太平記

2017年10月21日 (土)

太平記 現代語訳 15-8 後醍醐天皇、京都へ帰還

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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1月末日の足利(あしかが)勢の京都からの逃亡の後、2月2日、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)を出て京都へ帰還し、花山院(かさんいん)に入ってそこを皇居にした。

同月8日、新田義貞(にったよしさだ)が、豊島(てしま)、打出(うちで)の戦に大勝して足利軍を万里の波上に漂わせ、罪を許された降伏者たちを引き連れて、京都へ凱旋してきた。

義貞の姿は、まさに輝かんばかりであった。

降伏者1万余騎は全員、笠標(かさじるし)の紋を書き直して身に付けていたのだが、新たに黒く塗った部分と前から黒かった部分との濃淡の差があまりにも目立ちすぎた。翌日さっそく、五条大路の辻に、一首の歌を書いた札が立った。

 二筋(ふたすじ)の 中の白みを 塗り隠し 新田新田(にたにた)しげな 笠符(かさじるし)哉(かな)(原文のまま:注1)

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(訳者注1)足利家の紋は[二引両](二本の横線を丸で囲った図)であり、新田家の紋は[中黒](太い一本横線を丸で囲った図)である。[二引両]の二本線の間を黒く塗りつぶすと、[中黒]に変えることができる。朝廷サイドに投降した人々は、自らの笠標の[二引両マーク](足利サイドに所属していたことを表す)の中を黒く塗りつぶして[中黒マーク]に変えて、今は、新田サイドに所属することになっていることを表した、ということであろう。

「にたにたしげ」で「新田」と「似た」とをかけている。
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京都市中と遠隔の地(豊島、打出)での戦の結果に天皇は大いに満足、すぐに臨時の官吏任命が行われ、新田義貞は左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)に、脇屋義助は右衛門佐(うえもんのすけ)に、任じられた。

天下の吉凶は必ずしも、年号によって左右されることではないとはいえ、現在の[建武(けんむ)]の年号は、朝廷側にとって不吉である、ということになり、2月25日に年号が、[延元(えんげん)]に改められた。

公家A いやぁ、よろしぉましたなぁ。

公家B ほんまになぁ・・・ついこないだまでは、今日明日にでも朝廷が、逆臣・足利のために倒されてしまうかと、危ぶまれるような状態でしたわ。

公家C そやけど、間もなく事態は正常化、天下は再び泰平となりました。

公家D これもやっぱし、陛下の聖なる徳が、天地のみこころに叶っているからでしょう。

公家E これから先、世の中がどないな状態になったとしても、どこの誰が、朝廷を傾ける事なんかできましょうかいな。天皇陛下中心の体制、これは永遠のものですわ。

このように、群臣の心中からはいつしか危機感も薄れ、徐々に、慎みを忘れていく・・・。あぁ、人間の心とは、なんと愚かなものなのであろうか。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年10月20日 (金)

太平記 現代語訳 15-7 決定的敗北を喫し、足利兄弟、九州へ

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「将軍、湊川(みなとがわ:神戸市・兵庫区)にご到着」との情報をキャッチして、敗戦のショックで落ち込んでいた足利軍メンバーらは、気を取り直し、方々から足利尊氏(あしかがたかうじ)のもとへやってきた。その結果、足利軍の兵力は、20万騎にまで回復した。

この勢いをもって、そのまま京都へ攻め上っていたならば、朝廷側は到底、京都に居続けることが出来なかったであろう。しかし、足利軍は、その後3日間も、湊川宿に意味も無く、逗留し続けた。

その間に、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)は500余騎を率いて京都へ帰り、朝廷側に寝返ってしまった。八幡(やわた:京都府・八幡市)に取り残された武田式部大輔(たけだしきぶのたいふ:注1)も、どうしようもなくなり、朝廷側に降伏してしまった。

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(訳者注1)[日本古典文学大系35 太平記二 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注には、「信武。信宗の子。但し、この時降参したのではなく、安芸守護であったから八幡を捨てて安芸へ帰った(天正玄公仏事法語)。」とある。
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ここかしこに潜伏していたその他の武士たちもどんどん、新田義貞(にったよしさだ)の下に集っていき、朝廷側の兵力は増大の一途、まさに龍虎(りゅうこ)の勢いの状態となった。

2月5日、北畠顕家(きたばたけあきいえ)と新田義貞は、10万余騎を率いて京都を出発し、その日のうちに、摂津国・芥川(あくたがわ:大阪府・高槻市)に到着。

この情報をキャッチした尊氏は、対・北畠・新田迎撃戦の遂行を直義(ただよし)に委ね、16万騎をそえて京都方面へ向かわせた。

2月6日午前10時、両軍は、豊島河原(てしまがわら:場所不明)にて思いがけなくも遭遇。互いに旗を張る準備をし、東西に陣を取り、川ぞい南北に軍を展開した。

まず、北畠軍が攻撃を仕掛けた。足利軍に対して2回の攻撃を行ったが、戦い利あらず、退却して息を継ぐ。

それに入れ替わったのが、宇都宮軍。朝廷サイドに対して、いい所を見せておかねばと、攻撃したが、200余騎が討たれて退却。

脇谷義助(わきやよしすけ)率いる2,000余騎が、それに入れ替わる。

足利軍サイドは、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、高(こう)、畠山(はたけやま)が、先日の敗軍の恥を清めようと、命を捨てて戦う。

新田軍サイドは、江田(えだ)、大館(おおたち)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)が、ここを破られてはいずこへ退けようかと、わが身を無きものとして防戦を展開。

両軍互いに、死を軽んじて激闘を繰り広げるも、なかなか雌雄を決しえないままに、時間が過ぎて行く。

戦場に遅れて到着した楠正成(くすのきまさしげ)は、戦況を観察した後に、正面からの攻撃をせずに、神崎(かんざき:兵庫県・尼崎市)方面に迂回してから、北向きに寄せていった。

これを見た足利軍メンバーらは、終日の戦闘に疲れはてている上に、敵に背後に回りこまれてはいけないと思い、楠軍と一戦も交えずに、兵庫(ひょうご:神戸市・兵庫区)を目指して退いた。

新田義貞は、足利軍を追撃して西宮(にしのみや:兵庫県・西宮市)まで軍を進め、足利直義はこれを防ぎ戦いながら、湊川に陣を取った。

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翌2月7日、朝なぎの瀬戸内海のはるか沖合いに、順風に帆を揚げて東を目指して航行していく、大船500余隻が現われた。

足利軍メンバーA あれはいったい、どっちサイドの軍勢なんだろう? 敵か、味方か?

足利軍メンバーB おぉ! 方向転換して、こっちへ来るぜ!

足利軍メンバーC いやいや、帆を突き動かして、そのまま東に行く船もあるよ。

船団のうち、200余隻は兵庫湊へ入り、300余隻は西宮へ漕ぎ寄せた。

500隻の船団は、足利側の応援にやってきた、大友(おおとも)、厚東(こうとう)、大内(おおうち)と、朝廷側を応援するためにやってきた、伊予国(いよこく:愛媛県)の土居(どい)、得能(とくのう)の船であった。昨日までは同じ湊に停泊していたが、今日は双方へ引き分かれ、目指す陣営に属したのである。

新手の大援軍が両方に加わったので、朝廷サイド、足利サイド、双方互いに兵を進め、越水(こしみず:兵庫県・西宮市)のあたりで遭遇した。

足利サイドの兵力は、膨大であったが、

足利軍メンバー一同 (内心)やれやれ、助かった。ここはいっちょう、新手の援軍の連中に戦をお任せしてぇ、おれらはちょっと休ませてもらうとしようかい。戦闘、戦闘で、もうおれ、疲れちゃってるもん。

援軍の厚東・大友軍メンバー一同 (内心)わしらが、この戦の全責任を負わなきゃならん、てなことでもなし・・・まっ、テッキトー(適当)にやっとったら、えぇんじゃろぉ。

かたや、朝廷サイドは、兵力においては足利サイドに大きくひけを取るものの、

朝廷軍メンバー一同 (内心)この戦、他人事と思ってはいかんぞ。我が身の生死にかかわる事なんだからな!(真剣!)

援軍の土居・得能軍メンバー一同 (内心)今日の戦、ぶざまな戦だけは、しとぉない、我ら河野(こうの)一族の名を汚すことになるけんのぉ! やったるでぇ!(気力ビンビン!)

この双方の人心の様相を観察すれば、戦いが行われる前にしてすでに、両軍の安危・勝負は、目に見えたようなものと、言えよう。

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戦が始った。

「まずは、新手が先陣を」との、戦のしきたりに則り、大友、厚東、大内の3,000余騎が、一番手となって旗を進めた。

土居・得能軍は、後方へサァッと移動し、足利直義が布陣している打出宿(うちでじゅく:兵庫県・芦屋市)の西端まで、一気に懸け抜けた。

土居・得能軍リーダーD 木っ葉武者(こっぱむしゃ)には目もくれるなよ! 大将に襲いかかるんじゃ、大将になぁ!

風のごとくに散開し、雲のごとくに集合し、おめいては懸け入り、懸け入っては戦う、戦っては懸け抜ける、土居・得能軍。

土居・得能軍メンバーE おれはゼッタイ、敵に後ろ、見せんでぇ!

土居・得能軍メンバーF おれだって!

土居・得能軍メンバーG 千騎が討たれて一騎だけになろうとも、最後まで戦い続けるんじゃぁ!

土居・得能軍メンバーH ネヴァー・ギブアップゥ!(never give up)

土居・得能軍メンバー一同 ウォーーッ!

足利直義 ウーン・・・いかん・・・引けぇ! 兵庫まで退却だぁ!

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足利直義 兄上、面目ありません・・・。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 (唇を噛む)・・・。

足利尊氏 (内心)何回戦ってみても、何度戦ってみても、我が家臣たちは、見るに耐えないような戦しか、してくれない。正直言って、疲れた、もう、疲れてしまったよ、私は。

そこへ、大友貞宗(おおともさだむね)がやってきていわく、

大友貞宗 このまま、戦ばぁやっとったんでは、もうどうにもならんでしょう。

足利尊氏 ・・・。

大友貞宗 幸いにも、今ここには、船がようき(多数)ありますからな、ここはともかく、こん(この)船ばぁ使ぉて、筑紫(つくし:福岡県)へ転進(てんしん)、ということにされては、いかがでしょう?(注2)。

足利尊氏 ・・・。

大友貞宗 あちらには、小弐妙慧(しょうにみょうえ)も御味方におりますからな、九州勢のほとんどは、足利様の下(もと)に集まってきますやろ。そうなれば、やがては、大軍ばぁ動かして、京都攻める事だって、たやすくできましょうに。

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(訳者注2)原文では、「只先(ただまず)筑紫へ御開(おひら)き候(そうら)へかし」。大友は、「逃亡」という言葉を使うのを憚って「御開き」と言った、という事になっているのであろう。ゆえに、「退却」や「逃避」という語を用いずに、「転進」と訳しておいた。
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足利尊氏 ・・・やむをえんな、そうしよう!

尊氏は、大友の船に乗りこんだ。これを見た足利サイドの武士たちは、騒然。

足利側メンバーI おぉい、大変だぁ! 将軍様が、船で逃亡されるぅ!

足利側メンバー一同 エェーーッ!

みんな大騒ぎし、取る物も取りあえず、船に乗り遅れじとばかりに、慌て騒ぎ立てる。

船はわずかに300余隻、それに乗らんとする人は20万余。2,000人ほど乗り込んた船がまず沈没し、一人残らず溺死。

これを見た他の船は、「あんなにたくさん、人を乗せるわけにはいかん」とばかりに、艫綱(ともづな)を解いて漕ぎ出した。

乗り遅れた者らは、鎧や衣服を脱ぎ捨て、はるか沖合いまで泳いでいって、船にすがりつく。船の上からはそれを、太刀、長刀で斬り殺し、櫂でもって打ち落とす。

船に乗れずに汀に帰った者は、空しく自害、磯超す波に、彼らの遺骸は漂う。

福原(ふくはら:神戸市)から追い落とされ、長い浜を照らす月に心を傷(いたま)しめ、曲がりくねった海岸の波に袖を濡らし、心づくし(注3)に漂泊していくしかない、足利尊氏・・・。

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(訳者注3)「心づくし」とは「心を悩ませ」の意味。「づくし」に「筑紫(つくし)」をかけている。
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かたや、新田義貞は、百戦の功高く、数万の降人を召し具して、天下の士卒の将として、花の都に凱旋していく。

憂いと喜びが、たちまちに相い替わっていくその様、これはいったい夢を見ているのであろうか、それとも、確かな現実の出来事なのであろうか・・・まったくもって、定かならぬ、昨今の社会情勢である。

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(訳者注4)[足利尊氏 高柳光寿 著 春秋社 1955初版 1966改稿]の、479ページに、以下のようにある。

 「尊氏の和歌として歴史事実と結びつくのは、建武3年鎌倉から義貞を追って上洛したが、京都で敗れて丹波に走り、二月三草山を越えて播磨の大蔵谷へ出たときの作である。

 今むかふ かたはあかしの 浦ながら まだ晴れやらぬ わが思ひかな

 これは「風雅和歌集」に見えるもので、あかしは明石のかけ言葉。」

ここにいう「明石」とは、現在の兵庫県・明石市のことである。
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太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年10月19日 (木)

太平記 現代語訳 15-6 楠正成の謀略、功を奏し、足利軍、京都から逃走

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ引き上げた翌朝、楠正成(くすのきまさしげ)は、部下2、30人ほどを律宗(りっしゅう)僧に変装させて、京都の中に送り込んだ。

方々の戦場跡で遺体の捜索をする彼らを見て、不審に思った足利側の人々は、彼らに問うた、

足利側メンバーA おいおい、おめぇらいってぇ、なにしてんだよぉ。

偽装・律宗僧B (悲嘆のソラ涙を流しながら)はい・・・。昨日の戦で、新田義貞(にったよしさだ)殿、北畠顕家(きたばたけあきいえ)殿、楠正成殿の他、朝廷側の主要な方々が、7人も討死にしはりましたので、菩提を弔うために、その遺骸を捜索しとります。

足利側メンバーA エェーッ!

この報告を受けた足利尊氏(あしかがたかうじ)はじめ、高(こう)、上杉(うえすぎ)の人々は、

足利側リーダーC なんと、不思議な事だなぁ。敵の主要メンバーがみんないっぺんに、死んじゃうとは・・・。

足利側リーダーD だから、敵は勝ったのに、京都から撤退しちゃったんだよ。

足利側リーダーE きっと、どこかに、あいつらの首、転がってるだろう。早く探し出して獄門に懸けてから、都の大路を引き回して、見せしめにしてやろうや!

そこで足利側は、敵味方双方の死骸を検分してみたが、それらしい首は見つからない。

足利側メンバーE うーん、だめかぁ。でも、あきらめきれねぇなぁ。

足利側リーダーD うまいテ(方法)が、あるよ。

足利側リーダー一同 え、どんな、どんな?

足利サイドは、敵の大将の顔に似ている首を二つ、獄門の木に懸けて京都の市中に置き、その傍らに、以下のように書き付けた立札を立てた。

 「新田義貞と楠正成の首である!」

するとさっそく、その文言の横に、次のようなコメントが書き加えられた。(足利サイドにとっては、じつににくたらしい輩のしわざ、と言えようが))

 「是(これ)は、ニタ首なり。マサシゲニも書きける虚言(そらごと)哉(かな)」(原文のまま)(注1)

いやはや、まったくもって、秀句と言うべきか・・・。

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(訳者注1)「ニタ」で「似た」と「新田」をかけている。「マサシゲニ」で、「もっともらしく」と「正成(まさしげ)」をかけている。
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同日の夜半ごろ、正成は、部下たちに松明2、3千本ほどを燃やし連ねさせ、大原(おおはら:左京区)、鞍馬(くらま:左京区)方面へ送り込んだ。

これを見た足利サイドは、色めきたった。

足利側リーダーC さては、延暦寺にこもっている敵側の連中、主要メンバーが死んじゃったんで、逃げ出し始めたようですねぇ。

足利側リーダーD 今夜の中に、方々へ逃げ出しちまおうということでしょう。

足利尊氏 きっとそうだろうな。よし、連中を逃亡させないように、方々へ軍勢を差し向けろ。

ということで、鞍馬路へ3,000余騎、大原口へ5,000余騎、瀬田(せた:滋賀県・大津市)へ10,000余騎、宇治(うじ:京都府・宇治市)へ3,000余騎、嵯峨(さが:右京区)と仁和寺(にんなじ:右京区)方面へも、「一人も逃がさぬように、非常線を張れ」と、1,000ないし2,000騎を派遣。このように、方々へ軍勢を差し向け、各方面残らず配置した。

その結果、軍勢の大半が京都周辺部へ出払ってしまい、京都中心部に残された兵力が僅少になってしまった。その上、その残存メンバーたちも、すっかり油断しきってしまっていた。

一方、朝廷軍サイドは、宵頃より比叡山西山麓の道を下り、八瀬(やせ:左京区)、薮里(やぶさと:左京区)、鷺森(さぎのもり:左京区)、一乗寺下松(いちじょうじさがりまつ:左京区)に陣を取った。

29日午前6時、朝廷サイドの各軍は、合流して二条河原へ押し寄せ、あちらこちらに放火し、3か所で同時にトキの声を上げた。

大兵力を擁していた時でさえ、敗退・撤退を重ねていた足利サイド、まして今や、兵力の大半を、京都周辺部に送り出してしまっている。

敵が攻め寄せてくるとは、想像だにもしていなかった足利サイドは、パニック状態になってしまった。丹波路(たんばじ)方面を目指して退却するもあり、山崎(やまざき)方面へ逃亡するもあり、心にもない出家をして、禅宗や律宗の僧に姿を変じる者もいる。

朝廷軍はそれほど深追いをしなかったのに、後に続く友軍を自分たちを追撃してくる朝廷軍であると思い込み、久我畷(くがなわて:伏見区)、桂川(かつらがわ:西京区)のあたりで自害をする者が多数、遺棄された馬や鎧の数は膨大、足の踏み場も無いほどである。

その日、足利尊氏は、丹波の篠村(しのむら:京都府・亀岡市)を通過し、曽地(そち:兵庫県・篠山市)の内藤道勝(ないとうどうしょう)の館に到着した。

一方、足利軍・四国・中国勢は、山崎を過ぎて、芥川(あくたがわ:大阪府・高槻市)に到着した。

足利側メンバーF あぁ・・・親子兄弟血族主従、互いに行方も知れんままに、ただただ、逃げてくるしかしょうがなかったのぉ・・・。

足利側メンバーG あの子はどうなってしもたんやろ、まだ生きとるんやろか・・・。(涙)

足利側メンバーH あいつはもう、討死にしてしまいよったんかいのぉ・・・。(涙)

足利側メンバーI おいおい、みんな! 将軍様はご無事のようじゃ!

足利側メンバーF なになに!

足利側メンバーI 追分宿(おいわけじゅく:亀岡市)を、通過されたんじゃと!

足利側メンバーE それ、確かな情報なんかぁ?

足利側メンバーI 大丈夫じゃ、十分に信頼していい情報じゃけん。

足利側メンバー一同 よおし!

湊川(みなとがわ:神戸市・兵庫区)に集合した軍勢は、尊氏への急使を丹波方面へ送った。

急使 殿、急ぎ、摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)へお越し下さいませ。態勢を立て直した後、再度、京都へ攻め上ぼってくださいませ!

足利尊氏 よし!

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2月2日、尊氏は曽地を発って、摂津国への移動を開始した。

熊野山別当(くまのさんべっとう)・道有(どうゆう)法橋(ほうきょう:注2)は、当時まだ少年で、薬師丸(やくしまる)という名前の稚児(ちご)姿で尊氏につき従っていた。尊氏は、彼を呼び寄せて小声でいわく、

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(訳者注2)僧侶の位。法印(ほういん)の次。
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足利尊氏 今回の京都の戦ではな、我が方は、戦うたんびに、敗けてしまってる・・・これはなぁ、決して、戦い方がまずいからじゃぁないんだよ・・・。

薬師丸 ・・・。

足利尊氏 敗北の原因をよくよく考えてみるにだ・・・ようは、この私が、朝敵であるがゆえにって事なんだ・・・。

薬師丸 ・・・。

足利尊氏 ならば、局面打開の方策はただ一つ・・・天皇が所属されてる大覚寺統(だいかくじとう)のライバル、持明院統(じみょういんとう)に所属されてる先の天皇(注3)から、院宣(いんぜん:注4)を頂くんだ・・・なんとかして・・・朝敵討伐の院宣をな・・・そうすれば、この権力闘争の名目を一変させることができる・・・「君主対逆臣の戦」から「君主対君主の戦」にな。

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(訳者注3)光厳(こうごん)上皇。

(訳者注4)「勅命」が天皇からの命令であるのに対して、上皇からの命令を「院宣」と言う。
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薬師丸 はい!

尊氏 おまえ、たしか、日野資明(ひのすけあきら)殿に縁故があったろう? これからすぐに京都へ帰ってな、院宣の事を日野殿にお願いしてみてくれ。

薬師丸 わかりました!

薬師丸は道中、三草山(みくさやま:兵庫県・加東市)で尊氏に分かれ、京都へ急いだ。

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2017年10月18日 (水)

太平記 現代語訳 15-5 朝廷軍、足利軍を撃破するも、楠正成の策に従い、坂本へ撤退

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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昨年の12月、尊良(たかよし)親王が関東への遠征に向かった際に、大智院宮(だいちいんのみや)・弾正尹宮(だんじょういんのみや)の軍は、東山道(とうさんどう)経由でカラメ手方面から、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ向かったが、大手方面軍との申し合わせ通りにはいかず、箱根・竹下(はこね・たけのした)の戦に参加できていなかった。

しかし、新たに、甲斐(かい)、信濃(しなの)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)の勢力が加わってきたので、大軍勢となった後、鎌倉へ入った。

情報収拾を始めた彼らに対して、鎌倉の住人らはいわく、

鎌倉の住人A 新田殿は、箱根・竹下の戦に敗けて、西の方へ退却していかれましたよ。

鎌倉の住人B それを追って、足利殿が、京都へ行かれました。

鎌倉の住人C さらにそれを追って、奥州国司の北畠顕家(きたばたけあきいえ)卿が、京都へ攻め上っていかれました。

それを聞いて、朝廷軍リーダーらは、

朝廷軍リーダーD と、いうことはやで、もしも、京都までの、どっかのポイントで、新田が踏みとどまったら?

朝廷軍リーダーE そこで、戦闘が始まるやろうなぁ。

朝廷軍リーダーF わたいら(我々)、このまま鎌倉でグズグズしとっては、あかんのんちゃう?

朝廷軍リーダー一同 そら、あかんわなぁ。

ということで、京都へ引き返すことになった。その主なメンバーは、

公家:洞院実世(とういんさねよ)、持明院兵衛督入道・道応(じみょういんひょうえのかみにゅうどう・どうおう)、堀川光継(ほりかわみつつぐ)、園基隆(そののもとたか)、二条為次(にじょうためつぐ)。

武士:嶋津上総入道(しまづかずさのにゅうどう)、嶋津筑後前司(しまづちくごのぜんじ)、大伴(おおとも)、猿子(ましこ)、落合(おちあい)、饗庭(あいば)、石谷(いしがえ)、纐纈(こうけつ)、伊木(いぎ)、津志(つし)、中村(なかむら)、村上(むらかみ)、仁科(にしな)、高梨(たかなし)、志賀(しが)、真壁(まかべ)。

これら主要メンバーが率いる総勢2万余騎は、1月20日の夜に、坂本(さかもと:滋賀県・大津市)に到着した。

この大援軍の到着に、朝廷軍はますます勢いづいた。

朝廷軍リーダーG この勢いでもって、明日にでも、京都へ押し寄せようじゃないか!

朝廷軍リーダーH いやいや、それはまずいのでは? ここんとこ連日、運勢悪日に当たってしもてるからなぁ。

朝廷軍リーダーI さんざん乗り回したから、馬だって疲労の極限に達してます。満足に動けやしません。

朝廷軍リーダーJ ここはどうしようもないから、京都攻めはしばらく延期し、27日に決行というセンで、どうやろう?

リーダー全員 よし、それで決まり!

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戦う前に人馬を休める時を持とう、ということで、合戦の日の前日、夕方から、

楠正成(くすのきまさしげ)、結城宗広(ゆうきむねひろ)、名和長年(なわながとし)は、3,000余騎を率いて比叡山山麓・西坂本を経由し、一乗寺下松(いちじょうじさがりまつ:左京区)に陣を張った。

北畠顕家は、3万余騎を率いて大津を経由して、山科(やましな:山科区)に陣を取った。

洞院実世は、2万余騎を率いて、赤山(せきさん:左京区)に陣を敷き、

延暦寺の衆徒1万余人は、龍花越(りゅうげごえ)を経由して、鹿が谷(ししがたに:左京区)に、

新田義貞(にったよしさだ)と脇屋義助(わきやよしすけ)は、2万余騎を率いて、、今道(いまみち)を経由して、北白川(きたしらかわ:左京区)に陣取った。

このようにして、大手、カラメ手、合計103,000余騎(注1)は全員、宵のうちから京都近くに陣を敷いたが、自軍の接近を足利側に知られないように、あえて、カガリ火を焚かなかった。

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(訳者注1)上記の各軍団の兵力数の合算値と、この数字とは一致しない。太平記作者の計算ミスか、あるいは、上記の他にも、様々な軍が集まっていたので、総兵力数の方が、合計兵力数値よりも大きくなった、ということであろうか。
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「合戦開始は明朝8時」と定められていたのに、せっかちな延暦寺の若手衆徒たちは、「武士に先をこされてなるものか」ということで、午前5時ころ、早々と、神楽岡(かぐらおか:左京区)へ押し寄せていった。

そこに城郭を構えて守りをかためていたのは、宇都宮(うつのみや)と紀清両党(きせいりょうとう)。やすやすと接近して城を攻撃できるとは思えないのだが、

道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく) よぉし、わしらが一番手や、いくでぇ!

道場坊の同宿300余人 オォー!

彼らは、城郭の木戸の前まで詰め寄り、塀を境に、宇都宮軍と戦いはじめた。しかし、高櫓から大石多数を投げつけられ、たまらず退却。

南岸円宗院(なんがんのえんじゅういん)グループリーダー よぉし、今度はおれらの番や。祐覚のグループは、下がって休んどれ!

道場坊祐覚 よぉし、タッチぃ!

道場坊グループと入れ替わって、南岸円宗院グループ500余人が攻撃を開始。

宇都宮サイドには優秀な射手が多く、城郭の中をあちらこちらと走り回りながら射放つ矢に、南岸円宗院グループサイドのメンバーらは、次々と鎧を射通されていく。

南岸円宗院メンバー一同 こら、かなんわ。

南岸円宗院グループは全員、持ち盾の陰に身を隠すばかりである。

南岸円宗院グループリーダー おぉい、どっか他のグループ、交替してくれぇ!

妙観院全村(みょうかんいんぜんそん) よぉし、タッチぃ!

前線に出てきたこの、妙観院全村という衆徒は、延暦寺中でもトップレベルのツワモノである。鎖かたびらの上に大荒目(おおあらめ)の鎧を着け、菖蒲(しょうぶ)の葉の形をした備前長刀(びぜんなぎなた)を脇に差し挟んでいる。

36本の矢を森のように背負っていて、その矢は、矢柄(やがら:注2)には、大型鏑矢に使われるくらいの太さの三年竹で、節を残したまま削ったものを使用し、矢の先端に、備前長船(びぜんおさふね)鍛造の長さ5分ほどの鏃(やじり)が取り付け、鏃の軸が矢柄の中を貫通して筈(はず:注3)まで達する深さにねじ込まれており、履巻(くつまき:注4)の上にさらに琴糸が巻かれて、といったものである。

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(訳者注2)鏃より後方の竹の部分。

(訳者注3)矢柄の後端部。ここに弦をつがえる。

(訳者注4)鏃を矢柄に差し込んだ所を糸または藤で巻いたもの
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全村は、城郭の崖の前に仁王立ちに立った。その手には、弓が無い。手を使って、矢を投げようというのである。

妙観院全村 先年の園城寺(おんじょうじ)合戦の張本人と見なされて、越後(えちご:新潟県)に流罪に処せられた妙観院の高因幡(あらいなば)全村とは、わしのことやぞぉ! これから城中の方々に、この矢をプレゼントするからな、キゲンよぉ、受け取ってやぁ!

全村は、上差(うわざし:注5)を1本エビラから抜き取り、櫓の矢窓めがけて投げつけた。ねらいは過たず、矢窓の陰に立っていた鎧武者の右肩部の鎧2枚を貫通し、矢先2寸ほどがその体に突き刺さった。鎧武者は、櫓から転落し、二言目も言わないうちに死んでしまった。

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(訳者注5)合戦の最初に射る矢。
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宇都宮軍メンバーK うわぁ、すげぇなぁ、手で矢を投げて、鎧を着た人間を殺せるのかぁ・・・。

宇都宮軍メンバーL なんてぇ、怪力なんだぁ!

宇都宮軍メンバーM ありゃぁ、タダモノじゃぁねえよぉ。

宇都宮軍サイドはみな、おじけづき、浮き足たってしまった。

禅智房護聖院(ぜんちぼうごしょういん)グループリーダー 敵はおじげづきよったぞ、いまが攻撃のチャンスや、いけぇーーっ!

禅智房護聖院グループ所属の若手衆徒たち ウォーーッ!

禅智房護聖院グループ1,000余人の一斉攻撃を受けて、宇都宮軍は神楽岡の城郭を放棄して退却し、二条河原の足利軍陣内へ移動した。

これ以降、妙観院全村は、「投げ矢の因幡(注6)」の異名を取ることになった。

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(訳者注6)原文では「手突(てつき)因幡」。
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これより以前の段階において、紀清両党から足利尊氏のもとへ、「延暦寺衆徒が、鹿が谷から寄せてきて神楽岡の城を攻めている」との急報が送られており、尊氏は、今川(いまがわ)と細川(ほそかわ)に、「すぐに、神楽岡の宇都宮軍の応援に行け」との命を下し、3万余を向かわせていた。しかし、城はすでに攻め落とされ、敵軍に占領されてしまった、ということで、援軍メンバーらは、なすすべなく引き返していった。

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そうこうするうち、楠正成、結城宗広、名和長年率いる3,000余騎が、糺の森付近から押し寄せてきて、出雲路(いずもじ:北区)のあたりに放火しはじめた。

立ち上る煙を見て、尊氏は、

足利尊氏 神楽岡を占領した延暦寺勢が、さらに進んできたんだろう。やつらは騎馬での戦闘は不得意だろう、急ぎ、出雲路方面に向かって、懸け散らしてこい!

ということで、上杉重能(うえすぎしげよし)、畠山国清(はたけやまくにきよ)、斯波高経(しばたかつね)が、5万余騎を率いてその方面へ向かった。

これを迎え撃つは、勇気無双にして智謀第一の人、楠正成。

正成は、軽い一枚板の盾5、600枚を用意して、配下の者らに配布していた。その盾の両端には、金属製の接着具が装着されている。

足利サイドが攻撃してくる際には、その接着具を用いて盾と盾を繋ぎ合わせて、長さ1、2町ほどの防壁を作り、その隙間から矢をビュンビュン射る。

足利サイドが退却すると見るやいなや、勇猛な騎馬兵500余をもって、一斉にバアッと追撃をかける。

かくして、上杉、畠山軍5万余騎は、楠軍500余騎に攻めまくられて、五条河原へ退却。

朝廷軍サイドの攻撃はこればかりではなかった。粟田口(あわたぐち:左京区)方面からは、北畠軍2万余騎が押し寄せ、車大路(くるまおうじ:左京区・南禅寺付近)一帯に放火。これを見た尊氏は、

足利尊氏 (内心)あれはおそらく、北畠軍だろう。あの軍だけは、軽く見ちゃいかん。私が自ら指揮をとって、迎え撃つしかないだろう。

尊氏は、自ら50万騎を率いて四条・五条間の鴨川原に馳せ向かい、追いつ返しつ、入れ替え入れ替え、2時間ばかり、北畠軍と戦闘を続けた。

足利軍サイドは、大勢ではあるが、実際に戦闘を行う者の数は少なく、武将たちは疲労の極に達してしまった。一方の北畠軍サイドも、小勢であるので、交替しながら戦闘を継続するだけの余力もなく、たちまち全員疲れ果ててしまった。

両軍互いに戦いあぐね、怒りを抑えながら馬に息をつがせていた、まさにその時、戦場に新たな軍勢が現れた。

新田義貞、脇屋義助、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、大館氏明(おおたちうじあきら)率いる3万余騎が、三手に分かれ、双林寺(そうりんじ:東山区)、将軍塚(しょうぐんづか:東山区)、法勝寺(ほっしょうじ:左京区)の前から、新田家家紋の中黒の旗50余筋を風になびかせて、二条河原を埋め尽くしている足利軍のまっただ中を懸け通り、敵の退路を絶とうと、京都中心部へ進んでいった。

足利軍メンバーN あぁ、来やがった!

足利軍メンバーO またまた、例の「中黒」かよぉ!

鴨河原、白川、京都中心部に、すき間なくびっしりと布陣していた足利サイド大軍勢のメンバーらは、馬を懸け倒し、弓矢をかなぐり捨て、四方八方へ逃げ散っていく・・・まるで、秋の木の葉を、山下風(やまおろし)が吹き散らすかのように。

新田義貞は、わざと鎧を脱ぎ替え、馬を乗り換え、単身で足利陣営中に懸け入っていった。

新田義貞 (内心の思い)どっかに、尊氏、いねぇかなぁ・・・運良く出会えたら、そく、討ち取ってやんだけどぉ。

しかしまたしても、尊氏の運の方が強かったようである。義貞はついに、尊氏に遭遇できなかった。仕方なく、義貞は、自らの軍勢を十方へ分けて、逃げゆく足利軍を追撃させた。

新田軍サイドの、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)の人々は、丹波路(たんばじ)方面へ逃走していく足利軍2、3万騎を見付け、その中に足利尊氏がいるぞ、ということで、たった26騎でもって桂川西方まで追撃したが、大軍勢での反撃にあい、一人残らず戦死してしまった。

十方に分かれて足利軍を追撃していた新田軍メンバーらは、「あまり深追いするな」との指令を受け、続々と、京都中心部へ引き返してきた。

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日もすでに暮れた頃、楠正成が、新田義貞の所にやってきて、

楠正成 今日の戦、予想外の戦果やったなぁ。あっちゃこっちゃの敵の軍勢、追い払ぉてしまえたやんけ!

新田義貞 そうだなぁ。

楠正成 けどなぁ、問題は、敵側に与えた損害、そうや、損害やん!

新田義貞 ・・・。

楠正成 敵側の戦死者の数、大したことないやろ? カンジンの足利尊氏にも、うまいこと逃げられてしもぉて、その行く先も、分からんしぃ

新田義貞 うん・・・。

楠正成 さぁ、そこでやでぇ、こないな状態の中で今夜、兵力の少ないわが方が、京都にいるっちゅうことになったら、いったいどないな事になると思う?

新田義貞 ・・・。

楠正成 問題は財宝、そうや、財宝やがな! 京都の家々にわぁんさか貯めこまれたるオタカラ(宝)に、みぃんな気ぃイッテしもてやでぇ、「こら、オマエラ、勝手にそこらへん、フラフラ行ってしもぉたら、あかんどぉ、きっちり陣作って、かたまっとけよぉ!」てな事をやな、わしらがなんぼ、声からして怒鳴ってみてもや、そぉんなもん、どいつもこいつも、聞きよるもんかいやぁ!

新田義貞 だよなぁ・・・。

楠正成 そうこうしているうちにな、前の時みたいに、敵にまた京都を奪回されてやでぇ、わしらは途方に暮れてしまいっちゅうような事に、なってしまうに決まってるやんかぁ。

楠正成 今のこのタイミングで、敵側にちょっとでも勢いつけてしもたら、後々の戦にも、ヒビイテしまうやん。

楠正成 せやからな、今日の所は、京都はこのままにしといてや、坂本へいったん引き返し、1日、馬の足を休める、ほいでもって、明後日、そうや、明後日ころにや、再び京都に寄せてきて、もう一回、てひどく、敵をやっつける。そないなフウにしてったら、今度こそ間違いなく、敵を、都の10里外、いや、20里の外までも、追い払えるやろうて。

新田義貞 なるほど、それがいいね!

ということで、朝廷軍は全員、坂本へ退却した。

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足利尊氏は、今回も丹波方面へ退却しようと、寺戸(てらど:京都府・向日市)のあたりまで行っていたのだが、京都には朝廷軍は一人も残っておらず、みな坂本へ引き返した、との情報を得て、ふたたび京都へ帰ってきた。

その他、八幡(やわた:京都府・八幡市)、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)、宇治(うじ、京都府・宇治市)、瀬田(せた:滋賀県・大津市)、嵯峨(さが:右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)、鞍馬路(くらまじ:左京区)のあたりを逃走中の足利サイドのメンバーらも、これを聞いて、我も我もと、京都へ帰ってきた。

足利軍メンバーP あーあ、こんな恥ずかしいカッコウして、京都へ帰ることになるとはなぁ・・・。

足利軍メンバーQ なんかイマイチ、分かんねぇんだよなぁ。

足利軍メンバーR いったい何がぁ?

足利軍メンバーQ だってさぁ、敵とわが方の兵力の差、見てごらんよぉ。敵側はわが方の、100分の1にも満たないんだよぉ。

足利軍メンバーS だよなぁ・・・毎回毎回、こんな風に追い立てられて、見苦しい負け戦ばっかし繰り返してるんだ、おれたちは・・・どこかなんか、不可解。

足利軍メンバーT やっぱし、あれなんじゃないの、あれ。

足利軍メンバーP 「あれ」っていったい何だ、「あれ」って。

足利軍メンバーT しょせん、おれらは、「朝敵」、「お上にタテツク輩」なんだよ。朝敵なんだから、いくらがんばってみても、勝てないんだわさ。

足利軍メンバーU おれは、そうじゃないと思う。別の原因だと思う。

足利軍メンバーT いったいどんなぁ?

足利軍メンバーU 延暦寺の連中が、おれたちのことを呪詛(じゅそ)してやがんのさ、きっとね。

このように、自分たちの側の作戦のまずさかげんを棚に上げて、なんのかのと言っている・・・まったくもって、愚かしいとしか言う他はない。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年10月17日 (火)

太平記 現代語訳 15-4 新田義貞、京都を奪回するも、坂本へ撤退

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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園城寺(おんじょうじ)を守っていた足利(あしかが)側勢力を首尾良く攻め落とせたので、「長旅に疲れた人馬を1日、2日ほど休めた後、再び戦をしよう」ということになり、北畠顕家(きたばたけあきいえ)は坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ引き返し、その軍団2万余騎も彼の指示に従った。

新田義貞(にったよしさだ)も、坂本へ帰ろうとしたが、舟田経政(ふなだつねまさ)が、馬を控えていわく、

舟田経政 殿、「戦において利を得んと欲せば、勝利に乗じ、敗走する敵を追撃するに限る」と、言うでしょ! 今度の戦にかろうじて生き残り、馬を捨て鎧を脱ぎ、命ばかりは助かろうと逃げていく敵軍を追って、京都へ押し寄せていったら、いいんじゃないでしょうか。臆病神に取り付かれた大勢の人間にひっかきまわされて、敵サイドの他のやつらもきっと、ガタガタになっちゃうでしょう。

新田義貞 うーん。

舟田経政 敵側が混乱してるすきにね、我が方は分散して、敵陣内に潜り込み、攪乱するんです。こっちに火を掛け、あっちにトキの声をあげ、縦横自在にかけまわって、てな感じでいったらね、こちらの兵力がどれくらいなのか、敵側も分からないだろうから、ますます、混乱していくでしょう。そうなりゃ、足利兄弟の近くまで行って、勝負を一気につけてしまえるじゃないですか。

新田義貞 うーん!

舟田経政 いったん逃げの態勢に入っちゃったら、もう敵側は、何の抵抗もできないでしょう。ここはとにかく、いっちょ、追撃かけてみません?

新田義貞 いやな、おれも、そんな風な事、考えてたんだ。よくぞ言ってくれた。よし、追撃してみよう。

義貞は、旗の緒を下ろして馬を進め、新田一族5千余人とそれに従う3万余騎は、彼に続いて、馬に鞭を当て、京都へ向かって敗走する足利サイド・細川軍への追撃を開始した。

細川軍は、はるかかなたまで行ってしまっていると思われたが、敗走する側は大軍ゆえ進行が遅く、追撃する側は小勢ゆえ、スピードは速い。山科(やましな:京都市・山科区)のあたりで、新田軍は細川軍に追いついた。

由良(ゆら)、長浜(ながはま)、吉江(よしえ)、高橋(たかはし)が、真っ先に進んで、細川軍に接近した。

自軍よりも数が多い敵軍をあなどってはいけない、ということで、相手が反攻してこれそうな広い所では、接近せずに遠矢を射掛け、トキの声を上げるだけで、激しく迫らず、道が狭くて行く先が険しい山道となっている所では、高所から懸け下りて襲いかかり、ひっきりなしに矢を射て、切り伏せていく。

このような、新田サイドの巧みに追撃により、細川軍は一度の反攻もできず、我先に逃走していくばかりである。

負傷者は、倒れ伏したまま、馬や人に踏み殺され、馬から離れた者は、もはや逃走することもできず、腹を切っていく。彼らの死骸は谷を埋め溝を埋め、追撃戦を展開する新田軍の前に、道を平らかにしていくかのよう、まるで輪宝(りんぼう:注1)が山谷を平らげていくかのようである。

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(訳者注1)Cakra。インドにて帝王の標識として用いられる宝器で、宇内を統一する大王転輪聖王 Cakravarti-rāja は宿福によってこれを感得し、王遊行の際は必ずこれが前進して地を平坦ならしめ、山岳岩石を破砕し、諸民を制伏すという。(仏教辞典 大文館書店)
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「園城寺で戦闘開始!」との報告を受けていた足利尊氏(あしかがたかうじ)は、そちらの方角から黒煙が立ち上って、天を覆っているのを見て、

足利尊氏 これはいかん、細川たち、やられてしまったか。おぉい、すぐに、援軍を送れ!

尊氏は、自ら三条河原まで出動し、陣ぞろえを行った。

その時、粟田口(あわたぐち:京都市・左京区 注2)方面から馬煙を立てて、4、5万騎ほどの軍勢がやってくるのが見えた。

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(訳者注2)「京の七口」の一。山科から西進して東山の峠道を超えて京都盆地へ下った所にある。地下鉄東西線・蹴上(けあげ)駅の付近から粟田神社へかけての地域である。そこからさらに西へ進むと、三条大橋がある三条川原に到達する。
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足利尊氏 あれは、どこの軍だ?

足利軍メンバーA はい・・・(やってきた軍を凝視)・・・園城寺へ行ってた、細川軍に所属の四国・中国勢ですね。

足利軍メンバーB よっぽどてひどく、やられたようですねぇ。無傷の者なんか、一人もいやしねぇ。

足利軍メンバーC みんな、鎧の袖や兜の吹返しに、矢の3、4本は突き刺さってるじゃん。

足利尊氏 突き立った矢を折る余裕も、無かったんだろうな。

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新田義貞は、2万3千余騎を3つに分けて、

 第1軍団を、将軍塚(しょうぐんづか:京都市・東山区)の上に配置し、

 第2軍団は、真如堂(しんにょどう:左京区)の前方に待機させ、

 第3軍団を、法勝寺(ほっしょうじ:左京区)の前方から二条河原へと展開して、

合図の烽火を上げさせた。

義貞は、華頂山(かちょうざん:東山区-山科区)に登り、眼下に足利陣を見渡してみた。

足利サイドの兵力は膨大であった。その陣営は、北は河合森(かわいのもり:左京区・下鴨神社境内)から、南は七条河原あたりまで展開しており、前の馬の後ろ足には後の馬の前足が接し、ある者の鎧の袖には隣の者の鎧が触れ、というような状態で、東西南北40余町の間、立錐の余地もなくビッシリと密集している。

弓を杖がわりに突きながら、義貞は指示を出した。

新田義貞 みんな、よく聞け! 敵の兵力と我が兵力を比べてみたら、大海の中の一滴の水、牛の大群中の毛1本ってとこだろうよ。普通の方法で戦ったんじゃぁ、とても勝てやしない。

新田義貞 だからな、こうしよう。まず、互いに顔をよく知り合った者どうしで50人ずつのグループをいくつか作る。そいで、そのグループメンバーは、笠標(かさじるし)を捨てて旗を巻き、敵陣の中に紛れ込んで、あっちこっちに潜んで、そのまましばらく待機する。ようは、敵陣撹乱部隊だな。

新田義貞 将軍塚にいるわが軍の戦闘開始にあわせて、総攻撃開始だ。それと同時に、撹乱部隊メンバーは、敵軍の前後左右に旗を差し上げ、馬をそこら中、走りまわらせろ。前にいたかと思えば、後ろへ抜け、左にいたかと思えば右へ回りってな感じでな、縦横無尽に敵陣をひっかきまわしてやれ。

新田義貞 そうすりゃぁ、敵の連中らは、わが方の撹乱部隊を味方だと思いこんで、同士討ち始めるか、さもなきゃぁ、大混乱になっちまって、退却し始めるか、このどっちかになるだろう。

古代中国の韓信(かんしん)のごときこの謀略に従い、新田軍各リ―ダーの配下から、それぞれ50人ずつが選抜され、合計2,000余騎の撹乱部隊が編成された。

部隊メンバーは全員、中黒の旗を巻いて紋を隠し、笠標を取って袖の中に入れ、園城寺から退却してきた軍勢のようなフリをして、足利サイド陣営の中に潜入していった。

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新田側がこのような謀略を仕組んでいるとは夢にも思わず、足利尊氏は、主要メンバーに対して、

足利尊氏 義貞は平地での攻撃を好む、と聞いていたが、今回は違うようだな・・・山を背にして、うって出ようとしている・・・おそらく、自軍の兵力の少なさを隠したいからだろう。

足利尊氏 あの将軍塚の上に陣取っている敵軍を、いつまでもあのままにしておいてはいかん。師泰(もろやす)、あの山の上まで懸け上がって、追い散らしてしまえ!

高師泰(こうのもろやす) はっ!

高師泰は、武蔵・相模の勢力2万余騎を率い、双林寺(そうりんじ:東山区)と中霊山(なかりょうぜん:東山区)から二手に別れて山頂を目指した。

これを迎えうつ新田側は、脇屋義助(わきやよしすけ)、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、大館氏明(おおたちうじあきら)、結城宗広(ゆうきむねひろ)以下3千余騎。

優秀な射手600余人を選りすぐって馬から下りさせ、小松を盾に、高師泰軍に対して、さしつめひっつめサンザンに矢を射させた。

険しい山道にてこずる高軍団の者たちは、続々と、鎧を矢に貫通されて地に伏し、馬を射られて落とされていく。

高軍団にひるみの気配が出始めたのを見て、今が攻め時と、新田側3千余騎は一斉に、大山の崩れるがごとくに、斜面を下り、相手に襲いかかっていく。

高軍団2万余騎は、持ちこたえられずに、五条河原へさっと退いていく。この途中、杉本判官(すぎもとはんがん)と曽我次郎左衛門(そがじろうざえもん)が戦死。

新田軍は深追いせず、なおも東山を背にして、兵力のほどを相手に見せない。

このようにして、カラメ手方面から戦が始ったので、大手方面でも、それに呼応して、一斉にトキの声を上げた。

新田サイド2万余騎と足利サイド80万騎が、攻守入れ替わりながら、天地を響かして戦い始めた。古代中国の漢(かん)と楚(そ)の8年間の戦いを一時に集め、呉(ご)と越(えつ)の30度の戦を100倍にしてもなお、この両軍の戦闘の激しさに及ぶものではない。

新田サイドは、小勢ではあるが、みな心を一つにして、懸かる時は一度にサッと懸かって相手を追いまくり、引く時は負傷者を中に置いて守りながら静かに引いていく。

かたや、足利サイドは、人数は多いのだが、メンバーの心はみなバラバラ、攻撃も不揃いで、退却する時も友軍を助けず、それぞれの軍が自分勝手に戦っているだけである。

正午から午後7時までの間、60余回の両軍激突において、終始、戦況は新田サイド有利に展開していったが、足利サイドは人数が多いので、戦死者が出ても総兵力においての大きな減少は無く、退却するにしても、さほど遠くまでは退かず、ただ一か所に踏みとどまっていた。

その時、足利陣内に潜入していた新田サイドの敵陣撹乱部隊が、足利尊氏の前後左右に、中黒の新田家紋の旗を差し上げ、足利陣を乱し始めた。

足利尊氏 う? あれはいったい!

足利軍リーダーD おいおい、いったい、どうなってんだぁ?

足利軍リーダーE 敵はどこにいる?

足利軍リーダーF そこにいるのは新田軍の部隊だな、よぉし、かかれぇ!

足利軍リーダーG なんだなんだ、いきなり襲いかかってきやがったぞ、いったいどこの部隊だ、敵か味方か!

足利軍側メンバーH もうメチャクチャだぁ! いったいどれが敵でどれが味方だか、さっぱり分からん!

足利軍は大混乱に陥った。東西南北おめき叫んで、ただひたすら同士討ちを展開していくばかりである。

吉良(きら)家リーダーI 殿、ヤバイです!

足利尊氏 敵に内通してるのが、わが方にいたということか!

石塔(いしどう)家リーダーJ そうです、内通です。後ろから矢を射掛けてくる連中も、いるようですよ。

高(こう)家リーダーK (内心)こうなったら、いったい誰を味方と信じていいのか、さっぱり分からん。

上杉(うえすぎ)家リーダーL (内心)信じていいのは、わが身内、上杉家の者だけだなぁ。

このように、足利軍中には、互いに対する疑惑の念まで生じてしまい、高、上杉の人々は山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)方面への退却を、尊氏と吉良、石塔、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)の人々は、丹波(たんば)方面への退却を開始。

ますます勢いづいて足利軍を急追していく新田軍。梅津(うめづ:右京区)、あるいは桂川(かつらがわ)付近において、尊氏は3度も、もはやこれまでかと、鎧の草ずりをたたみ上げて、腰の刀を、抜こうとした。

しかし、尊氏の運は強かったようである。

日が暮れてしまい、新田軍が桂川から引き返していったので、松尾(まつお:西京区)、葉室(はむろ:西京区)の間の場所で、尊氏は馬を止め、のどの渇きを癒し、しばしの休息を取ることができた。

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細川定禅(ほそかわじょうぜん)は、自らが率いる足利軍・四国勢メンバーらに対していわく、

細川定禅 戦の勝負ってもんは、時の運で決まることだ、だから、負け戦しちゃったからって、そうそう恥じなくってもいいんだ・・・と、一応、言ってはみるんだけどぉ。

細川定禅 今日のわが方の敗北は、我々に任されてた園城寺(おんじょうじ・滋賀県・大津市)の防衛に失敗した事から始った事だからな、これからいろいろと言われちゃうと、思うよぉ。「あいつらのせいで、こうなった」とか、なんとか、いろいろとなぁ。

四国勢メンバー一同 ・・・。

細川定禅 なぁ、みんな! 他の家の連中らを交えずに、我々だけでもって、華やかに一戦やらかして、名誉回復ってことにしないかい?

細川定禅 新田のヤツらは、まる一日戦って、もうくたびれちゃってるだろう。今から急襲かけたら、まともに戦えるとは思えない。

細川定禅 新田家以外の連中らは、きっと、京都や白川あたりの家々の財宝に目がいってしまってるだろう。あっちこっちに散らばってしまってて、一個所に集中していないだろう。

細川定禅 それにな、赤松貞範(あかまつさだのり)が、わずかの軍勢率いて、一乗寺下松(いちじょうじさがりまつ:左京区)のあたりにいるんだ。あいつをむざむざ死なせるのも残念だしな。

細川定禅 さぁ、みんな! これから、蓮台野(れんだいの:北区)から北白川(きたしらかわ:左京区)へ進んで、赤松勢と合流して、新田軍を一モミしてみようじゃないの!

四国勢メンバー一同 よっしゃぁ、分かりましたぁ!

細川定禅 よぉしよし!(大喜びで)

定禅は、あえて尊氏に知らせずに、伊予(いよ)、讃岐(さぬき)勢の中から300余人を選抜し、北野(きたの:上京区)の後方から上賀茂(かみがも:北区)を経て、ひそかに北白川へ進軍した。

糺森(ただすのもり:左京区)の前で300騎を10方に分けて展開し、一乗寺下松、薮里(やぶさと:左京区)、静原(しずはら:左京区)、松ヶ崎(まつがさき:左京区)、中賀茂(なかがも:左京区・下鴨半木町 付近)など30余箇所に火を放ち、そこから更に、一条と二条の間に進んで、三箇所でトキの声を上げた。

定禅の推測通り、その夜、新田サイドは、京都、白川に広く分散してしまっており、一箇所に集中できる兵力が少なかったので、新田義貞と脇屋義助は、たった一戦にて敗北し、坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ退却せざるをえなかった。

方々に分散していた新田サイドのメンバーらも、あわてて坂本めざして退却する間に、北白川あるいは粟田口付近で、舟田義昌(ふなだよしまさ)、大館左近蔵人(おおたちさこんくろうど)、由良三郎左衛門(ゆらさぶろうざえもん)、高田七郎左衛門(たかだしちろうざえもん)ら、新田軍の主要メンバー数百人が、戦死してしまった。

定禅は、すぐに早馬を送って、尊氏に勝利を告げたので、山陽、山陰両道へ退却していた足利軍メンバーはすべて、再び京都に帰ってきた。

新田義貞は、わずか2万の軍勢でもって、足利尊氏の80万騎を懸け散らし、細川定禅もまた、たった300余騎をもって、新田軍2万余騎を追い落としたのである。まさに、古代中国の項羽(こうう)のごとき武勇、張良(ちょうりょう)のごとき謀略、二人とも、すばらしい武将であると、言えよう。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年10月16日 (月)

太平記 現代語訳 15-3 園城寺、戦場となる

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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奥州からの朝廷側援軍が坂本(さかもと:滋賀県・大津市)に到着した後に、北畠顕家(きたばたけあきいえ)、新田義貞(にったよしさだ)他、朝廷軍の主要メンバーらは、聖女彼岸所(しょうにょひがんしょ)に集まって作戦会議を開いた。

北畠顕家 ここはとにかく、一日、二日ほど、馬の足を休めてから、京都へ向かう、という事にしてはどないやろ?

大館氏明(おおたちうじあきら) えぇっとぉ・・・少し意見を言わせていただいてもよろしいでしょうか?・・・長旅に疲れた馬をまる1日も休ませてしまうと、かえって緊張がゆるんでしまってね、4、5日ほど、役に立たなくなってしまいますよ。

メンバー全員 ・・・。

大館氏明 我々が坂本へ来たことを、敵が知ったとしても、「到着した後すぐに、京都へ押し寄せて来るなんてことは、まさかないだろう」と、敵側は思っているでしょうね。

大館氏明 「敵の不意をついて戦を起こすべし、さすれば必ず、勝利できるであろう」と、言いますからね。今夜のうちに、志賀(しが:滋賀県・大津市)、唐崎(からさき:滋賀県・大津市)のあたりまで進み、翌朝未明に、園城寺(おんじょうじ:滋賀県・大津市)へ押し寄せ、四方からトキの声を上げて攻め入るってぇセンで、どうでしょう? そうすりゃ、こちらサイドの勝利、間違い無しですよ。

新田義貞 なるほど!

楠正成(くすのきまさしげ) その作戦、えぇやん、それで行こぉな!

ということで、諸将に指示が出た。

新参の千葉(ちば)家の軍勢は、指示に従い、宵のうちから千余騎で、志賀の里に陣取った。

大館氏明、額田(ぬかだ)、羽川(はねかわ)6,000余騎は、夜半に坂本を発って、唐崎浜(からさきはま)に陣取った。

戸津(とつ:大津市)、比叡辻(ひえいつじ:大津市)、和仁(わに:大津市)、堅田(かたた:大津市)の者らは、小舟700余隻に乗って琵琶湖沖に待機しながら、夜明けを待った。

延暦寺(えんりゃくじ:大津市)の衆徒たち2万余人は、ほとんどのメンバーが徒歩であったので、回り道して如意が嶽への山道を越え、戦闘開始のトキの声が上がると同時に山から攻め下ろうと、なりをひそめて待機した。

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坂本に大軍勢が到着した気配をキャッチし、多数の舟が琵琶湖上を行き来する様を見て、園城寺に待機していた細川定禅(ほそかわじょうぜん)と高重茂(こうのしげもち)は、京都へ急を告げた。

 「関東からの朝廷側の大援軍が坂本に到着し、明日にでも、我々に攻撃をしかけてくる、との情報を得ました。急ぎ、援軍を、お願いします!」

このように、三度も使者を送って援軍を依頼したが、足利尊氏は、まったく意に介さない。

足利尊氏 関東から大援軍だってぇ? いったいどこの誰が、それほどの大軍を率いて、京都までやってこれるっていうのかね。その大半は、宇都宮家と紀清両党の者らだと、聞いてるぞぉ。

足利尊氏 彼らが、その後の情勢の変化を知らないまま、坂本へ到着したとしてもだな、宇都宮公綱はすでにこちらサイドに所属、京都にいるって聞いたら、すぐに、主のもとへ馳せ散じてくるだろうよ。

というわけで、園城寺へは、足利側の援軍は一騎も派遣されなかった。

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夜明けとともに、北畠顕家率いる2万余騎、新田義貞率いる3万余騎、脇屋義助(わきやよしすけ)、堀口(ほりぐち)、額田(ぬかだ)、鳥山(とりやま)の軍勢1万5千余騎は、志賀、唐崎の浜辺に馬を進めて園城寺へ押し寄せ、後続軍の到着を待った。

やがて、戦闘開始。

まず、朝廷軍の前陣が、大津の西の浦、松本の宿に火をかけて、トキの声を上げた。

準備怠りなかった園城寺の衆徒らは、園城寺南院の坂口で彼らを迎撃し、激しく矢を浴びせた。

朝廷軍一番手・千葉高胤(ちばたかたね)が率いる1,000余騎は園城寺に押し寄せ、一番木戸、二番木戸と順に破って寺の中に切り込んでいき、三方からの足利軍の攻撃を受け続けながらも1時間ほど戦い続けた。

ところが、千葉軍は、横方向から攻め懸かってきた細川定禅(ほそかわじょうぜん)率いる四国勢6,000余騎に包囲されてしまった。そして、千葉高胤がついに討たれてしまい、その部下300余騎は、目前の敵を討たんと、駆け入り駆け入り戦ったが、150騎が討たれてしまい、戦闘を後陣に譲って退却。

朝廷軍二番手は、北畠顕家率いる2万余騎。メンバーを入れ替え、敵と入り乱れながら、奮戦。

北畠軍がひとしきり戦闘を行ってから馬の足を休めている間に、三番手の結城宗広(ゆうきむねひろ)、伊達(だて:福島県・伊達郡)、信夫(しのぶ:福島県・福島市)の勢力ら5,000余騎が、北畠軍に入れ替わり、敵に後ろを見せずに果敢に攻め戦う。

やがて、300余騎が討たれて、彼らは退却。それに乗じた細川軍は、6万余騎を二手に分けて、琵琶湖岸方面に進んでいく。

これを見た新田義貞は、3万余騎を一つに合わせて、強力な細川軍を撃破しにかかった。

細川軍は大軍勢とはいえ、北の方は、大津の家々が焼けているまっ最中なので通れない、東の方には琵琶湖があり、水深が深いのでそちらから回り込むのも不可能、わずか半町足らずの幅の細道を、順に列をなして進んでいくしかない。湖上からは、舟を浮かべて待ち構えていた和仁、堅田の者らが、矢を浴びせてくる。細川軍はついに、進退ままならない状態に陥ってしまった。

勢いづいた朝廷軍は、かさにかかって攻めたてた。

細川軍6万余騎は、500余騎を討たれ、園城寺へ退却。

額田、堀口、江田、大館ら700余騎が、逃げ行く細川軍に追いすがり、そのまま、寺の中までなだれ込んでいかんばかりの勢い。園城寺の衆徒500余人が、木戸の前に立ちふさがって命を捨てて闘い、それを阻む。

この抵抗にあって、朝廷軍は堀の際で100余人が討たれ、後続の軍勢をひたすら待つのみ、一歩も前進できなくなってしまった。その間に、衆徒らは木戸を閉ざし、堀の橋を引き上げてしまった。

これを見た脇屋義助は、大声で、

脇屋義助 まったくもう、フガイネェやつらだなぁ! あんな木戸たった一枚に止められちゃってぇ、これっぽっちの小さい拠点も攻め落とせんとはぁ! おぉい、栗生(くりふ)はいねぇのか! 篠塚(しのつか)はいねぇのか! さっさとあの木戸を、引き破っちまえぃ! 畑(はた)と亘理(わたり)は、どこにいるぅ! とっとと切り込めぇ!

これを聞いた、栗生左衛門(くりふさえもん)と、篠塚伊賀守(しのつかいがのかみ)は、馬から飛び降り、木戸を引き破ろうと、寺の塀めがけて走り寄った。

塀の前には深さ2丈ほどの堀があり、その両岸は、屏風を立てたように切り立っている。堀の上の橋板はみなはがされて、橋桁だけが残っている。いったいどうやって堀を超えたものかと、左右を鋭く見まわす二人。

栗生左衛門 おい、あれ見ろよ、あそこの塚の上に、大きな卒塔婆(そとば)が2本立ってるだろ? あれ、橋のかわりに使えねぇかな?

篠塚伊賀守 字を書いてある部分は3丈ほど、全長は5、6丈ほどってとこかぁ?

栗生左衛門 橋に使うには、もってこいだぜ。

篠塚伊賀守 卒塔婆を立つるも、橋を渡すも、その功徳は同じだろうて。

栗生左衛門 わはは、うめぇこと言いやがるな。よぉし、あれを引っこ抜いて橋にして、堀、渡ろうや。

二人は塚に走りより、卒塔婆を小脇に挟んで、エイヤッと引き抜いた。土中に5、6尺ほど堀って入れた大木だったので、周囲の土が1、2尺ほど崩れたが、卒塔婆は難なく抜けた。

二人は、二本の卒塔婆を軽々とかついで堀の端まで運び、そこに卒塔婆を突き立てながら、大見得を切ってみせる。

栗生左衛門 中国には、烏獲(おうかく)、樊噲(はんかい)、我が国には、和泉小次郎(いずみのこじろう)、浅井那三郎(あさいなさぶろう)、いずれも、並外れた大力のもんだったとかいうけんどよぉ、そいつらと、おれらでは、もう比べもんにもなんねぇんだよなぁ。

篠塚伊賀守 おれらの方が、はるかにパワフルなんだよぉ。

栗生左衛門 あれあれ、あいつら、口から出まかせ言いやがってぇ、なんてぇ、思ってる人間、そっちサイドにいるようだなぁ。

篠塚伊賀守 だったら、今から勝負して、ホントかウソか、確かめてみたら、いいんじゃぁねぇのぉ!

栗生と篠塚は、二本の卒塔婆を並べて、向かい岸へ倒し懸けた。卒塔婆の表面は平らになっており、二本並べてみると、あたかも四条、五条の橋のごとくである。

その側で一部始終を見ていた畑時能(はたときよし)と亘理新左衛門(わたりしんざえもん)が、栗生と篠塚に戯れて言わく、

畑時能 橋渡し担当の、栗生殿と篠塚殿、お役目ご苦労さま!

亘理新左衛門 戦の方は、わたしらにおまかせあれ。

畑と亘理は、卒塔婆の上をサラサラと走って堀を渡り、向う岸に設置されていた逆茂木を取り除き、木戸の脇に走り寄った。

木戸を守っている細川軍メンバーは、三方の狭間から槍や長刀を差し出して、二人を激しく突いたが、亘理は、それらの武器を16本も奪い取って、捨ててしまった。それを見た畑が叫ぶ、

畑時能 おい、亘理、そこをのけ! その塀、引き破って、味方の連中を戦いやすくしてやろう!

時能は、木戸の側に走りより、右足を振り上げて木戸の閂(かんぬき)のあたりを、2度、3度と蹴った。

木戸の閂 グワシッ、グワシッ、ビシビシビシ、グワシッ、メリメリメリメリ・・・。

時能の強烈な蹴りの前には、閂も無力。2本差してあった8、9寸ほどの閂の木が中ほどより折れ、木戸の扉もろとも、塀が一斉にドドッと倒れてしまい、木戸を守っていた500余人は、一斉に四方に退散。

かくして、一の木戸がついに破られた。

新田軍3万余騎は、寺の中に懸け入り、まず、合図の火の手を上げた。

これを見た延暦寺の衆徒2万余人は、如意が嶽越えの道から下山して新田軍に合流し、園城寺域内の谷々へ乱入し、堂舎仏閣に火を掛け、おめき叫んで攻めかかる。

猛火が東西より吹き掛かり、敵が南北に充満するのを見て、「もはやこれまで」と観念した園城寺の衆徒たちは、あるいは金堂に走り入って猛火の中に腹を切って伏し、あるいは経文を抱いて谷間を逃げながら転倒する。

その場所に長年住んでいる者でさえ、時には道に迷うもの、ましてや、園城寺にやって来たばかりの四国・中国方面からの細川軍メンバーらは、方角も分からず、煙にまかれて見とおしもきかないまま、ただただ迷うばかり、ここかしこの木の下、岩の陰に倒れ伏して、自害するしかない。

かくして、この半日ほどの合戦で、大津、松本、園城寺内での足利サイドの戦死者の数は、7,300余人となった。

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園城寺の金堂に安置の本尊・[生身の弥勒菩薩]を、何とかしなければ、という事で、園城寺のある衆徒が、その仏像から頭部だけを切り取り、薮の中に隠し置いた。ところがどうしたわけか、戦いの後、その仏像の頭が、討たれた武士たちの首に混じって置かれていた。

その仏像頭部の首の切れ目に血がついていたのだが、おそらくは延暦寺の者のしわざであろう、その側に札が立てられ、下記のような一首の和歌と詞書(ことばがき)きが書かれた。

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建武(けんむ)3年の春のころ、何となく世間が騒がしいので、自分が衆生を救済すべき時がついに来たのであろう、さっそく人間世界に降り立ち、成道(じょうどう)してブッダ(仏)となり、衆生救済の説法を開始せねば、と思い、園城寺の金堂の中へやってきた。

ところが、周囲には業火(ごうか)が盛んに燃え、修羅の闘諍(しゅらのとうじょう)の声が四方に響いているではないか。

これはいったい何事かと、さっぱりわけも分からずにいる所に、仏地坊(ぶっちぼう)の某とやらが堂内に走り入ってきて、なんと、ノコギリでもって、我が首を切りはじめるではないか! いったいなんで、自分がこんな事をされなければならないのか!

「阿逸多(アイッタ)!」と叫んだのだが(注1)、どうにも、その行為を止めることができない。

耐えかねる悲しみの中に、思いつづった歌一首、

 わが敵は 山法師(やまほうし)やと 思ぉてたが 寺法師(てらほうし)に首 切られるとはなぁ

(原文)山(やま)を我(わが) 敵とはいかで 思いけん 寺法師にぞ 頸(くび)を切(きら)るる(注2)
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(訳者注1)弥勒菩薩の別名。

(訳者注2)「山法師」は延暦寺の僧兵、「寺法師」は園城寺の僧兵を指している。
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以前に寺が炎上した時に、園城寺の衆徒が大事な物として秘匿した寺の鐘・九乳の鳧鐘(きゅうにゅうのふしょう)は、今回はそれに心を向ける者が無かったので、空しく焼けて地に落ちてしまった。

この鐘は、その昔、竜宮城から伝えられたという宝物なのである。

承平(しょうへい)年間に、俵藤太・藤原秀郷(たわらとうた・ふじわらのひでさと:注3)という人がいた。

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(訳者注3)歴史上実在の人である。
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ある時、秀郷は一人で瀬田(せた)の橋(滋賀県・大津市)を渡ろうとした。

ところが、橋の上に、長さ20丈ほどの大蛇が横たわっている。両の眼は輝いて、天に太陽を2個かけたがごとく、頭上に並んだ角は、冬枯れの森の梢のように尖(するど)い。鋼鉄の牙が上下に生え違い、紅の舌は炎を吐くがごとくである。

常人であれば、これを見て、目もくれ魂も消え入り、すぐに地上に倒れてしまうであろう。しかし、秀郷は、天下第一の大剛(だいごう)の人であったから、全く動ずることもなく、その大蛇の背中の上を荒らかに踏み、静かにその上を超えて橋を渡っていった。

大蛇は全く驚きもせず、秀郷も後ろを振り返らないまま、先に進んで行った。

橋から遠い所まで来た時、みずぼらしい感じの一人の小男が忽然と、秀郷の前に現れた。

男 なぁ、あんた。わしが、あそこの橋の下に住み始めてから、2000年余りになるんやけどな、橋を行き来するいろんな人を見てきたけど、あんたほどの剛のお人は、初めてや。

藤原秀郷 ・・・。

男 実はなぁ、わしには、土地をめぐって争い続けてきた長年の仇がおってなぁ、そいつに、さんざん悩まされてるんやわ。あんたが、そいつをやっつけてくれたら、ほんま、嬉しいなぁと思うんやけど、どうやろか?

秀郷は即座に、

藤原秀郷 よし、わかった。やっつけてやるぜぃ。

男 やったぁ!

秀郷は、男を先に歩かせて、瀬田の方へ引き返した。男は、秀郷を琵琶湖の湖水の中へ導いた。

波をわけて湖上を進むこと50余町、やがて一つの楼門が見えてきた。それを開いて中へ入ると、内部には瑠璃(るり)の砂厚く敷かれ、玉の石畳暖かく、落花が乱れ散っている。朱楼紫殿に玉の欄干、金の軒飾りに銀の柱。いまだかつて目にも耳にもしたことがないような壮観奇麗。

男は、その殿内に入るやいなや、あっという間に衣冠を正し、秀郷を客席に案内した。男の左右には護衛の者らが、前後には花のように美しく着飾った美女が並び、美麗を極めた様である。

酒宴に入って数時間が経過し、夜も更けてきた頃、みなが騒ぎはじめた。

メンバーA いよいよ、敵が押しよせてくる時刻になりましたぁ!

メンバー一同 わぁ、大変、さぁ、大変、わぁわぁわぁわぁ・・・。

秀郷は、身から放さずに持っている5人張の弓に弦をかけて、口で湿らし、長さ15束2伏の矢を3本、用意した。その矢は、生えてから3年たった節の間隔の短い竹から作られたもので、鏃の心棒が筈本まで打ち通しになっている。

秀郷は、敵の来襲を、今か今かと待ち構えた。

夜半を過ぎた頃に、風雨が強まり、稲妻がひっきりなしに、光りはじめた。

そして、比良山(ひらさん)の方から、松明2、3千本を左右2列に従えた、島のように巨大な何物かが、接近してきた。その姿をよく見てみると、2列の松明はみな、怪物の左右の手の上にある。

怪物 ウィーンウィーン、キシキシキシキシ、ウィーンウィーン、キシキシキシキシ・・・。

藤原秀郷 (内心)あれは、百足(むかで)の化け物だなぁ。よぉし、十分に引き付けてから、この矢で・・・。

怪物 グィーングィーン、ギャシギャシギャシギャシ、グィーングィーン、ギャシギャシギャシギャシ・・・。

藤原秀郷 (内心)もっとこっちまで来い、それ、もうちょっと、もうちょっと。(弓を引きしぼりながら)

弓 ギリギリギリ・・・。

怪物 ギャワーンギャワーン、ギョシギョシギョシギョシ、ギャワーンギャワーン、ギョシギョシギョシギョシ・・・。

藤原秀郷 (怪物の眉間のド真ん中を狙って)エヤァ!

弓 ビュン!

矢 ヒューーー、カキーン!

怪物 グワーングワーン、ギャリギャリギャリギャリ、グワーングワーン、ギャリギャリギャリギャリ・・・。

鋼鉄に対して射たかのように、矢は、はねかえされてしまった。

藤原秀郷 えぇい、もう! よぉし、二本目の矢を受けて見ろぃ!エェイ!(1本目で狙ったのと同じ所をめがけて、矢を射る)

弓 ビュン!

矢 ヒューーー、カキーン!

またもや、矢は、はねかえされてしまった!

藤原秀郷 (内心)2本失敗、残るは1本。どうすりゃいい? ウーン・・・よぉし!

秀郷は、3本目の矢の先にツバを吐き掛けてから、

藤原秀郷 エヤァ!(2本目で狙ったのと同じ所をめがけて、矢を射る)

弓 ビュイン!

矢 ヒュゥーーーーーン・・・ズブァァッック!

3本目の矢に毒を塗ってあったからであろうか、あるいは、同じ所を3度射たからであろうか、この矢は、怪物の眉間の真ん中に突き刺さり、矢羽根が喉の下から見えるほどにまで、怪物の頭部を額から喉まで貫通した。

怪物 ドドドドガァーーーン!

2、 3千本燃えていた松明の光はたちまち消え、島のような巨体が倒れる音が大地に響きわたった。

秀郷は、怪物の側へ寄って観察した。

藤原秀郷 思った通り、巨大百足だったな。

これを見て、例の男は大喜び。秀郷をさまざまに手厚くもてなした上、太刀一振、巻絹一織、鎧一領、首を結わえた米俵一つ、赤銅(しゃくどう)の撞鐘(つきがね)1口を、秀郷に贈っていわく、

男 あなたの子孫の中から、将軍位に就く人が大勢出れるように、今後、私がとりはからいましょう。

京都に帰還の後、秀郷が、男からの贈り物を調べてみると、不思議不思議、幾ら切り取って使っても、尽きることがない巻絹、いくら取り出しても中味が一向に減らない米俵。

というわけで、秀郷の家は財宝に満ち、衣装は身に余るほどになった。ゆえに、彼は人々から、「俵藤太」と呼ばれるようになったのである。

藤原秀郷 (内心)この巻絹と米俵は、財を産んでくれる宝だからな、蔵の中に大事にしまっとこう。

藤原秀郷 (内心)で、鐘は・・・鐘はやっぱし、お寺にある方がいいだろう。

というわけで、鐘は園城寺に寄進された。それが、「九乳の鳧鐘」なのである。

文保(ぶんぽう)2年に園城寺が炎上した時、延暦寺の衆徒がこの鐘を奪い取り、比叡山に持っていってしまった。

彼らは朝夕、それをついてみたが、鐘は全く鳴らない。

延暦寺衆徒B うんともすんとも鳴らんやないかいな、この鐘はぁ。

延暦寺衆徒C なんというても、園城寺にあった鐘やからなぁ、イジでも、比叡山の中では鳴ったるもんかいっちゅう事やろか。

延暦寺衆徒D なにぃ!

延暦寺衆徒E よぁし、そっちがそういうツモリやったら、こっちかてゼッタイに引き下がらへんでぇ。なんとしてでも、鳴らしてみせたるわい!

延暦寺の衆徒らもイジになり、巨大な撞木(しゅもく)を作って、2、30人がかりで、割れよとばかりに、この鐘をついてみた。

鐘はついに鳴った、鯨の吠えるような音で!

鐘 ミィデラェィクーーーーン・・・。(注4)

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(訳者注4)三井寺(みいでら)は、園城寺の別称。
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延暦寺衆徒B にっくたらしい鐘やぁ!

延暦寺衆徒C こんな鐘、壊してしまおうや!

彼らは、無動寺の上からこの鐘を落とした。高さ数千丈の岩山を転げ落ちていくうちに、この鐘はミジンに砕け散ってしまった。

延暦寺衆徒D こないなったらこの鐘、もう何の役にも立たへん、破片集めて園城寺に返してしまおうや。

延暦寺衆徒一同 異議なし!

鐘の破片が園城寺に帰ってきてから後のある時、1尺ほどの小蛇が出てきて、尻尾でこの破片を叩いた。

その翌朝、見ると、破片が合わさって元の鐘になっていた。傷の跡など全く見当たらない。

かくして、この鐘は今に至るまで、園城寺にあり、その音を聞く人の心中には、無明の世界に生きる衆生をお救いくださる弥勒菩薩の出現を待ち望む念が、フツフツと沸き上がるのだという。まさに、末世のこの世における一大不可思議、奇特の鐘と言うべきではないか。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


2017年10月15日 (日)

太平記 現代語訳 15-2 北畠顕家の参戦

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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建武2年(1335)11月に、新田義貞(にったよしさだ)が足利追討軍の大将に任命されて関東へ向かった際に、奥州(おうしゅう:東北地方東部)の国司・北畠顕家(きたばたけあきいえ)に対しても、「新田の関東到着にタイミングをあわせて、そちらからも、足利軍を攻撃せよ。」との命令が、朝廷から発せられていた。

しかし、大軍の出動というものはそれほどたやすい事ではなく、その準備はなかなか、スケジュール通りには進捗しなかった。

奥州を進発した後も、途上の様々な場所での戦闘にどんどん日数が経過し、あせる顕家の心とは裏腹に、そこかしこへ逗留した末に、北畠軍は、ようやく箱根(はこね:神奈川県・足柄下郡・箱根町)に到着。その時すでに、新田と足利の戦いは、勝敗の決着がついてしまっていた。

それから程なく、北畠軍は鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ入り、「箱根・竹下の戦いに勝利の後、足利尊氏はすでに京都へ向かって出発」との情報を得た。

ならば、その後を追って京都へ進もう、ということになり、夜を日に継いで、京都への道を急いだ。

やがて、越後(新潟県)、上野(こうずけ:群馬県)、常陸(ひたち:茨城県)、下野(しもつけ:栃木県)に残っていた新田の一族や千葉、宇都宮の家臣の者らが、北畠軍の京都遠征の話を聞きつけて、ここかしこからそれに参加してきて、北畠軍は短期間に、勢力5万余騎にまで膨張した。

鎌倉から西には抵抗する者もなく、彼らは昼夜兼行で馬を早め、1月12日に、近江(おうみ:滋賀県)の愛知川宿(えちがわじゅく:滋賀県・愛知郡・愛荘町)に到着した。

その日、北畠軍に所属の大館幸氏(おおたちまさうじ)は、未だ幼少の佐々木氏頼(ささきうじより)がたてもこっている観音寺城(かんのんじじょう:滋賀県・近江八幡市)を攻め落とし、城兵500余人を討ちとった。

その翌日、顕家は、早馬を坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ送ってそれを報告。これを聞いた天皇をはじめ、敗軍の士卒は皆ことごとく喜び、朝廷軍全体の士気が回復した。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)はすぐに、道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)に命じて、琵琶湖上に船700隻を用意させた。

北畠軍メンバーらは、志那浜(しなのはま:滋賀県・草津市)からその船に乗り込み、その日のうちに、坂本へたどり着いた。

宇都宮一族と紀清両党(きせいりょうとう)の者たち500余騎も、主・宇都宮公綱(うつのみやきんつな)からの招集に応じて、北畠軍と共に志那浜までやってきたであったが、公綱は足利サイドについてしまった、との情報を得て、離脱の意志表示を行い、あいさつして北畠軍から分離し、芋洗(いもあらい:京都府・久世郡・久御山町)を経て、京都へ向かった。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年10月14日 (土)

太平記 現代語訳 15-1 足利尊氏、園城寺を延暦寺に対抗させるために、策をめぐらす

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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 「延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)が、天皇に対する忠誠を示し、天皇を擁護しつつ、北陸地方、東北地方からの朝廷側援軍の到着を待っている」

との情報を得た足利サイドでは、新田義貞の軍勢が増強される前に坂本を攻めよう、ということになり、細川定禅(ほそかわじょうぜん)、細川頼春(ほそかわよりはる)、細川顕氏(ほそかわあきうじ)に6万余騎の軍勢を率いて、園城寺(おんじょうじ:滋賀県大津市)へ向かわせた。

園城寺と延暦寺は、これまで常に敵対関係にあったから、こちらに味方してくれるであろう、と考えたのである。

軍勢派遣に合わせて、以下のような内容の将軍令(注1)が、園城寺に対して発行された、

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(訳者注1)原文では、「御教書」。
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 「園城寺の衆徒諸君が、わが方に忠節を致してくれるならば、かねてからの貴寺の念願の戒壇(かいだん:注2)設立運動を大いに支援し、その実現に向けて、後押ししたいと考えている。」

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(訳者注2)仏教の「戒」を授ける道場。
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この、[園城寺・三昧耶(さまや)戒壇・設立]は、かねてからの懸案事項であった。

園城寺は、朝廷からの尊崇を得ていたので、戒壇設立の認可を天皇より頂き、鎌倉幕府(かまくらばくふ)も、それを強力にバックアップした。

しかし、延暦寺はこの、[園城寺戒壇設立]に対して猛反発し、強訴(ごうそ)を恣(ほしいまま)にして、「戒壇設立・絶対阻止!」の姿勢を貫いた。それゆえに、両寺の間に紛争が起こり、戦火にまみれることが、たび重なった。

いったいなぜ、延暦寺はこれほどまでに、この問題にこだわったのか、それにはそれなりのわけがある。

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園城寺の開祖(かいそ)・智証大師(ちしょうだいし)円珍(えんちん)は、もとはといえば、延暦寺の開祖・伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(さいちょう)の高弟である。

円珍は、顕密(けんみつ)双方の仏教に通じた大徳の人にして、智行兼備(ちぎょうけんび:注3)の権者(ごんじゃ:注4)であった。

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(訳者注3)智恵と修行力を兼ね備えた。

(訳者注4)仏が、かりに人間の姿を借りて、世に現れた存在。
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ところが、最澄の入滅の後に、円珍の弟子たちと、天台座主(てんだいざす:注5)・慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)の弟子たちとの間に、ちょっとした宗教論争が起こり、やがてそれが、両派の間の確執にまで発展してしまった。

そしてついに、円珍派の僧たちは、比叡山300房の弟子たちを率いて、園城寺に移ってしまったのである。

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(訳者注5)日本の天台宗の最高の地位。延暦寺は日本の天台宗の中心だから[延暦寺の最高位の僧=天台座主]ということになる。
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円珍に関しては、以下のような話がある:

円珍は、教待和尚(きょうたいおしょう)より、ある仏像を授かった。その像は、教待和尚の160年間の祈願の結果、世に現れた、仏の化身・弥勒菩薩(みろくぼさつ)の仏像であるという。

円珍は、この仏像をもって、三密(さんみつ)瑜伽(ゆか)の道場を構え、釈尊がその御一生にわたって説き続けられた教えを説法する法座を創始した。

その後、仁寿(じゅんじゅ)3年、円珍は、仏法を求めるために、遣唐使の一員となって中国へ渡った。

中国への渡海の途中、暴風がにわかに吹き荒れ、船が今にも転覆しそうな状態となった。

円珍は舷側に立ち、十方を拝礼し、誠を込めて祈りを捧げた。

すると、仏法を護持する不動明王(ふどうみょうおう)が、金色に輝く姿を現して、船の舳先に降り立った。さらに、新羅大明神(しんらだいみょうじん)が、船の艫(とも)のあたりに姿を現し、自ら船の舵をとった。

これら神仏の助けにより、円珍の乗った船は無事、中国の明州津(みょうじゅうのつ)に着いた。

唐に滞在中の7年間、円珍は、寝食を忘れて、顕教と密教の奥義を極めつくした。

その後、天安3年に帰国した。

その後、円珍の法流は急激な発展を遂げることとなり、その流れを継ぐ園城寺は、ついには、「国家の柱石、国民の頼り所」と目されるまでになり、「四大寺(注6)」中の一寺として、朝廷主催の仏教討論会への招聘や、皇室守護の祈祷依頼などにおいて、一頭地を抜く存在となった。

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(訳者注6)東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺。
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後朱雀(ごすざく)天皇の御治世の時、園城寺の明尊僧正(みょうそんそうじょう)は考えた、

明尊 (内心)延暦寺には、大乗戒(だいじょうかい)の戒壇がある。奈良(なら)の大寺院には、小乗戒(しょうじょうかい)の戒壇がある。ならば、わが園城寺にも、三昧耶(さまや)の戒壇があったかて、えぇやないか!

そこで、明尊は朝廷に対して、

 「なにとぞ、園城寺に対して、戒壇設立を、認可下さいませ」

と、しきりに嘆願した。

ところが、それを聞いた延暦寺の僧たちは、

 「そのようなこと、決して許されるべきでは、ない!」

と、猛反発。

朝廷に対して、延暦寺側は、以下のように主張した。

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貞観(じょうがん)6年12月5日づけの、園城寺に縁の深い大友皇子(おおともおうじ:注7)の子孫・大友夜須良麿(おおとものやすらまろ)ら一族の連名での書状には、以下のようにあります:


 『今後末永く、園城寺を延暦寺の別院(べついん:注8)とし、円珍をそこの住職にしてくだいますように』と、お願いしておりましたが、早々に朝廷よりのお恵みをいただき、我々の願いをかなえていただけました。
 『担当官庁からの太政官(だいじょうかん)への要請のごとく、園城寺を延暦寺の別院とせよ』との、朝廷のご決定があったことを聞き、私・大友夜須良麿とその一族は、憂いと嘆息の中から救われた思いがいたしております。 
 今後、園城寺は、天台宗の別院として、天長地久の御願をひたすら祈り、天下泰平に向けて、さらなる貢献をしていくことでしょう。

そして、貞観8年5月14日、朝廷より、「園城寺を天台宗の別院とする」との、公式発表が行われたのであります。

さらに、貞観9年10月3日づけの円珍が記した文書には、以下のようにあります、

 「円珍の門弟は、奈良の寺院の小乗戒を受けるべからず。必ず、延暦寺の大乗戒の戒壇において、大乗菩薩戒(だいじょうぼさつかい)を受けるべし」。

以上に述べた事により、延暦寺と園城寺との関係において、どちらが本で、どちらが末であるかは、もう明らかではありませんか。園城寺はあくまでも、延暦寺の別院、末寺に過ぎないのであります。

師弟関係(注9)から考えても、両寺が対等でないことは、もう言うまでもない事です。

よって、そのような寺に対して、戒壇の設立を認可されることが無きように、なにとぞ、お願いいたします。
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(訳者注7)天智天皇の皇子。天皇の没後、天皇の弟・大海皇子(後の天武天皇)と皇位継承をめぐって戦い、破れた。(壬申の乱)。

(訳者注8)本寺より離れて別に立てられた支部寺院。

(訳者注9)円珍は、延暦寺開祖・最澄の弟子であるから。
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このように、過去の記録に基づいての理論的な主張をぶつけられて、天皇は悩んだ。

園城寺の戒壇設立を認可すべきか、すべきでないか・・・悩みぬいた末に、天皇は、この問題は自分のような凡夫(ぼんぷ)に判断が下せるようなものではないから、神仏に決定を委ねようと考えた。

天皇は、神仏に対して是非判断を願う旨の祈願文を自らしたため、比叡山延暦寺の根本中堂(こんぽんちゅうどう)に奉納させた。その内容は以下のごとし:

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園城寺の戒壇設立を認可しても国家に危険が及ばない、というのであれば、どうか、その旨をお示し下さいませ。逆に、認可、大いに問題あり、というのであれば、そのようにお示し下さいませ。
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この祈願文の奉納後7日目の夜、天皇は不思議な夢を見た。

無動寺(むどうじ)の慶命僧正(きょうみょうそうじょう)が、一通の文書を天皇の御前に差し出していわく、

慶命 私は、陛下が胎内におられる時から、君主の地位にあられる今日に至るまで、皇位の長久を祈願し続けてきました。しかしながら、陛下が園城寺の戒壇設立を認可されましたならば、私のこの祈願は空しくなってしまいます。

次の夜、再び、慶命は天皇の夢枕に現われた。紫宸殿(ししんでん)に参内してきた慶命は、大いに怒っているようである。

慶命 昨日、お願いの文書を陛下に奉って、あれほど申し上げたのに、陛下は全く気にも止めておられないようですね。どうしても、園城寺の戒壇設立をお許しあるとならば、これまでは陛下のためにと祈ってきました私のこの祈念の波形が、怨念のそれに変わってしまいますよ。

さらに、次の夜の夢では、弓矢を帯した一人の老人が宮中にやってきて、いわく、

老人 我は、天台宗を擁護する赤山大明神(せきさんだいみょうじん)である。園城寺に戒壇を設立せよと言うておる者に向けて、矢の一本でも射てやろうと思い、御所までやってきた。

このような、毎夜の悪夢に、天皇も臣下も恐怖を覚え、ついに、園城寺戒壇設立認可の願いは却下され、延暦寺の言い分、まことにもっともなり、という事に決着してしまった。

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それからはるか後の世、白河(しらかわ)天皇の御治世の時、園城寺に、大江匡房(おおえただふさ)の兄の頼豪僧都(らいごうそうず)という身分の高い人がいた。

頼豪は、朝廷より皇子誕生の祈祷を依頼され、勅命を承り、肝胆(かんたん)を砕いて一心に祈祷、彼の徳力はたちまち効力を示現(じげん)して、承保(じょうほう)1年12月16日、めでたく皇子が誕生した。白河天皇は感激の余り、頼豪に対して、

白河天皇 祈祷の褒美、何なりと言うてみ、望み通りに取らすから。

頼豪 ははっ、ありがたきお言葉! では、私のかねてからの念願を申し上げます。官位も禄も何も望みません。園城寺に戒壇を設立、私の望みはただこれだけです。なにとぞ、なにとぞ、戒壇設立のご認可を、お願い申し上げます!

白河天皇 よっしゃ、分かった!

これを聞いた延暦寺はさっそく、「園城寺戒壇設立・絶対反対!」の嘆願書を朝廷に提出し、過去の歴史的経緯を明らかにした上で、認可を取り下げられるように、朝廷に訴えた。

しかし朝廷は、「綸言(りんげん)再びくつがえらず」として、それに取り合おうとしない。

怒った延暦寺の面々は朝廷への抗議の声高く、比叡山全山の道場における講義の一斉休講、全ての社の門戸を閉ざして、朝廷護持の祈願停止のストライキに、突入。

朝廷もこれを無視するわけにはいかず、仕方なく、園城寺戒壇設立の天皇よりの認可が覆されるに至った。

今度は、頼豪の方が怒り心頭に。彼は百日間、髪も剃らず爪も切らず、護摩壇の煙にすすけて黒くなりながら、瞋恚(しんい)の炎にわが骨を焦がし、一心に祈祷。

頼豪 願わくば、我、この身このまま、大魔王に化身し、天皇の身辺に災いを与え、延暦寺の仏法を滅亡せしめん!

祈祷を始めてから21日目、彼は、護摩壇上に命終わった。

その後、彼の怨霊は、邪毒を朝廷の上に投げかけ、彼の祈祷の力によって誕生した皇子は、母の膝の上から未だに離れない幼少のうちに死去してしまった。

苦悩にうちひしがれる天皇・・・。

園城寺の肩を持つことにより得られるメリットは、園城寺の祈祷の力である。一方、そのデメリットは、延暦寺からの強硬な反発である。

しかし今、メリットよりもデメリットの方が大きいということが、明らかになった。

かくなるうえは、延暦寺側に権威アピールの機会を与え、天皇位の後継者を得るのが得策、ということになり、朝廷は、今度は延暦寺から、天台座主・良信大僧正(りょうしんだいそうじょう)を招聘して、皇子誕生の祈祷を行わせた。

その祈祷の間、様々に不思議な事が起こり、承暦(しょうりゃく)3年7月9日、皇子が誕生。その後、延暦寺は常にこの皇子に対して護持の祈りを捧げたので、頼豪の怨霊もこれに接近できなかったのであろう、この皇子は無事成長し、めでたく天皇位を継承された。退位の後、堀川院とお呼びしたのが、この二番目の皇子である。

その後、頼豪の亡霊は、石の身体と鋼鉄の牙を持つ8万4千匹のネズミに変身し、比叡山に登り、延暦寺の仏像や経巻を、噛み破りはじめた。

延暦寺側は、これをどうにも防ぎようがなく、ついに一社を建立して、頼豪をその神として崇め、その怨念を鎮めた。これが、鼠祠(ねずみほこら)である。

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それ以降、園城寺は、戒壇設立を何としてでも朝廷に認可させようと、さらに意地を通し、延暦寺も、これまでしてきたように、強訴をもって、これを撤回させようと理不尽を重ねるようになった。

承暦年間から文保(ぶんほう)2年の間に、この戒壇設立問題をめぐって、園城寺に火がかけられること、7度に及んだ。

そのような事があって、最近は、園城寺側も戒壇設立を断念、かえってそれが、幸いしたのであろう、園城寺は繁栄し、仏法僧の三宝も安泰の日々を送ってきた。

それなのに、足利尊氏は、「園城寺の戒壇設立認可に向けて、応援しよう」などと言って、沈静していたこの問題に、またまた火をつけてしまったのである。これを聞いた世間の人々は口々に、批判する、

世間の人A まぁもう、なんちゅうことを・・・園城寺の衆徒の歓心を買いたい一心で、「戒壇設立認可支援」の将軍令、出してしまわはったがなぁ。

世間の人B 延暦寺の衆徒ら、またまた、怒っちゃうぞぉ。

世間の人C そのへんの事情っちゅうもんを、もうちょっと、よぉ考えてからにせんと、いかんわなぁ。

世間の人D あまりにも、粗忽(そこつ)な決定だで。

世間の人E いや、ほんと。まさに、仏教を障害する天魔のしわざ、仏法滅亡の原因となってしまうような政策だよ、これはぁ。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年10月13日 (金)

太平記 現代語訳 14-11 御醍醐天皇、延暦寺を拠点とし、首都奪還を目指す

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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坂本(さかもと:滋賀県・大津市)に到着した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、大宮(おおみや)社の彼岸所(ひがんしょ:注1)に入った。しかし、頼みの延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)からはいまだに一人も、天皇のもとに馳せ参じてくる者がいない。

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(訳者注1)仏事の際の、僧の控え所。
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後醍醐天皇 (内心)延暦寺のもん(者)らも、足利側に傾いてしまいよったんかぁ・・・あー、いったい、どないしたらえぇんやぁ!(苦悩に沈む)

そこへ、藤本房英憲(ふじもとぼうえいけん)僧都(そうず)がやってきた。

英憲は、何も言わずに涙を流し、縁の所にかしこまっている。それを見た後醍醐天皇は、御簾の中から、

後醍醐天皇 名はなんという?

英憲 はい、藤本房の僧都、名前は英憲であります。

後醍醐天皇 ・・・。

英憲 ・・・。

後醍醐天皇 硯(すずり)ないか?

英憲 ははっ、ただいま!

英憲は、すぐに硯を取り寄せて、天皇の前に置いた。

後醍醐天皇は自筆で、願書をしたためた。

後醍醐天皇 この願書をな、大宮の神殿に奉納せい。

英憲 ははっ!

英憲は、かしこまって願書を受け取り、日吉社右方権禰宜(ひえしゃみぎのかたごんのねぎ)の行親(ゆきちか)に命じて、奉納させた。

その後、円住院(えんじゅういん)の定宗(じょうしゅう)法印(ほういん)が、同宿の者500余人を率いて、天皇のもとにやってきた。

天皇は大喜びで、定宗を縁の所まで招いた。

天皇の前に跪いて、定宗は、

定宗 桓武天皇(かんむてんのう)の御治世の時、伝教大師(でんぎょうだいし)が、わが比叡山・延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を開基、皇室鎮護(こうしつちんご)の伽藍(がらん)を山中に建立されてよりこのかた、朝廷に何か喜ばしい事があった時には、延暦寺一山を挙げて合掌して喜び、比叡山に愁いある日には、朝廷の方々はすべて我々の事を心配してくださる、というような事で、今日まで参りました。

後醍醐天皇 うん。

定宗 宗教と政治は、ともに重要なものでありまして、国家にとっては車の両輪とも言うべきもの、それは誰もが知っていることです。

定宗 逆臣が朝廷を危機に陥れようとしている今この時に、もったいなくも万乗の聖主であられます陛下が、わが比叡山をお頼みあって御臨幸下さった、という事を、軽く考えるような衆徒は、一人もいないでしょう。

定宗 不肖(ふしょう)定宗、陛下への忠誠を、ここにお誓い申し上げました。かくなる上は、比叡山3,000人の衆徒中、陛下に対して二心(ふたごころ)を持つものは皆無と、どうぞ、お考え下さいませ!

後醍醐天皇 うん!(深くうなずく)。

定宗 陛下に付き添ってこちらに来られた皆様も、きっと、窮屈な思いをしておられるでしょうね。まずは、それぞれのお方らの宿所を、決めるといたしましょうか。

このようにして、定宗の命により、21か所の彼岸所の他、坂本、戸津(とつ:滋賀県・大津市)、比叡辻(ひえいつじ:滋賀県・大津市)のあたりの坊や家に札を打って、天皇に従ってやってきたメンバーらの宿所とした。

その後、南岸坊(なんがんぼう:滋賀県・大津市)の僧都・道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)が、同宿の者1,000余人を率いて、天皇のもとにやってきた。

祐覚は、十禅師(じゅうぜんじ)に登って衆徒を集め、今後のことを検討し、その議決を、延暦寺の各所へ伝えた。その結果、甲冑を帯した衆徒多数が、天皇のもとに馳せ参じてきた。

まずは兵糧が必要、ということで、銭6万貫、米7千石を、波止土濃(はしどの)川の前に積み、祐覚がこれを各軍勢に配分した。

 「医王(いおう:注2)も山王(さんおう:注3)も、まだまだ我らを見捨ててはおられないぞ!」

敗戦続きで落ち込む一方であった朝廷軍の士気は、これを契機に一気に回復した。

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(訳者注2)根元中堂(こんぽんちゅうどう)に安置されている、薬師如来(やくしにょらい)。

(訳者注3)比叡山の守護神である日吉山王権現(ひえさんのうごんげん)。
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太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

2017年10月12日 (木)

太平記 現代語訳 14-10 足利尊氏、京都へ

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)

この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。

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翌1月11日、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、80万騎を率いて京都へ入った。

 「問題なく京都へ入れたら、持明院統(じみょういんとう)の皇族に属する後伏見上皇(ごふしみじょうこう)、あるいは、親王らの中の一人に、天皇に即位していただいた上で、武士の政権を樹立しよう。」

と、予め計画していたのだが、かんじんの持明院統の皇族たちは、花園(はなぞの)上皇、親王、元皇太子・康人(やすひと)親王ら一人として京都に残ってはおらず、みな、延暦寺に避難してしまっていた。

足利尊氏 (内心)さてさて、困った・・・。天皇位についてもらうべきお方が、一人も京都に残っておられないとは・・・まさか、この自分が天下の政治を自ら行う、というわけにもいかんしなぁ・・・天下の事、いかがすべきか・・・。

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結城親光(ゆうきちかみつ)は、後醍醐天皇から、二(ふた)ごころ無き忠実な者、と、深く信頼され、陛下よりの御恩顧は格別であった。天皇と行動を共にしようと、一度は思ったが、

結城親光 (内心)このままじゃぁ、どうしようもない。でも、尊氏を討ち取れたら、流れが変わるだろう。

ということで、親光は、わざと京都に止まり、ある禅僧を仲介に立てて、足利尊氏に降伏の意を伝えた。

足利尊氏 (内心)ふーん、投降したいと言ってるのか、あの結城親光がねぇ・・・いやいや、そりゃぁ決して、本心からのものではないだろう。何か企んで、私をだまそうとしてるんだろう。

足利尊氏 (内心)・・・うん、ま、でも・・・話だけは一応、聞いてみるとしようか。

ということで、大友氏泰(おおともうじやす)が使者に立てられ、結城親光と、揚梅東洞院(やまももひがしのとういん)で面会することになった。

氏泰は、元より思慮の足りない人、親光に会うなりいきなり、

大友氏泰 (荒々しく)おまえが、「降参する」ちゅうてきたもんで、将軍様は、わしを使者に任命されてな、くわしい事情ばぁ聞いてこい、との御命令や。ばってん、降伏して出てくる者には、それなりの礼儀作法ちゅうもんがあるだろうが! さぁ、早いとこ、武器ばぁ、みなこっちによこせ!

結城親光 (内心)尊氏め、おれの心中を察して、わしを討つために、この男をさし向けてきたんだな! よぉし。

結城親光 使者がそのように言われるんだから、武器はみな、お渡ししなきゃな。

言うやいなや、親光は、3尺8寸の太刀を抜き、氏泰に走り掛かり、兜のシコロから首の根元のへんまで、きっさき5寸ほど打ち込んだ。

氏泰は、とっさに太刀を抜いて親光の攻撃を受け止めようとしたが、先制攻撃を受けて目がくらんでしまったのであろうか、太刀を1尺ほど抜きながらも、馬から落ちて死んでしまった。

大友家の若党300余騎は、結城親光ら17人を包囲し、一人残らず討ち取ろうと、襲いかかっていった。

親光の郎等たちは、もとより主と共に討死にせんと、覚悟定めてやってきた者ばかり。中途半端な戦いなど、してなるものかと、大友側の者と、引き組んでは差し違え、差し違え、一歩も引かず、14人すべてその場で、共に死んでいった。

足利サイドも朝廷サイドも、これを聞いてみな口々に、

 「立派なツワモノたちの命が、あっという間に失われていってしまったとは、実に惜しい事。」

と、褒めたたえた。

太平記 現代語訳 インデックス3 (その中に [主要人物・登場箇所リスト]へのリンクもあり)


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