関東

2017年11月10日 (金)

旧古河庭園 東京都 2017年11月

2017年11月に、旧古河庭園 に行きました。

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JR[駒込駅] から、徒歩で行きました。

入り口から入ると、西洋風の建物がありました。

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入り口でもらったパンフレットには、「天然スレートぶきレンガ造り。外壁は真鶴産の赤味をおびた新小松石(安山岩)で仕上げられており、雨にぬれると落ち着いた色調をかもしだします。」とあります。

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洋館の周囲にある庭園には、様々な種類のバラがありました。

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入り口でもらったパンフレットによれば、この洋館と洋風庭園を設計したのは、[ジョサイア・コンドル]なのだそうです。

ジョサイア・コンドルは、イギリス人、ロンドン生まれ(1852年)。

1877年に、明治政府より招かれ、日本へ。工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教師、工部省営繕局の顧問に。

彼が設計した建造物は、現在も残っているようです。ネットで調べて、下記の建造物がコンドルの設計によるものであることが、分かりました。

[旧岩崎邸庭園洋館]、[三菱開東閣]、[綱町三井倶楽部]、[桑名市六華苑]、[旧島津公爵邸(清泉女子大学内)]

日本史の授業で出てきた [鹿鳴館]も、コンドルの設計によるものなのだそうです。

彼は、河鍋暁斎に師事して日本画を学んだのだそうです。

[河鍋暁斎 ジョサイア コンドル]、[丸の内 ジョサイア コンドル]等でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

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旧古河庭園の中には、日本庭園もありました。

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この日本庭園を作庭したのは、[小川治兵衛](七代目・植治)。

京都には、小川治兵衛が作庭した庭が、多くあります。知名度の高いと思われるものでは、

 [円山公園]、[平安神宮]の庭園、[無鄰菴](山縣有朋の別邸)の庭園、といったところでしょうか。

「第二無鄰菴」、あるいは、「高瀬川源流庭苑」と称される庭園も、あります。

[京都 白河院](旅館)の庭も、彼による作庭です。

[野村別邸 碧雲荘]等の、南禅寺の付近にある別荘の庭の中にも、彼によって作庭されたものがあります。

東京にあるこの庭園の作庭までも、依頼されたというのだから、当時の彼の名声は、絶大だったのでしょう。

小川治兵衛が作庭したものの中には、[枯山水](禅宗寺院に多くあるような)ではないものが、多数あります。庭の中には、仮想の流れ(枯山水の庭にあるような)ではなく、実際に水が流れている、という庭が多数あります。

実際に水を流すとなると、水源をどうやって確保するか、ということが重大な問題となってきます。

庭園の為の水源の確保という事について、おもしろい話が、[徒然草]の中にあります。(徒然草 第51段)

京都の嵐山の大堰川(桂川)の側に、亀山殿という御殿を造ることになった。そこで、庭と池を作ろうということになった。その水源を確保するために、大堰川から水を取水しようということになった。そこで、その周辺地域の住民たちに、水車を作らせようとした、というのです。

この「水車」は、穀物を脱穀したりするための水車ではなく、[揚水水車]の類のものだったのでしょう。自動的に、川や水路から水をくみ上げて田に水を流し入れることができるような水車です。

([兵庫県 神河町 新野 揚水水車]等でネット検索していただくと、その具体的イメージが分かるような情報を得ることができるかもしれません。)

ところが、周辺住民たちは、水車をなかなか作ることができない。なので、宇治の人々を嵐山へ来させて作らせたら、難なく作ってしまった、というのです。

おそらく、亀山殿が建設された当時、宇治の地では、揚水水車を用いて、灌漑を行っていたと思われます。

南禅寺付近の庭園づくりにおいて、水源確保の問題を一挙に解決したのが、琵琶湖疏水でした。塚本与三次と小川治兵衛は、疏水の水利権を得て、庭園を造っていきました。

[塚本与三次 小川治兵衛 琵琶湖疏水 水利権]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

旧古河庭園においては、造られた当初は、井戸を水源としていたようです。

[旧古河庭園 小川治兵衛 水源]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

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この庭園を、東京都が所有しているのだと思っていましたが、実は、国有財産であり、東京都が国から借りているものなのだそうです。

古河家のものであったのだが(「旧古河」の名称は、それに由来)、第二次大戦中、陸軍に接収され、戦後は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、その後、国のものになって、現在に至るのだそうです。

ネットで調べて分かったのですが、この、[旧古河庭園]の中にある、洋風庭園、日本庭園、洋館、これらは全て、[古河虎之助]という人が所有していたのだそうです。

(渡されたパンフレットには、「開園面積 30,780.86平方メートル」とあります。)

この地には、陸奥宗光の別宅があったのだが、宗光の次男・潤吉が古河市兵衛(古河家・第1代目当主)の養子になって古河家・第2代目当主となり、それに伴って、この土地が、古河家が所有するところとなったのだそうです。

陸奥宗光がこの地を手にいれる前には、ここはどのような場所であったのか? ネットで調べてみたが、分かりませんでした。

ネットで調べて、以下のような事が分かりました。

陸奥宗光は、坂本龍馬が組織した海援隊(亀山社中)のメンバーであった。

陸奥宗光は、伊藤博文の内閣において外務大臣に就任し、
  幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功
  日清戦争においては、下関条約の調印において外務大臣としての役割を果たしたが、その後、ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉に直面することとなった

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以下、古河家について、ネットで調べて知ったことをもとに、記述します。

[古河虎之助]は、古河家・第3代目当主で、[古河市兵衛]の子。

[古河市兵衛]は、京都市内の岡崎の生まれ。幼少の頃から貧乏暮らしで苦労を重ねた。ビジネスの才に恵まれ、生糸貿易で大儲け。その後、鉱山経営へ転じて、足尾銅山を経営。

江戸時代から銅の採掘が行われていた足尾銅山は、当時、生産性が極めて低い状態であったが、大鉱脈が発見されて銅の生産高が急上昇、市兵衛は大成功を収めることとなった。

([古河市兵衛 足尾銅山]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

しかし、足尾銅山は、大きな問題(公害)を引き起こした。([足尾銅山鉱毒事件])

この公害の主要な原因は、下記の2つと思われる:(他にも、原因があるのかもしれない)

(1)鉱毒ガスの放出

銅の精錬に伴って発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)を、大気中に放出してしまったことにより、周辺の植物にダメージを与えてしまった。その結果、周辺の山々の樹木が枯れてしまい、山々の保水力の低下、斜面の地盤崩壊等の問題を引き起こしてしまった。

銅を得るための原材料は、地中から掘り出された各種の銅の鉱石である。イオウ元素を含む種類の鉱石が多いので、それらの鉱石から銅を得る過程において、イオウ元素を除去する何らかの工程が必須となるが、その結果、イオウ(鉱石から除去された)の化合物が排出されることになる。イオウの化合物が、亜硫酸ガス(二酸化硫黄)の形で排出されると、大問題となる。二酸化硫黄は、人間にとっても有害な物質だが、植物に対しても有害である。

([銅 鉱石 黄銅鉱 亜硫酸ガス]、[温泉 要注意 火山性ガス中毒 二酸化硫黄]、
[二酸化硫黄 禿山]、[四阪島 亜硫酸ガス]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

(2)金属イオンの流出

鉱石の採掘、銅の精錬等の作業において、銅イオンなどの金属イオンを、周辺の河川中に流出させてしまった。それらの金属イオンは、渡良瀬川に流れ込み、その流域の農業に被害を与えた。

([銅イオン 渡良瀬川 農業 被害]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

足尾銅山が引き起こしたこれらの問題は、21世紀の現在も未だに、完全な解決に至っていないようです。

([田中正造 足尾銅山鉱毒事件]、[日本 初 公害 足尾銅山]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。)

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