音楽制作

2017年8月22日 (火)

新作音楽作品の発表 名前はまだ無い・第2番

[クレオフーガ](音楽投稿サイト)に、自らが作曲した曲(ピアノ独奏曲)をアップロードしました。曲の題名は、

 This is not titled yet, No.2, Op.45
   (名前はまだ無い・第2番)

です。

この曲をお聴きになりたい方は、下記で聴いていただけます。(コンテンツ格納先のサイト運営・クレオフーガのサイトにアクセスして)。

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下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲たち(クレオフーガ・サイト中にあり)

2017年7月15日 (土)

新作音楽作品の発表 名前はまだ無い・第1番

[クレオフーガ](音楽投稿サイト)に、自らが作曲した曲(ピアノ独奏曲)をアップロードしました。曲の題名は、

 This is not titled yet, No.1, Op.44
   (名前はまだ無い・第1番)

です。

この曲をお聴きになりたい方は、下記で聴いていただけます。

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私の自作曲たち(クレオフーガ・サイト中にあり)

2017年6月22日 (木)

新作音楽作品の発表 言葉にならない想い・第3番

[クレオフーガ](音楽投稿サイト)に、自らが作曲した曲(ピアノ独奏曲)をアップロードしました。曲の題名は、

 I can't put the thought into words well No.3, Op.43
   (言葉にならない想い・第3番, Op.43)

です。

この曲をお聴きになりたい方は、下記で聴いていただけます。波形図の上の場所を、マウスや指で操作することにより、聴きたいと思う場所から聴きはじめる、というような事も、(コンテンツ格納先のサイト運営・クレオフーガが)可能としてくれているようです。

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下記にアクセスしていただくと、私が作曲した他の音楽作品を、聴いていただくことも可能です。

私の自作曲たち(クレオフーガ・サイト中にあり)

2017年5月13日 (土)

音楽制作のおもいで 水面上に水滴が落ち続ける, 作品3

1.この作品の発想と完成

[音楽制作のおもいで 車輪がまわる, 作品2]の中に、できあがった[音楽作品2]を、いかにして世に送り出すか、ということについて、思案を重ねている中に、またまた、新たな作品ができた、という趣旨の事を書いたが、その「新たな作品」が、この、『水面上に水滴が落ち続ける, 作品3』である。

当時の制作メモを見ると、最初の部分を発想したのは、「2014年2月19日 6:0」となっているので、おそらく、[作品2]の時と同様、これも寝床の中で発想したのであろう。

『車輪がまわる, 作品2』の方の制作メモには、「2014年2月17日に、序奏部の直後の部分を発想」となっているから、2014年2月17日から2月19日の間に、作品2つ分([作品2]と[作品3])の重要な柱となる要素、すなわち、主題的なものを、いっぺんに発想できていたことになる。この間の自分の頭脳が、いつもとは異なるような、異常な状態になっていたことが、想像される。

しかし、この[作品3]の完成までには、それから4か月もの月日を要した。[MIDIデータ・第1版]の完成は、「2014年6月21日」と、制作メモには記されている。

[作品2]までは、勢いにまかせて、作曲できるものなら作曲、やってみよう、というノリでやってきた。しかし、[作品3]ともなると、話が変わってくる。これ以降、[作品4]、[作品5]、[作品6]・・・と、継続して作曲という行為を行っていくのかどうか、それが、今問われている、と思った。

思案の末に出した答えは、継続してやっていこう、という方向であった。

となると、自分の限られた知識(音楽に関する)だけでは、すぐに限界がくるだろう。

だから、これからは、過去に多くの人に聴かれてきた音楽作品の中から、様々な事を学びながら、作曲していこうと、思った。

そのような、学びながらの歩みだったので、4か月もかかってしまったのであろう。(おそらく、長くかかった理由はそれだけではなかったのだろうが)。

後にも述べるように、先人の作品から学ぶことに費やしたこの時間は、今振り返ってみると、とても有意義なものであったように思える。

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2.MIDIデータについて

ここで、[MIDIデータ]について、簡単に述べておこう。

コンピューターを使用しての音楽制作の根幹となるのが、[MIDIデータ]だ。これを簡単に言えば、[楽譜 + 音の強弱表現]だと思っていただいたらよいだろう。

紙の上に書かれた楽譜には、音符(4分音符、8分音符、4分休符など)が書かれている。その作品を演奏しようとする人は、これを読むことにより、楽譜上に書かれている全ての音に関して、各音を、どの高さで(音の周波数)、どのタイミングで(音の開始時刻)、どれくらいの持続時間をもって、弾いたらよいのか、ということを知ることができる。

しかし、各音を、どれくらいの強さ(音の振幅)でもって弾けばよいのか、ということまでは、知ることができない。

楽譜の上には、「フォルテ」、「ピアニッシモ」、「クレッシェンド」等の、音の強弱を表す記号があるにはある。しかし、それをもって、作曲者が意図している各音の強さを正確に把握することは不可能だ。

だから、同じ曲を2人のピアニストが弾くと、同じ部分でも、弾かれて出てくるその音の強さが異なってくる。だからこそ、「XXXの弾くベートーベンは・・・」、「YYYによって奏でられるモーツアルトは」というような、演奏に関する批評が成立することとなる。

演奏者は、楽譜上に書かれている各音の演奏時の強度(音の大きさ)を熟慮し、決定することにより、演奏者としての自らの個性を、出すことができるのだ。(個性を表現するのは、音の強さだけをもってして、ということではないが)。

しかし、MIDIデータとなると、そこが根本的に異なってくる。

MIDIデータにおいては、演奏される音符の全てに対して、演奏時の音の強さを、数字でもって指定せよ、ということになっている。

MIDIデータを制作する、ということは、単に、コンピューターに解読可能となるような楽譜を書く、ということではない。すべての音に対して、その音は演奏時、どれほどの強さでもって演奏されるべきか、ということまで指定しまうのだ。

それはすなわち、従来の音楽の世界での「演奏者の作品解釈」までをも、作曲者が行ってしまえる(しまう)という事なのだ。

そして、そのMIDIデータを「演奏」するのは、人間ではない、コンピューターだ。

最近、テレビから出てくる音楽のうち、相当多数のもの(特に、コマーシャルの)が、この方法、すなわち、作曲者がなにもかもやってしまう、曲を演奏しているのは人間ではなく、コンピューター、というものなのではないかなぁ、という感じがしている。

その方法の方が、(人間に演奏してもらうよりも)曲の制作にかかる予算を少なくすることが可能なのだろうと、想像する。

自分のこの作品においても、それと同様の事情があった。

これを生演奏で制作するとなると、まず、問題となるのは、誰に演奏してもらう(もらえる)か、だ。

音楽関係のプロの方々と会ってみての総体的な印象は、「みなさん、ご多忙」だった。

自作のものの演奏を、とてもおいそれとお願いできるような状況ではない。ならば、自分で演奏するか?

となると、別の問題が発生する。楽器と器材。

まず、ピアノはどうするの? 電子ピアノでいくのか、それとも、アコースティック・ピアノ(昔からある、弦とハンマーが中に並んでいる)? アコースティック・ピアノでいくとなると、どこか、スタジオを借りての録音、ということにならざるをえないが・・・。

録音用の器材は? マイク等を購入するのか? どの程度のレベルのものを? その費用対効果は?

考えていくうちに、なにか、こちらの方向で行く先には、泥沼が限りなく広がっているのでは、という思いがしてきた。

決定的だったのが、あるプロの方から聞いた話だった。(この方は、録音技術者。)

こと、商用の音楽作品の制作となると、ライブ演奏以外においては、ミスタッチ・ゼロの演奏(ノーミス演奏)が求められる、というのだ。

これを聴いて、なにか当然のことと思えた。

昨今、テレビから聴こえてくる音楽は、(特にコマーシャル目的のものは)、ミスタッチなしで演奏されているように、私には聴こえる。

このような状況下では、かりに、ミスタッチがある演奏を聴いたりなんかすると、「ナニコレ?」となってしまうのだろう。

(もしかしたら、コンピューターで制作されているので、ミスタッチゼロになっているのかも、あるいは、もしかしたら、生演奏の録音でも、かりにミスタッチがあった場合には、録音の後日、録音エンジニアによる修正(ミスタッチ状態からミスタッチ無し状態への)が行われているのかも。音程の外れに対してさえも、修正が可能なようである、[音程 外れ 修正]でネット検索してみたら、いろいろな情報があった。)

よって、自作自演など論外、という結論に達した。自分が作った曲を、ミスタッチ・ゼロで演奏するのは、私には不可能だから。

このようにして、あれやこれやと考えていくうちに、

 これはもう、コンピューター(現在所有している、ノートパソコン)を使用しての音楽制作しかないな、という事になった。すなわち、

 コンピュータで、MIDIデータを制作し、
 それを、コンピューターに演奏させて、音楽データを得る(MP3等の形式での)

という方法である。

様々にある音楽制作の方法の中で、好き好んで、この方法を選んだというのではない。いろいろな方法を考えてはみたが、これはダメ、あれもダメと、消去法によって様々な方法が消されてしまい、残った唯一の方法がこれだったのだ。

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3.曲全体の構成

さまざまに考案の末に、[3部形式]で、てがたく行くことに決めた。

[3部形式]は、多くの作曲家が採用してきた形式で、その構成については、[A-B-A]、あるいは、[A-B-A']と説明されているケースが多い。

すなわち、曲の最初の部分に[A]と記号をつけるならば、それに続く部分としては、[A]とは異なる曲想のもの[B]を配置し、その次に、再び、[A]と同じものを、あるいは、[A]を少し変形した[A']を配置して、曲を終わらせる、というスタイルだ。

『水面上に水滴が落ち続ける, 作品3』では、[A-B-A']の構成とすることとした。それぞれの部分の開始・終了時刻は、下記の通りである。(記述されている時刻は、おおよその値であり、あまり厳密なものではない)。

第1部 (A) :開始直後 ~ 開始後 約1分48秒 経過時点
第2部 (B) :開始後 約1分48秒 経過時点 ~ 開始後 2分39秒 経過時点
第3部 (A') :開始後 2分39秒 経過時点 ~ 終了

この作品の3部形式での構成の実際の姿にご関心がある方は、下記でご確認いただけると思う。波形図の上の場所を、マウスや指で操作することにより、聴きたいと思う場所から聴きはじめる、というような事も、(コンテンツ格納先のサイト運営・クレオフーガが)可能としてくれているようだ。

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4.和声進行

曲を作っていくにおいては、どのような和音を連ねていくか([和声進行]、[コード進行]とも呼ばれる)、ということが重要になってくるであろうと考え、その方法を探るために、様々な知名度高と思われる音楽作品に関する学習を行った。その結果、以下のような、各作品からの影響を受けて曲が構成されていった。

4-1.第1部(A)の和声進行

第1部のイメージとしては、

 [水面上に1個の水滴が落ち、波紋が広がる]

というシーンを一つの単位とし、それが繰り返されていく、というような構成を考えた。

 [水面上に1個の水滴が落ち、波紋が広がる]

の表現としては、

 右手で2個の音符を弾き(レ ソ)(D G)
 その直後に、左手で分散和音を奏でる

という構成とした。左手で奏でる分散和音の形については、時間をかけて様々に考案した結果、現在の形に落ち着いた。

次に問題となったのが、上記の1単位を、どのような和声進行でもって繰り返していくか、であるが、これに関しては、下記の作品がとても参考になった。

 『エチュード 作品25 第1番』 (フレデリック・ショパン 作)

「エオリアン・ハープ」、「牧童」などと呼ばれてきた曲である。

4-2.第2部(B)の和声進行

この部分の和声進行に関して、大いに参考になったのが、下記であった。

 『タンホイザー』(Tannhäuser)(リヒャルト・ワーグナー(ヴァーグナー) 作)の中の、「巡礼の合唱」

4-3.第3部(A')の和声進行

三部形式においては、[第3部]は、[第1部]の繰り返し、あるいは、[第1部]に少し変形を加えたもの、というのが一般的なスタイルなので、ここではそれにならった。

ただ、[第1部]と全く同じ、というのではおもしろくないので、和音のパターンを変えた。

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5.聴く人の心中

この曲を聴いていただいた方の心中には、もしかしたら、様々なものが連想されるのかもしれない。

 山奥にある小さな池の水面の上に、岸に生えている樹木の葉から、水滴が落ち続けている

というようなもの、あるいは、

 自宅のシンクに置いた器の水面上に、水道の蛇口から、水滴が落ち続けている

どのようなイメージを連想していただけるか、それは、聴く人の自由だ。

連想していただくイメージが多種多様であればあるほど、私には喜ばしい。

かりに、下記のようなイメージを連想した、という方がおられるならば、私には喜ばしい。

 熱されて液体状になっている鉄の上に、さらに高温の鉄の滴が、落ち続けている

 コンクリートの床の上に、鉄製の球体が、落ち続けている

イメージの連想は無かったが、なにかある種の、言葉にならないようなものが心中に沸き起こるのを感じた、という事でも、私には喜ばしい。

「聴いてみたけど、ナニも感じなかったよ」というような感想もあるだろう。もうこれは、仕方がない。

100人の人間がいるならば、100通りの個性があり、100通りの感じ方、感受性があるのだろうから。

私は、音楽作品そのものに何らかの[価値]がある、とは考えない。

音楽作品を聴く人が、自らの心中に何らかの動きを感じた時にはじめて、その音楽作品の[価値]が、その場に発生するのだ、と考える。

[価値]は、その音楽作品を聴いた人の心中に、その時、はじめて発生するのだ、と考える。

「音楽作品そのものに[価値]がある」と考えるのは、不合理だろうと思う。

以下、まったくのフィクション(架空話)だが:

遠い未来、地球上に人間がいなくなり、ネコが、それまでの人類が占めていたような地位にある、というようなストーリーを想像してみようではないか。(『猿の惑星』ならぬ、『ネコの惑星』)。

タイムマシンに乗って、この世界にやってきた一人の人間が、1個のカセットテープをバッグから取り出し、ラジカセでもってそれを再生した。

(用語が古いが、それでよいと思う。その人がタイムマシンに乗り込んだのは、20世紀末のいつかであったと考えれば。)

その「カセットテープなるモノ」の中に収められている曲の作者と題名は、ここで何かに特定すると、様々な不都合が生じる可能性があるので、読者の方々の想像におまかせする。多くの人に知られている、と思われるような音楽作品をなにか一つ、想定していただいたらよいだろう。

さて、そのように、ラジカセを大音響で響かせてみたが、それにいささかなりとも関心を持つネコは、地球上に一匹もいなかった、としよう。

それでもなお、その音楽作品に何らかの[価値]がある、といえるだろうか?

音楽作品の[価値]は、それを聴いた人の心中に、何らかの動きが発生した時に、その人の心中に、個々に発生するのだ、と私は考える。

よって、1個の音楽作品を100人の人が聴き、それぞれの心中に何らかの動きが発生した時、100個の価値が発生する、100人のそれぞれの心の中に・・・と、私は考える。

Aの心中に発生した動きが、Bの心中に発生した動きにイコール(同じ、同一、同様)なのかどうか、それは、誰にも、客観的に確かめようがないだろう。

Aの心中に発生した動きが、Bの心中に発生した動きよりも、より高品格、あるいは、より高貴なのかどうか、というような事も、誰にも、客観的に確かめようがないだろう。

(そもそも、「高貴な心の動き」とはどのようなものなのか、その定義すら確立できていないのでは、と思うのだが。)

これと同様に、

 A が 音楽作品X を聴き、Aの心中に、動きα が発生した
 B が 音楽作品Y を聴き、Bの心中に、動きβ が発生した

とした場合、

Aの心中に発生した[動きα]が、Bの心中に発生した[動きβ]よりも、より高品格、あるいは、より高貴、なのかどうか、というような事も、誰にも、客観的に確かめようがないだろう。

(上記の[A]、[B]、[音楽作品X]、[音楽作品Y] に、知っている人名や、知っている作品名をあてはめていただいてもOK)。

 水面の上に水滴が落ち続けている、というイメージ

それを(それだけを)、音楽でもってどのように表現したらよいのか、という事だけを考えて、私はこの作品を制作した。

その制作においては、自分の人生観、信じるところ、好き嫌い、といったようなモノ・コトは、全く、心には浮上してはこなかった。

よって、かりに、人生観、信じるところ、好き嫌い、等々のモノ・コトが、この音楽作品を聴く人の心中に発生したならば、それは、その人(聴く人)が創造したモノ・コトであり、私が創造したモノ・コトではない。だから、その創造のオリジナリティは、聴く人の側にある、ということになるだろう。

(人生観のようなものが生じた、というのであれば、それがどのようなモノ・コトなのか、その内容を聞いてみたいな、と思う気持ちはある。)

音楽を聴いて、何か、心の中に感じること、何か、心の中に動くものがあったならば、その時、その音楽を聴く人は、自らの心中において、すばらしい創造(価値を創造)を行っているのだ、と思う。音楽作品は、その創造の化学反応をスタートさせるための、単なる触媒に過ぎないだろう。

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2017年5月10日 (水)

音楽制作のおもいで 車輪がまわる, 作品2

『車輪がまわる, 作品2』  この自作の曲については、とりわけ、おもいでが深い。

当時、私が書いた制作メモには、下記のような趣旨の事が書かれている。

 2014年2月のある日に、この作品の最初の部分(序奏部の直後にある部分)の音楽的イメージを発想した。
 それ以降、そのイメージをもとに作曲作業を行い、
 2014年3月のある日に、作曲作業が完了した。

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私が、音楽制作をやりはじめたのは、その前年、2013年10月のある日。

深夜、寝床の上で突然、あるメロディーが、私の心中に鳴り響いたのである。初めての体験であった。

そのメロディーを忘れてしまってはいけないと思い、A4コピー用紙を取り出し、その上にフリーハンドで5本の直線を描き、その上に、音符を書いて、そのメロディーを書きとめた。

幼少時からピアノを習っていたので、五線の上に音符を書いていく方法は知っていた。

書かれた音符をながめながら、まさか、この自分が作曲?と思ったが、ま、いいか、せっかくメロディーが生まれたのだから、行けるとこまでいってみようじゃぁないの、と思い、そのまま制作を続けていったら、主題と5つの変奏曲からなる一つの作品になってしまったので、それに、作品番号[1]をつけた。

問題はそこからだった。これに続けて、次なる作品、すなわち、作品番号[2]のものが、自分の心中からはたして、出てくるのかどうか。作品番号[1]ね、いや、あれは、ほんの気まぐれで、それこそ、マグレで作ってしまったのであった、音楽制作と自分とはしょせん、縁が無かった、ということに、結局は、なってしまうのかどうか・・・。

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結局は、作品番号[2]の楽曲が、自分の心中から出てきた、『車輪がまわる, 作品2』として。

上記に、「2014年2月のある日に、この作品の最初の部分の音楽的イメージを発想した。」とあるが、その「発想」の現場は、某診療所の待合室である。診療の順番待ちの時に、ヒラメイてしまったのだ。その時の情景はもう記憶から消失してしまっているが、おそらく、てもとにあった何かの紙の上にでも、フリーハンドで5本の線を引き、そこに音符を書きつけたのであろう。(作品番号[1]のあの時と同様に)。

その頃すでに、パソコンを使用しての楽曲制作の作業をできるようにはなっていた。(ネット上の様々な情報を学習することにより)。

しかし、できあがった音楽作品を、いかにして世に送り出すか、ということについては、右も左も分かってない状態だった。

せっかく、音楽作品が生まれ出てきた、というのに、それが誰にも聴いてもらえないまま、というのでは、少なからず残念。というわけで、様々な音楽界のプロの方々のもとをたずね、相談してみたが、その問題(いかにして世に送り出すか)の解決の糸口がつかめないような状態が続いていた。

その当時、ピアニストにこれを演奏してもらって世に公表していく、という方向で、考えていた。(ネットを活用しての公表、という方向も、頭の片隅にはあったが。)

そのような、停滞状態が続いていく中に、更に次の作品が生まれた(作品番号[3])。

この傾向が続いていけば、作品は次々と生じていくであろう、という予感がしてきた。もうとても、作品ができるたびに、ピアニストにお願い、という事ではムリ、ということで、パソコンとネットを活用しての制作および作品公表の方向へと、決した。

(すなわち、自らの心中に生じた音楽を、パソコンを使用してMIDIデータの形で表し、そのMIDIデータから、ソフトウェアを使用して、楽曲データを生成し、その楽曲データをネット上に公表、という方法に。)

当時、「ネットを活用する」ために、使用可能なサイト(いわゆる、「音楽投稿サイト」)はさまざまあった。複数のサイトを使用して試行錯誤した末に、今月から、[クレオフーガ]使用となった。

[クレオフーガ]に投稿した楽曲作品を、自分のブログから聴いていただくようにすることが可能だ、下記のように。よろしければ、私が作曲した作品・『車輪がまわる, 作品2』を、下記よりご試聴ください。

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