太平記

2018年7月13日 (金)

太平記ゆかりの地 4 笠置寺

太平記ゆかりの地 インデックス

1331年に、打倒・鎌倉幕府の計画を幕府は把握、幕府からの追求から逃れるために、[後醍醐天皇(ごだいごてんのう)]と近臣たちは、京都から脱出し、奈良へ向かった。

[太平記 第2巻 7 天下怪異事] には、その時の事が下記のように記されている。

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(1)京都を出た後、木津川の沿岸付近に達した時、夜が明けた。

[太平記]には、「古津石地蔵(こづのいしじぞう)」という語が記されている。

「古津石地蔵」とは、[泉橋寺](京都府・木津川市)のことである。

ネット上に、この寺に関する情報があった。鎌倉時代に作られた石造の地蔵菩薩坐像(高さ約4.58m)があるようだ。

ネット地図で、この寺の位置を調べてみた。[木津川]の北岸にあるようだ。[国道24]の付近にある。

[木津]の地は、[古津]とも呼ばれていたという。

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(2)奈良に到着した後、東大寺へ行った。

[太平記]には、「南都の東南院」という語が記されている。

「南都」とは、[奈良市]のことである。京都(平安京)に遷都される前、日本の首都は奈良市にあり(平城京)、平城京は平安京の南方にあるので、このように呼ばれるようになったのであろう。

[東南院]は、[東大寺]の中の寺院であったようだ。

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(3)奈良から和束へ移動した。

[太平記]には、「和束の鷲峰山」という語が記されている。

東大寺の多数メンバーが、鎌倉幕府の威を恐れて天皇サイドにつかなかったので、奈良からここへ移動した、という趣旨の事が記されている。

「鷲峰山」とは、[鷲峰山(じゅうぶさん)金胎寺(こんたいじ)(京都府・相楽郡・和束町)のことである。

[和束町]に行くと、広大な茶園がある景観を見ることができる。

下記の写真画像は、私が、2010年10月に、和束町で撮影したものである。

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A5 [安積親王]の陵墓が、茶の丘の上にある

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[安積親王(あさかしんのう)]は、[聖武天皇(しょうむてんのう)]の次男である。

奈良時代の天皇、となると、多くの人がまず思い浮かべるのが、[聖武天皇]だろう。(大仏殿との連想等で)。

なぜ、この時代を、「奈良時代」と呼ぶのか? 奈良の地(現在の奈良市)が、政治権力の中心、すなわち、首都であったからだろう。

では、いったいなぜ、[聖武天皇]の次男の墓が、奈良から遠いこの和束の地に築かれることになったのだろうか?

[安積親王陵墓]の位置は、ネット地図を使って知ることができる。[恭仁宮大極殿跡]とインプットすると、そのあたりの地図が表示されるだろうから、[恭仁宮大極殿跡]の北東方向を見ればよい。[安積親王陵墓]のある場所、そして、その位置と[恭仁宮大極殿跡]との位置関係が分かるだろう。

[奈良時代]の期間中に、奈良が首都ではなかった期間がある。

[続日本紀(上) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫] 巻第十三 の中に、(406P)

 「十二月十五日 天皇は先発して恭仁宮に行幸し、はじめてここを都と定めて、京都の造営にかかった。太上天皇(元正上皇)と皇后はおくれて到着した。」

とある。

「天皇」とは、[聖武天皇]のことである。
「十二月十五日」は、740年(天平12年)の十二月十五日、である。

ところが、

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫] 巻第十五  の中に、(25P)

 「閏正月一日 天皇は詔(みことのり)して百官を朝堂によび集めた。そして次のように尋ねられた。
 「恭仁・難波の二京でどちらを都と定めるべきか、それぞれ自分の考えを述べよ」と。」

とある。

「閏正月一日」は、744年(天平16年)の閏正月である。

[聖武天皇]のこの問いかけは、「恭仁 平城(奈良) の どちらを都に」ではない、「恭仁 難波 の どちらを都に」である。

この期間、奈良は、[聖武天皇]の関心事の中には無かったのであろう。

天皇以外にも、奈良のことを、「旧都」あるいは、「古都」、「こないだまでは、都やったとこや、そやけど、今はもう・・・」という感覚で見ていた人も、多くいたのであろう。それをうかがわせる以下のような記述がある。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五  の中に、(25P)

 「正月四日 従三位の巨勢朝臣奈弖麻呂・従四位上の藤原朝臣仲麻呂を遣わして市(いち)に行かせ、京をどちらに定めるべきかを尋ねさせた。市人はみな恭仁京を都とされることを願った。ただし、難波京を望む者が一人、平城京を望む者が一人あった。」

とある。 

しかし、結局、[聖武天皇]は、難波宮への遷都を行った。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五  の中に、(25P ~ 26P)

 「正月十一日 天皇は難波宮に行幸された。」

 「この日、安積親王は脚の病(脚気か)のため、桜井の頓宮(河内郡桜井郷)から恭仁京に還った。」

 「正月一三日 安積親王が薨(こう)じた。時に年は十七歳であった。従四位下の大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして葬儀を監督・護衛させた。」

とある。

上記をまとめると、二人が居た場所は、下記のようになるだろう。

     744年・正月十一日  744年・正月一三日
聖武天皇  難波宮        難波宮
安積親王  恭仁京        恭仁京

なので、大市王と紀朝臣飯麻呂らを遣わして(恭仁京へ出張させて)、ということになる。

[続日本紀(中) 全現代語訳 宇治谷 孟 講談社学術文庫]  巻第十五   の中に、(27P)

 「二月二十六日 左大臣が勅をのべて次のように言った。
  今から難波宮を皇都と定める。この事態をわきまえて、京戸の人々は意のままに両都の間を往来してかまわない。」

とある。 

「二月二十六日」は、744年(天平16年)の二月二十六日である。

「両都」とは、恭仁宮と難波宮を意味しているのだろう。ここにおいても、平城京・奈良は、関心の対象外となってしまっている。

[安積親王]は、このような、恭仁京から難波京への遷都の期間のまっただ中に亡くなった。なので、その墓は、恭仁京の近くに、ということになり、この[和束]の地に定められたのであろう。

740年の十二月から、744年の二月までの4年間、日本の政治権力の中心、すなわち、首都は、奈良ではなく、恭仁京にあったのだ。その間、[和束]は、首都の近郊、まさに、首都圏の中の地であった、ということになるだろう。

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[宇治茶]の原料となる茶葉は、京都府、奈良県、滋賀県、三重県で栽培されているのだそうだ。[和束]の地から出荷されて[宇治茶]になる茶葉もあるのだろう。

([宇治茶の定義]、[和束産 宇治茶]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。)

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(4)和束から笠置へ移動した。

[太平記]には、「南都の衆徒少々召具せられて、笠置の石室へ臨幸なる」と記されている。

「笠置の石室」とは、[笠置寺](京都府・相楽郡・笠置町)のことである。

[笠置寺]は、[笠置山]の上の方にある寺院である。

ネット地図を使用して、[笠置駅]とインプットすれば、この山の位置を知ることができるだろう。[JR西日本・関西本線 笠置駅]の南東方向にある。

2009年11月に、私は、[笠置寺]へ行った。下記にある写真画像は全て、その時、私が現地で撮影したものである。

B01 加茂駅から笠置駅まで、これに乗っていった

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B02 笠置駅から南東方向へ歩いていって、ここに着いた

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「史の道 ハイキングコース」という表示板がある方の道を、歩いて行くことにした。[笠置寺]にたてこもる天皇サイド軍勢を攻めるために、この地へやってきた鎌倉幕府サイドの人々は、この道を行ったのであろうと、想像したので。自分が幕府軍のメンバーになったつもりで、かつての彼らの進軍を追体験しようと思ったのである。

B03 先に進んでいったら、このような道に

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「追体験」のこの登り坂で、自らの体力の少なさを思い知った。幕府軍メンバーは、この道を、武器を持ちながら登っていったのであろう。すごい体力!

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B06 ようやく、[一の木戸跡]へたどりついた

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ここが、[太平記 第3巻 2 笠置軍事 付 陶山小見山夜討事] の中で、[足助次郎重範(あすけじろうしげのり)]が矢を射た、とされている場所、[本性房(ほんじょうぼう)]が岩を投げた、とされている場所なのだろう。

(太平記に記されている事は、史実かどうか分からない。)

ここから先は、幕府軍サイドではなく、後醍醐天皇サイドに所属を変えて(天皇軍のメンバーになったつもりで)の追体験に、チェンジすることにした。そうしないと、ここから上へ行くことができないから。(太平記には、幕府軍メンバーたちの進軍が、ここでストップした、というように記述されている。)

B07 [一の木戸跡]に立って、下を見ると、このようなかんじ

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幕府軍を迎撃している天皇軍メンバーからの視点では、このようなかんじになる。

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B10 更に歩を進めて、笠置寺へ

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B11 着いた

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B12 寺の門をくぐると、巨岩が

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B13 巨岩に彫られた弥勒菩薩(maitreya:マイトレーヤ)

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いわゆる、[摩崖仏]である。しかし、菩薩の姿が無い。

この時の幕府軍の攻撃により、焼失してしまったので、このような姿になっているのだ、と、されているようだ。

でも、岩に彫られた仏像でしょ、燃えたりなんかしないでしょ、と思うのだが・・・。

この事に関して、ネットで調べて、

[日本経済新聞]のサイト中の[コラム(地域)]コーナー中の

 [姿・由来、伝説につつまれ 笠置寺磨崖仏(もっと関西)]
 2017/11/15 17:00

というコンテンツを見つけた。その中に、

 仏が刻まれていた花こう岩は、炎にあぶられると表面が剥がれたり割れたりする。

との趣旨の、[日本石材産業協会]の見解が、記されている。

B14 巨岩に彫られた虚空蔵菩薩(Ākāśagarbha:アーカーシャガルバ)

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B15 巨岩の間をくぐりぬけていく道がある

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B18 見晴らしのいい場所に出た

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B19 ゆるぎ石

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説明板には、下記のようにあった。

 「・・・この石は奇襲に備えるため武器としてここに運ばれたが使用されなかった。重心が中央にあり人の力で動くため”ゆるぎ石”といわれている。」

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B22 後醍醐天皇行在所跡

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B23 後醍醐天皇行在所跡

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B24 カエデが多数ある場所があった

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[笠置山]から下りて、笠置駅まで歩いた。

B27 笠置駅の構内に、このようなものがあった。弓を持っているのが[足助次郎重範]、岩を持ち上げているのが、[本性房]だろうか。

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B28 笠置駅の構内で撮影

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[笠置寺公式サイト] 中の [笠置寺について] 中の記述によれば、

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弥生時代から、笠置山の巨石は信仰の対象となっていたという。それを示すのが、弥生時代の有樋式石剣である。

実際に建物が建てられ人が住み着いたのは1300年前であり、鎌倉時代に、藤原貞慶(後の解脱上人)がここを拠点とした。

江戸中期より荒廃し、明治時代初期に、住職不在の寺になってしまったが、その後、復興し、現在に至る。
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と、いうことなのだそうだ。

[太平記 第12巻 4 千種殿並文観僧正奢侈事 付 解脱上人事] にも、解脱上人が[笠置寺]に入った事が、記されている。

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[笠置寺]に行ってみて思うに、ここは、[後醍醐天皇]らがたてこもるには不適な場所だったのではないだろうか。

[地理院地図]を使って、[笠置駅]で検索すれば、このあたりの地形を把握することができると思う。おおよその地形は標高線から読み取れるだろうし、標高を知りたい地点があれば、そこをマウスでクリックすればよい。

私が調べた結果は、以下の通りである。

 笠置駅 標高 約 54m
 行在所跡 標高 約 262m

標高差200m、急襲するとなると、攻めにくい場所であろう。

しかし、この山の周囲を、鎌倉幕府軍がビッシリと隙間なく包囲してしまっての持久戦になったならば、笠置寺は、たてもこりメンバーたちの食料を確保することが不可能となってしまうだろう。

水の確保については、もしかしたら、山のどこかに湧水があるのでOK、ということに、なるのかもしれないが。

スペースの問題もある。笠置寺の境内を見た感じでは、大軍勢が駐屯できるような場所が無いように、思われた。

だから、幕府軍サイドが攻め急がず、兵糧攻めにしていたら、天皇サイドは降伏するしか他になし、という状態になっていた可能性が十分にあると思われる。

ところが、[太平記]では、思わぬ展開となり、天皇サイドは一気に崩れた、ということになっている。

その「思わぬ展開」は、[陶山(すやま) and 小見山(こみやま)グループ]により編成された[コマンド部隊]によって、引き起こされた、ということになっている。

[太平記 第3巻 2 笠置軍事 付 陶山小見山夜討事] に、[陶山 and 小見山グループ50余人]が登場する。

グループのリーダー2人の名は、「備中国の住人 陶山藤三義高(すやまとうぞうよしたか) 小見山次郎某(こみやまじろうなにがし)」と記されている。グループメンバーの「陶山吉次(よしつぐ)」の名も、登場する。

彼らは、幕府軍が集中的に攻めているのとは異なる笠置山の別の斜面を、夜間に登って、笠置寺に侵入しようと試みた。

彼らが行ったルートは、[笠置寺]の北側の斜面であると、太平記では、している。

 「城の北にあたりたる石壁の数百丈聳(そびえ)て、鳥も翔(かけ)り難き所よりぞ登りける」

[地理院地図]を使って、[笠置寺]の北側斜面を見てみるに、確かに、この方面においては、等高線の間隔が短く、急峻な斜面のようだ。しかし、「笠置北壁」とも称せられるほどの絶壁、という感じではない。

しかし、太平記の記述では、そのルート上には、彼らの前進を阻む大岩壁があった、としている。

この箇所を、私は、以下のように、現代語に翻訳した。

太平記 現代語訳 3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣

より:

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9月末日の夜、漆黒の暗闇の中、目指す方向さえ不分明、風雨は荒れ狂い、顔を正面向けてはおれないほど。

陶山グループ50余人は、太刀を背に背負い、小刀を腰の後ろに差し、笠置寺北方の断崖、鳥も駆け上がれまいと思われるような高さ数百丈の岩壁にとりつき、登山を開始。

二町ほどは、なんとかかんとかして登ってはみたものの、その上には、さらに険しい断崖がそびえたっているではないか・・・屏風を立てたかのごとく岩石は重なり、古松は枝を垂れ、青苔に覆われた滑りやすい表面。

陶山グループ一同 あぁ・・・。

いかんともしがたく、はるか上方を見あげながら立ちつくす陶山グループの面々・・・。

陶山義高 よし、おれが登ってみるけぇのぉ。

彼は、岩の上をサラサラと走り登り、用意した例の縄を上方の木の枝にかけて、下の方におろした。

陶山グループ一同 おぁ、やったじゃねぇかぁ!

彼らは、陶山義高が垂らしたロープを握り、その一番の難所を易々と登り切ってしまった。
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[笠置山]の北側斜面には、上記にあるような断崖が、実際にあるのだろうか?

そのような箇所があるのだとしたら、そこは、鎌倉時代の武士たちが、縄を使ったロッククライミングでもって、登っていけたような場所なのだろうか?

現在に至るまでの700年間の、雨水による浸食により、山登りの困難さが軽減されている可能性はあるが。

これに関しては、山登りに熟達している方々の見解を、お聞きしたいところである。

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[陶山 and 小見山グループ]の人々は、現在の岡山県・[笠岡市]を本拠としていたようだ。[笠岡市 陶山氏]でネット検索したら、様々な情報へのエントリーが表示された。

私はかつて、Web上に開設したサイト(ブログではなかった)に、現代語に翻訳された太平記(私が翻訳した)をアップし続けていたのだが、その時に、そのコンテンツによる縁でもって、[陶山 and 小見山グループ]の事を調査しておられるある方と、面談する機会があった。

その際に、その方に、[陶山 and 小見山グループ]の人々の、現代語訳中でのせりふに関する方言指導を、お願いした。できる限り、彼らの地元の言葉(現代の)を使って、彼らに語らせたかったからである。

その方は、私のその願いを受諾され、その方の知人と共に、方言指導を行ってくださった。

[太平記 現代語訳 3-2 六波羅庁、笠置寺に大軍を派遣] 中の、[陶山 and 小見山グループ]の人々のせりふは、そのようにして成立した。

[陶山 and 小見山グループ]が、笠置寺の境内で放火し、天皇サイドはパニック状態になり、それを見た幕府サイドは急襲をかけ、天皇サイドは敗退した。しかし、この幕府軍の猛攻をかいくぐり、後醍醐天皇と近臣らは、笠置寺から山麓の地へ脱出したと、太平記には記されている。

この山の、いったいどのルートを通って、脱出したのだろう? あまり人には知られていない、けもの道でも、あったのだろうか?

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[陶山 and 小見山グループ]の人々の、鎌倉幕府内での地位は、この笠置での戦の功績によって、急上昇したのかもしれない。

[太平記] 第8巻、第9巻に、[陶山次郎]という人が登場する。鎌倉幕府側の極めて重要・強力メンバー、という感じで、一軍を率いて戦っている。

しかし、その後、[陶山 and 小見山グループ]の人々の運命は、暗転してしまったようだ。

彼らは、鎌倉幕府・六波羅探題サイドの人々と共に、京都を脱出し、鎌倉へ逃げようと試みたが、滋賀県・米原市の付近で、先に進めなくなってしまい、そこで自害した。

[太平記 第9巻 8 越後守仲時已下自害事] の中にある、亡くなっていった、鎌倉幕府サイドの人々の氏名の中に、

 陶山次郎
 陶山小五郎
 小見山孫太郎
 小見山五郎
 小見山六郎次郎

の名がある。

米原市の公式サイト中に、[紙本墨書陸波羅南北過去帳]というコンテンツがあり、そこには、以下のように記されている。

 「・・・蓮華寺第三代の同阿良向が、元弘3年(1333年)5月9日に自害した仲時ら六波羅勢のうち姓名のわかる189人の交名を記した。」

この[紙本墨書陸波羅南北過去帳]の中には、[陶山]姓、[小見山]姓の人々の名があるという。([蓮華寺 過去帳 陶山]でネット検索して、関連する情報を得ることができた。)

鎌倉幕府・六波羅探題の人々と最後まで行動を共にした結果、このような事になってしまった。

最後の最後まで、六波羅探題の人々についていく・・・幕府側のスターとなった彼らには、それより他に、行く道が無かったのかもしれない。

太平記ゆかりの地 インデックス

2018年7月 9日 (月)

太平記ゆかりの地 3 沙沙貴神社

太平記ゆかりの地 インデックス

太平記には、[佐々木 道誉]、[佐々木 清高]、[佐々木 時信]等、[佐々木]の姓を持つ人々が登場する。

これらの人々の家系を遡っていくと、近江の[佐々木氏]と[佐々木庄]にたどりつく。

[塩冶 高貞]も、彼らと同じく、そのルーツは、[佐々木氏]である。

平安時代に[佐々木庄]に土着した人々が、[佐々木]の姓で呼ばれるようになったのだそうだ。

[佐々木庄]がどこにあったのか、という事に関しては、ネット上に、下記のコンテンツがあった。

[平成 22 年(2010 年)11 月 23 日(祝・火) 清滝寺(きよたきでら)・能仁寺(のうにんじ)遺跡発掘調査現地説明会資料 調査主体:滋賀県教育委員会 調査機関:財団法人 滋賀県文化財保護協会]

その中に、以下のようにある。

 「解説3 近江源氏 京極氏(おうみげんじ きょうごくし)
 京極氏は宇多天皇の系譜を引く近江源氏の一族です。平安時代に近江国佐々木庄(現東近江市小脇周辺)に土着して佐々木氏と呼ばれるようになり、 源頼朝の挙兵に功績があったのを認められて佐々木定綱は鎌倉幕府から近江国惣追捕使(そうついぶし)(守護)に任じられます。しかし、承久の乱(じょうきゅうのらん)(承久3年(1221 年))ののち惣領家(そうりょうけ)は領地を分割され、大原氏(坂田郡大原庄)、高島氏(高島郡朽木庄)、六角氏(佐々木宗家)、京極氏(坂田郡柏原庄)の四家に分裂しました。
 氏信を始祖とする京極氏は、第五代高氏(道誉)が室町幕府成立に功績が あったことから、六角氏に代わって一時的に近江守護に任じられます。・・・」

[京極]の姓は、この家系のルーツとなった人が、京都の[京極高辻]にあった館を相続した事に由来しているのだそうだ。

[京極高辻]とは、現在の京都市内の、いったいどのあたりなのだろう?

まず、[高辻]は、[高辻小路]のことであろう。[五条大路]の北側にあった小路であり、現在の[高辻通](たかつじどおり)に相当する。

問題は、[京極]である。

[京極]という語から連想される平安京の道路は2本ある、すなわち、[西京極大路]と、[東京極大路]。

平安時代後期から中世にかけて、平安京の右京、すなわち、西半分は、荒廃が進んでいったという。となると、館があった、というからには、[京極]は、[東京極大路]を指しているのであろう。

と、いうことで、[京極高辻]は、現在の、[寺町通]と[高辻通]が交差する付近の地、ということになるのだろう。([東京極大路]は現在の[寺町通]に相当。)

戦国時代末期に、京極氏から二人の知名度高き人が現れている。[京極 竜子]と[京極 高次]である。

[京極 竜子]は、この名でよりも、[松の丸殿]という名前の方で、よく知られているだろう。彼女の母・[京極 マリア]は、[浅井 久政]の娘だから、彼女は、[浅井 長政]の姪であり、[浅井三姉妹](淀殿、初、江)の従妹、ということになる。

[浅井三姉妹]中の次女・[初]は、[京極 竜子]の兄弟・[京極 高次]の妻となった。このように、[京極氏]のこれらの人々は、戦国大名・[浅井氏]と密な関係にある。

[京極 高次]は、関ヶ原の戦の後、[若狭国]の大名になった。

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滋賀県・近江八幡市の旧・安土町エリアに、[京極氏]、[佐々木氏]に縁が深い神社がある。

[沙沙貴神社]である。ここは、[佐々木]氏の氏神であるという。下記の写真画像は、私が、2007年6月に、そこで撮影したものである。

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P06 [佐々木氏]の家紋が、提灯に描かれていた。

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P11 [佐々木氏]の家紋が、いろいろな所にあった。

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境内には、様々な植物があった。

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P14 二葉葵

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京都市の[上賀茂神社]・[下鴨神社]の祭礼・[葵祭]においては、祭儀に関わる全ての人たち、また社殿の御簾・牛車に至るまで、この[二葉葵]を桂の小枝に挿し飾ることになっている。

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[寺社Now]というサイト中の[スペシャル]のコーナー中に、

[【特集】経験豊かな宮司の奮闘で 蘇った近江源氏の氏神様]

というコンテンツがあり、そこには、荒廃してしまっていた[沙沙貴神社]が復興された経緯が記されているのだが、その中に、下記のような内容の事が記されている。

 江戸時代に再建されたという、楼門、東廻廊、西廻廊に関して、1989年に、滋賀県・文化財保護審議会による調査が行われ、再建に関係する棟札の中に、[京極 高朗]の名が見いだされた。その結果、本殿、権殿、拝殿、楼門、東西廻廊など8棟が、滋賀県有形文化財の指定を受けた。

(ネット上には、[沙沙貴神社]に関連して、[京極高明]という名を記しているコンテンツが多数ある。どうして、[京極高朗]ではなく、[京極高明]と記しているのだろう?)

[京極 高朗]は、[丸亀藩](香川県)の藩主であるというから、[京極氏]のルーツに縁深きこの神社の建物を再建するに十分な財力を、持っていたのであろう。

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[三井グループ]の祖・[三井 高利]にも、[六角氏]、すなわち、[佐々木氏]のDNAが流入しているというから、[佐々木]姓ではない人の中にも、[佐々木氏]のDNAは流入していると思われる。

このページを読んでおられる貴方にも、もしかしたら、[佐々木氏]のDNAが流入しているのかもしれない。

太平記ゆかりの地 インデックス

2018年7月 5日 (木)

太平記ゆかりの地 2 延暦寺

太平記ゆかりの地 インデックス

 みやこ(東京)の西北に 早稲田はあり
 みやこ(古都)の東北に 延暦寺はある

[太平記]の中に、[延暦寺](えんりゃくじ)、あるいは、[延暦寺]に所属する[衆徒]が、何回も登場する。

ネット地図を使って、[比叡山](ひえいざん)とインプットすれば、[延暦寺]がある位置を知ることができるだろう。

[延暦寺]は、[比叡山]の山上にある。京都府側から見れば、その位置は、京都盆地の北東方向、ということになるだろうし、滋賀県側から見れば、南部の琵琶湖の西方、ということになるだろう。

[比叡山]は、京都市内の様々な所から見える。

[正伝寺]からも、庭園と共に見ることができる。

A1 (2015年10月に撮影)

A1  

[京都府立植物園]からも、見ることができる。

A2 (2012年11月に撮影)

A2

京都の人々は、京都盆地の東側にある山々を、[東山三十六峰]と呼んできたが、その最北の山が、[比叡山]である。

[東山]については、専門家の間では、以下のような見解が一般的であるようだ。

 京都盆地は、陸地が沈みこんだ結果、できた。
 東山は、隆起してできたのではない、京都盆地が沈んでいった結果、残った地が東山になったのである。

これに関しては、例えば、

 [吉岡 敏和]氏による、[京都盆地周縁部における第四紀の断層活動]

が参考になるだろう。

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電気も石油も無かった時代、京都や大津から[延暦寺]へ行くには、徒歩で、あるいは、馬で、[比叡山]に登っていくしかなかった。

現在、我々は、かつてよりは楽に、様々なルートで[延暦寺]へ行くことができる。それらのうち、私が知っているものは、下記の通りである。

(1)坂本(滋賀県・大津市)から

[京阪電車・石山坂本線]で、[坂本比叡山口]駅へ
 あるいは、
[JR・湖西線]で、[比叡山坂本]駅へ

行き、次に、[坂本ケーブル]で、[比叡山]へ登る、というルート。

私はこのルートがとても好きで、過去に何度か、このルート経由で[延暦寺]へ行った。

[坂本ケーブル]公式サイト中の記述によれば、このケーブルカーは、1927年に敷設されたものであり、

 全長:2,025m(日本最長)
 高低差:484m
 最急勾配:333.3‰
 隧道:2ヵ所
 橋梁:7ヵ所

なのだそうである。

(2)京都バス 51 系統

京都市からのルートである。過去に一度、これに乗って、[延暦寺]へ行ったことがある。[銀閣寺]付近からは、[白川]ぞいに上流方向へバスが登っていったように、記憶している。

(3)叡山ケーブル

京都市からのルートである。[叡山電車]で、[八瀬比叡山口]駅まで行き、次に、[叡山ケーブル]、[叡山ロープウェイ]で[比叡山]へ登る、というルートである。

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歩いて[比叡山]へ、となると、上記に比べて、そうそう楽ではなさそうだ。

中世の時代、[延暦寺]の衆徒たちが強訴のために[京都]へやってくる時には、[きらら坂]を下ってきたという。

これは、[修学院離宮]の付近から[比叡山]へ通ずる山道だ。この道を上っていくと、[京都一周トレイル・東山コース]中の[水飲対陣跡]の碑がある場所に到達する。

[水飲対陣跡]は、[太平記 第17巻 1 山攻事 付 日吉神託事] に記述されている戦闘が行われた付近の地だという。[千種忠顕](ちぐさただあき)、[坊門正忠](ぼうもんまさただ)らは、この戦闘において戦死した、と記述されている。

2018年2月に、私は、[きらら坂]を初めて歩いた。

登ったのではなく、下ったのである。これが下りではなく、登りであったならば、もう、タイヘンだったろうと思う。途中、人間一人がやっと通れるか、というような箇所がある。

どんな道なのか、知りたい方は、よろしければ下記の2つの動画(私が撮影した)を参照いただければ、と思う。前の方が、[修学院離宮]に近い方の部分(きらら坂のうち、高度がより低い方の部分)であり、後の方が、[水飲対陣跡]に近い部分(きらら坂のうち、高度がより高い方の部分)である。

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1571年に、[延暦寺]は、織田軍によって攻撃された。

この攻撃は、[比叡山焼き討ち]と呼ばれているようだが、これは、大きな誤解を招く呼称であろうと思う。[比叡山焼き討ち]という用語よりも、[延暦寺攻撃]という用語の方が良いと、思う。

[比叡山]の上に[最澄](さいちょう)が[延暦寺]を開創した時と、この時とでは、[延暦寺]のエリアが、大きく異なっている。

[京を支配する山法師たち 中世延暦寺の富と力 下坂 守 吉川弘文館] 39P ~ 49P によれば、

[坂本衆徒]と呼ばれる人々が、中世には存在していたという。彼らは、[延暦寺]に所属する[衆徒]なのだが、[比叡山]の上ではなく、東側の山麓にある[坂本]に居住していた。中には、妻がいる人もいたという。

[太平記 第14巻 4 箱根竹下合戦事]に、[道場坊祐覚]という[延暦寺]の[衆徒]が登場するのだが、彼は、

 「坂本様(さかもとよう)の袈裟切(けさきり)に成仏(じょうぶつ)せよ」

と叫びながら闘っている。現代語に翻訳するならば、

 「坂本流の袈裟(けさ)がけで切ったるから、ちゃんと成仏せぇよぉ!」

と、いうことになろうか。

なんと、刀の使い方を示す語の中に、闘争とはおよそ縁遠いはずの仏教、その一本山・[延暦寺]の、門前町・[坂本]の地名が使われているのである。

[京を支配する山法師たち 中世延暦寺の富と力 下坂 守 吉川弘文館] 39P ~ 55P, 90P ~ 130P によれば、[坂本]の地には、大きな富と武力があった、という。

よって、[延暦寺攻撃]の戦において、[織田信長]が主ターゲットとしたのは、[比叡山]の上の方のエリアではなく、この、富と武力の集積の地・[坂本]エリアであった、という可能性もある。

よって、織田軍の攻撃によって命を失ったり捕虜となった人々の数は、[比叡山]の上の方に居住していた人々よりも、[坂本]に居住していた人々の方が、より多かった、という可能性もある。

これに関連して、ネット上には、[兼康 保明]氏による、比叡山中の考古学的調査の結果についての、いろいろな興味深い情報があった。

[兼康保明 比叡山]でネット検索すれば、関連する情報を得られるかもしれない。

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[延暦寺]には、[東塔]、[西塔]、[横川]の3エリアがあるが、[横川]へは未だ行ったことがない。

過去に訪れた際に撮影した写真画像を添えて、以下に紹介したい。画像記号の先頭がBのものは、2006年8月に撮影したものであり、画像記号の先頭がCのものは、2007年8月に撮影したものである。

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東塔エリア

B1 大講堂

B1

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、[大講堂]は、1956年に焼失してしまったという。現在の建物は、坂本にあった讃仏堂を移築したものであるという。

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B2 根本中堂

B2

[最澄]が788年に創建した[一乗止観院](いちじょうしかんいん)が、[根本中堂]の元であるのだそうだ。現在の建物は、1642年に竣工したものであるという。

[一乗止観院]を建立した際に、最澄は、下記の歌を詠んだ。

 阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼじ)の仏たち
 我立杣(わがたつそま)に冥加(めか)あらせ給へ

この歌が、[太平記 第2巻 1 南都北嶺行幸事]の中で、伝教大師(でんぎょうだいし)(最澄)が詠んだ歌、として紹介されている歌である。

B3 根本中堂

B3

ここの本尊・薬師如来像は、参拝者の目と同じくらいの高さになるように、安置されているのだそうだ。それによって、「仏凡一如」という事を表現しているのだそうだ。「仏凡一如」は、

 「私(薬師如来) と あなた(参拝者) とは 一体なのよ だから 私を あなたから遠いものとは 思わないでね」

という意味であろうか。

[根本中堂]の中には、[不滅の法灯]というものがあり、1200年間、消えることなく灯し続けられてきた、という。

この、[消えることなく続いていく燃焼]という物理現象は、天台宗の教えの永遠性、すなわち、[天台宗の教えは永遠に存在し続け、救いの力を人々に対して、発進し続けていく]という理念を象徴するものなのであろう。

記号学的に表現するならば、

[消えることなく続いていく燃焼] が、シニフィアン(記号表現、能記)(signifiant)

[天台宗の教えは永遠に・・・] が、シニフィエ(記号内容、所記)(    signifié)

と、いうことになるのだろう。

しかし、考えてみると、この燃焼が永続していく、という事の保証は、どこにもない。

何らかのアクシデントによって、[不滅の法灯]の炎が消えてしまう、という事象の発生確率はゼロではない。あるいは、[不滅の法灯]の炎が燃え続けていくためには、継続的な燃料の供給が必要なのだが、何らかの原因により、この燃料供給がストップしてしまう(油断)事象の発生確率も、ゼロではない。

このように、[永続性の保証のない燃焼]という現象をもってして、[天台の教えの永遠性]という理念のシニフィアンとする、というのは、極めてリスクが高い方法である。

織田軍が[延暦寺]を攻めた時、[不滅の法灯]は、どうなったのだろう? 消えなかったのだろうか?

じつは、それよりも前に、[延暦寺]から[立石寺](山形県・山形市)に[不滅の法灯]が分灯されており、その灯から分灯して、[根本中堂]へ持ってきたのだそうだ。

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B4 戒壇院

B4

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、江戸時代に再建されたものである、という。

[延暦寺]が創建された当時、僧侶になるためには、全国に3か所設置された[戒壇]において、戒を授かることが必須であった。[最澄]は朝廷に対して、[延暦寺]にも戒壇の設置を認可し、[延暦寺]の裁量で、戒を授け、僧侶の資格を与えることができるようになることを願い出た。[最澄]の没後7日目に、朝廷はこの願いを聞き入れた。

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東塔エリア と 西塔エリア の間

B5 弁慶水

B5

[東塔エリア]から[西塔エリア]へ歩いていく途中に、[弁慶水]というのがあった。[武蔵坊弁慶]が、閼伽水を汲んだ場所であると、言い伝えられているようだ。

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B6 山王院堂

B6

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、「円珍の住房」であるというのだが、[円珍]が延暦寺第5代座主となったのは、868年だという。どう考えてみても、この建物は、その当時に建てられたものではないだろう。

[延暦寺]の教えの中には、[密教]が含まれているのだそうだ。[台密]と呼ばれている。

[山家の大師 最澄 大久保 良峻 編 吉川弘文館]
 中の
 [八 最澄の残したもの 大久保 良峻 著] 193P ~ 194Pによれば、

[円仁]、[円珍]、[安然]によって、[台密]は充実・大成されたのだそうだ。

[円珍]派の人々は、彼の死後、[延暦寺]から[園城寺]に移った。

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延暦寺の修行としては、[千日回峰行]が有名だが、[十二年籠山行]というのもあるようだ。それが行われるのが、[浄土院]である。

[浄土院]は、延暦寺境内中、最高に聖なる場所である。[最澄]の廟(墓)が、ここにある。

延暦寺公式サイト中の説明によれば、[籠山比丘]として選ばれた僧は、ここに12年間こもり、最澄に食事を献じたり、坐禅、勉学、清掃を行うのだそうだ。

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西塔エリア

B7 常行堂

B7

C1 常行堂

C1

C2 常行堂

C2

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、[常行三昧]という行を修する堂であり、1595年に建てられた、とあった。

B8 法華堂

B8

付近にあった説明板に書かれている内容によれば、[法華三昧]という行を修する堂であり、1595年に建てられた、とあった。

B9 廊下

B9

常行堂と法華堂は、この廊下で結ばれている。

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C3 椿堂

C3

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[JR]がまだ「国鉄」(日本国有鉄道)(注1)と呼ばれていた時代、[伊吹]、あるいは、[比叡]と名づけられた列車があった。いずれも、[伊吹山]、[比叡山]から採られた名前なのだろう。

この「比叡山」という山の名の由来は、次のようなものであるらしい。

以下、下記の文献を参照しながら、記述する。

文献1  [山家の大師 最澄 大久保 良峻 編 吉川弘文館]
中の
 [二 比叡山 学山開創 佐藤 眞人 著]

文献2 [古事記(上) 次田 真幸 訳注 講談社学術文庫 講談社]

坂本(滋賀県・大津市)に、[日吉大社]という神社がある。そこの東本宮には、[大山咋神](おおやまくいのかみ)という神が祀られている。この神については、[文献1] 41P には、

 「また二宮(東本宮)には大山咋神が祀られている。二宮は地主権現(じしゅごんげん)とも称されるように、古くから比叡の土地を占めていた神である。」

とある。

[大山咋神]は、古事記の中の、オオクニヌシの国土開発の話に登場する。[文献2] 143P には、

 「次に大山咋神、亦の名は山末之大主神。この神は、近つ淡海国(あふみのくに)の日枝山(ひえのやま)に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。」

とある。

[文献1] 42P には

 「「日枝山」とは今日の比叡山のことであり、比叡(ひえい)の地名はこの日枝(ひえ)に由来する。日吉大社の「日吉」は、今日では「ひよし」と呼んでいるが、これは平安中期以後のことであり、古くは「ひえ」と称したのである。」

とある。

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(注1)私の祖母は、国鉄のことを、「省線(しょうせん)」と呼んでいたように記憶している。これは、[鐵道省]が鉄道を保有していた時代のなごりなのだろう。

かつて、日本政府は様々の事業を営んでおり、「三公社五現業(さんこうしゃごげんぎょう)」という言葉があった。

「三公社」については、私も明瞭に記憶しているのだが、「五現業」については、あまり知らない。

三公社
 日本国有鉄道:現在のJR各社の前身である。
 日本専売公社:発足当初、たばこ、塩、樟脳の専売業務を行っていた。現在の日本たばこ産業株式会社の前身である。
 日本電信電話公社:現在のNTTグループの前身である。

五現業
 郵政
 造幣
 印刷
 国有林野
 アルコール専売

太平記ゆかりの地 インデックス

2018年6月26日 (火)

太平記ゆかりの地 1 天皇・上皇が住んでいた場所

太平記ゆかりの地 インデックス

[後醍醐天皇]が天皇位についた場所は、現在の[京都御所]の中ではない。

以下、下記の文献に記述されている内容を参照しながら、述べる。

 文献1:[都市の中世 中世を考える 五味文彦 編 吉川弘文館]
       中の
     [Ⅰ 平安京と中世京都 / 四 内裏と院御所 近藤 成一 著]

 文献2:[後醍醐天皇 森 茂暁 著 中公新書 中央公論新社]

[文献1]78P によれば、[後醍醐天皇]が「受禅」した場所は、[冷泉富小路内裏]であるという。この不動産(内裏)の位置は、現在の[京都御所]よりも南方である。

([受禅]とは、先帝の譲位を受けて帝位につくことを意味する。)

即位した後も、[冷泉富小路内裏]の中に住み続けて、天皇の仕事を行ったのだそうだ。太平記の最初の方に、[後醍醐天皇]が政務を行っている様子が記されているが、その現場は、この[冷泉富小路内裏]、ということになるだろう。

[後醍醐天皇]は、[大覚寺統]に所属していると言われてきた。しかし、上記に見るように、[後醍醐天皇]は[大覚寺]に住んでいたのではない。

[持明院統]および[大覚寺統]とは、鎌倉時代のある時期に発生した、天皇家の中の2つの家系のことである。

[後嵯峨天皇]には、天皇位についた2人の息子がいた、すなわち、[後深草天皇]と[亀山天皇]である。後に、この2人の子孫の中から、天皇になる人々が現れた。

[後深草天皇]をルーツとする家系の方は、[持明院統]と呼ばれ、
[亀山天皇]をルーツとする家系の方は、[大覚寺統]と呼ばれるようになった。

上記に述べたように、[後醍醐天皇]は、[大覚寺統]の方に属しているのだが、[光厳天皇](鎌倉幕府が倒された時に、天皇だった)は、[持明院統]に属している。

この天皇家の中の2つの家系の対立関係が、太平記に描かれている様々な争乱の根底となっていったのであった。

[文献1]によれば、この時代の天皇たちがいた場所は

 [冷泉万里小路殿]
 [二条高倉殿]
 [冷泉富小路殿]
 [持明院殿]

などであるという。

[文献1]76P に、これらの不動産(殿)の位置が、分かりやすく記述されている。ネット地図と照合して調べたところ、そのほとんどが、現在の京都市の上京区および中京区のエリア内にある。

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[持明院統]と[大覚寺統]は、大きな誤解を招く用語であると、私には思われる。

いったいなぜ、[後醍醐天皇]が所属する側の家系を、[大覚寺統]と呼ぶようになったのか?

[後醍醐天皇]の父・[後宇多天皇]は、退位・出家した後、1307年、[大覚寺](京都市・右京区)に入り、ここの門跡(トップ僧侶)になった。大覚寺に入った後の期間も含め、2度、[治天の君]として(上皇あるいは法皇として)、最大の政治権力を持っていた期間がある。

それで、[後宇多天皇]が所属する家系の方を、[大覚寺統]と呼ぶようにしよう、ということになったらしい。いつごろ誰が、最初にこのように呼び始めたのか、そこまでは、私には分らない。

天皇家の中に2つの家系(後深草天皇の家系と亀山天皇の家系)の対立が萌芽し、それが終結するまでの期間を、下記のように設定してみよう。

萌芽
 1258年 恒仁皇子が皇太子に就任。齢10歳。
 1260年 後深草天皇が、天皇位を、皇太子に譲り(譲るように仕向けられた?)、皇太子が天皇に就任(亀山天皇)。

終結
 1392年 南朝の後亀山天皇(大覚寺統)が、京都に帰還して、北朝の後小松天皇(持明院統)に、三種の神器を譲って退位。

よって、対立の萌芽から終結まで、およそ134年間( = 1392 - 1258 )を要した、ということになる。

ところが、[文献2]によれば(23P ~ 61P)、

[大覚寺]の門跡になった後に、[後宇多法皇]が[治天の君]として院政を行った期間は、

 1318年 ~ 1321年

たった、3年だけである。

だから、この2つの家系の対立の、萌芽から終結までの期間のうち、[大覚寺]に、日本の最大政治権力を持つ人、すなわち、[治天の君]がいた期間は、たった3年だけだった、ということになる。期間の長さ比率でいえば、たったの、2% に過ぎない。(3 / 134 about= 0.0224)

[持明院殿]に、[持明院統]の天皇が暮らし始めた期間も、実は、だいぶ後になってからである。

[文献1]83P によれば、1302年に、[伏見上皇]が[持明院殿]に移り、そこを御所としてから、であるという。

[持明院統]、[大覚寺統]と、言われると、この時代の天皇・上皇は代々、[大覚寺]や[持明院殿]で寝起きし、自らの政務オフィスをそこに置いて、そこで政務を行っていたかのような錯覚を起こしてしまわないだろうか?

「統」という言葉にも、何か、分かりにくいものを感じる。

よって、[持明院統]、[大覚寺統]という用語を使うよりも、[後深草系]、[亀山系]と呼ぶようにする方が、より、実情を反映して分かりやすいのではないかと、私は思うのが、どうだろう?

さて、前置きはこれくらいにして、(ずいぶんと長い前置きになってしまった)、この時代に、天皇や上皇が政務オフィスを置いていた、いくつかの京都市内の不動産の現地(正確に言うならば、跡地)を、見てまわることにしよう。

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1.持明院殿

(文中に挿入されている写真画像は、私が、2018年6月に撮影したものである。)

[文献1]中の「持明院殿」の説明(83P)には、下記のようにある。

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 「持明院統とその名称の由来する持明院殿との関係は意外に新しい。正安四年(一三〇二)伏見上皇が持明院殿に移りその御所として用いたのが始まりである。」

 「ここはもと持明院基家(もといえ)の殿第であった。基家の娘陳子が後高倉院の妃となったために、後高倉院は持明院殿に寄住し、「持明院宮」と称された。・・・」
========

持明院基家の娘と天皇の婚姻により、この不動産は天皇家の財産になったのであった。

[持明院家]は、藤原道長の子孫であるようだ。

さて、その[持明院殿]は、京都市内のどのあたりにあったのか?

京都市・上京区に、[光照院]という寺院がある。([京都市 上京区 新町通 上立売上る 安楽小路町])

そこの門の付近に、下記のような碑がある。

P1A1 碑

P1a1_3

「持明院仙洞御所跡」と彫られている。

[仙洞御所](せんとうごしょ)とは、譲位して元・天皇(上皇あるいは法皇)になった人が住む不動産のことである。

この寺の門の付近にある説明板(下記の映像中に写っている)には、

 「この地にもと持明院殿の持仏堂安楽光院がたっていたため、一時は安楽光院とも称した。」

と、ある。

P1A2 門の付近にある説明板

P1a2_2

上記より、[持明院殿]は、この寺の付近にあった、ということが分かった。

ネット地図を使用して、[京都市 上京区 安楽小路町 光照院]とインプットすれば、その位置を確認することができるだろう。

P1A3 光照院の門

P1a3_2

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2.冷泉富小路殿

(文中に挿入されている写真画像は、私が、2018年6月に撮影したものである。)

[文献1]76P の図によれば、この不動産(殿)の位置は、下記4本の道路に囲まれたエリア、ということになる。

 北側:冷泉小路(現在の夷川通)
 南側:二条大路(現在の二条通)
 東側:東京極大路(現在の寺町通)
 西側:富小路(現在の富小路通)

そのあたりに行き、下記のような碑を見つけた。([富小路通]と[夷川通]が交差する地点から、[富小路通]ぞいに南方へ行った場所)

P2A1

P2a1_2

「二條富小路」という文字だけが見えており、その下の部分が植物の葉に隠れてしまっている。

碑の側にこのように植物があるのは、地元の方々によって植えられ、手入れされているのであろうか。とてもいい感じ。

この碑にある全ての文字を見たい人は、[京都市 二条富小路内裏址 碑文]でネット検索すれば、それが可能になるのでは、と思う。

[文献1]中の「冷泉富小路殿」の説明(82P ~ 83P)には、下記のようにある。

========
 「徳治元年(一三〇六)冷泉富小路殿は焼亡する。文保元年(一三一七)、その故地にかつての閑院内裏に匹敵する恒常的な内裏として冷泉富小路内裏が建設され、花園天皇ついで後醍醐天皇の内裏として用いられることになる。」
========

このように、[文献1]では、「冷泉富小路内裏」と記されており、碑には、「二條富小路内裏」と彫られている、という違いはあるが、両者、同じ不動産のことを言っているのであろう。この不動産の北側には[冷泉小路](現在の夷川通)があり、南側には[二条大路](現在の二条通)があるのだから。

このあたりには、かつて、[京都市立商業實修學校]という教育施設があったようだ。

P2A2

P2a2_2

付近に、イチョウの木があった。

P2A3

P2a3_2

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3.冷泉万里小路殿

[文献1]76P の図によれば、この不動産(殿)の位置は、下記4本の道路に囲まれたエリア、ということになる。

 北側:大炊御門大路(現在の竹屋町通)
 南側:冷泉小路(現在の夷川通)
 東側:万里小路(現在の柳馬場通)
 西側:高倉小路(現在の高倉通)

このあたりをめぐってみたが、それらしき碑を見つけることができなかった。

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4.二条高倉殿

[文献1]76P の図によれば、この不動産(殿)の位置は、下記4本の道路に囲まれたエリア、ということになる。

 北側:二条大路(現在の二条通)
 南側:押小路(現在の押小路通)
 東側:高倉小路(現在の高倉通)
 西側:東洞院大路(現在の東洞院通)

このあたりをめぐってみたが、それらしき碑を見つけることができなかった。

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5.大覚寺

上記にも述べたように、ここは、太平記とはあまり関係が無い場所なのだけど、名前が出たついでに、過去に、私が現地で撮影した写真画像を添えて、述べてみたい。

入口は、こんなかんじだ。

P5A1 (2008年1月 に撮影)

P5a1_2

P5A2 (2008年1月 に撮影)

P5a2_2

大覚寺の中の当時の建物は、1336年の火災により、ほとんどが焼失してしまった、という。

この寺の大きな魅力は、境内にある大きな池であると、私は思う。池の名前は、[大沢池]。

寺の建物の中から見ても美しいし、池の周囲を歩きながら見ても美しいと、思う。

P5B1(2005年5月 に撮影)

P5b1_2

P5B2(2005年5月 に撮影)

P5b2_2

[大沢池]の周囲にはサクラが多くある。春のサクラ開花シーズンに行った時には、圧巻の景観を楽しむことができた。

カエデもある。紅葉した時には、下記のようなかんじであった。

P5C1(2006年12月 に撮影)

P5c1_2

[大沢池]のほとりに、[名古曽の滝跡(なこそのたきあと)]というのがある。

P5D1(2017年4月 に撮影)

P5d1_2

P5D2(2017年4月 に撮影)

P5d2_2

[百人一首]中の、[藤原 公任](ふじわらのきんとう)の歌、

 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
  名こそ流れて なほ聞こえけれ

で、知られている滝の跡なのだそうだ。

大覚寺の公式サイト中の説明によれば、

 奈良国立文化財研究所による発掘調査で、中世の遣水が発見され、現在の様相に復元された

のだそうである。

中秋の名月の日には、この池で観月会が行われる。[大覚寺 観月の夕べ]でネット検索すれば、それに関連する情報を得ることができると思う。

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6.後宇陀天皇の陵

太平記からはますます、関係希薄となっていくのだけど、

[大覚寺]の北東方向に、[後宇陀天皇]([後醍醐天皇]の父)の陵(墓)がある。ネット地図で、[後宇陀天皇 蓮華峰寺陵]とインプットすれば、その位置を知ることができると思う。

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7.広沢池

ネット地図で、大覚寺付近を見てみると、[大沢池]の東の方に、別の池があるのが分かると思う。[広沢池]だ。

過去に、[広沢池]と[大覚寺]の間を、歩いたことがある。田園地帯の中を行く道で、自分の好みのルートだと思った。

途中には、下記のような景観もあった。

P6A1(2012年10月に、私が撮影した)

P6a1_2

下記は、[広沢池]のほとりで、2008年10月に、私が撮影した写真画像である。

P7A1

P7a1_2

P7A2

P7a2_2

P7A3

P7a3_5

[五山送り火]が修される夜、ここで、[とうろう流し]が行われる。

[広沢池 灯籠流し]でネット検索すれば、それに関連する情報を得ることができると思う。

太平記ゆかりの地 インデックス

太平記ゆかりの地 インデックス

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太平記 現代語訳 総インデックス

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天皇・上皇が住んでいた場所

 後醍醐天皇、光厳天皇たちは、どこに住んでいた?

延暦寺

 [太平記]の中に何回も登場する、[延暦寺](えんりゃくじ)と、そこに所属する[衆徒]について

沙沙貴神社(ささきじんじゃ)

 [太平記]の中に登場する[佐々木]の姓を持つ人々のルーツは、滋賀県にあった

笠置寺(かさぎでら)

 鎌倉幕府からの追求から逃れるために、後醍醐天皇は近臣たちらと共に、ここにたてこもった

2018年6月12日 (火)

太平記 現代語訳 40-6 流れが変わってきた(最終章)

太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利幕府・リーダーA とにもかくにも、今やらなきゃいかん最優先の課題は、管領(かんれい)職の選定と任命、これだよ、これ!

足利幕府・リーダーB 同感だな。第3代将軍たる若君(注1)は、まだ幼くていらっしゃるもんなぁ。

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(訳者注1)足利義満。
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足利幕府・リーダーC 「この人に任せときゃ、ぜったい、だいじょうぶ」ってな人を、管領に選出してさぁ、若君の補佐、バッチシやってもらわにゃぁ。

足利幕府・リーダーD でぇ・・・いったい、誰? 誰を管領に?

足利幕府・リーダー一同 ・・・。

足利幕府・リーダーE ・・・そうねぇ・・・ここはやっぱ、あの人でしょぉ。

足利幕府・リーダー一同 ・・・(Eを注視)。

足利幕府・リーダーA 「あの人」って、誰?

足利幕府・リーダーE 「敵を滅ぼし、人をなつけ、諸事(しょじ)の沙汰(さた)のそのさばき方、あの貞永(じょうえい)年間、貞応(じょうおう)年間の鎌倉幕府・黄金時代を、ほうふつとさせるような所がある」と、世間が評してる人さ。

足利幕府・リーダーー一同 ・・・(Eを注視)。

足利幕府・リーダーE 中国地方の統治を、委任されてる人。

足利幕府・リーダーD 細川頼之(ほそかわよりゆき)か!

足利幕府・リーダーE そぉ!

足利幕府・リーダーC なぁるほど。

足利幕府・リーダー一同 なるほどねぇ・・・うーん、彼だったら、立派に管領つとまるだろうよ。

というわけで、右馬頭(うまのかみ)・細川頼之(ほそかわよりゆき)を武蔵守(むさしのかみ)に補任し、幕府管領(かんれい)職に就任させる事に、衆議一決した。

頼之が管領に就任するや、外向きの姿と内に秘めた徳の両面において、世評に全く違わないその姿に、足利一族の面々も彼を重んじるようになり、外様(とざま)の人々も彼の命に服するようになっていった。

かくして、万人待望久しかった中夏無為(ちゅうかぶい:注2)の治世がようやく到来した。

長く続いたこの戦乱の世にも、平和の方向に向かって歴史のベクトルが収束していく様相が、ようやく見えてきた。あぁ、なんとすばらしい事であろうか!

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(注2)国家が、自然にうまく治まっている様。
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太平記 現代語訳 インデックス8 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

太平記 現代語訳 40-5 将軍・足利義詮、死去す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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このような中に、同年9月下旬頃から、将軍・足利義詮が、体調を崩してしまった。

寝食快く無いがゆえに、和気(わけ)と丹波(たんば)の両流はもちろんの事、医療の分野において世間に名を知られている人を残らず招き、様々の治療を施した。

しかし、かの大聖釈尊(たいせいしゃくそん)においてさえも、沙羅双樹(さらそうじゅ)の下において涅槃(ねはん)せられたる時には、名医・ギバの霊薬も効験が無かったのである。この事を通して、釈尊は、「人生の無常」という事を、予め、我々に示し置かれたのである。

ならば、既に定まっている個々の人の寿命を先伸ばしにできるような薬など、この世にあろうはずがない。これまさに、明らかなる有待転変(うだいてんぺん)の理(ことわり)である。

京都朝年号・貞治6年(1367)12月7日午前0時、足利義詮は逝去した。享年38歳。

天下は久しく、将軍・義詮の掌(たなごころ)の中にあった。彼から恩を頂き、彼の徳をしたう者は、幾千万人いたことであろうか。

しかし、いくら嘆き悲しんでみても、もはやそのかいもない。

「いつまでも、嘆き悲しんでいてはいかんのだ」と、関係者一同、自らに言い聞かせ、泣く泣く、葬礼の儀式を取り営み、衣笠山(きぬがさやま:京都市・北区)の麓、等持院(とうじいん:北区)に、遺体を移した。

12月12日正午、火葬の準備が整えられ、荘厳なる仏事が始まった。

鎖龕(さがん)の偈文(げぶん)を唱えるは東福寺(とうふくじ:東山区)の長老・知親義堂(ちしんぎどう)、起龕(きがん)の偈文を唱えるは建仁寺(けんにんじ:東山区)の竜湫周澤(りゅうしゅうしゅうたく)、奠湯(てんとう)供えの儀は萬壽寺(まんじゅじ:東山区)の桂岩運芳(けいがんうんほう)、奠茶(てんちゃ)供えの儀は真如寺(しんにょじ:北区)の中山清誾(ちゅうざんせいぎん)、念誦は天龍寺(てんりゅうじ:右京区)の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、下火(あこ)は南禅寺(なんぜんじ:左京区)の定山祖禅和尚(ていざんそぜんおしょう)が行った。

文々(もんもん)に悲涙(ひるい)の玉詞(ぎょくし)を磨き、句々に真理の法義(ほうぎ)を述べる。故人も速やかに、三界(さんがい)の苦輪(くりん)を出て、直ちに涅槃四徳(ねはんしとく)の楽邦(らくほう)に到達されることであろうか・・・悲しみは、いやますばかり・・・。

世間の声A それにしても、今年っちゅう年はまぁ、いったいなんちゅう年やったんでしょうなぁ。

世間の声B 京都と鎌倉と時同じく、兄弟の連枝(れんし)たちまちに、同根(どうこん)空しく枯れてしまうとはねぇ。

世間の声C この先いったい、どなたさんが征夷大将軍に就任されて、四海の乱を治めていってくれるんじゃろかいのぉ?

世間の声D ムムム・・・まさに、危うき中に愁い有り、だが。

世間の声一同 さてさて、この先いったい、どないなっていくもんやら・・・。

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太平記 現代語訳 40-4 最勝講の場において、興福寺と延暦寺の衆徒、武闘に及ぶ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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同年8月18日、「最勝講(注1)を行うので、所定の人員を出せ」との命令が、諸寺院に対して送られた。

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(訳者注1)[金光明最勝王経]を、5日間10講義して、天下太平を祈る。執行の場所は、御所の清涼殿。
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その割り当て人数は、興福寺(こうふくじ:奈良市)10人、東大寺(とうだいじ:奈良市)2人、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)8人。園城寺(おんじょうじ:大津市)は、そのメンバーリストから除外されてしまった。

京都朝廷閣僚A そら、しゃぁないわなぁ、園城寺は、今度の訴訟に決着つかん間は、朝廷からの僧侶招聘(しょうへい)には一切、応じひんて、言うてきとんねんから。

当日のレフェリー(注2)には、前大僧正(さきのだいそうじょう)・懐雅(かいが)と、延暦寺の慈能(じのう)僧正が任命された。

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(訳者注2)原文では、「証義(しょうぎ)」。
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仏教の講義・論争の場においては、学海智水(がっかいちすい)を沸かし、智慧の剣を互いに闘わすべきである。

なのに、この時、興福寺と延暦寺の衆徒たちは、よりにもよって御所の庭において、不慮の喧嘩をしでかし、激烈な戦闘をやらかしてしまったのであった。

紫宸殿(ししんでん)の東、朝廷侍医控え所(注3)の前には、興福寺の衆徒らが、紫宸殿の西、渡り廊下(注4)の前には、延暦寺の衆徒らが、列をなして立っていた。

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(訳者注3)原文では、「薬殿(くすどの)」。

(訳者注4)原文では、「長階(ながはし)」。
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見れば、興福寺の衆徒たちは全員、わきに太刀を差している。

突如、興福寺の衆徒たちは抜刀し、延暦寺側めがけて、切り掛っていった。

延暦寺側は、太刀も長刀(なぎなた)も持ちあわせていないから、抵抗のしようがない。一歩もそこに踏みとどまる事ができず、紫宸殿の大床(おおゆか)の上へ追い上がられ、もうどうにもならない。

光円坊良覚(こうえんぼうりょうかく)、一心坊(いっしんぼう)の越後注記・覚存(えちごのちゅうき・かくそん)、行泉坊(ぎょうせんぼう)の宗運(そううん)、明静房(みょうじょうぼう)の学運(がくうん)、月輪坊(げつりんぼう)同宿の円光房(えんこうぼう)と十乗房(じゅうじょうぼう)はじめ、延暦寺側主要メンバーたちは、意を決して小刀だけでもって反撃に転じ、勇み誇る興福寺衆徒らのまっただ中へ、脇目もふらずに切って入った。

中でも、一心坊の越後注記・覚存は、興福寺の一人の若い衆徒の手から4尺8寸の太刀を奪い取り、「ここは、自分が何とかせねば!」と勇み立って切り回る。

興福寺衆徒たちは覚存に切り立てられ、バァッと散った。その中に、手掻(てんがい)侍従房(じじゅうぼう)が、ただ一人その場に踏みとどまり、一歩も退かずに、おめき叫びながら覚存と対戦。

追い廻し、追いなびけ、1時間ほども闘争は続いたであろうか。

始めのうちは、人数において劣り、武装においても準備が無かった延暦寺側が劣勢にあったが、急を聞いてかけつけてきた延暦寺側の下役の僧侶たちが、太刀や長刀の切っ先をそろえ、4本柱の門から中へ突入、縦横無尽に切って回った。

人数において優勢であった興福寺側は、これにはたまらず、ついに、北門から御所を脱出して一条大路(いちじょうおうじ)へ、白雲が風に渦を巻くがごとく、たなびき出た。

彼らが去った後の御所の庭の白砂の上には、手掻侍従房をはじめ、興福寺側の主要メンバー8人が、屍を並べて切り伏せられていた。延暦寺側も負傷者多数であった。

半死半生の者らを、戸板や盾を担架代りに使って運び出していくその有様たるや・・・御所の中において、このような事が起るとは、まさに前代未聞の事である。

あぁ、なんという事であろうか・・・御所という最高に尊い場所が、冷たい剣の光が飛び交う戦闘の場になってしまったとは。

宮中の庭を流れる清らかな水には、紅の血が流れ、その場に着座していた公卿大臣たちは、ただただ茫然、彼らの束帯は、ことごとく、緋色に染まってしまっている。

これほどの騒動があったにもかかわらず、天皇は、動揺する事なく、負傷者や死者を除かせた後、庭一帯の血を洗い清めさせ、席を改めた後に、最勝講を滞りなく執行したという。

世間の声A 最勝講とは、陛下よりの厳重なる御願によって、執行されるもの、まさに、天下の大法会といえましょうなぁ。

世間の声B そやのに、こないな、とんでもない事が起こってしまうやなんて・・・。

世間の声C いったいぜんたい、どうなっとるん?

世間の声D これはなぁ、きっと、何かの前兆だぜ。

世間の声E 公私に渡っての、何か不吉な事の前兆たい。

世間の声F この先いったい、何が起こるんじゃろうかのぉ・・・。

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太平記 現代語訳 40-3 南禅寺と園城寺の確執

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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同年6月18日、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市、別名:三井寺)の衆徒が蜂起し、朝廷と幕府に対して訴えを起こした。その事の発端は、そもそも何であったかというと:

当時、南禅寺(なんぜんじ:京都市・左京区)造営の費用を捻出(ねんしゅつ)するために、新たに関所が設けられていたのだが、なんと、その関所において、園城寺へ帰る途中の児(ちご)を、関所勤務の禅僧が殺害してしまったのである。

園城寺・衆徒一同 これまさに、前代未聞の悪事!

園城寺の衆徒たちは、憤怒の炎を燃やし、このうらみ晴らさんと、大挙してその関所に押し寄せ、当番の僧から下部(しもべ)や力仕事役に至るまでの全員を、打ち殺した。

それでもなおも、彼らは憤り止まず、

 「我らは訴える! 南禅寺を破却せしめよ! 禅宗を根こそぎ破棄せよ!」

との、強訴に及んだ。

園城寺衆徒A 奈良の東大寺と興福寺、そして延暦寺とわが園城寺、これら4か寺は、「何かあったら連合して、自分たちの身を守ろう!」との、固い固い約束を、既に交わしておるぅ!

園城寺衆徒B まさに、わが寺にとっての安否の時が、今や来たったぁ!

園城寺衆徒C 4か寺、連合して、南禅寺と徹底的に、戦うべきであぁるーっ!

園城寺衆徒一同 戦うべきであぁるーっ!

彼らは直ちに、延暦寺(えんりゃくじ:大津市)と興福寺(こうふくじ:奈良市)に対して、「連合して、事に当たろうではないか」との勧誘文書を送った。

園城寺衆徒A 事の決着がグズグズと遅れるような事あらばぁ、神輿(しんよ)、神木(しんぼく)、神座(しんざ)の本尊と共に、首都の中に、なだれこむべぇし!

園城寺衆徒一同 いざぁ、首都へ、首都へーーー!

園城寺衆徒A シュップレヒコォールゥ!

園城寺衆徒一同 ウォーッ!

園城寺衆徒B (コブシを振り上げ)南禅寺ぃ、ボクメェーツ(撲滅)!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)南禅寺ぃ、ボクメェーツ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)禅宗をぉ、根絶(ねだ)やしにせよーッ!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)禅宗をぉ、根絶やしにせよーッ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)我らは戦うぞー!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)戦うゾーッ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)戦うぞー!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)戦うゾーッ!

園城寺衆徒C (コブシを振り上げ)戦うぞー!

園城寺衆徒一同 (コブシを振り上げ)戦うゾーッ! (拍手)

衆徒一同の手 パチパチパチ・・・。

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「これは大変、天下の一大事」と、世の中の動きの先を見る目のある人々は、密かにこれを危ぶんだ。

しかしながら、園城寺からの誘いに乗る、という事は大変な事でもあり、延暦寺も興福寺も、そうそう気軽には決断できない。

延暦寺においては、東塔(とうとう)エリア、西塔(さいとう)エリアそれぞれにおいて、意見は様々に分かれ、園城寺からの使者は、連合勧誘書状を持ったまま、比叡山上の3エリアを巡る事に、ただただ時間を費やすばかり。

そんなこんなで、園城寺側は、実力行使にうって出る事もできず、幕府は幕府でノラリクラリ、待てど暮らせど一向に、裁決が出てこない。

園城寺衆徒一同 ほんまにもう! 幕府はいったいいつになったら、裁決、出してくれるんやぁ!

園城寺からの訴状は空しく放置され、衆徒たちは、ただただ、怒りの中に日を送るばかりである。

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太平記 現代語訳 40-2 足利基氏、死去す

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「このような事では、いったいこの先、我が国はどうなっていってしまうのであろうか」と、衆人危ぶむ中に、またまた、ショッキングなニュースが、関東よりもたらされた。

今年の春より、足利幕府・鎌倉府長官・足利基氏(あしかがもとうじ)は、体調を崩していたが、京都朝年号・貞治(じょうじ)6年(1367)4月26日、突然、死去してしまった。享年28歳。

兄弟の愛情はまことに篤い、相手との死別を悲しまない者が、この世にあろうか。

ましてや、この二人(義詮と基氏)は、言うなれば二翼両輪(によくりょうりん)、日本の西と東、二つの中心的な存在であったのだから。

死別の悲しみもさることながら、関東の柱石たる基氏が砕け落ちてしまったのでは、幕府の力は今後、勢い衰えていってしまうのではなかろうか・・・関係者一同、愁嘆は深い。

京都中、大いに怖れ慎み、「諸々の寺社において、除災の祈祷が行われるのでは。」といったような事も、取りざたされた。

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