京都府

2018年4月 1日 (日)

京都市のサクラ 2018 開花から満開までが短かったようです

寒さ厳しい冬の中をようやく通過し、サクラの花を見れる時が、やってきました・・・と思ったら、あっという間に、満開に。京都市に住むようになってからこれまでの間、このようなサクラの開花状態を、過去に見た事がありません。

3月31日時点で、すでに、花が散り始めている樹木もあります。

例年より1週間ほど早い満開だとか。この時期に、海外から京都市に来られた方々は、”ベリー ラッキー” と思っておられるのかも。

早めに撮影しておかなくては、と思い、自転車で数か所に行って、動画を撮影してきました。下記、よろしければご覧ください。

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白川

[行者橋]の付近の場所から、白川の河口(白川は鴨川に流入)付近の場所までの間、川の岸のあちらこちらで撮影しました。

川べりには、海外から来られたと思われる方々が、大勢、おられ、和服を着ておられる女性も、多数。

最近、祇園エリアとその周辺に、和服レンタルの店が急増しています。”Kyoto に行って、kimono 着て、walk する”が、最近、ちょっとしたブームになっているようです。

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清流亭

[清流亭]は、南禅寺の付近にあります。

[清流亭]の付近には、[野村別邸 碧雲荘]、[怡園 (細川家の別邸)]、[真々庵(松下幸之助 氏 の別邸であった)]等、別荘が多数あります。[南禅寺 別荘群]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

これらの別荘のうちの多くの庭が、[小川治兵衛](七代目・植治)によって、作庭されました。

京都には、[七代目・植治]が作庭した庭が、多くあります。知名度の高いと思われるものでは、

 [円山公園]、[平安神宮]の庭園、[無鄰菴](山縣有朋の別邸)の庭園、といったところでしょうか。

「第二無鄰菴」、あるいは、「高瀬川源流庭苑」と称される庭園も、あります。

[京都 白河院](旅館)の庭も、彼による作庭です。

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琵琶湖疏水

「京都やのに、いったいなんで、琵琶湖?」と思われる方もおられるかもしれませんね。

[琵琶湖疏水]は、琵琶湖の水を京都まで流れるようにする疎水(運河)なのです。取水口は、滋賀県・大津市にあります。

この疏水の建設を構想したのは、第3代京都府知事・[北垣国道]です。

このインフラの建設の目的は、物流とエネルギー源を得るため、ということであったようです。

 (1)物流:舟に荷物を載せての、琵琶湖-京都 の輸送
 (2)エネルギー源:高低差で得られる水力によって、水車を回し、その水車の回転を直接利用して、何らかの事を行う

そして、[田辺朔郎]が、工部大学校(東京大学工学部の前身の一つ)を卒業と同時に、京都府の御用掛に採用され、琵琶湖疎水の建設担当になりました。(この時、田辺朔郎は、21歳。)

アメリカで、世界初の水力発電所等のインフラを見た田辺朔郎は、上記(2)のエネルギー源としての利用方針を転換しました。

すなわち、水車の回転を直接利用するのではなく、水車の回転の運動エネルギーを、電気のエネルギーに変換した後、その電気エネルギーを利用する、という方向へのチェンジでした。

その結果、[蹴上発電所]が誕生しました(営業用としての、日本最初の水力発電所)。

この方針転換は、極めて有効であったと思われます。

水車の回転を直接利用する、という形態では、疏水に近い場所でしか、そのエネルギーを利用する事ができません。しかし、電気ならば、疎水から遠隔の地でも、そのエネルギーを利用することが可能となります。

かくして、日本初の営業用電車が、京都の街を走ることになりました。(京都電気鉄道)。

この方針転換の結果、水車を回して何かしようという意図で取得されていた、[疎水の水利権]の価値が、極めて低くなってしまったようです。

その水利権を、[塚本与三次]と[小川治兵衛]が獲得して、南禅寺付近に、[水が流れる庭園]を持つ別荘を造っていったのです。その庭園の中を流れている水は、[琵琶湖からやってきた水]なのです。

(平安神宮や無鄰菴の中を流れている水も同様です。)

[塚本与三次 小川治兵衛 琵琶湖疏水 水利権]でネット検索して、関連する情報を得ることができました。

[夷川発電所]は、[蹴上発電所]の建設後の電力需要の増加に対応して建設されました。

琵琶湖疏水・1

琵琶湖疏水・2

2018年1月18日 (木)

昔昔、京都は海の底にあったそうな

おとぎ話のように思えてくるが、事実であるようです。

ネットでいろいろと調べていて、[地震本部]のサイト中に、

[各地方公共団体による地下構造調査]という項の中に、
 [京都市:京都盆地の地下構造]というコンテンツがあるのを見つけました。

数年分の調査結果が掲載されているようですが、その中の

  [H14 京都市:京都盆地の地下構造]の中に、

  [2 ボーリング調査]

  という項がありました。

それによれば、京都盆地を地中深く掘り進んでいくと、

[基盤岩]

という層に到達するのだそうです。これは、京都盆地を取り囲む山地に広く見られる丹波層群と呼ばれる中生代の堆積岩からなっているのだそうです。

その[基盤岩]の層の上に、[大阪層群]というのがあるのだそうです。

複数の層をまとめて、[大阪層群]と呼ばれているようなのだが、注目すべきは、それらの中に、

[海成粘土層]と[火山灰層]が存在する

という事です。

[海成粘土層]がある、ということは、京都盆地が海の底にあった時代があったことを物語っています。

[火山灰層]がある、ということは、かつて、京都盆地の近くで、火山の噴火があったことを物語っています。

  [H14 京都市:京都盆地の地下構造]の中には、

  [5-3-3 3次元地質構造モデル]

  という項もあり、その中に、京都盆地の地下の様子を示す、

  [3次元地質モデル鳥瞰図]

というものもありました。

上記にあるように、

京都盆地を取り囲む山地に広く見られる丹波層群と同じような地質の層が、京都盆地の地底深くにあり([基盤岩])、その上に、水の底に形成されるような地層([大阪層群])が存在する、という事から、以下のような事が推論できるでしょう。

 京都盆地は、陸地が沈みこんだ結果、できた。
 東山は、隆起してできたのではない、京都盆地が沈んでいった結果、残った高地が東山になったのである。

[吉岡 敏和]氏による、[京都盆地周縁部における第四紀の断層活動]

中の、[図7 京都盆地形成機構のモデル] を見て、なんとなく、納得がいった気がしました。

しかし、上記のモデルに対しては、以下のような疑問が残ります。

(1)山科盆地の形成を説明できないのでは?

地理院地図を見ると分かるように、京都市の東山区と山科区は、東山山地の西と東に位置しています。これらの地理的な関係は、広い部屋を屏風でしきって、東の間と西の間に分けたような感じになります。(屏風が、東山山地)。

上記のモデルだけでは、山科区エリアは、現在のような盆地ではなく、[山科高地]になっていってしまうのではないでしょうか?

山科盆地形成を説明しうるような、何か他の説明を追加する事が必要ではないかと思われるのですが、いかがでしょう?

(2)東と西からの力の源は?

京都盆地を沈みこませた、東と西からの圧力は、どこからどのようにして生じたのでしょうか? プレートの運動と、何か関係があったのでしょうか?

(3)京都はいかにして、這い上がってこれたのか?

いったん海の底に沈んだ京都が、現在のように、陸上の都市となるまでには、どのような地形の変遷があったのでしょうか?

地理院地図を使って、[京都市役所]がある場所の標高を調べてみたら、

 標高 約42m

と表示されました。

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下記に、[東山山地]の中を歩き回って撮影・制作した動画があります。よろしければ、参考にしてください。

京都一周トレイル・東山コース (1) ( 標識 34 - 38 間)

京都一周トレイル・東山コース (2) ( 標識 47-2 - 46 間)

京都一周トレイル・東山コース (3) ( 標識 18-1 - 27 間)

京都一周トレイル・東山コース (4) ( 標識 17 - 18-2 間)

京都一周トレイル・東山コース ( 標識 46 - 45 間の地点) と 大文字山

大文字山 (1)

大文字山 (2)

上記の動画を、私のユーチューブチャンネルからも見れます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

2017年12月 7日 (木)

京都一周トレイル・東山コース 2017年12月

2017年12月に、[京都一周トレイル・東山コース] を歩きました。

動画を撮影するために、京都市内の[インクライン]を登り、[日向大神宮]の付近から、[京都一周トレイル・東山コース]の道に入り、そこから、如意ヶ嶽(大文字山)の方へ、[京都一周トレイル・東山コース]の道を行きました。

[京都一周トレイル・東山コース] の道には、標識が多数設置されていて、道に迷わないようにしてくれていて、ありがたいです。

[七福思案処]と呼ばれる地点まで行き、更に、その先へ進んで[大文字山]めざして少し歩いていったのですが、この季節の日没の時刻が早い事も考え、途中でギブアップして下山し、[同志社墓地]へ至りました。

今後、 [京都一周トレイル・東山コース]上の様々な場所へ、行ってみたいなと思っています。

[京都一周トレイル・東山コース]の (標識 34 - 38 間)で撮影した動画を編集して、下記の動画作品を制作しました。

(バックグラウンド音楽に、自作音楽作品 [分散和音曲・第1番, おだやかな気分です, Op.15] を使用しました。)

この動画の格納先URLは、下記です。

https://youtu.be/0LayFmTQvAE

私が制作した他の動画を、私のユーチューブチャンネルからご覧いただけます。私のユーチューブチャンネルにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

私が作曲した他の音楽作品を、クレオフーガ・サイト上の私のコーナーでお聴きいただけます。それにアクセスしたい時は、

ここをクリックしてください。

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「東山三十六峰、草木も眠る丑三つ時」(ひがしやま さんじゅうろっぽう くさきもねむる うしみつどき)

という言葉を、遠い過去に聞いたことがあります。

草木は、実際に眠るのでしょうか?

[草 眠る]でネット検索してみたけど、注目すべき情報を見つけることができませんでした。

ところが、

[木 眠る]でネット検索してみたら、興味深い情報を見つけることができました。

かりに、夜に木が眠っている、ということが確かな事実であるということになったならば、下記の事が問題になってくるのでは、と思われます。

 樹木のライトアップは、樹木の健康の為に、良い事なのかどうか?
 ライトアップされて、樹木の[概日リズム(circadian rhythm)]が狂ってしまわないか?

[東山 三十六 ある]でネット検索して、東山に関連する情報を得ることができました。

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[日本後紀]の中に、平安遷都に関係する、以下のような記述があります。

[日本後紀(上)全現代語訳] 森田 悌 訳, 講談社・刊, 講談社学術文庫 1787
より、引用。

44P ~ 45P
「甲午 大納言藤原小黒麻呂と左大弁紀古佐美らを派遣して、山背国葛野郡の宇太村(京都市右京区宇多野)の土地のようすを視察させた。遷都のためである。」

70P
「丁卯 ・・・遷都が行われ、天皇は次のように詔した(宣命体)。
(略)葛野の宮が営まれるようになった土地は、山川も麗しく、四方の百姓が参上するに際し好都合である。・・・」

71P ~ 72P
「丁丑 天皇が次のように詔りした。
 (略)山背国の地勢はかねて聞いていたとおりである。(略)この国は山と川が襟と帯のように配置し、自然の要害である城の様相を呈している。このすばらしい地勢に因み、新しい国号を制定すべきである。そこで、山背国を改めて山城国とせよ。また、天皇を慕い、その徳を称える人々は、異口同辞して平安京と呼んでいる。・・・」

桓武天皇は、京都盆地の地形が、外からの攻撃を防ぐのに適していると考えたようです。しかし、その後の歴史(武士階級が力を持ってから以降の)を見れば、そのようでも無かったようです。

桓武天皇が初めて、京都盆地を見た時には、東山山地は、既に存在していたのでしょう。しかし、それよりも過去において、東山が無かった時があったようだ、という情報があり、(平安京の地は、かつては湖底だったという情報も)、下記でネット検索してみたら、様々な情報を得ることができました。ただ、情報量が極めて多いので、要点をまだ把握できていません。

[京都盆地 南北性山地 東山山地]
[京都盆地 湖底]
[京都盆地 沈降]

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京都の三山(東山、北山、西山)に対して、人間の側からの手入れをもっと積極的に行っていくべきである、との方針の下に、下記が定められているようです。

 [京都市三山森林景観保全・再生ガイドライン]

上記中の、[第3章 三山の森林の歴史と現状] 等を読んで、三山について初めて知った、という事が多くありました。

上記・再生ガイドラインによれば:

三山の森は、人間との密なる関りの中に形成されてきたようです。

中世から近世にかけて、三山は様々な資源を人間に与えてきたようですが、中でも特筆すべきは、エネルギー源を生み出す場所であった、ということでしょう。

石油も石炭も無い時代、人間は、三山へ入って、アカマツや柴を採取し、それをエネルギー源として活用してきたのでした。

まさに、三山は、京都の油田みたいな存在だったようです。

しかし、昭和30年代以降の燃料革命により、三山は、エネルギー源供給の場では無くなりました。

更に、木材価格の低下により、建設用資源(木材)を提供する機能も低下しました。

その結果、三山に対して、手入れがなされない、という状況になりました。

その結果、三山に生えている植物の状況が大きく変化したようです。アカマツが衰退し、常緑広葉樹が多くなってきたようです。

毎年、5月から6月にかけて、東山の銀閣寺の背後の山から南禅寺の背後の山にかけて、白っぽい色が目だつようになります。シイの花です。最近、ほんと、増えてきたなぁと感じていました。

手入れがなされない森林が増えると、山腹の崩落が多発するようになり、治水面でのリスクが増大します。

シイ等の常緑樹の森が広がってくると、そこでは、下層植生が育ちにくいので、山腹の崩落の原因となる可能性があるのだそうです。

シカや虫による被害も、最近、拡大してきているようです。

これからも、観光産業は、京都市の重要な産業であり続けていくのだろうから、景観保全の点からも、三山への手入れ(三山の管理)は重要になってくるでしょう。

銀閣寺の背後にハゲ山、というのでは、それはもう、さびしい限りですから。

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