太平記

2017年12月16日 (土)

太平記 現代語訳 17-9 天皇軍メンバー、比叡山を後に

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

--------

翌10月10日午前10時、天皇は、手輿に乗って比叡山を後にし、今路を西へ向かった。

恒良親王(つねよししんのう)は、戸津(とづ:滋賀県・大津市)経由で北に向かった。

天皇のお供(とも)をして京都へ向かったメンバーは以下の通り。

公家:吉田定房(よしださだふさ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、御子左為定(みこひだりためさだ)、三条公明(さんじょうきんあきら)、坊門清忠(ぼうもんきよただ)、勧修寺経顕(かんしゅうじつねあき)、九条光経(くじょうみつつね)、甘露寺藤長(かんろじふじなが)、頭弁・範国(のりくに)。

武家:大館氏明(おおたちうじあきら)、江田行義(えだゆきよし)、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)、菊池武重(きくちたけしげ)、仁科重貞(にしなしげさだ)、春日部家綱(かすかべいえつな)、南部為重(なんぶためしげ)、伊達家貞(だていえさだ)、江戸景氏(えどかげうじ)、本間孫四郎(ほんままごしろう)。

延暦寺衆徒:道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)。

これら総勢700余騎が、輿の前後に従った。

一方、恒良親王のお供をして北陸方面に落ちのびていった人々は、以下の通りである。

皇族:尊良親王(たかよししんのう)

公家:洞院実世(とういんさねよ)、洞院定世(とういんさだよ)、三条泰季(さんじょうやすすえ)、御子左為次(みこひだりためつぐ)、世尊寺行房(せそんじゆきふさ)、その子・世尊寺行尹(ゆきたか)。

武家:新田義貞、その子・新田義顕(よしあき)、脇屋義助、その子・脇屋義治(よしはる)、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、一井義時(いちのいよしとき)、額田為綱(ぬかだためつな)、里見義益(さとみよします)、大江田義政(おおえだよしまさ)、鳥山義俊(とりやまよしとし)、桃井義繁(もものいよししげ)、山名忠家(やまなただいえ)、千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)、宇都宮泰氏(うつのみややすうじ)、河野通治(こうのみちはる)、河野通綱(こうのみちつな)、土岐頼直(ときよりなお)、一条為治(いちじょうためはる)。

これに、延暦寺の衆徒も少々加わって総勢7,000余騎、地理に詳しい者を先頭に、親王の前後を囲んで北陸へと進んでいく。

尊澄親王(たかずみしんのう)は、船に乗って遠江(とうとおみ:静岡県中部)へ。

懐良親王(かねよししんのう)は、山伏に変装して吉野(よしの:奈良県・吉野郡)の奥へ。

四条隆資(しじょうたかすけ)は、紀伊(きい:和歌山県)へ。

中院定平(なかのいんさだひら)は、河内(かわち:大阪府東部)へ潜行。

その様はまさしく、かの中国・唐王朝の時代、哥舒翰(かじょかん)が安禄山(あんろくざん)に敗退し、玄宗皇帝(げんそうこうてい)が蜀(しょく)へ落ちのびた時、皇族や妃らがみな、美しいす足のまま、剣閣(けんかく)の雲の中を逃げ迷い、衣冠(いかん)を汚して、野道の草むらに逃げ隠れした時、そのままである。

天皇にお供する人A (内心)昨日、おとといまでは、苦しい日々が続いてはいたが、まだ希望の灯は、消えてなかった。

天皇にお供する人B (内心)忍耐の日々の末に、陛下の聖運は見事に花開き、われらも、錦を飾って京都へ帰還。

天皇にお供する人C (内心)京都にいた時には知らんかったような、あちらこちらの里、浦、山に、仮の宿を取りながら、見た事、聞いた事、

天皇にお供する人D (内心)つらかった事、苦しかった事、

天皇にお供する人E (内心)京都への帰還がかなった、その後は、

天皇にお供する人F (内心)何もかもが、えぇ思い出になるんやろぉなぁ、と、

天皇にお供する人G (内心)各々、自分の心を慰めてはいたんやったが、

天皇にお供する人A (内心)いまや、君臣父子、互いに万里の彼方に隔たってしまい、

天皇にお供する人B (内心)兄弟夫婦、十方に別れ行く。

天皇にお供する人C (内心)もはや、再会がかなう日も永遠に来いひんやろぉ(涙)。

天皇にお供する人D (内心)自分の身を置く所もないわ(嘆)。

天皇にお供する人E (内心)あの日、京都を出てからは、漂泊の日々を重ね、

天皇にお供する人F (内心)今、京都へ帰ると言うても、向かう先は敵陣の中。

天皇にお供する人G (内心)哀れなるかな、イの一番に殺されてしまう者、それはいったい誰?

天皇にお供する人A (内心)後になってから処刑されて、死者のカウントをアップする事になる者、それはいったい誰?

 春秋の 廻りとともに
 雁(かり)の群れは 南に飛翔し北に帰る
 今 飛び行くあの翼に
 大切なあの人への便りを 託す事も出来ないのか
 じっと立ち尽くして 大空を眺める

 東の空から 登った月は
 西の地平へ 没していく
 巡り行く あの天体に
 あの人への思いを 託す事もできないのだ
 じっと 暁の月を仰ぎ見る

 (原文)南翔北嚮 難附寒温於春雁 東出西流 只寄瞻望於暁月

大江朝綱(おおえともつな)作のこの「別離の歌」の筆の跡、今は涙となって、人々の頬の上を流れ落ちるのであった。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月15日 (金)

太平記 現代語訳 17-8 後醍醐天皇、新田義貞に恒良親王を託す

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

--------

それからしばらくして、新田義貞(にったよしさだ)ら親子兄弟3人が、3,000余騎を率いて御座所へやってきた。全員、心中に怒りを漲らせながらも、礼儀を忘れる事なく、階下の庭に袖を連ねて、並び座った。

後醍醐天皇は、普段よりも一段と顔を和らげ、

後醍醐天皇 義貞、義助、近ぉ寄れ。

新田義貞 ははっ。(平伏)

脇屋義助 ・・・。(平伏)

後醍醐天皇 (涙)いやなぁ、さいぜんからなぁ、貞満に、エライ言われてたんやわぁ。

新田義貞 陛下!

後醍醐天皇 そらな、貞満の言う事にも、一理はあるで。そやけどな、貞満、ちと、考えが浅すぎるわ。

新田義貞 ・・・。

後醍醐天皇 わが身の分際をはるかに超えた栄誉に酔いしれて、尊氏が、ついに朝廷を傾けようとし始めた時、わしな、思たんやわ、「義貞は尊氏とは親戚やし、きっと、あっちサイドにつきよんねんやろう」と。しかし、おまえは、源氏という氏族の繋がりを断ち切って、あくまでも義を貫く志堅固にな、傾く朝廷を助け、命を天に差し出してくれたんやわ。そないなおまえの事を、わしがおろそかに、思うはずないやろが、そやろぉ?

新田義貞 ・・・。(涙)

後醍醐天皇 わしは、思ぉた、おまえら、新田一族だけを国家の守りと頼んで、天下を治めよう、とな。今になってもな、それに、いささかの変わりもないでぇ。

後醍醐天皇 ただなぁ・・・(ハァー 溜息)天が定めたその時節が、未だ到来してへんのやなぁ・・・わが軍の兵士は疲れ、戦闘能力ガタ落ちやないかい。そやからな、ここは一旦謀って尊氏と和睦しといてや、捲土重来(けんどじゅうらい)のチャンスを、じっと待つのがえぇんかなぁ、とな、そない思ぉてやな、ほいで、京都帰還っちゅう事に、したんやがなぁ。

後醍醐天皇 この事、おまえにも前もって、知らしといた方がえぇかなぁ、とはな、思ぉたんやで、思ぉたんや。そやけどな、あんまり色々な方面にこないな機密情報もらすのも、相当問題ありやろぉ? どないな事で、外部へ漏れたりせんとも限らんやんかぁ。そないな事になってもたら、グアイ悪いよってに、おまえには、いざという時になってから伝えよぉ思ぉてな、そのままにしてたんやわ。

後醍醐天皇 そやけどなぁ、あないに、貞満にガンガン言われてしもぉてなぁ、ここはやっぱし、前もって、おまえにも一言伝えとくべきやったなぁと、後悔してるわ・・・あぁ、これはもう、ほんま、わしのミスやったしか、言いようがないわ。

新田義貞 ・・・。

後醍醐天皇 なぁ、義貞、おまえな、これから、北陸へ向かえ。

新田義貞 えっ?!

後醍醐天皇 越前国(えちぜんこく:福井県北東部)へは既に、川嶋唯頼(かわしまこれより)を派遣してるからな、きっとうまいこと、地元対策してくれてるやろう。それにな、気比社(けひしゃ:福井県・敦賀市)の神官らがな、敦賀津(つるがのつ:福井県・敦賀市)に城を築いて、こっち側につく、と言うてきてるんや。そやからな、まずは、あっち方面へ転進して、兵の気力を回復してな、北陸一帯を平らげた後、再度兵を起して、皇室守護の柱となってくれ。

新田義貞 はい!

後醍醐天皇 うーん・・・そやけどなぁ・・・わしが京都へ帰還した後、おまえは、朝敵の汚名を着せられてしまうかもしれんわな・・・よし、それを防ぐ為に、こうしょう、今日のうちに、恒良(つねよし)に天皇位を譲って、北陸へおまえと同行させるわ。

後醍醐天皇 義貞、これから後の天下の事、何もかも、おまえが取りしきってな、わしに仕えてくれたように、恒良を盛り立ててやってくれ。えぇか、頼んだで!

新田義貞 ははーっ!

後醍醐天皇 義貞、今日からわしはな、全ての希望をおまえに託すぞ・・・(涙をこらえながら)句践(こうせん)が受けたと同様の恥辱、何もかも堪え忍ぶ覚悟や。おまえも早いとこ、范蠡(はんれい)のように謀をめぐらして、わしをこの危機から救ぅてくれ!

新田義貞 陛下ぁーっ・・・う・う・う・・・。(涙)

堀口貞満 う・う・う・・・。(涙、涙)

怒っていた堀口貞満も、コワモテの関東武士たちも皆、顔を伏せて涙を流し、鎧の袖を濡らしている。

--------

かくして、9日は、皇位継承の儀、そして、京都帰還の準備にと、あわただしく暮れていった。

その夜更け、新田義貞は、密かに日吉(ひよし)社・大宮権現(おおみやごんげん:滋賀県・大津市)に参拝した。

義貞は、社前で祈願を込めた。

新田義貞 私は今日まで、神のお力におすがりして、日々を送ってまいりました。

新田義貞 私も武士のはしくれ、戦、すなわち闘争を生業とする者です。本来であれば、み仏には到底救っては頂けないような人間です。しかし、み仏は神に姿を変じて、このような私にも、久しく仏縁をつけてきて下さったのであります。

新田義貞 神仏よ、願わくば、私がこれから赴きます征路万里の彼方までも、擁護のおん眼差しをめぐらし下さり、再び大軍を起こして朝敵を滅ぼす力を、私にお与え下さいませ。

新田義貞 あるいは・・・不幸にも、私が命ある間には朝敵討伐がかなわぬというのであれば・・・もしそうだとしても、私は願わずにはおれません、我が子孫の中に必ず、朝敵討伐の大軍を起こすものが現われて、父祖のこの無念の思いを晴らしてくれますように、と!

新田義貞 この二つの祈願のうち、どちらか一方だけでもかなえて頂けますならば、私の子孫が永久に当社の檀徒となって、権現さまのご威光を輝かし奉る事を、ここにお誓い申し上げます!

義貞は、一心こめて祈りを込め、新田家累代の重宝の鬼切(おにきり)という太刀を、社壇の中に奉納した。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月14日 (木)

太平記 現代語訳 17-7 足利尊氏の調略、功を奏し、天皇側陣営あえなく崩壊

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

進退極まってしまった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)のもとへ、足利尊氏(あしかがたかうじ)から、密使が送られてきた。

天皇側近A (小声で)陛下・・・。

後醍醐天皇 う? なんや、いったい、どないしたんや。

天皇側近A (ヒソヒソ声で)足利尊氏のもとから、使者が・・・。

後醍醐天皇 (ヒソヒソ声で)なんやてぇ!

天皇側近A (ヒソヒソ声で)いかがいたしましょう?

後醍醐天皇 ・・・。

天皇側近A ・・・。

後醍醐天皇 ・・・(ヒソヒソ声で)通せ。

天皇側近A (ヒソヒソ声で)ハハッ。

やがて、天皇の前に通された密使は、いわく、

密使 将軍より、以下のようなメッセージを、預かってまいりました。

 昨年の冬、近臣の讒言(ざんげん)によって、私は陛下より、御勘気を頂く身となってしまいました。その時、私は、出家して身の潔白を証し、陛下より無罪とお認め頂いた上で、死なせて頂こうと思っておりました。

 ところが、新田(にった)兄弟は、陛下のお怒りを利用して、日ごろの恨みを晴らさんと、私に兵を向けてまいりました。そこで、私の方も止むを得ず、決起したのです。それ以来、日本国中が、今見るような騒乱状態になってしまったのであります。」

 私が挙兵するに当たっては、陛下にタテつこうという意図など、全くございませんでした。ただただ、新田義貞(にったよしさだ)一味を滅ぼし、他人を誹謗中傷するねじけた心を持つ輩を、陛下の周辺から根絶せん、ただ、それだけを願っての事でありました。

 願わくば、私のこの誠心(まことごころ)、陛下の御眼差しでもって、つぶさにご照覧下さいませ。讒言によって無実の罪に陥れられたこの私めを、どうか、哀れとおぼしめし下さいませ。なにとぞ、なにとぞ、御所へご帰還あそばされ、再び、玉座にお座り下さって、国家の平和を回復せしめてくださいませ。

 陛下のお供をして、そちらに行かれた公卿の方々は言うに及ばず、降参して来られる方々はすべて、その罪の軽重を一切問わないことと、致しましょう。全員、元の官職に復帰していただき、領地回復の手続きも、取らせていただきましょう。国家の運営も、今後は全て、公卿方にお委ね申し上げようと思っております。

 このような事をいきなり申し上げても、なかなか信じては頂けないのかもしれません。よって、「私が申し上げる事に、嘘偽りは決してありません」との趣旨の起請文を別紙にしたため、浄土寺(じょうどじ:京都市・左京区)の忠円僧正(ちゅうえんそうじょう)のもとへ、お届けしておりますので、そちらの方も、ご照覧くださいませ。

密使 将軍よりのメッセージ、以上でございます。(平伏)

後醍醐天皇 ・・・。

後醍醐天皇 (内心)う-ん・・・どないしょう?

後醍醐天皇 (内心)どないしたらえぇねん、どないしたら・・・。

後醍醐天皇 (内心)今のままでは、我がサイド、ジリ貧やしなぁ・・・。

後醍醐天皇 (内心)神仏への起請文まで書いてきとるんやし、よもや尊氏、嘘偽りでもって、こんな事言うてきてるんとはちゃうやろ。

後醍醐天皇 (内心)よし、出された船に、乗ってみるかぁ。

天皇は、側近の老臣や智臣に一切相談されずに、

後醍醐天皇 その話、乗った!

密使 ハハーッ。(平伏)

--------

密使 陛下は、ご承諾なさいました。

足利尊氏 そうか・・・ご苦労であった。

密使 ハハッ(平伏)。

足利尊氏 (内心)帝、叡智浅からずとは言いながらも、意外に簡単にだませたなぁ、フフフ・・・。よぉし、こうなったら、他の連中らも、どんどん誘ってみようじゃないの。

それ以降、尊氏は、ありとあらゆる機会と縁故を利用して、天皇方の有力武士多数に対して、密かに調略を進めていった。

--------

このようにして、後醍醐天皇の京都帰還の手はずは着々と整えられ、いよいよ、その当日となった。

降伏の意志を固めた天皇軍メンバーは、各自勝手に陣を離れ、今路(いまみち)、修学院(しゅがくいん)あたりに待機して、天皇の到着を待った。

新田一族中の重要メンバー、江田行義(えだゆきよし)と大館氏明(おおだちうじあきら)は、いずれも一軍の指揮を任されるほどの人物で、新田義貞とは運命共同体的関係にあった。しかし、いったい何を考えてか、二人は足利サイドへの降伏を決意してしまった。

9日の明け方、二人は、坂本を抜け出て比叡山上に登っていった。

そんな事とは夢にも知らない新田義貞は、その朝もいつものように周囲の人々と応対していた。そこへ、洞院実世(とういんさねよ)のもとから使者がやってきていわく、

使者 主より、次のように、急ぎ、新田殿に申し伝えるように、と、言いつかってまいりました。

 「天皇陛下がたった今、「これから京都へ帰還する」と言い出されて、供奉する人々を招集しておられる。新田殿はこの事、ご存じかいな?」

新田義貞 エェッ! 陛下が京都へ帰還? ハハハ、そんなバカなぁ。洞院実世様が本当に、そんな事を、あなたに言われたんですかぁ? あんた、洞院様のおっしゃった事を、何か聞き間違えてない?

それを聞いていた堀口貞満(ほりぐちさだみつ)は、

堀口貞満 殿! もしかしたら・・・。

新田義貞 えぇっ?

堀口貞満 いやね・・・どうも・・・どうも、なんかおかしいぃフンイキなんですよねぇ。実はね、今朝早く、江田と大館が、別に何の用も無いのに、「これから、根元中堂にお参りするんだい」とか言って、山の上へ登っていっちまったんですよ。

新田義貞 ・・・。

堀口貞満 とにかく、おれ、今から御座所へ行って、あちらの様子、見てきます!

貞満は、郎等に持たせていた鎧を取って肩に投げかけ、馬上で上帯を締め、両方のアブミを蹴立てて、馬を急がせた。

御座所近くにさしかかったので、馬から下り、兜を脱いで中間(ちゅうげん)に持たせ、貞満は、周囲を鋭い視線で見回した。

堀口貞満 やっぱしそうだったのか、まさに今、陛下御出発ってぇ状態じゃん!

供奉の公卿や殿上人(てんじょうびと)の中には、既に衣冠を帯している者もいる。御座所の縁の前には輿が据えられ、新任の内侍次官が内司所の櫃(ないしどころのひつ:注1)を手に持ち、輿の中に運び入れようとしている。そして、三種の神器中の「クサナギの剣」と「ヤサカノマガタマ」のお守り担当者として、蔵人頭(くろうどのとう)兼右少弁(うしょうべん)・藤原範国(ふじわらののりくに)が、御簾の前にひざまづいている。

--------
(訳者注1)三種の神器中の「神鏡」を格納している櫃。
--------

貞満は、左右に軽く会釈しながら輿のすぐ前まで駆け寄り、轅(ながえ)を握りしめて、叫んだ。

堀口貞満 陛下が京都へご帰還とのうわさ、このあたりの子供らの口から、聞いてはいましたがね、でも、新田義貞殿は、「そんな事、全く聞いてないなぁ」と言われる。だから、「ただのデマだろう」って、おれは思ってました。なのに・・・なのに、もうこんなトコまでいっちゃってたんだぁ!

後醍醐天皇 ・・・。

堀口貞満 陛下! いったいなぜ、新田義貞を、お見捨てになるのですか! いったいぜんたい、義貞が、どんな悪い事をしたというのですかぁ!(涙)

後醍醐天皇 ・・・。

堀口貞満 多年に及ぶ、義貞の粉骨砕身(ふんこつさいしん)の陛下への忠節、陛下はお忘れですかぁ! 陛下は、あの大逆無道の尊氏の方に、お心を移してしまわれたのかぁ!

後醍醐天皇 ・・・。

堀口貞満 さる元弘年間のはじめ、不肖・新田義貞は、もったいなくも陛下よりの倒幕勅命を頂いて、関東の大敵・鎌倉幕府を、たった数日の間に滅ぼし、陛下を、隠岐島流刑の境遇からお救い申し上げたんだ。さらにその後3年間も、朝廷に忠節を尽くして陛下の宸襟(しんきん)を安んじ奉ってきた。義貞のこの功績、古代の忠臣といえども、これに匹敵するもんなんか、いやしねぇ! 最近の義士の功績たってぇ、彼のそれに比べれば、ナニホドのもんだってんだぁ!

堀口貞満 足利尊氏が朝廷に反旗を翻すやいなや、朝廷軍の大将として敵に相対、反乱軍と戦ってそれを打ち負かし、敵の大将を捕虜とした、死線をかいくぐっての奮戦に継ぐ奮戦、もうその回数なんか、到底数え切れるもんじゃぁねぇよ! その戦いの中で、義を重んじて命を落としたわが新田一族、その数132人、節に臨んで、屍を戦場にさらした我らの郎従らのその数、8,000余!

堀口貞満 でも、でも、今回の京都での数度の戦い、朝敵の勢いは盛んになり、わが方は、次第に形勢不利・・・でもなぁ、この敗戦の責任、おれらの大将・義貞には全くね(無)ぇ! 敗戦の原因・・・原因は・・・ようは・・・ようは・・・。

後醍醐天皇 ・・・。

堀口貞満 ・・・陛下に、徳がね(無)ぇからですよぉ! だから、味方についてくれるモン(者)が、こんなに少ねぇんだぁ!

後醍醐天皇 ・・・。

堀口貞満 陛下! わが新田一族の長年の忠義を見捨てて、京都へどうしてもお帰りになりたいってんならね、まずは、義貞以下、当家の氏族50余人を御前へ召し出されて、伍子胥(ごししょ)みてぇに、全員の首を刎ねてからになさいませ! 比干(ひかん)みてぇに、全員の胸をお割きになったらどうですか!(涙)

満面に怒気をみなぎらせながら、涙を流し、理を砕いて訴える貞満の言葉は、その場に居合わせた全員の心を、強烈に揺り動かした。

後醍醐天皇 (内心)あぁ・・・わし、なんか、とんでもない思い違いしてたようやなぁ。

供奉の人々も、貞満の言葉にこめられた「理」と「義」の前には、ただただ、面を伏せて座すしかなかった。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月13日 (水)

太平記 現代語訳 17-6 延暦寺衆徒、近江方面へ軍を進める

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

--------

「京都を包囲しての四方からの天皇軍の一斉総攻撃、今度こそは勝利の可能性、大!」との期待も空しく、各方面の意志不統一の結果、天皇軍は敗退。四条隆資(しじょうたかすけ)も、八幡(やわた・京都府・八幡市)から坂本(さかもと:滋賀県・大津市)への撤退を余儀なくされた。阿弥陀峰(あみだがみね)に陣取っていた阿波(あわ)・淡路(あわじ)勢も、細川定禅(ほそかわじょうぜん)の攻撃に敗退し、坂本へ退却。長坂(ながさか:京都市・北区)をかためていた額田(ぬかだ)らも敗退して、山の奥へ逃走。

このような情勢の急変に、足利サイドは籠から外に出た鳥のごとく喜び、天皇サイドは穴にこもった獣のごとくに縮こまってしまった。

延暦寺・衆徒リーダーA 興福寺(こうふくじ:奈良県・奈良市)の衆徒らも、あないな返答を送ってきたことやし、きっと、我々ワイドについてくれるんやろう。

延暦寺・衆徒リーダーB それにしては、奈良からの援軍の到着、遅いやないか。いったいいつになったら、来てくれよんねん?

いつまで待ってみても、援軍は奈良からは来ないのだ。実は、

足利尊氏(あしかがたかうじ) この際、興福寺の連中らもこちらサイドに引きずり込んでしまおう・・・よし、「荘園数箇所を寄付しますから、どうでしょう、我々といっしょにやりませんか?」との書状を、興福寺に送れ。

尊氏からのこの申し出を受けて、興福寺衆徒らは、目の前の欲に後々の恥をも忘れ、延暦寺に加勢するとの約束をあっという間に反故にしてしまい、足利軍との連合結成を承諾してしまったのであった。

延暦寺・衆徒リーダーA あーあ、どこもかしこも、八方ふさがりやんかぁ。

延暦寺・衆徒リーダーB 今となっては、希望の持てそうな情報と言うたら、備後の桜山家(さくらやまけ)の者らと、備中の那須五郎(なすのごろう)、備前の児島(こじま)、今木(いまき)、大富(おおどみ)らが、軍船を仕立てて近日中に京都へやってくる、という情報くらいかなぁ。

延暦寺・衆徒リーダーC 伊勢国の愛洲(あいす)からの、「伊勢国の敵を退治した後、近江国へ発向しますよ」とのメッセージも、来てるけど・・・。

延暦寺の衆徒らは、あらん限りの財力を尽くして、天皇軍の士卒らの食料確保に努力してきた。しかしながら、公家、武家やその郎等ら、上下合わせて20万人を越える人々の胃袋を、6月初めから9月の中旬に至るまで、養い続けてこなければならなかったのである。今や、経済的備蓄も底をついてしまい、米蔵はスッカラカンになってしまった。

さらに悪い事には、北陸方面は、斯波高経(しばたかつね)に完全に制圧されてしまっていて、その方面からの食料輸送ルートが遮断されている。一方、近江においては、小笠原貞宗(おがさわらさだむね)が野路(のじ:滋賀県・草津市)、篠原(しのはら:滋賀県・近江八幡市)付近に陣取っていて、琵琶湖上の舟運を全てストップさせてしまっている。

このようなわけで、延暦寺内の食料不足は、日に日に深刻さを増してきた。朝廷軍の士卒のみならず、いよいよ三千の僧侶らまでもが、朝夕の食事にも事欠くようになってきた。谷々の仏教講義も絶えはてて、社々の祭礼さえも行えなくなってきた。

延暦寺・衆徒リーダーA このままでは、どうしようもないわ。まず、近江方面の朝敵を退治して、美濃(みの:岐阜県南部)、尾張(おわり:愛知県西部)との間の輸送ルートを開かんと、あかん!

--------

9月17日、延暦寺の衆徒5,000余人が出動、琵琶湖を船で渡って、志那浜(しなのはま:滋賀県・草津市)に上陸し、野路、篠原へ押し寄せていった。

延暦寺から寄せてきたこの大軍を見て、

小笠原貞宗 防備の整ってねぇ、平地のどまん中の城にこもってみても、包囲されたら、もうどうにもならねぇ。むしろ、平原での迎撃戦にうって出るのが、正解ずら。

かくして、両軍は激突。

やがて、延暦寺サイドの道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)率いる軍は、一敗地にまみれて足も立たない状態のまま退いていく。これと入れ替わった、成願坊源俊(じょうがんぼうげんしゅん)の軍は、一人残らず討たれてしまった。

延暦寺サイドは、この敗北にますますいきり立ち、同月23日、全山500房から精鋭の衆徒らを選抜して2万余人の軍を編成、再び軍船を連ねて、琵琶湖をおし渡って行った。

小笠原サイドは、「延暦寺の大軍、再びよせ来る」との情報に、浮き足立ってしまった。

延暦寺軍・前衛リーダーD おいおい、小笠原軍なぁ、わしらの数の多さにビビッテしもぉて、その大半が逃亡、残るは、わずかに300足らずになってしもぉた、との情報をキャッチ!

延暦寺軍・前衛リーダーE なんや、たったそれだけやったら、わしらだけで十分やん。後続のもんらの到着なんか待ってる事ないわ、さっさと攻めかかろうやぁ!

延暦寺軍・前衛リーダーF 行こ行こぉ!

例によって血気盛んな者たちばかり、延暦寺軍前衛メンバーたちは、我先にと進んでいった。

この大軍を前にして、なおも戦場に留まった小笠原軍のメンバーたちである、気後れなどいささかも見せようはずが無い。

早暁午前6時、小笠原軍300余騎は、延暦寺軍が陣取っている四十九院(しじゅうくいん:滋賀県・犬上郡・豊郷町)へ、先制攻撃をかけた。

小笠原軍の猛攻に、延暦寺サイドは、理教坊(りきょうぼう)阿闍梨(あじゃり)をはじめ、主要メンバーが30余人も討たれてしまった。

かくして、船に竿差し、堅田(かたた:滋賀県・大津市)目指して、延暦寺軍は湖上を退却余儀なくされた。

--------

このような中に、足利陣営の佐々木道誉(ささきどうよ)が、京都を密かに脱出し、若狭(わかさ:福井県西南部)経由で、坂本の天皇軍側陣営へ投降してきた。

佐々木道誉 近江はねぇ、わが佐々木家が代々、守護職をおつとめしてきた国でごぜぇやすよ。なのに、小笠原のヤロウめが、京都へのルート上に居座りやがって、おまけに2度もの合戦に、意外にうまいことやりやがって・・・。その手柄でもって、「近江国の守護は小笠原に」なぁんて事になっちゃってぇ、おれの面目、マルツブレやぁ!

新田義貞(にったよしさだ) ・・・。

佐々木道誉 んだもんでね、朝廷から私メを近江国の守護に任命していただけるんでしたら、私すぐにあちらに行って、小笠原を追い落とし、近江国丸ごと制圧しちゃいまさぁ。そうなりゃ、朝廷軍もイッキに態勢挽回できるやろ? どう? えぇ?

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)も新田義貞も、佐々木道誉が自分たちを欺かんとしてこのような事を持ち掛けているとは見抜けずに、

後醍醐天皇 よっしゃ、道誉の要求通りに、してやれ。

そこで、佐々木道誉に、近江国守護職と領主不在の上等の領地数10箇所を降伏の恩賞として与えた上で、近江へ遣わした。

道誉は、もとから天皇軍側に加担する気など、さらさら無い。近江に着くや否や、彼は、小笠原貞宗に対して言わく、

佐々木道誉 やぁやぁ、近江方面の包囲ラインがため、ご苦労やったのぉ。ところでなぁ、ついこないだの事だけど、足利将軍様からこの道誉に、「近江国の守護に任命するぞよ」という事になってなぁ・・・てなわけで、今日をもって、あんたとわしと、この近江の守備担当、バトンタッチよ。あぁ、いやいや、まことにお役目ご苦労でありましたのぉ、はいはい。

小笠原貞宗 ・・・。

ということで、小笠原貞宗は、すぐに近江から京都へ向かった。

この後、道誉はたちまち、近江国全域を制圧し、ますます坂本への圧力を強めていった。

かくして、延暦寺衆徒らの遠い親類、近い親類、後醍醐天皇派の公家らに仕えている者、縁ある者、みな悉く、近江国内に、寸分の身の置き所も無くなってしまった。

後醍醐天皇 ううう、道誉め、よくもだましよったなぁ! すぐにあいつを退治せぇ!

さっそく、脇屋義助(わきやよしすけ)を大将として、2,000余騎が近江へ差し向けられた。

脇屋軍が湖上を渡り、志那浜で上陸しようとしている所へ、佐々木軍3,000余騎が押し寄せてきて、猛攻を加えた。

脇屋軍サイドは、遠浅の湖面ゆえに、船に乗ったまま湖岸に接近することもできず、上陸地点に馬を下ろすこともできずに難渋している間に、次々に射落とされ、切り倒されていく。

ついにこの日の戦にも天皇軍側は敗れ、生き残ったわずかの者らは、坂本へ漕ぎ戻っていった。

これより後、比叡山上も坂本も、いよいよ食料が尽き、最初は100騎、200騎あった軍も5騎、10騎となり、5騎、10騎で構成の小集団は、誰も馬に乗れない状態になってしまった。(注1)

--------
(訳者注1)食べる事ができないので(武士が)衰弱して、馬に乗れなくなってしまった、という事を意味しているのか、あるいは、食料に事欠くあまり、ついに乗馬まで食べてしまった、という事を言わんとしているのか、記述の意図がよく分からない。
--------

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月12日 (火)

太平記 現代語訳 17-5 新田義貞、足利尊氏に対して一騎打ちを挑む

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

--------

八幡方面から京都に寄せていった四条軍の敗北を知らないまま、約束の時刻となったので、新田義貞(にったよしさだ)・脇屋義助(わきやよしすけ)兄弟は、2万余騎を率いて、今路(いまみち)、修学院(しゅがくいん:京都市・左京区)から南下、3手に別れて、京都中心部に押し寄せていった。

第1軍を率いるは、新田義貞、脇屋義助、江田(えだ)、大館(おおだち)、千葉(ちば)、宇都宮(うつのみや)、その兵力1万余騎。大中黒(おおなかぐろ:注1)、月ニ星(つきにほし:注1)、左巴(ひだりともえ:注1)、丹(たん)と児玉のウチワ(注1)などの旗30本を連ね、糺森(ただすのもり:京都市・左京区)を西へ通過し、大宮大路を南下、足利軍がこもる東寺へ、ひたひたと寄せていく。

--------
(訳者注1)大中黒は、新田家の紋、月ニ星は、千葉家の紋、左巴は、宇都宮家の紋、ウチワは、児玉党武士団の紋。
--------

第2軍を構成するは、名和長年(なわながとし)、仁科(にしな)、高梨(たかなし)、土居(どい)、得能(とくのう)、春日部(かすかべ)、他、諸国の武士らからなる混成軍、その兵力5,000余騎。大将・新田義貞の旗を守りながら、鶴翼魚鱗(かくよくぎょりん)の陣をなし、猪熊(いのくま)通りをまっしぐらに南進。

第3軍は、二条師基(にじょうもろもと)、洞院実世(とういんさねよ)を大将とする5,000余騎。牡丹の旗、扇の旗ただ2本だけを掲げ、足利軍に背後に回り込まれぬようにと、四条通りを東へ進み、わざと先へは進まない。

先日から東山・阿弥陀峰(あみだみね)に陣取っていた、阿波(あわ)、淡路(あわじ)勢1,000余騎は、未だ京都中心部へ入ってはおらず、泉湧寺(せんゆうじ:京都市・東山区)の前の今熊野(いまくまの:東山区)まで降りてきて、合図の烽火を上げた。

これを見た長坂(ながさか)に陣取る額田(ぬかだ)勢800余は、嵯峨(さが:右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)のあたりに散開し、方々に火を放った。

足利サイドは、大兵力ではあるが、人も馬も疲れきっており、今朝の戦で矢も使い果たしてしまっている。これを攻める側は、小勢ではあるものの、それを指揮するは名将・新田義貞。

新田義貞 (内心)これまで、わが方は連戦連敗だった。今日こそは、何としてでも、その恥をそそがずにおくもんかい、新田家の面目にかけてな! 今日こそは、やるぞぉ!(ギシギシギシ・・・歯ぎしり)

街の声A 大覚寺統(だいかくじとう)と持明院統(じみょういんとう)の、天皇家内部の政権争いも、

街の声B 新田、足利両家の、長年にわたる確執(かくしつ)も、

街の声C 何もかも、今日のこの一戦で、ピリオドを打つことになるんやろぉなぁ。

街の声D いったい、どないなるんやろぉか、うーん!

街の声E いったい、どちらが勝つんやろうか、うーん!

街の声F 緊張いや増す、今日この時!

--------

六条大宮(ろくじょうおおみや)で、戦いが始まった。足利軍20万騎と新田軍2万騎の乱戦が展開されていく。

飛び交う矢の音は、軒を過ぎ行く夕立のごとくけたたましく、撃ち合う太刀の鍔音(つばおと)は、空に答える山彦(やまびこ)の鳴り止むひまもなし。足利軍は、小路(こうじ)小路を塞ぎ、新田軍を東西から包囲せんとする。相手が進めば先を遮り、左右へ分かれればその中に割って入らんと、変化、機に応じて戦う。

対する新田軍は、兵力をいささかも分散する事無く、中央を相手に破らせず、今退いたかと思えば、すぐに反撃に転ずる。立ち向かってくる足利側の各軍を次々と撃破しながら、大宮通りをグイグイ南進。

足利側の仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、今川(いまがわ)、荒川(あらかわ)、土岐(とき)、佐々木(ささき)、逸見(へんみ)、武田(たけだ)、小早川(こばやかわ)各軍は、こちらに打ち散らされ、あちらに追い立てられ、チリジリバラバラになってしまった。

かくして、新田軍2万余騎はついに、東寺の小門前に到達、一斉にトキの声を上げた。

新田義貞 坂本を出る時になぁ、おれは、天皇の御座所におうかがいして、陛下にお誓い申し上げたんだぁ、

 「これから天下がどうなるかは、陛下の御聖運次第、自分があれこれ、心わずらうべき事ではありません。とにかく今日の戦、尊氏がこもってる東寺の中へ、矢の一本も射る事もなしに、退却しちまう、そのような事だけは、絶対にいたしません!」

ってなぁ! その約束を違えず、ついに、敵の本拠地までたどりついたぞぉ!(大喜)

義貞は、旗の下に馬をすえ、東寺の方角を睨みつけ、弓を杖につきながら大声で叫んだ。

新田義貞 おぉーい、そこの足利のぉー、よぉく聞けぇー!

新田軍メンバー一同 ・・・。

足利軍メンバー一同 ・・・。

新田義貞 この数年間ってもーん、日本国中、混乱休まるところを知らずぅー、罪もない人民は、身を安んずる事もできずにぃー、ずっーーときてしまったよなぁーー。

新田義貞 その原因、一つにはなぁー、天皇家の両統の政権争いにありとぉ、言えるんだろぉぜぇー。

新田義貞 けんどよぉー! それはあくまでも、表面上の事よぉー。何もかもがぁ、足利尊氏(あしかがたかうじ)ぃー、おまえとおれとの争いー! これこそが、この日本の動乱の、真の原因だぁー!

メンバー一同 ・・・。

新田義貞 おれはなぁ、尊氏ぃー、思ったんだよぉ、おれかおまえか、どっちかの顔を立てるために、大勢の人間を争いに巻き込んで、苦しめるぅー、そんな事やってねぇで、おれたち二人だけでもって勝負決めりゃいいじゃんってなぁー。その方が、よっぽど良かぁねぇかい、えぇーー!?

メンバー一同 ・・・。

新田義貞 オォーイ、尊氏! おまえ、おれの言ってるの、ちゃんと聞いてんのかよぉー! おれはなぁ、これから自分一人だけで、そっちの軍門めがけて行くからなぁー! 尊氏ぃー、おまえも男だったらなぁー、とぉっとと外に出てきて、潔(いさぎよ)く、おれと、一騎打ちの勝負しやがれーぃ!

メンバー一同 ・・・。

新田義貞 サァテ、まずはイッポン(一本)、ごあいさつといくぜーぃ! この矢に込めたおれのこの覚悟、てめぇ、思い知りやがれってんだぁーー!

義貞は、2人張りの弓に13束2伏の矢をつがえ、思い切り引き絞って、ツル音高く放った。

弓 ビューン!

矢 ヒューーーーーーーー、ヴィシコーン!

矢は、二階建ての櫓の上を超えて、尊氏が座す本堂の中まで飛び込み、東北角の柱に突き刺さった。鏃は柱の中に深々と埋まり、一瞬、柱が揺らいだ。

足利尊氏 ・・・ウウウ・・・ウウウ・・・。

尊氏の側にいる足利軍メンバー一同 ・・・。(ソワソワソワ)

足利尊氏 ・・・ウググ・・・義貞ァ!・・・。

尊氏の側にいる足利軍メンバー一同 ・・・。(ゾクゾク)

足利尊氏 いいか! 私はなにもなぁ、天皇陛下を倒そうと思って、この戦をはじめたんじゃぁなぁい!

尊氏の側にいる足利軍メンバー一同 ・・・(ワナワナ)。

足利尊氏 鎌倉を・・・鎌倉を出発したあの時以来、心中に念じ続けてきたことは、たった一つ・・・たった一つだけ! 義貞に出会い、この憤りを晴らさん、ただそれだけ、ただそれだけだぁー!

尊氏の側にいる足利軍メンバー一同 ・・・(ブルブル)。

足利尊氏 一騎打ちぃ? ヨォシ、もとよりこちらも願う所だ、受けて立つぞ! 馬引けぇ、馬引けぇ!

足利軍メンバーG ウワッ、こりゃ大変だよぉ!

足利軍メンバーH 殿、殿!

足利軍メンバーI ちょっと待ってくださいよ、殿ぉ!

足利尊氏 エェイ、さっさと門を開けろ! うって出るぞォ! 一騎打ちだぁ!

上杉重能(うえすぎしげよし) 殿、殿、これはいったい・・・いったいナンテェ事を・・・なんてムチャな事を・・・。

重能は、尊氏の鎧の袖に取り付いて、必死に尊氏をなだめる。

上杉重能 あのォォ・・・古代中国においてですネェェ、楚(そ)の項羽(こうう)が漢(かん)の高祖(こうそ)に対して一騎打ちを挑んだ時、高祖は項羽をアザ笑って、一体何て言いやしたぁ? 「なんでおれが、おまえみたいなヤツと、一騎うちなんかしなきゃぁなんねんだよぉ、おまえなんざぁ、そこらの罪人にでも討たせるわさ」ってねぇ。

足利尊氏 ・・・(怒気さめやらず)。

上杉重能 義貞はね、ロクに作戦も立てねぇまんま、こちらの陣へ深入りしちまったばっかしに、もうどこにも退却しようが無くなっちまった。だから、フテクサレてやがんですよ。

足利尊氏 ・・・(冷静さを取り戻しつつ)。

上杉重能 義貞のコンタンはですねぇ、なんとかして、戦いがいのある相手を、寺の外に引っ張り出し、それと戦って、死んで一花咲かせようって事ですわさ。なのに、そんな挑発に乗って、外に出てくだなんて・・・やめてくださいよぉ、一騎打ちなんて、とんでもねぇです、一騎打ちなんて!

このように、道理を尽くして説得する重能の言葉に、尊氏も仕方なく怒りを押さえ、再び席に戻った。

--------

土岐頼遠(ときよりとう)は、300余騎を率いて上賀茂(かみがも:北区)に布陣していた。

五条大宮(ごじょうおおみや)にいる相手勢力を見て、

土岐頼遠 オッ、あの軍、立てとる旗を見りゃ、みぃんな、お公家さん方の家の旗ばっかしだがね。ということは、あの軍のリーダーに、武士はおらん・・・こりゃぁ、いいカモだが。よぉし、あれに攻めかかれ!

土岐軍は、トキの声を上げ、おめき叫んで、第3軍に襲いかかった。

背後から攻めかかってきた土岐軍を見て、第3軍は、パニックに陥った。

天皇軍・公家J 敵が、背後に回り込んできよった!

天皇軍・公家K このままではあかん、鴨(かも)河原まで退(しりぞ)いて、そこの広みで戦うんや、退(ひ)け、退け、はよ退かんかぁ!

その軍勢は一戦もせずに、たちまち五条川原へ追い出され、そのまま足が止まらず、一目散に修学院へ。

土岐頼遠 なぁんじゃぁ、あの腰抜けどもはぁ、ワッハッハッハァー。よぉし、勝ちどきじゃぁ!

土岐頼遠 エェイ!エェイ!

土岐軍メンバー一同 オーウ!

その声を聞いて、そこかしこから足利サイド軍勢が集合してきて、数千騎の勢力に膨張、大宮通りを南下して、新田軍の背後から襲いかかった。

さらに、神社総庁前(注2)にひかえていた、仁木、細川、吉良(きら)、石塔(いしどう)ら2万余騎は、朱雀大路(すざくおうじ)を斜めに突っ切って西八条(にしはちいじょう)へ押し寄せてきた。

東からは、小弐(しょうに)、大友(おおとも)、厚東(こうとう)、大内(おおうち)、四国・中国の勢力3万余騎が、七条河原を南下し、針小路(はりこうじ:南区)、唐橋(からはし:南区)へ回り込んできた。

--------
(訳者注2)原文では、「神祇官」。
--------

このようにして、足利サイドは、水も漏らさぬ包囲網を敷いた。

新田軍は、三方かくのごとく百重千重に取り囲まれ、天を翔け地を潜るしか、包囲網の外に遁(のが)れることができない。前方には、城砦(じょうさい)と化した東寺の守りかたく、数万の兵が鏃をそろえて、散々に矢を射てくる。

新田義貞 もともと、今日限りのわが命と、覚悟定めてきたんだ、さぁ、行くゼィ!

義貞は、2万余騎を一手にまとめ、八条から九条一帯に展開する足利軍10万余騎を四角八方へ駆け散らし、三条河原へサァット退いた。千葉、宇都宮も、思い思いに血路を切り開いて、戦場を去っていった。

--------

名和長年が率いている軍は、いつのまにか、孤立状態になってしまった。

仁科、高梨、春日部、丹、児玉ら3,000余騎は、一団となって一条大路を東へ退き、途中300余騎が討たれながらも、鷺森(さぎのもり:左京区)へ駆け抜けた。

長年の軍は、200余騎にて大宮で反撃に転じ、長年以下、一人残らず討死。

その後、各方面での戦闘に勝利した足利軍30万騎は、再び、新田軍を包囲。

新田義貞は思い切った様子、もはや一歩も退こうとしない。全員、馬の頭を西に向け、最後の突撃を敢行しようとする。

その時、後醍醐天皇から頂いた衣を切り割いた布を笠標(かさじるし)につけた武士2,000余騎が、方々から集まってきた。

彼らは、戦い疲れた足利軍を相手に、激しい白兵戦を展開、雲霞(うんか)のごとき大兵力の足利サイドは、馬の足も立ちかねる状態となり、京都中心部へツゥット退いていった。

かくして、新田義貞、脇屋義助、江田、大館らは、万死を出でて一生に逢い、坂本へ退却していった。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月11日 (月)

太平記 現代語訳 17-4 四条隆資軍、八幡より京都に攻め寄せる

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

「京都攻めは13日午前10時」との通達が天皇軍各方面に回っていたので、坂本から出動した天皇軍は、逢坂山(おうさかやま:滋賀県・大津市)から今道越(いまみちごえ)一帯に待機して、約束の刻限を待った。

その時、足利側が謀って火をかけたのであろうか、北白川(きたしらかわ:京都市・左京区)一帯に火の手が上がり、煙が空に充満しはじめた。

八幡(やわた:京都府・八幡市)方面から攻め寄せていた天皇軍サイド・四条隆資軍はこれを見て、

四条軍リーダーA おぉっ、比叡山方面の友軍は、もう京都に突入して、火を放ちよったようやぞ。

四条軍リーダーB わしらもここでグズグズしてたらあかんわ、なぁもせんうちに、今日の戦、終わってしまうやんか。そないな事になってしもぉては、面目まるつぶれやがな。

約束の時刻を待たずに、彼らは、わずか3,000余騎で、鳥羽の作道(つくりみち:伏見区)経由で、東寺(とうじ)の南大門前へ寄せた。

東寺にこもっていた足利サイドは、その兵力の大半を比叡山方面から攻め寄せてくる天皇軍に当て、糺森(ただすのもり:左京区)、北白川方面へ送り出してしまっていた。東寺には、公家や足利尊氏(あしかがたかうじ)のお側つきの老人、少年しか残っていない。このような態勢で、四条軍を迎撃することなど、できようはずがない。

四条軍の足軽たちが、鳥羽一帯の畦道づたいに、四塚(よつつか:南区)、羅城門(らじょうもん:南区)付近まで進出してきて、矢を散々に射てくる。作道で四条軍を迎撃した高師直(こうのもろなお)の軍500余騎は、たまらず退却。四条軍サイドは、いよいよかさにかかって、盾を突きだし、頭上にかざし、一気に東寺へ攻めよせていった。

東寺の南西角の出塀(でべい)の上に設営された櫓(やぐら)が、あっという間に攻め破られ、焼け落ちていく。東寺の内部は騒然となり、あたり一面、大声が飛び交う。しかし、そのような中にも足利尊氏一人、まったく動揺する様もなく、仏前で静かに読経を続ける。

尊氏の側には、幕府司法省(注1)所属の信濃詮康(しなのあきやす)と土岐存孝(ときそんこう)がいた。存孝は、周囲をキッと見まわしながら、

--------
(訳者注1)原文では「問注所(もんじゅうしょ)」。
--------

土岐存孝 あぁ、こういう時にこそ、うちのセガレがここにいてくれたらのぉ。頼直を、北の方へ送り出すんじゃなかったわ・・・ここに留めとりゃぁよかったわ。あいつさえ、ここにいてくれりゃ、あんな敵くらいイッペンで追い払えるがね。

すると、話題の主が、そこにスット現れていわく、

土岐頼直 今、おれの事、何か言うとったかね? おれなら、ここにおるがね。

土岐存孝 (嬉しそうに)ありゃまぁ・・・びっくらこいてしもぉたでにゃぁか。北の方ではまだ戦、始まっとらんのかぁ?

土岐頼直 いや、おれには、そのへんの事、分からん。三条河原まで行った時にな、おれ、東寺の方を振り返ってみただよ。そしたら、寺の西南の方に煙が立っとるのが見えたもんでなぁ、こりゃいかんわいってなわけで、あわてて引っかえしてきたんだわ。こっちの戦況は、どないなっとる?

高師直 つい今しがた、作道のあたりで敵にやられちまってよ、退却してきたんだわさ。ここに残ってる兵力は少ねぇから、新手を繰り出して迎撃する事もできねぇ。そうこうしてるうちに、西南角の出塀を打ち破られちまってな、櫓も焼け落ちてしまった!

土岐頼直 ムムム・・・。

高師直 今まさに、将軍様の身に、重大な危険が迫ってんだよぉ! おまえな、たった一騎でもいいから外に出てって、敵を追っ払いやがれ!

土岐頼直 よぉし、分かったぁ!

即座に立ち上がり、外へ出向こうとする頼直に対し、

足利尊氏 ちょっと待て、頼直!

土岐頼直 ははっ!

足利尊氏 これを。

土岐頼直 エーッ・・・ありがとうございます!

尊氏は、常に腰に差していた菊花文様入りの太刀を、頼直に与えた。

このようなすばらしい贈り物を、将軍・尊氏から下付されて、心が勇まぬはずがない。土岐頼直は、洗革の鎧を着て、銀をビョウにかぶせた白星兜をかぶり、今賜ったばかりの黄金装飾の太刀を腰に差し、さらにその上に、3尺8寸の漆塗り鞘の太刀を差した。山鳥の引き尾の羽をつけた矢36本を森のごとくにエビラに背負い、3人張りの弓に弦をかけ、さっそうと出陣した。脛当(すねあて)は、わざと装着していない。深田を進む時に、馬から降りて歩行するためである。

東寺の北の小門から出て、羅城門の方へ回り、馬を物陰に放った後に、3町ほどかなたにひしめいている敵軍めがけて、頼直は、さしつめ引っつめ矢を射始めた。1本の矢で2人3人をいっぺんに倒し、ムダ矢は皆無。

南大門の前に押し寄せていた四条軍メンバー1000余人はおそれをなして、一斉にさぁっと退いた。

頼直は、これにますます元気づき、俊足の馬を駆って、ドロの深い鳥羽の田園の中を、あたかも平地を行くかのように突進。6騎を切って落とし、11騎に負傷を追わせ、曲がった太刀を押して直し、ミエを切るかのように東寺の方をキッと振り返る。そのりりしい姿は、まさにかの大力、和泉小次郎(いずみのこじろう)、朝比奈三郎(あさひなさぶろう)に、いささかもひけをとるものではない。

土岐頼直たった一人にあしらわれて、シドロモドロになっている四条軍の混乱を見て、高師直は、1,000余騎を率いて、再び作道を南方に進み、高師泰(こうのもろやす)は、700余騎を率いて竹田(たけだ:伏見区)方面から南下、四条軍を分断しにかかった。

いったん逃げ足づいてしまった大軍は、もはや止めようがない。討たれる者をも顧みず、負傷した者を助けもせず、四条軍メンバーらは、我先にと逃げ散り、八幡へ帰っていってしまった。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月10日 (日)

太平記 現代語訳 17-3 延暦寺、興福寺に対して、連合軍結成の勧誘檄文を送る

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

足利サイドとの戦に敗北あいつぎ、天皇サイドは士気も衰え、影が薄くなってきてしまった。

後醍醐天皇 こないな情勢ではなぁ、延暦寺やここ坂本の中にも、敵に寝返りをうつようなもんがいつ出てこんともかぎらんわなぁ。不測の事態に至るような事も、もしかしたらありうるでぇ。

天皇側近の公卿一同 ・・・。

後醍醐天皇 あぁ、困ったなぁ! 今のうちになんとかせんと、あかんがな! あぁ、あかんあかん! どないしたらえぇねんや、どないしたらぁ!

天皇側近の公卿一同 ・・・。

後醍醐天皇 あぁ、なんとかせんとあかん、なんとかせんとあかん!

側近A 陛下・・・ここはやはり、わが国家を守護してくださってる、比叡山に祭られてる神々方の、お力をお借りしてですねぇ。

後醍醐天皇 なんか、えぇ案あるんか?!

側近A 寄付、どないですやろ? 延暦寺へボーンと。そないしたら、比叡山の神仏も喜ばはりますやろし、延暦寺の衆徒連中らも、そらぁ奮いたちよりますやろて。

というわけで、延暦寺の九つの堂と比叡山守護の七社に対して、大荘園を各2、3か所ずつ、朝廷より寄進。

側近B いやいや、それだけではまだまだ、不十分なんちゃいますぅ?

かくして、延暦寺の衆徒800余人が、早尾社(はやおしゃ)に集まり、食料配分の事などについて会議を開いている所に、朝廷よりの使者がやってきていわく、

使者 天皇陛下より延暦寺に対して、ご寄進のお沙汰が下ったぞぉ!

衆徒一同 オォォォ・・・(どよめき)

使者 聞いて驚くなよぉ! 陛下は以下のごとく、おおせや!

 「近江国(おうみこく:滋賀県)内の、領主がいいひんようになってしもぉた荘園300余箇所を、朝廷より延暦寺に寄進するものなりい!」

衆徒一同 ウォォーーッ、ピィピィ、パチパチ!

使者 これだけとちゃうでぇ、まだあんねんぞぉ、よお聞けよぉ!

 「今後永久に、近江国の国司役所を管理する特権を、延暦寺に与えるものなりい!」

衆徒一同 イェーイ! やったでえぃ!

これを聞いた延暦寺の智慧ある者はいわく、

延暦寺の者C これで、天皇軍が勝利を得る、とでもいうような事になったら、わが寺の今後の繁栄は間違い無しと、みな思うんやろうけどなぁ・・・あんなぁ、この話、見かけほどエェ(良い)話やない、いうような気ぃするんやわ。わし、あんまり喜べへんなぁ。

延暦寺の者D えぇ? いったいなんでぇなぁ?

延暦寺の者C まぁ、考えてもみなはれ。こないな、人間の欲望をくすぐるような褒美をもろぉてやでぇ、うちのお寺のみんながエェ気になってしもぉたら、延暦寺の未来はいったいどないなる、えぇ?! これから先、学窓の前に座して仏教の真理を地道に究めていこうと志す者(もん)なんか、一人もいいひんようになってしまうんとちゃうかい? み仏を讃仰(さんごう)するこの山に上り、花のように美しく香(かぐわ)しい天台宗の教えを学ぼうとするもんも、皆無になってしまうやろうて。

延暦寺の者D ・・・。

延暦寺の者C 朝廷から頂いたこの富貴が原因となって、仏法を滅ぼしてしまう結果となるおそれ、十分にあり得る。こないなトンデモナイ事を、神々は、どのようにお考えあそばすやろ・・・あぁ、コワイコワイ!

--------

7月17日、延暦寺の衆徒多数が、大講堂の広庭に集まり、延暦寺三塔エリア合同会議を開催。

衆徒リーダーE 我らが寺は、王城(おうじょう)の北東方向の鬼門(きもん)を守る場所に位置し、神徳のあふれる霊地であーる!

衆徒一同 その通りぃ!

衆徒リーダーE 我ら一山(いっさん)、歴代の帝王の御治世が安泰でありますようにと、日々まこと込めて、祈願し続けてきた。また、国の四方に沸き起こる反逆者の国家擾乱(じょうらん)を、なにとぞお鎮(しず)め下さいますようにと、比叡七社の神々に対しても、なにとぞ御擁護(ごようご)を垂れ給え、と祈り続けてきたのであーる!

衆徒一同 まさしく、その通りぃ!

衆徒リーダーE さてここに、源氏の末裔(まつえい)、足利尊氏(あしかがたかうじ)、ならびに、直義(ただよし)なる者が出現。こやつらは、今まさに朝廷を傾け、仏法を滅ぼそうとしとるけしからんやつ! その大逆の罪の重さ、異国にも比較すべき対象が見つからないほど、その悪逆ぶりは、かの中国・唐王朝の反乱の首謀者・安禄山(あんろくざん)をも上回る。その積悪(せきあく)の罪は、わが国の歴史上においても未だ類を見ないものであり、かの物部守屋(もののべのもりや:注1)でさえも、これに比べたらはるかにに罪は軽いーっ!

衆徒一同 異議無ぁし!

--------
(訳者注1)大和時代の豪族・物部氏の長。日本に仏教を導入すべきか否かで、蘇我氏と争い、敗れた。
--------

衆徒リーダーE そもそも、日本の国土はことごとく、天皇陛下のものである! 我ら、たとえ仏に仕える身といえども、この国家存亡の時にあたり、天皇陛下に忠義を尽くさいでどないする!

衆徒一同 そうやそうやぁ!

衆徒リーダーE さらに言うならば、ここ北嶺(ほくれい)・延暦寺は歴代の天皇陛下の本命星(ほんみょうじょう:注2)を祈念したてまつる寺でもある。従って、朝廷の危機に際しては、それをお助けするのが当然っちゅうもんやろがぁ!

衆徒一同 当然やぁ!

--------
(訳者注2)中国の占星術中の一概念。その人の生れた年と関係深い星。
--------

衆徒リーダーE 一方、南都(なんと)・奈良の興福寺(こうふくじ)は、摂関家藤原(せっかんけふじわら:注3)氏の氏寺(うじでら)やねんから、藤原家の久しい不遇を救って当然。ゆえに、一刻も早く、南都の東大寺(とうだいじ)や興福寺に、連合軍結成・勧誘檄文を送り、我らと同盟して天皇陛下をお守りする義戦に立ち上がるように、誘ってみようではないかぁー!

衆徒一同 異議無ぁし! 異議無ぁーしぃー!

--------
(訳者注3)摂政、関白を輩出する家を「摂関家」と称する。平安時代以降、摂政や関白の地位は、藤原家の中の一部の家系によって独占されるようになった。
--------

満場一致となったので、さっそく、興福寺に牒状(ちょうじょう)を送った。その文面、以下の通り。

========
 興福寺宗務局御中  延暦寺より

メッセージ:両寺、心を一(いつ)にして、朝敵・源尊氏・直義以下の逆徒(ぎゃくと)を追罰(ついばつ)し、わが日本国に、仏法(ぶっぽう)と王法(おうぼう)の昌栄(しょうえい)を大いにもたらそうではないか!

我が国に仏教が伝来してより、すでに700有余年になるが、その諸々の教義の中、なんというても、法相宗(ほっそうしゅう:注4)と天台宗(てんだいしゅう:)とが、最も勝れているのである!(注5)

--------
(訳者注4)世界の全ての存在・現象は、自らの心の奥深くにある「アラヤ識」という所から発するのである、と説く仏教の一派。「自分の心が自分を取り巻く世界の全てを作り出している」という主張なのだから、ヨーロッパの思想で分類すれば、唯物論ではなく、唯心論に属する、ということになろうか。(さらに正確に呼ぶならば「唯心論」ではなく「唯識論」と呼ぶべきか)。そのようにして、アラヤ識から発生した世界のすべての存在あるいは現象(「相」)を細かく分類説明するので「法相宗」と名づけられた。

法相宗は、玄奘(げんじょう)によって、インドから中国に伝道された後、さらに日本へも道昭他の遣唐使僧侶複数によって、4回にわたって伝えられた。その後、元興寺や興福寺において興隆を見た。

(以上の記述は「仏教辞典:大文館書店刊」を参考にして書いた。)

(訳者注5)興福寺は法相宗の本山であり、延暦寺は天台宗の本山である。延暦寺の衆徒たちはこのように相手の興福寺をもちあげて、連合結成の勧誘を試みた、という事になるのであろう。
--------

仏が仮の手段として神に姿を転じて人間世界に鎮座ましまし、その威光を輝かせておられる7000余か所の中でも、春日社の四神と、日吉社の三神の霊験はひときわあらたか。ここをもって、先には、藤原不平等(ふじわらのふひと:注6)公が興福寺を建立されて、八識五重の明鏡(はっしきごじゅうのめいきょう)を磨き、後には、恒武天皇(かんむてんのう)が比叡山・延暦寺を開かれて、四教三観(しきょうさんかん)の法灯(ほうとう)をかかぐ。

以来、南都北嶺(なんとほくれい:注7)は共に、護国護王(ごこくごおう)の重責をうけたまわり、天台と法相は互いに、権教(ごんきょう:注8)と実教(じつきょう:注9)の奥義(おうぎ)を究(きわ)めてきた。

--------
(訳者注6)藤原家のルーツ・鎌足(かまたり)の長男。藤原家の偉大なる二代目。

(訳者注7)このように、両寺(興福寺と延暦寺)は、しばしば対になって称されてきた。

(訳者注8)如来が衆生をして真実の義を悟らしめんがために、まずその手段として説かれた方便(ほうべん)の教えを言う。「権(ごん)」とは「実」の対で「方便」の異名、すなわち「手段」のことである(「仏教辞典」大文館書店刊より)

(訳者注9)「権教」の対。真実の教、すなわち、如来出世(にょらいしゅっせい)の本懐(ほんかい)たる大乗真実教(だいじょうしんじつきょう)のこと。(「仏教辞典」大文館書店刊より)
--------

この両寺が開基(かいき)されたまさにその時から、仏法は王法を守護し、王法は仏法を援助し、という、持ちつ持たれつの関係が始まったのである。

ゆえに、我らの寺に困った事が出てきた時には、上奏文を朝廷に奉って親しく相談し、逆に朝廷にトラブルあった時には、我らは朝廷と心を一にして、問題解決に向けて祈念してきた。

この5、6年間というもの、天下は大いに乱れ、人民の心は安まる事を知らぬ。中でも、目に余るのは、かの足利尊氏・直義である。

彼らは、辺境地帯の族長の分際でありながら、朝廷よりの過分のおとりたてに、いやというほど浴すような境遇になった。なのに、君臣の道をわきまえぬ彼らは、山犬や狼のごとき心を起こし、徒党を組んで、辺境地帯の者どもをその仲間にひきずりこんだ。さらに、陛下よりの命令を歪曲解釈し、陛下の盾ともいうべき人々を殺害した!(注10)

--------
(訳者注10)護良親王を殺害した事を非難しているのであろう。
--------

つらつら、天皇陛下の鎌倉幕府倒幕の聖行を鑑みるに、なにもあれは、尊氏一人だけに功績があったわけでは決してない。なのに、あれほどまでに恩寵を下さった陛下に対して、逆らい奉るとは、まったくもって、なんちゅう所業か、言語同断である!

さらに、尊氏は、新田義貞(にったよしさだ)を誹謗中傷しておる、「新田こそは朝敵である。天皇のご寵愛をむさぼり、それをかさに着て、自らの権力をほしいままに拡大しておる」てな事を、ぬかしとる。咎犯がそれを聞いたら、さぞかし不愉快に思うことであろうて。古代中国において「朝錯(ちょうそう)を討つ!」との名目を立てて反乱軍を起こしたリュウビ、その末路はどのようなミジメな結果となったか、よくよく考えてみるがよい、尊氏よ!

このように、臣下の分際でありながら主君を犯したてまつり、陛下よりの御恩を忘れて義に背くその行い、我が国の歴史はじまって以来、かくなるヒドイ男の話は聞いた事もない!

この男のせいで、今年の春の初め、煙火は都を焼き尽くし、九重の御所も灰燼に帰した。暴風は地をなぎ払い、罪もない民は塗炭の苦しみに陥った。その悪業を見ては、どこの誰もが、ため息をつかずにはおらりょうか!

かくして、日本の国土を覆うこの災いを鎮めんがため、神仏のご冥護(みょうご)を仰ぎながら比叡七社の神々の下、我ら延暦寺メンバー一同は、国家に安泰をもたらさんと、立ち上がった! 三千の衆徒は心を一にし、自らの身命をかなぐり捨てて、義兵を助けるために決起した! そして、老若心を同じくして、冥府(めいふ)の威力を頂いて、異賊(いぞく)をやっつけた!

あぁ、王道は未だ衰えず、神々の叡慮は我らを助く・・・逆賊の党は、旗を巻いて西に敗走、凶徒はホコを倒して敗北す。まさに、赤く燃える囲炉裏の火が雪を消すがごとく、丸い石が卵を押しつぶすがごとく。中国・東晋(とうしん)の帝が八公山に祈って、前秦(ぜんしん)・苻堅(ふけん)王の兵を退け、唐の時代に、不空三蔵(ふくうさんぞう)は四天王を祈願して、吐蕃(とばん)民族の陣を退けた。まさに、我らの働きも、これにたとえる事ができるであろう。

そしてついに我らは、威儀正しく、天皇陛下の御所への還御(かんぎょ)を成功せしめた! 天は妖星(ようせい)を払い、君臣は上下みな瑞雲(ずいうん)を見た。海に逆賊の主を切り、遠近ことごとく逆波(ぎゃくろう)の声を止む。これは、我ら学僧・衆徒の誠(まこと)をつくした所に、医王山王(いおうさんのう)のご加護を頂けたからである。

しかるに今、賊徒は再び都を窺い、朝廷軍はしばしの彷徨(ほうこう)の征途(せいと)を余儀なくされている。ゆえに、前回の例になろぉて、陛下は再び当山に御臨幸あそばされた。

山上山下の興廃、今まさにこの時にあり! 仏法王法の盛衰が決せらるるは、まさに今日のこの時。天台の教法、七社の霊験、その安危を、ひとえに朝廷と共にする。

法相宗の護持、四所の感応利益(かんのうりやく)もまた、国家の運命を離れて成り立つはずがない! 貴寺にもし報国の忠真の心があるのならば、興福寺の衆徒方もこぞって、陛下を助けるための計略をめぐらされてはいかが?!

我ら一山(いっさん)あげてのこの願い、なにとぞお聞きいれあって、貴寺も我らに合力せられたし! 朝廷が危機に瀕している今まさにこの時、必ず貴寺におかれては、我らの要請を容れ、我らと連合してもらえるものと信じる!

我らよりのメッセージ、以上の通り。事態は切迫しておる、もはや一刻の猶予もならん!

延元元年 6月日 延暦寺三千衆徒らより

========

これを見た興福寺の衆徒らは、すぐに延暦寺と連合軍を組む事を決定し、返答を送った。

========

 興福寺衆徒 延暦寺宗務局にメッセージを送るものなり

天台宗の説かれるところの観行五品(かんぎょうごぼん)の境地の上位を究めんと、わが法相宗の道昭師は、唐に渡り、黄河と准河の間の地にて、かの玄奘三蔵法師からそれを学ばれた。

インドにおいて、釈尊はすべての修行を了(お)えられて正覚者=ブッダとなられ、究極の教えを人々に説かれた。そしてこの教えは中国に伝道され、隋(ずい)王朝の高祖(こうそ)、唐王朝の大宗(たいそう)によって大いに興隆を見た。そしてさらに日本にも伝わり、貴寺にはその一つの理論であるところの天台の教えが伝えられた。

しかしながら、インド、中国、日本の三国に広まった仏教の中で、最高の真実なる教義・法相宗は、唯一わが興福寺のみに伝えられ、以来、長い歳月の経過の中に、我らはそれを護持し続けてきた。

まことに、仏法を広く世界に広めるためのみ仏の壮大なる御計画の下、我が興福寺は、天皇の基盤を護持する事業を展開してきたと言えるであろう。

さて、

かの足利尊氏・直義らは、辺境にうごめいてきた輩、鎌倉幕府側から降伏してきた者である。彼らに比べれば、犬や鷹の方がよっぽど使いものになるのでは、というほどの無才の人間であるのだが、それでも、天皇陛下の爪や牙の役目を頂いて、お仕えしてきた。なのに、たちまちその御恩を忘却し、謀反の心を起こした。

「楊氏を討つ」と称して、家臣でありながら皇帝に反逆し、各地の州県を攻略して掠奪を繰り返し、吏民を捕虜とした、かの中国・唐王朝の安禄山にも、足利兄弟はたとえられるべきであろう。足利兄弟のせいで、帝都はことごとく焼き払われ、仏閣多数が失われてしもぉた。まさに、赤眉(せきび)の乱、黄巾(こうきん)の乱を越えるような害悪である。

その資格の全くない者が日本の政権を握るなどとは、全くもって前代未聞。足利一味に天誅が下され、神罰がすぐに顕われる事は必定(ひつじょう)。よって、昨年の初春、足利軍は惨めな敗北を喫し、命からがら西海に逃亡していった。

それにも懲りず、再び敗軍を集め、生き残りの者どもを引き連れ、雷のごとき神威をも恐れず陛下に迫るとは、いやはや・・・またもや、天罰は下るにちがいない。

足利軍は今、京都を徘徊(はいかい)して凶悪を振るっておるが、それは決して、長続きするものではない。かの古代中国・殷(いん)王朝の紂(ちゅう)王を見よ、再び孟津を渡った周の武王によって、滅ぼされたではないか。尊氏の運命も、それと似たようなもの。

かの、中国春秋時代、楚の軍が晋の文公に打ち破られた事を忘れてはいかん。天命にそむく者は大いなる咎を受ける、道にそむく者は誰にも助けてもらえない。積悪の勢いも、そうそういつまでも続くもんではない。

まさに今、天皇陛下は京都の外に臨幸を余儀なくされておられ、比叡山に陣を張っておられる。延暦寺三千の衆徒らは、「なにとぞ陛下を守りたまえ」と、合掌の中に熱い祈りを捧げ、七社の霊神も陛下を擁護しようとされている。

唐の代宗(だいそう)は反乱軍の難を避けて、香積寺に遷座した。また春秋時代、越王・勾践(こうせん)が会稽(かいけ)山にあった時、その兵は天台山の北に布陣した。これらの歴史事例を見るならば、陛下が延暦寺へ遷座された事も、なにかしら吉なる結果をもたらすように思える。

我ら興福寺の衆徒らは、天皇が奈良から京都に都を遷された後も、朝廷に忠節を尽してきた。皇室の長久(ちょうきゅう)を専ら祈り、朝廷に逆らう者らの滅亡を願ってきた。我らのこの陛下に捧げ奉る赤心(まことごころ)に表裏はない、神仏もきっと我らを助けたもうであろう。

しかも、こちらの寺の周辺の若き者らや、大和国(やまとこく:奈良県)一円の武士らは、朝廷軍に参加しようとの意志を持っており、反逆者を退治する策をめぐらすに余念無し、という状況である。

しかしながら、こちらとそちらとでは南北遠く距離が隔っており、なかなか、行動を共には、しにくい。さらに、敵は様々に作戦を立てて、兵を、陛下のすぐ足元にまで進めてきているという。

そちらサイドの陣営内、人心未だ、和して一体という状態になってはいないように、見うけられる。禍の芽は、内部にもあるのでは?

前には、北方の異民族の軍、後には、フェルガナの軍、攻めにうってでるのが良いのか、はたまた、守りに転ずるのが良いのか・・・まことに悩ましい所である。

しかしながら、陛下からもわが寺に、「朝廷軍に参加せよ」との勅命を何度も何度もお送りいただいていることであるし、貴寺からも牒状をいただいたことでもあるからして、我々も黙って見ているわけにはいかん、速やかに精鋭部隊を編成してそちらに送り、一日も早く逆賊を征伐するために、貴寺と連合することを、ここに約束する。

延元元年 6月日 興福寺衆徒らより

========

「興福寺、延暦寺に同盟・連合」との情報が伝わり、この戦の帰趨(きすう)を計りかね、いったいどちらについたものやら、と迷い煩っていた近畿地方とその周辺の勢力は全て、「延暦寺に加担し、それに協力しよう」という状況になっていった。

しかし、天皇のいる坂本は足利軍に完全に包囲されてしまっていて、そこへ参ずる事も不可能。そこで、「陛下の下よりお一人、腹心の方を我々のエリアの方におつかわしください、我々はその方を大将として頂き、京都を攻めてみますから」との要請を、坂本へ送った。

「よし、ならば」ということで、八幡(やわた:京都府八幡市)に、四條隆資(しじょうたかすけ)が派遣されてきた。

真木(まき)、葛葉(くずは)、禁野(きんや)、交野(かたの)(以上、大阪府・枚方市)、鵜殿(うどの:大阪府・高槻市)、加島(かしま:大阪市・西淀川区)、神崎(かんざき:兵庫県・尼崎市)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)、加茂(かも:京都府・木津川市)、瓶原(みかのはら:京都府・木津川市)の武士たちがそこに馳せ参じてきて、たちまち3,000余騎の勢力となり、大渡の橋(おおわたりのはし:場所不明)の西手に陣を取り、淀川一帯の交通路を完全に押さえてしまった。

宇治(うじ:京都府・宇治市)へは、中院定平(なかのいんさだひら)が派遣されてきた。さっそく彼の下に、宇治、田原(たわら:京都府・綴喜郡・宇治田原町)、醍醐(だいご:京都市・山科区)、小栗栖(おぐるす:山科区)、木津(きづ:京都府・木津川市)、梨間(なしま:京都府・城陽市)、市辺山(いちのべやま:城陽市)、城脇(しろわき:城陽市)の武士らが馳せ集まってきて、2,000余騎。宇治橋2、3間を引き落とし、橘小島(たちばなのこじま:宇治市)のあたりに陣取った。

北丹波道(きたたんばどう)へは、大覚寺宮親王(だいかくじのみやしんのう)を大将とし、額田為綱(ぬかだためつな)に300余騎を率いさせて差し向けた。彼らは白昼、京都を通過、長坂(ながさか:京都市。北区)を上がっていった。嵯峨(さが:京都市・右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)、高雄(たかお:右京区)、栂尾(とがのお:右京区)の在地勢力に加え、須智(すち)、山内(やまのうち)、芋毛(いもげ)、村雲(むらくも)らの家の者らが馳せ集まってきて1,000余騎。京都を足下に見下ろす京見峠(きょうみとうげ:北区)、嵐山(あらしやま:右京区)、高雄、栂尾に陣を取った。

この他、鞍馬道(くらまどう)を、延暦寺西塔エリアの衆徒が押さえ、瀬田(せた:滋賀県・大津市)を、愛知川(えちがわ:滋賀県・愛知郡・愛荘町)、信楽(しがらき:滋賀県甲賀郡)の勢力が占領した。

このように、京都に通じる四方の七つの道のうち、わずかに唐櫃越(からうとごえ:西京区)だけを残して、他の全てが天皇軍によって占領されてしまった。諸国からの運輸は途絶え、京都内部の足利サイドは食料不足に陥った。しばらくは、馬や鎧を売って食物を得て、なんとか食いつないでいたが、とうとう、京都や白川の在家や寺々へ乱入し、衣服や食物を掠奪しはじめた。

公卿や殿上人らも兵火の為に焼け出されてしまい、こちらの辻堂、あちらの社殿に身を側(そば)め、僧俗男女(そうぞくなんにょ)は道路に食を乞うて、築地(ついじ)の陰、門の下の石畳の上に飢え伏している。日本の歴史が始まって以来、戦乱は数多くあったが、これほどの惨状は前代未聞である。

--------

「足利軍サイド弱体化、天皇軍サイド、再び優勢」との情報に、諸国の武士らが100騎、200騎と団体を成して、続々と坂本へ参集してきた。海の彼方の阿波(あわ:徳島県)や淡路(あわじ:兵庫県淡路島)からさえも、阿間(あま)、志知(しち)、小笠原(おがさわら)家の人々が3,000余騎でやってきた。

公卿F いやぁ、まことにたのもしい事ですやんか。

公卿G あんな遠いとこからも、こっちサイドに、馳せ参じてきよるとはねぇ。

公卿H 京都奪回のチャンス、今まさに到来、この機会を逃してはなりません!

公卿I 総攻撃の日取りを決め、京都の四方から攻めさせましょう!

そこでまず、四国勢を阿弥陀峯(あみだがみね:京都市東山区)に繰り出して、毎夜、カガリ火を焼かせた。その光は2里、3里ほどにわたって連続し、一天の星々が地上に落ちてきてきらめいているかのようである。

東寺(とうじ:京都市・南区)の楼門の上からそれをながめる足利軍に、どよめきの声が起こる。

足利軍メンバーJ うわぁ、ものすげぇ数だなぁ、あの峯に燃えてるカガリ火。

高重茂(こうのしげもち)が、すかさず一首詠んだ。

 多くても 48をは 超えまいて 阿弥陀峯(あみだがみね)の 光だもんなぁ

 (原文)多く共(とも) 四十八には よも過(すぎ)じ 阿弥陀峯(あみだがみね)に 灯(とも)す篝火(かがりび)
(注11)

足利軍メンバーK イェーイ、なかなかうまいこと、詠むじゃん。

足利軍メンバー一同 ウワッハッハッハ・・・。

--------
(訳者注11)浄土三部経(じょうどさんぶきょう)中の一・観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には、「阿弥陀仏の48個の誓願」が説かれているとのことである。
--------
--------

再度、京都へ寄せて決戦を、と、天皇軍側では軍議決定、各方面への通達を行った。

士卒の士気を高めるために、後醍醐天皇はもったいなくも、紅の袴をお脱ぎになり、それを三寸ずつに切り裂いて、希望する武士に下付された。

7月13日、大将・新田義貞は、過去何度もの戦に生き残った一族43人を率いて、天皇のもとへ参じた。天皇は、一同を笑顔で迎えた。

後醍醐天皇 今日の合戦、過去にも増して、忠節をつくせよ!

新田義貞 ははーっ!

後醍醐天皇 うん、うん。

新田義貞 陛下、合戦の結果は、運次第であります。ですから、前もって勝負をうんぬんするのは、不可能と思います。でも、でも・・・。

後醍醐天皇 ・・・。

新田義貞 今日の戦、尊氏がこもってる東寺の中へ、矢の一本も射る事もなしに、退却しちまう、そのような事だけは、絶対にいたしません!

後醍醐天皇 うーん!

このように天皇に誓って、義貞は御前を退出し、前後に天皇軍を率いて出陣した。

白鳥岳(しらとりだけ)の前を通過している時、見物している少女が、朝廷軍の後方を進む名和長年(なわながとし)を見ていわく、

少女 なぁなぁ、みんな、「三木一草(さんもくいっそう)」ってご存じ? あたくし、知ってますよぉ。

見物の人L そんなもん、今時(いまどき)、誰でも知ってるわぁい。「三木」いうたら、結城(ゆうき):伯耆(ほうき)、楠(くすのき)。「一草」は、千種(ちぐさ)やろぉ。

少女 その人らはみな、天皇陛下から思う存分、ご寵愛を受けた人らやねんけどなぁ、もう3人も死んでしまわはった・・・伯耆の木だけは、まだ生き残ってるようやけど。(注12)

--------
(訳者注12)「結城」は、結城親光(ゆうきちかみつ)、「伯耆」は、名和長年(伯耆守)、「楠」は、楠正成、「千種」は千種忠顕。
--------

これを聞いた、名和長年は、

名和長年 (内心)なるほどなぁ・・・おれが今日まで生き残ってきたの、世間の連中らからは、こういう目で見られてたんだわ。あんな子供までが、あんな事、言うんだもんなぁ。

名和長年 (内心)よぉし、今日の戦、わが方の敗北に終わっても、おれはたった一騎になっても、戦場に踏みとどまって討死にするぞ。今日が、おれの最後の戦いだわな!

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月 9日 (土)

太平記 現代語訳 17-2 京都、再び戦火の渦中に

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

6月5日から20日にかけての比叡山攻防戦において、死傷した者の数はおびただしかった。

その戦の結果、足利軍は比叡山の東西双方の山麓から追い立てられ、戦場から退いた武士たちは、京都の中に踏みとどまることもかなわず、十方へ逃亡。かくして、京都内の防備も極端なまでに手薄となってしまい、足利サイドは、「これは、いかがしたものであろうか・・・」と、青くなってしまっている。

この時、天皇サイドがそく、京都を攻めていたならば、足利サイドは到底、持ちこたえることはできなかったであろう。しかし、天皇サイドにおいては、内部の意思統一がなかなか出来ないままに、空しく10余日が経過、その間に、京都周辺に逃亡していた足利サイド勢力は、再び士気を回復して京都に帰還し、その兵力は回復。

このような情勢の変化を全く把握しないままに、天皇サイドは、「京都内の敵側兵力、手薄なり!」との情報だけでもって、6月末日、10万余騎を二手に分けて、今路(いまみち)と修学院(しゅがくいん)から、京都に押し寄せていった。

足利尊氏(あしかがたかうじ)は、わざと少ない兵力でもって鴨河原へ繰り出して、矢を少しだけ放たせた後、退却、との作戦を立てていたのだが、千葉(ちば)、宇都宮(うつのみや)、土居(どい)、得能(とくのう)、仁科(にしな)、高梨(たかなし)の軍勢が、緒戦の勝利に乗じて、京都中心部まで足利軍を追撃。

それに対して尊氏は、相手をぎりぎりの地点まで引き付けた上で、東寺(とうじ)から、軍勢50万騎を繰り出し、京都の街中を走る南北東西の小路(こうじ)を使って、臨機応変の布陣を取らせ、天皇軍を東西南北に分断、四方に当たり八方に囲み、一騎残らず討ち取れと、戦闘を展開。

天皇軍側は、あっという間に、戦死者500余人、比叡山西山麓目指して、撤退。

このようにして、足利サイドは再び勢力を盛り返し、天皇サイドは力を落とし、というわけで、またまた、双方互角の形勢に戻ってしまった。

--------

その後しばらくは戦闘も無かった所へ、二条師基(にじょうもろもと)が、北陸方面から敷地(しきじ)、上木(うえき)、山岸(やまぎし)、瓜生(うりう)、河嶋(かわしま)、深町(ふかまち)以下の3000余騎を率いて、7月5日、坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ到着。

大いに意気上がった天皇軍は、7月18日、再び京都に軍を進めた。

天皇軍リーダーA 前回は、京都中心部を超えて、はるか南方の東寺まで攻め寄せてしまったので、小路をうまく使って前後左右から攻めかかってくる敵軍を防ぐことができなかったし、相手の陣を破ることもできなかった。だから今回は、軍を二手に分けて、第1軍は、二条大路(にじょうおうじ)を西へつっきって北野(きたの)のあたりまでかけ抜けた後、大宮大路(おおみやおうじ)を南下する。第2軍は、鴨川ぞいに河原を南進する。その後、東西双方から京都中心部に向けて、挟み撃ちの火攻めを敢行するのだ!

ところが、天皇サイドのいかなる野心の者が、足利サイドに通報したのであろうか、この作戦はたちまち、足利サイドの知る所となった。

足利尊氏 よし・・・では、我々の布陣、以下のようにしよう。60万騎の兵力を3手に分ける・・・。

足利軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 まず第1軍、兵力20万騎。東山および七条河原一帯に配置・・・。この第1軍は、河原を南下してくる敵勢力を、東西から包囲せよ。

足利尊氏 次に第2軍、これも兵力20万騎。船岡山(ふなおかやま)の麓から、神社総庁(注1)の南方にかけて配置・・・。北野方面から進んでくる敵軍を包囲せよ。

--------
(訳者注1)原文では、「神祇官」。
--------

足利尊氏 残るは兵力20万・・・西八条(にしはちじょう)から東寺の本陣の前面にかけて配置・・・つまり、予備軍だ。我が方のどこかの方面の陣が破れた時に、援軍を差し向けるためのな。

足利尊氏 軍の配置については以上。よろしいかな、諸君!

足利軍リーダー一同 ははっ!

翌、18日午前6時、天皇軍は、北白川(きたしらかわ)、八瀬(やせ)、薮里(やぶさと)、一乗寺下松(いちじょうじさがりまつ)、修学院(しゅがくいん)一帯に押し出した後、東西二手に兵を分けた。

新田一族が率いる5万余騎は、糺森(ただすのもり)を南に見て、紫野(むらさきの)経由で北野方面へ。

一方、二条師基、千葉、宇都宮、仁科、高梨が率いる軍は、真如堂(しんにょどう)の前を西へ進み、鴨川の河原まで出て、そこから南に進んだ。その軍に所属している足軽(あしがる)たちは、本隊に従い走りながら、京都中の民家数百箇所に放火して回った。猛火は天に満ち広がり、風に乗った黒煙は四方を覆う。

鴨川の五条河原で、両軍の戦端が開かれた。射る矢は雨のごとく、剣戟(けんげき)は稲妻(いなずま)のごとし。

やがて、北野方面でも戦闘開始。右近馬場(うこんのばば)の東西、神社総庁の南北に、汗馬(かんば)の馳せ違う音、トキの声が入り混じり、百千もの雷が大地を打つかのようである。

やがて、五条河原方面の戦場で、天皇軍は敗北し退却。これに力を得た北野方面の足利軍は、新田義貞の軍勢を十重二十重(とえはたえ)に包囲し、おめき叫んで攻め戦う。

しかし、新田軍の兵らは、臨機応変・百戦錬磨、混戦乱戦おてのもの、一挙に百重(ももえ)の囲みを解き、たった一人も討たれることもなく、追撃する足利軍に反撃を繰り返しながら、比叡山へ退却していった。

天皇軍メンバーB (内心)それにしても、今回の戦・・・どうも、こちらの作戦、敵側につつぬけになってたような気がして・・・。

天皇軍メンバーC (内心)古代中国の武経七書の中に、こんな事、書いてある、

 「将の立てし作戦 敵側にもれ出(いず)る時には 軍(いくさ)に利無し」
 「自軍の中に敵に内通する者ある時には およそ リスクマネジメントは不可能なり(注2)」

--------
(訳者注2)原文では「禍不制」。
--------

天皇軍メンバーD (内心)この比叡山の中に、足利と内通してるヤツがいやがるとは・・・。

天皇軍メンバーE (内心)内通してるの、いったい誰? こんな事になってきちゃったら、お互い信用おけなくなってくる。

天皇軍メンバーF (内心)もしかしたら、あいつかな?

天皇軍メンバーG (内心)あいつのこと、信用してていいのかなぁ?

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年12月 8日 (金)

太平記 現代語訳 17-1 足利軍、延暦寺を攻める

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

京都の東寺(とうじ)において、足利尊氏(あしかがたかうじ)、直義(ただよし)、高(こう)家、上杉(うえすぎ)家メンバーたちは、作戦会議を開いた。

会議メンバーA 皆様もご存じのように、天皇は再び、延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)へ行かれました。寺の衆徒たちは、今年の春に勝利したごとく、今回も、天皇にかたく忠誠を誓って擁護しよう、との態勢であります。

会議メンバーB どうやら、比叡山にじっと待機しながら、北陸地方や東北地方からの援軍の到着を待っているようですね。

会議メンバーC このままズルズルと行っちまったんじゃぁ、イカンと思いますよ。新田義貞(にったよしさだ)の兵力が増大してしまっては、まずいのでは?

会議メンバーD 敵サイドの兵力がまだ少ない、今この時ですよ、延暦寺攻撃のタイミングは!

足利尊氏 ・・・よし・・・比叡山に兵を送るとするか。

6月2日、各方面の軍編成決定の後、足利軍50万騎は、大手とカラメ手の2手に分かれて、比叡山へ向かった。

足利・大手方面軍: 吉良(きら)、石塔(いしどう)、渋川(しぶかわ)、畠山(はたけやま)を大将として5万余騎。大津、松本(まつもと)の東西の宿、園城寺(おんじょうじ)の焼け跡、志賀(しが)、唐崎(からさき)、如意が嶽(にょいがたけ)まで充満。(注1)

--------
(訳者注1)ここに出てくる地名は、最後の「如意が嶽」以外は、滋賀県・大津市内にある。「園城寺の焼け跡」については、15-3を参照。「如意が嶽」は山腹に、送り火行事の「大文字」がある山。
--------

足利・カラメ手方面軍: 仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、今川(いまがわ)、荒川(あらかわ)を大将として四国・中国方面勢力8万余騎。今道越(いまみちごえ)ルートを通り、三石山麓を経て、無動寺(むどうじ)へ寄せていく。

修学院(しゅがくいん:京都市・左京区)方面へは、高師重(こうのもろしげ)、高師秋(こうのもろあき)、大高重成(だいこうしげなり)、南宗継(みなみむねつぐ)、岩松(いわまつ)、桃井(もものい)らを大将として30万騎。八瀬(やせ)、薮里(やぶさと)、静原(しずはら)、松が崎(まつがさき)、赤山(せきさん)、下り松(さがりまつ)、修学院、北白川(きたしらかわ)まで展開し、音無滝(おとなしのたき)、不動堂(ふどうどう)、白鳥越(しらとりごえ)経由で寄せて行く。

天皇サイドでは、これほどの大軍が押し寄せてくるとは予想もしなかったのであろうか、行く道には警護の者もおらず、木戸(きど)や逆茂木(さかもぎ)も設置されていない。足利サイドの馬は、岩石多い道を行く事にも慣れているので、険しい山道をものともせず、どんどん登っていく。

天皇サイドの主要メンバーは、新田義貞をはじめ、千葉(ちば)、宇都宮(うつのみや)、土肥(とひ)、得能(とくのう)に至るまで、比叡山の東山麓の坂本(さかもと:大津市)に集まっており、山上には、歩行さえおぼつかない高僧や、窓を閉ざして修行に専念している修学者がいるだけで、まったくの無防備状態であった。

この時、比叡山の西側山麓から寄せていった足利サイドの大軍が、途中瞬時も停滞することなく四明嶽(しめいがたけ:注2)までまっしぐらに突き進んでいたならば、天皇サイドは、比叡山上も坂本も全く防御する事ができず、一気に総崩れになっていたであろう。

--------
(訳者注2)比叡山中の最高峰。
--------

しかし、延暦寺を守護する山王(さんおう)のご加護があったのであろうか・・・。

足利・後衛陣メンバーE ありゃりゃぁ、すげぇ朝霧、立ち込めてきたよぉ。

足利・後衛陣メンバーF 一寸先も見えねぇや。

足利・後衛陣メンバーG おいおい、山の上の方で、すげぇでかい叫び声、上がってるぜ。

足利・後衛陣メンバーE うわぁ、声の大きさから思うに、ものすげぇ人数だぞぉ。あれはきっと、敵側の矢の一斉射撃の時の叫び声だよ。

足利・後衛陣リーダーH こりゃ、うかつに前へは進めねぇぞ。よし、とにかくここでいったん、進軍ストップだぁ!

なんの事はない、足利・後衛陣の者らは、自軍の前衛陣の上げるトキの声を、深い霧のせいで敵側の喚声と聞き誤ってしまったのである。このようにして、足利サイドは、時間を空費してしまった。

--------

大宮(おおみや)まで降りて、「延暦寺3エリア・合同全体会議」に参加していた衆徒たちは、「足利軍急襲!」との報を聞き、急遽、山上にとって返した。

彼らは、将門の和労堂(しょうもんのわろうどう)の周囲に陣を構え、「ここを破られてなるものか!」と、必死に防衛戦を行い、足利軍の先頭を進んでいた武士らはたちどころに300人ほど討死。

これ以降、足利軍は一歩も前進できなくなってしまった。

前衛が進もうとしないので、後衛はなおさらのこと、前進できない。

かくして双方とも、急勾配の坂の木陰に陣を取り、切り通した堀を境として盾を並べ、互いに遠矢を射るだけで、その日は終わった。

--------

足利・大手方面軍中の志賀、唐崎に配備された10万余騎は、比叡山の西側からトキの声が響き渡ってくるのを聞いて、「いよいよ西側で、闘いが始まったか、よぉし、こっち側も!」ということで、坂本の西方の穴生(あのう)まで押し寄せて、トキの声を上げた。

足利・大手方面軍リーダーI さてさて、敵陣を見渡してみるにだなぁ・・・。

足利・大手方面軍リーダーJ ウーン・・・。

無動寺の山麓から琵琶湖の波打ち際まで、2丈ほどの深さの空堀が延々と続いていて、その所々に橋が懸けられている。堀の向うには、塀、木戸、逆茂木がビッシリ。渡櫓(わたりやぐら)や高櫓(たかやぐら)の数はざっと300余。塀の向うには、ここが大将・新田義貞の本陣であろうか、中黒(なかぐろ)紋の旗30余本が、山を吹き降ろす風に吹かれ、龍蛇(りゅうじゃ)のごとく翻っている。

その旗の下には、陣屋を並べ、油を塗った幕を引き、輝く鎧を装着した武士らが2、3万騎。各陣営とも、後方に馬をつなぎながら、密集して並んでいる。

無動寺の麓、白鳥越(しらとりごえ)のあたりを見渡せば、千葉、宇都宮、土肥、得能をはじめ、四国・中国の武士らがここをかためていると見え、左巴(ひだりともえ)、右巴(みぎともえ)、月に星、片引両(かたひきりょう)、傍折敷(そばおりしき)に三文字等々、各家の紋を描いた旗60余本、木々の梢に翻りはためく。その陰には、兜の緒を締めた兵3万余騎、敵近づかば横合いから攻め下ろせとばかりに、馬を並べて控えている。

琵琶湖上を見下ろせば、四国、北陸、東海道の水上戦を得意とする武士らが、亀甲(きっこう)、下濃(すそご)、瓜紋(うりもん)、連銭(れんぜん)、三星(みつぼし)、四目結(よつめゆい)、赤幡(あかはた)、水色(みずいろ)、三つスハマ等々、各家の紋を描いた旗300余本、淡水の上に姿を現し、漕ぎ並ぶ船々の舷側には、射手とおぼしき武士ら数万人、盾の陰に弓杖(ゆんづえ)を突いて、足利軍に横矢をあびせかけようと、待ち構えている。

さしもの大兵力の足利軍も、相手のこの勢いに機を呑まれ、矢の射程距離域中にまでは前進できず、大津、唐崎、志賀の300余箇所に陣を取り、ただ遠攻めにするしかない。

--------

6月6日、足利・大手方面軍の一人の大将が、比叡西側山麓方面の足利軍に使者を送った。

使者 西側山麓方面の皆様へ、わが方の大将より、以下のようなメッセージをお伝えに参りました。

 「こちらの坂本方面の敵陣を視察したところ、新田、宇都宮、千葉、河野(こうの)をはじめ、敵側の主要メンバーのほとんどは、こちら側、比叡山の東側の防衛を担当しているようです。となると、山の西側の防衛は、急峻(きゅうしゅん)な地形を頼んで、公家の人々、あるいは、延暦寺衆徒らが担当しているのでしょう。」

 「ですから、ここは一つ、そちら方面からガツーンとイッパツ、攻めてみればどうでしょう? おそらく、敵はまともに抵抗できないしょう。」

 「四明嶽から敵を追い落とされた後、大講堂(だいこうどう)、文殊楼(もんじゅろう)のあたりに移動して、そこで火をあげてください。それを合図に、こちらからも一斉に打って出ますから。こちら側の坂本をかためている敵を一人残らず、湖水に追い落として滅ぼしてやりますよ!」

これを聞いて、足利・西側山麓方面軍の大将・高師重は、全軍に指令を出した。

 「明日、わが足利軍、全方面から延暦寺総攻撃と、決定した。」

 「この戦において、一歩たりとも退いた者は、たとえこれから先に抜群の忠功ありといえども、それは一切認められずに所領没収し、その身柄は追放処分となる。」

 「一太刀でも敵と刃を交えて陣を破り、分捕りした者は、凡下(ほんげ:注3)ならば侍(さむらい)に取りたてられる、御家人(ごけにん:注4)ならば、将軍様から直接に恩賞が与えられよう。」

 「かといって、自分一人だけ手柄を立てようと思っての抜け駆けは、絶対にしてはならない。また、仲間の功績をそねんで、相手が危い時に知らん顔をする、などということも、まかりならぬ。互いに力を合わせ、共に志を一つにして、敵が斬りかかってこようと、矢を射てこようと一切かまわず、味方の死骸を乗り越え乗り越え、進むべし!」

 「敵が退いたならば、再び返ってこない間にさらに進み、山上に攻め上がれ。そして、堂舎(どうしゃ)、仏閣(ぶっかく)に火を懸け、比叡全山、一宇(いちう)残らず焼き払い、延暦寺3千の衆徒全員の首を一つ一つ、大講堂の庭にさらして、将軍様のお褒めに預かるとしようではないか!」

このように、全軍を励まして命令した高師重の悪逆のほど、まことにあさましい。(注5)

--------
(訳者注3)御家人でもない、侍でもない身分。

(訳者注4)将軍直属の家臣。「御家人制度」は源頼朝の時から始まったという。

(訳者注5)数百年後の織田信長の「比叡山焼き討ち」を連想させるようなくだりである。もしかしたら、信長は太平記のここにヒントを得たのかも?
--------

この命令を聞いて、足利・西側山麓方面軍の将兵は、全員奮い立った。

夜明けとともに、20万騎は、三石、松尾(まつのを)、水呑(みずのみ)の3方面から、太刀、長刀の切っ先を並べ、左手を前にかざしながら、「エイ、エイ」と声を上げながら、山道を登っていった。

彼らはまず、恒良親王(つねよししんのう)の副将軍に任命されていた千種忠顕(ちぐさただあき)と坊門正忠(ぼうもんまさただ)が率いる軍勢に襲いかかった。

忠顕たちは、たった300余騎でもって防戦に努めたが、松尾方面から攻め上ってきた足利軍に後方から攻められ、一人残らず討死にしてしまった。(注6)

--------
(訳者注6)ここでまた一人、後醍醐天皇側の重要メンバーが舞台から去ってしまった。鎌倉幕府打倒から後醍醐政権樹立前後における千種忠顕に関する太平記の描写に比して、彼の最期を述べたこの部分の記述はまことにあっけない感じがする。
--------

これを見て、後方に位置して防衛に努めていた、護正院(ごしょういん)、禅智坊(ぜんちぼう)、道場坊(どうじょうぼう)以下の衆徒7,000余人は、一太刀打っては退き登り、暫く支えては引き退いて、徐々に、山上に追い上げられて行く。

足利サイドはますます、それに乗じて追い立て追い立て、相手に一息も継がせる事なく、さしも険しき雲母坂(きららざか)、蛇池(じゃいけ)を左手に見ながら、ついに四明嶽の付近に到達した。

--------

「比叡山・西山麓方面の防衛線、破れたり!」との知らせは、延暦寺全域を疾風のごとくかけ抜けた。あちらでもこちらでも、急を告げる鐘の激しい連打が鳴り響き、東塔エリア一帯は、パニック状態に陥った。

歩行もおぼつかない高僧たちは、鳩頭の杖をつきつき、根本中堂(こんぽんちゅうどう)や常行堂(じょうぎょうどう)などへ移動して、嘆き悲しむ。

高僧K あぁ・・・わしらみな、ここで死んで行くんかいなぁ。

高僧L ご本尊様といっしょに、死んでいくしかないんやなぁ。

かたや、仏教書の研究に明け暮れる毎日を送ってきた学僧たちは、経典・注釈書を懐深くしまって腹に当て、逃げていく武闘派衆徒たちの太刀や長刀を奪い取り、四郎谷(しろうだに)の南方の箸塚(はしづか)の上に駆け登り、そこを拠点とし、わが命を投げ出して、足利軍に抵抗し続けた。

--------

ここに、足利軍サイドに加わっていた一人の武士が、大音声を張り上げていわく、

江田泰氏 こらこら! そこのもん(者)ら、よぉ聞きんさい! わしは、備後国の住人・江田泰氏(えだやすうじ)じゃ! これからおまえら、片っ端から切り倒してくれるわ!

泰氏は、洗革(あらいかわ)の鎧に5枚シコロ(注7)の兜を装着し、所々錆びが浮いた血まみれの太刀を振りかざしながら、まっしぐらに坂を駆け登っていった。

--------
(訳者注7)兜の左右・後方を構成する部品。
--------

山神定範 よぉし、おれが、おまえの相手したるでぇ!

泰氏の前に立ちふさがるは、杉本(すぎもと)の山神定範(やまかみのじょうはん)という、武勇優れる延暦寺の僧である。定範は、黒糸威(くろいとおどし)の龍頭の兜をかぶり、股まで覆うすね当てを装着、3尺8寸の長刀を短く持って、泰氏に立ち向かっていった。

江田泰氏 えぇい、くらえぃっ!

泰氏の太刀 ヴァシーンッ!

山神定範 なんのなんのぉ!

定範の長刀 グァキッ!

余人を交えぬ二人だけの闘いが展開されていく・・・打ち交わされる刃(やいば)からは火花が飛び散り、二人の足はあちらにこちらにと、激しく大地を踏み締める。

泰氏は、比叡山の長い坂道を登りながら、何度も何度も戦闘を繰り返しながらここまでやって来ており、すでに相当疲労していた。朝、戦闘を開始した時よりも、腕の動きが鈍っており、気力も衰えを見せ始めていて、ややもすると受け太刀になってしまう。

その気配を見てとった定範は、ここぞとばかりに、長刀を長く持ち替え、相手の兜も割れよ砕けよとばかりに、連打。

山神定範 エェーィッ、エェーィッ!

定範の長刀 ガキーン、ガキーン!

泰氏の兜 ボコッ!

江田泰氏 (内心)しまった!

定範が打ち下ろした長刀は、泰氏の兜に命中、兜は、ずれて泰氏の目の上にかぶさってしまった。

泰氏が、兜を元に戻そうとして、頭を上にもたげたその瞬間、定範は、長刀をカラリとうち棄て、泰氏に走り寄ってムズと組んだ。

山神定範 エェイ・・・締め殺したるわい・・・。

江田泰氏 ウウウ・・・その・・・手を・・・放せ・・・。

山神定範 エェイ・・・。

定範の足の下の地面 ド、ド、ド・・・。

江田泰氏 ウウウ・・・。

泰氏の足の下の地面 ド、ド、ド・・・。

二人が力をこめて踏みしめる足は、大地を揺るがせる。と、その時、

定範の足の下の地面 ドッ、ボスッ!

泰氏の足の下の地面 ドッ、ボスッ!

江田泰氏 あぁぁ!

山神定範 うわぁぁ!

二人が足を踏みしめたその瞬間、足元の土が崩れた。

二人はなおも組合いながら、小笹の茂る数千丈もの高さの斜面を、上になり下になりながら、転げ落ちて行く。斜面の中ほどからようやく二人の体は分かれ、谷底めがけて別々の方向に転落していった。

--------

延暦寺側の抵抗は続いた。

伝灯(でんとう)称号を与えられた14人の高僧や、法華堂(ほっけどう)を護持する僧侶までもが、袈裟(けさ)の袖を結んで肩にかけ、降魔の利剣(ごうまのりけん)をひっさげて足利軍に立ち向かい、命を風塵(ふうじん)よりも軽んじて決死の防戦を展開、さしもの足利軍も、前進の足がパタリと止まってしまった。

四明嶽(しめいだけ)の山頂および西谷口まであと3町ほど、という地点で、足利軍は止むをえず小休止。軍を率いるリーダーたちに、今後の戦闘指揮についてのためらいの色が見え始めた。

天皇サイドに加わっている宇都宮軍メンバー500余騎は、「篠の峯をかためよ」との指令を受けて、昨日から横川(よかわ)エリアに布陣していた。

宇都宮軍団メンバーM 殿、あれ、聞こえませんか・・・なんだか、大講堂の鐘、ガンガンなってますぜ。

宇都宮軍団メンバーN ほんとだ・・・いったい誰が鳴らしてるのか分からないけど。

宇都宮軍団メンバーO もしかしたら、四明嶽・西谷口方面で、何かまずい事になってるんじゃぁ?

宇都宮公綱(うつのみやきんつな) よし、全員、西谷口へ移動せよ!

宇都宮軍は馬にムチ打ち、アブミを蹴立てながら、西谷口へ急行した。

やがて、坂本に陣取って天皇御座所を守っていた新田義貞も、6,000余騎を率いて四明嶽へかけつけてきた。

義貞は、宇都宮とその家臣団・紀清両党(きせいりょうとう)のメンバーを、虎韜(ことう)陣形を組ませて進ませ、江田(えだ)、大館(おおたち)には魚鱗(ぎょりん)陣形を組ませ、足利軍めがけて、山上から一気に攻め下らせた。

足利軍20万騎もこれにはたまらず、水呑(みずのみ)付近の南北の谷へ追い落とされ、人馬は上下に積み重なり、深い二つの谷は死者が堆積して平地になってしまった。

かくして、この日の戦いは足利側の敗北に終わり、東西呼応しての比叡山一斉攻撃という作戦も頓挫(とんざ)。足利サイドの西側山麓方面軍は、水呑の下方に陣取って、相手のスキをただ窺うばかりの態勢となってしまった。

一方、新田義貞は坂本には戻らずに、そのまま四明嶽に陣取ることにした。

朝から始まったこの戦、両軍ともまる一日必死に戦い続けたのであったが、結局引き分けに終わり、比叡山・西山麓方面の戦線は、膠着状態(こうちゃくじょうたい)に。

--------

翌日、足利・西側山麓方面軍の大将・高師重は、比叡山の東側山麓に布陣している足利・大手方面軍に使者を送り、次のように伝えた。

 「敵サイド主要勢力はみな、比叡山の四明嶽に移動してきたようです。よって、そちら方面の防備が手薄になっていると思われます。早急に、そちらの東側山麓方面でも戦闘を開始されて、坂本を制圧し、一帯の神社、仏閣、僧坊、民家を一軒残らず焼き払い、敵を山上に追い上げてみてはどうでしょうか。」

 「その後、東塔エリアと西塔エリアの中間地点に進出されて、そこで兵火を起こせば、四明嶽にいる敵の連中らは、前方と後方、双方において、我々サイドに直面することとなりますから、必ずや、進退を失ってしまうでしょう。その時、こちら側からも山上に攻め上がって、一気に勝負をつけてしまいましょう!」

これを聞いた、足利・大手方面軍の、吉良(きら)、石塔(いしどう)、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)のメンバーらは、

リーダーP 昨日は、こちら側からの勧めに従って、あちら側の高家一族率いる勢力が攻撃を仕掛けたんだったよなぁ。

リーダーQ せいいっぱい、できる限りの事を、彼らはしてくれたんだ。

リーダーR 今度は逆に、あちらからこちらへ攻撃を勧めてきたってわけか。

リーダーS 順当に行けば、次はこっちが攻撃をしかける番ってとこでしょうねぇ。

ということで、足利・大手方面軍18万騎の兵力を3つに分け、田中(たなか)、浜道(はまみち)、山傍(やまそえ)から東に向かって、坂本を攻めることにした。敵に夕日のある方角を向かせるようにして、眩しがらせた方が有利になるであろう、というもくろみである。

坂本の城を守る天皇軍の大将は、兄からここを託された脇屋義助(わきやよしすけ)。

義助は、関東地方および中国地方出身の強弓(ごうきゅう)の手練(てだれ)を、城の土壁の矢狭間(やはざま)や櫓の上に配置し、土居(どい)、得能(とくのう)、仁科(にしな)、春日部(かすかべ)、名和長年(なわながとし)らが率いる四国地方および北陸地方からの強兵2万余騎を、白鳥岳(しらとりだけ)に配置。さらに、水上戦になれた諸国の武士に、和仁(わに)、堅田(かたた)の在地武士らを添えた5000余人を、盾を並べた軍船700余隻に乗り込ませ、湖上の沖合いに配置していた。

足利・大手方面軍リーダーP ウーン・・・やっぱし、敵側の構えは厳しいなぁ・・・。

足利・大手方面軍リーダーQ でも、とにかく戦をしないと・・・戦わなきゃ、敵を破れねぇわさ。

足利・大手方面軍80万騎は、3方向から坂本城に接近して、トキの声を上げた。それに応えて、城中の6万余騎も、矢狭間の板を打ち鳴らし、湖上からは、船の舷側を叩いて、トキの声を合わせる。大地も裂け、大山も崩れようかというような大音響。

足利軍メンバーらは、盾を頭上にかざし、城の前まで寄せていった。

足利・大手方面軍リーダーP みんな、草、運べぇ! 堀の中にどんどん運び込んでな、堀を埋めちまうんだぁ。

足利・大手方面軍リーダーQ 堀が埋まったら、城の塀のすぐ横に草を積め。積み上がった草に火をつけて、それを城の櫓に延焼させて、櫓を焼き落とすんだぁ!

足利・大手方面軍リーダーR 行けぇーー!

足利・大手方面軍メンバー一同 ウォーツ!

その時、城中から矢の連射が。

矢 ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ、ピュ・・・。

城の300余か所の櫓、土塀、出塀(だしべい)の中から、雨が降るような一斉射撃。射放たれた矢は一本のムダも無く、足利軍メンバーの盾の間、旗の下へと飛んでくる。たちまち、足利サイド、死傷者3,000人超。

足利・大手方面軍メンバーT こりゃたまんねぇ・・・わが方は次々とヤラレていってるぞぉ。

足利・大手方面軍メンバーU 盾の陰に身を隠して、ジットしているしか・・・。

城中からこれをじっと見つめる、脇屋義助、

脇屋義助 フッフフゥ・・・あいつら、もう怖じけづいてやがんじゃん。よぉし、みんなぁ、ウって出るぞぉ!

新田軍メンバー一同 オーーゥ!

城の三の木戸がサァッと開き、脇屋、堀口(ほりぐち)、江田、大館ら6,000余騎が、ドッと駆け出た。彼らはまっしぐらに、足利軍に。

それに呼応して、土居、得能、仁科、名和ら2,000余騎も、白鳥岳から駆け下りてきて、足利軍の側面を突く。

湖上に展開している水軍も、船を一松(ひとつまつ)のあたりへ漕ぎよせ、連射、遠矢、斜め矢と、矢を惜しまずに、散々に射まくる。

大兵力の足利・大手方面軍ではあったが、山と湖の双方向から矢を浴びせられ、田中、白鳥方面からも攻めたてられ、「これはとてもかなわぬ」ということで、自陣へ退却していった。

それから後は、双方とも日夜朝暮(にちやちょうぼ)に兵を出しては矢戦を展開するのみとなり、足利・大手方面軍は専ら遠攻めに終始、天皇軍も城を守り抜き、といった状態が続き、こちらの戦線においても、何ら進展無しの様相を呈してきた。

--------

同月16日、熊野八庄(くまのはっしょう)の庄司(しょうじ)らが、500余騎を率いて京都へ来た。

彼らは、まだ一戦もしていない新参者なので、「おれらも延暦寺攻めに参加して、いっちょ、やらかしたろや」ということで、比叡山西側山麓へやってきた。

彼らは、高師重に目通りを願いでた。

高師重 なに、熊野八庄のメンバーらが、参戦を申し出てきたってぇ? よし、会ってみよう。

高師重の前に、熊野八庄の代表メンバーたちがずらりと並んだ。

高師重 (内心)おぉぉ・・・。

黒糸威の鎧兜、指の先まで防備をかためた籠手(こて)、さらには、脛当(すねあて)、半頬(はんぼう:注8)、膝鎧(ひざよろい:注9)、彼らは身体中一寸の隙も無く、ビッシリと鉄で覆いかためている。

--------
(訳者注8)頬から下の部分を覆う面。

(訳者注9)鎧の下につけて、草摺(くさずり)のはずれを覆い、股と膝を守る器具。
--------

高師重 (内心)うーん・・・こいつらは、並みの者ではなさそうだなぁ。使えそうだ。

高師重 参戦の申し出、まことにあっぱれ。おまえらには、大いに期待してるぞぉ。

熊野八庄・代表メンバー一同 ウィー!

高師重 さて、問題は作戦だ。いったいどんな作戦をもって戦うべきか、思う所を残らず、述べてみろ!

熊野・湯川(ゆかわ)の庄司が、前へ進み出ていわく、

湯川庄司 おれら、紀州育ちのもんはなぁ、小さい頃から、険しいとこや岩だらけのとこを駆け回っては、鷹を使い、狩りをしながら、大きいなってきたわいな。馬もよぉ行かんような険しいとこかて、わしらにとっては平地同然や。ましてや、このへんのこんな山なんか、何程の事があるかいなぁ!

高師重 ほほぉ。

湯川庄司 おれらの着てるこの鎧、まぁ見たってぇ。見た目はそないに上等のもんには見えんやろけどな、自ら精根込めた手作りやでぇ! たとえ、源平時代のあの弓の名手、源為朝(みなもとのためとも)がこの世に帰ってきて、この鎧を狙ぉて矢ぁ射ても、そうそう簡単に、射通せるもんやないでぇ!

高師重 ・・・。(ニヤニヤ)

湯川庄司 足利将軍さまにとっては、この戦は、「まさにここ一番!」っちゅうとこやろ?

高師重 その通り!

湯川庄司 そんなら、おれらに任しといてんか! おれらが、あんたらの矢面に立って、敵が射てくる矢を片っ端から、この鎧で受け止めたろやないかい。敵が切り掛ってきたその太刀、長刀に食らいついて、おれらが先頭切って、敵陣にズバズバ、破(わ)って入ってったるわいな。

高師重 ウハハハ・・・。

湯川庄司 新田どんが、いくら強いいうたかてなぁ、おれらがこの戦に参加した以上は、もうあいつもアカンなぁ。おれらにかかったら、新田軍もイチコロやでぇ。

このように、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に大言壮語する彼らを見ては、他のメンバーの面白かろうはずがない。

足利軍リーダーP (内心)チィッ、でけぇ口、タタキやがってぇ。

足利軍リーダーQ (内心)言うだけだったら、ナァントでも、言えますわさ。

高師重 よぉし! 明日の戦、おまえら、熊野八庄のもん(者)らが、先頭に立ってやってみろ!

熊野八庄・代表メンバー一同 ウィー!

--------

6月17日午前8時、足利・西側山麓方面軍20万騎は、熊野八庄軍500余人を先頭に置き、松尾坂(まつおざか)の尾崎(おざき)から、一斉に山を登りはじめた。

天皇軍10万騎中には、四人の弓の名人がいた。

 綿貫五郎左衛門(わたぬきごろうざえもん)
 池田五郎(いけだごろう)
 本間孫四郎(ほんままごしろう)
 相馬四郎左衛門(そうましろうざえもん)

綿貫と池田は、坂本へ派遣されていて西山麓方面防衛線には不在、本間と相馬だけが、新田義貞の側について、そこにいた。

真っ黒な武装に身をかためて山道を攻め上ってくる熊野八庄軍をはるか下に見下ろし、二人はカラカラと笑って、

相馬四郎左衛門 オォー、今度はスゲェのが、やってきやがったなぁ。

本間孫四郎 なぁ、なぁ、今日の戦、味方の者らに太刀の一本も抜かせずに、片づけちまおうじゃぁねぇの。矢の一本も射させずにな。

相馬四郎左衛門 いったいどうやって?

本間孫四郎 おれたち二人だけで、ヤツラを迎え撃って、肝(きも)つぶしてやんのよぉ。

相馬四郎左衛門 そりゃぁ、おもしれぇ。よぉし。

二人は、静かに席を立ち、強く弓を引くために、鎧を脱いで脇立だけを装着し、兜も脱いだ。

本間孫四郎 さぁてと、今日は、どの弓にすんべぇっかなぁ。

孫四郎は、いつも使っている弓ではなく、丸木づくりの弓を選んだ。一見、サイズは短いように見えるのだが、通常の弓と並べて見ると2尺ほど長い。

彼は、ピンとそり立ったその弓を、大木に押し当ててユラユラと曲げ、弦を張った。そして、多数の矢の在庫の中から白鷹の羽根がついている15束3伏を2本選び、それを弓といっしょに持ち、歌をうたいながら静々と、向かいの尾根に向かう。

本間孫四郎 ウシシ ウシシ ウシシノシィ イェーイ!

相馬四郎左衛門もまた、銀のツクを打った4ないし5人張りの弓(注10)を左の肩にかつぎ、金磁頭(きんじとう)の矢2本を選び取ってノタメ(注11)にはめた。彼は、その矢をためつすがめつしながら、孫四郎の後に続いて行く。

--------
(訳者注10)「n人張」とは弓の強度の単位である。「n人が力をあわせて弓を曲げ、やっと弦を張れるほどの強さ」という意味。

(訳者注11)矢の曲がっているのを矯正する道具。
--------

二人は、一群の松林の中に入り、弓づえをついて立ちながら、山の下方を窺った。

本間孫四郎 なぁ、見ろよ、あの先頭をやってくるやつ。

相馬四郎左衛門 ほっほぉ、すげぇ体格だなぁ。

本間孫四郎 きっとあいつが、うわさに聞く「熊野八庄一の大力男」だよ。

ひときわ背の高い男が、熊野八庄軍の先頭に立って山道を登ってくる。

身長は8尺ほどもあろうか、全身に荒々しさがみなぎっている。鎖帷子(くさりかたびら)の上に黒皮の鎧をつけ、5枚シトロの兜の下には朱色に塗った半頬を着けている。9尺ほどの長さの樫の木の棒を左手に握り、猪の目(いのめ:注12)を打ち抜いた刃わたり1尺ほどの鉞(まさかり)を右肩にかつぎ、少しもためらう様子もなく、サッサッと登ってくる。マケイシュラ王(注13)、ヤシャ(注14)、ラセツ(注15)の怒れる姿、かくありなん、といった風である。

--------
(訳者注12)器物の表面をえぐってつけられた装飾のためのマーク。

(訳者注13)仏教辞典(大文館書店)によれば、
「Maheśvara。大自在天・自在天・威霊帝と訳す。色界(しきかい)の頂上に位する天神の名。」

(訳者注14)仏教辞典(大文館書店)によれば、
「夜叉:Yakṣa。八部衆(天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽)の一、・・・羅刹と共に毘沙門天の眷属となって北方を守護する。之に天夜叉・地夜叉・虚空夜叉の三種がある。天と虚空の二夜叉は飛行するを得るが地夜叉は飛行し得ないといふ。」

(訳者注15)仏教辞典(大文館書店)によれば、
「羅刹:Rākṣasa。・・・悪鬼の名。夜叉と共に毘沙門天の眷族であるとし、或は地獄に於ける鬼類とする。」
--------

その男との距離が2町ほどにまで縮まった時、孫四郎は松林から出て、例の弓に15束3伏の矢をつがえ、力の限りに引き絞った。

本間孫四郎 ウウウ・・・。

弓 ギリギリギリ・・・。

本間孫四郎 それぇ!

矢 ビューーン!

狙い過たず、彼の放った矢は男の鎧の胴に命中し、鎧の弦走(つるはしり)から総角付(あげまきづけ)の板まで、表裏5重の装甲をわけなく貫通した。その背中から3寸ほど突き出た矢は血潮に染まり、鬼か神かと見えた男の手から鉞は離れ、その巨体が小篠の上にドウと倒れた。

相馬四郎左衛門 本間殿、おみごと! さぁ、次はおれの番だな。

四郎左衛門が目をつけた熊野人は、これもまた立派な体格をしている。先ほどの男よりもさらに一回り、背丈があるだろうか。まるで、作りそこないの仁王像、目尻は上に裂け、髭(ひげ)は左右に分かれ、火威の鎧に龍頭の兜をかぶり、手には6尺3寸の長刀、腰には4尺余の太刀。

男は、左手を前にかざして矢を防ぎながら、後方をキッと見つめ、

熊野八庄の男 みんな、あわてるな! あわてて遠矢、射たらあかんぞ! 矢ぁもったいないからな。

男は、鎧を上下に揺すりはじめた。(注16)

--------
(訳者注16)このようにすると、鎧に矢が当たっても貫通しにくいらしい。
--------

四郎左衛門は、5人張(ごにんばり)の弓に14束3伏の金磁頭の矢を、くつ巻を残さずつがえ、その男に狙いを定めながら、弦を引き絞る。

相馬四郎左衛門 ・・・。

弓 ギリギリギリギリ・・・。

相馬四郎左衛門 ヤァッ

矢 ビューーー、ヴァシッ!

熊野八庄の男 アァ!

弦の音に呼応して、男のウメキ声が上がった。矢は、男の兜の真正面に命中、頭を貫通し、矢先は後方のシコロの縫い糸を切って表面まで突き出ていた。

熊野八庄軍メンバー一同 ・・・(ドッキンドッキン)。

先頭に立っていた男二人がたて続けに倒されたのを見て、その後に続く熊野八庄軍500余は、恐怖にとらわれて、前へも進めず後に下がりもせず、前かがみになったまま、全員その場に棒立ちである。

本間孫四郎と相馬四郎左衛門は、そんな彼らを一向に意に介する風もなく、2町ほど向かいの尾根に陣取っている友軍の者らに向かって叫んだ。

本間孫四郎 おぉーい、しばらくなりをひそめていた敵軍が、またまた動きはじめやがったようだぜーぃ。そろそろ戦闘再開ってとこかなぁ。となると、おれたちもここで、ウォーミングアップしとかんといかんからなぁ、そっちの山の上に何か的、立ててくんねぇかぁ。ここから一本づつ、射てみっからよぉ。

向かいの尾根にいる新田軍メンバーV よぉしわかったぁ! これなんかどうだぁい?

向かいの尾根ではさっそく、全面紅のバックに月を描いた扇を矢に挟み、的として高く掲げた。

孫四郎は前に、四郎左衛門は後ろに立って、二人で同時にその扇を射ようという事になったが、

相馬四郎左衛門 な、本間殿、あの扇の月、射抜いちゃったら、天からおとがめ受けるかもよ。

本間孫四郎 なるほど・・・じゃ、こうしよう、月の両側を狙おうじゃねぇの。

相馬四郎左衛門 よし!

孫四郎と四郎左衛門は、同時に矢を射た。2本の矢は二人の狙い通りに、月のマークの部分だけを残し、その左右を射飛ばしてしまった。

その後、二人は、多くの矢が入ったエビラ2個と新しい弓を陣から取り寄せ、矢をつがえないで、弦をビンビンと引いて音をたてながら、

本間孫四郎 わしは、相模(さがみ)国の住人・本間孫四郎忠秀だぁ!

相馬四郎左衛門 わしは、下総(しもうさ)国の住人・相馬四郎左衛門忠重!

本間孫四郎 わしら2人で、ここの陣、かためてるぜぃ。

相馬四郎左衛門 おまえら、わしらの射る矢を少し受けてみてな、自分の鎧の強度チェックでもしてみるかい?

これを聞いて、足利軍20万騎は、追われもしないのに我先に、あわてふためき退却していった。

--------

高師重 (内心)えぇい、もぉっ・・・イライラするよなぁ、まったくう! 毎日毎日こんな矢戦ばかりしていたんじゃ、何年たっても延暦寺を攻め落とせない!

攻略の糸口もまったく見えないまま、イライラが増す一方の足利サイド。そのような時、延暦寺・金輪院(こんりんいん)の律師(りっし)・光澄(こうちょう)から、今木隆賢(いまぎりゅうげん)という同宿の者を使者として、高師重(こうのもろしげ)のもとに送ってきた。

今木隆賢 光澄さまからのメッセージ、以下の通りです:

新田殿が守っておられる四明嶽の下一帯は、比叡山上で第一の難所ですからな、そこを攻め破るのは、極めて困難ですよ。そやからね、そちらサイドの中の、中国地方出身の勢力の中から、戦い慣れた武士4、500人ほどを選んで、この隆賢に預けてください。隆賢の案内で、無動寺(むどうじ)の方から延暦寺の寺域内に侵入し、文殊楼(もんじゅろう)あるいは四王院(しおういん)のあたりまでその一団を進ませ、そこでトキの声を上げさせたら、私・光澄に心寄せる衆徒たちも、東塔エリア、西塔エリアの方々で旗を掲げトキの声を合わせ・・・そないなふうにしていったら、比叡山全域をあっという間に制圧できますよ。

高師重 (内心)やったぁ! 延暦寺の中に、こちらに寝返ってくるヤツが一人でも現われてくれないかなぁと、ずっと願ってたんだ。そんな所に、この今木とかいうヤツがこっそりやってきて、夜襲の手引きをしよう、なんて言ってくれるとは・・・イヤァ、こりゃぁ、願ったり叶ったりじゃないのぉ。

そこで師重は、播磨(はりま)、美作(みまさか)、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)計4か国の軍勢の中から、夜襲に慣れている武士500余人を選抜し、6月18日の夕闇の中、彼らを隆賢と共に、四明嶽の山頂へ向かわせた。

今木隆賢にとって、そこは長年通いなれた道筋である上に、天皇軍側がかためている所とそうでない所とをつぶさに検分してから、足利サイドに内通してきたのであったから、少しも道に迷うはずがない。

ところが・・・きっと天罰が下ったのであろう、隆賢は急に目がくらんできて、心も迷ってしまい、終夜、四明嶽の麓を、北へ南へとさ迷い歩き続けながら、一行を連れ歩いた。

夜明けと共に、彼らは紀清両党(きせいりょうとう)に発見されて包囲され、隆賢に同行していた武士ら100余人は、討ち取られて谷底へ転落していった。

孤立してしまった隆賢は、重傷数箇所を負った後、腹を切ろうとしたが、鎧の上に絞めた帯を解こうとしているところを組み伏せられて、捕虜になってしまった。

天皇に対する大逆行為の張本人であるから、すぐにも処刑されるべきを、新田義貞は、隆賢が延暦寺衆徒の一員であることに配慮した。義貞は、今木一族のもとへ彼を送り届け、「この男、生かすも殺すも、あなた方のお好きなように」と伝えた。

隆賢の身柄を受け取った今木範顕(いまぎのりあき)は、義貞の使者に対して、かしこまって「承知いたしました」とたった一言答えた後、すぐに使者の見ている前で、隆賢の首をはねて捨てた。

ありがたくも万乗の聖主(ばんじょうのせいしゅ)たる天皇が、比叡山守護神・医王(いおう)・山王(さんのう)の擁護を頼まれて、延暦寺に臨幸あそばされた故に、3千の衆徒はことごとく、仏法(ぶっぽう)王法(おうぼう)共に助け合うべき理(ことわり)をよくわきまえ、二心なく忠戦を致す事となった。

そのような中に、金輪院のみが、延暦寺の一員の身でありながら仲間を背き、武士の家でもないのに足利将軍の下に走り、さらには同宿の弟子を足利陣営に送って延暦寺を滅さんと企てるとは・・・まったくもって、けしからん事を考えついたものである。

故に、その悪逆の果はたちまちに顕われ、足利サイドに内通して手引きをした同宿の者らは、あるいは討たれ、あるいは捕虜となった。光澄もそれから間もなく、最愛の子の手にかかって命を終えた。そして、その子もまた、同母弟に討たれてしまったのである。

このような、世に類(たぐい)無き不可思議な事象を顕現(けんげん)された神罰の程、まことにもって怖るべし。

--------

そうこうしているうちに、「越前国(えちぜんこく:福井県北部)の守護・斯波高経(しばたかつね)が、北陸道より足利軍を従えて、仰木(おうぎ:滋賀県・大津市)から比叡山に押し寄せ、延暦寺・横川(よかわ)エリアを攻めようとしている」との情報をキャッチした楞厳院(りょうごういん)や九谷(くたに)の衆徒は、要所要所に逆茂木(さかもぎ)を設置し、要害を構えた。

当時、伝教大師・最澄(でんぎょうだいし・さいちょう)の御廟(ごびょう)(注17)の修造の為に、多数の材木を山上に引き上げていたのだが、それを、櫓の柱、矢狭間の板に使おうと、衆徒たちは坂本へ運び始めた。

--------
(訳者注17)最澄の墓。
--------

その日、般若院(はんにゃいん)の法印(ほういん)に召し使われている童子が、急に狂ったような状態になり、色々と口走りはじめた。

童子 僕に、この山をご守護されてる八王子権現(はちおうじごんげん)さまが、憑(つ)かはりましたぁ!

童子 なんじら、よっく聞けぃ! これらの材木は、尊き伝教大師様の御廟を造営せんがための材木なるぞ、急ぎ、もとの場所に戻せい!

その場に居合わせた衆徒ら全員 ・・・(ビックリ)

衆徒W うーん・・・八王子権現様がこの子に憑かれたやなんて・・・そないな事を急に言われてもな、信じてえぇんかどうか・・・。

衆徒X 同感、同感。

衆徒Y ほんまに権現様がこの子に憑かはったんやったらね、権現様の本身は仏様やねんから、仏のお心の内は一切分かってはるやろし、仏教の教義の全てにわたっても、知り尽くしてはることやろ。そやからな、みんな、この子にあれやこれやと質問してみたらえぇんちゃう? ここのお寺の碩学(せきがく)の僧侶らが、師から弟子へ伝えてきはった色々な事があるやろ、そういった事について、あれやこれやと質問してみたら、どないや?

衆徒一同 それ、えぇなぁ。

そこで衆徒たちは、天台宗の教義の様々な事柄について、童子に問いただし始めた。すると、童子は、

童子 ワッハッハッハッ・・・。

童子 我は、この世の衆生を救済せんがため、仏身を変じて神体となり、人間世界の中に現われたのであるぞよ。以来、長い歳月の経過の故に、過去・現在・未来の三世を達観する智慧も、少々浅ぉなってきたようじゃ。しかしながら、釈迦如来(しゃかにょらい)が人間世界に姿を現わされ、教えを説かれたその席に、我も連なっておった事ゆえ、そこでお聞きした範囲内であれば、その概略を、なんじらに言って聞かせる事も可能である。

そして、童子は、衆徒らの質問の一つ一つに対して、花のように美しい言葉でもって、玉のように清らかな道理を尽くして回答した。それで、衆徒たちも、童子に八王子権現がたしかに憑いていることを確信できた。

衆徒X 権現さま、一つお尋ねてしても、よろしょまっか?

童子 何なりと、尋ぬるがよい。

衆徒X この先、我らの延暦寺の運命は? この戦の勝敗は? いったいどっちが、勝つんでっしゃろ?

童子 (涙をハラハラと流しながら)内に向かっては天台宗の教法を守らんがため、外に対しては永久に皇室を守護せんがため、延暦寺が開基(かいき)されたその時より、我は、仏の姿を神に変じて、この山に降り立った。以来、延暦寺の繁盛と朝廷の安泰とを、ひたすら心にかけて念じてきたのではあるが・・・。

衆徒一同 ・・・。

童子 まことに遺憾ながら、天皇は、富貴栄華のみを追い求めておられる・・・この国には、理民治世(りみんちせい)の政治が全く行われておらぬ。

童子 また、ここ延暦寺においても、なんじら衆徒たちはみな、驕奢放逸(きょうしゃほういつ)の原因となるような事ばかり、願っておるではないか・・・尊くも、伝教大師がともされた仏法の灯を受け継ぎ、さらに輝かせていかんとの志の一片も無く・・・。

童子 故に、諸天善神(しょてんぜんじん)は擁護の手を休め、日吉山王(ひよしさんのう)の三神も、延暦寺に対して、加護の力をめぐらされぬのじゃ。

童子 あぁ、悲しいかな、これより後は、朝廷は久しく塗炭(とたん)の苦しみの中に落ち、公卿大臣は、武家の者らの召し使いの立場にまで、貶(おとし)められようぞ。国主(こくしゅ)は帝都(ていと)をはるか遠くに離れ、臣下が君主を殺し、子が父を殺すような世の中になっていくであろうて・・・あぁ、なんとあさましき事よのぁ・・・。

童子 しかしながら、大逆の悪業も、積もり積もったその後は、やがてはそれを犯した人間にハネ返っていくのであるからして、逆臣が猛威を振るう事も、そうそういつまでも、続くものではない。

童子 それにしても、あぁ恨めしや、高師重! あやつの振る舞いは、不届き千万! 我が守護するこの延暦寺を攻め落とし、堂舎、仏閣を焼き払わんとの命を下しおったる事、我はしっかと見届けておるぞよ。見よ見よ、なんじら、明日の正午、我は日吉山王七社の一なる早尾大行事(はやおのだいぎょうじ)をさし遣わして、逆徒らを四方に退けん!

童子 かくなる上は、この山に何の怖れがあろうか、その材木、皆、元の所へ運びかえせぃ!

このように託宣(たくせん)を下した後、この童子は大人4、5人でやっと持てるような巨大な材木を一本、ひょいとかついで運び、御廟の前に投げ捨てた。そしてその場に立ち尽くし、手足を縮めて震えている。

衆徒W 「明日の正午に敵を追い払う」と言われたけど・・・いくらなんでも、信じられへんわ。

衆徒X そうやなぁ、「1か月後に」とか言うんやったらまだしも、「明日に」やなんてなぁ。

衆徒Y さっきのあの託宣と、明日起る事とが、少しでも食い違うようやったら、あの子が口走った事はみんなウソやったっちゅう事になるやん。どうや、みんな、ここはもう暫く、様子を見ることにしようやないか。

衆徒Z そうやそうや、明日起る事、よぉ見といてやな、それでさっきの「託宣」とやらと照合してみて、完全に一致しとったら、後日、「実はこんな不思議な事がありましてん」言うて、報告上げたらええやん。

というわけで、その日の出来事を報告することは止めようという事になった。かくして、この神託も衆徒の胸の内に空しく秘められただけに終わり、他の人には知れずじまいになってしまったのである。

--------

延暦寺においては、「西山麓方面で戦が始まったならば、本院の鐘を突き、坂本方面で戦になった時は、生源寺(しょうげんじ)の鐘を鳴らそう」という取り決めを行っていた。

6月20日早朝、早尾大行事社に、猿が多数、群れをなして出現。猿たちは、生源寺の鐘を激しく撞き鳴らした。鐘の音は、東西両塔エリアに響き渡り、延暦寺全域の天皇軍武士や衆徒らは、

天皇軍メンバー一同 おっ、合図の鐘が鳴ってるぞ、敵が攻めてきた方向へ馳せ向かって、防げ!

と、我先に走り出した。

山の東西の足利軍はこの形成を見て、「山上から逆落としに攻め寄せて来るぞ!」と思い、水呑(みずのみ)、今路(いまみち)、八瀬(やせ)、薮里(やぶさと)、志賀(しが)、唐崎(からさき)、大津(おおつ)、松本(まつもと)に布陣していた足利軍メンバーらは、「盾はどこだ! 鎧はどこだ!」と、あわてふためき始めた。

これに利を得た天皇軍は、山上と坂本の軍勢10万余騎、木戸を開き、逆茂木を取り除き、うって出た。

足利軍リーダーP 敵は小勢だ、退(ひ)くな、退くなぁ! 退いて討たれるなぁ!

足利軍リーダーQ おめぇら、きたねえぞ、返せぇ!

足利軍は暫くは踏みとどまったが、しょせん、いったん退却態勢に入ってしまった軍勢、もはや引き足は一歩も止まらない。

脇屋義助率いる5,000余騎は、志賀の炎魔堂(えんまどう)のあたりの足利側の向かい城に襲いかかり、東西500余箇所に火を放ち、おめき叫んで攻めたてた。

足利サイドの陣はここからも破れはじめ、180万余騎は、険しい今路(いまみち)、古道(ふるみち)、音無の滝(おとなしのたき)、白鳥(しらとり)、三石(みついし)、四明嶽(しめいだけ)から、人間の雪崩(なだれ)を起しながら、逃げ下っていく。

谷は深く、先に行くに従って細くなっている地形の所が多い。馬や人が、上に上にと落ち重なって、死んでいく。伝え聞く治承年間(じしょうねんかん)の昔、平家10万余騎が、源義仲(みなもとのよしなか)の夜襲に追いたてられて、クリカラ谷を死者で埋め尽くしたその様も、これほどの惨状ではなかったろうと思われるほどである。

西側山麓方面軍の大将・高師重は、自分の太刀で自分の大腿部(だいたいぶ)を突き貫いてしまい、進退窮まっていたところを、舟田経政(ふなだつねまさ)の部下らが生け捕りにした。

師重は白昼、坂本に送られ、新田義貞の前に、縄に縛られて引き据えれらた。

延暦寺の衆徒たちは、高師重は仏敵、神敵の最たる者であり、東大寺(とうだいじ)を燃やした平重衡(たいらのしげひら)の例にならって処置すべきである、として、師重の身柄を申し請け、すぐに、唐崎浜で首を刎ねて獄門に処した。

この高師重という人は、足利尊氏の執事(しつじ)・高師直(こうのもろなお)の養子の弟であり、一方面軍の大将に任じられるほどの人物、わが身に代えてでも彼の命を助けよう、というような人間は、足利軍中には幾千万もいたことであろう。

ところが、戦場で進退窮まったその時に、彼の側には若党の一人も居合わさず、むざむざ捕虜になってしまったのである。まことに、延暦寺守護の医王・山王の神罰はてきめん、しかも、昨日の例の「神託」と今日の戦いの経過は寸分違わず一致している・・・神の怒りというものはまことに、身の毛もよだつほど恐ろしいものである。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年11月21日 (火)

太平記 現代語訳 16-20 楠夫人、楠正行を諭す

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
--------

湊川(みなとがわ:兵庫県・神戸市・中央区)で討死にした楠正成(くすのきまさしげ)の首は、京都の六条河原(ろくじょうがわら)にさらされた。

街の声A 楠はんの首、六条河原にさらされてるて、あれ、ほんまですかいなぁ?

街の声B さぁ、どうでっしゃろなぁ・・・去年の春にも、「これ楠の首やぞ!」言うてさらしてたけど、実は別人のもんやった、なんちゅうこともありましたやろぉ。

街の声C そやそや、そないな事もありましたわなぁ。

街の声D 今度もまた、ニセ首とちゃいますかぁ?

街の声E わたい、今朝、問題の首、見てきましたんやけどな、その側に立て札が立っててな、おもろい事、書いてましたでぇ。

街の声A どないな事、書いたりましたんや?

街の声E 歌が一首。こないな歌でしたわ、

 疑(うたがい)は 人によりてぞ 残りける マサシゲなるは 楠が頸(原文のまま)(注1)

--------
(訳者注1)「正(まさ)しげ=本物らしい」と「正成(まさしげ)」をかけてある。
--------

その後、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、楠正成の首を、自分の元へ取り寄せた。

足利尊氏 (楠正成の首をしげしげと見つめながら)・・・正成殿・・・。

足利尊氏 あなたとは、公私にわたって、おつきあい頂いてたのに・・・。

足利尊氏 ・・・こんな事になってしまってなぁ・・・。

足利尊氏 ・・・後に残された妻子も、あなたの顔をもう一目だけ、と思ってるだろうなぁ・・・。

尊氏は、正成の首を、彼の故郷へ送り届けさせた。まことに、情けある処置であった。

--------

正成に対面した、楠夫人と長子・正行(まさつら)は、

楠夫人 あなた・・・。

楠正行 父上!

楠夫人 (涙)あの日あなたは、兵庫へお発ちになる時に、わたしに色々な事を、言い置いていかはりましたなぁ・・・。(涙)

楠正行 (涙)兵庫へ向かう途中、「今度の合戦では、わしは必ず討死にするんや」言うて、父上はボクを、桜井からここへ帰らせはりました・・・。(涙)

楠夫人 それ以来、もう二度とあなたにはお会いでけへんもんと、覚悟かためとりましたけど・・・こないな変りはてた姿にならはってからに・・・目も塞がり、色も変わってしまわはった・・・ううう・・・ううう・・・うううう・・・(涙、涙)

今年11歳になった正行は、変わり果てた父の首、嘆き悲しむ母の姿を見ているうちに、たまらなくなってきて、流れる涙を袖で押さえ、楠家の持仏堂(じぶつどう)の方へ向かった。

楠夫人 (内心)・・・あの子はいったい、どないしたんや・・・まさか・・・正行!

楠夫人は、正行の後を追って持仏堂へ走り、横の戸から中へ入った。

見ると、正行は、兵庫へ向かう時に父から形見に渡された菊水紋入りの刀を右手に抜き持ち、袴の腰を押し下げて、今まさに自らの腹に刀を突き立てんとしているではないか!

楠夫人 いったいナニしてるんや!

彼女は走り寄って、正行の右腕を無我夢中でつかんだ。

楠夫人 (涙)あかん! 死んだらアカン!

楠正行 お母さま、このまま死なせて下さい!

楠夫人 (涙)このドアホォ! あんたはいったい、ナニ考えてんねん! ドアホめが!

楠正行 (涙)うううう・・・。

楠夫人 あんたは、ドアホや! 正真正銘のドアホやぁ!

楠正行 (涙)・・・。

楠夫人 「栴檀(せんだん)は双葉(ふたば)より芳(こうば)し(注2)」と言うやないか! あんたはたしかに、まだ少年や、そやけどな、あんたはいったい、誰の子やねん! 天下の楠正成の子やないかい! 正成の子が、これしきの事でナニを血迷ぉとんねん! えぇかげんにしぃや!

楠正行 ・・・。

楠夫人 子供ながらも、よぉよぉ考えてみぃ! お父はんが兵庫へ向かわはる途中に、桜井宿(さくらいじゅく)から、あんたをここへ帰らせはったん、あれはいったい、なんの為やったんやぁ?

楠正行 ・・・。

楠夫人 息子に、自分の菩提を弔(とむら)わせるためでもない、息子に、腹を切らせるためでもない。「たとえ、正成は命運尽きて戦場に命を失うとも、天皇陛下がどこかにおわすと聞いたならば、生き残りの楠一族と若党らのめんどう見ながら、再度、戦を起して朝敵を滅ぼし、政権を陛下のもとに奪回せぇ」と、お父はんは、あんたに言い残さはった、そうやったんやろぉ!

楠正行 ・・・。

楠夫人 「お父はんのご遺言は、確かにこうこう、こうでした」と、あの日、あんたは私にはっきり言うたでぇ! そやのに、いったいいつの間に、あんたはその遺言を忘れてしもぉたんや!

楠正行 ・・・。

楠夫人 あぁ、なんちゅうナサケナイ子なんや、あんたはぁ・・・こないな事では、あんたは、そのうちきっと、お父様の名前を汚す事にもなるやろなぁ・・・陛下に対しても、何の御用にもたてへんやろうなぁ・・・。(涙、涙)

楠正行 お母はん・・・うううう・・・(涙、涙)。

楠夫人 うううう・・・(涙、涙)。

母に刀を奪い取られた正行は、腹を切れなくなり、礼盤(らいばん:注3)の上から倒れ伏し、母と共に涙を流して嘆き悲しんだ。

--------
(訳者注2)栴檀は香木で、双葉が生え出る時から早くも芳香を発しはじめる。それより転じて、「才能ある人は幼年時からすでに、他人と違う様を現す」の意味のことわざになった。

(訳者注3)本尊の前に設置された壇。この上に乗って礼拝をする。
--------

これより後、正行は、父の遺言、母の教訓、心に染め肝(きも)に銘(めい)じる毎日となった。

ある時は、近隣の児童らを打ち倒してその首を取る真似をしつつ叫ぶ、

楠正行 楠正行、ただ今、朝敵の首を取りましたぁ!

ある時は、竹馬(たけうま:注4)にまたがり、馬に鞭を当てる動作をしながら、

楠正行 楠正行はただ今、足利将軍を追撃中でありまぁす!

--------
(訳者注4)現代の二本の竹で作る「竹馬」ではなくて、車がついていて引っ張るようになっている遊具。
--------

このように、たわいのない遊びをする時までも、父の遺言に従おうとの一心一念。

楠正行はこの先、どのような人間になっていくのであろうか。

太平記 現代語訳 インデックス4 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

フォト
無料ブログはココログ