常の風に散る・・・寺の庭を回(めぐ)る山川も、法皇との別離を悲しんで、雨となり雲となるか、心無い草木も、法皇の死を悼(いた)んで、葉は落ち、花しぼむか・・・。

光厳法皇よりの恩を感じ、その徳を慕ってやまぬ旧臣の数は多かったが、あらかじめ言い含められていたがゆえに、そこに参集してくる者は稀であった。

わずかに、籠僧(こもりそう)3、4人が勤行を行い、四十九日までの仏事を、とり行った。

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その後も、光厳法皇の祥月命日毎に、様々の作善(さぜん)の仏事が毎年行われていった。

特に、三回忌法要の時には、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)が、てずから、一字三礼(いちじさんらい)紺紙金泥(こんしきんでい)の法華経(ほけきょう)写経を行って奉じ、5日間、朝夕2座の八講十種(はっこうじゅっしゅ)の経典講義が行われた。

楽人の奏でる音楽は、かの帝釈天(たいしゃくてん)・眷族八部衆(けんぞくはちぶしゅう)中の音楽神・キンナラの琴の音を思わせるかのよう、法要導師(ほうようどうし)が故人の徳をほめたたえるその言辞はまさに、釈尊(しゃくそん)・十大弟子(じゅうだいでし)中の弁舌第一(べんぜつだいいち)・プンナのごとくである。

法要の最終日、薪を採り雪を担う五位蔵人(ごいくろうど)は、千載給仕(せんざいきゅうじ)の昔の跡を重くし、水を汲み月を運ぶ殿上人(てんじょうびと)は、八相成道(はっそうじょうどう)の遠い縁を結ぶ。

これまた、かの善性童子(ぜんしょうどうじ)、あるいは、サンダイラン国に仕えた宝蔵(ほうぞう)の孝をも越え、浄蔵(じょうぞう)と浄眼(じょうげん)が父・妙荘厳王(みょうしょうごんおう)を仏道に導いた功をも、しのぐものである。

十方の諸仏がこの追善供養(ついぜんくよう)に随喜(ずいき)したもうた事は、言うまでもなく明らか、六道(ろくどう)に生きる諸々の存在もさだめし、その余薫(よくん)に預かった事であろうと思われるような、まことにすばらしい追善の仏事であった。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-11 光厳法皇、諸方を行脚

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝年号、正平12年(1357)、光厳上皇(こうごんじょうこう)は、吉野の山中・賀名生(あのお:奈良県・五條市)での幽閉から解放され、京都へ帰ってきた。(注1)

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(訳者注1)原文では、「光厳院禅定法皇は、正平七年の此、南山賀名生の奥より楚の囚を許され給て、都へ還御成たりし後」。

正平7年(1352)は、光厳上皇らが拉致された年である。ここは、太平記作者のミスである。
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その後、上皇は、厭世(えんせい)の感が強まり、「仙洞御所(せんとうごしょ)での華美な生活を捨て、身軽な境遇になってしまいたい」と、願い続けてい。そして、ようやくその願いがかない、袈裟を着して頭を丸め、世の塵を離れた生活ができるようになった。

まずは、伏見(ふしみ:伏見区)の奥の、光厳院(こうごんいん)という幽閑(ゆうかん)なる地に住んだ。

しかし、なんといっても都の近所、旧臣たちが、再び参り仕えようと、寄ってくる。

光厳法皇(注2) (内心)なんともまぁ、厭(いと)わしいもんやなぁ。過去のシガラミ、どこまでも、ひっついてくるやん・・・憂き世の事を、わが耳に入れただけで、なんや、心がどんどん汚れていってしまうような気持ちするなぁ・・・。

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(訳者注2)出家した上皇は、「法皇」と呼ばれる。今後、「光厳上皇」ではなく、「光厳法皇」と記述することとする。
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光厳法皇 (内心)中峯和尚(ちゅうほうおしょう)の作った送行偈(そうぎょうのげ)にもあるわなぁ、「来たりて止まる所無く、去って住する事無し。拄杖(しゅじょう)頭辺(とうへん)活路(かつろ)通ず。」(注3)

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(訳者注3)[拄杖]は、[禅僧が行脚(あんぎゃ)のときに用いるつえ]であり、この句の中においては、[行脚(あんぎゃ)]のシンボルとして使われている。

「来たりて止まらず、去って住する事無し」も、行脚の様態を示す語である。

「活路通ず」は、「その中に、覚りの境涯が開けるぞ」の意。
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光厳法皇 (内心)ほんまに、その通りや・・・行脚こそ、最高の人生やわなぁ・・・よし!

光厳法皇は、ついに思い立ち、しもべを一人も伴わず、順覚(じゅんかく)という僧一人だけを供に連れて、山林行脚の旅に出た。

光厳法皇 まずは、西国の方に行ってみるとしよか。

順覚 かしこまりました。

摂津国(せっつこく)の難波浦(なにわうら)を通過せんとした時、御津(みづ)の浜松に霞が渡り、曙の風景がもの哀れに感じられた。

光厳法皇 誰を待って 御津の浜松 霞んでるんや わが日本国に 春はまだ来ぬ

 (原文)誰待て みつの浜松 霞むらん 我が日本(ひのもと)の 春ならぬ世に

一首読み、涙ぐまれた。

そのまま、そこに足を止め、山遠き浦の夕日が波間に沈もうという時刻まで、一帯の風景を鑑賞された。それでもなおも、そこを去りがたい気持ちであった。

光厳法皇 そうそう、こんな詩があったわなぁ、

 望むに 窮まり無し 水 天色を接(まじ)え
 看(み)るに つきず 山 夕暉(せきき)に映ず

光厳法皇 あぁ、まさに、この風景にピッタリの詩やなぁ。

光厳法皇 それにしても・・・もしも、世を捨ててなかったら、こないな、すばらしい風景を見る事も、できひんままやったんやわなぁ・・・。

無常感のいやます法皇の心中である。

光厳法皇 次は、高野山(こうやさん:和歌県・伊都郡・高野町)へ行ってみよ。

順覚 はい、かしこまりました。

というわけで、まずは、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)の瓜生野(うりうの)へ。

野焼きの跡に緑が萌え出て、そこには早くも、春のきざしが・・・松の影は紅(くれない)を穿(うが)ち、日は西に傾く。海空と野原が織り成すパノラマは、歩けば歩くほど、新しい発見に満ち満ちており、足の疲れを全く感じない。

かつては、金箔を散らした軽いうすものの敷物を介してしか、かりそめにも地面を踏んだ事など無かった人が、今や、黒い深泥湿土(しんでいしつと)に足を汚している。

お供の順覚は、脇の下にかけていた護符を、托鉢に替えて、たすきがけにした。

二人はそのまま、堺浦(さかいのうら:大阪府・堺市)まで歩き、そこで、夜になった。

玉藻(たまも)を拾い、磯菜(いそな)を取る海人(あま)たちが、ツゲの櫛を頭に差し、葦(あし)の間に見え隠れしながら働いている様を見て、

光厳法皇 (内心)朝廷に貢ぎ物を備える民の労働が、これほど、たいへんなもんやったとは・・・今の今まで、こないな事、なにも知らんまま、ただただ、安閑と暮してきた自分やったなぁ。

今さながらに、自分の過去の人生を、「あさましきものであった」と痛感する法皇である。

頭を回らして東の方を見れば、雲に連なり霞に消えて聳え立つ高い山があった。道端に休んでいる木樵(きこり)に、法皇は問うた。

光厳法皇 あこに聳(そび)えたる高ぁい山、あれ、なんちゅう名前の山や?

木樵 坊(ぼん)さん、知らんのかいな。あれこそは、かの有名なる「金剛山(こんごうさん)」やがな。ほれ、あの・・・日本国中の幾千万もの武士らが、命落してしまいよったとこやがな。

光厳法皇 ということはやで・・・なにか、あの楠正成(くすのきまさしげ)が、鎌倉幕府の大軍相手に戦ぉた、あの城のあったとこかいな?

木樵 そうやがな、あの「千剣破(ちはや)城」のあったとこやがな。

光厳法皇 あぁ、あこがなぁ・・・。

光厳法皇 (内心)あの時、自分は一方の皇統(注4)を代表する立場として、天皇の位にあった・・・もとはといえば、あの千剣破城の戦も、自分が天下を争そうたが為に、引き起こされたんやった・・・あぁ、なんちゅう、あさましい事なんやろうか・・・あの戦場で死んでいった者らは、今ごろ修羅道(しゅらどう)に落ちて、長い長い苦患(くげん)を受ける身になってるんやろぉなぁ・・・それらの罪障(ざいしょう)、私が受けていく事にも、なるんやろうなぁ・・・。

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(訳者注4)持明院統。
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法皇は、過去の非を悔い、じっとたたずみながら、金剛山を見つめ続けた。

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それから数日後、紀伊川(きのかわ:和歌山県)を渡る事になった。

眼前には、柴木の小枝で造られた危(あやう)げな橋が一本かかっているだけ、橋脚は、既に朽ちてしまっている。

思い切って橋の上に進み出てはみたものの、足がすくみ、肝は冷え、もうとても先には進めない、法皇は、橋の途中で立ち往生してしまった。

そのような所に、7、8人の武士が、橋の上をやってきた。

この地で、肘を張り、目をイカラしながら生活している武士たちであろうか。法皇が橋の途中に立ちつくしているのを見て、いわく、

武士A おいおい、あのぼん(僧侶)さん、見てみいな。あんなとこで、つった(立)っとるわい。(ニヤニヤ)

武士B あこまで行ってみたはええもんの、ビビッテもぉてからに、身動きできんように、なってしもたんや。(ニヤニヤ)

武士C ほんまにもう、臆病なやっちゃのぉ。

武士D みっともないでぇ。

武士E おいおい、おれら、チト、先を急いどるんや。

武士F 橋は一本しか、ないんやからなぁ! 渡るんなら、とっとと渡れやぁ! 渡らんのやったら、おれらを通せ!

彼らは、法皇を押しのけて橋を渡っていこうとした。その瞬間、

光厳法皇 あぁぁ!

法皇は、橋の上から押し落とされて、川中に転落、水中に沈んだ。

順覚 あぁ、なんちゅう事を!

順覚は、衣を着たまま川に飛び込み、法皇を助け揚げた。

法皇は、膝が岩の角に当たって出血、衣は水びたし。

順覚は、泣く泣く、法皇を付近の辻堂へ入れ、衣を脱ぎ替えさせた。

光厳法皇 (内心)出家前には、こないな屈辱、味わぉた事、なかったわなぁ・・・。

順覚 (内心)元はといえば、天皇陛下・・・そやのに、ご出家されたばっかしに、こないなメにあわれるやなんて・・・。

法皇も順覚もさすがに、いったんは捨てた浮き世への未練の思いが心中に沸き上がってくるのを、とどめようがない。涙のかかる袖は、濡れに濡れて、干す暇もない。

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それでもなんとか、気力を回復、二人は再び、高野山を目指した。

行く末(すえ)心細き針のような道を経て、ひたすら山を登っていく・・・山また山、水また水・・・この先いったい何日間、登り続けなければならぬのであろうか・・・ともすると、身力疲れをおぼえるのではあったが、

光厳法皇 ハァハァ・・・なぁ、順覚よ・・・ハァハァ・・・。

順覚 はい・・・ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・先年、大覚寺法皇(だいかくじほうおう:注5)がなぁ・・・ハァハァ・・・高野山へお参りされた時にはなぁ・・・ハァハァ・・・供奉(ぐぶ)の公卿(くぎょう)らはもろともに・・・ハァハァ・・・。

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(訳者注5)後宇多法皇。
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順覚 ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・1町毎に設けられた卒塔婆(そとば)を見ては・・・ハァハァ・・・三度の礼拝をして、頭を地に着けて・・・ハァハァ・・・仏に誠を捧げながら進んでいったと、いうやないかぁ・・・ハァハァ・・・。

順覚 はぁい・・・ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・法皇陛下のその御願(ぎょがん)・・・ハァハァ・・・まことに有り難いもんやわなぁ・・・ハァハァ・・・。

順覚 はぁい・・・ハァハァ・・・。

光厳法皇 ハァハァ・・・私が在位の時、もうちょっと世の中が平穏やったら・・・ハァハァ・・・きっと私も、法皇陛下の・・・ハァハァ・・・それになろぉて・・・ハァハァ・・・同じようにして、高野山に・・・ハァハァ・・・お参りしてたやろうて・・・ハァハァ・・・。

順覚 ハァハァ・・・。

光厳法皇 (立ち止まる)ハァハァ・・・その夢が今、ついに実現したというわけやなぁ・・・ハハハハ・・・ハァハァ・・・(笑顔)。

順覚 ほんまに、そうですわなぁ・・・(微笑)。

そしてついに、

順覚 猊下(げいか)、ついに着きました、高野山ですわぁ・・・ハァー・・・。

光厳法皇 あぁ、ついに・・・ハァー・・・いやぁ、道中、キツかったなぁ。(笑顔)

順覚 はいぃーー。(笑顔)

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法皇は、高野山・金剛峰寺(こんごうぶじ)の大塔(だいとう)の扉を開かせ、金剛(こんごう)・胎蔵(たいぞう)両界曼荼羅(りょうかいまんだら)を拝観した。

胎蔵界の700余尊、金剛界の500余尊は、かの平清盛(たいらのきよもり)が、手ずから書いたものであった。

光厳法皇 さしもの積悪(せきあく)・平清盛、いったいいかなる宿善(しゅくぜん)に催されて、こないな大いなる善根を、致したんやろうかなぁ。

順覚 ・・・。

光厳法皇 「六大無碍(ろくだいむげ)の月(つき)晴(は)るる時(とき)有りて、四蔓相即(しまんそうぞく)の花(はな)発(さく)べき春を待ちける」・・・平清盛、ただの悪人では無かったんやなぁ・・・今日、あらためて思い知ったわ。

落花(らっか)雪となれども笠(かさ)重きこと無し、新樹(しんじゅ)昏(くれ)を誤れども日(ひ)未だ傾かず、その日のうちに、奥の院(おくのいん)まで参詣した。(注6)

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(訳者注6)弘法大師・空海の廟は、[奥の院]エリアにある。
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法皇は、弘法大師(こうぼうだいし)入定(にゅうじょう)の室(むろ)の戸を開かせた。

峯の松は風を含んでユガ上乗の理(ゆがじょうじょうのことわり)をあらわし、山花(さんか)雲をこめて赤肉中台之相(せきにくちゅうたいのそう)を秘す。過去仏(かこぶつ)の化縁(けえん)は過ぎぬれども、五時の仏説(ごじのぶっせつ)今、この耳に聞こえくるかの感あり。弥勒仏(みろくぶつ)の出世(しゅっせい)は遙か未来なれども、三会の粧(さんえのよそおい)既に目に遮(さえぎ)るがごとし。

そのまま3日間、奥の院で通夜した後、早暁に出立、そこで一首、

光厳法皇 高野山 迷いの夢も 覚めるかと その暁を 待ち続けてきた

(原文)高野山 迷の夢も 覚るやと 其暁を 待ぬ夜ぞなき

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「夏安居(げあんご)の期間中は、心静かに、この高野山の中ですごそう」と思い、光厳法皇は順覚を伴い、諸堂巡礼の日々を送っていた。

ある日突然、二人の男が、法皇の前にかけ寄ってきて、その場に平伏した。

光厳法皇 (内心)うっ、なんや、いったい?!

見れば、二人とも出家間もなくのよう、墨染(すみぞめ)の色も濃い衣を着ている。どういうわけか、二人とも、メソメソと泣いている。

いったい何者かと思い、しげしげと二人の顔を見つめ続けるうち、法皇の脳裡に、あの時の事がよみがえってきた。

光厳法皇 (内心)あぁっ、あの時の!

彼らは、紀伊川(きのかわ)を渡ろうとしていた時に、橋の上から法皇を押し落としたメンバー中の二人であった。

光厳法皇 (内心)いったい、どないしたんやろ? いったいなんでまた、急に出家したんやろ? あれほどの心無い放逸(ほういつ)の者にも、世を捨てる心が芽生える、なんちゅう事も、あるんやなぁ。

法皇は、そのままそこを通り過ぎたが、二人は後からついてくる。

順覚 あんたら、いったい、なんですか? どないしはったんですか?

出家者A (涙)はい・・・先日、紀伊川をお渡りの時に、このようなやんごとないお方とは知らんとからに、玉体(ぎょくたい)に乱暴に触れたてまつりました事、まことにあさましい事やと思うて、このような姿になりました。

出家者B (涙)「仏となる種は、縁(えん)より起る」と聞いております。どうか、今から、おそば近くに、お仕えさせてくださいませ。

出家者A なんでもしまっせ、薪(たきぎ)拾い、水汲み、なんでもします、今日から3年間、24時間、お仕えさせていただきますわ。そないしたら、仏神三宝(ぶっしんさんぼう)からも、お咎め無しで許してもらえますやろか。

順覚 (光厳法皇の方を向いて)こないな事、言うてますが・・・どないしましょ?

光厳法皇 そうやなぁ・・・(二人の方を向いて)かの、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)様は、道を行かれる時に、罵詈讒謗(ばりざんぼう)を浴びせかける人間がおっても、それを一切咎(とが)められる事もなく、自らを打擲蹂躪(ちょうちゃくじゅうりん)する者にさえも、かえって敬礼(きょうらい)したもうたという・・・ましてや、私は、既に出家の姿に身をやつしてるんやし、過去の私を知る人も無い。そやから、おまえらが私の事を分からんかったのも、ムリのない話しやがな・・・単なる一時の誤りや、何も、気にする必要ないでぇ。

出家者A ・・・(平伏、涙)。

出家者B ・・・(平伏、涙)。

順覚 ・・・(涙)

光厳法皇 とはいうものの・・・それがきっかけで、仏縁につながれ、そのように出家できたんやから・・・ほんまに、因縁(いんねん)っちゅうもんは、不可思議としか、言いようがないわなぁ・・・。

光厳法皇 そやけどな、私に随順(ずいじゅん)するのん、それだけは、ぜったいアカン、アカン。

出家者A ・・・(ガックリ、涙)。

出家者B ・・・(ガックリ、涙)。

このように言われても、二人は、片時も法皇の側を離れようとしない。

困惑した法皇は、夜明け頃、二人にアカ水を汲みに行かせ、その間に、順覚を伴って密かに高野山を去った。

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その後、光厳法皇と順覚は、大和国(やまとこく:奈良県)へ。

光厳法皇 道順もえぇし、いっちょ、あっち側の天皇陛下の御所、訪れてみよかいなぁ。

順覚 はい。

つい3、4年前までは、朝廷の両統は南北に分かれて、ここに戦い、かしこに侵攻、一方の前天皇が、もう一方の現天皇のもとを訪問するというような行為は、いわば、呉と越の会稽(かいけい)での対戦、漢と楚の覇上(はじょう)での会戦にも、等しい事である。

しかしながら、光厳法皇は今や、憂き世を捨てた出家の人、玉体を麻衣(まえ)草鞋(そうあい)にやつし、輿にも乗らず自ら徒歩にて、この山中はるばる、訪ね来たった。

吉野朝廷の伝奏(てんそう)役は、未だ事を告げない前に、涙で衣の袖を濡らし、吉野朝・後村上天皇(ごむらかみてんのう)は、対面する前に既に、涙を流している。

御所に一日一夜逗留して、法皇と天皇は、様々に対話した。

後村上天皇 まぁ、よぉこそ、おこし下さいました・・・まるで、目覚めてからなおも夢を見ているかのよう、あるいは、夢の中で迷うているのかとさえ、思われますよ。(微笑)

光厳法皇 ・・・。(微笑)

後村上天皇 それにしても・・・たとえ、仙洞御所(せんとうごしょ)をお捨てになって、釈氏(しゃくし)の真門(しんもん)にお入りになられるとしてもですよ、あの宇多法皇(うだほうおう)陛下、あるいは花山法皇(かざんほうおう)陛下のように、大きな寺院にお入りになって余生を送られると、いう道も、あおりになったでしょうに・・・。

光厳法皇 ・・・。(微笑)

後村上天皇 このように、ご尊体を浮き草のように水上に寄せ、天子の御心を禅宗の教義に一心傾けられ・・・いったい、どないなふうにして、そないに澄み切ったご発心(ほっしん)の境地に至られたのか・・・ほんまにもう、うらやましい限りですわなぁ。

光厳法皇 ・・・う・・・う・・・。(涙にむせぶ)

後村上天皇 ・・・(涙)。

光厳法皇 ・・・陛下(注7)は、聡明文思(そうめいぶんし)の四つの徳をもって、お考えになる事が、おできになりますからね、人が一言申し上げるか申し上げんかの間に、何もかもすっと、理解する事がおできになるのでしょう。

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(訳者注7)後村上天皇の事。
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後村上天皇 ・・・。

光厳法皇 そやけど、私は、生れつき、煩悩(ぼんのう)の深い人間でして・・・いつまでたっても、煩悩から解放される事もなく・・・いわば、虚空(こくう)の中の塵(ちり)のごとき存在・・・。

光厳法皇 いや、私、なにも、自ら願うて、そのような人間になったわけではありません。

光厳法皇 そやけど、人間すべからく、持って生れた運命、前生(ぜんせい)での業因縁(ごういんねん)っちゅうもんが、ありますわなぁ・・・私もそれから離れられんままに、青年から壮年に至る人生を、送ってしもうたわけですよ。

光厳法皇 こないな事で、えぇんやろうか・・・自分の真実の人生は、帝位という権力に生きる中にあるのではない、もっと他の世界の中にこそ、あるのんとちゃうやろぉかと、何となく、漠然とは、思ってはおったのですが・・・。

光厳法皇 若気の至り、とでもいいましょうか、確実にやってくる老いという事も、さほど気にかけへんままに、年月を何とのぉ、送ってしまいました・・・時間の流れをせきとめてくれる関所なんか、この世のどこにも、ありませんわなぁ。

光厳法皇 私の天皇としての人生は、まさに、日々、天下の乱と共にあった、というべきでしょう・・・ほんまに、一日として、戦乱の止む時は無かった。

光厳法皇 元弘(げんこう)年間の始めには、あの六波羅庁(ろくはらちょう)の人々に伴われ、近江(おうみ)の番馬(ばんば:滋賀県・米原市)まで落ち下り・・・私はそこで、地獄をこの目でみました・・・500余人の武士たちが一斉に自害する中に、交わり・・・今になっても、鮮明に思い出すことができますよ・・・彼らの体からほとばしる、あの鮮血のなまぐさい匂い・・・あの時の私は、ただただ呆然、なすすべもなく、その場に座し続けるばかりやった・・・。(注8)

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(訳者注8)9-8 参照。
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光厳法皇 正平(しょうへい)の末には、この吉野の山に幽閉の身となりました・・・それから数年間、刑罰に伏す苦しさの中に、日々を送りました。(注9)

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(訳者注9)30-8 参照。
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光厳法皇 後醍醐(ごだいご)先帝陛下が政権に帰り咲かれた後の日々・・・今思い起しても、苦悩の連続・・・この世界はこれほどにも憂きものであったのかと、初めての体験に、ただただ、驚くばかりでした。

光厳法皇 あの時、もう一度天皇になろうなどとは、夢にも思わなんだ、政治にも一切、関心は無かった・・・ところが、一方の戦士(注10)が私を強いて、本主(ほんしゅ)としたのです・・・その運命から逃れる事は、不可能でした。

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(訳者注10)足利尊氏。
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光厳法皇 ひたすら、願い続けておりましたよ・・・いつの日にか、山深き住処に、雲を友とし、松を隣人として、心安く生涯を全うしたいもんやと・・・いつもいつも、願ぉておりました・・・それが、私の唯一の念願やったんです。

光厳法皇 そしてついに、その念願が実現する日がやってきたんですよ・・・天地の命により、譲位の儀とあいなりました・・・ついに・・・ついに、私は、過酷な運命のくびきから、解放されたんです・・・そして、このような姿になる事ができました・・・ついに・・・ついにね。(涙)

後村上天皇 あぁ・・・(涙)

吉野朝側メンバー一同 ・・・(涙)。

光厳法皇 ・・・。

後村上天皇 ・・・。

吉野朝側メンバー一同 ・・・。

光厳法皇 ・・・では、そろそろ、おいとますることにいたしましょう。

後村上天皇 ・・・(涙)。

光厳法皇 ・・・。(座を立つ)

後村上天皇 ・・・法皇猊下(ほうおうげいか)・・・あのぉ・・・。

光厳法皇 はい?

後村上天皇 この先、歩いて行かれるのでは、たいへんでしょう、馬寮(ばりょう)の馬を1頭、お持ち下さい。

光厳法皇 ありがたいお言葉ではありますが、それは、お受けできません。

後村上天皇 そやけど・・・。

光厳法皇 一介の出家が、天皇陛下の御馬に乗るなど、言語道断、辞退申し上げます。(微笑)

後村上天皇 ・・・。

長旅の疲労の蓄積があった光厳法皇ではあったが、今なお雪のごとく白い足に、粗末な草鞋を穿いて、御所を出立した。

後村上天皇は、警護所まで出て、御簾をかかげて法皇を見送った。公卿たちは、庭の外まで出て法皇を見送り、全員、涙の中に立ち尽くした。

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道すがら、山館(さんかん)、野亭(やてい)を見ながら、

光厳法皇 あぁ、あの家は・・・。

そこは、あの幽閉の時、このような場所では一日片時も過ごしがたいと、苦悩の中に日々を送った、松の扉のあばら屋であった。

光厳法皇 (内心)交戦地帯の山中でなかったら、こないな所に住む事もなかったんやろうなぁ・・・今となっては、かつての憂いの住処も、なつかしさが込み上げてくるわぁ。

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諸国行脚(しょこくあんぎゃ)の後、光厳院(こうごんいん)へ帰還し、そこにしばらく滞在した。

しかし、朝廷からの使者がしきりにやってきては、法皇の松風の夢を破り、あいもかわらず、旧臣が常に訪ねてきては、月下の寂静を妨げる。

光厳法皇 ここは、もう、あかんなぁ、住みにくぅて、かなんわ。

そこで、法皇は、丹波国の山国(やまぐに:京都市・右京区)という所へ、消息を絶って、移り住んだ。(注11)

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(訳者注11)常照皇寺へ入った。
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山果(さんか)庭に落ち、朝食、秋風に飽く、柴火(さいか)炉に宿して、夜は薄衣で寒気を防ぐ。

日々に詩を吟じ、肩骨やせて、泉の水を汲むのもものうく思える時は、雪を石鼎(せきてい)に積み、三杯の茶に、清風を飲む思いを起す。

緩慢(かんまん)と歩む山路は険しく、蕨(わらび)を摘むに倦(う)んだ時は、岩窓(がんそう)に梅をかじり、一連の句に、閑味(かんみ)をあじわう。

身(み)の安きを得る所、すなわち、心(こころ)安し。

家を出れば、そこには河と湖、家に入れば、山と川の景色を眺め。天地の外に逍遥(しょうよう)しては、破れ布団の上に、日々を過ごす。

その翌年の夏頃から、急に体調不良になり、7月7日、ついに光厳法皇は亡くなられた。(注12)

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(訳者注12)1364年7月7日、享年52歳。
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(訳者後書き)この章に記述されている「光厳法皇の行脚」は、史実かどうか、全く不明である。これが史実であったならば、すばらしいなぁと、訳者は思うのだけど。
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(訳者後書き)太平記現代語訳の記述を進めていく中に、私は徐々に、この光厳上皇(法皇)という方に、心ひかれていった。

過去に何回も、太平記原文(といっても、和紙の上に書写された文字通りの「原文」ではなくて、出版社から刊行されている古典文学集のそれ)を読んだが、その時の光厳上皇に対する自分の関心は、極めて薄いものでしかなかったように思う。

人間やはり、年を取り、様々な経験を積み重ねてくるにつれて、それまで見えていなかったものが徐々に見えてくる、それまで感受できなかったことを徐々に感受できるようになってくる、という事であろうか。

光厳上皇は2回、朝廷の最高権力者の地位についた。

一度目は、後醍醐天皇の打倒鎌倉幕府運動失敗の後より、六波羅探題の滅亡に至るまでの間。

二度目は、足利尊氏に擁立されて、京都朝廷を立ち上げて後。

治世に対しては、極めて真摯な態度で臨んだようではあるが、武士階級(鎌倉幕府、足利幕府に代表される)の力に圧倒され続け、思いのままにならぬ事が多かったようである。

こういうような人って、けっこう、世の中に多いんじゃないだろうか・・・理想を貫こうとしつつも、現実の厚い壁に阻まれ、あるいは、運命の変転にもてあそばれ・・・そういった人生を送った人であったからこそ、自分は、とても心ひかれるのだと思う。

光厳上皇について、もっと詳しく知りたい方には、下記をおすすめしたい。

 [地獄を二度も見た天皇 光厳院 飯倉 晴武 著 吉川弘文館]
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太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-10 神功皇后の遠征

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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(訳者前置き)この章に書かれている事も、史実からほど遠い内容であろう。

日本の歴史学の世界において、ここで取り上げられている時代ほど、扱いにくい時代は無いのでは、と思う。信頼できる史料が存在しないからだ。

第二次大戦が終了した後、日本にもようやく、[学問の自由]と[言論の自由]が根付き、「[古事記]や[日本書記]に書かれている事は、本当にあった事なのかどうか」、というような事を、おおっぴらに論じることができるようになった。

その結果、この章にあるような、[神功皇后が朝鮮半島に遠征して・・・]というような事は、史実ではない、ということが、日本史の常識となった。

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これははるか昔の話であるが・・・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は、天子としての優れた徳と人間の域を越えた武徳をもって、朝鮮半島の三韓(注1)に遠征したが、戦いに利無く、帰国した。

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(訳者注1)原文では、「高麗の三韓」。

太平記作者は、この章では、「高麗」を「高麗王朝」の意ではなく(王朝名としてではなく)、「朝鮮」の意で(エリア名として)用いている、と思われる。

そこで問題となるのが、「三韓」の解釈である。

[新羅]、[百済]、[高句麗]の3国とするべきなのか、あるいは、[新羅]、[百済]、[任那]とすべきなのか・・・[任那]については、様々に議論が交わされてきている。

ゆえに、訳者は、「高麗の三韓」を「朝鮮半島の三韓」と訳しておく事にした。
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この結果を見て、神功皇后(じんぐうこうごう)は、

神功皇后 (内心)今回の遠征の失敗は、わが方に、智謀(ちぼう)・武備(ぶび)の双方に渡り、不足の点が多々あったゆえ・・・わが国はまだまだ、開発途上なのであるよ・・・。

神功皇后 (内心)方策はただ一つ、超大国、すなわち、かの「中華の国」の優れたる戦略と戦術を学び修める、これしかない!

そこで皇后は、ある者に砂金3万両を持たせ、中国へ送り込んだ。

彼は首尾よく、履道翁(りどうおう)著の一巻の秘書を得た。これは、かの黄石公(こうせきこう)が第5日目の鶏のなく時刻に、渭水(いすい)の土橋の上で、張良(ちょうりょう)に授けた書物である。

「再び、朝鮮へ出兵」と、決した後、皇后は祈願に入った。

神功皇后 かしこくも、倭の天地(あめつち)におわします、やおよろず大小の神祇冥道(じんぎみょうどう)に対し、つつしみうやまいて、我、請い願いたてまつる。願わくば、これより執行の軍評定(いくさひょうじょう)の場に降臨(こうりん)したまいて、非力(ひりき)なる我を、なにとぞ、擁護(ようご)したまわんことをー!

皇后のこの請(しょう)に応じ、一柱(ひとはしら)を除いた全ての神々が、常陸(ひたち:茨城県)の鹿島(かしま)に降臨しもうた。

そこに来られなかった神はといえば、その名を、「アトベノイソラ神」と申す、そのイグシステンス・フィールド(existence field:存在場)は、海底にあった。

やおよろずの神々 アトベノイソラが来ぬのは、なにか、ワケあっての事であろうよのぉ。

神々は、篝火(かがりび)を焚き、榊(さかき)の枝に白色御幣(ごへい)と青色御幣(ごへい)を取り掛け、風俗(ふうぞく)、催馬楽(さいばら)、梅枝(うめがえ)、桜人(さくらひと)、石河(いしかわ)、葦垣(あしがき)、此殿(このとの)、夏引(なつひき)、貫河(ぬきかわ)、飛鳥井(あすかい)、真金吹(まかねふく)、差櫛(さしくし)、浅水(あさうづ)の橋、呂律(りょりつ)を演奏、リフレインを繰り返しながら、歌いに歌った。

神々のこの歌声は海底にまでも達し、アトベノイソラ神のレセプター(recepter)中に、大量のレゾナンス(resonance:共鳴)を発生させた。

アトベノイソラ神 かの神々ら、なにやら、いとおかしき事、楽しみており、我も行くべし!

その瞬間、鹿島地方一帯に、時空間の著しい歪(ひずみ)が発生した。

やおよろずの神々 うっ・・・感ずる・・・感ずるぞ・・・この歪みは・・・いったい・・・アアア・・・。

神々の集う場の空間 ウワゥウワゥウワゥワワワ・・・。

神々の集う場の空間 ピィィィィィーーーーン!

やおよろずの神々 オォッ!

アトベノイソラ神は、4次元テレポーテーション(4D teleportation:時空間中・瞬間移動)を終え、実体化を完了。それと共に、一帯の時空間の歪みは解消、常態に復帰した。

その姿を見れば、これは奇怪(きっかい)、キサゴ、牡蠣(かき)、藻中に棲息する虫たちが手足五体にビッシリとりつき、人間の姿からはほど遠いものになってしまっている。

神々は、怪しんでいわく、

やおよろずの神々 アトベノイソラ神よ、アトベノイソラ神よ、なにゆえ、かような貌(かたち)に、成りにける?

アトベノイソラ神、答えていわく、

アトベノイソラ神 我、滄海(そうかい)の鱗(うろくず)に交わりて、彼らを利せんが為、久しく海底に住みはべりぬ間、かような貌(かたち)に、成りてそうろうなり。かかる形にて、やんごとなきおんみら(御神等)の前に参らんずる恥かしさに、今までは、参りかねそうろう・・・しかるに、曳々融々(えいえいゆうゆう)たる律雅(りつが)のみ声に、恥をも忘れ、身をも顧みずして、参りたり。

やおよろずの神々 よくぞ、来られた!

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神宮皇后は、このアトベノイソラ神を使者として龍宮城(りゅうぐうじょう)に送り、「貴城の宝なる、「干」と「満」の2つの珠玉(しゅぎょく)を借りたし」との要請を行った。

龍王はすぐに受諾し、その二個の玉を渡した。

神宮皇后 よろしい、これにて、智謀と武備、双方、万全じゃ。智謀においては、履道翁の一巻の秘書、武備においては、「干」と「満」の2個の珠玉! いざ、半島へ向けて、進発!(注2)

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(訳者注2)原文では、「新羅へ向はんとし給ふに」。
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この時、皇后の胎内には、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、すなわち、応神天皇(おうじんてんのう)が、既に妊娠5か月目の状態で宿っていた。

ゆえに、皇后の御腹は大きくなっており、鎧を着ようとしても、腹部がどうしても合わさらない。そこで、高良明神(こうらみょうじん:注3)が一計を案じ、鎧の草ずりを切って脇の下に装着、これで、皇后の武装も完全となった。

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(訳者注3)高良神社(福岡県・久留米市)にまつられている神。
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神功皇后が大将、諏訪(すわ)と住吉(すみよし)の大明神が副将軍となり(注4)、大小の神祇乗り込んだ軍船3,000余隻は、対馬海峡(つしまかいきょう)を一気に押し渡り、朝鮮半島へ寄せた。

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(訳者注4)諏訪大社(長野県・諏訪市&下諏訪町)にまつられている神と、住吉大社(大阪市・住吉区)にまつられている神。
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倭軍来襲の報に、三韓側も軍船1万隻に取り乗り、海上に出て、迎撃態勢を敷いた。

両軍戦い半ば、雌雄未だ決せざる時、皇后は、「干の玉」を海中に投げ入れた。

海水はにわかに退き、あたり一面が陸地に一変。三韓側の兵は、「天、我に利を与えたり」と喜び、全員、船から下り、徒歩で戦いだした。

この時、皇后は、「満の玉」を取って、陸地に投げた。

たちまち、潮が十方より漲(みなぎ)り来たり、三韓側数万人は、一人残らず溺死してしまった。

これを見て、三韓の王は、自ら罪を謝して降伏、神功皇后は弓の上端でもって石壁の上に、「三韓の王は我が倭の犬なり(注5)」と書き付け、帰国した。

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(訳者注5)原文では、「高麗の王は我が日本の犬也」。
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これより、三韓は日本に帰順し、長年の間、朝貢を続けた(注6)。

いにしえの、呉服部(くれはとり)という綾織(あやおり)技術者、王仁(おうにん)という才人も、この朝貢と共にやってきたのである。また、大紋(だいもん)の高麗縁(こうらいべり)も、その貢ぎ物の竹箱によって、伝来したのである。

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(訳者注6)原文では、「是より高麗我朝に順て、多年其貢を献る。」
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上記に見たように、その徳が天にかない、その王化が遠きにまで及んでいた上古の時代においてさえも、外国を従えるにあたっては、天地神祇の力をもってこそ、たやすく行えたのである。

なのに、この現代において、凶悪なる賊徒らが、元帝国や高麗を奪い犯し、ついには、高麗国王をして、使者を用い、外交ルートを通じての要請を我が国に送らしめるまでに至ったとは・・・まことにもって、前代未聞の不可思議である。

このような事では、もしかすると、日本はやがて、外国の支配下に入ってしまう、というような事もありうるのかも・・・まことに、異常事態であるとしか、言いようがない。

だからこそ、福州(ふくしゅう)の呉元帥(ごげんすい)・王乙(おういつ)がわが国に対して贈った詩にも、この意が述べられているのである。

 日本の狂いしナラズモノども わが国の浙江(せっこう)東部を乱す
 将軍 この異変を聞いて 怒気(どき)立ち上ること あたかも虹のごとし
 全軍出動 陣を連ね 闇の中に ノロシの火はあがる
 夜半には敵を皆殺し 海水は紅に染まる

 ヒツリツを弾じて 勝利を歌う 落月を眺めながら 笛を吹く
 敵の髑髏に盛ったこの酒の味 なんとまぁ すがすがしいことか
 そのうち 南山の竹を切り尽くし ビッシリ事細かに 書いてやるぞ この賊退治の功績の 一部始終を

(原文)
 日本狂奴乱浙東 将軍聴変気如虹
 沙頭列陣烽烟闇 夜半ミナゴロシ(注7)兵海水紅
 篳箻按哥吹落月 髑髏盛酒飲清風
 何時截盡南山竹 細冩當年殺賊功

この詩を見て思うに・・・「竹」といえば・・・近年、日本全国で竹が一斉に枯れている・・・もしかすると・・・日本が外国の支配下に入ってしまう事の前兆かも・・・先行き、極めておぼつかなく、思えてならない。

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(訳者注7)左側が[金]で右側が[鹿のような記号]から成る漢字。これに該当する漢字コードを見つけることができなかった。
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太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 39-9 元寇の時に、あった事

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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(訳者前置き)読者は思われるかもしれない、「いったいなぜ、前章の「高麗から使者来たる」に続き、ここで唐突に、元寇の話が始まるのであろうか?」と。その疑問は、次章の末尾に至ってはじめて、解決するであろう。
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つらつら、三余(さんよ:注1)の暇(いとま)に寄せて、千古(せんこ)の記する所を調べてみるに、海外からの日本への攻撃は、天地開闢(てんちかいびゃく)以来、既に7回に及んでいる。

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(訳者注1)[冬]と[夜]と[雨の日]。
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中でも特筆すべきは、文永(ぶんえい)年間と弘安(こうあん)年間の2度の元寇(げんこう)であろう。

元の老皇帝・クビライ、中国全土四百州を平らげ、勢い天地を凌(しの)ぐというまさにその時、日本は、この元帝国の脅威にさらされた。

小国日本の力をもってしては退治しがたい相手であったが、たやすく元軍の兵を亡ぼし、わが国の独立を維持できたのは、ただただ、尊神霊神(そんしんれいしん)の冥助(みょうじょ)のおかげである。

一連の流れを追えば、以下のようになる。(注2)

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(訳者注2)太平記の以下の記述は、史実と食い違う箇所が多々あるので、これを信用しない方がよい。
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元帝国の大将・萬将軍(まんしょうぐん)は、日本の畿内5か国の面積を3700里四方と見積もり、そこに、びっしりと隙間無く兵を立ち並べた、と仮定しての必要兵力を算出、その結果は、「必要兵力=370万人」と出た。

この大軍が、大船7万余隻に乗り、津々浦々から出撃したのである。

元帝国のこの「日本列島制圧プラン」に関しては、日本側も、以前から様々に情報を得ていたので、「さぁ、一大事、国土防衛の準備をせよ!」と、四国や九州の武士たちは、筑紫の博多(はかた:福岡県・福岡市)に馳せ集まり、山陽、山陰の勢力は、京都に馳せ参じた。東山道、北陸道の武士たちは、越前の敦賀津(つるがのつ:福井県・敦賀市)の防備をかためた。

やがて、文永2年8月13日、元軍7万余隻の軍船が、同時一斉に、博多の津に押し寄せてきた。

大船がずらりと並び、船どうしを繋ぎ合わせて自由に歩み渡れるように板を渡してある。陣営毎に油幕(ゆばく)を引き、矛を立ち並べている。まるで、五島列島(ごとうれっとう)の東方から博多の海岸に至るまで、海上300余里四方が突然、陸地となり、まるで蜃気楼(しんきろう)が起こっているのかと怪しまれるほどである。

日本軍側の陣の構えはといえば、博多の海岸に沿って13里に渡り、石の防塁(ぼうるい)を高く築いている。防塁の前面は切り立っていて、敵を防ぐに都合よく、後面は平らになっており、移動しやすい。防塁の後方に、塀を建て、陣屋を作り、数万の武士が並び居る。

日本軍側は、何とかして、自軍の兵力を元軍側に知られないようにしようとしていた。

しかし、それは空しい期待というもの、元軍側は、船の舳先(へさき)にハネツルベのような柱を数10丈の高さに立て、その上に取り付けられた横木の上に座席をしつらえ、そこに物見の兵を登らせている。高所から日本軍側陣を見下ろす形勢となるから、細部に渡り、手に取るように、日本軍側の状況を把握する事ができる。

また、4~5丈ほどの広さの板を、筏のように組み合わせて水上に敷き並べているから、波の上に平らな道路が多数出来上がったような形となっている。あたかも、京都の三条の広道、長安の都の12の道路のごとくである。

この道路を通って、元軍側は、数万の兵馬を繰り出し、死をもかえりみず、戦いをしかけてくる。日本軍側は苦戦を強いられ、メンバーの大半は、士気が衰えていく一方。

太鼓を打って兵刃(へいじん)まさに交わらんという時に、元軍側は、「テッパウ」という武器を使う。それは、毬(まり)くらいの大きさの鉄球、その破壊力は、坂を転げ落ちる車輪のごとく、閃光(せんこう)きらめくこと電光のごとし。

一回の射撃毎に、この「テッパウ」がなんと、2~3,000個も射出されてくるのである。そのたびに、日本軍側は多数が焼殺され、木戸や櫓にも火が燃えつき、それを消火しているいとまもない。

上松浦(かみまつら)と下松浦(しもまつら)の武士たちは、この戦闘の成り行きを見て、「オーソドックスな戦い方をしていたのでは、とても勝ち目が無い」と思い、わずか1,000余人でもって、外海を迂回し、夜襲をしかけた。

その志の程はまことに武(たけ)しといえども、九牛(きゅうぎゅう)の一毛(いちもう)、大倉(たいそう)の一粒(いちりゅう)にも当たらぬほどの小勢であるからして、どうにもならない。

元軍側の兵2~3万人を死に至らしめたものの、ついに、全員生け捕りとなり、縄で縛られ、手を綱で結えられ、舷側(げんそく)に繋がれてしまった。

こうなってしまっては、もはや誰も、戦闘を継続する事ができない・・・筑紫九州の武士たちは、一人残らず、四国地方、中国地方へ逃亡してしまった。

日本の貴賎上下は、「いったいどうすればよいのか!」と周章狼狽(しゅうしょうろうばい)すること、著しい。諸社への行幸、諸寺への大法秘法の執行要請と、時の天皇は苦悩し、肝胆(かんたん)を砕いた。日本60余州の大小の神祇(じんぎ)、霊験あらたかなる仏閣(ぶっかく)に勅使を送り、奉幣を捧げた。

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外敵退散・祈祷の開始より7日目、諏訪湖(すわこ:長野県)上に、異変が起った。五色の雲が西方にたなびき、大蛇の形に見えるのである。

さらに、異変は首都の近隣においても。

石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府・八幡市)の宝殿の扉が自動的に開き、馬の馳せる音、くつばみの鳴る音が、虚空に満ち満ちた。

比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県・大津市)日吉(ひえ)21社の錦帳(きんちょう)の鏡が振動、神宝の刃が自動的に研がれ、御沓(みくつ)が全て、西向きになった。

住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)の4つの社においても、神馬の鞍の下に汗が流れた。

吉野山(よしのやま:奈良県・吉野郡・吉野町)の小守明神(こもりみょうじん)と勝手明神(かってみょうじん)の鋼鉄の盾が自動的に立ち上がり、元軍のいる方角に向かってつき並べられたような格好になった。

その他、上中下22社の振動奇瑞は言うに及ばず、神名帳に記載されている3750余社をはじめ、山里村里の小さい祠(ほこら)、樹木神、道祖神(どうそしん)のような小神に至るまで、ことごとく、御戸(みと)が自動的に開いた。

この他にも、奈良・春日野(かすがの:奈良市)の神鹿(しんろく)、熊野山(くまのさん:和歌山県)の霊烏(れいう)、越前敦賀・気比神宮(けひじんぐう:福井県・敦賀市)の白鷺(しらさぎ)、伏見稲荷社(ふしみいなりしゃ:京都市・伏見区)の狐、比叡山の猿等、諸々の神の使者ことごとくが、虚空を西方へ飛んでいくのを、万人が夢に見た。

「これらの神々の助けを頂いて、侵攻してきた賊を退ける事が、きっとかなうであろう」との期待だけを頼みにして、みな、神社に幣を捧げた。

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このような中に、弘安4年7月7日、伊勢神宮(いせじんぐう:三重県・伊勢市)の禰宜(ねぎ)・荒木田尚良(あらきたのひさよし)と豊受太神宮(よとうけだいじんぐう(外宮):伊勢市)の禰宜・度会貞尚(わたらえのさだひさ)ら12人が、連署の起請(きしょう)をもって、朝廷に対し、以下のような事を上奏してきた。

 「伊勢神宮および豊受太神宮の末社である「風の社(かぜのみや)」の宝殿が、突如、鳴動しはじめました。鳴動は長く続きました。6日の暁、神殿から赤い雲が一群立ち上り、天地を輝かし、山河を照らしました。その光の中から、夜叉(やしゃ)や羅刹(らせつ)のごとき青色の鬼神が出現し、土嚢(どのう)の結目(ゆいめ)を解きました。その土嚢の口から、火風が吹き出、砂を巻き上げ、その強風でもって、大木が根っこから抜けました。」

 「これをもって思うに、九州に攻めよせてきよった外国の者らは、この日すぐに滅ぶべし、という事でしょう。もしも、これが実現し、確かにこれが奇瑞やった、という事が証明された暁には、以前からお願いしておりましたところの宮号(みやごう)の件、陛下よりのご裁決、どうかよろしく、お願い申し上げます。」

やがて、元軍・萬将軍は、船団7万隻の船のいかりを一斉に上げさせ、8月17日午前8時、門司(もじ:福岡県・北九州市)、赤間が関(あかまがせき:山口県・下関市)を経て、長門(ながと:山口県北部)、周防(すおう:山口県南部)の沿岸への移動を開始。

「いよいよ元軍、上陸開始!」というまさにその時、それまで、風も無く、雲静かであった天候が一変、黒雲一群が、北東方向からムクムクと立ち上りだした。

そして、いきなり、強風が荒れ狂いだした。

逆巻く波は天にも届くかと漲(みなぎ)り、雷鳴は鳴り響き、電光は大地に激烈する。大山もたちまちに崩れ、高天も大地に墜落するかと思われるほどの激しさである。

元軍7万余隻の軍船は、荒磯(あらいそ)の岩に当たって、こっぱみじんに打ち砕かれ、あるいは、逆巻く波に転覆。

元軍の兵は、一人残らず死んでしまった。

萬将軍一人だけは、大風にも吹き飛ばされず、波の下にも沈まず、暗く深い大気中に、飛揚して立っていた。

そこに、呂洞賓(りょとうひん)という仙人が、西天の彼方より飛来してきて、萬将軍にいわく、

呂洞賓 日本全土の天神地祇(てんちじんぎ)3,700余社が来って、この暴風を起こし、逆浪(げきろう)を海に漲らせしめたのだ。もはや、人力の及ぶ所ではない。あんたは早いとこ、難破船に乗って、元に帰りなさい。

萬将軍 ・・・。

呂洞賓 早いとこ、元に帰りなさい!

萬将軍 はい。

萬将軍は、彼の言葉を信じ、難破船を見つけてそれに乗り、たった一人で太洋万里の波涛をしのぎ、程無く、明州の津に漂着した。

船から上がり、帝都へ行こうと思っている所に、またもや、呂洞賓が現われていわく、

呂洞賓 あんたは、日本との戦に負けてしまった。皇帝は怒って、あんたの親類骨肉すべて、三族皆殺しの刑に、処してしまったよ。

萬将軍 え! なんだって!

呂洞賓 あんたは、都には帰らん方がいい、帰れは必ず、処刑されるからな。

萬将軍 では、この先、どうすれば?

呂洞賓 早いとこ、ここから剣閣(けんかく)を経て、蜀(しょく)の地に逃げなさい。あそこの王は以前から、あんたを大将に任命して、雍州(ようしゅう)を攻めたいと切望している。あそこに行ったら、必ず、大功を立てることができるだろうよ。

萬将軍 わかりました、お言葉通りにいたします。

呂洞賓 さてと・・・なにか、はなむけに贈りたいと思うのだが・・・。(袋の中を探る)

呂洞賓の手 ゴソゴソ・・・

呂洞賓 あいにく、これしかないなぁ。

呂洞賓が袋から取り出したのは、一袋の膏薬(こうやく)であった。銘には、「至雍発」と書いてある。

萬は、呂洞賓のアドヴァイスに従い、蜀へ赴いた。

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呂洞賓の予言通り、萬将軍は、蜀王の大歓迎を受けた。

蜀王は直ちに、萬に上将軍の位を授け、雍州攻めを指揮させた。

萬将軍は、兵を率いて行軍を続け、雍州に至った。

雍州軍側は、高くそびえた山の上に石の門を閉じて待ち構えていた。まさにあの李白(りはく)の詩、「一夫(いっぷ)怒って関に臨めば、万夫(ばんぷ)も傍(そ)うべからず」さながらである。

萬将軍は、呂洞賓からの例の贈り物を、取り出した。

萬将軍 膏薬か・・・ふーん、膏薬・・・銘は「至雍発」・・・「至雍発」・・・はて・・・。

萬将軍 うん? もしかすると、こういう意味か? 「この膏薬を、雍州の石門に貼り付けよ」・・・。

萬将軍 とにかく、やってみよう。

彼は、密かに部下に命令し、その膏薬を、例の石門の柱に貼り付けさせた。

なんと不思議、膏薬を張り付けるやいなや、石門は、柱も戸も雪霜(せっそう)のごとく消滅、さらに、山は崩れ、道が平らになってしまった。

頼るべき要害が消滅してしまっては、雍州軍側数万は、もうどうしようもない、全員、蜀軍に投降した。

蜀王は、「この勝利、もとはといえば、萬将軍の徳によるものである」とし、直ちに彼を、癕癕公侯の位に引き上げた。

その30日後、萬将軍は、背中に癕瘡(ようそう)(注3)ができ、それから間もなく、死去してしまった。

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(訳者注3)はれものの一種。
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思うに、雍州の「雍」の字と癕瘡の「癕」の字とは、漢字の音韻が同じである。呂洞賓が例の膏薬の銘に「至雍発」と書いたのは、はたして、どちらの意味であったのか? 「雍州の石門に貼り付けよ」の意であったのか、それとも、「癕瘡が発病した時に使え」の意であったのか? 今となっては、どちらとも分からない。

功は高くして命短し・・・「功」と「命」、何れを捨てて、何れを取るべきか? どうしてもやむを得ず、二者択一を迫られる事になったならば・・・自分の「命」がいつ終わるのかは、天の定めたる事、私ならばきっと、「功」の方を選ぶであろう。

いずれにせよ、元軍300万が一時に全滅したのは、まったく、我が国の武勇によるものではなく、ただただ、3750余社の大小神祇、宗廟(そうびょう)の冥助によるものに、他ならない。

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

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